ソードアート・オンライン 穹色の風


 

Prologue

 
前書き
お初にお目にかかります、Cor Leonisと申します。
拙い文ではありますが、ご意見・ご感想等ありましたら是非感想版への書き込みをお願いします。 

 
 都内にあるごく普通のマンションの一室、おそらく、本来の用途は寝室であろう部屋。しかし、ベッドや布団などといった寝具の類はまるで無く、あるのは高級感といった言葉にはまるで縁のなさそうなこの部屋とはあまりに不釣合いな、見るからに最新、高機能、そして値が張りそうなデスクトップコンピューターが2台と、それらに繋がったモニターが1台につき2台づつ、それら全てを収納・配置してある机がたった一つのみだった。

 そして、平均よりも少し白い肌の色と細い線を持ち、あまり手入れされていないように見られる髪の下から少し冷たい光を携えた瞳を覗かせながら机の前に座っている、男性――と呼ぶには少し幼い顔つきをした、それでいて少年と呼ぶにはあまりにも大人びた表情を浮かべた人物が、4台のモニターを周期的に見回しながら、2つのキーボードを同時に操作していた。
 彼の目は時々4台のモニターのいずれかでしばし止まるものの、両手は動きを止めることなくキーを叩き続ける。そして、15分ほど時間が過ぎたころ、彼の両手と両目が、初めて同時に動きを止めた。彼はそのまま体重を椅子の背もたれに預け、脇に置かれているカップに口をつけた。途端に、ブラックコーヒー特有の爽やかで濃厚な苦味が味蕾を刺激する。

 彼――橋本雅貴(はしもとまさき)は一度ふうと息をつくと、カップを机上に戻し、モニターを睨みながら呟いた。

「……こいつか」

 そして、4台のモニターのうち3台の画面を切り替え、再びキーボードを操作し始めた。

 それから小1時間が経過したころ、雅貴はコーヒーを啜りながら、スマートフォンを耳に当て、電話をかけた。数回の発信音の後に、「私だ」といういかにもお偉いさん、というような老齢の男性の声が聞こえてくるのを確認してから、雅貴は用件を伝えた。

「橋本です。たった今、ウイルスの感染経路と相手コンピューターの位置が特定できました」
「流石、速いな。……了解した。後はこちらで行う。報酬はいつもの口座で構わないか?」
「ええ、それでお願いします」
「分かった。これからも、何かあれば頼むよ」
「喜んで」

 相手が回線を切るのを確認し、雅貴はもう一度コーヒーを啜った。カップの中が空になってしまい、雅貴は二杯目を注ぎに行ってくるか否か、しばし逡巡すると、机の引き出しからこれまたスペックの高そうなノートパソコンを取り出して、電源を点けた。やがて、起動が完了すると、今度はワードを開き、一般人に見せようものなら一瞬で相手がめまいを起こして倒れそうな、難解な専門用語と記号がひしめく論文を読み進めていき、気になる部分を訂正していく。

 この作業にも、時間はそこまでかからなかった。推敲が終わった後、雅貴は一度キッチンへ向かい、コーヒーメーカーからホットコーヒーをカップへと注ぐと、その湯気と香りを漂わせながら部屋へと戻った。そして、そのまま机の前に座り、今度は机の引き出しの中から、まるでF1に使うヘルメットを縦に真っ二つに割ったような形をしたヘッドギアを右頭に装着し、椅子の背もたれに体重を預けた。

「さてと、始めますか。……リンク・スタート」

 呟くと、雅貴は左手を椅子の肘掛に乗せたまま、右手だけでキーボードを操作し始めた。途端に、つい先ほど、2台のコンピューターを使っていたときとは比べ物にならない量の膨大な数字とアルファベットがモニターに表示され、一瞬のうちに画面外へと流れていく。雅貴の右の眼と手はさっきよりもせわしなく動き、だが逆に左手は肘掛の上から1ミリたりとも動かず、左目にいたっては瞳孔が開いている。しかし雅貴は気にも留めず、ただ黙々と右の手と目を動かし続ける。

 やがて、雅貴が作業を開始してから5分ほど経った頃、今まで黒のバックグラウンドに白の文字列を写しているだけだった2台のモニターが、不意に青い光を放ち、赤色の“Congratulations!!”という単語が画面上に躍り出た。雅貴はそれを確認すると、ゆっくりと右頭のギアを外し、ようやく左手を動かした。

「時間の短縮は順調だが……、やはり脳への負担が大きいな。この調子だと、俺でも最大連続使用可能時間は15分ってとこか。……やれやれ、新しいシステムの確立ってのも、中々に面倒だ」

 言い終えると、雅貴はコーヒーのカップを口に運び、新着メールと机の上に無造作に積み上げられた手紙とに目を通し始めた。

 日本語のみならず、英語やドイツ語、さらにはポルトガル語や中国語などで書かれた手紙やメールはしかし、全てが同じ内容だった。差出人 (この場合、送ってきたのは個人ではないが)はほとんどが大学で、自分の大学がいかなる理念を掲げ、いかに素晴らしい環境を持っており、いかに橋本雅貴という人材を欲しているか、といった、勧誘(スカウト)の文章が書き連ねられていた。だが、真に驚くべき点は、全ての学校が雅貴を生徒としてではなく、コンピューター関連や量子物理学、もしくはその両方の講師として勧誘している点だった。しかし一方で雅貴は、一欠片も表情を崩すことなく、読んだ先から手紙をゴミ箱へと投げていく。

 彼、橋本雅貴という人物を形容する言葉は、実は少なくない。が、その全ては天才や神童といった、一般人では一生に一度も言われることがない類のものであり、彼がそのように言われ始めたのは、その実ごく最近のことだった。

 雅貴がそこまでの頭脳を得たのは、たった四年前。雅貴が中学一年生の冬だった。雅貴とその家族が乗る車に、飲酒運転をしていた対向車が突っ込み、両親は死亡。雅貴は奇跡的に一命を取り留めたが、すぐに異常が現れた。

 ――記憶が、消えないのだ。

 両親が死んだ、という、心の奥底に刻み付けられていそうなことだけでなく、朝食のメニュー、回診で何を聞かれたのか、ナースと何をしゃべったのか。挙句の果てには、同室の患者に、いつ、何人の見舞いが来て、何を喋っていたのかまで。しかも、その記憶は全て、言葉や音声ではなく、まるで録画したテレビのように、映像で雅貴の頭の中に残っていたのだった。

 雅貴がそのことを担当医に告げると、すぐに専門医の居る病院へと移され、精密検査が行われた。事故の影響で、脳に損傷がある可能性があるためだ。しかしその結果は、「全てにおいて問題なし」というものだった。

 が、問題は無くても、異常は存在した。雅貴の脳は、全体が一般人とは比べ物にならないくらい活性化していたのだ。そしてこれは、驚異的な記憶・洞察・理解力などとして、雅貴にフィードバックされた。

 雅貴はこのとき、自分の脳の異常を喜んだ。自分が天才と呼ばれる人種に仲間入りすることが出来たからだ。そして雅貴は叔父夫婦に引き取られ、1ヵ月後に退院。学校にも復帰し、順風満帆な人生を送る――はずだった。

 晴れて天才になり、意気揚々と学校に復帰した雅貴を待っていたのは、同級生からのいじめだった。彼らは最初こそ、雅貴の才能を羨んでいたが、その感情はすぐに嫉妬や嫌悪へと変わっていき、最後には雅貴という存在自体を憎むようになっていた。

 また、それが勉強面だけならまだ良かった。人間の脳というものは、小脳といわれる部分で運動を司っているため、雅貴の運動神経も、事故の前とは比べ物ものになるはずも無かった。筋力や体力を必要とするものはそこまでではないが、集中力や反射神経、相手の挙動を読む力などが必要な、たとえば剣道などでの実力はすさまじく、それまで竹刀など一回たりとも触ったことがなかった雅貴だが、剣道部の顧問にしつこく誘われて出場した翌年の全国中学校剣道大会では、雅貴は圧倒的な強さで、最後には相手に一回もポイントを取られることなくシングルの頂点に立ってしまい、このことが同級生に更なる嫌悪感を与えてしまった。そのため、雅貴が朝礼で表彰されたとき、同学年のものは誰一人として拍手を送らなかった。

 雅貴は最初こそ、苦しんだ。もう一度、皆と仲良くやりたいとも思った。が、すぐに自分の中である考えが芽生えた。

 自分の才能を彼らに疎ましく思われるのは仕方がない。彼らは凡人なのだから――という、人を見下した、その上でどこか諦めたような考え。しかし、雅貴にはこれが、何よりも正しい真理のように感じられた。

 すると、今まで悩み苦しんできたものが、一気にどうでもよくなった。学校も、友達も、全てが自分の足を引っ張るだけの存在にしか見えなくなり、そんなもののために今まで悩んできたことを馬鹿馬鹿しくさえ思った。

 だから、雅貴は学校を辞めた。――正確には、学校に行かなくなった。雅貴が通っていたのはごく普通の公立中学校であり、もちろん義務教育だから、中退は出来なかった。結果、当時まだ中学二年生だった雅貴は義両親に、

・自分はこれから、原則的には学校へは行かないこと
・これから数ヶ月、家で勉強してから仕事を始めること
・中学を卒業した段階で、一人暮らしを始めること
・一人暮らし中は自分の稼ぎで食べていくため、仕送りは要らないこと

 の4つを伝えた。もちろん義両親は反対したが、雅貴にこの選択を改めさせることは、ついに出来なかった。

 同級生たちが自分から離れていく中で、この二人だけは自分のことを家族として温かく接してくれていたため、その2人の恩を仇で返すような真似をしたことは雅貴の心に少しだけ自責の念を発生させたし、このことで二人に恨まれるだろうと考えると悲しくもなったが、これも自分のためだと、雅貴は強引に納得した。

 が、例えどんな天才であろうと、中学生がする仕事などがそこらへんに転がっているはずはなかった。その上、下手に仕事をした場合、法に抵触してしまう。だから雅貴は校長の下に出向き、「対外模試の時だけは登校して、学校の偏差値を上げる代わりに、合法的に就労できる許可を与えてもらう」「それが不可能な場合には、今すぐ他の中学校へ転校する」といった交渉をした。そしてこの校長、自身の出世のために学校の偏差値を上げることに非常に熱心な人物であり、あろうことか二つ返事で承諾してしまった。

 これにより、法に触れることは回避できた雅貴だったが、現実的な問題として、おいそれとどこかの企業に就職できるはずも無かった。そのために雅貴が目をつけたのは、人と直接顔を合わさなくても行えるホワイトハッカー(ハッカーのうち、新しいプログラムの開発をしたり、サイバー攻撃からのコンピューターの防衛をしたりと、その知識を善良な目的に活かす職で、雅貴はこのうち後者を選んだ)と、研究職、特に、当時話題に上ることが多く、なおかつ小型化が進み、エレクトロニクス技術やナノテクノロジーといったものが重要視されるコンピューター技術と互換が可能な量子物理学の分野だった。

 わずか3ヶ月で、しかも独学でこれらの知識を頭に詰め込み、博士号まで取得した雅貴は、両親の遺産で当時最先端だった2台のデスクトップコンピューターと1台のノートパソコンを購入。自室で活動を始めたのだった。

 初めの1ヶ月ほどは、雅貴が学会で発表する度、会場中で笑いが巻き起こった。発表を拒否されたことも少なくなかった。しかし、雅貴が発表した一つの論文がアメリカの有力な科学雑誌で賞を取ると、雅貴が唱えた説が次々と証明されていき、雅貴は量子物理学界全体から一目置かれる存在として学者の頭の中に刻まれていった。すると、どこから雅貴のことを知ったのか、サイバー攻撃でコンピューターをウイルスに侵食された一人の学者が雅貴に攻撃先の特定を依頼、雅貴がその場で解決したことから、雅貴のホワイトハッカーとしての腕は口コミで世界中に広がり、今では世界に名だたる有名企業からも依頼を請け負うようになり、たった半年の間に、雅貴はホワイトハッカーと量子物理学者という2つの分野において天才の名をほしいままにして、今に至る。

 そして今、雅貴は手紙を全てゴミ箱の中へと叩き込み、同じように電子メールを削除している最中だった。
 前のメールをゴミ箱へと移動させ、そのまま惰性で次のメールをドラッグしようとした、その時。画面上に表示されているマウスカーソルが、動きを止めた。差出人が個人だったからだ。大学ではないとすれば勧誘ではなく(学校長などが個人名義で勧誘をしてくることはあっても)、ホワイトハッカーとしての依頼の可能性が高い。雅貴はゆっくりとメールの本文をウインドウに表示し、驚いた。

 ――そのメールの差出人は、茅場晶彦。彼とは同じ量子物理学者であるため、学会で何度か顔を合わせたこともあり、何か常人では考えもつかないような、良く言えば壮大、悪く言えば非常に恐ろしいことを実行しそうな独特の雰囲気をまとっていて、彼もまた自分と同じように天才であるのだろうと感じたことや、彼が何かを病的なまでに渇望していて、量子物理学も彼にとってその何かを実現させるための手段でしかなく、それを実現させるためならば数人の命さえ意に介さないような、強すぎる意志を感じたこと、その際にメールアドレスを交換したことを覚えている。しかし、今まで一度だってメールのやり取りをしたことは無かったし、何より彼はコンピューター関連の知識も豊富であり、そんな彼がサイバー攻撃を受け、さらに何らかの被害を被った、ということは、あまり考えられなかった。ということはその他の要件ということになるが、前述したように、雅貴は今まで、一度も彼とメールのやり取りをしていない。その彼がどうして今になって雅貴のところにメールを送ってきたのか、雅貴は訝った。そして、いつになく慎重に本文を開くと、そこには次のように書かれていた。

 橋本君へ
 久しぶりだね。君とは2ヶ月前の学会であったのが最後だったかな?
 仕事のほうは順調かな? と、訊いたところで、君が躓くようなことがないのは、分かっているのだけれどね。
 さて、それでは早速本題に入ろうか。
 実は、私は君を私の世界に招きたいと常々思っていた。そして、ようやく、その機会を手にすることが出来たんだ。
 ちなみに、もう招待券は発送済みだ。君がこのメールを読み終わった頃には届くのではないかな?
 この招待を受けるか受けないかは君の自由だが、私は是非、君に私の世界を感じてもらいたいし、君の研究にも役立つと思う。それに何より、君にも楽しんでもらえると思っている。
 君の参加を心待ちにしているよ。
                                          茅場 晶彦

「……私の世界、ねぇ……」

 本文を読み終わり、雅貴の疑いの念はさらに強まった。そして、茅場の言う“私の世界”とは何か、彼と会ったときのことから推測しながら何気なく覗いたインターネットニュースのトピックス欄に、目が釘付けになった。そのニュースは、衆議院の解散をめぐる与野党の攻防や、ついに共同提訴に持ち込んだ隣国との領土問題の、ICJ(国際司法裁判所)の判決予想などではなく、たった一本のオンラインゲームが明日の13時ちょうどに正式サービスを開始する、という内容のものだった。そして、その瞬間、雅貴の脳裏に確信が浮かび、それと同時にインターホンの機械質な音が部屋に響いた。雅貴がゆっくりと扉を開けると、予想通り、宅配便が人の頭サイズのダンボールを届けに来たところだった。

 雅貴はサインをしてダンボールを受け取ると、すぐに部屋に戻り、箱を開けた。するとそこにあったのは、またしても雅貴の予想通り、流線型の形をしたヘッドギアと、ゲームソフトが1つづつ。雅貴はゲームソフトを手に取り、裏面のスクリーンショットに目を向けた。

「《アインクラッド》ねぇ……。茅場のことだから、由来は“An INCarnating RADius(具現化する異世界)”かな?」

 かなりの当て推量だったが、なかなか正鵠を射ているのではないかと思い、雅貴は吹き出した。そして、自分が今、柄にも無く感情を昂ぶらせていることに気付く。

 雅貴はネットゲーム、特にMMORPGは好きではない。ネットゲームの創り出す仮想世界が現実世界以上に醜いからだ。

 アイテムや装備品をめぐったトラブル、プレイヤーIDにパスワードを調べてのキャラクターの乗っ取り等が絶えず、さらにはチャット等を使用しての誹謗・中傷やその他のネット犯罪が横行しているくせに、運営はその汚い面を綺麗でファンタジーな仮面で覆い隠す。しかも、それは全て自分たちの金儲けのためだ。そんな醜悪な世界に1秒たりとも入り込みたくはないという雅貴の思いはしかし、茅場晶彦という天才がどんな世界を創造したのか? という好奇心によって強く揺り動かされた。

「……切羽詰った仕事もないし、茅場の世界とやらは、暇つぶし程度にはなるのかな?」

 数分の迷いの後、口元に微笑を浮かべながら呟いた雅貴は、机の上に二つを並べ、すっかりと冷えてしまったコーヒーを飲み干した。そして、自分の心中に渦巻く珍しい感情を味わいながら、リビングに置かれているベッドへと向かったのだった。

 そこまで雅貴の心を揺さぶり、そして彼の人生にとって2回目となる大きな波乱を呼び起こす、たった1本のゲームソフトの名は――

 ソードアート・オンライン。

 量子物理学者にして天才ゲームデザイナー、茅場晶彦が開発ディレクターを努め、1万人もの人間を熱狂、そして何より恐怖の渦へと巻き込んだ、世界初のVRMMORPGだった。


 
 

 
後書き
いかがだったでしょうか?
もしよろしければ、今後も読んでいただければと思います。

1/11 主人公の年齢(が分かる部分)に誤りがありましたので、訂正しました。また、章を追加しました。 

 

Link Start

 
前書き
今回は少し短めです(前回が長すぎただけかも知れませんが……)。 

 
 翌日、雅貴は朝からコンピューターの前に居た。だがこれは取り立てて珍しいことではなく、職業柄、一日や二日、コンピューターの前から動かずに徹夜、といったこともしばしば存在する。
 しかし、雅貴が今行っていることは、彼の仕事とは全く関係の無いことだった。

 雅貴の向けた視線の先にあるのは、いつもと同じ四台のモニター。だが、そこに映されていたものはいつもの意味を成さない数字とアルファベットではなかった。円形のチャートの内部に幾重にも張り巡らされた光の道がモニター上に表示され、雅貴の手が動くと同時にモニターに表示されている範囲も移り変わっていく。そして、探査している部分が最深奥に達したところで、

「何だ? コレ」

 という呟きとともに雅貴の手が一瞬止まった。雅貴は数秒間モニターを見つめていたが、その後、もう一度キーボードを叩き始めた。画面に表示されている範囲がみるみるうちに狭まり、しまいには道の一つだけが、しかしさっきまでの数倍といった大きさで画面に映し出された。

「……なるほど」

 雅貴が今度は完全にキーボードから指を離し、脇のコーヒーカップの中身を口へと運び、ふうと温かい息を吐き出して、言葉を続けた。

「こんなモン作って、一体あいつは何する気なのかねぇ……」

呆れたような声色で呟いた雅貴の口元はしかし、獰猛な形に歪んでいた。
そして、雅貴はもう一度コーヒーカップを呷ると、再びキーボードを叩きだした。


 それからしばらくして、ようやく雅貴はコンピューターをシャットダウンし、リビングのコーヒーテーブルの前に置いてあるソファーの上に横になった。そのまま雅貴が時計に目をやると、時計の針は11時半を指し示している。雅貴はしばし考えると、キッチンへと向かった。

 十数分後、茹で上がったフェットチーネと卵、チーズ、ベーコンと黒こしょうを使ったソースとを絡め、器に盛り終えると、出来上がったカルボナーラとフォーク、コーヒーを持ってテーブルに着く。雅貴はフォークを器用に使ってパスタをくるくると巻きつけると、そのまま口に運んだ。

 卵の濃厚な風味に黒こしょうがピリリとアクセントを加えたソースが絶妙な加減で麺と絡まるのを味わいながら、雅貴はたまにはこんな食事も良いものだと思った。いつもは仕事の関係もあり、カップ麺やコンビニ弁当で手早く済ませていた雅貴だったが、別に料理が苦手というわけではない。レシピは一度見れば一語一句違わずに記憶することが可能だし、包丁等の調理器具も一般の主婦レベルでなら扱える。今までは時間が惜しくてまともに料理をしたことなど片手の指で数えられるほど珍しいイベントだったが、その時はもれなく食事に満足した。
 この味がいつも味わえるのなら、これからはちょくちょく自炊をしてみようか――
 そこまで考えが至ったところで、雅貴は吹き出した。自分がそんな気まぐれを起こしたことが可笑しかったからか、もしくは、自分にまだそんな感情が残っていることに驚いたからだろう。だから、雅貴が浮かべた笑いはどこか自分を(あざけ)るようなものだった。

 その後、15分ほどで食事を終えた雅貴は、洗い物を終えると先ほどのソファーに再び横になり、テーブルの上に置かれている高性能スマートフォンを手に取った。パスコードを入力し、待ち受け画面が表示されるのを確認してから、雅貴は電話帳を開き、“菊岡 誠二郎”の名前をタップして、耳に当てる。

 彼は前に総務省がサイバー攻撃を受けた際、雅貴のもとに事件の調査を依頼に来た官僚であり、それからというもの、ちょくちょく国としての依頼を雅貴に持って来るようになった。雅貴は最初はあまり依頼を受けようとはしなかったのだが、国なだけあって当然支払いは良かったし、国からの依頼を請け負うということはバックに国が付くということであり、その莫大なメリットを考慮した雅貴は、菊岡とはそれなりに深い関係を構築していた(あくまで“ビジネス上の”ではあったが)。
 昔から全く変わらないコール音が数回ほど鳴った後、カチャリ、という回線が繋がる音と、次いで真面目そうな青年、といった風な声が電話口から響く。

「菊岡です。あなたがこんな時間に掛けてくるなんて、珍しいこともあったもんですねぇ、橋本さん。……ひょっとして、僕の声が恋しくなったとか?」
「ハハハ、その可能性は熱力学第二法則が間違っているのと同じくらいありえませんから、安心してください」

 雅貴がおどけた風な口調で答えると、「残念ですねぇ」という短い呟きが聞こえてくるが、雅貴は気にしない。これが、この二人が話すときのスタンダードだからだ。

「さて、冗談はこのくらいにしておいて、橋本さん。用件は何ですか?」
「実は、面白そうなパーティーへの招待状が届きましてね。ちょいとばかしそちらに参加してくるので、当分の間、仕事はナシでお願いします」
「へぇ。橋本さんがそう言うなんて、これまた珍しいですねぇ。一体、どんなパーティーなんですか?」
「知り合いが神様か何かを気取ったみたいでしてね。どうやら世界を一つ創っちまったらしいんですよ。で、その世界を観覧して欲しいと頼まれまして。友情に忠実な僕としては、行かざるを得ないんですよ」
「ほほう。美しき友情ですな」

 菊岡はそう言った後、少しの間黙り込んだ。恐らく、雅貴の真意をあれこれ推測しているのだろう。雅貴もそれを分かっているため、その沈黙を破らない。そしていつも通り、その沈黙は作り出した本人によって破られた。

「……承知しました。依頼の方は、委細お任せ下さい」
「いやはや、いつもすみませんねぇ」
「いえいえ、橋本さんにお世話になっているのはこちら側ですから。それでは、また何かありましたら何なりと申し付けください」

 お互い、最後に社交辞令を残して回線を切断する。雅貴は電話帳を閉じると、またもや吹き出した。今度の場合は、前回のような自分への嘲笑ではなくて (実際にはそれも少し含まれているのだが)、橋本雅貴という人格を偽ることにずいぶんと慣れきった自分への苦笑だった。

 雅貴は本来、今のように喋る性格ではない。学校を辞めてからは他人と話すこと自体が珍しいことだったし、他人と話すことに意味が無いとさえ思っていた。そして、その考えは今でも変わっていない。
 しかし、世の中には意味の無いことも必要に迫られればせざるを得ない。量子物理学界に入れば他の学者たちとディスカッションをしなければならないし、ホワイトハッカーとしての仕事も依頼者(クライアント)と話をする必要がある。相手が大企業だったり、もしくは国だったりする場合は尚更だ。だから雅貴は仕方なく、自分を作り出した。“ビジネスモード”とでも言えばいいのだろうか、雅貴は仕事の話をする際、わざとおどけたような調子で喋っていた。この方が、相手に自分の心を読まれにくいからだ。特に菊岡のようなタイプと話す場合は自分の本心を相手に見せることは厳禁だし、何より他人から見たら無味乾燥であろうビジネスライクなこの距離が、雅貴にとっては心地よかった。

 雅貴は口元の歪みを直すと、スマートフォンの画面に表示されているデジタル時計に目をやった。よく言えばシンプルな、悪く言えば非常に素っ気無いオフホワイトで表示されている4つの数字は、只今の時刻が12時7分であると告げている。雅貴はアラームを12時50分に設定すると、スマートフォンをテーブルの上に置き、仰向けのまま手を頭の後ろで組んだ。無機質なベージュ色の天井のちょうど中心にLEDの照明が、まるで自分を誇示するかのように鎮座している光景を、まぶたを閉じることによって強制的にシャットダウンする。睡魔が作り出す心地よいまどろみを味わいながら、雅貴はゆっくりと意識を投げ出したのだった。

 ピピピ、といういかにも機械的な電子音が休んでいた脳を揺り動かし、1秒の狂いも無く12時50分ちょうどに鳴り響いたそれは、雅貴の意識を確実に覚醒へと誘う。雅貴はゆっくりとまぶたを開くと、賑々しい電子音を止めるべく、卓上のスマートフォンへと手を伸ばした。
 音の発信源を片手で素早く操作し、鳴り響いていた電子音を止めた雅貴は、念のために画面上部の4つの数字を確認し、時間通りであると分かると、ようやく体を起こし、左手首を右手で掴んで伸びをする。それと同時にあくびが一つ飛び出してまだ拭いきれていない眠気が自己の存在を主張する。雅貴は口元を手で覆いながら立ち上がると、キッチンでマグカップを一つ手に取り、コーヒーメーカーの前に向かう。数秒後、芳醇な香りを漂わせる黒い液体をカップの中に注いで再びソファーに腰を下ろした雅貴は、まだ湯気を発しているその液体をゆっくりと、少量口に含み、爽やかな苦味が脳に未だに掛かっているもやを晴らしていくのをリアルタイムで実感していた。

 実際のところ、コーヒーに含まれる眠気覚まし成分であるカフェインがその効力を発揮し始めるのは摂取後20分ほどしてからになるのだが、それまで待たずとも、コーヒーが持つ爽やかな苦味と酸味によって十分に眠気を払ってくれると雅貴は感じていたし、雅貴が大のコーヒー好きである理由もそれだった。
 雅貴の仕事は脳をかなり酷使するものであり、特にホワイトハッカーとしての仕事中は、一瞬の気の緩みが命取りになる可能性がある。そしてその主な発生原因である睡魔を退治してくれるコーヒーは、雅貴にとって欠かせないものだった。

 今回も頭を冴え渡らせてくれたコーヒーを飲み干し、コップをシンクへと置いた雅貴は、コンピューターの前の椅子に腰掛けると、昨日茅場から送られてきた二つの機器(パーティーチケット)を引き出しから取り出し、ナーヴギアを頭にかぶり、ソフトをセットしてバイザーに表示された時計と睨めっこを開始した。そして時計が13時を示す直前、雅貴はもう一度椅子に深く腰掛け、椅子をリクライニングモードに入れる。背もたれと足置きがフラットになり、雅貴が位置を微調整するのと同時に時計が13時を告げると、その瞬間、日本中で発せられたであろう一つの単語を雅貴も紡いだ。

「リンク・スタート」

 すると、今まで網膜に映し出されていたオフホワイトの天井が闇に包まれ、次いで様々な色の光の粒が視界を染める。そしてそれが通り過ぎると、恐らくは様々なデータがやり取りされているのだろう、幾つかの円形チャートの中にパーセンテージが表示され、やがてそれらが全て“OK”に切り変わり消えたかと思うと、言語選択のウインドウが出てきて、その後今度はログイン画面が姿を現した。そして雅貴がいつもプライベートで使用しているIDとパスワードを入力すると、アバター製作の作業に入る。雅貴は特にこだわりを持っていなかったため、プレイヤーネームは《Masaki》とし、見た目も適当に作り終える。と、ようやく全ての作業が終わったのか、“Welcome to Sword Art Online!”という文字が画面上に躍り出て、それと同時に雅貴の視界が黒に染まり、突如発生した浮遊感が雅貴を襲った。
(さて、それじゃあ異世界見物でも始めますか)
暗黒の世界を落下しながら、雅貴は口元を獰猛な形に歪めたのだった。

 
 

 
後書き
結局プロローグと変わってませんね……

1/11 章を追加しました。 

 

Dive to Sword Art Online the World

 目の前の広大な石畳とそれを取り囲む中世をイメージしたのであろうレンガ造りの建築物に鮮やかな新緑の葉を枝一面に飾った街路樹が彩りを添え、正面の建物を乗り越えた先には妖しい黒い光を放つ宮殿が鎮座している。足裏に伝わる石の硬い感触を味わいながら、マサキは呟いた。

「コレが“私の世界”か……」

 マサキが一回転しつつ周囲を見ると、今も続々とプレイヤー達がライトブルーの光を放ちながら広場に降り立ちつつあり、その度に彼らの嘆息が鼓膜を揺さぶる。マサキが再び黒光りする宮殿を正面に見据えると、小鳥のさえずりとともに爽やかな風が広場のプレイヤー達を歓迎するかのように吹き渡る。
これだけの複雑な感覚をデータ上で完璧に再現し、さらにそれを正確にプレイヤーの脳内で形作るのは至難の業であるし、それを当初から些細なバグもなしに行うのは開発陣営の血のにじむような努力があってこそだろうと、マサキはそよそよと頬を撫でる風の感触を味わいながら素直に感心していた。

(さて、と。RPGである以上、まずは装備品の類を買い揃えればいいのか?)
 一通り周囲を見終わったマサキはこれからすべきことを考えることにしたのだが、如何せん何をどうすればいいのかが全く分からない。事故以前はマサキも人並みにゲームの類はしていたし、RPGのタイトルもいくつか持っていたのだが、このようなインターネットを利用したMMORPGは初めてだったので、もし以前マサキがやっていた物との差異に気付かずに何かマズイことをやらかしてしまったら目も当てられない。となると、後は誰かに訊くという選択肢になるのだが、このゲームはVR(・・)MMORPGであり、今までのMMORPGとも同じとは限らない。

 そんなことをあれこれ考えていると、視界の隅に街中を全力疾走で駆けていく一人のプレイヤーの姿が映り、マサキの脳裏に一筋の電気が走った。確かにこのゲームは世界初のジャンルを冠してはいるが、全員がこのゲームを始めてプレイするわけではない。ネットゲームである以上、動作確認用のβテストが存在するはずであり、そのテスト時からは細部の変更はあっても大きな流れとしては変わらないはず。そして、今のプレイヤーが見せた迷いの無いダッシュを見る限り、彼は十中八九βテスト経験者だろう。

「……なら」

 マサキは小さく呟くと、彼の後を追いかけて走り出した。


「なあ、その迷いの無いダッシュ、お前βテスト経験者だろ? 悪いが俺にちーとばかしレクチャーしてくんねぇか?」
 開始早々、路地にある安い武器屋で装備を整えようとしていたキリトは、角を曲がったところでいきなり捕まってしまっていた。キリト自身は他人との付き合いは現実(リアル)でも仮想(バーチャル)でも苦手だったため、そんなことをするつもりは毛頭無かったのだが、唐突に話しかけてきた趣味の悪い赤バンダナの男の勢いに押され、まるでNPCのような硬い動きで頷いてしまった。途端に、赤バンダナの男は顔をほころばせる。その姿を見てキリトはようやく自分がした行為の意味を知り、後悔したが、今更では後の祭りだ。仕方ないか、とキリトは強引に納得し、自分がこれから向かう武器屋へと彼を案内しようと口を開きかけたところで、

「悪いんだけど、俺にも案内を頼めるかな?」

 またもや乱入者に捕まったのだった。


 マサキが路地裏へと入ると、追いかけていたプレイヤーが立ち止まって誰かと話していた。少し様子を見ていると、どうやら他にもマサキと同じことを考えていた者がいたらしく、さっきの彼にレクチャーを頼んでいた風で、勢いに気圧されたのか、二つ返事で承諾している。対話に関する経験が乏しいのだろう。
 押しに弱いタイプだと判断したマサキは、相手の同様が解けないうちに一気に距離を詰めると、そのままの勢いで言った。

「悪いんだけど、俺にも案内を頼めるかな?」
「「は?」」

 その疑問符は新しい乱入者への驚きが半分、その乱入者の容姿に対する驚きが半分だった。
マサキのアバターは決して見た目が悪いわけではない。ないのだが、作るときの彼が適当だったためか、現実のマサキの容姿にかなり近いものになってしまっていた。もちろん、全てが同じというわけではない。だが、細いがシャープな切れ味を持った眼や、すっと筋の通った鼻など、主なパーツは現実と似通っている。
 それでも雅貴の顔はなかなかに整っていると形容しても良い造形をしているため、特に見た目に問題があるわけではない。――たった一つ、今マサキが立っている空間がゲームの中だということを除けば。

 ゲーム内部での仮想体(アバター)は、たいてい元の顔よりも格好良く作られる。わざわざゲームの中でブサイクになることはないからだ。そして、その格好良く作られた顔というのは、大体が日本人離れした、もっと言えば、それこそRPGゲームの主人公パーティー然としたものになることが多い。現に、マサキの前で目を見張っている二人は新しいゲームの登場人物だと言っても差し支えない程のイケメンであり、それに比べるとマサキの顔は地味というか、影が薄い感は否めない。彼らの反応は少々失礼ではあるが、感情表現が現実よりも過大になるSAO内部であることを考慮すれば正常なものであろう。

 目を見開いたまま数秒間硬直していた二人だったが、そのままでいるのはいくらゲーム内部でも失礼に当たると思い、慌てて顔を引き締めた。

「えっと、それじゃあまず武器屋、行く?」

 まだ動揺が抜け切らない表情でキリトが呟くと、目の前の二人は(特に赤バンダナの方が)大いに喜んで見せた。

「ありがとう。俺はマサキだ。よろしく頼む」

 マサキが社交術として身に着けた人懐っこいビジネススマイルを自己紹介と共に見せると、二人は再び慌てて自己紹介を始めた。

「ああ、自己紹介がまだだったな。おれはクライン! よろしく頼むぜ!!」
「えっと……、俺はキリト。よ、よろしく」

 クラインが右手を差し出し、マサキはにこやかに、キリトはおずおずと応える。

「まず武器屋、だったな。この先にあるのか?」
「ああ、うん。他のところでもいいんだけど、これから向かうところが一番安いんだ」

 相変わらずオドオドと受け答えながらキリトは歩き出し、それにつられて二人も歩を進めたのだった。


 そのまま数分ほどキリトに連れられて歩いていくと、三人の前方にいかにも古そうな一軒の店が見えてきた。片手剣をあしらった看板が見えるあたり、恐らくここがキリトが言っていた店なのだろうとマサキは推測し、キリトはマサキの予想通りその店の前で立ち止まった。

「えーと、ここがその武器屋なんだけど……、二人は、何か欲しい武器とかある?」
「あー、俺何も考えてなかったわ。うーん……」

 キリトが問いかけると、クラインは唸りながら首をひねる。そこまで考えてなかったため、あれこれ思案しているのだ。

「じゃあ俺は……、日本刀みたいなのって、ある?」
「おお! それいいな! うん、俺もそれに決めたぜ!!」

 マサキが店内をざっと見回して問うと、まだあるとは誰も言っていないのにもかかわらずクラインが目を輝かせて、うんうん、と何度も頷いた。そしてそのまま、二人してキリトに視線を向ける。するとキリトは、バツが悪そうに表情を曇らせた。

「あー、えっと、ここには無いんだ……」
「じゃあ、何処にあるんだ? さっき通ったとこか?」

 クラインが顔を近づけてまくし立てる。さっきまでは何も考えてなかったくせに、とマサキは少しだけ呆れの度合いを増した視線をクラインに投げかけるが、もちろん気付かない。

「いや、今の段階では、日本刀は装備できないんだ。だから多分、この町の何処でも売ってないと思うし、一層じゃあドロップもしない」

 キリトがそう告げると、クラインは肩をがっくりと落とし、オーバーに落ち込んで見せた。恐らくはキリトの「今の段階では」という台詞を聞き逃したのだろう。仕方なく、マサキが指摘する。

「「今の段階では」ってことは、今後装備できる可能性があるのか?」
「そ、そうなのかキリト!?」

 マサキの問いかけを聞いた途端、それまでがっくりと肩を落としていたクラインが急に顔を上げる。その勢いはすさまじく、危うくキリトの顎を砕きそうになったくらいで、その切り替えの速さにマサキは内心辟易していた。――もちろん、声には出さないし、表情もポーカーフェイスを保ったままだが。

「あ、ああ。実は、もっと上の階層になると、刀スキルを使うMobが出現するんだ。だから、βテスターの間で何かの条件を満たすとそういうスキルが使えるようになるって噂もあった。」
「その条件ってのは?」

 今度はマサキが尋ねる。

「それが……まだ分からない。それに、そもそもこの噂自体がただの憶測に過ぎないんだ。刀が使えるのかさえ分からない。……ただ、スキルは熟練度によって派生するから、形の似た曲刀を使っていれば、あるいは……」
「曲刀だな!? 曲刀を使っていればいいんだな!?」
「いや、だからあくまでただの噂だから……って近い、近いってば」

 これが現実なら速攻で警察を呼ばれるであろう勢いで迫るクラインを必死に抑えながらのキリトの説明を聞きながら、なかなかに奥が深いものなのだなァ、とマサキは純粋に感心していた。そしてもう一度店内を見回し、曲刀の棚に置かれていたシンプルな柳葉刀を手に取り、数回振ってみる。シンプルなだけあって使いやすく、値段も手ごろだ。そのまま手に持って眺めていると、

「それ、値段の割りに性能がいいから、結構使えるよ」

 というキリトの解説が割り込んできた。そしてそれを聞いたマサキはもう一度素振りをすると、タップでウインドウを開き、《購入》ボタンを押した。すぐさま不自然なほどにこやかなNPCが飛んできて、価格を告げ、最終確認のウインドウを表示させる。マサキは特に迷うことも無く《YES》をタップし、そのまま装備する。解説の礼を言おうとキリトを探すと、彼は店先で初期装備の剣を携えたまままま立っていた。

「キリトは、ここで買わないの?」
「ああ。俺は片手直剣使い(ソードマン)だからね。武器は初期装備でいいんだ。防具は多少いじったけど」

 それを聞いたマサキは、もう一度キリトの装備を確認する。すると確かに、胸当てなど一部の防具が少しグレードアップされていた。

「じゃあ、俺も防具を買ったほうがいいのか?」
「いや、それ買ったらもうあんまり手持ちも無いだろうし、最初は雑魚モンスターを相手にするだけだから、初期装備でも十分戦えるよ」

 ようやく硬さがなくなってきたキリトの解説を聞きながら、マサキは最初に彼を見つけられた自分の運に感謝した。やはり何処の世界でも経験というものは大事だ。

 それから二人がしばらくの間装備品談議に花を咲かせていると、クラインが海賊刀(カトラス)を腰に下げてほくほく顔で帰ってきた。

「悪い、待たせちまったな!!」
「いや、大丈夫だ。……で、この後はどうすればいいんだ?」
「ああ、取りあえずフィールドに出て戦闘に慣れよう。いこう、こっちだ」

 マサキとクラインは揃って頷くと、歩き出したキリトを追った。


「ぐはっ!!」
 青イノシシ――正式名《フレンジーボア》の強烈な突進を喰らい、青々と茂る草の上にクラインがどさっ、と倒れこみ、そのままごろごろと草原を転がる。それを見たキリトが声を出しながら笑い、クラインを追撃しようとしていたイノシシを片手剣単発技《スラント》で斬りつけた。途端に青イノシシは情けない断末魔を響かせながら青色のポリゴン片となった。

「大丈夫か?」
「大丈夫なわけねーだろ! 何で剣が当たんねーんだよォ! 当たり判定がおかしいんじゃねーか? コレ」

 クラインはぼやきながら足元に転がっている小石を投げ、そのままもう一度仰向けに寝転がる。そして、なんとなく自分が投げた石の行方を見て、急に顔を青ざめさせながら叫んだ。

「ま、マサキ、危ねぇ!!」

 その声にマサキが振り向くと、今さっきクラインが投げた小石が当たってしまったのか、一頭の青イノシシがこちらに突進してきていた。しかも、なぜかマサキをターゲットにしている。もう距離は目と鼻の先で、回避も迎撃も間に合わない。――そう、キリトとクラインは考えた。
 が、マサキはスッと左足のかかとを後ろに振り上げた。正確に牙と牙との間、下顎をかかとで捉え、そのまま蹴り上げる。イノシシは突如襲ってきた攻撃に体をのけぞらせ、その突進を止めてしまうと同時に、無防備な腹をさらけ出す。マサキはすぐさま左足を戻しつつ体を左によじると、二つの反動を利用して半回転しながらサッカーのボレーシュートよろしく右足を振りぬいた。無防備な腹を打ち抜かれたイノシシは先ほどのクラインのように吹っ飛ばされ、草原を転がる。その隙をマサキが見逃すはずがなく、着地してすぐさま先ほど買った柳葉刀を肩に担ぐようにして構えると、オレンジ色のエフェクトで刀身を包みながら駆け出し、そのまま片手用曲刀基本技《リーバー》で青イノシシのたてがみを切り裂いた。

「おお……」
「強い……」

 マサキが刀を鞘にしまって二人のいる場所に戻ると、彼らは揃って口を開けて立ち尽くしていた。それもそのはず、マサキの動きは反応速度、その後の攻撃の速度、そして正確さの全てにおいて明らかに初心者の域を逸脱していた。それどころか、今の一連の動きはキリトでも出来るかどうか疑わしい。それだけのことをマサキは余裕でやって見せたのだ。二人の驚きも当然、といったところだろう。だが、キリトが驚いたのはそこではなかった。

「マサキ。今の攻撃、どうやった?」
「どうって……?」

 いつになく真面目な顔でキリトが問うが、マサキは彼が何を言っているのかさっぱり分からない。いかにマサキの頭がよくても、ここまでノーヒントだと流石に推測不可能だ。そのことに思い当たったのか、キリトは慌てて続きを話し始めた。

「ああ、えっと……今のマサキの技は、本来あんなに速くないんだ。だけど、ソードスキルの動きに逆らわないように、上手く足や手を加速させることが出来れば、技の威力や速さがブーストされる。……俺は習得に10日くらい掛かったんだけど、マサキはそれを一瞬でやってたんだ」

 今度はマサキが驚く番だった。確かにシステムに逆らわないように手足を速く動かそうと意識はしていたが、まさかそれがそんな大層な技だったとは。

「いや、ただの偶然だよ」

 マサキは答えるが、キリトはなおも疑惑の視線を向けてくる。……もしかして自分のことをβテスターだとでも思っているのだろうか? とマサキは考えるが、それを証明する手立てが無いために頭から思考を追い出す。二人の間に沈黙が生まれ、少し気まずい空気になりかけたのだが、それをクラインがものの見事に打ち破った。

「ああ! もうこんな時間じゃねーか!! 悪い、俺、そろそろ落ちるわ。マジサンキューな、キリト。マサキも、楽しかったぜ。二人とも、これからよろしく頼む」

 クラインが両手をぐいっと突き出し、マサキが左手を、キリトが右手をそれぞれ握る。

「こちらこそ。また分からないことがあったら、何でも訊いてくれ」
「ああ。同じ初心者として、これから仲良くやっていこう」

 実際には、マサキにこれ以降他人と行動を共にする気は全く無かったのだが、社交辞令として爽やかな笑みと共に告げる。クラインはもう一度ニッと笑うと、手を離し、数歩後ずさってからウインドウを呼び出し、ログアウトした……はずだった。


 茅場の創り出した世界を一日観光し、なかなかに楽しんでいたマサキだったが、実のところ、少し拍子抜けしていた。確かにこの世界はすごいとマサキも思う。だが、コレはあくまで虚構だ。そして、恐らく後数年もすれば他の誰かも同じようなものを開発しただろう。そして、茅場があれほどまでに渇望していたものがこの程度だとは、マサキは思えなかった。
 ――まだ、この世界には何かとてつもない“裏”がある。
 そう考えていたのだ。だが、それを確かめることが出来るはずもなく、そろそろ自分もログアウトしようとウインドウを呼び出したところで――。

「……あれ? ログアウトボタンがねぇぞ?」

 クラインの素っ頓狂な声が辺りに響き、キリトが眺めていたウインドウから視線を上げる。

「いや、そんなことはないだろ。よく見てみろ」

 その声にクラインはもう一度、今度は顔をウインドウにくっつけて確認するが、やがて首を振った。

「……駄目だ。やっぱ何処にもねぇ」
「俺もだ」

 ここで、今まで様子を伺っていたマサキが突然会話に割り込んできた。マサキがこんな冗談を言うとは思えなかったキリトが、ようやくここで確認していたアイテムストレージを閉じてログアウトボタンを探し始め――、
 そこで固まった。

「……ねぇだろ?」
「うん、ない」

 キリトが頷くと、クラインはしてやったり顔をキリトに向けた。すると、少し癪だったのだろう、キリトが少々意地悪さを増した声色で言った。

「そんな顔してていいのか? 5時半にピザの出前、頼んであるんだろ?」
「ああーーっ!! やべぇ俺様のアンチョビピッツァとジンジャーエールがぁー!!」

 目をひん剥いて叫ぶその姿にキリトは口を緩め、マサキも不自然に見られないよう、口元を故意に緩めると、芝の上に寝転がった。

「ま、そのうち運営側で強制ログアウトなり何なりの処置が取られるだろう。それまではどうしようもないんだから、寝たほうが無難だ。……それとクライン、そういうことならピザのレシートを取っておいて、後でアーガスにクレーム入れれば、お詫びの食事券か何かくれるかもしんねぇぞ?」
「ま、マジかマサキ!?」

 目をキラキラと輝かせるクラインをよそに、マサキは一人のんびりと目を閉じた。が、その一方で、彼の頭脳はすさまじい速さで回転を始めていた。

 ――自分たちがログインしてからかなりの時間がたっている以上、この世界の誰も異変に気付いていないということはまず考えられない。そして、異変に気付いたプレイヤーは十中八九GMコールをするだろうから、運営にもこの事態は伝わっているはずだ。そして、それなら既に何らかの処置やアナウンスが行われていないとおかしい。つまり――。
 その結論に辿り着いたマサキは、茅場からナーヴギアとSAOが届いたときと同様の高揚感を噛み締めながら、口元を獰猛な微笑で彩り、 “その時”を待った。


 そして世界は、それまで顔を覆っていた虚構という名の仮面を、突如としてかなぐり捨てた。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想等ありましたら、是非書き込みをお願いします。

1/11 章を追加しました。
1/16 ご指摘いただいた部分を修正しました。 

 

虚構から現実へ

 マサキが芝の上で長考に入ってから数分の時が流れ、キリトとクラインの言動にも焦りと苛立ちが見え始めたころ、それまで静寂さを保っていた草原に、突然教会の鐘らしき重厚な音が響き渡った。
 キリトとクラインは飛び上がり、マサキはゆっくりと目を開けると、自分の体を覆う青い光の柱の存在を確認し、程度の差はあれど、顔を驚愕の色に染める。だが、マサキは視界に映る草原が薄れていくのに気がつくと、この現象を運営側による強制転移だろうと推測し、青の光の中で表情を引き締めた。

 視界が回復したマサキが辺りを見回すと、そこは紛れもなくゲームのスタート地点であり、マサキたちが一番初めに降り立った、《始まりの街》中央広場だった。しかも、そうしている間にも青い光の柱はそこかしこに出現し、それらが全てプレイヤーへと姿を変える。出現のペースと今既にこの広場にいる人数から、このままではじきにこの広場は人で埋め尽くされるだろうと考えたマサキは、あまりの驚きに立ち尽くしているキリトとクラインを一瞥すると、一人近くのベンチに腰掛け、徐々に苛立ちを帯びてくる喧騒の中で、やがて起きるであろう異変を待った。


「あっ……上を見ろ!!」

 誰かがそれまで広場を包んでいた喧騒を押しのけて叫び声を上げると、広場にいた全員が視線を頭上に集中させた。すると、それまでオレンジ色の夕焼けが投影されていた場所が全て真紅に染まり、さらにその上から赤いフォントで【Warning】、【System Announcement】の単語が表示されたかと思うと、広場中央の空から紅い液体がその粘度の高さを誇示するかのようにどろりと滴り、突如空中で中身のない赤ローブへと姿を変えた。

 その“異形”という言葉ではお釣りがくるくらいに突飛な外見に、それまでアナウンスを聞こうと耳をそばだてていた観衆が、再び一気に疑問の声を上げる。赤ローブはその声が直接届いたかのように右袖を動かすと、低く落ち着いた声で話し始めた。

『諸君、私の世界へようこそ』


 マサキがその言葉を聞いた途端、彼の脳裏で“私の世界”という単語が前日に受け取ったメールの中身と完璧に一致(リンク)し、それと同時に既に予測済みだった赤ローブの正体が確定する。
 マサキは知り合いであり、同業者でもある男の趣味の悪さに一瞬頭を抱えるが、すぐに気を取りなおすと、彼が言葉を紡ぐのを待った。

 その後、赤ローブは自分が茅場晶彦であることを明かし、このゲームから抜け出し、再び現実世界の土を踏むためには、このゲームをクリアするしかない、ということをいかにも事務的な口調で説明し、その度にプレイヤーたちのどよめきが広場を包み込む。
 ――たった一人、広場のベンチに座ったままのマサキを除いて。

 マサキは表情を保ったまま、茅場の発言に耳を傾けていた。茅場が発言したような内容ならば、彼はこの時点で既にある程度予測していたのだから。
 だが、茅場が次に放った言葉は、マサキの予想と一致していながらも、彼の浮かべるポーカーフェイスを一瞬だけ崩した。

『また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合――』
『――ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』

 この瞬間、このゲームは単なるゲームではなく、現実の死が想定されるデスゲームへと姿を変え、広場のプレイヤーたちはそのことを理解することを拒もうと、自分の中に響く声を掻き消そうとするかのようにざわめきだす。「そんなことが出来るはずはない」という、きわめて楽観的な、しかしこれ以上ないほどに切実な思い込みで。
 しかし、クラインがナーヴギアの重量の三割がバッテリセルであることに気付くと、広場が一気に静まり返った。気を狂わせた者が現れないのは、その言葉の意味を未だに理解していないからだろう。そしてそんな彼らに、茅場はこれまでで最も残酷な宣告をした。

『――ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視してナーヴギアの強制解除を試みた例が少なからずあり、その結果』
『――残念ながら、すでに二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』

 ――馬鹿が。
 どこかで一つだけ上がった細い悲鳴を聞き流しながら、マサキはナーヴギアの強制解除に踏み切った者たちを罵った。こういう場合、マスコミを通じて報道されたという茅場の言葉が本当ならば、当然それよりも速く情報が伝達されているであろう警察やそれに準じた組織が動くはずであり、それをおとなしく待つのが正解だ。恐らくはマスコミの報道を信じなかったか、理解することを理性が拒み、パニック状態になったのだろう。今広場に呆然と立ち尽くしているプレイヤーたちの様に。

 理性というものは、時として人の目を曇らせる。受け入れねばならないことから、人の目を強制的に逸らす。自分の中のちっぽけな常識を守るために、とてつもなく大きなものを代償に差し出す。しかも、そこまでして守りたかった常識も、結局はズタズタに引き裂かれる。後に残るのは、途方もない喪失感と罪悪感だけだ。結局のところ、理性なんてこんな時には何の役にも立ちはしない。
 理性の不安定さをじっくりと咀嚼しながら、数秒ほど愚かな家族や友人を見下したマサキだったが、すぐに表情から色を消し去ると、再び眼前の赤ローブを見据えた。いかに彼らの選択が愚かであろうと、マサキは彼らとは何の関係もないし、彼らに介入する必要も、ましてその権利も持ち合わせていないのだから。

 その後も、茅場によるチュートリアルは継続した。しかし、先ほどのようにマサキの表情を崩すほどのことはなく、マサキの予測通りの話が続いた。
 だが、マサキには一つ、気になる点があった。いくら“現実の死”の恐怖を煽り立てようとも、理性が今の状況を現実として受け入れることはないだろう。あっても、ごくわずかの人数に限られるはずだ。そしてそれでは、この世界が現実になることは不可能であり、それを回避するためにはもっと強烈なインパクトをプレイヤーに与えねばならない。
 ――そんなものを、一体どうやって?
 そんなマサキの思考を先読みしたように、赤ローブは感情の消え去った声で告げた。

『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え』

 その声を聞くや否や、広場の全員が一斉に右手の指二本を揃えて振り下ろした。同時に電子的な鈴の音が広場に響き、全員が目の前に現れたウインドウを注視する。マサキも同様にし、アイテムストレージの所持品リスト内の最上に《手鏡》というゲーム内部のアイテムとしては些かファンタジー要素に欠けたアイテムを発見、すぐに具現化させた。

 きらきらというサウンドエフェクトと共に現れたそれは、特に装飾が施されているわけでもない、本当に何の変哲もない手鏡だった。
 マサキはそれを手にとって覗き込んでみるが、特に何かが起こるわけでもない。マサキが何かのバグを疑い始めたとき、不意にマサキの、そして広場に集ったプレイヤー全員の体が白い光に包まれた。

 十秒ほど視界を染めていた白い光が徐々に薄くなり、それに比例して世界がクリアになっていく。再び澄み渡った世界で何が変わったのかを確かめようと、マサキは再び鏡を覗き――

「へぇ……」

 賛嘆の息を漏らした。
 マサキのアバターは確かに現実の雅貴の顔と似ているのだが、それはあくまで“他人にしては”の話だ。もし二つの顔を横に並べ、改めて見比べることができたなら、はっきりと別人であることが分かるだろう。だが、今マサキが覗いている鏡の世界の人物は、男性にしては白めの肌、細い体格、怜悧な視線と、その全てが現実の橋本雅貴と瓜二つだった。

(なるほどね。その手できたか)

 自分の顔を右手でペタペタと触りながら、マサキは茅場の取った方法を素直に評価していた。
 人は通常、世界を五感からの情報で認識している。そしてその中で最もウエイトを占めているのが、視覚からの情報だ。だから、視覚が自分(アバター)自分(実際の体)だと認識すれば、晴れてこの世界はその人にとって現実となる。虚構で造られた世界を現実とすりかえるためには、最も効果的な手法と言えた。

 改めてマサキが周囲を見回すと、今までよりも数段見た目のレベルが落ちたコスプレ集団は、全員揃って疑問の視線を赤ローブへと投げかけていた。そして、その視線を察知したかのように、茅場が三度言葉を紡ぐ。

『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は――SAO及びナーヴギア開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか? これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』

 ――違う。
 抑えようがなくなったのか、言葉の端々から高揚感が漏れ出していた茅場のチュートリアルを聞きながら、マサキは茅場の目的を確信した。茅場が望んでいるのは、まさにこの状況であり、前に会ったときに見せた何かに対する狂的な渇望も、この世界の実現に向けたものだったのだろう。もちろん、それ以上の目的や目指す場所があるのかは分からない。だが、茅場の目的の第一段階はここで果たされたのだろう、と。
 そのマサキの推測の答え合わせをするかのように赤ローブは言葉を続け、マサキの出した答えに丸をつけた後、チュートリアルの終了を宣言してローブを消した。広場は再びNPC楽団による演奏のみで彩られ――、
 時に取り残されたように佇んでいたプレイヤーが、ようやく時間の流れに追いつき、これまたマサキの予想通りの反応を見せた。

 絶叫や悲鳴、懇願などの人としての全ての感情が入り混じった叫びを、耳を塞いでガードしながら、マサキはこの世界で唯一関係のある二人に目をやった。するとマサキも驚いたことに、キリトは真剣な、それでいて少しだけ不安と恐怖に揺れる眼差しでマサキを見据えると、どこか魂の抜けたような表情を浮かべたクラインの腕を強引に引っ張り、マサキに歩み寄ってきた。

「マサキ、ちょっと来てくれ」

 少しだけ震えた声でマサキにささやくと、ベンチから立ち上がるマサキの腕を掴み、まだ叫び続けている人の間を北西方向に駆け抜けた。そのまますぐ近くに停めてあった馬車の陰に飛び込むと、キリトはもう一度二人を見て、低く押し殺した声で言った。

「クライン、マサキ。俺はすぐにこの街を出て、次の村へ向かう。お前たちも一緒に来い」
「この街だといけない理由は?」

 今までで一番真剣な顔でマサキが問うと、キリトはマサキに向き直り、さらに低い声で続ける。

「あいつの言葉が全部本当なら、これからこの世界で生き残っていくためには、ひたすら自分を強化しなきゃならない。そしてMMORPGってのはプレイヤー間のリソースの奪い合いなんだ。システムが供給する限られた金とアイテムと経験値を、より多く獲得した奴だけが強くなれる」
「同じことを考えた奴同士で奪い合いになる前に、狩場を先へ移すってことか」

 マサキが納得したような声で言うと、キリトもゆっくりと頷いた。

「俺は、道も危険なポイントも全部知ってるから、レベル1の今でも安全に辿り着ける」

 そこまで言ってから、キリトはもう一度目の前の二人を見回し、曲刀使いの顔が曇ったのを見た。それに気付いたのか、クラインは顔を歪めたままで仲間を置いてはいけないと苦しい胸の内を吐露する。すると、キリトの瞳の中で揺れる不安の色がさらに濃くなった。刹那の逡巡だったが、クラインはそれを敏感に感じ取り、少々強張った笑みで首を横に振った。そして、二人の視線がマサキに向けられる。マサキは数秒だけ考えると、やがてクラインと同じ方向に首を振った。

「いや、俺もこれ以上キリトに世話になるのは悪い。俺のことは気にせず、次の村へ行ってくれ」
「……そっか」

 ここでキリトの世話になっておいた方が彼にとって良かったのであろうことはマサキも承知していたが、一人の人物とあまり深い関係になることによって色々な厄介ごとに巻き込まれることを懸念したマサキが、表面上は申し訳なさそうな顔で言うと、しばしの葛藤の後にキリトは頷き、掠れ声で言った。

「なら、ここで別れよう。何かあったらメッセージ飛ばしてくれ。……じゃあ、またな、クライン、マサキ」

 マサキは黙って頷くと、キリトが身を翻し、クラインと最後に叫びあった後に角へと消えていくのを見送り、クラインに向き直った。

「じゃあ、俺たちもここでお別れだな。今までありがとうよ」
「ああ。これからもよろしく頼むぜ、マサキ」

 マサキが社交辞令で出した手をクラインはがっちりと掴み、

「おめえ、リアルでもイケメンだったんだな。かなりイケてるぜ、その顔」
「お前こそ、なかなか味のある顔してるぜ」

 と笑顔で言葉を交わした。マサキはクラインが走り去るのを見届けると、反対方向へと歩き始めたのだった。 
 

 
後書き
ご意見、ご感想等お待ちしております。 

 

気まぐれとパーティー

 
前書き
えー、かなり短いです。すみません。
まさかこれから登場させる予定のスキルやらをまとめていただけでこんなにも短い&それでもいつもより投稿期間が長いになってしまうとは…… 

 
 数分後、マサキの姿ははじまりの街南東のゲート付近にあった。前にキリトから教わっていた柳葉刀の強化素材を取るためと、自身のレベルアップを図るためだ。

 マサキは近くにあるショップで回復アイテムを買い込み、ゲートを通ろうとしたところで、視界の隅に一人の男性の姿が映った。多くのプレイヤーは未だ中央広場で身の振り方を思案しているらしく、道中にマサキがプレイヤーに出会うことはなかったが、テラスから数秒間下を覗き込んでは後ずさり、意を決したように柵から身を乗り出しては思いとどまるように体を起こすその挙動は、間違いなくNPCのそれではなかった。
 マサキが遠目から様子を伺っていると、彼は同じことを数回繰り返した後、腰が引けたようにへなへなとその場に座り込んだ。顔は俯き、柵を握る手は明らかに震えている。
 いつものマサキなら絶対にスルーするのだが、何の気まぐれを起こしたのか、マサキは彼の許へと歩み寄って言った。

「何やってるんだ?」
「へ? う、うわっ!?」

 話しかけられ、咄嗟に立とうとしたのだろうが、逆にさらに体制を崩し、盛大にひっくり返ってしまう。その後も何とか立ち上がろうと四苦八苦するが、足はがくがくと震えるばかりで全く力が入っていない。仕方なくマサキがさらに近付いてしゃがみこむと、ようやく顔を視認することが出来た。

 大きく見開かれた瞳にライトブラウンの髪、マサキやキリトとは違う爽やかな男らしい顔立ちが相まってスポーツマンのような印象を相手に与える彼は、しかしその整った顔から隠しようのない不安と恐怖を滲ませていた。
 彼は震える唇を動かし、何度か言葉を発しようとするものの、その度に口をつぐむ。それを何度か繰り返し、ようやく理解可能な言語を話すことに成功した。

「……お前も、ログアウトしに来たのか?」
「……ログアウト?」

 予想だにしなかった単語が飛び出し、思わずマサキは聞き返してしまう。が、すぐさま頭を回転させ、意味を推測しようとする。

(まさか緊急脱出の手段が存在する? ……いや、茅場がそんなものを残しているとは考え難い。それに、あったとしても気付くのが早すぎる。あの混乱の中でそんなことを考えられるプレイヤーが一体何人いるか。それに、そうだとしたらこいつが何に対して恐怖を持っているのかが不可解だし、今頃全プレイヤーがその手段で脱出しているはずだ)

 マサキが頭の中で選択肢を一つずつ消していき、それと同時に辺りを見渡す。そして、マサキの目がテラスの柵で止まった。

「……なるほど。自殺しに来たわけか」
「自殺じゃない!!」

 マサキが呟いた瞬間、今まで黙っていた彼が何かにすがるように叫んだ。

「このゲームがプレイヤーの復活をプログラミングしていないのであれば、プレイヤーがゲームオーバーになるということはログアウトすることと同義なんだ!! ……だから、だからこの柵を乗り越えてここから飛び降りれば……!」
「無理だな」

 自信など少しも含まれておらず、ただただ悲痛な感情を帯びたその叫びを、マサキは遮って言った。

「俺は昨日、ナーヴギアの内部構造を個人的に調べた。そしてその結果、明らかに通常のゲームプレイでは使用されることのない回路を二本発見した。一本はICチップからバッテリセルに延びた回路で、用途はおそらくプレイヤーのゲームオーバーを感知して脳焼却シークエンスの命令をバッテリセルへ通達すること。もう一本はバッテリセルからマイクロウェーブ発生器へ大きな電気を一気に流し込むための回路だ。通常の回路では脳を焼き切るほど強力な電流を流そうとしたら、間違いなく脳よりも先に回路が電圧によって焼き切れる。だからこの回路を作ったんだろうな」

 マサキが一言発する度に、目の前のプレイヤーは恐怖と不安を増大させていき、ついには再び俯いてしまった。マサキはそんなことはお構いなしに、他人にここまで介入する自分を珍しく思っていたのだが。
 やがて俯いていた彼は、マサキがここにいることを不思議に思ったのだろう、顔に疑問の色を浮かべて言った。

「……じゃあ、じゃあお前はどうしてここに?」
「武器の強化素材集めと、レベリング」
「なっ……!」

 マサキの言葉が理解できない、といった様子でのどを詰まらせる。

「ふざけてるのか!? ゲームオーバーになったら本当に死ぬって言ったのは、そっちじゃないか!!」
「別に俺は死ぬつもりで外に出るわけじゃない。さっきも言っただろ? 「武器の強化素材集めと、レベリング」ってな」
「……何でお前はそこまでして危険な場所に向かおうとするんだ? ゲームを自分の手で終わらせたいからか?」

 未だに信じることが出来ない風な口調で問いかけるプレイヤーに、マサキはゆっくりと首を振った。

「この街でじっとしているのは、俺の性に合わない。それが主な理由だ」

「コルが尽きたら飢え死にするっていうこともあるがな」と苦笑しながら続ける。さすがに一番重要な理由は隠したが。するとそれを見て、今まで恐怖と不安に震えていただけだった彼が、何やら真剣な面持ちで考え始め、数瞬の迷いの後、何かを決心したように顔を上げ、言った。

「俺も連れて言ってくれないか?」
「何だって?」
「俺をパーティーとして連れて行ってほしい。……俺の名前はトウマだ」
「……分かった。俺はマサキだ」

 ゆっくりと立ち上がり、じっとこちらを見据えるトウマにそう答えてから、マサキは自分でも驚いた。いつものマサキなら、絶対にNOだろう。そもそも、このように他人に声を掛けること自体がマサキにとってかなり異例なことなのだ。それに、マサキは既にパーティーになる可能性のあったキリトと別れている。彼はβテスターであり、強さも、知識も持っている。パーティーメンバーとして迎えるには問題ないどころか、普通だったら諸手を挙げて歓迎するところだ。
 しかし、マサキは断った。彼と深く関わることで余計な面倒ごとに巻き込まれるのを恐れて。そしてその危険性は、今目の前に立っているトウマと名乗るプレイヤーも同じはずだ。

 それなのに、マサキは断ることが出来ずにいた。彼の眼力に気圧された訳でも、つい先ほどまで自殺志願者だった彼を哀れんだ訳でもない。ただ、心の何処かで少しだけ、「こいつと関わりを持ってみたい」と思ってしまったから。
 そしてその思いは、ただの気まぐれだと切り捨てる、あるいは、一時の気の迷いだと一笑に伏すには、少しだけ大き過ぎた。

(……まあ、たまには気まぐれで動いてみるのも悪くない、か)

 考えてから、マサキは心の中で苦笑した。そんなことを思ったのは一体いつ以来であろうか。少なくとも、あの事故以来にはないであろう。マサキは今まで、自分は理屈屋であり、常に論理的整合性に基づいて行動する人物だと自己分析していたのだが、これではその認識を改めなくてはならない。ただの偶然が重なった結果だということも、否定は出来ないが。

(異世界に来たもんだから、考え方まで現実とは異なる、ってことか?)

 そう思ったころには、マサキはもう吹き出すのを堪えるので精一杯だった。まさかこんなにも珍しいこと尽くしになるとは。それなら宝くじでも買っとくんだった、等と胡乱な考えは後を絶たず、その度に吹き出そうとする体とそれを阻止しようとする脳との間で全面戦争が勃発する。

「……マサキ? どうしたんだ?」
「……いや、なんでもない。改めてよろしく頼む」

 ぶつけどころのない衝動をトウマへの笑顔に変換することによって吹き出すことを免れたマサキは、目の前に突如現れたパーティー勧誘のメッセージウインドウを操作し、それを受諾する。同時に視界の隅に“Toma”のアルファベットが出現し、目の前の男とパーティーを組んだという事実をまざまざとマサキに見せ付ける。マサキは振り返ると、再びゲートに向けて歩き出した。今までに感じたことのない隣に仲間がいる感覚と、それに対する不安、そして、それらが織り成すいつもと違う世界への、一抹の期待を胸に。 
 

 
後書き
ご意見、ご感想等募集しております。
何かありましたら、感想版の方までお願いいたします。 

 

瞳の奥に潜む影

 
前書き
初の本格的な戦闘パートです。
……アルゴの台詞、書きにくいことハンパない…… 

 
 一時間後、マサキたちの姿は《はじまりの街》の東に位置する《イニジア》という小規模な村にあった。この村の先にはじまりの街周辺よりも一段階強いオオカミが出現するエリアがあり、そこで自身のレベルアップと素材の収集を行うためだ。
 マサキはここまでの戦いで多少耐久値が低下してしまっていた柳葉刀をNPCの鍛冶屋に研いでもらい、残ったコルで回復ポーションを買うべくアイテムショップへと向かった。

 マサキがアイテムショップまで到達する(鍛冶屋からたかだか50mの距離だが)と、それを待ちわびていたかのように、今までアイテムショップの簡素な石壁に体重を預けていたトウマが背を離し、マサキに向き直った。その背中には、この村に入るまではなかった大き目の片手直剣が吊り下げられている。それは今まで彼が装備していたものよりも、明らかに長く、幅広で厚みもあり、何より重そうだった。

「待たせた。……それが新しい武器か?」
「ああ。《ブラックソード》って名前らしい。とりあえず初期装備の《スモールソード》よりは性能も良いし、強化素材もここらで取れるから、結構得なんだよ。別の街には《アニールブレード》って名前のやつがクエスト報酬にあるんだけど、こっちの方が重くて攻撃力が高いんだ。……まぁ、すぐに強化限界が来ちまうから、あんまり人気ないけど」

 トウマはにっと笑うと、背中の黒塗りの剣を手でポンポンと叩いて見せたが、何かに気付いたようにはっと表情を曇らせ、「人から聞いた話だけど」と付け加えた。マサキは若干の疑問を持ちながらも頷き返し、二人で店内へ入り、ありったけのコルで回復アイテムを買い漁ると、ポーチの容量を目一杯使って収納する。二人の準備が終わると、今度は村長の家へと向かった。

 村長の家と言っても、他の民家と指して違いがある訳でもなく、質素な石の壁で出来た箱の外に、雀の涙程の庭があるだけだった。だが、そんなことは気にも留めず、二人は家の内部に入り込み、もちろんNPCである白髪に白髭の翁に話しかける。老人は二人を確認すると、陰鬱な声色で話し出した。

「おお、これはこれは、旅の剣士様。ようこそいらっしゃいました。……本来ならば村を挙げて歓迎したいところなのでございますが、申し訳ありません。何分、今はそのようなことが出来る状況ではなく……」

 一万人いるプレイヤー全員に対して村を上げて歓迎していたら、間違いなくここの村人は全員餓死するだろうとマサキは思うが、そんな思考をすっ飛ばして、うなだれる村長の頭上に現れた金色の感嘆符を確認し、トウマと二人で「何かお困りですか?」と問いかける。老人は声色を変えぬまま、ぽつりぽつりと話し出した。

「実は、最近村の畑を獣が荒らし回るようになりまして。……同じことは前からもあったのですが、今回は目に見えて獣の数も、荒らしに来る回数も多いのです。どうやらこの先に広がる草原に巣くうオオカミが増えて、獣たちが逃げて来たらしいのですが……」

 村長は一度言葉を切り、疲れきったように首を左右に振る。

「我々ではオオカミを倒すことなど到底出来ませぬし、荒らしに来た獣を追い払うにしても、毎晩のように押し寄せて来る故、村人たちは疲労が溜まってしまい、ついには病に罹るものまで現れました。……このままでは、我々は冬を越すことが出来ずに全員飢え死にしてしまいます」

 口を閉じ、再びがっくりとうなだれる。マサキがトウマに視線を送ると、トウマはしっかりと頷いた。

「それなら、そのオオカミを僕らが倒しますよ」

 その言葉を聞いた途端、今まで暗かった村長の顔が一気に希望の色を携える。

「本当でございますか?  ……ああ、ありがとうございます。これで村は救われます……」

 涙を流しながらの感謝の言葉を聞き終わるか終わらないかのところで、既に二人は駆け出していた。


 このクエストもあらかじめキリトから情報を得ていたもので、マサキの柳葉刀、トウマのダークソードの強化素材がドロップする《ナイトウルフ》を二十体狩ってくるというものであり、強化素材集めのついでに受けておけばそこそこのコルとボーナス経験値が手に入るという、なかなかに魅力的なものだった。村長の話があれほどまでに長いというのは少々予想外だったが、特に問題が生じるわけでもない。この村に来るまでも、そして来た後もプレイヤーには一人も会っていないため、全員が全員このクエストのことを知っているということはないだろうが、それを加味しても、今この周辺にいるプレイヤーはマサキたちくらいのものだろう。つまり、行ったら討伐対象が他のプレイヤーに全て倒されていた、という最悪の事態は想定しなくても良いということになる。

 これにはトウマも同感の様で、走るペースも少し余裕を持ったものになっている。また、それによって頭が冷えたのか、時折覗かせていた動揺も、今はすっかり鳴りを潜めている。これならば少なくともモンスターと相対したときに錯乱状態に陥ることはないだろうと考え、マサキは少しだけ安心した。――ただ、その“安心”という感情に対しての驚きの方が、マサキの中ではずっと大きかったというのもまた事実なのだが。

 そんなことを考えながら進んでいると、今まで木々がうっそうと茂っていた森が急に開けた。地面には短い草が生え、風が吹く度にそよそよとなびいている。キリトやクラインと共に狩りをした《はじまりの街》周辺の丘と似たような雰囲気だが、暗闇に覆われている分、マサキには怪しさと冷たさが強調されて見えた。
 しばらく二人して草原を眺めていたが、マサキのセットした索敵(サーチング)スキルに敵モンスターを表す光点が三つ表示されたのを見て、マサキは顔を引き締めた。そのままトウマに視線を向けると、トウマも同じ表情でマサキを見ていた。マサキは頷くと、近くの茂みに隠れ、作戦を話した。

「正面から三体を同時に相手取るのはリスクが大きい。まず俺が仕掛けるから、向こう側から回り込んで、追撃してくれ」
「分かった」

 トウマは短く言うと、音を立てないように茂みから抜け出し、オオカミの進行方向に向かう。やがて、トウマが位置に就き、《ナイトウルフ》の名前通り、深い黒の毛並みに身を包んだオオカミの群れが獲物を探すようにしながら前を通り過ぎるのを確認し、マサキは茂みから抜け出した。


 マサキはオオカミの後ろにつくと柳葉刀を鞘から抜き放ち、左わき腹の横で水平に構える。一度、大きく息を吸い、吐くと同時にまだこちらに気付かずに前進を続けるオオカミのうち、一番後方に位置する一体に狙いを定め、構えを崩さないまま足に力を込め、走り出した。
 足の裏全体で草を踏みつけ、グリップし、一気にステータスの許す最高速度に到達する。敵まで残り三メートルを切ったところで一瞬だけタメを作り、同時に剣を振るう軌道を脳内でイメージする。すると、今までただ構えていただけの柳葉刀が仄かに黄色い光を帯び、遠鳴りのような効果音を鳴らす。そしてここでようやくオオカミがこちらに気付いた。

 だが、その時には既にマサキの剣は動き出していた。マサキ持ち前の頭脳によって正確にコントロールされた体はシステムアシストに完璧に乗っかり、動きを阻害しないどころか、逆に剣速をブーストする。

「ハッ!」

 マサキは短く息を吐くと、振り返ったためにこちらに近付く結果となった無防備な頭に、単発水平斬り《リベーザ》を直撃させた。

 きゃおぉんっ!! とオオカミがダメージを嫌がるように鳴き、後方へと吹っ飛ばされる。どうやら頭が弱点の上、あまり防御力は高くないらしく、一度の攻撃で二割以上のHPを削ることに成功する。
 と、ここでようやく周りのオオカミが襲撃に気付き、こちらに反転、唸りを上げながら臨戦態勢へと入る。このままではマサキは三対一の戦いを強いられることになり、レベル1の今ではかなりの劣勢に立たされる。
 だが、この状況こそがマサキの意図したものだった。
 今はオオカミたちがもれなくマサキに注意を向けている状況であるため、当然その他の方角に対しての警戒は散漫になってしまう。――先ほどマサキが気付かれずに接近できた後方などは、特に。

 先回りしていたトウマがマサキの意図に気付き、茂みから飛び出すが、オオカミの警戒は全てマサキに向いている上、時折威嚇しようと吼えるため、トウマが飛び出すときの音にも全く反応しない。トウマはマサキの攻撃でHPを削られ、その上で吹っ飛ばされたためにまたもや最後尾にポジションを取ることになってしまった一体に向かって全速力で駆け寄り、片手剣用の単発垂直斬り《バーチカル》を、マサキを見たまま動かない頭に叩きつけた。

 再び弱弱しい鳴き声を上げながらHPバーをがくっと五割、先ほどのマサキの攻撃と併せて総HPの七割強を一瞬で削り取られたオオカミに対し、マサキは一瞬だけ哀れむような視線を向けるが、攻撃を受けたオオカミがスタン状態を示すようにふらふらとよろめくのを見て、右手に握っていた柳葉刀を肩に担ぐようにして構えると、足元のおぼつかないオオカミの頭を狙って一気に駆け出し、オレンジ色のライトエフェクトで貫いた。途端にオオカミが苦しげな断末魔を残し、ライトブルーのポリゴン片となって四散する。
 マサキは技後硬直が解けるとすぐにトウマと合流した。

「お見事!」
「そっちこそ、ナイスアタック!」

 名前に違わない黒塗りの両手剣を体の前で構えた少年からの賞賛を敵から目を離さぬままに返すと、マサキは彼の左側に陣取り、再びオオカミたちと相対した。

 次に動いたのはオオカミだった。前衛の一体がマサキを鋭利な爪で引き裂こうと飛びかかり、時間差をつけて後衛が追撃として噛み付こうと走り出す。これが、このオオカミのステータス自体は《はじまりの街》周辺のモンスターと比べてもそこまで高くないにもかかわらず、高めの経験値とコルを取得できる理由。すなわち、モンスター間の連携攻撃である。
 このような連携攻撃を見せるモンスターは通常、もっと上の階層に行かないと現れないため、βテスト時は専ら連携攻撃を行うモンスターに対処するための練習台だったが、レベル1の二人に対しては十分な脅威たりえる――はずだった。が、マサキの脳の処理能力を超えるには、この連携はレベルが低すぎた。

 マサキは最初に飛び込んで来たオオカミを体を左にずらして避け、その瞬間、それまで右手に握っていた柳葉刀を左手に持ち替えると、柄の先でオオカミの腹を思い切り殴りつけた。
 ソードスキルではないため、削り取ったHPは僅かに数ドットだが、オオカミは五メートル先まで吹っ飛ばされる。そしてそのまま視界の隅で二体目を捉え、左下の剣を右上へ、単発斜め斬り技《ライトネス》をカウンターでぶつけ、転がったところをトウマが再び《バーチカル》で攻撃、二体目のHPバーを吹き飛ばした。

 こうなってしまえば、敵は数的劣勢の上、お得意の連携攻撃も使用不可能。しかもステータスは低いため、これ以上ない絶好のカモである。マサキたちは特に苦労することもなく三体目のオオカミを倒すことに成功した。


 その後も二人は順調に狩りを進めていき、十五体目のオオカミが無数の破片となって飛び散ったとき、草原の耳鳴りがしそうなほどの静寂さとは180度かけ離れた陽気なファンファーレが二人を包んだ。

「何だ、この音は? ……トウマ、分かるか?」

 マサキがトウマに問いかけると、トウマは何かに迷っているかのように表情を曇らせ、今まで鳴りを潜めていた発作が突然現れたかのように、瞳の奥が大きく揺らいだ。唇は何かに怯えるように震え、言葉を紡ごうと筋肉を動かすものの、のどが声を出すのを拒んでいる。
 トウマはそのまま数秒間ほど葛藤していたが、マサキが「知らないならいい」と告げると、「ごめん」と掠れた声で一言だけ言った。

「……しかし、何があったのか分からないんじゃあ、この先同じことがあったときに何かと不安だな……」

 マサキが思案げに言うと、再びトウマが表情を崩すが、マサキは見て見ぬ振りをする。ここまで他人に気を使える自分に少しの違和感を抱えながら。

 その時だった。一人のプレイヤーが突如として二人の背後に現れたのは。


 背後から近付く人影に真っ先に反応したのは、トウマだった。はっと振り返り、背中の剣に手を掛ける。
 マサキもそれに追随して柳葉刀の柄を握ると、視線の先の人物は両手を挙げて自分が敵でないことをこちらに示し、特徴的な語尾で二人に話しかけた。

「おっト。オイラはモンスターじゃないし、敵対するつもりもなイ。武器から手を離してくれないカ?」

 やけに甲高い声で話したプレイヤーの言葉をとりあえずは信じることにして、柳葉刀の柄から手を離し、もう一度彼女を見据える。
 防具はマサキたちとあまり変わらない簡素な皮装備で、腰に鈍い金属光沢を放つ鉤爪と投擲用のピックが下げられている。このことから見ても、少なくとも彼女が敵意を持っているのではないと判断し、マサキは彼女に対する警戒レベルを一段階引き下げたが、顔に刻まれた意味不明な三本線のペイントを見て、再び一段階引き上げる。横目でちらりとトウマを見ると、こちらはすっかりと安心しきった様子だ。さすがに、初対面の相手に対してそこまで隙を見せるのはいかがなものかとマサキは思ったが、今はそれよりも目の前に現れた女性プレイヤーの情報の方が先だろうと考え、言葉を発しようとする。  が、それよりも数コンマ先に飛び出した彼女の言葉が、マサキの言葉を遮った。

「オイラはアルゴ。情報屋をやってるモンダ。……さっきから見させてもらったが、あんたたち初心者(ニュービー)ダロ? それでよく《ナイトウルフ》の連携攻撃を捌けるナ。なかなか見どころあるじゃないカ」

 そう言って、アルゴと名乗ったプレイヤーはにっと笑って見せる。マサキは表情を崩さないまま、「どうも」と一言だけ言うと、次の言葉を発した。

「それで、その情報屋が、俺たちに何の用だ?」

 マサキの言葉にアルゴはもう一度不敵な笑みを見せると、

「その情報は300コルだナ」

 と言ってのけた。だが、マサキも現実世界では一流のホワイトハッカーとして駆け引きをしてきた身だ。くるりと体を反転させると、

「それじゃ要らない」

 と冷たく告げ、そのまますたすたと歩き出す。と、すぐさま後ろから声が飛んできた。

「ゴメンゴメン、冗談ダ。……何、ちょっとある情報の調査でここに来たら、何やらダイヤの原石二人が戦ってるのを見つけて、顔を覚えておいてもらおうと声を掛けたのサ」

 「よろしく頼ム」と不敵な笑みを崩さずに言い終えたアルゴは、慣れた手つきでフレンドを申請してきた。情報が知りたかったら、自分にメールしろ、ということなのだろう。
 マサキは特に迷うこともなく承諾ボタンを押した。

「よし、登録完了ダ。……それじゃあお近づきのしるしに、さっきのファンファーレが何なのかを教えよウ。メインメニュー・ウインドウを出して、ステータス・タブに入るんダ」

 マサキは言われたとおりに指を揃えて振り下ろし、開かれたウインドウの中から指示された場所へと入る。すると、そこに表示されている一つの数字が目に留まり、「なるほど」と小さく呟いた。

「気付いたみたいだナ。そう、さっきのファンファーレはレベルアップを知らせるものダ。……ついでに、その下を見てみるといイ。ボーナスステータスが振り分けられるようになっているはずダ」

 マサキが視線を下に向けると、確かにボーナスステータスが3あった。マサキはそれを敏捷に2、筋力に1振り分け、ウインドウを閉じる。

「よし、それで終わりダ。次からは300コルだから、しっかり覚えておくんだナ」

 マサキはここで顔を上げ――、そしてようやく気がついた。自分たち三人を、真っ暗な影が取り囲んでいるということに。

(俺としたことが、警戒を怠ったか)

 小さく舌打ちをしつつマサキが辺りを見回すと、二人もそれに気が付き、悔しそうな顔を浮かべる。が、すぐに表情を引き締めると、互いに背を向けて武器を構えた。

 視界の端に映る小さな光点を見ながら、マサキは不思議に感じていた。先ほどのオオカミなら、こんな回りくどいやり方ではなく、正面から襲ってきたはずだ。それに、まるで絶対的なリーダーからの命令を受けているかのように、その動きには無駄がなく、統率も取れている。
 ――さっきまでとは、何かが違う――

 マサキは直感が告げる危険信号を頭の中で感じながら、その違和感の正体を探そうとして――、見つけた。

「おい、アルゴ。……どうやら俺たちが最初に買う情報は、アイツに決定したみたいだ」

 マサキが顎で示した先には、《ナイトウルフ》の二倍はあろうかという巨体に影をそのまま具現化させたかのような黒い毛並みを纏ったオオカミが《ナイトウルフ》五体を従え、唸り声を上げながら三人を強く睨みつけていた。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想等募集しております。
何かありましたら、是非、感想版までお願いいたします。

1/18ご指摘のあった部分を修正しました。 

 

揺れ出した心

 
前書き
やってしまった……
約一万字ですよ、一万字。二つに分ければよかったとは思いますが、分けられるポイントが偏りすぎていて……スミマセン。

後、そろそろ不定期更新に入ります。重ね重ねスミマセン。
こんなんですが、もしよろしければ今後も読んでやってください。 

 
「……やれやレ。こいつは面倒なことになっちまったナ~」

 マサキに示された先でこちらを睨むオオカミを見て、アルゴは困ったように首を振った。が、それでもすぐに武器を装備する辺り、流石と言うべきだろう。相変わらず口調は軽いが、表情は引き締まっている。

「あのオオカミ、名前は《シャドーハントウルフ》。HPバーが二つあることから分かるとおり、フィールドボス扱いダ。攻撃方法は《ナイトウルフ》と変わらないが、素早いからレベル2じゃあ逃げるのは厳しいナ」

 再びマサキが数メートル先のオオカミを見据えると、それに反応したように、オオカミも喉を唸らせて威嚇してくる。するとその時、マサキの眼前にパーティー申請のウインドウが出現した。申請者はアルゴだ。

「後から経験値やアイテムドロップで揉めるのはご免だからナ。パーティーなら経験値は均等に入るからいいとして、アイテムはドロップした奴の者ってことでどうダ?」
「構わない」
「分かった」
「……それじゃ、オイラが《シャドーハントウルフ》のタゲを取るから、二人は《ナイトウルフ》を相手してくレ」

 言い終わるか終わらないかのところで、答えは訊いていないとでも言わんばかりにアルゴは右手に持ったピックを投げた。
 ヒュッと風を切る音を立てながらピックはオオカミの前足に突き刺さり、それを合図にしたかのように《シャドーハントウルフ》がアルゴに向かって土を蹴る。それと同時にアルゴが右へダッシュし、《ナイトウルフ》の包囲網からの脱出を試みる。《ナイトウルフ》もそれに反応して正面の一体がアルゴに飛びかかるが、そこにマサキが割り込み、《ライトネス》でそれを阻止。その隙にアルゴが包囲網の外へ飛び出し、そのまま走り去る。
 《シャドーハントウルフ》もその後を追い、後には五体の《ナイトウルフ》とマサキ、トウマが残された。


 マサキが一度周囲をぐるりと見回すと、先ほど包囲網に開けた穴は埋められていて、再び五体のオオカミがマサキたちを全方位から睨んでいた。

「……マサキ、どうする? さすがに五方向から同時攻撃されたらまずいぞ」
「俺が捌く。お前は一度目の攻撃の隙に外側に出て、後ろから攻撃してくれ」
全方位(オールレンジ)攻撃を一人で捌くなんて、そんなこと……」

 出来るはずがない、と言おうとしたが、トウマはその言葉を飲み込んだ。マサキの目には、不安や恐怖の色が全くなかったのだ。それどころか、自信に満ちているようにさえ感じられる。
 その自信が一体何処から来るのか、トウマには分からなかったが、《ナイトウルフ》の連携攻撃を初見で見切って見せたマサキのセンスに懸けてみることにした。
 黙って頷き、マサキから数歩遠ざかる。その分一体のオオカミとは距離が近くなってしまったが、その一体は、否、今二人を取り囲んでいる五体のオオカミは、トウマではなくマサキを目標(ターゲット)にしているらしく、特別な動きを見せることはなかった。

 数秒後、マサキの真後ろに位置していた一体が、突如マサキに飛びかかった。それを見て、周りのオオカミも数瞬の時間差を付けつつ走り出す。が、マサキは後ろを振り返ろうともしない。
 もし最初の一撃を喰らってしまえば、絶妙な時間差で繰り出される連携攻撃をかわすことが出来なくなり、結果、全ての攻撃がマサキのHPを無情にも奪っていくことになる。そして、マサキの今のHPは、連続攻撃を全て受けてしまった場合、0になるかならないかギリギリのラインだった。
 トウマは迷った。ここで自分が出て行けば、全て回避、とはいかなくとも、マサキを助けるくらいは出来るだろう。だがその場合、マサキは間違いなく自分の秘密に気付いてしまう。そして、トウマはそれが怖かった。デスゲームのプレッシャーでパニックになり、出来るはずのないログアウトを出来ると信じ込んで自殺しようとしていた自分を助けてくれた彼から、どんな冷ややかな目で見られることになるかを想像しただけで、足が動かなかった。そしてその結果、最初に飛びかかった一体の爪がマサキの右わき腹を引き裂こうとして――
 空を切った。マサキが攻撃を受ける寸前、半歩だけ左に跳んだのだ。そして驚くことに、マサキは 次々と飛びかかって来るオオカミの攻撃を全て、見向きもせずに回避して見せた。何度か爪や牙の先端が掠ることはあったが、それでもマサキの総HPは一割程度しか減っておらず、オオカミの数から考えれば少なすぎると言っていいだろう。

 実はマサキは、先ほど周囲を見回した際にオオカミの方向、距離を頭にインプットし、その距離と今までに見た攻撃のスピードをもとに移動開始から攻撃までの時間を算出、その情報を全て、脳内で自分を中心とした座標にプロットしていた。そして、ダッシュの音の方向から、どの敵が攻撃を仕掛けてきたのかを判断し、最低限の動きで次々と襲い来る攻撃を全てかわしきったのだ。
 全ての敵の位置を正確に読み取る洞察力と、それを記憶する記憶力、瞬時に位置情報から攻撃までの時間を割り出す計算力、それらの情報から脳内で座標を作り上げる想像力、音の方向を正確に聞き分ける判断力、そして、そこから最適の行動を導き出す情報処理能力の全てにおいて、常人を遥かに凌駕しているマサキだからこそ取ることが出来た戦法だった。

「すげぇ……」

 トウマは眼前でマサキが見せた光景に目を見開いたが、すぐに気を引き締め、自分の役目を遂行するべく走り出した。
 最後に攻撃したがために未だ態勢が整っていない一体に詰め寄り、片手直剣用斜め《スラント》を発動。右上から左下に重さの乗った剣を振り下ろし、HPを六割ほど削り取り、オオカミが盛大に吹っ飛んだ。
 たまたま攻撃が最後になったために狙われたのだから、このオオカミはかなり不運だったと言える。だが、このオオカミの不運はこれで終わらなかった。
 トウマの攻撃を察知したマサキが攻撃の威力と方向から吹っ飛ばされる方向と距離を算出し、予測地点に先回りしていたのだ。マサキとの距離が一メートルを切った時点でオオカミもその存在に気付くが、その時にはもうマサキの握る柳葉刀が黄色い光を帯びていた。マサキはそのまま《ライトネス》で転がるオオカミを切り裂き、ポリゴン片に変える。

 この一連の動きにオオカミも多少取り乱した様子を見せたが、何とか体勢を整えると、今度はトウマに向かって飛びかかった。
 合計で四体のオオカミが時間差を付けてトウマに襲い掛かるが、今度は全方位からではない。トウマは三体を左右に跳んでかわすと、四体目を剣で弾き、転がったところを《バーチカル》で攻撃する。先ほどアルゴが包囲網を抜ける際にマサキが斬り飛ばした個体であったため、一撃でHPバーを消滅させることに成功する。
 技後硬直が切れると同時にトウマは動き出し、残り三体のうち最前列の一体に肉薄、そのまま《バーチカル》で切り裂くが、その瞬間に両隣の二体が硬直中のトウマに反撃の牙を剥く。しかし、いつの間にかトウマの隣にポジションを取っていたマサキがさっと飛び出した。マサキはそのままトウマとオオカミの間に割り込み、目の前の一体を柳葉刀の柄で殴りつけ、勢いを失ったところで瞬時に体を仰け反らせると、オーバーヘッドの状態で蹴り飛ばし、もう一体に衝突させた。
 マサキは手を頭の後ろに突いてバク転、空中で味方と体当たりすることになってしまった二体のオオカミを尻目に、先ほどトウマに斬り飛ばされた一体へと加速し、《リーバー》で弱点の頭を切り裂いた。
 ここでようやく絡み合ったまま転がっていた二体が立ち上がり、半ばやけのような――もちろんAIにそんなものがあるはずはないのだが――攻撃を繰り出す。が、トウマがこれをしっかりとパリィし、防ぎきったところを二人がかりで仕留める。野性の本能なのか、それともシステムの命令なのか、それでも最後の一体が攻撃を仕掛ける。しかし、こうなった以上は所詮一体の雑魚モンスター。二人に敵う訳もなく、あっけなく体を淡い光の破片へと変え、草原に散らした。


「ようやく片付いたか」

 マサキがポーションを呷りながら言うと、トウマも頷きながらポーションのビンの蓋を開け、中の液体を口に含んだ。苦味と酸味のあまり美味とは言いがたいハーモニーを舌の上で聞き終え、ビンが役目を果たして消滅すると、二人は黙って走り出した。
 今頃は奴らの親玉を一人で相手取っているはずの、怪しい情報屋の許へ。


 数分後、マサキたちが五体のオオカミと対峙していた場所から三百メートルほど離れた場所で、二人は巨大なオオカミとそれに立ち向かう小柄なプレイヤーを発見した。オオカミのHPバーは既に一本目が消失していて、二本目の残りは七割ほどだ。二人が駆け寄ると、アルゴもそれを察知したようで、飛びかかった《シャドーハントウルフ》を左に跳んで避けると、二人の許へと走り寄って言った。

「思ったより早かったナ~。やっぱり、オイラが見込んだだけのことはあるナ。……それじゃあ、オイラがまず前衛になるから、二人はオイラがパリィしたらスイッチしてくレ。……さっきも言ったけど、あいつの動きは《ナイトウルフ》とは比べ物にならないくらい速いから、注意してくレ」

 アルゴの口調が若干堅くなり、空気も緊張感を漂わせる。
 が、その雰囲気をマサキが粉々に打ち砕いた。

「ところで、そのスイッチって、何だ?」
「……はァ!?」

 今まで敵から目を離さなかったアルゴが、まるでUFOでも見たかのような目をして、素っ頓狂な声を周囲に漏らした。

「……まさか、スイッチも知らないのカ?」
「ああ。だからそう言ってるだろ」

 マサキがさも当然そうに返すと、アルゴはがっくりと項垂れて首を振った。

「……スイッチってのは、誰かが重攻撃とかで敵の隙を作って、その間に前衛と後衛を入れ替え、後衛に下がったプレイヤーが回復する、というのを順番に行っていくものダ」
「なるほど。ローテーションで回復と攻撃を回す訳か」

 呆れながらのアルゴの解説にマサキが頷くと、アルゴが「情報料取り忘れタ!!」と思い出したように叫び、それがさらに場の空気をぶち壊していく。しかし、二人はすぐ敵に集中しなおすと、宣言どおり、アルゴがオオカミに向かって飛び出した。
 それに反応してオオカミもアルゴに飛び掛るが、襲い来る牙をアルゴは鉤爪で弾き返し、

「スイッチ!」

 と甲高い声で言った。すぐさまマサキが反応し、オレンジ色の剣閃でオオカミを貫き、HPの一割ほどを奪い去る。負けじとオオカミも反撃の牙を剥こうとするが、それよりも早くマサキが「スイッチ!」と叫び、同時にトウマが間に割り込む。鋭い牙での一撃を《バーチカル》で受け止めると、今度はアルゴがスイッチを宣言し、さらに追撃を行う。一気に攻撃力が増した三人によって、《シャドーハントウルフ》のHPは残り三割強まで削られていた。
 アルゴが攻撃をいなした隙を突き、マサキが《ライトネス》の黄色いエフェクトでオオカミを切り裂く。すると、その攻撃によってHPが三割を割り込んだオオカミが、これまでにないほどの声量で雄たけびを上げた。

「これであいつは暴走状態に入り、素早さと攻撃力が倍増すル。これまでとは全く違うと考えた方がいイ」
「最後の足掻きって訳か」
「…………」

 トウマが話に全く参加しようとしないことをマサキは少々訝ったが、すぐにその考えを頭から追い出す。マサキと言えど、このレベルのモンスター相手に油断した場合、万が一ということがある。これまでよりも強いと言われれば、なおさらだ。
 そんなマサキをよそに、ローテーションであるトウマが一歩前に出て、敵の攻撃を受け止めようと構えを取る。素早い攻撃に備え、後は手を振るだけの状態だ。

 しかし、オオカミの攻撃は予想よりも数段速かった。数メートル先にいたはずのオオカミが一瞬でトウマに肉薄し、鋭く光る爪を突き立てようとする。トウマはこの攻撃を受けるのは無理だと判断して回避を試みるが、それには敵が近付き過ぎていた。左足の爪がトウマの右肩を切り裂き、HPを二割ほど減少させる。トウマはそのことに動揺してしまい、後ろに跳んで体勢の立て直しを図るまでに僅かな時間を作ってしまう。その隙にオオカミが再度トウマに飛びかかり、さらにHPを三割ほど削り取った。

「ぐっ……!」

 トウマが苦しそうに顔を歪ませ、動きが鈍る。オオカミの攻撃によって行動遅延(ディレイ)が発生してしまったためだ。しかし、オオカミはさらに反転、三度トウマを襲う。トウマはこれを回避できず、既にイエローゾーンに入っていたHPがレッドゾーンに差し掛かる。トウマも何とか逃げようと懸命に体を動かすが、ディレイが解けていないために体が言うことを聞かない。ならばと腰のポーチからポーションを取り出そうとするが、恐怖から指が震え、あろうことかビンを掴み損ねてしまう。

「待ってロ! 今行ク!!」

 アルゴが間に割り込んで攻撃を逸らそうと試みるが、逆にアルゴが吹き飛ばされ、HPバーを黄色く染める。オオカミはアルゴなど意に介さず、瀕死のトウマに飛びかかる。そして、トウマの顔が死を意識して凍りついたとき――、
 トウマの世界が急にブレた。視界が九十度回転し、オオカミの腹がすぐ左を通り抜ける。マサキがトウマに飛びつき、難を逃れたのだ。そのままマサキは腰からポーションを取り出し、まだ呆気に取られているトウマの口元に押し当てる。トウマは我に返ったように回復ポーションを口に含むが、その顔は明らかに動揺していた。

 ここでも、マサキは訝った。単にトウマがオオカミの速さに戸惑っただけと考えるには、一撃目を受けた後のトウマの動揺が大きすぎると感じたのだ。その証拠に、トウマの顔に浮かんでいたのは単なる動揺ではなく、まるで正解に違いないと思い込んでいた回答がバツをもらってしまったような、目の前で起こった現象が信じられないと言うようなものだった。そしてそれはアルゴも同じで、本当ならマサキがしたようにまずトウマを安全圏へ退避させるのが最善策のはずなのに、なぜか彼女はオオカミへ向かっていった。まるで、何かを確かめるかのように。

「……どうすル? このままじゃあジリ貧だゾ。あいつの体力がなくなるのが先か……」

「こちらのポーションがなくなるのが先か」とアルゴが言おうとしたところで、マサキが前に出た。

「俺が隙を作る。その間に攻撃してくれ。あのHPなら、一回仕掛けられれば削りきれるだろ。……悪いが、アルゴ。ピックを一本貸してくれ」
「なっ……本気で言ってるのカ!?」
「ああ」

 アルゴはマサキの口から出てくる言葉に目を見張るが、一番驚いたのは、マサキの表情に対してだった。彼には、トウマやアルゴが拭いきれていない死への恐怖や不安が全く感じられないのだ。まるで、自分(・・)だけ(・・)()絶対(・・)()死なない(・・・・)()いう(・・)確信(・・)を持っているかのように。

「…………」

 アルゴはマサキの表情を不審に感じながらも、右の腰にぶら下がっているピックを一本、マサキに投げた。マサキはそちらに目をやることもなく片手でそれをキャッチし、さらに一歩前に出て、オオカミと一体一で対峙した。右手にピックを、左手に柳葉刀を持っているが、その手は両方ともだらりと下がったままだ。

 ――考えろ。想像しろ。あのオオカミの一挙手一投足を。
 マサキの脳が超高速で回転を始め、脳内でオオカミの攻撃までの道筋(プロセス)がシミュレートされる。オオカミの脳内で命令が電気信号としてシナプスの間を駆け巡り、運動神経に到達。それに従って筋肉が動き、獲物(マサキ)に飛びかかる。

 その時、オオカミの毛並みと同じ闇色に染まった草原を一陣の風が吹き抜けた。それを合図にオオカミがマサキめがけて土を蹴り、突進を開始し、マサキは微動だにせずそれを待ち構える。数瞬後、マサキに肉薄したオオカミがマサキの頭を食いちぎらんと飛び上がる。
 しかし、マサキはそれを待ち望んでいたかのように頭を一個分だけ左にスライドさせた。オオカミの牙がマサキの顔の右側すれすれを貫き、マサキの頭はオオカミの右肩部分に滑り込む。それだけではオオカミのタックルを喰らい、追撃を受けてしまうが、マサキはオオカミの右前足を掴むと同時に右腕をその後ろ頭に回し、突進と同じ速度で体を仰け反らせ、後ろに倒れこみながら回した右腕でオオカミを上から押さえ込んだ。オオカミは思わぬ方向からの圧力に対処することが出来ず、着地に失敗して草の上に巨体を投げ出してしまう。マサキはオオカミの後ろ頭に回してあった右手に握られているピックを振り下ろし、オオカミの頭を草原に縫いつけた。

 オオカミがダメージを嫌がるように鳴き声を上げ、縫いつけられた頭を自由にしようと懸命にもがく。しかし、それが一瞬の、そして最大の隙となった。アルゴとトウマが一気に飛び出し、ライトエフェクトを纏いながら武器を振るい、オオカミのHPを確実に削り取る。が、それでも数ドットが残ってしまい、その間にオオカミが頭を地面から隔離してしまう。
 しかし、マサキがオオカミの下から抜け出すには、その時間は十分すぎた。マサキは《リベーザ》のモーションを起こすと、ようやく頭が自由になったオオカミを深々と切り裂いた。同時にオオカミが断末魔を残し、青い欠片となって四散した。


「ああ、剣士様。ありがとうございます。……これでこの村は救われます」

 《シャドーハントウルフ》との戦いに勝利し、アルゴと別れた二人は、宿を確保するべく《イニジア》の村に戻ってきていた。村長の涙ながらの感謝を面倒に感じながら聞き終え、報酬を受け取って家を出る。ちなみに、事のついでで村長に宿の場所を訊いたところ、なんと代金を割り引くように手配してくれるとのことで、このクエスト、二人が思っていたよりもお得なものだった。

「えーと……、あ、あった、ここだ」

 宿の場所が書かれた冊子を険しい顔で眺めていたトウマが顔を上げ、他の家よりも僅かだけ立派な目の前の建物に視線を投げる。ドアの上の“INN”と書かれた看板がその建物が宿であることを示していた。

 二人が中に入ると、物腰の柔らかな青年が恭しく頭を下げて出迎えた。

「いらっしゃいませ。村長から話は伺っております。……これがお部屋の鍵になります」

 二人は青年から鍵を受け取る。すると、いかにも古い民宿の鍵、といった風だったオブジェクトが、淡い光を放って消えた。無論、破壊されたわけではなく、鍵の機能が二人のIDに追加されたに過ぎない。つまり、この鍵を受け取った時点でその人物のプレイヤーIDが鍵となるため、宿を借りている期間中はその部屋の扉を開ける事ができるのは本人だけとなるのだ。――もちろん、施錠していなければ話は別だが。

 二人は青年が「ごゆっくり」ともう一度頭を深々と下げるのを尻目にそれぞれの部屋へと向かう。そして、マサキがドアノブを回そうとしたところで、トウマが唐突に言った。

「なぁ、マサキ。少し話さないか?  ……その、これからのこととか、さ」

 マサキは迷った。別に自分がトウマに付き合う理由もないし、マサキから話すことも、特に無い。が、マサキはここで付き合えば、トウマの見せた不可解な行動の理由を推測する材料になるかもしれないと考え、ドアノブから手を離すと、了承の意を伝えた。トウマがドアを開けて入った後に、マサキも続く。部屋の中には粗末なベッドと木製の古ぼけた机、それに付随した丸椅子があるのみで、造りはお世辞にも綺麗とは言えないが、この村にそこまでを求めるのも酷というものだろう。トウマは金属のフレームが露になったベッドに、マサキは丸椅子に腰掛けた。途端に、圧力に対してベッドと椅子がギシギシと抗議の声を上げる。数秒間ほどの沈黙の後、トウマが口を開いた。

「それで、これからなんだけど……、マサキはどうするつもりなんだ?」
「レベリングと装備の強化を続ける。で、第一層のボス攻略部隊が編成されたら、そこに参加する」
「でも、もしその部隊が編成されなかったらどうするんだ? プレイヤー全員が《はじまりの街》から出ないかも知れないじゃないか」
「いや、それはないだろう。圏内コードに対する不安、生活費の不安に駆られたプレイヤーは、遅かれ早かれフィールドに出てくる。……まぁ、そいつらは危険なボス攻略なんて絶対にご免だろうから、残るは後一つだがな」
「……その、後一つって言うのは?」

 トウマが恐る恐る先を促す。

「元βテスター、あるいは、他のMMORPGで腕に覚えがある連中さ。ネットゲーマとしてのレベルアップへの執着や、他のプレイヤーたちよりも上にいるという優越感を味わいたい奴らが、きっといるはずだ」

 “βテスター”という単語が出た時、トウマの表情が一瞬強張った。そして、少しの間何かに迷うような素振りを見せた後、今までよりも数段小さな声で言った。

「……そのβテスターなんだけどさ。……マサキはどう思ってる?」
「どうって、特に何も」

 その答えに、トウマは驚いたような表情を浮かべ、畳み掛けるように質問を続ける。

「本当に? 何も?」
「ああ。……質問の意味がよく分からないんだが」

 何故かヒートアップしていたトウマが我に返り、再び小さな声で話し始める。

「……βテスターたちは他のプレイヤー達を見捨てて情報を独占してるだろ? もし彼らが情報を提供していれば、とか、思わないのか?」
「思わないな。大体、MMORPGというジャンル自体が、限られたリソースを奪い合うことを前提にして作られたものだ。その基本法則を無視すれば、その分だけ代償を支払う必要がある。攻略も遅れるだろうし――」

 マサキは一度そこで区切ると、ポーチから一冊の冊子を取り出した。アルゴから貰った攻略本で、マップデータや出現するモンスターなどの情報が記されている。先ほど、トウマが宿屋を探す際にもっていたのもこれだ。

「それに、こいつがある。無料配布ってことは、情報は既に誰でも得られるんだよ。どう考えても、この時間に配られるってことはβテスト時の情報だ。つまり、βテスターは情報を公開している。それ以上を求めようとするのは、全ての情報を独り占めしようとするのと同じくらい身勝手だと、俺は思うがな」
「そうか……」

 トウマが少しだけ安堵の色を浮かべるが、再び苦しい表情になる。

「……それで、一応確認なんだけど……、これからも、俺とパーティー組んでくれる……よな?」
「構わない」

 マサキはそこまでトウマを気に入っているわけではないが、彼に抱いた気まぐれの原因が知りたくなったマサキはトウマの問いを即答した。すると、再び、トウマの顔にさっきよりも濃い安堵の色が浮かぶ。マサキはそれを確認すると、トウマに別れを告げて自室へと戻った。


「…………」

 中に石でも入っているのではないかとさえ思わせる堅いベッドの上で、トウマは不思議なパーティーメンバーのことを考えていた。自殺を思いとどまらせてくれた上、《シャドーハントウルフ》との戦いでは窮地を救ってくれた恩人で、自分の感情を見せず、どこか乾いた印象を受ける性格。戦闘で見せた驚くべきセンス。そして、何処から来るのかは分からないが、トウマのそれを遥かに上回る絶対的な自信。それらは今までにトウマが見てきた人種とは何かが違っていて、トウマはこの短期間に、彼に強い関心を抱いていた。
 ――そして、それと同時に、強い恐怖も。
 しかし、一番の違いは、彼の後半の言葉だった。その言葉に、トウマの心は確かに揺れ動いたのだ。

「……あいつなら……」

 その感情は、同じく揺れ出した視界と絡み合いながらまどろみの中へと消えていった。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想など募集しております。 

 

亀裂は不安を呼んで

 
前書き
や、やっと更新できた……
更新を待っていてくださった方々、いらっしゃいましたら本当に申し訳ありませんでした。
これからは出来るだけ更新速度を上げていきたいと考えておりますが、何分遅筆なため、どうなるか分かりません。そんな駄作者ではございますが、これからもこの小説を読んでいただければ幸いです。 

 
「……せっ!」

 マサキは振り下ろされた無骨な手斧を柳葉刀で右に払い、その隙に剣を返して右下から左上へと《ライトネス》で斬り上げる。斧で防御することが出来ない《ルインコボルト・トルーパー》がダメージで仰け反り、

「スイッチ!」

 という掛け声と共にトウマがマサキの前に出た。手に持った黒の片手用直剣を思い切り振りかぶり、光芒を纏わせながらモンスターに叩きつける。ノックバックしていた《ルインコボルト・トルーパー》は何も出来ずにその体を淡い光に変え、耳をつんざくような破砕音とともに散らし、それと同時に、陽気なファンファーレが一帯を包んだ。もうすっかりと耳に慣れたレベルアップのサウンドエフェクトだ。
 マサキは淡々とウインドウを操作し、ボーナスステータスを振り分けようとする。と、ここで、

「いよっし!!」

 と、目の前でトウマが、レベルが1上がっただけにしては些か過大とも言えるガッツポーズを決めた。

(ああ、そういえば、これで“あれ”が解禁になるのか)

 マサキはすぐさまその理由を見つけ、納得する。マサキは再びウインドウに視線を戻し、ステータスを割り振る。全てのステータスを敏捷値へと振り終えたマサキがウインドウを閉じると、そこには満面の笑みを(たた)えたトウマの顔があった。

「……顔が近い」
「別にいいだろ? ……ひょっとして、マサキって実はそっち系?」
「……で、何の用だ?」
「無視かよ。……まあいいや、これが目に入らぬか!!」

 マサキが眉をひそめながら問うと、トウマは自らのステータスウインドウをマサキの前で広げて見せた。
 ――正確には、ステータスウインドウ内のスキル欄を。そして、その内の一つに《両手剣》の文字が浮かんでいるのを、マサキは見逃さなかった。

 《両手剣》は、最も初期に手に入るエクストラスキルの一つであり、開放条件どころか存在すら疑わしい《刀》スキルとは違い、入手条件も判明している。条件はごく簡単で、筋力値を20まで上げることだ。マサキとトウマの現在のレベルは11で、トウマは今まで筋力:敏捷を2:1で割り振っていたため、ようやくその条件を満たしたのだ。ちなみに、筋力値でなく敏捷値を20まで上げた場合、細剣(レイピア)が出現することとなる。

 マサキがウインドウから目を離すと、見ている方が少し苛立つほどに嬉しそうな表情を浮かべたトウマの顔が、またもや視界に入る。
 2日目以降、マサキはトウマが笑顔を見せる回数が日に日に増えていると感じていた。
 《シャドーハントウルフ》を狩ったあの夜に何か感情の変化があったのか、あるいはただ単に初日の緊張が解けただけなのか、マサキは判断することが出来ずにいたが、少なくとも今まで見てきた連中のように、その笑顔が何らかのマイナス的感情を含んでいるとは思えなかったし、その笑顔を鬱陶しいと感じることもなかった。これまた珍しいことだ。

(……しかし、気まぐれにしてはずいぶんと長く続くものだな)

 初めてトウマと出会ったときの感情に、マサキは未だ気まぐれ以外の名前をつけることが出来ていない。だが、その感情はマサキの心の一部分を依然として占めており、それどころか、少しずつではあるものの、日に日に肥大化してさえいる。だが、それとは正反対のベクトルを持つ感情が、その肥大化を妨げていて、結果、数日前からその肥大化は止まっていた。――別に、それはマサキにとってさほど重要ではなく、だから何だと訊かれれば、「何でもない」と答える以外に選択肢がないというのもまた、事実ではあったが。

「マ~サ~キ~、聞いてんのか?」
「聞いてるよ。……もしそれが目に入ったら、代わりに二度とその目の中に光が入ることはないだろうな」
「……お前、もうちょっとこう、ノリをよくと言うか、空気を読むと言うか、した方が良くないか?」
「余計なお世話だ。……行くぞ」
「行く? 何処に? それよりも、せっかくだから使ってみようぜ、《両手剣》」

 マサキが憮然としつつトウマを一瞥して言うと、トウマは首をかしげ、分からないことをアピールした。マサキはそれを見て一度溜息をつき、返していた踵を再び反転させる。

「お前、どうやって《両手剣》スキルを使う気なんだ?」
「どうやってって……、そりゃ、装備を変えて使うに決まってるだろ」
「……その変える装備は?」
「……あ」
「…………」

 マサキが呆れたように目を伏せながら首を振ると、トウマは悪戯を咎められた子供のように苦笑いし、頭を掻いた。

「いや、ほら、ようやく欲しかったスキルが手に入ったから、舞い上がっちゃってさ。……さ、そうと決まれば思い立ったが吉日だ。さっさと買いに行こうぜ」

 トウマが作り笑いを浮かべながらマサキの背中を押し、市街地へと連れて行こうとする。マサキはもう一度トウマを睨みつけると、諦めたように迷宮区の出口へと足を向ける。すると、トウマもそれを理解したのか、マサキの背を筋力パラメータの最大値で押していた手を離し、マサキの隣に並び、歩を進める。

 迷宮区を出るまでには、さほど時間は掛からなかった。元々距離がそこまで長くなかったのに加え、早く新しい剣を手にしたいトウマがいつになく速く歩いたためだ。
 ――尤も、歩きながらトウマに聞かされた、“新しい剣はどんなものがいいか”というタイトルの演説によって時間が引き延ばされたマサキには、その恩恵はほとんど感じられなかったのだが。


 迷宮区を抜けると、青々とした草原の草をなびかせながら吹き渡った風が、二人の頬を撫でた。陰湿な迷宮区の、どんよりと濁ったような空気とは比べ物にならないほどに爽やかな空気が、呼吸によって取り入れられる。――正確には、そのように感じる、あるいは錯覚する。
 その爽やかさと危険な迷宮区を抜けたと言う安心感から伸びを一つしたトウマを横目で見つつ歩き出そうとしたところで、マサキの眼前にメールが表示された。差出人はアルゴ。二人が初日に出会った情報屋だ。
 文は極めて短く、指でウインドウをスクロールさせることもなく読了した。マサキがウインドウを閉じると、すかさずトウマが尋ねてくる。

「何だったんだ?」
「……どうやら、お前の剣を選ぶのは後回しになりそうだ」
「えー!? 何で?」
「あれが午後4時からに決まったらしい。……ほら、行くぞ」

 明らかに不満そうな顔をするトウマに言い放ち、マサキは歩き出す。トウマはまだ不服そうな表情を覗かせていたが、それなりの理由があるのだろうと察し、黙ってマサキの後を追いかけたのだった。


 マサキたちが迷宮区から南に歩き始めてしばし経った頃、二人は迷宮区に最も近い谷あいの町、《トールバーナ》に到着した。巨大な風車塔が立ち並び、谷間を吹きぬける風が風車の羽をゆっくり回転させていく風景がそこかしこで見られる、のどかな田舎町だ。
 二人が北門をくぐると、眼前に《INNER EREA》の文字が表示され、その瞬間、トウマが安堵の溜息をついた。マサキも右手を左肩に当て、首を左右にコキコキと折る。門から街の中央を目指して歩き始めたところで、マサキの目は右側の路地に金褐色の巻き毛を捉えた。

「マー坊とトー助、遅かったじゃないカ」
「何だ? その呼び名は。俺は二人合わせて発動機製造会社になるつもりはないし、君と僕とで天気予報をするつもりもないんだが」
「こいつはオイラの癖みたいなもんサ。オイラが呼びやすいからこう呼んでるだけダ。気にしないでくレ」
「変な癖はその髪の毛ぐらいにしておいてほしいもんだ」
「にゃはは、全くだナ」

 金褐色の巻き毛を揺らしながらふてぶてしく笑うアルゴに、マサキは溜息を一つついて続ける。

「……で、アルゴ。お前は出迎えか?」

 マサキが言葉をかけると、アルゴは特徴的な三本線のペイントの下にある唇を不敵に歪めて言った。

「二人はオイラが認めた金の卵だからナ~。死なないようにしっかり面倒見ないといけないだロ?」
「……そりゃどうも。……まあ、だったらもっと速く情報を送ってほしかったが」

 情報とは、この町で約一時間後に開かれる第一層フロアボス攻略会議のことだ。マサキがメールでアルゴに情報が手に入り次第知らせてくれるように依頼していたのだ。――ちなみに、代金の200コルは前払いである。
 マサキがそう言うと、アルゴは珍しく悪びれた声を響かせた。

「あー、そいつは悪かったヨ。こっちもイロイロ忙しくてネ」
「まあいいさ。それじゃ、俺たちは会議に出てくるから」
「オイラも後から行くつもりダ。……まあ、頑張って来イ」
「ああ」

 マサキはアルゴに手をひらひらと振りながら歩き出し、町の中央へ足先を向けながら、完全に空気と化していたトウマに目をやった。

「お前、いつものキャラはどこに行ったんだ?」
「いや、俺あいつのこと苦手で……」

 何となく歯切れが悪いトウマの返答に「ふうん」と見かけ上納得して、マサキは再び前を向いた。


「はーい! それじゃ、五分遅れだけどそろそろ始めさせてもらいます!」

 《トールバーナ》噴水広場に爽やかな声が響き渡り、途端にその場が静まり返る。二人が中央に目を向けると、声と違わぬ爽やかな青の長髪とシャープな顎のラインを持った一人のプレイヤーが噴水の縁に飛び乗った。
 マサキたちは噴水を囲む段の上から二つ目に座り、二言目を待つ。青髪の片手剣使いは周囲がすっかり静まったのを確認すると、再び軽やかに言った。

「今日は、俺の呼びかけに集まってくれてありがとう! 知ってる人もいると思うけど、改めて自己紹介しとくな! 俺は《ディアベル》、職業は気持ち的に《ナイト》やってます!」

 その一言で噴水近くの一団がどっと沸き、いくつか声も上がったが、マサキの心中は彼らとは正反対だった。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 それが、マサキが持った彼への第一印象だった。マサキはこれまでホワイトハッカーとして多くの依頼を受けてきたし、会議にも出席してきた。また、その中には他のホワイトハッカー達と協力したり、高度に連携しなければいけないものもあった。だが、その会議と今の会議の状況は、まるっきり正反対と言ってよく、淡々と伝達事項が伝えられるだけのものであり、そしてマサキはその方式を気に入っていた。
 協力というのは、突き詰めて言えば自分の役割を100%果たすことであり、味方のフォローやリカバリーといったことも、結局は自分の役割だからだ。そして、そのフォローのレベルを決定するのは自身の判断力であり、相手に対する好感度などでは、決してない。それどころか、仲間意識だけが無駄に高い連中で協力した場合、自分の一番重要な目的すら忘れて味方の救援に向かうことも考えられる。そうなってしまえば、その連中に待つのは敗北だけだ。

 以上の理由から、マサキは今行われているような会議は嫌いだったのだが、それを指摘することはなかった。今ここでそれを指摘すれば、ここにいる全員の士気が下がることは火を見るよりも明らかだったからだ。そして、それではこの方式の唯一とも言っていいメリットを自ら手放すことになる。周りのプレイヤーが冷ややかならば一考の余地はあったかもしれないが、彼らが一同ディアベルに向かって拍手喝采を送っているところを見ると、彼のリーダーシップの性質的にはこちらの方が合っているのだろう。ならば、この方式を選んだこともあながち間違いではない。

 マサキが半ば無理やりに納得したところで、

「ちょお待ってんか、ナイトはん」

 低く、ドスの利いた声が響いた。直後にその声の発信源と広場中央の間の人混みが真っ二つに割れ、一人の男性プレイヤー(モーゼ)が現れた。とはいえ、その外見は神話とは全く異なり、小柄でがっちりとした体格だ。
 彼は一歩前に出ると、その容貌に見事なまでに一致した濁声をその場に響かせた。

「そん前に、こいつだけは言わしてもらわんと、仲間ごっこはでけへんな」

 突然の乱入者だったが、ディアベルは僅かに表情を崩しただけで、そのプレイヤーを中央に呼び寄せ、名を名乗るように要求した。男もこれに従い、鼻を一つ鳴らすと、噴水の前に立ち、辺りを見回した。

「わいは《キバオウ》ってもんや」

 その言葉が広場を駆け抜けたのと同時に、キバオウと名乗る男の双眸(そうぼう)がギラリと鋭く光り、途端にマサキの右に座っていたトウマが身を震わせた。

「どうかしたか?」
「いや、なんでもない」

 マサキが問うと、トウマは笑って見せたが、その笑みはどこか引きつっていた。
 マサキがその意味を推察しようとすると、広場中央からいくつかの怒鳴り声が聞こえてきて、マサキはそちらに視線を戻す。中央では、キバオウが元βテスターを糾弾する持論を展開しようとしていたところだった。

 ――彼の言い分はこうだ。
 βテスターはこのSAOがデスゲームと化した途端、はじまりの街で右往左往していた初心者たちを見捨て、自分たちだけが強くなろうとした。
 そしてその結果、このゲームのことをよく知らないプレイヤーが死に至った。
 だから、この場にいるβテスターは責任を取って謝罪と賠償を行え。

「…………」

 その支離滅裂な理論に、マサキは溜息しか出なかった。彼はプレイヤーが死んだ原因をβテスターに押し付け、現実逃避しているに過ぎない。彼に何かがあったのか、またはそれが彼の元からの考えなのかは知らないが、それをβテスターのせいだと断定して一方的に糾弾するのは、ただの負け犬の遠吠えと変わらないではないか。それに、“プレイヤー全員で情報と利益を共有しよう”などといった考えは、“リソースの奪い合い”というこの世界の原則を真っ向から否定している。そしてそれは、物理法則とシステムによって管理されているこの世界で魔法を使おうとするのと、何ら変わらない。つまり、不可能だということだ。

 マサキが右ひじを右足に乗せて頬杖を突きながら冷たい目でキバオウを眺めていると、穏やかな声と共に、長身のシルエットが姿を現した。チョコレート色のスキンヘッドや屈強な体格は日本人離れしていて、マサキは外国生まれではないかと推測する。
 新たに登場した大男は自らを《エギル》と名乗り、尚も糾弾を続けようとするキバオウに向かって、一冊の本を取り出した。ネズミを図案化したマークが描かれているそれは、マサキたちも持っているアルゴの情報書だ。

「このガイドブック、あんただって貰っているだろう」
「貰たで。――それが何や」
「このガイドブックは、俺が新しい街や村に辿り着いたときには既に置かれていた。つまり、情報の速さからして、情報屋に情報を提供したのは、βテスト参加者以外にはありえないんだ」

 その張りのあるバリトンに、観衆は思わず息を呑んだ。今まで剣呑な眼差しでエギルを睨んでいたキバオウも、これには驚きを隠せなかったようだ。――この中で唯一、マサキだけはそれを推測していたため、逆に彼らがそれを知らなかったことに対して驚いたのだが。

 その後はエギルとディアベルの演説会だった。エギルが至極全うな論理でキバオウの屁理屈を論破すると、すかさずディアベルがβテスターの断罪を見送る方向で話をまとめ、キバオウを宥める。キバオウは反論することが出来ず、一つの鼻息と共に、ボス攻略後に元テスターを改めて糾弾するとだけ言い残して引き下がった。


「結局、あれだけか」

 噴水広場を後にしながら、マサキは呟いた。“第一層フロアボス攻略会議”などといった大仰な名を冠したそれが、結局のところ三人が持論を展開しただけで終わってしまったからだ。尤も、まだボス部屋がある最上階へと続く階段が発見されただけに過ぎない以上、ある程度は覚悟していたが、もう少しは身のある議論にしたかったものだ。
 マサキが頭上を見上げると、太陽は大分地平線に近付いてきていて、空の大部分が赤みの強いオレンジ色に染まっている。トウマの剣を選ぶために、マサキが店へ向かおうとすると、トウマはそれと反対方向に歩き出した。

「おい、トウマ。剣を選ぶんじゃなかったのか?」
「ああ、いいや。……なんか、今日は疲れちゃってさ」

 そう言って口角を上げるが、そのスポーツ少年然とした爽やかな顔に浮かんだ笑みに力はなく、瞳には初日に見せた不安や動揺の色が色濃く浮き出ていた。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想など募集中です。どうぞお気軽に書き込んでやってください。 

 

会議が招いた再会

 
前書き
ああ、戦闘パートまでが遠い……

出来るだけ今回くらいの間隔で更新していこうと思います。……いつまでできるかわからないですけど(滝汗)。 

 
「悪いナ。いくらオイラが見つけた金の卵のマー坊でも、その依頼を受けることはできなイ」
「……そうか、ならいい」

 朝の日差しがトールバーナの町全体を照らし出した頃の路地裏でマサキがそう言うと、アルゴは「すまないナ」とだけ言った。
 常にふてぶてしく、情報とあらば自らのステータスでさえ売ることを(いと)わないという商売根性を持つ彼女がこのような言動をした理由は、マサキが彼女に収集を依頼しようとした情報の内容にある。

 マサキは以前、はじまりの街でキリトと行動を共にしていた際に、彼からいくつかの情報を聞きだしていた。《ナイトウルフ》を狩るクエストなどがその代表例である。
 しかし、その情報もそろそろ底を突いてきた。可能ならば新しい情報を仕入れたいのだが、誰に聞けばいいのか分からない。唯一連絡がつき、なおかつ元βテスターだということが判明している存在としてキリトがいるが、果たして彼がβテスト時にどれほどのプレイヤーだったのかが疑問に残る。
 そのため、アルゴに“信頼できる元βテスターを紹介してほしい”という内容で依頼をしようと考えたのだが、あろうことか拒否されてしまった。アルゴ曰く、「こいつは誰にも譲れない情報屋としての掟ダ」ということだ。マサキは昨日のキバオウに代表される“βテスター断罪すべし”の風潮を自分が踏襲していると誤解をされたのかもしれないと考え、βテスターを恨む気はないことと、自分が持ちかけているのは公正な取引であり、情報には料金を払うし、もし話したくない類のものであれば拒否してくれても構わない旨を伝えたが、それでも彼女の首が縦に振られることはなかった。
 マサキがこれ以上の交渉は無意味と判断して路地裏から出ようとすると、「ちょっと待ってくレ」と呼び止められた。マサキが振り返ると、アルゴの小さな手の上に初日に貰った本と同じデザインだが圧倒的に薄い、どちらかといえばパンフレットのような冊子が二部、乗っていた。

「これは?」
「“アルゴの攻略本 第一層ボス編”サ。本当は、配布は今日の夕方ごろからの予定だったんだが、マー坊とトー助にだけ特別ダ」
「そいつはどうも。ありがたく頂戴させてもらう」

 マサキはアルゴの手に乗っていた二冊の冊子をポーチに入れると、今度こそ路地裏を出て、表通りへと姿を消した。


 マサキはアルゴと分かれて表通りへと出ると、そのまま近くの武器店へと向かった。位置関係的にはマサキが今までいた場所と正反対に位置する店だったが、トールバーナの町自体がはじまりの街と比べるとかなり小規模なため、急がなくとも数分で辿り着き、店先で剣を眺めているライトブラウンの頭を発見できた。マサキが声をかけようと肩に手を置くと、突如目の前の体がビクッと大きく跳ね、体ごと頭がマサキに向き直る。

「何だ、マサキか。びっくりした……」

 トウマは今のがマサキの仕業だと分かると、途端に安堵の表情を浮かべて言った。

「そうか? 元からここで合流する予定だっただろう?」
「いや、それはそうなんだけどさ。……もうちょっとこう、声を掛けるとかにしてほしかったな~、なんて」
「別にいいだろう、《圏内》じゃPKもモンスターも出ないんだ」
「それは、まあ、そうなんだけど……」

 ぶつぶつとトウマが歯切れの悪い返事を繰り返し、話が前に進まないため、マサキはトウマが持っている大剣に話題を変えた。

「それで、それにするのか?」

 マサキが言うと、トウマも話題が変わったことを理解して、ようやく普通に話し出す。

「ああ。一応これが一番性能良いんだ。攻撃力重視ってところも気に入ったし」

 どうやら話したことによって決心がついたらしく、トウマは何度か頷いた後にウインドウを操作してそれを購入、すぐさま装備した。すると、今まで腰にあった黒塗りの片手剣が姿を消し、代わりに幅広の大剣が背中に吊られた。刃は両側についていて、朝日の光を受けて鈍色に輝いている。持ち手の部分には黒い皮が巻かれ、当然だが両手で握るように設計されているため、今までトウマが使っていた《ブラックソード》やマサキの持つ柳葉刀とは長さが決定的に違う。また、刀身はかなり肉厚で重そうだが、その分攻撃力も高そうに見える。
 マサキはその剣に近づき、一度指でタップした。即座にウインドウが呼び起こされ、剣の詳細情報が表示される。それによると、名前は《ロードブレイド》。見た目通りの重い大剣だった。
トウマは背中に心地良い重さを感じながら、マサキの体をフィールド方面に向かって押した。

「さ、それじゃ試し斬りといこうぜ!」
「はいはい」

 マサキは降参、とでも言わんばかりに両手を肩まで上げ、門へと向かった。


 それから数時間が経ち、トールバーナの町を照らす太陽が大分西に傾いた頃、マサキたちは再び噴水広場に集まっていた。ディアベル達のパーティーが第一層のボス部屋を発見、攻略会議を行う、という情報がアルゴから届いたためだ。
 前回の会議内容の密度からして、今回もさほど重要なことは話し合われないのではないかと不安視していたマサキだったが、今回も広場の中央で青髪を爽やかにかきあげて見せた騎士(ナイト)様は、その見方の上を行って見せた。

 彼の話によると、彼らはボス部屋を発見したあと、勇敢にも扉を開き、住人に拝謁賜ってきたらしい。その後も誇らしげな顔で報告を続けていく。彼の情報は要点を的確に押さえていて、マサキもその点に関しては評価していた。
 ――既にアルゴから攻略本を受け取っていたマサキ達にとっては、無用の長物だったが。

 その後、会議は一時中断となった。“アルゴの攻略本 第一層ボス編”が配布されたのだ。当然のことながら全員がそれをNPCショップで受け取り、熟読し――、
 最後のページに書かれていた赤いフォントの一文に、目を奪われた。
 曰く、【情報はSAOベータテスト時のものです。現行版では変更されている可能性があります】。今まで彼女が貫いてきた、“何処の誰とも知れない元βテスターから情報を買っているただの情報屋”というスタンスを揺るがしかねないものだった。
 全員がこの情報をどう扱うか決めかね、決定を託すようにディアベルに視線を向ける。視線の先の人物は数十秒ほど思案げな表情を浮かべていたが、やがて腹を決めたように声を張り上げた。

「――みんな、今はこの情報に感謝しよう! 出所はともかく、この情報のおかげで、二、三日はかかるはずだった偵察戦を省略できるんだ。正直、すっげー有り難いってオレは思ってる。だって、一番死人の出る可能性があるのが偵察戦だったからさ」

 その発言に周囲の集団がざわざわと揺れるが、すぐにその決定を呑み込み、うんうんと頷く。マサキはキバオウ辺りが噛み付くのではと思ったが、それもない。

「絶対に死人ゼロにする。それは、オレが騎士の誇りに賭けて約束しよう!」

 聴衆から「よっ、ナイト様!」との声が届き、次いで集まった全員が彼に対してスタンディングオベーションを送る。どうやらあの騎士様は、リーダーシップはそれなりに備えているようだ。
 マサキは素直に感心し、口元を、口笛を吹くように尖らせた。


「さて、と」

 ディアベルが各自でパーティーを作るように指示を出してから数十秒後、マサキはゆっくりと腰を上げ、周囲を見渡した。すると、今までは一箇所に集まっていた集団が、六人ずつ、七グループに分かれている。恐らくまだ正式に決定はしていないだろうが、このままでは十中八九このグループがパーティーになるだろう。

「マサキ、どうする……?」
「人数的に後二人、あぶれた奴がいるはずだ。まずはそいつらに話しかける」

 不安そうにこちらを見てくるトウマに対し、マサキは広場全体を見回しながら答える。と、二人の右斜め下に、二人のプレイヤーが座っているのが見えた。マサキはトウマに「行くぞ」と短く声をかけてからそちらに歩み寄り、爽やかなビジネススマイルを浮かべながら話しかけた。

「すみません、実は僕たち、誰ともパーティーを組めていないんです。もしよろしければ、僕達と組んでいただけませんか?」
「ああ、ちょうど良かった。こちらからも是非……」

 線の細い中性的な顔がくるりと回転し、二つの瞳がマサキの姿を捉えた瞬間――、表情が一気に凍りついた。

「ま、マサキ……?」
「何だ、キリトだったのか」

 驚いたように目を丸くするマサキに対して、キリトはなぜか目を伏せた。色白の顔からは、後悔と葛藤の色が滲んでいるように見える。
 キリトはしばし視線を広場の石段に落としていたが、ふうと大きく息を吐き、顔を上げた。

「えっと……、そちらは?」
「ああ、こいつはトウマ。初日に出会って、今は二人で組んでる」

 紹介を受けたトウマが「よろしく」と手を出すと、キリトはおずおずとその手を握った。

「で、キリト。パーティーの件なんだが……」
「ああ、別に俺は構わないけど……」

 語尾を濁しながら、マサキとキリトは二人してキリトの隣に座るフーデッドケープのプレイヤーに視線を向ける。腰にレイピアを差したプレイヤーは今までマサキに対して警戒心を露にした視線を送りつけていたが、キリトの知り合いと分かって安心したのか、若干穏やかさを増した声色で告げた。

「あなたたちが申請するなら、受けてあげないでもないわ」

 マサキは控えめなソプラノを耳にした後、表面上の苦笑を浮かべながらウインドウを操作し、パーティー参加を申請する。声によって女性であることが判明したレイピア使いは、無表情のままに出現したウインドウをタップして申請を許可した。マサキの視界の左上、自分の命の残量を表すHPバーの下に、新しく“Kirito”“Asuna”の名前が表示されたのがその証左だ。

「それじゃ、改めてよろしく」
「あ、ああ」

 マサキは話しかけた時と同様の笑みを浮かべながらキリトと握手を交わし、そのまま細剣使いへと手を向ける。しかし、彼女は冷たい視線でマサキを一瞥した後、握手の意思がないことを、顔を背けることでアピールした。仕方なくマサキは差し出していた手を引っ込め、肩をすくめつつキリトの隣に腰掛けた。

 数分後、出来上がったパーティーを検分するためにディアベルが四人の元へやってくると、常に爽やかだった騎士様は表情を曇らせた。
 マサキからすれば、その気持ちは分からなくもない。他のパーティーは全て六人で組んであるため、これを崩すことはあまりしたくない。しかし、POTローテを回すにも時間的に不安が残る四人パーティーを、おいそれとボスに向かわせるのも考え物だ。もしこの中の誰かがゲームオーバーになってしまえば、全体の士気が下がって今後の攻略に支障をきたす可能性もある。
 ディアベルはしばしの間悩んでいたが、やがていつもの爽やかな声で言った。

「君たちは、取り巻きコボルトの潰し残しが出ないように、E隊のサポートをお願いしていいかな」

 その声にアスナは苛立ちを見せて前に出ようとするが、キリトが素早くそれを阻止し、ディアベルの要請を承諾する。アスナは尚も憮然としていたが、キリトが理由に挙げた中にあった単語が分からないらしく、後で詳しく解説する、という流れでとりあえずその場を収め、広場中央のディアベルに視線を投げて次の言葉を待った。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想など募集しております。お気軽にどうぞ。 

 

思わぬ懺悔、そして攻略へ

 その後、攻略会議はそれぞれのパーティーリーダーの短い挨拶と、ドロップしたコルやアイテムの分配方法の確認をして終了。マサキたち四人は日が暮れたトールバーナの町を連れ立って歩いていた。
とはいえ、そこに何らかの意図が存在するわけではない。ただ、何とはなしに、というのが理由のほとんどだった。

「……で、説明って、どこでするの」

 レイピア使いの小さな声に、キリトは一瞬頭の上に疑問符を浮かべそうになり、慌ててそれを取り消す。

「あ、ああ……俺はどこでもいいけど。そのへんの酒場とかにするか?」
「……嫌。誰かに見られたくない」

 キリトは一瞬精神的ダメージでノックバックしてしまいそうになるが、足を踏ん張って何とか耐え、代替案を探す。と、マサキがここに助け舟を出した。

「それじゃ、俺たちが泊まってる宿のレストランはどうだ? 分かりにくい路地裏にあるから食事に来るプレイヤーは皆無だ」
「……でも、他に泊まっている客がいるでしょう?」

 マサキの言った場所をβテスト時代の記憶から引っ張り出したキリトは、その手があったか! と、ポンという音と共に手を打つ。しかし、細剣使いの声色からはまだ納得していないことが窺えた。

「いや、それが、かなり小さな宿だから、部屋が二つしかないんだ。俺とマサキで埋まってるから、その心配もない」

 訝しげな声でアスナが呈した疑問にトウマが答えると、細剣使いはしばし考え込み、数秒後、「なら、そこでいいわ」と小さく答えた。


 十五畳ほどの年季の入ったフローリングに、これまた古ぼけた木製の丸テーブルと四脚の椅子のセットが三つ。これが、マサキたちが借りている宿が運営しているNPCレストランの全てだ。味はまあ悪くないのだが、如何せん見た目と立地条件が悪く、この日も他のグループの姿は見えない。
 それでも細剣使いは部屋全体を見回して、このレストランが自分たちの貸し切りであることを確認してから、ようやく少しだけ警戒心を解いて椅子のうちの一つに座った。しばらくしてオーダーを取りに来た店員にそれぞれ注文すると、視線に促されたキリトがアスナに向けて説明を始める。

 説明は十分程度、料理が運ばれてくる直前で終わり、その後は四人とも、ただ黙々と料理を口に運び続けた。マサキはキリト辺りが話題を振ってくるものと思っていたが、本人はその予想とは裏腹に黙りこくっていた。目は何かを迷うように伏せられ、こちらから話しかけるのも何となく憚られる。いつもはマサキに対して色々と喋りかけるトウマの顔にも不安の色が滲み、喋りだそうという雰囲気は皆無。しかも、不安の色はキリトが口を閉ざしている時間と正比例しているようにも見える。食事時でもフーデッドケープを取らない細剣使いは言わずもがな。食事会は重い空気に包まれていた。


「……ごめん!」

 全員の前に並べられた皿の中身が綺麗に平らげられたとき、沈黙はキリトによって突如破られた。そのあまりにも突然な叫びに全員が――あの細剣使いでさえも――目を丸くして彼に視線を向ける。視線の先のキリトは自分のひざに手を突き、額をテーブルに擦り付けたままで続けた。

「俺、ずっと悪いって思ってた。――あの時、マサキを放って俺だけ次の村へ向かって、一人で強くなって……。もし俺が、あの時マサキやクラインの面倒をきちんと見ていれば、多分今頃皆でもっと強くなれてたはずだ。……俺は……、俺は自分一人が強くなるために、マサキたちを見捨てたんだ……」

 心外だった。マサキはキリトに見捨てられたなどと思ったことは無いし、そもそも誘いを断ったのは自分の方だ。どう考えても、これでリタイアになった場合に非があるのはマサキの方だろう。
 しかし、搾り出すように話すキリトの言葉からは後悔と自責の念が滲み出ている。マサキはどうしたものか一瞬考えると、口を開いた。

「いや、誘いを断ったのは俺の方だ。キリトは悪くないさ」

 マサキは何とか文章を述べたが、それは彼の知能指数からすればあまりに月並みなものだった。それほどまでに、キリトの言葉はマサキの想定を超越していたのだ。

「本当に済まない……。俺に出来ることなら、何でもするから……」

 キリトはその言葉にも全く反応せず、ただ申し訳なさそうに頭を下げ、謝り続ける。文末の最後に「許してくれ」の一言がなかったのは、“自分のしたことは償いなしに許されるべきではない”というキリトの考えの表れだったが、マサキはそれにも気付かない。何とか思考を冷却させようと一度大きく息を吐き出し、背もたれに体重を預ける。

(さて、どうするべきか……。この様子だと、「大丈夫だ」って言ったところで意味はないだろうしな。――いや、これは上手くすればチャンスになるな)

 マサキは思い付きを試すべく、今までよりも真剣な顔でキリトに向き直って、再び話し出す。

「――キリト、お前の気持ちは分かった。でも、別に俺はお前を恨んでなんかいない」
「……でも、俺はそれじゃあ駄目なんだ! ……頼む、マサキ。俺に……罪を償わせてほしい」

 先ほどよりも懇願の色が濃くなったキリトの言葉に、マサキは数秒間、右手を顎に当てて考えるしぐさを見せた後、ゆっくりと頷いた。

「……分かった。それじゃあ、お前には一つ要求を呑んでもらう」
「……分かった。何なりと言ってくれ」

 ここでようやくキリトは顔を上げ、まっすぐマサキを見る。マサキもキリトの瞳を見据え、話を続けた。

「キリトには、これから俺がβテスト時の情報を要求したとき、絶対に答えてもらう。例えそれがどんなものであろうと、だ。異議は認めない。以上」
「え……?」

 今度はキリトが驚く番だった。何せ、一歩間違えれば、マサキはいつ死んでいてもおかしくなかったのだ。確かに彼の見せたセンスは他人のそれよりも頭抜けていたが、だから安全という訳ではない。現に、既に千人以上の人間が亡くなっていて、その中には今日のキバオウが言っていたように、他のMMOでトップを張っていた連中も混ざっている。そのことを考慮すれば、マサキにはもっと重い罰を自分に与える権利があるはずで、実際、キリトは例えアイテムとコルを全て渡せと言われても、それに従うつもりでいたのだ。

「二度は言わないぞ」

 あからさまに困惑しているキリトに対し、マサキは穏やかな微笑と共に告げる。すると、マサキの予想通りにミスリードされたキリトは、肩を震わせながら掠れた声で何かを呟いた。あいにくとそれはマサキの耳には届かなかったが、マサキの目は、キリトの唇が「ありがとう」の音を出すときの形に動いたのを見逃さなかった。


 翌日、マサキとトウマが三度噴水広場に向かうと、既にそこにはキリトとアスナの姿があった。ここでマサキがちらり横目で隣を見ると、一瞬だけトウマの表情が崩れるのを視界の端で捉える。アルゴの時もそうだったが、どうして彼は二人の時とこうも態度が違うのだろうか。マサキとの初対面の時も似たようなものではあったが、あの時は一日でかなり変わった以上、ただの人見知りだということは考え難い。そのほかにもう一つ、マサキとしては見当を付けていたのだが、どうにも理由として弱い。考えられなくはないのだが、それだけでここまで弱気になるのかと問われれば疑問が残る。

(まだ情報が少なすぎるか)

 マサキは今の段階で結論を出すことを諦め、思考中にすぐ近くまで辿り着いた人物の肩――もちろん片手直剣使いの方だが――に手をかけ、振り向いたところで挨拶を交わす。相も変わらず線の細い顔からは、昨日の不自然さはもう感じられなかった。

 その後、しばし四人でボスについて話し合っていると、茶髪をいくつもの棘状にカスタマイズした男性が、招かれざる客としてこちらにやってきた。

「おい」

 こちらも以前と変わらず非友好的な濁声。キリトが振り返ると、そこに立っていたキバオウはただでさえ人相の悪い顔をさらに憎々しげに歪めながら四人を睨みつけ、いつもよりも一層低い声で言った。

「ええか、今日はずっと後ろに引っ込んどれよ。ジブンらは、わいのパーティーのサポ役なんやからな。大人しく、わいらが狩り漏らした雑魚コボルドの相手だけしとれや」

 言いたいことを散々一方的にのたまった後、キバオウは仮想の唾を道に吐き出してから身を翻した。

「…………」
「……何、あれ」

 マサキがおどけたように肩をすくめる隣で、アスナが呟いた。彼女の視線にキリトが気付き、口元を引きつらせる。よっぽど恐ろしい目をしているんだろうと思いつつ、マサキが逆サイドのトウマに目をやると、案の定彼の顔は恐怖と不安に揺れていた。
 今日のボス戦に影響が出なければいいが、とマサキは不安に思ったが、突如発生した歓声がその思考を吹き飛ばした。
 見れば、ディアベルがいつも通りの美声を中央で張り上げ、それに呼応して周りから歓声と拍手が地鳴りのように響き、一気に広場を包む。マサキも耳を塞ぎたい衝動を必死に堪え、最初は騒音で、続いてもう一つの理由で顔をしかめた。すると、キリトも同じことを考えたのか、真剣な表情でマサキにささやく。

「……マサキ、トウマ。――どう思う?」
「緊張を取るのはいいが、少しやりすぎだな。もっとボス戦の回数を重ねてからなら分かるが……今の段階でそれをやるのは時期尚早だ」

 マサキが叩いていた手を止めて答えると、トウマも真剣そうに頷いた。まだ熱狂の渦に呑み込まれている観衆を見回すと、後方のエギルたちB隊だけは緊張感を保っている。
 マサキは彼らに対する信頼度を少しだけ引き上げて、再び中央に視線を戻す。ディアベルが張り上げた声に続いて湧き上がった歓声は、マサキの脳裏で何故かデスゲーム初日の絶叫を想起させた。
 
 

 
後書き
次回、ようやく戦闘パートに入りますので、お楽しみに。
ご意見、ご感想などありましたら、感想版にてお気軽にどうぞ。 

 

経験は毒針に

「――行くぞ!」

 先ほどの演説よりもやや緊張感をまとった声を上げながら、ディアベルが目の前に立ちはだかる巨大な二枚扉を押した。内部の空間との境界は、油を差していない機械のような音を出しながら、ゆっくりと、重そうに開かれ、四十六人の全メンバーが、事前に決められた順番通りに隊列を組んで侵入していく。

 ――広い。
 メンバーの中で最後に部屋に入ったマサキの第一感想はそれだった。重厚な扉の向こう側に広がっていたのは、左右が約二十メートル、奥行き約百メートルの長方形の空間で、マサキの予想よりもかなり広かった。これでは、もし万が一のことが起こった場合でも、撤退は難しいかもしれない。
 マサキが眉間に皺を寄せて考えていると、それまで真っ暗だった部屋の両横に設置されたたいまつが、唐突に燃え上がった。オレンジ色の光がゆらゆらと揺らめきつつ、部屋全体を染めていく。やがて部屋の反対側に巨大な玉座とそれに腰掛けたシルエットが浮かび上がり――。
 巨大な鬨の声と共に、パーティーメンバーが走り出し、マサキもトウマ、キリトと目配せをすると、互いに頷きあって近くに出現した《ルインコボルト・センチネル》に向かう。


 先陣を切ったのはキリトだった。相手がこちらを向く前に一気に飛び出し、即座にターゲットを取る。そのまま間合いを詰めたところでセンチネルがハルバードを振り下ろすが、キリトは冷静に、流石の反応を見せ、《スラント》で振り下ろされた戦斧を跳ね上げた。同時にスイッチを宣言し、軽やかに飛びずさる。そしてそこへ、フーデッドケープの細剣使い、アスナが飛び込んだ。

 華麗。その一言に尽きる戦い方だった。このパーティーの中で、マサキは脳内で唯一の不安材料として彼女を挙げていたのだが、どうやらそれは杞憂だったらしい。彼女が繰り出すのは細剣(レイピア)カテゴリで最も基本的な技である《リニアー》のみではあったが、その熟練度が凄まじい。マサキも、何も知らない状況で無意識に《ソードスキルのブースト》というシステム外スキルを扱い、今では速度を約二倍、時間で言えば約半分まで短縮できるようになったが、彼女のそれも、マサキに勝るとも劣らない。それどころか、総合的なスピードで言えば彼女の方が勝っている。尤もこれは、マサキの得物が曲刀なのに対して、彼女は細剣を愛用しているためであるが、その凄さの度合いが変わることはない。実際、マサキの見立てでは、彼女の速度は元βテスターであるキリトさえも凌駕しているのだ。

 アスナが神速の《リニアー》を放ち終えると、今度はトウマがスイッチで前に出た。ディレイから回復したセンチネルが再び振り回す戦斧を完璧な動作でパリィしつつ、隙を窺う。この世界での戦闘に一番特化したキリトのような戦い方でも、圧倒的なセンスを武器に立ち回るマサキやアスナのような戦い方でもない、無理をせず、まずは防御に徹し、そして現れた隙を逃すことなく仕留める、堅実な戦い方。昨日新しく買ったばかりの両手剣も、まるで長い間扱ってきたかのように使いこなせていて、見ていて安心感すら覚える。

「スイッチ!」

 数回目の打ち合いの後、センチネルの戦斧が高々と跳ね上がり、トウマがスッと引き下がった。マサキは即座にトウマとアイコンタクトを交わし、交代して前衛に入ると同時に《リーバー》を繰り出した。未だ高空に打ち上げられている戦斧には目もくれず、ただ弱点である喉元に赤い光をまとった刃を突き立てる。
 正確に弱点を貫いた攻撃は、先ほどのアスナの攻撃によって既に半分を割り込んでいたHPを、余すことなく削りきった。
 防御に慣れているキリトと防御が得意なトウマが隙を作り、速度に優れ、センチネルの弱点を突きやすいマサキとアスナがダメージディーラーの役割を担う。事前に四人で話し合っていた作戦が、しっかりと機能していた。

GJ(グッジョブ)
「そっちも」

 キリトの労いに対してアスナは短い言葉で、マサキはサムズアップで答えると、主戦場であるA~D、F隊と《イルファング・ザ・コボルトロード》との対決に目を向けた。彼らのHPはいずれも安全域であるグリーンに染まっており、時々攻撃を受けたプレイヤーのHPがイエローゾーンに達することはあるが、POTローテーションも安定していて、今のところ問題は全くない。
 マサキがそう考えたところで、ディアベル達のC隊が、イルファングの一本目のHPゲージを削り取った。途端に周囲のプレイヤーから歓声が上がり、否応なく士気を高める。マサキはトウマたちと合流し、新しく出現したセンチネルに向かって駆け出した。


 この“ソードアート・オンライン”がデスゲームと化してから最初のボス攻略は、順調すぎるほど良好な状態で推移していた。三本あったHPゲージは既に二本が削り取られ、残りは二本。そしてそのうちの一本は残量が半分まで減っている。このままいけば、間違いなく一人の犠牲者も出さずに勝利を収めることが出来るだろう。取り巻きであるセンチネルの駆除も、あぶれ班であるマサキたち四人の奮戦によって滞りなく進んでいる。撃破数ではマサキたち四人がG隊六人を上回り、E隊をイルファングへの支援に回す余裕すらできたほどだ。

「ハアッ!!」

 ここでアスナが何度目かの《リニアー》を撃ち、彼女の前方にいたセンチネルのHPゲージががくっと削り取られた。そのダメージによって更なるディレイがセンチネルに課され、動きを止める。マサキはチャンスと判断して一気に距離を詰め、《リーバー》でセンチネルを貫き、青のガラス片へと変えた。
 耳をつんざく甲高い破砕音を聞きながら、マサキは周囲を見回した。これで三回目に出現したセンチネルは全滅、ラストの出現まではまだ少し時間がありそうだ。そう考え、マサキはトウマ、アスナと合流し、そしてここで、キリトがいないことに気付く。
 マサキがもう一度ぐるりと辺りを見回すと、三人から少し離れたところにその姿が確認できた。が、キリトは何やらキバオウと話し込んでいる。

 ――汚い立ち回り、LA(ラストアタック)
 キリトとキバオウの談話を発見したマサキは咄嗟にキバオウの唇を読み、いくつかの単語を聞き取ることに成功するが、何の話かまでは聞き取れた部分が少なすぎて判断がつかない。横からトウマとアスナが、向こうに行くべきかと視線で問いかけてきて、マサキは無言のまま目を閉じ、ゆっくりと首を横に振って答えた。
 その後、ラストのセンチネルが出現したと同時に、キリトはこちらへ合流した。アスナが先ほどの会話の内容を質問するが、キリトは静かに首を横に振るのみ。
 とりあえずは自分たちの役割を遂行しようということにして、最も近くにいた一体に刃を向けて走り出そうとしたところで――、
 キリトが不意に立ち止まった。線の細い顔には明らかな動揺と困惑が滲み、両目は視界内で起きた事象の情報を少しでも多く捉えようとするかのように見開かれている。マサキが顔を動かすと、なぜかトウマも同じリアクション。不審に思ったマサキが彼らの視線を追いかけると、そこにあったのは今までと同じイルファング対メイン部隊の主戦場だった。

 ――いや、違う。
 マサキの脳は超人的な記憶力を以って数分前までの画像と今の画像とを照らし合わせ、相違点を洗い出した。即ち、ボスの持っている武器である。先ほどボスの残HPゲージが一本のみになり、その結果、ボスが暴走(バーサーク)状態に突入。攻撃パターンに変化が生じたためだ。
 しかしそれが何なのか、マサキは分からなかった。元々、ボスのHPゲージが残り一本になった時、イルファングの武器はそれまでの無骨な骨斧から湾刀(タルワール)へと変化することは“アルゴの攻略本”にも記載されており、その事実は彼らも知っているはずだ。だが、二人の驚きようは明らかに常軌を逸脱している。マサキはもう一度、探るような視線をイルファングに向けた。

(……やはり他に以前との変化はない。二人の思い過ごしか? だが、あの顔はどうもおかしい。何かありそうだが……)

 その時、マサキの脳裏で、チリッとスパークが弾けた。今まで感じていた違和感が徐々に形になって浮上してくる。マサキはさらに目を凝らして二人の驚愕の原因を探ていき――、ある一点で目が留まった。

(――いや、待てよ? あの武器は……!)

 湾刀と称するにはあまりにも薄い刀身を持ち、その刀身から放たれている光は、間違いなく鍛え上げられた鋼鉄のみが持つものだ。つまりあの武器は湾刀などではなく――、

「刀……?」

 ここで突如、マサキが発した疑問を遮って放たれたキリトの絶叫が、広いボス部屋に響き渡った。

「だ……だめだ、下がれ!! 全力で後ろに跳べーーッ!!」

 キリトが言うが早いか、イルファングの巨躯が地を揺るがして跳躍した。そのまま空中で体を捻って溜めた力を、着地と同時に一気に解放する。それと同時に出現した真っ赤なライトエフェクトは、見る者に鮮血を連想させた。

 その瞬間、マサキには全員の時間が止まったように思えた。攻撃を受けたC隊のプレイヤーたちの頭上には一時的行動不能(スタン)状態を示す黄色い光が取り巻き、その他のプレイヤーたちも、今起きたことを理解できず、ただ自らの処理能力を超えた情報の前に立ち尽く(フリーズ)している。
 やがて、プレイヤーたちよりも一足先にイルファングが長めの硬直から回復した。それにつられてようやくキリトの瞳に光が戻り、同時にエギル以下B隊の面々が援護に走る。
 しかし、そんな彼らを嘲笑うが如く、イルファングは手に持った刀――形状からして「野太刀」だろうか――を振り上げた。運悪く餌食となって高々と舞い上がったのは、ここまで部隊を牽引してきたリーダー、ディアベルだった。
 自分の体が空中にあることを悟ったディアベルは、必死に反撃のソードスキルを繰り出そうとポーズをとる。が、その体勢はあまりにも不安定で、システムがアシストを開始することはなかった。まるで今から喰らう獲物に対して舌なめずりをするように、イルファングが獰猛な笑みをその顔に刻み、数瞬遅れて再びその手に握られている野太刀を光がまとい、ディアベルの仮想体(アバター)を切り裂いた。

「チッ……!!」

 ここでリーダーを失えば部隊は大混乱に陥り、更なる脱落者が出るだろう。そしてそうなれば、もう二度とボス攻略部隊が編成されることもなくなり、この城からの正攻法での脱出が不可能になってしまう。そう考えたマサキは、ラストの突きが炸裂したのと同時に走り出した。吹っ飛ばされたディアベルの初速、高度、位置から落下点を即座に割り出し、プロ野球選手並みの見事なスライディングキャッチで飛来する騎士の体を受け止める。そしてポーチから取り出したポーションを口内に注ぎ込むが、真っ赤に染まったHPゲージの減少は止まらない。センチネルの処理をアスナとトウマに任せ、キリトを呼ぶ。ディアベルは、虚ろな目でキリトが走り寄って来るのを確認すると、二人だけに聞こえる、掠れた声で言った。

「……後は頼む、キリトさん。ボスを、倒」

 耳障りな破砕音と共にその姿を四散させた青髪の騎士が、その言葉を言い終えることはなかった。
 
 

 
後書き
最近少し短めの話が続いてしまっていますね。あまり一話が長いよりはいいかと思って細かめに区切っているのですが、いかがでしょうか?
もっと長いほうがいい! という方、おられましたらお手数ですが作者までお願いいたします。
他にも、ご意見、ご感想などございましたらお気軽にお書きください。 

 

希望を繋いだ勝利

「チッ……」

 自らの体を四散させたディアベルを見て、マサキは再び舌打ちした。“リーダーの死”という予想だにしなかった事態のために、辺りのプレイヤーたちの顔には一様に困惑と同様が浮かんでいる。それほどまでに、彼らはディアベルを慕い、頼っていたのだ。
 しかし、彼はこの世界から消えた。自分がこの作戦にどれだけ影響を与える存在なのかも分からずに。
 別にマサキとしては、彼がどこで何をしようと、極端に言えば死のうが生きようがどうでもいい。だが、彼の消滅という事態が自分に何らかの影響を及ぼすのであれば、それは傍迷惑以外の何物でもない。実際に、今この部隊は攻略続行か撤退かの二択を迫られている。もし退場したのがディアベルでなく、ただの一部隊員であれば、ここまでの混乱に陥ることもなかっただろうに。
 マサキはまたもや舌を打ちそうになり、首を振った。今考えるべきはそんなことではない。現在最も優先順位が高いのは、戦闘継続か撤退かの決定。そしてその決定を部隊全体で共有することだ。

(だが、これで撤退となれば更なる離脱者が出る。今後のためにもここは戦闘継続したいところではあるが……)

 思いながら、マサキはもう一度プレイヤーの顔を眺める。マサキの目が捉えたのは、困惑、動揺、不安、そして恐怖。誰一人として表情に戦意を滲ませている者はいなかった。一抹の期待を胸にキリトを見やるが、彼もまた何かに迷っているのみ。これでは継戦など夢のまた夢だ。何か士気を上げるカンフル剤でもあれば。あるいは、誰か一人でいい、強い戦意を持った者がいれば、この状況も打開できる可能性があるのだが。

(……やはりここは、さっさと撤退した方がよさそうか。となれば、殿(しんがり)は俺たちとB隊辺りが適任か……)

 マサキが瞬時に撤退のプランをまとめ、ひとまずキリトに提案しようと彼に目を向ける。しかし、つい先ほどまでそこにあったはずの姿は、いつしか数メートル先まで移動していた。――それどころか、キバオウに対して何やら話しかけているではないか。
 マサキがキリトの真意を探ろうと目を凝らすと、キバオウの小さな瞳に、微かな、しかし明らかな敵意がよぎった。そのままキリトは身を翻し、こちらに向かってくる。その表情には、揺るぎない決意の色が浮かんでいた。

(なら、やってやるとしますか)

 マサキは彼に同調することを胸の内で決めるが、一応の確認として尋ねた。

「どうするつもりだ?」
「彼の……ディアベルの遺志を継ごうと思う。だから君たちは……」

 「“部隊の最後部にて待機し、前線が持たなくなったら迷わず逃げろ”」。その文をキリトが発するよりも早くアスナとトウマが口を開き、キリトの言葉を遮った。

「わたしも行く。パーティーだから」
「俺も……何とかやってみるよ」

 ここで、キリトの中性的な顔がマサキの方を向く。マサキは何も言わず、ゆっくりと頷いた。それに対し、キリトは一瞬渋るような表情を見せたが、迷っている時間さえ今はないことに気が付いたのか、無言で体を回転させた。続いてマサキたち三人も体の向きを変え、足先を二十メートルほど先のイルファングへと向ける。そして、四人全員が同じ方向を向いたところで、一斉に走り出した。

(さて、どうしたものか……)

 走りながら、マサキは顔をしかめた。その横では、キリトも同じような表情を浮かべている。
 彼らの行く先は、攻撃を受けているC隊の怒号や悲鳴、絶叫で既に飽和していて、そこに「後方に退避」の命令が入り込む余地などない。つまり、必然的に彼らが最初に成すべきことは、その余地を作り出すことになる。そしてそのためには、彼らの叫びを打ち消すほどのインパクトを持った言動をする必要があるのだ。キリトのコミュニケーション能力ではあまりに期待薄だし、マサキにも、そこまでのことは咄嗟には思い浮かばない。
 マサキは走りながら脳をフル回転させるが、浮かんでこないアイディアにやきもきするばかり。仕方なく、ボスに痛烈な一撃を浴びせることによって間を作ろうと柳葉刀を構える。すると、突如現れた一筋の流星が、その間を運んできた。逆サイド、トウマを挟んで並走するアスナが、今まで顔を覆っていたフーデッドケープを邪魔そうに脱ぎ捨て、その美貌を明らかにしたのだ。

 そのあまりの美しさに、混乱の最中にいる者たちでさえ、息を、飛び出しそうだった絶叫を、呑み込んだ。そして生まれた沈黙は次第に広がり、ついには薄闇に包まれたボス部屋の全てを包み込む。

「……キリト、今だ」
「! 分かった!」

 部屋全体が静まり返った瞬間、マサキはキリトにささやいた。キリトははっと我を取り戻すと、大きく頷いた後に退避命令を出す。自分よりもキバオウ辺りに顔が知れていて、かつ今後ボスの攻撃から防御をするときに指示を出すことになるであろう彼の方が、命令役に向いているだろうというマサキの判断だったが、これが功を奏したようで、前線のC隊が後方へと走り出し、その中をマサキたち四人が逆流する。イルファングはC隊を追ってくるため、マサキたちとは正対する形になった。

「俺が防御を担当するから、三人で攻撃を頼む!」

 なおもボスに向かって足を動かしながら、キリトが短く説明した。残りの三人はそれぞれ頷くと、まず敏捷値に優れたアスナとマサキが、次いでトウマが鮮やかな剣閃を叩きつけ、イルファングの両わき腹を深々と抉る。連動してボスのHPが削られるが、流石に雑魚とは量が違う。削り取れたのは数ドットほどだ。
 その予想済みではあったがあまりにも小さいダメージに、マサキは一度顔をしかめるが、すぐに頭を振って邪魔な思考を追い出した。今そんなことを考えている暇はない。
 マサキがちらりと後ろを覗くと、今まさに振り下ろされた野太刀を、キリトが弾いているところだった。彼がボスの攻撃を相殺するために放っている一撃は、他プレイヤーのそれよりも明らかに速く、重い。彼が十日間かけて習得したという《ソードスキルのブースト》なるシステム外スキルを最大限利用しているのだろう。その甲斐もあって、彼は何度も襲い来るボスの攻撃を、全て弾き返すことに成功している。

 だが、マサキはそこに危機感を覚えた。たった一度のミスも許されないこの状況で、最大のブースト率を維持したまま正確に剣を振るうことは、脳にかなりの負担を掛けるはずだ。集中力はみるみるうちに削がれ、いつ終わるかも分からない攻撃は、彼の精神を着実に蝕んでいく。
 これがマサキなら、その超人的な情報処理能力を以って、どれくらいブーストすれば相殺できるのかを正確に割り出し、余裕を持って防御に徹することが出来るだろう。しかし、マサキは《刀》スキルの技を知らない。そして、今のイルファングの攻撃速度では、モーションを見てからでは反応できない。故に、今ボスの攻撃を処理することが出来るのは、βテスト時の膨大な情報を所持しているキリト以外にいないのだ。
 四人はゴールの見えない綱渡りを続け――、
 ボスの攻撃が十五回目を数えたとき、綱から奈落へと転落した。

 キリトがボスの繰り出した《幻月》の軌道を読み違え、下から跳ね上がった野太刀に切り裂かれたのだ。彼のHPゲージは三割以上も削られ、体は数メートル先まで飛ばされる。
 そしてここで、マサキとアスナがボスの懐へ飛び込んだ。硬直中を狙った基本的な攻撃。しかし、それが今回は仇となった。

「マサキ、駄目だ!!」

 トウマのいつになく緊迫した声に反応して上を見上げた時には、既に野太刀の刃が血色に染まっていた。
 ――確かあれは、ディアベルをリタイアに追い込んだ三連撃技……!
 マサキが記憶領域から眼前の技を引っ張り出したコンマ数秒の間にも、真紅に染まった刃は二人の頭上に向かって落ちていく。マサキは降りかかってくる刃を睨んで舌打ちしつつ、被弾を覚悟した上で柳葉刀を振り上げ、防御に移行しようとする。野太い叫びと共に、二つの刃の間に緑の光をまとった両手斧が打ち込まれたのは、その時だった。
 ボス部屋全体が爆発したかのような轟音と閃光が、それぞれマサキの目と耳を直撃し、不快な耳鳴りと眩暈を発生させる。

「くっ…………」
「マサキ! 大丈夫か!?」
「ああ、問題ない」

 くぐもった声を上げながら、マサキは駆け寄って来たトウマに左手を振って答え、まだ定まりきっていない焦点を後方に向ける。そこにいたのはチョコレート色の魁偉な容貌と、それに似合った両手斧を握ったB隊リーダー、エギルだった。
 彼はキリトに一言言った後にその巨躯を反転させ、ようやく澄んできた視界の中でにやりと笑い、言った。

「あんたらも、防御は俺たちに任せな。(タンク)には壁なりの意地ってもんがあるんでね」

 エギルの後ろで、B隊の面々が口々に同意の声を上げる。

「……そいつはありがたい」

 マサキは言いながら、他の三人に目を向ける。三人が視線で「大丈夫」と伝えてくるのを確認すると、ノックバックから立ち直り、どこか苛立ったような雄叫びを上げるイルファングに、三度向き直った。


 それから数分間、再び綱渡りの状況が始まった。防御を壁役の六人に任せ、マサキたち三人はひたすら攻撃に専念する。真正面と背後にだけは回らず、ボスの硬直を確認すると同時にソードスキルを叩き込む。キリトはエギルたちに次来る攻撃の種類を教え、六人はその通りに盾をかざし、防御に徹する。危うい戦法ながら、ボスのHPは少しずつ、しかし確かに減少を続けた。

 しかし、ボスのHPが三割を切った頃、またしてもハプニングがマサキたちを襲った。気の緩みからか、壁役の一人が足をもつれさせ、ボスの背後に向かってよろめいたのだ。近くにいたトウマが咄嗟に手を伸ばして体を引き寄せたが、その時には既にボスが囲まれ状態を認識、天高く舞い上がった。

「クソッ……!」

 マサキは毒づきながらも、この状況に対する唯一と言っていい対処法を、咄嗟に思い描いた。それは、トウマが両手剣を使い始める前に、一度だけ使ったことがあるソードスキル。

(あの技なら、確か空中の相手でも攻撃可能だったはず……!)

 マサキは、今その対処法が実行可能な唯一の人物に視線を投げた。するとその人物は、未だ全回復に至っていない自らのHPゲージも忘れ、既に飛び出している。
 マサキは全速力で走る彼の正面に立ち、両手を体の前で組み、腰を落として構えた。

「キリト、来い!」

 キリトはマサキを見つけ、一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、マサキに突進する。マサキは迫り来るキリトの右足が自分の両手の上に乗った瞬間、ステータスの許すありったけの力で、彼を上空へと放り投げた。ソードスキルのシステムアシストもあって砲弾のように射出されたキリトは、一ミリの狂いもなくボスに向かう。マサキの脳が、キリトのスピードからボスとの交錯点を正確に割り出し、彼の質量から手を跳ね上げる強さを調整、理想的な軌道でキリトを射出した結果だった。

「届……けェーーッ!!」

 キリトの叫びの後にボスの体を切り裂いた切断音、さらに続いてイルファングのうめきが部屋全体にこだました。数秒後、姿勢を大きく崩したイルファングが背中から床に落下。盛大に手足をばたつかせ、自らが《転倒》状態にあることを見る者に伝える。一足遅れて着地したキリトは地に足をつけるや否や、全プレイヤーに向かって叫んだ。

「全員――全力攻撃(フルアタック)! でも、念のため囲むな!!」

 その言葉に、今まで防御に徹さざるを得なかったB隊の面々が、その鬱憤を晴らすかのように雄叫びを上げた。マサキたちも頷き、一気にボスへ肉薄。エギルたちと共にソードスキルを叩き込み、HPゲージを削り取っていく。

 ――いける。このまま、このボスを倒せる。
 ボスを取り囲む全てのプレイヤーがそう確信し、一度振り下ろした武器を追撃のために振りかぶる。そして、その武器を淡い光が包もうとした、その時だった。
 爛々と光るその赤い瞳が怒りに包まれたように輝き、今までただ四肢をばたつかせるだけだったイルファングが、突如立ち上がった。その動作が余りにも突然だったため、キリトの判断も一瞬だけ遅れてしまう。そしてその一瞬に、イルファングは反撃のソードスキルを放った。

 刀スキル水平範囲技、《空斬(そらきり)》。前もってボスを囲むことは避けていたため、《旋車》が発動して全員が被弾、という最悪の事態は免れたが、それでもパーティーの大多数が被弾、後退を余儀なくされた。

「くそっ……!」

 ぐるる、と獰猛な笑みを浮かべるイルファングに向かって吐いたキリトの声を聞きながら、マサキはボスの頭上、赤く輝くHPバーへと視線を投げた。残りは僅かに五%ほどで、マサキたち四人で攻撃すれば、一度で撃破出来るだろう。

(今の俺のHPなら、処理を間違えなければ一度や二度斬られたくらいでゼロになりはしない。……なら、これからのためにも一度試しておくか)

 マサキは脳内で決定を下すと、キリトに近寄って言った。

「俺が斬り込むから、三人で続いて攻撃を頼む」
「そんな、最初が一番被弾しやすいんだぞ!?そこは俺が……」

 マサキはその言葉に首を横に振り、冷静に続ける。

「いや、俺にやらせてほしい。少し、試しておきたいことがあるんだ。大丈夫、皆に迷惑はかけない」
「…………分かった」
「なら」

 ここで、今まで静観していたトウマが口を開いた。その顔にはかなりの不安と恐怖が滲んでいるが、同時に、それよりも強い意思の色が浮かんでいた。
トウマは一呼吸置いて、少しだけ震えた声で話し出す。

「……俺も、マサキと一緒に行かせてくれ」
「……いいだろう。何かあった時にはカバーを頼む 」
「分かった」

 トウマは頷くと、その体をイルファングへとゆっくり回転させる。唇は震え、体の動きは硬く、不自然だ。
 だが、マサキにはなぜそんなになるのか分からなかった。緊張や恐怖によるものであるのは間違いないだろうが、今までの戦闘中、ここまで彼が恐怖に呑まれたことはない。むしろ、そんなものは微塵も感じさせない、熟練した戦いぶりだったのだ。

 しかし、そのことを問いただしている時間はなかった。正面のイルファングは怒りの雄叫びを上げ、今にもプレイヤーに襲い掛かろうとしている。マサキは無駄な思考を脳内から追い出すと、改めてボスを一瞥し、走り出した。

 一気にステータスの許す最高速度まで達したマサキは、視線の先のイルファングに、自らが持つ集中力の全てを向けた。視界が狭まり、時間の流れが緩みだす。が、それにもマサキは気付かない。それほど、彼はボスの一挙手一投足に集中しているのだ。
 やがてボスが迎撃のソードスキルを発動させるべく、野太刀を振りかぶる。そしてそれを確認した瞬間、マサキの脳がさらに回転速度を引き上げた。
 視覚よりデータとして得られたイルファングの筋肉の収縮具合が、マサキの脳内でいくつもの方程式に置き換わり、それらの全てに一瞬で解が与えられていく。与えられた解は再び筋肉の形に組み合わさり、イルファングの数瞬後の腕の位置を導き出した。

 これが、先ほどマサキが言った“試してみたいこと”。即ち、人体工学に基づき、筋肉の収縮具合から敵の繰り出す技を予測する、というものだった。
 マサキは導かれたボスの攻撃予測に従い、手にしている柳葉刀を頭の上で地面と水平に構えた。数瞬後、その予測と寸分違わぬ位置を野太刀が通過し、マサキが構えた柳葉刀と激突した。だが、マサキは柳葉刀を握る右手に、力を込めていなかった。ボスの野太刀に差し込まれる形で、みるみる剣の位置が下がっていく。
 だが、これもマサキの狙い通りだった。二つの刀が自らの額に当たる寸前、マサキは限界まで振り絞った力で自分の剣を押し上げる。筋力値はボスのほうが高いため、さらに強い力で刀が押し込まれるが、マサキは体を右にずらすと、生まれた反動を利用して身を捻りつつ飛び上がった。そのまま振り下ろされた刀に右手を突き、さらに空中で一回転してボスの上腕へ着地。硬直で動けないボスの体を駆け抜け、最大限に威力をブーストした《リーバー》で眼帯に覆われた右目を貫いた。イルファングのHPがさらに数ドット削れるが、それだけでは終わらない。一瞬遅れてトウマが、さらに続いてアスナがイルファングの両脇腹を抉り、止めとばかりにキリトが片手直剣で右肩口を切り裂く。

 着地したマサキが聞いたのは、数秒前までイルファングだった青いガラス片が一気に四散した、破砕音だった。
 
 

 
後書き
ご意見、ご感想など、ございましたらお気軽にどうぞ。お待ちしております。 

 

Determination of black

 ボスであるイルファングと、その取り巻きであるセンチネルが甲高い消滅音を残してその姿を広大な部屋に散らしたのを最後に、まるで時が止まったかのように、部屋を静寂が包み込んだ。
 部屋を覆っていたオレンジの光が黄色へと移り変わり、こもった熱を何処からか吹き抜けた風が洗い流す。
 マサキは柳葉刀を鞘にしまうと、大きく息を吐き出して、両のこめかみを揉んだ。頭が重く、数秒ごとに軽い鈍痛が響く。

(ま、こうなるか)

 マサキはなおもこめかみを押さえつつ、納得した。いかに超人的な脳を持つマサキであっても、筋肉の伸縮具合の演算から攻撃を予測する、などといったこと実行すれば、脳にそれなりの負担が掛かる。何度も連続で使用した場合、脳の回転速度は確実に落ちていくだろう。

 だが、マサキはそれについて、特段憂慮していなかった。
 第一に、この方法で敵の攻撃を見切らねばならないのは、その攻撃を見るのが初めての場合のみだ。二度目からは、前回までの記憶から記録(データ)を参照することによって予測が可能になる。予測制度を高めるためにこの方法を併用することはあるだろうが、この方法のみの場合よりも、精度、速度、そして脳への負担の全てにおいて遥かに性能は上昇するはずだ。
 第二に、この程度の能力の低下は、マサキにとって微々たる物でしかない。確かに思考速度は数分前と比べて下がっただろうが、それでも常人のそれを遥かに超えている。それくらいの能力の低下よりも、一度の使用でどれだけ負担が掛かるのかの情報を得ることが出来たことの方が今回は明らかに大きい。
 そして第三に、マサキは脳の疲労には慣れている。ホワイトハッカーとして大掛かりな、あるいは困難な依頼を請けたときには、今よりもずっと激しい疲労に襲われたことが多々あった。それほどではなくても、依頼をこなした後はある程度の疲労は当たり前だったし、その状況で更なる仕事をこなすことも珍しくはなかった。故に、マサキは疲労との付き合い方も、またどうすれば効率よく疲労を取ることが出来るのかも、経験則として知りえている。そしてその知識に従えば、今の疲労はそれほど意識して休息を取らずとも、一晩寝れば確実に取り除けるくらいのもの。過剰に気を配れば、その分だけさらにいらぬ疲労を重ねてしまう可能性もある。
 マサキはそこまで考えたところで思考を収束させ、こめかみを掴んでいた手を下ろした。この時点で、既に鈍痛は跡形もなく消え去っている。マサキは振り返り、未だ静寂に呑み込まれているプレイヤーたちと、その先頭で片手剣を振り上げているキリトに視線を投げた。表情はどれも同じで、本当にボスを倒せたのかという不安とボスが復活するのではという恐怖が渦を巻いている。

 やがて、時が停止したようにも感じられる静寂の中を、一つの白い手が動いた。滑らかな光沢を放つその手は、すぐそばにあったキリトの手に触れ、硬直したままの剣を下ろす。その手の持ち主であるアスナは、部屋を彩る黄色の光で黄金に染め上げた栗色の髪を揺らしながら、そっとささやいた。

「お疲れ様」

 その言葉に、キリトの顔に浮かんだ不安と恐怖が一気に掻き消えた。代わりに、途方もない安堵感が胸中より湧き出てきて、彼の顔を染める。
 そしてそれを引き金に、システムはプレイヤーたちの眼前に、平等に一つのウインドウを出現させた。獲得経験値量、分配されたコルの額、ドロップしたアイテム。つい先ほどまで立ちはだかっていた障壁を打ち破ったという、完璧な証。
 それは止まった時を再び動き出させる動力となり、同時にプレイヤーの心に溜まった感情を爆発させる起爆剤となった。一拍の溜めを置いた後、喜びが歓声となって具現し、部屋を飽和させる。そしてここで、マサキの視界が急に暗転し、同時に圧迫感と重量感がマサキを襲った。

「うおっ!?」

 流石のマサキもこれには驚き、声を出してしまう。何とか視界を覆う暗闇を引っぺがすと、つい先ほどまで、マサキの横で他のプレイヤーと同じ表情を浮かべていたトウマの、爽やかな顔があった。

「やった、やったよマサキ!! 俺たち、勝ったんだ!!」

 叫びながら、トウマはさらに強い力でマサキに飛びつき、再び彼の視界を暗闇で覆う。その衝撃でマサキは数歩よろめくが、右足を後方で踏ん張ることによって何とか転倒を回避し、体勢を立て直す。なおも胸の上ではしゃぎ続けるトウマからマサキが脱出すると、今度はチョコレート色のシルエットが視界を覆った。シルエットは右拳を突き出しながらにやりと笑う。

「あんたも見事な剣技だった。コングラチュレーション、この勝利はあんたたちのものだ」

 マサキは咄嗟にビジネススマイルを浮かべ、拳をぶつけて対応する。そして、いくらか落ち着いたトウマも同じく拳を突き合せようとした、その時。
 今まで部屋を埋め尽くしていたものとは、全く逆のベクトルを持った絶叫が轟いた。

「――なんでだよ!!」

 裏返り、上ずったその絶叫は、この部屋に充満した勝利の余韻を一滴残らず吹き飛ばした。代わりに満ちた重苦しい沈黙は、部屋の気温が著しく下がったように錯覚させる。
 振り向いたマサキは、憎々しげにキリトを睨む一人のシミター使いを見つけ、姿を海馬に保管されている膨大なデータと参照した。
 ――確か、彼はディアベルがリーダーを務めるC隊の一員だ。
 見れば、シミター使いの後ろにはC隊のメンバーが勢揃いし、各々がキリトに対して深い憎悪の視線を向けていた。当のキリトは未だ目の前のシミター使いが誰なのか思い出せない様子だったが、シミター使いが次に発した言葉が、彼の記憶を呼び覚ました。

「――なんで、ディアベルさんを見殺しにしたんだ!!」

 ようやく、キリトは目の前の男が何者なのかを悟った。少しの間を置いて、今度は理解できなかった単語について尋ねる。

「見殺し……?」

 キリトと同じく、シミター使いが発した文の意味が解らなかったマサキは、じっとシミター使いの口元に視線を注いだ。
 ボス戦とは別種の緊迫感が漂い始めた空間で、唇を限界まで歪めたシミター使いが苦しげに叫んだ。

「そうだろ!! だって……だってアンタは、ボスの使う技を知ってたじゃないか!! アンタが最初からあの情報を伝えてれば、ディアベルさんは死なずに済んだんだ!!」

 涙が滲んだその叫びに、周りのレイドパーティーメンバーに動揺が広がる。そして、動揺と疑問が全員にまで浸透したとき、不意に一人のプレイヤーがキリトに走りよった。E隊を構成する一人である彼は、握り拳の中で一本だけ伸ばした人差し指をキリトに向ける。

「オレ……オレ知ってる!! こいつは、元βテスターだ!! だから、ボスの攻撃パターンとか、旨いクエとか狩場とか、全部知ってるんだ!! 知ってて隠してるんだ!!」

 その声に、更なる動揺が波のように広がる。それに呼応するようにしてC隊のシミター使いも何かを叫ぼうとするが、一人のメイス使いが手を上げてそれを遮った。そのまま冷静な声で続ける。

「でもさ、昨日配布された攻略本に、ボスの攻撃パターンはβ時代の物だって書いてあっただろ? だとしたら、彼の知識はむしろあの攻略本と一緒なんじゃないのか?」
「それは……」
「あの攻略本が、嘘だったんだ。アルゴとか言う情報屋が、嘘の情報を教えたんだ。あいつも元βテスターなんだから、タダで情報を教えるはずがなかったんだ!!」

 押し黙ったE隊プレイヤーの代わりに、シミター使いが叫んだ。

(まったく……)

 彼らの論理の、あまりの破綻ぶりに、マサキは心中で大きく首を横に振り、溜息をついた。一体、アルゴが嘘を教えたとして、彼女にどんなメリットがあるのだろう?
 《アルゴの攻略本》のように、信頼関係が築けていない相手に対して情報を格安で提供することは、化粧品メーカーが試供品を提供するように、新しい顧客を確保するという点において非常に有効な手段だ。しかし、その情報が偽りだった場合――今回はまさにそうなってしまったわけだが――は、築き上げてきた自身の信用を著しく損なう。そうなれば、客は減り、最悪の場合、彼女は職を失う。信用第一。マーケティングの常識である。
 そして、彼女はそれをしっかりと理解していた。その証拠に、マサキが “第一層ボス攻略会議”の情報を買ったときも、彼女は十分な裏を取り、情報の信頼度――即ち、その価値を一定のレベルにまで引き上げた上で提供した。その彼女が、未確認の情報を流布するというのは考えられない。
 それに、そもそもそんなことを考えずとも、彼女が故意で間違った情報を配布したわけではないことは、《アルゴの攻略本 第一層ボス攻略編》を読めば一目瞭然だ。ラストに書かれた赤いフォントの一文に、その情報があくまでβテスト時の物である旨が、はっきりと記されているのだから。

 しかし、マサキがその考えを口にすることはなかった。代わりに、我慢の限界が来たらしく、文句をつけようとしたアスナとエギルの肩を掴み、首を横に振る。

「何でなの?」

 アスナの瞳が烈火の如き怒りに燃えるが、マサキは表情一つ変えずに言う。

「あの状態になった人間に、何を言っても無駄さ。更なる屁理屈を塗り重ねるだけだ。それどころか、お前たちにまで火の粉が降りかかる結果になる可能性もある。……それでも行きたいと言うのなら止めはしないが、やめておいたほうがいい」
「……それでも」

 マサキの制止を振り切ってアスナが前に出ようとする。しかし、キリトは彼女を手で制すると、口元を獰猛に歪め、狂ったように笑い出した。

「ククク……ハハハハハハ!! 俺が元βテスターだって? あんな素人連中と一緒にしないでもらいたいな!!」
「な……なんだと……?」

 シミター使いは困惑の視線をキリトに向ける。キリトは同様に唖然としているプレイヤー全員を見渡し、さらにふてぶてしい表情を形作って続ける。マサキは切れ長の目を細め、(まばた)きもせずにキリトを見つめた。

「いいか、よく思い出せよ。SAOのCBT(クローズドベータテスト)は、とんでもない倍率の抽選だったんだぞ。受かった千人のうち、本物のMMOゲーマーが一体何人いたと思う。ほとんどはレベリングのやり方も知らない初心者(ニュービー)だったよ。今のあんたらのほうがまだしもマシだ」

 突如起こったキリトの演説に、四十三人の観衆はただ息を飲み、彼の言葉の行く末を探ろうとする。キリトは、浮かべている笑みの温度をさらに下げた。

「――でも、俺は違う。俺はβテスト中、最も高い層まで登った。ボスのスキルを見切れたのは、上の層でカタナを使うMobと散々戦ったからだ。……他にもいろいろ知ってるぜ、アルゴなんか問題にならないくらいにな」

 キリトが言い切ると、再びその場を沈黙が支配した。皆、呆気に取られて言葉が出ないのだ。
だが、どれくらい経ったときだろうか。真っ先にキリトを糾弾したE隊のプレイヤーが、またもや掠れ声でキリトをチーターと罵った。そして、それにつられ、周囲の者たちからも、チーターやチートという単語が放たれた。やがてそれはβ(ベータ)と混ざり、《ビーター》なる奇異な単語が何処からともなく生成される。

「《ビーター》。いい呼び名だな、それ。……そうだ、俺は《ビーター》だ。これからは元テスターごときと一緒にしないでくれ」

 言い放ったキリトに対し、マサキは賛嘆の念を視線に乗せて送った。――自らがβテスターへの敵意を全て背負うことにより、他のテスターへの非難を防ぐ。もし仮に、新たな《ビーター》が複数人現れたとしても、新規プレイヤーとの間には圧倒的な知識やプレイヤースキル、そして恐らくレベルにも大きな開きがある以上、むやみにPKされる危険性は少ないと見積もっていい。その上、憎しみとは、時に大きな原動力となる。うまい具合に作用すれば、新規プレイヤーのレベルやプレイヤースキルの向上を速め、ひいてはこのゲームの攻略にも大きくプラスの貢献をすることになるだろう。
 尤も、それはプレイヤーたちからの敵意を一身に背負うことの精神的負担を考えなければの話だが。

 感心するマサキと開いた口が塞がらないプレイヤーたちをよそに、キリトはウインドウをタップした。次の瞬間、今まで彼の体を包んでいたダークグレーの革コートが光になって消え、まるで自らの存在を高らかに宣言するような、それでいて深い闇にひっそりと佇む光景をイメージさせるような、黒い膝下までのロングコートが現れた。
 コートの裾を翻し、キリトはマサキとアスナの間を横切ろうとして、一瞬だけ立ち止まった。そのまま顔を動かさずにささやく。

「……マサキ。その、ありがとう。許してくれて」
「…………」

 マサキは一瞬、「え?」と疑問の声を出してしまいそうになるが、何とか持ちこたえた。沈黙に続いて答えようとするが、それはキリトに遮られる。

「俺、今までずっと自分のこと責めてた。……もちろん今でも反省はしてるけど、昨日マサキが許してくれて、本当に救われたって言うか、俺でも皆のために何か出来るって思ったんだ。もし昨日のことがなかったら、今みたいな判断は出来なかったと思う。……本当にありがとう。また、何か訊きたいことがあったら、何でも言ってくれ」
「……言われなくてもそのつもりさ。知ってる情報、洗いざらい吐かせてやるから、覚悟しとけよ」
「そいつは恐ろしいな」

 予想外が続くキリトの言葉に、飛び出しそうになる「ただお前を利用しただけだ」の一文をぐっと呑み込み、代わりに彼が一番望んでいるであろう言葉を並べる。彼からの信頼をさらに強め、情報を引き出しやすくするために。
 マサキだけにしか見えないほど微妙に口角を吊り上げたキリトは再び歩き出し、王不在の玉座の後ろに設置された扉の向こうに姿を消した。同時に、パーティー解散を示すウインドウが体の前に現れる。
彼が最後に「初見のMobに殺される覚悟がある奴だけついてこい」と言っていたため、追いかけるものは誰もいな――くはなかった。ただ一人、先ほどその華麗な容姿をフーデッドケープから解き放ったアスナが、エギルとキバオウの二人と二言三言言葉を交わした後に、開かれた扉の向こうに見える螺旋階段を登っていく。マサキは彼女が何を話したのか少し気になったが、大したことはないだろうと判断を下し、誰からともなく入り口に向かい始めたプレイヤーたちの流れに乗って、体を翻した。顔だけを90°回し、何か言葉を発するわけでもなくただ突っ立っているトウマを促した。

「トウマ、行くぞ」
「え? あ、ああ……」

 歯切れの悪いトウマの足音が自分を追って響くのを確認し、マサキは部屋を出た。


 それから彼らが迷宮区を出るまで、さほど時間はかからなかった。そういう仕様になっているのか、それとも単に運がいいだけなのかは定かではないが、いずれにせよ、これは幸運だった。今のパーティーには、士気などあってないようなものだったのだから。

「……っ!」

 迷宮区を抜け出したマサキの網膜を、数時間ぶりの陽の光が灼いた。マサキは咄嗟に右手をかざし、瞳孔が閉じるのを待つ。三十秒ほどの間を置いてマサキが手を下ろすと、先ほど体内に入り込んだ光がついに胴体まで到達したらしく、胸の奥をちくりと焼いた。ふと振り返ると、空に消える迷宮区の塔が、さっきまでよりも、少しだけ眩しく見えた。
 
 

 
後書き
つぶやきの方にも書いたのですが、この小説のお気に入り登録数が100を突破いたしました!!
読者の皆様、誠にありがとうございました。

そして、これもつぶやきに書いたのですが、今僕は一人称の練習などを兼ねてオリジナルの短編を執筆しているのですが、この小説の扱いに困っております。もしよろしければ、皆様のご意見を頂戴したいと思います。どんなものでも構いませんので、ご意見を頂きたく思います。詳細に関しましては、つぶやきのほうに記載しておりますので、申し訳ございませんが、そちらをご確認ください。

http://www.akatsuki-novels.com/manage/mypages/ 

 

恐怖の元凶

 数時間前の戦意や闘志がすっかりと消え失せたトールバーナ中央広場に、どこか気の抜けた足音が響いた。先ほど、今は亡きディアベルの代役として、彼の率いたC隊の一員であるリンドが噴水の縁に登り、解散の声をかけたが、本来起こるはずであっただろう歓声や拍手は、遠くから鳴り響くNPC楽団による演奏の大きさとさして変わらないほどに貧弱で、とても攻略が成功したとは思えない。

「さて、俺たちも帰るか」
「…………」

 マサキは答えが返ってくる前に歩き出した。遅れて、無言のままにトウマが後を追う。戦闘後、トウマは終始無言で、その顔には時折ちらつく陰が浮き出ている。周囲のプレイヤーは彼の表情をボス戦の疲れによるものと解釈し、また自らも疲弊していたために、特に気にする素振りを見せることはなかった。
 しかし、これまでに何度もこの表情を見てきたマサキは、大きな懸念を抱いていた。
 今まで彼がこの状態になった時、そのほとんどは非戦闘中で、そのために戦闘への悪影響はほぼなかった。だが、これからもそんな幸運が続くという確証はない。もし彼が戦闘中に不安定な状態に陥り、修正が間に合わなかった場合、それがきっかけとなって二人ともゲームオーバー、などというBADENDも、十分に考えられうる結末なのだ。いくらマサキでも、目の前でそれなりに深い付き合いの人間が死んでしまう事態は、あまり寝覚めのいいものではない。そうなる前に原因を取り除くか、あるいは彼と別れる必要がある。

「トウマ、一体何があったんだ?」
「いや、何でもない」

 マサキが探りを入れるが、返ってくるのは要領を得ない返事ばかり。何か長文を話してくれれば、マサキの洞察力は真実の扉を少しでも開くことが出来るのだろうが、ここまで口数が少ないとそれも不可能だ。
 マサキはこれからを憂い、小さく溜息をついた。頭の中に渦巻く、いつもの自分との思考回路の差には気付かずに、宿への歩みを進める。この瞬間、マサキは今日を休養日とし、攻略は明日から望むことを決定した。
 マサキたちを見下ろす太陽は、既に半分ほど傾いていた。


 仮眠前に設定しておいたアラームがゆったりとしたロックを奏でるのを、トウマは重い布団の中で、目を開けたまま聞いた。素早くウインドウを操作して音を止め、しかし体は布団から抜け出そうとしない。
 部屋の外では、冬の短い日照時間が既に終わりを告げ、星のない闇が広がっている。夕食の時間が差し迫っている証拠だ。

 トウマは、硬いベッドの上で寝返りをうった。ちらりと瞳を移動させ、時計の針を見る。もう約束の時間まで、10分もない。

 ――いっそ、このまま隠し通してしまおうか。
 今まで何度も頭をよぎり、その度に切り捨ててきた誘惑が、かつてないほど甘いささやきをトウマの心に送り込んだ。その甘言に、心は今までで一番大きく揺らぎ、惑う。

 ――いや。
 トウマはその誘いを振り払うようにして跳ね起きる。彼が時折見せる言動から、彼の頭脳が相当に明晰だろうことは分かる。例え今隠したとしても、そう遠くない未来に、必ず見抜かれてしまうだろう。
それだけならまだいい。だがもし、その事実が周囲の者に露呈してしまった場合、自分だけではない、自分を開始直後のパニックから救ってくれた彼まで、(いわ)れのない誹謗中傷を受けてしまうかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならないことだ。今自分が行動を起こせば、まだ間に合うのだから――。
 トウマは震える心から勇気を振り絞り、宿一階の食堂へ繋がる階段を下りた。


 トウマが葛藤の末に食堂へ向かう10分ほど前、マサキは初期設定の無機質なアラーム音で意識を覚醒させた。設定をいじれば自分の好きな曲を流せるらしいが、所詮これはアラーム。起きられれば何だって構わない。マサキは一度伸びをすると、首筋に手を当てながら、トウマとの夕食を約束した刻限の15分前に食堂へ向かった。

「お待たせいたしました」

 ウエイトレスから受付までをこなす女性NPCが、湯気の立つコーヒーカップをマサキの前に置いた。彼女が一礼して下がり、マサキはコーヒーカップに注がれたカプチーノに口をつけた。

 久々となるコーヒーを胃に送りながら、マサキは少し顔をしかめた。
 このSAOでは、現実世界の飲食物のうち、ポピュラーなものは大体が再現されている。食べ物で言えばパンやサラダ、飲み物では紅茶やコーヒーなどだ。何故かその中に白米や緑茶が入っていないのは、この世界観を壊すと判断されたためか、ただ単に茅場が日本食を嫌っていただけなのか。
 茅場の真意は不明だが、プレイヤーの中には、その一点に対して相当な不安を持っている者が少なからずいた。彼らは戦闘の傍ら、「料理スキル」なるものをひたすらに上げ、白米の生産に挑戦したものの、熟練度が足りないのか、ことごとく失敗した。挙句の果てに、耐えかねたプレイヤーが暴動を起こしかけたのは、記憶に新しい事件である。

 閑話休題。
 マサキが不機嫌になった理由は簡単、カプチーノの味のせいだ。
 このSAOで料理を食べる手段の一つとしてNPCレストランが存在するわけだが、この質が酷い。今マサキがいるレストランはかなりマシな方だが、それでも現実で店をやっていけるレベルではない。今目の前にあるカプチーノも同様で、マサキが現実で飲んでいる、高級豆を高性能コーヒーサイフォンでじっくりと淹れたものとは天と地ほどの差がある。マサキは効率や合理性を重視するが、仕事中に飲むコーヒーは作業の精度に関わってくる物である為、こだわりを持っているのだ。

(まあ、ないよりはマシか。アルゴの情報だと、層が上がれば質も良くなるらしいし)

 渋い顔をしながらも納得し、マサキは一度カップを置く。すると、視線の先にあるドアが開き、何やら思いつめた表情のトウマが姿を表した。彼はいつもより少し遅めの歩調でマサキの座るテーブルへと近付き――、だが、いつものように対面に座ることはなかった。テーブルの真横で立ち止まり、真剣な表情でマサキを見下ろす。その爽やかな顔立ちに、最大の不安を映しながら。

「……マサキ、話がある」
「聞こう」
「……パーティーを解消してほしい」

 その一言で、二人の間に流れる空気が一気に張り詰めた。マサキは突然の依願に少しだけ切れ長の目を丸くしたが、すぐに持ち直し、探るような視線をトウマに向ける。

「理由は?」
「……俺は、マサキと一緒にいちゃいけない奴だから」
「抽象的すぎるな。……とりあえず座れ」
「嫌だ」
「…………」

 トウマはマサキの提案をはっきりと拒絶した。ここで座ってしまったら、二度と立ち上がれない気がしたから。
 マサキはカプチーノを飲むことで間を取ろうとする。トウマは震える唇を必死に動かした。

「俺……実はビーターなんだ」

 「ビーター」。トウマが確かに発したその単語が、緊張の糸をちぎれる寸前まで引き伸ばした。立っている足は震え、心臓はいつ破裂してもおかしくないほどに鼓動速度を速め。そして頭の中では、ゲーム初日から色あせない濁声が、延々とリピートされていた。


 トウマの突然の宣告にも、マサキは顔色一つ変えなかった。トウマが不安な表情を覗かせるのは、大抵がビーター、あるいは元βテスター関連の話のときだったため、その辺りにNGワードが潜んでいるであろうことは、もう数日以上前から予測していたからだ。
 ――だが。
 マサキには予測は出来ても、理解は出来なかった。元テスターであることを糾弾されるのが怖いのは分かる。だがそれを差し引いても、彼の怯えようは明らかに想定される範囲を超えている。
 マサキはもう一口カプチーノを口へ運ぶと、不安を全身から放出しているトウマに尋ねた。

「何があったのか、話せるか?」
「……ああ」

 僅かの時間の後、トウマは立ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。


『……以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の――健闘を祈る』

 僅かな残響を残して、がらんどうの赤ローブが消えた。それは現れたときと同じく唐突で、今起きたことが現実なのか、一瞬判断がつかない。

 ――出来ることなら、夢であってほしい。
 しかし、その願望は、トウマよりも早く現実を認識したプレイヤーたちによって打ち砕かれた。広場のあちこちから上がった悲鳴や怒声が、今目の前で起きていることが紛れもない現実であることを、強制的に頭の中に叩き込んでいく。

「ああ、あ……」

 痙攣した声帯はまともに声を出すことさえ出来ず、漏れ出たのは掠れた響きのみ。四肢から力が抜け出て、トウマは力なくその場に座り込んだ。喉がカラカラで、一瞬だけ漏れ出た叫びも、もう発することが出来ない。『脳を破壊し、生命活動を停止させる』という一文だけが、脳内を一人で突っ走る。
 そして、トウマの脳内を駆け巡る不安や動揺が光速に達し、意識がショックで意識が遠のきかけた頃。広場で一つだけ、他とは違う声色の叫びが上がった。

「……そうや! βテスターや!!」

 いきなり轟いた濁声に、広場はしんと静まり返り、全員が小柄な男に注目を浴びせかける。男は興奮した面持ちで告げた。

「クローズドβテストに当選したモンがこん中にもおるはずや!  そん知識があれば……死なずにすむかも知れへん! 誰か、ワイらに攻略法を教えてくれ!!」

 「お、おい。それって……」「俺たち、生きれるのか……?」「βテスター! βテスターはどこだ!? 早く出てきてくれ!!」
 悲壮感が懇願へと変わった叫びが徐々にその大きさを増し、はじまりの街中央広場に飽和する。
 トウマはすぐにでも手を上げようとする。しかし、隣の男性が放った言葉が、その手の上昇を止めた。

「頼む! 出てきてくれ! 俺たちを守ってくれ!!」

 トウマははっとして、そこかしこから上がる声に耳を傾け、そして気付いた。彼らの叫びは、自分を死なせないでほしいということ。つまり、今ここで手を上げれば、この広場に残る約9000人を守りきる義務が生じるということなのだ。
 そこに意識を向けた瞬間、伸ばしかけた手が嘘のように上がらなくなった。トウマは必死に手を動かそうとするが、9000人の命の重みがそれを妨げる。それでもトウマは格闘を続けるが、その間にもう一度響いた濁声が、手の動きを完全に止めた。

「……何でや! 何で出てきてくれへんのや! βテスターは何処に行きよったんや!?」
「…………あっ!!」

 涙混じりになった声の後に、思い出したような叫びが続いた。βテスターを探そうとする目が、全てその男に向けられる。

「そういえば、俺、街の外に向かっていく奴を見た! それも、演説が終わってすぐに!!」
「それ! 俺も見た!! きっとテスターだ!」

 「私も! 向こうへ走ってった!!」「俺もだ! 二人組みだった!!」などという発見報告が続く。そして、再び絶望感が滲み出た声が、決定的な一言を投じた。

「じゃ、じゃあ……。テスターは俺たちを……見捨てた、のか?」

 その瞬間、広場を包んでいた高揚感は一気に消え失せ、何人ものプレイヤーが膝から崩れ落ちた。一縷(いちる)の望みを託して残っているテスターを探そうとするものもいるが、彼らの上げる叫びに返事が返ることはなく、叫びは絶叫に、そして次第に怒号へと移り変わっていく。

「クソッ、クソッ!! 出て来いよ、βテスター!! この卑怯者!!」
「お願い! 助けて!! ……何で!? 何で出てきてくれないの!?」
「俺たちが見捨てられたからだよ!! あいつら、持ってる知識で自分だけ強くなるつもりなんだ!!」

 一度燃え上がった怒りの炎は留まるところを知らず、みるみるうちに膨れ上がっていく。

「あ……ああ、あああ……」

 四分の一まで上がっていたはずのトウマの手は、この時点でもう地に着いていた。この集団の中で自分だけが孤立しているという不安と恐怖が加速度的に膨張し、トウマを呑み込んでいく。
 そして、その恐怖が最大になった瞬間、トウマは全速力で広場から逃げ出した。 
 

 
後書き
変なところで切ってすみません。予想以上に話が伸びて、字数が大変なことになってしまいそうだったので……。
やっぱり、プロットをもっと細かく作ったほうがいいのかなぁ……。 

 

救われた出会い

「はあっ、はあっ……!」

 狭い裏通りの石畳に、乾いた足音が速いテンポでこだまする。それらは周囲の建物で反射し、複数個に分離、他人の足音に成りすましてトウマの鼓膜を揺さぶる。その度にトウマは恐怖を感じ、首を回すが、当然そこには誰もいない。しかし、トウマの心に植えつけられた恐怖と焦りはさらに強さを増して、足を止めどなく回転させる。

 そして、永遠に続くとも思えた一人鬼ごっこは、たった1分程度で終わりを告げた。限界まで達した焦りに苛まれた脳がトウマの足を臨界以上に動かそうとしたのだ。システムとステータスが規定した速度を超えようとした足は、まるで何かに導かれるように交差し、もつれ、トウマの体を石畳に投げ捨てた。

「はあっ……ゲホッ! ゴホッ!!」

 肺の中の空気が逆流し、この世界では必要ないはずの酸素を根こそぎ奪い取る。現実世界の惰性なのか、体は逃げていく空気を求めて喘ぐ。だがそれも空気の流れを逆流から停止までしか改善できず、存在しないはずの苦しさと吐き気が、トウマの胃と肺をきりきりと締め上げる。

 トウマは苦しさから抜け出そうと、必死に右手を伸ばす。すると、指先にひやりとした棒状のものが触れた。
 藁をも掴む思いでその棒を掴み、引き寄せる。握った棒が動くことはなかったが、代わりにトウマの体自体が引きずられ、ついに頭がそこに触れた。体を起こし、体重を預け、そこまでの間で少しだけ恢復した思考で、ありったけの息を吐き出した。肺を完全に空にしてから、今度は胸がはちきれんばかりに空気を体内へ送り込む。

 それが効いたのか、最大レベルで警鐘を鳴らしていた苦しさと空嘔(からえずき)も、今背中にあるものに意識を向けられる程度には治まった。振り向くと、どうやらはじまりの街南東のゲート付近まで来てしまっていたようで、トウマの背中を支えていたのは、テラスに設置された柵だった。その向こう側には、今は夜の闇に染まった空が際限なく続いている。
 そして、その底なしの闇は、数瞬忘れられていた恐怖を再び思い起こさせた。
 走っているときに何度も感じた、冷たい死神の鎌が首筋を撫でるような感触。
 ――逃げ出してしまった自分がβテスターであることを見抜かれ、追っ手を差し向けられたのではないか。そしてその追っ手が、今まさに自分を探して走っているのではないか。

 駆けているときに捨ててきた恐怖が今になって追いつき、トウマの心を支配した。それはトウマの中にあるいくつもの恐怖と不安を呑み込み、掛け合わさり、膨れ上がっていく。
 そしてついに、禁断の思考が、恐怖に支配されたトウマの心でその鎌首をもたげた。

(――ここから飛び降りれば、ゲームオーバーになりさえすれば、ログアウトできるんじゃ……)

 甘美で甘露な、しかし邪悪な悪魔のささやきが、トウマの心を根底からぐらつかせる。不明瞭な期待感が確証を得ない論理を補完し、完全無欠のように見せかける。
 そして、今のトウマに、冷静な判断力など望むべくもなかった。
 震える両手で柵を掴む。かしゃん、という金属音が響き、無機質ゆえの冷たさが掌の体温を奪う。トウマは柵から身を乗り出し――。

(……ッッ!!)

 こみ上げてきた恐怖感に負け、咄嗟に飛び退いた。一度落ち着いた息と心拍数は乱れに乱れ、掻き鳴らされる鼓動がトウマから音を奪う。音のない世界で、堂々巡りの思考が廻り始める。
 ――飛び降りたくない。けれど、一刻も早くここから逃げ出したい。
 二つの恐怖のせめぎあいに、トウマは柵に近付いては離れ、身を乗り出しては飛びずさる。
 そして、トウマが力なく柵の傍に座り込んだとき、彼にかけられた一つの言葉によって無限回廊(ループ)は壊されたのだった。


「何やってるんだ?」
「へ? う、うわっ!?」

 ――ついに追っ手が来たのか?
 そう考える暇もなく、トウマは慌てて立ち上がろうとして、あえなく失敗した。無理に力を入れた足の筋肉は、いつも支えているはずのトウマの自重に耐え切れず、膝からがくんと折れて後ろに倒れる。
 その後も何度か立ち上がろうとするが、足の筋肉は情けなく震えるばかり。ならばと痙攣する声帯を必死に動かそうとするが、言葉はおろか風切り音すら発せない。
 トウマがどうしようもなくなって俯くと、数秒後、その誰かの気配が近寄ってきたのを感じた。
 反射的に顔を上げる。
 すると、トウマの前に、一つの顔があった。輪郭線が細く、肌は白め。少し長めに切り揃えられた髪が、微妙に目にかかっている。パーツだけを見れば、暗そうな高校生といった感じ。トウマにも、こんな顔立ちをしたクラスメートには何人か心当たりがある。
 しかし、眼前の彼が浮かべる表情は、同級生のそれとは全く異なっていた。唇は直線で結ばれていて、髪の奥の瞳は冷たい光を湛えている。理知的、あるいはクールと形容するのが相応しいだろう大人びた表情は、トウマが知る同級生の、もっと言えば、今までに出会った人物が浮かべたもののどれにも当てはまらない。

 そしてトウマは、自分の思考がやけに落ち着いていることに気付いた。他の音が聞こえないほどうるさかった鼓動も、今は耳を澄まさなければ聞こえないくらいまで沈静化している。声帯の痙攣も止まったようで、今すぐにでも声が出せるだろう。たしか、物質の振動は温度とイコールだったから、彼の冷たい視線によって冷やされた体や頭の動きが止まったのだろうか。
 トウマは、頭の隅に残っていた物理の記憶を引っ張り出した。温度云々はともかく、どうやら、思考が横道にそれる余裕がでるくらいには落ち着けたらしい。
 トウマはゆっくりと息を吸い、言葉に変換して吐き出した。すると、さっきまで震えなかった空気が、まるでその性質が変わったかのように振動し、トウマの響きを伝えた。

「……お前も、ログアウトしに来たのか?」
「……ログアウト?」

 こちらを覗く切れ長の瞳が、驚きで丸くなった。彼は右手で口元を覆い、考える仕草をしながら視線をあたりのあちこちに向ける。やがて、彼の目が、今自分がもたれている柵で留まった。

「……なるほど。自殺しに来たわけか」
「自殺じゃない!!  このゲームがプレイヤーの復活をプログラミングしていないのであれば、プレイヤーがゲームオーバーになるということはログアウトすることと同義なんだ!! ……だから、だからこの柵を乗り越えてここから飛び降りれば……!」

 気が付くと、トウマは叫んでいた。同時に、自らに言い聞かせるような響きを帯びた言葉の数々が、放たれた瞬間にUターンしてトウマに入り込んでいく。入り込んだ言葉が荒唐無稽な安心感を心の中に植え付ける。

「無理だな」

 しかし、トウマの切実な思い込みを、その安心感もろとも、彼はたった四文字で打ち砕いた。

 トウマは反論しようとした。しかし、彼の四文字にはトウマの一万文字よりも強い説得力が宿っていて、思わずトウマは息を呑む。すると、彼はその四文字の根拠――自らが解析したというナーヴギアの構造とその役目を語ってみせた。


「……じゃあ、じゃあお前はどうしてここに?」

 彼の説明が終わって間もなく、トウマはそう尋ねた。ここははじまりの街南東のゲート付近であり、アイテムショップなどもない。普通に考えれば、フィールドに出る以外に立ち寄るような場所ではないからだ。

「武器の強化素材集めと、レベリング」
「なっ……!」

 彼はその問いに、さも当然そうに答えた。対して、トウマはあまりにも予想外な答えにのどを詰まらせてしまう。何か言おうと試みるが、様々な感情と言葉が複雑に絡み合い、開いた口の大きさを超え、唇に引っかかって出てこない。それらを何とか紐解き、合成するまでに数秒の時間を要した。

「ふざけてるのか!? ゲームオーバーになったら本当に死ぬって言ったのは、そっちじゃないか!!」
「別に俺は死ぬつもりで外に出るわけじゃない。さっきも言っただろ? 「武器の強化素材集めと、レベリング」ってな」

 トウマは怒り顔で言うが、彼はいたって冷静に返す。このSAOがデスゲームと化したことを理解しているのに、はじまりの街中央広場にいた者たちのように、恐怖に呑まれているわけではない。

「……何でお前はそこまでして危険な場所に向かおうとするんだ? ゲームを自分の手で終わらせたいからか?」

 素朴な疑問がトウマの口から飛び出した。それに対して、目の前の彼はゆっくりと首を横に振る。

「この街でじっとしているのは、俺の性に合わない。それが主な理由だ。――まあ、コルが尽きたら飢え死にするっていうこともあるがな」

 苦笑を浮かべて話す彼に、トウマはじっと見入っていた。そして、それと同時に一つの感情が心の奥底から湧き上がってくる。後ろ向きに寝そべっていた思考が徐々に身を起こし、前へ前へと傾いていく。
 ――彼の近くで、この世界を進む彼を見てみたい。彼がこれから起こす“何か”に、少しでも自分が関わってみたい――。
 もちろん、マイナスの思考も存在した。自分が死ぬことへの恐怖、自分が元テスターであることがばれないかという不安、そんなことをしなくとも、外部の人間が助けの手を差し伸べてくれるのではという、根拠のない期待。
 だが、それらがトウマの思考を再び後ろに引き戻すには、今のトウマの心はあまりにも前に傾きすぎていた。
 トウマは一つの決意を心に秘めて、石畳にだらしなく広がった両足に力を込める。すると、あれほど自分の言うことを聞かなかった体が、驚くほどにすんなりと動いた。
 そのまま立ち上がり、こちらを見ている彼と対峙する。
 そしてトウマは、自分の未来を決める決定的な言葉を放った。

「俺をパーティーとして連れて行ってほしい。……俺の名前はトウマだ」
「……分かった。俺はマサキだ」

 マサキと名乗ったプレイヤーの受諾に、トウマはこの世界に来てから一番の笑顔を見せた。すぐさまパーティーを申請する。それは、数秒も経たないうちに受諾された。
 ゲートに向かうマサキの後を、トウマは少し早足で追いかける。今、彼の中では、先ほどの恐怖や不安と同じく何の根拠もない、それでいてベクトルは正反対を向いている希望や自信で満ち満ちていた。



「――ということなんだ」

 トウマは十分ほどにもなる回想を終え、口を閉じた。マサキの手元にあるカプチーノも、立ち上る湯気がずいぶんと弱々しくなっている。
 トウマはウインドウを呼び出すと、古ぼけた木椅子に背を預けたマサキの前に、自分が持つ全てのアイテムとコルを出現させた。途端に、マサキの顔が珍しく驚愕に染まる。

「これで、俺が持ってるアイテムとコルは全部だ。初心者の強化にでも使ってほしい」
「何故?」
「何故って……キバオウが言ってただろ? 「βテスターは罪を償うために、溜め込んだコルとアイテムを提供しろ」って……俺、自分が元テスターだって告白しなきゃいけなかったのに、何も言わずにマサキを騙してた。だから――」
「馬鹿馬鹿しいな」

 マサキはトウマの言葉を遮り、吐き捨てた。四分の一程度になったカプチーノを呷り、カップを手に持ったまま、温められた息と共に続きを吐き出す。

「βテスターからアイテムや情報を搾取すればこの状況が改善されると、本気でそう思っているのなら、新規プレイヤーたちでパーティーを組み、ソロのテスターを一人ずつ襲っていけばいい。ボス攻略に集まった奴らのレベルなら、それも難しくはないだろうからな。……だが、そんなことをしたところで、何も変わりやしない。今度は新規プレイヤーの中で情報とアイテムの独占が発生し、争いが巻き起こる。攻略に参加できるプレイヤーの数は少なくなっていく一方。……全く以って傑作だな。ナンセンスにも程がある」

 マサキは言い切ると、カップをソーサーに置いた。陶器同士の接触音が短く響く。その音の波は空気を伝い、トウマを共鳴させた。

「それじゃあ俺は……俺は一体、どうしたらいいんだ!? 俺はもういちゃいけないのに、マサキにどうやって罪を償えばいいんだ!?」
「……なら、それを探せばいいんじゃないのか?」
「え……?」

 震え、涙交じりの声を上げるトウマに、マサキは向き直った。涼しげな瞳でトウマを覗き、平坦な唇を動かす。

「俺は向こう(リアル)で理論物理学者だった。そして、その世界じゃ、解らないことなんてそこら中に掃いて捨てるほど有り余ってる。……だから、考えるのさ。長い時間をかけて、小難しい数式を転がして、頭でイメージを思い描いて。一つの理論に何年もの時間をかけることだって、珍しいことじゃない。……お前はまだ、一ヶ月程度しか考えてないんだろう? ――だったら、今は保留にしておいて、また考えればいい」
「でも……」
「もう一つ。もし、お前が本当に俺と離れたいと思っているのであれば、自分のウインドウから一方的に解散を告げて逃げ出せばいい。もし俺からメールなり再結成の要請なりが来たところで、お前は拒否すればいいだけのことなんだからな。……そしてお前は、それをしなかった。つまり――」
「そうだよ!!」

 静かなマサキの声に、突如轟いたトウマの叫びが重なった。心の奥からは感情が堰を切ったように溢れ出し、涙と言葉になって飛び出して、空間に溶け込んでいく。

「俺……もっとマサキとパーティーでいたい。……しょうがないだろ? ずっと……ずっと心細くて……でも、マサキと一緒にいたときは、これ以上ないってぐらいに楽しくて……、親友がいるのがこんなに嬉しいことなんだって気付けたのに……」
「だったら、別に別れることもないだろう。人間って生き物は、どこかで無理をすれば、それだけ別の場所に(ひず)みが生まれるんだよ。嘘をつけば、それだけ心が悲鳴を上げる。心が悲鳴を上げれば、体が動かなくなる。これはお前も知っているだろう? 結局、嘘をついたところで、いいことなんて何もないのさ」

 マサキは冷静に言い終えると、カップに残っていた液体を飲み干し、立ち上がった。一瞬、トウマがびくりと体を震わせるが、躊躇うことなく、右手をトウマの肩に乗せ、ささやく。

「俺なら心配しなくてもいい。あの程度の輩なら、いくらでも論破できるからな。――とりあえず、ここで感情を全部出しておけ。明日から、また忙しくなる」
「!! ……マサキ……」

 マサキは最後にパーティー存続の宣言を残すと、レストランを出て、自分の部屋へと続く階段を登る。
 背後では、無人のレストランが作り出す静寂を、トウマの慟哭(どうこく)が彩った。


 ――相変わらず、薄っぺらい言葉だ。
 上からのしかかる体重にギシギシと抗議の声を上げるベッドの上で、マサキは口元を歪ませた。その形には嬉しさや喜びは全く込められておらず、代わりに嘲笑と嗤笑(ししょう)が浮かんでいる。
 そしてその笑いの裏で、マサキは自身の行動を分析にかけていた。

 普段のマサキなら、去っていこうとする誰かを引き止めることなど、間違ってもしないだろう。近付いてくるのもよし、去っていくのであれば、それもよし。それが、マサキが人と対峙するときのスタンスなのだ。
 だが、今は違った。マサキはトウマを引き止めるために、自身が持っている心理学の知識を最大限利用し、離れようとするトウマを必死に自分と繋ぎとめようとした。
 それだけではない。思えば、彼と出会ってからというもの、マサキは彼に対して、自分のものとは思えない反応をいくつも見せ、その度に自分が一番驚いてきた。そしてそれらの行動は、トウマという人物に対して、マサキがどれほどこだわっているのかということを如実に表している。今日の行動は、その際たるものだろう。
 ――何故自分は、彼にこんなにも固執しているのだろう?
 そう思った瞬間、マサキの喉の奥が、不意に渇きを訴えた。容器に入ったお茶をアイテムストレージから出現させ、口の中に注ぎ込む。食道を下っていくお茶が、触れた場所を満遍なく湿らせ、胃へと向かう。しかし、どれだけ水分を送り込んでも、喉の疼きは収まらなかった。
 仕方なく、マサキは夕食を食べ損なったことも忘れたまま布団をかぶり、目を瞑る。幸いなことに、眠気はすぐにやってきて、マサキは身を委ねた。
 徐々にまどろんでいく意識の中で、小さくならない喉の疼きと、トウマが食堂でのやり取りの中で発した“親友”という響きが、声高に自らの存在を主張し、マサキの脳を掻き回していた。
 

 

情報屋とストーカーは紙一重

 巨大なテーブルマウンテンを丸ごと掘りぬいて作られた第二層主街区《ウルバス》がプレイヤーたちに開放されてから、3日が経った。《はじまりの街》のものとは所々で差異が見られ、「新たな層に来た」という気持ちをプレイヤーに与えるBGMやNPCの衣装にも、段々と違和感を覚えなくなり、プレイヤー間の活気も落ち着いてきている。
 そんな穏やかな日の宵の口、マサキは転移門の前にいた。

「遅いな……」

 行き交う人々の雑踏の中で、マサキは小さく呟いた。いつも彼の隣にいる、スポーツ少年然とした顔の両手剣使いの姿が見えない。だが、彼はもうすぐ戻ってくるはずであり、マサキが今待っているのは、彼ではなかった。その証拠に、両手に紙でできた包みを持ったライトブラウンの頭がこちらに向かってくるのを、マサキは目の端で捉えていた。やがて、ライトブラウンの頭はマサキのすぐ前で止まり、手に持った包みの片方を渡す。

「お待たせ~。ほい、これ、マサキの分」
「ああ」

 マサキは差し出された包みを受け取り、表面の紙をめくる。すると、中から小ぶりのハンバーガー(もどき)が顔を出した。同時に立ち上ったスパイシーな香りがツンと鼻を刺激する。それにつられて胃腸が震度し、ぐるぐると音を鳴らす。マサキは素直に口を開けると、手に持ったハンバーガーに噛り付いた。低層なだけあってパンは固く、挟んである肉や野菜も決して上等だとは言えないが、スパイスが効いたエスニックな味付けは、現実では味わったことのない風味ながらなかなかに美味い。

「なかなかイケるな。……低層だからと言って、一概に馬鹿には出来ないということか」
「だろ? ふふん、βテストのときに見つけた穴場なんだ」

 そう言って、トウマは自分もパンにかぶりつく。
 マサキがパーティーを解散しようとしたトウマを引き止めてからというもの、トウマが浮かべる表情のうち、笑顔が占める割合が明らかに増えている。それも、今までに何度か見せた、引きつったような笑みではなく、喉に引っかかっていた魚の骨が取れたような、心の底からの笑顔だった。

(……どうやら、あれだけ薄っぺらい言葉でも、それなりの効果は見込めるらしいな)

 マサキが最後の一口を飲み込むと、喉の奥がちくりと痛んだ。同時に、同じ場所から水分が枯渇していく。
 マサキはストレージから水を取り出して、口をつける。すると、同じく食べ終わったらしいトウマが尋ねた。

「そういえば、まだ来ないのか?」
「ああ。もう十分は過ぎているんだがな……。あいつらしくもない」
「んー、まあでも、たまにはアルゴでも遅刻ぐらいするんじゃないか?」
「……とりあえず、もう少し待ってみよう。リストでも、追跡不可能(グレー)にはなってない」

 そう言って、マサキは取り出した水を再びストレージにしまい、待ち人――鼠のアルゴを待った。
 今日マサキが彼女と会うことに、特に重要な意味があるわけではない。彼女に依頼していた情報が手に入ったから、受け渡しをするというだけのことだ。さして重大な情報というわけではないため、マサキは「情報の受け渡しはメールでも構わない」と伝えてあったのだが、アルゴに拒否された。曰く、 「どんな情報でも、受け渡しはできるだけ直接。これは情報屋として譲れない掟なんだヨ!」らしい。
 と、いうわけでマサキは指定された場所に来ていたのだが……、肝心のアルゴがまだ来ていなかった。ボス攻略の時などに発行している“アルゴの攻略本”によって有名になったため、情報屋としては多忙な日々を送っている彼女だったが、何だかんだ言って仕事には真面目に取り組んでおり、今まで依頼をすっぽかしたことは一度たりともない。

 ――やはり、何かがあったのだろうか?
 マサキの思考がそこまで達したとき、切れ長の目の前に、メールの受信を示すアイコンが表示された。
 すっかりと慣れた手つきでウインドウを開く。すると、差出人は案の定彼女だった。

 From: Argo
 Main: すまなイ、ちょっと行けそうになさそうダ

 一見しただけで相手が何かに追われていることが分かる、淡白な文章。マサキがフレンドの追跡機能を使うと、彼女を示す光点が、第一層フィールドの上をせわしなく動き回っていた。

「どうした?」

 尋ねてくるトウマに対し、マサキはウインドウを他プレイヤー可視状態に設定すると、文面を差し出した。

「これって……マズくね?」
「少なくとも、美味くはないだろうな、まず間違いなく」

 トウマの爽やかな顔が、きりりと引き締められた。ささやく声のトーンが変わり、ピリッとした緊張感が生まれる。

「行こう」
「ああ」

 短く頷きあった後、トウマは目の前の転移門へと向かって走る。マサキも、まだ違和感が残る喉を押さえながら後を追った。
 ――さっきのハンバーガーに、何か喉に刺さりそうなものでも入っていたのだろうか?
 転移門が作り出す幻想的な光のせいか、前を走るトウマの背中が、やけに眩しく見えた。


「さあ、今日という今日こそは、エクストラスキルの情報を教えてもらうぞ!」
「そうだそうだ! 情報の独占は許されないぞ!」
「うちはもう客からコルを受け取ってるんだ!」
「知るカ! だから、その情報は売れないって言ってるだロ!」

 うっそうと茂る木々が空を覆い、太陽からの光をじめじめとした暗闇に変える、第一層《ホルンカ》近郊の森。コケとキノコがあちこちに生えている地面は、昼間でも暗く、ぬかるんでいる。
 そんなこの場所(フィールド)にマサキたちが到着し、アルゴを発見したのは、ちょうどアルゴが何者かに追い詰められ、巨木を背にして喚いている時だった。
 作戦なしに姿を晒すのは危険と判断したマサキは、横のトウマと共に木陰へと隠れ、耳を澄ます。会話の断片から事情を推測した結果、どうやらアルゴを囲んでいる三人は情報屋をしているようで、アルゴしか知らない情報を得ようと接触したが、取引を拒否され、追い掛け回していたらしい。

(全く……いつから情報屋のルビはストーカーになったんだ――ん?)

 呆れたように伏せられたマサキの目が、一瞬硬直した。そして、腰から投擲用のピックを取り出す。レベルアップによってスキルスロットが増えたため、セットしたものだ。

「マサキ、ひょっとして……?」
「ああ。……お前は先に帰っていろ。レベル差があっても、筋力優先の能力構成(ビルド)だと厳しいかも知れん」
「……分かった」

 マサキの考えを悟ったらしいトウマが不安そうに訊くが、マサキは気にせずピックを持った右手を肩の上に持っていく。やがてピックが淡い光をまとい、投剣スキルで最も基本的な《シングルシュート》によって撃ち出された。


「さて、行くか」

 短く呟いたマサキは、相変わらず喚きあっている彼らの許へ向かって行った。


「情報屋ってのは、いつから脅迫まがいのことをするようになったんだ?」

 突如背後から聞こえた声に、アルゴに詰め寄っていた情報屋連中は一斉に振り返った。驚愕の表情を浮かべながら体をビクリと震わせて回転させるその姿は、なかなかに滑稽だったが、マサキはポーカーフェイスを維持する。彼ら全員の視線がマサキとトウマに集まっている今の状況ならば、アルゴの敏捷力を持ってすれば簡単に逃げ出せるのだろうが、それをしない辺り、どうやらアルゴも素で驚いているらしい。

「だ、誰だ!!」
「こっちは今取り込み中なんだ! 帰ってくれ!!」

 苛立ちながら叫ぶ彼らに対し、マサキは両手を挙げて敵意がないことをアピールする。

「まあ、待て。別に俺は、あんたらに介入するつもりはない」
「だったら……」
「が、しかし」

 マサキは一度言葉を切り、全体を一瞥して続けた。

「これは親切心からのアドバイスだが……、あまり大声を上げない方がいい。……と言っても、もう遅かったみたいではあるがな」

 そう言って、マサキはあさっての方向に視線を投げる。すると、この辺りを徘徊している植物型モンスター《リトルネペント》が、大挙して押し寄せてきていた。
 途端、彼らの表情が驚愕から恐怖に変わった。単体ではなく、集団との接敵は想定外だったのだろう、武器も出さずにただ慌てている。そして、マサキはそれを確認すると、すかさず口を開いた。

「まだ十秒程度の時間はあるだろう。さっさと逃げた方が身のためじゃないのか?」
「ぐ……クソッ!」

 口々に捨て台詞を残し、彼らは一目散に逃げ出した。情報屋をしているだけあって、一様に敏捷値が高い。あれなら、確実に圏内まで逃げ帰れるはずだ。
 そう判断すると、マサキはまだ戸惑ったように佇んでいるアルゴに向き直った。

「逃げるぞ」
「エ、ちょっ……わあア!?」

 マサキは小さく言うと、答えを聞かないままアルゴの手を掴み、走り出す。後ろでアルゴの悲鳴が聞こえた気がするが、気にしない。
 と、二人の前に、一体のリトルネペントが立ちはだかった。何本もあるツルを振り上げ、二人に襲い掛かろうとする。この攻撃を受けた場合、その間に他のネペントたちが襲来して、一気にHPを喰らっていくだろう。それを考えたアルゴの表情が一瞬歪む。
 しかし、マサキは全く動じていなかった。脳が凄まじい速さで回転し、敵の予想攻撃ポイントを割り出す。リトルネペントには当然のことながら筋肉がないため、以前ボス戦で使った“筋肉の収縮具合から攻撃を予測する”パターンは不可能だ。だが、それでも予測する方法は存在する。

 ――AIというのは、突き詰めて言えば、“相手がAという行動をした場合、Bという行動を取る”といった思考回路(マニュアル)の集合体だ。そしてその行動は、人と違って常に最善の選択をする。例えば、相手のaという行動に対して、A,B,C,の三つの選択肢が存在し、その中でBが最善だと仮定する。この場合、人はこの三つの中から自らが取る行動を選択することになる。そのため、もしその人物が初心者だった場合、もしくは、思考が追いつかないほどに切羽詰った状態だった場合は、BではなくAやCを選択する可能性がある。
 しかし、AIは違う。この場合、AIならば例外なくBを選択する。なぜなら、AIが行動選択時に使用するのは思考ではなく、自らのプログラムに組み込まれた行動アルゴリズムだからだ。つまり、この場合においてAIにはプログラムに組み込まれていないがためにAとCという選択肢自体が存在せず、したがって選択する行動はB一択となり、完全な予測が成立するのだ。

 マサキは予測結果を地形のデータと参照し、最善の逃走経路を導出、その道を一気に駆け抜ける。振り下ろされるツルが紙一重の空を切るのを確認すると、そのままネペントの横を通り過ぎ、最高速で安全地帯への道を走り抜けた。 
 

 
後書き
今回、風間忍軍を登場させるべきか迷ったのですが……、今後彼らをストーリーに絡ませていける自信がなかったため、ボツとなりました。「ここは風間忍軍だろ!」と思われた方々、また、風間忍軍ファンの方々、誠に申し訳ございませんでした。

ご意見、ご感想等ございましたら、掲示板にて送って頂ければ幸いです。 

 

偽善の持つ優しさ

「……マサキ、これって……」
「どう見ても、某国民的青タヌキ、だな」

 マサキとトウマがお互いの顔を見て硬直する横で、アルゴが笑い転げている。さらにその横では、真新しい黒いコートに身を包んだ片手剣使いが自分と同じ境遇の二人を哀れむような視線を向ける。ひっそりとした山奥に、暫しの間、甲高い笑い声だけが響いていた。


 ――時は数十分ほど巻き戻る。
 マサキとアルゴは無事にはじまりの街まで辿り着き、トウマと合流、三人で喫茶店に入っていた。

「――ところで、あのネペントの群れはどうやったんダ?」

 目の前に置かれたミルクティーを口に運びながら、アルゴが訊いた。それに対し、マサキは持ち上げていたコーヒーカップを、一度ソーサーに置く。

「なに、簡単なことさ。あるだろう? たった一本のピックで奴等の大群を呼び寄せる、お手軽な方法が」
「ひょっとしテ……《実付き》カ?」
正解(ビンゴ)。俺とお前の敏捷力なら、十分逃げられるからな。いい脅しになっただろう?」
「…………」

 呆気に取られるアルゴをよそに、マサキは再びカップを持ち上げた。要するにマサキは、意図的に実付きネペントの、しかも実の部分を攻撃し、大量のネペントを呼び寄せたというのだ。もし一度攻撃を受ければ、連続攻撃によって一瞬でHPを喰らい尽くされてもおかしくはないというのに。

「……さて、それじゃあ次はこちらの質問に答えてもらおうか。……“エクストラスキル”ってのは?」
「いヤ、それハ……」

 死への恐怖が欠落しているとしか思えない考えに開きっぱなしになっていたアルゴの口は、マサキが口にした質問によって再び閉じられた。腕を組み、「うーん」と唸りつつ考え込む。アルゴが答えを口にしたのは、それから数秒後のことだった。

「……解っタ。オイラも、二人には助けてもらった恩と情報提供が遅れたお詫びがあるからナ。――けど、これだけは約束してくレ。絶対に、何があっても、オイラを恨まないでくれヨ!」
「いいだろう。――交渉成立だ」

 マサキとアルゴがお互いににやりと笑うと、残っていたカップの中身をぐいと呷った。トウマとマサキは、アルゴの先導に従ってフィールドへと向かったのだった。


「修行の道は辛く険しいぞ?」
「構わない」

 アルゴに連れられて“体術スキル”なるものを会得しに来た二人は、クエスト開始地点であるスキンヘッドのNPCと短く会話した後、クエストを行う場所に向かうべく、前方をのっしのっしと歩いていく中年男性に続いていた。
 不意に、前を歩くNPCの動きが止まる。トウマが辺りを見回すと、そこは岸壁に囲まれた庭の隅だった。
 そして、静寂の中、滑らかな光沢を放つ黒いコートをはためかせながら、一人の少年が一心不乱に眼前の岸壁を殴りつけていた。少し距離があるために顔までは判断できないが、かなり必死に壁を殴りつけているようだ。

 このSAOに存在する物質(オブジェクト)には、大きく分けて二つのカテゴリが存在する。即ち、“破壊可能か否か”だ。前者はプレイヤーの武器・防具類などが、後者はこの世界に最初から配置されている木や建物などがそうだ。そして、この庭を囲んでいる岸壁は恐らく後者、いわゆる《破壊不能オブジェクト》に分類されるはずだ。つまり、黒コートの彼がしている行為は、全くの無駄ということになる。――尤も、もしあの岸壁が破壊可能だったからといって、他人の家の壁を壊すことに何らかの意味が存在するとは、到底思えないが。
 そんなことをトウマが考えているとは知るはずもなく、数メートル先の少年は必死に壁に拳をたたきつけている。あまり寝ていないのか、体の動きにどこかキレがなく、微妙に視認できる線の細い輪郭には疲れが滲んでいる。

(……あれ? もしかして……?)

 ここで、トウマの頭に一つの疑問がよぎった。今まで以上に彼に注目する。すると、その疑問はだんだんと濃さを増していき、やがて確信へと変わる。

「ひょっとして……「キリトか?」うわっ!?」

 恐る恐る、と形容するのが妥当であろうトウマの質問はしかし、突如割り込んだ相方のそれによって、意味を成さない素っ頓狂な声に変換された。抗議の意味を込めてマサキを一瞥するが、彼は左手を挙げつつ視線を投げ、サラリと受け流す。すると、トウマの耳に聞き覚えのある声が響いた。

「マサキ? それにトウマ?」

 マサキに視線を注いでいたトウマは、疑問系で投げかけられたその言葉に、慌てて振り返る。するとそこにあったのは、予想通りの人物の姿だった。

 露になった中性的な顔立ちを見て、トウマは体が強張るのを感じた。自分がβテスターであることを見抜かれてしまわないか、という不安がこみ上げてくる。
 ――でも、大丈夫。
 トウマは一度深呼吸し、心を落ち着けた。数日前までの自分だったら、何とかしてこの場から逃げ出そうと考えていただろうが、今は違う。自らの秘密を理解してくれた、マサキという存在が、トウマに自信を与えていた。
 トウマはもう一度息を吐き出し、彼の行動についての素朴な疑問をぶつけようとする。
 が、しかし。

「ふ、二人とも、さっさと逃げないと――!」

 青ざめた表情のキリトから発せられた警告と、突然瞬いた剣閃にも似た光が、その疑問が言葉に変換されるのを邪魔した。驚いたトウマが振り向くと、ついさっきまで何やら喋っていたはずの中年男性NPCが、のっしのっしと小屋の中に帰って行く。

(……あ、ヤバい。クエスト内容聞き逃した)

 予想外の人物との遭遇によって忘却の彼方へと追いやられていた目的が、今更ながらトウマの脳内を駆け抜けた。完全に脳を右から左へ通り抜けていった情報と、今起こった謎の剣閃の詳細を訊こうと相方に目をやる。
 そして、彼の顔に描かれた三本の線に、目が釘付けになった。こちらの心中を悟ったらしいマサキが、相変わらずのポーカーフェイスで口を開く。

「クエスト条件はこの岩を素手で破壊すること。ちなみに、このペイントはお前にも描かれてる」
「え?」

 マサキの、表情同様に淡々とした口調で語られた情報を整理するのに、トウマは数秒の時間を要した。そして、暫しの沈黙の後、先ほどの剣閃が自らの顔にペイントを施していたものだと悟る。そういえば、今まで見ていたキリトの顔にも、見慣れない三本線がくっきりと描かれていた。何故数分前の自分はあのペイントをスルーできたのか、疑問を通り越して呆れさえ感じる。だが、トウマの思考はこの時、もう一つの情報に対する疑問で占められていた。

「ん? 岩?」

 マサキはクエスト条件として、“岩を素手で割る”ことを挙げたが、この庭にあるのは岸壁ばかりで、岩などは見当たらない。トウマが向けた疑問のまなざしにマサキが答え、顎で方向を示すが、その方向に岩などはなく、あるのは延々と続く岸壁――、
 ではなかった。上に視線を向けると天辺が円形になっているのがよくわかる。つまり、今までトウマが壁だと思っていたものは全てクエスト用の大岩であり、キリトが必死に拳をぶつけていたのもこれだったのだ。そして、自分もまた、この岩を素手で砕かなければならない。

「…………」

 トウマは言葉を失い、酸素を求める金魚さながらに、茫然自失の状態で口をパクパクと開閉させる。と、ここで限界を迎えたアルゴが膝から崩れ落ち、マサキ、トウマ、キリトの三人が作り出す静寂を、アルゴが甲高い笑い声で上書きした。


 ここで話は最初に戻る。

 目の前に立ちはだかる、というよりも、もはやそびえ立っているという表現のほうが適切なのではないかと思わせるような大岩を見上げ、マサキの横で、トウマは「……マジかよ……」と嘆いた。その声は一番近くにいたマサキ以外には聞こえないほどに小さかったが、それが逆に衝撃の大きさを物語っている。数メートルほど離れたキリトも、二人にクエストを中止させられなかったことに罪の意識を感じ、言葉を発することはない。
 だが、三人のうちマサキだけは、彼らと同じく無言ながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。

 そもそも、この庭に連れてこられた時点で、三つの大岩、さらにそれを殴る一つの人影、という二つのピースから、ある程度この状況を推し量っていた。そして、それでもクエストから逃げ出さなかったのは、このクエストにおけるショートカットの方法や、その方法が通用しなかった場合のリカバリー方法まで考えていたからに他ならない。
 マサキはもう一度頭の中で思いついた方法を反復すると、未だ顔を伏せたままのキリトに声を飛ばした。

「キリト、お前はいつからこれをやってる?」
「え? ええと、三日前からだけど……」
「なるほど」

 この浮遊城に閉じ込められた一万人の中でもトップクラスのレベルを持っているキリトが、三日かかっても壊せないということは、この岩は《破壊不可オブジェクト》に次いだ硬さを持っていると判断していいだろう。

「となると、次は……」

 マサキはぼそりと呟くと、何を思ったか、岩に耳をくっつけてペタペタと触ったり、スイカの良し悪しを確かめる八百屋のように、コンコンと叩いたりし始めた。さらにホロウインドウを開き、左手で数式らしきものを書き込んでいる。それを見たトウマが声をかけようとするが、「恐らく岩質は基本的な安山岩……となると構造は……」等と何やらぶつぶつと呟きながら岩を触っているマサキの表情が真剣そのものだったため、断念して見守ることにする。
 やがて、数分ほど経ったとき、マサキは短く「よし」と発し、立ち上がった。そのまま岩の中心辺りに掌をかざすと、マサキの行動の真意が全く理解できていないトウマに向き直る。

「トウマ、ここだ」
「へ?」
「だから、ここ。ここ殴れ」
「え、あ、ああ……」

 そんなもの、何処を叩こうが何かが変わることはないだろうと思いつつも、せめてこの絶望感を目の前の岩にぶつけることでいくらか発散させようと、トウマはマサキが示した場所に、思い切り拳を叩きつけ――。

「「「え(エ)?」」

 トウマ、キリト、アルゴの三人が、殴られた岩を目にして、そして辺りに響き渡った、“ピシリ”という音を耳にして、目を丸くした。なんと、キリトが三日かけても割れなかった大岩に、たった一度のパンチでヒビが入ったではないか。
 一瞬、目を丸くして硬直していたトウマだったが、気を取り直すと、二発目、三発目を叩き込む。その度に岩に刻まれた裂け目は広がっていき、ヒビが入ることを示すピシリという音も段々と大きくなっていく。

「さて、キリト。お前はここだ」

 目の前の光景に目を奪われていたキリトは、マサキがいつの間にかキリトが壊すべき岩の前に移動していたことを、声をかけられて初めて理解した。トウマの岩と自分の岩とでは、システムエラーか何かの影響で硬さが全く別物なのではないか――などと、今起きたことには未だ半信半疑ながら、マサキに指示された場所に拳を打ちつける。今まで壊れる素振りも見せなかった大岩に、いとも容易く裂け目が広がっていき――。
 なんと今度は、裂け目が岩を一周し、あろうことかガラガラと音を立てて崩れてしまった。

「……ウソだろ……」
「現実だ、間違いなくな。……尤も、頬をつねったところで、痛くはないだろうが」

 目の前で起きた事象が理解できず、知らず知らずのうちに頬をつねっていたキリトに、マサキは苦笑しながら言った。続けて、「何故?」と問いかける目線に答え、説明を開始する。

「原則として、このSAOに存在するオブジェクトは、一部の《破壊不能オブジェクト》を除いて、現実の物理法則に従う。……つまり、全てのものに構造上の弱点が存在するわけだ。だから、あの岩の性質や重さ、直径なんかが解れば、後は方程式を解くだけで割れやすい場所が計算できる。――さて、それじゃあ最後は俺か。……ここだな……ん?」

 先ほどまでとは違った意味で呆然と立ち尽くしているトウマたちをよそに、マサキが岩に狙いを定め、腕を振りかぶろうとした、その時。
 マサキの脳に、ピリッという、まるで誰かに見られているような感覚が走った。すぐに振り返り、視線と索敵スキルを併用して辺りの人影を探すが、どちらにも反応はない。

(……気のせい、か)

 マサキは再び構えを取り、岩にパンチをぶつけ始める。

 十分後、きれいさっぱり崩れ去った三つの大岩を見て、キリトは思わずにはいられなかった。
 ……自分がこれまでに費やした三日間は、一体何だったのだろう、と。


「いやー、食った食った!」
「お前は間違いなく食いすぎだ」
「えー、いいじゃん、奢ってくれるって言われたんだから」
「……それが俺のおかげだってこと、お前理解してるか?」
「してますしてます。どれもこれも、マサキ様のおかげですます」
「……ハァ。どうだか」

 見事大岩を砕き、《体術スキル》を獲得したマサキたちは、アルゴたちとの食事の後、どっぷりと日が暮れたウルバスの街並みを、宿に向かって歩いていた。この辺りのフィールドは夜になると出現モンスターのレベルが上がるため、昼間は人の波がうねっているこの通りも、今出歩いているプレイヤーは皆無。そしてそのことが、ただでさえ冷たい空気の温度をさらに下げている。
やがて二人が宿泊する宿の看板が視界に入った頃。トウマが不意に呟いた。

「――でもさ。今日改めて思ったけど、やっぱマサキって優しいよな」
「……え?」

 その、何の脈絡も存在しない声に、マサキは驚きの声を上げ、立ち止まってしまった。すると、トウマが楽しげな笑みを浮かべて振り返る。

「だってさ、アルゴに情報渡してたじゃん。あれ、あいつのことを思ってのことだろ?」
「…………」

 マサキは立ち止まったまま、理解できないことを表情に滲ませた。
 ――確かに、マサキはアルゴを交えた食事会で、アルゴに《体術クエスト》に出現する大岩の、弱点の場所を教えた。だがそれは、あれほど日常的に追い掛け回されていたら、こちらが依頼した情報の調査に手間取ってしまうのではないか、という懸念を払拭するためだ。それに、食事代金の奢りという形で情報量も支払ってもらった。そして、そのときの思考回路にあったのは、あくまで打算。トウマが言うような感情などは、一片たりとも存在してはいなかった。
 だが、そんなマサキを気にもせず、トウマは尚も笑顔で続ける。

「それに、キリトのことも許してたし。だから、やっぱり――」
「違う」

 普段のマサキだったなら、「だろう?」と冗談めかし、流していた場面。けれど、何処からか沸いて出た苦しさが胸を締め上げて。
 突如空気を切り裂いたマサキの言葉が、楽しげなトウマの声を上書きした。

「……お前は少し、人を疑ったほうがいい。俺がアルゴに情報を渡したのも、キリトを許したのも、自分に利益が出ることを見越したから。ただそれだけだ。――もしこれを善と呼ぶのなら。それは、ただの欲と打算で薄汚れた偽善に過ぎない」

 マサキは目を伏せると、再び歩き始めた。まるで隣のトウマから逃げるように歩を進め、宿屋へと体を滑り込ませる。そのまま自分が借りている部屋がある二階へと続く階段に向かい――、

「待てよ、マサキ」
「…………」

 駆け寄ってきたトウマに、手首を掴まれた。ぐいぐいと引っ張ってみるが、ここまで敏捷にステータスのほぼ全てを振ってきたマサキと筋力優先で強化してきたトウマとでは、筋力値が違いすぎた。マサキが諦めて力を抜くと、さっきとは打って変わって真剣な表情で、トウマが前へ回り込む。
 トウマは暫しマサキの瞳をじっと見つめた後、再びその爽やかな顔に微笑を浮かべた。

「でもさ、例えマサキが偽善だと思っていても、相手がそれをされて嬉しかったり、感謝したりしていれば、それって結局、善と変わらないんだと思う。……だから、どんなにマサキが違うって言っても、マサキがしたことは善だし、やっぱりマサキは優しいんだよ」
「……馬鹿馬鹿しいな。仮に善か偽善かの判断基準が相手の感じ方次第だとしても、相手がどう思っているかなんて、解るわけが――」
「解る」

 両手を肩まで挙げて歩き出そうとするマサキの言葉を、今度はトウマが遮った。三度マサキの前に出て、二階へと続く階段を、一段だけ登る。

「マサキの行動が偽善じゃなくて善なんだって、俺は解る。……だって、俺、マサキに助けられたから。――俺がマサキと出会わなかったら、多分、俺、自殺してた。あの時マサキが声をかけてくれなかったら、あの柵から飛び降りてた。俺が今ここにいられるのは、マサキのおかげなんだ。だから、俺はマサキに感謝してるし、実はマサキが誰よりも優しいやつなんだって解る」
「……もう、話す気にもならない」

 一言だけ吐き捨てると、マサキはトウマを押しのけて階段を上る。
 だが、二十段程度の階段を上りきったとき、またしてもトウマに呼び止められた。振り返ると、トウマはいつもの爽やかな笑みを浮かべ、拳をこちらに差し出している。

「おやすみ。また明日」
「……ああ」

 一瞬の逡巡の後、マサキも右手で作った拳をぶつけようと持ち上げる。
 だが。あとたった数センチで拳が触れ合うというところで、マサキの動きがピタリと止まった。全身全霊の力を込めて右手を前に突き出そうとするが、まるで二人の間に透明な壁があるかのように、彼我距離は一向に縮まらない。それどころか、先ほどから胸に居座っている息苦しさが、さらに活発に活動を始めた。それは肺でも心臓でもない、胸のもっと奥深くをチクチクと刺し、キリキリと締め上げる。

「……済まない」

 マサキは一言だけ残すと、さっと身を翻し、自室へとなだれ込んだ。そのまま部屋を横断し、備え付けられた窓を開け放つ。
 途端に外から流入してくる冷気に、いつになく困惑し、疲れ果てたマサキの呟きが響いた。

「……何だってんだ、一体……」

 しゃがれた声と共に零れ出た息は、冬の外気に晒されて白く染まり、街頭に照らされることによってキラキラと煌いて――。
 そして、星なき夜の闇に染まった空へと、溶け込んでいった。
 
 

 
後書き
さて、これにてプログレッシブは終了といたしまして、次話より、少しの間オリジナル展開を挟んで以降と思います……が……
……何といいますか、最近少しスランプ気味なんですよね……。思っているものと書いたものとが全く違うというか、前の話の方が良い出来に思えてきたりとか……。
もしよろしければ、感想など頂けるとありがたいです。 

 

Deep psyche

「……ここは……?」

 マサキが目を開くと、そこは宿の自室ではなかった。何処まで続いているかも解らない空間に、白いもやがかかっている。
 不審に思ったマサキが辺りを見回すと、更なる相違点が浮かび上がった。
 マサキが身に着けていたのは、洒落っ気を全く感じさせない革装備ではなく、また、右腰に下げてあるはずの曲刀も見当たらなかった。代わりにマサキの身を包んでいたのは、薄いグレーストライプが入った仕立てのいい黒のビジネススーツ、ネイビーにホワイトのピンドットが入ったネクタイで、手には愛用のノート型PCやタブレット端末などが入ったバッグ。マサキが雅貴であった頃、つまり、マサキがSAOに囚われてしまう以前、学会などに向かう際に着用していたものだ。

「これは……?」
「橋本―!」

 驚くマサキに追い討ちをかけるように、どこからか声が響いた。やがて、もやの中から紺色のブレザーを着た少年が姿を現す。彼はニコニコと笑いながらマサキに近付くと、さも当然そうに馴れ馴れしく肩に手を置いて喋り始めた。

「でさ~、あのモンスターのブレスが――」
「分かる分かる。俺なんてこの前――」

 と、反対側からも一人、同じ制服に身を包んだ少年が現れた。それからも、一人、また一人と男女問わず現れては、マサキの傍に立って話し始める。瞬く間に、マサキの周囲はざわざわという喧騒で満たされる。やがて、新たな人物の出現がなくなったときには、その場にいる人物は、実に多種多様になっていた。
 グループを作って雑談にふけるもの、辺りを走り回るもの、座って弁当を食べ始めるもの――。

「…………!」

 ここで、今まで辺りを覆っていたもやが一瞬にして晴れた。真っ白だった空間には、木と金属でできた机椅子が並び、前方には大きな黒板が居座っている。
 気付けば、マサキはその席の集団の最後列、左隅に座っていた。両サイドを最初に現れた二人が囲み、途切れることのないトークが続く。その周囲では、相変わらず少年たちがバタバタと騒ぎ、少女たちがきゃあきゃあと喚く。
 そしてその光景が、マサキの記憶というアルバムの中に存在する、一枚の写真と合致した。そういえば、今自分を取り囲んでいる二人には見覚えがある。名前も知っている。
 否、二人だけではない。向こうで取っ組み合いを始めた男子も、さらに向こうで数人の仲間と金切り声を上げる女子も、たった今前方のドアを開けて入って来た、スーツ姿の初老の男性も――。

「学校……なのか……?」

 小さな呟きが、震える口をついて飛び出した。マサキは響き渡った起立の号令にも耳を貸さず、首を左右に振り、視線を(せわ)しなく動かす。マサキの視界に飛び込んでくる光景は、その全てが、マサキが今いるこの場所が2年前まで通っていた中学の教室であることを物語っていた。

 戸惑うマサキの胸に、不意に懐かしさが湧いた。
 何を今更、と頭の中で誰かが嗤う。――大体、ここがあの学校だとどうして断言できる? そんな確証など、この世界のどこにも在るはずがないのに。
 だが、取って付けたような屁理屈では、マサキは止められなかった。無意識的に右手を突き出して、前の席に座る男子生徒の肩を掴もうとする。
 あと5センチ、あと3センチ。
 そして、震える指と肩との距離があと1センチを切ったとき、彼の姿が音もなく掻き消えた。

「なっ……!?」

 突然の事態にマサキは目を見開いた。咄嗟に体ごと腕を前へ伸ばす。だが、その手が何かしらの物体に触れることはなかった。


「クスクス……クスクス……」

 どれくらいだろうか、そのままの姿勢で硬直していたマサキの耳に、陰湿な笑い声が流れ込んだ。
 マサキはゆっくりと顔を上げ、周囲を窺う。すると、マサキの周囲の席はぽっかりと穴が開いたように無人になっていて、代わりに空間の壁際から、マサキに対して冷たい視線が浴びせかけられた。
 妬み、哀れみ、嘲笑、蔑み。この世に存在するマイナスの感情全てが、視線や笑い声、時々耳に届く陰口としてマサキに向けられる。
 そして、皮肉にもその光景が、この場所がどこなのかを証明して見せた。

 ――ああ、そうか。やっぱりここは、学校だったのか。
 マサキの口から、力のない笑みが漏れた。椅子に座り直して目を瞑り、手で耳を塞ぐ。マサキの中から、光が、音が、ゆっくりと消滅していく。
 ――そうだ、これでいい。あんな奴らに自分のことなど、何一つ解るわけがないのだから。
 マサキは一度鼻をならすと、自分を覆う冷たい闇に身を委ねた。今まで見ていた光が、聞いていた音が、水平線に沈む夕日のように、微かな残響を残して消えてゆく。
 すると、光が薄らいでいくのと呼応するように、マサキの周囲に人影が現れた。マサキと同じくビジネススーツを纏い、愛想のいい、しかし上辺だけの笑顔を振りまきながら、それぞれ二つずつついた手と舌をせかせかと動かす。夕日が沈むに比例してその人影は数を増し、具現した人の波がさらに消えかけた日の光を遮っていく。
 やがて夕日の本体はその姿を全て水平線の下に隠し、空に零れた光の滓も、とうとう最後の一つとなった……その時だった。

『……いよ、……は』

 そのほとんどを闇と静寂が覆った世界で、最後になった粒から一つの言葉が響いた。それは声と、光と呼ぶにはあまりにも静かで。しかし、音と、色と呼ぶには、少しばかり眩しすぎた。

「…………?」

 マサキは閉じた瞳を、栓をした耳をそちらに向ける。するとその粒は瞬く間に肥大化し、溜め込んだ光を爆発させた。強烈なフラッシュは眼球を覆う厚い(まぶた)をも貫き、その奥に隠された、暗闇に順応しきった網膜を灼いた。
 膨大な光が殺到し、漂白された視界の中で、マサキは光の粒が存在した場所に一つの影を見たのだった。


「……ッ!」

 マサキは右手でこめかみを揉みながら、未だチカチカと異常を訴えている両目を強引に開いた。ぼやけた視界がゆらゆらと霞む。
 だが、目が訴える異常が治まっても、視界が回復することはなかった。それもそのはず、今マサキの視界を奪っているのは、マサキに纏わり付いた霧だったのだから。

 マサキはそこに気が付くと、足を前へと踏み出した。途端に、ぬるり、という嫌な感触が、その霧がいかに濃密で鈍重かをマサキに知らしめる。にもかかわらず、疎ましく思ったマサキが掻き分けようと手を動かすと、それはまるで意思を持った生物のようにマサキの手を避け、結果、マサキは霧に触れることさえかなわない。

 マサキは顔をしかめながらも前へと進む。自らを束縛する不快な霧から逃れようと、細い体の筋力を全て使って足を運ぶ。
 しかし、マサキを覆う霧は薄くなっていくどころか、さらにその密度を高めていった。最初は薄めたスライム程度だった粘度は、十メートルほど進んだ頃にはジェル程度まで高まっていて、それ以上足を動かすことさえ困難になる。
 それでも諦めず、マサキは前へと進んだ。纏わり付く空気を力の限り振り払い、掻き分けて体を運ぶ。

『……いよ、……キは』

 前回よりもはっきりとした声が、何処からともなくマサキを撫でた。その声に導かれるように、マサキは歩いていく。すると霧に覆われた視界に、一つのシルエットが浮かぶ。その影は徐々に形をはっきりとしたものに変えていき、やがてそれが人の形をしていると判断がついた。――その頭部が、ライトブラウン一色に塗られていることも。

「……トウマなのか?」
「…………」
「こんなところまで出張って来て、一体何の用だ」
「…………」
「おい、聞こえているのか? 返事くらいしたらどうなんだ?」

 度重なるマサキの質問に全て沈黙を以って答えたトウマは、やがて緩慢な動きで振り返る素振りを見せた。

(やっと話を聞く気になったか)

 マサキがそう思ったのも束の間、何処からか突如湧いたゾクリという悪寒が、背中を駆け上がった。それは背中から首へと移り、頭まで進んだところで、二つの表情に姿を変えた。
 ――クラスメートが浮かべていた、対象の全てを否定したような笑み。スーツのビジネスマンが浮かべていた、感情のない、乾ききった笑み。その二つがマサキの脳内で再現され、そしてそれは、たった今振り返りつつあるトウマの顔にも同じものが張り付いているのではという疑懼をマサキの思考に植えつける。

「……止めろ」

 いつになくしゃがれた声が、マサキの唇から漏れた。だが、それの言葉は彼には届いていないのか、もしくは届いているのに彼が動作を止めようとしていないだけなのか、トウマの行動を阻害することは出来ない。

「……止せ、止してくれ……!」

 マサキが必死に呼びかけるが、尚もトウマは無反応だった。そしてついにトウマの体が四半回転し、整った横顔が露になった。その顔に設置された唇は、微妙に端が吊り上がっていて……。

「うわあああああああっ!!」

 マサキは彼らしくない声を上げ、反転しつつ駆け出そうとする。が、粘つく霧に足を取られ、それでも無理に体を捻った結果、マサキは体勢を大きく崩した。足元に沈んだ、特に重くべとついた霧にその体を埋める。

「ぐっ……!」

 痛みではなく体に這い纏わった感触に対して、マサキは小さく呻いた。体を貫いた衝撃を、頭を振って追い出しつつ、再び立ち上がろうと四肢に力を込める。

『……しいよ、……サキは』

 立ち上がりかけたマサキに、背後からの声がぶつかった。これまでで一番はっきりとしたそれは、聞こえなかった部分を推測させるには十分な程の感情を携えていて。

「止めろ!! ……俺は……俺は優しくなんてない!!」

 電磁波が分子を振動させて温度を上げるように、マサキの心を揺さぶって、ヒートアップさせた。
 堪えきれなくなったマサキの口から、何かを拒絶するような叫びが飛ぶ。
 ……すると、その叫びに反応したように、ただの濃い水滴の集合体であったはずの周囲の霧が変化した。幾千もの触手、あるいは植物の(ツル)の様な姿形になったそれが瞬く間にマサキに絡みつき、体を縛った。続いて地面までもが底なし沼のように変形を遂げ、巻きついた蔓ごとマサキを飲み込んでいく。

「ぐっ!? ぐあ、ああああああっ!!」

 マサキの心を恐怖が支配し、悲鳴とも絶叫とも取れる叫びを上げる。だが、その声に答える者は誰もおらず、マサキは暗黒の地中へと吸い込まれた。その途端に、途轍もない眠気が襲う。

「対……の深そ……か……了。つ……て……に移行。身……具現……不可能? そ……な……じゃ……何……でき……!」

 何処からかやってきた遠鳴りのようなか細い声が耳を抜けていくのを感じながら、マサキは押さえられなくなった睡魔に意識を奪われたのだった。


「…………ッ!!」

 ガバッ! という掛け布団とシーツの摩擦音と共に、マサキは横たわっていた体を起こした。すぐさま首を左右に振り、現在位置を確認する。
 窓から覗く灰色の雲、その雲を通り抜けることに成功した何割かの光がぼんやりと照らす机椅子、その他諸々の調度品。それらはここが宿の自室だということをはっきりと物語っていて、マサキは安堵した。背中を伝う不快な水滴を寝巻きのシャツで拭い、足を床に下ろす。部屋に備え付けられたポットからコップに水を注ぎ、渇ききった喉へと送り込む。

「んん、ん……?」

 コップに入った透明の液体を全て流し込み、尚も不快感を訴える喉に二杯目を提供しようとしたマサキの視界に、メールの受信を示すアイコンが瞬いた。
 何とはなしにウインドウを開き、送り主と内容をチェックする。そして浮かび上がったフォントには、驚愕の文字が綴られていた。

 From: 茅場 晶彦
 Main: おはよう、橋本君。朝早くにすまないね。私にも私なりに色々とこなさなければならない面倒ごとがあって、このような時間になってしまった。許してくれたまえ。

 さて、それでは本題といこうか。
 どうやら、この世界での出会いが、君に幾らかの影響を及ぼしているらしいね。この世界の創造主としては、実に喜ばしいことだ。これからもこの世界を楽しんでもらえたらと願っているよ。
 それと、このメールに君へのささやかな贈り物を同封しておいた。知り合いである君を巻き込んでしまったことに対してのお詫びとでも考えてくれ。ウイルスやバグの類は仕込んでいないから、安心して使うといい。……そうだね、数日中には使うべきシチュエーションがやってくるのではないかな?
 では、ゲームクリア目指して頑張ってくれたまえ。

 ……そうそう、一つ書き忘れていたが、君へのお詫びはもう一つある。今後、もしこのゲームに関して質問があれば、私の名前にメールを送るといい。答えられる範囲で、質問に対する返答を出来るだけ早くすることを約束しよう。では、また。

「ふうん。お詫び、ねぇ……」

 マサキは半透明の文面を訝しげに睨んだ後、通常プレイヤーには備わっていない、添付欄のファイルをタップした。すると、マサキの胸の前に青いポリゴンが集まり、淡い光を放ち始めた。やがてそれは徐々に形をはっきりとさせていき、光が収束して具現化した物体が、マサキの両手に乗ったときには、誰もが知る武器へと変貌を遂げていた。
 マサキは両手に握られたその物体をしげしげと眺めた。
 僅かに反りが入った、片手直剣などと比べると異様なまでに細いシルエット、濃紺で統一された(つか)と鞘、鈍い金色に輝く(つば)。――未だこの世界では存在が確認されていない、日本刀。その中でも打刀(うちがたな)と呼ばれる種類のものだった。

「……こいつは、なかなかにいい物を貰ったのかも知れないな」

 呟きながら、マサキは柄を右手で握り、鯉口(こいくち)をきった後に引き抜いて――。

「なっ……!?」

 目を見開いた。これが刀であるならば、否、堅塁であるならば必ず必要な部位……刀身が、存在しなかったのだ。何度見直しても、柄から伸び、鞘に収まっているはずの銀色の刃を確認することができない。
 ――やはり、どこかにバグが存在していたのだろうか。
 そんなことを考えつつ、再び柄と鞘をくっつけて、指で鞘の真ん中辺りを突く。すると、武器のステータスを表示するウインドウが通常通りに開かれた。
 固有名《蒼風(あおかぜ)》。武器カテゴリ《風刀(かぜがたな)》。真っ先に目に飛び込んだ情報が、マサキの驚きをさらに肥大化させる。

(刀ではなく《風刀》……。となると、刀身が存在しないのは仕様なのか? 確かめるには《風刀スキル》とやらを習得しなければならない訳か。……全く、茅場の奴がスキルも一緒に送ってくれさえすれば、こんな七面倒臭いことをせずとも済んだんだが……)

 マサキは溜息をついて思考を断ち切った。情報が少なすぎる。今考えても、どの道答えなど出ないのだ。
 マサキがウインドウを呼び出そうとして右手を振り上げると、乾いたノックの音が部屋にこだました。続いて、よく知る声がマサキの鼓膜を震わせる。

「マサキー、飯行こうぜー」
「……ああ、今行く」

 マサキはドアの向こうのトウマにそう答えると、右手の刀をもう一度見やり、今は何の使い道もないそれを、アイテムストレージに収納した。

「……ハァ……」

 まだ朝だというにもかかわらず体にのしかかってきた疲労感に、マサキは思わず今朝二度目の溜息をついた。体の中心部、胸の奥底がどんよりと重苦しく、そこから吐き出された息もまた、千鈞の重みを持っている。
 マサキは外気に触れた瞬間に下へ下へと沈んでいく息をまたぎ、頭をぼさぼさと描きながらドアを押した。

 ――二〇二三年、三月六日。一万人を対象としたこのデスゲームも開始から五ヶ月を迎え、最前線は二十二層にまで到達した、ある朝の出来事であった。 
 

 
後書き
さて、ようやくオリジナルスキルが登場いたしました。その名も《風刀》。果たしてどんなスキルなのか。マサキ君はこのスキルをどう扱うのか。今後にご期待ください。 

 

加速しだす歯車

 
前書き
更新が遅れてしまい、申し訳ございません。
よろしければ、またお読みいただければと思います。 

 
「いただきまーす」
「いただきます」

 目の前でほかほかと湯気を立てるトーストサンドイッチとローストコーヒーに対して、マサキとトウマは軽く手を合わせると、思い思いに口へと運び始めた。カシュ、という軽やかな音と共に、一層や二層と比べると大分マシになった味わいが口の中に広がる。

「なあ、マサキ」
「どうかしたか?」
「……マナー、悪いぞ」
「必要なことだからな。済まないが、見逃してくれ」
「ふーん」

 マサキが一枚目のハムサンドを平らげ、二枚目のBLTサンドに手を伸ばそうとしたところで、トウマから忠告が飛んだ。というのも、マサキはこの時、片手でサンドイッチを持ちながら、もう片方でメールウインドウを操作していたのだ。マサキは仕事柄コンピュータを操作しつつ食事を摂ることも多かったため、これくらいはよくやっていたのだが、トウマの目にはよく映らなかったらしい。
 マサキは手早く文面をまとめ、送信アイコンをタップした。ウインドウを閉じ、手元のカップに入ったコーヒーを(すす)る。

「……ところでさ」
「ん?」

 不意に耳に届いたトウマの一言に、マサキは手に持ったカップの傾きを少し緩めると、両の瞳だけを上へ動かした。既に朝食を食べ終えたトウマが腕組みをしつつ神妙な顔でマサキの顔を覗いていた。数秒ほど考え込んだ後、おもむろに口を開く。

「マサキって、眼鏡とか掛けないの?」
「……質問の意味が解らないんだが」

 何の脈絡もない質問をぶつけられたマサキが怪訝そうな顔でトウマを睨んだ。すると、トウマは慌てたように両手を振る。

「いや、マサキって何かそんなイメージあるじゃん? クールっていうか、インテリっていうか。だから、眼鏡とか、あとスーツとかも似合いそうだなーって」
「あるじゃん、と言われても、俺にはよく解らないが……。眼鏡は特に掛けていなかったな。スーツなら、職業柄着ることは多かったが」
「あー、リロンブツリガクシャ、だっけ? ……何かよく解らない仕事だってことぐらいしか解らなかったんだけど」

 うーん、と首を捻るトウマ。

「まあ、科学者と思ってもらえればそれで間違いはない。それと、あの時は言わなかったが、もう一つ、フリーのホワイトハッカーもやってるからな。企業側との打ち合わせだったり何だりで、スーツを着ることは多かった」
「ふーん……。取りあえず、俺に理解出来るような職業じゃないってことは解った……って、あれ? それじゃ、マサキって俺より全然年上?」
「そうでもないだろう。今日やっと十八になったばかりだ」
「ふーん、そうなんだ……って、はあ!?」

 淡々と告げたマサキの言葉の後にトウマは強烈な勢いで机を叩き、立ち上がった。突如轟いたその大声に、周囲の視線が一斉に二人に集まる。

「……マナー、悪いぞ」

 ささやかな皮肉を込めてマサキが言うが、トウマはそれに気付く様子もなくまくし立てる。

「十八って、同い年? ……え? 大学は? 科学者って博士号とか要らないの? ってか、高校は?」
「ひとまず落ち着け。そして座れ。……まず、博士号は持ってるぞ。中学卒業と同時に論文を書いて、論文博士号を取得したからな。で、大学と高校には行ってない。だから、学歴的に言えば、俺は中卒ということになる」

 マサキの口から発せられた、あまりにも現実からかけ離れた言葉を理解するのに、トウマは数秒の時間を要し、それが逆に彼の行動を落ち着かせた。
 トウマはコーヒーの最後の一口を口へ運ぶマサキの視線に導かれるように、呆けた顔のままで腰を下ろした。

「……なんか俺、マサキと一緒にいちゃいけないような気がしてきたよ……」
「おいおい、人を化け物みたいに言わないでくれよ」

 空になったカップを置くと同時に、マサキは肩をすくめておどけて見せた。すぐ後に喉の奥からこみ上げてきた不快な苦味を舌で押し戻し、薄い笑みを顔の表面に貼り付けたまま立ち上がる。しかし、強引に押し戻したためか、苦味はすぐさま口腔に舞い戻り、それに耐えられなくなったマサキは振り向いた後に表情を歪めた。

 仕事での打ち合わせ、あるいは交渉事の席などでよく使う、慣れきったポーカーフェイス。にもかかわらず、今回はその表情を保ち続けることが出来なかった。
 胸の中で舌打ちをして、食堂の出口へ向かって歩き出す。

「マサキ、いつ出る?」
「30分後はどうだ? 場所は建物の出入り口だ」
「ん、りょうかーい」

(…………チッ)

 マサキは背後からの声と、付随して自分に向けられているであろう笑顔、同時に味覚を刺激する苦味、胃がもたれたような違和感を音に出さない舌打ちで掻き消すと、苦々しげな色を浮かべたまま、いくらか喧騒が和らいだ食堂を後にした。


「……ハァ……」

 部屋に着くなり、マサキは盛大な溜息を吐いた。寂しげな空気の振動が、誰もいない部屋に充満していく。

 ――何かがおかしい。
 落ち着いた色調の天井を眺めるマサキの頭に、そんな思考が広がった。約半年前、トウマと出会ってからと言うもの、願望でも、感情でもない。もっと単純かつ原始的な……そう、例えるなら食欲や睡眠欲のような欲求が自分の中に居座っていて、最近になってそれが更に顕在・表面化してきたように感じられる。今朝の夢などはその代表例だろう。

「……ハァ……」

 今朝に入って既に四度目の溜息を吐いたマサキは、頭にのしかかる重い思考と胸の中に広がるどろりとしたもやに耐えかねて、数歩先のベッドに倒れこんだ。質の悪いマットレス程度には改善された柔らかさが、ぼふっと音を立ててマサキの体を包み込む。
 しかし、その程度で逃れられるわけもなく、不快感と違和感は再三マサキにのしかかった。圧迫された思考が薄らいでいき、目に映る世界はぼやけていく。

「……うん?」

 ……どれくらい経っただろうか、焦点が定まらないマサキの視界に、一つのアイコンが点滅した。機械的な動作でウインドウを開く。そして表示された差出人は――茅場晶彦。

「……来たか」

 マサキは体を起こすと、尚も頭を覆うもやを無理矢理追い払った。思考のギアを入れ替えつつ、表示されたフォントの羅列を視線で追っていく。
 そこには、マサキが送った質問――朝食時に送ったメールは彼宛だった――に対する返信が書き連ねられていた。

 マサキがメールで質問した事項は5つ。デュエルにおけるルールなどのシステム的な質問が3つと、クエストなどの攻略情報が2つだ。そして、その全てに返答が貰えるとは、マサキは考えていなかった。今回の質問は、茅場がどこまで踏み込んだ情報を提供するのかを探るための、いわばテストのようなものだったからだ。具体的には、システム系の質問は返答可能、攻略系の質問は返答不可能との予測を立てていた。

「……ほう」

 しかし、その予測はいい意味で裏切られた。
 最初に書いた三つのシステム的な質問に返答があったことは予測通り、反対に最後の質問に対しては“返答できない”という一文があったことも予想通り。しかし、その一つ前、“《風刀》スキルの発動条件、及びその特徴”という質問に対しての返答だけは、マサキの予想が外れた。

 この質問には、私から答えを返すことは出来ない。が、これは君からの最初の質問メールであるし、何より「答えられない」ばかりでは、君へのお詫びというこの質問システムの意義を果たしているとは言えない。……よって、僅かのアドバイスだけさせていただこう。
 ――このスキルがどういうものなのか、そして、このスキルをどう扱えばいいのか、イメージトレーニングを積んでおくことをお勧めする。そうすれば、君の頭脳ならば、このスキルを最大限使いこなせるはずだ。

「……ふむ」

 茅場からの返信を読み終えたマサキは、右手を口元にあてがいながら目を閉じた。考え事をする際のクセである仕草をとりつつ、文面に対して考察を進めていく。

(“イメージトレーニング”……。だが、イメージも何も、全く想像がつかない物を一体どうやってイメージしろと……なるほど、つまりはそういうことか)

 マサキは目を閉じたまま、口元を僅かに歪ませた。
 文面そのままの解釈で不都合が生じるのであれば、その解釈を変えればいい。つまり、茅場の言う“イメージ”、あるいは“イメージトレーニング”というのは、何か別の意味を含んでいると考えるのだ。
 もちろん、この内容が本物であると言う証拠は存在しない。マサキを欺くためのフェイクということも可能性として考え得る。だが、マサキは推測によってその可能性をある程度否定できていた。
なぜなら、この文章はマサキが《風刀》スキルに対しての質問を茅場に送ったからこそのものだからだ。もしマサキがその質問をしなければ、茅場はマサキを騙すことが不可能になってしまう。そんな不確定要素が大きすぎる手段を茅場が使うとは考え難い。
 それに、茅場にはマサキを騙す理由も、それによって得られるメリットもない。探せば幾つかは見つかるのかもしれないが、わざわざシステムに新たな武器カテゴリを設定し、その武器をマサキに送り、ご丁寧に質問に答えてまで騙すほどの理由は、恐らくないだろう。むしろこの一連の行動は、マサキを()()()()()()()()()()()()()特別措置と考えた方がしっくりくる。この世界での情報の重要性はアルゴたち情報屋が示す通りであり、その情報を対価なしに与えるということは、それほど破格な条件なのだ。

「……さて、あいつは一体何を企んでいるのやら……」

 もう一度獰猛な笑みを浮かべると、マサキは考察を切り上げて立ち上がった。
 もう少し考察を続けても良さそうではあったが、あくまでこの情報はジグソーパズルで言う1ピースでしかない。そのピースが何色で、どんな図柄が描かれているのかを考える必要はあるが、それだけでジグソーパズル全体に描かれた絵の内容を全て正確に想像することは出来ない。結局、パズルの全体図を見たければ、全てのピースを集めるところから始めなくてはならないのだ。

 マサキはドアに向かって歩き始め、ふと壁際の時計に視線を投げ掛けて――

「……おい」

 一体誰に向けたのか、自分でも解らないままに呼びかけた。時計の針は一言も発しないまま、現在の時刻がトウマと約束したそれの15分後だということを物語っている。気付けば、トウマからのメールが受信トレイに存在していた。

「…………」

 ――彼の性格からして、怒ることはないだろう。「少し用事を片付けていた」とでも言えば納得する可能性が高い。
 理詰めで考えればそこまで気に病む必要はない。にもかかわらず、マサキは一気に眉をひそめ、次いで諦めたように首を振った。

「……ハァ……」

 もう数えることも放棄した溜息が板張りの床に沈殿し、マサキが歩く傍でギシギシと音を立てていた。



「ぐるおぉぉおっ!」

 低い咆哮と共に、眼前のゴブリンが持つ粗雑な片手直剣が薄水色に輝いた。直後、ソードスキル《ホリゾンタル》が発動し、緑色の右手に持たれた剣が水平に振るわれる。
 マサキはその初動を確認すると、上半身を反らしながら重心を後ろへ移動させた。マサキの体がぐらりと後ろに倒れ、逆に光に包まれた右足が振り上げられる。マサキの超人的な頭脳によってタイミングと軌道を正確に計算、コントロールされた《弦月》は、ちょうど通りかかったゴブリンの右腕を下から撃ち抜き、握られた剣を弾き飛ばした。

「ぐるあっ!?」

 武器の取りこぼし(ファンブル)を悟ったゴブリンが目を丸くするが、もう遅い。上方から響いた「スイッチ!」という掛け声に続いてマサキが離脱、見るからに重そうな大剣を持ったトウマが、数秒前までマサキがいた場所に文字通り“落ちて”きた。
 重さと威力という両手剣の特長を生かした高所からの急降下攻撃である、単発重攻撃スキル《メテオ・フォール》。自らの質量をそのまま威力に変換したその攻撃は、7割近く残っていたゴブリンのHPを、余すことなく吹き飛ばした。
 ――マサキが隙を作り、トウマが仕留める。これが、二人が確立した戦闘スタイルであり、そのスタイルのため、半ば自動的にマサキのビルドは敏捷一極に、トウマは筋力8:敏捷2という筋力優位になっていた。

「うっし! 一丁上がり!」
「……ほら、さっさと行くぞ」

 ポリゴンの破片に姿を変えたゴブリンの前でガッツポーズをするトウマに短く声をかけてから、マサキは先へ歩き始めた。トウマがそこへ走って追いつき、横に並んで歩く状態になる。

「……マサキ。オブジェクト、“重く”なってきてないか?」
「……お前もそう思っていたか」

 30分ほど迷宮区内を探索した時、トウマが神妙な面持ちで口を開いた。辺りを見渡すと、岩に苔が自生していた迷宮区低層とは違い、重苦しい威圧感を放つ漆黒の岩石が周囲を覆っていて、それらには多少の彫刻まで施されている。

「恐らくは……」

 マサキの言葉の後半が口にされることはなかった。それよりも先に、回廊に鎮座する両開き扉を二人が発見したためだ。二人は小走りで扉に近付き、しげしげと眺める。

「マサキ、これって……」
「ボス部屋だろうな、間違いなく」

 マサキの言葉が、二人の間の緊張の糸をピンと張り詰めさせた。マサキの隣で、トウマがゴクリと生唾を飲み込む。

「一応、軽い偵察だけしておこう。偵察の偵察みたいなものだ。……転移結晶は?」
「ん、大丈夫、ちゃんとある」
「よし。……何か危険を感じたら、単独でも必ず転移しろ。後のことは考えるな」
「了解。任せろ」

 トウマは真剣な顔で頷くと、一転して顔を綻ばせた。

「――何しろ、優しいマサキが一緒だからな。絶対に大丈夫さ」

 いつもの笑顔で言うトウマとは反対に、マサキは不機嫌そうな表情を浮かべた。そして、苦いものを吐き出すかのように言葉を発する。

「……一つだけ、忠告しておく。……あまり他人を信用しすぎない方がいい。裏切られた時にリカバリーが利かなくなる」
「解ったよ。けど、そうやって言ってくれるってことは、少なくともマサキには、全幅の信頼をおいていいってことだろ?」
「……もういい。勝手にしろ」
「おいおい、そう怒んなって」

 マサキはトウマに勘付かれないよう、胸の中だけで溜息を吐くと、込み上げてきた何かから逃げるように、眼前の扉を押した。 
 

 
後書き
ご意見、ご感想、評価ポイントなど頂けると励みになります。よろしければお願いいたします。 

 

Turning battle

 
前書き
ハイ、一ヶ月ぶりの更新です。遅れてしまい、本当に申し訳ございませんでした。
……何かネタを書こうと思ったんですが、僕の頭では思い浮かばなかったので(orz)、本文どうぞ。 

 
「……高いな」

 物々しげな重低音と共に開かれた扉の向こう、第十五層フロアボスルームが視界に入るなり、マサキは天井を見上げて言った。その言葉通り、この部屋の全高は今までのボス部屋と比べて随分と高い。

 これまでの経験から、ボス部屋は基本的に同一の構造であり、その部屋の主、いわゆるフロアボスの特徴に応じて細部が変化――遠距離攻撃技を持つボスの場合は面積が広くなり、逆に強力な近接攻撃技を持つ場合は狭くなるなど――することを、プレイヤーたちは知りえていた。それは即ち部屋の構造からボスの特徴をある程度予測することが可能だということである。

「これだけ高いってことは……飛行型?」

 隣で首をかしげているトウマの口から質問が飛ぶ。

「ああ、恐らくな。となると、少し厄介か……」

 飛行型モンスターの特徴として、敏捷性に秀でているという点がある(例外は幾つかあるが)。もしこの部屋に住まうボスが大多数の側に属していた場合、危なくなって転移結晶で離脱する際に必然的に生ずる僅かな隙に攻撃を受ける可能性が高くなるということであり、それはそのまま生存率に直結する。ターゲットを分散させることができない少数での威力偵察の場合は尚更だ。

「……どうする? 一度戻る?」
「いや。ここまで来たんだ、ボスの攻撃パターンくらいは把握しておきたい。クエストで入手できる文章のみの情報と実際の体験とでは、やはり理解度や反応に差が出る」
「……ふーん……」

 マサキの答えに驚いたのか、トウマは不思議そうにマサキを見た。それに気付いたマサキが逆に尋ねる。

「何だ、何か不満か?」
「不満はないけど……。何か、マサキらしくないな~って思って」
「俺らしくない?」

 マサキが更に訊くと、トウマは爽やかな顔のパーツを不思議そうに配置したまま「うん」と頷いた。

「だってマサキの性格なら、ここは絶対に引き返すと思って。「敵の情報ならば、クエストでNPCから入手可能だ。ここで死の危険を冒すことによるリスクとリターンとでは、とてもではないが釣り合わない」とか言って」
「……お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」

「敵の情報~」のくだりを、眼鏡のフレームを中指で押し上げながら、警察の捜査に協力し謎が解けるとところ構わず数式を殴り書く某天才物理学者のものまねと思われる口調で話したトウマに対し、マサキは呆れたようにツッコんだ。ジト目で睨む視線の先で、トウマが苦笑を浮かべる。

「……まあいい。俺だって人間だ。多少の気まぐれぐらいは起こす。……ほら、行くぞ」

 マサキはぶっきらぼうに言うと、壁際のろうそくがオレンジ色の光を放つ不気味な静寂との境界線を踏み越えていった。


「ホォォォォォォ……ホォォォォォォ……」

 二人が部屋の中心付近まで進んだとき、低いオーボエのような音色が部屋に響いた。即座に抜刀した二人の前方で、夜の闇を凝縮したような濃紺の霧が浮かび上がる。それは段々と一箇所に凝縮していき、その度に判然としないシルエットがくっきりと定まっていく。
 能面のようなのっぺりとした顔とその前面で不気味に光る二つの眼球、(わし)のようなくちばしと羽毛に包まれた翼。(ふくろう)特有の体つきが露になると同時に、闇色の全身の上で《The invisible wind》の文字が(きらめ)いた。

「《The invisible wind(見えざる風)》ね……。さて、どうくる?」

 その言葉に呼応したように、闇色の梟はマサキに向かって飛翔を開始した。ただ一つの雄叫びも羽音も上げることなく無音で獲物に迫るその姿は、今までに見たどのMobと比べても異質だ。
 だが、その気味の悪さを吟味する間がマサキに与えられることはなかった。次の瞬間には既に梟が目前にまで迫っていたからだ。

「くっ……!」

 マサキはこの時点で迎撃を諦めた。重心を右へ傾けつつ、自身が持つなけなしの筋力パラメータを総動員して地面を蹴り飛ばす。マサキが元々立っていた場所の右数メートルに胸から着地したときには、闇色の身体は遥か後方に流れ去っていた。

「マサキ!!」
「大丈夫だ、ダメージはない」

 トウマの声に答えつつ立ち上がったマサキは、反転してこちらに向かいつつある梟を視認すると、腰の投剣を抜き、腰の脇から手首のスナップを利かせて投げつけた。
 投剣スキルに属する単発技《ライズシュート》。基本技である《シングルシュート》と比べ威力は低く、また投げる位置が腰のすぐ横であるため狙いもつけにくいが、その分予備動作が短く出が速いという利点がある技だ。

 狙いにくさをものともしないマサキの頭脳によって投じられた投剣は、針穴を通すような精度で梟の右翼に吸い込まれていき、突き刺さった。衝撃によって滑空体勢が乱れ、闇色の体躯がぐらりと傾く。
 その隙を逃すことなく、マサキは駆け出した。体勢を崩し、速度が落ちた梟の翼の下を潜りながら、《リベーザ》で斬り抜ける。追撃を喰らった梟が、更に体勢を崩した。

「トウマ!」
「OK、任せろ!!」

 言うが早いか、トウマは手に握った大剣を振るった。敏捷一極化ビルドのマサキとは違う、筋力優位型ゆえの高い攻撃力が遺憾なく発揮されたその攻撃が、梟の一本目のHPを5%ほど削る。

(……なるほど。高い敏捷力と引き換えに防御力は低いわけか)

 戦闘開始早々にボスのステータスに見当をつけたマサキは、この段階での撤退を頭から消した。この分ならば、ボスの形態変化後に撤退する可能性はもちろんあるが、それ以前に撤退するような状況に追い込まれることはほぼないと考えたからだ。

「トウマ、このまま行くぞ」
「おう!」

 背後から響く威勢のいい答えを聞きながら、三度襲い掛かる梟に向かってマサキは駆け出した。今までと同じく敏捷性を生かした突進攻撃を行おうと高空で態勢を整える梟に向かい、《ライズシュート》で腰元の投剣を投げつける。
 だが、ここは攻撃態勢が整っていなかったことが相手にとって幸いした。梟は整いつつあった攻撃態勢をキャンセルすると、見事な反応で投げられた投剣の下を潜り、かわすことに成功する。
 しかし、それこそがマサキの狙いだった。かわすことによって高度を下げ、かつ行おうとしていた突進攻撃に必要な加速距離を確保するために壁際によっていた梟に向かって、マサキはスキルスロットにセットしたばかりの《軽業》スキルと壁を利用した三角跳びで迫った。壁を蹴るときにつけておいた体の捻りを利用し、ライトエフェクトを纏った回し蹴りに更なる威力を乗せて闇色の体躯に叩きつける。

「……セッ!!」

 体術スキル単発技《旋月(せんげつ)》を浴びた梟が、この戦いで初めて動きを止めた。その好機をマサキが逃すはずもなく、旋月の短い技後硬直が解けるや否や、曲刀用ソードスキル《ファラント・フルムーン》を発動させた。黄色く光る四本の剣閃が闇色の体を上書きし、切り裂いていく。

「……………………」

 身体を目一杯使っての突きから派生した、手首を翻して跳ね上げる四段目が梟のHPを更に削った瞬間、梟の顔面に貼りついた能面のような表情が微かに引きつった。HPバーの上に表示されたアイコンが、《ファラント・フルムーン》が持つ追加効果であるスタン状態に陥ったことを示している。
 マサキが下を見ると、既にトウマが持つ両手剣はライトエフェクトに包まれていた。言葉を介さずともこちらの意図が伝わっていることに片頬のみの笑みを浮かべ、数瞬遅れてやってきた不快感に口元を歪める。そして、その不快感を身体の外へと追いやるべく、マサキは右手に握った曲刀に、更に強く力を込めたのだった。


「ホォォォォォォ……ホォォォォォォ……」
「マサキ……何かマズイのが来るんじゃ……」

 闇色の羽毛に覆われた体躯の上に光るHPの残量が半分を切ったのと同時に、これまでどんな攻撃を受けようと無言だった梟が低く呻いた。その不気味さに怖気づいたのか、隣で大剣を正中線で構えるトウマの顔が青ざめる。

「心当たりがあるのか?」

 両手剣の切っ先が手の震えで微妙に揺れる程、梟に対し恐怖心を抱いているトウマに、マサキは尋ねた。
 見た感じ、現在進行形の梟の行動は、体力の減少による攻撃パターンの変更を示しているものと思われる。だとしたら、変更後の攻撃パターンについての情報は、どんな些細なものであれ頭に入れておきたい。
 しかし、申し訳なさそうに俯いたトウマの口から続いた響きは、尻すぼみに消えていった。

「いや、そういうのはないんだけど……」
「だったら相手を見てろ。よそ見をしていてクリティカルでも喰らったら、それこそマズイどころの話じゃない」
「あ、ああ…………」

 自分の言葉が根拠不足であることを悟っているのか、掠れたような声で答えながらも腑に落ちないという表情を浮かべているトウマから視線を外し、再び梟へと投げた。すると、低く鳴く闇色の体躯の周りを同じ色の霧が覆い始める。やがてその霧は梟の全身を覆い、二人の視界を完全に阻んだ。

(……そういえば……)

 ボスの攻撃パターンの変化に関する情報がないか、海馬の隅々までを探索していたマサキは、ある一つのクエストのことを思い出した。
 そのクエストはトウマとマサキの二人が依頼を受ける前からボスの情報が報酬として得られるタイプのものだと推測されていたものの、実際には明確な情報は得られず、期待していた攻略組の面々をひどく落ち込ませ、更には一部のプレイヤーがマサキたち二人が情報の独占を目論んでいると言いがかりを付け、それが火元となり大騒動を巻き起こしたという、なんとも傍迷惑なものだった。
 より具体的な内容としては、二十二層主街区から少し北に行った場所にある小さな村――そこに住む人々は“村”ではなく“国”だと言い張っており、事実、王や大臣、宰相などの役職が存在した――の住人が依頼したもので、その住人曰く
「異国人が大宰相になってから、民のことを第一に考えていた王が突然重税を課すようになった。これはきっと大宰相が王を操っているに違いない」
 らしい。そしてその大宰相の罪を暴き、王を元に戻すことが目標という。SAOではあまり見ないタイプのものだ。

 だが、珍しい部分はそれだけではなかった。
 実は黒幕は大宰相ではなく、異国の地に就任したばかりで右も左も分からない大宰相にあれこれと進言し、あまつさえ王をも操った大臣だった。彼は自分の部署に割り当てられる予算を増やし、ピンハネを図ろうとした――。という、シナリオが売れない推理ゲームのように無駄に作りこまれていたことだ。中でも、

「人々の目を欺きつつ力を手にするには、どうすればいいと思う? ――なに、簡単なことだ。人々に目隠しをしておき、その間に人知れず王を、この国の()()()()()()()()()いい。さすれば、人々が()()()()()()()()()()()、我らの存在が人々の目に映ることはありえないのだからな!」
「では、大宰相様を異国の者に代えたのも……?」
「ああ、そうだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、政が混乱して()()()()()()()()()()()()()()()()からな!」

 という黒幕とクエストを依頼した住人とのやりとりでは、NPCの音声にかなり抑揚が付いていて、恐らくはこの部分のみ実在の声優を使ったのだろうと推測できた。グラフィックもかなり整備されており、たかが一クエストとは思えないほどの予算のつぎ込みようだ。

 ちなみに、最終的に黒幕を見破ったのはマサキだが、その前からトウマが度々「黒幕はあの大臣だ!」と言っていた。……尤も、マサキが理由を訊いても「何となく!」「勘!」などという非論理的な解答しか出さなかったため、まぐれあたりの可能性のほうが遥かに大きいが。

(あのクエストから得られる情報はないと思っていたが……やはり何かヒントがあるのか……?)

 マサキが思考を巡らせるときのクセである、右手で口元を覆う仕草をとりつつクエストでの会話などからヒントがないか探っていこうとする。
 ……が、しかし。

「…………!?!?」

 その考察は言葉と共に、拡散した闇色の霧から一瞬遅れて吹き飛ばされた。喉から漏れる僅かな空気だけが辺りに充満し、その驚きの余韻を感じさせる。

 ――闇色の霧に包まれていたはずの同色の体躯は、二人の前から忽然と姿を眩ませていた。 
 

 
後書き
ご感想、評価ポイントなど頂けると嬉しいです。もしよろしければお書きください。 

 

視えざる《風》を捉えろ!

 
前書き
どうも、相変わらず執筆速度が全く上がらないCor Leonisです。……何だか最近こんなことばっかしか言ってないような気がするなぁ……3日に一度更新とかやってた頃が懐かしい……(遠い目) 

 
「消え……た……?」

 驚愕と困惑が入り混じった声がトウマの口から漏れた。蚊の鳴くような声量が、この部屋の静けさを何よりも如実に物語る。

「マ、マサキ。これはさすがにヤバいだろ……撤退した方が……」
「いや、まだだ」

 じりじりと後ずさるトウマに、マサキは努めて冷静に返した。肺に溜まった空気を大きく吐き出して喉につっかえていた動転を取り除くと、針の先端に乗ったこまのような声色を紡ぐ。

「消えたと言っても、恐らくは《隠蔽(ハイディング)》スキルで身を隠しているんだろう。となれば、移動する際にハイディング率は大きく下がる。……つまり逆に考えれば、俺たちが相手を見つけられない状態にある限り、俺たちが攻撃を喰らう可能性は極端に低いということだ」

 何とかこまが針の上から転落する前に言い切ったマサキは、無意識にぎゅっと唇を結んだ。すると今度はトウマが口を開く。

「そっか……そうだよな。うん、そうだそうだ。マサキ、ゴメン。俺ちょっと変に怖がりすぎてた。そうだよな、《隠蔽》スキルは動けばすぐ見破られるんだから、大丈夫だ。それに、やっぱりここで帰るよりもボスを倒したほうがいいに決まってるし。……よし! そうと決まれば、さっさと隠れてるボスを倒して上の層に行こうぜ!」
「あ、ああ……」

 急に態度を豹変させたトウマ前にして、マサキはただ面食らうしかなかった。
 マサキに向けられた妄信とも言える信頼度を表している、トウマの顔面に浮かぶ屈託のない笑顔と並べられた言葉。それらはかび臭い空気と共に肺へと侵入し、胸の中で二つの旋律を奏で始める。二つの旋律は互いに侵しあい、混ざり合って不協和音へと形を変え、更に大きく不愉快なメロディをがなりたてる。

「……なんだってんだよ、クソ……」

 マサキは俯くと、彼らしからぬ粗雑な言葉遣いで肺に溜まった不快な空気を押し出した。それでも不協和音はその音量を緩めようとはせず、自らの存在を声高に主張し続ける。
 そしてその音量に耐えかねたマサキが、どうにかしてそれを追い出そうと深呼吸しようと大きく息を吸い込んで――。

「! マサキ危ない!!」

 無音の部屋に突如響き渡った警告。それから数瞬遅れてマサキが認識したのは、自らの身体が宙に浮いているという、紛れもない、そして信じがたい事実だった。


「…………?」

 上下が逆転した天地と自由落下の浮遊感、視界の端に映る、砕け散る曲刀と腰元から放物線を描いて落ちていく幾つかの青い光を確認してなお、マサキは自分が置かれている状況が判断できなかった。彼の頭の中に恐怖感はまるでなく、それどころか浮遊感に付随した心地良さを感じるほど悠然としている。
 ……だが、それも長くは続かなかった。天高く投げられたボールもいつかは堕ちてくるように、どれだけ空中で心地良い浮遊感を謳歌しようとも、いつかは地面に叩きつけられるように、マサキの身体と地面との彼我距離は重力によって縮められていき、そしてゼロになる。

「カハッ……! ゲホッ! ゴホッ!!」

 地面を離れていた代償として、石畳が強かにマサキへぶつかった。それだけではとどまらず、硬い地面を何度もバウンドしながら転がっていき、かなりの勢いを維持したまま壁に打ち付けられたところでようやく停止する。衝撃で肺に溜まった空気が一気に逆流し、暴走した空気の奔流がマサキの息をかき乱す。

「マサキ!!」
「ああ、大丈……ゲホッ! ゴホッ!」

 ゆっくりと身体を起こしながら右手をひらひらと振り、言葉にならなかったその先を駆け寄ってくるトウマに伝達する。トウマはマサキのもとに駆け寄ると、身体を支えながらポーチから小瓶を取り出した。

「マサキ、ほら、飲め」
「……ああ、すまない」

 マサキは掠れた声で言うと、壁にもたれて足を投げ出した状態でトウマの手に握られた小瓶を受け取り、一気に(あお)った。お世辞にも美味とは言えないレモン風味のポーションを胃へと注ぎ込み、ようやく一息つくことに成功する。

「……マサキ」
「ああ、分かってる。……流石にこれ以上は無理だ。撤退しよう」

 ようやく息を整えたマサキは、尚も冷静に言った。
 今の攻撃、敵の予備動作はおろか敵の位置、攻撃方法など何から何までが不明だった。それほど不確定要素が強い状況で戦い続けるなど、文字通り自殺行為だ。ここは一度撤退し、今得た情報を元に攻略会議を行ってから再度攻略を試みるしかないだろう。

 マサキの言葉に、トウマは真剣な表情で力強く頷くと、腰元のポーチから転移結晶を取り出した。マサキも続いてポーチをまさぐる。
 ――しかし。

「…………?」

 ポーチ内のどこを探っても、転移結晶が手に触れることはなかった。苛立ったマサキがより深くポーチに手を突っ込むが、その手に触れるのはポーション類の小瓶のみ。しかも、やけに数が少ない。
 不審に思ったマサキがポーチを覗き込むと、そこに入っていたのは明らかに朝よりも少ない、たった数個のポーションだけだった。

「馬鹿な……!」
「どうした……って、え? マサキ、転移結晶は!?」

 ポーチを覗き込んだトウマの声に反応するよりも速く、マサキは記憶を巻き戻した。それによると、確かに朝の時点で転移結晶はポーチ内に存在していたし、ポーションの数も多かったはずだ。そして、それから今までの間にそれらを使ったことはおろか、ポーチから取り出したことさえ一度としてない。

(どこかに落とした? ……そんなバカな。第一、硬い石畳の上にビンを落とせば耐久値がゼロになって消滅するものが出てもおかしくない。そうなれば、消滅時特有の青い光を見逃すはずが……待てよ? 青い光、青い光……青い……光……)

「あの時か……!」

 今からたった数十秒前、天地が逆転した視界で瞬いていた青い光が、マサキが以前見た消滅時ライトエフェクトと脳裏で一致した。おそらく先ほどの攻撃が腰のポーチに直撃し、内部のビンや結晶が破損。吹っ飛ばされた際にポーチから落ちたのだろう。

「ハァ……そういうことか……」
「どういうことでもいいから早く結晶を出せよ! じゃないと、二撃目が来ちまう!」
「まあ、待て」

 合点がいったマサキは、一度大きく首を横に振りながら溜息をつくと、焦るトウマに(さじ)を投げたような態度で言った。

「結論から言おう、転移結晶はない。どうやらさっきの攻撃を喰らった際に砕けたらしい」
「なっ……! おい、ウソだろ!? そんなのって、アリなのかよ……!?」
「俺に訊かれても困るがな。この仮想現実を操るカーディナル様はアリだと判断したんだろう」
「そ……んな……それじゃ、一体どうやってここから逃げ出せばいいんだ!?」
「どうやっても何も、逃げようがないだろう。転移結晶はない、武器もない、ポーションだって残りはたった数個。……この状況で逃げ切るなんて、GMでもない限り不可能だ」
「…………」

 他人事のように淡々と語るマサキの一言一言が、例外なくトウマの顔色を青白く変化させていく。そして、マサキが「不可能」の一言を口に出したとき、遂にトウマは俯いた状態で押し黙ってしまった。短い前髪で隠された表情は見えないが、何かを迷っているようにも見える。

「……まあ、そういうことだ。お前一人で帰ってくれ。俺はここでゲームオーバーだが……ま、せいぜい元気にやれ」
「そんな……マサキはそれでいいのかよ!?」

 まるで喫茶店でオーダーでも待っているかのように投げ出した足を組み、両手も頭の後ろで組んだマサキに、トウマが少し上ずった声で問うた。相変わらず顔は見えないが、その声には葛藤が色濃く写っている。

「いいも何も、それしかないんだから仕方ない。今この状況で、俺に選択権はないんだからな。……ほら、さっさと転移しないと、本当に二撃目が……「――だったら」ん?」

 いつまで経っても転移しようとしないトウマにマサキは半ば呆れながら催促しようとしたが、トウマは俯いたままポツリとそれを遮った。一瞬の間をおいて、低く抑えられた、しかし葛藤と決意と不安が三つ巴になって滲み出る声を紡いでいく。

「だったら……もし、もしマサキにその選択権があれば……マサキはここから逃げるのか?」
「……言っている意味が分からないな。第一、こんなときに“たられば”か?」
「……違う。“たられば”じゃない」

 その一言と共に、トウマは右手に握られた転移結晶をマサキに差し出した。流石のマサキもこの行動は予測できず、その右手を見て目を丸くする。

「……一体何のつもりだ?」
「……コレはマサキが使ってくれ。俺がここに残る」
「何だって?」

 下を向いたトウマの唇から飛び出した、あまりにも予想外なその言葉に、マサキは思わず聞き返した。
 マサキの耳が正しければ、今トウマは自分がここに残ると宣言したのだ。そして筋力優位型のビルドである彼にとって、それは即ちゲームオーバーと同義になる。足の遅いビルドではそうでないものと比べてボスの攻撃に晒される時間が長く、それだけダメージも多く喰らってしまうからだ。

「……お前、自分が今何を言っているのか、分かってるのか?」
「ああ、分かってる」

 トウマは短く答えると、右手をさらにマサキに向けて差し出した。見ると、その手は震え、それを鎮めるためかギュッと手の中の結晶を握り締めている。

「……分からないな。どうしてそこまで、俺に肩入れする? 別に俺がどうなろうと、お前の知ったことではないだろう」
「……それ、本気で言ってんのか……?」

 それまで迷うように震えていたトウマの右手が、一瞬だけピクリと大きく反応したのを最後に微動だにしなくなった。わけが分からないマサキは、柄にもなく困惑した様子を見せながら遮られた言葉の後半を口に出していく。

「ああ。確かにパーティーメンバーの欠員という損害は出るが、別に新しく組みなおすなりギルドに入るなりのやりようはいくらでもある。最悪ソロという選択肢だって……」
「ふざ……けんな……!!」

 ドン、という鈍い衝撃と共に、マサキの背中が壁へと打ちつけられた。同時に首元を圧迫される息苦しさが胸の奥からせりあがる。
 マサキが胸元に視線を投げると、トウマの両手が胸倉(むなぐら)を掴んでいた。現実であれば爪が掌の皮膚を引き裂いているのではないかと思わせるほどの握力で作られた握り拳は、なお余りある力と感情の渦を制御することが出来ず、小刻みに震える。喉の奥からは喘ぐような息が漏れ、胸倉を掴む両手に雫が断続的に滴り、流れ落ちていく。

「何で……何でそんなこと言うんだよ……! やっと……やっとこの世界でできた親友なのに……そんなに簡単に見捨てられるわけ、ないだろ……!!」

 今まで俯いていた顔面がその言葉と共にマサキの目前に突き出され、ようやく隠れていた表情が(あらわ)になった。――両目を真っ赤に泣き腫らし、唇は腕と同じように震え、頬全体が溢れ出した感情(なみだ)にグシャグシャに蹂躙された、その表情が。

「…………」

 抑えきれない感情に打ち震えるトウマを前にして、マサキは咄嗟に言葉を返すことができなかった。頭の中を幾つもの疑問符が駆け巡り、思考を覆う。
 そして鈍った思考で捻り出された受け答えは、最悪のものとなった。

「……親友? 親友だって? 俺が? お前の?」
「…………!!」

 次の瞬間、それまで胸倉を握り締めていた両手が急に胸元を離れた。だらりと垂れた右手から力が抜け、握られていた転移結晶が滑り落ちる。
 青い結晶が石畳の上に転がって奏でる乾いた音と同時に、トウマはその身を翻した。乱暴な仕草で目元を拭うと、背中に吊られた無骨な両手剣を抜き放つ。

「……それでも。それでも俺はマサキのこと……たとえこの馬鹿でかい城がひっくり返ったって、親友だと思ってるから」
「お、おい……」
「……さあ、出て来いよ! 俺が相手になってやる!」

 トウマはそれだけ言い残すと、部屋の中央へ向かって駆け出した。上ずった声を張り上げて、大剣を正中線に構える。
 すると、その言葉に反応したように、トウマを不可視の攻撃が襲った。攻撃に関しての一切は目に映らないが、どうやって攻撃を予測しているのかその度にトウマは横っ飛びで、這いつくばって攻撃をかわす。

 ――何故だ? 何故彼はここまでして、赤の他人を助けようとする?
 既にショートして真っ白になった思考回路で、マサキは飛び交う疑問符を追いかけた。

 そもそも人と人との繋がりなんて物は“お互いの存在が自分にとって有益である”というあまりにも脆い前提条件の上に成り立っていて、その前提条件が崩壊したとき、人は何の躊躇(ためら)いもなくそれを断ち切る。どれだけ無邪気な笑顔を見せようと、すぐにその笑みを嗤笑(ししょう)に変える。……今までに出会った奴等は、例外なくそうだった。仕事を請け負った会社のビジネスマンも、美辞麗句を並べ立てる校長や教育委員会の役員も、それまでは何処に行くにもつるんでいたクラスメートでさえ――。

「…………!」

 深い記憶に埋もれ去った冷酷な表情を思い出し、マサキの体は一瞬にして凍りついた。蔑みの視線と(あざけ)りの(わら)い声が粘ついた霧のように纏わり付き、光を、音を奪う。どんなに強く目を閉じ、耳を塞いでもそれらが消えることはなく、逆に嗤い声は増し、視線は更に冷たくなっていく。
 ――どんなに一時親密になろうと、結局いつかはどちらかが裏切りどんなに相手が自分の心を占めようと、いつかは消えていく。最後に残るのは、空空漠漠(くうくうばくばく)とした無意味な空間だけ。
 そんな今更なメッセージが焦ったように飛び交い、凍った心身をさらに冷却させようとする。

「……キ」

 ふと、冷笑で埋め尽くされた視界の中に、一つのシルエットが浮かび上がった。背中に無骨な大剣を吊り、革製のコートを着込んだそのシルエットは、やがてゆっくりと回転を始める。

「……サキ」

 回転するにつれ、視界がシルエットの顔にクローズアップされていく。マサキはそれに抵抗し、視線をそらそうと試みるが、まるで金縛りにあったように身体を動かすことができない。そしてそんなマサキを嘲笑うが如くシルエットは回転を続ける。そして視界に入った横顔には、上向きの口角が刻まれていて――。

「マサキ! 何やってんだよ!? 早く転移しろって!!」

 耳を塞いだ手を突き破って侵入した声によって、ようやくマサキは現実へと引き戻された。心臓は今にも張り裂けそうな勢いで脈を打ち、浅い呼吸は存在しないはずの空気を求めて喘ぐ。
 その視界の中央には、大剣を構えたトウマの背中が映っていた。頭上のHPバーは既に黄色く染まっているが、一向に退く気配を見せることはない。

「さっさと行けって! 俺だってそう長く時間を稼げるわけじゃ……くっ!!」

 大声で叫びながら思い切り横に跳ぶ。が、少し掠ったようで、HPが数ドットほど減少する。それでもすぐに立ち上がり、再び剣を構える。
 転がり、這いつくばっては立ち上がり、ただ一心にマサキのために己が命を投げ出そうとするその背中は、億兆の言葉よりも雄弁に、マサキの心に訴えかける。

「――んでだよ……」

 震える唇から、掠れた声が零れ落ちた。一度漏れ出した感情の濁流は、全てを呑み込みながら制御不能な津波となって胸から、喉から飛び出していく。

「……何で、何でお前はそこまでして、俺を助けようとするんだよ!? こんなことして、お前にメリットなんてあるのかよ!?」
「……何でって、そんなの決まってるだろ」

 マサキの叫びを聞いたトウマは、一言呟くと握った大剣ごと両手を下ろした。そしてゆっくりと身体を反転させる。その姿は、霧の中で見た二回のシルエットと完全に一致していて――。

「……俺、言っただろ?  『それでも俺はマサキのこと……たとえこの馬鹿でかい城がひっくり返ったって、親友だと思ってる』って。……親友が助かる以上のメリットなんて、あるはずないだろ?」

 そして、柔らかな声と共に遂に視界に移ったその顔に刻まれていたのは、これ以上ないほどに澄み切った、純度百パーセントの笑顔だった。


「…………!」

 数瞬の間をおいてようやく我に帰ったマサキは、自分の頬が濡れていることに気付いた。腕で乱暴に拭ってみるが、後から後から溢れてくる透明な雫は止まるところを知らず、頬を伝いながらその温かさで凍てついた身体を融かし、乾いた心を潤わせる。
 涙が止まらないことを、止める必要がないことを悟ったマサキは、ぼやけていく視界と晴れていく霧を眺めながら、そっと目を閉じた。涙で冷やされた頭をフル回転させ、今も必死に戦っている大剣使いを助けるための策を練る。

(何か……何かあるはずだ。考えろ、考えろ、考えろ……)

 記録されている記憶の全てを巻き戻し、そこから使えそうな情報を抜き出していく。部屋に入る前後の会話、ボスの特徴、挙動、ボスが見えなくなってからの視界、音、感触――。

「待てよ……?」

 サルベージした記憶の断片、その中のさらに一単語が、些細な違和感となって網に引っかかった。ごくごく最近に再び聞いたその違和感は掘り下げるごとに強さを増していき、その先にくくりつけられた細い糸を慎重に手繰り寄せれば寄せるだけ、絡まった事象が紐解かれていく。

(……だが、それだけでは意味が無い。一度奴の位置を特定しない限りは……何か、何かないか……!)

 その時、マサキの頬を風が撫でた。
 今までも度々吹いていた。別段おかしなことではない。
 ……そう、この部屋の状態と、風切り音が存在しないことを除けば。

「…………!」

 瞬間、マサキの脳裏でスパークが弾けた。そこから幾つもの方程式が生み出され、脳内で展開、それぞれに解が割り振られる。その情報を元に見えないはずの敵座標がプロットされ、これ以上ないほどに正確かつ現実的なイメージが作成される。

 ――そしてようやく開かれた二つの瞳には、今まで霧に隠されていた二つと半透明のウインドウとがはっきりと映っていた。

「ハッ、なるほど、こういうことか……!」

 マサキは口元を獰猛に歪めると、ウインドウを左手で操りながら走り出した。正面に見える少年の体力は既に一割を切っている。
 マサキは何もない右手を渾身の力で握り締めると、今にも倒れそうな少年の横に辿り着く寸前、一気に突き出した。水色のライトエフェクトが溢れ出し、右手から濃紺の柄と(つば)が、さらにそこから半透明の、圧縮した空気のような刃が伸びる。出現した刃は見えない壁に突き刺さり、突如出現したHPバーのドットを削り取っていく。

「マ、マサキ……? 何で……」

 ドットが減るに従って、バーの色が変化した。緑から黄へ、黄からオレンジへ、そしてオレンジから赤へと――。

「何を今更。『親友が助かる以上のメリットなんて、あるはずない』んだろう?」
「…………!」

 ニヤリと笑うマサキの横で、遂に表示されたHPが底を付いた。直後、今まで何も見えなかった空間に闇色のシルエットが浮かび上がり、数瞬の間をおいてそれがまるで幻想であったかのように砕け散る。

「『汚ねぇ花火だ』……とでも言えばいいのか?」

 消滅していくポリゴンを背景に、マサキがぼそりと呟いた。突き出されていた刀を鞘にしまうと、その右手は呆気に取られているトウマの前に差し出される。
 差し出された右手の脇、細めの胴体の前に開かれたウインドウには、紫色の文字が誇らしげに並び自己主張を続けていた――。

 ――《You got a《風刀》skill!!》 
 

 
後書き
オラに……オラに感想と評価Pを分けてくれえぇぇぇぇッ!
……ハイ、スミマセン。調子に乗りました。
いや、本文で一度パク……コホン、引用したのでこっちでもやっていいかなぁ……と。ただそれだけなんです。出来心なんです! だからお願い石を投げ(ry。

……ということで、感想と評価Pください(オイ。
いや、感想がもらえればモチベーションが上がって執筆速度も上がる(ハズ)なんです! お願いします!!(土下座) 

 

噛み合った歯車

 
前書き
 つぶやきの方でちょっとした発表がございますので、是非目を通して頂ければと思います。

 では、どうぞ。 

 
「かんぱーい!!」
「乾杯」

 緩やかなBGMが流れるテーブルの上で、グラス同士が擦れ合う、澄んだ音がたなびいた。泡立つ金色の水面が傾けられ、二人の口へと注ぎ込まれていく。

「……プハァ! 何コレうまっ! シャンパンってこんなにうめーの!?」
「まあ、現実の味をどれほど忠実に再現できているかは分からんがな。値段によってもピンからキリまであるだろうし」

 そう言うと、マサキは中身の減ったグラスを置いてナイフとフォークに持ち替えた。

 ――今二人がいるのは、二十三層主街区の高級レストラン。二十三層に到着して転移門をアクティベートさせた後、トウマの強い希望で寄った場所だ。強制連行されたとも言う。
 そして一番乗りしたレストランの席に着くなり、トウマの口からシャンパンにフレンチのフルコースという、些かぶっ飛んだオーダーが飛び出した。別にここでアルコールを飲もうが毒を飲もうが法律的には何の問題もないのだが、予算的にはそうもいかない。そこをマサキが尋ねると、曰く“二十二層ボス攻略成功記念パーティー”らしい。

「ところでさ」

 あっという間に前菜を平らげたトウマが、ナプキンで口を拭いながら言った。マサキはフォークに刺さったサラダを口に運びつつ、視線で先を促す。

「――あの梟なんだけど。どうしてマサキには位置が分かったんだ?」
「――ああ。あれは“風”だ」
「風?」
「そう。風。……お前が攻撃を受けていたとき、僅かだがあの部屋に風が吹いていた」
「マジで? 気付かなかった……けどさ、それだけじゃ何も分かんないだろ?」

 トウマの質問を聞きながら、マサキは皿に残る最後の野菜を口に運んだ。程なく黒のスラックスとベスト、白のYシャツに身を包んだNPCウエイターが2人やってきて、前菜の皿を下げると同時に琥珀色のスープを差し出す。
 マサキはスプーンで一口それを飲んでから、続きを話し出した。

「俺たちがボス部屋に入った時、カビ臭いような臭いがしただろう。あれは部屋の空気が長い間入れ換わらなかった証拠だ。……つまり、あの部屋に自然に風が吹き込むことはありえない。部屋の状況を考えれば、必然的に梟が起こした風だと断定できる」
「あー、なるほど。あの臭いってそういうことだったのか……ってそれでも」
「分かってる」

 疑問から納得、そしてすぐに再び疑問へと続けざまに表情を変えるトウマの言葉の続きは、あらかじめそれを予測していたマサキの落ち着き払った声によって遮られた。マサキはスプーンで琥珀色のスープを一口すくい、喉を湿らせる。

「……確かにそれだけでは敵の位置はおろか、ブレスなのか突進なのかも判別できない。だが、あの風邪はもう一つ、重要な情報を内包したファクターを孕んでいたんだよ。……即ち、音。正確には風切り音だ」
「…………」

 とりあえずは解説を最後まで聞くことを選んだのか、トウマは目線をこちらに向けて続きを促しつつ右手のスプーンでスープを飲んでいる。スープの味が相当気に入ったらしく、そうしている間にも右手の動きを止めることはない。
 マサキは若干の苦笑を口元に刻むと、続きを話し始めた。

「……お前が攻撃を受けていたときだけでなく、俺が最初に喰らったときさえも、風切り音は聞こえなかった。これはブレスなどの遠距離攻撃などと仮定した場合にはありえない。が、突進ならば話は別だ。これはそれなりに有名な話だが――梟の翼は高い消音効果を備えていて、滑空中ならばほぼ無音になる」
「ってことは……」
「そう。音がしないということは、つまり攻撃方法が滑空による突進だということの証拠になるわけだ。……そして、そこまで分かれば後は風の向きや強さ、当たった場所などから相手の位置と未来の攻撃地点・時間を予測すればいい」

 言い終えると、マサキはスープの後に運ばれてきた料理に手をつけた。そして二口三口味わったところで、向かいの料理が一切手をつけられていないことに気付く。
 マサキが視線を上げると、つい先ほどまでテーブルマナーなどお構いなしに喰らい付いていたトウマが何やら考え込んでいた。時折マサキの耳に「顔はいいし……」だの「でも非常識だしなぁ……」だの、トウマから発せられたであろう言葉が届く。
 そして気味の悪い呟きが数十秒に及び、気になったマサキが問いかけようとして声を出す直前、突如こちらに向き直ったトウマからの質問が飛んだ。

「……マサキってさ、恋人とかいねーの?」
「……話題の飛躍が著しすぎるんだが」

 ソテーされた魚を刺したフォークを、口に入る一歩手前で止めたマサキは、微妙に眉をひそめながら答えた。トウマは後ろ頭を右手で掻きながら口を開く。

「いや、だってさ? マサキって頭いいし、顔だってクールでインテリ風のイケメンだし……彼女の一人や二人、いてもおかしくないじゃん? 今頃マサキの病室で二人が顔合わせて、どっちがマサキを取るか修羅場勃発……とか?」
「とか? じゃねえよ。いつから俺は二股かけてる前提になった? ……まあいい。彼女はいない。そしていたこともない。以上だ」
「……マジ? 何で?」

 テーブルに身体を乗り出し、食い気味に訊いてくるトウマ。既にその両手にはフォークとナイフは握られておらず、100パーセントの興味を話に向けている。

「何でと言われてもな。敢えて理由をつけるとするなら……そう、必要なかった。それだけのことだ」
「……何か納得。いかにもマサキっぽい考えだよな、それ」
「……悪かったな」

 マサキは顔をしかめて不機嫌さを演出すると、口元に留まっていた魚を口の中に押し込んだ。すると、トウマはまたもや反応を変え、「そっか……」という溜息に似た声音と共に椅子にもたれた。天井に向けられた両の瞳は、しかし視線の延長線上のどこにもピントを合わせていない。

「どうした? そんな風に悩むなんて、お前らしくもない」

 マサキが言うと、トウマはこれまた珍しく苦笑を浮かべ、今度は視線をテーブルの上、冷めかかったソテーへと移した。どこか遠くを見つめるような眼差しで、ポツリポツリと独白を始める。

「いや、俺……何度も親友親友って言ってたけど……。結局、マサキのこと何にも知らなかったんだな……って思ってさ」
「別に、不思議でもなんでもない。むしろ初対面の相手に自分の情報を網羅されているほうがよほど不気味だ。……それに、知らないのならこれから知っていけばいいのさ。時間は有り余ってる」

 素っ気無い言い方の言葉だったが、トウマの心にはしっかりと届いたようで、トウマの瞳が再び焦点を捉えた。その爽やかな顔立ちに、ようやく似つかわしい笑顔が戻る。
 トウマは爽やかな笑顔を少々悪戯っぽいものに変え、魚をナイフで切りながら話し出す。

「そっか……そうだよな。……それに、マサキの彼女だってこれからできるかもしれないし」
「……何故そうなるんだよ」
「だってそうだろ? もしこの先マサキが必要に迫られれば、マサキは彼女を作るわけなんだしさ。それに、一層のボス戦でパーティー組んだアスナとか……、後ほら、何だっけ? 最近話題になってる、えーと……」
「“モノクロームの天使”か?」
「そう! それ!」

 マサキがその単語を口に出すと、間髪いれずにトウマが食いついた。

「そういう美少女が揃ってるんだから、色気にやられたマサキが急に心変わりしてリア充街道を歩き出すかもしれないだろ?」
「何だ、そりゃ」

 その言葉にマサキはプッと吹き出した。同じように笑うトウマと視線が交錯し、二人は更に声を出して笑い合う。
 そして、マサキは自分の言葉遣いがほんの僅かだけ崩れていることに気が付いた。視線を落とすと、胸の中に懐かしい暖かさが広がっていくのが実感できる。

「……なあ、マサキ。……一つだけ、頼みがあるんだ」

 マサキが胸中に湧いた懐旧(かいきゅう)の情に浸っていると、ふいに低く抑えられた声が鼓膜を揺すった。マサキが視線の高さを声の元に合わせると、またもや先ほどとは打って変わったトウマの真剣な表情が目に入る。
 トウマはマサキの視線を確認すると、ゆっくりと息を吸い、そして緊張の糸が張られた声と共に吐き出した。

「俺と……デュエルしてくれ」



 店員の恭しい礼を後ろ背に浴びながら店を出ると、夜の空気が体を包んだ。初春の少し肌寒い風が店前の通りを吹き抜け、頬に残る粗熱を奪い去る。月も星も存在しない天井(そら)に覆われたレンガ造りの道はしかし、両脇に設置されている街灯で照らされているため、ある程度の明るさは確保されている。人通りは少なく、時折NPCの姿を見かけることはあってもプレイヤーの姿はない。恐らく、この店自体が裏通りにあるためだろう。衆目を集めることなくデュエルを行うには絶好のロケーションだ。

「……本当にここでデュエルするのか?」
「ああ。……俺、今までずっと、マサキにおんぶに抱っこだった。……今日だって、俺がマサキを助けようとしたのに、結局俺がマサキに助けられた。――だから、確かめたいんだ。俺が、これからもマサキの傍で戦っていけるのか」
「そんなことは――」

 トウマの言葉を否定しかけて、マサキは口をつぐんだ。街灯のみの明るさではトウマの詳細な表情までは判断できなかったが、それでも彼が真剣であることは視線と雰囲気で十分に分かる。
 マサキは口の中に留まっていた言葉を呑み込むと、代わりに一つだけ溜息を吐いた。

「……分かった。もう何も訊かん」
「ありがとう。それじゃ、俺もマサキについてあれこれ訊くのは終わってからにする」
「ついでに、礼を言うのも終わってからにしてくれ」

 爽やかに笑うトウマに、マサキは苦笑交じりで言った。トウマも同じような笑みを口元に刻むと、ウインドウを操作しながら数メートルの距離を取る。
 そこから数瞬遅れて視界に出現した半透明のウインドウ、研ぎ澄まされたトウマの雰囲気、その背中に吊られた両手剣。それら全てが否応なしにマサキの脳のギアを引き上げる。
 マサキは一度息を吐くと、表示されているYesのボタンを押した。モードは初撃決着。二人の中央に現れたウインドウで減っていくカウントが、周囲に流れる緊張の糸をより張り詰めさせていく。

「あー、でもミスった。いつの間にか出てきたその刀のことだけでも聞いとくんだった……」

 5

「残念、もう言質は差し押さえ済みだ。終わってから好きなだけ喋ってやるよ」

 4

「分かってるけどさ……。あ、でも一つだけ。そういえばその刀、ボスのHPを一撃で半分削ってたよな?  ……俺、掠っただけで死亡とか嫌なんですけど」

 3

「なに、心配するな。恐らくあれは姿を消す代わりに防御力が大幅ダウンしていただけだろうさ」

 2

「ならいいけど。……まあいいや、それじゃ――」

 1……

「――行っくぜえぇぇぇぇっ!!」

 正面で弾けたDUEL!! の文字を突き破るようにして、トウマがその有り余る脚力で地を蹴った。その勢いのまま一気に距離を詰め、見るからに重そうな大剣を振り下ろす。

「セッ!」

 マサキは振り下ろされる剣の軌道を冷静に読み取ると、鞘から蒼風を抜き放ち、迎え撃った。仄かに蒼い半透明の刀身が鈍い光を放つ大剣と交錯し、甲高いノイズが空気をビリビリと震わせる。
 一瞬動きが止まるかに思えた双方の剣だったが、筋力値の差を埋めることは叶わず、せり上がってきた蒼風の刀身を跳ね除けるようにして再び大剣が降下を始める。
 しかし、マサキにとってそれは想定通り。弾くつもりなどは毛頭なかったのだ。
 マサキは振り下ろされる大剣の軌道が僅かに逸れるのを確認すると、右手を引き戻しつつ、向かい来るトウマの懐に入ろうとする。
 だが、その目論見は、更に遅れて迫ってきた左膝によって頓挫させられた。
 ――大剣による突進攻撃を陽動に使い、カウンターを狙う相手に対し更に体術スキルによる膝蹴りでカウンター。普段ならマサキが得意とするようなトリッキーかつ低威力の攻撃だが、あくまでHPの半分を減らせば勝利となる初撃決着モードにおいては、かなり有効な攻撃だ。

 ――だが、まだ甘い。
 マサキはトウマの珍しい攻撃に対して口元を獰猛に歪めると、踏み出しつつあった右足のつま先にかけられていた体重を一気にかかとまで後退させた。急に重心が移動した反動を利用して一回転しつつ、体の軸をずらして飛び来る膝をかわす。さらに右手に握っていた蒼風を左手に持ち替え、回転の力を上乗せした刃で斬りかかる。
 ――が。

「せりゃあぁぁぁぁっ!!」

 左から右へとスクロールする視界の中で、水色の閃光が迸った。マサキが首を捻って確認すると、そこにはライトエフェクトを纏いながら向かってくる一つの刃。
 前方180°の範囲を薙ぎ払う両手剣単発技《ブラスト》。

「チッ!」

 マサキは鋭く舌を打つと、なけなしの筋力値と鍛え上げた《軽業》スキルとを振り絞って地面を蹴り飛ばした。それでも先端が掠ってしまったようで、HPバーが一割程度減少する。顔をしかめながらさらにバックスッテプで距離を取り、技後硬直から回復したトウマと再び対峙する。

「珍しく頭を捻ったじゃないか」
「ま、伊達にマサキの戦い方を今まで観てきたわけじゃないって感じだな」

 軽口を叩き合うが、その間も一瞬たりとも気を抜くことはない。

 そして、幾ばくかの睨み合いの末、今度はマサキが仕掛けた。敏捷一極型ビルド故の速度にシステムアシストを上乗せして斬りかかる。右手に握る蒼風の刃が光を纏い、夜の街道を照らす。トウマももちろん黙って突っ立っているはずはなく、迎撃のために剣閃を繰り出す。
 そしてその瞬間、マサキの脳内でスパークが弾けた。一気に最高速まで引き上げられたギアからバチバチと電気信号が迸り、脳全体に信号を運ぶ。視界から得られたトウマの筋肉の映像(データ)が方程式に分解され、割り当てられた解が未来の位置で再構成される。
 マサキはその情報を使い、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ―― 一般のソードスキルには、どのように体を動かし、どのように剣を振るい、どのように相手を攻撃するのか。といった、いわゆる“型”が存在し、システム上で定義されている。例えば《バーチカル》ならば単発垂直斬り、《ホリゾンタル》ならば単発水平斬り、といった具合だ。
 しかし、《風刀》スキルにおいて定義されているのは、攻撃の際“どのように移動するのか”という一点のみ。どのように剣を振るって攻撃するのかは定義されていない。つまり、攻撃側がその場で自由に決定できるということ。これにより、相手は初動のモーションから技の軌道を予測することができなくなり、しかも自分は相手の技を予測した上でその技に対して優位な軌道で斬りかかる、言わば“後出しじゃんけん”が可能になる。
 ――“ソードスキルを作るソードスキル”。それが、この《風刀》スキルなのだ。

「んなっ……!」

 こちらが“後出し”をしたのに気がついたトウマは慌ててパリィを諦め回避に移ろうとしたが、もう遅い。その名の通り高速で移動しつつ斬りかかる六連撃技《疾風(はやて)》の初段がトウマの左肩口を抉る。
 マサキは刀を振りきった時点で反転、二撃目を打ち込む。が、しかしこれは強引なステップで前方に跳んだトウマの背中をかする程度に終わる。
 ならば、とまだ体勢を整え切れていないトウマに追撃を叩き込むべく、マサキは刃を振り切る前にもかかわらず更に踏み込もうとする。
 ……しかし、それは叶わなかった。体重をかけた右足が地面についた途端、それまでの速度が嘘の様に消え失せ、体が硬直する。
 これが“型”を廃止した《風刀》スキルのデメリットの一つ。仕掛けるときの体勢に少しでも無理があった場合、技がキャンセルされてしまい、硬直時間が課せられてしまう。

「!? しまっ……!!」

 異常に気付いたマサキが驚愕の声を漏らすが、その硬直が消えることはなかった。その隙にトウマは距離をとり、崩れていた体勢を立て直す。マサキは苦々しげにトウマを睨み、硬直が解けるや蒼風を構えなおす。

「何だよそのスキル! チートじゃねーか!!」
「文句はGMに言ってくれ」

 軽口の応酬をしつつ、マサキは再攻撃のチャンスをうかがう。攻略組では防御を重視するスタイルのせいでマサキやキリト、アスナなどの影に隠れていて目立たないが、彼もトッププレイヤーの一員なのだ。そして先のボス戦で見せた回避力とパリィ能力は、恐らく全プレイヤー中でも一、二を争う。無闇に斬りかかれば、間違いなくやられるだろう。

(……だったら)

 マサキは左手で腰から投剣を抜き、ライズシュート》で放つと、その軌道を追うように走り出した。この投剣には麻痺毒が塗られている。毒のレベルは1だが、マサキが一撃加えてお釣りが来る程度動けなくなるだろう。かといって、避けたりパリィしたりすれば、迎撃態勢が整わない状態でマサキとぶつかることになる――はずだった。

「おいおい、マサキどうした? 一体どこ狙ってるんだよ?」

 マサキの手から放たれた投剣は、トウマの遥か数メートル右へと飛んで行く。これをマサキの失投と見たトウマは投剣から目を切り、向かい来るマサキに全神経を注ぐ。
 だが、マサキは口元を獰猛に歪めると、まだかなりの彼我距離があるにもかかわらず停止し、蒼風を右下から左上へ、逆袈裟に斬り上げた。すると、淡く煌く刀身が()()()、暴風となってトウマを直撃。その風自体にダメージはないものの、突風に煽られたトウマは一時動きを止めざるを得ない。
 風刀スキル特殊技《神渡し》。刀から攻撃力のない突風を発生させる技。

「く……おぉッ……!」

 一瞬体を持っていかれそうになったトウマだったが、自慢の筋力値で何とか耐え忍び、再び接近するマサキに迎撃の刃を向けようとする。

「左に気を付けな!」
「何を言って……うぉっ!?」

 マサキの言葉に誘われて微妙に左に寄った視界が、自分に飛翔してくる銀色の物体を捉えた。弾道的には当たるかどうか微妙だったが、頭で判断する前に体が反応してしまい、上体を反らしてしまう。その一瞬後に目の前を通過していく銀色の刃――マサキが先ほど投げ、あさっての方向に飛んでいったはずの投剣。それが《神渡し》の突風によって弾道が変わり、トウマを再び襲ったのだ。

 そして、驚愕の色を浮かべるトウマに、マサキは待ってましたとばかりに追い討ちをかけた。ライトエフェクトを放つ蒼風を握り締め、最高速で迫る。

「!! そういうことかよ、クソッ!!」

 こちらの狙いに勘付いたらしいトウマが吐き捨てた。既に蒼風を振りかぶったマサキに対し、遅ればせながら《ブラスト》でカウンターを試みる。

「絶対に迎撃不可能」。もし今の状況を見れば、十人中十人がそう言うだろう。何せ、今から技を出すのでは、いくら攻略組といえど圧倒的に時間が足りない。《ブラスト》が届く前に攻撃を受けるのがオチだ。
 だが、トウマは諦めなかった。自身の持つ意識の全てを腕の動きに集中させ、剣速に最大限のブーストをかける。

「せりゃああぁぁぁぁぁっっ!!」

 ――もっと。もっと速く!
 腕と繋がる神経が灼けるような感覚の中で、トウマは更なる力を腕に込めた。その力を速度に変えて、大剣はマサキに向かっていく。
 さしものマサキも、今の状態から反撃されるとは思いもしなかったのだろう、ポーカーフェイスが崩れ去り、驚愕の色が浮かび上がる。だが、その上から獰猛な笑みを上書きすると、マサキも対抗するように剣速を上げる。

「せああぁぁぁっ!!」
「らああぁぁぁっ!!」

 ここまで来た以上、最早小細工は通用しない。今出せる最高速で双方の刃が閃光を撒き散らしながらお互いの体に肉薄し――。

 空気を切り裂く音を残して、二つの刃が振り切られた。周囲に四散する二色の光の破片が戦いの激しさを物語る。
 二人のHPが同時に減少を開始。七割、六割、五割五分……。
 ――そして、二人のバーに表示されたドットが同時に五割を切った、その瞬間。
 二人の中央でDRAW!! の文字が輝いた。



「あー! 勝てなかったぁーーッ!!」

 デュエルの結果を確認したトウマが、叫びながら路上に横たわった。マサキは蒼風を鞘にしまうと、振り返って大の字のトウマに微苦笑を刻みながら尋ねる。

「それで? 試験結果はどうだったんだ?」

 その言葉に、寝そべっていたトウマは上体を起こすと、体をマサキに向ける。

「……ああ。ありがとう。何となくだけど、やっていけそうかなって思えた。……ま、あんなチートスキルと戦って引き分けだったんだから、俺のほうがプレイヤースキルは上だってことが分かったしな」
「馬鹿言うな。俺はあのスキルを手に入れたばかりなんだぞ? 使いこなせるはずがない状態で引き分けなんだ、プレイヤースキルは間違いなく俺の方が上だね」

 言い合うと、二人は声を上げて笑い合った。ひとしきり笑い合うと、マサキが差し出した手をトウマが掴んで立ち上がる。

「それじゃ、改めてよろしく、ってことで」
「ああ」

 トウマが握り拳を胸の前で掲げると、マサキも応じた。
 数ヶ月前は何かに阻まれるようにぶつかりあうことができなかった二つの拳は、今、ゆっくりと近付いていき――。
 そして、すれ違った。トウマの体がぐらりと揺れ、前に倒れる。必然的にマサキに寄りかかる体勢になる。

「おい、大丈夫か? おい!」
「……あれ、何だかフラフラして……」
「おい! しっかりしろ!! 馬鹿な……ここは圏内だぞ……!? 第一、こんな症状見たことが……」

 必死に肩を揺らすが、要領を得ない受け答えしか帰ってこない。
 とにかく一度宿まで運ぼうと、マサキはトウマに肩を貸した。
 その時。

「……ヒック」
「ヒック?」

 すぐ横のトウマの口から、しゃっくりのような声が漏れた。不審に思ったマサキがトウマの顔を覗くと、顔が頬まで赤く染まっている。しかも、不自然な刺激臭が時折ツンと鼻を突いてくる。

「……お前、まさか酔ってるんじゃないだろうな……?」

 マサキが恐る恐るそう尋ねた瞬間、それまで俯いていたトウマの顔がガバッとこちらをむいた。

「うるへー! こちとら酒飲んで酔っ払ってんだ、何がおかしいんじゃボケェ!」
「ほら、シャンパンくらいなら帰ってからいくらでも飲ませてやるから、ホラ歩け」
「マジ!? マジだな!? 俺覚えたからな!!」
「ああ、分かった、分かったから歩け……って、寝やがった…………ハァ…………」

 最早突っ込む気にもなれず、マサキは一つ盛大な溜息をつくと、いびきをかき始めたトウマを引きずってトボトボ歩き始めたのだった。


「……なぁ、マサキ……誕生日プレゼント……何がいい……?」
「プレゼント……?」
「…………」

 宿まで百メートルを切った頃、眠っていたはずのトウマが急に呟いた。驚いたマサキは立ち止まって問い直すが、聞こえてくるのは寝息ばかり。

「……寝言、か」

 マサキは苦笑すると、再びひんやりとした夜道を歩き出す。

「しかし、誕生日プレゼントか……何年ぶりに聞いたことか……」

 呟くと、マサキはもう一度苦笑を口元に刻み、目を細めながら空を仰いだ。夜の闇が横たわる天井には相変わらず星も月もありはしない。
 しかし、マサキの瞳は確かに、一筋の光明を捉えていたのだった。



 この日を境に二つの歯車が噛み合った物語は、今までよりも遥かに速く展開していくこととなる。
 ――速く回ればその分だけ、どこかに歪が現れる。
 そんな、至極単純なことさえ分からずに……。
 
 

 
後書き
 《風刀》スキルについて、少し補足説明をば。

 風刀スキル
 マサキが持つユニークスキルで、その最大の特徴は“型”が存在しないこと。よって攻撃側は自由に攻撃モーションを選択することができる。これにより初動で相手に技を見切られる危険がなくなり、さらにプレモーションやポストモーションも必要なくなる。
 しかし、その代わり攻撃モーションに少しの無理もあってはならず、無理な動作で攻撃を行った場合、技がキャンセルされて長い硬直時間が課せられる。また、技を発動している間は攻撃モーションを常にイメージしていなければならず、そのイメージが途切れた場合も同じように技がキャンセルされ、最初のイメージが弱い場合はそもそも技自体が発動しない。
 その上、技のモーションが自由に決められるということは、それだけ使い手の状況判断能力が優れていないと使いこなすことはできない。
 以上のことから、総じてプレイヤースキルに高い割合で依存する、ピーキーなスキルだと言える。

 ……長々と書いてしまいましたが、「即興でOSS(オリジナルソードスキル)を作って戦うスキル」と言えば少しはイメージしやすくなるでしょうか?
 意味わからん、という方は、感想などで仰っていただければできる限りの解説はするつもりです。
 もちろん他のご意見、ご感想、評価Pなども大歓迎です。

 では。 

 

過ぎ去った時間、消え去った影

 
前書き
 どうも、Cor Leonisです。今回はかなり早めの更新をすることができました。次話もこの勢いでいきたいですね!(フラグ

 さて、今話より物語は後編に入っていきます。分量的には圧倒的に後編のほうが多くなるかと思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。
 では、どうぞ。 

 
 ――ひらり。
 光のない夜の世界を、ひとひらの雪が舞った。昇ったために凍りつき、集ったが故に重くなり。そして、遂に雲にまで見放された憐れな氷の結晶たちが、同じく空を追われた同胞を捜し求め、地面へと堕ちてゆく。まるで、傷を舐め合うか弱い仔犬たちのように。

 ――はらり。
 (にわ)かに駆けた一陣の風が、吹き抜けざまに周囲の雪を巻き上げた。音もなく、温度もなく、ただ無機質に走り続ける空虚な空気の塊は、舞い上がる雪の欠片などには目もくれず、何処にあるのかも分からない光を目指して駆け続ける。

 冷たい夜の世界に凍える自分を温めてくれる、たった一粒の光を求めて……。



 悲鳴のような破砕音を断末魔に残し、緑の鱗に身を包んだレベル54亜人型モンスター、《リザードマン・ファイター》はその筋骨隆々とした体躯を闇夜に散らした。仲間がやられたことに驚いたのか、数メートル後方のリザードマン二体の手に握られている薄汚れたカトラスが、ほんの一瞬だけ引き()ったように動きを止める。
 マサキはその僅かな隙に、迷うことなく飛び込んだ。上体を低く倒し、ほぼ全てのポイントをつぎ込んだ敏捷値を総動員して足元に積もった雪を蹴り飛ばす。リザードマンが苦し紛れに放った《リベーザ》がマサキの攻撃を阻もうと肉薄する。
 しかし、その刃がマサキを捉えようとした瞬間、その体が静止した。いや、実際には止まっていないものの、スローモーションかと疑ってしまうほどにまで緩められたスピードに、最後の砦であったはずの《リベーザ》はあっけなくタイミングをずらされ、虚空を斬る。途端、再び最高速まで加速したマサキが無防備な鱗を両断しつつ斬り抜ける。振り返ってトカゲの硬直が解けていないと見るや、反転して再び切り抜け。
 《疾風》と大差ない速度で移動し、なおかつ自由に緩急をつけることが可能な風刀スキル五蓮撃技《雪風(ゆきかぜ)》の全段を体で受けきったトカゲは、反撃すらままならずに緑色の体を塵と変えた。

「ぐるああぁぁぁっ!!」

 残された一体がマサキに向かって半ばやけくそにも思える突撃を敢行した。が、とっくに硬直から開放されたマサキは難なくカトラスをかわし、目にも留まらぬ速さで蒼風を一閃。《刃風(はかぜ)》――発動中の移動可能距離(リーチ)は一、二歩程度だが、その分攻撃速度に凄まじい補正がかかる風刀スキル三連撃技――が撒き散らした光の滓が消える頃には、トカゲの全身も同じように、この世界から姿を消していた。

「…………ふう」

 周囲に他の敵影がないことを《索敵》スキルで確認したマサキは、蒼風を鞘にしまいつつ一息。戦闘による風と音が鎮まり、舞い上げられた雪が再びしんしんと降り積もりだす。
 不意に手の甲を伝った冷感にマサキが視線を下げると、一粒の雪の結晶が肌の上で踊っていた。穢れを知らない純白の花は、降り立った肌を恨むように崩れ、物理法則のみに従った無味乾燥な球の液体に形を変えて指先へと滑っていく。例え再び凍ったとしても、もう二度と花を咲かせることはできないだろう。土にまみれた醜い氷となって、いつ訪れるかも分からない春を待ち続ける他にない。

 まだ自分の体に雪を融かせるだけの温度があったことが可笑しくて、マサキは力なく(わら)った。握手を交わした相手が驚かないようにと自身が残した最低限の思いやりなのか、自分が生きていることを誰かに示したいという、独りよがりの想いなのか。もう、握手を交わす相手も、自分の生を感じてくれる存在も、消え去ってしまったというのに。
 ……いや。自分は信じたいのだ。もう一度握手を交わしてくれる存在を。そして、自分以外の存在を願う、自分自身を。

「……行くか」

 誰に聞かせるでもなく、マサキは呟いた。根付いてたった一年足らずにも関わらず未だに抜け切らない過去の癖に、乾いた口から苦笑が漏れる。
 ――明日、何もかもがはっきりすれば、この癖もこの入れ物(からだ)を見限って出て行くだろうか。そんな、答えの出ない思考を巡らせながら振り返ろうとした、まさにその瞬間。

「あの……」

 指先から零れ落ちた水滴のように澄んだソプラノが、静寂に慣れきったマサキの鼓膜を揺らした。その刺激にハッとしつつ、蒼風の鞘に手をかけながら振り返る。

「ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりはなかったんです!」

 その言葉にマサキが蒼風から手を離すと、声の主はニコリと微笑んだ。
 ――辺りに舞う雪のように白い肌と、ポニーテールに結わえられた濡れ羽色の髪。均整の取れた愛らしい顔には同色の瞳が輝き、純白のミニスカートからは繊細な二本の脚が伸びる。雪白(せっぱく)の肌は太股丈の黒いニーソックスに覆われているが、女性的な肌のハリと柔らかさまでは隠せていない。
彼女はもう一度、天使のように微笑むと――彼女の二つ名にも納得である――、胸元を覆うチェストプレートに手を当て、たおやかな声を響かせた。

「えーっと……こうしてお話するのは初めてですね。初めまして。『穹色の風』さん」
「こちらこそ。『モノクロームの天使』様」

 ――“穹色の風”。彼女の口から発せられたその一単語に、マサキの眉がピクリと反応した。若干視線に睨みの成分を加えてみるものの、相手は整った顔を苦笑の形に歪めるのみ。

「そんな大層な名前で呼ばないでくださいよ。名前負けしすぎて恥ずかしいんですから。……あ、そういえば、わたしまだ名乗ってなかったですね。……改めて、初めまして。エミといいます」
「……マサキ」

 マサキは視線の意味がエミと名乗った少女に伝わらないことを悟ると、ふっと目を背けて名乗り返した。最近は意味を誤解して覚える者も増えている。本当の意味を知っているのは、下手をすれば“彼ら”のみではないだろうか。全く、皮肉なことだ。

「えっと、見た目年も近そうだし、『マサキ君』って呼んでもいい?」
「……お好きなように」
「ありがと。……そっか、マサキ君って言うのかぁ……ふふっ、今までボス攻略で何度も顔を合わせていたのに、名前を知るのは初めてだなんて。なんだか可笑しいね」

 くすくすと笑うエミに対し、マサキは視線で会話の意思がないことを訴えるが、マサキの内心などは気にも留めていないのか、それともあの彼女のことだ、「自分と喋ることで憂鬱な気分を少しでも晴らしてもらえたら」などといった忌々しい親切心が働いているのか。エミは楽しそうに笑いながら舌を動かし続ける。

「でも、最初にマサキ君を見たときは驚いたなぁ……。だって、そんな格好で戦う人がいるなんて、思いもしなかったから。……あ、その服が変ってわけじゃないよ? すっごく似合ってるし」
「……それはどうも」

 気だるげに答えながら、マサキは自分の服装に目を落とした。
 仄かに青みがかった地に同系色のグラフチェックが入ったYシャツと、黒のスラックス。……そして、視界に映る二枚のレンズに、そこから両脇へ伸びるフレーム。夏のビジネスマンめいた様相は、この世界ではもちろん希少、というか浮いているものではあるが、その分少しだけ、向こう側の世界にいた時の心情を再現してくれる。心が感じる寒さを麻痺させるにはちょうどいい。

「――そういえば、マサキ君。明日のクリスマスボス戦には参加しないの?」

 こちらの興味を引こうとしているのか、まるで敵陣地にあるマシンガンのように切れ目なく喋り続けるエミ。マサキは最初無視していたが、彼女の話がその話題に入った時、ハーフリムの眼鏡の奥から覗く切れ長の瞳がエミをその視界に捉えた。ようやく話に食いついたからか、エミは顔に浮かべる笑顔に安堵の色を滲ませて、尚も喋る。

「各層のNPCが最近になって一斉に言い出したんだけどね。明日の夜十二時ちょうどに、どこかのモミの木の下に《背教者ニコラス》っていう怪物が出現するんだって。で、それを倒すと背中の袋に詰まってる財宝を全部もらえるみたい。……確か、まだメンバーを募集してた合同パーティがいくつかあったから、そこに行けば参加できると思うよ? なんだったら、わたしが紹介しようか?」
「……いや、いい。俺も暇じゃない」
「そう……分かった。あんまり無理強いすることでもないしね。……あ、そうだ」

 マサキが断ると、エミは残念そうに頷き、なにやらウインドウを操作し始めた。僅かの沈黙が流れた後、マサキの眼前に紫のフォントが浮かぶ。彼女――エミからのフレンド申請だ。
 訝しむマサキに、エミはまた柔らかい笑顔を向ける。

「もし気が変わったら、わたしに言って? 紹介くらいだったら、いつでもできるから。……やっぱり、こういうお祭りは皆でやった方が楽しいしね」
「……祭りだって……?」

 理知的なハーフリムの向こう側でマサキの瞳が細まり、笑いながら話すエミを睥睨(へいげい)した。抑揚のなかった声に、隠し切れなかった感情が滲む。

「あ、えっと……何か気に障ったのなら……」
「ふざけるな……!」

 わけが分からずに怯えた表情で数歩後ずさるエミの謝罪を、マサキは溢れ出した感情で遮った。沸き立つ情動の渦が身体中を駆け巡り、それを押さえ込もうとする腕と奥歯がギリギリと震える。突然の変化に驚くエミは、取り繕うための言葉を探して視線を泳がせる。
 居心地の悪い沈黙が二人の間に横たわる中、マサキはエミを睨んでいた目線を側めると、落ち着きを取り戻したように見える声色で言葉を発した。

「……遊びじゃないんだよ。少なくとも、俺の目の前で半死半生(シュレディンガー)の猫が入った箱が開けられる、明日までは」

 降り積もる雪に溶け込んだマサキの声が、周囲の雪と同じ冷たさを持って響いた。マサキの瞳が何かの余韻を探すように伏せられる。そして、転移結晶を取り出しながらエミに背を向けた後、彼女の前にフレンド拒否のウインドウが瞬いた。

「……フレンドは取ってない。悪いが、他を当たってくれ。……転移、ウィダーヘーレン」

 それだけを言い残し、マサキの身体は青白い光と共に消え去った。後に残されたエミは、消えゆく残光と雪に埋もれていく足跡とを、ただ呆然と眺めていたのだった。



 漂白された視界が開けると、そう広くないレンガ造りの道の端に、今もなお降り続ける雪が掻き分けられていた。その雪の山を更に挟んで、十軒程度の家が立ち並ぶ。
 第二十四層の西端に位置している圏()村《ウィダーヘーレン》。十数軒程度のレンガ造りの家が集まった集落を、そこそこ広い針葉樹林が囲んでいる。主街区からの距離も遠く、近くに何らかのスポットがあるわけでもないため、誰にも見向きもされていない。
 マサキは中心街(とは言っても、民家と最低限のアイテムショップがほんの十軒程度集まっているだけだが)を抜けると、村の端、針葉樹林の脇に忘れられたようにぽつりと建っている、一軒の家へと向かった。

 ギシギシと心許ない音を立てる木の扉を開けて中に入ると、白を基調に(あつら)えられたリビングが姿を現す。生活感のない部屋の奥には暖炉が設置されているが、使われた形跡はない。
 マサキはソファーに腰掛けることも、寝室へと通じる部屋のドアを開けることもなく、部屋の隅に置かれた木製の棚へ向かった。そこで消耗した回復アイテム類を補充すると、装備の確認をして再び立ち上がり、棚の上の小さな写真立てに目を向けた。ライトブラウンの髪と爽やかな顔立ちを楽しそうに歪ませた少年と、理知的な顔で控えめでぎこちない、しかし心からの笑顔をこちらに向ける少年が互いに肩を組んでいる。

「……明日、ようやく全てが解る。……最後に残った予兆(エルピス)が、二回目もそのまま箱の中に残っていてくれることを願うよ……」

 マサキは小さく呟くと、壁の時計に一瞬だけ目をやり、外へと向かった。
 現在時刻は午後七時。……夜は、まだ始まったばかりだ。 
 

 
後書き
 さて、いかがでしたでしょうか? 恐らく???な読者様が多いかとは思いますが、その謎が一体どのように紐解かれていくのか。ご期待ください。
 また、只今より《風刀》スキルのOSSを募集したいと思います。かなり解りにくいスキルですので、あまりイメージはしにくいかと思いますが……是非考えていただければと思います。その過程で解らないことがありましたら、感想欄にてお伝え頂ければ、できる限り答えていきますので。

 ご意見、ご感想など、お待ちしております。
 では。 

 

In the dream, for the dream

 マサキが目を開けると、そこはただ白いだけの空間だった。何処まで続くかも分からない壁に、存在するかも分からない床と天井。そんな、何もかもが朧気(おぼろげ)な空間を、濁った霧が満たす。
 ……ここ数日間の徹夜で疲弊した脳にボス戦に耐えられるだけの養分を与えるため、数時間仮眠を取ろうとしただけなのだが、どうやらかなり深く眠ってしまったらしい。自分が今この場にいることがその証左だ。
 マサキは空中であぐらをかくと、やがて現れるであろう声を待った。

「……お待たせしました、マサキさん」
「……ああ」

 先の見えない霧の中に、どこからともなく響いてきた優しげな女性、いや、少女の声。それはじんわりとマサキに染み込み、胸の奥深くを振動させる。

(あの雪の粒を融かした温度は、ひょっとしたら、ここから来たものなのかもな……)

 不意に去来した温かさに微苦笑を織り交ぜつつ、マサキは答えた。自分のものが反射したのか、それともあの声の主のものなのか、遮られた霧の向こう側からも同じような苦笑を漏らす気配が伝わる。

「……もうすぐ、答えが出るんですね……」
「ああ。……だから――」
「承知しています。マサキさんがセットしたアラームの時間には間に合うように調整していますので、ご心配なく」
「……なら、いい」

 マサキの意図を先読みした少女の声に、マサキはゆっくりと頷いた。今度は微笑むような気配。

「ありがとうございます。……どうしても、あなたがこの戦いに行ってしまう前にお話がしたかったから……」

 聞くものを癒すような響きの中に、悲しさと寂しさが混じった。マサキは何も喋らず、無言で続きを聞いた。

「……私がこうしてあなたと話していられる時間は、そう長くはありません。もう、いつ私が消えたとしてもおかしくはない。……だから、もう一度伝えておきたいのです。あなたは誰よりも強く、そして優しいと」
「……それはどうかな。もし俺が本当に強く優しいのであれば……、今こうはなってない」

 何処にあるのか分からないこの部屋の端の向こう側。一万人の牢獄である浮遊城の縁から遥か遠くに臨む雲海の、さらに遠くを見つめながら、マサキは苦笑した。頭の中を色あせない記憶がぐるぐると巡り、思わず奥歯に力が入る。

「……いいえ。それは違います」

 しばしの沈黙を破り、穏やかな声が響いた。その旋律にマサキの視界は引き戻され、ぼやける霧にピントが合わせられる。
 そして再び、優しげな微笑を漏らす気配。

「――“優しさ”とは、突き詰めて言えばただの結果論です。人が誰かのためを想い、その想いを行動に移し、さらにその想いが相手に伝わったその結果、人は優しさを感じるのですから。例え人が誰かのためを想っても、その想いを行動に移さなければ、相手に想いが伝わらなければ、それは優しさにはなりえません。偽善や、もっと酷い場合には悪と呼ばれてしまうでしょう。逆に、自分が伝えようとしていなくても、相手が想いを感じた時点で、その行動は優しさを持つことになります」
「……どこかで聞いたような台詞だな」
「そうでしょうか?」

 脳裏に彼が浮かんだことを知ってか知らずか、彼女は含むように笑った。マサキはレンズの奥で切れ長の瞳を睨むように細めるが、霧の向こうから伝わってくる声に変化は見られない。マサキは一度、吸い込んだ霧を溜息に換えて吐き出し、首を振る。

「……まあいい。尤も、その行動の想いが伝わったのか、今となっては知る由もないがな」
「いいえ。それも違います。……彼にその想いがしっかりと伝わっていることを、私は知っていますから」
「それは一体どういう――」

 理屈だ、と問おうとしたその時、マサキの視界それ自体がぐらりと揺れた。揺れ動く霧に乗って、相変わらず穏やかな声がたなびく。

「申し訳ございません。もうお時間のようです。……最後に一つだけ。今言った通り、マサキさんの優しさは、彼も、私も、よく知っています。そんな風に他人を想うことの出来る人は、本当に強いということも。……それを是非、きちんと認めてあげてください。あなたのその優しさが、孤独を感じないためにも。……では、御武運を祈ります」

 最後の言葉の余韻が消滅した瞬間、加速度的な意識の剥離が始まった。一気に感覚が薄らぎ、視界を霧の代わりに弱く白い光が覆う。
 やがて、訪れたその白い光さえも薄らぎ、完全に消え去ろうかという希薄な意識の中。昏睡へと移行する最後の過程で、ぼやける世界に黒い髪を肩まで伸ばした幼女のシルエットが浮かんでいたのだった――。



「……ん、んん……」

 重い瞼を持ち上げると、見慣れた――とは言っても数ヶ月程度ではあるが――天井が現れた。ぼやけた思考ながらに目覚めを理解したマサキは、鉛のようにどんよりと沈もうとする瞼を強引に(しばたた)かせ、更なる休養を要求する身体を起こす。すると、突如眼前にウインドウが開かれ、アラームが忘れていたかのように機械質な音をがなり立てた。どうやら、寝過ごすという最悪の事態は避けられたらしい。
 マサキは重たい足取りでベッドを抜け出すと、寝室とリビングダイニングキッチンとを隔てるドアを押し、キッチン部分に置かれたポットからタイマーでセットしておいたブラックコーヒーをコップに注ぐ。
 爽やかな苦味で頭のギアを無理矢理押し込み、ようやく軽くなってきた瞼でもう一度大きく(まばた)きをすると、ウインドウを開いて装備を変更。程なくしてマサキの身体の三ヶ所にライトブルーのポリゴン片が集まり、目元には理知的なハーフリムの眼鏡が、腰元にはシャツとスラックスという服装には些か不似合いな日本刀が現れると、数瞬遅れて残りの一ヶ所、薄青いYシャツの外側を、()()()()が覆った。

 ――《ブラストウイングコート》。マサキが十五層ボス戦のLAボーナスで獲得したコートであり、今マサキが着けている唯一の《防具》カテゴリの装備である。
 “敏捷値1.5倍ボーナス”と“《隠蔽(ハイディング)》スキル値ボーナス”の二つの常時発動効果に加え、一日に一度だけ使える特殊効果を持つが、その代償として防御力は全くのゼロであり、なおかつ別の防具カテゴリの装備を一切身につけることが出来なくなる。つまり、防御力を上げることが不可能になるということだ(実際には《防具》カテゴリに属さない装備、即ち防御力アップ効果を持つ《装飾品(アクセサリ)》カテゴリの装備を用いれば不可能ではないが、それで付与できる防御力などたかが知れている)。

 マサキはちらりと時計に目をやって時刻を確かめると、棚の上に置かれた写真を吸い込まれるように見つめた。夜の闇と沈黙だけが空間を包み、支配する。

「……それじゃ、行って来る。そこで待ってろ」

 時の流れすら闇に呑まれてしまったのではないかと思うような空間で、マサキは()()()()()()()()短く言うと、雪舞うクリスマスの夜へと歩き出した。



「ありがとうございました。おかげさまで、レベリングが捗りました」
「攻略組なのにこんな中層プレイヤーに付き合わせてしまって……」
「いいよいいよ。ちょうどわたしもこのエリアのドロップアイテムが欲しかったところだし。それに、皆で狩れた分、わたしも経験値で得したしね。……あ、そうだ」

 何度も頭を下げるプレイヤーを前にして、エミは照れたように笑いながら胸の前で両手を振ると、思いついたようにポーチへと手を入れ、数秒ほど漁った後にピンク色の結晶を取り出した。

「皆はこの後もレベリングしていくんでしょ? だったら、これ、使って?」
「ええ!? で、でもこれって、回復結晶じゃないですか! こんな高価なもの、受け取れませんよ!」
「いいのいいの。皆のおかげでアイテムも早く集まったから、そのお礼。それに、今の時間からレベリングするなら備えはいくらあっても足りないだろうしね」

 エミは優しく笑いながらパーティーリーダーである片手剣士の両手に結晶を握らせると、恐縮する面々にもう一度微笑みかけた。

「じゃあ、わたしはもう行くね。レベリング、頑張って!」
「は、はいっ! ありがとうございました!」

 こちらを振り返り、何度も頭を下げながら去っていく一団を見送ると、エミはふうと息を吐きながら振っていた右手を下ろした。既にどっぷりと夜の蚊帳が降りている一帯に深々と雪が舞い、静寂がそっと包み込む。

「……また、中層プレイヤーの援護ですか」

 背筋から忍び寄るゾクリとした悪寒を振り払うと、エミは背後からの声に振り返った。
 この世界で最強と謳われるギルド《血盟騎士団》。その白を基調に赤の十字架があしらわれたユニフォームの上を、栗色の髪が舞う。
 《血盟騎士団》副団長にして攻略組トッププレイヤーの一人《閃光のアスナ》は、大きなはしばみ色の瞳を睨むように細めた。

「あなたのやっていることが完全に無駄だとは言いませんが、もっと直接的な攻略の時間を増やすべきです。ただでさえクリスマスボスとやらのせいで前線に出ているプレイヤー数が減少しているというのに、攻略組の、しかもトッププレイヤーの一人であるあなたがそんなことをしている暇なんて、我々には与えられていないんです」
「ご、ごめんなさい。……その、あの人たちにどうしてもって頼まれて……」
「にしては、随分と積極的だったように見えましたが」
「そんなことは……」

 徐々に尻すぼみになっていくエミの受け答えを冷眼視(れいがんし)しつつ、アスナは溜息をついた。

「ハァ……流石は《モノクロームの天使》、とでも言っておきましょうか」
「…………」

 この世界の基本法則はあくまで“リソースの奪い合い”であり、“他人より自分”という考え方だ。もちろんダンジョンなどで誰かが窮地に陥っていた場合、助けられるのであれば助けようとするだろう。しかしそれは、他人のためなどという崇高な理念などでは決してなく、高レベルプレイヤーが減ればそれだけ攻略が難しくなるという単純な損得勘定に基づいた打算でしかない。自らを不利な状況に追いやってまで他人を助けようとするプレイヤーなどは存在しないだろう。……彼女、ただ一人を除いて。

 ――殆どの、否、彼女を除く全てのプレイヤーが自己の保身と強化に勤しむ中、彼女だけは他人のために動き続けた。誰からであろうと助けを求められれば即座に応じ、頼まれればどんなことでも請け負った。
 本来最重視すべきレベリング効率を無視してまで他人のために動くというそのありえないスタイルに、エミ自身が纏う艶やかな黒髪と純白の服、そして愛らしい顔立ちが重ねあわされた結果。それが《モノクロームの天使》という大仰な二つ名なのだ。

 怯えるように胸の前で両手を縮こめるエミに、アスナはもう一度溜息をつくと、一枚の封筒を取り出して差し出した。

「団長からの言伝です。何でも、あなたに折り入って依頼があるとか」
「ヒースクリフさんから?」

 数多くの頼まれごとの経験があるエミだったが、《血盟騎士団》しかもその団長である《聖騎士》ヒースクリフからの依頼などはもちろん初めてだ。疑問符を頭に浮かべながらおずおずと封筒を受け取る。チラリとアスナを見ると、視線の意図を理解したのか小さく頷く。エミはそれを確認すると、封筒の中から一枚の手紙を取り出して――。

 そのたった一枚の手紙が、エミの、そして二人の運命を交わらせる切符になることを誰も想像できなかったとしても、それは至極当然のことだったのかも知れない。



 ――第三十五層フィールド・ダンジョン、迷いの森。見渡す限りを白銀の雪が覆う零下の森に、マサキが、そしてクリスマスMob撃破による莫大な報酬を狙う全ての者たちが捜し求めている、一本の巨木があった。
 クリスマスMobが出現する候補地として挙げられている場所は幾つも存在するが、この場所はその候補に入っていない。にもかかわらずマサキがこの木だと確信するに至ったのは、情報屋たちによって提供されている候補は全てがスギ類のものであり、モミの木はこの一本しか存在しないということを、全フロアを回って確かめたからである。それに至っては、以前、フィンランド出身の植物学者が日本のクリスマスツリーの形状にやたらとケチをつけながら熱心に語っていたモミの木の見分け方が役に立った。聞いた当時は興味がないどころか疎ましくさえ思っていた情報がここまで重要な役割を果たすとは、世の中分からないものである。
 マサキは森に入るのに必須の地図を確認すると、目の前のワープポイントへと飛び込んだ。

「お前ェを、こんなとこで死なすわけにはいかねえんだよ、キリト!」

 マサキが目標の一つ手前のエリアへと繋がるワープポイントを抜けかかったとき、野太い声が聞こえた。どうやら同じくこの場所を見つけた先客がいたらしい。
 マサキは徐々に鮮明になっていく視界の中で、《ブラストウイングコート》に付与されている特殊効果の使用の是非について逡巡し、そして諦めた。ここで効果を使い、彼らに気付かれることなくモミの木に辿り着いたところで、恐らく戦闘中に彼らの、少なくともどちらかが追いかけてくるだろう。ならば、一日に一度しか使えない効果をわざわざ無駄にすることはない。
 マサキは溜息をつくと、ゆっくりと歩きながら突然の乱入者に驚く赤バンダナの刀使いと全身黒づくめの片手剣使いに言った。

「……久しぶりだな、キリト、クライン。前のボス戦以来だったか」
「マサキ……チクショウ、何てことだよ。手前ェまで……!」

 低く(ども)った声に、刀使い――クラインは困惑するように逆立った赤髪をガリガリと掻いた。

「分かんねェ……分かんねェよ、お前ら! お前らが死んだ仲間のことを忘れらんねェのは分かる! 特にマサキの場合、最初(ハナ)っからずっっとコンビ組んでた奴だったんだからな! ……けどよ! 死んだ奴が蘇ることなんてないってことくらい、お前らはとっくの昔っから分かってるはずじゃねェか!!」
「……さあ、な……」

 頭を掻き(むし)りながらガラガラと声を張り上げるクラインに、マサキは頭上を仰ぎながら、何よりも近くにあるはずの二枚のレンズを何よりも遠くを見る目で見つめ、呟いた。

「確かに、頭のどこかでは分かっているのかも知れない。あいつが――トウマが生き返ることなんて、あり得ないということを」
「だったら……だったら何で!」
「だがな」

 マサキは視線を落とし、必死の形相で叫び続けるクラインを冷めた眼で射抜いた。泣き出す寸前の子供のような声を遮って、しわがれた声で空気を震わせる。

「……もう、見始めてしまったんだよ。確かに、よくよく考えてみれば馬鹿げた話だ。目が覚めたら全てを忘れてしまっている夢のほうが、まだ整合性が取れているくらいに。……だがな。それが例えどんな夢であっても、見始めたら最後、目覚めるまで見続けるしかないんだよ。俺が今立っているこの場所が、あと数時間で消えてしまう夢の中だとしても。俺には、最後まで夢の続きを見ながら道化のようにふるまい続ける選択肢しか、もう残されてはいないんだ……!」

 暴走しそうになる感情の渦をどうにか制御しながら最後まで言い切ると、マサキは腰元の蒼風を握り締めた。葛藤が滲み出た表情を浮かべながら、キリトが得物である片手剣に手をかけ、クラインが悲しげな眼で二人を見る。
 そして、限界まで張り詰めた緊張の糸を切ったのは、マサキでもキリトでもクラインでもない、第四者だった。
 マサキは背後のワープポイントに気配を感じるや否や、即座に前方へ跳んだ。空中で身体を反転させ、ワープポイントを睨みつける。
 やがて現れたのは、30人以上の大集団だった。()けられたか――、という疑念が一瞬頭をよぎるが、すぐに否定する。マサキはここに来るのに、念には念を入れてわざわざ最短距離ではなく迂回しながらの道を選んだのだ。そして道中のどの瞬間にも、追けられていた感触は皆無だった。つまりは……。

「お前らも追けられたみたいだな、クライン」
「……ああ、そうみてェだな……」

 マサキの背後で、小さな声が交わされた。つまり、彼ら――装備を見る限り、恐らく《聖竜連合》だろう――はマサキではなく、クラインたちを追ってここまで来たのだ。

「くそッ! くそったれがッ!」

 再び始まった四勢力による睨み合いで生じた沈黙を、突如クラインが破った。刀使いは腰元の得物を抜き放つと、マサキを押しのけて前に出る。数瞬後、刀使いは二人に背中を向けたまま怒鳴った。

「ここはオレらが何とかしてやる! 手前ェらはサッサとボスを倒せ! いいか、《蘇生アイテム》以外の報酬は、キッチリ山分けにしてやるからなコンチクショウ!」

 突然のことに動きを止めていた聖竜連合のプレイヤーたちが、我に帰ったように一斉に武器を抜き放った。続いて《風林火山》の面々も自分の得物を抜く。現れた銀色の金属の塊が、雪の光を反射してギラリと鈍い輝きを放つ。
 ――誰もが双方入り乱れての乱戦を覚悟した、その瞬間。またもワープポイントから欄入者が現れた。

 ここに来て現れた第五の勢力は、風林火山と同じ十ほどの規模だった。そして、先頭の一人ともう一人を除く全員が白地に赤の十字をあしらったユニフォームを着用している。

「それは困るな。我が《血盟騎士団》としても、フラグボスがもたらす莫大な利益が目の前で攫われていくのを、指を咥えて見ているわけにはいかない」

 一人だけ赤と白の配色が他と逆転した鎧を着込んだ人物――この世界で最強と謳われる《聖騎士》ヒースクリフは、鋼のように無機質な声を響かせた。全員の視線が彼に集まり、張り詰めていた緊張の糸が一瞬緩みかける。
 フロアボス攻略の時以外は滅多に人前に姿を現すことがないこの男が、一体何故――。そんな疑問を抱く隙すら与えずに、ヒースクリフは一歩前に出ると、感情の起伏が一切感じられない声色で話し始める。

「さて、今も言った通り、フラグボスが誰かに討伐され、莫大な報酬の全てを持っていかれるのをみすみす見逃すなど、我々にはできない。……が、今ここで諸君らと()()を構える気も、こちらにはない。どうだろう? ここは公平に交渉するというのは?」
「交渉だとォ?」

 突如交渉による解決を提案したヒースクリフに、クラインが噛み付いた。聖竜連合のプレイヤーたちも、言葉は発さないが苦い視線を向けている。しかし、その状況に惑うことなく、ヒースクリフは口を動かし続ける。

「うむ。具体的には、そこの二人――キリト君とマサキ君にフラグボス討伐をしてもらい、我々はこの場所で新たに来るかもしれないパーティーと“交渉”してお帰りいただく。分け前は我々、聖竜連合、風林火山、そしてキリト君とマサキ君で五等分する。討伐隊である二人には、見返りとして望むアイテムを一つ、優先的に選ぶ権利を与える。……どうだね? なかなか良い案だと自負しているのだが」
「ちょいと待ちやがれ! だったらわざわざ二人だけで向かわせなくても、俺たち全員でボス討伐に向かやいいじゃねェか! 何も二人だけに任さなくてもいいだろうが!」
「……これはあまり言いたくはないのだがね、クライン君。我々とて、たかだかフラグボス一体のためにそこまでの戦力を組むことはできないのだよ。しかも、今回は敵の情報が何もない。これからの攻略で必要な精鋭たちをここで失うわけにはいかない。彼ら二人が討伐を請け負ってくれるというのであれば、我々にとってこれ以上の条件はない」
「何ィ……!?」

 クラインの頬が、耐えかねた怒りによって痙攣した。刀を持つ右手をブルブルと震わせながら、薄い笑みを浮かべるヒースクリフに怒鳴り散らす。

「手前ェ、自分が何言ってンのか分かってんのか! この二人を捨て駒扱いする気かよ!!」
「止せ、クライン。……いいだろう、その条件、呑んでやる」

 マサキがクラインの肩に手をかけて言うと、刀使いの顔が驚愕に染まった。

「なっ……!? オイ止めろ、今すぐ取り消せ!!」
「……俺も、それでいい」
「!? キリト、お前ェ……ッ!!」
「どうやら、討伐隊二人の承諾は取れたようだな。……君たちはどうする?」

 満足げに頷くと、ヒースクリフは脇の聖竜連合へ目線を振った。彼らはしばし無言を貫いていたが、この人数を相手取ることは不可能だと考えたのだろう、やがてリーダーらしき男が「分かった」とだけ短く言った。

「いいだろう。……さて、残るは君たちだけだが……どうする?」

 このマップに集った50名ほどの視線が、クライン一人に注がれた。奥歯を噛み締めるギリギリという音が冬の凍てつく空気を伝わって鼓膜を振動させる。刀使いはしばし葛藤を続けていたが、やがて刀を鈍い音と共に地面に突き立てると、ドカッという効果音を上げてその場に座り込んだ。

「ああもう知らねェ! 手前ェらのことなんか知ったことか! ボスでも何でも勝手に倒しに行って、勝手に死にやがれコンチクショウが!!」

 一際大きく怒鳴ったかと思うと、クラインは一転して俯き、黙り込んだ。怒りを制御し切れていないのだろう、サムライの計鎧に似た防具の下に覗く腕が震えている。

「これで全員の承諾が得られたな。……では、今回のことは彼女に証人となってもらうものとする」

 ヒースクリフは一度全体を見渡すと、脇へと退いた。すると、その影から血盟騎士団のユニフォームではなく純白の装備を着込んだ少女が姿を現す。
 彼女、エミは怯えたような表情で一歩前に出ると、ぎこちない動作で頭を下げた。

「では、二人とも。よろしく頼む」

 相変わらず無機質なその声に二人ははっと我に帰ると、目的地へと続くワープポイントへと飛び込んだ。転移時のエフェクトによって漂白されていく感覚の中で、「死ぬなよ」という短い声が聞こえた気がした。

 ワープポイントを抜けると、中心にそびえる一本の巨樹の周りを雪に覆われた平原が包んだ、白銀の世界が姿を現した。周囲を白く覆われた中で堂々とそびえるモミの姿は、ある種の孤高さすら醸し出している。
 しかし、マサキはその光景を美しいとは感じなかった。この世界に綺麗なものなど何一つ存在しない。あるのは、真っ黒に汚れているか、真っ白に穢れているか。その違いだけなのだから。
 マサキは蒼風を握りなおすと、何かを言いかけた怪物に向かって全力で雪を蹴った。
 

 

設定集

 
前書き
この項では、装備やソードスキルなど穹色の風オリジナル設定をまとめ、解説していきます。情報は随時更新していきますので、お楽しみに。
※この話はネタバレを含む可能性があります。読者の方々は、一度最新話までご一読いただいた上でこの話をお読みください。 

 
装備品

蒼風
茅場晶彦がマサキに贈ったユニークスキル《風刀》用武器。柄や鞘などは実体だが、刀身は薄青く、半透明。

ブラストウイングコート
マサキが15層のボス戦のLAボーナスで手に入れた透明のコート。効果は隠蔽率アップと敏捷値1.5倍ボーナス。ただしその代わりに防御力は皆無で、その上他のアクセサリー類以外の防具が装備できなくなる。一日に一度だけ、自らを透明化させることの出来る特殊能力を備える。


地名・その他設定

ヴィダーヘーレン
アインクラッド第二十四層西端に位置する圏()村。十数軒の家が集まった村で、そのはずれ、村を取り囲む針葉樹林のすぐ近くにマサキのホームが存在する。


イメージソング
 私Cor Leonisが勝手に選んだ“穹色の風”イメージソングを発表いたします。以前つぶやきにて一度発表いたしましたが、これからはこの場所で更新していきたいと考えております。


SAO前編 「真夜中のオーケストラ」Aqua Timez(アニメNARUTO EDより)
SAO後編 「波のゆくさき」THE RICECOOKERS(ドラマ SPECより)

 今後もALO編、GGO編と更新してまいりますので、お楽しみに。
 (つぶやきではMVのURLも載せておりましたが、ここでは自重いたしました。曲名で検索すれば恐らくMVが出てきますので、お手数ですがご自分の手でご検索をお願いします。)

《風刀》以外のソードスキル・派生スキルMod

リベーザ
曲刀スキル単発水平斬り技。片手剣でいう《ホリゾンタル》。

ライトネス
曲刀スキル単発斜め斬り技。《スラント》と同じ軌道で切りかかる。

ライズシュート
投剣スキル単発技。基本技である《シングルシュート》が肩の上で構えてから腕全体を使って投擲(とうてき)するのに対し、こちらは腰元で手のスナップのみで放つため、投剣を引き抜いてからの動作と時間が短くて済む。その代わり狙いは《シングルシュート》よりもつけにくく、また威力も弱い。

スモーク
投剣スキル技。投げた投剣を任意の時点で爆発させ、それによって煙幕を形成、相手の目をくらませる。また、この煙に巻かれた者は索敵スキルを使用することが出来ない。

ブラインド
投剣スキル派生Mod。投げたピックの死角にもう一本だけ隠して投げることが出来る。また、一本目二本目はそれぞれ別々にソードスキルを選択可能。

サイレント・ラン
軽業スキル派生Mod。音を立てずに移動することが出来るようになる。

《風刀》スキル

《風刀》スキルとはマサキが使用するユニークスキルで、特徴は、予備動作(プレモーション)及び技後硬直(ポストモーション)の短さと、ソードスキルにおける“型”が存在しないという点。
これはどういうことかと言うと、全ての技には、右から左へ袈裟斬りの一段目、そこから手を返しつつ逆袈裟の二段目、更に身体を回転しつつ横薙ぎで三段目――といった具合に攻撃動作(モーション)がインプットされている。そして、一度技を発動させてしまった場合、この動作以外のモーションで攻撃を繰り出すことは不可能になる。これは例えば、垂直斬り技である《バーチカル》を水平斬り技である《ホリゾンタル》の軌道で使用することが出来ないのと同じだ。
しかし、風刀スキルの場合はその“型”、攻撃モーションの一切が規定されていない。そのため、使用者は攻撃の際に、縦斬り、横切り、斜め斬り、突き、といった、あらゆる攻撃動作を状況に合わせて自由に選択することが出来る。
だが、その代償として技を発動させている間中一瞬も気を抜かずに攻撃動作をイメージしている必要があり、イメージが切れた場合はその瞬間に技がキャンセルされ、長い硬直時間を課されることになる。また、攻撃の際のモーションに少しの無理もあってはならず、少しでも無理な体勢から攻撃を繰り出そうとした場合は同じく技がキャンセルされてしまう。
例えて言うなら、OSS(マザーズ・ロザリオで実装された方)を即興で作りながら戦うソードスキル。
総じて制約が多く使用者を選ぶが、使用者のプレイヤースキルによっては変幻自在を体現することが出来るピーキーなスキルだと言える。


《風刀》スキルのソードスキル

疾風(はやて)
風刀スキル基本の六連撃技で、その名の通り凄まじい速さで移動しながら斬りかかる技。

雪風(ゆきかぜ)
疾風と変わらない(実際には疾風よりも少し遅い)速度で走りながら攻撃する五連撃技。疾風と違うのは、技の最中、自由に緩急をつけることが出来る点。

神渡(かみわた)
刀身を暴風に変換して発射するスキル。攻撃力はゼロ。用途は起こした風を相手にぶつけることで隙を生んだり、投げた投剣の軌道を変更させたりといった補助的なもの。

刃風(はかぜ)
その場で繰り出す3連撃技。移動がほぼ出来ない(スキルをキャンセルせずに動けるのはせいぜい一、二歩)が、その分剣速に凄まじいボーナスがかかる。


鎌鼬(かまいたち)
刀身を飛ばして攻撃する単発技。発射後コンマ数秒だけ刀身がない状態となり、隙が生まれる。

神風(かみかぜ)
風を周囲に纏い、高速で突撃する単発重攻撃技。かなりの助走を必要とするが、その分攻撃力と貫通力は凄まじく、両手武器の一撃と遜色ないほどの威力を誇る、風刀スキルでは一番の攻撃力を持つ大技。ヒット時の速度によって威力が大きく変化する。

春嵐(はるあらし)     考案 ULLR様
風刀スキル技の中では一撃の重さと攻撃力に優れる単発攻撃技。また、攻撃の際、刀身の長さを自由に変更できる。

吹断(ふきたつ)      考案 ULLR様
防御貫通特性を持つ突き技。拡散型と集中型がある。9連撃。
同じ箇所を続けて攻撃すると、ダメージにボーナスがかかる。

旋花(せんか)       考案 ULLR様
風を操りコイル状の竜巻を作り出し、その風を蹴って相手に飛ばす。軌道は一直線で途中変更は不可能。竜巻を作り出した時点でその内側に飛び込むと高速移動も可能。単発攻撃。

荒神風鎖(あらがみふうさ) 考案 ULLR様
任意の場所に風を発生させ、力を加えることが出来る技。起こせる風の強さは使用者の筋力値に比例する。

胴蛇貫(どうたぬき)    考案 暗黒少年様
一瞬だけ刀身を風に変換することによって、相手の防御などをすり抜けて攻撃する技。

夕凪(ゆうなぎ)
技後硬直から麻痺による硬直まで、ありとあらゆる硬直を無効化する風刀スキル技。

瞬風(ときかぜ)
任意の地点へ時間ゼロで、文字通り瞬間移動することができる技。自身から半径5m以内への移動は技後硬直なしで行うことができ、以遠3mにつき1秒ずつの硬直時間が課される。また、一度の使用につき5分の冷却時間が存在する。

風刀スキル技募集要項

 前々話のあとがきにて風刀スキルのソードスキルを募集すると発表いたしましたが、その募集に際しての要項をここに掲載いたします。

・ ご応募の際は、「ソードスキル名(できれば“風"に関するものだとありがたいです)」、「技の特徴(できるだけ詳細に)」を明記してください。
・ 明記されていない部分につきましては、作者が独自に設定することがあります。
・ ご応募いただいた技の設定(名称、特徴など)の一部を作者が独自に改変することがあります。
・ スキル使用者であるマサキの筋力値では不可能と判断される技の場合、採用されない、もしくは設定を作者が改変することがあります。
・ 差し支えなければ、ご応募いただいた方のお名前を以下の形式でこの設定集にて公表させていただきます(○○(ソードスキル名称) 考案、○○様)。名前の公表がお気に召さない場合、募集の際にその点を明記してください。
・ ご応募いただいた技の採用・非採用の通知は、本編、及びこの設定集のソードスキル欄での掲載をもってかえさせていただきます。
・ この募集要項の内容は、予告なしに変更、削除することがあります。

 風刀スキルはとても自由度の高いスキルですので、他のスキルでは考えられないような技(刀身が変形したり、伸びたり、巨大化したり、爆発したり、etc……)も可能です。
 是非、皆様の高い想像力でマサキ君の使う技の種類を増やしていただければと思います。考案の際には、上記の風刀スキルの説明をご参照ください。
 皆様のご応募をお待ちしております。 
 

 
後書き
本編で出たのに収録されていないスキルや技への質問等ございましたら、お手数ですがご一報を。質問には出来る限り答えさせていただきます。 

 

極夜の入り口

 
前書き
早速風刀スキルを送ってきてくださった先生方、ありがとうございました! 

 
 気が付くと、マサキは白銀の雪原に立ち尽くしていた。視界の左上に表示されたバーは、たった一ドットを残すのみ。目の前にはボスが担いでいた頭陀袋だけが残り、ボスだったものの成れの果てが青白い残り火を撒き散らしながら消えていく。やがて頭陀袋までもが消え失せ、中に含まれていた膨大なコルとアイテムがストレージに流れ込む。
 判然としない意識でマサキはアイテムストレージを開き、《蘇生アイテム》を探した。表示される名前を眺めながら、最大所持限界ぎりぎりまで詰め込まれたストレージをフリックしていく。
 やけに長く感じた数十秒が過ぎ去った後に、おびただしい数のアイテムの中に《還魂の聖晶石》と言う名が埋もれているのを見つけた。瞬間、心臓が今まで拍動を忘れていたのかと疑うくらいに大きく飛び跳ね、朦朧(もうろう)とした思考がぱあっと開けた。

「……あった、のか?」

 不意に、横から尋ねる声。マサキが首を動かすと、キリトが片手剣を背中の鞘に戻すことすらしないまま、こちらを覗いていた。キリトのストレージには《蘇生アイテム》はなかったのだろう(当然といえば当然だが)。
 マサキは小さく頷いて返すと、《還魂の聖晶石》と回復結晶二つをオブジェクト化させた。まずウインドウメニューから《還魂の聖晶石》を選択し、続いて“所有権放棄”アイコンをタップ、虹色に輝く結晶をキリトに向かって掲げた後、投げ捨てた。これで、この虹色の結晶はそこらの石と同じ扱いでしかない。
 マサキは再び蒼風を鞘から抜き放ち、同時に左手の回復結晶のうち一つをキリトに投げた。キリトは無言で受け取ると、同じように鞘から剣を抜いた。数秒後、回復結晶の使用を意味する「ヒール」の呪文が短く唱えられた。共に真紅に色づいた二つのHPバーが一瞬で全快する。
 そして、二人はデュエルの設定はおろか、唯一つの単語も交わさぬままに、同時に足元の雪を蹴った。
 自分がオレンジに堕ちることなど、微塵(みじん)も厭わなかった。
 一人を助けるために一人を殺す。
 そんな明白な矛盾に気付く思考力さえ、もう残されてはいなかった。



 舞い落ちる雪の欠片の中に、二色の光芒が混じった。漆黒に浸かった夜の世界を、二つの剣閃が疾駆する。
 キリトの初手が突進技《ソニックリープ》であることを筋肉の動きから予測していたマサキは、真正面から迎え撃つように走りだす。
 そして、予想通りキリトの《ソニックリープ》が発動しかけたその瞬間。明らかに刀身長(リーチ)が足りないにも関わらず、右手の蒼風を振るった。早すぎるその挙動にキリトの顔に疑念が()ぎるが、すぐに振り払って仄かに色づいた剣先をマサキに向ける。
 そして、次の瞬間。明らかに刀身が伸びた蒼風を前にして、キリトは表情を驚愕に染めた。

 風刀スキル《春嵐(はるあらし)》。連撃と技後硬直の短さに重きを置いた風刀スキルの中では一撃の重さと攻撃力に優れ、刀身の長さを自由に伸縮させることができる単発技。

 刀身を二倍近くまで伸ばしながら肉薄する半透明の刃に一瞬唖然としそうになるキリトだったが、持ち前の反応速度で我に帰ると、《ソニックリープ》の目標をマサキから蒼風へと変更。襲い来る風の刃を弾きつつ高速でマサキとすれ違う。
 数メートルの彼我距離が開いたところで互いに課せられた硬直から一足先に開放されたマサキは、自身のカーソルの色がそれまでのグリーンからオレンジへと変化しているのに気付いた。見れば、キリトのHPは数パーセントほど減少している。先ほどは急に目標を変えて迎撃したため、ダメージを相殺しきれなかったのだろう。力を込めてなどいないはずの奥歯がギリッと音を立て、苦い唾液が口の中に溢れる。
 マサキは溜まった唾液を一気に飲み下すと、何かから逃げ出すように地を蹴った。



「くっ……」

 水色のライトエフェクトに照らされたキリトの顔が、焦るように歪んだ。凄まじい速度と迎撃のタイミングを外す絶妙な緩急を併せ持った斬撃の数々を、己の持つ最大の反応速度でかわし、そして弾く。だが完全な迎撃には至らず、弾き損ねや身体を掠めていく攻撃にHPが僅かずつ、しかし確実に削られていく。しかも、繰り出される連撃は弾かれた後のことまで綿密に計算されているらしく、カウンターを狙うことすら至難の業だ。

 だがその一方で、キリトは無視できない安堵のような充足感を確かに覚えていた。今まさに迫り来る斬撃は、自分のそれよりも遥かに(はや)く、そして正確だ。恐らく一撃の威力ではこちらが勝っているだろうが、それはあくまで筋力パラメータとそれに付随した武器攻撃力の差でしかなく、筋力型の能力構成(ビルド)ではない自分の場合、捨て身の攻撃でも敢行しない限りそれは決定機にはなり得ない。このままいけば、ほぼ間違いなく、自分は彼に殺されるだろう。

 ――だが、それの何処に問題があろう? 自分は何の罪もない五人を殺した殺人犯だ。そんな輩は同じように殺されて然るべきだろう。そして、そのような無意味な死こそ、血まみれの自分に許された唯一の、また自分が望んだ死に方ではなかったか。
 ――そう。問題など何処にも存在しないのだ。このまま自分が死ねば三途の川の向こう岸で、もし仮に、この後自分がマサキを殺したならば、その時はこのだだっ広い氷点下の平原で、彼女の悪罵を聞くことになる。……本質的には、何も変わらない。ならば、死を恐れる理由もない。

「うおぉぉぉぁぁぁぁっ!!」

 キリトは絶叫と同時に、繰り出される連撃への防御を捨てた。がら空きの身体を切り裂いた一撃がHPをイエローに染めるが、そんなことはどうだっていい。重要なのは唯一つ、こちらと向こうのHPのどちらが先になくなるか。それだけなのだから。

 残響を引いて平野にたなびく咆哮の中で、キリトは血色の閃光をマサキへと向けた。



「チッ……」

 なけなしの筋力値で跳び退さりながら、マサキは舌打ちした。わき腹を貫いた《ヴォーパルストライク》の血色の剣閃が、文字通り防御力の存在しないHPを食い散らかしていく。攻略組でもトップクラスの攻撃専門職(ダメージディーラー)たるキリトの捨て身の一撃に晒されたマサキのHPは、レッドゾーンもレッドゾーン、バーの左端にたった一粒のドットを残して消え去った。そして、もうポーション等回復アイテムは一つたりとも残っていない。

「ハァ……」

 そんな絶望的な状況にも関わらず、マサキは一つ溜息を吐いただけだった。まだ余裕だとでも言いたげに頭を掻くマサキに、キリトが若干憮然としつつ問いかける。

「……随分、余裕そうだな」
「いや、そうでもないさ。見れば分かるだろ?」

 言葉とは裏腹に全く焦りのない声色で答えると、マサキは一ドットのみが残った自分のHPバーを指差した。Yシャツとスラックスとは何度見ても似合わない日本刀を構えなおす。

「まあ……」

 そして、次の瞬間。

「――負ける気もないがな」

 マサキは構えなおした蒼風を真一文字に薙ぎ払い、その空気の刃を射出した。弧状に広がる半透明の刃が空色の光を纏いながら駆け抜け、キリトに肉薄する。

「くっ!」

 咄嗟のことで一瞬反応が遅れたキリトだったが、持ち前の反応速度で右にダイブ。刀身を飛ばして遠距離攻撃を行う風刀スキル技《鎌鼬(かまいたち)》をかわす。
 地に這い(つくば)りながらも追撃を警戒してマサキの方を見ると、そこには光の尾を引きながら彗星のように迫る一本の投剣が。

「せ……やぁっ!」

 膝立ちまで体勢を立て直したキリトは、ちょうど顔面の高さで接近してくる投剣を剣で弾き飛ばした。そのままマサキに攻撃を仕掛けようと、雪原に力強く一歩を踏み出す。
 だが。

「――ッ!?」

 投げられた投剣の死角に隠れていた二本目を目の当たりにして、キリトは目を見開いた。距離からして迎撃は不可能。投剣である以上ダメージ自体はそれほどでもないが、麻痺毒でも塗られていた場合はそこで詰んでしまう。一本目の投剣の死角に二本目を隠して投げつける投剣スキル派生スキルMod《ブラインド》をここで使用してきたマサキに、心の中で毒づく。
 ――だが、これくらい――!
 脳神経が灼けつき、時間が凍結(フリーズ)する。そんな、ある意味矛盾した感覚を味わいながらキリトは凄まじい反応速度で体ごと首を捻り、スレスレで投剣を回避した。右手の剣を握り締め、反撃の牙をマサキへ向けようとする。
 そして、キリトの視界が再びマサキを捉えようとしたその瞬間。突如二本目の投剣から煙が噴出した。投剣スキル《スモーク》によって吐き出された白い煙は、たちまちキリトの視界を呑み込んでいく。
 キリトは反射的に《索敵》スキルを使用したが、《スモーク》の煙は目での索敵だけでなく索敵スキルも無効化してしまうことを思い出して諦めた。ならばと足音での探知を試みるが、鼓膜を揺らすのは焦りで大きくなった自らの鼓動と息遣いのみ。それもそのはず、マサキはこの時既に、足音を消す《軽業》スキル派生スキルMod《サイレント・ラン》を取得していたのだ。

「っ……!」

 僅かな逡巡を振り払うと、キリトは一か八か、全力で足元の雪を蹴り飛ばした。《スモーク》の煙の中にいる以上マサキの位置を知ることは叶わないが、同時にマサキもキリトが今の場所に留まっていない限り位置を特定できない。ならば、奇襲を受ける前に煙から抜け出して状況をイーブンに戻す。

 《スモーク》の効果範囲はそれほど広くなく、キリトは数秒程度のスプリントで難なく煙から抜け出した。即座に《索敵》スキルを発動させてマサキを探す。が、スキル自体は何の問題もなく作動しているにも関わらず、マサキの居所を指し示すカーソルは一向に姿を現さない。

「……まさか」

 キリトははっと何かに気付くと、急に首を左右に振り出した。曖昧な記憶を頼りに、雪原に落ちているはずのものを探す。
 幸い、目当てのもの――蘇生アイテム――はすぐに見つかった。自分が煙に巻かれている間に持ち逃げされたのではと一瞬疑ったキリトだったが、杞憂に終わったらしい。

「ふぅ……?」

 虹色の光を放つ結晶を見つけ、一瞬気が緩みかけたキリトの神経を、不意に何者かが駆け抜けた。違和感と呼ぶには微細すぎる、だが何かの間違いだと決め付けるには大きすぎる不快感。
 まるで、見えない刃に狙われているような……。

「…………ッ!」

 肥大化した違和感に耐えかね、ついにキリトが振り返った。疑念の声を上げる理性とは裏腹に感覚は再び加速し、研ぎ澄まされていく。
 振り返った先にあったのは、何の変哲もない雪景色。だが、喉の辺りを射抜く不快感は執拗に何かを訴えかける。
 どうせ、何をしたところで意味なんてない――そんな、ある種の諦念(ていねん)を抱いたキリトが、右手の剣を振り上げて――。

「…………!」
「なっ……!?」

 刃がぶつかり合う派手な音が空気を震わせ、瞬間、何もなかったはずの空間に突如マサキの体が浮かび上がった。《ブラストウイングコート》に秘められた、一日に一度だけ自らの姿を消すことができる特殊能力。
 キリトは予想だにしていなかった現象に体が硬直しそうになるが、手に握った剣にぐっと力を入れ直し、ぶつかり合っている空気の刃を跳ね上げた。筋力値を全く上げていないマサキに抗えるはずもなく、蒼風はマサキの右手ごと打ち上げられ、纏っていた閃光は無残に掻き消える。いつものポーカーフェイスの代わりにマサキの顔面に張り付いた驚愕の表情を見て、キリトは勝利を確信しつつ剣先をマサキに向ける。
 ――だが、しかし。

「……正直、驚いたよ。まさか見えない攻撃にまで反応されるとはな。だが……」

 キリトが向けた刃がマサキの体を今まさに切り裂こうとした、その瞬間。刃が触れていないにも関わらず、マサキの体が青白いポリゴンへと変化し、そして消えた。次いで、状況が把握できぬまま何もなくなった空間を切り刻むキリトの()()()()、何者かの――否、間違えようもない、マサキの声。硬直を消す風刀スキル《夕凪(ゆうなぎ)》と瞬間転移技《瞬風(ときかぜ)》のコンボ。

「――生憎、保険は多くかけておく主義でね」

 冷たく掠れたように響いた声に続いて背後から襲い来る半透明の刃が、キリトの体を切り裂いた。マサキが振るう蒼風は、状況が飲み込めないキリトの無防備な背中を流れるように滑っていく。

「……終わりだ」

 《刃風》の三連撃のうち二撃を難なくキリトに当てたマサキは、短く、か細く呟くと、二撃目で跳ね上げた蒼風を静かに振り下ろした。



 言葉を失って(たお)れゆく身体、何も残さずに散りゆく空色の欠片。何も特別な部分などありはしない、ありふれた無機質な死。もう見飽きた、しかし見慣れることのないいつも通りの非日常。
 まるでコンピュータ内のデータを消すようなあっけない“消去”の光景を思い浮かび、マサキの右手が僅かに強張った。その効果で、振り下ろされる剣速が仄かに鈍る。
 そして、幸か不幸か、その一瞬の差が命運を分けた。キリトの身体に刃が触れる寸前、真紅の盾が間に差し込まれ、強烈な火花と金属音とを散らした。

「……何のつもりだ」
「決着は着いただろう。これ以上、互いに傷つけあう必要もあるまい」

 今度こそ硬直をまともに受けたマサキに、盾でキリトをガードしたヒースクリフは張り付いた能面のようなポーカーフェイスで答えた。ほんの数ドットをHPバーに残したキリトが、雪の上に膝からくずおれる。
 マサキは無言でそれを一瞥すると、硬直が解かれた後に蒼風を鞘にしまった。二人に背を向け、記憶の片隅から引っ張り出した《還魂の聖晶石》の座標に向かう。

「え……?」

 マサキが雪の中から虹色に光る結晶を掘り起こしたとき、ワープポイントからエミとクラインが現れた。マサキのカーソルがオレンジになっていることに気付いたのだろう、愛らしい顔が困惑と驚愕に凍りつく。

「マサキ……手前ェまさか……!」
「安心しろ、死んじゃいない。……ほら、そこに倒れてるだろ」
「ッ……!」

 マサキが雪上に横たわるキリトに視線を投げると、クラインは血相を変えて飛んで行った。

「何で……? 二人は一緒に戦ってたんでしょ? なのに、何で……」
「――黙れよ。……お前には、関係ない」

 困惑で微妙に上ずったエミの声を、掠れたマサキの声が上書きした。向けられたマサキの視線を受け止めかねるように、エミはびくりと反応すると、気圧されて黙り込む。
 マサキは視線を結晶に戻すと、手の中のそれをタップ。
 そして。

「ハハッ……ハハハ……」

 乾ききった笑い声が、銀白の雪原を(むな)しく駆けた。(うつ)ろな目の焦点には、《還魂の聖晶石》の解説ウインドウ。
 ――もう、二度と彼がこの世界に舞い戻ることはないという、何よりの証明。

「……俺には意味がなかった。君が持っていた方がいい」

 マサキはひとしきり嗤うと、虹色の結晶をエミへと差し出した。彼女が戸惑いながら受け取るのを確認すると、マサキはもう一度ふっと噴出すように笑ってワープポイントへ歩き出す。

「――あの!」
「…………?」

 不意に背後からかけられたソプラノにマサキが振り向くと、エミが全身を強張らせながら両手の中の小瓶を差し出していた。

「これ、ポーション……よければ、使って……?」

 マサキは短く迷った後に「どうも」と一言告げながら小瓶を受け取り、そのままぐいと(あお)った。上等とはお世辞にも言えない味だが、何故かこのときだけは悪く感じなかった。……尤もそれは、味覚すらどうでもよくなっただけに過ぎないのだが。

 マサキは空になった瓶を雪の上に投げ捨てると、ふらふらと歩き出した。ワープポイントをくぐる直前、野太い叫び声が聞こえた気がした。



 気付くと、マサキは家のドアノブに手をかけていた。どのような道順を辿ったのかすら記憶にないが、マサキは気にする風もなくドアを開けた。ウィダーヘーレンが圏内村だったならば、オレンジのマサキは既にガーディアンによって八つ裂きにされていただろうが、そんな望外の幸運に気付けるだけの思考さえマサキには残っていなかった。ずるずると這うような足取りで殺風景なリビングに置かれた棚まで歩くと、そこで崩れ落ちる。その振動で、棚の上の写真が写真立てごと落下した。

「ぁ……ぁぁ……」

 意味のない呻きが口から漏れた。一度枯れた涙が思い出したように今更頬を伝う。
 ――もう、箱には何も残っていなかった。彼との希望(エルピス)も、猫の死体さえも。
 頭の中をとめどない絶望と悲壮感がぐるぐると渦巻き、時間だけが過ぎていった。夜の蚊帳に呑まれていた空はだんだんと白み始め、やがて東の窓から曙光が覗く。

「……行くか」

 小鳥のさえずりを聞きながらマサキは呟くと、ふらふらと立ち上がった。意味はない。ただ、とりあえず信用回復クエストを受けて、とりあえず攻略に参加して、とりあえずの日々を過ごす。言うなれば、ただの惰性。

 玄関のドアを開けると、地面の雪に反射した陽の光がマサキの眼を灼いた。マサキは目元に手をかざしながら覚束ない足取りで歩き出す。
 降り積もった柔らかな雪がマサキの足音を静かに消して。――まるで、マサキの存在自体が薄れていくみたいだった。
 
 

 
後書き
うーん、ちょっと微妙ですかね……。戦闘時のテンポなど、まだまだ精進ということでしょうか。
ご意見、ご感想、OSSなどお気軽にどうぞ。お待ちしております。 

 

Half Point

 
前書き
 更新が遅れてしまいましたことへのお詫びはつぶやきの方でさせていただいておりますので、お手数ですがそちらをご参照ください。 

 
「――では、攻略会議を始める」

 アインクラッド第五十層主街区《アルゲード》の片隅、迷宮区を思い起こさせるような曲がりくねった路地裏の一角。表通りの猥雑(わいざつ)さから逃げるようにひっそりと佇む会館の大会議室に、珍しい声が響いた。痩せ気味の体躯を真紅のローブに包んだ学者風の男――ヒースクリフは、会議開始を宣言した後、最前列にこちらと向かい合って座った。

 フロアボス攻略以外には殆ど興味を示さず、攻略会議にさえ滅多に出席しないことで有名な彼が何故今回ばかりは出張ってきたのかと言えば、それはこの第五十層が二度目の“クォーター・ポイント”であるからに他ならない。

 “クォーター・ポイント”とは、その名の通りこの浮遊城の四分の一地点、即ち第二十五層、第五十層、第七十五層を指し、他の層と比べ格段に強化されたボスが待ち構えている、とされている。と言うのも、第二十五層を守っていたフロアボスが、それまでとは一線を画す戦闘力を以って攻略隊の前に立ちはだかり、当時攻略組の主力だった《軍》の精鋭部隊を壊滅に追い込んだのだ。そしてそれは、当時隆盛を極めていた《軍》の衰退を招き、攻略組における勢力図を一挙に塗り替えるという大事件を引き起こした。
 そんなことがあったため、当時から攻略組の間では「アインクラッドの四分の一地点のボスは、他層のそれよりも格段に強化されている」という噂が“クォーター・ポイント”という通称と共に、まことしやかに囁かれていたのだが、今回第五十層フロアボスの情報を集めていくにつれ、その噂が真実であることが確かめられた。同時に、“クォーター・ポイント”の名前も正式名称として攻略組の間に定着した、というわけだ。

「まず、今までに判明したボスの情報を伝達します。名称は《The soul ruiner(魂の摘み取り手)》。攻撃力と防御力に重きを置いた重戦車タイプの能力構成で――」

 ヒースクリフから交代したアスナが、手に持った資料を凛とした声で読み上げ始めた。その場の全員が読み上げられる情報に耳を傾ける中、彼女は流暢さと緊張感を併せ持って紙を読み進めていく。
 その後、アスナは一分の隙もない音読でボス情報、基本戦術、また今回の戦闘では多数の戦線離脱者が予想されるため、主力の他に援護部隊を編成すること等を伝えきると、相変わらずのきびきびとした所作で着席した。入れ替わりにヒースクリフが再び立ち上がり、平坦な真鍮(しんちゅう)色の双眸(そうぼう)が部屋全体を俯瞰(ふかん)した。恐らく、聖騎士様が直々にご高説をのたまわれるのだろう。

 聞く意味が無いと判断したマサキは、一足先に会場を抜け出そうとして――。
 そして、その場に倒れこんだ。
 突如、世界が暗転した。



 不自然な浮遊感を感じたマサキが目を覚ますと、濃密な()()に迎えられた。
 全てが濃霧に沈み、その存在さえ疑問に思えてしまうほどあやふやな空間。今まで何度も来た、否、()()()()()()()夢の世界。……尤も、そんなロマンとファンタジーが溢れる光景だとは、お世辞にも思えはしないが。

「……今回は、随分と手荒なご招待だな」
「……申し訳ありません」
「ハァ……。で、今日は一体、何の用なんだ?」

 嫌味の一つでもぶつけてやろうかと考えていたマサキだったが、霧の向こう側から聞こえてくる声が本当にすまなさそうにしていたため、首を振りながら溜息を一つ吐くだけにとどめた。そのような辺り、やはり自分は少し変わったのだと実感する。

「はい。……マサキさん自身が思うように、マサキさんは確かに変わりました」

 そして、彼女はいつものように心を読んだ。マサキの視線が険しくなるが、気に留める素振りを見せないままに少女は続ける。

「けれど、一つだけ変わっていない――いいえ、変わりきれていない部分があります。……そして、マサキさんはもう、そのことに気付いている」
「……さあ、どうかな」

 一瞬の間をおいて、マサキはおどけた口調で一段と真剣みを増した少女の言葉をいなした。
 嘘はついていない。ついたところで、どの道見破られるのだから。

「……迷って、いるのですね」
「…………」

 静かな語り口に続いて、沈黙がその場を支配した。お互いの探るような視線が、霧を挟んで交錯する。
 少女はマサキの本心を紐解くようにゆったりと時間を使ってから、同じようにゆっくりと口を開いた。

「今、マサキさんの中でせめぎ合っている二つの感情は、実は同じものです。……ですから、信じてあげてください。……マサキさん自身の、繋がりを求める心を」

 ――ザ、ザザッ。

「なっ……!?」

 次の瞬間、幾筋ものノイズが、空間を満たす濃霧を切り裂くようにして発生した。思いもよらなかった事態に反応できなかったマサキは、彼女の言葉を飲み下すことすら忘れ、驚愕の声を漏らしてしまう。

「……どうやら、お時間のようですね」

 しかし、彼女の声には悲しみや寂しさこそあれ、驚きは微塵も感じられなかった。この事態を予め予測していたとでも言うのだろうか。マサキの脳内にいくつもの考えがよぎるが、そうこうしている間にもノイズは勢いを増し、視界を覆っていく。

「時間って……どういう意味だ!? おい!!」

 気がつくと、マサキは声を張り上げていた。彼女が消えてしまうことを無意識に悟り、胸の中にかつてと同じ苦しさが湧き上がる。

「……やはり、マサキさんは変わりましたね……。私のことなら、心配はいりません。……私は瞳。マサキさんを視界に捉える、ただそれだけのために生み出された存在です。……ですから、もうお会いすることはできないかもしれませんが、それでも、ずっとあなたを見ています。……カーディナルの目を盗むのも、もう限界です。ですが、ご安心ください。マサキさんを危険な目には遭わせません」

 次の瞬間、僅かにノイズが弱まったかと思うと、マサキの背後に巨大な穴が出現した。それは瞬く間に肥大化し、大きく開けた口でマサキを周囲の霧ごと一飲みにした。
 まるで電源を消したときのテレビ画面のように、プツリと光が途絶えた。

「……どうか、ご無事で……」

 最後の一筋の光が消える直前に響いた声が、マサキの中で何度もこだましていた。



「――っ!?」
「きゃあっ!?」

 目覚めを認識するよりも早く、マサキは跳ね起きた。焦点の定まらない視界はぼやけ、急に揺り動かされた頭が鈍痛を訴える。

 ――また、なのか……。
 マサキはいつまで経っても色あせようとしない苦い記憶を、口に溜まった同じ味の唾液と共に飲み下した。無意識に力が込められた奥歯が、ギリッと摩擦音を立てる。

「マサキ君……?」

 不意に、脇から声をかけられた。マサキがそちらに視線を投げると、そこには少々の困惑と驚きを滲ませながらこちらを覗くエミの顔。純白の肌と濡れ羽色の髪の素晴らしいコントラストを見せる愛らしい造形が、息遣いを感じられそうな距離に存在していた。
 彼女は数秒かけてくりくりとした瞳でこちらを覗き込むと、やがて安心したような笑みを浮かべて遠ざかった。

「よかった……。もう、大丈夫そうだね。マサキ君、いきなり倒れたからびっくりしちゃった。ここまで運んでくるの、結構大変だったんだよ? というか、実際にわたし一人じゃ出来なかったし」

 言われて、マサキは辺りを見回した。今自分が座っているのは、硬めのマットレスが敷かれた簡素なベッドの上。周囲に同じようなベッドがいくつか設置されている辺り、ここは会館の医務室か仮眠室だろうか。メニューウインドウからデジタル時計を呼び出すと、薄青いホログラフィックボードに16:30と映し出された。そこから推察するに、夢の世界へと旅立っていたのは約30分間のようだ。

 一通り状況を把握して視線をエミに戻すと、彼女は心配そうな顔色でこちらを覗っていた。

「見た感じは何ともなさそうだけど……、でもやっぱり何かあったら大変だし、今回の攻略は休んだほうがいいんじゃないかな? あ、報告とかはわたしが――」
「いいや、問題ない」
「……そう……。でも、無理はしないでね? ……あ、そうだ」

 マサキが提案を遮って言うと、エミは不安そうに眉を寄せたまま、渋々引き下がった。と思いきや、今度は何かを思い出したように胸の前で手を合わせると、「ちょっと待ってて」とだけ言い残して廊下に消えた。

「……はぁ……」

 エミの姿がなくなった隙を突いて、口から大きな溜息が飛び出した。夢の世界で告げられた言葉が、彩度を保ったままで頭の中を巡り続ける。

(『もう、気付いている』か……)

 穏やかに、しかしきっぱりと断言されたその言葉を、マサキは鉛のような胸の中で反芻(はんすう)した。
 その言葉が本当かどうかは、今のマサキには分からない。
 だが、今まで彼女が言ったことの中で的を外していたものは一つもなく、またその言葉を聞いたとき、ぐったりと沈む意識のどこかが僅かに腑に落ちたような素振りを見せたのも事実だった。

「……マサキ」

 少しためらうような響きが、思考の奥底に潜り込んでいたマサキの意識を引っ張り出した。呼ばれたことに気付いたマサキは、声のした方向に顔を向ける。

「久しぶり……だな」

 同年代の少年と比較してやや線の細い体を漆黒の上下で包んだ、つい二週間前に本気で殺し合った少年――キリトは、喉に引っかかったような声で言うと、まだ幼さの残る顔で不器用に笑って見せた。まるで油が切れたロボットのような歩き方でベッドに近寄り、先ほどまでエミが座っていた椅子に腰を下ろした。

「……で、一体何の用なんだ」
「つれないな。会議の最中にいきなり気絶したどっかの誰かさんを、ここまで運んできてやったって言うのに」
「そうか。……世話を掛けたな」

 持ち前の記憶力で『わたし一人じゃ出来なかった』とエミが言っていたのを思い出したマサキは、ぎこちない苦笑を浮かべたキリトに、素直に感謝の意を伝えた。相変わらずどこか落ち着かないキリトは、「いや……」と歯切れ悪く答える。

「…………」
「…………」

 そして訪れる沈黙。薬品の匂いが染み付いたシーツの上で、ワインレッドに色づいた夕日がゆらゆらと揺れる。
 キリトが様子を見に来た理由が、ただ単にマサキの体調を心配してというだけなのであるならば、もう帰っても構わないはず。なのにそうしない辺り、彼にはまだ、マサキに対して何らかの用事があるのだろうが……。

「……あの、さ」

 数分ほどの長きにわたった沈黙の末、ようやくキリトが口を開いた。

「……俺、ギルドを一つ、潰したんだ」



 キリトの独白は、その後数十分にも及んだ。彼は今にも消え入りそうな弱々しい声で、クリスマスの夜に蘇生させようとした“サチ”と言う名の少女のこと、そして、彼女が所属していた、今はなきギルドについて話した。
 やがて話の時間軸は12月24日を通り越し、キリトもそこで一度口を閉じたためにもう一通りの話は終わりかと思いきや、彼の口は再び言葉を発した。

「……帰った後、アイテムタブに時限式の録音結晶が新しく入ってて……サチの声が録音されてた。……何と言うか、少しだけ、心が軽くなったような気がしたんだ。……マサキが一層のボス戦前、俺のことを許してくれたときみたいに」

 徐々に空を覆い始めた夜の蚊帳に浮かぶキリトの表情が、仄かに柔らかみを帯びる。

「……それで、俺、まだあの時のお礼とか、そういうの何もしてこなかったから……。だからその、マサキには感謝してるって言うか、次はこっちの番って言うか……あぁと、その、だから……!」

 感情の抑えが効かなくなったのか、それまで俯き加減だったキリトの顔が一気に上げられ、マサキの両目を真正面に捉えた。
 一度、大きく深呼吸。

「――だから、俺はマサキに立ち直ってほしい。最初にマサキを見捨てた、ビーターの俺が言うことじゃないのは分かってるし、今の俺だって似た様なもんだけど……。それでも、本気でそう願ってる」
「…………」

 不器用な、しかしひたむきな視線に晒されて、マサキは言葉を返すことが出来なかった。数秒が経って、キリトが何とも複雑な表情で部屋を出た。

「……繋がりを求める……心……」

 夢の中で飲み込めなかった言葉が口から飛び出して、マサキは同時に(うず)きだした胸の辺りを押さえるように掴んだ。疼きはまるで今の言葉と共鳴するように強さを増して、そしてそれを、同じ場所で生まれた痛みが更に強烈に否定する。

「俺は――」

 ――どうしたいんだ。
 そう続けようとして、途中で止めた。
 辺りに舞い降りた夜の蚊帳も、窓をカタカタと揺らす冬の夜風も、その問いには答えなかった。

 様々な想いが渦巻く中、アインクラッド第五十層フロアボス攻略戦が、今、その幕を開けようとしていた。
 
 

 
後書き
 さて、いかがでしたでしょうか。ようやくマサキ君が少しずつの変化を見せ始めましたし、このまま高速更新でSAO編を突っ走って参ります……と、言いたいところなのですが、次回の更新も遅れる可能性が高いです。……痛い! ちょ、石を投げないで!

 アイタタタ……コホン。もちろんこれには深い理由がありまして、この11月、リアルがとても忙しくなりそうなのです。ざっとカレンダーを見ただけでも、11月7日にはBF4、14日にはGE2が発売となり、更に7日~14日にはエスコンのβテストまで重なるという超過密日程で……痛い痛い!! ちょっ、節子それもう石やない! 岩や!! だから止めて!! 頑張るから! 執筆も頑張るから!!

 ……というわけで(どんなわけだ)、次回もお楽しみ頂ければ幸いです(満身創痍)。

 ご意見、ご感想、OSSなど、随時募集しております。是非お送りいただければと思います。 

 

激闘、第五十層フロアボス攻略戦

 
前書き
 一話でまとめて書くつもりが、予想以上に長くなったので二話に分割して投稿。 

 
 それから数十分が過ぎて。マサキは一人、灯りの消えた会館を後にした。石造りの扉を開けた途端、夜になって一段と冷たくなった木枯らしが吹き(すさ)び、身体を貫く。
 表通りに出ると、街に並ぶ建物にはまだ灯りが灯っていたが、日中道に溢れていた出店や屋台の類は綺麗さっぱりたたまれていて、この街独特の猥雑さは、今は少々鳴りを潜めているようだった。

「……流石に寒いな」

 街道を寒風が吹き抜け、マサキは吐息を白く染めながら堪らず呟いた。ワイシャツ(実際にはプラスコート)しか着ていないのだから当たり前だと思われるかもしれないが、実はそうでもない。ボスのLAボーナスである《ブラストウイングコート》はもとより、マサキが身につけているスーツ、これが実はかなりの高級品で、寒さ・暑さには強くなっている。尤も、冬も本番を迎えた一月の夜風を完全に防ぐことは、どうやらできなかったらしいが。

「あ! マサキくーん! こっちこっち!!」

 装備の更新を考えなくていい以上コルは貯まっていく一方なわけで、だったら防寒用にマフラーの購入でも検討してみようか……。そんなことを考えながら遅めの夕食に向かおうとすると、通りの向かいに立っていたエミから突然声を掛けられた。その周囲では四人のプレイヤーが、彼女と同じくこちらに視線を向けている。
 マサキは僅かに逡巡すると、小さく溜息を吐いてそちらに向かって行った。

「良かったぁ……、大丈夫そうで」

 マサキがエミに近付くなり、彼女はマサキの顔を数秒かけてたっぷりと覗き込み、安堵の息と共にそう言った。

「ああ。世話を掛けた」
「ううん。困ったときはお互い様でしょ?」

 マサキの社交辞令に返って来たのは、彼女らしい、いつもの天使の微笑みだった。そのせいか、もう太陽はとっくに沈んでいるというのに、どこか視界が明るく感じられる。

「……で、用件は?」

 得意のポーカーフェイスで顔を覆い隠しながらマサキが言うと、エミは少しだけ左側にずれた。その背後に隠れるように立っていた四人組の全体像が見えるようになる。

「…………」

 彼らに何かがあるのかとマサキが視線をそちらに投げるが、彼らはただ緊張と畏怖の混じったような顔で硬直するばかり。
 男女の比率は三対一で、年齢は顔立ちから察するに全員が同年代、マサキより数個下だろう。装備の種類はまちまちだが、グレードは攻略組の最底辺レベル。恐らくレベルも大して変わらないだろう。

 そこまで観察する間にも一向に喋らないため、仕方なくマサキがエミに彼らのことを聞こうとする。と――

「……あ! あの!! こ、攻略組のマサキさんですよねッ!? ……ず、ずっと憧れてましたッ!!」

 一番右端の刀使いが突如硬直から復帰し、目を輝かせながらそう叫んだ。

「……はあ?」

 あまりの脈絡のなさにさすがのマサキも追いつけず、説明を求めて視線をエミに移す。

「……ね、マサキ君。夕ご飯まだでしょ? よかったら、一緒に食べない?」

 すると、いつも通りの優しげな笑みを浮かべながら、天使様はそう誘ったのだった。



「……で、君はこの親睦会とやらをセッティングしたと」

 天井に吊るされた照明から柔らかな暖色の光が漏れるレストラン。BGMのシックな音楽を聴きながらマサキは言って、目の前のサラダを口に運んだ。

 このレストランに入ってから聞かされた説明によると、この四人組は以前エミがレベリングを手伝ったことがある、最近攻略組に上がって来た元中層ギルドで、全員が(中でも先ほど大声を上げた刀使いの少年が特に)マサキに対して強い憧れを抱いているらしい。
 今回彼らはボス戦に初招集されることになり、世話になったエミと食事会を開こうとしたのだが、彼らがマサキに憧れていることを思い出したエミが急遽マサキを席に誘うことを提案、会館の外で待ち伏せて出てきたところを捕縛、連行した、と。よくもまあそんなところにまで気が回ることだ。

「そういえば……」

 そろそろメインディッシュも食べ終わろうかという頃になって、大声を上げた刀使いの少年――確か名前をジュンと言ったか――が、思い出したように口を開いた。

「今回のボス戦は、夜にやるんですね? 俺、ずっと昼にやるもんだと思ってました。何か意味とかあったりするんですか?」

 突然の質問だったが、他の三人も気になっていたらしく、「あ、確かに」だの「それ俺も思ってた」だのといった言葉が口々に上がった。彼らの視線が答えを求めてマサキとエミに集中する。
 この程度の質問ならどうせエミが答えるだろうと、マサキは無視して最後の一口分の肉を口に放り込もうとした。のだが。

「えっと……マサキ君、何でだっけ?」

 こともあろうか、エミは話をこちらに振ってきた。攻略組の中でもベテランの部類である彼女なら、知らないはずはないのだが……。
 自身に集中した答えを催促するような視線に負け、マサキはエミを一瞥してから渋々解説を始めた。

「……この層のフィールドにポップするモンスターは、昼よりも夜のほうが攻撃力と敏捷性が高く、逆にHPと防御に劣る。それに、夜のほうが単独行動する種類が多い。ボス討伐隊クラスの集団なら夜のほうが被害を抑えられると、攻略組の首脳連中は踏んだんだよ」

 前述したとおり、マサキが解説したのは特に難しいことでもない。むしろ攻略組なら容易に想像できるだろう。が、憧れの人の解説というフィルター越しにそれを聞いてしまった彼らは、まるで世紀の大演説を聞いたかのような尊敬の眼差しを向けてくる。

「あ! じゃ、じゃあ俺からも!」
「ちょっ、リキずるい! 私からもいいですか!?」
「……ご自由に」

 ついでに、立て続けの追加質問まで。

(……なるほど)

 ここでようやく、マサキはエミの狙いに気付いた。恐らく彼女は、この場で殆ど発言していないマサキと四人組が話すきっかけを作ろうとしたのだろう。そして、どうやら事は彼女の目論み通りに運んだらしい。

「人気者だね」
「止してくれ」

 何が嬉しいのかニコニコと笑うエミに、やや憮然とした風でマサキは返すと、フォークに突き刺さったままの肉を口に投げ込んだ。

 騒がしい雰囲気の質問会は、その後彼らがボス部屋に辿り着くまで延々と続いたのだった。



「いよいよなんだ……」

 ボス部屋に通じる扉の前、マサキの隣で僅かに怯えたようにジュンが言った。初のボス戦、しかもその相手がクォーター・ポイントともなれば仕方あるまい。他のプレイヤーの顔にも、いつもより緊張が色濃く浮き出ている。
 張り詰めた緊張の中、真紅の鎧に身を包んだヒースクリフはおもむろに扉に手を当てて――。
そして、押した。
 半端な衝撃ではびくともしないであろう重厚な石扉が、床と擦れ合いながらゆっくりと開いていく。
 瞬間、部屋の四方に据え付けられているたいまつに一斉に火が灯り、中央に鎮座しているそれを黄金色に染め上げる。

 無機質な表情の奥で妖しく光る瞳をこちらに向ける、能面のような顔。重そうな鎧にその身を包んだ、太く精悍な胴。……そして、そこから伸びる十もの腕と、その全てに握られている槍や刀、槌などの武器。
 仏像の類を彷彿させる異形の怪物。その頭上で弾けた名前は、《The soul ruiner(魂の摘み取り手)》。

 ――ゴクリ。
 部屋中に響いた音と共に生唾を飲み込んだのは、一体誰だっただろうか。そんな疑問と僅かな怯えを振り切るように、攻略隊は喊声(かんせい)を上げて部屋になだれ込んだ。まずヒースクリフに率いられた、見るからに重そうな鎧と盾で身を包んだ重装備のタンクプレイヤーが前に出て、ボスと対峙する。

 今回の攻略に当たって攻略組首脳部が採った戦術はいたってシンプル。(タンク)装備のプレイヤーを前線に並べて攻撃を防ぎ、その隙にマサキたちのようなダメージディーラーが攻撃を行う。壁役はローテーションで回し、平均HPが下がったり回復アイテムが枯渇したりした場合は、五十層転移門に待機している壁役を多く揃えた援護部隊を投入するという、要するに持久戦だった。今回のボスは、HPはそれほどでもないものの防御力がかなり高いことが確認されており、防御力の低い攻撃特化編成で短期決戦を挑むよりも、持久戦を展開したほうが堅実だと考えられたためだ。

「タンク隊、構え! 攻撃来るぞ!!」

 いつになく厳しいヒースクリフの号令に従って、ボス正面で半円状に布陣したタンク部隊が、手に持った盾を一斉に突き出した。直後、振り上げられたボスの五本の腕がクロスするように薙ぎ払われ、タンクたちを襲う。だが彼らとて精鋭中の精鋭。卓越した盾捌きと鍛え上げた防御力で、見事にその一撃を耐え切ってみせる。
 そしてその瞬間、攻撃(アタック)隊を率いるアスナの指示が出るよりも早く、マサキは地を蹴った。コンマ数秒遅れて、アスナからスイッチの号令が飛ぶ。
 腕の数が増えればそれだけ攻撃間隔が短くなり、スイッチのタイミングはよりシビアになる。が、マサキは関係ないと言わんばかりに全速力でボスに肉薄する。

 誰よりも早くボスに接近したマサキは、その速度を殺さぬまま、右手に握った蒼風を一閃。敏捷一極化ビルドの本領を遺憾なく発揮してボスの周囲を駆け抜けながら、《疾風(はやて)》の六連撃を刻み込む。ごく短い硬直を挟み、今度はその場で跳躍。空中でもう一度任意の方向にジャンプが可能になる《軽業》スキル派生Mod《ダブルジャンプ》で高さを稼いでボスの頭に跳びかかると、防御貫通特性を持つ刺突技《吹断(ふきたつ)》を放った。狭い箇所に連続して攻撃するほどダメージにボーナス補正がかかる九連撃技を一寸の狂いもなく同じ場所に叩き込み、そのまま肩部分を足場にして飛び降りながら後退する。
 着地してボスに向き直ると、再び攻撃部隊の代わりにタンク部隊が前衛に出て、重そうな盾を突き出していた。ソードスキルの淡い光の尾を引いて、刀や薙刀などがそこに殺到する。
 マサキが思い出したようにチラリと目線を動かすと、あの四人組が緊張しつつも上手く役割をこなしているのが視界に入った。隣にはエミも付き添っているようで、あの様子ならちょっとやそっとでは崩れないだろう。

 マサキは無意識に安堵の息を吐くと、蒼風を今一度握りなおし、攻撃チャンスを見逃すことなく再びボスに向かって行った。



「せあっ!」

 《ダブルジャンプ》で部屋の天井近くまで跳び上がったマサキは、気合の入った掛け声と同時に蒼風を振りかぶった。ボスもそれを把握していたらしく、腕の一本が向きを変え、その先端に握られた刀が迎え撃つように進路を塞ぐ。もしそのまま双方がぶつかった場合、筋力に劣るマサキが負けるのは明白。運が悪ければ追撃を受けてしまうだろう。
 だが、そんなことは織り込み済みだったマサキは一瞬ニヤリと笑ってみせると、迷うことなく振り下ろした。マサキの持てる敏捷値を全てつぎ込まれた風の刃は空気を切り裂きながら肉薄し、迎撃にせり上がってきた刀をすり抜けてボスの頭に直撃した。刀身を一瞬風に変換することで防御などをすり抜けることができる単発技《胴蛇貫(どうたぬき)》が能面のような顔に傷を付ける。

「……チッ」

 しかし、攻撃を成功させたはずのマサキは、苦そうな顔で舌打ちした。攻撃時の手応えからして、あまりダメージを与えられていないように感じられたからだ。

 そもそも敏捷特化型のマサキは一撃辺りのダメージが極端に低く、一撃での与ダメージだけで比較した場合、マサキのそれは攻略組でも最低の値を取るだろう。それでも敵の防御力が低ければ、持ち前の敏捷性で連撃数を稼ぐことによりダメージを蓄積させられるのだが、今回のように硬い相手だと一回辺りのダメージが低すぎてそれも厳しい。《吹断》を使えば一度は防御力を無視できるが、AIに学習されてしまうためあまりそれ一辺倒になるわけにもいかない。……尤もその弱点は短時間ならば克服できるのだが……。

(……いや)

 僅かな逡巡の後、マサキはその案を否定した。確かにアレは優秀だが、その分脳に負荷がかかる。敵の腕が多いと言うことは筋肉演算の対象も増えるということであり、その負荷も踏まえるとやはりできる限り温存しておきたい。

「マサキ君! 後ろ!!」
「……ッ!?」

 マサキが考えを巡らせた一瞬の隙に付け込んで、ボスの持つ巨大な槌が後方から迫った。マサキは咄嗟に蒼風でガードして直撃だけは免れたが、筋力の差で吹き飛ばされる。

「くっ……」
「マサキさん!!」

 何とか体勢を立て直して着地することに成功したマサキは、駆け寄ってきたあの四人組にハンドシグナルで無事を伝え、回復結晶を取り出した。即座にヒールと唱え、安全域(グリーン)ギリギリまで落ち込んだ体力を一気に全快させる。

「範囲攻撃来るぞ! 構えろ!!」
「くそっ、喰らっちまった! 誰か、ローテ代わってくれ!!」
「よし、俺が行く! タイミング合わせろ……三、二、一……スイッチ!!」

 終盤戦に差しかかろうとしていた戦いは、今まさに熾烈を極めていた。ボスの頭上に浮かぶ、元々四本あったHPバーは残り一本と少し。一本減らすごとに敵の攻撃力と攻撃間隔が強化され、それに伴ってローテーションが僅かに崩れるなどのハプニングもあったが、臨機応変な対応で現在は完全に持ち直している。

 やがて、前方で一際大きな歓声が上がった。遂に三本目のHPバーが底を突き、ラスト一本に突入したのだ。攻撃のために前衛に出ていたアタッカーが後衛に戻り、タンク隊が入れ替わって前衛に入る。

 ――いける。このまま押し切れる。
 誰もがそう思った。確かに敵は強いが、勝てないわけではない。二十五層の悪夢は、油断していただけだったのだ、と。

 ――だが、しかし。

「キイィィィィィィエアァァァァァァァァッ!!!」

 突如、ボスは十本全ての腕を振り上げて奇声を張り上げた。すると、身体を覆っていた金属製の重鎧がバラバラと崩れ去る。これで敵は防御力と引き換えに、更なる攻撃力と敏捷性を得る。事前情報どおりの展開だ。

 ……だというのに。

「オイ……なんだよ、アレ……聞いてねぇよ……」

 前衛に出ていたタンク隊の一人が、震えた声で叫んだ。彼の顔に浮かぶのは、驚愕と疑問、そして恐怖。その目に映るのは、能面めいた無機質な顔と振り上げられた十本の腕、そして鎧の下から新たに現れた、四十本もの腕と武器。怪物は前衛の一人に対して狙いを定めたように凝視すると、全ての腕を振りかぶった。

「そんな……なんで……」

 視線の先にいたプレイヤーが、足を震わせながら僅かに後ずさった。だが、何もないはずの石床で転び、尻餅をついてしまう。

「止めてくれ……嫌だ、嫌だ! まだ死にたくない……!」

 だが、そんな嘆願を嘲笑うようにして、仏像は合計五十本もの腕を全て振り下ろした。握られた刀剣類が、禍々しい光を帯びて一人に叩きつけられた。

 ささやかな希望さえ踏み潰した異形の怪物は、四散した蒼い欠片の向こう側で、能面のような顔を歪めて不気味に笑った。 

 

穹色の風

 閃光と轟音、そして耳をつんざく破砕音。それは、また一人のプレイヤーが世界から永遠にログアウトしたことを意味していた。

 戦況は最悪だった。あまりにもインパクトのありすぎたボスの形態変化と仲間の死で走った動揺が抜けないうちに、今までとは別次元の機動性を見せたボスの攻撃によってさらに二人の前衛が死亡。ようやく現状を把握しだしたプレイヤー側は前衛をフォローして態勢を立て直そうとするが、それが整わないうちにボスにタンク部隊の壁を突破され、その先のアタッカー数人が被弾。命を散らした。
 そして、プレイヤーの中の動揺は、その一瞬で恐怖へと変わった。制御しきれない恐怖の渦に飲み込まれたプレイヤーはパニックを引き起こし、ボス近くの比較的体力に余裕のあったはずのプレイヤーが、我先にと転移結晶で離脱した。目先の攻撃目標を失った仏像は、次なる獲物を探しつつ後衛に近付いていく。

「むん!」

 このまま壊滅か……と、最悪の未来がプレイヤーたちの頭をよぎった瞬間。突如ボスの目の前に紅い光が割り込んだかと思うと、手に持った十字盾でボスの一撃を受け止めた。聖騎士・ヒースクリフだ。
彼は圧倒的な防御力とプレイヤースキルでボスの攻撃を受け止め、受け流し、たった一人で戦線を支え始める。
 その間にアスナなど数人が必死に留まるよう呼びかけるが、既に恐怖に呑まれていたプレイヤーに届くはずもなく、逆にこれ幸いと一気に離脱していく。
 気付けば、残っているのはヒースクリフとマサキ、エミ、アスナ、あの四人組と、残りたった十人未満という惨状だった。

「マサキさん……」

 不安に押し潰されそうな声で、四人組の紅一点、アミが呟いた。他の三人も、どうすればいいのか分からず、困惑したような視線をマサキに向ける。

「……来てくれ」

 マサキは一言だけ言うと、必死に統制を取ろうとしているアスナとエミの二人に駆け寄った。すると、こちらに気付いたアスナが厳しい顔で口を開いた。

「……この状態では、戦線を支えることは困難です。よって、現状での攻略は不可能と判断し、撤退します。あなたたちも、団長がボスを引き付けている間に脱出してください」
「だろうな。そう言うと思った。……だが駄目だ」
「え……!?」

 まさか反対されるとは思わなかったのだろう。アスナが、そしてエミたちも揃って驚きの色を見せる。

「正気ですか!? 今撤退しないと――」
「今撤退したら、攻略組全体の士気が著しく下がる。「勝てない」という思いが刷り込まれ、ネガティブな心理状態でボスと向き合うことになる。そうなれば誰もが前に出ることを嫌い、連携面で大きな穴を抱えることになる。当然、勝算はかなり低くなるだろう」
「それは……」
「それに、軍の二の舞になることを嫌った攻略ギルドが、精鋭の攻略参加を出し渋る可能性もある。下手をすれば、攻略自体がここで頓挫しかねない」
「…………」

 押し黙ったアスナを見て説き伏せたと判断したのか、マサキは急に振り向いて、ジュンたち四人に向き直った。

「お前たちは今すぐここから転移で脱出しろ。正直、お前たちのレベルとスキルではこの相手は厳しすぎる。恐らく今頃、援護隊が慌てて出発しようとしているはずだ。彼らに今の詳細な状況を伝えてくれ。……エミはアスナと一緒に、まだ戦えそうなプレイヤーを掻き集めてポーションで回復。援護隊の到着を待って、再び加勢しろ」
「……分かった。でも、それじゃあマサキ君は……?」
「いくらヒースクリフとは言え、一人であの相手は手に余るだろう。俺も向かって、二人で時間を稼ぐ」
「そんな……! だったら、俺たちも残ります! マサキさんが戦ってるのに、俺たちだけ逃げるなんて……!」

 心配そうなジュンの言葉に、他の三人も頷く。そんな彼らを見て、マサキは呆れたように頭を掻いた。

「言っただろう。お前たちでは力不足、足手まといだ。それに、戦況を正しく伝えることは重要な仕事だ」
「…………」
「でも、そんなことして、マサキ君が死んじゃったら……!」

 痛いところを突かれて押し黙った四人の代わりに、今度はエミが噛み付いた。不安そうな声に、マサキは一瞬考えるような仕草を見せる。
 だが。

「死ぬ……。……そうか、そうだったな……」

 続くマサキの反応は、エミが思っていたよりもずっとあっさりとしたものだった。斜め上の反応に、エミたちは揃って毒気を抜かれたようにキョトンと驚く。

「……とにかく、時間は何とかする。後は言った通りにやってくれ」

 そうとだけ言い残すと、マサキは尚も止めようとするジュンたちを振り切って駆け出した。一気にトップスピードまで到達すると、腰元の鞘から再び蒼風を抜き放ち、高々と跳躍。ボスの胸程度の高さまでジャンプすると、身体を捻りながら地面に対して垂直に刀を一回転させるように振るう。その途端、水色の光が残る軌道から空気の奔流があふれ出し、やがてそれは巨大な竜巻となってマサキの姿を覆い隠す。
 風刀スキル単発攻撃技《旋花(せんか)》。本来は作り出した竜巻を相手にぶつけて攻撃する技だが、マサキは自らその中心部に飛び込むと、中心部の強烈な気流を利用して、カタパルトのように自身を射出した。そして空中で技後硬直が解けるや否や、風刀スキル最大の攻撃力を誇る重攻撃技《神風(かみかぜ)》を発動。空気を切り裂く轟音と衝撃波(ソニックブーム)を撒き散らしながら、吹き荒れる暴風とライトエフェクトを纏った刀身を、猛々しい筋肉を晒した胸部へと突き立てる。

「ギェァァァァァッ!?!?」

 強烈な一撃を胸に受けた仏像は、僅かによろけながら苦悶の叫びを上げた。手痛い一撃を喰らわせた相手(マサキ)を睨みつけ、硬直中のマサキにを葬ろうと、自身の持つ半分、数にして二十五本もの振り上げる。

 だが、マサキは死を恐れていないかのように獰猛に笑うと、《夕凪》で硬直をキャンセル。脳の回転速度を一気に跳ね上げた。ボスが持つ腕すべての筋肉の動きを瞬時に計算し、攻撃予測点を詳細に割り出す。

「……ふっ」

 マサキは短く息を吐きながら刀を抜くと、まず振り下ろされた薙刀をかわすために飛びずさった。直後、マサキのいた空間を鮮血色の光をぶちまけながら薙刀が切り裂く。続けて、緩やかに落下を始めたマサキの頭上から、光を纏った攻撃が流星群の如く殺到する。

 ――右、右、前、左、後ろ、前――!

 だが、マサキはその全ての軌道を正確に読み取ると、何もないはずの空中を蹴り飛ばした。存在し得る全ての座標――例えそれが空中であろうと――を駆け抜けながら攻撃できる十四連撃技《嶺渡(ねわた)》を発動させたマサキは、そこに見えない地面があるのではないかとさえ思えるほど繊細、かつ迅速に空中を駆け巡り、ボスの攻撃をかわし続けるどころか、逆に振り下ろした腕をカウンターで斬りつけていく。

「ギアアァァァァァァッ!!」

 全く攻撃が当たらないマサキに痺れを切らしたのか、ボスは更に攻撃用の腕を追加すると、マサキの周囲全方向から全方位攻撃を繰り出した。マサキを囲むように配置された刀剣類が、逃げ場を奪いながら迫っていく。
 だが、そんなことはとっくにお見通しだったマサキは、表情一つ変えずに、よける素振りすら見せることなく突き進む。直撃を確信したのか、能面めいた顔を不気味に歪めてほくそ笑みながら、仏像は一気に腕を振り切ろうとする。

 そして、幾十もの刀身がマサキを切り刻もうとした、その直前。複数の風が迫り来る腕の前に現れ、動きを阻害した。風を相手にぶつけることで相手の行動を阻害する風刀スキル特殊技《荒神風鎖(あらがみふうさ)》が《嶺渡》と()()()()発動し、敵の攻撃速度を僅かに緩める。
 そして、マサキの敏捷値にとって、そうして出来た一瞬の隙は、迫り来る剣の雨を掻い潜るには十分すぎた。

 ――SAOでソードスキルを発動させるために必要なのは、たった一つ、初動のモーションである。ソードスキルにはその全てにそれぞれ技を起こすためのモーションが設定されており、そのモーションを認識したときにのみソードスキルが発動する。当然モーションが同じ技は二つとないため、複数の技が同時に発動することはありえない。
 だが、風刀の場合は違う。風刀スキルの技は使用者のイメージによってのみ発動し、モーションは関係がない。
 ならばイメージを複数重ねればソードスキルが幾つも発動するのではと思うかも知れないが、もちろんそう簡単に上手くいくほど茅場晶彦は馬鹿ではなかった。例え複数のイメージを同時に入力したとしても、発動するのはカーディナルが認識した一番強いイメージの技一つのみ。あるいは、一つ一つのイメージが粗ければそもそも技が発動しないことさえある。
 ……だが、しかし。複数のイメージを十分に、かつカーディナルが認識できないほど同レベルの強さで入力した場合にのみ。カーディナルは出力させる技を選ぶことが出来なくなり、結果、複数の技が同時に発動する。
 無論、だからと言って即座に狙えるようなものではない。が、マサキはそれをやってのけた。マサキだけが、風刀にだけ使うことの出来るシステム外スキル、その名も《デュアル・キャスト》――。

「せあぁぁっ!!」

 ボスの必死の攻撃をもかわして見せたマサキは、そのまま全速力で空を駆け抜け、蒼風を横薙ぎに振るいながら斬り抜けた。先ほどマサキを逃した腕たちが血眼になって追撃を始めたが、繰り出す攻撃は、まるでマサキを嫌うかのように悉く虚空を切り裂いていく。《荒神風鎖》で作り出せる風の強さは筋力値に比例するため、マサキが起こせる強さでは腕の動きを止めたりすることは出来ないが、横から煽ることにより僅かに軌道をずらす程度なら余裕で出来る。そして、マサキにはその僅かで十分だった。
 スキルと技、スピードで相手の攻撃を回避、撹乱(かくらん)しつつ、手札の多さと敏捷性で一方的に攻撃する、変則的高速高機動型三次元戦闘。それが、《穹色(そらいろ)の風》マサキの真骨頂なのだ。

「すげぇ……」
「あれが……穹色の風……」

 マサキの圧倒的とも言える戦闘を前に、ジュンたちは次々に賛嘆の声を口にした。長い間憧れていた人物が必死に戦う姿に、尊敬と、自分たちだけが逃げ帰ることへの後ろめたさが同時に沸き上がってくる。確かにマサキの言うとおり、自分たちの実力ではあのボスと対峙することは難しいし、援護隊に状況を伝えることも重要な役割だろう。今この間にも、援護隊はこの部屋を目指そうとしているのだ。ぐずぐずしていたら自分たちの転移より先に出発してしまいかねない。

「……なあ、ジュン」

 そして、刻限と感情の狭間で迷った末、彼らはマサキの命令を()分《・》()()破った。

「……俺たちは三人でここに残る。ジュンは一度帰って、援護隊に状況を伝えるんだ」
「そんな!?」
「違うんだ、ジュン。確かにジュンは一度帰るけど、それで終わりじゃない。援護隊に状況を伝えたら、一緒に戻ってくるんだ。俺たちはここでそれを待って、エミさんたちと一緒にボスに最後のとどめを刺す。これなら、俺たちにも出来るはずだ」
「皆……分かった。俺、行って来るよ。――転移! アルゲード!」

 ジュンは真剣な顔で頷くと、たった二人でボスと渡り合い続けるマサキを凝視しながら転移して行った。後にアインクラッド史上でも有数の激戦として知られることになる戦いの終焉を告げるカウントダウンは、今も刻一刻と時を刻んでいた。



「……ッ!」

 もう幾度放ったのかすら分からない《嶺渡》で、マサキはボスを背中から斬りつけた。どうやら先ほど鎧を脱ぎ捨てた対価はかなり高いらしく、最初は殆ど減らなかったHPバーが今の一撃で目に見えて減少する。ボスのHPは残り一割を切り、もうこのまま二人で倒せてしまうのではというようにさえ見える。

「……っと」

 残り連撃数が一になったマサキは、追撃してくる腕をかわしながら着地して、最後の一撃をわざと空振りした。こうすることで、回避機動を取りながら離脱することが可能になるためだ。
 だが、それでも技後硬直まで消すことは出来ず、ここぞとばかりに頭上から雨あられの如く剣筋が降り注ぐ。そして、最初に振り下ろされた槍の穂先がマサキを捉える寸前、真紅の盾がその間に割り込み、神掛かった盾捌きでその全てを跳ね返す。

「……相変わらず、馬鹿げた防御力だな。少しくらい分けていただきたいものだ」
「なら私は、君の敏捷値を頂こうか」

 今もなお断続的に殺到する攻撃を完璧に捌きながら、ヒースクリフは軽口を返して見せた。数多の攻撃を掻い潜ってボスにダメージを与えるマサキも流石だが、マサキが戦いやすいようにボスの攻撃を出来るだけ引き付け、マサキの硬直時には必ずフォローに回るヒースクリフも圧巻の一言だ。しかも、それだけの攻撃を受けながら、彼はHPを八割も残している。彼がアインクラッド最強と言われているのにも頷ける。

「さて……どうだね、マサキ君。まだいけるか?」
「ああ、問題ない。そろそろ、援護隊も到着する頃だからな」

 ヒースクリフの問いに肯定で返しつつも、マサキの顔つきは若干厳しそうだった。それもそのはず、腕一本でさえそれなりの負荷が掛かる筋肉演算を五十本分、さらに《デュアル・キャスト》まで併用した状態の戦闘を、マサキはかれこれ三十分以上も続けているのだ。いくら彼の頭脳が超人的とは言え、限界はある。どんなに長くとも、あと五分持つか持たないか、といったところだろう。

 だが、それは決して無謀な賭けではなかった。今マサキが言ったとおり、もういつ援護部隊が到着してもおかしくない時間帯なのだ。
 そして実際に、その時はすぐにやってきた。《嶺渡》での攻撃に敵AIが慣れてきたことを感じて攻撃に使う技を《雪風》に変えたマサキの三撃目がボスの左足を捉えた瞬間。巨大な喊声を上げながら、数十人の軍団が部屋に駆け入ってきたのだ。既に限界間近だったマサキは、ボスの攻撃に全神経を傾けながら離脱を開始する。
 ――だが。

「マサキさん! 今行きますッ!!」
「な……ッ!?」

 聞き覚えのある声にマサキが驚いて振り向くと、到着した援護隊の一番前でジュンが刀を振り上げながら駆け寄ろうとしていた。更に、残りの三人にいたっては誰よりも先行してこちらに走ってくるではないか。

「馬鹿! 来るんじゃない! こいつはお前たちが敵う相手じゃ「マサキさん後ろ!!」――!?」

 彼らが転移していなかったことに気付いたマサキが何とか突撃を止めさせようと叫んだ一瞬の隙を突いて、仏像は巨大な鎌を振り下ろした。マサキは咄嗟に蒼風でガードを試みるが、筋力値の差によって大きく弾かれ、さらに発動していた《雪風》もキャンセルさせられてしまう。

「しま……っ!?」

 そして、この仏像がマサキが見せた最大の隙を見逃すはずもなく。マサキは横薙ぎに振るわれた槌に全身を思い切り殴られる。

「ぐ……がはっ……!?」

 くの字に折られたマサキの体が地面と平行に吹き飛ばされ、一気に減ったHPが残り一ドットを残して辛うじて止まる。
 ……しかし、不幸はそれだけでは終わらなかった。

「え……?」

 マサキが吹き飛んだ先に待ち受けていたのは、壁でも石床でもなく、あの三人組だった。彼らは突然高速で飛んできたマサキをよけることも受け止めることも出来ず、三人一緒に巻き添えを喰らって吹き飛んだ。

「ぐ……あぁ……」

 そして、ぐらぐらと安定しない視線を強引にまとめたマサキの視界に飛び込んできたのは、周囲で倒れている三人組と、頭上で気味の悪い笑顔を浮かべた仏像だった。ニヤリと歪んだ能面の口元に、鮮血のように真っ赤な光が迸る。

「――ッ!!」

マサキは咄嗟に蒼風を掴むと、《瞬風》で退避。直後、マサキがいた場所を紅い光が包む。

「え……?」
「あ、あれ……?」

全滅かとも思われた状況だったが、撒き散らされた光には何故か攻撃判定が存在していなかったらしく、彼らがダメージを受けることはなかった。マサキの隣まで駆け寄ってきたジュンが、それを見てほうっと息をつく。

「……帰れと言ったはずだ」

《瞬風》で遠くに飛びすぎたため座り込んだ状態で技後硬直を受けているマサキが、厳しい声色でジュンに言った。

「それは……その、マサキさんの力になりたくて……」
「その結果、俺まで危険に晒されたとしても?」
「それは……」

 後ろめたさのあるジュンは、強く言い返せずに黙ってしまった。それからしばし考え込んでいたが、やがて蚊の鳴くような声で「分かりました」と言って仲間のもとへ向かっていった。
 キリトを始めとした第二陣やヒースクリフの奮闘もあり、現在前線は落ち着いている。転移するには安全かつ絶好のタイミングだろう。が……。

「……うん?」

 何かあったとき即座に《夕凪》を発動させる準備をしつつも体の力を抜いたマサキは、戦列から一歩退いた場所で話している四人組に、ふとした違和感を覚えた。彼らはジュンの話を表面上は大人しく聞いているが、全員顔が俯き、微動だにしていない。ここで逃げ帰ることへの悔しさの類かとも思ったが、どうにも様子がおかしい。
 《夕凪》を使って今すぐに声を掛けに行くべきか、マサキが僅かに考えを巡らせた……その時だった。

 それまで大人しく話を聞いていた三人のうち正面の一人が、血の通った生物に見えないほどぎこちない、例えるなら、油の切れたロボットか操り糸が絡まった操り人形のような動きで、突然手を薙いだ。握られていた槍の穂先が、仄かな軌跡を残して宙を滑る。
 そして、棒切れのような腕が振り切られたその瞬間。ジュンの右腕が根元から切り落とされ、蒼い光を撒き散らして消えた。

「え……?」
「逃げ……ろ……」

 急転した状況についていけないジュンに追い討ちをかけるように発せられた、途切れ途切れの声。パニックで動けないジュンの前で、仲間だったはずの少年が槍を頭上に浮かぶ血飛沫色のカーソル――眼前の相手が“プレイヤー”ではなく“モンスター”である何よりの証――の更に上まで振り上げて――

「……ッ!!」

 それが振り下ろされる寸前、《夕凪》で硬直を解除したマサキはポーチの回復結晶を使うと同時に素早く腰元の投剣を放った。ヒュンッ、と空気を切り裂いて、淡い光を纏った刃が彼らに肉薄する。三人組はそれを察知すると、迫る投剣を容易くかわして迎え撃つようにこちらに駆けてくる。

「ウソだろ……? 何で……こんな……」
「身体が……嫌……嫌ぁ……っ!」

 この状況で一番厄介な“全員が散開して、ボスにかかりきりになっている前衛に後方から襲い掛かる”という戦術を取ってこなかったことにひとまず安堵したマサキは、次々に繰り出される攻撃を持ち前の素早さでかわしつつ、周囲の状況を確認した。脳が疲弊した今のマサキでは筋肉演算も《デュアル・キャスト》も使えないが、三人組の動きが精彩を欠いていて、かつ連携も取れていないためその程度の余裕はある。
 数十メートルほど先では、駆けつけた援護部隊がヒースクリフのもとでボスと激戦を繰り広げている。怒号に咆哮が飛び交う集団は、とてもこちらに人数を割ける状態ではなく、そもそもこの騒ぎに気付いていない者も多い。後方ではエミや先ほど残った僅かのプレイヤーがポーションによる回復を待っているが、まだまだHPが戻っておらず、また仲間割れというこの状況についていけずに立ち尽くしている者もいる。当然、増援など望むべくもない。

「お願い……よけて……」

 一通り周囲を見回したマサキは、身体を捻って突き出された槍を回避すると、今度は今まさに自分に刃を向けている三人組に目を向けた。真紅のカーソルや時折耳に届く言葉の端々から、この行動が本人の意思によるものではないことは明らかだ。となれば、彼らは何らかの理由により身体の自由を奪われていることになるが……。
 首を刎ね飛ばそうと迫る片手剣を仰け反って避け、崩れたバランスを利用してバク転で距離を稼いだマサキは、脳内で記憶のアルバムを開いた。ボス戦が始まり、形態変化によって戦線が崩壊し、援護部隊が駆けつけた直後に一撃を喰らい、ぶつかった後逃げ遅れた三人組に正体不明の紅い光が降り注ぎ――

「あの時か……」

 原因に思い至ったマサキは、元々細い切れ長の瞳を更に細めて三人を睨んだ。この場合、一番確実な対処法は、この三人組の“排除”――要するに、殺害。今は三人全員がマサキに向かってきているからいいものの、散開されて前線に奇襲をかけられたりでもすれば、戦線は完全に混乱するだろう。しかも、相手は数分前までプレイヤーだった。攻略組と言えど、冷静に対処できる人間が、果たしてどれだけいることか。

――『……ず、ずっと憧れてましたッ!!』
――『だから、俺はマサキに立ち直ってほしい』
――『信じてあげてください。……マサキさん自身の、繋がりを求める心を』
「…………」

 握った蒼風が語りかけてくるかのように頭の中に流れ込んできた幾つもの言葉が、強制排除もやむなしとしたマサキの判断と衝突した。身体が一瞬強張り、突き出された槍への回避が遅れて肩口を浅く抉られる。

「嫌……こんな……助け……!」

 涙の混じった声が脳内でぐるぐると(めぐ)り、マサキの葛藤を更に激しく煽る。
 マサキは一瞬目を瞑ると、蒼風をぐっと握り締めて、
 引き抜いて、
 切り裂いた。
 ……横から突き出された、鈍色の片手剣を。

「え……?」

 武器の喪失を感知したAIの困惑か、あるいは操られている少女の“素”の反応か、戸惑うように硬直した少女の脇をすり抜けて、マサキは背後から振り下ろされた大剣の軌道から身体を逸らしつつ、HPではなく耐久値に対してダメージボーナスがかかる風刀技《松涛(しょうとう)》をその横っ腹に思い切り叩き付けた。瞬間、甲高い衝撃音がその場を駆け抜け、無骨な大剣に小さな亀裂がピシリと入る。
 相手の武器を潰すことで攻撃力を取り除き、前線に向かわれた場合の脅威度を引き下げ、その上で時間があれば麻痺毒などで拘束する。その間にボスを倒せれば、彼らが元に戻る可能性もまだ残っている。

「せあぁぁぁぁぁッ!!」

 遂にズキズキと悲鳴を上げ始めた脳をねじ伏せるように声を張り上げ、マサキは僅かな筋力値を振り絞った。その声に後押しされるかのようにして蒼風を握る両腕がぐっと押し込まれ、蒼い光を放ちながら徐々に大剣に食い込んでいく。

 ――いける。マサキがそう確信し、数ミリほどだった亀裂が大剣全体に広がっていった、その瞬間――!

 ――ガシッ。

「な……!?」

 突如背後から伸びてきた腕が、蒼風を握る両手首を掴んだ。その途端、蒼風を包んでいたライトエフェクトが嘘のように消え失せる。手の動きを強引に抑え込まれ、《松涛》がキャンセルされたのだ。
 ソードスキルがキャンセルされ、マサキに硬直が課せられる。その隙に大剣使いの少年はバックステップで距離を取り、手首を掴んでいた腕はいつしか両肩をがっちりと捕らえ、羽交い絞めの体勢に移っていた。驚きと焦りの表情を浮かべたマサキが首から上だけで振り返ると、やはりと言うべきか、ついさっき得物である片手剣を砕いた少女の顔がすぐ後ろにあった。

「クソッ……!」

 毒づきながら、こうなるのなら、武器を壊した時点で麻痺させておくべきだった――、などという考えが頭をよぎるが、だからと言って状況が変わるわけでもない。
 硬直が解けさえすれば、例え筋力値の差で押さえつけられていても上手く身体を捻れば拘束から抜け出すことは不可能ではない。その間に、大剣使いから一撃を浴びてしまうかもしれないが、一度なら喰らっても問題はない。マサキは即座に頭を切り替え、力の掛かり具合から抜け出すための動きを計算し始める。
 だが、今が絶好の攻撃機会だと言うのに、大剣使いの少年は一向に仕掛けてこなかった。……まるで、何かを待っているみたいに。

「……まさか……」

 その瞬間、マサキの顔に今までにない焦りが浮かび、頭に最悪のシナリオが流れた。途中だった計算が頭から抜け落ち、取って代わった焦燥感からマサキが振り返ると、自分を羽交い絞めにする少女の更に後ろに、一人の少年がいた。
 カーソルは鮮やかな血色。ボスに身体を乗っ取られた三人のうちの一人。やがて彼が構えた槍の穂先を淡いライトエフェクトが包み始め――

「……せ……止めろ……!」

 珍しく焦りが表面にまで滲み出た声だったが、その声が少年の動きを妨げることはなく。

「…………ッ!!」

 少年は一気に距離を詰めると、手に持った槍を捻りながら突き出して。硬直と拘束で微動だにできないマサキの腹部を、羽交い絞めにした少女ごと貫いた。
 異物を飲み込んだような違和感が下腹部に充満し、視界の隅に映るHPが滑らかに減っていく。やがてマサキのHP減少が、残り1ドットを残して止まった瞬間。

「嫌……死にたく……ない……!」

 恐怖に歪んだ少女の顔が、ノイズがかかったように乱れる。
 直後、うわごとのような断末魔をマサキの耳元で囁いて、少女の身体は砕け散った。



 ――ああ。()()なのか。
 ひらひらと舞いながら消えていく蒼い破片を焦点の合わない視線で眺めながら、マサキは心の何処かでそう思ってしまった。
 あの頃みたいに、信じようとしていたのに。
 あの頃みたいに、手を伸ばしたのに。
 あの日みたいに、零れ落ちた。
 あの日みたいに、遠くに消えた。

 ――『マサキ……ごめん……』――
 ――『穹色の……風……』――

 一瞬にして頭と心を支配した“無意味”の三文字が、あの日の記憶を呼び起こして。

 ――だったら……繋がりなんて求めたって、何の意味もないじゃないか――。

 やがてそれは、そんな一つの結論を導き出した。

「ハ……ハハッ……」

 ふらふらと立ち尽くしたまま、マサキは笑った。

 決めたような、捨てたような。
 悟ったように、諦めたように。

 ふと前を見ると、大剣使いの少年が何かを喚きながら大剣を振り上げていた。マサきは無言で構えると、《春嵐》で元の二倍まで引き伸ばした半透明の刀身を振り上げた。重みと威力が増した風の刃は、一寸の狂いもなく狙った場所に命中し、大剣を握る両腕を斬り飛ばした。突然遠心力から解放された大剣は、ハンマー投げの如く十メートル余りを飛んで石畳に突き刺さる。直後、それに巻き付いていた二本の肘から先が、少女と同じ末路を辿った。

「…………!」

 急に攻撃パターンが変わったマサキにAIが困惑したのか、大剣使いの少年が慌てたように後ずさろうとした。マサキはそれを察知すると、敏捷値をフルに使って前方に跳んだ。身体を貫いていた槍から強引に抜け出した瞬間には下腹部が強めの違和感を訴えたが、そんなことはどうだっていい。
 マサキは一瞬にして少年の背後に回りこむと、《荒神風鎖》を使って、今まさに飛びずさろうとしている脚の膝裏を押さえた。全く予想できていなかった場所に力が加えられ、体ごと後ろに倒れこむように大きく体勢を崩す。マサキは倒れこんでくる少年の襟を掴むと、勢いを利用して背負うようにして投げ飛ばした。体術スキル《風車(かざぐるま)》を受け、目の前で頭から落ちていく少年の首を、マサキは蒼風の一閃で切り裂いた。

「…………」

 ポリゴンの欠片が雪のように降る中を無言で振り返って、マサキは残った槍使いを見た。視線の先で、少年が動かされるままに構えさせられる。顔には言いようのない恐怖が植えつけられていて、今の彼の状況をこれ以上ないほど克明に教えてくれている。
 僅かの間をおいて、マサキが駆け出す。
 少年がパニックを起こしながら槍を突き出す。
 そして、それを容易く回避して懐に潜り込んだマサキが、目にも止まらぬほどの動きで刀を振るい、少年のHPを削り切った。
 それからほんの少しして、数十メートル先で一際大きな破砕音と大歓声が響いた。
 ふと見ると、呆然とした瞳でこちらを睨み続けるジュンと目が合った。



「何で……何で……!」

 十秒ほどの時が過ぎて、ようやく我に帰ったジュンは、無意識に泣き腫らした瞳でマサキを睨んだ。悲しみ、やるせなさ、疑念、そして怒り。全ての感情が凝縮された視線が、突っ立った、ただ倒れていないだけのマサキを捉える。
 虚ろな瞳で部屋を、ジュンを見る。勝利の余韻に酔いしれていた群集が、気付いたように静まり返って視線をこちらに集中させる。
 その中心で、マサキはもう一度(いびつ)に笑った。

「何で? ……ハッ、簡単なことだ。……俺が、人殺しだからだよ」
「え……?」

 “人殺し”――。このSAOで最も忌避されているとも言えるその単語をマサキが紡いだ瞬間、波に打たれたように聴衆がざわめいた。目を見開いたジュンが、信じられないという風にかぶりを振る。

「そんな……ウソだ……!」
「嘘じゃない。現に、お前たちが俺を呼んでいる「穹色の風」。それは、俺がPKしたときについた名前だ」
「そんな……そんなはず……! だって、だったら、俺たちはそんな人殺しを……!」
「ああ、そうだよ。お前たちが憧れ、目標にしていた人物は、血に(まみ)れた、薄汚い人殺しだ」
「…………!」

 その瞬間、ジュンの中で何かが弾けた。膝の横の太刀を取り、雄叫びを張り上げながらマサキに斬りかかる。近くにいた数人のプレイヤーが咄嗟にジュンを床に押さえつける。ジュンはマサキを血走った目で睨みつけながら暴れるが、スピード型のジュンに数人がかりの羽交い絞めを抜け出すことなど、到底できるはずもなかった。

「放せ……放せよ! 畜生、畜生……ッ!!」

 泣き喚き、もがきながら叫ぶジュンをマサキは冷ややかに見下すと。

「――転移、ウィダーヘーレン」

 システムが感知できるギリギリの声量で、その場を去った。

『殺す……いつか、絶対に殺す……!』

 視界が漂白される寸前にジュンが放ったその言葉が、マサキの脳内で延々と繰り返されていた。



 ウィダーヘーレンに隣接した、小さな針葉樹林。その外れに位置する小高い丘に、マサキは突っ立っていた。丘の中心部には一際高いカラマツがそびえ、その根元に小さな白い花が墓標のように植えられている。何度も何度も木枯らしに吹き付けられたその花は既にしおれきっていて、今にも消えてしまいそうだった。

「……マサキ君……」

 不意に、背後から声がした。首から上だけで振り向くと、心配そうな表情を浮かべたエミの姿が。

「……()けてきたのか」
「それは……ごめんなさい……」

 (たしな)めるようなマサキの視線と言葉に、エミは思わず謝ってしまう。
 沈黙。

「……ねえ、マサキ君。一度、皆のところに戻ろう? 今なら皆も分かってくれるし、わたしも一緒に謝って――」
「……いや。いい」
「でも……」
「いいんだ」

 エミに背中を向けたまま、マサキは強く断った。まるで、泣くのを我慢している子供のような、震えた声だった。

「……帰ってくれ」

 念を押すようにマサキが言った。エミはしばし考えていたが、やがてゆっくりとその場を去った。
 マサキはそれを確認すると、マツの間から覗く、星一つない虚空を見上げた。

「俺は――」

 ――本当に、これで良かったのか。
 そう続けようとして、出来なかった。
 木枯らしに揺れる小さな墓標と、少年(ジュン)の見せた表情だけが答えだった。

「……行くか」

 泣くように呟いて、マサキは一人、林を包む闇の中に消えた。それを追うように、耐久力の尽きた花が蒼く散った。

 現在時刻は午前0時。……たった今、夜は、深夜へと変わった。 
 

 
後書き
 いかがでしたでしょうか。何だか今回のマサキ君が第一層でのキリト君と重なるような気がしないでもありませんが……、まあ相違点もありますし、そこは見逃してやってください(オイ。

 さて。今回は原作で語られなかった第五十層攻略戦を中心に、マサキ君の明かされていない謎の部分をほのめかしながら描いてみました。自らを殺人者だと打ち明けたマサキ君。彼の想いとは何なのか。彼の過去とは、一体どういったものなのか。そして、真夜中に立ち尽くしている彼に、再びの夜明けは訪れるのか。この後の展開にご注目ください。

 また、今回の二話で登場し、仲間を失ってしまったジュン君。彼もまた、この物語で重要な役割を果たしていくことになります。出番自体はそこまで多いとはいえませんが、覚えておいて頂ければ幸いですね。

 もう一つ。先ほどマサキ君の状況を「真夜中」と書きましたが、何も夜に光が何もないわけではありません。闇の中の主人公を照らす、一筋の光……といえば、勘のいい読者の皆さんならばピンときたのではないでしょうか。そう、恋愛です。
 というわけで、次話より現在絶賛空気化中の正ヒロイン()、エミさんとマサキ君とのラブストーリーが、ようやく始まります。皆様が砂糖を吐くような展開も用意しておりますので、是非お楽しみに(笑)。
 ……え? エミなんていいからさっさとマサキ×トウマを見せろって? ……し、知りませんねそんなの!!←

 ご意見、ご感想、OSSなどお待ちしております。
 では。 

 

Monochrome

 
前書き
 遅くなってしまい、申し訳ございません。ようやく最新話更新です。
 では、どうぞ。 

 
 ダイヤモンドの輝きと、クリスタルの透明度。地面に敷き詰められた氷製のレンガたちは、その二つを掛け合わせたような美しさで空の蒼を映し出す。冷たくも美しい雰囲気のそれで作られた街道の両脇には、同じく氷で作られた建物が立ち並び、冬の鈍い光を乱反射させて煌いている。並ぶ建築物には平屋が多いものの、宿屋など複数階建てのものもちらほらと見え、どうやって作ったのだろうかと一瞬考え込んでしまうほどに精巧だ。それらに加え、噴水やベンチ、果ては広場そのものや転移門まで氷だけで形作られた街並みは、神秘的なまでに美しい。
 あえてただ一つだけ問題点を挙げるとするなら、あまりにも冬を意識させる光景のせいで、寒さが肌だけでなく目からも染み込んでくることだろうか。実際、もう昼前になると言うのに、現在の最前線であるここ第五十五層主街区《トランスペアレント・シュタッド》は、見た目どおりの氷のような冷たさに覆われていた。

「はぁ……」

 午前中の間わたしの胸に溜まりに溜まった溜息が、ようやく吐き出されて木枯らしに吹かれていった。続けて何度か深呼吸して身体の中の空気を入れ換えようとしてみるものの、どうにもすっきりしない。

 遡ること三時間前。わたしはこの街で行われていた攻略ギルド首脳陣による会議に、参考人として出席していた。議題は、『《穹色の風》マサキの処分と、これからの処遇について』。第五十層のボス戦後すぐから、実に一ヶ月以上にも渡って開かれ続けていたものだ。
 この会議がそれほどまでに長期化した理由は、マサキ君が攻略組の中でもトッププレイヤーであり、さらにユニークスキルである《風刀》スキルと専用武器《蒼風》を所持しているから。彼そのものよりもそれらを巡って、無罪を主張する《血盟騎士団》やソロを中心としたグループと、有罪、しかも厳罰を主張する《聖竜連合》を中心としたグループが激しく対立した。
 紛糾した議論は多数決までもつれ込んだ。最後はヒースクリフさんが提出した『マサキが殺したプレイヤーは全て殺人者(レッド)であった』という情報と、厳罰派が《風刀》スキルや《蒼風》の処遇を巡って内部分裂を起こした結果、何とか彼は罪に問われずに済んだ。
 もちろん、その結果に対して何か不満があるわけじゃない。ないのだけれど……。

「わたし、何であんなに必死になってたんだろ……」

 わたしはその会議の中で、終始無罪派に属し続けた。周囲の顔色を覗って、八方美人であり続けて。何を聞かれても玉虫色の答えしか返せなかったはずのわたしが、初めて自分の考えを表に出した。彼が最後に見せた、泣いているような背中を。最初に見せた、縋るような瞳を思い出しながら。
 今だって、冷たい氷の道と埃っぽい空との間に、あのワイシャツとスラックスが見えて――。

「……え?」

 はっ、と気がついて、わたしは小走りで駆け出した。
 違う。今のは、わたしの作り出した想像じゃない。
 最前線のこの街に攻略組トッププレイヤーである彼がいることは当たり前のはずなのに、わたしはチラリと見えた薄青いワイシャツを追って走る。何故追いかけているのかも分からないままに、小走りだった脚の動きは全速力に変わっていく。
 そして、街の外へと繋がるゲート前の広場、氷に覆われた雑踏の中に、わたしは彼を見失った。渦巻く雑音の中で、自分の上がった息だけがやけにうるさく耳に障る。
 やがて、目の前にメッセージ受信のアイコンが光った。それと一緒に、今日はこれから中層プレイヤーの狩りの手伝いをする予定だったことを思い出した。わたしはメッセージウインドウを呼び出して端っこのデジタル時計を見た。十分遅刻だ。
 わたしは急いで受け取ったメール――わたしが約束の時間になっても来なかったのを心配してのものだった――に返信すると、マサキ君が消えた方向を一度だけ見て、転移門へ向かった。その途中で浮かんできた彼の後ろ姿はやっぱりどこか寂しそうで、今のわたしによく似ていた。



「はあっ!」

 威勢のいい声と共にシステムアシストを受けた身体が滑らかに動き、右手に握られた片手直剣が四角形を描くように振るわれた。《バーチカル・スクエア》をまともに喰らったハチ型Mobは、甲高い断末魔を上げて爆発する。

「……ふぅ」

 《索敵》スキルで周囲にこれ以上の敵がいないことを確認して、わたしは小さく息を吐いた。腰元の簡素な鞘に剣をしまって、後ろで沸き立つパーティーメンバーに振り返る。どうやら、また誰かのレベルが上がったみたいだ。
 わたしはすっかりと傾いた夕日を仰ぐと、彼らに歩み寄る。

「あ! エミさん、聞いてくださいよ! またレベルが上がったんスよ! 手に入るコルの量も段違いだし、やっぱ“上”は一味違うッスね!」

 すると、それに気付いた一人の少年が、自分の胸元辺り――恐らくステータスウインドウだろう――に向けた瞳を輝かせながら、興奮気味にそう言った。大方、残金か手に入れたアイテムでも見ているのだろう。

 現在わたしたちは、最前線より三つほど下層のフィールドに出てきていた。ほんの三十分前まではここより五層下にいたのだけれど、唐突な「一度でいいからもっと上に出てみたい!」という頼みに流され、ここまで上がってきたのだ。
 このパーティーの平均レベルは、攻略組であるわたしを除けば高くはない。彼らのレベルはいわゆる中層プレイヤーとしては高いが、この層の安全マージンにはまだ4つほどレベルが足りておらず、この層で余裕を持って戦えるとは決して言えない。
 それでも主街区に程近く出現するモンスターも比較的弱いこの辺りなら何とかなるだろうと考えてこの場所で狩りをしてきたのだが、残りのポーションの量などからしてそろそろ引き上げることを考えないといけない。……だから、そろそろその話を切り出したいのだけど……。

「あ、う、うん。おめでとう」

 相手の勢いに押されたわたしは、いつも通り、笑って頷いた。そうじゃないって思うけど、口から出てくるはずだった言葉は、それよりももっと前で冷たい雲に呑み込まれて消えてしまう。
 ……これも、いつも通り。

「――ねぇ、皆」

 その後しばらくして、彼らの熱気が段々おさまってきた隙に、ようやくわたしは口を開いた。呼びかけを耳にした彼らが、一斉にこちらを向く。わたしはそれを確認すると、今まで胸のうちで燻っていた言葉をゆっくりと噛み締めながら吐き出そうとして――、

「うわあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 不意に響き渡った悲鳴に声を遮られた。

「ここで待ってて。何かあったらすぐに転移して!」

 わたしは咄嗟にそう言い換えると、再び剣を抜いて叫び声に向かって走った。



 声の主は、思っていたよりも早く見つかった。元の場所から五十mほど先、小さな丘を一つ越えた辺りで、一人の男性がハチ型Mob数体に取り囲まれて襲われていた。男性は時折反撃するものの、慌てているのか全く当たる様子はなく、逆に技後硬直の隙に更なる追撃を喰らってしまう。頭上のHPバーは既に黄色に変色しており、猶予はなさそうだ。

「やあぁぁぁっ!!」

 剣を担ぐように構え、全力で地面を蹴り飛ばす。《ソニックリープ》が発動し、システムアシストに背中を押されたわたしの体が空中のハチめがけて飛翔する。

 男性を襲っていたハチがこの層に出現する敵の中では最もレベルの低いMobだったこともあり、わたしは特に苦戦することもなく数匹のハチを蹴散らした。最後の一匹を倒した後、《索敵》スキルで辺りに他の敵がいないか確かめる。

「あの……あ、ありがとうございました……」

 すると、襲われていた男性が声をかけてきた。わたしは剣を鞘に納めて振り返る。尻餅をついた状態でやや呆然とした視線を向けてきていたのは、線の細い、少し気の弱そうな青年だった。

「いいえ。……それよりも、大丈夫ですか? 大分消耗してるみたいですけど……」
「はい、何とか……」

 わたしが近寄って問いかけると、男性はポーションを飲みながら立ち上がった。が、その足取りはフラフラと覚束ない。

「本当に大丈夫ですか? 転移結晶を使ったほうが……」

 憔悴しきった様子の男性を心配に思ったわたしは、若干躊躇(ためら)いがちにそう言った。
 今飲んだポーションによって彼のHPは回復しつつあるが、それで精神的な疲労まで取れるわけではない。そして敵Mobとのエンカウントや罠など、様々なイレギュラーに瞬時に対応することが必要なこの世界では、精神的疲労は文字通り命に関わる。Mobとの連戦で疲れ果てたところをネームドモンスターに見つかり、そのまま……などと言う例は、挙げようとすればキリがない。

「いえ、それが……実は、さっき追い掛け回された時に使おうとして、落としてしまって……」
「予備は……?」
「……ありません」

 男性は俯き加減に首を振って呟いた。柔和そうな顔には疲労が色濃く浮き出ていて、見るからに辛そうだ。

 わたしは一度周囲を見回して、どうしたものかと首を捻った。このエリアは確かに主街区からも近く出現する敵も弱いが、ここから街まで一度のエンカウントもなしに帰れるかと言えば微妙なところ。そして、今の状態では、彼は次の戦闘には耐えられないだろう。
 わたしたちのパーティーと合流して全員で帰ると言う手も、一応あるにはあるけれど……。

「……あの、よければこれ、使ってください」

 わたしは一度首を左右に振ると、腰につけたポーチから一つの結晶を取り出して、青年に差し出した。目の前に差し出された青い結晶を見て、彼の目の色が一瞬で変わる。

「そ、そんな! これ、転移結晶じゃないですか!? こんな高価なもの、受け取れませんよ!」
「大丈夫。わたし、一応攻略組だから」
「で、でも……」
「いいから使って。ね?」

 男性はなおも拒否しようとしていたが、わたしが強引に彼の手に転移結晶を握らせると、「ありがとうございます」と小さく呟いて転移していった。

「……ふぅ」

 わたしは息を吐くと、待たせている皆のもとへ小走りで向かった。顔にぶつかる黄昏時の空気が、妙に冷たく感じた。

「……あ、エミさん。大丈夫だったッスか?」
「うん、大丈夫。こっちは?」
「問題ないっす。エンカウントもなかったですし」
「そう。よかった」

 それから間もなく皆のところに戻ったわたしは、その報告を聞いて安堵した。HP残量や表情にも特に変わったところは見られないし、嘘ではなさそうだ。

「それじゃあ、そろそろ日も傾いてきたし、今日はこの辺で――」

 今がちょうどいいチャンスだと感じたわたしは、出来るだけ笑顔でそう切り出そうとした……のだが……。

「あ、実は今俺らで話してたんスけど、この近くにダンジョンとかないッスかね? この際だし、ついでにダンジョンアタックとか行ってみよーぜ! って盛り上がっちゃって」
「え、あ、えっと……」

 またも遮られた。
 ダンジョンともなればここよりも難易度は上がるし、時間帯を考えればそうそうチャレンジもできないのだが……。

「……分かった。でも、ちょっとだけだからね?」

 彼らの期待を込めた視線に流されて、わたしはいつものように、笑顔でそう言ってしまうのだった。
 ――このとき自分が、致命的なミスを犯していることにさえ気付かずに。



「……大丈夫?」
「う、うっす」

 わたしたちが近場のダンジョンに入ってから十分くらいが経った頃。わたしは彼らに対し、そう声を掛けた。すぐ後ろの少年が肯定の返事を返してきたが、その声色には力がない。ダンジョンに入ってから遭遇する敵も手強くなっているのに加え、一日の疲労が出てきたのだろう。

「……ねぇ、皆。そろそろ、帰ろっか」

 流石に限界だと判断したわたしは、少し小さめの声で言った。口元がピクッと引き攣り、(のど)の奥から苦い唾液が湧き上がってくる。

「……そうっすね。流石にこれ以上はキツイっす。皆も、それでいいよな?」

 少年が首だけで振り向いて問いかけると、他のメンバーも頷いた。どうやら、全員思うところは一緒だったらしい。

「それじゃ、出口はあっちだから――」
「あ、エミさん。その前に、あそこの宝箱だけ開けてきてもいいっすか?」
「うん、分かった」

 何とか上手く話を持っていけたことに安堵の息を吐きつつ、わたしは答えた。ウインドウからダンジョンマップを呼び出しながら、小部屋の宝箱に向かう彼らの後に続き――ふと、足を止めた。

 このゲーム(SAO)には、大雑把に分けて三種類の宝箱がある。一つ目は、レアアイテムやレア装備品が入ったもの。難易度の高いダンジョンの奥深くに設置されていることが多く、開けられるのは一度だけ。
 二つ目は、ポーションや結晶、素材アイテムなどが入ったもので、こちらはダンジョンやフィールドのあちこちに存在しており、一定期間後に中のアイテムが復活するため何度もアイテムを得ることが出来る。
 そして三つ目。アイテムや装備品ではなく、その代わりに様々な(トラップ)が詰め込まれた恐怖の箱で、ダンジョンの小部屋などに配置してある場合が多い。……そう。今まさに彼らが触れようとしている、あの宝箱みたいに。

「ダメッ!」

 はっと気付いたわたしは、大声で叫んで駆け出した。このタイプのトラップは《罠看破》スキルでトラップか否かを確認できるのだが、彼らのレベルから推定できる熟練度では、この層で通用するかどうかはかなり微妙だ。

「え?」

 わたしの声を聞いた彼らが頭上に疑問符を浮かべて反応するが、その手が止まるより一瞬だけ早く、宝箱の蓋を持ち上げてしまって。

 ――ウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!

 そして、次の瞬間。けたたましいアラーム音とともに大量のゴーレムが出現し、わたしたちの背後にある部屋の出入り口を埋め尽くした。

「ちょ、お、えぇ!? アラームトラップ!?」
「落ち着いて! あいつらがこっちを囲んで攻撃してくるまでには、まだ時間があるから! 皆、慌てずにこの層の主街区に転移!」
「は、はいッ!!」

 わたしは鞘から剣を抜くと、宝箱の蓋についたアラームを壊しながら精一杯声を張り上げた。わたしの記憶どおりなら、このダンジョンに《結晶無効化空間》のトラップはなかったはず。だとすれば、今すぐに転移すれば無傷で逃げ帰れる。
 アラームが停止したのを確認し、剣の切っ先を出入り口でたむろしているゴーレムたちに向ける。後方で、パーティーメンバーが無事転移したことを告げるサウンドエフェクトが、きっちり五回鳴り響く。
 一先ず他の皆が無事に帰還できた事に安堵しつつ、わたしは自分が転移するべくポーチを漁った。十メートルと少し先ではゴーレムの群れがこちらに向かって雄叫びを上げているが、足の遅いゴーレムから攻撃を受けるまでにはもう少し時間があるため、十分に間に合う……はずだった。
 わたしはポーチに手を突っ込むと、手に触れた結晶を掴み取った。が、それは青色の転移結晶ではなくピンク色の回復結晶だった。再び手を入れ、結晶を掴む。今度は緑色の解毒結晶。

「もう! こんなときばっかり!」

 苛立ったわたしは、剣を鞘にしまって両手でポーチを漁りながら中を覗き込んだ。散乱するポーションの瓶や結晶を乱暴に引っ掻き回して転移結晶を探す。
 ――だが。何度ポーチの中身を掻き分けて探しても、青色の結晶がその中から出てくることはなかった。

「ウソ、そんな……なんで……!」

 唇から漏れ出したその言葉は、自分でも驚いてしまうほどに震えていた。冷たい不安が背中をゾクリと駆け抜け、頭で恐怖に変換されて指先を振動させる。

 ――ウソだ。絶対にありえない。
 真っ白に染まった頭の中で、現実を拒否する言葉だけがぐわんぐわんと鳴り響いていた。前にフィールドに出たときは転移結晶は使わなかったから、ポーチの中には前に持って出たものがそのまま残っているはずで、今日はまだ使ってないのだから……。

「あっ……」

 そこまで考えた瞬間、漂白されていた頭の中に、突然先ほどの記憶がフラッシュバックした。……見知らぬ青年に転移結晶を握らせた、たった十分前の光景が。

「あれが……最後の一個……?」

 言いながら、わたしは自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。ポーチの中身を搔き回していた手が硬直する。直後、ぼんやりと映っていた視界に黒い影が射した。
 はっとして見上げると、いつの間にか目の前にまで接近していたゴーレムが、灰色の岩石がレンガ状に積み重なった右腕を振り上げていた。咄嗟に後方に跳び退く。僅かに遅れて、ゴーレムの腕が唸りを上げてわたしがいた空間を貫く。それを合図にするように、周囲のゴーレムが一斉に雄叫びを上げながら突っ込んできた。剣と盾をフル活用して殺到するパンチをいなしていく。が、一人で捌ききるにはあまりにも数が多すぎた。徐々に後ずさっていき、やがて部屋奥の壁に背中がぶつかった。
 ふと首を巡らせると、視界を埋め尽くす灰色のゴーレムたちが、重い巨体を引き摺りながら、ゆっくりとわたしに向かって歩を進めてきていた。何処を見ても、他のプレイヤーはいない。この逃げ出せない檻の中に居たのは、わたし一人だけだった。
 そう感じた瞬間、言いようのない孤独感がわたしを覆った。頭の先から足先まで、身体全部が金縛りにあったみたいに硬直し、震えだす。コントロールを失った指から剣が抜け落ち、乾いた音を立てて床に転がる。脚から力が抜け、壁にもたれるようにしてその場にへたり込む。目の前で、ゴーレムが平べったい足裏を振り上げた。

(嫌……止めて……)

 喉が言うことを聞かないわたしは、胸の中で必死に願った。けれど、ゴーレムがそんな願いを聞いてくれるはずもなくて、複数体から踏み付け(ストンプ)を喰らってしまう。一応、この層でこのゴーレム相手なら、多少の不利をひっくり返すのはそんなに難しくない程度の装備とレベルをわたしは持っているし、一発や二発攻撃を喰らったくらいではピンチにはならない。でも、今みたいに全てがクリーンヒットになってしまえば話は別で、わたしのHPは今の攻撃で既に黄色く染まっていた。

 ――わたし、死ぬんだ。こんなところで、たった独りで。
 頭上から強く叩きつけられたことによる眩暈(げんうん)の中、わたしは続けて振り下ろされるゴーレムの腕をぼんやりと眺めながら、冷たい壁に身体を預けた。直後――。

 視界の端で蒼い欠片が微かに舞い、ほぼ同時に一陣の風が音もなくゴーレムの間を駆け抜けて、わたしにぶつかる寸前のゴーレムの腕を貫いた。そのままわたしの眼前で立ち止まると、同じように振り下ろされるゴーレムの腕を片っ端から逸らし始めた。半透明の風の刃がゴーレムの腕すれすれを滑り、そのベクトルを僅かに変える。だが、それは決して楽なことではなかったらしく、最後の一本を刀身ではなく柄の部分で殴りつけるようにして逸らすと、ミシッ、と言う嫌な音に鋭い舌打ちが上乗せされた。
 それでもほぼ同時に振り下ろされた腕を全て逸らしきると、手に握った刃を高速で真一文字に薙いだ。すると、その軌跡から風が吹き始め、竜巻となってゴーレムの追撃を封じてしまう。更に数秒もすると、いつの間にか竜巻の中に紛れ込んでいた数本の投剣が一気に白い煙を噴出し、部屋の視界を消した。ここでようやく我に帰ったわたしは、あまりの煙の量に思わず口と鼻を腕で覆ってしまう。

 ――そして、数十秒後。竜巻と煙が晴れ、クリアになった視界にあったものは。部屋中を浮遊しながら消えていくゴーレムたちの蒼い残骸と、薄青いシャツと黒のスラックスを身にまとった一人の青年、マサキ君だった。

「……あ、あの……」

 わたしは彼に声を掛けようとしたが、言葉が続かなかった。彼は一度こちらに視線を向けると、すぐに正面に戻し、部屋の中心に何事もなかったように鎮座している宝箱の蓋を開けた。再びけたたましいアラートがゴーレムと共に部屋に出現する……などと言うことはなく、彼は箱の中から幾つかのアイテムを取り出した。どうやらこの宝箱、罠を解除すると中にアイテムがポップするタイプのものだったようだ。

「発見者報酬だ」

 彼はチラリとわたしを見ると、ピンク色の結晶を投げた。それは緩やかな放物線を描きながら飛んできて、慌てて出したわたしの両手にすっぽりと収まった。それを確認すると、彼は立ち上がって足早に立ち去ろうとする。
 段々と小さくなっていく背中を目にした瞬間、氷のように冷たい恐怖と不安が再びわたしの背中に手を伸ばしてきて。

「お、おい、一体何を……」
「……行かないで……」

 気付くと、わたしは部屋の半分を駆け抜けて彼の身体に縋りついていた。頭上から、彼の声が聞こえた。途中から聞き取れなかったのが、彼が言葉を止めたせいなのか、それともわたしの耳が言葉を受け付けなくなったせいなのかは分からない。
 わたしは凍えた子供みたいに彼の背中に縋りつきながら、身体と同じくらい震えた声で言った。

「独りに……しないで……」 
 

 
後書き
 さて、いかがでしたでしょうか。今回はちょっぴり趣向を変えて、エミさんの一人称視点で話を進めてみました。それに伴い、元々拙い文章がさらに見るに堪えないものとなっておりますが、何卒ご容赦を。
 はてさて、ようやくこの物語の表舞台に上がってきた本作のヒロイン、エミさん。彼女を主軸に据えたストーリーは、もう暫し続きます。お楽しみいただければ幸いですね。

では。 

 

Backside of the smile

 
前書き
 すっかり一ヶ月更新が当たり前になってきた今日このごろ。何とかしないとなぁ……(提督業務を続けながら) 

 
「……本当に、ここが……?」
「……うん」

 浮遊城アインクラッド第一層、《はじまりの街》。このデスゲームが始まってもう一年が過ぎたというのに、未だ約半数ものプレイヤーが身を寄せ合って暮らしている、言わずと知れたSAOの開始地点。
 わたしがマサキ君にしがみつきながら帰って来たのは、その裏通りに佇む、一見廃墟にも思えるレンガ造りの二階建てアパートの一室だった。赤のスプレーでわけの分からないアルファベットが吹き付けられたドアを開けると、あまりの惨状に、案の定隣の彼は言葉を失った。

「……入って」

 わたしは答えを待たず、隣で呆然としているマサキ君の腕を引いて部屋に入った。すぐ脇にある照明のスイッチを入れる。
 点かない。
 慣れた手つきでパチパチとスイッチを操作していると、四度目でようやく明かりが点いた。まるで死ぬ寸前の蛍のような――そんなに趣のあるものではないけれど――弱々しい光がぼんやりと部屋を照らす。
 僅か四畳半の空間に木製のベッドとボロボロの机、椅子があるだけのワンルーム。ベッドにはマットレスなんてものはなく、シーツ代わりのぼろきれと、どう考えても人一人を覆うことなど、まして防寒具として用いることなど到底できそうにない小さく薄い毛布一枚が横たわっている。壁には数センチほどの隙間があり、床は今にも踏み抜きそう。天井には、パッと眺めただけで雨漏りの後が幾つも見える。……お世辞にも、十代の少女が住むような部屋には思えない。

 彼の腕を掴んだまま、硬いベッドに腰掛けて顔を見上げると、いつも浮かべているポーカーフェイスの上に、驚きと戸惑いの色が滲んでいた。
 ちょっぴり可笑しくて、わたしは口元を斜めに歪めた。作り笑いは得意だったはずなのに、すぐに唇が震えだして、その脇を涙が零れ落ちた。

「おい……」
「……何なんだろうね」

 履いているニーソックスの根元辺りに視線を落として、わたしは泣き笑いの声で言った。滲んだ視界の中で、顎から落ちた涙がスカートの裾に吸い込まれていくのが辛うじて見えている。
 相変わらず口元は斜めに曲がったままだったけれど、それが自分で作った表情なのか、それともただ口角が引きつっているだけなのかは、もう判別がつかなかった。
 そして口から飛び出したのは、わたしの昔語り。涙も、言葉も、感情も。今まで制御出来ていた全てのものが、バラバラに叫び出して。その代わりに、わたし自身が何処かへ消えていってしまうみたいだった。



 母が大手ネット通販会社のキャンペーンくじで“ソードアート・オンライン”なるゲームソフトを引き当てたのは、今から一年と少し前。日に日に秋が深まる10月の下旬だった。両親ともゲームには縁がなく、また一人っ子と言う我が家の家庭事情も相まって、ソフトはわたしの手元にやってきた。それまでゲームは携帯ハードのものを数個ほどしか持っていなかったけれど、公式サイトやβテスト時の情報を集めるにつれ、わたしは無限の蒼穹に浮かぶ世界に段々と惹かれていった。そして、正式サービスが始まる二〇二二年十一月六日。早めに宿題を片付けたわたしは、午後三時頃にこの世界へと飛び込んで……そして、囚われた。

 ――『諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』。
 自らを茅場晶彦と名乗った巨大な赤ローブの宣言を、わたしはすぐに理解することが出来なかった。チュートリアルと言う名の告知が終了し、正気を取り戻した頃には、既にわたしは夜の闇に街ごと呑み込まれていた。

 デスゲームだなんて嘘だという現実逃避。
 このゲームを作った茅場に対する怒り。
 何故わたしがこんな目に遭わなければならないのかという、自分の運命に対する嘆き。
 かつて味わったことのない、すぐ傍に感じる“死”への恐怖。

 様々な感情が、まるでジャグジーバスの泡みたいに次々と浮かんでは弾けた。その度にわたしは泣き叫び、今にも神経が焼き切れてしまいそうなくらいに頭の中が沸騰した。
 だが、人の感情と言うのは、そんなに長続きするものではなかった。一週間、一ヶ月と部屋に篭っているうちに、徐々にではあるが現実を受け入れられるようになっていった。第一層が攻略されたこと、また、レベルが低くとも《はじまりの街》周辺のフィールドであればある程度安全に狩りを行えることが認知されていったことも大きかっただろう。恐怖や悲嘆、後悔はわたしの中からゆっくりと薄れていき――そして、その影で気付いてしまった。わたしが、今、この世界で、たった一人なのだということを。

 家族もいない。友人もいない。知り合いも、自分を助けてくれる人もいない。現実を理解したことで初めて見えたこの世界は、親元を離れたこともない十五歳の少女(わたし)には広すぎた。何処までも続く広大な砂漠に、たった一人取り残されたような錯覚を覚えた。ぞくりぞくりと背中に這い寄るような孤独から逃げたくて、部屋の隅で毛布に包まって膝を抱えた。怒りや後悔は時間とともに消えていったのに、孤独だけは一向に消えてくれなくて、むしろ日を追うごとに強さを増した。
 やがて耐え切れなくなったわたしは、部屋を飛び出して《はじまりの街》から100メートルも離れていないフィールドで狩りを行おうとしていたパーティーに飛び入りで参加した。とにかく、他の誰かと一緒に何かをしていると言う事実が欲しかったから。一緒にいてさえくれるなら、誰でも良かった。

 フィールドに出てしばらくすると、わたしたちと同じようにレベル1モンスターの《フレンジーボア》と戦っている一つのパーティーを見つけた。恐らくは、目的もレベルもプレイヤーのスキルも、ほぼ同じだっただろう。たった一つ違うとすれば、彼らがイノシシに追い回されていたことだった。
 わたしたちのパーティーは、すぐに彼らの救援に入った。敵は一頭のみだったので、囲んで全員でソードスキルを撃ち込んだ。全方位からの攻撃を受け、青イノシシはあっけなく四散した。
 追われていたパーティーと合流すると、わたしたちは文字通り泣いて感謝された。まだゲームに慣れていないプレイヤーが多く、パニックを起こして雑魚相手にも苦戦、場合によっては敗北してしまうことすらあったSAO最初期では、往々にして見受けられた光景の一つ。しかしそれは、初めて見たわたしに大きな衝撃を与えると共に、一つの感覚を呼び起こした。

 ――今、わたしは一人じゃない。
 生き延びた喜びを分かち合っている輪の中に、自分がいる。そう感じた途端、背中に纏わりついていた孤独が、ふっと剥がれ落ちたような気がした。ずっと欲していた、孤独からの逃げ方。これだ、とわたしは確信した。

 その日から、わたしは他のパーティーに参加して手助けを行うようになった。昼間は幾つものパーティーに代わる代わる参加し、夜はひたすら自分のレベリング。そこで得たお金は殆どを回復アイテムに費やし、参加したパーティーのメンバーに使った。住処は今の部屋を一日五コルで借り、明け方に三十分だけ、仮眠のために戻った。とにかく誰にも嫌われたくなくて、自分を出さず、常に偽物の笑顔を振り撒いて、相手の要求はほぼ全て呑みこんだ。誰かの役に立つことで、その誰かと繋がっていたかった。

「……バカみたい」

 激情に任せて全てを吐露した後、わたしは小さく息を吸い、嗤いながら吐き捨てた。悔しいことに、本物の笑いだった。

「……ずっと今まで、一人が嫌でこんな風に生きてきて、でも、やっぱり死ぬときはわたし一人だった。……でも、だったら、わたしがいままでしてきたことって、一体何だったの……? わたしがしてきたことも、作ってきた笑顔も、わたしも、全部意味が無くて、全部偽物で……だったら、本当のわたしはどこにいるの? 何がしたいの? ……もう、分かんないよ……! 誰でも、何でもいいから、教えてよ……!」

 立ち尽くすマサキ君の腕を掴む右手に力が入るのと同時に、わたしは縋るような視線を彼に向けた。途端に再び零れ出した涙が目元に溜まり、マサキ君の顔が滲んだ。マサキ君から目を切って、また俯く。瞼をぎゅっと絞ると、重さに耐え切れなくなった雫が二滴、ぽたぽたと(もも)を濡らした。

「……ごめんなさい」

 数十秒ほど泣いた後、わたしは左手で目元を拭い、再び顔を上げた。

「もう一つだけ、最後にお願いしてもいい?」
「何を」
「……わたしが寝るまででいいから、手、握ってて」

 わたしは彼の腕を握り締めていた右手を緩めると、ワイシャツの袖口をなぞるように下ろして左手と絡めた。彼はいつも通り無表情で、どう思っているのかは分からなかった。だから、わたしはそれを聞いてしまう前に、マサキ君とは反対を向いて粗末なベッドに横になった。すぐ後に椅子を引く音が聞こえてきて、わたしは放心しつつ目を閉じた。

「……この部屋何もないけど、わたしが寝た後は、中にある物は好きにしていいから。だから――」

 ――それまで、もう少しだけ、一緒に居て。
 泣いたせいか、いつもより強く、急に襲ってきた睡魔に抗うことができず、続く言葉はわたしの意識と共にまどろみの中へ消えていった。



 彼女が目の前で安らかな寝息を立て始めても尚、俺は彼女の手を握ったまま、古ぼけた丸椅子から立ち上がらずにいた。
 視線を手元に落とす。今俺の手に収まっている彼女の白い右手は、驚くほどに小さく、華奢だった。

「……孤独、か」

 自分はどうなのだろうと考えた。彼と出会う以前の、彼が死んだ後の自分は。
 きっと、孤独なのだろうと思った。彼女との違いは、それを感じていないか、諦めているか、それとも必死で抗っているのかだけ。
 だから、彼女のほうが、俺よりもまだまともなのだろうとも思った。
 俺は彼女の手を握ったまま立ち上がると、椅子を壁の傍に移動させた。壁にもたれるようにして座り直し、隙間風の音を聞きながら目を閉じる。

 涙の綺麗な人は心も綺麗なのだと、昔聞いたことがある。
 彼女の流した涙は冬の澄んだ夜をそのまま映し出していて、素直に綺麗だと感じた。
 自分では作り出せないものを見つけた時、人はそれを綺麗だと感じるのだ。



 ゆっくりと瞼を持ち上げると、(すす)けた石壁を窓から入り込んだ旭光(きょっこう)が照らしていた。アラームの設定時刻より早く目覚めたのだろう、電子音の代わりに小鳥のさえずりが耳を揺らす。このゲームに囚われて以来、初めて熟睡して迎えた朝。だというのに、わたしの心はずんと沈みこんでいた。
 ――これから、どうしようか。
 いつものように手助けに行く気にもなれず、他に何をすればいいのかも分からない。かといって、何もせず一人で部屋にいることなど、わたしに耐えられるはずもない。
 一人、という単語を思い浮かべた途端、また冷たい孤独感が胸に這い寄ってくるように思えて、わたしは身体を縮こめようとする。と、右手が何かに包まれていることに気付いた。
 慌てて首を振る。

「え……?」

 すると、ベッドの脇で壁にもたれながら、マサキ君がわたしの手を握ったまま眠っていた。どうしてまだこんなところにとか、ずっと手を握っていてくれたのとか、幾つもの疑問が瞬時に生まれて頭の中を駆け巡る。
 と、わたしの声で起きたのか、彼は眼鏡の下で目元を擦りながら顔を上げた。それまで俯き加減だった彼の表情が、そこで初めてわたしから見えた。

「ん……朝、か……」
「え、あ……」

 彼は笑っていた。いつものクールな無表情からは程遠い、朝日にも似た、優しげで柔らかい笑顔。疑問をぶつけようとしていたわたしは、思わず言葉に詰まってしまう。
 その間にいつもの無表情へと戻った彼は、わたしの手をベッドに置くと、わたしに背を向けて立ち上がる。

「あ、あの……」
「一九九一年」

 わたしの言葉は、今度は言葉で遮られた。マサキ君は一度言葉を切って短く息を吐き、もう一度吸い込んで続ける。

「イギリスの物理学者スティーヴン・ホーキングは時間順序保護仮説を提唱した。これによれば、場の力が無限大にならない限り過去へのタイムトラベルは不可能になる。そして、現状場の力が無限大になることはないと考えられているため、タイムトラベルは起こり得ず、よって因果律も保存される。そしてそうなれば、バタフライ効果だって起きる」
「……え?」

 いきなり専門用語らしきものを並べ立てられ、わたしは困惑するほかなかった。何一つ理解できないまま無言でマサキ君を見つめていると、振り返った彼と目が合った。マサキ君は一瞬迷うように眉をひそめ、今度は躊躇(ためら)いがちに、若干俯き加減で話し出す。

「……つまり、過去に行くことが出来ない以上、過去は変えられない。誰かのしたことが歴史から消え、無駄になることもありえない」

 そこまで聞いて、昨日わたしが求めた答えを出そうとしてくれているのだと、ようやく気付いた。少し冷淡なイメージがあっただけに、マサキ君がやり辛そうに人を励まそうとする光景は、ちょっぴり可笑しいものだったかもしれない。けれど、今のわたしにそんなことを気にする余裕などなく、わたしは彼の言葉聞き入っていた。

「……それと、もう一つ。どうせ、自分は自分からは逃げられない。見えないのは、波に呑まれて沈んでいるだけだ。だから、そのうち浮かんでくる。……じゃあ」
「待って!」

 再び背を向けて出て行こうとするマサキ君に、わたしはベッドから跳ね起きながら言った。足を止め、ドアノブに手をかけた状態でわたしに振り返る。

「……その、これから、何処に行くの?」
「これを直しに」

 わたしが尋ねると、マサキ君は蒼風をストレージから取り出して柄の部分を向けてきた。見ると、濃紺色の糸で飾られた柄の端に、幾つか細い亀裂が走っていた。

「え、えっと、じゃあ、その……」

 ――そんなことしても無駄だ。独りなのは変わらない。
 胸の何処かで、そんな声が響く。それもそうかもしれない。だって、今彼が言ったことが本当かどうかなんて分からないのだから。けれど。この人といてみようって、そうすれば何か見つかるかもって、それを言ってるのは、少なくとも偽のわたしじゃないような気がしたから。

「わたしも一緒に行かせて。……その、腕のいい鍛冶屋さん知ってるから!」

 わたしは、必死に声を張り上げたのだった。
 

 

一人ぼっち×一人ぼっち×一人ぼっち

 無言。
 家を出てからのわたしたちの道のりは、とにかくその一言に尽きた。隣を歩くマサキ君に何かを喋ろうとする気配は微塵も見えず、わたしはわたしで何を話せばいいのか分からない。ずっと他人の話に合わせることしかしてこなかったツケが今になって回ってきたわけだ。

「それで、何処なんだ?」
「え?」
「その鍛冶屋は。一体何処にある?」

 マサキ君の問いかけでわたしがようやく我に帰ると、既にそこは第五十五層主街区《トランスペアレント・シュタッド》の転移門広場だった。どうやら、いつの間にか転移を終えていたらしい。

「あ、うん。えっと、多分この辺りで露店を開いてると思う……」

 第一層に比べて気温がぐっと下がったことにようやく気付き、遅れてやってきた寒さに身を(すく)ませながら、わたしは首を巡らせて広場を見回した。広場とそこから東へ伸びる道の境目辺り。そこがこの層での彼女の露店の定位置であり、今日も彼女はそこで売り物と携行炉を赤い《ベンダーズ・カーペット》の上に広げていた。

「おはよ、リズ」
「あれ、エミじゃない。今日は随分早いわね」
「うん、ちょっとね」

 洒落っ気のない茶髪のショートカットを二月の寒風に揺らしながら、鍛冶屋の少女――リズベットは相変わらずのサバサバとした口調で答えた。わたしは(つと)めて笑顔で返すものの、不自然になっていないかは正直不安だ。

「ま、いいわ。で、今日は何の用?」
「あ、今日はわたしじゃなくて――」

 リズに不自然さを見抜かれずに済んだことに安堵しつつ、わたしは数メートルほど後ろにいたマサキ君に視線を投げた。わたしの視線に気付いた彼が前に出る――と同時に、耳元でリズが囁いた。

「何、彼氏を自慢しに来たの?」
「えぇっ!? 違っ、そんなんじゃないよ!?」
「ふーん……。ま、そういうことにしといてあげるわ」

 ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべるリズ。何故か頬の辺りが熱を帯びているのが自分でも分かる。リズはニヤニヤ笑いを続けたままわたしの背中をバシッとはたくと、マサキ君の前に躍り出た。

「あたしが一応この店のオーナーで、リズベット。リズでいいわ。そっちは?」
「マサキ」
「マサキ……その名前にその刀にその格好……アンタまさか、《穹色の風》?」
「……あぁ。そうだ」

 驚きの色を含んだリズの問いに、マサキ君は不機嫌そうな影を顔面に滲ませながら頷いた。それとは対照的に、リズは口元に自信たっぷりの笑みを刻む。

「へぇ……嬉しいじゃない。そんな有名人が来てくれるなんて、ウチの店の評判も上がるってもんよ。で、マサキ、今日は何をどうすればいいの?」
「これを」

 いつも通りの無表情に戻ったマサキ君が、蒼風の柄の部分をリズに差し出した。リズがその部分に目をやった途端、分かったとばかりに頷いた。

「結構派手に亀裂が入ってるわね……。ちょっと貸して」

 リズは半ば取り上げるように蒼風を手に取り、軽くクリックした。きっと、武器のポップアップウインドウを確認しているのだろう。やがて、満足そうに頷いて顔を上げる。

「オッケー、大丈夫。余裕で修理できるわ。必要素材……も、これなら簡単に手に入るはずよ。何なら、ウチで仕入れる?」
「いや、それはいい。こちらで用意する」
「そ。なら後で素材をまとめて持って来て。そしたら直すから」
「ああ。分かった」

 商談が成立したのか、リズは蒼風をマサキ君に返した。彼はそれを受け取り、「また来る」とだけ言って(きびす)を返す。慌ててわたしがそれを追おうとすると、後ろから「頑張んなさいよ!」と言う声と共に背中をはたかれた。そんなことになるとは露ほども考えていなかったわたしは、突如背中に発生したエネルギーに対処できずにつんのめる。その瞬間、咄嗟に目前の何かに抱きついて転倒だけは回避。犯人に対して抗議の声を上げる。
 が、しかし、彼女は顔に浮かべた笑みを更に満足げにしながら悪びれることもなく店に戻っていった。「やっぱりお似合いよー!」と、ウインクのオマケまでつけて。一体彼女は何がしたかったのかいまいちよく掴めないわたしは、首をかしげながら歩き出そうとして――ふと、気がついた。今、わたしが抱えている物は何だったかと。
 目線を落とし、徐々に上げていく。男性のものにしては細めで色白、あまりゴツゴツとはしていない手。薄く青みがかった地に鮮やかなブルーの細かいチェックが入ったワイシャツと、それに包まれた、触れると分かるスラリとした腕――。

「……で、いつまでそうしているつもりだ?」

 そして、長めに切り揃えられた前髪と理知的な印象の眼鏡の奥から覗く、どこか冷たい光を(たた)えた切れ長の瞳から発せられた視線とわたしのそれが交錯した瞬間。いつもと同じ、感情を一切感じさせない声色が頭上から降ってきたのだった。

「えっ!? あ、えっと、その、えぇと……ほら、アレ!!」

 反射的に、わたしは飛び退いてでたらめな方向を指差した。これから何て言おうとか、もっと上手い誤魔化し方はなかったんだろうかとか、そもそも誤魔化す必要ってあったんだろうかとか、自分の行動選択に対する後悔と今後に対する不安とが冷や汗となって背中を流れる。マサキ君が胡散臭そうな視線を最後に残してそちらを見やり――そんな時だった。

「――お願いします! 仲間の……仲間の仇を取ってください!!」

 わたしが差した指の先で、突如一人の男性プレイヤーが涙声を張り上げたのは。

「……え?」
「ここにいろ」

 あまりに出来すぎたタイミングでのことに驚くわたしに一言言い残し、マサキ君はその男性のもとに歩いていく。となれば必然的に、わたしは一人、その場に取り残されてしまうのだった。

 一度、大きく息を吐く。
「ここにいろ」と言われたからといって、一歩たりとも動けないわけではもちろんない。が、わたしは彼の言いつけを馬鹿正直に守ってその場に立ち尽くしていた。スカイブルーの空を映す次層の岩盤とその下を悠然と流れていく白い雲とを呆然と眺める。

 昨日までのわたしだったら、あの男性に声を掛けていたのだろうか。近くにあった開店前の屋台の壁に身体を預けながら、わたしはそう自問した。「仲間の仇を討ってくれ」という彼の願いを聞き入れるのは、恐らくわたしでは無理だったろう。けれど、話を聞くなりして落ち着かせるとか、何かしらの対処はしようとしたと思う。そして、それが本当に「いいこと」なのかは、わたしはきっと考えなかった。だって、それは彼のためではなく、ただわたしの欲求を満たすためだけの善であり、優しさだったのだから。

「……騙してた、のかな。やっぱり」

 今日になって、今更ながら自分のしてきたことをわたしなりに考えた結果、どうしてもそこに辿り着いてしまうことに気がついた。どんなに人を助けようと、どんなに人の役に立とうと、それは結局わたしの為で、ただ「世のため人のため」なんてご大層な仮面を被って人々を欺いてきただけなのではないのだろうかと。

「……マサキ君は、どうしてなんだろう」

 頭上に覆いかぶさる天蓋から目を離し、男性がいた方角に戻す。男性とマサキ君は近くのカフェにでも入ったのか、もうそこに二人の姿は見えない。
 クールで冷静で、見方によっては冷淡なイメージさえある彼が真っ先にあのプレイヤーへ駆け寄ったのは意外なことだったけれど、だからこそ、彼がどんな理屈に基づいて行動したのか、少しだけ興味を覚えた。
 わたしはウインドウを呼び出すと、端に表示されている時間を確認した。マサキ君が向かってから、もう二十分になる。

「まだかな……」

 呟いて、わたしは徐々に人通りの増えてきた通りを見つめる。再び物思いに沈んでいく視界の中で、どこか見覚えのある茶色のケープと三本線のペイントがこちらを覗いていたことなど、その直後には忘れ去っていた。



「ヤ、待たせたナ、マー坊」
「確かに、お前にしては遅かったな、アルゴ」

 転移門広場に隣接した小さなカフェの一角で、マサキはカップを啜りながら来訪者を迎えた。彼の視線の先で、鼠のアルゴは勘弁してくれとでも言いたげに両手を振り上げる。

「仕方ないだロ。くつろいでる最中に急に呼び出されたオレっちの身にもなってくレ」
「それが仕事だろう?」
「やれやレ、人使いの荒い依頼人を持つと大変ダ」

 諦めたように息を吐いて、アルゴはマサキの対面に腰を下ろした。そこにはもう先ほどの男性の姿はなく、テーブルの隅に置かれた空のカップ一つが彼のいた名残を示しているばかり。アルゴは間髪入れずにやってきたNPCウエイトレスに紅茶を一つオーダーすると、すばしっこくマサキに向き直る。“商談”に入るときの合図だ。

「で、今日は何が聞きたイ?」
「《タイタンズハンド》とそのリーダー、《ロザリア》について」

 いつもと変わらぬポーカーフェイスでマサキがそう言葉を発した瞬間、アルゴの表情が急に真剣みを帯びた。小さな体躯とコミカルな三本線ペイントからは想像もつかない鋭い双眸がマサキを射抜く。

「……何でまタ、オレンジギルドなんかのことを聞ク?」
「悪いが、こちらにも守秘義務ってものがあるんでね。……殺しはしない。黒鉄宮に送るだけだ」

 前半は少しおどけたように、しかし後半はいたって真剣な声色でマサキは答えた。マサキとアルゴ、両者から発せられた鋭利な刃物のような視線がその間に置かれたテーブルの上で交錯する。
 やがて、アルゴが観念したように目を伏せ、マサキに向かって指を三本立てた。それを見たマサキは淡々とウインドウを操作し、オブジェクト化した小袋に硬貨を入れてテーブルの上を滑らせる。アルゴは小袋を受け取ると、若干の迷いを残しながら口を開いた。

「手段はよくあるものダ。リーダーがパーティー内部に入り込んで品定めしテ、金品を溜め込んだところを大勢で待ち伏セ。最近だと、三十五層で目撃証言があっタ」

 その後、アルゴは続けてロザリアの見た目や言動等の特徴やギルドの構成等を滞りなく説明し終えた。椅子の背もたれに体重を預け、いつの間にか目前に置かれていたティーカップに手を伸ばす。

「そう言えバ、《竜使いシリカ》も今は三十五層にいるらしいナ。迷いの森で狩りをしてるそうダ」
「……《竜使いシリカ》?」

 同じようにコーヒーに口をつけていたマサキが尋ねると、アルゴはニッと笑い、「これはサービスだヨ」と前置きしてから続ける。

「《フェザーリドラ》をテイムしたってプレイヤーだヨ。顔も中々可愛くて、今や中層のアイドルプレイヤーダ。モテ期到来中のマー坊なら、お近づきになれるんじゃないカ?」
「何を言い出すかと思えば……。残念ながら、そんなもの、まだ一度たりともお目にかかったことはない」
「ほホー、そうカ? 今さっきそこの広場であの《モノクロームの天使》がマー坊の帰りを待ちわびてたゾ? まるで何ヶ月も会ってない恋人でも待ってるみたいな顔だったナ」
「冗談だろう。止してくれ」
「ニャハハ、まあ進展があったらその時はオレっちがその情報を全プレイヤーに余すことなク……?」

 うんざりの四文字を露骨に顔に刻んだマサキをよそに、アルゴは話を続けていく。が、受け取った小袋の中身を見た瞬間、その声に疑問の色が混じった。マサキがよこしたコルが、アルゴが要求した額よりも明らかに多いのだ。この二人の取引は長い間――それこそゲーム開始以来ずっと続いている上、聡明な彼が要求額を間違えるとは思えない。
 アルゴが疑念の色を浮かべてマサキを見ると、彼の顔に浮かんでいた嫌気はとうに消え失せ、代わりにレンズの奥から鋭い視線が放たれていた。

「――もう一つ、今日中に調べて欲しいことがある」



 その日の夕方。わたしたちは三十五層フィールドダンジョン、《迷いの森》にいた。あの後四十分ほどして再び姿を見せたマサキ君はわたしに近寄るなり、まるで明日の天気でも話すかのように平然と言った。「三十五層に行くから、着いて来たければ来い」と。
 行く当てのないわたしは二つ返事でそれを了承、その後消費アイテムを用意したり素材を街で買い集めてから再びリズの店に向かって蒼風を直したり――マサキ君がプレート系の防具に短剣まで注文していたのは未だに謎だけど――の準備をしてから転移門をくぐると、既に日はそれなりに傾いていた。
 もう今日は宿を取って終わりかと思ったわたしだったが、どうやら彼はそのつもりではないらしく、何かを探すように主街区を歩き回った挙句街を飛び出した。そのまま迷いの森までの道を駆け抜けて森に入り、今は立ち並ぶ木々の間を走り回っている。
 と、前を走る彼が突然左に方向転換した。反射的にわたしもそちらへ曲がる。

 それからほんの少し走ると、前方に一つのパーティーが見えた。時間から考えて帰り道かと思ったが、何だか様子がおかしい。マサキ君は彼らを見つけると、近くの木陰に身を潜めた。別に隠れなくても……と思いながら、しかしそれを言えずにわたしが続く。
 そのまま暫し様子をうかがっていると、どうやらパーティー内で口論が起きているようだった。グループの両端で真っ向から二人の女性プレイヤーが罵り合っていて、その間に挟まれたリーダーらしき男性が必死に二人を宥めている。だがそれも全く効果が現れず、それどころか口論はますます激しさを増していく。

「アイテムなんかいりません。あなたとはもう絶対に組まない、あたしを欲しいっていうパーティーは他にも山ほどあるんですからね!」
「あっ……」

 捨て台詞を吐いて枝道に入って行ってしまう女の子を見て、わたしは思わず声を漏らしてしまった。と言うのも、今わたしたちのいるフィールドダンジョン《迷いの森》は、碁盤の目状に分割された数百ものエリアで構成され、そのうちの一つに入ってから一分が経過すると東西南北に隣接した四つのエリアへの連結がランダムに入れ替わってしまうのだ。そのため、森を確実に抜けるには一分以内にエリアを走り抜けるか、主街区の店で販売されている地図アイテムで現在の連結を確認しながら進む以外にない。ただでさえ一人でダンジョンをうろつくことなど危険極まりないのに、もし道に迷うようなことがあれば、偶然森の外か安全圏に入るか、他のパーティーと出会うことがなければ抜け出すのはかなり難しくなる。
 それを知っているからだろう、男性が必死に呼び止めようとするが、女子プレイヤーは全く聞く耳を持たない。やがて彼女の後姿が林立する木々の中に消え、暫しバツの悪そうに立ち尽くしていた――彼女と口論していた女性だけは勝ち誇ったように笑っていたが――パーティーも諦めたように再び帰路に着いた。夜の闇が段々と濃くなっていく森の中、わたしたち二人だけが取り残される。
 そして人の気配が完全に消滅した頃、マサキ君は茂みからようやく抜け出した。

「行くぞ」
「あ、あの女の子……」

 ――助けないと。続くはずだった声はしかし、喉の奥に引っかかって出てこなかった。本当にわたしが言おうとしたことなのか、また自分のエゴのために言おうとしたのか、分からなかったから。
 わたしの声に反応したマサキ君が横目でこちらを見、その涼やかな視線がわたしのそれを受け止める。

「分かってる」

 彼は一度地図を確認すると、また走り出す。その先は、女の子が一人歩いて行った方角だった。

 それから約十分。わたしたちは女の子を追いかけて走り続けていた。彼女が迷わずに森を抜けられていればいいのだけど、西へ東へ向かう方角を変えながら走るマサキ君を見るに、その可能性はあまり高くないようだ。わたしの索敵スキルにも、プレイヤーの反応はない。わたしよりもよほど索敵スキルの値が高いのか、それとも何か別の手段をとっているのかは分からないが、先を走るマサキ君に迷った様子がないのが唯一安心できる点だった。
 それでも索敵スキルを最大限使って反応を探していると、前方に一つ、プレイヤーのカーソルが出現した。良かった、無事だった……と安堵しかけた瞬間、その周囲を取り囲んでいる敵の存在に気付く。

「……っ!」

 反射的に足を速めようとした刹那、前を走っていたマサキ君の姿が消えた。と言っても、魔法を使ったわけじゃない。ただ単に、走るスピードを上げただけ。だが、そこから倍近いスピードを一瞬にして出したために消えたと錯覚したのだ。今までだってそれなりのスピードで走っていたというのに。
 見失った彼の姿は、遥か前方で再発見できた。腰元の鞘から蒼風が引き抜かれ、半透明の刀身が淡い光を帯びる。直後、マサキ君はスピードを落とすことなく蒼風を一閃。女の子を取り巻いていた三匹のドランクエイプが、切り裂かれ、吹き飛ばされ、そして同様に爆散した。

「大丈夫!?」

 それから数秒遅れてわたしが駆けつけると、少女は虚ろな瞳から涙をとめどなく流しながら崩れ落ちた。
 そのすぐ前には、一枚の綺麗な水色の羽根。
 女の子をよく見ると、中層でのアイドルプレイヤー、《竜使いシリカ》だった。彼女は確か、《フェザーリドラ》と言うレアモンスターをテイムしたビーストテイマーだったはず。泣き震える少女と水色の羽根を交互に見て、わたしはこの状況を悟った。
 わたしは掛ける言葉を探そうとするが、さっきと同じ思考が邪魔をする。マサキ君も、いつものポーカーフェイスにほんの少しの後ろめたさを滲ませながら無言で彼女を見下ろしていた。途方に暮れるわたしたちの前で、彼女は嗚咽を漏らしながら、目の前の羽根に向かって必死に声を絞り出した。

「お願いだよ……あたしを独りにしないでよ……ピナ……」 
 

 
後書き
 はい、と言うわけでシリカ(リズも)の登場です。ロリコ……もとい、大きなお友達の皆様、お待たせいたしました。原作とキャラが違うのは毎度のことなので見なかったことにしてください(オイ、

 ご意見、ご感想等ドシドシどうぞ。 

 

優しさに包まれて

 
前書き
更新遅れについてのお詫びはつぶやきにて 

 
「……済まない。遅かった」

 平坦な、しかしほんの少しだけ苦そうな声色で、マサキ君は《竜使いシリカ》に言った。膝から崩れ落ち、項垂れた彼女は、溢れ出る涙を吹き飛ばすように激しく首を振った。

「……いいえ……あたしが……バカだったんです……。ありがとうございます……助けてくれて……」

 途切れ途切れに紡がれる言葉は、彼女が嗚咽を堪えている何よりの証拠だった。それから少しの間、押さえ切れなかった彼女のすすり泣く声が暗澹(あんたん)とした森に充満する。わたしはこんな時でさえ、ただ無言でその場に立ち尽くすだけ。マサキ君は何かを考えていた風だったが、やがて数歩進み出ると、少女の傍にしゃがみ、目前から水色の羽根を拾い上げた。

「あ……」

 突然の行動に、少女は声を漏らしながら目線を上げた。両頬に付いた涙の筋を拭うこともせず、呆けた顔で視線をマサキ君に注いでいる。全員の視線が集中する中、マサキ君は羽根を一度軽くタップすると、現れたウインドウを可視化させ、「見ろ」と視線で言った。わたしが近付いたのに一歩遅れて少女も立ち上がり、二人して半透明のウインドウを覗き込む。するとそこにあったのは、他のアイテムと変わらない、簡潔かつ淡白な概要。殆どは空欄になっていて、埋められているのはたった二つ、重量と名称――《ピナの心》。

「……ピナ……ピナ……」
「ま、待って!」

 “心”の一文字にピンときたわたしの横で少女が再び嗚咽を上げ、わたしは反射的にそれを止めようと割り込む。

「心アイテムが残っていれば、まだ生き返らせられるかも知れないから!」
「え!?」
「え、あ……」

 思わず口を開いてしまったことに今更気付き、言葉に詰まるわたし。と、隣でマサキ君がその後を引き継いだ。

「……最近になって判明したことだがな。四十七層にある《思い出の丘》の頂上に咲く《プネウマの花》が、使い魔蘇生用の――」
「ほ、ほんとですか!?」

 腰を浮かせて少女が食いつく。マサキ君が頷き、少女の瞳が希望の光に染まる。しかし、それは五秒と持たずに再び消えてしまった。

「……四十七層……」

 少女は(かす)れた声で呟き、力の抜けた肩が再びガックリと垂れた。四十七層といえば、この三十五層より十二も上の階層。この辺りを狩場にしているボリュームゾーンのプレイヤーからすれば、遥か上のフロアだ。プネウマの花の獲得はおろか、命さえ保障はできない。
 視線を地面に落としてしまった彼女にマサキ君が水色の羽根を返すと、彼女は僅かに顔を上げて、言った。

「……ありがとうございました。今はまだ無理そうですけど、がんばってレベルを上げて、いつか……」
「無理だな」
「え……?」
「使い魔の蘇生が可能なのは、死亡後三日間だけらしい。それを過ぎると、《心アイテム》が《形見アイテム》に変化する。そうなれば、二度と蘇生は出来ない」
「そんな……!」

 叫び声が、悲嘆で震えた。
 現在の中層プレイヤーの平均レベルは大体四十前後。三十五層を狩場にしていたという事は、彼女のレベルはもう少し上なのだろうが、それでも四十七層で“安全な”ダンジョンアタックを行うには全然レベルが足りていない。もしそれをしようと思うのなら、ダンジョンそのものの攻略も考えてあと二日でレベルを10は上げなければならない。どう考えても不可能だった。

「そんな……」

 同じ言葉を繰り返して、彼女は絶望を隠そうともせずに俯いた。受け取った羽根をそっと胸に抱き寄せる。透明な雫が、小さな顎から滴った。

 ぎゅっと、わたしの右手に力がこもった。胸の奥が締め付けられる感覚。わたしは右の拳を胸元に抱き寄せ、失意に溺れる少女を見つめた。
 今すぐこの手を差し伸べてあげたい。そんな衝動が心臓の辺りから湧き出てくる。……だというのに。結局、この手は最後まで動かなかった。助けてどうするの? 助けることで自分自身を誤魔化して、でもずっと独りのままで。いつかはまたそれに気付いて、泣き喚いて。それなのに、どうしてわたしは助けるの? ――そんな頭から降り積もる疑問に、全て押し流されてしまって。そして、そんな自分が、堪らなく嫌になった。

 唇を噛み、手を握り締めたわたしの視界の片隅で、マサキ君が立ち上がる。このまま立ち去るのだろうと反射的に思った瞬間、わたしはつい先ほど、マサキ君が涙ながらに仲間の仇討ちを懇願する男性の話を聞きに行った光景を思い出す。ひょっとしたら、彼は彼女に手を差し伸べるつもりなのでは――不思議と、そんな期待めいた思考と一緒に。
 するとマサキ君は、顔の前で何やら指を動かし始めた。直後、俯いていた少女が面食らったような表情でマサキ君を見上げる。

「あの……」

 戸惑っているのが一目で分かる声で少女が呟くと、マサキ君は冷淡なトーンで言う。

「これで約5レベル分は強化できる。俺達も一緒に行けば、問題はないだろう」
「えっ……」

 声が漏れたまま開きっぱなしになっていた口をそのままに少女は立ち上がり、マサキ君の発言を反芻(はんすう)し、その真意を推測するようにじっと顔を見つめる。しかしその試みは結局不発に終わったらしく、やがて少女は怪訝そうな顔で、

「なんで……そこまでしてくれるんですか……?」

 と疑問を投げ掛けた。
 デスゲームと化したSAOでは「甘い話には裏がある」のが常識。また中層でアイドルプレイヤーであった彼女の場合、下心のあるプレイヤーに迫られたことは一度や二度ではないだろう。だから、少女の反応はごく自然なものだった。

「君が今考えている通りだ。俺は、俺自身のメリットのためにこうしている」

 少女からの警戒が込められた視線を受けて尚、マサキ君は微塵も動じることなく、抑揚のない事務的な口調で告げた。その答えを受けて、少女の視線が更に険しくなる。

「……ただ、一つ付け加えるとするならば……」

 張り詰めた静寂を、マサキ君の声が破った。わたしからは彼の表情は窺えないけれど、何処か昔を懐かしむような声だった。マサキ君は少しだけ目線を上げ、何かを思い出そうとするように、長めの間を取ってから続けて呟く。

「……君のような少女と、昔、会ったような気がする」
「……え?」

 鳩が豆鉄砲を食らったみたいに少女の視線から怪訝さが抜け落ち、呆気に取られたと言わんばかりにマサキ君を見――そしてそのすぐ後、少女は盛大に噴き出した。それを見たマサキ君の背中から、ほんの少しだけいじけたような雰囲気を感じ、わたしもつられて笑ってしまう。すると、その笑い声に気付いたらしく、顔を上げた少女と目が合った。

「えっ、あの……ひょっとして、エミさん、ですか……? 《モノクロームの天使》の……?」
「え、あ、と……う、うん」

 わたしがぎこちなく笑いながら頷くと、少女は目を丸くして驚いた。その後また少し考ええるように黙り込むと、覚悟を決めたように頷いてペコリと頭を下げた。

「……よろしく、お願いします。助けてもらったのに、その上こんなことまで……」

 少女は頭を上げ、自分のウインドウを操作し始める。マサキ君も先ほどからウインドウを弄っていたことから、トレードか何かだろうとわたしは推測した。

「あの……こんなんじゃ、全然足りないと思うんですけど……」
「金はいい。不自由しているわけでもない。それに、この装備は必要な投資だ」

 マサキ君はそう言って、目の前を一度タップする。と、少女は恐縮そうにもう一度頭を下げた。

「すみません、何から何まで……。あの、あたし、シリカって言います」
「マサキ」

 少女が差し出した手をマサキ君が握る。その後で、わたしにも右手が差し出された。

「えっと、エミ、です」

 おずおずとその手を握る。その手は小さく華奢だったけれど、ほんのりと温かかった。
 それを見届けると、マサキ君は森の地図を取り出して、街へ向かって歩き出す。その後にわたしたち二人が続く。
 疑問はまだ胸の何処かに引っかかっている。けれど、握った手から伝わってきた温もりと少女が見せてくれた笑顔のおかげで、ほんの少しだけ、このままやるだけやってみようと思えたのだった。



 片田舎の農村のような風情を漂わせる、第三十五層主街区。シリカちゃん――帰り道にそう呼ぶ許可をもらった――が現在この街を拠点としているらしく、わたしたちも折角なので同じ宿に泊まろうという話になった結果、今わたしとマサキ君は彼女の案内でレンガの敷き詰められた大通りを歩いていた。

「お、シリカちゃん! 聞いたよ、フリーになったんだって? だったら明日からウチのパーティーに入らないか?」

 先頭を歩くシリカちゃんが、重そうな銀色のプレートアーマーを着込んだ一人の男性プレイヤーからそう声を掛けられたのは、大通りから転移門広場に入った直後だった。その声を皮切りに、「いやウチが」「ウチなら美味しいスポットに連れてってあげるよ!」といった声が人と共に次々と集まり、あっという間に周囲には軽い人だかりが完成する。

「う…………」

 咄嗟に助け舟を出そうとするも、シリカちゃんに殺到する人々の勢いに押され、思わず一歩下がってしまう。
 ――怖い。
 直感的に、そう感じた。以前、幾つかのパーティーから同時に誘われたときの光景が、今のそれと一致していたように見えて。
 その時のわたしは、笑顔を振り撒くのに必死だった。自分の寂しさを紛らわしたくて、八方美人を演じていた。だから、人に囲まれるのが嬉しかった。
 けれど、今は違う。結局わたしは独りだったことに気付いてしまった。今までしてきたことが、自分のエゴだったと分かってしまった。だから、一体どんな顔であの人ごみに割って入ればいいのか分からなかった。そんな自分を誰かに見られてしまうことが怖かった。結局自分のためじゃないと何もできない自分が、もう気がおかしくなってしまいそうなくらいに嫌で嫌で――

「おい」
「ひゃいっ!?」

 はっと我に帰ったわたしは慌てて口を両手で塞ぎ、飛び出してしまった素っ頓狂な声を押し戻しながら振り返る。と、すぐ前にマサキ君の顔があった。気付かれたわけではなかったことに安堵しつつ、今の声が聞かれていなかったかとそのままキョロキョロ。幸い、誰も不審がらなかったみたいだった。
 わたしの顔が正面に向き直ると、マサキ君は言う。

「悪いが、先に宿を取っておいてくれ。こっちを片付けたら追いつく」

 そして宿代と思われる数百コルを掴ませると、自分はさっと踵を返して人だかりに割って入っていく。後に残されたのは、一人立ち尽くすわたしと、様々な色の絵の具を全部筆で混ぜ合わせたみたいなぐちゃぐちゃの色をした感情だった。
 数秒の黙考の後、わたしは唇を動かしながら振り向いて、ごちゃ混ぜの感情を置き去りにするようにして静かにその場を去った。最初はゆっくりと、そのうち小走りに。落とした視線の先で石畳を叩く足音は、後ろでざわざわと騒ぎ始めた人々の喧騒に掻き消され、最後までわたしの耳に届くことはなかった。



 その後わたしは泊まる予定だった《風見鶏亭》という名の宿で部屋を借りると、その一階部分に設けられているレストランで二人と合流。二人と碌な会話もせずに夕食を手早く済ませ、二人に先立って自分の部屋に引っ込んだ。
 久々に見るふかふかのベッドに仰向けに寝転ぶ。ベージュの天井に、オレンジ色のライトが滲んでいる。部屋は空調も効いていて、今までの隙間風が入り放題だった部屋に比べれば段違いに暖かい。でも何故か、背中に触れるシーツがやけに冷たく感じて、わたしは身体を縮こめながら寝返りを打った。
 ベッドサイドの小さなランタンが何となく目に入る。その前を、一人の青年の姿が過ぎった。

「マサキ……君……」

 改めて思えば、不思議な人だ。
 無表情で、感情が見えない。その理知的で冷静そうな視線は、一見冷淡にさえ思えてしまう。
 けれどわたしや、今日だってシリカちゃんを助けていて。それは、彼の外見からはおおよそ想像もつかないような行動だった。
 それに何より、今朝彼が起きたときの、あの目――。

「~~~~っ!」

 そこまで想像した途端、頬が真っ赤になって熱を発しているのが自分でも分かった。咄嗟に体をもう四分の一回転させ、枕に顔を埋める。ひんやりとした布地が火照った頬に心地いいが、脳裏に浮かぶ彼の姿が消えることはなかった。やがてわたしは諦めて、もう一度仰向けになった。

 ――マサキ君は、本当はどんな人なんだろう?
 どんな風に物事を捉え、考えているんだろう?
 どうして、わたしのことを助けてくれたんだろう?
 どうしてわたしはこんなにも、マサキ君のことが気になるんだろう?

 次々と浮かぶ疑問とは裏腹に、その答えはいつまで経っても分からなかった。そうしているうちに、その疑問はマサキ君と言う人物をもっと知りたいという欲求に変わる。
 それから暫くベッドの上をゴロゴロと転がり、数十回の往復を経てベッドの端に流れ着いたわたしは静かに足をベッドから下ろした。泥棒みたいな忍び足で廊下に出て、二つ隣のドアを叩く。程なくしてドアが開き、中からマサキ君のクールそうな無表情が覗いた。

「どうした?」
「え!? え、えっと……あ、明日のこと! 打ち合わせとか、しといた方がいいんじゃないのかなって! だ、だからその……入っても、いい?」

 今更ながら自分が何も考えずに来てしまったと気付き、慌てて取り繕う。冷や汗を流すわたしをマサキ君は切れ長の瞳で一瞥すると、「そうか」と呟いて部屋に戻って行ってしまった。ドアは閉じられていなかったため入ってもいいのだろうと考えて、そろそろと中に体を滑り込ませる。

「適当に座ってくれ」
「う、うん……」

 部屋の造りはわたしの所と――当然と言えば当然だが――完全に同じで、部屋の右手にベッド、その奥にティーテーブルと、それを挟んで一人掛けのソファ二つが置かれていた。わたしは十秒ちょっと考えて、既にマサキ君が座っていたソファの向かい側に腰掛けた。彼は何やらメッセージを打っているらしく、ホロキーボードを恐ろしい速さでタイプしていた。

「……悪かったな。何の相談もなしに巻き込んで」

 途中、マサキ君は指の動きを止めると、突然そんなことを言った。彼の顔そのものは手元のウインドウを見下ろしていて、切れ長の両目から放たれる冷ややかな視線だけが眼鏡と前髪の間からこちらを覗いていた。わたしは慌てて頭を振った。

「ううん、全然! 今日一緒に行くって言ったのはわたしの方だし……それにね、あの時マサキ君がシリカちゃんと一緒に行くって決めてくれて……。何でかは分かんないけど、ちょっぴり安心したんだ」

 後半、全く自分で意図していなかった言葉が飛び出して、わたしは言った後自分で驚いてしまっていた。けれど不思議なことに、その言葉が嘘やでまかせだとは思えなかったから、わたしは訂正しようとはしなかった。

「……そうか」

 マサキ君は相変わらずの事務的な口調で言うと、視線を元に戻して再びキーボードを叩き始める。そのまま沈黙が続き、わたしが何か話題を探した方がいいのかな……等と考え出した頃、不意に部屋のドアがノックされた。丁度作業を終えたらしいマサキ君がキーボードを消して席を立つ。わたしが何とはなしに首を傾けてドアの外を覗くと、可愛らしいチュニックを身にまとったシリカちゃんがあわあわと両手を動かしながら立っていた。その瞬間、わたしは先ほどの一件を思い出して、心臓がドキリと緊張に震える。

「ええと、その、あの――よ、四十七層のこと、聞いておきたいと思って!」

 何処かで聞いたような理由を、途中何度か詰まりかけながらも何とか言い切ったシリカちゃん。するとマサキ君は何を思ったのかわたしに振り向いて、座ったまま彼を見上げていたわたしと目が合った恰好となった。彼は数秒間静止してから、顔色一つ変えずに言った。

「済まないが、俺は少し人と会ってくる。部屋は自由に使ってくれて構わないから、打ち合わせは二人でやっておいてくれ」
「え、えぇっ!?」

 あまりにも唐突な宣告にわたしは思わず声を上げてしまうが、マサキ君は気にした風もなくシリカちゃんを部屋に入れると、自分はさっさと出て行ってしまった。取り残されたわたしがぎこちなく顔を動かすと、全く同じ動作をしていたシリカちゃんと示し合わせたかのように目が合った。途端、緊張やら罪悪感やらが胸の奥からこみ上げてきて、お互いの顔に張り付いた引きつり笑いと気まずい沈黙が部屋に横たわる。

「え、えっと……とりあえず、座って? ……って、わたしが言うのもヘンだけど……」
「は、はい……」

 先ほどまでマサキ君が座っていたソファを勧めると、シリカちゃんは人形みたいに頷いてちょこんと浅く腰掛けた。

「確か、四十七層のこと……だった、よね?」
「は、はいっ。お願いしますっ!」
「う、うん。こちらこそ」

 何故かは分からないがお互いに座ったまま礼をすると、わたしはウインドウから四十七層のマップを呼び出してシリカちゃんにも見えるように可視化した。本当は《ミラージュスフィア》というアイテムがあればもっと精密で分かりやすいマップを見せられるのだけど、残念ながらそんな高級品は持っていない。

「えっと……まずここが、四十七層主街区の《フローリア》。四十七層は《フラワーガーデン》って呼ばれてて、フローリアも含めてフロア中がお花畑で一杯なんだ」
「そ、そうなんですか!? 凄い……!」

『お花畑』のキーワードに反応して、シリカちゃんがパァッと目を輝かせる。

「うん。本当は、北の端っこにある《巨大花の森》ってところがとっても綺麗なんだけど……」
「それはまたのお楽しみにします」

 取っ掛かりから会話を広げようとして話を続けると、シリカちゃんはそう言って笑いかけてくれた。ようやく会話の歯車が少しずつ噛み合ってきたような気がして、ほっと胸を撫で下ろす。そして本題に入るべく、《思い出の丘》に続く街道を指で辿ろうとすると、シリカちゃんの言葉がそれを遮った。

「でも、色んなことを知ってて、やっぱり凄いですよね。四十七層にも、他の人の手伝いで行ったんですか?」
「え? あ、う、うん。そんな感じ、かな……」

 シリカちゃんからすれば、何気ない話のつもりだったのだろう。けれどその一言にわたしの胸が小突かれて、弱々しい返事を返したわたしの指の動きが鈍った。喉の奥に酸っぱい味を感じて生唾を飲み込みながら俯くわたしを他所に、シリカちゃんは続ける。

「凄いなぁ。こんなことになったのに、ずっと他の人のために頑張り続けてるんですよね。あたしじゃ、絶対真似できないですもん」

 ――ピタリ、と。わたしの指が動きを止めた。視線は既に、自分の膝まで落ちていた。

「エミさん? どうしました? 大丈夫ですか?」

 シリカちゃんの心配そうな声が、遠くの方で聞こえる。
 ――大丈夫だって、返さなくちゃ。いつも通り、笑顔で。
 無理矢理に口元を吊り上げようとするが、ピクピクと震えるばかりで一向に上手く行かない。今までは、無理出来ていたのに。今までは、無視できていたのに。昨日マサキ君の前で泣いてから、それが全然できなくなってしまった。どうしよう、どうしよう……。
 罪悪感、孤独、恐怖……全部がぐるぐるに混ざり合った、泥水みたいな色の感情が頭の中を支配して、耐えられなくなったわたしは――。

「……違うの」

 遂に、そう口に出した。

「え……?」

 何が何だか分からない、と言った風に、シリカちゃんが首を傾げる。わたしは震えながら息を吸って、声として吐き出した。

「違うの。……わたしね、本当は、そんな人じゃなくて……むしろ、逆なんだ」
「逆……って、どういうことなんですか……?」

 わたしは一度、うん、と小さく頷く。

「……ずっと、怖かったの。この世界で、独りのままでいることが。だから、できるだけ誰かと一緒にいたくって、他のパーティーに押しかけて……。本当は、他の人のことなんて、これっぽっちも考えてなかった。……でもそれって、ただ自分も皆も騙してるだけで、本当はわたし、ずっと独りのままだった。そのことに気付いたら、この人たちを騙してたんだって思ったら、凄く怖くなって……。今日だって、転移門広場に入った時、シリカちゃんが困ってるからどうにかしないと、って思ったの。でも、気が付いたら人に囲まれてて、わたしのこともバレちゃうって思ったら何もできなくって……ううん、わたしがもっと早くシリカちゃんのところに行けていれば、ピナだって……!」

 気が付くと、マップ上に置かれていたはずの右手が左手と一緒にスカートの裾を握り締めていた。
 言っちゃった……。怖くなって両目をぎゅっと瞑ると、手の甲に生温い雫が落ちる感触。どれくらいだったろう、下唇を噛みながら震えていると、不意に両手が温かいものに包まれた。
 恐る恐る目を開けると、ソファから身を乗り出したシリカちゃんが、真剣な顔でわたしの両手を握っていた。

「エミさんは、いい人です。あたしを、助けてくれたもん」

 そして、穏やかに微笑みながら言う。子猫みたいに一瞬体を強張らせたわたしだったが、震えと硬直はシリカちゃんの笑顔と両手の温かさにすうっと吸い込まれて――。

「……ありがとう、シリカちゃん。わたしの方が、慰められちゃったね」

 そんな言葉が、わたしの口から漏れていた。わたしの体から力が抜けたことを悟ったのか、シリカちゃんもわたしの手を包む力を少し弱める。

「いいえ、そんな……すみませんでした。あたし、何にも知らなくて……あ、そうだ!」

 シリカちゃんは何かを思いついたように立ち上がると、「ちょっと待っててください!」と言い残してバタバタッとドアを開けっぱなしで部屋を出て行った。数分もしないうちにまたバタバタッと戻ってくる。その手には、卵色のケーキが乗ったお皿と湯気を放つカップが一つずつ握られていた。シリカちゃんがその二つをわたしの前に並べると、カップに入っていたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。

「エミさん、結局晩御飯の時にチーズケーキ食べなかったから。マサキさんと相談して、後で機会があれば、って取っておいたんです。美味しいですから、是非食べてみてください」
「そうだったの……ありがとう」
「いえいえ。ささ、どうぞ!」

 笑顔のシリカちゃんに促されるままにわたしが卵色をした扇形の先端部分にフォークを入れると、柔らかい生地が音もなく切れた。それを落とさないよう慎重にフォークですくい、口に運ぶ。ふわふわのベイクドチーズケーキをその上に乗った濃厚なレアチーズケーキが包み込んで、控えめの甘さが口の中でとろけた。この一年、節約のために食費を限界まで削ってきたわたしにとっては、ほっぺたが十個くらいは落ちてしまいそうな美味しさだった。あまりの味に言葉を失いながらフォークを置いて、脇のコーヒーに手を伸ばす。今までコーヒーなんてものは苦いだけのものだと思っていたけれど、このカップに注がれていた液体はミルクがたっぷり入っていたせいもあって苦味もまろやかで、口の中に残っていたケーキの余韻を綺麗なまま洗い流してくれた。

「美味しい……」

 コーヒーの香りが微かに残った息をほうっと吐く。正面のシリカちゃんが安心したように笑った。

「よかったぁ、気に入ってもらえて……。あ、そういえばこのコーヒー、マサキさんが淹れたんですよ」
「えぇ!? マサキ君が!?」

 びっくりして、手の中のカップを二度見。
 意外だった。まさかあのマサキ君が、こんなに美味しいコーヒーを……。マサキ君が厳しい顔で、まるで化学実験みたいにコーヒーを淹れている場面を想像してしまって、思わず噴き出した。シリカちゃんも同じようなことを考えていたらしく、二人で顔を見合わせて笑う。そうしたら、ちょっぴり心が軽くなったような気がした。

「えっと、話が逸れちゃったね。《思い出の丘》にはこの道を通って行くんだけど、この辺にちょっと嫌なモンスターが……」

 気を取り直して、わたしは四十七層の説明を再開した。ケーキとコーヒーに手を伸ばしつつ、そう言えば……と話が何度かわき道に逸れつつ一通りの説明が終了したのは、午後十一時を回っていた。それじゃあそろそろお開きにしようか、という話になり、一足先にシリカちゃんが退室。わたしも自分の部屋に帰って眠ろうと、残り一口程度になっていたチーズケーキを平らげようとした時、不意に部屋のドアが開いた。

「あ、マサキ君。お帰りなさい」
「ああ。打ち合わせは済んだのか?」
「うん、今シリカちゃんが帰ったところ」
「そうか」

 マサキ君は事務的な口調で応答すると、わたしの向かいに腰を下ろした。と思ったら、またホロキーボードを出してメッセージを打ちだす。
 ――「フレンドは取ってない」。わたしがマサキ君と最初に二人で言葉を交わした時の、彼の言葉だ。それなのに、今のマサキ君は現に誰かとメッセージをやりとりしているわけで……その相手のことを考えると、何故かちょっぴり胸の奥が痛んだ。それを押さえ込もうとしてチーズケーキのラスト一口を口の中に放り込みながら、目線が無意識にマサキ君の顔に吸い込まれていく。
 理知的な印象の切れ長の瞳に、細いハーフフレームの眼鏡がよく似合っている。よく見ればその他のパーツもマサキ君の落ち着いた雰囲気と相まって、クールで大人びたイメージに整っていた。冷めかけたコーヒーカップに手を伸ばしながらその顔を覗いていると、不思議と心臓がトクトクと高鳴って――

「……何か?」

 顔を上げたマサキ君と目が合った。

「へっ!? う、ううん、なんでもない!」

 慌ててカップに残ったコーヒーを飲み干す。自分でも、頬が真っ赤になって熱を帯びているのがよく分かる。何とか話題を摩り替えようとして、わたしは軽く手を合わせた。

「ごちそうさまでした。えっと、コーヒーありがとう。とっても美味しくて、びっくりしちゃった。こんな趣味があったんだね」
「下手の横好きだ。と言っても、作るのはコーヒーメーカーだがな」

 眉一つ動かさずに返すマサキ君。その姿からさっきの化学実験みたいなコーヒーの作り方を連想してしまって、わたしはまた噴き出してしまった。

「……何か?」
「ううん、なんでもない」

 笑い出すのを堪えたまま、首を振る。その後はまたお互いに無言の時間が続いたけれど、マサキ君の顔を見ていると退屈はしなかった。一度伸びをして、ソファに背中を預ける。

「ん……」

 すると、途端に瞼が重くなった。ダメ、ここで寝たりしちゃ……。頭の中ではそう思うものの、耳元で囁くような睡魔に誘われ、視界は徐々に狭まっていく。
 SAOに入ってから、リラックスして熟睡なんてしたことがなかった。いつも怖くて、不安で、寂しくて……震えながら自分の体を抱きしめて、ほんの数十分だけぎゅっと両目を瞑っていたら、いつの間にか少しだけまどろんでいて。そんなことの連続だった。それが今は、これ以上ないくらいに自然に眠気がやって来ている。
 とにかく、自分の部屋に戻らなきゃ……そう自分に言い聞かせて、最後の気力を振り絞って立ち上がろうとして――その瞬間、ぼやけた視界にマサキ君の瞳を見つけた。クールで、理知的で。でもその奥に、本の少し、優しくて、暖かい光が覗いて……。
 ――何だか、ちょっとだけマサキ君のことが分かったような気がする。そんなことを思った瞬間、わたしの全身から力が抜けた。じんわりと、心の中から全身が温まるような感覚を味わいながら、するりと、わたしの手から意識が零れ落ちた。 

 

春告ぐ蝶と嵐の行方

 チチチ……チチチ……。
 軽やかなさえずりに意識を揺すられ、わたしは目を覚ました。まだ少し重みを感じる瞼をゆっくりと持ち上げて何度かしばたかせると、冬の控えめな朝日に照らされた景色が目に入る。

「んん……」
 久々に熟睡できたためか、いつになく軽く感じる体を起こして伸びをする。窓とカーテンを開けながら、いつものように今日の予定を確認しようとして、はたと気付いた。今自分のいる場所が、《はじまりの街》の寂れた自室ではないと。


「あ、そっか……」

 記憶を辿ると、その答えはすぐに出た。わたしとマサキ君はシリカちゃんと出会って、昨日はこの《風見鶏亭》に宿泊したのだ。
 窓際に立って、まだ少し回転の遅い脳みそに冬の冷たい空気を送り込みつつ、もう一度大きく伸び。確か昨日はその後マサキ君の部屋でシリカちゃんと話をして、マサキ君が帰って来たら途端に眠くなって、そのまま――そのまま?
 ピタッ、と身体が硬直。僅かの間を置いた後、全身のバネをフル活用して百八十度回転、首をコマ送りの如き速度で左右に振って部屋の中を確認する。とりあえず部屋に他の――と言うか約一名の――影が無いと分かり、一安心。そのまま今頭に渦巻いている記憶も否定してしまおうとこの部屋がわたしの借りた部屋である証拠を探すが、残念ながら見つけられず。記憶は一秒ごとに鮮明さを取り戻し、わたしが昨晩マサキ君の部屋で眠ってしまったという事実を突きつけてくる。もう顔が茹でダコよりも真っ赤に赤熱しているのが自分でも分かる。
 そんな状況のおかげか頭ははっきりと覚醒したようで、不運にも、わたしはもう一つ気付いてしまった。昨晩わたしが眠りについたのは正面にある一人掛けソファのはず。それなのに、今わたしはベッドから起き上がった。つまりは誰か――と言うかマサキ君が――眠ってしまったわたしをベッドまで運んだということに……。

 ――いつの間にか眠ってしまったわたしに苦笑を浮かべるマサキ君。彼は足音を立てずにわたしに歩み寄ると、わたしの身体をいわゆるお姫様抱っこの恰好で持ち上げる。そしてそのままベッドまで運ぶと、横たえたわたしに毛布を被せ、耳元で、今まで聞いた事務的なそれとは反対の優しげな声で――。

「何だ、起きてたのか」
「――――――――!?!?」

 ドアを開ける音に続いて、今まで聞いたのと同じ抑揚の無い声。瞬間、わたしの顔がぼふっと音を立て、同時に意識が途切れた。



 十分ほど経って気がついたわたしは、待っていてくれた二人と一緒に朝食を摂り、軽く装備を確認して出発した。朝の冷たい外気に触れ、赤熱していたわたしの頬もようやく平温に戻ったみたいだ。

「シリカちゃん、大丈夫?」

 転移門へ向かう途中、わたしはそうシリカちゃんに尋ねた。わたしとマサキ君にとっては低階層のフィールドダンジョンだけど、彼女にとってはレベルの追いつかない高階層で、しかも大事な家族の命が懸かっているのだ。気を遣い過ぎるくらいで丁度いい。

「はいっ。エミさんも、マサキさんも……ピナも一緒にいてくれますから。それに、実は、ちょっと楽しみでもあるんです」
「楽しみ?」
「昨日、エミさんが四十七層にはお花がいっぱいだって教えてくれたじゃないですか。わたし、今まで一度も四十七層なんて行ったことないので、見るのが楽しみなんです。……あ、別に、ピナのことが二の次とかじゃないですよ。でも、そんなに綺麗な景色だったら、きっとまたピナと一緒に見たいって思うはずだから……そうしたら、今日は絶対成功するぞ、って、一層気合いが入ると思うんです。……何か、ちょっと変なこと言ってますね、わたし」
「……ううん」

 ……この子は、強い。孤独から逃げ回っていたわたしなんかより、ずっと。
 照れ笑いを浮かべたシリカちゃんを見て、わたしは素直にそう思った。同時に、どうしたら、彼女のように強くなれるだろうか、とも。
 そうしているうちに、三人は転移ゲートの直前までやってきていた。周囲では、攻略に出かける、あるいは帰って来た人たちが、それぞれ正反対の方向へ流れていく。

「……行こうか」
「はいっ!」

 わたしはシリカちゃんと一度笑顔を交わし、目的の場所を丁寧に告げた。目の前を真っ白の光が覆い――やがて、ゆっくりと晴れ渡って徐々に世界が色づいていく。第四十七層主街区《フローリア》は、柔い陽光を浴びて誇らしげに咲いた花々でわたしたちを出迎えた。

「うわあ……!」

  赤、黄、紫――世界を埋め尽くさんばかりのありとあらゆる色彩に、隣のシリカちゃんから歓声を上がった。そのまま小走りで近寄り、薄青い矢車草に似た花の前にしゃがみこむ。
 そんな彼女に連れられるように、わたしも広場の花たちに目を向けた。パンジー、スミレ、シクラメン……色も形も全く違う花がレンガに囲まれた花壇を覆っていて、その色彩や形状の違いがまるで精緻に計算された模様のようにお互いを引き立てあっている。よく、一面に花が咲いている光景を「花の絨毯」と言うけれど、最初にそう呼んだ人の気持ちがよく分かるような景色だった。

 ――そう言えば、こうやってのんびり景色を眺めたの、いつぶりだったっけ……。
 自分の孤独を紛らわすため、景色に目をやる余裕すらなかったこれまでの一年間を思い出し、ちょっぴり感傷に浸る。
 一昨日の一件さえなければ、きっとわたしはそれまでと同じ生活を送っていたのだろう。誰かと一緒に居る、だからわたしは独りじゃない。そんな言葉を自分に向けて投げつけるためだけの生活。けれど何の因果か、結局わたしは独りだったと気付いてしまった。……ひょっとしたら、気付いていたのを認めたくなかっただけなのかもしれない。どちらなのかは、自分でも判断が付かなかった。
 その後わたしは窮地をマサキ君に助けられ、何故かはよく分からないけど彼のことが気になって。気付いたら、今ここにいた。正直、まだ不安や怖さは残っているし、わたしが今までしてきたことは何だったのかも分かっていない。改めて、分からない尽くしが続く三日だと思う。
 でも。マサキ君と一緒にこのまま進んで行けば、その答えの手がかりが見つかりそうな気がしたから。

「そろそろ、行くぞ」
「……うん」

 わたしは大きく頷いて、シリカちゃんを呼びに行こうとするマサキ君に続いた――そんな時。ふと、花壇に挟まれた小路を歩く男女の二人組が目に入った。親密そうに腕を絡ませ、笑いながら歩いている。はっと気付いて辺りを見渡せば、同じような組み合わせがちらほらと見受けられる。つまりここはいわゆるデートスポットなのだろう。そしてシリカちゃんがここに来てすぐ離れてしまったため、今までわたしはマサキ君と二人で立っていたことになるわけで、ということはわたしたちもひょっとすると端からは()()()()関係に……?
 さっきまでの感傷はどこへやら、真っ赤になった自分の頬を隠すように手で覆いながら、距離の離れてしまったマサキ君を小走りで追いかけた。

「あの……マサキさん。一つ、聞いてもいいですか?」

 南門からフィールドへ出てすぐ、シリカちゃんがおずおずと尋ねた。マサキ君が視線を向けて応じる。

「昨日、あたしに似た女の子を見たことがある、って言ってたじゃないですか。それで、その人のこと、ちょっと気になっちゃって……。もしよければその子のこと、教えてくれませんか……?」

 現実世界の話を持ち出すことは、SAOで最大のタブー。そのためか、質問するシリカちゃんの声は小さく、口調は弱々しい。わたしがシリカちゃんからマサキ君へ視線を移すと、マサキ君は特に気にした風もなく僅かに頭上を仰ぎ、記憶を探るような素振りを見せた。

「……会ったのは確か、四年ほど前だったか。歳は多分、君よりも少し小さかった。何度か会ったはずなんだが……済まない、よく覚えていない」
「そう、なんですか……」

 あまり要領を得たとは言い難い返事だったが、シリカちゃんがそれ以上深く聞くことはなかった。
 沈黙。三人分の足音だけが、筋雲をうっすらと漂わせた青空と覆い茂った草むらに響く。と、そんな時、《索敵》スキルに一つの反応を捉え、わたしは足を止めた。それを見たシリカちゃんがワンテンポ遅れて振り返りつつ歩みを止め、それと同じタイミングでマサキ君も立ち止まる。

「どうかしましたか?」
「向こうに敵がいるみたい。こっちに来てるから、もう少しでエンカウントすると思う。やりすごすこともできなくはないけど、この辺りの敵はまだ弱いし、数も一体だけみたいだから一度肩ならしをしておくのもいいんじゃないかな」
「……わ、分かりました」

 できるだけプレッシャーにならないように言ったつもりだったが、シリカちゃんの表情は険しい。彼女が若干硬い動作で短剣を抜き敵のいる方向に構えた後、わたしは数歩後ろに下がった。
 わたしたちは今日の戦闘において、できるだけシリカちゃんにダメージを稼がせる、敵が複数の場合は一体を残してわたしとマサキ君で排除する、ただし危険と判断した場合即座に介入し、もし撤退する場合はわたしとマサキ君でシリカちゃんが緊急転移する時間を稼ぎ、彼女の転移を確認してからわたしたちが脱出する、といったことを今朝のうちに取り決めていた。これはパーティープレイでは敵に与えたダメージ量に比例して与えられる経験値が増加するためで、この層のMobから支払われる経験値程度ではレベリングの足しにもならないわたしたちよりもシリカちゃんが受け取った方が効率的であり、また彼女のレベルが上がれば道中の安全性も増すと考えてのことだった。
 シリカちゃんは短剣を身体に引き付け、半身になって敵の出てくるであろう背の高い草むらを睨んでいる。つい先ほども言ったように、街からほど近いこの辺りに湧出(ポップ)する敵はかなり弱く、現在のシリカちゃんのレベルでも単体なら十分安全に倒せる程度。まして昨日装備をかなり強化している彼女なら一撃で敵を(ほふ)ることも難しくない。ここは簡単に撃破して、少しでも緊張が解れれば……と、楽観視していたのだが。

「ひ、ひぃっ!?」

 シリカちゃんが短剣の切っ先を向けていた草むらがガサリと揺れ、深い緑色をした二本のツタが蛇のような動きで草を掻き分け現れた瞬間、彼女の背中が傍目にも分かるくらいに大きく震えた。その向こうではツタが空けた隙間からツタと同色の、しかしツタよりもずっと太い茎とそれに乗っかった黄色い花が、茎の根元で枝分かれした複数の足を器用に使いのっしのっしとシリカちゃんににじり寄る。そして目の前で怯える彼女を獲物と認定したのか、花の化け物が左右に大きく裂けた口元から無数の牙を覗かせつつ気味の悪いニヤニヤとした笑みをシリカちゃんに向けた瞬間、

「ぎゃ、ぎゃあああああ!? なにこれえぇぇぇぇ!? き、気持ちワルうぅぅぅぅ!?」

 と、フィールド中に彼女の絶叫が響き渡った。当然ながら花の怪物がそんなことを気にかけることはなく、口の端からねっとりとした唾液を地面に(こぼ)しながらシリカちゃんに近付いていく。

「や、やあああ!! 来ないでえぇぇぇ!!」
「だ、大丈夫! その敵は凄く弱くて、花の下の、ちょっと白っぽくなってるところを攻撃すれば簡単に倒せるから!」
「だ、だって、気持ち悪いんですうぅぅぅ!!」

 顔を敵から背け、目を瞑りながら目茶苦茶に短剣を振り回すシリカちゃん。わたしは何とか彼女を落ち着かせようと宥めてみるが、シリカちゃんがパニックから回復する兆しはない。ここは助け舟を出すべきか――と考えながら隣のマサキ君に視線をやると、彼も同じことを考えていたのか、腰元に差した刀の柄に手を添えていた。それを見て、わたしも剣を抜こうと柄を握る。

「こ、こんの……っ!!」

 するとその時、じりじりと後ずさる一方だったシリカちゃんが、突然ソードスキルを放った。が、(ろく)に狙いの付けられていない攻撃が当たるはずも無く、本人にとっては必死だったのかもしれない一撃はあえなく空を切る。そして何を思ったか、花の化け物は技後硬直中のシリカちゃんの両脚に二本のツタを絡めると、そのまま逆さ吊りに持ち上げてしまった。彼女のツインテールとスカートが重力に引かれてずり下がる。

「わ、わわわっ!?」
「ま、待ってて!」

 シリカちゃんが必死にスカートの裾を手で押さえた時、わたしはもう駆け出していた。巨大花との距離を一気に詰め、《ソニックリープ》で花の根元の弱点を貫く。その途端、それまで全身をうねうねと動かしていた巨大花は動きを止め、数秒遅れて粉々に砕け散った。

「うわわっ!?」
「大丈夫!?」
「は、はい、ありがとうございました……」

 支えを失って落下してきたシリカちゃんを受け止めると、彼女は心底安心したように微笑んだ。その様子を見て、わたしもシリカちゃんを地面に降ろしながら安堵の息を吐く――と同時に、ふと思う。そしてそれはシリカちゃんも同じだったようで、次の瞬間には二人分の視線がマサキ君に集まっていた。わたしたちは不審そうに眉をひそめる彼に詰め寄るなり問いかけた。

「「見た(ました)!?」」

 わたしたちの勢いに若干面食らうようにしながら、マサキ君は一言だけ言った。

「……いや」

 その後の道のりはすこぶる好調に進んだ。最初はエンカウントの度敵の姿に怯えていたシリカちゃんも、戦闘を五回ほど行った頃にはすっかり落ち着きを取り戻し、わたしたちは時折談笑を交えながら赤レンガの街道を歩いていた。そうしているうちに小川に架かった小さな橋に差し掛かる。その向こうには周囲のものよりも頭一つ分背の高い丘が見えた。シリカちゃんが感嘆の声と共に立ち止まる。

「あれが……」
「うん、《思い出の丘》。分かれ道はないから道には迷わないけど、モンスターはこれまでよりもずっと多いし強くもなるから、気をつけてね?」
「はい!」

 希望に溢れた笑顔で頷いて、シリカちゃんは再び足を踏み出していく。心なしかその歩みは今までよりも速く、力強く感じられた。
 そんな彼女と、無愛想な沈黙を守りながら隣を歩くマサキ君。二人の姿を見ていて、ふと思う。この世界に囚われてから初めて、この世界での冒険を楽しんでいる自分がいる。そして同時に、今日この冒険が終わってしまえば、もうシリカちゃんと会うことも無くなる。そして自分は、また独りに戻るのだと……。

 足元から這い登ってくる冷たい感触を振り払うように、わたしは二人の後を小走りで追いかける。幸いにも……と言っていいのかは分からないけれど、その後すぐに《思い出の丘》に入ったためにモンスターとのエンカウント回数が飛躍的に多くなった。必然的にわたしが戦闘に参加する回数も激増し、戦闘に集中することにしたわたしは、大して労せずにその思考を忘れ去ることができた。
 そうこうしているうちにもかなりの距離を進んでいたようで、丘を巻きながら続く坂道のカーブがいつの間にかかなり急なものに変わっていた。それに伴って急角度になる坂道と激しくなる戦闘にも負けじとずんずん進む。木立が連なってできたトンネルをくぐり抜けると、それまで立ち並ぶ木々に隠されていた視界が急に開け――。

「うわぁ……」

 丘の頂上に出た瞬間、シリカちゃんが感嘆の声を漏らした。葉や枝で覆われていた天井にぽっかりと開いた穴から陽光のベールが降りていて、その陽射しを浴びた色鮮やかな花々が丘一面を埋め尽くしている。時折風が丘の表面を撫でる度に花はその身を一斉に踊らせ、零れ落ちた幾つかの花びらが、ベールの中に閉じ込められていた香りと共に風を色づけて飛んで行く。
 わたしとマサキ君がその後ろから歩み寄ると、シリカちゃんが振り返って尋ねてきた。

「ここに……その、花が……?」
「うん。真ん中にある岩……あれかな。あの岩の上に――」

 花畑の中央にポツンと置かれていた白い岩を指差すと、わたしが言い終わらないうちにシリカちゃんは駆け出した。そのまま彼女の胸ほどもある岩まで大急ぎで走り、身を乗り出すようにしてその頂上を覗き込む。その光景を微笑ましく思いながら、わたしは彼女の後を歩いて追う。
 しかし。

「え……」

 次に聞こえてきた彼女の声は、予想していたそれとは全く別の感情を孕んでいた。どうしたのだろうと疑問に感じ、彼女を追いかけていた足を僅かに速めようとした刹那、彼女はわたしたちに振り返って涙に震える声と表情で叫んだ。

「ない……ないよ、エミさん! マサキさん!」
「ない、って……ウソ、そんな……?」
「……いや。よく見てみろ」

 彼女の言う意味が咄嗟に飲み込めず、しばし呆然と立ち尽くしていたところをマサキ君の声で我に帰る。
 その声に従ってわたしとシリカちゃんが岩の上に視線を戻すと、(こけ)のようにも見える短い草の合間から、小さな薄緑の芽が恥ずかしげに顔を出していた。少し触れただけで壊れてしまいそうにさえ思えるほど華奢だった茎もみるみるうちに高く、太く成長し、互い違いに茎から伸びた葉も、(かて)である日光を少しでも多く浴びようとして逞しく両手を伸ばす。やがて頂上に一つのつぼみ(つぼみ)を作り、わたしたちが見守る中、それは気の遠くなるような長い一瞬をかけて花開いた。天から伸びた一本の糸のように細く真っ直ぐなシルエットは儚く繊細で、どこか凛とした力強い美しさも兼ね備えて見えた。
 ふと、シリカちゃんの顔がこちらを向く。この花を本当に摘んでしまっていいのか――そう言いたげな瞳。
 わたしは笑って、大きく頷く。安心したようにシリカちゃんは頷くと、恐る恐る、生まれたての赤ちゃんの肌に触るような手つきで細い茎に触れた。その瞬間、茎はまるで最初から存在していなかったかのように光りながら砕けて消え、周囲の色を寄せ付けない純白の花だけが、シリカちゃんの小さな手にふわりと乗った。彼女は心底大事そうに、人差し指で七枚ある花びらの一つを撫でた。

「これで……ピナを生き返らせられるんですね……」
「うん。でもここだとまだ敵も多いから、それは帰ってからにしよっか」
「はい!」

 元気に頷き、満面の笑みで返してくるシリカちゃん。その嬉しそうな顔を見ていると、何故かこっちまで楽しい気持ちになってきて、いつしかわたしも笑っていた。

「それじゃあ、急いで帰っちゃおう」
「……ああ、その件だが」

 シリカちゃんが《プネウマの花》をストレージにしまうのを見て、そう言いながら振り返った矢先、マサキ君が口を挟んだ。

「この後少し用事があってな。先に帰らせてもらう」

 そう、一言。一方的に業務連絡を通達する、機械音声みたいな声。

「……え、あ、ちょっ……」

 寝耳に水の通告に、一瞬わたしの思考が止まる。振り返り、走り去ろうとするマサキ君の背中が視界に入ったところで我に帰り、彼の右袖を掴もうとする。

「……悪いな」

 しかし、わたしの手が袖に触れる寸前でマサキ君は腕を引くと、そのまま振り返らずに走り去ってしまった。こうなってしまえば、敏捷値で圧倒的に劣るわたしたちに追いつくことは叶わない。

「……仕方ないね。行こっか」
「は、はいっ」

 昨日今日の二日間を一緒に過ごして分かったことだが、マサキ君は決して意味もなく約束を曲げるような人じゃない。そのことはシリカちゃんも分かっていたようで、若干の戸惑いを残しつつも頷いてくれた。わたしも頷き返して、頂上を後にする。
 冷たい風が木々を揺らしながらわたしたちを追い抜いた。ふと、クリスマスに見たマサキ君の姿が頭をよぎった。



「……この辺り、か」

 高速で後ろに流れていく景色の中、俺は呟いて《隠蔽》スキルを発動させた。今日最初の戦闘時にエミの索敵範囲は確認済み。たった今その範囲外に出た以上、彼女に感付かれることもないだろう。ふう、と吐き出した息を追い抜き、さらに走る。
 と、近くにMobの反応が一つ。浮かび上がったカーソルの色は白に限りなく近いペールピンク。ちなみにこの色はプレイヤーと敵モンスターの相対的な強さを表しており、簡単に言えば白っぽいほど弱く、赤黒いほど強い。
 つまり今見つけたMobは――現在の層を考えれば当然だが――俺にとってはただの雑魚。屠ったところで貰える経験値も極僅かのため、積極的に狩りに行く意味はない。加えて言えば、長いこと愛用しているこの《ブラストウイングコート》には、入手してから半年以上経った今でもトップクラスの隠蔽効果が付与されており、俺の《隠蔽》スキルと合わせればこの層のMob如きに看破されることはまずあり得ない。よしんば看破されたとして、トップスピードで走る俺に追いつくことはまず不可能。まして、こちらは瞬風(ときかぜ)で安全圏まで瞬間転移してしまうことだってできる。結論として、ここでこのMobを倒すことによる俺への直接的なメリットは全く存在しない。

 だが俺は一本道を左へ外れ、視界に表示されたカーソル向かって駆けつつ蒼風の鯉口を切った。数秒もしないうちに、二枚貝に似た形の葉を幾つも付けた食虫植物型のようなモンスターの姿を林の中に捉える。
 俺は柄を握り締めると、鍛え上げた敏捷値をフルに使って一気に距離を詰めた。みるみるうちに敵の姿が膨れ上がり、ついには手を伸ばせば届きそうなほどの彼我距離にまで近付くが、《隠蔽》スキルのおかげで敵がこちらに気付く様子はない。もっとも、今更気付いたところで、どうにもなりはしないのだが。
 蒼風を握り締めると同時に、風刀スキル《春嵐》を発動。蒼いエフェクトを纏った刀身を、弱点である枝分かれした茎の根元へ抜刀しざまに叩きつけ、振り返ることもせずそのまま走り去る。一瞬の間をおいて、背後からあのMobが消失したことを示す破砕音が耳に届いた。

 息を吐き、蒼風を鞘に収め、首を巡らせる。視界には、新たなペールピンクのカーソルが幾つか浮かんでいた。
 俺はカーソルの主どもを殲滅しつつ丘を下る最短ルートを頭の中で構築すると、大きく足を前へと蹴り出す。あの二人は大切な囮。簡単に窮地に陥って転移され、本命を逃すわけにはいかないのだ。 
 

 
後書き
 1/28ご指摘頂いた点を修正すると共に、ごく僅かですが加筆を行いました。 

 

春告ぐ蝶と嵐の行方 2

 時間は少し巻き戻る。

 “明日の打ち合わせ”とやらで部屋を訪ねてきた二人を残し部屋を出た俺は、主街区のはずれまで足を伸ばしていた。街の北門まで続く大通りを門のすぐ手前で左に折れて、裏通りを歩くこと更に数分。

「……ここか」

 俺の眼前には、一軒の小さなバーが両脇の住宅に囲まれて狭苦しそうに建っていた。経年によってベージュの衣をまとったらしい石壁に、まさに取ってつけたというべき雑なニス塗り仕上げの薄いドア。丸ノブに紐で下げられた、OPENと彫りの入った手製のウェルカムボードから、ここが何かの店らしいという事が辛うじて見て取れる。
 ノブに手を掛ける寸前、そのノブに付いた(さび)のような汚れに気づき反射的に手を止めた。が、すぐに思い直すと、そんな自分に苦笑を向けながらノブを回す。
 仮想の世界で衛生を気にすることが滑稽だからではない。今更この手の汚れを気にすることが滑稽だったからだ。

 意外にも、店の中は手入れが行き届いていた。店内には右手に五人掛けカウンターが一つと、そこから狭い通路らしき空間を挟んで左手に四人掛けの丸テーブルが二つ。床や椅子、テーブルに棚の類は全てドアと同じニス塗り仕上げの木製で統一されていて、それらを弱々しいオレンジ色の光が申し訳程度に照らしている。
 「知る人ぞ知る」扱いの店なのか、席は殆どが埋まっていた。客は男性ばかりだったが、その中で一人、派手な赤髪をカールさせた女性プレイヤー――犯罪者(オレンジ)ギルド《タイタンズハンド》リーダー、《ロザリア》――が、カウンターの奥から二番目のスツールに座っていた。入り口側の隣に座った二人の男性プレイヤーに、何やら尋ねているようだ。
 「ロザリアはよくこの店で飲んでいる」というのはアルゴからの情報だが、俺は改めて彼女の情報精度に驚きと賞賛を胸のうちで向けつつ、空いていた一番入り口側のカウンター席に腰掛けた。注文を取りに来た白シャツに黒いベスト姿の店主に赤ワイン――正確にはそれに似た何かだが――を頼みながら隣の話に耳を傾ける。

「ふぅん……《竜使いシリカ》には新しい男のパーティーメンバーがいたのね? どんな男だった?」
「んー……そうだな。歳は多分二十歳前後ってとこだと思う。服も珍しかったな。青っぽいワイシャツみたいなので……」
「おい、おい。今俺の隣に座った奴、見てみろよ」
「あん? ……ったく、何が悲しくて野郎なんざ見つめねーといけねーんだよ……って、ん? ……おい、こいつ……」
「……やっぱそうだよな。(ねえ)ちゃん、今話してた《竜使いシリカ》のパーティーメンバー、こいつだよ」

 俺はこちらを覗いてきた男二人の顔を記憶から漁った。どうやら二人は先ほどシリカを勧誘してきた時の野次馬のようだ。シリカのような「オイシイ」獲物が無事に戻ってきたとあらば、連中がみすみす取り逃がすとは考えにくい。ならば情報を集めた後で再びシリカを襲撃するはずだと推測したのだが、どうやら的中していたらしい。それどころか、この男たちが俺のことまで喋ってくれたおかげで、俺が自分からシリカとパーティーを組んでいると明かす必要がなくなった。予想以上の結果と言っていいだろう。

「……そ。今日はイロイロ話してくれてありがとね」
「こっちこそ、すっかり奢られちまって悪かったな」

 その後すぐに話は終わり、男二人は上機嫌で席を立った。出入り口が開くと同時に、俺はロザリアの顔を気取られぬようにうかがう。彼女は一瞬こちらに視線を向けると、すぐに振り返って、一番奥のスツールに座っていたハリネズミのような髪型の男とアイコンタクトを交わした。あれも一味か……と、俺は素早く男の顔を頭に刻み込む。

「ねえ、ちょっといい?」

 すると左側から、わざとらしく(こび)を売る、鼻にまとわりつくような女性の声が響いてきた。

「……何か?」

 俺が首を捻ってそちらを見ると、ロザリアが下品な笑みを浮かべながら、席を二つ、こちらに詰めてきていた。

「話し相手が帰っちゃってさ。ちょっと奢らせてよ」
「俺でよければ」

 趣味の悪い真紅の口紅を塗りたくった唇を(いや)しく歪めた彼女に、俺は口の端を分かりやすく持ち上げて見せた。俺が社会で学んだ作り笑い(ビジネス・スマイル)SAO(こちら)に来てからはめっきり浮かべることの少なくなった表情だったが、表情筋がレシピを覚えていたようで助かった。

「ありがと。……一つ聞きたいんだけど、アンタ、あの《竜使いシリカ》とパーティー組んだんだって?」
「ああ、まあな。アンタも、広場のときの野次馬か?」
「ま、そんなトコ。でも、よくあの娘と組めたわね。競争率高いんでしょ?」
「……まあ、色々とあってな」

 そう答え、儚げな笑みを意識して浮かべつつ、目の前に置かれたグラスに口をつける。「……何があったの?」と、予想通りの反応が返ってきたのを内心でほくそ笑み、しかしそれを顔には出さず、俺は十秒ほど考える素振りを見せた。そして、

「……誰にも言わないでくれよ」

 と前置きしてから言う。

「……彼女の使い魔が、彼女を庇って死んだんだ。俺は、偶然そこに居合わせた。使い魔にそんなアルゴリズムが入ってるなんて知らなかったから驚いたが……それよりも、泣き崩れる彼女を見てたら、いても立ってもいられなくなってな……。《思い出の丘》のことを話して、一緒に行くことになった」

 何が、「いても立ってもいられなくなった」だ。白々しい。自分の言葉に吐き気を覚えて、それを押さえ込むために、グラスの中身を一気に(あお)る。喉を滑り落ちるアルコール特有の熱さと苦しさが、ちょうどいい具合に俺の気を逸らしてくれた。
 その後も俺は、彼女の口車に乗せられるまま――を装って――情報をペラペラと喋った。一通り話し終えると、俺は残り少なくなっていたグラスの中身を飲み干し、ロザリアに奢られた分のコルをカウンターの上に乗せて席を立った。

「いいよ、別に。奢るって言ったっしょ?」
「いや、いい。毒蛾の羽の模様じみた顔の年増で妥協せざるをえないほど、俺は切羽詰まってるわけじゃないんでね」

 俺は振り返ると、愛想を鱗粉(りんぷん)のように振りまくロザリアに向けて、嘲笑と共にそう言い放った。最後に侮蔑の意味を込めて鼻を鳴らし、店を後にする。
 俺の態度の豹変振りに感情が追いつかなかったのか、それとも理性で押さえつけていたのかは知らないが、ロザリアは表面上、平静を取り繕っていた。しかし、俺が顔を正面に戻す寸前になって、堪え切れなかった憤怒に染まった彼女の顔が視界の端に映った。

 薄っぺらいドアを閉めると、途端に冬の夜風が俺を出迎えた。俺が羽織っている《ブラストウイングコート》には中々の防寒性能が付与されているのだが、あちらこちらで塀や壁にぶつかる度にびゅうびゅうと唸りをあげる木枯らしは、透明なコートの上から俺の仮想の体温を容赦なく奪い去っていく。堪らず俺はスラックスのポケットに両手を突っ込み、元来た道を宿や転移門のある街の中心部に向かって歩き出した。
 これで明日、《タイタンズハンド》は俺とシリカを襲いに来るだろう。タイミングは恐らく、シリカが《プネウマの花》を入手し、ついでにポーションや気力体力も消耗した帰り道。後は俺が奴等を牢獄に叩き込めば、それで全て終わり。最後まで抵抗された場合には、《シルバーフラグス》のリーダーに伝えたように、生命の碑に書かれた奴等の名前に、上から線を引いてやればいい。それだけの、そして、既に経験のあることだ。その過程で俺がオレンジになってしまった場合に懸念が残るが、その辺りは彼女たちが上手くやってくれるだろう。

 ――閃光。絶叫。破砕。咆哮。
 忘れることを忘れてしまった俺の脳みそが、今回もまた律儀に記憶を引っ張り出してきた。目に映る道がグニャグニャと歪み、酷く吐き気がする。俺はまだ現実世界で酒を飲んだ経験も、酒に酔った経験もないが、今の俺はそう形容するのが相応しい恰好だった。前にシャンパンを口にした時は、こんなことにはならなかったのだが。
 そういえば、「酒に酔うと記憶が飛ぶ」というのは、果たして本当のことなのだろうか。もしそうなら、俺はこれから酒を手放せなくなるかもしれない。



 一帯のモンスターを殲滅しつつ丘を下った俺は、(ふもと)の小川付近で目標の反応を捉え、川に掛かった小さな橋の手前で足を止めた。《隠蔽》スキルを解除し、何度か深い呼吸を繰り返しつつ橋の寸前まで進む。そして、

「そこの木陰に隠れてる十一人。出てきたらどうだ」

 と告げた。向こうも驚いたのだろう、暫しの間が空いた後、勝気にニヤニヤと笑みを浮かべる真っ赤な髪と唇をした女性が橋の向こうに現れた。ロザリアだ。
 彼女は携えた細身の十字槍の石突を地面に落とすと、自身が圧倒的優位にいることを誇示するような勝気な笑みを口元に刻みながら言った。

「アタシのハイディングを見破るなんて、なかなか高い索敵スキルね。あなどってたかしら?」
「さあ。どうだろうな?」

 相手と同じ、片方の口元を不自然なまでに持ち上げた、相手を馬鹿にした笑顔を向ける。ロザリアは歪めた唇を戻すことなく鼻を鳴らすと、尚も俺を見下した口調で続けた。

「ま、いいわ。それで? あの娘はどこなの? 《プネウマの花》は取れた? ……まさか、あの娘まで死んじゃったのかしら?」

 ニヤァ、と、ロザリアの口元に結ばれた笑いが、一層卑しさを増す。

「さあな。それをお前が知る必要はない。犯罪者(オレンジ)ギルド、《タイタンズハンド》リーダー、ロザリア……と、言った方がいいか?」

 が、俺がそう返した途端、彼女の眉が一度小さく反応し、同時に口元から笑みが消えた。その分、俺が顔に貼り付けた笑顔の濃度を高める。俺とロザリアの視線が、小さな橋の上で衝突して陰湿な火花を散らす。
 先に目を切ったのはロザリアだった。一瞬伏せた目を彼女が戻した時には、その顔は再び毒々しく歪んでいた。

「なぁーんだ、そこまで知ってたの。なら話は早いわね。せっかく美味しそうなパーティーを見つけて、戦力を評価しながら冒険でお金が貯まるのを待ってたっていうのに、一番楽しみだった獲物のあの娘(シリカ)が抜けちゃったじゃない? で、どうしようかと思ってたら、なんかレアアイテム取りに行くっぽいし。どうせなら、あの娘から先にヤッちゃおうと思ったわけよ。ああそうそう、あんたには感謝してるわよぉ。こっちが知りたかった情報をペラペラ教えてくれちゃって。おかげで情報収集の手間が省けたわ。《プネウマの花》って今が旬だから、とってもいい相場なのよねぇー」

 言っているうちに動揺が抜けたのか、言葉が進むに連れて彼女の口調は饒舌(饒舌)さを増す。そしてロザリアは一度そこで口を閉じると、肩をオーバーにすくめてみせた。

「でもさぁ、あんた、そこまで分かってるくせにノコノコあの娘に付き合うなんて、バカなの? それともまさか、あの娘に体でたらしこまれちゃった?」
「残念ながら、どちらも不正解だ。――何、簡単なことだ。俺も、お前達を探していた」
「――どういうことかしら?」

 鼻を鳴らし、顎を前に突き出して、こちらを見下すような視線を向けるロザリア。俺が挑発に乗ることなく、それまでと変わらぬトーンで返すと、ロザリアは疑問の色を瞳に映して眉をひそめた。口元を平坦に戻し、俺は言う。

「十日前、三十八層でギルド《シルバーフラグス》を襲ったな。リーダーのみが脱出に成功し、残りのメンバー四人が死亡した」
「……ああ、あの貧乏な連中ね」

 自分には関係がない、とでも言わんばかりの適当な相槌。

「そのリーダーだった男は、最前線の転移門広場で泣きながら仇討ちを引き受けてくれる人物を探してた。仇討ちと言っても、「殺害」ではなく「投獄」を引き受けてくれる人物を、な」
「なにそれ、メンドクサ」

 俺が言い終わったか終わらないかのところで、ロザリアは心底馬鹿にしたように吹き出す。心底人を(あざけ)った、どこか対象に対する憐憫さえ感じさせる笑みだった。

「マジんなっちゃって、バカみたい。ここで人を殺したって、本当にそいつが死ぬなんて証拠ないし。そんなんで、現実に戻った時罪になるわけないでしょ? 大体戻れるかどうかも解んないのにさ、正義とか法律とか、笑っちゃうわ。アタシそういう奴が一番嫌い。この世界に妙な理屈持ち込む奴がね」

 そこでロザリアはもう一度、愚弄を最大限に込めたせせら笑いを俺に向けた。その瞳に宿っていたのは、今までよりもずっと明確な殺意だった。

「で、あんた、その死に損ないの言うことを真に受けて、アタシらを探してたわけだ。ヒマな人だねー。ま、あんたの撒いた餌にまんまと釣られちゃったのは認めるけど……でもさあ、たった一人でどうにかなるとでも思ってんの……?」

 ロザリアは右手を肩の上に掲げると、その指先で二度宙を仰いだ。するとそれを合図にロザリアの立つ道を挟んだ左右の木々が激しく揺さぶられ、総勢十人の男性プレイヤーが飛び出してきた。うち九人がオレンジ色のカーソルを頭上に漂わせており、残った一人は昨日バーで見かけた男だった。全員が華美な服装とサブ装備、アクセサリーに身を包み、体の至るところにメーキャップアイテムで禍々しいタトゥーを施している。
 男たちに囲まれ、ロザリアは改めて表情を嗜虐と興奮の笑顔で染め、俺を見下した。

「さ、お喋りはおしまい。サッサとあの娘の居場所を教えて頂戴。大人しく教えてくれれば、命だけは勘弁してあげなくもないけど?」

 俺はその問いに答えることなく、無言で蒼風の鯉口をきる。それを返答と受け取ったらしいロザリアの顔が、興趣と嘲笑に歪む。

「あ、そ。まあいいわ。そっちがそういうつもりなら、望みどおりにいたぶってあげる。――ヤッちまいな!!」

 号令が辺りを駆ける。グリーンの二人を除いた九人の男たちが、暴力に酔いしれながら武器を抜く。口々に何かを喚きながら、ドタドタと粗暴に土を踏み鳴らして走り出す。
 獲物の絶望を愉しみ、足掻きを(あざけ)り、死を嗤う残虐な視線。
 一メートル、また一メートルと、俺と奴等の距離が縮まる。
 やがて先頭を走る男が橋へと差し掛かり、その右手に握られた湾刀(タルワール)の剣先を凶暴な(あか)のライトエフェクトが包み――刹那、俺は地を蹴った。

 持てる敏捷値の全てを両足に注ぎ込み、目まぐるしい速さでそれを回転させる。
 風を切り、土ぼこりを巻き上げ。急激ながらも滑らかなスプリントは、風切り音一つ立てることはない。見ようによっては、俺がその場から忽然と消え失せたようにも見えることだろう。

「……ふっ!」

 相手の数倍以上のスピードで詰め寄った俺は、既に鯉口を切っていた蒼風を一気に抜き放つと、先頭を走っていた男の顔に正面から単発技《春嵐》を叩き付けた。驚愕と混乱に彩られた男の両目をライトブルーのエフェクトで掻き消し、半透明に輝く刀身で男の顔を薙ぐ。同時に振り切った腕の遠心力を利用して、体を回転させつつ左足で踏み切り、数歩後ろを走っていたダガー使いの頬を撃ち抜いた。更に今度は右足を支点に体を捻り、遅れて飛んだ左足の甲で追撃。体術スキル二連撃技、《双旋月》。

「がッ……!?」

 なまじソードスキルを発動させていたがために、ろくな受身を取ることも出来ずに吹き飛ぶダガー使い。俺の蹴りでは筋力メインのプレイヤーが繰り出すそれのような火力は期待できないが、ここまで伸ばしてきた敏捷値補正をフル活用しての一撃は、低レベルの軽戦士程度であれば、十分以上にダメージソースたりえた。
 ここにきてようやく異常を察知したのか、一瞬にして男たちの顔色に緊張が浮かび上がった。各々が向けていた剣先が、どよめきを反映してか微かに泳ぐ。
 が、だからと言って手心を加えてやる義理もなければ情もない。着地直後に技後硬直の解けた俺は、握り直した蒼風を煌かせ、にわかに慌て出した集団の間を駆け巡る。足が巻き上げた僅かな砂埃だけを残し、駆け抜けざまに《疾風》を見舞った。六発全てを一人に当てていては相手の体力が足りないため、一人当たり二発ずつ切り裂いて次の目標へと移っていく。そして、全員のHPを程よく削ったところで足を止めた。

「な……ん……」

 地面に倒れ、頭上のHPバーをレッドゾーン寸前まですり減らした男が、信じられないと言った風に漏らした。無理もない。蹂躙し、嬲り殺すはずだった獲物が突如として牙を剥き、たった十秒足らずの間に、逆に壊滅させられたのだから。
 その男の視線が立ち止まった俺へと向く。足先から、すねを経由して膝へ。そしてその脇に下げられていた蒼風を見――その瞬間、男の顔から攻略組の剣閃もかくやという勢いで血の気が引いた。男は腰を地面につけたままずりずりと距離を取り、震える指で蒼風を指した。

「……お前……その武器……その恰好……穹色の風……? あ、あの、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)を壊滅させたっていう……?」

 その質問に、言葉を返すことはしなかった。代わりに口の端を持ち上げて肯定してやると、男は「ひっ」と小さく呻いてまた十センチほど後ずさった。
 さて、と声には出さず呟いて振り向く。ロザリアが水色の結晶を取り出したのが見える。

「チッ、転移――」
「させると思うか?」

 次の瞬間、ロザリアの手に握られていた結晶は、中心を蒼風に貫かれていた。耐久値が尽き、小さな欠片をちりちりと瞬かせて砕け散る。ロザリアが目を見開くが、何のことはない、ただ走って貫いた、それだけだ。
 蒼風を降ろす。上半身を過剰に反らしたロザリアがバランスを崩して尻餅をついた。俺はそれを尻目に濃紺の結晶を取り出して見せる。依頼人の男が全財産をはたいて購入したという回廊結晶だ。

「これで黒鉄宮の牢屋(ジェイル)に跳んでもらう。後のことは、管理してる《軍》の連中に聞くといい」
「――もし、嫌だと言ったら?」
「全員、殺す」

 間髪入れずに返すと、ロザリアの顔に貼り付いていた笑みが瞬時に凍りついた。当然予想はついていただろうに、よもや見逃してもらえる等と思っていたのだろうか。
 呆れを込めてロザリアを一瞥し、左手の結晶を掲げ、言った。

「コリドー・オープン。……この門が消えるまでが制限時間だ。それまでに選べ」

 何を、とは敢えて言わない。幾らなんでも、そこまで馬鹿ではないだろう。
 男たちは一様に力なく項垂れていたが、やがて長身の斧使いが恨みがましく俺を毒づいて牢獄へと転移していったのを皮切りに、残りのオレンジと針山頭のグリーンが続いた。残すは彼女一人となったロザリアに向き直ると、彼女はガスコンロにこびりついた油汚れのようにどっかりと地面に居座り、ニヤニヤと挑発的な視線と表情で俺を見上げていた。

「……やりたきゃ、やってみなよ。グリーンのアタシに傷を付けたら、今度はあんたがオレンジに……ッ!?」

 強気な言葉は、俺がロザリアの首筋に蒼風を添えた時点でプツリと途切れた。意味を持たない、裏返った息が奥歯のぶつかり合う音と共に口から漏れ、瞳の色が挑発から懇願へと様変わりした。何のジェスチャーなのか、両手をあちらこちらに泳がせて喚く。

「ちょっと、やめて、やめてよ! 許してよ! ねえ! ……そ、そうだ、あんた、アタシと組まない? あんたの腕があれば、どんなギルドだって……」

 耳障りな単語の羅列に嫌気が差した俺は、蒼風の刃をダメージが発生しない程度にロザリアの首へ押し当て、強制的に言葉を終わらせた。半透明の刀身を伝い、彼女の体を構成しているポリゴンの感触がより鮮明に俺の手にのしかかる。他と何も変わらない、水風船みたいな脆い感触が。

「……「ここで人を殺したって、本当にそいつが死ぬなんて証拠ない」んだったな。ならちょうどいい、試してみるか、お前自身で。……もうコリドーも消える。どうやら、腹は決まったらしいな」

 その言葉に、ロザリアの視線が回廊と俺とを何往復かして。

「ひっ……ひ、ひああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 突如、ロザリアは思わず眉をひそめたくなるような甲高い悲鳴を垂れ流しながら蒼風を払いのけると、一目散に回廊へ飛び込んでいった。彼女の姿と悲鳴とが同時に光が渦巻く回廊に呑みこまれ、直後、回廊自身も一際強く発光すると、それまでの存在が嘘だったかのように消え去った。

 静寂。
 頭上を仰ぐ。
 青い天蓋。
 小鳥の群れの影。
 通りがかった風が、草木を(こす)った。

 溜息を一つ。
 ――終わった、か。
 居場所を失い空中を漂っていた刀を鞘に納める。
 鞘と(つば)がぶつかって高い音を鳴らした。戦闘の終わりを告げる小さな旋律が、条件反射のように、直前数分間の記録を記憶として頭の奥深くに植え付ける。

 忌々しい事故のおかげで、俺は絶対の記憶を手に入れた。目覚めてすぐは、見聞きしたこと全てが頭の中でエンドレスに再生され、頭痛と吐き気に悩まされたほどだ。一月もすると延々と続く記憶の繰り返しは治まり、今では逆に当時の記憶は酷く曖昧なものとなっている。だが、それは俺の記憶が元に戻ったことを意味しなかった。
 確かに、俺の意思に反して全ての記憶が動画のように繰り返されることはなくなったが、“忘れる”という行動を俺の頭が思い出すことはついぞなかったのだ。
 それ以来、俺の記憶は全て日付順のタグを付けられた状態で体のあちこちに、自分の意思一つでいつでも再生できる状態で保存されている。
 そしてそれは、今も変わらない。

 ここ数年間の天気。
 書きかけだった論文の、最後の文字。
 二ヶ月と四日前に入ったNPCレストランで食べた夕食のメニューに、そこで食事をしていたプレイヤーの人相。
 二十二の瞳。
 十一の声。
 動物の足とも、植物のツタとも、亜人型Mobの胴体のものとも違う、人を斬ったとき特有の感触。
 その全てが、永遠に色()せない記憶として、一年中溜まり続ける(ほこり)のように、俺の身体に降り積もる。

 帰路に就こうとして、無意味に漂流させていた視線を戻す。歩き始める寸前、右腕に違和感を覚えた。
 何事かと視線を落とす。蒼風の柄を握り締めていた俺の手が、積み上げられた記憶の重みに耐えかねて震えていた。 
 

 
後書き
 元々一話程度で書き終える予定だったものが既に三話まで膨れ上がってしまったという現実。流石に後一話で終わるハズなので、できれば今年中に投稿してしまいたいですが……。まあ、出来るかどうかは未定ということで(オイ)。

 ご意見、ご感想等、ドシドシどうぞ。 

 

春告ぐ蝶と嵐の行方 3

 幸運なことに、わたしとシリカちゃんは殆ど敵とまみえることなく《フローリア》までの帰路を消化した。

「えっと……三十五層に行けばよかったんだよね」

 無事に帰りついたことに安堵の息を吐きながら、メール受信トレイに表示された一通のインスタントメール――送り先の名前が判っていて、かつその相手が同じ層にいる場合にのみ送ることができる簡易メールのことだ――の内容を、言葉に出して確認する。マサキ君から送られてきたそれには、『三十五層の転移門前で合流しよう』とだけ書かれていた。

「うん、オッケー。――転移!」

 転移門前でおなじみの呪文を唱えると、いつものように白い光と軽い浮遊感とに全身を包まれた。一呼吸おくと、浮遊感が消え、同時に石畳の硬い感触がブーツを通して伝わってくる。
 間髪入れずに視界が開ける。青々と覆い茂った冬を感じさせない草原と、その草を()む動物たち、牧歌的な雰囲気の建物が印象的な、第三十五層主街区だ。日中フィールドへ出ていたプレイヤーたちが帰路につく時間帯と重なったため、行き交う人の量はそれなりに多く見える。

「えっと、マサキ君は……」
「――あ、いました! あそこです!」

 辺りをキョロキョロと見回してマサキ君を探していると、シリカちゃんが広場の出入り口付近を指差して声を上げた。遅れてわたしがその指の先に、広場入り口のアーチに背を預けているワイシャツとスラックス姿を見つけ、た時には既に、シリカちゃんは人ごみをかき分けてそちらへ向かっていた。マサキ君の姿を見失わないように注意しながら、その後を追う。

「悪かったな、途中で抜けて」

 シリカちゃんからほんの少し遅れてマサキ君のもとに着くと、彼はアーチから背中を離し、初めて見たときから全く変化のない事務的な口調と表情で開口一番にそう言った。

「いえ、全然大丈夫です! 帰りは敵とも殆ど戦いませんでしたし」
「マサキ君の用事は、もう終わったの?」

 わたしが尋ねると、マサキ君は小さく頷く。

「ああ。それじゃ、早速ピナを蘇らせ……ると言っても、これだけ人が多いとな。部屋に戻ってからにするか」
「はい! そうと決まれば、早く帰っちゃいましょう!!」

 元気な声と満面の笑顔でシリカちゃんは答えると、そのまま早足で歩き始めた。今にも走り出してしまいそうなのを必死に堪えている後ろ姿が微笑ましくて、思わずクスリと笑いながら追いかける。
 ……けれど、そんな表情とは裏腹に、わたしの足取りは重かった。だって、ピナを蘇らせることは、同時にこの冒険の終わりとわたしたちの別れとを意味してしまうから。

 ――この三日間の冒険は、今までの中で、わたしにとって一際特別なものだった。今まで作り上げてきた《エミ》が、意識的に作り上げてきた虚構だと知ってなお、一緒にいてくれた二人。他人と同じ部屋で夜遅くまでお喋りしたり、お茶を飲んだりしたことなんて、この世界に囚われて以降初めてのことで、とても楽しかった。だからこそ、ピナは絶対に助けたいと思ったし、無事にプネウマの花を入手できたことは、自分のことのように嬉しかった。
 でも……。

「エミさーん! 早く早く! おいてっちゃいますよー!」

 その声にはっとしていつの間にか地面に落ちていた視線を上げると、二人はもう一つ先の曲がり角に差し掛かっていた。

「あ、ごめんなさい!」
「いえいえ。さあ、もうすぐです! 行きましょう!」

 急いで駆け寄ると、シリカちゃんは楽しそうに宿の方向を指差して歩き出した。
 ずんずんと進んでいくシリカちゃんの背中。わたしの視線と思考は、すぐに元の場所へ戻ってしまう。

 これで、わたしたちは解散することになる。そうなれば、わたしはまた独りだ。
 今までは、中層の人たちに恩を押し売り歩き、代わりに寂しさを誤魔化させていた。けど、結局、わたしが独りなのは変わらなくて。……そのことに気付いてしまった今、わたしは以前みたいに笑っていられるだろうか?

「……無理、だよね」

 声と言うより、息遣いに近い音で呟く。そもそも、わたしは自分のエゴのために偽善を押し付けていたのだ。それをこのまま、孤独から必死に目を背けて作り笑いを浮かべ続けることは、今更かもしれないけれど、できそうにない。
 でもだからといって、他に何をするあてがあるわけてもなく。(いたずら)に恐怖感だけが膨れ上がり、思考は袋小路へ迷い込む。

 結局、その後わたしたちが五分ほどの時間をかけて《風見鶏亭》へ到着しても、わたしの思念は先の見えない迷路から抜け出すことはできなかった。
 見上げると、見事な茜色に染め上げられた空と風見鶏亭の二階部分とが目に映る。何の変哲もない建物が、今のわたしには魔王の城より恐ろしく見えた。

「ピナ……もうすぐ、生き返らせてあげるからね……!」

 シリカちゃんが、小さいながらも歓喜と希望に溢れた声で呟いて意気揚々と宿に乗り込み、マサキ君が無言で続く。最後にわたしが、胸の奥まったところをピアノ線でキリキリと締め付けられるような苦しさを感じながら、鉛の塊を引き摺るような足運びで建物に入った。
 その時。

「あの、すみません。……エミさん、ですよね?」

 唐突に背後から声を浴びせられた。振り返ると、少し気の弱そうな細面の男性と、ダークブラウンの髪を背中まで伸ばした優しそうな女性の二人が立っていた。歳は大体二十台後半辺りだろうか。男性はわたしの顔を見て、ほっと表情を緩めた。

「ああ、良かった。ずっとお礼が言いたかったんです。……僕のこと、覚えてますか?」
「え? えっと……」

 突然の質問に若干戸惑いつつも、わたしは男性の顔を記憶の中で捜し始めた。確かに言われて見れば、どこかで会ったような気もする。それも、かなり最近に――。

「――あ、ひょっとして……」
「思い出してもらえましたか」

 わたしが口走ると、男性は柔らかく目を細めた。そうだ、前回会った時とは顔色が全くと言っていいほど違っていたために気付かなかったが、確かにこの顔と声には覚えがある。

「――その節は、本当にお世話になりました」

 そう言って、二日前にわたしが転移結晶を渡した男性は、隣の女性と共に深々と頭を下げた。



「あの、どうぞ」
「ありがとうございます」

 二人から「少し話がしたい」と持ちかけられたわたしは、階段脇で待っていてくれたシリカちゃんとマサキ君に先に行ってもらい、二人と自室に入っていた。わたしがソファを勧めると、二人は一言礼を返してわたしの対面に座り、おもむろに口を開いた。

「突然おしかけてしまってすみません。私はウォルニオンと言います。こっちは、妻のタカミです」
「タカミです。先日は主人の危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
「あ、いえ、そんな……」

 再び深く頭を下げた二人につられて軽く会釈を返しながら、わたしは《ウォルニオン》と名乗った男性が発した「妻」という単語に驚きを隠せないでいた。

 SAOに存在する、システム上で規定されているプレイヤー同士の関係性は四種類だ。すなわち、無関係の他人、フレンド、ギルドメンバー、そして結婚。だが実際にこの世界で結ばれている婚姻の数は、その前三つと比べ著しく少ない。
 なぜなら、このSAOでの“結婚”というものは、文字通り自分の全てを相手と共有するものであるからだ。
 具体的には、プレイヤー同士が婚姻関係を結んだ瞬間、その二人のコルと全アイテムは同ストレージ内に共有化され、この世界では一番の生命線であるステータス画面までもお互い自由に閲覧することが可能になる。SAOには恋人同士のプレイヤーもある程度存在するが、そのあまりにも巨大なリスクのせいで、結婚にまで至るカップルは殆どいない。かくいうわたしも、実際に結婚している人を目にするのはこれが初めてだった。

 二人は顔を上げると、呆けているわたしを見ながら、穏やかな口調で話し始める。

「僕が彼女と出会ったのは、九層のNPCレストランでした。そこでウェイトレスとしてアルバイトしていた彼女に、一目惚れしたんです。ライバルも多かったんですけど……何とか、競り勝つことができました」
「彼、凄かったんですよ。コーヒー一杯で、三時間も粘った日もあったんです」

 微笑みながらタカミさんが言うと、ウォルニオンさんは恥ずかしそうに首の後ろを掻きながら頭を前に倒した。そんな和やかな雰囲気で、話は進む。

 ウォルニオンさんの話によれば、タカミさんはアルバイトで資金と料理スキルとをコツコツ貯め、最近遂に自分の店を開業したと言う。そしてそれを聞いたウォルニオンさんが、一世一代の賭けでタカミさんにプロポーズ。しかし、「店を買うときに借金をしたから」という理由であえなく断られてしまった。
 ならばその借金を自分が返してやろうと思い立ち、中層プレイヤーの中ではそれなりに腕に覚えのあったウォルニオンさんは、単身最前線へ向かったのだが……。

「ご存知の通り、結果は散々でした。借金を返すどころか、ポーション代に結晶代を考えると完全に赤字で……もう、ダメだなって、落ち込みながら彼女の店に向かいました。そしたら、ドアを開けた途端にタカミがすっ飛んで来て、泣きながら詰め寄られました」
「いきなり何も言わずにいなくなって、帰って来たと思ったらボロボロなんですもの。そりゃ、そうもなります」

 少し強く言われ、ウォルニオンさんは困ったように笑う。

「目に涙を溜めながら、「どうしたの、大丈夫なの」って聞いてくる彼女を見たら、それだけ愛されていることが嬉しいやら、情けないやらで……僕も泣きながら、その日したことを話して……」

 その言葉を、タカミさんが引き継ぐ。その目が、温かく細められた。

「――その後、私から言ったんです。「結婚してください」って。私には、この人がいないとダメなんだって、よく分かりましたから」

 幸せそうに笑うタカミさん。ウォルニオンさんが、恥ずかしそうに照れ笑いを滲ませた。

「そう……なんですか……」

 いい夫婦だな、って、素直に思う。

「それで……お二人はどうして、わたしがここにいるって分かったんですか?」

 ふと、それと同時に思い浮かんだ疑問を訊ねてみると、二人は一瞬目を見合わせ、笑いながら答えた。

「それが、昨日の夜、三本ヒゲのペイントをした情報屋さんがウチの店を訪ねてきて言ったんです。『《モノクロームの天使》ニ、礼を言いたいことがあるそうだナ』って。なんでも、素直になれない刀使いさんからの依頼だとか」
「……素直になれない、刀使い……?」

 一体誰のことなのだろう、というか、その情報屋、どこかで聞いたことのあるような……? とわたしが首を捻っていると、ウォルニオンさんは少し左手を宙に浮かせて逡巡し、その手を膝に置かれていたタカミさんの手に重ねた。

「あの時、僕が生きて帰れたことも、タカミと一緒になれたことも。全部、エミさんのおかげです。本当に、ありがとうございました」

 そしてまた、二人して頭を下げられる。わたしは慌てて立ち上がると、手を振りながらそんな二人を止めようとする。

「そ、そんな! わたしが勝手にしたことですし……それなのに、こんなところまで訪ねてきていただいて……むしろ、余計なことをしちゃったんじゃ……」

 言いながら、わたしの思考は先ほどまで頭の大部分を占領していた一つの悩みにぶつかって、口から発せられる声は、徐々に小さく掠れていった。それを見て、対面の二人は驚いたように顔を見合わせる。
 俯きながら、ソファに腰を下ろす。膝の上で、衝撃に備えるように、両手と両目をぎゅっと瞑った。
 何をしてきたのかは、分かっていたつもりだった。それなのに、次にぶつけられる言葉が、怖くて怖くて仕方がなかった。

 ――しかし。

「……いいえ。そんなことはありません」

 次に聞こえてきたタカミさんの声は、驚いてしまうくらいに滑らかだった。びっくりして顔を上げると、わたしを見つめていた二人の顔には、さっきまでと何にも変わらない、穏やかな笑顔が浮かんでいて。

「エミさんが一体何を悩んでらっしゃるのかは、私たちには分かりません。でも……私は、エミさんのおかげで、つまらない意地を捨てて、愛する人と一緒になれたんです。だから、受け取ってください。『自分の本心をちゃんと相手に伝えることが、何よりも大切なんだ』って、今回のことで、痛感しましたから。……本当に、ありがとうございました」

 そう言って、優しく微笑みかけてくれた。
 ――「本当に、ありがとうございました」。
 タカミさんの言葉が、何度も何度も繰り返されながら、まるで最初からわたしの身体の一部だったかのようにわたしの胸へ染みこんできて、そしてその一番奥で、心全体を温かく包み込んだ。
 嬉しかった。わたしを、わたしの行動を、許容してくれたことが。感謝してくれたことが。
 壊死(えし)していた体の一部に再び血が通い出したかの如く、身体じゅうをじんわりとした温かさが伝わっていくのが自分でも分かる。気付けば、受け止め切れなかった感情と言う名の温かさが、瞳から(しずく)となって溢れ出していた。

「エミさん? 大丈夫ですか?」

 そんなわたしを気遣ってか、ウォルニオンさんの心配そうな声が耳に届く。
 わたしは人差し指で目尻を拭い、笑って答えた。今まで浮かべた中で、一番自然な笑みだった。

「いえ……何でも。何でもないんです。ありがとうございました」
 
 

 
後書き
 この前のあとがきで「次が最後だよ!」と抜かしておきながらまだ続いてしまうと言うこの計画性のなさよ。本当に、本当に申し訳ございません。……あ、あと一話だから! 本当だから! すぐ更新するから!!

 なお、今回の話にチラッと出てきたNPCレストランでのアルバイトシステムは、深夜にふと思い浮かんだ独自要素だったりします。以下、ちょっとした解説。

 アルバイトシステム
 SAO内のレストランやショップ等で、アルバイトができるシステム。仕事内容は誰でもできるものと特定のスキル値が一定以上でないとできないものがあり、当然後者の方が待遇はいい。必要なスキル、スキルレベルは職種や階層、そして個々の店ごとで変化する。

 とまあ、こんな感じです。元は中層の料理や裁縫系の生産職プレイヤーが戦闘に出ずとも身銭を稼ぐ方法はないかな、と考え出したのがきっかけです。毎度の如く設定に難はあると思いますが、ご容赦くださいませ。

 そして、今回何と名前&奥さん付きで再登場のウォルニオンさん。彼等はプロットすら書かない拙作では珍しく設定を保存してあるキャラだったりします。が……まあ、多分それが公開される日が来ることはないでしょう。モブだし。
 一応、見たい! という物好きな感想があれば対応する予定です。

 では、次回。本当の本当に、シリカ編(と言うなのエミ編)完結です。
 ご意見、ご感想等、ドシドシどうぞ。 

 

それが、本当のわたしだから

「お待たせ! ごめんね? 待たせちゃって」

 ウォルニオンさんとタカミさんの二人と別れたその足でシリカちゃんの部屋のドアを開けると、雑談に興じていたらしい二人の視線が同時にこちらを向いた。わたしの顔を見たシリカちゃんが、きょとんと不思議そうな顔をする。

「エミさん、何かいいことでもあったんですか?」
「え?」
「だって、すごくすっきりした顔をしてたから」

 そう言われて、わたしは自分の顔を両手でペタペタと触ってみる。特に何かが違うとは感じなかったけれど、心当たりはあったから、

「……うん。ちょっとね」

 と答えて小さく笑った。

「さあ、ピナを生き返らせてあげよっか!」
「はいっ!」

 元気よくシリカちゃんが頷く。彼女はアイテムストレージからピナの尾羽を取り出すと、それまでの快活な動作からは打って変わって、慎重に水色の羽根をコーヒーテーブルの上に寝かせた。続いて、《プネウマの花》を取り出す。西日が部屋の中まで茜色に染め上げる中、空からの光をぎゅっと集めて結晶にしたような純白の花が、真珠色の光を放ちながら、シリカちゃんの両手に音もなく乗った。
 わたしとマサキ君も、コーヒーテーブルに近付く。思わず足音を消してしまうくらい、神秘的な光景だった。

「花の中に溜まってる雫を、羽根に振り掛けてあげて。そうしたら、ピナは生き返るから」
「解りました……」

 緊張した面持ちのシリカちゃんと目が合う。その小さな手がゆっくりと空間を滑り、やがて水色の羽根のちょうど上へ差し掛かる。

「行きます……!」

 そして、全員が息を呑んで見守る中、シリカちゃんはそっと花を傾けた。花びらの中央に溜まっていた僅かな水分が、つうっと一筋の軌跡を残して花びらの表面を流れ、そして落下した。雫は数センチほどの空間を一気に駆け下り、その真下で待ち構えていたピナの心に滴った。

 その瞬間――

「わぁ……!」

 尾羽の先に染みこんだ花の雫が瞬く間に羽根全体へ浸透したかと思うと、次の瞬間、それは小さな光の球を形作った。球はまばゆく発光を続けながら数センチほど浮かび上がり、ゆっくり、ゆっくり大きさを増していく。やがて人の拳ほどの大きさになったそれは、トク、トク、と小さく脈動を始め、それをエネルギーとして更に大きく膨らみ始める。それはまるで、まさにこの場所この瞬間に、新しい命が誕生してゆく瞬間を目の当たりにしているようだった。

 光の球は人の頭ほどの大きさで成長を止める。すると今度は、それまでただの球でしかなかった表面が、複雑な凹凸を描き始めた。
 両脇に小さな角を生やした三角形の頭。
 広げると全長以上になるであろう、大きな二枚の翼。
 そして、尻尾の先にピンと生えた、一枚の尾羽。

 それは小さい、けれど立派な、竜の形だった。
 光は全身に生えた羽の一枚一枚までを丁寧に描き終えると、自分の役割は終わったと言わんばかりに一瞬だけ閃光を放ち、その欠片を周囲に飛散させた。

「きゃっ!?」

 強烈なフラッシュに思わず目を閉じてしまったわたしたちが、再び瞼を持ち上げる。すると――

「きゅるっ!」

 ――――!!
 わたしたちは一様に目を見開いた。
 白い光の破片が羽毛のように部屋を満たした中心で、全身を水色の羽で包んだ一頭の竜が、力強く羽ばたいていた。細長い尻尾の先で、身体が上下するのにあわせ、主人との再会を喜ぶように心が揺れている。

「ピナ……なんだよね……?」
「きゅるっ!」

 呼びかけられた小さな竜は、シリカちゃんをじっと見つめると、嬉しそうに目を細めてその胸に飛び込んで行った。途端に、シリカちゃんの表情にぱぁっと光が差し込んだ。

「わぁ……ピナ、本当にピナだ……! ピナ、ごめんね、ピナ……!」

 シリカちゃんから溢れた感情の渦が、何度も何度も部屋中を震わせた。涙でぐしゃぐしゃになった顔をピナの胸に擦りつけ、ピナもまた、そんな主を慰めるように小さな顔でシリカちゃんの髪を()く。
 その姿は、ただのテイムモンスターだとは到底思えないものだった。主との別れを悲しみ、再会を喜ぶ、本物の心を持った、深い深い絆で結ばれた本物の友人としか。

 ――良かった。本当に、良かった。
 心からそう思う。そう思っているはずなのに……何故かわたしの心の一部が、未だに鋭い痛みを訴え続けていた。眼前の光に照らされて、わたしの心に一筋の影が差す。
 ……わたしには、あんな友人はいないから。わたしは、独りだから。
 そっと両手を胸の前で抱きしめて、抱き合っているシリカちゃんとピナを見つめた。せめて、この光景を思い出して、そこから漏れた温かさに当たれるように。
 そんな時だった。

「きゅるるっ!」
「え……?」

 目の前に、今の今までシリカちゃんと抱き合っていたはずのピナが、二枚の翼をゆったりと羽ばたかせて浮かんでいた。わたしが思わず両手を少し広げると、ピナはその上に着地して、長い首を伸ばしわたしの頬をちろちろと舐めてくる。

「わ、きゃ……」
「ピナも、エミさんにお礼がしたいみたいですよ」

 こそばゆくなってわたしが首をすくめると、シリカちゃんがそう補足した。

 ――そう、なの……?
 ――きゅるっ! きゅるるっ!

 すぐ近くにあったピナの両目を見つめて、視線で訊ねる。その答えは、当然ながら要領を得ないものだったけれど……二つの真っ赤な瞳が、頷くように小さく縦に揺れた。直後、ピナはわたしの腕から飛び立って、そのふわふわの身体をわたしの肩から首にかけて巻きつけた。

「きゃっ! ちょっ、ピナ、くすぐったいよ……!」

 わたしも、また、こうやって混ざりたい。もっと、近くにいたい。友達になりたい。
 今まで見て見ぬ振りをして、いつの間にか冷たくなっていた心の一部分が、今、再び流れ込んだ血液をエネルギーに、強く拍動を始めた。ずっと抑圧されていた思いが弾け飛んで、今にも口から飛び出しそうな勢いで全身を駆け巡った。しかしそれに待ったを掛けるように、どこからか生まれたネガティブな考えが、わたしの喉で堤防を作り感情の波を押し(とど)めた。
 どうせ断られる。そうなれば、わたしはまた、自分が孤独なんだって現実に直面させられる。
 胸の奥底を締め付け、指と足の先を硬直させて、感情(おもい)言葉(かたち)になるのを拒んだ。口を飛び出す直前で意思を抜かれた言葉たちが、意味を持たない空気の塊として吐き出され、徐々にその勢いさえも弱まっていく。
 口が閉じる。顔が俯く。オレンジ色の光が、涙で世界一杯に滲む。その瞬間、頭を一つの言葉が過ぎった。

 ――『自分の本心をちゃんと相手に伝えることが、何よりも大切なんだ』。ハープのように軽やかな響きのそれは、わたしのがんじがらめに縛り付けていた葛藤の間にするりと溶け込み、いとも容易くそれを解いた。
 顔を上げると、目に溜まっていた涙が二滴、同時に頬を伝った。幾分クリアになった視界の中央で、シリカちゃんとピナが立っていた。

「そう、だよね……。言わなきゃ、誰も分かんないもんね……」

 小さく自分に呟いて、涙をふき取る。まだ少し震える右足を、勇気を持って一歩踏み出して、わたしは言った。

「ねぇ、シリカちゃん。……わたし、またシリカちゃんとピナに、会いにきてもいいかな? わたしと……友達になって、くれる……?」

 すると、シリカちゃんは驚いたように目を丸くする。
 そして。

「はいっ!」

 次に彼女は、今までと同じように、元気な、満面の笑みを見せてくれたのだった。
 シリカちゃんが右手を振ってウインドウを呼び出す。直後、わたしの眼前に、一つのメッセージが表示される。
『《Silica》からフレンド申請を受けました。申請を受諾しますか?』
 ドクン、と、胸が脈打った。見慣れた無機質な紫色のフォントを何度も何度も読み返しながら、わたしは震える指で、文字の下の《YES》を押した。瞬時にウインドウが消え、すぐに別のウインドウが現れる。『《Silica》をフレンドリストに登録しました』――。

 その文を見た途端、わたしは弾かれたように自分のフレンドリストを確認した。わたしのフレンドリストの一番上で、その名前が燦然(さんぜん)と輝いていた。
 ――《Silica》。それが、わたしがこの世界で手にした、初めての、本当の友達の名前だった。

 思わず、息を呑む。すっかりウインドウに見入っていたわたしの前に、いきなりピナが降って来た。

「きゃっ! ぴ、ピナ?」
「あはは、ピナも、友達になりたいって言ってるんですよ」

 声を上げて仰け反るわたしに、シリカちゃんが笑いながら言う。その言葉に頷くように、ピナが何度か頭を振る。

「そうなんだ……。じゃあ、ピナも、わたしと友達になってくれる?」
「きゅるるっ!!」

 聞く声は、まだちょっぴり怯えた風だったけれど、ピナは勢いよく一度鳴くと、小さな身体からは想像もつかないスピードでわたしの胸に飛び込んできた。

「……えへへ。ありがとう。ありがとう、ピナ……! シリカちゃんも、ありがとう」

 くるくると回りながらピナを抱きしめ、三回転したところで止まって二人にお礼を伝える。それだけで、また心の中にじんとした温もりが打ち寄せた。と、わたしはこの場にもう一人いたことを思い出して、彼にもお礼を言うために部屋の角へ向き直る。

「マサキ君も、ありが……あれ?」

 しかし。わたしは言葉に詰まった。つい先ほどまでそこにあったはずの姿が、いつの間にか忽然と消え失せていたのだ。

「あれ、えっと……マサキ君は?」
「え? だって、今までそこに……あれ?」

 二人して部屋を見回すものの、マサキ君は影も形も見えなかった。どうしたんだろうとわたしたちが首をかしげていると、まるで計ったかのように突然現れたアイコンが、メッセージの受信を告げた。
 受け取ったのは、案の定、マサキ君からのインスタントメールだった。『先に帰る。後は好きにするといい』。その文面からは、『もう二人で行動するのはおしまいだ』ということが簡単に察せた。

「マサキさんからですか? 何て書いてあったんです?」

 ――嫌だ。
 何故かは分からないけれど、わたしははっきりそう感じた。まだ、彼と別れたくはないと。それは、わたしが久しぶりに発したわがままでもあった。

「……エミさん?」
「……わたし、行って来る」
「え? あ、ちょっ!」
「ごめんなさい! 後でまたメールするから!」

 気がつくと、わたしは宿を飛び出していた。街の南にある転移門までの道のりを一息に駆け抜け、溢れかえった人波を掻き分けてマサキ君を探した。しかし、五分が経っても、十分が経っても、あの空色のシャツが視界に映ることはなかった。

「もう、転移しちゃったのかな……」

 大きな落胆に包まれ、わたしは門柱の傍に背中から倒れるようにして座り込んだ。オレンジに藍色が混ざり始めた空を眺め、いつまでマサキ君と出会えないのかを考える。多分、この層のボス戦には彼も顔を出すはずだから……。

「一週間くらい、かな……」

 ――一週間。マサキ君と過ごした濃密な二日間の、実に三倍以上もの長大な時間が、わたしの前に立ち塞がった。運が良ければ最前線辺りで出会えるかも知れないが、マップの広さを考えれば、それは大海原で一粒の真珠を見つけ出すことに等しい。

「……仕方ないよね。ずっと会えない、ってわけじゃないんだし……」

 自分にそう言い聞かせ、帰ろうと立ち上がる。そのまま俯き加減で歩き始めると、

「おっト」

 逆方向に歩いていた人とぶつかってしまった。わたしは慌てて頭を下げる。

「すみません。ちょっと、よそ見してて……」
「いやいヤ、オイラも考え事をしてたかラ。……ン? アンタ、ひょっとして《モノクロームの天使》じゃないカ?」
「へ? え、あ、まあ、そうですけど……」

 頭の上から降って来たのは、語尾が特徴的な甲高い声だった。どこかで、ふとこんな声の人の話を聞いたような気がして、その人の特徴を探しながら頭を上げる。
 防具は全身革装備。武器は、小さなクローと投げ針を腰から下げている。
 短い金褐色の巻き毛と、両頬に入った三本線のペイント。

「ホー、そりゃまた珍しい人とぶつかったナ。――オイラは《アルゴ》。情報屋サ。前人未到のクエスト情報かラ、街の武器屋のセール情報まデ、コルさえ払えば知りたいことは何だって教えてあげるヨ! 早速どうだイ? 初回サービスで安くしとくヨ!!」

 早口でまくし立て、攻略組なら誰もが知っていると言っても過言ではない一流の情報屋――《鼠のアルゴ》は、にひひと笑い声を上げた。



 第二十四層圏外村、《ウィダーヘーレン》。アルゴさんから教えてもらったマサキ君の住所は、針葉樹林に囲まれた一本の細い道の両脇に十軒ほどの家や店が並ぶだけの、寒素な集落だった。
 村の中心から雪の積もった道を数分も歩くと、西のはずれにポツンと一軒だけ建っている家が目に付いた。
 ダークグレーの外観と、雪に耐えるためなのか勾配が急なグリーンの屋根。林の中に静かに溶け込んでいる北欧風の外観を模したその家が、アルゴさんから教わったマサキ君のプレイヤーホームだった。
 村のメインストリート――といってもレンガや石畳すら敷かれていない、細いものだが――を左に折れて、わたしの背丈よりも高く積もった雪に挟まれた、くねくねとカーブばかりの続く道を抜けると、ようやく家の玄関が目に入る。

「あっ……」

 今まさにマサキ君がドアノブに手を掛けようとしていたのが見えて、わたしは思わず声を漏らした。反射的に雪を蹴って大声で呼ぶ。

「マサキ君!!」
「……エミ? どうしてここに……」
「良かった……もう、いきなりいなくなっちゃって、びっくりしたんだから」

 残りの道を一気に駆け抜け、わたしは膝に手を当てて白い息を何度も吐き出しながら笑った。マサキ君は珍しく切れ長の目を丸くしたが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまう。ちょっぴり残念だな、と思っていると、再びマサキ君が口を開く。

「……何故、ここが分かった」
「教えてもらったの。アルゴさんって人に」
「……あの鼠め」

 マサキ君は苦々しげに舌打ちすると、木でできた家のドアを開ける。

「入ってもいい?」
「勝手にしろ」

 冷たい声だったけれど、何となく拒絶されている風には感じなかったから、わたしはマサキ君に続いて家に上がった。
 家の中は、外から想像していたよりもずっと暖かく、そして明るかった。白を基調としたシンプルなデザインと、陽の光を取り入れる大きな窓がそうさせているのだろう。部屋には暖炉もあったが、使われている風には見えなかった。確かにこれだけ暖かければ、使う必要も滅多にないのかも知れない。暖炉とは反対側の壁際には、アイテム収納用の棚があり、その上に一枚の写真立てらしきものが伏せられていた。

「まあ、座れ」

 勧められた、リビング兼ダイニングらしき部屋の中央に置かれた白木造りのダイニングテーブルセットに腰掛ける。入り口側のカウンターを越え、その先のキッチンへマサキ君が向かうのを見送ると、わたしは一度部屋をぐるりと見渡した。
 玄関から見て正面に、今わたしのいるリビングダイニング。恐らくその間の廊下右側がカウンター越しに見えるキッチンで、後はその逆側に小さな部屋が一つと中くらいのが二つ。この世界ではトイレと言うものが存在しないことを考えると、小さいのがお風呂、中くらいのが寝室ではないかとわたしは推測した。

「ほら」

 事務的な声と共に、目の前に一つのカップが置かれた。白い湯気をほかほかと吐き出しているコーヒーが、カップの中でさざ波を立てた。

「あ、ありがと」
「ふん」

 マサキ君は鼻を鳴らすと、自分の分のカップを持って対面に座る。そしてまずコーヒーに一度口を付けると、椅子の背もたれに身体を預けて口を開いた。

「……それで。用件は?」
「えっと、お礼がまだだったから」
「お礼?」
「うん。お礼」

 わたしの答えが予想外だったのか、マサキ君はまた驚いたような声で言う。マサキ君の表情が、珍しく様々な感情に移ろっていくのが面白くて、わたしはクスリと笑いながら頷く。ゆっくりと木の匂いがする空気を吸い込む。両手で包んで持ち上げたコーヒーカップに視線を落として、今までのこの世界での一年間を思い浮かべながら、今、心に残っていた温かい思いを空気と一緒に素直に吐き出した。

「……わたしね、ずっと友達が、絆が欲しかったんだ」

 ――孤独だった。

「でも、断られるのが怖くって、中々それを言い出せなくって……それで、あんなことしてた」

 ――寂しかった。

「分かるわけないよね、そんなこと。……でも、それが一番なんだって、わたしはずっと自分自身に言い聞かせてきて……結局、ずっと孤独なのは変わらなかった。マサキ君に助けられた時に、それが分かったの」

 ――でも。それを変えてくれた。
 わたしは顔を上げ、マサキ君の両目を真っ直ぐに見つめる。

「その後、マサキ君に色々なところに連れて行ってもらって。多分それがなかったら、わたし、今頃もまだ、あのアパートでうずくまってた」

 ――本物の絆と引き合わせてくれた。

「シリカちゃんや、ピナと出会えたおかげで、わたしは知ることができた。本物の友達も、わたしがしてきたことが、無駄じゃなかったってことも。それに、ちゃんと伝えなきゃ、自分の心は相手には伝わってくれないってことも。……それを知れたから、わたしは立ち直れたんだ」

 ――目の前の、あなたが。

「マサキ君。わたしのことを助けてくれて――」

 ――だから……。

「――“ありがとう”」

 それは、わたしの人生で一番心のこもった言葉だっただろう。自分でも驚いてしまうくらいにすんなりと形にできたわたしの心が、染み渡るような響をもってわたしとマサキ君の間の空気を温かく揺らした。するとマサキ君の表情に、ほんの少しだけ驚きの色が浮かび上がって――

「……そう、か」

 返って来たのは、おおよそマサキ君のものとは思えないほどに穏やかで、温かみのある声だった。細められた切れ長の瞳と羽毛のように軽く持ち上げられた口の端の自然さは、それが彼本来の表情なのだと言うことを表すのに十分だった。昨日、意識を手放す寸前に垣間見たのは、この微笑だったのだ。

「あ……」

 その瞬間、わたしは直感的に理解した。「素直になれない刀使い」が誰なのか、そして、わたしの心臓を高鳴らせている、この感情が何なのかを。
 そっか……そうなんだ……。
 最早わたしの左胸は、これまで気付かなかったことが信じられないくらいに早鐘を打ち鳴らしていた。わたしはそれから数秒間、胸の奥底から全身へ向けてほっとするような温かさが流れて行くのを、その甘くて穏やかな流れに浸りながら感じ入っていた。この空間にわたしとマサキ君がいて、その間を時がゆったりと流れていくことそれ自体が、わたしの胸に収まりきらないほど幸せで、愛おしかった。ウォルニオンさんにプロポーズした時のタカミさんの心境も、ひょっとしたらこんな感じだったのかもな、と思った。

 ――よしっ!
 わたしはその上に手を重ね、受け取ったマサキ君の不器用な優しさをそっと抱き締めてから、両手をテーブルの上について立ち上がる。

「決めた! わたし、お礼に晩御飯作ったげる!」
「……は?」
「だから、晩御飯! あ、心配しなくても大丈夫だよ? わたし、これでも料理スキルにはちょっぴり自身があるんだから!」

 そして勢いよく宣言すると、話についていけないらしいマサキ君が顔をフリーズさせて声を上げた。

「いや、そういう話では……」
「あ、ひょっとして食材がなかったりする? んー、じゃあ……いっそ、買出しに行こっか。その方が、好きなもの作ってあげられるし。そういえば、マサキ君は何か好物とかあるの?」
「だから人の話を……!」
「いいから早く。ね?」

 抗議の声を右から左へ聞き流し、マサキ君の手を取って家を飛び出す。マサキ君の手は少し冷たくて、握った瞬間に一度小さく震えたけれど、すぐにじんわりとした温度を返してくれる。顔に当たる冷たい空気も、梢の影で鳴いている小鳥の声も、何もかもが心地良かった。
 村のメインストリートに差し掛かったところで、わたしは一度振り向く。未だに何が起こっているのか理解できないというような表情で、引き摺られるように走るマサキ君。わたしは空の色を反射してオレンジ色に輝いている雪道を蹴って、一つ心に誓った。

 わたしはもう、一人じゃない。友達と一杯話して、マサキ君にも沢山会いに来よう。そして、いつの日か。胸一杯に満ちたこの思いを、マサキ君に伝えるんだ。
 そうしなければ、何も起こりはしないから。
 それが、本当のわたしだから。 
 

 
後書き
「Each and All」――livetune adding Rin Oikawa

 「この話を書くときはこの曲を添えよう」という考えは、僕にしては珍しくずっと変わりませんでした。メロディも歌詞も、今のエミさんにピッタリではないかなと思っていたり(ステマ)。

 ご意見、ご感想等ありましたら、お気軽にお書きください。 

 

圏内事件

「それじゃ、とりあえず鑑定の目処は立ったけど……」
「まだ他に何かあるの?」

 考え込むキリトを、かの血盟騎士団副団長《閃光》のアスナが疑問符付きの視線で覗き込む。一方のキリトはしがないソロビーター。何とも珍しいコンビではあるが、ひょんなことから、少しの間共同戦線を張ることにしたのだ。

「いや。二人で手は足りるかなぁ、と」

 キリトがそのままの恰好で言うと、納得したようにアスナも頷いた。

「確かに、これからのことを考えると、もう一人くらい協力者がいてもいいわね。誰か候補がいるの?」
「え? あ、えーっと……」

 困ったように頭を掻き、答えに窮するキリト。今回の案件に協力を頼むなら、信用がおけて、尚且つ頭の回転も速ければ言うことはないのだが……何せ自分は孤高極まるソロ(ぼっち)プレイヤーである。よくつるんでいる連中で言えば赤バンダナの刀使いがいるが、それは主に後者の理由から却下する。もう一人の巨漢商人のところにはこれから向かうが、何日もというのは、店をやっている以上厳しいものもあるだろう。となると……。

「……別に、いないならいいけど」
「……一人、いる」

 微かに憐憫の色を瞳に灯し始めたアスナの言葉を遮るようにしてキリトが言う。その顔には、大喧嘩でもした後のような気まずさが色濃く浮き出ていた。



 エミとシリカの二人と行動を共にした日から、既に二月。アインクラッド第二十四層西エリアをまるごと覆っていた寒気も幾分和らぎ、朝布団から抜け出すのも、真冬からすれば随分と容易になったと切に感じる、ある春の日。紺色の夜の帳が家を取り囲む針葉樹林の葉の間に舞い降りた中、マサキはつい数分前からリビングに漂い出した、香ばしい肉汁と芳醇なデミグラスソースの香りによって、自身の腹の虫が活性化しつつあるのを感じていた。

 余談だが、あの後エミは無理なペースでの中層プレイヤーの補助を止めたという。同時に住所も平均水準の宿にグレードアップしたものの、元の支出の大部分を占めていた、参加パーティーに渡すポーションや結晶アイテムの支援費が大分圧縮されたため、比較的余裕のある生活を送れているらしい。最近は料理にも凝っていて、元々は安くて不味い食材を少しでも美味しく食べるために取ったという《料理》スキルの熟練度が、つい先日七百を越えたとか。
 ここで一つ注釈を加えておくと、これらの話は情報屋等を通じて収集したわけでも、ましてやマサキが直接本人の私生活を覗いて調べたわけでもない。そんなことをしようものなら、「アインクラッド屈指の美少女を追い回す変態ストーカー」として、翌日の朝刊の一面を飾るという名誉を賜ることになるだろう。
 ……もっとも、被害者と加害者の矢印を逆にすれば、現在の状況とそう変わらなくなりそうではあるが。

 閑話休題。
 とにかくここまでの話は全て、

「はい、お待たせ! エミさん特製ハンバーグですっ!」

 ジュウジュウと食欲をそそる音を絶え間なく放ち続ける鉄板を二つダイニングテーブルに並べ、自分はマサキの対面に腰を下ろしたエミその人が、マサキに対し(聞いてもいないのに)ベラベラと喋った本人談なのであった。そのため裏付けは取っていないが、彼女のスカートが以前のいかにも安物然としたホワイトから可愛らしい薄いブルーに、流れるような黒髪を後ろで束ねているアクセサリーも、簡素な黒のヘアゴムから白地に黒のドットが入ったシュシュに様変わりしているのを見るに、あながち嘘ではないとマサキは考えていた。もっとも、それが嘘だろうが本当だろうが、マサキには関係ないのだが。

「いただきまーす!」
「…………」
「……あれ? マサキ君食べないの? ひょっとして、ハンバーグ嫌いだった?」
「……いや」

 当たり前のようにハンバーグをパクついているエミに抗議の視線を向けたマサキだったが、彼女には効果がなかった。やや大げさな溜息と共に肩を竦め、脂のハネも大分収まってきていた肉の塊にナイフを入れる。ご丁寧なことに中にはチーズが挟まれていて、一欠片を口に放り込むと、舌の上で肉とチーズ、ソースの三味が調和した。満足げに頷くシェフを見るに、どうやらこれは彼女にとっても納得のいく味だったらしい。

「うん、大成功! あ、マサキ君、明日は何が食べたい?」
「明日も来る気なのか……」

 呻くような声を上げて、マサキは右手で額を覆った。
 ピナの一件の後、エミはこの家が大層お気に召したらしく、頻繁に姿を見せるようになっていた。そのうち「ただお喋りに来るだけだと悪いから」とかいう理由で手料理を振舞うようになり、今ではキッチンのことはマサキよりもよほど把握している有様である。前線でのレベリング時や階層攻略時に何故かよくでくわすことも併せれば、週に五日程度は彼女の顔を見ている計算になるほどだ。

 ここまで来ると、マサキの視野に「エミを追い返す」という選択肢が入ってくるのだが、それには一つ問題がある。
 それは、彼女がアインクラッド屈指の美少女であるということだ。しかも、つい最近まで頻繁に中層プレイヤーたちの支援を行っていたため、ボリュームゾーンでも名前と顔が売れている。つまりどういうことかと言うと、下手に追い返した場合、かの《閃光》様のそれに次ぐ規模とさえ言われている《モノクロームの天使ファンクラブ》――もちろんどちらも非公式だが――が強く反発する可能性が極めて高いのだ。
 残る方法はマサキが家を引き払って逃亡するか、現状を大人しく受け入れるかの二択。前者はマサキとしては受け入れがたく、必然的に後者を選ばざるを得ない。のだが、もしこの一方的なストーキングが露見した暁には、何故か被害者であるはずのマサキが「アインクラッド(以下略)を自宅に連れ込んでいるジゴロプレイヤー」とのあだ名を頂戴することになる。つくづく、美人とは得な生き物である。

 はあ、ともう一度溜息。情報流出の可能性が最も高い某情報屋に関しては、一応本人が「デマとゴシップは売らない主義だゾ」と公言しているため、そこから世間に漏れることはないと考えていい。が、それでも彼女の個人的興趣の対象となることはまず間違いないわけで、マサキとしては出来るだけ早く彼女と疎遠になり、後は何を言われようと知らぬ存ぜぬを貫きたい。
 幸いにもと言うべきか、マサキと唯一親交と呼べる関係を構築していた者は既に三途の川を渡りきっている。風の噂などマサキにとって道端の小石のようなものだし、彼女の性格的に、いくら自分が袖にされたからと言って、逆恨みしてこの家の場所を言いふらすようなことはしないだろう。となれば、これからは多少強引にでも彼女を追い返すべきか……。

 と、ここまでの考えを食事と平行してまとめたマサキは、続いてその方法の検討に入ろうとする。
 そんな時だった。

「……ん?」

 視界の端に、メッセージ受信を表すアイコンが点滅した。現在メッセージのやりとりが可能なフレンドはアルゴ一人のマサキがメッセージを受け取るという場合は、二つほど考えられる。即ち、マサキを知っている人物が、同じ階層にいる時限定でインスタントメッセージを送った場合と、アルゴがマサキに向けてメッセージを送った場合だ。だが今回は、そのどちらでもなかった。
 厳密に言えば、直接のメッセージ送信元がアルゴであるため、後者の亜種のようなものだろう。だが、アルゴは今回、別人物からの依頼でメッセージを転送しただけなのだ。それほどのことをしてでも相手はマサキにメッセージを届けたかったということらしい。

 転送されてきた文書に目を通すと、メッセージの送信元はキリトだった。五十層のフロアボス戦の前日に話して以来、言葉を交わすことさえ稀だった彼が、一体何の用なのだろうか、と訝しみながら文を読み進めていく。

「《圏内PK》……?」

 そして、一つの不吉な単語にマサキの目が釘付けになった。どうやらそこだけ声に出てしまっていたようで、対面のエミが疑問の表情を浮かべてマサキの顔を見やる。しまった、と顔を苦そうに歪めたのも束の間、マサキは先ほどまでの思考を頭の隅に追いやり、いつの間にか残り一口となっていたハンバーグを急いで口に放り込むと、

「適当なところで帰っておいてくれ」
「え? あ、ちょ、マサキ君!?」

 というやりとりを最後に、キリトの指示にあった第五十層主街区《アルゲード》に向かったのであった。



「ほぉ……」
「へぇ……」
「ふぅん……」

 上記の反応は、「わたしも行く!!」と持ち前の善人根性を遺憾なく発揮してのたまったエミを仕方無しに引きつれ、キリトの指示通り第五十層主街区《アルゲード》の商店二階の戸を開いた時の、中に居た三人のものである。ちなみに、上から店主のエギル、キリト、そしてアスナだ。
 驚きばかりの声を漏らしたキリトとアスナに対し、気味の悪いニヤニヤとした笑いを滲ませたエギル。何を考えているかは分かりたくもないが、ロクなことを考えていないことだけはよく分かるため、マサキは彼を一瞥し「違うぞ」と一声掛けて、空いていた揺り椅子に腰掛ける。出てきたお茶のグレードに、マサキとエミの間で随分な差があったことには無視を決め込んで。

「……で、メッセージの《圏内PK》とやらは、既存のものと何か違うのか?」
「《圏内PK》だぁ!? オイオイ、そんなこと聞いてねーぞ」

 白い湯気が立ち上る湯飲みに口をつけながらマサキが問うと、初耳だったらしいエギルがチョコレート色の巨体を仰け反らせて驚いた。隣に座るエミにはここへ来る途中でメッセージの内容を伝えてあったためエギルほどの反応を見せることはなかったが、やはりまだ動揺が残っているのか、普段は愛くるしい笑顔を浮かべている口をつぐみ、眉間にしわを寄せていた。

「今、説明する」

 マサキたちの視線を浴びて、キリトは真剣に頷き事件のあらましを語った。

 曰く、五十七層主街区の広場で《カインズ》と言う名前のプレイヤーが《継続貫通ダメージ》と思われる攻撃によって死亡。その場に居合わせたプレイヤー全員でデュエルのウィナー表示を探すも発見できず、カインズが吊り下げられていた塔の中にも人っ子一人見当たらなかったという。

「……それで、マサキなら何か思いつくんじゃないかと思って、アルゴを通じてメッセを飛ばしたんだ」
「俺は犯罪捜査なんぞやったこともないがな。……とりあえず今言えるのは、既存のPK法では説明がつかない、ということくらいか」

 渋みの強い緑茶を啜りつつマサキが言う。
 現在知られているPKの方法には、プレイヤーが寝ている隙にウインドウを操作して《完全決着モード》でのデュエルを挑む《睡眠PK》、その派生として、回廊結晶を用いることで鍵付きの部屋の中にいるプレイヤーに対して睡眠PKを行う《ポータルPK》等があるが、今の話を聞く限り、そのどれも条件にはそぐわない。この方法では相手にデュエルを申し込むことが必須で、デュエルのウィナー表示が必ずどこかに現れてしまうためだ。

「そもそも、情報が少なすぎる。それだけだと何とも言えん」
「分かってる。そこで……こいつだ」

 キリトは頷き、ストレージから一本のロープを実体化させた。耐久値が残り少ないのか、所々にほつれが確認でき、一方の端には丁度人の頭が入る程度の輪が作られていた。
 キリトはそれをエギルに手渡す。それだけで意味を悟ったらしいエギルは、リングの部分を嫌そうに見ながらそれを鑑定した。

「……残念ながら、プレイヤーメイドじゃなくNPCショップで売ってる汎用品だ。ランクもそう高くない。耐久度は半分近く減ってるな」
「そうだろうな。あんだけ重装備のプレイヤーをぶら下げたんだ。物凄い加重だったはずだ。……まあ、ロープにはあんま期待してなかったさ。次が本命だ」

 そう言ったキリトが続いて取り出したのは、柄の部分をびっしりと逆棘が覆っていると言う、異形のショートスピアだった。全体が黒い金属で出来ており、天井にぶら下げられたオレンジ色のライトを反射して金属光沢を放っている。

「これ……」

 それを見た途端、隣に座っていたエミが恐怖の滲んだ声を漏らした。無理もない、この棘は深く突き刺さると抜けづらくなる特殊効果を発生させるためのものだが、恐怖という感情が存在しないモンスター相手には効果が薄い。つまりこれは、明らかに『プレイヤーを突き殺す』目的で鍛えられた槍なのだから。

「PCメイドだ」

 鑑定を終えたエギルが低い声で言った瞬間、キリトとアスナが揃って身を乗り出し、マサキは切れ長の目を更に細めた。PCが作成した武器には必ず作成者の名が記録されるため、それを辿ることが出来れば事件の真相により近付くことが可能になる。
 全員の視線がエギルに集中する。それに促されるように、エギルが手元のウィンドウを読み上げた。

「作ったのは《グリムロック》。(つづ)りは《Grimlock》。聞いたことねぇな。少なくとも、一線級の刀匠じゃねえ」
「……エミは、その名前に聞き覚えは?」

 中層プレイヤーとの関わりが多かった彼女であれば、もしかしたら……。そう考えたマサキが首から上のみを回転させて問いかける。エミは暫し天井を見上げ考え込んでいたが、やがて申し訳なさそうに首を左右に振った。

「……なら、まずはグリムロック氏を探すところからか……」
「このクラスの武器が作成できるようになるまで、まったくのソロプレイだったとは考えにくいわ。中層の街で聞き込めば、《グリムロック》を知る人物が見つかるんじゃない?」
「確かにな。こいつらみたいなアホがそうそう居るとは思えん」

 深く頷き、マサキとキリトを交互に見やるエギル。

「な……なんだよ。俺だってたまにはパーティーくらい組むぞ」
「ボス戦のときだけでしょ」

 必死の反撃もむなしく、うっ、と言葉を詰まらせたキリトを尻目に、マサキはエギルに一度睨むような視線をくれて立ち上がった。

「……とりあえず、そのグリムロックの生死だけでも確認しておくべきだろう」

 それには他のメンバーも同感だったらしく、マサキの言葉に全員が頷きで答えた。



 目の前に、真っ黒の壁が座っている。
 真冬の夜のように、冷たくて黒い壁だ。その表面に、左右数十メートルにわたって等間隔でアルファベットの名前が羅列されている。そのうちの幾つかには上から一本の線が引かれ、もうこの世に存在しないことを無機質に告げていた。
 昼のこの場所は親しい人の死を突きつけられた人々で溢れているものだが、夜も遅いせいか、今は誰もいなかった。そのせいで、靴底が足元の鉄板を叩く音が広間中に反響してやたらと耳につく。
 マサキたちは《生命の碑》の前に立つと、グリムロック、そしてカインズの名を探した。二つの名前は程なくして見つかり、見ると、グリムロックは生存、カインズはサクラの月二十二日、十八時二十七分に死亡とあった。

「……日付も時刻も間違いないわ。今日の夕方、わたしたちがレストランから出た直後よ」

 目を伏せてアスナが呟く。それを頭に入れたマサキは、一人輪を抜け出して《T》の列の前に立つ。もう、何度も立った位置だ。目を瞑っていたってここには来られるだろう。
 マサキはある二つの名前の間に視線を向ける。本来ならばそこにあったはずの一つの名前は、あの日持ち主の存在と共に消え去ってからそのままだった。そこに指を走らせると、墓石のように磨かれた黒い石碑は、まるで彼など最初から存在していなかったのだと言わんばかりに、冷たくつるりとした感触を指先に伝えてきた。石の冷たさが指に染み入る度に、指と石との境目が曖昧になっていくような感覚。同時に、マサキの思考も、石の中に吸い込まれていくかのよう。合わせるべき焦点を見失った視界がぼんやりと霞み、代わりにポリゴンが散り行く様と、不快なサウンドエフェクトとが頭を巡る。指先の感触は、蒼風の柄と同じだった。

「……マサキ君?」

 遠慮気味に掛けられたソプラノの声に、マサキの意識は引き戻された。ピントが元に戻り、世界がクリアになる。
 一つ、息を吐く。石に押し付けたままの指先は氷のように冷たくなっていたものの、感覚は石壁のものに戻っていた。

「……今行く」

 いつも通り事務的なトーンで答え、マサキは踵を返す。石碑から目を離す直前、表面に映る青みがかったかがり火が、人魂のように揺らめいていた。

 その後、主だった用事は全て済ませ、翌日の集合時刻を確認して本日は解散となった。各々が転移門を潜り抜けて――キリトとアスナの二人は、珍しく親しげに口を交わしていたが――いく中、マサキは門を離れ南東に歩いた。
 短調のメロディを聞き流しマサキが向かったのは、街南東のゲートだった。ゲート前の広場から城の外へせり出しているテラスも、その外縁に設置された鉄柵も、ゲーム初日から少しだって変わっていない。チラリと周囲に視線を配ると、見回りをする《軍》の連中が目に入ったが、あらかじめ発動させていた《隠蔽(ハイディング)》のおかげで見つかることはなかった。
 前のめりで鉄柵に身体を預け、眼下に広がる星のない夜空を覗き込む。気温は穏やかだが、時折強く吹き上げていく風のせいで若干肌寒い。半ば無意識的に首をすぼめたマサキの前に、どこまでも透明な暗闇が穏やかな微笑を湛えて口を開けている。そうして、寄ってきたものを優しく包み込んで、そのまま綺麗に砕いて呑み込んでしまうのだ。まるで、汚れを浄化する仄暗い深海のように。
 それを眺めていると、もう、このまま終わらせてしまえばいいのではと思えてくる。今からここに飛び込んで、終わらせる。そうすれば、自分の全てが元に戻る。……似たようなことを、この場所で誰かさんから聞いたかな、とマサキは苦笑した。そんな記憶も、全てなかったことにしてしまえばいい。忘れることが不可能だとしても、思い出さないようにすることは不可能ではないだろうから。そもそも自分がここにいるべき理由など、何一つありはしないのだから……。

「……マサキ君? どうしたの?」

 茫漠(ぼうばく)とした夜の帳に沈んでいく思考を突如切り裂いて響いたのは、またしてもエミのソプラノだった。マサキもこれには驚いて、振り向きざまに声を漏らす。

「……それはこっちの台詞だ。何故、こんな場所に」
「それは……マサキ君がわざわざハイディングまでしてこっちに行くのが見えたから、どうしたのかなって思って」

「ごめんね?」と、エミは悪戯を指摘された子供のように笑う。そしてそのままマサキの隣まで歩いてくると、興味深そうに辺りを見回した。

「この場所、好きなの?」
「別に」

 しかめっ面で即答。どちらかと言えば、嫌いな部類に入るだろう。

「えー? ヘンなの」

 お前に言われたくはない……と言い掛けて、その言葉を飲み込む。一体何がそんなに可笑しいのか、彼女は一人でひとしきり笑うと、愛らしい口元をきゅっと引き締めた。

「……グリムロックさんは、やっぱり何か知ってるのかな」

 温度が低くなった彼女の声は、何かを恐れるような不安を孕んでいるように聞こえた。相手はPKに――もしかすると、積極的に――関与したかも知れない人物である以上、そういう人種に耐性のない者がそう思うのも当然だろう。

「……さあな。案外……」

 そう言いかけて、口をつぐんだ。「いい奴なのかも知れん」とでも言うつもりなのだろうか? 我ながら酷い嘘だ。仮に知らなかったとしても、知らずにあんな槍を鍛える人間と親密になれるとは思えない。自分自身どうして嘘をついているのか理解出来ていないから、こうも嘘が下手糞になる。

「……そっか。そうだよね……」

 だが、彼女はその言葉を受け入れて、薄く微笑んだ。もう、全部バレてしまっているのかもしれない。
 マサキは背中を鉄柵に乗せ、頭をその向こう側にぶら下げた。
 最悪の気分だ。このまま自分の身体ごと、何もかもこの空に投げ捨ててしまいたいくらいに。

「マサキ君」

 幾分軽くなったようなエミの声。同時に左手をひやりとした感触が包み込んで、マサキは首を跳ねさせた。

「行こう? もう、大分遅くなっちゃったし」

 すると、先ほどよりも数歩分近いところにエミの顔。暗くてよくは見えないが、少し紅潮しているようにも感じられる。彼女は一度にこりと微笑むと、そのまま手を引いて歩き出した。

「んな……。はぁ……」
「あ、ごめんなさい……。嫌、だった?」
「まあ、感心はしない」

 マサキは繋がれていた手を解くと、その手をポケットに突っ込んで歩き出した。流石にこの状況で投身自殺を図れるほど、マサキは強心臓ではない。

「そういえば、明日はご飯作れなくなっちゃったね……。代わりにモーニングコールでもする?」
「ご自由に。掛ける電話がどこにあるかは知らんがな」

 答えつつ、マサキは真っ暗の天蓋を仰ぎながら、ポケットの中で左手を気持ち悪そうに動かしていた。……全く、変な邪魔が入るところまで、あの時と同じじゃなくても良かっただろうに。
 

 

圏内事件 2

 翌日。頭上を覆う天蓋は、昨日とは打って変わって灰色の暗い雲に覆われ、雲の色に染まったみたいに灰色に濁った雨粒を地上に落としていた。その下を歩くマサキの表情も、感情を感じさせない冷淡さはいつもと同じながら、まるで雨の灰色に上塗りされたかのように、いつもより二段階ほど暗い曇り空だ。

「あ、いたいた。マサキ君、もう二人とも待ってるよ」

 傍らから聞こえた声に反応して一組の男女の視線がこちらを向き、マサキは眉間に刻んだシワを更に深くする。そんなことは気にも留めないといった様子で、マサキとは対照的に、軽い足取りで彼のすぐ隣をニコニコと笑いながら歩いているエミ。彼女こそが、マサキの仏頂面の元凶なのだが。

 今朝のこと。キリトたちとの待ち合わせのきっかり四十五分前に目を覚ましたマサキが、朝のコーヒーを沸かしながら朝食の支度――と言っても、出来合いの安いパンにジャムを塗る程度のものだが――を始めようとしたところで事件は起きた。不意に玄関がノックされ、マサキがいや~な予感を脳裏に感じつつもドアを恐る恐る開けると――予想通り、満面の笑顔を浮かべたエミが立っていたのである。……それも、二人分の朝食の材料と言う名のオマケ付きで。
 結局、その後は彼女の勢いに流される形で朝食をご馳走になったマサキだったが、事あるごとに押しかけてくる彼女に対しては心底呆れ果てていた。だからこそ、

「よう。仲良いんだな」
「勘弁してくれ……」

 待ち合わせ場所に着いた途端、右手と共に口の端を軽く持ち上げながらのキリトの言葉に、マサキにしては珍しく感情の篭った声で答えた。

「第一、 それはそっちもだろう。端から見ればただのデートだ」

 もっとも、少しばかり男側の気合が足りないようだが……、と付け加えながら、マサキはキリトの隣で凛々しく立っているアスナを見やった。と言うのも、今日のアスナの服装は、彼女のトレードマークとでも言うべき紅白の騎士服ではなく、グレーと黒を基調にピンクがあしらわれた上下に、一見しただけで上質と分かる、ピンクのエナメル生地のベレー帽。靴もベレー帽と同じ色と生地で、寝る間も惜しんで攻略に勤しむ攻略組きってのターボジェットエンジン、との、恐らくほぼ全てのSAOプレイヤーが持っているであろうアスナ像からは、少々逸脱したいでたちだ。
 対してデートのお相手となるキリトの方は、いつもと変わらぬ安物のシャツに色の褪せた黒いパンツ、同色のコート。……改めて見ると、デートと言うよりショッピングを楽しむお嬢様と付き従う小間使い、とでも表現した方が的確だと思えてくる。

「わ、凄くおしゃれ……」

 アスナを除けば一番女性物のファッションに詳しいであろうエミが驚きと羨望の混じった声を漏らし、キリトも加えた三人の視線がアスナに集まる。するとみるみるうちにアスナの顔が真っ赤に染まり、彼女はぷいと横を向くと、キリトの手を――恐らく全力で――引っつかみ、

「ち、違うわよ! この人とデートとか、ありえないでしょ!? ほ、ほら、ヨルコさんとの約束に遅れるわよ! あなたも、ぼけっとしてないでさっさと歩く!!」
「な、ちょっ、いで、アスナ、いでででで……!」

 抵抗するキリトを引き摺って歩き出す。

 ぽつんと取り残される二人。

「ウソ……あのアスナさんが……!?」

 小さいながらも驚愕の色が強く浮き出たエミの声が、二人の間でこだました。



 ヨルコと約束した時間より十分ほど早く待ち合わせ場所である宿屋へ着いたマサキは、板張りの壁にもたれながらキリトから昨晩から今朝の出来事について話を聞いていた。曰く、
 DDA幹部の《シュミット》に、半ば強引に証拠品の槍を押収された。
 《貫通属性ダメージ》を受けている状態で圏外から圏内へ入ったところ、ダメージは止まった。

「槍を持っていった連中の中で、今回の一件を知っているらしいのはシュミットただ一人だったんだな?」

 後者のことを話したとき、若干キリトの目が泳いだような気がしたが、マサキはそれを口にすることなくキリトに問うた。

「ああ。シュミット以外の連中は、かなり戸惑った様子だったから……多分、とりあえず頭数だけ揃えて来たんだと思う」
「となると、今回の件と関わりがある可能性があるのはDDAではなく、あくまでシュミット個人ということか。その辺りも、これから聞いておいたほうがいいかも知れないな」

 視界の隅に浮かぶデジタル時計でそろそろ待ち合わせ時刻になることを確認したマサキは、視線を受付横の階段に向ける。その傍らでは、エミとアスナが談笑に(ふけ)っていた。アインクラッド屈指の美少女同士、どうやら話も合うようで、当初は付いていた敬称も今は何処かへ吹き飛んでしまっている。

 視界の端に映るデジタル時計が十時ジャストを告げたのと殆ど同時に、ヨルコは階段の上から姿を現した。睡眠不足なのか、それとも元からそうなのか、両目を眠たそうに(せわ)しく(しばた)かせている。彼女は階段を下りきると、四人に向かって小さく一礼した。

「悪いな、友達が亡くなったばっかりなのに……」

 キリトが申し訳なさそうに言うと、ヨルコは力なく首を振った。

「いえ……いいんです。私も、早く犯人を見つけて欲しいですし……。あの、そちらの方は?」
「ああ、紹介するよ。今日から手伝ってもらうことになった、マサキとエミだ」

 キリトが身体をずらしてマサキたちを促す。それに合わせて二人は一歩前に進んで軽く名乗った。

「マサキだ」
「エミです。今日は辛いと思いますけど、よろしくお願いします」
「そうだったんですか。……ヨルコと言います。今日はわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」

 もう一度深々と頭を下げるヨルコ。彼女は弱々しく首をもたげ――二人の後方に向いた両目を丸くさせて驚いた。

「うわぁ、すごいですね。その服ぜんぶ、アシュレイさんのお店のワンメイク品でしょう。全身揃ってるとこ、初めて見ましたー」

 と、それまでの気落ちした様子は何処へやら、丸くした両目をキラキラと輝かせて勢いよく喋り出す。その眼差しを追って振り返ると、アスナが微妙に口元を引きつらせていた。心なしか、その目は「もう止めて」と言外に言っているようにも思える。

「それ、誰?」
「知らないんですかぁ!?」

 が、そんな彼女の意思(?)とは裏腹に、二人の会話は更にヒートアップ。ヨルコは質問したキリトに呆れ半分の視線を向けながら、興奮を抑えきれない様子で続ける。

「アシュレイさんは、アインクラッドで一番早く裁縫スキル一〇〇〇を達成したカリスマお針子ですよ! 最高級のレア生地持参じゃないと、なかなか作ってくれないんですよー」
「「へーっ!」」

 キリトの声に、エミの声が被さる。ヨルコと同じように彼女の瞳が輝いているのは、やはり女子という生き物の本能ゆえなのだろうか。
 感心と憧れ、二つの色を帯びた三つの視線を浴びたアスナは、頬を急に紅潮させながら一歩後ずさり、

「ち……違うからね!」

 とそっぽを向いて歩いていってしまう。その後姿を眺め続けている三人を横目にマサキが続くと、ようやく我に帰った三人が駆け足ぎみについて来た。エミが一足早くマサキに並び、その後ろをキリトとヨルコが歩く。するとそのうち、ヨルコが小さく、感心したように呟いた。

「でも、本当にびっくりしちゃいました。攻略組の方って、皆さんすごくおしゃれなんですねー」
「いやあ、今日のアスナが特別なだけだと思うけど……って、皆さん?」
「はい。マサキさんが着てる、あのワイシャツとスラックス……さっきチラッとロゴが見えたんですけど、あれってシェイミーさんのところの服ですよね? アインクラッド中を渡り歩いているから会うことすら難しくて、もし会えても服を作ってくれることは滅多にないっていう、伝説のNPCお針子さんの。……噂だと、彼女の作った服は防具じゃないのに特殊能力が付いているって聞いたことあります」
「え……」

 その瞬間、マサキとヨルコ以外の足が止まった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で佇みながらも、その瞳は高速で回っている。そして……三人は見つけてしまった。黒いスラックスの前後のポケットに目立たないよう筆記体で刺繍された、ローマ字をかたどった小さなロゴを。

「…………」

 面倒なことになった……と、顔をしかめるマサキ。

「「「えぇぇぇーーーっ!?」」」

 直後、朝っぱらの往来に、三人の絶叫が響き渡った。



 やけに得心した様子のヨルコ、顔を赤くしてツカツカと進むアスナ、何度も左右に首を捻るキリト、横目にチラチラとマサキを伺うエミ、そして普段通りの無言、無表情で歩くマサキ――と、まさに百人百様の五人組は、暫く歩いた後に一軒のレストランに入った。時間が時間だけに一人の客もいない店内の、一番奥まったテーブルに着く。入り口からは十五、六メートルは離れていて、よほどの大声でなければ店の外から聞かれる心配はない。何処か宿の個室を締め切ると言う手もあるが、それだと《聞き耳》スキルによる盗聴を防ぐのが困難になるため、万全を期すための処置だった。
 すぐさま飛んできたNPCウェイターに飲み物を注文し、ものの数分で揃ったところでマサキが切り出す。

「まず、《グリムロック》に《シュミット》。この二つの名前に聞き覚えは?」

 単刀直入に告げると、ヨルコの小さな身体が微かに震えた。じっくりと間を空けてその質問を嚥下(えんか)し、目を伏せ、大きく息を吐き出してから、彼女はスローモーションのようにゆっくりと頷いた。

「……はい、知ってます。二人とも、昔、私とカインズが所属してたギルドのメンバーです」

 その答えに、マサキの目が細められる。同時に彼の頭脳が高速回転を始め、ヨルコの放つ一語一句をデータとして海馬に詰め込んでいく。
 ヨルコにカインズ、シュミット、そしてグリムロック――今回の事件との関係が疑われる四人が繋がったということは、推測通り、かつて彼女たちのギルドで今回の事件の発端となる何かしらが存在する可能性が高まったと言うことだ。
 そのことを(ただ)したのはキリトだった。
 自分たちは今回の事件の目的を、《復讐》あるいは《制裁》だと考えている。かつてあなたたちのギルドで、何らかの出来事があったのではないか。そして、その出来事のせいで、カインズは犯人の恨みを買ったのではないか……と。

 今度の質問には、中々答えが返ってこなかった。重苦しい沈黙を長い間守り続け、自分の顔が水面に映るティーカップを見つめ。更にそのカップを震える手で持ち上げて、数度小さく喉を鳴らしてから、ようやく彼女は頷き、そして話し出した。彼女たちが所属したギルドで起きた、最初は小さな、そして最後には大きく膨れ上がってしまった、悲運な一つの《出来事》のことを。



 ――ヨルコの話によると、彼女たちが所属していたギルド――ギルド名を《黄金林檎》と言う――は、その日の生活費を稼ぐためだけの、中層プレイヤーの中でもかなり下のレベル帯に位置していたギルドだったという。
 そんなギルドに事件が起きたのは、今から半年前のこと。
 とあるダンジョンに潜っていた黄金林檎のメンバーたちは、偶然にも一匹のレアモンスターと遭遇し、それを屠った。そしてドロップしたのが、騒動の原因となる一つの指輪。

 その指輪は特に装飾が施されているわけでもなく、むしろ地味な見た目のものだったのだが、なんとその効果は「装備したプレイヤーの敏捷値を二十上昇させる」という、現在の最前線でもドロップが確認されていないほど強力なマジックアイテムだった。
 その後、指輪の処遇を巡り、「自分たちで装備して使うべき」とのグループ――カインズ、シュミット、そしてヨルコがこちら側だったらしい――と「売却して得た利益を公平に分配すべき」とのグループにギルドが割れ、口論の末に多数決を取り、売却が決定した。中層を商いの場とする商人では到底売り捌けないレアアイテムであるため、ギルドリーダーが前線の街へ赴いて競売屋(オークショニア)に委託することとなる。リーダーは下調べに時間がかかるだろうとの理由で前線に一泊する予定で出かけ――そしてそのまま、二度と帰ってくることはなかった。
 死亡時刻はリーダーが街へ向かった日の夜中、死亡は《貫通属性ダメージ》……《睡眠PK》であると推測された。
 普段中層にいるプレイヤーがドロップしたレアアイテムを売りに前線へ向かったところ、PKに遭う……全てを偶然の一言で片付けるには、あまりにも出来すぎている。しかも、その日レアアイテムを持ったリーダーが前線に出ているということを知っているのは《黄金林檎》のメンバーだけであり、と言うことは当然、ギルド内の誰かが犯行に及んだ可能性が高い。――そう考えたメンバーたちは、互いに疑心暗鬼に陥って、やがてギルド《黄金林檎》はメンバーの解散により消滅した。

「…………」

 語り部を失った空間が、そこだけ世界から隔離されたみたいに静寂に呑み込まれた。
 テーブルの上に頬杖をついたマサキがそのままの姿勢で視線を左右に振ると、四人は皆沈痛そうな面持ちで俯いて静止していた。動いているのは、マサキの視線だけ。
 ボス戦やシリカの一件等ごく僅かの例外を除くと未だ三人以上で戦闘した経験がないマサキは、当然ながらそのようなギルド内の問題とは無縁だった。しかし、血盟騎士団と言うアインクラッドきっての大ギルド幹部であるアスナは、そして多くの中層ギルドに助っ人として参加してきたエミは、そんな人間関係の嫌な部分を何度も目の当たりにしてきたのだろう。キリトも同じような顔をしていると言うことは、このようないざこざはネットゲームではありふれたことなのかも知れない。

 あるいは――。
 考えながら身体を後ろに倒し、頬杖から背もたれに体重を移動させると、静まり返ったテーブルに椅子の軋む音がよく響いた。
 ――俺がおかしいのか、か。

 彼らがああも胸を痛められるのは、自分自身に似たような経験があるからだけでも、彼らが単純に“良い奴”だからだけでもないだろう。同時に、マサキがこれだけ冷淡でいられるのも、ただマサキが他者との関わりを避けているからだけではない。
 “この世界を、現実として認識できているか”。それが、マサキとキリトたちの一番の差だ。この世界が現実だと思えているから、出来事が身近に感じられる。この世界が現実だと思えていないから、他者の悲しみに冷淡でいられる。意志を持たずとも、惰性で生きられる。何人もの命を一方的に搾取しても、のうのうと日々を過ごしていける。
 例えるなら――そう、まさにゲーム。自分と言うキャラクターを操作する、一人称視点のゲーム。一時は違ったが、戻ってしまった。彼が消えた、その瞬間に。



 その後また幾つかの質問をしたところで、今日は終わりと言うことにしてヨルコを元の宿まで送り届けた。アスナはもっと安全な血盟騎士団本部に部屋を用意すると提案したが、彼女は頑なにそれを拒否した。恐らくは、その過程で半年前の事件が公になるのを避けたかったのだろう。
 転移門広場まで戻った時には、既に午前十一時近かった。これからどうするか、マサキが幾つか案を思い浮かべていると、不意に前を歩くキリトと目が合った。その瞬間、キリトは辺りを覆い始めた霧で身を隠すように、急に忍び足になってアスナの隣を離脱、マサキの隣にポジションを取った。怪訝そうに顔を歪めるマサキに、キリトが耳元で言う。

「……なあ、アレ、やっぱり褒めた方がいいのかな?」
「アレ? ……あぁ」

 キリトが横目でチラチラと視線を送っているのは、斜め前を相変わらずツカツカと小気味いいテンポで歩いていくアスナの背中。というか、服だった。要するに、女性がいつもと違う服装をしてきたことに対して困惑している、と言うことか。前言撤回。やはり小間使いにもなれそうにない。……まあ、マサキとてそう言った類のノウハウなど欠片も持ってはいないのだが。

「知らん。大体、俺は女性とデートなんてしたこともない」
「え、マジで?」
「悪いか?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」

 パチパチと大きく数度瞬きしながらエミとマサキを見比べたり、かと思ったら今度はアスナとマサキを見比べたりと、あからさまにうろたえるキリト。そんなことを暫し繰り返した後に、やはり一人では心許ないのか、懇願の眼差しで両手を合わせる。

「でもさ、ホラ、旅は道連れってよく言うだろ? だからさ、ここは一つ二人で……」
「断る。やりたいなら一人でやれ」
「いや、別にやりたいわけじゃ……」
「二人とも、何話してるの?」

 突き放されたキリトが尚も食い下がろうとしたところ、キリトの逆を歩いていたエミがひょっこりと顔を覗かせた。その声がアスナにも届いてしまったらしく、彼女も足を止めて振り向く。
 うっ……と、半歩後ずさりながらキリトが呻く。両の瞳を必死に振って逃げ場を探すが、辺りに頼れそうなものなどなく。

「うほん、いや、えーーと。その……よ、よく似合ってますよ、それ」

 ……全く見栄えはしないが、まあ形にはなったか。果たしてアスナの反応は如何に――と思う間もなく、キリトの胸に人差し指が超高速で突きつけられ。

「うー! そーゆーのはね、最初に見たときに言いなさい!!」

 顔を耳まで真っ赤に染めたアスナは、顔に「あるぇ?」と太字で書かれたキリトに言い捨て、先ほどまでより三割増の歩行速度で歩き去る。

「うわぁ……」

 この場で唯一女性心理と言うものを理解しているエミの「あり得ない」とでも言わんばかりの視線が、トドメとばかりにキリトを襲った。 
 

 
後書き
 感想、評価、OSS等どしどしどうぞ。 

 

圏内事件 3

「なあ、そんなに緊張しなくても……」
「誰のせいだと思ってるのよ! っていうか、何でキミはそんないつも通りでいられるのよ……」

 やや乱暴にブラウンの髪を払ったアスナが、気疲れしたような溜息をキリトに向けた。その間にも、いつもの紅白の騎士衣装に着替えた彼女はせわしなくキリトと青白く光るゲートとの間で視線を行き来させている。二人の後方ではエミが苦笑を浮かべているが、緊張ゆえか、それもどこかぎこちない。

 ヨルコと別れた後、マサキたちは次に起こすアクションとして、「カインズ殺害の詳細な手口を検討する」という案を採択した。そしてこの時、「もっとこの世界に関する知識を持った人物の協力が欲しい」との理由でとある人物の助力を仰いだため、現在彼らはその人物を出迎えるべく第五十層主街区《アルゲード》の転移門前で待機していたのである。ちなみに、アスナとエミが緊張している原因も、その呼び出した人物にある。

「……来たな」

 腕を組み、近くの柱にもたれかかりながらゲートを見ていたマサキが呟いた瞬間、青白く光るゲートから出てきた人物の姿に広場中がざわめいた。暗い紅のローブをまとい、ホワイトブロンドの長髪を首元で束ねた男――《聖騎士》ヒースクリフは真鍮色の瞳でマサキたちを捉えると、音もなく歩み寄った。すると、石のように硬直していたアスナが急に動き出し、たかと思うと、かかとを鳴らして敬礼した。

「突然のお呼び立て、申し訳ありません団長! このバ……いえ、この者がどうしてもと言ってきかないものですから……」
「何、ちょうど昼食にしようと思っていたところだ。かの《黒の剣士》キリト君に《穹色の風》マサキ君、《モノクロームの天使》エミ君の三人と共に食事できる機会など、そうそうあろうとも思えないしな。夕方からは装備部との打ち合わせが入っているが、それまでなら付き合える」

 息せき切って弁解するアスナに、ヒースクリフは滑らかなテノールで伝えてマサキたちを見回した。キリトが肩をすくめ、先のフロアボス攻略戦の礼も兼ねて今日は俺のオゴリだ、と宣言しつつ黒いコートをなびかせて体を翻す。

 まるで迷宮のような細い路地を右へ左へ、果ては潜って登って回り込んだ果てに辿り着いたのは、一軒の寂れたNPCレストランだった。赤い暖簾(のれん)に、よく中華料理の皿で見かける四角い渦巻き模様が白で染め抜かれている。
 一目見て“胡散臭い”との印象を受けたマサキが若干顔をしかめながらキリトに続いて暖簾をくぐると、案の定店内には一人の客もいなかった。一番奥の安っぽい四人がけテーブルにアスナとキリト、ヒースクリフが、そこから通路を挟んで向かい側のカウンターにマサキとエミが腰掛け、厨房で客の到来を心底煩わしく思っていそうな顔をしたNPCにキリトが人数分の《アルゲードそば》なるメニューをオーダー。卓上にひっくり返されて積み上げられた曇りガラスのコップに、これまた安っぽい水差しから氷水をガラガラ注ぐ。

「なんだか……残念会みたくなってきたんだけど……」
「気のせい気のせい。それより、忙しい団長どののためにさっそく本題に入ろうぜ」

 これ以上なく微妙そうに唇をへの字に曲げたアスナだったが、キリトに促されると、一度コホンと咳払いをして表情を整えてから事件のあらましを語った。どことなく緊張感を持った店内に、アスナの凛とした声だけが響く。その全てを聞き終えてから、ヒースクリフは一度コップを傾けて、ふむ、と呟いた。

「では、まずは君たちの推測から聞こうじゃないか。キリト君。君は今回の《圏内殺人》の手口をどう考えているのかな?」
「……まあ、大まかには三通りだよな。まず一つ目は、正当な圏内デュエルによるもの。二つ目は、既知の手段の組み合わせによるシステム上の抜け道。そして三つ目は……アンチクリミナルコードを無効化する未知のスキル、あるいはアイテム」
「三つ目はあり得ない」

 キリトの仮説を、マサキが即座に否定した。と、ヒースクリフは「ほう」と呟いて興味深そうな視線を、その他の三人は驚いた顔をマサキに向けてきた。言外に理由を尋ねられていると察したマサキは、氷水で口を湿らせて二の句を継ぐ。

「――SAOのルールは、原則全員に平等で、公正だ。そしてそれは、プレイヤー間の格差を埋めることによって『モチベーション次第でどこまででも強くなれる』という状況を作り出し、プレイヤーたちの競争心と強さへの執着を煽ることでハイレベルプレイヤーを育成、『アインクラッドを攻略する』という、ゲームの目的を()()()()()()()()どうしても必要な要素だった。にもかかわらず、その大原則を正面から破り捨てる愚を茅場晶彦がするとは思えないんだよ。……もっとも、《聖騎士》殿を見る限り、どうやら例外はあるようだが」
「ふ……マサキ君、それはお互い様と言うものではないかな?」

 最後にチクリと付け足すと、ヒースクリフは片頬を持ち上げて返した。肩をすくめて返答するマサキ。ヒースクリフが続けて言う。

「私としても、彼の意見に賛成だ。このゲームを開発した人物が、そんなことをするとは思えない。……では、次はマサキ君に尋ねようか。君は、この事件の手口をどう推測する?」

 氷水に口をつけていたマサキは、含んでいた水を飲み下してから答えた。

「一つ目、二つ目はキリトと同じだな。三つ目は今の理由で反対。あともう一つ挙げるとすれば……ゲームを構築しているシステム群に、何かエラーやバグの類が発生した、ということくらいか」

 コップを片手にマサキが告げた途端、キリトの顔に衝撃が走った。珍しくヒースクリフが眉を持ち上げ、ほう、と声を漏らす。と、横合いからいまいち話を理解できていない様子でエミが口を挟んできた。

「バグ……って、わたしあんまり詳しくないけど、何もしてないのにゲームがおかしくなっちゃうことだよね? でも、わたしそんなの今まで一度も聞いたことないよ?」
「ゲームデザイナーとカーディナルのエラー訂正機能が、それだけ良く出来ていたということだろうな。が、バグなんてものは、無くそうと思って無くせるものじゃない。露見していないものも含めて、どんなバグが幾つあるのかは知らないが……必ず、どこかには存在すると考えるべきだ。キリト、お前、今まで一つのバグや不具合も存在しないオンラインゲームなんてものを見たことがあるか?」
「……そりゃあ……」

 ないけどさ、と呟き、キリトは口をつぐむ。全く考えていなかったという風な思案顔だ。

 キリトがバグの可能性に思い至らなかったのも無理はない。そもそもこのゲームでは、先ほどエミが言ったとおりその類の報告が全くないからだ。それどころか、プレイヤー側の要求に対してサーバー側の処理が追いつかなくなるために生じる遅延――いわゆる《処理落ち》や《ラグ》さえ見かけた者はいない。それが一年以上も続いたため、プレイヤーたちは既に「そういうもの」なのだと認識して疑わなくなったのである。

「しかし、随分と断定的な口調だな。どこかでバグや不具合を見つけたことがあるのかい?」

 ヒースクリフが問う。

「……いや。単に理論的可能性を指摘しただけだ」

 目を瞑り、息を大きめに吐き出してから水を呷る。別に水が飲みたいわけではなく、表情が崩れそうなのを誤魔化すためのテクニックだ。

「……だとしても、今の時点でその可能性を検証するのはナンセンスだわ。仮に今回の件がバグによるものだったとして、確かめようがないもの」

 とアスナ。
 ――いや。
 マサキはカウンターに背中を預け、メニューが張り紙された壁の向こうを見た。

「……方法なら……」

 マサキの口から、言葉が思考の検閲をすり抜けて漏れた。すぐ我に帰った思考回路が戻ってきて、続きをシャットアウト。中途半端に放り出された言の葉が、役割を遂げることなく仮想の空気に溶けていく。

 馬鹿馬鹿しい。マサキは自分の思考を切り捨てた。そうしてバグを見つけたところで、一体どうなる? バグを直して終わりにするか?
 ……くだらない。それでは茅場を手助けするのと同じではないか。
 それに、今更だ。
 やる気があるのなら、とっくにやっていた。何度だって機会はあった。
 この世界に来る前にも、来てからも。
 昨日だって。
 そして、今この瞬間だって。
 その全てのチャンスを尽く手放してきたからこそ、今この瞬間もつつがなく世界は続き、人の命を喰らい続けている。

「マサキ君」

 澄んだ声に呼び戻されるようにしてピントが戻る。目の前に、小さな手のひらが左から伸びてきて浮かんでいた。

「コップちょうだい。お水、注いであげるから」
「あ、ああ……」

 一瞬だけ思考が止まった間に、マサキは言われるがまま、いつの間にか中身が尽きていたコップを差し出されたエミの手に握らせていた。エミは何が楽しいのか、にこにこと口元を緩ませながら水差しを傾ける。そんな仕草に、何となくマサキは毒気を抜かれてしまう。
 小さく、肺から息を抜く。

「……まあ、そうだな。今すぐそれを確かめるのは難しい。となると……まず議論すべきは一つ目、正当なデュエルの結果である可能性か」
「よかろう。……しかし、料理が出てくるのが遅いな、この店は」
「俺の知る限り、あのマスターがアインクラッドで一番やる気ないNPCだね」
「……そう言えば、今まで気にしたこともなかったけど……」

 微妙に脱線しかけた話の軌道を修正するように、アスナが口を開いた。



 《醤油抜きの醤油ラーメン》と言う混沌極まるメニューを肴に行われた昼食会は、結局幾つかの可能性が不可能であると結論付けただけで終了した。選択肢を狭めるという意味で言えば有意義ではあったが、解決への道筋が見えたわけでもなく、事態はより迷宮に近づいたと言うのが正しい。故に、マサキたち四人の間に流れる空気も必然的に重苦しいものに――

「あ! ねぇねぇアスナ、これも可愛い!」
「わ、ホントだ。うーん、買っちゃおうかなぁ?」
「いいと思うよ? アスナ、似合いそうだし」

 ――ならなかった。アインクラッド随一と言えるほどの表通りの喧騒すら届かないアルゲードの裏路地は、およそ似つかわしくない黄色い声に染め上げられていた。
 一足先に帰ったヒースクリフを見送り、次の行動に移るべく、転移門広場を目指して歩き出したマサキたちだったが、その歩みは予想外に遅かった。女子二人が裏通りの怪しげな露店や暗渠に見入ってしまったためである。

「……なあ、これ、いつ終わるんだ……?」

 困り果てたように尋ねてくるキリト。

「知らん。向こうに聞け」

 マサキはぶっきらぼうに返すと、キリトの顔に「それができたら苦労はしないんだって……」とでも言いたげな渋面が浮かび上がった。それを横目でスルーしつつ、マサキはアクセサリーを手にはしゃぐエミとアスナを見やる。
 エミについては、まだ分かる。以前夕飯の買い物という名目で強制的に連れ回された時も、胡散臭い屋台やうらぶれた店に直撃しては、興味深そうに商品を眺めていたものだ。恐らく、彼女は元来そういう性格なのだろう。
 予想外だったのはアスナだ。一日でも攻略をサボろうものなら烈火の如く激怒し、攻略ペースを最前線で引っ張る攻略の鬼。つい先日も攻略の方法を巡ってキリトと激論を繰り広げた《閃光》と、楽しそうに露店を冷やかす彼女が同一人物だと、一体誰が信じられよう?
 などと考えていると、ぽつんと取り残された男二人の視線に気付いたのか、二人はこちらに振り返り、キュートに笑いながら首をかしげた。
 あからさまにうろたえるキリトを尻目に、右手をヒラヒラと振って「何でもない」と告げる。

 しかし――黒ずんだ石壁にもたれながらマサキは思う。アスナが血盟騎士団に入って以来、キリトと二人のところを見かけることはぱったりとなくなった。特に副団長に就任してからは、大ギルドの幹部とソロプレイヤーという立場の違いもあり、どちらかと言えば対立することの方が多かったほどだ。それが、この変わりようだ。一体この二人に何があったというのだろう。もっとも、何があろうとなかろうと、マサキには関係のないことなのだが――。

 ――『……俺、ギルドを一つ、潰したんだ』

 マサキの脳裏を掠める、キリトの声。

 ――『俺……実は、ビーターなんだ』

 かつての親友の声が、すぐ後に続く。それら二つが同じ響きを持っていたことに、マサキは今になって気付いた。
 マサキは横目でキリトを見やる。柔弱そうな瞳の奥に滲む、黒目より暗いフィルター。
 通る色を全て黒で塗りつぶし、光を極端に恐れ、遠ざける。
 それも、当時の彼と同じものだった。
 もしかしたら、今のマサキ自身とも。
 確か……あの時は、中学生の書いたポエムみたいな言葉で彼を丸め込んだのだったか。

「キリト君、これ、黄色と水色だったら、どっちがいいと思う?」

 髪飾りを物色していたアスナが、振り返ってキリトに尋ねた。

「え? と……黄色、かな」
「なに? それ。もう、こっち来て、もっとよく見て選んでよ。……って、あ、先に言っておきますけどね、キミの好みに合わせようとか、そういう意味じゃないですからね! ……ほら、ぼさっとしてないでさっさと来る!」

 ツンと膨れていたアスナは一気に顔を真っ赤にしてまくし立てると、ただ戸惑うことしか出来ずにいたキリトを引き摺って行ってしまった。
 その一幕を端から見ていたマサキが、思わず苦笑を漏らす。何だかんだ、あのコンビの相性は良好のままのようだ。キリトのことは、彼女ならそのうち気付くだろう。その時……彼女は、果たしてどうするだろうか。
 それは、マサキが介入することではない。
 否、マサキでは介入できない。
 以前のように丸め込む言葉は、今のマサキが使うには滑稽すぎるから。
 大人になった中学生が、昔と同じポエムなんて書けないのと同じこと。

「マサキ君! あそこ、何か食べ物屋さんみたい! 見に行こ!」
「な、ん……っ!?」

 唐突に腕を真横に引っ張られ、マサキは右向きに傾いた。何とか足を出して転ぶのを回避するが、たたらを踏んでいる間にも手は引かれていく。そして、雀の涙ほどの筋力値しか持たないマサキでは、手を振りほどくことさえ叶わない。

「わ、美味しそう。マサキ君は、何味にする?」

 マサキは走りながら溜息をつく。

「何だっていい……」

 目の前には、楽しそうに跳ねるポニーテール。
 手首から伝わる力と温かさが、こんな風に強制的に連れ回される道草も以前は日常茶飯事だったことをマサキに思い出させて。
 昨日今日と、よく昔を思い出すな、とマサキは思った。

 彼――トウマの死から、もうすぐ一年になる。 
 

 
後書き
 ご意見、ご感想等、どしどしどうぞ。 

 

圏内事件 4

 
前書き
 お待たせいたしました。今回はちょっぴり長めです。 

 
 風が、吹いている。
 開け放たれた窓に吹き込む風に、夕日を浴びてオレンジ色に染まったレースカーテンと、濃紺色の女性の髪が巻き上げられる。
 宙に浮いた毛先に残照が入り混じり、紅紫のグラデーションを描く。
 音はない。
 ともすれば時が進んでいるのかさえ解らなくなりそうな景色の中で、女性が口を動かす仕草だけが、不可逆的な時の流れを証明していた。彼女の口が横に開き、世界に音が戻る。
 その寸前になって――
 とん、と。乾いた音が、仮想の空気を震わせた。その瞬間、それまでが嘘のように女性の身体がわなないた。
 目を見開き、開いたままの口が震える。腰掛けた窓枠の上で転がるように振り返る。そして向けられた背中に、スローイングダガーの柄が突き立てられているのをマサキは見た。女性の身体が窓の外にぐらりと倒れる。

「な……」
「あっ……!」

 喘ぐ以外の反応を見出せないその場の誰が駆けつけるよりも早く、女性の全身が窓の向こうに投げ出され――
 そうして、ヨルコの仮想体はガラスのように砕かれて、跡形もなく消え去った。



 この時マサキたちがいたのは、ヨルコが宿泊する宿の部屋だった。事件解決の手がかりを求めてギルド《聖竜連合》のシュミットに話を聞きに行ったところ、交換条件として彼女との面談を要求してきたからだ。
 恐怖ゆえか、互いにできるだけの重装備で身を包み、防御力をブーストしての異様な会談。そしてその中で、事件は起きた。
 最大限に加算してあった筈の防御力を歯牙にもかけずに、
 中層レベルのプレイヤーの体力が、
 たった一撃、
 たかがスローイングダガーの攻撃力で、
 跡形もなく消し飛ばされた。

「……あり得ない」

 マサキの両目はヨルコが落下した先の石畳とそこに突き刺さった短剣とを捉えていたが、脳は既にそれを見ていなかった。マサキの脳内で行われていたのは、ヨルコの背中に短剣が突き立てられ、彼女のHPがゼロになって表の通りに墜落するまでの一部始終の再生と解析。しかしながら、マサキの頭脳をもってしても、今の事象に対しては理解不能(エラー)の結果を吐き出すことしかできなかった。
 デュエルではない。
 ポータルPKでもない。
 そして、もし。もし、システム上の抜け道でも、未知のスキルやアイテム効果の悪用でもなかったとしたら――

「マサキ、前だ! 正面!!」

 思考の海に溺れかけたマサキを引き上げたのは、いつの間にか隣にいたキリトの怒鳴り声だった。マサキは応答する代わりに顔を振り上げ、東から徐々に藍色に染まりつつある街並みを視線で精査する。
 ()()()はキリトの言葉通り、マサキの真正面、宿屋からツーブロック離れた屋根の上に立っていた。下りつつある夜の帳に溶け込むような黒いシルエットにマサキが注目した途端、ディティール・フォーカシングシステムが作動してその姿を克明に浮かび上がらせる。
 全身を包む黒いフーデッドロープ。風が吹くたびにその裾がはためくが、人相はおろか顔の輪郭さえぼんやりとしか見えない。

「……っ!」

 死神――脳裏で二つのシルエットが交錯した。その瞬間、マサキは半ば無意識に窓枠を蹴飛ばすと、道を挟んだ向かい側の屋根まで跳躍した。

「野郎っ……!!」

 続いて、キリトも同じくジャンプ。敏捷値の差で僅かに飛距離が足りなかったものの、逆にマサキにはない筋力補正を生かして屋根の縁を掴むと、一息に身体を持ち上げてよじ登る。

「マサキ君!」
「キリト君、だめよ!」

 鋭い制止の声。理由は明らかだった。奴から攻撃を喰らえば、キリトはたった一撃で死ぬかもしれないのだから。
 蒼風の柄にかけたマサキの右手が微かに硬直する。

「……キリト」
「大丈夫だ。行くぞ!」

 キリトはマサキの掛けた声を拒むように背中から剣を引き抜くと、奥歯を軋ませながら駆け出した。
 それに引き摺られるようにして、マサキが後を追う。斜め後ろから覗くキリトの横顔は、後悔と、そして怒りで引きつっていた。
 目を伏せ、蒼風を握り締める。
 手の中に、柄の感触。
 それはあっけなく鞘から放たれた。
 人を殺める得物にしては、軽すぎるくらいに。
 切れ長の目が更に細められ、
 マサキは正面を見据える。
 漆黒のローブただ一人が、瞳の中に立っていた。

「挟み込む。そのまま走れ!」

 マサキは目を逸らすことなく指示すると、キリトと同じ程度に抑えていたスピードを一気に限界まで加速させた。キリトを追い抜くと同時に屋根を蹴り上げ、十メートル弱はあろうかという往来を易々と飛び越えて向かい側の屋根に着地。下のプレイヤーから自分の姿が見えにくくなる程度に身をかがめ、意識を集中、黒ローブの立っているより数百メートル後方の屋根と、そこに立っているマサキ自身を頭の中に描き出す。――次の瞬間、マサキの身体は思い描いた通りの場所に移っていた。
 ローブの男はマサキを探すように数度首を振った後、振り返ってようやくこちらを視認した。相変わらず顔は殆ど見えなかったが、心なしか驚いているようにも見える。
 その間にもマサキとキリトは猛スピードで屋根から屋根へと飛び移り、黒ローブとの距離と確実に縮めていく。しかし、黒ローブは二人の相手などするつもりはないと言わんばかりに微動だにしない。その間にも彼我の距離はみるみるうちに縮まっていき、やがてマサキが向こうから数えて二つ目の屋根に飛び移ろうとした、その時。黒ローブは緩慢な動作でキリトとマサキを交互に見やると、やおら懐に手を差し込んだ。刹那、マサキの脳が回転数を急速に高め、相手の一挙一投足が幾つもの計算式に分解されてシナプスの間を駆け巡る。
 しかし、マサキ、そしてキリトが戦闘を覚悟したのも束の間、引き抜かれた黒ローブの手に握られていたのは、ヨルコに突き刺さったスローイングダガーでも、カインズを貫いたショートスピアでもなく。見慣れたサファイアブルーの輝きを放つ転移結晶だった。

「ッ……!」

 マサキはありったけの力を足に込め、これまでよりも遥かに大きな角度で飛び上がった。間に残った建物を一気に越え、逃亡を阻止する算段だ。マサキの意図を瞬時に理解したらしいキリトが、黒ローブの向こう側で投擲用のピックを抜く。咄嗟の回避行動を取らせて詠唱を邪魔するつもりか。マサキは風になびくローブを視界の中心に縫いつけて、右手一本で持った蒼風を軽く胴に引きつける。
 だが相手は冷静だった。真正面から飛来するピックなど目に入っていないかのように転移結晶を掲げ、直後、キリトの放った三本のピックはローブに達する寸前で紫色の障壁に阻まれて力なく落下する。
 憎たらしいまでの落ち着きにマサキは短く舌を打ちつつ、風刀スキル《嶺渡》を発動させた。空中を踏みしめ、黒ローブに向かって更に加速。
 ソードスキルのアシストを使うことで移動速度を更に速め、詠唱前の確保が叶わなかったとしても相手の音声を聞き取ることで逃亡先を割り出せれば、すぐにでも追いかけられる。
 それに、あのローブ姿では嫌でも人目に付く。逃亡先で聞き込みをすれば多少の情報は得られるだろう――そんな公算を頭の中に巡らせながら、ありったけの集中力をその直後に発せられるであろう音声コマンドを聞き取るためにのみに費やそうとした。
 しかし――次の瞬間マサキの耳――正確には聴覚野に届いたサウンドは、求めていた黒ローブの声ではなく、街全体に響き渡った大音量の鐘の音だった。この瞬間、無情にもアインクラッド中の時計が午後五時を指し示したのだ。マサキが聞き取るはずだった音声コマンドは鐘の放ったサウンドに掻き消され、僅か数メートル先に迫った漆黒のローブは悠々と逃亡を完遂した。

「クソッ……!」

 ギリ、と奥歯を鳴らすマサキ。着地と同時、意図的にソードスキルをキャンセル。蒼風がまとっていた水色のエフェクトが霧散し、マサキの身体もその代償として硬直する。身動きの取れないマサキにできたのは、ほんの少し遅れて到着したキリトと共に、数秒前までローブが立っていた座標を横目で眺めていることだけだった。



 宿屋の一室。眼下に、ひっそりと掲げられた酒場の看板が見える。
 黒ローブを取り逃した後、マサキたちはシュミットから聞きだした情報を頼りに、鍛冶屋グリムロックが気に入っていたという酒場で張り込んでいた。今や唯一となってしまった手がかり、すなわちグリムロック本人への接触を試みるためである。
 窓際に並べた椅子に深く腰掛けたマサキが見下ろす先では、数人のグループが一組、酒場に入っていったところだった。先ほどのローブと背格好が違っていたため見逃したが、もし似つかわしい人物を見つけた場合は、キリトがデュエル申請で名前を確かめる算段になっている。明らかな非マナー行為であるし、相手がデュエルを受け入れる場合もある。とても得策と言えるものではないが、かと言って他に策がないのも確かだ。
 しかし、マサキが思考を巡らせていたのは別のことだった。

 ――何かがおかしい。高速回転を続けるマサキの脳で、僅かな引っ掛かりが棘のように何処かに刺さり、そこでシグナルを発し続けていた。それが一体何なのか。それを確かめるべく、マサキはヨルコ殺害の一部始終を繰り返し頭の中で再生する。と、眼前の窓に、横から差し出されたらしいブラウンの物体が映し出された。マサキが視線を胸の前に落とすと、それが野菜や肉がたっぷりと挟まれたバケットであると分かった。

「アスナが作っててくれたんだって。もう耐久値が切れちゃうみたいだから、早めに食べて」
「……ああ」

 マサキは差し出されたバケットを手に取り、機械的な動作で口に運ぶ。ちらりと横を伺うと、何が楽しいのか、にこにこと笑ってこちらを見ているエミの向こうで、キリトがまた地雷を踏み抜いたらしく閃光様の折檻を喰らっていた。
 再び思考に没頭するマサキ。
 しかし、今度は今までほど集中できなかった。バケットの味が良かったからでも、怒られて恐縮するキリトの様が愉快だったからでもない。その前、差し出されたバケットを映した窓が、何故か頭から離れなかったのだ。

「今日ダメだったら、明日は私が何か作ってこようかなぁ……。マサキ君は、何かリクエストとかある?」
「窓……」
「え、窓?」

 窓。そのワードに着目しつつ、もう一度事件の一部始終をリプレイ。開いていた部屋の窓。スローイングダガーはそこから飛来し、ヨルコはそこから落下。そして、その向こう側に黒ローブ……引っかかったのは、一連の出来事が窓の近くで起きたから? ――いや、違う。だとしたら……待てよ? 何故あの時、あの窓は……

「ちょっと、マサキ君? 聞いてる?」

 マサキの顔を、エミが覗き込んでくる。マサキが僅かに視線を下げ、焦点を合わせた。――目の前に現れたエミの顔ではなく、窓に映ったその後ろ頭に。

「何故……あの部屋の窓は開いていた?」

 その言葉は、独り言というには十分すぎるボリュームを持っていた。エミだけでなく、キリトとアスナまでが反応してマサキに顔を向け、そして意味が分からないというように二人で見合わせた。

「いや、何でって……」
「あの時ヨルコは命を何者か……それもアンチクリミナルコードの無力化なんて芸当のできる、得体の知れない暗殺者に狙われている可能性があり、そして殺されることを恐れていた。服を何枚も重ね着し、防御力を最大限確保しようとするくらいにな。窓とカーテンを閉め切り、布団の中で丸まっているくらいの行動を取ってもおかしくはないくらいの状況だ。……にも関わらず、彼女は豪胆なことに窓を開け放ち、カーテンすら引いていなかった。一体何故だ?」

 そこまでマサキが語ると、呆けていた三人の顔が一斉に引き締まった。必死に考えているのだろう、真剣な表情だ。

「あの時、ヨルコさんが一番警戒していたのはシュミットさんだったはず。だから、シュミットさんが暗殺者だった場合に備えて、脱出経路を作っておいたとか?」
「だとしたら、ロープの一本や二本の備えがあってもいいんじゃないか。圏内である以上落下ダメージの心配はないが、受身を取り損なえば酩酊感で動けなくなる」
「それは……でも、寝不足で、しかも強い恐怖に晒されていたヨルコさんに、そこまで考えが巡らせられるかしら?」
「……なら、窓のことは一度保留にしよう。疑問点はもう一つある」

 そう言って、マサキは立ち上がった。事件発生当時を再現するように、北側の壁まで歩いて中央を向く。

「ヨルコは窓際で何者かから攻撃を受けた。異変に気付いた俺たちが向かうも間に合わず、窓の外に落下」

 そして、自分自身の記憶と照らし合わせるように窓際まで歩き、下を走る往来に目を落とす。

「そして俺とキリトが、遠くの屋根の上に犯人と思われる黒ローブを発見した。……ここで二つ目だ。キリト。最初にカインズが殺された時、犯人と思しき人物は確認できなかった。そうだな?」
「あ、ああ……。教会には誰もいなかったし、俺の《索敵》スキルでも確認できなかった」
「でも、ヨルコさんは「カインズの後ろに人影を見た」って言ってたわ」
「その証言を真実だと仮定して考えると、その時犯人は完全な『透明人間』となって現場から逃亡したことになる。スキルかアイテムか、あるいは何かのミスリードか……それは分からないが、そんな手段が存在するとして、何故ヨルコ殺害時にも使わなかった? それを使えば、何の痕跡すら残さずにその場を後にできたはずだ。だが現実には犯人はその方法を選択せず、結果として俺たちに背格好というヒントを与えることになった」

 窓枠に腰掛けたマサキが、そこで一旦話を区切る。そして、視線を投げてくるキリトたちを見回してから、彼らに向けて指を二本立てて見せた。

「――となれば、考えられる理由は二つ。突発的な理由以外でそのトリックが使えなくなった。もしくは、『俺たちに姿を見られること』それ自体が目的、あるいは目的の一部だった」
「目的、って……?」

 エミが問いかけると、マサキは再び思案しながら答えた。

「それは分からん。が、可能性を挙げるとするならば……俺たちに姿を見せて、何か相手に得があるとは思えん。となれば、見せる相手はあの場所にいたもう一人の人物……シュミットになるが……」

 マサキの言葉は、そこで途切れた。引き伸ばされた言葉の余韻が部屋の空気に溶けきってなお、マサキが続く言葉を口にすることはなかった。否、できなかった。それほどまでに深く、思考に埋没していたのだ。

 ――彼はあの後、一連の仕業をギルド《黄金林檎》リーダーの幽霊によるものだと言って怖れた。それが犯人の狙いか? だが、そんなことをして何になるというのだろう。まず考えられるのは、半年前の指輪事件との関連だが……最初からシュミットを殺すつもりなら、わざわざここまで遠まわしにする必要もないはずだ。復讐として、恐怖を与えて精神的に疲弊させてから殺害する? だが、ヨルコの話では、事件以前に彼女たちが命の危険を感じ取っていたようには見えなかった。シュミットだけ特別扱いする理由とは何なのか。彼が事件に関与していたと知っていた? いや、だとすればそもそもヨルコとカインズを殺す理由がなくなる。シュミットの前に幽霊として現れ、恐怖を煽るだけで事足りるはず……待てよ? 幽霊……あの黒いローブが《黄金林檎》リーダーの物だったとして、それだけで暗殺者を幽霊だと思い込むだろうか? 偶然……とは考えられないまでも、グリムロックが弔いの意を込めて使ったとか、色々考えられるはずだ。そもそも、「幽霊」の単語を最初に使ったのは、シュミットではなく……

「……だとしたら」

 ――あり得ない。どう考えてもおかしい。マサキの脳裏に浮かんだある推論を、自分自身が即座に否定した。だが一旦浮上したものを捨て去るまでにはいかず、むしろマサキの意図に反抗するかのように肥大化し、やがてマサキの口から零れ落ちる。

「……『幽霊』。その単語を使ったのは、シュミットではなかった。《彼女》がその単語を用いたが故にシュミットはあの黒ローブを《黄金林檎》リーダーの幽霊だと思い込んでしまった。……それが、彼女の狙いだったとしたら? だから彼女はわざと窓を開け、自分から窓に歩み寄り、そして窓から落ちた……俺たちの目を窓の外に向け、ローブの暗殺者を発見できるように」
「ち、ちょっと待って!」

 思考がそのまま外に漏れたかの如くぶつぶつと呟かれたマサキの言葉に、エミが鋭く反駁した。口元に手を当てたまま動かないマサキに血相を変えて食って掛かる。

「それって、ヨルコさんがグルだって……こと? そんなの、いくらなんでもおかしいよ! だって……だって、そのローブの暗殺者にヨルコさんは殺されたんだよ!?」

 悲鳴にも似た声色で訴えるエミの言葉を、マサキは眉一つ動かすことなく受け止めていた。
 彼女の指摘はもっともだ。そのリーダーとやらをどれだけ慕っていたとして、果たして自分の命をそう易々と投げ捨てることができるはずがない。しかも指輪事件の直後ならともかく、もう半年が経っている。人間の感情なんてものは、時間と共に薄れゆく。それに抗って強い憎悪を持ち続けられる人間などそうはいない。そして、ヨルコがその数少ないうちの一人だとは、マサキには思えなかった。
 やはり、考えすぎか……。
 マサキがそう結論付けて、息を一つ吐きながら思考回路を閉じようとした矢先、キリトが喘ぐように口を開く。
 直後そこから飛び出した響きが持っていた衝撃は、その場の全員を黙らせるのに十分だった。

「違う……そうじゃない。マサキの推理は正しい。そして、カインズ氏もヨルコさんも、死んでなんかない。《圏内殺人》……そんなものを実現する武器も、スキルも、ロジックも、最初から存在しちゃいなかったんだ!」

 唖然。
 キリトの言葉をその場の全員が飲み込むのに、約十秒の時間を要した。それだけキリトの言葉が衝撃的だったということの証左だ。
 そして、それはマサキも同様だった。アスナとエミより一足早く我に帰ったマサキは、キリトの言葉の続きを待ちながらも自身の脳を再び高速で回転させる。

「い、生きてる、って……でも……」

 ようやく硬直が解けたエミが、しかし未だ理解できないことを隠そうともせずに言葉を発した。それは尻切れトンボに終わってしまうが、アスナが後を引き継ぐ。

「……でも、わたしたち、確かに見たじゃない。ヨルコさんに短剣が突きたてられて……()()ところを」
「違う。俺たちが見たのは、ヨルコさんの仮想体(アバター)が、ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って()()()()現象だけだよ」
「……なるほど、そういうことか」

 キリトがそう言うと、マサキは得心したように頷きながら息を吐いた。
 ジグソーパズルがひとりでに組みあがっていくような、拍子抜けする感覚。なるほど、手品の類と同様に、分かってしまえばそう難しいトリックではない。

「さすが、マサキは理解が早いな」
「こんなものでおだてられてもいい気にはならんが」
「マサキ君、どういうことなの?」

 感心したようなキリトの言葉をよそに、さっぱり分からないという顔を向けてくるエミ。同じような視線のアスナにも向けて、マサキは面倒くさそうに説明を始める。

「『ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って消滅』。それがこの世界における『死』だ。そしてそれ故に、俺たちはこの二つの事象を、何の疑いも持たずに結びつけてしまっていた。が、『ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って消滅』する現象は、プレイヤーの死以外にももう一つあったというわけだ」

 マサキは言いながら、ポーションの小瓶を一本取り出すと、空中でそれを手放した。当然ながら小瓶は仮想の重力に従って自由落下を始め、そして床に衝突したところで衝撃に耐えられず粉々に。直後、ポリゴンの欠片を振り撒きながら青い光を放って消滅する。

「あっ……」

 思わず、エミとアスナが息を呑む。

「ヨルコとカインズは、このエフェクトを再現するために自分の衣服、あるいは鎧を利用した。そして『死亡エフェクトに良く似たエフェクト』に紛れ、本人はまんまと結晶でテレポートした。そういうことだな?」
「ああ。昨日、教会の窓から宙吊りになったカインズ氏は、空中の一点をピッタリ凝視してた。俺たちはそれを、自分のHPバーだと思ってたけど、そうじゃなかった。カインズ氏が見ていたのは、自分の着込んでいたフルプレートアーマーの耐久値だったんだ」
「ヨルコの時は、恐らく俺たちから連絡が来てすぐに圏外まで走り、そこでダガーを背中に刺して来たんだろう。そして、服と髪でカモフラージュしつつ何食わぬ顔で俺たちを出迎えた。……後は、耐久値が尽きるタイミングで窓まで後ろ向きで歩き、適当な効果音と共に振り向いて俺たちにダガーを見せ、窓の外に落下すればいい。あの落下は、俺たちにテレポートのコマンドを聞かれることを防ぐためでもあったんだろうな。……だが、まだ一つ腑に落ちん。生命の碑には確かにカインズの名前に横線が引かれていた。そのトリックは何なんだ?」

 マサキが尋ねると、キリトがニヤリと笑って答える。

「マサキ、そのカインズさんの名前の表記、覚えてるか?」
「ああ。《Kains》だ」
「そう。ヨルコさんはそう言ってた。けど……ほら、これ」

 キリトは手に持っていた一枚の羊皮紙片を差し出してきた。それを受け取り、エミ、アスナと共に目を通す。
 その紙は、先ほどシュミットに書かせた、ギルド《黄金林檎》のメンバー一覧表。そしてその名前の一つが目に入った途端、隣の女子二人が驚きで叫んだのと同時にマサキは盛大に溜息を吐いた。――その視線の先には、「Caynz」の名前。

「つまり、赤の他人だったってわけか」
「一文字くらいならともかく、三文字も違えばシュミットの記憶違いってこともなさそうだしな。つまりヨルコさんが、俺たちにわざと違うスペリングを教えたんだ。Kのほうのカインズ氏の死亡表記を、Cのカインズ氏と誤認させるためにね」
「え、でも……ちょっと待って?」

 不意にエミが眉をひそめ、声のトーンを落とす。

「ってことは、Cのカインズさんが死亡した時、Kのカインズさんもどこかで死亡してた……ってこと?」
「偶然……じゃないわよね。まさか……」
「ああ、ちがうちがう。ヨルコさんたちの共犯者が、タイミングを合わせてKのほうを殺した、ってことじゃない。いいかい、生命の碑の死亡表記はこうなってた。《サクラの月22日、18時27分》。その日時がアインクラッドに訪れたのは、昨日で二度目なんだ」
「あっ……!」

 軽く笑いながらキリトが説明すると、二人は目を丸くして驚き、しばし言葉を失ってから、先ほどのマサキと同じように、深く息を吐き出した。

「そっか、去年なんだ。去年の同じ時間に、Kのほうのカインズさんが、全く関係なく死亡してた……」

 エミの言葉に、キリトが頷く。

「ああ。恐らくは、そこが《計画》の出発点だったんだ」

 そして、一度深く深呼吸する。

 そこからの推論は、別段難しいことではなかった。ヨルコ、カインズの二人は、恐らくかなり以前に同じくカインズと読める誰かが貫通属性ダメージで死亡したことに気付いていた。そしてある時、それを使えば《圏内殺人》などというあり得ない、否、あり得てはいけない事件を偽装できると考え付いた。二人はそれを実行に移し、自分たちが疑われうる立場であることを利用して《指輪事件》の犯人を炙り出そうとした。そしてその結果、恐怖に駆られたシュミットが罠にかかった。
 そのシュミットは、恐らく今、《黄金林檎》リーダーの墓に向かい、許しを乞おうとしていることだろう。その墓が圏外にあった場合、二人が今度こそシュミットを殺さないか、もしくは逆にシュミットが口封じのために二人を殺さないかという心配もあったが、その場合どちらにしてもマサキたちにそのことが知られてしまう。シュミットは自分が人殺しの汚名を着せられて攻略組を追い出されることに耐えられないだろうし、ヨルコはそもそも殺すつもりならばエミたちとフレンドを結んでいない。だから、殺しはしないだろう……そう、結論付けた。

「……後は、彼らに任せよう。俺たちの、この事件での役回りは、もう終わりだよ。まんまとヨルコさんたちの目論見どおりに動いちゃったけど、でも……俺は嫌な気分じゃないよ」

 静かに、安堵した声色でキリトがいう。同じく緊張の解れた声でアスナが頷くのを横目に、マサキは椅子に深く腰を下ろした。
 墓、か……。
 マサキの頭に、一つの景色が思い浮かんだ。
 小高い丘。
 頂上に伸びる、一本の針葉樹。
 青い空。
 夕焼け空。
 夏の芝生。
 冬の雪景色。
 雲。
 雨。
 何度も、何度も足を運んだ場所。
 また、花を供えに行かなければ……そんな思いをひっそりと抱えながら、マサキはもう一度深く息を吐いた。

 まだ真相の半分にも辿り着いていないなどとは、露ほども思わずに。 
 

 
後書き
 長いこと間が開いてしまったので、元々の駄文が更に酷くなっていそうで心配です……。そんな点も含め、ご意見、ご感想等頂ければ幸いです。 

 

圏内事件 5

「……ねぇ、皆」

 後のことは事件の当事者たちに任せよう――キリトの意見に全員が賛成し、四人が思い思いに時間を過ごし始めていた時。ずっと椅子から立ち上がることなく、ぽつんと佇むレストランを見下ろしていたアスナが、不意に声を発した。もう事件の緊張感から解放されているためか、その口ぶりからいつも攻略会議等で見せている冷たさは感じられない。

「もし……もし皆がギルド黄金林檎のメンバーだったら、超級レアアイテムがドロップしたとき、何て言ってた?」

 アスナの問いに、その場の全員が暫し黙考した。それだけの力を、その質問は持っていた。
 ――この世界の本質はリソースの奪い合いであり、そのヒエラルキーの頂点に立つ僅かな者だけが、強さという絶対的な優位を手に入れることができる。何故強さを求めるかと言われれば、それはただ「他人より上に立つ」という優越感を得たいがため、というプレイヤーが殆どだろう。そして、攻略組というのはそういうプレイヤーの集団だ。つまり、アスナの問いをより正確に読み解くとこうなる。「もしあなたの目の前に、求める強さを手に入れるチャンスが転がっていたとして。そして同時に、その強さを手に入れるに相応しいだけの実力を持ったプレイヤーがいたとして。あなたは。今まで他人を追い抜いて自らの強さを研鑽することに執着してきたあなたは。そのチャンスを相手に譲れるか?」――と。

「俺はギルドに入ったことも、ボス攻略戦以外で大人数のパーティーを組んだこともないからな。他人に何がドロップしようとそれを気にしたことはないし、気にするつもりもない。気にする必要もだ。……まあ、その場で何かを言うとすれば、費用対効果を考慮した結果どうなるか、といったくらいか。売った方が利益になるなら売ればいいし、誰かが装備した方が利益になるのであれば、一番その利益を引き出せる人物が装備すればいい。全てのドロップ品をギルドのものとみなすなら、それが一番合理的だ」

 真っ先に言葉を返したのは、無感情なポーカーフェイスの上に、どうでもいいとでも言うような表情を滲ませたマサキだった。その少し後に、今度は苦笑しながらエミが答える。

「わたしは……売却派に入るかな。アイテム分配でギルドの人たちが言い争うことって、結構見てきたから……」
「もともと俺は、そういうトラブルが嫌でソロやってるとこもあるしな……。SAOの前にやってたゲームじゃ、レアアイテムの隠匿とか、売却利益の着服とかでギルドがぎすぎすしたり、崩壊まで行った経験もあるから……」

 最後になったキリトは、そこまで言って再び黙考する。やがて、小さく首を振りながら「……いや、言えないな」と呟いた。

「自分が装備したい、とも言えないけど、だからってメンバーの誰かに笑って譲るほど聖人にはなれないな。だから……もし俺が黄金林檎のメンバーだったら、やっぱり売却派に入ったと思うよ。アスナは?」

 キリトが訊くと、アスナは目線すら動かすことなく即答した。

「ドロップした人のもの」
「へっ?」
KoB(うち)はそういうルールにしてるの。パーティープレイでランダムドロップしたアイテムは、全部それを拾ったラッキーな人のものになる。だってSAOには戦闘経過記録(コンバットログ)がないから、誰にどんなアイテムがドロップしたかは全部自己申告じゃない。ならもう、隠匿とかのトラブルを避けようと思ったらそうするしかないわ。それに……」

 アスナは何かに想いを馳せるように言葉を切り、窓の向こうを見つめながらも顔の端を少しだけうっとりとほころばせた。

「……そういうシステムだからこそ、この世界での《結婚》に重みが出るのよ。結婚すれば、二人のアイテム・ストレージは共通化されるでしょ? それまでなら隠そうと思えば隠せたものが、結婚した途端に何も隠せなくなる。逆に言うと、自分にドロップしたレアアイテムを一度でもねこばばした人は、もうギルドメンバーの誰とも結婚できない。《ストレージ共通化》って、凄くプラグマチックなシステムだけど、同時にとってもロマンチックだと思うわ」

 かの《血盟騎士団》副団長、《閃光》アスナのイメージからは程遠い――彼女もまた、同世代の女子となんら変わらない、ごく普通の女の子なのだと感じさせるような声。それに動揺したのか、数秒後、約束事のようにキリトが地雷を的確に踏み抜く。

「そ、そっか、そうだよな。じゃ、じゃあ、もしアスナとパーティー組むことがあったら、ドロップネコババしないようにするよ俺」

 直後、ガタンッ! と椅子を倒しながらアスナが立ち上がった。真っ赤に赤熱した顔に幾つもの感情をとっかえひっかえ浮かべた後、羞恥と怒りが混ざり合ったような顔で右手を振り上げた。

「ば……バッカじゃないの! そんな日、何十年経っても来ないわよ! あ、そ、そんなっていうのはつまり、きみとパーティー組む日ってことだから。変なこと想像しないでよ!」
「ぷっく……ふふっ……」
「ち、ちょっとエミ、笑わないで!」
「あはは、ごめんごめん。アスナもそういう反応するんだなって思ったら、おかしくて」

 機関銃の如く怒鳴ったアスナを見て、エミが口元と腹部を押さえて吹き出した。その反応にアスナはつんと顔を背け、流石に少しは傷ついたらしいキリトが口を尖らせて黄昏れる。
 その間に流れる空気はすっかりと弛緩し、交わされる言葉は普段どおり――いや、普段よりいくらか打ち解けたものになっている。しかしその中で一人、マサキだけはその光景を横目に見つつも渋い表情を崩さなかった。より正確に言えば、その会話を聞いて一層眉間のしわが深まっていた。

「……なあ、アスナ。お前、結婚してたことあるの?」

 ――何を言ってるんだ、こいつは。
 唐突に発せられたキリトの不躾も甚だしい質問に、マサキは脳の回転がブチッと音を立てて切れたのを自覚した。呆れ返ったマサキが首を振りながら額を手で支えた時には、既に隣ではアスナが攻撃予備動作でキリトに返答していた。

「うそ、なし、いまのなしなし!! ちがうんだ、そうじゃなくて……お前さっき、結婚について何か言ってたろ? ほら、ロマンチックだとかプラスチックだとか……」
「誰もそんなこと言ってないわよ!」

 両手を顔の前でブンブンと振り、一度は殴られる寸前で最悪の事態を回避したキリトだったが、結局犯罪防止コードが発動しないギリギリの強さでスネを蹴飛ばされてしまった。それを見て、呆れたような苦笑を浮かべていたエミが助け舟を出す。

「プラスチックじゃなくて、プラグマチック。実際的って意味だよ」
「実際的? SAOでの結婚が?」

 キリトが聞くと、アスナは「ふんっ」と鼻を鳴らして答えた。

「そうよ。だってある意味身も蓋もないでしょ、ストレージ共通化なんて」
「ストレージ……共通化……」

 ――『アイテムストレージ共通化』。その単語を耳にした途端、マサキの頭が再び高速で回転を始める。そして、この喉に魚の小骨が刺さったような感覚の出所は、今キリトが口にしたその単語だ。

 プレイヤー同士が結婚すると、その二人のアイテムストレージは完全に統合される。所持容量限界は二人の筋力値の合計分まで拡張され、二人の所持アイテムも、コルも、全て夫婦共有の財産として処理されることになる。それは大変な利便性をもたらすと同時に、レアアイテムの持ち逃げや浪費、結婚詐欺等に遭う危険性も孕んでいる。
 それ自体は、特別な知識でもなんでもない。一般的なSAOプレイヤーなら誰もが知っていること。しかし、その何処かにまだ発見できていない「何か」があると、頭の中で言いようのない気持ち悪さが訴え続けていた。

「じゃ、じゃあさ……、離婚したとき、ストレージはどうなるんだ……?」
「……!」

 キリトの質問が、ハンマーの如き衝撃でマサキの頭を揺さぶった。
 黄金林檎のリーダーは、グリムロックと婚姻関係にあった。つまり、超レアアイテムの指輪は、黄金林檎のリーダーとグリムロック、二人の共有ストレージに保管されていたことになる。そして、そのリーダーは殺された。その時、指輪をシステムはどのように処理したのだろう……?

「確か……幾つかオプションがあったはずだよね?」
「えぇ。自動分配とか、アイテムを一つずつ交互に選択していくとか……わたしも、よく覚えてないけど……」
「……離別じゃない。死別だ。死別の時はどうなる?」

 顔を見合わせて唸る女子二人に、今度はマサキが問いかける。二人は突然マサキまで加わってきたことに驚きつつも、首を捻りながら答えた。

「……基本的にオブジェクト化されたアイテム類は所有者の足元に落ちることが殆どだけど……。ごめんなさい、わたしもそこまで細かくは……」
「でもマサキ君、それがどうかしたの?」

 エミが聞き返すのを、マサキは僅かに目を伏せながらじっと聞いていた。そして、そのまま口元に手を当てて数秒黙考すると、今度は一気に言葉をまくし立てる。

「黄金林檎のリーダーは、グリムロックと婚姻関係にあった。つまり、二人のストレージは共通、アイテムの所有権も二人が保有していた。その状態でリーダーが死亡した場合、ストレージの容量は一気に減るだろう。そこでもし、入りきらなかったアイテムが所有者の足元でオブジェクト化されるとしたら……指輪は、グリムロックが手にしたことになる」
「えっ……じゃ、じゃあ……」
「指輪は……奪われて、いなかった……?」
「……いや、違う。前提条件が仮定でしかないが、グリムロックは、自分のストレージにあった指輪を奪った。グリムロックは、今回の事件ではなく、半年前の指輪事件の真犯人だった可能性が高い」

 マサキが告げると、アスナとエミが目を見開いて驚愕した。アスナが左手に握っていたレイピアが落ち、床に転がって重たい金属音を響かせる。二人と比べてキリトの反応が小さいのは、ある程度この推測が予想できていたからだろう。そのキリトが、再び緊張で重みを増した空気を押しのけて声を出した。

「だとすると……マズいぞ。この圏内事件のトリックを知っていたのなら、その途中で指輪事件の真相を知られるかもしれないと感付くはずだ。それなのに、ヨルコさんたちに協力したということは……」
「……口封じ。半年前の事件を全て、今度こそ闇に葬る腹積もり、か」
「……っ! わたし、団長に死別時のアイテム処理がどうなるか、メールで聞いてみる!」

 叫ぶように言って、アスナはホロキーボードに指を走らせる。が、突然ハッと何かに気付いたように顔を跳ね上げると、はしばみ色の瞳を絶望で暗く染め、頬の筋肉を硬直させながら激しく首を左右に振った。

「……ダメ。多分、団長はまだ装備部との会議が終わってない……もう終わりが近くなってはいると思うけど、それでも後二十分くらいはかかるかも……」
「……さすがに、そんなには待てないな。ヨルコさんたちには悪いけど、現場に行ってみるしかないか」
「でも……レッド、ギルド……の、構成員が来てるかも知れないんでしょ? もし戦闘にでもなったら……わたしたちだけで大丈夫かな……?」
「そりゃそうだけど……確証があるってならともかく、今の段階じゃあな。骨折り損になっても許してもらえそうなお人よしで、なおかつレベルの高い攻略組というと……」

 神妙な顔でキリトたちが話し合うのを、マサキは腕を組みながら黙って聞いていた。頭の中で、幾つかのパターンが並列的に展開され、計算される。
 エミたちの懸念はもっともだった。ここに集まっているメンバーは、間違いなく攻略組でも上位の実力者だろう。が、恐らく足手まといになるであろうヨルコとカインズを守りながらレッドギルドと渡り合うのは――しかも、聖竜連合幹部のシュミットがいると知った上で襲撃を掛けるような――厳しいものがある。
 それに、プレイヤーを“殺す”ことと、所詮プログラムの集合体であるモンスターを狩るのとでは、感じる忌避感に大きな差がある。非常に詮無きことではあるが、マサキはこの二日間で、この三人が気のいい連中で、何処にでもいるような普通の少年、少女たちであることを見てきてしまっていた。
 そんな彼らが、殺人犯(レッド)とは言え、人を斬れるだろうか?
 例え斬れたとして、その後彼らに圧し掛かる罪悪感を、彼らは背負いきれるだろうか?
 その罪悪感を背負ってもなお、彼女は――光沢のある黒い瞳を楽しそうに細め、はにかむような笑顔を浮かべながらいつも玄関先に立っている彼女は。そのままの笑顔を、浮かべ続けていられるだろうか……?

「…………」

 マサキは表情を変えないままに一度肺から息を抜くと、微かに目を伏せるようにして立ち上がる。

「マサキ君?」
「キリト、アスナ。攻略組をできるだけ掻き集めて十九層で待機していろ。ストレージの件が分かったら、インスタントメッセージで結果を伝える。もし予想通りだったら、そのまま現場に向かってくれ」
「分かったら……って、団長は今メールを返せないわ。それに、あなたはどうするのよ」
「決まってる」

 マサキは三人に背を向け、部屋のドアを開けた。そこで立ち止まり、首だけで振り返る。

「メールが駄目なら、直接聞き出すしかないだろう。時間が惜しい。手遅れになる前に、お前達もさっさと動け」

 ほんの少しだけ両目を厳しく細めてマサキが言う。直後、ひゅっ、と空気の流れる音がした頃には、マサキは一階に続く階段を駆け下り、軽い足音と風切り音を本人の体より僅かに長くその場に残しながら宿の外へ飛び出していた。



 空を覆う次層の底を貫くようにそびえる漆黒の尖塔。アインクラッド最強と名高い《血盟騎士団》本拠地の上層フロアを丸々使った会議室。《ブラストウイングコート》の持つ「一日に三十分だけ身体を透明にできる特殊能力」に《忍び足》スキル等、露見すれば非難は免れないであろう非マナー行為を駆使してその前まで辿り着いたマサキは、ギルドの意匠が大きくあしらわれた、趣味の悪い鉄扉を開け放った。
 外観と同じく漆黒の鋼鉄で覆われたその大部屋は、中央に半円形の巨大なテーブルが置かれているだけの寒々とした部屋だった。全面ガラス張りの壁際にはギルドの旗が交錯するように立てかけられている。かつかつと乾いた音を立てて中に入ったマサキに、卓に付いていた全員の視線が集中した。驚愕の色が殆どを占める中、真ん中に座るヒースクリフの真鍮色の双眸だけが、微かに興趣の色を滲ませてマサキを覗いていた。

「なッ……貴様、何者だ! どうやって入ってきた!!」
「マサキ、ソロだ。……お忙しいところ悪いが、あんたたちに用はない。団長殿をお借りする」
「なん……ッ!?」

 向かって左端の丸顔の男が強烈に机を叩いて立ち上がるが、マサキが冷淡にも聞こえる抑揚の少ない声で告げると、男はまるで酸素を欲する金魚のように、顔全体を赤熱させながら口をパクパクと開閉した。その目に驚愕、混乱、そして憤慨が激しく入り混じり、やがて憤慨に固定されたのだろう、怒気を抑えるつもりもない様子で怒鳴り散らした。

「ソロ風情が、戯言もいい加減しろ! おい、誰か! こいつを今すぐつまみ出せ!!」

 その言葉を合図に、近くで控えていたらしい男が数人飛び出してきてマサキを取り囲む。が、マサキはそれに目もくれず、真正面に座るヒースクリフをじっと見続けていた。
 圏内ではアンチクリミナルコードの適用によって、ある座標に自分の意思で静止しているプレイヤーを、他のプレイヤーが強制的に移動させることは不可能になる。もし強引に移動させようと腕力に訴えれば、それをシステムが検知してハラスメント警告を出し、それでも続けようとした場合には被害者の意思で相手を黒鉄宮に送致することが出来てしまうためだ。
 つまりこの場合、マサキを強制的に排除しようとすれば逆に彼らがハラスメント加害者として送致されてしまうのだ。それが分かっている衛兵は、マサキを取り囲みながらも困ったような顔を浮かべる。
 こうなった以上、二度と血盟騎士団の連中とはパーティーを組めないだろうな、などと考えつつも――もとより組むつもりなど毛頭ないが――、マサキはヒースクリフから目を離さない。
 二人の視線が静かに交錯する。
 これが他のギルドであれば、マサキもこのような無茶はしなかっただろう。したとところで、門前払いを喰らうのがオチだ。だが、ヒースクリフは違う。この男なら、怒るよりむしろ面白みを感じて誘いに乗ってくるのではないか――マサキはそんな算段を抱いていた。

「何をしている! さっさと――」
「いや、いい。……装備の調達は方針通りに。私は少し出てくる」
「なっ、団長!? 会議よりこんな奴を優先されるのですか!?」

 案の定、ヒースクリフは席を立ち、真紅のローブで包んだ長身をコンパスのように立てて歩いてきた。先ほどの幹部らしき男はまだ何事かを喚いていたが、ヒースクリフが命ずるとマサキを囲んでいた衛兵たちもその指示に従って下がっていった。

「さて。ご用向きは一体何かな?」
「二人で話がしたい。どこか場所はあるか?」
「それならば、私の部屋に来たまえ。案内する」

 音もなく歩き出したヒースクリフにマサキが続く。案内されたのは、会議室よりさらに数階上がったフロア、この尖塔の最上階だった。会議室と同じく大仰な扉をヒースクリフが開け、中に入る。こちらは部屋中に赤い絨毯が敷かれ、調度品の全てに高級そうな装飾が施されている。先ほどの会議室より暮らしやすそうではあるが、やはりお世辞にも趣味が良いとは言えないなとマサキは思った。

「さて、では話とやらを聞かせてもらえるかな。私に会議を放り出させてまでしたかった話とやらを、ね」

 部屋の奥に設置された執務机に座ったヒースクリフが問う。

「質問を一つさせてもらいたい。異性と婚姻関係にあるプレイヤーが死亡した場合、そのプレイヤーが持っているアイテムはどう処理される?」
「それは、一昨日発生したという事件に関係しているのかね?」
「まあな。で? どうなんだ」

 マサキが食い気味に言うと、ヒースクリフは「ふむ」と呟きながらテーブルの上で両手を組んだ。

「その場合の処理は、戦闘結果(リザルト)時に発生したアイテムドロップが所持容量限界を超えた場合などと同一だ。一方のプレイヤーが死亡した時点でストレージは縮小され、所持容量を超過した分のアイテムは、所有権を持つもう一人のプレイヤー――つまりは死亡したプレイヤーと婚姻関係にあったプレイヤーの足元にドロップする。……これでいいかね?」
「……ああ。十分だ」

 マサキは静かに答えると、切れ長の瞳を厳しく細めた。そして、小さく鼻から息を吐きながら軽く目を伏せる。
 マサキたちの推測は、ここまでは的中していた。つまり、レッドプレイヤーによるシュミットたち襲撃の可能性も高まったということだ。
 マサキは無意識に左手で自分の右手を掴んだ。背中から右手にかけて、何か冷たいものが這い回っているような感触だった。

「忙しい中、協力をどうも」
「ああ、待ちたまえ」

 マサキが足早に部屋を去ろうとすると、ヒースクリフに呼び止められた。一瞬鬱陶しそうに顔を歪めるが、振り返る瞬間にはいつものポーカーフェイスに表情を塗り直す。

「何か?」
「私からも一つ、質問をさせてもらいたい。……大事な会議を抜け出したのだ、それくらいの要求はできて然るべきではないかね?」
「スリーサイズなら断るが」
「それは残念だ。……いや、もちろん冗談だがね」

 マサキが冗談を飛ばすと、ヒースクリフは微かに口元を持ち上げた。すぐにいつもの冷淡な表情に戻すかと思いきや、意外にもそのままの口角で続きを紡ぐ。

「単刀直入に言う。君は何故そこまで、この事件に執着する?」
「……何?」

 ここでようやくヒースクリフの口角が元に戻り、同時にマサキが眉間に皺を寄せた。
 ヒースクリフが続ける。

「かつて私が君を血盟騎士団に誘った時、君はこう言って断った。「他人に深入りするのは性に合わない」。事実君は、その後どのギルドにも属さずに来た。だから、私は今まで、君は他人というものに興味を抱かない人間だと思っていた。しかし君は今回キリト君とアスナ君から要請を受け、直接は関係のない、赤の他人のために事件の解決に乗り出した。……私はそこが気になったのだよ。君は何故今回に限って、そこまで他人のために身体を張る?」

 しんと空気が静まり返った。ヒースクリフが何かを口にすることはなく、マサキもまた、何のいらえも返さない。ただ少しだけ顔を下に向け、軽く目を瞑って考え込んでいた。
 エミ、キリト、アスナ、ヨルコ。今回関わった人間の顔が走馬灯のように駆け巡る。

「……もし今回の事件が本当にコードを無効化して行われたものであったなら、その対策を練ることは俺自身の安全を確保するためになる。自分の命が惜しいなら、協力して損はない」

 ゆっくりと目を開け、マサキは床に敷かれた絨毯の模様を眺めながらぼそぼそと喋った。ヒースクリフに見えないよう、もう少し余計に顔を地面に向け、口角を上げて表情筋を固定する。
 全ての選択肢を否定した結果即興で作り出した嘘だったが、不思議とそれが一番しっくりくる気がして、マサキは自然と笑っていた。

「本当に、それだけかい?」
「ああ。……他に、一体どんな理由が有る?」

 マサキは声のボリュームと一緒に、表面に冷淡な笑みを貼り付けた顔を上げた。
 これ以上なくマサキらしい笑顔だった。
 ずっと、何も変わらない。自分はそういう奴だ。
 
 

 
後書き
 予定より随分長くなってしまいましたが、次話で圏内事件編は(多分)終了です。 

 

圏内事件 6

「ワーン、ダウーン」

 小さなナイフを喉元に突き立てられ、闇色に染まった草の上に力なく倒れこんだシュミットが聞いたのは、まるで少年のような無邪気さを孕んだ声だった。声の主を確かめるべく、そしてこの敵対者から一刻も早く離れるべく必死に身体を起こそうとするが、四肢に全く力が入らない。その代わりに、視界の隅に映るHPゲージの縁が緑色に点滅して異常を警告している。
 麻痺状態。それが、シュミットから身体の自由を奪っている原因だった。しかしそれを理解しても、彼に安堵はできない。むしろ、より恐怖が増したと言うべきだろう。何故なら、今自分を蝕んでいるのは、壁戦士(タンク)として磨き上げてきた耐毒スキルを貫通するほどのハイレベル毒だということに他ならないのだから。
 ――そんな強力な毒を、一体、誰が……?
 シュミットが混乱した頭で考えながら顔を上げると、黒ずくめの服装が目に入った。鋭い(びょう)が打たれたブーツに、ぴっちりと身体覆うパンツとレザーコート。左手には、これが自分を攻撃した凶器なのだろう、緑色に濡れた刀身のナイフ。更に視線を上げると、目の部分だけがくりぬかれた、頭陀袋のような黒いマスクが目を引いた。と同時に、真っ黒の服装だったが故に一際目立つ鮮やかなオレンジ色のカーソルが、思わず見開いた目の中に飛び込んできた。

「おま……えは……!」

 上手く動かない唇で、シュミットは喘ぐように言葉を漏らした。
 脳裏で、以前見た要注意プレイヤーリストに載っていた全身図が、眼前の男と重なった。《ジョニー・ブラック》――この浮遊城で最も恐ろしい殺人者(レッド)ギルド、笑う棺桶(ラフィン・コフィン)で幹部を務める殺人鬼だ。

「あっ……!」

 背後で短い悲鳴が聞こえ、シュミットが視線を向けると、やや小柄なプレイヤーが手に持ったエストックでヨルコとカインズを脅しているのが見えた。こちらも全身黒ずくめだが、頭を覆っているのは髑髏を模したマスクだ。
 その頭上に浮かぶカーソルは、こちらもオレンジ。この男も、シュミットは知っていた。ジョニー・ブラックと同じ《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)幹部の、通称《赤目のザザ》。

「デザインは、まあまあ、だな。オレの、コレクションに、加えて、やろう」

 ザザは棒立ちのまま硬直して動けないヨルコから黒いエストックを奪い取ると、しゅうしゅうと独特な息遣いで声を漏らす。
 アインクラッドで最も恐ろしく、そして最も狂ったギルドの幹部クラスが二人も目の前にいるという事実に、シュミットの身体は麻痺ではなく、恐怖で竦んだ。が、すぐにそれも解け、代わりに震えが止まらなくなった。シュミットは思い至ってしまったのだ。この二人がここにいるということは……あの男が、《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)のギルドリーダーにしてアインクラッドに存在する全てのレッドプレイヤーの頂点に立つ男が、この場所にやってくるのでは……と。
 ――そんな、まさか。やめてくれ。嘘っぱちだ。タチの悪い冗談に決まってる!
 シュミットの叫びはしかし、震えた唇を微かに上下させることしかできない。そしてすぐに、そのこ
とに心から絶望することになる。このとき、自らの聴覚を絶叫で埋め尽くせていれば。じゃり、じゃり、と近付いてくる、死刑宣告のような足音を聞かないでいられたならば。一体それは、どれだけ幸せなことだっただろう――?

「ひっくり返せ」

 短く告げられた命令が、新たな人物の登場を声高に告げた。シュミットがその存在を飲み込むより早く、ジョニー・ブラックのつま先が腹の下にねじ込まれ、そのままごろりと転がされる。仰向けになったシュミットの視界に、一人の男が映った。
 灯りのない夜よりなお黒い、膝下までを包むポンチョ。そこから伸びたフードが、顔を目深に隠している。右手に握られた、中華包丁のように四角い大型ダガーは、啜ってきた何人もの生き血でコーティングされているかのような赤黒い色味を帯びていた。

「Wow……確かに、こいつはでっかい獲物だ。DDAのリーダー様じゃないか」
「……《PoH》……」

 くつくつと肩を揺らして笑うポンチョの男の名を、シュミットは絶望に染まった声で小さく告げた。その瞬間、シュミットは己の運命を悟った。自分は、今、ここで、彼らによって殺されるのだと。どこか夢見心地だった意識がすうっと現実に戻ってきて、同時に認識した現実的な恐怖が全身を這い回った。
 何故……。
 シュミットは自らに襲い掛かってきた絶望の深さに耐えかねて目を瞑りながら、何度も何度も疑問文だけを繰り返していた。誰にも行き先など伝えていなかったというのに、何故この三人はこの場所に来たのか。アインクラッドでも最大級の犯罪者が、理由もなくノコノコとこんな下層のフィールドを歩いているとは考えにくく、ヨルコとカインズが居場所を流したとも思えない。第一、彼らは今、自分と同じように命の危機に瀕しているのだから。
 となれば……何か別の理由で偶然通りがかった三人が、ちょっとした思い付きで自分たちを襲ったというのだろうか? そんな、馬鹿げているとしか思えない不運が……否、ひょっとしたら、それがグリセルダの復讐とでも言うのか? ……しかし、だとしたら、何故ヨルコとカインズまで殺そうとする? 彼らはグリセルダを殺した真犯人を暴くため、ここまでしたというのに。なのに、何故――。
 恐怖と絶望の中に諦めを滲ませ、脳裏をよぎった一人の女性にシュミットは問いかけた。その直後。
 ――ごうッ! という音が聞こえたかと思うと、プレートアーマーに覆われたシュミットの長身が宙に浮いた。一瞬遅れて、獣系モンスターの突進を喰らったような強烈な衝撃。

「ぐ、がぁッ!?」

 麻痺状態のため受身が取れないシュミットは、全身をあちこちにぶつけながら丘を転がり落ちる。遂に奴等が手を下したのかと考えたが、そうではなかった。朦朧(もうろう)とした意識を必死で繋ぎとめながら頭をもたげると、PoHたち三人までもが同じように吹き飛ばされていたのだ。
 では、誰が……?
 シュミットの疑問に答えるように、空色の軌跡が目の前をよぎった。音もなく、幾度とないモンスターとの戦闘で磨かれたシュミットの動体視力ですら見切れないほどの速さで突如現れたそれは、シュミットの目の前でこちらに背を向けて停止する。

「……久しぶり、だな」

 《穹色の風》マサキはこんな状況だと言うのに一欠けらの動揺すら感じさせない声で呟くと、視線だけでシュミットを一瞥し、月の光を受けて青白く(きら)めく刀を三人の殺人鬼に向けた。



「……久しぶり、だな」

 背後で倒れているシュミットにチラリと目をやりつつ、起き上がった三人にマサキは蒼風の切っ先を向けた。今にもシュミットが殺されそうな状況だったため、《神渡し》で奴等をシュミットたちから引き剥がそうとしたのだが、成果は上々といったところか。巻き添えで吹き飛ばされたシュミットやヨルコたちには悪いが、救援に来たということで相殺してもらうしかない。もっとも、客観的に見れば、感謝されこそすれ非難される謂れはないが。
 視線を三人の殺人鬼に戻す。その人相は相変わらずマスクやフードで隠れていたが、溢れんばかりの怒気と殺気が、隠れている彼らの表情はきっと愉快な笑顔ではないだろうと推測させた。

「ンの野郎……余裕かましてんじゃねーぞ! 状況解ってんのか!」

 上ずった声をキンキンと響かせてジョニー・ブラックが怒鳴るのを、PoHの左手が制した。そのまま一歩前に出ると、右手の肉切り包丁の背で自分の肩を軽く叩く。フードの下に覗いた口元には、自分たちの余裕と優位を見せ付けるような笑みが張り付いていた。

「こいつの言うとおりだぜ、《穹色の風》。いくら貴様でも、俺たち三人を一人で相手できると思ってるのか? 言っとくが、俺たちは貴様がヤった奴等ほど弱かないぜ? ……ああ、それとも――」

 ニィ、と。意地悪く笑っていた口角が、一層激しく狂気に歪んだ。

「――大事な大事な相棒が死んだ時を思い出したか?」
「黙れ」

 マサキの声に、刃のような殺気がこもった。予想以上の殺気に、自分の怒りが決壊寸前だと気付いたマサキはほんの一瞬だけ目を瞑る。
 自分はいつだって、自分の利益だけを合理的に選択してきた。これまでも、これからも。橋本雅貴とはそういう人間だ。だから、他人のことで怒るなんて、有り得ない。馬鹿馬鹿しい。そう胸で念じると、熱暴走を起こしかけていた右手がすうっと冷えていくのを感じた。
 ――そうだ。それでいい。
 マサキは目を開け、面白そうに顎を突き出してこちらを見下ろしているPoHに向かって言い放つ。

「確かに、一人なら無理だろうな。が、生憎、俺はそこまで馬鹿じゃない。――三十人の攻略組がじきに来る。それまでの時間稼ぎ程度なら、俺一人で十分だ」

 マサキが感情を封じ込めたポーカーフェイスで告げた直後、足元に微かな振動が走った。それは三人も同じだったようで、動揺を隠せない視線を辺りに彷徨わせる。
 マサキがPoHたちに細心の注意を払いながら視線を左右に配ると、主街区から一直線に駆けて来る騎馬を見つけた。
 アインクラッドにはアイテム扱いの騎乗動物(マウント)は存在せず、NPCが経営している厩舎に行けば牛や馬などを借りられるが、かなり高額な上乗るためにはかなりの技術が必要とされるため、デスゲームとなったこのSAOで、わざわざ乗りこなそうという好き者は皆無と言っていい。それがこのタイミングでとなると、恐らく乗り手はキリトなのだろうが……。彼が乗馬を習得していたのか、それとも持ち前のセンスで何とかしたのかは知らないが、この土壇場に大枚はたいてまでそれを使って駆けつける無茶苦茶さとお人よし加減に、マサキはひっそりと呆れの溜息をついた。
 そうしている間にも、騎手と同じく漆黒の毛並みを白い燐光で包んだ騎馬は猛スピードで丘を駆け上ってくる。そしてマサキの横手で急ブレーキを掛けると、後ろ足だけで立ち上がり、バランスを崩した騎手を振り落とした。

「こいつが来たってことは、もう他の奴等も出発済みってことだ。増援が来るまで、もう十分もない」
「……Suck」

 内心の呆れを気取られぬよう、顔にポーカーフェイスを貼り直してマサキが言うと、PoHは短く罵ってこちらに背を向けた。右手の包丁をくるくると回して腰のホルスターに収めようとした寸前、思い出したようにマサキを指す。

「貴様を殺す奴はもう決まってる。絶望と血の海で無様に溺れさせてやるから、楽しみにしといてくれよ」

 最後にもう一度ニヤリと笑って見せると、今度はしっかりと包丁をホルスターに収めた。ばさりと音を立ててポンチョを翻すと、今度こそ部下二人を連れて丘を下りて行く。

「っと、意外といいタイミングだったか?」
「振り落とされなければ完璧だったな」

 三人のカーソルが《索敵》スキルの範囲外に消えたことを確認すると、マサキはキリトに見せ付けるように溜息を吐いた。蒼風を鞘に収め、まだ呆然とこちらを眺めていたシュミットに解毒ポーションの瓶を手渡す。長身の男は震える手でそれを飲み干すと、がしゃがしゃと音を立てて上体を起こした。

「……マサキ、キリト。助けてくれた礼は言うが……なんで判ったんだ。あの三人がここを襲ってくることが」
「判ったわけじゃない。かなり高い確率で、それが起き得ると予測しただけだ」

 今までと全く変わらないトーンで答えると、マサキは左足を引き、キリトと話していたヨルコとカインズに身体を向けた。すぐ二人もマサキの視線に気付き、神妙な顔を見せる。
 ――さて。
 マサキはもう一度頭の中で考えをまとめると、三人にいらぬ刺激を与えないよう、落ち着いた声と言葉を選びつつ口を開いた。
 
 

 
後書き
 ……はい。誠に申し訳ございません。前話のあとがきでうそぶいておきながら、圏内事件、完結できませんでした。も、もう一話! もう一話で終わるから!(震え声)
 一応次は殆どできているので、今週中には投稿できると思います。多分。きっと。めいびー(オイ)
 こんな作者ですが、今後ともよろしくお願いいたします。 

 

圏内事件 7

「今回《圏内殺人》を演出するために用いた逆棘付きの武器は、グリムロックに依頼して製作してもらったんだな?」

 マサキがそう尋ねると、ヨルコは思案するように何度か目を(しばた)かせ、相方と眼を見交わしてから頷いた。
 二人の話では、グリムロックは最初難色を示していたが、諦めず頼み込むと、最初の事件――つまり実際に死亡していたカインズ(Kains)の命日より三日前に、三振りの武器を製作してくれたという。その口ぶりからも、二人はグリムロックのことを、妻を殺害された被害者だと信じていることがうかがえる。そんな二人に「グリムロックこそが真の黒幕なのだ」と言ったところで、簡単に信じないことは明白だった。実際、ヨルコは紺色の髪を振りたくってキリトの説明を否定しようとした。

「あんたたちは、グリムロックに計画を全て説明したんだろう?」

 そんなことはお見通しとばかりに、キリトが穏やかな口調で問いかける。キリトの言葉をそのまま飲み込むことに抵抗を覚えたのか、ヨルコは頷きつつも顔全体を強張らせていた。再びヨルコが顔を上げるまで、十分に間を取ってからキリトが続ける。
 グリムロックが、この事件の真相と、この場所で行われる最終幕を知っていたこと。それを利用して《指輪事件》を今度こそ闇に葬り去るべく、三振りの武器を(あつら)えたこと。そしてシュミットが単独でこの場所に来ているとレッドギルトに情報を流し、《ラフィン・コフィン》の三人を呼び寄せて実行犯として利用したことを丁寧に説明すると、ヨルコはその推論に反論を見出せなかったのだろう、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになり、それを傍らのカインズが支えた。

「グリムロックさんが……私たちを殺そうと……? でも……なんで……? そもそも……なんで結婚相手を殺してまで、指輪を奪わなきゃならなかったんですか……?」

 月明かりの下でも分かるほど真っ青な顔で、うわごとのように漏らしたヨルコの言葉は、三人全員の心を代弁したものだっただろう。シュミットも、カインズも、うつろな瞳をこちらに向けながら、茫然自失という雰囲気でピクリとすら動かなかった。
 三人分の視線全てを浴びながらマサキが一歩前に出ると、新たに丘の西側に浮かび上がった三つのカーソルへ視線を投げながら言葉を返した。

「……俺たちにも、動機までは推測できなかった。その辺りは……、本人に、直接聞いてみるべきだろうな」

 マサキの言葉に続いて、ヨルコたちもマサキの投げた視線の先へ目を向ける。
 程なくして、こちらに向かって丘を登りつつある足音が耳に届いた。それからさほど間を空けず、二人の女性プレイヤー、エミとアスナが目に映る。二人とも手元には抜き身の剣を携え、その切っ先は一歩前を歩く男に油断なく向けられていた。
 痩せ型で、かなりの長身だ。つばの広い帽子をかぶっていて、人相までは分からないが、眼鏡らしきアクセサリが時折月明かりを反射してちらちらと光っている。
 男はマサキとキリトから三メートルほど離れた位置で立ち止まり、その場の全員と、最後に《黄金林檎》リーダーの墓標である苔むした十字架に目をやって言葉を発した。

「やあ……久しぶりだね、皆」

 マサキが予想していたより、少しだけ低い声だった。それでいて、落ち着いている。直前にPK未遂の現場を目撃し、しかも現在進行形で剣を突きつけられているとは思えない、まるで親しい友人と、家でお茶に興じているかのような。その声と、銀縁の丸眼鏡の下に見えた柔和そうな顔に、マサキは自分でも知らず知らずのうちに眼を細めていた。

「グリムロック……さん。あなたは……あなたは、ほんとうに……」

 ――グリセルダを殺し、指輪を奪ったのか。この三人を殺し、事件の隠蔽を図ったのか。二つの意味を含んでいただろう質問は、どちらか一つに分岐することなく途切れてしまう。だが、そこまで言えば、残りは誰だって分かるだろう。
 グリムロックはすぐには答えず、エミとアスナがそれぞれ得物を鞘にしまってマサキとキリトの隣に移動したのを見届けてから、あくまで穏やかな表情を崩すことなく口を開いた。

「……誤解だ。私はただ、事の顛末を見届ける責任があろうと思ってこの場所に向かっていただけだよ。そこの怖いお姉さん方の脅迫に素直に従ったのも、誤解を正したかったからだ」
「嘘だわ!」

 グリムロックの申し開きを切り裂くように、アスナの声が鋭く鞘走った。その後を、いつもの弾けるような笑顔ではなく、真剣な表情を浮かべたエミが続ける。

「……あなた、ブッシュの中でハイディングしてましたよね? わたしたちが気付かなかったら、そのまま動く気すらなかったはずです」
「仕方がないでしょう、私はしがない鍛冶屋だよ。この通り丸腰なのに、あの恐ろしいオレンジの前に飛び出していけなかったからと言って責められねばならないのかな?」

 エミの追及にも涼しい顔で言い返すグリムロック。こちらの追及を絶対にかわせると言わんばかりの余裕綽々といった雰囲気が、マサキの後頭部周辺でちりっと微かな警告を発する。
 一体、何を企んでいる……?
 隣のキリトが、今度は《指輪事件》について言及する。それを聞きながら、マサキは自身の脳を高速回転させてもう一度自分たちの推理を洗い直した。

 グリセルダが死亡した時、ストレージにあった指輪は婚姻関係にあったグリムロックの足元にドロップした。その後グリムロックはその金の半額を報酬としてシュミットに渡した。そんな大金をポンと出すには本当に指輪を売却する以外ないだろうから、その金の差出人は指輪を手に入れたグリムロックしか考えられず、同時にその時点で指輪事件の犯人はグリムロック以外にありえない。

 キリトの推理ショーが結論を迎えるが、マサキは未だグリムロックの企みを暴けずにいた。今キリトが語ったとおり、少なくとも《指輪事件》に関して、グリムロックは言い逃れできないように思える。だが――

「なるほど、面白い推理だね、探偵君。……しかし、一つだけ穴がある」

 グリムロックが口を奇妙な形に歪めてそう口にした瞬間、マサキは舌を鋭く弾いた。マサキの脳が更に回転数を跳ね上げる。が、マサキがグリムロックの思惑に辿り着くより早く、香港のヒットマンめいた雰囲気をまとった鍛冶屋は斜めに曲げた口を開いた。

「確かに、君の推論は大枠では正しい。当時、私とグリセルダのストレージは共有化されていたから、彼女が殺されたとき、そのストレージに存在していた全アイテムは私の手元に残った。……そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ね」
「ッ……!」

 グリムロックの言わんとしていることをようやく理解したマサキは、今までにない激しさでグリムロックを睨みつけながら、ギリ、と奥歯を強く噛み締めた。肺の空気を一気に吐き出しそうになるのをぐっと堪え、動揺を気取られぬよう、静かに放出する。
 グリムロックの反論はこうだ。「確かにストレージにあったアイテムは全て自分のもとにドロップしたが、その時指輪はストレージになかった。故に、グリムロックの足元にドロップすることはなかった」。形勢が逆転したと悟ったか、グリムロックは勝利を確信したように口角を上げ、マサキたち全員をぐるりと見回し深く頭を下げた。

「では、私はこれで失礼させてもらう。グリセルダ殺害の首謀者が見つからなかったのは残念だが、シュミット君の懺悔だけでも、いっとき彼女の魂を安らげてくれるだろう」
「待て!」

 帽子を深くまでかぶりなおし、身を翻そうとしたところで、マサキが止めた。グリムロックはそれに反応して足を止め、顔だけでマサキに振り向く。

「……おかしいだろう。グリセルダを殺害した犯人は、指輪だけを盗み去っている。睡眠PKという手法を考えれば、アイテムストレージにあった他のアイテムも一緒に奪った方が利益は出るはずだ。そうしなかった、いやさせなかったのは、どうせ全て自分の懐に入るから。違うか?」

 グリムロックは一瞬思案するように顔を伏せかけたが、すぐにマサキを見直して滑らかに答えた。

「……さあね。下手人の心境など、私には判りかねる。だが一つ、個人的な推測を述べるとするならば……当時の私たちは一介の中層ギルドに過ぎなかった。当然、そんなレアアイテムなど幾つも持ってはいないし、ある程度価値のあるアイテムはギルドハウスの金庫に保管していた。犯人にとって、魅力的なものが他になかったのではないかな?」

 淀みなく言い切ったグリムロックの口元が、再び斜めに歪む。
 当のマサキからすれば、その答え自体は予想済みのものだった。もっと言えば、この質問自体に大した意味などなく、ただ何とか形勢を再逆転させられる材料を見つけるまでの時間稼ぎに過ぎない。マサキは続けざまに口を開きかけるが、それを先読みしていたかのようにグリムロックが言う。

「これ以上無根拠かつ感情的な糾弾をするつもりなら、遠慮してくれないか。私にとってもここは神聖な場所なのだから」
「……逃亡か。よほど後ろめたいようだな」
「どうやら、君には私の言葉が聞こえていないらしい。……まあいい。これ以上私を犯罪者に仕立てあげたいと言うのなら、日を改めてくれたまえ。もっともその時は、根拠なく人を犯罪者扱いする迷惑集団として、君たちの事を大手ギルドに報告させてもらうが」

 挑発に乗って何か漏らせば……。そんなマサキの薄い希望を嘲笑うように切り捨て、グリムロックは再び足を踏み出す。その後ろ背を、マサキが苦虫を噛み潰した顔で睨みつけた、その時――。

「待ってください……いえ、待ちなさい、グリムロック」

 静かな、しかし(はげ)しい何かを秘めたヨルコの声が、グリムロックとの間にぴんと響いた。その言葉の持っていた力強さに、男は仕方なくといった雰囲気で足を止め、今度は顔の半分だけを煩わしそうにこちらへ向ける。

「まだ何かあるのかな? ……それとも、まさか君たちまで、私のことを根拠もなしに殺人犯に仕立て上げようというのかい?」

 傲然と放たれたグリムロックの言葉を、ヨルコは胸の前に持ち上げた両手に視線を落としながら受け止めた。ヨルコは俯いたまま、しかしそれまでの彼女にはなかった強い感情を漂わせながら、噛み締めるように首をゆっくりと左右に振った。

「……いいえ。違うわ。根拠はある。……リーダーが殺された後、現場に残されていた遺品を発見したプレイヤーが、それをギルドホームに届けてくれたわ。だから私たちは、ここを……この墓標をリーダーのお墓にすると決めたとき、彼女の使っていた剣を根元に置いて、耐久度が減少して消滅するに任せた。でもね……でも、それだけじゃないのよ。皆には言わなかったけど……私は、遺品をもう一つだけ、ここに埋めたの」

 一体何をする気なのかと思いながらマサキが見ていると、ヨルコはすぐ傍にあった小さな墓標の前に跪き、その場所を素手で掘り返し始めた。その場の全員が息を呑んで見守る中、やがて彼女は土の中から一つの小箱を取り出す。その箱は、今まで土の中に埋もれていたにも関わらず、月光を浴びて銀色に光る。
 ――《永久保存トリンケット》。ヨルコが墓標から掘り出したのは、マスタークラスの細工師だけが作ることのできる、《耐久値無限》の箱だった。小さいものしか作れないため、収納できるのは小さなアイテムがアクセサリを複数個ほどだが、この小箱に入れられたアイテムは、フィールドに放置されようとも耐久値が一切減少しなくなる。
 ヨルコはそれを大切そうに胸に抱くと、瞳に浮かんだ強靭な光を、身体ごとグリムロックに向けた。

「ドロップしたあの指輪をどうするのか決める会議で、私とカインズ、それにシュミットが、指輪の売却に反対したわ。そしてその席上で、カインズはリーダーが装備すべきだって主張した。『黄金林檎で一番強い剣士はリーダーだ。だからリーダーが装備すればいい』って」

 徐々に苛烈さが増しつつある声を発しつつ、ヨルコはそっと小箱のふたを開け、中に入っていた二つの指輪を取り出した。それをグリムロックに突き出し、一段と語気を強めて言い放つ。

「……それに対して、リーダーは笑いながらこう言った。『SAOでは、指輪アイテムは片手に一つずつしか装備できない。右手のギルドリーダーの印章(シギル)、そして……左手の結婚指輪は使えないから、私には使えない』……分かったでしょう? あの人が、この二つのうちどちらかを外してこっそり指輪の効果を試すなんてこと、あるはずなかったの。ここにある二つの指輪が、リーダーの遺品にあったギルドの印章(シギル)と――彼女がいつも左手の薬指に嵌めてた、あなたとの結婚指輪よ、グリムロック! あの人はずっと、最期まで……私たちギルドと、夫であるあなたに、潔白を貫いてた! 殺された瞬間まで、この指輪を外さなかった! この二つの指輪が今ここにあることが、揺るぎないその証よ! 違う!? 違うというなら、反論してみせなさいよ!!」

 涙交じりの絶叫が、びりびりと仮想の空気を振動させて轟いた。
 しばらくの間、誰も口を開くことができなかった。大粒の涙をはらはらと零すヨルコの視線から逃れるように、グリムロックは帽子のつばをきゅっと握って離さない。やがて帽子を握る手が微かに震え、薄い唇が強く結ばれる。その端をしばし痙攣させた後に、力が抜けたように、その全身が弛緩した。

「その指輪……。確か葬式の日、君は私に訊いたね、ヨルコ。グリセルダの結婚指輪を持っていたいか、と。そして私は、剣と同じく消えるに任せてくれと答えた。あの時……欲しいとさえ言っていれば……」

 絞り出すように漏らした直後、グリムロックの長身が膝からくずおれた。ヨルコは金の指輪を丁寧に再び箱へしまいこみ、それを胸に抱いて涙の混じったかすれ声で囁く。

「……なんで……なんでなの、グリムロック。なんでリーダーを……奥さんを殺してまで、指輪を奪ってお金にする必要があったの」
「…………金? 金だって?」

 まるで糸が切れた操り人形のような不気味さで、グリムロックは喉の奥を鳴らして笑った。膝立ちのままメニューウインドウを開き、殆ど手元を見ずに一つの革袋をストレージから取り出す。グリムロックはそれを無造作に地面に投げると、何の執着も示さない乾いた声で吐き捨てた。

「これは、あの指輪を処分した金の半分だ。金貨一枚だって減っちゃいない」
「え…………?」

 グリムロックは丸眼鏡の底に沈む濁った瞳を上向けると、困惑した様子のヨルコとマサキたちに順番に目をやって、呻くような声を激しくわななかせ続きを紡ぐ。

「金のためではない。私は……私は、どうしても彼女を殺さねばならなかった。彼女がまだ私の妻でいるあいだに」

 ――そうして始まったグリムロックの独白は、実におぞましいものだった。
 グリセルダとグリムロックは、現実世界でも夫婦だった。夫であるグリムロックの言葉に、グリセルダは何一つ異議を唱えなかったという。そして、二人はSAOに囚われ――グリセルダは変わった。グリムロックがデスゲームに怯える中、強い意思を持ち、類稀なる統率力でギルドを結成し、メンバーを鍛え始めた。それを見たグリムロックは、自分の愛した従順な妻はもう二度と戻ってこないのだと自覚した。……だから、殺した。

「……私の畏れが、君たちに理解できるかな? もし現実世界に戻った時……グリセルダ……ユウコに離婚を切り出されでもしたら……そんな屈辱に、私は耐えることができない。ならば……ならばいっそ、まだ私が彼女の夫であるあいだに。そして合法的殺人が可能な、この世界にいるあいだに。ユウコを、永遠の思い出のなかに封じてしまいたいと願った私を……誰が責められるだろう……?」
「屈辱……屈辱だと? 奥さんが、言うことを聞かなくなったから……そんな理由で、あんたは殺したのか? SAOからの解放を願って自分を、そして仲間を鍛えて……いつか攻略組の一員にもなれただろう人を、あんたは……そんな理由で…………」

 首を左右に振りながら、キリトがひび割れた声で発した。その右手がピクリと跳ねるのを左手で押さえつけている。
 そのキリトに向かって、グリムロックは顔を持ち上げると、力なく笑いかけた。

「そんな理由? 違うな、十分すぎる理由だ。君にもいつか解る、探偵君。愛情を手に入れ、それが失われようとしたときにね」
「……間違ってるのは、あなたです」

 それまで沈黙を守っていたエミが、ここにきて突如反駁した。強い芯が通ったソプラノにマサキが思わず視線を投げる。可憐な造りの顔に浮かぶ、月明かりの下で一輪だけ咲いている蘭のような凛とした表情からは、その心境までは推察できない。しかしその瞳に浮かんだ真剣な色の光は、彼女の抱いている気持ちの強さを否応なしに感じさせるものだった。

「誰かを好きになる……誰かを愛するってことは、その誰かに、何かを求めることじゃない。その人と一緒にいるだけで楽しくて、笑顔になって。その人のことを考えただけで、胸の奥がぽかぽかして。……だから、今度はわたしが、その人を笑顔にしたい。その人に、幸せになってほしい……そう思うことが、わたしは愛だって思います。あなたがグリセルダさんに抱いていたのは、ただの所有欲。……そんなものを、愛だなんて言わないで。そんな薄汚れた欲望で……愛っていう純粋な想いを穢さないで!」
「……あなたがまだグリセルダさんのことを愛しているというのなら、その左手の手袋を脱いでみせなさい。グリセルダさんが殺されるその時まで決して外そうとしなかった指輪を、あなたはもう捨ててしまったのでしょう」

 エミの鋭い言葉の後をアスナが静かに次ぐ。グリムロックの肩が小さく震え、黒い革手袋に覆われた左手を、自らの右手でぎゅっと掴んだ。が、男の手が動いたのはそこまでで、左手の手袋が外されることはついぞなかった。

「……キリト。マサキ。この男の処遇は、俺たちに任せてもらえないか。もちろん、私刑にかけたりはしない。しかし必ず罪は償わせる」

 今まで一言も発することなく状況を傍観してきたシュミットが、立ち上がりながら場の静寂を破った。直後にキリトの視線を感じたので、マサキは黙って頷く。

「解った。任せる」
「……世話になったな」

 キリトが了承すると、シュミットもマサキたちに頷き返し、力なくその場にうなだれるグリムロックを連れて丘を下りて行く。その後に、箱を埋め戻したヨルコとカインズが続く。

「アスナさん。エミさん。キリトさん。マサキさん。本当に、何とお詫びして……何とお礼を言っていいか。皆さんが駆けつけてくれなければ、私たちは殺されていたでしょうし……グリムロックの犯罪も暴くことはできませんでした」
「いや……。最後に、あの二つの指輪のことを思い出したヨルコさんのお手柄だよ。見事な最終弁論だった。現実に戻ったら、検事か弁護士になるといいよ」

 深々と頭を下げたヨルコは、キリトの冗談にくすりと笑って応じた。

「いえ……。信じてもらえないかもしれませんけど、あの瞬間、リーダーの声が聞こえた気がしたんです。指輪のことを思い出して、って」
「……声……」

 マサキはヨルコの口にした単語を無意識に漏らしながら、もう一度深く一礼した二人が丘を後にするのを見送った。ふと、何とはなしに、目線を背後の墓標に泳がせる。
 ――声、ね。
 そんな自分に、マサキは自嘲の笑みを向けた。あるはずのないものを一瞬でも望んでしまった自分が、あまりにも滑稽で。
 馬鹿らしいと空気の塊を吐き捨て、逃げるように背を向けようとしたマサキ。しかしその寸前、思いもがけないものを見た。

 捩れた巨木の根元にひっそりと佇む苔むした墓標。そのすぐ脇に、微かな光を放つ何かがあった。
 SAOでは一般的な、革でできたブラウンのブーツ。金色の光に覆われ、半透明なそれからは、同じように透き通った脚がすらりと伸びている。ほっそりとした身体には、スピード型のビルドを思わせる控えめな金属鎧。短いブラウンの髪はアップにまとめられていて、たおやかな笑みを零しながらも、その目には強い意思が宿っている。
 マサキがそれを人であると認識するまで、数秒の時間を要した。この女性プレイヤーが、現実の存在ではないと知ったのは、更に数秒後のことだ。
 ――有り得ない。マサキは今日幾度目かの言葉を頭の中で叫んだ。このアインクラッドは、電脳世界に組み上げられた、ただのプログラムでしかない。そこで見聞きする全てはナーヴギアから与えられた電気信号であり、心霊現象やオカルトの類が入り込む余地はない。つまり、今自分が目にしている女性プレイヤーの正体は、プログラム上に発生した何かのバグか、あるいは自らの脳内だけで合成された幻覚かだ。

 目を見開いて立ち尽くすマサキに向けて女性プレイヤーはしっとりと微笑むと、何かを差し出そうとするかのように、開いた右手を差し出した。
 嘘。幻。バグ。精神異常。目の前の光景を否定する推測が次々に飛び出してきて、マサキの前に壁をなす。その壁が、前に突き出されようとしていたマサキの右手を阻む。……でも、もし。彼女がそのどれでもないのなら。もし、この電子コードで組み上げられた世界のどこかに、消えてしまったプレイヤーたちの思いが残っているというのなら。どうか。どうかもう一度……。
 マサキの足が、前に倒れこもうとする上半身を追って半歩だけ前に進む。それと同時に、女性プレイヤーの手を掴もうと開かれていた右手が、その間にある壁に触れる。次の瞬間――女性の姿は忽然と消え失せ、彼女がまとっていた光の一欠けらすら、マサキを嘲笑うかの如く消滅していた。それは、マサキの記憶からある事実を抜き出すには十分だった。マサキは乾いた笑みを口元に刻みながら、視線と右手を女性の存在していた空間に彷徨わせていた。
 やがて諦めたように力を抜こうとした寸前、その右手が、不意の温かさに包まれる。

「……ね、マサキ君」

 両手でマサキの手を包み込んだエミが、マサキの横に立って言った。思考力の回復していないマサキが言葉を返せずにいると、それを好意的に受け取ったのか、静かに続ける。

「マサキ君はどう? マサキ君が誰かと結婚した後で、その相手の新しい一面に気付いたら……マサキ君は、どう思う?」

 マサキはいまだ回転数の戻っていない頭で、質問の意味を考えようとした。そういえば、先ほどアスナがそんな問いをキリトにしていたような気がする。

「……それは、触れるのか?」

 マサキは短く言った。触れていられるものならば、例え幽霊であったとしても、自分はそれを愛せるだろう。

「……え?」
「……いや、いい。忘れてくれ」

 マサキはすぐに思いなおして直前の言葉を取り消すと、重ねられていたエミの手から自分の右手を引き抜いて振り返った。星のない夜空を一度仰ぎ、繋がれていない手の温度を自分の身体に染み込ませる。

「……どこかで明日の朝ごはんの材料でも買って帰ろっか。マサキ君は、明日のメニューは何がいい?」
「何でも」

 ぶっきらぼうに答え、主街区に向けて歩き出そうとした――そのところで、マサキはじろじろとこちらを見てくる二つの視線に気がついた。その瞬間、自分が犯した過ちを心の底から後悔する。

「……マサキ君って、ずっとクールっていうか、近寄りがたいって思ってたけど……意外と手が早かったのね……」
「顔はいいしな。ヒースクリフほど有名じゃないけど、ユニークスキルも持ってるし。……ここだけの話、マサキが何人もの女子プレイヤーをとっかえひっかえ引き連れてるっていうウワサが何人かの情報屋に……」
「……なんの話だ」

 威嚇の意味を込め、いつもより一オクターブ低い声でマサキは言った。それを聞いたキリトとアスナが、一様にビクリと身体を震わせた後に引きつり笑いを浮かべる。
 マサキは素早く身を翻すと、主街区に向かって歩き出しながら三人の温かい会話から自分を遠ざけた。体温で温められた空気を夜の冷たい空気と入れ換えつつ、目を細めて呟く。

「……帰るか」
「うん」

 一度引き剥がしたはずのエミの声が耳元で聞こえたことにマサキは驚き、立ち止まった。が、それと同時に左腕をエミに取られていたため、つんのめるような形で彼女に牽引されていく。真っ白になった頭でエミを追いかけながら、マサキは耳に残った囁きを、自分の記憶から無意識に漁っていたのだった。

 いつの間にか、独り言に変わっていた言葉。返事を聞いたのは、一体、いつ以来のことだったろう? 
 

 
後書き
 どうも、作者のCor Leonisです。長かった圏内事件編も、ようやくこれで完結となります。
 この県内事件編、原作で発表されたのが8巻ということに加え、新たなヒロインが出るわけでもないということで何となく影の薄い印象を感じますが、拙作では「マサキと原作キャラとの絡み」、「マサキにおける、過去から未来への転換点」というところをテーマに書いてみました。上手く読者の皆様に伝わっていればいいのですが……はてさて。そのあたりは、まだまだ精進が必要、といったところでしょうか。
 さて。次回からは原作2巻、「心の温度」編に入っていきたいと思います。殆どオリジナルなストーリーになるかと思われますが、どうぞお付き合いくださいませ。……え? リズのDEBAN? そんなものはない(オイ)

 ではでは。 

 

年頃乙女、三人寄れば――

 エミの食事は、時々の例外を除き三食全て自炊である。
 これは食費の節約や、料理自体の楽しさ、奥深さに目覚めたという理由もあるにはあるが、一番は料理スキルの熟練度アップのためだ。だから、攻略に持って行く弁当も自作だし、最近では同じく料理スキルを上げているというアスナと料理談議に花を咲かせることも多くなった。
 しかし、現実世界でも時々料理をしていたと言うアスナとは違い、エミは現実で料理をした経験が殆どない。そのため、思いつく料理のレパートリーがどうしても制限されてしまうのが最近の悩みだった。そのことをアスナに相談したところ、「レパートリーを増やすなら、まずは自分が食べて美味しいものを探すのが一番!」と定期的な食べ歩きを勧められたため、それから時々、美味しいと評判のレストランで食べたことのないメニューを注文してはその味を再現しようとチャレンジしたり、可能ならレシピを教えてもらったりするようになった。これが、前述の例外である。
 そして、アインクラッドに訪れた二度目の六月のある日。その日の朝食も、その例外だった。

「お待たせしました。当店自慢のパンケーキになります」
「わ、美味しそう!」

 喫茶店のテラス席に座り、前に一枚の皿が置かれた瞬間、エミは両目を期待に輝かせた。きつね色に焼き上げられた生地が三枚ほど重ねられ、上にはホイップクリームと色とりどりのフルーツがふんだんに。更にその上からはベリー系だと思われる赤いソースが掛けられていて、仄かに酸味の効いた香りが鼻腔をくすぐって逃げていく。

「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」

 ダークブラウンのロングヘアを背中まで伸ばした、紺色のエプロン姿の店員――タカミが微笑みながら言う。四十七層主街区《リンダース》にあるこのオープンカフェこそ、シリカ、マサキの二人と過ごした前日にエミが助けた夫婦が営む店なのだ。

「じゃあ早速、いただきますっ」

 両手を合わせた後、一口大にカットしたパンケーキを口に運ぶ。まずはもちもちとした生地の食感が口の中に訪れ、それに続いて、ホイップクリームの濃厚な甘さが広がった。それはともすれば他の食材を全て消してしまいそうな濃密さだったが、その甘さをフルーツの瑞々しさとソースの酸味が絶妙な加減で抑えている。クリームの方も、その甘さでフルーツとソースの酸味や生地の食感を際立たせていて、まさに完璧と言えるハーモニーに、気付けばエミは顔を綻ばせていた。

「美味しい! すっごく美味しいです、タカミさん!」
「本当ですか? お口に合ってよかったです」

 安堵の微笑を浮かべるタカミ。エミはもう一口パンケーキを頬張って舌鼓を打つと、はっと我に帰って申し訳なさそうに尋ねた。

「あの……もし良かったらなんですけど、このパンケーキのレシピって、教えてもらえますか……?」
「レシピですか? ……分かりました。エミさんには、特別ということで」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「いえ、そんなに気に入っていただけたのなら、こちらも嬉しいです。……まずソースですけど、アルベリーの実を……」

 タカミが快諾した瞬間、エミはぱあっと顔を輝かせ、ストレージから取り出したメモ帳に、真剣な表情でレシピを書き込むのだった。



 パンケーキをぺろりと平らげたエミは、食後の紅茶を飲みながら今日の予定を組み上げていた。とは言え、分類的にはソロプレイヤーになるエミにとって、特に前からの予定が入っていない場合、やらなくてはいけないこと、というのは基本的に存在しない。となれば、どこか適当なフィールドダンジョンでレベリングに勤しむか、フリーの攻略パーティーに飛び込みで参加するか、それともマサキの家に突撃を仕掛けるか……。

「あれ、エミ?」
「え?」

 紅茶も飲み終え、そろそろ席を立とうかという折になって、不意に横から声を掛けられた。エミがきょとんと聞き返しながら振り向く。すると、栗色のロングヘアを風になびかせたアスナが、テラス席と往来を隔てる柵に手をかけながら、こちらに向けて手を振っていた。

「今日は食べ歩き?」
「うん。ここ、知り合いのお店なんだけど、パンケーキが美味しいの。ミニサイズもあるみたいだし、アスナも食べてかない?」
「そうなの? ……じゃあ、ちょっと試してみよっかな」

 口元に人差し指を当てて考える素振りを見せていたアスナだったが、やがてそう言うと入り口から回ってきてエミの対面に座った。注文を取りにきたタカミにアスナの分のパンケーキと紅茶のおかわりを注文し、そのアスナに問いかける。

「そういえばアスナ、今日攻略はいいの?」
「今日はオフにしてもらったの。……その、キリト君とデートなんだ」
「へーっ!」

 仄かに頬を赤らめるアスナに、エミは賞賛の声を上げた。
 二人の親交が始まったのは圏内PK騒ぎの直後。共通の友人、趣味の存在もあって、今では二人の関係は親友と言って差し支えないものにまで深まっていたのだが、二人の友情に何より寄与したものは、実はそれとは別にあった。
 それは何か? ――そう、恋バナである。
 アスナが言った「そういえば、エミとマサキ君って付き合ってるの?」という一言に端を発したその会話は、お互いの進展状況が似通っていたことも相まって爆発的な盛り上がりを見せた。エミはマサキに、アスナはキリトにそれぞれ想いを寄せていることやその理由、二人ともアプローチはしているのに進展がないこと等を瞬く間に共有した二人は、その酷似ぶりにただならぬ縁を感じ、がっしりと握手を交わしながら同盟関係の締結を誓ったのである。以来、二人はデートスポットの情報やファッションについての情報交換や、戦略の立案を行う仲だ。

「って、デートの時間は大丈夫? 無理やり引き止めちゃったなら……」
「ううん。行く前にこれをピカピカにしとこうと思って、リズのところに行くつもりだったから」

 アスナは腰元に携えたレイピアに触れた。

「そうなんだ。気合マンマンだね!」
「うん……。けど、必死すぎて引かれたりしないかな?」
「心配ないと思うけどなぁ……。服はいつものだし、アスナかわいいし。……それよりも、キリト君相手だと、そもそも気付いてくれる確率のほうが低いような……」
「それは……あるかも。っていうか、確実にそうなりそう……」

 二人して、大きく溜息。このキリトの鈍感さというのは、アスナがキリトに恋して以来、いつも悩まされていた大きな問題だった。二人は何とかそれを掻い潜ろうと幾つも案を出し合ったのだが、未だに効果的な対処法は見つかっていない。

「ところで、エミの剣ってもう結構長いこと使ってない? 余計なお世話かも知れないけど、変えなくて大丈夫?」

 にわかに重くなりかけた空気を払いのけるように、視線を落としていたアスナが話題を変えた。その両目は、エミの腰に提げられた片手剣に注がれている。
 一瞬反応が遅れたエミだったが、人差し指をあごに当て、考えを巡らせながら答えた。

「えっと、今のがドロップしたのが四十二層の時で、ステータス的にはそこそこだったから……確かに、そろそろ変え時かも」
「だったら、一緒にリズのとこ行かない? リズなら、いいインゴットの話とか知ってそうだし」
「そうだね。着いてこうかな」

 頭の中で予定を立てつつエミが頷く。
 リズベットのところにランクの高いインゴットがあればいいのだが、そうでない場合は自らフィールドに赴いて探してくる必要がある。インゴットがドロップする場所と相手によってはパーティーメンバーを募る必要が出てくるかもしれない。
 となると、今日は一日丸まる潰すつもりでいたほうがいいかも……。等というエミの考えを察したかのように、正面のアスナが得意げな顔で口を開いた。

「それじゃあ、インゴット探しにはマサキ君について来てもらうのはどう? それで連れ出して、二人っきりになっちゃうとか」
「……!」

 その瞬間、エミの両目がきゅぴーんと音を立てそうな勢いで光を発した。マサキほどのプレイヤーであればエミと二人でインゴット探し程度なら十分行えるし、何よりごく自然に一日中行動を共にできる。しかも、その後お礼と称して次の約束を取り付けることだって簡単に――!

「……いい、いいよアスナ! うん、わたしそうする!!」

 勢いよく椅子を鳴らして立ち上がるエミ。二人は顔を見合わせ、「今日こそは!」と目線で言葉を交わしながら力強く頷いた。



「一件目のオーダーはっと……」

 アインクラッド第四十八層主街区《リンダース》に存在する、一軒の職人クラス用プレイヤーホームにて。ごと、ごと、ごと。と、外の水車が刻む緩やかなリズムを感じながら、リズベットは炉の前に立った。左手に持ったメモに目を通しつつ、ウインドウから金属素材(インゴット)を取り出して炉に放り込む。この場所に居を移して三ヶ月。この職場にも慣れたもので、初めの頃はいちいち工作機械の配置に戸惑い、もたついていた工程も、今では流れるように行える。
 併設された巨大な水車が特徴的なその家こそ、リズベットの住処であり、また彼女の経営する武具店――《リズベット武具店》であった。
 メモをストレージにしまい、赤熱したインゴットをヤットコで金床(アンビル)の上に取り出す。ポップアップメニューから作成アイテムを指定して、一度深呼吸。
 “武器を作るときは余計なことを考えず、ハンマーを振る右手に意識を集中し、無の境地で叩き続けるべし”――SAO鍛治職人たちの間で飛び交うオカルトの一つで、自分のことを合理的な人間だと解釈しているリズベットが唯一信じている説だ。
 絶え間なく流れる水車の音が、徐々に小さくなっていく。そのタイミングで、リズベットはハンマーを振り上げ――


「「おはよーリズ!」」
「うわっ!」

 た瞬間、店舗スペースと繋がるドアが勢いよく開け放たれた。振り下ろされたハンマーが狙ったインゴットから大きく逸れて金床の端を思いっきり叩き、情けないサンドエフェクトが工房を満たす。リズベットが不快感を露にして振り返ると、《閃光》アスナ、《モノクロームの天使》エミが立っていた。

「あ、ごめん……」
「以後気をつけまーす」

 以前から「工房に入るときは必ずノックをするように」と口を酸っぱくして言い含めていた意味は多少なりともあったようで、二人は舌を出しながら謝罪の言葉を口にした。

「その台詞、何回聞いたかなあ。……まあ、叩き始めてからでなくてよかったけどさ」

 そんな二人を呆れ顔で見上げながら、金属を炉に投げ入れて立ち上がるリズベット。このやりとりは、まだ《リズベット武具店》が露店だった頃からのお約束だったりする。

 この二人とはそれなりに長い付き合いのリズベットだが、その二人の間に親交が生まれたのは、実はつい最近のことだと知らされた時はとても驚いた。二人とも攻略組のトッププレイヤー、しかも美少女とくれば、どこかで知り合っているはずだと思い込んでいたからだ。確かに言われてみれば、二人との会話でもう片方が出てくることは記憶になかった。
 そんな二人だが、最近急激に友情を深めているようで、今日のように二人での来店も珍しくない。以前三人でお茶会を開いた時など、リズベットの洒落っ気のない服装をオシャレに改じてくれようと言うありがたくないお節介を二人から頂戴したものだ。
 そこでリズベットは散々っぱら二人の着せ替え人形にされ、かわいらしい檜皮(ひわだ)色のエプロンドレスにベビーピンクの髪という驚異的なカスタマイズを施されてしまった。アインクラッドで間違いなく五本の指に入る美少女二人に絶賛された恰好ということで実はちょっぴり嬉しかったりもしたのだが、ツナギに茶髪のショートという洒落っ気の全くない見た目からの激変はさすがに気恥ずかしく、適当なところで戻すつもりだった。……のだが、この恰好になってから店の売り上げが倍増してしまい、戻すに戻せなくなってしまったために不承不承据え置いている。

「……で、今日は何? ずいぶん早いじゃない」
「あ、これお願い」

 リズベットがハーブティーの入ったポットとティーカップを並べていると、勝手知ったる、とでも言いたげに工房を横切って白木の丸椅子に座ったアスナが腰のレイピアを投げて寄越した。片手で受け取ったリズベットは、少しだけ刀身を抜いて検分しながら首を傾げる。

「まだあんまりヘタってないじゃない。研ぐのはまだ早いんじゃないの?」
「そうなんだけどね。ピカピカにしときたいのよ」
「大事なデートだもんね」
「ちょっ、エミ!?」
「へぇぇー?」

「デート」という単語に耳ざとく反応したリズベットが、ニヤニヤと笑いながら椅子ごとアスナににじり寄った。アスナが顔を赤く染めて抗議の視線をエミに向けるが、当の本人はそれをスルー。

「アスナだって、ずっと隠しとくつもりじゃないんでしょ?」
「……まあ、そうだけど……」
「ねえ、相手は誰なのよ、詳しく聞かせなさいよ。てか、ここに連れてきなさいよ」
「だ、ダメ、まだ秘密! まだぜんぜん、その……一方通行だし……」
「へーっ!」

 リズベットは目を丸くして二重に驚いた。そもそもアスナは《攻略の鬼》と揶揄されるほどこの浮遊城の攻略に熱心な人物で、その熱の入れようは見ているこちらが心配になるほどだった。そんな彼女が特定の人物に恋をしたということだけで驚きなのに、まさか口説かれる側ではなく口説く側に回るとは。その人物には是非一度お目にかかってみたいものだ。

「まあ、そのうち会わせてもらえると期待して待ってることにするわ。でもそういうことなら、ウチの宣伝、よろしく!」
「リズはしっかりしてるねえホント。紹介はしとくけどね」
「伊達に商売やってるわけじゃありませんからね。……そういえば、エミはどうなのよ、マサキとは」
「え? っと……アスナと大体おんなじ、かな」

 エミは苦笑いで答える。それを見たリズベットが、腕を組んで唸った。

「まさか、アインクラッドの二大美人が揃って片思いとはねえ……世の中珍しいこともあったものだわ」
「そんなんじゃないってば。……それでリズ、実は、インゴットを探してるんだけど」
「インゴット?」

 美少女というのは普段チヤホヤされている分、自分になびかない男性に魅力を感じる生き物なのだろうか……? そんな薬袋もないことを考えていると、突然エミが話の流れを変えた。話題の転換に乗り遅れたリズベットが聞き返すと、エミが頷いて言う。

「うん。そろそろ剣を変えようかなって思って。どうせなら性能は高いほうがいいし……デートの口実にも使えるかなって」
「それ、ホントはそっちがメインなんじゃないの?」

 あまりにストレートな物言いに、思わずリズベットは吹き出してしまった。照れたような笑いを浮かべるエミに苦笑を浮かべながら、少しだけ天を仰いで考えを巡らせる。

「あたしが知ってるのだと……五十五層のクエストの話とか」
「それ、わたしも知ってる。うちのギルド(KoB)でも話題になったわ。確か、まだ誰も入手できてないんだっけ?」
「そうなのよ。物凄い数の討伐パーティーが挑戦したんだけどね。ドロップ元と見られてる白竜はそんなに強くないんだけど、一向にドロップしないらしいの。だから、今は検証がメインに行われてるって話なんだけど……これはやめといたほうがいいわね」
「え、何で?」

 興味津々という様子で話に耳を傾けていたエミが、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて尋ねる。

「実は、その検証の過程で《パーティーにマスタースミスがいないと駄目なんじゃないか》っていう噂が浮かんできたのよ。あんたたち、鍛治スキルは上げてないでしょ?」
「マサキ君のは知らないけど……多分」

 残念そうに声のトーンを落としつつエミが頷く。
 鍛治スキルや商人スキルを上げている攻略組プレイヤーも探せばいないことはないが、当然のことながら数は少ない。第一、彼が鍛治スキルを上げているなら、鍔が壊れた程度で修復を依頼してくることはないだろう。

「となると……信憑性は少し低くなるけど、四十八層の隠しボスの噂かしら」
「隠しボス?」

 間髪いれず、俯き加減だったエミが顔を上げてオウム返し。自分のカップにお茶を注ぎながらリズベットが頷く。

「三週くらい前かしら、深夜に四十八層の洞窟で狩りをしてたパーティーが、マッピングされてないエリアを見つけたらしいのよ。不思議に思ったそのパーティーが先に進んでみると、そこは巨大な鉱脈で、希少な鉱石アイテムやランクの高いインゴットがゴロゴロ。夢中になって採掘してたら、いつの間にか後ろからボスクラスのモンスターに襲われて、命からがら逃げ帰って来たらしいわ。で、その逃げ帰って来たプレイヤーが言うにはボスモンスターが持ってた剣の色が普通とはちょっと違ったらしくて、だからそのボスを倒せば未知のインゴットがドロップするんじゃないか、って話なんだけど……」
「だけど?」

 難しい顔で話していたことに疑問を持ったのか、エミが不思議そうに首を傾げた。
 SAOでインゴットを入手する手段は主に三つ。洞窟や渓谷などに多く存在する採掘エリアでピッケルなどの専用アイテムを使って採掘するか、同じく採掘エリアで採れる鉱石アイテムを幾つか集めて精錬するか、インゴットのドロップするモンスター――ゴーレム系統や、硬い鱗や甲羅を持つ場合が多い――を討伐するかだ。そして三つ目の場合、モンスターの身体、あるいは使う武器などを見ればドロップするインゴットのランクが大体判別できる。だからそのプレイヤーの言うことは理にかなっており、エミが不思議に思うのも無理はない。
 リズベットは自分のティーカップを手に取り、赤く色づいたお茶をずずっと啜ってから再び口を開いた。

「証拠が弱すぎるのよ。そのパーティーが公開したアイテムの中には確かに数時間の採掘じゃあ集まらないレベルの高ランク鉱石やインゴットがたっぷりあったから、その後幾つも検証パーティーが組まれたんだけど……結局見つけられたパーティーはなし。ボスがいたって言う部屋はマッピングすらされてなくて、自作自演説まで出始めた頃に五十五層の噂が出回ったから、大体の興味はそっちに移っちゃって、今はもう誰も見向きもしてないのよね」

 そこまで話すと、リズベットは口をつぐんだ。手に持ったままのカップをもう一度口に運びながら、「どうする?」と視線でエミに問う。さすがにこの程度の噂話には乗らないかな……というのが率直なところだったのだが、エミはすぐに数度頷くと、

「うん、じゃあ、その洞窟に行ってみる。四十八層で、深夜帯だったよね?」

 と迷う様子すら見せずに言ってのけた。そのあまりの即決に、リズベットは肩を揺らして苦笑いをこぼす。

「ちょっと、本気? あたしが言っといて何だけど、何十人も血眼になって探したのに見つからなかったのよ?」
「まあ、最悪ダメ元ってことで。押してダメなら更に押せ! だよ!」
「あはは、エミはほんっと、相変わらずだねー。――あ、やば、もう行かなきゃ。早く研磨お願い!」
「あ、はいはい。ちょっと待ってて」

 いっそ清々しいほどのエミの一途っぷりに嘆息していたところを、アスナの声で我に帰った。席を立って回転砥石の前まで移動し、アスナから受け取ったレイピア、固有名《ランベントライト》を研いでいく。特に何事もなく研磨は終了し、透き通るようなクリアシルバーを取り戻したそれを鞘に収めてアスナに投げ返すと、彼女は立ち上がって百コル銀貨を指で弾きながらレイピアを受け取った。

「じゃ、わたし急ぐから、これで」
「わたしも、そろそろお暇しようかな」

 ぱたぱたとアスナが逃げるように駆けて行くのを見ながらエミも立ち上がる。

「はいはい。しっかし、エミは相変わらずド直球ねぇ」
「直球勝負はわたしの持ち味ですから。じゃねっ!」
「しっかりやってきなさいよー!」

 エミは最後ににっこりと笑顔を浮かべると、ポニーテールを左右に揺らしながら颯爽と工房を飛び出して行った。二人を見送ったリズベットは、一度大きく息を吐きながら腰に両手を当てる。

「いいなぁ……」

 苦笑しつつ、そんな言葉を呟く。
 今まで鍛治スキルの熟練度上げにひたすら邁進(まいしん)してきたせいで、リズベットは大事な乙女の時期にも関わらず恋を経験していない。その選択を悔いているわけではないが、やはり年頃の少女としては、あんな風に思いっきり恋愛している姿はちょっぴり羨ましい。加えて言えば、鍛治スキルをマスターし、自分の店も持った今は次の目標というものが中々見つからず、肌寒い夜などは妙に人恋しく感じることも少なくなかった。

「あたしも《素敵な出会い》のフラグ立たないかなぁー」

 軽く伸びをしながら余計な思考を追い出し、二人が出て行ったドアに背を向けるリズベット。

「さってと……」

 念のためにもう一度メモを取り出して要求仕様を確認しつつ、再び炉の前に向かう。
 途切れることなく続く水車のリズムが窓から差し込む朝の光と微かに残ったハーブティーの香りを緩やかに攪拌(かくはん)し、それを爽やかな朝の風が外に押し流していく。なのに胸の中に居座った妙なもやもやだけは、吹き流されることなく同じ場所に停滞し、愛用のハンマーを振るい始めてなお、晴れることはなかった。 
 

 
後書き
リズ「……あたしの出番、これだけ?」
ああいや、心配はいりませんよ。
リズ「そ、そうよね! 仮にも原作ヒロインのこのあたしが、これだけの出番で終わるだなんて――」
ええもちろん。あなたには原作通り、キリト君に手酷くフられるという役目がですね
リズ「全ッ然嬉しくないわよッ!」

 ご意見、ご感想、評価など、是非お願いします。 

 

星降る夜に、何想う

「というわけで、お願い! インゴット取りに行くの手伝って!」
「あのな……」

 呆れて大きな溜息をこぼしたマサキの目の前で、エミが両手をパチンと鳴らしつつ頭を下げた。
 マサキの生活習慣は現実世界での仕事柄かなり不規則だ。仕事の進捗次第で徹夜もするし、かといって完全に夜型というわけでもなく、用事があれば朝早くにも起きる。SAOの住人になってからは仕事に左右されることはなくなったが、数年続いていた生活習慣を簡単に変えるのは難しく、また変える必要も特に感じなかったため、マサキの生活は今もあまり規則正しいとは言えない。もっとも、トウマと行動を共にしていたこともあり、大体朝には起きて夜には寝る、という程度にはマシになったが。
 そんなマサキだが、昨日はいつもより遅くまでフィールドに出ていたため、朝目が覚めたのも遅めの時間帯となり――マサキは現在、このことを心から後悔している――。今日は特に用事もなかったためにゆっくりと朝食か昼食か微妙な食事を摂った後、コーヒーを飲みつつ頭を覚ましていたところにエミがやってきてしまった。後は、冒頭の通りである。

「……何で俺なんだ」
「わたしが知ってる中で一番強い人だもん。それに、ギルドにも入ってないから融通きくかなって」

 テーブルに頬杖をつき、不機嫌そうな視線で威嚇しつつ尋ねるが、エミはけろりとした顔で言い放つ。

「キリトとアスナは」
「二人とも今日は用事だって」
「そもそも、手伝ったところで俺に何のメリットがある?」
「これから一週間、マサキ君のお昼御飯がエミさん特製弁当にグレードアップ!」
「勘弁してくれ……」

 朗らかに告げられた罰ゲーム以外の何物でもない予告に、マサキは嘆きながら椅子の背もたれに倒れこんだ。前髪をかき上げると同時にわしゃわしゃとかきむしりつつ、目線だけをエミに投げる。相も変わらぬ人懐こい笑顔の下に、噛み付く力は一トン以上と言われるワニですらパニックを起こして逃げ惑うレベルの獰猛な牙を隠しているのだから、人間の女というのは実に恐ろしい生物である。
 マサキは椅子に深く腰掛けなおし、頬杖をついていた右手で今度は額を覆うように支えた。「昼食が」などとうそぶいてはいるが、この女がそれだけで身を引くものか。それをきっかけにその後の攻略や、晩飯にもちょっかいを出してくるに違いない。……端から見たら、アインクラッドでは珍しい美味い飯が美少女のオマケ付き――逆だろうか――でやってくるのだから、むしろ一石二鳥と思われるだろう。ちなみに、面と向かってそう言ってくる奴を見かけた暁には、マサキは喜んでその二つを譲ってやるつもりでいる。浮かれて手を出したが最後、腕までガブリと食いつかれること請け合いだが。
 というか、そもそも何故マサキなのだ。彼女なら、もっと見た目も中身もいい男を幾らでも漁れるだろうに……。

「……弁当はいらん。それと、一々押しかけてくるのは止めろ。どうしても用事があるのなら、アルゴを通じてメッセージを送れ」
「それじゃあ、付き合ってくれる?」
「……それが守れるなら、な」
「やたっ! じゃあ、夜の九時に迎えに来るね!」

 マサキが渋々頷くと、エミは顔をぱぁっと綻ばせてバネのように勢いよく立ち上がり、タタタッと軽い足音をたてて走り去った。と思ったら、閉める寸前だったリビングの扉から彼女の頭部だけがにょきっと生える。

「あ、そうそう、今ならサービスで今日の晩御飯が――」
「帰れ」
「ちぇ、せっかく新しいメニューを覚えたのに。……じゃ、お邪魔しましたー!」

 エミの頭がリビングから消え、直後に玄関のドアがバタンと閉まる。ようやく出て行ったか……と、マサキは溜息を一つ。
 しかし、まだ安堵はできない。彼女が今後アルゴを通じてアポを取るようになったとして、今日のような奇襲は避けられるようになるかも知れないが、その代わりタチの悪い鼠に恰好のゴシップを流してしまうことになるのだから。
 マサキは頬の三本線を意地悪く波打たせたアルゴの顔を思い浮かべてげんなりしながら、テーブル上のポットから二杯目のコーヒーをカップに注いだ。気が乗らない脳みそをブラックの苦味で強引に回転させ、エミをより遠ざけるための次なる一手を考える。
 カップの中身を半分ほど飲んだところで、ふと部屋の隅に設置された扉つきの棚に目をやった。アイテム類を保管できるインテリアだが、装備をもうずっと更新していないマサキにとってはあまり使う機会がなく、予備の回復アイテムや転移結晶を入れてあるだけのもの。それでもフロアボス攻略戦に赴く前と後に回復アイテムを補充するため、一週間に一度ほどは触っているのだが、棚の上に伏せられている一枚の写真立てとその周辺だけは、もう四ヶ月近くも触っていない。
 ……いや、まだ四ヶ月、か。
 マサキは遠くを見るようにその写真立てを眺めながら、口づけたままのカップを再び傾けた。――こうやって、誰かの無茶ぶりに付き合わされるのも悪くない……そう思えていた時期が、自分にもあったな、などと考えつつ。



 第四十八層は、層の殆どが一つの巨大なクレーターにすっぽり覆われている階層だ。その深さおよそ数百メートル、直径に至ってはおよそ七キロ強という凄まじい大きさで、僅かに残ったマップの端は山岳地帯になっている。殆どが岩地で構成されており、主街区はクレーターの縁から漏れ出た小さな川が底で合流して作った湖の中心に存在するのだが、迷宮区がクレーターの外側にあるために攻略パーティーは漏れなく険しい山登りとクライミングを存分に堪能させられる辺り、マップをデザインした人物の性根の悪さが滲み出ている。
 閑話休題。クレーター内で最北端の村に転移したマサキたちが、更に北へ向かうこと数十分。切り立ったクレーターの側面にぽっかりと口を開けた洞窟が、今回の目的地であるフィールドダンジョン、《星空の回廊》であった。
 このダンジョン、インゴットや各種鉱石の採掘ポイントが存在し、出てくる敵はゴーレム系が殆どと、全体的にはごく一般的な洞窟系ダンジョンなのだが、一つだけ異質な点があった。それは――

「綺麗……」

 ダンジョンに入った途端、隣を歩いていたエミが足を止め、うっとりとした声を漏らしながら頭上に光る無数の光点を仰いだ。
 ――これが、このダンジョンの異質な点。ずばり、《星》が見えるのである。とは言っても、実際のもの――プログラム上の定義という意味で――ではない。洞窟の天井をびっしりと覆ったクリッター(背景扱いの小動物)のワームが青白く発光していて、それが星に見えるというだけのことだ。とは言え幻想的であることに間違いはなく、基本的に星というものを見かけないアインクラッドにおいては殊更(ことさら)貴重な光景と言える。

「さっさと行くぞ」
「あ、うん。ごめんなさい」

 すっかり見惚れていたエミに声を掛け、探索を促す。彼女がこの《星》の正体を知っているかは分からないが、あえて口に出す必要もあるまい。

 洞窟の探索自体は、何の問題もなく進んでいった。現れたゴーレムが攻撃モーションに移る間もなくマサキが蒼風で貫けば、エミ大振りの攻撃を易々と回避して、できた隙を逃さず出の早いソードスキルできっちり仕留める。精々が四十八層のフィールドダンジョンを攻略組二人で進んでいるのだから、当然といえば当然だが。
 しかし、目的のレア鉱脈は行けども行けども見つからず。マップを文字通り隅々まで歩き回り、ボスモンスターが控えていた大部屋を探査してもヒントすら発見できなかった。もちろん二人も、事前情報からその鉱脈がある部屋に行くには何らかのギミックを解く必要があるのではと考えていたのだが、そもそもそのギミックらしきものが存在しない。高いハイディングレートで隠されている可能性も鑑みて《索敵》や《罠看破》スキルを使ったりもしたのだが、二人のスキル値をもってしても反応はなかった。これには他プレイヤーへの援助で数多くのダンジョンに潜ってきたエミもお手上げのようで、探索は早くも暗礁に乗り上げてしまうこととなった。

「うーん、見つからないねー……」

 二人は一度安全地帯まで戻ると、その一角に腰を下ろした。何故かマサキのすぐ隣に体育座りで座ったエミが、ぐーっと両手を頭の上に上げて伸びをする。

「……何故そこに座る」
「え? だって、向き合って座ったら、今わたしスカートだから下着見えちゃうし。……見たかった?」
「もっと遠くに座れという意味だ。第一、イエスと答えたら、見せるのか?」
「答えてみたら?」
「やめておく。恐ろしい」

 マサキが肩を竦めて答えると、少々小悪魔めいた表情だったエミがくすりと破顔する。

「あ、そうだ、コーヒー飲む?」
「持ってきたのか?」
「ここで淹れるの。そっちの方が美味しいかなって思って。これでも、料理スキルのおかげで結構美味しく淹れられるんだよ?」

 そう言いながら、エミはストレージから二つのマグカップとランタン等の機材を取り出し、得意顔で床に並べてみせる。てきぱきとした動作で湯を沸かし、マグカップの上に置いたドリッパーに注ぎいれると、すぐに芳醇な香りが漂ってきた。

「はい、どうぞ」

 手渡された金属製のマグカップを受け取って、一口。まろやかな苦味と一緒に、じんわりとした温かさが身体中に染みていくのを感じた。装備品のおかげで暑さ、寒さにはかなりの耐性を得ているマサキだが、だからといって体感温度が全く変化しないというわけではない。また、このフロアは平均気温が低めに設定されていることもあって、六月といえど温かいものは素直にありがたかった。

「どう? お味は」
「ああ、十分だ」
「良かった」

 ほっとしたように笑い、自分もカップに口をつけるエミ。その横顔を、ランタンのオレンジ色の光が穏やかに照らす。

「そういえば、マサキ君は料理スキル取ってるわけじゃないんでしょ? あんなに美味しいコーヒー、どうやって淹れたの?」

 それからしばらく二人は無言でマグカップを傾けていたが、カップに入ったコーヒーの殆どを飲み干した頃、エミが白い息を吐きながら訊いてきた。マサキはちょうど口に含んでいた分を飲み下してから答える。

「あれは俺が淹れてるんじゃない。あの味のコーヒーが出てくるポットを持ってるだけだ」
「そうなんだ?」

 エミは驚いた声で言った。マサキが頷く。
 彼女は左手だけで持っていたマグカップに右手を添え、視線を落とした状態で何かを考えるように動かなくなった。二人の間を沈黙がしんしんと流れていく。

「……でも、あの時のコーヒーがあんなに美味しかったのは……やっぱり、マサキ君が淹れてくれたからだと思うな」

 やがて、エミが胸元に抱くように持ったマグカップを見つめたまま、ぽつりと呟いた。「何を馬鹿な」とマサキが言いかけるが、直前で踏み止まる。
 まるで我が子を抱き締めているかのような柔らかな優しさが、彼女の横顔と、どこか遠くを見るようにほんの僅か細められた目元にランタンの光で揺らめいていて。今の彼女にそれを言うのは何となくはばかられるような気がして、マサキは仕方なく、喉奥で止めていた言葉を白く塗りつぶして吐き出した。

 暫し、不思議な時間がマサキたちを包んでいた。お互いに言葉はなく、しかし重苦しい居たたまれなさがあるわけでもない、羽毛のような心地良い沈黙。少しでも風が吹けば、たちまち吹き飛ばされてしまいそうな。
 しかし――否、だからこそ。マサキの中で彼女に対する警戒心が鎌首をもたげ始めていた。
 思えば、第一印象はお世辞にもいいと呼べるものではなかった。彼女にとっての自分だって、そうだっただろう。
 それが、いつの間にか、週に何度も鉢合わせするようになり、彼女が家に押しかけてくるようになり。あまつさえ、こうして今、二人でダンジョンに潜っている。冷静になって振り返ってみれば、おぞましさえ覚えるほどだ。
 なのに、何故。自分は、今まで彼女を遠ざけようとしてこなかったのだろう。
 何故彼女は、自分などと一緒にいるのだろう。
 ちらりとエミに目をやると、マサキの心情など知る由もない彼女が、空になった二人分のマグカップをストレージの中にしまいこんだところだった。彼女は座ったまま、マサキと肩が触れそうな距離まで近寄ってきて、黒のソックスが包むすらりと伸びた両脚をスカートごと抱きかかえる。そして、天井から垂れ下がった数多の星々を仰ぎ、歌うように口を開いた。

「わたしね、最近思うの。アインクラッドって、こんなに綺麗な世界だったんだ、って。……おかしいよね、もう一年以上もいるのに」

 彼女はくすりと笑いをこぼすと、抱えた両膝に乗せた顔をこちらに向ける。

「でも、最初はただ、寂しくて、怖くて……景色なんてまるで目に入らなかったのが、マサキ君にシリカちゃん……色んな人と出会って、無理しなくてもいいんだって気付いて。そうしたら、今まで見えてなかった綺麗なものが、全部見えるようになった。透明な水がどこまでも続いてそうな湖も、ふかふかの芝生が生えた草原も……だから今、毎日がすごく素敵で、楽しいの。……マサキ君のおかげ、かな?」
「……何を、馬鹿な」

 ――不味い。
 背筋を危機感が駆け抜けていくのを感じて、マサキは穏やかな光を(たた)えた二つの瞳から、逃げるように顔を背けた。
 目を伏せ、肺に溜まっていた空気を一気に入れ換える。膝の上で、ランタンの光に照らされたエミの脚が影になって揺らめいていた。
 やや間が空いて、右肩に重みを感じた。マサキはそれがエミの頭であると瞬時に直感した。右腕が、石になったみたいに動かなくなった。
 目を瞑って、息を長く吐き出しながら数度首を左右に振った。吐き出した息が、誰が聞いても分かるほどに波打っていた。
 右腕が、彼女の腕に巻き取られる。
 仄かな温かさが伝わってくる。今にも凍り付いてしまいそうな、底冷えする温かさが。
 顔を背け、目を瞑り、耳を塞ぎ。可能な限り彼女の存在を遠ざけようとするマサキを嘲笑うように、エミの体温と感触がマサキの意識にしがみついて離れない。
 折り重なる息遣い。
 同期する鼓動。
 惹かれ合うみたいに。
 目や耳といった感覚器が顔にあることを、マサキは人生で一番恨めしく思った。もし末端に付いていれば、今すぐにでも切り落としてやれるのに。そんなものが頭部にあるから、人はそれを切り離せない。例え切ったとしても、落ちていくのは脳みその方だ。

「……マサキ君?」
「何故だ」

 心配するようなエミの声を、マサキは努めて遮ろうとした。それでも耳に入ってきてしまうソプラノを掻き消すようにマサキは続ける。

「何故俺なんだ。今日だけじゃない、家にまで押しかけてくる日、食事を作ってくる日、フィールドまで付いてくる日――誰かと一緒に食事したければシリカがいるだろう、誰かと一緒に外に出たければアスナがいるだろう、いや、他にだって、お前と一緒に行動したがる奴なんてごまんといる。なのに何故、何故尽く俺なんだ――!」

 息を荒げて吐き捨てたマサキは、同じ言葉を何度も何度も、オーバーヒートした思考回路に流し続けていた。
 誰かと一緒にいるような人間ではないのに。
 それができるような人間でも。
 なのに、何故――

「……分かんない?」

 同じ単語を何万回数えただろうその瞬間、まるで天使の奏でるハープのように涼やかに震えたエミの声が、熱暴走を起こしていたマサキの頭を急激に冷却した。突然我に引き戻されたマサキは、本来必要な思考力さえ失って、今まで必死に遠ざけてきた彼女を振り返ってしまう。

「何……っ――!?」

 そして、振り返ったマサキの数センチ先――震えただけで触れてしまいそうな距離に、彼女の瞳があった。
 システムが彼女にだけ特別製のプログラムを使っているのではないかと勘繰ってしまうほど美しい、宝石のような瞳。潤んだ表面に覚悟の光を宿したその中で、一瞬で吸い込まれてしまったマサキがひどく怯えていた。

「本当に、分かんない?」

 繰り返された言葉は、現実のものだっただろうか。それすら分からない中で、しかしマサキは確実に理解していた。
 彼女の言う言葉。瞳に浮かんだ感情。
 それを告げられた時、自分は間違いなくその重みに耐えられないと。
 ――止めてくれ。
 マサキは力の限り叫ぶ。しかし、どれだけ力を込めても唇は微動だにせず、掠れた息しか出てこない。既に、重圧で喉が潰れていた。
 エミに抱かれた右手に、彼女の手が添えられる。
 ――止まってくれ。

「……わたしね、ずっとマサキ君のことが――」

 頼む――!
 両目を硬く閉ざして念じた瞬間、それまで全く力の入らなかった左手が反応した。マサキは咄嗟にその手をエミの肩に添えて引き剥がすと、絡め取られていた右腕を抜きながら飛び退くように立ち上がる。

「え……」

 彼女が言おうとしていただろう最も重要だった言葉は、音になる寸前で驚愕に掻き消された。
 静寂が二人きりの洞窟に満ちる。
 マサキは震える足で立ったまま。エミはマサキの腕が入っていた空洞を抱いたまま、後ろによろめいた身体を右手で支えた状態で硬直していた。
 重なっていた鼓動と息遣いは、余韻のように同じリズムで続いている。
 紅潮していたエミの頬が青白く変わっていくのが微かな星明りで照らされ、それが時間の流れを証明する唯一の証拠としてマサキの両目に映っていた。
 そのうちに、鼓動も息遣いも別々に分かれ。
 最後まで繋がっていた視線は、それから間もなくマサキが切った。

「……辺りを見てくる」

 マサキは目を伏せた勢いで身を翻した。動揺を隠せない、低く、震えた声だった。

「あ……っ」

 エミの喘ぐような声から逃げるため、早足でその場を後にする。どうして走って逃げないのだろうと自問しながらも、マサキの足取りが速度を増すことはなかった。 
 

 
後書き
 どうでもいい話ですが、ここ十話ほど戦闘シーンを一切書いていないことに気付いて密かに戦慄しました。次は恐らく戦闘が入ると思いますのでお楽しみに。筆が訛ってないといいのですが……え? もとからヘタクソだろうって?

 それはともかく、ご意見、ご感想等あると作者が喜びます。よろしければどうぞ。 

 

流星の終着点

 
前書き
 当たり前のように文字数が増えて戦闘終了まで辿り着けず。まあいつものことだし大丈夫だよね(震え声) 

 
 一体、どれくらい歩いただろう――なんて、そんな決まり文句を言えるほど、彼女から離れられてはいない。せいぜい数十分もあれば最奥に辿り着ける洞窟を、たったワンブロック移動しただけなのだから。しかし、見下ろした先で何かに憑りつかれたみたいにひたすら踏み出し続ける二本の足と、気を抜けばすぐにでも背後から飛び掛ってきそうなソプラノの声が、もう何十時間、何百キロも歩き続けているかのような錯覚をマサキに見せ続けていた。
 坑道めいた通路が開け、半径十メートルほどの円形のフロアに辿り着いたところで、マサキは壁に倒れこむように座った。安全地帯ではないが、探索の過程でこの辺りのPOPは枯渇させてあるため、もうしばらくはこのままでも問題ないだろう。

 ――『わたしね、ずっとマサキ君のことが……』

 そんな推測を押しのけて、ついさっき聞いたばかりのソプラノがフラッシュバックを起こした。
 エミの言葉は途中で途切れたが、それが自分に対する告白なのだということくらいは解る。マサキは他人の感情というものに無関心だが、一切を理解できないわけではない。
 だが、だとしたら、もっと早くに気付けていたはずだ。
 攻略に毎日着いて来たがる。
 わざわざ家にまで押しかけて、料理を振舞う。
 頻繁に手を握る、あるいは、腕を絡める。
 どれもこれも、好意を抱いていなければするはずのないこと。
 だが、結局自分は、こうなってしまうまで気付けなかった。
 何故?
 違和感が全くないほど、エミのアプローチが自然だったから?
 彼女が自分にどんな感情を持っていようが構わないと思っていたから?
 否。それらは全て不正確だ。
 今まで気付けなかったのは、気付こうとしていなかったから。……いや、その言い方もまた、少しだけ正確ではない。本当のところは、わざと目を逸らし続けていたから、だ。
 同時に、思う。
 もし、このまま彼女の意図に気付くことなく過ごしていたら。
 今までのように彼女と攻略へ赴き。
 今までのように彼女の作った食事を食べ。
 今までのように、誰も立ち入らせなかった近い距離にエミという存在が在り続けたら。
 それは恐ろしい想像だった。
 彼女と過ごす時間がガン細胞みたいに増殖していく。
 いつの間にか、彼女と過ごすのが当たり前になる。
 そして最後に、恋に落ちる。
 今まで何だかんだでエミと行動を共にしていたことも、そのことに違和感を覚えなかったことも、全ては彼女に恋をする兆候だったのだ。

「天才が、聞いて呆れる」

 マサキは自分の学習能力のなさを(あざけ)った。
 項垂れた顔の表面に張り付いていた唇が斜めに歪んでいた。
 彼女の感情に気付いた以上、もう数十分前までのようにはいられない。今すぐにエミと手を切る必要がある。幸いと言うべきか、これだけ探し回っても目的の場所は見つからないのだ、探索の断念を提案しても不自然ではあるまい。
 マサキは立ち上がり、歩いてきた道を戻ろうとする。その瞬間、目の前にエミの顔が浮かび上がってマサキの両脚を硬直させた。
 別れ際、最後に見た顔だった。
 全体が真っ青に汚れ、今にも泣き出しそうな顔。
 マサキは視線を下に逸らして、息を大きく吐き出しながら顔を左右に振った。
 まさか、ここまでエミに侵食されていたとは……。
 数秒地面を見つめてから顔を上げると、視界の隅を何かがちらりと横切ったのが見えた。首を捻りつつ見上げると、マサキが見たのであろう何かは既に消えてしまっていたが、それとは別の、新しい光の筋が天井に吊り下がった星々の間を()け抜けていく。

「流星……?」

 マサキの発言は、厳密に言えば誤りである。この洞窟で見ることのできる光の正体は、星ではなく天井から吊り下がった虫型のクリッターなのだから。ということは、今見ている光の筋は恐らく、羽化したワームが飛び回っているとか、そういう類の現象なのだろう。しかし、青みがかった淡い光を放ちながら頭上を流れていく様には、そんな些細なことなどどうだっていいと思わせてしまうほどの魅力があった。
 マサキが見つけた光は、流星にしては短い尾を引いて彼方へ飛び去っていく。すると、それに導かれるように、一つ、また一つ、新たな星が流れ出した。それらは瞬く間に洞窟の空を埋め尽くし、雨の様な濃密さで同じ方向へがむしゃらに()けて行く。
 マサキはふと、この現象は果たして流星を再現するためだけのものなのかと疑問を抱いた。現実の流星には放射点と呼ばれる座標が存在し、星はその点を中心に外側へ向けて流れていくものなのだが、現在頭上を流れる光の筋は全て同じ方向を向いている。
 それは、普段のマサキであれば気にも留めないような疑問だった。その先に何があるかはもちろん、何かが存在するのかさえ分からない。そもそも何かが存在していたとして、それはマサキにとってどうだっていいことだ。
 しかし、マサキは流星の流れ落ちる方向を見、エミを残してきた方向を見ると、身体を反転させて星の流れに追従する道を選んで歩き出した。
 行った先で見つかるかもしれない「何か」に期待を持っているわけではない。ただ一つ言えるのは、もし星の向かう先とエミのいる方角が同じだったら、マサキが星を追うことは絶対になかっただろうということだ。



 辺りに再湧出(リポップ)し始めたモンスターを倒しながら進むこと約五分。結論から言えば、やはりこの流星群は単なる天候イベントではなかった。《星空の回廊》は洞窟系ダンジョンの例に漏れず道が多少曲がりくねっているのだが、そこを通る流星もまた、道に沿って曲がりながら進んで行っていた。つまりは、どこか決まった目的地が存在するということになる。
 そしてその目的地は、何の前触れもなく現れた。
 数多のクリッターたちがこぞって目指していたのは、特に何があるわけでもない、全く以って平凡な坑道の壁であった。傍目(はため</