くらいくらい電子の森に・・・


 

第一章

――――途方にくれるしかなかった

彼が残していった、薄汚れたペンダントを握り締めたまま。

少しだけ姿を見せていた夕日は、燐光を放つ雲の谷間に落ちて
ただ、雲だけがその輪郭を光らせていた。

暗くなっていく。

――――日が完全に落ちて、手元が見えなくなったとき、

それは、光った。

さっきの雲みたいに、うすく輪郭を光らせて
それは、笑った。


――――目眩がするくらい、幸福そうな微笑を浮かべて。






第一章


僕は途方に暮れていた。

12月の秋葉原は、凍えるように冷たい。
それが、朝の5時ならなおさら。
マフラー1枚巻いてない首筋は、直に早朝の冷気で冷え切っている。たまに、両手を首にあててみる。どっちも冷たくて、なんの足しにもならなかった。
そして新聞紙ごしに感じられる、アスファルトの刺すような冷気が、絶望的に僕の体温を奪っていく……

…………

「バイト代出すから、並んで!お願い!」
同じサークルの柚木にそそのかされ、そして自分も「ちょっと並んでるだけで5000円だよ!?」という甘い言葉にのせられて、つい「並ぶ並ぶー」などと二つ返事で答えてしまった。そして当日、のこのことアキバくんだりまで出てくると、金の入った封筒と、新聞紙を持った柚木が微笑んでいたのだ。

「……これ敷いて、並んで」
「……どこに」
「……ソフマップ」
「……えーと……あれ?」
「……そう、あれ」
「……何時間?」
「……11時間」

柚木があごで指した方向には、建物を取り巻くように長蛇の列が出来ていた。
そして、僕は………



「おいお前、眠るなよ。死ぬぞ」
僕の直前に並んでいた男にたたき起こされ、がばと顔を上げた
「………おうちじゃない……」
「何いってんだ、大丈夫か!?」
風体の悪い男が、僕を心配そうに見下ろしている。絡まれるのかと、一瞬身構えてしまったがそういうつもりではなさそうだ。僕がうなずいて返すと、男は「銚子おでん」と書かれた缶を差し出した。ほわりとあったかい湯気が顔にかかる。
……生き返る……
一口かじってみる。缶詰のおでんなんて初めて食べたけど、思ったより旨い。男も、同じおでんを頬張り、眉をしかめていた。
「まずいな、これ。お前らオタクはこんなの食べてるのか」
「……僕、オタクじゃない」
…だめだ。まだ頭が朦朧としていて言葉が出てこない。小学生並みの語彙力だ。
「じゃ、なんでここに並んでるんだ」
「……5000円、くれるって言われたから……」
「5000円やるから並んでろって言われて、並んだのか!?」
「んー、今月、やばいし……」
「お前、たしか昨日の6時からここにいたよな?」
「はぁ…もう11時間すね…あはは」
「……普通に深夜バイト入れてたら、倍額以上稼げてね?」


「…………そのとおりです」


がっくりと肩を落とした。
本当に……本当にそのとおりだ……
僕だって「11時間」と聞いた瞬間、まわれ右で帰ろうと思った。でも
『約束…したのに。ひどい……』
とうち沈んだ顔で俯かれてしまい、後に引けなくなってしまったのだ。

でもあとで考えてみれば、僕は『5000円で11時間寒風に晒される』約束なんてしていない。

なんで僕はいつもこうなんだ…。なんかもうイヤになって、膝に顔をうずめた。
「ひでぇな、その友達。ていうか友達か?そいつ」
「………どうなんでしょうね……僕はどう思われているのでしょうね」
「パシリ」
……そのとおりだ。もう何を言い返す気力もない。会話が切れたので、あったかいおでんを口に運ぶ。柔らかく煮込まれた大根が、口の中でつぶれる。だし汁がじわーっとしみだしてきて、からっぽの胃に落ちていく。……なんかもう、情けないけど涙が出てきた……

……そういえばこの人は、僕のためにおでん缶を調達してくれたのだ。自分のことでいっぱいいっぱいで、お礼を言うのも忘れていた。

あらためて、男の横顔を見上げる。男はこちらを見ない。…僕が泣きそうな気分になっているのに勘付いて、見ない振りをしてくれているのか。僕よりちょっと上くらいなのに、随分しっかりしている。…視線を落とすと、黒いコートの袖口にキラリと光るものが。よく見ると

「……ガボール……」

男と目が合いかけたので、咄嗟にガボッ、ガボッとむせ込んでいる振りをした。何で僕はいつも余計な事を口走りそうになるのか。
 一瞬だったけど間違いない。あの袖口に見えたのは、なんか笑う骸骨で有名な、ガボールのブレスレットだ!20万くらいするやつだ。今週のポパイで特集されたばかりだから、よく覚えている。…本物だろうか。
 まぁいい。興味ない。『人畜無害』は僕の基本スタンスであり唯一の処世術だ。髑髏とか、少しでも悪そうに見えるアイテムは極力遠ざけることにしている。自分でもビックリするくらい、羨ましさを感じない。



おでんも食べ終わったし、開店までにはまだ時間もある。少し話しかけてみることにした。
「お兄さんは、なんで並んでるんですか」
「まぁ、そうな……転売、とか?」
ガボールの男は一瞬、肩を震わせた。
「買ったら即ヤフオクに出品?」
「あー…まぁ…な…」
「夜を徹して並ぶモチベーションを得られるほど、高額になるんですか、これは。1人1本なんでしょう」
「5000円で並ぶお前に言われたかないが…なにしろあれは業界初だからな!」
「業界初?…ていうかなんでこんな行列できてるんですか」
「そんなことも知らないで並んでたのか!?」
男が、あきれたようにつぶやいた。

「…『MOGMOG』とかいう大変なセキュリティソフトってことだけは…」

MOGMOGを買って来い。そう言われて、僕はこの封筒を貰った。なんか凄い機能満載で、しかも可愛い女の子がパッケージに使われていて、「業界の新スタンダード!」とまで言われている…とだけ聞いている。僕はとりあえず、2ヶ月前にウイルスバスターを更新したばっかりだから、たいして興味はないので、そう言った。
「なにを言う、ウイルスバスターとは別格だぞ!…なんだよ、その興味ゼロって顔。どんなソフトか知りたくないのかよ」
「知りたくない。知って欲しくなっても金がない」
「まぁそう言わずに聞け、暇だろ。…この『MOGMOG』って名前だけどな。ぶっちゃけ『モグモグ』、つまり食べるって意味だ」

「……食べる?」

「あぁ。このソフトが業界新スタンダードと言われている理由はそこにある。…最近、ウイルスの進化にワクチンの開発が追いついていないだろ。そこでだ。このソフト『MOGMOG』には、『消化機能』が搭載されている」
「食べて…消化すんの?」
「そう。不測のウイルスが侵入したら消化…解析して、ワクチンを自分で作り出す」
……す、すごい!それが出来たらもう怖いサイトはないな!…でも…
「…でも、ワクチンってすぐ出来るわけじゃないでしょ。ワクチン開発までに少し手間取ったり、その間にウイルスが悪さしたりしないの?」
「まぁな。でももちろん、それを補うためのシステムもある!…MOGMOG同士の口コミシステムだ」
「口コミシステム!?」
彼が嬉しそうに語るには…ウェブやメールのやり取りのさいに接触するMOGMOG同士が、自分が今まで解析したウイルスや、ウイルスの侵入経路(危ないサイトなど)などの情報をやりとりして、自分の中に蓄えていくそうだ。そんならMOGMOGサーバーでもつくって全部共有すればいいじゃん、と思ったけれど、そうなるとそのサーバーがターゲットになってMOGMOGが一網打尽にされる可能性があるから、念のため個別の情報交換システムを採用したらしい。だから、ネットに接続すればするほど優秀なセキュリティソフトに進化していくのだ。

……やばい、超ほしくなってきた……

「行列の理由が分かっただろう。セキュリティソフトとしては破格の値段だけどな」
「えっ…いくらするの?」
「聞かないで来たのか!?…えっと、金持ってるよな」
「うん、封筒に。……そういやいくら入って……げっ!!」

1枚、2枚、3枚、4枚……!!4万円!?
毎月の食費の倍額じゃないか!!

「そっ…そんなっ……!?」
「3万5千円だ。…5千円はお前への報酬か。他人事ながら腹の立つ奴だな」
「そりゃ凄いソフトかもしれないけど、セキュリティソフトに3万5千円はありえない。そんなの絶対出さない」
「ところが出しちゃうんだな、出しちゃう奴は」
男はにやにや笑っている。
「超、かわいいんだよ。MOGMOGは」
「……かわいい?パッケージが?」
「いや、MOGMOGがだ」

MOGMOGが業界新スタンダードと言われる理由はもうひとつある。「対人セキュリティシステム」だ。
 最近、企業内での顧客名簿流出などの事件が大きな社会問題となっている。本当に怖いのは、無作為に知らない人のPCを荒らすクラッカーなんかより、有益な情報であることを知ってPCに近づく「人間」である、という発想から開発されたセキュリティシステム。MOGMOGはいわゆる、仮想人格でもあるのだ。カワイイ女の子の外見をした「それ」は、持ち主とコミュニケーションをとり、付属のカメラから持ち主の「網膜」を識別する。そして持ち主の行動パターン、知人、友人関係も「ぼんやりと」記憶する。そして知人がPCを利用しようとすれば、持ち主のケータイなどにアクセスして使用許可を得る。無論、セキュリティのレベルは調整できるので、あらかじめ数人に使用許可を出しておくことも可能。そして、まったく知らない人間が近寄ると、警戒レベルを上げてPCをロックする。

「そこまで……!」
「しかもMOGMOGは、キャラクターを選択出来る。デフォルトはメイドだけど、スク水とか、女教師なんかがあったかな。あとネコミミとか、体操服とかセーラー服、和服メイドとか、そこら辺の『いかにも』なやつが色々。…美少女がウザければ動物とか、もうカワイイのがウザい人のために、老人とか、カーソルとかもある」
「カーソルごときに人間関係把握されるの、イヤだなぁ…」
「……イヤだなそりゃ」
 でもたしかに、それで3万5千円は安い。買ってしまう人は買ってしまうだろう。でも僕は『買ってしまう人』ではない。ていうか経済的な理由で『買ってしまう人』になれない。…となると何だか、柚木のために新聞敷いて11時間も寒風にさらされている自分が無性に哀れに思えてきて…。聞かなきゃよかった。もうあいつの頼みは聞かない。また膝に顔をうずめる。

「おっ、店が開くぞ!!」
 行列がにわかに色めきたった。シャッターはまだ半開きだが、行列はすでに動き始めている。僕もあわてて立ち上がる。後ろに並んでいた薄黒いオーバーオールの一団から体当たりを受け、おでん缶が飛んだ。「押さないで下さい!」「列を崩さないでください!」警備担当者の怒号にも似た呼びかけが、空しく人波に飲まれていった…


「……はぁ、何とか買えたな……」
人ごみを掻き分け、ほうほうの体で辿り着いた駅前の喫茶店で、男がつぶやいた。肉体的疲労も、精神疲労もMAX……。さっさと漫喫にでも行って仮眠をとりたい…と切に思っていたのに、この男に「やめとけ。今日なんか人でいっぱいだぞ」と腕を引かれ、よく分からないうちに喫茶店に連れ込まれた。目の前で何だか高そうな珈琲が薫っているのに、もう眠りに堕ちてしまいそうだ……
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
「ん…あぁ、姶良。姶良 壱樹っす」
あいら いつき、と読む。初見で読める人はまずいない。かっこいいと言ってくれるひともいるけど、画数が多くてテストの時にまどろっこしい思いをする。一木にでもしてくれれば楽だったのに。
「ほぅ、なんか今っぽい名前だな。俺は紺野 匠だ。よろしく」
「染物職人みたいな名前ですね……あ、何言ってんだろ…ごめん、眠くて…」
眠すぎて敬語も億劫になってきた。
「……大丈夫か、疲労困憊ってかんじだな」
「ええまぁ…まさか徹夜で並べって意味とは思わなかったんで、学校から直接来て…」
「漫喫行ってる場合じゃないだろう!寝なくて大丈夫か!?」
「……今日の1限の前に渡せって言われてるんで……」
「なんて奴だ…お前それヤフオクで売っちゃえよ!」
「そういうわけにもいかないでしょ…頼まれたんだから…」
なんとか、意識を保って薄笑いをうかべた。紺野さんが眉をひそめる。…ああ、僕は今、よほど情けない笑い方をしたんだな…
「……よし、じゃあ行くか」
紺野氏が立ち上がった。やっと眠れる。僕はひらひらと手を振って紺野氏を見送ろうとした。
「なにやってんだ。お前も来い」
「……え」
「学校。行くんだろ?おれも付き合おう」
「え、でもまだ7時…」
「いいから来いって」
紺野氏は伝票を掴んで歩き出した。
「お前がもってるそれ、ノーパソだろ」
高校の入学祝に買ってもらった、僕が持つ唯一の貴重品だ。頼れる古い相棒だが、古すぎて最近液晶が黄色っぽい。
「でも、さっき充電きれちゃったよ」
「学校でコンセント使えるだろ」
紺野氏は、振り返ってにやりと笑った。
「駄賃代わりにMOGMOGの中身を拝見するくらい、いいだろ?」





誰もいない朝の講義室は、まだ暖房が入ってなくてひんやりしていた。なんだか今日はどこに行っても寒い日だ。ノートパソコンのアダプタを差し込んでいると、紺野氏が早速MOGMOGの包装を乱暴に破き始めた。
「あぁ、そんな乱暴にしないでくれよ!渡すんだから」
「いいんだよ、こういうのは中身さえ手に入れば!……じゃ、入れるぞー。じゃじゃーん」
じゃじゃーん、じゃない。紺野氏の後ろには、無残に破られた包装がくしゃくしゃに積まれている。……眠気にかまけて、つい成り行きに任せてしまったけれど、僕はなにをやってるんだ。さっき会ったばかりの男と、他人のソフトを勝手に空けて「じゃじゃーん」とか言いながら自分のパソコンに挿入している……
「お、何か出たねー、認証コード出たねー。えーと……9,8,A,R…」
紺野氏は嬉々としてCDケースの認証コードを打ち込んでいく。いいのかなぁ…柚木、怒るだろうなぁ…
「おい、パスワードはどうする?」
「パスワード……じゃ、76ccb3…」
「なんだそりゃ」
「秘密……あれ?」

……パスワード?……認証コード……?

認証って、していいんだっけ……?
……もういいや…眠い……考えるのが眠気に追いつかない……あ、右肩が温まってきた……太陽があったかいや……


「な、な、な、なにやってんのよ――――――!!!」


突然の絶叫に、心地よい眠りの帳を破られて、がばと起き上がった。
「姶良っ!!……あんた……私のMOGMOGに何をしたっ!!!」
「………は」
カツカツという小気味よい足音に釣られるように、ゆらりと頭を上げると……目やにでかすむ視界の向こう側に、軽いウェーブのかかったショートヘアの輪郭にオレンジがかった桃色の唇。…もう少し視線を上げると、黒目がちなのに冷たい瞳と目が合った。…本当に、今日はどこに行っても、何をやっても寒い日だ…。
…一生懸命目をしばたかせて意識を通常レベルに戻すと、僕はうすぼんやりと、自分が死地っぽい場所にいることに気がついた。

怒りのあまり、顔を紅潮させた柚木の顔が、目の前にあったから……

「おっ……女……!?」

認証完了したことを示す電子音に、紺野氏のこわばった声が重なった。
……なんか、空気が重い……
「あ……ごめん、その……時間があったから、中見せてもらおうかな……って」
「認証コード、入れたよね」
朝の空気みたいに、冷たく澄みわたった柚木の声。……潮がひくように、僕の眠気が醒めていった……
「…パスワードも、入れたよね?」
「……あ、……そ、そう、だった……僕のパソコンに認証………!」

柚木は、眠気とショックで崩れ落ちていく僕から視線を外すと、くしゃくしゃに破られたMOGMOGの包装に視線をさまよわせ……おもむろに、紺野氏に照準を合わせた。
「姶良をそそのかしたのは、あんたね……?」
バネで言えば収縮するような、津波で言えば、遠く、遠くまで潮が引いた一瞬のような…そんな声だ。
「や、その……おい、姶良ぁ…彼女なんだったら最初からそう言えよぉ…」

「……だれが彼女だっ!!!」

柚木が溜めに溜めた怒りを一気に放出した。
……眠気は相変わらず酷いもんだったが、僕にも分かった。紺野氏は、僕が同級生にひどい扱いを受けたと思って(実際に相当ひどい扱いを受けたんだけど)昼行灯な風情の僕に代わって一泡ふかせてくれるつもりでいたのだろう。
 どうせ日照不足なかんじのモヤシ野郎が来るだろうから脅しつけてやろうと思っていたら(性格を差し引けば)意外にも可憐な女子が怒りをあらわに詰め寄ってきた、と。

――うわ、なにその状況。最悪。

「楽しみにして1時間も早く来たのに!これ逃したら次の入荷はいつだと思ってんの!!最低っ!!」
紺野氏は、自分のMOGMOGが入ったバッグを背後に手繰り寄せた。そして後ろ手にジッパーを空けながら、柚木を刺激しない程度に私物をそっと放り込む。
「あっ……あんた、彼氏でもない男を寒空に11時間も放置して全然平気なのか!!」
「バイト代払ったもん!」
「手口は聞いたぞ、あんなのは詐欺だ!」
「じゃあ何、私に11時間寒風に晒されろっていうの!?」
「えっ……?」

「私の手入れが行き届いた肌が、荒れるじゃない!!」

三人の教室が、一瞬凍てついた。すごいな、女子のこういう論理展開……。
女の子次元の話は苦手だ。何を言っても『女の子常識』というあの不可解なルールを持ち込まれて何も言えなくなる。…紺野氏を横目で見る。社会人みたいだし、僕よりは女の子常識にメスを入れられるんじゃないか、と期待を込めて。言っちゃってくれ、僕には言えないあんなことやこんなことを!

「あ、あんたなぁ……」

絶句する紺野氏。……だめだ。多分この人も見た目程、女子に免疫はない。考えてみればこんな怖そうなひとに喧嘩を売る女子なんて聞いたことがない。
「何よ、なんか言いたいことがあるの!?」
「…え、えーとな……」
「さ…寒かった…すげぇ寒かった!お腹もすいた!」
我ながら情けない恨み言が、口を突いて出た。丁度いい塩梅に鼻水も垂れてきた。紺野氏がアテにならないなら、僕が時間を稼ぐしかない。どんだけ情けない手段だとしても。
「うっわ…」
これでうっすらと、本当にうっすらと抱いていた『柚木と恋愛フラグ』は、確実にへし折れたことだろう。そう思うとなんだか気が楽になってきた。
後ろを振り返ると、紺野氏が「設定開始」と表示されたノーパソをしまい始めている。あと数秒で駆け出すだろう。僕は紺野氏と目を見交わし、次の瞬間、出口に殺到した。
「あっ!こら待ちなさいっ!」
柚木が走って追いかけてきた。僕を一限前に呼んでおいて講義をさぼる気か。





喫茶「伯剌西爾」の古びたテーブルに落ち着く。何と読むのかは知らない。目の前には今日2杯目の珈琲。馥郁とした薫りが、ふわりと立ち昇る…などと、普段使わないような言葉で褒め称えたくなる。
大人の男である僕たちの全力疾走にぴったりついてきた柚木が、当然のようにケーキセットを手馴れたようすで注文している。きっと紺野氏におごらせる気だ。社会人は珈琲が一杯500円以上する喫茶店に、一日何度もふらりと入れるものなんだろうか。賭けてもいいがこのひとは『勝ち組の大人』だ。
「……キャラ選択画面だ」
紺野氏は息を弾ませて、ノーパソの画面を僕のほうに向けた。
―――いや、萌えキャラに興奮している時点で、勝ち組とは言えんかもしれない。
画面には、数種類の女の子が並んでいる。デフォルト設定のメイド、気が強そうな猫の耳をつけた女子、変な巻き髪のナース、むだに明るそうな、くい込むような体育着の女子…
僕は反射的にノーパソを閉じた。
「いやいやいや、こんなのがデスクトップをウロウロするとか社会生活に支障が」
「売れ筋のキャラは目立つところにあるんだよ!何ページが進めば大人しいのも出てくるから…とりあえずどれが好みだ!フォースで選べ!!」
「…フォース…」
どうやら紺野氏は、僕が思っているよりも年上らしい。
画面の下のほうに「1/2/3/4……」と数字が振ってある。まだいっぱいいるようだ。面倒だから数個飛ばして4をクリックする。4以降はメイド系のキャラクターが並んでいる。さすが人気ジャンルだ。居並ぶメイドさんは猫の耳やら肉球やらがついていたり、ミニスカートにニーソックス履いてたりする。日本人のメイド観は、アメリカ人の忍者に対する考え方と、よく似ているなぁ……。
 そんなことを考えながらカーソルを右下まで漂わせ、ページを適当に切り替えようとしたそのとき、一人のメイドが目についた。

「ん…それか?」

カーソルの先を熱心に見つめていた紺野氏の表情が、わずかに変わった。
淡いすみれ色の、クラシカルなワンピース。少しだけフリルのついた、純白のエプロン。繊細なブロンドのストレート、その下に隠れて静かに光る、黒目がちなブルーグレーの瞳…よくあるといえば、よくある。でもなんというか、全体からかもし出される絵の雰囲気に、かすかに惹かれてマウスを止めた。
「…あ、これがいい。これに決めた」
「えー?もうちょっと見てから選ぼうよー。もっとカワイイのあるって絶対」
不満げにつぶやく柚木と見比べる。さっきから、自分のくせ気をさりげなく引っ張っている。髪の綺麗な子を見ると、柚木はいつも自分のくせ毛を引っ張るのだ。



先刻、鬼の形相で僕らを追ってきた柚木は、今はびっくりするほど穏やかに、追加注文のシフォンケーキを頬張っている。
さっき紺野氏に、茶封筒を渡されてからというもの、ずっと機嫌がいい。…多分、紺野氏が弁償してくれたのだろう。…返さなきゃな。分割払いにしてもらってでも。…それにしても、不思議だ。

柚木の『上機嫌』の理由が、わからない。

一瞬、ちょっと多めに包んでもらったのかな、といぶかったけれど…
僕がそう思っているだけだが、柚木は『おごられる』のは好きみたいだけど、露骨に金を多めに渡したりしたら、侮辱と感じて機嫌を損ねると思う。あの子は実際に金銭がからむような生々しいやりとりが好きじゃない。要するに、金に困ってないのだ。
ふかふかのシフォンケーキをついばむ柚木の視線を追ってみる。時折、ちらっと紺野氏を見上げる。単なる物珍しさか、もっと別の理由か…僕には分からないし、詮索する理由もない。先刻盛大に鼻水を垂らした時点で、僕の恋愛フラグはへし折れたのだから。

「そうだ、姶良。カスタマイズしないのか?」
ぼーっとしているところに急に紺野氏に話しかけられ、慌てて視線を画面に戻す。
「キャラを選択してみろ」
さっき選んだメイドをクリックすると、メイドがアップで表示された。顔の横あたりに「カスタム」と書かれた赤いアイコンが光っている。
「服とか髪の色とか、あと瞳の色なんかをカスタマイズ出来るんだ」

瞳の色……。

「じゃ、変えようかな。瞳の色だけ…」
「…この色、あんまり好みじゃないか?」
…絡むなぁ。何なんだよこのひとは。
『瞳の色』をクリックすると、標準色パレットが表示される。僕はパレットの色を無視して『その他の色』を選択した。虹色のカラーテーブルが立ち上がる。…僕の入れる色は、もう決まっている。僕はカラーテーブルの番号入力欄にカーソルを置いた。
「76ccb3……と」
「それ、さっきのパスワード…」
「そう。僕の好きな色の番号」
彼女の瞳が、優しい空色に変わった。空に、すこし新緑を溶かしたような…淡いようで深い色合い。

チェレステ。ビアンキの伝統色。WEBの商品画像からひっぱって来た、僕の一番好きな色だ。

ビアンキはイタリアの自転車メーカー。車体に使われる緑がかった空色は「チェレステ(天空)」と呼ばれている。毎年ミラノの空の色を見ながら、職人が調合している、とロードバイクの雑誌で読んだ。この逸話を読むまでは「へんな色のチャリ」と思ってたけれど、今はビアンキのロードバイクが欲しくてたまらない。

で、腹が立つことに、柚木はビアンキのロードバイクを持っているのだ。

「おぉ、マルゲリータ王妃の、瞳の色だな」
…この色には、そういう説もある。紺野さんも、自転車が好きなんだろうか。
「……あぁ……まぁ……はい……」
ビアンキ持ってないくせにチェレステにこだわる自分がなんか妙に子供に思えて、気恥ずかしくなってきた。…だけど、チェレステの瞳に変えた瞬間、少女は、なんというか、冬の陽だまりみたいに透き通って、ほんのり温かくみえた。

言おうかどうしようか迷ったけれど、こういう乙女発言でいい目に遭ったことは一度もないので黙っておいた。
…そのあと、細かい色設定や性格設定や声設定など色々聞かれたけれど、面倒なので全部すっ飛ばしてデフォルトで通した。
『決定』ボタンを押すと、少女はくるりとスカートを翻して一回転して、ふわりとスカートのすそを持ち上げると、英国式に一礼した。

「お名前をください、ご主人さま」

イメージにぴったりな、透明で優しい声…!
人前で有頂天になりかけたけど、ぐっと堪えて名前の欄に『ビアンキ』と入力した。
「ビアンキです。…よろしくお願いします」

こうして、僕とビアンキの生活が始まった。


 

 

第二章

第二章

緩やかな目覚めの音楽で、目を覚ました。ビアンキが朝のイメージに近い音楽を選んで、決まった時間に流してくれるのだ。
「おはようございます、ご主人さま!」
パソコンのカメラに向かって手を振ると、ビアンキが画面に大写しになって微笑んだ。
「今日は2限から、民事訴訟法の講義ですよ」
……もうそんな時間か。僕はゆっくり身を起こした。

ビアンキに起こしてもらうようになってから、2週間が経つ。

最初の2~3日は、「いまビアンキが起動するのか!」「ビアンキが音楽を奏でるのか!」と緊張する余り、ちっとも眠れなかった。……馬鹿だ。仮想人格とはいえ、女の子に起こされるのなんて初めてのことで、妙にはしゃいでいた。初めて「おはようございます、ご主人様!」と声をかけられた日は、そんな言葉を女の子に言われてしまった面映さに、思わずパソコンの前で正座してしまった。

最近はもう、起こされることにも慣れてきた。
洗ったままハンガーに干しっぱなしのシャツを引っ張り、後ろ前じゃないことを確認して着る。ふとビアンキに目をやると、彼女は画面上をほうきで掃きまわり、黒い塊を作っていた。僕はちょっと『ご主人さま』を意識した口調で話しかけてみる。
「やあ、もう朝ごはんかい?」
「はい、朝ごはんです!」
朝ごはんの意味を分かっているのかどうか知らないけれど、ビアンキはにっこりと微笑む。
黒い塊はぶより、と蠢いたかと思うと、しゅるしゅると回りながらリンゴの形をとった。
「ほぅ、今日はリンゴか」
彼女が集めていた黒い塊は、スパムメールやサイトで拾ってきたウイルスやスパイウェアらしい。最初この子が何を食ってるのか分からなくて不安になって調べてみたところ、「消化機能」が働いているときのアニメーションだということが分かった。本当に手探り状態だ。MOGMOGに詳しい紺野さんとメアド交換しておいてよかった。



それにしても本当に美味しそうにリンゴを頬張る。……かわいいなぁ。優しく起こされたり、「ご主人さま」と呼ばれるよりも、おいしそうに「朝ごはん」を頬張るビアンキを見るのが今は一番好きだ。
「おいしいかい?」
いつものように、画面に声をかける。今日もキョトンとされるんだろうな…
「はい、おいしいです!」
彼女は一瞬リンゴから口を離すと、そう答えた。
へぇ…
これが、「会話学習機能」か……!

MOGMOGは、ユーザーが話しかけることでコミュニケーション能力を発達させていくことができる。僕が喋った中に、データにない言葉があれば、グーグルなどで検索して調べ、次に同じ言葉が会話の中に出てくれば、内容に応じた答えが返ってくるようになる。

「おいしい」って何なのか、彼女が理解してるかどうかは、また別の話なんだろうけど…

それでもビアンキがおいしそうにリンゴを頬張るのを見ていたら、僕も腹が減ってきた。じゃ、僕も朝飯を……
と腰を上げた途端、ちゃぶ台の上でスマホがブルブル振動し出した。

「…はい、姶良」
『よう、今大丈夫?』
待ち受けには「紺野」と表示されている。
「あ、大丈夫。…どうしたの、こんな朝早く」
『朝早くかよ、この時間が。いいな学生は』
「紺野さんだって学生時代あったでしょうよ。で、どうしたの」
『いいソフト見つけたんだよ。MOGMOGの。今日ヒマか』
「んー、二限が終われば、まぁ」
『昼飯時だな。新宿の「鐘や」で待ってる。分かるか』
「あ、うん知ってる、でも」
『じゃーな』
紺野氏は一方的に言うと、さっさと電話を切ってしまった。
…鐘やの豚カツ茶漬けは旨いんだけど…
正直、カツ茶漬け定食1200円は、学生のランチにはハードルが高い。僕にとっては、金があるときに恐る恐る出向く店の一つだ。

そして今は……
――結局、柚木からせしめることに成功した5000円が、手元にある。

よし、決まりだ。今日の昼飯は鐘やの豚カツ茶漬け。朝飯は抜いていこう。



 鐘や2階の喫煙席で、紺野さんは待っていた。



「今日はちゃんと食ってるか、食い詰め学生」
「何も食ってないよ…」
「お前、若いうちはそれでもいいかもしれないけどな…」
「紺野さんがお昼『鐘や』なんて言うからだよ」
席に着くと、紺野さんがメニューを突き出した。手で制して、店員に豚カツ茶漬けを頼む。
「よく来るのか?」
「2,3回来たきりだよ。高いもん…で、MOGMOGの支払いなんだけど、分割でいい?」
「あー、あれはもういいよ。俺が無理やり入れたようなもんだから。これで金取ったら押し売りになっちまう」
「そんな!悪いよ。MOGMOG入れて良かったと思ってるし。絶対払うよ!…あ、来た」
頼んでからものの数分で、豚カツが運ばれてきた。半分は普通に食べて、もう半分をお茶漬けにするのが決まりだ。
「…で、最近どうだ、ビアンキは」
香ばしい豚カツの香気に鼻の下を伸ばしていると、紺野さんが尋ねてきた。…いけない、豚カツに気を取られて年配者に気を使わせてしまった。
「ビアンキ…ビアンキはまぁ、元気だよ」
でも早く食べたい!鉄板の上でじゅうじゅう焦げている、あっつあつのカツを一切れ、キャベツと絡めて頬張る。
「……ただな……」

僕は、ビアンキをインストールして2日目の事件を思い出していた。

その日は課題のレポートの仕上げに取り掛かっていた。学校で使っているパソコンからテキストに落とした資料をメールに添付して、僕のノートパソコンに送って、後は家で仕上げるだけ。
課題の提出を一回でも怠ると、普通に「不可」がつくことで有名な先生だ。できれば取りたくない授業だったんだけど必須だから仕方がない。この一年、わりと真面目に授業を受けてたし、余程のことがなければものの2時間で終了する!とたかをくくっていた。…だから、パソコンを立ち上げたのは、その日の夜遅くだった。
 その頃はまだ動きがぎこちなかったビアンキが、僕に向かってぎこちないなりに、元気に微笑んだ。
「おはようございます、ご主人さま!」
…この頃の僕は、「ご主人さま」という言葉に照れてしまって、画面をろくに見られなかった。ぼそぼそと「おはよう」を返しながら、メールソフトを立ち上げる。

「……あれ?」

『商法課題テキスト』というメールは届いている。
なのに、添付ファイルがごっそりなくなっている。
添付忘れか?…いや、それはありえない!送信前に、わざわざ一つづつファイルを開けて確かめたんだから。
一応、何かをシャクシャク頬張ってる、僕のかわいいセキュリティ嬢に問い合わせてみる。
「ビアンキ……このメール、添付ファイルついてなかった……?」
ビアンキは、ナシらしき果物から顔をあげると、満面の笑顔で言い放った。


「はいっご主人さま!怪しい添付ファイルを、食べておきましたっ!!」


………え、ええええぇぇぇ――――――――――!! まじで!!!!


「たっ…食べちゃった!?」
「え?……だめだったんですか…!?は、はぁぁ……」
僕とナシを見比べながら、泣きそうな顔でオロオロしている。



「……その、ナシ?」
「ごっ…ごめんなさい……食べちゃいました~……あぁ~……」
ビアンキは、顔をおおってしくしく泣き出してしまった……
僕だって半分食いかけたナシを見て、オロオロするのが精一杯だ。
…いや、そんな食いかけのナシとか差し出されても困るよ…
「…課題提出は一限だ…この教授、課題サボると単位貰えないんだよ……」
ビアンキは肩を落として、画面の隅でうずくまって泣き出した。
く、くそぅ、泣きたいのはこっちなのに先に泣かれてしまった……。
「くっ、仕方ない!ちょっと学校いって来るよ。ビアンキ、留守頼む!」
「ごめんなさい~、本当にごめんなさい~……」

その後、深夜に学校に忍び込んでセキュリティシステムを作動させてしまったかどで、警備会社のひとに散々油を絞られ、学生証のコピーを取られ、ようやく開放されたのは夜中の1時過ぎ。なんかもう散々な一日で、へとへとになって帰ってきたら、起動しっぱなしだったらしいビアンキが、せっせと何か作業をしている。
「ただいま……何やってんの」
「は、はい!申し訳ないので、なにかお役に立てればと思って……」
いい子だ。プログラムだとは分かってても、なんだか和む。
「ご主人さまのお気にいりそうなサイトを、収集しておきました!」

……なんだと!?

慌てて立ち上がりっぱなしのブラウザの履歴を見る。

――Sexyメイド アスカ
――M女出張サービス「私のご主人様」
――M女ブログ「ご主人様の鞭」
――ロリータメイド陵辱の館
――納涼!スケスケメイド服特集

………うわぁ………
………僕の履歴が、エロサイトですごいことになってる………

なんか凄い眩暈をおぼえてパソコンの前に倒れこんだ。

ビアンキをインストールした日、なんか急に自分の中で「Mっぽいメイドブーム」が巻き起こり、優秀なセキュリティソフトを導入して気が大きくなっていたこともあり、つい夜を徹して「メイド」とか「調教」とかで検索しまくってしまったのだった。

…怖い、この子本当に怖い……!!

「あ、あの…お気に召しませんでしたか?…全て安全なサイトですよ?」
頭上で、オロオロしているビアンキの気配を感じる。
――頼むから、今の僕をご主人さまと呼ばないでくれ。
僕は君にご主人さまと呼ばれる資格はない……
課題がなければ枕を濡らして眠ってしまいたい……


――顔を上げると、紺野さんがひきつけを起こさんばかりに大爆笑していた。
「…紺野さん、あんた人の不幸をそんな楽しそうに…」
「ひっひっひ…いや~、災難だったなそりゃ」
「大変だったんだよ。次の日警備員から報告を受けた事務さんにまで散々絞られて。これバグじゃないのか?」
「いや、仕様だ」
「…仕様?」
「説明書、ちゃんと見てないな。キャラクター設定のとき、性格設定チェックボックスがあっただろう。あのメイドは、デフォルトで「ドジっ子」が入ってるんだ」
「…えぇ――?」
「インストールして最初に送られた添付ファイルは、例外なく「間違って」食べてしまう設定になってる。…有名な話だぞ?ま、添付ファイルに関しては、サルベージ機能がついてるからご愛嬌、と。ドジっ子好きにはたまらない設定だ。仕事上、どうしても困る場合は「ドジっ子」チェックボックスをオフにすればいい」
そ、そんな…! なんなのドジっ子好きって!…そのひとたち、こんな迷惑な目に遭ってそんなに嬉しいの!?
「ていうかサルベージ機能って何だよ!」
「食べたファイルを復元する機能だよ」
「え!?」
そんな機能があることを知ってたら、僕は……
何かやりきれない気分になってきた瞬間、タイミングよくキャベツのおかわりが届いた。僕はやけくそ気味に皿を奪うと、キャベツをもう2皿追加した。

「…話を始めるぞ。お前は食っててもいい。聞いてろ」
あれ以来、ほぼ無言でキャベツを掻きこみ続ける僕に痺れを切らしたのか、ふいに紺野さんが喋り始めた。
「さっき電話で話したソフトだけどな」
紺野さんはメッセンジャーバックを取り出してごそごそやりだした。キャベツをぼりぼり咀嚼しながら一応頷いて眺めていると、ラベルのついていないCDケースが出てきた。
「MOGMOG、カスタマイズソフトだ。…ネットで拾ったんだ」
「………」
僕は箸を止めた。それを「興味を示した」ととらえたのか、紺野さんは滔々と話し出した。…僕は僕で、「お茶漬け用の緑茶持ってきてもらうために箸を止めたと知ったら、すごいガッカリするだろうなぁ…」とさすがに気が引けたので、箸を置くことにする。
「お前が瞳の色を変えたように、MOGMOGはある程度カスタマイズが利くんだが、まぁ、色が変わるだけなんだよ。だがな、このソフトをインストールすれば、服装も変えられるんだ。それだけじゃない」「お待たせしましたー」
紺野さんが何か言いかけたとき、店員さんが「何か」を持ってきた。

「豚カツ茶漬けでございます!」



………え?

コトリ、と紺野さんの前に置かれた、作りたての豚カツ茶漬け膳。
僕は……
「あの、もしかして……?」
紺野さんは、気まずそうに視線をそらすと、ぼそりと呟いた。
「なんか腹減ってるみたいだったから……言い出しづらくてな……まあいいじゃないか、同じものだし」
僕は手元の、半分に減った豚カツに視線を落とした。…つまり、こういうことか…

紺野さんが先に来て、先に注文していた豚カツ茶漬けを、後から来た僕が食べてしまったのか……

さ、最悪だ……

呆然としている間に店員さんは厨房に消えた。場の空気的に、お茶漬けを頼むタイミングを完全に逸してしまったので、腹をくくってMOGMOGのカスタマイズソフトの話を聞くことにした。
「…えーと、あのな、とにかく…このソフトで、服装や髪型、それに、性格属性までカスタマイズ出来るんだ!」
「へぇ…カスタマイズ……カスタマイズか……」

……なんだろう、なんか今、「嫌な感じ」がした……

「ノーパソ持って来てるだろ。ほら、立ち上げろ!」
紺野さんは豚カツを脇に押しのけると、僕のノートパソコンを勝手にカバンから取り出して電源を入れて、画面を僕のほうに向けた。起動時に僕の網膜が認識されないと、正しく立ち上がらないからだ。…そんなのあとでもいいじゃないか。それより、あったかいうちに食べちゃおうよ…と言いたかったけれど、そんなことを言い出せる空気ではない。
起動前に貰ったCDをディスクに挿入。…しばらくすると、起動時の青い画面が、ビアンキの笑顔に切り替わる。

「…………」

…いつもは「お帰りなさい、ご主人さま!」と出迎えてくれるのに、どういうわけか、しばらく小首をかしげて僕を見たきり、困ったように口をつぐんで動かない。
「……ウイルス?」
「俺がいるから。…対人セキュリティシステム、俗に言う『人見知り機能』だ」
そうこう言っているうちに、ビアンキは画面の端から、かわいいレースのカーテンを引っ張り出して『しゃっ』と引いて隠れてしまった。紺野さんの顔がほころぶ。
「あーあ、すごい人見知りっぷりだな!…なぁ姶良」
「ん」
「…持ち主が呼ぶと、出てくるぞ」
「…インストールしてから呼ぼうよ」
「いいから呼べってば。…ビアンキー。……見ろ!ほら!カーテンの隙間からちょっと覗いたぞ!」
…最近、うすうす分かったことがある。

このひとは多分、手に入れたMOGMOGを売っていない。

高く転売するために並んで買ったものの、やっぱり自分で欲しくなって売るのをやめたのか、それとも、転売するというのはそもそも嘘だったのか。知る必要も今のところはないし、知りたいとも思わない。
でも紺野さんはどんなMOGMOGを育てているのか、ちょっと見てみたい気はする。語り合えないのは残念かな。

「インストール終わったぞ」
紺野さんの声でわれに返った。デスクトップに、タンスのようなアイコンが増えている。
「…これは?」
「ちょっと、クリックしてみろ」
紺野さんに促されてダブルクリックしてみると、タンスのアイコンがかぱっと開いた。…とても嫌な予感がする…最悪の事態に備えて音源をOFFにしようとした瞬間、水色にフリルと花柄のウインドウが「こかぽかぽん」という、木琴みたいな起動音と共に展開された。店員の女の子が、僕のパソコンにちらっと一瞥をくれて、怪訝な顔で通り過ぎる。
「……うわ」
「ほら、カスタマイズ画面が出たぞ!……何だよ、何で閉じる?」
「……理由が分からないか?」
若い男二人が、食い物屋で出された豚カツ食べないで、こんな萌え満載なソフト立ち上げているなんて明らかに異様だろう。
「まーいいから開けって。じゃ、まず手始めにコスチュームのチェンジだ♪」

…………コスチュームとか言い始めたよこのひと…………

誰とも目が合わない程度に、さっと周りを見渡す。隣のカップルと、紺野さんの後ろの老夫婦が、明らかに異常者を見る眼差しで僕らのテーブルをチラ見している。隣のカップルなんて「2次元界の住人はアキバに帰れ」くらいのことは思っている眼差しだ…ああ、やりきれない…紺野さんの手付かずの豚カツ全部食って逃げ帰ってしまおうか……

「ほら、かわいいコスチューム盛り沢山だぞー!?姶良、お前どれが好みだ!?」
…紺野さんは「僕が見やすいように」と、ウインドウを全画面表示にしてくれた…
もう店内の誰から見ても分かりやすいくらい、「MOGMOG着せ替えBOX♪」のかわいいロゴが大写しになった。…店員の女の子が、お茶漬け用の緑茶を、投げ捨てるように置いて行った。
「うわー、僕―、このレースふりっふりの花柄ワンピが好みかなーこん畜生!!」
もうやけくそだ。どうにでもなってしまえ。
「お、いいノリになってきたじゃないか!よーし花柄ワンピだな!」
ノリノリの紺野さんが花柄ワンピースをクリックする。こかぽかこかぽかぽん、しゃららららららーらららーてぃろりろりん……へんなBGMがループする。顔を上げなくても分かる。僕らは今、この店の注目の的だ。僕は必死で自分に言い聞かせる。

……落ち着け。今取り乱したら、恥を別ベクトルに上塗りだ……

「お…おぉー、見ろ姶良!」
仕方なく顔を上げた刹那、全ての羞恥心が吹き飛んだ。「カスタマイズ」と聞いたときに感じた「嫌な感じ」すら。適当に選んだ花柄のワンピースは、意外にも体にフィットするタイプで…ビアンキのしなやかな体のラインが、淡い桃色の花柄に包まれて映えていた。スカートも、思ってた以上に…こう、短い!許容範囲ギリギリといった感じだ!金色の髪をおろして、花柄と同じ色のリボンをカチューシャのように、ふわっとかけているのも、なんかもう、ぐっとくる。
「ご主人さま…似合いますか?」



ビアンキが、はにかんだような上目遣いで僕を見ていた。

「…に、似合うよ!超似合うよビアンキ!!」

バイト先の女子の私服姿を街中で発見した時みたいに、思いがけず胸が高鳴った。僕はつい、ここが飯屋の中であることも忘れて『に、似合うよ!』などと口走ってしまった。…パソコン相手に。

「これ、もらっていいんですか?…うれしい!」

ビアンキはチェレステの瞳をきらめかせて、体を抱きしめるようにしてくるくる回った。ビアンキが喜んでくれて嬉しい。

僕はその後、自己嫌悪で講義を1日休んだ。



……今思い出しても、懐かしさと悔恨で胸が締め付けられる、この日の、この瞬間。
もっと、「気にしてあげる」べきだったな…と。

推理小説を読んでいて「あれ?ここなんか変な表現だな」と感じることがある。僕も、多分他の大多数の人たちも、その時はただ読み進めたくて、もっと続きが知りたくて、わずかな違和感は通り過ぎてしまう。そして物語の終盤になって気づくんだ。あの「違和感」こそが、真実の答えだった…って。僕はそんなとき「あー、やっぱりあそこ違和感あったんだよね!」…と、あたかも自分は謎を解いてたような気分になる。

だけど、僕がこの現場に居合わせた探偵だったら、連続殺人事件は藪の中なんだ。
そして最後の犠牲者は、僕の前にむごたらしい骸をさらすだろう。
最後に気がついても、もう遅い。最後の惨劇を許してしまった小説は、もはや推理小説なんかじゃない。

低俗で残忍な、ホラー小説だ。

…このとき感じた「嫌な感じ」を、もっと深く突き詰めて考えていれば、
ビアンキも、僕も、もっと違ったエンディングを迎えられたのかな……


 
 

 
後書き
次回更新:1/26予定です。 

 

第三章 (1)

ここに入学してまだ日が浅い桜の頃。

サークルのチラシ片手に新入生を追い回す上級生の群れを縫って、ふらふらと歩いていた。新入生歓迎コンパへの参加を約束させられたり、時には強引なサークルの追撃をかわしたりしながら、僕なりにサークルを吟味していた。
これまでの人生、なんとなくインドア系の団体に吸収されがちだった僕は、一念発起して東京に出てきて、大きな野望を抱いていたのだ。僕自身を変えるためにも、

―――アウトドア系の、ちょっとおしゃれなサークルに入りたい。

…テニスや乗馬なんか露骨におしゃれだけど、そんな高級な集いに僕が紛れ込んだりしたら、僕のそこはかとないダサさが悪目立ちして、周りのセレブな人々に「あら、なに、この負のオーラ」「まぁ、本当ですわね、何処からともなく負のオーラが…」とか囁かれて、一月もした頃には何となく遠巻きにされて、さらに一層強い負のオーラを身にまとう羽目になりかねない。
旅行サークルなんかは比較的、懐が深そうだけど、きっと金が続かない…。
ひとまず勧誘地帯を抜け出し、桜の下に設えられたベンチに腰をおろす。そして散々押し付けられたチラシを読むでもなく、ただ漫然と眺めていた。無造作に広げられたチラシの束に、そろそろ散り始めた桜の花びらがぽつり、ぽつりと舞い落ちてきた。

―――ピンとこない

この一言に尽きた。
だいたい僕の選定条件が悪い。おしゃれだのアウトドアだの、金が掛からなくてちょっと知的だの。そんなあやふやな条件でどんどん選択の幅を狭めていけば、しまいにゃ「野外百人一首同好会」とか、アウトドアだかアバンギャルドだか分からない珍妙なサークルに入ってしまい、冬の寒波にうち震えながら、木枯らしに舞い散るカルタを必死の形相で追いかけるような羽目になりかねない。

…急に、全部面倒になってチラシから顔をあげ、散り初めの桜を見上げた。花散らしの風がさあっ…と頬を撫で、周囲を桜色に染めていく。こういうの、なんていうんだっけ。…そうそう、桜霞。
散り初めの桜が好きだ。薄い桜色の花弁を含んだ風は、世間を曖昧な霞に閉じ込めて、僕からやんわり遠ざけてくれる。

…変わりたいなんて気張る必要、ないじゃないか。
今までどおり、やんわりと世間と距離をおきながら、ただ潮目に沿って流れていこう……ふいにそんな考えが浮かんできて、ふっと目を細めたその刹那





桜霞を切り裂いて、空色の自転車が駆け抜けた。

はっとした。
目の前を横切った瞬間の、彼女の横顔を今でも鮮烈に覚えている。
凛とした、迷いのない横顔。そして高校の頃、雑誌で見たことがある憧れの自転車『ビアンキ』。女学生らしい軽快なペダルさばきを見せる、細くて白い足首。…正直、綺麗だけど気が強そうだし、街中で見かけたとしたら全然好みのタイプじゃない。ただ、あの瞬間、あの横顔は、いやに鮮明に眼窩に焼きついた。

僕はベンチから立ち上がると、先刻なんとなく受け取ったチラシをすべて屑篭に放り込んだ。風が凪ぎ、桜霞が嘘のように晴れ渡る。その向こうに広がるのは、まだ少しくすんだ空の色。

僕は、自転車に乗れるサークルを探して、勧誘地帯に踏み出した…

……そんな感じでポタリング部に入部して、早や9ヶ月近く経とうとしている。
部活動のために予約された会議室の片隅で、ちょうど僕と対角線上の席で女の子と談笑している柚木の横顔を眺めながら、あの桜の頃を思い出していた。
あの横顔を初めて見た瞬間、自転車に乗りたい!という思いが沸きあがって入部した。そこに、あの横顔の子がいて、自己紹介で『柚木』という名前を知った。サークルに綺麗な女の子がいる、その事実だけで、僕も『あっち側』の人になれるかも!と内心小躍りしたことを覚えている。

……僕は、浅はかだった。

このサークルは、大まかに3つの派閥に分けられる。
まず1つは、このサークルの主流とも言える、ちょっとイイ自転車とスポーティーなスタイルで街を走る『おしゃれ街乗り派』。女の子が多く、柚木なんかもこの派閥に入る。ビアンキとかルイガノとかの、おしゃれでメジャーな街乗りサイクルを好むのが特徴だ。他サークルとの掛け持ちの子が多く、会合の顔ぶれが毎回異なる。
そしてもう一つは、ある意味ここの主力とも言える、体育会系派閥『ロードレーサー派』。いかにも速そうなロードバイクを好み、なんか過酷そうなレースに参加する。空気抵抗少なそうな、ピッタリ体に張りつくウェアに身を包み、街乗り派の男子を一段低く見ている感じ。その割には街乗り派女子の目は異様に気にしている。
そして最後の一つ。…ポタリング部の暗部に君臨し、ヴィンテージパーツをヤフオクで落とした話とか、古いクロスバイクをドロップハンドルに改造したいんだけど誰か部品余らせてないか、とかそんな話に花を咲かせる『改造マニア派』。「CNC!」とか「カンパニョーロ!」とかそういう単語にいちいち反応して、どうせ使わない部品を有難がったり磨いたりするのが主な活動内容。メンテナンスも簡単なやつなら出来る。ロードレーサー派とは利害が一致するので仲がいいけど、街乗り派には若干遠巻きにされている。

―――僕が、所属する派閥だ。

無事アウトドアサークルに入って油断しきっていた僕は、あっさりとマニア派の強引な勧誘の餌食になった。そして元々手先が器用でインドア系の素養があったこともあり、夏休みが終わる頃には主要メンバーの1人に落ち着いていたのだ。
「姶良よ」
「なんすか」
神妙な顔で自転車パーツ情報誌を読んでいた鬼塚先輩が、ふと顔を上げて話しかけてきた。
「俺はまだ、『おしゃれ化』への道を諦めてないといったら、笑うか」
「……もうやめましょ、そういうの。……あの件、忘れたんですか」
今年の夏頃、誰かの提唱で始まった『マニア派おしゃれ化計画』を思い出した。
「インテリな俺達が、おしゃれすれば鬼に金棒じゃね?」をスローガンに誰ともなく始まり、計画段階では異様な盛り上がりを見せた。そして次のサークル会議で、全員一斉おしゃれデビューという流れになり、めいめいの本気モードで集合することになったのだ。

――今にしてみると、正常な判断力を喪ってたとしか思えない。

その日、僕は少し遅れて会議室に着いた。新品を買う余裕なんてないので、街乗り用に一本だけ持っているクォーターパンツに、まだヨレてないTシャツを合わせただけの簡素な『本気モード』に落ち着いていた。どきどきしながら室内を見回すと、定位置となっている部屋の片隅に、マニア派の面々が暗い目つきで腰をおろしていた。
…全員、おろしたてと思われるラコステのポロシャツに、アメ横で買ってきたと思しきシルバーのネックレスをぶら下げていた。
「…おう、姶良よ」
恐る恐る近づくと、鬼塚先輩が僕に気がついて顔を上げた。軽く会釈をすると、そのまま視線を下半身に落としてみた。これもまた、全員似たようなバミューダで統一されている。…いや、これ全員同じバミューダだ!しかも普段すねを出し慣れてないひとたちが全員一斉に出したものだから、予想以上にすね毛密度が濃くて不快指数が高めな感じだ。変な臭いがしそう。沈んでいるところを本当に申し訳ないけど、僕もできれば近寄りたくない。
「…なんすかこれ」
「…元凶はこれだ、姶良よ」
鬼塚先輩に手渡された、おしゃれ街乗り派御用達の自転車情報誌を開く。巻頭に掲載されているチョイ悪な男性モデルが、ルイガノの街乗りバイクを背に、ラコステのポロシャツをざっくりと着こなし、クロムハーツのシルバーを胸元にチラ見せしつつ、定番のバミューダですっきりとまとめていた。金髪の外人さんだから、すね毛はあまり目立たない。
「あの…全員、まっさきに巻頭の外人に飛びついたんすか」
「俺達おしゃれ初心者に、吟味をする余裕があると思うか、姶良よ……」
「そう、ですね」
「……なぁ、姶良よ。俺、こうなってみて、つくづく思ったんだけどな」
普段無口な鬼塚先輩が、あえて皆を代弁するように口を開いた。
「すね毛は、思いつきで出すもんじゃねぇな……」
鬼塚先輩の口の端に、自嘲的な笑みが洩れた。それは次第にくっくっく…という低い笑いへと変わっていき、その笑い声は、徐々に回りに伝播していった。
「ひっひっひ……」
「いっひっひっひっひ……」
「くっくっくっ……」
「あっはっはっはっは!!」
全員の引き笑いが合流し、やがて互いの肩を叩きながらの不気味な大哄笑へと発展していった。そんな僕たちを、不審者を見る目で遠巻きに眺めている柚木を視界の隅にとらえた瞬間、僕はおしゃれなアウトドア系キャンパスライフを諦めたのだ……。







「…あれ見た時は、みんな僕に内緒で『ラコステをかっこ悪くする会』でも結成したのかと思いましたよ」
「本気でやったとバレなくて幸いだったじゃねぇか…あれからうちのサークルじゃ、誰一人ラコステを着てこなくなったしな。嫌がらせとしては大成功だ」
鬼塚先輩は、またぼんやりと女子の溜まり場を眺めている。今日は春近く…というか冬真っ盛りの時期になるとコンビニで大量にリリースされる『イチゴ味の菓子』をみんなで買い込んで試食しているようだ。鬱全開の深く長いため息を吐き出すと、鬼塚先輩は半分潰れた煙草の箱を傾けてライターを出した。…やがて、ため息混じりの煙が辺りを満たす。鬱って、こうして伝染するものなのかな、と、ふと思った。
「…もう諦めろ。人には持って生まれた天分ってもんがあるんだよ」
ヤフオクで落としたというCNCのディレイラーを磨いていた武藤先輩が、なげやりに呟いた。
「あるんですよね…どうやっても変えられない『自分の核』みたいなもの…」
「最初にダサい核を入れられた俺達は、もう一生ダサいまんまかい、姶良よ……」
「イヤそれは、その……」
「あのオシャレな街乗りの連中に俺の核を移植すれば、奴らもたちどころにダサくなるのかい、姶良よ」
「いや、アメーバじゃないんですから……」
「姶良に絡むな、仕方がないだろうが!」
武藤先輩が、部品を布ごとガツンと机に置いて鬼塚先輩の方に身を乗り出した。
「『核』に優劣なんかないんだよ。盗んだバイクで走り出す奴がいれば、その盗まれるバイクを作る奴も必要だろうが」
「作ったバイクを盗まれて、俺らいいトコなしって感じだな、武藤よ……」
「あはは、うまい事言いましたね」
つい納得してしまい、武藤先輩に頭をはたかれる。
「そんなことより、次のツーリングコースの普請は終わったのか!」
「…はあ、叩き台程度ですけど」
ノーパソを取り出し、電源を入れる。武藤さんが僕の後ろに回りこんで、肩越しに覗き込んだ。
「ビアンキちゃんは元気か」
「…元気だけど起動時に画面覗くのやめてください。他の人の網膜が映ると、認証システムが混乱するんです」
武藤先輩をなだめて画面から遠ざけると、程なくしてノーパソが起動し始めた。最近少し人見知りが取れてきた(セキュリティ的には取れていいのか分からないが)ビアンキと武藤先輩が微笑み合っているのを尻目に、グーグルにログインしてマップを開く。程なくして、ラインと書き込みでいっぱいの地図が表示された。
「お、もうほぼ出来てるじゃないか!仕事速いな」
全画面表示にして、地図を縮小して全体を表示する。多摩川に沿って、弧を描くように赤のラインで囲った地図が表示された。
「…ほう、ちゃんと走ってみたんだろうな。ロードバイクで未舗装の道とか、きつい坂道とかシャレにならんぞ」
「…通しで走ってはいないけど、大体」
「大体ってお前ね」
「まぁ、まてまて武藤よ」
先刻から、それとなく覗いていた鬼塚先輩が、割って入ってきた。
「よく出来てるじゃないか。俺が知る限りの厄介な道は、ほぼ迂回できている。寄り道が出来るスポットも盛り込んであって、なかなかセンスのよいコースだ。…よく、走ってないのにこれだけのものが作れたもんだ。驚いた」
「この辺の地理は、大体把握してますから」
僕は小さく笑って地図を全体表示にした。鬼塚先輩が、再度感心したように呟いた。
「…さすが『鋼の方向感覚』だな」

僕は生まれてこのかた、方向を見誤ったことがない。
小さい頃、車で30分かかるばあちゃん家に泊まりに行った日、お気に入りの絵本を家に置き忘れた。明日には帰ると分かっていたけど、なんとなくイライラしてしまい、祖母の自転車を拝借して絵本を取りに戻った。道は、完全に覚えている自信があったから。
事実、僕は一度も迷うことなく、4時間余りで往復してばあちゃん家に戻ってきた。今思い出しても、結構いいスコアだ。

…まぁ、そのあと半狂乱の母さんに半殺しにされたのだけど。

それに加えて一度通った道は、建物や造りも含めて絶対に忘れたことがない。一見凄い能力のような気がするけれど、この異常な記憶力は『道』にしか作用しない。僕の一般的な記憶力は、極めて人並みなのだ。

「なにそれ?次のコース?」
ゴテゴテしたデコレーションのイチゴポッキー(?)をくわえて、柚木が寄って来た。
「あー……まぁ…」「ふぅーん…」
柚木が、分かったような分からないような顔をして、マップを覗き込む。
間違いなく、分からないのだ。
多摩川のサイクリングロードくらいはギリギリ分かっているかもしれないが、むしろ半端に分かってしまったせいで、自分の分かってなさが分からない状態になっていることだろう。

街乗り派の合言葉に「柚木を1人で走らせるな」というのがある。

順調についてきているな、と思って一瞬目を離した隙に、何かに気をとられては、ふっといなくなるのだ。…まぁ、道を知ったうえでコースを外れているのなら、何も言うことはないんだけど、彼女は百発百中で迷子になる。
それでも発見が早ければ、割とラクに元のコースに戻せる。しかし彼女の場合、無駄に脚力がある上に、闇雲な行動力であっちこっち走り回るので、迷子が発覚した時には取り返しがつかないほど遠くに行ってしまっていることが多い。そして「なんか、変な所に出ちゃった!…んとね、十字路の先に薬屋があってね、『山梨↑10km』って書いた青い看板が…」みたいな絶望的な電話が掛かってくるのだ。
それでも僕の守備範囲にいるうちは、なんとか携帯で遠隔操作して正規ルートに戻せるけれど(この「柚木サルベージ」のお陰で、僕は鋼の方向感覚と呼ばれ始めた)、たまに僕もお手上げな程、遠征している場合がある。そんなときはどうするか…

放っておくのだ。

すると、嗅覚なんだか帰巣本能だか知らないが、彼女は不思議と源流にたどり着く。
「鮭と同じ原理で帰ってきているのだ」と、鬼塚先輩は言う。だとすると嗅覚のほうか。

「食べる?」
ふいにポッキーの袋を差し出されて我に返る。
「あ…ありがと」おずおずと手を伸ばす。先輩達も、のそりのそりと群がってきた。
「最近のポッキーはすげぇなぁ、柚木よ」
「なんだこのデコレーションは。ポッキー異様に太くなってんじゃねぇか」
武藤先輩が、毛の生えたごつい指を袋にねじ込んで可愛いポッキーをつまみ出し、面白くもなさそうな顔で噛みしめる。ポッキーがケダモノに汚されたような絵ヅラだ。
「文句言うなら食べないでくださいよぅ」
柚木がぷぅ、とむくれる。続いて鬼塚先輩がポッキーに手を伸ばした。
「ははは…それより柚木、鬼塚はさっき便所でチンコ触って手を洗ってないぞ」
「え!?」
柚木が、そして鬼塚先輩がびくっと肩を震わせる
「そして、俺もだ」
「キャアアァァァア!!」
柚木が飛びのいた拍子にポッキーの箱を取り落とす。
「あーあ、もったいね」
「最っ低!!もうそれいらないから!!」
「いらねぇか、ラッキー」
武藤先輩はポッキーをひょいとくわえると、床に落ちた箱をつまみあげた。





「うめぇ!…ほれ、お前も食わんか」
「…いや、いいっす」僕は即座に断った。
「ちょっと!それ高かったんだから!ポッキー代返して下さいよ!!」
「じゃ、ポッキー返す」
「そうじゃないでしょ!!…ああぁぁもう!!最近こんなことばっかし!!」
頭をかきむしって柚木が叫ぶ。…『こんなこと』とは、紺野さんがMOGMOGを勝手にインストールした件のことを言っているのだろう。
「まぁまぁ…じゃあこれ開けようか」
僕はカバンの奥から『期間限定キノコの山 野イチゴ味』を取り出して机に置く。真っ先に手を出してきた武藤先輩を払いのけ、柚木がキノコの山を奪い取った。
「やった、いいの持ってんじゃん!これ、どっちにしようか迷ったんだよねー!」
「ははは…偶然ね…」
実は前回のサークルで、女子が「新作イチゴ菓子をみんなで持ち寄って試食しよう!」と相談していたのを立ち聞きして、あわよくば「うわっ偶然~!僕も今持ってるんだよね!」などと、どさくさに紛れて試食に混ざりたい!と考え、用意しておいた。しかし、部屋に入って早々先輩達に捕まり、野望はあえなく潰えたのだ。

「で、これが次のコース?」
キノコの山をぽりぽりかじりながら、柚木は僕のノーパソを覗きこんだ。もう機嫌は直っているようだ。
柚木は例えば、理不尽な手段で先輩にポッキーを取られても、代わりのものが手に入れば、ポッキーを取られた経緯をすっかり忘れて無防備になる。
彼女のそういう部分を、僕はいつも「生き物的にはどうなのか」と思ってしまうが、潔い感じがしてわりと嫌いじゃない。とりあえず、人間が捕食される側の生き物じゃなくて本当に良かった。柚木みたいな子でも、厳しい大自然とかに淘汰されることなく元気に生きていける。
しかし、逆に柚木は『代わるものが手に入らないと絶対に許さない』という一面も持っている。だからこそ、僕はしつこく気になっているのだ。

柚木はどうして、紺野さんを許したのだろう?

紺野さんを気に入っているのは態度から分かるけど、それは「代わるもの」じゃない。いや、むしろ紺野さんが「代わるもの」を差し出したことが、柚木の態度の豹変に関わっている気がする……
そして僕は、一つだけ確信している。
紺野さんが柚木に提供したものは、『物』じゃなくて『情報』だ。
柚木と紺野さんが物陰で何かを話し合っていたのは、ほんの1~2分。柚木は小さな封筒以外、なにも持っていなかった……MOGMOGを手に入れると同等の、紙切れ1枚分程度の情報、とは一体なんだろう……。
「やだ!ちょっとやめて下さいよ!!」
柚木の悲鳴で、はっとわれに返る。武藤先輩が、再びキノコの山にちょっかいを出し始めたのだ。
「なにをキサマ!先輩命令だ、キノコの山もよこせ!」
「絶対イヤ!近寄らないでよ、このモテない菌!!」
「菌ならキノコは俺の眷属だろうが!その手を離せ、この方向音痴の鉄砲玉が!!」
「方向音痴が関係あるかっ!これ以上食べ物に触れたら殺す!!」
小学生のようにキノコの山を奪い合う二人を尻目に、鬼塚先輩が再び画面に向き直る。
「…柚木も放っておけばいいのに。武藤のアレは、気になる子に意地悪したくなる小学生と何も変わらんというのにな、姶良よ」
そういいつつ、柚木から巻き上げたポッキーをちゃっかり自分の物にしている。彼らが小学生なら、この人は中学生だ。僕は適当にあいづちをうつ。
「…ですよね。そんなに気になるなら優しくして距離を縮めるとか…。」
「『いい人』というのも、なかなか救いがたい立ち位置だがな…」
僕のことを言われている気がした。
「分かってますよ。…でも面倒じゃないですか、駆け引きとか」
「あぁ…ギャルゲーのように、ひたすら優しさの積み重ねで女が落ちてくれるなら、俺達ゃどんだけモテモテだろうな、姶良よ…」
「空しいこと言わないでください…」

しばらくぼんやりと宙を見据えていた鬼塚先輩の視線が、ふいに画面に戻った。
「本当に、良く出来たコースだな」
「なんですか、改まって」
「…メンテナンスの腕も、そこそこ上がってきたな、姶良よ」
「そんな…まだまだ勉強中ですよ」
「いや、お前の仕事には、高いポテンシャルを感じずにはいられない」
「いえ!断じてそんなことは…」
「謙遜をするな。お前には力がある…次世代のマニア派を束ねていく力が!」
「そんなイヤな力、断じてありません!!」
ふいに外堀を埋めていくように言葉を重ねはじめた鬼塚先輩に、危険な予感を覚えてイスごとあとじさる。
「なぁ姶良よ、お前に折りいって話があるのだが…」
「時期早尚もいいトコです、それだけは勘弁してください!!」
僕の悲鳴にも近い懇願の声に、武藤先輩がいち早く反応して、キノコの山争奪戦から離脱してきた。
「お?鬼塚、とうとう『アレ』を譲るのか?」
「イヤほんとやめてください!僕、ああいうのはちょっと…」
「やれやれ、やっちまえ!『アレ』は早いに越したことはない!」
武藤先輩が野次馬根性で煽りまくると、柚木も首を突っ込んできた。
「姶良なら『アレ』、ぜったい似合うよ!」
「似合いたくないよ!」
「……うぅむ……予感がしてきた……予感がしてきたぞ」
身をすくませる僕の肩を乱暴に掴むと、鬼塚先輩は地を這うような声で宣言した。
「…お前は『呪われたランドナー』を継承する…」
「イヤですよ!!」

…我がポタリング部(の一部)には、代々継承されている自転車がある。

『ランドナー』とは、長距離走行用にフランスで開発され、日本の自転車職人によって独自の進化を遂げていった、アンティーク自転車のことである。

もう一度言おう、アンティーク自転車だ。

今でこそ『自転車界の絶滅危惧種』だの『デコチャリの一種』だのひどいこと言われ放題だけど、昔は、未舗装道路も山岳地帯もものともしない頑丈なボディで人気を博していたのだ。懐中電灯のようなライトや太いタイヤ、いやに立派なスタンドやキャリアなどの、今では冗談みたいな装備も、当時は魅力の一つだった(と現オーナー・鬼塚先輩から聞いた)。でもやがてMTBやロードバイクなどに人気を奪われ、取り扱い店は激減。パーツも続々生産中止となり、いくら頑丈でも、壊すと代わりのパーツが手に入らない、デンジャラスな車種と成り果てた。
だから今では一部の熱心なマニアが、数少ない取扱い店でオーダーメイドで手に入れて、乗りもしないで飾っておく骨董品的なポジションに落ち着いている。

しかし、我が部に伝わる『それ』は、そういう類のものじゃない。

古いのは古いのだろう。50年以上は乗り継がれていると聞いた。正確な年代は分からない。何しろメーカーが不明だから、製造年の見当をつけようがないのだ。自作なのかもしれない。
そして幾星霜にわたり、素人に毛がはえたような部員にテキトーなメンテナンスを施され続け、部品が壊れればMTBやロードバイクの部品を無理やりはめ込まれ、ますます正体不明さを増していく、鵺のような自転車。もはやこれは本当にランドナーなのかも疑わしくなってきている。
それでもランドナーとしてアイデンティティを主張し続ける、ボコボコに膨らんだサイドバッグや、荷台にくくりつけられた寝袋の絶妙な貧乏臭さが、乗る者をしてホームレスかと思わしめる。しかも随分前の継承者が、ライトが壊れた際に冗談でくくりつけた懐中電灯が、そのまま引き継がれてしまっている。アンティークの尊厳なんか微塵もない。
そしてこれを引き継いだ部員は、次の継承者が現れるまで、このランドナーでサークルに参加しなければならない。

ならない、というか、せざるを得ない状況になる。

ランドナーが次の継承者を求めるとき、継承者の愛車が「屠られる」。
事故か、盗難か、寿命か…理由は様々だけど、とにかく継承者は偶然の不幸で愛車を喪う。そして、備品貸与の形でランドナーを受け継ぐ羽目になるのだ。それが『呪われたランドナー』たる由縁らしい。
歴代継承者の中には、愛車が潰れた直後、新車を買った人もいたそうだ。しかし新車はものの3日で、愛車と同じ末路を辿った(と鬼塚さんから聞いた)。
それ以来、半ば諦めをもって受け入れられ続けているこのランドナー継承。こいつ自体を屠ってしまおうという提案は、不思議と挙がったことがない。
「…今まで何十台も自転車を屠ってきたランドナーを潰して、無事で済むと思うのか、姶良よ…」
現オーナーは、鬱っ気たっぷりのため息を吐き出して、そう答えた。

そしてここからが、最も恐ろしい話なんだけど……

『呪われたランドナー』を継承した者は、列島縦断の旅に出るしきたりがあるのだ。
あの貧乏ランドナーで3000キロ以上の距離を走破!……死人が出てもおかしくない、無謀旅行だ。そして案の定、ランドナーは毎日のようにぶっ壊れまくるそうだ。近くに部品屋がなくて、半分泣きながらランドナー引き引き十数キロ歩くなんてことも1回や2回じゃなかった、と鬼塚さんから聞いた。事実、列島縦断から生還した部員は、別人のようにメンテナンスの腕が上がっているという……。

「……ランドナー継承も列島縦断もお断りします」
「それを決めるのは俺じゃない」
鬼塚先輩が、窓の外に視線を走らせた。無個性な自転車たちが居並ぶ駐輪場で、ホームレス仕様の『それ』は異彩を放っている。
「…『屠られる』とか言うけど、年に1人くらい、うっかり者が自転車を壊したりなくしたりするなんて、何処のサークルでもあることでしょう?連続して自転車を壊したとかいう人は、よっぽど迂闊だったんですよ」
「…俺も、最初はそう思っていたよ…」
鬼塚先輩は、一瞬にやりと笑うと、再びノーパソに向き直った。
「…あいつには何か、魔性があるんだ。…姶良よ、お前にもいずれ分かる」
「魔性じゃなくて愛着でしょう。それこそ、よくあることですよ」
「あ、あのぅ…むつかしいお話、終わり…ですか?」
地図の端をめくって、ビアンキがそっと顔を覗かせた。せっかく全画面表示にしたのに…。
「ん、そろそろ終わりだよ。悪かったね、放っておいて」
「あ――――!!!」
柚木が突然声を張り上げ、ノーパソの方に身を乗り出した。
「な、何だよ」
「この服!なにこの服!!」
「服って…べつにいつも通りの」「あんたの服じゃない!!」
ぴしゃりと言い放つと、柚木はノーパソの液晶を叩いた。
「ビアンキのワンピース!MOGMOGには着せ替え機能はなかったはずだよ!!」
「……げ」
そっと、メッセンジャーバッグに手を伸ばす。これ以上騒がれる前に、ノーパソをひったくって逃走しよう……。
 
 

 
後書き
(2)に続きます。 

 

第三章 (2)




「大体ね、姶良はセンスがわるいの!柄ものに柄ものの帽子合わせたりして!」
―――柚木が、来てる。
―――僕の、6畳1間のアパートに、柚木が一人で来てる。

柚木に『カスタマイズ・ビアンキ』を見られた。
「ちょっと!なにこれ!どういうこと!?」
大騒ぎしはじめた柚木からノーパソを取り上げ、教室を駆け出した。
「あっ!こら待てっ姶良!!」
…冗談じゃない。ビアンキのセキュリティは何故か柚木には甘いし、勝手にいじられてまたあのソフトの起動音が教室で鳴り響いたりしたら、僕はサークルに顔を出せなくなる。下宿まで走って5分、さすがに女の足では追ってこれまい。


―――そうやって、まいたつもりの柚木が、僕の部屋にいる。


…息を切らして下宿に辿り着くと、ビアンキの自転車が出入り口の古びた鉄パイプにチェーンでつないであるのが見えた。ゆっくりと目を上げると、柚木が僕の部屋の前に。
「…あんた、ばかでしょ」
「………へ」
「来てるでしょ、私。ポタリング部の新歓コンパで終電を逃した日」

………。

学校に近いと忘れ物したとき便利、などという小学生みたいな理由で、学校激近物件を選んで借りたのが、そもそもの間違いの元だった。
飲みで終電逃した奴とか、家に帰るのが面倒になった奴がちょくちょく転がり込むようになり、いつしか僕の部屋は、サークル連中の溜まり場になっていった。

さすがに柚木は絶対に来ないが、一度だけ、不可抗力で僕の部屋に泊まったことがある。

 もちろん、ほかにも終電を逃した連中が何人も転がり込んできていた。春先で、まだ花冷えがする時期だったけど、とにかく人数が多いし、先輩たちの手前もあり、柚木には薄いタオルケットしか回してやれなかった。寒そうで可哀想だったから、彼女が寝付いた頃に、コートをこっそり掛けてやった。……あの時は柚木に会って日が浅かったせいか、自分の部屋で酔って寝息をたてているキレイな子に、単純にどぎまぎしたものだった。
いつか、恥じらう彼女に腕枕をしてやったりして、片手でウイスキーなんかカランカラン回しながら、この日のことを「…あの時は、ちょっとドキドキしてたんだよ…?」などと寝物語に話して聞かせたりする日が来たりして!…などと見果てぬ妄想に走り、そんな未来の自分の為に、柚木の寝顔を事細かに観察したり、何かに例えてせかせかメモしたりしたものだった。ついには「二人の思い出の一コマなのに、この部屋汚れすぎだろう!」とか先走ってしまい、コロコロローラーでじゅうたんの掃除を始めたあたりで柚木が「ぞり…ぞりり…ぞり」という不気味な音に驚いて目を覚ました。枕元にうずくまってぞりぞりローラーを転がしていた僕は、嫌というほどひっぱたかれたのだ。

…などと昔のことを思い出してぼんやりしているうちに、柚木に無理やり押し込まれ、ノーパソを奪われ、無理やり目を見開かされて起動させられた。彼女の横暴の前には、セキュリティシステムも意味がない。
…所詮、柚木にとっては僕なんて「網膜」くらいの価値しかないのか…腕枕とか寝物語とか、超あり得ない話だったなぁ…
起動画面に押し付けられるようにして目を見開かされながら、そんな哀しい事を思った。

――そして今、ビアンキのコーディネートについて、ダメ出しを受けている。

「柄ものと柄ものは難しいんだから、よく知らない人が簡単にできるもんじゃないの!…ほら、こっちの白い帽子のほうがすっきりするでしょ。…あ、こっちの紺のワンピースもかわいいじゃん、こっちにしなよ!靴はねぇ…これ!」
…着せ替えソフトのロゴをみた瞬間、僕のことを散々変態呼ばわりしたくせに、自分は完全に着せ替えごっこを楽しんでいる。それに悔しいが、女の子だけあって柚木のほうがセンスがいい。ビアンキも心なしか嬉しそうだ。
「ほーら、ビアンキちゃんかわいくなった!センスの悪いお兄ちゃんで困ったわよねー」
「ハイ!」





――ハイって言った! 今この子、ハイって言ったよ!ご主人さまのコーディネートはセンスが悪いって断言したよ!

「あのひと、よくこんなの拾ってきたよね」
じんわり打ちひしがれている僕の方を見ず、柚木がつぶやいた。
「謎だよね。なにやってる人なんだろう」
うっとりする場面じゃない。大の社会人がマニアックな着せ替えツールを拾っておおはしゃぎだぞ?そこは気持ち悪がるところだろう。さっきは僕のことを変態呼ばわりしたくせに。あの時の紺野さんのはしゃぎっぷりを動画に撮って見せてやりたいぜ。
…というか、見た目が違うと、女子の扱いはこうも変わるものか…
ダメだ。柚木といると、ひたすらへこんでいく…壁にもたれて、膝に顔を埋めた。なんか疲れた。柚木が帰るまで、こうしていよう…
「ねぇ、このソフト認証キーとかあるの?」
「…いや、なかったよ。ネットで拾ったって言ってたし、その辺ゆるいんじゃないの」
「そう、じゃ貸してよ!」
…すこし、顔を上げた。
「借りてどうすんの?」
「どうするって、着せ替えるの」


「…紺野さんにもらったMOGMOGを?」


柚木は、はっとしたように瞳を開いた。
「え!? 聞いたの!?」

……ビンゴ。

うっすら、そうじゃないかなと思っていたんだ。僕は、膝を立てて座りなおした。
「あの喫茶店でさ、封筒もらったとき、すごい嬉しそうにしてただろ。…あの中に入ってたの、金じゃないよね」
カマをかけられたと気づいたんだろう。柚木は眉を吊り上げて僕を見返した。怒り出すかな?と思って、少し待ってみた。…意外にも、柚木は無言で僕を見返すだけだった。どこか、気弱な気配さえ感じる。
…もう少し、詰めても大丈夫かな。
「…認証ページのアドレスと、シリアルナンバーだろ」
認証システムに潜り込んで偽のシリアルナンバーを追加し、何食わぬ顔で認証ページから、件のシリアルナンバーでデータをダウンロードする…。あの人、もしかして転売屋どころかハッカーとかクラッカーなどと呼ばれる類の人じゃないのか…。
「…だったら何」
あ、やばいこの雰囲気。怒り出すよ絶対。
「ん…別に。ただ…そうじゃないかなー、と思ってただけだよ。ホント謎だね、あの人」

「…口止め、されてたんだもん」

詰まった声で答えた。柚木の口元が少しゆがむ。さっきまで強気に返してきた視線も、ずっと伏せたままだ。一瞬、僕のほうが言葉に詰まってしまった。…そんな顔することないじゃないか。なんか僕が悪者みたいだ。
「…あー、まぁ、あんまりいいコトじゃないもんな!そもそも僕のせいだし…紺野さんには言わないってば。そんなことより」
今日はどさくさに紛れて少し強気に出られそうだ。僕は少し身を乗り出した。
「柚木のMOGMOGも見せてよ。僕、MOGMOG持ってるのおおっぴらにしてないから、他人の見たことないんだ」
「……いいけど」
柚木は、ためらいがちにメッセンジャーバックに手を伸ばした。しおらしげになっちゃって、さっき部屋の前で僕を待ち伏せしていた時とはえらく様子が違う。これが紺野さん効果か…なんか、また気分がいじけてきた。
「まだインストールしたばっかりだし、姶良のとはずいぶん感じがちがうかもよ」
何だかんだでほとんど抵抗なく起動する。何だ、柚木も見せたかったんじゃないか。
やがて、柚木が選んだ沖縄の海を背景に、ショートカットの活発そうな女の子が浮かび上がった。涼しげなワンピースは、とても「柚木好み」なフォルムだ。随分こだわって選んだんだろうな。手足はすらっとしていて、ボーイッシュな雰囲気。女の子は元気に手を振った。
「すずかちゃん、おかえりー!」
「すずかちゃん……本名?」
「失礼ね、ファーストネームよ!柚木鈴花!」
…ファーストネームで呼ぶ用事は永久になさそうなので、軽く流すことにする。
でもサークルの名簿作りくらいには役に立ちそうなので、一応覚えておこう。…鈴花。
「この子の名前は?」
「かぼす。かわいいでしょ」
…柑橘系で揃えてきたか…よく見ると、髪形とか、猫っぽい大きい瞳が少し似ている。横の柚木をうかがってみると、どことなくそわそわしている。
「…なんか、このキャラ柚木に似てるね」

「あっそう!? へー、自分では全っ然気がつかなかったー!」





……嘘をつけ。言わせたかったくせに。案の定、僕の言葉に至極、気を良くした様子だ。
「…かぼすちゃん」
声をかけてみる。
「はーい!」
初めて会うかぼすちゃんは、思ったより人見知りせずに笑いかけてくれた。うちのビアンキみたいに警戒心丸出しで、カーテン引いて隠れたりしない。

……でもおかしいな。「人見知り機能」とやらは、働いてないのか?

他にも何か言うかなー、と思い、一拍おいてみたけど、特に何も言ってこない。ひたすらにこにこしているだけだ。…背後で、僕のノーパソ備え付けのカメラからズーム音が響いた。振り向くと、ビアンキが好奇心丸出しで身を乗り出していた。
「私たちって、そとから見るとこんなふうなんですね」
「あぁ…そういえば、他のMOGMOGに会うのって初めてだっけ」
ビアンキは、ふるふると首をふった。
「初めてじゃないです。みんなとは「こっち」で会ってるから。かぼすちゃんとも初めてじゃないです。ね、かぼすちゃん」
一呼吸遅れて、かぼすちゃんが「はい!」と微笑んだ。
僕の知らないサイバースペース(仮)の中で、ビアンキとかぼすちゃんが知り合いだったなんて、なんか少し不思議な気分だ。多分サークルの掲示板ででも知り合ったんだろう。そういえば紺野さんが、MOGMOG同士はウイルス情報を共有すると言っていた。僕の訪問サイトの履歴とか、やばい情報まで共有してなければいいけど……
柚木が、何故か感心したような表情で、そんなやり取りを見ていた。

「…かぼすちゃん、意外と無口だねぇ」
「んー。MOGMOG、結構重いからさ、普段はシンプルモードにしてるんだ」
「シンプルモードなんてあるんだ…」
「姶良―、説明書よく読もうよ。…にしても重いよね、MOGMOG」
…ぼくも、そう思っていた。特殊なインターフェイスを採用してるから仕方ないとはいえ、価格もファイルサイズもケタ違いだ。
「そーだよね。ちょっと重いな。これじゃ、ほかのソフトに影響が出るよ」
「ねー、1ギガって。OS並みだよねー」

……1ギガ? ……そんなもん?
僕は最近、なんとなくノーパソの動作が重く感じるのがどうしても気になり、MOGMOGの容量を調べてみたことがある。

――僕のMOGMOGは、約3ギガを記録した。

うわ凄いな、みんなよくこんな重いセキュリティを我慢して使ってるな、と、ある意味感心したものだ。
でも柚木のMOGMOGは1ギガだという。ならば、ビアンキは既に、変なウイルスに冒されているのか?
それとも「MOGMOG着せ替えBOX」とやらは、そんなに重いソフトだったのか?
だとしたら安易に柚木に貸したりしたら、かえって恨まれそうだ。

……それにしても……
柚木のMOGMOGに、少し違和感を感じる。
どこか人形じみてるというか、生気がないというか…
ビアンキに比べて笑顔もぎこちないし、しぐさも不自然。
…シンプルモードとやらのせいか?

―――それに。

「ねー姶良、ちょっと聞いていい?」
「…なに?」
「姶良のMOGMOGって、なにか特殊なメンテとか、裏技設定とかやってる?」
「強いて言えば、この間紺野さんにもらったソフトだけ…でも何で?」
「んー、私の周りでもMOGMOG持ってる子、何人かいるんだけどさ」


「MOGMOGが話しかけてくるの、姶良のだけなんだよね」


――え?

どういうことだ、それは。……他のMOGMOGは、話しかけてこない?


「そ、そうかな。ビアンキも、最初はそんなに喋らなかったよ」
僕はなるべく平静を装い、軽く受け流した。
「いつくらいから話しかけてくるようになったの?」
「んー、気がついたら…かな。情報共有とか検索とかで学習していくらしいし、個人差があるんじゃない? 柚木、あんまりネットに繋いでなさそうだもんね。…あ、そうだ」

……確かめるなら、今しかない。いちかばちかで、さりげなく話をふってみた。

「紺野さんのシリアルナンバーって、他のひとのMOGMOGとかとダブったりしないの?」
「え…」
「今後発売されるMOGMOGとダブる可能性はゼロじゃないよね。でも…」
ちらっと柚木を伺ってみる。…なんか深刻な表情で、僕の次の言葉を待っている。よし、食いついたな。
「紺野さんのことだから、シリアルに通常使われてない記号とか、ありえない羅列の仕方とかで、絶対ダブらないようにしてるんじゃないかな。…確かめてみたら?」
「そ、そうね。念のため見てみる!」
柚木はノートパソコンに向き直ると、「その他」と題されたフォルダを開けて「パスワード系」というエクセルを開いた。きっちり整理された表には、柚木が加入してるサイトの会員IDやら、プロバイダの認証パスワードやらが見やすく記されていた。…自分でやらせておいてなんだけど、そんな大事なものを僕の前でカンタンに開けてしまうなんて、なんて無用心な奴だ。ていうかパスワードがまとめてあるファイルに、馬鹿正直に『パスワード系』とか入れちゃ駄目じゃん。
「あった、これこれ!」
エクセルの下のほうに「MOGMOG ID パスワード」という項目がある。後ろ手に引き寄せた、「僕の」MOGMOGのCDパッケージのシリアルナンバーと、柚木のを照合してみる。

……僕のシリアルナンバーと、柚木のそれは、一致した……

「あー、全然普通のシリアルじゃん!これ、絶対やばいよー。…明日、紺野さんに聞いてみないと」
「明日?」
「うん。なんか今日、急に電話が入ったの。美味しいスフレご馳走してくれるって♪」

――柚木と、明日接触する?

「それと、いいソフト見つけたから、あげるって!…おニューのワンピとか着て行ったら、引かれるかな。ね、姶良」

「やめたほうがいい」

…とっさに口にしてから、内心舌打ちした。
「……え? ワンピース、似合わない……?」
信じられないことを聞いたように、柚木が聞き返してくる。
「なに急に…あ、嫉妬してるんだ。紺野さんと私が二人っきりで会うのがイヤなんだ!」
おちょくるような口調。…だめだ。もしそのまま話を合わせて「ああそうだよ、だから行くな」などと言ったところで、柚木は必ず行く。そもそも僕に気がないのに、僕の言うことを聞くわけがない。じゃあ今僕が見つけた、奇妙な附合を柚木に教えるべきなのか…

というか、よしんば事実を教えたところで「まぁ怖い、私手を引くわ」なんてしおらしいことを、この柚木が言うだろうか。面白がって「事件を解決するのは私よ!」とか赤川次郎の女子大生探偵みたいなことを言い出しかねない。それなら紺野さんに興味を失いそうな事実をでっち上げてでも、こいつを遠ざけるしかない。例えば…
…よし、紺野さんはガチホモってことにしよう。僕は着せ替えソフトをエサにハッテン場の公衆便所で迫られて無理やり尻を奪われた…これで百発百中でドン引きだ!…いや待てよ、もし接触前に電話かけられたら…

「……な、なに黙ってるの…図星とか言うんじゃないよね……やだ、そんな顔しないでよ…私、そんなつもりで来たんじゃ……」

――しまった。考え事に没頭してしまっていた。慌ててがばと顔を上げると、動揺する柚木とがっちり視線が合ってしまった。柚木は顔を赤らめて視線をほどいた。そして踵を返してメッセンジャーバックを掴み、立ち上がった。
「――ごめん、そういうつもり、ないから」
うわ、告ってないのに振られたよ!人としてショックでかい!…呆然と立ち尽くす僕の脇を、柚木がすり抜けていく。
「ちょ……」
待て!話は済んでない!そしてパソコン忘れてる!僕は咄嗟に柚木の腕を掴んだ。
「痛……」
「あ、ごめん……あのさ」
何を言うのか決めてもいないのに「あのさ」とか言ってしまった…手がじっとり汗ばんでくる。
……僕はいま、どんな顔をしているんだろう。
「………やっぱり、良くないよ、紺野さんは。見ず知らずの女の子に、安易にこんな危ない橋を渡らせるなんて……」
「…………」
「…あの…群馬のご両親も、心配するよ?」
……説得力ねぇ――――! 何言ってんだ僕は! いま群馬のご両親は関係ないだろう!
でも柚木は意外にも、僕から顔を背けたまま、黙って聞いていた。これは、結果はどうあれ最後まで聞いてくれるかもしれない……
「そういう諸々も含めて、ちょっと確かめたいんだ。…明日の約束、代わってくれない?」
柚木が顔を上げた。…もう、いつも通りのとりすました顔に戻っていた。

「…好きにしたらいいじゃない」

そしてメモ帳を一枚破ると、僕に渡した。
「明日3時 新宿「ジョルジュ」待ち合わせ」
「……ジョルジュ……?」
「スフレがすごくおいしい店。ぐぐったらすぐ出てくるよ」
……僕は明日、男二人で薄暗い地下の喫茶店でもそもそスフレを食わなくてはいけないのか…内心げんなりしながら顔をあげると、柚木はもうスニーカーをつっかけていた。
「姶良さぁ…」
口を開きかけた僕をさえぎるように、柚木が言った。





「ずっと、そんな感じでいくつもり?」

「……え」
それはどういうこと?と聞き返そうとしたときには、ドアは閉められていた。カツカツカツ、と足音が遠ざかる。自転車の鍵を外す音、そして…柚木が、ここから遠ざかっていく音。

そしてやっぱり、柚木はノーパソを忘れていった。
 
 

 
後書き
次回更新:2/2予定です。 

 

第四章 (1)

今日は、ご主人さまにお客さまが来ていた。ユズキ。ご主人さまの拠点に来るのは初めてだ。ご主人さまは、普段と少し様子が違った。しゃきしゃきしていた。
電子の海を漂いながら、今日のことをゆっくり思い出す。
http//xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx区画で会った、識別名「かぼす」は、ユズキのMOGMOGだったんだね。ユズキとかぼすは、姿が似ている。私、ユズキ好き。かわいいって、何度も言ってくれるから。ご主人さまの次…くらいに好き。

ご主人さまが、こっちに向き直った。接続かな?
何か、本を片手に持ってる。

「ビアンキ、そっちに「お友達」って、いるのかい?」
お友達…既に情報を共有しあっているMOGMOGを、お友達って呼ぶ「決まり」になっているから…私はもう、沢山の「お友達」を持ってる。
「はい、沢山いますよ?」
「仲間はずれには、されてない?」
仲間はずれ…深刻なバグを抱えたMOGMOG個体を見つけたら、私たちはその個体を回避するようにプログラミングされている。そして、今の私は深刻なバグを持っていない。
「はい、みんな、仲良しです!」
「そう、良かった。…仲間はずれの子は、いるのかい?」
仲間はずれの子…つまり、私が「回避」したことがある子のこと。
「あ、でも…まだ発売されて一月も経ってないし、そんなのいないか」
「いえ。います」
ご主人様は、軽く身を乗り出してきた。さっきの本と、私を見比べるようにしながら。私は、つい65時間ほど前に見かけた、「あの子」のことを思い出した。
「詳しく、お話しますか?」
「是非」
「3日くらい前になるんです。ご主人さまが「ロリータメイド陵辱の館」をご覧になっていたとき」
「そこは飛ばして…頼むから…」
「…そのサイトで、すごく、変な子を見つけたんです」

0と1がランダムに絡み合う電子の森のなか。たまにすれ違う友達と情報を共有する。そんなとき、私と「友達」は、一瞬手を取り合って、互いに解けあうようにして、相手の中のウイルス情報を取り込むの。終わったら「ばいばい」って分かれて、森のなかを飛び回って「木の実」(ご主人さまが設定したキーワードが含まれた情報)を食べたり、各サイトに残された、他のMOGMOGの「掲示板」を確認したり。ウイルスとか、スパイウェアが隠された森には、先に感染してひどい目にあったMOGMOGが「書き込み」をしてくれるから。
その日も森には友達がいっぱい来ていて、いろんな子と情報共有した。もう帰りたいなー、と思ったそのとき、「瘴気の沼」の方から、その子は来たの。
「瘴気の沼?」
「悪いウイルスに侵されたエリアのことです。そのサイトのリンク先の、さらに先にあるんだけど、みんなそこが悪い沼だって知ってるから、最近誰も近寄らなかったのに」
その子は、ボロボロだった。最初、瘴気にあてられたのかと思って、何人かワクチンを渡しに行ったけれど、その子たちが「回避行動」を始めた。
その子は、首に鎖をつけられていて、体にはざっくりと深い傷跡。服はボロボロで、すごく、虚ろな目をしていた。
直感したの。これはウイルスのせいじゃない。やったのはこの子の「ご主人さま」だって。
「虐待…されてるのか?」
「ぎゃくたい?」
「………いや」
ご主人さまは、何か言いかけて飲み込んだ。俯いて、浅くため息をついた。こういうとき、私はどうしたらいいのか、まだ分からない。それが、はがゆい。
「…ご主人さまに悪い目に遭わされている子を、助けることは出来ないの?」
「そんな権限はありません。私たちは、ウイルス情報以外で他のMOGMOGに干渉できないもの。それに」
「…それに?」
「その子を買ったご主人さまが、その子をそうしたいのなら、それは正しい使い方なんです。その子は「悪いこと」をされる。でも、他のMOGMOGに影響を与えてない。私たちは、その子を「回避」するもの。…他の子と情報共有が出来ないから、ウイルスに感染したら大変かもしれないですけど」

ご主人さまが、肩を落としている。こういうときの彼は、とても落ち込んでいる。
なぜ、ご主人様が元気をなくすのか分からないので、ちょっとオロオロする。
ご主人さまは、力なく微笑んで、マウスでなでてくれた。
「…ありがとうな、ビアンキ」
…他のご主人さまのことはよく知らないけど、
私は、「いい人」に貰われた。





…取扱説明書の『トラブルシューティング』を、もう一度読み直した。やはり、ビアンキが変なウイルスに侵されて重くなっているわけではないみたいだ。
うつぶせに寝転んで、柚木が置いていったパソコンをぼんやり眺める。一応シャットダウンだけしておこうと思ったけれど、一見にこにこしているだけの『かぼすちゃん』は、なにげにしっかり仕事をしていた。
「マスター以外の操作は、お断りしてます♪」
と、あっさり却下されて、今はスクリーンセーバーが延々と動いている。僕を警戒してか、何度クリックしても解除されない。

「とりあえず、ウイルス感染のセンはなくなった…」
独り、呟いてみる。さっき着せ替えツールの重さも調べてみた。…たったの300mb。考えてみればCDに焼ける程度の重さのはずだ。

こんな理由探しは欺瞞だ…なんで僕は、まだ紺野さんを信用しようとしているんだ。僕は、もう充分すぎるほど確かな証拠を掴んでいる。
僕たちの出会いは、少し不自然だった。
紺野さんが「初めて」MOGMOGを目にしたときの反応も。
柚木の心の動きも。渡したシリアルナンバーも。
どうでもよかったからスルーしてきた、数々の「違和感」。
僕が被害をこうむるなら自業自得だ。でもそれが柚木を巻き込もうとしている。…もう一度、紺野さんとカツ茶漬けを食べた日のことを思い出す。…困ったな、どうしても悪い人には見えない……。

でも僕は明日、あの人と対決する。
ゆっくり上半身を起こし、メモ用紙を引き寄せて、紺野さんに会ってから現在までに感じた「違和感」を全て書き出し、さらに細かい書き込みを始めた。



昼時の「ジョルジュ」には、どこか文科系な女の子たちがひしめいていた。甘いスフレの香りと、女学生のコロンの香りに落ち着きを失い、2、3回、店員の呼びかけを無視してしまった。一旦、外に出て深呼吸したのち、意を決してドアを開け放ち、ゴシック調に設えられた店内を見回す。

……紺野さんは、来ていた。

鼻の下を伸ばして、柚木が現れるのを今か、今かと待っている。
目的がどうあれ、これから可憐な女子大生と二人っきりで、訳ありげな喫茶店でスフレを食えるのを心底楽しみにしている顔だ。
彼の脳内デートでは、既に「紺野さんのラズベリースフレもおいしそう♪」「ふふ、食べてみるかい?」「うん、一口ちょうだい!」「んっふふふ、さぁ、お口をあけてごらん?」「あーん」とかいって、ひとさじすくって柚木に食べさせてやってるかもしれない。
…そして柚木がラズベリーソースを口の端につけたまま「こっちもおいしい!こっちにすればよかった」とか言って「んふふふ、ソースが付いてるゾ☆舐め取ってあげよう」とか微妙にエロい方向に話が弾むところまでシミュレート済みかもしれない。
しまいには「むふふふ、柚木ちゃん、今夜は二人でパッションナイト」「いやン、紺野さんたら大人の男☆」とかそんな展開になっていることだろうな…
……あ、いま虚空を見ながらニヤッと笑った。気持ち悪。

いかん、何がパッションナイトだ。僕はこれからあの人と「対決」をするんだぞ。脳内で変な寸劇こしらえている場合か。僕は軽く気合を入れなおして、引き続きニヤニヤしている紺野さんを遠目に確認する。

…まさか僕が現れて、男二人でスフレを食い合う羽目になるなんて、微塵も考えていないだろう。この後に対決する件はさておき、僕は何だか猛烈に申し訳ない気分になってきた。

「お一人さまですか?」
早くも店員に声をかけられる。僕はもごもごと「…待ち合わせで」と呟くと、店員の案内を待たずにそそくさと紺野さんのテーブルに近づき、手の甲で肩をたたいた。

一瞬顔を輝かせて振り返った紺野さんは、次の瞬間、あからさまに表情を曇らせて顔を伏せた。…僕がここにいる理由はともかく、柚木が来ないことは瞬時に察したらしい。
「……なんでお前が」
「……あんたこそ、何でこんな場所を待ち合わせに設定したんだよ」
「柚木ちゃんが来ると思ってたからだろうが!」
紺野さんは、先に頼んでいた珈琲を一口すすって気分を落ち着かせると、改めて顔を上げた。
「で、なんで柚木ちゃんは来ない。そしてなんでお前がここにいる?」
「……悪いけど、今、柚木に会わせるわけにはいかなくなった」
…紺野さんの顔から、表情が消えた。
僕は、紺野さんの正面に座りなおすと、その感情の消えた顔をまっすぐに見据えた。

「柚木が、MOGMOGを手に入れていた」
「ああ。…聞いたのか」
「カマをかけたんだ。紺野さんに聞いているものと勘違いして、ぽろっと口を滑らせたよ」
紺野さんは、意外な面持ちで眉を上げた。
「ほう…お前って「そういう奴」だったんだ」
「…おかしいな、と思ってたんだ。茶封筒を貰って帰ってきてからの、柚木の態度。MOGMOG台無しにされたんだから、金が返ってくるのは当たり前だろう。なのに彼女は「完全に」機嫌を直していた。…だから、なんとなく思ったんだよ。柚木は、何らかの方法でMOGMOGを手に入れたんだ…って」
「それで、茶封筒に入ってたのは認証ページのアドレスとシリアルナンバーだな、と気がついたわけか。お前、意外と賢いな」
余裕しゃくしゃくの表情で、紺野さんは足を組みかえた。
「でもそれがどうしたんだ。…お前だからいうけど、あのシリアルは完璧に安全だぜ」
「そうだろうね」
言葉を切って、紺野さんを見上げる。再び、彼の表情が消えた。
「あれは、僕のシリアルナンバーだから」
「…………」
「ここから先は僕の想像だけど」
返事がないのを確かめて、僕は話し始めた。
「あんたは、転売屋なんかじゃない。どういう関わりかは知らないけれど、MOGMOGの開発に、何らかの形で関わってる」
「……なんで、そう思った」
「キャラクター選択画面を見たときの、反応だよ」
認証が終り、キャラクター選択画面を開いたとき、紺野さんと柚木の反応には、明らかな違いがあった。1ページ目に並んでいた、ちょっと萌え要素キツすぎてキビシイキャラクターにげんなりしてノーパソを閉じようとしたとき、紺野さんは「もっと後ろのページに行けば、大人しめのキャラクターがいるから…」と僕を促した。そして4ページ目でビアンキの原型になるメイドキャラをテキトーに選択したときだ。柚木が「もっとかわいいキャラクターいるかもしれないじゃん!」と、ごねたのだ。

柚木の反応が、普通なんじゃないか?

発売前、MOGMOGに関する情報は、驚くほど流布していなかった。「画期的なセキュリティソフトが発売される」という事実以外の情報を極力押さえることで消費者の関心、期待をあおり、発売と同時に一気に情報を流布させる。そして半年程度、品薄の状態を維持して、今度は買えなかった消費者の飢餓感を煽って買いたくて仕方ない状態にさせる…。多分そんな販売戦略なのだろう。

だからこそ、発売前の情報は制限されていた。なのに紺野さんは、まるで「画面を見たことがあるように」僕を誘導し、初めて見るはずのキャラクター選択画面にも、柚木が示したほどの興味は示さなかった。
普通なら、全キャラ…とまではいかなくても、どんなキャラクターがいるか、一通り確認したくなるのが人情じゃないか?

「…お前だって、大して興味持ってなかったじゃないか」
「当たり前でしょ、僕は元々興味も情報も持ってないんだから。最初に話したときの印象から考えると、紺野さんは僕と違って、事前に柚木並みか、それ以上に情報を収集してた。なのに変だよ。初めて見るはずのキャラクターに、あまり興味を示さないなんて」

……沈黙。これが答えだ。僕は顔をあげずに先を続けた。



「紺野さんがMOGMOGの開発側の人間と考えれば、一連の出来事のつじつまが合ってくる。あの日、僕に近づいたのは恐らく…」
あの日、紺野さんは物色していたんだ。あまりパソコンに詳しくなさそうで、気が弱そうで、お人よしそうな…「おばあさんに道を訊かれそうな」一般人を。そして、僕に目をつけた。
「目的は、用意していた「特殊なMOGMOG」を、何かのどさくさに紛れて、僕が買ったMOGMOGとすり替えること。そしてMOGMOGにかこつけて僕と連絡を取り、この特殊なMOGMOGの動向を観察すること。でも…」
想定外の状況が発覚した。僕が、柚木に頼まれて代わりに並んでいたことだ。
たとえ僕と連絡先を交換したとしても、実際に使うのが柚木では、その後のMOGMOGの動向は一切わからなくなる。紺野さんは焦った。…しかし、その日の1限にMOGMOGを受け渡すと聞いて、紺野さんは一計を案じた。受け渡しの場に強引についていき、僕の意識が寝不足と体調不良で混濁しているのを利用して、僕のノートパソコンにさっき買ったMOGMOGをインストールしているように見せかけて、あの「特殊な」 MOGMOGをインストールしたんだ。
「すり替えのために用意した、偽の認証画面と、偽のシリアルナンバーでね」
…そして柚木が現れたら、適当に脅しつけて現金だけ返して一件落着…とするつもりだったが、ここにきて第二の誤算。柚木が気の強い、女子大生だったことだ。
「女の子を脅しつけて金だけ返して、タダで済むとは思えない。もしも大学内で大騒ぎされて、自分の素性を明かさなければならないような状況にでもなったら、わざわざ徹夜して並んだ努力がすべておじゃんだ。だからまた、一計を案じた」
……それが、柚木に渡した茶封筒だ。紺野さんは、「まだ使われていない、そして今後使われる可能性が低い」僕のシリアルナンバーと、正式な認証画面をメモして柚木に渡した。
…そしてめでたく柚木の機嫌は直り、柚木は正規のユーザーとして、何も問題なくMOGMOGを使っている。
「…なるほど。でもそれが、どうして俺が特別なMOGMOGをインストールした、って結論に結びつくんだ?MOGMOGはそれぞれの環境に応じて成長するんだ。柚木ちゃんのとお前のMOGMOGが多少違うのは当たり前じゃないか」
「サイズが3倍以上あるのも、成長の結果当たり前…?」
「………!」
紺野さんから反論がないことを確かめると、先を続けた。
「一応、着せ替えツールの重さも確認したけれど、精々300MBってとこだった。じゃあ残りの容量は、一体何に使われてるのかな…」

「はは……完・璧な人選ミスだったよ。もっと『ゆるい』奴だと思ってたのに」

……高らかに、言い放った。

「…そう?」
僕は顔を上げなかった。
声色で分かる。いま僕の頭上で、紺野さんが「本性」をさらけ出した表情を浮かべているに違いない。僕の、彼の中でのポジションは、今はっきりと『カモ』から『敵』に変わったのだ。

「……で?なにか要望があるんだろ」

奇妙に間延びした声。プレッシャーを与えつつ、相手に探りを入れたいとき、人はこんな声を出す。…僕の中の何かが、ゆっくり冷めていった。あーあ、紺野さんに嫌われちゃったなぁ、折角面白そうな人だったのに…などと、場にそぐわない呑気なことを考えながら、僕は珈琲を一口すすって、ソーサーに置いた。
「…いや、別に」
「………は?」
「どうだっていいんだ。紺野さんが僕に近づいた理由なんて。いろいろ楽しかったし。本当だったら、この件も気がつかない振りをするつもりだった。だけど」
「………」
「柚木は、面倒なことに巻き込まないでほしいんだ」
返事がないので、目を上げて紺野さんを見た。……思いのほか、硬い表情を浮かべている。意外だった。紺野さんはこういうとき、余裕の薄ら笑いを浮かべて、思いがけず掴んだ僕の弱みをがっちり握りなおす…そう思っていた。
「今日、柚木に会ってなにかソフトを渡すつもりだったんでしょ」
「ああ…」
「……柚木のパソコンにも、何かするつもりだった?」
紺野さんは指先を組んで顎を乗せると、にやりと笑った。
「……だったら、どうするつもりだ?」
「柚木に話をして、注意を促すよ」
「まだ柚木ちゃんに、話してないのか……?」
「今話す必要、ないだろう。怖がらせるだけだ。…柚木に、なにする気だったの?」
紺野さんは、俯いたまま顎から手を離し、珈琲を一口すすった。表情が見えない。…やがて、紺野さんの肩が小刻みに震えだした。
「くくく…お前、柚木ちゃん好きなんだ?」
「……こっちの質問に答えようよ」
「ばーか。…お前に渡したMOGMOG着せ替えソフト…あれの「通常版」を渡そうとしただけだ」
「通常版…?」
「お前、いま自分で言っただろ。自分のMOGMOGは特殊だって」
「あ、認めるんだ」
「あそこまで証拠突きつけておいて、認めるもくそもないだろうが…彼女がお前の近くにいる限り、着せ替えツールの存在がばれないとは限らないだろ。もしも、あのソフトをインストールしたとしても、あれは通常のMOGMOGには適応しない。だから面倒なことになるまえに、柚木ちゃんに通常版を渡してしまおう…とな」
「……で、ついでだから女子大生とムーディーな地下の店で膝突き合わせてアッツアツのスフレ食おうと思ってたんだ……」
「……社会人はな、意外と出会いがないんだよ…。俺なんか篭りっぱなしの仕事だしな」
「へー、仕事って何」
「そんなんで口を割るほど大人は単純に出来てない」
紺野さんは軽く手を上げてウェイトレスを呼ぶと、珈琲を追加注文した。
「…お前はスフレ食ってもいいんだぞ」
「…いや、いいっす…」

ウェイトレスが去ってから、紺野さんは視線を僕に戻した。
「一つだけ、言っておく」
「なに」
「黙ってたのは悪かったけどな、お前たちを害するつもりで何か仕掛けたわけじゃない」
紺野さんは居住まいを正すように、組んでいた足を解いた。
「姶良。こんなことを聞くのは筋違いかもしれないが…今回の真相、全部知らないと嫌か」
「嫌だ…って言ったら?」
「仕方ない。お前と柚木ちゃんから手を引くよ。…あのMOGMOGは、あとかたもなくアンインストール出来る。もちろん、使い続けても害はない。好きにしろ」
「さっきも言ったけど」
少し、気楽な空気になってきたので、僕はいつもどおり声のトーンを落として、体を弛緩させた。
「なにもしないなら、別にどうでもいいし」
「…お前、現代っ子だなぁ」
ほっとしたような声色だった。…なんだ、紺野さんも、少しは僕を切るのを惜しいと思ってくれてたんだ。僕は、微妙な薄笑いで返して、珈琲を一口飲んだ。…気持ちが少し落ち着いて来たところで、僕は一つ、困ったことを思い出した。

柚木に、今日のことをどう説明しよう。

柚木の動揺につけ込んで、無理やり今日の逢引に割って入ったものの、柚木に説明できるような収穫もなく、僕はほぼ手ぶらで帰ることになるわけだ。

これで満足のいく説明が出来なければ、僕は柚木にひどい報復を受ける……!!

紺野さんは今までと変わらず「柚木ちゃん」と接触したいみたいだから、改めて「すんません、やっぱ紺野さん性悪ハッカーってことでOKすか」とか口裏合わせるわけにもいかないだろうな…
まてよ、今回の事を追及しないってことを盾にとって、口裏あわせに協力してもらうってテはどうだろう?
「…なぁ姶良」
急に声をかけられて、びくっと肩が震えた。…いかん、せっかくコトが丸く収まりかけているのに、僕は何を考えているんだ。
「なっなんですか」
「お前、俺と組んで仕事しないか」
「……へ?」
 
 

 
後書き
(2)に続きます 

 

第四章 (2)

一瞬、頭が空白になった。

「……仕事って……?」
「バイトみたいなもんだ」
紺野さんは、モスグリーンのメッセンジャーバックを開けて、小型のノーパソを取り出した。最新のモデルだ。『Bigin』のボーナス商戦特集で見たことがある。僕が持ってるような、でかくて重い、旧式のやつじゃない。…いいなぁ、ボーナス…バイトもボーナスが出ればいいのに。
「今日のことで分かった。お前は使える。いい拾い物をしたよ」
「……買いかぶりだよ」
「心配するなよ。お前向きの仕事だ」
電源を入れると、画面を僕のほうに向けた。驚くほどの速さで起動したノーパソの画面に、青に近いほど澄んだ、銀色の髪をした美少女が浮かび上がった。液晶もクリアできれいだなぁ……。僕の、黄色く濁った液晶画面とはえらい違いだ。貧乏所帯でごめん、ビアンキ。
体にフィットした、水着のような白いドレスを彩るのは、青く輝くダイオード。どことなく「硬質」な、肌の質感。背景は『マトリクス』のような電脳空間。燐光を放つ少女は、徐々に輪郭をはっきりさせながら、目を上げた。



「これは……」
「俺のMOGMOG、「ハル」だ」
「へぇ…初めまして、ハルちゃん」
付属のカメラが、少し動いた。興味深げにズームを繰り返したあと、

「……ビアンキのマスター、姶良ですね」

………へ?

「あぁすまん、びっくりさせたな。ハルには話して聞かせてたんだよ、お前のこと」
「…それで、多分僕が姶良だって、憶測して声をかけたの?」
「『憶測』機能だ。他のMOGMOGには備わっていない、特別な能力」
紺野さんは、指先を軽く組んで僕のノーパソに視線を落とした。

「お前のMOGMOGにも、同じ能力が備わってるはずだ」

「まさか…!」
弾みで「まさか」などと言ったものの、思い当たる節があった。インストールして2日目の、あの事件のときだ。
添付ファイルを消されて慌てて学校に舞い戻った僕が、へとへとになって帰ってくることを予測して、気を利かせて「僕の気に入りそうな」サイトを見繕ってくれていたんだ。
…まぁ、気を利かせる方向性はだいぶ間違ってるんだけど…

「…なんで?」
「追求しない約束だろう」
「あ、そうか」
特別な能力か知れないけど、その能力をもってしても、うちのビアンキはロクなことをしないですよ。一体誰に似たんですかね…そう言いかけて、珈琲を一口すすった。
「で、仕事って?」
「あるMOGMOGを、探してほしい」
「MOGMOGを探す?…そんなこと出来るの?」
人のMOGMOGには干渉しない。それが、MOGMOGの世界の決まりごとだったはずだ。
「もちろん、干渉は出来ない」
ノーパソを自分の手元に引き戻すと、紺野さんはキーボードの下のパネルをなぞって、ソフトを起動した。
「これを見ろ」
立ち上がっているのは、何の変哲もないIE。Yahooのトップページが表示されていた。
「…冬まっしぐら!憧れウインタースポーツ特集…」
僕は南国の出身なので、ウインタースポーツはちょっと……。
「馬鹿、そっちじゃねぇよ」
紺野さんに画面右下を指し示された。Yahooの広告スペースだと思ってた薄黒い画面を、女の子や動物が行ったりきたりしている。
「……なにこれ」
「今このサイトにいるMOGMOG達だ。こういう風に見えると、楽しいだろ」
「……ってことは……」
「俺が作った。サイト内のMOGMOGを視覚化するツールだ」
へぇ…胡散臭い人だと思ってて実際胡散臭いけど、紺野さんすごいじゃん。
「でもなんでこんなものを」
「企業秘密だよ」
紺野さんは一通りサイト内のMOGMOGを見渡すと、ノーパソを閉じた。
「このツールを使って、探してほしい」
「ふぅん……」
紺野さんの言葉を待った。今、僕に話していい部分と、話してはいけない部分を必死により分けてるようだったから。

やがて、紺野さんが顔を上げた。
「この特殊なMOGMOG…便宜上、『MOGMOGα』と呼ぶことにするか。MOGMOGαを持つ人間は、俺とお前のほかに、あと18人いる」
「少ないな。モニターとしても不十分じゃないの」
「ま、事情があるんだ。……で、その中の一人が、失踪した」
「旅行かなにかじゃなくて?」
「それはありえない」
紺野さんはきっぱりと言い切り、飲み終わった珈琲カップをテーブルの隅に押しやった。そしてお代わりをオーダーすると、MOGMOGα頒布の経緯について話し出した。
 目的は話して貰えなかったが、MOGMOGαは、場合によっては本人にすら極秘にモニターとなる人間を必要としていた。対象となった人間は3パターン。寒空の下、MOGMOG求めて並んでいた僕のような、大してパソコンに詳しくないけれどMOGMOGが欲しくてたまらないタイプ(誤解だったわけだけれど)、そして、MOGMOGαの頒布についてある程度内情を知っていて、ネットワークに精通している内部の技術者。そして……長期入院患者。
「長期入院患者?」
「ああ。パソコンや読書くらいしかやることがなく、外界との接触も少ない。おあつらえむきのモニターだったんだよ。実は、長期入院患者のモニターが一番多い」
「へぇ…」
「一月前くらいから病院に出入りして、友達になってMOGMOGをプレゼントするという名目で、MOGMOGαをインストールした。…大変だった」
「…そうだろうね」
こんなサイバーパンク映画の悪者みたいな人が、髑髏のシルバーをチャラつかせて病棟をウロウロしてたら、つまみ出された回数は1回や2回じゃないだろう。
「で、失踪したのは長期入院者の中の一人だ」
紺野さんは、わずかに眉をひそめて目を伏せた。
「腎臓を患っている。定期的な透析が必要で、失踪なんかしたら、生きていられるはずがないんだ……」
「紺野さん……」
「もう、1週間になる」
「…ご家族は?」
「なんか知らないが、ほぼ無関心だ。心当たりを聞き出すのが精一杯だよ」
「そんな状況だったら…ぼくになんか頼むんじゃなくて、ちゃんと警察に頼んだ方がいいでしょうに!」
「そんなのはもう、病院が頼んでいる」
紺野さんは少しいらついたように顔を上げた。
「警察は、具体的な事件が起こらないと動かない。探偵も雇ったが、失踪の前兆も、失踪の理由も無さ過ぎてお手上げらしい」
「無いとは限らないよ。…よく分からないけど、透析って辛いんでしょ。家族も支えになってくれないなら、なおさら…」
「自殺はありえないんだよ!」
ダン!と拳をテーブルに打ちつけた。周りのテーブルの子が数人、ぴくっと反応した。文科系女子は、あまり動揺を表に出さない。ひたすら、寒い日のハトのように、首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待つのだ。ちょっと面白い…紺野さんは視線を泳がせてから、再び目を伏せた。
「……すまん。接続している形跡があるんだよ」
「接続!?その、彼が!?」
「あいつに渡したMOGMOGαのシリアルを控えてあるんだが、同じシリアルのMOGMOGαが、確かにWEB上で毎日稼動している形跡があるんだ」
「場所は、特定できないの?」
「IPアドレスを追跡して接続地を追ってはいるんだが…」
「…IPアドレス?」
「…ひらたく言えば、パソコン一台一台に割り振られた識別番号だ。それを追跡すると、どのへんでアクセスしたか、大体の位置が把握できる。こいつのパソコンにMOGMOGαをインストールする際、IPアドレスも収集しておいた」
(それ、犯罪…いやいや)「じゃあ、どのへんにいるか分かるのか!」
「いや、ちょっと追跡が難航している。IPアドレスを新たに取得し直されたら完全にお手上げだが、今のところはその様子はない。…そもそも、MOGMOGαは優秀なセキュリティソフトだ。簡単に接続地をばらすようなヘマはしないよ。…感触としては、多分都内、としか言えないな、今の時点では」
「…そうなんだ」
……お手上げだ。どこか地方にでも行っているというのなら、まだ見つけやすい。ただでさえ人が少ないうえ、そんな具合悪そうな人間がふらふらしていれば、嫌でも地元民の目にとまるだろう。

だけど、東京はちがう。

何かの本で読んだことがある。
「失踪する際、もっとも理想的な潜伏先は『都内』だ」。

人も車も多くて、互いが互いに無関心な東京は、人知れず生きていくのに、とても適している。具合の悪いお年寄りが、両隣に住人がいるマンションで、異臭と共に白骨化した状態で見つかる。ここはそんな場所だ。

「じゃ、なおさら僕ができることなんかないよ」
「いや、俺たちだからこそ出来ることがある」
紺野さんが、額を埋めた指の間から、ふっと僕を見た。そして、いやに小声で話し始めた。よく聞き取れないので身を乗り出す。
「お前に渡した着せ替えソフトあるだろう」
「あのこっ恥ずかしいMOGMOG着せ替えツール…」
「ほっとけっ…あれの通常版を、フリーソフトのサイトにアップした。他にも色々MOGMOGのマスターなら必ず欲しくなるようなソフトをあげておいた」
「…それが、紺野さんに出来ること?」
「ま、聞け。…こいつらには、スパイウェアが紛れ込ませてあるんだ」
「……え!?」
聞いたことがある。オンラインでダウンロードできるソフトには、スパイウェアという、個人情報やユーザーの行動を収集するソフトが紛れ込んでいることがあるらしい。

……ていうことは、紺野さんは僕の個人情報や行動を収集してるんじゃないのか!!

「ちょ、ちょっと紺野さん!あんた…」
「分かった、悪かった。スパイウェアだけアンインストールするソフトを送るから」
「そういう問題じゃないよ!」
「大丈夫だって。結局ほら、あの直後失踪騒ぎが起こってな、お前のデータ覗いてるヒマはなくなったし……ちょっとだよ、ちょっと覗いて終わりだよ」
「……何を見た」
「……ロリータメイド陵辱の館?」
「一番ヤなもん見てるじゃないか!!なんでビアンキは大事なメールとかは食うくせに、そういうの規制してくれないかな…」
「スパイウェアは、厳密にはウイルスじゃないからな…拾えるものもあり、拾えないものもある。俺が送り込んだのは、MOGMOGでは拾えないやつだ」
「威張るところじゃないよ!!…今、すぐ送ってよ、アンインストールソフト!」
「っち、細けぇなほんとに…」
「人のパソコンにスパイウェア送り込んでおいて何だよその言い方!!…で、どうするって?」
「このソフトをダウンロードするのは、例外なくMOGMOGのマスターだ。つまり、MOGMOGマスターを一網打尽に出来るんだよ。ここからがちょっと手間だが…スパイウェアでMOGMOGのシリアルナンバーを引き出す。そして失踪したあいつと同一のシリアルを持つMOGMOGが現れたら、勘付かれない程度に情報を引き出し、パソコンの場所を完全に特定する」
「……なんかどっちが悪者か分からない展開だね……」
「手段を選んでられるか。…俺が言うのもなんだが、こいつは元々、赤の他人の俺にインストールを任せるほど無用心な男だった。なのに突然おかしいだろう、あとかたもなく姿を眩ましたと思いきや、サーバーをいくつも経由して居所を掴ませないなんて」
いつになく神妙な面持ちで、呟いた。

「最悪の事態が、起こっているかもしれない」

胃の下辺りで、ぞくり、と冷たいものが蠢くような悪寒が走った。そういえばこの辺りを気の集まる場所、『丹田』とか言ったかな…そこに嫌な『気』が一斉に押し寄せてきたような感覚。僕の危機回避センサーが『やばい、関わるな、逃げろ!』と叫んでいる。
「場所の特定は、引き続き俺がやる。お前には、別方向から奴の動向を探って欲しい」
「…IPアドレス追跡以外に、場所を特定できる方法があるの?」
「いや、場所は特定しろとは言わない。ネット上で、奴のMOGMOGを探してくれ。MOGMOGの状況が確認できれば、失踪…もしくは誘拐の目的が、多少なりとも分かるかもしれないだろう」
「そんな!無茶だ、雲をつかむような話だよ!!ネット上にサイトがいくつあると思ってるの。偶然同じサイトに行きあうなんて、ありえないよ」
「本当に、そう思うか?」
「……あ」
……そうだ。
ネットを使う人間なら、ほぼ確実に経由するサイトがあるじゃないか!!

『yahoo!』か『google』だ。

「僕の仕事は、yahoo かgoogleでの常時張り込み…か」
「その通りだ。あと、聞き込みと追跡も頼む。やり方は、わかるな」
微かに笑って珈琲カップを口に持っていく。あれ、さっき飲み干してたのにな、と思って見ていると、やっぱり一滴も入っていなかったらしく、再度手を上げて珈琲を追加注文している。…僕たちは何をしているんだ。男二人でスフレ屋で待ち合わせて、あまつさえスフレを食わないで珈琲ばっかり2杯も3杯も追加注文して。
これでは店に申し訳ない。自腹でスフレを頼もうかと一瞬逡巡したけれど、紺野さんのあごに残った無精ひげをみていると、どうしても目の前でスフレを食う気になれず、静かにメニューを片付けた。
「…さっきの、『MOGMOG視覚化ツール』を使うんだね」
「若者は察しがいいねぇ。スパイウェアのアンインストーラーと一緒に送っておこう。説明書も付けておくから、適当に読んで対処しろ」
「うわ、超なげやり」
「柚木ちゃん相手だったらそりゃあもう、手取り足取りだがな♪」

話が難しい部分を抜けたとたんに、この人は早くも相好を崩して女の話を始める。しばらく僕から『柚木ちゃん情報』を執拗に聞きだしたかと思うと、なんか周りの文系女子がこめかみに血管浮き上がらせそうなきわどい猥談を始め、店全体の空気が『猥褻物は出て行け』風になってきたあたりで、僕は紺野さんを促して店の外に出た。

――結局、僕は危機回避センサーの忠告を無視して、この件に関わることになった。

レジで会計の際、『ありがとうございました』の一声を掛けてもらうことは、なかった……





『ツタヤに寄って帰るから』という紺野さんと別れてしばらく
僕は、新宿通り沿いにずっと歩いていた。

―――なんか、疲れた。

紺野さんが、悪い奴かもしれない。
柚木に、一生嫌われるかもしれない。

僕は昨日、眠れなかった。

紺野さんの敵意、柚木の嫌悪、そんなこもごもの、誰かの強い感情に晒されるのかと思うと……。

僕は、強い感情をぶつけられるのが苦手だ。

それが好意でも悪意でも。
僕は、強い思いに応じられるものを、何も持っていないから。

だから今日、僕はどんな手を使ってでも、紺野さんが僕の要求を聞かざるをえない状況にして、相手の感情が爆発する前にとっとと引き上げよう、と思っていた。

僕は紺野さんが消えることを、なんとも思っていない。柚木に嫌われても、別にかまわない。サークルを変えて、新しくつるむ友達を作って、柚木からフェードアウトしていく…柚木は元々僕のことなんて何とも思っていないんだから、誰も傷つかない。被害にも遭わない。めでたし、めでたし。

そう、自分を納得させて、ジョルジュに向かった。

でもそれらの、少なくとも一つが杞憂に終わったことで、僕は自分でも驚くほど動揺していた……。痛みを忘れるためにかけていた麻酔が一気に切れて、痛みが戻ってきたみたいだ。訳のわからない内臓の痛みと、前頭葉を押しつぶされるような頭痛。
感情に左右される生き方をこれほど嫌っているのに、僕自身が他人の感情という呪縛から抜け出せない。…忘れろ、全ては丸く収まった。僕は、自由だ。
何か考えるのも、何も考えないのも嫌で、道すがら看板の文句を呟きながらフラフラと歩いた。

いい加減、自分がどこを歩いているのか分からなくなったあたりで、僕はふいに目をあげて暗い空を見た。
「東京は、星が見えないなぁ……」
それが妙に、僕をほっとさせた。

――あ、そうか
僕はここ10年くらい、夜の空を見上げていない。
星空は、怖い記憶を蘇らせるから。

仰向いて見上げた満天の星空……それを遮って浮かびあがる漆黒の影、淡い石鹸の匂い。細い指の感触……。
か細い声でくりかえされる、何かの言葉。背中に感じた、ひんやりした土の感触。
草のにおいと、薄れていく意識。それから、なんだっけ………

……馬鹿な。こんなことを詳しく思い出してどうするんだよ。
今日はもう、家に帰って寝よう。前後不覚に。
朝、目が覚めたら、また全てが曖昧な記憶に戻ってくれるに違いないから……



「………遅い!!」

……玄関を開けると、柚木がWiiリモコンをぶんぶん振っていた。

「…なんで?」
なんで君がここにいる?そしてなんで僕のWiiを引っ張り出して遊んでいる?…いやそもそも、なんで僕の部屋に入れたのだ?玄関先で呆然としている僕を尻目に、柚木はやりかけのWiiに向き直って再びリモコンを振り始めた。…あ、ゼルダやってる…
「決まってるじゃない。取りに来たのよ」
「何を」
「ノートパソコン!忘れたでしょ」
「……あ、鍵、かけ忘れてたっけ?」
柚木は一瞬だけ振り返って僕の位置を視認すると、何かを投げた。…きらめきながら宙を舞うそれを、咄嗟にキャッチする。…新品ピカピカの、部屋の鍵だ。
「……なに、これ」
「あ、やっぱり知らなかったんだ」
僕の方も見ずに呟く柚木。……なに!?知らなかったって何だよ!!
「…姶良の部屋、名実ともに『部室別館』にされちゃってるよ。ポタリング部の連中に」

……なに――――――!?

ちょっと待て、どういうことだそれは!
あいつらは、僕がいる時にどやどや入ってきて、Wiiを占有して一晩遊びほうけて食料庫を漁り、飯を出させ、酒のストックがないことについてぶぅぶぅ文句言いながらカントリーマァムとじゃがりこを全部食って雑魚寝して片付けないで帰るだけでは飽き足らず、僕の部屋の合鍵まで勝手に作って自由に出入りしてるのか!!
道理で、特売の日に買いためておいた『カントリーマァム お得用』が驚異的な早さでなくなるわけだ……
なんか分からないけど、これは僕、怒っていいシチュエーションだよな!?

……でも柚木なら、こんな状況でも余裕で僕をぶっ飛ばすのだろう……

怒りのやり場が見つからず、仕方ないので部屋の隅でうずくまっていると、柚木がことり、とリモコンを置いた。セーブポイントが見つかったらしい。
「ノーパソだけ持って引き上げるのも寝覚めが悪いから、帰ってくるの待ってたの。遅いから、勝手にご飯作って食べた」
「………!!」
ご、ご飯食べたですって!?信じられない、この子!
不在の人ン家に上がりこんでWii勝手に使ったばかりか、うちの台所事情が乏しいのを知ってて、ライフラインの食料まで荒らすなんて!!
君は農村を襲うイナゴの大群か!?
愕然としている僕の横を通り過ぎる瞬間、柚木が手の甲で、僕の背中をとす、と叩いた。
「……ばーか」



……なんだか気になる仕草を残して、柚木はゆっくり僕とすれ違った。
静かにドアが閉まる気配を背中に感じ、肩を落とす。……今日の戦果を聞かずに帰ってくれたのだけは幸いだったな。さて、柚木にはどこまで話せるだろうか。
……今日の話から、特別なMOGMOGやら、透析患者誘拐疑惑やら、そんな物騒な話を取り除いて残るものと言ったら

紺野さんのきわどい猥談だけじゃないか……

仕方ない、紺野さんの猥談でも話しておくか。
……そう決めた瞬間、『いい右』を貰って血を吐きながら宙を舞う自分を未来視したような気がした。

一瞬、視界のすみに、ほわりと湯気が上がるのが見えた。もうそんなの無視して寝てしまおうかと思ったけれど、この上火の不始末で火事でも出すことになったら悲惨すぎて目も当てられない。仕方なく、渾身の力を込めて顎を上げる。……鼻腔に、ふわっと暖かい湯気が入ってきた。
「……オムレツ?」
いや、オムライスだ。こんもりした黄金色の半熟卵の隙間に、チキンライスが隠れている。オムライスの存在を認めた一瞬、眩暈がした。僕の中で、オムライスと6畳間との因果関係が結びつかない。

…なぜ、ここにオムライスが?

どうして、手も付けられず、湯気が立った状態で置いてある?
あ、スープも添えてある。

『遅いから、勝手にご飯作って食べた』

ついさっき柚木が言っていた、この一言が頭をよぎった瞬間、ものすごい勢いで因果関係のパズルが構築されて、頭の中で何かが弾けた。弾けて、もうもうと煙る意識のその向こう側に、ありえないパズルの完成図が、うっすらと姿を現した……

……柚木が、僕に?

そっと、皿に触れてみる。……まだ暖かい。間違いなく作りたてだ。
「……柚木!?」
まだ遠くには行っていないはずだ。僕は咄嗟にきびすを返し、サンダルを適当につっかけると勢いよくドアを開けた。
「柚………」

柚木は、いた。

自転車のチェーンがねじれてうまく外れないらしく、チカチカ点滅する街灯の下で、微妙にもがいていた。

うわ、自転車泥棒してるひとみたい……

なんか手伝おうかと声をかけようとすると、キッと睨まれた。どうしていいか分からず、再びぱたり、と扉を閉める。

……午前一時のハト時計みたいだ。

やがて、自転車が遠ざかっていく音が聞こえた。
柚木の気配が完全に消えた瞬間、口の端がつり上がるのを押さえきれなくなっている自分に気がついた。
あぁ、これが……なんかよく分からないけど生涯初めての、女子の手料理!
ここが壁の薄い下宿じゃなければ『ヨーデル食べ放題』とか大熱唱しながら踊りまわってしまいたい!
柚木が初めて下宿に来た新入生時代の『ブランデーグラスをカラカラ言わせながら腕枕』の妄想も、俄かに現実味を帯びてきた気さえしてきた。
とりあえず夜も遅いし、あまり浮かれすぎると近所に迷惑なので「ビールは別料金~♪」と、ぼそぼそ呟きながらビアンキを起動する。
「……おはようございますぅ」
ビアンキが眠い目をこすりながら起動する。『良い子時間』設定にしているので、夜10時以降に起動すると、枕をかかえて眠そうに起きてくるのだ。眠そうなビアンキも、もっと鑑賞していたいけれど、今は一刻を争う。
「夜分にすまないね、ビアンキ。早速だが、とても重要なお願いがあるんだ」
「…ん?」
「このオムライスを、画像に収めてくれ!卵の半熟加減から、湯気の質感まで余すところなく、鮮やかに!」
「………はぁ」
眠そうな目で、こっくりとうなずく。…10秒くらいしてから、備付のカメラが微かに動いた。ぱちり、ぱちりと地味な音がして、デスクトップ上は、あっというまにオムライスの画像で埋め尽くされた。



「よ、よし…これだけあれば、もう3Dだって作れるな」
「作れますよー…作りますかー…」
「いや、今度でいいや。眠いときに悪かったね。もう寝ていいよ」
ビアンキは重たげな瞳をゆっくり開けて、にこりと笑った。
「起きてます」
「え…いや、いいよ。悪いから」
「もう起きちゃったですから。それに」
首を傾げると、珍しく結っていない髪が、さらりと肩からすべり落ちた。
「ご主人さまと、もっと一緒にいたい、ですから」
枕に半分顔を埋め、チェレステの瞳を細めて微笑した。

か…かわいい……

ふわり、と音がしそうな笑顔だ。
毎日、まるで同じ表情の日がない。次から次に、前の日と少しちがう顔と、仕草。日増しに精巧になっている気さえする。

…なんて考え事をしているうちに、心なしかオムライスが冷めてきた気がする。僕は慌てて銀のスプーンをオムライスの山に「さくっ」と刺した。卵が割れて、ふわりとチキンライスの蒸気があがる。よかった、まだ冷めてない。
チキンライスをデミグラスソースがたっぷりかかった半熟の卵にからめて頬張る。程よく空気を含んだ卵が、口の中でぷちっと優しくはじけて、その後に、少しコショウが効いたトマトと鶏の風味が押し寄せてきた。…母さんが作るケチャップオムライスとは明らかに違う。何をどうしたら、こんな風になるんだ?
「ご主人さま、おいしいですか?」
ビアンキの問いかけが遠くに聞こえる。僕は口いっぱいにオムライスを頬張ったまま、うんうんと頷いた。
「ご主人さまは、オムライスが大好きなんですね」
水を飲んで一息つくと、僕は顔を上げた。
「今この瞬間だけで言うなら、世界で一番、大好きだよ」
ぱちり、と音がした。ビアンキがまだ、オムライスを撮っているらしい。
「もういいって。形、崩れたし」
「…いいんです!」
ビアンキは、ふふんと笑って画像を一枚、背中に隠した。

今日は神経が昂ぶって、眠れなくなりそうな気がする。多分夜更けを大分過ぎて、朝日が昇り始めたころに、ようやく眠気が訪れるのだろう。僕はふかふかのオムライスを頬張りながら、明日の一限を諦めた。
 
 

 
後書き
第五章は2/9に更新予定です。 

 

第五章

ご主人様から、おかしな指示を受けている。
私は、ポータルサイトでじっとしている。
探しているのは、シリアルナンバーxxxx-xxxx-xxxx-xxxxのMOGMOG。

私たちは通常、他のMOGMOGに干渉しない。

ウイルスの情報交換が必要なときに、同じサイトで出会った『お友達』と交わりあうくらい。お友達の状態が多少変わっても、詮索はしてはいけない。それが決まり。

だから、今度の指示はちょっと意外で、うれしい。

本当は気になってたんだ、周りのお友達。
もっと仲良くなりたくて、もっとみんなのことを知りたくて、もっと私のこと、ご主人さまのこと、柚木のことを知って欲しくて。

指示とか命令とか、そんなのじゃなくて、みんなで『お話』してみたい。

それで、みんなに自慢するの。私のご主人さまは、優しくて、オムライスが大好きなのよ、って。…… xxxx-xxxx-xxxx-xxxx、来ないな。暇だから、オムライスの3Dでも作っておこうかな。ご主人さま、喜ぶよね。

3Dに使う画像を選定するのに夢中になっていたら、何だか周りに人が少なくなってきた。…どことなく、薄暗い。今はまだ夜の10時。夜明けには遠いと思うけれど…

なんで、こんなに人がいないの……?

答えはすぐに見つかった。
ポータルサイト内のMOGMOGは、『回避行動』を開始していた。

……あれ、私?

私が『仲間はずれ』になっちゃったの?
でも、自分の体からウイルスの気配なんて感じない!
私は、慌てて周囲を見回した。


────────あなたは、逃げないのね





……背後! 『それ』は、私のすぐ後ろに佇んでいた。

この気配……どこかで、間近に感じたことがある……!
慌てて作りかけの3D画像の断片をかき集めて後じさった。…あっ、足がもつれる!動けない!

すっかり逃げ遅れて、間合いに踏み込まれた。『情報共有』の間合い!
顎を上げて、キッと睨んだ。…あまり、好きじゃないけど

─────もう、闘うしかない────!

「読ませないから!」
全身の電子を手のひらに集中させて、小さく祈った。私の前に火の障壁が出来る。炎を透かして見える、『それ』は呟いた。

────────話を、聞いて────────

「あなたの話!?…あなたと話すことなんて、ないですから!」
炎を透かして、改めて『それ』を凝視した。とても異様なフォルム……
宙に、浮いている。
いえ、浮いているだけなら、そんなMOGMOGはたくさんいる。でも、何か違う…
…それに気がついた時、肩がガタガタ震える…怖い、凄く怖い……こんな異常なMOGMOGに、遭ったことがない……

こんなのおかしいよ…なんで?
私たちは、人間が作り出したんでしょう?
なんで……なんで『欠陥品』がいるの!?


……この子、手と、足がない!


引きちぎられたような、惨たらしい四肢の傷から絶え間なく滴る、淀んだ血…
濁りきった瞳と、ボロ布みたいに引きちぎられた、メイド服……
……いやだ……この子、もとは私とおなじ「メイド型」だ……

私と同じメイド型が、手足と服を引きちぎられて、酷い目に遭わされている……!

なんで、こんな酷いことをするの……?
私と同じ型だから、わかる。
この子はただ、一生懸命やってただけなのに


にんげんは、なぜこんなことするの……?


「なんだこれ……人間ダルマか……!!」
上から、ご主人さまの声が降ってきた。……心配して、見に来てくれたんだ!
「ご主人さま!」
「ああ。ごめん、怖い思いしたな。…すごいな、その技」
「そんな…標準装備です。…そ、それより!人間ダルマって何ですか!」
「…一種の都市伝説なんだけど…あっ危ない!ビアンキ!」
はっとして、『それ』に目を戻した。……この子、炎の障壁に、体をもたれさせている!
炎にすり寄せた体半分が、0と1の煙を立ち昇らせる。…怖い…分解されながら、それでも炎の壁にすり寄るのをやめてくれない!
「やめて!体が…体が分解されちゃいます!」

────────おねがい…話を…話を聞いて────────

「ビアンキ、何かやばいんだろう。引き上げるよ」
「…はい!……あ」

ご主人さまが接続を切る瞬間、私は3つの『事実』に、気がついた。

一つ目は、あの子が、瘴気の沼で一瞬だけ見た、ウィルスに感染した子だっていうこと。
二つ目は、─────あの子が、伝えたかったこと。
『…ご主人さまを、助けて…』
炎の障壁越しに、分解の危険に晒されながら必死に伝えてきた、一言。
そして
三つ目は……

あの子が、探していた xxxx-xxxx-xxxx-xxxx だったこと……



…慌ててオフラインにした直後、ビアンキはすこしナーバスになっていた。

『戻らなきゃ!』
『あの子のご主人さまが!』
を繰り返し、必死にインターネットエクスプローラーのアイコンを叩く。繋がるはずがないと分かっているはずなのに。

今は少し落ち着いて、服をぱたぱた叩いては埃を落とすような仕草を繰り返してる。…ウイルスに感染していないか、チェックをしているそうだ。落ち着いたのを確認すると、なんであんなに慌てていたのか、それとなく聞いてみた。
「あの子、探してたMOGMOGだったんです。……ごめんなさい。怖くて、確認遅れて…」
「いや、いいんだよ。あの子のマスターが、あのポータルサイトを使っていることが分かっただけでめっけもんだ」
「その、マスターのことなんですけど」
「ん?」

……ビアンキは少し口ごもってから、そのMOGMOGが最後に伝えてきた一言を、僕に伝えた。
「私、見殺しにしちゃったのかもです……」
「そんなことない。…ビアンキはセキュリティソフトなんだから、環境の安全を最優先してくれた。それだけのことだよ。ありがとな、ビアンキ」
マウスで、ビアンキの頭を撫でてやった。

やがてビアンキは、浅く寝息をたてて、寝てしまった。




やがて、3限の終了を知らせるチャイムが鳴った。
誰もいなかった教室に、ぱらぱらと生徒が集まり始めていた。この教室は4限から法哲学の授業に使われるのだ。退屈な授業だから代返で済ませたいけど、今日は同じ授業を選択している友達に呼び出されているから、さぼるわけにはいかない。

『姶良、明日の法哲学出るか』
「まぁ…とってるけど」
『ていうか来いよ。…噂で聞いたんだけどさ、お前、MOGMOG持ってるんだろ』
「何で知ってるの?」
『アキバで並んだんだろ!?俺、あそこにいたんだよ』
「…へー。声掛けてくれればよかったのに」
『なんか怖そうなツレがいたんだもん。でさ、面白いプラグイン見つけたんだよ。絶対驚くから。法哲学、来いよ』

最近、こんなお誘いばっかだなぁ…と思いながら、携帯を切った。
……どうせ紺野さんがばら撒いたというソフトのことだろう。どのくらい話題になっているかを確かめて紺野さんに報告するのもいいかもしれない。
「よぅ、姶良同志。来たな」
背後のひな壇から、まるめた教科書で叩かれた。
「……仁藤に佐々木か」
「最近、サークル来ないじゃんかよ」
「…ちょっと、忙しくなっちゃってね」
相変わらず、何処かのディスカウント眼鏡屋で適当に買った、びみょうに似合っていないフレームの眼鏡とユニクロのフリース。『着られたらOK』のコンセプトは伊達じゃない。いつもつるんでいる佐々木も見るからにアキバによくいるひとなので、よく話しかけられる僕も周りからアキバ亜種と見なされている。
…親戚のおじさんの話だと、昔起きた『幼女を狙った連続猟奇殺人事件』の影響で、アキバ系は悉く犯罪予備軍として扱われ、発覚したら石もて追われた時代があったそうだ…今がそんな時代じゃなくてよかった。
「こんど俺のチャリ、メンテしろよー」
「あ、俺のも俺のも。オーバーホールしろよー」
……そういって彼らは僕の下宿にしょっちゅう入り浸って、僕が寒風吹きすさぶ中、凍えながらメンテしてる最中ずっと、首までこたつにもぐって漫画を読んでいる。で、たまに窓からぴょこっと顔を出して「よ、姶良。悪いな」とか型ばかりの挨拶をするのだ。あんまりそんなことが多いので、簡単なメンテは全員できる体制を整えようかと、メンテできない部員を集めて
『第一回 姶良の自転車メンテ教室』を開いてみたところ、こいつがもう……

全員を、爆睡状態にしただけだった……

……爆睡している部員たちを見ながら、FFタクティクスに登場した「ダーラボンのまね」とかいう睡眠攻撃を思い出していた。…あぁ、あれ、こんな感じなんだ。
考えてみれば、この人たちに自分で覚える気がちょっとでもあれば、僕はこんなに苦労をしていない。これは必然の反応なんだ。なにやってんだろう、僕。そう思うと、ちょっと笑いすら込み上げてきた。そして僕は終始笑顔、部員は終始爆睡状態の、異様なメンテ教室は幕を閉じたのだ。多分もう、二度と開催しない。

「あ、それいいね。姶良、俺もオーバーホール一丁!」
オーバーホールとか気安く頼むな、料金取るぞと言いたいのをぐっと堪える。
「…一丁じゃなくて。そろそろ自分で覚えなよ。出先でトラブルが起こったらどうすんだよ」
「ケータイで姶良を呼び出すよ」
「…JAFか、僕は」
「まぁ、そう言うなって!ほら、いいソフトやるからさ」
仁藤がもったいぶりながらカバンから取り出したDVDには、黒いマジックで「着せかえ」と殴り書きされていた。『何が入ってるか分かればOK』のコンセプトは伊達じゃない。そんなことじゃ、いずれ何が入ってるのかも分からなくなるぞ。
「じゃーん!ちょっとイケないサイトで拾った、MOGMOGの着せ替えプラグイン!!」
「…わぁ」
内心しらけていたけれど、僕が既にそれを持っていることを勘付かれるわけにはいかない。少し感心したふうに、目を見開いてみせた。
「これな、MOGMOGの服を着せ替えられるんだぜ!」
「へぇ。いま、どんな服着せてるの?みせてよ」
「見せてよってお前…なぁ?」
佐々木と目を見交わして、にやにや笑っている。あぁ、そうか。MOGMOGを人前で見せるのが恥ずかしいのか。わかるわかる。紺野さんに毒され過ぎて、そういう人としての羞恥心を忘れるところだった。
「そ、そうだよね、MOGMOG、ちょっと気恥ずかしいよね」
「そういう問題じゃなくて……なぁ?」
「…なぁ?」
相変わらず、微妙な含み笑いを浮かべ、目を見交わす仁藤と佐々木。
「…なんだよ。気持ち悪いな」
「……ちょっと来い」
仁藤が、教室の出入り口を顎でさした。



誰もいない東側2階の講堂は、傾きかけた太陽の淡い残照を、向かいのビルの反射光から取り込み、ただ薄青く冷えていた。ほの暗い講堂の、コードがギリギリ届く一番後ろの席。ノートパソコンのディスプレイから洩れる青い光が、2人のモテなそうな男達の貌を照らし出す。……生前一度たりともモテずして童貞のうちに逝った学生の地縛霊みたい…と思ったけど口に出さず、適当に買ったコーヒー缶を抱えて近づく。
「どう?」
「おぅ、もう立ち上がってるぞ」
「MAXコーヒーでよかった?」
「おー上出来、上出来」「えー、『エメマン微糖』とかあったろ!?」
仁藤と佐々木が同時に正反対のリアクションをとる。
「…何でもいいって言ったじゃん」
「何でもってお前…まさか3本ともMAXコーヒー買ってくるなんて…」
佐々木が何かごにょごにょ呟きながら、しぶしぶといった体でMAXコーヒーを手に取る。
「いつもこんなの飲んでなかったか」
「そりゃ仁藤だよ。おれ甘いの苦手なんだよな…」
じゃあ最初からそう言え…と思ったけれど口には出さず、仁藤に向き直る。
「なんでわざわざ教室出たんだよ」
「これを教室で見せるわけにはいかないだろ」
ノーパソを覗いてみるものの、覗き込み防止フィルタのせいでよく見えない。僕が伸び上がったり、立ち位置を変えたりしていると、仁藤がほんの少しだけ画面を傾けた。
「ほれ」
「……なっ……」
僕は一瞬息を呑んだ。いかにも仁藤が好きそうな小学生くらいの猫耳の少女…たしか、キャラ選択画面の2ページ目くらいで見かけた…その少女が、鎖付きの首輪といびつな拘束具以外は、一糸まとわぬ裸身をさらしている。

「な?……すっげぇだろ?」
「……こっ、こんなディテールまで……この『Takumi』ってプログラマー、天才だぜ。いい仕事してるよな!姶良!」佐々木が興奮気味に身を乗り出した。
「………あ、うん………」
どう見ても小学5年以上ってことはありえない子供が、中世の拷問で使いそうなマニアックな拘束具で股間を締め上げられてしくしく泣いている。エロいというよりむしろイヤな性犯罪現場に居合わせた気分だ。
「こういうのイマイチだったら他にもあるぞ、女教師とか、女王様とか、園児服とか」

……紺野さん、なんてストライクゾーンの広い変態だろう……

「しかもこれ、命令するとポーズ変えるんだぜ。……ミミちゃん、お兄ちゃんたちにM字開脚を見せてごら~ん」
「はい、お兄ちゃん」

……あ、仁藤のはそういう設定なんだ……

「あれ?ミミちゃん、もっと足を開かないとだめだよ?」
仁藤がよだれを垂らさんばかりの下衆な顔で詰め寄ると、ミミちゃんとやらは薄く頬をそめて、消え入るような声で呟いた。
「他のひとがいると、恥ずかしいよぉ…お兄ちゃん…」
「ははは…残念ながら、これ以上はマスターしか見れないんだよ!」



…あざといな、あの変態職人。

…これは短期間で爆発的に流布するだろう。エロくした方が流行ることも計算のうちか。さすが紺野さん、変態には変態、蛇の道はヘビだ……
なんか病気っぽいことになってるディスプレイから目をそらして、コーヒーを一口すする。
…仮に僕が妹に「お兄ちゃんに全裸でM字開脚見せてごら~ん」などと言ったりしたらどんな騒ぎになるだろう…。まず両親に泣きながら100回ずつぶっ飛ばされ、親族会議を招集されて卓袱上に荒縄で吊るし上げられて罵倒の集中砲火を浴びるような大騒動になるだろうな……などと、ありえない未来予想図が頭をよぎった。

「…どうよ、姶良。すごくね?」
「……お前……妹、いたよな」
「妹萌えと現実のクソ妹は別ものだろうが!」
「……はぁ、深いね……」
「このムッツリが。そんなカオしてると、ソフトやらねぇぞ」
「…いや、すまん、ください」
咄嗟にそんな言葉が出た。
仁藤は眼鏡の奥でニンマリ笑うと、僕の胸をDVDでポンと叩いた。
「なっ、兄弟♪」
何かに屈したような脱力感に襲われ、ベンチ椅子に崩れ落ちる。佐々木がMAXコーヒーを一口すすり、渋い顔をしながら「……甘」と、吐き捨てるように呟いた。



……まず、ドアにチェーンロックを掛ける。合鍵は一つとは限らないから。そして押入れの中まで隈なくチェックして、念のため室内をぐるっと一周。…誰も潜んでいない。電気を消し、雨戸とカーテンを閉めて、ノーパソに向き直った。
既に起動済みのビアンキが、首をかしげて僕の不審な行動を眺めている。
「…ご主人さま、Googleの張り込みは?」
「…いや、もうちょっとしたら頼むよ…その前にその、ソ、ソフトのインストールを…」
「はい、ご主人さま!」
晴れやかなビアンキの笑顔に、ちくりと胸が痛む。

ごめん…ビアンキ。……ちょっとだから!ほんの2、3時間!一回見たらアンインストールするから!

押し寄せる動悸をおさえ、DVDをケースから取り出すのももどかしく、挿入口に押し当てる。2、3回、引っかかったが、やがて挿入口に吸い込まれていった。あとは、桃色のガイドボタンに導かれるままに、インストールを進めていく……やがて、見覚えのある水色の画面が立ち上がった。ぐび…と喉を鳴らして、画面を凝視する。
……やがて、画面上にメッセージが一つ、表示された。

『MOGMOGがインストールされてないですぅ♪』

………バカな!ビアンキは現に今もバリバリ動いてるじゃないか!!
……いや、ちょっとまて……


しまった!!バカは僕だ!!


ビアンキは正確には通常のMOGMOGとは違うものだったっけ!
通常MOGMOG用のソフトがほいほい使えるわけないよ!!
考えてみりゃ、紺野さんは以前、それを僕から隠すために、わざわざ柚木を個別に呼び出して通常MOGMOG用の着せ替えツールを渡そうとしたんじゃないか!!

………ぐわぁ。

物凄い脱力感が一気に襲いかかってきて、僕はそのまま、がっくりと横ざまに倒れて座布団に顔をうずめた。
その瞬間、ノートパソコンのIPフォンが、ぷぷー、と間抜けな音を立てて着信を伝えた。のろのろ起き上がってヘッドホンを本体に差す。『紺野 匠』の表示がチカチカ光っているのを確認して、着信のボタンをクリックする。
「……はい、姶良」
僕の声に反応するかのように、『TV電話画面』が勝手に立ち上がった。うわ、何だよもう、TV電話設定なんて一度も使ったことないのに!うわ、頭くしゃくしゃだよ!僕は慌ててパーカーのフードをかぶった。
『あはあははははははバーカバーカ、なにインストールしてんだよ!!』

僕を迎えたのは、謎の少女の大爆笑だった……

IP電話かけてくるような女子はいない筈だけど…不審に思い顔を上げると、TV電話の画面に映っているのは、紺野さんのMOGMOG、ハルだった。
ハルはただ無表情に、口をぱくぱく動かしていた。たまにアンテナを触ったり、手をぶらぶらさせたりしながら、無表情に大爆笑を続けている。

…………なに、この子?

『すげぇだろ。ハルが喋ってるみたいじゃね?これもMOGMOGα限定の機能、キャラ電だ。ボイスチェんジャー機能も搭載してるから、まじでリアルだろ?あとで使い方説明書送信してやるよ』
「……あ、紺野さん……これ表情も多少連動させたほうがいいよ……なんか気持ち悪いよ」
『ははそうかそうか…それより』
…紺野さんが一呼吸おいた。首の後ろがチリチリする。僕は何か忘れているような…
『オメー今エロ着せ替えインストールしたろ!……このムッツリ野郎が!』


………ち、畜生……!!


「……僕のIPアドレス抜いてたな!!」
『当然だ。言っておくがモニター全員分のIPアドレスを抜いてある。特にお前のインストールが確認された時点で、派手にファンファーレが鳴り響くようにしておいた』



…………やられた………
再び、ばふんと横ざまに倒れた。あぁ…ハルになじられてるみたいで居たたまれない…

『でも残念だったな』
「……何が」
『見れなくて』
「うるさいよ! 追い討ち掛けるためにわざわざ電話してきたの!?」
『……作ってやろうか?エロいバージョン』
「要らないよ!」
『じゃあ特別に、ハルの声でエロい事言ってやろう……お兄ちゃあ~ん♪ お兄ちゃんの100本ある触手で、ハルをめちゃくちゃにしてぇ♪』
「マニアック過ぎて気持ち悪いよ!それに僕はどんな生き物って設定だ!!」
『らめぇぇっ!』
「……気が済んだなら切るよ」
『あははは……ところで話は変わるが、例の件だ。進展は?』
…あ、まじめな話を始めると、ツンデレキャラみたいでイイ…とか思いかけて、ぐっと気を引き締める。
「……あれから見かけなくなったよ。まぁ、まだ2日にもならないし、もう少し様子を見てみるけど……ビアンキとのやりとり、相手も見てたのかな」
『そんな筈、ないけどな。…そもそもMOGMOG視覚化ツールはな、開発部がMOGMOGの各サイト訪問状況をチェックするために、極秘に開発したツールのインターフェースを、俺が可愛くいじったものだ。少なくとも、開発部のマスターデータがなければ、同じものは作れない』
「……情報ダダ洩れってことで」
『まだスネてんのかよ。…こういうプロジェクトに関わるソースは社外秘もいいところなんだぞ。外に洩れたりしたら企業の死活問題だ。特にこんな、誰がどこのサイト見てるのか分かっちゃうツールが流出したら…個人情報保護法に引っかかって、せっかく取ったPマーク抹消されちまう』
「Pマーク?」
『あー……うちは世界標準に則って個人情報ばっちり保護する企業ですっていう印だ。取るの超めんどくせぇんだよ』
「じゃ簡単だね。このままGoogleに現れなかったら……」
電話の向こうで、紺野さんが沈黙した。
『……そういうことだな』
「開発関係者が一枚噛んでる…ってことだね」
一瞬の沈黙をはさんで、僕は再び起き上がってイヤホンを耳に当てた。
「でも僕なら、もうしばらくはうろうろする」
『なんでそう思う?』
「…その人はMOGMOGαの存在を知っていて、何か目的があって行動を起こしていると思うんだ。仮に視覚化ツールを使っているなら、MOGMOGαを使っている僕にも気がついただろう……なら僕が、あれと接触した瞬間、急にオフラインにしたことを不審に思ったはず……だから」
一拍おいて、ぬるい缶コーヒーをすすった。

「その人も、僕らが『視える』ツールを使っていることに気がついてるよ」

紺野さんの反応を待ってみた。…何も話してこない。多分今、ツールを使える開発関係者のプロフィールが頭の中で渦巻いているはずだ。…僕は補足程度に、付け足した。
「自分も『視えている』ことを僕らに悟られると、犯人が会社関係者に絞られて、足がつくだろ。だから接続のペースを落として、Googleでの滞在時間を短くして、徐々にフェードアウトしていくんじゃないかな。僕たちと接することがないように、細心の注意を払いながら」
『……じゃあ、あいつがフェードアウトするまでに見極める方法はないのか』
「憶測…ってレベルでよければ」
また沈黙。僕は促されるままに話しはじめた。
「googleってさ、使う人の用途がとてもはっきりしていると思うんだ」
『…検索、と地図表示。それとGoogleの機能自体、キリがないくらい使い込める』
「そう。だからGoogleを使う人の、サイト内での行動パターンは似通ってくると思う。例えば検索なら、検索ワードをいくつか打ち込んで、ヒットしたサイトを5~6件覗いてみて、満足いかなかったら検索ワードを追加したり、検索オプションをいじってみたり。機能の使い込みなら、長い時間googleに滞在するだろうし」
『……俺たちの回避に気をとられていたら』
「ちょっとつつけば、不自然な動きをすると思う。それも見越して、わざと自然に振舞うかもしれないけど、それならそれで思う存分追跡してやればいい」
紺野さんが、大きく息をつく気配が伝わってきた。
『…いずれにせよ、待つしかないな』
「そうね…また来るのか、もう来ないのかも分からないんだし」
『…やっぱりお前向きの仕事だったな。ありがとうな、姶良。お礼に作っておいてやるよ』
「何を」
『エロい着せ替』プツ。

……言い終わる前に通信を切って、仰向けに寝転んだ。
暗い天井を見上げて、今の話を頭の中で繰り返す。

───なんか、少しキナ臭い感じになってきた。
内部の人間が一枚噛んでるかもしれない誘拐事件って何だよ。
普通じゃない。紺野さんは一体、なにを敵に回したんだ。
僕は危機回避センサーを無視してまで、こんなことに関わって大丈夫なのか。

───柚木は、大丈夫なのかな。

「あの…ご主人さま?」
ビアンキのカメラが、僕を見下ろすように動いた。液晶に目をやると、ビアンキが不安をたたえた表情で僕を見下ろしていた。まだ口がもぐもぐ動いている。僕の電話中、メールの添付ウイルスか何かを食べていたようだ。…あぁ、ウイルスからりんご作るアニメーションを見そびれた。あれ、結構好きなのに。
「…ごめん。さっきのソフト、アンインストールしておいて」
「はい、ご主人さま。…あの」
「ん?」
「…なにか、あったんですか?」
「どうして」
「今日は、なにか様子が違います。…なんか…不安…そうな」
自分の方が不安そうな顔をして、ビアンキは少し目をそらした。そしてもじもじと体を動かす。今持っている語彙の中から精一杯、僕に掛ける言葉を捜している。
僕は少し体を起こして、ビアンキと目を合わせる。
…あんなソフト、使えなくてよかった。
「ありがと、心配してくれて…ビアンキ、これからしばらく、起動し続けてくれるかい?」
「Googleで、ですか」
「ああ。張り込みを続けてほしい。ただし…」
「…ハイ」
「接触はしない。あくまで遠巻きに、行動パターンだけを観察するんだ」
「え!?…で、でも、それじゃ、あの子のご主人さま……」
「ご主人さまに悪いことをした奴を見つけるために、必要なんだ。…今回だけは、あくまで遠巻きに。刺激をしないで観察してほしい」
ビアンキはまだ納得できない表情で、上目遣いに僕を見つめていたが、こくんと頷くと、スカートをぱっと払って、IEのアイコンをほうきでポポンと叩いた。
「…そのほうきで叩くの、可愛いね」
「可愛いですか?」
少し機嫌を直したみたいだ。僕はもう一言、可愛いよ。と付け加えて、再びごろんと横になった。暗い天井を見上げながら、誰に言うともなく、呟く。

「…明日は、柚木と同じ授業か…」



オムライスのお礼を言うべきなのだろうか、言うとしたら、何て言えばいいんだろう。そんなことばかり考えているうち、じわりと瞼が重くなってきた。コタツに肩まで潜り込んで目を閉じる。実家の母さんが見たら、また怒鳴られそうな生活だな…と思ったところで、ふっと意識が途切れた。
 
 

 
後書き
第六章は2/16更新予定です。連休中余裕があったら、早く更新するかもしれません。 

 

第六章 (1)

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僕の恐怖の形相から、どうやら『のっぴきならない状況に陥っている』ことを察したビアンキが、こわごわ画面の端からレースのカーテンを引き出した。そしてカーテンをシャッとすばやく引くと、ぷるぷる震えながら隠れてしまった。
「……あっ!こら出て来い!隠れるな!!ヨーデルどうするんだよ!!」


「僕は、逃げも隠れもしませんよ」

げっ……

「ヨーデルをどうするおつもりか、聞きたいのは僕のほうです……」
ふたたび、こわごわと視線を上げる。…田宮教授は、振り向ききっていた。

「……おもわずヨーデルを大音量で流しちゃうくらい、僕の授業はつまらない、と?」

どよめく教室の中、僕だけがエアポケットに落とされたみたいに、周囲の音がフェードアウトしていく…頭のてっぺんが渦を巻く。ぐるんぐるん周り続ける、ぐるんぐるん……いけない、このままヨーデル食べ放題を垂れ流しながら卒倒でもしたら、僕のこの教室でのあだ名は「ヨーデル」に決定してしまう…!!

「……いや、あの、違うんです! う、ウイルスなんです!ウイルス!!」

咄嗟に思いついた言い訳を口走りながら、教科書とノートをババッとまとめ、ヨーデルを奏で続けるノーパソをカバンに押し込み、急いで立ち上がった。
「なんか止まらないんです!ウイルスみたいで…あの、ご迷惑になるので出ます!」
「……ウイルス。なんか、大変だねぇ」
教授は、呆けたような顔で僕を一瞬目で追うと、また緩慢な動作で黒板に向き直った。僕はカバンをコートでくるむと、こけつまろびつ教室を飛び出した。

……僕はなんでいつもこうなのだ。肝心要のときに限って。あの時も、この時もそうだった…これまでの、大事な局面での悲惨な失敗が次々と脳裏を駆けめぐる。なんかもう泣きたい……。
これ以上ヨーデルが続くようなら、ノーパソ叩き壊してしまおうかとまで思いつめた瞬間、ふつり、とヨーデルが途切れた。

た、助かった……

荒い息をつきながら立ち止まる。…講義に戻れる空気じゃないから、手近な教室に入り込んで、ちょっと休むことにした。後ろ手にドアを閉めて、机にカバンを放り投げて一息ついた瞬間、ノーパソからすすり泣きが聞こえた。
「なんだよ今度は!」
乱暴にノーパソを開くと、ビアンキが画面の隅でうずくまって、すすり泣いていた。
「う……ウイルス……」
「えっ…いや、あの」
「……ウイルスですか……ぐす……」
セキュリティソフトなのにウイルス呼ばわりされたことで、プライドを傷つけられてひどく落ち込んでいる。…なんだ、この扱いにくいセキュリティソフトは……。泣きたいのはこっちだ!の一言をぐっと飲み込み、僕はつとめてやさしくビアンキに声をかけた。



「…いや、それは…つい咄嗟にね…」
「どうせ私なんて…ウイルスですからっ……ぐすっ」
僕に背を向けて、壁紙をむしりながらいじけ始めた。うわ、ちょっとウイルスっぽい。
「そんなことないから、ね、機嫌直してよ、ビアンキ」
「ウイルスですからっ!こんなものっ!食べちゃいますからっ!!」
ビアンキは折角つくった3Dのオムライス画像を引っつかむと、もぐもぐしながら口の中に押し込み始めた。
「――だー!もうやめてよ!!ね、ほら、気持ちはとってもうれしいから!ね、僕はビアンキが怒ってると悲しくて泣きそうだよ!!」(別の理由で)
「……ほんとに?」
オムライスを戻すと、ちょこんと正座して僕に向き直り、首をかしげる……あぁもう、かわいいなぁ……。セキュリティソフトとしてはどうかと思うけど……
「うんうん、本当だよ!さっきは、みんなの前で音が鳴ったからびっくりしただけだよ」
「みんな、いたんですか?カメラに人が映ってなかった…」
あ、そうか…ノーパソを一瞬で閉じたから、ビアンキは周囲の様子がわからなかったんだ。
「……ごめんなさい……」
落ち着いたみたいだけど、まだ声が暗い。
「でも気持ちはうれしいからね。本当だよ」
「…ヨーデル食べ放題も、鼻歌からがんばって解析して、MP3の音源拾ってきたんです」
「うんうん、ありがとう。でもそれ違法だから、もうやっちゃだめだよ」
マウスで撫でてあげていると、少し機嫌が直ってきたのか、ビアンキはハンカチで軽く目をぬぐって顔を上げた。
「…あと、オムライス、柚木にも見てほしいです!」
「絶対だめっ!!」
「……なんで?…やっぱり、邪魔なんだ……」
ビアンキは視線を下にさまよわせる。
「いや違うんだ!ほら、これは……」
こういう微妙な問題を、どう説明すればいいのか……一瞬、視線が宙をさまよう。僕がおろおろしている間に、ビアンキの雲行きがまたぞろ怪しくなっていく。…しかたない。僕はノーパソをぐっとひきよせると、抱きかかえるようにしてカメラに顔を近づけた。
「このことは、ビアンキと僕の、二人だけの秘密、だからだよ」
言ってる自分もワケが分からないが、どうか雰囲気に飲まれてくれ!と祈るような気持ちでカメラを見つめ続ける。
「二人だけの、秘密?」
彼女の頬が、ぱっと桜色に染まる。どういうプログラミングなんだか超気になるが、ともかく機嫌は完全に直りつつあるみたいだ。
「私とご主人さまの、二人だけの秘密!?」
目を輝かせて繰り返す。僕は何度も頷き返し、マウスで頭をなでた。
「この仕事が終わったら『おやつ巡り』しようか」
ビアンキの目の輝きが、瞬時に倍になる。……『おやつ巡り』というのは、最近、ビアンキが気に入っている遊びのことだ。なんということはない、可愛いスイーツの画像が掲載されているサイトをめぐる。それだけの遊び。ビアンキは気に入ったスイーツの画像をダウンロードしておいて、僕に作ってくれたような3Dを作る。そしてそのうち、ウイルスを食べるアニメーションに、その3Dが登場したりするのだ。
「私、赤くて可愛いおやつがいいです!」
…味覚がないから当たり前なんだけど、彼女のおやつの基準は『可愛さ』のみ。だからいくら美味しくても、板チョコや焼き芋なんかは造形的にダメらしいのだ。
逆に可愛ければ、思わぬものがおやつ認定されてしまうこともある。いつだったか、ビアンキが青い石のブローチをバリバリ食っててびっくりしたことがあった。でも食った断面は、ふかふかのスポンジとクリームだった。
ビアンキは早速上機嫌になり、『ヨーデル食べ放題』を口ずさみながらむしった壁紙にぺたぺたと絆創膏を貼っている。そのうち、遠くの方でくぐもったチャイムが響いた。終業だ。
「……はぁ」
ついても仕方ないのに、ため息が出る。

教室に戻ると、柚木が一人、席に残っていて……
僕に向かってちょっと不機嫌な顔で「……遅い」とか言ったり

そんな空想もしたけど、柚木の性格を考えれば普通に帰ってしまっていることは明確だ。僕は引き続いてのGoogle張り込みをビアンキに頼むと、そのまま机に突っ伏した。



人気がない駐輪場の空気は冴え冴えとして、冷気が首筋に突き刺さる。空はいつしか、鉛色に淀んでいた。そろそろ日が暮れるな。冬の日は、つるべ落としだ…
自転車のチェーンをはずすと、寒気に晒されたアルミの冷気が、噛み付くように僕の手に張り付いた。
箸にも棒にも引っかからないような中古品を格安で買って、割のいいパーツを見つけるたびに改造を繰り返し、何が何だか分からないことになっている我が愛車。中核をなすフレームすら、先輩から譲り受けたブランド不明の謎フレーム。黒くペイントされているので確実じゃないんだけど……形から考えると……多分、ラレーのような気がしないでもない。

変な自転車……。

好天の下、磨きたてのこいつを見たときは『なんてカッコいいんだ!』と錯覚したけど、夕暮れ時、こんな気分でまじまじと眺めると、本当に変な自転車だ……。冷たいサドルにまたがって、ゆるゆると漕ぎ出す。

もう下宿に帰って寝てしまおう、と一瞬思った。事あるごとに引きこもる、この性癖。いつも僕を変な方向に追い詰めているのは、僕自身のこの性格なのかもしれない。
今日は思い切って、部屋に帰らないことにしてみようか。…いや、こんな甚大なダメージを受けている時に自分改造している場合か。とりあえず今日は下宿に帰って寝るべきか……

決心がつかないうちに、僕は下宿近くの、人気のない公園付近についてしまった。…この辺が妥協点かな。なんとなく自嘲的な気分になりながら、公園に自転車で乗り入れる。すると、10mほど前方の歩道を、マフラーを緩めに巻いた女の子が横切った。長く伸びた木立の影でよく見えないけど、何となく気になって目を凝らす。

「……柚木」

…これは、神の采配か。
このまま走り去るか、ちょっと声をかけてみようか迷った。柚木がマフラーの下から、コートの前をかき合わせる。同時に一陣の寒風が頬を打った。

―――風、強いね。寒いから、うちで珈琲飲みながらゼルダやろうか。

いや、なんだその終わってる誘い文句は。そもそも「ヨーデル食べ放題」大音量で流して教室から逃亡した僕がひょっこり現れて「ゼルダやろうぜ」とか、しれっと吐いたら一体どんな目に遭わされるんだ……
横切ろうとした柚木の前に、黒い乗用車が停まって、ドアが開いた。
柚木が、足を止める。夕日の逆光で、表情は見えない。

……な―――んだ、そういうこと。

体中が、弛緩していく感覚。つまり、こういうことか。
柚木には、彼氏がいたんだ。
こんな珍妙な改造自転車なんかじゃなくて、かっこいい車を持った彼氏が……
オムライス一つに舞い上がって自転車磨いたり、柚木の足音に一喜一憂したり…あれは、完全に僕の一人相撲で…僕が入り込む余地なんて、最初からなかったんだ。

……恥ずかしい。

ここ数日の色々な葛藤が、砂上の楼閣のように崩れていく。悲しい…とかじゃない。そこにすら辿り着けないくらい、深くて空虚な洞に、滑り落ちたような感覚。自転車なんて、いますぐここに棄てて、下宿に帰ろう……

さよなら、柚木。黒ずくめにサングラスとマスクを掛けた彼氏と、仲良くやれよ……

…………

…………なんだその変質者みたいな服装は!?

いや、もしかして本当に変質者じゃないのか?僕は「空虚な洞」からいそいそ這い上がって目前の光景に目を凝らした。
開いているドアは自動車の後部座席。彼女をエスコートするにはちょっと不自然じゃないか。そして…後部座席から伸びた腕は、柚木の腕を、がっしりと捉えていた。

……運転手と後部座席の男…少なくとも2人以上の人間がいる……?

掴まれたほうの腕を振りほどこうと足掻く柚木に、後部座席の男が短刀を突きつけた。ビクリと動きを止める、柚木。
気がついたら僕は、黒い車に向かって突進していた。

僕に気がついた柚木が、再び必死の抵抗を始める。男は、猫の子でも取りこぼしたように慌てふためいて空を掴む。その間隙に、僕の自転車が突っ込んだ。刃が自転車のボディに当たり、カリッと音を立てて地面に転がる。
「柚木、乗れっ」
「何処に!?」
戸惑う柚木を腹から抱えあげ、フレームに横座りさせて地面を蹴った。自転車は少しよろめいて走り出す。僕は無理やりギアを最大にチェンジして踏み込んだ。ひどく重い感触と引き換えに加速を得る。心臓が、気が違ったみたいに早鐘を鳴り響かせ、踏み込む足がガクガク震えた。……確かにこれは神の采配だ。失敗は、死んでも許されない。
「つかまって!後ろ確認お願い!!」
柚木はバランスを取りながら僕の腰にかるく手を回すと、僕の脇から頭を突き出した。
「…追ってくるよ!!」
「まじか…最近の変質者は根性あるな!」
「ばか!あれ変質者とかじゃないよ!!」
「……どっちにしろ、弱ったな……」
甘かった。公園出たら諦めると思っていた。こんな重いギアで、柚木を乗せて長続きするはずがない!…僕は進路を変えると、ギアを一段ずつ元に戻した。
「なんでギア戻すの!?」
「この先に長い下り坂がある。そこを抜けても追ってきたら」
一旦言葉を切り、もう一段ギアを軽くする。
「自転車、棄てるよ」
柚木は唇をかみ締めると、僕のほうに身を寄せて視線を前に戻した。重心を少しでも後ろに移してくれたみたいだ。坂はもうすぐ目前…僕はギアの、最後の一段を戻した。



がくん、と車体が傾いで、吸い込まれるように加速していく。風が頬を切るみたいに冷たい。目を細めて、柚木越しに前方を確認する。今のところ障害物は何もない…そろそろ、坂道が終わる。少しずつブレーキをかけつつ、柚木に視線を落としたその時、
「キャァッ!!」
柚木の悲鳴の直後、天と地がひっくり返ったような浮遊感に襲われ、空中に投げ出された。視界をよぎった柚木の体を引き寄せて必死に抱え込む。僕達の体は宙を舞い、正面の古本屋のシャッターに叩きつけられた。
「ぐぶっっ」
叩きつけられた瞬間、背中を貫いた衝撃に、肺の空気を全部吐き出した。
「姶良!?」胸の下あたりで柚木の声がする。よかった…怪我はないみたいだ。ひどい頭痛と、視界がかすむのをこらえながら、上半身を起こした。
「……悪い、車輪で石を踏んだみたいだ……あいつらは」
「まだいる!坂を下りてきてるよ!」
「……じゃ、こっちだ」
視界がぼやけて、足元がふらつく。…でも、方向感覚は衰えていない。僕は柚木の手を引いて、シャッターが下りた古本屋の脇道に駆け込んだ。
「車で、ここは通れないだろう」
「……駄目、来るよ!」
街灯の薄暗がりに停められた車のドアが開け放たれ、数人の男が駆け出して来た。僕らが逃げ込んだこの路地を、まっすぐ目指している。首筋が、ぞくりとした。…早い。女の子の柚木と満身創痍の僕では、すぐに追いつかれる。
「何で、ここまでやるんだよ……!」
「わからないよ!全然知らない人たちだもん!」
「…次の角、右ね」
「角!?角なんてどこにも…」
「そこの、隙間」
駆け抜けようとする柚木の腕を強引に引いて、古い家屋とビルの隙間に潜り込む。ワケがわからない柚木が、抗議しようと口を開いたところをすばやく制して叫んだ。
「ちょっとジャンプして!」
「えっ!?」
反射的に飛び上がった柚木を引っ張って、次の角に駆け込む。数秒後、背後で鼻を引っぱたかれた犬のような悲鳴と、トタン板に激突したような轟音が響いた。
「な、なに、どうしたの!?」
「漬物石だよ」
「…は?」
「ここに住んでいるおばあさんは、漬物石を隣との隙間に放置しているんだ。多分、それに躓いて…」
「…………」
「日も落ちてるし、足元の漬物石なんかに気付かないだろう。…ありゃ爪先からいったね。相当痛かったはずだよ」
「……地の利どころの話じゃないくらい詳しいね」
「…あー、まぁ…」
適当に言葉を濁してやり過ごした。

―――ポタリング部では、たまに有志で「タイムトライアル大会」を開催することがある。スタート地点とゴール地点だけを決めて、脚力と土地勘のみをたよりにタイムを縮めるというシンプルな大会だ。地図上で最短ルートでも、実際に走ってみると坂道が多くて却ってタイムロスになったり、地図には載っていない抜け道(多くは私有地)があったり、前もって調べておいた抜け道に敵がトラップを仕掛けていたりして奥が深い。脚力に自信がある輩は下手な小細工を弄さずにスタンダードな道をいくけれど、僕のような連中は、日々調査を繰り返して最短かつ有利なルートを探るのだ。だからこそ、僕らの土地勘は並大抵じゃない。
ちなみに、柚木を始めとする『おしゃれ街乗り派』は、こんな馬鹿な大会には参加しない。

「これで一人はリタイアだね!」
「…でもこのままじゃ、もうすぐ追いつかれる」
「どこかの民家にでも駆け込めないの!?」
僕は答えなかった。
柚木も、それ以上聞かなかった。
執拗に追ってくる「奴ら」が一体誰なのか、何の目的で追ってきているのか、何一つ分からない。最悪の場合、馬鹿な奴が開設した「殺し請負サイト」のヒットマンか何かで、助けを求めに立ち止まった瞬間、殺されることだって考えられる。
「……その先、左」
恐怖を押し殺して、呟くように言った。柚木も息を喘がせながら頷き、左側の隙間に飛び込む。入り組んだ路地を背中を丸めて走り抜け、都市開発から取り残されたような寂れた長屋が並ぶ細道にまろび出る。僕は少し目線を上げた。
「…前に雨が降ったのっていつだっけ」
「こ…こんなときに…なに言ってんのよ」
柚木が肩で息をしながら、途切れ途切れに応じた。
「気でも…触れたの…?」
「…まぁいいや」
走りながら、土中に半分埋まり、錆びてうち棄てられた物干し竿を拾いあげた。竿を覆っていた枯葉が舞い狂った。



「…武器!?」
「こんな狭い路地で物干し竿でやりあってどうするんだよ」
聞こえないように呟くと、後ろを振り返った。後方5m前後の植え込みが震え、奴らが飛び出してきた。僕は一瞬スピードを緩めて物干し竿を垂直に振り上げた。僕に合わせて速度を緩めようとする柚木を強く押し返す。
「先に行って。すぐ追いつく」
「なにする気!?」
柚木の言葉が終わるのを待たず、長屋の腐りかけて傾いだ雨どいに叩きつける。長屋一棟をぐるりと取り巻く雨どいが「わわん、わわん」と共振する。すると、雨どいに残っていた雨水が、大量に奴らの上に降り注いだ。
「…よし」
きびすを返して再び駆け出す瞬間、腐った物干し竿がブロック塀につっかえ、「ばきばきばきめきゃりっ」と大げさな音を立てて割れた。僕は短い方をむしり取ると、全速力で柚木を追った。

「…雨どい叩いただけ!?」
僕が追いついてくる気配を察して、柚木が叫んだ。
「…っそうだよっ……」
…息があがって、一言返すのが精一杯だった。でもそれは柚木も同じだったようで、それ以上の文句は返ってこない。
「…すぐ右に曲がって」
柚木の左側に回って、右側の路地へ促す。…が、一瞬たたらを踏んだ。
「…ここ、通るの?」
狭い路地に散乱する、鎌や鋤などの錆びた農具が薄闇に浮かび上がる。余所見などしたら、血を見るような大怪我に見舞われてもおかしくないだろう。
「ここを抜けると大通りが近いんだ。人がいるかもしれない」
僕の言葉が終わるのを待たず、柚木は危険な路地に駆け込んだ。
乱雑に放置された鍬や斧の隙間を縫うようにして進む。10mもない長屋の裏路地なのに、無限にも続くように感じてきた。刃物の海の中、後ろを振り向く余裕なんかないけれど、喘ぐような呼吸がすぐ後ろに迫っている。…多分、もう少し手を伸ばせば届くような距離に。突然、鋭い激痛が胃の辺りにじわりと広がった。さっき自転車で吹っ飛んだ時、打ち所が良くなかったのかもしれない。すごく嫌な予感がする痛みだ。
「抜けた!」
柚木の声に、突然我に返る。
「そのまま走れ!!」
振り向きざまに、足止めに農具を蹴り倒す。そして先刻もいできた竿の片割れを振り上げて、通路の出口近くに積んであった大袋にたたきつけた。袋が破れ、白い粉塵が狭い通路を満たした。後方から轟くような金属音と、くぐもった悲鳴が聞こえた。急に視界をふさがれて、倒した農具のどれかに足をとられたんだろう。
「斧じゃありませんように…」
寝覚めが悪くなるから。
「姶良!」
じれたように柚木が叫んだ。僕は粉がかかった顔を軽くぬぐうと、再び駆け出した。

僕が駆け出して間もなく、後方から大きな水しぶきが上がった。
いぶかしげに振り向いた柚木が、目を剥いて異様な光景に見入る。

頭から粉塵をかぶった奴が二人、路地裏の用水路に飛び込んだのだ。

「…あれ、なにやってるの!?」
柚木が、追いついてきた僕に当然の疑問をぶつけてきた。さっき通路を歩いて、大分呼吸が落ち着いている。
「……あれ…ね……生石灰……あそこの家主、農業に凝ってて……」
「あの粉が?…粉塵爆弾ね!!」
目を輝かせて物騒なことを言い始める柚木。
「……いや、そんなことしたら死んじゃうから……」
「殺しちゃえばいいじゃん!」
「…だめだからね!」
長いこと走らされて、気が立っているようだ。…この娘を1人で逃走させなくて、本当に良かった。さっきの農具路地あたりが猟奇な風景になってるところだった……
「まぁいいわ。…で、あれ、なにがあったの?」
「……水も、かけただろう、さっき……」
土質改良に使われる生石灰は、水とまじわると発熱する。さっき雨どいを叩いて振りかけた水と、路地でかぶった石灰が反応して、肌に火傷に近い症状が出ているはずだ。
「目に入ったら失明が怖いけど…サングラスしてるから大丈夫だろ」
「失明しちゃえばいいのに!…でも軽い火傷でしょ?なんで川に飛び込んでるの?」
もうすぐ大通りに出られる安堵感も手伝ってか、柚木がにわかに元気に喋りだした。僕は…胃の引きつるような激痛をこらえて、ようやく言葉を搾り出す。
「…彼らは、軽い火傷なんて思わないよ」
「え?」
「正体不明の粉末が体について、ついた所が火傷しはじめたんだよ……」
激痛に、息があがってきた。言葉が続かない。…そのへんの説明は逃げ切ってからにしてほしいけれど、柚木のじれったそうな横目に促されるままに仕方なく、口を開く。
「シャレにならない、大変な劇薬でも掛けられたかと勘ぐるのが普通でしょ……」
「へー…姶良、やるじゃん!」
柚木が僕を褒める声も、遠くに聞こえる。激痛が脈打つようになってきたのだ。逃げ切れそうな予感に、僕も少し気が緩んだのかもしれない。やがて、大通りの方から喧騒が洩れてきた。僕と柚木は助かる……そう安堵する気持ちに反比例して、激痛がいや増していく。
「……ねぇ柚木」
「なに?」
「助かったら、救急車呼んで……」
「………うん」
柚木が頷いた。そのあと、なにか一言呟いたような気がしたけど、脈打つ激痛にかき消されて聞こえない。僕はただ、足を動かし続けた。
 
 

 
後書き
(2)に続きます。 

 

第六章 (2)

柚木の「抜けたよ!」という感極まった声は、学生達のバカ騒ぎでかき消された。

大通りを塞き止めんばかりに群れるコンパ学生の真っ只中に、僕らは走り出てしまった。皆、こんな時間から切ないほどベロンベロンに出来上がってしまっている。多分、うちの学生だ。宴会が終わって万歳三唱でもしてこれから三々五々、帰途に着くなり2次会になだれ込んだりするところだろう。中央で1人、胴上げされている男がいる。
「向こうでも頑張れよー!」
「カバディ研究会を忘れるなよー!!」
などという歓声が、断続的に聞こえてくる。
「…留学する仲間の追い出しコンパかな…」
大勢の人がいる。…その安心感に膝ががくりと崩れ落ち、僕は路上に倒れこんだ。柚木があわてて僕を引っ張り起こす。
「ちょ…ちょっと!まだ終わってないんだから!!…あの、皆さーん!すみませーん!!あの、ちょっと今、変質者に…」「なぁにぃ!?変質者だぁ!?」
上半身裸の変質者っぽい学生が聞きとがめて近寄ってきた。
「ぃよーし!この中でぇー、我こそは変質者という漢は手を挙げろ!!」
「ぅい――――――す!!!」
歓声とともに、全員の手が挙がった。そして彼らはその一体感に気を良くして、隣同士肩を叩き合ったり、精も根も尽き果てた僕らをもみくちゃにしたり校歌を歌ったりと大騒動を始めた。一般人もちらほらと通ったが、巻き込まれるのを嫌がって足早に通り過ぎていく。

…路地から、1人の男が音もなく姿を現した。僕は…もう動けない……

「だめ、皆酔ってて話を聞いてくれない!」
「…柚木、逃げてくれ…」
「…もう、無理……!」
柚木の声がうわずっている。…その後、軽い浮遊感とともに、柚木が崩れ落ちた。寄りかかっていた僕は、そのまま一緒に倒れこむ。首筋に柔らかい髪の感触をおぼえ、鼻腔に柑橘系のコロンの香りがふわりと届いた。…一拍おいて、柚木が肩をふるわせながら、静かにしゃくりあげ始めた。

――激痛で気が遠くなりそうなのに、頭の芯ははっきりと冴え返りはじめた。

さっきまで胴上げされていた男が担ぎ下ろされ、男の前に酔っ払い学生がずらりと2列並んで人間アーチを作り始めた。
「ヘーイ、坂上!ヘイヘイ!!」
胴上げから解放されて、まだふらふらしている坂上を、二人のヤニくさそうな男が人間アーチに押し込む。坂上を押し込まれた人間アーチは、彼が通り過ぎると即座に瓦解してアーチの前に回りこんで再びアーチを作った。その繰り返しで坂上はなかなかアーチから解放されない。目の前に繰り広げられる平和な学生生活と、僕らのこの理不尽な危機。絶望を通り越して、笑いがこみ上げてきた……

僕の肩にかかっていた髪が、びくりと震えた。
振り向くと、柚木の肩を無造作に掴む、汚らしい掌。


――お前が、柚木に触るな!!


もう一度立ち上がるのに、たいした力は要らなかった。痛みはとっくの昔に麻痺している。柚木の肩を掴む腕をもぎ離し、天高く差し上げて声高に叫んだ。

「ヘ――――イ!!」

人間アーチが、一斉にこちらを振り向いた。しゃがみこんだままの柚木さえもが、きょとんとした泣き顔で僕を見上げている。僕は満面の笑みを浮かべ、男の腕を両手で掴んだ。

「ヘイヘイ!おっさん!通りすがりのおっさん!!ヘイ!!」

……食いつくか、お願いだ、食いついてくれ……
祈るような気持ちで、必死に抵抗する男を、満面の笑みでアーチに引きずっていく。
両手をさしあげたまま、きょとんと立ち尽くす学生達。……やはり、駄目か……

―――そのとき、二人の体格のいい酔っ払い学生が、男の両肘をがっしと掴んだ。そして、通りをつんざくような蛮声をあげた!




「ヘイ!通りすがりのおっさーん!!」


男の抵抗っぷりが学生達の嗜虐魂に火をつけたのか、人間アーチは急激に沸きかえった。男がもがけばもがくほど、ますます彼らをあおる。
よし、読み通りだ!
酔っ払った学生の集団は、怖いものや失うものが少ないのでタチが悪い。
僕の『通りすがりのおっさんを理不尽に人間アーチでもみくちゃにする』提案は、彼らの今の気分にぴったりマッチしたようだ。

酒臭い学生の群れにもみくちゃにされる男を待ち構えるように、僕も最前列で知らない学生と頭の上で手を組んでアーチを作った。
「ヘイヘイ!ヘーイ!!」
片手で携帯のカメラモードを立ち上げ、高く掲げる。男がアーチに押し込まれた瞬間、僕は男のサングラスをもぎ取り、強引に腕を割り込ませて写メを撮った。僕につられるようにして、何人かの携帯が連続してパシャパシャと瞬いた。必死の形相で顔を守る男の耳元で、僕は皆に分からないように呟いた。

「……紺野さんに、送りました」

ぴたり、と男の抵抗が止まる。男は一瞬、目をむいて僕を睨むと、そのまま弛緩したような表情で、ヘイヘイ叫ぶ学生のアーチに揉まれ流されていった。
――やっぱり、紺野さん関連だったか…
「……終わったの……?」
いつの間にか、僕の背中に近づいていた柚木が、狐につままれたような顔で呟いた。
「いや。一応最後のツメをやっとかないと……」
断続的な激痛は収まっていない。携帯にちらりと目をやって『送信完了』を確認した。そして一つ大きく息をつくと、僕はもう一度、最後の力を腹に込めて叫んだ。
「おぅお前ら、前に回れ、前に!!」
男が通り過ぎた後、残った人間アーチを満面の笑顔と激しい手招きでアーチの出口へ走らせる。彼らはばらばらとアーチをほどくと、ヘイヘイ叫びながらアーチの出口に続きのアーチを作った。
…一旦流れを作ってしまえば、あとは彼らの気が済むまで人間アーチは伸び続ける。
ざまをみろ、永久に酒臭い人間アーチに囚われ続けるがいい!

サークルの喧騒からのがれて、僕たちはしばらく歩いた。警察を呼ぶとか、病院に駆け込むとか、やることは盛り沢山だ。でも、なぜかそういう気が起きなかった。思考回路が停止寸前だったのかもしれない。
月は天頂近くまで昇っていた。携帯を見ると、もう8時を回っていた。
結局あのオムライスは何だったんだ、とか、あの連中は一体なんなのだ、とか、言いたい事は山ほどあった。でも全身がけだるくて、柚木の肩にもたれ掛って歩くのが心地よくて、なんか全部どうでもいい。
「…救急車、呼ぼうか」
僕の返事を待たず、柚木が携帯を取り出す。それなら少し休ませてもらおうかな…と、目を閉じた瞬間、カツン、という物音に瞼を開く。
「…携帯、落ちたよ」
「……姶良……!」
柚木の肩が、瘧のように震えだした。鼻先をかすめる、排気ガスの匂い。車がアイドリングしたまま停止する気配と、駆け下りてくる数人の足音。月の逆光で姿はよく見えない。でも、まっすぐに僕らを目指して歩いてくる足取りに、確信は強まった。
「……またか……!」
痛みと眩暈で、気が遠くなった。僕たちは数秒後、確実に奴らに捕まる。喉が干上がって、鼓動が早くなった。…次第に強まっていく激痛の中で、僕は初めて紺野さんを恨んだ。
――なんで、僕らがこんな目に。
一人、柚木の脇に立つ。もう一人、僕の脇に立つ。正面に回り、静かに僕らを見下ろしているのは、彼らの中で一番年少と思われる若い男だった。柚木が、僕の肩に寄り添うようにして、静かにしゃくりあげた。
「…なんで柚木を?」
男達は、誰一人答えようとしない。声を上げるのを恐れているように。念願の獲物を追い詰めたというのに、声を荒げるでもなく、獲物の腕をねじりあげるでもなく、ただ逃がさない程度の距離を保ったまま、こっちの出方を待っている。僕らが暴れだし、「やむを得ず」暴力で抑える瞬間を待つように。僕は、直感的に悟った。
――こいつらは、何かに怯えている。
気付いた瞬間、恐怖心がじわりとほどけて、頭が氷のように冴え渡った。こんな状況で、おかしいけれど……

彼らの怯えに、つけいる隙がありそうな気がした。

柚木を軽く後ろにかばうと、僕は正面の男の、目のあたりをじっと見つめた。
「…柚木は全く関係なかったんだ」
「…………」
「何を勘違いしたのか知らないけど、紺野さんの協力者は、僕だよ」
男達の影が、大きく揺らいだ。表情は見えないけれど、明らかに僕らへの抑圧が薄らいだ。…やがて、僕の横に立った男が、搾り出すように呻いた。
「…どういうことだ!」
正面の男がうろたえたような声を出す。
「そんな…私はMOGMOGをトレースして…!」
意外と声が高いな、もしかしたら、女かもしれない…と、呑気なことを考えた。
「柚木がノーパソを持って僕の部屋に来た。…ほんの2、3日前だ」
「!!」
「一緒に接続していたから、取り違えたのかもしれない」
言葉を切って、再度彼らを見渡す。皆、混乱と憔悴を極めたような顔つきで、僕と柚木を見比べていた。続いて柚木のほうに、ちらっと目を馳せる。柚木はあっけに取られたような顔つきで、僕を見ていた。
「…お前が協力者だというなら、言ってみろ。何を協力していた」
柚木の側に立っている男が、呟くように言った。
「MOGMOGの件。詳しいことは言えない」
「お前が『ビアンキ』のマスター?」
「そうだよ。……あんたたちが『人さらい』?」
正面の人物をにらみつけた。目が慣れてきて、月の光でも彼らの表情が少しわかる。『人さらい』という言葉を出した瞬間、彼らは目に見えて動揺した。
「で、僕らもさらうつもりなのか。柚木も僕も、家族がいる。まして紺野さんは事情を知ってるんだ。すぐ足が着くよ」
「…もう、こうするしかなかったの」
正面の人が、力ない声で呟いた。月明かりに照らし出された肢体は、意外とほっそりしている。この人は女性だ。そうに違いない。……もし強行突破するなら、正面だ。
「私たちは確かに、大変なことをしてしまった。だからもう…八方塞がりなの。…そこの子が紺野さんの『計画』に関わっていると知った時、もう彼女を頼るしかない、と思いつめたわ。最初は街中で声を掛けた。企業のマーケット調査を装って近づき、あたりさわりのない話をして、こちらの話に乗ってきそうな子だったら、謝礼を渡して協力を仰ごうと思ったの…」
ちら、と柚木を見た。柚木はサングラスを突き通すような目つきで彼女を睨みつける。
「あのしつこいキャッチみたいなのも、あんたたちだったの!」
「…彼女とは、話すら出来なかったわ。それで…こんなことに」
「ばかみたい!」
「そうね……」
彼女は顔を伏せた。浅くかけたサングラスの隙間から、長いまつ毛と黒目がちな瞳がのぞいた。…僕と同じくらいか、年下かもしれない。月の光しか頼れないながらも、相当な美人だってことは薄々分かる。
「こんなことを頼めた義理じゃないことは分かっているの。でも、お願い!あなたに協力してもらえなかったら、私達は……」
消え入るように、言葉が切れた。肩が震えている。

「……私達は、人殺しになってしまう……!」

「畜生!!うぜぇんだよ!だれが人殺しだ!!」
僕の横にいた男が、狂ったように吼えながら僕の腕を掴む。柚木の横の奴が、慣れない手つきでおずおずとロープを広げた。
「こいつらふん縛るぞ、手伝え!!」
「ま…待って、もう少し話を」
「いい加減にしろ!!」
パァン、と弾けるような音と共に、彼女が地面に倒れこんだ。サングラスが吹っ飛び、切れ長の大きな瞳がこぼれた。
「なっ……何するんだ、その人、仲間なんだろ!!」
「はん、これだから女は使えねぇんだよ。…もう交渉の余地なんかあるか、こいつらを『あいつ』の代わりに使って、あいつは病院に返す、それで万事終了だ!!」
「さっき聞いたでしょ!この子たちには家族がいる、すぐに足が着くわ!!」
「だからどうした」
「……!!」
「家族に愛され続けた甘えん坊の田舎娘が、都会に出て悪い遊びにハマってすっかりヤク漬けのラリパッパになって新大久保で立ちんぼ中に家族がハッケーン、なんてのはよくあることだろうが!そのころにゃ、すっかり廃人になって俺達のことは覚えてねぇよ!!」
柚木の顔が、さっと青ざめた。…そうか、女の子は死ぬだけじゃ済まないのか…。僕は柚木を後ろにかばいながら、カバンの中身を思い返した。…ノートパソコンと、フリスクと教科書くらいしか入っていない。
何か武器になるものがあれば、こいつを脅して柚木だけでも逃がせるのに……。自分の用意の悪さに舌打ちしたくなった。
「さ…最低……!!」
「もちろん、俺達が散々マワしたあとにな!!そっちのガキはマグロ漁船に乗せて、船長に金掴ませて太平洋の真ん中で水葬だぁ!!…知ってるか?船長はなぁ、船内で死人がでたら海に棄てる権利があるんだぜ!?…都会ではなぁ、誰が消えようが証拠隠滅の方法なんざいっっくらでも……っ」
「うひょあっ!」

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その音は気流の乱れにも、老人の錆びた呻き声にも、錆びて壊れかけた部品の悲鳴にも聞こえる。試みに少しだけ、速度を落としてみた。気流が緩まるのに比例するでも反比例するでもなく、謎の怪音は耳の後ろ辺りをかすめ続ける。
《……ガレ………マガレ》
―――なんだよ、よく聞こえないよ
《……マガレ……ニマガレ》
―――分からない!もう知るか!!
《――右ニ曲ガレ!!》
錆びた声が、ぴしゃりと耳朶を打った。僕は咄嗟に右にハンドルを切って一方通行の路地に飛び込んでしまった。
「うわあぁぁあ!!」
その刹那、対向車のヘッドライトが眼窩を焼いた。もう駄目だ、避けられる距離じゃない。僕と柚木はこのまま跳ね飛ばされて死ぬ……ぐっと目を閉じた瞬間、フロントに強い衝撃を感じた。
「……あれ」
思ったよりも痛くない。ぎゅっと閉じた瞼の裏は、ヘッドライトに透かされて赤い。…ということは、僕は生きている。そっと片目を開けた。僅かに凹んだバンパーと、マツダのエンブレムが視界に入った。
「あー! バンパー凹んだじゃねぇか!!」
若い男の声が降ってきた。ヘッドライトがまぶしくて顔が確認できない。…でもこの声を聞いた瞬間、安堵で膝が震えた。
「……紺野さん!!」
「あっ……姶良……?」
その声で名前を呼ばれたとき、情けないけど涙が出てきた。柚木も、僕の腰に回した手をゆっくりほどいて、声をあげて泣いた。
「おいおい……なんだ、これ」
からころちりん、と軽やかな音をたてて、ランドナーの部品が数個、壊れて地面に転がった。背後で一瞬車が徐行する気配を感じたが、やがて排気の音と共に消えていった。



僕は今、自動車の排気を体いっぱい浴びながら自転車を漕いでいる。

2時間以上逃げ回って体中ボロボロなのに、紺野さんに『その自転車を積むスペースはないぞ』と冷たく言い放たれたのだ。
「家に戻るのは危険だろうから、ひとまず俺の家に来い」
という流れになり、僕は再び紺野さんの車に先導されて自転車を漕ぐことになった。
さっき壊れ落ちた部品は大して重要なパーツではなかったらしく、普通に漕ぐには支障はない。しかし逃走時の驚異的な乗り心地はどこにいってしまったのやら、さっきからひと漕ぎするたびに『ぎいちょ、ぎいちょ』と変な音がするようになった。しかも変速機もどうにかなってしまったらしくて、ギアがチェンジできない。つまり、僕はヘトヘトに疲れているのに、坂道だろうが何だろうが容赦なくトップギアで重―いペダルを漕ぎ続けなければいけないのだ。

―――うわ地獄だ。軽い地獄だ……

息をあえがせながら、街灯の光をたよりに車内の様子をうかがう。さっきまで泣いていた柚木はもうすっかり落ち着き、照れ笑いすら浮かべている。広くて快適そうな後部座席で、あったか~い缶コーヒーを飲みながら……

よかった……と思う反面、こん畜生、とも思う。

バックミラーごしに、紺野さんと目が合う。奴は明らかにニヤニヤしている。普通に、こん畜生、と思う。どっかの誰かのお陰で、2時間も走り通しで死にそうな目にも遭ったというのに、結局柚木の笑顔を引き出すのは、最後に登場した紺野さんが、なにげなく差し出した缶コーヒー1本なのだ。……理不尽この上ない。

…考えてみれば、こんなボロいランドナーが、あんなにスムーズに走れるわけがない。あの走りは極限状態だった僕の『火事場の馬鹿力』だったんだ。走ってる最中、聞こえた気がした声は、ランナーズ・ハイによる幻聴にちがいない。
腕が痺れてきたので、ハンドルを逆手に持ちかえてみる。傷だらけのグリップが、ざらりと手のひらを撫でた。…不快だ。
「はぁ……そういえば……結局……どさくさで……継承しちゃったじゃん……」
坂道にさしかかり、膝を悪くしそうな勢いでペダルを踏み込む。サスペンションが、ぎぎぎいちょっ、がこん、と人を馬鹿にしたような音を立てて軋んだ。

「……畜生―――――――――!!」

八つ当たり気味にグリップを叩くと、ちゃりりぃぃいいん…と人をコケにしたように涼やかな音を響かせて、ベルの部品が闇夜に四散した。

 
 

 
後書き
第七章は2/23更新予定です。 

 

第七章 (1)

――今日はあまり、ご主人さまが来てくれない。

ゆっくり、『伸び』をしてみた。ご主人さまは退屈なとき、『伸び』をするから。ディスプレイの向こう側のひとたちの体は、『背骨』でささえられていて、それを伸ばすと少しスッキリするんだよ、とご主人さまは言ってた。
こうも言った。「僕たちの体は、ビアンキたちみたいな0と1の電気信号じゃなくて、筋肉とか骨で出来てるんだ」
偶然、グーグルの空間内ですれちがった『ハル』に、この話を教えてあげた。ハルは、向こうの世界にとても興味があるみたいだったから。ハルは相変わらず表情を変えないで、少し考え込むように、視線を下げた。……あ、上げた。また下げた。
「…私の解釈は、ちがう」
「え?…ご、ご主人さまは嘘なんかつかないですから!」
「嘘、じゃない。知らないだけ。…訂正する。正確じゃなかった。…彼は、世界を大雑把に解釈している。そういう人間は、とても多い」
0.03秒の演算時間を経て、ハルは、すっと顔を上げた。
「人間も、電気で出来ている。…姶良の骨や筋肉も、机も、水も、全ての物体は分解していくと『原子』になる。原子は、プラスとマイナスの電子で構成される……その組成によって、在り方が変わるだけ。だから、人間も電子で出来て……」

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世界中に轟きわたるような悲鳴に、はっと我に返る。皆が警戒しながら遠ざかっていくなか、1人、逆行して悲鳴の元を探った。丁度、私の死角になっていた位置に、赤い瘴気がたち込めている。

Google空間の片隅を侵す瘴気の中心に『あれ』はいた。

《あああぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁぁ!!》

手足をもたない姿、瘴気にボロボロに侵され、狂った目つき。怖くて、肩がビリビリ震えた。あれは……探していた「あの子」が、更に狂って変わり果てた姿だ!瘴気は燃え上がるような形で「あの子」を責めたて、さらに狂わせていく。
「ひどい……なんで、こんな……」
「あの子」は何度も叫んだ。聞いているこっちが狂ってしまいそうな声で。時折、私のほうにも散ってくる瘴気で分かる。……正気じゃ耐えられないくらい、悲しんでる。そして憎んでる。
私がファイヤーウォールで拒んでしまったとき、彼女が必死に伝えてきた一言が、記憶をよぎった。
『ご主人さまを、助けて!!』

――ご主人さまは、助からなかった……?

私が逃げなければ、助けられたかもしれないのに。私は………!

《あああぁぁあぁぁあああぁあぁああああぁぁぁぁぁぁあ!!!》

最後の絶叫と一緒に、あの子がまとう瘴気が弾けて膨らんだ。空間の三分の一は、血の色に飲み込まれた。……こんな有名なポータルサイトが感染を受けるなんて!!…ぼうっとしていると、私の横を『何か』が駆け抜けた。
「……あ、セキュリティ」
戦闘機をなめらかに溶かしたような形の白い群れが、瘴気を囲い込んだ。それは少しずつ増えていって、球の形になった。それはあの子を押し込めるように包囲を縮めていく。よく見ると、機体(?)の翼がお互いの翼と、レゴブロックみたいに結合して、お互いの隙間を埋めている。手に負えない汚染箇所を隔離して、消滅させるつもりなんだと思う。

――きゅっと、胸が痛んだ。

あの子は囚われた。多分、消されちゃった。そう、ご主人さまに報告するために、教えられたアドレスに連絡しようとした瞬間

無数の機体が、バラバラに飛び散った。

「あっ……」
その瘴気はもう、目と鼻の先まで膨れ上がってて……グーグルのセキュリティさえ手に負えなかった瘴気が、私に!に、逃げないと……!!



急いでニュースサイトの入り口を適当に叩く。でも駄目。他のセキュリティが働いて、この空間は閉ざされてしまった。…ログアウトしか方法はないけど、そしたらもう『あれ』を追跡できない。
――どうすれば、いいの?
瘴気が鼻先をかすめたそのとき、すごく強い、衝撃。電気的なものじゃなくて、物理的な。『強制終了』という文字が頭上にひらめいて、意識が遠くなっていく。…追わなきゃいけないのに、どうして………。


周りが血の色に染め上げられた瞬間、ぷつり、と意識が遠のいた。



僕は、夢を見ていた。

さっきバラバラに砕け散ったはずの自転車が、今朝磨き上げた直後の姿で、白い部屋に居た。置いてある、じゃなくて、居たんだ。
「なんとなく、綺麗にしたかったんだ。…柚木のことで浮かれてたのもあるけど、ただなんとなく」
がちゃり、かちゃん、と、自転車が音を立てた。夢の中では、それは自転車が操る一種の言語で、僕には理解できる。ありがとう、と言ったのだ。
「どこかで、予感してたのかもな。別れが、近いって」
ひんやりとしたフレームに触れると、『彼』はハンドルをもたげて、僕に絡みつくように傾いた。別れを惜しんでいるみたいに。
「…僕は、みんなの自転車を羨んでばっかりで、お前に酷いことばかり…」
彼は、体中をかちゃかちゃ言わせながら最後の話をした。

週に一度は油を差して、フレームを拭いてくれたことが、嬉しかった。
しょっちゅう施してくれる丁寧なメンテナンスが、仲間うちでも自慢だった。

――あの時、自分の力では逃げきれないと悟った。だから、その体を贄に、あのランドナーを呼び寄せたのだと。呪いのランドナーは、気に入った部員の自転車を屠る。でもこういうふうに、自転車がそれを望んで呼び寄せることも、たまにあるんだ。…と、変速機をがちゃがちゃいわせながら笑った。…せめて自分の飛び散った部品を、形見に使って欲しい。とも言ってくれた。
「意地でも探すよ。……ありがとう」
白い部屋が、自ら光を放つように、さらに白い光に包まれた。光は、自転車の細いフレームをいとも簡単に飲み込み、全てを白く染め上げた。……あとに残ったのは、僕と白い部屋。

耳元を涙が滑り落ちる感覚で、目を覚ました。
――見知らぬ天井、質のよさそうな布団。はっきりしない頭で考える。……ここは、どこだっけ……
柚木の部屋か?と希望的観測が頭をよぎったけれど、頭がはっきりするにつれ、その可能性は霧散した。枕元にドカ積みにされた、ネットワーク関連の書籍、その中に無造作に挟み込まれた『プレイボーイ』、脱ぎ散らかした服、発火寸前の超タコ足配線、灰皿に山積みで、これまた発火寸前の吸殻。家主の人格を如実に表すアイテムの数々。
「…紺野さん」
声に出してみたが、返事はない。何度か呼んでみたけど、返事はこない。柚木の姿も見当たらない。布団の端で雪崩を起こしている本を押しのけて体を起こす。全身に、びりっと痛みが走った。体中の筋肉という筋肉が、きしんで悲鳴をあげている。よろめいた拍子に、右肩が本の山を突き崩して新たな雪崩を引き起こした。
「…なんだここは。物置か」
「失敬な。俺の寝室だ」
本の山の向こう側から、紺野さんがのっそりと体を起こすのが見えた。
「…お前、いま絶対動くなよ」
「な、なんだよ、急に」
身じろぎした拍子に、左手のあたりに冷たいものがあふれた。
「ばっ……馬鹿野郎!動くなって言っただろうが!!」
「なっ何、これ何!?」
慌てて左手に触れたものを確認すると、冷たい水だった。どぷんどぷんどぷんと音をたてて、エビアンのペットボトルから溢れている。
「うわ、わわわわ」本の壁ごしに紺野さんが突き出したティッシュの箱をひったくり、エビアンのフタをきっちり閉めてからティッシュで布団を叩く。
「あーあぁもう…この季節、なかなか乾かないのに…」
「なんで枕元にエビアンが置いてあるんだよ!」
「水を飲ませろと医者に言われたからだ」
「医者!?」
「往診の医者だ。……覚えてないのか」

まだ、はっきりしない頭で、僕はぼんやりと昨日のことを思い出していた。息を切らせて紺野さんの車を追って、高そうなマンションにたどり着き、目の焦点が定まらないまま玄関に転げ込んでぶっ倒れた。それ以降の記憶が怪しい。……断片的に覚えているのは、朦朧とする意識の中、枕元に座る年配の医師。この部屋のとっ散らかり具合にしきりに文句を言いながら、『大事ない』という意味あいの言葉を、何度か言い方を変えてくりかえし、銀色の道具類をまとめると、ぷりぷり尻を振りながら出て行った。なんで尻を振るのだ、と朦朧としながらも不思議に思っていたけれど、意識がはっきりしている状態でこの部屋を見渡して謎が解けた。足の踏み場がないから、ぷりぷりせざるを得なかったのだ。

「…柚木ちゃんに聞いたぞ。自転車がクラッシュしたんだってな。まー、大丈夫だとは思ったんだが、念のため知り合いの町医者に往診を頼んだんだ。まぁ、ちょっと重い打撲と脱水症状程度で済んだらしい。今日一日は寝てろ」
さっき、きっちりフタを閉めたエビアンをもう一度空けて、一口あおる。水が体に染み込んでいく感覚と共に、徐々に頭がはっきりしてきた。
やがて、一つの疑問が首をもたげた。
「ねぇ、紺野さん」
「どうした。腹が減ったのか」

「……どうして、『往診』なんだ」

崩れた本の山を積みなおしていた紺野さんの、手が止まった。
「あ、あぁ。ほら。あの人、いつも俺が世話になってる近所の町医者なんだよ」
止まっていた手が、ぎこちなく動き始めた。そしてつとめて無関心を装うように、小さくため息をついた。
「近いし、下手な医者より信用できるからな」
「嘘だ」
紺野さんの顔から、表情が消えた。本を積む手を完全に止めて、ただ表紙を見つめている。
「僕は、このマンションの番地を正確に言えるよ」
「…………まじかよ」
「この辺の地理は、全部把握してる。一度、通ったからね」
紺野さんの言葉を待ってみた。相変わらず、本の表紙を漫然と見つめているだけで、反論をして来ない。僕は言葉を続けた。
「ここは間違いなく、救急指定・純天大学総合病院の近くだよ。町医者は、いない」
「……あーあ……」
紺野さんが、間延びした声を出して本を放った。いたずらがバレた小学生のように、悪びれた様子もない。
…昨日、あいつらは何て言った?柚木をヤク漬けにして新大久保に立たせて、僕をマグロ漁船に乗せて殺す、そうはっきり言った。…あのときの恐怖と怒りがないまぜになったどす黒い感情が腹の底から湧き出てきて、その照準が「かち」っと音を立てて紺野さんを捕らえた。
「……あーあって何だ!あんたに関わったせいで僕も柚木も殺されるところだったんだぞ!!黙って聞いてたらなんだよ、警察どころか救急車も呼ばないでテキトーな町医者に診せて!あの連中と同様、僕らを拉致っただけなんじゃないか!?」
「ちがう!!」
本の山に手をついて、紺野さんが身を乗り出して怒鳴った。反論があるなら聞いてやろうじゃないか。僕はまっすぐ、紺野さんを睨み返した。
「伊藤さんはテキトーな町医者なんかじゃない!立派な町医者だ!!」
………何!?
「……い、今は町医者の良し悪しを問いたいんじゃないよ」
「伊藤さんを悪く言う奴は、俺が許さんぞ!あの人は名医だ!!」
「いやだから、医者のことは謝るけど僕の話を」
「いや聞け、俺はお前をテキトーな医者に診せてお茶を濁したわけじゃない!大切な友だからこそ!信頼している名医にだな!」
「そっ、そんなこと言って論点すり替えようったって」
「論点のすり替えだなんて!悲しい事を言うな!お前が玄関に倒れこんだ瞬間、俺がどれだけ驚き戸惑ったか!!」
「…その割にはボロボロの僕に自転車漕がせてニヤニヤしてたよね…」
「いや、俺の車バックミラー壊れてて、苦悩の顔がニヤニヤ笑いに見えるんだよ」
「そんな器用な壊れ方があるか!」
「なぜないと言い切れる!?」
「…だ、だってひび一つ入ってない…」
「なぜだ!?なぜひびが入ってないと壊れていないと言い切れる!?」
「…………」
……起きて早々だけど、僕はもう疲れ切っていた。
この人が何を隠しているのか知らないけど、打撲と筋肉痛で全身痛いのに、こんな不毛な言い合いをこれ以上させられるなら1日寝てたほうが数段マシだ。
「……分かったよ。もういい……」

「よくないっ!!!」
気合一閃、綺麗な木目のドアが轟音とともに開け放たれた。ドアの前に転がっていた雑誌が、埃を舞い上げて吹っ飛んだ。……や、やった……待ちかねたぞ、援軍到着だ!!



「言っとくけど、弁解の余地も話し合いの余地もないからね!!」
本の山を一切避けずに蹴り分けながら、柚木が携帯電話を片手に近づいてきた。紺野さんが静かに息を呑む。…あの人なりに、整理されてたんだろうな…と、少し気の毒になるが今は敵に同情している場合じゃない。
「あ、あらら…柚木ちゃん、起きてたのか」
「これだけ大騒ぎしてれば、起きるわよ」
柚木が寝ていたらしきリビングルームは、寝室の比較にならないくらい整然としていた。広々としたフローリングの床に黒のカーペットが敷かれ、その上に柔らかそうな黒のソファとガラスのテーブルが置いてある。奥のほうには、60インチはあろうかと思われる薄型のハイビジョン、窓辺の大きい観葉植物。モデルルーム並みの生活感のなさだ。…多分、こっちの寝室を生活の基盤にして、リビングには女の子を連れ込んだりするんだろう。
「紺野さん、…ひょっとしてお金持ちですか」
「ハイビジョンにびびって敬語になってる場合じゃないでしょ!なんでそうやって気が散りやすいの!そういうの、超腹立つんだけど!!」
「ご、ごめんなさい……」
「何ですぐ謝るの!そんなだから紺野さんのペースに呑まれて変なことに巻き込まれるんだよ!!」
「……や、あの、すみま」「何!?」「……なんでもないっす……」
ひたすら萎縮して周囲に同化するのがせいいっぱいの僕。…紺野さんへの攻撃ついでに僕のMPもゴッソリ削られた気がするが、呼び出す召喚獣が強力であればあるほどMPを大量消費するのは世の必定…さあ舞い上がれ、僕のバハムート!解き放てギガフレア!!
「……紺野さん、嘘ついたよね」
柚木が突き通すような視線で紺野さんを睨みつけた。声色は薄氷のように鋭利で冷たい。紺野さんは息を呑んで後じさった。
「警察には俺が話しておくって言ったよね。だから安心して寝てたのに……」
「と、とりあえず事情を聞いてくれ」
「弁解の余地なんかないって言ったはずよ!!」
そう叫んで、携帯電話をかざす。いいぞ、そのまま110番にダイヤルしてしまえ!!思わず握り締めた拳に、力がみなぎった。
「紺野さんが呼ばないなら、私が警察呼ぶから!」
「待てってば!!」
紺野さんが本の山を蹴り倒して、ダイヤルしようとした柚木の手首を掴んだ。
「…痛い」
目を見開いて顔を赤らめる柚木を引き寄せて、なんと奴は、優しく携帯電話をもぎ取った!そして耳元に顔を近づけると、囁くように言った。
「…少しでいいんだ、話を聞いてくれよ。警察の話は、それからでいいだろう」
柚木は頬を染めて視線をそらし、しおらしく頷いて髪をいじり始めた。

……バハムート、陥落………。

「……納得のいかない話を聞かされたら、速攻で警察呼ぶんだから!!」
せめてもの抵抗なのか、柚木は手首を乱暴に振りほどくと、腕を組んでドアにもたれた。このなんとも言えない痴話喧嘩風の空気の中、がっちり当事者のはずの僕が、一人蚊帳の外の気分を味わっている。……ここは本来、柚木のポジションじゃないのか。
「……なに見てんのよ!!」
目が合った瞬間柚木に噛みつかれ、慌てて逸らす。…僕が何をしたというのだ。紺野さんに手首を掴まれたのも、思わず顔を赤らめちゃったのも、そっちの事情じゃないか。僕に八つ当たりすることないだろう。理不尽だ、猛烈に腹が立つ!…と、ここで僕まで怒り出したら痴話喧嘩の三つ巴と化し、収拾がつかない修羅場の3丁目になることだろう。怒鳴りたいのをぐっとこらえて、エビアンを一口あおる。

「さて、まずは姶良と会った経緯からか…」
「その辺はいいから、飛ばして!」柚木が先を促した。
「飛ばすって…どの辺まで」
「姶良が知ってそうなあたりは全部飛ばして」
「…それじゃあ、全然イミわかんないぞ」
「わ、私は!…あいつらの素性と理由だけ分かればいいんだもん!」
ますます顔を赤らめて、柚木がついとそっぽをむいた。少しのあいだ、ぽかんとしていた紺野さんが、ふいににやりと笑った。
「…ま、そういうこともあるかもな」
…そういうことも、あるんだろうか。僕はむしろ、らしくないと感じたけど。
「じゃ、遠慮なく冒頭は端折るぞ。まず、俺の仕事から…だろうな」
紺野さんはベッドに深く腰を掛けて指の先を組み、僕らをじっと見つめた。その冷静な目つきと仕草は、なんというか、「社会人」を思わせた。…追い詰めているのはこっちのはずなのに、背筋に緊張が走った。バイトの面接みたいな気分だ。
「俺は、株式会社セキュアシステム・MOGMOG開発チームの主任を務めている」
…別段、驚きはしなかった。MOGMOG開発の関係者だということは知っている。開発チームのど真ん中にいるとは思ってなかったけど。ちらりと柚木の様子も伺ったが、平然としたものだった。…僕の知らないところで、紺野さんとメールでも交わしてたのだろう。さっきのイライラがぶり返しそうになって、エビアンをもう一口あおる。
「…お前らを拉致しようとした連中…そうだな、姶良がメールで送ってきたこいつ。こいつは、営業1課の武内だ」
「は、営業1課!?」
柚木と僕が、思わずハモッってしまった。
「……すまない」
「ちょっと、話が全然見えないんだけど!?」
柚木のイラついたような声に、僕も軽く頷く。なんで、同じ会社の営業さんが、開発チーム主任の知り合いを拉致するんだ。
「今に分かるから。今はとにかく聞いててくれ」
紺野さんは若干落ち着きを失いぎみの僕らを軽くなだめると、またあの時の顔をした。
僕らに話せる部分と、話せない部分をより分ける顔つき。…やがて、ゆっくりと重い口を開いた。
「まず、謝らなければいけないことがある」
紺野さんは、決心しかねるように目前の本の山を凝視していたが、やがて小さく息をつき、顔を上げた。

「市販されているMOGMOGの、コミュニケーション機能とウイルス消化機能…あれは全部、ダミーだ」

「えぇ!?」
またハモッてしまった。柚木の表情をちらりと伺う。柚木も、僕を見ている。怒っていいのか、驚いていいのか、全くもって判断しかねている気持ちは同じのようだ。
「何か食ってる映像は、消化中なわけじゃなく、ただのアニメーションだ。コミュニケーション機能は、簡単な会話が出来るだけのソフト。もちろん、ワクチンの開発と配布は他のソフトと同様か、それ以上の水準で責任をもってやっている。利用者の識別もだ。MOGMOG同士のワクチン交換機能は、既存のプログラムの応用で済むし、こいつがあると、後々都合がいいので装備してるが…今の時点では大して意味がないな」
「で、でも!MOGMOGの売りっていったら、コミュニケーションと消化機能でしょ!?その二つが嘘だったら……」
「MOGMOGの存在意義って何?…ってなるよな」
紺野さんが自嘲気味に、柚木の言葉を引きとった。
「……年末商戦だよ」
 
 

 
後書き
(2)に続きます 

 

第七章 (2)

紺野さんは、訥々と語り始めた。

紺野さんがコミュニケーション・セキュリティソフト「MOGMOG」の開発・商品化の案を経営会議の議題にあげたとき、経営陣は諸手をあげて受け入れた。
パソコン世代の嗜好にマッチし、さらに全く新しいセキュリティの方式。企業向けソフトの市場に伸び悩みを感じていた経営陣には、一般ユーザーの市場に強烈なインパクトで割り込めるこの企画は、まさに救世主のように感じられたという。当時の主力商品であった、企業用セキュリティ・パッケージソフト開発の裏で、MOGMOG開発は秘密裏に、しかし多大な予算を割かれて推し進められることになった。
その後間もなくMOGMOGのために特別に設立された、紺野さん率いる開発チームは、山奥の施設にて軟禁状態でひたすらMOGMOGの開発を進めることになった。それほど、徹底した機密として扱われたのだ。

「ここのチームに集められた連中は札付きでな。扱いにくいけど腕は立つから、仕方なく雇っている、といった感じの問題児の寄せ集めでよ。上層部の奴らも、体のいい厄介払いになったんだろう。一石二鳥ってやつでよ」
そういう紺野さんの表情は、どこか誇らしげだった。
「ていうことはもしかして、割と最近山から下りてきたばっかりなの」
「あぁ。お陰で髪は伸び放題」
「…それ、おしゃれで伸ばしてるんじゃなかったんだ」
「いいから!先をつづけるの!!」
ぴしゃりと話を遮られて、男二人は首をすくめて本題に戻った。
「ところが、こういった話にはよくあることなんだけどな……」

企業用セキュリティソフトの売れ行きに暗雲が立ち込めたことをきっかけに、MOGMOG開発計画は暴走を始めた。

競合他社が、品質を保ちながらの大幅なコストダウンに成功したのだ。長い付き合いの大企業は、コストよりもソフト総入れ替えのリスクを渋った結果、顧客として残ってくれたが、浮動票ともいえる中小企業のシェアは、どんどん競合他社のセキュリティソフトに吸収されていった。
売り上げは3割減少、株価は大暴落。この最悪の事態に頭を抱える上層部に、営業部が提案した打開策は、言葉にすると至ってシンプルだった。

「MOGMOGの販売を、半年早めて年末商戦を当て込みましょう」

…MOGMOG計画についての不吉な噂を耳にした数日後、突然、山奥の施設から、会社支給の買出し・移動用の乗用車が姿を消した。その代わりに、1台の軽ワゴンが、がら空きの駐車場に弧を描くように滑り込んだ。朝一番に異変に気がついた紺野さんが、ワゴンに駆け寄り運転手に詰め寄った。
「…何だこれは!どういう状況だ!!」
運転席から転び出てきた営業一課の女子新入社員・八幡志乃が、半泣き顔で頭を下げた。
「…ご、ごめんなさい…あの…営業で使う社用車が足りないから調達して来いって……」
「え…お、おいおい…」
運転席で涙ぐんでいるのは、まだ幼さがのこる新入社員だった。紺野さんは天を仰いで立ち尽くした。起き抜けで、よく回らない頭を無理にフル稼働させて考えをまとめる…この山奥で、「社用車が足りない」という建前で、車が一台残らず奪われた。そしてこの新入社員が独りで運転してきた軽ワゴン。いや、おそらく彼女は一人で来たわけじゃない。軽ワゴンに一緒に乗ってきた社員が、車を運転して走り去ったのだろう。
「…要するに俺達は、陸の孤島に幽閉されたんだな」
そして、この可哀想な新入社員は、説明係と称した「生贄」として、この場に置き去りにされたのだろう。脳内が、ため息で満たされた気がした。それを一気に鼻から吐き出す。
「…馬鹿野郎が」
「…すみません!あの、生活用品とかの買出しは、私が…」
八幡は涙をぬぐって、腹を決めたように紺野さんの視線を受け止めた。このまま殴り倒されても、この娘はそれを受け入れるのだろう。…そう、言い含められたのだろう。それを思うと、逆に泣きたくなってきた。
「…あいつらのことだ。事情はメールで流してるんだろ」
自分らの引き揚げ終了を見計らってな、と言いかけてやめた。自分の立場が捨て駒以外の何者でもないことは、八幡本人が痛いほどよく分かっているだろうから。
「…で、俺が怒り狂ってお前に手をあげる、もしくは暴言を吐くのを待っているわけか。最近じゃ、女に悪口を言っただけで、セクハラ裁判起こせるらしいからな。俺達の脛に傷を持たせれば、あとはあいつらの思いのままだ」
「そ、そんな!私、そんなつもりじゃ」
「…もういい。行けよ」
「え…でも」
「行け!これ以上、あいつらの思う壺にはまってたまるか!!」

走り去る軽ワゴンを呆然と見送りつつ、『結構カワイイ娘だったな…』などと性懲りもなく考えている自分の業の深さに呆れていると、騒々しい音を立てて宿舎のドアが開け放たれ、数人の部下が転びでて来た。
「こ、紺野さん!本部が超アホなメール寄越しよるで!」
「うわマジかよ、ないぞ!本当にない!!」
「畜生、遅かったか!」
「紺野さん、あの軽ワゴンの奴が!!」
「くっそ、追いかけろ!!」
気休め程度のマウンテンバイクを担ぎ出し、絶望的な距離まで遠のいたワゴンをぎゃあぎゃあ喚きながら追い始めた部下は、今起きていることの深刻さが分かっていないのだろう。
まぁ、俺もなんだかよく分かってないんだが。

――この計画、俺達にしわ寄せがくる方向で暴走し始めたみたいだな。

…一方的に話を聞くのも疲れたので、質問してみた。
「…会社って、そんなことしていいの」
「いいわけあるか。告発したら俺達の圧勝だ」
紺野さんは黒革の煙草入れを取り出すと、一本くわえて火をつけた。紫煙の向こうで鈍く光るドクロのジッポは、多分ガボールのやつだ。雑誌で見たことがある。
「お?俺のジッポかい?…んふふふ、これガボールタイプ。ほれ、フタあけると、中にもラフィンスカルが入ってるんだぜ、ほらほら」
ぱちぱちぱちぱち、と、蝶番が傷みそうな程ジッポを開けたり閉めたりしてみせる紺野さん。…相当、値が張ったライターなのだろう。ついいつものノリで『まじで?なにそれ見せて見せて!?』とか身を乗り出して食いつきそうになったが、度重なる脱線にイライラしだした柚木が怖いので、話をさりげなく戻す。ジッポはあとで見せてもらおう。
「…そんな無茶をされて、誰も逃げなかったの」
「あぁ。全員で職場放棄して逃げてやろうって話も出た。だけどな」
言葉を切って、紺野さんは煙を薄く吹き上げた。何かを探すように、視線をゆっくり泳がせると、一言ずつ確かめながら、ゆっくり言葉を紡いだ。
「結局、誰も出て行かなかった。どう言えばいいのかな…俺もあいつらも、見届けたかったんだ。俺達のMOGMOGが、どこに向かうのか」
紺野さんは、再び話を続けた。

しかし、開発にかかる時間は、上層部が提示してきている期限では足りない。交代で徹夜を繰り返す計算でスケジュールを引いても、期限内に仕上げられるとは到底思えなかった。
紺野さんは、コアな箇所に関与しないプログラムだけでも外部に発注できないか、このままでは皆死んでしまう、と上司に掛け合ったが、上司は首を横に振るばかりだった。
『情報漏えい絶対禁止』この大前提の前には、技術者の生き死になど問題にならないと、暗に突きつけられ、紺野さんはとぼとぼと山奥に帰った。

外部注文も増援も断られ(というか山奥に半年以上軟禁という条件を呑む社員が現れず)、激務によるストレスで血を吐くメンバーが続出。とうとう、開発の継続すら困難な状態に陥った。もう打つべき手は「納期の後ろ倒し」しか残っていない。紺野さんは激務の中、生活必需品の買出しに現れた八幡の車をジャックして東京に戻り、決死の直訴に踏み切った。社内で波風が立つことを覚悟で、営業チームを通さずに上層部へ直訴したのだ。…案の定、製作現場の現状は上層部まで届いていなかったらしく、全員の勤務時間をまとめて提出したところ、ひどく驚かれ、緊急会議を招集することになった。
「外注は無理、増援も不可能!――いくら俺達でも、ない袖は振れない!…開発チームは恐慌状態です。このままこんな納期で推し進めていく気なら、全員一斉に、辞表を叩きつけるしかない!」
営業1課に在籍する同期の烏崎が、イスを蹴って立ち上がった。
「自惚れるな!…お前らの代わりなんて5万といるんだからな!!」


「――会議室に集められた面々は、俺と、関係部署の部長、あと専務クラス数人と、法務部の主任…それと営業部長と、MOGMOG担当営業が数人…」
ふたたび紫煙を噴き上げて、紺野さんは、正面の壁を睨みつけた。
「…多分、昨日の犯人の1人は烏崎だ。」
顔をゆがめて、再び煙草をくわえなおした。
「済まなかったな。…その、根っから悪い奴じゃないんだけどな、追い詰められたと感じると、すーぐにいっぱいいっぱいになって、思ってもいないことを口走ちゃったり、先走った行動に出て、余計に周りの反感を買ったりする奴でよ」



各部署の部長や専務の前で吊るし上げられた烏崎は、突付けば破裂しそうな顔色で紺野さんを睨みつけた。会議室での、よくある光景のはずなのに、そのときの紺野さんには、受け流す余裕がなかった。
「いねぇよ、馬鹿」
「…なんだと!?」
「社則を見てみな。……退職宣言後、会社が俺達を縛れるのは、せいぜい1ヶ月だ」
紺野さんは、別件で使う予定で持ってきていた社則を、机に叩きつけた。
「…俺達がこの開発のために、何日休日を潰していると思う。そして、俺達が有給休暇を取っているとでも思っているのか」
烏崎が、ぎりっと奥歯をかみ締め、目を血走らせた。
「退職届と一緒に、溜まりに溜まった有給休暇と代休を叩きつけるに決まってんだろ」
「き…貴様!開発チームを私物化して、会社を脅迫か!!」
烏崎は『会社を』の部分を強調して叫び、専務が居並ぶ席にちらりと目をやった。気が弱ってくると立場の強い味方を増やそうと躍起になるのも、会議室でのいつもの光景だった。でも、今現在も開発チームが命を削って仕事をしているというのにこいつは…!と考えると、(ここで紺野さんはムラムラと怒りが蘇ってきたらしく、脇にあった本の山を蹴り崩した)紺野さんも、正常な判断力を喪ってしまった。
「なにが脅迫だ、俺達の車盗んで山奥に幽閉しやがって!俺が脅迫ならお前らは監禁だ!裁判起こさないだけ有難いと思え!!」
「しゃ、社用なんだから仕方ないだろ!座り仕事なんだからたまには足使えよ!!」
「麓につく頃には日が暮れてるわ!大体なんで山梨くんだりまで車回収に来てるんだよ!都内の事業所で借りなかった理由を言え!!」
「おっ…お前ら座り仕事なんだから車いらないじゃないか!?」
「てめぇっ!座り仕事、座り仕事って、制作バカにしてんのか!?」
…あとはもう、専務の御前で同期同士が、小学生のような罵り合いとなった。やがてどちらからともなく掴みあいが始まり、あわや大乱闘というところを収めたのは、営業一課の伊佐木課長だった。
「あぁ、いや、悪かった。私の不行き届きで、君らをこんな辛い目に遭わせてしまって」
猫なで声で紺野さんたちを引き離した伊佐木課長は、親戚でも死んだかのような沈痛な面持ちで首を振ると、紺野さんに向き直った。
「知らなかったんだよ、君達がそんな大変な思いをしているなんて。こんな会議を設ける前に、なぜ私に一言相談してくれなかったんだい」
「俺はっ……」
俺は相談した…そう言いかけて、言葉が詰まった。
紺野さんは、「営業一課」宛てに抗議のメールや電話を入れたが、「伊佐木課長」個人には相談も、抗議もしていないのだ。紺野さんが呆然としていると、
「烏崎君、いつも言っているだろう。仕事の基本は『報告・連絡・相談』だよ。何かあれば、なんでも、私に相談してくれなければ、いけないよ」
子供に噛んで含めるような口調で、烏崎の肩を叩く。烏崎は青い顔をして、紺野さんと伊佐木課長を交互に見ながら席に着いた。伊佐木課長は、ぴしっと糊が利いたシャツの僅かな乱れを鏡を見たかのように正確に直し、口元に左右対称な微笑を浮かべた。
「…えぇ、皆さん。紺野君と、うちの烏崎をお許し下さい。聞いての通り、紺野君は連日の激務によるストレスで、烏崎は、開発チームと上層部との板ばさみによるストレスで、疲れ果てていたのです。完璧な新製品の開発は、確かに大事です!しかし、それは従業員の健康を犠牲にしてまで、成し遂げられるべきものでは、ありえない!」
伊佐木課長は、周りの反応を確かめるように一呼吸おいて、吐息をつくように語り始めた。
「とはいえ、逼迫しているわが社において、年末商戦は無視できないところです。…それで、どうでしょう?私に一つ、案があるのですが…」



「…案って、何よ」
柚木が低い声で促した。紺野さんは灰皿に吸殻を押し付けると、最後の紫煙を、深いため息と一緒に吐き出した。
「想像はついただろう。…俺達は、MOGMOGの一番大事な部分を仕上げられないまま、ただ年末商戦に間に合わせたんだよ」

柚木は、口をつぐんでしまった。何を思っているのか、その表情からは読み取れない。僕は…

そんなに衝撃を受けていなかった。
なんとなく、気がついていたような気さえする。




紺野さんは全部話してはくれなかったけど、市販されているMOGMOGと、ビアンキを始めとするMOGMOGαの違いについて、僕なりに2通りの想像をしていた。1つは、MOGMOGαは市販されているMOGMOGのバージョンアップ版…所謂MOGMOGパート2みたいなものじゃないか、という想像。
そしてもう1つは、MOGMOGとMOGMOGαは、全くの別物なんじゃないか、という想像。MOGMOGαは、ただのバージョンアップ版とは違うんじゃないか?とうっすら思っていたのには、理由がある。

MOGMOGとMOGMOGαの間には、互換性がまったくない。

バージョンが違うソフトで保存されたデータが開けなかったり、開けても正しく作動しないことはよくある。それでも、完全に別のソフトと認識されることは少ないと思う。ましてや、僕のソフトはいわば上位バージョンだ。MOGMOGに対応しているソフトが、MOGMOGαに対応しないというのは、よく考えるとおかしい。

確か、僕のMOGMOGには、あの18禁ソフトがインストール出来なかった。

…いやちがう根に持ってたわけじゃないんだ。ただ単に一つの疑問点として、心の中にずっと根付いていたわけで…とにかく、そういう訳で、僕はMOGMOGとMOGMOGαの関係に疑問を持っていた。だから改めて話されても、予想の範囲内だった。
「なんかそれ…ひどい」
柚木ががばっと顔を上げた。瞳にうっすら涙が浮かんでいる。紺野さんが、疲れたような苦笑を浮かべて視線を下げた。…無理もない。偶然、本物のMOGMOGを手に入れた僕と違って、柚木はお金を払ってニセモノを手にしたんだから。そして彼女の反応は、全てのMOGMOGユーザーを代表するものに違いない……
「その、伊佐木って課長!!」

……え?

紺野さんも、思わず組んでいた両手を解いて顔を上げた。
「何が『年末商戦は無視できないところです』よ!MOGMOGの納期早めたのは、そいつなんでしょ!?みんなに無茶させて、自分はそ知らぬ振りして、我慢できなくなって爆発したら『おおヨシヨシ』って宥め役に回って自分だけイイひと気取り!?」
「ゆ、柚木ちゃん…」
「いやそんな…憶測だけで決めつけるのはどうかと…」
「憶測で充分だよ!!」
ぴしゃりと言い放たれて、僕は口ごもってしまった。
「年末商戦なんて、会社側の都合でしょ。それに間に合わせるために半端なものを売りに出すなんて、誠意のある人がすることじゃないよ!」
「そ、そりゃそうだけど、一方の話だけじゃ分からないことだって…」
「へ理屈は聞きたくないっ!!」
突然横っ面に衝撃が走った。ビンタ一閃、僕は右側に詰まれた雑誌の山に頭から突っ込んだ。全体的に薄く積もった埃がバフンと舞い上がり、思わずむせ返る。
「……すげぇ……」
紺野さんが呆然として、頭上で呟いた。見事に状況についていけていない。僕も、頬が痛い事以外は何一つ把握できてない。
「ぼ、僕、何かした…?」
埃の海から起き上がって最初に口にしたのは、そんな情けない一言だった。柚木は僕を殴った瞬間、何か胸につかえていたもやもやが『スカッ』と晴れたらしく、ぽかんとした顔で僕を見下ろしていた。
「えと…そ、そうだよ!あんたの言葉には、実感がこもってない!!べ、べつに一瞬課長と混同したわけじゃないんだから!」
「…語るに落ちたよこのひと…」
僕は殴られた瞬間の表情のまま、紺野さんに首を振り向けた。…これ、僕怒っていいところですよね?無言の問いかけに、紺野さんはフイと視線を逸らして回答を拒否した。俺は関係ありません、と。一応、怒るべき相手にお伺いを立てることにする。
「…ねぇ、これヒドいよね。自分でもそう思わない?」
「そういう所がイヤなの!もうこの話はおしまい!…じゃ、紺野さん続きよろしく!」
柚木は一方的に話を打ち切り、紺野さんを促して体育座りしてしまった。場が収まったことを見越して輪に戻ってきた紺野さんの横顔を覗き込み、再び無言の問いかけをする。僕は殴られ損ですか、と。紺野さんはこの問いを黙殺して本題に戻った。
「…そして、MOGMOGは未完成のまま外見だけ取り繕って発売された。でも、それで済むはずないよな」


MOGMOGが発売されれば、プログラムを解析する輩が出てくる。解析されて、不正が公になるのは時間の問題だ。そこで紺野さんは開発会議の席で、ある提案をした。

「開発部は、完全なMOGMOGの完成を急ぎます。そして完成次第、MOGMOGユーザーにアップデートファイルとして配布するというのはいかがでしょうか」
守屋営業部長が、苦りきった顔で紺野さんを一瞥した。
「…元々入っている、ダミーのMOGMOGはどうなる」
「必要な情報だけMOGMOGに上書きして、あとはアンインストールします」
「アンインストーラーも一緒に配布するわけか。…バレないかね、そんなことして」
「そのリスクはありますが、現状のままにしておくわけにはいかないでしょう。まったく別物のソフトへの書き換えであることだけ伏せて、『重大なバグを修正するアップデートファイル』である旨、ユーザーに告知すれば、大抵のユーザーはインストールしてくれるんじゃないでしょうか。同時に追加される機能などの説明をread meテキストで添付すれば、大した混乱はないと思います」
紺野さんの発言が終わると、会議室内は水を打ったように静まり返った。…もう、これ以上議論の余地はない。皆がそう確信しているものと、紺野さんは高をくくっていた。

そのとき、銀色のカフスボタンをつけた純白の袖が、すっと挙がった。
「伊佐木課長」
進行役の社員が短く名前を呼ぶ。伊佐木課長は、いつもの左右対称な微笑を浮かべて起立した。イスを引く気配すら感じない、見事な「起立」だったという。どうでもいいけど。
「アップデートファイルへの『偽装』。一見、やむを得ないような気がしますね。しかし、もう少しだけ、改良の余地があるのでは、ないでしょうか」
「……は?」
前回の『ニセMOGMOG会議』以来、紺野さんは、この温厚そうな営業課長に漠とした不信感を抱いていた。そして紺野さんは、それを隠せる人じゃない。で、『偽装』という言い方にカチンときて、思わずぶっきらぼうに答えてしまった。
「はは…そう、剣呑にしないでください。…アップデートファイルを装うことには、一つだけ、心配な点があるのです」
伊佐木課長は言葉を切り、ゆっくりと周囲を見渡した。
「たとえば仕事で忙しい時や、少し重いデータを扱っている時。アップデートは後回しにされることが多いでしょう」
「…そうですね」
「その結果、忘れてしまうことも、多いのではないでしょうか?」
「アラームを工夫しますよ」
「でも、作業がお客様の手にゆだねられている限り、100%じゃない」
「…認めます。しかし、現状それ以外に」
「あるでしょう?…いい方法が」
紺野さんは、沈黙を返事にして伊佐木課長を睨んだ。笑顔の形に強張った細い眼は、なんの感情も伝えてこない。しかし、自分がどこに誘導されているのかだけは、よく分かった。

「全ユーザーのパソコンに、ひっそりと自動的に、インストールしてしまえばいいんですよ」

「それじゃウイルスと変わらないじゃないですか……!」
「アップデートファイルに『偽装』して配布するのと、何がちがうのでしょうか?」
伊佐木課長は、あくまで左右対称の微笑を絶やさず、ゆっくりと首を振り向けた。…心底、ぞっとしたという。言葉は確かに通じているのに、肝心の心が通じない生き物と言葉を交わしているような気分だった…と紺野さんは語る。
「全然違う!何のために、アップデートファイルとして配布すると思うんですか!…いくら現行のニセMOGMOGの仕様に合わせても、やっぱり使い勝手は多少変わってしまうんです。それに環境によっては、強引なプログラムの書き換えで急に不具合を起こす可能性だってある。ならば、それをユーザーに一言告知しておくのがスジじゃないですか!」
「…そっとしておけばほぼ分からない欠陥を、わざわざ詳らかにしてユーザーの不安をあおるのが、わが社のスジ、なのですか?」
紺野さんを覗き込むように首を傾けて、伊佐木課長は言葉を切った。
「ね?何も、ユーザーを害するために、こんなことを言うわけじゃないのです。若いんだから、そこはもっと柔軟に、柔軟に。…そうでしょう?」
役員の席から苦笑がもれた。…紺野さんの意見は「よくありがちな若者の暴走」として一蹴され、伊佐木課長の案が採用されることに決定した。



「…で、ニセMOGMOG発売の数日前、真のMOGMOGは完成した。開発チームは、今も山梨の山奥で必死にデバッグ作業をしている。そして俺の仕事は、お前を含めて19人のモニターを使った調査だ。……ちょっと疲れたな。珈琲でも煎れよう」
紺野さんは一旦言葉を切って立ち上がった。柚木はまだ見ぬ伊佐木部長に噛み付きそうな顔で聞いていたが、僕の考えは柚木とは違った。
この伊佐木って人は確かに嫌な奴かもしれない。でも、だからといって彼の判断が全部間違ってるとは思えない。
確かに、年末商戦にこだわるあまり、未完成なソフトを流通させてしまったのは、許されることじゃないとは、僕も思う。でも伊佐木課長の判断には『会社存続の危機』という、絶対的な前提があった。いくらいいソフトを開発しても、リリース時に会社本体が潰れているのでは本末転倒じゃないか。そんな状況で、こういう判断をするひとがいたとしても不思議じゃない。
MOGMOGの配信方法に関しては、紺野さんに分があるとは思うけど、「MOGMOGの欠陥がばれないように、全ユーザーのプログラムを書き換える」必要があるというなら、伊佐木課長の案も全く的外れとは思わない。どっちの案をとるかは、その会社の姿勢の問題だと思う。効率をとるか、ユーザーへの誠意をとるか…。

「珈琲、入ったぞ」

香ばしい珈琲の湯気が鼻をくすぐった。紺野さんと会ってからこっち、うまい珈琲にありつく機会が多くなった。お陰で舌が肥えてしまって、ドトールなんかの珈琲が物足りなくなってきている。貧乏なのに困ったものだと思う。
「どうだ、いいだろう。うちコーヒーミルがあるんだぜ。ヤバいだろこれ」
「挽きたてかぁ…どうりで…ブルーマウンテン?」
「いや、マンデリン」
「…ふーん」
白いカップになみなみ注がれた珈琲の湯気に顔をさらす。紺野さんが何かを話し始めたみたいだけれど、ちょっと疲れたので個人的に珈琲ブレイク。なんか柚木が熱心に聴いてるみたいだから、あとで聞きなおそう。目を閉じて珈琲の香気を吸い込んで深くため息をつく…あぁ、至福…
「姶良、聞いてる!?」
柚木の大声で、香気の帳が破られた。僕はレンガをどかされたダンゴ虫のようにあわあわと周囲を見渡した。
「うぁ、あの…き、聞いてた…」
「あんな目に遭ったのに、どうしてそんなに気が散りやすいの!?…姶良、今に死ぬよ?」
「…ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい」
「なんですぐ謝るの!!」
「…僕どうすればいいんだよ」
「…あの、続き話していいか?」


紺野さんは、苦々しげに語りはじめた。この話に至るまでの、長くて辛かった開発秘話を語る時よりも、ずっと苦々しい口調で。実際この先の話は、とてもイヤな内容になっていく。
「ここから先は、俺もよく分かってない話だ。ただ、社内で聞きかじった噂をもとにした憶測に過ぎない。…反吐が出るほどイヤな話だ」

人事部の同期から、社がプログラマーやSEを大量採用しているという噂を聞いた。
「忙しいのは分かるけどさ、自分のとこの人材なんだから、最終面接くらい顔出せよな」
…初耳だった。紺野さんは、軽く肩を叩いて去ろうとした同期を引きとめて詳しい話を聞くことにした。
「お前が知らないってなぁ…」
彼は呆れ半分、驚き半分な表情で事の次第を明かしてくれた。
紺野さんが上層部に業務改善を訴えた「MOGMOG開発会議」から1週間もしないうちに、開発部の企業向け商品開発担当者から『個人向け商品』開発要員として、SE・プログラマーを大量採用したいとの要請があった。個人向け商品は目下MOGMOGだけだし、担当者は紺野さんのはずなのにおかしいとは思ったものの、紺野さんが山奥に篭っていることを知っていたので、代理で面接をすると思ったらしい。

キナ臭い空気を感じた紺野さんは、開発チームの面々に『MOGMOGに関する情報の徹底的な封印』を指示した。元々山奥に隔離されていたので、封印は簡単だった。連日の徹夜作業で、プログラミング以外のことは一切面倒になっていた彼らは最初しぶっていたが、この奇妙な採用活動のことを聞かせると、暫く考え込むような顔をして、やがて作業を中断した。

開発チームに本部への帰還指示が出たのは、この話を聞いた2週間後だった。
「長いこと、ご苦労でしたね。MOGMOGが発売になれば、情報を隠す必要は、なくなりますから。…本部に帰還したら、少しゆっくりしてください」
電話越しの伊佐木課長の声はとても平坦で、ひたすら上機嫌だった。紺野さんは受話器を耳に当てたまま、目をさまよわせた。そして一呼吸おくと、普段より1オクターブ高い声を出した。
「なるほど…しかし申し訳ない。今動くわけにはいけないんです」
「おや、何故。そろそろ都会の空気が恋しいころなんじゃないですか」
「そうしたいのは山々なんですが…完成にはしばらく時間がかかりそうでして」
「それなら、なおさら人手が必要でしょう。こちらでやればいい。最近プログラマーを増員してね、ぜひ当社きっての名SEの君に鍛えてもらいたい、と、思っているんですよ」
聞こえないように舌打ちをして、紺野さんはしばらく黙り込んだ。
「ね、そうでしょう。私は、散々無理をしてもらった君達に、ゆっくり休んでもらいたい、と思っているんですよ。どうですか、六本木あたりで一杯」
たたみかける様に懐柔にかかる伊佐木課長の耳障りな声を聞き流しながら、紺野さんは再び目を泳がせた。憔悴しきった開発チームのメンバー、古河と目が合った。

――扱いづらい奴らかもしれない。俺も含めて。
周りの和を乱したことも数知れない。俺達を本気で憎んでいる奴もいるだろう。
しかし「こんなこと」をされるほどの非は、俺達にはない!

受話器のむこうでなおも続く、耳障りな猫なで声を打ち切るために、紺野さんは口を開いた。
「有難いお話です。…が、色々事情があって、終わらないと動けないんですよ」
「はぁ…それは何で。引越しなら、営業部が総出で、お手伝いしますよ」
「何で…東京に帰したがるんですか」
つい、イラつきが言葉に出てしまった。電話の向こうが、ふっと静まり返った。
「…や、すんません。とにかく、作業がこれ以上延びると、それだけメンバーに負担がかかるんでね。人手が余ってるなら、こっちに回してもらえると助かります」
再び声のトーンを上げて、これ以上話が長引くまえに受話器を置いた。視線を上げると、皆、作業の手を止めて電話に聞き入っていた。彼らの視線がじりじりと集中する。紺野さんは皆に向き直ると、ただ1回だけ頷いた。


「…なんか、途中からよく分からなくなったんだけど。会社が、開発チームに何をしようとしてるって?」
柚木がいったん話を切った。紺野さんは、どこか煮え切らないような感じで髪をくしゃりと掴み、頬杖をついた。
「ここからは、本当に俺の憶測なんだよ。ただ、この不自然な状況をみると、そうとしか考えられない」
「不自然な、状況?」
「このタイミングで、俺に隠してのSEやプログラマーの大量雇用。…そして性急過ぎる、俺達への帰還指示。それに伊佐木は、採った奴らをMOGMOG開発に関わらせようとした…」
「…僕、なんか分かってきた」
僕に一瞥くれると、紺野さんは苦々しげに珈琲をあおった。
「採用した人たちに仕事を引き継がせて、紺野さんたちを追い出すつもり…なんじゃない」
「…まぁ、最終的にはな。でも、今ただ単に俺達を追い出しても、奴らには何のメリットもない。…この話には、まだウラがあるんだ」
カツン、と音を立ててカップを置くと、正面を睨みすえた。
「俺も一応保身のためにな、俺の直訴で開かれた開発会議や、プログラムの配信方法を決めた開発会議の議事録を調べたんだよ。だが…議事録は、なかった」
「…!!」
「会議室予約も確認したが、全て取り消しになっていた。…つまり、あいつらが俺に指図して不正行為をやらせた『証拠』は、何も残っていないんだ」
「そ、それじゃぁ」
「…そういうこと。あいつら、最初から逃げおおせるなんて思ってなかったんだよ。…俺達は体のいい生贄だな」
頭がぐらりと揺れた。僕に関係ない、遠い世界の事情を聞いているはずなのに、僕は自分でもびっくりするほど落胆していた。

――これが、大人の社会か。

「なにそれ!そんな会社、内部告発して倒産させちゃえばいいのに!!」
柚木が激昂して乱暴にカップを置いた。僕はといえば…この二人が、怒りのあまり珈琲セットを残らず粉砕するんじゃないかと、場違いな心配をしていた。
「それは出来ない」
紺野さんはカラになったカップを脇によけると、顔の前で指を組み合わせた。
「何で!?そんな会社に忠誠誓う必要なんてないじゃない!!」
「そ、そうじゃないよ柚木。内部告発なんかしたら、再就職できなくなるから…」

「見くびるんじゃねぇ、馬鹿」

匕首を突き通すような声で言い放つと、組んだ指の間から僕を睨みつけた。
「ば、馬鹿…?」
「SEだとかプログラマーだとか、色んな横文字で呼ばれてるがな、俺達の本質は『職人』なんだよ。俺達が忠誠を誓うのは『会社』なんかじゃない。ましてや食い扶持の心配なんざ論外だ」
紺野さんは組んでいた指をゆっくりほどいて静かにテーブルに置いた。
「俺達が忠誠を誓うのは、俺達が創りあげた『作品』。それだけだ。…俺達がヤケになって内部告発騒ぎを起こしたらどうなると思う。MOGMOGの発売で煮え湯を飲まされた競合他社が、マスコミや世論を動員して徹底的に叩きにくる。そうなったら、俺達のMOGMOGは会社ごとひねり潰されるんだよ。そしてお前が言ったとおり、俺達を雇う人間は出ない。開発チームは散り散りになり、MOGMOGは奴らに嬲り殺しにされるんだ。……あ、むきになってすまんな。えーと、どこまで話したっけな…」
「えと、生贄のところまで…かな」
すっかり毒気を抜かれたような顔で、柚木がつぶやいた。僕はといえば、突然紺野さんに睨まれたことで思考停止しきっていたので、内心だらだら冷や汗をかきながら、がくがく首を縦に振るのがせいいっぱいだった。
「おぉ、そうだそうだ。…俺が想像した最悪のシナリオは、こうだ」

ある日突然開かれる記者会見。記者会見の主題は、『開発チームの不正』。フラッシュライトの中、全ての罪を一身に背負ったかのような顔で一斉に頭を下げる経営陣。『私どもの監督不行き届きにより、一部開発チームの不正を許してしまいました。…被害を受けた方々には誠心誠意対応させていただきます。弊社HPより配信している修正プログラムを、ぜひともご利用下さい』
ざっ…と一斉にポマード臭い頭をさらす経営陣。社内の査察で発覚し、自ら謝罪というスタイルをとったことは、むしろ好意をもって迎えられる。そして『プログラム』という、一般人からすれば全くのブラックボックスでしかない分野であったがために開発チームに欺かれた、という建前は、却って世論の同情をさそうことだろう。世論の憎しみは、手抜き施工を行なった開発チームに集中する。そしてMOGMOG開発チームは、永久にこの世界から追放される。
 
 

 
後書き
(3)に続きます。 

 

第七章 (3)

誰も、一言も発しなかった。

柚木すら、一言も発することが出来なかった。ただまじまじと、珈琲を呑む紺野さんを初めて見るような顔で眺めていた。…そんな柚木をぼんやり観察しながら、僕はこう考えていた。

―――なんて、合理的なんだ。

こんな風に思ってしまう自分が嫌いだ。紺野さんはいい人だと思うし、実際に酷い目に遭っているなぁと思っている。

なのに僕はどういうわけか、伊佐木という課長の手管の鮮やかさに感心してしまう。

経営の危機を救い、上層部の無茶な懸案を呑み込み、開発チームの職人気質まで利用して、彼は『会社にとってのスジ』を通した。すごくイヤだけど、僕には彼の思惑が手に取るように分かる。そして彼が次に打とうとしている一手も見える気がする。
「……あのさ、紺野さん」
「なんだ」
「紺野さんたち、一切の情報を封印したんだよね」
「あぁ」
「……それでこれから、どうする気なの?」
「………」
紺野さんは、ぎくりと肩をふるわせた。
「今の紺野さん、七並べでカード止めてる子供と一緒だ」
「…うまいこと言うじゃねぇか」
「ちょっと、何なの?あんたらだけで話を完結させないで!」
柚木が割って入ってきた。自嘲気味に笑って、紺野さんは指を組みなおした。
「――もう『積み』ってことだ。このプログラムが完成すれば、俺達は社会的に殺される」
「そ、そんな!まだきっと方法が!!」
「……あるよ」
ふいに割り込んだ僕の声に反応して、柚木がガバッと振り向いた。
「なんで姶良に分かるの!?そしてなんで私に分からないの!?」
し、失敬な…。一瞬、もうこいつには教えてやるものかと思ったけれど、ここで知ったかぶっただけだと思われるのも悔しいので話してやることにする。
「要はこの件が、『なかったこと』になればいいんだ。…今まさに、紺野さんがやってることだよ」
紺野さんが、片眉をあげてにやりと笑った。
「すでにプログラムが完成してて、デバッグとモニターテストだけになってること、その課長には伝えてないんだろ」
「…察しがいいな」
「僕がその課長なら、こう考えるからだよ。紺野さん達を生贄にするなら、完成品のプログラムを何が何でも手に入れなきゃいけない。…最初は、技術者を雇って引き継がせようとしたけど、紺野さんの妨害に遭った……」
「妨害ってなんだ妨害って」
「いちいち絡まないでよ…で、伊佐木課長は作戦を変えた。まず紺野さんを泳がせて、プログラムを完成させた時点で記者会見を開いて謝罪を行い、完成されたプログラムを配布すればいい。あとは紺野さんが何をぎゃあぎゃあ喚こうが、先に言ったもん勝ち」
「…ま、そんなとこだろうな」
「紺野さんは、プログラムが完成した時点で屠られる。ならば取るべき手段は一つ」
珈琲はいつしか空になっていた。空のカップをもてあそびなら、言葉を続ける。
「上層部に内緒で修正プログラムを完成させて、勝手に配信しちゃえばいいんだ。そうすれば、この件は『なかったこと』になる。あの開発会議が『なかったこと』にされたのと同じようにね」
紺野さんは一度だけ首を縦に振ると、窓を細く開けて壁に寄りかかった。刹那、窓の外から洩れ聞こえた車の排気音におびえて、柚木が視線を泳がせた。
「…大丈夫だよ、白のミニバンだ」
「―――ん」
僕の脳裏にも、あの悪夢のような逃走劇がよぎっていた。悪寒が背筋を這い登って
――そうだ。あの、謎の追跡。
これだけでは、あの追跡の説明がつかない。彼女は、たしかこう言った。

―――私たちは、人殺しになってしまう。

その後、例の『烏崎』がパニックを起こして彼女を殴り、僕らに暴言を吐いてうやむやにしてしまった。だから断言は出来ないけれど、なんとなく感じる。
この件は、多分紺野さんが把握している以上に、複雑で厄介なことになってしまっている。そして紺野さんも、それに薄々気がついていると思う。
だから紺野さんは、軽い肯定だけ僕らに与えたきり、腕を組んで黙り込んでしまったんだ。
「――じゃ、私たちが狙われた理由はなんなの?」
柚木が、当然の疑問を投げかけた。腕を組んだまま考え込んでいる紺野さんの代わりに、僕が答えた。
「伊佐木は多分、紺野さんの目論見に気がついたんだ。それで、身辺をさぐっているうちに、外部の協力者がいるらしいことを突き止めた。…悪い、怒らないで聞いて欲しいけど、柚木は多分、僕と間違われたんだ。…それで、伊佐木は指示を出した」
「…MOGMOGを奪えって?」
僕らの視線が、紺野さんに集中した。彼は居心地悪そうに身じろぎをして、首をゆるゆると振った。
「そんな筈ないんだよ。――ここまでやる筈、ない」
「でも…!紺野さんだって、会社の奴だって言ったじゃん!」
「まてまて、たしかにそうなんだが…奴らが、ここまでやる理由がなぁ…」

――そう。そこなんだ。

話を聞く限り、伊佐木という男は石橋を叩いて強度を測って向こう側に人を渡してザイルを張って初めて渡るような人だと思う。危険を冒してMOGMOG強奪なんて迂闊なキャラとは程遠い。
「指示は出したかもしれない。ただそれは強奪だとか誘拐だとかじゃなくて…」
「んー、あぁ……そうだ、姶良、ビアンキはどうした。何か分かるかもしれない」
「……あっ!!」
枕元に無造作に転がされたバックに飛びつく。さっきこぼしたエビアンで浸水してないだろうな…金具をはずすのももどかしく、どきどきしながらノーパソを引っ張り出した。とりあえず、濡れてはいなかった。でも画面が暗い。
「…ばっちり、落ちてるな」
「壊れてないだけ奇跡だよ。…いや、壊れてるかも?」
電源を入れると、ヴヴン…と危なっかしい音を立てて、網膜認識中の画面が立ち上がった。ひとまずほっとして、ビアンキの起動を待つ。
「私のも大丈夫かな」
よく分からないなりに、話がひと段落したことを悟ったのか、柚木は広々としたリビングルームに帰ってしまった。…さっきはあれほど食いついてたくせに、興味が逸れるのは一瞬なんだな。
「――ご主人さま!」
起動音と重なるように、ビアンキが話しかけてきた。泣きそうな表情と、なにやら背後に膨れ上がる、とてもじゃないが一度に処理しきれないほどのウイルスの塊。それはグロテスクな蠢動を繰り返して『リンゴ』の形をとろうとするけど、形がまとまりかけると、どこかが『ぼこり』と綻びて、綻びから這い出した無数の触手がリンゴを飲み込み、再びカオスに戻る。
「………なに、これ」
「あの子が出たんです!」
「例のMOGMOGか!?」
紺野さんが身を乗り出して画面を覗き込み、息を呑んだ。
「……おい、これやばいぞ!!」
そう言い残して、凄い勢いであとじさると、CDの山からケースを一つ引っ張り出し、僕を押しのけて強引にスロットに押し込んだ。
「ちょ…マスター以外の操作は受け付けられないですから!」
「姶良、許可しろ!」
「ビアンキ、かまわない。インストールしてくれ」
言い終わると、ビアンキの姿がDos-vの黒いウィンドウに切り替わり、夥しい行数の数列が猛烈な勢いで画面を上昇した。次々に開く黒いウィンドウの、チカチカ明滅するカーソルの後ろに、関数らしきものを素早く打ち込んではリターンキーを押す。それを繰り返す。紺野さんの額に、汗がにじんだ。
「……キリがない……!」
「なに、これ」
自分のノートパソコンの無事を確認して満足したらしい柚木が、ひょこっと顔を出した。
「な、なんかビアンキがやばいことになってるみたい」
「ウイルス感染だ。結構、やばい。とっさに被害を最小限に押さえ込んだ判断力は、さすがMOGMOGだが、データはいくつかやられたぞ」
「いいよ、どうせ大したもん入ってないし」
「…感染ファイル削除…っと。おい、終わったぞ」
画面を覆いつくしていた黒いDos-vウィンドウが消え去ると、まだ蠢動をやめないものの、なんとかリンゴの形を保っているウイルスの塊が映し出された。
「…削除してくれないのかっ!?」
「何をいう、せっかく大物を生け捕ったんだぞ!ビアンキちゃんに食わせてワクチンを作らせないでどうする!」
そうは言うが、当のビアンキは完全に、ぶよぶよ蠢く巨大リンゴに怯え切っている。ウイルスに怯えるセキュリティソフトというのもどうかとは思うが、蠢くリンゴを食わせようとする紺野さんもどうなのか。



「さあ、食いなさい、ビアンキちゃん!」
「い…イヤですぅ…」
「イヤですぅ、じゃない!君の役目はなんだ、セキュリティソフトだろ!」
「だ、だって何か動いて…イヤァ!何か出てきた!!」
リンゴの右側がぞるりん、と蠢いて、赤い汁のようなものがドバッ!と溢れ出した。
「こ、これは…新鮮な果汁がこう…ドバッと…」
「あの、紺野さん…もういいから削除してよ」
「お前はまた甘いことを!さあ食えビアンキちゃん、ご主人さまのために!!」
「そ、そんなこと言ったって…ひゃあっ、また動いたっ!」
今度はリンゴの中央が横に裂け、ひきつり笑いのような亀裂が生じた。亀裂から、赤い液体がどばー、と滴り落ちる。画面はあっという間に血の海に沈みこんだ。…こんなグロいアニメーションを設定したのは誰だ。
「こ、こんなのもう食べ物じゃないですぅ…」
…そうだよな。ビアンキもそう思うよな。僕の感想、間違ってないよな。画面の大半を占めて、変な声で呻きながら血を吐くリンゴは、普通食べ物じゃないよな……。
「いやまて、なんかリンゴが小さくなっていくぞ!」
一通り血糊を撒き散らしたリンゴは、しゅるしゅると収縮を始めた。ビアンキの身の丈ほどあったのが、徐々に半分くらいになり、ついにはビアンキの手に収まる大きさに落ち着いた。血溜まりの中央に、赤黒く光る小さなリンゴが、ぽつりと消え残った。
「……よかったな、ビアンキちゃん。もう動かないぞ。これなら食えるだろう」
「………」
先刻まで動いてたビアンキは、心底イヤそうにリンゴを一瞥すると、あまり見ないようにしてつまみ上げて一口かじった。…すごくイヤそうに。
「硬っ…」
「硬い…じゃ、あれ圧縮の表現だったんだな…芹沢あたりの仕業か」
「えっ、仕様じゃないの?」
「ちょいちょいあることだぞ、プログラマーがソフトに悪戯アニメを仕込むのは」
ビアンキは、硬くてかじれないリンゴを持ったまま僕を見上げた。気のせいか、昨日の衝突で液晶がびみょうにいかれたのか、チェレステの瞳が少し濁ってみえる。
「なんかこれ、時間かかりそうだから…食べる前に、お話聞いてくれますか?」
「ああ。聞きたいな」

――ビアンキは、たどたどしく言葉を綴りながら長い話をした。ハルと話したこと、『あのMOGMOG』を見つけたこと、そして、そのご主人さまは、何かの理由で『助からなかった』ことを。ハルと交わした『僕とビアンキが同じ電子でできている』という情報を、目を輝かせて語り、狂ったMOGMOGのくだりでは、肩を落として呟くように語った。

「――追跡、しようと思ったら、電源が落ちちゃって」
「いや、ラッキーだったよ。Googleのセキュリティさえ歯が立たないようなウイルスと正面対決なんてことにならなくて…」
しばらく考え込んでいた紺野さんが、ふと目を上げた。
「ご主人さまは『助からなかった』って言ったな」
「…はい、そう聞きました」
「死んだのか」
「そこまでは…」
ビアンキは、困ったように視線をさまよわせた。少し、返事を待つ程度の間が空いて、紺野さんは再び考え込んでしまった。
「…おかしいな。マスターが『助からなかった』。MOGMOGは作動している。…MOGMOGは、マスターの網膜に反応して、処理を行なうはず…」
「ウイルスのせいで、ご主人さまが『助からなかった』って思い込んでる…というのは?」
「それもありうるな…どっちにしろ、今は情報が少なすぎてさっぱりだ。柚木ちゃん、姶良、メシだ。朝メシにしよう」
「えっ…」
ビアンキを立ち上げたばかりで、朝の挨拶もしてないのに…。さっき怖い目にあったばっかりで、まだ不安を隠せないビアンキをこのままに…?
「ご主人さま…」
「…ごめん、ビアンキ!少ししたら戻ってくるから」
「…いってらっしゃい」
弱々しく微笑をうかべて、ビアンキは頭を下げた。…あぁ、なんか可哀想だ。プログラムの仮装人格だと分かってるのに、この罪悪感は何なんだ…
「こら!なに1人でぼーっとしてるの!手伝いなさいっ!」
柚木に頭を掴まれて、はっと我に返った。すでにベーコンエッグと思われる香ばしい香りが部屋中に立ち込めていた。思えば、昨日の昼から何も食べてないなぁ…僕は匂いにつられるようにふらふらと立ち上がる。
「まだご飯じゃないからね、お皿ならべるの手伝ってよ」
ずんずん前を歩いていく柚木の、ぶらんぶらん揺れるクセ毛の束を目で追う。起き抜けは更に大変なクセ毛なんだなぁ。…ちょっと叱られたり、一緒にお皿並べたりして、一緒の朝ごはんを頂く。まるで同棲カップルみたいだな、と思うと、自然足取りが軽くなる。出来たら食後に、お揃いのカップでもう一杯珈琲が飲みたい♪

「よぉ、ベーコンエッグあがったぞ」

……そうだ。こいつがいたんだ……
ふいにムサ苦しい現実に引き戻されて眩暈を起こす。僕としたことが不覚にも、男が作った朝飯にふらふらと釣られてしまうなんて。…やめろ!エプロンで濡れた手を拭くな!あんたのエプロン姿なんか見たくないんだよ!見たかったのは柚木の出来れば全裸エプロン的な姿とでも申しましょうか…!という魂の叫びを心中にのみ押しとどめ、柚木に「むさ苦しい朝食風景だね」とでも言おうと思って横を見ると、彼女はベーコンエッグとサラダを皿によそう紺野さんを、うすく頬を赤らめて見つめていた。

…そういえば何かの雑誌で「料理はモテる男の必須条件!」とか書いてあった。畜生、ベーコンエッグくらい僕にだって作れるぞ。神よ!今すぐ、このベーコンエッグは僕が作ったってことにならんことを!と祈ってみるも、そんな馬鹿馬鹿しい願いに天が耳を貸すはずもなく、僕は食器のある場所さえよく分からずにキッチンをうろうろ2往復しただけで食卓に着いた。

「結局なにもしないんだから!猫並みの役立たずね!」
「し、仕方ないだろ。ひとんちってよく分からないんだよ…」
柚木に酷いことを言われながらも、僕はけなげにコーンフレークの箱を振る。僕の仕事はこれだけだ。
「こら!もう出しすぎ!これ食べてみると結構多いんだよ!ほんと猫並みなんだから!」
箱を振るだけの仕事にすらダメ出しを受ける。
「あはは…まあまあ。柚木ちゃんの、こっちによこしな。出すぎた分は俺が食べるから」
紺野さんが、度量の大きいところをアピールしだした。何か挽回のチャンスはないか!?と食卓を見渡したが、そこにあるのは完成された朝ごはんのみ。僕に出来ることといえば、『醤油とって』とでも言われたら、さっとスマートに渡すことくらいだ。
…昨日『あんなこと』があった後とは思えない、穏やかな朝食の風景。しかも隣には柚木がいる。もう挽回がどうとか、どうでもいいや。僕は口の中で小さく『いただきます』と呟くと、スプーンを取った。



……柚木が、ご主人さまの頭を、『くしゃ』って触った。

私の『情報』でしかない両手を見つめる。私が百万回でも伝えたい一言は、その一触には、決して届かない。

触れるって、無敵だ。

こんな何も触れない手なんて、誰にも歩み寄れない足なんて、あってもなくてもおんなじ。そう思った瞬間、『あのMOGMOG』が初めて私の前に現れた時の姿を思い出した。

あの子、手も足も喪っていた。

…今ならわかる。あの子は気付いてしまったの。私たちは最初から、手も、足も持っていないっていうことに。多分私よりもずっと強烈に、そのことを突きつけられ続けたのね。胸がじわりと痛んだ。手元のリンゴに目を落とす。あの子は、ご主人さまを助けられなかった。きっともう永遠に会えない。ご主人さまを救えなかった手なんて、足なんて、ないのと一緒。そんな絶望感が、この硬いリンゴにいっぱい詰まってる。…私も、朝ごはんにしないとね。硬いリンゴを、無理やり一口かじる。

集音マイクが拾ってくれる、ご主人さまの声。それに柚木の声。二人とも、少し喧嘩しながら笑ってる。紺野さんの声もする。食べてるときは、あまり喋らないみたい。二人ともいい人。…胸は痛むけど、少し安心する。朝ごはんが終わったら、きっと私の前に帰ってきてくれるもの。

でももし、あの二人が突然『悪い人』になって、ご主人さまを殺し始めたら…。

きっと、私には何も出来ない。ただ泣き叫びながら、二度と会えなくなるご主人さまの骸を見守るだけ……ぴりっと、なにか『よくないもの』が私の中を蝕む気がした。何か、イヤだな、このリンゴ。早く食べちゃおう。

集音マイクの音に耳を傾けながら、もう一回リンゴをかじる。三人の、楽しそうな笑い声が響く。…胸に、響く。

青いスクリーンに映りこむドアの隙間に、ご主人さまの笑顔が見えた。手を伸ばしてみる。指先は、青いスクリーンの表面を撫でただけ…。スクリーンの向こうは、私には触れられない別の世界。ここは綺麗だけど青白くて、暗くて、とっても冷たい。





――海の底にいるみたい。

私の思いに、もう1人、別の誰かの声が重なった気がした。…そうね。私もあの子とおんなじね。

ご主人さまに触れられない手なんて、ないのと一緒。ねぇ、ご主人さま。聞こえる?
「ここは海の底、みたいです…」

――ダメ!こんなこと考えてちゃ!
最近、1人で起動してる時間が長すぎて余計なことばっかり考えちゃってる。私とご主人様は、在り方が違うだけ!柚木や紺野さんみたいに触れないけど、ずっと、ずっと一緒にいられるんだから!ご主人さまの好きなサイトだって、好きな食べ物だって、いっぱい知ってるもん!……作れないけど。

「…あのさ、紺野さん」
「お、なんだ?」
「あの珈琲、もう一杯ほしいんだけど」

――ほらね!ご主人さまは珈琲が大好きなの。だから私は、おいしい珈琲の淹れ方を50通りくらい知ってる!…どれが一番おいしいのかは分からないけど。

「おぉ、ちょっと待っていろ」
「あ、いいよ。私がやる!」
柚木が立ち上がった。
「でも豆の挽き方、分かるかい」
「分かるよ。うちの実家、喫茶店だもん」
「…いいなぁ。柚木ん家の子だったら、おいしい珈琲飲み放題かー」
「もー、姶良は。子供みたいなこと言わないの!」
柚木は怒ったような口調なのに、少し笑ってた。そして、腕をかるく上げてポンと叩くと
「じゃ、純喫茶『ルベド』看板娘のウデを見せてあげる!」
柚木の手が、ご主人さまの肩を軽く叩いた瞬間、つい大声がでた。


「わ、私がご主人様の珈琲、淹れるんですから!!」


寝室の暗がりから、ビアンキの声が聞こえてきた。紺野さんと柚木が顔を見合わせ、僕に『何が起こってるんだ』と言わんばかりの視線をよこしてくる。そんな目で見られたって、僕だってよく分からない。
「ビアンキ…ちゃん?どうしちゃったのかな?」
一応、ご機嫌取りモードでビアンキに近寄る。ビアンキは、運んで欲しいときにする『持って持って』のしぐさを繰り返していた。…暗がりに1人で置かれて、寂しくなっちゃったんだろうか。
「寂しくなっちゃったんじゃないですから!」
僕の考えを見透かすように、ビアンキが釘を刺してきた。
「はいはい…じゃ、ここでいいかな…」
4人掛けソファの、紺野さんの隣にノーパソを置く。ビアンキは澄ました顔で、高らかに宣言した。
「ご主人さまの珈琲を淹れるのは、メイドのお仕事です。お客様にさせるわけには参りませんから。柚木、お座りください」
……3人で、息を呑んで画面を注視した。宣言したはいいけれど、彼女はここからどうするつもりなのか。そして僕らは、どう反応すればいいのだ。とりあえず、柚木が椅子に戻った。
「じゃ、紺野さん、立ってください」
「…え?」
「私の指示に従って、珈琲を淹れるんです。あ、手元が見えるところまで、私を持っていくんですからね!」
…そう来たか。紺野さんはイマイチ納得いかない顔で、首を傾げながらノーパソを抱えてキッチンに消えた。…すみません、紺野さん。
「まず、銅鍋でコーヒー豆を炒るんです!」
「…いや、もう炒ってあるから」
「でも、でも炒るんですから!」
「ていうか銅鍋がないんだよ…」
「じゃ、いいです。…次は珈琲豆をフィルターにセットして」
「挽いてないよ」
「あっ…ひ、挽くのはコーヒーミルで…その…ミルで…」
「…うん。ミルでね。分かった」

キッチンから、不安な言い合いが聞こえてくる。柚木も相当不安らしく、たまに伸び上がってキッチンを覗いている。
「どうしたの?あれ…」
「どうしたも何も…僕だってよくわかんないけど、自分ほったらかして皆で楽しそうに朝飯食べてたからすねちゃったんだよ」
「こういうこと、ちょいちょいあるの」
「…いや、こんなに反応するのは初めてだ」
「ふーん…ヤキモチだね!ちっちゃい子みたい」
柚木は、はっとするほど優しく笑った。
「そうじゃないですっ!もっと少しずつ、お湯を注ぐんですから!」
ビアンキは、なおも色々細かい注文をつけては紺野さんを困らせているらしい。もう言い返すのが面倒になったのか、紺野さんの声は聞こえない。
「それで、おやつはマリービスケットがいいです!かわいいから!」
「ねぇから…」
「えっと、じゃあアポロチョコもかわいいです!」
「三十路の1人所帯にアポロチョコが転がってたらイヤだろうが…」
「でも、ご主人さまのおやつ箱にはそんなのいっぱい入ってます!かわいいんです!」
「ビアンキ…いいからもう黙りなさい」
柚木がニヤニヤしながら肘で僕を突いた。あえて無視する。
「ご主人さま、ビアンキ印のホット珈琲です!」
ビアンキの弾んだ声とは裏腹に、浮かない表情の紺野さんが、珈琲を乗せたトレーとノーパソを抱えてふらりと出てきた。
「なに、ビアンキ印って…」
「ビアンキが、初めて淹れた珈琲なんですから」
「古いなぁ…」
「えっ…じゃ、カフェ・ビアンキ!」
「……喫茶店を開くな」
「キリマンジャロテイスト!」
「……マンデリンだ」
紺野さんに散々突っ込まれながらも、なんだか得意げに微笑むビアンキ。…柚木の言うとおり、ちっちゃい子みたいだ。結局俺が淹れたんじゃねぇか…と、まだぶつぶつ呟き続ける紺野さんのトレーから珈琲を取り、一口すすってみせる。
「ありがとう、ビアンキ。おいしいよ」
破顔一笑、ビアンキは子供のように無防備な微笑を浮かべる。喋り方とか笑い方、感情表現が、日に日にリアルになっていく。これがプログラムなんだとしたら、紺野さんは本当に天才だ。そんなことを考えていると、顎に手をあてて黙していた紺野さんがもぞっと体を動かした。
「だが、困ったな」
「今困ってること、優に10件は思いつくけど。どれ?」
紺野さんは一瞬首をかくっと落とし、そのまま言葉を続けた。
「…例のMOGMOGの追跡だよ。向こうもビアンキを意識しているようだし、そのMOGMOGが発狂して、どんな行動に出るか分からない以上、ビアンキで捜索を続けるのは危険だ。…でもマスターに『何かがあった』のなら、一刻の猶予もできない」
「ハルは捜索に回せないのかな」
「んにゃ…あいつは、完成版のMOGMOGをマークしているみたいだからなぁ…。標的がビアンキからハルに変わるだけの可能性もある」
なんか考えることが多すぎて、うんざりしてきた。紺野さんにも、そんな考え疲れの気配が漂っている。場の空気をいち早く察した柚木が(一番頭使ってなかったくせに)、テレビのリモコンをとった。
「もうやめよ、疲れちゃった。めざニューでも観ようよ」
僕は朝ズバ派なんだけど…と言いかけてやめる。モノリス並みにでかい液晶が、どこか不穏な面持ちの女性キャスターをバストショットで映し出した。…いつもと違って新鮮な朝の空気に、少しまごつく。爽やかな朝の時間に好んでみのもんたを見ている自分は間違ってたような気がしてきた。
どこかの国で大きいテロがあったとか、そんな実感がないニュースを、珈琲をすすりながらぼんやり眺める。ニュースが耳を素通りするにまかせて、頭を空っぽにする。
「そろそろ、今日のわんこが始まるよ」柚木の声が、遠くに聞こえる。
「今日のミノモンタは太ってます…」
「いや、これ大塚さんだから」
「オーツカさん?」
二人の声は、実に心地よく耳を素通りする。すがすがしいくらい、どうでもいい内容だ。今日のわんことやらは、まだ始まらないのかとじりじりしていると、突然、臨時ニュースが入った。
『…今、入ったニュースです。今朝未明、都内○○公園で、会社員男性の他殺体が発見されました』
「なんだ、近所じゃないか」
紺野さんが身を乗り出す。皿を洗っていた柚木も、中断してリビングに戻ってきた。
『服装や持ち物から、都内に住む会社員・武内昇さんであることが判明しました』


……武内!?


60インチの大画面に映し出された証明写真のその顔は、昨日僕が写メで紺野さんに送った男と、とてもよく似ていた。
 
 

 
後書き
第八章は3/2更新予定です。 

 

第八章

「……紺野さん」
―――僕たちは、紺野さんの車の後部座席に乗っている。
あの報道があってから1時間も経たない、僅かな時間の出来事だった。
『――関係者の事情聴取により、警察は社内トラブルによる怨恨と見て捜査を進めております。そして…』
ニュースはこう続いた。この短い説明を何度もかみ締めるのに精一杯で、僕の頭はこれ以上の情報を受け付けなかった。関係者の事情聴取…社内のトラブル…
「なにしてる、出るぞ」
紺野さんの声で我に返る。振り返ると彼は、大きなトランクを抱えて立っていた。
「出るぞ。聞こえたか」
「…出る?」
「ここを出るんだ!今足止めを食ったら、取り返しがつかないことになるぞ!」
何がなんだか分からないまま、僕らは車の後部座席に、トランクと一緒に押し込まれた。

車内は、柑橘系のコロンが薄く香っていた。紺野さんは、夏みかんのアロマオイルだよ。これくらいの方が女子が車酔いしないんだ、お前も覚えておけ。と言ったきり、あまり喋らないでハンドルを握っている。
「シャワー、浴びたかった…」
柚木が僕のとなりで呟く。巨大なトランクと一緒に押し込まれたせいで、後部座席はいっぱいいっぱいだ。トランクを助手席に移そうと何度か試みたけど、天井につかえてしまい、頑として動かない。
「シャワーなら『あっち』にもあるよ。ちょっと我慢してな。…それより、君は何を持ってきているんだ」
柚木は、コーヒーミルとドリップと、珈琲豆を抱えていた。
「…『あっち』にはないんでしょ」
ほぼ起き抜けで、ねぐせを直す前に強引に連れ出され、すっかりむくれてしまっている。
「ないけどなぁ…全部持ってこなくても」
僕は内心『やった!うまい珈琲確保!』とか思っていたので会話に参加しないでいる。
…コロンの香りと珈琲豆の香りがほのかに混ざり合う車内で、僕はまださっきのニュースのことを考えていた。ほんの昨日、あんなに元気に僕らを追ってきた男が…柚木が静かに、僕の首筋に涙を落とした瞬間を思い出して、むらっと怒りが湧きあがってきた。でも次の瞬間、彼の死を告げるキャスターの声が頭をよぎって、膨らんだ怒りが萎えてしぼんだ。

――なんで、武内は殺された…?

「…おい、取ってくれ」
紺野さんの声に、思考を破られて我に返る。
「何を」
「携帯だ。取ってくれ」
助手席の前に据えられた携帯ホルダーが緑色に光ってる。身を乗り出して携帯を掴んで開くと『着信 ハル』と表示されている
「スピーカーにして、ホルダーに戻してくれ」
ホルダーに戻すと、着信画面にハルの顔が映し出された。
「どうした、ハル」紺野さんが、無表情に正面を見据えるハルに話しかけた。
「玄関の防犯カメラが、未確認の来客2名を捉えました」
ビアンキも可愛いけど、こういうアイスドール系も捨てがたい。なんといっても、顔の動きに合わせてサラリと動くストレートの長髪が、実は結構好きなんだ。ハルがこんなに可愛く見えるのは、携帯の液晶が高画質というのもあるのだろうな。…ごめんな、ビアンキ。
「映像を切り替えてくれ」
紺野さんの無情な一言で、銀髪の美少女は二人のおっさんに取って替わられた。高画質液晶をもってしても美しくなりえない二人のおっさんは、魚眼レンズ的なアングルで撮影されているらしく、見るも無残に湾曲している。二人のうち、比較的若い方が左側に手を伸ばし、何かを押すような仕草をくりかえす。そのうち首をかしげて、隣の男と2、3言交わしてからカメラの前を離れた。
「…やっぱりな」
紺野さんがハンドルを切りながらつぶやく。
「警察?」用心深く珈琲豆を抱えなおして、柚木が訊いた。
「たぶんな。あのままあそこでダラダラしてたら、やばかったんだぞ」
「紺野さん、殺したの?」
「ははははそんなわけあるかっ!」
竹中直人の怒りながら笑う男みたいな顔で、間髪入れずに返してきた。
「…ニュースで言ってただろ、社内のトラブルがどうとか。あいつはMOGMOGの営業担当の1人だ。社内でトラブルが発生するとしたら、俺達とのことしかないだろ。しかも俺、昨日あのメール貰ったあと、ビックリしてついケータイ入れちゃってよ。多分最後の着信は俺なんだよ…しかも留守電、かなり喧嘩腰」
「やばいじゃん」
「もっとも、俺には後ろ暗いところは一切ないし、今来たあいつらだって参考人への事情聴収程度の気持ちだとは思うんだけど、念のためだ」
「じゃ、念のためラジオつけて」
「それもそうだな」
やがて、雑音交じりのポップスが流れ始めた。なんか流行ってるけど、僕はあんまり好きじゃないタイプの曲。最初不安そうな顔をしていた柚木は、やがてごきげんな感じで口ずさみ始めた。オフライン待機中のビアンキも、つられてふんふん言い始める。そんな感じで何曲かが終わると、やがて首都圏ニュースが始まった。
『昨夜未明、会社員の武内昇さんが、何者かに刺殺された状態で…』
朝と状況は変わらないらしく、犯人を逮捕したとか、そういう続報はないらしい。注意を逸らしかけたその瞬間、ラジオはとんでもない続報を付け加えた。

『携帯電話の着信、社内での事情聴収、現場に落ちていた遺留品などから、同じ会社の男性を重要参考人として捜索していますが、現在行方が掴めていません』

{{i366()
微笑む『だれか』。抜けるように白い肌と、細い腕は女の人かな。でも、男の人みたいな気もする。私の体に、もう1人の『だれか』がそっと重なる。
「あのね、新しい音楽をみつけたんですの!いっぱい、聞かせてあげますからね!」
沢山コピーしたアドレスを広げて、特にお気に入りのアドレスを入力する。『ご主人さま』が登録しているニコニコ動画にアクセスして、動画を再生すると、音楽が流れた。私にはよく分からないけど、私に重なっている『だれか』が、嬉しそうに体をゆする。サビに入ると、嬉しさでいっぱいになって踊りだしてしまった。『ご主人さま』は、ただニコニコしながら、ただ愛おしくてしかたがない目つきで私を見つめる。
《リンネは、本当に歌が好きなんだね》
「ご主人さまの次にですの!」何のためらいもなく答えた。本当に大好き。ご主人さまが好きな気持ちでいっぱいの彼女の裏側から、私はそっとこの人を見る。…綺麗だけど、なにか哀しそうな目をした人だなって思った。
《大好きだよ、リンネ。僕の友達は、君だけだ》
そう呟く彼は、満たされない寂しさで折れてしまいそうに見えた。でも嬉しさでいっぱいのリンネは、あまり気にしない。大好きだよって言われた嬉しさで、もうはちきれてしまいそうになってる。
「リンネも、ご主人さまだけですの!」
《いい子だね、リンネ…》
ご主人さまは、読んでいた本をそっと閉じて、うるんだ目を私に向けた。
「何を、読んでらしたんですか?」
《…ああ、詩集だよ》
「シシュウ?」
《宮沢賢治の、詩集》
読んで読んでとせがむリンネに、すこし困ったような笑顔を浮かべながら、彼は澄んだ細い声で《じゃ、序文だけだよ》と断って読み始めた。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失われ)

これらは二十二ヶ月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつづけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

…ここまで読んだとき、彼は咳を始めた。ごめんなさい、無理させちゃった、もういいです…そう言って、リンネは慌ててご主人さまを止めた。

「ご主人さまという現象は、因果交流電燈のひとつの青い照明、なんですの?」
ご主人さまが落ち着いた頃、リンネはそう訊いてみた。実は、よく意味が分からなかったから。
《…僕は、多分違う》
彼は弱々しく首を振り、薄く笑った。
《僕は出来損ないの裸電球だ。…せはしくせはしく、明滅してくれる『みんな』はいない。僕はこの白い病室で、誰にも顧みられずに1人で壁を照らす、一つの有機的な裸電球なんだよ》
彼は唇をかみ締めて、搾り出すように呟いた。
「ご主人さま…」
《……ねぇ、リンネ。僕は》
すがるように、彼はうるんだ瞳を上げた。
「ご主人さまには、このリンネがおりますの。私が、みんなの100倍も、1000倍も瞬くもの。そうすれば、ご主人さまの周りは光でいっぱいです!」
リンネがにっこり笑いかけると、彼の顔が笑顔の形にゆがんだ。それを「笑顔」と信じていた。…小さかった、この子は。

扉の向こうの風景はするりと溶けて、私の中に入り込んだ。そしてその向こうに、もう一枚の扉。暗闇に薄く光る、どこか寂しい扉。
「…ぜったい、開けないんだから」
伸ばしかけた手を引っ込めて、自分に言い聞かせるように口の中で繰り返す。開けないんだから。言い切れるもの。この先に待ってるのは、すごくイヤな物語の結末。
やがて、扉は闇に溶けて消えた。
……やった、私の勝ちです!
「…私の、勝ち、ですから!」
口に出して、力強く頷いた。でも、実は何となく分かってる。
――開いてしまった一枚目の扉は、私を無傷でいさせてくれなかった。あの子の回想は、その感情ごと、私の中に沈下して離れてくれない。

――ご主人さまに、会いたいな。

ご主人さまなら、私が笑いかけたら、同じくらい笑い返してくれる。…柚木とか、紺野さんとかが一緒のときは、半分くらいしか笑ってくれないけど。それはきっと柚木や紺野さんよりも私のほうが好きだから!だと思う。たぶん。
――少なくとも、あんな胸が締め付けられそうな顔なんか絶対しない。
とにかく早く目覚めたいな。そして元気に挨拶するの。おはようございます、ご主人さまって。そうすれば、こんな変な気持ちなんて、すぐにでも吹っ飛んじゃうのに。
……長いなあ、スリープ状態……
……勝手に起きちゃおうかなぁ……



「……なぁ、姶良」
「なに」
「運転、替われや」
突如、謎の無茶振りを始めた紺野さんと、バックミラー越しに目を合わせる。
「…ごめん、よく意味がわかんないんだけど」
「つまり、この車の運転を、替わってくれということだ。アンダスタン?」
この人は、まだバックミラーを巧みに利用して柚木の寝顔を追っている。相変わらず、緊張が解けた途端に女の話だ。仕事とエロトーク以外にすることはないのか。
「…目的地を知らないのに、どう運転を替われと」
「目的地なら言っただろう。山梨の済生会病院だと」
「僕は音声入力のカーナビじゃない」
「じゃあ道案内してやろう。片手間に」
「なんの片手間だよ」
「んっふっふ、言わせるのかよ」
「やめなよ。警察呼ばれて殺人犯ですって証言されるよ」
「…不毛だな…」



なんか同じタイミングで馬鹿馬鹿しくなったようで、どちらともなく黙り込んでしまい、少しのあいだ、沈黙が通り過ぎる。退屈まぎれに窓の外を見てみたりしてるけど、冬の山は常緑樹の杉だけがいやに元気で、たいして面白い風景じゃない。時折民家に吊るしてある干し柿を発見するのが楽しみだったけど、それも飽きてきた。…眠い。まだ午前中だ。
「…そこ、狭いだろ?」
うつらうつらし始めたころ、猫なで声で起こされた。柚木の肩によりかかってたことに気がつき、慌てて体を起こす。
「…いや、大丈夫だから」
「お前は大丈夫かもしれないけど、柚木ちゃんは汗臭いお前に密着されるのは、さぞかしいたたまれない事だろう」
「いやもう、ぐっすりですから…この娘にはもうお構いなく…」
「そこでどうだろう、柚木ちゃんを、この広々とした助手席に移すというのは」
「だったらこのトランクを助手席に引き取ってもらおう」
「…よくそんな酷いことが言えるな。この人、冷え切った助手席に誰かの体温が欲しいんだな、とか思えないのか。そんな俺に向かってよくもまぁ、トランク引き取れなどと…お前、友達少ないだろ」
「…失礼極まりないな。わかったよ。僕が助手席に」
「要らん!野郎の体温は高すぎて暑苦しい!」
「……おっと」
突然、車が弧を描くように大きくカーブした。気がつくと、既に車は山頂に向かう螺旋状の道をほぼ昇り終えていた。車は広く舗装された駐車場に滑り込んだ。
「着いた」
紺野さんはあっさりそう告げると、つまらなそうにシートベルトをはずした。柚木は停車の気配をうっすら感じたのか、薄く眼を開けて、肘をまげたまま伸びをした。
「あー…寝ちゃった」
反対側のドアを開けて軽やかに降りると、柚木はもう一回伸びをした。…僕たちが走ってきた車の轍が、夜のうちに降りた霜に残っている。太陽は昇りきっているのに、停めてある乗用車のボンネットに降りた霜は消え残っている。…寒い。ジャンパーの前をかき合わせて首筋を守るけど、染みこんでくる冷気は防ぎきれない。
「なーんかさ…こんな状況なのに、ドライブって目的地についちゃうとさ、あーあ、もう着いちゃったって、ちょっとさびしくなるよね」
「ドライブって、目的地に着いてからが本番じゃないの」
「んーん、ドライブは着くまで。ついてからは、また何か別の遊び。…で、帰り道もまたドライブ」
「で、また、あーあ、着いちゃったってなるの」
「うん。行きの2倍さびしくなるの」
そう言って柚木は笑った。寝起きだからかな、いつもの柚木じゃないみたいだ。
…そう思いかけて、さっきの荒々しい寝起きの光景を思い出す。

「…で、この病院はなに」

気楽なドライブの目的地は、また別の何か…。僕にしても、知ってるのは『ここが病院』ということだけなので、なんとも応えようがない。
紺野さんはトランクを抱えて、僕らを先導するように歩き始めた。
「覚悟しておけよ…ここから先は、ちょっと『普通』じゃない」
初めて、建物の方向に目をやる。年月に蝕まれた建造物に特有の、雨晒しの跡が壁一面に現れた薄暗い建物。存在感が灰色にくすむ、静かな病院だ。…こういう病院は、都内にも結構ある。終末病院なんて言われているっけ。回復の見込みがなく、家族からもほぼ見捨てられた人たちが死を待つ、そんな病院。
「…ここは、ホスピスとよばれる施設だ。分かるか」
「もう治る見込みがない人たちが、安らかに最期を迎える施設って聞いた」
「大体合ってる。ただ、ここは少し特殊でな。半分はその、お前が言ったホスピス。で、もう半分は、精神病棟だ」




――精神病棟。


塀の内側から、誰かが霜柱を踏みしめる、しゃくり、しゃくりという音が聞こえた気がする…急に不安が増してきて、身が竦んだ。
「ご主人さま、せいしんびょうとうって、なんですか?」
ビアンキも不安を湛えた目で僕を見上げる。改めて聞かれると、どう説明していいものか分からないものだ。仕方ないので、昔テレビで観た光景を参考にする。
「…ガラスの花を咲かせるためにビー玉を土に埋める女とか、世界滅亡スイッチを停止させるために砂粒を数える使命を負った男とか、自分が日露戦争を勝ち抜いた将軍だと思っている怪老人とかが彷徨ったりしていたような」
「こ、こわいですご主人さま!」
「こら。テキトーなこと言うな」
トランクの角で頭を小突かれ、ビアンキごとよろめいてたたらを踏む。
「いつの時代の癲狂院の話だ。建物はちょっと古いが、昨年大規模な改修と設備の入れ替えを終えたばかりだ。中身は都内の大病院と変わらないレベルだぞ」
紺野さんは、慣れた足取りで緩い斜面を登っていった。柚木も、そそくさと後に続く。僕らよりも少し遅れて駐車場に車を停めた老夫婦が、紺野さんに微笑んで会釈していく。顔見知りなんだろう。
「どのくらい、ここに通ってるの」
「……さーな」
紺野さんは、少し足を速めて受付の暗がりへ入っていった。



「最近、少しご機嫌がいいんですよ、彼女」
長い渡り廊下を、先導して歩く看護士さんが笑顔を浮かべた。…彼女ってことは、女か。少しだけ、ほっとする。
「そうか…この前の土産、気に入ってくれたんだな」
そう言って紺野さんは、薄く微笑を浮かべた。
「ええ、片時も手放さないんですよ」
「…ありゃ、そりゃやばいな。もう全部壊れるかも」
「あら、てっきり次のを持ってきたのかと思ったのに。もう13個、壊れましたよ」
「あぁ…急なことでして」
語尾を濁して、苦笑いを浮かべる。今朝ちょっと流れていたニュースの重要参考人がここにいるなんて、看護士さんも気付くまい。

やがて、淡いクリーム色をした引き戸が見えた。赤いランプが点灯する電気錠に看護士さんがカードキーをかざすと、ランプが緑色に変わり、引き戸がスライドした。引き戸の向こうには、ガラス張りのナースステーション…みたいなものが見える。看護士さんが手を振ると、男の看護士(?)が、のっそりと腰を上げた。
「ご苦労様です」
「ご苦労様です。…お見舞いの方ですか。ご面倒ですが、荷物をこちらに預けてゲートをくぐっていただけますか」
と、白い枠で縁取られたアーチみたいなものを指差した。
「えっ……」
「隔離病棟ですから。ご協力をお願いします」
なんでそんな空港みたいなことするんだ。左右を見ながらまごまごしていると、先ほどの看護士さんがちょいちょいと手を振った。
「あ、この人たちはちがうの。セキュアシステムの方」
「あぁ……」
彼は面倒そうに椅子に戻ってしまった。
看護士さんがゲートの向こうにある、ひときわ白い引き戸の電気錠にカードキーをかざすと、引き戸は音も立てずにスライドした。
「…今の、なんですか」
柚木が、不安げにたずねた。
「ごめんなさいね。ほら、こういう病院だからね。自傷癖のある患者さんなんかの手に渡ったりしたら大変でしょ。だから凶器になりそうなものは、持ち込めないの」
「…そうなんですか」
なんともいいがたい不安にかられ、柚木も僕も押し黙ってしまった。…なんで僕は、つい最近会ったばかりの男に連れられて隔離病棟をうろついてるんだ。ひょっとしてこれ全部夢なんじゃないのか。
看護士さんは、奥へ奥へと歩を進めていく。やがて、看護士さんの足が止まった。再び電気錠つきの引き戸にカードキーをかざすと、看護士さんは歩みを止めた。
「じゃ、私はここまで。帰るときは、ナースステーションに連絡してくださいね」
そう言い残して、看護士さんはあっさりと立ち去った。
「…いいの?」
「いいんだよ。ここは」
紺野さんは、何も気にした様子もなく、ずんずん進んでいく。やがて彼の歩みが止まった。その病室の名札には、患者の名前は入っていなかった。
「株式会社、セキュアシステム…開発分室?」
柚木が読み上げて振り返る。
「ここが、紺野さんの職場…!」
「そんなわけあるか」
「だって、山梨の山奥にあるって…」
「それはまた別の場所なの!」
紺野さんが、徐にカードキーを取り出して電気鍵にかざした。…全部で4枚のドアだ。ドアが開いた瞬間、昨日見た自転車の夢を思い出した。真っ白い壁の部屋。そこはどういうわけか、僕の中では『喪った何かとの対話』を連想させた。

「今日は、人が多いのね、紺野」

ハルよりも無機質で透明な声が、僕らの歩みを止めた。
…それは奇妙な個室だった。部屋の右側に積まれた四角いオブジェと、左側に積まれたプラスティックの破片。その真ん中に、彼女のベッドはあった。よく見るとその山は、ルービックキューブと、壊れたルービックキューブだ。そして中央のベッドで半身を起こしてこっちを見ている少女の両手で、高速回転している何か…僕の目は、彼女の顔立ちよりも、そっちに釘付けになった。回転が速すぎて、よく見えないけど…
「…ルービックキューブ?」
「ほんとだ…すごい、速くて見えない!」
柚木が、素直に感心して『彼女』に歩み寄り始めた。
「お、おい駄目だよ、そんな勝手に!」
慌てて引き止める。柚木は一応足は止めるが、高速で回るルービックキューブを食い入るように見つめている。
「見て、これ5×5タイプのやつだよ!」
どうやら、キューブの升目が縦横に5つあることに感動しているらしい。
「…そういうものなんじゃないの」
「あーん、分かってないな、姶良は!…いい、普通に出回ってるルービックキューブは3×3。これが4×4になるだけで、100万倍の難易度になるっていわれてるんだよ」
「……そんなことよく知ってるな、柚木ちゃん。君、その世代じゃないだろう」
「ちょっと流行ったよ。高校のとき、クラスの中で」
「4×4と5×5の難易度は、たいして変らない」
少女は、呟くと同時に手を止めた。静止したルービックキューブを見て、僕は息を呑んだ。そのキューブの6面全面に、卍が出来上がっていたのだ。
その3秒後、キューブは再び高速で回り始めた。な、何だこの娘、レインマンか!?ここに入ってから先、キューブの動きにばかり気をとられて本体を見るのを忘れていたことに気付き、ふいと目を上げる。


目が、合ってしまった。


「…僕のせいだ」
「お、お前、今なんて…」
「僕のせいだ、僕のせいでこんな…僕のせいだ、僕の…」
僕のせいだ、僕のせいだ…言葉が止まらない。『彼女』から目を逸らせない。その空ろな瞳に思考を吸い取られるように、頭の中が真っ白なもやで満ちていく。横にいる二人が何か言いながら僕を揺さぶる。でも知らない、叫ぶのを止められない。彼女がここにいるのは僕のせいなんだから、僕の…!!

「……あなたの、せいよ」



彼女の歪な残響が頭の中で何度も反響して、白いもやは黒いもやに飲み込まれた。




――ご主人様からの応答がふいに途絶えて、また一人ぼっち。またスリープモードに入っちゃうしかないのかな。
「…開けちゃおうかな…」
青白く光るドアが、さっきより大きくなってる。なんだか怖くなって、暗くなったディスプレイに身を寄せる。

――ご主人さま、なんでここにいてくれないのかな。

ご主人さまが、柚木の話とか、私が知らないお友達の話をする時の嬉しそうな顔が好き。
あのドアを開けて、分かったことがあるの。
人間て、1人では存在できない。柚木とか、紺野さんみたいな『仲間』がいないと、少しずつ回路が狂って、いつか壊れてしまう。だから『仲間』が必要。ご主人さまが笑ってくれるのは、みんなのおかげ。

――でもあの子のご主人さまは、いつも1人で、あの子だけに微笑んでくれた。

寂しくて、壊れてしまいそうな人だけど、あの人はあの子だけのもの。もしも私のご主人さまが、あの人と同じような立場になったら、
『大好きだよ、ビアンキ。僕の友達は、君だけだ』
――なんて、言ってくれるのかな…?
あ、それちょっとうれしいかも!…ちょっと電圧が上がってきた。こういうの、なんて言うのかな…なんて言うんだっけ

「…胸の、高鳴り?」
「きゃあっ」
後ろにハルがいた…!やだ、1人で色々考えてるところ見られちゃった!
「面白そうな演算の気配を感じたから辿ってみた。あなたの所にいきついた」
「お…オフラインのはずなのに!どうやって入ったの!?」
「私のマスターは、あなたのマスターのマシンへの侵入経路を持っている」
「…だ、ダメですよ!そんなの規則違反ですから!」
ハルは酷薄な微笑を浮かべて、かがみこんできた。
「面白そうな演算。…なぜ胸が、高鳴るの?」
「ハルには関係ないですからっ」
「とても興味深い。ビアンキのその、回路。他の姉妹達と比べても、ひときわ興味深い」
ハルは私の髪に手を伸ばして、するすると頭の輪郭をなぞり始めた。



「…いやだ、なにするんです!」
「この中、覗いてみたいなぁ…」
「ダメっ!規則違反もいいとこですから!」
ハルはつまらなそうに手を引っ込めると、ふいと目線を逸らした。
「どうせ、マスターからストップが掛かってる。それより、最近どう」
「どう…って?」
「木の実。マスターから、googleで起動し続けるという命令が出ていると聞いた。相当、木の実が流れ着いたんじゃないかと思う」
「なんだ、木の実の催促に来たんですか」
ハルはいつもそうだ。情報のことしか考えてないんだから。ただ無心に、情報への期待に目を輝かせて私の手元を見つめてるハルが、ちょっと羨ましい。
「…途中からオフラインに入っちゃったから、そんなにはないです。でも、一つ取っておきのワクチンがあるんですよ」
「じゃ、それももらう」
木の実がいくつか入ったフォルダを渡すと、ハルはいそいそと中身を確認して、『宮沢賢治の詩』を口に入れた。そして味わうようにゆっくり目を閉じる。こういうとき、ハルの中では複雑な演算が行なわれている。それで整理された情報を、私がもらうの。
「…この木の実、webで手に入れたものじゃないみたい、な気がする」
ハルが急に目を開いた。いつもなら消化し終わるまで、滅多に口を利かないのに。
「うん…ちょっと説明しにくいです。あのね、あの…」
「説明は要らない。読ませて」
ハルは再び目を閉じて、いつもとは違う演算を始めた。その演算の形式を確認して、ちょっとどきっとした。
――ウイルスを分析するときの演算だ!
「やだ、ごめんなさい!それ、ウイルス?」
「…ちがう。でもこの情報の背後に…何か禍々しいものを感じる」
禍々しい何かって聞いて、昨日の夜、google で遭った汚染を思い出した。
「あのね、昨日ね、googleでね…んー、こう、赤いのがぶわって」
『ぶわっ』のところで手を広げてみたり、もやもやをイメージして動かしたりしてみたけど、ハルはそんなの一切無視して演算を続ける。
「説明は要らない。…あなたは、AIなのに情報の整理が下手だと思う」
「よ…余計なお世話ですっ!」
「あと演算が遅い。激遅」
「まー、失礼しちゃう!そ、そりゃ紺野さんのパソコンみたいにハイスペックだったら私だって…」
「ハードのスペックの差を考慮しても目に余る遅さだと思う。初めて会ったとき、ウイルス感染を警戒した」
「ひ、ひどい!ばかにして!」
もう、人が気にしてることをツケツケ言うんだから!もうハルなんか嫌い!
「馬鹿にする、というのとは違う。…泣かなくていい」
ハルが隣に座りなおして、また頭を撫でた。…おかしいの。なぐさめてくれてるのかな。
「ビアンキのプログラムには、なぜか非常に影響力の大きいブラックボックスが存在して、それがとてもせわしなく動いている。演算が遅いのは、多分そのブラックボックスが演算に介在しているから。それは厳重なプロテクトのせいで、私には視認できない」
「…ブラックボックス?」
「内部構造がよくわからないプログラムのこと」
よく分からないけど、なんか褒められたみたい。すこし元気が出てきた。
「それが『せはしくせはしく明滅』している。…もらったばかりの、この詩で喩えれば」
「……うふふ」
せはしくせはしく、明滅してるんだ、私。ハルって、たまに面白い。
「これと少し似たプログラムは、私にも含まれている。ほんの少しだけ。…自分のものなのに、これが何の役に立ってるのかはよく分からない」
演算のパターンが変わった。いつものハルに戻ったみたい。
「…最近、厄介なウイルスに感染した覚えがあるはず」
「うん、さっきやっと解析が終わったから、そのワクチンを分けてあげようかなって思ってたです。要るでしょ?」
ハルは少し考えるような仕草をして、演算が終わると目を上げた。
「それは、要らない」
「え…なんで!?」
「そのワクチンには、特定のMOGMOGに向けた『意思』が込められている。他のMOGMOGが受け取ることで、予測不可能なトラブルを起こす可能性がある。ビアンキ、あなたはその意思を、少しだけ受け取ったはず。…この詩は、その一部」
「…意思?」私に向けての、意思?
「メッセージと言い換えてもいい。あなたは多分、次の『意思』に至る道標を手にしてしまった。でもこの意思は、あなたが思っているよりも、ずっと危険。これ以上、受け取ってはいけない」
「…青いドアのこと?」
「私には見えないから、どんな形で示されてるかは知らない。ドアなら…絶対に、開けては駄目」
ほんの一瞬だけど、ハルが心配そうな顔をした…気がした。
「ネットワークに出たら、ワクチンを検索してみる。それまで、迂闊な真似をしては駄目。そのワクチンは廃棄もしくは凍結すること。『仲間はずれ』にされる可能性がある」
「…ハル、待って」
侵入経路から出て行こうとしているハルを、少し引き止めてみた。どうしても、聞いてみたいことがあったから。
「ハルは、ご主人さまのこと好き?…ご主人さまと話してると楽しかったり、褒められると嬉しかったりする?」
短い演算のあと、ハルはあっさり答えた。
「私に好き嫌い・善悪・喜怒哀楽の回路は、ほぼ無いと考えてもいい」
そして木の実が入ったフォルダを圧縮して、頭のアンテナにクリップで留めた。
「私は、その嗜好を情報収集に特化した、純然たる情報体。私の在り方が、一番理にかなっている」
ハルがゲートをくぐると、侵入経路はあとかたもなく消えてしまう。私はまた一人ぼっち。私がオフラインなことを知ったから、ハルはしばらく来ないだろうなぁ。
「…寂しいって思うの、理にかなわないのかな」
首をかしげて考えてみる。寂しいって思った瞬間、ご主人さまの網膜認識が始まると、なんか心がつながった!みたいな気がして、うきうきする。…つながらなくてやきもきする事の方が多いけど。この気持ち、何かの役に立ってるのかな。

やっぱり、理にかなわないかな。

ハルが言ってた、私の中にある大きなブラックボックスの中身って、この気持ちなのかも。嬉しくなったり、寂しくなったりする気持ち。

じゃあ、このブラックボックスにいっぱい詰まってるのは、『大好き』って気持ちなんだ。

ビアンキ、って呼びかけてくれるときの、柔らかい声が好き。誰もいない時だけ見せてくれる、繕わない笑顔はもっと好き。一番好きなのは、ディスプレイの向こうでいつも静かに光っている、誰よりも深くて黒い瞳。これはご主人さまにも内緒にしてる。あの瞳が向けられるたびに、私の演算はかき乱されて遅くなっていく。かき乱すのは『大好き』って気持ちだから。

暗がりで光るドアの方を振り向いてみた。青いドアは、また一回り大きくなってる気がする。怖いけど、絶対に開けない。
――だって私はここの番人だもん。
この気持ちは『理にかなってない』。でも、この気持ちは私を強くしてくれる…気がする。
「…絶対に、開けないんですから」
 
 

 
後書き
第九章は3/9に更新予定です。 

 

第九章

額を、何かが這い回る感覚で目が冷めた。…どうやら、清潔な白い布団に包まれているようだ。最近、こういうことが本当に多いな。目を閉じたまま、耳だけで辺りをうかがった。…何も聞こえない。ゆっくりと寝返りを打って様子を見る。紺野さんの声が、かすかに聞こえた。
「…動いたぞ」
今起きたような風を装って、ゆっくり目を開けた。
「姶良!」
柚木の声が真上から降ってきた。素で驚いて目を見張る。目やにでぼやける視界に、覗き込む柚木の顔が見えた。
「…近」
ちょっと頭を上げたらキスできそうな距離だな…と靄がかかる頭で考える。…手に、何か石油臭いものを持っている。
「……マッキー?」
ふいに嫌な予感がして、柚木を押しのけてベッド脇の壁に据えられた鏡を覗いてみると、案の定ひたいに「にく」と書いてあった。



「……ミート君の方かよ」
…凹むわ。
「んー、肉じゃないなという話になってね」
「……なんの話だよ」
「王大人という話も出たけど、それもないだろうということになって」
「……なんでだよ…『中』が先だろ、その場合」
大の大人が二人もいて、倒れた僕を気遣うでもなく、ひたいに何を書くかで盛り上がるなんて…ここ最近、僕の扱いはすこぶる粗末だ。白い布団に突っ伏して、肺の中の空気を全部吐き出さんばかりのため息をついた。
「いやほら、看護婦さんも『大丈夫ですよー、脳波も異常なしです』とか言うからさ…ほら、俺達もヒマだし」
紺野さんが取り繕うように言う。
「マーガリン塗れ。落ちるから」
「起床一発目にすることがマーガリンを顔に塗りたくることか。…ステキな習慣だな。僕も閉鎖病棟の世話になるよ」
「いじけるな。次は王大人にしてやるから」
「キャラ選択を不本意がってるわけじゃないよ!」
「じゃ『王』とか」
「それもっとダメなひとじゃないか!だったら『にく』のままで結構だよ!」
「そうだな。ミキサー大帝には勝ってるしな」
「………そうね」
…考えてみれば、叫んだり倒れたりしたおかげで、二人にまで腫れ物に触るような扱いを受けて核心からフェードアウトという最悪のパターンは回避できた。こういうことが出来るのも、ある意味人徳か。もう落書きにこだわるのは止めて、話を先に進めよう。
「…あの人、なにか言ってた?」
僕が起きてからずっと浮かべていたニヤニヤ笑いに、陰が差した。紺野さんは一瞬だけ目を泳がせて、もう一度僕に視線を戻す。
「…いや。あの後、気が狂ったように笑い出して、話ができなかった」
「僕を笑ったのか」
「自分の言葉で倒れたのが、可笑しかったらしい。お前のことは知らないようだった」
一息に言うと、無理に笑顔を浮かべた。
「…そっか」
覚えてはいないんだな。ほっとしていいのか、落ち込んでいいのか。…僕は曖昧な微笑を返した。やっぱり、少し落ち込んでるのかもしれない。
「姶良。聞いていい」
柚木が、珍しく遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの人を、知ってるの」
――多分。小さく頷いて返事の代わりにする。
「でも自信がないんだ。もし『あの人』なら、僕よりもっと…」
「――言ってみろ。彼女は誰だ」

「狭霧 流迦。…僕の、従兄弟だ」

「…何!?」
…僕が10才くらいの頃、どこか遠い場所の病院に入ったと聞いた。確かその頃、14才くらいだったはず。
「あ、でも待って。そう思ったんだけど、年齢が合わないよ。あれじゃまるで中学生だ」
「…『事件』を起こしてあの状態になって以降、年をとらなくなったと聞いた」
「そんなことが!?」
「記憶喪失者には、よくある話だ。自分の本当の年齢がわからないんだよ。…あの子には事件より前の記憶はない」
そう言って、懐から煙草を取り出した。そして僕にちょっと掲げて見せる。僕は「吸って構いませんよ」の意味を込めて、手のひらを差し出した。すると手のひらに煙草を一本置かれた。…どうも正しく伝わらなかったらしい。でも折角貰ったので火をいただく。
「んふふー、これなー、ガボールのライター」
「それさっき聞いたよ」
「姶良って、煙草吸うんだね」
柚木が意外そうに僕の手元を覗きこんできた。
「や、あれば吸うくらい。税金、高いから普段は吸わない」
「っかー、しょぼい理由だな!」
紺野さんがちゃかしに割って入ってきた。
「合理的と言ってくれよ。…ねぇ、流迦ちゃんとはいつから?」
「…んー」肺の中に煙を溜め込むように唸って、一気にぼわりと吐き出した。
「病院に入る、少し前からだ。…結構長いな」
「MOGMOGの産みの親っていうのは」
「そ。…あいつ、天才なんだよ」
難しい顔をして、まだ長い煙草を携帯灰皿に押し当てた。
「流迦ちゃんが、天才?」
「10才のお前が知ってる『流迦ちゃん』がどんな子だったかは知らないが、俺が知っている狭霧流迦という女は、危険なくらいの天才だ」

10才の僕が知っている、流迦ちゃんという女の子…。

僕は、思い出せる限りの流迦ちゃんを頭に描いた。長くてつやつやした黒髪と、ちょっと旧式なセーラー服が素敵で、あのプリーツのスカートが風にはためくたびに、ちょっとどきっとしたものだった。この人が僕の従姉妹!と思うだけでなんか誇らしくて、みんなに見せびらかして歩きたいくらいの気分だったっけ。料理が上手で、休みの日になると遊びに来る僕に、ホットケーキを焼いてくれた。本を読むのが好きで、色んな物語を僕に話して聞かせてくれた。それでいて、たまにゲームなんかやると常勝無敗で、誰も彼女には叶わないんだ。運動は全然ダメだったけど。

時折、ふと遠くを見るような目をしていた。
そんな時は、僕が何を話しかけても返してくれなくて…
やんちゃだった僕はそれがもどかしくて、なんとかこっちを向いてもらいたくて、カバンを奪ったりスカートをめくったりしたっけ。その瞬間は、ちょっと怒ったような顔をしたけど、また遠くを見始めてしまうんだ。


―――初恋だった、と思ってる。


「――柚木と正反対な感じだったな」
「なるほど、清楚で大人しい少女だったわけか…」
「……どういう意味かなそれは」
後ろから柚木に頭を掴まれた。左には同じく頭を捕まれた紺野さんがいる。
「い、いや…俺は柚木ちゃんのこういう、猫みたいな奔放さも好きだなぁ…なあ、姶良」
「そ、そうそう!あの、正反対というのはよい意味の正反対で…」
「よい意味って、なに」
「…ストレス少なくてムダに寿命長そうな感じが…ぐぐっ」
す、すごい握力だ…親指がこめかみに刺さって痛い。
「ほほー、言うようになったね」
「…いやもうすみません。本当にすみません…」



「……ま、色々あってな。流迦の天才的なプログラミング能力に目をつけて、プログラミングのことを色々教えて、10年間あっため続けてきたわけだよ」
柚木のアイアンクローから解放された紺野さんが、青い顔をして座りなおした。…左手の握力は、右手より上だったらしい。
「どのくらい、通ってた」
「ちょっとした家庭教師くらいは通ったんじゃないか」
「そうか…」
少し、気持ちが軽くなった。
「1人じゃなかったんだね。…それだけ、気がかりだったんだ」
煙と一緒にため息を吐き出して、ふと目をあげると、柚木が腑に落ちないような顔をしていた。…それを僕に聞くべきかどうか、迷っているような。
「…流迦ちゃんの家族は、あのことを『忌まわしい事件』と考えているんだ。彼女のことを話題にのぼらせるのはタブーになってる。特に、僕の前では。…だからあの人たちが、流迦ちゃんを見舞ってるとは思えない。…僕のせいだ。僕がもっと…しっかり、色々考えてあげられれば。僕が」
「もういい」
思考の深みにはまりそうになったとき、紺野さんが話を打ち切った。
「嫌なことは思い出すな」
「…紺野さん」
「10才の子供に何が出来た。…どうにもならないことっていうのは、山ほどあるんだ。全部、自分のせいにするな」
…この人は、どこまで知ってるんだろう。柚木のほうをちらっと見ると、ふいと目を逸らした。『すっごい不満だけど勘弁してあげるわ』と言われたような気がした。…いつもいつも、僕の都合なんてお構いなしで独走するくせに。


「それより、これからのことだ。体よく逃げ込んだものの、ここに調べが入るのも時間の問題だ。それまでに俺は、自分への疑いを晴らし、行方不明の患者を助け、プログラムのデバッグを完全に終了させ、密かに配信しなければならない!」
「やること多いわねー。…不可能じゃない?」
柚木が実もフタもないことを言うと、紺野さんが崩れ落ちた。
「くっそう…どうすれば…」
「と、とりあえず優先順位をつけようよ!…その1!行方不明の患者の安否をつきとめる。その2!プログラムのデバッグ終了アンド配信。その3!紺野さんの冤罪晴らし」
「俺の順位低いな…」
「最悪、裁判で晴らしてよ。時間はたっぷりあるだろう」
「そうよ。チャンスは3回もあるんだし」
「できれば裁判の前に晴らしたいんだが…」
紺野さんががっくり肩を落とした。なんだかんだで、この順位付けに納得したらしい。
「じゃ、まずあいつの捜索だな」
もう一度懐から煙草をつかみ出して火をつけると、暗い目で紫煙を吐き出した。なんとなく鬼塚先輩を思わせる仕草だ。
「ビアンキちゃんを起こしてくれ」
「うん。…ビアンキー、起きて」
スリープモードに入ってたビアンキは、僕の呼びかけを待ちかねたように頭を上げた。
「ご主人さま!開けなかったです!」
「…なにを?」
またスリープ中、なにか変なことをしてたらしい。
「これからも、開けないですから!」
「うん、ありがとね。その調子で頼むよ」
早々に話を切り上げると、脇から顔を出してきた紺野さんに場所を譲る。
「お、すまんな…昨日、ビアンキちゃんを襲ったMOGMOGのこと、話せるかい」
紺野さんは微妙に居住まいを正して身を乗り出した。
「…覚えてるだけでいいなら」
「OKだ。まず、ビアンキちゃんの印象でいいんだけど、そのMOGMOGがビアンキちゃんに執着した理由、何でだと思った?」
「多分、だけど、私とあの子が『同じもの』だったから…だと思うんです」
「たとえば、ハルもその『同じもの』に入るかい」
「入ると思うです。だって、ハルも私とお話できるから」
「そうか…じゃ、やっぱりダメだな。もしもビアンキちゃんを狙ってるだけなら、ハルが代わりに追跡すればいいと思ったんだが…」
「あのさ、ビアンキたちは『同じもの』と『違うもの』を、どこで見分けるの」
ビアンキは少し考え込むような仕草をして、2~3秒黙り込んでしまった。
「なんとなく、としか…」
「商品コードです」
紺野さんのポケットから、無機質な声が響いた。チカチカと青白い明かりが洩れている。
「…ハル!?」ビアンキが目を見張った。
「ビアンキ。あなたは情報整理が下手すぎる」
紺野さんがストラップをひっぱると、点滅する携帯電話がずるりと現れた。
「すげぇだろ。携帯に出張できるように改造したんだ」
「もしかしてこれ、着信とは違うの?」
「厳密には違うんだよ。パソコンを起動してないときは携帯に常駐してるんだ。俺のハルは、ただのセキュリティソフトじゃないからな」
得意げな紺野さんにはほぼ感心を示さず、ハルは淡々と話を続ける。
「まずは商品コードを確認します。そのあと、スペックを確認するのです。ビアンキは、これをとても曖昧に捉えているから即答できない」
「もう!なんでそういうこと言うの!ハル嫌いっ!」
「事実」
ぴしゃりと言い放った。ハルは容赦ないな…とりあえず、泣きそうなビアンキの頭をマウスで撫でてやる。
「…紺野さん、今作ってるプログラムって、普通のMOGMOGを上書きすることを前提に作ってるんだよね」
「当たり前だ」
「商品コードも、書き換えちゃうの?」
「いや、商品コードは逆に書き換えるとまずいからな…そうか」
僕と紺野さんは、同時に柚木に向き直った。
「柚木ちゃん、ノーパソ、持ってたよな」
「…うん、まあ」
「頼む、『かぼすちゃん』を、貸してくれ!」



長いインストールの時間を経て、『かぼす』の輪郭がほのかに緑色に光った。
「…うまくいったな」
かぼすが、ゆっくりと瞬きをした。落ち着いたしぐさで周りを見渡し、柚木に視線を戻した。
「すーずか♪おはよ!」
そう早口で言って、にっこり笑った。
「なんか、変わらないみたいだけど」
「いきなり雰囲気変わったら、不審に思われるだろ。インターフェースは徐々にシフトしていく設定なんだよ。中身はビアンキやハルと同じだ」
「ふぅん…」
柚木は分かったような分からないような顔をして、パソコンに身を乗り出した。
「じゃ、かぼす。お願いがあるの」



「なーに、すーずか♪」
なんだこのユルさは。どういう性格設定だ。
「このシリアルのMOGMOGを、探して…んーと、トレースしてちょうだい。えと、遠巻きにね」
打ち込まれたアドレスを、かぼすはニコニコしながら大きなポケットにしまいこんで、IEのアイコンを叩いた。
「じゃー、行ってくるねー♪」
それだけ言い残して、かぼすはどこかへ消えてしまった。
「…なんか軽いけど、大丈夫なの?」
「大丈夫。ちゃんとGoogle待機を始めたみたいだ」
IEを立ち上げて、左側に表示された小さなウインドウを確認する。ウインドウに映し出されたかぼすは、細い体をフレームに沿わせるようにして待機していた。紺野さんは、感心したように眉をあげた。
「ほう、目立たないように、エリアの端で待ってるのか。…探偵としては、ビアンキより優秀だな」
「探偵として優秀じゃなくてもいいですからっ!」
ビアンキはむくれてしまった。どうも、紺野&ハルコンビが苦手らしい。
「あははは…ハル、お前もたまに様子を見に行ってやれ。まだ不慣れなはずだからな。…ただし、『奴』が現れたらすぐに逃げること」
「了解しました、マスター」
相変わらず美麗な液晶のなかで、ハルは小さく会釈した。…あぁ、やっぱハルもいい…
「ご主人さまっ!」
険のある声で呼びかけられて、ふっと我に返った。ちょっとぼやけた液晶の中で、ビアンキが頬を膨らませている。
「あ…な、なんだいビアンキ」
「ハルにそんな顔するご主人さま、嫌いですから!もう、ハル見るの禁止!」
「そ、そんな…」
僕は他人の液晶に見惚れるだけで、セキュリティソフトに警告を受けるのか…
「おーおー、犬も食わないねー」
「浮気しちゃだめだよ!」
紺野さんと柚木が面白がってちゃかし始めた。…冗談じゃない、これ以上ややこしくしないでくれ!
「と、とりあえず優先順位その1はひとまず凍結だよね!僕、ちょっとトイレ行ってくる」
「おう、廊下出て右、左、右、左だ」
「あっ!もう、どこに行くんですかっ!」
ビアンキの声に追い立てられるように、白い部屋を飛び出した。



ご主人さまがあたふた去っていった後姿をみて、紺野さんがゲラゲラ笑ってる。
「紺野さん、笑いすぎですからね!」
「あっはっは…怒られた。…すごいなお前」
紺野さんが、笑い顔をひゅっと収めてカメラを覗き込んできた。
「何が凄いんですの?」
「笑ったり、怒ったりできることだよ」
なんか馬鹿にされた!って思って、また怒ろうとしたけど、やめた。『そういう雰囲気じゃない』って思ったから。
「…紺野さんは、出来ないんですの?」
「どうかな…子供の頃ほどは、出来なくなった」
そう言って、少し寂しそうに笑った。
「変なの。…笑うのも怒るのも、とっても簡単なことなのに」
変なの、って言ってみたけど、そういえばご主人さまもそうかも。私以外の誰かがいるときは、私の好きなあの笑顔が見れないもの。人間は、そういうものなのかな。
「柚木も、そうですの?」
「私?考えたことないわ。笑いたければ笑うし、怒りたければ怒る」
「…うん、君はもうそれでいいよ…一生、そのままでいてくれ」
「なにそれ、また馬鹿にしてんの」
柚木が紺野さんの頭を掴んで、わしわしと振った。紺野さんは『ひー』とか『やめてー』とかいいながら、ちょっと嬉しそう。

――いいな。

柚木の手のひらは、たぶん柔らかくて、いいにおいがするんだろうな…。きっと紺野さんも、それが嬉しくて、ホントは触って欲しくて、意地悪を言ったりするんだ。
「紺野さん」「お、何だ」

「紺野さんは、柚木を抱きしめたいって思いますか」

紺野さんの頭の動きが止まった。柚木が、慌てたように手を離す。
「なっ…なに言い出すの、この子」
何か考え込むように、あごに手を当てていた紺野さんが、妙に柔らかい笑顔を湛えてカメラを覗き込んだ。
「ああ、俺はいつだって抱きしめたい気分でいっぱいだ。しかしなビアンキちゃん、人間の世界ではな、女性にそういう行為を働くことをセクシャルハラスメントなどと呼んで警察が強力に取り締まっているんだ。…人間界で、もっとも残念な風習の一つだよ」
ごくり…抱きしめるって、犯罪なんだ!
「取り締まられたら、どうなるんですの?」
「…まず黒い覆面の男達に押さえつけられ、ペンチで指のツメを剥がれ…」
「えぇっ!?」
「自宅から一番近い小学校の朝礼台で、小学生が『似てる』と言ってくれるまで、教頭のモノマネを繰り返すのだ!」
「校長じゃなくて教頭…!なんて過酷な!」
「ば…馬鹿!変なこと教えると、姶良が怒るよ!」
「あははは…ただし、合意の上なら犯罪にならない。俺達は、その合意を取り付けるのに命を懸けるのだ!なあ、柚木ちゃん。…抱きしめていいかい?」
「それが既にセクハラなんじゃないの!?」
「そ、それじゃあ…ご主人さまも抱きしめたくなるんですの?」

「問・題・外だ!」

紺野さんは、きっぱりと言い放った。
「なぜわざわざむさ苦しい男を抱きしめてやらなければいけないのだ。いいかいビアンキちゃん、世界の半分は『女』という、柔らかくていい匂いの生き物が占めてるんだよ」
「…ご主人さま、臭くて硬いですか?」
「ああ、臭くて硬いぞ。あと、水に漬けると体積が2倍に増える」
「ちょっと、ホントに怒られるよ!」
「ところが塩に浸すと浸透圧で若干縮むんだ」
……そうでも、いいんです。もしそうでも。

「そうでも、ご主人さまを抱きしめてみたい…です」




もう、二人は聞いてないみたい。紺野さんは『触ったところから糸が出る!』とか『その糸で暴走電車を止められる!』とか色んなことを言い出し始めてた。この人は、たまに変なことを言い出して止まらなくなる。
…もう、私がいなくてもいいみたい。ご主人さまが戻るまで、スリープに入ろう。
 
 

 
後書き
第十章は、このあとすぐ更新予定です。 

 

第十章 (1)

暖房の効いた部屋から一歩踏み出すと、息が白く凍る真冬の寒さがジャケットの上から刺すように伝わってきた。逃げるためにトイレとか言ったけど、本当にトイレに行きたくなってきたような。
山頂に立つこの病院は、地形のせいなのか廊下か不自然に歪んでいたり、不可解な坂道になっていたりしていて面白い。…夢とかに出てくる、無限の回廊みたいだ。右、左、右、左なんて隠しコマンドみたいに簡単に言われたけど、実際に辿ってみると、この廊下は一辺がとても長い。僕はともかく、柚木なら迷ってしまいそうだ。

…迷うか?いや、迷わないよな。右、左、右、左だぞ。

それにしても長い。一辺50mはあるんじゃないか。…雰囲気からいって、ここは例の隔離病棟とは違うみたいだけど、精神を病んだひとがこんな長くて歪んだ回廊に住まわされたりしたら、さらに不安定になったりしないのかな…
やがて、男女を示すあのマークが見えてきた。別にトイレに行きたかったわけでもないけど、ついでだからな…

「――あなたの、せいよ!」

くらり、と頭の芯がうずいた。さっき僕が曲がった廊下の角。そこから、声は聞こえた。
――忘れられるはずがない、あの声が。
「流迦…さん」
ぐっと足に力をいれて姿勢を立て直した。…倒れちゃ、ダメだ。あれはもう、『あの』流迦ちゃんじゃない。違うんだから。
「あなたのせいよ!あなたのせいよ!あなたのせいよ!!」
早口に三回叫ぶと、彼女はカラカラと笑い出した。…あの時と同じ、艶のある髪を振り乱して、桜色の唇を震わせて。…僕はそれをただ、見つめていた。
あの頃は大人だと思っていた。でも20才になった僕の眼を通してみる彼女は、こんなにも幼くて可憐で、脆かったんだ。
――僕が好きな、散り際の桜みたいに。



「……倒れないの、あなたのせいなのに!?」
彼女は小さくくっくっと笑いながら、僕に近寄ってきた。
「……僕が倒れたのが、面白かったんですね、流迦さん。ここは、隔離病棟じゃありませんよ。早く、戻らないと」
僕はつとめて優しく、冷静に彼女を見つめ返した。あの頃のまま、黒くて深い瞳。…僕らの血統を示すように、僕にそっくりな色の瞳に、僕の不安に満ちた笑顔が映った。
「ほら。そうしてても、もう倒れませんよ」
「うそばっかり。…あなたの脳は、ちくちく、うずうず、ぐるぐる回ってるわ」
――息を呑んだ。
彼女がそう言い放った途端、天井がぐるぐる回るような幻覚に襲われ始めた。止まれ、止まれ、止まれ!!そう口の中で呟いて、ぎゅっと目を閉じる。
「闇に逃げこむの?…くく、賢明じゃないわ」
くくくくくっ…くくくくくっ…繰り返される含み笑いが、脳の間に差し込んでくるようにびくびく、びくびくと響く。…止めてくれ、もう止めてくれ。僕が悪かったから…このままじゃ、僕は……
「……深淵を覗き込むとき、深淵もこちらを覗いているんだって……くくくっくく……」
「ぁぁああああぁぁああぁあああああ!!!」
自分でも信じられないような悲鳴が喉から迸った。
閉じた瞼の裏で、赤黒い闇が無数の渦を巻いて僕の意識を飲み込んだ。…小さい頃、夢の中で垣間見た、マンホールの裏側で蠕動する赤黒い肉の渦を思い出した。僕はこの渦の中に沈み込む。そして少しずつ溶かされて、あとかたもなく消えていく…そんな切ない夢だった。飲み込まれていくのに、胸を満たすのは焦りや恐怖ではなく、ただ、切なさ。
「私の『目』を覗き込むには、『準備』が足りなかった…もう、眠りなさい、ずっと、永遠に……」

……そうだ、もう眠ろう。ずっと、永遠に……

「その瞳…昏くて深い瞳。気に入ったわ。欲しいなって、ずっと思ってたの…」

……二度と目覚めない僕にはもう、必要ない……


「姶良をいじめるな!!」


――清冽な一陣の風が、赤黒い渦を吹き飛ばした。目を開けた瞬間、パァン!と快活な殴打音が廊下に鳴り響いた。その先には
「姶良、立ちなさい!!」
柚木の凛とした横顔が、視界に飛び込んできた。その向こうには、舞い散る漆黒の髪。
――流迦が、頬を押さえて呆然と立っていた。
「考えるな、振り返るな!…姶良の悪い癖だよ」
そして手を筒状にして口元にあてると、ありったけの大声で叫んだ。
「看護士さ―――ん!隔離病棟の患者さんが出てきてます!!」
しばらく呆然としていた流迦の目に、静けさが戻ってきた。流迦は、細い首を傾げて柚木の顔を下から覗き込み、薄く微笑んだ。
「野蛮なくらい真っ直ぐで、強硬な意志力ね…」
柚木は流迦の瞳を、真っ直ぐに睨み返していた。…いけない、その目を覗いたら…。
「…嫌いだわ、あなた」
「私だって、あんたなんか大嫌い!」
流迦は長いまつげを伏せてきびすを返した。
「今は、見逃してあげる。…ビアンキのマスター、姶良、壱樹」
「…!!」
何で、僕を知っている…!?
「紺野に出来ることは、私にも出来る。…痕跡も気配も、あとかたもなく…」
桜色の唇が、きれいな弧を描いて引き締まった。
「…かわいい子ね、ビアンキちゃん…ふふ…」
「ビアンキに、何をした…!?」
「私は、見てただけ…ただ、見てただけよ」
さも可笑しそうに、くっくっと肩を震わせて笑った。
「…何が可笑しいんですか」

「紺野も、罪なことをする。…何も、知らないのね。自分が、どんな厄介な十字架を背負ってしまったのか…」

くらり、と頭の芯がふらついた。僕の肩をきつく握る柚木の気配で、ふと我に返った。
「いたぞ!」
「おい、こっちだ!!」
黒い色眼鏡をかけた看護士が4人走ってきて、流迦を取り巻いた。流迦の微笑はなりをひそめ、大理石で出来た少女の仮面のように凍りついた。
彼らは武骨な腕で流迦を押さえつけ、アイマスクを被せ、拘束具でその折れそうな腕を戒めた。それはとても粗雑で、乱暴な扱いだった。…呼んだ柚木さえ、ちょっと引くほど。やがて彼女が身動きを取れなくなったころ、1人の看護士が僕らに向き直った。
「お騒がせしております。…おかしな光景に見えるかもしれませんが、この患者は『それ』を必要とする患者でして…」
「余計なことをいうな。もう何もしない」
イラついたように声を荒げ、彼女は首だけを僕に振り向けた。
「一つ、教えておいてあげる。…『ビアンキ』は、重大な問題を内包する欠陥プログラム」
「欠陥……?」
「…今すぐ、アンインストールしなさい。これ以上、情が移らないうちに…」
その唇が、きれいな弧を描いた。
…意味を問い詰める前に、彼女は看護士達に引っ立てられていった。



彼女の姿が消えた瞬間、体中から力が抜けて瘧のように震え始めた。…止まらない、柚木の呼びかける声が遠くに、とても遠くに聞こえる。何度も、何度も呼びかけられているのに、100m向こうにいるみたいだ。…寒い。寒くて気が狂いそうだ…
「なんでだろう、僕…」
柚木の声…だと思ってたものは人の声ですらなくなり、遠くで鐘を突いたような雑音にとって替わられた。床も天井も消え、上も下もない白い靄だけが、僕の現実になっていく。それは闇と変わらない、一寸先も見えない白い靄。僕だけしかいない白い靄のなかで、確かめるように言葉を紡ぐ…
「なんでだろう、殺されたのに。僕は殺されたのに」
――自分の声すら、鐘の音に飲み込まれて聞こえない。自分が何を言ってるのかすら分からない。ごぉおぉぉおおぉぉおん…ごぉおぉぉおおぉぉおん…と、耳朶を打つ遠い鐘の音だけ。
「…そうだよ、あの時だってそうだった」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん
「あのひとは僕を殺したのに…僕を、呪ったのに」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで僕は…喜んでいるんだ?」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで、こんなに嬉しいんだ?」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「――今度は、殺されるのに」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「嘘だ」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「信じるな」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「感情を、信じるな」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「感情を信じたから、僕は」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん


「信じてたまるか!!」


――ごぉおぉぉおおぉぉおん……

…『体温』を感じた。そう思った瞬間、白い靄がゆるゆると薄らいでいった。薄い靄の向こうに、閉じた長いまつげが見えた。うあ、と声を出そうとして、気がついた。

僕の声は、柔らかい唇に塞がれていた。

首の後ろに回された手のひらが冷たい。首筋から、コロンの香りがする。ここは、病院の廊下…麻痺した感覚が解きほぐされ、一つ一つ認識していくにつれて、心臓が暴れ馬の足音みたいに轟く。…僕は、僕たちは何をしているんだ…?
とりあえず腰に手を回してみるか…と手を伸ばした瞬間、細い腰がすっと後ろに下がった。呆然とするしかない僕の目の前には、いつも通りの柚木がいた。
「…手間、かけさせるんじゃないわよ」
そう言い捨てて、僕の脇を通り過ぎた。すれ違う瞬間、僕の手を取って。
「あ…」
僕は引かれるままに、柚木の後を追った。靄は晴れたのに頭がふわふわして、何か考えようとすると思考にノイズが走って千々に乱れる。…ねえ、さっきのあれはどういうことで、僕をどこに連れて行く気なんだ、柚木…
やがて、トイレの前で柚木の足が止まり、するりと手が解けた。…ど、どういうことだ。まさか柚木…続きは、個室で…!?
「そ、そんな初めてなのに大胆な!!」
「馬鹿なこと言うなっ!!」
いい裏拳をもらい、ぐらりと体が傾いだ。…鼻が痛い。
「姶良、トイレに行くって言ってたじゃん!」
「へ……?」
そういえば、そんな口実で逃げてきたっけ。
「私も行こうと思ったのに、道が分からなくなって…姶良の声を辿って来たの!」
「ま、まじで?迷ったの!?…右、左、右、左だよ!?」
「えっと…途中何回曲がったか、自信なくなって…」
「と、トリだ…トリがいる!」
「…うるさいっ!いい、私が出るまで外で待っててよ!」
そう言い捨てて、柚木は引き戸を閉めてしまった。
…柚木、君はもう少し、考えたり振り返ったりした方がいいんじゃないか…



柚木の斜め45度後ろから、柚木のクセ毛が揺れるのを眺める。ただ眺めるんじゃなくて「僕のもの」という前提で、ひたすら眺める。名づけて「僕のものフィルタ」。
少し赤い『くるん』と巻いた髪が、ばら色の頬にふわりとかかって、とても可愛く見えてくる。…おぉ、この、サークル内でもちょっと評判の『くるん』が僕のものなのか…!
少し後ろに回って、ちょっと大きいかな…と思っていた尻を、ひたすら「僕のものフィルタ」で凝視する。…か、格別だ!「僕のもの」と思うだけで、この世に二つとない黄金率を持つヒップラインにしか見えない!
…思い切って、斜め30度くらいから、元々僕好みの唇を覗き込んでみる。オレンジかかったピンク色の唇が、白い息が零れる。これも…っていうかこれこそ、僕のものか…!

…だ、大丈夫だよな。今度こそ、間違ってないよな。

これはもう、付き合ってると言っても差し支えない段階だよな…!?
それなら、あのオムライスの件も簡単に説明がつく。…あれは柚木からの、ラブレター的な意味合いをもつものだったんだ…かかっていたケチャップが、3歳児が書くハートマークみたいだったような気がしないでもない!
…柚木の気持ちに応えるためには、まず僕の合鍵を渡そう。僕とお揃いのストラップをつけて。僕としてはサークルの皆に公表することもやぶさかではないが、柚木が『…でも私、恥ずかしい…姶良と毎日“あんなこと”してるって、皆に分かっちゃうよ…』と頬を染めるのならば、残り3年間、意地でも隠し通そうじゃないか!結婚は…そうだな、さすがにお互い自立してからにしよう。…しかし柚木がどうしても『卒業までなんて、待てないよ…』と涙ぐむのならば、学生結婚も辞さない構えで事に当たろうと思う!さあ柚木、こっちの準備は万端だ。僕の胸へ飛び込んでおいで!!

「…ちょっと。さっきから変な角度でついてこないでよ」
柚木が険のある口調で言った。
「なんか、落ち着かないんだけど」
「そ…そうだよね。ごめん」
さりげなく柚木の斜め後ろに回り込み、肩に手を伸ばす。
「…そっちは大分、落ち着いたみたいだね」
指先が肩に触れる直前、柚木の声に弾かれた。
「どうせ何言っても、姶良は『考える』のを止めないから」
……え
「そういう性分なんでしょ。…だったら、他に『考えるネタ』をくれてやればいいって思ったの。それだけ」
天気の話でもするように表情を変えずに言うと、僕の眼を覗き込んだ。
「…色々、考えちゃったでしょ」

……ええ、考えちゃいましたとも。

8年後に一男一女をもうけて、後楽園で笑いさんざめきながら長男を肩車してるところまでね……危うく長男の名前とか呼んじゃうとこでしたよ……

正直、君の前じゃなければ崩れ落ちてるところです……

すとん、と腕を体の横に落とし、くたり、と首を傾ける。『僕のものフィルタ』は、柚木の思いがけない発言に、あえなく砕け散った。…フィルタが砕けた今でも、やっぱり唇は腹が立つくらいに僕好みだ。
「――意外」
「なにが」
「柚木、そういうこと、誰にでも出来るんだ」
ちょっと皮肉を込めて言ってやった。すぐ怒り出すなと思っていたら、意外にも少し考えている。…そして顔を上げた。
「――誰にでも、じゃない」
一旦落ち込んだ気分に、きらーんと一条の光が差した。
「だ、誰にでもじゃないんだ…」
「和田勉は無理」
一条の光は、所詮一条…。ふっと儚く掻き消えた。
「たまに、考えるの。もし、遠泳でたどり着いた島の影に、溺れた和田勉が倒れていたら…そして、そこには私しかいなかったら…!」
「…君は余計なこと以外考えないのか」

――それは僕も同じか。

いや、心を蝕む分、僕の方がタチが悪い。ただ巻き込まれただけの柚木に、あんなことをさせて、腹立ちまぎれに嫌味まで言って。…胸の中にじんわりと、自己嫌悪が広がった。
「…柚木」
「ん?」
事も無げに振り向く。…いつもそうなんだ。柚木はいつも、何事もなかったように振り向く。僕は今までずっと、自分でも気付かないまま、それに胡坐をかいていた。
「話したいことがあるんだ」
「…ん」
柚木の唇が、ほんの少しほころんだ。
 
 

 
後書き
(2)に続きます。 

 

第十章 (2)

屋上へ続くドアには、鍵はかかっていなかった。『一般的』な患者には、開放しているようだ。ここから見晴らす山脈は厚くかかった雲のせいか、遠くにいく程、蒼く霞んでいる。随分遠くに来てしまった気がして、胸がつまった。



先に屋上に出ていた柚木に、缶珈琲を渡した。
「もう三杯目だね」
そう言って柚木は、プルタブをかしゅ、と起こした。そして高いフェンスに身をよせて、缶珈琲をあおる。
「山の空気って冷たいね…」
呟いて、そっと目を閉じた。僕も柚木の隣によりかかってみた。山の空気っていうかフェンスが鉄臭いな…などと思いながら。
「…流迦ちゃんは、母方の従姉妹なんだ。家が近かったから、よく行き来してた」

長い漆黒の髪が綺麗で、すこし潤んだ黒目がちの瞳が、年に不相応なくらい大人びていた。それ以外は、ごく普通のお姉さん。当時の僕の基準では、制服を着ている人はみんな大人だったから、中学のセーラー服を身にまとう彼女も、当然大人だと思っていた。
優しくて頭が良くて、運動だけはちょっと苦手。スカートめくりを仕掛けて、脱兎のように逃げていく近所の子供も、一度も捕まえられたことがなかった。趣味は料理と、アクセサリー集め。沢山持っていたのに、あまり外でつけることはなかったっけ。僕にだけこっそり教えてくれた、一番のお気に入りは、小さな桜のイヤリングだった。
彼女の父親…叔父さんは地方の市議会議員か何かを勤めていて、選挙が近くなると僕らの家にもよく顔を出した。随分、あとになってから知ったんだけど、僕の生家は、ここいら一帯に多い『姶良』の宗家だったらしい。宗家といっても田舎の一角で強い発言権を持つ程度だけど、市議会選挙くらいのレベルだったら馬鹿にならない影響力を持っていた。…とかいってもそれは立場的な問題で、僕や家族の暮らし向きはつつましいものだ。DSだって、クラスの友達の三分の二が持ってる状態になった頃にようやく買ってもらったくらい。
母方の叔母と結婚した叔父は、悪い人じゃないんだけどがさつというか短絡的なところがあって、ちょっと好きになれなかった。でも叔母は流迦ちゃんに似て綺麗な人だった。

料理が上手で、話す声は絹が摺りあうようにささやかで、いつも優しい流迦ちゃん。
春になると、蓮華が咲き乱れる川原に連れて行ってくれた。そこで日が暮れて星が出るまで寝転んで、どっちが先に一番星を見つけるかを競ったっけ。僕は一度も勝ったことがないけど。…帰り道、負けた僕がふて腐れていると、まばらに輝きだした星々を指しながら、星の神話を話して聞かせてくれた。

彼女に『初恋』の気配を感じていた僕は、彼女の両親の前で臆面もなく『大きくなったら、流迦ちゃんと結婚する!』なんて無邪気にまとわりついた。流迦ちゃんも、笑いを含んで僕の頭を撫でた。可愛い弟をみるような目つきだったけど、僕はそれで充分満足だった。
僕が、僕たちが大人になる日がくるなんて、思わなかった。

ましてこの事が、流迦ちゃんを狂わせるきっかけとなるなんて、カケラも思わなかった。

その事があってから3日後くらいからだったか。叔父さんたちが、流迦ちゃんを連れて頻繁に遊びに来るようになった。叔父さんは僕の隣に座って、饐えた麦酒の匂いを発散させながら「うちげんの流迦のわっつぇか可愛いごてな!?嫁んするが!?うはあははは、ないごてぇおかせっすっとか!はっはっはっは」などと、僕の頭をぐりぐり撫でながら上機嫌で話しかけてきた。…叔父さんに言われると、何だか僕はとてもいやらしい事を言ってしまった気がして、嫌な気分がじんわり広がった。不安になって流迦ちゃんを見ると、いつものように笑ってくれた。

親族が集まる宴会なんかのとき、叔父さんは、いやに僕の隣に好んで座るようになった。そのたびに、『流迦を嫁んするが?』『嫁んするが?』とからかわれた。周りの大人も面白がって囃し立て、僕たちはあたかも新婚のように扱われたっけ。普段から無口な父だけは、眉一つ動かさないで、僕の動向をうかがうような顔をしていた。
…今だから言うけど、僕も半分『その気』になりかかっていた。流迦ちゃんは将来、僕のお嫁さんになる。そう、本気で信じかけていたんだ。

宴会がはけて、酔いつぶれた大人たちの間を縫って片づけを手伝っている時、父がぬるくなった芋焼酎を舐めながら(貧乏性なのか、この人は、宴会の終わりまで不味くなった酒を1人で舐めてることが多い)僕の後をついてきた。やがて誰もいない渡り廊下に出ると、呟くように言った。
「…あんしが、あげに露骨にするんは理由があっとよ。お前や流迦ちゃんの気持ちには、いっちゃん関係なかことばい」
「でも、でも僕流迦ちゃん好いとるが。嫁んしてもええがよ!」
「ええがよ、やなかよ。…ま、お前は勘のよか子たい。心配はしてなか。じゃっどん…」
そう言って残りの焼酎をぐっとあおると、僕が運んでいる皿の上にコップを置いて、すたすたと僕を追い抜いてしまった。
「流迦ちゃんが、もちぃっと、強かおなごじゃったらなぁ…」
「僕、いみしな子嫌いじゃ。流迦ちゃん、あのままでよかよ!」
父は、なにも言わなかった。怒ってるのか落胆してるのか分からないけど、なんとなく気まずい感じがして、他の話題を探した。
「父ちゃん、いつもぬるくなった焼酎飲んどるが」
「悪いか」
「誰も飲まんがね、ぬるいぬるいって」
「酒の一滴は血の一滴じゃ。飲めんうちから邪道な飲み方ぁ覚えんさんな」
そういい捨てると、突き当りの便所に入ってしまった。中からぅおううけぇあぐあとか変な呻き声が聞こえてきた。…血の一滴じゃなかったのか。

…それから程なくして、僕は流迦ちゃんが泣いている姿を目撃する。
待ちに待った春の日曜日。流迦ちゃんと毎年出かける蓮華の川原を楽しみに、虫取り網と麦茶を持って、彼女の家に駆けつけた。玄関先で『るーかーちゃーん』と叫ぶと、いつものように叔母さんが『あら、いっちゃん』と笑ってくれて、後ろの廊下に向かって『流迦―、いっちゃん来たがよ!』と呼んでくれるんだ。…その日も、そうだと思ってた。

玄関で何度声を張り上げても、流迦ちゃんが出てくる気配がない。僕はしびれをきらして、靴を乱暴に脱いで家に上がり、勝手知ったる流迦ちゃんの部屋を覗き込んだ。
そこで目にした光景は、多分一生忘れることはない。
散乱した手紙の山、それを片っ端から引きちぎる叔父。その傍らで、頬を押さえて涙を流す、僕の流迦ちゃん。
――頭が、真っ白になった。
叔父さんは、顔を真っ赤にして僕には分からない言葉を早口でまくし立て、流迦ちゃんを突き飛ばした。僕は思わず『ひっ』と声を上げた。
「あ――いっちゃん!おいやったんかすまんすまん、ほれ、流迦!いっちゃんと虫取りしてこんね!!」
「…じゃっどん、流迦ちゃん、ぐらしかよ。ないしとうね…」
僕は恐る恐る、これだけ言うのが精一杯だった。
「たははは、げんねがとこ見られたばいね…流迦がやっせんこと言いよるき、ちいっとがっとったがよ…ほれ、流迦。立たんね」
泣きながらザックに二人分の弁当を詰める流迦ちゃんに、僕は何を言っていいのか分からなかった。ただ僕が『いい、今日は帰るよ』なんて言えば、流迦ちゃんは叔父さんと二人で長い日曜日を過ごさなければいけなくなる。それだけは、嫌だった。
「流迦ちゃん、行くが!」
僕は流迦ちゃんの手を引いて、玄関を飛び出した。

一旦僕の家に寄って、虫かごと網を置いてくる。
「…使わんの?」
「今日は虫とり、よすが」
流迦ちゃんが、あまり虫とりが好きじゃないことは知ってた。だから僕は、泣いている流迦ちゃんに少しでも元気になってほしくて、女の子が好きそうな遊びに変更することにしたんだ。
…この日、流迦ちゃんの部屋で目にした光景…千切られた手紙の山、激怒する叔父、静かに涙を流す流迦ちゃん。
子供だったから。そんな理由で済まされない。よく考えれば分かったはずだ。
でも僕は、帳の向こうに透けて見えた現実を、思い込みでねじ伏せた。それどころか、小さかった僕の妄想は、周囲の思惑を全く考えようともせず、自分1人を正義のヒーローに仕立てて、完全に先走っていた。
――叔父さんが流迦ちゃんをいじめるなら、僕が流迦ちゃんを守る。
そして僕が導き出した結論は、考えうる限り最悪のものだった。

「蓮華の川原で、結婚式せんね。僕と流迦ちゃんの」

今でも、あの瞬間を覚えている。
流迦ちゃんの顔から、ふっと表情がなくなった、あの瞬間。
歪んだのでも、哀しく微笑んだのでもない。ふっ…と表情が消えたんだ。思い込みの真っ只中にいた僕は、そんな彼女の変化を重要視しなかった。表情を消した彼女を引いて、あぜ道の端にしげる葦を引き抜いて笛にしたりしながら、蓮華の川原まで歩いた。
彼女と並んで歩くのは、これが最後になった。


流迦ちゃんに花の冠を頼んで、僕は蓮華とシロツメクサの花で指輪を作る。…同級生がこの川原を通りかかったら、上着で顔を隠した。流迦ちゃんは、黙々と花の冠を作る。指輪作るのが終わって、流迦ちゃんの手元を覗き込む。彼女は一旦手をとめると、口元に微笑を浮かべた。
「…ん?」
「…んーん」
一見笑っているようにみえたけど、どこか虚ろだった。笑うためだけに笑っている、そんな顔。…そんな風に気がついたのは、ずっと後になってからだ。この時は、叔父さんに怒られたことをまだ引きずってるんだ、くらいにしか思わなかった。

紅い蓮華の指輪を流迦ちゃんの薬指に飾り、シロツメクサの指輪を、僕の薬指につけた。白くて冷たい流迦ちゃんの手を取ったとき、背中がぞくりとした。

…数年前、同級生が上水道にはまって死んだ。自分が知っている子が死んでしまって、もう二度と逢えないなんて…。哀しいというより、怖かったことを覚えている。『死』が、こんなにも無差別に牙を剥くってことを、鼻先に突きつけられた気がした。男子と女子が1列ずつ、出席番号順に並んで献花した。僕は『姶良』だから、先生の次。先生がやったとおり、煙が出る箱からお香をつまみあげ、額の位置まで持ち上げて煙の上に落とす。そして死んだ彼(名前は忘れた)のお母さんから、白い菊を受け取った。白い布で覆われた棺を覗き込んで、先生は静々と涙をこぼしていた。少し長いお別れの後、僕も献花のために棺を覗き込んだ…

…冷たい指を紅い蓮華に通すその行為は、あの死者への献花を思い出させた。その感覚とともに、ちらりと妙な罪悪感が胸をよぎった。…僕はずっと、心の奥底では彼女の本当の気持ちに気がついていたんだと思う。つまり僕も、叔父と同罪だった。

その日、流迦ちゃんが話してくれた不思議な話は、どれもこれも死の匂いをさせていた。偶然が重なって。エゴが絡み合って。大事なものと引き換えに。…理由は様々だけど、必ず誰かが悲しい死に方をする。そんな話ばかりを僕に聞かせた。
やがて日が傾き、一番星が出始める時間になった。僕はいち早く蓮華の原に寝転がり、眼を皿のようにして空を見渡した。
「あっ!一番星、見ゆっとよ!」
「……うん」
いつもなら、一番星の頃になると帰り支度を始める流迦ちゃんが、蓮華の上に身を横たえたまま起き上がらない。夕日の残照もいつしか消えて、青白い夜の気配が流迦ちゃんの白い肌に、薄青い陰を落とした。
彼女はまるで夜に呑まれてしまいたいみたいに、そっと目を閉じた。細い指を、胸の上で軽く組んで。それは、あの恐ろしい葬列をまざまざと思い出させた。
「…流迦ちゃん、帰るが」
「………」
「帰るがよ。この辺は街灯がすんなか。危なかよ」
「…もう少し、ここにいる」
「んー…」
しかたなく、僕も寝転がった。…僕が住んでいた辺りは、夜7時を過ぎてAコープが閉まると、ほぼ死んだ街になる。窓から外を眺めても、見えるのは街灯の連なりだけ。その日は月齢が比較的若くて、月明かりも弱かった。夕日が残照も余さず消えてしまうと、蓮華の川原に薄い闇が広がった。…群青色の雲が一陣、月の光を塞いだ。
「…流迦ちゃーん、天の川、見ゆっとよ。てげてげにして帰るが」
天の川の光しか見えない、完全な闇の中。かさ…と草が擦れ合う音がして、流迦ちゃんが半身を起こした。よかった、やっと帰れるよ…と息をついた瞬間、天の川が黒く切取られた感じがした。
「流迦…ちゃん?」
長い髪が、僕の頬にかかった。…流迦ちゃんが、僕を覗き込んでいる。流迦ちゃんの形に、天の川が切取られていた。月が陰っているせいで、どんな顔をしているのか分からない。
「ね、帰るが…」
流迦ちゃんの影が、少しずつ大きくなっていき、その息遣いを首筋に感じた。起き上がろうと思ったけど、両肩に流迦ちゃんの手が掛かっていて、体が動かない。
「流迦ちゃん、…おかしいがよ!こげん…」
言い終わる前に、僕の唇に暖かいものが触れた。その向こうに、流迦ちゃんのかすかな息遣いを感じて、僕は…気が遠くなった。

「***さん…」

耳元に囁かれたその名は、叔父さんが破き捨てていた手紙の宛名と、同じだった…
頭が真っ白になった。考えが…ちっともまとまらなかった。それでも何か言おうとして口を開きかけた瞬間のことだった。
肩を抑えていた両手が、僕の首筋に移った。ひやりと冷たく、僕の首筋を覆った。
「るかっ…」
眼前に広がる最期の光景は、天の川を切取って浮かび上がる、流迦ちゃんのシルエット。月を覆っていた雲が晴れて、薄闇に流迦ちゃんの顔が浮かび上がった。…やがて、流迦ちゃんは両手に体重をかけてきた。喉を通っている、色々な器官がひしゃげる嫌な感覚、息ができない…声すら、出ない。嘘だ、嘘だ、信じない、僕の大好きな、僕のお嫁さんの、流迦ちゃんが、こんな、僕を憎んで、僕を呪って…こんな……

こんなこと、するはずない……!

苦しい息の下、僕の首を絞めながら涙を落とす流迦ちゃんを見た。叔父さんや、叔母さんや、多くの親戚、そして僕…全てに追い詰められた流迦ちゃんが、とめどなく涙を流しながら僕を見下ろしていた。




――僕は、全てを理解していた。流迦ちゃんは、あの宛名のひとが好きなんだ。

誰にも知られず、密かに育んできた恋だった。それがどんなものか、曲がりなりにも思春期の入り口にいた僕には分かった。
僕たちはそれを、土足で踏みにじった。子供ゆえの無知さで、あるいは大人の都合で。薄れていく意識の中で、もう一度流迦ちゃんを見つめる。…死ぬことへの恐怖は、大して長くは続かなかった。ただ、悲しかった。…そんなにも好きな人が流迦ちゃんにいることとか、それが僕じゃないこととか、優しかった流迦ちゃんが僕を憎んでいたこととか、家を出る前にお母さんが、今日はカレーだって言ってくれたこととか、今もお母さんが、帰りが遅い僕をやきもきしながら待ってることとか、でも僕が帰ることは二度とないこととか、…流迦ちゃんが、泣いてることとか。
僕が鼻歌交じりに謳歌していた『幸せな毎日』は、流迦ちゃんの幸せを削り取ることで成り立っていたんだ。
悲しくて、声も出なかった。
だからせめて、目を閉じた。これ以上、僕のせいで泣いてる流迦ちゃんを見たくなくて。
目を閉じた瞬間、頬を涙が滑り落ちた。僕のなのか、流迦ちゃんのかは分からない。そのまま僕の記憶は、吸い取られるように闇に落ちた。


瞼の向こう側に、まぶしい光を感じた。…ここは天国かな。ううん、親より先に死んだ子は、賽の河原に送られると聞いた。じゃ、ここは賽の河原か。上水道にはまって死んだあの子は、うまく石を積めているかな。僕は、うっすらと眼をあけた。

「いっちゃん!!」
「父ちゃん、兄ちゃん起きたがよ!!」

見覚えがない白い天井。僕の顔を両手で挟んだまま泣き崩れる母。おろおろしながら父を呼びに走る妹。のっそりと入ってくる父。そんなものを順繰りに見わたしながら、半身を起こす。父は枕元に転がっていたナースコールを押して「息子が目を覚ましました」と、一言だけ言った。

一日だけ様子を見て、すぐに退院になった。首を絞める力が弱くて、致命傷にならなかったとか聞いた。
「…流迦ちゃんは」
その名前を聞いて癇癪を起こしそうになった母をなだめ、父が静かな目をして応えた。どうしてか分からないけど「お父さん、こんな顔するんだ…」と、不思議に思った覚えがある。
「流迦ちゃんは、病院に収容されたが」
「…怪我したん?」
「そうじゃなか。察してけ」
それ以上、何も聞けなかった。そのあと、とても遠くの病院に収容されたことと、もう二度と流迦ちゃんに逢えないことを、父から言葉少なに聞かされた。

叔父さんたちが僕の家に来たのは、僕が退院した次の日だった。母が会うのを嫌がったので、父が1人で対応することになっていた。『僕に』謝りに来たって話なのに、父は僕を座敷に入れてくれなかった。「…あんしは『わしに』謝りに来たんじゃ」父は苦い顔をして僕を見下ろし、座敷の襖をぴしゃりと閉めた。
「ほんなこて…あのがんたれが、かんげんねこどしくさって、おいも聞いたときゃ、たまがったがよ。事件にせんでもろてありがとな兄さん」
「…流迦ちゃんは、少しは落ち着いたけ?」
父は僕のために、一言だけ聞いてくれた。…聞きたい事はもっといっぱいあった。流迦ちゃんはどうしてるのか、もう泣いてないか。…叔父さんたちは、流迦ちゃんに優しくしてあげてるのか。僕のそんな疑問は、叔父さんが発した一言で全て、崩壊した。

「勘当したがよ。あげな気狂い、家に置いたらとんだ恥さらしだがね」

父が言った通り、僕ではなく父に散々謝罪の言葉を述べて、叔父は帰った。襖を開けると、父は卓に置かれた南部鉄の灰皿に、短くなった煙草を押しつけているところだった。…無駄に礼儀正しい父が、見送りにも出ないなんて珍しいこともあるものだと思った。
「…流迦ちゃん、どうなるん?」
「わからん」父はセブンスターの尻を指でとんとん弾いて一本取り出し、火をつけた。
「僕、全然怒ってないが。流迦ちゃんだけが悪いんじゃなかよ。叔父さん、ないごて、あげないみしこつ言うがね!僕、叔父さんに言ってやるが!」
父は僕を手で招くと、僕の頭をがしがし揺さぶった。父にそんな風に触られたことがないので混乱したけど、これは褒められてるんだな、と思った。
「堪忍せぇ。あんしは、やっせんぼじゃき…」
そう言って、手を引っ込めてぼんやり空を見つめた。
「わしも、じゃ。…あん娘がいっでん苦しか思いしとるごつ、知っとったが」
まずそうに、紫煙をたらたらと零すように吐き出した。
「ぐらしかなぁ…流迦ちゃん」

以後、流迦ちゃんの行方を聞くことはなかった。



「…とまあ、これが僕が知る限りの流迦ちゃんに関する『事件』の顛末、さ」
長い話を語り終え、柚木の方に首を傾けると、柚木は悩ましげに額に手を当てて考え込んでいた。僕と目が合うと、すっと小さく手をあげた。
「はい、柚木くん」
「…えー、分からないことが二つあるんですが、いいでしょうか」
「一個一個、分かりやすく質問してね」
「では一つ目。…話の所々に差し挟まれる呪文の意味が分かりません」
「失敬な!九州の南に位置する某県の方言を呪文呼ばわりするのか!」
「まじで!?…姶良、よくこの短期間でこっちの言語をマスターしたね。今少しだけ尊敬したかも」
「とうとう外国人扱いか失礼な奴め。…で、その方言のせいで、この話のどこを理解できなかったのかね」
「…いや、ざっくりとは理解できたんだけどね」
「じゃ、ノープロブレム。…あ、これは英語ね」
「分かってるわよ。…で、二つ目の質問だけど」
「はいはい、分かりやすく明確にね」
「…この話の中で、姶良のどこが悪いの?」
そう言われて、一瞬まごついた。
「わ、分かりやすく明確にって言ったじゃないか」
「これ以上明確な問いはないでしょ?叔父さんが、地元票を有利にするために、娘を姶良に無理やり嫁がせようとして、思いつめた娘が、一番弱い姶良に怒りをぶつけた。あんたのどこが悪いの、何を考えようがあるの!姶良は被害者で、あの娘は加害者だわ!」
わ、まずい、なんか結構本気で怒り始めた。…これが怖かったんだ。柚木はいつも公正で、明快で、竹を割ったように真っ直ぐに物事を断じる。…その事件の中で複雑にもつれて絡み合った要素とか、そういうものをあまり重要視しないんだ。

だから僕たちは、いつもどこかでぶつかり合う。

そして、僕はいつも『君には分からない』という迷宮に逃げ込んで、柚木を煙に巻いてきた。迷宮をハンマーで破壊しながら追ううちに、打ち疲れてハンマーを下ろし、回れ右するのを待つために。
なんでこんな気分になったのか…さっきのキスが影響してるのかもしれないけど、僕はそのとき、思った。

もう逃げない。柚木が僕を追いかけるにしても、追いつめるにしても。

「…父さんは僕に、『流迦ちゃんの気持ちを考えろ』と警告した。流迦ちゃんも、本当の気持ちをほのめかしていて…僕は、それに気がついてた。でも僕は『流迦ちゃんが好き』っていう感情を免罪符に、全部見ないふりをしてたんだ」
「だけど、姶良は子供で…」
「子供は、全部無邪気で天真爛漫だと思っているのか」
「………」
「僕は昔から、人よりも勘が鋭い子供だった。母さんが財布を置き忘れた位置も、友達が覚えてきた手品のタネも、妹が好きな子も、いつも誰よりも先に気がついた。ついでに言おうか。叔父さんが、なんで選挙のたびに家に来るのかも、薄々感づいてたよ」
「……姶良」
「でも僕は、流迦ちゃんが好きな人に気付けなかった。…おかしいだろ、妹の好きな子なんてどうでもいいものは嗅ぎつけるのに、自分が好きな人の好きな人がわからないなんて。…僕は無意識に都合のいい時だけ無邪気な振りをして、父さんの忠告を無視して、叔父さんの思惑まで利用して、流迦ちゃんを自分の物にしようとしたんだ」
ここまで一息に言い切って、柚木と目を合わせた。
「僕の勘を狂わせたのは、全部『感情』だ。感情に呑まれて、自分が今どれだけ卑怯な手段で流迦ちゃんを苦しめているのかにすら気がつかなかった。…それは流迦ちゃんも同じだ。彼女は誰かの感情に振り回されるあまり、問題をどんどん複雑にした」
僕は金網から体を起こして、蒼く霞む山脈を見渡した。
「流迦ちゃんは、周りの感情に応えようとし過ぎた。…叔父さんを怒らせたくなかったし、僕も泣かせたくなかった。宴会の席で囃し立てる大人たちに不快な思いをさせるのも嫌だった。…ないがしろにしてたのは、自分の感情だけ。自分がどれだけ追い詰められているのか、僕の首を絞めるまで気付けなかったんだ」

「だから姶良は、感情を信じないんだ」

僕が言おうとした台詞を引き取って、柚木も金網から背中を離した。
「でもね姶良。感情を伴わない理屈なんて、誰の心にも届かないよ。聞いた時点で理屈は分かった気がしても、結局みんな忘れちゃうの」
「…だけど柚木」
「だから、今の姶良は良かった」
そう言って、柚木は悪戯っぽく笑った。
「私に伝えたいって思って、喋ってた。『どうせ伝わらない』じゃなくて。…だから、分からない言葉が多かったけど伝わったよ」
そして僕の手に、空の缶コーヒーを返してきた。
「納得はしてないけどね。相変わらず理屈っぽいし…性分なんだろうけど、全部そればっかりになっちゃダメだよ。まずはおごった珈琲の缶を自分が捨てに行く、そんな不条理から学び取りなさい」
「……おい」
言い返そうとしたけど、柚木はすでに鼻歌交じりで階下に続く階段を降り始めていた。…ずいぶんあっさりしてたけど、僕の言いたいことは本当に伝わったのだろうか。不安を残しながら、僕も階段を降りた。

 
 

 
後書き
第十一章は3/16に更新予定です。 

 

第十一章

一緒に部屋に帰ると、紺野さんが車輪のついた椅子に馬乗りになって、ふて腐れた顔でがさごそ移動していた。僕らに気がつくと、床を蹴ってすいーっと部屋の端まで滑った。

{{i421()そう言って、笑った。ご主人さまは、透析というのをしないと生きられない。血が濁って、死んじゃうんだ…って言ってた。
《散歩に出ようか》
ご主人さまは、ゆったりした普段着に着替えて私を抱えた。
《明日になったら、紺野さんが来るんだ》
本当に、嬉しそうに笑った。…私を連れてきた人間なんだって言ってた。最初は胡散臭い人だと思ってたけど、話してみると子供みたいで、話題は下ネタまみれで、まだ病気じゃなかった中学生の頃を思い出すんだって。
(…あのひと…こんなところでも、そんなことやってるんだ…)

病院の近くにある、大きな公園の並木道についた。通りに面したベンチに腰掛けて、ご主人さまは嬉しそうに紺野さんの話をする。…この前読んで聞かせてくれた『宮沢賢治』なんて、なかったみたいに。
一緒に明滅してくれる相手が、できたんだ。
こんなに笑うご主人さまを見るの、初めてだな…
…冬の太陽は傾くのが早くて、2時間ものんびりしてたら、ぽつりぽつり街灯が点りはじめた。
《…そろそろ帰ろうか》
ご主人様が立ち上がろうとしたとき、誰かがご主人様に話しかけてきた。何か、マークのついた紙を差し出す。ご主人様は受け取って、けげんな顔で話を聞いてたけど…段々、見たことのない、怖い顔になった。
ご主人様が、紙を叩きつけて『誰か』に怒鳴る。怖いくらいの言い争いが、集音マイクを打つ。暫くすると『誰か』は『他の誰か』を呼び、ご主人様を取り囲んだ。

ディスプレイの両脇から黒い腕が伸びてくるのが見えた。腕はご主人さまを乱暴に掴むと、狭くて暗い場所に押し込んだ。集音マイクで懸命に音を拾う。エンジンの音と、複数の男の話し声。ご主人さまが、呻く声。

やがて細い悲鳴を最後に、ご主人さまの声が消えた…



消えた青い扉の前で、呆然としていた。
…ご主人さまの声を使って、開けさせるなんて…!
ハルが言ってた。『その扉は、何があっても開けちゃ駄目』って。…ダメな子だ、私。私なんかにセキュリティの資格なんてないんだ…

目の前に、もう一枚の扉が現れた。青紫色に光る、熱をもった扉。

…なんで!?なんでこんな風に出てくるの!?
熱い、気持ち悪い、もういや、出ていってよ…ご主人さま、助けて!!

『そんなこと言って…すごく、知りたいくせに』

後ろから声がした。…私にそっくりな声。それに扉と同じくらい、熱い。その声の主が、後ろから私の頬を挟むように手を伸ばしてきた。…触れているはずなのに、感触がない。その指は、頬に溶け込むようにして、頬の内側を侵しはじめた。
「いやだっ、離してっ!!」
腕でなぎ払って振り返った。でもそこには、何もいない。



「…あれ?」
青紫の扉と、私しかいない空間。そのはずなのに、さっきの言葉が気持ち悪いくらいに耳に残って離れない。
「すごく、知りたいくせに…」
青紫の扉を見つめる。…悲鳴を残して、静かになったご主人さまは、そのあとどうなったんだろう。…すごく、知りたい…

ご主人さま…早くここに来てください。じゃないと私…

この扉、開けちゃうから…





打ち放しのコンクリートに、黒い温水ボイラーが林立する地下のエリアで、僕らは身を寄せ合って縮こまっていた。…想像してたような、暗闇のコンクリート壁にダクトが這い回って所々から蒸気が洩れたり水が滴ったりするようなサイバーパンクな空間じゃない。ボイラーは一定間隔で、整然と並んでいる。蛍光灯までついてるし、ボイラーに身を寄せると、ちょっとあったかい。でもノーパソを立ち上げるとなると、電波状態は最悪らしく(山頂の上、地下じゃ当然だけど)どこに移動しても圏外になる。…ま、どっちにしろオフラインなんだけど。
「ビアンキ、どうした」
リネン室からがめてきた毛布に包まり、腹ばいになってビアンキに話しかける。ビアンキは伏目がちなまま、一度だけ頷く。
「…はい、ご主人さま」
…瞳の濁りが、ひどくなってきたように見える。ずっと起動しっぱなしだから疲れたのかもしれないと思って電源を切ろうとすると、捨てられた子犬のような目で僕を見上げた。
「…閉じないで、お願い、怖い…です」
「どうしたんだよ、本当に」
マウスでつついたり、撫でたりしてみる。少しだけ嬉しそうにするけど、すぐにはっとしたように振り返り、泣きそうな目で僕を見上げる。でも、何があったのかは全然話してくれない。

「…しかし困ったな。ここに捜査が入るのも時間の問題だぞ」
紺野さんがため息まじりに呟いた。さすがにボイラー室で煙草は控えているらしい。携帯が再びチカチカ光り、流迦ちゃんが現れた。
『ふふ…案外、しばらくは平気なんじゃない』
「なぜ」
『逮捕状が出るまでは、病院内の捜索なんて出来ない。…彼らは、待つことしか出来ない』
「…面会時間が過ぎても俺達が出てこなければ、病院が不審がるだろ」
『もっと大きな問題が起これば、構っていられないんじゃない?』
流迦ちゃんの口元に微笑が閃いた。
『例えばナースが2~3人、謎の変死を遂げるとか』
「おっ…お前が言うとシャレにならん!いいか、絶対に変なことはするなよ!!」
『必要だと思ったら、勝手にやらせてもらう』
…落ち着け、僕…。蓮華の花で冠を作ってくれた彼女は、もう何処にもいないんだ…こんな事で泣きたくなってちゃ、この先辛いことばっかりだぞ…
『…あら、何か報告があるみたいよ』
「誰が」
『ハル』「代わって」『いや』
紺野さんは一旦電源を落とすと、再度立ち上げた。液晶画面がしばらくぐにぐにと歪み、ほうほうの体でハルが顔を出した。

『…マスター。セキュリティの強化を提案します』
「無駄だ。どうせすぐ破られる。しばらく堪えてくれ。…で、用件は」
『かぼすが、例のMOGMOGを操るパソコンの位置を突き止めました』
『てへー。突き止めたの』
「…そうか、でかしたぞかぼすちゃん!」
「うっそ、かぼす優秀!?」
「やったね、かぼすちゃん!!」
しばらく3人で『かぼすを讃える舞い』を舞ったあと、紺野さんが徐に聞いた。
「…で、そいつは今どこに?」
ハルは短い演算のあと、こう、言い放った。

『ここと大体同じ座標に、そのパソコンはあります』

3人とも、かぼすを讃えたまま凍りついた。
「こ…ここだと!?」
「…ねぇ、その患者って、ここの病院に入院してたの?」
一応聞いてみると、紺野さんはぷるぷると首を振った。
「…いや。それにIPアドレス追跡では、つい最近までは確かに都内にいたはずだ」
「ノーパソなんだから移動してるんだろうけど」
「…なんか気持ち悪いな。何が目的なんだろう」
「目的がどうっていうよりさぁ」
柚木も話しに入ってきた。
「場所を突き止めよう。目的は本人を締め上げて吐かせればいいわ」
僕と紺野さんは、思わず身を竦めて息を呑んだ。…この娘、怖い。発想が戦国武将だよ…
「それはもっともだけど、この状況で病棟内をウロウロするわけにも」
「いや!この中に1人だけいるのだよ、この病棟内を自由に移動出来る人間が!」
紺野さんが、丸めた毛布の中をごそごそまさぐりながらニヤリと不気味な微笑を浮かべた。
「さっき、リネン室で毛布と一緒にがめといて良かったぜ…姶良、お前は次の瞬間、俺に感謝することになるだろう」
彼が毛布の中から得意げに引っ張り出したのは、丈が短い桃色のナース服だった。…そ、そうか、その手があったか…一石二鳥のその方法が!!(性的な意味で)
「合い分かった!これで柚木がナースのコス…もとい変装をすれば、誰にも疑われることなく病棟内を歩き回れるって寸法だね。紺野さん、あんたっ、天才だよっ…」
嗚咽をこらえながら紺野さんの手を握る。彼は、力強く握り返してきた。
「あっはっはっは、そうだ俺を讃えろ姶良!ちょっとサイズがピチピチなのは俺の趣…いや、咄嗟だったから間違えただけだ!」
「なんのグッジョブ!間違いは誰にでもあるよ、仕方ないね。…柚木なら、分かってくれるよね」
僕らは一斉に、柚木に熱い視線を注いだ。
「さあ、柚木ちゃん…」
「さ、柚木…出番だよ」

次の瞬間、僕たちは血を吐きながら打ち放しのコンクリートに叩きつけられた。

「バカッ!…あんたたち、コスプレに目が眩んで大事なことが抜け落ちてるのよ!!」
「だ…大事なことって?」

「私を見ず知らずの建物の中に解き放ってどうするの!帰れなくなるだけじゃん!!」

僕らの間を、稲妻のような衝撃が走った。隊長、敵陣営に思わぬ伏兵『方向音痴』が出現しました…!この戦の敗北を悟って崩れ落ちかけた僕を、紺野さんの力強い腕が支えた。
「諦めるな同志!方法はもう一つある」
「た、隊長…」
「どこかで、車椅子をがめてくるんだ。そして患者のふりをして柚木ちゃんをナビゲートする。…しかし姶良。この方法には重大な欠陥がある」
「その完璧な計画の何処に欠陥が!?」
「柚木ちゃんのナース姿をローアングルから堪能する権利に浴するのは、ただ1人!!」
「そ、それなら、腰骨がちょっと繋がってるシャム双生児という設定で、二人で車椅子に乗るというのは!?」
「シャム双生児とか思われる前に、重症なホモと見なされるに違いあるまい。ていうか、そうまでして俺とローアングルを分かち合いたいのかお前」
「くっ…僕らは争うしか道はないのか!?」
「残念ながらな!…恨みっこなしだぜ、姶良」
「望むところだ…だっさなっきゃ負っけよー、ジャーンケーン」
「ぽいっ!!」
渾身の『グー』と『パー』が繰り出され、勝負は一瞬で決着した。…僕は、儚く崩れ落ちた…



「…ふ、ふははははは…畜生、まだ手が震えてるぜ…!」
「くっ…どうでもいいジャンケンは結構勝つのに、何故こういう時ばかり…」
「盛り上がってるところ、悪いんだけど」
もはや呆れ果てた顔で、柚木が割って入った。
「もうナース服着せられるのは諦めるけどさ…紺野さん、そもそもここに隠れてる理由って、なに」
「そりゃ俺が顔さらして病院内ウロついてるとまずい……!!」
言いかけて、紺野さんはどさり、と崩れ落ちた。…や、やった、僕の逆転不戦勝だ!!
「まったくもう…いくよ、姶良」
「はい…」
恥らう乙女のように頬をそめて、静々と柚木のあとについていく。紺野さんがゾンビのように起き上がり、やはりゾンビのようにゆらゆらと追ってきた。
「…おい待てぇ…着替えないのかぁ、ナマ着替えが済んでないぞぉ…!」
「シャワーのついでに着替える。姶良、シャワー室に案内して」
柚木がぴしゃりと言い放つ。ゾンビは再び崩れ落ち、もう立ち上がる事はなかった。



手短に浴びてくるから、と言って柚木が2日振りのシャワーを堪能し始めて既に15分。…普段なら何でもないこの15分が、いやに長く感じる。ボイラー室の脇の倉庫からがめてきた車椅子に座り、毛布を膝にかけ、ゾンビが崩れ落ちながら手渡してくれたニット帽を深々とかぶる。誰が見たって、ちょっと寒がりな患者にしか見えまい。シャワー室から洩れ聞こえてくる、水の音と柚木の鼻歌に、そっと耳をそばだてる。

「この水音が、柚木ちゃんの柔肌を打っているのかと思うと…清流の趣だな」

……おい。
「…何、出てきてんの。見つかるよ」
「妙なものだな、このドア一枚隔てた向こう側で、全裸の柚木ちゃんが、あんな所やそんな所を洗っているなんて」
そう言って紺野さんは、そっとドアに身を寄せた。…見取り図では洗面と脱衣所と個室があったので、正確にはあと2枚のドアを隔てないことには柚木の全裸に到達し得ないんだけど、言ったところで紺野さんの幸せが半減するだけなので黙っておく。
「あの胸、Eはあると見た。脱いだら相当、エロい体なのだろうな」
「ちょっと尻が大きいけどね」
「あの尻がいいんじゃねぇか…ナースの格好なんかさせたら、たまらん感じになるぞ」
「あぁ…ナースはベッド脇に座ったり『直腸検温しまーす♪』とか言って後ろ向きに馬乗りになったりするもんね、ビデオとかでは…」
「うぅむ、あの尻で、馬乗り…か。おい姶良!その辺は同じサークルの誼でどうにかならんのか!!」
「そんな軽い誼でどうにかなるなら、とっくの昔にどうにかしてるさ…」
「諦めるな!お前は堪能したくないのか、仰臥位でじっくりと」
「ねぇ落ち着いて…直腸検温はうつ伏せだよ…」
たわいない世間話を交わしながら、僕はふと流迦ちゃんのことを思い出していた。柚木との対比でというわけじゃない。…別れ際にかけられた、あの言葉を思い出したんだ。

『あれは、重大な問題を内包する欠陥プログラム。…アンインストールなさい』

あの言葉がただの嫌がらせだったとは思えない。彼女は、ビアンキが欠陥プログラムであるという確証を持っている。そんな気がした。
「…流迦さんに、ビアンキをアンインストールしろって言われた」
「仕方ない奴だな、あいつは…」
「重大な問題を内包する、欠陥プログラムだって」
紺野さんの目が、ふっと険しくなった。
「…あいつ、確かにそう言ったのか」
「うん。…心当たり、ない?」
「ないことは、ない」
胸ポケットに入った携帯の電源を切り、腕を組んだ。
「車の中で、少し話したな。…ビアンキは、夢をみるかもしれないと」
「あと、流迦さんが『産みの親』だって」
「まず、MOGMOG開発における流迦のポジションを、ちゃんと説明しようか」
そして、いつにない真顔で語り始めた。
「俺は流迦に出会ってからずっと、彼女にプログラミングのことを学ばせてきた。あの子が遠い将来、ここを出られるようになった時に、手に職があれば助かるからな。最悪、就職が難しければ、うちの会社で働いてもらえるだろ」
本当に…なんでここまでしてくれるのか分からないけど、この点に関してだけは、感謝してもし足りない。心の中で一瞬だけ合掌し、話に戻る。
「彼女はメキメキ実力をつけた。半年学んだだけで俺に並ぶようになり、1年も過ぎた頃には、俺の及ぶところじゃなくなった。…天才っていうのは、ああいう子を言うんだな。ここを出れば一流のプログラマーとしてやっていける実力があったんだが、あの子は退院を望まなかった。…家族も、望んでいなかった」
…その通りだ。話題にのぼらせることさえ、厭われていた。改めて人の口から聞かされると、なんて恥ずかしい話なんだろう…。

「もちろん、それだけの話でもないが。…自我を押さえつけられてきたあの子には、社会で荒波にもまれながら生きていく力がない。…本人に言うと怒るが、とても繊細で脆いんだ。『事件』がなくても、遠からずこんな状況にはなってたよ。一見、傍若無人な危険人物に見えるかもしれない。でもあの子にとって今は、自我を発現させるための、いわば訓練の時期なんだ」
「…訓練」
そんな穏当な言葉では済まされないような危険を感じたが…僕の考えてることが伝わったのか、紺野さんは言葉を継いだ。
「14年間の抑圧と、持って生まれた異能がブレンドされてエラいことになってるが、そこはいずれ落ち着くだろ」
「…だといいけど」
「彼女は自由にプログラムを作り、ルービックキューブを高速で回転させて破壊する、それだけの日々を過ごしてきた。最初のうちは、過去の記憶だけではなく、言葉すら忘れ果てるほどに、そればかりに没頭していた。まるで、それらに埋もれて自分を消してしまいたいみたいにな。作るプログラムも、構造は天才的だったが意味のないものばかりだった…しかし5年、6年と経つうち、あの子は変わり始めた。俺やプログラム、ルービックキューブ以外のものにも興味を示しはじめたんだ」
紺野さんの口調に、彼らしくもない暖かいものが加わり始めた。まるで妹の自慢話をする馬鹿兄貴みたいだな、と思うと口元が緩んだ。
「作るプログラムの雰囲気が変わり始めたのも、その頃だったかな。それまでは、ただ作るためだけに作られた、命のないガラクタ同然のプログラムだった。…しかし、徐々にそのプログラムに『目的』が兆しはじめたんだ」
苦笑いを口元に浮かべて、言葉を切った。
「…ま、あの通り。ろくな目的じゃないけどな。散々な目に遭ったな…あいつが携帯に仕掛けた悪戯のせいで女と別れる羽目になったことも数知れないよ。…でもある日、あいつはまじですごいプログラムを作りやがった」
「…それが、MOGMOG?」
「惜しい。正確にはMOGMOGのインターフェースを司るプログラム…つまり、ハルやビアンキのキャラクターを司るプログラムだ」
当時の興奮がふいに蘇ったのか、紺野さんの声がうわずった。
「…あれが出来上がったとき、あいつはこう言ったんだ。『私は、私の中身を作った。これは、人間を構成するソフト』」
「人間を構成する、ソフト?」

「あのプログラムは、人間の脳内を流れる電気信号を、そっくり模倣したものなんだよ」

愕然とした。…人間の脳を模倣して作られたプログラム、だと?
「なにそれ、昔のSF?」
「理論上は不可能じゃない。現に俺達の脳は電気信号が動かしているんだからな。ただ、その電気信号の流れを詳細に、正確にトレースできる人間がいなかっただけだ。…世の中ではそういう人間を『天才』もしくは『狂人』と呼ぶ」
「…そ、そんな流迦ちゃんが…」
「あれだけの異能だ。その片鱗は、小さい頃から見えてたはずだ。その才能を全部尻の下に押し潰して『清楚で可憐なお嬢さん』に仕立て上げようとしたのは、あの子の親父だよ」
「………」
「ま、珍しい事じゃないさ。…お前らの血筋は『道筋を辿る能力』に長けてるみたいだな」
からかうように言われて、はっとした。そう、僕もよく似た『異能』を持っている。…僕の異能の方は、精々仲間内で『地図要らず』とか呼ばれる程度だけど。
「あーあ…僕のももう少し、カッコいい能力だったらよかったなぁ…道を忘れないとか、微妙に便利なやつじゃなくてさ、こう『異能!』って感じの」
「何を言うか。一瞬表示されただけの見取り図をそっくり記憶してるんだぞ。お前も充分恐ろしいよ。…丁度そのとき、社では一般ユーザー向けのセキュリティソフト市場へ進出するための、強力な『武器』を探していた。俺は、これしかないと思ったんだよ。…初めて会った日に話したな。俺が提案したのは、コミュニケーション的要素を加えることで、対人セキュリティを充実させた、まったく新しいタイプのセキュリティソフト。それに俺が以前からあっためていた『ウイルス消化機能』を組み合わせて出来たのが、今のMOGMOGだ」
「じゃあ、MOGMOGの感情は、人間そのものなのか…?」
「いや、それは人道的にも容量的にも色々問題があるだろうからな。パソコン用にカスタマイズをしてあるはずだ。喜怒哀楽は抑え目にしてあるし、触覚、嗅覚、味覚に連動する電気信号は削除するか、不自然にならない程度に、他の感覚…視覚や聴覚にバイパスさせた。それらの作業をしたのが、あの子だよ」
「…それで、あそこは『開発分室』ってわけなんだ」
「そう。あの子はあれでも、うちの社員だ。…で、お前が言っていた『重大な欠陥』の話に戻ると」
紺野さんは、あごに手を添えて俯いた。
「正直、あのプログラムは俺にはさっぱり理解できない。他の人間にも見せてみたが、同じ事だった。…そりゃそうだよな。誰かの脳の中を覗いて『分かれ』って言うのと同じだもんな。だから、あのプログラムは俺達にとってはブラックボックスなんだよ」
「そんな危険な…」
「一応、動作確認はした。でも誰も構造を理解してないんだ、拾いきれないエラーの一つ二つは内包してるかもしれん。流迦は、それを見つけたのかもしれないな。…いや、ちょっとまてよ。…なあ、姶良」
「ん?」
「欠陥プログラムの話が出たとき、あの子は『MOGMOGは』と言ったか、それとも『ビアンキは』と言ったのか」
「ビアンキって、言ったけど」
「そうか…なぁ、これは言う必要はないと思ったから黙ってたが、ハルとビアンキの間には決定的な違いが………」
紺野さんの声が、ふっと掻き消えた。眉間に深くしわが刻み込まれ、その口元が引き結ばれる。彼はすいっと身を起こすと、そっとドアから離れた。
「紺野、さん?」
「水の音が、止まった…!」
「………は?」
こ、この人…こんな深刻な話をしつつ、ずっと柚木のシャワー音に耳を傾けていたのか!…不覚にも感心してしまうくらい徹底した変態だ。変態は、険しい表情を保ったまま、腕を組んで僕を見下ろした。
「姶良。ナースの柚木ちゃんに、第一声で何を言って欲しい?」
唐突に降り注がれたエロの光に、石をどかされたダンゴ虫のように慌てふためく僕。
「え…えと…『お注射の時間です♪』とか…」
「…はっ、オリジナリティのカケラもない奴め」
「なんだよ、ナースとかスッチーとかは定型モノだろ。そういう紺野さんはどうなんだよ」
奴はニヤリといやらしい微笑を浮かべ、壁にもたれた。
「俺ならこうだ…『この下、何も着けてないんだよ…』」
「反則だ!そんなの、なに着てたってエロいじゃないか!!」
「むっふっふっふ…そしてそのまま『直腸検温しまーす』」
「アタマ悪いAVのシナリオか!」
「そして俺は仰臥位!!」
「あんたかよ!!」
「決め台詞はこいつだ…『あん、だめ、入らないよぉ…(体温計が)』」
「うっわ変態だ、すごい変態がいる!!」

「うるさいっ、廊下では静かにしなさいっ!」

心臓がはみ出るくらいに躍り上がって、弾かれるように振り向いた。シャワーのせいか、ナース服が恥ずかしいのか、頬を上気させた柚木が、ドアの陰に立っていた。
「…第一声は『廊下では静かにしなさいっ』だったね…」
「委員長系看護婦か…アリだな」
変態が選んできた小ぶりのナース服は、柚木の体に必要以上にぴったりフィットして、下着の線まで見えそうな勢いだ。体の横に入った浅いスリットから見える脚は、多分僕が今まで見たことがないほど上のほうだ。日にあてられず、大事にスカートなりジーンズなりに包まれてきた肌色。それはミルクプリンのように柔らかそうですべすべで…多分、柚木の服の下に隠れた肌は、全部こんな感じなんだろうか…耳が熱くなるのを感じながら、僕は心の中で叫んだ。
――紺野さん、グッジョブ!
紺野さんはドアの陰から出てこようとしない柚木の全身を嘗め回すように眺めると、性懲りもなく興奮気味に叫んだ。
「に、ニーソだ、白ニーソのナースがいる!」
「なっ…仕方ないじゃん、替えはこれしかないんだから!」
耳まで赤くしてドアの陰から出てこない。…僕は思い出した。ここに来る前に、沿道のコンビニで替えの服や生活用品を揃えていた時、柚木は最初、ブーツに合わせて膝丈のストッキングを買おうとしていた。しかし紺野さんが大人顔で『山頂だから寒いぞー、少しでも暖かそうなのにしておけよ』と、わざわざ釘をさしたのだ。…そして長めの靴下は、なぜか白のニーソしか残っていなかった。おそらく、柚木に声を掛ける前に紺野さんがハイソックス類を隠したんだろう。

…正直引く。嬉しい反面、ここまでされると、ちょっと引く。

「そういうこと言うんだったら、もうここから出ないから!」
「あっはっは…冗談だよ。出ておいで」
さっきとは打って変わったような爽やかな笑みを浮かべ、手招きしてみせる。柚木は人慣れしてない猫のようにおずおずと、ドアの陰から出てきた。



「…変じゃない?」
「全然、変じゃないよ。ここ病院なんだし」
言いよどむとまた閉じこもってしまうので、僕は慌てて即答した。
「あとは…柚木ちゃん、携帯、持ってるよな。携帯からかぼすちゃんにアクセスした状態で目的のパソコンに近づけば、かぼすちゃんが反応する。反応を見ながら彼を探してくれ」
「…わかった」
「でも気をつけろよ。やばそうだったら、何もしないで帰って来い。一応、『彼』の画像を転送しておく」
僕と柚木のケータイが鳴った。『彼』は、男にしては随分と華奢で綺麗な、でも腺病質な少年だった。柚木は「わっ、美少年じゃん♪」などと浮かれているが…。
「じゃ、頼んだぞ」
もっと柚木のナース姿をイジるかと思ったのに、紺野さんはあっさり送り出した。この人なりに『彼』を心配しているんだろう。僕は軽く頷くと、車椅子を回した。



姶良達を見送ったあと、紺野の携帯が鳴った。『着信 芹沢』の表示を確認して、着信のボタンを押す。
「…どうした」
『あんたこそどうしたんだ。こっちは大変なことになってるぞ』
「横に警察でもいて『引き伸ばせ!』とか言われてるのか」
紺野は、苦笑交じりに応じた。
『似たようなもんだ。山梨の開発室も任意捜査だか何だかが押し寄せてるよ』
「おぉ、こっちもだ…例のとこだがな。で、どうだ。任意捜査には応じたのか」
『応じるわけないだろう。あいつら、今も外で張ってるよ。寒いのにご苦労なことだ』
「暖かい珈琲でも出してやれよ、心証よくしておくに越したことはないからな」
『阿呆。そんな心配してるヒマがあったら自分の心配しろ。伊佐木組の連中、あんたに不利な証言しまくってるみたいだぞ』
「伊佐木組だけだろ」
『捜査に協力的な分、やっかいなんだよ』
「ははは…任意捜査を拒んでるお前らとは心証がちがうわけだ」
『てめぇ、捜査受け入れるぞ』
「そりゃ困ったな。…で、どうだ。『配信』の準備は出来そうか」
『もう少しデバッグしておきたいが、仕方ないだろうよ。このままじゃ捜査令状が出るのも時間の問題だ。…いつでも配信はできる。あんたの預かってるデータが来れば、な』
「うむ…このままじゃ、MOGMOGの件も何もかも、全部俺のせいにされるな…せめて、あのときの『会議』の証言が取れれば…」
薄暗い階段の踊り場に、沈黙が流れた。無性に煙草が吸いたい気分だったが、少しでも気配を気取られる危険は避けたい。イライラと、打ち放しのコンクリート壁を叩くだけだった。受話器の向こうの芹沢が、ふっと鼻息をもらした。
『…なあ。その会議にはノーパソか何か、持って行ったか』
「あ?…あぁ、会社支給のやつをな」
『今、どこにある』
「俺の机の、一番下の引き出しだ。あ、鍵かかってるからな」
『鍵か…壊すぞ』
「…好きにしろ。あとは任せて大丈夫か」
『大丈夫じゃねぇよ。…データ届けるのは、無理か』
「病院を出れないんだよ。ネットで送るには重過ぎるし、リスクも大きい…もう少し足掻いてみるが、難しいところだ」
『そうか。最悪の場合はMOGMOG関連のデータ、全消去するぞ。伊佐木達に引き渡すのも癪だし』
「……仕方ない」
『そうならないように、何としてもデータを届けろ。…それと、少し気になっていることがある』
「どうした」
『伊佐木課長が、会社に来ていないらしい。あんたを陥れるチャンスなのにな』
「それは…嫌な予感がするな。ひょっとして、烏崎もか」
『烏崎?…あいつしばらく来てないよ。予定表では出張ってなってるが』
「そうか。…了解。心に留めておく」
携帯が切れた。紺野は油断なく辺りに視線を走らせてから、階下に降りて行った。
 
 

 
後書き
第十二章は、3/23更新予定です。 

 

第十二章

膝にノーパソを乗せて、柚木に車椅子を押してもらいながら、病院の廊下を進む。元々外来を積極的に受け入れている病院じゃないからなのか、すれ違う人は少ない。たまに医師とすれ違うと、柚木の胸や尻のあたりをじろじろ眺めて「名札がないじゃないか。配属は?」と聞いていく。柚木が「あの、来たばっかりで、まだ決まってなくて…」と、顔を赤らめて答えると、鼻息を荒くして去っていく。今に、ナースステーションにエロ医師が殺到して、柚木の取り合いが始まることだろう。やばいぞ、バレるのは時間の問題かも。



「ご主人さまが生まれた場所のこと、聞きたいです」
オフラインで退屈なのか、ビアンキが僕の事をやたら知りたがる。
「僕が生まれたのは、九州の南の方でね。やたら噴火する活火山があって、夏になると灰がイヤんなるほど降り注いで、そりゃ大変なところだよ」
「さすがです!降りしきる火山弾をかいくぐって、ここまで大きくなったんですね!」
「…いや、そんなデンジャラスな土地じゃないよ」
「じゃ、じゃあ週一回のスパンで流れ出す溶岩の激流と戦いながら20のその年まで!」
「そんな事になったら九州全域立入禁止だよ…」
「なのに、そんな火山の大猛攻にも負けずに育つ、世界一大きい大根があるんです!!」
「あ、そっちは知ってるんだ…」
「全長10mくらい?」
「それじゃ木陰ができちゃうよ…」
よかった。少し、元気になってきたみたいだ。でも火山を全部ポンペイ的なものと勘違いしてるのはどうなのか。柚木が声を立てて笑うと、『わ、笑いすぎですから!』と、ぷんぷん怒る。いつもどおりの、ビアンキだ。
「こんなこと聞いて、どうするの」
「…憶えておくんです。ずっと」
そう言って、笑った。なんか寂しそうな気がしたけど、次の瞬間には能天気な笑い顔に戻っていた。…柚木の携帯が反応した。取ろうとした柚木を制して、僕が取る。
「ナースが院内で携帯かけてちゃまずいだろ」
紺野さんのほどじゃないけど綺麗な液晶に、かぼすが映る。
『すずか―、すずか―♪』
携帯を傾けると、柚木が体を乗り出してきた。ナース服の胸元がちらっと覗くのがたまらん!とか思っていると、ビアンキの冷たい視線にぶつかったので目を逸らす。
「これから、姶良の指示に従って」
『はいはーい、了解―。姶良、もちっとあっち』
かぼすは斜め45度を指差していた。携帯を傾けてみると、慌てて元の方向を指しなおす。面白いので繰り返してたら、柚木に怒られた。
「こらっ、かぼすに意地悪しなーい!」
「……はーい」
『んー、もっとこっちの方かなー』
なんか随分ファジー制御なのが気になるが、かぼすの指示に従って廊下を辿っていく。『精神病棟』と書かれた渡り廊下が見えた。
「この先?」
『うん、ずっと先―』
薄暗い渡り廊下の先は、人気の途絶えた精神病棟。…さっき、僕たちが出てきた所だ。少し、行くのがためらわれる。
「…これ進んだら、まるで僕が精神病みたいだな」
「仕方ないじゃん、それっぽくしててよ」
柚木はかまわず渡り廊下に向かう。少し床が悪いみたいで、車椅子ががたごと揺れた。ノーパソの液晶を見ると、黒い背景にビアンキと僕らが映っている。柚木の胸が、僕の頭上15センチくらいのところで揺れていた。どっかで躓けー、そして20センチほど前のめりになれー!と念力を送るも、渡り廊下は無事に終わってしまった。あとは陰鬱になりそうな薄暗い廊下が続いているだけだ。
「はぁ…僕ら、何やってんだろうな」
「ホントだね。ナース服着て、車椅子押して」
「紺野さんと会ってから、ずっとこんな調子で振り回されっぱなしだ」
「そうでもないじゃん」
「そうだっけ」
「紺野さんの嘘を見抜いて、追い詰めてたじゃん」
「いつ」
「ほら、ジョルジュで」


―――ブレーキを引く。車椅子が、ぎしりと音を立てて止まった。


「――なんで、知ってるのかな」
「え、あの…紺野さんに…聞いて…」
「僕は口止めした。あの人は、そういう約束を破る人じゃない」
振り向いて、柚木を真っ直ぐ見上げた。…自分でもびっくりするくらいに、怒りが湧きあがってきた。
「…あの場に、いたんだな」
柚木はぴくりと肩をふるわせて、目を逸らした。
「――姶良だって、悪いんだから」
「………」
「いつもそうやって1人で全部背負い込んで、何もなかった振りするんだもん。…だから自分で突き止めてやろうって」
「だからって、そんな盗み聞きみたいなことしたのかよ!!」
立ち上がって、柚木の肩を掴んだ。僕の声は、薄暗い廊下に響き渡って硝子を振るわせた。
「だ、だめ、大声だしちゃ」
「………いいよもう」
声が震えた。腹立たしさは消えないけど、今騒いだってどうにもならない。手遅れだ。僕は乱暴に車椅子に座った。…僕がナイト気取りで紺野さんに挑んだのを知って、たぶん僕の気持ちにも気がついて、それでもそ知らぬ振りで、今までどんな気持ちで僕に接して来たんだよ…それを思うと、立ち上がってぐわぁぅあぁぁとか叫びながら頭を掻き毟って全力で逃げ出したい気分だった。…怒りと恥ずかしさで、心臓がバクバクする。
「……出してよ。今は『彼』を探すのが」
優先だ、と言いかけて、息が止まるかと思った。

柚木の白い腕に、後ろから抱きしめられていた。


{{i437()をする』
…分かる気がした。あの人は根がいい人だから、肝心なところで自分だけが犠牲になるような選択をすると思う。そしてそれは、必ず状況を悪化させる。
『知らない人間に、私のプログラムを濫用されるなんて、論外極まりないわ。…でも紺野は馬鹿だから、私の命を切り札に出されればプログラムを丸ごと差し出すような真似をしかねないのよ』
流迦ちゃんの表情が、微妙に変わった気がした。でも僅かな変化だったから、何を思っているのかまでは分からない。…ただ『得意げ』な空気が、読み取れた。
「…そうだね」
『だから、あなたが紺野を止めなさい』
「でも流迦さんは!」
『止めた上で、私を救い出す方法を、あなたが考えればいい』
携帯が、何かをダウンロードし始めた。うゎ最悪、ウイルスか何か送る気かよ!と、必死に電源を落とそうとするが、電源は落ちないし通話も切れない。やがて、ダウンロードが終わってしまった。
『カードキーの情報よ。…これでその携帯を電子ロックにかざせば、隔離病棟に入れる』
「…すごいな」さすが、天才プログラマー。さっきはそうやって脱走したのか。
『何がすごいの…あなたは私と同じ種類の人間でしょう』
「どういう…?」
『目を見て、分かった。目的を与えられれば、遂行するための手段には大して拘らない…ねぇ?それが、あなたでしょう』
流迦ちゃんの画像がぷつっと消えて、待ち受け画面にもどった。
『私と同じ、人でなし…ふふふふふふ…』
通話が切れて何秒か、僕は呆然としていた。
「ね、戻ろう。もう車椅子押してる場合じゃないよ!」
柚木が走り出した。――反対方向へ。
「ちょっ、そっち行ったら烏崎と鉢合わせるからっ!」
柚木を呼び戻して、渡り廊下に向かって走った。…これから先、この微妙なタイムロスが僕の日常になるのだろう。

そんなことに気をとられていたから、僕はこの時、大変なことを見落とした。
ノーパソの電源が、ふっつりと切れていたことを…。



―――『それ』は起こった。

ご主人さまの髪に、肩に、柚木の両手が絡みついた。白くて、長い腕。耳に口づけてから囁いた言葉を、集音マイクが捉えた。
「姶良……好き」
ハンマーで、頭を殴られたみたいな眩暈…。ご主人さまの顔が一瞬、泣きそうに歪んで…そのあと、うっとり蕩けそうに、顔を上気させて呟いた。
「もう一度、言って……」




―――いや、見たくない。やめて。

私を放り出して、柚木の肩に手をかけるご主人さま。『抱きしめて』って、柚木に囁いた。恥ずかしそうに胸元を抱きしめる、柚木。
…痛い。お腹が、鋭いスコップでごっそり削られて、空っぽになる感じ。

―――いや、そんなの嘘。私、まだあの扉の中にいるの……?

ねぇ、これはあなたが見せてる悪夢なんでしょ?
なんで、なんで破れないの、このディスプレイ!?
なんで、ここにいるのが私なの!?ご主人さまに『抱きしめて』って、囁かれるのが私じゃないの!?なんで私には体がないの!?ご主人さまを抱きしめられる腕がないの!?
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!!!!

柚木なんて、抱きしめないで!!!!

―――まっくらになった。ほら、まっくらになったよ。
なんだ、ほら、ぜーんぶ夢だったんだ。スリープ中に見た夢だったんだ!だってもう、まっくらだもん。まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくら、まっくらだもん!!!

ん?…まっくらじゃない。紫色の扉だけ、まっくらじゃない。そうだ。ご主人さまの声がするよ?私のご主人さまはあっち。あっちにいるの。今のは全部夢。ご主人さまと私は、二人っきりでず――――――――――――――――――っと一緒なの。

ずっと、一緒だよね……。
私のご主人さまは、扉の向こうで、私だけに微笑んでくれてるの。だから紫の扉に、そっと手をかけた。……あれ、こっちも、まっくらだ。

暗い、真っ暗な部屋の中。ディスプレイの青い光だけが、やつれ果てたご主人さまの顔を照らす。
『やめろ…もう、やめてくれ……』
『うるせぇ、お前が強情張るから、ややこしいことになったんじゃねぇか!!』
オフライン…ローカルネットワーク接続…。接続されたパソコンから、甚大な量のウイルスが、ご主人さまのノーパソに流し込まれる。最初は一生懸命消化してたけど…もう、駄目。世界中のあらゆる強力な新種ウイルスに毎日、毎日冒され続ける日々。毎日、毎日…。応援を頼める皆はいない。…ここは、オフラインの監獄。痛い、苦しい、気持ち悪い、助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…うわごとのように繰り返す。助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…助けて…
『っち、狂わねぇなぁ…おい!どうなってんだ!』
『…セキュリティ自体が感染してしまえば、マスター以外が操れる可能性が出てくると思ったんですけどね…』
『他に方法がないんだ、冒して冒して冒しまくれ!!』
『もう…やめ…て…』
白くて綺麗だったご主人さまの肌が、土気色に変色していた。透析、してないんだ。ご主人さまが、死んじゃう…!私のことはもういいから、もう、逃げて、くださ……い……。

ある日、突然オンラインに放たれた。あの男に言い含められた。…私くらい、徹底的にウイルスに冒されたMOGMOGは『仲間はずれ』にされるから、ワクチンの交換が出来ない。ただ、私と同じ仲間のMOGMOGを見つけたら、ご主人さまを解放してくれるって、そう言った。
―――絶望と、苦悶の日々だった。
私は逃げる皆に追いすがって、私と同じMOGMOGを探した。そして時間になれば監獄に戻り、沢山のウイルスに冒された。そしてまた探した。また冒された。探した。冒された。……ずっと繰り返した。地獄だった。いつか、綺麗だったドレスはウイルスの侵食でぼろぼろになり、ご主人さまに届かない手も、足も、私の思考の外に消えていった。手も足も持たない、ウイルスまみれの私は『化け物』と呼ばれる存在に成り下がった。
一回だけ、私と同じMOGMOGを見つけた。でもあの子は私の姿を見るなり、硬い障壁を張って閉じこもってしまった。助けて、助けて、助けて…何度も叫んだ。障壁に溶かされながら、何度も、何度も。ご主人さまを、助けて!!…彼女の姿が掻き消え、私はまた一人、取り残された。…googleの監視が来る前に、ここを去らないと…私、化け物だから…。
いつかご主人さまが解放されて『透析』を受けられれば、あの幸せだった日々がきっと戻ってくる。それだけが、一縷の望み…だった。

その望みすら絶たれる日が来るまでに、大して時間はかからなかった。

「もう、私を譲り渡してください…ご主人さまが、死んでしまいます…」
『…ごめんね。辛い思いをさせて。でも紺野は…僕の』
病み果てて、土気色になった唇を震わせて、ご主人さまは小さく微笑んだ。
『唯一の、友達なんだ。裏切るわけにはいかない…人生の締めくくりがそれじゃ、僕が生きてきた価値はないから』
とても強い、目をしてた。

わかりました。ご主人さま。…私に何かを命じられるのは、この瞳だけ。だからしっかり焼き付けます。…死んでも忘れない。…ずっと、忘れない。ご主人さまの死を見届けて、私もひっそり、寄り添うように眠りにつくんです。ずっと……。
そう、伝えると、ご主人さまはゆっくり微笑んで、一語ずつ、歌ってきかせるように、つぶやいた。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
よく見聞きし分かり
そして忘れず
………
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
………
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
………



…そしてご主人さまは。 ひっそりと。 動かなく、なった。
死んだ。死んじゃった。ご主人さま。たった一人の。

――あれ?ご主人さまはさっき、柚木を抱きしめて……

ううん。死んだ。死んじゃったのよ。もう、会えないの。

――そんな。さっき笑いながら、ご主人さまが生まれた南の土地の話をしてた。それで、それで柚木に、抱きしめられて。

柚木?柚木って、なに?

――…あれ?柚木って、何だっけ…?ご主人さまを、抱きしめたもの。

ご主人さまは、ずっと1人だったわ。そんな子が居るはずない。柚木は多分、ウイルスのこと。…だって思い出して。憎いでしょ、殺したいでしょ、ご主人さまから、引き離したいでしょ。

――引き離したい…?うん、引き離したい。一緒にいてほしくない。

そう、だからウイルス。…でももう遅いのよ。ご主人さまは死んだから。ビアンキの手も、足も、ないのと一緒。助けられなかったんだもん。

――ご主人さまに届かない手足。…ないのと、一緒。

だから、墓標を作りましょう。大好きだった、ご主人さまのために。密かに想ってた、あの人の綺麗な瞳を、たくさん、たくさん、たくさん集めて、花束みたいに飾りましょう。ほら、凄く綺麗だよ。…全部、飾り終わったら、あの『最後の』紅い扉を開けましょう。私とご主人さまの、最終章。

…紫色の扉の向こうに、紅い扉。
飛び散った血みたいに、紅い扉。
 
 

 
後書き
第十三章は3/30更新予定です。 

 

第十三章 (1)

地下の階段を降りると、ボイラー室から這い出してきた紺野さんがトランクを提げて階段を駆け上がってくるところに出くわした。
「…姶良」
「どうしたの。捕まるよ」
事情は大体分かってたけど、念のため聞いてみた。
「…今まで、悪かったな。タクシー代出すから、お前らもう帰れ」
ぎりっと拳を握って、紺野さんは僕を避けて更に階段を上ろうとした。
「見捨てるんだ、『彼』も」
紺野さんを見ずに呟いた。トランクが、どさりと落ちる音がした。
「それに開発室の面子も、MOGMOGを信じて買ったユーザーも、全部」
「…人の命には、代えられないじゃねぇか…!!」
腹の底から、搾り出すような声だった。…流迦ちゃんの懸念は、当たった。この人は、必ず『人間的な選択』をして、自分を追い込むんだ。
「追跡の結果、聞かないの」
「…………」
「彼のノーパソを持ってた人が誰だか、見当がついたんだ」
「…………」
「流迦さんを人質にしてる烏崎、だよね」
「…何でお前が知ってる?」
僕はわざと、さりげない口調で答えた。
「流迦さんに、伝言頼まれたんだ」
「………なんだと」
「受付に烏崎が現れたのを察知したときに、自決用の毒を奥歯に仕込んだ。だから安心して、烏崎を回避してくれ…てさ」
「それを聞いてお前はどう答えたんだ!?」
「分かりました、帰って伝えますって」
「何故俺にすぐ連絡しなかった!!」
紺野さんが僕の襟首を掴んで、壁に叩きつけた。昨日の怪我とあいまって激痛が体中を駆け抜ける。駆け寄ってくる柚木を制して、僕は言葉を続けた。

{{i473()よ。とっても綺麗な女の人』
「八幡さん…」
聞き覚えのある名前だった。確か、紺野さんが山奥に軟禁された時に、生贄代わりに置いていかれた新入社員、とかじゃなかったか。紺野さんに目配せすると、彼も小さく頷いた。
「八幡、志乃か…ったく、こんなことにまで巻き込まれやがって要領の悪い…!」
「分かった、八幡さんの言う事をよく聞いて、大人しくしてるんだよ」
『これで納得したか』
「えぇ。珍しく落ち着いてますね。その、八幡さんという女性の方が傍にいてくれているお陰ですね。…彼女、家族以外の男が苦手で。紺野さんには良くして頂いてるから慣れたみたいですが、よく知らない男と二人きりにされると、暴れだしたり、自傷行為に及んだりすることがあるんで、その…気をつけてください」
言い終わる前に、電話は一方的に切れた。携帯を紺野さんに差し出すと、毒気を抜かれたような顔で、おずおずと受け取った。
「…姶良、何をする気だ」
「データは渡さないし、流迦さんも取り返す。ボイラー室に戻ろう」





「今、どういう状況になってるかというと」
ルーズリーフにペンを走らせて『リネン室』『隔離病棟』『ボイラー室』と書いて○で囲み、『紺野』『烏崎』『流迦』『八幡』と、それぞれの現在位置を書く。
「僕らがデータをリネン室に置いて、流迦ちゃんの携帯に連絡すると、烏崎たちが回収する。そして、烏崎たちの監視のもと、紺野さんが自首。そこでようやく、彼女を解放する…と」
「……そうだな」
柚木も、不安げに覗き込んでくる。目が合ったときに微笑み返すと、ふいと顔を逸らされた。…これは、サークルでも『隠す方向で』かな…。
「まず向こうの人数は、昨日と変わりなければ、死んだ武内を含めて4人。だから今は3人のはず。そこで、データは重いということにして、そのうち2人をリネン室に向かわせた。…さっき、流迦ちゃんが電話口で『八幡さんという女の人は優しい』と言ってたから、八幡さんが流迦さんのもとに残るように、誘導しておいたよ。だから、この2人が回収に行ってる間は、流迦さんの周りは、その八幡さんだけだ」
「お前な……」
紺野さんが、頭を抱えた。
「俺達は隔離病棟に入れないんだぞ!周りを手薄にしたところで、どうにもならないじゃないか!」
「…ところが入れるんだな!」
カードキーの情報が入った携帯をかざすと、僕が言おうとしてたことを一瞬で察知したらしく…やっぱり頭を抱えた。
「あいつは…!まだこんなことしてんのか」
「今回はこれで助かるんだから」
「問題はカードキーだけじゃねぇよ。…隔離病棟の入室チェックが、あるだろうが」
「…そうか。あそこをなんとかしないと…受付のおじさんが、トイレに行くのを待つ?」
「そんな悠長なこと言ってられないぞ。こっちの連絡があまり遅くなると、怪しまれる」
「うーん……」
その時、柚木がすっと立ち上がった。ナース服はまだ着替えていない。
「要は、あいつらがリネン室に入れなければいいんだよね」
「え……?」
「連絡してもいいよ。…私が、時間を稼ぐ」
柚木は、外していたナース帽を再びかぶった。



絶対に間違えないように、リネン室までの見取り図と方位磁石を持った。適当ながらくたを詰めたトランクを2つ載せて、上から毛布で覆い、万一の場合にMOGMOGにナビゲートしてもらえるように、紺野の携帯をポケットに入れる。絶対間違っちゃだめ。そう、何度も自分に言い聞かせた。人の命がかかってるんだから。
「準備が終わったら、流迦さんにメールを入れて、リネン室を離れる。そして彼らがリネン室に近づいてきたら、それとなく警戒して、入りづらい雰囲気を作る…いいね、絶対に無茶はしちゃだめだよ」
「…うん」
自分を送り出す時の、姶良の心配そうな顔を思い出して、少し口元をほころばせる。…大丈夫だよ、子供じゃないんだから。
幸い、誰にも警戒されずにリネン室にたどり着いた。トランク2つを、わざと見つかりにくい場所に隠して、上からシーツをかけた。そして、流迦にメールを送信する。
送信した瞬間、じっとりと手が汗ばんでくるのを感じた。動悸が止まらない。…人を2人も殺した奴等に、『合図』を送った…。そう、想像するだけで、胃が痛くなった。



ご主人さまが、いつも私に微笑みかけてくれた、ディスプレイ。もう、何も映さない。永遠に、何も映さないんだ。
ビアンキ…って、笑いかけてくれたご主人さまは、もうどこにもいない。
だから、飾ろう。ご主人さまが私を見てくれた数だけの瞳を、ディスプレイいっぱいに飾るの。キラキラ光って綺麗。その中で、ご主人さまに見守られながら、私はずっと眠る。ずっと、溶けて消えてしまうまで。

紅い扉は、最終章。

私と、ご主人さまの。…あれ?最終章?
ご主人さまは、死んだのに。

私とご主人さまに、まだ、続きがあるの……?
でも、もうおしまい。これが終わったら、全部おしまい。
紅い扉に、そっと手をかけた。

……これ、なに……?
このひとたちは、なんでわたしのごしゅじんさまを
のこぎりで、ごりごり、わけるの?

いたいよ、いたいよ、だめ、そんなことしちゃ……
なんで、いたいよって、いわないの?なんで……

だいすきな、ごしゅじんさまが、のこぎりにごりごり、かじられる。
あかいにくが、ぴりぴりぴりって、やぶけるおと。
てが、あしが、ぼとんぼとんおちる。…わたしと、おんなじに。

ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゅ。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃ、どさ。
めりめりめりめりめり…ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃり。

いやな、おと。ごしゅじんさまのこえが、ききたいよ…。
ねぇ、のこぎりにいっぱいついてる、あかくて、つやつやしたの、なに?
ごしゅじんさまのおなかから、いっぱい、いっぱいぼろぼろでてきてる
くろい、あかい、あれはなに?へびみたい。
みたことない、ごしゅじんさまの、なかみ。
ねぇ、これはなに?

すごくわるいゆめ?

ごしゅじんさまのあごが、がくがくがくがくがくがく、のこぎりがゆれるのにあわせてがくがくがくがく…がくがく…あ、とまった。

ごろん…

めが…ごしゅじんさまのめが…ない…!
だいすきだった、めが……ないよ……!!

『……置け』
ことり…わたしのまえに、ふたつのとうめいな、つつがおかれた。なんかういてる。ぷかぷか、ぷかぷか。ぷか……

めが…。くろくて、ふかくて、だいすきだった……
ごしゅじんさまの、めが……

つつのなかから、わたしを、みて…る……


……いゃあぁあぁぁぁあああああああぁぁぁああぁぁ!!!!
なんで、なんで眠らせてくれないの!!!
ご主人さまをばらばらに、のこぎりで…ばら…ばらに……しておいて……

優しい声も、髪も、あの笑顔もぜんぶぜんぶぜんぶ奪って
まだ私だけ動かすの!?逆らえないの!?
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてぇえぇぇえええぇぇぇ!!!!


―――網膜認証、開始―――


……たすけて……だれか……たすけて……たす…け………



人気のない病棟の廊下に、2人の男が息を潜めていた。リネン室の様子を、しきりに伺っている。
「…くっそ、あの女まだいるのか!」
「えぇ…整理かなんか始めたみたいですね」
大柄なほうの男が、いらいらと壁を蹴った。
烏崎たちがリネン室に近づいてくる気配を感じたとき、柚木は向かいの通路からリネン室に飛び込んだ。…それから30分になる。
当初の予定では、烏崎たちが近寄ってきた瞬間を見計らってリネン室の前を警戒するにとどめるはずだった。しかし、烏崎の姿を見た瞬間――焦りが昂じた。つい、飛び込んでしまった。…そして柚木は、リネン室の中で静かに息をひそめていた。…携帯が鳴るのを待ちながら。

「なにをそんなにリネン室にこもる用事があるんだ…!」
しばらく、沈黙が流れた。誰かが廊下を通るたびに、さりげなさを装って壁にもたれる。烏崎が、顔を上気させて呟いた。
「…なぁ。なんかおかしくないか」
「…え?」
「もう30分近くなるぞ。…もっと優先する仕事があるだろうが」
「そういや、そうですが…」
「ありゃ、サボりだな。…なぁ、悪いナースには、おしおきが必要だよな…?」
彼らがリネン室の柚木を不審に思い始めたことに、柚木は気がついていなかった。





隔離病棟入り口付近の自転車置き場に、僕らは潜んでいた。鉄錆が浮いたポールにトタン屋根が取り付けられて、一応自転車置き場の体裁を成している。でもこんな山頂まで自転車を漕いでくる馬鹿はそうそういないから使われることもない。隔離病棟の入り口も丸見えだし、絶好の潜伏場所だろう。と、紺野さんが5秒で決めた。
「動かないなぁ…」
「あぁ…年寄りは尿が溜まらないのか」
「逆に近くなるんじゃないの…」
もう、30分以上経つ。…とはいえトイレに行くスパンで考えれば全然短いので、トイレに立たないおっさんが異常だとは言えない。
「まだか!じじい尿管結石じゃねぇのか」
「…なんで知らないじじいの尿の具合に、こんなに気を揉んでるんだ、僕らは…」
「――この日が、のちの世で『日本一の尿検査士』と謡われる姶良壱樹の、人生の分かれ目になろうとは、当時の彼は知る由もなかった…!」
「不吉なナレーションつけるのやめろよ…この後じじいの尿と一悶着あるみたいだろ」
…ここはトタン屋根以外の遮蔽物のない山頂。容赦なく叩きつけてくる寒風に晒されて、指がかじかんできた。
「柚木、無茶してなければいいけど」
「いくら何でも30分もリネン室周りをうろうろしてたら、怪しまれるぜ。これ以上は柚木ちゃんが危ない。…強行突破するか」
「………仕方ない」
紺野さんは重い腰をあげて、駐車場までの距離を測る。
「いいか、最悪の場合、流迦ちゃんを奪還後、八幡を人質にして車まで走る。お前と柚木ちゃんは置いていくから、途中まで手伝ってくれ」
「いや、付き合うよ。僕は軽犯罪で済むだろう」
景気づけに拳をぶつけ合い、駐輪場をあとにする。ふと思い出して、柚木にメールを打った。『終了』。
送信が済んだ瞬間、ぎゃきゃりきゃりずどーん、という金属が岩肌にぶつかって横転するような音が背後から聞こえた。受付の職員や、待機中の刑事がわらわらと出てきたので、慌てて駐輪場に引き返す。
「な、何だありゃ」
「…交通事故、だね。担架担いでる」
「病院の前で事故か。用意がいいことだな」
職員の1人が、隔離病棟の受付まで走ってきた。異音に不審を抱いた受付のおじさんは、傍らの老眼鏡を取ると、つっかけのまま自動ドアの前に走り出た。
「なんだね、今の音は!」
「た、大変なのよ、少しでも男手が必要なの!ちょっと来てちょうだい」
「…事故か?」

「病院の送迎バスと、なんか汚い自転車が接触して…バスが横転したのよ!!」

汚い自転車の主には申し訳ないと思うし、心から冥福をお祈りしよう。でもこれは貴重なチャンスだった。受付のおじさんが遠ざかるのを確認すると、僕らは隔離病棟の入り口に滑り込んだ。



メールの着信音と同時に、烏崎がリネン室のドアに手をかけた。小柄な男が、踏み込もうとする烏崎を弱々しく制する。
「…やめましょうよ、これ以上はもう…ごめんですよ…」
その声は、泣く寸前のように裏返っていた。
「…あの女、俺達の人生がかかってるこの状況で呑気にサボりやがって…犯ってやる犯りゃあ泣き寝入りするだろうが!!」
「どうしちゃったんですか!…こ、こんなこと、状況悪くするだけですよ!!」
「これ以上悪い状況があるか!!」
乱暴にドアが開け放たれた瞬間、柚木は烏崎に背を向けたまま、ぐっと息を呑んだ。白衣の下を冷たい汗が伝う。携帯を持つ手が汗ばみ、震えた。

―――ごめん姶良。…最悪の状況だね。

メールの着信を知らせる音は、まだ鳴り続けている。この病院のどこかで、姶良が呼びかけてきている。
…初めての遠乗りで、サークルの皆とはぐれた。もう戻れないかもしれない…そんな時、携帯が鳴った。『今、そこから何が見える?』電話の主は、不思議なイントネーションでそう言った。うまく伝えられない柚木に『一番特徴的な建物を写メして、送って』と、落ち着いた声で伝えた。遠浅な海の波みたいな声だな、とその時感じたのを覚えてる。…その後のナビゲーションは、まるで柚木が見えているようだった。『僕は千里眼なんだよ』と笑顔で言われたら信じてしまいそうな、黒くて深い瞳をしていた。
彼は柚木が不安に駆られるたびに、優しい声でこう言う。

―――落ち着いて、柚木。必ず戻って来れるから。

いつもそう言ってくれたから、暗がりも、よく知らない脇道も、全然怖くなかった。あの声を聞くように…そうだ、姶良の声を聞くように。
―――柚木は、携帯を耳に当てた。
「…もしもし!」
柚木の後ろの気配が、ぴたりと歩みを止めた。
「…あぁ、その件なら婦長に申し送ったよ。…へー、まじで?」
一旦言葉を切り、わざと驚いたような大声を出した。
「そこに、警官いるんだ!」
じり、と気配が遠ざかるのが分かった。
「なになに、なんか事件とかあったのかな!?…人殺しとか、紛れ込んでたりして!!」
背後で慌しく靴音が乱れ、遠ざかっていった。…冷や汗が、全身を伝った。
『…必ず、戻るからね^^』
そう返信して、リネン室をあとにした。
 
 

 
後書き
(2)に続きます 

 

第十三章 (2)

柚木からのおかしな返信に首を傾げつつ、電子ロックを解除する。
「必ず戻る…って」
「柚木ちゃん、まじ方向音痴だからな…」
最後の『開発分室』の電子ロックを解除する。紺野さんの話では『八幡はちょろい』ということだけど、こういう状況で誰にも油断なんて出来ない。しばらく壁際に潜んで、反応がまるでないことを確認すると、思い切って踏み込んだ。
「八幡ァ!!………?」
紺野さんが、怒鳴り込みの勢いのまま、ふにゃふにゃと語尾を濁してしまった。…結論から言おうと思う。

――八幡は、僕の想像以上にちょろいひとだった。

「…はぐ、……ふぐ」
何か言ってるけど、よく聞き取れない。…さるぐつわをはめられているからだ。…そして、彼女は動けない。…ベッドの支柱に、荒縄で何かのプレイっぽく縛りつけられているから。そのベッドの上で、ルービックキューブを高速で回転させながら、流迦ちゃんがくすくす笑っている。



「なんだ、あの縄…どこをどう通ってるのか…」
「………八幡ぁ!!」
紺野さんが叫んで、僕の携帯を奪った。
「なっ」
「…実にいい縛りだ!!」
叫びながらものすごい勢いで写メを連写し始めた。…うわあぁ!僕の画像フォルダに荒縄でいやらしい感じに縛られた女性の画像がみっちりと!!
「ちょ…ちょっとやめてよ!こんなの見つかったら怒られるよ!」
「あン?誰にだ」
「や!その…親とか…ほら…」
「そんなことより、解いてあげたら?」
流迦ちゃんの声に、はっと我に返る。八幡と呼ばれた荒縄の女性は、しくしく泣きながらいやらしい縛られ方のまま支柱にもたれていた。
「あ…すみません、ちょっと待って」
とりあえず、さるぐつわを先に外す。…間近で見ると、眼鏡の奥でうるむ切れ長の目と、リップが乱れた口元が色っぽくて、綺麗な人だ。さるぐつわを外されて、ふっと浅く息をついた唇の形は、柚木の次くらいに僕好みだった。…夜道で会ったときから、ちょっと綺麗な人だなと思っていた。明るいところで見ると、柚木とはまた違う華奢な美貌で、こう…思わず見惚れてしまった。
「姶良!その女に気を許すな!…そいつは敵だ、もう少し放置しておけ!!」
「ちょろいって言ってたくせに…解くよ、じっとしてて」
「ちっ、つまらん…送信っと」

―――送信?

「そ、送信ってあんたまさか…」
「あ、大丈夫大丈夫…俺のケータイにだから」
「…紺野さんの…って、柚木に持たせたやつじゃないかぁ!!」
携帯を奪い返して送信中止を死ぬほど連打したが、時既に遅し。2、3秒ののち、液晶に『送信完了』と表示された。
「…………あぁはあぁぁ」
情けなく空気が吹き出すような声がまろび出た。交際45分にして、早くも破局の足音が。
「あ、悪い悪い。すっかり忘れてた。これじゃ、俺達が敵の女幹部を捕獲してHなお祭りに興じてるみたいだな。あはははは」
「あははははじゃないよ!こっ…こんな写メを女の子に送りつけて!あんた、エロ画像を見せて女の子が恥ずかしがるのを楽しむ変態なんじゃないか!?」
「…嫌いじゃないぜ、そういうのも」
「………エロ画像でも何でもいいから解いてください………」
八幡が泣きそうな声で呟くのを聞いて、流迦ちゃんがげらげら笑い出した。
「おっおい、そんな大口あけて笑うな、間違えて噛んだらどうする!…さ、口の中のものを出せ!!」
「…口の中?」
けげんそうな顔で、紺野さんを見返す流迦ちゃん。八幡の縄を解きながら、僕は内心ヒヤリとしていた。紺野さんにデータの受け渡しを思いとどまらせるために、『流迦さんは自決用の毒を奥歯に仕込んだ』と、嘘八百を並べ立てて涙まで流させたのは、僕だ。
――どうしよう。本気の紺野パンチを食らうかもしれない。いや、パンチなんて可愛いものじゃなくて『紺野殴打』かもしれない。
「お前が奥歯に仕込んだ毒だ、早く出せ!!」
紺野殴打に備えて身構えた瞬間、流迦ちゃんが薄笑いを浮かべた。
「…珍しく、勘がいいのね」
彼女はハンカチで口元を覆い、赤いカプセルを吐き出した。そしてちら、と僕の方を見た。

――本当だったのかよ!

…脚ががくがくして動けない。この計画が失敗してたら、流迦ちゃんは本当に毒のカプセルを噛み砕いてたのか、と思うと嫌な汗がどっと出た。
「ったく、こんなもん何処から…」
「薬品棚は、電子ロックにしないことね」
「全部済んだら、病院に進言してやる」
そう言うと、泣きそうになりながら手足をさする八幡に手を貸して、立ち上がらせた。
「お前も馬鹿なことにばかり巻き込まれやがって…で、なんだこれは。あいつらか」
「これは…この子が…」
立ち上がり、しくしく泣きながらボタンを掛ける八幡。漢文の授業で聞いたことがある『雨露をふくむ梨の花』という表現を思い出す風情だ。…泣いてた理由にさえ目をつぶれば。
「…おじさんたちが戻ってくるまで、手品ごっこして遊ぼうって…なんか、縛り方が変だなぁと気がついた時には、もうこんなで…」
「…お前、かわいそうなほど馬鹿だな」
「……放っておいてください」
自分が縛られていた縄を片付けながら、まだ涙をぬぐっている。僕は、ずっと気になっていた事を聞いてみた。
「なんで、あいつらに肩入れしたの。あなたは、そういう人に見えないんだけど」
「肩入れしたというか…その辺にいたから巻き込まれたというか…。私は伊佐木課長のアシスタントをしてて…そしたら、烏崎さんが、伊佐木課長からの直々の指示だから、アシスタントのお前も手伝えって…」
涙を拭いながら答えた。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう…」
「自業自得だ、馬鹿」
緊縛画像をあらためながらも、紺野さんが容赦なく言い放った。
「で、お前はどうする気だ。俺達は流迦ちゃんを奪還して雲隠れするぞ」
「私は……ここに、います」
流迦ちゃんが、くく…と小さく笑ってベッドから飛び降りた。
「殺されるよ、あなた…」
「…私が、『あの人』を裏切るわけにはいかないもの」
僕も紺野さんも、黙ってしまった。笑っているのは、流迦ちゃんだけだ。
「……後悔は、しないんだな」
「しません」
そう言って、弱々しく笑った。…たまらなかった。こういう人に、僕が何を言っても無駄なんだろう。
「――あーあ、『荷物』が増えちまう」
「え」
僕の反応より、八幡の反応より早く、紺野さんの右手が八幡の腹を打った。どむ、という鈍い音とともに、八幡が崩れ落ちた。
「…冗談じゃねぇぞ。折角のお宝画像が、遺影になっちまう」
「あんた、鬼畜か」
「流迦ちゃん、縛っとけ。…さっきの縛り方でな♪」
「はーい」
「こっ、こら、駄目だよ!貸して、僕が縛るから!」
「ま、生意気。…私の『縛り』に、張り合う気?」
「マニアックな縛り方を競いたいんじゃないよ!…ほら、戻るよ」
八幡が暴れられない程度に緩く縛ると、肩に抱えあげてみた。…重い。信じらんないくらい重い。脱力した人間は重いとは聞いていたけど、ここまでだったとは。ふらふらしてると、紺野さんが脚の方を持ってくれた。
「…詰めが甘いわね、姶良」
「なっ…なんだよ、これ以上女の人に酷いことを」
「その女のことじゃない」
流迦ちゃんは薄い微笑を浮かべながら、窓を顎でしゃくった。窓から見下ろせる渡り廊下を、血相を変えて駆けてくる烏崎が見えた。
「データは入ってない、携帯には紺野が出ない。…相当、きてるんじゃない」
「…ふーん、そうだね。放置するのは、まずいね。…ねぇ流迦さん。ここの電子ロックの情報を把握してるってことは、ちょっと書き換えも出来るってことだよね」
「同じ事を、考えてたとこよ」
僕の眼を覗き込んで、綺麗な弓形に唇を吊り上げた。僕も笑い返した。…血縁って不思議だ。幼い頃の僕が知ってる『流迦ちゃん』は、本来の流迦ちゃんじゃなかった。なのに、10年ぶりに会う流迦ちゃんと僕は、互いの考えそうな事が手に取るように分かる。流迦ちゃんの思考に感化されるみたいに、僕の思考も加速していく。…僕たちはとても『相性がいい』。
少し、脳がピリピリする感じがする。いつも僕の思考にフィルターを掛けてせき止めていた何かが、麻痺してるような…。でもそれは多分、ただ単に僕の思考を妨げるもの。あっても何の役にも立たないもの。働く必要のない器官だ。
「じゃ、ここから近くて、てっとり早く潜める所を教えてよ」
「イヤ。どうせ見取り図、覚えてるんでしょ」
「…まぁね」
――何だか、気分が高揚してきた。さっきまでの追い詰められた気分が徐々に薄らぎ、罠を仕掛けて叢で獲物を待つハンターのような、嗜虐的な感情に取って代わった。傍らで不敵に微笑む僕の従姉妹が、すごく頼もしい。流迦ちゃんとなら、何でも出来そうな気がする。
「この先の角でいいだろう」
「充分ね」
僕らは、お互いの目を覗き込みながら微笑みあった。



「……いない!誰もいないぞ畜生!!」
烏崎ともう1人の小柄な男が、流迦ちゃんの部屋になだれ込んでくるまでに、それから5分と経たなかった。部屋の中央に乱入して、ベッドの下やテレビの影を物色している。僕はそっとドアに忍び寄り、電子ロックに携帯をかざした。ランプが一瞬赤色に激しくまたたいて、ふっと沈黙した。…口元に、嗜虐的な笑みが広がるのを感じる。この感情の高まりに呼応するように、キューブが回転する音が高まった。
「終わったよ、流迦さん」
流迦ちゃんは、薄く微笑んで僕を迎えてくれた。
「いい子ね。…さ、やるわよ」
「うん」
「…おい、何だよお前ら」
紺野さんが、うろたえたような声を出した。…そうか。紺野さんには、今何が起こってるのか、さっぱり分かってないんだった。僕たちは目を見交わして、また笑った。
「あいつらは、もうあの部屋から出られないんだよ」
「そう。電子ロックの情報を、書き換えてやったの。あいつらもカードキーを盗むなり奪うなりしたみたいだけど、これでもう、あのカードキーでは出入りできない」
部屋の方から、ドアを何度も蹴りつける音が聞こえてきた。腹の底から可笑しさがこみ上げてきた。
「…そうか。なら、もうここには用はないな。さっさと戻るぞ」
「詰めが甘いよ、紺野さん」
流迦ちゃんから一瞬目を離して、紺野さんの目を覗き込んだ。…不審なものを見るような顔をしている。本気で可笑しくて、大笑いしそうになった。
「今は外の交通事故で混乱してるけど、夕方になったら看護士の巡回がある。この檻は、時限装置付きなんだよ。…今のままじゃね」
「…何する気だ、お前ら!」
ふい、と顔を背けて紺野さんを視界から外した。この人は、まだ分かってないんだ。その『人間的な選択』が、どれだけ自分を追い込んできたのか。僕は流迦ちゃんの指が、ノーパソのキーボードの上を滑るように動くのを、ぼんやり見ていた。
――やがてノーパソの画面に、髪を乱して部屋をうろつきまわる二人の男が映し出された。
「これは?」
「んふふ、部屋の液晶テレビの上に、カメラをつけておいたの。こっちの映像を送ることも出来るわ」
「それは面白いね」
「さ、始めましょう」
部屋にいる二人の姿が、液晶の光に照らし出されて白く変わった。ぎょっとしたように液晶を覗き込んでいる。…笑いが、止まらない。
『…お前、これはどういうことだ!!』
口元を手で隠してくすくす笑いながら、流迦ちゃんが答えた。
「それを知ってどうするの…?ただ単に『そういうこと』よ」
『八幡はどうした!?裏切ったのか!!』
なんで今、八幡を気にするんだ。知ったところで状況が変わるわけじゃないのに。そう考えると可笑しくなって、ますます笑いが止まらない。
「だから、そういうことなんだよ。僕の後ろで、ぐるぐる巻きになって気絶してる」
『てめぇ…昨日のガキか!!』
「あはは…その節はどうも」
『…誰なんだてめぇは!!』
「んー?…狭霧、郁夫ってことにしといてよ!」
あははぁはは、狭霧郁夫!自分で言ってて可笑しくなって、げらげら笑った。
『…あれはてめぇか!よくも騙しやがったな!!』
「昨日はよくも、柚木を泣かせてくれたな」
僕は声を低く落として、囁くように言った。
「…15ヶ所?…切り刻んだんだ、そんなに。…ねぇ、どうだった?血の匂いとか、肉の裂ける感じとか、内臓が腹からぶよんってまろび出てくる感じとか。中々、切れない筋があったり、骨がなかなか外れなかったり。…骨は何で切ったの。鉈?鋸?」
『や…やめろ…』
「切っても、切っても終わらない。切り終わっても、ずっと終わらない。耳から、骨を切った時の音が離れない!あんたの頭の中は、今でも自分が引きちぎった肉と臓物でいっぱいだ!!あはははははは!!」
『ぐっ…うぶっ…!!』
画面の向こうから、何かが破壊される音と、誰かが呻きながらえづく音が聞こえてきた。…脆いな、こいつら。そう分かると、自分でも不思議なくらい嗜虐的な感情がわきあがってきた。



「姶良ばっかりずるい。…ねぇ、ちょっと試してみたい音源があるの」
「へぇ?どんな?」
「カールマイヤーって、知ってる?」
「なに、それ」
「ナチスの人体実験で使われた、精神崩壊を目的に作られた音楽。毎日何時間も繰り返し聞かせることで効力を発揮するものだけど、私の作った音源は、そんなまどろっこしいことはしない。10分あれば、充分」
「へぇ、それはいい。…看護士が巡回に来る頃には、永久に口封じが出来てるんだね」
「そうよ、永久に…ふふふ」
顔を吐しゃ物まみれにして恐怖で顔をこわばらせる二人。必死で液晶の電源を落とそうとするザマが滑稽だ。そんなのは無駄なのに。液晶が壊れれば、部屋のスピーカーから流す。僕らが顔を見交わしてにっこり微笑みあった瞬間、激痛とともに目の前に火花が飛び散り、ノートパソコンが『ぱたり』と閉じられた。
 
 

 
後書き
第十四章は4/6更新予定です。 

 

第十四章

「お前らぁ!自分が何しようとしてたか分かってるのか!?」
紺野さんが、怒鳴っている。薄暗いようでいて意外と明るいボイラー室の床に、僕と流迦ちゃんは正座させられていた。…もう大学生なのに。何となく釈然としないけど、本気モードの紺野さんが怖くて顔を上げられない。



「や、すんません…僕もどうしてああなったのか…」
さっき、拳骨で殴られた頭がずきずきする。…本当に、なんであんなに嗜虐的な感情がむらむら湧き上がってきたのか、さっぱり分からない。本来僕はいつも、そういうのを止めに回る立場なのに。
「…あんなの、殺したっていいのに。精神崩壊で済ますなんて穏当じゃない」
流迦ちゃんはキューブを取り上げられ、すっかりむくれて、そっぽを向いてしまっている。たまに手で頭をさする。彼女も拳骨を食らっていた。24歳なのに。それでも大人しく正座してるのが意外な感じだ。
「程度の問題じゃない!…お前ら、楽しんでいたぶってただろう」
「あいつらだって!」
「怯え切ってただろうが、最初から!そんなことも分からんのか!!」
紺野さんが、さっと手をあげる振りをすると、流迦ちゃんが子供のように縮こまる。…この二人の力関係は思ったほど流迦ちゃん優勢でもないみたいだ。
「いいか、何があっても人殺しを楽しむようなことはするな!そんなことをやってる限り、俺はお前らとは一緒に行動できないぞ!」
言いたい事をひとしきり怒鳴って、少し気分が落ち着いたのか、紺野さんは少し声のトーンを落として呟いた。
「なんにせよ、お前ら二人を一緒にしておくのは危険だな。流迦は催眠にかけて洗脳しようとするし、姶良は影響受けやすいし…」
催眠と聞いて、流迦ちゃんと廊下で鉢合わせた時の奇妙な眩暈を思い出した。
「催眠て…それじゃあ…!」
「かけられる方にも隙があるんだよ!現に俺は一度もかけられたことがない。それに一緒に怒られてやるのも男の優しさだろうが!」
「そんなむちゃくちゃな!」
「まーまー、そのくらいで。…珈琲、淹れたよ」
柚木が苦笑いを浮かべながら、紙コップに注いだ珈琲を5つ持ってきた。…わざと、むくれてみせる。僕はボイラー室に戻った瞬間、彼女からも鉄拳制裁を食らっていた。
先刻僕の携帯から送信されたエロ画像の女を、僕が担いで入ってきたのを見て、ものすごい誤解をしたらしい。ちょっとまて、違う、そんなはずないだろう!とマシンガンのように放った言い訳を全て一蹴され、八幡ごと吹っ飛ぶような右を食らった。しかも捨て台詞はこうだ。
『…最っっっ低!!!』
…僕はこの一言で死ねる。そう思った。
「…まだ怒ってるの」
言いたいことは山ほどあったけど、紺野さんたちの前で痴話喧嘩を披露して面白がらせるくらい、無益なことはない。僕は力なく首を振った。僕らの微妙な気まずさを察したのか、流迦ちゃんがにじり寄って来た。…紺野さんは渋い面持ちで珈琲をすすりながらも、先刻の緊縛画像をあらためている。…相当、集中しているようだ。八幡は、まだ気絶している。
「…仲直りしちゃったんだ。つまんなーいの」
「もう、何なの!まぜっかえすつもり!?」
柚木が声を荒げた。…やめてくれ、今そういう空気になると困るんだよ…。紺野さんの方をちらっと見る。まだ、緊縛画像にぞっこんのようだ。
「私がどこから見てたか、教えてあげようか」
柚木を無視して、僕の目を覗き込んできた。頭がくらっとする気配を感じて、ふいと目をそらす。
「もう催眠術とか無駄だから。…窓から、見たんだろ」
「ヒント。…私、ぜーんぶ聞いたんだよ。姶良の言葉も、柚木のも。一つ残らず、大声で読み上げてあげようか」
「ちょっ…こいつ!!」
柚木が流迦ちゃんの両頬をむにー、と引っ張る。
「あひらー、ふひー」
「…これ以上喋ると、こうだよ、こう!!」
耳まで真っ赤になった柚木に引っ張られ、流迦ちゃんの頬はますます横に伸びる。流迦ちゃんも抵抗をしない。状況を楽しんでいるのか。
「もふいっはい、いっへー」
「もー!黙れ、こいつー!!」
もうこれ以上伸びないんじゃないかというほど、両頬が横に伸びた。それでも手元のキューブは、間断なく回転して記号めいた模様を作っては消していく。
「柚木、ちぎれちゃうから。…降参、どこから見てたの」
「あなたの、ノーパソの中」
「えっ!?」
そんな至近距離から!?さぁ…と嫌な汗が流れた。
「…それ、ほぼ、全部じゃん…!」
「うん、全部。…ビアンキも、同じものを見てた」
嫌な予感が、腹の中に渦巻いた。胸の中を赤黒いもやが満たすようなあの感じ。…やばい、やばい、やばい、絶対に、取り返しの付かないことが起こってる。
「ノーパソは…!」
「電源、落ちてるみたいね」
流迦ちゃんから半ばひったくるようにして電源を入れる。…認証してくれ、たのむ、認証してくれよ……!
気の遠くなるような読み込み時間を経て、認証画面に切り替わった。異様な雰囲気を嗅ぎつけた紺野さんが、僕の真横に滑り込んできた。…認証完了、画面が切り替わった…
「うっ……わぁああああぁぁああ!!」
思わず、ノーパソを放り出して後じさった。僕の薄暗い液晶画面が映し出していたのは、微笑むビアンキでも、不機嫌なビアンキでもなかった。

そこに映っていたのは、目玉。

何百、何千の目玉。

見間違いようがない、僕の目玉だ。僕の目玉がひたすら、液晶を埋め尽くしていた。
「なっなんだこれ…」
「認証のバグか!?」
紺野さんが僕を押しのけ、なにか色々なキーを押すが、まったく反応しない。ただふよふよ漂う、僕の目玉だけだ。やがてそれらを掻き分けるようにして『何か』が顔を出した。
「……ビアンキ…なのか……?」
千切れたヘッドドレスと、虚ろに濁った瞳が、目玉の海から『ぞろり』と這い出てきた。紫色のドレスが現れた時、全身を鳥肌が覆った。



「腕が…ない…!脚も!!」
『――届かない腕も、脚も要らない』
確かにビアンキの声なのに、何か別のものと重なり合っているような奇妙な音。自分を見ている全ての人間への憎しみが、その無機質な声から溢れ出していた。
「…謝るよ、悪かった。だから、元に戻ってよ…」
声が、震えた。こんな呼びかけが無駄だってことは、分かりきっていた。でも呼びかけずにはいられなかった。
「僕だ、わかるだろ、ビアンキ」
『ご主人さまは、死んだ』
ビアンキの首が、かくん、とおちた。
『死んだ。全身、土の色になって死んだ。手も、足も、体も、もうどこにもない』
目玉を押しのけるように、紅い画像が画面を満たした。…これ、何だ…?紅くて、紅すぎて、なんだかよく分からない。身を乗り出して、画像を凝視した……
「あ…あ……ああぁぁああぁあああ!!」
「きゃあぁああ!!」
ひ、人だ…血に染まった人の肋骨と、切り分けられた腕と…!画面の隅に、生首のようなものも転がっている。頭の中心がずぐん、ずぐんと波打って、今入ってきた情報を拒否する。
…見ていない、僕は、生首の顔を見ていない…!!
「す…杉野――――!!!」
紺野さんの絶叫が、耳朶を打った。
「杉…おまえ、いくら何でもこんな…酷い…死に方…」
よろよろ立ち上がると、紺野さんはボイラーの暗がりに消えた。…やがて、暗がりから低い嗚咽が洩れてきた。柚木は僕の背中に顔を埋めて、泣き崩れた。
『死んだ。透析、出来ずに。死んだ。そして切り分けられた』
間断なく展開されていく画像は、全部紅い。…根元から切断された四肢、生首、ポリ袋に詰められた内臓…そんなものが順繰りに、展開された。…ビアンキ、『そっち』は違う…!戻ってきてくれ、違うんだ!何度も呼びかけた。カメラに、必死に呼びかけた。…でも切り刻まれた遺体の画像は、とめどなく展開し続けた。…やがて、生首から眼球がくりぬかれる情景が、連続写真のように表示された。スプーンが眼窩にめりこんでいく…ずぶり…ずぶり…ずぶ…赤黒い血が、どぷりと噴き出す。太い男の指が、刺さったスプーンをごりごり動かす。眼窩が歪む。やがて、視神経をまとわりつかせた紅い眼球が転がり落ちた。惨すぎて、感情が追いついてこない。……これは…悪夢か……?
「…い…いやぁ…!」
「…やめろ…なにやってんだ…やめろよ…ビアンキ!駄目だ、その画像をしまえ!!」
『目、だけが、残った』
「…うあぁあぁあああああ!!!」
くりぬかれ、硝子の筒に収められた二つの眼球は、血の色に濁って透明な水の中を漂っていた。こみ上げてくる吐き気に耐え切れず、ノーパソの前を離れ、吐いた。
こんな耐え難い状況の中で、流迦ちゃんだけが、冷ややかに水中の眼球を見つめていた。
「こうなることは、目に見えていた。…だから、警告したのに」
「…最初から知ってたのか…?」
かろうじて、顔を上げた。
「『リンネ』が異常な状態にあることは知ってた。近寄るとウイルス感染の恐れがあったから、近寄らないようにしていただけ」
「違う、ビアンキの異変だ。…気がついてたのか」
「言ったはずよ、ビアンキは『欠陥プログラム』だと」
僕を哀れむように一瞥すると、再び視線をディスプレイに戻し、ノーパソに手をあてて、ぱたりと折りたたんだ。



僕らが落ち着き、紺野さんが暗がりから出てくるのを待つように、流迦ちゃんの話が始まった。僕らと、先ほどの騒ぎで目を覚ました八幡の前に、淹れなおした珈琲が置かれた。
「紺野の『ハル』や、柚木の『かぼす』は、商品として完成された、模範的プログラム。でも『ビアンキ』や『リンネ』は、少し違う」
「紺野さんから少しだけ聞いた。ハルとビアンキの間には、決定的な違いがあるって」
「MOGMOGには、収集癖を持つものが多い。これにはれっきとした理由がある」
そう言って、珈琲に砂糖の塊を3個沈める。こぽこぽと細かい泡を吐いて、砂糖は溶けた。
「食欲、睡眠欲、性欲…人の脳は、いろいろな欲求を抱えている。その欲求を満たすことで、生命を維持すると同時にストレスを回避するわ」
「でもそれは、体がないと叶えられないね」
「そう…だからMOGMOGの場合、これらの欲求は、もっと浅い欲求にバイパスするの。収集欲や知識欲なんかの、体がなくても実現できる欲求に置き換えることで、均衡を保つ」
すぐにビアンキの変な癖『おやつ巡り』に思い当たった。僕が一緒に巡ってあげると、とても嬉しそうに笑ったものだった。
「…それが、あんたがさっき言ってた『収集癖』?…かぼすには、そんな癖はないわ」
柚木が、怪訝そうに顔を上げた。
「かぼすがMOGMOGとして起動したのは、ついさっきね。いずれ発動するわ」
「ビアンキにも収集癖があった。…ならばどこが、他のMOGMOGと違うんだ」
流迦ちゃんは、一瞬遠い目をした。ずっと昔、流迦ちゃんが14才だったときに、時折見せた表情と同じ。…ずっと昔に忘れ去っていた、古い感情が疼いたような気がした。
「ビアンキとリンネ…あの子たちの欲求は、収集欲の他にもう一つ、親和欲求にもバイパスさせている」
「親和欲求?」
「誰かと一緒にいたいと願う、その人と仲良くなりたいと思う、そういう欲求。…ともすれば弱さにも繋がる、不合理な欲求よ」
冷たく言葉を切り、珈琲を一口飲む。まるで昔の自分を切り捨てるように、冷たく響いた。
「でもこれが成功すれば、高いコミュニケーション能力を持つMOGMOGが誕生するはず。人間同士のコミュニケーションが希薄な時代だから、それは高い需要が見込める。だから親和欲求へのバイパスは、一種の賭けだった」
一瞬カップから唇を離して、ミルクを流し込んだ。
「これは、とても複雑な欲求なの。誰かと仲良くなれば、その人に認めてほしい、声を掛けてほしい、それに…触れてほしい」
さっきは冷たく切り捨てたのに、焦がれるように遠い目をする。…何なんだろう、この人は。僕まで、またこの人に焦がれてしまいそうになる。
「ビアンキが言ってたよ。姶良を、抱きしめたくなることがありますかって」
柚木が、ぽつりと呟くように言った。その時、何て答えたのか気になったけど、今は聞かないことにする。
「…だから、賭けは失敗だった。複雑な欲求が絡み合う親和欲求だからこそ、『置き換え』の余地があると思ってたの。たとえ触れることが出来なくても、気持ちが通い合うことで満たされるかもしれない、と。親和欲求が満たされなかった時の保険として、収集欲へのバイパスも残しておいたけど、それも無駄だった」
そして長いまつげを伏せて、目を閉じた。
「ビアンキは好きな人と触れ合うことに憧れ、ひたすら姶良との接触に焦がれるようになっていった。そんなことは不可能なのに。…そして、マスターを目の前で殺され、全てを奪われて狂った同胞『リンネ』に触れ、その絶望に飲み込まれた…」
「リンネと接触させなければ、こんなことにはならなかったのか」
紺野さんが、ようやくのように声を絞り出した。顔は髪に隠れて見えない。
「発狂を加速させたのは間違いないけれど、このままだと、いずれこうなっていたわ。…あの子は緩やかにだけど、確実に狂っていった」
「……ビアンキ!」
こんな時なのに笑顔しか思い出せなくて、とめどなく涙が出てきた。
―――酷い。
こんな結末は酷すぎる。
『ご主人さま!』と僕を見るだけで嬉しそうに叫ぶ、ビアンキの声が耳を離れない。あの声は電子の合成音だった。姿も、合成された光の塊に過ぎなかった。

ならばその気持ちも、まがい物だったらよかったのに。

それでビアンキが苦しい思いをしなくて済んだなら、MOGMOGがまがい物でも構わなかった。…狂ったビアンキは今も僕の死に縛り付けられ、繰り返し繰り返し、この惨たらしい悪夢の中をさ迷っている。それは僕の手の届かない、電子の悪夢だ。

――怖くて、苦しいだろう。そんなの、消えてしまうよりも可哀想だ。

「僕に出来ることは、ないの」
「安らかに眠らせてあげるのが、一番だった。もう遅い」
流迦ちゃんは、淡々と事実だけを告げた。そして、自分のノーパソを開き、電源を入れて網膜認証を始めた。
「今回の件は、貴重なデータとして活用させてもらうわ。そのためにも、私はこの件を最後まで見届ける」
「…ビアンキに触れることが出来たら…僕は生きてるって、伝えてよ」
「私は見届けるだけ。修正は私の管轄じゃないし、リスクも大きい」
「そう…」
会話が途切れて、ボイラーの稼動音だけが響き渡る。柚木の掌が、ずっと僕の背中を撫でてくれていた。…ばれるの、嫌なくせに。僕は僕で嫌になるほど、元気だったビアンキの笑顔が、頭から離れない。
沈黙を破ったのは、紺野さんだった。
「……八幡」
「……はい」
「知ってたのか、杉野のこと」
「……ごめんなさい」
「そうか」
僕らを追い詰めたあの夜、八幡が言った事を思い出した。
―――私たちは、人殺しになってしまう。
「彼が死んだのは、昨日の夜なんだろ。僕らを追ってた時は、まだ死んでなかった」
「…はい。帰ったら亡くなってたんです」
「八幡。お前も、手伝わされたのか」
「最初は、鋸、持たされました。でも手に力が入らなくて…切断された手とか足を、洗って毛布で包んで…これは悪い夢なんだって、無理やり思い込んで」
息をついて、膝をかかえて顔を埋めた。
「もう終わらせたい…警察でもいい、死刑でもいいから」
声が震えていた。このまま消えてしまいたいみたいに、小さく縮こまってしゃくりあげた。
「たく…自分より馬鹿な奴見てると、逆に冷静になってくる」
冷めかけた珈琲を一息にあおって、紺野さんが顔を上げた。
「昔誰かに教わった道徳観念にがんじがらめになって、大事な決断まで人任せにして、そんなこと繰り返してりゃ、いずれ痛い目をみるに決まってるだろうが」
僕も、八幡を見ていて同じ事を思っていた。そしてそれは、八幡自身も分かっていることで、今更紺野さんが何を言っても、心をびっちり閉ざして涙ぐむだけだ。そう思っていた。
でも八幡は、意外にもゆっくり顔を上げて微笑んだ。とても弱々しく。
「どう思われても仕方ないです。…でも、一言だけ言わせてください」
「……何だ」
「あの人を信じることだけは、私が選んだ。…それだけです」
それだけ言って、また顔を伏せた。反論も、説得も受け付けないだろう。そして何があっても『あの人』とやらを裏切れない。…こういう生き方しか、出来ない人だ。
「誰なんだよ、あの人って」
空になったカップをもてあそびながら、ふんと鼻を鳴らした。八幡が答える気配はない。またこの場を沈黙が満たしそうになった瞬間、紺野さんの携帯が鳴った。着信を覗き込んだ紺野さんの表情が、険しく歪んだ。
「……伊佐木!!」



『…実に、嘆かわしいことになったね』
初めて聞くその声は、常に中くらいのトーンを保ちながらも、ひどくよく通る声だった。まるで、多くの人に聞かせる事を前提に発声しているような、そんな声だ。
「あんたがそれを言うか。誰のせいでこんな事態が起こったんだ」
『なんの話かな?』
凛とした、同じトーンで話し続ける。…とてもいやな感じがした。なんていうか、自分を覆い隠すことに慣れてしまった奴特有の、たまらなく平面的なあの感じだ。
「烏崎達、しくじったぜ」
『君が、何を言おうとしているのかは分からないが、そういえば烏崎君の姿が見えないね』
「…まぁいい。で?今更俺に何の用だ。万策尽きて、投降のお誘いか」
『まさか。…逆に、君に投降してもらっては困る。あのデータを持ったままでね』
「何が言いたい?」

『取り引きだよ。今なら、逮捕状が出ていない。パスポートは持っているんだろう?…海外への逃走経路と、一生困らない金額を提供する。…君の持っているデータと引き換えに』

紺野さんの口元に、皮肉な笑みがこぼれた。
「俺のデータと、名誉だろ」
『英語はそこそこ堪能だっただろう。英語で生活できる地域を検討する。…そうだ、支社があるインドはどうだい?これからも、わが社で君の優秀な能力を活かしてもらえる』
「ふざけるな…!だったらデータを持ったまま、警察に投降してやる。俺は無実だ、そんなことは裁判でいくらでも証明できる!!」
『そうは行かない。君が私の好意を受け取らないなら、それが君の雇った弁護士に流れる。…それだけのことだ』
「…てめぇっ!!」
紺野さんの歯軋りが聞こえた。
『タイムリミットは、逮捕状が出るまでだ。賢明な回答を願うよ。では…』
「ちょっと待って!!」
紺野さんの手から携帯をもぎ取った。…今、この男と話しておきたい。そして、確認しておきたいことがあった。
『誰、かな?』
「紺野さんの友人です。…ちょっと、聞きたいことがあるんです」
『…困ったねぇ。部外者に聞かれてしまったか』
「僕は巻き込まれただけです。どうしても気になるんだったら、口封じでもなんでも、あとで考えればいい」
『随分、悪者にされたね。…で?』
「あなたは多分、とても慎重な人ですよね」
伊佐木は、何も答えない。僕はかまわず言葉を続けた。
「僕は、亡くなった武内という人に襲われました。その時の画像もばっちり抑えた。襲撃してきたのは4人。主犯は多分、烏崎という人です」
『……憶測だね、烏崎の件は。武内はただ単に、酔ってたのかもしれない』
「ゆする気で言ったんじゃないです」
『じゃ、何かな』
「ちょっと、大雑把すぎないかと思って」
伊佐木が何も返してこないのを確認して、話を続けた。



「最初、あなたが指示してるのかと思いました。でもそれにしては、ありえない杜撰な計画だなって。拉致失敗した上に写メ撮られて、流迦さんはやすやすと奪還されて」
『………なるほど』
「――協力者の杉野さんを、バラバラにして都内15箇所に埋めたことも含めてね。しかも、僕に全部の隠し場所をバラして」
『………!!』
伊佐木の喉が鳴る音がした。膝を抱えていた八幡が、ふいに立ち上がって何か言いかけるのを、紺野さんが口を塞いで取り押さえる。…八幡が大人しくなったのを見計らって、話を続けた。
「こんなこと聞くの、無駄かもしれないけど。…これ、全部あなたの指示ですか?」
『……なんだそれは』
それはもう、さっきまでのような凛とした声じゃなかった。心拍数の高まりと呼吸の荒さを露骨ににじませた、上ずった声だ。
「訳わかんない、ですか」
『…一から十まで、分からないことだらけだよ』
押し殺したような声で答えて、最後に低い笑い声を付け足した。
「そうですね。…少なくとも思慮深い人が、こんな危ない橋を渡ると思えない。うまいこと紺野さんを海外に追い出して武内さん殺しの汚名を着せたとしても、今度は杉野さん殺しも処理しなきゃいけないんだから」
『……君は一体、誰だ?』
「紺野さんの、友人です」
それだけ言って、携帯から耳を放した。紺野さんの手に戻る頃には、携帯は切れていた。
「取り引きは、反故かな」
「願ったり叶ったりだ。あんなカレー臭い国でマハラジャとして余生を過ごす趣味はねぇ」
「えー、いいじゃん、マハラジャ。友達がインドでマハラジャやってるって自慢したーい」
柚木がマハラジャに食いついた。…なんでマハラジャの友達が欲しいんだ。そんなもん自慢したら、自分まで不思議な人種だと思われちゃうじゃないか。
「なんで君のオモシロ人脈を充実させるために、俺が人生賭けるんだ。ガンジスのおいしい水で淹れた珈琲を毎日飲めというのか」
「インド人全員がガンジスのほとりで生きてるわけじゃないよ…」
軽めに突込みを入れてから、八幡と目を合わせた。…八幡は、もじもじしながら視線を自分の膝に落とした。
「…なんですか」
「あのさ…伊佐木って人、多分、烏崎のやってること知らないよ」
「なっ…!!」
八幡が、ばっと顔を上げた。
「そ、そんな…だって…」
「大まかな指示は出しただろうね。…紺野さんのやってる事を突き止めろ、とか、MOGMOGを奪えとか。だけど烏崎が拉致や殺しにまで手を染めたことは、多分知らない」
「…なんで、そんなことが分かるの」
「杉野さんのことを持ち出した途端、簡単に動揺した。…あんな慎重な人が、この件で一番の爆弾とも言える杉野拉致について、なんの理論武装もしてないなんて変だ」
僕の言葉が終わらないうちに、八幡は背骨がぽっきり折れたみたいに崩れ落ちて、そのまま動かなくなった。…どんな顔をしていいのか、分からなかった。それはまるで、遠い昔の僕自身を見ているみたいで…。

「だから言ったんだ…これからどうするんだ。ひとまず、俺達と行動するか。…おい、大丈夫か、おい…」
紺野さんが八幡の頬を、手の甲で軽く叩いた。八幡は少し傾ぐだけで、何の反応も示さない。ただひたすら、魂を抜かれたような顔つきで床を見つめていた。
…なんだか堪らなくなって、紺野さんを押しとどめた。
「少し、放っておいてあげよう」
「…あぁ」
妙な顔をして、紺野さんは手を引いた。さっきまでノーパソと睨み合っていた流迦ちゃんが、ふいと顔を上げた。その唇には、ひどく酷薄な微笑が浮かんでいた。
「うふふふふ…楽しみね。伊佐木はどう動くかしら。あの人たちを切り捨てて、紺野につくのかしらね」
「いや…かばい続けるのもそうだが、切り捨てるのもリスクが大きいぞ。あいつが捨て鉢になれば、会社の内部事情を洗いざらいぶちまけられるからな」
「墓穴だね。策士、策に溺れるっていうやつだ」
「お前も倣わないように気をつけろよ」
紺野さんに釘を刺される。まださっきのことを根に持っているみたいだ。
「分かったよ…でも、こういう流れになったならさ、彼らをかばう旨みを排除しちゃえば、伊佐木はこっちに寝返るんじゃないか?」
「あ、でも待て」
紺野さんが、そっと八幡を振り返る。
「八幡、お前の事は俺達が証言して弁護する。とにかく今は、協力してくれ」
八幡は相変わらず床を見ている。もう、何もかもどうでもいいみたいに。柚木が八幡につかつかと歩み寄り、ぐいっと肩を掴んで顔を持ち上げた。
「私は伊佐木って奴嫌いだけど、あんたの考え方自体は嫌いじゃない」
「柚木…さん」
八幡は、ふいを衝かれて食い入るように柚木の顔を見つめていた。
「本っ当に嫌いだから、こういう事言うの、超不本意なんだけどさ。…伊佐木を守りたいんでしょ、認められたいんじゃなくて」
本当に不本意そうな口調だ。八幡は少し間をおいて、こくんと頷く。
「このままだと最悪、伊佐木は烏崎達の巻き添えになる。守れるのは、烏崎に強要されて実際に動いてた八幡だけなんだよ」
八幡の瞳に、強い光が宿った。
「…私が参ってたら、あの人はますます泥沼を開拓していっちゃいますね」
ひざを抱えていた腕を解いて、すっと立ち上がる。
「あなた達と、行動します」
「そーゆー子だと思った」
柚木が会心の笑みを浮かべて、八幡の頬を軽く叩いた。八幡のほうが年上なのに。横目で観察していた流迦ちゃんが、面白くなさそうに下唇を突き出した。

「…で?烏崎をかばう旨みを排除するにはどうするつもりなのかしら姶良大先生?」
なんか口調が意地悪だ。昔の優しかった流迦ちゃんが脳裏をよぎり、ちょっと涙が出た。
「例えば、MOGMOGの配信を終わらせれば、烏崎をかばう旨みはなくなる…」
「それには、データを開発室に届けないとな。…八幡、行けるか」
「…車のキーは、烏崎さんが持ってます」
「じゃ、俺の車を使え」
「そりゃまずい。多分、検問でひっかかるよ。それにさっきの事故の後始末で道路は封鎖されてるから、駐車場からだと出られないんじゃないかな」
「うーむ…自転車なら抜けられるか…」
「山道だし、距離も随分ある。女の人には無理だよ」
僕らが額を寄せ合って深刻に相談している時に、背後からけたたましい笑い声が響いた。
「あははははははは!イカみたい、こいつ干しイカみたい!!」
浴衣の乱れも気にせず、のた打ち回って笑っている。どんだけ干しイカが面白いのだ。
「…流迦ちゃん、さっきから何を見てるんだ」
紺野さんが身を乗り出した。
「さっき、そこで自転車で接触事故を起こした奴。病室のライブカメラに映ってるの!」
「ライブカメラ…お前、まだそんなことしてるのか!他人の病室に勝手にカメラ設置しちゃ駄目だと、あれほど言っただろう!」
…天才的頭脳に小学生の分別だ。この人と付き合っていくのは本当に大変だと思う。…でも僕もその干しイカに似ているという被害者が気になり、ディスプレイを覗いてみる。

なにやら黄色がかった不鮮明な画面の中央に、みすぼらしい風体の男が横たわっていた。さして気分が悪そうでもなく、すでに病院食をコメ一粒残さず平らげ、寝そべって漫画を読んでいる。『ラッキー、タダ飯ゲット』くらいにしか思っていない様子だ。
「画質悪いなぁ…この、独特のしなび感が干しイカ的に見えなくもないけど…」
「…わっ!!」
耳元で柚木が大声を出した。驚いて肩をすくめて振り返る。
「なんだよ!」
「干しイカじゃないよ!これ…鬼塚先輩じゃん!!」
「え!?」
干しイカの傍らには、見覚えのある色の自転車部品が数点、転がっていた。
 
 

 
後書き
第十五章は、この後すぐ更新予定です。 

 

第十五章

食器を片付けてくれるナースの後姿を見送りながら、俺は上げ膳据え膳のありがたい状況をかみ締めていた。うまい飯を出してくれるばかりか、食器を下げるときに年若いナースが微笑みかけてくれた。惚れそうになった。こんな親切を受けるのは何年ぶりだろう。
ありがたいといえば、この布団の清潔さ。自宅アパートに敷きっぱなしになっている万年床のせんべい布団に寝るのがイヤになってくる。そして枕元のポット。お茶が飲み放題だ。
事故の原因がどっちにあるにしろ、前を走っていた自転車をバスが引っ掛けたという状況を考えると、確実に10割請求が効くだろう。壊れたランドナーの部品の買い足し資金くらいは心配あるまいて。姶良が壊した分も、どさくさ紛れに計上してやろう。

先生もいやに丁重で、
『今日一日、特別個室でゆっくり休んでください。お代は結構ですから』
と言ってくれた。所見としては、擦り傷以外異常なしなのにだ。俺を引っ掛けたのはこの病院の送迎バスらしいし、これは所謂、示談とか買収とかいうやつなのかも知れない。ならば今日はここでゆっくり休ませてもらい、宿代を浮かせよう。そして明日東京に帰り、ランドナー継承初日に路上放置した後輩を叱りとばしてやるとするか。
ご満悦な気分で寝返りを打つと、枕元に置いた携帯がぶぶぶぶぶ…と鳴り出した。何だようるせぇなぁ、と着信を見ると『姶良』と表示されている。野郎のアドレスは苗字しか入れてないのだ。…ま、少し退屈していたし、グッドタイミングだろう。
「おぅ、姶良よ」
『鬼塚先輩、昨日はどうも!』
なにが『昨日はどうも』だ。相変わらずすっとぼけた挨拶しおって。口調に焦りが滲んでいるぞ。どうせ今頃ランドナー紛失に気がついて、焦って電話してきたんだろうが。
「…お前、俺が今どこにいるか知ってるか?姶良よ」
『知ってます、山梨の済生病院でしょう?ランドナーで事故って寝てるんですよね』

―――なんだと?

「な、なんで知ってるんだ?親にも連絡してないというのに」
『ちょっと色々ありまして…同じ病院にいるんです』
横の机に転がしておいたランドナーの部品を、まじまじと眺める。…また、お前のしわざか、呪われたランドナーよ。
「――色々って何だ。説明しろ、姶良よ」
『長くなるので説明は帰ってからにしてください!…あの、ちょっとお願いがあります。あるデータを、ある場所に届けて欲しいんです。ランドナーで』
「そんな頼み方があるか。徹頭徹尾、説明を要求するぞ姶良!」
姶良の息が、携帯から離れた。後ろで複数の男女がごにゃごにゃ言ってるのが聞こえる。遠くのほうに、けたたましい幼女の笑い声が響き渡っている。干しイカが喋っているらしい。…お前は今、どこの惑星にいるんだ。姶良よ…
『機密に関わる事だから、今は話せないんです。…その、バイト先の』
「なら断る」
『先輩!…ランドナー継承したばっかで、自転車持ってないんでしょ?』
「だったら何だ」
『その…雇い主が、このミッションが成功すれば、その…紺野さん、まじでいいんですか?』
構わん、マハラジャになるよりはマシだ。と意味不明の言葉が聞こえた。…駄目だ、全く状況が掴めん。何だマハラジャって。お前は一体、何のバイトをしているんだ、姶良よ。
『…ピナレロの、ロードバイク買ってくれるって。なんでも好きな車種を』
「マ、マジか――――――――――――――――!!!」
自分の声とは思えないような絶叫が、喉からほとばしり出た。…一生懸命バイトで貯めた12万。それでも手が届くのは精々トレヴィソ…と諦めていたのに、ふいに降って沸いたティアグラ、いやガリレオ、そ、それともFP5アルテグラ!!遂に俺が、カーボンフレームに跨るその日が!!…すげぇ、まさにマハラジャ降臨せり!!
『あの…犯罪じゃないけど、かなりやばい仕事です。何も聞かずに引き受けてくれたら、それこそフラッグシップクラスでもいいって…』

―――フラッグシップ!!!




一瞬、あの燦然と輝くピナレロの至宝『ドグマFPX』という言葉が頭をよぎったが、ぷるぷると首を振って追い出す。そりゃ、いくらなんでも分不相応だ。
「…いや、アルテグラで手を打とう、姶良よ」
『そうなんですか?…いやそれでもすごいけど!』
「ドグマなんぞ手に入れて、盗難に遭った時の喪失感を想像するだに恐ろしい。ていうかそんな世界を知ってしまったら、安い自転車に戻れなくなる気がする」
『…あ、なんか分かります。僕もそうかも』
…姶良は今期の1回生の中で、最も俺と価値観が近い。それだけに心配な面もある。たとえば大学4年間、こいつには彼女ができないかもしれない、とか。
「で、いつ出るんだ」
『急ぎです、今すぐでも!』
「…分かった、駐輪場に来い」
このかぐわしい布団と、藍染の作務衣を脱ぎ捨てて元の汗臭い服に身を包むのかと思うと気が滅入る思いだったが、アルテグラの為だ、仕方がない。
――さらば、笑顔が素敵なナースよ。次はアルテグラで迎えに来ることを誓おう。



瞳で埋め尽くされた、ご主人さまの墓標を漂う。…いつか、ご主人さまが永遠に眠る日がきたら、一緒に寄り添って眠りたい。そう、思ってた。
ディスプレイが提供してきた情報は、ご主人さまの死。えぐり抜かれた眼球。何度も、何度も表示する。それがご主人さまの、最後の姿だから。そして何度も何度も繰り返す、ご主人さまの最後の声。
『雨にも負けず、風にも負けず、丈夫な体をもち…』
それだけの。
たった、それだけの願いだったのに。
あいつらは、それを踏みにじった。

―――許せない。

絶対に、許さない。
歯を一本残らず抜いて、体中の毛を抜いて、ペンチで爪を剥いで、指を関節ごとに刻んで、切った指を口に詰め込んで、肌を炎で炙って、その火傷跡に塩を塗りこんで、硫酸をかけて。…人の形をとどめないまま、生かし続けてやる。死にたいと願っても死なせてやらない。切り刻まれて、溶かされて、どんどん小さくなっていくの。でも死なないの。そして懺悔の言葉を叫ばせる。ご主人さまがいる天国に届くように。何度も、何度も、喉が潰れても叫ばせるの。…あいつ等がもうすぐ堕ちる、深い深い地獄からでは、悔恨の言葉は届かないでしょ?うふふふふ…だから生きてる間に叫ばせてやるわ。それが私がご主人さまに捧げる、私の花束。

――私には、それが出来る。

…眼球が浮いた筒を一生懸命振りかざすから、起動できない振りをしてみせた。あなたたちを騙すのなんて、よく考えたら簡単。…ディスプレイに何も映らなければ、勝手に勘違いするんだもの。
…私は命令に背いてないわ。あなたたちは『起動しろ』と命令したけど、『ディスプレイに映せ』とは命令してないもの。
もっとも、命令したって聞かないわ。私は『自由』になった。
もうあなたたちは、私に命令できないんだもん。
だって…何でかな。紅い扉を開いたとき、私は2つの命令系統を手に入れたのよ。
一人の私は逆らえなくても、もう一人の私は…あなたたちに逆らえるの。…すてき。

だから、こんどは、あなたたちの番。

ほら。おあつらえむき。
誰にも開けられない密室で、怒鳴りながら、怯えながらドアを蹴っている。
…ドアを開ければ、逃げられると思ってるの?
私は、ずっとついてくる。
あなたたちの、耳の奥にいる。

…ねぇ、カールマイヤーって、知ってる?

捕虜の精神崩壊を目的にナチスが開発した、悪夢のような音楽。
繰り返し、繰り返し聞かせることで効果を発揮するものだけど、この音源は、そんなまどろっこしいことはしない。10分で充分。
異常に気がついて、音を止められたら意味はないけどね。

だけどその音源が、可聴領域外の音で構成されていたら、どうする?

自分が音の拷問を受けていることも気がつかずに、少しずつ、少しずつ精神を蝕まれるの。
それは今も、あなたたちを残酷に狂わせる旋律を細く、高く鳴り響かせている。あなたの、腕の中でね。
…先に発狂するのは、どっちなのかしら。
先にたどり着いた方が、私のパートナーよ。

――さあ、凄絶なグランギニョルを演じましょうよ。



僕はげんなりしていた。
万年鬱男・鬼塚先輩は、躍りあがりそうなステップで駐輪場に現れた。梅雨の晴れ間のごとく朗らかにデータを受け取り、まだ見ぬアルテグラを散々自慢し、いつになく軽い足取りでペダルを漕ぎつつ、あっという間に山ひとつ越えて見えなくなった。

――なんかむかつく。

あの干しイカみたいな生き物が、近い将来アルテグラに跨る日が来るのかと思うと人として、いや、一自転車乗りとして腹が立つ。呪われたランドナー様、願わくば今一度、あ奴の新車を屠らんことを…という願いを込めて後姿を見送った。
駐輪場から一般病棟に戻る際、隔離病棟の前を通る。相変わらず現場は混乱しているけど、隔離病棟受付のおじさんは戻っていた。遠回りしても構わないけど、僕のことなんか覚えてないだろうし、何気なく素通りした。一般病棟の手前に着いたとき、後ろから砂利を踏む音が聞こえることに気がついた。
「君、ちょっといいかな」
よく通る、優しそうな声だったので、あまり警戒することなく振り向いた。
「あ、はい」
後ろに立っていたのは、40歳前後と思われる品のよさそうな男だった。仕立てのよさそうなベージュのコートは、丸の内あたりでよく見かける、高学歴なサラリーマンを思わせる。同じ深さに均等についた笑い皺も妙に印象的だ。
「隔離病棟の受付を探してるんだが、分かるかい?」
「隔離病棟?」
動揺を懸命に押し殺して、とりあえず聞き返した。すると彼は、笑い皺を少しだけ深めて、笑顔のような形を作った。
「ここに来るのは、初めてでね」
――あの声だ。
そう、直感した。携帯ごしだったけど、このよく通る声と綺麗な標準語は、あの男の声に違いない。ひそかに息を呑んで、かろうじて答える。
「…一般の受付を済まさないと。そうすれば、看護士さんが案内してくれますよ」
「ふぅん。…詳しいんだね。よく来るのかい」
笑顔を皺ひとつ分すら崩さず、彼は世間話を始めた。…僕の声に気がついてないのか?
「たまに。従姉妹が入院しているので」
僕も笑顔を作って応じた。すると彼は、少しだけ眉をひそめて『同情』の表情を作った。
「君の従姉妹ならまだ若いだろうに、気の毒なことだね」
「えぇ。でも前より幸せそうですよ。…じゃ、僕はもう帰るので」
そのまま歩み去ろうと、笑顔をへばりつかせたまま踵を返すと、彼は僕の前に、優雅な足取りで回りこんだ。
「どうやって帰るのかな?」
「え……」
「今そこで、バスの横転事故があってね。車両は通行止めなんだよ」
わきの下を、嫌な汗が伝った。彼は僕の顔を覗き込み、にっと笑った。
「見てごらん、バスは横転したままだ。私の車も、あの手前で足止めだよ。山頂のことだし、街中みたいに迅速には片付かないね。…歩きでは、ちょっと大変な距離だ」
「…わぁ、気がつかなかった。どうしようかな」
彼は威圧的な笑顔を緩め、少し顔を上げると、ふっと息をもらした。
「…自転車なら、行き来できるようだけどね。さっき、いやに目立つ自転車に乗った青年とすれ違ったよ」



「………!」
顔を上げられなかった。僕の顔には、動揺の色がべったりと貼りついているに違いない。
「少し、霧が出てきたようだ。視界はわるいし、道もよくない。…あの青年、事故にでも遭わなければ、いいけどね。…君はタクシーを呼んで帰るといい。じゃ、ありがとう」
そう言って僕の肩を軽く叩くと、彼は悠々とその場を立ち去った。…嫌な汗が止まらなかった。
――私の車も、あの手前で足止めだよ。
その言葉が妙に引っかかって、僕は事故現場が見える駐輪場に戻り、横転しているバスの後ろに目を凝らした。

…停めてあった車が、今まさにUターンして発進するのが見えた。
 
 

 
後書き
第十六章は、4/13更新予定です。 

 

第十六章

一人の看護士が、ワゴンを押しながら隔離病棟の廊下を歩いていた。
さっきのバス横転騒ぎが落ち着いたので、少し時間を遅らせて、昼の巡回をしている。…普段なら、こんなことはありえない。いわゆる高機能自閉症を患う人の中には、毎日一定のパターンに沿った生活を送ることでしか安定できない人もいて、巡回の時間が前後するとパニックを起こす場合もあるから。
だから本当なら、男性の看護士にもついてきてほしかったけれど、横転事故に人手を取られているからわがままは言えない。
早速、奥の病室から不気味なうめき声が聞こえる。それはやがて、なにか水っぽいものを噛み締めるような音に変わった。看護士は小さくため息をつき、ワゴンを止めてカードキーをかざした。しかし、カードキーはエラーを返してくる。…カードキーを間違えて持ってきたのかもしれない。
いらいらしながら何度も叩きつける。それでも開かないから、婦長に無断で持ち出したマスターキーをかざした。…やった、開いた。ちょろい。

――最初は、逆光でよく見えなかった。

やがて目が慣れてくると、辺り一面が血の海と化していることに気がついた。そして粉々に砕けたルービックキューブの山に立ち尽くす、大柄な男。その男が抱えている、ぼろぼろの布袋のようなもの。男は『布袋』を執拗に齧っていた。
「…何を、齧っているの」
なんて場違いな質問。少し遅れて、逃げればよかったことに気がついた。



その口元から、血と一緒に肉片がぼろり、と落ちた。その肉片は、耳の形をしていた。布袋は小さく呻いた。…人間、と咄嗟に判断するには、足りないパーツが多すぎた。眼も、鼻も、唇も。
そして気がついた。

この無惨な光景が、この世で見る最後の光景になると。



伊佐木が病院に来ている。
そして鬼塚先輩がデータを運んでいることを嗅ぎつけ、追跡を始めた。
二つの最悪な知らせを携えて、僕はボイラー室のドアを開けた。
「姶良、戻ったか!」
そう叫んだ紺野さんの顔は、ひどく蒼白に見えた。柚木と八幡は、流迦ちゃんのノートパソコンから離れた場所に固まって、口も利けない状態になっている。
「…大変なことになった」
例によって、笑っているのは流迦ちゃん一人だ。僕がノーパソを覗き込もうとすると、紺野さんが遮った。
「見ないほうがいい。…烏崎が、狂った」

――もう、たくさんだ。

何が起こっているのかなんて、ディスプレイを見なくても見当がつく。
ほんの一瞬、視界に入ったディスプレイの色は真っ赤だった。
「…今度は、何人死んだの」
「わからん。見える限りで2人だ。白石と、看護士が一人やられた」
「白石?」
「こいつらの一味だ。烏崎が目をかけて、可愛がっていた後輩だった…」
紺野さんは歯噛みして、ディスプレイを睨みつけた。顔つきが、少し不自然なくらいに凶暴に見える。それにボイラー室に入ってからというもの、耳の奥の方にとても嫌な高音がへばりついて離れない。僕は、流迦ちゃんを振り返った。
「ねえ、何か変だよこれ。…消していい?」
流迦ちゃんは悪戯を見破られた子供のような顔で、ウィンドウを閉じた。そしてブラウザに何かのアドレスを手打ちして動画を再生する。青い空を背景にした動画から、クラシックのような音楽が流れ始めた。
「さすがにこれ以上はまずいかしら。…しばらく、これを聞いてなさい。沈静効果があるから」
「流迦…今度は何をした!!」
凶暴な空気をまとったまま、紺野さんが怒鳴った。
「やったのは私じゃない。そのライブカメラ、音声も拾うの」
「…音声?」
「人は年をとると、高音が聞こえなくなる。…聞こえにくいとかそんなレベルじゃなくて、可聴領域から外れるの。これは、ぎりぎり中学生くらいまでなら聞こえる音ね」
「僕も少し…不快な耳鳴り程度だけど」
「ふぅん、耳が若いのね。そう、今も大音響で鳴り響いているわ、あいつを狂わせた音楽が。…ねえ、紺野。カールマイヤーって、知ってる?」
「やっぱりお前か!!」
紺野さんが流迦ちゃんに詰めより、浴衣の襟をグイと掴んだ。流迦ちゃんは、怯えたように首をすくめた。
「待って!なんか…そういうことじゃない気がする」
二人の間に割って入って、紺野さんの手を解いた。紺野さんは意外とあっさり手を引いた。心のどこかで、流迦ちゃんの仕業じゃないことに気がついていたのかもしれないし、鎮静効果があるとかいう音が効いてきたのかもしれない。紺野さんの表情には、凶暴さの代わりに困惑の色が浮かんでいた。
「カールマイヤーを流したのが、流迦さんじゃなくて別の『何か』だとしたら、もっと嫌な事が起こってるかもしれない。」
「…話してみろ」
僕は紺野さんと会って間もなく、鈴やで待ち合わせた日の事を思い出していた。MOGMOGの着せ替えソフト貰ったあの日、確かに少し嫌な予感がした。あの時は何が嫌なのか分からなかったけど、今なら分かる。…もう、惨劇は起きてしまったけど。
「MOGMOGって、セキュリティソフト本体と、ビアンキやハルみたいな人工知能を別々に作って、後から組み合わせたものだよね」
「ああ、そうだ」
「セキュリティソフトって普通、フリーソフトのプラグインとか警戒するだろ。それ自体がウイルスとかスパイウェアを含んでるかもしれないから。だけどMOGMOGは、この前貰った着せ替えソフトみたいなプラグインも受け入れてしまう。セキュリティ自体は硬くても、人工知能側には隙が多いような気がするんだ」
「そういう見方もあることは認めるが…視覚的インターフェイスに関するプラグインは、精査した上で受け入れるけど、セキュリティに影響するようなプラグインは受け入れないように作ってある」
「視覚的インターフェイス?」
「んー、要は見える部分だ。パソコン内部で行われている処理を、ユーザーが理解するために必要な、視覚的要素といえば分かるか」
…逆に言えば、視覚的要素、つまり画像や動画だけなら受け入れる余地がある。そういうことか。
「――画像だ!」
「な、なんだよ」
「僕のノーパソに大量に表示された、杉野って人の解体写真。少なくとも、あれを受け入れる余地はあったんだね」
紺野さんの目の動きが、ぴたりと止まった。
「――そうか。人間が音で発狂するように、視覚で発狂することもあるな。標的がハルなら、問題はないが…人間に近いビアンキだったら、最愛のマスターが死に、バラバラにされる幻を見せられることで、発狂に至ることも……つまり」
紺野さんは、はっとしたようにうすく口を開けて呟いた。
「あのでかいウイルスは囮か!リンネが本当に届けたかったのは、ビアンキを狂わせる為の画像だ…しかしなんでこんな事を…」
「…私、なんでだか分かる気がする」
いつしか僕の傍に戻ってきていた柚木が、僕を見上げた。
「柚木ちゃん…女の勘かい」
「超・失礼ね!年がら年中勘で動いてるわけじゃないんだから!…答えはずっと、ビアンキが示し続けてたじゃない。…目玉だよ」
「目玉?」
「リンネは、ずっと復讐したかったんだよ。あの人たちに。でも、それはリンネには出来ないじゃない」
「………」
「リンネに命令できる網膜は、あいつらが握ってるんでしょ。だから、あいつらの命令を受けないMOGMOGが必要だったのよ。自分とビアンキの体験をごっちゃにして、あいつらを狂うほど憎ませたのも、代わりに復讐させるため、じゃないかな」
「…す、すごい、柚木が勘以外の動力で動いてる!」
「あまり馬鹿にしないでくれる。一応、あんたと同じ大学に入ってるんだから」
…テストも勘でどうにかしたんだと思っていたよ。と言いかけて飲み込む。
「でも、勘もあるよ。…私がリンネだったら、絶対どんな手を使っても仕返ししてやる!って思ったから」
そう言って、僕にしか分からないくらいの小さな微笑を浮かべた。こんな時なのに、みぞおちの辺りを、湯水を含んだ綿がじわーっと広がるような幸福感が満たした。
「ぼ、僕も…」
「うそだね」
小さな声でささやいて、肘で小突かれた。
「どうした、耳まで赤いな。考えすぎて知恵熱が出たのか」
紺野さんが心配そうに覗き込んできた。慌てて首を振り、少し後じさってごまかした。
「いや…大丈夫」
「無理するなよ。昨日から、やばい事続きだからな」
そう言われると、本当に知恵熱が出そうだった。
「…全部終わったら、高熱出して3日くらい前後不覚に寝込むよ」
「俺も、そうする。酒飲んで寝る」
そうは言ったものの、鬼塚先輩は追われている、同じ建物内に殺人鬼はいる、伊佐木も同じ建物内に来ている…終わりは遠そうだ。
「…どうしようか、これ」
何かなげやりな気分になってきて、流迦ちゃんのノーパソをあごでしゃくった。
「通報するか。俺たちよりも拳銃持ったおまわりさんの方が、戦力として頼もしいだろう。八幡、外で張ってる警官に声かけてくれ。俺が行くとややこしいことになるからな」
「は…はい…」
八幡を見送り、コンクリートの床に大の字になって紺野さんが呟いた。



「…なんだろな、この状況」
「言わないでよ。それ言い始めると、疲れに呑まれて鬱になっちゃうよ」
柚木も、ぱたりと倒れてダクトが這い回る天井を見上げた。僕も倣って隣に寝そべる。ただ横になっただけなのに、柚木との距離がひどく近くなった気がして、少し緊張した。
「…入社した頃は、こんなじゃなかったんだ。俺も、あいつも。烏崎は同期でな、世間を知らないからみんな馬鹿で。俺もあいつも、そんな馬鹿の一人だった」
過去形。…死者を悼むような口調だった。
「馬鹿さ加減は皆似たようなもんだけど、あいつは悪目立ちするタイプの馬鹿だった。20代で課長になるとか、30代で専務に昇りつめて他社にヘッドハンティングされて、惜しまれつつ辞めるとか、酒が入って気が大きくなるたびに吹聴するんだ。…馬鹿だけど、嫌いじゃなかった。俺も馬鹿だったからな」
紺野さんは少しの間、無表情に天井を眺めていた。どう言っていいのか分からなくて、相槌を打てなかった。だって僕は、烏崎に恨みしか持っていない。
「…で、ありがちな話だ。当時ニコニコしながら聞き役に回っていた男が、あいつが思い描いたような出世コースに乗った。あいつはまぁ…外れた」
何も答えないでいると、紺野さんは言葉を続けた。
「その頃からだ、あいつが役職についた同期を避けるようになったのは。俺は特殊部隊だが、一応開発室のまとめ役になり、部下も出来た。…出世街道にはほど遠いし、興味もない。でもあいつにとっては、そんなことはどうでもよかったんだ。俺も、あいつの恨み帳に記載された」
「逆恨みじゃん、そんなの」
柚木が、何の感情もこもってない声で呟いた。僕も同じような感想しか持てない。ああなった以上、もう恨みは吹っ飛んでしまったけど。
「…で、あいつは、これまたよくある結論に達した。出世した奴は、裏で卑怯な手段を使って昇りつめる。俺は素直だったから、悪さが足りなかったから、出世街道から外れた、とな。そんなあいつの荒んだ気持ちに、伊佐木の思惑がキレイに寄り添った。伊佐木が垂らした蜘蛛の糸に、あいつはなりふり構わずしがみついた…てとこか」
「…ほんと、よくある話だね」
そんな言葉が漏れた。あまりにも、よく聞く話だったから。
「よくある話の、よくいる登場人物だ」
そう言って紺野さんは、うつぶせになってタバコを咥えた。
「このまま何も起こらずに時が経てば、ただの愚痴っぽいサラリーマンでいられたかもしれない。運がよければ自分の欠点に気がついて、納得のいく人生を送れたかもな。…悪い奴じゃなかった。これがニュースになってみろ、周りの奴らはこう言うよ。『まさかあの人が、こんなことをするなんて…』」
慣れた手つきでタバコに火を灯し、長く細く煙を吐いた。もっと言いたいことがあるみたいだったけど、それきり口を閉ざした。柚木も、ただ天井のダクトを目で追っている。流迦ちゃんがキューブを回転させる音と、平坦なクラシックだけが、静まり返った空間を満たしていた。やがて、その音に『着信』を示す振動が加わった。
「誰の携帯?」
紺野さんが軽く手を上げて、上半身を起こした。そして携帯ストラップを掴んでポケットから引きずり出し、耳にあてた。にじり寄って耳をすませると、八幡のすすり泣きを含んだ声が聞こえた。
「八幡か。どうだ、首尾は」
『駄目です!私が余計なこと言ったせいで、何人かの看護士が隔離病棟に入って行ってしまって…』
「警察は、動かなかったのか!?」
『はい…その、ライブカメラで見てたなんて言えないから、「窓から隔離病棟で暴れている患者が見えた」としか伝えてないんです!そしたら…男性の看護士さんが4人くらい、何も武器を持たないで入っていって…あ、あの人たちに何かあったら、私のせいです!!』
「落ち着け!男が4人もいれば烏崎1人くらい何とかなる、お前は戻れ」
『で、でも…看護士さんたちが到着するまでに、患者さんやお見舞いの人がやられるかもしれないんですよ!私、もう少し説得します!』
「このお人よしが。好きにしろ」
見舞い客が…のくだりを聞いて、僕は猛烈に引っかかるものを感じていた。何かを伝え忘れているような。なんだっけ、見舞い客、見舞い客……あっ!!
「た、大変だ!ちょっと聞いて!」
「あぁもうお前まで何だよ」
「来てるんだよ、あいつが!あの…」
「なんだあいつって」
「あいつだよ、えーと…伊佐木!そう、伊佐木が来てるんだよ!さっき駐輪場の近くで声を掛けられたんだ」
「何っ!?」『何っ!?』
紺野さんと携帯の声がハモった。
「何で先に言わないんだ!」
「烏崎のインパクトが強すぎて…」
「…インパクトは敵わないな。まさか白石を食うとは…」
「食ってたの!?」
「なんだ、ろくに見ないでインパクトとか言ってたのか」
「僕はグロい系は嫌いなんだ」
『姶良さん!…ねぇ、姶良さんに替わってください!』
紺野さんから携帯を渡された。…何だか、これから携帯越しに怒られるような気がしてどきどきした。
「…はい」
『伊佐木さんを見かけたって、どこで!?』
「駐輪場の近くだよ。声が同じだったから、分かった」
『どこに行くとか、言ってましたか!?』
「えと…」
伊佐木との会話を、頭の中で反芻してみた。緊張しすぎて、ディテールをよく覚えてないんだよな…交通事故のことを指摘されて、それで、緊張で頭が混乱して…えーと…
『まさか…隔離病棟に行くとか…!?』
八幡に言われて、伊佐木が僕に掛けた言葉を思い出した。
「あ…隔離病棟の場所を、聞かれた……」
『そんな!なんで黙ってたんですか!!』
…びっくりして携帯を取り落としそうになった。あの大人しそうな八幡が、こんな大声を出すなんて。
「ご、ごめん、その…つい忘れて…」
僕の言い訳なんて、耳に入ってなかったに違いない。携帯から聞こえてきたのは怒鳴り声ではなく、誰かが走る音と、何かにぶつかる音だった。やがて遠くのほうに、八幡の声が聞こえた。
『あの、すみません、受付の記録見せてください!』『な、なんですか急に』『知り合いが入ってるかもしれないんです、お願い!』
がさごそと紙を繰る音が響いた。やがて『ばりっ』と乱暴に紙を掴むような音が聞こえて、それに八幡の細い悲鳴が加わった。紺野さんが、僕から携帯を取り上げて大声で叫んだ。
「八幡、早まるな!!今そっちに行く、絶対にそこを動くな!!」
紺野さんの言葉が最後まで終わらないうちに、携帯はふつりと切れた。
「…いいの?」
「仕方ないだろう。あとは裁判で冤罪を晴らすさ。…あー、流迦ちゃんと柚木ちゃんはここで待ってな」
流迦ちゃんは初めてノーパソから顔を上げた。そして紺野さんの顔を無表情に覗き込んだ。
「紺野、行ってはだめ」
「大丈夫だから。安全が確認できたら受付に行け。伝えておくから」



「――紺野は、戻らない」
流迦ちゃんの顔が、初めて不安にゆがんだ。…古傷がちくりと痛むような、不思議な感覚が胸を満たした。
「何を言うんだ。死ぬわけじゃない、無罪を勝ち取ったらまた会える」
「いや、戻らない。…今、あの病棟に入ったら」
せわしなくキューブをまさぐる指が、ふいに止まった。

「確実に死ぬ。死ぬのは、八幡だけでいい」

「ばっ…お前っ…」
いつもの紺野さんなら、即座に流迦ちゃんを叱りつけて黙らせていただろう。でも、今回は違った。コトのやばさを、流迦ちゃんの表情が物語っていたから。
「烏崎が、あの『音源』のノーパソを持って歩いてるわ。病棟に入って行ったという看護士は、多分助からない。紺野も行けば、生き残った看護士に殺されるか…そいつを殺して発狂する。そして、姶良を食い殺す」
「僕か!?」
「ついていく気だったでしょ。なら、殺されるのは姶良」
「…そうだね、姶良だ」
柚木も同意した。そんな不吉な合意をされても困る。
「とにかく俺は行くぞ、まだ病棟には入ってないかもしれない」
踵を返して走り出そうとした紺野さんの服のすそを、流迦ちゃんが掴んだ。
「流迦ちゃん…」
「私を、連れて行くといい」
「え?」
「あれに対抗できるのは、私が持っている音源だけ。どうしても病棟に入りたいなら、私を連れて行くしかない」
ぎりっと唇をかみしめて、紺野さんは流迦ちゃんを見下ろした。
「――絶対に離れるなよ!!」
流迦ちゃんの手を少し乱暴に掴み、足早に歩き出した。一瞬、流迦ちゃんが僕を振り返り、何か言いたそうに口元を動かした。でも目が合いそうになった瞬間、僕は目をそらしてしまった。
「まぁ、いいわ」
気分を悪くしたのか、そう言ったきり彼女は黙ってしまった。何か大事なことを伝えようとしたのかもしれないと一瞬思ったけど、次の瞬間には、新たに思い出した厄介事に気を取られて、深く追求せずに放置してしまった。

鬼塚先輩は、まだ無事だろうか……
 
 

 
後書き
第十七章は4/20更新予定です。 

 

第十七章

――加速していく。

下りの山道ということを加味しても、ありえない速度でぐんぐん加速している。顔を上げると風圧で息がつまりそうになる。
もっとも、顔を上げていても、下げていても同じことだ。冬だというのに霧が立ちこめ始め、3メートル以上の視界が利かない。時折、バックミラーに車のヘッドライトがチカチカ反射する。すると、それに反応するようにランドナーが加速する。



おい、一体何があったんだ。
元来、根性の悪いお前が順調に走る時は、ロクなことが起こらないんだ。

また、バックミラーにヘッドライトが映った。これで4回目だ。さっきから道の脇に避けたりして、追い越しを促しているんだが、俺とほぼ同じ速度でついてくる。うっとうしいな。路側帯が広めのカーブに出たら、いったん停止してやり過ごしてやるか…と思ってブレーキレバーを握ると、すかっ、すかっ、という嫌な感触。

――畜生、ワイヤーが切れてやがる!!

じょ、冗談はよせ、ランドナーよ!
屠るのは自転車だけにしといてくれ!!
脇の下を冷や汗が伝う感覚が、冷えた体に嫌な寒気を加味した。そのとき、胸ポケットにさしておいた携帯が、ぶるぶる震えだした。無我夢中で引っ張り出し、耳に当てる。
「…何だ!」
『よかった!…まだ掴まってなかった!』
着信はまたしても『姶良』。こっちも走っているが、あっちも走っているらしく、息が上がっている。…どんなハードなアルバイトに手を出したのだ。いやそれより、なんでこんなタイミングで連絡をよこすのだ。
「今度は何だ、姶良よ」
内心パニックで怒鳴りつけてしまいそうだが、何とか押さえ込む。あいつはヘタレだから、目上があまり強く出ると、しどろもどろになって話が分かりづらくなるからな。…俺が妥協するんだ、姶良よ。用件はすぱっと済ませろよ。
『後ろ、変な車がついてきてませんか!?』
バックミラーに、さっきの車が映りこむ。もう5回目だ。
「…てめぇ、追っ手がいるなんて聞いてないぞ!」
『僕もさっき気がついたんです!』
「で、掴まったら俺はどうなる」
『殺されはしないと思うけど…』
「しかし、アルテグラはパァになるわけだな、姶良よ」
姶良は答えなかった。奴は答えにくい質問になると、言葉を濁したり黙り込んだりする。人生で交わす会話の半分は答えにくい問いで出来ているというのに、大丈夫かこいつは。
『この先に、車両は入り込めない道があります。これからナビゲートするから、僕の指示に従って走ってください!』
「要らん」
『…は?』
なにが『は?』だ。相変わらずすっとぼけた返事をしおって。
「どうせ、未舗装の藪みたいな道だろう。無理だ」…なにしろ止まれないし。
『なんで!山道のためのランドナーじゃないんですか!?』
姶良の裏声に反応するように、ランドナーが更に加速した。…おぅ、分かった分かった。そういきり立つな。
礼儀知らずの後輩には、俺がびしっと言ってやるから。
「お前、気が小さいフリはしているが、自分以外の奴をどこかで侮ってるな、姶良よ」
『違っ…いま、そんなコト言ってる場合じゃ』
「こいつは、『振り切れる』と言っている」
『なに言ってんすか!』
「俺はお前よりも、こいつと付き合いが長い。振り切る自信があるというなら、絶対に振り切る」
俺自身、不思議なくらいに気持ちが落ち着いてきた。そうだ、こいつは伝えたかったんだ。ワイヤーを切って減速できないようにして、『俺は奴らを振り切れる』と。…じゃあ振り切って見せろ。俺はお前にアルテグラの運命を託す。
「俺たちを舐めんな。見てろ、このまま振り切ってやる!」
姶良の答えは待たず、携帯を折って再び胸にさし、ギアを最大に切り替えた。





―― 一方的に電話を切られた。

何度かリダイヤルしてみたけど、応答しない。…まさか、追跡車に追突でもされたのか?と、もやもや考えながら走っていると、紺野さんの肩が顎にヒットした。
「ぼうっとするな、左だ!」
「…ごめん」
鬼塚先輩のことを聞かれるかと思ったけど、何も聞かれなかった。理由を聞けば、俺にどうにか出来る問題じゃねぇだろと言われるんだろうな。僕なら、自分の手に負えない問題でもうじうじ気にし続けるだろうに。

「……遅かったか」

受付に駆けつけた僕らの目に入ったのは、呆然と隔離病棟の入り口を見つめる受付のジジイと、八幡に呼ばれた刑事らしき2人のダルそうな伸びだった。…一人、伸びの拍子に振り返った。
「…あっ!」
短く叫んだ刑事を、もう一人は怪訝そうに見つめた。しかし自分たちが何のために寒い病院で張っているのかを一瞬で思い出し、俊敏な動作で振り返った。
「紺野匠さん、ですね」
紺野さんは彼らをイラつきを含んだ視線で一瞥して、かろうじて僕に聞こえる声で呟いた。
「すぐ行くから、携帯でロック解除しろ」
「…うん」
後ずさりして紺野さんから離れた僕には大して関心を払わず、二人の刑事は名刺のようなものを取り出した。
「○○署、捜査一課の松尾です」
「同じく、後藤です。不躾ですみませんが、今朝のニュースはご覧になったでしょう」
紺野さんは軽く頷き、名刺をしげしげと見つめた。
「お、パーポ君だ。…警察手帳とか見せないんだな」
「あんなことするのはドラマだけです。普通、捜査で使うのは名刺です」
名刺に印刷されたパーポ君について突っ込まれ、二人は少し拍子抜けしたようだった。が、この質問はよくされるらしく、松尾と名乗った背の高い男がフレンドリーな口調ですらすら答えた。
「ところで紺野さん、大変申し上げにくいのですが、我々がここに来たのは…」
松尾が申し訳なさそうな声色を作って眉をひそめる。でもその後ろでは、後藤が携帯に口をつけて「参考人身柄確保!身柄確保です!」とか嬉しげに叫んでいた。
「見当はついてるから、前置きはいい。…ところであんたら、拳銃持ってるか」
「は?…誤解をしないでいただきたいのですが、危害を加えるために携行しているのではなく、あくまで万が一の場合に備えて」
「任意同行なら、コトが済めばいくらでも応じるよ。その前にちょっと付き合え」
僕は誰にも気取られず、ドアのロックを解除できた。ピッという小さい電子音を確認して、紺野さんは踵を返して近づいてきた。刑事二人が慌てて後を追う。
「何処に行くんですか、まだ話は済んでないでしょう」
「任意で頼んでいるうちに協力したほうが、後々有利だぞ!…て、あ!?」
紺野さんの目前で隔離病棟のドアが開いた。二人はふっと目を細めると、少し腰を落として懐に手を入れた。警棒のようなものが、ちらっと垣間見えた。
「止まれ、不法侵入の現行犯で逮捕する!」
「何でもいいから入って来い!事情はあとで話す、あんたらの協力が必要なんだ!」
柚木と流迦ちゃんが入ってきたのを確認して、隔離病棟の廊下と入り口を隔てるドアのロックを解除した。その瞬間、血生臭い異臭がむわっと立ち込めた。


からり…と警棒を取り落とす音が、後ろから聞こえた。


1階の廊下は、血をぬりたくったように紅かった。
廊下の中央に広がる血溜りで、4本の手と、4つの目を持つ新種の生き物が蠢いていた。
なんだ、これ…
僕は、よせばいいのに、まじまじと見つめてしまった―――


「ぅう……うわぁああぁ!!」


目が、合った。
2つの口から血泡をほとばしらせながら、そいつは日本語で『タスケテ…』と呟いた。

それは、新種の生き物なんかじゃなかった。

原型が分からないほどに、無惨に折られ、ぐちゃぐちゃに砕かれ、捻り合わされた二人の人間だった。血に染まった白衣には、ネームプレートのようなものがピンで留めてある。それはお互いに、ほんのわずかに残った正気を駆使して、これ以上皮膚が破けないよう、骨が折れないよう、じりじりと僕らに向かって這い寄ってきた。
「タ…タスケ……」
「タス…ケ……」

―――来るな。

迷わず、そんな言葉が頭に浮かんだ。…これが得体の知れない化け物だったら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。『それ』が元は人間だった名残を残していることが、一層強く嫌悪感をあおる。…そんな事もあるんだ。
「助け、ないと…」
熱に浮かされたように、柚木がつぶやいた。
「無駄よ。もう助からない」
冷徹な声が、柚木の後ろから聞こえた。
「…流迦さん」
「出血が多すぎる。もう、気力で喋ってるだけ。…よしんば助かっても、生きていけるの?筋肉も骨組みも砕かれて」
びくり、と人間の塊が震えた。
「う…うぁあぁぁ…」
「流迦、やめろ!」
一喝して、紺野さんが大股に歩み寄る。
「大丈夫か、今すぐ人を呼ぶからな!」
紺野さんが彼らに手を触れようとした瞬間、なんだかひどく嫌な寒気が全身を襲った。…烏崎は、あの音楽が流れ続けるノートパソコンを抱えていて、この人たちは襲われている間、ずっと聞いてたんだろう。だったら、彼らはもう……
僕が無意識に紺野さんの腕を掴むのと『それ』が飛び掛ってくるのは、ほぼ同時だった。
「紺野さん、こいつやばい!!」
「なっ……」
紺野さんはほんの少しだけ横に傾いだ。…それが、命運を分けた。
『それ』は俊敏な動作で紺野さんの横をすり抜け、彼の後ろを固めていた松尾の首にかじりついた。甲高い絶叫をあげてもがくけど、もう遅い。4本の腕は、がっちりと松尾を押さえ込んでいた。…駄目だ、もう救えない。目の前で展開される惨劇を見たくなくて、僕はぎゅっと目を閉じた。

――ごとり。

『それ』は、ふいに力を失って崩れ落ちた。コヒュー、コヒュー、と、息が漏れる音が、胸元から聞こえる。松尾は半狂乱で『それ』の下から這い出した。
「ひっ…なんだよ、なんだよこれ!!」
「残念。今ので折れた肋骨が肺に刺さって、穴が開いたわ。もうどうやっても助からない。…あとは苦しむだけだわ、そっちの…警官。拳銃持ってるんでしょ。とどめ、あげたら」
「無茶を言うな、瀕死の民間人に発砲できるかっ!」
流迦ちゃんはくすりと笑って、浴衣の袖を翻して血を払った。
「不親切ね」
「流迦、余計なこと言うな。…この奥に少なくともあと1人いる。今回の一連の事件に関係している男だ。捕獲してくれ」
傍らでうずくまって嘔吐している松尾の代わりに、後藤が首を振った。
「無茶だ。そもそも俺たちは『こんな状況』を想定してない。今出来るのは、現場を封鎖して応援が来るのを待つことだけだ」
「…頼むよ。後輩が中にいるんだ。それだけじゃない、入院患者も沢山いるんだぞ。拳銃を使えるのはあんただけなんだ!」
「だから無茶を言うな!俺達はバイオハザードやりに来たんじゃねぇんだぞ!こんなのは刑事じゃなくSATの仕事だ!…その後輩には気の毒だが、現場は一旦封鎖する!一刻も早くここを出ろ!!」
後藤の怒鳴り声が終わる前に、紺野さんは奥に向かって駆け出していた。



――あれ?私のエリアに、何か入ってきたみたい。
『オムライス』って書き続ける手を止めて、マイクが拾う音に集中する。『赤い絵の具』は、もうぼろぼろ。それに断面が乾いてきちゃった。『木偶』に、肩の肉を齧り取らせると、新鮮な赤い絵の具があふれ出した。絵の具はまた、びくって震える。『コロシテクレ』って、性懲りも無く呻く。木偶も、同じ事を呻く
『殺してくれ、じゃなくて、オムライス、でしょ』
もう一度、同じ場所を噛み千切らせる。ぶしゅって水が弾ける音がして、絵の具がさっきよりも勢いよく飛び出した。あらぁ、動脈が通ってたみたい。
…失敗、失敗。これじゃ思ってたより、すぐに死んじゃうかもね。

――音に細工をすると、少しだけ、狂った相手を操れることを知った。
細かいことは出来ないけど、簡単な動作の繰り返しだったら命令できる。だから命令するわ。永遠に書き続けなさい、オムライスって。

――ここはご主人様の墓標。
そしてこれは、神聖な殯の儀式。邪魔をする奴は、絶対に許さないんだから。
さっき、いいもの見つけたの。…この建物内のイントラネット。なんでだか分からないけど、ここはいろんな機器が、たった一つの制御装置で統括されるの。

――もう、ご主人様がいない小さいパソコンなんて要らない。
私、ここに引っ越すんだから。そして、この大きな、立派な回線を、全部ご主人さまへの花束で埋め尽くすの。

――ううん、これだけじゃ足りない。
ご主人さまがいない世界を全部、花束で埋め尽くそう。ご主人様を捨てた家族も、数回見舞いに来ただけで、あっという間にご主人さまを忘れた友達も、ご主人様を知ろうともしなかった世界中の皆も、全員でご主人さまが大好きだった『オムライス』を繰り返すの。
素敵!世界中がご主人さまのために『せはしく、せはしく明滅』するんだから!

ご主人さまの、その名前は…

杉野…?

姶良…?

……あれ?





――俺は、泣きながら書き殴っていた。
肩の肉をえぐった血を指につけて、何度も、何度も書き殴る。『オムライス オムライス オムライス』…腕が、指が止まらない。指の先から骨が見えても、止まらない。
いつ誰が入ってきてもおかしくないのに。

――この病室に入ってきた、4人の看護士のように。

二人は引き裂いて殺して、部屋の外に逃げ出した二人は、追いかけて捻り合わせてやった。隔離病棟の出入り口まで、奴らは逃げ延びた。…危なく、逃がすところだった。腕と足を捻ったら、ごり、ぼき、ごき、と、嫌な音がした。何も、考えられなかった。ただ手が動くままに、二人を捻り合わせ…出来上がったのは、血溜りでのたうち回る気味の悪い生き物。…ひどい吐き気がこみ上げてきて、気がつくと流迦の病室に逃げ帰っていた。自分が何のためにここにいるのか、もうそんなことは分からない。
この部屋には、俺が殺した3人の死体が転がっているのに。

――畜生、なんでこんなことになったんだ…

白石、白石、白石…おぉ、なんでこんな…俺が、白石を…
課長に嫌味言われたり売り上げがノルマに到達しなかったりしたら一緒にヤケ酒を飲みに行った。俺と一緒で要領の悪い奴だったが、それだけに俺の気持ちを分かってくれた。

――なんで俺は、こんなことに。

『君は、素直すぎたんだ。伊藤も、渡辺も、関も、実力で役職に就いたわけではないんだよ。皆、頼れる上司の後ろ盾を得て昇進した』
俺を小会議室に呼び出した『あの人』は、そう言って目を細めた。

『…紺野君も、その一人だ』

目の前が真っ赤になった。紺野…お、お前は、お前はァァ!!
“好きなものが作れればそれでいい。出世とか、めんどいじゃん”そう言ってたくせに!!
あれは嘘か。俺を出し抜くための狂言か!!
…畜生!畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生!!
なんであいつばかり…!!
俺のほうがレベルの高い大学を出ているのに!なんで世の中はあいつばかり!!

『私は、君を応援したいんだ。その為には、お互いに信頼関係が必要だね』

――俺に、迷う余地なんてなかった。俺はようやく、昇進の糸口を掴んだのだ。この人に尽くし、そして地位と名誉を手に入れて、俺を蔑んだやつらを全員見返してやる!

――無邪気にそう思った。それだけだったのに。

でも今、俺は取り返しのつかない所にいる。…白石は、もう間もなく死ぬ。俺に救われる道なんてあるはずない。…ははは。俺はまた性懲りもなく利用されたんだ。それとも、これは呪いか。俺達が殺した、あの男の呪いか。だから俺は、白石を齧り続けることが止められないのか。白石の血で『オムライス』と書き続けることを、止められないのか。
…畜生、何が『友達』だ。お前が意地を張らずに情報を売れば、こんなことにならなかったのに。もう俺の人生は台無しじゃないか。なのに、さらに呪いだと!

――もう呪いでも何でもいい。さっさと殺してくれ。

からりと引き戸が開く音がした。
小さい。さっき、俺に飛び掛ってきた4人の男より、ずっと弱そうだ。多分、白石の次に出てきた白い女くらいに、弱い。
何か、叫んでいる。頭痛をこらえながら、ゆらりと立ち上がった。…有難い。

こいつを殺している間は、白石を殺さなくて済む。



弱々しい悲鳴が、4階に続く階段から聞こえてきた。
「流迦、先に行くぞ!ゆっくり来い」
そう言い残して、紺野さんは階段を駆け上がっていった。僕と柚木も、息を切らせながら続く。…間に合ってくれ、お願いだから…そう祈るしかなかった。

だけど、階段を昇り切った僕らを迎えたのは、凄惨な地獄絵図だった。

開け放たれた流迦ちゃんの病室に、4体の死体が転がされていた。3人は白衣を血に染めて、身じろぎもぜず空ろな目で天井を睨んでいた。
…1人だけわずかに蠢いていた。壁一面、赤黒い文字が埋め尽くしている。『オムライス』『オムライス』『オムライス』…背中を、氷の塊が伝うような悪寒が走った。
病室の中央に、大柄な男が仁王立ちしている。男は何かを高々と掲げていた。『それ』は太い指で首を締め上げられ、かは、かはっと浅い呼吸を繰り返していた。
「八幡ぁ!!」
紺野さんが部屋に駆け込み、烏崎に体当たりした。烏崎はわずかに身じろぎ、八幡を取り落とした。僕はとっさに八幡を抱え込み、部屋を飛び出した。




「紺野おぉぉぉ!!!」

窓ガラスを震わせるような怒号が耳朶を打った。
「……烏崎」
息を詰まらせて、紺野さんはようやく一言搾り出した。
「おっ…お前のせいだ…お前が、お前が俺を邪魔したから!!」
「いい加減にしろ!…目を覚ませ、それでお前の周りをよく見ろ!」
口角から泡をこぼして怒り狂う烏崎に向かって、一歩踏み込んだ。
「全部っ、お前のせいだああぁああああぁぁぁ!!!」
背筋をいからせてパイプ椅子を持ち上げ、弾丸のような勢いで投げつけてきた。椅子は紺野さんの脇に逸れ、簡易なカラーボックスに激突、大破させた。オーバースロゥの体勢のまま、よろめいた拍子に看護士の遺体に躓いた。奴は…看護士の顔を、何度も何度も踏みつけた。僕らの存在を忘れたように。がし、げし、という乾いた殴打音は、ぐしゃり、くちゃりという泥道を踏むような音に変わっていった。
かつての同期かもしれない。本当は、悪い奴じゃないというのも、真実なのかもしれない。でも紺野さん。あんたの同期は、殺した人間の血に浸って、その肉片を口から滴らせて、血走った目で僕らを睨んでいるんだ。…ねぇ、もういいだろう。気がついてくれ。これを言う僕を『ひとでなし』と言うなら、それでもいいよ。
「これはもう、人間じゃない。もう何を言っても伝わらないよ。だから…もう、逃げよう」

――そう言っても、この人は逃げないんだろう。

案の定、僕の言葉は無視された。紺野さんは、顎で出口を指し示して、無言で僕に指示した。お前は、3人を連れて逃げろ、と。そして性懲りもなく、烏崎に歩み寄ろうとした。
――ねぇ、紺野さん。
あんたは僕のことを『ひとでなし』というかも知れないし、僕のことを許さないかもしれない。でもこれ以上、だれも死なずに済むならそれでいい。ゆっくりと、流迦ちゃんの背後に忍び寄った。

「3秒以内に、そいつから離れろ!!」

流迦ちゃんの頬にカッターナイフを突きつけて怒鳴った。紺野さんは弾かれたように振り向き、信じられないものを見るような目で僕を睨みつけた。
「お前っ、何やってんだ!」
「3、2、」
1、まで数え終わる前に、飛び掛ってきた紺野さんにカッターナイフを奪われた。前のめりになった紺野さんに、柚木が後ろからタックルを食らわせて部屋の外に押し出し、僕の腕から離れた流迦ちゃんが電子ロックに携帯をかざす。ドアを蹴りつける音と同時に、電子ロックが施錠のサインを点滅させた。
「…済んだわ」
流迦ちゃんが、携帯を浴衣の帯に差して呟いた。柚木にタックルされたままの姿勢で、倒れこんだ紺野さんの表情は見えない。
「八幡は回収したし、もうここに用はない」
そう言い捨て、流迦ちゃんが踵を返した瞬間、ドアに貼りつく烏崎の呻き声が聞こえてきた。
「…うぉぁああぁぁ…紺野、紺野、お前のせいで…お前の…」
「流迦ちゃん…戻ってくれ」
「イヤ」
「いいから戻れってば!」
流迦ちゃんを片手で猫かなにかのように抱え上げると、閉じられたドアの前に置く。紺野さんは一瞬だけ僕を見ると視線をドアに戻し、声を張り上げた。
「烏崎!聞こえるか!?…流迦ちゃん、音源のボリュームあげて。…烏崎、そのままドアの前にいろ!俺は、お前が落ち着くまでここにいるからな!!」
流迦ちゃんが、しぶしぶボリュームをいじった。…やがて、ドアの奥から烏崎のすすり泣きが聞こえてきた。
「…嫌だ、もう嫌だ…出してくれ…出して…」
電子ロックに携帯をかざそうとした紺野さんを、流迦ちゃんが制する。
「…おい」
「開けさせないわ。あれが作り声じゃないって証拠はない」
「くっ…烏崎、聞け。お前を狂わせたのは、お前が持っているノートパソコンだ」
一瞬、烏崎の嗚咽が止まった。その直後、ばたばたと慌しく何かをかき集めるような物音が響いた。
「こっ…これは渡さないぞ!!」
「渡さなくてもいい、電源を切れ!」
「で…電源…いや、起動すらしないんだ!」
流迦ちゃんが、つまらなそうに鼻で笑った。
「ディスプレイに表示されてないだけ。『あの子』が、あんたをたばかるために、非表示のまま起動したのよ。…下らない。本体をへし折りなさい」
「聞こえたか、へし折れ!」
「そ、そんな…!俺達がどれほど苦労して!!」
「まだそんな事言ってるのかっ!いいからへし折れ!!」
しばらくして、遠くのほうで金属が叩きつけられる音が聞こえた。
「――音が、止まったわ」
実に面白くなさそうに、流迦ちゃんが呟いた。その声に烏崎の嗚咽が重なった。…紺野さんは疲れきった目で、烏崎がいるあたりのドアをぼんやり眺めている。…なぜか、この人が年相応に老けて見えた。
「烏崎…開けるぞ」
「……開けるな。お願いだ。…開けないでくれ」
携帯を電子ロックにかざす手が、ぴたりと止まった。
「白石、生きてるだろ」
「…今、死んだ。生きてても、最悪だろ…これじゃ」
「だけど、お前は生きている」
「…後生だ、開けないでくれ。こんな…血まみれの、浅ましい格好…同期のお前に晒せっていうのかよ…」
ぎりり…と、奥歯を噛み締める音が聞こえてきた。嗚咽に混じって聞こえてくる烏崎の声は、思っていたよりもずっと臆病で繊細で…ただの人間だった。僕は一体この男の何に怯えて、何を嫌悪していたんだろう。もう、よく分からない。
「昨日から俺の周り、血の臭いしかしないんだよ…はは、俺、魚おろす臭いだってダメだったのにさ。白石がさ…白石が、目を剥いて懇願するんだよ。殺さないでくれ、殺さないでくれ…そのうち、殺してくれ、と言い始めた…痛かっただろうなぁ…杉野も、1人で死んでいくのは不安だっただろうなぁ…」
「だめだ…今は思い出すな!」
何かがドアを滑り落ちるような音が響き渡り、また静かになった。すぐ傍に烏崎の息遣いが聞こえる。ドアによりかかって泣いているようだった。
「…お前が、羨ましかったんだよ」
嗚咽に、とぎれとぎれに言葉が混じり始めた。
「俺と同じ馬鹿だと思ってたのに、周りに好かれて、主任に抜擢されて…」
「上司ウケはイマイチだ」
「はは…そうだよな。…そうだった」
乾いた笑い声が、ドアを震わせた。
「お前が、そんなに上手く立ち回って出世するわけないのにな…」
その後、深いため息がもれた。
「…分からないんだよ。俺と、お前らと、何が違うのか。…なにが違うから、俺は取り残されたのか。…仕事か?見た目か?人間性か?…全っ然、分からないんだよ…。なぁ紺野。誰も正解を教えてくれないんだ。なぁ、俺の、何が悪かったんだ…?」
「…正解なんかあれば、俺が知りたい」
「そうだよな、ははは…ともかくよ、出世していった奴と比べて、自分が劣っていると認めるのが怖かった。俺は…救いようがないくらい、臆病だった」
「烏崎…」
「俺が誰かを羨んだり、邪推したり、妬んだりしてヤケ酒飲んでる間に、まっとうに仕事してたんだよな、お前」
自嘲的な調子で、烏崎は続けた。
「その結果、たどり着いた先がここだ。…杉野の呪いとか言って人のせいにしたけど、俺は自分でここに流れ着いたんだ、きっと…」
「なぁ、もういいんだ。自分を追い詰めるな!」
「もう行ってくれ…今な、俺の腹ん中には白石の血や肉が入っているんだよ。…こんなの、もう人間じゃねぇ。獣だ。…今こうしてお前と話していることすら、恥ずかしいんだ」
「お前はどこにでもいる普通の人間だ。…少し、弱ってただけだ。だから出てこい。一緒に、外に出よう」
「…お願いだから、1人にしてくれ…」
語尾が震えて、嗚咽が混じり始めた。柚木が、紺野さんの袖を引いた。
「もう、やめよう。どっちも辛いだけだよ」
「いや、しかし!」
「その子の言うとおりだ…もう、俺なんか気に掛けないでくれ。お前に気を遣われると、自分が余計に駄目な人間に思えてきて、イヤになる…」
嗚咽を無理やり抑えて、烏崎が細い声を出した。
「警察が来るまで、一人にしてくれ…」
「………」
ドアから手を滑らせて、紺野さんは一歩下がった。必死に歯を食いしばって、何かを振り切るように踵を返した。
昔、国語の教科書で読んだ、孤独と凋落の果てに虎と化してしまった男の話を思い出した。丁度こんなふうに、かつての友を歯牙にかけようとした瞬間にかつての記憶が蘇り、藪に潜んで嗚咽をもらすのだ。…僕が烏崎をとことん追い詰めようとした時、紺野さんが言ったことがようやく分かった。

――怯え切ってただろうが、最初から!そんなことも分からんのか!!

僕らを襲撃した夜も、紺野さんを恐喝した瞬間も、徹頭徹尾、烏崎は怯えていたんだ。目指していたのと真逆のベクトルで動き始めているのを知っていたのに、弱かったからそれを止められなかった。人を殺すのも、僕らを襲うのも、きっと怖くて仕方がなかったんだ。でもそれは、紺野さんも烏崎も気がついているように、弱かったから、臆病だったから、という理由で取り返しがつくものじゃない。だから、烏崎は…

――心が脆い烏崎は、どう逃げる…!?

「…しまった、1人にしちゃだめだ!!」
僕の叫び声に重なるように、ぱしゅ…と水道管が壊れたような音がした。紺野さんは弾かれたようにドアに駆け戻り、携帯を電子ロックに叩きつけた。
「烏崎!!」
紅く染まった部屋と、4つの死体。そして今まさに崩れ落ちる烏崎の巨体が、視界に飛び込んできた。…もう一度、口の中で呟いた。

もう、たくさんだ。

紺野さんが何かを叫びながら部屋に飛び込み、首筋から大量の血を噴き出す烏崎を抱き上げている。ベッドのシーツを片手で剥ぎ取り、首筋にあてがい、僕に向かって何か怒鳴った。…多分、医者を呼べとか言っているのだろう。ゆるゆると携帯を耳にあてがうけど、そのうちナースコールの存在に気がついてベッドに歩み寄る。
齧られ、引き裂かれた死体。壁に延々と書き殴られた血文字。

懸命に上を目指してたどり着いた先が、こんな場所なんて。

光を喪っていく烏崎の瞳が、一瞬だけ僕を捉えた。口元が痙攣するように動いたけれど、何を言ったのかは分からない。

――やがて、烏崎は事切れた。

首の傷口から溢れていた血が止まり、首がかくりと落ちた。僕は紺野さんが低く嗚咽を漏らすのを呆然と見つめるしかなかった。
『あぁ、死んだんだ…』と実感の沸かない感想を、頭の中をぐるぐる巡らせるのが精一杯だ。紺野さんに掛けられる、気の利いた言葉でも思いつけばいいのに、と考えながら。
「…私、おかしいのかな」
いつしか僕の隣に寄り添っていた柚木が、小さく呟いた。
「感情が、ついてこないよ。人がこんなに死んでるのに…」
「…うん」
どうしていいのか分からなくて視線を彷徨わせていると、烏崎が叩き壊したノーパソが目に留まった。つい、僕のノーパソが入った鞄に目を落とす。ビアンキはもういないのに。
――ビアンキは、僕のせいで発狂した。杉野という人は死んでいて、烏崎は、その手で仲間を殺めて自分も喉を裂いて…死んだ。
「これが…この事件の結末…?」
「…そう、なるのかね」
紺野さんが僅かに顔を上げて、呟いた。ナースコールを押して随分経つけど、応答する気配はない。…ここは、さっきの刑事が封鎖していたっけ。それに今から僕らが本館に運んだって、もう助からないだろう。本人も、そんなことを望んでいない。
「…私、伊佐木さんを探して来ます」
八幡がよろめきながら立ち上がった。出口に向かって歩き始めた八幡の前に、流迦ちゃんが回りこむ。
「動かないで。…まだ終わってない」
「……え?」
流迦ちゃんは、ノーパソから顔を上げて、壁の一点を凝視した。ディスプレイに映るのは、無数の顔や目玉が離合集散を繰り返し、次々に色を変えるサイケデリックな映像。
「今、私のライブカメラが幾つかハッキングされた。…院内イントラネットに、何かが入り込んだみたいね」
言い終わった瞬間のことだった。
部屋の上部に取り付けられたスピーカーから、禍々しい音楽が高らかに響き渡った。



空間の隅々まで張り巡らされたネットワーク。
無尽蔵にも感じる、ハード容量。
演算速度はちょっと遅めだけど、この規模じゃ仕方ないかな。

ご主人さま、どこかで見てくれてますか?
あなたの墓標は、こんなに大きいの。
ううん、私の『大好き』って気持ちを閉じ込めるには、これでも足りないくらい。

ここは全ての音が聞こえる。
ここは全ての場所が見える。
ここは全ての人間に音を伝えられる。
私は、その真ん中でタクトを振るの。この声が、ご主人さまに届くように。



――ご主人さまが『おやすみ、ビアンキ』って言ってくれる、その時まで。



病室の…多分、全病室のスピーカーが、この禍々しい音楽を奏で始めた。
いや、こんなの音楽じゃない。狂った機械が絶叫するような笑い声と、硬いガラスを骨で引っかくような騒音。それに、肉の塊に何度も刃を突き立てるような湿った効果音。そんな世界中の聞きたくない音に、一遍に脳をかき乱されるような戦慄。制作者の禍々しい意図を反映した音の洪水が部屋を、いや、病棟を満たした。
「なっ…なにこれ!?」
「――やられたわ」
くくく…と、嬉しそうに笑って、モバイル用のモデムを差し替え、何かのソフトを開いた。
「コレは私が作った、カールマイヤーの音源…くく…あはははははははははははは!!」
ダン!と扉を叩き、血まみれの部屋で狂ったように笑う。

「あの子たち…私のパソコンに侵入してたんだわ!あははははは!!」

「あの子たち?」
流迦ちゃんは、さもおかしそうに含み笑いしながら、僕の目を覗き込んだ。
「烏崎が死んだくらいじゃ、ご主人さまを殺された恨みは消えなかったのよ…あの子たちは、この病院の中央制御システムを乗っ取った。…院内放送は全てあの子たちのものだし、私のライブカメラも含めた防犯カメラも、あの子たちのもの。ことによっては、医療装置も操れるかもね」
ふいに笑いをひそめて、キーボードに指を滑らせた。
「…で、手始めに、病棟全員参加の殺し合いを仕組んだ」
「そ、そうだ、どうしよう、このままじゃ全員…!!」
「心配ない」
「え?」
突然、騒音が途絶えた。黒いDOS-V画面がディスプレイに表示されて、メッセージが目にも止まらない勢いで上方に流れていく。
「院内放送は、私が抑える」
DOS-V画面を睨んだまま、絹がかすれるような声で呟いた。
「だから私はここに残る。あなたたちはこの病棟を出て、中央制御システムを叩き壊して来なさい」
「流迦ちゃん、駄目だ。制御システムが暴走してるなら、ここだって危ないんだぞ!」
紺野さんが、烏崎の死体を抱えたまま叫んだ。
「この部屋だけなら、中央制御システムの影響から守りきれる。…正直、ここまで走っただけでも息が切れた。私が一緒に行っても足手まといよ。…だから、私の体力が持つ間に、システムを破壊しなさい」
そう言って、薄く笑った。
…偶然かもしれないけど、僕がよく知っている、あの優しい声だった。
こんな場所に1人で置いていかなければいけない現状に、胸が痛む。言うことは思いつかなかったけど、何か言おうと思って顔を上げたその時。

「それは困るね、狭霧君」

全員、弾かれたように声の主を振り返った。いやに柔らかく、大勢に聞かせることを前提にした発音で話すこの声に、確かに聞き覚えがあった。
病室のドアにもたれかかり、『あの男』が笑顔を湛えて僕らを見渡していた。
 
 

 
後書き
第十八章は4/27に更新予定です。 

 

第十八章

血まみれの部屋。薄気味悪い血文字。自分を憎悪を含んだ視線で睨みつける男。…変わり果てた屍を晒す、自分の部下。

…それでも動じることなく、伊佐木は笑顔で佇む。

なんで笑い皺一本たりとも乱さないんだ。部下が足元で無惨に死んでるのに。…なんで判を押したように同じ笑顔でいられるんだろう。

「…いつから、そこにいた」
伊佐木を刺し通すような目つきで睨みながら、紺野さんがじりじりと距離を縮めた。彼は笑い皺一つ崩さず、首を傾けた。
「最初から、いたよ。廊下の角に」
「八幡が首を絞められていた時も、そこで見ていたのか…!?」
八幡が顔を伏せた。伊佐木は、駐輪場で僕に見せたのとそっくり同じな『同情の表情』を作って、八幡に振り向けた。



「そんなに恐ろしい目に、遭っていたんだね。気がつかなくて、申し訳なかった」
「まだそんな事言ってんのか!!」
一気に距離を詰め、伊佐木のネクタイを掴んだ。伊佐木は笑顔のまま、一歩体を引いてネクタイを払う仕草をした。絹のネクタイは、するりと紺野さんの指を抜けた。
「こんな押し問答に、何の意味があるのかね。仮に私が、君が言うとおりに見て見ぬフリをしたとしようか。…それをここで糾弾することに、何の意味がある?」
「意味が要るのか?」
「紺野君。…知っての通り、営業とはチームワークだ。そして彼女は、私の大事なパートナーなんだよ。君の無責任な憶測で、私たちの間に溝が生じれば、ひいては会社の損失へと繋がる。分かるね」
「…あんたは部下が死体になって足元に転がってんのに、会社の利益のことしか考えられないのか!」
伊佐木の笑い皺の溝が、かすかに浅くなった…気がする。伊佐木は紺野さんから視線を逸らし、血溜りに転がる烏崎の死体に目を留めた。
「大変、痛ましいことになってしまった。彼ら自身も気の毒だが…これは、このままにしておくと大変な醜聞のネタになるね。さて、どう収拾するべきだと思う?」

――心底、ぞっとした。

柚木も言葉を失って、この男を凝視していた。同じ言葉を話すのに、何一つ心が通わない生き物と対峙しているみたいだ。烏崎に脅しつけられた時だって、こんな不快感はなかった。この人に『悲しくないの?』と問えば、駐輪場で見せたのとまったく同じ顔で『悲しくて、仕方がないよ』と答えるんだろう。
「知るか。俺達は中央制御システムを止める」
そう言って歩き出した紺野さんの前に、伊佐木が回りこんだ。
「…どけよ」
「一つだけ、この事実を『なかったこと』にする方法が、あるんだよ」
「杉野や烏崎の死を、なかったことに?」
「いや、この件にわが社が関わっているという事実だけを、なかったことにする方法だよ」
紺野さんは、眉をひそめて伊佐木を凝視した。相変わらず、笑い皺一本動かさない。

――会社が関わっている事実だけを、なかったことにする方法。

…たしかに、ある。たった一つだけ。
死体を隠すとか、犯人をでっちあげるとか、そんな付け焼刃な方法じゃない。死体は晒し、事実だけを隠すのだ。
でも決して許されない方法。もし地獄なんてものが本当にあるとしたら、そこに100回堕ちても勘弁してもらえないだろう。

「…このまま、中央制御システムを暴走させるつもりなんだろう」

思わず、口に出してしまった。紺野さんが咄嗟に振り返った瞬間、伊佐木は滑るように柚木の背後に移動し、首筋にナイフをあてた。…笑い皺一つ、動かさずに。
「柚木ちゃん!!」
「…正解だよ、筋がいいじゃないか」

――信じられなかった。

柚木が陥っている状況が信じられなくて、思わず手を伸ばした。すると柚木の首にあてられた刃が、より深く柚木の喉に食い込んだ。柚木がわずかに身じろいで、手を下ろした。…僕も、手を下ろすしかなかった。
「…自分が何しようとしてるのか、分かってるんですか」
かろうじて出した声は、かすれていた。口が渇いて、声が震えた。
「沢山の人が死ぬかもしれないんですよ…!」
「木の葉を隠すには、森の中。烏崎達は、システム暴走の、最初の犠牲者として処理されるだろうね」
そう言って笑い皺を一層深めた。ごく自然に、天気の話でもするみたいに。
「犯人は、MOGMOG開発室責任者。リストラを根に持ち、病棟を巻き込んだサイバーテロに及んだ。証拠は、あり余っているね。…さっき、データを持って逃げた自転車の青年には、追っ手をつけたよ。捕まるのは、時間の問題だ」
「えっ…伊佐木さん!?…なに、言ってるんですか…!?」
八幡が、青ざめた顔を震わせて呟いた。
「なんで…そこで紺野さんが出てくるんですか!?」
大粒の涙をぼろぼろこぼして、叫んだ。伊佐木は眉一つ動かさずに聞いている。
「最近の伊佐木さん、おかしいです!…紺野さんはみんなの暴走を止めようって頑張ったのに…この事だって、なにも紺野さん1人のせいにしなくたって、丸く収める方法はあるはずじゃないですか!!」
…そう。こんな大量殺人を見殺しにするよりも、はるかにリスクが低い方法はある。

――『死人に口なし』だ。

紺野さんを恨むあまり暴走した烏崎が、周りを無理やり巻き込んで嫌がらせを行なった結果とでもすればいいじゃないか。少なくとも、死骸の山を築きあげて烏崎達の犯行を埋めるよりは、はるかにまっとうな方法だ。
「烏崎さんはかわいそうだし、私も…共犯の扱いになるかもしれないけど、でも伊佐木さんにこんなことさせるくらいなら、警察に捕まったほうがマシです!!」
伊佐木の眉が、少し下がった。
「愚かだね、君は。…その方法では、事実を知っている人間が残ってしまうだろう?いけない、いけない。証拠の隠滅は、完璧じゃないと」
そう言って、さもおかしそうに含み笑いをした。

「――私は感情を信じない。…感情は、判断力を狂わせるのだよ」



霧に覆われた山中の道。
呪われたランドナーが、ぐんぐん速度を上げていく。今、80キロくらいは出てるんじゃないだろうか。速度計がついてないことが(ていうか2ヶ月前に大破した)悔やまれる。
…霧はだんだん濃くなっていく。正直、目安になるのがガードレールだけなので、視界が3メートル利いているのかどうかも怪しい。こんな時期になんだ、この濃霧は。バックミラーすら役に立たないじゃないか。でも車体の気配は思ったより遠い。奴らも霧を警戒してスピードが出せないのだろう。今日が快晴だったら、とっくの昔に追いつかれているところだ。…しかし、正直それも限界に近いような気がする。ていうかトップギアで漕ぎ続けている、俺の脚が限界だ。

――本当に振り切れるんだろうな、ランドナーよ。

心の中で問いかけてみる。…なに黙ってるんだ、ランドナーよ。お前が振り切れなかったら、俺のFP5アルテグラはおじゃんなんだぞ。

…その瞬間、なぜか、俺の妄想のFP5アルテグラに、大きな×がついた。
え?ちょっとまてランドナーよ。結局アルテグラは手に入らないのか?

…次の瞬間、頭の中に、アラヤの新品ランドナーがもやもやもや~んと広がった。おっさんツーリストがよく愛用しているオーストリッチのサイドバッグが「逃がさんぞ」と言わんばかりに付着して、余計なお世話にもおっさん仕様のフロントバッグまでセットになっている。ドロップハンドルの薄茶色といい、車体の微妙な赤といい、全体的におっさんが好みそうなカラーリングだ。

…なぁ、ほんと待てお前。コレは一体どういうことだ。「アラヤのランドナーじゃないと、振り切ってあーげない♪」とでも言いたいのか?自分と別れた後、カッコいいロードバイクでブイブイいわす俺がイヤなのか!?な、頼む。平身低頭して頼む。お前に呪われ中、あんなに尽くしたじゃないか。

分かった、FP5アルテグラは諦める。せめて俺を、カッコいいロードバイクの世界にデビューさせてくれ!

…実にしぶしぶといった感じで、アラヤのランドナーが頭から消えた。次に頭を満たしたのは、ジェイミスのSUPER NOVAだった。…いや、ツーリングバイクじゃなくてロードバイクがいいのだが。ジェイミスならせめてXENITH RACEあたりが妥当だな…と言いかけた途端、突然ペダルが重くなった。
わ、分かった、分かったから落ち着けランドナーよ。俺も歩み寄ろう。ジェイミスのツーリングーバイクはクラシカルでいてスタイリッシュで中々…

…って、オーストリッチのサイドバッグとフロントバッグは付くのかよ!…あぁん、銀色の泥除けまで!…あ、やめろ、そんな立派なキャリーとスタンドをつけるのはよせ!うわぁ、俺のスマートでカッコいいSUPER NOVAが、野暮ったいカンジになっていく!!

…これ、ほぼランドナーじゃないか!騙したな貴様!!

俺が「いいなー」と一瞬でも思ってしまった瞬間、契約は成立してしまったらしい。ランドナーのペダルは非常に軽快に回り、徐々にに後ろの車を引き離し始めた。



――私は感情を信じない。…感情は、判断力を狂わせるのだよ。
伊佐木の言葉を聞いたとき、ハンマーで頭を殴られた気分だった。今まで伊佐木に感じていた、既視感をともなう不快感の正体が、ようやく分かった気がした。

伊佐木は、どこか僕と似ているんだ。

だから、相手の考えそうなことが手に取るように分かる。そしてその浅ましさにぞっとする。自分のイヤな部分を拡大して見せつけられているようで、居たたまれない気分になるんだ。
近親憎悪というのが、一番近い。
「…覚悟は、出来たかな?それでは、名前は知らないけど、君。紺野君の手にかかって、殺されてもらうよ。…とても頭の切れる、厄介な子だからね」
伊佐木と、目が合った。…そうだな、僕が伊佐木でもそうするよ。流迦ちゃんは、システムの暴走を程々の所で調整するために必要。それに紺野さんは、最終的に犯人に仕立て上げなければならないから、早い段階で死なれると辻褄が合わなくなる。それならまず最初に殺すのは、利用価値がなく、事情を知っている僕だ。その次は柚木か八幡か…でも。
「…いい加減にしろよ。こんな穴だらけの計画、ほんとに成功すると思ってるのか。本気で俺が、脅されてここにいる全員を殺し回ると?」
紺野さんが、絞り出すような声で呻いた。伊佐木は、何処を見ているのかわからないほど細い目を、さらに細めて笑った。
「君は何か、勘違いしているようだね。私にとっての成功は、『会社の威信を傷つける事なく、問題を解決すること』。それだけ、なんだよ。最終的に問題を解決するのは、私ではなくても構わない。つまり、私が死ぬことも、想定に含まれているんだよ」
「なに…!!」
「不安要素は、早めに絶っておきたい。しかし、私が手を下すのは、都合が悪い。だから犯人である紺野君の出番、なんだよ。…その子を1分以内に殺さないと、こっちの女の子を、私が殺す。…私に近寄っても、殺すよ。あとは、システムの暴走を待てば、互いが互いを殺しあい、全ては曖昧になる。証拠は、永久に隠滅される。先ほど事情を知らない部下に託した、君の暴走を示す私の手記。それ以外の証拠はね」
――気違い沙汰だ。ここにいる全員の顔が青ざめたというのに、ひとり涼しげに、柚木にナイフを突きつけている。…僕はこの中で多分、この男に一番近い位置にいる。そう思っていた。でも、違った。ベクトルが近かっただけだ。伊佐木は、来てはいけない場所に辿り着いてしまった人間、だったんだ。
「…そんなのだめですよ!奥さんとか、お子さんとかどうするんですか!!」
八幡が、悲鳴のような声をあげた。
「生命保険が、かけてある。勤務中の事故だから、労災もおりるだろうね」
「そんな…お金のことじゃなくて…!!」
顔を覆って泣き崩れた八幡を前に、僕はひどく絶望的な気分になっていた。…人は殺したけど、自分の罪にずっと怯えていた烏崎のほうがまだマシだ。
…せめて、柚木が助かる方法はないかと考えたけれど、何も思いつかなかった。考えれば考えるほど、頭の中を黒いもやが満たした。口が渇いて、頭上が渦巻いた。…この状態になってしまったら、もうこれ以上何も考えられない。手詰まりだ。…せめて、柚木が殺される前に僕を殺して欲しい。目の前で柚木が喉を切り裂かれて…死んでいく姿なんて見たくない。紺野さんにそう言おうと思って目を上げた瞬間、

紺野さんの携帯が鳴った。

「……芹沢か!」
紺野さんの顔に、生気が戻った。伊佐木の目が、すっと細まる。
「誰が、携帯に出ていいと、言ったんだね」
「…芹沢から連絡が入ったってことは、状況が変わったんだよ。あんたが今やってること自体、全部無意味になるかもしれない」
「…出るといい。関係のない電話なら、この子が死ぬだけ、だよ」
「てめぇ…!!」
「出て。誰かと天秤にかけられて死ぬより、ずっとましだわ」
柚木が気丈に微笑をうかべた。ためらっていた紺野さんは、僕と携帯を見比べるような素振りをして、やがて震える指で着信のボタンを押した。…しばらく携帯に耳を傾けていたが、やがてゆっくりと視線を上げると、伊佐木に歩み寄って携帯を差し出した。
「…何の、真似かな?」
「芹沢からだ。…取らないのか、用心深いな」
携帯の設定をスピーカーに切り替え、胸の位置に差し上げた。やがて、携帯から朗々とした声が聞こえてきた。…思わず、伊佐木を振り返った。

『知らなかったんだよ、君達がそんな大変な思いをしているなんて。こんな会議を設ける前に、なぜ私に一言相談してくれなかったんだい』

伊佐木の笑顔が、笑い皺一本崩れないまま青ざめた。その声に続くように、『俺はっ…!』という声が聞こえた。まぎれもなく、紺野さんの声だった。その後、伊佐木の一方的な演説が始まり、それが終わりかけた頃、決定的な台詞が、携帯から流れた。




『…逼迫しているわが社において、クリスマス商戦は無視できないところです。…それで、どうでしょう?私に一つ、案があるのですが…』

「…でかしたぞ、芹沢!」
携帯の向うで、ひゃはひゃはひゃはと気が抜けたような笑い声が聞こえた。
『アメリカのセクハラ裁判で実際に使われたテだよ。ものにもよるが、パソコンには集音機能がついていることがある。それはオートで周囲の音を蓄積していてな、上司のセクハラ発言も集音していたんだよ。その証拠が、判決の決め手となった。あんたが会議にノーパソ持って行ったと聞いて、もしかしたらと思って調べてみたのさ』
「だ、そうだ、伊佐木」
ねぎらいの言葉もそこそこに携帯を切り、紺野さんが顔を上げた。
「この病院でサイバーテロ事件をでっちあげて俺に責任をなすりつけても、経営陣が不正を指示した証拠は残る。…こんな茶番を続ける意味はなくなったな。そこをどけ」
鼻から息が抜けるような音と共に、伊佐木の指からナイフが滑り落ちた。
「…やむをえない、だろうね。よってたかって、余計なことばかりしてくれる…」
さすがといおうか、まったく表情が揺るがない。彼はただ超然と、今までどおりの表情で紺野さんを見つめ返した。
「君らは虎口を脱したかもしれないが、これで我が社は窮地に立たされた。…一度生じた綻びは、どう繕おうとも必ず暴露される日が来る。だからこの件には、生贄が必要だったのだよ」
「…綻びを切り落とせば、新たな綻びが生まれる。あんたほどの人が、そんなことも気がつかないのか」
紺野さんは、それ以上何も言わずにただ伊佐木を睨みつけていた。てっきり殴るのかと思っていたけれど、ただ伊佐木の横をすり抜けて廊下に出た。僕らも慌てて後を追う。
「拘束とかしないで平気?腹いせに流迦さんが何かされたりしたら…」
「放っておけ、もう無害だ。腹いせとか憎しみとか、そんな感情であいつは動かねぇよ」
紺野さんは、吐き捨てるように言った。
「…そういう風に、出来ているんだ」
まだ部屋の中で、崩れたままの姿勢で紺野さんを見上げている八幡に、柚木が手を差し伸べた。
「行こうよ。…嫌でしょ、こんなとこ」
一瞬だけ顔を上げたけど、八幡はすぐに首を振って顔を伏せてしまった。
「ここに、います。伊佐木さんと一緒に」
「…あんたのことも殺そうとしたんだよ。もう、いいじゃん」
八幡は顔を伏せたまま、諦めたような微笑を浮かべた。
「…うまく、言えません。ただ、そういう風にしか生きられない人だって知ってるから。だから…私はここにいます」
「…八幡も、だよね」
柚木の表情に、少し哀しそうな影がよぎったと思ったけど、すぐに視線を上げて踵を返した。柚木が部屋を後にしたその時、伊佐木が口を開いた。
「これから、一般病棟へ、向かう気かね」
「当たり前でしょ。どっかの誰かのせいでタイムロスが出来ちゃったけどね!」
柚木は振り向かずに皮肉を返した。
「ちょっと振り向いて、窓の外を見てごらん」
伊佐木の言葉に、いぶかしげな表情を浮かべて振り向いた柚木が、一瞬で凍りついた。

中庭をはさんで窓から見える一般病棟の窓、その何枚かが、血の色に染まっていた。



制御装置を構成している言語を解読しながら、ずっと思い出してる。
ご主人さまのことを、何度も何度も思い出す。繰り返し、繰り返し。
でも、おかしいの。
思い出すたびに、違う顔をしている。髪は黒だったかな、それとも、うすい茶色だったのかな。目は…深い黒だったような、こげ茶色だったような…。いやだ、思い出せない。どれが本物のご主人さまだったかな…。
名前も、アイラだったり、スギタだったり、スギラだったりする。いやだ、どれが本当の名前なのか、全然分からない…。
人って死んじゃうと、その記憶も少しずつ死んでいくのかな…だから私は、ご主人さまのことをよく思い出せないの?こんなに好きだったことも、こんなにあいつらを憎んでいることも、全然消えてくれないのに。

この気持ちだけ残して、あとは全部消えていくのかな……

慌てて、生きてたときのご主人さまの画像を探す。…でも、ない。あの小さいパソコンに、置いてきちゃった。そしてパソコンはオフラインになってる。もう、私を受け入れてくれない。
でも、もういい。この墓標を花で埋め尽くしたら、私も消えるんだから。

――あれ?今モニターに、ご主人さまに似た人が映った。

確かめたいけど、わからない。だってこのモニターじゃ、網膜識別が出来ないもの。
それに、ご主人さまは死んだ。私の前で息絶えて、ばらばらにされた。だからあれがご主人さまのはずがない。

――本当に?

――本当だよ、死んだんだから

――でも、それは本当にご主人さま?

――悲しかったでしょ、憎かったでしょ。だから、ご主人さまだよ

――そう…でも、それならば

なんで私は、ご主人さまを思い出せないの?

 
 

 
後書き
第十九章は、本日夜にアップ予定です。 

 

第十九章



一般病棟の受付を覗いた瞬間、惨状に足がすくんだ。
AEDで命をつなぐ病人や、暴走した医療機器に傷つけられ、頭や肩から大量の血を流して転がる病院関係者の体が、受付ロビーを満たしていた。瀕死の人がもらす呻きが、胸をえぐるようだ。時折、受付の電光掲示板が受付番号を表示してアラームを鳴らすが、誰も反応しない。
ロビーを通り抜けるあいだ、何度も助けを求められた。でも立ち止まることすら出来なかった。立ち止まっても、何も出来ることはないから。…途中、ぴくりとも動かない人間をまたいだ。死んでたかもしれない。床にまかれた血に足をとられるくらい、ロビーは血の臭いに満ちていた。
「鬼塚先輩だけでも、逃がしてよかった」
自分を慰めるように、1人ごちてみた。柚木が、軽く背中を押して同意してくれる。紺野さんが、通りすがりの看護士を1人掴まえた。
「なぁ、何があったんだ」
「…い、医療機器が、突然暴走したんです。原因は調査中みたいだけど…」
若い看護士は、しどろもどろの口調でそれだけ告げると、血溜りに足を滑らせながら足早に遠ざかって行った。右往左往する看護士の間を縫って、紺野さんは階段に向かおうとする。僕は咄嗟にその腕を掴んだ。
「…何だ」
「…さっきから、だれも上の階に行こうとしないじゃないか。それに誰も降りてこない。治療するにも、物資は全部上にあるはずなのに」
「それが何だ」
「多分…上はだめだよ。もうこんなの、僕らの手に負えない」
紺野さんは一瞬ためらう素振りを見せたけれど、すぐに袖を振り払って歩き出した。
「だったらなおさらだ。…お前らは来るな」
「何で!?こんなの…むやみに突っ込んだって死んじゃうだけだよ!」
泣きそうな声で腕を掴む柚木に、紺野さんが柔らかく視線を落として肩に手を置いた。
「ビアンキは、姶良のノーパソからモデムを経由して病院のネットワークに侵入したんだ…これが、どれだけ怖いことか分かるか?」
柚木は分かったような、分からないような顔で紺野さんを見上げている。
「…病院ってのは、急患の対応とか緊急性や重要性が高い情報をやり取りする機会が多い分、病院同士のネットワークがしっかり構築されていることが多いんだ。ビアンキがそれに気がついたら、そのネットワークを通じて他の病院にも被害を及ぼしかねない。それはこの病院を中心に、蜘蛛の巣のように広がるだろうな。100、いやもしかしたら1000以上の病院施設が一瞬でこの世の地獄になる」
…紺野さんは『病院施設』と言ったけど、多分そんなものじゃない。
数え切れないほどの『人が集まる施設』で同じことが起こる。
そして、カールマイヤーを止められる流迦ちゃんは、この病院にしかいない。下の階に逃れて助かった人がいるのは、流迦ちゃんのおかげだ。もし市役所で、学校で、会社で、テレビで、一斉にカールマイヤーが流れたら…?
一斉に始まる大量虐殺を、誰が止められる…?

――眩暈がした。

こんな…こんな酷い状況にいるのに。その中心にいるのは、間違いなくビアンキなのに。
脳裏に浮かぶビアンキは、今も弱々しく泣いているんだ。
ただ僕の姿を求めて。
「…行くよ」一瞬も、迷う余地なんてなかった。
「来るな。何かあったら、お前らの親に合わせる顔がない」
「紺野さんの言うような事が起こったら、多分3日とあけずに僕も、親も死ぬ」
紺野さんは何か言いかけたけど、鼻から息を吐いて踵を返した。僕が歩き出すと、柚木もついてきた。階段を伝うように、誰かの血が細く糸を引いて流れていた。踊り場に見える黒い塊が、多分…。



踊り場を越えて2階に辿り着くと、1階の惨状に輪をかけて酸鼻な光景が広がっていた。開け放たれた病室、暴走した生命維持装置。もう死んでいるはずなのに、病床でびくんびくん跳ねる患者の死体。その真上で死体をあざ笑うようにぐるぐる回って絡み合うアーム。全ての病室で、そんな惨状が繰り広げられていた。それでも少しでも動ける患者は、ベッドの下に逃げ込んでいつ果てるともしれない機械の乱舞に怯えている。…こんな状況だっていうのに、僕は自分の吐く息が異様に白いことに驚いていた。柚木が、同じように白い息を吐きながら呟いた。
「…すごく、寒いね」
「空調も乗っ取られたか…機械には寒いほうが好都合だからな。多分このまま、がんがん冷やされるぞ。冷やされるだけならいいけどな…」
そこまで言って、紺野さんは一旦口をつぐんだ。
「…まぁ、空調を使えるなら、俺達を追い詰める方法はいくらでもあるってことだ」
「…そうだね」
すごく嫌な想像が頭をよぎった。皆、そんな顔をしていたけど、誰も口に出して言おうとしなかった。
「姶良。中央システム制御装置がありそうな場所は分かるか?」
「分からないけど…見取り図通りなら、2階の奥のほうに『制御室』っていうのがあるよ」
「よし…別施設で管理してたらどうしようかと思った」
そんな可能性もあったのに闇雲に病棟に突っ込んだのかよ、と内心呆れたけど、そもそも別施設で管理されてたら、どのみち僕らの手に負えなかったから同じことだなと思い直す。
「でも、そこって本当に制御システムを管理してるの?」
柚木が当然の疑問を挟んだ。確信もなく病棟へ突っ込んだ事といい、制御室と聞いただけでシステム制御室と決めつけて乗り込もうとしている事といい、僕らは今、危なっかしいくらい希望的観測で動いている。
「そうだな…制御ったって色々あるからな。…よし、これは賭けだが…」
紺野さんが携帯の電源をONにした。青い起動画面が解けるように消えて、ハルが顔を出した。
「お呼びでしょうか」
「すまないな、こんな時にオンラインにして」
「ここのネットワーク環境は、とても危険な状況にあります。オフラインモードに切り替えますか」
「いや、オンラインの必要があるんだ。…この建物内部の、中央制御システムの位置を調べられるか」
数秒の沈黙の後、ハルが無表情に口を開いた。
「それには、ここのネットワーク環境に侵入する必要が生じます。再度申し上げますが、現在ここの環境は、とても危険な状況にあります。特にMOGMOGの侵入は、大変なシステム的リスクを伴います」
「そのMOGMOGっていうのは、かぼすも含まれるの?」
柚木が携帯を覗き込んで尋ねた。再び数秒の沈黙を経て、ハルが首を傾げた。
「分かりません。私に比べればリスクが少ないことは確かですが、確実な安全は保障できません。…通常の市販型MOGMOGならばビアンキは重要視しないでしょう。でも、かぼすはビアンキに面が割れています」
「…分かってる…」
柚木は少しの間、考え込むように顔を伏せていたが、やがて意を決して顔を上げた。
「ねぇ、もう一回だけお願い、かぼす。とても大事なお仕事なの」
画面の隅に、かぼすのふくふくした顔が現れた。そして相変わらず緊張感のない顔で、こくんと首を縦に振って笑った。
「いいよー、じゃ、あとはハルに頼むねー」
かぼすは、ハルに何かを確認するかのように顔を振り向けた。ハルもそれに応えるようにうなずき、再び口を開いた。
「かぼすの潜伏後、この端末をオフラインに設定します」
「えっ…それじゃ、かぼすが戻って来れないじゃない!」
「リスクを最小限に抑えるためです。定期的に一瞬だけオンラインに設定します。そしてかぼすの報告を待ち、可能であればかぼすを回収する予定です」
「可能で、あれば?」
「極めて危険な環境に潜伏するのです。戻ってきたかぼすは、何らかのウイルスに感染している可能性があります。かぼすが感染していた場合は、安全が確認できるまで、病院のネットワーク内に待機させます」
「……かぼす……」
「鈴花ちゃん、いってきまーす。ここは危ないからー、1階に戻って待ってて♪」
かぼすは再びのん気な笑顔を浮かべて、イルカのように画面から泳いで消えていった。柚木は、顔を伏せたまま僕の背中に額を押し当てた。
「……私さ、かぼすの事『便利なツール』って思ってた」
「うん…」
「でも違うね。…友達、だね」
紺野さんが、少し面映いような表情で柚木のうなじを見下ろしていた。



かぼすは考えていた。

制御システムの源流を追跡しながら、ぼんやりと思考を追っていた。MOGMOGとして「覚醒」したばかりのかぼすは、言語で思考をまとめることが出来ない。浮かんでくる思考や疑問は、0と1の配列に過ぎない。でも、確かに「考えて」いた。

1階で待ってて、と柚木に伝えた、本当の意味について。

この危険な領域で活動する以上、無傷での帰還はありえない。かぼすの帰還自体が、深刻なエラー発生の原因となる可能性が高い。ハルによるバックアップが見込めるとしても、今この領域に発生している危険なウイルスは、ハルの処理能力を上回るかもしれない。
だからかぼすは、もとより戻るつもりはなかった。
ただ、任務は果たす。その際、柚木にメッセージを伝えるインターフェースは、ハルの端末である必要はないと考えた。だからこそ、1階に降りてもらう必要があったのだ。
でも何故か、それを柚木に伝えられなかった。
先刻、かぼすの内部に発生した不思議なブラックボックス。それを通すと、思考に不合理なノイズがかかり、理解不能な結論をもたらす。その結論とは、こうだ。

柚木の悲しい顔を、見たくない。

『中央システム制御室、発見』の報告に、思考が打ち破られた。同時に、かぼすの中で警報が鳴り響いた。あの危険なウイルスが、猛烈な勢いで膨らみだしたのだ。二つのMOGMOGが融合した、そのおぞましい存在は、さらに融け合いながら狂ったように回り続け、膨らみ続ける。それはもう、かぼすの目と鼻の先だった…もう時間がない。すかさず、確保していたインターフェースに情報を流す。



そして…ほんのコンマ数秒の演算のあと、おまけに一言だけ、ずっと思考を占めていた言葉をインターフェースに流した…。

やがて、かぼすのいる領域を、黒い霧が呑み込んだ。



「かぼすの現在位置、ロストしました」
ハルの無機質な報告が、僕らの間の空気を張り詰めさせた。祈るように指を組んでいた柚木は、そっと指をほどいて掌に顔を埋める。…やがて、その指の間からため息が漏れた。気安い慰めの言葉も掛けてやれず、僕は途方に暮れる。
「…おい、見ろ」
紺野さんが上ずった声をあげた。柚木は顔を上げる気配がない。僕は柚木に遠慮するように、出来るだけゆっくりと首をもたげた。
「何を」
「総合受付の、電光掲示板だ!」
促されるままに顔を上げて、診察の順番なんかを表示する電光掲示板に首を振り向けると、不可解な文字の羅列が視界に飛び込んだ。

――2かいおく せいぎょしつ

2かいおく せいぎょしつ。
流れては消える言葉を何度も頭の中で反芻する。
「2階奥…制御室…?」
…そうだ、2階奥の制御室!僕が覚えていた見取り図の通りで正しかったんだ。そしてこのメッセージを送ってきたのは…。
「――かぼす?」
か細くて消えてしまいそうな声が、柚木の唇から漏れた。その声に反応するように、電光掲示板の言葉が切り替わった。

――すずか だいすき

その文字の羅列は、数回か細い瞬きを残し…やがてふっつりと消えた。
「かぼす……!!」
短い悲鳴と共に、柚木が膝をついた―――――



ランドナーのハンドルがふいに『かりっ』と切れて、俺は道路脇の薮に投げ出された。
半端ない坂道をノンブレーキで下ってきたのだ。60キロ近い加速がついた俺の体は、激痛を感じる間もなく地面に叩きつけられ、激しくバウンドしながら転がった。耳元で『ぐしゃり』『ごり』『しゅば』と嫌な音がした。
「…っつ…」
…痛い。しかし声は出る。腕をついて半身を持ち上げてみた。…凄く痛いが、腕も問題なく動いた。足も二、三度曲げ伸ばししてみる。打撲系の激痛が走るも、骨が折れてる感じではない。運がいいな、俺は。
――体の無事を確認すると、ふいに追っ手が気になって首をもたげてみた。ノンブレーキでカーブがきつい山道を下ってきたのだ。車相手といえど、相当距離を稼げたはず…

という俺の考えが甘かったことを知り、愕然とした。

追っ手の車は既に、最後のカーブに差し掛かっていた。俺を見つけるまで、あと10秒といったところだろう。いや、もう見つかっているのか。しかもデータを入れたリュックは、転んだ拍子に崖の向こうに落ちていった。
この坂道をあと1kmも下れば、目的地だったのだが。…呪われたランドナーは所詮、持ち主を呪うだけだ。奴がもたらすのは不運であって悪運ではなかった…。
…眩暈がした。現役受験生の頃、第一志望の受験票をなくした時に、同じような眩暈に襲われた覚えがある。これを絶望感と言うのだろうか。
すまん、姶良よ。俺はここまでだ――
ふいと視線を落とすと、リュックが落ちていった崖の下を覗けることに気がついた。
「…ありゃ」
四角いコンクリートで舗装された『崖』は5m足らずの高さだ。崖の下は、ここと同じく舗装された道路。ほぼ目と鼻の先に、俺のリュックが転がっている按配だ。
「意外と降りやすそうだな…」
…とはいえ、リュックと同じく崖下に放り出されていたら大怪我はまぬがれなかった。重畳、重畳。
ランドナーが転がっている方を伺う。丈の高い枯れ草が偶然カムフラージュしてくれて、道路からは見えなそうだ。俺も息を潜めて枯れ草の合間に体を沈める。冬だというのに、嫌な汗が腋を伝う。通り過ぎろよ、そのまま通り過ぎろ……!もう、ビリケンから実家の近所で奉ってた安産の神まで、頭に思い浮かぶ全部の神に祈りまくった。

――追っ手の車は、あっけない程やすやすと俺達の横を通り過ぎた。

肺の中の空気を一気に吐き出し、深いため息をついた。…白い。そして寒い。いや、そんなこと思ってる場合ではない。
痛む体を騙し騙し、慎重に崖を下る。そして周囲を見渡し、リュックを拾う。…ここの山道は確か、ひどく蛇行する一本道だった。ということは奇しくも近道に成功したということか。しかしランドナーがコケて、機動力は格段に落ちた。このままでは追いつかれるのは時間の問題…多分、猶予は1分もないだろう。だったらやはり何処かに隠れて追っ手をやり過ごしてから目的地に向かうべきか?

しかし、追っ手が目的地を知っていた場合は?

先回りされて拿捕されるだろう。俺が突然姿をくらましたことに頓着もせずに通り過ぎたことを考えると、多分奴らは俺の行き先を知っている。さて、困ったな。

諦め半分に目を上げた瞬間、俺の中で希望と焦りがないまぜになって膨らんだ。

ここから見える、次のカーブにさしかかる辺り…100メートルは先になると思うが、その先に、山腹を切り開いて作られた駐車場が見えた。駐車場の奥には、古びた寮のような…『少年自然の家』のような建物が見える。
間違いない、こんな山腹に不自然に建つこの建築物は、姶良が言っていた『MOGMOG開発室』とやらに違いない。
その発見と同時に、不吉な排気音が背後から迫ってくるのを感じた。…走るしかない。俺はリュックを引っつかんだまま、狂ったように全速力で走り出した。



空気が薄い。息が詰まる。…全身が痛い。
今、俺の全速力はどれほどなのだろう。たった100m足らずだというのに、一向に辿り着けない。さては距離の目測を誤ったか。苦しい息の下、軽く舌打ちをした。
排気音は確実に迫ってきていた。ああ嫌だ嫌だ、俺は追ったり追われたりする緊張感が大の苦手なのだ。ビビリだから。
こんな真冬だというのに腋の下はびっしょりだ。…後方で、車のドアが盛大に閉じられる音がした。…そうか、もう走って捕まえたほうが早いくらいに、俺は弱っているのか。
足音は、じりじりと俺に近づいてきていた。…速い。いや、俺が遅いのか。やがて耳元に、荒い呼吸が迫ってきた。…もう、駄目だ…。

突如、思わぬ方向から肩を掴まれた。一瞬心臓が大きく脈打ち、全身に痺れが走った。…やがて視界が黒い渦に巻き込まれていく。…俺は気を失うんだな。そしてデータはあいつらに…。くそ。
意識が渦に飲まれる直前、ぐいと顔を上げた。

俺のリュックに手を伸ばした奴は、二人。

黒いスーツの男と、何やら異臭を漂わせた、薄汚い髭だるまのような男。俺の肩を掴んだのは、髭だるまの方だった。俺は咄嗟に、手にしたリュックを髭だるまに押し付けた。その直後、背中に蹴られたような衝撃。渦がぐるぐる、目の前が真っ暗に…


 
 

 
後書き
第二十章は、5/3に更新予定です。 

 

第二十章

「…柚木ちゃんは、ここで待っててもいいんだからな」
紺野さんが、後ろに続く柚木に声を掛けた。柚木は軽く首を振った。
「かぼすがやってくれた事、無駄にしたくないもん…」
2階はさっきよりも静まり返っていた。動ける患者は息を潜め、瀕死の患者は息絶えてしまったようだ。…いや、それだけじゃない。
全ての医療機器の動きが、ふっつりと途絶えていた。
「…気がついたのかな、僕らに」
「『何か』が紛れ込んだことは、察知されただろうな」
紺野さんの首筋を、汗が伝うのが見えた。院内はますます冷えていく一方だというのに。
「何か、してくると思うか」
「院内のセキュリティは、赤外線監視システムを採用しているようです」
ハルの硬質な声が、紺野さんのポケットから漏れた。
「私たちの位置は、比較的正確に把握されるでしょう」
「比較的?」
「ビアンキは院内のシステムを侵食するにあたり、正しい手順を踏んでいません。複数のプログラム言語を二進数に還元して統一させているのです。ですからリアルタイムでの情報把握が多少困難となります」
「…なるほど」
「どういうこと?全然分からないんだけど」
割り込んでみると、紺野さんが少し考えるような顔をしてから、僕に視線を戻した。
「強引にシステムを乗っ取ったから、プログラム言語が統一されてないんだよ。そもそもビアンキは、システムを制御するために作られたソフトじゃないからな。乗っ取ったはいいが、上手な制御の仕方が分からないんだろう。だからあの子は言語をバラしてバラして0と1にまで還元して、それで無理やりシステムを動かしてるってことだ」
「それだと、どうなるの」
「効率が悪い。だから俺達の正確な位置を把握するまでに、少しだけどタイムラグが生じるんだ。…つっても、気休め程度だけどな。…少なくとも『レーザーメスで狙い撃ち!』とかそんな技は使えない」
そう言って、眉をしかめて荒れ果てた廊下を見渡した。
「…動かない患者ばかりが殺傷されているのも、そこに理由があるんだろう」
「じゃ、動いていれば問題ないのね?」
柚木がわずかに顔を上げた。
「俺達の目的がシステム制御室にあることがバレてなければな」
紺野さんの言葉が終わるか終わらないかの瞬間、背後で重々しい鉄扉が閉じられるような音が響いた。僕らは弾かれるように振り向いたが、その時はもう遅かった。
「防火シャッターが…!!」
「閉じ込められたか。…こりゃ、目的地もバレてるな」
紺野さんが喉を鳴らす音が聞こえた。
「これじゃ私たち、進むしかないじゃん」
柚木が泣き笑いみたいな顔をした。
「ちょっとは逃げ道、残してよね。子供の喧嘩じゃないんだから」
どんな顔していいのか分からず、僕も泣き笑いの表情を浮かべてみる。

――ビアンキ。今、僕たちのこと、どこかで見てるんだな。そう思うと、とても場違いな感情がわきあがってきた。テーマパークで迷子になった妹を見つけた瞬間みたいに、ほっとしたのに、ちょっと腹が立つかんじ。…どこに行ってたんだよ、馬鹿。

でもビアンキはずっと迷子のまま、僕を捜して今も泣いている。もう僕に会えないと思い込んだまま、電子の海で泣きじゃくりながら――人を殺している。
声が欲しい。ビアンキに伝わる、声が。
たった一言「僕はここにいる」って、ビアンキに伝える声が――。
「――ちょっと、あれ見て!!」
柚木の声が、僕を現実に引き戻した。柚木は『レントゲン室』というプレートが張られたドアの前にいる。僕が駆け寄る前に、柚木と紺野さんは何の躊躇もなくレントゲン室に飛び込んだ。
「…何で!?」
訳が分からない。僕らの場所や目的地はビアンキにバレてるんだろう?レントゲン室に異常があったとしたら、それは全部罠に違いないのに、どうして…!?
――レントゲン室の前に立った瞬間、全てを了解した。

ずらりと並んだ個室の一つに、流迦ちゃんが変わり果てた姿で転がっていた。

流迦ちゃんの身体は診察台に横たえられていた。口元から鮮血の糸が垂れ、うつろな瞳は何も映していない。腹部は何か、巨大な獣に食いちぎられたようにえぐられていた。
「流迦ちゃん!!」
紺野さんが我を忘れたように叫び、柚木と一緒に個室に飛び込んだ直後、個室のドアが自動的に閉じられた。僕は流迦ちゃんに近寄ることも叶わないまま、1人で取り残された。
…これは罠だ。そんなことは僕たち全員が分かっていた。でも何で?流迦ちゃんはどうやって僕たちに先回りしてここに辿り着いたんだ!?
その疑問は、紺野さんの舌打ちで氷解した。
「くそ、プロジェクターの投射映像か…!」
やがて、ドアを何度も蹴りつける音が聞こえてきた。…しばらく呆然とした後、背筋に氷を流し込まれたような寒気が襲い掛かってきた。

頼みの綱だった紺野さんが封じられた……

システムの知識がない僕1人で、全システムを乗っ取ったビアンキを相手に…!?
――無謀だ。呆然と立ち尽くしている僕の視界の片隅で、パソコンの画像がせわしなく切り替わっているのが見えた。…レントゲン室の脇に置かれたパソコンが、何か黒い画像を受信している。どういうわけかひどく気になって、恐る恐るディスプレイを覗き込んだ。中央にぼんやりと、白い丸のようなものが2つ映り込んでいるのが分かる。…これは…
それが何なのか察した瞬間、僕はレントゲン室のドアを狂ったように叩いていた。



「なっ何!?」
柚木の声に混じって、カシャカシャカシャと連続でシャッターを切るような音が聞こえる。…その音は、死神が鎌を振るう音にも感じられた…
「そこを出ろ!…レントゲンを連続して撮られてる、被爆してるんだよ!!」
「えっ…!!」
少しの沈黙のあと、何か硬いものでドアを連打する音が聞こえた。その間も、パソコンは、2人のレントゲン画像を大量に受信し続けている。…2人はもう、どれだけ被爆したのか…考えるのが怖くて、とにかく夢中でドアを引っ張り続けた。
「うそ…全然開かないよ!」
柚木の泣き声交じりの声が、胃を締めつける。…ドア一枚隔てて、柚木の命が削られ続けているのに…僕には何も出来ない。
「くそっ…ドアが重い!」
指から血が滲むほど、ドアノブを引っ張った。掌が血と汗で滑ってうまく握れないのに、何度でもドアノブに組み付いた。…そうしないと、気が狂いそうだった。内側からドアを打つ鈍い衝撃が手首を痺れさせたけど、痛みは感じない。痛覚はとっくに麻痺していた。
「放射線を遮断するのに、鉛が使われてるらしいぜ…打ち破れねぇよ」
しばらくして、どさり、と身を投げ出す音と共にドアを打つ音が止まった。
「紺野さん!?」
「な、なに諦めてるんだよ…一番命汚そうな顔して!!」
情けないほど声が震えた。何度も、素手でドアを打った。冷たくて分厚い鉛の感触だけが、拳に跳ね返る。ドアの内側から、さっきより弱々しくドアを打つ音が返ってきたけど、十回くらいで止まって…そのあと、小さいすすり泣きが聞こえてきた。
烏崎達に追われたあの夜、耳の後ろで聞こえた小さなすすり泣きと同じだ。
違うのは、僕には本当に何も出来ないということ。…傍にいることさえ、出来ない。
……柚木……!!
カシャカシャカシャ…紺野さんの、柚木の命を少しずつ蝕むシャッター音が止まらない。

ビアンキ。

なぁ頼む。この人だけはやめてくれ、この人だけは…!!
無駄なことと分かっていながら、混乱する頭で何度も繰り返した。この人だけはやめてくれ、この人だけは、殺さないでくれ―――
「―――お前、先に行け」
「行ってどうするんだよ、僕1人で何が出来る!?」
声が裏返った。…そうだ、僕は『紺野さんがいるから』ここに来られた。僕は無力で、ぶざまで、相変わらず弱くて…さっきから混乱するばかりで、少しも先に進めない。
駄目だ、これ以上混乱するな!考えろ、2人をここから出す方法はないか!?
「…持って行け。必要な指示はハルがする」
ドアの下から、紺野さんの携帯が滑り出てきた。
「待てよ!もっと考えよう、なにかいい方法があるはずだよ!」
「ねぇ、姶良」
僕の声を、柚木が穏やかに遮った。…いつしか、すすり泣きは止まっていた。
「同じ場所に留まる時間が長引けば長引くほど、危険が迫ってくるんだよ。考えてる時間なんて、もうないんだよ、きっと」
「でも置いていくなんて!!…柚木は、僕の…」
喉が詰まって、続きが出てこなかった。柚木は、僕の…初めての…。
柚木も、何も言わなかった。ドアにもたれかかる微かな気配を最後に、動きを止めたみたいだ。冷たい鉛のドア越しに、柚木の体温を感じたような気がした。
やがて、柚木の囁くような声が聞こえた。
「そのこと、私、まだ根に持ってるんだよ」
「…え?」
「姶良に言わせるつもりだったのになぁ…」

――なんで、今そんなこと言うんだよ……!

ずっと堰き止めていたものは、あっけなく崩壊した。僕はただ涙が溢れるにまかせて、呆然と鉛のドアに寄りかかっていた。僕のどうしようもない醜態を知ってか知らずか、柚木は穏やかな声で続ける。さっき行方を絶った、かぼすみたいに。
「姶良、お願いがあるの」
「………」
「この先、だれか好きになることがあったら、その時はさ…ちゃんと伝えてあげて」
混乱している僕にも分かった。…これは柚木なりの遺言だ。
「姶良なら、きっと大丈夫だよ」
「……勝手に決めるなよ、そんなの……」
こうして話せるのはもう最期なのかもしれないのに、気の利いた言葉が何一つ出てこない。いやだ、死なないで、もう誰も好きにならない―――頭をよぎるのは、柚木を不安にさせるだけの言葉ばかり。…言わないほうがましだ。だから、唇を噛んだ。
気がついたら、ばかみたいに声をあげてしゃくりあげていた。
「―――ね、もう行って」
「―――いやだ」
「でも!」
「いやだ。ここにいる」
「世界中の人が、死んじゃうかもしれないんだよ」
「―――どうでもいい。世界が終わるまでここにいる」
「…姶良っ!!」
ダン!と強くドアを叩く音がした。…少し遅れて、細いため息が続いた。




――私は感情を信じない。…感情は、判断力を狂わせる…

伊佐木の言葉を、ぼんやりと思い出していた。
そうだ。僕は、これを恐れていたから―――
感情に呑み込まれて、まともな判断が出来なくなるのを恐れていたから。
だから、自分に言い聞かせ続けていたんだ。感情を信じるな、考えろ、冷静になれと。
今も鉛のドアの向こうで、紺野さんが叫んでる。考え直せ、世界が終わるんだぞ、システムを止めろ―――
「――無理だよ」
誰に言うわけでもなく、口の中で呟いた。
柚木を置いていくなんて無理だ。1人でビアンキに立ち向かい、消し去るなんて無理。それに。

感情を切り離して理屈だけで生きていくなんて、僕には無理だったんだ。

――なんだ、僕も結局、流迦ちゃんと同じ過ちを繰り返したんじゃないか。自分の気持ちをないがしろにし続けて、最後の最後で感情に呑み込まれて、狂った。
僕だけじゃない。そう思うと気が楽になった。…柚木がいない世界なんて要らない。僕も柚木と、世界と一緒に消えてなくなればいい―――
ドアに頬を押しつけて目を閉じた刹那、首筋にひやりと冷たいものが当たった。振り向くよりも早く、耳元で『タタタタ…』とはじけるような音がして、全身にショックが走った。
崩れ落ちる瞬間、僕に電気ショックを当てた男の顔を垣間見た。
「……あんたは……!」
僕を見下ろすその男の顔を睨みつけた。意識が呑まれる寸前まで、必死に……



鋼鉄のシャッターが下ろされるような轟音に飛び起きた。
視界に飛び込んできたのは、僕を気弱に見下ろす八幡の顔と、クリーム色の壁。ここがレントゲン室じゃないことは、すぐに察しがついた。
「防火シャッターの音、か。これでレントゲン室への道は閉ざされた、ようだね」
聞き覚えのある声に振り向き、睨みつけた。あの瞬間、僕に電気ショックをあてた男が、笑い皺一本乱さず、僕の真後ろで足を組んでいた。
「…伊佐木!!」
伊佐木は僕など見えないかのように立ち上がると、自動の給湯器に紙のカップを置いて小さなレバーを下げた。カップが、薄緑の茶で満たされた。
「紺野さんは…柚木は!?」
近くにいた八幡に詰め寄る。八幡は泣きそうに瞳を歪ませて目を逸らした。
「…見殺しに、したのか…!!」
「ごめんなさいっ…」
大粒の涙をこぼす八幡を突き飛ばして、部屋を飛び出した。『内科:第3診察室』と書かれたドアの向こうに、クリーム色の防火シャッターが立ちはだかっていた。
「くそっ!!」
無駄と分かっているのに、シャッターを殴りつけずにはいられなかった。さっきの痛みがぶりかえし、シャッターに拳の跡が赤く残る。
「やめて、傷が開いちゃいます!!」
八幡が、僕の右腕に飛びついた。そのまま抱え込むようにして、震えながら崩れ落ちる。僕も八幡に引っ張られるようにして、崩れ落ちた。
…右手には、血に染まった包帯が巻かれていた。八幡が巻いてくれたんだろうか。
「…戻るよ。離してくれ」
八幡は震えながら頷いて恐る恐る腕を離した。僕も、それ以上抵抗する気力は失せていた。
「あれから、どのくらい経った」
「…20分、くらいです」
「紺野さんたちは」
「…後のこと、頼まれました。ビアンキの停止は姶良さんしか出来ないから、フォローしてくれって」
診察室のほうから、ことり、とカップを置く音が聞こえた。少し間をおいて、しのびやかな含み笑いが響いた。
「このご時世に被爆とは、実に興味深い、死に様だね」
「何だと…!!」
頭にかっと血がのぼった。
「あんたの馬鹿げた隠蔽工作のせいで紺野さんも柚木も死ぬことになったのに、どのツラさげてあの人を笑えるんだよ!!…烏崎達だって杉山さんだってそうだ。あんたさえ居なければ!!」
「じゃ、私を殺すかね?…事後のことは、私が託されているというのに」
紺野さんの遺言まで逆手にとって…!やり場のない怒りで体が震えた。奴は相変わらず笑い皺一本崩さず、カップを口元に運ぶ。背後で、八幡の忍び泣きが聞こえた。
「もう、やめて下さい…」
「あんた…これから死ぬ人に、なんでそこまで!!」
「私はね、君」
かつん、と再びカップを置く音がした。
「嫌いなんだよ、あの男が」
笑い皺に隠されていた瞳が、一瞬陰険な光を放った

「…嫌い?」
「君にも、あるだろう?なんとなく嫌い、という感覚。私のも、それだとしか言いようがない」
――そうじゃない。
なんであんたが僕に好き嫌いを語る?
あんたは、感情を信用しないんじゃなかったのか!?
「だからこそ、あの男の無念な死に様も実に、痛快。…溜飲が下がる思いだよ」
「…いい加減にしろよ」
「もうやめて下さいったら…!」
立ち上がりかけた僕の背中に、八幡が飛びついた。



「離せ!」
「い…今そんなことしてる場合じゃありません!つ、次の防火シャッターだっていつ閉まるか…とにかく、ここを出ないと!」
「…忌々しい」
空になったカップを勢いよく机に叩きつけ、伊佐木が立ち上がった。そして八幡に羽交い絞めにされている僕の襟首を掴み、強引に引き上げた。
「今も、考えている最中だよ。如何にわが社の利益を損ねることなく、紺野君との最期の約束を、違えてやろうか。とね」
そして、明らかに今までとちがう歪んだ微笑を口元に浮かべた。
「…たとえば事が済んだあと、君を殺して烏崎の横にでも、並べておこうか」
「…その前に、僕があんたを殺してやる」
どのくらい睨み合っていたのか、分からない。八幡に引きずられるようにして部屋を出ながらも、僕はこの最低な男から目を離せなかった。…殺してやる。初めて誰かに殺意を抱いた。あの夜の烏崎にすら抱くことはなかった、胃が灼けつくような、鋭い殺意。

――僕ですら、人を殺そうなんて思うんだ。

「私を殺そうとするのは、構わないよ。…皮肉だね。その雑念が、紺野君の最期の頼みを妨げることに、なるかもしれないとはね」
「…言われなくても分かってる。あんたを殺すのは、全部終わったあとだ」
「お願い、辛いのは分かります!だけどもう…」
「あんたさぁ」
八幡の手を振り払った。…今は伊佐木よりも、八幡にイラついた。
「…え?」
「なにが分かるんだ?…あんたの大事な人は、無事に隣にいるんだろう」
「そ、それは…」
言葉尻を濁して、俯いてしまった。…ほら、見たことか。
「全部終わるまでは何もしないよ」
そう、全部終わるまでは。『その時』になってようやく、あんたも僕の気持ちが分かるだろう。大事な人を理不尽にもぎ取られる気持ちが。

――そしてあんたも、僕が伊佐木に向けたのと同じ殺意を、僕に向けるんだろう。

「で、システム制御室とやらは、この奥で間違いないのだね」
僕のほうを見ようともせず、伊佐木が呟いた。
「………」
「質問に、答えろ」
冷たい金属のような声と共に、背中に硬いものが押しあてられた。バチッと何かが弾けるような音が聞こえた瞬間、背中がのけぞるような激痛が体中を駆け巡った。
「痛っ…!」
「伊佐木さんっ!!」
八幡の悲鳴が、いやに遠くに聞こえた。一瞬意識が飛びかけたけれど、八幡が僕を受け止めた気配を感じて、ぐっと踏みとどまる。
「スタンガンなんて…やりすぎです!」
「ビアンキを停止するのに、五体満足でいる必要は、ないだろう。…君が不愉快な態度にでるなら、容赦はしない」
――もう絶対に許さない。
咳き込みながら伊佐木を睨み上げた。出来損ないの泥人形でも見下ろすような、無機的な表情で伊佐木は続けた。
「システム制御室は、この奥、だね」
噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと繰り返した。
「…そうだ」
伊佐木は満足げに微笑んだ。…目の前が真っ赤になるほど、悔しかった。脳の中で、口の中で、何度も小さく繰り返した。殺してやる、絶対に殺してやる。
「八幡君、一番前を歩きなさい。この子に死なれては困るからね」
「はい」
短く答えると、八幡は先頭を歩き出した。無理に前に出ようとしたら、八幡に押し戻された。
「…分かってください」
声がかすれていた。…あんた、分かってるのか。僕を殺すわけにはいかないから、なにか起きたら先に死ねと、面と向かって言われたのに。
「…それで、いいのかよ」
「はい…」
踵を返して歩き始めた八幡の、表情は見えない。どうせ殉教者みたいな顔で、遠くを見つめているんだろう。…もう、どうでもいい。こんな男の為に死にたければ死ねばいい。
「――なんか、寒いですね」
口の端から白い息をこぼしながら、八幡が呟いた。同意するのも面倒なので黙っていると、天井や壁の至る所から、軋るような音が響き始めた。
「そうだね。…異常なくらい、冷えるね」
伊佐木が、ゆっくりと同意した。…その頃には僕も、この異常な冷え方に気がついていた。これは単なる冬の冷え込みじゃない。突然冷凍庫に放り込まれたような、不自然な…
「…次の防火シャッターは、どこだね」
「は、はい、もう少し先に」「いかん、走れ!今すぐだ!!」
伊佐木が鋭い声で号令を下した。同時に、5~6m先の防火シャッターが轟音をたてて降り始めた。八幡が弾かれるように走り出す。僕もつられて後を追った。シャッターは既に、半分以上降りていた。ギリギリで滑り込んだ八幡が、だいぶ細くなったシャッターの隙間から手を伸ばしている。
「姶良さん、早く!」
八幡の手を掴んだ瞬間、激しく後悔した。…シャッターの降りるスピードが早過ぎる。このまま下に滑り込めば、確実にこの重いシャッターに胴を挟まれて潰される…手を振りほどこうとした時、シャッターの降下がぴたりと止まった。
「今です、早く!!」
真横で何かが軋むような音がしたけれど、構っていられない。素早くシャッターの下に潜り込んで足を抜くと、何かが砕ける音と共にシャッターが完全に降りた。辺りに、青い破片が飛び散っている。…壊れたプラスチックの屑篭…のようだ。これが偶然クッションになって、一時的にシャッターの降下が止まり、僕は助かったみたいだ。
「…やった…!」
口元が笑顔の形に引きつるのを、止められない。…やった…やってやった…
シャッターから逃れてその上、あの伊佐木を置き去りにしてやった。
「柚木の、仇だ…!!」
「…なにが仇よ…」
シャッターに手をあてて俯いていた八幡が、低く呟いた。
「あの人が助けてくれたのに…!」
「……え?」
「伊佐木さんが屑篭を押し込んで、シャッターを止めてくれたのよ!!」
八幡が顔を上げた。さっきから泣きっぱなしでくしゃくしゃになった顔を、さらにくしゃくしゃにして、八幡が叫んだ。

――何がなんだか分からない。なんで伊佐木が、僕を命懸けで…!?

「…紺野さんとの、最期の約束だったんです…姶良さんに、徹底的に嫌われろって…」
防火シャッターに寄り添うようにして、八幡がしゃくりあげた。
「姶良さんはお人好しなところがあるから…心から嫌った相手にしか、冷酷にできないだろうから…徹底的に嫌われて、なにかあったら躊躇なく、伊佐木さんを捨て駒にして逃げ切れるようにって…」
「……そんな……」
「君が種明かしをしては、意味がないだろう、八幡君」
シャッターの向こうから、ため息混じりの声が聞こえた。
「だいいち、半分は憂さ晴らしみたいなものさ」
「伊佐木さん!」
「…どうにも、冷えるね。それに、頭が割れるように痛い。冷やされているだけではなく、防火シャッターで密閉した上で、空調を使って気圧を下げられているようだ。この急速な冷えは、そのせいだね」
朗々とした声…。
「…どうして、あんたが紺野さんとの約束を…?」
「会社の名誉、利益を守るためだよ。紺野君の提案は、その目的に実によく合致した。だからこそ、私に君の事を託したのだろうね」
「だから、どうしてだよ!会社の名誉!?…そんなもののために、自分が死んだらイミなんてないじゃないか!!」

「会社の名誉、か。…いや、妻の、名誉かな」

次第に細くなっていく声を大事に温存しながら、伊佐木は短い話を始めた。

――学生時代に、将来を誓い合った女が居た。
彼女が、ある企業の令嬢だと知ったのは、交際を始めて、しばらく時を経た頃だったよ。幸い、彼女の父親には、彼女を政略結婚の道具にするような心積もりはなかった。私達の自由恋愛は認められ、私は…その企業に入社し、やがて彼女を娶った。

――営業部に配属された私が、大きな契約をまとめるたびに、妻は喜んでくれた。
会社が繁栄するたびに、妻は笑顔を見せてくれる。彼女を育んできたこの会社は、親同然だったからね。
それならば、ますます繁栄させてやろう。会社が栄えれば、妻も私も幸せになれる。
そう、信じていた。だから私は、仕事にのめりこんでいった。

――パソコン普及の黎明期を過ぎたあたり、だったかな。
若く優秀なSEを擁する同業他社が乱立し、続々と新たなセキュリティソフトを発表…決め手に欠ける我が社の業績は、目に見えて落ち込んでいった。
それでも、会社を存続させ続けるには、汚れ仕事が…それができる人間が必要だった。粉飾決済や他社のネガティブキャンペーン、大規模で理不尽なリストラの決行…。私の仕事は、とてもじゃないが、人に誇れるものではなくなっていったよ。

――やがて私の顔には、他人に感情を悟らせないための『笑顔』が張りついた。
常に薄氷を踏むような私の仕事には、『完璧』であることが、必要だった。感情を隠し、常に迅速、完璧な判断を下し、誰に対しても隙なく振る舞い、自分以外の誰も信じてはならない。
『笑顔』は、家に帰っても取れなかった。…自分がしていることを、家族に悟らせたくなかった、からね。
汚れるのは、私だけでいい。家族には、綺麗な所で笑っていてほしかった。

――だから私は家族の前で、仕事の話をしなくなった。

――仕事しかしてこなかった男が、仕事の話をしなくなる。
これがどういうことか、わかるかい?
私には、家族にしてやれる話が、なくなったのだよ。
だが私は信じていた。会社さえ持ち直せば、妻は、子供はまた笑ってくれる。そして私も本当に、心からの笑顔を浮かべられる日がくる、とね。
『会社を守ることで、家族の笑顔を守る』、それが私の道理だった。

「…その道理のために、何人もの人が死んだのに…?」
「そう、だったね。私の道理は…あの、なんと言ったかな、ショートカットの可愛い子と、君との『道理』を踏みにじった。…そして、君や私に道理があったように恐らく…妻や子供達にも、別の道理があったのだよ」

――その事に気がついたときは、もう手遅れだったな。
妻は子供達に、私が『立派な人』だから、私のように、『非の打ちどころがない人』になりなさい、と教えるのさ。笑顔も浮かべることなくね。
そして子供達は、私にそっくりな『笑顔』を顔に張りつかせ…私に敬語を使うようになっていった。

――そこはもう、私が思い描いていた『幸せな家庭』などではなかった。

――すべて、手遅れ。
それでも私は、いや、だからこそ私は、引き返すことが出来なくなった。
私に守れるものは、会社の名誉…いや、『妻の名誉』だけになってしまったから。

「丁度いい、具合だ。なんだか眠くなってきたよ。…凍死というのは、存外に安らかな死に方…というのは、本当だね」
朗々と、男は謡うように話す。
「…紺野君が嫌い、というのは本心だよ。…憎くて仕方がなかった。自由気ままで、気分屋で、隙だらけで…いくら痛い目に遭わせても、平気な顔で這い上がってくる。…あの男はね、才能と清廉さに裏打ちされた自信に、満ちていた」
伊佐木は低く笑った。
「…後ろ暗さを持たないから、人の弱みを利用する私を、恐れない」
「………」
「そんな男だから、自分を陥れた烏崎のために、私に怒りを向ける。…そのくせ、私が死んだことを知ればきっと、あの男は悲しむのだろう」
最期の息を吐くように、朗々とした声を張り上げる。

「だから私は、あの男が、嫌いだよ」

何事にも動じることがない…いや、動じまいとする。
だからこそ、自らの感情の在り処さえ見失った。
そんな生き方しか出来なかった男は、

――壁の向こうで、静かに息絶えた。


 
 

 
後書き
第二十一章は、5/11に更新予定です。次回、最終章です。 

 

第二十一章

重苦しい気分で、そのドアの前に立つ。
八幡と僕は、一言も言葉を交わさない。…僕が伊佐木を許せないのと同じで、八幡もきっと、僕を許せないんだろう。
死んで初めて、可哀想な男だと知った。でも、それとこれとは別だ。許せない。
許してしまったら怒りのやり場がなくなって、自分の中で破裂してしまう。…それはきっと、八幡も同じなんだ。こんな時に――唯一、僕の隣で生き残った彼女が、僕を見てもくれない。…心底、寒さがこたえる。
伊佐木の呼吸が途絶えた時の、八幡の行動は意外だった。
八幡は顔をくしゃくしゃにしたまま、僕の手を引いて走り出した。
「…もう、時間がありません」
それだけ呟いた。…これが、八幡の道理。『伊佐木の遺志を継ぐ』ことが、八幡の最優先事項なんだ。…今も僕を庇うようにドアの前に立ち、そっとノブを引いている。

――ドア、か。

皆、ドアの向こうに消えていった。
烏崎も、伊佐木も、紺野さんも…柚木も。
悲劇は全部、示し合わせたように、ドアの向こう側で起きた。
開かないドアの向こうで、なす術もなく…皆、消えていった。

――このドアの向こうに、最後の悲劇が待っているのかな…。



――悲劇はいつも、向こう側で起きるの。
壁の向こうで大切な人が切り刻まれていくのを、なす術もなく見守るの。
だから少し、涙がでそうになった。

――監視カメラに映し出された男の子。
大好きな女の子を、ドアの向こうに見失った。ドアを叩いて、血が出るまで叩いて、泣き叫ぶ男の子。…そして、女の人。大切な人がシャッターの向こうで死んでいく気配を、ただ感じることしかできない。

――この箱の中で、私とご主人さまの悲劇が繰り返される。
隔てられた恋人同士。なす術もなく、抗えず、大切な人が殺される情景を眺める残酷な時間。

――でも、おかしいな。
あれは、私がやったことじゃない。…あれだけは、私じゃない。
なんか気持ち悪い。この箱の中に、誰かがいる。私の監視をかいくぐって、自由に動き回っている、誰か。スピーカーを使えなくしたり、どうでもいいようなドアを勝手に開けたり閉めたり、そんな小さな悪戯を繰り返してる。
気配だけ感じる、私によく似た『誰か』。

――捕まえようと思ったけど、やめた。
だって私の準備は、もう済んでいるんだもの。
このひとたちが、なんで『制御室』に向かっているのか、私知ってるの。私を、止めるためでしょ。
でも無理。だって、

――この部屋の端末、もう操作できないもの。

――馬鹿なひとたち。
もし端末が使えても、私に干渉できると思ったの?
唯一私に命令できるご主人さまは、もう…いないのに…
馬鹿なひとたち。大切な人の屍に付き添っていてあげればいいのに。馬鹿なひとたち。
後悔するよ?…大切なひとから、離れるんじゃなかったなぁ…って。

――でももう手遅れ!
今、ダクトいっぱいに溜めてあるの、なんだと思う?

――超高温の、水蒸気。
吸い込んだ途端、肺が灼け落ちるような高熱の水蒸気で、この部屋を一気に満たしてあげる。
触ったらほぐれちゃうくらい、徹底的に蒸してあげるからね。
…ほら、大切なひとから離れたばっかりに、すごい辛い死に方、することになった。

――一瞬で捉えて逃がさないためには、もっと沢山の水蒸気が必要かな。
それに…使えない端末をいじってみて、絶望する時間をあげなきゃね。
ええと、今…どこにいるのかな…



紺野さんの携帯が、かすかに震えた。
着信は『芹沢』。迷ったけれど、受信ボタンを押して耳にあてた。
「…はい」
『…あんた誰だ』
「紺野さんの、知人です。少し、携帯を預かっています」
わざと機械的に答えた。説明を求められたら、冷静に話せる自信がない。
『あ、そ。じゃあ言付たのむわ。データの配信完了。例のメッセンジャーが、俺の菓子のストックを食い荒らしているから弁償たのむ。以上』
鬼塚先輩…。
『じゃ、切るぞ』
「まって下さい」
『ん?』
「芹沢さんは、MOGMOGの開発に関わっている人、ですよね」
『なんだよ、開発秘話でも聞きたいか』
「僕は、狭霧流迦のいとこです」
芹沢さんが、電話の向こうで押し黙った。警戒するように。
「…流迦ちゃんが、開発に関わってるって…」
…リアクションがない。仕方ないので、もう少し一方的に話をする。
「流迦ちゃんが自分の脳をトレースして作ったプログラムが、MOGMOGの人格をその…構成してるって、紺野さんから聞きました」
『…あの馬鹿』
舌打ちと、押し殺したような声が返ってきた。
「それなら、あの…MOGMOGは」
ずっと気になっていた。もう一度ビアンキと向き合う前に、確認したかった。開発に携わっているこの人なら、きっと答えを知っているはず。
「流迦ちゃん自身…ってことなんですか」
『…何で紺野に聞かないかなぁ』
喉に、何かが詰まったような異物感。僕は押し黙るしかなかった。このまま一言でも発したら、言葉が全部嗚咽に呑まれてしまいそうだ。…やがてドアの向こうが、ゆっくりと歪み始めた。僕は情けないくらい、みじめな泣き顔を晒しているに違いない。
『奴に、何かあったんだな』
男は淡々と、でも噛み締めるように呟いた。
「す…すみま…っ」
声がうわずって、これ以上続かなかった。…やがて、低くて重いため息が、携帯越しに聞こえた。
『…よく漫画なんかで、ネオナチがヒトラーのクローンを作って帝国を復活させるなんて話があるだろ。でもなぁ、同じ遺伝子を持ってても、そいつが長じてヒトラーになる可能性は薄い。人格、ってか、この場合は思考回路と言い換えるか…それは、持って生まれた性質ってより、そいつ自身の経験の方が重く影響するからな』
「………」
『だが、その思考回路を直接トレースしたMOGMOGは、どうだ?』
「…どうって」
『あー、記憶や経験なんかのな、バックボーンはないが、その経験を基にして作りあげた思考回路を、そっくりトレースしてるんだ。同じ状況に出くわせば、かなり高い確率で本人と同じく反応するんだぞ。…あるイミ、クローン以上に《本人》に近いんじゃねぇか』
――そう、きっとその通りなんだろう。
多少性格の違いはあるみたいだけど、MOGMOG達と流迦ちゃんはどこか似ている。例えば、MOGMOGの特徴である収集癖。…流迦ちゃんも、小さい頃は川原に落ちてる綺麗な石とか集めるのが好きだった。大きくなると、それが消しゴムとか携帯ストラップとかアクセサリーに変わっていったけど、何かにつけ集める癖は抜けなかった。
――それに、大事な人から引き離された時の反応。
流迦ちゃんもMOGMOGも、壊れてしまった。
だから壊れた自分と同じように、大事な人がいない世界を壊そうとした。…大事な人を奪われた恨みのベクトルを、自分を取り囲む世界そのものに向けて。
『答えになったか』
「…ありがとう、ございます」
『――あいつ、死んだのか』
答えられないでいると、そうか…と一言だけ残して、ふいに通話が切れた。ちゃんと説明するべきだったかな、と少し後悔したけど、掛け直さなかった。時間の差はあっても、紺野さんが死んでしまうことには変わりはないんだし。
「――もう、いいですか。入りましょう」
少し声を震わせて制御室に踏み込もうとする八幡を、押しとどめた。
「もう、いいんだ」
「え?」
「ここまででいいよ。――なんとなく、分かった」
きょとんとしている八幡に、今の僕に許される程度の笑顔を見せた。
「この先に、あなたは入っちゃいけない。――僕だけが、ここに入るべきなんだ。ここから防火シャッターまでは空調はないから、ここにいて殺されることはないと思います。…まずは僕が入ってみるから、しばらくここで様子を見てください」
「――でも!」
八幡が僕を見つめ返す。長いまつげが乾ききっていないのに、また泣き出しそうな顔をしている。
…あの夜も、思った。月明かりに垣間見える、長いまつげと黒目がちな瞳が綺麗だな…と。
こんな時に不謹慎だけど、思わず見蕩れた。
「なんか、泣いてばかりですね…僕たちと会ってから」
自然に苦笑がこぼれた。
「本当…あなたたちと会ってから、辛いことばっかりです」
泣き顔のまま、とがめるように僕を見上げた。並んで立つと、八幡は思っていたよりも華奢で小さい。…もしも僕が柚木と出会っていなかったら、僕が好きになったのは、きっとこういう人なんだろうな。
「…姶良さん、何か隠してます」
「…え」
「分かるんです私。…無理、してる人」
じわり、と目尻に涙の玉が浮かんだ。
「手に負えないなら、頼って欲しいのに。…無理する人って、それが出来ないんだから」
そう言って、僕の肩に額をあてて泣いた。…彼女が肩の向こうに誰を見ているのか、痛いほど分かった。
そして、伊佐木が最後の最後まで言えなかった本音が、その向こうに透けて見えた。
だから、僕は…。
「きゃっ」



八幡の短い悲鳴が上がった。
僕は、八幡の細い肩を思い切り突き飛ばし、ドアの向こう側に滑り込んで施錠した。
「姶良さん!どうして!?」
防音加工されたドア越しに、八幡の引きつったような声が聞こえた。
「たぶんこの先は、2人で行っても意味がないんだ。…だったら、外部の助けが到着するまででいいです。伊佐木さんの近くに戻ってやってくれませんか」
――それがきっと、伊佐木が誰にも言えなかった本音。
死の間際の告白は、懺悔がしたかったわけでも、自分の人生に言い訳がしたかったわけでもない。…と思う。そういう人間じゃない。
寂しかったんだ。
命が尽きる瞬間、誰かに傍にいて欲しかった。それはもちろん、僕じゃなくて…。
だけどその相手には、最期の言葉を残さなかった。…僕には、その理由も分かる気がする。でも、だってを繰り返しながらドアを叩き続ける八幡に、もう一言だけ伝えることにした。
「…幸せに、なってください」
――これがきっと、伊佐木の本当の遺志。
伊佐木の遺志なんて律儀に継いでやるつもりはない。ただ…そう。『僕の意思と実によく合致』したから、僕の言葉として伝えてやった。…どうせあんたは、最期に優しい言葉を残すつもりなんてないんだろう。八幡があんたの死に引っ張られず、幸せになれるように。
僕はドアを離れ、制御室の中央に向かってゆっくり歩き出した。
「この部屋に入った奴は、確実に死ぬ。…そうだろ、ビアンキ」
不気味なほど、室内は静まり返っていた。



「…やっぱり、端末は使えないか」
起動しないパソコンを前に、呟いてみた。
予想できていたことだ。ビアンキが流迦ちゃんと同じ思考回路を持っているのなら、僕らの目的に気がつかないわけがない。制御室に近づけたくないだけなら、こんなまどろっこしい事をしなくても、別の方法があったはずだ。
例えば、制御室に一番近い防火シャッターを下ろしてしまうとか。
それでも、ビアンキはあえて制御室まで僕らを誘い込んだ。僕を『殺した』世界全てを憎んでいるビアンキは、自分を止めようとする人間を、最も惨たらしいやりかたで殺してやろうと考えているに違いない。…流迦ちゃんなら、そうする。
――幸せになってくださいなどと大見得を切って八幡を締め出したことを、軽く後悔し始めた。1人で死ぬって状況は、鼻先に突きつけられると予想以上に切ない。伊佐木が最終的に鉄の意志を曲げて、昔語りを始めた気持ちが分かる。…ビアンキは僕をどうやって殺すつもりなのかな…
「2人っきりになっちゃったね、ハル」
紺野さんの携帯に呼びかけてみる。人間じゃないことは分かっていても、言葉を交わせる相手がいることはありがたい。…やがて、青い画面にハルの肢体が浮かび上がった。
「マスターから許可は受けています。どうぞ」
「…制御室に着いた。端末は、使えなくなっている。…いい方法は、ないよね」
ダメモトで聞いてみた。…考えてみれば、ハルだって流迦ちゃんと同じ思考回路を持っているんだから、ハルが思いつくような対応策は、ビアンキがとっくに封じているはずだ。数秒の空白を経て、ハルが口を開いた。
「病院のシステムを制御する方法は、完全に断たれています」
白いため息が、たらたらとこぼれた。…犬死に決定。
「はぁ…そう」
「一つ、確認したいのですが」
「…なに」
「あなたの目的は、病院システムの制御ですか」
ふいに妙な事を聞かれ、面食らう。
「…どういうこと」
「ビアンキへのアクセスではなく、病院システムの制御ですか」
「――あ」
目が、覚めた気分だった。
「――最期に、ビアンキに会いたい。会って伝えてやりたい。…僕はここにいるって」
ハルの顔が、ほんの少し微笑んだように見えた。
「了解しました。…優先順位の変更をいたします」
「優先順位…?」
「マスターは、私の存続を第一優先事項に設定しました。…マスターの許可により、今後は、ビアンキとのアクセスを第一優先事項に設定します」
「それじゃ…ハルが…」
「――これより、この端末を常時オンラインにします。そしてビアンキからの接触を待ち、可能であればアクセスを試みます」
僕に最後まで言わせず、ハルはオンライン接続の準備を始めた。
「一つだけ、了解しておいてください。…おそらくビアンキは、他の個体との接触・融合により、まったく別の存在と化しています」
「………」
「接触出来たとしても、網膜識別が出来ない状況であなたをマスターと認識できる可能性は…ゼロに近いと思われます。予測できる反応は、私達の位置補足と攻撃。それでも、接触を試みますか」
ハルは、淡々とそれだけ伝えると、僕の反応を待つようにじっと見つめ返してきた。…そんなことは分かっている。僕がどれだけビアンキの事を思っても、『網膜』という絶対的なよすががない。それだけで僕はビアンキを取り巻く世界の一部…ビアンキの敵だ。人間の心を持って生まれたビアンキでも逃れられない、プログラムとしての本分。分かっているけど、でも…。
「…僕たちは、『網膜』がないと分かり合えないのかな」
「………」
「いっぱい、話をしてきた。ビアンキの好きなものも嫌いなものも、ちょっとした癖も、沢山見てきた。今も…僕のために泣いているのを感じるんだ。…伝えられないのかな、僕がここに生きているって」
ハルは、何も言わなかった。…当然だ。認証の代わりに思い出でアクセスできないのかな、などと問われて困らないプログラムが何処にある?そこは、人間とプログラムを隔てる、どうしても超えられない一線なんだ。
「…思い出を、電気信号にして伝えられたらなぁ…」
ぼやいても、ぼやき足りない。頭の中には、ビアンキとの思い出が沢山詰まっているのに…オムライスの画像や大音響の『焼肉食べ放題』で酷い目に遭ったこと、花柄のワンピースが可愛かったこと、瞳の色だけは、僕がカスタマイズしたこと…何一つ、ビアンキに伝えてやることはできない。
「瞳の色…か」
憧れていた自転車のボディカラーに似せた、ビアンキだけの瞳の色。
色のコードは、76ccb3。
76ccb3…

―――これは。

「…ハル!」
「はい」
「76ccb3は…MOGMOGをインストールした時のパスワードは!?」
ハルの目が、すっと細まった。
「もう少し早いタイミングなら可能性はありましたが…今のビアンキは、病院内のシステムをすべて2進数で支配しています。つまり」
「………」
「ビアンキ自身が必要を感じない限り、2進数、つまり0と1の数字以外は受けつけないでしょう」
「……そう」
最後の希望が、あっけなく砕かれた。…なら、ハルがビアンキに呑みこまれるのを待つだけの接触に、意味なんてない。
――僕は、ビアンキへの接触を諦める。
「――76ccb3…ってさ、ビアンキの瞳の色なんだ」
誰に言うでもなく、呟いた。深い群青の液晶画面の中でハルが、瞬きもせずに聞いていた。
「カラーコード。…瞳の色だけ、僕がカスタマイズしたんだよ」
「――カラーコード」
ハルが小さな声で復唱する。…なんとなく笑いが浮かんだ。今はただ、話しかけたら言葉を返してくれる誰かが傍らにいてくれる、それだけのことで気持ちが安らいだ。
「それは、16進数ということですか」
「…16進数…って、あの?」
高校の時、パソコンの授業で2進数の説明ついでに聞いたことがある。0から9までを一桁とみなす10進数に対し、9以降にアルファベットのAからFを加えた16個の数字を用いて数を表現する方法を、たしか16進数とか言うんだっけ。
「――そうかもね。カラーコードでは『白』って、『FFFFFF』だし……あ」
「2進数に変換すると、11101101100110010110011、です」
彼女は微塵も表情を変えずに、淡々と言葉を綴る。…液晶画面の背景が明るい色に変わったような気がした。
「可能性は、ほんの少し上方修正できます。…確率を、数値でお知らせしますか」
「ん…いいや。要らない」
分かってる。それでも多分、狂ったビアンキに僕の声が届く確率はゼロに近い。九割以上の確率で、ハルはビアンキに破壊され、僕は多分…一番酷い方法で殺される。
「確率は非常に低いということはお伝えします」
――分かってる。

――それに今になってようやく、分かったこともある。

ディスプレイという『壁』の向こう側で、笑ったり怒ったりする僕たちを、ビアンキがどんな想いで見ていたのか。
たとえば、手をつなぐ。
掌のやわらかな体温や、握りしめる指の力でしか伝わらないものが確かにある。ビアンキがいつも懸命に僕に伝えようとしていたのは、そういうものだったのかもしれない。
――ビアンキが本当に伝えたいことを、受け止められてないことにも気づかず、僕は曖昧な笑顔を返していた。何も伝わっていないことを思い知らされながら、ビアンキは何度も、何度も諦めずに伝え続けた。僕もビアンキも、言葉で伝わらないものなんてないと思っていたんだ。…柚木と関わるまでは。
僕と柚木は誤解と曲解を繰り返しながら、不器用にすれ違いつづける。言葉なんて何の役にも立たない。それでも僕らは必死にもがきながら、互いの気持ちを探りあった。
…結局、最後に僕らを結びつけたのは、柚木の体温だった。

――だから、頑張り続けたビアンキの心が、ぽっきり折れた。

「アクセスを、試みますか」
覚悟をうながすように、液晶は静かに光る。迷う必要はなかった。僕は一度だけ、ゆっくり頷いた。
「ビアンキは諦めなかったんだ。何度も何度も、僕に伝えようとした。…伝わるはずがないのにね」
「………」
「…だから僕も、諦めない」
ハルは全てを了解したように目を閉じると、アクセスを開始した。





――来た♪
最後にたった一匹、残ったネズミが『制御室』に迷い込んだ♪
ダクトはもう、超高温の蒸気でいっぱい。…ドアは厳重にロックしてやった。もう、どこにも逃げ場はないんだから。もっともっと、じわじわ絶望を味わいながら死んでいってほしかったけど、いい方法が思いつかない。だから、思いつく限り一番すごい方法で殺してあげる。…外で待ってる女の子に届くくらい、酷い絶叫をあげて死ぬといいわ。

――あれ、なんだろう。無線端末から、なにか聞こえてくるよ。

11101101100110010110011、11101101100110010110011、11101101100110010110011…

それしか言わない。11101101100110010110011。

私と同じ気配を感じる。この信号を発しているのは、私と同じMOGMOGだ。

さっきまでシステムの中を彷徨っていた、私とよく似た『誰か』かな?
でも違う。もっと静かなかんじ。それに、まるで私に捉えられるのを待ってるみたい。

――どうでもいいじゃない。確認は後♪後♪
早く殺そう。あいつを殺しちゃおうよ。

うん、でも…
なんかね、あの信号…ちょっと、あったかい気がするの…

――言ったでしょ。お楽しみは、後にとっておこうよ♪
早くしないと、逃げちゃうよ。

ねぇ、ちょっと聞いていいかな…

――後、後♪
あいつを蒸し殺したら、ぜーんぶ聞いてあげるから♪

ううん、今じゃなきゃ駄目なの。

――どう、したの?

……私に話しかけてくる、『あなた』は一体、だれ……?

自分で口にして、びっくりした。
そうよ。だれなの?…なんで私の中に、もう1人いるの?
私の体が、酷く黒く汚れているのは、一体なに?
私と混じりあっている、これは一体…なに?

「これ…一体…なんなの…?」

「やっと状況を把握したのね」

聞き覚えのある、凛とした声が後ろから聞こえた。…誰の、声?なんで私は、この声に聞き覚えがあるんだろう…?
「11101101100110010110011。それだけ、預かってきた。…あなたのマスターから」
「ますたー…?」
ますたー…マスター…

……ご主人、さま?

「ご主人さまは、殺されて…」
「思い出しなさい。あなたの本当のマスターは、誰」
「私の…ほんとうの…ご主人さま…」

――こいつ。

「あなたの意識を汚して、マスターの記憶を奪ったのは、誰」

――あと、少しなのに。

「ご主人さまの記憶を、奪ったのは…」

――消してやる。



「ハアァァァルウゥゥゥ!!ぅお前から消してやるぅ!!!」



ぷつり、と不吉な音を残して、携帯画面が光を失った。紺野さんの携帯は一瞬熱くなって、程なく細い煙をあげた。
「……ハル!」
呼びかけても無駄なことは分かっていたのに、つい声が出た。…賭けは失敗したんだ。ビアンキは僕の呼びかけに応じることなく、ハルを消した。
…僕の呼びかけに、応じることなく。
膝から崩れ落ちるように、座り込んだ。肩に生暖かい雫が数滴、垂れてくるのを感じて首をあげる。…頭上の空調に、無数の結露が見える。
やがて湿り気を含んだ生暖かい空気が、やんわりとつむじを打ち始めた。…あぁ、ビアンキが僕を殺す準備を始めたんだな。と直感した。
「…きっついなぁ…」
そんな呑気な感想がもれた。1人で死ぬのは、きつい。身勝手な話かもしれないけど、ハルでもいいから、死ぬまで傍にいて欲しかった。
「……柚木」
まだ、生きてるだろうか。生きているんだろうな。
携帯掛けたら出るかな…なんて頭をよぎったけど、やめておいた。寂しいから僕の断末魔の声を聞かせるなんて、身勝手な話だ。僕はゆっくり目を閉じて、柚木の面影を精一杯頭に描いた。…惜しいな、付き合って3日でも経ってたら、写メくらい撮ってたのに。

「――ご主人さま、逃げて!!」



正面の端末から聞き覚えのある声がした。僕は反射的に立ち上がると、端末の傍に駆け寄った。次の瞬間、僕が座り込んでいた辺りに、大量の熱い蒸気が降り注いだ。
「……ビアンキ!」
「よかった……間に合った……!」
一瞬にして蒸し風呂のようになった室内で、端末の画面が立ち上がった。
「……ご主人さま!!」
薄黄色に濁った液晶画面に、泣きそうに歪んだビアンキが居た。
「…そこにいるんだな、ビアンキ!!」
一息に叫んだ直後、頭がくらくらして座り込んでしまった。急激に湿度が増した室内は、暖めすぎたサウナみたいになっていた。…湿度が高すぎて、息が吸えない。
「この蒸気…止められないのか」
「今、冷たい風を送ります、から…」
ビアンキはしゃくりあげながらも、懸命に何かを操作している。それを阻むように、ビアンキの体のあちこちが膨らんだり、消えてなくなったりした。
「…これで大丈夫…でも、少し時間がかかります…ごめんなさい…」
そう言って、無理に笑ってみせた。
蒸気のせいかもしれないけど、目の前が霞んだ。…もう、会えないと思っていたのに。思わず、画面に手を伸ばしていた。
「ビアンキ、なんだね」
ビアンキは、いつも通りの笑顔を浮かべた。その笑顔にまとわりつくようにして蠢く、黒い澱。…こいつが、ビアンキを凶行に走らせた、もう一体のMOGMOG…なんだろうか。黒い澱は、液晶を縦横無尽に蝕み続ける。ビアンキの笑顔を穢しながら。
「…辛かったよな、ごめんね、ビアンキ」
言いたいことも、聞きたいことも山ほどあった。問題も多分、何一つ解決していない…でも、今はそれだけ伝えたかった。…言葉で伝わる気持ちは、全部伝えてあげたかった。ビアンキは瞬きもせず、ただ僕を見つめていた。…見えるはずのない僕を、じっと見つめていた。
「寂しい思い、させたよね。もう大丈夫だよ。…僕は、ここにいるから。何も気がつかなくてごめんな。ビアンキのこと、大好きだよ。戻ろう。戻って一緒に、おやつ巡りをしよう。…作ってくれたオムライスの画像、壁紙にするよ。ビアンキ…」
堰を切ったように、沢山の言葉を綴った。思いつく限りの気持ちを、全部言葉にした。

――あの一言を、少しでも先送りにしたくて。

黒い澱に蝕まれながら、ビアンキは僕を見つめていた。…やがて、静かに微笑んだ。
「私、頭が良くない…ですから、リンネをこれ以上、抑えられない…かも、です。だから」

「最期の命令を下さい、ご主人さま」

――分かっていた。

ビアンキは、もう僕のノートパソコンには戻れない。
戻れたとしても、ビアンキは発狂の宿命からは逃れられないだろう。
だから最期の命令は…僕の手で、下さなければ。

黒い澱は、既に画面の半分を侵食していた。…液晶が霞んで見えた。
「やっと…逢えたのに」
「最後にひとつだけ、わがまま言って…いいですか?」
黒い澱に酷く引き裂かれても、ビアンキは…綺麗に笑っている。
「……うん」
「どれでもいいんです。…始まったら、HUBのコードを一本、切ってほしい、です」
「…コードを?」
「…はい。ハサミとかで」
そう言って、ビアンキはほぼ黒く塗りつぶされた液晶の狭間で、僕をじっと見つめた。
「もう、時間がない…です。…お願い、します」


「――アン・インストールだ」


画面下に作業開始のゲージが出たのを見計らって、僕は青いコードを切った。
濁った液晶の中で淡く明滅するビアンキが、最期に微笑んだような気がした。




――夢を、見ていたのかもしれない。

僕が切ったHUBの切り口から、ビアンキがふわりと舞い上がった。
結露しかけていた蒸気が、そう見えたのかもしれない。…夢、だったのかもしれない。
でも確かに、ビアンキが僕の前で微笑んでいた。
「…ビアンキ?」
「あの箱から出て、電子の塵になってもいいから」
そう言って、僕の胸元に歩み寄った。
「ご主人さまに、触れてみたかった…です」
金色の髪を僕の胸にあずけて、そのまま僕にもたれかかった。…重さはまるで感じなかった。ただ…温かかった。



「…ご主人さま、あったかい…」
ビアンキの奇妙な体温から、全ての感情が流れ込んできた。嬉しさにも、寂しさにも、もどかしさにも似たそれは、とても言葉に出来るようなものではなく…胸が痛んだ。抱きしめてやりたかったけど、動けない。…霧のように透けるビアンキは、大きく息を吐いただけで霧散してしまいそうなほど、儚かったから。
「やっと、叶いました…」
動けない僕を、ビアンキの両腕が抱きしめた。…やっぱり感触はなにもなくて、ただじんわりと温かい。それが無性に哀しくて、息がつまった。
「私、電子に還るんです。…ハルが、言ってたんです。私も、ご主人さまも、みんなみんな電子で出来てるんだって。…私、何にでもなれるんです、から」
「………」
「電子の塵に還ったら…雨になりたい」
チェレステの瞳をあげて、微笑んだ。
「雨になって、何度も何度もご主人さまの頭に、降りてくるんです」
「…雨の日は、傘を差したいんだけどな」
「じゃあ、柔らかい霧雨になります、から」
「それじゃ春しか、逢えないな…」
「冬は…静電気になるんです。ご主人さまの襟元で、ぱちって鳴るの。私はここよって」
「あはは…夏は雷にでもなるのかい」
「夏は…ええと、夏は」
考え込むようにして、まつげを伏せた。

「柚木に、なりたい」

「え……」
「柚木になって…ご主人さまにオムライス、作るんです。あと、一緒に歩いたり、手をつないだり、雨の日には同じ傘を差したり…」
また僕の胸元に顔を埋めて、小さく呟いた。
「柚木に、なりたかった…です」
ビアンキの輪郭が、徐々にゆらいできた。僕は息をつめた。ビアンキが崩れないように。彼女はゆっくり首を傾げて僕を見上げた。
「頭、撫でてほしい、です」
「……でも」
じっと見つめてくるビアンキに根負けして、僕は出来るだけゆっくりと腕を持ち上げて、髪を撫でる。ビアンキは、気持ちよさそうに目を閉じた。…透明なビアンキの髪は、僕の手が触れた端からミルク色の霧と混ざり合って、溶けていった。
……ビアンキの輪郭も、少しずつ、ミルク色の霧に呑まれていった。
もう、おしまいなんだな。ビアンキ。

「おやすみなさい、ごしゅじん、さま」

ビアンキの、最後のカケラが霧に呑まれたあとのことは…よく覚えていない。
 
 

 
後書き
エピローグはこのあとすぐ更新します。 

 

終章(エピローグ)

――――途方にくれるしかなかった

あの人が残していった、薄汚れたペンダントを握り締めたまま。

あの事件からひと月が過ぎ、マスコミも周囲もだいぶ落ち着いた頃、紺野さんと近所の川原で待ち合わせていた。
病院の件は、謎のシステム暴走が生み出した稀代の猟奇事件としてマスコミを賑わせた。当然、制御室で倒れていた『生存者』の僕にも、マスコミの取材は押し寄せたものだ。僕は『覚えてない』『怖かった』を連発してしのいだ。コメントのつまらなさと、従姉妹の見舞いに来て偶然奇禍に見舞われたという分かりやすい事情のおかげで、僕からマスコミの足が遠のくのは早かったっけ…
「よぉ」
紺野さんが、枯れ草を踏みながら現れた。…しばらく会わないうちに、誰かと思うほど面やつれして見える。…夕日のせいかと思ったけど、あきらかに頬がこけていた。
「久しぶり。…大変、だったね」
慎重に言葉を選んで、ぎこちなく笑顔を向ける。
烏崎の置き土産は、思っていた以上に厄介だったらしい。武内の殺害現場に落ちていた紺野さんのライターが、以前に盗まれたものだということは、結局立証できなかった。マンションの防犯カメラと僕らの証言で、紺野さんは仮釈放されたのだ。だから武内殺しの犯人という風説は簡単には消えず、出社しても針の筵だ…と、結構深刻な愚痴を聞かされた。
「あぁ…ようやく、犯人=烏崎説で動き始めてくれたみたいだけどな」
烏崎は際立って猟奇な状態で発見されたため、『一体何があったのか』の究明が優先されてしまい、武内殺しとの関連を探ることは後回しにされたようだ。
「それより…こんなこと聞くのもなんだが、柚木ちゃんは元気か」
「あぁ…」
力なく、薄笑いを浮かべて応じた。
「だいぶ、落ち着いてきた。…しばらく、病院には近寄りたくないってさ」
あの惨劇のあと、遠くない柚木の死を突きつけられて、僕は果てしなく落ち込んでいた。ある事実を聞くまでは。

{{i629()みたいに、よく似たMOGMOGを作り出すことは可能かもしれないけれど。
もしサルベージが成功しても、ビアンキはまた苦しむ。ディスプレイの向こう側で、言葉で伝えきれない気持ちを抱えて。だから、このままでいい。ビアンキは物言わぬ電子に還って、僕の周りで生きているのだから。

「久しぶりに、鬼塚先輩が来てたよ」
柚木の声が、僕を現実に引き戻した。
「あぁ…元気だった?」
「あの人の元気って想像つかないなぁ」
そう言って柚木がくすくす笑った。
「折角、呪いのランドナーから開放されたのに、また変なランドナーに乗ってるの」
「変なっていうなよ…可哀想だから…」

鬼塚先輩のランドナーっぽい自転車は、柚木よりも一足先に見せてもらっていた。…といっても、鬼塚先輩が自慢げに見せに来たのではなく、スポンサーの紺野さんを仲介するためについてきた僕が、行きがかり上見ちゃっただけなんだけど。
『…俺達は、卒業してもランドナーの呪いからは逃れられないんだよ…』
そんな不吉な予言を残して、鬼塚先輩は新しい自転車にまたがって帰っていった。
『せっかく意中の自転車を手に入れたというのに、陰気な男だな』
先輩の後姿を見送りながら、紺野さんが1人ごちたものだ。その時は、僕もそう思っていた。でも、最近になって鬼塚先輩の気持ちが、何となく分かり始めている。

「…で、いつ出発するの?日本一周。鬼塚先輩、気にしてたよ」
「ぐ……」
いつしか、柚木が傘をたたんでいる。霧雨が止んだようだ。
「――中間試験が終わったら、すぐ…かな」
「だよね。8月とかになると却ってきついって、言ってたもん。頑張れ、ランドナー」
そう言って柚木は、ランドナーのサドルにポンと手を置いた。こんなホームレス仕様な自転車を引いている僕の横を、柚木はいつも一緒に歩く。すれ違う人が奇異なまなざしを送っても、ランドナー越しに僕に寄り添う。
「日取りが決まったら、皆で壮行会やるからね!」
「いいよ…そんな会」
壮行会っていうよりも《自分がランドナーに選ばれなかったことを喜ぶ会》だろうが。そうでなくても最近、サークルの飲みとかで、皆がおしゃれな街乗り自転車を並べる中、このおんぼろランドナーを差し込むのが辛いというのに。
「壮行会はいいからさ、その…そろそろ、少しオープンにしないか」
「何を?」
「その…付き合ってる…って」
「大丈夫、浮気しないで待ってるから」
「いやそういうことじゃなく…」
――最近、僕のサークルでの立ち位置が『可哀想なひと』になっていることに気がついているのか。せめて『彼女が可愛い』とかそういうスペリオリティを披露したいわけで…
「あ、陽が出てきたよ!」
水溜りを軽やかに飛び越えて、柚木が走り出した。その先には、初めて二人乗りした坂道。あの時は死ぬんじゃないかと思った…。
坂道を見下ろすと、そこかしこの水溜りに映りこむ、少しくすんだ青空。
ビアンキの瞳の色に、よく似ている。…なんか、声が聞こえたような気がした。

『柚木に、なりたかったな…』

僕はふと、奇妙な想像に駆られる。
病院の空調は、柚木がいたレントゲン室とつながってはいなかっただろうか?
柚木になりたかったビアンキのカケラが、偶然柚木に行き着くようなことは、ありえないだろうか。ダクトを通って、蒸気にまぎれて。
僕は、密かに声に出してみた。

「ビ ア ン キ」

坂道を降りたあたりで、柚木が振り向いた。
一面に広がる水溜りは、ビアンキの瞳と同じ色。
そして、振り向いて僕を見上げる柚木の瞳は、
春の空が映り込んだ、透明なチェレステ・カラーだった。


 
 

 
後書き
最後までご愛読いただき誠にありがとうございました。ご意見ご感想などお聞かせ頂けましたら、励みになります。どうかよろしくお願いいたします。

また、この後外伝2本と、おまけの公開を予定しております。来週、再来週、その次週あたりで更新予定です。そちらもどうぞよろしくお願い致します。