星の輝き


 

第1局

 進藤ヒカルは目の前の囲碁サロンの入り口を、感慨深げな目で眺めていた。
ヒカルにとっては、なつかしく、そして初めての場所。
小学校6年生のヒカルの顔は、とても子供の表情には見えなかった。
そんなヒカルの横顔に見とれていた藤崎あかりに、ヒカルが振り返る。
「さ、あかりのデビュー戦だな。」
その表情はいつの間にか、何かいたずらを企んでいるかのような笑みが浮かんでいた。
「もぉー、ヒカルったら面白がって…。でも、ほんとに私でいいの?さっき入っていったのが、ヒカルがずっと話してた、塔矢アキラ君なんだよね。」
「ああ、そのことはもう散々話したろ。さすがに今の俺達がいきなり打つのはな。それより、気合入れろよ、塔矢は強いからな。」
―そうですよ、あかりは私達以外と打つのは初めてなんですから、今は他のことは考えないでいきましょう。でも、どーしてもというのでしたらいつでも私が代わりますからね。
「こら、佐為、お前はとりあえず人前で打つのは禁止だって約束しただろ。」
―いえ、これは私が打ちたいのではなくてですね、その、あかりの緊張をほぐすためですよ。
「ほんとかぁー?まったく、いつもとは違うんだから、うっかり口を挟んだりするなよ。」
―私がそんなことするわけないじゃないですか!うっかりだなんて、ヒカルじゃあるまいし!
「なんだとー。」
そんないつもの二人のやり取りを眺めるうちに、あかりにも笑顔が浮かんでいた。

 入り口をくぐると、中は年配の老人達でにぎわっていた。
その様子を懐かしむヒカルと、圧倒されるあかり。そんな二人に横から声がかかった。
「あら、こんにちは、どうぞ。」
ずいぶんかわいらしいカップルが来たわねぇと思いながら、受付の市河晴美は入ってきた子供達に声をかけた。
「名前書いてくださいね。ここは初めて?」
「あ、今日打つのはこいつね。俺以外と打ったことがないんで、碁会所デビューなんだ。ほら、あかり、名前だってさ。」
「あ、うん。」
呼ばれたあかりは、どきどきしながら名前を書いた。
 そんなあかりを横に、ヒカルは奥を覗き込み、彼がいるのを改めて確認した。
―あの少年なんですね。
―ああ、あいつが塔矢アキラさ。んじゃ、作戦開始するか。

「棋力はどれくらい?」
「え、棋力ってどうしたらいいの、ヒカル。えーと、いつもヒカルには五子で打ってもらうんですけど。」
 奥を覗き込むヒカルの袖を引っ張るあかりの様子に、聞いた市河は思わず笑みを浮かべてしまった。
―あらら、棋力もわからないって、ほんとに碁会所は始めてみたいね。しかも、友達相手に五子か、思いっきり初心者かな。
 そんな女性陣二人をよそに、
「あ、子供いるじゃん!」
ヒカルはアキラを指差した。
「え…、ボク?」
 突然指差された塔矢アキラは、戸惑いながらも立ち上がった。
「あいつと打てる?」
ヒカルの無邪気な問いかけに、市河は、
「あ、うーん、あの子は…。」
―え、いくらなんでも初心者がいきなりアキラくんはないでしょ、困ったな。
「対局相手さがしてるの?いいよ、ボク打つよ。」
「アキラくん、でもこの子…。」
戸惑いながらもやんわりさえぎろうとする市河の言葉をヒカルが邪魔をした。
「あ、俺じゃなくてこいつね。ラッキーだな、子供がいて!やっぱ年寄り相手じゃもりあがんねーもんな!」
ヒカルのぶしつけな発言に、近くの老人達がむっとした態度を見せるが、ヒカルはまったく気がついていなかった。
「奥へ行こうか、ボクは塔矢アキラ。」
「オレは進藤ヒカル、んでこいつが藤崎あかり、六年生だ。」
「藤崎あかりです。」
「あ、ボクも六年だよ。」
 そんなヒカル達を市河が呼び止めた。
「君達、ちょっと待った!お金がまだよ。」
「あ、そっか、お金がいるんだ。」
「ちょっと、ヒカル、そんなの聞いてないよ。」
「子どもは五百円だから、二人で千円!」
「せ…千円……、あったかな。」
「どーするのヒカル、私お金持ってきてないよ。」
慌てる二人の様子を見て、アキラが口を挟んだ。
「ここ初めてなんでしょ。市河さん今日はサービスしてあげてよ。」
「やーーん、アキラくんがそう言うなら…。」
アキラのお願いに市河さんの許可が出て、ほっとするヒカルとあかりだった。
―あー、そうだった、前の時も塔矢のおかげで助かったんだったな、すっかり忘れてた。
―ほんとにヒカルは忘れっぽいんですから。
佐為にも注意をされるヒカルだった。

「棋力はどれくらい?」
席に着いたあかりに、アキラが声をかけた。
「ヒカル、どうすればいい?」
「そうだな、ま、初対局だし、三子で打ってもらえよ。」
「え、三子でいいの?」
思わずそう声を上げてしまったアキラに、
「お前と同い年じゃん、あかりも。これでもそれなりには強いんだぜ。そんなもんでいいだろ。」
と、不安げなあかりを差し置いて、澄まし顔で答えるヒカル。
そんなヒカルに、
「え?うん…、まァそうだね。」
と、アキラは照れくさそうに答えた。
後ろの席でそのやり取りを聞いていた老人は、
「塔矢アキラに三子か、とんでもない子供たちだな…。」
と、苦笑していた。
「いいよ、じゃあ、石を三つおいて。」
「あ、はい、よろしくおねがいします。」
「よろしくお願いします。」
そうして、あかりとアキラの対局は始まった。

 アキラの石の打ち方はピシッと筋が通っていて綺麗だった。それに対するあかりも、対局前のおどおどした様子はなくなっていた。
―石の持ち方は案外さまになっているし、石の筋はしっかりしている。それなりに強いと言われるだけはある。
あかりの打つ様子を見つつ、アキラは盤面を考えていた。
―いやしかし、それにしても。これはそれなりってレベルじゃない。ボクの打ち込みにも動じないし…。いや、動じないどころか、かろやかにかわされている?ボクが局面をリードしきれない。
―こんな子供がいるんだ。
置き碁とはいえ、久々の強敵相手に、アキラの心は躍っていた。

 残りは小寄せのみの局面になり、それまで横でじっと見ていたヒカルが声をかけた。
「ここまでだな、あかり、ちゃんと数えてるか?」
「…うん、2目足りない。」
あかりは悔しそうにつぶやいた。
「すごいね、ちゃんと終局まで読めてるんだ。」
思わずアキラも声をあげた。
「びっくりした、ずいぶん強いんだね。途中、悪手もなかったし、ボクも本気になったよ。」
アキラ自身、三子の置き碁でここまで本気で打ったのは久々だった。普段置き碁では指導碁を打つのだが、そんな手加減ができる相手ではなかった。
「ああ、大体はよかったんだけどな。」
そういってヒカルが盤面を指差した。
「あかり、ここの当たりを打たれたところで、ついだよな。」
「うん。そこは手を抜けないって思って。」
「ここは、その前に、こっちをハネておくべきだったな。」
「「あ!」」
ヒカルのその指摘に、二人の声がそろった。
「そうか、そのタイミングだと、切れないからはみ出される…。」
「うーん、そんな手があったんだー、全然気がつかなかったよ。」
ヒカルの指摘に戦慄するアキラと、悔しそうなあかり。
「ま、その後の展開も難しいところだけどな。でも、なかなかいい碁だったぜ!」
そうにっこり笑うヒカルに、あかりは照れくさそうに微笑んだ。
「あ、イケネ、もうこんな時間だ、あかり、ほら、帰らなきゃ。」
ヒカルは、唐突にそうあかりをせかしだした。わざとらしい目線を送りながら。
「あ、そ、そうだったね。ごめん、塔矢君、石片付けるね。」
「…あ、ボクがするからそのままでいいよ。」
アキラは上の空でそう答えた。盤面の指摘を考えるのに必死で、他は上の空だった。

 ふとアキラが気がついた時、目の前の席には白いスーツに眼鏡をかけた、鋭い顔立ちの青年が腰をかけて碁盤を眺めていた。
「緒方さん。あれ、さっきの子達は…。」
「もう、さっき帰ったわよ、アキラくん。打ってくれてありがとうって言ってたわよ。」
そう言いながら、市河がお茶を持ってきた。
「はい、緒方さん。で、ずいぶん熱心に眺めてるけど、あの子どうだったの?」
「…強かったです。」
「あの子?相手は子どもなのか?」
そう尋ねる緒方に、市河が、
「アキラくんと同い年って言ってたわね。今日が碁会所デビューなんですって。かわいい女の子でしたよ。」
「碁会所デビュー…、たいしたもんだ。塔矢アキラ相手に三子でここまで打てるとはな。」
「え、アキラくんに三子?嘘!アキラくん勝ったのよね。」
「ええ、一応2目勝ってます…。」
そのやり取りを聞いて、周囲の客たちも集まってきた。
「え、アキラ先生に三子で2目負けですか!そりゃすごい!」
「アキラくんはプロに近い実力なんだぜ、それに三子で2目!。」
「かわいい女の子にしか見えなかったけどねえ。あれ、最後まで打ち切ってないんだ。」
「2目差で打ち切らないって珍しいですね。」
そんな周囲の問いに、アキラが答えた。
「あの子達が最後まで読みきったので、ここまでになりました。」
「ええっ!ここで読みきり!ちょっと、北島さんわかります?」
「…いや、盤面互角にしか見えないな…。」
アキラの答えに、周囲の老人達はますますざわついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、三子ってホントなの、アキラくん。だってあの子、いつも一緒にいた男の子と五子で打ってもらってるって言ってたのよ!」
アキラは一瞬何を言われたのかわからなかった。市河の言葉の意味を理解したとたん、思わず立ち上がり、盤面を呆然と眺めた。
 そんなアキラの様子をよそに、緒方がつぶやいた。
「この相手に五子か…。単純に計算すると、アキラくんより強いってことになるか。」
「いや、なに言ってるんですか緒方さん、アキラ先生は指導碁でしょう。」
「そうそう、アキラくんより強い子どもなんかいるわけありませんよ。」
碁会所のざわめきは、しばらく続くこととなった。 

 

第2局

 ヒカルとあかりは、ヒカルの部屋でいつもの対局をしていた。
「ありません。」
そう言って、あかりは頭を下げた。
「あーん、ここ読み間違っちゃったー。」
「そうだな、そこはハネちゃまずいな。じっと我慢して伸びだな。」
「そうだよね、その方が全然いい。」
「でも、ここのつけはよかったぜ。右辺が打ちにくくなっちまった、」
「へへ、そうでしょ。あ、上辺のここは?」
「二間に開くのも悪くはないぜ。ただ、この石との絡みがあるからな。そうだな、こっちにつけていって…。」
 
 それはいつものヒカルの部屋での風景だった。学校から帰ったらすぐに、二人でお小遣いを出しあって買った碁盤でまず指導碁を1局。それから一緒に学校の宿題を終わらせた後は、ヒカルと佐為の対局。小学校入学以来ずっと続いていた、三人の日常だった。
「大体こんなところかな。」
「はい、ありがとうございました。」
 あかりの指導はヒカルが行う。これが三人の中でのルールだった。

―週末はいよいよ子ども囲碁大会の日ですね。
「あーん、緊張しちゃうよー。」
「ははっ。でも、ホントに無理にいく必要はないんだぞ?塔矢が来るとは限らないし。」
ヒカルは少し心配そうにあかりに言った。
「ううん、大丈夫。ヒカルと塔矢君にはやっぱりちゃんとしたつながりを作っておくべきだと思うの。私の碁をみてヒカルに興味を持ってくれていれば…。」
「ま、塔矢がどう思ったかは置いといても、あかりは強くなったからな。オレと五子だもんな。」
「ふふーんっ、そうでしょ。」
―でも、二人ともずいぶん大きくなりましたよねえ。
「何だよ、佐為、突然そんなこと。」
―いえ、あんなに小さかった二人がってふと思いまして。
「でもなあ、まだあかりのほうが背が高いんだよなあ…。」
そんなヒカルのつぶやきに、思わず笑ってしまう二人。
「でも、追い抜かれちゃうんでしょ、私。今だけなんだから我慢してよ。」
ーそうですよ。男の子は体の成長が遅いんですから仕方ありませんよ。
「いや、分かってるけどさあ、悔しいんだよなあ。」
そんなヒカルを笑いながら、あかりは昔のことを思い出していた。



 気がついたときには、いつも一緒に遊んでいる男の子だった。それがあかりにとってのヒカルだった。家が近所で、幼稚園が一緒。いつも一緒に二人で駆け回っていた。ヒカルは当時から小柄だったせいもあり、あかりにとってはやんちゃでかわいくて元気いっぱいな、弟のような存在だった。
 
 そんなヒカルが、急におかしくなったのは幼稚園の年長組のときだった。明るかった笑顔が消え、走り回ることもなくなり、いつもじっと座って何かを考えるようになった。ヒカルの突然の変調に、あかりはもちろん周囲の大人たちも驚いた。ヒカルやあかりの両親も幼稚園の先生も、いろいろとヒカルに話しかけたが、ヒカルは何も答えなかった。黙り込むヒカルに対して、周りの大人達は何もできなかった。当然あかりも何もできなかった。一緒に遊んでくれなくなったヒカルに最初は怒り、他の子達と遊んだりもした。あかりは自覚がなかったが、かわいくて愛想がいいあかりは幼稚園のころから人気があった。いつも一緒のヒカルがふさぎこんでるのを幸いと、遊びの声はいくらでもかかった。
 
 でも、あかりは全然楽しくなかった。他の子と遊んでいても、ヒカルのことばかりが気になってしまった。やがて、あかりはヒカルの横に座っているようになった。
 幼稚園が終わっても、あかりはヒカルの家にいた。晩御飯に呼ばれるまで、ずっとヒカルの横に座っていた。そんな毎日が、10日ほどは続いていた。

「何で一緒にいるの。」
ヒカルの突然の問いかけに、あかりはびっくりした。
自分でもよく分からなかったから、
「何でだろうね。」
としか言えなかった。だから、
「一緒にいちゃだめなの?」
と、あかりは聞いてみた。
「ダメじゃないけど…。」
「ならいいじゃん。私はヒカルと一緒にいたいの。ヒカルと一緒がいいの。ヒカルと一緒じゃなきゃいやなの。」
そう言ってたら、なんだか泣きそうになってきたあかり。泣き顔を見られたくなくて、うつむいた。
 すると、横に座っていたヒカルが、あかりの頭をなでてくれた。いつものふざけ半分な乱暴な手つきではなく、パパみたいに優しいなで方にびっくりするあかりだった。
「さすがにこんな子どもに慰められてちゃまずいよな、オレ…。でもそうだよな、一緒じゃなきゃいやなものは仕方ないよな。」
「なによ、ヒカルだって子どものくせに。」
なでられて照れくさいのか、ちょっと乱暴に答えるあかり。でも、ヒカルの手をどけようとはしなかった。
「なあ、あかり。」
「なあに、ヒカル。」
「オレの話、聞いてくれるか?多分、信じられない話になると思うんだけど…。」
うつむくあかりを覗き込むように話しかけるヒカル。その表情は、とっても大人びてあかりには見えた。
「うん、ヒカルが話してくれるなら、私聞きたい。」
 
 それからのヒカルの話は、難しい言葉もたくさんあってあかりにはよく分からなかった。でも、ヒカルが真剣に話しているのだけは分かったから、あかりも一生懸命に聞いた。
 話し終えたヒカルに、しばらく考えてから、あかりが声をかけた。
「ヒカルはさいが好きなんだよね。」
「ああ。」
「さいもヒカルが好きなんだよね。」
「…多分。」
「だったら、会えないのは寂しいよ。私だったらヒカルに会えないのはヤダもん。」
「…でも、オレと会ったから佐為は消えちゃったのかもしれないんだぞ。」
「それでも…、私だったら、ヒカルと会った事がなかったことになるなら、消えちゃうほうがいいよ。」
そう言って、またあかりは涙ぐんだ。涙ぐむあかりを、ヒカルは横からぎゅっと抱きしめた。
「そうだよな。いくら考えても仕方ないよな。まずは会わないと何も始まらないか。ありがと、あかり。オレ、佐為に会いに行くよ。そして、全部佐為に話して、佐為と一緒にどうするか考えてみるよ。」
突然抱きしめられて、びっくりするあかり。でも、ヒカルの元気な声がうれしくて、だけど、泣き顔ときっと真っ赤になっているのも恥ずかしくて、ただ固まってしまった。
「よし、じいちゃん家にいくぞ。」
そう言ってヒカルは立ち上がった。
「ほら、あかりも。」
そう言って差し出された手を、あかりは掴んだ。
何か新しいことが始まるんだと、あかりはドキドキしていた。
 
 
 

 
後書き
誤字修正 年長組み →年長組 

 

第3局

「ヒカル、ここなの?」
「ああ。そこの銀行の手前を右に曲がると棋院なんだ。そこが子ども囲碁大会の会場。んで、この辺で塔矢と会ったんだよな。」
 
 日曜日、ヒカル達は地下鉄で子ども囲碁大会の会場近くまで来ていた。
―会場には行かないのですか?
「塔矢と会った細かい時間まで覚えてないんだよ。それに、いまさら横から口挟むわけにも行かないだろ。」
「ふふっ、前はいっぱい怒られたんだっけ?」
―ヒカルは前からおっちょこちょいなんですねー。
「うるさいなー、もう。でも、あかり、大会には出なくてほんとによかったのか?今のお前ならいいところまでいけるのに。」
二人にからかわれて照れくさくなったヒカルは、あわてて話題を変えた。
「いいのいいの。私はヒカルと碁を打つのが楽しいの。ヒカルに毎日指導してもらってるんだもん、たまには恩返ししないと、ね。」
 
 昔の計画では、まだこの時期は外部との接触は控えることになっていた。塔矢との出会いは遅れてしまうが、それは仕方ないとあきらめていた。
 だが、あかりの弟子入りと成長という、以前には起きなかった要素が生まれたことで、新しい計画が生まれた。上手くいけば、先日の碁会所に続き、二度目の接触となる。それは、今後の動きが読めなくなることにもつながるが、それでも、塔矢アキラとこの時期に接触しておくことは将来にプラスとなると考えたのだ。
―そうですよ、ヒカル。私のことを考えてくれるのは嬉しいのですが、塔矢アキラとの出会いはあなたにとっても大切なものであるはず。ヒカルだけに負担を押し付けるのは、私もあかりもつらいのですよ。
「そうよ、三人で一緒にガンバロって約束したでしょ。」
「…そうだったな、二人とも、ありがとな。」
ヒカルはそう言って、あかりの頭をなでた。ヒカルのほうが背が低いため、周りから見ると少しおかしな光景なのだが、本人達はまるで気にしていなかった。あかりも嬉しそうに微笑んでいた。

「藤崎…、藤崎あかり、進藤ヒカル!」
 いつのまにか、息を切らした塔矢アキラが横に立っていた。ヒカルは横のあかりにチラッと目線を送る。それに気づいたあかりは軽くうなずいた。作戦開始だ。
「塔矢じゃないか、どうしたんだ。」
「こ、こんにちは、塔矢くん、この前はありがとうね。」
―あかり、おちついて、大丈夫ですからね!はい、ひっひっふー、ひっひっふーですよ!
明らかに緊張している佐為の声に、あかりも落ち着いてきた。
「囲碁大会には出なかったんだ?」
「き、君達は…?」
「オレ達?オレ達はちょっとこっちのほうに用事があったんで、ついでに少し覗いてみようかって話をしてたところ。」
「子ども大会って、ちょっと面白そうだもんね。」
「…面白そう?ちょっと君達、手を見せてくれないか。」
アキラはそういうと、二人の右手を順番に掴み、指先を眺めた。
二人の指先を真剣に眺める塔矢は、三人が視線を交し合っていることにまったく気がつかなかった。
―この二人の人差し指のツメは明らかに磨り減っている…。特に進藤のほうは間違いない。毎日のように碁石に触れている手だ。
「…もういいだろ、なんだよ。」
ヒカルはそう言いながら手を引いた。
「…君達はプロになるの?」
「プロって囲碁のプロ?」
あかりがかわいく首をかしげると、アキラは真剣な表情でうなずいた。
「だははははっ!オレ達がプロォ!?マジで言ってんの!?囲碁のプロなんて考えたことねーよ!とーや、おまえ案外おもしろいキャラだなー。」
―容赦ないですねーヒカル…
―確かこんな感じだったと思うんだよなあ…
「塔矢くんは、プロになるつもりなの?」
「なるよ。」
あかりの問いに、アキラはまっすぐうなずいた。
「フーン…、囲碁のプロってもうかるの?大会とかで優勝すると賞金もらえるんだよな。」
「タイトル戦の賞金なら、名人戦が二千八百万、棋聖戦が三千三百万で…」
「おいおい、タイトル戦っていくつあるんだよ。全部勝ったりするといくらもらえるんだ。」
「全部で八冠、賞金総額は一億二千万くらいさ。」
アキラの言葉に、改めて驚くあかり。

―さて、ここからが正念場だな。
と、内心気合を入れるヒカルだった。
「んー、ならちょっとプロになって、ちょこちょこっとタイトルのひとつふたつ取るのも悪くないなぁ。」
ヒカルのその言葉を聞いて、アキラの表情が硬くなった。
「…ちょっとプロになって、ちょこちょこっとタイトルのひとつふたつ取る…?その言葉、プロの人すべてを侮辱する言葉だぞ!」
―うわー、聞いてたとおり本気で怒っちゃいましたねー。
―だ、大丈夫かな…、塔矢くん怖いよー。
目を真ん丸くして驚く佐為と、ちょっと涙目になりつつあるあかりだった。
「…キミが碁打ちのハズがない!碁を打ってきたものがそんな暴言吐くものか。」
―いや、以前のオレは碁打ちじゃなかったからなー、うん。
―ああ、もうっ。
内心あっけらかんとしているヒカルに頭を抱える佐為だった。
「ちょっとプロになる?棋士の高みを知っているのか!?忍耐・努力・辛酸・苦渋…。果ては絶望まで乗り越えて、なおその高みに届かなかったものさえいるんだぞ!。」
「父の傍らでそんな棋士たちを見てきた。それを君は…。」
「ボクもそれを覚悟で努力してきた。小さいころから毎日毎日何時間も碁を打ってきた。どんなに苦しくても碁を打ってきたんだ。」

―悔しい、悔しい。なぜボクはこんなやつのことを気にしていたんだろう。あのときの指摘も偶然だ。あの時は初心者と侮り、ボクが油断していたんだ。

「今から1局打たないか。」
―――来た!!!
「ボクはプロになる。いずれなる。君が苦もなくプロになりあっさりタイトルを取るというのなら、こんなところでボクに負けては話になるまい。逃げるなよ、今から打とう!。」
アキラの言葉を聞いて、ヒカルはニヤッと笑った。
「じゃあ、まずはこいつと打ってからだな。あかりはオレの弟子だ。弟子のあかりを倒したら打ってやるよ。」
そう言いながら、隣で緊張しているあかりの肩を軽くたたいた。
「君の弟子か…、分かった。碁会所へ行こう。」
―そう、ボクとて…。ボクとて神の一手を極めようという志に生きるのならば、こんなところで負けるわけにはいかない。藤崎あかりは確かに初心者ではない。侮れない。ただ、間違いなくボクのほうが強い。彼女を弟子だという進藤ヒカルにだって、ボクは負けるわけにはいかない。
 歩き出したアキラの後を、三人はついていく。ヒカルと佐為は上手くいったと喜ぶが、あかりは不安げだった。アキラがそばにいる今は声を出せない。だから、ヒカルはそっとあかりの手を握った。あかりを力づけるように。ヒカルの心遣いが嬉しくて、あかりはヒカルに感謝の視線を送る。そんな二人を、佐為はニコニコと眺めていた。
 

 

第4局

 地下鉄の中で、アキラは熱心に何かを考え込んでいた。そんなアキラを横目に眺めつつ、ヒカルとあかりは小声で会話をしていた。佐為を交えて。あかりは、ヒカルが近くにいれば佐為の声が聞こえるし、頭の中での会話もできた。だが、頭の中での会話はあくまで1対1の時だけだった。さすがにヒカルの考えまではわからなかった。だから三人での会話はあくまでも声を出す必要があった。

「やれやれ、何とか同じような感じになったな、オレの冗談に怒っちゃってまあ。」
―本当に冗談だったんですか、ヒカル。
「そうよ、もう、あんな言い方されたら塔矢くん怒るわよ。」
「前のオレは、このころ囲碁のことはさっぱり分からなくてさー。佐為の強さも全然分かってなかったからな。ほんとに冗談だったんだよ。まさか佐為がプロ相手でも倒しちゃうレベルだなんて考えてもなかったからなぁ。塔矢相手にやっと勝てるくらいだって思ってたのさ。」
「でも、偶然打った初めての相手が塔矢くんだったって、なんかすごいよね。」
―…きっと偶然ではなかったのでしょうね。必然だったのですよ、ヒカルと塔矢アキラとのの出会いは…。
「佐為…。」
―この間の1局だけでも彼の力は見えました。ただの子どもではありません。未熟ながらも輝くような一手をはなっていました。よほどのものでも歯が立ちますまい。彼が成長したら、獅子に化けるか、龍に化けるか。…そして今、その彼がキバを剥いている。
「うー、大丈夫かなー、緊張してきちゃったー。」
佐為の言葉を聞いて、ヒカルの手をぎゅっと握り締めるあかりだった。

 碁会所に入ってくるアキラ達を見て、碁会所の中がざわめいた。
「アキラくん。」
「奥のあいてるところ、借りるね。」
そう受付の市河に声をかけると、周囲の様子に目もくれず、まっすぐに奥に進むアキラ。
「おい。」「あの子達…。」「そうだあの時の。」「あ、あの子か。」「アキラくんに三子で?」「そうだよ、あの子だ。」
「ちょっと、ヒカルぅ。」
「大丈夫、碁を打つだけだ、落ち着けって。」
―そうです、あかりはいつもどおり打てばいいのですよ。ヒカルの指導を信じて。
「…うん。」

「勝負なんだから、互先でいいよね。ボクがニギろう。」
そういわれたあかりは、少し考えてから黒石を二個置いた。アキラがこぶしを開き、握っていた白石を数えた。
「二・四・六・・・十二、偶数だね。」
「当たった。私が黒石ね。」
「コミは五目半だよ。」
「あ、そうか、互先だもんね。うんわかった。」
「じゃあ、はじめようか。お願いします。」
「お願いします。」
 アキラの挨拶にそう答えると、あかりはまず大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。そして、右上スミ小目に初手を打った。
 アキラはじっと盤面を見続けた。三分ほどして二手目を左上スミ星に打った。あかりとアキラ、二人の対局は静かに始まった。

 中盤まで進行し、盤面はまだ穏やかだった。二度ほどアキラが仕掛けてきたが、あかりは我慢してじっくりと打っていた。
-相手は上手、仕掛けに乗っちゃだめ。じっくり力を蓄えてからじゃないと戦えない。
 盤面に向かうあかりは落ち着いていた。上手相手に打つのはいつもと同じ、慣れていた。また、盤面に集中すれば周囲のことが見えなくなるところなどは、ヒカルにそっくりだった。
 対するアキラは若干の焦りがあった。盤面若干リードしているものの差はわずか。なかなか相手が隙を見せない。
-やはりこの子は強い。リードがなかなか広がらない…。でも、負ける相手じゃない。
 
 終盤の大寄せであかりにミスが出た。本来先手が取れるところ、後手を引いてしまう。周囲の客たちは気づかなかったが、そこで勝負はついた。アキラの手を見て、あかりは自分のミスに気づいた。悔しくて手が止まってしまうあかりだった。
 そんなあかりの頭に手を置いて、ヒカルが声をかけた。
「せっかくここまで打ったんだ。今日は最後まで打たせてもらえ。いいよな、塔矢。」
「…ああ、もちろん、かまわないよ。」
 その後は問題なく終局まで進み、盤面で十目、コミを入れて十五目半の差でアキラの勝ちとなった。
「「ありがとうございました」」
「いや、たいしたもんだ。」「アキラくん相手にあそこまで打てるなんて。」
-あかり、お疲れ様。いい碁でしたよ。あなたの力は間違いなく塔矢アキラに伝わりましたよ。

「負けちゃった。」
 あかりのつぶやきを聞いたヒカルは、あかりの頭をくしゃっとかき回すと、アキラに声をかけた。
「よし、弟子の敵討ちをしないとな。検討はいいよな、塔矢、勝負だ。」
「…望むところだ。返り討ちにするよ。」
 普段の穏やかなアキラとは思えない発言に、驚く周囲の客達。周りのざわめきををよそに、席を替わり、対局の準備を進めるヒカル。
「あの子が弟子だって?」「いや、間違いなく高段だろ、あの女の子。」「はったりでアキラくん怒ったのかな?」
隣の席から、碁笥をひとつ取り、中身を確認すると手元の黒石と交換した。
「進藤、何をしている?」
「普通に打つだけじゃつまんないだろ、勝負なんだ。一色碁でやろう。」

 これがヒカルたちが考えた作戦だった。今はまだヒカルの実力をアキラ以外にはあまり見せたくなかった。まだしばらくは表に出るつもりはなかったのだ。ただアキラだけがヒカルの実力を知ってくれればいい。そのための一色碁だ。同じ色の石だけで打ち、頭の中だけで把握する、プロでも難しい碁だ。当然、周りの客では碁の内容まで把握できるわけがなかった。
「塔矢が黒でいいや。塔矢、その白石、黒石な。コミは五目半。」
「え、一色碁?」「そんな、白石だけで打つってのかい。」「できるの、そんなの?」

「進藤、本気か?一色碁はプロでも難しいんだぞ?」
「何だ、塔矢自信ないのか?んー、まあそれなら仕方ないかー。」
「誰が自信がないといった!いいだろう、そっちこそ後悔するなよ。」
 売り言葉に買い言葉、あっさり一色碁での勝負が決まった。
-うーん、ヒカルも子供だけど、意外と塔矢くんも子供っぽいところがあるのね。やっぱり男の子なのねー。
 ヒカルの挑発に簡単につられたアキラに、あかりも内心ちょっとあきれていた。

 対局が始まった。先ほどとは異なり、周囲のざわめきは止まらなかった。
「ちょっと、このまま盤面真っ白になってくの?」「こんなの打てるの?」
 盤面に向き合うヒカルとアキラ、そして真横で見ているあかりは、真剣な表情のまま、ただ盤面だけを見続けた。
 盤上は布石が終わり、中盤に入り始めていた。すでに盤面はヒカルの白が優勢。だが、それがわかっているのはヒカル、アキラ、佐為、そしてあかりだけだった。
「広瀬さん、これどっちがいいの?」「いや、私なんかじゃわかりませんよ、北島さんどうです?」「…俺にもさっぱりだ。」

-そんな、ばかな!まさかここまで差があるなんて、嘘だ!
 あってはならない事態に、アキラはうろたえていた。あれだけの碁を打つあかりの後に堂々と出てくるのだ。弱いわけがなった。油断など一切なし、最初から全力での勝負だった。なのに歯が立たない。どう見てもヒカルの棋力が上だった。
-…これが、…進藤ヒカルの碁…。
 
 ヒカルの覗きがとどめとなった。アキラが予想もしていなかった切断。中央の石が浮いてしまっては勝負にならない。
「ありません…。」
 アキラはうなだれながら投了した。

「ふー…。」
ヒカルは大きく息をついた。
「塔矢、これが今の俺の全力だ。」
「…進藤、君はいったい…。」
「塔矢もいい碁だったぜ。じゃ、いくぞ、あかり。」
「あ、うん、待ってよヒカル!」
 そう言うと、ヒカルたちは走って出て行ってしまった。まだショックから立ち直れないアキラと、状況が飲み込めていない周囲の客たちを残したまま。
「進藤ヒカル…。」
 アキラのつぶやきだけが、小さく零れ落ちた。 
 

 
後書き
誤字修正 互い戦 → 互先 

 

第5局

 幼稚園のころ、ヒカルのおじいちゃん家での出来事は、あかりにとって衝撃的だった。生まれて初めて見たお化け。でも、あかりはお化けのことがよく分からなかった。ただ、この人がさっきヒカルが話してたさいなんだと思うと、全然怖くなかった。雛人形みたいに綺麗な人だなと、あかりは、ヒカルと話をしているさいを見ていた。


「…と言う訳なんだ。ここまでがオレが覚えている、以前の事。自分でもなんでこうなったかなんてさっぱりわからない。それに、正直言って、佐為が何で消えてしまったのか、オレはどうしてもわからない。また消えちゃうんじゃないかって思うと、すごく怖い。オレが打つ碁の中に、佐為が残っていたのは嬉しかった。でも、寂しかったんだ。それで、どうしても佐為と会いたくて…。」
―とても不思議な話ですね…。あなたが尋常の子どもではないことは、話しぶりから分かります。あなたが知っている私のことも事実です…。ヒカル、私にもよく分かりません。でも、ありがとう、会いに来てくれて。
「佐為…。」
―本来であれば、とっくに消えているのが私です。なれば、いずれ消えるのもまた道理。今、それを嘆いても、なにも事態は好転しません。何の対策も分からないのです。であれば私は、打ちたい。神の一手を極めるために。打ちましょう、ヒカル。打たないと何も始まりません。
「…そうだな、佐為。打とう、何局でも。」
そう答えるヒカルは、泣きながら笑っていた。

「ヒカル、よかったね、さいと仲直りできたんだね。」
ヒカルの笑顔にあかりは嬉しくなった。
「いや、仲直りって別に喧嘩してたわけじゃないんだけどな。」
―ヒカル、そちらのかわいいお嬢さんを紹介してくださいよ。
「いや、紹介ったって、あかりは佐為が見えないんだし…。」
「え、さいってこの人でしょ?」
「えっ!はっ!あれっ!?嘘、あかり、佐為が見えるの!?」


 それから混乱するヒカルが落ち着くまでは、しばらく時間がかかった。ヒカルにとって、佐為が自分以外に見えなくて話もできないことは当たり前のことだった。だから、あかりにも佐為が見えるなんて考えもしていなかった。ある程度落ち着いてからいくつか試してみて、ようやく現状が把握できてきた。
 
 まず、佐為がヒカルに憑いているのは変わらなかった。佐為はヒカルの周辺しか動けなかった。また、あかり以外はじいちゃんも近所の人も佐為を見えないし、声も聞こえなかった。そして、あかりは、ヒカルが近くにいるときだけ佐為が見えて佐為の声が聞こえた。
「何でこうなったんだ…。」
 頭を抱えるヒカル。まったくの予想外だった。
―ごくたまにですけど、私のことを感じ取れる人は今までにもいましたよ。烏帽子のお化けが出たとかいわれたこともありましたね。
「さい、私ともお友達になってね。」
―もちろんです、あかり。よろしくおねがいしますね。
 これでいいのかと悩むヒカルをよそに、あかりと佐為は楽しそうにしゃべっていた。


 すっかりふさぎこんでいたヒカルが明るくなり、ヒカルの両親も一安心した。そんな両親にヒカルは囲碁の道具をおねだりした。突然の囲碁道具のおねだりに驚いたものの、プラスチック製のおもちゃの囲碁道具を買ってくれた。おもちゃであればそれほど高いものでもなかった。それよりも、元気になったヒカルのことが嬉しかったのだ。
 
 そして、それからは毎日のようにヒカルとあかりは囲碁で遊んだ。いや、遊んでいるように周囲には見えた。
 実際は、ヒカルと佐為の対局だった。
 最初のころは、ヒカルが一人で部屋で篭っていると両親は心配した。さすがに幼稚園児が自室に篭りっぱなしはまずいとヒカルにも分かった。そこで、あかりもひっぱりこんだ。あかりと一緒だと仲良く遊んでいるようにしか見えなかったからだ。それでヒカルは、あかりに悪いと思いつつ、ずっと付き合ってもらっていた。
 いつ見られてもおかしくないように、あかりはヒカルの正面に座り、佐為があかりの後ろから差し示す手を、代わりに打つようになっていた。
 
 小学校に入ると、囲碁を打っているだけでは親達がいい顔をしないようになってきた。あかりは気がつかなかったが、ヒカルは精神年齢が高かったので、さすがに周囲の反応が分かった。考えてみれば、遊んでいるとしか見えないのだから、仕方がなかった。
 そこで、一緒に宿題をする時間も作った。
 以前は学校の勉強なんてさっぱりだったヒカルだが、さすがに2回目となると違った。囲碁で培った集中力のおかげか、学校の授業の理解度も、以前とは段違いだった。小学校1年生の宿題など、ヒカルには楽勝だった。あかりに教えることもできた。
 そして週末は特別な日を除いて図書館に出かけた。当然あかりも一緒だ。
 そこでは、昔の棋譜を中心に、囲碁の本を読んだ。あかりには囲碁の簡単な定石の本だ。ヒカルと佐為の対局をずっと見ているうちに、あかりも囲碁のルールが分かるようになっていたのだった。
 学校ではまじめに授業を聞いて、成績も優秀、大人なヒカルの影響で生活態度も良好、仲むつまじい二人としか見えないヒカルとあかりは、いつしか両家両親公認のカップルの扱いになっていた。

 小学二年生にあがるとき、二人がずっとためていたお小遣いとお年玉で、足つきの囲碁道具を買った。喜ぶヒカルとはしゃぐ佐為、そんなヒカルを嬉しそうに見るあかり。そんなあかりを見て、佐為が声をかけた。
―そろそろ、あかりも打ってみますか?
「え、でも…。」
「…そりゃそうだよな、あかりも見てるだけじゃ詰んないよな…。ごめんな、あかり、そんなことにも気がつかなくって…。」
「え、いいんだよ、ヒカル。ヒカルは佐為と打ちたいんでしょ?私なんかじゃ…。」
 
 実際あかりは何の不満もなかった。対局での真剣なヒカルと佐為をずっと見ていたあかりは、対局が二人にとってどれだけ大切なものなのかよく分かっていた。
 確かに最初はルールも分からなくて、二人の会話の意味も分からなくて寂しい思いをしたこともあった。しかし、ルールが分かるようになってからは、二人が打つ碁の綺麗な石の並びが、いつしかあかりの心を捉えているようになっていた。
―まあ、そう言わずに。いまさらで恐縮ですが、自分で打ってこそ楽しいものですよ。
「二人でがんばって買ったんだもんな。よし、最初の1局はあかり、打とうぜ。」

「いや、びっくりした、あかり強いじゃん。」
―ええ、立派な1局でしたよ、あかり。
 そう言われて、驚くあかりだった。九子の置き碁であっさり負けてしまい、ヒカルにがっかりされると落ち込んでいたのだ。
「え、だって、最初に九子も石置かせてもらったのに、負けちゃったんだよ。ヒカル、面白くなかったんじゃない?」
 ずっと、ヒカルと佐為の対局を見ていたあかりにとって、囲碁は互先で打つのが当たり前のものだった。それなのに最初に九子もハンデをもらって、なのに勝てなかったのだ。すっかり、情けない碁を打ってしまったと思っていた。
「あーそっか、あかりはその辺のことさっぱり分からないか。えっとな、囲碁の世界では、プロ相手に九子で打てればアマチュア初段って言われてるんだ。初対局でここまで打てるやつなんて、はっきり言っていないぜ!」
―打ち筋も立派なものでした。ここが死んで勝負はついてしまいましたが、とても初心者とは思えない碁でしたよ。
 思いもかけず、ヒカルと佐為に誉められ、照れてしまうあかり。といっても、まだプロだのアマチュアだの初段だのはよくわかっていなかった。ただ、二人が誉めてくれるのが嬉しかった。

「あかりがこれだけ打てるんだ、今までみたいにずっと二人で打つわけには行かないよな。」
―そうですね、あかりも一緒に打ちましょう。今度は私ですよ。
「え、でも、二人の邪魔をするのは悪いよ。」
遠慮するあかりに、
「あかりがいつも来てくれるから、親達も安心してほっといてくれてるんだぜ。オレ達も助かってるんだ。一緒に打とうぜ。」
―そうですよあかり。二人で打つより三人で打ったほうが楽しいですよ!ヒカル、以前のあかりも今くらい強かったのですか?
「うーん、確か中学3年の大会で見た時が今と同じくらいだったかなあ。だから、こんなに早く強くなって、オレもびっくりしたんだ。」
―確か、以前はちゅー学生になってから囲碁を覚えたのですよね?幼い子どものほうが囲碁の上達は早いですし、毎日私達の碁を見ていたのですからね。その辺の影響もあるのでは?
「なるほどなー。まあ、確かに、オレも前より強くなってると思うし…。」
「囲碁ってどうやったら強くなれるの?」
―一番は強い相手と何度も打つことですね。
「確かに、院生の教室でもそんなこと言ってたっけなあ。あ、後、小さいころから教わっていた連中の話だと、師匠に弟子入りして、最初のころに結構定石を並べたって言ってたっけな。それで石の形を覚えたって。」
―なるほ…ど、弟子入りですか…
「ん?。どうした佐為。」
―あかりへの指導は、ヒカルだけがしたほうがいいのかもしれません…。
「え、佐為が教えちゃまずいの?」
―ええ、今後のことをふと思ったのです。この先必ず聞かれることがありますよね、あかりは囲碁を誰に教えてもらったのかと。
「…、そうだな。オレも以前はその質問には困ったもんな。なるほど、オレだけが指導していれば、あかりは正真正銘オレの弟子ってことになるか。」
「えっ、えっ?」

 あかりには二人が話していることの意味がよく分からなかった。ただ、二人が真剣に自分のことを話しているということしかわからなかった。
「そうだな、あかりが上手く嘘をつけるとも思えない…。…、いや、あかりには嘘をつかせたくないな。ただでさえ隠し事をさせてるのに…。な、あかり、あかりはオレの弟子って事でいいか?」
「えっ、うん。私、ヒカルが私に打ってくれるならとっても嬉しいよ。」
「ははっ。よしっ、決まり。あかりはオレの弟子。ま、どこまで強くなるかは分からないけどなっ!」
「私がんばるよっ!」
―よかったですね、あかり。
「うんっ!」
「佐為もたまに打ってやってよ。ただし手加減なしの本気でな。解説はオレがするからさ。」
―そうですね、それくらいならばよいでしょう。
「やったー。ね、ヒカル、このおもちゃの碁盤、私がもらって帰ってもいい?」
「え、ああ、それな。オレ達はもうこの碁盤があるからいいよな、佐為。」
―もちろんです。むしろごめんなさいね、私達がいい碁盤を使ってしまって。
「いいのいいの。私が家に帰ってからも、二人は打ってるんでしょ。遠慮しないで。私はこっちで十分だから。今日から家でも、打ってもらった碁とか定石の本を見ながら、並べてみることにするね。」
 
 その日から、あかりはヒカルの家で毎日1局自分で打つことになった。ヒカル指導碁と時々の佐為との対局。それがどれだけ贅沢なことなのか、あかりにはさっぱり分かっていなかった。しかし、あかりにとってヒカルの部屋にいる時間の大切さは、いっそう増していった。
 
 

 
後書き
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第6局

「おとうさん、ボク囲碁の才能あるかなあ」
 アキラが幼いころ、父親である塔矢行洋に尋ねたことがあった。
「囲碁が強い才能か?ハハハ、それがおまえにあるかどうか私にはわからんが…、そんな才能なくっても、お前はもっとすごい才能をふたつ持っている。」
 行洋はそういいながら、幼いアキラの頭をなでた。
「ひとつは誰よりも努力を惜しまない才能。もうひとつは限りなく囲碁を愛する才能だ。」
 それはアキラにとってとても暖かく、大切な言葉だった。

-おとうさん…、ぼくは今までお父さんのその言葉を誇りに、まっすぐ歩いてきた。でも今、なにか見えないカベがぼくの前にあるんだ。みえない大きなカベが……






「でもヒカル、あれでよかったの?数目差で勝つって言ってたのに…。塔矢くん、かなりショック受けてたみたいだったよ?」
 碁会所で塔矢アキラと対決した翌日の放課後、いつものようにヒカルの部屋で宿題が終わったところだった。
「…あれでよかったんだと思う。あいつの目を見てたらさ、やっぱり手加減とか力を抜くとか、だめだって思ったんだ…。なんたってあいつは塔矢アキラなんだからな…。」
「うーん、塔矢くん、落ち込んでなければいいんだけど…。」
-落ち込んでいるでしょう。あの者の碁に対する情熱は本物でした。本物なればこそ、昨日の負けは堪えたでしょうね。
「えー、そんなー、大丈夫なの?碁、嫌いになったりしてないかな?やめちゃったりしないかな?もー、ヒカルのばかーっ!」
「だーいじょうぶだって、言ったろ、あいつはあっさりプロになって、さらにそのプロの中でも勝ちまくるくらい本物の碁打ちなんだ。だから大丈夫。」
「もー、ヒカルの言ってること意味わかんないよーっ。」
-負けただけでやめるような碁打ちなどいないということですよ、あかり。ええ、彼なら大丈夫でしょう。突き落とされた獅子の子は、這い上がってくるだけです。必死にね。
「もー、佐為までそんなこと言って…、知らないっ!」
 アキラのことを全く心配していないヒカルと佐為に、あかりはあきれてしまった。

「そんなに怒るなって、あかり。ま、オレたちのことを塔矢に印象付けたことには間違いないだろ。あいつなら絶対追いついてくるさ。よし、宿題も終わったし、佐為、打つか。」
-打ちましょーっ!ヒカルっ、ほら早く!
「ハハッ、慌てるなって、ほら、あかりも、ふくれてないで座れよ!」
「もぅ、ふたりとも…。最近宿題のプリントが多くて私大変なんだよ。ヒカルは簡単そうだけどー。」
そういいながら、今日の宿題をランドセルにしまっていくあかり。
「そういや最近なんか先生張り切ってるもんな。前もこんなに宿題あったっけな?…前は宿題自体ほとんどやってなかった気がするな…。」
-宿題をやっていかないヒカルと言うのも、違和感がありますねぇ。
「ヒカルは成績優秀な優等生だもんねぇ。…クラスの女の子たちにも結構人気なんだよ、ヒカルは。ほかの男の子と違って大人っぽいって。」
 そう言いながら碁盤の前に座るあかりに、ヒカルは苦笑を返した。
「いまさら小学生の女の子に人気が出てもなぁ。ほら、そんなことどうでもいいから打つぞ。」
「…ばか。」
「なんだとー、ばかとはなんだばかとは。今、優等生だって言ったのお前だろ!」
「…そーゆー問題じゃないの。もぅ、ほら、打つんでしょ、佐為もあきれてるよ。」
-…これではどちらが年上かわかりませんねぇ。
「何か言ったか、佐為!」
-なんでもありませんよ、でははじめましょうか。


 次の日の昼休み、ヒカルとあかりは先生に呼び出されていた。
「何だろうね、ヒカル。」
「うーん、特に思い当たることはないけどなぁ。窓も割ってないし、植木も壊してないし…。」
-そんなことばかりやっていたのですか、前のヒカルは…。
「え、いや、もちろんそんなことないさ。」
「なんか、あやしい。」
 そんなことを話しつつ、職員室に向かう三人。
「あ、来たわね、実はね、成績優秀な二人に、ちょっと考えてみてほしいことがあるの。」
 続く先生の言葉に、二人は固まった。
「ね、海王中学を受験してみない?」


「うちの学校ってのんびりした校風もあって、もともと中学受験の家庭ってあんまり多くないのよ。」
「それがここ最近の不況の影響か、今年は特に私立受験組が少なくてね、例年の三割位しかいないのよね。」
「受験実績が0だと結構教頭とかうるさくって…、あ、今のはなしね、そうじゃなくって…。」
「で、海王中学なんだけど、今のところ希望者がいなくってさ、ちょっと試しに、ここ数年の過去問、ここ最近の宿題にしてたのよ。」
「そしたらあなたたち、充分合格できる成績なのよねー。ね、二人で受験なんて、記念にもなるでしょ。」
「いい学校なのよー。全国的にも有名な進学校で、優秀な生徒たちが集まるの。色々な部活動も盛んでね、女子の制服もかわいいのよー。」
「あ、これ、ご両親あてにお手紙ね。ちゃんと渡すのよ。」

 
 担任の先生のまくしたてるような話が終わり、気が付いた時にはヒカルとあかりはお手紙とやらを持たされていた。
「ちょっと、どうするの、これ。」
「…いや、受験なんて考えてもなかったな。しかも、よりによって海王…。」
―…塔矢アキラが進む学び舎ですか…
 動揺するあかりに、頭を抱えるヒカル。そんな二人の後ろを漂いながら、佐為は真剣な表情で考え込んでいた。その様子は、まるで対局中であるかのようだった。 
 

 
後書き
誤字修正 気が付い時 → 気が付いた時 

 

第7局

 あかりの母も押しかけて来ての夕食となった。ヒカルとあかりの母たちの盛り上がり方はものすごかった。食事の後もリビングで二人で大はしゃぎしながらしゃべっていた。海王受験の話は、二人にとって、そこまでセンセーショナルなものらしかった。

「…前の私たちは海王中に入ってないんだよね。」
「…ああ、受験なんか話したこともなかったよ。普通に二人とも葉瀬中だったんだけどなぁ。まったく同じじゃないってのは分かってたつもりだったんだけど、ここまで違ってくるとはなぁ…。」
-ヒカルの二回目の影響ということですか…。
 
 ヒカルたちは、ヒカルの部屋に逃げ込んでいた。
「…とりあえず受けるだけでも受けてみろって、このままだとなっちゃいそうだよ?私はともかく、ヒカルは間違いなく合格しちゃうんじゃない?」
「…んー、あの過去問と同じレベルならなぁ。でも、塔矢と同じ学校に行くわけには行かないだろ、なんて言って諦めさせるか…。」
 あかりの複雑そうな表情に、それどころではないヒカルはまったく気がついていなかった。

-塔矢あきらと同じ学校ではいけませんか?
 そんなヒカルに、佐為が声をかけた。
「いや、そりゃまずいって。言ったろ、あいつほんとにしつこかったんだ。俺にって言うか、佐為と打つために、一時期がむしゃらだったんだよ。俺が打たなかったからって、ただ1局打つためだけに囲碁部に入るようなやつなんだぜ。そのせいでいろいろトラブルもあったみたいだけど、押し切ったみたいだったし…。そんなあいつが同じ学校になったりしてみろ、どれだけ付きまとわれることになるか…。今回は、少なくとも”最後の日”を越えるまでは誰にも邪魔させないって決めただろ?あー、こうなるって分かってたら、塔矢と会わなかったのになぁ。失敗したなぁ。あのままおとなしくしてれば、囲碁関係者に会うこともなかったんだけどなぁ…。」
「でも、塔矢くんは、ヒカルの生涯のライバルなんだよね?」
「まあなぁ。あいつがいたからこそ、俺は囲碁が強くなったようなもんだし…。あいつは佐為を追いかけて、オレと間違って失望して…、あー、今だにあのこと思い出すとむかついて来るな…。」
「だったら、やっぱり、塔矢くんがヒカルとあったことは間違いじゃないと思うよ。」 
「いや、お前と佐為がそう言うから、わざわざ作戦を考えて塔矢に会ったんだけど、こうなるとどう考えても失敗だろ、あれ。」
 頭を抱えてもだえるヒカルに、佐為が口を挟んだ。
-いえ、むしろ必然の流れなのかもしれません。

「どういう意味だよ。」
-私も、塔矢あきらとヒカルの出会いは、お互いにとってのプラスだと分かります。しかし、今回のヒカルは、あくまでも私のことを最優先に考えています。
「…そりゃそうさ、当たり前じゃん。俺は佐為に消えてほしくないんだ。もう、あんな思いはしたくないんだから…。」
 照れくさそうにそう答えるヒカルに、にこりと微笑む佐為。
-ヒカルがそう考えてくれるのは、私もとてもうれしいですよ。そしてそのために考えて動いてくれるのも。前回のとき、私とヒカルが打っていた時には何も問題は起こらなかった。ヒカルが他の人たちと打つようになり、私にも機会を見つけては他の者と打たせてくれるようになった。それから徐々に私の様子がおかしくなることがあり、私は消えてしまった。ヒカルの考えはそうでしたね。
「…ああ。…オレが打つ碁の中だけにこっそり紛れ込んでな。きれいさっぱり消えちまった。でも、今回はうまく行ってる。前は二年半くらいで消えちまった佐為が、もう倍以上経つのにぜんぜん大丈夫なんだ。このままうまく”最後の日”を超えることができたら…。」

-…超えることができたらどうなるのですか?
「え、いや、それは…、俺にもよく分からないけど…。」
-私はヒカルと打つことで強くなりました。そして、ヒカルも私と打つことで強くなりました。しかし、まだまだ神の一手には遠い…。ヒカル、このまま私たちだけで打ち続けて、神の一手にたどり着けると思っていますか?
 まるで対局時のような鋭い眼差しの佐為に、ヒカルは息を呑んだ。
「で、でも、あ、そうだ、あかり、今回はあかりもいるじゃん。今はまだ力が足りないけど、あかりは前回とは比べ物にならないくらい力をつけてる。このまま三人でがんばればいずれきっと…。」
「ヒカル…。」
-…無理ですね。それでも届かない。それにヒカル、気づいているのでしょう?私たちはあかりと何度も打ってます。それでも私は消えていない。
「そ、それは、あかりは身内だからだよ!だから大丈夫なんだ!」
-結局何の根拠もないのですよ、ヒカル。なぜ私が消えてしまったのか、どうしたら今の私が消えてしまうのか、何も分かっていない。
「で、でも!」
 必死に言い募るヒカルの前に、佐為はゆっくりと語りかけた。
-しかし、何か私は流れを感じるのです。

「…流れ?」
-ええ。以前の私は、消えるのを怖がっていたといっていましたね、ヒカル。
「…後から考えてみればってやつなんだけどな。当時のオレは気にも留めてなかったんだけど…。」
-そして、以前も今も、ヒカルは私に消えてほしくないと思ってくれていますね。
「当たり前じゃんか!」
「わ、私も、佐為が消えちゃうなんていやだよ!」
-ありがとう、ヒカル、あかり。今の私もそうです。消えたくなどはない。まだまだ碁を打ち続けたい。そして、不思議なことに、今の私には何の不安もないのです。むしろ毎日が楽しい。ヒカルやあかりと碁を打ち、ともに碁を学べるこの毎日がとても楽しい。
-…ただ、先日、違和感を感じました。ヒカルと塔矢アキラの出会いに関してです。ヒカルは最初、この時期には会わないで済ますつもりでしたね。
「ああ。」
-しかし、以前に塔矢アキラの事を聞いていた私とあかりには、二人が会わないことはあまりにも不自然に感じたのです。だから、私とあかりはヒカルを説得し、塔矢アキラとの出会いという流れができた。最後はヒカルもかなり乗り気になってましたよね。
「…まあな。」
-そして、出会いだけを作り、ヒカルはアキラとの接触をしばらく絶つことを決めていた。そうしたところに今回の出来事です。まるで、誰かが流れを修正しているかのようにも思えませんか?
「オレと塔矢の接点を作るためにか?」
-ええ、そうです。正確には、そこにあかりも交えてですね。
「え!わたし!?」

-ええ。ヒカルの前回と今回、一番大きな違いは2点です。私との出会いの時期、そして…、
「…あかりだな。」
 じっと佐為を見つめるヒカルは、いつのまにか落ち着いていた。あわてたのはあかりだ。
「え!私何か悪いことしてるの!?」
-いえ、むしろあかりがいることが。あかりの今があるからこそ、いい方向に流れているのではないのかと、私には思えるのです。
「…そうだよな、あかりがいるから佐為に会いに行く勇気がもてたし、今もこうして周りに邪魔されずに碁を打てるしな…。」
-あかりが説得したから、塔矢アキラと会ったんですもんね、ヒカル。
「えっ、そうなの、ヒカル?」
 びっくりしているあかりに、ちょっと赤くなったヒカルが頭をかきながらこたえた。
「ま、あんだけ一生懸命言われたらなぁ…。」
「そ、そうだったんだ…。」
 ヒカルの言葉を聞いて、今度はあかりが赤くなってうつむいた。
「んー、まあそれはいいとして、あれか、どうもこのままじゃ悪い流れになるから、塔矢との接点が増えるように進路が修正されつつあるって言いたいのか、佐為。」
-ええ、そうです。ですので、私には悪い流れとは思えないのですよ。
「んー、でもなー…。」


「あかりー、遅くなるからそろそろ帰るわよー。」
下からあかりの母の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい!。もうこんな時間だもんね。」
-今すぐ決めなくてはいけないことでもないのですよね。しっかり考えて見ましょう。
「…そうだな。」
 

 

第8局

 あかりは、珍しく一人で帰宅していた。ヒカルの父の会社で不幸があったそうで、ヒカルの父母がともに会場の手伝いに借り出されることとなった。その為、ヒカルもついていくことになったらしく、待ち合わせの駅前に行ってしまったのだ。さすがについていくわけには行かなかった。いつもヒカルと一緒の帰宅を楽しみにしているあかりにとって、非常に残念なことだった。
 そうでなくとも今は、海王受験のことでヒカルと相談したかった。あかりはがっかりしながら家へと歩いていた。そんなあかりの横を通りがかった車が、少し後方でとまったが、あかりは気がつかなかった。

―あの子、間違いないわ。
車を運転していた女性は、偶然見かけた女の子にあわてて車を止めた。

「藤崎あかりさんよね。」
 女性の声に呼ばれて、あかりは振り返った。ヒカルたちと一緒に行った碁会所の受付の女性、市河が立っていた。
「ねえ、今日少し時間あるかな。あなたたちにすごく興味を持っている方がいるの。今日、ちょうど碁会所に来ているのよ。よかったら、碁会所に来てみない?」

 特に用事もなかったあかりは断る理由も思いつかず、半ば強引に碁会所に引っ張りこまれた。
―うーん、また塔矢くんなのかなぁ…。なんか会うの気まずいなぁ…。
 しかし、碁会所にいたのはあかりが予想もしていなかった相手だった。

「先生、この間話していた子です。藤崎あかりさん。アキラくんと三子でいい勝負をした。」
「先生?」
 碁会所にいたのは、和服を着たおじさんだった。どうやら、碁会所の客に指導をしていたらしく、対局している客たちの横に立ち、石を並べていた。

―先生って、囲碁の先生なのかな?碁会所って、囲碁の先生がいるんだ。
 碁会所のことをよく知らないあかりは、そんな風に考えていた。

「君がアキラと打った子か。もう一人いたと聞いたが、今日は一緒ではないのかね?」
「あ、今日はヒカルは用事があって。」
「…そうか。アキラといい勝負をしたそうだね。」
「えっ、そんなことないです。互先では全然でしたし。」
あわててこたえるあかりに、近くにいた客が口を挟んだ。
「いや、先生、その子もなかなかたいしたもんでしたよ。私も見てましたけど、とても子供とは思えない打ちぶりでしたよ。」
 そんな声をかけられ、あかりは戸惑ってしまった。

「きみたちの実力が知りたいんだ。座りたまえ。」
 そう言って、そのおじさんは空いていた席に座った。
「きみの友達はアキラに勝ったそうだな。」
「あ、はい。」
 あかりは言われるままに席に着いた。なんだか迫力があり、断りにくいおじさんだ。それに今日はヒカルもいない。ここで1局打つのもいいかとあかりは思った。
「石を六つ置きなさい。」
「六子も!?」
「そうだ。」

 あかりはむっとした。
最近はヒカル相手でも五子でいい勝負をしているのだ。なのにこのおじさんは六子を置けと言う。あかりはおとなしそうに見えて、結構負けず嫌いなところがあった。ただでさえ今日はヒカルと一緒に帰れずに不機嫌だったのだ。
―負けるもんか!
 あかりは、相手が誰と気づくこともなく、決意していた。
 そんなあかりの様子を、正面に座る塔矢アキラの父、塔矢行洋は、じっと見つめていた。






 一方そのころヒカルは、母と合流して、葬儀会場に来ていた。父の会社で不幸があり、父と母が式の手伝いとして借り出されることになったのだ。

「じゃあ、ヒカル、お母さんは受付の手伝いをしているから、あなたはあっちの休憩室でおとなしくしていなさい。お弁当もあるそうだから。」
「はーい。」
―あちらのようですね、ヒカル。
 
 まだ式まで時間があるせいか、控え室もすいていた。
隅のほうで本でも読んでようかと思っていたヒカルは、適当な場所を探した。

 ヒカルは、海王受験に関してまだ決めかねていた。
何が正しいことなのかさっぱりわからなかった。あれから佐為は何も言ってこなかった。
ヒカルも、自分が決めなくてはいけないことは分かっていた。
ただ、もう少し考える時間がほしかった。

―あ、ヒカル、あそこ!
 佐為が指差したほうを見ると、棚に囲碁道具が置いてあった。
―お、こりゃ暇つぶしにちょうどいいや。本読むだけじゃツマンナイもんな。
―ヒカルっ、打ちましょ打ちましょっ!
―対局はまずいって、誰に見られるかわからないんだぜ!油断は禁物。棋譜ならべでいいだろ。
―…はぁ、残念ですけど、仕方ないですねぇ。

 図書館から借りていた棋譜の本があったので、並べてみることにした。
数手並べていたところで、声がかかった。

「へー、君、囲碁打てるんだ。」
 正面からの声に顔を上げたヒカルは、思わず驚きの声を上げてしまった。
「な!!」
 正面にいた女の子は不思議そうに首をかしげた。
「な?」
「な、なんだっ!お姉ちゃんも囲碁できるの?」
 何とか続く言葉を飲み込んだヒカルは、あわてながら答えた。
そんなヒカルの様子を不思議そうに思いながら、声をかけてきた少女を眺める佐為。
-ずいぶんとかわいらしいお嬢さんですねえ。
ヒカルよりも何歳か年上に見える、活発そうな少女だった。

「お姉ちゃんも打てるんだよー。ね、私も暇だし、1局打とうか。」
 突然の出会いに如何すればいいか何も思いつかないヒカル。
そんなヒカルが緊張しているように見えたのだろう。
ヒカルの緊張をほぐすかのように、女の子は笑顔で続けた。

「ほらほら、そんなに緊張しないで。私も今日は遠い親戚のお通夜とやらに連れてこられて退屈だったんだ。周りは大人ばっかりだし、ね、相手してよ。私は奈瀬明日美。よろしくね!」

 
 

 
後書き
誤字修正 互い戦 → 互先 

 

第9局

-このおじさん、強い!碁会所の先生ってこんなに強いんだ!
 十数手打ったあたりで、あかりは相手の予想外の強さを実感していた。
-塔矢くんより間違いなく強い。…ヒカルと同じくらい?でも、六子の碁なんだから、落ち着いて打てば大丈夫。

 鋭い手つきで、石音高く白石を打つ行洋。最初はやや険しかった、その表情が、手数が進むのにつれて、穏やかになっていく。こころなしか、どことなく楽しげなようにも見えた。
-ずいぶんときれいな手筋を打つ。子供の碁にありがちな、乱れや荒さもまったく見えない。置き碁とはいえ、布石は完璧に近い。…これが、同級生に指導された碁とは。なるほど、たいしたものだ。
 
 碁は手談とも呼ばれる。塔矢名人ほどの打ち手ともなれば、相手の一手一手の意図はかなり読み取れた。あかりの打つ石には、怯えも油断もなかった。かと言って、驕る様な、相手を嵌めようとする手があるわけでもない。一手一手に確かな意思がこもった、ただひたすら素直にまっすぐな打ち筋だった。対局している行洋まですがすがしい気持ちになるほどの。
 
 対局の途中から、周囲の客に混じり、白いスーツの男性、緒方精次もこの二人の対局を興味深げに眺めていた。
-…まるで置き碁のお手本を見ているようだな。塔矢先生が指導碁を打ってるとはいえ、序盤では置石分のリードはほぼ丸々守られている。中盤戦で三子分は差を詰められたか…。残りは終盤。先生の寄せをどこまでしのげるかな。三冠タイトルホルダーのトップ棋士相手に堂々と打つ。普通、格上相手に打つとどうしても手が控えがちになる。なのにこの子にはそれがまったく見られない。上手相手にかなり打ちなれているようだな。まぁ、子供ならではの怖いもの知らずとも取れるが・・・。…しかし、先生もずいぶん楽しげに打たれてるな。こんな楽しそうに打つ先生も珍しい。


 最後の半コウを詰めたところで、行洋は声をかけた。
「ここまでだな。目算はできているかな?」
 行洋の声は、対局前と比べるとずいぶんと穏やかになっていた。それに対するあかりの声は、対局前の不機嫌さはどこへ行ったのか、すっかりはずんでいた。
「黒は五十六目、白は五十一目、私の五目勝ち!」
こぼれるような笑顔とともに、あかりは告げた。

「では、最初から並べてみようか。いや、藤崎くんだったな、たいしたものだ。」
「えへへ、ありがとうございます。中盤にかなり詰められちゃったんで、最後逃げ切れるかドキドキしちゃいました!」
 笑顔満開で石を並べていくあかりに、行洋も思わず笑みをこぼした。
「布石は完璧だったよ。あのまま打ち続けられたら、途中で投了するしかなかった所だ。」
「へへ、布石は散々ヒカルに鍛えられてますから!」

 横から緒方も口を挟んだ。
「進藤ヒカルか。君は彼から教わっているんだって?」
「うん!私が間違った手を打つとヒカルはすぐにそこを攻めてくるの。だから布石で間違っちゃうと、あっさり勝負がついちゃうから悔しいの。でも最近はヒカルにも結構ほめられるんだー。布石はしっかりしてきたって。」
「ここまで打てるのだからな。たいしたものだ。中盤のこの手からだな。白のこのツケで左辺が割られてしまったな。」
 行洋の指摘に、あかりはうなずく。
「うん。ツケられるまで気がつきませんでした。」
「そうだな、この手を打たれるとまずい。だから、一手戻すと、ここは、こう受けておかなければならなかった。」
「そっかー、そうしておけば、まだまだ差を詰められることもなかったんだー。」


 検討が一通り終わったところだった。行洋が問いかけた。
「藤崎くんは囲碁の大会には出ないのかね?見かけたことはないと思うのだが。」
 アマチュアの大会でも上位に入るような面子は、プロと顔を合わせることも多かった。多くのアマチュアの大会では大概プロが参加して解説などを行うのだ。強い子がいれば、当然話題になる。これほど打てるのに、今までまったく名前を見る機会がなかったのが、行洋には不思議だった。

「えー、私なんか全然ですよー。この間塔矢君にもあっさり負けちゃいましたし。」
 そう言って、苦笑いするあかり。普段ヒカルたちとしか打たないあかりは、自分のレベルに全く気が付いていなかったのだ。
「いやいや、アキラ君じゃ基準にならないよ。そうだ、そのときの1局、並べることはできるかい?俺も先生も残念ながら見てないんだよ。」
 そんな緒方の問いかけにも、あっさりと答えるあかり。
「あ、いいですよ。じゃあ、碁笥借りますね。」
 と、石を並べていく。

「この辺までは結構打ててたんですけど、ここで間違って後手を引いてしまって…。で、その差を詰められずに後は寄せでも損して、そのまま終了って感じです。」
 テンポよく並べていくあかりに、思わずうなり声を上げる緒方。
「いや、ここまで打てれば立派なもんだ。終盤こそ多少甘い点が見られるが、アマチュアの大会ならかなりいいところまでいけるだろうに。」
「そうですか、へへ。そう言ってもらえるのは嬉しいです。」
 
 このとき緒方が考えていた大会は、大人も交えてのアマチュアの一般の大会だ。これだけの腕があれば、都の代表クラスともいい勝負ができると緒方は見ていた。それに対して、あかりの頭に思い浮かんだのは、何度かヒカルに薦められたこともある子供囲碁大会だった。ヒカル自体がアマチュアの大会に疎いこともあり、あかりもあまりよく分かっていなかったのだ。

「私はヒカルと打ってるのが一番楽しいから、大会とかはあんまり興味ないんです。」
 そう無邪気に答えるあかりだった。
 
「この1局は検討はしたのかね?」
「あ、帰ってからですけど、ヒカルに教えてもらいました。ここの右辺を打たれたときに、私は受けたんですけど、ここは手を抜いて先にこっちを詰めていくのが大きかったって。受けてくれれば利かしだし、手を抜けば…、」
そういいながら、中盤の石を数手並べるあかり。
 
 その指摘に、行洋と緒方は戦慄を感じた。
-…おいおい、どう見てもプロレベルの手だろうそれは。パッと見じゃ気がつかなかったな。間違いなくアキラ君にも見えてない手だ。そこだけ見ても出入りで十目は差が出る…。そこまでの腕か、進藤ヒカル…。

「アキラには二歳から碁を教えた。私とは毎朝1局打っている。すでに腕はプロ並みだ。」
 行洋はあかりの目をじっと見ながら語りかけた。
「アマの大会には出してない。アイツが子供の大会に出たら、まだ伸びる子の芽を摘むことになる。アキラは別格なのだ。」
「だからこそ、そのアキラに勝った子供がいるなどと、私には信じられなかった。」
「はぁ。」
 そんな行洋のしみじみとした口調に、目を丸くするあかり。

「…だが、私の考えすぎだったのかな、緒方くん。いや、ここまで打てる子供たちがいるとは。」
「そんなことはないですよ先生。むしろこの子達が例外でしょう。まさかここまで打てる子供たちがいるとは…。」
 
 話を聞いていたあかりはだんだん顔色が悪くなってきた。
-…あれ、私なんとなく普通にしゃべっちゃったけど、…これまずかったのかなぁ。…そもそも、こんな風に対局するのもよかったのかな…。いや、別にとめられてるわけじゃないけど、ヒカルは隠してるわけだし…。…だ、大丈夫よね?

「今度、進藤君も連れてくるといい。君たちならいつでも歓迎しよう。」
「あ、いや、その、あ、ありがとうございます、アハハハ・・・。」
 突然挙動不審になり始めたあかりの様子に、行洋と緒方は不思議そうな表情を浮かべていた。 
 

 
後書き
誤字修正 そのの表情が → その表情が  各上 → 格上 

 

第10局

 ヒカルが気が付いた時にはすでに対局が始まっていた。序盤はすでに終わり、中盤に差し掛かっていた。互先でヒカルが黒。
―人間って、無意識でも碁が打てるんだ…。
 いまだに現実が直視できないヒカルだった。

 以前、院生仲間だった奈瀬。かといって、そこまで仲が良かったわけでもない。院生1部のメンバーで、それなりに会話はするかなという程度。当然、院生以前に会ったことなどなかった。それなのにこのタイミングでの遭遇。まさに不意打ちだった。
―あ、思わず打ち始めちゃったけど、佐為、何か変な感じとかしないか?
―私は全く問題ありませんよ、ヒカル。ほら、ちゃんと集中して打ってあげないと。なんでしたら交代しましょうか?
―…調子にのるなってのっ!
 
 奈瀬は、何時しか本気になっていた。たまたま連れてこられた、通夜の会場で偶然出会った子供。ほんの暇つぶしで声をかけただけだった。そうして始まった、何気ない対局。子供と遊んであげようと思っていた最初の意識など、すでにどこにもなかった。

―なにこの強さ。嘘でしょ。院生の上位メンバーでもここまでじゃない…。まさか、プロ?いや、こんなプロ見たことない。若いプロなら若獅子戦に出るはずだけど、こんな子はいなかったはず。アマチュアでここまで強い子がいるなんて…。

―…この子の打つ手は、最善の一手でも最強の一手でもない。これじゃ、まるで指導碁ね。…でも、なんだろう、楽しい。この子の石に応えて、私の石まで引っ張られてるような感じ…。こんな碁もあるんだ…。

「ありません。」
 終盤に入る直前で、奈瀬は投了した。これ以上打っても差は縮まらない。いや、相手が手加減してくれなかったら、もっととっくに勝負はついていたのだ。不思議と、手加減された悔しさは感じなかった。ここまで力に差があっては仕方がない。むしろ、こんなに強い子供がいることに、奈瀬は感動していた。

「ね、君、すっごい強いね。プロじゃないよね?名前聞いていい?」
「あ、うん。進藤だよ。進藤ヒカル。プロじゃないよ。」
 このころにはヒカルもとか落ち着きを取り戻していた。予想外の出会いで、思わず対局してしまったが、してしまったものは仕方がないと、すでに開き直っていた。そして、これも佐為の言う流れの影響なのかなと考えていた。

「進藤ヒカル君か。ね、ヒカル君、君手加減してたでしょ。」
 そう言われてヒカルは戸惑った。さすがに本気はまずいと思い、途中から指導碁に切り替えていたのは確かだ。だが、仮にも相手は院生。当然、ばれるとは思っていた。だから、ばれたこと自体は予想の範囲なのだが…。

「ヒカル君?」
「あれ?名前で呼ばれるの嫌だった?どう見ても年下だと思って、つい名前で呼んじゃったんだけど。」
 以前は、下の名前で呼ばれたことはなかったはずだ。院生は基本名字で呼び合っていたからだ。まあ、自分が年下なのは確かだし、違和感を感じただけで、別に文句があるわけではなかったのだが。
「あ、いや、オレ小六だよ。たぶん年下かな。ちょっとびっくりしただけ。好きに呼んでくれて構わないよ。まあ、手加減っていうか、ちょこっとね。」
「やっぱり年下だよね。私は中二。私のことも好きに呼んでくれていーよ。明日美ちゃんでもいーんだよ?」
 ちょっといたずらっぽく笑いながらそう告げる奈瀬。

「いやー、でもホントに強くてびっくりした。プロに弟子入りとかしてるの?」
「そんなんじゃないよ。奈瀬さんも強かったよ。奈瀬さんこそプロ目指したりしてるの?」
「うん。これでも院生なんだよ。あ、院生ってわかるかな。プロ予備軍みたいなところで勉強してるんだ。」
「知ってるよ、そっか、院生なんだ。」

―そっか、奈瀬はもうこのころから院生だったのか。
―ヒカル、知り合いだったのですか?
―ああ、前の時に、院生仲間だったんだ。まさかこんなところで会うと思ってなくってさ、びっくりしちまった。
―なるほど、この子もヒカルと縁のある子でしたか。
「でも、ほんとびっくり。ヒカル君みたいに強い子がいるなんて。プロの先生に指導碁打ってもらってるみたいだった。それになんていうか、すっごく気持ちいい碁が打てた。負けちゃったのが気にならないくらい。なんでだろ、なんかすごかった。」
「あー、いや、その、どうも。」
 奈瀬は、本気で感動していた。こんなところで退屈しのぎに始めた碁でここまで感動するなんて、自分でも驚きだった。

「なんか最近碁を打ってて行き詰まりを感じるっていうか壁にぶつかってるような感じだったんだけどさ、なんかヒカル君との碁で、その壁を乗り越えられそうな気がしてきた。」
 奈瀬は目を輝かせてヒカルに詰め寄ってきた。
「いや、それって、おおげさじゃないかなぁ?たまたまのまぐれなんじゃないかなぁ。」
「とーんでもない、まぐれなんかでこんな碁が打てるもんですか。ヒカル君の碁はね、なんていうか、私の石を引っ張ってくれるっていうか、導いてくれるような感じだった。」

「…オレの碁が、導く?」
「そう!プロの先生に打ってもらった時もこんな感動しなかったもん!間違いないよ、君には碁の才能がある!それもすっごい才能が!」
「いや、ははは、ありがと。」
―オレの碁が、導くか…、考えたこともなかったな。
―いい碁でしたよ。彼女がそう思うのも不思議ではないです。今の一局、間違いなくヒカルが彼女を引っ張ってましたよ。
―そっか…。
 思ってもいなかった言葉をかけてもらい、思わず考え込むヒカル。

「ね、プロ目指しなよ、君ならなれるって!」
「いや、今はまだまずいんだ。」
「今はまだまずい?」
 屈託のない奈瀬の言葉に、思わず口を滑らせてしまったヒカル。
慌てて口を閉ざすが奈瀬にはしっかり聞かれてしまった。
 
 何かを探るようにヒカルをじっと見る奈瀬。
「…ヒカル君、何か隠し事してるでしょ。」
「うっ!」
―おー、なかなか鋭いお嬢さんですねえ。
 奈瀬の追及に焦るヒカルと、感心する佐為。
「んー…、まぁ、気になるけど、とりあえずはいっか。」
「と、とりあえず…?」
「ん。ねえ、ホントに誰かに碁を教えてもらったりしてないの?」
「あ、ああ。」
―まー、犬っころみたいな奴はいるけどさあ…。
―犬っころ!何ですかヒカル、その言い方!

「じゃあ、普段碁の勉強はどうやってるの?」
「家で、あかりと打ったり、棋譜を並べたりかな。」
「あかり?」
「ああ、俺の同級生の友達。オレの碁の弟子。」
―…ヒカル、それは言わないほうがよかったのでは?
―え、なんかまずかった?

「ふーん、あかりちゃんかぁ…。」
 顎に手を当てて軽く考え込む奈瀬。視線はじっとヒカルを見つめていた。
「…なんだよ?」
「ね、時間がある時でいいからさ、私と打ってくれないかな。ヒカル君にもっと打ってほしいんだ。」
「えっ!いや、そんなの無理だって。」
「なんでさ。あかりちゃんには教えてるんでしょ?」
「いや、あかりは幼馴染だからさ、昔っからずっと一緒だったから、あいつは特別っていうか。」
「ふーん…。」
 そういいつつ、ジトッとヒカルを見続ける奈瀬。そして、何か思いついたようで、ニコッとヒカルに笑いかけた。
「そうだ、今日は誰と来たの?一人じゃないよね?」
「え、ああ、母さんと。受付の手伝いをしてるよ。」
「そっか、お母さんとか…。」
「な、なんだよ。」
「ま、今日はここまでにしとこっか。そろそろ式も始まるみたいだし。ほら、あっちみたいだよ。」
「あ、うん。」
「それじゃ私、親の所に行くから、またね、ヒカル君!」
「さ、さよなら。」

 何とか無事にしのぎ切ったと、胸をなでおろすヒカル。
―ふー、びっくりした。前はあんなこと一回も言われなかったのにな。ま、無事に済んでよかった。
―…無事に済みましたかねぇ。
―なんだよ佐為、怖いこと言うなよ!
―まぁ、なるようになるでしょ。これも縁ですよ、ヒカル。
―でも…、オレの碁が誰かを導くか…。
先ほどの奈瀬の言葉をじっと考え込むヒカル。そんなヒカルを佐為は優しく見守っていた。

 
 そのころ奈瀬は、ニマニマと笑いながら受付に向かっていた。もちろん、ヒカルの母親を探すためだ。だが幸か不幸か、ヒカルは全く気が付いていなかった。 

 

第11局

 ヒカルは、奈瀬と会ったことをあかりには話していなかった。
 
 元々あかりは知らない相手だし、これから会う機会があるとも思えない。
わざわざ言うことはないだろう、と思っていた。
なんとなく気まずい思いもあったが、深くは考えないことにしていた。
 
 それよりも、奈瀬との対局のことが気になっていた。
自分の打つ碁が、奈瀬を引っ張ったという。
それは、かつて、自分が塔矢に、そして佐為に引っ張られたのと同じことなのだろうか。
これも佐為の言う、”流れ”の一環なのだろうか。

 だとすると、今の流れに乗るのが正解なのだろうか?
しかし、新しい流れに乗ってしまえば、当然古い流れとは異なる道を歩くことになる。

 そのことが、ヒカルには、のどに刺さるとげのように引っかかっていた。



 
 あかりも、行洋と会ったことをヒカルに話していなかった。

 理由の一つは、対局した相手が誰なのかよく分かっていなかったから。
あかりは結局最後まで、行洋を碁会所の碁の先生と思い込んでいた。
 これは行洋も悪い。
自分のことを知らない碁打ちがいると思っていないため、自己紹介がなかったのだ。
 
 ヒカルは当分、あの碁会所にはいかないつもりのようだった。
なら、わざわざ碁会所の先生と打ったことを言わなくてもいいだろう、と考えていた。
 
 もう一つの理由は、ヒカルに怒られそうな気がしたから。
 
 実はこっちの理由のほうが大きい。
ヒカルと佐為のことを考えると、ちょっと軽率だったかなと思うのだ。
ヒカルがあれだけ隠そうとしているのだ。
もっと慎重に考えて、行動するべきだった。

 色々と誘われたが、何とか全部断れた。今後は注意しなくちゃ、と思っていた。










「そうだヒカル、お姉ちゃんにこれもらったよ。お姉ちゃんの中学の創立祭で使えるたこ焼きの無料券。」
「そっか、もうそんな時期になるんだ。」
 いつもの対局の後、あかりがかばんからチケットを取り出し、ヒカルに見せた。

「ここでヒカルは囲碁部の先輩に会ったんだよね。どうするの?」
「…あかりはどうしたい?あかりの先輩にもなる人だぞ。」
 ヒカルの言葉に、あかりはすぐ答えた。
「私はヒカルが行くなら行くし、ヒカルが行かないなら行かないよ。」
 あっさりとそう答えるあかりに、ヒカルが驚く。
「え、そんな簡単に決めていいのか?」
 あかりは、分かってないなーという表情で、
「うん。前の私が囲碁部に入ったのも、ヒカルがいたからでしょ?今の私はこうしてヒカルと打てるんだから、わざわざ囲碁部に入らなくちゃいけない必要もないし。」
「……。」
 
 そう言われて、ヒカルは考え込んでしまう。
元々は、行かないつもりだった。
葉瀬中に行っても、今回は囲碁部に入るつもりはなかったのだ。
今はあかりがいるとはいえ、佐為との囲碁の時間をこれ以上減らすつもりはなかったからだ。
 
 筒井先輩や三谷には悪いが、あくまで佐為との時間を最優先するつもりだった。
そうなると、創立祭で筒井先輩や加賀に会ってしまうと話がややこしくなる。
行かないのが一番だろうと考えていた。
 
 さらに、今は海王中への進学の可能性も出てきた。
それが実現すると、ますます葉瀬中メンバーとの接点はなくなるのだ。
 
 だが、それでいいのだろうか。
 
 葉瀬中囲碁部は、間違いなく、大切な場所だった。
オレにとっても、そしてあかりにとっても。
いや、むしろ、あかりのあかりにとって大切な場所なのではないか。

 オレは以前、院生になった際に囲碁部はやめた。
囲碁部のみんなには悪いことをしたと、今でも気まずい思い出の一つだ。
特にオレが引っ張り込んだ三谷。
あいつがあれだけ怒ったのも、無理はないことだった。
結果だけを見れば、オレは囲碁部を引っ掻き回しただけともいえる。

 時々もどりたい、と思う場所ではあったが…。

 
 そんなオレに対して、あかりは違った。
三年間ずっと囲碁部でがんばっていた。
囲碁のルールさえ知らなかったのに、頑張ってルールを覚えて。
自分や三谷が囲碁部を辞めた後も、囲碁部を盛り上げて、女子の大会にも出場した。
 
 間違いなく、オレが抜けた囲碁部をリードしていたのはあかりだ。
 
 そして、囲碁部のメンバーにとってもだ。
俺やあかりの存在は、囲碁部のメンバーにとってもそれなりの影響を与えていたはずだ。
特に三谷は、オレが連れ込まなければ囲碁部には入ってなかっただろう。
 
 それなのに、今回はほかに大事なことがあるから何も関係ありません、で済ませていいのだろうか。

 もちろん今のあいつらは、そんなことは何も知らないにしてもだ。

 
 考え込んでいるヒカルに佐為が声をかけた。
―ヒカル、考えても答えは出てこないと思いますよ。結局正解は分からないのですから。
「佐為…。」
―動いてみましょう、今は。そこに”ちけっと”があるのです。行って見ましょう。行ってみて、いろんな人に会って見ましょう。ただ考え込むよりいいと思いますよ。

「ね、ヒカル、私ね、勉強の時間増やしてるの。ヒカルが海王中に行くって決めたときに、私もついていけるように。いけるかどうか不安はあるけど、私がんばってみる。だから、ヒカルは好きに決めていいよ。」
「あかり…。でも、それってあかりの人生が大きく変わっちゃうってことなんだぞ?オレの影響で。それでいいのか?」
「ヒカル、私にとっては、前の私はヒカルから聞いた”お話”でしかないの。私にとっては今の私が私のすべて。今の私はヒカルの弟子で、弟子としては師匠においていかれたくないの。だから、前の私のことは気にしなくていいんだよ。」

 そう言いながら、屈託なく笑うあかり。

 そんなあかりを見ていて、ヒカルは決めた。

「よし、葉瀬中の創立祭、行ってみよう。確かに佐為の言うとおりだ。考えていてもわからねえや。」
「うん、わかった!」
―お祭りですか、楽しみですね!

「少なくとも、座ったまま考えただけで決めるのはだめだよな。碁は打たなきゃ始まらないもんな。」

 そう告げるヒカルに、佐為は優しく微笑んでいた。
 










 

 

第12局

 葉瀬中創立祭は、多くの人出で賑わっていた。
地元の元学生の住民たちも多いのであろう。
家族連れも多く、各部活が担当しているらしい、食べ物屋の屋台も繁盛していた。

 そんな人波の中を、ヒカルはあかりを連れて歩いていた。
目指すのは、筒井先輩が出しているはずの、詰め碁の席だ。
こちらに来てから初めて会う筒井先輩だ。
ヒカルは緊張していた。

「ね、私がその詰め碁に挑戦すればいいのね。」
 そんなやや硬い表情のヒカルを横目に、あかりが問いかけた。
「ああ。何か悪いな、あかりに色々やらせちまって。」
「いーのいーの、詰め碁解くのも楽しいもんね。で、加賀って人が来たらヒカルに代わればいいの?」
「うーん、それもその場の雰囲気次第かなあ。まあ、加賀ならちょっと煽れば乗ってくるだろうけどな。」

―あ、あそこですね、ヒカル。碁やってますよ!
 そういいながら、佐為が屋台の並んでいる一角を指示した。
大きな字で「碁」と貼り出されている横の長机で、将棋の駒模様の和服を着た学生風の少年と、創立祭の見学者であろうか、私服姿の子供が対局していた。
「あれ、なんか、対局してるみたい。ね、ヒカル、あそこでいいんだよね。」
―ほら、ヒカル、早く行きましょうよ、ヒカルったら!

 最近何度目だろうか。
またしても予想外の展開だったが、何とか気を取り直すヒカル。
うるさく騒ぐ佐為を引き連れて、あかりとともに、碁の長机のほうへ向かう。
周囲には何人かの大人たちが対局を見学している。

 その中に一人混じっていた学生服の少年に、ヒカルは気持ちを落ち着かせながら、声をかけた。
「ね、ここって、囲碁の対局やってんの?」
 突然声を掛けられて、なし崩し的に始まった対局をどうしようかと考えていた筒井はちょっと困った顔をする。
どうやらヒカルたちを祭り見物の子供たちだと思ったようだ。
「えっ!あ、いや、ほんとは僕が、詰め碁の問題を出していたんだ。この子が参加してくれてたんだけど…。」
と、対局者のうち、私服の子供を軽く指さす。
「そしたらこいつが突然邪魔したうえに余計な口はさんでさ…。」
と、今度は対局者である和服の少年を睨む。
「せっかく詰め碁に挑戦してくれてたのに、いきなり横から口を出されて、挙句に囲碁なんかつまんないからやめちまえなんて言われたんだ。そりゃ怒るさ。…それでこの二人が言い合いになって、碁で決着つけることになっちゃってさ。」

 それを聞いていた和服の少年が、荒々しく声を出した。
「ごちゃごちゃとうるせぇな、筒井。殴り合いの喧嘩してるわけじゃねぇンだ。黙ってろ!」
「何いってんのさ、見学の子供相手に!そもそも加賀は将棋部なのに、勝手に口をはさんで!」
「その将棋部に囲碁で勝てないやつは黙ってろっての!」
「くそっ…!」

そんなもめている様子を見ながら、あかりが小声でささやく。
「ちょっとヒカル、どーするの?」
「あ、うーん、どうしたもんかな。」
 困惑するヒカルたちをよそに、佐為は楽しそうに盤面を眺めていた。
―なかなかの対局ではないですか。和服の少年のほうが実力的には上でしょうか。しかし相手の子供も、一手一手に面白い手を打ち返している。
 
 ヒカルもあかりと一緒に盤面を眺めた。
確かになかなかいい勝負だ。
そして加賀と対局している少年の顔をしっかりと確認する。
やはり間違いない。
 横のあかりに小声でささやき返した。
「こっちの和服が加賀でさ、そんでなぜか対局してるのが…、三谷なんだよ。」
「ほえっ!」
―ほぅ!
 そう言われて、目を丸くして驚くあかりと佐為。
思わず、三谷といわれた少年をまじまじと見てしまう。
気の強そうな顔をした少年だった。


 二人には以前のことを一通り話してある。
当然、三谷のことも話してあった。

 あかりもこそこそとささやき返す。
「でも、ここで会うはずじゃないんだよね?」
「ああ。あいつも葉瀬中に入るんだから、来てても不思議はないっちゃないんだけどな。少なくともオレは全く知らなかった。」
「で、どうするの?」
「…もう少し様子を見よう。」
―お、今のもなかなかの手ですねー。



 対局は終局に差し掛かっていた。
子供の方は予想以上の強さだった。
少なくとも、自分よりは全然強いと、横で見ていた筒井には分かった。
だが、それでも加賀が相手では分が悪かった。
目算が得意な自分には分かる。
子供の黒が足りない。
子供の表情も悔しげだ。
これだけ打てるのだ、自分の負けが分かっているのだろう。

 終局となり、整地も終わった。
「コミを入れて、白六十六目、黒六十二目半、三目半の白勝ちだな。」
 そう告げる白の加賀を、悔しげに睨みつける三谷。
見ていた筒井も感心したように告げる。
「…加賀相手に立派なもんだ、強かったよ、君。」
「ま、少なくとも筒井、お前よりは強いわな。さて、負けた以上約束は覚えてるな。」
「ちょっと、加賀、いくらなんでもプールはひどいって!」
「約束通り冬のプールに飛び込んでもらおうかと言いたいところだが…、そうだな。おい、おまえ。名前と年は?」
そう言って、子供を睨みつける加賀。
「…三谷祐輝、十二歳だ。」
「十二ってことは小学生か?」
「今度の春に、中学入学だ。」
「中学はここか?」
「ああ、そうだ。」
次々と質問を重ねる加賀に、しぶしぶながらも答える三谷。
さすがに冬のプールには入りたくないらしい。

「よし、ならちょうどいいな、お前、入学したら囲碁部に入れ!」
「えっ!」
「ちょっと加賀、いきなり何いってんのさ!」
 驚く三谷に、筒井も口をはさむ。
「ちょうどいいじゃねーか、筒井。三人そろえて団体戦に参加できれば学校が部として認めてくれるって必死だったじゃねーか。」
「だからって、そんな無理やり。そもそも彼が入ってくれても二人だ。まだ足りないさ。」
「俺が掛け持ちしてやるよ。」
 加賀の言葉に筒井も驚く。
「ま、あくまで将棋優先だけどな。この三谷っての、結構やるからな、週一くらいなら付き合って鍛えてやるよ。どうだ、小僧。入学してから囲碁部に入るなら許してやってもいいぜ!」
「…分かった。絶対追い抜いてやるからな。」
「お、いい度胸じゃねえか。しっかり鍛えてやるよ!筒井、お前も負けてんじゃねえぞ!」
「あーもー、勝手なことを!えっ、でも君、ほんとにいいの?」

 そんな三人の様子を見ていたヒカルは、あかりを促すとその場を離れた。
「ヒカル、結局ほとんど話も出来なかったけど、よかったの?」
「…あの中に入っていくのって、かなり不自然だろ?今回はこれでいいんじゃね。」
―ヒカル、何か吹っ切れた顔をしていますね。
「ああ、なんて言うかさー。オレなんかがごちゃごちゃ考えなくても、みんなはみんなでうまく流れて行くんだなーってのを見せつけられるとさ、なんか、何を偉そうに考えてたんだろって思ってさ。」
「ヒカル…。」

ヒカルは大きく伸びをすると、両手をバチッと自分のほっぺたに打ち付け、気合を入れた。

「よしっ、決めた。あかり、海王受験しようぜ!そして一緒に海王行こうぜ!」
「っうん!私も頑張るよ!」
「もちろん俺もあかりの勉強手伝うさ!今日から早速受験勉強だ!ほら、いくぞ、あかり!」
「あーん、待ってよ、ヒカル―!」

 
 自分の選択が正解かどうかは読めない。
むしろ、正解があるのかどうかすらわからない。
でも、こうして佐為は横にいる。

今はただ一生懸命にやってみようと、ヒカルは決めた。 
 

 
後書き
三谷の年齢にミスがあり、一部修正しました。 

 

第13局

 ヒカルとあかりは、海王中学に無事合格した。
二人はもちろん合格を喜び合い、佐為も大はしゃぎで祝福してくれた。

 そしてそれ以上に大喜びしたのが、二人の両親たちだ。
特にあかりの両親は、ヒカルがあかりに勉強を教えてくれていたことを知っていたので大感謝だった。
合格祝いは奮発しないいといけないなと、両家の親達は張り切っていた。

 

そして、中学の入学式を待つ春休み、ヒカルたちはいつものように、対局していた。



 階下からヒカルの母の声が届いた。

「ヒカルー、お客さんよー。」
「客ぅ?いったいだれだよ?」

 呼ばれて階段を下りていくヒカル。
玄関に立っていたのは、奈瀬だった。

「やっ!海王中学合格おめでとっ!」


「この間のお通夜の時の対局の後にさ、ヒカル君のお母さんに挨拶して、連絡先を聞いといたんだー。ほんとはすぐにでも遊びに来たかったんだけど、なんか海王受験するって言うし、邪魔しちゃ悪いなーって思ってさ。んで、無事合格したって聞いたから、お祝いに来たの。」
「何で奈瀬さんが、オレたちの合格の事知ってるんだよ。」
「ん?もちろんヒカル君のお母さんに聞いたんだよ。たまに電話でおしゃべりしてたの。」
 と、あっけらかんと話す奈瀬。

 頭を抱えるヒカルに、目をまん丸にしてるあかり。

―ほー、なかなかの行動力ですねぇ。
そして感心する佐為だった。


「あなたがあかりちゃんね、私、奈瀬明日美、よろしくね!あ、あかりちゃんも合格おめでとう!はいっ、これケーキ。おいしいよ!」
「あ、ありがとうございます。」
 思わず受け取ってしまうあかり。
奈瀬は珍しそうにヒカルの部屋の中をきょろきょろと見回す。

「…ちょっとヒカル、この人誰?」
 こそこそと問いただすあかりに、口ごもるヒカル。
「あー、えっと、なんていうか…。」
「あれ、何だヒカル君、私のことあかりちゃんに話してないんだ。」
 あかりの声が聞こえたのだろう、奈瀬が割り込んできた。

「前にお通夜で偶然ヒカル君と会うことがあってさ、その時控え室で1局打ってもらったことがあるんだ。その時ヒカル君の強さに感動しちゃってさ。是非また打って欲しいなって、ずっと思ってたの。」
 目をキラキラと輝かせて語る奈瀬の様子に、あかりはちょっと嫌な気分になる。
「…どうするのよ、ヒカル。」
「…いや、まいったな。オレたち自分の勉強だけで精一杯だからさ、そんな時間ないんだよ。」
「そんな事言わないで、お願い!時々でいいの!時々でいいから私とも打って欲しいの!年下の子にこんな事言うのどうかとも思うけど、ヒカル君の碁に本気で惚れちゃったの、お願い!」
 砕けた様子をシャットアウトして、真剣な表情で頼み込む奈瀬。
そんな奈瀬に困惑するヒカルと、奈瀬の言葉に眉をしかめるあかり。

「あかりちゃんには教えてあげてるんでしょ?時々でいいから私にもお願い!」
「いや、だからさ…。」

「だったら、私と勝負してください。」
 硬い声で奈瀬に告げるあかり。
いつになく厳しいあかりの態度に、ヒカルと佐為は驚いた。

「私に勝ったら、時々ヒカルと打つのを許してあげます。」
「ちょっ、あかりっ、何勝手に言ってんだよ!」
「ヒカルは黙っててっ!」
 あかりの剣幕に、思わず言葉を飲み込むヒカル。
―おおっ!あかり、燃えてますね!

「あかりちゃんに勝てば、ヒカル君と打つのを認めてくれるのね?」
「はい。私に勝てばですけど。」
 二人の視線が厳しくぶつかり合う。そして、ヒカルを差し置いて対局が始まった。


 盤上はすでに中盤を終えた。
―やっぱりあかりの方が力は上か。勝負は見えたな。
 ヒカルが二人の対局を止めなかった一番の理由は、二人の棋力だ。
先日の対局から考えて、あきらかにあかりの方が強い。
そうと分かっていても心配だったが、もはや勝負はついた。
―どうなることかと思ったけど、何とか切り抜けれそうだな。
 ヒカルは内心、ほっと胸をなでおろした。

 あかりもほっとしていた。
ここまで来たらもうひっくり返されることもない。
私の勝ちだ。
 奈瀬には悪いが、ヒカルとの時間はあかりにとって大切な時間だ。
邪魔されるのは嫌だった。

 奈瀬は身を乗り出して盤面を眺めていた。
途中から気づいていたが、あかりは強い。
自分よりも強い。
何とか必死に喰らいついていったが、それもここまでだ。
 勝てないことが、もはや勝負がついてしまったことが分かってしまった。

 盤上にポタポタと雫が落ちた。
奈瀬の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
ギョッとして奈瀬を見るあかりとヒカル。

 まさか、泣き出すとまでは思っていなかった。
両手で顔を覆い、涙をこらえる奈瀬。

「わ、私、ほ、本気でヒカル君の碁に感動したの…。だ、だから、どうしてももっと打って欲しかったの…。ヒカル君との対局のあとは、碁の勉強も楽しくってね。次の対局のときのために、一生懸命にがんばったの…。」
 
 そんな奈瀬を見て、さっきまでの強気の様子を一変させて、おろおろとうろたえるあかり。
「ヒカル君と打てればもっともっと強くなれると思ったんだけどな…。もっと楽しい碁を打てると思ったんだけどな…。負けちゃった……。」
 そう言って、うなだれる奈瀬。
その様子は、本気で落ち込んでいることが分かった。


 その奈瀬の様子を見ていた佐為が口を出した。
―今日だけ私が打ってあげましょう。
 その佐為の言葉に目を剥くヒカル。
―ヒカルが私のことを心配してくれるのは分かりますよ。でも、きっと大丈夫だと私には思えるんです。むしろ必要な気がするんですよ、ヒカル。

 佐為の言葉を受け、じっと考えるヒカルと心配そうに見つめるあかり。

 これも今回の流れなのだろうか。
もうすでに、海王進学という、新しい流れに進むことは決めているのだ。
 
 なら、ここでかたくなに拒絶することに意味はあるのか?


―分かった。佐為、1局だけ奈瀬と打ってくれ。ただし、何か嫌な予感とかしたらすぐに中止するって約束してくれっ!
―分かりました。

 あかりには佐為の言葉しか聞こえていないが、ヒカルの表情から読み取ったのだろう。
何も言わず、席を空けた。
 ヒカルは、あかりの場所に座り、碁石を片付け始めた。

「奈瀬さん、今日だけ1局打とう。」
 その言葉に、ハッと顔を上げる奈瀬。
唇を強くかみ締めると、小さくうなずいた。


 奈瀬は黒を持った。
あえて置石はなしだ。

 奈瀬は、改めて思い知らされていた。

―この子、やっぱり強い!あきらかに全力じゃないのが分かるのに、様子見の手がいくつもあるのに、それでもまったく歯が立たない!
―…あきらめちゃだめだ。あかりちゃんに負けちゃったんだから、もう次はいつ打てるか分からない。必死についていかないと…。

―…でも、なんだろう。間違いなくこの前と同じで強い。強いんだけど…、何か変な感じがするのは何でだろう…。ヒカル君で間違いないよね?

 ふと奈瀬は正面のヒカルの顔を見た。
ヒカルの表情は真剣だった。

 ただ、なんだろう。
気のせいだろうか、ヒカルの目線に違和感を感じた。
なにか、直接盤上を見ていないような、遠くから見ている目線のような…。

 
 その時、すっと盤上に何かの影が見えた気がした。
えっと思ったときは消えていて、ヒカルが石を打った。

―何か虫でも飛んでいたかな?だめだめ、もっと集中しないと!
 だが、何かの影のようなものは、そのあと何度も視界をよぎった。
何かはっきり分からないのだが、どうもヒカルが打つ直前のタイミングで見えるようだ。
 ヒカルもあかりも気にしている様子はないので気のせいなのだろうが、何か気になる。

―だめよ、しっかり集中しないと。虫なんかに気をとられている場合じゃないでしょ。相手はヒカル君なのよ!
 そう思った次の瞬間、奈瀬は固まった。
さっきまで影のようにしか見えなかったものがうっすらと見えたのだ。

―扇子!?
 その扇子が指し示した先に、ヒカルが石を打った。
―え、何今の扇子!?ヒカル君、扇子が指し示す場所に石を打った?
 思わず周りを見回すが、今は扇子はどこにも見えない。

「どうした?」
 そんな奈瀬の様子にヒカルが声をかけた。
「え、あ、いや、なんでもないの、ごめんね。」
 そう言って、奈瀬は盤上に視線を戻す。
あかりも不思議そうな表情で奈瀬を見ていた。

―え、なんなのあれ!?何で扇子!?ヒカル君やあかりちゃんは見えてないの!?
 奈瀬が混乱したまま、対局は続いた。

 
 

 
後書き
誤字修正 あかりが場所 → あかりの場所 

 

第14局

 扇子はその後も現れ続けた。
間違いなく、碁盤の上で次の手を指し示していた。
―これっていったい何なの?扇子のお化け?扇子が碁を打つの?
 奈瀬の疑問は深まるばかりだった。
―ヒカル君は間違いなく、扇子が示す場所に石を打っている。ヒカル君には扇子が見えている…。違和感はこのせい?ヒカル君は自分で打っていない?前はこんなの見えなかったのに…。
 
 奈瀬が気がついたときには、盤上の差は大きく広がっていた。
「ありません。」
 奈瀬は投了した。


 投了の後、じっと考え込む奈瀬。
どうも途中から、碁に集中できていなかったようにも見えた。
「あの、奈瀬さん、大丈夫?なんか、集中できなかったみたいだけど…。」
 ヒカルの言葉に、奈瀬はあわてて手を振る。
「あ、ごめん、いや、その、そうじゃなくてね…。」
 ヒカルとあかりは目を合わせて、お互いに首をかしげた。
どうも様子がおかしい。

「あの、変なこと聞いていいかな?」
「変なこと?」
「うん…、あのね。今打ってくれたの、…ヒカル君なの?」
 奈瀬のおずおずとした問いかけに、目を見開く三人。

「え!?いったいどういう意味!?」
 奈瀬は目をぎゅっとつぶって小さくうなずいた。
そして目を開き、ヒカルの目をまっすぐ見ると、はっきりとした口調で聞いた。
「扇子が見えたの。扇子が指し示した場所に、ヒカル君が石を打っていたの。ヒカル君にも見えてたんだよね?」
 その言葉は、ヒカル、あかり、佐為の三人に大きな衝撃をもたらした。
「…佐為が見えるの?」
―ヒカル!?
 思わず口をついてしまったヒカルを、佐為があわてて止める。
しかし、奈瀬は聞き逃さなかった。
「さい?それはあの扇子のこと?」



 結局、ヒカルは話すことに決めた。

 ヒカルが、なぜか以前の記憶があることに気がついたこと。
以前の自分と佐為のこと。
あかりと一緒にじいちゃん家の蔵に行ったら、今回も佐為と出会えたこと。
そして、今回はなぜかあかりも佐為が見えていること。
一緒にいるうちにあかりも囲碁を覚えたので、あかりがヒカルの弟子となったこと。

 そして、今回は佐為に消えてほしくないと思っていること。

 全て無理やりごまかすという方法も一瞬考えたが、ヒカルはやめた。
佐為は、打つ必要がある気がするといった。
そうしたら、奈瀬には佐為の扇子が見えた。
 
 ならば、それには何か意味があるのではないかと思ったのだ。

 
 奈瀬は腕を組んで考え込んでしまった。
予想以上にとんでもない話だった。
 扇子のお化けだけでも十分に信じられない出来事なのに、さらにとんでもない事実が隠れていた。
―扇子のお化けは本因坊秀策についていたお化けで、ヒカル君には前世の記憶がある!?いったいなんなのそれ!?でも、ヒカル君もあかりちゃんも本気だ。とても嘘や冗談を言っているようには見えない。…それに、それがホントなら、ヒカル君のありえない強さも納得できる…。

「…ヒカル君は前世でプロ棋士だった記憶があって、佐為さんは秀策についてたお化けかぁ…。碁打ちじゃなきゃ到底信じられない話よね…。」
「オレの話、信じる?」
「不思議と納得できちゃうのよね。不思議は不思議なんだけどさ。前に打ってくれたのがヒカル君。今日が佐為さん。二人とも明らかにプロレベルの強さだった。それも並じゃないレベルの。子供が一人で覚えたってより、前世の記憶があって、しかも秀策並みの人が教えてたってほうが納得できる。…しかも、扇子も見えちゃったしね。」
「それでさ、佐為のことは秘密にしてほしいんだ。」
「んーまー話したところで誰が信じるとも思えないんだけど…。むしろ怪しい人に思われる?む、でも秘密、そうか、秘密か…。」
 
 そういって、いたずらっぽくニンマリと笑う奈瀬。
「な、なんだよ。」
「ね、秘密にするからさぁ、その代わり私とも碁を打ってくれないかなぁ。ヒカル君でも、佐為さんでもいいからさぁ。」
「えっ、それは…。」

「ふざけないでっ!!」
 あかりが立ち上がって、奈瀬を睨みつけた。
「あ、あかり、どうしたんだよ。」
「あれっ、えっと、その。」
 あかりは小さく体を震わせながら、うつむいた。
 
 そして、奈瀬に向かって、土下座をした。
「お願いします、ヒカルと佐為のこと、誰にも話さないでください。秘密にしてください。お願いします。」

 あかりの突然の土下座に、奈瀬はもちろん、ヒカルと佐為も慌てふためいた。
そんなあわてる周囲をよそに、あかりは言葉を続けた。
「私が昔ヒカルから話を聞いたとき、私はまだ小さかったから、それがどれだけの重みを持つことなのかよくわかっていなかったの。でも、最近分かるようになったの。ずっと考えていたから。ヒカルがどれだけの覚悟で私に話をしてくれたのか。」

 あかりは軽く顔だけを上げて、奈瀬を見つめる。
「もしも佐為のことを知られたら、ヒカルはこの先一生、碁打ちとしてやっていけなくなります。誰もヒカルの碁を見なくなる。後ろにいる佐為だけを見るようになってしまうの。」

 あかりの言葉に、奈瀬は息を呑んだ。
確かに佐為の存在はそう簡単に信じられるものではない。
だが、もし佐為の存在が認められたら?
佐為が見えず、佐為の言葉が聞こえない周囲には、ヒカルが打つ碁は佐為の碁としか見られなくなるだろう。
常識的には信じられる話ではない。
だが、碁打ちなら?

 奈瀬が納得してしまったように、信じる人間は多いのではないか?

「…でも、何でヒカル君はそんな大事なことを私に教えてくれたの?」
「…今のヒカルは、自分のことよりも佐為が大事なの。あなたには佐為の扇子が見えた。ヒカルと私以外には見えないのに。だからだと思う。でも、私にはヒカルも大事なのっ!」

 そう言いながら、あかりは涙をこぼし、再び頭を下げた。
「だからお願いします。他の人には秘密にしてくださいっ!お願いしますっ!」
「あかり…。」

「あかりちゃん…。ごめん、ごめんね、そんなことしないで頭を上げて。」
 そういいながら、奈瀬はあかりの体を起こす。

「ごめん、とても大事なことなのに、おちゃらけちゃって。私が悪かった。もちろん秘密にする。無条件に。絶対誰にもしゃべらない。」
「奈瀬さん…。」

「あかり、ありがとな、オレなんかのためにそこまでしてくれて。」
 そう言ってヒカルもあかりの頭をなでる。

 正直ヒカルは、あかりが自分のことをここまで考えてくれているとは思ってもいなかった。
あかりの真摯な言葉に心を打たれていた。

 あかりは急に恥ずかしくなったのだろう、顔を真っ赤にしたまま、うつむいてしまった。




「ごめんね、色々お騒がせしちゃって。」
「私こそすいません、生意気なこと言っちゃって…。」
「いーのよ、私が悪かったんだから。気にしないで。」
―ほら、ヒカル!
―ああ、分かってる。
「時々だったら構わないよ、奈瀬さん。」
「えっ!」
「だからさ、時々だったら打つよ。オレでも佐為でも。それに、あかりとも打ってやってよ。」
「えっ、でも、いいの?」
 ヒカルの言葉に驚きながら、あかりにお伺いを立てる奈瀬。
「…うん。奈瀬さんなら信じられる。よかったらたまに打ってください。」
「うわっ!ありがとーっ!あかりちゃんかわいーっ!大好きっ!」
 そう言って満面の笑顔であかりに抱きつく奈瀬。
「うわっ、えっと、あの。」
 あわてるあかりの耳元で、奈瀬は小さくささやいた。
「ヒカル君との邪魔はしないようにするから安心してねっ!」

 その言葉で耳の先まで真っ赤になるあかりだった 

 

第15局

― アメリカ ―

「ああ、今度の週末は駄目なんだよママ。国際アマチュア囲碁カップの予選がいよいよ大詰めでね。」

 がっしりとした体格の三十代ほどに見える男性が、マンションの自室で碁盤を前に電話で話をしていた。
ゆったりとしたアメリカならではの広いリビング。
向かいのデスクの上にはパソコンもある。
ネット碁のサイトを開いていたようだ。

「そう、国際大会の、アメリカ代表を決める予選なんだ。去年はいい所まで行って負けてしまったけどね。」

「参加は五十ヶ国くらいかな。ひとつの国で代表一名。アメリカの囲碁人口も結構増えてきてるからね。なかなか大変さ。」
「うん、そりゃそうさ、やっぱりアジアはとても強いよ。日本に中国に韓国に…。アメリカやヨーロッパ勢はいまひとつだね。」
「でも、インターネットによって世界の碁のレベルは飛躍的に上がっているよ。いつでも強い相手と練習できるからね。」
「逆に日本は今弱くなってるって噂だ、ハハ。」

 どうやら、母親との電話中のようだった。
アメリカの国内大会でトップを競うといえば、アマチュアでもそれなりのレベルだ。
 その時、パソコンの画面上で、対局申し込みの窓が開いた。

「おっと、言ってるそばから、ボクに対局の申し込みが入ってる。じゃあね、ママ。体に気をつけて。」
 そう言って電話を切り、パソコンに向き合う男性。

「JPN…、日本の…、初めて見る名だな。sai」





― オランダ ―

「師匠、指導碁打ってもらいにきましたぁ。」
 某大学の助手をしている中年の男性。
彼が開いている囲碁教室の扉が開かれ、十代半ばの少年が元気よく入ってきた。
教室の中では、同じくらいの年代の少年少女五人が対局を楽しんでいた。

「シー。」
 一人あぶれていた少女が、少年の言葉をさえぎる。

「師匠はインターネットで対局中よ。結構強い相手みたいで、ずっと真剣に張り付いてるわ。」
 指導している先生は、奥でネット碁の対戦中のようだ。

「そうか、それじゃしかたないな、ザンネン。」
「私たちじゃ師匠の練習相手にならないもの。」
「去年の国際アマチュア囲碁カップのオランダ代表だもん。すごいよ師匠は。」
「なにがすごいって、去年は六位よ六位!今年こそアジアの一角を崩せるかもしれないわ。」
 少年少女たちは、対局をしながら師匠の話で盛り上がっていた。

「師匠、本業のほうは大丈夫なのかな?こんな教室を開いちゃうくらい囲碁に情熱傾けちゃって…。」
「そうね、教授の助手なんてクビになるかも。」
「おいおい。」

 その時、師匠がパソコンの前で立ち上がった。
呆然とした様子でパソコンの画面を眺めたまま。
 それに気がついた少年が声をかけた。

「師匠?」
「そうか!プロだ、プロなんだ!」
 師匠と呼ばれた男性は、何かに気がついたように声を上げた。

「アハハ!そうだそうだ。インターネットは顔も名もわからないから、アジアのプロが時々おふざけでアマチュアに混じって打つというのを聞いたことがある。」

「プロ?」
「負けたんですか?」
「大敗だよ。あまりの強さにボクの心臓は破裂しそうだった。ヒドイよ。」
 男性は苦笑しながら少年たちに答えた。

「あ、リストから名前が消えた。」
「どこの国の人なんですか?日本?」
「ほんとにプロなのかな。」

―初めて見る名だった…。ネット仲間に聞いても誰も知るまいな、この……、saiが何者か…。




― 日本 ―

 和谷は、自室のパソコンでネット碁を打っていた。
和谷義高、院生として囲碁を学んでいる、この春中学二年にあがる少年だ。
パソコンの画面を前に、マウスを握る手は苦しげだった。

―…こいつ、強い。なんだよ、この強さ。クソッ、もう無理か…。
 局面はまだ中盤だったが、和谷は投了した。

 院生はアマチュアとはいえプロの予備軍。
その上位クラスともなれば、アマチュアではトップレベルの腕となる。
したがって、形勢判断が早く、かつ正確になり、また相手の力量も読み取れる。
 和谷は相手の力量を知り、これ以上は無理だと判断した。
力のない者ほどこうした判断ができず、もう勝てない碁をいつまでも打ち続けることとなる。
 さすがは院生の実力といえた。

「saiか…、いったい誰だ?」
 

 対局相手だったsaiは、次の相手と打ち始めていた。
自然とその対局を眺めていた和谷だったが、いつしか身を乗り出して真剣に注目していた。

「相手も強い…。少なくとも俺よりは上か…。ネット碁でここまでの対局なんてそうは見ないんだけどな…。」

 対局はsaiが優勢のまま続き、終盤で相手が投了した。
「こいつも強いな。伊角さんくらいはあるか?でも、伊角さんはネット碁やってないっていってたしな…。まあ、強い面子が増えるのはありがたいって言えばありがたいんだけど…、akaか…。」






 その後も、saiは頻繁にネット碁に現れた。
基本的に相手を選ばないようで、様々な相手と打っていた。
そして、いずれの相手にも勝っていた。

 突然現れた、無敗の打ち手。
ネット碁の中でも次第に注目を浴びていき、日に日に観戦者の数は増えていく。
観戦者が増えるに連れ、saiへの対局申し込みも増え、自然とsaiとの対局は難しくなっていった。

 当初、その強さから、プロだろうと噂されていたsai。
だが、プロにしてはあまりにネット碁に現れる頻度が高い。
素人相手にここまで頻繁にプロが打つのは不自然だった。
 
 対局相手とのチャットはすべて拒否するsai。
謎の打ち手の正体を探ろうとするものも増えていくが、手がかりがない状態ではお手上げだった。

 そんな中、そのsaiと定期的に対局を行っている対局者が二名いた。
akaとasu。
 気がついたらsaiとの対局が始まっていることが多く、どうやらタイミングを合わせているものと推測された。
 saiには及ばないものの、かなりの実力者たちだった。
自然とこの二名も注目を集めていくこととなった。
 
 

 
後書き
 第14局、違和感を感じた方も多かったようなので、少し述べさせていただきます。
結論から言うと、「囲碁界の子供は子供ではない」と、私も思っています。
ヒカルの碁の1巻を思い出してください。ヒカルの冗談に本気で怒ったアキラの台詞、とても子供の、小学6年生の台詞とは思えません。ですが、そこまで不自然でしたか?また、院生で言えば、越智がヒカルたちの1歳年下(この作品に当てはめると今年小学6年になります)ですが、彼も大人顔負けの台詞をはきます。
 漫画だからといわれてしまえばそれまでですが、実体験としても、囲碁の強い子供は受け答えがしっかりした、精神年齢の高い子供が多いと感じます。論理性の高い囲碁で脳が鍛えられている影響でしょうか?全国少年少女囲碁大会の優勝メンバーともなれば、大人顔負けの受け答えをします。
 そういうわけで、私はあかりのキャラを設定しています。ヒカルやsaiと毎日のように6年間付き合っていたわけですから。子供は女の子の方が精神年齢が高くなりがちという点を考慮して、アキラと同程度の精神年齢はあるという設定です。もちろん、性格的に普段は子供っぽい面もまだまだありますけど、惚れた相手のためなら女性はたくましくなるのです。
 あくまで私の個人的な解釈ですので、温かく見守っていただけたらと思っています。

誤字修正 形成判断 → 形勢判断
 

 

第16局

― アメリカ ―

先日saiと対局した男性は、今日は友人を自宅に招いていた。

友人は昨年のアメリカ代表になった碁打ち仲間だ。
男性のネット碁の対局を、横から観戦していた。
「これが今の君のライバルのasuか。」
「昨年のアメリカ代表である君の感想は?」
「たいしたものじゃないか。さすが日本人だ。是非一度僕も対局したいね!」

対局は終盤に差し掛かっており、ほぼ互角の展開だった。
「棋力が結構ボクと近いようでね、対局成績も勝ったり負けたりで結構五分五分なんだ。もう一人、akaという人も最近いるんだが、この人はボクより少し強い感じでね、負けの方が多いかな。」
「君と五分なら、僕とも五分ってことだからね。いや、ネット碁に実力者が増えてくれるのは大歓迎だね。」

「今回もかなり細かくなったな…。ちょっと足りないかな。」
「ハハ。なんだかんだいって、アメリカトップクラスの碁打ちがゴロゴロしてるんだもんな、日本は。プロがいる国は一味違うか。」

対局が終了したところ、二目差でasuの勝ちだった。
「残念、今回は負けたか。」
「いや、いい碁だったじゃないか。これは、アメリカ予選もうかうかしていられないな。」
「そりゃ、ボクも今回は狙っているからね。さて、次はと…。おっ!saiが対局しているじゃないか!」

「噂の無敗棋士か…。お手並み拝見といこうじゃないか。」






― 中国 ―

 中国の強豪アマチュア棋士、李臨新(リ・リンシン)、彼もネット碁でsaiに注目する人物の一人だった。
今日も、saiの対局を見つけ、観戦している。

―…やはり、強い。そもそもネット碁とはいえ無敗というのがありえない…。代表クラスだって取りこぼしはあるというのに、saiはその代表クラス相手でも負けていない。

 そう、囲碁の世界で”負け無し”とは本来ありえないことだった。
アマチュアのトップレベルであれば、プロと互角に渡り合える者はいる。
しかし、そのレベルに届くアマチュアは世界的に見てもほんの一握りだ。
そして、トップレベル同士のアマチュアの対局になれば、差は僅差だ。
ほぼ互角の勝負が繰り広げられることとなり、当然勝ったり負けたりとなる。

―saiが時々対局している日本のakaとasuにしても、そこまでの強さじゃない。事実、saiには勝っていない。強いことには間違いないが取りこぼしも多い…。特にasuの方はまだ甘い。

 李は中国のアマチュア代表クラスであり、中国の代表クラスということは、世界トップレベルということを意味する。
その李から見て、akaは日本代表にしてはやや物足りず、asuはもう少し下に見えた。
そして、saiは強さの底が見えなかった。

―saiの力はアマチュアレベルではない。それは間違いない。…しかし、プロがこれほどネット碁を打つものだろうか?

李の疑問は尽きなかった。





― オランダ ―

 今日も先日の囲碁教室で、師匠と呼ばれた人物を少年少女たちが囲んでいた。
やはり、ネット碁を観戦しているようだ。

「観戦者の数が日をおって増えてきたな、皆がsaiに注目しだしている。」

 師匠が漏らした言葉を聞いて、少年が尋ねた。
「師匠、この人はプロなんですか?」
「いや、ちがうだろう。プロがこんなに頻繁にシロウト相手に打つもんか……。プロじゃないんだ。」

―saiの弟子じゃないかと噂されている人物たちのうち、akaとは打つ機会があった。僅差で勝てたが、ほぼ互角だった。そんなakaでも、saiには軽くあしらわれている…。明らかにプロレベルの力を持つのに、プロとは思えないsai…。いったいどんな人物なんだろう。






― 日本 ―

 そして、和谷もまたsaiに注目していた。

今日もまた、ネット碁の中にsaiの名前を見つけ、観戦していた。

―すげぇっ、ホントに何モンだ?コイツ。マジで師匠より強くねーか?

 和谷の師匠はプロ棋士の森下九段だ。

八大タイトルこそ獲得経験はないものの、トップリーグ入りを何度かはたしている、ベテラン棋士だ。

そんな森下師匠よりもsaiは強いのではないかと、和谷は考えていたのだ。

―オレがsaiを初めて見たのは三月半ば。それ以来よくみかけるな…。akaやasuも大体同じ時期に現れたんだよな。それにしても、昼間っからだぜ仕事してねーのかよコイツ。三月…春休み…?まさか!

―子供?











 そして四月。

ヒカルとあかりは、海王中学へ入学した。
 
 

 
後書き
以上、小学生編終了です。
楽しんでいただけたでしょうか。
ここまで連日投稿させていただきましたが、次回の投稿までは若干の時間をいただきたいと思います。
次回より始まる海王中学編、楽しみにしてください。 

 

第17局

「碁は無限なり」


「百万局打ってもわからない」


「答えは……、あるのか?」


「盤上はいまだ深い闇」


「手探りで前へ行くのみ。光明を求めて」


「しがらみを捨てたに過ぎぬ。この身は永遠に十九路の迷宮にある」






「私はまだ、神の一手を極めていない-」















「もうすぐ入学式だって言うのに、最近なんか元気ないなあ、アキラ」
 塔矢家での名人門下が集まっての勉強会、ここしばらく元気のない、塔矢アキラに芦原は声をかけた。

「もうアキラも中学生なんだし、いい加減プロ試験受ければいいのに」
 声をかけられたアキラは、力なく答えた。
「…いえ、僕なんかまだまだですよ。ぜんぜん力が足りません」
 二人の様子を見ていた緒方が口を挟んだ。
「進藤ヒカルに負けたのがそんなに気になっているのかい?」

 口を閉ざすアキラを見て、芦原は目を丸くした。
「え!?進藤ヒカルって誰なんですか?アキラが負けた!?」
「ああ、芦原は聞いてないのか。アキラ君と同学年らしい。碁会所で対局して、見事に打ち負かされたらしい。それからだよな、アキラ君が元気がないのは」

 周囲の注目がアキラに集まるが、アキラは顔を伏せ、何も答えない。
「…いや、驚いたなー。アキラに勝つ子供がいるなんて。プロじゃないんですよね」
「ああ。俺も少し調べてみたが、アマチュアの大会にも出てる様子がない。まったくの無名だな」
「へー。なぁ、アキラ、どんな碁だったんだ?並べてくれよ」

 興味を持った芦原が、アキラに頼む。プロと同レベルのアキラだ。ある程度のレベルの対局は、当然のように覚えているはずだ。
 ましてや負け碁。プロであれば当然何度も打ち直し、研究をする。アキラも同様だ。

「…すみません…」
 アキラは、口数少なく、断った。
「俺も何度か頼んでいるんだけどな、残念ながらアキラ君は並べてくれないんだ。よっぽど悔しかったんだろうな」
「うわー、アキラがそこまで悔しがるってなんか初めてじゃないです?アキラのライバル登場?でも、碁会所で打ったのなら、お客さんで見てた人もいるんじゃないですか?」
「ああ。そのときいた人は全員見ていたらしい。だが、誰もそのときの碁の内容がわからないんだ」
 
 緒方のその言葉に首をひねる芦原。
「誰も?それはまた不思議な話ですね。まぁ、確かにプロレベルの対局であれば碁の内容をつかむのは難しいかもしれませんが、手順を並べるくらいなら、できる人がいてもよさそうですけど…」
 
 囲碁は、アマチュアとプロの間の差がとても大きい。その差ゆえに、一般的なアマチュアレベルでは、プロの対局を見ても、その碁の内容を理解するのはなかなか困難だ。対局によっては、どちらが勝っているのかさえさっぱりわからないものもある。
 しかし、内容の把握はともかく、ただ打たれた碁を並べなおすだけであれば、碁会所のトップの面子であればある程度はできるはず。それゆえの疑問だった。

 その疑問に答えたのは緒方だ。

「一色碁だったらしい。二人とも白石で対局し、アキラ君の中押し負けだったそうだ」
「それはまた、なんと言うか…。小学生同士の一色碁か…、なんか自信なくすな俺…」
「ほんと、見れないのが残念だよ。あの時、藤崎あかりちゃんに見せてもらうんだったと後悔している」
 緒方のその言葉に反応したのはアキラだった。
「え!?藤崎あかり!緒方さん、彼女に会ったんですか!?」

「少し前に、碁会所でね。市河さんが、街で偶然会った彼女を連れてきてくれたそうだ。先生と六子の指導碁で、見事に5目勝ちだったよ。たいしたもんだった。…あの後来ないな。いつでも来てくれと、先生も俺も声をかけたんだがな」

 驚くアキラの様子を眺めながら、緒方が告げた。

「その藤崎あかりちゃんというのは?」
 芦原の質問に緒方が答えた。
「その子もアキラ君と打ってるんだよ。2回ね。1回目は、三子で打って、アキラ君の2目勝ち。2回目は、互先で、アキラ君の15目半勝ち。で、その子はどうも、進藤ヒカルに碁を教えてもらっているらしい。進藤ヒカルの弟子だそうだ」
「その子もたいしたもんですねぇ、アキラ相手にそこまでの勝負になるんだ。どんな内容だったんです?」
「どちらも立派な碁だったよ。アキラ君も本気のね」

 その緒方の言葉を聞いて、アキラの父である塔矢行洋も口を挟んだ。

「確かに立派な子だった。子供ながらにしっかりとした碁を打った。機会があれば、また打ってみたいものだ。彼女の師匠とやらの、進藤ヒカル君ともな」

「先生相手にそこまで打てるんですか…。実質先生と五子の差だとすると…、その子でアマトップレベル?で、進藤君とやらはその子よりも上なんですよね?まいったな、ほんとにプロレベルなんですか…。プロレベルのアマチュアか…。まるでsaiだな…」

 芦原が思わずつぶやいたその言葉に、緒方は興味を引かれた。
「sai?誰だそれは?」
「ああ、最近ネット碁で話題になっているんですよ。突然現れて、負けなし。全対局で勝利しているんです。噂では、プロも負けてるとか」
「ほう、それはすごいな、無敗か」
「ええ。どこのプロだろうって噂だったんですが、あまりにも頻繁に打つんですよ。それも相手を選ばず。だから、こんなに頻繁に打つプロなんているわけないけど、じゃあ誰なんだって」

 部屋の隅に置いてあるパソコンを眺めながら、緒方はアキラに声をかけた。
「アキラ君はインターネット囲碁をやったことは?」
「関西のプロの方とやったことはあります」
 
 そういいながら、アキラはパソコンを立ち上げた。今の芦原の話に、なぜか興味を引かれていた。
「かなり頻繁に打ってるらしいから、いないかなー。あ、アルファベットの小文字でsaiね」
それを聞いてアキラは対戦者の名前を探した。

「いた」
「お、いたいた、sai。なんだ、対局はしてないか。最近申し込みがすごい多いみたいで、なかなか対局できないって話なんですよね」

 そんなことをいいながら、みんなで画面を覗き込んでいた時だった。

「あ!saiが、対局を申し込んできた!」 
 

 
後書き
誤字修正 互い戦 → 互先 

 

第18局

「聞いたか?」
「聞いた。塔矢アキラがウチに入学したらしいな」

「校長が塔矢に言ったらしいよ。君が入ってくれれば囲碁部の皆にもいい刺激になるでしょうとかなんとか」
「ホントか?」
「プロ級の腕なんだろ?学校の囲碁部なんかに入ってどうするんだよ」
「たまんねーな」

「選手枠、確実にひとつ取られるぜ」
「でも、院生って大会出られないいんだろ?」
「塔矢アキラは、院生じゃないぜ」
「えっ!そうなんだ。プロレベルっていうから、てっきり院生なのかと思ってた」
「じゃ、何でアマの大会に出てこないんだ?」

「なんか聞いた話だと、『自分が出るとほかの子がやる気をなくす』とか言ってるって」
「なんだそれ、マジ!?」
「もし入ってきたら、選手枠確実にひとつ取られるぜ」
「団体戦は?1年の塔矢が大将?」
「まさか、だって、部長の岸本さんはどうなる?」
「3年生全員黙っちゃいないだろ」



 名門海王中学校囲碁部、入学式直後の光景だった。
 塔矢アキラの噂は以前からアマチュア達の中ではなされていたが、それがここにきて、問題となりつつあった。
 誰もが、自分達と異なる異質な存在をすんなりと受け入れることができるわけではなかった。
 ましてや、一流進学校の学生とはいえど、まだまだ中学生の子供達の世界だ。
 少ない情報からのあやふやな噂は、すぐにでも明確な拒絶対象へと変わっていった。
 特に男子達の間では。
 自分達を脅かすものとして。


「でも、あっさり断ったって話もあるぜ」
「院生すらぬるいってことだろ?中学校の囲碁部なんかメじゃないんだろ」
「なんか、女子達はキャーキャー言ってたけどよ。結構なイケメンらしいぜ」

「ケッ!」


「冗談じゃないぜ!」







 

 ヒカルとあかりの入学式も無事に終わり、ヒカル達の新しい中学校生活はスタートを切った。
中学校の真新しい制服に身を包み、気分も新たに二人の新しい門出だった。
 
 ヒカルとあかりは偶然にも同じクラスとなった。
また、塔矢アキラはどうやら違うクラスとなったようで、まだ学校では顔を合わせていなかった。
 これは別に、ヒカルがわざと避けたり逃げていたわけではなく、ただの偶然だ。
ヒカルはもう、塔矢とのかかわりは、流れにすべてを任せるつもりだった。
だから、たまたま会う機会がないだけだった。
 もっとも、ヒカルのほうから積極的に顔を合わせるつもりもないのだったが。

 海王中学入学が決まった際、二人には、二人以上に喜んでいたそれぞれの家族から、大きな入学祝があった。
 パソコンだ。
 今後の勉強に役立つだろうと、それぞれの自室にインターネット環境とともに設置された。

 それによって、ヒカルは以前より早くネット碁に取り組むことが可能になっていた。
 以前の経験から、佐為の対局相手を探すのに最適だと分かっていたのだが、ヒカル達のお小遣いでは、ネットカフェ等に通うのは無理があったため諦めていた。だが、自室でできるとなれば話は別だ。
 春休みの間、思う存分佐為に打たせていた。
 ヒカル自身はネット碁を打つことはなかった。
身バレの可能性を減らしたいというのも理由のひとつだが、一番の理由はヒカルにとっての一番対局したい相手は佐為だったからだ。
 自分はほかの相手とは、その気になればいつでも打てる。
 今は、一局でも多く佐為と打ちたかった。
 以前、ネットで話題になったことが少し気になったが、もう気にしないことにしていた。せっかくの海王中学の入学祝なのだ。有効に利用しなくては、と。
 もっとも、もうすでに話題になっていることにはまだ気がついていなかったが。

 しかし、さすがに中学校が始まったため、ネット碁の利用は入学前に比べると、かなり減っていた。

 二人は特に部活にも入らず、学校が終わるとまずヒカルの家へ向かった。
 そして、今までと同様、宿題を終わらせた後に対局。そのため、自然とネット碁はあかりが自宅に帰った後となった。

 そうなると、時間的な制約もあり、あかりと奈瀬と、1日おきに1局ずつ。さらに、時間がある時だけ、1・2局打つ程度だ。対局以外にも囲碁の勉強の時間は必要だったので、あかりと奈瀬以外とは打たない日がむしろ多かった。
 
 極端に減ったsaiとの対局機会に、世界中のネット碁ファンが嘆いていたのだが、チャットが苦手なヒカルはまったく気がついていなかった。

 また、週末の図書館通いも続ける予定だ。小学生のころよりやや増えたとはいえ、中学生のお小遣いでは囲碁の雑誌や本を購入するのはなかなか厳しいのだ。最新のプロの棋譜の勉強のためにも、図書館通いは必要だった。

 ただ、今月から2週間に1度程度、奈瀬の院生がない土曜に直接指導する約束になっていた。
 あの日以来、奈瀬は佐為の扇子を見ることはなかった。佐為の声も聞こえずじまいだ。
 結局なぜあの日、佐為の扇子を奈瀬が見れたのかはまったく分からなかった。

 家の距離が少しあるため、頻繁に通うのには無理があったが、幸いなことに、ネットでの環境が整った。
 ただ、ネットで対局するのはいつも佐為なので、是非ヒカルとも、との奈瀬熱望だった。

 その場所をどうするかが、今ヒカルを悩ませていた。


「ね、ヒカル、今度の土曜、奈瀬さんと会う場所はどうするか決まったの?」
「いやー、どうしたもんかなー。奈瀬は俺んちに来るって言ってるけど、毎回そうするのもなぁ。あっちも金かかるだろうし…」

 ヒカルの家に奈瀬が来ると聞いて、あかりは微妙な表情になった。
奈瀬自身はヒカルの碁だけに興味を持っているようではあったが、それでもやはり気になってしまうのだ。

「…ねぇ、ヒカル、私も一緒していいんだよね?」
「ああ、もちろん。あかりの勉強にもなるだろ?図書館は日曜にいけばいいしな」

 少し複雑な表情をしているあかりの様子にはまったく気づかず、ヒカルは屈託なく答えた。

「ただなー、もっといい場所があればいいんだけどなぁ。碁会所とかなら2面使えるけど、うちじゃそうも行かないからなぁ」

 そう、ヒカルの家には碁盤が一つしかない。二つあれば2面打ちでの指導も可能なだけに、ちょっと残念だった。

「なら、その日は私が家から持って来ようか?」
「ああ、あのおもちゃのがあるか…。ま、そうするしかないかなぁ」

-奈瀬も着実に力をつけてきていますからね。ヒカル、しっかり指導してあげてくださいね。
「わかってるって。まぁ、2週に1度で勘弁してもらうけどな。約束した以上、きちんと指導するさ。奈瀬がどこまで上達するのかも興味あるしな」

 以前のヒカルが奈瀬と初めて会ったのは中学1年の院生に入ってからだ。その当時と比べても、今の奈瀬は少し強くなっているように感じた。間違いなく、ヒカル達との出会いの影響だろう。

 自分の存在が、以前と異なる出来事を生み出しているこの事実。
 そのことが気にならないといえば、嘘になる。
 先々のことを考えれば、、また起きるかもしれない別れが、とても怖くもあった。

 ただ、今のヒカルは、とても幸せだった。
 佐為がいて、佐為と碁を打てる。
 佐為と一緒に、神の一手を目指して碁を打てる。

 
 それが何よりも嬉しかった。 

 

第19局

 ネットでのsaiと塔矢アキラの対局は、序盤の布石を終え、中盤に差し掛かっていた。アキラの表情は真剣そのものだった。

-強い!進藤に敗れた時以上に高い壁を感じる!これは…、進藤ではない!?

 パソコンの画面に、研究会に来ていたほかのプロ達の視線もまた集中し、その内容に驚愕していた。

「ちょっとこっちに並べてみよう」

 そう緒方は声を掛け、碁盤に二人の対局を並べはじめた。

「なるほど、これがsaiか」
「これだけ打てるのなら、騒ぎにもなりますよね」

 まさに、噂に恥じない、プロレベルと言っていい対局だった。


 対局は、アキラが明らかにsaiに押されていた。だが、アキラとしても、このままsaiの思うがままに打たせるわけにもいかない。

-この一手で白の眼形をおびやかす!
 
 アキラは自身の気持ちを奮い立たせるように気合を入れて、勝負手を放った。
しかし、次の瞬間、アキラは背中に冷や汗を感じた。saiはその勝負手をもあっさりとかわしたのだ。

 その時だった。アキラはsaiのその着手に、既視感を感じた。
 
 そう、忘れもしない。進藤ヒカルとのあの対局が、アキラの脳裏に思い起こされた。


-今のは…、まさか!

-この強さ。ネットの強兵達を次々と蹴散らしたと聞くこの強さは、確かに以前の彼と似ている。

-だが…、進藤ではないと強く感じるのも、間違いない…。


 先ほどのアキラの勝負手をきっかけに、saiの白石が、アキラの中央の黒石を逆に攻め立てはじめた。アキラの表情が硬くなる。


-形勢は…、まだ戦えるのに…。か…、勝てる気がしない…。

-しまった!左辺の白の頭を叩くのが遅れた!

-これでは!中央と左、両方しのぐのは苦しい!

 しばらくして、アキラの手が止まった。


-中央の黒には…、もう生きがない…。なんとかしのいだ左辺もかろうじて生きただけに過ぎない…。


 アキラは投了した。


 後ろでは、真剣な表情で緒方たちが盤面を見ていた。

「塔矢アキラが手玉にとられるとはな」
「いや、これアキラはしっかり打ててますって。大事なところでしっかり考えてるし、力強い打ち筋だし…」

 緒方の言葉に、芦原が反論するものの、その言葉にも力がなかった。

「アキラ君の手が悪かったとは言っていないさ。俺とてはたしてどうか…。皆が騒ぐのも無理はない」


 塔矢行洋もまた、真剣な表情で盤面を眺めていた。

「力のほどはうかがえる。だが、この一局は、アキラの読みの甘さが敗因」

 行洋はそういいながら、中盤に打たれたアキラの勝負手まで盤面を戻した。
 アキラを含めた周囲の視線が集中した。

「ここでの勝負手は明らかに失着だった。この白は一見するほど弱くはない」

 さらに数手盤面を戻した。

「私ならこの時点で上からかぶせる。上辺の石を捨石にして、左辺を盛り上げながら中央で戦っていけば、まだ息は長かった」

「なるほど…」
「…さすが先生」

「しかし、アマとは信じられませんね、先生。まぁ、こんなところにプロがウロウロしてるというのも確かに変ですが」

 緒方の言葉を受けて、芦原が続けた。

「JPN(日本)とありますが、どこまでホントでしょうねー。とにかく、インターネットは闇の中ですからねぇー」

「しかし、子供ではない」

 緒方は断言した。

「子供の打ち方は粗い。どんなに素質がある子でもミスが出る。だが、saiの打ち方はどうだ。この練達さは。まさに、長久の歳月を思わせる!」

 その言葉に、周囲は沈黙に包まれる。明らかにプロレベルの力を持つ、謎の人物、sai。果たして自分はこの相手に勝つことが出来るのかと、各自が自問した。
 
 
 そして、その沈黙を破るために、最初に動いたのはアキラだった。

 空いていた碁盤の前に座り、さらに隣から一つ碁笥を取ると、声を掛けた。


「今からある一色碁を並べます。皆さんの意見を聞かせてください」

 アキラはゆっくりと石を打ち始めた。
 あたかも今、勝負をしているかのような、真剣な表情で。

 アキラの言葉に驚きつつも、周囲のプロ達も盤面に集中した。
たとえプロとはいえ、一色碁となると少し気を抜くだけで碁がわからなくなってしまうのだ。

 だが、進んでいく盤面に、思わずうなり声が上がる。

「これって、さっき話しに上がったやつですよね…?」
「うわー、俺こんなの打てるかな…」

 行洋もまた腕を組み、厳しい表情で盤上を見つめていた。
アキラが打つ、白の石音が続く。


 最後に中央への覗きを打ち、アキラが手を止めた。

「ここで僕が投了です」


 しばらく、沈黙があたりを支配した。今並べられた一色碁。
これは、明らかに、先ほど話になった、アキラ君と進藤ヒカルとやらの対局だろう。

 だが、しかし、本当に子供にこれだけの碁が打てるのだろうか。


 芦原が沈黙を破った。

「最後のこの手はシビレますね。ここにきての切断ですか…。まったく読めてなかった…」
「ここまで打てる子供がいるんですか。たいしたものですね。ですが…、saiともまた違うような…」

 緒方が言葉を続けた。

「確かに、一色碁というのを差し引いても、saiの碁とは印象が異なる。しかし、ここまで強いアマがごろごろしてるって言うのもまた違和感を感じるな…」
「そうですよねえ…」


「まあ、いい…」
 行洋の言葉に、皆の視線が集まった

「saiや進藤君がこれほどの打ち手であるのなら、遅かれ早かれ、いずれは我々プロの前に現れることになる」

「であれば、我々のすることはただひとつ。プロとして、その日を待ち受けるだけだ。彼ら以上の腕をもって」


「そうですね、いかに強いとは言え、我々プロが早々アマチュア相手に負けるわけにもいかない。そうだな、芦原!」
「何でそこで僕に話を振るんですか、緒方さん!分かってますよ、僕だってプロなんですから!」
「アキラ君に時々負けてるお前が、威張って言える台詞じゃないな」
「あ!そこでアキラを引き合いに出しますか!緒方さんだって、アキラが相手じゃ全勝ってわけじゃないじゃないですか!」
「俺のは指導碁だからな。お前の真剣勝負と一緒にするな」
「えっ!?いやっ、そのっ、僕だってもちろん指導碁ですよ!!」


 そういって騒ぐ芦原たちを横にして、アキラは先ほどのsaiとの対局を思い返していた。
 
 胸の奥から湧き上がる、焦燥のようなほのかな疑念とともに。
 
 

 
後書き
誤字修正 眼系 → 眼形 

 

第20局

「さて、今日の授業もおわりっと。あかり、帰ろうぜ」
「あ、待ってよ、ヒカルっ!」
 
 今日も、何事もなく中学での1日が終わろうとしていた。
ようやく家に帰って碁が打てると、ヒカルの気分は浮かれてきていた。いつものヒカルだった。
 遅れているあかりを待つためのんびり廊下でたたずんでいたヒカルは、塔矢アキラの後姿を見かけた。そういえば、と、声をかけた。

「塔矢、親父さんおめでとうなっ!」
「え?」

 突然声をかけられたアキラは、何気なく振り向いて、固まった。

「え、じゃなくて、4つ目のタイトルだよ。十段獲得。これで、名人、天元、碁聖とあわせて四冠だもんな、さすがだな!」
「あ、ああ…。ありがとう…。」

 突然の遭遇に、アキラはまだ固まっていた。

「なんだ、意外とそっけない息子だな。でも、やっぱりお前の親父さんはたいしたもんだよなー」

-いえ、そっけないというか、混乱してるだけだと思いますけど…
 あっけらかんとしているヒカルの様子に、ちょっとあきれる佐為。

「ヒカルお待たせー!さ、帰ろ!あ、アキラ君!!…こ、こんにちは…」
 
 ヒカルに合流しようと廊下に出てきたあかりは、アキラが一緒にいることに戸惑った。
そっと佐為に目を向けるが、佐為はただ首を振るだけだった。

「あかり、遅いぞ。んじゃ、帰るか。またな、塔矢!」
「さ、さようなら」

 あかりが来たのを見て、あっさりと帰り始めたヒカル。なんとなく気まずい思いを抱えつつも、アキラに軽く挨拶をして、ヒカルを追っていくあかり。


「…あ、え、ああ、さ、さような…らじゃない!ちょっとまて、進藤、何でお前がここにいるんだっ!」

 ようやく再起動したアキラは、帰ろうとしていたヒカルの肩を抑えながら声を荒げた。

「え?何でっていっても…。ここ、オレの学校だから?」

 突然様子が変わったアキラの様子に戸惑いつつも、ヒカルは答えた。

-…やっぱりこうなりますよねえ…。
「…まったく、ヒカルったら…。」

 二人の喧騒を横に見つつ、あかりと佐為はうなだれていた。


 

「まさか、君たち二人と同じ学校だったなんて、思ってもいなかったよ…。知っていたなら、もっと早く声をかけてくれればよかったのに」
「えっ!イヤー、オレ達もお前が一緒だなんて知らなかったからさ、ハハハ!」
-なんとまあ、しらじらしい。ヒカル、ホントとぼけるのになれてきましたねー。
-おまえのせいだ、おまえの!

 アキラの混乱が収まるまでには若干の時間を要した。

あの、進藤ヒカルと藤崎あかりが同じ学校の同学年だった。
自分を打ちのめした相手。そして、自分が追いつかなくてはいけない相手。

 それが、こんなにもすぐそばにいた。


 最近ずっとくすぶっていた自分の心が、何かあっさりと晴れていくように感じた。
 いったい自分は何を悩んで何を迷っていたんだ。
 自分は碁打ちだ。
 碁打ちならすることは1つしかないじゃないか!

 状況を理解すると、アキラの目には力強い輝きがともりだした。

「進藤、今からボクと打ってくれないか!」
「えー、オレ達は帰るとこなんだよ」
「そう言わずに、頼むっ!是非、ボクと打ってくれ!」

-…まぁ当然こうなりますよねぇ…。
-…ほんと、塔矢君が碁を辞めちゃうんじゃなんて、ぜんぜん余計な心配だった見たいね…。

 必死なアキラと、困惑しつつもさっさと帰りたがっているヒカルを横目に、佐為とあかりは視線で会話を交わしていた。

「今から打つったって、囲碁の道具なんか持ち歩いてないぞ!また今度打ってやるって」
「なら、お父さんの碁会所に行こう!」
「いや、あそこ、オレ達の家と帰る方向が違うんだよなぁ。お金もかかるしさぁ」
「もちろん、席料なんかいらないさ、頼む!」

-塔矢君ってもっとクールなタイプかと思ってたんだけど…、結構熱血少年だったんだぁ。
 あかりはそんなことを考えながら、二人の様子を眺めていた。ヒカルは明らかにさっさと帰りたがっているが、どうやらそれではすみそうにもなかった。


「君たち、良かったら場所を提供しようか?」

 そこに、横から声がかかった。

「3人とも初めましてになるかな。私は(ユン)。囲碁部の顧問をしている。君は塔矢アキラ君だね。通りすがりだったんだが、君たちの会話に興味を惹かれてね」

 声をかけてきたのは30代程だろうか、長身の細身の男性教諭、(ユン)だった。
 
 彼は校長から塔矢名人の息子である塔矢アキラが入学してきていることは聞いていたが、同時に囲碁部の入部に関しては断られていることも聞いていた。
 塔矢名人の口から直接、息子の腕前を聞いていた校長は、彼の入部による囲碁部のレベルアップを期待していたのだが、その目論見は早くも頓挫していた。
 非常に残念ではあったが、彼が噂通りにプロ級の腕を持っているとなれば、逆に当然のことでもあった。
 塔矢アキラにとっては、中学の囲碁部には何も期待できないであろう。
 
 しかし、機会があれば塔矢アキラの碁を見てみたいと思っていた(ユン)としては、今回の遭遇はまさに、予想外のうれしい出来事といえた。

「えーと、それで君たちは」
「あ、1年の進藤ヒカルです」
「同じく、藤崎あかりです」
「進藤君に藤崎さんか、君たちも碁を打つみたいだね」
「ええ、まあ」

 突然現れた(ユン)に驚きつつも、ヒカルは答えた。

「私は韓国で教師をしながら、子供たちに囲碁を教えていたんだよ。縁あって日本にくることになってね。こちらでも、子供たちに囲碁を教えている。海王に来たのは去年からでね。ここの部員たちは、韓国と比べても遜色がないレベルだ。それだけに塔矢君、君が入部しないと知ったときは残念だったよ」
「あ、すみません」
「まあ、仕方がないさ。それなりのレベルではあるが、それなりのレベルでしかないともいえる。それだけに、君たちの話を聞いて驚いたのさ。どうやら進藤君は、塔矢君がぜひとも対局したい相手のようだからね」

-あー、めんどくさいことになったなー
-もうこれは、あきらめて打つしかないのではないですか?まったく打つ気がないわけではないのでしょう?
-んー…

「場所を貸していただけるのですか?」

 (ユン)の言葉にアキラの声には勢いがついた。

「ああ、ただ、今は部活中だ。本来であれば今日は私の講義の予定だったんだ。だから、場所を提供する代わりに、君たちの対局を私が大盤で部員の皆に解説しようと思うのだが、それでも構わないだろうか?それだけの価値のある碁になると思っていいのだろう?」
「ボクは構いませんっ!…恥ずかしくない碁にして見せます!」
 
 表情を輝かせるアキラに、ヒカルはついにあきらめた。

「はぁ…、ほんと強引だよなお前は…。分かったよ。でも1局だけだぞ。あんまり遅くなるのはいやだから、検討も簡単にしかしないからな」
「!!ああ、ありがとう、進藤!」

「さてと、ごめんな、あかり、ちょっと遅くなるわ。あかりはどうする?」
「私も一緒に行っていいのかな?」
「もちろん構わないよ。一緒に二人の対局を見ようじゃないか」
「なら、私もお邪魔します。よろしくおねがいします」
「よし、じゃあいこうか。こっちだよ。もう皆そろっているはずだ」

 (ユン)を先頭に、皆で歩き出した。


-ま、こうなったら塔矢との対局を楽しむか。こいつも強くなっているだろうしな!
 
 塔矢アキラとの改めての出会いと、突然決まった中学での初対局。

 廊下を歩きながら、ようやくヒカルにもやる気が出てきていた。

 
 

 
後書き
訂正 噂どうり →噂通り 

 

第21局

 (ユン)の案内で対局室の中に入ったあかりは、びっくりしていた。

-うわっ!こんなに人がいるんだ!それに碁盤もいっぱい!

 教室の中一面に長机が整然と並べられ、碁盤がびっしりと置かれていた。
 ざっと見たところ、5~60人近くはいるだろうか。大勢の部員が碁盤に向かい合い、対局していた。

-こんなに部員がいるんだ!それにみんなほんとに真剣な表情!なんか、私が緊張しちゃう!
 
 対局室の様子に驚くあかりに、同じように興奮していた佐為が声をかけた。

-すごいすごい子供がいっぱい!千年前の私の囲碁への情熱も、今ここにいる子供たちの熱気も同じです。

 驚く二人の様子を見ながら、ヒカルは思っていた。
 今まで基本ずっと家での対局だったから、やはりあかりには経験が足りない。
 ネット碁で、ヒカルや佐為以外の人との対局も増えてきてはいるが、やはり直接向かい合っての対局となると、また別物だ。

-あかりの今後のことを考えると、何か考えないといけないよな…。

 そんなヒカルの思いをよそに、話は進んでいた。


「みんなそろってるな。今日は講義予定だったが、急遽ゲストが来てくれることになったので、予定変更だ。皆、盤上を片付けながら聞いてくれ。今から、皆に彼らの対局を見てもらおうと思う。1年の、塔矢アキラ君と進藤ヒカル君だ。彼らの対局に場所を貸すことになった。塔矢君のことは皆聞いているだろう?すでにプロ並みの力があるそうだ。彼の碁を見ることは、皆にとってもいい勉強になると思う。塔矢君、進藤君、そこの手前の席でいいかな。藤崎さんはその隣で。皆が見えるように、私が彼らの対局を大盤に並べて、簡単に解説しようと思う。せっかく同じ学校の仲間になったんだ。彼らの力を見せてもらおう」

 (ユン)の言葉に、室内がざわめいた。

「あれが塔矢アキラか」
「とうとう囲碁部にきやがったか」
「相手は、進藤?だれだ?」
「進藤?知らないなぁ」

「では、準備が出来たらはじめてくれて構わないよ」
 
 その言葉を受けて、席に着いたヒカルとアキラは改めて視線を合わせた。

「それじゃ、はじめるか」
「ああ」
「じゃあ、にぎるか」
「…いや、二子でいいだろうか?」
 
 握ろうと手を進めていたヒカルは、アキラの言葉に驚いた。まさかこいつが置石を求めてくるとは…。

-さすがに互先ではかわいそうですよ、ヒカル。以前のことはいざ知らず、先日の対局のことを考えても当然のことです。
-…まぁ、そりゃそうなんだけどさ。塔矢相手に置石なんて考えてもいなかったからな…。でも、客観的に見てどうだ?二子で適正か?
-先日のままと見ると、二子では荷が重いでしょうね…。ただ、それはあちらも承知の上でしょう。承知の上で挑んできているのですよ。
-…なるほどな…。

「二子でいいんだな?」
「ああ、二子でお願いする」

「塔矢アキラ相手に二子?」
「あいつ、そこまで強いの?」
「え?プロ級相手に二子って、勝負になるの?」

 
 ざわめく周囲の声をよそに、アキラは黒の碁笥を手に取る
その手はかすかに震えていた。

 その、アキラの様子に気がついたのは、ヒカルと佐為だけだった。
ヒカルは、以前のときの様子が思い浮かんだ。

-あの時もあいつはこうして向かってきたんだよな…
-ヒカル?
-…なんでもない。

 
 アキラはゆっくりと、盤上に二子を並べた。

 その様子を見ていた(ユン)と近くの席の部員たちは愕然としていた。
 (ユン)は校長からの話から、塔矢の腕前を聞いていたので、当然塔矢のほうが上手だと思っていた。塔矢の噂を聞いていた部員たちも同様だ。
まさか、噂の塔矢アキラが、同じ学生相手に置石を置くとは思ってもいなかった。
 てっきり、進藤ヒカルが石を置くと思っていたのだ。

 それは、囲碁部部長の岸本も同様だった。

 彼は今でこそ囲碁部で、その実力により部長の座についている。
 だが、以前、彼は院生として、プロを目指し、プロの予備軍たちとその腕を競い合っていた。
 しかし、彼はその院生の中で上位に上がれず、自分の力に見切りをつけ、プロへの夢をあきらめていた。
だからこそ彼には、プロの力というものが、他の部員たちよりも実感として分かっていた。

 プロ予備軍の院生でさえ、その上位クラスにはこの囲碁部のトップである自分でも歯が立たない。
 
 そして、その院生以上の腕を持つといわれる塔矢アキラが、今、自分の目の前で二子を置いている。

 まさに、信じられない光景だった。


「おい!塔矢が黒だ!」
「塔矢アキラが二子置いてるぞ!」

 
 新たなざわめきが、部屋の中で広がっていった。


 あかりから見れば当然のことだった。
ヒカルと塔矢アキラでは、実力の差は明らかだ。
であれば、塔矢が置石を置くのも当然だった。
 周囲のざわめきの中に聞こえる陰口のような声は若干気になったが、二人の対局に集中することにした。


「お願いします」「お願いします!」


 ざわめく周囲の空気をよそに、二人の対局は始まった。





 序盤の布石を終えたところで、ヒカルの手が止まった。

 盤面を見つつ、深く考えている。
 
 布石の時点では互角。最初の置石の分、いまだアキラがリードしていた。
 
 大盤に並べながら、(ユン)は二人の実力を確認し、驚いていた。
 
 まだ布石だけではあるが、二人の指す石はまさにプロレベルといって遜色がないものと思われた。
 一切の悪手も疑問手も見られない、綺麗な碁だ。


「…少しは成長しただろうか、ボクは」

 ふと、アキラがヒカルに声をかけた。真剣なまなざしで、ヒカルを見つめる。
 視線を合わせたヒカルは、軽く口元をほころばせながら答えた。

「…ああ。なんたってお前は、オレのライバルだからな!」

 そして、石音高く、まだ両者の手がついていない中央付近に白石を打ち付けた。



「さて、ここまでは穏やかに進行していたが…、ここで進藤君が仕掛けてきたかな…。ここまでの布石、何か質問は?」
 
 (ユン)の声に、手が挙がった。

「日高か、なんだ?」
 指名とともに立ち上がったのは、気の強そうな女子生徒だった。

「右下の黒の形なのですが、定石と比べてヒラキが高い位置になっています。もともと、その定石は白の地に対して黒が厚みをとるものだと思うのですが、その黒のヒラキの位置では隙間が開きすぎているように思うのですが。せっかくの厚みにあっさり入られてしまうように思うのですが?」
「なるほど。たしかにそうだな、定石ではこの位置にヒラクが、実戦ではここだ。定石より二線高い位置だね。岸本、どう思う?」
 
 指名された岸本が立ち上がり、意見を述べる。

「もともとの置石を活用しようとしての手だと思われます。左下隅には最初の置石がある。それを生かすための、その位置かと」
「でも、いくらなんでも高すぎじゃない?下辺はスカスカよ?」
「だが、実戦も白は下辺に踏み込んできていない。中央に手がついた」
「うーん…、むずかしいわね…」

「そうだな、藤崎さんはどう思うかな?」

 (ユン)は続けて、隣で見ているあかりに声をかけた。

「あ、はい。えーと、岸本さんでしたっけ、彼の言うとおりだと思います。付け加えると、黒としては、狭い下辺に白に入ってもらって、狭い下辺で小さく生きてもらう。生きる白を攻めながら、中央に大きな地を作ろうとしているのだと。その黒の意図を読んだ白が、先に中央に手をつけたのだと思います。下辺が全部黒地になれば確かに大きいですが、どの道下辺すべてを黒字にするのは無理だと白は見ていると思います。むしろ大きく囲わせてから、後で荒らそうとしているのかな」

 あかりは、二人の対局に集中しながら、なんとなく盤面から読み取ったことを述べた。

「…なるほど、ありがとう。どうかな日高?」
「…了解しました。続きを見させてもらいます」

 あかりのしっかりとした受け答えに、この子もまたかなりの実力だと(ユン)は気がついた。
この局面までの二人の石の意図を、彼女はしっかりと見抜いているのだと。



 ヒカルは中央への着手を数手でいったん止めると、下辺に深く踏み込んできた。
その、あからさまな着手にアキラは戸惑った。

-これは…?一瞬ハッとしたが…、これじゃあまりに…。それとも何かあるのか?

「…さて、ここまで打って、進藤君が下辺に打ち込んできたね。これはさすがに難しそうに見えるが…」

「いくらなんでも入りすぎだろ?」
「これ、中央の石どうするんだよ」
「もう無理じゃね?」


 さらに着手が進んでいくと、教室の中は沈黙が支配していった。
いつの間にか白石が各所で黒を分断し始めていた。しかし、その白もまた、各所が薄い。
(ユン)もすでに着手を並べるだけで解説の声は止まっていた。
止まっていたというよりも、出来なかった。もはや、彼の理解できる内容を越えていたのだ。
中学生たちに理解しろというほうが無理だった。

 二人の戦いについていけたのは、佐為は当然として、この場ではあかりだけだった。
もっとも、あかりとしてもついていくだけで精一杯ではあったが。

 

 激しい戦いを制したのはヒカルだった。
 中央から下辺にかけて、黒石はつぶされた。


「…ありません」

 アキラはつぶやいた。それを受けてヒカルは大きく息を吐いた。

「ありがとうございました」

 
 アキラは顔を上げて、ヒカルを見つめた。
 アキラの目は、迷いが吹っ切れ、澄み切っていた。

「君の力、改めて思い知らされたよ。君の碁を見れば、君がどれだけ碁に打ち込んでいるのかもよくわかるよ…。さっき、君は言ったね、ボクが君のライバルだと。その言葉、今も同じかい?」
「ああ、もちろんさ。お前はオレのライバルさ」

 じっとヒカルを見つめていたアキラは、ふっと笑顔になった。

「なら、ボクはもっと精進するよ。君のライバルとして、その言葉にふさわしいだけの力をつけてみせる。必ず君に追いついてみせる!」
「ああ。期待してるぜ!」

 ヒカルとアキラの中学での初対局は、こうして幕を下ろした。
 

 

第22局

 奈瀬明日美は、伸び悩んでいた自分の棋力が、最近になって、少しずつ向上しているのを実感していた。

 院生での対局成績も好調で、順位も少しずつだが、上がりつつある。

 
 
 これは間違いなく、進藤ヒカル達との出会いのおかげだ。

 ヒカルとの対局で、ひとつの殻のようなものを破れた気がする。

 肝心のヒカルとの対局こそなかなかできないものの、彼との出会いが、自分の碁を少し前進させたような感じがあった。

 
 そして、ヒカル達がネットを使えるようになってからは、あかりや佐為と毎日のように対局した。
 
 あかりの実力は、院生トップに匹敵する。

 そして、佐為の実力は言うまでもない。
 
 二人との対局は、たとえそれがネット碁であっても、間違いなく自分にとって糧となっていた。
 


 そして、今日は久しぶりにヒカル君と会えるはずの、約束の日だった。

 数日前から今日のことがずっと楽しみで仕方なかった。
 
 
 
 ヒカル君と打てるなら、場所なんかどこでもよかった。
 
 どこにでも行くつもりだったし、実際どこにでも行くよと確かに言った。

 
 
 …確かに言ったのは間違いない。

 …でも、いくらなんでもこれはおかしいんじゃないだろうか?

 
 
 
 そりゃ、自分だって一応はプロを目指している院生だ。

 当然、プロとの対局経験だってあった。

 
 でも、それにしたって、これって、ありえなくない?

 


-待ち合わせの場所が、ヒカル君の家でもなく、私の家の近くでもない時点で少し疑問に思うべきだった…。



 






-何で今、私は、塔矢行洋先生の家で、先生に打ってもらってるの?





 
 
 







 
 先日のアキラとの再会で、ヒカルはアキラと時々対局することを約束させられていた。
 あくまでも、”たまになら”という条件で、ヒカルは了承した。
 
 そして、今週末は名人が在宅のため、ぜひ家に来てほしいと誘われたのだった。

 
 最初は、奈瀬との約束があったために、用事があると断ったのだが、その用事の内容を聞いたアキラはさらに踏み込んできた。
 うちに集まって打てばいいじゃないか、と。

「…うーん」
-ヒカルっ!せっかくなのですから、お邪魔しましょうよ!あの者とあえるのですよ!

 塔矢行洋名人に会いたがっていた佐為はそういってヒカルの後ろで大騒ぎをしていた。
以前の事をヒカルから聞いていたこともあるが、今までにも塔矢行洋の棋譜はいくつも検討してきた。
 まさに、今最も実力のあるプロ棋士の一人として、佐為の興味もひとしおなのだ。

-…まったくお気楽な…。いったい誰のせいで苦労していると…。…あ、でも待てよ…。今塔矢先生に会えると…。

 ヒカルは、もしかしたら以前から気になっていたあのことが、何とかできるかもしれないと思いついていた。


「…塔矢。もしも可能なら、頼みたいことがあるんだ」











 約束の日の早朝、ヒカルは塔矢家の玄関前にたたずんでいた。
-ここに、かの者がいるのですね!
 
 佐為は塔矢の家を目にして、ソワソワソワソワとしていた。

-この家に来るのも久しぶりだなぁ。
-ほら、早く行きましょうよ、ヒカル!
-分かってるって。でも、まずは大事な話があるんだから、おとなしくしてろよ!お前が騒ぐと気が散ってしょうがないんだからな!
-もちろん、分かってますって!
-…ほんとだろうな、おい。

 そうしてヒカルは、塔矢家のインターホンを鳴らした。


「進藤おはよう。お父さんが待っているよ」
「ああ、悪いな、塔矢。こんな朝早くから」
「いや、うちはいつも朝早いから大丈夫さ。お父さんも君との対面を楽しみにしてるみたいだし。ただ…、進藤ごめん!どうしても進藤に一緒に会いたいって人がいて、断れなかったんだ…」
「えっ!?」
「進藤のことを話したときにちょうどそばにいてね。自分も一緒に立ち会いたいと。進藤は知っているかな?お父さんの弟子の、緒方さんって言うプロの方なんだけど」

-あー、緒方さんかぁ…。あの人、前も絡んできたんだよなあ…。相変わらずというか、なんというか…。でもまあ、塔矢先生にかかわる以上は、仕方ないかぁ…。緒方さんだけ避けるわけにもいかないか…。

「まぁ、かまわないよ。塔矢も、兄弟子相手に断ったりできるわけないもんな。じゃ、先生に紹介してくれよ」
「…すまないな。こっちだ」


「お父さん、緒方さん、進藤が来たよ。進藤、うちのお父さんと、緒方プロだ」
 客間に案内されたヒカルは、そこで塔矢行洋たちに紹介された。

「どうもはじめまして。進藤ヒカルです。あ、塔矢先生、十段獲得おめでとうございます!」

「はじめまして。そして、ありがとう。君が進藤君か。話に聞いてからずっと会いたかったよ。それに、アキラが世話になったようだね」

 挨拶とともに、ヒカルは行洋と握手を交わした。
 塔矢行洋は、以前と変わりない、厳しく、威厳のある人物だった。

「こちらは緒方精次君。アキラの兄弟子だ。彼も君にぜひ会いたいとのことでね」
「はじめまして、緒方だ。まぁ、塔矢名人ほどの知名度はないから、中学生じゃあ知られていないと思うがね」

 続けて紹介された緒方とも握手を交わしながら、ヒカルは答えた。
 緒方も、相変わらずの、パリッとしたスーツ姿だった。

「そんなことないさ、あ、ないです!リーグ入りしている緒方先生の棋譜、いくつも勉強させてもらっています」

 その言葉を聞いて、緒方の表情が緩む。
 囲碁のプロ棋士とは言えど、世間一般に対する認知度はかなり低い。
 若手でトップクラスの座にいる緒方といえども、まだ世間一般に名が売れているとは言えなかった。
 それゆえの、ちょっとした驚きと喜びだった。

「ほう、それはそれは、うれしいことだ。俺の棋譜も見てくれているとはな。まあ、堅い席じゃないし、言葉遣いはそこまで無理しなくてもいい。気楽にナ」
「あー…、すみません…。どうも敬語って苦手なもんで…」

 そういって頭を掻くヒカルの様子を、緒方は興味深げに眺めた。
-こうしてみると、一見普通の子供に見える。アキラ君と比べても幼い感じがする。…が、眼に力がある…。それに、囲碁のプロのこともそれなりには知っているようだ。アキラ君を倒しただけのことはあるということか…。


「それで、何か私に話があるということだったね。かけたまえ。話とやらを伺おうか」

「あ、はい。それじゃ失礼します。えっとですね。まず、朝早く時間を作っていただいてありがとうございます。それで、率直に言うと、オレ達の後ろ盾のようなものになって欲しいんです。あ、もちろん、俺の腕を認めてもらえたらってことなんですけど」
「…後ろ盾というと?」
「オレは、今すぐではないんですが、プロになるつもりです。ただ、うちは爺ちゃんこそ囲碁好きですが、父さんも母さんも、囲碁のことはまったく知らないんです。そもそも、囲碁にプロがあるってことも知ってるのかな?だから、いきなり囲碁のプロになるって言っても、下手したら本気にされないかもって心配があるんです。オレは院生じゃないから、そのままプロ試験ってわけにも行かないですし」

「…なるほど。院生にはなる気はないのだね?」
「はい。ずうずうしいかもしれませんが、オレは、今すぐにプロになれるだけの力は持っているつもりです。だから、オレは院生になる気はないです。ただ、俺が囲碁を教えている幼馴染がいて、そいつは、院生になったほうがいいかなって思ってます。今日、後で来る、藤崎あかりって子です。あかりの院生への推薦も、あわせてお願いできたらなって、思ってます」

「…ふむ。聞いてると思うが、藤崎君とは先日打つ機会があった。だから、彼女が院生に入りたいというのであれば、推薦はしよう。力は十分にあった。…だが、君の碁はまだアキラに見せてもらったものだけだ。そうだな、返事は一局打ってからにしようか。…だが、いずれ?今すぐプロにならないのには何か理由があるのかね?」
「そ、それは…。それは、打ち終わった後でいいですか?っていうか。あかりと会ったことがあるんですか!?」
「聞いてないのかね?碁会所の市河君が偶然街で会ったようでね、連れて来てくれたことがあったのだよ」
「オレも居合わせたよ。なかなかの碁だったな。プロには物足りないにしても、院生としてはいいところにいくんじゃないか?」

 そう口を挟む緒方を横目に、ヒカルは頭を抱えていた。

-アンニャロー、黙ってやがったな…。
-ヒカル!そんなのどうでもいいではないですかっ!ほら、打ちましょうよっ!早くっ!

「…よかろう。まずは打とうか。それだけの自信があるんだ。互先でいいね?」
「はい。握りますね」

「私が黒だね。では、コミは5目半で。おねがいします」
「おねがいします」

 こうして、アキラと緒方と佐為が見つめる中、ヒカルと行洋の対局は始まった。
 
 

 
後書き
誤字修正 10段 →十段  硬い席 → 堅い席 

 

第23局

 佐為と塔矢アキラ、緒方精次が見つめる中、進藤ヒカルと塔矢行洋の対局が始まった。

 始まって十数手ほど、まだホンの序盤の段階で、ヒカルの手が止まった。
 その表情は険しい。


 アキラは、はじめて見るそのヒカルの表情に驚いていた。今までの自分との対局ではそんな表情は見られなかった。しかも碁は始まってまだホンの序盤。いったい、何をそんなに考えているのだろうか?


 ヒカルはありえない出来事に、内心驚愕していた。
 まだホンの序盤とはいえ、ここまでの手順は間違いない。
 でも、こんなことがありえるのだろうか?

 よりによって、塔矢行洋との初めての対局で、こんなことが…。


-ヒカル、続けましょう。
 そんなヒカルの様子を見て、佐為は声をかけた。

-でも、これ、この碁は、佐為のっ!

 
 そう、ヒカルの驚愕の理由。

 それは、ここまでの展開が、佐為と塔矢行洋の以前の世界でのネット碁での対局、そのままの再現だったからだ。


-これは佐為の碁だっ!オレの碁じゃないっ!そもそも、まったく同じなんてありえないだろっ!


 そう、以前ここではない世界で起きた、佐為が熱望し、ほんの偶然がきっかけで実現した、塔矢行洋とのネット碁、そのものだった。
 

 偶然行洋は今回も黒を持ち、ヒカルは佐為が持った白を持った。
 そして、気がついたときには、まったく同じ進行になっていた。


-どうしよう、オレ、自分の力を見せるって言ったのに、これじゃあっ!
-ヒカル、落ち着いて。別にここから手順を変えてもいいのですよ?

-…それは分かる。分かってる。…でも、…でもさ。この碁はさ、佐為。前の世界でお前が消えちゃってから、何度も何度も並べた碁なんだ。佐為がオレに残してくれた碁の中で、一番たくさん並べて、一番勉強した碁なんだ。今のお前と一緒に検討したこともあるよな?…だから、お前の打った一手一手の意味、それに答えた塔矢先生の一手一手の意味、全部理解しちゃってるんだ。俺の中に溶け込んじゃってるんだ。…それなのに、違う所になんて打てないよ…。
-この後もずっと、このものが同じ手を打つとは限りませんよ?
-でも、っでも、同じ先生が打つんだぞっ!同じ展開になったらどうするんだっ!



-…やはり、打ちましょう、ヒカル。
-っでも!
-きっと、偶然ではないのですよ。
-っえ?

-偶然ではないのです。偶然で同じ碁になるなどありえません。
-でも、今現にっ!
-だからこれは偶然ではなく、きっと必然なのです。
-…必然?


-そう、打つべきです。いえ、打たせるべきということでしょう。必要なのです、塔矢行洋には、この碁が。
-塔矢先生が、この碁を必要としている?


-ええ。以前のヒカルはこの碁を見ることで深く感じたものがあったと言っていましたね。以前のヒカルは、私とこの者のこの碁を見たことで、きっと成長したのでしょう。それはヒカルにとって必要な碁だったのです。それと同様、今のこの者にとっても、きっと必要な碁なのです。神の一手に近づくために。この碁を打つことが。そして、この碁を見るものにとっても同様なのです。
-打つことが必要…。


-ヒカル、今のあなたであれば、この碁を打てるだけの力があります。この碁を打ったときの私と、対等の力があります。今のあなたなら、この碁を背負っていけます。
-……
-それに、ヒカル。今の私であれば、この者が同じ受け答えをするのであれば、あのときの碁にはなりませんよ。もっと早く倒せます。そうなると、あのときの碁は、今のこの世には出てこなくなります。…だから、今この碁を打てるのは、あなたしかいないのですよ、ヒカル。



 ヒカルは、眼を閉じた。そして、佐為の言葉に決心した。



-分かったよ、佐為。以前のオレには、当時のお前の碁を背負いきるだけ力はなかった。でも、今のオレなら。今のオレなら、あのときのお前の碁を背負えるんだな。いや、背負わなくちゃいけないんだな。オレの碁の中にも、お前はいるんだから…。

 


 ヒカルは眼を開くと、次の手を力強く打ち付けた。



-これが進藤ヒカルか…。

 ヒカルに対峙する塔矢行洋は、現在4つのタイトルを抱える、まさにプロの中の頂点にいるといっていい存在だ。世界中の碁打ち達が目指す、トップの一角であった。
 その彼は今、目の前の少年を冷静に観察していた。

-まだ序盤とはいえ、石の流れにゆがみはなく、非の打ち所がない。プロのお手本のようだ。

 確かに、ただのアマチュアではないと、行洋は実感した。

-それだけではない…。なぜだろう?この子はアキラと同じ年。中学になったばかりの子供。…なのに。
-先ほどの長考が終わってからの、この空気は…、なんだ?この威圧感は…。

 
 アキラと緒方も、ヒカルの雰囲気の変化に気がついていた。

-進藤の雰囲気が変わったっ!…なんだ、この感じはっ!
-…おいおい、何だこの空気は。これじゃまるでプロの…、それもまさにトップ同士のタイトル戦じゃないか。これだけの気迫を、この少年が?進藤、いったいこいつは…。



 序盤の終わりに、ヒカルの白が軽く仕掛け、中盤戦が始まった。 

 何手か進んだ後の、白ヒカルのスソガカリ。行洋の手が止まる。

-彼の思惑は見て取れる。ならば…。

 しばらく考えた末の黒、行洋の応手に、アキラは驚く。

-これは…、白の、進藤の望む展開では?お父さんが長考の末、出した答えがこれ!?


 そのままお互いに応手を交わし、盤面が少し進んだところで、緒方は、行洋の手に納得した。

-なるほど。進藤は望み通りの展開だったはず。だが、黒がボウシからジワジワと攻めることで、気がつけば形勢は、黒に悪くないものになっている、か。さすが、名人。


 アキラもまた、自分が読めなかった進行に驚いていた。

-こんな、こんな流れになるなんて、想像もつかなかった…。進藤が優位に事を運んでいるみたいだったのに、いざここまできてみると…。はじめに進藤が仕掛けた一手。あの石がいつの間にかボヤけて、働きを失っている!?



-子供ながらにここまで打つ。なるほど、アキラでは勝てないはずだ。だが、これが私の碁だ。名人、塔矢行洋の。こうして対峙した以上、容赦はせん。



 二人の対局は続く。流れは黒の行洋が握ったままだ。


-しかし、進藤ヒカルがここまで打つとは…。

 緒方は、名人と堂々と戦うヒカルの力に驚愕していた。

-アキラ君に見せてもらったあの一局で、力があるのはわかっていたつもりだった。プロに匹敵する力はあると思っていたが、まさかここまでのものとは。

-黒良しとはいえ、形勢は猛烈に細かい。明らかに名人は、手厚く打つだけでは進藤に勝てないと踏んでいる。白地を上から消し、冷静に判断の上、確実に地を取っている。


 そして、アキラもまた、己の父と堂々渡り合う、ヒカルの力に瞠目していた。


-進藤は、読みも計算もずば抜けている。相手の手の内を全部読んだ上で、碁を自分のものにする手を必ず編み出してくる。お父さんにリードを許したまま、何もせずに終わるとは思えない。



 そして、大ヨセも終わりが見えてきたとき、ヒカルの白石が中央の黒を割って入った。

 その一手に、行洋の背中を冷や汗が伝う。読んでいなかった手だった。

 
 緒方もまた、その一手に痺れていた。

-…いい手だ。この白は取れない。中につきそうな黒地が消えた。ただでさえ細かかったのに、これで逆に黒が薄くなった…。まさに気合の踏み込み。打たれてみると、ここしかないという、絶対の一手にみえる。俺もまったく気がつかなかった…。

-お父さんの手、どれも悪手とは思えないけど、形勢はとうとう逆転…。進藤、君は…。

 
 最後の小ヨセを残し、行洋は投了した。



 こうして、前の世界の”sai VS toya koyo”の碁が、この世界でも再現された。

 ”進藤ヒカル 対 塔矢行洋”の碁として。 
 

 
後書き
誤字修正 必要といている? →必要としている?
     黒字が消えた →黒地が消えた
     始めての対局 →初めての対局 

 

第24局

 ヒカルと行洋の対局が終わり、張り詰めていたヒカルの気持ちもようやくほころんだ。

「ありがとうございました」

 ヒカルは挨拶を終えると、大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。


-ヒカル、お疲れ様。
-ああ、ありがと。なんかすっごい疲れた。
-フフフ。いつもにまして集中してましたもんね。立派でしたよ。そういえば、時間は大丈夫ですか?
-時間?
-ええ。そろそろ、あかり達と待ち合わせの時間では?
-えっ!あっ、やばっ!

 佐為の言葉に時計を見たヒカルは、時計が示す時間に焦りを募らせた。

「あ、先生、すみません、あかり達と待ち合わせの時間なんで、迎えに行ってきます!」
「…ああ、そうだったね。思ったよりも時間がかかってしまったな。最初の話もまだ済んではないが…、また後日、落ち着いてからにしようか」
「あ、そっか、そうですね。あかり達の前であんまり堅苦しい話をするのもなんだし…。そこまで急ぐ話でもないんで、次の機会で。あ、ただ先生、今の碁を認めてもらえるのなら、ひとつご褒美としてじゃないんですが、ここだけの話ってことで、約束してほしいことがあるんです」
 
 そのヒカルの言葉に、行洋は厳しい表情を緩めた。対局が終わってしまった今では、彼はやんちゃなただの子供にしか見えなかった。

「もちろん、君の力は充分に認めよう。いや、思い知らされたといってもいい。私ができることであれば、約束しようじゃないか」
「あ、ありがとうございますっ!えっとですね、できるだけ早く、お忙しいとは思うんですが、きっちりとした健康診断を受けてください。特に、心臓とかをしっかりと!」
「健康診断?」
「はいっ!塔矢先生にはずっと元気でいてもらいたいので、ぜひお願いします!いずれ、俺がプロになって、タイトル戦で先生を倒したいのでっ!」

 何の約束かと興味を示した行洋は、話を促したのだが、なんとも奇妙な言葉だった。

「ふむ。まあ、健康診断自体は毎年受けてはいるが…。しかし、タイトル戦ではないとはいえ、今日すでに君は私を倒しているが?」
「今日のは別です。先生、終盤手順間違いで、損してますから。正しく打ってれば、先生の1目半勝ちかな?あ、もう時間過ぎてるっ!すみません、先生、片付けて迎えに行ってきますね!」

 何気なく吐き出された進藤の言葉に驚きつつも、行洋は答えた。

「!!いや、そのままで。迎えにいってくるといい。約束はしよう。今年の定期健診で、たまには詳細にやってもらうのもいいだろう」
「はい、お願いします!じゃ、ちょっと行ってきます!」


 そうして飛び出して言ったヒカルをよそに、残された3人は盤面を真剣に眺めていた。すでに3人の頭に健康診断のことなど残ってはいなかった。


「…お父さん、終盤の手順間違いって、いったい?」
「彼にいわれるまで気がつかなかったよ」

 行洋はそう言うと、黒の一子に指を伸ばした。
「私が切断に備えたこの手だ。必要な一着なのは間違いないのだが…」

 その言葉を聞いて、ハッとする緒方。

「その前に、ここの隅のオキですね…」
「あ!そうか。外ダメが詰まれば手がいる。抑えるしかない。それだけで実戦より得。白の手抜きは最悪つぶれる…。逆転だ!進藤には見えていたんだ…」


 しばらく盤面を見つめていた行洋はだが、やがて晴れやかに笑った。

「なんとも楽しいじゃないか、緒方君」
「先生…」
「世の中は広いな。プロではないアマチュアの少年との対局で、まさかここまでの碁を打てるとは。私は全力を尽くしたよ。進藤君に指摘された手も含めて、これが今の私の全力の碁だ。誰に見せても恥じることのないな。私など、まだまだだ」

「アマチュアの少年が、塔矢名人を互先で倒した…か。この眼で見ていなければ、とても信じられない話だ。確かに今すぐプロになれる腕前だ。今すぐなる気がないというのも変な話だが…。アキラ君、君の友達はどうやら只者じゃないようだな」

 言葉をかけられたアキラの表情は明るく、晴々としていた。

「はい。ボクも今まで以上に精進します。今の彼は、ボクよりもはるかな高みにいますけど、いつか必ず、彼に追いついて見せます。彼はボクの生涯のライバルですから!」

「フフフッ。すっかり元気になったじゃないか、アキラ君。これは俺もうかうかして入られないか。まぁ、とりあえず進藤が戻ってきたら1局勝負を挑むとするかな」

 緒方の表情もまた、獲物を見つけた獣のようにとぎすまされていた。






「もー、ヒカルったら、ひどいじゃない、遅刻なんて!奈瀬さんとずっと待ってたんだよ!」
「悪い悪い、ちょっと用事を先に済ませてたら時間がかかっちゃってさ、ホントごめんって」
「もー、せっかく打ってもらえると思ってきたのに。ヒカル君、女の子を待たせるなんてひどいよ!」
「あー、もう、ごめんなさい」

 ヒカルが必死に走った待ち合わせ場所には、当然のように、怒れるあかりと奈瀬が待ちうけていた。塔矢の家の最寄の駅で待ち合わせをしていたのだ。

「今回だけだからね!次は許さないよ!」
「はいっ!ホンと、ごめん!」
-まったく、ヒカルはぼやっとしてるから。
-仕方ないだろ、思ったよりも長引いちゃったんだから!

「で、結局どこ行くの?この近くの碁会所?」
「ああ、今日は塔矢の家で打たせてもらえることになってるんだ」
「塔矢?知り合いの家なの?」
「塔矢アキラと同じ学校なんだ。そんで、塔矢が場所を貸してくれることになってさ。碁盤もたくさんあるしってことで」

「塔矢アキラ…、なんか聞いたことある名前ね?」
「あ、やっぱり奈瀬は知ってるんだ。あいつ、有名みたいだもんな。さっすが塔矢名人の息子だな」
「あー、そうそう、塔矢名人の息子がアマチュアだけどとても強いってうわさだった…。え、あれ、ちょっと待って、ヒカル君塔矢名人の息子の家?」
「ああ、塔矢アキラの家な」

「…それって、塔矢名人の家なんじゃない?」
「そりゃそうさ。塔矢の親父さんなんだから、当然塔矢名人の家さ」


 だんだんと奈瀬の顔色が白くなっていった。

「…あの、あれ?塔矢名人の家で碁を打つの?私が?」
「そ。場所代かからないし、お得だろ?今日は名人もいるし、見てもらえるかもよ」
「!!嘘っ!名人もいるの!!何でよヒカル君!聞いてないよ!?」
「うん、だから今言ってるじゃん」
-ヒカル、早く戻りましょうよ、あの者はきっと待ってますよ!
-分かってるって。何で奈瀬こんなに驚いてんだか。


-なんか、奈瀬さんが可哀想になってきたかも…。

 ちなみにあかりは、アキラとヒカルが話をしているのを一緒に聞いていた。だから、最初から知っていたので覚悟は決めていた。てっきり奈瀬も聞いているものとばかり思っていたので、慌てる奈瀬を哀れみの眼で見ていた。



 その後、半ば混乱したままの奈瀬とともに、塔矢家に戻ったヒカル達を待ち受けていたのは、不敵に微笑む緒方とアキラ。


 あかりが碁会所の先生だと思っていたのが実は塔矢名人だったと知ったあかりが驚いたり、塔矢先生に加えて緒方先生までいると奈瀬がまた慌てて必死に挨拶したりとひと悶着があった後に、結局ヒカルは緒方とアキラと続けて対局することに。

 その間あかりと奈瀬は、塔矢名人に指導碁を打ってもらうこととなった。名人の詳しい解説付きの指導碁という、とてつもなく贅沢な時間となった。


 ちなみに、ヒカルは対局中に、背後でうらやましそうに見つめる佐為の視線が微妙に気になっていたりいなかったり。


 それぞれの碁の検討を皆でする頃には、奈瀬もとりあえず落ち着いていた。
トッププロの塔矢名人や緒方先生と対等に言葉を交わすヒカルの様子にさすがと思いつつ、その日の勉強会は終了した。
 

 その後、アキラの怒涛のアピールもあり、今後も塔矢名人宅で定期的に部屋を貸してもらえることになり、アキラと奈瀬を喜ばせた。

 


 結局、この日もヒカルと対局していないと奈瀬が気がついたのは、その日家に帰り、入浴している時だった。 
 

 
後書き
誤字修正 不適に → 不敵に
     ホンと → ホント
     互い戦 → 互先 

 

第25局

「なあ、この前のあれ、どう思った」
「あれって、塔矢の?」
「まあ、すごい戦いっちゃそうなんだけどさぁ。なんか、変な手も多くなかった?」
「あ、それ、俺も思った。どう見ても悪手なんじゃねってのあったよな」
「…ちょっと並べてみるか」

 先日の、海王中学の囲碁部で行われた、進藤ヒカル対塔矢アキラの対局。結局のところ、ほとんどの部員には碁の内容が理解できていなかった。
 囲碁部トップの部長の岸本でさえ、自分ではかなわないといったレベルでの理解しかできていなかったのだ。ヒカル達の力を片鱗だけでもつかめたのは、岸本を含め、ほんの数名だけだった。下から見ては上手の力はつかめない。それもまた残酷な碁の一面といえた。

 もっとも、これはこれで仕方ない。
 いくら強豪とはいえ、中学の囲碁部のレベルで、プロレベルの碁を理解しろというのには無理があった。
 しかもあの日、対局が終わったらヒカル達は早々に帰ってしまい、内容の解説はされずじまいだ。それだけに、ヒカルのアキラの実力は、囲碁部員達にはさっぱり理解されていなかった。
 そして、今日は3年生達は模試による授業延長があり、不在。ヒカルとアキラの力を理解できているものは誰もいなかった。


「この手なんかさ、どう見ても悪手だろ。この石死んじゃうし」
「それなのに受けないでこっち打つんだもんな」
「ここだって愚形だろ?こんなとこ切ったってとられるだけなのに」
「わっかんねーなー。塔矢アキラも進藤ヒカルも、ほんとに強いの?」


 最上級生達の不在ということでいつもよりたるんだ空気の中、ヒカルとアキラへの誤解が深まっていく。

「結局、噂だけだったんじゃね?塔矢アキラってたいしたことないんじゃ?」
「進藤なんて知らないやつに負けるんだもんな」


 元々、塔矢アキラに対する評判は良いものではなかったこともあり、実力のほどを垣間見た3年不在の中、アキラとヒカルを見下す空気は自然と盛り上がっていった。


 アキラと同じクラスの1年の奥村もまた、彼らを見下し始めたうちの一人だった。

 奥村にとって、海王中学囲碁部は憧れの存在だった。毎年のように全国大会でも上位に食い込み、その知名度は全国クラス。
 そんな囲碁部にようやく入れたのに、入部してからずっと、塔矢アキラのせいでいやな雰囲気が漂っていた。それが、先日の突然の塔矢アキラの対局観戦を境に、空気が変わった。力量不足が原因で塔矢たちの実力が把握できていないのが根本にあるのだが、それが理解できない奥村たち。
 ただ、部内が明るくなっていく様子がうれしく、調子に乗っていた。


 



 そんなある日の昼休み。奥村は、ふと教室で、一人本を読んでいる塔矢アキラが目に付いた。今までは自分から声をかけるのにはためらいがあったのだが、調子に乗っていた今、そんなためらいは消えていた。

「なあ、塔矢、この前の対局は残念だったな」
「え。あ、ああ。奥村君だっけ?君も見ていたのか」
「そりゃそうさ、オレは囲碁部だからな。噂の塔矢がどれだけ強いのかと思ってたんだけど、あんなあっさり負けるなんてな」
「…そうだね。見事にやられてしまったよ」
「あれって、進藤のまぐれ勝ちだったりスンの?」
「いや、あれが実力さ。今のボクじゃ、進藤にはかなわない」
「なーんだ。塔矢って、そこまで強いわけじゃなかったんだ」
「……」
 
 進藤の実力を思い知らされているアキラは、何も言い返せなかった。何しろ進藤の力は父である名人塔矢行洋に匹敵するのだ。そんな進藤と比べられては、自分が強いなどどう頑張っても言えるわけがなかった。

 しかし、そんなアキラの様子を見て、奥村の誤解はますます深まった。

-なんだ、何にも言い返してこない。やっぱり、塔矢ってそんなたいした奴じゃなかったのか。ま、そりゃそうか。普通なら強けりゃ大会に出て、優勝しまくってるもんな。

 そんな奥村の話が囲碁部員達に伝えられて、アキラに対する蔑みは、ますます強まっていった。


 
 
 
 そして、とうとうヒカル達の元にまで、アキラの噂が届くこととなった。

「え!?なにそれ、何でそんな話になってるの?」

 放課後の教室に、あかりの声が響いた。

「え、だって、囲碁部の奴が言ってたぜ。噂の塔矢アキラなんて実はたいしたことない。その証拠に、囲碁部でもない進藤にあっさり負けたって。進藤、お前塔矢に勝ったんだろ?」
「…ああ」
「ほら、囲碁部に入ってない進藤にあっさり負けるんだ。たいしたことねーじゃん?大会に出てるわけでもないんだろ」
「そんな、だって、ヒカルは!」


 あかりにとってはまったくとんでもない話だった。

-ヒカルに負けたから塔矢君がたいしたことないだなんて!?いったいなんでそんな噂になってるの。あの日、みんなの前で打ったのに!

 あの対局を見てそんな噂が流れるというのが、あかりにとってはありえなかった。あれだけの碁を見せられて、どうしてそんなことが言えると言うのだろうか。あかりにはまったく理解できなかった。
 あかりは今まで、極端に棋力の低い相手との対局は、ネット碁くらいしかなかった。だから、棋力が低い相手との会話などほとんど経験がなく、棋力の差によって生じる、碁の内容の理解の差といったものが全く分かっていなかった。


 しかし、ヒカルと佐為は違った。今までの経験から、先日の碁は、レベルが低い人たちには内容を把握するのが難しかったであろうことも理解できていた。

 もっとも、だからといって、この噂に納得がいくかというと、話は別だ。
 噂を話してきたクラスメイトに食って掛かるあかりをよそに、内心では激しく燃え盛り始めていた。


-あの碁が理解できなかった連中が好き勝手言ってるみたいだな…
-なんとも嘆かわしい。己の力量も理解できず、他人を蔑むなど、碁打ちとしてあってはなりません!?
-こりゃ、ほっとくわけにもいかねぇよな。
-当然です、ヒカル、懲らしめてやりましょう!?


「よし、あかり、いくぞ!」
「え、ヒカル、どこに?」
「決まってんだろ、囲碁部だよ!」
「ええっ!!待ってよ、ヒカルっ!」


 一般的な中学生にとって、1・2年の年の差というものは非常に大きい。だから、あかりにとって、上級生というのは非常に目上の存在だ。そんな上級生達がたくさんいたあの囲碁部に乗り込もうとしているのだ。あかりとしてはたまったものではなかった。だが、ヒカルはいまさら中学生相手にどうと構えることもない。普段ならヒカルを抑える佐為も、囲碁が絡むと人が変わる。今はヒカルと一緒になって乗り込む気満々だった。


-あーん、もう、ヒカルも佐為も眼が燃えてるよぅ。うぅ、どうしよう…。私じゃ止められないよぅ。


 さっきまでのあかりの激しい憤りはすっかり吹き飛んでしまった。もうこうなってしまってはヒカルはとまらない。かといって、ヒカルを置いて帰るわけにもいかない。あかりは気後れしつつも、仕方なくヒカルの後をついて行くのだった。
 

 

第26局

 ヒカルが囲碁部の対局室の扉を開けると、中では(ユン)による検討会が行われている最中だった。

「おや、進藤君じゃないか。いったいどうしたのかな?今は部活中なんだが?」

 突然のヒカルの登場に、ざわめく対局室。
 そんな中で、当然、(ユン)はヒカルのことをはっきりと覚えていた。
 噂の塔矢アキラの力を見るために招いた少年が、ものの見事にアキラを打ち倒して見せたのだ。その鮮烈なまでの強さは、(ユン)の脳裏にはっきりと焼きついていた。

「先生、塔矢アキラの噂が、校内で広がっているのを知っていますか?」

 そんなヒカルが発した一言に、(ユン)は首をかしげた。
 あかりは、ヒカルについてきたものの、対局室の中に踏み込む勇気もなく、扉の隙間からこっそりと中を覗き込んでいた。

-ヒカルぅー、お願いだから暴れたりしないでよぉー。


「塔矢アキラなんかたいしたことないって噂です。聞いてませんか?」

「何?初耳だな。いったいなんだってそんな噂が?」

「どうやらこの間のオレと塔矢の対局を見た連中が、面白そうに話を広げてるみたいですよ。つまり、ここの囲碁部の連中がね」


 その言葉に、(ユン)は驚き、部員達の中には気まずげな空気が広がった。

「おまえたち、そんなことを言っていたのか…」

 (ユン)は半ば呆れながら室内の生徒達を眺めた。
その言葉に、反発する声が上がった。

「事実なんだからかまわないじゃないですか!」
「そうですよ、ご大層な噂が先行した割には、全くの無名な奴にあっさり負けたんですから」


 いまだアキラの力もヒカルの力も理解できていない大多数の部員達にとって、それはまさに正直な気持ちだった。
 彼らの声を聞いて、(ユン)は先日の対局後のフォローが全くできていなかったことを痛感した。

-しまった…、子供達の塔矢への反発心を軽く見すぎていたか…。彼らにとっては部外者。簡単に受け入れるわけにはいかないのに、この子達にあの碁は難しすぎた…。失敗だったな…。


 部長の岸本もまた、部内の空気の変化には気付いていたものの、単純に後輩達の雰囲気が明るくなってきたもの程度にしか捕らえていなかった。これは、主に学内の噂が、塔矢がいる1年を中心に流れていたことも原因だ。


-後輩達にそんな噂が流れていたとは…。それで、進藤君が乗り込んできたか…。


「進藤、お前だって大した事無いんだから、囲碁部にまででしゃばってくるなよ!」
「そうだ、くだらないことで、部活の邪魔スンナよ!」

 部員達の続く言葉に、(ユン)は頭を抱える。どうやってこの場を収めたものかと。

(ユン)先生、少し部活の時間を俺に貸してもらえませんか?」
「…いったい何をする気だい?」

「まさか、お前程度が、囲碁部に挑戦しようってでも言うのかよ!」
「塔矢ごときに勝ったからって調子に乗るなよ!」

 湧き上がる部員達の声に、岸本は立ち上がる。

「やめないか。部活中だぞ」
「部長!そんな奴倒してくださいよ!」
「そうそう、お前なんかいちころだって!」


 岸本の制止にも、ヒカルを非難する声は止まらなかった。

-これはどうしたものか…。オレが打つしかないのか?しかし、俺が勝つのは無理だ…。そうなるといよいよ収まりがつかなくなるんじゃないのか…。

 岸本はどう動くべきか分からなかった。






「ひとつ聞いていいか?」

 そんな喧騒の中、ヒカルは室内を見回すように声をかけた。


「この前のオレと塔矢の対局、お前らは検討しなかったのか?」


 大勢の部員を前に堂々としたヒカルの発言に、部員達の反発は強まる。

「何だ、1年がえらそうに!」
「検討したさ。それで大したこと無かったから言ってるんだろうが!」

 それを聞いたヒカルは、両手を挙げ、室内の注目を集めた。

「分かった。なら、オレや塔矢への悪口は、後でいくらでも聞いてやる。まず、みんながしたって言う検討を聞かせてくれ。ここは囲碁部だろう?先生、大盤を借りてもいいですか?」

 ヒカルの落ち着き払った物言いに、室内は一瞬静まった。その様子に、(ユン)は感心しながらも答えた。この場は彼に任せてみるのも面白いかもしれない。

「ああ、いいだろう。打った本人の解説だ。みんなも、忌憚無く意見を出すといい」


 外から覗いていたあかりも、ヒカルの様子には驚いていた。佐為はまだメラメラとしているものの、ヒカルはかなり落ち着いているように見えた。てっきり怒鳴りあいや殴り合いになるんじゃないかと心配していたあかりは、予想外の展開に眼を丸くしていた。

-…なんか、ヒカルちょっとかっこいいかも…。


 そんなあかりの思いをよそに、ヒカルによる大盤解説は始まっていた。


「まずそうだな、初手から並べていくから、疑問手があったら質問を」

 ヒカルはそう言いながら、初手からゆっくりと並べていく。最初に発言があったのは、ヒカルの白の下辺への打ち込みに対する、アキラの黒の応手だった。


「その黒の手、かなりぬるいんじゃね?」
「そうそう、そこで厳しく追求してれば、あんな激しい戦いにならずに、黒楽できただろ」

「なるほど、この手か。オレから見れば、まさにいい手なんだけどな。なら、黒はどう打つのが良かったんだ?」

「黒の勢力圏なんだ。右からでも左からでもツケて行けばいいさ!」

「なるほど、ツケね。ほかの意見は?部長さんはどう?」

 ヒカルに指名された岸本は答えた。

「…そこでツケても、白に捌かれるだけのように思う…。ただ、それで白を小さく生かしている間に、中央に大きな黒の勢力ができないか?」
「…なるほどね。じゃあ、実際にやってみよう。まず、右からツケようか。オレは下にハネるな。次の手は?」

 そうしてヒカルは、皆の声を聞きながら手を進めていく。すると、白が下で小さく生きたうえに、中央の白石ともつながり、右辺の黒が孤立した。

「こうなると、この黒が孤立したな。せっかくの厚みが、全く生きてないうえに、左辺もスカスカだ。手を戻して、左にツケてみようか」

 結局、左につけたあとの展開も、先ほどと似たようなものになった。どう見ても実戦よりも悪い。段々と、部員達の声から力がなくなっていく。
 どんな部員達の意見に対しても、明確によどみなく応手を答えていくヒカル。
 ヒカルの力をじわじわと皆が実感し始めていた。

「つまり、あの時の黒、塔矢はしっかり対応していたってことだな。…じゃ、実戦に戻して続けるぞ。次はこうだな…」

 その後、幾つもの質問が飛び出すが、黒白どの手に対する質問でも、ヒカルはその質問のままに手を進めて、最後はすべて粉砕していった。
 岸本や(ユン)の手に対しても、ヒカルは瞬時に応答し、結果盤面は実戦よりも悪くなっていく。


「このいかにも一見、取ってくれって白の切りは、結局は捨石なのさ。取りに来てくれればこうして…、これで両にらみ。黒は上下のどちらかが死ぬ」

「この黒の愚形は仕方ないのさ。確かに、こう構えるほうが形はいいけど、手が進むと…。…ここが攻め合いになって、黒は手が足りない」


 どんなに乱暴な手に対しても、ヒカルは的確に対応していく。
 当初あったヒカルへの侮りの念は、ほとんど影を潜めていた。
 ここまで細かく解説をされると、さすがに皆理解し始めていた。
皆の前に立つこの1年、進藤ヒカルは、囲碁部の誰よりもはるかに強い、と。
 自然と質問の言葉は丁寧なものとなり、ヒカルに対する不快感は消えていった。元々囲碁好きな人間の集まりなのだ。自分よりはるかに強いと分かれば、好む好まざるを問わず、自然と尊敬の念も沸いてくるものだ。

「じゃあ、あの時の切りに対して、伸びていたらどうなんです?」

「そこ、手を抜いたらまずいですか?」



 (ユン)もまた、感動していた。

-まさに、プロレベルの解説だな、これは。1冊の本にできるくらいじゃないか。塔矢君との対局で、力の程は理解しているつもりだったが、まさかこれほどまでとは…。

 あかりと佐為もまた、大勢の前で毅然としたヒカルの態度に感じ入っていた。

-うわー、ヒカルなんかすごいかも…。囲碁のプロって、やっぱりすごいんだぁ。

-まこと、立派なものです。”先方がにくまれ口を叩くなら、それには答えず、勝負に勝つべきである。”まさに、ヒカルの一人勝ちですね。

 憤っていた佐為も、ヒカルの指導の様子を見ている間に、いつしか落ち着いていた。

-こうして、弱い者達を導いていくことも、強者としての義務ですものね。この者たちにとっては、良い勉強になったことでしょう。まさに、いろいろな意味で。


「…と、ここで塔矢が投了と。つまり、ここまで塔矢に、悪手はなかった。すべての手が、互いの手を深く読みあった結果さ。この碁に関して言えば、塔矢がオレに力負けしたってだけだ。塔矢は弱くない。強い。そして、俺は塔矢より強いってだけさ。だから、このまま変な噂を続けてると、恥をかくのはお前らだぜ?」

 沈黙する皆の様子を見て、岸本は聞いた。

「それはどういう意味だい?」

「塔矢は必ずプロになる。近いうちにな。そしてプロでも大活躍するさ。それだけの力を持ってる。それなのに、同じ中学の囲碁部で塔矢を見下してたら、周りにはどう見える?何が真実だったかなんて、誰が見たってはっきり分かるだろ?人の陰口たたく暇があったら、自分の腕を磨くんだな。囲碁の勉強には終わりなんてないんだからな!」

 そのヒカルの言葉に、誰も返す言葉がなかった。


「進藤君、今日はありがとう。私も、部員の指導不足を痛感させられたよ。君の解説で、皆、君達の力を理解できたと思う。今回の件、本当に申し訳なかったね」

 (ユン)は、そう言いつつヒカルに頭を下げた。

「気にしないでください。オレが気に食わなかったから勝手にしたことです。そんじゃ、おじゃましましたー!」

 そういって、対局室を飛び出していくヒカル。

 対局室の中の部員達の心中はさまざまだった。感動している者。感心している者。驚愕している者。憧れの念を抱いた者。かっこ良さに半ば惚れた者。自らの言動に呆れている者。反省している者。悔やんでいる者。
 
 そして、なおも憤りの念を抱いている者。

  
 

 
後書き
誤字修正 構内 →校内  手っきり →てっきり  責め合い →攻め合い 

 

第27局

 塔矢家での2回目の勉強会、今日こそはと張り切る奈瀬を相手に、ヒカルは指導碁を打っていた。

 今回の勉強会の参加者は、奈瀬、あかり、アキラに加えて、話を聞いた塔矢門下の芦原が参加していた。塔矢名人と緒方は、今回は地方での棋戦のために不在だった。

-これが噂の進藤君か…。うん、やばい、これはしゃれにならない…。僕でもたまに負けるアキラ相手に勝ったんだから、そりゃ強いのは分かってたけど…。緒方さんのあの顔はこういうことか…。

 そう、先日兄弟子に当たる緒方から、芦原は言われていた。

「今度アキラ君が友人達と行う勉強会にお前も参加してみるといい。しっかり指導してやれよ。プロの卵達がくるんだからな。プロとしてしっかりとな」

 そのときの緒方からは、どことなくからかうような視線が混じっていたのだが、芦原はいつものことと聞き流していた。それでも、時間的にも都合がつき、何よりアキラを倒した進藤とやらに興味があったので顔を出してみたのだが、対局を眺めていた芦原の顔は引きつりつつあった。

-進藤君の相手は奈瀬さんといったか。この子もなかなか強いな。その子相手に、見事な指導碁。すごい筋がいいな、進藤君は。ただとがめるのではなく、奈瀬さんの碁がいい方向に向くように誘導しているようだ。ボクにここまでの指導碁打てるかなぁ?ホンと、勉強になるよ、これ。打ってる奈瀬さんもまあ楽しそうなこと。でも、こっちでアキラと打ってる藤崎さんだっけ。この子もまた強いし。アキラ相手に三子とはいえ優勢に進めてるんだもんな。お、アキラの強引な手に、きっちり冷静に対処している。

 対局がいったん終わり、それぞれの指導が始まるが、ヒカルの指導は、丁寧でかつ的確。奈瀬の見落とし、読み漏れ、判断ミス等を、きっちり説明しきっていた。

「いやぁ、進藤君、すごいねぇ、君。ボクより指導碁うまいんじゃない?」

 区切りがついたのを見計らって、芦原は声をかけた。

「いやぁ、指導碁はあかり相手に毎日打ってるんで、慣れてるんですよ」
「それにしたって、そこらのプロ顔負けな指導だったよ!」
「そうなんですよ!ヒカル君の指導碁って、ホンと打っててもらっても楽しくなっちゃうんですよ!私にもこんな良い碁が打てるんだーって感じで!」

 奈瀬も顔を満面の笑顔にして答える。

「いや、奈瀬さんだっけ。君の力もしっかりあるからだよ。どんなに良い指導をしても、受ける側にも力がないと意味がないからねぇ」
「あ、ありがとうございます!プロの先生にそう言って貰えると自信になります!」

 ニマニマと照れる奈瀬。

「あ、奈瀬さんは院生ってことは、今度の若獅子戦出るのかい?」
「ええ、出ます!プロ試験前の前哨戦なんで、気合入ってます!」
「そっかそっか。ボクも出るよ。これはウカウカしていられないなぁー。あたったらお手柔らかにね」
「芦原さん、院生相手に負けたら、緒方さんに何を言われるか分かりませんよ」

 話を聞いていたアキラも横から口を出す。慣れ親しんだ芦原が相手だと、アキラの口調も軽い。
言われた芦原はその様子が眼に浮かぶようで、大きくため息をついた。

「確かに…。はぁ、なんか、気が重くなってきた。若獅子戦って、プロにとってある意味一番嫌な棋戦なんだよねぇ。院生とはいえ、アマチュア相手の真剣勝負。院生は負けて元々でがんがん踏み込んでくるから、やたら疲れるんだよなぁ。そのくせ賞金は安いし…」

 グチグチと呟く芦原。そう。若獅子戦とは、20歳以下の若手のプロと院生1組上位16名とが参加するトーナメント戦で、1回戦は必ずプロ対院生で組まれる。そうなると必然、プロとしては負けては立場がなくなる。

「まあ、そうは言っても、実際プロ相手にはなかなか勝てないんですけどねぇ。1、2回戦でほとんど院生は消えちゃいますし。私は今年こそ勝ちたいなぁ」
「…まぁ、プロとはいえ入段したばかりじゃ院生トップとほとんど差がないのも多いから、組み合わせ次第じゃ負けるプロもいるんだよねぇ。そんな新人ならともかく、ボクらが負けると、ちょっと立場がねぇ…」
「芦原さん、一緒に頑張りましょうね!でも、どうせなら、ここにいるみんなで出れたら良かったのになぁ。あかりちゃんは院生にならないの?」

「私はまだ、プロのこととか良く分かってないから、もう少し考えてみます」
「そっかぁ、残念。あかりちゃんと、ヒカル君と、塔矢君が院生側で参加したら、すっごい盛り上がるんだろうになぁ」

「…いや、奈瀬さん、そんな怖いことやめようね。院生は盛り上がるだろうけど、プロ側は御通夜状態になりそうだよ…」

 奈瀬の言葉に顔色悪く言い返す芦原。今回はそこまでの年長者がいないのもあり、皆、いつしか仲良く会話を交わしていた。
 楽しみながらもしっかりと碁の勉強ができる。奈瀬にとって何よりの時間となった。




 

 そして、5月半ばに開催された、若獅子戦の1回戦。奈瀬と芦原は、ともに1回戦で勝利を収めた。





 
 海王中学囲碁部の主将、岸本薫(キシモトカオル)。彼は、行きつけの書店で偶然の再会を果たしていた。

「あれ、岸本、久しぶり。元気にしてたか?」
「え?あ、ほんとだ、岸本だ。いよっ!」

 そう言いながら声をかけてきたのは、院生時代の顔なじみの飯島良(イイジマリョウ)真柴充(マシバミツル)だった。二人はともに岸本よりひとつ年上であり、当時は棋力的にも近かった。そのため、対局も頻繁にあり、院生の頃はよく会話をしていた仲だった。ちょっと神経質そうで線が細く真面目な飯島と、ちょっと気弱だが少しおちゃらけた雰囲気のある今風の真柴は、タイプが異なるからこそどこか気が合うのか、当時から良くつるんでいた。

「お久しぶりです。お二人もお元気そうで」

 偶然の再会に驚きつつも、岸本はそう声を返した。が、返された二人は微妙そうに顔を見合わせた。

「いやあ、それが二人そろってこの前の若獅子戦、見事に1回戦負けでさぁ。ちょっとへこんでるとこ」
「まだ真柴は勝負になってたからいいじゃないか。オレなんか、見損じで大石取られての投了だからな。ほんとがっくりだ。こんなんじゃ、今度のプロ試験もなぁ…」

 そう言いながら落ち込む二人を前にして、岸本の心は軽く澱む。

「そんな事言わずに頑張ってください。応援してますよ」

「ありがとよ!岸本は最近は打ってるの?」
「ええ、今は囲碁部で、一応主将をしています」
「そういや、海王中学だったもんな。有名進学校か、いいよな、勉強できる奴は。俺達みたいな3流高校じゃあ、プロをあきらめたってタカが知れてるしなぁ。俺も岸本みたいにさっさと逃げとけばよかったかな…」
「そんなこというなよ飯島。岸本だって頑張ってるんだって。有名な海王囲碁部の主将なんていかにも大変そうじゃんか。俺にはとても無理だなぁ」
「ま、やるしかないんだけどな。じゃあな、岸本。囲碁部頑張れよ」
「またなっ!」
「…はい。お二人も頑張ってください」


 飯島にしても、真柴にしても、何も悪気はなかった。落ち込んでいたところに、顔なじみと会い、ちょっと愚痴を言った程度の認識だ。
 

 だが、言われた側の岸本の心は沈んだ。
 道を違えたかつての知り合い達。自分が歩く事がかなわなかった道を歩く、才能を持つ者達。
 脳裏に、つい先日出会ったばかりの少年達の顔も思い浮かぶ。自分より年下なのに、はるか上の力を持つ者達。


「…俺は逃げたわけじゃない」


 そう思う事が逃げだと、今の彼には気がつけなかった。

 


 この岸本たちの再会は、実は以前の世界では起きていない出来事のひとつだった。もちろん当事者である3人にとっては全く認識できない領域での話であったが。
 そして、当然ヒカルにも、こうした出来事が生じている事は把握できていなかった。


 最初は小さかった以前の世界とのズレが、ヒカル達の成長に伴い、少しずつ少しずつ、しかし着実に広がっていく。
 
 ヒカルを中心として。当人達の気がつかないところまでも。

 
 ヒカルとのかかわりの有無にかかわらず、様々な人々が小さくない影響を受けていく。
 
 それは受け止め方次第で、当人にとってプラスになり、そしてまたマイナスにもなっていった。 
 

 
後書き
一部修正 塔矢君 → アキラ 

 

第28局

「やっぱりこの手を受けたのが手拍子だったかな。手を抜いて、そうだな、こっちに手をつけたほうがよかったかな」
「…そっかー。そうだよね、そこで完全に遅れちゃったもんなー。あーん、悔しいなぁ。せっかく1回戦勝てたのに、伊角君に負けちゃうんだもんなあ」

 今回の勉強会では、先日の若獅子戦の棋譜検討を行っていた、奈瀬の口から出てきた対局相手の名前が、ヒカルにはとても懐かしかった。以前の世界、院生でともに腕を競い合った相手だ。

「その、伊角さんだっけ。院生なんだよね」
「うん、そう。院生のトップ。しかも1年以上ずーっとトップ。だからそろそろ勝ちたかったんだけどなぁ…」

 プロ試験で合格できるのは、数多くの受験生の中で上位3名のみ。現在院生トップの伊角は、まさに合格候補の一人といえた。それだけに、奈瀬は勝ちたかった。

「伊角君相手に勝てないと、今年のプロ試験は厳しくなるからなあ。どう考えても伊角君より強い受験生がいるし…。もっとがんばらないと!」
「…えーと、すみません…」

 そういいつつ謝る塔矢アキラ。そう、彼もまた今年のプロ試験受験を決めていたのだ。そうなると、院生ですらぬるいといえるアキラの実力では、他の受験生たちを圧倒することとなる。つまり、アキラの受験により、合格枠は実質残り二つになったといえた。

「あ!ごめん、そういう意味じゃないの!強い人がプロになるのは当然だから、気にしないで!」
「そうそう、プロになるのも勝負の世界。周りは全員敵だからね。でも、とうとうアキラもプロになる決心がついたか」
「ええ。進藤に少しでも追いつくために、プロの世界でもまれてこようと思います」

 芦原の言葉に、力強く決心を語るアキラ。アキラは、今のままでは進藤に追いつくことが難しいと考えていた。

「進藤よりも先にプロの世界に入って、プロたちの中で揉まれる事で、少しでも近づいていくつもりです」

 アキラは、ヒカルとの力の差をはっきりと認めていた。何しろ、父である名人塔矢行洋を倒したのだ。今の自分では歯が立たない。
 そうだからこそ、アキラはより厳しい環境を求めて、プロの世界に足を踏み入れる決断を下したのだ。
 その言葉を聞いた芦原は、複雑な気持ちになった。

「…いやー、アキラの決心はともかくとしてさ、なんか客観的に聞いたらすごい台詞だよね、それ…。アマの同級生を倒すためにプロになるかあ…。しかも、それをまったく否定できない…。そもそも、名人や緒方さんを倒したアマチュアがいるなんて知られたら、大騒ぎになりますよ」
「ふふふ。まったくだ。プロを平気で倒すアマチュアか…。あまり言いふらすなよ、芦原」


 今回は芦原と一緒に緒方も勉強会に参加していた。塔矢名人は、勉強会の直前までいたのだが、都合があり出かけていた。やはり、名人ともなると何かと忙しいようだ。
 プロ棋士二人に話題に上げられ、思わずヒカルも頭を下げた。

「…ええーと、ごめんなさい…」
「…ま、いずれプロに来ると言っているんだ。塔矢名人じゃないが、そこまであわてることもないさ。プロにならないと碁を打てないわけでもないしな」
「緒方さんってば、自分が進藤君と打つ機会があるからってホンと気楽な…。プロを倒すアマチュアか。進藤君、ほんとに君saiじゃないの?」
「…またそれですか、芦原さん。違いますよ。オレはsaiじゃないです」
「でもなー、プロに匹敵するアマチュアがそんなにごろごろしてるかなあ」

 佐為が話題に上がり、芦原以外の面々は、そっと視線を交し合った。

 話題をそらしたのは緒方だった。

「ま、そんなことはいい。それよりも次の検討を始めたらどうだ?若獅子戦、芦原も見事に倉田に負けたんだろう?」
「ええ、そうですよ!俺も奈瀬さんと同じく2回戦負けですよ!わざわざ強調しないでくださいよ!」


-この者とも対局してみたいのですけどねぇ。
-さっきも話をしたろ。あまり一度に話を広げすぎたら、何が起こるかわからないからな。しばらくは我慢してくれ。この人なんか口軽そうだしさぁ…。
-仕方がありませんね。いずれ対局できることを楽しみにしていましょう。


 そう、今回の勉強会の前、塔矢先生に今後のことについて相談をしていたのだ。芦原が来る前に。











「では、進藤君、君がプロ試験を受けるのは2年後だというんだね」
「はい。それまでは、オレにとってプロになるよりも大切なことがあるんです」 

 今回の勉強会の前の話だ。塔矢名人、緒方、アキラ、あかり、奈瀬がその場にはいた。
 最初はヒカルは自分だけで名人たちと話しをしようと思っていたのだが、そのことをかぎつけたあかりと奈瀬に押し切られていた。


「佐為のことを全部じゃなくても話すんでしょう?だったら私たちも一緒に聞いておいたほうがいいと思うの。ヒカルが塔矢先生たちと何をどこまで話したのか知っておかないと、何かの拍子にばれちゃうと困るでしょう」
「そうそう。とっても大事な話なんだから、ちゃーんと私たちも聞いておかないと。ね、あかりちゃん。ヒカル君、私たちも一緒に行くよ」

 

「その、大切なこととは何か尋ねてもいいかな?」
「はい。オレの師匠と1局でも多く打ちたいんです。プロになってしまうと、対局はもちろん、何かと仕事がはいって忙しくなると聞いています。今のオレにとって、その時間がもったいないんです」

「進藤の師匠か。いったい誰なんだ?」

 緒方の問いに、ヒカルは直接は答えなかった。

「先生たちはネット碁を打ちますか?」
「ネット碁?」
「塔矢先生はなされないよ。オレは極たまにだな。もっとも、対局よりも棋譜を見ることのほうが多いが」

 突然飛んだヒカルの話に戸惑いつつも、緒方は答えた。その言葉を聞いて、ヒカルは少し安心した。アキラはすでに知っているが、名人と緒方が知っているかどうかが不安だった。これで少なくとも緒方は知っている可能性がある。

「じゃあ、saiって知ってますか?」
「ほう、あのsaiか」
「…知ってるさ。話題の謎の打ち手だ…。アキラ君が対局したよ。以前研究会の最中にね。まさか、進藤、おまえの師匠はsaiか!」
「そうです、オレの師匠です」

 驚く名人たちを見ながら、ヒカルはほっと息をついていた。名人たちがネットのsaiをこの時点で知っているかどうかが不安だったのだ。
 ヒカルは、以前のことから、今の時点で塔矢名人がネット碁をしていないだろうことは分かっていた。以前の世界で名人がネット碁を始めたのは、ヒカルが中学3年の時、名人が入院していた時だったからだ。
 先日のアキラとの対局で、おそらくsaiの存在を知っているだろうとは思っていたが、まさかあの対局を直接見ていたとは分かるはずもなかった。偶然アキラの名前を見つけたときに、対局を申し込んだ甲斐があったというものだ。


「saiはプロではないのだね?」
「はい。プロではありません」
「saiについて教えてくれるかい?」
「…すみません。もしかしたら、いずれ話すことがあるかもしれません。ですけど、今は話ができません」
「…オレはてっきり進藤がsaiの正体だと思っていたんだが…。進藤ではないんだな?」

 緒方の言葉にヒカルははっきりと頷く。

「オレじゃないですよ。佐為はオレよりも全然強いです。俺に囲碁を教えてくれたのは佐為です。…ただ、今のあいつはオレとしか会えません。…他の人とはネット碁でしか打てないんです」

 ヒカルの言葉に、室内には緊張感が漂った。
 ヒカルは、小さな真実をちりばめながら、名人たちをうまく誤解させようとしていた。あかりと奈瀬、そして佐為は、今のヒカルの話をどうとられるかと固唾を呑んで見守った。

-saiの力は確かに進藤以上のものを感じた。二人と対峙した僕にはわかる…。そうか、saiが進藤の師匠。あれだけの人物に教わったというのなら、進藤の実力も納得できる。…あそこまでの碁を打てるのに、体が悪いのか…。お年なのか、病気なのか…。

 アキラが下した推測。塔矢名人、緒方もまた同様の推測に至っていた。

-なるほど…。実生活では身内しか会えず、対局はネットのみの人物か…。それであれば、引退したプロ棋士の誰かという可能性もあるが…
-進藤君が名を明かせないというのは、まだ何か理由があるか…。が、今それを明かせというのは時期尚早か…。

「進藤君。saiはプロにならないのではなく、プロになれないのだね?」
「…はい、そうです。saiは決してプロにはなれません。不可能です」

 こうして、名人親子と緒方は、ヒカルのミスリードに引っかかった。ヒカルが2年と区切ったのも、おそらく病気がそこまで深刻だと、医師に宣告されているのだろうと。そして、相手がそこまでの病人ともなれば、深く追及することがためらわれるのもまた人情というものだった。
 
 もっとも、佐為が実は幽霊で、ヒカルに以前の記憶があって、しかも佐為が2年後にもしかしたら消えてしまうかもしれないなどと、とてもではないが想像できる筈もなかったのだが。
 ヒカルが、佐為と1局でも多く打ちたいというのは紛れもない本心だ。だから、万が一の可能性を考えての、決断だった。少しでも後悔を減らすための。
 以前の別れを超えることができれば、もう後はまったく読めなくなる。その時は、佐為とともに先に進むべきだろうと、今は思えていた。プロになるのはそれからでも遅くない。

 
-いやー、ヒカルって嘘つくのが上手ですよねー。

 佐為のつぶやきに、あかりはうんうんと頷き、ヒカルは誰のせいだとの叫びをじっと我慢した。

「…ひとまず、君の事情は理解した。進藤君がプロ試験を受ける際には推薦しよう。…ところで、saiはネット碁なら可能なのだね?」

 名人のその言葉に、目をきらりと輝かせたのは3人。アキラと緒方、そして佐為だ。ヒカルは、ひとまず納得してくれたことにほっとしつつも、やっぱりそうなるかと苦笑した。

「…はい。そのこともあって、お話しようと思いました。佐為の都合もあるのでいつでもとはいえませんが、予定を組むことは可能ですよ。佐為も強い相手は大歓迎なんで」
「そうか、私もパソコンを用意せねばならんな。進藤君の師匠であれば、ぜひとも打ってみたい」
「先生のパソコンはオレが御用意しますよ。ふふふ。進藤の師匠か。腕が鳴るじゃないか」
「進藤っ!ボクも、ぜひまたお願いしたい!」
「はいはい。いっぺんには無理だからね。はぁ」

-やった、ヒカル!ほらほら、さっさと予定を決めましょう!
-分かったからおとなしくしてろって!後ろでおまえが騒ぐと気が散るんだってのっ!

 その後、はしゃぐ佐為を背負いながら、名人たちとの打ち合わせは進んだ。そして、少なくとも当分の間は、saiに関することはここだけの話にするということで落ち着いた。
 話を広めたくないヒカルと、対局機会を減らしたくない名人たちとの都合が見事に一致した結果だった。

 目を輝かせてヒカルに迫る男性陣を、女の子二人組は微笑みながら見守るのだった。話がうまくいったとほっとしながら。
 
 
 

 


  
 

 
後書き
誤字修正 追求 →追及 進藤君 → ヒカル君 

 

第29局

 海王中学2年の伊藤は、いらだつ気持ちを抑えきれないでいた。

 先日、進藤ヒカルが囲碁部に乗り込んできた時から、それまで主に囲碁部員を中心に流れていた、塔矢アキラに対する中傷を含めた流言はすっかり収まってしまった。今では、やはり塔矢アキラの力は本物だった、との意見が主流となり、進藤ヒカルはさらにそれを上回るすごいやつだ、との声が高まっていた。
 
 それが伊藤には面白くなかった。

 伊藤が囲碁を始めたのは小学校の時、学校のクラブ活動が最初だった。もともとインドア派でゲーム好きだった伊藤は、囲碁との相性がよかった。同時期に始めた同級生たちよりも強くなるのは早かった。同学年相手にはほぼ勝てるようになり、上級生を相手にしても勝ち越すようになるのもすぐだった。
 伊藤は囲碁に嵌った。都内の大会でも上位入賞の常連となり、全国大会に出場したことさえもあった。伊藤は、勝てる囲碁が好きだった。

 進学先の海王中学は、強い囲碁部で有名だった。伊藤は当然のように囲碁部に入った。そして、当然のように囲碁部でも上位に立てると考えていた彼のもくろみは、実現しなかった。囲碁部には、伊藤と同じレベルの人間が大勢いたのだ。そして、伊藤以上の力を持つ者もまた、何人も存在した。上級生はもちろんとして、同級生にも。

 伊藤は、囲碁部での1年間で、自分が決してトップに立てる人間ではないと分かってしまった。自分以上に囲碁に打ち込む者のことを、そこまでがむしゃらになるのも何かカッコ悪いと、どこか冷めた目で見ていた。そもそも、囲碁は所詮遊びだ。そこまでムキになるもんでもないじゃないかと、自分に言い聞かせていた。
 そんな伊藤と気が合う奴らもいた。トップは無理でも、そこそこ楽しめるならそれでよかった。伊藤はいつしかそう思うようになっていた。

 塔矢アキラの入学を知るまでは、それで問題ないと思っていた。

 ふざけた話だった。自分がどうあがいてもトップに立てない海王囲碁部。そんな囲碁部をあっさり越えるような奴が、新入生として入学したというのだ。しかも、校長自ら囲碁部へと勧誘までしたらしい。それをあっさりと断ったというのもまた癪に障る。なんとも人を馬鹿にした話だと思った。

 だから、塔矢アキラが、同じ1年相手にあっさり負けたときは、内心喝采をあげていた。

 それも、途中つぶされての惨めな敗北だ。ザマアミロと思っていた。


 それを見事にひっくり返された。あの、生意気な進藤ヒカルに。

 惨めな敗北などではなく、高度なレベルでのギリギリの応酬があったのだと、わざわざ思い知らされた。

 進藤ヒカルのおかげで、実感させられた。俺達とはランクが違う碁を打つ連中が存在するんだってことを。
 今まで、囲碁のプロなんて、住んでいる世界が違う、まったく別の世界の住人のようなものだった。それなのに、そんな連中が、同じ中学の下級生にいるということを思い知らされた。


 惨めだった。

 お人よしの連中は、ずいぶんあっさりと手のひらを返した。最初の頃の批判はすっかり忘れてしまったようだ。そんな連中のことも気に食わなかった。だから、話を持ちかけられた時、伊藤はすぐに飛びついた。生意気な下級生に、思い知らせてやると。









 ヒカルは、囲碁部の1年の奥村に連れられて、(ユン)先生の元へ向かっていた。なんでも、先日の件でヒカルに話があるらしかった。

-あー、なんだよもう、めんどくさいなぁ。
-この前のお説教でしょうか?
-げっ!部活邪魔しちゃったからかっ!あー、帰っちゃおうか?
-だめですよ。ちゃんと話せば分かってくれるはずです。
-そうだといいんだけどなぁ。

 だが、奥村はどうも対局室とは別の場所に向かっているようだった。

「あれ?対局室じゃないの?」
「ああ。こっちに昔の部室があるんだ。今は囲碁部の倉庫みたいになってるんだけど、そっちで待ってるって。あ、ここな。中で待ってるはずだから。それじゃ俺部活行くんで」
「あいよ」
-しかたねぇ、さっさと終わらせるか。
-さ、行きましょう、ヒカル。

「失礼しまーす。進藤です」
「よお、きたか。悪いな、先生は入れ違いになっちまった」

 中に入ったヒカルを待っていたのは伊藤だった。

「あれ、あんたは?」
「…口が悪い奴だな。囲碁部2年の伊藤だ。(ユン)先生からの伝言だ。この前、囲碁部の部活の時間を部外者が使ったんだ。代わりにここの片付けをしろってな」
「ここの片付けーっ!?」

 ヒカルはうんざりとして声を上げた。それほど広くはない部屋だったが、部屋の中は囲碁の道具や、各種書物、雑誌、トロフィーなどでゴチャゴチャだったのだ。
-うへーっ。こんなとこの片付けをしろってかー。
-まぁ、ヒカルが邪魔したのは確かですしねぇ。
-なんだー、おまえだってノリノリだったくせに!?

「ほら、ぼさっとしても終わらねえぞ。さっさとはじめろよ」
「へいへい」

 ヒカルは仕方なく、まずは雑誌類から片付けるかと書棚に向かった。どうにも納得いかないが、佐為が手伝えるはずもない。適当に片付けてさっさと帰ろう。

-昔の棋譜に、古い囲碁雑誌か。こっちの定石の本もえらい古いなー。
-ヒカル、沢山ありますねー。
-…読む暇はないからな、佐為…。

 片付け始めた様子のヒカルを見て、伊藤は席に座り、碁盤の用意を始めた。


「ついでに1局打ってもらおうか」
「え?」
「おっと、おまえは言われたとおり、片付けをやっていればいい。途中盤面なんかのぞきに来るなよな」
「……盤面を見るなと?オレに目かくし碁で打てってこと?」
-え!?目かくし碁!?なんと面白そうな!?
「いやいや。ただおまえが海王の1年なら、先生の言うことも先輩の言うことも聞くもんだってことさ」
「…碁は将棋と違って盤面が広い。目かくし碁がプロでも難しいってのは知ってる?」
「おまえならできるだろ。なにせ、将来の名人サマを軽く粉砕したんだ」

-…なーるほど…。こりゃ、嫌がらせってわけだ…。(ユン)先生が姿も見せないってのも考えてみりゃおかしいよな。
-ヒカルー、バシッと思い知らせてあげましょうバシッと。何でしたら私が代わりに!?

-……そーだな、それもいいか。佐為、おまえ打て。
-え!?いいのですか!?…でも、私全部見えちゃってますよ?
-いーのいーの。こんな相手にまじめに付き合うことないの。さっさと叩き潰しちゃえよ。
-…そうですね。囲碁を嫌がらせの小道具にしようなどと許せません。懲らしめてあげましょう!!
-…ノリノリだな…。

「頼まれてもいないのに、腕をひけらかすようなまねをしやがって。偉そうにみんなに向かって大口たたいたんだ。これくらい付き合えよ!」
「はぁ…。一手目をどうぞ」
-佐為、いくぞ。

「16の四、星」
-4の十六、星
「4の十六、星」

 伊藤の黒で、対局は始まった。

「これでおまえに勝てたら自慢だよなぁ。なにせ互先だ」
「……」
「あんまりカンタンに自滅されてもつまんねえから、せいぜい打ちマチガイは少なめに頼むぜ」
「…自慢するならさぁ、先輩。勝ってからにしてくれない?」

 ヒカルの言葉に、伊藤は吼えた。
「言うじゃないか!プロでも難しいといったのはおまえだ!楽しみだぜこの1局!16の十七、小目!」

-佐為、手加減はいらないからなー


 こうして伊藤の、当人大真面目の嫌がらせのつもりの、実は嫌がらせになっていないという実に奇妙な対局が始まった。







 

 

第30局

 部室の廊下では、伊藤の同級生で2年の小島と、ヒカルを連れてきた1年の奥村がこそこそと言葉を交わしていた。

「そろそろ進藤は苦しんでるかな」
「目かくし碁はいくら進藤でもキビシイっスよね」

 彼らもまた、この悪巧みにつるんでいたのだ。もともと伊藤と仲のいい小島は、伊藤同様に進藤と塔矢が気に食わなかった。そして、お調子者の奥村は先輩2人と話をすることが多く、うまく二人に乗せられていた。伊藤の計画を聞いて、これならいけると踏んだのだ。

「先輩が進藤の両手両足を縛るって言うから、何をするかと思ったんですけど、さっすがですねぇ」

 盤面を見ないで碁を打つなど、できるわけがない。小島も奥村もそう思い込んでいた。実際に目隠し碁を行った場合どうなったかは不明だが、それでも、伊藤たちの想像以上の対局になったことであろう。そして、現実はさらに予想の斜め上で行われていたのだが。


「さて、次はオレだ」
「ちょっと早くないっスか?」
「進藤のあえいでる姿を見たいしさ」

 小島はそういいながら、部室の扉を開け、中に入った。

「おい、進藤。オレと1局…」

 部室の中の様子は、小島の想像とは真逆だった。うなだれる伊藤に、平然と雑誌を眺める進藤。思わず伊藤に駆け寄り、盤面を覗き込んだ。

「これは…。大差の中押し負け……。手数が普通の半分だ……」
「2人目がいるとは思わなかったよ。打つんならさっさとしてね、先輩」

-そうか…。互先で勝負するもんだから、あっけなくやられてしまうんだ。手数が少なければ、目かくし碁も不可能じゃない…。


 小島はこんなことを考えていたが、なんてことはない。ただ佐為の圧倒的な力の前に伊藤が玉砕しただけだ。普通のアマチュアが、佐為と互先で勝負になるわけがなかった。
-まだまだ未熟ですねぇ。さ、次の相手はどうでしょうかね!?
-こいつも容赦しないでいいからなぁ、佐為。この古い定石の本、結構面白いな…。

-これじゃ俺もやられるだけだよ。おい、伊藤、どうすんだよ!

「おい、奥村!来い!」
「えっ?」

 伊藤は廊下で待つ奥村も部室内に呼び込んだ。

「一緒に打ってもらうんだよ、おまえも!」
「え?え?だって2人なんてムチャでしょ!碁にならないんじゃ…」
「1人じゃ話しにならなかったんだ」
「ウソォーッ」
「…やっぱりおまえもいたか…」

「なんだどうした、やめたやめたってか!?嫌なら…」
「あ、全然かまわないですよ、さっさと座ってください」
-さぁ、早く座ってください!?

 平然と構えるヒカルの態度に、伊藤のいらだちは深まる。

「ちっ!生意気な。打ってくれるそうだぜ、はじめろよ」

 奥村と小島は、恐る恐る対局を始めた。
「…じゃ、16の四、星」 -4の十六、星 「4の十六、星」
 『17の四、小目』 -4の三、小目 『 4の三、小目』

-ちくしょうっ!小島の奴はオレより下手だし、1年の奥村なんてもっと下手だ!俺よりも少ない手数でやられちまう!なんなんだこいつ、何でこんなことができるんだ!!

 5分もたたないうちに形勢は大きく傾いていた。佐為に。


-伊藤の話を聞いたときは面白いと思ったのに…。なんなんだこいつは!ほんとに年下の奴にこんなことができるってのかよ、しんじらんねぇ!
-ありえねーだろー。こんなの、人間業じゃあねえよー。


 奥村の心の叫びは、見事に正解を射止めていた。人間業ではなく、幽霊技とでもいえばいいのだろうか。しかし、この場の3人の誰もそのありえない事実に気づくことはなかった。


「あら、何で電気が点いてるのかしら」

 そういいながら、部室のドアが開いた。開けたのは、囲碁部3年の日高だった。

「やべ…。日高先輩…」

 日高は部室の中の様子をざっと眺めた。日高の登場に驚きうろたえる3人の部員と、先日の1年、進藤ヒカル。

「伊藤に小島…。あんた、1年ね。ちょっと。何やってんのよ」

「いえ、あの、(ユン)先生がこの部屋を片付けてくれというので、ちょっと進藤に…」
「オ、オレ達も進藤に指導碁頼みたかったんスけど、進藤は手が離せなくて…」

「だから?」

「ちょっと目かくし碁を……」

「バカ!何が進藤は手が離せないよ。だったらあんたたちも手伝えばいいでしょ!」

 状況を把握した日高は、激昂した。正義感の強い日高が許せる状況ではなかった。

「進藤!こんな片付け私がやるから、あんたはその2人をさっさとやっちゃいな!」

「あー、日高先輩だっけ、落ち着いて落ち着いて。盤面をよく見てよ」

 のんびりとしたヒカルの口調に少し戸惑いつつ、日高は盤面を眺めた。

-これは…。手数は少ないのにどちらも白が圧倒している…。これが目かくし碁だって言うの?目隠し碁なんて普通できるわけないのに…。この程度のことじゃ、進藤には嫌がらせにもなってないってこと?

「ね。まったく問題ないですよ、先輩。ちょこっと”指導”してあげてただけなんで」
「で、でも!」

「あーっ!ヒカルッたらこんなところにいたーっ!!」

 開いたままの扉から叫び声がしたかと思うと、あかりが飛び込んできた。

「あ、あかり!」
「もー、かばん置いてどこに行ったのかと思ったらこんなとこでっ!何で私に黙っていなくなるのっ!」
「あー、いや、その、これは…」
-あらー、ヒカル、あかり怒ってますよ。
-そんなの見りゃ分かるっての!

 突然のあかりの乱入に、今度はヒカルがうろたえた。

「私をほったらかしにしてこんなところで碁を打ってるなんて。しかももう終わってる碁じゃないっ!いつまでも何してるのよっ!」

 あかりは盤面をチラッと見ると、おもむろに白石を手に取った。

「こっちはここを突き出せば、ここの黒石全滅だし」
「あ…」
「こっちはこのハネダシで、抑えれば次は両あたり、手抜きは地が大損でいずれにしても黒おしまい」
「ゲ…」

 即座に打たれたあかりの手を見て、絶句する囲碁部の面々と頭を抱えるヒカル。

「あちゃー…」
-さすがあかり、見事なとどめですね!?

 日高もまた驚愕していた。
-そ、そんなこの子、今チラッと見ただけなのに、盤面を一瞬で把握して黒の急所を捉えたっていうの?いくら手数が少ないからってそんな…。この子はいったい…。

 静まり返った室内の様子に、あかりはようやく気付いた。

「あっ!私ったらごめんなさい!あまりにひどい碁だったんでついうっかりっ!!」
「…あまりに…」
「…ひどい碁…」
「あかり、あかり、それフォローになってないから」
「あ、いや、その、私!」


 気まずい沈黙を破ったのは、日高の笑い声だった。

「あはははははははははっ!面白いわね、あんたたち。ね、あなたって進藤の彼女?」
「えーっ、彼女だなんてそんな!」

 大笑いする日高と、顔を真っ赤にして照れるあかり。落ち込む3人をよそにすっかり室内の空気が変わり、ヒカルは力なく声をかけた。

「えっと、日高先輩…。もう俺たち帰ってもいいかなぁ?」
「ええ、そうね。あとは囲碁部で片付けるわ」

 日高はようやくおさまってきた笑いをこらえながら、そう答えた。

「迷惑をかけたみたいで、ごめんね」
「気にしないでいいですよ。ほら、あかり、帰るぞ」
「あ、待ってよ。し、失礼しましたー」

 立ち去る2人を見ながら、日高は落ち込む3人にあきれた視線を向けた。

-嫌がらせをする相手を完全に間違えてるわよね、こいつら。ま、自業自得か。さて、どうしてくれようかな、まったく。

 3人の試練は、まだ終わっていないようだった。

  

 

第31局

 恒例となった、塔矢家での勉強会。だが、今回はいつになくピリピリとした緊張感が漂っていた。
 原因は緒方だ。明らかにイライラとしていて機嫌が悪かった。いつも以上に険しい目つきだ。
 芦原と対局していたあかりは、緒方の様子を横目にこっそりと声をかけた。

「ねえ、芦原さん。なんか、緒方さんすっごく機嫌が悪そうですね」
「そうなんだよ。ついこの前、碁聖戦の挑戦者決定戦があってね。桑原本因坊相手に、見事に負けちゃったもんでね…」
「あー…、なるほど」
「まったく、迷惑なもんだよ。まあ、勝てば塔矢先生に挑戦できる大事な勝負だったことは確かなんだけどさ。負けちゃったもんは仕方がないのにねえ。すねちゃって、まぁ」

 抑えたつもりの芦原の声だったが、しっかり周囲には聞こえていた。思わずこぼれる笑い声に、笑われた当人の怒りは高まった。

「…芦原!」
「うえっ!あ、ほら、藤崎さん、そこはハネちゃだめさっ!ノビないとっ!」
「あ、え、あ、そうですよね、ノビですよねっ!」
「ハハハ。まぁ、緒方君もそろそろ落ち着くといい。確かに残念な結果だったが、いい碁だったじゃないか。そうだな、この辺でいったん休憩にしようか」
「…芦原、覚えておけよ」
「あ、お茶入れてきますねー」
「あ、逃げた。でも、緒方先生なら、きっとすぐに次のチャンスが来ますよ」
「ありがとよ、進藤。まったく、子供に慰められるとは。まだまだだな」
「でも、緒方先生みたいにすごい人でもタイトルに挑戦するのさえ難しいんですもんねぇ。やっぱり塔矢先生はすごいんだなぁ」

 奈瀬が思わずつぶやいた言葉に、緒方は大きく頷いた。

「そうさ。ほんの一握りの選ばれた者達だけがたどりつける頂だ。まさにもう一歩のところまで迫れたんだがな…」

-この者の力であれば、たどりつくのはそう先のことではないでしょうね、ヒカル。
-そうだな、佐為。緒方さんなら、間違いない。

「さ、お茶ですよー」



「そうだ、塔矢先生、お知り合いに、古美術関係に詳しい方っていませんか?」
「古美術関係?」
「ええ。ちょっと気になるものを見つけたんで、詳しい人に確認してほしいんですよ」
「進藤君は古美術に興味があるのかね?」
「いえ、たまたま見つけたお店で見かけた花器なんですけどね、前に図書館の本で見た物と似てる気がして」

「柿?何で古美術で柿?」
「…芦原さん、果物じゃないよ。花の器って書いて花器ね」
「……」
「そうだな。囲碁の道具の手入れを定期的に頼んでいる店がある。そこは古美術品も扱っているから、そこの主人なら詳しいのではないかな」
「へー。囲碁の道具ってそういうお店に頼んだりするんだー」
「ああ、藤崎さんは知らないんだ。たとえば、碁盤の盤面とか何十年何百年と使っているとかすれてしまうんだ。それ、漆で線引きするから、専門の業者を経由して頼むんだよ」
「へーっ!これ漆なんだ!」
「お、花器も知らなかった芦原が、ずいぶんえらそうだな」
「あ、また緒方さんはすぐそうやって!」
「アキラなら知っているな。今度進藤君を紹介してあげるといい」
「あ、はい。分かりました。進藤、案内するよ」
「ああ、頼むな」

-慶長の花器のことですね、ヒカル。
-ああ。あのままにしておくわけにはいかないからな。

 江戸初期の慶長時代、天才作陶家と謳われた弥衛門。彼が残した数々の作品は、今もなお多くの愛好家達にとって垂涎の品だ。そんな弥衛門が残した作品の中でも、真骨頂といわれるのは花器。形には品があり、藍色の冴えは素晴らしいものがあった。
 そんな花器の中でも、幻の一品と呼ばれている物があった。かつて、佐為が秀策とともに京の御所へ囲碁指南に(おもむ)いた際に目にしたその花器と、ヒカルは以前の世界で偶然に遭遇していた。佐為にとっても大事な思い出の品であるその花器、ヒカルはこの世界でも何とかしようと思っていた。
 
 そして、つい先日、以前の世界と同じように店の主人を口車に乗せて、花器を入手すること自体には成功していた。(ガマ蛙顔におびえる佐為が非常に邪魔だった…)
 しかし、以前の世界で出会った本来の持ち主の女の子とは、遭遇することができなかったのだ。詳細な日時までは記憶に残っていなかったためだ。当時騙されていた男性もいなかったので、どうやら以前とは別の日だったようだ。そのために、まだ花器を本来の持ち主に返すことができていなかったのだ。
 貴重な品物であるだけに、このままにしておく訳にもいかなかった。
 そこでヒカルは考えたのだ。有名な作品であれば、その道のプロであれば持ち主などの情報もあるのではないかと。祖父ではどうもあてにならないと判断したヒカルは、塔矢名人に伝手を頼んでみることにしたのだった。


 そして、アキラの案内で紹介された店主は、まさにヒカルの期待通りの人物だった。古美術愛好家としても有名な人らしく、その業界ではかなりの重鎮とのことだった。彼は、弥衛門の幻の作品とまで言われた花器が半年ほど前に盗難にあっていたことも聞き及んでおり、それが無事に発見されたことを我が事のように喜んでくれた。そして、自分の責任で間違いなく本人に返却すると約束してくれた。
 塔矢名人の紹介で、人柄的にも信頼できると判断したヒカルと佐為は、花器を預ける決断を下した。正直、どれだけの価値があるかわからないものを、これ以上素人の自分が持っているのが怖かったというのも理由の一つだったが。


 若獅子戦が倉田プロの優勝で幕を閉じ、迎えた塔矢家勉強会。その日は、驚きの出会いが待ち受けていた。

「進藤君、先日道具屋の主人より連絡があってね、君が預けた花器は無事に持ち主の手に戻ったそうだよ」
「あ、本当ですか!ありがとうございます!」
―よかったですね、ヒカル。

「道具屋の主人はえらく感心していたよ。若いのにずいぶんと物を見る目があると。しかも、価値を知ったうえで、持ち主に返却しようだなどと、立派な心がけだと」
「いやー、そんな大したもんじゃないですよ。オレが持ってるよりきっと元の持ち主のほうが大切にしてくれると思いますし」
「へぇ。塔矢先生、そこまで大した品だったのですか?」
「ああ。道具屋の主人によると、とても値段などつけられないもので、いずれ国宝に指定されてもおかしくないだけの品だそうだ」
「な!?…驚いたな、進藤、よくそんなものを見つけたもんだ」
「えっ!ヒカルが持ってたあのお皿、そんなにすごい物だったの!」
「へー、見てみたかったなぁー」
「たまたまですよ、たまたま」

 何気なく問いかけた緒方は、まさかそこまでのものとは思ってもおらず、非常に驚いた。それだけの物を持ち主に返却して何の屈託もないヒカルの様子を見て、改めてこいつは大物だとの思いを深めた。
 
「しかし、惜しいな。それだけの品なら俺も見てみたかった」
「私もそう思っていたよ、緒方君。今日ここにいる皆は幸運だったな」
「と、おっしゃいますと?」
「うむ。本来の持ち主が、ぜひとも進藤君にお礼を言いたいということで、今日こちらに見えることになっているのだよ。その際、私が花器を目にしていない事を告げたところ、快く見せていただけることになったよ。私としても非常に興味深い」
「おお、それは嬉しいですね」
「わー、私も見たかったからよかったー!ふふふ、こんな日にいないなんて、芦原さんも残念ね」
「ほんとにな。あいつは日ごろの行いが悪いんだろうな」

 今日は不在の芦原をネタに盛り上がる皆の様子を眺めながら、行洋はどこかいたずらっぽい笑みを浮かべていた。

「あなた、お客様がいらっしゃったわよ」
「ああ、明子、ありがとう。私が迎えに行こう」

 行洋が自ら出迎えに行くことに軽い驚きを浮かべるのは、緒方とアキラだ。2人はどうやらかなりの大物が来たらしいと悟った。

「こちらです。どうぞ、桑原先生」
「ふぉふぉふぉ、お邪魔するよ」

 囲碁界のトップの一角、桑原本因坊の登場に、室内のだれもが驚愕した。 

 

第32局

「桑原本因坊じゃありませんか、驚いたな」
「ふぉふぉふぉ、先日の手合いでは済まんかったの、緒方君」
「…いえ、すべては自分の力不足です。まさか力碁でねじ伏せられるとは、いい勉強になりました。今度の本因坊と名人との対局、勉強させて頂きます」

「どれ、名人。この者たちを紹介しとくれんかな」
「少し前から、時折息子と勉強会を開いている友人たちです。息子のアキラ、藤崎あかり君、奈瀬明日美君、そして、今回の花器を見つけた進藤ヒカル君です」
「初めまして、塔矢アキラです」
「初めまして、藤崎あかりです」
「は、初めまして、奈瀬明日美です」
「どうも初めまして、進藤ヒカルです」
―佐為、このじーさんが今の本因坊なんだぜ。
―……なんか、やだ……

 各人、驚きながらも自己紹介をこなす。また有名人が現れた―、と驚愕しているお姉さんが約1名いたり、昔なじみの顔を思い浮かべて、失礼にもガッカリしている幽霊が約1名いたりしたが。

「これはこれはご丁寧に。君が進藤ヒカル君か、今回は本当に感謝しとるよ。君のおかげで我が家の家宝を無事に取り戻すことがかなった。もう二度と戻ることはないのではないかと覚悟していたところじゃったんじゃ。まこと、ありがとうの」

 そう言うと、桑原はヒカルに対して深々と頭を下げた。
 そのいつになく丁寧な態度に、行洋と緒方は何よりも驚いた。普段、周囲の人間をけむに巻くような言動が多いのが桑原だ。碁界の中でも最高齢に近く、かつ現役の本因坊のタイトルホルダーだ。桑原に対して堂々と上座に座れる者は少ない。
 
 現在タイトル戦は数多くあるが、その中で七大タイトルと呼ばれるものがある。
 棋聖、名人、本因坊、天元、王座、碁聖、十段の7つだ。
 
 さらにこの中でも、棋聖、名人、本因坊の3つは別格で、三大タイトルとも呼ばれている。リーグ戦の勝者が挑戦者となり、勝負は七番勝負で競われることとなる。それも、持ち時間8時間の長丁場だ。他のタイトル戦とは格が違った。
 そして、賞金額こそ譲るものの、本因坊といえば最も長い歴史のあるタイトルだ。ある意味、囲碁界の頂点ともいえる。
 現在、棋聖のタイトルは一柳(イチリュウ)が持ち名人のタイトルは行洋が持つ。まさにこの三人が現時点の国内トップと言って差し支えないだろう。
 そして、その行洋や一柳を相手にしてさえ飄々とした態度を貫くのが桑原だ。行洋も緒方も、桑原がここまで真摯な応対をするところを見るのははじめてだったのだ。

―あの桑原先生が、まさか子供に対して心から頭を下げる場面に居合わせるとは…。まったく進藤、ほんとに不思議な子供だな。

「あ、いや、ほんとに偶然見つけただけなんで、気にしないでください」
 慌てて手を振るヒカル。ヒカルにしても、まさか慶長の花器の元の持ち主が桑原本因坊とは予想もしていなかっただけに、その驚きは大きかった。

「店主から連絡を受けた時は誠に驚いたもんじゃよ。まさか、名人ゆかりの者が届けてくれるとはの」
「私も驚きましたよ、まさか桑原先生の名前が出てくるとは、思ってもいませんでした」
「ま、それで礼を言いがてら、今度の碁聖戦への挑戦者としてのあいさつも兼ねてな、今日は足を運んだんじゃ」

―しかし、この進藤という少年、何やらただならぬ気配を感じる…。どうやらただの小僧ではないようじゃ。これは、わざわざ足を運んだ甲斐があったというものじゃの。

「それにしても、進藤といったの。これだけの品を見つけていながら、皆に見せておらんとは何とももったいない。これも何かの縁と思っての、今日は皆に見てもらおうと持参したのじゃ。そこのテーブルを借りるぞ」
「アキラ、折角だ、明子も呼んでくるといい」
「あ、はい」 

 行洋に告げられて、別の部屋にいる母明子を呼びに行くアキラに、ヒカルは声をかけた。

「あ、塔矢、ついでにきれいな水を汲んできてくれないか」
「きれいな水?」
「ああ。桑原先生、いいですよね」
「ほぉー、そこまで知っておったか。いや、若いのに大したもんじゃ。ああ、かまわんとも」



「失礼します。ご一緒させてもらいますね」
「進藤、これくらいでいいのか?」
「ああ、十分だ」
「そろったようじゃの、では」

 桑原はそういうと、箱の中にしっかりとしまってあった花器を包み毎取出しテーブルの上に置いた。そして静かに包みを開いた。

「…花器って言うから、花瓶みたいなものかと思ってた…」

 花器を見た奈瀬は思わずつぶやいた。白地に藍色の模様が描かれた、とても澄んだ色の深皿のお皿のような陶磁器だった。

「さて、進藤、ここからどうするかわかるな?」
「はい。塔矢、水借りるな」

 ヒカルは答えると、花器に水を注いだ。
 するとなんと、注がれた水の底に、たくさんの小さな花模様が浮かび上がったのだ。

「うわー、きれー」
「すごぉーい!」
「なんと!」
「これはまた…」

 それを目にした全員が、あまりの美しさに感嘆の声を上げた。

「普段は大事にしまっておくことが多かったからの。ワシも実に久しぶりじゃ。実に見事なもんじゃろう」
「花器は花を活けてこそ花器。弥衛門、最後の傑作だってさ。特別な釉薬(うわぐすり)が塗ってあるから、他の作品とは違って見えるらしいよ」
―やっぱり、何度見てもスゲーな。
―ええ。私と同じように、長い時の流れに身を置いているこの花器に、また巡り会えるとは。なんと感慨深いことか。

 ヒカルの言葉に、桑原は改めてうなずく。
「さよう。それゆえ、一般には幻の花器とも呼ばれておるのじゃよ」

「いや、まさかこれほどの品とは…。まこと、眼福です」
「ふぉふぉふぉ。これをまた見ることがかなったのも、進藤のおかげよ。これだけは何としても孫に残してやりたかったのでな。何ともありがたいことよ。進藤、この借りはいずれ必ず返すでな」

 
 

 そしてその後、とりあえずは最初のお礼ということで、本因坊までもが指導碁に参加してくれることとなり、約1名のお姉さんが非常に動揺したり、指導碁のつもりが自分と同等レベルの棋力を持つ少年の存在に約1名のタイトルホルダーが驚愕したりと、この場に集った多くのものに、様々な収穫があった1日だった。

 ここにまた一つ、新しい出会いが生じたのだった。 

 

第33局

「塔矢と奈瀬のプロ試験がいよいよ開始かぁ」
「奈瀬さんは院生の成績で予選免除だって言ってたもんね。まずは塔矢君の予選からだね」
「まぁ、塔矢なら予選は問題ないだろ」
「…緊張するとも思えないもんね」
―よほどのことがない限り、問題はないでしょうね。彼ならば。今度の”ねっと対局”も楽しみです。

 いつものヒカルの部屋で、今日もヒカルとあかりは佐為を交えて対局していた。もうすぐ夏休みで、プロ試験の予選開始も目前だった。ただ、予選程度でアキラがもたつく訳がないと、3人の意見は一致していた。ヒカルは当然として、あかりもアキラの実力はすでに思い知らされていた。

 また、ネット碁の対局相手が増えた佐為は、ここ最近上機嫌が続いていた。塔矢名人や緒方はさすがに本人たちが忙しく、まだそれほどの対局はこなしていない。だが、アキラとの対局は、あかりと奈瀬の次に増えていた。


「そういえば、あかりはどうする?そろそろ院生に入ってみるか?」
「うーん…」

 ヒカルは、このまま着実に力をつけていけば、あかりもプロになれると踏んでいた。幼少の頃からヒカルと佐為相手に打ち続けてきた経験は、以前の世界とは比べ物にならないくらいあかりの力を大きく引き伸ばしていたのだ。ただ、まだ多くの相手と打つという面では経験が不足しているとも感じていた。ネット碁もアキラたちとの対局も、ここ最近での話だ。まだまだ足りてはいない。

 碁は、上手相手ばかりではなく、下手と打つこともまた大切だ。相手の悪手や無理筋を上手に咎めて仕留めるのもまた経験が必要なのだ。筋は悪いが力勝負が得意といった相手との碁は、ヒカルたちが相手ではなかなか経験を積むことができないのだ。
 無理が通れば道理が引っ込むとの言葉にもあるように、無理筋は上手に咎めてこそ無理筋となるのであって、咎め損ねれば一気に受け手が悪くなることとなる。それもまた碁の一面なのだ。2人で交互に打つことでしか成り立たない、碁の面白さともいえる。

 そういった意味でも、多くの打ち手との対局することになる院生での経験は、あかりにとってプラスになるとヒカルは考えていた。また、単純にプロ試験を受けることだけを考えても、院生になっておいて損はない。院生の上位8名は、予選免除でプロ試験本戦から受けれるのだ。


 あかり自身も、自分の力ではまだ不足していると感じていた。実際、春に始めたネット碁の成績は、黒を持ったときに比べて白を持ったときが若干下がる。今までヒカルや佐為相手ではずっと黒を持っていたので、経験が足りていないのだ。特に、ガチガチの力勝負はやや苦手としていた。


 あかりは、これから先もずっとヒカルのそばにいたかった。今は当然のようにヒカルのそばにいるが、このままの時間が続くことがありえないのはわかっていた。
 塔矢家での勉強会を経験することで、あかりは改めて実感していた。ヒカルはプロになる。すでにプロとして十分以上の実力を持っている。中学3年で受けるプロ試験に間違いなく合格するだろう。
 ならば、この先もヒカルのそばにいるためには、自分もプロにならなくてはいけない。

 
 ただ、ヒカルは院生にならない。だから、院生になると、ヒカルのそばにいる今の時間が減ってしまう。そのことが、あかりを躊躇わせていた。

「もうちょっと考えてみてもいいかなぁ?」
「まぁ、俺が院生になったのも、中1の冬だったからな。慌てることもないか」


-…ずっと、今が続けばいいのにな。

 あかりが心の中で小さくつぶやいた思いは、佐為だけに届いていた。佐為は、そんなあかりを優しげな目で見つめていた。








- アメリカ -

 第20回国際アマチュア囲碁カップを目前にして、アメリカ代表の青年は心を高ぶらせていた。

-今のボクの力でどこまで通用するか…、ほんとに楽しみだ。今回はネット碁のおかげで、かなり充実した練習ができたからな。この半年で、ネット碁の参加者のレベルは数段上がった。今じゃプロレベルの参加者もさほど珍しくない。これもすべてsaiのおかげだ。saiの存在が広まるにつれて、大勢の上級者たちがネット碁に集ってきた。JPN、日本のsai。彼はいったい何者なんだろう…。








- オランダ -

 オランダ代表の大学助手の壮年の男性もまた、saiに思いを馳せていた。

-ネット碁に突如現れてから今だ無敗…。まったくチャットを交わさない、正体不明の人物…。すでに、日本・中国・韓国の何人ものプロたちが敗れているにもかかわらず、誰も知らない謎の打ち手…。最近のsaiの対局相手はますますレベルが上がっている。ボクが見ても理解できない碁も多い…。以前に比べて対局数が減っているのがほんとに残念だ。せっかく日本にいけるんだ。今度の日本での大会、saiの事が少しでも分かればいいのだが…。そして、彼の弟子たち、akaとasuの事も…。最近になって、akiraという人物もsaiとの対局が増えているが、果たしてsaiとの関係は…。








- 中国 -

 中国代表の()は、ネット碁で今日もsaiの対局を観戦していた。

-…相変わらず、強い。相手も間違いなくかなりの腕前なのに、saiに翻弄されている…。今のsaiの手、最強の一手でも最善の一手でもない……。明らかに相手がどう打つか試している手だ。それも、はるかな高みから見下ろしているかのように…。今回もまた、saiの勝ちだな。相手はyu…、KORだから韓国か…。先日対局していた日本のRX7も随分と強かったが、この相手もまたかなり強い。これだけ打てるのならこの相手もまたプロの可能性が高いが…。どうやら各国のプロたちがsaiに気づき始めたというのは事実のようだ…。ほんとに何者なのだろう、saiは…。








- 韓国 -

 韓国代表の(キム)もまた、電話で連絡を受け、友人のネット対局を熱心に見つめていた。

-ボクが先日歯が立たなかったsai…。ボク程度ではsaiの実力の底は見えなかった。まさか、彼でも太刀打ちできないとは…。

 そう、局面はすでにsaiの黒が圧倒的に押していた。白の最後の勝負手も、saiにサバかれてしまった。

-…勝負はついてしまった。白は投げ場を求めているだけだ…。何人ものプロたちが、sai相手に負けているとの噂は確かにあったが、彼でもかなわないのか…。

 そう、(キム)にsaiとの対局が始まるから、しっかり見とけと電話をかけてきたのは、友人であり、韓国プロ棋士の()七段。彼は紛れもない韓国トップ棋士の一人だ。
 以前に、ネット碁のsaiに(キム)があっさり負けていたことを聞いていた彼が、敵討ちだと偶然見つけたsaiに挑んでいたのだった。

 画面は、白の投了で終了した。

-今日もsaiの勝ちか…。

 その時、電話が鳴った。

「もしもし、見てたか?」
「…ああ、見てたよ、残念だったね」
「残念なもんか。まさかここまで強いとは思ってもなかったよ。すまないな、お前の敵を討ってやるつもりだったのに…。お前今度日本に行くんだったよな?是非、saiが誰なのか、聞いてきてくれ。間違いなく日本のトッププロだから。絶対にアマチュアのはずがない!」
「…そうだね、ボクもすごく興味があるよ。大会は4日ある。日本のプロも来るはずだ。きっと、saiのことを知っている人がいるはずだよね」

 (キム)は日本滞在中にsaiのことを少しでも掴もうと決意していた。








- 日本 -

 和谷の今日の対局相手はakaだった。saiの弟子とのうわさが高い、やはり謎の打ち手だ。

-こいつも強いな。伊角さん並か?でも、伊角さんは違うって言ってたしなぁ。そもそもネット碁さえしてないし。…あ、くそ、左辺を削られたらかなり細かくなるか…。こりゃ、半目勝負になるか…。

 最近は平日の夜にちょくちょく見かける名前だった。saiの弟子との噂もあり、その噂に恥じないだけの勝率を保っている。

-あ!?そこにつけられたら…、くそ、ただじゃ取れない…。コウか!!だめだ、ちくしょう!!コウ材はこっちがぜんぜん足りないのに!!

 ギリギリ保てていた均衡が崩れた。和谷は投了した。

”お前は誰だ?俺は院生だぞ!!”

 してやられてしまった和谷は、悔しさから思わずチャットで呼びかけた。自分は院生だ。仮にもプロを目指している人間なのだ。強いとはいえ、それなりに頻繁にネット碁を打つakaがプロとは思えない。それなのに、院生の自分に匹敵するかそれ以上の力を持っている相手が、ネットとはいえ存在するのだ。和谷はとても冷静ではいられなかった。

 しかし、チャットの返事は返ってこなかった。akaの名前は、ログアウトして消えた。

-くそっ!プロ試験も始まるって言うのに…。プロになれるのはたったの3人。どんな相手が来ても、勝たなくちゃいけないのに…。今年は塔矢名人の息子が受けるって言う噂もあるってのに…。

 akaの名前が消えた画面を、和谷はじっと見つめていた。




 

 

第34局

 1学期の終業式を目前に控えた今日、ヒカルは、海王囲碁部の主将岸本に校舎裏に呼び出されていた。

「2年の伊藤が退部したよ。なぜ囲碁部にちょっかいをかける、進藤」
 岸本は眼鏡をクイッと押し上げながら、ヒカルに目線鋭く問いただした。

「君たちのせいで、部員は多かれ少なかれ動揺している。部長の俺とてそうだ。俺は正直君と対局したいし、教えを請いたいと思っている。しかし、まわりの視線が言ってるんだ。海王の部長が1年にあっさり負ける姿は見たくない、とね。君にぶつかっていきたくてもできない」

「…それで?」
「お前たちの存在は、俺たち海王囲碁部にとって、百害あって一利なしだ!今後俺たちにちょっかいをかけるのはやめてくれ!」

「…ちょっと気になってたんだけどさ、あの部屋って他に誰もいなかったけど、普段は使ってないの?」
「…あそこは昔の部室で、今は倉庫として使ってるからな。大会があるときに控え室として使うくらいだ。それよりも、人の話を」
「あの部屋としか言ってないんだけど、どの部屋か分かるんだ?」
「……、伊藤にお前と何があったか聞いていたからな。そう思っただけだ」
 岸本はまた眼鏡をクイッと押し上げながら答えた。眼鏡に光が反射していて、目元はよく見えなかった。

-?どういうことです、ヒカル?
-…、まぁどうでもいいことなんだけどな。

「普段使ってない教室ってさ、普通鍵がかかってるよね。理科室とか、音楽室とか。ただの2年生の部員が、部屋の鍵って持ってるもんなの?」
「……、何が言いたいんだ?」
「んー、まぁ別にどうでもいいんだけどね。囲碁部にこれ以上かかわる気なんてないし」
「なら今後は」
「ちょっと聞き捨てならないわね」

 岸本の声が突然さえぎられた。校舎の陰から歩いて出てきたのは、日高だった。

「日高…」
「ごめん。二人が歩いてるのが見えたんでちょっと気になってね。それより岸本君、部室の鍵は対局室の鍵とペアになっていて3組しかないはずよね?(ユン)先生が1組。そして職員室の鍵保管庫に、1組。これはその日の当番が毎日交代で取りに行って、対局室や部室の開け閉めに使うから、部活が終わるまでは当番の人間が持ってるわね。そして、最後の1組は、部長である岸本君、あなたが持ってるのよね。だったらあの日、伊藤はどうやって鍵を開けたの?」
「…伊藤が当番だったんだろう?それか、(ユン)先生に借りたんじゃないのか?」
「あの日、先生は出張よ。だから、いつもの部活の時よりもみんな少し騒いでいて、途中で抜け出しても誰も気にしなかった」
「…なら、当番だったんだろ」
「…それもありえないの。あの日、私があいつらに説教した後、私が部室の戸締りをしたのよ、誰にも言わないで。…たまたま私が当番だったからね。…最近の岸本君、らしくないよ」

 岸本はうなだれていた。

-なるほど、このものが手を引いていたのですか。
-ま、そうみたいだな。

「岸本さん、知ってる?碁って一人じゃ打てないんだよ」
「…あたりまえだろう」
「そう、あたりまえさ。二人で打つものだからね。そして、勝つのは一人。負けるのも一人。分かる?負ける人がいるから碁が成立するんだよ。負ける人がいるのはごく当たり前のことなんだ。プロの棋士でも、どんなに偉い人でもそれは同じ。…当然どこかの部長様でもね」

「…進藤」
「負けることを嫌がっていたら、駄目なのさ。そりゃ、自分より弱い相手だけと打っていたら負けないさ。でもそれじゃあ絶対に強くなんてなれない。まわりの視線が気になるなんて、気にする方向が間違ってるのさ。碁打ちとして成長したいのなら、負ける事を避けちゃいけないんだよ。塔矢を見てたら分かるだろう?あいつは暇があったら俺に対局を申し込んでくるぜ」

「……」
「進藤、何度も囲碁部が迷惑かけてすまないね。岸本君は私が後できっちり絞っておくから」
 うなだれる岸本の肩に手をかけながら、日高はヒカルに告げた。

「ま、別にたいした事されたわけじゃないんで」
「…あんたって、見かけによらず随分大人っぽいのね。まったくどっちが年上なんだか」
-うんうん。ホントにしっかりしてきましたよね、ヒカルは。
「いや、別にそんなことないですよ」
 照れるヒカルの様子を見て、日高はいたずらっぽく笑う。

「囲碁部の女子たちで結構噂になってるのよ。囲碁部に乗り込んできたあんた、結構かっこよかったってね!いつでも遊びに来なさい。少なくとも女子は大歓迎するわよ!」
「ハハハハハ…」
-おー、モテモテですね、ヒカル!
-……いや、ほっといてくれ。







 夏休み前最後の塔矢家での勉強会。今日はプロは緒方さんだけの参加だった。

「さ、じゃあ次の対局しようぜ。奈瀬、打とうか」
「うん、おねがい!あ、そうだヒカル君、夏休みに入ったら勉強会の回数増やすことはできないかな?もう、プロ試験目前だしさ!」
「んー…、まぁ、今より少しなら構わないかな…。ちょっとやりたいこともあるし、毎日とかは無理だよ?」
「うわーっ、ありがとうっ!」
「進藤、ここもいつでも構わないからな。でも、やりたいことってなんだい?」
「いや、せっかくパソコンもあるから、佐為との今までの対局の棋譜をまとめたりしたいなって思ってるんだ」
「あ、ヒカルの本棚、佐為との棋譜がかなりたまってるもんねぇ。パソコンに整理するんだ?」
「ああ。夏休みなら時間も取れるしさ。紙だとかさ張るばっかりだし」

 実はヒカル、佐為との対局はすべて棋譜として記録を残していた。ただ、あかりの言うようにかなりの数があるため非常にかさ張り、場所をとる。それに、昔の棋譜を探すのも大変だったりするので、そろそろ整理しようと考えていたのだ。夏休みだし、いい機会だと。
 そう話していたヒカルの肩を、緒方とアキラががっしりと掴んだ。

「おい。そんなものがあるのに今まで黙っているとはいったいどういうことだ!」
「そうだ進藤っ!ずるいじゃないか、隠してるなんてっ!」

 ヒカルはぎょっとして後ずさろうとしたが、二人の手はガッチリと肩を掴んで離れない。

「うおっ!緒方さん!塔矢も、なんか二人とも目が据わってるっ!いや、ずるいって、別に隠してたわけじゃないって!」
「だったらすぐに出さないか!ブログでも作って棋譜を全部見れるようにしろ!」
「いや、そんな無茶言わないでよ緒方さん!全部ってすごい数なんだから!それにおれパソコンあんまり詳しくないから、とりあえず夏休みにパソコンの勉強から始めるんだから!それに、棋譜を整理するだけなんだけどっ!」
「そんなの待てるわけないだろうがっ!」
「進藤っ!saiと君の対局を是非見たいんだ!?」

 そんな二人を押さえ込んだのは奈瀬だ。

「ああもう!緒方さんも塔矢君も落ち着いてっ!今はヒカル君は私と碁を打つの!邪魔しないでっ!」
「…すまん」
「…ごめんなさい」
「もうほんとに男の人ってすぐ見境がなくなるんだから…。はい、ヒカル君、打つよ!」
「…ああ。おねがいします」
「おねがいします!」

 奈瀬の剣幕に思わず謝る緒方とアキラ。もう奈瀬もすっかり勉強会の空気になじんでいた。たとえ相手が緒方であろうとも、ヒカルとの貴重な対局機会を減らすわけにはいかないのだ。遠慮ばかりはしていられなかった。

-取りあえずおさまりましたね、ヒカル。
-…あー、このまま終わるとは思えないんだけどなぁ…。

 どうやらヒカルにとって、過酷な夏休みとなりそうな気配だった。あかりと佐為は顔を見合わせて、思わず溜息を吐いた。  



 

 

第35局

 プロ棋士採用試験の予選、塔矢アキラはあっさりと通過を決めた。予選は1日1局持ち時間2時間で、最大5局打つ。3勝で本戦に勝ち抜け、3敗で予選敗退が決まる仕組みだった。
 アキラは当然のように3連勝で勝ち抜けを決めていた。

 塔矢アキラのプロ試験参加は、奈瀬以外の院生たちにとって衝撃だった。今まで、塔矢名人の息子がプロ級の腕前との噂は確かにあった。しかし、アキラはアマチュアの大会に出る事がなかったので、その実力の程は知られていなかったのだ。
 ちなみに例外的に交流のある奈瀬は、あまりに突っ込み所が満載な勉強会のため、院生仲間には勉強会の存在そのものを知らせていなかった。勉強会のことがばれて、参加希望者が出てきても色々と困るからだ。



 和谷義高は、師匠である森下九段の勉強会で、予選で対戦した塔矢アキラとの対局を並べていた。周りでは、先輩棋士である白川七段、都築七段、冴木四段の3人も盤上を熱心に眺めていた。

「…と、ここまでで、俺が投了しました」
「…ふん。さすが、行洋の息子といったところか、たいした腕だ」
 師匠の森下は、並べられた1局に唸っていた。和谷が大きく広げた模様にアキラは深く踏み込み、見事にシノイで見せたところで碁は終わった。和谷の地がまったく足りなくなったのだ。アキラは明らかに、和谷の力を凌駕していた。ふと森下の頭に、息子と娘の顔がよぎる。まったくといって囲碁が上達しなかった自分の子供たちと、思わず比べてしまう。
-いかんいかん、今はそんなことはどうでもいい…。

「見事に生きられましたねぇ。手はなかったのかなぁ」
 冴木の言葉に、白川が少し手を戻す。
「難しいところですよね。目いっぱい広げた場所だけに、スペースは十分にある…。ここはハネないで、伸びて我慢がよかったかな?」
「でも、ここを飛ばれると…」
「…そうだな。頭を出されてはどうにもならないか…」
 
 都築は腕を組んで和谷に語りかけた。
「模様の碁っていうのは難しいんだよね。打ってるときはすごく気持ちいいんだけど、勝ちきるまでが難しい。特にこの碁みたいに模様がほぼ1箇所になってしまうとね、囲いきれば勝てるけど、荒らされたら負け。そして、中で生きられたら勝負にならない」

 森下が続けた。
「そうだな。別に模様の碁、それ自体が悪いとは言わんが、まだお前には甘い手が多い。まぁ、力負けだな。もっと力をつけないとな」

「…はい、師匠。がんばります」

-…でも、プロ試験本戦は1ヵ月後だ。俺じゃあ塔矢には勝てない…。いや、伊角さんでも無理だ…。つまり、合格者3人のうち、1枠はほぼ確定ってことか…。本田さんや小宮さん、足立さんもいるし、最近は奈瀬も調子がいい…。予選で当たらなかった外来もいるし、今年も厳しいな…。

 考え込む和谷の肩を冴木は軽くはたく。先輩棋士たちの中でも冴木は年が若く、和谷との中も一番よかった。
「考え込んでも仕方ないって。まだ1ヶ月あるんだ。ほら、打とうぜ」
「はい、冴木さん、お願いします」

-そうだ、俺だって本戦に進んだんだ。チャンスはある。



 院生トップの伊角慎一郎は九星会の先輩棋士である桜野プロに指導碁を打ってもらっていた。桜野は美人で長い髪がトレードマークの女性棋士。九星会は囲碁専門の塾で、桜野とはそこで知り合って以来の仲だった。

「この下辺はちょっと甘かったですか?」
「そうね。それで白は手を抜いて、先に右辺にいけたものね」
「ちょっと、手をかけすぎでしたか…」
「でも、こんなところじゃないかな」
「そうですね、ありがとうございました」

 対局後の検討が終わり、伊角は碁石を片付ける。

「ふう、やっぱり慎ちゃんの相手はきついわねー。指導碁といってもほとんど本気よ、私。慎ちゃん、今年こそ合格しないとね」
「そうですね、オレも今年こそはと思っています。ただ、院生の仲間から聞いたんですが、今回、塔矢名人の息子が参加しているんですよ。かなり強いと」
「あー、そういえば聞いたことあるわね…。確か名人の研究会には参加してるんじゃなかったかしら。芦原君から聞いたことがある気がする。そっか、手強いライバルね」
「…すでにプロ並みとの噂ですからね。気が抜けません」
「あら、慎ちゃんだって、もうプロ並よ。この私が言うんだから間違いないわ!」
「ありがとうございます。がんばります」

-和谷とフクはあっさり塔矢に負けた…。もう一人は外来だったようだが…。塔矢アキラか、どれだけの力を持っているんだ…。








 注目を一身に集めていた噂の塔矢アキラ。彼は必死になって勉強をしていた。手元の本を読みながら、要所をノートにまとめていく。彼が必死に読んでいるその本は、

『猿でもできる、簡単ブログ解説!』

-進藤に任せていたら、いつになるか分かったもんじゃない!そもそも、大事にしているようだから、見せてくれるかも分からないし、ボクが彼から棋譜を借りて、まとめるのが一番だ!

 今、アキラの頭の中を占めているのは、プロ試験ではなく、saiの棋譜だった。それも、進藤ヒカルとの対局棋譜だ。なんとしても見たい。そのため、アキラはヒカルに代わってブログを立ち上げることを目論んでいた。スポンサーは緒方だ。
 夏休みで時間はあるが資金的に厳しいアキラと、プロ棋士のため金はあるが時間がない緒方の目論見が一致した結果だった。ヒカルが公表したくないのであれば、非公開でも構わない。開設者になってしまえば、少なくとも自分たちだけは見れる。

 アキラは必死だった。







「ヒカルー、とりあえず日付順に並べていけばいいのよね?」
「ああ、所々ごっちゃになってるからな、まずはきちんと並べないとな」
「でも、これ全部貸し出すの?」
-随分たくさんたまりましたよねえ。
「いや、全部はまずいよなぁ…。特に、こっちの佐為と会ったばかりの頃の棋譜は出せないな」
「え、そうなの?」
「ああ。俺が初心者のころの棋譜がないと不自然だから、それを渡すとなると、前の世界の棋譜になるだろ?俺がだんだん強くなるのと同時に、佐為もネット碁で新しい定石とか今の時代の碁を覚えて強くなった。その後こっちの世界での棋譜になるだけど、佐為は打ち方が昔の虎次郎の頃のままで、新しい定石とかを知らなかった」
「あ、なるほどー。いきなり古い定石ばかりの碁に戻っちゃうんだ」
-確かに、そうなると不自然ですね。
「だろ?だから、最初の半年分くらいは丸まる封印して…、その後も俺がいきなり強くなってるのもあれだから、俺がうまく打てたぶんをしばらく隠して…。やっぱりめんどくさいなぁ…」
「でも、整理は必要だと思うよ?ちゃんとした棋譜の用紙に書けてるのは最近のだけで、ほとんどはノートに書き込んでるんだもん。やっぱり読みにくいよ」
「そうなんだよなぁ。金がなかったせいで普通のノートに書くしかなかったからなぁ」
-ヒカルの字は、きれいとはとても言えないですものねぇ…
「うるさいぞ!ああ、もう、余計なこと言っちゃったなぁ」
「でも、佐為との棋譜をちゃんと記録に残すのは、いいことだと思うよ。とても素敵な碁がいっぱいあるもん!私が打ってもらったのもヒカルに言われてからノートに残してあるから、いずれ棋譜に起こすつもりだよ」
「…まぁなぁ。塔矢があきらめてくれるといいんだけど、そうもいきそうもないしなあ。とりあえず整理しながら、少しずつ抜き出す形にするか。最終的にはやり方を自分で覚えて全部まとめることにして…」

 ヒカルと佐為の対局の回数はかなりの数になる。何しろ、前の世界での2年間に、こちらでは7年以上だ。1日1局としても合計で三千回を軽く超える。実際はそれ以上だ。ヒカルは前の世界で佐為が消えた後、本因坊秀策の棋譜とともに佐為との対局を思い出せるだけ何度も繰り返して勉強していた。そのため、こちらの世界に来た後に棋譜として書き起こすことが可能だったのだ。
 できるだけきちんとした形で整理したいが、すべてを見せてしまうといろいろと不自然な点が多く出てきてしまう。

 膨大な数の棋譜を前に、ヒカルの悩みは尽きなかった。 

 

第36局

 プロ棋士採用試験本戦を目前に控え、奈瀬明日美の心は高ぶっていた。つい先ほどまでは。

 最近は、和気藹々とした雰囲気になる事が多い勉強会だったが、今日は違った。室内は張り詰めたような空気が漂い、ただパチンパチンと石を打つ音のみが響きわたる。

 バチンッ!

 対局相手が石音高く盤上にたたきつけ、思わずビクッとする奈瀬。

 目の前には鬼のような形相をした、怒れる桑原本因坊がいた。

-……うわーん、なんかすごい怒ってるよっ!こっちにらんでるよっ!この前のときは優しそうなおじいちゃんだと思ったのに、いったい何があったのよっ!

 室内の雰囲気を作っていたのは、桑原本因坊だった。勉強会に突然現れた桑原は、先日の穏やかな態度とは一変、近寄りがたいオーラをまとっていた。
 いきなり対局相手にされた奈瀬は涙目だった。


「…緒方さん、何で桑原先生あんなに怒ってるのさ?」

 ヒカルは小声でささやくように対局相手の緒方に尋ねた。

「…先日の碁聖戦で名人に負けたばかりだからか?あそこまで険しい様子は早々見ないんだがな…」

 桑原のほうに目をやりながら、ささやき返す緒方。声が聞こえたのか、桑原がジロリとにらみつけ、慌てて視線を盤上に戻す。

 しばらくして、奈瀬の声が響いた。

「…ありません」
「…ウム」

 終局だった。すると、桑原は大きく息を吐き、いつもの飄々とした表情に戻った。

「ふー、疲れるわい、まったく。名人め、年寄りに面倒なことをさせよって」

 その突然の態度変わりにきょとんとする室内の面々。そんな桑原に声をかけたのはアキラだった。

「あの、桑原先生。お父さんに何を頼まれたんですか?」
「なに、この前の対局で賭けに負けてな。そうしたら、あやつめ、今度プロ試験を受けるヒヨッコ共にプロの気迫を見せてくれとぬかしおってな。わざわざ顔を出してやったんじゃ。まことに人使いの荒いやつじゃな、お前の親父さんは」
「…申し訳ありません」
「まぁ、プロとの対局経験がそれなりにあるお前さんと違って、こっちのお嬢さんはまだまだ経験が不足しているとのことだったんでな。最初にビシッといかせてもらったんじゃ。案の定、手が縮こまっておったわい。ふぉふぉふぉ」
「だって、すっごい怖かったんですよ!もう、表情も全然違ったし!」
「それではいかんのじゃよ。いつどんな相手と向き合っても、常に自分の心は落ち着かせて打たなくてはの。相手に飲まれておっては、自分の碁なぞ打てんわい」

 桑原の言うように、いつも通りの碁が打てなかった奈瀬は歯を食いしばった。

「…そうですね。勉強になりました」
「さて、では初手から並べてみるとするかの」

 桑原の砕けた様子に、室内の空気は和やかなものとなり、ヒカルたちは胸をなでおろした。だが、アキラと緒方はじれったかった。ヒカルとsaiの棋譜の話がしたいのだが、桑原がいるためにできないからだ。

 saiの棋譜のブログは、取りあえず試験段階ということで、外部には非公表で試験的に作ってみようということで緒方とアキラが押し切っていた。現在十局程の棋譜を借りて、アキラが作成に入っている。昔のは清書できていないからと比較的最近の棋譜だったが、どれもが見事な名局だった。緒方の目で見ても、まさにタイトル戦に匹敵するのではないかと思える碁ばかりだった。ぜひ進藤を交えて検討をしたいのだが、なかなか時間が取れないのが問題だった。
 ここ最近の勉強会では芦原が顔を出す事が多く、saiの事を知らされていない芦原の前では話すことができず、芦原本人は理由が分からないまま緒方に八つ当たりされたりもしていた。

 
 その後、検討が落ち着いたところで、桑原が窓際に行きタバコで一服しつつ、思い出したように緒方に尋ねた。

「そういえば、先日の国際アマチュア囲碁カップで途中なにやら騒ぎが起きたといっておったの。緒方君は何か聞いておるかね?」
「ああ、ちょうど私も居合わせましたよ。どうも世界各地で話題になっている碁打ちがいるようで、色々と探している人がかち合ったみたいですね。ネット碁の人物なのですが、非常に強く、負け無し。日本人らしいのですが正体不明なので、多くの参加者たちが探していたみたいですね」
「ほう、それはまた。日本のプロかね?」
「…それがどうも、プロではないのではないか、と噂なんですよ」

 ヒカルに鋭い視線を送りながら、桑原への返事を返す緒方。口調は穏やかだが、その目は鋭かった。

「ほう、ネット碁にのう。わしはああいったのは性にあわんでなぁ」
「ハハハ…、そんな人がいるんだねぇ」
-おや、まぁ。

 冷や汗を流しつつ視線をそらすヒカル。あの目を見続けるのはまずい。

「へ、へー、そんなアマチュアの大会もあるんですね」
 
 ヒカルを横目に、あかりは話題をそらそうと緒方に声をかけた。

「ああ、もう毎年恒例だ。今年の日本の代表選手の島野さんは以前よく名人の研究会に顔を出していた顔なじみでね。ちょっと応援に行ってたんだ。な、アキラ君」
「ええ。島野さんはネット碁はしていなかったけど、他の参加者、特に中国や韓国の選手はかなり熱心に聞いて廻っていたよ。島野さんもかなりしつこく聞かれてたね。どうやら、saiと中国や韓国のプロ棋士たちも対局していたようだね。全員負けているものだからね、結構話題になっていたよ」
「ま、saiに勝てないのは日本のプロも同じなんだがな…」

「saiというのが、その正体不明な人物の名前かね?」
「ええ、ネット上のハンドルネームですがね」

「はいはい、休憩はこれくらいで、次の対局に行きましょうよ。時間がもったいないよ、ね、塔矢君」
「…そうですね、せっかくの機会です。ボクにもご指導をお願いできますか?」
「やれやれ、人使いが荒いのは息子も同じか。ま、仕方ないの」

 一向にそれていかない話題を、奈瀬が強引に打ち切った。

-なんだか、騒ぎになっちゃってるみたいですねぇ。
-はぁ…。まぁ仕方ないことなんだけどな。外野はほっとけばいいさ。強いやつが集まってくる分には佐為は大歓迎だろ?
-それはもう!誰が相手でも、私は負けませんよっ!

 メラメラと燃える佐為を背に、ヒカルは大きく溜息をついた。








 そして、8月の終わり、プロ棋士採用試験の本戦が始まった。

 本戦初日、塔矢アキラと奈瀬明日美は白星で順調なスタートを切った。

  

 

第37局

 プロ試験の本戦は、1日1局、持ち時間は一人3時間、その後は1手1分、コミ5目半で行われる。日曜日、火曜日、土曜日の週3回、全出場者による総当たり戦だ。今年の出場者は28名。2ヶ月を超える長丁場となる。

 夏休みが終わり、2学期が始まると、海王中学でも塔矢アキラのプロ試験受験が話題に上がっていた。

「え、囲碁のプロ?囲碁にプロなんてあるんだ?」
「へぇー、中学生がプロの試験なんて受けれるんだー」
「プロ試験で学校サボれるのかー、なんかいいなぁ」
「すごぉーい、なんかかっこいいねぇー!」

 あまり囲碁のことを知らない面々は、主に上記のような反応がほとんどだった。しかし、囲碁部の面々となると、受け取り方が少し異なっていた。

「塔矢の事聞いたか?ついにプロ試験だってよ」
「やっぱり、それだけの力があったってことか…。すごい奴だったんだな…」
「で、結果は?」
「まだ始まったばかりだよ。1日1局で総当たり戦だからな、2ヶ月以上かかる。今日で3戦目だ」
「へぇ、お前詳しいじゃん」
「まぁ、気になるしな。日本棋院のホームページで、対局結果見れるんだよ。塔矢アキラは2連勝だ」
「うほっ!マジで強いんだ!」
「…でも、進藤は受けてないんだよな?」
「そうなんだよな。参加者に、進藤の名前はなかった」
「何で受けないんだろうな。塔矢と互角以上なのに」
「な、マジで勿体ねえよな」

 そう、塔矢アキラの実力がいよいよ確かなものとなってきたことで、改めてヒカルにも注目が集まっていたのだ。なにしろ、自分たちの目の前でヒカルは塔矢アキラを倒しているのだ。
 なぜ、塔矢アキラに勝つ力を持つ進藤ヒカルがプロにならないのか。ヒカルに対する囲碁部員たちの興味は高まっていた。







 緊張感漂う対局室の中で、相手が打った石を和谷は冷静に見つめた。劣勢な相手は明らかに無理な手を打ってきた。ここを的確にシノゲば、勝負はつく。

-ここをハネれば、マギレが出るかもしれない…。無理をするところじゃないな。俺が優勢なんだ。劣勢の相手の無茶に、こっちまで付き合う必要はない。

 和谷は落ち着いて、石を打つ。ノビだ。
 和谷の手を見た相手はうめき声を上げ、頭を抱えた。

-ここまできたら、もう逆転はないな。

 プロ試験6日目もすでに午後。けっこうな時間が過ぎていて、半数以上は対局を終えていた。和谷は盤面を再度確認した。

-うん。大丈夫。ここでハネてもキリで問題ない。ノビならハネこんでどちらから当てられても逃げれる。うん、問題なしだ。これで相手の左辺がつぶれたから地合は広がった。それに対して俺の大石は全部生きてる。取られる箇所はないな…、うん、ダメヅマリの箇所もない。大丈夫だ。
 
「…ありません」

 対局相手の力ない投了の声に、和谷は右手を握り締め、小さくガッツポーズを決めた。

「ありがとうございました」
「ありがとうございました」

 無事に勝ち星を拾った和谷は、大きく安堵していた。

-何とか連敗は免れたか…。ずるずると負けが込むのだけは避けたかったからな。これで一安心だ。


 和谷は、前回の5戦目の対局で、外来の辻岡相手に黒星を喫していた。かなりの強敵だった。院生上位の力があるのは間違いないだろうと思えた。やはり、本戦ともなると、強敵が多かった。

 プロ試験序盤での連敗が、後々で辛く響いてくることは、今までの経験から分かっていた。そのため、今日はなんとしても勝ちたかったのだ。
 石を片付けた後、対局結果の記入に向かった。勝敗の記録は勝った人間の仕事だった。


-えーと、ここに白星で相手に黒星っと。…6戦終わって、5勝1敗。まずまずかな。他のみんなの結果はと。…塔矢はあっさり6連勝か。やっぱり強いな。伊角さんも6連勝、と。本田さんはまだか。確か今日は本田さん、辻岡となんだよな。

「和谷、私のもつけてくれる」

 後ろからの声に振り向くと、笑顔の奈瀬がいた。

「あ、奈瀬も勝ったんだ」
「ええ。なんとかね4目半勝ちね」
「はいはいっと。…奈瀬も、6連勝か。ずいぶん調子いいんだな」
「まあねー。最近絶好調かもねー。このままうまく波に乗れればいいんだけどね。まだまだ強い相手は残ってるからね」

 奈瀬の声は明るかった。調子よい出足に、機嫌がいいようだ。

「あ、和谷、俺のもつけてくれ。中押し勝ちな」
「あ、本田君も勝ったんだ。おめでと」
「ありがとよ。…塔矢も奈瀬も伊角さんも勝ちか…」
「本田さんはと、ここか。本田さん、相手の外来どう思った?」
「辻岡さんな。なかなか強かった。和谷を倒しただけはあったな。何とか勝てたってとこだ。ここまでで6連勝は4人か…」
「ああ。塔矢、伊角さん、本田さん、奈瀬の4人が全勝。1敗が俺含めて4人…」
「やっぱり手強い外来は今年もいるわね…。ま、まだ始まったばかりだからねっ。お互いがんばっていきましょ」

 3人で話していたところに、同じ院生の真柴が通りかかった。

「お前らは調子よさそうでいいよなぁ…」
「真柴さんはしょっぱなから強い相手ばかりですもんね」

 真柴の言葉には力がない。和谷の言葉にも、元気なく頷いた。

「ホントだぜ。緒戦が噂の塔矢アキラで粘ったものの結局負け。2戦目が絶好調の奈瀬で見事につぶされて連敗スタートだぜ。ほんと、出だしから最悪って感じ。そこから何とか踏ん張って2連勝して星を五分に戻したと思ったら、5戦目が院生トップの伊角さんだぜ。それでやっぱり負けるし…。今日は何とか勝てたけどさぁ、6戦3勝3敗だぜ…。先は長いってのにさぁ」

「まぁまぁ、元気だしなよ。先は長いんだからさ!」
「そうだよ。結局総当りで全員対局するんだからさ。強い相手と早めに終わらせとくのもある意味よかったんじゃないか?」

 奈瀬と本田の慰めに、真柴は大きく伸びをすると深く息を吐いた。

「俺を負かした相手に言われてもなぁ…。ま、そうでも思わないとやってられないよなー。終わったもんは仕方ないか。何とか喰らいついていくしかないもんな。上位同士の対局もこれからだしな」

 そんなことを話していた院生たちに、院生師範の篠田も声をかけた。

「そうそう、連勝も良し悪しだよ。連勝してた子が1度負けた拍子にズルズルと連敗なんてのもよくあるしね。今は勝ち負けはあまり気にしないほうがいい。負けた碁を引きずらず、勝った碁におごらず、1局1局しっかりと自分の碁を打つことだ」

 篠田師範の言葉に、各自が頷いた。

 和谷は思った。

-そう、まだまだ始まったばかり。5勝1敗は決して悪くない。ここからだ。


 和谷の横で、真柴も篠田師範の言葉をかみ締めた。

-1局1局しっかりと…、か。ま、今はそうするしかないよな。引きずっても仕方ない。自分の碁を打つしかないんだもんな。気合を入れなおさないとな。


 本田もまた、対戦表を見ながら考えていた。

-…そうは言っても6連勝が4人しかいないのも事実だ。俺を含めたこの4人がトップ争いにかかわるのは間違いない…。塔矢と伊角さんは予想していたが、奈瀬がここまで調子いいとはな…。だが、俺だって6連勝、悪くない。




-今の私は間違いなく調子がいい。ヒカル君たちとの勉強の成果が、間違いなく出ている。外来の初めての人が相手でも、落ち着いて自分の碁を打てている。この調子だ。この調子でいけばいい。この調子でいければきっと…。


 昨年までは感じる事ができなかった確かな手ごたえを、奈瀬は掴んでいた。



 







  

 

第38局

 9月の半ばを過ぎ、プロ棋士採用試験は10日目が終わっていた。全体の約3分の1が終わったところではあるが、すでに大体の上位陣は固まってきた。
 同じ受験生といっても、やはり実力に差はあったのだ。数字の上ではまだまだ成績が下位の者にも逆転は可能ではあるのだが、ここまででほとんど勝ち星を挙げられないものが、この後負けずにいけるほど甘いものではないのもまた事実だった。

 ここまでの対戦で、4敗以内の勝ち越しの結果を残しているのは以下の11名。
 
 6勝4敗が、院生の真柴と足立。
 真柴は第1戦で塔矢、第2戦で奈瀬、第5戦で伊角、第8戦で辻岡を相手に黒星。
 足立は第1戦で和谷、第3戦で奈瀬、第6戦で伊角、第10戦で小宮を相手に黒星。
 
 7勝3敗が、院生の小宮と飯島、外来の辻岡と片桐。
 小宮は第3戦で和谷、第8戦で塔矢、第9戦で奈瀬を相手に黒星。
 飯島は第1戦で小宮、第4戦で塔矢、第7戦で辻岡を相手に黒星。
 辻岡は第3戦で塔矢、第6戦で本田、第10戦で奈瀬を相手に黒星。
 片桐は第6戦で塔矢、第8戦で和谷、第9戦で本田を相手に黒星。

 8勝2敗が、院生の本田と和谷。
 本田は第8戦で伊角、第10戦で和谷を相手に黒星。
 和谷は第5戦で辻岡、第9戦で外来の日野を相手に黒星。

 9勝1敗が、院生の伊角。
 第10戦の今日、塔矢を相手に黒星。

 そして、10戦全勝が塔矢と奈瀬の2名だった。


「よ、飯島勝ったみたいだな、おつかれさん」
「真柴か。さすがに院生の下の奴に簡単に負けるわけにも行かないからな。何とか踏ん張ってるよ。おまえは?」
「オレも何とか勝ちを拾ったよ。でももう4敗だからな。ようやく中盤戦開始ってとこなのによ」
「こっちも3敗、似たようなもんさ。しかし、塔矢アキラ。あいつは別格だな」
「ああ、噂以上だよな。今日も伊角さんに危なげなく勝ってたぜ」
「げっ。伊角さんでも駄目だったか…。となると後は、本田、奈瀬、和谷位しか相手になるやつ残ってないのか?」
「和谷は予選であっさりやられたって話だ。もう、塔矢はほぼ決まりだろうな…」
「あーあ。こりゃ今年も厳しいかねぇ…」


「和谷ー、やったじゃん!本田君相手に勝利!今まであんまり勝ててなかったんでしょ!」
「ああ、奈瀬、ありがと。何とか勝てたよ。その様子だと奈瀬も勝ったんだ?」
「ええっ!辻岡さんを倒した!ここまでは絶好調よ!」
「全勝は奈瀬と塔矢の二人か…」
「でも、私はまだ上位陣との対局が結構残ってるからね。塔矢君に伊角君、本田君。そして和谷、あんたともね!」
「…そうだよな。まだ序盤の終わりってとこだ、がんばらないとな」
「お互いにねっ!」







 第11戦、小宮が本田に負け4敗、片桐が院生の佐々木に負け4敗。その他の上位陣は白星。


 第12戦、真柴が飯島に負け5敗、片桐が足立に負け5敗。その他の上位陣は白星。


 第13戦、足立が院生の磯辺に負け5敗。その他の上位陣は白星。


 そして第14戦。ちょうど折り返し地点となるこの日、飯島が奈瀬に負け4敗、片桐が日野に負け6敗。その他の上位陣は白星。

 ここまでの上位陣の結果をまとめると、次のようになった。

 
 8勝6敗が片桐。
 9勝5敗が真柴と足立。
 10勝4敗が小宮と飯島。
 11勝3敗が辻岡。
 12勝2敗が本田と和谷。
 13勝1敗が伊角。

 そして、14戦全勝で塔矢と奈瀬が折り返した。


 
 プロ棋士採用試験は、後半戦の第15戦を迎えた。
 
 この日の注目の対局は、5敗同士の真柴対足立。1敗の伊角対3敗の辻岡。
 そして、なによりも最大の注目を集めたのは、塔矢アキラ対奈瀬明日美の全勝対決だった。



 奈瀬は、向かいに座る塔矢アキラを見つめながら、自分の気持ちを落ち着かせていた。

-いよいよ塔矢君との直接対決。私が勉強会では1度も勝てていない相手…。でも、まったく手が届かないわけじゃない。きっとチャンスはあるはず。…今日は、落ち着いて打つためにもゆっくりと打とう。自分の気持ちを落ち着かせながら、じっくりと。


 アキラはじっと目をつぶり、対局開始の時間を待っていた。


 
 辻岡もまた、伊角を前に自分の緊張感が高まっていくのを感じていた。

-今日の相手はここまで1敗の伊角君。彼は院生1位との話だ。間違いなく強いのだろう。でも自分はここまで全勝の塔矢君と奈瀬君にすでに負けている。伊角君にまで負けると、いよいよ後がなくなる…。まぁ、それは今考えても仕方がないことか…。まずは今日の碁に集中しよう。


 
 昼の打ち掛け(昼食休み)が終わり、対局が再開した。
 真柴対足立の対局は、真柴が優勢で終盤に差し掛かりつつあった。

-足立には普段でも勝ち越しているからな。このままいけば大丈夫だ。まだ持ち時間も十分にある。しっかり読んでヨセを打ち切ればいいんだ。…今日は溝口師匠との研究会だ。このまま勝って、師匠に報告したいな。

 
 伊角対辻岡の対局は、終盤に差し掛かっているものの、まだ形勢は五分だった。

-やはり、この伊角君は強い…。さすがに院生1位なだけはある。形勢は五分…、いや、少し足りないか?ここからの大寄せは大事だ。手順間違いが勝敗に直結する…。さあ、落ち着こう。自分は院生の1位相手に五分の勝負ができている…。まだ、勝負はここからだ。



 そして、塔矢対奈瀬。ゆっくりと打つ奈瀬に合わせるかのように、今日はアキラも比較的ゆっくり打っていた。

-…奈瀬さんは強くなったな。勉強会を始めた4月の頃は、ここまでの力をつけるとは思ってもいなかった。これも、進藤に教えを受けている成果なんだろう。だが、強くなっているのは奈瀬さんだけじゃない。このボクも強くなった。そして、もっと強くなるんだ。ボクは進藤のライバルなんだ。進藤の弟子の彼女に負けるわけにはいかない。

-やっぱり、塔矢君は強い…。まだ中盤だけど、私の黒が打ちにくい。いえ、打ちにくい碁にされている…。このままじゃ駄目だ。このままじゃ塔矢君に押し切られる。こっちから勝負を仕掛けていかないと…。

 奈瀬の表情は険しかった。


 時間の経過と共に、この日の対局の終局を迎えたものが増えていった。真柴対足立の対局は真柴の勝ち。伊角対辻岡の対局は伊角の勝ちとなった。これで辻岡は4敗、足立は6敗だ。
 
 残っている対局のうち、全勝同士の塔矢対奈瀬の周りには、多くの見物者が集まっていた。盤面は終盤。白のアキラが優勢だった。

-…盤面で見ても、白の塔矢が残ってるな。こりゃ、塔矢の勝ちで決まりか。奈瀬もいい碁を打ってるんだけど、塔矢には及ばなかったか…。さっきの奈瀬の勝負手なんか、おれだったら受け損ねていたもんな…。しっかし、絶好調の奈瀬でも駄目となると、もう塔矢はどうしようもないな…。成績上位の者との対局は前半であらかた終わってしまったしな。本田や和谷じゃかなわないだろう…。

 真柴は改めて塔矢の強さを思い知らされていた。だが、塔矢の強さが本物であるがために、一筋の希望も見えてきていた。

-本田と和谷が2敗だが、二人ともまだ塔矢、奈瀬、伊角君との対局が後半戦に残っている。ということは、黒星が3つ増える可能性はかなり高い。そして、俺との対局もまだこれから。直接対局で倒せれば…。現時点の勝敗以上に、あいつらはきついはずだ。伊角君は去年、後半戦での負けが多かった。プレッシャーに弱いんだ。奈瀬だっていつ調子を崩すか分かったもんじゃない。伊角君と奈瀬の直接対局もまだだしな。そうだ、まだこれからだ。まだ後半戦が始まったばかりなんだ…。まだまだ、あきらめるには早い。

 真柴は、自分に言い聞かせながら、塔矢対奈瀬の対局を見つめ続けた。


 全勝同士の注目の対決は、奈瀬の奮闘及ばず、アキラが勝利を手にした。


 
 この結果、トップは全勝の塔矢。1敗の伊角と奈瀬、2敗の本田と和谷が続く展開となった。まだ上位陣のメンバーは、誰もが自分の勝ち残りをあきらめてなどいなかった。
 
 プロ棋士採用試験は、過酷な生き残りをかけて、後半戦へと突入していった。


 すでに、半数以上のメンバーにとっては、合格は絶望的なものとなっていた。

 それでも、彼らは決して妥協した碁など打たない。

 それが、プロを目指すものとしての碁打ちの譲れないプライドだった。

 すべての受験者たちは、残る後半戦に、全身全霊を傾けていくこととなる。





 

 ……と、参加者は当然のように思っていたが、例外もいた。





-もうボクの敵となる相手は残っていない…。決して油断するつもりはないが、紛れもない事実だ。問題はプロ試験中は勉強会が開けないことか…。土曜日曜の日中がすべて試験で埋まってしまう…。夜は親の許可が取れないから無理だというし…。早く進藤に次の棋譜をもらいたいのに…。とりあえずテスト用のブログを完成させるしかないか。ただ棋譜を張るだけじゃ味気ないし、新聞みたいに途中経過を分けていくのも良いか…。ネット碁の分の棋譜ならデータはすぐに取れるから、こっちで書き起こしておくか…。魅力的なブログにするには、もっと勉強しないといけないな。進藤がすばらしい出来だと思ってくれれば、もっと棋譜を提供してくれるに違いない。…あの本、続編が出てるんだったかな?今度の対戦の帰り、本屋で探さないと…。進藤ともしばらく対局していないし…。昼休みに押しかけるか?いや、それで嫌われては意味がないか…。あ、saiとのネット碁もまたお願いしないと…。

 
 ……、一人例外がいた。



 

 

第39局

 プロ試験第16戦。
 
ここまで、塔矢は全勝。1敗が伊角と奈瀬。2敗が本田と和谷。4敗が辻岡と小宮と飯島。5敗が真柴。そして6敗が足立と片桐となっていた。

 今日は、5敗の真柴が6敗の片桐との対局、1敗の奈瀬が2敗の和谷との対局だった。

-もう俺には後がない。ま、意外と粘ってるよな、俺。このままずっと勝つのは難しいだろうけど、開き直っていくしかないんだよな。周りのことは無視だ。今は自分の力を出し切るだけだ。

 対局開始5分前。真柴は対局時計を合わせながら、心を落ち着かせようとしていた。



-塔矢君にかなわないのは自分でも分かっていたこと。仕方ない。負けたことを引きずっちゃいけない。落ち着くんだ。今日の相手は和谷。手強いけど、打ち慣れている相手。大丈夫。私はいつも通り打てる。名人や本因坊に比べたらたいした相手じゃない。


-……さて、後半最初の山だな。奈瀬は強くなった。塔矢とあれだけの碁を打つんだ。強敵だ。負けを引きずっててくれれば少しはやりやすいかと思ったけど…、そんな様子もなさそうだな。おれだってプロになるんだ。負けるわけにはいかないんだ。

 碁盤をはさんで向かい合う奈瀬と和谷は、静かに気合を高めていた。


「時間です、はじめてください」

 院生師範、篠田の声が室内に響き渡った。

「お願いします」
「お願いします」

 十四面の各々の碁盤に、石音が響いた。



 この日、真柴対片桐の対局は真柴が勝利し、奈瀬対和谷の対局は奈瀬が勝利を収めた。





 プロ試験第17戦。
 4敗の小宮が7敗の片桐と対局し、3敗の和谷が4敗の飯島と対局した。

 和谷は、前回の第16戦で奈瀬相手に良い所なく負けてしまったことのショックをまだ引きずっていた。

-糞っ!奈瀬が調子いいのは分かっていたけど、あんなに強くなっているなんて…。あれじゃまるで伊角さん並だ…。おれは今3敗で5番手。これ以上離される訳にはいかない。飯島さん相手なら勝てるはずだ…。

 
 そんな和矢の様子を、飯島は冷静に見つめていた。

-…今日の和谷は、ちょっと落ち着きがない感じだな。前回の負けが響いてるか…。俺も後がないから、何とか今日勝って生き残らないとな…。


 飯島対和谷の対局は、飯島の優勢で中盤を迎えていた。明らかに和谷の碁にはいつもの切れがなかった。それは打っている和谷自身が誰よりも分かっていた。
 必死になって喰らいついていく和谷と、自身の優勢を感じ、気分よく打ち進める飯島。が、そこで大きなミスが出た。飯島が安易に自分の白石のダメをつめてしまったせいで、割って入ってきた和谷の黒石を取りにいけなくなったのだ。その結果、白の模様は大きく荒らされ、地合が一気に詰まった。飯島のたった一手の悪手が、せっかくの形勢をひっくり返してしまったのだ。

-しまったっ!ちくしょうっ!油断したか!つい気軽に打ちすぎてしまった。ダメだ、オサエると両当たりになる。取りにいけない。やばい、ここを荒らされては……。何を浮かれていたんだ俺は!

-よし!助かった。飯島さん、勝った気でいたな?これで一気に追いついたぞ!粘った甲斐があった。このまま一気に逆転だ!

 
 この日、小宮対片桐の対局は小宮が勝利し、和谷対飯島の対局は、和谷の逆転で和谷が勝利した。




 プロ試験第18戦。
 4敗の辻岡が6敗の足立と対局し、無敗のアキラと2敗の本田が対局した。

 結果、辻岡が足立に勝利し、アキラが本田に勝利した。
 
 この日は他の上位陣にも黒星がつく者が出た。飯島が院生の中村に敗れ、小宮が外来の畑中に敗れた。成績が下位とはいえ、同じ受験生。いつも上位のものが勝つとは限らないのだ。

 そして1敗の伊角までもが、外来の石川に敗れたのだった。

-つい、勝ちを意識しすぎて守りに入ってしまった…。だめだな、あそこに手数をかけすぎてしまった…。初めての対局で堅く行き過ぎたなんて、言い訳だな……。これで2敗か。塔矢が崩れない以上、何とか踏みとどまらないと。

 伊角は、堅く打ちすぎて負けた今日の自分が、非常にふがいなかった。歯を食いしばりながら、誰とも会話をせずに対局室を後にした。


 この日アキラに負けた本田は、伊角の負けを見て内心ほっとしていた。

-今日塔矢に負けたのは残念だったけど、伊角さんも取りこぼしてくれた。これは大きい。伊角さんは確かに強いが、ちょっともろい所もある人だもんな。去年もそうだったんだ。院生での成績が負けてるとはいえ、まだチャンスはある!

 
 そして、この日無事に勝利した奈瀬もまた、伊角の負けには胸を大きくなでおろしていた。
 
-今日伊角君が負けてくれたのはすっごい助かるな。しかも相手はそれほど強い人じゃないのがラッキー。そして伊角君は、次が和谷とだ。成績上位同士で、どっちに黒星がついても私には有利…。これでちょっと楽になったかな?18戦が終わって、残り9戦か。もう一息ね。


 ここまでの結果、上位陣の成績は以下の通りとなった。

 塔矢 18勝
 奈瀬 17勝1敗
 伊角 16勝2敗
 本田 15勝3敗
 和谷 15勝3敗
 辻岡 14勝4敗
 真柴 13勝5敗
 小宮 13勝5敗
 飯島 12勝6敗
 足立 11勝7敗
 片桐 10勝8敗

 トップのアキラが仮に残りの9戦を4勝5敗で負け越したとしても、22勝5敗。この数字にギリギリたどり着けるのは現在5敗の真柴と小宮が残り全勝した場合。それ以下の飯島、足立、片桐がトップに立つ可能性は、限りなく低い。

 だが、これはトップを決める争いではない。3位以内に入ればいいのだ。

 現在の3位は16勝2敗の伊角だ。伊角の残りの成績が4勝5敗なら、足立までが追いつく可能性が残るし、3勝6敗なら片桐にもわずかなチャンスは残る。

 極端な話、上位3人が残りすべて負ければ、大逆転の可能性もあるのだ。
 ここまでの結果で考えた場合、上位3人がここから負け越す可能性はかなり低い。
が、可能性は決してゼロではない。
 ゼロではないが、それも下位の者たちが残りの対局を勝つことが大前提となる話だ。
 
 だからこそ、生き残りをかけての必死の潰し合いが続くのだ。

 ここを勝ち抜いた者だけがたどり着ける。それこそがプロの世界。















 プロ試験第19戦。
 2敗の伊角対3敗の和矢の対局と1敗の奈瀬対8敗の片桐の対局が行われた。

 伊角対和谷の対局は、両者とも慎重に打ち進め、ゆっくりとした碁になった。どちらも譲らない展開は、二人の実力を考えれば伊角が精彩を欠いていたともいえた。だが、終局して数えたところ、半目伊角に残った。伊角がなんとか競り勝ったのだ。結果、伊角は連敗を阻止し、2敗を守りぬいた。負けた和谷は4敗目だ。
 院生1組下位の林と対局していた飯島は、今日も星を落とした。第17戦からの3連敗。これで飯島は7敗目。

 そして、奈瀬は片桐相手に負けを喫し、2敗目となった。

 奈瀬明日美、17勝2敗。
 

 
 
  

 

第40局

 プロ試験第20戦。
 この日、上位陣同士の対局は、4敗の和谷対5敗の真柴、3敗の本田対7敗の足立、そして2敗の伊角対5敗の小宮で組まれていた。

 ここまでの上位陣の成績。

 塔矢 19勝。
 奈瀬 17勝2敗。
 伊角 17勝2敗。
 本田 16勝3敗。
 和谷 15勝4敗。
 辻岡 15勝4敗。
 真柴 14勝5敗。
 小宮 14勝5敗。
 足立 12勝7敗。
 飯島 12勝7敗。
 片桐 11勝8敗。


 和谷にとって、第19戦での奈瀬の敗北はかなり意外だったが、かなり助かったのも事実だった。奈瀬と片桐の両者とすでに対局していた和谷から見て、実力的には奈瀬が上にいるのははっきりしていた。それなのに奈瀬が落としたのだ。こんなにありがたいことはなかった。自分が負けていただけに、自分より成績がよい奈瀬の負けは助かる。

-ま、いくら調子がよくても、取りこぼしはあるってことだな。このまま勝ちまくられなくてほっとしたぜ。とはいっても、今日の奈瀬の相手は同じ院生の中村。中村じゃあ、奈瀬相手にはさすがに無理だろうな。今の奈瀬に院生下位が歯が立つとは思えない。だから、今日の俺の対局は大事だ。院生試合では俺が負け越してる真柴さんだけど、勝てない相手じゃない。残り8戦しかないんだ。俺は次戦が塔矢だから、1敗を覚悟しておかなくちゃならないんだ。ここで差を広げられるわけにはいかない。

 和谷は思いをかみ締めるように、碁盤を拭き清めた。


 4番手につけている本田も、必死だった。

-塔矢はともかく、奈瀬と伊角さんならまだまだチャンスはある。特に奈瀬だな。俺が24戦で当たって、伊角さんが25戦だ。ここの直接対決で黒星をつけられれば一気に逆転だ。俺はもう伊角さんとも塔矢とも終わっているからな。後はきっちりと勝ちきるだけだ。そうだ、まだまだいける!今日の足立に勝って、終盤戦に向けての勢いをつけるんだ!


 この日、和谷対真柴は真柴の勝ち。本田対足立は足立の勝ち。伊角対小宮は小宮の勝ちとなる。それ以外の上位陣は、順調に白星を稼いだ。







 第21戦。
 この日上位陣同士の対局は、7敗の飯島対4敗の本田、5敗の和谷対無敗の塔矢で組まれていた。

 飯島対本田の対局で、序盤、飯島は大なだれ定石を仕掛けてきた。大なだれ定石は初っ端から接触戦となり、変化が多く、非常に難解で難しい。プロの対局でさえ、研究してきた相手の新型にはまってしまうことがあるくらいだ。そのため、相手の仕掛けを避けて、簡易な形で打たれることも多い。
 しかし、本田はあえて受けてたった。

-俺はプロになるんだ。ここで挑んできた飯島相手に逃げるわけには行かない。俺だって大なだれは研究している。受けてたってやるさ!前回の負けは痛かったけど、伊角さんも負けてくれたんだ。ここで引くわけにはいかない!

 白の飯島は外マガリ型だった。お互いしっかり時間を使いながら丁寧に打ち進め、定石が終わろうかというほぼ最後、本田が中央に飛んで上辺を補強した黒の一手。その一手が敗着だった。飯島はすかさず、左辺の黒三子にカケる。その一手で、左辺の黒三子が死んだ。本来ならば黒の勢力となる一帯が白地となってしまったのだ。本田の顔色が一気に真っ青になった。

-本田は知らない形だったか…。前回足立に負けてあせっていたかな?最後の大寄せで間違って勝ち碁をひっくり返されたからな。俺が勝ち残る可能性は低い。だが、簡単に負けてやるつもりはないぞ。

 
 この日、飯島対本田は飯島の勝ち、和谷対塔矢は塔矢の勝ちとなった。
 そして、それ以外の上位陣に黒星がついた。足立が院生の高倉に負け、奈瀬が外来の畑中に負けたのだ。

 奈瀬の敗因ははっきりしていた。序盤で慎重になりすぎ、時間を使いすぎたのだ。その結果、中盤で秒読みに入ってしまい、畑中が仕掛けてきたコウ争いに負け、逆転となった。

-時間さえあれば、今日の碁は勝てたのに……。いえ、結局は言い訳ね。時間がなくなったのも自分のせい。これで伊角君と並んだ。でも、ここで踏みとどまらないとね。残りは6戦か……。
 





 第22戦。
 この日上位陣同士の対局は、7敗の飯島対8敗の足立で組まれていた。

 この日も飯島は大なだれ定石を仕掛けたが、足立は難解戦になるのを嫌い避けた。その結果、ゆっくりとした碁になり、勝負は終盤までもつれ、ヨセ勝負となった。

 この日、飯島対足立は足立の勝ちとなった。その他の上位陣に波乱はなかった。連敗をまぬがれた奈瀬と和谷は、ほっと息をついていた。

 ここまでの結果、上位陣の成績は次のようになった。

 塔矢 22勝。
 奈瀬 19勝3敗。
 伊角 19勝3敗。
 辻岡 18勝4敗。
 本田 17勝5敗。
 真柴 17勝5敗。
 和谷 16勝6敗。
 小宮 16勝6敗。
 足立 14勝8敗。
 飯島 14勝8敗。
 片桐 14勝8敗。

 残り5戦となり、対戦表を眺めながら本田は考えていた。

 ここまで奈瀬と伊角さんに注目が集まっていたけど、辻岡さんも負けないな……。やばいな、この人もう上位との対局が残っていないんだよな。23戦で片桐さん、26戦で小宮とあたるくらいか。残りを全勝されると23勝になって俺は追いつけない……。もう上位同士の対局も少ないもんな。24戦で俺と奈瀬。25戦で伊角さんと奈瀬。27戦で俺と真柴か…。






 第23戦。
 この日上位陣同士の対局は、4敗の辻岡対8敗の片桐、3敗の伊角対7敗の飯島で組まれていた。

-今日の片桐君は、負けが嵩んでいるとはいえかなりいい碁を打つ。決して油断はできないな。

 初手を打った辻岡は、いったん控え室に戻り高ぶる鼓動を沈めていた。

-あせっちゃいけない。平常心だ。平常心でなければ自分の碁は打てない。まず落ち着くんだ。



 飯島は今日も伊角を相手に大なだれを仕掛ける気でいた。

-もうこうなったらとことん引っ掻き回してやるさ。伊角さんには普通に打ってもなかなか勝てるチャンスはないからな……。形によっては新手を仕掛けてやる。そこで伊角さんが間違えれば儲けもんだ。

 伊角は仕掛けられた大なだれは無難にしのいだ。だが、そこから発生した上辺での戦争で痛恨の読み間違いを犯した。その結果、右上角が死に、碁は終わった。 

 この日、辻岡対片桐は辻岡の勝ち、伊角対飯島は飯島の勝ちとなった。伊角が一歩後退。それ以外の上位陣は問題なく勝ちとなった。

 この結果、片桐は14勝9敗。残りが4戦のため、3位以内に入る可能性が消えた。








 第24戦。
 この日上位陣同士の対局は、3敗の奈瀬対5敗の本田で組まれていた。

 序盤から、お互いの小目にカカッテ来た石を挟み合う乱戦になった。

-乱戦上等!負けないわよ!

-調子がいいとはいえ、奈瀬相手には俺が勝ち越してるんだ!負けるわけにはいかない!

 互いが互いの薄みをついていく激しい争いになった。しかし、右辺の争いが奈瀬有利に分かれた段階で、形勢は奈瀬に傾いた。

-よし。これで下辺に向けて私が有利になった。地合いも大丈夫。このままでいける!

-くそっ!奈瀬がここまで強くなってるなんて。……。だめか、逆転の余地が……。

 半ば勝負をあきらめかけていた本田が打ったアタリを奈瀬はあっさりとツグ。その手を見て本田は驚愕した。

-えっ!ツギ!!

 その本田の驚きを目にして、奈瀬が改めて自分の打った手を見た。

「あっ!」

 思わず漏らしてしまった声に周囲の視線が集まったが、奈瀬はそれどころではなかった。

-あああっ!そこ、ダメが詰まったらっ!ばかっ、何でそんな手を打ったの私っ!

 そう。奈瀬が手拍子に受けたその手。本田が次の手を間違えなければ、大切なタネ石が死んでしまうのだ。通常であればありえないレベルのミス。いくら乱戦とはいえ、あまりにひどい見落とし。奈瀬は自分が打ったその手が信じられなかった。そして、本田も落ち着かないまま、正しい応手を打ち、奈瀬の石をしとめた。

 この日、奈瀬対本田は本田の勝ちとなった。それ以外は大きな波乱はなく、上位陣は白星を稼いだ。
 

 この日の全員の勝敗が確定した時点で、ここまで24戦全勝の塔矢アキラのプロ棋士採用試験合格が決まった。2番手の成績が、20勝4敗の奈瀬と伊角と辻岡の3人。その結果残り3戦で追いつける人間がいなくなったのだ。

 そして、残り3戦を残してのアキラの合格を横目に、16勝8敗の成績となった足立と飯島に3位以内に入る可能性が消えた。






 
 
 第25戦。
 この日上位陣同士の対局は、4敗同士の奈瀬対伊角で組まれていた。

-私は、どこかでプロ試験を勝ち抜いた気になっていたのかもしれない。まだ結果が出ているわけでもないのに、なんてうぬぼれだろう。こんなんじゃだめ。ヒカル君に鍛えてもらったんだ。ちゃんとした結果を残すんだ!

 奈瀬対伊角の対局は、一進一退の緊迫した碁になった。互角の布石から、いったん奈瀬がややリードしたものの伊角の巧手で盛り返し、碁は終盤を迎えていた。


-よしっ!このままでいけば半目残る!いけるっ!

-……半目足りない。だめだったか。去年とは比べ物にならないくらい強くなったな、奈瀬……。

 そのまま互いにミスなくヨセも終わった。この日、奈瀬対伊角は奈瀬の勝ちとなった。

 そして、小宮が外来の北原に負けて7敗目となり、3位以内に入る可能性が消えた。そのほかの上位陣は無難に下位の者を下した。

 その結果、上位陣の成績は次のようになった。

 塔矢 25勝 合格確定。
 奈瀬 21勝4敗。
 辻岡 21勝4敗。
 伊角 20勝5敗。
 本田 20勝5敗。
 真柴 20勝5敗。
 和谷 19勝6敗。

 残り2戦。勝ち残りの枠は2枠。
  

 

第41局

 第26戦。

 現在2位が21勝で2名。奈瀬と辻岡。そして、続く4位に20勝で3名が並ぶ。伊角と真柴と本田だ。
 今日の対戦を2位の二人が勝ち、4位の3人が負ければこの時点で結果が確定することとなる。
 第26戦の奈瀬の相手は院生の福井で辻岡の相手は小宮。伊角の相手は院生の石川、真柴の相手は院生の林、本田の相手は院生の磯部。外来の辻岡は別として、他はすべて院生同士顔見知りの対局となった。

-今日の相手はフク。最近の対局では負けていない相手。落ち着いて打ちさえすれば私が勝てる。大丈夫。私は普段通り。

 奈瀬と福井の対局は、進行が早かった。福井は普段からあまり時間を使わないタイプで、この日も早打ちだったのだ。普段の院生対局でそれをよく知っている奈瀬も、福井に合わせるようにペースが上がった。盤上は比較的穏やかな進行だった。負けられない奈瀬はなかなか踏み込んだ手を打つことができず、福井の早打ちもあり単調な碁になってしまった。

-んー、なんか調子上がらなかったけど、まぁ、仕方ないか。このまま行けば私が1目半程残る。どんな形でも勝てばいいのよね。


 この日、奈瀬が負けた。奈瀬の目算が間違っていたのだ。最後並べたところ、奈瀬が半目足りず、福井の勝ちとなった。その他の4名は勝ち、辻岡は22勝で単独の2位、奈瀬、伊角、真柴、本田が21勝で並んだ。

 勝負は最終日に持ち越しとなった。






 第27戦。

 2位の辻岡は院生の金田と対戦。勝てば合格が確定する。
 3位同士で本田と真柴が対戦する。辻岡の結果にかかわらず、この対戦で負けれ方は不合格が確定する。奈瀬は院生の佐々木と、伊角は片桐との対戦。本田と真柴のいずれかは必ず勝つため、奈瀬と伊角も勝つことが絶対条件となる。非常に過酷な最終戦となった。

 そして、奈瀬の対戦相手の佐々木麻衣は、同じ院生の女子で年が近いこともあり、非常に気心の知れた相手だった。院生の帰りに軽く食事をしたり、カラオケ等にもよく行く仲だ。

「大変な日にあたっちゃったね」
「ほんとね。でも、麻衣が相手だからかな。へんな緊張をしないですんだのは助かるかも」
「…でも、私も明日美に簡単に負けるつもりはないからね」
「分かってる。お互い全力で勝負よ」

「それでははじめてください」

「おねがいします」
「おねがいします」

 最終日の対局が始まった。


-明日美は、今年一気に腕を上げた。もう今の私じゃ、明日美には勝てない。そう思ってたのよ、本気で。プロ試験も絶好調だったね。……でも、今日の明日美はおかしいよ。いつもの明日美の碁じゃないよ。前回フクに負けたの驚いたけど、こんな碁じゃだめだよ。明日美、私ね、あなたが一緒にいるからがんばれてるの。いつもの明日美ならプロ試験合格すると思ってたんだけど、今日みたいな碁を打つんならだめだよ。私、こんな碁じゃ明日美をプロとして認められないよ。明日美、私勝つよ。


  奈瀬対佐々木、佐々木の5目半勝ち。
  本田対真柴、真柴の2目半勝ち。
  伊角対片桐、片桐の半目勝ち。
  辻岡対金田、辻岡の3目半勝ち。

 プロ棋士採用試験合格者。塔矢アキラ、辻岡忠男、真柴充。


-うわー、俺合格しちゃったよ……。なんか信じられねー……。だって俺、塔矢に辻岡さんに、奈瀬にも伊角にも飯島にも負けてんだぜ。奈瀬と伊角さんには完全に負かされたってのに、何であっちが落ちて俺が合格なんだよ、おかしいだろ、これ。え、マジで?マジで俺がプロ?絶対最後プレーオフで落ちると思ってたのに……。え、俺プロでやって行けんの?

 周囲の院生仲間に合格を祝福されつつも、真柴の内心は混乱でいっぱいだった。







 プロ試験が終わり、ヒカル達の勉強会が再開された。
 結果を知ったヒカルは、当初勉強会の開催をためらっていた。何せ、アキラが合格して奈瀬は落ちているのだ。きっとお互い気まずいだろうと。
 アキラも遠慮していた。やはり、奈瀬と顔を会わせにくかったのだろう。ヒカルと打ちたい気持ちを押し殺し、当初はアキラ抜きで別の場所での勉強会でもかまわないと話しをしていた。
 しかし、結局勉強会は今まで通り塔矢家にて行われることとなった。誰よりも、奈瀬がそれを希望した。

 そして、久しぶりの勉強会。緒方プロも参加し、勉強会が開かれた。

「まずは塔矢、学校でも言ったけど、プロ試験合格おめでとうな。そして、奈瀬はお疲れ様」
「ありがとう、進藤。奈瀬さんは残念だったね」
「……うん。ヒカル君、塔矢君、あかりちゃん、せっかく私を鍛えてくれたのにごめんね。合格できませんでした」
「奈瀬さん、残念だったね。今日は、だめだった碁の検討からする?」
「あのね、あかりちゃん、塔矢君との碁は検討したいけど、他の碁はもう検討済なの。後で自分で打ち直したら、すぐに分かったミスばっかりだったの。何であんな手を打ったんだろうって、そんなのばっかり。自分でもすっごく不甲斐ない結果だった」

 涙ぐみながらも、しっかりと言葉を続ける奈瀬。普段の様子とはまったく異なる奈瀬の表情に思わず動揺するアキラ。

「そうなんだ……」
-彼女はかなり悔しい思いをしたようですね。
-そうだな、佐為。ま、プロの先輩として、何とかアドバイスしてみるよ。

「奈瀬さんは、試験に落ちたのは何が悪かったと思ってるの?」

 ヒカルは奈瀬の態度に動揺することなく静かに問いかけた。ヒカルの落ち着いた言葉に、奈瀬は指先でにじんだ涙をぬぐった。

「……うーん。正直自分じゃ分からないのよね……。特に終盤の本田君、フク、麻衣との対局、自分では普段通りに打ってるつもりだったの。それなのに、後から見返してみたら、とても自分の碁とは思えない感じだったの」
「そっか。塔矢はどうだった?全勝だったけど、全部普段通り打てた?」
「え!?」
「なんだよ、ちゃんと話を聞いてるのか?塔矢はプロ試験の碁、普段通りに打てたのかって聞いてんの」

 奈瀬の表情に釘付けだったアキラは、あわてて答えた。

「いや、いつも通りとは行かないさ。プロ試験だからね。当然緊張してたよ」
「え、ウソッ!塔矢君はまったく緊張なんかしていないと思ってた!ぜんぜん普通に見えてたよ!?」
「いや、そう見えてただけだと思うよ。ほとんどの相手が初対局だし、プロに直結する対局だからね。当然緊張してたさ」
「うわー、気がつかなかったなぁ」

「そこの差なんじゃないかな?」
「え?ヒカル君、どういう意味?」
「大事な試験としての対局となると、緊張するのが当たり前だと思うんだ。たとえそれが顔見知りでもね。いつもの練習と同じように行かないのが普通だと思う。だから緊張している自分の心をきちんと把握して、それを乗り越えていくことが必要なんだと思う。いつもの自分の力を出すためにね。塔矢にはそれができた。だからちゃんと実力を発揮して、実力通りの結果を残した。だけど、奈瀬は緊張してることに気づいていなかった。緊張しているのに、いつも通りの自分と錯覚して、力を出し切れなかったんじゃないかな」

「……そっか。私は緊張してたのか」

 それまで静かに話を聞いていた緒方が割って入った。

「進藤の言う事には一理あるな。確かにプロ試験の終盤で緊張を感じていないというのは不自然だ」
-当然ですね。大事な対局であればあるほど、緊張するものです。

「緒方先生でも、やっぱり緊張されるんですか?」
「そりゃそうさ。三大棋戦のリーグ戦のような重要な対局はもちろんだが、練習ではない、公式の対局では、誰と何度打ってもピリピリしてるよ。プロだからな。恥ずかしい碁を打つわけには行かない」
「緒方先生は、どうやって緊張を抑えているんですか?」
「俺の場合は抑えるのとは違うな。飲み込むんだ。緊張を丸ごとな。そして力に変える」
「緊張を飲み込む…」
「緊張すること自体は悪いことじゃないんだ。勝ちたいという気持ちの表れだからな。だからその気持ちをしっかりと認識することが大切だ。その上で乗り越える精神力が必要になってくる。そして、その乗り越え方は人それぞれなんだ」

 緒方はいつになく真剣な表情で奈瀬に語っていた。彼としても、何か思うところがあるのだろう。つられるようにアキラも口を挟む。
「緒方さんの場合はその方法が緊張を飲み込むんですね」
「そうだ。緊張を冷静に抑える人もいれば、緊張のままに気分を高め、荒ぶる人もいる。名人クラスになると、緊張を何か一段階上のものに昇華してるんじゃないかと感じることもある。相手の緊張感が、何か威圧のようにこっちにまで伝わってくるんだ。怖いくらいにな」

 緒方の言葉に、奈瀬は深く考える。自分は明らかに普段の碁が打てていなかった。結局、プロ試験の空気に呑まれていたのだろうか。緊張感を感じ取れないほどに。

「囲碁の強さって、結局技術だけじゃないと思うんだ」
 そんな奈瀬を見ながらヒカルは静かに言葉を続けた。
「よく言うじゃん、心技体。心と技術と体力。囲碁の場合、まずは技術が必要なのは確かだ。まあ、段位が目安になるかな。そして、精神力としての心。自分の緊張感をもしっかりと捕らえて、自分の力に変える強さ。最後に、その精神力を対局の最後まで維持するための体力。どれがかけても、同じ力を持った相手には勝てない」
「心技体か…」
「心を鍛えるには結局は経験をつむしかないと思うんだ。そして、きつい言い方になるけど、奈瀬にはまだ足りてなかった。プロになるには力不足だったってことだと思う」

「進藤!何もそんなきつい言い方をしなくてもいいじゃないか!」
「……いいの、塔矢君。ヒカル君の言う通りだと思う。結局は私がまだプロになれるレベルに届いていなかったってことなんだと思う」

 ヒカルの言葉に思わず声を上げたアキラ。そんなアキラに感謝の目線を送りながら、奈瀬は続けた。
「私は正直言って、ヒカル君に会わなかったら今のレベルには届いていなかった。去年のプロ試験と比べたら、これでもすっごい良くなってるの。でも、まだ足りてない。届いていないって思い知らされた」
 そして、奈瀬はヒカルの目をまっすぐに見た。
「ヒカル君、お願い。厚かましい押しかけ弟子で申し訳ないんだけど、私はもっと強くなりたい。これからも、私に教えてくれるかな?」

「まぁ、今まで通りでよければね。俺のできる範囲で協力するよ」
-私も私も!ビシビシ指導してあげますからね!
 ヒカルはにこっと笑いながら、佐為は笑顔で扇子を振り回しながら奈瀬に返事を返した。もっとも、奈瀬には佐為は見えてはいないのだが。

「ありがとっ!」
 奈瀬は、こぼれんばかりの笑顔を振りまいた。
「あ、塔矢君、これからもこの場所都合がつく限りでいいから貸してね。そして、ずうずうしいけど指導碁もお願いね」
「ああ!もちろんさ!な、奈瀬さんのおかげでこの勉強会ができて、僕もすごく嬉しいんだ。いつでも声かけてよ!」
 笑顔の奈瀬に正面から見つめられて、アキラは顔を真っ赤にしながらも答えた。

「……やっぱり、プロになろうと思ったら中途半端な覚悟じゃだめだよね。私も院生に入るべきかな」
 思わずこぼれたアカリの声に真っ先に飛びついたのは奈瀬だ。

「あっ!それいい、大賛成っ!あかりちゃんも、院生においでよ!」
「うん。色々迷ってたけど、本気で考えてみるね」


 にぎやかに騒ぐ子供たちを見ながら、緒方は一人考えていた。

-子供というのは本当に不思議なものだ。春先はこの面子の中で明らかに力が物足りなかった奈瀬が、ここまで力をつけ、いまさらに大きくなろうとしている。そんな奈瀬に周りの子供たちも引っ張られていく。ふむ、面白い。こいつらが果たしてどこまで成長していくのか。しっかりと見届けてやろうじゃないか。

 いつしか、最初の暗い雰囲気は吹き飛んでいた。奈瀬は、プロ棋士へと続く道を改めて歩き続ける決意を新たにした。




-……しかし、あんなアキラ君の様子も初めてだな。市河さんが見たらどんな反応をすることやら……。

 子供たちを見守りつつ、さりげなく不謹慎なことも考えていた。

 
 
 

 
後書き
誤字修正 アカリ → あかり 

 

第42局

「ふぉっふぉっふぉっ、それでオメオメと追い返されたというのか、青いのー、緒方君。ふぉっふぉっふぉっ」

 上機嫌で笑いまくる桑原を憎らしげに睨み付けながらも、何も言い返せない緒方。その様子に、芦原、ヒカル、あかり、奈瀬、塔矢も笑いをこらえるのに必死だった。佐為だけは遠慮なく一緒になって笑い転げていたが。

「そもそも緒方さん。藤崎さんの親御さんに名人の代わりに挨拶に行くにしても、真っ白のスーツはまずいですよ真っ白のスーツは。一般の方が見たらどこのホストかと思いますよ」
「……うるさいぞ」

 そう。院生の受験を決めたあかりは、親の説得を自分ができるかどうかが不安だった。何しろ、囲碁のことはまったく知らない両親だからだ。囲碁を知ってる人間でも、囲碁のプロのことまではなかなか分からないものだ。そして、院生は無料ではない。お金がかかるだけに、両親の承諾は絶対条件だった。
 前の勉強会でその話になったところ、ちょうど居合わせた緒方が、なら自分が説得しようじゃないかと名乗り出たのだった。

 ところが、派手なスポーツカーで乗り付けて真っ白なスーツで現れた緒方の姿に、あかりの両親は門前払いを食らわせたのだった。話をする以前の問題だった。一張羅を張り込んだつもりの緒方としては非常にショッキングな出来事だった。

「そうだよ、緒方さん。あの後大変だったんだぜ。あかりが変な男にだまされてるんじゃないかって、俺んちにまで来たんだから。なあ、あかり」
「え、あ、そのー。まぁ、うん……。あ、でも、ちゃんと、緒方さんはすごいプロ棋士なんだって説明しておきましたから!」
「かっかっか!まったく、いい大人が子供に迷惑をかけてどうするんじゃ」
「……申し訳ありません」
「まったく、仕方ないのう。つまり、囲碁のことをまったく知らない親御さんに、藤崎のおじょうちゃんが院生に入る許可をもらえればいいのじゃろう?そうじゃなぁ。確か緒方君、次の週末棋院で棋聖リーグ戦じゃったな?」
「ええ。芹澤さんとの対局があります」
「ふむ。進藤。おぬし、おじょうちゃんのために一肌脱ぐ覚悟はあるか?」








 棋聖リーグ戦、緒方対芹澤の対局は緒方の勝利となった。序盤に布石で芹澤がリードしたのだが、中盤の中央の攻防を緒方が制し逆転での碁だった。局後の検討が終わろうかという時に、桑原がヒカルをつれて対局室に顔を出した。

「緒方君、芹澤君、お疲れ。なかなかいい勝負だったようじゃの」
「これは桑原本因坊。お恥ずかしい。緒方さんに見事にやられてしまいました」
「いえ、序盤は押されっぱなしでしたからね。一か八かの勝負手が成功しました」
「して、検討はもう終わったようじゃの。実はの、芹澤君。緒方君にはもう了承をもらっておるのじゃが、この後ちと時間を作ってもらえないかの?」
「この後ですか?特に予定はありませんからかまいませんが」
「おお、それは助かる。進藤、おじょうちゃんたちを呼んで参れ」
「あ、はい。分かりました」
-一体なんでしょうね、ヒカル?
-んー、何するつもりだろうな、こんなとこまでつれてきて。でも、なんかいやな予感がするんだよな。

 ヒカルは、1階のロビーで待っていたあかりとあかりの母を呼びに走った。

「ヒカル君、いいの?こんなところに入って」
「ああ、大丈夫。桑原本因坊、プロの偉い先生が部屋を借りてくれてるんだ。ちょっとおばさんに話したいことがあるからって」

 対局室に案内されたあかりの母は、見慣れぬ周りの様子におどおどとしていた。しかし、室内に先日見た顔を見つけると驚きに目を丸くした。

「お、来られたようじゃな。どうも奥さん、お初お目にかかる。ワシは桑原と言う者じゃ。プロの碁打ちをしておる。こちらにおるのが、同じプロ棋士の緒方君と芹澤君。緒方君は先日そちらに迷惑をかけてしまったようじゃな。申し訳ない」
「先日は失礼いたしました。プロ棋士の緒方と言います」
「……どうもはじめまして。プロ棋士の芹澤です」
「はぁ、どうも」
 あかりの母は不審げに挨拶を交わす。あかりにそっと目をやるが、何が起こるか聞いていないあかりも軽く首を振る。
「今日は奥さん、あなたに進藤の実力を知ってもらいたくてここに来てもらったんじゃ」
「えっ!俺っ!」
「そうじゃ、進藤。おぬし、おじょうちゃんのために一肌脱ぐと申したであろう?」
「いや、それは確かにそういったけど!」
「芹澤君。おぬしはこの進藤とは初対面じゃな?」
「……ええ。初めてですね」

 視線が合い、会釈を交わすヒカルと芹澤。

「こやつは進藤ヒカル。そちらのおじょうちゃんが藤崎あかり。どちらもプロを目指す子供たちじゃ。奥さん。緒方君と芹澤君は囲碁のプロの世界でもトップクラスにいる者達じゃ。芹澤君。疲れているところ申し訳ないが、進藤とそうじゃな、1手10秒の早碁を打ってもらえんかな。君にとっても決して損にはならないはずじゃ」
 芹澤はヒカルをじっと見た。
「……、いいでしょう。桑原先生がそこまでおっしゃるのでしたら」
-さあ、ヒカル。あなたの力を見せてあげなさい。
-いや、でもっ!
-これはあかりのためですよ。
-いや、何で俺がここで碁を打つのがあかりのためなんだよ!
-桑原は信じるに足る者だと思いますよ。それに、私も今のヒカルがどこまで打てるのか見てみたいのですよ。この、芹澤という者も只者ではないのでしょう?
-そりゃそうさ。まさに日本のトッププロさ。でもまあ、桑原のじっちゃんがわざわざ動いてくれたんだからなぁ。ここで断るわけにも行かないか。

「ほれ、進藤、なにをしておる。さっさと座ってはじめんか。おじょうちゃんもただ待ってるのは何じゃな。緒方君と10秒碁を打つがいい」
「え!あ、はい!」
「まあ、仕方ないか、藤崎、こっちで打とうか」
「奥さん。囲碁のことは分からないとのことじゃが、少しだけ時間を下され。何、30分もかからんはずじゃ」
「はぁ」
 あかりの母がきょとんとする中、2組の対局は始まった。自然と、母の視線はあかりに向かった。

 あかりは緒方相手に善戦したと言っていいだろう。中盤の左辺での激しい戦い。お互いがお互いの隙を突く激しい展開となったが、あかりの読みは緒方に届かなかった。あかりの石は切断され、何とか小さく生きたものの、その隙に緒方が大きく地合いを広げた。そのまま差が詰まることはなく、あかりの投了で終局した。
 あかりの母は、勝負の内容に関してはまったく分からなかった。しかし、真剣に碁盤に向き合い、大人相手に本気で勝負するあかりの様子には大きく驚かされていた。
-この子、こんな顔で碁を打つのね……。碁なんかただの遊びだと思っていたんだけど……。

 20分ほどで終わったあかりと緒方の対局を横に、ヒカルと芹澤の対局は熱戦が続いていた。序盤、まったくの互角の展開に、芹澤は驚愕の念を隠せなかった。

-まさかここまで打てる子供がいるとは……。何者だ、この少年は。この手応え、この気迫。これではまるでリーグ戦だ。なんとも驚きだな。

 ただ、芹澤はリーグ戦直後と言うこともあり、本調子とは言い切れなかった。中盤、芹澤自身気づかなかった緩手(やや悪い手)をヒカルは見逃さずに攻めた。芹澤が気づいたときには、形勢はヒカルに傾いていた。

-そうか、しまった。さっきのノビはこっちを先にハネルべきだったか……。しかし、この難しい形をこの少年は読みきっていたのか。しかも10秒碁だと言うのに……。

 一手10秒の早碁は、プロでも決して簡単なものではない。10秒では深く読むための時間もなければ、形勢を細かく目算するだけの時間もない。直感やセンスが大きく影響するのだ。

 あかりの母の視線も、ヒカルに向けられていた。

-この子もいつの間にかこんな顔をするようになっていたのね……。まだまだ子供だと思っていたけど、いっぱしの男の顔じゃないの。

 終盤、すでに形勢は追いつけないものになっていた。芹澤はこのまま行けば自分が負けることを悟っていた。だが、ヒカルを試すかのように、最後まで打ち切った。そして、ヒカルは一切のミスなくヨセを打ち切った。

「ふむ。進藤の8目半勝ちじゃな。芹澤君、どうじゃね、この進藤は」
「いや、驚きました。見事にやられました。君はプロではないよね。院生かい?」
「いえ、院生じゃないです。それに、今日は芹澤先生がお疲れでしたから。おばさん。プロの対局、それも今日先生たちが打っていたリーグ戦のような試合はものすごく疲れるんだ。1日で3~4kg体重が減るくらいにね。そんな状態で打ってくれたからこの結果なんだよ」
「いや、それにしたって、進藤君だったね。見事な打ち回しだった。まったくつけいる隙がなかったよ」
「それでじゃ、芹澤君、隣のおじょうちゃんが打った碁も見てくれ」
「……これもまた、大した物ですね。進藤君に及ばないにしても、下手をしたら、プロ初段レベルの力があるのでは?」
「そうじゃろう。このおじょうちゃんに囲碁を教え、鍛えたのがこの進藤なんじゃよ」
「……いや、驚かされっぱなしですね。しかし、ここまでの碁を打たれたら納得できます」
「どうじゃ。芹澤君思わんかね。この進藤なら、今すぐプロになっても芹澤君と互角の戦いができると」
「思いますね。この進藤君なら今すぐリーグ入りしても不思議じゃありません。即ライバルですね」

 芹澤のこれでもかと言わんばかりのほめ言葉に、頭をかくヒカル。そしてそれを唖然として眺めるあかりの母。あまりの展開に頭がボーっとしてしまったが、次の桑原の言葉に目が光った。

「それでじゃな、緒方君、芹澤君。おぬしら、去年は対局料と賞金でどれくらい稼いだかの?」
「ええと、約2500万くらいですかね」
「私もそれくらいですね」
「2500万……」
「彼らは若手とはいえトップクラスじゃ。それくらい稼ぐ。ワシは賞金の金額が高いタイトルを取っておっての。総額で大体5000万くらいじゃ。4つのタイトルを持っておる塔矢名人なら1億近いはずじゃ」
「5000万……、1億……」
 あかりの母の目の色が変わった。
「入ったばかりの若手では普通そこまで行くのにかなりかかる。じゃが、それ以外にも、講演会やら囲碁教室やら指導碁やらで若手のプロでも年間ひっくるめて1000万近く稼ぐのは珍しい話じゃないんじゃよ」
「……実に興味深いお話ですね」
「そうじゃろう。奥さん、この進藤と言う小僧にはそれほどの将来性があるんじゃ。そしてのう、囲碁界というのは狭い世界でのう。同業者同士での結婚と言うのが結構多いんじゃな。トッププロ棋士ともなると一般人とかかわる機会も早々なくなってしまうでの。」
「なるほど、ごもっともなお話ですね」
 突然生臭い話になって唖然とする周囲をよそに、熱心に話し込むあかりの母と桑原。
「奥さん。この進藤は間違いなく稼ぐぞ。それもそう先の話ではないわい。これほどの優良物件、早々転がってはおらんぞ。こんな将来確実なやつを、どこの誰とも知らんやつに掻っ攫われてはもったいなくわないかのう?」
「まったくですね」
 
 すでに見も蓋もない話にまでなっていた。まさに獲物を狙う目でヒカルを見つめるあかり母の視線に、ヒカルは冷や汗を背中に流した。

「お宅のおじょうちゃんにも囲碁の世界に踏み込んでこれる可能性があるんじゃ。院生という場所で、プロの予備軍たちが腕を競っておるのじゃ。まあ、囲碁の塾のようなもんかの。どうじゃね、おじょうちゃんも希望しておることじゃし。親として子供の可能性を伸ばしてやっては?」
「非常にためになるお話でした。子供の可能性を伸ばすのは親としての義務ですよね」
「まったく、おっしゃるとおりじゃ」
「あかり!」
「……は、はい」
「囲碁の勉強、しっかりがんばるのよ」
「……お、お母さん……」

 あきれ顔で母を見るあかり。そして、唖然と見つめる緒方、芹澤、ヒカル、そして佐為。

-……ヒカル、これでよかったのでしょうか?
-……わかんね……。

 桑原がニヤリと笑みをこぼした。桑原本因坊の打った手は、この場の誰にも読めないものだった。まさに妙手。

 しかし、本因坊の名にふさわしい一手、と言えるかどうかは佐為の顔を見ると微妙だった。

 
 

 
後書き
妙手とは、囲碁や将棋において得に優れた着手の事を指す。多くの場合、通常予想しえないような、意外性の高い着手と言うニュアンスが含まれる。
               ウィキペディアより出典