至誠一貫


 

序 ~死、そして新たなる生~

 
前書き
12/25 会話の中身で統一が取れていなかった箇所を修正しました。

2017/8/20 誤字修正と一部の記述変更、スタイル刷新。 

 
 未明に始まった海戦。
 亜米利加(あめりか)国旗を掲げた奇襲は見事に当たり、甲鉄に迫る事には成功。
 だが、その後の戦況は思わしくなかった。

「ギャッ!」
「ぐわっ!」

 甲鉄のガトリング砲が火を噴き、甲板上の味方が次々に倒れていく。

「うぐっ!」

 傍らにいた甲賀艦長が、呻き声を上げた。

「どうした?」
「い、いえ。何でもありません」

 そうは言うが、どこかを撃たれたのだろう。
 苦悶の表情を浮かべつつも、舵輪からは手を放そうともしない。
 ……このままでは、全員やられるのも時間の問題であろう。

「私が斬り込む。後は頼んだぞ」
「なりませぬ! 局長!」

 元新撰組の者が、慌てて私の袖を掴んだ。
 局長か……懐かしい呼称だ。
 近藤さんが降伏し、私が後を引き継ぐ形になってしまった新選組。
 人数も減り、もはやかつての面影はない。
 ……今では総司も左之助も身罷り、斉藤君とも離ればなれになってしまった。
 島田と中島だけは従ってくれているが……後は、僅かばかりの隊士が残るのみ。
 斃してきた攘夷浪士どもは、あの世で我らを嗤っているやも知れぬな。

「いや、やはり参ろう。榎本総裁に、よしなに伝えてくれ」
「局長!」
「土方様!」

 その時。
 耳を聾するような、大音響が響き渡った。
 周囲の敵艦が、漸く戦闘態勢に入ったようだ。
 この回天目がけて、一斉射撃を始めた。
 とは言えこちらも甲鉄に乗り上げている格好、無闇に撃てば巻き添えにしてしまう。
 そうそう当たらない筈だが、このまま座していては死あるのみ。

「作戦は失敗ですな。撤退するぞ!」

 司令官、荒井殿の号令がかかった。
 ……やはり、無謀であったか。
 本来三隻で実施する筈だった作戦が嵐や僚艦の故障により、この回天単独での決行となった。
 もともと、無理を承知で始めた作戦ではある。
 ……しかし、つくづく運がなかったとしか言えぬ。

 ん?
 その時、頭上から、嫌な音が聞こえた。
 振り仰いだ私の眼に、一発の砲弾が見える。

「局長! 待避を!」
「い、いかん! 回避だ回避!」

 周囲が騒いでいるが。
 ……これは、間に合わんな。
 ここで終わる、それも定めであろう。
 数秒後、炸裂音と共に、私の身体は宙を舞った。



「……ん……む……」

 意識を取り戻した私は、身体を起こす。
 ……はて、面妖な。
 海戦をしていた筈が、大地の上にいるとは。
 しかも、見渡す限りの荒野。
 懐を探る。
 巾着は無事だが、ニコールから貰ったピストルは、見当たらない。
 愛刀の和泉守兼定は、そばに転がっていた。
 堀川国広も……無事だな。
 後はロッシェから貰った万年筆に双眼鏡、懐紙……それから石田散薬、か。
 ……しかし、ここがどこだかわからん。
 荒野の向こうに、山は見える。
 ……だが、日本で見た事のある山ではない。
 屯所にあった水墨画のよう、そう清国の風景に近いような気がする。
 だが、私がいたのは宮古湾。
 流されたのだとしても、清はあり得ぬ。
 ただ一つ言える事、それはこうして五体満足で生きているという事実。
 生き永らえた以上、箱館に戻らねばならない。
 道を尋ねようにも、人影が……ん?
 遠くから、誰かがやって来るのが見えた。
 丁度良い。
 私は人影が近づいてくるのを、ジッと見続けた。

 そして、お互いに顔がわかるぐらいの距離に。
 人影は、いずれも人相の良くない男が三人。
 頭に巻いた黄色い布はお揃いで、腰には幅の広い刀を下げている。
 ずんずんと、私のそばへと近づいてくる。
 ……この際、人相は問うまい。
 私が知りたいのは、場所と道だけなのだからな。

「おい」

 先に、向こうから話しかけてきた。
 中央の首領らしき男が、私をジロジロと見る。

「オメエ、どっから来た?」
「どこから、とは? 気がついたらこの場所にいたのでな。むしろこちらが尋ねたいぐらいだが、ここはどこだ?」

 すると、男はギロリ、と私を睨みながら、

「ふざけてんのか、てめぇ! 俺達が誰だか、わかってんだろうな?」
「いや、貴殿らとは初対面の筈だがな」

 尊攘派の連中ならば、このような物言いはせぬだろう。
 むしろ、いきなり斬りかかって来ても不思議ではない。
 ……そのぐらい、私は恨みを買っているからな。

「あ、アニキ。こいつ、なかなかいい服着てるじゃありませんか。高く売れますぜ?」
「そ、それに、剣もなかなか見事なんだな」
「そうか。おい、その服と有り金全部、あと剣を置いていけ。そうすりゃ、助けてやる」

 山賊の類か。
 どうやら、情報を聞く前に一仕事必要なようだな。
 和泉守兼定を抜き、構える。

「お、やろうってのか。てめぇみたいな優男に俺様が斬れるとでも思ってんのか、ああ?」
「そんな細身の剣じゃ、虚仮威しにもならねぇぜ?」
「い、今ならまだ許すんだな」

 なるほど、相手の実力の程もわからぬ、か。
 いかにも切れ味の悪そうな大剣を抜く三人。
 面構えは凶悪だ、人も何人も殺しているのだろう。
 ……だが、腕はさほどではないな。
 ならば、先手必勝!
 首領らしき男に、真っ向から斬りつける。

「舐めるなっ!」

 私の兼定を、脅威と見ていないのだろう。
 だが、本命はそっちではない。
 すかさず柄から右手を放し、堀川国広を抜き放つ。
 そのまま、男の腹に突き刺す。

「ギャァァァァァッ!」

 国広を刺したまま、右手を再び兼定に添え、

「ハァッ!」

 眉間に叩き付ける。
 男はよろめき、そのまま倒れた。

「あ、アニキっ!」

 もう一人、背の高い男に、すかさず斬りかかる。
 そして、首筋を一閃。
 大量の血を流しながら、そいつも事切れた。

「あ、あわわわわ……」

 最後に残った、太った男は後退り。

「さて。どうするね?」
「ひ、ひぃぃぃぃ! く、来るな、なんだな!」

 無闇矢鱈に、剣を振りまくる。

「私の質問に答えて貰おう。ここは、どこなんだ?」
「来るな、来るな、なんだなぁ!」

 錯乱してしまっているな。
 これでは、何も聞き出せそうにない。
 私は男に駆け寄り、足払いをかけた。
 そして、男の背後に回り、首に手をかける。
 兼定は、地面に突き刺したまま。

「ぐ、ぐるじいんだな……」

 暴れる男だが、私は腕の力を緩めはしない。
 やがて、男の抵抗は弱まり……そして、止んだ。
 兼定と国広の血を拭い、鞘に戻した。
 この男達から、何か情報は得られるかも知れぬな。
 一人一人、懐を探ってみる。
 出てきたのは巾着と、竹で出来た書物。
 巾着には、見た事のない銭が。
 そして、竹簡を広げると。

「これは……漢文か」

 辛うじて『大賢良師』、という文字が読み取れた。
 ……墨が薄く、更に悪筆のせいでそれ以外は解読不能だった。
 大賢良師……ふむ、宗教の類か?
 しかし、これだけでは何が何やら、さっぱりだな。
 そう思っていると、ふと殺気を感じた。
 大きな薙刀を手にした女子(おなご)が、こちらへと向かってくる。
 やや吊り目ではあるが……なかなかの美形だな。
 長い黒髪を横に束ね、体躯もなかなかに立派だ。

「おい、貴様」
「私の事か?」
「他に誰がいる?」

 そう言いながら、女子(おなご)は薙刀を構える。

「何の真似だ?」
「その前に、質問に答えろ。貴様、その者達を手にかけたか?」
「ああ。襲ってきたので、返り討ちにした」
「ならばもう一つ。何故懐を探り、死者から盗みを働く?」

 どうやら、巾着と竹簡の事を言っているようだな。

「これか。ここがどこだか、情報を得たいまで。金が欲しいのならこのような物、呉れてやるぞ?」

 そう答えると、女子は憤怒を露わにする。

「貴様! 私を賊の輩と同じにするか!」
「賊かどうかは知らんが、いきなり刀を向ける奴に、私は礼儀を以て臨もうとは思わん」
「おのれ、侮辱するか! この関雲長、貴様ごときに愚弄される謂われはない!」

 ……関雲長、だと?
 蜀の義将にして、美髭公。
 近藤さんが敬愛して止まなかった、あの関羽だというのか?
 ただならぬ気迫は感じるが、それにしても違和感は払拭出来ぬ。

「貴殿、関羽と言ったな?」
「ああ。この青龍偃月刀の錆にしてくれる! だが、最後に名ぐらい、名乗らせてやるぞ」

 同姓同名なのかも知れぬが、紛れもなくこの女は関羽と言うらしい。

「どうした! 名乗れ!」
「よかろう。私は内藤隼人……いや、蝦夷共和国陸軍奉行並、土方歳三」

 素性の知れぬ相手に偽名と考えたが、意味があるとも思えず思い止まった。

「……何を言っているのだ、貴様は。蝦夷共和国、とは何だ?」
「知らぬ、と? では、ここは異国か」
「何をブツブツ言っているのだ! 言い残す事はそれだけか?」
「待て、まず刀を収められよ。私は礼を言われるならともかく、斬られる筋合いなどない」
「莫迦を申せ! 例え賊とは言え、それを手にかけ、あまつさえ盗みを働いたではないか!」
「人の話を聞かぬ御仁だな。もう用は済んだ、元に戻しても構わん」
「……それで逃れられる、とでも? 官吏に突き出してやる、不審な輩め!」

 そう言って、青龍偃月刀を向けてくる関羽。
 あれをまともに受けては、兼定といえども一溜まりもないな。
 ならば、まともに受けないだけの事だ。

「でぇぇぃ!」

 青龍偃月刀が、うなりを上げる。
 刃風は鋭く、重そうだ。
 受ける真似などせず、かわす。

「捕らえるつもりなのか、本当に?」
「何、生かしたまま捕らえる必要もないからな。手に余れば斬り捨てるだけの事!」
「やれやれ、それが天下の義士の言葉とはな」
「ぬかせ! 貴様如き卑劣な輩に、私を貶める資格などない!」



 対峙する事、四半刻。

「どうした、かわしてばかりか」
「ふっ。それはどうかな?」
「何だと?」

 私は躱しざま、足下の砂を掴む。
 そして、関羽に向かって投げつけた。

「な、何をする!」

 一瞬の隙。
 兼定を抜き、小手に、峰打ちを浴びせる。

「うぐっ!」

 いかに豪傑だろうが、真剣の峰打ちとあれば、痛みも相当なもの。
 そして関羽は、青龍偃月刀を取り落とす。
 首筋に、兼定を突き付ける。

「勝負あったな」
「おのれ! 貴様、それでも武人か!」

 鋭い目で、関羽は私を睨み付けてくる。

「実戦は、勝てば良いのだ。道場稽古とは訳が違う」
「殺せ! 貴様のような卑劣漢に討たれるのは無念だがな」
「臨み通りにしてやろう……と言いたいところだが」
「何だ! この上、辱めを与えるつもりか!」
「そうして欲しいのならそうするが、生憎とそれは私の好まぬところ。それより、質問に答えて貰おうか」
「…………」

 関羽は無言で、私を睨んだまま。

「まず、ここは何処なのだ?」
「……幽州の琢郡だ」

 幽州?
 琢郡?
 うむ、聞かぬ地名だ。

「では、ここは大陸か。何という国だ?」
「国、か。……漢王朝だ、衰退しているがな」

 漢王朝。
 そして、関羽。
 ……まさか、な。

「それから、関羽。貴殿は誰に仕えている?」
「主は未だにおらぬ。今は、我が武を鍛えながら、民を苦しめる賊どもを、討っているところだ」

 ふむ。
 関羽と言えば、劉備、張飛という義兄弟がいる筈。
 すると、まだ二人には出会う前……という事になるな。
 ……どうやら、事態が飲み込めてきた。
 何故、死んだはずの私がここにいるのかは、定かではない。
 ただ、一つ言える事。
 私は、書物で読んだ、三国志の世界にいる……その事実だ。
 と、その時。
 向こうから、砂煙が上がっている事に気づいた。
 そして、響き渡る馬蹄の音。
 ……皆、頭に黄色い布を巻いた集団が、こちらに向かってきた。

「関羽」
「何だ?」
「刀は持てそうか?」

 私は、兼定を引きながら尋ねる。

「どういう意味だ?」
「まずは、あれを何とかしなければならない。違うか?」
「……そのようだが。しかし、狙っているのは貴様だけであろう?」
「そうかな。さっき、賊相手に戦ってきたと言ったではないか。それに、貴殿程の器量良しが無抵抗、とあらば……。さて、賊はどうするかな?」

 私の言葉に、関羽はサッと頬を赤らめる。

「な、何だと!」
「それでも構わないというのなら、そこで大人しくしているがいい。私は、ここで野垂れ死にするつもりはないのでな」
「…………」

 関羽は立ち上がり、青龍偃月刀を拾い上げる。

「言っておくが、まだ貴様を許した訳ではないからな」
「やれやれ、強情だな。だが、まずは奴らを何とかしてからだ」

 兼定を、今一度握り直す。
 ……さて、私はここで死ぬか、それとも……?
 いや、喧嘩に負けて死ぬのは性分に合わぬ。
 ならば、やってやるだけの事だ。 

 

弐 ~出会い~

 
前書き
2017/8/20改訂 

 
「はぁぁぁぁっ!」

 私が一人を斬り捨て、

「うぎゃぁっ!」

 関羽も、また一人。

「げっ!」

 斬っても斬っても……という言葉が相応しいな、この光景は。
 最初は斬り殺していたが、キリがない上に切れ味が鈍りかねぬと判断。
 今は急所を狙い、戦闘不能追い込む戦法に切り替えた。
 手首を斬り飛ばしたり、臑を斬ったり。
 あたりは血の臭いで充満し、むせ返りそうだ。

「土方!」
「ほう。やっと名を呼んでくれたな、関羽」
「茶化すな! それより、このままでは埒があかない!」
「そうだな。だが、逃げる事は適わんぞ?」

 会話をしながらも、互いに手は止めない。
 ……しかし、何か手を打たねば。
 む、関羽の背から、斬りかかろうとしている奴が。
 声をかけても、間に合わん!
 咄嗟に国広を抜き、投げつけた。

「ぐはっ!」

 そいつの首筋を貫き、絶命させた。
 まさに、間一髪だったな。

「な……。土方、貴様」
「話は後だ。そら、前だ」
「応っ!」

 だが、どうする?
 打開策は……。
 そう思いながらまた一人、剣ごと腕を斬り飛ばした。
 その時。

「大勢でかかるとは、卑怯なのだ!」

 子供の声……?
 賊の背後から、その背に似合わぬ長さの槍を持った少女が、姿を見せた。

「な、何だこのガキは?」
「死にたくなかったら他に行ってろ!」

 残った賊は、一斉に罵声を浴びせる。

「鈴々を舐めるななのだ!」

 そして、その槍と思しき武器を、軽々と振り回す。
 恐ろしいとしか言えぬ怪力。

「うりゃりゃりゃりゃりゃ!」

 振り回された槍は、そのまま賊共を薙ぎ倒していく。

「凄い……。かなり遣うな、あの子は」
「感心している場合ではないぞ、関羽。今のうちに」
「わかっている! はぁぁぁぁっ!」

 賊は、浮き足立ち始めた。
 よし、これなら後一押しでいけるな。

「こ、こりゃ敵わねぇよ。に、逃げる……ひいっ!」

 我先にと、逃亡を図ろうとした賊が、立ち止まった。
 ……また誰か、現れたようだが。

「理由はわからぬが、賊に義はあらず。この趙子龍、そこの御仁達に助太刀いたす!」

 趙子龍……恐らくは趙雲か?
 しかも、また女子(おなご)か。

「な、何だこいつらは!」
「知るか! お、おい、退却だ! 退却しろ!」
「逃がさないのだ!」
「左様。賊ども、その悪行の報いを受けよ!」

 名はわからぬが滅茶苦茶な強さを持つ子供と、そして趙雲。
 すっかり戦意喪失の賊は、次々に倒されていく。

「……どうやら、助かったようだな」
「……ああ」

 関羽は、ホッと一息をついた。
 正直、私も一息入れたかったところだ。



 半刻も経たずに、賊は潰滅した。
 全滅とはいかぬが、少なくとも再度襲い掛かってくるような真似はせぬであろう。

「助かった。礼を申す」
「大した事ないのだ」
「私など、後から助太刀したに過ぎん。礼には及ばんよ」
「いや、正直危なかった。私からも、お礼を言わせて貰う」

 義理堅い関羽らしく、丁寧に頭を下げている。

「……そして、貴殿にも礼と、詫びをせねばならぬな。この通りだ」

 と、私にも。

「いや、気にするな」
「しかし、それでは私の気が済まぬ」

 と、食い下がる関羽。

「その前に、まずは落ち着きませんか?」
「そうですよ。お兄さんもお姉さんも、お疲れのようですしー」

 む?
 趙雲の連れらしい二人、
 眼鏡をかけた女子と、頭に人形のような物を載せた子供……?
 しかし、先ほどの賊は全て男であったが。
 ……どういう事だ、これは?

「この先に村がありますぞ。皆、参られよ」
「そうだな。関羽、まずは趙雲に従おう。良いか?」
「う、うむ」

 何故か、関羽は顔を赤くして目を背けた。



 そして、小さな宿に落ち着いた一行。

「私は……蝦夷共和国陸軍奉行並、土方歳三だ」
「蝦夷共和国? それは、どこにある国なのですか?」

 と、眼鏡をかけた娘が尋ねてくる。

「その前に、私が名乗ったのに皆は名乗らぬのか?」
「は、これはご無礼を。私は、戯志才、と申します」
「風は、姓を程、名を立、字を仲徳と言いますよー」

 と、人形の子供。

「私は姓を趙、名を雲、字を子龍と申す。旅をしながら、仕官先を探している」
「鈴々は張飛なのだ!」
「私は姓を関、名を羽、字を雲長。村々を周り、賊の討伐を行っている」

 ……さて。
 関羽に趙雲だけでも驚きだが、この子供があの燕人張飛とは。
 他の二人は近藤さんに押し付けられた三国志演義の読本で、かすかに覚えがある。
 確か、程立と言えば魏に仕えた謀略で知られた軍師……後で、程昱と名前を変える筈。
 戯志才は……確か、曹操の初期の軍師か。
 偽名のようだが、それはおいおい知れよう。
 やはり、ここはあの物語の時代なのであろうか?

「それで、先ほどの質問なのですが」

 戯志才の言葉に、皆が私を見る。

「では、有り体に話そう。だが、滑稽無稽な話故貴殿らが信じるとも思えぬ。気が触れていると思うかも知れぬが、それでも良いか?」
「聞きますよー。風は、何だかお兄さんに興味があるのです」
「鈴々も聞きたいのだ」

 関羽と趙雲も、同意と言わんばかりに頷く。

「……わかった。私は、今から千年以上も後の世にいた者だ」
「千年? だが、その証拠はあるのか?」

 関羽の言葉も、尤もだ。

「証拠はない。あったところで、到底信じて貰える事ではなかろう。私自身、それが証明する証などない。だが、皆の事を知っている限りで当てて見せよう」
「ほう? 例えば?」

 興味津々と言った風情の趙雲。

「そうだな。趙雲、貴殿は常山の出だな?」
「おや、正解ですな」
「次に関羽。貴殿は私塾で子供に学問を教えていたであろう?」
「……む。そ、その通りだ」
「次に程立だが。後に、程昱と改名を考えているな?」
「むー。稟ちゃんにしか言っていない風の秘密なのに、お兄さんがご存じとは」
「戯志才。貴殿は、曹操に仕えている筈だ。なのに、このような場所にいる訳がない……だから、偽名と見たが?」
「……ぐ。そ、その通りです」
「お兄ちゃん。鈴々は、どうなのだ?」

 さて、張飛か。
 私の知る張飛は、豪傑だが酒癖が悪く、そして粗暴。
 ……だが、全くそうは見えぬ。

「まさかとは思うが……。酒は痛飲しても平気か?」
「正解なのだ!」
「初対面なのに、全員の事を知っている、と。……確かに、あり得ぬ事だが」

 関羽が、腕組みをする。

「私からも一つ、聞かせて欲しい。張飛や程立が、先ほど聞いたものと違う名を名乗っているようだが?」
「真名の事ですかー?」
「真名? なんだ、それは?」

 程立はジッと、私を見る。

「どうやら、本当にご存じないみたいですね。真名というのは、姓名や字以外に持つ、神聖な名前なのです」
「これは、本人の許しがなければ、いくら親しい相手であっても呼ぶ事は許されません。もし、そうなれば」
「即座に殺されても文句が言えぬ、という訳です」

 戯志才と趙雲が、後に続いた。

「なるほど。(いみな)のようなものか」
「諱とは?」
「忌み名、とも書く。無学故詳しくは知らぬが、親や主君のみが呼ぶ事を許される名だ」
「真名に良く似ているのですねー」

 皆がしきりに頷いている。

「私からも、一つ聞かせて貰いたい。貴殿の名だが、姓が土、名が方、字が歳三……で良いのか?」

 と、関羽。

「いや、そうではない。姓が土方、名が歳三だ。字というものもない」
「むー。お兄ちゃん、変なのだ」
「変と言われても仕方なかろう。それが事実だ」

 私の言葉に、皆が顔を見合わせた。
 そう言えば、私も確かめたい事がある。

「関羽、張飛。貴殿達は、まだ誰にも仕えていないのだな?」
「ああ。今の私には、まだそのようなお方はおらぬ」
「鈴々もなのだ!」

 となると、この場に劉備がおらぬ以上は黄巾の乱以前の時代という事か。

「程立に戯志才も、だな?」
「稟ちゃんはいずれ、曹操さんにお仕えしようと思っていますからねー」
「ふ、風! 今ここで言わなくても良いでしょう」

 いずれ曹操に……となると。

「戯志才。間違っていたらすまぬが……貴殿、本当の名は郭嘉であろう?」
「…………」

 黙り、か。

「どうやら違っていたようだな。済まぬ」
「……いえ、その通りです。訳あっての偽名、お許し下さい。私は姓を郭、名を嘉、字は奉孝と申します」

 観念したように、話す郭嘉。

「いや、無理に言わせた格好になった。私の方こそ、詫びるべきだ」
「そ、そんな事は……」

 おや、郭嘉が何故か目を逸らしている。
 そして、隣では程立が何故かにやけているな。
 ……まぁいい、話を続けるとしよう。

「さて、国の事であったな。ここよりも遙か東に、島国がある。そこはかつて、徳川氏により幕府……そう、武人の棟梁による国があった。だが、それを打倒せんとする勢力が現れ……力及ばず敗れ去った」
「…………」

 皆、私の話に聞き入っている。

「無論、ただむざむざと倒された訳ではない。私は、仲間と共にその国の為に戦い続けた。そして有志と共に、その国の北にある大きな島へ辿り着いた。そこが、蝦夷共和国だ」
「では、貴殿はその国の将軍、という訳か?」

 将軍か……。

 私の中では将軍、というと上様の事になる。
 趙雲が言うそれとは意味合いが異なるだろう。

「そう解釈して貰えれば結構だ。そうだな、陸上部隊の指揮官……とでも言えばいいか」

 だが、もうあの世には戻れぬ。
 ……死んだ訳でもなさそうだが、何故か私にはそんな確信があった。

「もう少し、貴殿の事をお聞かせいただけませんか?」

 郭嘉が、真剣な目で言った。

「いいだろう」

 こうなれば、今更隠すべき事はあるまい。
 私は自身の信念に従って、精一杯生きてきたのだから。
 試衛館時代の事、浪士組の事、新撰組の事、そして幕府軍としての戦い……。
 思えば戦いずくめの生涯を、余すところなく、語った。



 一通り話を終えた時。
 不意に関羽が、席を立った。
 そして、私に向かい、深々と頭を下げた。

「申し訳ありませぬ! 貴殿がそのような方とは露知らず、数々のご無礼を」
「いや、止そう。私とて、貴殿と同じ立場だったら、やはり疑わずにはいられなかっただろう」
「いいえ!」

 関羽は、顔を上げて、

「貴殿の腕前、そしてその器量。並々ならぬ御方と見ました。どうか、私を貴殿、いえ、ご主人様の臣下に」

 ……突拍子もない事を言い出した。

「待て待て。詫びならばそれで十分だ」
「いえ! これはけじめではありませぬ。私の真名は愛紗、貴方様にお預けします」

 あまりの事に、私もどう返すべきか、思い浮かばぬ。
 関羽が配下にしてくれとか、どのような冗談だ?
 私は劉備ではないし、成り代わるつもりもないのだが。

「関羽。貴殿は真に使えるべき主がいる筈だ。結論を焦る事はない」
「いいえ。私は悟りました、私自身の未熟さと共に、ご主人様こそ、真に仰ぐべき御方だと」

 真っ直ぐに、私を見据えてくる。

「しかしな、関羽」
「愛紗です」

 ……うむ、これは参ったぞ。
 困惑したまま、他の者に目を向けると、今度は張飛が立ち上がった。

「鈴々も、お兄ちゃんについていくのだ」
「何だと? 張飛、正気か?」
「張飛じゃないのだ。鈴々と呼んで欲しいのだ!」

 関羽だけでなく、張飛も……だと?

「何だか面白そうですねー」
「風? あなた、まさか……?」
「稟ちゃん。まだ曹操さんにはお目通りしていませんけど、風はもう決めました」

 と、程立は私に近づいてくる。

「お兄さん。風も、臣下に加えていただきたく。以後、風とお呼び下さいねー」
「はっはっは。いやいや、これだけの御仁に出会い、人となりも見せていただいたのだ。ならば、私も決断を下しましょう。この趙雲も、末席にお加え下され。真名は、星です」
「良いのか? そのように軽々しく決めては……」
「軽々しくなどないですよ、お兄さん」
「左様。主と呼ぶに相応しい生き様。この星、ようやく、仕えるべき相手に巡り会えた、そう確信しております」

 そして、程立は振り向いて、郭嘉を見た。

「さてさて、稟ちゃん? どうしますかー?」
「ぐ……」
「風は、稟ちゃんがどう決断しようと何も言いませんよー。かねてから、曹操さんにお仕えする事が稟ちゃんの目標でしたし」
「そうだぞ、稟。我らは我らの道を行く。だが、それにお前を巻き込むつもりはない。……もっとも、稟が今、何を望んでいるかは別だがな」

 何故か、ニヤニヤと笑う趙雲。
 そして郭嘉は、私を一瞥し、顔を真っ赤にする。
 ……なるほど。
 私とて、朴念仁ではない。
 だが、それを相手に無理強いするつもりもないがな。

「わかりました。私も、自分を偽る事は出来そうにありませんから」

 真っ直ぐに、私を見据えると、

「土方様。私も、貴殿にお仕え致します。以後稟、とお呼び下さい」

 ……ふむ、夢でないのだとすれば神仏も酷く悪戯好きと見える。
 歴史に名を残した武将達が、女子ばかり。
 しかも、皆が私に仕える……だと?
 私は、皆の上に立てるような者ではないのだが。

「真名とやら、それは預かる。だが、私は主君たるような人物ではない」
「そうでしょうかー? 風はそう思いませんけどね」
「ええ。身に纏う覇気と漂う貫禄、それは本物です」

 二人の言葉に、関羽らも同意とばかりに頷いた。

「ふふ、私も一度決めた事を覆すつもりはありませぬぞ、主?」
「そうなのだ。お兄ちゃんが駄目と言っても、鈴々はついていくのだ」
「ご主人様。これでもまだ、皆の想いを無にされると仰せで?」

 五人は、真剣そのものだ。
 私があくまでも拒めば、この場で腹を切りかねぬ雰囲気すら漂わせている。

「……どうあっても、私に付き従うと申すのだな?」
「愚問ですよ」
「愚問ですねー」
「うむ、愚問ですな」
「当然です」
「にゃはは、もう諦めた方がいいのだ」

 私には、近藤さんのような度量はない。
 だが、今ここにいる事も、天運なのであろう。
 ならば、それに逆らうだけ無駄という事か。

「……良かろう」

 すかさず、星が腰を上げた。

「では、早速誓いの杯と参りましょうぞ」
「そうだな。この村はずれに、見事な桃園がある。そこなら良かろう」
「ではでは、準備にかかりましょう」

 誓いの杯?
 そして、桃園……?

「ま、待て郭嘉!」
「歳三様。稟、です」
 毅然と、私を見返してくる。
「し、しかしな……」
「一度真名を預けた相手から、姓名でのみ呼ばれるというのは逆に恥辱なのです」
「……わかった。じゃあ、稟」
「はい」
「この村だが……。何という村だ?」
「は。楼桑村です」

 ……なるほどな。
 劉備が見つかっていない訳ではない。
 ……どうやら、私が劉備に相当する立場、という事らしい。



「我ら六人っ!」
「姓は違えども、姉妹の契りを結びしからは!」
「心を同じくして助け合い、みんなで力無き人々を救うのだ!」
「同年、同月、同日に生まれることを得ずとも!」
「願わくば同年、同月、同日に死せんことを!」
「ここに誓うのですよー」
「…………」
「ご主人様。あなたが最後ですよ?」

 関羽……いや愛紗が、白い目で見てくる。

「し、しかしな……」
 まさか、桃園の誓いをやる事になるとは。
「ま、良いではないか。誓いには変わらんさ」
「星!」
「……乾杯!」

 こうして、私は別天地で、新たな一歩を踏み出す事となった。
 思いもよらぬ形と、そして出会いから。



 我が諱、義豊。
 これは皆には明かさずにいるが、誰もその事を口にはせぬようだ。
 ならば、このまま斃れるまで秘めておくのもまた一興。 

 

参 ~初陣~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 酒を酌み交わし、一頻り(ひとしきり)語らう我ら。
 その内容は、どうしても今後の話が主になるのはやむを得まい。

「さてさて、これからどうしましょうかー」

 図らずも桃園の誓いをする事になってしまったが、いつまでも現実から目を背けてもいられない。
 ……どのみち、私はあの戦いで一度死んだ身。
 恐らく、元の世に戻る事は適うまい。
 私自身人の上に立つに相応しいかどうか、それは定かではない。
 仮に劉備がいるのであれば、それを支える方が似つかわしいのかも知れぬ。
 ……だが、劉備がおらぬ以上それは天命に非ず。
 そうなれば、ただ座している訳にはいかぬ。
 少なくとも今の私には、こうして従う者がいる。
 彼ら……いや彼女達の為にも、私も動かねば。

「我らは、ご主人様に従うまでです」
「でもお兄ちゃん、何か当てはあるのか?」

 そう言われると、難しい。
 今がどの時代で、どのような状況かは皆の話である程度把握出来はした。
 もし私が劉備の役割を与えられたのであれば、取る道はただ一つ。
 ……だが、義勇軍か。
 名前は勇ましいが、そのままでは雑軍に過ぎぬ。
 まともな武器もなく、練度も期待するだけ無駄な軍など鎧袖一触であろう。

「まずは金、か」
「そうですね、歳三様。どう動くにしろ、資金の工面は必須かと」

 稟の言葉に、皆が考え込む。

「だが、今の我らは徒手。一騎打ちであれば成果を出してご覧に入れますが……それではせいぜいが、小規模な賊退治が関の山でしょうな」
「星ちゃんの言う通りですねー。でも、それでは資金も兵も集める事は難しいかと」

 それに、何らかの成果が必要だろう。
 声望がなければ、人を集める事も適わん。

「やはり、誰か地位のある者と組む。……それしかないな」
「はい。ですが、相手にもよります。それに、実績もなしに打診しても、門前払いか雑兵の役目が精々でしょう」
「うー、それではつまらないのだ」

 ふむ、これだけの面々が揃ったのだ。
 ただ何れかに従うだけでは、鈴々ではないが面白味に欠ける。
 これが劉備であれば友人の公孫賛や血縁の荊州の劉表を頼る、という手もありそうだが。
 素性の知れぬ私が、そもそも誰かを頼ろうとするだけ無駄であろう。

「あの、もし」

 と、村の若者らしき男が、声をかけてきた。

「何用かな?」
「は、はい……。大変失礼とは思いましたが、お話を聞かせていただきまして」

 別に聞かれて困る話ではない。
 官吏に聞かれたところで、たった六名で何が出来るかと一笑に付されるのが関の山。

「そう恐縮せずともよい。それで?」
「これから、民のために立ち上がる。その結盟をなさっておられるのですか?」
「ああ。今はまだ無力だが、それでも出来る事はある筈。そう思っている」

 愛紗の言葉に若者は頷くと、

「実は、私の親戚が商売を営んでおります。事情を話し、助力を頼んでみようかと思うのですが」
「ほう」

 確か劉備も当初、このような話があった筈だな。

「もしや、その商人と申す者だが。張世平、と言う名ではないか?」
「な、何故ご存じなのですか?」

 どうやら、正解らしい。
 若者だけでなく、皆が驚いている。

「歳三様。ご存じだったのですか?」
「まぁ、そんなところだ稟。だが、私も確証があった訳ではないが」
「あの……。貴方様は、一体……」

 不安げに私を見る若者に、風が答えた。

「このお兄さんは、天の御遣いさんなのですよ」
「て、天の御遣い様ですと?」

 何とも胡散臭い存在になってしまうぞ、それでは。
 だが、当の本人は気にする素振りも見せない。

「そうだ。それ故、我らはこの御方を主と仰ぐ事に決めたのだ。この大陸に、真の平和をもたらすためにな」

 星まで、大真面目に付け加える。
 だが、若者はひどく感激した様子で、私に頭を下げた。

「そ、そうでしたか! ならば是非とも、張世平にお目通りを! きっと、御遣い様のお役に立てるか」
「ならば、頼むとしよう」

 資金が必要なのは事実。
 背に腹は代えられぬ、というところか。



 数日後。
 若者の手引きにより、張世平との面会が実現。

「貴方様が、天の御遣い様で?」
「そうだ。姓を土方、名を歳三と申す」
「これはこれは。手前は張世平。しがない商人でございます」

 そして、張世平は私の周りを見渡して、

「御遣い様ご自身も、ただ者ではございませんが、他の方々も皆、一角の人物のご様子。官軍にも、これだけの顔ぶれとなるとなかなか」
「ほう。張世平殿は、官軍にも顔が通じるのですか?」

 感心したように、稟が言う。

「少しばかり、お付き合いさせていただいておりましてな。并州太守の董卓様、幽州牧の公孫賛様などに出入りさせていただいております」
「皆、なかなかの大物ばかりではないか。どうだ。風?」
「そうですねー。お兄さんの言う通り、どちらも官軍では名を馳せている方ばかりかと」
「それで、助力を願いたいのだが。どうだ?」

 愛紗が尋ねると、張世平は鷹揚に頷いて、

「はい。この者から最初に話を聞かされた時は半信半疑でしたが。先ほど挙げた名前を聞かれても動じる事も、媚びるご様子もない。そして、将の方々も優秀。……つまり、前途有望、と見ましたな」
「では?」
「ええ、資金はご用立て致しましょう。それから、馬と武器、食糧も可能な限り」

 破格の申し出だな。

「聞くが、担保はどうする?」

 張世平は一瞬私を見つめて、それから大声で笑った。

「いやいや、やはり私の眼は確かでしたな。並の御方なら、ご用立ての時点で眼の色を変えますが。よもや、そこにお気づきになるとは」
「当然であろう。商人は利で動くもの、担保の事は当然、念頭にある筈だからな」
「御遣い様は、商人の経験がおありで?」
「多少な。薬など、商っていた事もある」

 すると、愛紗が私を見て、

「では、ご主人様からいただいたあの薬が?」
「そうだ。打ち身がだいぶ楽になったであろう?」
「は、はい」

 顔を赤くしながら、頷く。

「薬、でございますか。どのような薬で?」
「うむ、私の実家秘伝の散薬だ。今はあまり残っておらぬが」
「そんな貴重な物を……。ご主人様、ありがとうございます」
「気にするな」

 ……愛紗以外の者達が、興味津々、といった風情だな。
 何やら、羨望の眼差しが混じっている気もするが。

「土方様。その薬、作れませぬかな?」
「手持ちは稀少ではあるが、材料さえ揃えられれば、製法は覚えておる。だが、何故かな?」
「はい。どうやら、大層な効き目がある様子。先ほどの担保のお話、それで代えさせていただいても結構でございますよ」
「何と。だが、所詮は薬、単価では釣り合わぬのではないか?」
「いえいえ。効き目があれば、商売になりますからな。そして、それは天の薬なのでございましょう?」
「そうだ。私の実家秘伝、製法を知る者はおるまい」
「では、その材料と製法、それでお取引願えますかな? ちなみに、名前は何と?」
「名か。『石田散薬』と言う」

 は、何度も頷いてから、

「わかりました。名前もそのまま、いただいてよろしゅうございますか? 天の薬、という売り文句も」
「構わん。お主がそれでよい、と申すならな」
「はい、ありがとうございます。では、証文を認めます故」



 十日後。
 張世平は約定通り、金と馬、兵糧まで整えてくれた。

「何から何まで、かたじけない」
「いえいえ、これは立派な商い。お気になさいますな」

 慇懃に、頭を下げた。
 件の若者を初め、一帯の村々から有志の若者が集った結果それなりの人数となっていた。

「結局、義勇軍からの一歩となるか」
「いえ、形はどうであろうと、兵力を持つ事に意味があります。それに、張世平殿から紹介状もいただきました」
「そうだな」

 張世平の援助はもちろんだが、大きかったのは紹介状だ。
 とにかく、今はまだ漢王朝が存命中。
 いくら衰退しているとはいえ、その権威はまだ生きている。
 ならば、その権威を生かさなければ、世に出る事は適うまい。

「それでお兄ちゃん。最初はどうするのだ?」

 鈴々は、私の事をそう呼ぶ。
 兄というには、少々年を取ってしまっているのだがな。
 ただ、呼び方は皆、それぞれだ。

「やはり、黄巾党とやらの討伐からだな。どうせなら、効率よく名を上げたいものだが」
「となると、それなりの有力な集団を相手にせねばなりますまい」
「稟、風。どうだ?」

 こういう時は、軍師を望む二人に聞くのが最上だろう。
 稟は戦略を練る事も出来るし、戦術にも通じている。
 一方の風は、謀略や外交に長けている。
 もっとも、軍師として必要な素質を備えた上で、さらに長所を持つ、という具合だ。
 ……やはり、郭嘉と程立だけの事はある。

「この近辺で、という事であれば……大興山に拠る程遠志でしょう」
「もしくは、黄巾党の中で武名を馳せている波才でしょうかー」
「なるほど。どちらがより与しやすいか?」

 稟と風は、一瞬顔を見合わせてから、

「程遠志でしょう。兵の数も波才の方が多い上、波才自身がなかなか兵の扱いに長けているようですから。程遠志も黄巾党の中では有力ですが、波才ほど統率が取れていないようですし」
「どちらにしても、今のお兄さんでは兵の数が足りませんけどねー」
「兵さえ互角なら、鈴々も思い切り暴れられるのだ」
「多少の差であれば、我らが頑張りで如何様にも覆せるのですが……」

 いかに豪傑揃いとは言え、やはり今のままでは手の打ちようがない、か。

「主。前方で、砂塵が上がっているようですぞ」

 そこに、星からの報告。

「どれ。確かめるとしよう」

 私は、懐から双眼鏡を取り出した。

「ご主人様。それは?」
「これか? 双眼鏡と言って、舶来の品だ」
「双眼鏡、ですか」

 一同は、物珍しそうに見ている。
 実際、元の世界でもまだ珍しい物ではあったがな。

「それでお兄ちゃん。何をする物なのだ?」
「これを通して見ると、遠くの物でもはっきりと見えるのだ」

 答えながら、双眼鏡を覗き込む。

「『朱』の旗が動いているな。それに、黄巾党が襲いかかっているようだ」
「朱……朱儁将軍でしょう」

 稟がすかさず答える。

「朱儁か。確か、朝廷の高官だな?」
「お兄さん、よくご存じですねー。右中郎将を務める方ですよ」

 さて、どうするか。
 官軍を手助けし、恩を売って助力を乞うのも一つの手だ。
 ……だが、私の知る朱儁は、まさに愛紗の言う『官匪』の筈。
 劉備が義で助力をするも、義勇軍と侮られてまともな扱いを受けなかった……と記憶している。
 この世界の朱儁がどういう人物なのかはわからぬが、ただ助太刀するだけでは意味がない。

「どうせならば、官軍に我らの存在を強く印象づけたいものだな」
「いえ、官軍だけではありません。賊軍にも、歳三様の名を知らしめるべきかと」
「稟の申す通りかと。主、天ならではの手立て、ございませぬか?」

 そうだな……。
 もう一度、双眼鏡で戦況を確認してみる。
 数は、恐らく賊軍の方が多い。
 とは言え、官軍は腐っても正規兵の集まり。
 即座に決着がつく事はなさそうだな。

「暫し、様子を見よう。この時点で参戦するのは得策ではない」
「御意!」
「皆の者! 指示があるまで待機だ、身体を休めておけ。ただし、火は使うな?」
「はっ!」



 日が暮れ、辺りが暗くなった。
 月が出ているので、多少の視界は効く。

「お兄ちゃん! 見て来たのだ」

 偵察に出ていた鈴々が、戻ってきた。

「ご苦労。どうだった?」
「黄巾党は、この辺に陣を構えているのだ」

 大まかに描いた地図上で、鈴々が示した場所。

「川のそばか。稟、風、このあたりの詳細な地形はわかるか?」
「はい。湿地帯になっていて、葦が茂っています」
「こっちには、小さな林がありますねー」

 湿地に林か……。

「ご主人様。何か思い浮かびましたか?」
「うむ。敵を混乱に陥れれば、この人数でも戦果は期待できるな」
「しかし、いくら有象無象の輩とは言え、そう簡単にいきますかな?」

 星の言葉に、皆が頷く。

「多少、賭ではあるが。こんな策はどうだ?」
「伺いましょう」

 私は、皆に作戦概要の説明を始めた。



 やがて、空が白み始めた。
 この時間であれば、賊軍は恐らく深い眠りに入っているだろう。

「よし、やれ」
「はっ!」

 私の合図で、兵が湿原に向け一斉に矢を放った。

「グワー、グワー」

 驚いた水鳥が、慌てて空に飛び出す。
 一羽だけではない、連鎖的に全ての鳥が飛び出した。

「お、おい! 何だありゃ!」

 賊軍の見張りだろう、騒ぐ声がした。

「て、敵だぁ! 官軍の夜襲だ!」

 そこに、別の声が響き渡る。

「や、夜襲だって?」
「ま、まずい! 全員たたき起こせ!」

 よし、賊軍が動き出したな。

「かかれ!」
「応っ!」

 全員で、一斉に矢を射かける。
 たかが百余名でも、まだ夜が明けきらない中ではかなりの本数に映るはず。

「ま、間に合わん!」
「に、逃げろっ!」

 訓練のされていない賊軍は、突発的な事項に対する対処が弱い。

「今だ。愛紗、鈴々、星!」
「ははっ!」
「応なのだ!」
「お任せあれ!」

 そこに、この三人が斬り込む。
 昼間ならともかく、この状態では誰が誰だか区別などつくまい。
 恐らくは混乱の末、同士討ちを始めるだろう。
 そして、こちらからは三人だけ。
 目についた奴を片っ端から斬り捨てるだけでよいのだ。

「土方様! 敵の大将らしき者を見つけました!」
「よし、そこに案内しろ。稟、風。ここを離れるな?」
「御意」
「お兄さん、わかったのですよー」



「おい、何してやがる! さっさと運び出せ!」

 なるほど、身に纏う鎧は立派なものだ。
 恐らくは、破った官軍の将から奪ったものだろう。
 どうやら、宝物を集めているらしい……なんと醜悪な。

「部下を見捨て、己だけ逃亡を図るか?」

 不意に目の前に現れた私に、賊の大将は驚愕している。

「だ、誰だてめぇは!」
「義勇軍の指揮官、土方歳三。貴様は今ここで死ぬのだ、宝などどうでも良かろう?」
「ぬかせ、この俺様に逆らうとは! 死ねい!」

 剣を抜くと、大上段から斬りかかって来た。
 最初に出会った雑魚よりは、多少はましか。
 ……だが、所詮は賊将だな。
 懐から取り出した小石を、眉間めがけて投げつけた。

「あいたっ!」

 見事に命中、抑えた額から、血が滴る。
 その隙に国広を抜き、首筋に一閃。
 賊将は、無念の形相で、その場に崩れ落ちた。
 その首をかき切り、天幕を出る。

「賊ども、ようく聞けい! 貴様らが将はこの土方歳三が討ち取った! 全員、武器を捨てて降伏しろ!」

 腹の底から声を出したから、あたりには響き渡っただろう。
 あちこちで、剣や槍を投げ出す音が聞こえ始めた。
 まずは、幸先良し……だな。 

 

四 ~誘(いざな)い~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 翌朝。
 稟と愛紗を連れ、朱儁の陣に出向いた。

「止まれ! 何者か!」

 入口にいた兵が、誰何(すいか)する。

「義勇軍指揮官の土方と申す。朱儁将軍にお取り次ぎ願いたい」
「義勇軍だと?」

 (いぶか)しげに、そして僅かに蔑むような眼。

然様(さよう)。貴軍が対峙していた黄巾党について、お話がある……と」
「わかった。そこで待つがよい」

 そう言って、兵士は陣の中へ入っていく。
 その姿が見えなくなったところで、愛紗は憤慨した。

「なんだ、あの態度は」
「愛紗。我らは規模も小さい上、正規軍ではありません。侮られても仕方ないでしょう」
「し、しかしな。我らがご主人様はただの御方ではない。あのような、取るに足りない者にまで蔑まれるとは」
「止せ、愛紗。稟の申す通りだ」

 私の言葉に、愛紗は拳を握りしめながらも、

「……ご主人様の仰せならば」

 どうにか、堪えてくれた。

「待たせたな、朱儁将軍がお会いなさる。くれぐれも、粗相のないようにな」

 どうやら、目通りが叶ったようだ。
 屈辱に肩を震わせる愛紗の肩を、軽く叩いた。
 忠義に篤いのはいいのだが、少々度が過ぎるな。
 一度、改めて諭しておかねばなるまい。
 稟は眼鏡をクイクイと上げるだけ、冷静なものだ。
 と思いきや、小声で私達に囁いた。

「……私とて、無念とは思います。それ故、いかに見返してやろうか、そう考えるまでです」

 どうやら、稟なりに怒っているらしい。
 冷静に見えて、案外激情家なのかも知れぬな。



「私が朱儁だ」

 通された天幕の中央にいたのは、やはり女子(おなご)
 愛紗や稟には劣るが、なかなかの美形だ。
 ……が、共に入った愛紗と稟を見て、少し落ち込んだような表情を見せた。
 視線の先は……胸か。

「初めてお目にかかる。拙者は義勇軍指揮官、土方。こちらは関羽と郭嘉にござる」

 初対面と言う事もあり、こちらが礼を取る。

「うむ。それで、黄巾党の事で話があるそうだな」
「はい。昨日、将軍は奴等と一進一退の攻防をなさっておられた御様子」
「貴様、無礼であろう! 雑軍の分際で!」

 隣にいた、副官らしき男が怒鳴る。

「止せ」
「し、しかし将軍!」
「止せと言っている。それに、この男の言う事は事実だ」

 そして、朱儁は私を見据えて、

「確かにそうだ。今日こそ、奴等を叩かねばならん。今、斥候を出しているところだ」
「その儀なら、無用かと存じます」
「ほう、何故かな?」
「はい。我らが今朝、討ち破りました故」
「何だと、出鱈目を言うな! 貴様らごとき雑軍に、何が出来る!」
「そうだそうだ! 官軍の我らですら手を焼く多勢だぞ!」
「恩賞欲しさにでっち上げとは見下げた奴等だ! 引っ捕らえい!」

 周囲の将達が口々に騒ぎ立てる。
 そして数名の兵士が、槍や剣を手に向かってきた。

「ご主人様!」
「愛紗。構わんが、殺すなよ!」
「御意!」
「無駄な抵抗は止せ!」
「黙れ!」

 我慢していたせいか、ちと愛紗は手荒い。
 繰り出された槍を掴むと、そのまま兵士を放り投げた。

「うわわわっ!」
「おのれ、抵抗するかっ!」

 他の兵がかかってきたが……勝負になどなる筈もなく。
 得物がなくとも、一兵卒ごときに遅れを取る訳がない。

「き、貴様っ! 狼藉者だ、出会え、出会えっ!」

 一人の将が叫び、数十名の兵が雪崩れ込んできた。

「皆の者、静まれっ!」

 その一喝に、騒然としていた天幕の中が静かになった。

「私は、この男と二人で話がしたい。皆、下がっておれ」
「将軍、何を仰せられますか! 危険です!」
「このような得体の知れない男となど。せめて、我らだけでも」

 側近が、食い下がる。

「私は皆下がれ、と言ったのだぞ? これは、命令だ」
「……わかりました」

 不承不承と言った風情で、朱儁配下の者が天幕を出ていく。

「愛紗、稟。お前達も下がっておれ」
「ご主人様。しかし」
「下がりましょう、愛紗。ご主人様がどのような御方か、わかっているでしょう?」
「……わかった、稟。では。何かありましたら、すぐにお呼び下さい」

 全員が出ていったところで、朱儁が頭を下げてきた。

「済まぬ。あの程度でも将と呼ばれるのが、今の官軍でな」

 どうやら、私の知識にある朱儁とは、人物が違っているらしいな。

「いえ、お気になさらず」
「そうか、ありがたい。ところで黄巾党の件だが、まことか?」
「斥候を出されたのであれば、遠からず事実とおわかりになるかと」
「なんと。しかし、貴殿は義勇軍と聞いたが。我が軍よりも人数が揃っているとも思えぬが、どう戦ったのだ?」
「さしたる事はしておりませぬ。未明を以て夜襲をかけ、敵を混乱させたまで。そして、敵将を討ち取り、残りは降伏させました」
「ふむ……。貴殿が言われた通りかどうかは、斥候から確かめるとして」

 朱儁は、私を見て、

「貴殿、何処の出だ? いかに義勇軍とは言え、これ程の将が、今まで私の耳に聞こえて来ないというのは、どうにも解せない。それに、あの二人の配下も、ただ者ではないようだが」

 なるほど、伊達に高官にまで上り詰めた訳ではないようだ。

「私は、ここより遥か東、海の向こうにある島国の出です」
「では、蓬莱の国か? かつて、始皇帝が不老不死の妙薬を探す為に、徐福なる者を派遣したと聞き及んでいるが」

 蓬莱、か。
 昔話にあった『蓬莱の玉の枝』……恐らくはその蓬莱に違いあるまい。
 朱儁の言う国とは、間違いなく日の本の事であろう。

「徐福の件、私は寡聞にして知りませぬが、恐らくは我が国の事でありましょう」
「そうか。それならば合点が行く。では、先程の二人も貴殿の国の者か? 片方はかなりの腕前、眼鏡をかけた方も切れ者の軍師と見たが?」

 ふむ、賄賂や血縁だけで将になった者とは流石に違うか。

「いえ、どちらもこの大陸の住人。私につき従う事を約定し、義兄弟の杯を交わした仲でござる」
「いや、私の知る限り、官軍にもあれだけの者は数える程でな。それを配下に持つ貴殿もただ者ではないようだ」
「はて、私はさほどの者ではござらぬ。買い被りでございましょう」
「ふふ、そういう事にしておくか。さて、まずは礼を述べねばなるまい。韓忠の首級(しるし)を挙げ、黄巾党討伐の功、少なからず。この事は、必ずや陛下に上奏しよう」
「お言葉、忝なく」
「本来なら、この場にて恩賞を……と言いたいのだが、それもままならぬのが今の官軍の有り様だ。許せ」
「……は」

 どうやら、私の知る人物とは違うようだ。
 少なくとも、信じるに足りる、とは言えるだろう。

「ところで、これから貴殿はどうするのだ?」
「このまま兵を募りつつ、独自に動くつもりにござる」
「ならば、我が軍に加わらぬか? 貴殿ならば、一軍を任せる器量と見た。今の我が軍には、まともに部隊を任せられる将がおらぬのだ。気位ばかり高いくせに腕も頭もからっきし、という輩ばかりでな」

 朱儁は、吐き捨てるように言う。

「それに、我が軍の一員となれば、武器も食糧も回せるし、俸給も考えるぞ。その程度であれば、私の権限でもどうにかなる」

 なかなか、悪くない提案ではある。
 鈴々は勿論だが、愛紗と星も一軍を率いる将としては経験不足が否めない。
 稟と風も、軍師としての資質は疑うまでもないが、机上の学問から抜け出せているかは、まだ未知数。
 それに、一番の問題は兵の錬度。
 つい数日前までは、手に鍬や鋤を手にしていた農民ばかりなのだ。
 戦は、場数が物を言う。
 その点、正規軍は戦闘が生業なだけに、一人一人の強さだけでなく、組織戦になった時に圧倒的な差がある。
 本来負ける筈のなかった幕軍が、政府軍に敗れた原因。
 泰平の世に慣れ過ぎて旗本八万騎が役立たずになっていた事、未だに刀剣中心で、近代戦への切り替えが出来ていなかった事が大きかった。
 だが、今の我が軍と幕府軍とは、事情が異なる。
 ……さて、どうするべきか。



「主。お帰りなさい」
「愛紗ちゃんも稟ちゃんも、お疲れなのですよー」
「お兄ちゃん、特に異常はないのだ」
「うむ、三人もご苦労だった」

 朱儁の陣を辞し、私達は皆の処へ戻った。

「歳三様。皆揃った事ですし、朱儁将軍との話、お聞かせ下さい」
「随分と話も弾んだようですからな。さぞ、上首尾であった事でしょう」

 愛紗が、白い眼で私を見る。

「愛紗、焼きもちなのだ?」
「な……。ち、違う!」
「おやおや。朱儁将軍は美しい方だったようでー」
「聞けば、二人きりでのひとときを過ごしたとか。そこで、きっと濃密なやり取りがあったのでは? 如何ですかな、主?」
「……星。見てきたように言うではないか?」
「おや。否定せぬのですかな? もっとも、主はかなり女を泣かせてきたようですがな」
「歳三様と朱儁将軍が二人きり……。どちらからともなく伸ばされる腕……。絡み合う視線……。そして触れ合う肌……。そして、そして……」

 む?
 稟の様子がおかしい。

「あー。お兄さんも他の人も、ちょっと離れた方がいいですねー」
「どういう意味なのだ、風?」
「すぐにわかる。さ、主も愛紗もこちらへ」

 何故か、にやつく星。

「恥じらう朱儁殿。だが、歳三様の魅力に抗しきれず、その手中に抱かれて、身体をまさぐられ……。あまつさえ、鎧を脱いで二人は……ああ、そんな……っ」
「風、星。稟は一体、どうしたのだ?」
「そうだ。離れろとは一体なんだ?」
「そして、乙女の柔肌に、歳三様の手が……。嫌がる朱儁殿の手を払い除け、そしてついに……ああっ!」

 盛大に、鼻血を吹き出す稟。

「り、稟?」
「はーい、とんとんしますよー」

 落ち着いて、風が稟の首を叩く。

「星! これは一体どういう事だ!」
「落ち着け、愛紗。稟はな、ちと妄想癖があってな」
「妄想癖って、何の事だ?」

 鈴々が頬を膨らます。

「……もしかして、先ほどの風と星が私を揶揄した事だけで、ここまで妄想をしたというのか?」
「そうですねー。稟ちゃん、想像力が豊かなのですよ。特に、こうした艶事になるとですね」
「このように、盛大に鼻血を伴う事になるのです。幸い、私も事前に風から聞いていたので、この衣装が朱に染まる事はございませんでしたが」

 あの白い衣服では、そもそも戦場で返り血を浴びるのではないか?
 いかに得物が槍とは言え、不可思議な事だ。

「はいはーい、稟ちゃん。詰め物しましょうねー」
「ふがふが」

 貴重品の筈の紙を、鼻に詰められる稟。

「手慣れているな」
「いつもの事ですしねー」
「いつもの事と言うが、この量は尋常ではないぞ、風? いつか、死に至るぞ」
「いくら風でも、稟ちゃんの病気を治す策は思いつかないのですよ、愛紗ちゃん」

 とは言え、いつもこの調子では、愛紗の言う通り、危険だろう。
 何か、よい手立てはないものか……。

「そんな事より、ちゃんと朱儁との話について、聞かせて欲しいのだ」
「おお、そうでしたな。それでは主、改めて」
「稟。もう、良いのか?」
「は、はい……。お見苦しいところをご覧に入れてしまい、申し訳ありません」

 本人がそう言うのなら、大丈夫なのであろう。

「では、話そう。まず、朱儁だが、我らの働きを認めた上で、彼女の軍への加入を打診された」
「おおー、それは重畳なのです」
「当然なのだ!」
「そうだな。自身の軍であれだけ苦戦した敵を、一夜にして討ち破ったのは事実」

 留守居の三人は、素直に喜んだ。

「……ですが、その割にはご主人様の雰囲気が、少し重かった気がします」
「愛紗もそう思いましたか。歳三様、一体何があったのですか?」
「うむ。……少し考えた末に、断った」

 私の言葉に、全員が一瞬、固まった。

「な、何故ですかご主人様! 朱儁軍は、歴とした官軍ではありませんか!」
「うむ。我らは兵も弱く、糧秣にも限りがある。その点、何かご不満でもありましたか?」
「いや。功は上奏を約束されたし、補給どころか俸給も考慮する、との事であった」
「破格の条件ですねー。稟ちゃんはどう思いますか?」
「確かに、悪くない話かと。素性の知れない義勇軍を、たった一戦でそこまで認めたのですから」
「お兄ちゃん、何故断ったのだ? 鈴々にはわからないのだ」
「そうだな。まず、朱儁自身の器量は大したものだが、周囲にいる将が悪すぎる。まず、あのまま我らが加われば、朱儁軍そのものの空気を悪くする懸念がある」
「……それは、ご主人様の仰せの通りでしょう」
「……ですね」

 同行した二人が、頷く。

「それに、朱儁軍の質に問題がある」
「質、ですか」
「うむ。正規軍とは言え、率いる朱儁の意に反して、士気は高いとは言えず、練度も今ひとつのようだ」
「…………」
「そこに、我らが加入すればどうなるか。恐らく、今までにない戦果を挙げる事だろう。皆がいる故にな」
「つまり、彼らの手柄を横取りする格好になる、そう仰るのですか? 歳三様」
「そう受け取られかねないのではないか?」
「鈴々達は、そんなつもりはないのだ。ただ、黄巾党をやっつけて、困ってる人達を救いたいだけなのだ……」

 鈴々の率直な言葉。
 それは、皆の気持ちを代弁したものであろう。

「だが、それをわかって貰えるような状況にはない。そう仰るのですな、主?」
「そうだ。これは、朱儁軍だけではない、恐らくは他の官軍も、似たり寄ったりだろう」
「むー。官軍の腐敗は、根深いものですからねー」
「そうなると、歳三様の判断は、正しいと言わざるを得ませんね」
「官匪か……。そのようなもの、早く打破せねばならんな」

 ままならぬものだな、物事というものは。
 理想を掲げ、それ故に失敗と転落の連続だった劉備。
 私が、その轍を踏む訳にはいかぬな。



 その日の深夜。

「ご主人様」
「愛紗か? このような夜更けに、どうした?」
「はっ、お休みのところ申し訳ございません。ご足労願えませぬか」
「どうしたというのだ、一体?」
「……朱儁将軍が、密かにお見えになりました」

 朱儁が?
 しかし、彼女は仮にも高官、密かでなくても、呼びつけられれば出向くしかないのだが。

「わかった。すぐに参る」

 私は寝所から身を起こし、手早く身支度を調えた。
 愛紗に付き添われ、陣の外まで出向く。

「土方殿。このような夜分に、済まぬな」

 紛れもなく、朱儁がそこにいた。

「如何なされました? 将軍ともあろうお方が」
「いや……。貴殿に、今一度問いたいと思ってな」
「何でしょうか?」
「決心は変わらぬか? 貴殿程の人物、やはり手放すのは惜しい。ただの将ではなく、副官として迎えたいのだが」

 副官、か。
 ……私の脳裏に、新撰組時代の事が浮かんだ。
 だが、あの時とは違う。

「そこまでのお気持ちは、誠に忝い。ただ、答えは同じでござる」
「……そうか。残念だな」
「申し訳ござらぬ。ですが、お察し下され」
「いや、私の方こそ、無理強いするつもりはない。……これを、受け取って欲しい」

 と、革袋を私に手渡してきた。
 ずしりと重い手応え。

「これは、金?」
「そうだ。少ないが、私からの志だ。今の私に出来るのは、この程度だ」
「……では、遠慮なく頂戴仕る」
「それでは、達者でな。またいつの日か、再会を楽しみにしているぞ」

 そう言い残し、朱儁は踵を返した。

「宜しいのですか、ご主人様」
「……言ったであろう、私の決意の訳は」
「……そうでしたね」

 何故か、愛紗は微笑んでいる。

「どうかしたのか?」
「いえ。ではご主人様、戻りましょう」
「うむ。この金は、朝になったら稟と風に相談致そう」
「はっ」

 ふと見上げた空には、無数の星が、瞬いている。
 ……寝る前に、一句捻るか。 

 

五 ~極限の戦い~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 翌朝。
 朱儁から渡された金を、稟と風に見せた。
 重さからすれば少額ではないのであろうが、如何せん私では具体的な価値がわからぬ。

「こ、こんなに戴いたのですか?」
「おおー、大金ですねー」

 二人が驚くのを見る限り、朱儁はかなりの額を渡してくれたらしい。
 恐らくは、身銭を切ってくれたのであろう。
 朝廷の高官であれば、不正を考えるならいくらでも私財が貯め込める時代。
 ……だが、あの御仁はそうではないようだ。
 私がもっと力をつけた暁には、十分に礼を返さねばなるまいな。

「では、折角の資金だ。有効に用いたいが、何か案はあるか?」

 かつては、近藤さんから私が言われた台詞。
 あの頃は、いろいろと私が取り仕切らざるを得なかった。
 近藤さんは大将としての器は十二分に備えていたが、とにかく万事大雑把であり金遣いも荒かった。
 だが、今はこうして頼れる知恵袋がいるのだ。
 私などが一人で考え込むよりは、全て任せた方がいい。

「私は、やはり兵の増員と、武器の購入に充てるのが良いかと思います」
「糧秣も大事ですねー。朱儁将軍につかないとなると、手持ち分だけでは心細いですし」

 ふむ、糧秣か。
 先だっての戦いは奇襲が成功した事もあり、負傷者を十数名出しただけで済んだ。
 さらに降伏した黄巾党の連中を武装解除の上、解き放ったのだが……。

「どうせ行くあてもありやせん。旦那についていきやす」
「今更他の部隊に合流したって、先は見えているんで。それぐらいなら、いっその事真人間に戻りてぇんです」

 ……こんな調子で三千余名もの賊兵が、我が軍に加わる事を願ってきた。
 無論全員を受け入れる訳にもいかぬので、これから数日をかけて厳しい調練を施すつもりでいる。
 その上で人間性を見極め、使える者だけを残す。
 ただでさえ低い兵の練度が上がらぬばかりか、要らぬ狼藉に及ぶ者を抱え込みかねない。
 いずれにせよ、糧秣が大量に必要である事に変わりはないが。

「風」
「はいー」
「糧秣はあと、どのぐらい保つ? 仮に投降した連中を二千名加えるとして、だが」
「そうですねー。節約しても……残り三日、というところでしょうか」

 三日、か。
 それでは、選り分けの為の調練ですら追いつかぬ。

「どうなさいますか、歳三様。この資金で手配するとしても、こんな短期間で集めるのは至難の業です」
「それに、あまり慌てて買い集めると足下を見られますしねー」

 思わぬところで、難題が発生してしまった。
 尤も、人間は食わねば生きてはいけない。
 そして我らは、その糧を自力で得る術がない。
 となれば、その分はどこからか調達するしかない。
 これが賊であれば民から奪い取れば良いが、我らはそうした連中を相手に戦っている。
 そして正規の方法で調達するのは、ほぼ不可能。
 ……ならば、答えは一つだな。

「稟、風。今一度、このあたりの黄巾党について調べて欲しい」
「御意」
「了解ですよー」



 その夜。
 私の天幕に、皆を集めた。
 そして、もう一人。
 降った黄巾党の中で、面構えが違う者がいた。
 それに気づき、連れてこさせたのだ。

「あ、あの。俺に何の御用で?」

 髭面に似合わず、男は不安げに私を見る。

「心配するな。お前に聞きたい事があるのだ」
「へ、へいっ!」
「まず、名を聞かせて貰えぬか?」
「俺は、廖化、字を元倹と言います」

 廖化……そうか。
 確か、彼も後の蜀将の一人。

「では廖化。私がこの義勇軍の指揮官、土方だ。こちらが軍師の郭嘉と程立。そちらは武将の関羽、張飛、趙雲だ」
「よ、よろしくお願いしやす。それで御大将、俺に何をお聞きになりたいので?」
「うむ。まず、お前もこのまま我が軍に加わりたい。それに相違ないな?」
「ありやせん。流浪の末、食い詰めて黄巾党に身を投じちまいやした……最近はどうもいけねぇ。無闇に人を殺す、女を犯す、食料や金を奪う。正直、嫌気が差していたところで」
「なるほどな。ならば、知っている事を、私に話して貰いたい」
「へい。俺の答えられる事であれば」
「よし。まず、程遠志、という者を知っておるか?」
「へえ。大賢良師から、五万の兵を与えられ、幽州に向かっている将でさあ」
「ふむ。他に将は?」
「副将が鄧茂。後は知りやせん」

 ほぼ、うろ覚えな私の知識と同じ、か。

「廖化」
「へい」
「我が軍は、この程遠志を討とうと考えている。どうだ、協力せぬか?」
「し、しかし御大将。俺もさっき言った通り、奴は五万からの兵を抱えていやすぜ?」
「わかっている。だから、お前の協力が必要なのだ」
「…………」

 廖化は、考え込んでいる。

「勝算は、ありなさるようで」
「うむ。お前の協力さえあれば、確実に勝つ」

 淀みなく、私は断言した。

「……わかりやした。俺でよければ、使ってやって下せえ」



 そして二日後。
 我軍は、大興山なる山を望む場所に布陣。

「では廖化。頼むぞ」
「へい。お任せ下さい」

 私の命じた通り、廖化は動き出す。

「主。果たして上手く行きますかな?」
「大丈夫だ。あの男ならば、心配要らぬ」
「ご主人様。何故、そこまで自信がおありなのです? あの男も、元々は賊ですぞ?」
「愛紗。お前は、私の策に反対なのか?」
「い、いえ……。ただ、民を苦しめていた男を、あのように信用なされてよいものか、と」

 愛紗の心配は、わからぬでもない。
 だが、あの男は間違いない。
 彼が廖化だから、という理由だけではない。
 戸惑いながらも、真っ直ぐに私を見返してきたあの眼。
 心に疚しいものを持つ者は、その奥を見透かされる。
 思えば、楠や荒木田らもそうであった。
 これでもし、廖化が裏切るようであれば、所詮私の眼が曇っていた……それだけの事だ。

「愛紗。この戦が終わったら、一度ゆるりと話したい。良いか?」
「ご、ご主人様と……ですか?」
「不服か?」
「い、いえっ! 私のような武骨者が相手で宜しいのかと」
「おやおや。何故に赤くなるのだ、愛紗?」
「照れているのだ」
「う、煩いお前たち!」

 そのやり取りを見ていた周囲の兵達に、笑いが広がる。
 戦を前にして、些か緊張感に欠けている気もするが、我が軍は不正規軍。
 気の弛みさえなければ、過度に緊張するよりは、却って良いのやも知れぬ。

「歳三様。布陣、完了しました」
「風の方も終わりましたよー」
「よし。皆集まれ、軍議を開く」
「はっ!」

 天幕などと大層なものなどない。
 そこがそのまま、本陣となる。

「稟。作戦を説明してくれ」
「はい。敵はこの大興山に籠っています。数は、廖化の情報通り、ほぼ五万との事です」
「まともに当たっては、いくら相手が賊軍とは言え、厳しいものがある、か」
「そうです。とは言え、この軍を破らない限り、我らはここまで、となってしまうでしょう」
「前にも言いましたが、糧秣は明朝までしか持ちませんねー。鈴々ちゃんが食べ過ぎたらすぐですが」
「仕方ないのだ、鈴々は食べ盛りなのだ!」
「威張って言う事ではなかろう、鈴々」
「風も愛紗も止せ。鈴々だって、わかっているだろう?」
「当然なのだ!」
「ご主人様は、鈴々に甘過ぎます。もっと、厳しくしていただかないと」
「愛紗ちゃんに同意なのです」
「へへーん、愛紗達よりお兄ちゃんの方がわかっているのだ♪」
「無論、万が一にも風の計算よりも足りなくなるような事はない、それで良いのだろう? 万が一になれば、真っ先に疑われるのは鈴々だからな」
「う……。釘を刺されたのだ……」
「皆の者。主の差配には逆らうだけ無駄だぞ?」
「腹一杯食べたければ、勝つ事だ。そうだな、稟?」
「はい。程遠志ですが、率いる兵数は五万で間違いありません。ですが、糧秣が不自然な程、集められている形跡があります」
「不自然とは、どの程度なのだ?」

 私の問いに、稟は眼鏡を持ち上げながら、

「確たる量はわかりません。ただ、廖化らの話をまとめると、程遠志はここを拠点に半年間は居座る予定だとか」
「五万が半年間か。無補給とは思わぬが、それでも数ヶ月、戦闘に耐えるだけの量があると見なして良いだろうな」
「つまり、あいつらをやっつければ、ご飯が食べ放題なのだ!」
「やれやれ。鈴々ちゃんはそればかりですねー」
「そう申すでない。酒も手に入るのだ、一石二鳥ではないか」
「星まで言うか。全く、我が軍は何故にこのような……」

 全く、仲がいい事だ。

「風。噂の方は流し終えているな?」
「はいー。二日かけて広めてありますから」
「お兄ちゃん、何をしたのだ?」
「うむ。我らが千足らずの兵力で、攻め寄せる事を広めさせたのだ。降伏して、解き放った賊を使ってな」
「ご主人様! それでは、わざわざ敵に情報を与えたようなものではありませんか。ただでさえ、我らは劣勢なのですよ?」
「落ち着け、愛紗。主が何の考えもなしに、そのような真似をする筈があるまい?」
「星ちゃんの言う通りですねー。まず、向かってくるのがもし官軍だったり、数が自分達よりも多い、と知ったら、賊はどうすると思いますか?」
「私ならば、まず様子を探らせる。迂闊には仕掛けられん」
「では、逆に今の我が軍の状態を、ありのまま知ったとしたら、どうですか?」
「一気に打って出て、追い散らすまでだ」

 きっぱりと、愛紗が言う。

「そうなのですよ。でも、率いるのは将とは言っても賊ですから、きっと侮っている筈です」
「……なるほど。それならば、全軍ではなく、一部を差し向けてくる可能性がある、と」
「そうだ。だが、それならば少数でも対抗出来る筈だ」
「でもお兄ちゃん。一部をやっつけても、まだまだたくさん残ってしまうのだ」
「その通りです、鈴々。ですが、少しでも警戒されてしまえば、その時点でこちらは終わりです。まずは、敵を引きずり出して叩き、その上で策を講じるのです」
「うー、稟みたいに難しい事はわからないのだ……」
「とにかく、明日までに勝負をつける、それが全てだ。稟、では各将に指示を」
「わかりました。鈴々、二百の兵を連れて、敵陣の前に出て下さい。必ず、副将の鄧茂は打って出るので、何とか討ち取って欲しいのです」
「了解なのだ!」
「その後で、程遠志が全軍でかかってくるでしょうから、一当てしたら、算を乱して逃げます。星は、兵二百を連れてこれを待ち伏せ、挟撃して下さい」
「承知した」
「愛紗は、混乱に乗じて、残りの百名を率いて、程遠志を討って下さい」
「うむ」
「私と風は森に潜み、銅鑼や鐘を鳴らします。そして、頃合いを見て、朱儁将軍から借りた旗を立てます。もちろん虚兵ですが、敵に混乱を引き起こすのが狙いです。これは、志願してきた黄巾党の者を使います」
「稟、私はどうする?」
「歳三様は、私達の警護を願えますか?」
「わかった。では皆の者、頼んだぞ」
「御意!」



「黄巾党、出てこいなのだ!」

 鈴々の声が、夕闇の中に響き渡る。
 それを合図にするかのように、敵陣から兵が出てきた。
 数は……凡そ三千、というところか。
 全軍でも五百の我が軍を相手にするには、些か大袈裟な数だ。
 流布した情報を聞き、我らを完全に侮ったが故、だろうな。

「ガーッハッハッハ、おいガキ! お前がこの乞食どもの大将か?」
「鈴々達は、乞食ではないのだ!」
「ああん? 鍬や鋤じゃ、俺達には勝てないぜ? さっさと帰って、おっかさんの乳でも吸ってな!」
「へへーん、鈴々が怖いのか? 所詮、弱い者虐めしか出来ない、見かけ倒しなのだ」

 と、男の顔がみるみる強張っていく。

「おい……調子に乗るなよクソガキ。俺様を誰だと思ってる、泣く子も黙る、鄧茂様だぞ?」
「知らないのだ。お前、バカか?」

 鈴々にからかわれ、鄧茂は憤怒の表情に。

「言わせておけば、このガキ! そんなに死にたいか!」
「やれるものなら、やってみるのだ」
「テメェ、ぶっ殺す!」

 鄧茂は、大斧を振り回しながら、鈴々に襲いかかる。

「死ねぇぇっ!」
「それは、こっちの台詞なのだ。うりゃりゃりゃ!」

 鈴々は、構えた蛇矛を、凄まじい速さで繰り出した。
 そして、

「グエッ!」

 一合も打ち合う事なく、鄧茂は倒れた。

「副将鄧茂、鈴々が討ち取ったのだ!」
「おおおーっ!」

 すかさず、味方から歓声が上がる。
 一方、いきなり将を失った賊軍。
 確かめるまでもなく、完全に浮き足立っている。

「よし、みんな! 鈴々に続けー!」

 火の玉の如く、敵に斬り込む鈴々。

「うりゃりゃりゃりゃ!」
「ぐはっ!」
「ぎゃっ!」

 数は我が軍の三十倍もいる筈の賊軍だが、戦うどころではないらしい。
 鈴々の蛇矛が振るわれる度に、どんどん人数を減らしていく。

「流石は鈴々ですね。鄧茂の部隊は壊滅状態です」
「お兄さん。敵の本陣に動きが出てますよー」

 私の双眼鏡を使っている風が、敵陣を覗きながら言った。

「よし、鈴々に合図を送れ」
「はっ!」

 控えていた兵が、一条の火矢を、空へ放つ。
 銅鑼の音が鳴り響き、地響きがした。

「合図は?」
「……ありました、あれです!」

 稟が、双眼鏡で見つけ出したようだ。
 かすかに、敵本陣で松明が振られている。

「皆、抜かるな。まだ勝った訳ではない!」
「応っ!」

 敵はほぼ全軍、出撃のようだ。
 後は、手筈通りに皆が動けば……。
 鈴々は、出てきた敵軍に突っ込み、少し戦ってから、

「敵が多すぎるのだ。一旦、引くのだ!」

 声を張り上げながら、撤退していく。

「逃すか!」
「鄧茂様の仇だ、皆殺しにしろ!」

 殺気立った賊は、当然追撃を始める。

「ぐへっ!」
「あぐっ!」

 今度は、味方が討ち取られていく。
 ……短い間とはいえ、苦楽を共にしてきた仲間。
 それを喪うというのは、何度経験しても、嫌なものだ。

「まだ、合図は出さないのですか?」

 焦れたような、兵の声。

「まだだ。星の隊が布陣する場所まで、奴等を引き付けねばならぬ」
「し、しかし。このままでは、味方が全滅してしまいます!」
「落ち着け! そんな事はさせぬ!」

 私とて、余力があればこのような、犠牲の多い戦術は採りたくない。
 ……しかし、百倍もの敵が相手。
 しかもじっくり構える余裕がない我が軍には、選択の余地などない。

「稟、風」
「はい」
「何でしょうー」
「……このような戦、重ねては行わぬ。よいな?」
「……歳三様が、そうお望みとあらば。知恵を絞りましょう」
「お兄さんが、冷酷でない事は、風もわかっていますから。稟ちゃんと一緒に頑張りますよー」
「……頼む」

 私は、顔を上げて敵陣を睨み付けた。
 ……頃合いだな。

「星に伝令を」
「ははっ!」
「かかれーっ!」

 掛け声と共に、一斉に矢が放たれる。
 勢いに乗って追ってきた賊は、いきなりの事に慌てふためいている。

「怯むな! 敵は小勢だ、押し潰せ!」

 よく通る声だ。
 あれが程遠志かも知れぬな。
 ……とは言え、日も暮れ、夜の帳が辺りを包み込んでいる。
 敵味方の識別だけはつくようにしておいたが、流石に離れていては人相までは掴めぬ。

「お兄さん、そろそろかとー」

「そうだな。よし、旗を立てろ! 銅鑼と鐘を鳴らせ!」

 合図と共に、辺りが喧噪に包まれた。

「か、官軍だーっ!」
「敵の増援だ! 大部隊だぞ!」

 敵に紛れて、味方があちこちで声を出す。

「か、囲まれてるぜ?」
「う、うわーっ!」
「狼狽えるな、てめえら! この程遠志様がついている!」

 自ら、居場所を明かしてくれたか。

「程遠志、見参! 土方軍が一の青龍刀、関雲長!」
「ほざけ、下郎がっ!」

 程遠志が、得物を一閃。
 軽々と、愛紗はそれを受け止めた。

「ほう、力だけはあるようだな!」
「何だと、この女!」

 力任せに、愛紗に向けて降り下ろす程遠志。
 どうやら、得物は同じ、青龍刀のようだ。
 ……だが、持ち主の技量に差があり過ぎるらしい。

「どうした? 全く当たらぬが?」
「うるせぇ! これで、どうだっ!」

 怒りに任せて、今度は突き。
 だが、変わらず、余裕で受け止める愛紗。

「聞くと見るとでは大違いのようだな、程遠志?」
「ぬかせっ!」
「ならば、こちらから行くぞ! はぁぁっ!」

 受けてばかりだった愛紗が、攻撃に転じた。

「な、なんて馬鹿力だ!」
「フッ、死ねっ!」

 愛紗の一撃を、今度こそ受け損ねたようだ。

「ああ……ぐはっ!」

 幹竹割りにされた程遠志、勿論即死だ。

「敵総大将、程遠志!この関羽が討ち取ったり!」

 愛紗の声に、戦場は一瞬、静まり返る。
 そして、

「うぉぉーっ!」
「ひぃぃぃーつ!」

 歓声と悲鳴が、同時に辺りを支配していく。

「終わりましたね」
「……いや、まだだ。敵を完全に黙らせる必要がある」
「むー。それには、人数があまりにも足りないです」

 その時。
 新たな地響きが、近付いてきた。 

 

六 ~邂逅~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 (たちま)ち、兵らの間に動揺が走る。

「ひ、土方様!」
「騒ぐな」
「し、しかし」
「……徒に騒いだ者は……斬る」

 無用に騒ぐ者など、我が軍には不要。
 流石に、狼狽していた兵も静かになったようだ。

「稟、風。このあたりに、程遠志以外の黄巾党はいない……そうであったな?」
「はい。念を入れて調べましたので」
「百人以下の小さな集団までも確認していますしねー。間違いないのですよ」
「なら、敵ではないのだろう。となれば、官軍か、若しくは……」

 と、そこに一騎の武者が駆けてきた。
 素肌にサラシを巻き、上着を羽織っただけ……何とも、大胆な装束ではあったが。

「この軍の指揮を執っとるんは、誰や?」

 上方言葉だと?
 はて、本当に面妖な世界としか言えぬな。

「私がそうだ。貴殿は?」
「ウチは張遼ちゅうモンや。あの董卓軍で将をしとる」
「張遼? すると、あの神速の張遼将軍か?」
「よお知っとんな、ウチの事。まぁ、将軍ちゅう大層なモンやあらへんけどな。そういうアンタは?」
「申し遅れた。拙者、この義勇軍を率いる土方と申す」

 私が名乗ると、張遼はひらり、と下馬。
 やはり、張遼も女子(おなご)か。

「挨拶は後でええ。それより、程遠志の黄巾党がおるんはここやろ?」
然様(さよう)。御覧の通り、今まさに戦闘中だがな」
「それでか。ウチらも今夜、攻めかかる準備をしとったんやけど、斥候から賊の動きがおかしい言う報告が入ってな」
「それで、威力偵察に来られた。そういう訳ですかな?」
「へぇ。アンタ、ただの義勇軍ちゃうやろ?」

 感心したような張遼の声。

「さて、それはどうですかな。それよりも張遼殿」
「張遼でええよ。ウチ、堅苦しいのは苦手やねん」
「そうか、では張遼。敵将の程遠志と鄧茂だが、どちらも我が軍が討ち取った」
「な、何やて? 自分、寝惚けてへんやろな?」

 張遼は、まじまじと私の顔を覗き込む。

「なら、この賊軍の混乱ぶり、どう説明するのだ?」
「せ、せやったらこないな事している場合ちゃうで! 大将のおらへんあいつらほっといたら……」

 ふむ、そこに気がつくか。

「その事なのだが」
「なんや?」
「敵の本陣は押さえてある。後は、この残存兵をどうするかなのだが」
「……は? ちょい待ち、敵本陣も落としたちゅうんか?」

 信じられぬ、という表情だが……無理もなかろう。

「そうだ。今頃、逃げ込もうとしている賊共を、必死に防いでいるところだろう」
「はー。アンタ、大したモンやな。せやったら、話は別や。ウチらで、掃討戦をやればええっちゅう訳やな?」

 ほう、流石は張遼だ。
 今の愛紗や星に、そこまでの状況判断能力はない。
 いずれは身につけて貰わねばならぬが、な。

「では、頼む。我らは敵本陣の部隊と合流し、そこを死守する故」
「わかった。ほな、また後でな!」

 素早く馬に跨がり、張遼は駆けていった。

「お兄さん、あの人もご存じなのですか?」
「うむ。『神速の張遼』、文武に優れた名将だ。泣く子も黙る、というぐらいだからな」
「……歳三様がご存じなのは、女性ばかりなのではありませんか?」
「稟ちゃん、焼きもちですかー?」
「な。ふ、風!」
「稟、風、戯れるのは後にするぞ。廖化に合流せねばならん、愛紗達にも伝えよ」
「御意」
「御意ですよー」



 敵本陣のあった場所に着くと、大歓声で迎えられた。
 そして、今回の立役者である廖化が最前で待ち構えていた。

「よくやってくれたな。おかげで、勝利を得る事が出来た」
「い、いえ。鄧茂と程遠志が、うまうまと乗ってくれたおかげでさぁ」

 そう言って笑う廖化。

「にゃ? お兄ちゃん、一体どういう事だったのだ?」
「そうですぞ、ご主人様。そろそろ、種明かしをしていただきたい」
「いいだろう。まず、風に、私達の実態を誇張して流布させたのだ。そうすれば、まず程遠志は侮ってかかるだろうからな」
「槍や剣ではなく、わざと鍬や鋤を兵士に持たせましたしねー。もちろん、敵の目につく一部だけでしたけど」
「そして、この廖化は、韓忠の元で副将的な立場にいた。もちろん、黄巾党がいくら賊軍とは言え、その程度の情報は伝わるものだ。だから、韓忠が討ち取られて、そのまま程近い程遠志のところに逃げ込んだとしても、何の不思議もなかろう?」
「なるほど。それに風の流布した情報と併せ持てば、後は彼らを煽るだけで簡単に出てくる……そうですな、主?」
「そうだ。結果、まず鄧茂が鈴々に討ち取られた」
「当然なのだ♪」
「程遠志が黙っている訳がない。後は、廖化が煽り立てれば、出撃してくるだけだからな」
「へい。本陣を手薄にする事を懸念する奴もいやしたが、俺が残って守る、と伝えると、程遠志はそれで肚を決めたようで」
「後は、皆が知っての通りだ。愛紗も、見事だった」
「い、いえっ、そ、そのような」
「何を慌てておるのだ、愛紗? 顔が赤いようだが」
「な、何を言うのだ、星! こ、これはかがり火のせいだ!」
「そうかな? 主、私の働きは不服でしたかな?」
「いや、あの挟撃はまさに絶妙だった。此度は、皆の力あっての勝利だ」

 私は廖化の肩に手を置いて、

「お前も、良くやってくれた。約束通り、我が軍に迎えよう」
「あ、ありがてぇ! よろしく頼みますぜ、御大将!」

 髭面に満面の笑みを浮かべる、廖化。

「もはやお前は黄巾党ではない。かつての仲間を殺す事になるが、覚悟は良いな?」
「へいっ!」

 良い眼をしている。
 これならば、必ずや良き一手の将となるに違いない。

「土方様! 程遠志の軍が、官軍に降伏したようです!」

 駆け込んできた伝令に、皆が大きく頷く。

「終わったな。皆の者、休むが良い」
「はっ!」



 食事を取り、一息ついている最中。

「歳三様。董卓殿が、お目にかかりたいとの事です」

 稟が、知らせを持ってきた。

「董卓か……。どのような人物か、知っておるか?」
「并州刺史を務めている方ですね。確か、西涼の出だったかと」
「その他には?」
「……申し訳ありません。その程度しか。風はどうです?」
「そうですねー。稟ちゃんと同じです」

 ふむ、二人とも良く知らぬ人物、という訳だな。
 先入観を持って望まぬ方が良いのかも知れぬが……私の知る董卓と言えば、暴虐君主の代名詞。
 心して、かかるべきか。
 だが、今の私には向こうの申し入れを断るだけの権限も実力もない。

「よし、会おう。では星、風。一緒に来てくれ」
「はっ!」
「わかりましたー」
「稟は、敵から鹵獲した糧秣の整理を進めてくれ。愛紗はその補佐を、鈴々は念のため、黄巾党の残党を警戒しておくように」
「御意」
「ははっ!」
「了解なのだ」

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。



「初めまして。董卓、字を仲穎と申します」
「ボクは軍師の賈駆、字は文和よ」
「ウチは……まぁ、ええか。張遼、字は文遠や」

 出てきた三人を見て、先入観を持たずに来て正解であった、と再認識した。
 まず、董卓は可憐な少女。
 賈駆も、背丈は並ぶ董卓とほぼ同じか、こちらも眼鏡をかけている。
 そして張遼。

「拙者、土方歳三と申す。こちらは拙者に従う、趙雲と程立にござる」
「まずは、黄巾党討伐、おめでとうございます」
「は」

 儚げな印象通りの、か細い声。
 ……暴虐の限りを尽くしたという、書物上の知識とは結びつかぬ。

「程遠志は、この辺りでも最大の勢力を誇っていました。これで、少しは人々も苦しみから救われるでしょう」
「でも、他の官軍も手を焼いていたというのに。ボクには、まだ信じられないわ」
「しかし、そちらの張遼殿にも伝えた通り、事実は事実です。こうして、敵は実際、壊滅しておりますからな」
「せやなぁ。あの後、掃討戦やっとったけど、あの慌てようは、芝居ちゃうで」
「然様。ここには来ておりませぬが、関羽と張飛と申す者が、程遠志と鄧茂を討ち取っております」
「詠ちゃん。実際、手柄を立てている方よ? 疑っちゃダメ」
「わ、わかってるわよ、月」

 董卓と賈駆、単なる主従という訳ではないようだな。

「拙者の方こそ、貴軍の協力なしには、完全なる勝利を得る事は叶わなかったでしょう。お礼を申す」
「いえ、それは私の任務ですから。それにしても、あなた方のような方がおられるとは存じませんでした」

 そう言って、董卓はジッと私を見据える。

「旗揚げしたばかりですからな。それに、志を同じくする皆の働きがあればこそ、にござる」
「うふふ、それだけですか?」
「ほう。他にもある、と仰せか?」
「はい」

 と、董卓はやや俯いて、

「土方さん、と仰いましたね?」
「はっ」
「あなた様ご自身の力もある、そう思いますよ?」
「拙者の?」
「ええ。土方さんは、他の皆さんの働きで、と仰いますけど。集団が強さを発揮するのは、指揮する者の強さでもある、そう思いますよ?」
「なるほど。では、黄巾党はどう思われる?」
「恐らくは、張角を中心とした本体と、一部の将はそうでしょう。ただ、それ以外はただ、数に任せて暴れているだけです」
「しかし、こうして現に官軍は苦戦していますな」
「はい。お恥ずかしい話ですが、今の官軍には、こうした数の暴力ですら、収めるだけの実力がないのです」
「……それをわかっとらん、ボンクラ共ばっかりちゅう事や。賄賂か、血縁なしでは出世も叶わへんぐらいや」

 吐き捨てるように、張遼が言う。

「ですから、土方さんの義勇軍は、官軍以上の強さを見せるだけのものがあるのでしょう。それは、土方さんご自身の力でもある、私はそう思います」
「せやなぁ。頭も切れる、度胸もええ。人望があって、おまけに」

 と、張遼は私の顔をまじまじと見て、

「ホンマ、ええ男やなぁ、アンタ。そら、女も惚れてまうわ」
「ふむ礼を言うべきか?」
「ええねん。ウチはただ、そう思っただけやねんから。なぁ、月、詠?」
「へ、へぅ……」
「ちょ、ちょっと霞! 何でボク達に振るのよ?」

 董卓と賈駆、顔が真っ赤だな。

「むう。主はまた、罪作りな事を」
「お兄さんは、天然の女たらしですからねー」
「……二人とも控えよ。今は、そのような話をしているのではない」

 小声で、二人に注意しておく。

「そ、それより月。言う事があるんでしょ?」
「う、うん。……あの、土方さん。一つ、提案があるんですけど」
「承りましょう」
「はい、コホン」

 董卓は咳払いをしてから、

「皆さん、私達と一緒に戦っていただけないでしょうか?」
「同行せよ、と?」
「はい。皆さんの目的は、黄巾党討伐なのでしょう? それならば、兵は多い方がいい筈です」
「なるほど。ですが、宜しいのですか? 我々は雑軍、貴殿のような官軍とは違います」
「朱儁将軍との事は、私も聞き及んでいます。あの方も、ご自身は優れたお方なのですが……」
「取り巻きが悪すぎるわね。もっとも、ボク達とは事情が違うから仕方ないんだろうけど」
「事情が違う、とは?」

 私の問いかけに、賈駆が答えた。

「朱儁軍は、いわば朝廷直属の軍なの。だから、つけられる将も、朝廷の直臣ばかり。当然、血筋や金で成り上がった無能の集まりになるわね」
「せやけど、月んとこはちゃうねん。ウチらは地方の軍閥やから、将も兵も、そういうアホはおらへん。数や装備では見劣りするところもある、けど強さは比較にならんちゅうこっちゃ」
「なるほど」
「如何でしょう? そうすれば、糧秣輸送の件も、解消できると思いますが」
「……気づいておいでだったか」

 私の言葉に、董卓はニコリと笑う。

「程遠志軍に目をつけたのは、あなた方ばかりではありません。糧秣に困っているのは、どこも同じですから」

「だから、ボク達もここに目をつけてはいたのよ。もっとも、先を越されちゃったけど」
 私達義勇軍には、荷駄隊などという物は存在する訳がない。
 活動に糧秣が必要なのは当然だが、それを運搬する手段が、未だに思い浮かばなかったところだ。

「せやけど、戦いはこれで終わりやない。もちろん、ウチかて月の為やったら頑張るけど……。アンタらが来てくれたら百人力や」
「力を合わせて、困っている民の皆さんの為、一日も早く終わらせませんか?」

 切々と訴えてくる、董卓の言葉。
 そこに、偽りや打算は感じられない。

「返事は、即答をお望みか?」
「いえ。他の方とも相談されてからで構いません。また明日、お越し下さい」
「……承った。では、また明日」



 自陣に戻り、主だった者を集めた。

「では、董卓軍に合流するのですか?」
「そうだ。朱儁の時と違い、無用な妬みを買う恐れもあるまい」

 私は既に決意を固めていたが、それでも皆に諮る事にした。
 全てを、私一人の判断で決めざるを得なかった、新撰組での失敗を繰り返したくなかったのやも知れぬ。
 あの頃は、ただ組織を強く、戦うだけの集団にするだけで良かった。
 だが、今は近藤さんのような、上に立てる人物はおらぬ。
 ……伊東や山南さんらが今の私を見たら、さぞ驚かれるであろうな。

「糧秣の件もあるしな。董卓は、そこに気づいていた」
「そうですか……。確かに、自力でこれ全てを運ぶのは不可能です」
「仮に運べたとしても、逆に黄巾党に襲われる恐れもありますしねー」
「報復、という事もあるだろうな。程遠志は黄巾党の中でも名だたる将だった男、主を逆恨みする輩がいたとしても無理はない」
「鈴々は、ちゃんとご飯が食べられればそれでいいのだ!」
「鈴々! お前は、もう少し将としての自覚をだな……。ま、まぁそれはそれとして……ご主人様、既にお心は決まっているのですね?」

 愛紗の言葉に、皆が私を見つめる。

「うむ。糧秣の問題だけではない。如何に賊相手とは言え、いつまでも奇策が通じるものではない。やはり、数には数で対抗する必要がある。その点、董卓軍は打って付けだ」
「…………」
「どうだ、皆? 忌憚のない意見を聞かせて欲しい」
「……ご主人様。もし、董卓軍が他の官軍同様、官匪であった場合は、如何なされますか?」
「決まっている。その場で袂を分かつ」
「わかりました。ならば、我らはご主人様に従います」
「よし。決まりだな、明日返事をするとしよう」
「はっ!」



 その夜。
 黄巾党が使っていた天幕を、私達はそのまま用いている。
 その一つを、私一人で占めていた。
 皆と一緒で構わぬのだが、指揮官なのだから、と押し切られてしまった。
 あまり、特権を振りかざすようで好まぬのだがな。

「ご主人様。宜しいでしょうか?」
「愛紗か。入れ」
「はっ、失礼します」
「そう固くなるな。座ってくれ」
「はい」

 素直に、私と向き合って座る愛紗。

「さて、愛紗。私が呼んだ理由は、わかるか?」
「……はい。私の頑ななところ、でしょう」
「自覚はあるようだな」

 愛紗は俯いて、

「私自身、わかってはいるのです。……ですが」
「自分ではどうにもならぬ、か」
「……はい」

 これが、あの関雲長だとは、誰も信じぬのではないか?
 それほど目の前の女子(おなご)は脆く、儚い。

「愛紗。お前の義に厚いところは、確かに美点ではある」
「…………」
「だがな、義に厚いばかりでは、時にそれが命取りになる事もあるのだ」
「どういう事でしょうか?」
「例えばの話だが。……愛紗が敵に敗れ、城を囲まれていたとする。そして、敵からは開城の使者が来たとする。この時、愛紗ならどう答える?」
「決まっておりましょう。武人たるもの、おめおめと敵に降るような真似は出来ません」

 やはり、そう答えるか。

「だろうな。かつての私でも、同じように答えたであろう」
「では、今のご主人様は違うと?」
「まぁ、聞け。開城勧告を突っぱねれば、当然、敵の攻撃は続く。そうなれば、城を枕に討ち死にするか、もしくは血路を開いて脱出するしかない。そうだな?」
「……はい」
「だが、愛紗程の猛将が最後まで抵抗すれば、攻城側の被害も少なくはならぬ。その時、私が攻城側の軍師ならば、こんな策を立てる。城内にそれとなく噂を流し、態と一方に隙を作らせる。そして、血路を開かせる」
「そうなれば、後は突き破るのみ。卑怯な罠など、食い破って見せましょう」
「平時ならば、それで良かろう。だが、その血路を開いた先が、見通しのきかぬ湿原であったら、足止めして捕らえるのは寡兵でも事足りる」
「……ご主人様。それは、一体……」

 だが、その問いには答えない。

「愛紗。私の言いたい事は、わかるか?」
「……例え、一時の屈辱に塗れようとも、生き延びよ。そう、仰せられるのですか?」
「そうだ。だが、それだけではない」
「はい」
「今の愛紗は、『義』に拘りすぎている。もっと、心を広く持て。私への忠義ばかりでなく、な」
「……仰せはわかるのですが、どうすれば良いのか……」

 そうか。
 ……多少、卑怯だが、荒療治でいくか。
 私は席を立つ。

「ご主人様?」
「愛紗。……正直に答えよ」
「は、はい」
「……私の事を、どう思っている?」
「え、ええっ?」

 途端に、真っ赤になる愛紗。

「言えぬのなら、無理に答えずとも良い」
「い、いえっ。……その、お、お慕い申し上げております」
「ふむ。それは、仕えるべき主君として、か?」
「ち、違います!……勿論、主として敬愛しておりますが……。ひ、一人の殿方として……」
「そうか。つまり、好いてくれている。そう、受け取って良いのだな?」
「……ご、ご主人様。これ以上、意地悪なさらないで下さい」

 口調は強がっているが、何とも愛らしい。
 そんな愛紗を、そっと抱き締める。

「ご、ご主人様……」
「嫌か?」
「い、いえっ!……良いのですか、私のような、無骨者を」
「無骨、か。愛紗がもしそう思っているのなら、それを改めさせる必要があるな」
「あの……ご主人様?」

 愛紗の顎に指をかけ、ゆっくりと持ち上げる。

「…………」
 そっと眼を閉じる愛紗。
 そんな愛紗の香りが、鼻腔をくすぐる。



「初めてであったか……辛かったか?」
「……いえ。ご主人様が、優しくして下さいましたから」

 私の隣で実を横たえる愛紗は、本当に艶っぽい。
 もともと美形ではあったが、それが一気に花開いた、そんな気がする。

「愛紗」
「はい」
「さっきの問答だが。私を愛するのなら、死ぬな。何としても生きよ」
「……はい」
「その為には、皆に好かれ、また皆を大事にする事だ。強さも大事だが、驕りは己を滅ぼす。忘れるな?」
「わかりました。この愛紗……ご主人様のため、生き抜きます」
「それでいい。さあ、今宵はもう休むがいい」
「……あの」
「何だ?」

 愛紗は、頬を染めながら、

「朝まで、ご一緒させていただけますか?」

 上目遣いに、そう言った。

「……いいだろう。共に、眠ろう」
「はい」

 心地よい眠りに、私も引き込まれていった。 

 

七 ~酒宴~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 翌朝。
 私は愛紗を連れ、董卓の陣へと向かった。

「まだ、ご主人様が私の中におられるようで……」

 ふむ、かなり歩き辛そうだ。
「無理をするな。返事をするだけなのだから、私だけでも良い」
「いえ、これしきの事でご主人様のそばを離れる訳には参りませぬ。それに、董卓という人物も見ておきたいのです」
「そうか。だが、董卓の前でその歩き方は好ましくないぞ?」
「それは、何とか致します。ご懸念には及びません」

 愛紗は、変わろうとしている。
 ならば、無理に押しとどめる事もあるまい。

「それならいい。行くぞ」
「はっ!」

 ……だいぶ、硬さが取れてきたやも知れぬ、な。



「おはようございます、土方さん」
「はっ。董卓殿にも、お変わりなく」

 今日は、見慣れぬ将も一人、加わっていた。
 張遼とは違うが、胸当てと腰周りだけの鎧という出で立ち。
 本人にそのつもりがあるのかどうかは知らぬが、何とも扇情的ではある。
 鋭い目つきと華奢な体格に似合わぬ大きな斧が、只者でない事を物語っている。
 皆そういう訳ではないのかも知れぬが、どうやらこの世界は女子(おなご)が上に立つのが当たり前らしい。
 ……さぞや私は奇異に映る事であろうな。
 そんな私の思いを悟ったのか、当人が名乗った。

「私は董卓麾下の将、華雄だ」

 華雄?
 咄嗟に、私は愛紗の顔を見た。

「ご主人様? 私の顔に、何か?」
「……いや」

 ……ふむ、あの華雄か。
 しかし、因果なものだ。
 いずれ、遣り合うやも知れぬ二人が、こんな形で対面する事になるとはな。

「私は関羽、字を雲長と申します。よろしくお願い致します」

 凛としていて、それでいて硬さを感じさせない挨拶だ。
 確実に、良い傾向が出ていると言えるな。

「はい、こちらこそ」

 それから、董卓は私を見据える。

「それで、土方さん。お返事の方をお聞かせ願えますか?」
「はい。董卓殿の申し出、お受け致す」

 そう答えると、董卓は柔らかな笑みを浮かべる。

「そうですか。ありがとうございます」
「いや、お礼を述べるのは拙者の方でござる。よしなに、お頼み申す」
「それで、糧秣の方だけど。ボク達で一旦、預かる形にさせて貰うわ」
「うむ、それで結構。昨日参った郭嘉が量を確かめております故、打ち合わせを願いたい」
「わかったわ。兵の方は、霞と華雄で協力して」
「よっしゃ。ほな、この後で土方はんの陣に邪魔するわ」
「わかった」

 張遼は一軍の将として、風格を漂わせている。
 愛紗達も、きっと得るところが大きいだろう。

「では、細かい事は追々詰めていくとして。一度、軍議を開きたいと思います。如何でしょうか?」
「拙者に異存はござらぬ」
「わかりました。それではまた今晩、お越し下さい。他の将の方も含めて」
「はっ!」

 見た目は可憐だが、やはり毅然としている。
 間違いなく、董卓も傑物なのだろう。



 陣に戻ると、廖化が出迎えた。

「御大将!」
「どうした?」
「へい。程遠志のところにいた連中なんですが、御大将について行きたい、って奴が存外いやして」
「数はどのぐらいだ?」
「ざっと、五千ってとこで」

 そうなると、元韓忠麾下と合わせると、八千か。

「流石に多すぎますね、ご主人様」
「そうだな。よし、選り分けの為の鍛錬を始めるか。皆を集めてくれ」
「はっ!」

 天幕に、皆が顔を揃えた。
 廖化には、元黄巾党の兵を集めておくように指示しておいた。

「正式に、董卓軍と行動を共にする事になった。まずは、それを伝えておく」
「はっ!」
「糧秣も十分にある。今のうちに、(ふるい)にかけて兵を選抜したい。稟、私は五千が妥当だと考えているが、どうか?」
「はい。歳三様に私も賛成です。ただ、五千に拘る必要はありませんが」
「無論だ。兵として見込みがあれば、より増えても構わぬ。逆に、五千を割り込む事もありそうだがな」
「それでお兄さん、選抜の方法なのですが」
「うむ。それについては」
「失礼致します。張遼将軍がお越しです」

 と、兵士が告げた。

「丁度良い、ここに案内してくれ」
「はっ!」

 入れ替わりに、姿を見せる張遼。

「軍議中やったら、ウチ遠慮した方がええんちゃうか?」
「いや、むしろ加わって欲しい」
「そうか? ほな、邪魔するで。あ、ウチは張遼、字は文遠。董卓軍の武官や、よろしゅうな」

 そう言って、座に加わる。

「紹介しておこう。そちらが軍師の郭嘉、こちらは張飛だ」
「初めまして。よろしくお願いしますね」
「よろしくなのだ」
「さて。早速なのだが張遼、降伏してきた黄巾党の事について話していたのだ。稟、進めてくれ」
「はい。先だって討ち取った韓忠の麾下から三千、そして程遠志の麾下から五千が、我が軍への加入を志願しているのです」
「へぇ、併せて八千かいな。下手な郡太守の私兵より、数おるんちゃうか?」
「勿論、全員を受け入れるのは不可能です。それに、質の問題もあります」
「せやなぁ。賊ちゅうても、元は食い詰めた農民が大半やろうからな」
「ですから、選抜のためにこれから調練を行おうとしているのですよー」
「そこでなのだがな、張遼。一つ、協力して貰えないだろうか?」
「ウチに?」
「そうだ。見ての通り、我が軍は義勇軍。ここにいる者達も、大規模な軍を指揮した経験がないのだ」
「せやけど、土方はん。アンタは?」
「……些か、勝手が違っていてな。やはり、ここまでの規模となると正直、心許ないのだ」

 私は、嘘偽りを言っているつもりはない。
 新撰組は少数精鋭であったし、蝦夷共和国軍はそれなりの数が合ったとは言え、所詮は寄せ集め。
 それに、私に全権があった訳ではなく、上位指揮官は大鳥殿であった。
 仮に、私の手法に誤りがあっても、今の麾下ではそれを正せる者がいない、それが現実だ。

「けど、ウチかて騎兵の扱いやったら自信持てるけど、歩兵は専門外やで?」
「だが、少なくともこの大陸で、正規の軍を動かしている。その経験を、貸して欲しいのだ」
「せやなぁ……」

 張遼は、頭をかいて、

「ウチだけで即答は無理や。一度、月達に相談してからでええか?」
「勿論だ。それは持ち帰って貰うとして、来て貰った用件だが」
「ああ、せや。アンタんとこの兵を、見せて貰おうって事やったな」
「稟、星、鈴々。案内と、現状説明を頼む」
「御意です」
「はっ!」
「わかったのだ!」

 三人が出て行った後で、

「風。廖化は、誰かの下につけて副将として考えているのだが、どう思う?」
「悪くないと思いますよー。そのまま、黄巾党から選抜した兵をつければ、つけられた方も従いやすいでしょうから」
「うむ。それで愛紗、お前の下に廖化をつける」
「わ、私ですか?」
「そうだ。お前なら、きっと使いこなせる筈だ。やれるな?」

 愛紗は、ジッと私を見て、

「畏まりました。ご主人様の期待に添うよう、努力します」

 きっぱりと、言い切った。

「おやおやー? 愛紗ちゃん、廖化さんの事、避けてませんでしたっけ?」
「そうだったかな? だが、ご主人様の指示とあれば、それに従うまでだ。それが、臣下たるものの務め」
「そういう事でしたかー」

 と、風は口に手を当ててニヤリ、と笑う。

「何が言いたい、風?」
「いえいえー。愛紗ちゃんも、女になるとこうも変わるのかなー、と」
「な、何をそのような!」

 真っ赤になって反論しているが、あれでは白状しているようなものだ。
 尤も、風相手では分が悪すぎるとも言えるが。

「今朝からどうも、愛紗ちゃんの様子がおかしいと思ったんですが。お兄さんの手にかかってしまった訳ですね」
「風、人聞きの悪い事を言うな。私は、そのような気持ちで愛紗を抱いたのではない」
「ご、ご主人様!」
「何を慌てている? それとも、愛紗は何か悔いているのか?」
「い、いえっ! 決してそのような」
「おうおう。兄ちゃん、やっぱり女泣かせか、やるじゃねえか」

 風の頭上の人形が、喋った?
 ……いや、腹話術か。

「泣かせるつもりなどない。それははっきりと言っておく」
「ご主人様……」

 惚けたような愛紗を見て、風が大げさにため息をつく。

「やれやれ、完全に惚気(のろけ)てますねー。でも、仕方ないのです。お兄さんはそういうお方ですから」

 そして、私の前にやって来て、

「では、風もお兄さんに、同じ事をして欲しい、と言ったらどうしますか?」
「風。戯れは止せ」
「むー。戯れとは酷いのですよ、風はこれでも、愛紗ちゃんとはあまり歳が変わらないのですよ?」
「いい加減にしろ、風! ご主人様が困っておられるではないか!」
「愛紗ちゃん、焼きもちですか?」
「二人とも、止さんか。それよりも、愛紗。廖化の事、任せたぞ」
「御意!」
「風も、愛紗を手伝ってやれ。二人とも、無用な諍いは起こすなよ?」
「上手く誤魔化したつもりでしょうけど、風はしつこいですからねー」

 ……全く、女子(おなご)の扱いは、いつになっても難しいものだ。



 その日の夜。
 皆打ち揃って、董卓のところを訪れた。
 軍議を、という事だったが、

「その前に、一度交流を深めておこうと思ったんです。それで、ささやかですが」

 と、ちょっとした酒宴の場となった。

「流石は月やで、話がわかるわ」
「うむ。わかり合うには、何よりも酒でござるな」

 張遼と星は、早くも意気投合したようだ。
 二人共酒好き、

「土方さんは?」
「私は、多少は過ごせますが」
「では、一献どうぞ」
(かたじけな)い」

 注がれた酒は、無色透明。
 日本酒や焼酎とは違うようだが……ふむ。
 一口、含んでみる。

「む。なかなかに強い酒ですな、これは?」
「はい、白酒(ぱいちゅう)です」
「焼酎に似てはいるが……また異なるもののようですな」
「あの、焼酎とは?」
「米や麦、芋などから作る酒でござる。拙者の国では、消毒薬にも用います」
「これも、米や麦、エンドウ豆などが原料です。でも、違うんですよね?」

 と言いながら、杯を干す董卓。
 見かけによらず、酒豪のようだな。

「おい、お前も将なのか? まだ子供のようだが」
「鈴々は子供じゃないのだ!」
「だが、ここは戦場だ。面白半分では、命を落とすぞ?」
「へへーん、鈴々は強いから平気なのだ♪」
「ほう。自信があるようだが、ならばその実力、確かめてやろう」
「何だとー! お前なんか、けちょんけちょんにしてやるのだ!」

 華雄と鈴々が、言い争いを始めてしまったようだ。

「鈴々、止しなさい。失礼ですよ」
「華雄も止めなさいよ。折角の酒宴が台無しじゃない」

 稟と賈駆が止めるが、酒の入った二人は聞く耳を持たぬようだ。

「ならばその腕とやら、見せてみよ!」
「お前こそ、後で後悔しても知らないのだ!」
「あ、あの……。土方さん、どうしましょう?」

 心配そうな董卓。
 ……いや、これはいい機会だろう。

「やりたいようにさせましょう。死に至らなければ良いだけの話です」
「ご、ご主人様。良いのですか?」
「ああ。鈴々、仕合は構わぬが、殺したり、大怪我を負わせてはならん。わかったな?」
「応なのだ!」
「ほう、これは格好の余興だな」
「せやな。華雄、油断したらあかんで?」
「誰に言っている、霞。私はこのようなチビに負けたりなどしない!」
「にゃにおーっ! 思い知らせてやるのだ!」

 ……華雄には悪いが、勝負は見えているだろうな。

「ちょ、ちょっと! アンタの臣下なんでしょ? 止めさせなさいよ!」
「いや、賈駆殿。見たところ、どちらもこのままでは収まりがつかぬと見ました。とことんやらせるが宜しいかと存ずる」
「し、知らないわよ! うちの華雄は、猪なんだから」
「にゃははー。お前、猪なのだ」
「え、詠! 余計な事を言うな! おい、土方とやら、このチビに勝ったら何とする?」

 華雄は、ずいと身を乗り出してきた。

「華雄さん、失礼ですよ?」
「月は黙っていてくれ! さぁ、答えて貰おうか?」
「ふむ。では、この差し料を差し上げようか」

 と、和泉守兼定を叩いて見せた。

「何っ? その得物をか?」
「然様。では貴殿はどうするのだ?」
「どう、とは?」
「賭をするのに、まさか一方的に、とは申しますまい? 貴殿も、何か出さねば、賭として成り立たぬかと」
「クッ。まさか、この金剛爆斧(こんごうばくふ)を寄越せと言うのか?」

 華雄は、手にした斧を顧みた。

「いやいや。では、拙者の頼みを一つ聞いて戴く、というのは如何でござる?」
「頼み、だと?」
然様(さよう)。もちろん、命を戴こうとか、そういった類ではありませぬ」
「……し、しかし。お前のその得物は、命に等しいのではないか?」
「当然でござる。従って、拙者の頼みも、それに等しきもの、そう心得られよ」
「……わかった。その賭、受けるぞ!」

 そして、対峙する二人。
 華雄は、金剛爆斧と称する大きな斧を。
 鈴々は、身長の数倍もの長さを誇る蛇矛を。
 それぞれが、構えた。

「愛紗。どう見る?」
「はっ。華雄殿もなかなかの遣い手のようですが、鈴々に分がありましょう」
「星はどうだ?」
「ふふっ、主もお人が悪い。鈴々が負けぬとわかって、賭に乗られたのでは?」
「せやなぁ。土方はん、アンタもなかなか意地悪いで?」

 張遼も、流石に二人の力量差を見抜いているようだな。

「だが、賭を申し出たのは華雄殿。拙者ではござらぬ」
「ま、ええけどな。ウチは、酒の余興に楽しませて貰うで」
「私もお付き合いしますぞ、張遼殿?」

 この二人に付き合っては、自分が潰されてしまう。
 愛紗と共に、鈴々を見守る事にする。

「行くぞ、チビ!」
「鈴々はチビじゃないのだ!」
「黙れ! はぁぁぁぁっ!」

 唸りを上げて、大斧が振り下ろされる。
 刃を潰した演習用のものではないから、当たれば無論、只では済むまい。
 ……尤も、鈴々の方は心配無用だろう。

「へへーん、そんな攻撃、見え見えなのだ!」

 ひょいと、身軽にそれを躱す。

「おのれ、ちょこまかと!」
「逃げてばかりじゃないのだ! 行くぞーっ!」

 蛇矛を構えた鈴々の表情が、一変する。

「うりゃりゃりゃりゃーっ!」

 鋭く繰り出されるそれは、まさに怒濤の如し。

「な、何っ?」

 辛うじて、華雄はそれを受け止める。
 受け止めるだけ、大したもの……だが。

「勝負あったな」
「はい」
「ですな、主」
「なんやー、華雄もこの程度かいな」

 皆が、そう言った瞬間。
 地響きを立てて、華雄の大斧の先端が折れ、地面に落ちた。

「な、わ、私の金剛爆斧が……」
「だから言ったのだ。鈴々は、お前なんかに負けないのだ♪」
「くっ……」

 ガクリ、と華雄は膝を突いた。

「土方……。約束だ、好きにするがいい」
「華雄殿。拙者は、貴殿とそのようなつもりで、約定をした訳ではありませぬぞ」
「し、しかし。私は、お前との賭に敗れたのだ……」
「そうですな。ですが、それは別の形でいただきます故」
「そうか……。では、私はこれで失礼させて貰う」
 そう言うと、華雄は立ち上がり、ふらつきながら立ち去っていった。
「お兄ちゃん、鈴々、やったのだ!」
「ああ、見事であったぞ、鈴々」

 何となく、その頭を撫でてやる。

「にゃー♪ お兄ちゃん、もっとやって欲しいのだ」
「撫でて欲しいのか? 構わんぞ」
「へへー」

 ……ふと、背後に寒気を感じた。

「お兄さん、いくら何でも、見境がないのです」
「主。私というものがおりますのに」
「ご主人様……。どういうおつもりですか?」
「歳三様が、幼い鈴々に手管を尽くして……ぶはっ」
「お主ら、何か勘違いしておらぬか? 私は、そんなつもりはないぞ」
「お兄ちゃん、もっと撫でて欲しいのだ!」

 動き回って酔いが回ったらしく、鈴々は私に抱き付いてきた。
 しかも、振り払おうにも……何という力だ。
 ……やむを得まい。

「鈴々、済まん」
「にゃ?」

 手刀を、鈴々の首筋に当てる。
 本来、この方法は相手に対して危険を伴うらしいのだが……やむを得ぬ。

「ふにゃ~」

 どうにか、大人しくなってくれた。
 尤も、無警戒だからこそ出来るのであって、普段の鈴々に対して通じるとも思えぬが。

「さて、そろそろお暇致そう。董卓殿、また明日お目にかかりましょう」
「え? あ、あの……ですが」
「この者を、寝かせつけなければなりませぬ故。では、御免」

 私はそう言って、董卓に一礼し、踵を返した。

「ご、ご主人様。お待ち下さいませ」
「主。まだ酒が……」
「はーい、稟ちゃん。とんとんしましょうねー」
「ふがふが」

 何とも締まらぬ、酒宴の終わりであった。 

 

八 ~人、それぞれの想い~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
「せっ、はっ!」
「そこ、手を抜くんじゃない! もっと真剣にやれ!」
「は、はいっ!」
「なんや……ウチ、おらんでもええんちゃうか?」
「いや、それはないが……。しかし、張り切っているな」

 翌朝。
 董卓殿の承諾をいただいて、選り分けの為の調練を始めた。
 無論、皆に任せっきりではない。

「張遼殿。このような場合、如何に兵を動かせば宜しいのでしょう?」
「張遼、でええで。関羽?」
「で、では張遼。それでだが」

 愛紗は、熱心に張遼を質問責めにしている。

「張飛! 兵が遊んでいるではないか! 目を届かせろ!」
「にゃー、華雄が鬼になっているのだ」
「ふむ。だが理にかなっているぞ、鈴々。やはり我らが調練では、見直すべきところが多々あるな」

 そう。
 人一倍張り切っているのは、あの華雄。
 昨夜鈴々に無様に敗れた後で、何やら思うところがあったらしい。
 自ら、調練の指導役を買って出てくれた。
 確かに華雄は武を恃みにするところはあるが、決して実力がない訳ではない。
 正規軍としての場数を踏んでいるのは、やはり伊達ではないのだろう。
 鈴々はもちろん、愛紗と星にも初めて見て聞くものが多いようだ。

「それで賈駆殿。ここはこれで如何です?」
「そうね。悪くないけど、ちょっと型にはまり過ぎかもね」
「ではでは、こうしてはどうでしょう?」
「それ、これで無意味になるわよ?」

 一方、軍師達も遊んでいる訳ではなく。
 いつの間にやら、戦術や戦略の勉強会を始めている。
 稟も風も、才は十二分にある。
 だが、やはり実地となるとまだまだ未熟さが否めない。
 その点、賈駆は董卓殿を補佐する立場。
 廷臣達との折衝も行っているらしい。
 私の知る歴史でも、一時はその曹操を危機に陥れた程の智謀の持ち主だ。
 それ自体は、どうやら変わらぬものらしい。

「土方さん。お茶を淹れましたので、どうぞ」
「忝ない」

 私は……どちらかに参加したいところなのだが、

「主。これは我らの役目ですぞ?」
「そうです。主が前線に出るまでもないようにするのが、我ら臣下の役目」
「だから、お兄ちゃんはでーんと構えていればいいのだ」

 調練の方は、この有様。

「歳三様。お気持ちはわかりますが、軍師の仕事はお任せ下さい」
「そうですよー。お兄さんを助けられなくては、風達の居場所がなくなるのですよ」

 ……こんな感じで、弾き出されてしまった。

「皆さん、張り切っておられますね」
「然様ですな。拙者の出番もないようにござる」
「ふふ。でも、人は一人で全てを行えはしませんから」

 私は頷き、茶を啜った。

「……む、美味い」
「ふふ、良かったです。土方さんの国のお茶と比べて、如何ですか?」
「そうですな。渋味を楽しむ緑茶や、味わい深い番茶などがあり申した。これは、何と言う茶にござるか?」
「はい。烏龍茶と言います。茶葉を乾燥させた後で、発酵させた物です」
「ふむ。まるで英国利(えげれす)人が好む、紅茶と似ている」
「英国利人、ですか?」

 首を傾げる董卓。

「遥かに海を越え、やって来ていた異国の者達にござる。その他にも、仏蘭西(ふらんす)亜米利加(あめりか)阿蘭蛇(おらんだ)など……多種多様な異国の民が出入りしていました」
「そうですか、交易の盛んなお国なのですね」
「……いや。つい二十年ほど前までは、鎖国をしていたのでござる」
「何故ですか? 国境を閉ざせば、人も物も停滞してしまいます」
「……かつては南蛮人と呼ばれた、別の異国の者が我が国を盛んに訪れていた時期があり申した。伴天連なる異教を教え広める者が、みだりに人心を惑わしたのでござる。その時、政を司る将軍が、国を閉ざし国の安寧を図り申した」
「将軍? それは、私のような立場ですか?」
「いや、我が国では将軍、と名乗れるお方はただ一人だけ。徳川氏の棟梁だけが、その資格がござった」
「では、丞相のようなものでしょうか?」

 丞相、というと……私の知る曹操か。
 帝を差し置き、政務を行うという意味では……ふう、これではまるで勤王志士ではないか。
「似て非なるもの、とでも申しましょうか。我が国では実質、武士が国を支配する体制でござった。帝や朝廷は権威の象徴と位置付けられていましてな。……それも永きに渡り続きましたが、それも今では新たな政府が樹立され、帝の親政という形に変わり申した。拙者は、それを認めぬ立場として、戦っていたのでござる」
「激動の世、だったのですね。今此処も、そうですが……」

 規模こそ違えど、確かに私の今いるこの世も、また戦乱の世。
 だが、頑迷な武士や、旧きにしがみつく者どもがおらぬ。
 その意味では、我が意を通しやすい、とも言えるな。

「ところで、董卓殿。一つ、伺って宜しいか?」
「はい。何でしょうか?」
「あくまで、仮の話でござるが……。もし、貴殿がこの先、この大陸で一番の権力を持つ機会があったとしたら」
「……一番の権力、ですか?」
然様(さよう)。皇帝陛下も凌ぐ程の権力を手にする事になったとしたら、如何される?」
「私は、陛下にお仕えする身です。そんな地位は望みません」
「ふむ。ですが、地位や権力は、望まずとも手に入ってしまう場合もありますぞ」
「……私は、ただみんなと静かに暮らせれば十分です。徒に権力を求めれば、それだけ多くの民を苦しめるだけです」
「では、権力には固執なさらぬ、と?」
「はい。それは、土方さんも同じなのではありませんか?」

 ジッと、私を見つめる董卓。
 口先だけではない、これが彼女の本心なのだろう。

「そう、見えますかな?」
「見えます。そうでなければ、あのような秀でた皆さんが、あんなに貴方様を慕う訳がないでしょう?」

 か弱げな見た目に騙されると、手痛い目に遭いそうな相手だ。
 芯はしっかりしているし、他人を見る目もある。
 ……なるほど、張遼や華雄程の将が付き従うだけの事はある、か。

「董卓殿。ご無礼の段、平にお許し願いたい」
「いえ。仮の話でしょう? でしたら、何の問題もないですよ」
「いや、貴殿のような、心根清らかな方を疑ってかかるような物言い、無粋でした」
「心根清らかですか……。へ、へう……」

 董卓は、真っ赤になった顔を両手で挟み、俯いた。
 ……むう、何だ、この保護欲をかき立てられる仕草は。

「申し上げます!」

 そこに、董卓軍の伝令がやって来た。
 同席している私に気付いたのであろう、何やら戸惑っているようだ。

「私は席を外した方が良さそうですな」
「いえ、構いません。共に戦う仲間ですから、隠し事をするつもりはありません」
「で、では。并州刺史、丁原様がお見えです」
「丁原のおじ様が?」
「はっ。援軍に、との事です」

 丁原か。
 だが、并州の刺史……?
 荊州刺史、と書物にあったが、あれは誤りなのだろうか?
 そして、この董卓とは対立する筈だが……この親しげな様子からして、まるで想像もつかぬな。

「わかりました。こちらに通して下さい」
「ははっ!」

 伝令が、立ち去っていく。

「宜しいのですか? 私がいては、障りがありましょう」
「いいえ。土方さんならば、是非紹介したいのです。きっと、丁原のおじ様も気に入ると思います」
「……では、ご同席致そう」



 ややあって。
「おお、月。久しぶりじゃの」

「丁原のおじ様!」

 姿を見せた丁原は、男であった。
 しかも、白髭も豊かな偉丈夫。
 どうやら、名のある将全てが女子(おなご)、という訳ではないという事か。
 まだ見ぬ武将がどのような出で立ちか、逆に興味深いというものだ。
 ……そして、丁原と言えば、あの武将がいる筈。

「おじ様。恋さんは?」
「おお、恋なら今参る。……ほれ」

 背の高い女子が、現れた。
 燃えるような赤い髪に、至るところに見られる入れ墨。
 ……だが、その闘気たるや、尋常ではない。
 手にした方天画戟といい……まず、間違いないだろう。

「恋さん。お元気でしたか?」
「……ん。月も、元気そう」

 そして、丁原と二人、私を見た。

「月、この者は?」
「あ、はい。義勇軍の指揮官、土方さんです」
「義勇軍?」
「拙者から自己紹介致す。董卓殿、宜しいか?」
「そうですね、お願いします」

 私は、二人に向き合い、

「お初にお目にかかり申す。拙者、土方歳三。董卓殿が仰せの通り、義勇軍を率いて黄巾党と戦っている者にござる」
「ふむ……。義勇軍のう」

 丁原は、まじまじと私の顔を見つめる。
 義勇軍だからと侮りを見せるならば、それなりに応じるまでだが。

「何か?」
「……いや、いい面構えをしておるの」

 感心したように、頷き、

「ワシは、丁原、字を建陽。并州刺史をしておる。恋、お前も自己紹介せよ」
「……恋は、呂布。字は、奉先」

 無口なのだろう。
 どことなく、掴み所のない雰囲気を漂わせているが……見た目に騙される奴も、いる事だろう。
 これが、あの呂布か。

「土方殿、で宜しいかな?」
「はい」
「貴殿、かなり修羅場を潜っておると見たが? どうじゃ、恋?」
「……ん。お前、強い」
「ほう。あの呂布殿にそうまで言われるとは、光栄至極」
「む? 恋を知っておるのか、土方殿?」
「……無双の強さを誇る赤髪の者がいる、そう風の噂にした事がござりまする」
「恋の強さがそこまで広まっているとはのう」

 危ういところであったが、どうにか誤魔化せたらしい。
 ……と、足下に気配を感じた。
 見知らぬ犬が、紛れ込んだのか?

「ハッ、ハッ、ハッ」

 パタパタと尻尾を振り、私を見上げている。
 毛並みの良さから見て、野良犬とも思えぬが。

「何だ? 私に何か用か?」
「ワンッ、ワンッ!」

 人懐っこい犬のようだ、しかし何故ここにいる?

「……セキト」
「ワンッ!」

 犬は、呂布のところに駆けていった。

「呂布殿の犬でござったか?」

「……(コクッ)」

 セキト、と言ったな。
 呂布と言えば赤兎馬だが。
 ……まさか、あの犬に跨がって……とは思えぬ。

「……お前、不思議」
「拙者が?」
「……ん。セキト、誰にでも懐かない。けど、お前に、懐いた」

 ふむ。

「はっはっは、ますます不思議な御仁じゃのう、土方殿?」
「……は。拙者はとんと、わかりませぬ」
「いやいや。月、この御仁、ただの無名な輩とも思えぬが」
「おじ様もそう思われますか。既にあの韓忠と程遠志を討ったのですよ、土方さんは」
「何と。程遠志と言えば、この辺りでは最大の勢力を誇っていた賊将ではないか。いくら、月が加勢したとは申せ」
「いえ。私は何もしていません。土方さんと、配下の方々のお力で」
「……むう。ますます信じられん。しかし、月が嘘を言う筈がない……むむむ」

 ふむ、どうやら誇張して受け取られてしまっているようだ。

「丁原殿。拙者達は、確かに韓忠と程遠志は討ち取りました。ですが、韓忠はともかく、程遠志は将を討ち取ったのみ。賊軍そのものは、董卓殿がおらねば手に余っていたでしょう」
「土方殿はこう仰せだが、どうなのじゃ? 月」
「はい。確かにお手伝いはしましたが、それも土方さん達が程遠志を討ち取って、賊軍が混乱していたからこそ、です。そうでなければ、数で劣る私の軍では、少なくない被害を被ったでしょうから」
「諦めよ、土方殿。貴殿が並の男ではない、それで佳いではないか」

 佳い……のか?

「はっはっは、佳きかな佳きかな……う、ゴホゴホ」
「……大丈夫?」

 不意に咳き込んだ丁原の背を、呂布がさすった。

「おじ様……。やはり、お身体の具合が宜しくないのでは……」

 董卓が、顔を曇らせる。

「何、ワシも老いたという事よ……ああ、恋。済まんな」
「……親父。無理、ダメ」
「そうですよ、恋さんの言う通りです」
「いやいや、こんな老いぼれでも、まだまだ休ませては貰えんのじゃよ。賊がこのように跋扈する有様では、な」
「とにかく、横になって下さい。土方さん、申し訳ありませんが」
「いや、拙者にはお構いなく」

 董卓と呂布に付き添われ、丁原は天幕へと入っていった。
 ……事情はわからぬが、少なくともこの世界では、董卓と丁原が争う事はなさそうだ。
 そして、呂布も……あの、叛服常ならず、という印象は受けなかった。
 董卓もまた、呂布を利で釣るような人物とも思えぬ。
 私が取るべき道……判断を誤ると、従ってくれた皆に申し訳が立たない。
 人物の見極め、今少し学ぶとしよう。
 戦場の事、軍略の事は、皆に任せればいいのだからな。



 その夜。

「ご主人様。今日の調練の成果、以上となります」
「うむ。やはり、脱落者がかなり出たようだな」
「はい。ですがその分、精兵を集める期待にもつながるかと」

 愛紗が中心になり、調練の報告を受けた。
 初対面の時にあった脆さや頼りなさが影を潜め、将としての自覚が芽生えてきた気がする。

「うえー、疲れたのだ……」
「どうした、鈴々。その程度で音を上げていては、明日は務まらないではないか」
「でも、華雄が張り切り過ぎなのだ。星は、そう思わないのか?」
「…………」
「にゃ? 星、聞いているのか?」

 鈴々の声に、星がはっとした表情をする。

「どうした、星? ぼんやりするなど、お前らしくもない」
「い、いえ……。何でもありませぬ」

 何故か、私と目を合わせようとしない。

「少し、疲れたようです。先に、休ませていただきますぞ」

 そして、さっさと天幕を出て行った。

「星、何だか様子がおかしいのだ」
「そうだな。しかし、体調が悪いとは思えないが……。ご主人様、明日の調練は、星は外しましょう」
「……いや。少し待て、何やら悩みを抱えているのやも知れぬ」
「では、ご主人様にお任せしましょう。私は、張遼ともう少し、計画を詰めて参ります」
「あまり根を詰めるなよ、愛紗?」
「大丈夫です、お気遣いありがとうございます。では」

 愛紗の笑顔には、無理はなさそうだ。
 ……さて、星の様子を、見てくるか。



 星の天幕は……此所か。

「星。入るぞ」

 てっきり酒でも飲んでいるのかと思ったが、本当に横になっているようだ。

「如何したのだ、星?」
「…………」

 答えがない。

「体調が悪いのなら、そう申すが良い。私とて、無理をさせるつもりはない」
「……体調など、悪くありませぬ。ただ、悔しいのです」
「悔しい?」

 星は、私に背を向けたまま続けた。

「そうです。あれほど未熟さばかりが目についた愛紗が、見事に変貌した。それは、主の寵愛が契機になったのは間違いありますまい」
「……そうだ。私も、それを望んだ」
「愛紗が変わったのは、我が軍に取っても大きな事。されど……」

 星は、こちらに顔を向けた。

「ならば、主から愛されるのは……愛紗だけ、なのですか?」
「星?」
「……私とて、女としての魅力には自信があります。なのに、主は私を女として見ていただいていない」
「そのようなつもりはない。星とて、十分過ぎる程魅力的ではないか」
「ならば」

 星は起き上がり、私に抱き付いてきた。

「抱いて下され。……愛紗のように」
「星……」
「尻軽女とお思いか?……これでも殿方に、身体を許そうと思ったのは……は、初めてなのですぞ」

 星の身体が、熱い。
 抱き付かれて表情は見えぬが、恐らくは真っ赤になっているのだろう。

「良いのか? 本当に」
「……あまり、女に恥をかかせるものではありませぬ。それに、優れた殿方が複数の女から言い寄られるのは、この世の常です」
「優れた殿方、か。では私は、そのような男なのだな?」
「……二度は言いませんぞ」
「……わかった。星、お前の気持ちに応えよう」
「主……。嬉しゅうございます」

 いきなり、接吻をされた。
 何とも情熱的な……だが、愛おしい。
 そのまま、星の寝台へと、倒れ込んだ……。



 気がつくと、夜が白み始めていた。

「主。……主の国でも、このような事をなされていたのでしょう?」
「否定はせぬ。本気で好いた女子もおったが……昔の話だ」
「では、今は如何でござるかな?」

 そう言いながら、星は私の胸に、顔を載せてきた。

「しかとは申せぬ。星も、愛紗も……十分に愛おしい故、な」
「ふふ、正直な御方ですな」

 だが、拗ねてはいないようだ。

「主。いただいた寵愛、この星、決して無にはしませぬぞ」
「一層、励んでくれると言うのか?」
「はい。さしあたり、調練に身を入れましょうぞ」
「……しかし、無理はするな? 特に今日は、ちと厳しいと思うぞ」
「……嫌な御方ですな、主は」

 私の腕に、星の胸が当たる。

「さて、暫し一眠りするか」
「御意。この星、お供しますぞ……どこまでも」
 雀の囀りを聞きながら、私はまどろみ始めていた。 

 

九 ~軍師たち~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 翌朝。
 昨日と何も変わる事なく、調練が始まった。

「張遼、どうだ? 我が軍の者どもは?」
「せやなぁ。関羽もやけど、趙雲もどないしたん? 昨日よりもえらい動きが軽いで?」

 星には無茶をするな、と言っておいたのだが。
 身体はまだ辛かろうに、それを感じさせない程、精力的に動き回っているようだ。

「おお、やっておるな」

 杖を突きながら、丁原が姿を見せた。

「丁原殿。お加減は宜しいのですか?」
「ああ。あれ如きで寝込む程、ヤワな鍛え方はしておらんよ」

 そうは言うものの、やはり顔色は優れぬように見受けられる。

「あまりご無理をなさらぬよう。董卓殿や呂布殿が悲しみますぞ?」
「ふふふ、ワシも老いたものよ。皆に心配ばかりかけておるわ」

 自嘲気味に言い放つと、

「ご忠告、痛み入る。せいぜい、気をつけるとしようかの」
「……は。ところで、丁原殿」
「何かな?」
「一つ、伺いたいのですが」
「うむ」
「董卓殿とは、どのような関係でござるか? 董卓殿はおじ様、と呼んでいたようですが」
「月から、聞いておらぬのか?」
「はい。何分、董卓殿とゆっくり話が出来たのも昨日が初めてでした」
「そうか。……土方殿、月が并州刺史、というのはご存じかな?」
「はい」
「実はの。并州刺史はつい最近交代になったのじゃ、ワシにな。月は中郎将に任じられた。まだ、都からの沙汰が来たばかりじゃがのう」
「それで、でござるか。お二人ともに并州刺史、と耳にしておりました故」
「もともと、幼き頃より月の父とワシは交流があってな。血のつながりはないが、ああしてワシの事をおじ、と慕ってくれておるのじゃ」
「なるほど、合点が参りました。では、呂布殿は?」
「奴は西方の出じゃが、あの通り心優しき性格をしておる。本来、戦には向かぬ性分……しかし、武以外に糧を得る術を知らんのじゃ」
「…………」
「それで、武を極める事を思い立ったようじゃ。もともと、天賦の才があったのであろう。文字通り、武の達人になった。そんな次第でな」
「槍術、弓術にも通じているとか」
「本当に貴殿は、よくご存じじゃのう。無論、剣を取らせても超一流。そして、体術にも通じておる。恋が得手とせぬのは、氣ぐらいではないかな?」
「まさに、無双ですな」
「うむ。……だからこそ、ワシは恋の行く末が心配でならぬのじゃ。実の娘でこそないが、ワシは娘同然に思っているからの」
「……無双が故、他者に利用される。ですな?」
「然様。あれはあまりにも純粋じゃ。この乱世で、己の才覚のみで生き抜く事は出来まい」
「…………」
「そして、その力を恐れるあまり、生かしておけぬ、と企む輩も出よう。そうなれば、恋は望むと望まざると、戦うのみ。その末路は……いずれにせよ、救われぬものとなるじゃろう」

 丁原は、大きくため息をつく。

「ワシはもう長くない。後事は月に託すつもりじゃ」
「しかし、丁原殿。董卓殿は権力に固執せぬ、との事でござった。とは申せ、呂布殿ほどの猛者を手元に置いては諸侯の警戒心を呼び起こすには十分かと」
「……やはり貴殿、並の男ではないな。ワシは、それも懸念しておる。……あのような、清らかな心を持つ娘達が、このような魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世に生きなければならぬ、とは何とも不条理な限りじゃ」
「然様ですな。世の乱れようから見て、朝廷の有様も大凡(おおよそ)、推察がつき申す」
「のう、土方殿」
「……は」
「貴殿、このまま義勇軍にて終わるつもりかな?」
「……さて。先の事はわかりませぬ。今の拙者は、あまりにも微力でござれば」
「今は、な。だが、既に貴殿の功は、並々ならぬものじゃ。田舎の県令や県長程度であれば、確実に任じられる程度には、な」
「拙者には、それが妥当かどうかすらもわかりませぬ」
「考えてみればわかる事じゃ。やれ将軍だ、刺史だ、という者どもが挙って賊討伐に動いておるのじゃ。なのに、何故にここまで手間取る?」
「……思いの外、賊の数が多いからでは?」
「そうじゃ。それに、官軍の弱体ぶりもある。貴殿も見たであろう、朱儁将軍麾下の有様を」
「はっ。……正直、想像以上でした」
「あれが、今の官軍そのものよ。己の利と権力のみに汲々とし、民の暮らしや国の行く末など、顧みる事のない輩ばかりじゃ」

 よほど、腹に据えかねているのか。
 丁原の憤りは、相当なものだ。

「世はますます、麻の如く乱れよう。黄巾党どもを全て討ち果たした、としてもじゃ」
「丁原殿……」
「だが、苦しむのはいつも民じゃ。その負の連鎖は、誰かが断ち切らねばなるまい。例えば、貴殿などがな」
「拙者に、朝廷を打倒せよ。……そう仰せられるか?」
「そうではない。無論、それも一つの道ではあるが……それは力で奪い取った権力に過ぎぬ。それがどうなるか、歴史が示していよう」
「難しき命題にござるな」
「うむ。じゃが、ワシは貴殿ならばあるいは、と思っておるのじゃ。……万が一あらば、月と恋の事も、頼みたい」
「……拙者を、何故そこまで買って下さる?」
「さて、の。年を取ると、いろいろと見えてくるものがある。貴殿の事も、その一つじゃて……ゴホッ、ゴホッ!」

 また、丁原は激しく咳き込み始めた。

「む、これはいかぬ。丁原殿、お休み下され」
「ゴホッ、ゴホッ。……いつもの発作じゃ、気になさるな」
「しかし……」
「じきに収まる」

 やはり、無理にでも休ませた方が良い。

「さ、我が天幕をお使い下され」
「……済まぬな。造作をかける」



 夜になった。
 丁原は体調が思わしくなく、そのまま臥せっている。
 それ以外の全員が、董卓の天幕へと集まった。

「今後の方針についてだけど。ボクと郭嘉、程立で話し合った結果よ」

 そう言って、賈駆は卓上に竹簡を広げる。
 この付近の地図のようだ。
 ふむ、なかなかに精密なもののようだな。

「月が率いる官軍二万に、丁原軍が七千。そして、土方軍だけど……」

 こちらを見た賈駆に、愛紗と星が、頷き返した。

「はい。予定ではもう一日、調練に費やす予定でしたが。思いの外捗り、今日で一通りの選抜が終わりました」
「もともとの兵と併せ、都合六千。無論、さらなる調練は必要ですが、戦力として目処は立った、そう言えますぞ」
「併せて三万三千ですねー。糧秣を考えると、妥当な数だと思います」
「それに、将の頭数も十分です。一気に戦略上の要衝を狙うべき、そう思います」

 稟も風も、言葉に自信が滲み出ている。
 賈駆とのやりとり、しっかりと生きたようだな。

「それで、どこを狙う?」
「ええ、候補はいくつかあるわ。一つがここ、冀州の広宗。敵総大将の張角が立てこもっているって噂よ」
「現在は、盧植将軍が包囲を目指しているとか。従って、広宗を狙うのなら、共同作戦となるでしょう」
「他には?」
「ちょっと遠くなってしまいますけど、豫州にいる波才軍でしょうねー。黄巾党の中でも、最大の戦闘力を持っているみたいです」
「そちらは皇甫嵩将軍と……曹操殿が、対峙しておられるとか」

 曹操の名を口にするとき、やや躊躇いがあったな。
 無理もない。
 私という存在がなければ、稟は曹操の麾下として智を振るっていたに相違ないのだからな。

「それから、南陽の張曼成。もっと遠くなるわね。ここは、孫堅が中心となって攻め立てている筈よ」

 曹操に孫堅、皇甫嵩、朱儁……そして、ここにいる董卓。
 名のある諸侯や将軍は、ほぼ出揃ったか。
 ……いや、まだいるな。

「冀州と言えば、袁紹が拠点にしているのではないか?」
「ああ、あのバカの事?」

 賈駆は、明らかに蔑むような口調だ。

「詠ちゃん。ここにいないからって、失礼だよ?」
「だって、仕方ないじゃない。名門の出、ってのを鼻にかけるばかりで、何も出来ない奴だもの」
「そうなのか、風?」
「はいー、賈駆さんの言う通りですね。袁家と言えば、四代に渡って三公を輩出した程の名家なのですが」
「……同じく袁一族の袁術共々、お世辞にも優秀、とは言い難いですね」
「郭嘉。はっきり言った方がいいわよ、どっちも超のつくバカだって」

 もともとキツい性格なのやも知れぬが、賈駆の評価はかなり手厳しい。

「それにね、袁紹は冀州じゃなく、洛陽にいるわよ。袁術もね」
「む? ならば何故、黄巾党との戦いに出てこないのだ?」
「言ったでしょ、バカだって。バカのくせに、権勢欲だけは強いのよ、あいつらは」

 やれやれ、相当な言われようだが。
 しかし、賈駆の性格は別として、彼女程の軍師が、言われもなく他者を誹謗中傷するとも思えぬ。
 稟と風の分析も合わせると、愚物という評価は、正しいのだろう。

「それで、どこと戦うのだ? 我が武、見せてやるぞ!」
「落ち着くのだ、華雄」
「張飛の言う通りや。ええか、ウチらは合同で初めてさっき言った連中と戦えるんやで?」
「……お前、そのまま戦えば、死ぬ」
「ぐっ。……わかっている、だから鍛え直しているところだ、自分自身をな」

 そんなやりとりを聞きながら、私は地図に見入っていた。

「ご主人様? 何か、気がかりでも?」
「……うむ。ここにいる黄巾党だが」

 と、地図の一点を示した。

「そこは、白波賊が本拠としていますねー」
「白波賊?」
「ええ。黄巾党の一派なのですが、他の黄巾党とはあまり連携していないようです。規模も、二万程度とか」
「だから、要衝を狙う、という戦略からすれば外れているのよ」
「しかし、二万と言えども大軍。万が一、我が軍の背後を突かれたら危ういのではないか?」
「では、歳三様は、白波賊が他の黄巾党と連携する可能性がある、と?」
「そうだ。今までになかったから、と可能性を排除するのは危険であろう。要衝を落とすのはもちろん重要だが、戦力がまとまれば多様な戦術が展開可能となろう。それよりは、各個撃破を目指すべき、私はそう考えるが」
「考え過ぎって気もするけど……」

 賈駆は、やや不服そうに言う。
 軍師として、様々な検討を重ねた結果に横やりを入れられたのだから、当然の反応ではあるのだが。

「ですが、お兄さんの言う事にも一理あると思うのですよ」
「ええ、可能性は排除すべきではない……。歳三様の、仰る通りかと」
「では、それも含めてもう暫く検討する、という事にしましょう。丁原おじ様にも、そう伝えておきます」

 董卓がそう締めくくり、軍議は終わった。

「あ、土方はん。ちょっとええか?」

 と、張遼が声をかけてきた。

「どうした?」
「アンタに、ちょっと聞きたい事があるんや。一緒に来てくれへんか?」
「構わんが。すぐにか?」
「手間は取らせへんって。な?」
「わかった。では、参ろう」

 ふと、視線を感じた。
 ……稟か。

「稟。どうかしたのか?」
「……あ、い、いえっ! 何でもありません」

 妙に慌てているようだが。

「話があるのなら後で聞こう。済まんな」
「い、いえ……」
「土方はん。行くで?」

 張遼が、私の腕を引っ張る。
 その弾みで……胸に、腕が当たってしまう。

「む。こ、これは……済まん」
「ん? ああ、気にせんかてええって。ウチ……」
「最後が聞き取れなかったが、何だ?」
「何でもあらへんって。さ、こっちや」

 あれだけ明瞭に話す張遼にしては、珍しい事だが。
 稟の様子も気になるが、今は張遼の用件が先だな。



 数刻ほど話し込んで、私は自分の天幕へと戻った。
 しかし、馬具の話とはな。
 私のいた世界では、蹄鉄に鐙、鞍、そして手綱は当たり前だった。
 だが、この世界にはそのいずれも、存在しない。
 裸馬をあれだけ自在に操る馬術は大したものだが、同時に馬を乗りこなせる人間の絶対数が少ないのも、また頷ける話だ。
 馬そのものが稀少で高価、という事を差し引いても、これでは騎馬隊の編成にはかなりの労力が必要となろう。
 ある程度、思い描ける物を作らせてみるか……。

「歳三様」

 呼びかけに、思考を中断する。

「稟か。入れ」
「はい」

 何やら、思い詰めた様子だが。

「さっき、私に話があったようだな。その事か」
「……はい」

 稟は、顔を上げた。

「歳三様。歳三様は、愛紗と……。星にも、寵愛を賜りましたか?」
「その事か。……そうだ、星も抱いた」
「やはり、そうでしたか。今日の星は、いつになく活き活きとしていましたから」
「だが、私は無理強いはしておらぬぞ?」
「当然です。歳三様がそのような御方でない事ぐらい、皆わかっております」
「もし、それが気に入らぬのならそう申せ。だがな稟、愛紗も星も、私は等しく愛するつもりだ」
「……卑怯です、歳三様は」
「そうかな?」
「そうです。そのように仰せられては、私は何も申し上げられません」

 そう言って、頬を赤らめる稟。
 誤魔化すつもりなのか、しきりに眼鏡を持ち上げている。

「愛紗は、脆さが消え、自覚が芽生えてきました。星も、一騎駆けに拘る武人としてでなく、将として動こうという様子が窺えました。……どちらも、歳三様の寵愛がきっかけなのは、疑いようがありません」
「私は、その一助に過ぎぬよ。もともと、あの二人は優秀な将の素質がある」
「それはわかります。……ならば、わ、私も……」

 稟は、更に真っ赤になる。

「私は、ご承知の通り、思考が先行してしまう事が多々あります。……その、艶事の話にしても」
「止めておけ。また、鼻血が止まらなくなるぞ?」
「い、いえ! 艶本は確かに読んでいますが……。それも、想像の域を出ていません」
「ふむ」
「……その克服もあります。ですが、私は、私の至らなさを打破したいのです」
「稟が至らぬ?……戯れは止せ」
「戯れではありません。先ほどの軍議もそうです」
「稟達の提言は的確であった、そう思うが?」
「ですが、白波賊の事は全く抜けておりました。……歳三様が仰せの通り、可能性は排除すべきではない。軍略を練る上での基本中の基本を、私は見落としていました。軍師として、恥ずべき事です」
「気に病む事はないぞ、稟。私とて、お前達の提言があればこそ、その可能性に至ったまでだ」
「……お優しいのですね、歳三様は」
「フッ、私がか? これでも、鬼呼ばわりされていたのだぞ?」

 稟は、激しく頭を振る。

「いいえ! それは、本当の歳三様をご存じない輩だからでしょう。……私は、歳三様にお仕えした事が誤りでなかったと、日々思っております」
「曹操に仕えた方が良かった、そう思うやも知れぬぞ?」
「いえ。曹操殿がどのような御仁であろうとも、歳三様以外に私の主は、あり得ません」
「稟」
「……お慕い申し上げております、歳三様。願わくば、私が殻を破る一助に、なって下さいませ」

 稟の眼に、迷いはないようだ。

「言っている意味は、勿論わかっているのだろうな?」
「はい」
「……わかった。ならば、参れ」
「……はい」

 稟の手を取り、寝台へと導いた。
 ……が、布団が何故か、丸まっている。
 そして、何かが蠢いている。

「……何者だ?」

 まさか、刺客か……?
 だが、現れたのは、殺気とは縁遠い存在。

「やれやれ。やっと気づいていただけましたねー」
「ふ、風?」
「稟ちゃんの愛の告白、全て聞かせていただいたのですよ」

 しかし、全く気配を感じさせぬとは。
 私が衰えた、とは……思いたくないな。

「い、一体何ですか、風? 邪魔をするつもりですか?」
「いえいえー、稟ちゃんは本懐を遂げられるのですから。それよりもお兄さん、風は言いましたよね? しつこい、と」
「……覚えておるが」
「なら、愛紗ちゃんと星ちゃんだけでなく、稟ちゃんにも寵愛を賜ろうとするのに、何故風は除け者なのですか?」
「何を言っているのです、風?」
「何度も言いますけど、風はこう見えても大人なのですよ? もし、子供扱いされているのなら不当なのです」
「風。私は、そのようなつもりはない。だが、今この場でお前がここにいる、その説明にはなっていないぞ」
「そうでしょうかー? 風も、お兄さんの事が好きなのです。それでは理由にならないのですか?」

 ジッと、私を見つめる風。
 いつも眠たげな眼が、今日はしっかりと私を射竦めている。

「……風の気持ちは、相わかった。だが、ここまで勇気を振り絞って告白した、稟はどうなる?」
「ですからー。稟ちゃんと一緒に、でいいかと」
「風! あなた、何という事を」
「稟ちゃん、風も真剣なのですよ。もう、待てないのです」

 ……同時に言い寄られた事が、昔なかった訳ではない。
 だが、江戸でも京でも、どちらかが身を引いた事ばかり。
 まさか、両者譲らず、となるとは、な。

「風。稟にも問うたが、何をするのか、よくよくわかっての上、だろうな?」
「はいー。子作りですよね」
「……有り体に言えば、そうだ。稟、良いか?」
「私は……。風は、言い出したら聞かぬ性分です。歳三様に、お任せ致します」
「そうか……。わかった、では二人とも、参れ」
「は、はい……」
「流石はお兄さんです。風は、嬉しいですよ」

 まぁ、これも良かろう。
 女心を無碍にする程、私も無粋にはなれぬからな。



 事が済み、二人は私の腕に、それぞれ抱き付いている。

「稟。どうであった?」
「……はい。やはり、実践する事には、いかなる書も敵わない、と」
「そうですねー。稟ちゃん、鼻血も出てませんしね」
「しかし、風も良く耐えましたね……。かなり、痛みが酷かった筈ですが」
「これも、愛のなせる技でしょうか。勿論、お兄さんだから、ですけどねー」
「……そうか」
「では、このまま寝ますね。お兄さんも、稟ちゃんも、お休みですよ」

 そう言って、風は眼を閉じる。

 ……程なく、安らかな寝息が聞こえてきた。
「ふふっ、無垢な寝顔ですね」
「そうだな。稟の寝顔も、見せて貰えるのだろうな?」
「……歳三様。それは、野暮というものです」
「フッ、野暮か。確かに、風流ではないな」

 返事は、ない。
 稟も、眠りに落ちたようだ。
 ……さて。
 この事、愛紗と星にも、包み隠さず話さねばなるまいな。 

 

十 ~激突~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂 

 
 翌朝。
 華雄は早々とやって来て、歩兵の調練を始めている。
 熱の入りように、兵らも顔を引き締め従っているようだ。
 それを横目に、稟らを天幕へと呼んだ。

「鈴々。済まぬが、先に行って始めてくれぬか?」
「にゃ? 愛紗や星はどうするのだ?」
「後から行かせる。少し、話があるのだ」
「わかったのだ」

 素直に頷くと、鈴々は飛び出していった。
 ……流石に、鈴々の前では話せる事ではあるまい。

「さて、主。一体何事ですかな?」
「うむ。薄々感づいているやも知れぬが。ここにいる皆が、私と繋がりを持つ事と相成った」
「……ご主人様。ま、まさか……」

 みるみる、愛紗が真っ赤になる。

「そのまさか、ですよ。愛紗ちゃん」
「……昨夜、歳三様に想いを打ち明けました。そして、受け入れていただいたのです」

 風と稟も、顔を赤らめる。

「愛紗。私を、気の多い男……と思うか?」
「……正直、複雑な思いはあります。ですが、ご主人様から、そ、その……」
「抱いた、という訳ではありますまい? あの夜、私に(ささや)いて下された事が真ならば……ですが」

 そう言って、息を吐く星。

「虚言を弄するつもりはない。お前達皆が大切だ、今もそう思っている」
「しかし、何故それを我らに仰るのです? ご主人様が一時の気まぐれでない、そう断言されるのであれば」
「これは、私なりのけじめ、と思って貰いたいのだ。ただ、女子(おなご)にだらしのない輩と思われては不本意なのでな」

 私の言葉に、皆がはっきりと、頷いてくれた。

「歳三様。鈴々は、どうなされるおつもりなのですか?」
「稟。それは、お前達と同じように、という意味か?」
「そうです。……あの娘は、まだ子供。本人は否定するでしょうが、睦事には早い、と」
「もっとも、お兄さんが望むのなら、止めようがありませんけどねー」
「うむ。私も、それは避けるべき、と思う。鈴々が今暫く成長した後、奴自らが私を想ってくれるのであれば、その時に考えるべきであろう」
「……そうですね。私は、ご主人様の意見に賛成です」
「競争相手をこれ以上増やしたくないか、愛紗?」
「せ、星! 私はただ、鈴々の事を心配してだな」
「星、愛紗をからかうのは止せ。鈴々は、愛紗にとっては妹のようなもの、そうだな?」
「……はい。身体もですが、精神的にもまだまだ幼いところがあります。そのような様で、睦事は正直どうかと」
「心配せずとも良い。私も、そこまで分別なく、というつもりはない。……皆、良いな?」
「御意!」
「はっ!」
「承知しました」
「御意ですよー」

 これで良い。
 一人一人気遣えぬようで、人の上に立つ資格などあろう筈がないからな。
 愛紗と稟はともかく、星と風には一応、釘を刺しておいた方がよかろう……さもなくば、鈴々に要らぬ事を吹き込む可能性がある。
 取り越し苦労で済めば、それでも構わぬし、な。



「では、全軍。出立!」
「応っ!」

 董卓・丁原連合軍に、我が義勇軍、併せて三万五千。
 兵としての選抜には漏れたが、どうしても同行を望む者が増えたため、彼らには輜重隊を任せる事とした。
 古来より、補給は兎角軽視されがち。
 だがその結果、勝てる戦を落とした将は数知れぬ。
 我が軍もこれだけの人数ともなれば、戦闘部隊とは切り離した一隊が必要であろう。
 これは、稟と風にも諮ったが、全くの一致を見た。
 今のところは董卓軍の輜重隊が運んでくれているが、いつまでも彼らと同行できる訳ではない。
 それよりも、今のうちから独自に動ける体制を整えておいた方が良い。
 ……それに降伏したとは言え、一時は賊に身を落とした者共だ。
 放免したはいいが、再び賊に戻る可能性もあり得る。
 それならば同行させておいた方が、人々に要らぬ迷惑をかける恐れがない。

「それにしても、ご主人様の懐の深さには驚かされますね」

 と、愛紗。

「そう思うか?」
「はい。……私など、あの廖化でさえ信じるに足りるのか、それすらも半信半疑でしたから」
「だが、黄巾党と言えども、根からの悪人など一握りであろう。使える者は使う、と割り切れば良いのだ」
「それにしても、お兄さんは常に合理的な判断をされますよねー」
「風もそう思うか? 時々、歳三様には軍師など不要なのでは、と思ってしまう事もあります」
「いや、私とて完璧ではない。武では三人には敵わぬし、智は二人に劣る。なればこそ、皆を頼りにしているのだ」
「にゃはは♪ 難しい事はぜーんぶ、お兄ちゃんにお任せなのだ。その分、お兄ちゃんは鈴々が守るのだ」
「その通りだ。ご主人様には指一本触れさせん」
「ああ。主の前に立ち塞がる者は、皆この槍で打ち払ってみせようぞ」
「うむ、頼むぞ。稟と風も、私に遠慮は無用だ。誤りと思えば直ちに申せ」
「御意!」
「了解ですよー」

 皆、頼もしき事だ。
 私も、道を誤らぬようにせねば……な。



 進軍する事、五日。
 そろそろ、敵と邂逅する頃、と見ていると、

「前方、二十里に敵影を確認!」

 斥候から知らせが入った。

「……ふむ。紛れもなく、黄巾党のようだな」

 双眼鏡で見れば、視界さえ良好ならば一目瞭然。
 いかに遠目が利く者が多いとは申せ、流石にこれには勝てぬだろう。

「よし、全軍停止。董卓軍と丁原軍はどうだ?」
「ハッ! 我が軍の動きを見て、進軍を停止した模様です」
「ならば良い。この事を、両軍に伝えよ」
「ははっ!」

 伝令が、陣を飛び出していく。

「お兄ちゃん! それを貸して欲しいのだ」

 と、鈴々が双眼鏡を指さした。

「構わぬが。どうするのだ?」
「あの木に登って、敵の旗とか、数を見るのだ」

 一本だけ、他よりも背の高い木が、生えている。
 確かに、これならば敵情を見渡すには格好だが。

「だが、かなりの高さだぞ。気をつけよ」
「任せるのだ♪」

 双眼鏡を渡すと、鈴々は首に提げ、するすると木の幹を登っていく。

「無理するんじゃないぞ、鈴々」
「ふっ、心配か? 愛紗」
「当たり前だろう、星? 万が一、手が滑ったらどうするのだ」
「やれやれ。少しは鈴々を信用してやってはどうだ?」
「フン、私の勝手だ」

 とは言え、器用なものだ。
 あっという間に、頂点近くに達してしまったようだ。

「見えたのだ! 黄巾党の旗以外に、『楊』と『韓』の牙門旗があるのだ!」

 鈴々の声が、頭上から響いてきた。

「楊奉と韓暹でしょう。間違いなく、白波賊ですね」
「後は数ですねー」
「どうだ、鈴々? 数はわかるか?」

 愛紗が大声で問いかけると、

「とにかく、一杯なのだ!」
「一杯ではわからんぞ!」
「うー、でもたくさんなのだ。鈴々達と、同じぐらいに見えるのだ」

 その言葉に、皆の顔が強張る。

「間違いないのだな、鈴々?」
「きっと、そうなのだ!」
「わかった。鈴々、下りて参れ」
「了解なのだ!」



 集めた情報を持ち、董卓の許へ向かった。

「斥候の報告でも、白波賊の数は凡そ三万との事です」

 董卓の言葉で、軍議が始まる。

「張飛の見た数とほぼ一致、ちゅう事やな」
「うむ。二万と踏んでいた賊軍が三万とは。いかに私の武を以てしても、この差は厳しいな」
「……親父。どうする?」
「ううむ……」

 もともとが、数の優位を活かした作戦を立てていたのだが、その前提が崩れてしまった。

「黄巾党は、日々膨れ上がっている、とは聞いていたけど……。まさか、この短期間に一万も増えるなんて」

 賈駆が、頭を抱える。

「数はこれで互角、という事になりますが」
「問題は、兵の練度ですねー。相手が賊軍という事を割り引いても、こちらの被害も少なくはないかと」

 まさに、問題はそこであった。
 兵というものは、数を集めればそれで済むというものではない。
 ましてや、短期間とは言え、名だたる将達が鍛えた兵だ。
 仮に勝てたとしても、こちらの被害が大きくて何の意味もない。
 勿論、董卓軍や丁原軍の被害も、少なければ少ないほどいい。

「……土方さん。お願いがあります」
「何でござるかな、董卓殿?」
「はい」

 董卓は、真剣な眼差しで、私を見ている。

「これから黄巾党との戦いが終わるまで、全軍の指揮を、執っていただけないでしょうか?」
「何故、そのように言われる? 私は無位無官、出自すら怪しきものですぞ?」
「いえ。今は、そのような事に拘っている場合ではありません。それに、指揮系統が散らばっていては、戦場で不利にはなっても、決して有利には働きません」
「これはな、ワシと月で相談した結果なのじゃよ、土方殿」

 顔色の優れぬままの丁原が、後を紡ぐ。

「貴殿の指揮官としての才は、申し分がなかろう。それに、決断が的確で、迅速じゃ」
「ですが、実戦経験は丁原殿も、董卓殿も豊富ではありませぬか?」
「ワシはこの通り、明日をも知れぬ身体。到底、総大将の重責には耐えられぬよ」

 自嘲気味に、丁原は笑う。

「私も、ずっと土方さん達を見て来ました。そして、考えた末の結論です」
「……どうやら、戯れではないようにござるな」
「冗談でこんな事は言いません。それに、これは他の皆さんの総意でもあります」

 そう言って、董卓は、麾下の諸将を見渡した。

「ボクは、月以外には智を使わない。……けど、月の頼みだから。し、仕方なくよ!」
「私も、この武は月を守るため。だが、貴様が月の味方である限り、力添えしよう」
「二人とも、素直やないなぁ。ウチ、いっぺんアンタの指揮で戦ってみたんや。月があかん訳やないけど、是非ともアンタの真髄、見せて欲しいねん」

 三者三様だが、それでも皆、月の意向に従うつもりのようだ。

「恋も、良いな? お前の強さ、土方殿なら遺憾なく、発揮させてくれよう」
「……ん。恋も、それでいい」

 呂布も、頷いて見せた。

「……わかり申した。ただ、一つだけ懸念がござる」
「何でしょうか?」
「将の皆様はこれで良いとして。兵は、私の命では従わぬ者も出てくるでしょう」
「それは、周知します」
「いえ、それでも人間というもの、明確な上下関係がなければ動かぬ者もおりますれば」
「では、何かお考えがあるのでしょうか?」

 私は、ゆっくりと頷く。

「董卓殿が、総大将で宜しいかと存ずる」
「ですが、それでは」

 董卓が反論しかけたのを、私は手で制した。

「続きがござる。総大将は董卓殿ですが、拙者は参謀長という事で如何でござるかな?」
「参謀長?」

 耳慣れぬ言葉なのか、董卓と丁原が、首を捻った。

「然様。拙者の国の軍制にござるが、戦場での最高責任者は司令官。実質的な作戦立案と、部隊の運用全般に当たるのが参謀長と申す。最終的な決断は無論司令官の任にござるが、実質的な総大将が参謀長、という事例は枚挙に暇がありませぬ」
「……つまり、土方さんが私の側に。その提案を私が承認する。そういう事ですか?」
「はい。それなれば、命に従わぬ者は、明確な規律違反。少なくとも、表だっての不服従は不可能でござろう」
「一つ、いいかしら?」

 と、賈駆が手を挙げた。

「どうぞ」
「それだと、ボク達はどういう立場になるの? アンタが全部動かす、というのなら、軍師は必要なくなるわ」
「いや、それは違い申す。賈駆殿と、稟、風には、参謀の任についていただく。無論、拙者の命には従っていただく事になりますな」
「参謀ね……。それは、今まで通り、というように理解していいのね?」
「結構でござる」
「わかったわ。それで、アンタは引き受けるのね?」
「董卓殿と丁原殿が、それで異存なし、と仰せならば」
「私は構いません」
「ワシも、それで良い」

 決まりだな。
 ……しかし、自ら提案しておいて何だが、責任は重大。
 責任を負うのは総大将とは申せ、私が誤れば最悪、全軍に被害が及ぼう。



 私は何度か斥候を放ち、詳細を調べさせた。
 慎重を期すに越した事はない。
 時には大胆さも必要だが、皆の信頼を得る事が肝要。
 この戦い、必ず勝利を得る必要があるだろう。

「敵は陣を敷いているようだな、賈駆?」

 臨時の措置とは言え、今は賈駆も我が命に従う立場となる。
 賈駆らから、そうである以上敬称は要らぬ、と申し出があった。
 固辞する理由もなく、指揮系統もその方が明確で良い故、黙って受ける事とした。

「ええ。ただ広がっている訳じゃないわ、きちんとした鶴翼の陣よ」
「……ふむ。どう見る、稟?」
「はい。見よう見まねであれば、我が軍の陣形に応じた動きが出来ない筈です」
「よし。ではまず、魚鱗の陣にて敵前に布陣。その後、鋒矢の陣へと変える」
「お兄さん。それでは、包囲されて各個撃破されてしまいますが?」
「だが、突破力は随一だ。張遼、星、二人が矢の先頭に立て」
「よっしゃ! 任せとき!」
「御意!」
「むー、お兄ちゃん。どうして、鈴々じゃないのだ?」

 頬を膨らませる鈴々。

「良いか。鋒矢の陣は、正面突破に適した陣形だ。その分、先頭を行く将は常に冷静に状況を判断し、かつ危険な役目となるのだ。その点、張遼と星が適任であろう。それが、私の判断だ」
「愛紗は左翼に、稟が補佐せよ」
「はっ!」
「御意です」
「鈴々は右翼。風がつけ」
「わかったのだ!」
「了解ですー」
「華雄は中央だ。先鋒が押されるようであれば、前に出て押し返せ。頃合は、賈駆が判断せよ」
「うむ、わかった」
「わかったわよ」
「……恋は、どうする?」
「呂布には、別に動いて貰う。それまで、本陣で待機だ、いいな?」
「……わかった」



 そして、両軍の間隔がじわじわと迫る。

「ふむ。鋒矢の陣を見て、中央を重厚にするか」

 そう、鋒矢の陣は突破力こそあるが、その分、中央を備えられると、動きが止まってしまう。
 その間に、包囲されれば各個撃破される上、後方の兵が遊兵と化す。

「どうやら、敵には軍師がいると見て良いな」
「……どうする?」

 呂布は、相変わらず無表情だ。

「このまま、敵に悟られぬよう待機だ。合戦が始まったら、合図する」
「……わかった」
「土方様! 張遼将軍と趙雲殿が、敵陣に突入を始めました!」

 伝令が、息を切らせて駆け込んできた。

「そうか。敵の動きは、逐次知らせよ」
「ははっ!」

 張遼は異名に違わず、見事な突破力を見せているようだ。
 それに、星もいるのだ、容易には崩れまい。

「敵、包囲を始めました!」
「……よし。呂布、お前は敵の右翼に襲いかかれ。とにかく、存分に暴れればそれでいい」
「……それだけ?」
「そうだ。ただし、あまり深追いはするな。適度に引き上げるのだ」
「……ん。行く」

 呂布なら、大丈夫だろう。

「前衛はどうか?」
「はっ! 張遼将軍、趙雲殿、共に敵の包囲を弾き返しており、奮戦中!」

 となると……そうだな。

「賈駆と華雄に伝えよ。一部を前衛の支援に残し、左翼の撹乱に当たれと。賈駆にはそれで十分の筈だ」
「ははっ!」

 これで、打つ手は全て打った。

「董卓殿。拙者、前衛の様子を見て参りまする」
「え? ですが、土方さんはここで指揮を執っている方が」
「拙者が出す指示は、これで全てでござる。それに、参謀長が前線に立ってはならぬ、そんな決まりはありませぬ。ご案じめさるな」
「……わかりました。土方さんの判断にお任せします。ただ、無茶はなさらないで下さいね」

 心から気遣ってくれているのだろう。
 ……本当に、これがあの董卓だとは思えぬな。



「怯むな! 敵は数は多くとも烏合の衆!」
「せや! ウチらさえ崩れへんかったら、この戦、勝ちやで!」

 星と張遼、それぞれに声を張り上げて勇戦の最中。
 張遼の麾下は流石に猛者揃い、機動力を活かして敵を蹂躙している。
 ……星の方は、やはり義勇兵と元賊が主体だけあり、やや及び腰か。

「だ、ダメだ! 囲まれちまう!」
「ええい、怯むなと言ったであろう!」

 敵を槍で貫きながら、星が兵を叱咤する。

「い、命あっての物種だ! に、逃げろ!」

 ……だが、数名の兵が、敵に怯えて逃亡を始めてしまった。

「待て」

 すかさず、私はその前に立ち塞がる。

「どこへ行く? まだ、戦闘は終わっておらぬぞ」
「ど、どけ!」
「どけぬな。貴様らのような者がいては、全軍の士気に関わる。今すぐ持ち場に戻れ」
「い、いやだ! こんなところで死にたくねぇ」
「……そうか」

 先頭にいた男に、私はずかずかと近寄る。

「な、何をするんだ!」
「士道不覚悟。よって、この手で始末してやる」

 兼定を抜き、構える。

「ひ、ひいっ! く、くそったれっ!」

 半ば自棄気味にかかってくる男。
 ……相手の実力も見えぬ、か。
 ただ振り回すだけの太刀筋など、全く恐るるに足らず。
 そのまま、袈裟斬りにした。

「な、な……ん……」

 男は倒れ伏し、草が朱に染まっていく。

「さて、お前達はどうするのだ? この男と同じ道を歩むのなら同じ場所へ送って遣わす」

 兼定を突きつける。

「……こ、こうなりゃ、やってやる! なぁ?」
「お、応っ!」

 後ずさりした男達は、一目散に敵陣へと向かっていった。

「主! 忝い!」
「気にするな。……む、敵の動きが変わったようだな」

 両翼の乱れが、中央にも波及したようだな。
 明らかに、敵は浮き足立っている。

「今だ! 張遼、星!」
「よっしゃ!」
「行くぞ、皆の者!」

 突撃していく二人を見送りながら、兼定に血振りをくれた。

「誰か」
「はっ」

 控えていた、伝令の兵が近寄ってくる。

「愛紗と鈴々にも伝えよ。もはや勝敗は決した。一気に敵を叩け、とな」
「ははっ!」

 喧噪が、徐々に遠ざかっていく。
 ……相手も善戦したが、所詮は賊軍。
 いや、我が軍が優れている、と言うべきか。



 馬蹄の音が、近づいてきた。
 呂布が一騎で、こちらに向かってくる。
 ……脇に何か、抱えているようだが。

「どうした?」
「……捕まえた。敵の、軍師」
「ほう」

 見れば、まだ子供のようだが。

「死んでいるのか?」
「……(フルフル)」
「そうか」

 皆が戻ってから、問い質してみるとするか。 

 

十一 ~英傑、逝く~

「ん……んん?」
「目が覚めたか」
「……はっ? お、お前は誰なのです?」

 呂布が連れてきた、白波賊の軍師。
 背は鈴々よりも更に小さく、変わった形の帽子を被っている。

「私は、土方歳三。先ほどまで、お前達と戦をしていた」
「戦……? で、では楊奉殿は?」
「どこかへ落ち延びていった。白波賊は、壊滅したぞ」
「うう……。ねねの力が、及びませんでしたか……」

 ガックリと項垂れる。

「呂布。この者は、どうやって連れてきた?」
「……敵の中心で、指揮を執っていた。だから、眠らせた」
「そうか。良くやったぞ」
「……ん」

 かすかに、頬を染める呂布。
 どうやら、褒められて喜んでいるらしい。

「申し訳ござらん、主。懸命に追ったのですが」
「趙雲だけのせいやない。ウチかて、みすみす敵将を逃すやなんて、ホンマ悔しいわ」
「星も張遼も気に病むな。戦は勝ったのだ……最小限の、犠牲でな」

 激しい戦ではあったが、幸い、戦死者は全軍合わせて、千余名で済んだ。
 ……勿論、犠牲など出したくはなかったが、こればかりはやむを得ぬ事だ。

「さて、名を聞かせて貰おうか」
「……ねねは、姓を陳、名を宮。字を公台と言うのです」

 また一人、この時代の英傑が登場したようだ。
 どうやら、曹操に仕える前に、出会う事になったようだが。

「では、陳宮。何故、賊などの軍師をしていた?」
「……仕方なかったのです。ねねは旅をしていたのですが、お金がなくなって、行き倒れになったのです」
「ふむ。それで?」
「楊奉殿は、ねねを助けて、ご飯を食べさせてくれたのです。その恩に応えただけです」
「だが、その糧は何処から得たものか、それを考えた事はあるのか?」
「ぐ……。で、ですが、元はと言えば、民を苦しめ、そのような反乱を引き起こした、朝廷にこそ罪があるのですぞ!」
「そうだ。朝廷では賄賂が横行し、政治は宦官が壟断しているそうだ。だから、それに対する反乱そのものは、やむを得まい」

 陳宮は、勢いを得たか、まくし立てる。

「楊奉殿も、元はと言えば賊ではなかったのですぞ! ただの賊であれば、ねねを助けてくれる事などない筈です」
「だが、それを証明する手立てはあるのか? 所詮、自称に過ぎぬ、と言われればそれまでだ」
「お前などに何が分かるというのです! ねねは、ねねは……」

 ボロボロと、涙を流し始めた。

「ご主人様。この者を、どうなさるおつもりですか?」

 皆、同じ思いだったのか、愛紗の言葉に頷いている。

「そうだな。董卓殿、丁原殿。黄巾党の将についての処分は、何か指示が出ているのですかな?」
「いえ、特には……」
「名のある将については、討ち取るか捕らえて都に護送せよ、とはあるが。それとて、徹底しているとは言い難い有様じゃな」
「では、この者の処分については、如何なさる?」

 董卓と丁原は、顔を見合わせた。

「……厳密に言えば、都への護送が妥当でしょう」
「じゃが、今の腐敗した高官共が、適切な裁きを下せるかどうか。それに、都までの道中、安全とは言い難いの」
「……では、解き放つ、というのは如何でござる?」
「歳三様! な、何という事を!」
「お兄さん、それはちょっと大胆過ぎませんかー?」

 すかさず、稟と風が反応を返す。

「ならば、この場にて処刑しろ、というのか?」
「……動機はどうあれ、賊の一味である事は確か。主、それも一案ではござるぞ」
「でもこの子、別に悪い奴には見えないのだ」
「鈴々。善悪ではないのだ、黄巾党に賊し、民を苦しめた事は事実なのだぞ?」
「ふむ……」

 この娘が、あの陳宮であるならば。
 曲がった事を好まず、己の義を貫いた智謀の士。
 ……何とか、助けてやりたいところだな。
 と、呂布が前に出てきた。
 そして、陳宮を抱き締めた。

「な、何をするのです!」
「……ダメ」
「呂布。何が駄目というのじゃ?」
「……この子、殺す。それ、ダメ」

 暴れていた陳宮が、驚いて呂布を見上げた。

「な、何故ねねを庇うのですか?」
「……お前、悪くない。恋には、わかる」

 これでは、とても斬る事などかなわぬな。
 ……万が一、無理にでも斬ろうとすれば、こちらも無事では済むまい。

「丁原殿。呂布殿がこれでは」
「……うむ。恋は、相手の本質を見抜くからの」
「あの……。土方さん、丁原おじ様」

 董卓が、呂布のところへ歩み寄った。

「この子が、黄巾党である証拠は、何処にもありませんよね?」
「確かに、黄巾党の証である黄色い布は……つけておりませぬな」
「そのようじゃな。だが月、何が言いたい?」
「はい。ですから、この子を処刑する必要も、都へ送る必要もないと思います」

 そう言って、董卓は微笑んだ。

「ちょっと月! 本気で言ってるの?」
「本気だよ、詠ちゃん」
「経緯はともかく、コイツは賊の一味なの! それを無罪放免だなんて」
「……無罪放免、なんて、私は一言も言ってないわよ?」
「え? でも処刑も護送もしないって」

 董卓は、屈み込んで陳宮を見た。

「陳宮さん。さっき、言いましたよね? 民を苦しめる者が悪い、と」
「確かに、言いましたぞ。それが、ねねの本心なのです」
「では、賊として民を苦しめるのも、いけない事だとは思いませんか?」
「そ、それは……そうかも知れないのです」
「それでしたら、その知恵を使って、民を救いませんか。私達と」
「黄巾党を討伐する為に、ねねも協力しろ、と言うのですか?」
「いいえ、少し違います。……民を苦しめる者全てと、戦うために、です」

 あまりにも、大胆な発言だった。
 董卓は、仮にも朝廷に仕える高官の一人。
 聞く者が聞けば、それは反逆の意思あり、と捉えられよう。

「……ですが、ねねは……賊なのですぞ?」
「それは、誰が決めたのですか? 朝廷から、名指しをされた訳ではありませんよ?」
「…………」
「呂布さん。この子、呂布さんの側で働いて貰ってはどうでしょうか?」
「……ん。恋も、それでいい」

 やっと、恋は陳宮を離した。

「ねねを、許してくれるのですか?」

 上目遣いに、私を見る。

「……この軍の総大将は、董卓殿だ。私は、その判断に従うまでだ」
「そうじゃな。月、お主の好きにするが良い」
「ありがとうございます。土方さん、丁原おじ様」

 ねねは立ち上がると、服についた埃を払った。
 そして、真っ直ぐに呂布を見上げて、

「ねねは、真名を音々音と言うのです。ねね、とお呼び下され」
「……ん。恋は、呂布。恋でいい」

 フッ、私の出番はなかったか。
 ……だが、これでいい。

「丁原殿。良かったですな」
「む?……フフ、そうじゃの。ワシも、これでいつでもあの世に行けるわい」

 冗談交じりにそういう丁原の目には、光るものがあった。



 自陣に戻ると、稟が溜息混じりに報告をしてきた。

「歳三様。我が軍への同行を希望する者、一万余名に上っています」
「一万余名だと? 今の我ら全軍よりも多いではないか」
「しかし、先の戦いでは犠牲も出ている。ある程度は、補充が望ましいのではないか?」
「でも、また調練をするのか? めんどくさいのだ」
「お兄さん、どうしましょうー?」

 戦が終わっても、それで全てが片付くわけではない。
 接収した武器や糧秣の事。
 戦死した敵味方の埋葬。
 そして、降伏してきた兵の始末。
 特に、兵の扱いが一番の厄介事だろう。
 董卓軍も丁原軍も、地方軍閥とは言え、朝廷から任ぜられた正式な官職。
 従って、率いる兵も官軍、という扱いになる。
 ……当然、元賊の兵などを組み入れる事は、出来る訳がない。
 如何に朝廷が腐敗しているとは言え、それに叛いた者を許せば、今度は自身が反逆者、という汚名を着せられる事になりかねない。
 となれば、降伏した兵の行き先は……我が、義勇軍しかなくなってしまう。
 既に輜重隊を含めて、我が軍は八千近い規模になっている。
 仮に希望者全員を受け入れた場合、併せて一万八千名。
 董卓軍と、ほぼ同じ規模となってしまう。

「義勇軍と称するには、些か大軍だな」
「はい。糧秣の確保や、兵の質も問題になります」
「率いる将の問題も出てきますねー。愛紗ちゃんや星ちゃん、鈴々ちゃんだけでは手に余ります」

 風の指摘に、武の三人が黙り込む。
 そう、風の言う通り、これだけの大軍ともなると、指揮を任せるにも少々、荷が重いだろう。
 今でさえ、数千の兵をよくまとめていると思うが、更に数倍の兵を預けるとなると、負担も相当なもの。

「董卓殿、丁原殿と相談して参る。皆は、続けてくれ。警戒も怠るな?」
「御意!」

 天幕を出たところで、フッと溜息をつく。
 皆の前で、悩んだ顔など見せられぬからな。
 ……私が弱気になれば、皆が不安がる。



 再度董卓の本陣へ赴くと、何やら慌ただしい雰囲気となっていた。

「おい、如何した?」

 兵の一人を捕まえて、尋ねた。

「はっ。丁原様が、吐血なされたとか」
「丁原殿が?」
「詳しい事は、まだわかりません」
「そうか、わかった」
「では、失礼します!」

 だいぶ、加減が悪いようではあったが。
 やはり、先の戦で無理が祟ったのであろうか。
 ともあれ、見舞わねばならんな。
 丁原の天幕に入ると、董卓と呂布の姿があった。

「御免」
「あ、土方さん」
「おお……」

 寝台に寝かせられた丁原の顔は、血の気が失せている。
 そして、白かった顎髭が、見事にどす黒く染まっていた。

「吐血なされたとか。如何でござる?」
「ふふ、ワシもこれまで、という事じゃろうて」
「丁原おじ様! そのような悲しい事、仰らないで下さい」

 董卓の可憐な顔が、歪んでいた。

「……親父。死んだら、ダメ」
「恋よ。これはワシの天寿、逆らう事はかなわぬのじゃ」
「……(フルフル)」

 悲しげに、呂布は頭を振る。

「土方殿。側へ、来て下さらんか」
「……は」

 屈んで、丁原に顔を近づけた。

「ワシの、最後の頼みじゃ。聞いて下さらんか?」
「……拙者に出来る事であらば、何なりと」
「うむ。……これを、受け取って貰いたいのじゃ」

 丁原は、枕元から何かを取り、私へ差し出した。

「これは?」
「并州刺史の印綬じゃよ」
「刺史の……印綬?」
「そうじゃ。無論、正式には陛下にお伺いを立てねばならぬが、今の朝廷に、臨機応変、という事を求めるのは無理というものじゃ」
「……ですが、何故私になのですか? 并州にも、丁原殿の麾下がおりましょう」
「確かに、そうじゃ。だが、殆どは中央より派遣された、賄賂漬けで腐りきった者ども。または、近隣の富豪が、馬鹿息子のために官職を金で買った輩ばかり。とても、民を任せるには値せぬ」
「…………」
「その点、貴殿は知勇共に兼ね備え、優れた麾下をお持ちじゃ。そして何より、人を惹き付けるものがあり、民を想う心もある。この時代、誠に希有な存在よ」
「……はっ」
「勿論、朝廷には奏上するべく、既に手筈は整えてある。握りつぶされるやも知れぬが、これでお主が無断でやった事、という誹りは受けまいて」
「……丁原殿。拙者を買って下さる事、誠に光栄至極。なれど、拙者がそれをお受け致せば、并州は乱れましょう。大人しく、麾下の方々が従うとも思えませぬ」
「その事であれば、心配は無用ぞ。……ちと、荒っぽい手じゃが、急を要する事ゆえ、やむを得ぬ」
「丁原殿? 一体、何を?」
「……詳しき事は、この書に記しておいた。どうか、お頼み申す」

 そう言って、丁原は私の手を握りしめた。
 今際の際の老人の、何処にこのような力があるのか。

「……わかり申した。拙者で宜しければ」

「おおっ、有り難い……ゴホッ、ゴホッ!」
 丁原は、激しく咳き込んだ。
 抑えた手の隙間から、血が滲み出す。

「丁原おじ様!」
「……親父」
「……ああ、済まぬな。……さて、月。お前は、土方殿と共に行け。……土方殿を、父と思うが良い」
「……はい」
「そして、恋。今まで、よくワシを支えてくれた」
「……親父。まだ、死んじゃダメ」

 いつもは無表情の恋の顔が、今ははっきりと変わっている。

「……ワシは、果報者じゃ。月や恋のような、愛しい娘がいて。……土方殿のような、申し分のない(おとこ)に出会えて」

 丁原の眼が、閉じられていく。

「民を……たのむ……ぞ」

 丁原の手が、急速に力を失った。

「丁原殿!」
「おじ様っ!」
「……親父。寝ちゃダメ、起きる。親父、起きる」

 呂布が、丁原の身体を揺さぶる。
 ……勿論、丁原は何の反応も見せぬ。

「いやぁぁぁぁぁぁっ!」
 董卓の絶叫が、辺りに響き渡った……。



 一刻後。
 主立った者が、集められた。

「丁原殿が、身罷られた。まず、それを伝える」

 私の隣には、泣き腫らした董卓と、呂布が立っている。
 二人の悲しみはわからぬでもないが、今は戦場。
 死者への哀悼の意は、改めて示すしかないのだ。

「月……」
「呂布も辛いやろな……」

 皆の表情は、暗い。

「そして、丁原殿の遺言を預かっている。これを伝える」

 竹簡を開き、広げた。

「まず、并州刺史の印綬は、この土方が預かる事と相成った。無論、正式な沙汰があった訳ではない、緊急措置として、だ」
「お兄さんが、ですか」
「ですが、妥当な選択ではある、と言えますね」

 風と稟に頷いて見せてから、続けた。

「丁原殿の軍は、そのまま私が預かる事となる。呂布、そして陳宮もだ」
「……わかった」
「ねねは、恋殿と一蓮托生ですぞ。どこへでもお供するのです」
「そして、引き継ぎをするため、一度并州入りせよ、との事だ。董卓殿も、同行せよ、とある」
「……わかりました」
「でも、黄巾党征伐はどうするの? その命はまだ、生きているのよ? 無断でそれを中断するのはまずいと思うけど」

 賈駆が、当然の指摘をする。

「その事だが。今の朝廷に、我らの動きを監視できる訳がない。まずは、并州入りを優先すべし……との事だ」
「丁原おじ様には、何かお考えがあるようです。今は、その遺言に従いましょう」

 董卓の一言で、方針が決まった。

「では、并州に参りましょう」
「あ、その前に。土方さん、一つお願いがあります」

 真っ直ぐに私を見据える董卓。

「は。何でござるかな?」
「……丁原おじ様の仰る通り、今後は土方さんを、実の父と思って宜しいですか?」
「構いませぬ。拙者のような者で宜しければ」
「では、私の事は、今後そのようにお呼び下さい。真名は、月、です」

 真名を預けるか。
 ……何よりも、相手を信頼する証。

「わかった。では、私の事も名で呼ぶといい」
「はい、歳三さん」
「土方はん。月が許したんやったら、ウチも真名預けるで。霞、や」
「……なら、ボクも預けるわよ。真名は、詠よ」
「二人とも、わかった。確かにその名、預かろう」

 ……ふと、華雄が何やら俯いているが。

「どうした、華雄?」
「……済まん。私には、真名がないのだ。私の故郷では、そのような習慣がなかったのだ」
「ないのなら、気にする事はない」
「……しかし、字すらないのだぞ、私には」

 名を気にするか……わからんではない。

「では、私と月で、良き名を考えておこう」
「ほ、本当か?」

 暗かった表情を一変させ、華雄は私に迫ってきた。

「それでどうだ、月?」
「はい。いいと思います、歳三さん」

 やっと、月に笑顔が戻った。
 まだ、無理をしているのやも知れぬが、今はそれでも笑っている方が良かろう。

「では、呂布」
「……恋でいい。お前の事、何て呼ぶ?」
「私か。好きに呼ぶがいい」
「……わかった。兄ぃ」
「兄か?」
「……ん。親父は、親父。でも、お前はもっと若い……だから、兄ぃ」

 ふふ、この歳で妹、か。
 まぁ、それも一興。

「ねねの事も、真名で呼んで構いませんぞ」
「うむ。改めて、宜しく頼むぞ、二人とも」
「……(コクッ)」
「了解ですぞ!」

 丁原の死は痛ましいが、黄巾党との戦いはまだ半ば。
 それに、任された并州の事もある。
 ……皆と、より一層、力を合わせねばなるまいな。



「ふう……」

 いろいろと、片付けねばならぬ案件が山積だ。
 とりあえずの区切りをつけ、自分の天幕へと戻った。

「ご主人様」
「愛紗か?」
「はい。少し。宜しいですか?」
「ああ、入れ」 

 

十二 ~襲撃~

 愛紗は、天幕の入り口で立ち止まる。
 何故か、固い表情をしているようだが。

「どうしたのだ?」
「……いえ。ご主人様、お、お疲れではありませんか?」
「正直に申せば、多少な」
「では、肩をお揉みします。そこにお座り下さい」
「良いのか? 愛紗とて、もう休む時間であろう?」
「構いませぬ。……それに、ご主人様の……」

 語尾が聞き取れぬが……まぁ、良いだろう。

「ふむ。では頼む」
「はっ!」

 私が寝台に腰掛け、愛紗が背に回った。
 しなやかな指が、私の肩にかかる。
 ……この華奢な身体の、何処にあれだけの武が秘められているのか。

「ふふ、ご主人様。だいぶ、凝っておられますよ?」
「仕方なかろう。人間、そう便利には出来ておらぬ」

 愛紗の按摩は、なかなかに心地よい。

「もっと、首筋を頼む」
「はい」

 時折、豊かな胸が背に当たる。

「愛紗。ここに来た目的、按摩だけではあるまい?」

 と、愛紗の手が止まる。

「な、何故そのような事を?」
「お前は、隠し事が下手だ。顔に出ている」
「……ご主人様。それならそれで、仰っていただければ」
「言ってみるがいい。聞こう」
「……はい。ご主人様は、仰せられましたね。……私や星、稟、風。皆を、等しく愛していただけると」
「うむ」
「……ですが、不安なのです。ご主人様が信じられない訳ではないのですが」

 愛紗が、私に抱き付いてきた。

「何が不安だ? 私が至らぬのであれば、改める」
「いえ、そうではないのです。……気づいておられるかも知れませぬが、董卓軍の将は皆、ご主人様に好意を抱いております」
「だが、月は娘と、恋は妹と思っている」
「……その両名ではありませぬ。特に霞と、華雄です」

 あの後、将の間で真名が交換された。
 だから、こうして愛紗がそれを口にするのは、何の問題もない。

「二人は、その……。せ、扇情的な装いをしています。ご主人様が、それに……」
「愛紗」
「……はい」
「私がいつ、見た目で女子(おなご)の好き嫌いを定める、などと申した?」
「いえ……。ご主人様がそのような方とは思いませぬ」
「霞も華雄も、佳き女子である事は否定せぬ。だが、お主らを軽んじてまで、とは考える筈もなかろう?」
「ご主人様……」

 熱い吐息が、首筋にかかる。

「私は、無粋な真似は好まぬ。それだけは、忘れるな」
「わかりました。……申し訳ありません、ふふ、私の方こそ、無粋ですね」

 初めの硬さも取れたようだ。

「ならば、粋というものを教えてやる。今宵は、此処にいるが良い」
「……はい」

 半眼の愛紗は、妙に艶っぽい。
 ……次第に、女が開花してきたのやも知れぬ、な。
 愛紗の香りを感じながら、ふとそう思った。



 朝方、と言っても空が白み始めた頃。
 ……ふと、妙な気配を感じ、目覚めた。

「ご主人様。起きておられますか?」
「愛紗。……お前も、気づいたか」
「はい。参りましょう、ただ事ではなさそうです」
「よし」

 愛紗は跳ね起きると、素早く美しい裸体を衣に包んでいく。

「刻が惜しい。これを使え」

 私は、兼定を差し出した。

「し、しかしこれは、ご主人様の愛剣では」
「構わぬ。私には、これがある」

 堀川国広。
 脇差ではあるが、紛れもなく、私の愛刀。

「参るぞ」
「はい!」

 天幕を出て、あたりを見渡す。

「彼処のようだな」
「ええ。あ、ご主人様。人影が」
「……よし。何者か、確かめてくれよう」

 陣の一角へ、二人で駆け寄った。
 そこは、糧秣の保管場所。

「おい、急げよ!」
「わかってるって。これだけありゃ、当分困らないだろうぜ」

 相手は五、六人というところか。
 私と愛紗であれば、心配は無用だろうが。

「ご主人様。賊、でしょうか?」
「確かに賊だろう。……だが、あれを見ろ」
「……あれは……何という事だっ!」

 愛紗が、歯がみをする。
 賊達の腕に巻かれたもの。
 それは、少し前まで彼らが、頭に巻いていたそれである。
 降伏した黄巾党の者で、我が軍に加わる事を望んだ者には、目印として黄巾を、左腕に巻くようにさせていた。

「どうやら、逃亡を図ったようだな。その行きがけの駄賃に、糧秣を掠めていく……そんなところか」
「ご主人様の恩を仇で返すとは……。許さぬ!」
「待て、愛紗。奴らの動きが、妙だ」

 私は、愛紗の肩に手を置き、押し止めた。
 糧秣を盗み出した者共は、そのまま陣を抜け出す、とばかり思っていたのだが。
 ……どうやら、私の天幕に用があるらしい。

「しかし、大丈夫か?」
「なあに、女とよろしくやっているような腑抜けさ。寝込みを襲えばイチコロよ」
「そうだ。俺達をこき使うだけで、てめぇでは何もできねぇ、ただの優男。それでも首を持っていきゃ、大手柄だぜ?」

 ふふ、腑抜けか。
 私も、酷く見くびられたものだ。

「ご主人様。……宜しいですね?」

 どうやら、本気で怒っているらしい。
 だが、己の事のみ考えるような輩、確かに手加減は無用。

「うむ。あのような者共、一人とて生かすに及ばず」
「御意!」

 まさに、私の天幕に襲いかかろうとする輩に、

「待て! 外道共!」

 愛紗の一喝が、全員を凍り付かせた。

「げ? か、関羽?」
「土方の情婦(いろ)が、何故ここに?」

 賊の一人の言葉に、愛紗の殺気が高まる。

「ほう? 貴様、今何と言った?」
「……私を悪く言うのは構わぬ。が、我が麾下を貶めるその雑言、許せぬ」

 国広を抜き、構える。

「な、ひ、土方まで!」
「くそっ、こうなりゃ二人とも片付けちまえ!」
「出来るのか? お主らの腕で?」
「う、うるせぇ!」

 男達は喚きながら、一斉に斬りかかってくる。

「愛紗、下がれ!」
「は、はっ!」

 懐から取り出した球を、連中へと投げつけた。
 破裂音と共に、それは割れる。
 忽ち、男達が粉に塗れた。

「な、何だこりゃ!」
「眼が見えねぇ!」
「眼、眼が痛ぇ!」

 戦いどころではない男達。
 私は素早く駆け寄り、国広を振るう。

「ぐわっ!」
「ギャーッ!」

 喉を斬られた男達、無論ほぼ即死であろう。

「愛紗。こちらは私に任せよ」
「御意!」

 日本刀など慣れぬ筈だが、早くも扱いを心得たようだ。
 流石は関羽、といったところか。
 既に三、四人、斬って捨てている。

「土方! 何をしやがった!」

 別の男が怒鳴る。

「大したものではない。唐辛子の粉を詰めた、破裂弾だが?」
「卑怯だぞ! それでも、義勇軍の大将かっ!」
「ほう。では問うが、数を恃んでの闇討ちは、卑怯ではないのか?」
「……だ、黙れっ!」
「ふ、己の論法が通じないとわかれば、今度は恫喝か。見下げ果てた奴だ」
「おいっ! 遠巻きにして、射殺せ!」

 敵わぬと見たか、今度は弓を持ち出してきた。
 切り払うには、ちと厳しいか?

「ご主人様!」

 それでも、私を庇うかのように、愛紗が立ちはだかる。

「死ね!」

 一斉に、矢が放たれた。
 ……筈であった。

「お、おい、どうした?」

 その中の一人が、不意に倒れる。
 その背には、矢が突き刺さっている。
 そして、空気を切り裂く音が、続く。

「ぐふっ!」

 次々に飛来する矢が、確実に男達を仕留めていく。

「……兄ぃ!」

 恋が、駆け寄りながら弓を射ていた。
 流石、飛将軍の名は伊達ではないようだ。

「愛紗! これを!」

 他方から、星の声。
 放り投げられたそれは、まさしく青龍偃月刀。

「済まない、星!」

 相当の重量がある得物だが、愛紗は苦もなく受け取る。

「お兄ちゃんは、鈴々が守るのだ!」
「鈴々! 一人も逃すなっ!」
「合点なのだ! でりゃりゃりゃりゃっ!」

 絶え間なく放たれる恋の矢に加え、三人が縦横無尽に暴れ回り始めた。
 こうなれば、もはや手の打ちようもあるまい。

「だ、ダメだ! おい、逃げろっ!」
「逃す、とでも思うか?」

 首領格と思しき男に、近づく。

「て、てめぇには血も涙もないのかっ!」
「……理由はどうあれ、貴様らは規律を乱したのだ。死を持って(あがな)って貰う」
「や、やめろぉぉぉっ!」

 往生際の悪い男だ。
「無駄だ。大人しく、成仏致せ」
 それでも、剣を振り上げる男。
 その喉を、恋の矢が、射貫いた。

「……兄ぃ。無事?」
「ああ。助かった、恋」
「……ん、良かった」

 恋の眼が、心なしか潤んでいるようだ。

「心配をかけたようだな。だが、私は死なぬ。お前達のためにも、な」
「……大丈夫。兄ぃは、恋が、守る」

 ふふ、鈴々のような事を申すではないか。
 何となく、頭を撫でてやりたくなった。

 ……だが、嫌がらぬかな?
「……?」

 首を傾げる恋。
 ……嫌がったなら、謝れば良いか。
 そう思い直し、恋の頭に手を載せる。

「……兄ぃ?」
「嫌なら、止めるが?」
「……(フルフル)」
「そうか」

 そのまま、髪を梳くように、そっと撫でてやる。

「……兄ぃ。それ、好き」

 つい先ほどまで、正確無比な弓裁きを見せていた人物とは、誰が同一だと思うであろうか。

「ご主人様!」
「主! お怪我はござりませぬか!」
「うむ。皆も、無事のようだな」

 恋の頭から、手を離す。

「……あ」

 どこか、残念そうだ。
 ……また、折を見て撫でてやるか。



 一刻後。
 騒然とした中、私は皆を集め、前に立った。
 元黄巾党の者は皆、一様に不安げな顔をしている。

「お主達に、申し渡す」
「…………」

 場が、一度に静まり返る。

「つい先ほど、一部の不心得者が、脱走を企て、騒ぎを起こした」

 一様に皆、目を伏せている。

「我が軍は、義勇軍である。いかなる理由であろうとも、盗みは認めぬ。また、指示された戦以外での殺しもまた、然りだ」
「…………」
「よって、この騒ぎに加わった者は皆、処罰した。だが、此度の事は、皆が事……とは思わぬ。よって、騒ぎに加わっておらぬ者については、一切を不問とする」
「……で、では、お咎めは全くない。そう、仰るんで?」

 前にいた男の問いに、はっきりと頷く。

「そうだ。もし、この仕置きに不満がある者は、直ちにこの陣を去るが良い。ただし、再び賊として民を苦しめるならば、容赦はせぬ。左様、心得よ」
「……へ、へいっ!」

 これで、大多数が去るならば、それも仕方あるまい。

「出立は、今日の昼。それまでに各自、身の処し方を決めておくよう」

 それだけを告げ、私はその場を後にした。

「なあなあ、歳っち」
「……霞。なんだ、その呼び方は?」
「アンタが好きに呼んでええ、ちゅうたんやろ? 年上を呼び捨てにするんは抵抗ある、せやから。……それとも、あかんか?」

 何故、いじけたような仕草をするのか。

 ここではっきりと拒否を示したなら、どう見ても私が苛めている格好になるのだが。
「……好きにすれば良かろう」
「さっすが、歳っち。話がわかるなぁ♪」

 嬉しげに、腕を絡ませてくる霞。

「これ。少しばかり、はしたないのではないか?」
「ウチは気にせえへんで?」

 私は気になるのだが、な。
 ……どうやら、不毛な議論にしかならぬようだ。

「ところで、何か話があったのではないのか?」
「ああ、せやった。……アイツら、ホンマに全員、并州まで連れて帰る気なんか?」
「うむ。それは、既に話してある通りだ」
「……歳っちの考えも、わからんでもない。元賊徒やから、目の届くようにしたいちゅうんはな。けどな」

 霞の眼は、真剣そのものだ。

「ウチらの軍と変わらん規模の連中を引き連れていく。それが、どんだけ無茶かわからん、アンタやないやろ?」
「無論だ」
「せやったら、今からでもまだ間に合うやろ。他の手立て、考えた方がええんちゃうか?」
「ならば尋ねるが。霞は、何か良き案でもあるのか?」
「そ、それは……ある訳ないやろ。ウチは、詠達や歳っちみたいに、頭良うないねんで?」

 気まずそうだが、霞はそこまで卑下する事もない筈だ。
 何せ、あの張文遠その人なのだからな。

「稟や風やったら、ええ知恵浮かぶん違うか?」
「かも知れぬが。だが、二人はその策を巡らせる事はあるまい」
「何でや?」
「私が、降伏した者達を連れて行く、と宣言した時。二人とも、異論がなかった」
「それは、歳っちに惚れとるから。アンタの意に沿わん事は言わへんだけちゃうか?」
「霞、それは違うな。私を慕ってくれていればこそ、二人は私に憚りなどせぬ。私が誤っていると思えば、即座に指摘するよう、そう申しつけてある」
「……ほなら、稟も風も、これでええ、って思ってるっちゅうんやな?」
「恐らくな。そして、稟と風が止めぬのに、私が過ちを犯せば、今度は星と愛紗が黙っていまい。勿論、鈴々もだ」
「随分と、皆を信用しとるんやな」
「当然であろう? 部下を信じぬ者が、人の上に立つ資格などあろう筈がない。だからこそ、私は己を律する事が出来るのだ」
「……せやな。アンタは、そういう男や」

 何故か、遠い目をする霞であった。



 出立の刻。

「歳三様。脱落した者、数名のみ、との事です」
「それどころかですねー。お兄さん、これを」

 と、風が何かを差し出した。

「……黄巾ではないか」

 しかも、剣で斬りつけた跡がある。

「皆、今までの自分と決別し、ご主人様に従う決意の表れとして、だそうです」
「黄巾党の者にとっては、これは命に等しきもの。……主、軽くはありませぬぞ」
「みんな、いい眼をしているのだ」
「……そうだな」

 私は、皆の前に進み出た。

「……良いのだな? 私はこの通り、修羅の道に生きる者。過酷な道のりとなろうぞ」
「俺達、地獄の底まで大将についていきやすぜ!」
「今まで、人様に迷惑しかかけられなかった俺達を、どうか生まれ変わらせて下せえ!」

 口々に、決意を述べる様に、嘘偽りは感じられぬ。

「ならば、共に参ろうぞ」
「応っ!」

 ついてくるならば、私は全身全霊を持って、それに応えるまで。

「歳三さん。参りましょう……并州へ」
「ああ」

 丁原の遺志……しかと、確かめさせて貰うとしようぞ。 

 

十三 ~并州~

 行軍の最中。
 私は、月と轡を並べて進んでいた。

「月。并州について聞きたい。私は、ほとんど知識がなくてな」
「はい……お、お父様」

 当初は『歳三さん』と呼んでいたのだが……丁原の遺言を思い出したのか今朝方、何気なくそう口にした。
 慌てて真っ赤になり、しきりに謝ってきたのだが。
 ただ、呼び方は皆の自由に任せている。
 元々が我が娘同然に、と考えていた。
 それ故に月の好きに呼ぶように、と答えておいた。
 何度か呼んでは慌てるを繰り返していたので、詠が呆れ返るのみ。
 華雄はどうしていいかわからぬのか、右往左往していた。
 ……どうやら、やっと慣れてくれたようだが。

「并州は、大陸の北部に当たります。洛陽や長安にも近いですね。中心は晋陽という街です」
「ほう」
「また、異民族である匈奴に接している為、諍いも少なくありません。丁原おじ様はその点、彼らと上手く付き合っていたみたいです」
「風土はどうか?」
「決して、豊かとは言えません。冷涼なので、麦や蕎麦ぐらいしか育ちませんし、だから人もあまり多くはありません」
「ふむ。後は人材か……」

 丁原は、留守居の将は頼りにならぬ……そう言っていた。
 だが、全く人なし……と言う訳ではあるまい。
 仮にも、如何に朝廷の命とは申せ、この乱世に本拠地を空けているのだ。
 最低限、統治と治安に支障のないあたりにはなっている筈。

「月は、恋以外は并州の者とは面識がない……そうだな?」
「はい。刺史交替もまだ日が浅いですし、私に仕えてくれていた方々は、ほとんどそのまま、私の軍に来ていますから」

 私は振り向き、恋を見る。

「恋。留守居の将で、知っている名はないか?」
「……(フルフル)」

 ううむ、わからぬか。
 だが、丁原は并州に行けばわかる……そう言い残している。
 今際の際に、私を無意味に謀るような真似をするような人物とも思えぬ。
 第一、それでは月までもを危機に陥れる事になるだろう。
 そう考えれば、やはり誰かが、丁原の策を遂行している……そう考えるのが妥当。
 少なくとも、それだけの才覚があり、人望も備えていなければなるまい。

「お兄さん。どうやら、ご心配みたいですねー」
「……顔に出ていたか、風?」
「いえいえー。この程度、察するようでなければ。お兄さんの愛人は務まらないのですよ」
「へ、へう~。 風ちゃん、大胆だよ……」
「ちょっと風! 月の前で、おかしな事言うんじゃないわよ!」

 また、いつもの騒ぎか。
 緊張感ばかりでは身が持たぬが、どうにも調子が狂う事がままある。

「稟。事前に、晋陽だけでも様子を探っておきたいと思うが……どうか?」
「御意。では、間諜を向かわせ、様子を探らせましょう」

 やはり、この時代でも情報の重要性は変わらぬか。
 ……となると、山崎のような、諜報を任せる奴が必要だな。
 しかし、奴のような者が、果たしてこの世界にいるであろうか?
 もしいるならば、何とか我が麾下に招き入れたいものだ。

「主。私が参りましょう」

 と、星が名乗り出た。

「星。何もお主が出向かずともよいではないか?」
「ふっ、愛紗よ。私は主が一番の槍。常に、先駆けとなる事こそ本望なのだ。主、宜しいですかな?」
「……よかろう。風、手の者を数名、星につけよ。情報収集は、お前が得意とするところであったな?」
「ではでは星ちゃん。すぐに選抜しますので、その間に準備していて下さいねー」
「わかった」

 些か、大仰に過ぎるやも知れぬが。
 ただ、星は腕は無論の事だが、身軽さでは我が軍随一。
 それに、危機に陥っても切り抜けるだけの才覚を併せ持つ。
 ……むしろ、適任やも知れぬな。



 軍は、粛々と并州に入った。
 確かに、寒々とした印象を受ける土地だ。

「歳っち。誰か、向かってくるみたいやで?」

 霞が、地平線の彼方を指さす。

「見えるのか?」
「ウチらは、遠目が利かへんとあかんやろ。騎兵は、速さが命、ちゅうこっちゃ」
「どれ」

 双眼鏡で見てみると、確かに数名、此方に向かって来るようだ。

「お兄ちゃん、星なのか?」
「……いや、違うな。見慣れぬ将らしき男が二人。それに、兵が四名だな」
「どうするのだ、歳三。その人数では、どこぞの斥候ではないのか?」

 華雄は、落ち着いて言う。
 愛紗、鈴々、そして星に代わる代わる武を鍛えられ、私が将としての心構えを叩き込んだ。
 結果、次第に変化が現れ始めた。
 その一つが、このように冷静さを得た事。
 もともと、武の素養は高い上、心根も素直だ。
 ただ、誇りが高過ぎる上に、己の武を恃むあまりに、先走る傾向があった。
 それを少しずつ、だが確実に変えていく事にしたのだ。
 ……今や、月は、暴虐の象徴ではない。
 掛け替えのない、我が愛娘。
 ならば、その身の安寧を図るのが、親たる我が務め。
 詠が傍にいれば、悪辣な陰謀からは逃れる術もあるだろう。
 だが、武はやはり、優れた者が傍にいるべきだ。
 霞は武人としても超一流だが、彼女の本領はやはり、騎兵を率いての、将として在る事。
 華雄には、月の親衛隊長として、常に傍にあって貰いたい。
 それが、本人に取っても、一番だろうからな。

「いや、暫し様子を見よう。もし、不審な動きがあれば、その時は華雄に行って貰う」
「うむ、わかった」

 頼もしげに頷く華雄を見て、月も目を細める。

「月。晋陽に着いたら、華雄の名の披露目と参ろうぞ」
「ええ、お父様。……気に入って貰えるといいのですけど」
「心配要らぬだろう。佳き名と、私は思う」
「……ふふ、じゃあ、大丈夫ですね。お父様の美の感覚は、超一流ですもの」

 そう言って、月が微笑む。

「そうか?」
「はい。……あの、今度、詩吟を教えて下さい」
「詩吟? しかし、私が嗜むのは、俳句と呼ばれる短い歌だが」
「いえ、それがいいのです。朗々と歌い上げる詩吟もいいのですが、お父様の俳句というもの、私も覚えてみたいのです」
「わかった」

 私の拙い発句を、まさかあの董卓に伝授する事になるとは、な。
 ふふ、本当に人生、何が起こるかわからぬ。



「申し上げます。晋陽よりの使者が参りました」
「使者とな」
「はっ。如何しましょう?」

 伝令の兵を前に、皆は私を見る。

「いいだろう。ここへ通せ」
「ははっ!」

 入れ替わりに、先ほど双眼鏡で見た将二人が、入ってきた。

「土方歳三殿、ですな?」
「如何にも。貴殿らは?」
「はい。拙者は、高順と申します」
「私は、臧覇と申します」

 陥陣営に、八健将の一人か。
 ……丁原め、何処が信ずるに足りる者がおらぬ、だ。

「拙者の名を存じているところを見ると、丁原殿のお指図と見たが。如何?」
「はい。ご明察の通り、丁原様の遺命により、馳せ参じました」
「今後は、如何様にもご指示を」
「……そうか、では早速だが。我ら、丁原殿の遺志に従い、ここに参った。并州を頼む、との仰せであった」
「……はっ」
「無論、これは仮にお預かりしたもの。時が来れば、朝廷に返上せねばならぬが、今は民を安んじる事こそ第一。故に、このまま晋陽に進もうと思うが」

 二人は、ジッと私を見る。

「何か?」
「……いえ、丁原様の書簡にあった通りの御方と、お見受けしました」
「いかに丁原様の遺命とは言え、この目で確かめるまでは……我ら、そう思っていました」
「では、貴殿らの眼には、私は合格である、と?」
「はっ。拙者、武骨者なれど、存分にお命じ下され」
「丁原様は、私共を見込んで、あのような遺命を下されたのです。ただ、民の上に立つ術は知りません。貴殿を信じ、従うとします」
「わかった。ならば二人とも、頼りにさせて貰う」
「ははっ」

 私の知る二人の通りなのかはわからぬが、名の通った人物は、今のところ相応の才覚を見せている。
 ふむ……。
 何となく、私は恋に視線を向けた。

「……何、兄ぃ?」
「あ、いや……」
「……?」

 首を傾げる恋。
 恋の直属として、二人をつけるという手もあるな。
 勿論、二人の人物を見定めて、の話だが。

「歳三様。そろそろ、出立しても宜しいでしょうか?」

 稟だけでなく、皆が私を見ていた。

「そうだな。進軍を再開する、高順と臧覇は、案内を頼む」
「ははっ!」



 進軍の最中。

「こ、これを御大将に!」
「オラが獲った猪。皆で食べてけれ!」

 住民から、差し入れが頻繁に来ていた。

「高順。どういう事なのだ?」
「はっ。晋陽に着けば、おわかりかと存じます」
「だが、ここは丁原殿が治めていた期間はほんの僅かと聞いておる。……ふむ、月の威光がまだ生きている、という事か?」
「それもございます。董卓様が刺史としておられた間、この并州はよくまとまっていた、と聞き及んでいます」

 それならば、わからぬでもない。
 ……が。

「月」
「はい、お父様?」
「お前が治めていた時分だが、その間の、具体的な成果を教えて貰いたい」
「具体的、ですか」

 月は、少し考えてから、

「まず、飢饉が続きましたので、可能な限り税の減免と、食糧の配布を。ただ、それもあまり効果はありませんでしたが……」
「餓死者を防ぐ事はかなわなかった、そうだな?」
「はい」

 辛そうに、月は俯く。
 だが、こればかりは為政者の責任とばかりは言えぬのだ。
 自然の恵みがなければ、人は生きていけない……それは、太古から不変の事実。
 だが、自然は恵みばかりを与える訳ではない。
 干魃や洪水、嵐、地震……。
 そうした自然の脅威は、時として人々に牙を剥く。
 もっとも、そうした事態を如何に乗り切るかが、為政者として問われる事でもあるのだが。
 ……幕府には、そうした民の期待に応えるだけの者が欠けていた、と言わざるを得ない。
 そうでなければ、あのように一度に民の支持を失う事への、説明がつかないのだ。
 その事に対して、何も出来なかった私に、偉そうな事は言えぬが、な。

「その他は、治安の回復ですね。匈奴と接するせいか、人の出入りが多い土地なので。その分、盗賊の方も多かったんです」
「なるほど。こちらは、成果を上げたのだろう?」
「……そう、思います。霞さんや華雄さんが、頑張って下さいましたから」

 遠慮がちに言うが、恐らくは上々の成果を上げた、と見ていいだろう。

「聞く限り、月の治政には何の問題もなかった、そう思えるな」
「……いえ。刺史の権限では及ばない事もありましたし……」
「そうだな。税の減免、と言えども、刺史で全てが出来る訳ではないだろう。中央から命ぜられた分はそのまま送らねば、今度は刺史が罰せられるだろうからな」
「ええ。私はどうなっても構わないのですが、そうなれば困るのは民の皆さんですから」

 心優しき月のような為政者ばかりであれば良いが、今の漢王朝の腐敗ぶりを見る限り、むしろ稀な存在、と考える方が自然だろう。
 むしろ、己の私腹を肥やす、または中央での出世ばかりに目が眩んでいる輩の方が多かろう。

「お兄ちゃん! また差し入れなのだ」

 鈴々が、果実の詰まった袋を抱え、やって来た。
 ……民が、何かを私に期待している、それはわかる。
 だが、それは何であろうか?

「風。どう思う?」
「……ぐぅ」

 ……返事がないようだ。

「風! 起きなさい!」

 慌てて、稟が起こした。

「おおぅ! つい、日和に誘われてしまいました」
「寝ておったのか。暢気な奴だ」
「いえいえ。それで風に、何の御用でしょうかー?」
「……いや、いい」

 何となく、気が削がれてしまった。
 それに、晋陽に着けば全てがわかるようだ、焦る事もなかろう。



 やがて、行く手に城塞都市が見えてきた。
 この地に来てより、城というものをまだ見ていない事に気づいたのだが。
 城、と言うが、日本のそれとは相当に違うようだ。
 城そのものが巨大な街であり、その中に、軍事拠点としての城が存在する。
 嘗て、太閤秀吉が攻め滅ぼした、後北条氏の本拠地、小田原城がこれに近いのやも知れぬ。

「む? あれは」

 私は双眼鏡で、晋陽の街を見た。
 一条の煙が、城の付近から立ち上っている。

「高順、臧覇。あれは?」
「はい。民が、立ち上がったのかと思われます」
「恐らく、城はすっかり取り囲まれていましょう」
「民が? どういう事だ?」

 今、城にいるのは留守居役の将兵のみの筈。
 政務が滞っているにしても、煙とは穏やかではない。
 そもそも、月の治政には手抜かりは感じられぬし、丁原への不満と言うには、あまりにも早急過ぎるのだ。
 ……まさか、私への不満であろうか。
 だが、それならば道中での民の反応からすると、全くの不可解となる。

「稟。星は戻ったか?」
「いえ。その後、連絡は受けていませんね」

 星の事だ、万が一という事もないだろうが。
 ……だが、用心に越した事はない。

「霞、愛紗。一足先に、晋陽に入れ。何かが起きているようだが、このまま向かうには情報が足らぬ」
「任せとき」
「はいっ!」
「主、お待ち下され!」

 絶妙の間合いで、星が帰還した。

「申し訳ござりませぬ、主。直ちに、軍を進めて下され」

 息を切らせながら、そう告げた。

「星ちゃん。それではわからないのですが?」
「そうだぞ。晋陽で民が蜂起したと言うのは、真か?」

 口々に質問を発する将達。

「皆、落ち着け。星、まずはこれを飲め」

 私は、腰の水筒を外して、星に手渡す。

「忝い、主」

 蓋を外し、星は中身を一気に干した。

「ふう……。人心地つきました」
「では星、報告を」
「はっ。晋陽のみならず、周辺の村や邑からも、続々と民が押し寄せ、皆で城を囲んでおります」
「ふむ。原因は?」
「それなのですが……。高順殿、臧覇殿。もう、宜しいのでは?」

 星の言葉に、二人が頷いた。

「土方様。趙雲殿が申す通り、我らはこの事、存じておりました。申し訳ござりませぬ」
「騙すつもりはありませんでした。ただ、事が露見すれば、朝廷より討伐軍が派遣されましょう」
「……なるほど。全ては丁原殿のお指図、という訳か」
「はっ」
「ならば、躊躇する事はあるまい。霞、愛紗、月、詠、それに高順と臧覇、共に参れ。稟、風、鈴々、華雄、恋は城外にて待機。念のため、警戒に当たれ」
「御意!」



 晋陽城に着くと、取り囲んでいた群衆がサッと、道を開けた。
 城門のところには、何人もの役人が転がされている。
 皆、縄を打たれた状態で。

「こいつらは、税と称して勝手に収穫を巻き上げていった連中だ!」
「オラんとこは、娘を連れて行かれただ!」

 群衆が口々に、役人を糾弾する。

「お、おい! 貴様! 早く助けろ!」
「我々は陛下より任じられたお役目を遂行したまでだ!」

 見苦しく、手足を動かしながら訴えてきた。

「董卓殿! 愚かな民と我ら、どちらを信じるのですか!」
「そうですぞ。如何に中郎将とは申せ、我が一族は代々に伝わる家。それを見殺しにしたとあらば、貴殿にも害が及びますぞ!」

 そんな役人の抗弁に、更に群衆が騒ぎ立てる。

「月」
「はい」
「この場合、刺史の権限にて裁きは可能だな?」
「勿論です。ここにいるのは、県令以下の身分の方だけですから」
「わかった」

 私は、群衆を振り仰ぎ、

「皆、静まれ。私は、土方歳三と申す。この通り、并州刺史の印綬を預かる者だ」

 そう告げた。

「此度の事、并州刺史、丁原殿よりこの土方が処分を預かった、そう心得る。裁きは私が行う故、皆は解散せよ。無用な乱暴狼藉を働かぬ限り、特に咎め立てはせぬ」
「刺史の印綬など、出鱈目だ!」
「そうだそうだ! 土方などと言う名、聞いた事ないわ!」
「黙れっ! これは、丁原殿よりの厳命である。そうだな、董卓殿?」
「はい。私もその場に立ち会いました、この方の仰る事は、事実です」

 凛とした言葉に、あたりは静まり返る。

「では、参ろう。愛紗、霞、こいつらを引っ立てい!」
「了解や!」
「御意!」
「な、何をする! 離せ!」
「こ、このような事をして、ただで済むと思うな!」

 往生際の悪い輩共だ。
 取り調べの結果。
 皆、何らかの不正を働いていた事が発覚。
 証拠を突きつけても認めぬ輩もいたが、一切の情状酌量の余地など、ない。
 罪を書き述べ、市中に貼り出した結果、群衆は落ち着いた。
 悪質な者は、有無を言わさず処刑。
 それ以外の者は、一切の財産を没収して、追放。
 無論、取り調べの経緯は事細かに記し、都へと奏上させた。
 正しき沙汰が下りる望みは薄いが、月の名に置いて出せば、少なくとも公式なものとして通る筈。
 そして、臨時に月が并州刺史を務める旨も、一緒に書き添えさせた。
 いきなり、私が名乗りを上げれば、叛乱と受け取られる恐れがあるが、月ならば朝廷の高官、処罰の口実もあるまい。

「しかし、丁原殿も思い切った事をなされる。まさか、この機を利用して腐吏の一掃を図る、とはな」
「……ですが、これで私がやり残した事が、一つ片付きましたから」
「そうか」

 月に頷くと、私は皆に向かって告げた。

「まず、引き連れてきた黄巾党の者は、ここに残す。軍として希望する者は除くが、これで衣食住がない生活からは解放される。そう、全員に申し渡せ」
「はっ!」
「それから、月。その者達の自立を頼みたい。臨時の刺史として、領内の政務に専念するとなれば、ここにとどまる口実となろう」
「はい。ですが、お父様は?」
「黄巾党の討伐に戻らねばなるまい。霞が、代理として月の軍を率いれば良かろう」
「ウチか? それはええんやけど、歳っちは?」
「私は無位無冠。よって、引き続き義勇軍を率いる事になる。だから、形式上は霞の指示で動く事になるな」
「わかった」
「詠、恋、ねねは月のところに残れ。高順と臧覇は、恋を補佐し、丁原殿の軍をまとめて欲しい」

 皆が、一斉に頷いた。

「そして、華雄だが。月」
「はい。華雄さん、字と真名を与えます。字は廉銘(れんめい)、真名は閃嘩(せんか)。どうでしょうか?」

 月がそう言うと、華雄は全身を震わせ、

「……ありがたい。その名に恥じぬよう、全力で仕える事を誓う」

 そう言うと、人目も憚らず涙を流した。

「では、閃嘩。お前は、常に月の傍にいるのだ。親衛隊長として、月を守って欲しい」
「……応! 我が武にかけて」
「ではお父様。……くれぐれも、ご無事で」
「月も、頼む」

 この後、中央で何が起こるのかは予測できぬが……月を、理不尽に殺させはせぬ。
 私を信じてくれた、丁原のためにも。 
 

 
後書き
華雄の字、真名はもちろんオリジナルです。
にじファン時代に公募で決めたものです。 

 

十四 ~出立~

「さて。風、黄巾党の現状を説明してくれ」
「了解ですよー」

 広げた地図に身を乗り出す……と言うよりは、上に乗る格好で、風は話し始める。

「幽州では公孫賛さんが、河北の残党が集まった一団と戦っていますねー」
「つまり、ウチらに蹴散らされた連中と、まだ叩いてない連中が集まった、でええんか?」
「はいー、霞ちゃんの言う通りですね。数は、最新の情報では三万ぐらいとか」
「この近隣で、他に残っているのは?」

 私の質問に、風は首を傾げる。

「風は知りませんね。稟ちゃんや詠ちゃんはどうですかー?」

 指名された二人は、顔を見合わせて、

「いえ。私の方でも、特には」
「ボクも聞いてないわ。匈奴も今のところ、静かみたいね」

 この三人が知らぬ、と言うのなら、該当する勢力はない、と見ていい。

「ならば、公孫賛殿の助力に参る。これで決まりですな、主?」
「うむ。張世平から預かった紹介状もある、これも何かの縁だろう」
「張世平? お父様、あの方をご存じなのですか?」

 月に言われて、思い出した。
 そう言えば、月のところにも出入りしている……そう言っていたな。

 紹介状はなくとも、こうして今は一緒にいる訳だが、な。
「ああ。我らの旗揚げの資金と馬を出して貰ったのだ」
「そうでしたか。では、張世平さんには感謝しなければなりませんね」
「そうだな。あの資金がなければ、今の我らはない」
「……それもありますけど。お陰でこうして、お父様と一緒にいられるのですから」

 そうか。
 紹介状を使わなかったからこそ、今の関係があるとも言える。
 他人を介した関係は、きっかけは得やすい反面、信頼を深めるとなれば、なかなかに難しい。
 だが、今は生死を共にして得た、信頼関係。
 そう容易く、壊れる事もあるまい。
 ……いや、壊れる方を想像する方が難いな。

「あ~、歳っち、月。親子でほのぼのしてるところ悪いんやけど。幽州に出向くんやったら、準備が必要やろ? 出立はいつにするんや?」
「あ、ご、ごめんなさい……」

 恥ずかしそうに俯く月の頭を、軽く撫でてやる。

「そうだな、霞。お前が率いる軍の方で、どのぐらいかかる?」
「せやなぁ。あんまり悠長な事も言ってられへんし……。一週間、ちゅうところやな」
「ふむ。我が軍はどうするか……。稟、一週間での部隊の再編、可能か?」
「はい。今度は全員を連れて行く訳ではありませんし、糧秣と装備さえ揃えば問題ないかと」

 それならば、一週間もかからぬであろう。

「ならば、我が隊は五日後に出立。霞の隊は、後から合流、という事でどうだ?」
「ははーん、そういう事やな。やっぱ歳っちは、頭ええなぁ」

 私の意図を理解したのだろう、霞は大きく頷いた。

「にゃ? 愛紗、どういう事なのだ?」
「わ、私に聞くな!」

 ……二人には、説明が必要なようだな。

「いいか、我が隊の主力兵は何だ? 鈴々」
「えーと、歩兵と弓兵なのだ」
「では愛紗。霞の隊は?」
「騎兵が主かと……あ」
「どうやら、気づいたようだな。そうだ、行軍速度が違う」
「せやから、ウチらは後で追いかけても、幽州までに合流するんやったら問題ない。せやろ、歳っち?」
「正解だ。稟、風、ではこの日取りで進めよ。良いな?」
「御意!」
「御意ですよー」
「星、愛紗、鈴々は、二人の指示で部隊の再編を行え。頼むぞ」

 頷く三人。



「…………」
「…………」

 月と二人、黙って手を合わせる。
 土饅頭に、粗末な墓標。
 だが、本人の遺志だと言われれば、豪奢にする訳にもいくまい。

「お父様。ありがとうございます」
「む?」
「丁原おじ様を、丁寧に弔っていただいた事です」
「いや。私自身、付き合いは短い間ではあったが、真に立派な御方だった。このぐらいせねば、死者への手向けにならぬ」
「はい……」

 そんな月を見て、ふと思い出した。

「そう言えば、丁原殿は匈奴との付き合いも深い。そうであったな?」
「ええ」
「今も、その関係が絶えた訳ではなかろう。一度、挨拶をしておいた方がいいのではないか?」
「挨拶、ですか。……でも、匈奴は異民族。朝廷からは、相容れない敵、という見方をされています」
「では、その敵、というのは誰が決めたのだ? 古来から、諍いが絶えぬからであろう?」
「そうです。その為に、秦の始皇帝は長城を築かせたのですから」
「しかし、丁原殿は友好を築く事に成功しているのだ。彼らは遊牧民族、攻め寄せるとすれば……食糧であろう」
「お父様は、匈奴の事をご存じなのですか?」
「多少な。だが、面識はない」

 私が知るのは、書物の上での事のみ。
 だが、この時代、彼らが農耕民族である可能性は、限りなく低かろう。
 遊牧生活であるが故に、食糧調達は安定は望めぬ。
 必然的に、農耕民族である漢に攻め入り、食糧を奪う、という事になっても何ら不思議ではない。

「月。至難を極めるやも知れぬが……匈奴との連絡と友好は絶やさぬよう。後背に敵を持たぬ意味でも、な」
「……わかりました。何とか、やってみます」

 史実の董卓も、異民族とは上手く付き合っていたのだ。
 月ならば、やれる筈。
 私には、そんな確信があった。



 そして、四日が過ぎ。
 いよいよ、出立の前夜となった。
 月に貰った、公孫賛に関する資料を、今一度読み返してみた。
 公孫賛、別名が『白馬長史』。
 騎射の出来る兵士を選りすぐり、白馬に乗せて率いる。
 ……確か、袁紹との争いでは、部下を見捨てた事がきっかけで信を失った筈。
 だが、月の資料は、公孫賛が誠実な人物である事を示している。
 劉備を陰日向に支援したとも言われるしな。

「歳三様。宜しいでしょうか」
「稟か。入れ」
「はい、失礼します」

 私が手にした竹簡を見て、

「申し訳ありません、調べ物の最中でしたか?」
「いや、いい。それより、用件があるようだが」
「こちらを、お確かめ下さい」

 稟が差し出した竹簡を受け取り、開いた。
 幽州に向けての、部隊編成が詳細に記されている。
 そして、必要な糧秣までもが計算済み。
 ただ羅列するのではなく、要点を押さえた記述といい……流石だな。

「如何でしょうか?」
「……稟。見事だ、文句などあろう筈もない」
「あ、ありがとうございます」

 安堵の溜息を漏らす稟。

「丁度良い。これも、稟の意見を聞かせて欲しいのだが、良いか?」
「勿論です。私は、歳三様の軍師ですから」

 私は、公孫賛の資料を、稟に手渡す。

「これは、月殿が?」
「ああ。まずは、それに目を通してくれ」
「わかりました」

 ジッと竹簡に見入っていたが、顔を上げると、

「なるほど。一軍の指揮にも優れ、人物もなかなかである……そう、書かれていますね」
「そうだ。稟は、旅の途中で公孫賛には会っていないのか?」
「ええ。星は、いずれ客将として落ち着く、候補の一つと考えていたようですが」

 私がいなければ、実際にそうなっていたであろう。
 ただ、この世界には今のところ、劉備には出会っていない。
 存在しないのか、それとも私がその代わりの役目を担う事になるのかはわからぬが。
 ……尤も、今の星が私と別行動を選ぶ……あり得ぬか。

「稟は、本命が曹操であったな。では聞くが、曹操と公孫賛、比べるとどのように考える?」
「そうですね」

 眼鏡を持ち上げながら、少し考えているようだ。

「まず、覇気の違いがあるかと。曹操殿は、ただの一官吏で終わる方ではなく、いずれは天下を狙って打って出る、英雄気質の方。一方の公孫賛殿は、地方の刺史としては十分でしょうが、それ以上のものを求めるのは酷かと」
「器量に差がある、そう言いたいのだな?」
「……残念ながら。それにもう一つ、公孫賛殿はご自身は相応に優秀と聞いておりますが、配下にこれといった人物が見当たりません。曹操殿はその点、人材を求める事には非常にご執心なされておいでとか」
「そうであろうな。私の知識では、稟、風、詠、霞は曹操の配下となっていたからな。ねねも、一時期はそうであった筈だ」
「……それが皆、今はご主人様の下に揃っているとは。皮肉なものですね」
「全くだな。皆を敵に回すなど、背筋が凍る思いだ」
「ふふっ、ご心配なく。今の私達が、歳三様と敵対するなど、天地がひっくり返ろうともあり得ませんから」

 そう断言する稟。
 私の器量如何ではあろうが、その信頼に応えられるだけの主であらねばなるまい。

「私もそう願いたいものだ。さて、話を元に戻すが……」
「公孫賛殿は、その為に内政、軍事とお一人で奮闘せざるを得ないとか。お気の毒ではありますが、それが現実というものでしょう」

 脳裏で、公孫賛という人物を描いてみる。
 ……気のせいか、同情を禁じ得ないのだが。

「とにかく、会ってみるしかなかろう。もともと、我らは黄巾党の手から民を守るために立ち上がった義勇軍。ならば、それと戦う公孫賛は、協調すべきであろう」
「仰せのままに。では、私はこれで」
「あ、待て」
「はい」

 思わず呼び止めてしまったが……思い直した。

「……明日がある。早めに休むように」
「わかりました。それでは失礼します」

 ……何をしているのだ、私は。
 ただ、稟の体調は、常に気遣っておこう。
 短命が故に嘆き悲しんだ曹操の、二の舞は願い下げだ。



 翌朝。
 城門にて、残る者の見送りを受けた。

「では、お父様。ご武運を」
「月も、并州を、そして元黄巾党の者を頼むぞ」
「はい」
「詠も、閃嘩(華雄)もだ」
「わかってるわよ、月はボクが守るわ」
「ああ。歳三に教わった事、無為にはしないと誓おう」

 二人とも、迷いのない、いい眼をしている。

「霞。では、先に参る」
「わかっとる。万全の準備、とはいかへんやろうけど。けど、絶対に遅れるような真似はせえへん」
「待っているぞ。では全軍、出立!」
「応っ!」

 再編した我が軍、士気は高いようだ。
 装備も、旗揚げ当初とは比較にならぬ充実ぶり。
 少なくとも、乞食の軍隊、と揶揄される事はもうなかろう。

「主。念のため、周囲の索敵を行っておきます」
「うむ、任せる」
「ははっ!」

 自主的に、星が動き出す。

「風」
「お呼びですかー?」

 あの身長で、どうやって器用に馬を操れるのかは甚だ疑問なのだが。
 ……それも、触れてはならぬ事の気がする。

「間諜を専門とする一隊を作ろうと思うのだが、どうだ?」
「風は賛成ですねー。星ちゃんはもっと、違った配置で真価を発揮すると思いますから」
「やはり、そう思うか」
「ですが、現状では間諜を取り仕切るだけの人物がいませんねー」
「誰か、心当たりはいないか? 身分や出自は問わぬが」
「……ぐー」

 よくも馬上で、このように器用に寝るものだ。

「稟はどうだ? 風を起こした後で良いから、思い出してみてくれ」
「は、はぁ……。風、起きなさい」
「おおぅ。吹き抜ける風がつい心地よくて」
「……それで、どうだ? 稟は」
「間諜の取り仕切り役ですか。……一人、心当たりがあります」
「ほう。その人物は、近くにいるのか?」
「いえ、洛陽にいる筈です。しばらく会ってはいませんが」

 洛陽、か。
 今はまだ無理だが、黄巾党が片付いたら、一度は行かねばならぬか。
 漢王朝が末期だと言うのなら、その現状をこの目で確かめておきたい。

「稟の心当たりというのなら、優秀な人材……そう考えて良いな?」
「それは保証します」
「ならば、その時まで曹操に見つからぬ事を願っておこうか」
「そうですね。歳三様、その際はお供を」
「頼む」
「むー。お兄さんと稟ちゃん、今日はやけに雰囲気良くありませんかー?」

 会話で除け者にされたと思ったか、風の機嫌を損ねたようだ。

「そもそも、肝心なところで寝る風が悪いんですよ?」
「仕方ないのです、それほど睡魔は手強いのですよー」

 ……ふと、頬に冷たいものが伝う。
 見上げると、空はいつしか、鉛色となっていた。

「一雨、来るな」
「そのようですね。糧秣が濡れないよう、注意を促しておきます」
「うむ。風、雨の様子を見て、進軍を調整させたい。強行軍では兵の疲労が増すからな」
「了解ですー」

 まだ、先は長いのだ。
 ここで無理をすれば、士気にも関わる。



 雨はそのまま、降り続いている。
 進軍は予定の半分まで達したところで停止させ、そのまま野営とした。

「だいぶ、冷えてきたようだ。兵達に十分に暖を取らせるよう、申し伝えなければな」

 何とか、全員を賄えるだけの天幕は用意した。
 が、雨露は凌げても、寒さだけはどうにもならぬ。

「しかし、驚きました。これだけ大量の天幕を揃えるなど、最初は何事かと思いましたが」
「戦は、人がするものだ。将の働きが重要なのは勿論だが、兵がいなければ始まらぬ。その大切な兵らの疲労を抑え、士気を落とさぬ事。これこそが肝要だ、覚えておくのだぞ」
「はい」

 愛紗は、素直に頷いた。

「入るぞ」
「お、御大将?」
「どうしたんです、一体?」

 私と愛紗を見て、休んでいた兵達が慌てて身体を起こした。

「そのままで良い。あまり量はないが、これを持って参った。皆で分けてくれ」
「こ、こりゃ酒じゃありませんか? いいんでしょうか?」
「良い。多少であれば、身体も温まろう」
「ありがとうございます!」
「明日からも暫し、このような行軍となろう。くれぐれも無理をせぬようにな」
「へへっ!」

 しきりに恐縮する兵達を手で制して、天幕を出る。

「ご主人様。一つ、伺いたいのですが」
「何だ?」
「はい。ご主人様が、私達や配下の者を大切になさるのはわかります。ただ、何故ここまでなさるのでしょう?」
「過分に過ぎるか?」
「い、いえ、そうではないのですが。ただ、兵は使い捨てのように扱い、見下す将は大勢いる中で、ご主人様の有り様は違う。そう思ったのです」
「そうだな。私の性分、ではあるかも知れぬ。……それに」
「他にも、理由がおありですか?」
「……失いたくないのだ、大切な仲間達を。適うなら、誰一人欠ける事なく、共にありたいのだ」
「…………」
「それが、将たるものの心得。……少なくとも、私はそう思うのだ」

 仲間を、部下を失う辛さは堪え難いもの。
 それを繰り返す愚は避けたい、いや避けねばならん。

「やはり、ご主人様ですね。そんなご主人様だから、皆が慕うのでしょう」
「愛紗?」

 そっと、身を寄せてくる愛紗。

「参りましょう。ご主人様も、お身体が冷えてしまいます」
「……ああ」

 私は、今一度空を見上げた。
 明日には、止むと良いのだがな。 

 

十五 ~義の人~

 天候不順に悩まされながらも、軍は幽州を目指して進む。

「稟。どのぐらい、予定から遅れている?」
「そうですね。約二日、と言ったところでしょうか。道がこれでは」

 并州から幽州への道のり。
 距離こそさほどでもないものの、まともな道がないのが現状だった。
 従って、荒野をひたすら進むしかないのだが。

「雨ばっかりで、地面がぐちゃぐちゃなのだ……」
「鈴々、泥だらけではないか。仕方ない、拭いてやろう」

 あれこれと世話を焼く愛紗、本当の姉妹のようだ。

「これでは埒があかぬな。風、どこか近くに、大きな城か邑はないか?」
「そうですねー。(けい)の城ぐらいでしょうか」
「そこまで、どの程度の日数で着ける?」
「強行軍であれば、三日というところかとー」

 強行軍か。
 いや、それは避けたい。
 ただでさえ、兵の疲労が増している最中だ。

「後は小さな邑がある程度ですね。でも、この人数では無理かと思いますよ」
「まだ、私は何も言っていない筈だが?」
「お兄さん、風の観察力を侮ってはいけないのです。お兄さんが、兵の皆さんを見る時のお顔が、この数日厳しい事ぐらい、わかっているのですよ?」

 ふふ、顔に出ていたか。
 私もまだまだ、修行が足りぬ、という事か。

「ただ、薊を目指すのも悪くありません。幽州に入る事にはなりますから」
「そうか。公孫賛が本拠としているのは北平であったな?」
「そうです、歳三様。渤海を抜けた方が近いのですが、この状態での行軍が好ましくないのも事実です」
「ならば、迷う必要はあるまい。直ちに、薊へ向かう事にする。風、案内を頼むぞ」
「お任せですよー」



 通常の進軍速度で薊を目指す事、三日。
 霞の合流を待った事もあり、まだ道半ば……というところらしい。

「主。少し、気になる事が」

 小休止中、星が斥候から戻ってきた。

「気になる事? 星、何だそれは?」
「うむ。黄巾党ではないのだが、二千程の軍勢が、見え隠れに我が軍についてきているのだ」
「にゃ? 黄巾党じゃないなら、官軍なのか?」
「私もそう思ったのだが、それならば旗を掲げている筈。それに、このあたりにその規模の官軍がいる、とは聞いておらぬ」

 二千か。
 此方は輜重隊を除いても、二万の手勢がある。
 数の上では勝負にならぬが、兵がこの調子だ、戦闘はなるべく避けたいところではある。

「星ちゃん。黄巾党ではないと言いましたけど、何故そう思ったのでしょう?」
「まず、目印である筈の黄巾を巻いておらぬ。それに、賊軍にしては、部隊全体が整然としていたからだ」
「官軍でもなく、賊でもない。何者でしょうか、歳三様?」
「うむ。星、我が軍の後をつけてきているとの事だが、攻めかかってくる素振りはないのだな?」
「はい。今のところはございませぬ」

 たまたま、目指す方角が同じ……いや、それはあるまい。
 聞けば、薊の城はさほど大きな規模ではなく、太守も不在との事だ。

「まずは、その意図を探るとしよう。使者だが」
「ウチが行く」
「霞か」
「話は聞いた。相手が賊でないちゅうなら、官軍の可能性が高い……せやろ?」
「何とも言えぬが、今のところはそうなるな」
「それやったら、ウチが出張った方がええやろ。歳っちのところやと、相手にされへん可能性かてある」
「なるほどな。だが、賊でないという保証もまた、ないぞ?」

 私の言葉に、霞は不敵に笑う。

「歳っち。ウチが、そないな賊にやられる訳ないやろ?」
「では、霞に頼むとしよう。それから」
「歳三様。私も、霞に同行したいのですが」

 と、稟が進み出る。

「何故だ?」
「相手に、心当たりがなくもない……では説明になりませんか?」
「稟。それは本当なのか?」
「そうだ。正体不明の相手が、わかるというのか?」
「そうではありませんよ、鈴々、愛紗。ただ、今までの我が軍の行動と、場所から思い当たる事があるんです」

 そう話す稟は、何かを確信しているようだ。

「良かろう。霞も良いか?」
「ウチはええねんけど……」
「大丈夫です。これでも、自分の身ぐらい、守れますから」
「……わかった。なら歳っち、ウチら二人で行ってみればええな?」
「うむ。異変があれば、すぐに知らせてくれ。愛紗と鈴々は、念のために備えを」
「御意!」
「了解なのだ!」
「星と風は、念のため、他に所属不明の軍がいないか、今一度確かめよ」
「はっ!」
「はいはいー」

 霞と稟のする事だ、手抜かりはないと見ていい。
 よもや、危険はないと思うが……。



 そして、二刻後。

「お兄ちゃん! 霞と稟が、戻ったのだ!」

 鈴々に手を引かれ、陣の外へと連れ出された。
 ゆっくりと戻ってくる、稟と霞……どうやら、何事もなかったようだ。
 そして、その後ろに従う女子(おなご)
 ……初めて見る顔だ。
 かなりの美形で、背は愛紗と同じぐらいか。

「歳っち。出迎えてくれたんか?」
「歳三様。只今戻りました」
「二人とも、ご苦労だった」

 まずは、言葉で労う。

「そっちのお姉ちゃんは誰なのだ?」
疾風(はやて)。こちらが先ほどお話しした、私の主です」

 稟の言葉に頷くと、その女子は私の前に進み出る。

「お初にお目にかかる。私は徐晃、字を公明と言う」

 徐晃……また一人、英傑の登場だな。

「私は姓が土方、名が歳三。字はない」
「少し、貴殿の話を伺いたい。それで、稟に同行させて貰った」
「良かろう。霞、鈴々は外してくれ」

 私がそう言うと、徐晃はおや、という表情になった。

「良いのか? 私は、貴殿に害意を持つのかも知れないぞ?」
「先ほど、稟との会話、互いに真名で呼び合っていたではないか。稟が信じているのであれば、私には疑う必要はどこにもない」
「ほう。なかなかに剛胆な御方と見える」

 そう言って、徐晃も緊張を解いた。
「歳っち。ホンマに、ええんか?」
「構わぬ。何かあれば知らせる故、霞は陣に戻っているが良い。鈴々も、持ち場に戻れ」
「わかったのだ。お兄ちゃんがそう言うのなら、そうするのだ」

 二人が立ち去るのを見送ってから、私は徐晃に向き合う。

「さて、徐晃殿。話を聞きたい、との事だったが」
「そうだ。貴殿は、義勇軍を指揮していると、稟より聞いた。それに、間違いないか?」
「その通りだ」
「では、尋ねる。義勇軍と言うが、何を目指しての義勇軍なのだ?」

 心の底まで見透かすような、澄んだ眼をしている。
 私は、その視線を正面から受け止めた。

「究極的には、民の為だ。今の黄巾党は、徒に民を苦しめている」
「だから、賊と名のつく者は皆、討伐するというのか?」
「徐晃殿。貴殿の言葉には、何か含むところがあるようだが」
「……では、率直に言おう。貴殿らが討伐した白波賊……何故に、戦いを挑んだのか」

 并州に入る前に、蹴散らした賊軍の事か。

「白波賊も、また黄巾党の一派。我らが黄巾党と戦うための義勇軍であり、またその為に派遣された官軍と共に行動する以上、必然的に討伐の対象となる。そうではないか?」
「ならば問うが。貴殿らは、白波賊の実態を知っての上で、討伐を決意されたのか?」
「実態?」
「そうだ。確かに白波賊は、黄巾党の一派を名乗っていた。……だが、黄巾党そのものではなかった事は、知らなかったようだな?」

 徐晃は、何を言わんとしているのだろうか?
 さっぱり、意図が掴めぬのだが。

「疾風。黄巾党を名乗りながら黄巾党ではない。それでは、矛盾がありますよ?」

 稟も、私と同じ事を思ったようだ。

「では、説明しよう。今、大陸には無数の盗賊、山賊の類が存在している。その中でも、黄巾党は最大の勢力だ。これはいいな?」

 私達が頷いたのを確かめ、徐晃は続ける。

「元はと言えば、漢王朝への不満が募った結果が、今の黄巾党の躍進に繋がっている。元々は、小規模な叛乱はあっても、ここまでの規模にはならなかったのだが、きっかけさえあれば、民の不満が爆発するのは自明の理だ」
「……疾風。あなたが、それを口にしてもいいのでしょうか?」

 稟の言葉に、徐晃は苦虫を噛み潰したような顔で、

「構わんさ。官職など、擲ってきたからな」

 官職?
 では、徐晃は宮仕えをしていたのか。

「随分と、思い切った事をしたのですね」
「いや、己の保身と財を得る事しか頭にない高官連中に、嫌気が差していたのは事実なんだ」
「徐晃殿。地位を捨ててまで、此処にやって来た理由、白波賊と関係があるようだが」
「ほう、察しがいいな。流石は、稟が主と見込んだ男だけの事はありそうだな」

 話の流れからして、そうではないかと思っていたが、やはりか。

「白波賊の頭目の名、覚えているか。土方殿?」
「ああ。楊奉に韓暹、であったな」
「そうだ。韓暹は小悪党、取るに足りない奴だが。楊奉殿は違う」
「どのように違うのだ?」
「今でこそ賊の頭目などに身を窶してしまったが、本来は義の心を持つお人なのだ。私も、世話になったものだ」

 徐晃は、遠い目をした。

「それで疾風。先ほどの矛盾、答えて貰ってませんが?」
「白波賊、いや白波軍は、楊奉殿が太守の横暴によって苦しむ民を見かねて、立ち上げた組織なのだ」
「それならば、何故黄巾党に荷担したのです?」
「……考えてもみよ、稟。黄巾党がここまで勢力を拡大した今、奴らとの連携なしに叛乱が成り立つと思うか?」
「では、正式に黄巾党に参加していたのではない……そう言うのですか?」

 稟の言葉に、頷く徐晃。

「だが、白波軍は違う。理由なく民を襲ったりはしていない。太守を追放し、戦ったのも官軍相手ばかりだ」

 なるほど。
 当初、悪名を聞かなかった理由がわかった気がする。
 稟や風達が、対象として見逃したとしても、やむを得まい。

「貴殿らが、それを承知の上で、白波軍に討伐と称して戦いを挑んだのなら。民を救う義勇軍、というお題目とは齟齬が生じるのではないか?」
「では、徐晃殿。貴殿は、白波軍と我が軍は戦うべきではなかった。そう言うのだな?」
「そうだ。だから、楊奉殿の危急を聞き、急ぎ駆け付けたのだが……。間に合わなかった」

 無念そうに歯噛みをする徐晃。

「……事の次第はわかった。貴殿の言われる事も」
「では、楊奉殿を引き渡して貰いたい。あの御仁には罪はなく、朝廷の裁きを受けさせるに忍びない」
「それで、貴殿はどうするのだ?」
「……もう、洛陽には戻れまい。楊奉殿を、朝廷の手が届かない所までお連れし、畑でも耕して暮らそうかと思う」
「そうか。……だが、楊奉は渡せぬ」
「何故だ! そうまでして、勲功を求めるか!」

 詰め寄る徐晃の前に、稟が立ちはだかる。

「どけ、稟! 如何に貴様と言えども、邪魔立ては許さん!」
「落ち着いて下さい、疾風。楊奉は、ここにはいません」
「では、既に洛陽に送った後か。ならば、こうしてはいられない」
「待ちなさい。楊奉は、落ち延びて行方知れずです」
「では、ご無事なのだな?」
「恐らくは。少なくとも、我が軍は首級を上げてはいません」

 その言葉に、徐晃は安堵の溜め息を漏らす。

「そうか……。ご無事なのが、せめてもの救いだな」
「徐晃殿。貴殿の言われる事はわかった。……だが、やはり私は、討伐されるべき運命(さだめ)にあった、そう見ている」
「どういう意味だ、土方殿。返答如何では、ただでは置かんぞ!」

 腰の剣に手をかける徐晃。

「落ち着かれよ。事情は察するが、やはり黄巾党を名乗れば、討伐軍が差し向けられても当然。これは、勅令なのだからな」
「し、しかし!」
「貴殿は、我が軍と董卓・丁原連合軍が討伐に当たった事を言われるが。では、もし我が軍が白波軍を見逃せば、どうなったと思われるか?」

 私は、努めて冷静に話した。
 徐晃も、剣から手を離し、私の話に聞き入っている。

「まず、黄巾党の一派である以上は、他の官軍が討伐に来る。遠からずな」
「……それは、否定しないが。だが、白波軍は他の黄巾党とは違い、近隣の民から恨まれる事はしていない。それを聞けば、どうだ?」
「同じ事だろう。官軍に命じられている事は、あくまでも黄巾党の討伐。実態がどうであろうと、構わず攻撃を加える。私はそう見ているが、どうだ、稟?」
「ええ、仰せの通りでしょう。それに、黄巾党の看板を掲げている以上、更に事態が悪くなる可能性もあります」
「稟。それは一体……?」
「簡単な事ですよ、疾風。白波賊が仮に討伐を免れ、勢力を保ったとしましょう。その間、他の黄巾党集団は当然、官軍に付け狙われます。その結果、発生した敗残の将兵は、何処に向かうと思いますか?」
「……白波軍に合流する、と?」
「ええ。結果、規模は膨れ上がり、目につきやすくなります。そして、人数が増えれば、それに比例して抱え込む問題が増えます」
「食糧と、秩序……そんなところか」

 私の呟きで、徐晃は崩れ落ち、地に手をついた。

「……どのみち、楊奉殿を救う手立てはなかったと言う事……そういう事か」

 稟は、徐晃の肩に手を置いた。

「疾風。あなたの気持ちは理解出来るつもりです。ですが、これも時勢。後は、楊奉が追っ手を逃れる事を願うばかりです」
「……では、貴殿らは、追撃を行ってはいない、と?」
「そうだ。先ほども申したが、行方知れず、と言うのも事実だ」
「何故だ? 賊を討伐しても、頭目の首級を上げなければ、手柄の証拠にならんのだぞ?」
「私は、立身出世が目当てではない。ただ、苦しむ民を救い、皆が守れればそれで良いのだ」
「…………」

 徐晃は、しきりに頭を振っている。

「……すまん。暫く、一人にしてくれないか?」
「いいだろう。稟、参るぞ?」
「はい」



 更に、一刻が過ぎた。
 小休止のつもりが、存外時間が経ってしまった。

「主。そろそろ出立を」
「……ああ」

 徐晃は、どうするのか。
 暫し待ってみたが、現れる様子もない。

「ほな、ウチんとこも準備にかかるで?」

 霞の言葉を契機に、皆が腰を上げた。

「お兄さん、稟ちゃん。徐晃さんは、あのままでいいんですかー?」
「いや、後は本人が決める事。我らが口を挟むべきではなかろう」
「そうですね。疾風は思慮もあります、心配せずとも自分の道は見つけるでしょう」
「でも、アイツなかなか強そうだったのだ」
「そうだな。我らに同行して貰えれば、とは思うのだが」

 私としても、加わってくれれば心強いのは事実。
 腕も勿論だが、あの義に溢れた心根は、得難いものだ。
 ……だが、無理強いする訳にもいかぬ。

「土方殿」

 再び行軍状態になり、まさに動き出さんとした時。
 徐晃が、私の前にやって来た。

「心は決まったか?」
「……は。それを申し上げる前に、土方殿に頼みがある。聞いていただけるか?」
「頼み? 私に出来る事であれば、だが」
「あの者達を、貴殿に預けたいのだ」

 少し離れた場所にいる、自分の兵を指さした。

「ふむ。……楊奉を探すつもりか」
「その通りだ。やはり、楊奉殿の恩は、忘れられないようだ。だが、その為に奴らまで巻き添えには出来ん」
「しかし、我が軍で預かる、という事の意味は、わかっているのだろうな?」
「勿論だ。……貴殿の言葉を、信じようと思う。稟が真名を預ける程の人物、私の目に狂いはない筈だ」

 真摯で、何の打算もない言葉。
 そして、潔い態度。
 ……つくづく、惜しまれるな。

「……良かろう。貴殿の覚悟、この土方が受け止めよう。ただ、一つだけ、約定を願いたい」
「何でしょうか?」
「楊奉が見つかり、追っ手を避ける事が適ったならば。ここに戻ってきて貰いたい」

 皆、同意とばかりに頷く。

「私が、か?」
「そうだ。貴殿のその力、民の安寧の為に使わぬのは天下の損失。私は、そう思っている」
「……民の安寧、か。果たして、それだけか?」

 そう言う徐晃の顔は、笑っている。

「それは、貴殿自身が見定めれば良かろう。私が舌先三寸の男と見たなら、如何様にもするが良い」
「……いいだろう。では、その日が来る事を願っておく。稟、さらばだ」
「ええ、疾風も。待っていますよ、歳三様と共に」

 稟に向かって頷くと、徐晃は去って行った。

「星。徐晃の預かり者、受け取って参れ」
「……はっ」
「歳っち。ウチらは、先に出立するで!」

 霞が、馬上から叫ぶ。

「うむ。我々も、すぐに後を追う」
「ほな、後でな!」

 駆けていく霞。
 ……雨は、いつしか止んだようだ。 

 

十六 ~薊城~

 幽州に入り、漸くに目的地に着いた。
 ……筈であった、が。

「……これが、(けい)城か……」
「うわー、荒れ果てているのだ」
「伝え聞いてはいましたが、ここまでとは……」

 一同、ただ呆然と立ち尽くすばかり。
 城壁はあちこちが崩れ、人気は全く感じられない。
 とにかく、活気が全くないというのは、異様に過ぎる。

「風、稟。ここは、太守が不在なのか?」
「はいー。黄巾党がここまで動き出す前には、劉焉さんと言う方がいたんですが」
「今は益州刺史、ですね。その後任が決まる前に、黄巾党の活動が本格化してしまい、未だに刺史は不在のようです」
「しかし、公孫賛殿がいるではないか?」
「愛紗、公孫賛殿は北平の太守に過ぎませんよ? ただ、幽州は他に官軍がいませんからね」
「必然的に、刺史同然に動かざるを得ない……そういう事か。誠実な御仁と聞いている、かなりの苦労人と見てよいな」
「それでお兄ちゃん。どうするのだ?」

 鈴々の一言に、皆が私を見る。

「如何に荒れ果ててはいようが、此処で体勢を立て直す方針に変わりはない。ただし、城内の様子は先に見ておく必要はありそうだがな」
「では主。見て参ります」
「くれぐれも用心するよう。この荒れよう、ただ事ではなさそうだ」
「ははは、ご案じめさるな」

 だが、何やら嫌な予感がする。
 星であれば、杞憂に終わるのやも知れぬが。

「待て」

 双眼鏡で、城内を覗いてみる。

「主?」

 特に不審なところは見当たらぬが……勘というもの、馬鹿すべきではない。

「……いや、やはり妙だ。夜を待とう」
「どうしてなのだ?」
「夜になれば、灯りを使わざるを得まい? この荒れようだ、隠すのは難しかろう」
「それに、今日は新月ですしねー。僅かな灯りでも目立ちますから」
「では、全軍に待機を命じます。ところで歳三様。一つ、策があるのですが」
「ほう」

 稟には、何やら期するところがあるようだ。

「ならば、任せよう」
「良いのですか? まだ、どのような策か、申し上げていませんが」
「構わん。思う通りにやってみるがいい。誰が必要だ?」
「ありがとうございます。では、愛紗と鈴々を」
「よし。愛紗、鈴々。良いな?」
「はい!」
「合点なのだ」



 夜。
 既に稟達は陣を出て、行動を開始している。

「けど、歳っちも思い切ったもんやなぁ。全部、稟に任せるやなんて」
「稟を信じている、それだけだ。信頼には責任が伴うが、稟ならば心配あるまい」
「お兄さん、風が同じ事をしても、やはり任せていただけますかー?」
「愚問だな。その為に真名を預かっているつもりだ。ならば、私はそれに応えるまでの事さ」
「果報者ですな、我らは。主のような方に巡り会えたのですからな」
「うむ。皆、期待しているぞ」

 ……と、城の方が騒がしくなり始めた。

「霞。見てみるか?」

 私は、双眼鏡を手渡す。

「ええんか?」
「ああ」
「おおきに。ウチ、気になっとったんや、これ」

 妙に、愉しげだな。

「どうだ?」
「真っ暗やなぁ。……いや、松明を持った連中が、動き回っとるわ」
「他には?」
「せやなぁ。後は……火や。なんや、燃えとるで」
「火事ですかねー?」
「いや、ちゃうな。あれは、火付けや」

 放火?
 しかし、この状況下で放火……ふむ、そういう事か。

「星。様子を見て来るか?」
「しかし、宜しいのですか?」
「状況が変わった。今ならば、さしたる危険もあるまい」
「では、主のご期待に添うとしましょう」

 突如として、城門近くで銅鑼や鐘の音が、鳴り響いた。

「ワーッ!」

 次いで、鬨の声。

「なるほどなぁ。暗闇に火、音。そら、待っとる奴は驚くやろな」
「人間の緊張なんて、案外持続出来ませんからねー。ましてや、相手が訓練された兵でないなら、尚更そうですね」
「そういう事だ。稟も、相手に気づいたからこその策であろう」

 と、城門の辺りが、不意に騒がしくなり始めた。

「どうやら、出てくるようだな」
「ですねー。さてさて、稟ちゃんの策、どうなりますかね」
「うわっ!」
「いてっ!」

 次々に上がる驚愕と、短い悲鳴。

「全員、武器を捨てろ! お前達は完全に包囲したぞ!」

 凛とした、愛紗の声を合図に、あちこちで剣を投げ出す音が、続いた。



 そして、夜が明けた。

「……こ、これは……」
「酷いものですな……」
「いくらなんでも、やり過ぎやで……」

 確かに、酷い有り様である。
 街には、猫の子一匹見当たらぬ。

「ガアー、ガアー」

 烏だけが、不気味に鳴く。
 そして、路上にも、家々にも、満ち溢れる民の亡骸。
 その殆どが、衣服をどす黒く染めていた。

「お兄さん。生きている人は……見つかりませんでした」

 いつもは飄々としている風も、流石に口調が沈んでいる。

「そうか。愛紗、捕らえた賊はどれほどいた?」
「はい。三千程です」
「……わかった。首領格の者のところに案内してくれ」

 愛紗の案内で、賊が押し込められている蔵へ。
 皆は、その後に続いて来ていた。
 一人の男が、こちらに鋭い視線を向けている。

「貴様が、この者らの首領だな?」
「だったら、どうだというんだ?」

 縛られているにも関わらず、男は不貞不貞しい態度を取る。

「この城には、いつやって来た?」
「へっ!」
「黄巾党のようだが、何処から参った?」
「知らねぇな」
「貴様!」

 愛紗が、青龍偃月刀を突き付ける。

「どうした。殺すならさっさとやれよ?」
「ほう。よい覚悟だ」

 スッと、愛紗が眼を細めた。

「待て、愛紗」
「ご主人様! このような外道、取り調べるだけ無駄です」
「……待て、と言った筈だぞ?」

 静かに、それだけを言う。

「わ、わかりました」

 慌てて刀を下げた愛紗に代わり、男の前に立つ。

「では、望み通りにしてやろう」
「……さっさとしやがれ」
「そう慌てるな。……貴様らに殺された民の分まで、しっかりとその身で贖って貰うとしよう」
「……ご主人様?」
「皆の者。少々、私も鬼になるやも知れぬ。下がっているがいい」

 皆の顔色が、変わった。

「主。もしや……?」
「何も言うな。残れば悔やむであろう、下がれ」
「嫌なのだ」

 鈴々が、はっきりと拒否を口にした。

「そうですね。この場を離れるつもりはありませんよ、私も」
「風も、稟ちゃんと同じですねー」
「……わかっているのか? 私がこれから、何をしようとするのかを」

 我ながら、声に怒気が孕むのを抑え切れない。

「主。我らを、あまり見くびらないでいただきたい。皆、主と共に歩むと決めた者ばかりですぞ?」
「ご主人様。皆、同じ気持ちのようです」
「……お前達も、良いのだな?」

 周囲にいた兵達も、同じように頷く。

「わかった。ならば、好きにするが良い」

 兼定を抜き、突きつけた。
 やはり、平然としている。
 死は恐れていないようだが……私は、すぐに楽にしてやるつもりなど、毛頭ない。
 そのまま、男に向かって振り下ろす。

「ギャッ!」

 まずは、左耳を斬り飛ばす。
 男は縛られたまま、転げ回る。

「ち、畜生! 殺すならひと思いにやりやがれ!」
「そうはいかん。貴様がしてきた所業、この程度ではあるまい?」

 女子供を含め、命を、財を、全てを奪い尽くした外道。
 如何なる申し開きも、聞くつもりはない。

「押さえてくれぬか」
「は、はっ……」

 兵士が駆け寄り、暴れる男を数人がかりで押さえ付けた。

「は、離せ!」

 今度は、膝を斬り割る。

「ひぎゃぁっ!」

 おぞましい程の絶叫。

「や、止めてくれ……」

 涙か洟水(はなみず)かわからぬが、男の顔は酷い有り様だ。

「ほう? 覚悟を決めたのであろう?」
「こ、こんな目に遭いたくねぇよ……。なぁ、助けてくれ……」
「……その言葉、貴様らが殺した、罪もなき民に言えるか?」
「……うう、痛ぇよ……」

 痛みで、私の声など聞こえておらぬ、か。
 兼定に血振りをくれ、鞘に収めた。

「お……おい……。待って……くれよ……」

 掠れた声で言う男だが、私は振り返るつもりはない。

「御大将。こいつはどうなさるんで?」
「捨て置け。どのみち助かるまい」

 出血が酷い。
 放っておけば、確実に死に至るだろう。

「こ……この……おに……め」

 そうだ、私は鬼だ。
 だからこそ、毅然と臨むのみ。
 周囲の賊仲間は、私の処置を見て、皆震え上がっている。

「正直に申すが良い。この中で、女子供を手にかけた者。また、女子を手籠めにした者は、立て」
「…………」
「どうなのだ。それとも、全員が同罪か?」

 ……反応なし、か。

「ならば、やむを得まい。全員、あの男のように、苦しむが良い」

 再び、兼定を抜く。

「ま、待ってくれ! 小頭の命令で、俺達は仕方なくやったんだ。けど、女は手を出していねぇ!」
「てめぇ! 仲間を売るつもりか!」
「お、俺はもともと、あんたらのやり方が気に入らなかったんだ!」
「そうだそうだ!」

 口々に、小頭と呼ばれた男は、仲間からの非難を浴びた。

「その話、確かであろうな?」
「う、嘘じゃねぇ! 犯った女から、髪飾りを奪ったんだ! 持っているから確かめてくれ!」
「よし。その男、改めてみよ」
「はっ」
「な、何しやがる!」

 兵の一人が、男の懐中に手を入れた。

「あった! 土方様、確かに髪飾りが」

 銀細工の、見事な装飾が施された髪飾り。
 元の持ち主が、さぞや大切にしていた品であろう。

「……外道め。貴様など、死すら手緩いわ!」

 兼定を振るい、小頭と呼ばれた男の手首を、斬り飛ばす。

「ひ、ひぃーっ! お、俺の手が!」
「……他の者は、どうだ?」

 こうなると、後は雪崩を打つかの如し。
 所詮は賊、その程度の連帯感でしかない。
 ……結局、十数名が女子を陵辱したり、子供を惨殺した事が判明。
 先の二人と同じ目に遭って貰った。
 残った者は、命じられただけか、もしくは躊躇ったり、手を出さなかった……それを信じる事した。

「だが、貴様らの申告が、もし偽りであったならば……。その時は、わかっているだろうな?」

 賊は皆、壊れた振り子のように、首を振るばかりであった。



 火を起こし、死者を一人一人、弔う。

「歳三様。これでは、かなり手間取りますが?」
「やむを得まい。土葬では、穴を掘るのが一苦労だ」
「それに、このままにしておけば、烏や野犬に亡骸を貪られるばかり。せめてもの慈悲……とも言えましょう」
「それだけではないぞ、愛紗。人の死体は腐敗すれば、流行り病の原因となる。このまま打ち捨てる訳にはいかぬのだ」
「死者は丁重に弔うべき。お兄さんらしいですよ」
「風。そんな大層なものではない。私はただ、やるべき事をしているのみだ」
「果たして、そうですかな? 主の処断なしでは、事は未だ、解決を見ておりますまい」
「せやな。ウチかて、あそこまではようせえへんけど。歳っちがやったんは、一見鬼の所業やけど、せやなかったら……全員、処刑せなあかんかったやろな」
「だから、お兄ちゃんが気にする事はないのだ♪」

 ……ふ、全てお見通し、という事か。

「ご主人様のなされようは、確かに非情な一面はあります。ですが、果断で迅速な事は確かです」
「一部では謗りも受けましょう。ですが、結果を伴う決断は、必ずや後で生きましょう。些細な悪評など、我らが吹き飛ばしてみせましょうぞ」
「……そうか」

 私には、迷いなど許されぬようだ。
 皆が、こうして信頼してくれる以上は、な。

「土方様」
「何だ」
「はっ。捕虜の方から、火葬を手伝いたい、と申し出がありまして。如何致しましょう?」

 罪滅ぼしのつもり、であろうか?

「……良かろう。だが、おかしな真似をすればその時は容赦せぬ。そう申し伝えよ」
「はっ、では!」

 住民と合わせ、数千もの亡骸を弔う作業は、延々と続いた。



 漸く、全てが片付いた。
 部隊の立て直しは、皆の奔走のお陰で、どうにか形になったようだ。

「後味の悪い寄り道でした。……無念です」
「皆、同じ気持ちでしょう。ですが、今はまだ、私達の力は微力。やれる事に全力を尽くすしかありません」
「とにかく、黄巾党をぶっ飛ばすしかないのだ」
「ふっ、単純だな、鈴々は。だが、真理でもある……我らは、それしかありませぬからな」
「ですねー。とにかく、北平を目指しましょう」
「せやせや。ところで歳っち。あいつら、どないするんや?」

 霞が、捕虜の一団を指さす。
 その殆どが、我が軍についてくる事を望んでいる。

「今回は、それはお止め下さい」
「風も、そう思いますねー」

 軍師二人が、口を揃えて諫めてきた。

「何故だ? 解き放てばどうなるか、言うまでもなかろう?」
「そうなのだ。折角捕まえたのに、また悪さをされたら大変なのだ」

 愛紗と鈴々はすかさず反応を見せるが……ふむ、星と霞はそうではないらしい。

「おやおや、星ちゃんと霞ちゃん、何か気付いたようですねー」
「……いや、気付いたという程のものではないが。今の奴等であれば、解き放ちも問題ないのではないか?」
「それは何故ですか、星?」
「主の処置がある。あれを目の当たりにしたからこそ、皆に畏れがある。再び愚行を繰り返せばどうなるか、身に染みていよう」
「ではでは、霞ちゃんもどうぞ?」
「ウチは、糧秣の問題が気になる。幽州は飢饉のせいで、今年は殆ど収穫は望めへんちゅう話や。ウチらは、晋陽を出た人数で糧秣を揃えとるやろ? けど、この調子やったら、補給も厳しいんちゃうか?」
「……では、奴等を連れていけば」
「足りなくなるのだ……」
「愛紗も鈴々も気付いた通りや。今いる兵士にも不満が出て、士気に関わる。そないな真似、ウチは願い下げや」
「と言う訳なんですがー。お兄さん、どうしましょうか?」
「結論は出ているだろう。ただし、ただ解き放てば、また困窮の末、悪事に走るやも知れぬ。目的だけは与えるべきだろう。稟」
「はい」
「厳しいとは思うが、数日分の携行食を、分け与えてやってくれ」
「……では、晋陽に?」
「それしかなかろう。并州とて余力がある訳ではないが、月ならば何とかしよう」
「わかりました。何とか、遣り繰りしてみましょう」

 ため息をつく稟。
 流石に気が重いようだが、これが最善……いや、今の最良の選択だろう。
 それでも、彼らのうち、全員……いや、半数が辿り着ければ御の字、というところか。

「主。……あまり、御自分を責めないで下さい。これは、主の責めではありませぬ」
「また、顔に出ていたか?」
「ふふ、さて、どうですかな?」

 悪戯小僧のように、口許に笑みを浮かべる星。

「風。手伝って下さい」
「わかりましたー」

 皆が、それぞれ、生きるために懸命。
 ならば、私も精々足掻くとしよう。 

 

十七 ~白馬将軍~

 北平に至る道中。
 ……それは、凄惨の一言に尽きた。
 元々、さほど豊かではない土地とは言え、通る村の悉くで餓死者がいるという有様だ。

「せめて、食糧を分けてあげられれば良いのですが……」
「愛紗ちゃん。それが無理な事はわかってますよねー?」
「そうです。それに、焼け石に水です……。却って、食糧を貰える、という風評が流れでもしたら、それこそ一大事です」
「我らとて、行軍に必要な分しかない。民を救うために、自分たちが飢えては何もならぬ……か」
「ホンマ、世知辛いなぁ。けど、ウチらには役目がある……それが済むまでは、耐えるしかないな」
「うにゃー、もどかしいのだー! 黄巾党、まとめて出てくるのだー!」

 私とて、何とかしてやりたくとも、何も出来ない己の無力さが募るばかり。
 ……神でも仏でもない私だ、思い上がりなのかも知れぬが。

「なあ、歳っち」

 霞の言葉で、思考を中断する。

「どうかしたか?」
「先に、ウチが北平に行った方がええんちゃうか?」
「公孫賛に、話を通しておく……という事か?」
「やっぱ、歳っちは話が早いなぁ。歳っちの軍は、義勇軍ちゅうても規模が半端やない。黄巾党と間違われたらかなわんやろ?」
「ふむ、確かに。だが、それならば私も参るべきだな」
「う~ん、どうやろ? 公孫賛はんは、確かに噂やとええ人や、ちゅうけどなぁ」

 霞も、伝聞だけで判断はつきかねているようだ。
 だが、どのみち会うのならば、早い方がいいに決まっている。

「やはり、出向くとしよう」
「では、私達もお供を」
「いや、愛紗達はこのまま、軍の指揮を頼む。黄巾党の襲撃がないとも限らんからな」

 ……む、皆不満そうに見えるのだが。

「主。霞と二人っきり……何事もありませぬな?」
「そうですよ、お兄さん。風には隠し事は無駄ですからね」
「歳三様。信じていますから」
「……ただ、ご主人様はお優しいですから。それが、気がかりではあります」
「にゃ? お兄ちゃん、みんなどうしたのだ?」

 一人、空気を読まない鈴々が、この時ばかりは救いだ。

「心配せんかてええって。ウチも、抜け駆けはしとうない。……ま、歳っちはええ男やけどな」
「ふふ、戯れはこのくらいにしておけ。とにかく、後を頼んだぞ?」
「御意!」

 皆の返事を待ってから、馬の手綱を握りしめた。



 北平の城。
 取り立てて特徴もなく、晋陽と似ている印象。
 藤堂高虎公や、加藤清正公のような、個性のある築城の名手が不在なのだろう。
 もっとも、設計思想が根本的に違うから、特徴を持たせる必要がない、という事か。
 ……と、城に出した使者が、こちらに戻ってきたようだ。

「張遼将軍、土方様! 公孫賛様が城内へお運びを、との事です」
「よっしゃ。ほな歳っち」
「うむ、参ろう」

 そのまま、軍勢を率いて、城門を潜る。
 流石に、ここまでの村々とは違い、多少は活気があるようだ。

「霞。他の城と比べて、どんな印象だ?」
「うーん、せやなぁ。可もなく不可もなく、ちゅう感じはするな。そりゃ、洛陽と比較する方が間違いやけど」
「私は、晋陽と薊しか知らぬが……。晋陽の方が、些か活気があった気がする」
「そら、月は今の朝廷の中でも、ホンマ優秀な方やで? 公孫賛はんには悪いけど、比べたら悪いわ」
「フッ。では、私はとんでもない娘を持ってしまった、という事になるな」
「あったり前やろ? まぁ、心配せんかてええで。歳っちと月、似合いの父子や思うしな」
「精々、娘に嘆かれぬようにするか。お、着いたようだな」

 すれ違う兵士の顔つき。
 朱儁軍のそれよりは、かなり引き締まっているようだ。
 公孫賛のところには人材なし、と聞いているが……ふむ。

 そして、謁見の間。

「よく来てくれた。私が北平太守、公孫賛だ」

 半ば予想はしていたが、やはり女子(おなご)であった。

「ウチは、中郎将董卓の将、張遼言いますねん。よろしゅう頼んますわ」
「私は義勇軍を率いる、土方と申す」
「ああ、そんなに堅いのは止そう。……しかし、アンタが土方か」

 公孫賛は、興味深げに私を見る。
 この時代の英傑は、ざっくばらんな人物が多いのだろうか?
 ……まぁ、本人が良いというのだ、こちらも普段通りにさせて貰うとしよう。

「私の顔に、何か?」
「いや、『鬼の土方』って言われている義勇軍の指揮官がいる、って聞いていたからな。どんな豪傑が来るんだろうと思っていたんだ」

 ……何だ、その二つ名は?
 どうやら、黄巾党に執った処置が、おかしな広まり方をしたようだな。

「へえ、歳っちが鬼、か。けど、公孫賛はんまでご存じやったとは思わへんかったな」
「私も黄巾党が暴れ出してからは、ずっと此処から動けていないが。少なくとも、黄巾党の間ではそう言われているらしいぞ?」
「望むところ、と言っておこうか。公孫賛、でよろしいか?」
「ああ。張遼も、それでいいからな」

 霞が頷いたのを確かめてから、私は続けた。

「わかった。では公孫賛、既に私の事は知っているようだが、我らは苦しむ民を見かねて立ち上がった義勇軍。ここにいる張遼共々、黄巾党と戦う貴殿の助太刀に参った次第」
「有り難い。ここはただでさえ、北方の烏丸に警戒していないといけない立地だと言うのに、この上黄巾党では、と手を焼いていたところなんだ。おまけに刺史が不在で、全てを私一人で応じろというのは、無理な話さ」
「領内の民も、だいぶ困窮しているようだな。村々で、数多くの飢えた民を見かけた」
「……そうなんだ。私もわかってはいるのだが、この北平を維持するのが精一杯の有様でな。文官でもいればいいのだが、こんな辺境の地まで来るような者はいないらしい。全く、人手不足って奴は厄介さ」

 溜息をつく公孫賛。

「……苦労しとるようやね、アンタ」
「……ああ。正直、猫の手も借りたいのが現状なんだ」
「ならば、尚更、黄巾党は早めに片付けねばならんな」
「そうだ。鬼の率いる義勇軍が来た、って知れば連中の士気も下がるだろう。期待してるぞ?」

 おかしな二つ名はともかく、期待には添わねばなるまい。
 少なくとも、誠実、という噂に違わぬ人物のようだ。
 全てを一人でこなしている現状、飽和しているだけで、上に立つ者としての器量は備えていると見た。

「では、早速軍議に入りたい。城外にいる、我が軍の者を呼びたいのだが、宜しいか?」
「勿論だ。宿舎、と言える程の物は用意できないが、何とか野営しないで済むよう、手配はさせる」
「忝い」

 私は、早速知らせようと踵を返した。

「ああ、待て。呼びに行くのなら誰かを遣らせよう」

 公孫賛が、慌てて呼び止める。

「いや、結構。我が軍は、皆仲間だと思っている。その仲間に、手間を惜しむ真似はしたくないのだ」
「歳っちは、こういう性格ちゅう訳や。好きにさせたってえな」
「そ、そうか。悪かったな、余計な気を回して」
「いや。配慮、感謝する。では後ほど」

 さて、待っている皆のところに急ぐとするか。



 数刻後、主立った者を連れて北平に戻った。
 簡単に自己紹介を済ませた後、直ちに軍議に入る。

「数日前に探らせたんだが、今この辺りにいる黄巾党は、総勢で三万から三万五千、というところらしい」

 公孫賛の言葉に、皆の表情は険しくなる。

「どうやら、増えてしまったようですねー」
「そうですね。残党が合流している、と見ていいでしょう」
「ん? どういう事だ?」

 事情を知らぬ公孫賛一人、不思議そうな顔をしている。

「実は、黄巾党の動きは逐次、探らせているのだ。特に、この風が中心となってな」
「ふえー、本当に土方のところ、義勇軍なのか?」
「率いる私が無位無冠なのだ、そう言わざるを得まい?」
「けどさ、張遼。官軍でも、ここまでやっているところ、他にあるか?」

 よほど驚いたらしく、やや興奮気味のようだ。

「う~ん、そもそも官軍でまとも、ちゅうんは……。曹操はんとこと、孫堅はんとこ、後は皇甫嵩はんところぐらいやろうけど。朱儁はんところは、部下が木偶の坊ばっかやしなぁ」
「う……。ならば、私のところも同じではないか……」
「いや、公孫賛殿? 貴殿の軍は、ざっと見た限りでも、十分に統制が取れている。諸将が好き勝手を言わず、上将の命で動けるのは大したものですぞ?」

 落ち込む公孫賛に、星が声をかける。
 そう言えば、本来であれば星は公孫賛の客将、となっている筈であったな。
 巡り合わせとは言え、奇妙なものだ。

「せやせや。この幽州を、アンタだけでここまで守り抜いたんや。他のアホ共やったらこうはいかへんかった思うで?」
「そうですよ、自信を持って下さい、公孫賛殿。及ばずながら、我らも尽力します」
「あ、ああ。……少しは自信持ってもいい……のか?」
「少し、ではなく胸を張って構わぬと思うが。貴殿は、見事な将であればこそ、この状況で太守を勤め上げていられるのだろう」
「そ、そうか? な、なんか照れるな」

 漸く、公孫賛は顔を上げた。
 今少し自分に自信を持てば、更に良き将になるであろうが……よほど、酷評ばかり受けたのであろう。
 尤も、実力の程は、今に判明するであろうが。

「ではでは、話を戻しますねー。黄巾党は三万五千と見積もるとして、率いている者はわかりますか?」
「えっと、何儀と劉辟……だな。渤海と平原の間あたりに、山塞を作って立て籠もっているらしい」
「公孫賛殿。黄巾党攻めに出せる軍勢は、どのぐらいでしょうか?」

 稟の問いかけに、腕組みをして考え込む公孫賛。

「そうだな……。五千がやっと、だな。烏丸の備えもあるし、黄巾党以外の盗賊にも対処が必要だからな」
「十分でしょう。それ以上無理をすれば、治安だけでなく、補給面でも不安が出ますからね」
「でも、合わせて二万五千。一万、足りないのだ」
「鈴々の申す通りです。立て籠もる相手に、兵数が劣るとなると……厳しいですね」
「しかも、攻めかかるのが、各地で黄巾党討伐に成果を上げている軍となれば、尚更だろう」

 何気なく呟いた、公孫賛の言葉。
 その刹那、脳裏に閃くものがあった。

「公孫賛。今、何と言った?」
「え? いや、董卓軍と土方の義勇軍は、黄巾党に恐れられているって」
「……ふむ。それで行こう」
「は? お、おい、どういう事だ?」
「ははーん。ウチ、歳っちが何を考えとるか、わかったわ」

 真っ先に反応したのは、霞だった。

「なるほど。その手がありましたか」
「流石はお兄さんですねー」

 軍師二人も、すかさず頷いた。

「だから、何をどうするって? 勿体ぶらずに、教えてくれよ」
「公孫賛殿。貴殿の言葉に正解があるのですぞ?」
「……そういう事か、星。私にも、わかった気がする」
「にゃ? 鈴々にはさっぱりなのだ」
「そ、そうだ! 頼む、教えてくれ」

 ……当の本人と鈴々には、説明が必要か。

「では愛紗。説明してみるがいい」
「わ、私ですか?」

 稟か風が指名されると思ったのか、あたふたとしている。

「そうだ。お前も将なのだ、誤りを恐れず、思うところを述べるがいい」
「……わかりました。公孫賛殿、黄巾党は我らを恐れている。そう申しましたな?」
「ああ」
「ならば、貴殿の軍は如何です?」
「私の軍か? そうだな、官軍は官軍、恐らくは侮られているだろうな」
「では、黄巾党を、公孫賛殿の軍勢だけで攻めた、とすれば?」
「……あ。そうか、立て籠もっている黄巾党が、出てくる……か?」
「そうです。野戦となれば、数の優劣よりも、今度は兵の質で勝負が出来ましょう」

 合点がいったようで、公孫賛は微笑を浮かべた。

「ご主人様。これで、宜しいでしょうか?」
「合格だ、愛紗。鈴々も、わかったか?」
「わかったのだ。公孫賛のお姉ちゃんの旗だけを立てて、黄巾党に向かって、鈴々達は隠れていればいいのだ」

 ホッとした表情を浮かべながら、鈴々の言葉に頷く愛紗。

「しかし、主。黄巾党とて、我らの着陣は聞き及んでいましょう。誘いに乗らぬ場合は如何なさいます?」

 うむ、良い傾向だ。
 将が皆、意見を述べぬ軍議など、軍議に非ず。

「霞、どうか?」
「ウチか? せやなぁ……一つだけ、思いついた手はある」
「なら、それを皆で詰めるがいい。その二段構えで良かろう」
「おいおい、内容を確かめないのか?」
「公孫賛。これが、我が軍の流儀だ。心配せずとも、皆を信じるのみ」
「そ、そんなものか……」

 今ひとつ、公孫賛は釈然としないようだ。

「ふむ、心配か?」
「い、いや……。ただ、あまりにも大胆なので戸惑っているだけだ」
「貴殿にも、いずれわかる筈だ。霞、頼むぞ?」
「任せとき♪」



 公孫賛から借りた部屋で、書簡に目を通している最中。

「土方様。お目通りを願う者が参っております」

 我が軍の兵士が、そう告げに来た。

「私にか?」
「はい。張世平、と名乗っておりますが」
「ほう」

 無論、その名を忘れる筈もない。

「わかった。此処……いや、私から出向こう。案内を頼む」
「宜しいのですか?」
「ああ」

 如何に個室とは言え、借り物の場であまり、尊大に振る舞うべきではない。
 公孫賛ならば何も言うまいが、他の者まで同じ……とは限らぬからな。

「では、こちらへ」
「わかった」

 読みかけの書簡を閉じ、私は席を立つ。
 ……と、戸口に人影が見えた。

「あれ、歳っち。どこか行くんか?」
「霞か。私を訪ねてきた者がいるのでな、会いに出向くところだ」
「せやったら、また後の方がええな。出直すわ」
「待て。霞は、張世平と面識はあるか?」
「張世平……? それ、馬商人ちゃうか?」
「そうだ。どうやら、私を訪ねてきたらしいのだが。一緒に行かぬか?」
「ええんか? ウチは、そんなに親しいっちゅう訳やないで?」
「だが、全く面識がない訳でもあるまい? ならば、構わぬだろう」
「せやったら、同席させて貰うわ」

 城門には張世平ともう一人、見慣れぬ男がいた。

「おお、これは土方様の方からお運びとは恐縮です。張遼将軍も、ご無沙汰しております」

 商人らしく、如才のない挨拶。
 だが、強かさを秘めた者が、ただ久闊を詫びに来ただけ……とは思えぬな。

「久しいな。だが、私がここにいる事、よくわかったな?」
「ははは、土方様。貴方様はすっかり有名人ですよ? 黄巾党はその名を聞いただけで震え上がるとか」
「所詮は噂に過ぎぬ。それで、今日は何用か?」
「はい。その前に、この者をご紹介させていただけますかな?」

 もう一人の男が、前に進み出た。

「お初にお目にかかります。手前、蘇双と申します。張世平とは商いの仲間でございます」
「土方だ。馬商人、という事で良いのか?」
「はい。ただ、もう一つ、酒を商っております」

 途端に、霞が反応した。

「酒商人かいな。美味い酒あったら、ウチんところへ持ってきてくれへんか?」
「はい、張遼将軍のような御方でしたら、喜んで。是非、ご贔屓に」

 流石は、張世平の仲間、しっかり者のようだ。

「それで、張世平。今日は、蘇双を紹介に来ただけ……ではあるまい?」
「土方様には敵いませぬな。実は、蘇双を連れてきたのは他でもありません。これなのですが」

 張世平は、懐から包みを取り出す。
 言うまでもなく、それは石田散薬。

「如何した? もしや、商いにならぬか?」
「いえいえ、逆でございますよ。効き目があると評判は上々。その上、土方様のお名前が広まるにつれ、評判が評判を呼んでおります」

 我が家秘伝の散薬だ。
 売れているのであれば、言う事はないな。

「ただ、惜しまれるのが用法でございましてな」
「用法?」
「はい。服用の際に水、湯、茶……いろいろと試しましたが、どうも酒との相性が良いようです。ただ、何か足りない気がしましてな。そこで、この蘇双に相談した訳です」

 蘇双は頷いてから、

「手前も、商売柄様々な酒を扱っております。張世平に頼まれ、各地から酒を取り寄せたのですが、どれもしっくり来ません。そこで、土方様に伺いたく、お目見えを願った訳でございます」

 なるほどな。
 確かに、石田散薬は日本酒の燗酒で服用するもの。
 だが、この時代、日本酒が存在する筈もない。

「確かに、これを用いるのに適しているのは、私が知る清酒だ。だが、大陸中を探しても、その酒は手に入るまい」
「では、蓬莱の国にはある、と?」
「その保証はない。どうしても言うのであれば、作るしかないな」
「製法をご存じなのですか? その、特別な酒の」
「特別ではないが。ただ、再現できるかどうかはわからぬが」

 私が知るのは、自家製のどぶろく。
 これを濾過すれば、清酒に近い物は作れるやも知れぬ。

「土方様! お願いでございます、是非、その製法をお教え下さいませ!」

 蘇双は、縋り付かんばかりに頼み込んできた。

「手前からも、お頼み申します。蘇双は信頼できる男、決して他言はしないと、手前が請け合います」
「なあ、歳っち。その酒、ウチも飲んでみたいわ」

 ふっ、三対一か。
 隠し立てする類の物ではないし、張世平には恩もある。

「良かろう。ただし、原料や水、気温などに左右される類の物だ。私が思い描く物が出来上がるとは限らぬぞ?」
「構いません! 何年かかろうとも、やり遂げて見せます。これは、手前の商人としての意地でございます」
「わかった。ならば、製法を伝授致そう」
「あ、ありがとうございます!」

 飛び上がらんばかりに喜ぶ、張世平と蘇双。

「なあなあ、利き酒はウチにもさせてえな?」
「無論だ」
「よっしゃ! 歳っち、ホンマに話がわかるわぁ♪」

 ……それは良いが、二人の前で無闇に抱き付くのは、如何かと思うぞ?



 この話は、何故か広まってしまったらしく。
「主。酒の話に、私を除け者にするとは、あまりにも惨いですぞ!」
 機嫌を損ねた星を宥めるのに、随分と手間取る羽目に陥った。 

 

十八 ~幽州での戦い~

「では歳三様、公孫賛殿。手筈通りに。鈴々、頼みましたよ?」
「応なのだ!」

 稟達の見送りを受け、公孫賛率いる三千が、北平を出た。
 私は、官軍の装束を借り、一兵士の姿でいる。

「なあ、土方」
「何かな?」
「策は理解できるんだけどさ。何も、お前自身が出張る事はないんじゃないか?」

 馬上で、公孫賛は首を傾げている。

「そうかも知れぬ。だが、『勇将の下に弱卒なし』。それを、私は兵に見せておきたいのだ。多少の危険など、気にはしておられぬ」
「確かに、将が安全な場所から指揮を取るよりも、こうして前線に出てくる方が、兵の士気は上がるさ。けど、土方のところには将となるに足る人材がいるし、そこまでしなくとも結束は固いように見えるぞ?」
「いや、皆にはそれぞれ、果たすべき役割がある。それに、私のそばには鈴々がいるのだ。何も恐れる事はない」
「そうなのだ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、鈴々が守るから、大船に乗った気でいるのだ」

 決して、大言壮語ではない。
 自信過剰は勿論戒めるべきだが、此度の相手を見る限り、鈴々一人でも警護役としては十分過ぎる筈だ。

「はぁ、羨ましいな全く。そこまで信じる事が出来て、何事も託せる仲間がいるなんてな」
「そうでなければ、この時代を生き抜くなど不可能。貴殿にも、いずれ信ずるに足る者が現れよう」
「だといいんだけどな。あたしは麗羽や美羽みたいに財もないし、曹操みたいな強さもない。……ずっと、このままって気がするんだ」

 どうも、公孫賛は後ろ向きになりがちだ。
 慰めるのは容易い、が。
 もっと自信を持っても良い、と何度も思わされた。

「とにかく、何儀らさえ討てば、一息つけよう。先の事は、それから考えてはどうだ?」
「ああ、そうするよ。ここでしくじれば、仲間どころじゃないもんな」

 それは、我らとて同じ事。
 一度下手を打てば、今までの成果を無駄にしかねないのだ。
 皆、頼むぞ。



 勃海に近付くにつれ、軍全体の雰囲気が変わってきた。

「あまり気取られてもまずい。緊張し過ぎではないのか?」

 どうやら、公孫賛が落ち着きを失いつつあるのを見て、兵に伝染したようだな。

「そ、そうは言っても。もし、黄巾党の奴等が出てこなかったら……」
「いや、出てくる筈だ」
「そ、そうか……。でも私には、今一つ確信が持てないんだ」
「お姉ちゃんは、心配性なのだ」
「う、うるさいな。仕方ないだろ、こういう性格なんだから」
「だが、将としては褒められんな。将の態度を、兵は敏感に感じ取ってしまう」
「う……。じ、じゃあ、どうしろって言うんだ?」
「もっと泰然自若に構える事だ。内心で不安や恐れがあろうとも、それを顔や態度に出さぬが、良き将というもの」
「わ、わかった。やってみる」

 とは言うもの、一朝一夕で改善する類のものではなさそうだ。
 ……ん?
 ふと、妙な気配を感じ、私は立ち止まる。

「どうかしたか?」
「……どうやら、お出ましのようだ」
「お兄ちゃんも気がついたのか?」

 鈴々が、声を潜める。

「うむ。どうやら、斥候のようだが。鈴々、捕らえられるか?」
「やってみるのだ」
「よし。ただし、その蛇矛は置いていけ、目につき過ぎる」
「でも、得物なしじゃ、いくら雑魚でも捕らえるのは大変なのだ」
「では、これを使え」

 堀川国広を鞘ごと外し、手渡した。

「けど、お兄ちゃんみたいに腰に差すと、動きにくそうなのだ」
「ならば、こうすれば良い」

 襷掛け用の紐を鞘の先に通し、背負えるように結ぶ。
 鈴々の身の丈だと、国広の長さが丁度良い。

「どうだ?」
「これなら、動きやすいのだ」
「よし。その剣は見ての通り、細身だ。力任せに叩きつけても相手は斬れぬ。それに、折れてしまうだろうな」
「うー、扱いが難しそうなのだ」
「今は時が惜しい。それ故、峰打ちのみ、伝授しよう」
「にゃ? 峰打ち?」
「そうだ。こうして、刃を返して相手を打ち据える。無論、相手を倒さなければならぬ時ではなく、此度のように捕らえる場合などに用いる」

 兼定にて、手本を示す。
 何度か素振りをしてから、

「何となくわかったのだ。じゃ、行ってくるのだ!」

 素早く、身を翻した。
 ……ふむ、何気なくあのような格好をさせたが、まるで忍びの者だな。
 尤も、鈴々にはあまり似合わぬか……。



「なあ、ちょっと遅くないか?」
「……ああ」

 公孫賛の言う通り、なかなか鈴々は戻ってこない。
 鈴々の事だ、よもや不覚を取るとは思えぬが。

「様子を見に行かせた方が、良くないか?」

 心配顔の公孫賛。
 ……どうするか。
 鈴々を信じるなら、もう少し待つべきだろう。
 だが、万が一、と言う事もある。
 それに今、不意を突かれる事があれば、少々危険な事になるやも知れぬ。

「よし。誰か、様子を」
「その必要はないぞ、土方殿」

 聞き覚えのある声に振り向くと、鈴々を小脇に抱えた人物が、立っていた。

「徐晃殿か……」
「久しいな、土方殿」
「何故、此処に?」
「話は後だ。手を貸してくれ、賊の間諜を捕らえてある、連れてきたい。それから、この娘は、気を失っているだけ。直に目を醒ますさ」
「わかった」

 先ほど、斥候を命じようとした兵に、徐晃の手伝いを指示。

「鈴々。しっかり致せ」
「……う……。あ、あれ? お兄ちゃん?」

 目を瞬かせる鈴々。

「何があった?」
「……賊を見つけて、捕まえようとしたら、逃げられたのだ。追いかけている最中、落とし穴があって、落っこちて……後は、覚えていないのだ……」

 敵の単純な策に嵌まった、という訳か。
 やはり、斥候の任は重過ぎたか……身軽と言うだけで任せた、私が迂闊であった。

「そうだ! 逃げた賊を捕まえるのだ!」

 慌てて身体を起こそうとする鈴々を、押さえた。

「それならば心配は無用だ。徐晃が捕らえたようだ」
「徐晃が?」
「そうだ」
「……ごめんなさいなのだ」
「何故謝る?」
「だって、任せろなんて言ったのに、失敗したのだ……」

 落ち込む鈴々の頭を、軽く撫でてやる。

「気に病むな。もともと、鈴々の役割は私達の護衛。違う役割を与えた、私の判断違いだ。むしろ、詫びるのは私の方だ」
「お兄ちゃん。怒らないのか?」
「鈴々を叱らねばならない理由などない。良くやったぞ、鈴々」
「にゃは♪ お兄ちゃんは優しいのだ」
「あ~、和んでいるところ済まんが。怪我の手当て、した方がいいぞ? かすり傷みたいだけど」

 そう言いながら、公孫賛は何かの塗り薬を取り出した。

「それは?」
「自家製の怪我薬さ。いろんな事をやらなきゃいけないから、そのうちに覚えちまったのさ」

 器用貧乏。
 ……ふと、そんな事が頭に浮かんだ。
 だが、逆に考えれば、それだけ何でもこなせる、というのは有能な証拠でもある。

「お姉ちゃん、ありがとうなのだ。お姉ちゃんも、優しいのだ」
「そ、そんな事はないぞ? エヘヘ……」

 照れるのは良いが、ちと度が過ぎる気がする。
 余程、他人から誉められる事に慣れていないようだな……。



 戻ってきた徐晃は、二人の賊を引っ立てていた。

「この二人のみだ。逃がした奴はいない筈だ」
「忝い、徐晃殿」

 縛られた賊の片割れは、不安げに私を見る。
 だがもう一人、髭面の男は、落ち着き払っていて、常人には見えぬ。

「些か、訊ねたい事がある。素直に答えれば、命は助けてやろう」

 私は、髭面の方に話しかけた。

「……その前に、一つ聞かせろ」

 賊の一人が、私に向かって言った。

「何だ?」
「アンタ、名は? 俺は、周倉って言う」

 ……一々、驚く事でもないか。
 恐らくは、あの周倉であろう。

「それを聞いて何とする?」
「そんな格好をしているが、アンタ、ただの兵じゃないだろう? 目付きといい、立ち居振舞いといい。申し訳ないが、そこの将らしき御仁より、アンタが気になってな」
「……どうせ、私は地味で普通だよ……」

 拗ねてしまったようだ。
 公孫賛は、後で話しておけば良かろう。
 もし、目の前の人物が、あのに周倉ならば……やはり、仲間に引き入れるべき人物であろう。

「……私は、土方と言う」

 私の事を知っている、そんな顔をしているな。

「やっぱりな。アンタが噂の、義勇軍を率いている人物。で、間違いないな?」
「どの噂かは知らぬが、確かに私は義勇軍の指揮官だ。だが、何故わかった?」
「さっきも言った通りさ。俺にも、その程度はわかるよ」

 周倉は、不敵に笑う。

「もう一つだけ、聞かせてくれ」
「いいだろう」
「廖化はどうしてる?」
「周倉とやら、廖化を知っているのか」
「勿論だ。奴は、俺とは刎頸の友さ」
「そうか。だが、廖化はここにはおらぬ。我が軍にいる事だけは確かだがな」

 愛紗と共に、今は作戦行動中。
 まだ、それを教える訳には参らぬ。

「いや、生きているならそれでいい。俺も、廖化と同じように、配下に加えて欲しい。頼む!」

 縛られたまま、頭を下げる周倉。

「それが、何を意味するか。よくよく存じた上であろうな?」
「覚悟の上よ。それに、何儀達のやり方にもうんざりしていたところだ。官軍と戦うよりも、民を襲う方が多いなんて、どうかしてる」

 吐き捨てるように、周倉は言った。

「ならば、我が策に従うか?」
「……じゃあ、俺を配下にしてくれるんで?」
「ひと働きしてみせよ。それ如何だ」
「ありがてえ! 俺、頑張るからよ!」

 髭面に笑みを浮かべて、周倉は頷いた。

「てめぇ! 仲間を売るつもりか!」

 もう一人の男が、叫んだ。

「もう俺は懲り懲りなんだ。役人どもが腐りきってるから黄巾党に入ってみたが、黄巾党も腐ってやがる」
「この野郎!」

 いきり立つ男だが、兵士に抑え込まれる。

「周倉。この男は?」
「へっ、劉辟の腰巾着野郎だ。大方、俺の監視ってところさ」
「そうか。では、他の賊と同じく、他人を無闇に殺めたり、女を手篭にしたりしている……。そうだな?」
「ああ」
「わかった。なら、生かしておく価値はない」
 兼定を抜き、男に突きつける。
「ま、待ってくれ! 何で俺だけが! コイツだって黄巾党なんだぜ!」
「言い残すことはそれだけか?」
「ひ、ひーっ! 嫌だ、死にたくねぇよ!」

 往生際の悪い男を、一刀で斬り捨てる。

「……容赦ないんだな、大将は」
「人の皮を被った獣など、生かしておく意味はない。……気に入らぬか?」
「いや、どのみち生かしちゃおけない野郎だ。大将のやり方、俺は悪くないと思う」
「そうか。公孫賛、徐晃殿。これが、私の流儀だ。心に留めておいていただきたい」
「……本当、これじゃますますどっちが将か、わかんないな」
「…………」

 徐晃は何を思うのか、答えなかった。



「賊軍です! 数は凡そ、二万五千との事!」
「どうやら、こちらの策が上手く行ったようだ。皆の者、一当したら、算を乱して逃げよ!」

 此方は三千、まともに遣り合えば潰滅は必至。
「いいな、鈴々。あまり怪しまれぬように、抵抗しながら逃げよ」
「うー、無茶言うのだ、お兄ちゃんは」

 迫り来る賊の群れに、矢が放たれる。
 だが、所詮は散発的な射、戦果は期待するだけ無駄と言うもの。
 逆に、敵の矢が飛んできて、周囲に突き刺さり始めた。

「土方。いつまで敵を引き付けるんだ?」

 矢を剣で叩き落しながら、公孫賛が叫ぶ。

「まだ、このままだ」
「うう、ますます私の軍は弱い、と風評が立ちそうだな……」
「公孫賛殿。そのようなもの、勝てば吹き飛びましょう。今は、気落ちしている場合ではないと存じますぞ!」

 そのまま、徐晃も残って加勢してくれている。

「手勢を預けている私が、素知らぬ顔は出来んさ」

 だが、一歩誤れば、みすみす兵を失う策。
 その中で、徐晃ほどの猛者が加わってくれるのは、正直心強い。

「ぐふっ!」
「がはっ!」

 ……やはり、被害は防げぬか。
 賊軍との距離はますます縮まり、あちこちで剣戟が聞こえ始めた。

「くたばりやがれ!」
「させないのだ!」

 迫ってきた賊を、鈴々が突き殺す。

「やるな、流石は張飛!」

 負けじと、徐晃が大斧を振るう。
 豪傑二人、まさに鬼神の如し。
 ……そろそろ、頃合いか?

「公孫賛、合図だ!」
「よし、全員退け! 私が、殿を務める!」
「応っ!」

 少しずつ、被害が増えていく。
 だが、賊の追撃の手は、決して執拗ではない。
 寧ろ、次第に鈍り始めたようだ。

「奴ら、輜重を取り囲んでいるぞ!」
「やはりな。後は、皆に任せよう」



 輜重が、燃えている。

「ど、どうなってんだ!」
「畜生! 中身は食い物じゃないぞ、油だ!」

 右往左往する賊。
 その間にも、引っ切り無しに飛来する、火矢。
 それが突き刺さる度に、火の手が賊をまた一人、巻き込んでいく。

「今や! いてまえ!」
「応っ!」

 そこに、霞の騎馬隊が突っ込んだ。
 敵の中央を、文字通り切り裂いていく。
「歳三様、ご無事でしたか」

「お兄さん、やりましたねー」
「稟も風も、ご苦労だった。後は、愛紗達だが」
「申し上げます! 黄巾党一万余、山塞を出たとの事です!」
「うむ。公孫賛、下知を」
「お、おう。皆の者、よく耐え抜いてくれた! その鬱憤、一気に晴らしてしまえ!」
「応!」

 そして、彼方で別の、火の手が上がった。

「どうやら、愛紗ちゃんも上手くやったみたいですねー」
「ああ」

 がら空きになった山塞を落とし、火をかけたのだ。
 当然、賊は慌てふためき、ますます混乱に拍車がかかった。
 そこに、星が横撃をかける。
 もはや、収拾をつけるのは不可能であろう。

「大将!」

 周倉が、手勢を率いて戻ってきた。

「ご苦労だった」
「大将。アンタの指示通り、何儀を煽ったぜ? しかし、こんなに上手く行くとはなぁ」

 周倉から聞いた情報では、一応、首領が何儀、副首領が劉辟、って事になってたようだ。
 だが、二人の関係は上手く行っているどころか、寧ろ険悪ですらあったらしい。
 程遠志を討った後、将のいない黄巾党は、繰り上がりで首領になるものが続出している。
 だが、その序列は決して納得づくのものではないらしく、こういった例は枚挙に暇がない……そう、周倉から教えられた。

「賊は全軍で四万近くだが、仲違いを上手く利用すれば、各個撃破が可能になる、か。……しかし、恐ろしい事を考えるなぁ、土方は」
「数で劣る我らなのだ、そこは知恵で補うしかないからな」

 む、何かこちらに向かってくる。

「ありゃ、何儀だぜ?」
「そうか。周倉、やるぞ?」
「お、応っ!」

 その行く手に立ちはだかる。

「どけどけっ! こうなりゃ、公孫賛の首狙いだ!」
「そうはさせん」
「て、てめぇは周倉! 裏切りやがったか!」
「俺はもう、黄巾党には付き合いきれない。だから、死ね」
「い、言わせておけばっ!」

 繰り出された槍を、長刀で弾き返す周倉。

「うっ! し、しまった!」

 汗で滑ったのか、何儀は槍を取り落とした。

「公孫賛。今だ」
「え?」
「討ち取る絶好の機会だぞ。急げ!」
「お、おう! 死ねっ!」

 呆然とする何儀を、真っ向から斬りつけた。

「……ぐっ」

 一刀で、賊将は息絶えた。

「お見事」
「……い、いや。でも何故、私に討たせた?」
「黄巾党の大将首、見事な手柄ではないか。そうではないか、皆の者」

 私の言葉に、皆が頷いた。

「全く、手柄まで譲られるとは思わなかったぞ」
「はて、譲った覚えなどございませぬぞ。太守様」
「え? け、けどさ……」
「ここにいるのは、北平太守、公孫賛殿の麾下のみ。当然、手柄は太守に帰しますな」
「……わかったよ。ありがとうな、土方」

 ふっ、どこまでもお人好しな事だ。

「軍勢が近づいてきます! 旗は『趙』、それに『関』!」

 どうやら、これで一段落、となりそうだ。 

 

十九 ~宴の夜~

 
前書き
2017/8/20 全面改訂
感想にてご指摘いただいた箇所も見直しました。 

 
 北平に凱旋した我ら。
 黄巾党を討ったという知らせは既に届いていたらしく、軍は大歓迎を受けた。
 それだけ、黄巾党に苦しめられた者が多いという事だろう。

「流石は公孫賛様だ」
「四万からの賊を、お一人で打ち破るとは……武にも、優れた御方だったんだな」
「当たり前だろ。異民族が恐れる、白馬将軍様だぜ?」

 賞賛を浴びる公孫賛は、くすぐったそうな顔をしている。

「私は、大した事はしてないんだけどなぁ」
「そんな事はない。もっと、胸を張って良いのだ」
「けど、実際は土方の義勇軍と董卓軍の働きだろ?」
「私はただ、民を無闇に苦しめる輩を許せぬだけ。民を救うのに、義勇軍も官軍もあるまい。それだけだ」
「せやせや。官軍かて、アンタの万分の一の働きすらでけへん奴は、ぎょうさんおる。アンタは、民を守るために努力しとるやんか。ウチは、それだけで物凄い事や思うで?」

 霞は、官軍の有様を審に見ているだけあり、言葉に説得力がある。
 流石に、公孫賛もそこまで否定は出来ぬだろうな。

「とにかく、手柄を立てたのは事実。誇る事はあっても、恥じる事は何一つない」
「そ、そうか……。うん、そうだよな」

 公孫賛は、ぎこちなく頷いた。



 そして、戦勝祝いの宴の場へ。

「済まんな。本来ならもっと、豪勢にしたいんだが」

 申し訳なさそうな公孫賛。

「気になさるな、公孫賛殿。事情は我らも知っております、このような場を設けていただけただけで、結構でござる」
「ウチは、酒があればそれで十分や」

 ……この二人は、特に気にしていなさそうだ。

「周倉、徐晃殿。貴殿らの働きには、改めて礼を申す」
「止してくれ、大将。俺はアンタを見込んだ、それだけだぜ?」
「私も、借りを返したに過ぎんさ」
「うむ。まず周倉、改めて我が軍への合流を認めよう。それで、誰かの下につけようと思うが、所望があれば聞こう」
「それなら、廖化と同じところがいい」

 即答だった。

「愛紗。どうか?」
「はぁ。私は構いませんが……」
「恐らく、廖化に異はあるまい。私も、周倉の望みどおりが良いと思うが」
「……それは、ご主人様の知識ですか?」
「それもある。だが、刎頸(ふんけい)の交わりを結んだ二人を、わざわざ離す必要はあるまい?」
「そうですね。わかりました、では周倉。宜しく頼む」
「おう、わかったぜ姐御!」
「あ、姐御?」
「ふふふ、良いではないか。そうか、姐御か」
「ご、ご主人様! からかわないで下さい!」

 顔を真っ赤にして、愛紗はどこかに出て行った。

「大将。俺、怒らせたかね?」
「いや、あれは怒っている訳ではあるまい。どうしても気に入らぬとあらば、はっきりと言う奴だ。心配いらぬ」
「わかった。じゃ大将、俺は廖化と話をしてくる」



 入れ替わりに、稟がやって来た。

「ご苦労さまでしたね、疾風(徐晃)」
「ああ」

 二人は、杯を交わす。

「そう言えば、楊奉殿はどうなったのですか?」
「……そうだな。その事を、話しておこう」

 徐晃は、杯を一気に干してから、

「残念ながら、楊奉殿に会う事は叶わなかったのだ」
「見つからなかった、という事ですか?」
「……いや。既に、官軍に捕らえられていたのだ。都に送られ、既に首を打たれたと」

 黄巾党の将として、既に手が回っていたという事か。
 徐晃の話の通りであれば、惜しい男であったようだが……。

「それで、こちらに来たという訳ですか」
「もともと、部下を預かって貰っていたからな。それに、私にはそれしか、自分のすべき事が見つからなかった」
「そうか。だが、この後はどうする気だ?」
「この後?」
「そうだ。貴殿程の武人が、二千とは言え手勢を連れて動けば、人目につかぬ方が無理というもの」
「……そうだな。確かに、行く末は考えなければならんか」
「疾風。私と一緒に、歳三様にお仕えしませんか?」
「稟?」
「実は、あなたの事は以前、歳三様に推挙した事があったのです。歳三様、覚えておいでですか?」

 稟の言葉に、私は記憶を巡らせる。

「もしや、洛陽の人物の話か?」
「そうです。こんな形で再会するとは思っていませんでしたが。疾風程の人材を、埋もれたままにしておくのはあまりにも惜しいですから」

 稟の申す通りだろう。
 武の方は、もう確かめるまでもない。
 それに、稟の推挙の切欠もある。
 本人次第だが、欲しい人材であるのは間違いない。

「私からも、頼みたい。今は義勇軍、根無し草ではあるが、民を救うという志はどの諸侯にも劣らぬつもりだ」
「…………」

 徐晃は、思案顔で宙を見ている。

「返事は今すぐとは申すまい。心が決まれば、その時で良い」
「でも疾風。私が尽くすべき主として、歳三様を見込んだ事、よくよく考えて下さい。後は、あなた次第です」
「……わかった。それまでは、ここにいさせて貰うとする」



 酒宴はまだ、続いていた。
 そっと抜け出した私は、城壁の上に登った。
 吹き抜ける風は、少々肌寒い。
 だが、酔い醒ましには悪くないな。

「何だ、ここにいたのか」
 
 公孫賛の声がした。

「主役がいないから、どうしたのかと思ったぞ?」
「あまり、酒は過ごせる方ではないのでな。貴殿こそ、太守が抜け出して良いのか?」
「私がいたんじゃ、みんな気を遣うだろ? それに、ちょっと夜風に当たりたくてさ。隣、いいか?」
「ああ」

 微かに、酒の香りが漂う。

「ふう、気持ちいいなぁ」
「…………」

 私は黙って、夜空を見上げた。
 天を埋め尽くさんばかりの、無数の星が煌めいている。
 天文の心得はないが、心は洗われる、そんな趣がある。

「あのさ。一つ、聞きたいんだけど」
「何か?」
「どうして、私をそこまで買ってくれるのだ?……自分で言うのも何だけど、私は飛び抜けたものが何もないんだぞ?」
「言った筈だが? 裏を返せば、何でもこなせる器用さの証拠だとな」
「でも、それじゃ私が普通普通と言われているのも当然、ってなるじゃないか」

 まだ、吹っ切れておらぬか。

「ならば、貴殿は一芸に秀でた人物と認められたい……そうなのか?」
「そ、そう言う訳じゃないけど」
「良いか、公孫賛。一軍の将として、何かに秀でるのは良い。だが、上に立つ者全てが優秀である必要は何処にある?」
「それは……」
「自らが配下を引っ張り、己が力で国を作り上げていく。それも良かろう。だが、裏を返せば、配下が育つ必要はないと言う事にもなる。一代限りであればともかく、後の世はどうなる?」
「後の世……?」
「そうだ。始皇帝がいい例ではないか。なるほど、始皇帝自身は優れた主君であった。だが、次代はどうだ?」
「呆気なく瓦解した……か」
「そうだ。公孫賛は、己を正しく弁えている。大陸に覇を唱えるつもりならば、確かに貴殿では荷が重かろう」
「……そう、はっきり言われるとへこむなぁ」
「だが、限られた範囲で人の上に立つのであれば、全く不足ではあるまい。勿論、それだけではない」
「まだあるのか?」
「ああ。その誠実さ、実直さは、欲が先走る輩には望めぬ類いのもの。だからこそ、私も皆も、貴殿に協力を惜しまぬのだ」
「……そうか。そんな風に、評価された事がなかったからな。私は私の良さがある、そう言う事か」

 合点がいったようだな。

「なら土方。お前はどうなんだ?」
「私か?」
「そうさ。腕も立つ、頭も切れる。おまけに、あれだけの将を従えているじゃないか。……正直、天は何物与えたんだよ、って言いたいぐらいだ」
「そうかな? 私は、腕は星や愛紗らには及ぶまい。軍略は稟に、謀略は風に劣る。一軍を率いるのも、霞には勝てぬさ」
「う……。ま、まあ、アイツらは桁外れ過ぎるからな。でも、私から見れば、今の刺史や太守でも、土方程の器量を持った奴はあまりいないぜ?」
「ふっ、私にも及ばぬとは。よほど、官吏も人材不足と見えるな?」
「血縁と金が全てだからな。……だが、気をつけた方がいいぞ、土方」

 公孫賛は、声を潜めて言う。

「ほう?」
「お前が、今の朝廷をどの程度知っているかはわからないが。恐らく、これだけの戦果を上げたんだ。何らかの沙汰は下るだろう。例えば、県令か、あるいは私のような、僻地の太守……そんなところだろうけど」

 ……恩賞か。
 私自身は栄華を望まぬが、従う者がいる以上、受ける事になるだろうな。

「けど、高官共は、それですら私腹を肥やす手段にするだろうな」
「地位を保ちたいのなら賄賂を寄越せ。或いは、あちこちに金をばらまいたと恩を着せる。そんなところか?」
「……わかっているならいいさ。しかし、見てきたように言うが、そんな事まで探らせているのか?」
「いや。我が国でも、似たような話は枚挙に暇がなかったのでな」
「そ、そうか……」

 この御仁では、あの魑魅魍魎の世界で生き抜くのは難しかろう。
 尤も、私も願い下げだが。

「と、ところでさ」

 妙に改まってから、

「土方。お前に預けたい物がある」
「預けたい物?」
「そうだ。私を盛り立ててくれ、いろいろと尽力してくれた。それに、私も答えたい。だから、今後は白蓮、と呼んでくれ」

 真名か。

「良いのか?」
「ああ。……それから、もう一つあるんだが、受け取って欲しい」
「真名だけで十分だが?」
「い、いや。これは私の個人的なものでな……」

 そう言いながら、白蓮が近付いてきた。
 手を伸ばし、私の頬に触れる。

「い、嫌ならいいんだ。どうせ、私は皆みたいに美人でも、豊満でもないしな」
「理由を聞くのは、野暮か?」
「……私を、立派と認めてくれた男は、歳三が初めてなんだ。それも上辺だけじゃない、心からの言葉……嬉しいんだ、私は」
「白蓮……」

 柔らかい物が、私の唇を塞ぐ。
 白蓮の息遣いを間近に感じながら、その肩に手を廻す。
 ゆっくりと身体を離す。

「あ、あのさ。土方」
「歳三で構わん」
「い、いいのか?」
「真名を預かった相手に、片手落ちをするつもりはないぞ」
「……わかったよ、歳三。こ、この事は、出来れば内密にしてくれないか? そ、その……」
「ふふ、心配せずとも良い。私も、そんな無粋な男ではないつもりだ」
「……ありがとう。では、私は戻る」

 去っていく白蓮の後ろ姿を見送りながら、ふと思う。
 白蓮がこの先どうなるかはわからぬが、これからもずっと、共に戦う仲間になるのだろう、と。



「歳三様、ここでしたか」

 稟の声で、我に返る。
 月が、だいぶ傾いていた。

「酒宴は、まだ続いているのか?」
「いえ、流石にお開きに。皆、休みましたが、歳三様のお姿が見えませんでしたので」
「そうか。探しに来たのか」
「ええ。部屋に戻って下さい、かなり冷えてきていますよ?」

 そっと、私の手を取る稟。

「こんなに、冷たくなるまで。一体、どうされたのですか?」
「……いろいろと、考えていた」
「いろいろ、ですか?」
「うむ。……稟。もうすぐ、黄巾党も終息に向かうだろう。その後、どうなっていくだろうな?」
「そうですね。ご想像の通りかと」

 ふっ、お見通しという訳か。

「まだ、戦乱の世は続く……か」
「ええ。漢王朝があの有様では」

 私が劉備ならば、その延命に働くか、もしくは血筋を利用して名を挙げるか……そんなところだろう。
 だが、私には漢王朝そのものが、縁遠い存在。
 正直、何の感慨もない。
 積極的に、その終焉に手を貸すつもりもないが、遅かれ早かれ、何らかの関わりは生じるだろうな。

「くしゅん」

 寒いのだろう、稟がくしゃみをする。

「部屋に戻った方がいいな。稟、体調は大丈夫か?」
「体調ですか? 今のところは、特に」
「そうか。それならいいが、くれぐれも無理をするでないぞ?」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」

 城壁を下りると、

「……ぐう」

 何故か、風がそこにいた。
 しかも、立ったまま寝ているのだが……いつもながら、器用な事だ。

「風。起きろ」
「おおう。お兄さんと稟ちゃんの逢い引きを見ているうちに、ついうとうとと」
「ふ、風!」
「稟ちゃん。お兄さんの事が恋しいのはわかりますが、抜け駆けはダメですよー」
「……風。人聞きの悪い事を申すでない。稟は、私を気遣って探しに来てくれたのだぞ?」
「おやおや、そうですかねー? では稟ちゃん、全く他意はなかった、と言い切れますか?」
「そ、それは……」

 目を伏せる稟。

「お兄さんもお兄さんですよ? 風というものがありながら、公孫賛のお姉さんと接吻とは」
「こ、接吻? 歳三様、それは本当ですか!」
「風。まるで見て来たように言うではないか」
「風に隠し事は無駄ですよ。風は、お兄さんの事なら何でもお見通しなのです」

 早くも露見するとはな。
 ……だが、私は後ろめたい事は、何もないのだ。

「あれは、白蓮からの礼。礼を受け取らぬは、あまりに非礼だ」
「おおー、しかも真名を預かるとは。やれやれ、お兄さんにも困ったものです」
「で、では、本当に接吻を? 歳三様、どういう事ですか!」
「落ち着け、稟」

 白蓮からは内密に、と言われたが、仕方あるまい。

「確かに、真名も預かり、接吻も交わした。だが、全ては白蓮から私への礼、という事だ」
「で、ですが、いくら礼とは言え……こ、接吻とは……」
「稟。私は、白蓮にそれ以上を求めてはいない。そうであれば、この場にこうしている訳がなかろう?」
「口では、何とでも言えるのです。……お兄さんが本心からそう言うのなら、態度で示して欲しいのです」

 風はそう言いながら、空いた手を、握ってきた。

「お兄さんは、みんなに愛されているから、それは仕方ないと思うのです」
「厳しさは、優しさの裏返し。歳三様の本質は、他人への思いやりですからね」
「でも、お兄さんを愛しているのは、風達なのですよ? それは、忘れないで欲しいのです」
「忘れてなどおらぬ。……だが、確かに軽率であったやも知れぬな、済まぬ」

 二人が、手に力を込めた。
 ……それだけ、想いが強い、という事か。

「中に戻るぞ、二人とも。本当に身体に障る事になる」
「勿論、今日はお兄さんと一緒ですからね? 駄目と言われても、風はこの手を離すつもりはありませんから」
「私も、です。歳三様、今宵はお側に」
「……わかった」



 ……朝か。
 二人は、まだ眠りから覚めていないようだ。
 起こさぬよう、そっと臥所を抜け出す。
 部屋を出たところで、徐晃と出くわした。

「土方殿、お目覚めですか?」

 口調が変わっている事に気付いたが、それを指摘するのも野暮であろう。

「徐晃殿か。このような時分に、どうした?」
「……いえ」

 頬を赤らめながら、部屋の方を見る。
 口調も昨夜と違うようだが。

「土方殿。稟は、果報者ですな」
「…………」
「貴殿のような、強さと優しさを兼ね備えた主君に巡り会えたのですから。本当に、今は満ち足りているようです」
「いつから、此処に?」
「二刻程、ですかな。目が覚めたら、稟が臥所に戻った様子がなかったので。恐らくは、土方殿のところだろうと思いまして」
「なるほど。……私と稟は、そのような仲でもある。これは、隠すつもりもない」
「ええ。……土方殿」

 徐晃は、その場で片膝をついた。

「貴殿の事、見させていただきました。どうやら、この『飛天戦斧』を預けるに足る御方と見ました。私を、改めて貴殿の麾下にお加えいただきたいのです」
「そうか。私に取っても、願ってもない事だ」
「ありがとうございます。今後は、疾風、とお呼び下さい」
「わかった。では、私も歳三で構わん」
「では、歳三殿と。後で、他の方ともご挨拶を」
「うむ」

 本来であれば、曹操の重臣となる筈だった徐晃が、我が軍に加わってくれた。
 稟も認める、優れた将だ。
 如何に使いこなせるか、鼎の軽重が問われる事になる、な。 

 

二十 ~使者~

 
前書き
9/5 誤字修正を行いました。
12/25 ルビの振り方ルールが掲載時と変わったのか、表示がおかしくなっていたので修正しました。 

 
「申し上げます。陳留太守、曹操様から使者が参りました」
「曹操から?」
「はっ。公孫賛様にお目通りを願っております。如何なさいますか?」

 北平城の謁見の間。
 私は白蓮と共に、付近に散らばった黄巾党の残党掃討について、話し合っている最中であった。

「歳三。どう思う?」
「朝廷の命ではないな。一太守にそこまで権限があるとは思えぬ」
「となると、曹操の独断だな。まずは、用件を聞いてみよう」
「うむ」
「使者をここに通してくれ」
「はっ!」

 兵が出ていくのを見届けてから、

「私は席を外していよう」
「何故だ? 私は別に構わないが」
「曹操の意図が見えていない以上、出自の定かでない私が、同席するのは好ましくなかろう? 話なら、後で聞かせて貰えば良い」
「そ、そうか。しかし、私一人で大丈夫かな? 曹操は何かと、いろいろ噂になる奴だろ?」
「使者がそこまで意図しているとは思えぬが……。なら、風を同席させよう。城の文官を装えば、問題あるまい」
「あ、ああ。助かる」
「では、呼んで参る」

 謁見の間を出て、風の部屋に向かった。
 折良く、在室しているようだ。

「風。入るぞ」
「あ、お兄さん。風に何か御用ですかー?」
「うむ。白蓮のところに、曹操からの使者が来ているのだ。風に同席して貰いたいのだ」
「ぐー」
「……そうか。嫌なら仕方あるまい、星か霞に頼むとしよう」
「おうおう、兄ちゃん。そこは眠れる美女を接吻で起こすってのが、男ってもんじゃないのか?」

 腹話術を使うまでもないと思うが。
 そもそも、眠れる美女とか、何の話なのだろう。
 ……よくわからぬが、気が進まぬのか?

「そうか。風の人物鑑定眼を頼りにしていたのだが、仕方あるまい。他を当たるとしよう」
「それならそうと、最初から言えばいいのです。お兄さんはいけずですねー」
「気が進まないのではなかったのか?」
「そうですねー。競争相手に手を貸すのは、風の本意じゃありませんけど。でも、使者がどんな人物か確かめろ、とお兄さんに頼まれたなら話は別なのですよ」

 競争相手とは、白蓮の事か?
 どうも、意識され過ぎの気もするが。

「では、任せて良いのだな? 使者はすぐに参るぞ」
「御意ですー」

 私と入れ替わりに、風は謁見の間へと歩いて行った。



 一刻後。
 白蓮の元に、主だった者が集められた。

「済まないな、みんな忙しいところを」

 付近の黄巾党征伐が済んだとは言え、まだまだ余裕が出来た、とは言い難い。
 残党や、その他の小規模な盗賊の出没も報告されている。
 それに、北方の烏丸もいつ動き出すかわからぬようだ。
 白蓮の麾下には、武官も文官も絶対的に不足している以上、我らも手を貸さざるを得ないのが現状だ。
 尤も、白蓮がそれを当然の事と思わず、感謝の意を絶やさない事が、皆の協力に結びついている、とも言える。

「詫びる必要はないぞ。曹操の使者の件であろう?」
「そうなんだ。まずは用件から伝える。黄巾党首領の張角が、冀州にいるってのは知っているよな?」
「確かに、此方の情報にはありました。ただ、本隊けあって兵数が多く、我が軍だけでは太刀打ち出来ない為、見送っていました」
「郭嘉の言う通り、その規模は十万を超えるそうだ。ただ、各地で黄巾党が撃破され、討伐に当たっていた各軍が、冀州に集まってきているらしいんだ。それで私と董卓軍、それに土方の義勇軍にも参戦要請が来たんだ」
「ほう。白蓮と月はともかく、我が軍にもか」
「ああ。使者は、歳三にも会いたいと言っていたな」
「風。使者は何と名乗っていた?」
「はいー。夏侯淵さんですね。なかなか強そうなお姉さんですよ」

 夏侯淵?
 確かに大物だが、使者というには些か不向きな気がするのだが。
 私の知る人物とは違う、とでも言うのだろうか。
 ……実際、既に大きな違いは見ているから、あり得ぬ事ではないがな。

「白蓮、風。確かに夏侯淵と言えば、曹操麾下の勇将だが、何か気付いた事は?」

 白蓮は少し考えてから、

「……受け答えには、澱みがなかったな。使者としての礼にも適っていたと、私は思う」
「風は、武だけじゃなく、頭も良さそうに見えましたねー。なかなか、油断の出来ない人物かと」

 二人の観察眼を信じるならば、それ程の人物が、態々使者としてやって来る時点で、何かがある……そう考えるべきだろう。

「稟。どう考える?」
「はい。援軍要請だけであれば、公孫賛殿にお伝えすれば済む事ですし、そもそも、黄巾党討伐が勅令である以上、公孫賛殿を説得する必要、という前提はなくなります。となれば、目的は我が軍、そして歳三様かと」
「我が軍はまだわかるが、ご主人様、と言うのは?」
「曹操殿の性格を考えればわかりますよ、愛紗。あの方は、人物を見定めるのを好むと聞きます。ましてや、歳三様の噂です、曹操殿が耳にしていない訳がありませんよ」

 私に興味を持ったか……いや、稟の言う通りだろう。
 出自も定かではない私が、こうして戦果を重ねているのは、紛れもない事実。
 朝廷にまで知れ渡る、とまでは望めぬが、曹操は私の知る通り、稀代の英雄らしい。
 ならば、大陸の至る所に眼を向けている、そう考えるべきだろうな。
 ふっ、だが少しばかり名が知れたとは言え、無位無冠の私にまで興味を持つとはな。
 未だ、敵か味方かは定まっておらぬが、どちらにせよ、警戒すべき相手には違いなさそうだ。

「それで、お兄ちゃんはどうするのだ?」
「せや。夏侯淵は援軍を求める使者やけど、歳っちが会わなアカンっちゅう訳やないやろ?」
「だが、断る理由もない。主、如何なされますか?」

 皆が、私を見る。
 答えは……決まっている。

「会おう。断るにも理由がないしな」
「では、警護はお任せ下さい」
「待て、愛紗。お主、抜け駆けするつもりか?」
「そうなのだ! お兄ちゃんを守るのは鈴々の役目なのだ!」

 ふう、また始まったか。
「あの、これは一体……?」

 疾風(徐晃)一人が、呆然と眺めている。

「ま、すぐに慣れるやろ。それだけ、歳っちは愛されとる、っちゅうこっちゃ」
「は、はぁ……」

 ただ、使者の会見に臨むだけなのだが。
 私を案じての事だろうが、収拾をつけなくては。

「白蓮」
「何だ?」
「元は白蓮に来た使者、白蓮のところで話すのが筋だろう。どうか?」
「ふむ。確かに歳三の言う通りかもな」
「ウチはどないする?」
「霞は董卓軍を率いてはいるが、形としては援軍の将。今回は外した方が良かろう」
「ウチは構わへんけど。ほな、皆は?」
「いや、二人だけに致す。仮にも曹操の名代として来ているのだ、此方からも代表者だけが出るべきだろう。皆、良いな?」
「御意」



 皆が下がり、夏侯淵がやって来た。
 やはり、女子(おなご)か。
 一件華奢な身体付きに見えるが、指を見ればわかる。
 弓を遣うな、それも相当に。

「義勇軍を指揮する、土方と申します」
「陳留太守、曹操に仕える夏侯淵です。貴殿が、噂の御仁ですか」
「はて、噂とは? 拙者は、微力な義勇軍の一員に過ぎませぬが?」
「ふっ、微力とは謙遜が過ぎましょう。貴殿の働き、我が主も度々耳にしているところです」
「左様でござるか、それは光栄の極み。ところで、拙者に御用とか」

 夏侯淵は頷く。

「まず、此度の戦だが、貴殿の義勇軍にも参戦していただきたいのです」
「はて、それは曹操殿のご意向ですかな? 我らは官軍ではなく、あくまでも不正規軍ですぞ?」
「我が主は、そのような事は気にせぬ御方。それに、現にこうして、官軍と共に勇敢な戦いを見せているではないか。そうですな、公孫賛殿?」
「あ、ああ。確かに土方軍がいなければ、私の軍だけでは手を焼いたままだったのは確かだな」

 白蓮は、あっさりと自分の力が及ばぬ事を認めてしまう。
 だが、裏を返せばそれだけ、信ずるに足る相手、とも言えるのだがな。

「随分と率直に仰せられますな、公孫賛殿は。ですが、あの皇甫嵩将軍や朱儁将軍ですら手を焼く黄巾党、確かに容易い相手ではありません。土方殿、やはり貴殿には是非助勢をいただきたいのです」
「なるほど。ただ、我が軍は董卓軍の支援にて動いています。拙者の一存にて動く訳には参りませぬ」
「無論、この場にて即答を求めるつもりはありませぬ。明日の朝、それで如何でしょうか?」
「はい。では、明朝お答え致します」
「よき返事をお待ちしております。ところで、公孫賛殿?」
「な、何だ?」

 急に話を振られたせいか、やや狼狽しているようだ。
 確かに、私と夏侯淵でのやりとりが続いてはいたのだがな。

「土方殿と、二人で少し話をさせていただけないでしょうか?」
「歳三と?」
「はい。ご心配ならば、剣はお預けしますが」
「どうする、歳三?」

 稟の推測からすると、曹操の別命を帯びての事なのだろう。
 断る事も出来るが、それでは夏侯淵の面目を潰しかねない。
 それに、何を探るつもりなのか、逆に知っておいても損はなかろう。

「拙者は構いませぬ」
「では、私は外そうか?」
「いえ。何処か、場をお借りできれば結構です」
「そうか。ならば、部屋を用意させよう」
「ありがとうございます」

 ふむ、まさしく白蓮と風の見立て通りの人物か。
 私の知識など、当てにせぬ方が良いな。



 公孫賛の兵に先導され、私達は庭へと出た。

「こちらをお使い下さい。では、御用がありましたらお呼び下さい」
「ああ。造作をかけた」

 そこは、小さな四阿(あずまや)

「ほう、なかなかに風流な(ちん)ですな」

 ふむ、どうやら日本とは呼び方を異にするようだな。

「まずは、おかけ下さい」
「はい。土方殿、一つお願いがあります」
「伺いましょう」
「もっと、ざっくばらんに話したいのですが。このように、改まった話し方ではなく、普通にしませぬか?」
「夏侯淵殿が、それで宜しければ。拙者には異存はござらぬ」

 頷く夏侯淵。

「助かる。私も、堅苦しいのは苦手でな」
「拙者、いや私もだ。夏侯淵殿、白蓮を外してまで、何の御用かな?」
「やはりか。貴殿と公孫賛殿、身分の差を感じさせない親しさがあると見たのだが、どうやら正解だったようだな」
「ほう。何故、そう思われた?」
「少なくとも、公孫賛殿は貴殿を名で呼ばれていた。それに、対等の立場で接している。これで十分と思うが?」

 なるほど、ただの猛将という訳ではなさそうだ。

「左様。私は真名を持たぬ故、名で呼んでいるが、白蓮からは真名を預かっている。信頼の証としてな」
「ますます興味深い御仁だ。ただの義勇軍とは思えぬ、我が主の見立ては誤っていなかったという事だな」
「確かに、単なる義勇軍ではない、それは否定せぬが。それでも、曹操殿程の英傑が、我が軍に興味を持つとは。それで、私という人物を確かめるように、そう貴殿に命ぜられたのだな?」
「その通りだ。華琳様は、名を上げた人物は確かめておきたい、常日頃からそう仰せでな。だがこの時期、陳留をご自身が離れる事は叶わぬ故、こうして私が遣わされた次第だ」
「では、何なりと尋ねられよ。ただ、答えられぬ事もある故、それはご容赦願うが」
「わかった。まず貴殿は、異国の出と聞くが、それは確かか?」
「事実だ。だが、烏丸や山越、匈奴、五胡などではない。蓬莱の国、と申せばおわかりか?」
「嘗て、始皇帝が徐福を遣わしたという、あの蓬莱か。だが、軍を率いるのは、才能だけでは務まらぬ筈だ。貴殿は蓬莱の国で、一軍を率いていたという事か?」
「ああ。だが、私は将軍ではない。我が国では、将軍はただ一人であったのでな」
「ふむ。そうは言っても、貴殿の戦歴を見る限り、俄には信じられぬな」
「それは、私に付き従う者が優れているだけの事。私は指示を与えたに過ぎぬ」

 嘘偽りを言ったつもりはない。
 星、愛紗、鈴々、それに疾風が加わった武官陣。
 軍師として稟と風。
 史実であれば、それぞれが曹操や劉備に仕え、後世に名を残した人物ばかり。
 多少の食い違いこそあれど、皆が優秀である事に変わりはない。

「ふふ、その指示、が重要なのだがな。それに、それだけの人物が集い、貴殿に忠節を誓う。並の人物ではあり得ぬな」
「お褒めに預かり光栄だが、多少買い被り過ぎておらぬか?」
「さて、買い被りかどうかはすぐに知れよう。底の浅い人物に、ここまでの事が成し遂げられるとは、私は思っていないが。さて、もう一つ、問いたい」
「いいだろう」
「貴殿は、何を目指しているのか。ただ単に、困っている庶人を救いたい……それだけか?」
「無論、今はそれが第一。我らは、その為に立ち上がったのだからな」
「今は、か。では、この反乱が終息した暁には?」
「先の事まではわからぬ。とにかく、日々を生き抜く事で精一杯故、な」

 夏侯淵は、無言で私を見つめる。
 私もまた、黙って見つめ返した。

「本心は明かさぬ、か。ふふ、私では貴殿の相手をするには、荷が重いようだ」
「過分な言葉だが、貴殿程の人物にそう言われる事自体、誇るべきかな?」
「……時間を取らせたな」

 そう言って、夏侯淵は席を立つ。

「もう良いのか?」
「日も傾いてきた事だ。それに、第一の目的はまだ果たせておらんからな。今日のところは、これで失礼する」
「そうか。では、また明日」
「ああ。付き合って貰った事、礼を申すぞ」

 去って行く夏侯淵の背を、四阿で見送る。

「もういいぞ、疾風」

 繁みが動き、疾風が姿を見せた。

「気づいておいででしたか」
「ああ。夏侯淵も、恐らくは、な。
「申し訳ありません。歳三殿ですから、不覚を取ることはない、と思ってはいたのですが」
「いや、いい。陰ながら万が一に備えてくれた事、感謝こそすれど責める事はない」
「歳三殿……。ありがとうございます」



 その夜。
 皆を集めて、今後についての話になった。

「結論から話す。まず、我が軍は、曹操の要請に応じる事にする」

 皆、異論はないらしい。

「幸い、討伐した黄巾党の糧秣がある。賊の上前をはねるようだが、この際やむを得まい」
「せやな。冀州がいくら近いちゅうても、流石に晋陽から持ってきた分だけやと心細いしな」
「お腹が空いていたら、鈴々も暴れられないのだ」
「お前は少し食べ過ぎだ。ただ、兵の装備もそうですが、黄巾党から得た物を流用せざるを得ないのは事実でしょう」
「本来なら、奪われた元の民に返すべきなんだが……。今は非常事態だ、そうも言ってられないからな」

 白蓮の軍にとっても、糧秣の問題はつきまとう。
 特に、今の幽州では、臨時にそれを徴収するだけの余力が、民にないのだ。
 強引に行えば、更に事態を悪化させ、黄巾党以外の抵抗勢力を産み出しかねない。

「いずれ、黄巾党が静かになった後で、よき政をして返す他ありませぬな」
「そうですねー。今は、綺麗事を並べられる程、どこも余裕なんてありませんからね」
「では、糧秣の件はその方向で調整します。それから、冀州へ向かう兵数と将ですが……歳三様、どうなさいますか?」

 やはり、稟もそこに思い当たっていたか。
 白蓮の軍が、此度の作戦に参加となれば、率いるのは当然、白蓮自身となる。
 任せられるだけの将が不在、という、如何ともし難い現実があるからな。
 だが、烏丸の事を考えると、白蓮が北平を不在にするのはあまり好ましくなかろう。

「愛紗」
「はっ」
「一時的にだが、お前は白蓮の客将という扱いにする」
「ご主人様? どういう事ですか?」

 私は、その問いには答えずに、白蓮を見た。

「白蓮。夏侯淵は、白蓮の軍に参戦を要請してきた。そうだな?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「ならば、白蓮自身がそれを率いる必要はない。そうは解釈できぬか?」
「私に、此処に残れ、と?」
「そうだ。烏丸の間では、白蓮に対する畏敬の念があろう。一時的とは言え、不在にすれば何が起こるかわからぬ」
「……では、私はその代わり、公孫賛殿の客将という立場で、軍を率いよ。そう、仰せなのですね?」
「うむ。良いか?」
「畏まりました。ご主人様の命とあらば」

 本来ならば、これは星に命じたいところなのだが。

「それから霞。軍勢はこのまま、北平に止めておけ。だが、霞自身には、同行して貰いたいのだ」
「ええけど。ウチだけか?」
「いや。稟、風、疾風も参れ」

 私の言葉に、星と鈴々が即座に反応する。

「主。私はお呼びではありませぬのか?」
「お兄ちゃんは、鈴々が守るって言ったのだ。でも、一緒じゃないのか?」
「そうだ。星、鈴々。北平に残り、白蓮と共に烏丸及び賊に備えよ。まだ、情勢は予断を許さぬであろうからな」
「それは理解しますが、この人選について、ご説明いただきたい」
「そうなのだ。理由が知りたいのだ」

 理由、か。
 ……やはり、言うべき事のようだな。

「連れて行く者は、曹操との因縁がある、いや、あったやも知れぬ……それが理由だ」
「因縁とは何ですか、歳三殿?」
「もし、私がこの時代に現れなければ、何らかの形で曹操に仕えていた、あるいは仕える事を望まれた筈だ」
「……そうですね。確かに私は、一時は曹操殿にお仕えすべく、その為に行動していましたから」
「稟ちゃんはそうですけどねー。風達もそうなのですか、お兄さん?」
「そうだ。疾風は韓暹に仕えた後に。霞は月、恋に従った後に。風は自ら出仕し、愛紗は別の人物に仕えている最中に、一時的に曹操に仕える事になる」
「……それが、歳っちの持っとる知識、ちゅう訳か」
「だが、この時代は私の知る世界とは異なるようだ。だから、皆は今こうして、ここにいる」
「ならば、何故わざわざその顔ぶれをお連れになるのですか、ご主人様?」

 愛紗の疑問は尤もだろう。
 私はゆっくりと頷いてから、

「私は、恐らくはこの世界で、不正規な存在と思っている。それが、この大陸にどのような影響をもたらすのか、定かではない」
「…………」
「だが、それは遅かれ早かれ、見定めねばならぬ事。曹操に縁のある皆を連れて行くのも、その一環と思って欲しい」
「では、もしこの中の誰か、或いは全員が、歳三様の知る世界同様、曹操殿に仕える事になる、と?」
「その可能性も否定はせぬ」

 皆を信じておらぬ訳ではないが、それが歴史の必然ならば、従うしかなくなるだろう。

「……主。それが主の決意ならば、我らは止めますまい」
「星ちゃんの言う通りですねー。でも、風はお兄さん以外にお仕えする気はないのですよ。それは、わかっていただけますよね、お兄さん?」
「無論だ。真名を託してくれている者を、私が信じなくてどうする?」
「ならば、私は何も言う事はありません。歳三殿を信じるまでです」
「ウチも。歳っちとか月を見捨てるやなんて、考えたくもないわ」
「よくわからないけど、お兄ちゃんは信じているのだ!」
「……済まぬ。だが、曹操という人物、この先も関わらずにいる事は叶うまい。ならば、私の中で区切りを付けておきたい」
「わかっています、歳三様。皆、あなたに従うと決めたのです。御意のままになされませ」

 稟の言葉に、皆が大きく頷いた。

「皆。一つだけ、頼みがある」

 白蓮が、改まった口調で言った。
 全員の視線を浴びながらも、動じる様子はない。

「今後、私の事は真名で呼んで欲しい。歳三だけじゃなく、ここにいる皆に、頼みたい」
「ふふ、仲間外れはお嫌と見えますな。ですが、私は構いませぬぞ。伯珪殿、いや、白蓮殿」
「あ、ありがとう。……星」

 柔らかな笑みを浮かべる白蓮。

「他の者はどうだ?」

 誰も、否はないようだ。

「では、白蓮、星、鈴々。改めて、頼んだぞ?」
「ああ」
「お任せあれ」
「合点なのだ!」



 夏侯淵に、参戦の受託を伝えた我が軍は、次なる遠征の準備に取りかかる。
 これで、黄巾党とのケリをつける。
 その思いは、全軍に伝わり、今までにない緊張感を生み出した。 

 

二十一 ~覇王、見参~

 北平を出発。
 先日の戦場近くを抜けると、冀州は間近。
 そこに、伝令が駆け込んできた。

「申し上げます! 右後方に、砂塵が見えます!」
「歳三殿。確認して参ります」
「うむ、頼む」
「はっ!」

 疾風(徐晃)が、部下を連れて飛び出していく。
 双眼鏡はここのところずっと、疾風に貸し与えている。
 その方が、余程有用なのは間違いなかろう。

「そう言えば、霞は曹操と面識はあるのか?」
「ない。ウチは官軍ちゅうても、月の下におるだけやしな。任地も離れとるし、そんな機会はあらへんかった」
「そうか。稟も、実際に会ってはいないのだな?」
「そうです。先に曹操殿に会っていたら、今此処にはいませんから」

 愛紗や疾風、風は無論、曹操とは面識がない。
 聞こえてくる噂からは、かなりの傑物というのは間違いないようだが。
 そもそもあの夏侯淵程の将が忠誠を尽くすのだ、人物は疑いようがないだろう。

「お兄さん、ずっと曹操さんの事を気にかけてますよねー」
「この大陸に覇を唱えようとする人物だ、気にならぬ訳がない」
「ご主人様に、仇をなす人物でない事を祈るばかりです。そうなれば、戦いは避けられませんから」

 そうなれば、まさに死闘となるだろう。
 この者達も、無事では済むまい。
 ……より一層、慎重を期さねばならんな。

「歳三殿ーっ!」

 そこに、疾風が戻ってきた。

「ご苦労。して、いずこの軍だ?」
「はい。呂布殿と、陳宮殿の旗が見えました」

 月が要請に応えて出した軍勢のようだが、恋を送って寄越したか。

「霞。済まぬが、恋と合流して進もうと思う。伝令を頼めるか?」
「よっしゃ。ほな、ちょっと行ってくるわ」

 入れ替わりに、霞が馬を走らせて行った。

「ご主人様。伝令ならば、わざわざ霞を行かせずとも良いのではありませんか?」
「愛紗ちゃんは、まだまだ、お兄さんの事を理解していませんねー」
「な? ど、どういう事だ、風?」
「気を利かせたのですよ、お兄さんは。恋ちゃんと霞ちゃんは、もともと同僚ですしねー」
「それに、霞の事です。現状を正確に報告するでしょうから、ねねもすぐに行動に移れます。ただの伝令では、そこまでの気は回りませんからね」
「う……。そ、そうか……」
「ふふ、歳三殿にぞっこんの愛紗も、形無しだな」
「う、うるさいぞ疾風!」

 ……ふむ、落ち込む愛紗を気遣ったのか。
 真面目な疾風が、茶々を入れるとは、な。



 月の軍と無事に合流を果たし、再び冀州を目指す。

「月は達者か?」
「……ん。歳三の事、気にしてた」
「そうか。ねね、并州の様子はどうか?」
「月殿ですぞ? それは、愚問というものです」
「ふっ、愚問か。だが、その様子では、降った黄巾党の者共も、励んでいるようだな」

 これから向かう冀州にも、同じような境遇の者が大勢いるだろう。
 戦えば当然、その中から命を落とす者が出る。
 許す事の出来ぬ者は仕方あるまいが、そうでない者は何とか、更正の機会を与えてやりたいものだ。

「ところで、率いてきたのはこれだけか?」
「……? これで、全部」
「ふむ。ねね、一千ほど、と見たが相違ないか?」
「流石ですな。ちょうど、一千なのです」

 霞が元々率いている兵と併せれば、妥当な線か。
 いくら勅令とは言え、本拠地を空にしてまで兵を出すのは愚の骨頂。
 聡明な月が、それに気づかぬ訳がない。
 尤も、仮に気づかなくとも詠がいるのだ。
 そのような過ちが起こりうる筈もない。

「輜重隊は?」
「途中までは同行しましたが、合流を優先させたのです。無論、必要な警護はつけてありますぞ」
「そうか」

 と。
 盛大に、恋の腹の虫が鳴る。

「……お腹空いた」
「そ、それは一大事なのです! 歳三殿!」
「ふふ、それでは仕方あるまい。稟、今日は此処で野営と致そう。全軍にそう伝えよ」
「はい!」

 無闇な遅延は許されぬが、急ぐあまりに兵の疲労が増すようでは本末転倒。
 どのみち、黄巾党はもう、袋の鼠同然なのだ。
 激しい戦いにはなるだろうが、民を敵に回した反乱は、どのみち長続きはせぬもの。
 ……それに、恋にこの状態で行軍せよ、というのは酷であろう。
 そろそろ、日も傾いてきた事だ、頃合と思えば良い。



 焚き火を囲みながらの、夕餉。
 荒野が多いので、薪を集めるのも一苦労だが、夜はやはり火が必須。

「ささ、焼けましたぞ、恋殿」
「ん」

 甲斐甲斐しく恋の世話をするねねに、黙々と食べ続ける恋。
 ……そして、それを見ながら何故か惚けた表情の愛紗。

「霞。愛紗は一体どうしたのだ?」
「あー、これなぁ。恋の食べる姿見て、癒やされとるんやろ」
「確かに、何か小動物のようですが……。これがあの、呂布と同一人物とは」
「疾風ちゃん。恋ちゃんの事、ご存じなのですかー?」
「いや。ただ、丁原殿の軍に、天下無双の将がいる、とは聞いていたのだが……」
「紛れもなく同一人物ですよ、疾風。あなた程の武人なら、見てわかるのでは?」
「それはそうなのだが……」

 どうも、合点がいかぬようだ。
 尤も、それを言うなら私の周囲全て、合点がいかぬ事になってしまうのだが……な。
 周倉や廖化、高順らのような者もいるが、主だった将は皆が女子(おなご)
 才は、私が知る通りか、それに近いものがある。
 それは、これまでの働きで十二分に見せて貰っている。
 その事に、一切疑いを持ってはいない。
 ……だが、この華やかさだけは、一種独特のもの。
 殺伐とした時代である事に変わりはないのだが、その中にも時折、安らぎすら感じる。
 新撰組から蝦夷共和国に至るまで、戦いづくめの日々であったからなのか。
 ふふ、近藤さんや総司が今の私を見たら、何と申すだろうかな。

「……む?」
「じーっ」

 ふと、我に返る。
 目の前に、恋の顔があった。

「……歳三、遠くに行っていた」
「遠く?」
「ん。歳三、どこにも行っちゃ駄目」
「……私は、此処にいるではないか」

 恋は、頭を振り、

「……皆、寂しくなる。恋も、寂しい」

 そう言って、私の頭を抱えた。
 ……つまりは、抱き締められた格好。
 豊かな胸が、私の顔に押し付けられているのだが、本人は……無自覚らしい。

「こ、こら、恋! ご主人様に何をする!」
「恋ちゃんは大胆ですねー。その胸を武器に、お兄さんを誘惑ですか?」
「……まぁ、恋がそんな計算高い真似するとは思えへんけどな」
「恋の胸に、理性が……。そして、歳三様に逆らう事も出来ず、二人は……。ブハッ!」
「り、稟殿が一大事なのです!」
「またか……。稟、ほら上を向け! とんとんするぞ!」

 ……騒動になってしまったようだ。

「……? 恋、何か悪い事、した?」

 張本人がこれでは、誰も責められぬのだが。

「恋。とりあえず、腕を解いてくれぬか?」
「……?」

 万力に締め付けられたようで、少々痛いのだが。
 それに、この格好のままは……どう見ても、周囲から誤解を受ける。

「私は、何処へも行かぬ。案ずるな」
「……ん。わかった」

 やっと、恋は離れてくれた。
 ……さて、後始末もせねばならぬな、これは。
 その夜は、愛紗を宥め賺すのに、一苦労であった。



 冀州に入り、暫くは平穏が続いた。

「どうやら、黄巾党は決戦のため、皆広宗に集まっているようです」
「他の小さな盗賊さん達も、個々に討伐されるのを恐れて、皆広宗に逃げ込んだみたいですねー」

 疾風と風の探索だ、抜かりはあるまい。

「逆に一網打尽にする機会、とも言えるが。周倉、廖化。張角について知っている事があったら話して欲しい」

 愛紗の言葉に、二人は顔を見合わせる。

「姐御。それが……俺、大賢良師、いや、張角には会った事がねぇんだ」
「面目ねぇが、あっしも同じでさぁ。張宝、張梁も、三人いつも一緒、ってのは聞いてまさぁ」
「それは妙だな。黄巾党は、宗教の類、と思っていたのだが」
「又聞きで悪いけどよ、会った事のある奴の噂ならわかるぜ、大将?」
「それで構わぬ。どのような噂だ?」
「何だか知らねぇが、一度会ってきた奴らは皆、口々に『萌えぇぇぇっ!』って叫ぶらしいぜ?」
「萌え……? 何だ、それは?」

 稟と風に視線を遣るが、二人も頭を振るばかり。
 愛紗とねねは考え込んでいて、霞と疾風は首を傾げている。
 恋は……わかる筈もないな。

「ただ、わかってるのはそうなった連中は、死にもの狂いで戦った、って話だ。だから、生き残った奴もあまりいねぇって訳なんだが」
「それほどまでに熱狂させる何かがあった……それだけは確か、という事ですね」
「むむむ。その萌えとやらが何なのかがわからないと、理由はさっぱりなのです」
「むー。この風に何の情報も入ってこないなど、あってはならないのですが」

 軍師三人、熟考状態になってしまったようだ。

「……誰か、来る」

 恋が、遠くを見据えて言う。
 疾風が、私の双眼鏡を覗き込んで、

「確かに、伝令らしき兵が向かってきますね」
「伝令か。曹操か、冀州刺史の韓馥か。わかるか?」
「……いえ。流石にこの距離では」
「人数は?」
「二人です。将ではなく、兵ですね」
「よし。一応、警戒は怠るな。愛紗、もしいずこかの使者であれば、口上を確かめて参れ」
「はっ!」



 使者は、曹操より遣わされた者だった。

「軍議を開くので、我が陣まで来られたし、か」
「はい。曹操軍はこの先、二十里程に陣を構えているそうです」
「わかった」

 まずは、訪ねるより他あるまい。
 問題は人選だが……流石に軍議に全員を引き連れて、とは参らぬ。
 それに、陣にも将を残していく必要がある。

「霞は決まりだな。形式上、并州軍の指揮官はお前だからな」
「せやな。恋でもええけど、それやったら話し合いにならへんしな」
「うむ。愛紗も、幽州軍指揮官だ、同行せよ」
「ははっ」
「後は稟、一緒に参れ。他の者はこのまま陣に残り、周囲の警戒に当たれ」
「歳三殿。警護はよろしいのですか?」
「軍議に赴くだけで、大仰な真似をする事もあるまい。それに、愛紗や霞も一緒だ」
「疾風。歳っちの腕前、わかっとるやろ?」
「そうだぞ。私も、ご主人様に打ち負かされたのだからな」
「……大丈夫。歳三は、強い」

 あまり過剰な期待をされても困るのだが。
 少なくとも己の身ぐらい、何とかなるだろう。
 ……そもそも、曹操がそのような姑息な手を使うとは思えぬがな。

「それよりも、黄巾党の動きから目を離すな。何かあれば、直ちに知らせよ」
「畏まりました」

 さて、いよいよ対面か。
 不思議と、恐れはない。
 むしろ、歴史に名を残す大英傑との出会いを、楽しんでいる自分に気づいた。



 程なく、曹操の牙門旗が見えてきた。
 不意に、三人が立ち止まる。

「どうかしたか?」
「……歳っち。ホンマに、ええんやな?」

 真剣な顔で、霞が言う。

「何がだ?」
「決まっとるやろ。……ウチらが、曹操に会う事や」
「その事か。言った筈だ、これは己の運命を見定めるに必要な事だと。天が、私を必要とせぬのなら、それまでの事」
「……わかった。けど、そんなえげつない神さんやったら、この飛龍偃月刀が黙ってへんけどな」
「霞の言う通り。この愛紗も、閻魔であろうと何であろうと、斬り破ってご覧に入れます」
「では、私は天魔を討ち破る策を、知恵の限りを尽くしましょう」

 私は、黙って頷いた。
 もはや、言葉も要るまい。
 その間に、曹操の陣から、一人の将が出てきた。

「夏侯淵殿か」
「先日は世話になったな、土方殿。では、華琳様のところに案内する」
「ああ、頼む」

 そのまま、夏侯淵に従って陣中へと進む。
 ……ふむ、兵にも女子(おなご)が少なくないようだな。
 だが、一人一人の目つきが、他の官軍とは異なるようだ。
 それに、動きの一つ一つ、無駄がほとんど感じられぬ。
 少なくとも、朱儁や白蓮の軍に比べて、精悍な印象を受ける。
 それに、武器と鎧の充実ぶりも、なかなかのものだ。

「馬は、こちらでお預かりする。他の方々も」

 一際大きな天幕の近くで、下馬を促された。
 尤も、このまま天幕に入る訳には参らぬ故、当然の事ではあるが。

「華琳様。土方殿、張遼殿、関羽殿、それに郭嘉殿をお連れしました」
「入って貰いなさい」

 若い女子(おなご)の声が、返ってくる。

「はっ。どうぞ」

 そして、天幕の中へ。
 中央に居座る、小柄な少女。
 金色の、特徴のある巻き髪が目を引く。
 そして、その隣に立つ将は、警戒心を露わにこちらを見ている。
 ……かなりの遣い手、と見た。
 私は一歩前に出て、礼を取る。

「お初にお目にかかります。拙者、義勇軍を率いる土方と申します」
「私は曹操、字は孟徳。陳留太守を務めているわ。春蘭、貴女も名乗りなさい」
「はっ。私は夏侯惇、字は元譲だ。華琳様の一番の剣だ」

 なるほど、あの夏侯惇か。

「秋蘭は、もういいわね。後ろの三人も、名乗って貰えるかしら?」
「ウチは、董卓軍を任されとる、張遼。字は文遠言いますねん」
「私は、公孫賛軍の客将、関羽。字は雲長です」
「初めまして。私は土方軍にて軍師を務める、郭嘉。字は奉公です」
「そう。皆、いい面構えね、ふふ」

 機嫌良く笑った曹操は、手で座るように促した。

「まずは張遼と関羽。董卓と公孫賛に成り代わっての援軍に感謝するわ。その礼を先にさせて貰うわ」

 見事に、作法に適った礼をする曹操。
 霞は改まってそれに応え、愛紗はややぎこちなくも答礼を返した。

「そして、土方。貴方の事は、秋蘭からも聞いているわ。この短期間に、かなりの戦果を上げているようね」
「いえ、皆の働きの賜物にござれば。拙者は何の取り柄もなき男にござる」
「ふふ、そうかしら? だとすれば、従っている将兵は、随分と不幸ね」
「不幸と言われるか」
「そうよ。有能な将は、有能な主人に仕えてこそ、真価を発揮するものじゃなくって?」
「例えば、曹操殿のような御方、という事ですかな?」
「ええ。でも土方、貴方の場合は単なる謙遜でしかないわね。そうでなければ、この戦果の説明がつかないもの」

 曹操は、不敵に笑う。
 見た目は小柄な美少女だが、それに騙されると手痛い目に遭うだろう。
 身に纏う覇気、醸し出される威厳、どちらも並々ならぬものだ。
 松平容保公も、いや、上様ですら、此処まで身が竦む程のものはなかった。
 方々には恐れ多い事だが、やはり器が違いすぎるのやも知れぬな。

「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」
「……郭嘉。ちょっと、いいかしら?」
「は、はい!」

 不意に話を振られた稟は、眼鏡を持ち上げる。

「この男は、どのような人物か?」
「……恐れながら、お訊ねの意味がわかりかねます」
「あら、そう? なら、聞き方を変えましょう。貴女は軍師だそうね、軍師から見て、土方という人物はどう見えるか?」
「……では、お答えしましょう。ご自身でも確たる戦略、戦術を以て戦に臨む事の出来る存在です」
「ふーん。それなら、軍師は要らない筈よね? それなのに、どうして貴女は仕えているのかしら?」
「はい。歳三様は、ご自身のお考えだけに頼らず、周囲の意見を非常に大切になさいます。その上で、適切と思われる方針を定め、判断を下される。ですから、軍師としても、よりよい助言を、と緊張感を持ってお仕えできるのです」
「なるほどね。では張遼。董卓は土方と共に行動し、その指揮を土方に預けたと聞く。何故かしら?」
「それは、歳三が見せた手腕や思いますわ。稟がさっき言うた通り、歳三は兵の損害を出さへんよう、戦いますよって」

 霞は、空気を察したのだろう。
 私の呼び名を、咄嗟に変えるとは……やはり、機転が利くな。

「ふむ。関羽は? 公孫賛も、董卓と同じく、土方を信頼しているようだけど?」
「はい。歳三殿は、己の未熟さを悟らせてくれました。歳三殿に出会うまでの私は、武勇に任せて敵を倒す事のみ。周囲が見えていない、ただの猪でした。今ではこうして、一軍を率いる事が出来るのが、何よりの証です。そして、公孫賛殿もまた、歳三殿が叱咤激励し、太守としての自信をつけていただけました。これで、如何でしょうか」

 愛紗の受け答えも、見事だ。
 淀みなく、それでいて巧みに話を作り上げるとは……ふふ、これは意外だな。
 一方、曹操は……満足げに頷いている。

「と、皆は言っているわよ? これでも、まだ自分を卑下するつもり?」
「これは異な事を。拙者は事実を申したまでにござる」
「なかなか、腹の底を見せないわね。まぁ、いいわ。もう一つ、聞いてもいいかしら?」
「ご随意に」
「そう。今は名もなき義勇軍とは言え、これだけの功を上げた貴方が、何も賞されないという事はないわ。そうね、最低でも県令、私ならばどこかの太守か刺史を任せるわね。それで、そうなったら受けるつもり?」
「はっ。拙者には、このように付き従う者がおりまする。拙者自身、立身栄達を望むものではありませぬが、働きには相応のものを与える、これは上に立つ者の務めかと。そうなれば、手元不如意とは参りますまい」
「なるほどね。あくまでも、麾下に対する為に、という事ね。訊ねてばかりではおかしいわね、貴方から、聞きたい事はある?」
「ならば、一つだけお訊ね申し上げる。曹操殿は、今の漢王朝を、どう思われる?」
「貴様、何のつもりだ!」

 夏侯惇が、声を荒げた。

「春蘭。訊ねられたのは私よ」
「し、しかし! この者は」
「控えなさい。それとも、私の言う事が聞けないのかしら?」
「う……。わ、わかりました」

 夏侯惇程の猛将が、曹操の一言で大人しくなる、か。
 確かに、有無を言わせぬ厳しさは感じたが……ふむ。

「そうね。正直、もう命脈が尽きるのも時間の問題でしょう。宦官と外戚は、互いに自分たちの権力の事しか頭にない。民草の事を顧みる事などないもの、黄巾党のような乱が起きて当然でしょうね」
「では、仮に漢王朝がもはや国を統治する資格なし、となったら。貴殿はどうなさる?」
「土方殿!」

 今度は、夏侯淵が身を乗り出す。

「止めなさい、秋蘭」
「……は」
「なかなか言うわね、貴方。いいわ、遅かれ早かれ、公にする事ですもの」

 そう言うと、曹操は立ち上がった。

「私は、覇道を歩むつもりよ。力なき支配者など、罪でしかない。民を顧みない為政者など、ただの害悪。そうなれば、私はそういう類の者を許すつもりはないし、力なき正義など信じはしない。その為になら戦いは辞さないつもりよ。これでどうかしら?」
「結構でござる。ご無礼仕った」
「本当、無礼な男ね。でも、気に入ったわ」

 曹操は、表情を緩めると、

「貴方が、覇道を妨げるものか、路傍の石になるかは、見させて貰うわ。この戦、期待しているわよ」
「……は」
「では、軍議に入りましょう。韓馥と孔融が来ていたわね? 秋蘭、すぐに招集なさい」
「はっ!」

 この切り換えの早さ、尋常ではない。
 やはり、本物のようだな。
 覇王のお手並み拝見と行くか。 

 

二十二 ~語らい~

 青州刺史孔融と、冀州刺史韓馥を交えた軍議が終わり、私達は自陣へと戻った。
 早速、皆を集める。
「やはり、曹操殿が主導権を持つ格好だったのですな」
「せや。孔融は曹操と折り合いが悪いようにしか見えへんし、韓馥に至っては、慌てるばっかで意見もあらへん。曹操が立てた作戦通りに決まるしかなかったわ」
「というよりも、一枚岩に纏まる方が難しいでしょう。少しばかり、曹操殿に同情してしまいました」
 霞と稟の言葉に、皆が頷いている。
「それでお兄さん。広宗攻略は、どのように進めるのでしょうかー?」
「稟。説明を頼む」
「はい」
 広げた地図を、皆が覗き込んだ。
「現在、黄巾党が立て籠もる広宗は、ここです」
 地図の中心を指さす稟。
「その数、当初は約八万余と見込んでいましたが、各地で撃破された敗残兵や、周囲の中小規模の盗賊や山賊などが加わり、現在は十三万を超えているようです」
 軍議の場にいなかった面々は、その数に驚いたようだ。
「十三万ですと! うむむ、更に増えたのですか……」
「私も手が回らず、最近は把握しきれないでいましたが……。そこまで増えていたとは」
「疾風(徐晃)ちゃん、気にしても仕方ないのです。それにしても、曹操さんは、優秀な細作さんをお持ちみたいですねー」
「そうだな。情報を重んじるという事は口で言うのは容易いが、それを皆が持てるとは限らぬ。我らとて、疾風や風がおらねば、闇夜を手探りで進むような事になってしまうだろう。疾風、責めを感じる事はないぞ。お前がいるだけで、どれだけ私は」
「歳三殿……」
「おやおや、疾風ちゃん。お顔が赤いですよー?」
「う、五月蠅いぞ、風!」
 ……軍議の最中とは思えぬな、全く。
 尤も、緊張感のなさ、正規の軍隊ではないが故、ではあるのだがな。
「コホン。……先に進めて良いですか?」
 話の腰を折られたせいか、稟は少し不機嫌そうだ。
「続けてくれ」
「はい。布陣ですが、こうなります」
 凛は木片を、地図の上に置いていく。
 近代軍では当たり前の、図上演習、という奴だ。
 本来ならもっと洗練されているべきなのだろうが、とりあえずわかりやすいところから試みているところである。
「正面が曹操軍。数は二万五千程です」
「兵の質、それに率いとる将から考えて、ウチらの中では文句なしに最強やろな」
「孔融や韓馥の兵は見ていませんが、どちらも主君があまり戦向きとは、確かに思えませぬな」
 霞も愛紗も、見るべきところは見ていたようだな。
「そして、我が軍が裏門です。月殿、白蓮殿の兵を併せて三万余。数の上では一番になりますね」
「とは言え、まだまだ寄せ集めではありますけどねー。お兄さん如何で、発揮できる力が変わってくるかと」
「将だけならば、恋殿を初めとして、諸侯には見劣りしないのですが」
 ねねの言う通り、この豪華な顔触れでまともな一軍であれば、相当の戦果を挙げられるだろうが……。
「ないものねだりをしても仕方ありますまい。それに、相手は烏合の衆。数の優劣で勝負は決まりませんよ」
「疾風の言う通りです。私達軍師の、腕の見せ所ですし。そして、孔融軍が二万余で向かって西側を。韓馥軍が二万弱、向かって東側に布陣します」
「併せて十万に満たぬが、これで広宗を包囲する事と相成った」
「包囲ですか? しかし、攻城戦は、相手よりも多勢が常ですぞ?」
「ねねの申す通りです。野戦ならば、繰り返しますが引けは取りませぬ。ですが、広宗も城塞都市。力攻めでは、此方の被害も甚大になりましょう」
「せや。けどな、野戦に持ち込むっちゅう事は、相手を引っ張り出さなあかんやろ?」
「今までの、私達の戦い方は、当然奴等にも伝わっているだろうからな。つまりは、だ」
 霞の後を受けて、愛紗が意見を述べる。
「……賊軍は、動かぬ。籠っている限り、仮に官軍が倍になっても、防御側の優位は覆らぬからな」
「迂闊に出てみぃ。無力な庶人相手やったらともかく、ウチら相手に正面から当たればどないな事になるか。いくら賊軍かて、予想ぐらいするやろ」
「だから、まずは包囲を敷く。そして外部との連絡を絶ち、補給もさせない……そうですね、ご主人様?」
「うむ。十三万もの人間がいて、しかも今までは酒も食糧も好き放題にしていた。そんな連中が、急に守勢に回り、節約に務めねばならぬ……持久戦ではあるが、より辛いのは此方ではない」
「ですが、我らとて糧秣は無限にある訳ではありません。期限を区切らねば、朝廷からも督促が参りましょう」
 疾風の懸念も、尤もではある。
「そこを何とかするのが、風達軍師ですからねー」
「そう言う事です。ねねも良き策のため、協力して下さいね」
「承知なのです!」
 うむ、これで良い。
 皆が私に頼る事なく、自らの意見をぶつけ合う。
 議論と言うのは、案外自発的には出来ぬもの。
 私が全てを仕切れば、新撰組のようになりかねない。
 今でもやり方が間違っていた、とは思わぬが、結果として、皆が私の方針に唯々諾々と従うのみ……そんな組織になってしまった。
 当然、私は道を誤らぬよう努めるべきだが、時にはそうも行かぬだろう。
 佐幕の為に尊王の者共を斬れば良い、それのみを考えていた仲間のようにはなって欲しくない。

「お、お待ち下さい!」
「下がれ、下郎!」
 む、何やら外が騒がしいようだが。
 あの声は……夏侯惇?
「如何した?」
 私は席を立ち、天幕から顔を出した。
「はっ! そ、それが」
「いきなりで悪いわね。非礼は詫びるわ」
 やはり、曹操が一緒か。
 夏侯惇一人で来る訳がないからな……夏侯淵と違い、武一辺倒だからな。
「如何なされました、曹操殿?」
「軍議の最中なのでしょう? 構わないから、続けて。傍聴させて貰いたいのよ」
「傍聴、でござるか」
「ええ、そうよ。入らせて貰うわ」
 うむ、何とも強引な御仁だ。
 私はまだ、可否を答えておらぬのだが。
 ずんずんと、天幕に入っていく曹操。
「どないしはったんですか、曹操はん?」
「今は軍議中。それを承知の上ですか?」
 霞も愛紗も、訝しさを隠す事はなく、曹操を見ている。
「非礼は承知よ。だからまず、それについてはこの通り」
 ふむ、あっさりと頭を下げるとはな。
 誇り高き人物の筈だが、ただ傲岸不遜ではないと言う事か。
「でも、まともに訪ねたら、まずこうして軍議を見せて貰うのは無理でしょう?」
 当然だ。
 軍議を中断するか、若しくは待たせるか。
 何れにせよ、我らは曹操の麾下ではない。
 共通の敵に対する協力関係ではあっても、全てを公開すべき義務などない。
 だから、曹操の行為は咎め立てこそすれ、容認出来るものではない。
「どういうおつもりか? 貴殿ほどの御仁が、斯様な無法が罷り通るとでも思っておいでか?」
「思わないわ。同じ事をされたら、私ならただではおかないわ」
「ほう。では、その覚悟がおありで参られた……そう、受け取って宜しいのですな?」
 私がそう言った刹那、夏侯惇が剣に手をかけた。
「華琳様がそう仰せられても、みすみす斬らせる訳にはいかん」
「春蘭。止しなさい」
「し、しかし。華琳様!」
「大丈夫よ。土方は私を斬らない。いいえ、斬れないわ」
「何故、そう思われる?」
「理由はいくつもあるわよ。まず、貴方の挙兵名目は、黄巾党征伐。共通の目的があり、共に行動すべき関係でしょう? その相手を斬れば、その分の負担は己に返ってくる。ましてや、私の軍は精兵揃い。それを欠くという点で、利は全くないわね」
「なるほど。他には?」
「非礼を承知でやった事だけど、私は孔融や韓馥は当てにしていないわ。だから、唯一頼りになる貴方のやり方を、この目で確かめておきたい。純粋に興味があるだけで、他意はないわ。そんな相手を手にかける程、貴方は狭量じゃないでしょう?」
「……随分と、買い被られたものですな」
「そう? これでも人を見る目はあるつもりよ? これでも不足なら、校尉として無位無冠の貴方に命じる……という事も出来るわね」
「強権発動ですな。あまり、感心は致しませぬが」
「そうね、私も好まない。だから、非礼のお詫びとして、もう一つ。私の真名を預けましょう。以後、華琳と呼んで構わないわ。勿論、その似合わない敬語も必要ないわ」
「華琳様! 何もそこまで!」
「春蘭。私は権力づくは好きじゃないし、彼は私の臣下でもない。此方から頼み事をするのよ、相応の対価だと私は思うの」
「……本当に、宜しいのですな?」
「二言はないわ。この曹孟徳の名にかけてね」
「わかった、華琳。だが、これはあくまでも我が軍の軍議。見学は認めるが、一切の口出しは無用に願う」
「ええ、勿論よ。貴方は確か、真名は……」
「ない。姓が土方、名が歳三だ」
「そう。なら、貴方の事も、歳三と呼ばせて貰っていいかしら?」
「好きにするがいい。……皆も良いな?」
 愛紗は不服そうだが、それでも頷いた。
「ありがとう。……初めて見る顔もあるわね。改めて名乗りましょう。私は姓が曹、名が操、字は孟徳。陳留太守にして、校尉を務めているわ。春蘭、貴女も自己紹介なさい」
「……は。私は華琳様一の大剣、夏侯元譲だ」
 風とねね、疾風も名乗りを上げる。
「ふふ、皆、一癖も二癖もありそうね。これも歳三、貴方の人徳かしら?」
「さて、それはどうかな。では皆、続けようぞ」
「では」
 再び、稟は地図の前に立つ。
「陣立ては宜しいですね? 疾風、城内の様子は探れそうですか?」
「いや、警戒がかなり厳しいようだ。普通に忍び込むのは、至難の業だ」
「では、何か手立てを考えるしかないですな。人数もそうですが、将の名ぐらいは調べておくべきですぞ?」
「そうですねー。例えば、盗賊さんに見せかけてとか」
「風。盗賊に見せかけるとは、どういう事だ?」
「はいー。広宗には、今でも追われた盗賊さんが逃げ込んでいますよね? 忍び込むのが無理なら、こんな手はどうかと」
「……なるほど。盗賊に化けて潜入、という訳か」
「愛紗ちゃん、正解なのですよ」
「ただ、必ず上手く行くっちゅう保証はあらへん。やるんやったら、ちゃんと練った方がええな」
「周倉達に扮して貰う、という事か?」
「いえ。同じ手が何度も通じるとは思えませんよ、疾風。それに、やるならば一石二鳥を狙いたいですからね」
 ふと、視線を感じた。
 華琳が、ジッと私を見ている。
 ……私が何も言わぬ事を、訝っているらしいな。
 今はまだ、議論の最中だ。
 口を挟むつもりもない、その必要もない……それだけの事だがな。

 軍議は白熱しながら、進んでいく。
 と、天幕に誰かが入ってきたようだ。
「……戻った」
「恋か。ご苦労」
「ん。……お前、誰だ?」
 警戒を露にする恋にも、華琳は動じる様子もない。
「貴様ぁ、華琳様に向かってお前呼ばわりだと!」
「華琳。これ以上騒ぎ立てるようなら、出て貰いたいのだが」
「……ええ。春蘭、静かになさい。軍議中よ?」
「うう、華琳様ぁ」
 はぁ、と華琳は溜息をついてから、
「私は曹孟徳。歳三の許可を貰って、今軍議を見学させて貰ってるの」
「……わかった。恋は、呂布」
「そう、貴女があの飛将軍呂布なのね」
 それだけを言うと、華琳は黙り込む。
「恋殿。此方へ来て下され」
「……ん。わかった、ちんきゅー」
「うう、ねねとお呼び下さいと言っているではないですか……」
 華琳、少し呆れたような顔をしているな。
 自由闊達さが我が軍の特色だが、やはり端から見れば異質なのだろう。
「歳三様。議論は尽くせたかと思います。ご裁可をいただけますか?」
 軍議の内容を書き留めた竹簡を、今一度改めた。
 ……概ね、問題ないようだな。
 細部は、後で詰めれば良いだろう。
「良かろう。この線で進めるが良い」
「御意!」


 軍議が終わり、皆が席を立つ。
「歳三。ちょっと、良いかしら?」
 華琳の声に、皆が視線を向けた。
「何だ?」
「この後、時間を貰えるかしら? 少し、貴方と話がしたくて」
「軍議の内容ならば、先も言った通りだが?」
「決まった事に口を挟む気はないわ。それに、多少気になるところはあったけど、手直しが必要とも思えない内容だったしね」
「では、どういう事かな?」
「軍議を見せて貰ったのと同じ。純粋に、貴方という人物に興味があるのよ」
 無論、男としてでは……ないな。
 華琳の眼は、私という人物そのものに好奇を抱いているようだ。
 ……私もまた、華琳という人物を知ってみたい、そんな気もある。
「それは、余人を交えず、という事か?」
「そうよ」
「ご主人様!」
「か、華琳様!」
 愛紗と夏侯惇が、同時に叫んだ。
「愛紗。懸念する事はない」
「春蘭、貴女は先に戻っていなさい。少し、長くなると思うから」
「し、しかし。このような男と二人でなど」
「……夏侯惇。如何に曹操殿の重臣とは言え、我が主に対する言いようには気をつけろ」
「……お前、うるさい」
 疾風と恋が、夏侯惇を睨み付ける。
「ほう。私とやろう、というのか?」
 負けじと、夏侯惇も睨み返す。
「止さぬか、愛紗、疾風、恋。些細な事でいがみ合ってどうするのだ」
 静かに、だが毅然として言い放つ。
「春蘭、貴女もよ。それから、先ほどの言葉、訂正なさい。確かに、貴女に非があるわよ」
「う……。わ、わかりました……。すまん、土方」
「いや、いい。皆、ご苦労だった。早速、各々取りかかるように」
「はっ!」


 二人だけになると、この天幕でもかなりの広さを感じるな。
「いろいろと、迷惑をかけたわね。改めて、詫びておくわ」
「気にするな。夏侯惇とて、忠義一途という事はわかる」
「そうね。でも、本当に優秀な配下ばかりね。貴方の元にいるのは」
「それは、否定せぬが。私には過ぎた者達ばかりだ」
「そんな事はないと思うわ。皆、貴方を慕っているもの。ただの女誑し、という訳ではないようだし」
 酷い言われようだが……否定する事も出来ぬな。
「でも、どうやったらあれだけの人材が集まったのかしら? 私も、人材を求める事には熱心な方だと思うけど、根無し草でしかない貴方が、何故?」
「天の定めるところ、そうとしか言えぬさ」
「天運、ねぇ」
 華琳は、私の顔を覗き込む。
「何か?」
「……貴方、異国の出よね?」
「そうだが?」
「その異国で、何があったのかしら? 勿論、私よりも年上みたいだし、いろいろな事を経験しているのでしょうけど。それにしても、貴方には何か、凄みを感じるの」
「凄み、か」
「ええ。それに、軍議を見ていて気になったのが、全く口を挟まなかった事。意図的に、配下に意見を戦わせている、そんな印象を受けたわ。郭嘉も言っていた通り、貴方自身が皆を引っ張っていく力は、十分にあると思うのだけど?」
 流石、と言うべきか。
 見ているところはしっかりと見ているあたり、歴史に名を残した英傑だけの事はあるな。
 たったこれだけの期間で、私という人物をある程度、推し量るだけでも驚異に値する。
「多くを語る気もないが。私は、己の力で道を切り開かねばならぬ生き方をし過ぎていた」
「…………」
「それに、自らの大義のためとは言え、数多くの同胞をこの手にかけてしまった」
「……それを、悔いているとでも?」
「いや、悔いはない。それは、奪った命を蔑ろにする行為、そのような真似は出来ぬ」
「そうね。戦って後悔するぐらいなら、最初から戦わない方がいい。もし、貴方がそんな事を言ったら、即座に張り倒していたわ」
「ああ。この時代に生きる以上、そしてこの生き方を選んだ以上、戦いは避けられぬからな。だが、共に歩む仲間は、全力で守るべき者、私はそう思っている」
「でも、戦う以上は犠牲はつきもの。……私だって、春蘭や秋蘭がいつ、敵の矢に倒れるとも限らないけど。でも、それを恐れていては、覇道は歩めない」
 ふと、遠くを見るような眼をする華琳。
「民を守り、慈しんで。その見返りに、税を貰って。……その為には、戦いは不可避、そして力には力で対抗するしかないわ」
「……確かにな」
「ふふ、話が合うのね、本当に。……歳三、ますます貴方に興味が湧いたわ」
「そうか」
「ええ。最初は、有能な配下をたくさん抱えている、でも出自が定かでないのに、義勇軍として目を見張る戦果を上げている……そんな人物に興味があったわ」
「…………」
「それに、貴方の配下。……何故か、私との縁を感じたのよ。郭嘉も、程立も、徐晃も。いえ、張遼や陳宮、関羽もね」
「ほう」
 やはり、因縁という奴はあるのだな。
「もし、貴方が取るに足らない人物なら、あの子達が仕えているのは不幸、いいえ、天下の損失だったわ。でも、貴方を知って、その認識は消し飛んだ」
「ならば、私がくだらぬ輩であれば、引き抜くつもりであった、と?」
「そうよ。私ならば、有能な将を存分に使いこなすだけの自信があるもの」
 ふふふ、断言するか。
 だが、才能と実力に裏打ちされた自信。
 大言壮語、と相手に思わせないだけのものは備えている、それが曹操という人物なのだろう。
「でもね、今はあの子達は勿論だけど。……歳三、貴方が気になるわ」
 そして、華琳は真っ直ぐに、私を見据える。
「私に仕えなさい、歳三。貴方は、こんな義勇軍で終わる男じゃないわ」
「…………」
「それとも、董卓の父親ごっこで満足するつもりなのかしら?」
 どうやら、月との関係も調べがついているらしい。
 隠し立てするだけ、無駄だろう。
「そのようなつもりはない。それに、月はそのような女子(おなご)ではない」
「でも、彼女は朝廷の高官。無位無冠のままでは、いくら当人がそのつもりでも、朝廷からは決して認められないでしょうね」
「そうかも知れぬ。しかし、それと華琳に仕える事が、どう違うと言うのだ?」
「そうね。私に従うのなら、それに相応しいぐらいの地位は得られるわ。貴方程の将が私の覇業を支えてくれるなら、尚更ね」
 悪くない話ではある。
 黄巾党の乱が終息すれば、次に待つのは群雄割拠の世。
 華琳ならば、間違いなくその中を勝ち抜き、一大勢力を築き上げるだろう。
 これは予感ではなく、確信に近い。
 無論、相応の働きは求められるだろうが、少なくとも従う事での不利益はない、そう考えて良い筈だ。
 ……だが、本当にそれで良いのか。
「どうなの? 決断はこの場でなさい。優柔不断な者は、私は必要としていないわよ?」
「ならば、答えよう。……否、だ」
 華琳は少しばかり、驚いたようだ。
「理由を聞かせて貰えるかしら。私が至らないから?」
「いや。華琳は主君としては理想だろう。配下を使いこなすという自負も、ただの自信過剰でない事ぐらいはわかる」
「お褒めに預かり光栄ね。なら、他に理由があるのね?」
「ある。一つは、私と華琳は、似通い過ぎている。意気投合はするやも知れぬが……両雄並び立たず、という言葉もある」
「……他には?」
「今、この場で決めよ、という事は、私の一存で皆の運命を決めてしまう事になる。それは、皆に申し訳が立たぬ。だから、否だ」
 私の答えに、華琳は小さく溜息を一つ。
「……わかったわ。でもね、歳三」
「何だ?」
「私は望んだものは必ず手に入れる主義なの。どんな事をしてもね」
「……つまり、諦めてはおらぬ。そう言いたいのだな?」
「ええ。それは、覚えておく事ね」
 ふっ、まるで宣戦布告だな。
 華琳は、席を立ち、天幕を出て行く。
「付き合ってくれてありがとう。それじゃ」
「ああ」


「歳三殿」
 一人だけになった天幕に、疾風が入ってきた。
「影ながら警護してくれていたようだな。礼を申す」
「……気づいておられましたか」
「恐らく、華琳もな。……話は、聞いたな?」
「はい。ありがとうございます」
 礼を述べる疾風。
「何故、礼を申すのだ?」
「曹操殿の誘いを、私達の事を思って断られたではありませぬか。……私達を、そこまで信じていただける事への、お礼です」
「……気にするな。一度従うと決めた者は、私の方から裏切る訳には参らぬ。それだけの事だ」
「歳三殿……。貴男に従って、良かった……本当に」
 ふふ、こんな顔を見せられては、ますます蔑ろには出来ぬな。
 例え、華琳と対決する事となっても、な。 

 

二十三 ~二人の勇士~

「よし、かかれっ!」
「……行く」
「応っ!」
 矢の一斉射撃に続いて、恋と、愛紗率いる歩兵が敵陣へと突っ込む。
「か、官軍だぁ!」
「な、何で俺達みたいな小勢に?」
「わ、わからん! そんな事、俺が知るかよ!」
 慌てふためく賊。
 突破力のある二人が中心となった部隊だ、あっという間に敵を蹂躙していく。
「一人も逃すでないぞ!」
「任せとき!」
「承知です!」
 逃げ出してきた者も、霞と疾風の隊が待ち受け、仕留めていく。
「て、てめえら! 血も涙もないのかっ!」
 手負いの一人が、私に迫ってきた。
「ひっ! く、来るななのです!」
「……迷わず、成仏致せ」
 兼定を抜き、眉間を一閃。
「ぎゃっ!」
 せめて、か弱そうなねねを、と思ったのだろうが……そうはさせぬ。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですぞ!」
 歯の根が合っておらぬが、そこは触れずにおくか。
「ま、待ってくれ! 降伏する!」
 敵陣から一団が飛び出してくる。
 ……だが。
「稟、風。良いな?」
「御意」
「はいですよー」
 二人の合図で、矢が放たれる。
「た、助けてくれぇ!」
「た、頼む! 死にたくねぇ!」
「そう言って、慈悲を求めた民を、如何ほど手にかけてきたのだ?」
 怯んだ相手を、また一人斬り捨てる。
「歳っち! 粗方片付いんちゃうか?」
「いや、粗方ではならぬ。全員、だ」
「……せやったな。疾風(徐晃)、どないや?」
「そうですな。まだ、敵陣に数十名はいるようです。火をかけては?」
「ならぬ。北門を手薄にせよ、そちらに追い出すのだ」
「はっ!」
「弓隊を、北門を囲むように配置せよ。その前に槍隊を伏せさせ、討ち漏らしなきようにな」
「……しかし、本当に歳三様は軍師いらずですね」
 半ば呆れたように、稟が言う。
「立案したのは稟や風ではないか。私は、ただ指揮を執ったのみ」
「ですが、ここまで臨機応変に兵を扱うのは、風達には出来ないのですよ?」
「経験の差、それだけだろう。今に、皆私など抜き去る日が来る」
 やがて、剣戟の音が止んだ。
「どうやら、終わったようだな」
「ご主人様!」
「……片付いた」
 戻ってきた愛紗と恋も、返り血を浴びていた。
「れ、恋殿ーっ!」
 ねねが飛び出して、恋に抱き付いた。
「……ちんきゅー?」
「ご、ご無事で良かったのです!」
 些か、ねねには凄惨に過ぎたかも知れぬな。


 夜が明けた。
 多勢に無勢の戦ではあったが、皆はやはり疲労は隠せぬようだ。
 恋とねねは、早々と自分の天幕に戻って行った。
 疾風にも、この後を考えて、無理にでも休むように申し渡してある。
「兵にも交代で休息を取るように、全軍に伝えよ」
「はい。歳三様も、少しお休み下さい」
「私は、後で良い。それよりも、稟も休め。お前は、そうでなくても身体を気遣わねばなるまい?」
「は、はい……。では」
 少し顔を赤くして、稟は出て行く。
 入れ替わりに、風がやって来た。
「お兄さん。孔融さんと韓馥さんから、使者がやって来ましたよー」
 ほう。
 先の軍議では、あまり実のある発言もなかった筈だが。
「風。ただの使者か?」
「いえいえ。どちらも将のようですねー」
「ふむ。将か……いいだろう、通せ」
「御意ですよー」
 私は、記憶を巡らせる。
 孔融は、その名の通り、あの孔子の子孫。
 確か、曹操に仕えたが、直言のあまり曹操に疎まれて、処刑された筈だが……将となると、思い浮かばぬな。
 一方の韓馥は、冀州刺史であったが、公孫賛の圧迫を袁紹につけ込まれ、冀州を奪われたという末路を辿る事になった。
 ……此方は、後に袁紹や曹操に仕えた将がいた筈だ。
「お兄さん、お連れしましたよー」
「お通し致せ」
「御免」
「失礼致す」
 入ってきたのは、一目で武官とわかる女子(おなご)
 それも、二人共に相当の遣い手と見た。
「義勇軍を率いる、土方にござる」
「お初にお目にかかる。あたしは、冀州刺史、韓馥に仕える張儁乂」
「同じく初めて、ですな。私は、青州刺史孔融の客将、太史子義と申します」
 ……そうか。
 張コウは袁紹に仕えたが、その献策を取り上げなかった為に袁紹が敗れ、その後は曹操の許で武功を上げた勇将。
 一方の太史慈は、孫策と一騎打ちの末、その人物を見込まれて仕えた、此方も優れた将。
 やはり、私の知識を頼りにするのは、危険が付きまとうかも知れぬな。
「土方殿。我らの事、ご存じのようにお見受け致すが?」
「然様ですな。何処でご縁がありましたかな?」
「……いや。一方的に、拙者が存じていたまででござれば、お気になさらず」
「では、その件については問いますまい。本日は、昨夜の事について、糺しに参った次第」
「返答次第では、主人に申し上げますので。ご承知おきいただきたく存じます」
 華琳は何も言って来ぬところを見ると、我らの真意に気づいているのだろう。
 だが、孔融と韓馥には、華琳ほどの洞察力は望めまい。
 それで、二人を遣わした……そんなところか。
「承った。昨夜の事とは、我が軍が行った、賊討伐の事でござるな?」
「如何にも。まず、我々は今、広宗の黄巾党本隊を囲んでいる最中。それを知りながら、何故小勢に過ぎぬ賊を討たれたのか?」
 張コウが私を見据えて、そう言った。
「我が軍の行動が、蛇足に過ぎぬ。そう仰せか?」
「然様。ただでさえ、黄巾党に比べて我々の兵数は少ない。なのに、徒に兵を消耗するような真似、解せぬ」
 なるほど、至極尤もな疑問だ。
「理由はいくつかあり申す。……が、その前に、太史慈殿からも承りますぞ?」
「忝い。貴殿の軍は今まで、苛烈さの中にも慈悲を以て、賊軍と戦ってきた……そう愚見しています」
 太史慈は、ゆっくりと噛み締めるように話す。
「だが、此度は降伏を求める者もいたにも関わらず、誰一人としてそれを認めず、皆殺しにされたとか。相手が賊とは申せ、度が過ぎるのではありませんか?」
 同感なのか、張コウが頻りに頷いている。
「ご両者のお尋ね、ご尤も。では、お答え申し上げる」
「…………」
「…………」
 張コウも太史慈も、黙って私の言葉を待っている。
「まず、昨夜の賊でござるが、どのような賊徒であったか、ご存じか?」
「さて、賊は賊であろう?」
「少なくとも、黄巾党とは聞いていませんな」
「奴らは、冀州に散らばる賊徒でも、最も冷酷な者共でござった。男は皆殺し、女と見れば犯し、子は人買いに売る。家や田畑は焼き尽くし、井戸には毒を投げ込み、襲われた村は文字通り焦土と化した……。そんな奴らにござる」
「なんと……」
「し、しかし。そのような賊は他にも数多おりましょう?」
 私の言葉に衝撃を受けたのか、二人は驚愕を隠せぬようだ。
「然様。ですが、他の賊徒は、まだ人の心を宿した者が少なくないようでござってな」
「…………」
「それに、斯様に凶悪な獣が、仮に広宗に合流すれば。広宗の民の苦しみは増し、我らは獣相手に無用な損害を被る恐れがござろう?」
「それは……」
「……否定できませんな」
 俯く二人。
「そのような輩をのさばらせたままなど、民を救う事を旗印にする我が軍には看過できぬ事にござる」
「だ、だが。それならば広宗の者共を討ち果たしてからでも」
「いえ、それでは駄目でござる」
「何故だ!」
 張コウが、激高して詰め寄ってくる。
「落ち着け、(さい)
「し、しかしな。お前は何とも思わんのか、飛燕(ひえん)!」
 ほう、互いを真名で呼ぶとは。
 この二人、それだけの間柄と見える。
「何をしている!」
 と、愛紗がそこに飛び込んできた。
「何だ貴様は!」
 張コウの一喝に、動じるような愛紗ではない。
「貴公こそ、無礼であろう? 使者として参ったのなら、礼を守られよ」
「彩。この御仁の言う通りだ。まだ、土方様の話は終わっていないぞ?」
「……うむ。ご無礼、お許し願いたい」
 すぐに非を認める度量は、持っているか。
 なるほど、この者は正真正銘、張コウその人であろう。
「愛紗。心配は要らぬ、下がっておれ」
「し、しかし……」
「ぐー」
 そこに、場違いな寝息が混じる。
 意図しているのかどうかは知らぬが、お陰で愛紗が落ち着きを取り戻したようだ。
「愛紗、風も疲れているようだ。休ませてやれ」
「……は。風、参るぞ」
「おおっ! ついうららかな日和に誘われてしまいましたー」
「全く、緊張感のない奴だ」
「愛紗ちゃん、引っ張らなくても良いですよー」
 二人の背を、呆気に取られて見送る張コウと太史慈。
「ご無礼仕った」
「い、いや……。しかし、貴殿の麾下は、変わっているな」
「ま、まぁ……。個性という奴でしょう」
 個性は個性だが……風の場合は、少し突き抜けてしまっている気はする。
 尤も、二人がすっかり毒気を抜かれてしまっているようだが。
 風の事だ、この程度の事は計算の上であろうな。
「さて、お尋ねの事でござるが。太史慈殿が先に問われた事への、拙者からの返答になり申す」
「と言われると?」
「降伏を許さず、全員を討ち果たしたは、故あっての事」
「伺いましょう」
「拙者の手の者を、広宗に忍ばせます。ただ、今の広宗は警戒が厳重。ただの手立てでは、なかなかに難儀するかと」
「そうでしょうな。我が主も、韓馥殿も、そして曹操殿も、そこは苦慮しておいでです」
「ですが、官軍に追い立てられた賊が、広宗に逃げ込んだとしたら……?」
 張コウが、私の言葉に首を傾げる。
「言わずもがな。他の賊徒同様、広宗は受け入れざるを得まい」
「然様。では、その賊徒が真の賊ではない、となれば?」
「……ま、まさか、土方殿。貴殿の麾下を、賊徒に仕立てる、と?」
「ご明察通り。それが、拙者が皆と取り決めた、策にござる」
「…………」
「…………」
 想定外の答えであったのだろうか。
 二人は私を見たまま、暫し無言のままであった。

 やがて。
「……恐ろしい御仁だな、貴殿は」
 絞り出すように、張コウが言う。
「確かに、皆殺しにすれば死人に口なし。そっくりすり替わる事も可能ではありますが……」
 太史慈の声も、掠れ気味だ。
「この策は、それだけに非ず」
「ま、まだあると言うのか?」
「無論にござる。先ず、この噂は忽ち、冀州一帯に広まりましょう。官軍の眼は、黄巾党ばかりに向いてはおらぬ、非道と見なされれば容赦なく討伐される、と」
「……賊徒は、恐れをなすであろうな」
「如何にも。恐れをなした結果、どうなりますかな?」
「己の身の安泰を諮ろうと、広宗に逃げ込む者が続出するでしょうね。結果、貴殿の策はより成功しやすくなりましょう」
「それもござる。が、各地に散らばる賊徒が一堂に会せば、各々を討つ手間も省けますな」
「何と……。そこまで考えていたとは」
「今一つ。数が増えれば当然、食い扶持が必要になり申すが。逃げ込むような賊徒に、その用意が果たしてござるかな?」
 張コウと太史慈は、顔を見合わせた後、項垂れた。
「……どうやら、短絡的に過ぎたか。貴殿が、そこまで深慮遠謀の御仁とは」
「そうですね。……土方様、最後にもう一つだけ、お聞かせいただけますか?」
「何なりと」
「貴殿の策である事は、十二分に理解できました。ですが、何故そこまでなされるのです?」
「飛燕の申す通り。貴殿の策が見事である事は認めるが、あまりにも手段を選ばない……そんな印象を受ける」
「……一刻も早く、このような世を終わらせる為。無論、これが最良の策とは申しませぬが、これが拙者のやり方にござれば」
「しかし、貴殿の兵には元賊徒も多いとか。恨みや無用な恐れを抱く者もいるのではないか?」
「お気遣い、痛み入り申す。しかしながら、我が軍にはそのような輩はおりませぬ故」
「それは、土方様。刃向かえば容赦しない、そう叩き込んでいるから、ですか?」
「いえ。むしろ、奴らには機会を与えました。今までの罪を贖い、世の為、民の為に命を賭ける覚悟を持つ機会を」
「……それは、今も変わりませんか?」
「無論にござる。ただし、機会は一度のみ。同じ過ちを繰り返すならば、その時は覚悟致せ……そう、申し渡していまする」
 ふう、と張コウは溜息をつく。
「……壮絶だな、貴殿の生き様は」
「ですが、付き従う将も軍師も、何故皆一角の人物なのか。それが、少しわかった気がします」
 二人から、訪れた時の剣呑さは、もう消え失せていた。
「土方殿。改めて、宜しく願いたい。願わくば、貴殿とだけは戦いたくないものだ」
「私もです。以後は、互いに協力し合いましょう」
「拙者としても、貴殿らほどの勇士に認めていただけるなら、この上なき事。是非、昵懇に願いたいものです」
 二人は頷いた。
「その証として、以後は彩、と呼んでいただいて結構」
「私も、飛燕と呼んで下さい」
「それは、真名ではありませぬか?」
 軽々しく相手に預けるものではない、そう何度も言い聞かされていたものなのだが。
「勿論。貴殿を見込んだからこそ、許そうと思う」
「それに叛く事があれば、その時は容赦しませんけどね?」
「……では、お受け致そう。拙者、いや、私は真名がない。皆は、歳三、と呼んでいる故、好きに呼んでいただきたい」
 思わぬ形で、真名を預かってしまったが……。
 その信頼に裏切る真似をすれば、容赦なく討たれるであろうな。


 そして、夜が明けた。
「では、歳三殿。行って参ります」
「頼んだぞ、疾風」
「はっ」
 盗賊に身を窶した疾風と、手の者百余名。
 策に従い、広宗へと向かった。
「霞、愛紗。良いな?」
「……しゃあないな。あんまし、気分のええモンちゃうけどな」
「だが、芝居と見抜かれるようではまずい。手は抜けないぞ?」
「愛紗の申す通りだ。では、行け」
 霞の騎兵と愛紗の歩兵が、疾風の後を追う。
 必死に逃げる疾風の手勢は、広宗の城壁へと迫っていく。
「歳三様……」
 策とわかっていても、不安なのだろう。
 私の腕を掴む稟が、震えていた。
「案ずるな。皆、大丈夫だ。それは、稟が一番良く存じている筈だが?」
「は、はい……。そうですよ……ね」
 だが、震えは止まらぬか。
 私は、稟の肩に手を回す。
「……歳三様?」
「皆を信じよ。不足ならば、私を信じよ」
「…………」
「私が皆を頼りにするように、皆も私を頼りにするがいい。その為なら、私は労を惜しまぬ」
「……そうでしたね。申し訳ありません」
 震えが、止まったようだ。
「あ、あの……。暫く、このままで……」
「わかった。気の済むまで、そうしているが良い」
「はい」
 稟の温もりと鼓動を感じながら、私は暫し、広宗城を見やった。 

 

二十四 ~広宗、陥落~

 闇夜を切り裂く、銅鑼や鐘の大音響。
「や、夜襲だーっ!」
「来るぞ、全員叩き起こせ!」
 慌てて城壁に集まる賊に向け、
「一斉射撃用意……射てっ!」
 火矢を混ぜた大量の矢が、降り注ぐ。
 無論、全部の矢が敵に当たる訳がない。
 それでも、確実に賊はその人数を減らして行く。
 火矢が、城を朧気ながらも、闇夜に浮き彫りにした。
 城方からも反撃は来るが、一切の明かりを消した此方を見つけるのは、砂丘で金を探すよりも困難であろう。
「土方様! 城門が開きました!」
 伝令が駆け寄る。
 苦し紛れに、打って出る、か。
 だが、無益な事だ。
 そもそも、いくら矢を放っても城は落ちぬのだが……所詮は烏合の衆、考えが至る訳もないのだろう。
「恋。蹴散らして参れ」
「……わかった。行ってくる」
 新月の夜では、闇雲に突き進んでも、空振りに終わるだけだ。
 一方、此方からすれば、城は動かぬ的。
 城門の場所が変わらぬ以上、そこを目がければ良いだけ。
 ましてや、放った火矢の幾許かが、格好の灯火となっているのだ。
 賊にしてみれば、消火したくとも、この状態では難しかろう。
「うわっ!」
 先頭をきった賊が、不意に絶叫する。
「き、急に止まるなっ!」
「馬鹿野郎! 邪魔だ!」
 後から出てきた者が次々に転倒して、その都度怒声と悲鳴が上がる。
 矢の斉射と共に、城門の両側に兵を走らせてある。
 綱を張り、足を引っかけさせる策であったが、上手く行ったようだな。
「痛ぇー!」
「何しやがる、てめぇら!」
 賊徒は、まさに混乱の最中。
「ぎゃあ!」
「な、何だ? ぐわっ!」
 そこに、恋率いる部隊が突入した。
「……弱い奴は、死ね」
 方天画戟が、一人、また一人と、賊の命を刈り取っていく。
 この乱戦で、恋を止められる者はおるまい。

 騒ぎを聞き付けて、城内から賊の応援が出てきたらしい。
 が、城門辺りは立ち往生する者で塞がれている為、混乱に拍車をかけるばかりだ。
「弓隊。城門目掛けて一斉に放てっ!」
 愛紗の号令と共に、再び矢の嵐が、賊徒を襲う。
「だ、駄目だ! 退却しろ!」
「城門を、さっさと閉めやがれ!」
「倒れた奴等が邪魔だ、クソっ!」
 右往左往する賊に、矢を浴びせ続けた。
「歳三殿。これに乗じて突入はしないのですか?」
 ねねの声がした。
「欲をかけば、我らも思わぬ痛手を受けるやも知れぬ。それに、此方は敵に比べて小勢。無理をする事はない」
「それに、これで僅かでも賊の数は減ります。士気も落ちるでしょう」
「疾風(徐晃)ちゃんも、より動きやすくなるでしょうしねー」
「その疾風から、書簡が来とるで。どさくさに紛れて、ウチんとこに届けたみたいやな」
 霞は、そう言って竹簡を差し出した。
「中は?」
「読んでへんよ? これは、歳っちが読むべき竹簡やろ?」
「そうだが。受け取ったのは霞なのだから、私は別に構わぬのだが」
「あかんって。歳っちがウチを信用してくれるんは嬉しいねん。せやけど、アンタは大将。ケジメはきっちりせなあかんやろ?」
「……そうか。わかった」
 竹簡を受け取り、伝令を呼んだ。
「恋に、引き上げよと伝えよ」
「はっ!」


「……なるほど。皆も、見るがいい」
 自陣に戻り、疾風からの書簡に目を通す。
 この短期間にしては、詳細な報告が書かれていた。
「張角ら三人は、城内で厳重な警戒の中にあって接触できていない……ですか」
「疾風ちゃんでも手こずるとは、意外でしたねー」
「ですが、これで奴らが広宗にいる事は確実なのですぞ」
 確か、張角は広宗で病没した、そう記憶している。
 もし、この世界の張角も病なのであれば、警戒が厳重なのも頷けるが。
 ……だが、それならば何故、張梁や張宝は出てこぬのか。
 数では勝るとは言え、退路が断たれている事ぐらい、賊徒も理解していよう。
 もともと、防衛に専念するなど、奴らの概念にあるとは思えぬだけに、この状態が続けば当然、士気は下がる一方だ。
 その程度も理解できぬ集団、という事なのだろうか?
「ん?」
 広宗から、何かが聞こえてくる。
 遠吠えのような……いや、違うな。
 天幕を出ると、恋が広宗の方を眺めていた。
「恋。何か、聞こえぬか?」
「……人が、吼えている」
「人が?」
「ん」
 耳を澄ませてみると、確かに雄叫びのような声がする。
 疾風からの書簡には、そのような事は書かれてはいなかった。
 つまり、我らには未知の何かが、黄巾党にはあるという事なのだろう。
 そうでなければ、ただの賊徒の反乱が、ここまでの力を持つ説明がつかぬ。
「見張りは厳重に致せ。よもやとは思うが、不意打ちがないとは言えまい」
「はっ!」
 伝令にそう申し渡し、私は天幕に戻った。


 それから毎晩。
 鬨の声を上げて押し寄せ、矢を放ち、銅鑼や鐘を鳴らす。
 その繰り返しの日々となった。
 城方は初日の被害で懲りているせいか、打って出る様子はない。
「これで一週間ね。いつまで続けるつもり?」
 軍議の席で、華琳に問われた。
「賊徒が音を上げるまで、と言いたいところだが。そうも行くまい」
「そうね。我らだって、糧秣には限りがあるわ。それに、包囲したまま戦いらしい戦いもなければ、厭戦気分が広がるわ」
「ならば曹操殿、貴殿に良き策がございますかな?」
 意味深に、笑みを浮かべる孔融。
「策を立てたのは私じゃありませんもの。ここで、私が口を出す訳にはいきませんわ」
「ま、まぁまぁ。ご両人とも、そのように。もっと穏便に参りましょう」
 パタパタと、しきりに扇子を使う韓馥。
 孔融は頭脳は明晰そうだが、軍師や英傑といった印象はない。
 韓馥に至っては……優柔不断な中年男としか見えぬ。
「風、では次なる策を説明せよ」
「御意ですー」
 卓上に広げた地図を示しつつ、風が話し出した。
「現在、広宗に籠もった盗賊さんは大凡、十五万近くになったようですねー。ですが、もともとそこまで糧秣の蓄えがあった訳じゃなかったようで、食事は満足に取れていないようですね。城内から上がる、炊煙が極端に減ってますしー」
「加えて、毎夜の夜襲と見せかけた行動で、寝不足に陥っている事だろう。最も、我らも少々寝不足気味ではあるが」
 彩が苦笑する。
「空腹に寝不足から来る疲労、加えて籠城し続ける事での鬱積もありましょう。程立殿、そろそろ、敵方に何らかの動きがある、そう見ていますが、如何でしょう?」
「太史慈さんの仰る事もご尤もですけどねー。ただ、今の盗賊さん達に、そこまで頭が回るかどうかは疑問なのです」
「しかし、このまま座して死を待つ、とは限らんぞ?」
「秋蘭の言う通りよ。程立、そこはどう考えているのかしら?」
「ご心配なく。その為の手は打ってありますしー」
 華琳は、何処か楽しげだ。
 人物の才能を推し量るのが、生来好みなのやも知れぬな。
「ならば、その言葉、信じましょう。それで、いつ決行するのかしら?」
「今夜は、同じように夜襲の真似をしますので、明日の未明ですかねー」
「決まりね。孔融殿も韓馥殿も、異存はないでしょうね?」
「は、はい。私はそれで」
 韓馥は即答したが、孔融はジッと、黙り込んでいる。
「孔融殿? どうかなさいまして?」
 孔融は、やっと顔を上げた。
「曹操殿は、何故このような者の言葉を、そこまで取り上げなさるのかな?」
「あら、どういう意味でしょうか?」
「そのままですがな? なるほど、策に筋は通っているが、この者達は何ですかな?」
 なるほど、此度は我らが中心となって立てた策。
 そのものに異論はないが、それを許した華琳に対して物言いを、という事か。
「孔融殿? 今は出自を問うよりも、如何に勅令である黄巾党討伐を成し遂げるか、それが最優先でしょう?」
「それはご尤も。ですが、万が一この策がしくじったなら、その責めはどなたが負うのです? まさか、無位無冠のこの者共に、とは申しますまい?」
「…………」
 華琳と孔融の間で、見えない火花が飛び散っている。
「……いいでしょう。責めは全て、私が負いましょう」
「華琳様!」
「秋蘭、貴女は黙っていなさい。なるほど、ここにいる歳三は無位無冠の者です。なれど、その人となりを見込んで、我が真名を許した相手でもあります」
「ほう、真名を許されるとは。それだけ、この者に惚れた、という事ですかな?」
「孔融殿! いい加減になされませ!」
 今度は飛燕だ。
 流石に見かねたようだな。
「太史慈、構わないわ。確かに、私はこの男に惚れたわ」
「ななな、なんと大胆な」
 暑くもないのに、やたらと汗を拭う韓馥。
「勘違いなさらないで。私は、この男の才能を見込んだだけです。孔融殿、まだ問答の必要がおありでしょうか?」
「いやいや、曹操殿がそう仰るなら、もう何も申しますまい。では、これにて」
 そう言い残し、孔融は出て行った。
 後を追う飛燕は、一度華琳に向かって頭を下げていく。
「でで、では、私も」
 韓馥は相変わらずどもりながら、あたふたと出て行った。
 その後を、彩が苦虫を噛み潰したような顔つきでついて行く。
「済まぬな、華琳」
「いいのよ。ああでも言わなきゃ、あの場は収まらなかったでしょうしね」
 華琳は小さく、溜息を一つ。
「でもね、歳三。貴方を買っているのも、信用しているのも事実よ? その期待、裏切らないでね?」
「という事のようだ。風、頼んだぞ」
「ぐー」
「……なんか、寝ているようだけど?」
 華琳も夏侯淵も、ただ苦笑するばかりだ。
「全く、貴方のところは見ていて飽きないわね」
 何も言い返せぬな、これでは。


「歳三殿!」
 夜襲の素振りをする最中。
 疾風が、打って出た振りをして、我が陣へと戻ってきた。
 攻撃を加えていた恋も、数合打ち合う真似をしたのみ。
 ……尤も、今の賊徒に、その真偽を見抜くだけの気力が残っているとも思えぬがな。
「ご苦労。少し、窶れたか?」
「いえ、お気になさらず。それよりも、張角達の正体、突き止めましたぞ」
 その言葉に、皆に緊張が走る。
「それで疾風。張角とは一体、どのような奴なのです?」
「結論から答えよう。皆、少女だ……このような動乱とは無縁の、な」
「動乱と無縁ですと? ですが現に、このような大乱になっているのですぞ!」
「ねねの言う通りだ、疾風。仮にお主の言う通りの人物であったなら、何故ここまで民が苦しまねばならんのだ?」
「まーまー、愛紗ちゃん。少し落ち着きましょうよー。それで疾風ちゃん、続けて貰えますかー?」
「ああ。張角、張宝、張梁。三姉妹は、しがない歌芸人だったようだ。それがある日、急に人気を得て、瞬く間に信者を増やしていったようだ」
「急に、ちゅうのが気になるけどな。それで?」
「そして、舞台の場で『天下を獲る!』と宣言したそうだ。それを聞いた一部の信者が暴走し、気がつけばこの有様……という顛末らしい」
「……は?」
 恋を除く全員が、疾風の言葉に固まった。
「ちょ、ちょい待ち! それ、歌芸人が歌で頂点を獲る……そないな意味ちゃうやろうな?」
「……霞。それ以外の、どの意味があると申すのだ?」
「うう~、歳っち~。ウチかて、信じとうはないわ……アホらしゅうて」
「霞、私もだ……。力が抜けるな」
「しかし、わからないのは暴走の挙げ句、とは言え、ここまでの騒ぎになったという事ですな」
「それはですねー、もともとの民の皆さんの不満が溜まっていたせいでしょうねー」
「恐らく、きっかけは何でも良かったのだと思います。たまたま、勢いのある張三姉妹が現れ、不満を爆発させた……そんなところでしょう」
「……私も、事実を知った当初は驚きました。ですが、現に黄巾党は未だに健在です。歳三殿、どうなさいますか?」
「そうだな……」
 まずは、有無を言わさず、張三姉妹の頸を刎ねる事。
 勅令が黄巾党討伐である以上、首謀者の首級を上げる事は当然だろう。または、捕らえて都に護送する。
 見せしめにはなろうが、途中の警護にかかる費えも莫大なものになる上、残党が三人を奪還しに襲撃を企てる可能性が高い。
 それに、我が軍は既に大功を挙げているのだ。
 これ以上功を成せば、間違いなく妬みを買うだろう。
「疾風。この事に気付いているのは、黄巾党以外には?」
「恐らく、今のところは我らだけかと。ただ、曹操殿もしきりに細作を放っているようですから、いずれは真相が知れましょう」
「……ふむ」
 華琳なら、どう対処するであろうか。
 容赦なく処断するか、或いは利用するか。
「お兄さん、とにかく捕まえてみてはどうですかー?」
「風。何か、思うところでもあるのか?」
「いえいえ。お兄さんが即決しないところを見ると、張三姉妹の処置にお困りなのかと思いましてー」
「どうやら、単純に頸を刎ねて終わり、とは行かないようですしね。疾風、張三姉妹の警戒は厳重、と言いましたね?」
「ああ。連中としても、いくら担ぎ上げた御輿と言えど、その価値はわかっている筈だ。それに、熱心な信者は個人的にでも守り通すでしょう」
「討つ、となれば至難の業。だが、逃がす、となればどうだ?」
「ご主人様! な、何と言う事を!」
「待て、愛紗。確かに、逃がすとなれば話が変わりますが……歳三殿。本当に逃がすのですか?」
「いや。逃がすと見せかけて、捕らえたい」
「捕らえるのですか? しかし、都まで護送するとなればかなりの負担になりますが」
 稟も、そこには気付いていたか。
「そのつもりはない。ただ、確かめたい事がある」
「確かめたい事、ですか」
「うむ。疾風、どうだ?」
「はっ。落ち延びるという事であれば、遣り様があるかと。ただ、稟の知恵を借りたいと思いますが」
「いいでしょう」
「では、二人に任せる故、張三姉妹を必ず連れて参れ」
「御意!」


 払暁を待ち、全軍での一斉攻撃が始まった。
 夜通し緊張を強いられた上、ただでさえ疲労が頂点に達する時間帯である。
 城方からの反撃は弱々しく、一気に突破も可能……そう見えてしまう。
 だが、攻撃は続けつつも、良く見れば被害を受けぬ距離に兵が留まっている事が見てとれる。
 と、その時。
 ドーンという音と共に、搦手の門が開け放たれた。
「今だ! 霞、愛紗!」
「よっしゃ!」
「者ども、続けい!」
「応っ!」
 満を辞して、我が軍は突撃を開始。
 突破力のある霞が先陣を切り、愛紗が立ち向かおうとする賊を確実に仕留めて行く。
 そして、正門と西門から、次々に火の手が上がり出した。
「さて。風、ねね。此処は任せたぞ」
「御意ですー」
「了解なのです!」
 二人に頷き返してから、振り向く。
「起きたか、恋?」
「……まだ、眠い」
 眼を擦りながらも、準備万端のようだ、問題あるまい。
「では、行くぞ?」
「ん、わかった」
 かねてから待機させていた一隊の元へ向かう。
 皆、いい顔をしている。
「皆、良いな? これで、ひとまずの終止符を打つ」
「応っ!」
 中には、元賊の兵も混じっているが、覚悟は見定めた上の事。
 一人一人、迷いや躊躇いはない……そう、断じる事にする。
「参るぞ」
「……行く」
 陣を大きく迂回し、東門から程近い、森が目印だ。
 ここに兵を伏せ、待ち受ける事にする。
 さて、後は疾風を待つばかりだが……。
「……来る」
「疾風か?」
「(コクッ)」
 城の方角から、一団が此方へと向かってきている。
 先頭に疾風が立ち、その後ろに、男達に囲まれた少女が三人。
 あれが、恐らくは張三姉妹だな。
「皆、疾風が立ち止まると同時に、奴らを取り囲め」
「ははっ!」

 そして。
 何人かの賊は抵抗の姿勢を見せたものの、恋の早業に戦意を失った。
 三姉妹は、逃げる気力も失せたのだろう。
 私と、疾風を睨み付けつつも、大人しく囚われの身となった。
「済まぬな、疾風。憎まれ役を担わせてしまった」
「いえ。これで、終わるのですね……やっと」
「……ああ」
 黄巾党の乱は、確かに終息に向かうだろう。
 だが、戦乱の日々は、まだまだ続くのであろうな。
 と、不意に疾風が蹌踉めく。
「これ、しっかり致せ」
「は、はい……面目ございませぬな」
「いや、本当にご苦労だった。……ゆっくり、休め」
 支えた疾風の身体は、相当に軽かった。 

 

二十五 ~張三姉妹~

 総大将である張角及び姉妹が落ち延びた、という知らせは忽ちのうちに城内へと広がる。
 そもそも、数と士気では勝るとは言え、所詮は賊軍に過ぎぬ。
 張角にそこまでの人的魅力があったかどうかは定かではないが、少なくとも求心力はあったに違いない。
 それが失われれば、後は瓦解の道を辿るしかない。
 現に、広宗の城内はまさに阿鼻叫喚、といった様相を呈している。
 とは言え、頑強に抵抗する者は殆どおらぬようだが。
 ……尤も、私が敵方なら、戦意が萎えもしようが。
 疲労しきっていた疾風のみ休ませたが、他は皆、集まってきた。
「揃ったようだな。では、始めるか」
 私の声で、皆の視線が中央に集まる。
「まず、名を聞こうか。私は、義勇軍を率いる土方だ」
「…………」
 三人は、身を寄せ合っている。
「どうした? 口がきけぬ訳でもあるまい?」
「…………」
 ふむ、応えぬか。
「そなた達が、張角らである事はわかっているのだがな?」
「……なら、いちいち聞かないでよ」
「地和姉さん!」
 乱暴な口調で話す青い髪の少女を、眼鏡の少女がたしなめた。
「れんほーちゃん……お姉ちゃん、どうしたらいいの?」
 張角らしき少女が、不安げに俯く。
 となると、後の二人が張宝と張梁か。
「さて、何も答えぬのなら、言い残す事はない……そう見なすが?」
 兼定を手に、腰を上げた。
「な、何よ?」
「ちーちゃん、れんほーちゃん……」
「二人とも、落ち着いて。……話なら、私が」
 身体を震わせる二人と違い、一人だけ冷静な少女。
「よかろう。では、先程の問いに答えて貰いたい」
 柄から手を放した私を見て、件の少女が頷いた。
「いいわ。真ん中が長女の張角、左が次女の張宝、そして私が三女の張梁よ」
「うむ。ならば、お前達が今、どんな立場にいるかも、わかっているな?」
「……ええ。私達にも言い分はあるけど、朝廷に対する反乱の首謀者。そう言いたいのでしょう?」
「そうだ。だが、何故このような事になった? 見たところ、そのような大それた真似をするようには見えぬが」
 疾風からあらましは聞いたが、本人達の口から確かめておきたい。
「私達は、もともと旅をしながら、歌を歌う事を生業としてきたわ。けど、なかなか人気が出なかったの。けど、ある日、転機が訪れたわ」
「太平要術の書、か?」
 その刹那、三人の顔色が変わった。
 やはり、か。
「ど、どうしてそれを知ってるの……?」
「天和姉さん! 言っちゃダメだって!」
「姉さん達、諦めた方がいいわ。どうやら、お見通しみたいだから」
 無論、本当に持っているという確証があった訳ではない。
 だが、この反応……芝居をしているとも思えぬ。
「持っているのだな?」
「ええ」
「見せて貰いたいのだが、良いか」
「だ、ダメ! これがなかったら、私達また……」
「また売れない芸人に戻るのが怖い……か。だが、私は渡せ、とは言っておらぬがな」
「……え?」
 私の言葉に、張角が首を傾げた。
「そもそも、どのような書物なのかも知らぬのに、取り上げるなどと決められる訳がなかろう?」
「なら、どうして知っているのよ。おかしいじゃない?」
 張宝が、食って掛かる。
 何とも、気の強い事だ。
「人間というものは、急には変われぬものだ。ならば、何か切欠があると考えるのが自然だろう。そして、何の後ろ楯も元手もないお前達が急に人気を得る。となれば、何かの介入もしくは力が働いたと言うのは、想像に難くない」
 そこまで聞くと、張梁はふう、と息を吐いた。
「姉さん。いいわね?」
「うん、れんほーちゃんに任せる……」
「…………」
 張角と張宝の反応を確かめてから、張梁は懐から書簡を取り出す。
「これよ」
「では、拝見するぞ」
 貴重品である紙で作られたそれは、確かに尋常な書簡ではなさそうだ。
 慎重に、書を広げた。
「……。これは……」
「どうなさいました、歳三様?」
「稟、読んでみよ」
「はい、では」
 眼を通していくうちに、稟の顔つきが変わるのがわかった。
「こ、これは……。風、見て下さい」
「はいはいー」
 そして、風もまた同様の反応を見せる。
「どうか?」
「はいー。諜報指南の書のようですねー」
「待て。私が見たのは、主君としての指南が記されていた筈だぞ?」
「いえ。私は戦術指南の書でしたが」
 どういう事だ?
 他の者に見せてみたが、皆内容が異なっているようだ。
 霞は騎馬隊の扱いの書と言い、恋は動物飼育の指南書と言う。
「その書は、持つ人間によって見える内容が変わるのよ」
 張梁の説明で、合点がいった。
「では、お前達が見たというのは……」
「ええ。如何にして、人気を得るか。その手管が事細かに書かれていたわ」
「……今一つ聞くが。これを誰から手に入れた?」
 それに答えたのは、張宝。
「ちぃの揮毫が欲しい、って人がいてね。その日は気分もノってたし、握手もしてあげたんだ。そしたら、感激しちゃって。『この書を使って下さい。きっと、あなた方は望みが叶うでしょう』って」
「ただ、効き目は抜群だったけど、効きすぎだったのも確かね」
「えーっ? でもお姉ちゃんが大好き、って人が一杯増えたんだよ? いい事じゃない」
 脳天気な言葉に、愛紗がいきり立つ。
「貴様ら! そのお陰で、たくさんの民が苦しみ、殺されたんだぞ!」
「落ち着くのですぞ、愛紗殿。暴走したのはこやつらが指示した訳ではないようですからな」
「ねねの言う通り。……だが、今となっては、そのような申し開き、罷り通るとは思えぬがな」
 真実がどうあれ、首謀者がお咎めなしで済まされる程、甘くはあるまい。
 ましてや、大陸全土を巻き込んだ戦乱に発展、勅令による討伐となったのだ。
 ……だが、当人達にそこまでの覚悟があるとは見えない。
「やっぱり、処刑されちゃうの……?」
「や、止めてよお姉ちゃん! ちょっとアンタ、ちぃ達をどうする気よ!」
「待って。あなた、私達をどうするつもりなのか、聞かせて。有無を言わせず、というようには見えないわ」
「……そうだ。勿論、お前達次第だが」
「ま、まさかちぃ達に何かするつもり?」
 思わず身構える張宝に、思わず苦笑する。
「安心するのですよ。お兄さんは、そういう方ではありませんからー」
「ですが、ただ見逃す……とは参りますまい。ご主人様、ご存念がおありですか?」
「うむ。……まず、その書はこの場で焼き捨てよ」
「ええーっ! い、嫌だよ……」
 涙ぐむ張角。
「ならば、その書にすがり、再び官吏に追われる身となりたいのか?」
「うう……それも嫌だけど……」
「それに、今のお前達は、妖術の類に力を借りているだけ。芸を極め、真の実力で勝ち取るという気概はないのか?」
「アンタね! 簡単に言うけど、ちぃ達がどれだけ苦労したと思ってるの?」
「苦労せずに大成する人間などおらぬ。仮にいたとしても、それは真の成功者ではない」
「……あの書を諦めれば、私達を助ける、とでも?」
「事情を知らなければ、頚を刎ねるまでだったが。この争乱を、お前達が望んでいたものではない……そう知った以上は、そうもいくまい」
 華琳に聞かれたら、恐らくは甘過ぎる、と言われる事だろうな。
 だが、死ぬ必要のない人間を、むざむざ殺す事もあるまい。
 私の言葉に、張梁が頷いた。
「わかったわ。姉さん達、どうするの?」
「人和。アンタ、コイツの言う事を信じるって言うの?」
「少なくとも、嘘をついてはいないわ。だって、私達を庇い立てしても、この人には何の得にもならないのよ?」
「れんほーちゃん、お姉ちゃん、まだ死にたくないよぉ……」
「ちぃだって……うう……」
「無念だろうが、こんなものは世に存在すべきではない。邪な者が手にすれば、世の人全てが苦しむ事だってあり得る。権力者が耳にすれば、お前達を殺してでも奪おうとするだろう。そうなれば、永遠に安息は得られなくなるのだぞ?」
「……だから、焼き捨てるしかない……そういう事ね」
 張梁は淡々と言った。
「まず、と言ったわね? まだ何か必要なようだけど、何かしら?」
「名は捨てよ。父母から頂いた名、辛かろうが」
「……そうね」
「でも、ちぃ達、それならどうすればいいの?」
 偽名を名乗らせても良いが……。
「風。どうすれば良い?」
「そうですねー。皆さん、真名はお持ちですよね?」
「勿論、あるわ」
「では、それを名乗るしかないでしょうねー。偽名では、不自然さが出て露見してしまう恐れがありますから」
 そうだな。
 少なくとも、張梁以外に芝居を演じる素養はなさそうだ。
 万が一、露見したが最後、間違いなく始末されるだろうな。
「うむ。私も、それが良いと思うが」
 真名は神聖なもの故、抵抗もあるだろうが。
「いいわ」
「ちぃも、別にそれでいい
「なら、お姉ちゃんも」
 ……随分と、あっさりと認めたようだが。
「いいのか?」
「ええ。だって、もともと公演の時も、私の事は真名で呼んで貰っていたし」
「そうそう。その方が、ノリノリになれたしね」
「そうだね。そう考えたら、別に問題ないもんね」
 ……頭痛がしてきた。
「ならば、この書は焼き捨てる。良いな?」
「ええ。仕方ないもの、残念だけど」
「……でも、これでちぃ達、また一からやり直し?」
「せっかく、応援してくれる人も一杯いたのになぁ」
「……姉さん達の事は気にしないでいいわ。残っていれば未練があるでしょうけど」
「わかった」
 天幕を出て、篝火の中に書を放り込んだ。
 メラメラと、天下を騒がせた根源が、灰燼に化していく。
 ……文字通り、これにて一件落着、といけば良いのだが。


 数刻後。
 広宗の賊徒制圧もほぼ完了し、他の軍も後始末に入ったようだ。
 我が軍も、各々が走り回り、任についている。
 今は、稟と愛紗だけが、この場に残っていた。
「では、張三姉妹についてはそのように」
「念のため、警護の兵を手配りしておきます」
「うむ」
 懸念事項も片付き、ようやく一息付けそうだ。
「ところで、ご主人様。この後、お時間はございますか?」
「愛紗。何かあるのか?」
「はい。疾風を、見舞っていただけないかと」
「疾風を?」
 稟も、頷く。
「ご存じの通り、此度はかなり疲れたと見えて、未だに臥せっています」
「……うむ」
 確かに、気にはなっていた。
 能力のあまりに、頼り過ぎてしまったのは事実だ。
「そうだな。そうしよう」
「……それから、一つ、お願いがございます」
 心なしか、愛紗の顔が赤いようだが……。
 いや、稟も同様だな。
 ……むしろ、鼻を押さえているのはどういう訳だ?
「……疾風の想いに、応えて差し上げて下さいませ」
「…………」
「既にお気づきでしょうが、疾風もご主人様をお慕いしております」
「不器用な者ですから、口には出しませんが。それと、私達への遠慮もあるのでしょう」
 やはり、か。
 そんな素振りは見せていたが、私から指摘するのは憚られた。
 私を慕ってくれている稟や愛紗達への遠慮、それに疾風本人の意思を見定めたかった事。
 ……だが、皆も気づいていたのか。
 ふふ、とんだ道化だな。
「しかし、良いのか? 疾風の想いに応える事、それが何を意味するのか、わかっているのであろうな?」
「勿論です。風も、承知の上ですし、星には北平を発つ際に、可能性として話をしてあります」
「……何もかも、お見通しという事か」
「物事の先を読んで手を打つのが軍師の仕事ですから。お陰で、その都度……」
「稟!」
 素早く、愛紗が稟の鼻を押さえた。
「では、後の事は頼んだぞ」
「はっ」
「御意です」
「御意ですよー」
 ……さて、改めて礼を述べねばなるまい。
 その上で、話をするとしよう。 

 

二十六 ~洛陽へ~

「ご主人様……」
 耳元で、囁く声がする。
 眼を開けると、そこには愛紗の顔があった。
「お目覚めですか?」
「……うむ」

 昨夜は疾風(徐晃)を見舞い、眠りにつくまでその傍にいた。
 その後で、愛紗に呼ばれ……そのまま、共に一夜を過ごした。
「はしたない女、と思わないで下さい。……ですが、ご主人様の事を思わぬ日はございませぬ」
 恥じらいながらも、素直に真情を吐露する愛紗は、とてもいじらしい。
 その想いに、私なりに応えたつもりだ。
 艶やかな黒髪を梳りながら、いつしか眠りに落ちたようだ。
「ご主人様の寝顔を拝見するのは、久しぶりでした」
「……そうだな。戦いの日々であった」
「はい。ですが、これでひとまずは解放されます。……ご主人様」
「何だ?」
「疾風の事……私は確かに認めました。ですが、以前我らと約束していただいた事、お忘れではありますまい?」
「無論だ。愛紗達の想いには応える、皆等しく……それは、今も変わらぬ」
「ご主人様。ふふ、安心しました」
 そう言って、愛紗は私に接吻する。
 そのまま、臥所から出て、着替えを始めた。
 真っ白な背を見て、改めて不思議さを感じる。
 あの華奢な身体のどこに、あれだけの武が秘められているのか。
 腕や脚が締まっているのはわかるのだが……。
「お兄さん、入りますよー」
 唐突に、風が入ってきた。
「ふ、風?」
「おやおや、愛紗ちゃんも一緒でしたか。昨夜はお楽しみでしたね?」
 ……確信犯だな、あれは。
 案の定、愛紗は耳まで真っ赤にしながら、慌てふためいている。
「それで風。何用か?」
「やれやれ、お兄さんはつまらないのです。少しは、愛紗ちゃんを見習うといいと思うのですよ」
「……良いから、用件を申せ」
「むー。本当につれないお兄さんですね。曹操さんがお見えですよ」
「わかった。仕度をして参る故、陣中にて待つように伝えよ」
「御意ですー。ではでは、お邪魔しましたー」
 はぁ、と愛紗が溜息をつく。
「気にしても仕方なかろう? 風はもともと、あのような性分だ」
「は、はい……」


 身支度を調え、華琳の待つ天幕へ向かう。
 今日は、夏侯惇も夏侯淵も連れてきておらぬようだ。
「おはよう。朝早くから悪いわね」
「気にするな。して、用向きは?」
 華琳は、片手を後頭部に当てながら、
「張角の事よ。広宗から脱出した、そう報告を受けたのだけど」
「うむ。我らもよもや取り逃がすとは……無念だ」
 天和達を捕らえた後、黄巾党に扮した兵に命じ、城内に噂を流した。
 張角一行は密かに広宗を脱し、行方が知れぬ、と。
 どういう訳か、天和達が張角である、という事は黄巾党の内部でも存外知られていない事が判明していた。
 賊徒としての指揮は、他の主立った者が当たっていたようだ。
、公演以外では、一切表に出なかった事もまた、功を奏していた。
 身の安全を図る為の措置であったようだが、それが幸いするとは、わからぬものだ。
「貴方のところには、優秀な細作がいたわね。その網にもかかっていないのかしら?」
「今のところは、な」
「そう。引き続き、行方を探らせるしかないわね。ところで、歳三。この後はどうするのかしら?」
「この後?」
「ええ。貴方が義勇軍を立ち上げ、戦ってきた黄巾党も、事実上これで壊滅したわ。勿論残党は残っているから、官軍との戦闘は各所で続くでしょうけどね」
 今後、か。
 まずは、北平に戻り、白蓮の兵を返さねばなるまい。
 然る後、晋陽に向かう事になるであろう。
 霞が率いている董卓軍の帰還もあるが、丁原から預かった印綬を、正式に朝廷に返上する必要がある。
 此度の功に対して、何らかの報いがあるやも知れぬが、それが并州に関わる、とは限らぬ。
 漢王朝の権威が未だ健在である以上、迂闊な真似は控えるべきだろう。
「貴方次第だけれど、一度、都へ行ってみない?」
「都……洛陽か?」
「そうよ。私も官軍として行動した以上、黄巾党との戦いを報告する義務があるわ。歳三、貴方の事もね」
 華琳の言葉は、尤もだ。
 勅令で討伐を命じられた黄巾党と、これまで我が軍は戦ってきた。
 如何に義勇軍とは申せ、朝廷がそれに気づかぬ……というのはあり得ぬだろう。
「いずれ、貴方にも呼び出しがあるでしょう。それならば、最初から出向いた方がいいわ」
「私に、お偉方のご機嫌取りをしろ、と?」
「それもあるわ。だって貴方自身、何らかの地位を必要としているのでしょう? 麾下の者の為に」
 私は、頷いた。
「けどね、歳三。私が都行きを勧める理由は、他にあるわ」
「ほう。聞かせて貰えるのであろうな?」
「だいたい、察しはついているのではなくて?」
 ふっ、華琳相手には通じぬか。
「当て推量でしかないのだぞ?」
「構わないわ。別に、正解を求めている訳じゃないもの」
「では申そう。まず、私に都と、漢王朝の現状を見せるつもりなのであろう?」
「流石ね。まだ洛陽の、そして朝廷の有様を見ていないのでしょう? その眼で、しっかりと確かめるといいわ。それから?」
「私に、会わせたい人物がいるのではないか?」
「…………」
 華琳は、答えない。
 が、その眼は、私の答えが誤りでない事を物語っていた。
「もう一度聞くけど」
「何だ?」
「本当に、私に仕える気はないのかしら? 貴方程の人材、みすみす見逃すにはあまりにも惜しいわ」
「何度乞われても、答えは変わらぬ」
「そう。なら、力尽くで跪かせるしかないわね」
「その話は止せ。それよりも、都行きの件だが」
「ええ。どうする気?」
「一度、皆に諮りたい。その上で、答えるとする」
「やれやれ。時には、独断で物事を進めるのも、主たる者の務めよ?」
「わかっているが。これが、私のやり方なのでな」
「いいわ。ならば今日中に、返事をなさい。それじゃ、私は陣に戻るから」
 華琳とて、暇な身ではない筈だ。
 その合間を縫って来た以上、私も引き留めるつもりはない。
 お互い、成すべき事は山積しているのだからな。

 直ちに、疾風を除く皆を集めた。
「洛陽ですと? 確かに、いずれにせよ歳三殿に呼び出しがあるのは確実ですな」
「せやけど、ウチらの実態は連合軍やしな。総大将の歳っちだけ別行動っちゅう訳にもいかへんで?」
「それに、いくら黄巾党が壊滅したとは言え、まだまだ治安は悪化したまま。ご主人様、曹操殿は他に何か申されていたのですか?」
「いや。それだけだ」
「それでお兄さん、どうするおつもりですかー?」
「本当に行くとなれば、手筈を整えなければなりませんし。勿論、歳三様のお心のままに決めて下さい。私達は、それに従うまでです」
「……恋は、歳三がいいなら、それでいい」
 どうやら、私次第、という結論のようだ。
 華琳の言うように、洛陽を見ておく事は必要だろう。
 それに、会わせたいという人物。
 取るに足らない人物、という事はあり得まい。
「私は、行くつもりでいる。無論、皆で、とは参らぬが」
「御意!」
 愛紗の返事に、全員が頷いた。
「それで、振り分けはどうしましょうか?」
「うむ。まず、愛紗は形式上、公孫賛軍を率いている。これを連れ、北平に戻れ。その上、鈴々と共に晋陽に向かうように。星には、愛紗が戻り次第、洛陽に来るように申し伝える」
「はっ!」
「霞、恋、ねねはそのまま晋陽に戻れ」
「まぁ、ウチらも目的は果たしたんや、一旦月のところに戻らなアカンやろな。恋も、ええな?」
「……わかった」
「ねねは、恋殿とどこまでもご一緒しますぞ!」
「稟と風は、共に参れ。二人の知恵を借りる場も、少なからずあるだろう」
「御意です」
「わかりましたー。お兄さん、疾風ちゃんはどうしましょうか?」
「……その事だが。愛紗、北平まで同行せよ。白蓮に頼み、暫し養生させようと思う」
「は。しかしご主人様、洛陽には二人だけをお連れになるのですか?」
「いや。兵も少しばかり連れて行くつもりだ。如何に華琳と同行とは申せ、多少の備えは必要だろう」
「ほな、ウチらに兵の選抜は任せとき。歳っちには指一本触れさせへん精兵、つけたるからな」
「頼む。その代わり、私は二人を守り抜こう」

「歳三殿。私も、お連れ下さいませ」
 天幕の入り口から、声がした。
「は、疾風? あなた、まだ起きては……」
 剣を杖代わりにしながらも、気丈にも疾風は自力でここまで来たらしい。
 慌てて稟が駆け寄り、その体を支えた。
「無理をするでない。お前はまだ養生が必要であろう?」
「あまり、見縊っていただいては困りますぞ? 私はこれでも武官、これしきの事でいつまでも寝こんではいられませぬ」
「疾風。気持ちは分かるけど、無理しては」
「ありがとう、稟。もう、大丈夫だ」
 そう言って、疾風は剣を脇に置き、私の前で跪礼を取る。
「お願いです。私を、お連れ下さりませ」
「…………」
「足手まといになるとお思いですか?」
「そうではない。私はただ、お前に無理をさせたくないのだ」
「お気遣いには感謝します。ですが、過分なお心配りは、武人としての誇りを傷つけるもの」
「……うむ」
「それに、洛陽の事は、この中で誰よりも詳しい筈です。歳三殿、如何に?」
 疾風の眼には、何の迷いも見えぬ。
 武人の誇り……それを穢す訳にはいくまいな。
「だが、疾風。お前は確か、官職を捨てて洛陽を出たのであろう? 咎め立ての恐れはないのか?」
「ふふ、ご案じなさいますな。手立ては、考えてございます故」
「そうか……よかろう。疾風も参れ」
「ははっ!」
 安堵の笑みを浮かべる疾風を見て、皆も笑顔で頷いている。
「良かったですねー。ではでは、これで決定という事で」
「早速、準備にかかります」
 さて、華琳に受諾の返事をして参るか。


 翌朝。
 皆の姿が次第に遠ざかり、私、稟、風、疾風、そして率いる三千の兵だけが残った。
「行っちゃいましたねー」
「一時の別れだ。感傷に浸るのは無用……さ、参りましょう」
「ふふ、疾風。張り切りすぎて皆に迷惑をかけないようにしなさいよ?」
「うむ」
 馬に跨がり、手を振り上げた。
「皆、出立だ!」
「応っ!」
 数は少ないが、激戦を潜り抜けてきた、選りすぐりの精鋭揃い。
 無論、何事もないに越したことはないが……。
「疾風」
「はっ」
「……諄いようだが、くれぐれも無理はするな。よいな?」
「歳三殿……」
「そうですよ、疾風ちゃん? ちゃんと大人しくしてないと、お兄さんの愛も冷めてしまいますよー」
「なっ?」
 途端に、疾風は真っ赤になった。
「風、止しなさい。病み上がりの人をからかうのは」
「おおー、稟ちゃん。余裕ですねー」
「戯れ言はその辺りにしておけ。……ほう、自らやって来たか」
 我が軍に先立ち、曹操軍は既に、洛陽に向けて進軍中。
 その殿に、華琳の姿があった。
 馬を止め、私を待ち構えていたようだ。
「いつもの二人はどうした?」
「春蘭は行軍の指揮を執っているし、秋蘭は、陳留に帰したわ。あまり、長く留守にする訳にもいかないから」
 そう言いながら、華琳は軽く溜め息をつく。
「あら、そっちは見かけない顔ね。私は曹孟徳、貴女は?」
「私は、徐公明と申します」
「ふ~ん」
 値踏みするように、疾風を無遠慮に眺める華琳。
「関羽もなかなかの武人だったけど、貴女も相当の遣い手のようね?」
「些か、腕に覚えはあります」
「なかなか言うじゃない。歳三」
「何だ?」
「人を募る事には、私は誰にも負けない熱意があるつもりだけれど。何故、貴方の下には、こう見所のある人材が集まるの?」
「さて、な。全てが偶然、と言ったところで信じぬであろう?」
「ええ、そうね。もし、貴方がいなければ、きっと私の覇道を支えるに足る人材揃いですもの」
「……曹操殿。よもやとは思いますが、我が殿に害を及ぼすおつもりならば、この身を賭して、お相手仕りますぞ?」
 疾風がそう言うと、稟と風も大きく頷いた。
「私も、そうなれば智の限りを尽くして、我が主を守らせていただきます」
「もちろん、風もですよー」
 三人に睨まれた華琳は、ただ苦笑するばかり。
「そうね。歳三が私の下に来てくれれば、万事丸く収まるのだけど?」
「その話なら、何度されても無駄だ。私に命を預けてくれた仲間の意志を無にするような真似は出来ぬ」
「まぁ、いいわ。ただ、貴方が羨ましいのは事実だけどね。私のところは、手が足りない有様だもの」
 私の知る曹操は、一族だけでも相当な人材が揃っていた筈。
 だが、この時代ではどうした事か、夏侯惇・夏侯淵以外の将がおらぬようだ。
「歳三。洛陽までの道中、いろいろと聞かせて貰うわよ」
「ふっ、何を聞きたいと言うのだ? かの曹孟徳に語るほどの物を、私は持ちあわせておらぬが?」
「それが真実取るに足らない話かどうかは、私が判断してあげるわ。それとも、貴女が代わりになってくれるのかしら、郭嘉?」
「わ、私ですか?」
 慌てる稟。
「そうよ。私は、見所のある人物と語るのが大好きなの。貴女は、歳三の軍師として立派に務めているし、その才も見せて貰ったわ。相手が歳三じゃなかったら、力づくでも私の下に置きたいぐらいよ」
「…………」
「勿論、貴女にその気があれば、いつでも歓迎するわよ?」
 仕える本人の面前で、よくも堂々と口説けるものだな。
 だが、そこに嫌らしさを感じさせないのは、流石というべきか。
「折角ですが、曹操殿。私は、今の処遇と立場に満足しています。ご期待に添える事はないかと」
「即答ね。それは、歳三を愛しているから?」
「……それも、否定はしません。ですが、私の才を思う存分発揮できるのは、歳三様の下だと。そう、確信しているからです」
「そう。程立も?」
「ぐー」
「寝るな!」
 すかさず、疾風が起こした。
「おおぅ、ついついお兄さんの傍が心地良くて寝てしまいましたよー」
「……歳三。聞きようによっては、とても不穏当な発言だと思うのは、私だけなのかしら?」
「…………」
「それで程立? どうなの?」
「寝ていた相手が、問いかけの内容を憶えているなんて、よく思いますねー?」
「貴女のは寝たふり、でしょう? その程度、わかるわよ」
「むー。それでは、本当に寝ていたらどうするのですか?」
「その時は初めから聞かないわよ。それで?」
「容赦ないお人ですねー。風は、お兄さんの傍にいると飽きませんし。それに、お兄さんが大好きですから」
「はっきり言うのね。私は、そんなに魅力がないのかしら?」
「曹操さんは、普通にお仕えするのなら申し分のない方でしょうねー。ただ、お兄さんと比較する自体、無理なのですよ」
「どういう事?」
「お兄さんは、風達を仲間、と言ってくれてますねー。曹操さんはどうですか?」
「仲間、ね。……私は、同じ事は言えないわ。勿論、私に従う以上、大切にはするけど」
「優劣をつける事ではないと思うのですよ。ただ、風も稟ちゃんも、他の皆も、お兄さんと一緒にいたいのです。だから、いくら誘っていただいても、心は動かないですねー」
「……そう。そこまで愛されるとは、歳三も果報者ね」
「そうかも知れぬ。なればこそ、私も微力を尽くす事にしている」
「微力、ねぇ。……本当、貴方には興味が尽きないわ。やはり洛陽までの道中、楽しみね」
「どういう意味だ?」
「決まってるじゃない。貴方という人物を、私がもっと知るために使わせなさい。否とは言わせないわよ?」
 ……それも十分、不穏当発言と受け取られかねないのだが。
「……曹操殿。それは、政略や軍略の話、という事でしょうね?」
「……殿。当然、わかっておられると思いまするが」
「……風は、お兄さんを信じているのですよ?」
 見よ、三人とも不穏な……。
 ほう、華琳の奴、ほくそ笑んでいるな。
 そうか、あれは確信犯の笑み……という事か。
 だが、やられる一方、というのは性分ではない。
「華琳。そんなに、私を知りたいか?」
「ええ。勿論」
「……そうか。ならば、男女の営みも、そこに含まれるのであろうな?」
「な……」
 途端に、華琳の顔が真っ赤になる。
 それを確かめながら、私は三人に目配せをする。
 驚いていた皆も、どうやらそれに気づいたらしい。
「と思いましたが、曹操さんに未知の体験をしていただくのも良いかも知れませんねー」
「ふふ、知的好奇心を満たすのは、何も会話ばかりではありませんからね」
「…………」
 疾風だけは、顔を赤くしているが……やむを得まい。
「あ、あ、貴方達ね!……あ」
 耳まで真っ赤になりながら、顔を上げた華琳。
 そこで、稟と風を見て、あっという顔つきになった。
「と、歳三! 謀ったわね!」
「何の事だ? わかるか、稟、風?」
「いえ、私には何の事だかさっぱり」
「風もですねー。曹操さん、宜しければ教えて下さいませんかー?」
「……お、覚えてなさいよっ!」
 脱兎の如く、自陣へと駆け戻っていく華琳。
「と、歳三殿。大胆過ぎますぞ」
「……済まぬ。疾風には、刺激が強すぎたやも知れぬな」

 こうして、私は洛陽へと向かい始めた。
 ……道中の平穏無事は、望むべくもなさそうだが、な。 

 

二十七 ~江東の虎~

 広宗を発ち、数日は何事もなく過ぎていった。
 だが、ここに来て不穏な空気が漂い始めた。
「疾風。確かか」
「はい」
「そうか」
 本人の予告通り、驚異的な回復ぶりを見せた疾風は、早速縦横無尽に動き回っていた。
 そして、容易ならぬ報告をもたらした。
 黄巾党の残党が、先々の村を荒らし回っているというものだ。
 無論、看過する訳にはいかぬ。
「皆、華琳のところに参るぞ」
「御意です」
 三人を連れ、陣を出ようとした。
 と、そこに兵士が駆け込んでくる。
「申し上げます。曹操様と夏侯惇様がお越しです」
「どうやら、用件は同じようだ。ここに通せ」
「はっ!」
「耳が早いですな、曹操殿も」
 感心したように、疾風が言う。
 人材だけでなく、情報も常に求める姿勢は、今までに出会った諸侯にはないものだ。
 流石、と言うべきか。

「入るわよ」
 華琳は夏侯惇と、見慣れぬ将を一人、引き連れていた。
「紫雲、自己紹介なさい」
「……はい。……あたしは、劉子揚」
 劉子揚……劉曄か。
 確か、郭嘉の推挙で曹操に仕えるようになる筈だが、その本人はここにいる。
 尤も、私の持つ知識はもはや、先入観に過ぎぬ事が多い。
 この劉曄もまた、別人と考えるべきだろう。
「この娘は、いわば私の眼であり、耳なの。知らせを持って戻ってきたから、そのままやってきたんだけど。どうやら、歳三も既に動きを掴んだようね?」
「黄巾党の残党、か?」
「ええ。徐晃、貴女の調べかしら?」
「……そうです」
「ふふ、そんなに警戒しなくていいわよ。今は、協力関係にあるのだから」
 華琳はそう言って、振り向いた。
「紫雲。賊の数は?」
「……凡そ、五千と」
「徐晃。貴女の方はどう?」
「同じです。連携している様子はなく、一団に固まっているようです」
「間違いなさそうね。私のところは五千、歳三の軍は三千。数の上では勝っているわ」
「ああ。だが、正面からぶつかるだけなどと申すつもりはなかろう?」
「勿論よ。賊徒相手に、我が精兵を消耗したくないもの」
「華琳様! そのような事はありません、この春蘭にお任せいただければ、一撃で粉砕してご覧に入れます」
「……春蘭。貴女、私の話を聞いていなかったの?」
「いえ。たかが賊、この私にお任せいただければ、と」
 華琳は、こめかみを押さえている。
「……猪」
「誰が、暴れ出したら手の付けられない猪だ!」
 誰がどう見ても、劉曄の一言に集約されるのだが。
「華琳。我らが単に合流しても連携が難しいと思うのだが?」
「でしょうね。貴方の兵もなかなかのものだけど、我が精兵とは比較にならないわ」
「当然だ! 華琳様ご自身で鍛え上げられた精兵だ。貴様ら雑軍とは違う」
「ほう、雑軍と言われるか。だが、修羅場を潜り抜けてきたという点では、他の官軍には引けは取らぬ筈だが?」
「何だと? 貴様、もう一度言ってみろ」
「いくら、兵が精強でも、率いる将でその強さは変わる。貴殿は、そこをわかっておらん」
「おのれ! 私を馬鹿にするか!」
 疾風も、引っ込みがつかないようだが、そろそろ止めるとするか。
「そこまでだ、両者とも。言い争いをしても始まらんぞ?」
「歳三の言う通りよ。春蘭、もう一度だけ言うわよ。私の話、聞いていたのでしょうね?」
「うう、華琳さまぁ……」
「……は。申し訳ありませぬ」
 夏侯惇は涙目になり、疾風は少し顔を赤くして俯いた。
「全く。ところで郭嘉、程立。策は立ててあるのかしら?」
 華琳は、我が軍師二人に話を振る。
 稟と風は一瞬、顔を見合わせてから、軽く頷いた。
「もう少し、状況を探ってみた方がいいかと思います。疾風の調べを疑う訳ではないのですが」
「叩くなら、一網打尽にしないと意味がありませんしねー」
「そう。歳三、貴方はどうなの?」
「二人の判断は誤っておらぬであろう。異論はない」
 華琳は不満そうだが、ここは慎重を期すべきであろう。
「けど、あまり悠長な真似は出来ないわよ? その間にも他の村が襲われる可能性があるんだし、糧秣だってあまり余裕はないもの」
「そこで、提案なのですが。劉曄殿と疾風、協力して敵情を探ってみてはどうでしょうか?」
「確かに、別々よりも効率は良さそうだけど。私は別に構わないわよ?」
「うむ、私も賛成だ。疾風、良いな?」
「はっ。劉曄殿、よしなに」
「……諾」
 方針が決まれば、後は行動するのみ。
「あのような烏合の衆、我が一撃で粉砕してやるものを」
「……春蘭。貴女の武は認めるけど、もう少し将としての自覚を持ちなさい」
 華琳の苦労が窺えるな、あれでは。


 数刻後。
 華琳と共に待機していると、劉曄がやって来た。
 疾風のように自ら動くのではなく、配下を扱うのを得手にしているようだ。
「……謎の官軍、見つけました」
「謎の官軍?」
 私は、思わず華琳と顔を見合わせた。
「どういう事、紫雲?」
「……わかりません。警戒、厳しくて」
「貴女の配下でも近寄れない程って事? あり得ないわ、そんな事」
「ふむ。劉曄、疾風はその事を知っておるのか?」
 コクリと、劉曄は頷いた。
「……知らせたら、自分で確かめる、と」
 ……あの性分では、やむを得まい。
「それで、位置はどのあたりなの?」
「……この辺り。数は、五千ぐらいです」
「私の軍と同じ規模か。でも、この辺りにいる官軍、ね……」
「心当たりはないのか?」
「数だけなら、ね。けど、その隙のなさが気に入らないのよ」
 そうかも知れぬな。
 華琳が、それほどの一隊を把握していないと言う。
 あれだけ、情報を重んじている筈の華琳が、だ。
「稟、風。お前達はどうだ?」
「はい。情報が不足しているので、何とも言えませんが。この界隈の、という事であれば曹操殿が仰せの通りかと」
「とにかく、疾風ちゃんが戻るのを待つしかありませんねー」
「只今戻りました」
 見計らったように、疾風が戻った。
「早いわね。流石、と言ったところかしら?」
「それで、疾風。何かわかったか?」
「はい。あの軍の正体ですが……」
 と、疾風は足下の石塊を掴むと、振り向きざまに投げつけた。
 カン、と大きな音がして、それは弾かれる。
 小柄な少女が、此方を睨み付けていた。
「私を尾けたつもりだろうが、まんまと乗ってくれるとはな」
「……クッ!」
 素早く、その場を逃れようとするが、
「おっと。ここは通さんぞ?」
 夏侯惇が、大剣を構えて立ちはだかる。
 その背後から、疾風と劉曄の配下から姿を見せ、少女を取り囲み始めた。
 華琳も大鎌を取り出し、私も兼定を抜いた。
 ……少女の出で立ちは、何処か見覚えのあるもの。
 そう、まるで忍び装束である。
 背にした剣も、日本刀によく似ている。
 愛紗とはまた違う、艶やかな黒髪も印象的な娘だ。
「果敢なのは認めるが、この人数相手に斬り合う気か?」
「…………」
 疾風と夏侯惇に挟まれても、物怖じした様子はない。
「さて、覚悟は良いか?」
「待て」
「待ちなさい」
 私と華琳の声が、重なった。
「何処の官軍かは知らぬが、今は争う謂われはあるまい?」
「そうよ。貴女達の事は確かに調べさせたけど。敵対する意思はないわ、意味がないもの」
「…………」
 答えぬか。
 どうやら、ただの密偵の類ではなさそうだな。
「私は、義勇軍の土方だ。怪しい者ではない」
「あら、名乗ってしまうの? まぁいいわ。私は、陳留太守の曹孟徳よ」
 すると、少女の表情が、かすかに動いた。
「ほう。私か華琳、どちらかは知っているようだな」
「……どちらも、存じています」
 少女が、初めて口を利いた。
「ほう。華琳だけならまだしも、私まで知っているとは。ところで、此方は名乗ったのだ、其方も名乗って貰いたいのだがな?」
「その前に、一つだけお伺いします。何故、私を官軍の一員とお考えなのでしょう?」
「簡単な事だ。疾風が探索に出て、その後を尾けてきた。となれば、その対象の一団から派遣された、そう考えるのが妥当ではないか?」
「それに、黄巾党に貴女程の腕利きが残っているという情報はないわ。これで十分かしら?」
「流石ですね。ご両人とも、噂に違わぬ人物、という事でしょう。私は周幼平、と申します」
「周幼平?……周泰か」
「はぅぁっ? ど、どうして私の名をご存じなのですか?」
 やはり、驚かれるか。
 華琳は訝しげに私を見るかと思いきや、軽く笑みを浮かべている。
「ふふっ、歳三は何でもお見通し、って事よ。徐晃、それであの軍は一体誰のだったの?」
「はい。孫文台殿の軍です」
「孫文台……それなら納得がいくわ」
「うむ。『江東の虎』が率いる軍だ、精強で当然だろう」
「あの……。どうして、そこまでご存じなのですか?」
 周泰は、動揺を隠せぬようだ。
 容姿からして、間諜を得意とすると見たが……違和感を拭えぬのは、どうやら疾風も同じらしい。
「それだけ、此方も情報収集は欠かさぬ……そういう事だ」
「それよりも、孫堅殿がここにおられるという事は、狙いはあの残党ども……そうなのですな?」
「……はい」
 隠すだけ無駄と思ったのか、周泰は素直に頷いた。
「目的が一緒なら、一度話し合いをした方がいいわね。周泰、それを、孫堅に伝えて……」
 華琳がそう言いかけた時。
 陣の入り口で、何やら騒ぎが起こったようだ。
「何事だ?」
「お、お待ち下さい!」
「ええぃ、どけっ!」
 ずんずんと、誰かがこちらに向かってくる。
 制止しようとする兵は、悉く押し退けられているようだが。
「待たれよ。ここを、どこだか知っての狼藉か?」
 疾風が、その行く手に立ち塞がった。
「どけ。明命は何処だ?」
「明命?」
 褐色の肌を惜しげもなく晒した女性(にょしょう)
 身に鎧こそ纏ってはいるものの、何とも大胆な装束だ。
 そして、全身から発せられる闘気も、尋常ではない。
「待たれよ、堅殿!」
 その後から、別の女性が追ってきたようだ。
 腰に矢籠をつけ、大きな弓を背負っている。
「あら、貴女だったの?」
 華琳の言葉に、女性は鋭い眼光で応える。
「曹操。明命を返せ」
「返すも何も、別に捕らえたつもりはないわ。それに、ちょうど貴女に話を持って行って貰おうと思っていたところだもの」
 では、この女性が孫堅か。
 今更驚きもせぬが、本当に女子ばかりの世だと、改めて痛感させられる。
「話?」
「ええ。どうやら、同じ目的で此処にいたようだから。見ての通り、周泰には何の危害も加えていないわよ?」
「……明命。本当か?」
「は、はい。睡蓮さま」
「……そうか。俺の早とちりだったようだな、すまん」
 やっと、孫堅から殺気が霧散したようだ。
「全く、堅殿は先走り過ぎじゃ。追いかける儂の身にもなって下され」
「そうぼやくな、祭。ところで、貴殿は何者だ?」
 孫堅は、私に眼を向けた。
「拙者は、義勇軍を率いる土方という者にござる」
「土方……? ほう、貴殿がな」
 ぞっとするような笑みを浮かべる孫堅。
 美人ではあるが、どこか猛獣を思わせるものがあるな。
「聞いているぞ。官軍が逃げ惑う中、敢然と賊徒を蹴散らし、瞬く間に名を上げている奴がいる、とな」
 少々、話が大袈裟に広まっているようだが。
「俺は孫文台だ、こいつは黄公覆。ふふ、見ろよ祭。思いもかけず、英傑が二人も揃っているぞ」
「やれやれ、堅殿には敵わぬな」
 苦肉の計で知られる、呉の老将黄蓋。
 ……と言うには、まだまだ若々しいか。
「とにかく、役者は揃ったようね。孫堅、あんな賊、さっさと粉砕しましょう。協力してくれるわよね?」
「勿論だ。しかし、土方もなかなか隅に置けぬのぅ」
「どういう意味でござろう?」
「はっはっは。曹操程の者が、随分と親しくしているようではないか」
 孫堅の言葉に、華琳は当然、という顔をする。
「歳三は、それに相応しい男ですもの。いずれ、私や貴女と肩を並べる存在になってもおかしくないわ」
「ふふ、ならばその言葉、戦場にて証明して貰いたいものだな」
 孫堅は、機嫌良さげに笑った。


 華琳に、孫堅。
 この英傑二人が率いる精鋭が揃い、更に我が軍もいる。
 この状況で、賊徒に勝機など見いだせる筈もなかろう。
 三方から本拠地へと追いやられた挙げ句、黄蓋の隊が放った火矢を受け、大混乱に陥る。
 村々を襲うような輩、誰一人として容赦する必要もない。
 夏侯惇が、周泰が、そして疾風が、その命を刈り取っていく。
「もう、策も要らないようですね」
「ああ。しかし、孫堅軍、まさに虎の如し、だな」
「そうですねー。あまり、敵に回したくない相手なのです」
 同感だな。
 そのうちに、敵陣の方から、歓声が上がる。
「どうやら、終わったようだな」
「はい。圧勝、でしたね」
 結果として、慎重を期すまでもなかったかも知れぬな。
 尤も、思いの外、賊徒が弱かった事もある。
 ……それ以上に、あれほど精強な孫堅軍が加われば、負ける要素もないのだが、な。


 戦い済んで、皆が戻ってきた。
「ご苦労だったな、疾風」
「いえ。ほぼ両官軍の独壇場でした。私は、さして働きもありませぬ」
「そう申すな。お前の働きなくば、戦いが長引いていたやも知れぬのだ」
「……はっ」
「良かったですねー。疾風ちゃん」
「な、何がだ?」
 途端に、狼狽する疾風。
「いえいえ。嬉しそうだと思いましてー」
「風、止しなさい。今は素直に、疾風を労うべきですよ?」
「むー、つまらないのです」
 見慣れた光景を眺めていると、
「土方様。孫堅様がお越しです」
「わかった。お通しせよ」
「はっ」
 孫堅が、数人の将を引き連れてやって来た。
 黄蓋と周泰、それに孫堅に似た少女がいる。
「お見事でござった」
「いや、あんな連中など鎧袖一触さ。お前のところも、なかなかやるじゃないか」
「はっ、忝うござる」
「……う~ん、なんか堅いなぁ。もっとさ、気楽に行こうじゃないか」
 ふむ、この時代の皆、という訳ではないが……あまり、言葉遣いに気をかけぬ者が少なくないようだな。
「では、そうさせていただくが、良いのだな?」
「構わんさ。ああ、これは我が娘、孫伯符だ」
 孫堅の隣にいる少女が、かの孫策らしい。
 髪も肌の色も、見れば見るほど、孫堅そっくりだ。
 どこか奔放そうな印象がある一方で、やはり覇気の片鱗は感じられる。
「土方だ」
「よろしく。母様から聞かされていた通りね……ふ~ん」
 そう言いながら、無遠慮に私の顔を覗き込む。
「なかなかいい男じゃない、あなた」
「こら、雪蓮! いくら何でも失礼だぞ。済まんな、土方」
「気にするな」
「そうか。俺には、まだ娘が二人いる、いずれ引き合わせてやろう」
 孫堅の娘、か。
 恐らくは孫権と……もう一人はわからぬが。
「今宵は、曹操も交えて戦勝祝いと参ろうぞ。土方、お前も来い」
「おお、流石は堅殿。話がわかるの」
「わーい。さっすが母様」
 どうやら、三人は酒好きらしい。
「孫堅。それなら、洛陽に着いてからになさい」
 いつの間にか、華琳が来ていたようだ。
「いいじゃねえか。勝てば祝う、当然の事だぞ?」
「あのね、私達は官軍よ? 報告が先決でしょう? 洛陽まではあと僅かなのに、それを怠る気?」
「ぐっ、堅いなぁ。ならば、後日必ずだぞ? その時は、お前も参加だからな」
「はいはい、わかったわよ」
 同じ英傑でも、まるで方向性が違う。
 ふっ、なかなかに趣深いではないか。
 内心から沸き起こる期待を、私は抑えかねていた。 

 

二十八 ~洛外にて~

 
前書き
9/5 誤字修正を行いました。
12/25 ルビがやはりおかしくなっていましたので修正。ルール変わったんでしたっけ? 

 
 その後は賊との遭遇もなく、また陣中でも然したる事もない日々が続いた。
 やがて行く手に、巨大な城壁が見えてきた。
「あれが、洛陽か」
「はい。ふふ、ここに戻る事になるとは思いませんでしたな」
 疾風が、どこか自嘲気味に笑う。
「しかし、本当に大丈夫なのですか?」
「心配無用だ、稟。伝手もあるが、何より、今の朝廷に私のような小役人を構っている余裕があるとは思えないからな」
「それならばいいんですけどねー」
「とにかく、目立つ行動は控えよ。今、お前を失う訳にはいかぬ」
「……はっ。お言葉、肝に銘じます」
 これは、本心だった。
 いや、疾風だけではない。
 稟も風も、愛紗も星も鈴々も、無論月達も。
 ……誰一人として、死なせはせぬ、その為にも、私も生き延びるだけ。
 この巨大な都で、何が待ち受けているのかはわからぬが、とにかく全力を尽くすのみだ。
 そんな事を思っていると、華琳と孫堅がやって来た。
「歳三。悪いけど、貴方達はここで待機という事になるわ」
「功は大きいが、官位のないお前をいきなり洛陽に入れるとはいかぬからな。無論、俺からも上奏はするが」
「気遣い、痛み入る。もとより覚悟の上だ」
「そう。ところで、一つ提案があるのだけれど」
「ほう。聞こう」
「今の朝廷で、歳三の顔を知る人物は、まずいないでしょうね。だから、貴方一人が城内に入る分には、何の問題もないわ」
「一兵卒に扮して城内へ、という事か?」
「そうよ。尤も、歳三が私に仕えてくれるというのなら、話はもっと簡単だけどね」
「またその話か。何度請われても、返事は同じだ」
「ふふ、私は本気よ?」
「ほほぉ。曹操、だいぶこの男に惚れ込んだようだな?」
 孫堅が冷やかし気味に言うが、華琳は平然と、
「ええ、そうよ? 私は、才ある者は愛する事にしているの。歳三は、申し分ない存在だもの」
「てっきり、曹操は女にしか興味を持たないと思っていたんだが。両方いける口だったのか」
「な……。そ、そういう意味じゃないわよ!」
「おやおや。そんなにムキにならずとも良いではないか」
 いつの間にか、立場が逆転したようだ。
 流石、子持ちの余裕、と言うべきなのだろうか。
 にやつく孫堅に対し、華琳は耳まで真っ赤になっている。
「しかし、そこまで曹操が入れ込むとはな。……ふむ」
 と、孫堅はしげしげと私の顔を覗き込んできた。
「何かな?」
「確かに、顔は美形。その上、あの曹操が惚れ込む程の才能……か」
 また、あの獰猛な笑みを浮かべる。
「おい、土方。俺の娘だが、どうだ?」
「どう、とは?」
「ほれ、既に紹介しただろうが。我が娘孫策、まだまだ未熟者ではあるが……あの通り、見てくれはなかなかだ。貴様、まぐわう気はないか?」
「ブッ! まままま、まぐわう……?」
「ほへっ? ち、直球ですねー」
「歳三様と、孫策殿が……ああ」
 取り乱す疾風に、慌てているのかどうかもよくわからぬ風はともかくとして。
 稟が、このままでは危険だな。
「風、稟の小鼻を押さえておけ。疾風、そのまま稟を連れて野営の準備にかかれ」
 とにかく、気を逸らさねばなるまい。
「ぎ、御意。ほら稟、しっかり致せ」
「ではではお兄さん、また後ほどー」
 ……洛陽に、良き医者がいる事を願うしかないな。
「なかなか難儀だな、お前の家臣は」
 原因を作っておいて、本人に自覚がないのだから始末に置けぬ。
「孫堅。貴女、どういうつもり?」
 華琳が凄んでみせても、孫堅は平然としたままだ。
「どうもこうもない。土方であれば、孫家に血を入れるのに申し分ない、そう思ったまでだ」
「……孫堅。それは、孫策の意思か?」
「いや、俺の一存だ。だが、雪蓮もお前を気に入っていると見たがな」
「本人の意思も確かめぬのに、それは横暴というものだ。それに、私は色欲魔ではないぞ?」
 確かに今の私は美しき女子(おなご)に囲まれてはいるが、見境もなしに手を出すつもりはない。
「何なら、お前さえよければ、嫁にくれてやっても良いぞ?」
「ま、待ちなさい! 何故、歳三に何てこと吹き込む気?」
「何か可笑しい事を言ったか? これ程の男だ、我ら一族に入れる事は、理に適っていると思うがな?」
「そ、それは……そうかも知れないけど」
 しどろもどろの華琳。
 流石の曹孟徳も、男女の営みてなると、かなり初心というところか。
「俺では薹が立ち過ぎているが、雪蓮ならば申し分なかろう?……それとも、俺や祭のような年増が好みか?」
「い、いい加減になさい! この色欲魔!」
「はん、未だに男も知らぬ小娘風情が知った風な口を聞くな」
 ……うむむ、頭痛がして参った。
 ……本当にこの二人が、歴史に名を飾る、あの英傑なのか?
 暫し、二人の低次元な言い争いが続いた。


 その夜。
 食事を済ませ、天幕の中で皆と話す事とした。
「さて、洛陽と、朝廷の現状を聞いておきたいが。皆の知るところを、話してくれ」
「はい、では私から。疾風、風、補足は随時頼みますよ?」
 昼間の醜態を微塵も感じさせず、稟は落ち着いて話し始めた。
「承知した」
「了解ですよー」
「では。まず、今上帝は病を得ている、との事です。実権はかなり以前より、十常侍と呼ばれる宦官と、何皇后とその実兄、何進大将軍との間で争われている状態です」
「そして、陛下には弁皇子と協皇子、お二人のお世継ぎがいらっしゃいますねー」
「国政を壟断しているのは宦官ども。ですが、外戚の方々はその奪還のみを求めておいででした。恐らく、今もそれは変わらぬかと……」
 疾風の言葉には、実感がこもっていた。
「今の朝廷に仕えるのを良し、としない名士も少なくはありません。ただし、皇甫嵩将軍や朱儁将軍のような方もおられますし、文官でも有能な人物はやはり多い筈です」
「洛陽の民ですが……。暮らし向きは決して楽、とは申しませぬ。飢饉にこそ見舞われてはいませんが、地方に比べていくらかマシ、という程度です」
「華やかさとは無縁、という事か。だが、権力者同士の争いは、やすやすと決着がつくまい?」
「何かきっかけがあれば別でしょうけどねー。ただ、どちらが勝っても、利があるのはごく一部だけですから」
「華琳や孫堅のような者達はどうなのだ?」
「何進殿が大将軍、という事もあり、地方の有力な太守はほぼ外戚派、と考えて間違いありませんね」
「今のところは、表立って宦官さん達に歯向かう姿勢を見せるような方はいないかと。陛下の信を受けているのですから、対応を誤ると朝敵と見なされますしねー」
「だが、疾風。何進一統に真から忠義を誓う、となるとどうなのだ?」
「はい。代わりとなる権力者が現れれば、掌返しをする者も少なくないかと。お会いいただければわかりますが、何皇后様はさしたる御仁ではありませぬ。何進殿も頑張ってはおられますが……」
「疾風は、大将軍と面識があると見たが?」
「はい。私も武官の端くれ、幾度かお声をかけて頂きました」
「ならば、どのような人物か、率直に申せ」
「わかりました。まず、御存知かも知れませぬが、何進殿は、何皇后様が陛下のご寵愛を賜ってより、庶人より召し出されました。腕力こそお持ちですが、剣の腕が優れている訳でもなく、また学もない御方です。なれど、人柄は誠実で、決して金品につられて権力を振るうような真似はなさいませぬ」
「その点、宦官とは違う……そういう事か?」
「はっ。陛下におかれましても、宦官では軍事を全て任せるに足る、とは思し召しではございませぬようで。その為、陛下の信も篤く、またご自身も懸命に努力をなさっておいでと聞き及んでいます」
 確かに、庶人の出でありながら、武官の最高峰とも言える大将軍を勤め上げている。
 才幹を求めるのは酷としても、並々ならぬ努力なしでは、皇帝が信任する筈もなかろう。
 それに、如何に外戚とは申せ、それだけでは人はついて来るとも思えぬ。
 となると、疾風の言葉通りの人物、そう見るべきだな。
「では、大将軍とは今のところ、良好な関係を築けるようにすべきだな。疾風、その時は頼りにさせて貰うぞ?」
「はっ」
「歳三様。十常侍は如何なさいますか?」
「……諸悪の根源、と申すのは容易いが、関わらぬに限るな。いずれにせよ、今上帝が健在な限り、と見ているが」
「お兄さん。何故、そのように思われるのでしょう?」
「衰えたとは申せ、漢王朝も今上帝も、まだまだ権威は残っていよう。だが、宦官共は今上帝の寵愛があればこそ、専横が許されている。もし、今上帝に何かあらば、その時は外戚が黙ってはいまい」
 私の言葉に、皆が黙り込む。
 不遜、と取られてもおかしくない会話だから、という事ではないだろう。
「秦の趙高の例を見れば、宦官に権力を持たせる事が如何に危険か、わからぬ道理もあるまい」
「確かに……。では、宦官と何進殿の間で、闘争が起こる。歳三様は、そう見ておいでなのですね?」
「そうだ。そうなれば、武力を持たぬ宦官は不利であろうな」
「歳三殿は、そうなれば何進殿が勝ち、弁皇子が皇位に就かれる、と?」
「可能性としては、な。だが、宦官は力はなくとも謀略を巡らすのは得意としていよう。自分たちがみすみす誅されるのを見過ごすとも思えぬ」
「そうなると、協皇子を担いで傀儡に仕立て上げ、何進殿を何らかの手で封じ込める……全く、魑魅魍魎の世界ですね」
 稟が、大袈裟に溜息をつく。
「そうなったら、お兄さんはどうなさるおつもりですかー?」
「可能であれば、どちらにも与したくないところだ。そのような権力争いに巻き込まれるのは好むところではない」
「ですが、そうもいかないでしょうね。歳三様は、何らかの形で官職を賜るでしょうから」
 と、思案顔だった疾風が、顔を上げた。
「歳三殿。何進殿と、内々にお会いになりませぬか?」
「内々に? そのような事が出来るのか?」
「はい。明朝、城門が開いてから、密かに何進殿につなぎをつけます。私に、お任せいただけませぬか?」
 どうあれ、何進とは一度会っておかなければならぬだろう。
 幸い、疾風は何進と面識があるという。
「だが、危険ではないのか? 大将軍はともかく、それ以外の者に顔を見られては」
「そこまで抜けてはおりませぬよ、歳三殿。これでも、無茶はしない性格ですので」
「……ふむ。稟、風、どう考える?」
「私は賛成です。内々とは言え、何進殿と面識を得ておくのは、何ら損にはなりませんから」
「風もいいと思いますよー。お兄さんの眼から見て、何進さんがどのような人物かを、確かめておく事も出来ますし」
「よし、ならば後は疾風に任せよう」
「ありがとうございます。必ずや、ご期待に応えて見せます」
 疾風に頷き返し、
「では、今宵はここまでに致そう。……疾風、後で私の天幕へ」
「……は、はい!」
 ……稟が微笑ましい眼で、風がにやついた顔で見ているのは、気にするまい。


「お、お呼びにより参りました」
「うむ」
 鎧を解いた疾風は、いつもと違って見える。
「どうだ?」
 用意させた徳利を、掲げてみせた。
 疾風は、意外そうに私を見つめる。
「酒、ですか? 歳三殿が?」
「ふっ、私とて全くの下戸ではない。霞や孫堅らのようには参らぬが、な」
「は、はぁ……」
「とにかく、座るが良い。立ったままでは話も出来ぬであろう?」
「……では、し、失礼致します」
 いつになく、疾風は緊張しているようだ。
 ぎこちなく、私の隣に腰掛けた。
「さあ、飲め」
「は、はい。では、いただきまする」
 杯を持つ手が、震えている。
「少し、落ち着くが良い。それでは、酒が溢れてしまうぞ?」
「……大丈夫です。では」
 そして、疾風は杯を一気に干した。
「……これは?」
「私の生国で造られる酒……に似たものだ。私が、義勇軍を結成した時の事、存じているな?」
「はい」
「その時に、援助を申し出た張世平の仲間に、蘇双と言う者がいる。酒を商っている者だが、どうしてもこの酒を造りたいと申してな。知る限りの製法を伝授した」
「では、この酒はその者が?」
「うむ。まだ試作品の段階故、手には入らぬが。私に確かめて欲しいと、先ほど届いたばかりだ」
「そうでしたか。そのような貴重な酒、忝うございます」
「どうだ? まだ試行錯誤の最中らしいが」
「は、はい。米の旨味が出ていて、非常に美味かと」
 そう話す疾風の顔は、赤かった。
 酒気のせい、だけではなさそうだな。
「そうか。少しは、落ち着いたな」
「……あ。そう言えば」
 さっきまでの身体の震えは、収まっていた。
「疾風」
「はい」
「……私は、お前が望むのなら、このまま酒を飲んでいるだけでも良い。その先は、お前の意思次第だ」
「歳三殿。一つだけ、お聞かせいただけますか?」
「うむ」
 疾風は杯を置き、両手を膝の上に揃えた。
「昼間、孫堅殿からの申し出を、はっきりと断ったと聞きました。何故ですか?」
「私は、美しき女子と見れば片っ端から手を出す好色ではない」
「ですが、相手はあの江東の虎。孫策殿も将来有望と見ました。歳三殿にとっては、損になる話では」
「もう止せ」
 私は、疾風の言葉を遮った。
「私には、稟に風、愛紗、星、そして疾風がいる。それで十分、満ち足りている」
「…………」
「それに、将来の大望があるのならば、華琳から臣従せよと言われた時に、それを断る道理もあるまい? 奴は、間違いなく徐々に力を持つ存在、その麾下とあらば得るものも大きかろう」
「……そうでしょうな」
「私は皆と仲間がいて、民を平穏に導ければそれで良いのだ。人間、欲をかくと碌な目に遭わぬからな」
 クスッ、と疾風が笑った。
「無欲と言えばそうですが。歳三殿はある意味、とても欲張りですな」
「そうかな?」
「はい。望むなら手に入るものには興味をお示しにならないのに、我らとの事を第一と。稟も風も超一流の軍師、愛紗に星、鈴々は優れた武人。それを皆、手元に置きたいなどとは」
「そうかも知れぬな。だが疾風。一つだけ、間違っているぞ?」
「間違い、とは?」
「お前自身がいないではないか。無論、お前の才も、武も買っているが、私は仲間として、大切に考えているのだ。あまり、自分を軽んじるな」
「と、歳三殿……」
 臭い台詞かも知れぬが、これは本心だ。
 真っ赤になって照れる疾風が、何ともいじらしい。
「あの……。歳三殿も、一献」
「うむ」
 杯を差し出したが、疾風は何故か、自分の杯に酒を注いだ。
 そして、一気に呷ると、顔を近づけてきた。
 そのまま、腕を私の頸に回し、抱き付く。
 生暖かい酒が、私の口の中に流れ込んできた。
「ふふ、如何ですかな?」
「……そう来るとはな。どうしたのだ?」
「……決めたのですよ。歳三殿に……お任せします」
「良いのだな?」
「……はい」
 酔いが回ったのか、疾風は少々大胆だった。
 だが、それもまた、良かろう。


 事が済み、二人共に臥所に横になっている。
「どうだ? 辛くはないか?」
「平気です。歳三殿に、優しくしていただいたので」
 そうは言うが、疾風は少し、涙ぐんでいる。
「痛むのか?」
「……少しは。でも、これは嬉し涙です」
「……そうか。ならば、何も申すまい」
 疾風の手が、私の顔に触れた。
「歳三殿」
「うむ」
「お慕い申しておりますよ。……うふふ」
 今宵何度目かの、口づけを交わす。
「このまま、朝までお側にいてもよろしゅうございますか?」
「無論だ」
 その背に手を回し、そっと撫でてやる。
 優れた武人ではあっても、その肌は若い女子のそれだった。
「では、おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
 すぐさま、安らかな寝息が聞こえてきた。
 また一人、慈しむべき者が増えた、か……。 

 

二十九 ~会見~

 翌朝。
 開門を待って、様々な人間が洛陽に入って行く。
「では、歳三様」
「うむ」
 疾風がそれらの人々に紛れ、門を潜っていった。
 無論、変装をした上での事だ。
「しかし、化ければ化けるものですねー」
「全くです。言われなければ、あれが疾風だとは誰も気付かないでしょう」
「そうでなくてはならぬ。少なくとも、今の疾風にはどのような咎めがあるか、それを見定めるまでは素性を知られぬ方が良かろう」
 実際、変装を終えた後で、稟も風も、それが誰だか気付かなかった。
 特に、古くからの知り合いの筈の稟が、である。
 その後ろ姿を見送っていると、
「止まれ! 出入りは一時差し止める!」
 門のところで、兵士が人々を押し止め始めた。
「何だよ、急に」
「こちとら急いでるんだ! 入れさせてくれ!」
「駄目だ! 暫し待て!」
 人々と兵士の押し問答が続く。
 どうやら、疾風は混乱に紛れて、城内へ入ったらしい。
「何があったのでしょう?」
「何でしょうねー。あ、城内から兵士さん達が出てきましたよ?」
 私の双眼鏡を覗いていた風が、何かを見つけたらしい。
 出入りを差し止めた中で、出てこられるとすれば……。
「どこかの部隊か?」
「そうみたいですよー」
 完全武装の兵が、次々に姿を見せた。
 その中に、馬に乗った将らしき人物が一人。
 む、此方を一瞥し、兵に何やら指示をしているが。
 その兵が、そのまま此方へと歩み寄ってきた。
「貴軍の指揮官は何処か?」
「私ですが」
「所属と名を、お聞かせ願いたい」
「所属はござらぬ、義勇軍にござる。拙者は姓を土方、名を歳三と申しまする」
「承った。暫し、待たれよ」
 兵士は先ほどの将のところに駆け戻り、何かを伝えた。
 ……と、将が騎乗のまま、此方へと向かってくる。
 見事な口ひげを蓄えた、偉丈夫のようだ。
「貴殿が、土方殿であったか」
「……は。率爾ながら、貴殿は何方にござる?」
「おお、これはご無礼を。自分は皇甫嵩だ」
「高名な皇甫嵩将軍からお声がけいただけるとは、恐縮の至りにござる」
「ははは、黄巾党を震え上がらせた土方殿の方こそ、今をときめく存在ではないのか?」
「いえ、まだまだ未熟者にござれば。世間が過剰に噂しているだけにござろう」
「ふふふ、朱儁の奴が申していた通りの御仁だな、貴殿は」
 朱儁と皇甫嵩は、この時代を代表する将軍だ。
 懇意である方が自然、というものだろう。
「将軍。そろそろ、お戻りを」
 遠慮がちに、先ほどの兵が声をかけてきた。
「おお、そうであった。土方殿、申し訳ないがこれより一仕事でな。また後日、ゆるりと話がしたいものだな」
「はっ。是非にも」
「では、御免」
 颯爽と、皇甫嵩は部隊へと戻っていった。
「風。奴をどう見る?」
「ぐー」
「寝るな!」
 私が何か言う前に、稟がすかさず起こしてしまった。
「おおぅ! 朝日の心地よさに、ついウトウトと」
「それで稟。皇甫嵩の事、どう見る?」
「は、はい。統率力に富み、朝廷の臣としては当代きっての名将、と言えましょう」
「むー。風にお訊ねになったのではなかったのですか?」
 ……寝ていたであろうが。
 膨れる風だが、ここは放置だな。
「人物は私欲なく、清廉潔白、と聞いているが。当然、宦官との折り合いは悪いのであろうな?」
「そのように聞いております。尤も、朱儁殿も同様との事ですが」
「…………」
「何か、気がかりな事でも?」
 稟が、私の顔色を見たのだろう。
「ああ。風、当てて見せよ」
「……風に、御用はなかったのではありませんか?」
「いつまでも膨れているものではない。お前は、私の大切な軍師なのだぞ?」
「やれやれ、お兄さんには敵わないのですよ。お兄さんは、宦官さん達がお兄さんに目を付けないか、それを気にしていますよねー?」
「その通りだ。皇甫嵩と朱儁が何進寄りの上、華琳や孫堅のような地方軍閥も宦官とは距離を置いている。となれば、武力を欲する宦官共が、我らに目を付ける……そう、考えるべきだと思うが」
「その懸念はありますね。ますます、疾風の働きが重要となって来ます」
「うむ……」
 何進から、どのような反応があるかはわからぬが。
 権力闘争に巻き込まれるのだけは、願い下げだ。
 あまりにも、得る物よりも失う物の方が大きいだろうからな。
 自惚れるつもりはないが、我が軍は相応に精強である。
 黄巾党討伐で、思いの外名を知られた今、どのように利用されるか……杞憂であれば良いのだが。
「申し上げます」
 そこに、兵がやって来た。
「如何致した?」
「はっ。趙雲様がお着きです」
「ほう、早いな」
 恐らくは、愛紗が先行して使者を走らせたのだろう。
「主!」
 小走りに、星が駆け寄ってきた。
「主。お久しぶりですな」
「ああ。北平での務め、大儀であった」
「いえ、白蓮殿が努力されておいでですから。私は、その手伝いをしたまでの事」
「星。幽州の情勢はどうでしたか?」
 稟の言葉に、星は表情を引き締める。
「良くはない、な。烏丸は今のところなりを潜めているが、黄巾党の残党が入り込んできていてな。鈴々と共に、だいぶ討伐したつもりではあるが……」
「やはり、本隊が壊滅しても、いたちごっこは続きそうですねー」
「それに、飢饉の影響もまだまだ残っている。当面、白蓮殿も苦労が絶えぬ事であろうな」
 真面目な白蓮の事だ、いろいろと抱え込んでいるに違いない。
 何とか、力になってやりたい……とは、私の思い上がりか。
「主。今宵は、共にお過ごしいただきますぞ?」
「……星。昼間からそういう会話はどうかと思いますが?」
「何を言うのだ、稟。お主らはずっと主と一緒ではないか。私だけ、主の愛を久しくいただいておらぬのだぞ?」
「まぁまぁ。星ちゃんの気持ちもわかりますけどねー。でも、今晩は恐らく無理だと思いますよ」
「むぅ、何故ですか、主?」
 少しばかり、悄気返る星。
「この場に、疾風がおらぬのが、その訳だ。まだ、結果を待つ最中ではあるが」
 何進の許に向かわせた事を、順を追って話した。
 ……が、理解はしても納得はせず、明後日という約定となった。
 本人が切に望むのだ、仕方あるまい。


 夕刻。
 開かれていた門が閉じる間際になり、人の往来が激しさを増していた。
「只今、戻りました」
 人混みに紛れて、疾風が帰還した。
「ご苦労だったな」
「はっ。星、久しいな」
「ああ、疾風こそ。……ふむ」
 星は、疾風の顔を覗き込む。
「何だ?」
「……いや、女の色気が出てきた、そう思ってな」
「な、何を申すのだ」
 真っ赤になる疾風。
「良いではないか。主のお情けを戴いたのであろう?」
「そ、そうだ! だが、後悔はしていないぞ!」
「ふむ。主、疾風にまで手を出されましたか。この星は、如何すれば宜しいのでしょう?」
「……止さぬか。以前にも申した通りだ、私は言葉を違えるつもりはない」
「はっはっは、それを聞いて安堵しましたぞ。疾風、お主とは、ますます競い合う仲、という訳だ」
「…………」
 疾風は、黙ってしまった。
「その話は後に致せ。それよりも、首尾は如何であった?」
「は、はっ。何進殿にお目にかかれ、歳三殿の事を申し上げました。何進殿も、歳三殿の噂を耳にしておいでで、一度話をしたい、との仰せでした」
「そうか。良くやったぞ、疾風」
「いえ。然したる事ではありませぬが」
 そう言いながらも、疾風は微笑んだ。
「して、日取りは何と?」
「本来であれば、すぐにでも、とのご意向でしたが。何分、何進殿は身分が身分。宦官の眼もあります故、思うようには参りますまい」
「やむを得ぬだろうな。とは申せ」
 私は、天幕の外に眼を遣る。
「兵も、ただ待つのみでは士気に関わろう。城中にて、英気を養わせたい」
「その為には、入城の許可を取り付けなければなりませんが。大将軍では、その権限はありませんね」
「官位さえあれば、何の問題もないのですけどねー。その為には、陛下に拝謁する必要がありますし」
「ままならぬものだな。疾風、何とかならぬのか?」
「星、無理を申すな。この中で、官職を持つのは誰もおらんのだ。私も、官職を捨ててしまっているしな」
「何か、口実があれば良いだが……。ふむ」
 これと言って、良き思案は浮かばぬ。


 日が沈み、夜の帳が下り始めた頃。
 馬蹄の音が、響き始めた。
 城外に出ていた皇甫嵩の軍が、戻ってきたようだ。
「存外、早かったようだな」
「装備の割に糧秣をほとんど持って出てませんからねー。調練だったのでは?」
「確かに、切迫した様子がありませんでしたしね」
 ほう、そう見ていたか。
 だが、二人の言う通りかも知れぬな。
 それだけ、官軍にも余裕が出てきた、そう見るべきか。
「主。誰ぞ、此方に向かってくるようですぞ?」
「確かに。……将のようですが」
 ふむ、皇甫嵩が既に誰何した後なのだが。
「土方はいるか?」
 この声……聞き覚えがある。
「貴殿は……朱儁将軍でござるな?」
「如何にも。久しいな」
「何故、此処に? 未だ黄巾党征伐の最中、と聞いておりましたが」
「その話は後ほど。私と一緒に、来て貰いたい」
 朱儁は、声を潜めて言う。
「拙者、でござるか?」
「他にはおらんだろう。時間がないのだ、徐晃も共に来い」
「わかりました。歳三殿、参りましょう」
 急な話だが、疾風が一緒ならば心配無用だろう。
「……では、お供致しましょう。稟、風、星。留守を頼む」
「はい」
「了解ですー」
「はっ」


 朱儁に連れられ、洛陽に入る。
 旗や装備を見る限り、同行しているのは皇甫嵩の軍で間違いないようだが……。
 朱儁は私を軍に紛れ込ませた後、すぐに何処かに姿を消した。
「疾風。これも、手筈通りなのか?」
「……いえ。ですが、今は進むより他にないかと」
「そうだな」
 思い直して、辺りを眺めてみる。
 明かりも殆どなく、人の往来もない。
 今少し、夜とは言え活気があるかと思っていたのだが……。
「思いの外、静かだな」
 晋陽や北平のような地方都市とは違い、此処は仮にも都の筈。
 よく見ると、何かが蠢いているようだが。
「行く宛のない流民ですよ」
「流民?」
「そうです。干魃や蝗の被害で税が払えなくなり、職を求めて洛陽に出てきた民達です。洛陽に行けばどうにかなる、と」
「だが、期待していた都の姿ではなく。食いつめてしまった……そういう訳か」
「そうです。洛陽に元より住む民でさえ、日々の暮らしに困る有り様。流民を受け入れる余裕などある筈もございませぬ」
 あの荘厳な宮城の中には、美食美酒で過ごす輩がいる事を、彼らは知っているのだろうか。
 尤も、宮中で自らを高貴と考えている連中に庶人を顧みる甲斐性があったなら、この国はここまで荒廃しておらぬであろうが。
「曹操殿が見ておくといいと言った事の一つは、まさにこれかと。無論、これは氷山の一角に過ぎませぬが」
「国の無為無策に苦しむのは、何時でも民……か」
「願わくば、このような光景……見る機会が稀であると良いのですが」
 銅臭政治の結果がこうであると、今上帝はご承知ではあるまい。
 陛下が世俗に疎ければ疎いほど、宦官とそれに従う官吏は好き放題に振る舞える。
 裏を返せば、次代の皇帝陛下もまた、それを知らぬままでいる事が望ましいであろう。
 ……どうも、考えずとも良い筈の事まで脳裏から離れぬというのは、あまり好ましくない傾向だ。
 所詮は天上世界の話、私が気を揉んでも仕方あるまい。

 気がつくと、軍は何かの施設に到着していた。
 将らしき人物が、号令をかける。
「全軍、これにて解散とする。しっかりと休養を取れ、良いな?」
「応っ!」
 散って行く兵士達。
 ……さて、我々だが。
「おい、そこの二人。将軍の警護をする、参れ」
 先程の将が、声をかけてきた。
 周囲には誰もおらぬ以上、我らを指名しているのであろう。。
「……某ら、でございますな?」
「そうだ。早く参れ」
 警護と言うが、ここは既に洛陽の城内。
 それが口実だと言う事は、すぐに気付いた。
 だが、それを口にする事なく、私と疾風は後に続く。
 先導する将もまた、無言であった。
 ……恐らく、行く先は何進の屋敷か。
 十常侍の眼を気にしての事であろうが。
 だが、連中は傍若無人であると同時に、狡猾という印象でもある。
 件の将は何故か、一軒の民家に入っていく。
 まさか、大将軍ともあろう者が、このような何の変哲もない民家に住む筈がない。
「もう宜しいのでは? 何進殿」
 不意に、疾風が言った。
「何進殿……? まさか?」
「ふふ、やはり見抜かれていたか」
 何の明かりもないので、表情の程はわからぬが……。
「土方とは、貴公の事だな。俺が何進だ」
 紛れもなく、件の将であった。
「これは、ご無礼仕った。拙者が土方にござる」
「このような場所で済まぬが、今は十常侍どもの眼があちこちに光っていてな。貴公の事は、奴らの方でも眼を付けていると聞く」
「……然様で」
「それで、皇甫嵩からこのような策を授けられたのだ。驚いたか?」
「は、些か。しかし、何時の間にこのような策を?」
「俺は大将軍だ。演習中の将に、伝令の兵を送っても何の不思議もないだろう?」
 確かに、その通りだろう。
 何進、思いの外機転が利く人物なのやも知れぬな。

 そして、手短ではあったが、黄巾党との戦いのあらまし、月や白蓮との経緯を語った。
 ひとしきり聞き終わると、
「わかった。俺も、貴公の事は明日にでも奏上しておく。宦官を通せばどのような横槍が入るかわからんのでな」
「ははっ」
「それから、軍は洛陽に入城させられるよう、すぐに手配する」
「忝うござります」
 これで、懸念事項は片付きそうだ。
 疾風の申す通り、何進は少なくとも、敵に回る事はないだろう。

 そのまま、何進の屋敷まで同行し、用意された部屋で一夜を過ごした。
「歳三殿。不安はないのですか?」
「この程度で臆するようでは、お前にも皆にも見限られてしまう。私はそこまで小心ではない」
「ふふ、愚問でしたね。……無論何があっても、歳三殿は守り通しますが」
「うむ。だがその言葉、そのまま返すとしよう」
 政治の駆け引きなど願い下げだが、喧嘩ならば買わぬ手はない。
 宦官共め、来るなら来い。 

 

三十 ~尋問~

 翌朝。
 密かに何進の屋敷を辞し、宿舎へと向かう。
 折角なので、と疾風が洛陽を案内すると言い出した。
「しかし、本当にもう良いのか?」
「はい。何進殿の手配りがありました故」
 無断で職を擲った事、当人達が望んだとは言え、三千もの兵を連れ出した事。
 罪に問われて然るべきだが、何進の特命により黄巾党討伐に援軍として派遣された……として処理されたらしい。
 真偽を問おうにも、派遣先とされたのが月であれば、それを否定する者がいないのだ。
 それに、何進は大将軍、軍の最高責任者である。
 まさに、黄巾党が各地で暴れている最中の出奔、機会としては上手く合致していた。
「しかし、見事な差配だな。何進殿の手腕、侮れぬ」
「あ、いえ。今回は稟の発案でして」
 と、疾風が苦笑する。
「稟が?」
「何進殿の処に赴く前に、稟に相談して策を授かっておいたのです。それをそのまま、何進殿にお願いした、という次第です」
 ならば、合点がいく。
 恐らく、事細かに策を練った筈だが……それは詮索する事もなかろう。
「ところで……気付いているな?」
「はっ、二名ですね」
 何進の屋敷を出てより、我らを尾行する者がいるようだ。
 流石に、何進の屋敷そばで騒ぎを起こす訳にはいかぬので、少し離れた場所まで様子を見ていたのだが。
「捕らえるか?」
「賛成です。正体を突き止める必要がありますな」
「だが、市中であまりおおっぴらに騒ぎを起こすのは拙い。人気のない場所に誘い込みたいのだが」
「畏まりました。では、此方へ」
 疾風に付き従うと、確かに徐々に人気が少なくなっていく。
 それと共に、すえたような臭いが漂い始めた。
 そんな私の様子に気付いたのか、
「この辺りは、貧困層が住む地域です」
「貧困層?」
「然様です。如何に都とは申せ、裕福に暮らせる者などほんの一握り。そうした人々が、この地区で身を寄せ合って暮らしているのです」
「……うむ」
 格差は、いずこの世でも存在する、という事だ。
「その為、この辺りに近寄る人間は限られています。無論、住居のある辺りでは人の往来もありますが」
「そこまで行かねば、人通りが絶える。そこを狙うのだな?」
「はい。ですが、二人まとめてでは取り逃がしてしまうやも知れませぬ」
「では、次の角で二手に分かれるか。一対一ならば逃す事もあるまい」
 行く手に見える十字路が良さそうだな。
「……御意。くれぐれも、ご油断めさるな」
「疾風こそな。……合図と共に、行くぞ」
「はっ」
 そして、私達は駆け出す。
 そのまま、十字路で分かれた。
 背後から、慌てて追いかけてくる気配。
 ……この程度で馬脚を現すとは、さしたる相手でもなさそうだな。
 先に見つけた小路に入り込み、様子を窺う。
 と、細身の男が目の前を通り過ぎる。
「クソッ、何処へ行った?」
「私をお捜しかな?」
 小路から出て、男の前に立つ。
「な、何の事だ?」
「惚けても無駄だ。貴様が、私の後を尾行していた事はわかっているのだ」
「クッ……」
 さて、逃走を図るか、それとも……。
 ほう、剣を抜いたか。
「何の真似かな?」
「痛い目に遭いたくなければ、大人しくするんだな」
「脅しか?」
「それとも、腕の一本も切り落とされたいか?」
 あれは、今までに人を斬っている眼だ。
 それも、一人や二人ではあるまい。
 ……だが、我が素性を知っての事ではなさそうだ。
 ならば、やはり捕らえねばなるまい。
 兼定を抜き、構えた。
「へへっ、そんなひょろひょろの剣で何をする気だ?」
「ふっ、貴様のなまくらよりは斬れる筈だが?」
「ぬかせ! まぁいい、吠え面をかくなよ!」
 そう言いながら、男は斬りかかってきた。
 ……案の定、大した腕ではなさそうだ。
 それに、潜ってきた修羅場の数ならば、私は人後に落ちぬ自負がある。
 総司や斉藤君ぐらいの打ち込みであればともかく、この程度では毛ほども恐怖はない。
 無論、打ち合うような愚は避け、まずは太刀筋を見定める事とする。
 態と隙を見せ、打ち込みを誘う。
 刃風はそこそこだな。
 だが、剣と身体が一体になっておらぬ。
「どうした? それでは私は斬れぬぞ?」
「や、やかましいわ!」
 矢鱈に剣を振り回す男。
 全て躱してみせるが、男はなかなか疲れを見せる様子がない。
 体力はありそうだが、如何せん、動きに無駄が多すぎる。
「ふんっ!」
 力任せに振り下ろした剣が、地面に突き刺さった。
 その隙に、峰に返した兼定で、男の腕を打ち据える。
「ギャッ!」
 苦悶の表情を浮かべ、男は剣から手を離す。
 手応えは十分、骨が折れたに相違ない。
「悪いが、少々眠って貰うぞ」
「グッ!」
 鳩尾に柄を叩き込むと、男は崩れ落ちた。
「歳三殿。私の方は、片付きました」
「疾風か、流石に早いな」
「いえ、さしたる腕ではありませんでした故」
 事もなげに言い放つ疾風、実際に全く息も乱れてはいない。
「それで、相手は如何致した?」
「はっ、気絶させた上、手足を縛りました。あれでは目が覚めたとて逃れる術はありますまい」
「よし。後は、何処へどうやって運ぶか、だな」
 如何なる事情と言えども、気を失った男を二人も担いで回れば、人目につく。
 それに、尋問するとしても、宿舎では手荒な真似も出来まい。
「む」
 背後から殺気を感じ、咄嗟に兼定を払う。
 軽い手応えと共に、数本の矢を叩き落とした。
「弓か」
「不覚でした、まだ仲間がいたとは」
 何処だ……?
 弓の射程は、精々三十間前後。
 正確に狙うとなれば、更に近寄らねばなるまい。
 達人になれば更に伸びる事もあろうが、そこまでの相手とは考えにくい。
 ……と。
「うぎゃぁぁぁぁぁっ!」
 すぐ先から、不意に絶叫が上がった。
「歳三殿」
「うむ」
 疾風と二人、その方角へと駆けた。


「く、来るな、この変態化け物め!」
「誰が見ると三日三晩悪夢に魘される変態かつ不気味な化け物ですってぇ?」
「そ、そこまで言ってねぇだろ!」
 全身筋肉で、何故か下履きだけを来た大男が、弓を手にした男に迫っている。
「この私の美しさがわからないだなんて、おしおきよん?」
「や、やめろぉぉぉっ!」
「……歳三殿。あれは一体、何なんでしょうか……?」
「……わからぬ」
 その間に、筋肉男が、弓の男を畳んでしまったらしい。
「あ~ら、だらしがないわねぇ。あら、こっちは素敵な美形ねん」
 振り向いた大男は、異形の相をしていた。
 弁髪、としか例えようのない髪型に、女子のような仕草が何とも不釣り合いだ。
「……何者だ?」
「私? 私はねん、貂蝉。都で評判の踊り子よん」
 貂蝉、だと?
 女子(おなご)ばかりの世だという事には違和感を抱かなくなったが、絶世の美女、と謳われた貂蝉は男。
 ……しかも、このような異形の相とは。
「い、偽りを申すな! そなたのような者など、聞いた事がないわ!」
 うむ、疾風が珍しく狼狽えているな。
「あらん? 私を知らないだなんて、モグリよん? そういう貴女は何方?」
「私か? 私は徐公明、少し前まで都で官職にあった者だ」
「徐晃ちゃん?……という事は、こっちのハンサムな御方は?」
「私は、土方と申す」
 名乗りを上げると、貂蝉は何故か感激したような顔をした。
「やっぱり、あの土方さんだったのねん。噂には聞いていたけど、本当に素敵なのねん」
 そう言いながら抱き付いてこようとしたので、咄嗟に飛び退く。
「何をする? 私は、衆道の嗜みはないぞ?」
「いけずなのねん。でも、そんな貴方もス・テ・キ♪」
「お前の趣味などどうでも良い。それよりもこの男だが」
 気を失ったまま、目が覚める様子もない。
「人気のない場所でこそこそと弓を使っていたから、声をかけただけなのねん。それなのに、変態とか化け物とか、酷いわ酷いわ!」
 ……なるほど。
 しかし、このような出で立ちの者が声をかければ、慌てふためいても仕方なかろうが。
「この者は、私を狙っていたらしいのだ。どうやら、お前に助けられたらしいな。礼を申す」
「あらん、別にいいのねん。でも、お礼貰えるのなら、熱いチューを」
 そう言いながら、唇を突き出してくる。
「……何度も言うが、私にその趣味はない。それ以上強いるなら」
 鞘に収めた兼定の鯉口を切った。
「いけずねん、こんな漢女(おとめ)相手に」
 身をくねらせる貂蝉は、敢えて無視で良かろう。
「疾風、荷車と人足を手配してくれぬか?」
「この者達を運ぶのですな?」
「ああ。それから、近くに空き屋がないかどうかも」
「では、直ちに手筈を整えます」
「ちょっと待って欲しいのねん」
 そこに、貂蝉が割り込んできた。
「何だ?」
「運ぶのはこの一人だけかしらん?」
「いや、他に二人。理由はどうあれ、我らを襲ったのだ。それを問い質さねばならぬのでな」
「なら、いい場所があるわよん。それと、三人ぐらいなら私が運んであげるわよん」
「運ぶだと?」
「そうよん。任せて貰えるかしらん?」
 ふむ。
 見た目は面妖だが、どうやら悪人ではなさそうだな。
 少なくとも、眼にはやましいところは感じられぬ。
「良かろう。だが、目を覚まされると厄介だ。それに、人に見つかっても拙い」
「任せて欲しいのねん」
 そう言うと、貂蝉は軽々と男を持ち上げた。
「な、何と言う力だ……」
 疾風が呆れるのも、無理はないな。


 貂蝉の異形の相が幸いしたのか、男を三人まとめて担いだその姿も、誰にも咎め立てされなかった。
「まさか、三人まとめてとは」
 呆れ果てる疾風。
「あれは規格外だ。星や愛紗は無論だが、恋でも相手となるとかなり手を焼くだろう」
「……敵に回したくない相手です。いろんな意味で」
「……同意だ」
「さ、着いたのねん」
 我々の思考などお構いなしに、貂蝉は一軒の家にずんずんと入っていく。
 やや古びてはいるが、庶人の家ではなさそうだ。
「疾風。見覚えはあるか?」
「さて……。少なくとも、私が務めていた自分の官吏や商人にはとんと心当たりがありませぬ」
 想像を巡らせていると、中から人が出てきた。
「む? 貂蝉、客人か?」
「あら。そうよん、なかなかいい男だと思わない?」
「ほほぉ。これはこれは……。おっと、失礼。儂は卑弥呼と申す」
 卑弥呼……だと?
 邪馬台国を率いていたという、伝説の女王の事か?
 ……しかも、貂蝉と同じ、下履きだけの出で立ち。
 類は友を呼ぶ、と言う訳か。
「……拙者は土方。此方は徐晃だ」
「む、土方殿に徐晃殿。……なるほど、貴殿らがのう」
 意味深に、一人頷く卑弥呼。
「貂蝉、先にその者どもを尋問したいのだが」
「わかってるわん。卑弥呼、中を借りるわねん」
「むむ、良かろう。だぁりんも出ておるでな」

 そして、卑弥呼は屋敷の一室に、男達を下ろした。
「じゃ、ごゆっくりねん」
 そのまま、部屋を出て行った。
「歳三殿。……本当に、宜しいのでしょうか?」
「……わからぬ。ただ、今は刻が惜しい。奴を信用するよりあるまい」
「……は」
 部屋の中にあった、水桶を手にする。
 そして、縛り上げたままの男達に浴びせかけた。
「……はっ?」
「こ、此処は?」
「く、くそっ、縄が解けん!」
 身動きが取れないとわかったのか、男達は私を睨み付ける。
「このような真似をして、ただで済むと思うか?」
「はて。先に剣を抜いたのは貴様らであろう? 己の身を守るため、当然の処置を執ったまで」
「黙れ! おい、今すぐ我々を解放しろ! さもなくば、後悔する事になるぞ!」
「意味がわからぬな。貴様ら、誰に頼まれたのだ?」
 その問いには、答える素振りは見せぬ。
 あれだけ啖呵を切っておきながら、肝心な事は言わぬつもりらしい。
 私は、男達に聞こえぬよう、疾風に耳打ちする。
「稟と風、星を此処に連れて参れ。急ぎでだ」
「ですが、尋問は如何なさいます?」
「それは、私一人で十分だ。それに、尋問には手慣れている」
「……そうですか。では、あの貂蝉とか申す者に、途中までの道案内を頼むしかありますまい。私も、此所の正確な位置が把握できていませぬ」
「わかった。では、頼むとしよう」
 疾風は顔を引き攣らせながらも、貂蝉と共に宿舎へと向かった。
 それを見送ると、私は再び男らに向き合う。
「さて。まだ話す気にはならぬか?」
「…………」
「後悔する、と言ったがどういう意味だ? 貴様らの黒幕は、それだけの実力者、という事だな?」
「…………」
 黙り、か。
 だが、私を甘く見たな。
 手荒な真似ならば、新撰組では日常茶飯事。
 不穏な動きを見せる尊攘の者共は、捕らえても生半可な拷問には耐え抜く者も少なくない。
 奉行所や所司代では、捕縛する人数の割には成果が上がらぬ、そんな話はよく伝え聞いていた。
 その点、新撰組は容赦というものがなかった。
 手ぬるい尋問、という事を想像しているのだろうが、あの頃の事を思えばその必要もあるまい。
 ……ただ、あまり疾風には見せたくない、それ故に体よく去らせたのもある。
 卑弥呼に頼み、古釘と竹串、それに蝋燭を借りた。
 蝋燭が、何故か赤いのが気になるが……まぁ、良かろう。
 それを見た男達の顔に、恐怖が走る。
「な、何をする気だ?」
「話す気がないのであれば、話したくなるようにするまでの事。その為の準備だ」
「よ、止せ! そんな事をしても無駄だぜ? ど、どうせ脅しに決まっている!」
「そ、そうだよな。こんな優男に、そんな真似出来る筈……ギャァァァッ!」
 腕を折った男が、叫び声を上げる。
 折れた箇所を、思い切り踏み付けたからだ。
「どうした? 所詮脅ししか出来ぬ奴、そう申したではないか」
「て、てめぇ! それでも人間か!」
「ほう? 人様に剣を向けた事は棚に上げて、か? 貴様らのような外道に、かける情けなどない」
 残った二人の片割れに、釘を持って近づく。
「や、止めろ!」
「ならば、問いに答えよ。貴様らの背後にいるのは、誰か?」
「……し、知らねぇ!」
「そうか。ならば、答えるまで止める訳にはいかぬな」
 男の足の甲に、古釘を打ち付けた。
「うぎゃぁぁぁぁぁっ!」
「痛いか?」
「い、い、いてぇよぉ……」
「だろうな。だが、これで終わりではないぞ?」
 火を付けた蝋燭を手に取り、男に近づける。
 そのまま熱した蝋を、傷口に垂らした。
「ひぎゃぁぁぁぁぁぁ、ひ、ひぃぃぃっ!」
 のたうち回る男。
「さて、残るはお前だが……」
 竹串を手に取る。
「な、何をする!」
「これを、貴様の爪の間に突き刺してやろうと思ってな」
「ややや、止めろ! この鬼!」
「鬼、か……。確かに、私は鬼かも知れぬ。だが、降りかかる火の粉は払い除ける主義でな」
 男の足を押さえ、竹串を近づけていく。
「た、た、助けてくれ! 言う、言うからっ!」
 部屋に、異臭が漂い始めた。
 どうやら、目の前の男が、失禁したようだ。
「……よし、聞こう。だが、偽りを申したらどうなるか……覚悟するのだな」
「わわわ、わかってます! で、ですからどうか、どうか……」
「おい、裏切る気か……てめぇ」
 腕を折った男が、呻きながらも睨み付けてきた。
「こ、こんな死に方は嫌だ! 俺には、妻子がいるんだ……」
 こ奴らの結束も、崩れたようだ。
 ……さて、この者共からの口から何が飛び出すのか。 

 

三十一 ~伝説の名医~

 
前書き
9/5 会話文の一部を修正しました。 

 
 結局、一人が吐くと、他の二人も観念したようであった。
 最初の虚勢も何処へやら、洗いざらい吐いた。
 無論、黒幕の正体も含めて。
「……どうやら、偽りではないようだな。では、命だけは助けてとらそう」
「はは……ひへ」
 安心したのか、三人揃って、気を失った。
 さて、手当してやるとするか。
 そう思ったところに。
「土方殿、宜しいか?」
 卑弥呼が、入口に立っていた。
「何用かな?」
「うむ、尋問は終わったと見えるな。奴等の怪我を手当せねばならんのだろう?」
「そうだ。これから取り掛かるところだが」
「実は、だぁりんが戻ってきているのじゃ」
「だぁりん?」
「そうじゃ。腕の立つ医者でな」
 なるほど、此処は医者の屋敷であったのか。
「それは有り難いのだが、十分な謝礼は出来ぬ。それでも構わぬ、と?」
「だぁりんは謝礼など受け取らぬわ。では、連れて来よう」
 そして、卑弥呼に連れて来られたのは、一人の若者。
 眼に宿る光の強さ、そして全身から漂う気迫。
 ……幸いというか、異形の相ではない。
 だが、只者ではないな。
「俺は五斗米道に身を置く医者、華陀だ」
「華陀? この時代きっての名医と言われるのは、貴殿か」
「名医? 卑弥呼、俺はそんな呼ばれ方をしているのか?」
 華陀と名乗る若者は、頻りに首を傾げる。
「だぁりんは有名人だからな。無理もなかろう」
「そうか。で、アンタは?」
「私は土方と申す。貴殿の屋敷とは知らず、穢してしまった事はお詫びする」
「いや、あらましは二人から聞いた。だが、病人だろうが怪我人だろうが、医者を求めるところあらば駆けつける、それが俺の信条だ。任せて貰おう」
「では、お願い致す」
 三人の縛めを解き、私は部屋の外に出た。
「卑弥呼、頼みがある」
「聞こう」
「尋問の事、皆には黙っていて貰いたい。あの者達には、あまりにも残酷に過ぎる光景だろうからな」
「うむ、それが良かろう。貂蝉にも、そう申しておく」
 私は頷いてから、井戸を借りた。
 少しでも、血の臭いを消しておかねばな……。

 半刻ほど過ぎ、皆が揃った。
 疾風を除き、貂蝉と卑弥呼の異形さには流石に引いたようだ。
 とは申せ、少なくとも敵方ではない事は、すぐに理解できたらしい。
 刻が惜しいので、屋敷の別室を借り、尋問で得た情報を皆に話した。
「……黒幕は十常侍、とは予想していましたが」
「筆頭のお二人ではなかったのですねー」
 十常侍。
 皇帝に仕える宦官の事であり、外戚の何進とは対立関係にある。
 筆頭は張譲と趙忠であり、二人を中心に固く結束している……そう、聞いていたのだが。
「疾風、夏惲とはどのような奴なんだ?」
「いや、私はそもそも、十常侍との関わりがなかったのだ。官吏と言えども、皆が皆、把握し切れる訳ではないのだよ、星」
「そうか……」
「それと、歳三様と知って後を尾けた訳ではない……。つまりは、見張られていたのは何進殿、となります」
「そのお屋敷から、見慣れないお兄さんが出てきたので、尾行したと言う訳ですね」
「しかし、相手が悪かったとしか申せませぬな。主も疾風も、並の間諜では敵う筈もありませぬからな」
「此度は手練れではなかっただけの事。個人の武では、皆に敵わぬ」
「歳三殿のは、ただの謙遜としか受け取られませぬぞ? だからこそ、私もお任せしたのです」
「……それは良い。さて、早急に決めねばならぬ事がいくつかある」
 私の言葉に、まず風が反応した。
「そうですね。やはり、夏惲さんの事を調べる必要がありますねー」
 星が続く。
「あの者どもの処分も決めなければなりますまい。他にも仲間がいると考えた方が良いかと」
「それから、この事は何進殿にも知らせるべきかと。屋敷が監視されていた事もあります」
 何やら、不毛な争いに巻き込まれかけているのかも知れぬな。
 相手は魑魅魍魎の世界に救う妖怪ども。
 迂闊な真似も出来ぬ、難儀な事だ。
「まずは、夏惲に関する調査は風と疾風に任せる。些細な事でも構わぬ、情報は出来る限り集めよ」
「御意ですー」
「畏まりました」
「大将軍への知らせは星が良かろう。疾風は顔を覚えられている可能性もある」
「はっ、お任せあれ」
 風と疾風には費えとして金を与え、星には紹介状のみを持たせた。
 万が一を考え、用向きは書状ではなく口頭とした。
 星が不覚を取るとも思えぬが、用心に越した事はあるまい。

「後は、あの三名ですが」
 残った稟と二人、手立てを考える。
「一番確かなのは、口封じだが……」
「手当てをされた華陀殿が反対されるかと。それに、命は助けると、一度は約束された事もあります」
「うむ。だが、このまま解き放つ訳には参らぬ」
「はい。彼らは安堵から、何を口にするかわかりません。何進殿だけでなく、華陀殿にも累が及びかねません」
「口止めは無意味か。然りとて、このまま此処に留めておく訳にもいくまい」
「連絡がなければ、彼らの仲間が探索に動きましょう。目撃者はいなくとも、この洛陽にいる限り、隠し通せる保証はありませぬ」
 存外、処置に困る事態になった。
「立て込んでいるところ済まんが、手当てが終わったぞ」
 華陀が、顔を覗かせた。
「歳三様、彼らと少し、話をされては如何でしょう?」
「ふむ。理由は?」
「処置が決められないのであれば、彼らの人となりを確かめるのも手かと。それに、今は歳三様を恐れているでしょう。話をするならこの機かと」
「……その通りだな。よし、行くとしよう。それから華陀、今一つ頼みがあるのだが」
「俺に?」
「ああ。この稟の身体、診てやってくれぬか?」
「と、歳三様?」
 突然の事に驚く稟。
「お前の鼻血、あれは流石に尋常ではない。放置しておいては命に障るぞ?」
「……面目次第もありません」
「鼻血? どういう事だ?」
「稟。……良いな?」
「……はい」
 俯いたまま、稟は頷いた。
 診て貰うにも、症状を説明せねば始まるまい。

 私の話を黙って聞いた華佗は、少し考えてから
「なるほど。病、とは少し違うようだが……。だが、体質であれば確かに俺の分野でもある。いいだろう、引き受けよう」
 そう、言い放った。
「頼む。稟は、私には掛け替えのない軍師だ、失う訳にはいかぬ」
「歳三様……」
 稟の目が、潤んでいるように見えた。
「では、私は外している。頼んだぞ、華陀」
「ああ、任されよう」
 部屋を出て、庭にいる卑弥呼に声をかけた。
「少し、良いか?」
「おお、土方殿。私に用か?」
「些か、尋ねたい事がある」
「良かろう」
 大きめの石に、並んで腰掛ける。
「貴殿は、確かに卑弥呼なのだな?」
「どういう意味かはわからんが、私は間違いなく卑弥呼だ」
「ならば、倭の邪馬台国は存じているな?」
「無論だ。あれは私が造った国。……そうか、土方殿も倭から参ったのだな」
「正確には異なるが、倭の地である事は確かだ」
「…………」
 卑弥呼は、一瞬押し黙る。
「土方殿は、己が知る歴史との違和感について……それを聞きたいのかな?」
「然様。私が知る限り、邪馬台国は女王卑弥呼が治めていた、と。だが、貴殿は違うようだ」
「私はこれでも漢女(おとめ)のつもりだが?」
 ……発音が微妙に異なるような気がする。
 あまり、深く追求しない方が良いのだろう。
 そう、私の勘が告げている。
「そして、此処はこのように女子(おなご)ばかりだ。衣装といい、食物といい、大凡私の知識や想像とはかけ離れている」
「ふむ。それで違和感、か」
「如何にも。無論、私がこの世界にやって来たのは、何かしらの天命と心得るが」
「なるほど。それなれば、一つ教えて進ぜよう。この世界は、『外史』と呼ばれておる」
「外史?」
「うむ。土方殿が知る邪馬台国や三国の事。それは、全て『正史』での出来事だ。この世界に来るまでに土方殿が体験した事も全て、正史での事」
「では、この世界は、全く異なる……そういう事か」
「そうなるな。土方殿は、平行世界、という言葉を知っているか?」
「いや。だが、そう説明されれば合点がいく」
「ただし、平行世界と言えども、肉体や精神はそのまま。無論、命を落とせばそこまでだ」
「……肝に銘じよう」
「私からはこれ以上の事は言えぬのじゃよ。後は、貂蝉の奴に尋ねるが良かろう」
「……相わかった」
 やはり、奴もただの変態ではなかったか。

 少しして、華佗と稟が姿を見せた。
「済んだぞ」
「して、どうか?」
「うむ。確かに、体内の氣の巡りが良くなかった。何度か治療を施せば、それは改善するだろう」
「……そうか。忝い」
「だが、妄想癖だけは治せないぞ? そればかりは、本人次第だ」
「わかった。稟、気分はどうか?」
「ええ。身体の何処かが重いような感じが、今はだいぶ楽になった気がします。……申し訳ありません」
「何故謝る?」
「いえ。度々あのような醜態をお目にかけて、歳三様に無用なご心配をおかけしましたから」
「仕方あるまい。だが、氣の巡りとは気がつかなかったな」
「私も、華佗殿に指摘されるまでは、体質なのだとばかり思っていました」
 華佗は、両手を水桶でバシャバシャと洗いながら、
「氣の流れは、見える者はごく一部だ。土方は、氣の流れが良いようだ」
「ほう。診察せずともわかるものなのか?」
「ある程度はな。だからこそ、俺はこうして医者として人々を救える訳だ」
 そう話す華佗は、自信に満ち溢れている。
 だが、決して傲岸に見えぬのは、流石と言うべきか。
「華佗。では稟の事、頼んだぞ?」
「任せて貰おう。俺は、信頼には全力で応える事にしている」
「おお、流石はだぁりん。このようなイイオノコ、そうはおらんぞ」
「あら~ん。じゃ、私からもご褒美のちゅーを」
「む? 貂蝉、私のだぁりんに何をする?」
「いいじゃない。卑弥呼ったら欲張りねん」
「い、いや、そういうのはいいから。二人とも、な?」
 後ずさりを始める華佗。
「遠慮は無用だぞ、だぁりん」
「そうよん。こんないい漢女(おとめ)が二人もいるのよ?」
「だ、だから要らん!」
 脱兎の如く駆け出す華佗。
「おお、どこへ行くのだ。だぁりん!」
「まってぇ!」
 そして、後を追う筋肉達磨達。
「……歳三様。私、少し吐き気が」
「……私も、些か気分が悪い」
 性根は悪くない、が……。
「稟はそのまま休んでいるがよい」
「はい。歳三様は?」
「私は、あの三人と話をして参る」
「……では、私も同席させていただきます」
 毅然と、稟が言った。
「話をするように提案したのは私です。それに、私も問い質したい事があります」
「無理はしておらぬな?」
「お気遣いなく。流石に、そこまで脆弱ではありませんよ」
「ならば、参れ」
「はい」

 手当ては受けたものの、まだ歩き回るのは困難なのだろう。
 縛めは解いたままにも関わらず、男達はぐったりと身体を横たえている。
 ……が、私を見ると、途端に怯えの色を見せた。
「も、もう喋る事なんかないぞ!」
「それは、承知している。尋問するつもりはないが、一つだけ、聞かせて貰いたい」
「…………」
 そうは言うものの、やはり警戒を解くつもりはないようだ。
「そう身構えずとも良い。命は助けると言った約束は違えるつもりはない」
 些か、三人の緊張が緩んだようだ。
「何故、宦官の手先など務めているのだ?」
「……仕方ないだろうが。俺達だって生活がある」
「ふむ。では、好き好んで、という訳ではないのか」
「当然だ。誰があんなタマなし野郎にへこへこしたいかよ」
 一人が、吐き捨てるように言う。
「連中は私腹を肥やす事、権力欲を満たす事しか眼中にないんだ。だが、今の外戚は目障り……だから、屋敷を見張り、不審な奴は正体を確かめたり、場合によっては始末しろ。そう、指示されているだけさ」
 別の男は、嘲るように言った。
「今の洛陽の有り様、あんたも見ただろう? 仮にも天子様のお膝元で、惨めな暮らしを送るしかない人間が大勢いるんだ。はした金で殺人も厭わない、いや、やるしかない奴も少なくない。俺達みたいに、な」
「…………」
 稟は、そんな男達の言葉に、ジッと聞き入っている。
 どうやら三人とも、心まで腐りきった連中ではないようだな。
「やむに止まれぬ、お前達の事情はわかった。剣を向けた事も、主命故仕方なかろう」
「…………」
「だが、そのまま解き放つ訳には参らぬぞ?」
「命は助ける、その約束だぞ?……まさか、此処に閉じ込めておくつもりじゃないだろうな?」
「そのつもりはない。気がかりは、お前達自身の事だ」
「俺達だと?」
「そうだ。このまま解き放てば、いずれにせよ不幸な結末を迎えるだろう」
「意味がわからんな。俺達が戻れば、アンタの事を報告するだけ。拙い事になるのは、アンタの方じゃないのか?」
「私達は確かにそうだろうな。尤も、降りかかる火の粉は払いのけてみせるが。だが、お前達はどうなる?」
「どうなる、とは?」
「決まっているだろう。如何に拷問にかけたとは申せ、洗いざらいを吐いた事、よもや夏惲に知られずに済む、とは思うまい?」
 三人の顔が、一様に青ざめる。
「……まさか、俺達の事を、告げ口するつもりか?」
「そうではない。稟、説明してやれ」
「はい」
 クイクイと眼鏡を持ち上げてから、稟は話し始めた。
「まず、こうしている間にも、刻は過ぎています。あなた方のやり方は知りませんが、これだけの間連絡を絶やす事は、常識で考えれば取り決めに反しているのでしょう? となれば、誰しも何か起きたと考えるのが自然です」
「…………」
 男達は、黙って稟の言葉を聞いている。
「それから、その怪我をどう説明するつもりですか? 捕らえられたが逃げ出した、と説明して果たして信じるでしょうか?」
「それは……」
「そうでなくても、宦官は猜疑心が強く、他人を信用しない傾向があります。そんな人物が、あなた方の事を、容易に赦すでしょうか?」
「……何故、そう言える? タマなし野郎だって、中には違う奴がいるかも知れないじゃないか」
「そうかも知れません。ですが、十常侍の結束の固さはよく知られている話です。それは裏を返せば、全員が多少の差違があったとしても、基本は似た者同士。だからこそ、手を結ぶ事はあっても、相争う事はあり得ない。私は、そう見ています」
「つまり、戻ったところで俺達は始末される……そう言いたいんだな?」
「そうです」
 稟は、きっぱりと言った。
「なら、俺達はどうすればいい? いくらアンタに助けられても、何の意味もないぜ」
 助かる方法、か。
 それが思い浮かばぬ故に、先程まで苦慮していたのだ。
「……一つだけ、手立てがあります」
 稟に、全員の視線が集まる。
「どんな手立てだ?」
「この洛陽を出る事です。そして、十常侍の目の届かない場所まで行く事です」
「そんな場所が、都合よくある訳がない!」
「いいえ。今の朝廷が実効支配しているのは、司隷と雍州の一部のみ。例えば、涼州などは、まず手は及ばないでしょうね」
「涼州だと? あんな辺境に……」
 呻くように、男が言う。
「だからこそ、です。それに、涼州は元々人の往来が活発な土地です。余所者が紛れ込んでも、不審に思われる事はないでしょう」
「稟。だが、伝手はあるのか?」
「はい。涼州刺史の馬騰殿とは、些か面識がありますので。義に厚い御仁ですし、頼る者を突き放す事はしません」
 男達は、顔を見合わせる。
「……なぁ、アンタ、一体何者なんだ? そっちの姉ちゃんもだが、二人とも只者とは思えないぜ?」
「さて、な。それより、どうするのだ? 懸念しているであろう妻子ならば、何とか連れて参っても良い」
「ほ、本当か?」
 最初に口を割った男の眼に、希望が宿る。
「確約は出来ぬが、お前達が疑われ始めれば、直ちに累が及ぼう。よって、決断は今この場でせよ。躊躇している刻はないぞ?」
 一瞬の沈黙の後。
「……俺は、アンタを信じる。それしか、道はなさそうだからな」
 その男が、真っ先に同意する。
 残る二人は暫し逡巡していたが、
「……仕方ねぇ。タマなし野郎にむざむざ殺されるのも癪だからな」
「ああ。……だが、アンタの名を聞かせて欲しい。俺達にそこまでしようとする相手が、正体不明のままじゃ気味が悪いからな」
 ……そうだな、もう良かろう。
「我が名は土方歳三。この者は私の軍師、郭嘉だ」
 男達の顔が、驚愕に変わる。
「あ、アンタが鬼の土方か!」
 うむ、どうも妙な二つ名が広まってしまっているようだな……。
「ははは、相手が悪過ぎたな。俺達が敵う訳がない筈だ」
「最初からそう言って貰えば、俺達も無駄な抵抗はしなかったぜ?」
「……随分、恐れられてしまっていますね」
「……そのようだ」
 尤も、手加減ぬきで痛めつけた故、今更相手の感情が和らぐとは期待できぬが、な。


 暫くして、華佗達が戻ってきた。
 心なしか、華佗が窶れて、その分貂蝉と卑弥呼が艶々している気がするが。
 ……触らぬ神に祟りなし、だな。
 ともかく、今は華佗らに頼むしかない。
「……わかった。どのみち、今はまだ、安静にすべきだからな」
「頼む」
 三人を託し、私は宿舎へと向かった。 

 

三十二 ~参内~

 その夜。
 監視の目がない事を確かめ、宿舎に戻った。
「おお、主に稟。お帰りなさいませ」
 部屋には、星一人だった。
「どうやら、疾風と風はまだのようだな」
「確かに、まだ見ておりませぬな。ですが、あの二人の事です、心配は無用かと」
「うむ。まず、星の首尾を聞かせて貰おう」
「はっ。何進殿も、監視の眼は薄々感じていたようです。ただ、相手を確かめる術がなく、手の打ちようがなかったとか」
「なるほど。その他には?」
「いえ、特には仰せではありませんでした。主については、腕も才知もある者揃い故、心配していない、と」
「……随分と、買い被られたものだな。して、此処までの間、尾行はなかったのか?」
「ありましたが、巻きました。身軽さでは、疾風にも引けは取りませぬ」
 不敵に笑う星。
 ともあれ、当面は何進の屋敷に近寄るのは避けるべきであろうな。
「それから主に言伝てを、と」
「何か?」
「はっ。此度の沙汰ですが、いよいよ主の分も決まった、と。明日にでも、正式に使者が遣わされる見込みとの事です」
「……そうか」
 素性の知れぬ私に対する沙汰だ、今少し時を要するかと思ったが。
「歳三様を如何様に処するか……。何進殿の上奏がどの程度、効き目があったかにもよりますね」
「宦官どもに付け届けをすれば別だが、それは我らには無理な注文だからな」
「その為の金は、結局は庶人を苦しめる事でしか産み出せぬ。それでは、黄巾党を賊として討った、我らの正義はなくなる。結果として、公正な沙汰が下らずとも、その為であればやむを得まい」
「はい」
「主は、それで良いのです」
 清き水には魚は住まぬ……そのような狂歌もあったが、濁り過ぎてもまた、然りであろう。
 全てを清くというのは不可能でも、濁りは少なくあるべき、私がそう心がけていれば良いだけの事だ。

「只今戻りました」
「お待たせしたのですよ」
 程なく、疾風と風が戻ってきた。
「ご苦労。早速だが、報告を頼む」
「御意。まず、夏惲ですが……やはり、十常侍筆頭ではありませぬ」
「ですが、背後にいるお方が問題なのですよー」
「背後?」
 星が、首を傾げる。
「……実は、この件ですが。単なる宦官と外戚の対立、という問題だけではなさそうです」
「どういう事だ、疾風?」
「はい。何進殿の屋敷を監視していたのは、間違いなく夏惲でしょう。ですが、夏惲を密かに支援する人物が浮かび上がったのです」
「宦官の背後……。とても、限られますね」
「稟ちゃんの言う通り、宦官さんに影響力があるぐらいですから、当然大物ですねー」
「疾風、風。勿体振らずに名を言ったらどうだ?」
「うふふふー、星ちゃん。驚かないで下さいね?」
 疾風が、やや声を潜めて、
「……董太后、それが背後におわすお方です」
「な……」
「……やはり」
 驚く星。
 一方、稟は想定していたのか、冷静な反応を見せた。
「確か、協皇子の御生母……そうだな?」
「はい。……そして、何進殿の妹君にあらせられる、何太后とは相争う御仲にござります」
 だが、合点のいく話だ。
 皇后様同士の争いとなれば、一枚岩の宦官と言えども、どちらかに与するしかあるまい。
 そして、張譲と趙忠ら筆頭は、今上帝は無論、次代も権力を握り続けるであろうが、それに続く者達はどうか。
 権勢欲があればあるだけ、三番手以下に甘んじたままでは飽きたらぬ……そう、考えたとしても不思議ではなかろう。
「稟。皇子は確か、お二人であったな?」
「はい。董太后が御生母の協皇子、そして何太后が御生母の弁皇子がおいでです」
「……して、今上帝は後継者をお決めになってはおらぬ、そうだな?」
「はいー。ただ、噂では陛下は協皇子を好いておられるとか」
「尤も、宮中では何太后が陛下のご寵愛を一身に集めておられる、とも聞き及びます」
 複雑怪奇になるのは必然の情勢、と言う訳か。
「何進殿は何と言っても、現役の大将軍。有力な諸侯や、官軍が味方している以上、それを背景にしている限り、董太后は御心が休まらぬ……そういう訳ですな」
 星の言葉に、皆が静まり返る。
「ともあれ、深入りは禁物。沙汰はお受けするが、この件に関しては構えて傍観に徹するしかあるまい」
 皆、私の言葉に頷く。
「歳三殿。董太后の事、何進殿へ、知らせずとも宜しいのでしょうか?」
「疾風、それも控えた方が良いでしょう。無用な波風を立てる事になりかねません」
「何進さんには申し訳ないですが、お兄さんをこれ以上、権力闘争に巻き込む訳にはいきませんからねー」
「まずは、使者の方をお迎えせねばなりませんし、主の仰せの通り、首を突っ込むべきではないかと」
「そうだ。疾風、星。よもやとは思うが、怪しき者が彷徨くやも知れぬ。警戒を怠るな」
「御意!」
「はっ!」


 翌日。
 先触れがあり、予告した時刻に、朝廷よりの使者が到着。
 如何にも文官といった風情の、初老の男である。
「貴殿が土方殿だな?」
「ははっ」
 跪礼を以て、使者を迎えた。
「此度の黄巾党征伐に当たり、義勇軍を立ち上げ、大いに功を上げたとの事。よって明朝、宮中に参内せよ。貴殿に対し、陛下よりのご沙汰がある」
「有り難き幸せにござります」
「うむ。くれぐれも粗相のないようにな。門のところで、この割り符を衛兵に見せるが良い」
「畏まりました」
 割り符を押し頂く。
「なお、供は二名まで認めるが、拝謁は貴殿のみとなる。また、帯刀は控えの間までとなる。謁見が済むまで預りとなる故、そのつもりで」
「委細、承知仕りました」
「では、刻限は厳守だ。陛下の貴重なお時間を賜るのだ、良いな?」
「はっ!」
 使者は頷くと、踵を返した。

「お疲れ様です、お兄さん」
 別室で待っていた皆が、使者が宿舎を去った後で再び、集まった。
「うむ」
 そして、使者の口上をそのまま、皆に伝えた。
「供は、星と稟とする」
「むー。何故、風を連れて行っていただけないのでしょうか?」
「私もです」
 風と疾風、案の定不服の顔をする。
「万が一を考えての事だ。お前達は夏惲の事を調べた、それが当人の耳に達していては、何かと面倒な事になる。無論、お前達がそのようなしくじりを犯したとは思わぬが」
「相手が相手ですからね。慎重を期した方がいいのは確かでしょう」
「それに、疾風も何進殿の手配りがあったとは言え、難癖をつけられる可能性もありますからな」
「稟と星の申す通りだ。今はまだ我らには何の力もないのだ。それに、二人には頼みがある」
 その刹那、二人は表情を引き締めた。
 ……尤も、風はいつも通り、眠たげな顔のままであったが。


 そして、翌朝。
 指定された刻限に合わせて、宮城の門へと向かう。
「止まれ!」
 衛兵が、槍を構える。
「拙者、土方歳三。陛下より、登城せよとのお達しにより、参上仕った」
 そして、割り符を衛兵に手渡す。
「暫し、待たれよ」
 衛兵は割り符を持ち、門の中に入っていく。
 そして、割り符の片割れを持ち、私に示した。
「よし、入られよ」
「忝い」
 衛兵に続き、私、星、稟の順で門を潜った。
 行く手には、壮大な宮殿がそびえていて、そこまでの道は全て、磨かれた石である。
 皆、無言でひたすら歩く。
 私語を慎まねばならぬのは無論だが、それよりも宮城の規模に圧倒されているようだ。
 広さもそうだが、石細工の装飾一つ取っても、相当な価値があるのだろう。
 庭木も手入れが行き届き、塵一つ落ちている様子もない。
 ……日本の御所とは、大違いだな。
 京に赴いた初めの頃など、そのあまりの荒廃ぶりに驚いたものだ。
 塀は破れ、門は傾き、権威とは名ばかりの見窄らしい有様。
 ……だが、此処は少なくとも、困窮という言葉は相応しくない景観だ。
 権力を握っているか否か、その差は歴然としているという事か。
 次の門を抜け、いよいよ建物の中へ。
 すれ違う官吏が、チラチラと私の顔を見ていく。
「ほほぉ、あれが噂の」
「確かに、美男ね」
「ちょっと、いいかも」
 時折、そんな声も聞こえる。
 ……どうも、思いの外緊張感に欠けるな。
 仮にも、ここは皇帝陛下がおわす宮殿なのだが。

 そして、一室に通された。
「此処で、暫し待たれよ。なお、剣は預からせていただく」
「は」
 鞘ごと剣を抜き、衛兵に手渡した。
 兼定も国広も宿舎に置いてきたので、持ってきたのはごくありふれた、この時代の剣である。
 よもや取り上げられたまま、という事はなかろうが、どちらも私には分身に等しい刀。
 万が一手元に戻らねば、私にとっては一大事となる。
 同様に、星と稟も、剣を預けた。
 ……流石に、宮中に槍は持ち込めぬからな。
 衛兵が去り、三人だけとなった。
「やはり、どうにも落ち着かぬな」
「無理もありません。私も同じですから」
「ですが、何となく退廃した印象を受けますな。どことなく、皆覇気が感じられませぬ」
「やはり、そう思うか。眼に、精気がないようだ」
「歳三様。私も同感ですが、この事はくれぐれも」
「……わかっている。陛下や十常侍の前では、口にも態度にも出してはならぬ、そうだな?」
「はい。とにかく、恙なく謁見を済ませる事。今はそれしかありませんから」
「そうですな。愛紗や鈴々も待ち侘びていましょう、皆の処に早く帰る為にも」
 バタン、と不意に扉が開いた。
 見ると、子供が二人、立っていた。
「追われているのじゃ。私達を匿え」
「杜若、追ってきたよ」
 しかし、此処は宮中。
 追われているとは穏やかではない。
 それに、二人とも、身に纏う気品……常人ではない。
「何をしている。はよう、私達を匿うのじゃ」
 苛立ったように、片方の子供が言う。
「では、あの衝立の向こうに入りなされ」
「主?」
「歳三様!」
 星と稟を手で制し、子供二人を衝立の陰に連れて行った。
 その後から、女官が息せき切って部屋に入ってきた。
「あ、これはご無礼を。このあたりで、二人連れの子供を見かけなかったでしょうか?」
「子供でござるか。どのような子供で?」
「そ、それは……」
 女官は、言い淀んだ。
 そこに、稟が立ち上がり、首を傾げながら答えた。
「そう言えば、先ほど廊下を其方に駆けていく子供を、見かけた気がします」
「私も見ましたぞ。確か、二人連れだったと見受けましたが」
 星は、態々廊下に出て、方角を指し示した。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
 どこかホッとしたような顔をして、女官は駆けていった。
「二人とも、流石だな。機転が利くな」
「ふふ、歳三様の芝居に合わせたまでですよ」
「ははは。さて、もう宜しいのではありませぬか?」
「そのようだ。……もう大丈夫にござる、お出なされよ」
 私の呼びかけに、子供達はそっと顔を覗かせた。
「ほ、本当にもうおらぬのか?」
「星、どうか?」
「はい。人の気配はありませぬ、ご安心めされよ」
 その言葉に、漸く二人とも衝立から出てきた。
「助かったのじゃ。礼を申すぞ」
「ハァ、杜若と遊びたいだけなのに……ぐすっ」
「菖姉様、泣かないで下され」
 この二人、姉妹か。
 ……この宮中で、二人の姉妹……。
「歳三様。……まさか」
 稟も、気付いたのだろう。
「率爾ながら。……弁皇子と協皇子とお見受け致す」
 ビクッと、二人は雷に打たれたかのように身体を震わせた。
「ご安心めされよ。拙者、姓は土方、名は歳三と申しまする」
「土方……変わった名よの」
 堂々としている方が、恐らくは協皇子か。
 一方、どことなく怯えた色を見せているのが、弁皇子であろう。
 二人とも、女子であるのに皇子、というのもおかしなものだが……それは問うまい。
「この者達は、郭嘉に趙雲。二人とも、拙者の麾下にござれば、ご懸念めさるな」
「……その方ら、何処の者か?」
 協皇子は、未だ警戒の色を隠そうともしない。
「官職はござらぬ。本日、陛下よりご沙汰をいただくべく、こうして罷り越した次第にござります」
「そう言えば、張譲や趙忠らが、何やら話していたような」
「姉様! 素性も知れぬ者の前で、迂闊ですぞ」
「で、でも……。この者達、私達を匿ってくれたではないか」
 そう言って、弁皇子は上目遣いに私を見る。

「主。人がやって来ますぞ」
 星の声に、部屋の中に緊張が走る。
「先ほどの女官か?」
「いえ。……ただならぬ気配を感じます」
「先ず、先ほどの衝立の陰にお入り下され。追われているのでござりましょう?」
「う、うむ……」
「杜若、見つかったらどうしよう……」
「菖姉様、泣いている場合ではありませぬぞ。さ、早く」
 二人が隠れると程なく、足音が近づいてきた。
 そして、顔を覗かせた。
「あら? 歳三じゃない」
「……華琳か」
「曹操じゃと?」
 協皇子が、衝立から出てきた。
 華琳は、私と違い、歴とした官職を持つ身。
 此処にいるのは、確かに不思議ではないな。
「此方でしたか。女官頭が、必死に探していますよ?」
「放っておくがよい。私は、姉様と遊びたいだけじゃ」
 ふむ、皆、知己のようだな。
 安心した様子で、弁皇子も姿を見せた。
「ふふ、後でどうなっても知りませんよ?……ところで歳三、どうして貴方が此処に?」
「陛下より、ご沙汰を下さるとの事。それで、此処で待っておるところだ」
「そう。何進大将軍も、貴方の事は何度も陛下に申し上げたとの事だし。期待している事ね」
「……曹操。この男と、知り合いなのか?」
 と、協皇子。
「ええ。この者は、信頼に足る事、この私が保証します。ご安心下さい」
「そ、そうか……。曹操がそう申すなら間違いないの」
「杜若。それより、早く遊びに行こうよ」
「そうですな、菖姉様。ではな、曹操。……それから、土方」
「は」
「先ほどは、匿ってくれた事、感謝するぞ。それと、疑って済まぬ」
「いえ、お気になさらず」
「うむ」
 両皇子は、手を取り合い、何処かに駆けて行く。
「歳三。驚いたみたいね」
「……ああ。渦中のお二方と、まさかこのような形でお目にかかる事になるとはな」
「そうね。で、どう見るのかしら?」
「どう、とは?」
「そのままの意味だけど……。まぁ、此処で尋ねる事ではないわね。後で宿舎の方にお邪魔するから、そこで話しましょう」
 それだけを言い残し、華琳も立ち去った。
「まるで、嵐のような方々でしたな」
「ええ。それにしても、両皇子……仲睦まじい、という印象でしたが」
 運命に翻弄されるには、あまりにも幼い二人。
 だが、逃れられぬ運命でもある。
 ……不憫だが、然りとて何が出来よう。

 半刻程が過ぎた頃。
「謁見の準備が整い申した。土方殿、参られい」
 文官が二人連れで、迎えに来た。
「お役目ご苦労様にござる。では、お願い致す」
 星と稟に目配せをすると、私は部屋を出た。 

 

三十三 ~出立前夜~

 謁見は、恙なく終わった。
 陛下は玉座に腰掛けたまま、何も仰せにはならなかった。
 文官により、粛々と私の戦功が読み上げられた後、沙汰を記した書状が渡された。
 その後で、改めて口頭での申し渡しと、この辺りは完全に儀式そのものである。
 陛下の傍に控えていたのが、恐らくは張譲と趙忠であろうか。
 尤も、無遠慮に眺められる場所でも状況でもなく、確かめようもなかったのだが。
 文官に連れられ、星と稟の待つ部屋に戻る途中。
 ……不意に、視線を感じた。
 それも、明らかに私だけに向けられた視線である。
 悪意や敵意は感じぬが……。
「土方殿。如何なされた?」
 立ち止まった私に気付いた文官が、声をかけてきた。
「いや、何でもござらぬ。失礼致した」
 視線はまだ感じるが、ここは宮中、要らぬ詮索はすべきではない。
 用があるならば、姿を見せるであろう。


 二人と合流し、宮城を出て宿舎へ。
「お兄さん、お帰りなさいですよ」
「歳三殿、ご苦労様でした」
 風と疾風も、宿舎に戻っていた。
「それで、主。沙汰の方は?」
「うむ。これだ」
 書状を、星に手渡す。
 広げたそれを、皆が覗き込んだ。
「魏郡の太守に任ず……ですか。主の軍功からすれば、些か足らぬ気も致しますが」
「星。私は恩賞の多寡に不服を申すつもりはない。まずは、皆と共に落ち着くべき場所が得られた、それで十分だ」
 皆、頷いた。
「ところで、現状の魏郡がどのような地か、知るところを聞かせて欲しい」
「わかりました。まず場所ですが……」
 地図を広げた稟が、指で指し示す。
「この通り、冀州に位置します。先日、黄巾党の本隊と戦った広宗が、此処です」
「風達は、魏郡には立ち寄った事はありません。ただ、黄巾党の本拠地があった場所ですからねー」
「荒れ果てている……そう考えるべきでしょうな」
「歳三殿。もしやご存じなければ、と思いますので一応申し上げておきますが。刺史と太守には、明確な上下関係がありませぬ」
 元官吏の疾風の言葉に、私は耳を傾ける。
「刺史は州全体を、太守は郡や都市を管理するという違いがあります。ただ、刺史は太守に対しての命令系統を持っておらず、軍事権もございませぬ」
 つまり、大名と郡代のような関係ではない、という事だ。
「命令は直接朝廷から申し渡される、そうなのだな?」
「はい」
「正直、今の朝廷に、地方を統べる事が可能か、と言われると甚だ疑問ではありますが」
「ですねー。曹操さんや孫堅さんのように、力のある方は、中央からの指示を当てにしていないようですし」
「ともあれ、沙汰が下りたのです。すぐさま、任地に向かいましょうぞ」
「うむ。愛紗や鈴々、月に託している者共も呼ばねばなるまい。風、手配りを頼む」
「御意ですー」
「稟と星は、出立の準備にかかってくれ」
「はい。最短で明日、出立が可能です」
「兵にも、既に準備は整えさせてありますぞ」
 指示した訳ではないが、皆がなすべき事を考え、進めている。
 真に、良き傾向だ。
「そして疾風。大将軍に書状を届けて欲しい」
「はい。夏惲の手の者に知られずに、ですな」
「そうだ。お前以外に託せる者はおらぬ。頼んだぞ?」
「はっ、お任せを」

 その夜。
 出立の準備も整い、皆には早めに就寝するように申し伝えた。
 私は、慌ただしい出立の事もあるのだが、いろいろな手続きを踏まねばならぬ為、その書類を認めている。
 それも、ほぼ片付き、漸く一息つけそうだ。
「歳三様。宜しいでしょうか?」
「稟か。如何致した?」
「はい。歳三様に、お目通りを願っている者が来ています」
「ふむ。何者だ?」
「袁紹殿よりの使者……と名乗っております。用件は直接、お伝えしたいとの事ですが」
 袁紹と言えば……あの袁紹、だろうな。
「良かろう。通してくれ」
「はい」
 稟は一旦部屋を出て、すぐさま戻ってきた。
 髪を切り揃え、金色の鎧を着た女子(おなご)が一緒だった。
 装いからすれば、ただの使者ではあるまい。
「土方様でしょうか?」
「如何にも」
「初めまして。私は中軍校尉、袁紹様にお仕えする顔良と申します」
 顔良と言えば、袁紹麾下の勇将。
 官渡の戦いで関羽に討たれる定めにあるが……この世界も同様なのであろうか。
 だが、それほどの人物が使者として訪れるのだ、相応の用件なのだろう。
「顔良殿、ご丁寧に痛み入る。して、何用にござる?」
「はい。袁紹様より、土方様をお連れするよう、指示を受けて参りました」
「私を? 袁紹殿のところにか?」
「そうです。ご同道願えませんでしょうか?」
「……明朝、我が軍は出立の予定にござる。それを承知の上でのお招きですかな?」
「……はい。唐突とは存じますが……」
 申し訳なさそうな顔良。
 だが、主命とあれば赴かざるを得なかったのであろう。
 その口調には、少なくとも嘘はないようだ。
「承知致した。では、暫し待たれよ」
 そう答えると、顔良はホッとしたように、
「不躾で申し訳ありません。これで、主命を果たせます」
 一旦、部屋を退出した。
「稟。出立の準備は、もう良いな?」
「はい。全て整っています」
「わかった。ならば、私は袁紹の処へ参る。後は任せたぞ」
「供は、如何致しましょう?」
「……いや、無用だ。明日に備えて、皆休ませたい。お前も、休め」
「わかりました。歳三様がそう仰せならば」
 私は頷き、兼定を手に取った。


 顔良の案内で、四半刻程、洛陽の町並みを進んだ。
 やがて、見知らぬ屋敷の前に到着。
「此方です」
 なるほど、三公を四代に渡り輩出した名門、袁家の屋敷だけの事はある。
 巨大な屋敷にも何処となく、風格が漂う。
「斗詩。連れてきたか?」
 門の中に、誰かが立っていた。
「もう、文ちゃん。お客様に失礼だよ?」
「へぇ、この人が、噂の兄ちゃんか」
 顔良と同じぐらいの年格好で、背に大剣を背負っている女子(おなご)
 私に近づくと、無遠慮に顔を覗き込んできた。
「何方かは存ぜぬが、少々、無礼ではないか?」
「おっと、悪い悪い。あたいは文醜ってんだ、宜しくな」
 袁紹麾下の、もう一人の勇将か。
 身のこなしからして、確かに顔良よりも腕は立ちそうだ。
 ……その分、顔良ほどの分別はないようだが。
「……土方と申す。顔良殿、これも、袁紹殿の指示にござるか?」
「い、いいえ! 文ちゃん、麗羽様は?」
「ん~? 姫なら、さっき部屋で髪の手入れをさせていたっけ。まだ、そこにいるんじゃないかな?」
「わかった。……では土方様、此方へ」
 文醜も、共についてくるつもりらしい。
 あまり、気にせぬ方が良いな。

「麗羽様。土方様をお連れしました」
「どうぞ、お入りになって」
 通された部屋は、かなりの広さであった。
 その中央に、女子が一人、尊大な態度で座っていた。
 長い金髪を巻き、見るからに豪奢な出で立ち。
 髪型だけならば、華琳に通じるものがあるが。
「お~っほっほ、ようこそ。私が三国一の名家、袁本初ですわ」
「お招きに預かり、参上仕りました。拙者は土方歳三と申しまする」
「あなたが、最近名を上げている土方さんですのね。まぁ、私には及びませんでしょうけど、お~っほっほっほ」
 ふむ、この態度、生まれた家柄から来る自負か。
 しかし、初対面の私に対してもこれだけ尊大に構えるとは、な。
 ……残念だが、華琳と容姿の共通こそあれど、器は比較にならぬようだな。
「して、このような時分にどのようなご用件でござるか?」
「あ~ら、そうでしたわね。土方さん、あなた、魏郡太守に任じられたと聞きましたわ」
「はい。陛下より、ご沙汰を賜りまして」
「実は、私も過日、陛下より新たなご沙汰をいただきましたのよ?」
 袁紹は得意げに胸を張り、
「渤海郡の太守、ですわ」
「それは、祝着至極にござります」
「ありがとうございます。ですが、そんな役如き、この袁家にはまだまだ似つかわしくありませんわ。これを足がかりに、もっともっと上を目指しますの」
 ……陛下から賜りし役を、そんな呼ばわりで良いのだろうか。
 聞く者が聞けば、不遜の極みであるのだが。
「そこで、是非ともあなたに、魅力的な提案をと思ったのですわ」
「伺いましょう」
「あなた、随分と実戦に強いようですわね?」
「……些か、自信がござれば」
「その力、存分に活かしてみる気はございませんこと?」
「率爾ながら、仰せの事、見当がつきませぬが」
「ですから。この名家、袁本初の財力と権力、それにあなたの力が合わされば、より三国一の実力になる。そうは思いませんこと?」
「……合力、というご提案でござるか?」
「ちょーっと違いますわ。斗詩さん、猪々子さん。あれをお持ちになって」
「はい、麗羽様」
「姫、あれごとですか?」
 それまで、黙って控えていた二人が、その声に弾かれたように動き出した。
「そうですわ。早くなさい」
「へ~い」
 ……文醜、主命だと言うのに恐ろしく気さくに答えている。
 袁紹が怒らないところを見ると、普段からこの調子なのだろう。
 尤も、私のような他人を交えた中でのやりとりとしては、些か不適切だが。
 そして、二人は何やら車を引いて、戻ってきたようだ。
 ……金塊を、山と積んだ車を引き連れて。
「これは、ほんの支度金ですわ」
「支度金、でござるか?」
「そうですわ。これで、この三国一の名家たる袁本初のため、力を貸して貰いたい、そういう訳ですわ」
「……つまり、この金で拙者に、臣下の礼を取れ、そう仰せなのですな?」
「その通りですわ。不足ならば、この倍差し上げても宜しくてよ?」
 途方もないものだな、袁紹の財力とは。
 恐らくは純金、その価値は相当なものだろう。
「そうすれば、あなたも、あなたに従う者も、全て栄華が約束されますわ。何と言っても、この華麗なる私の下ですからね、お~っほっほっほ」
 ……何処をどう解釈すれば、そのような結論に至るのか。
 私だけか、と思ったが、顔良の微妙な表情が、そうでない事を物語っていた。
「袁紹殿」
「あら、何でしょう?」
「……一つ、伺いたい事がござる」
「いいですわ。何なりと」
「貴殿の目指すところ、それをお聞かせ願いたいのです」
「はぁ?」
 袁紹にとっては、想定外の問いだったのか。
「この場の事、決して他言は致しませぬ。率直に、お答えいただきたい」
「簡単な事ですわ。別に、隠し立てする事でもありませんもの」
「ほう、それは?」
 再び、袁紹は胸を張る。
「この三国一の名家、袁家に相応しき身分になる事ですわ。即ち、目指すは三公。それ以外に何がありまして?」
「…………」
 些か、頭痛がする。
 今の漢王朝を見て、何も感じぬのであろうか?
「……つまり、袁紹殿は、己の立身出世をお望みか?」
「当然ですわ。それが、この名家に生まれた私の務めですわ」
 微塵も、揺るぎのない答え。
 ……だが、それは、私が望むものとは到底、かけ離れていた。
「今一つ、伺いたい」
「あら、まだありますの?」
「袁紹殿と拙者は、官位こそ大きな隔たりがありますが、共に、陛下にお仕えする身。そして、陛下より賜りし役は、同格にござる」
「そうですわね。ですが、それがどうかしまして?」
「……拙者は、栄華は求めておりませぬ。また、陛下の思し召しを無にするような真似も、するつもりはありませぬ」
「……どういう事ですの?」
 袁紹の声に、苛立ちが混じり始めた。
 だが、私は構わず続ける。
「拙者には、拙者の事を信じ、付き従う者がおります。その者達は、金で歓心を得たのではありませぬ。人同士が想いをぶつけ合い、そして自らそれを実践して得た、信頼にござる」
「…………」
「確かに、貴殿には名家という権威があり、財もござる。一方、拙者にはそのような物はござらぬが、その代わり、掛け替えのない仲間と、家族がござる。……それを、如何に金銀財宝を積まれようとも、売る気はござらぬ」
「……な、何ですって? これだけの財を見ても、何とも思わないのですか、あなたは?」
 わなわなと、袁紹は身体を震わせる。
「恐れながら、相手を間違えましたな。貴殿とは、生きる道が違うようにござる」
「ど、どういう意味ですの?」
 私は、立ち上がった。
 もはや、礼を取る相手に非ず。
「貴殿の目指すものに、庶人や麾下の事が、一言も含まれておりませぬ。拙者とは、相容れぬ……それだけの事にござる」
「キーッ! わ、私に対してなんたる無礼な!」
「無礼は貴殿にござろう? 仮にも拙者は武人の端くれ。そのような者に対し、貴殿は何を言われたか。その胸に、手を当ててよくお考えあれ」
 そう言い捨てると、私は袁紹に一礼する。
「では、これにて御免」
「お、お待ちなさい! 猪々子さん、止めなさい!」
「あ~。兄ちゃん、姫相手にちょっと言い過ぎだぜ?」
 退出しようとした私の行く手に、文醜が立ちはだかった。
「そこを退かれよ」
「出来ないね。姫の命令なんでな」
「……すみません。麗羽様のご命令ですので」
 顔良も、その隣に立つ。
「これが、仮にも名家を自負する御方の所業でござるか?」
「お、お黙りなさい! 猪々子さん、この無礼な男に、思い知らせてやりなさい!」
「へいへいっと。そういう訳だ、悪く思わないでくれよ、兄ちゃん?」
 文醜は、背の大剣を抜いた。
 続いて、顔良もまた、大きな鉄槌を手にする。
「……剣を手にする意味、おわかりでござるな?」
「あたいらは武官だぜ?」
「土方様、麗羽様に無礼を詫びて下さい」
 やむを得ぬな。
 私も、兼定の鯉口を切った。
 相手は、あの顔良に文醜。
 ……やや、分が悪いやも知れぬな。
 だが、むざむざとやられはせぬ。

 その時。
 バサリ、と天井から何かが落ちてきた。
 それは、人であった。
「そこまでです」
「な、何ですの?」
 狼狽する袁紹に、抜き身の刀を突きつけている少女。
 孫堅の麾下、周泰であった。
 同時に、扉が勢いよく開かれた。
 そして、やはり大剣を構えた人物が、飛び込んでくる。
「おい、貴様ら。相手なら、私がなるぞ!」
 夏侯惇まで、何故此処に?
「歳三殿!」
「主!」
 そして、疾風と星までも。
「な、な、こ、此処を何処だと」
「……どうしようもない馬鹿の屋敷、かしら?」
「或いは、救いようのない阿呆の屋敷だな」
 悠然と、華琳と孫堅が扉の向こうから出てきた。
「か、華琳さんに孫堅さん?」
 華琳は、そんな袁紹を冷たく見据えた。
「麗羽。貴女が馬鹿なのは今に始まった事ではないわ。……でもね、この歳三に手を出すのなら、私も容赦はしないわ」
「俺も同じく、だ。我が娘らの婿となるべき男。貴様如きにやらせはせん」
 ……何やら、聞き捨てならない言葉も混じっているが。
「あ、あなた達! この私に対してこのような真似、か、覚悟は出来ているのでしょうね?」
「ええ。どうとでもなさい。……尤も、黙ってやられる私かどうかは、麗羽が良く知っていると思うけど?」
「ほう。この俺と、遣り合うつもりか? 喧嘩はな、相手が強けりゃ強いほど、燃える質だぜ?」
「……袁紹殿。これ以上の諍い、無用にござろう。それでもなお、拙者を止めるおつもりならば」
「この趙子龍、この槍にかけて主をお守り致す」
「徐公明も、この戦斧が黙ってはおらぬ」
「う、うう……」
 袁紹ら三人は、気圧されたように後退る。
「歳三。もう、麗羽は用がないみたいよ? 行くわよ、春蘭」
「うむ、引き上げようぞ。明命、もうよい」
 呆然とする袁紹らを余所目に、私はその場を後にする。


 宿舎に戻る、道すがら。
 私は、皆に礼を述べた。
「忝い。まさか、あのような事になろうとは」
「丁度、貴方を訪ねたら、麗羽に呼び出された、って聞かされたのよ」
「袁紹の事だ、また馬鹿な事を言い出したのだろう、とな。それで、曹操と二人、駆けつけたのだよ」
 どうやら、袁紹は元々あのような人物らしい。
「主。何故、我らをお連れにならなかったのですか?」
「星の申す通りです。如何に洛中とは申せ、不用心過ぎまする」
「……済まぬ」
 申し開きようもない。
 確かに、私の判断が甘かったのだからな。
「では土方。朝まで付き合って貰うからな?」
「そうね。借りを返して貰うにはちょっと不足だけれど」
 ……ほぼ間違いなく、酒であろうな。
「うむ、良いですな。主の無事を祝して、私も同席致しますぞ?」
「そうだな。歳三殿、お覚悟めされよ?」
「……相わかった」

 結局、風と稟、更には孫策に黄蓋、劉曄まで加わり、本当に朝まで大騒ぎと相成った。 

 

三十四 ~ギョウ入り~

 翌日。
 予定通りに、出立の運びと相成った。
 皆を城門のところで集めているところに、孫堅と華琳が姿を見せた。
「では、達者でな」
「うむ。孫堅もな」
 と、孫堅は手を振る。
「おいおい、今更他人行儀は止せ。俺の事は睡蓮で構わん」
「唐突に真名を預けるか。……良いのか?」
「ああ。お前は何と言っても、雪蓮らの婿になって貰わねばならん男だからな。なあ、雪蓮?」
 孫策はニコリと笑みを浮かべ、
「そうね。あなたならわたしは構わないわ。そんな訳で、わたしの事も雪蓮と呼んでね?」
「……その話なら、断った筈だが?」
 さっきから、風達の視線が、突き刺さるようだ。
「ふふふ、残念だったな。江東の虎は、狙った獲物は逃さない主義でな」
「……ともかく、真名は預かろう。私も、歳三で良い」
「じゃ、改めて宜しくね、歳三♪」
 結局、黄蓋と周泰からも、主人に倣って真名を預けられた。
「あら、私の誘いは断ったのに、孫堅のは受けるのかしら?」
 華琳……笑顔なのに迫力を出すのは如何なものかと思うが。
 後ろに控える夏侯惇を振り返り、
「春蘭。貴女から見て、歳三はどう?」
「は。ただの優男ではありませんな、少なくとも腕は確かですし、骨もあるかと」
「そう。なら、貴女も真名を預けたらどう?」
「か、華琳様?」
 ……だから、何故そういう展開になる?
「勿論、強制はしないわよ。貴女自身で、どうするか決めなさい」
「うう……」
 夏侯惇は暫し躊躇してから、叩き付けるように、
「で、では。おい、土方。私の真名は春蘭だ、仕方ないから預けておいてやる!」
「……私は、紫雲……宜しく」
 劉曄まで、か。
 真名という奴、信頼の証ではあるのだろうが。
 一旦預けられると、それ以外の名で呼ぶのは侮辱に当たる……厄介な風習でもある。
「主。……信じておりますぞ?」
「歳三様に限って、節操のない真似などあり得ませんよ」
「風もそう思いますけど、真名を一度に預かるなんて、お兄さんも隅に置けないのですよー」
「……皆、止せ。歳三殿が困っておられるぞ?」
 無論、少なくとも、全員敵に回すよりは遙かにいいのだが。
 ……と。
 またしても、妙な視線を感じる。
 疾風と周泰……いや、明命も気付いたようだな。
「歳三殿」
「お待ち下さい」
 反応しようとした疾風を、明命が制した。
「正体ならば、私が確かめて参ります。疾風さまは、そのまま出立して下さい」
「明命の言う通りだ。歳三、後は気にせずに向かうがいい」
「……わかった。睡蓮、そして明命。頼んだぞ」
 気がかりではあるが、今はまず、冀州に向かう事だ。


「ご主人様!」
「あ、お兄ちゃんなのだ!」
 道中は滞りなく、我々はギョウに到着。
 城門のところには、愛紗と鈴々が並んで手を振っている。
 そして、義勇軍の同志に元黄巾党から降った面々が、待ち構えていた。
「鈴々。いろいろとご苦労であった」
「へへー。鈴々、頑張ったのだ」
 じゃれつく鈴々の頭を、撫でてやる。
「愛紗、皆を連れての行軍、如何であった?」
「はい。士道不覚悟はご主人様がお許しにならぬ、それは全軍に徹底していますから。特段、問題はありませんでした」
「わかった。ご苦労だったな」
 そして、兵達に向き合う。
「皆の者。長らく待たせたが、黄巾党との戦いは終わった。そして、皆と共に落ち着く場所も得た。改めて、よしなに頼むぞ」
「応っ!」
 皆、意気揚々としている。
「では、入城する! 私に続け!」
 ギギギ、と重い城門が開かれていく。
 中では、文官や武官が、勢揃いしていた。
 その筆頭なのだろう、中年の太った男が、進み出てきた。
「土方様。お待ちしておりました」
「うむ。土方歳三、勅令により魏郡太守として参った」
「ご苦労様にござります。私は、郭図と申します。こちらは審配に逢紀です」
 本来であれば、袁紹に仕えた者ばかりだな。
 ……そして、一癖も二癖もある、そんな面構え。
「ささ、城中へご案内致しましょう。歓迎の祝宴の用意、整っていますぞ」
 如才のなさは、袁紹の参謀として鳴らしただけの事はある。
 ……だが。
「郭図とやら」
「はい。何でしょう?」
「……この有様は、如何なる事か?」
 私は、城内を見渡しながら、言った。
 城壁はあちこちで崩れ、補修している様子もない。
 遠巻きに私達を見守る人々も、着るものは粗末で、皆が痩せ細っている。
 ……それに引き替え、この者らはどうか。
 絹の着物に身を包み、酒や美食三昧故に全身が脂ぎっている。
「黄巾党の争乱と、飢饉がありましたからな。費えもなく、また命令もありませんでした」
「……わかった。城中には参るが、祝宴は不要だ」
「は?」
「稟、風。城内の文官を集め、現状の把握と戸籍の整理を」
「御意」
「了解ですー」
「この者らは、私の軍師。早速、協力せよ」
「は、はぁ……」
 露骨に、不服の色を見せる郭図。
「これは、太守としての命だ。よいな?」
「……ははっ」
 不承不承、二人を先導しながら城中へと向かっていった。
「なんだ、あの態度は!」
「落ち着け、愛紗。官吏など、あのようなものではないか」
 いきり立つ愛紗を、星が宥める。
「本当に遺憾だが、星の申す通りだ……」
「月や、丁原のおっちゃんはそんな事なかったのだ」
「彼らや華琳、睡蓮らは例外であろう。それよりも星、愛紗、鈴々、お前達は、兵の取り纏めを。元々の兵の数や練度も把握しておかねばなるまい」
「はっ! お任せを」
「御意!」
「応なのだ」
「それから、疾風」
「はい」
「時間をかけても構わぬ。その眼で、市井の様子を見て、必要とあれば調査を頼む」
「……文官らの報告や言葉は、信用に足らぬと思し召しですな?」
「そうだ。あの態度では、いろいろと隠し事をしていよう。それを、炙り出さねばなるまい」
「お任せ下さい。では、直ちに」
 それぞれに、皆が与えた任務へと向かった。
 ……さて、私は少しばかり、市中を歩いてみる事とするか。
 城中に参るのは、今少し後でも良かろう。
「あの……」
 と、文官の出で立ちをした、少年がおずおずと話しかけてきた。
 ……どことなく、総司を彷彿とさせる風貌だな。
 無論、文官らしく、剣は明らかに不得手のようだが。
「何か?」
「はい。太守様、ですよね?」
「そうだ。新しく太守を仰せつかった、土方だ」
「僕、田豊、字を元皓と言います。宜しくお願いします」
 ……なるほど、先ほどの文官どもには混じっていなかったが、此処にいたのか。
 恐らくは、彼の田豊と目の前の少年は、同一人物であろう。
「文官は全て、城中かと思ったが。此処で、何をしている?」
「はい。どうしても、太守様とお話させていただきたくて。ご無礼をお許し下さい」
「いや、構わん。私も、いろいろと聞きたい事がある」
 私の言葉に、田豊は安堵の表情を見せる。
「では、少し市中を案内してくれぬか?」
「はい、わかりました」


 表通りから一歩入ると、寂れた町並みが広がっていた。
 皆、立ち上がる気力さえないのか、力なく地面にへたり込んでいる。
「……想像以上だな」
「黄巾党の争乱に飢饉と続きましたから。……ただ」
「どうした?」
 田豊は、顔を曇らせる。
「もともとの冀州は、豊かな土地なんです。黄河が運んでくる土壌は肥沃で、作物もよく育ちますから」
「だが、私は并州や幽州も見て参った。どちらも飢饉には苦しんでいるが、ここまで庶人が無気力ではなかったようだが」
「当然だと思います。并州は丁原様から董卓様、幽州は公孫賛様が治めておいでです」
「……此処、冀州刺史は韓馥殿だが。治政が行き届かぬ、という事か?」
「そうです。韓馥様は、人柄はともかく、何事にも弱気です。前の太守様が好き勝手をしていた事も、対処のしようがあった筈なのに、何も手を打っては下さいませんでした」
「そう言えば、前任の太守は姿が見えぬが」
「黄巾党が迫ってきた時に、皆さんが止めるのも聞かずに、打って出たんです。……韓馥様の援軍を待って、挟撃するように勧めたのですが」
「多数に無勢、敢えなく討ち取られた……そうなのだな?」
 田豊は、頷いた。
「僕は何度も止めたんです。……でも、僕はまだご覧の通りの若輩者。『貴様ごとき小僧に戦の機微がわかるか!』と一喝されてしまっては、お止めしようがありませんでした」
 私腹を肥やす上に、配下の器量すら見抜けぬとは。
 相当の愚物であったのであろう。
「一つ、解せぬ事がある」
「何でしょうか?」
「お前が若い故に、前太守に侮られたのは、そ奴の器量からすればやむを得まい」
「……はい」
「だが、此処には郭図や審配らがいたのであろう? 彼らに諮り、太守に献策すれば、如何に狭量な輩とは申せ、聞かざるを得まい?」
 田豊は、頭を振る。
「それは、無理です」
「何故だ?」
「郭図様達から、僕は嫌われているからです」
「……理由は? お前が若いからか?」
「それもあります。……ですが、一番の理由は別にあります」
「それは?」
「……郭図様達は、太守様の為されようを諫めるどころか、むしろ進んで加担なさいました。城に出入りする商人も、付け届けの多寡で決めたり」
「…………」
「僕は、庶人の出。だから、庶人の苦しみが増すばかりの政治はお止め下さいと、何度も申し上げたんです。……勿論、聞き入れてはいただけず、却って煙たがられるばかりでしたが」
「……ふむ」
「それに、郭図様達の献策に誤りや不足があると、良かれと思ってお教えしていたのですが……」
 私の知識が通じるならば、袁紹軍の双璧、と呼ばれたのは田豊と沮授。
 郭図らは、参謀としての地位こそ得ていたが、互いを陥れるような、私利私欲に走る献策ばかりをしていたと聞く。
 それが、強勢を誇ったはずの袁家が、敢えなく滅亡する原因となった。
 ……この世界でも、性格は無論だが、智謀にも天地の開きがあるのだろう。
 この剛直さは好ましいが、今の官吏の中では、疎まれて当然であろうな。
「田豊」
「はい」
「この有様、前太守と、郭図らの悪政が全て。そう、言いたいのだな?」
「…………」
 流石に、答えぬか。
 だが、この場合の沈黙は、肯定と同じ事。
「それで、私をこの場所に連れてきたのであろう?」
「……申し訳ありません」
「まぁ、よい。市井の実態を見ておくのも務め。だが、一つだけ申しておくぞ」
「何でしょうか」
「お前の上役が、お前の話に耳を傾けようとせぬ、それは確かに連中が愚かである証拠だ。だが、このギョウの庶人がこのように塗炭の苦しみに喘いでいるのは、お前にも責任の一端はある」
 途端に、田豊の顔が強張る。
「まず、お前も官吏の端くれ。お前が生計を立てられるのは庶人が税を納めるからだ。違うか?」
「……いえ」
「ならば、その庶人を守る為、苦しませぬ為に成すべき事を成さねばならぬ筈だ。繰り返し献策を、と言うが、内心の何処かで、受け入れて貰えぬ事への諦めがあったのではないか?」
「!!」
「それに、お前には覚悟が足りぬ、私にはそう思えるのだ」
「覚悟、ですか」
「そうだ。武人ならば、己の生死を賭けて、互いにぶつかり合う。だが、文官とて戦場が異なるだけで、死を賭して物事に当たらねばならぬ事もあろう。無論、命を粗末にしろと申すのではない、気構えの問題だ」
「気構え……」
 田豊は、宙を睨み付ける。
「よいか。私は太守など、務めた事はない。勝手はわからぬが、ただ一つ。徒に庶人を苦しめる真似だけはせぬ。その為であれば、力押しも辞さぬ、汚い手を選ぶ事もあろう。だが、それは全て覚悟あっての事だ」
「土方様。僕は……」
「お前のその剛直さ、才気は頼もしい限りだ。だが、覚悟が伴わぬ者は、共に歩む事は認めぬぞ?」
「……僕に、出来るでしょうか?」
「まだまだ、お前は若いのだ。失敗を恐れず、物事に当たってみよ」
 沈んでいた田豊の顔が、次第に明るくなっていく。
「それに、私の許には、郭嘉と程立という、二人の優れた軍師もいる。関羽、張飛、趙雲、徐晃という、無双の武人も揃っている。しくじりは、皆で補い合えば良い」
「……土方様。改めて、お願い申し上げます」
「うむ」
「僕を、この田豊を、あなた様の許で使っていただけないでしょうか? その為の覚悟を見せろと言われるなら、全力を尽くす事をお約束します」
 田豊の眼に、もう迷いはなかった。
「良かろう。存分に、励め」
「ははっ!」
「但し。郭図らの事については、お前の言葉のみを鵜呑みには出来ぬ。事実を調べた上で、判断を下す。それで良いな?」
「はいっ!……良かったです、土方様が、一歩踏み止まって下さる御方で」
「お前の事を信じぬ訳ではない。ただ、軽挙妄動は慎むべき、それだけの事だ」
 見所のある若者だ、その性根をそのままに、大きく育ててやりたいところだ。
 それが、間違いなく庶人の為になる、私の成すべき事であろう。


 その夜。
 大量の書簡に埋もれながら、私は風、稟と共に執務室にあった。
 田豊より聞き取った話を元に、事実関係を調べる必要があるからだ。
「これは、相当に根が深いですね」
「むー。前の太守さんが、かなり評判の良くない方とは聞いていましたが」
 それを裏付ける書類は、ほぼそのまま残っていた。
 当人がもし存命していれば、間違いなく既に処分されている類のものまで。
 ……よもや、それを残したままあの世へ行くなどとは、想像だにしていなかったのだろう。
「だが、これではせいぜい、前太守の一族に対し、罪を問う事しか出来ぬな」
「はい。他の文官が関わっていたであろう不正は、この中には見当たりませんね」
「まぁ、あの方達もお馬鹿さんではないですからねー。自分が不利になる証拠は、隠すのが当然かとー」
「それに、一度には大掃除は無理だな。そんな事をすれば、この魏郡そのものが機能しなくなる」
 文官と言えども、皆が郭図らと結託しているとは限らぬ。
 だが、程度の差こそあれど、何らかの繋がりを持つ者が大多数、と見て良いだろう。
「歳三様。まずは、前太守の罪状のみ明らかにする、というのは如何でしょうか?」
「郭図らとの事と切り離す、という事か?」
「はい。それに、不正を糺すという事実、まずこれが成立します」
「そうすれば、庶人の皆さんが、お兄さんに対して好意を持つ事はあっても、悪意を持たれる事はないでしょうしねー」
「また、文官の不正は、芋づる式に一度にやらなければ、意味はありませんから」
 稟の言う通りだ。
 半端に行えば、蜥蜴の尻尾切りになりかねぬ。
「骨が折れる仕事だな。だが、やらねばなるまい」
 二人は、頷く。
 課題は山積、これらを片付けるだけでもどれほどの時を要するのか、見当もつかぬ。
 ……だが、全ては待ったなしだ。

「申し上げます!」
 息を切らせながら、伝令の兵が駆け込んできた。
「何事だ?」
「はっ! 黒山賊が蜂起したとの知らせが!」
「……して、場所は?」
「韓馥様の本拠のすぐ傍との事にござります!」
 思わず、二人と顔を見合わせた。
「……ご苦労だが、至急皆を集めてくれ」
「ははっ!」
 腰を据えてギョウの大掃除と参りたいところだが、状況がそれを許さぬようだ。
 だが、これしきの事で邪魔立てはさせぬ。 

 

三十五 ~采配を振るう者~

 既に深夜に差し掛かった頃ではあるが、事は一刻を争う。
 謁見の間、としか例えようのない場所に、主だった者が揃った。
「さて、皆にも知らせた通りだが、刺史の韓馥殿より、火急の知らせが参った。黒山賊が蜂起、韓馥殿の拠点に向かっているそうだ」
「黒山賊ですか。恐らくは、黄巾党の残党も紛れ込んでいましょう」
「数も約五万とか。数の暴力は厄介ですからな」
 愛紗達は、深刻な表情だ。
 ……それに引き替え、旧来の文官共は、反応を異にしている。
「やれやれ、刺史ともあろうお方が、不甲斐ない事ですな」
「全く。たかが山賊如きにだらしのない」
 ……今は、他人を嘲笑う場ではない筈だ。
 この古狸どもには怒りを覚えるが、いずれ手痛い目に遭わせてやる……そう思うに止めた。
「では、まず……」
「お待ち下さい、土方殿」
 いきなり、逢紀に話の腰を折られた。
「……何か?」
「いえ、どうやら、軍議の場に相応しくない者が混じっているようですな」
 そう言って、逢紀は田豊を睨む。
「同感ですな。貴様、誰の許しを得て此処にいる!」
 畳み掛けるように、怒鳴り付ける郭図。
「田豊ならば、私が同席を認めた」
「ほう。土方殿が」
 審配は、侮蔑を露にして私を見た。
「失礼だが、土方殿はまだ、この魏郡の事を正しく理解されておいでではありませんな」
「正しい理解、とな?」
「如何にも。この者は、文官見習い同然の若輩者。恐れ多くも、我らと同席などとは片腹痛い限りですぞ」
 他の文官も、半数程は相槌を打っている。
 ……確証はないが、皆同じ穴の狢なのであろう。
「止めよ。田豊については、太守としての命だ。従えぬ、とあらば相応の処分を下す事になる」
 すると、審配は大仰に嘆いて見せた。
「何と横暴な。太守とて、横紙破りは許されませんぞ」
「それはどうですかねー」
 まさに、一触即発。
 そんな空気を和ませるような、のどかな声がした。
「何だ?」
「今、審配さんが言われた事は、明らかにおかしいのですよ」
「何だと、小娘。如何に土方殿の軍師であろうと、無礼は許さんぞ!」
「ではお尋ねしますが。審配さんを文官として採用したのは、前の太守さんでしたねー?」
「そうだ」
「ではでは、田豊ちゃん。同じ質問に答えて貰えますか?」
「僕も、同じです。前の太守様です」
「そうですね。基本は、太守さんと豪族さん達の合議で登用するという制度ですよね?」
 風の言葉に、審配はフン、と鼻を鳴らす。
「それがどうした? 今更、郷挙里選の仕組みを紐解くのが、軍師たる者の役目なのか?」
 審配の皮肉にも、風は表情を変える事はない。
「いえいえー。そして、郡の太守さんも、本来はこの制度で選ばれる事が多いのですが、前の太守さんもそうだったようですね」
「そうだが?」
「その場合、太守さんと言えども、豪族さんから選ばれた方々には、気を遣う必要もあるでしょうねー」
「…………」
「でも、お兄さんの場合は違うのですよ。前の太守さんと違って、お兄さんは陛下から直接、任じられたのです」
「……だから、どうした?」
 思いの外、察しが悪いな。
「では、申し上げますね。お兄さんは、陛下の直臣、とも言えます。つまり、お兄さんの命は陛下の命でもあるのですよ」
「詭弁だ!」
「そうだ! どう選ばれようとも、郡太守には変わりないぞ!」
 黙って聞いていた郭図と逢紀が、まくし立てる。
「そうでしょうか? 本来、郡太守は、その地方の責任者。その下にある官吏は、その命に従う……それが、本来の制度であり、定めですが?」
 稟の指摘に、二人は言葉に詰まったようだ。
「だ、だが、今までの習わしでは!」
「今までは、それでも良かったのでしょう。ですが、今までがそうだったから、未来永劫そのままでなければならない……そんな決まりは何処にもありませんよ」
「…………」
 風も稟も、正論を言ったまでの事。
 どうやら、勝負あったな。
「さて。話が逸れたが、韓馥殿の救援は一刻を争う。星、すぐに出せる兵数は?」
「はっ」
 星はチラ、と郭図達を一瞥して、
「郡全体を合わせても、まともな戦闘に耐えられるだけの兵は揃いませぬな。どうやら、前の太守殿が討ち死にされた後、まともに軍事を取り仕切る人物が不在だったようです」
「そうか。では、連れて参った兵から選抜するしかあるまい。どれだけ揃えられる?」
「そうですな。守備兵の事を考えると、一万、というところでしょうか?」
 一万か。
 韓馥がどれだけ兵を残せるかにもよるが、少々厳しい戦いになるやも知れぬな。
「では、一万で良い」
 私は愛紗と鈴々を見て、
「将はお前達二人とする。直ちに手配りを」
「御意!」
「合点なのだ!」
 飛び出していく二人。
「指揮は私が執る。田豊」
「は、はいっ!」
 名指しの糾弾にも、黙って耐えていた。
 性根も確かだ、後は素質を見てみたい。
「お前も従軍せよ。此度の軍師を命ずる」
「え……僕が?」
 皆、呆気に取られている。
「そうだ。不服か?」
「い、いえっ! 御意です!」
「なりませぬ! そのような」
 再び、異を唱えようとする逢紀。
「……二度、同じ事は言わぬ。良いな?」
 わざと、抑えた声で言い放つ。
 それに刃向かえるだけの胆力は持ち合わせておらぬようで、騒ぎ立てていた者共は黙り込んだ。
「では、急ぎ出陣の準備にかかれ。他は追って沙汰する」
 大多数の文官共は形ばかりの礼を、それ以外の者ははっきりと礼を返した。


 数刻後。
 輜重隊は後からついてくるように指示し、急ぎ出発した。
「あ、あの……太守様」
「何だ?」
 田豊が、馬を寄せてきた。
 文官と言えども、最低限の馬術を身につけているのは流石と言うべきか。
「良かったのですか、本当に僕で?」
「無論だ」
「ですが、太守様には、郭嘉様と程立様がいらっしゃいます」
「確かに、二人は私の軍師。だが、魏郡の建て直しも急務故、残って貰った」
「それはわかりますが、お二人がよく承知なさいましたね?」
「……それは、問題ない。よく言い聞かせてある」
「そう、ですか……」
 ふう、と息を吐く田豊。
「自信がないか?」
「……正直に言うと、そうです。僕は学問として兵法を学んできましたが、実践するのは初めてです」
「だが、経験を積まねば、何時までもそのままだぞ?」
「はい。ですが、相手が山賊とは言え味方は劣勢。その状態で、僕の策が破れたりでもしたら、と」
「……………」
「それに、そうなれば太守様はますます、信を失ってしまいます。折角、この魏郡にいらしたばかりだというのに」
 そう言う事か。
「田豊、言った筈だ。しくじりを恐れるな、と」
「ですが……」
「案ずるより産むが易し、まずはやってみる事だ。それ以上躊躇する事は許さぬ、軍師の迷いは全軍の士気に関わる」
「……わかりました。精一杯、頑張ります」
 パン、と田豊は頬を手のひらで叩いた。
「お兄ちゃん! 向こうに何か見えるのだ」
 鈴々が、そこに駆け込んできた。
 確かに、少し離れた場所から砂塵が上がっているようだ。
 どれ、確かめてみるか。
 双眼鏡を取り出すと、田豊は目を丸くした。
「太守様、それは?」
「双眼鏡という、舶来の品だ」
 いやに輝きを放つ兵の一団が、我が軍と同じ方角へと進軍しているようだ。
 ……それにしても、金色の鎧とは、お世辞にもいい趣味とは言えないな。
「田豊、見てみるか?」
「宜しいのですか?」
「うむ。見たものの正体、存じているならば教えよ」
「は、はい。では、失礼致します」
 恐る恐る、田豊は双眼鏡を受け取る。
「こ、これは……。遠くが、はっきりと見えます!」
「にゃはは、驚いているのだ」
 鈴々も、最初は驚いていたのだがな。
「どうだ?」
「……あれは、どうやら袁紹軍のようです」
「袁紹軍? 確かか」
「はい。黄金色の鎧を使っているのは、大陸広しと言えども袁家ぐらいのものです。尤も、袁紹軍と同一の装いを嫌って、袁術軍は銀一色とか」
「どっちも趣味が悪いのだ」
「ふっ、鈴々の申す通りだ。戦は見た目でするものではないからな」
 だが、袁紹が既に冀州にいるとは、想定外だ。
 先日の様子では、まるでそのような素振りもなかったのだが。
「にゃ? お兄ちゃん、何か心配事でもあるのか?」
 鈴々が、私を見上げてきた。
「そう見えるか?」
「うん。お兄ちゃん、視線が少しだけ、泳いでいたのだ」
 ふむ、鈴々は勘が良いから、気付かれてしまったか。
 ……まだまだ、私も未熟だな。
「太守様。袁紹軍の展開が速い、それを気にされておいでですか?」
 そのやりとりを見て、田豊がそう言った。
「察しがいいな、その通りだ。袁紹殿は、勃海郡の太守。赴任までの日数や出陣の準備を考えると、何とも解せぬ話だとは思わんか?」
 私の言葉に、田豊は考え込む。
「なるほど。進軍の向きからして、恐らくは同じく救援に赴かれるのでしょうが。詳細は確認する必要がありそうですね」
「それは、後回しで良い。まずは、韓馥殿の支援が第一だ」
「はい」
 私は頷き返す。
「太守様。少し、周囲の地形を見ておきたいのですが」
「構わん。好きにするがいい」
「ありがとうございます、では」
 田豊は軽く頭を下げ、騎乗のまま駆けていった。
「お兄ちゃん、一つ、聞いていいか?」
「何だ?」
「今回は、稟も風もいないのだ。大丈夫なのか?」
「軍師の事か?」
「そうなのだ。お兄ちゃんが考える事だから、平気だと思うけど。……でも、ちょっぴり心配なのだ」
 無理もない、か。
 田豊の人となりを確かめ、私なりには問題ないと言う想いはある。
 ……だが、何と言っても、今の田豊は無名。
 稟と風は実績で信頼を勝ち得ているが、同じものを望むのは酷と言うもの。
 口には出さぬが、前衛で指揮を執っている愛紗も、内心では鈴々と同じ事を考えているやも知れぬな。
 ……ちと、一芝居打つとするか。

「申し上げます! 黒山賊が、韓馥軍と交戦状態に入ったとの事!」
 合流を急ぐ我が軍に入った知らせは、吉報ではなかった。
「そうか。ご苦労、新しい報告が届き次第、また知らせよ」
「はっ!」
 伝令の兵を返し、田豊に目を向ける。
「さて、如何すれば良いか?」
「……は、はい」
 愛紗と鈴々、主だった兵は、じっと田豊の言葉を待っている。
「そうだ。お前に、これを預ける」
 兼定を鞘ごと、田豊に渡した。
「た、太守様? これは……」
「指揮はお前が執れ。それは、その証だ」
「…………」
「皆に申し渡す。此度は、田豊が全軍に指示を出す。従わぬ者は、軍規違反とみなし、斬り捨てる。然様、心得よ」
「……え、ええと……」
 固まったままの田豊に、兼定を握らせた。
「如何致した。事態は一刻を争うのだぞ!」
「は、はいっ!」
 弾かれたように、田豊は居住まいを正す。
「で、では。ゴホン」
 咳払いを一つ。
 うむ、もう戸惑いの色はないな。
「まず、このままの行軍では、韓馥軍との合流は不可能です。……そこで、まず噂を流します」
「噂?」
「そうです、関羽様。太守様の軍は、黄巾党征伐の際、賊軍からとても恐れられたと聞いています。そうですね?」
「そうだ。悔い改めた者は赦したが、そうでない者や所業が残虐非道な者には容赦しなかった」
「それに、連戦連勝という事もあります。そんな軍が自分達に向かっていると聞けば、どうすると思いますか?」
 愛紗は少し考えてから、
「浮き足立つだろうな。少なくとも、警戒はするだろう」
「そうです。幸い、袁紹軍も向かっていますから、数については此方が多い、と思わせる事も可能です。そうですね、七万と号しましょうか」
 数を多く見せるのは、心理戦の常道である。
「なるほど。だが、賊軍が先に韓馥軍を撃破してしまう、その可能性だってあるぞ?」
「無論です。……ですが、それは困難でしょう」
「何故、そう断言できる?」
 愛紗が疑問を呈すると、田豊は微笑んだ。
「韓馥軍には、張コウ将軍と、沮授がいますから」
「張コウ殿はわかるが。沮授とは何者だ?」
「そうですね、韓馥軍の軍師兼司令官、と言ったところでしょうか。歳は僕と同じですが、才は太鼓判を押せますよ」
 と、黙っていた鈴々が、口を挟んだ。
「でも、それなら鈴々達が助けに行く必要があるのか? 田豊の言い方だと、何だか大丈夫に聞こえるのだ」
 同感だ、と言わんばかりに皆が頷く。
「……いえ。十分な備えがあって、かつ……」
「どうしたのだ?」
 言い淀む田豊。
「……いえ、何でもありません。ただ、我々の救援なしには、黒山賊を支えきれない事だけは確かです」
「うー、よくわからないのだ」
「鈴々、後で説明を聞けば良いではないか。田豊、噂の流布だけが策ではないのだろう?」
 愛紗の言葉に、田豊は表情を引き締める。
「勿論です。関羽様、騎兵二千を率いて黒山賊の背後に回り、撹乱を謀って下さい」
「撹乱か? 向かってきた賊はどうする?」
「軽く一当てしたら、引いて下さい。追ってきたら引き、引いたら追う。この繰り返しです」
「わかった」
「それから、張飛様。歩兵四千をお任せします。合図と共に、敵中突破をお願いします」
「突撃して粉砕、ではないのか?」
「いえ、それには兵数が心許ないですから。そのまま、韓馥軍と合流し、沮授に書簡を渡して下さい。書簡は、すぐに認めます」
「了解なのだ」
「そして、太守様。偽兵の計を用いますので、合図と共に、一斉に旗を掲げて下さい」
「うむ。お前はどうする?」
「太守様と共に。私は、軍師ですから」
 そう言い切る田豊の言葉には、自信が漂い始めていた。


「では、ご主人様。行って参ります」
「お兄ちゃん、鈴々に任せるのだ」
 二人を、田豊と共に見送る。
 ……ふと、田豊の肩が震えているのに気付いた。
「怖いか?」
「……はい。僕の策に、大勢の人の命がかかっていると思うと……。申し訳ありません」
「いや」
 私は、その肩に手を置く。
「その臆病さも、必要な事だ。戦とは、いくら美麗字句を並べたところで、人同士の殺し合い。その責務の重さを忘れたものに、軍師たる資格はない」
「……はい」
「己の手を血で穢す。……こんな日々、早く終わらせたいものだな」
「太守様……」
 田豊の震えが、止まったようだ。 

 

三十六 ~将星、集う~

「始まったか」
「はい」
 田豊の策通り、愛紗は敵を上手く引きつけているようだ。
「密集していた賊軍が、徐々に乱れ始めましたね」
 双眼鏡を覗き込みながら、田豊が言った。
「今のところ、順調なようだな」
「ええ、関羽様の指揮ぶりは見事だと思います。後は、張飛様を突入させる機ですね」
「うむ。鈴々の事だ、一度突入を始めたら火の玉の如き勢いとなるであろう」
「…………」
 ふと、田豊が私の顔を見ている事に気付いた。
「如何致した。私の顔に何かついているか?」
「い、いいえ。……太守様は、どんな方なんだろうな、と思いまして」
「どういう意味だ?」
「はい。関羽様、張飛様だけじゃなく、郭嘉様や程立様、それに趙雲様、徐晃様。皆さん、超一流の将や軍師ばかりですよね」
「そうだ。まだまだ経験の浅いところもあるが、素質で行けば皆、大陸屈指と言っても過言ではあるまい」
「……そんな方々から、信頼され慕われている太守様が、不思議な方だと思いまして。あ、太守様ご自身がとても優秀な御方なのは当然ですが」
「人の縁、としか言いようがない。私は幸い、昔から仲間には恵まれる方でな」
「なら、太守様には人徳があるのでしょう。人の上に立つには、大切な要素です」
「徳かどうかはともかく、仲間も兵も民も、大切に思うならば態度と行動で示す事だ。厳しさだけでは、人はついて来ぬ」
 私なりの、自戒を込めたつもりだ。
 ……それが、どう現れているのか、それはまだわからぬがな。
「ご立派です。……あ」
 不意に声を上げる田豊。
「どうした?」
「見て下さい、敵陣形が崩れ始めています」
 双眼鏡を受け取り、敵陣を見る。
 撹乱が功を奏したのか、密集していた賊軍は、確かに散らばり始めていた。
「張飛様に、合図を送って下さい」
「応っ!」
 頷いた兵士が、大きく旗を左右に振り始めた。
 兵を伏せていた鈴々が、文字通り火の玉の勢いで突撃を開始。
 敵陣に、更なる乱れが見られた。
 あの調子であれば、田豊の策通りに、鈴々は合流を果たせるであろう。
「では、太守様。我々も動きます」
「うむ」
 ジャーン、と銅鑼が鳴り響く。
 同時に、周囲の野山のあちこちで、いろいろな旗が揚げられた。
 さて、賊軍はどう動くか。
 ……恐らくは、田豊の見る通りに、事態は推移するであろうな。


「主。お待たせ致しましたな」
 数日後。
 輜重隊と、五千の兵を率いた星が到着。
「ご苦労だった。
「どうやら、今のところ順調と見ましたが?」
「うむ。この田豊が、見事な采配を見せているからな」
「い、いえ。僕はただ、太守様からいただいた、失敗を恐れずに動け……それを、実践しているだけです」
「はっはっは、それをさらりと口にするあたり、お前もなかなかの胆力だぞ?
 照れたのか、真っ赤になって俯く田豊。
「主。そう言えば、袁紹軍が既に、冀州に入っていると聞き及びましたが」
「耳が早いな、その通りだ」
「いえ、出がけに疾風より聞かされまして。詳細は調査の上、判明次第知らせる、との事でした」
「ふう、僕が心配するだけ無駄でしたね。やっぱり、皆さん凄いです」
 苦笑する田豊。
「各々がなすべき事をする、それで良い。今のお前はこの軍の采配を預けている、それに専念せよ」
「は、はい!」
「では主。兵の様子を見て参ります」
「うむ」
 星が出ていくと、入れ違いに兵が入ってきた。
「申し上げます」
「何事か?」
「はっ。韓馥様より、伝令が到着しました」
「わかった、通せ」
「ははっ」
 田豊は、何やら頷いている。
「これも、お前の策だな?」
「いえ、僕じゃありません。恐らくは、沮授の策です」
「ふむ。どうも、お前は沮授と親しいようだが、知己か?」
「知己というよりも、腐れ縁ですね」
 と、笑う田豊。
「幼馴染みなんですよ、沮授は。もっとも、あいつは僕よりも要領がいいから、韓馥様のところで出世していますけど」
「ふむ。参謀兼軍司令官、と申したな?」
「ええ。僕はこの通りひ弱ですけど、沮授は頭が切れるだけじゃなく、前線に出て兵を動かすだけの度胸の良さがありますから」
 いくら親しき間柄とは申せ、この田豊がここまで評するのだ。
 間違いなく、優秀な人材なのだろう。
「しかし、先の黄巾党討伐の際は、姿を見なかったが」
「そうでしょうね。風邪をこじらせて寝込んでいた筈ですから」
「……そういう事か。それで、張コウ殿が、補佐を兼ねていた訳だな」
「張コウ様も、ただの猪武者じゃありませんしね」
 そんな会話を交わしていると、件の伝令が連れられてきた。
「ギョウ軍太守、土方様でございますな?」
「如何にも」
「韓馥軍参謀、沮授よりの言伝です。失礼ながら、口頭にて申し上げます」
「うむ」
 書簡にしなかったのは、万が一賊軍の手に落ちる事を恐れての処置だろう。
 すると、伝令は複数放たれている、そう見て良い。
 手慣れた者でなければ、この配慮は思いつかぬであろう。
「田豊殿よりの手筈通り、準備が整いました。今夜、払暁を持って賊軍に奇襲攻撃を加えます。呼応をお願い致します、との事です」
「田豊、相違ないか?」
「はい。沮授ですが、了承の合図についても伝わっていますね?」
「その点もぬかりはありません」
「わかりました。では、ご苦労様でした。下がってお休み下さい」
「ありがとうございます。では、御免」
 使者が下がると、
「太守様。勝手に話を進めてしまい、申し訳ありません」
 田豊が、頭を下げた。
「采配は預けた、と申したであろう? 必要とあらば、人手は使って構わん」
「ありがとうございます。では、早速」
 足取りも軽やかに、何処かへと駆けていく。
「ふむ。なかなか、堂に入っているではありませぬか」
「ああ。あの者には、間違いなく才能がある。足りぬのは経験と実績だ」
「ふふ、主。これであの古狸共を黙らせる事が出来ますな?」
 星は、どこか愉快そうに言った。
「無論、それもある。だが、私は田豊そのものに期待しているのだ」
「主の事です、確証があっての事なのでしょう。尤も、私もあの者は見所がある、そう思いますが」
「ああ。星も、可能な限り力になってやってくれ」
「御意」


 払暁。
 手筈通りに、韓馥軍が賊軍に奇襲を敢行した。
 我が軍も、呼応して星と愛紗が敵陣を引き裂いていく。
「はい、はい、はいっ!」
「でぇぇぇぇぃ!」
 みるみるうちに、二人を中心に屍の山が築かれ出した。
 こうなれば、一騎当千の猛将がいる軍は、圧倒的有利だ。
 やがて、
「敵の首領、討ち取ったぞ!」
 乱戦の中から、そう誰かが叫んだ。
 策ではなく、どうやら本当に討ち取られたらしい。
 乱戦の中で流れ矢が当たったというのだから、わからぬものだ。
 賊の大半はそのまま、戦場から脱出して行った。
 無論、逃さじとばかりに韓馥軍が追撃したようだが、殿を務めた一隊が巧みにそれを躱した、との事。
「賊にも、なかなかの人物がいると見えるな」
「恐らくは、張燕という者かと。討ち取られた首領の張牛角よりも腕が立ち、統率に優れているとの事です」
 と、田豊。
「これで、韓馥軍は危機を脱した。無理に追撃する必要はあるまい」
「はい、僕も賛成です。窮鼠猫を噛むの例え通り、無為に被害を受けるだけかと」
 そう言いながら、田豊は兼定を両手で掲げるように差し出した。
「戦は終わりでしょう。これは、お返し致します」
「うむ。見事な采配であった」
「いえ。……本当に、ありがとうございます。太守様」
 慇懃に、頭を下げる田豊。
「礼を言われる程の事はない。お前を信じたからこそ、采配を任せたのだ」
「いえ、それもあるのですが」
「……? 他にもまだあるのか?」
「はい。僕に、指揮を任せていただく証として、その剣を託して下さいました」
「…………」
「趙雲様が教えて下さいました。太守様に取って、その剣は魂そのものなのですよね?」
「……そうだ。剣、いや刀は武士(もののふ)の魂だ」
「……はい」
「それに、この兼定は、長きに渡り、私と苦楽を共にしてきた。いわば、我が分身。そんな代物なのだ」
 戦場で、兼定を伴わぬ……確かに、此度は異例ではあった。
「だから、改めてお礼を申し上げたいんです。……太守様、改めて、僕をあなた様の麾下にお加え下さい」
「わかった。私の方こそ、頼りにさせて貰う」
「ありがとうございます!」
 そんな様を、愛紗も、星も、そして鈴々も。
 無論、他の兵士も含めて、微笑ましく見ている。

 不意に、陣の外が騒がしくなった。
「何事か?」
「はっ、見て参ります」
 一人の兵が飛び出していき、すぐに戻ってきた。
「申し上げます。韓馥軍の張コウ将軍と、沮授殿がおいでになりました」
「ふむ。韓馥殿も一緒か?」
「いえ、お二人だけのようですが」
「わかった。ともかく、ここにお通しせよ」
「ははっ!」
 すぐさま、慌ただしく二人が入ってきた。
 久々に見る彩だが、何やら血相を変えているようだ。
 その異様な様に、皆の顔に緊張が走った。
「歳三殿!」
「おお、彩殿。ご無沙汰でござるな」
「いや、こちらこそ」
 そして、隣にいる少女。
 ややつり上がった眼に、短めの髪。
 服装も身軽さを重視したもので、活発そうな印象を受ける。
「ギョウ軍の太守さんは、アンタかい?」
「うむ。私が土方だ」
「おいら、沮授ってんだ。元皓が世話になってるみたいだな?」
「こ、こら! (らん)! 太守様に何と言う口の利き方だ」
「あ~、おいらがいっつもこの調子だって、知ってるだろ?」
 田豊が窘めても、沮授は平然としている。
 確かに礼儀知らずではあるが、捌けた口調に、一切の悪意が感じられぬ。
 咎め立てするよりも、まずは話を聞くとするか。
「田豊、よい。それより、火急の用件と見たが、何か?」
「あ、そうそう。彩さん、おいらが話していいか?」
「任せる。説明は、お前の方が上手だろう」
「じゃ、任された。土方さん、うちの昼行灯と面識あるんだってな?」
 ……随分と、己の主人に対する言葉としては、辛辣だな。
「些かだが。韓馥殿が如何した?」
「それが、おいらと彩さんが追撃をかけている間なんだけど……」
 沮授は、大きく溜息をついてから、
「昼行灯の本陣に、一時黒山賊が迫ったんだ。結構な勢いだったらしいけどさ」
「…………」
「それで、あの昼行灯。よりによって、我先にと逃げだしやがったんだ」
「何だと……?」
「うわ~、情けないのだ」
 愛紗と鈴々のみならず、その場にいた皆が、呆れた様子だ。
「まぁ、異変に気付いてすぐに駆け戻ったから、総崩れにはならなかったんだけどさ。でも、昼行灯は行方知れずって訳」
「そこで、恥を忍んで参った次第、という訳だ」
 屈辱よりも、韓馥に対しての怒りが抑えきれないのだろう。
 彩の言葉が、震えていた。
「頼む、土方さん。あんな昼行灯でも、配下としては放っておく訳にもいかないんだ。探すのを手伝ってくれ!」
「…………」
 場に、微妙な空気が漂う。
「太守様、僕からもお願いします。……でもね、嵐」
 田豊は、いつになく厳しい声を出す。
「な、何だよ?」
「太守様はお許しになったけど、やっぱり僕はそれじゃ駄目だと思う。人様に物事を頼むんだ、言い方があるんじゃないか?」
 沮授は怯んだように、言葉に詰まる。
「嵐、この少年の言う通りだ。やはり、頼み事をする以上、礼を尽くすべきだ」
「彩さんまで。……わ、わかったよ」
 沮授と彩は、私の前に跪いた。
「……土方様。改めて、お願い申し上げます。我が主、韓馥捜索に、お力添え願いたく。何卒」
「私からも、改めてお頼み申す。歳三殿、我々にご助力賜りたい」
 その言葉に、今し方まで険悪な雰囲気だった愛紗が、少し表情を和らげた。
「やれば出来るではないか。そのままの物言いであれば、例えご主人様がどう仰せだろうと、断固として反対するつもりだった」
 やはり、愛紗が釘を刺したか。
 如何に悪意がなかろうとも、流石に礼を欠いたままでは示しがつかぬからな。
「さて、主。如何なさいます?」
「後は、お兄ちゃん次第なのだ」
「……ふむ。反対の者は?」
 皆、否はないようだな。
「では、両軍で韓馥殿捜索を行う。田豊、沮授。二人で協力し、手筈を整えよ」
「御意です!」
「了解だ、じゃなくて、です」
 それにしても、仮にも刺史が我先に敵前逃亡の上、行方知れずとは、な。
 無事であったとしても、罪は免れまいな。


「……阿呆が」
「……愚かな。醜態を晒したまま、逝くとはな」
 変わり果てた韓馥が見つかったのは、凡そ半日が過ぎた頃。
 刺史の身分相応に、身なりに気を使っていたのが災いしたのであろう。
 斬殺された上に、衣装は剥ぎ取られ、下帯一枚の姿で、荒野に打ち捨てられていた。
 下手人は、まず見つかるまい。
 亡骸を、このままにはしておけぬ。
 輜重隊の空いた荷車で、韓馥の居城へと運ぶしかあるまい。

 亡骸を遺族に引き渡し、都に報告の使者を出した後、ひとまず皆でギョウへと戻った。
「兵は沙汰があるまで、この魏郡にて預かる。……お前達はどうする?」
 黒山賊の事で、後始末も含めて皆、飛び回っている。
 ……だが、私はどうしても、彩と沮授を放っておく気にはなれぬ。
 二人には、身の振り方について、好きにさせるつもりでいた。
 仮に敵に回せば厄介な相手になるであろうが、まだ若い二人を束縛するような真似は好まぬ。
「もし、仕官を望む先があるなら、其処に向かうが良い。路銀は用意させよう」
 その言葉に、彩が顔を上げた。
「歳三殿。一つ、お聞かせ願いたい」
「何だ?」
「……歳三殿の許には、優れた将や軍師が集まっている。その絆の強さは、私も何度となく見せて貰っている」
 沮授も顔を上げ、彩の言葉に聞き入っている。
「何故、そのような関係を築く事が可能なのか。私は、それが知りたい」
「……そうだな。特別な事はない、ただ、私と皆は、主従の関係とは思っておらぬ。寧ろ、仲間と言う方が正しいな」
「仲間? しかし……」
「無論、上下の関係が皆無、とは申さぬ。だが、少なくとも、私は仲間と思う者達との間に、壁を作るつもりはない。想いが同じ者同士、として」
「想い……」
 彩は、そのまま黙ってしまう。
「……土方さん。元皓から聞いたけど、この魏郡で苦しむ民を救うつもりなんだろう?」
 沮授が、いつもの口調で問いかけてきた。
「そうだ」
「じゃあ、他の民はどうだっていいのか? 隣の幽州や青州にだって飢える民は大勢いる。いや、大陸中至る所に、だ」
「誰が、そのような事を申した?」
「なら、出世を遂げて、高官になるつもりかい?」
「そのつもりもない。沮授、人には分、というものがある。それを超える事など、それは神の所業ではないのか?」
「…………」
「ならば、己の力が及ぶ限り、最善を尽くす。それで、一人でも多くの民が救われるのであれば、私はそうすべきと考える」
「……そっか。アンタって、強いんだな」
 そう言った沮授の顔は、晴れやかになっていた。
「おいらの真名、アンタに預ける。この嵐に、アンタの手伝いをさせて欲しい」
「私の仲間になる……そうだな?」
「ああ。えっと、土方さん……じゃ何だか他人行儀だな。どう呼べばいい?」
「皆、好きに呼んでいる。どうでも構わぬ」
「じゃあ、旦那で。改めて宜しく、旦那」
 ……好きに、とは申したが。
 まぁ、良かろう。
「歳三殿。……私も、宜しいか?」
 彩が、私の前で跪く。
「無論だ。私で良ければ、だが」
「いや、今の私には、歳三殿と共に歩むのが最善、そう思っただけだ。……改めて、宜しくお願い申す」
「いいだろう」
「忝い。では、私は今後、殿と呼ばせていただく」

 よもや、二人揃って、とは思わなんだが。
 ……両者とも、優れた人材だ。
 これに驕る事なく、私もより励まねばなるまいな。 

 

三十七 ~獅子奮迅の嵐~

「ふんふん、なるほどね」
「魏郡の前太守時代は、かなりの悪政を敷いていたとは聞いていたが……ここまでとはな」
 稟と風、そして元皓(田豊)が、それまでに調べた事を皆に伝えている。
 新たに加わった嵐(沮授)と彩(張コウ)は、あまりの根深さに半ば呆れながらも、真剣に聞き入っていた。
「でもお兄ちゃん。悪い奴はあの三人ってわかってるのだ。なら、証拠を集めて処分で終わりじゃないのか?」
「そう、単純に事が運べば良いが。そうは参らぬのだ、鈴々」
「はにゃ? どうしてなのだ?」
「元皓。説明してやってくれ」
「はい、太守様」
 元皓は頷き、皆を見渡す。
「皆さんもご存じかとは思いますが、今の官吏は任子制と、郷挙里選のどちらかで選ばれています。勿論、僕や嵐もそうですし、疾風様も同様だったと思いますが」
「ああ。洛陽と言えども、それは同じだ」
「任子制は世襲制度の一種なので、ここでは省きます。郷挙里選は、その地方を治める長官、つまり郡太守と相、そしてその土地の有力者との合議で任用される制度です」
「う~、元皓の話は難しいのだ……」
「鈴々、後で私が説明してやる。まずは、黙って話を聞け」
「わかったのだ」
 愛紗に諭され、鈴々は素直に頷く。
「では、続けますね。つまり、郡太守だけの判断では登用出来ず、土地の有力者、つまり豪族の意向が色濃く反映さえる仕組みなんです」
「要するに、どんな阿呆だろうが、豪族の推薦さえ得られれば、大抵の場合は太守も賛成せざるを得ないって訳さ」
 相変わらず、嵐は容赦がない。
「そして、郡太守もまた、その土地で選出される事が多い。つまり、なあなあの馴れ合いで決まったり、豪族のゴリ押しがあれば太守が反対でも官吏になれたり。無論、推薦した者には相応の責任が生じる筈なんだが、今の朝廷には、それを監査する機構は実質、存在していないんだ」
「疾風様が仰せの通りです。ですから、本当の意味で官吏となるべき人よりも、その地方に取って都合のいい人物ばかりが官吏になる傾向があるんです。……それは、この冀州に限った事はありません」
「だからこそ、さっき聞いたような害虫共でも、のうのうとしていられる訳か」
 彩が、吐き捨てるように言う。
「そして、鈴々様の疑問ですが。そう簡単に処分出来ない理由は、大きく二つ挙げられます。皆さん、おわかりでしょうか?」
「一つは、奴らもまた、この土地の豪族と繋がりがある。だから、迂闊に処分すれば、豪族共の反感を招く……そんなところか?」
「はい、星様。ここ冀州も、豪族の力は決して無視出来ません。彼らの支持を失う事は、即ちこの地の統治に多大な悪影響が出る事になりますから」
「もう一つだが。問題は奴ら三人だけの事ではない。この魏郡全体に、奴らと繋がる根が張り巡らされているのではないか?」
「愛紗さん、正解。だから、今強引な手を打てば、最悪旦那はこの魏郡にいられなくなっちゃう、って訳さ」
 嵐の言葉に、皆の表情が曇った。
「調べれば調べる程、根が深い事がわかりまして。正直、頭を抱えたくなりました」
「今の朝廷の縮図みたいなものですからねー。風も稟ちゃんも、今すぐいい知恵は浮かばないのですよ」
 地道に、根気よく政道を糺す。
 それにより、庶人の支持を広げ、同時に豪族の切り崩し工作を行う。
 それが可能ならば、そうすべきだろう。
 ……だが、飢饉と黄巾党の余波はまだまだ残っている。
 手を打つならば、まさに待ったなしの状態である。
「太守様。何か、お考えはありませんか?」
「うん、おいらもそれは気になってたんだ。旦那、さっきから何か思案顔だし」
 二人だけでなく、皆が私を見ていた。
「悠長な事を言ってはおられぬ、と思ってな。とにかく、我らには思いの外、時がない」
 皆、頷く。
「稟、風、それに疾風。首謀格三名についての、不正はどの程度でまとめる事が可能か?」
「はい。三日、いただけますでしょうか?」
「明日にでも、と言いたいところですけど。状況証拠だけでは、言い逃れされてしまいますからねー」
「手の者を密かに各地に走らせております。やはり、三日はいただきたいかと」
「良かろう。元皓、三人を手伝ってくれ。ただし、秘密裏に、だぞ?」
「はい、太守様」
 手段を選んでいる場合ではない。
 この際、荒療治もやむを得まい。

 各々が役目のために散っていき、場には鈴々と彩だけが残った。
 そこに、
「土方殿、宜しいですかな?」
 声の主は、郭図らだった。
 何やら意味ありげな笑みを浮かべ、立っている。
「何用か?」
「実は、落款をいただきたいのですが」
「落款だと?」
「はいはい。まずは、こちらへ」
 明らかに、何かを企んでいるが、拒む理由もない。
 黙って頷くと、連中に続いた。
「お兄ちゃん、鈴々も行くのだ」
「では、私も参ろう」

 城内を少し歩かされ、文官の溜まり部屋らしき場所に着いた。
 その奥に、竹簡が堆く積まれている。
 それも、尋常な量ではない。
「あれ全て、太守の落款が必要なのです。それも、急ぎですが」
「……何故、そこまで溜め込んだ?」
 咎めたつもりだが、古狸共は平然としたもの。
「私共も、好きでこのようにした訳ではございませんがな」
「然様。太守殿が戦死され、後任の方も定まらず」
「代理すら立てられぬ有様でしたからな。必然の事ですな」
 深刻ぶっているが、その眼は嫌らしく光っている。
「……ならば。私が着任し、既に一週間が過ぎている。それまで、何故報告がなかったのだ?」
「黒山賊の事がありましたからな」
「土方殿がご多忙故、気を遣ったのですがな」
「ま、そんな次第ですが。お役目です、直ちに取りかかっていただけますかな」
 散々に好き放題を言うと、三人は去って行った。
「あ奴ら! 殿を何だと思っておる!」
「お兄ちゃん、ぶっ飛ばしたら駄目か?」
 怒り心頭の二人。
「待て。今此処で怒りに任せて動けば、ますますおかしな事になる。自制せよ」
「クッ……」
「う~、もどかしいのだ」
 気持ちはわかるが、私まで同調する訳には参らぬからな。
 それにしても、よくもここまで積み上げたものと、感心する他ない。
 ……文官ならではの嫌がらせ、それが多分にあるな、これは。
 とは申せ、放置する訳にもいくまい。
 それこそ、職務怠慢と、あらぬ訴えをされかねぬ。
「誰か、これを執務室に運んでくれぬか?」
 その場にいた文官に声をかけてみる事にする。
 が、
「今日はもう、勤務時間を過ぎていますので。では、お先に失礼致します」
 全員が、そう言いながら引き上げていく。
 誰一人として、私と眼を合わせようともせぬ。
 ……ここまで、露骨に非協力的な態度に出るか。
「待て、貴様ら!」
 後を追いかけようとする彩を、羽交い締めにする。
「と、殿! お放しなされ!」
「落ち着け。武官のお前達が文官に手を出したとなれば、お前達もただでは済まぬぞ」
「し、しかし……あの態度。許し難い」
「今は、堪えよ。一時の感情で、全てを台無しにするつもりか?」
「…………」
 どうにか大人しくなった彩を解放する。
「とりあえず、このままでは片付かぬ。運ぶしかあるまい」
「殿?」
「お兄ちゃん? まさか、自分で運ぶつもりか?」
「文官はもうおらぬ。だが、いずれも急ぎと釘を刺されているのだぞ?」
「……何と、理不尽な……」
「……わかったのだ。それならば鈴々が、運ぶのだ」
 そう言うと、竹簡を抱え始めた。
「お兄ちゃん一人に、任せっきりは良くないのだ。鈴々は頭は良くないけど、このぐらいなら出来るのだ」
 それを聞いた彩も、竹簡に手を伸ばす。
「ははっ、鈴々の言う通りだ。殿の、せめてもの手助け、私もさせて貰おうではないか」
「二人とも、そのような事はせずともよい」
「へへ~ん、もう始めちゃったのだ。今更、止められないのだ」
「然様。それよりも殿、急ぎませぬと執務室が埋まってしまいますぞ?」
 二人は、かなりの量を抱えて歩み出してしまっていた。
「……相わかった」
 だが、ただ二人に運ばせる訳にはいかぬ。
 女子に力仕事を押しつけるなど、男として己が許せる事ではない。
 そう思い、私も竹簡を手に取った。
「あ、張コウ将軍……。な、何をなさっておられます!」
 あれは……預かっている、韓馥の兵か。
「何、文官の怠慢で殿が困っておられるのでな。私にやれる事をしているまでだ」
「い、いけません。仮にも、あなたは私達の指揮官ではありませんか!」
「元指揮官、だ。今の私は、お前達に対する権限は、何もない」
「いいえ! 我々が従うのは、張コウ将軍ただお一人です。おい、みんなを集めろ!」
「お、おい! 誰もそのような事は頼んでいないぞ」
 彩が叫んだが、兵士は頭を振る。
「頼まれなければ動かない、我らはそんな考えは一度たりとも持った事はありませんよ。張コウ将軍が信じた太守様なら、我々だって信じますよ」
「お、お前ら……」
 そうしている間にも、騒ぎを聞きつけたのか、元義勇軍の兵達も駆けつけてきた。
「土方様! それに、張飛様まで」
 そして、韓馥の兵共々、次々に集まり出す。
 結局、何百という兵が集まり、人海戦術での竹簡運搬が開始。
 絶望的な多さに見えた山も、流石にあっという間に片付いた。
 ……その分、執務室が文字通り、埋め尽くされてしまったのだが。
「皆、ご苦労だった。この通りだ」
 頭を下げた私に、
「殿、お止め下され。これは、私が好きでした事」
「そうそう。お兄ちゃんは気にする事ないのだ」
 兵達も、皆笑顔で頷いている。
 本当に、私はよき仲間を得たものだ。


 ……さて。
 皆が去り、執務室を埋め尽くす竹簡の一つを、手に取った。
 広げて読み進め、ふと手が止まる。
 落款とは、印の事。
 ……だが、私にはその印がない。
 それに、何処にどのように印を押すのか。
 何一つ、聞かされていない事に、今更気付くとは。
 尋ねようにも、文官は皆、引き上げてしまっている。
 古狸共には、聞くだけ無駄であろう。
 ……ううむ。
 頭を抱えていると、
「旦那、いるか……って、何じゃこりゃ」
 呆れながら、嵐が顔を覗かせた。
「全て、私の落款待ちの竹簡だ。しかも、悉く急ぎとの念押しがあった」
「やれやれ、あの阿呆共の嫌がらせか。しっかし、やり方が本当に陰険だな」
 そうだ、嵐に尋ねてみるとするか。
「嵐。すまぬが、私は落款の事、何も聞かされておらぬ。様式も含めて、な」
「……そっか。旦那は引き継ぎなしに、いきなり太守になったんだっけ。じゃ、おいらが教えてやるよ」
 そう言って、嵐は竹簡の一つを広げる。
「旦那、落款自体はどんな物か、知ってるかい?」
「私の国では、印の事を指していたが。嘗ては、花押であったようだ」
「ああ、それそれ。印を使うのは、陛下とかごく一部の人だけでね。郡太守だと、花押が普通だね」
 ふむ。
 印が必要となれば、その日数が必要になるが、それは避けられたようだな。
「それで、書簡の最後。その部分が、落款を記す場所になってる」
「様式は?」
「昼行灯は、姓と字にしてたけど。旦那は字がないんだよね? だったら、姓名でいい」
「なるほど」
 私は筆を持ち、嵐が示した場所に、花押を記した。
「これで、この竹簡は落款済み、という訳。後は文官に渡すだけなんだけど……そういや、文官は?」
「……うむ」
 私は、先ほどまでの経緯を、簡潔に述べた。
「はぁ? するとあの阿呆共だけじゃなく、連んでいる文官共まで、旦那を見捨てて帰っちゃったって事かよ?」
「そうだ。だが、今の私が如何に指示をしたところで、連中は従わぬ」
「酷すぎるぜ、それ。だいたい、これだって仕分けすらしてないしさぁ」
 嵐はいくつか、竹簡を開いていたが、
「……旦那。アンタ、完全に舐められているぜ?」
 そう言って、手にした書簡を机に広げた。
「見ろよ。庶人からの訴状だけどさ、これ……県令の仕事だぜ?」
「県令? それならば、前任者がそのまま残っている筈だが」
「だから、舐められてるって言ったんだよ。……にしても、これは職務放棄だな」
 と、嵐は眼を光らせた。
「旦那。今日の当番だった文官、名前はわかるか?」
「それならば、出勤の記録を照合すれば良い筈だ」
「よし。……でも、その前にこれ、仕分けが必要だな。ちょっと待ってろよ」
 嵐は、弾かれたように飛び出して行く。
 そして、稟に元皓、更には星と愛紗、疾風、そして一旦下がった筈の彩までも、連れて戻ってきた。
「嵐、一体何だと言うのだ……な、何だこれは?」
 文句を言おうとしたのであろうが……。
 尤も、誰しもこの量を見て、驚かぬ方が無理というもの。
「旦那が困ってるんだ。みんなで手分けしようぜ」
「嵐。だが、皆には各々、任務を与えてあるのだぞ?」
「わかってるよ、旦那。だから風さんと鈴々は外したんだって」
 ……無茶をしているようで、見るべきところに誤りはない、という事か。
「稟さんと元皓は問答無用。疾風さんも元官吏なんだし、愛紗さんは私塾を開いていたんだろ? 星さんも読み書きちゃんと出来るんだし、彩さんは昼行灯の仕事を手伝っていたし。ほら、みんな問題ないじゃないか」
「……強引ですね。ですが、確かにこれでは、歳三様が身動き取れないのはわかりました」
「それならそうと、ちゃんと説明してからにしてくれれば良かったのに。嵐はいつも強引過ぎるよ」
 稟と元皓は、溜息をつく。
「はいはい、無駄口聞く暇があったら、さっさと始める。愛紗さんと星さんは、まず無関係の書簡を選り分けて。彩さんと疾風さんは、内政と軍事の選り分け。稟さんと元皓は、更にそれを精査。おいらは、旦那の横にいて手伝いに専念する。さっさとやっつけちまおうぜ?」


 そして。
 外から、チチチと鳴き声が聞こえた。
 雀の囀りか……?
 私は、凝り固まった肩を回しながら、席を立つ。
「すうすう……」
「ムニャムニャ……」
 執務室は、まさに死屍累々、といった風情であった。
 皆、着の身着のままで、思い思いの場所で眠っている。
 ……この状態で、よく各々の寝る場所があったものだ。
 結局、竹簡の山は見事、片付いた。
 大半は県令や県長など、本来は郡太守の処まで持ち込まれぬものばかり。
 それ以外も、重要な案件はほんの僅か。
 嵐曰く、代理すら立てられない非常時であれば、文官の協議で決を下しても構わぬものが殆どらしい。
 ……さて、顔でも洗って参るか。

「おや、お兄さん。おはようですよ」
 井戸のところで、風と出くわした。
「うむ、おはよう」
「……酷いお顔ですねー。徹夜してしまいましたか?」
「……ああ。そう言う風こそ、一睡もしていないのではないか?」
「いえいえ、風は何処でも眠れますからご心配なく。でも、いきなり稟ちゃんと元皓ちゃんを連れて行かれたのには、ちょっと困りましたけどね」
「済まぬ。二人にも、手伝わせてしまったのだ」
「仕方がないのです。……お兄さん、ちょっと」
 と、風は手招きをする。
 私が屈むと、そっと耳打ちをしてきた。
「郭図さん達の事、動かぬ証拠を見つけたのですよ。風も頑張りましたから」
「……そうか。良くやったな、風」
 その頭を、そっと撫でてやる。
「ちゃーんと、後でご褒美はいただくのですよ。それよりお兄さん、善は急げって事で」
「……うむ」
 井戸水を汲み上げ、冷たい水で気を引き締めた。


 その後で。
 私の事を罵倒しようと手ぐすねを引いてきた古狸共に、処理を終えた竹簡を突きつけた。
「ま、まさか……あ、あれ全部を……?」
「そうだ。急ぎ、と申したのはその方らではないか」
「あ、あははは、さ、然様でしたな」
 全員、顔が引き攣っていた。
 ……さて、古狸共に引導を渡す時が来たようだな。 

 

三十八 ~大掃除・壱~

 
前書き
9/5 誤字修正を行いました。
なお、彩の台詞は抜けではなく、意図した通りなのでそのままとしています。 

 
「はっ! ふっ!」

 四半刻ほど、無心に剣を遣う。
 上半身は諸肌だが、寒さを感じる事はない。
 徹夜明けでぼやけた頭が、次第にすっきりしてくるのが実感出来た。
 そこに、誰かが近づいてくる気配がした。

「あれ? お兄ちゃん、鍛練か?」
「鈴々か」
「何か、すっごく強そうな氣を感じたのだ。そうか、お兄ちゃんなら納得なのだ」

 妙に、嬉しそうだな。

「だが、個人の武では、鈴々や彩らには勝てぬ。無論、雑兵や賊らに後れを取る訳にはいかぬが」
「そうか? 愛紗も疾風も、お兄ちゃん、本当に強いって言っているのだ」
「ふっ、あの二人か。それは、大仰に申しているだけであろう。それよりも鈴々、頼みがある」
「お兄ちゃんの頼みなら、平気なのだ。何をすればいいのだ?」
「うむ。今日に限り、私が申し伝えるまで如何なる者であろうが城内外の出入りを差し止めよ。そのように、兵らにも伝え、徹底させて欲しいのだ」
「にゃ? 相手が誰でもか?」
「そうだ。仮に、陛下であろうとな。無論、此処にお運び遊ばず事はあり得ぬがな」
「合点なのだ!」

 駆けていく鈴々の後ろ姿を見送り、私は再び兼定を手にする。
 今少し、雑念を払っておかねば。



 更に四半刻ほど、型を遣い、兼定を収めた。

「はぁぁぁ……」

 ゆっくりと息を吐く。
 全身に、心地よい汗をかいたな。

「彩(張コウ)。何用か?」

 私が声をかけると、物陰から姿を見せた。

「殿。気付いておられましたか」
「途中からだがな」
「さ、然様ですか」

 慌てて、目を逸らす彩。

「如何致した?」
「あ、い、いやっ! そ、そのっ」

 顔を赤くしつつも、横目で垣間見ているようだが。

「そ、その……。殿の裸体は、初めて……」

 なるほど、そういう事か。

「では、私の部屋で待つが良い。汗を流してから参る」
「は、はっ!」

 足早に立ち去る彩。
 ……やはり、如何に優れた武官とは申せ、女子には変わりない。
 今少し、気遣わねばならぬか。



 井戸水を何度も被り、着替えた後で、私室へ向かう。

「待たせたな」
「い、いえ」

 まだ、多少顔が赤いな。

「済まぬ。見苦しきものを見せてしまったな」
「そそ、それはわ、私の方こそ、ととと、とんだ無礼を」

 吃りまくる彩もまた、新鮮だな。
 ……が、これでは話が進まぬ。

「彩。用件を申せ」
「……はっ」

 漸く、いつもの剛毅な彩に戻ったようだ。

「殿。大掃除の前に、一つだけ気掛かりがありまして」
「うむ、忌憚なく申すが良い」
「では。不正を働いた文官の処分は当然なれど、兵や武官は如何なさるおつもりか?」
「郭図らとの繋がりがある者共、という意味か」

 彩は、頷く。

「不正は前の太守ぐるみとなれば、武官や兵が全員無関係……とは考えにくいかと」
「確かにな。だが……」
「そこまでは手が廻らぬ、ですな?」
「そうだ。本来なら、一網打尽が望ましいのだが」

 悪事を働く輩は、己の保身に対する嗅覚が人一倍、鋭いのが常。
 あの古狸共もまた、例外ではあるまい。

「殿。この魏郡に到着した日の事、覚えておいでか?」
「忘れる訳がなかろう。百官総出で、歓迎の祝宴と称して懐柔に出てきたのだからな」
「うむ。だが殿は、それを手厳しく突っぱねられた」
「その結果が、古狸共と筆頭とする、数々の嫌がらせ、という訳だ」
「……殿にはまだ申し上げておりませなんだが、旧来の武官や兵の一部にも、意図的に職務怠慢をする者共が混じっている様子でして」

 私利私欲に塗れた武官や兵など、害悪でしかない。
 むしろ、得物を手にしている分、更に悪質とも言える。
 極論すれば、山賊共と何ら変わらぬのだ。

「それも含め、私や皆に散々嫌がらせを繰り返した。そうする事で実務を滞らせ、私が頭を下げる、とでも思ったのであろう」
「でしょうな。竹簡の一件はその最たるもの。ですが、殿は見事にそれを跳ね返してしまわれた」
「皆の尽力があっての事だが、奴らはぐうの音も出せぬ有様であったな」
「先ほど、古狸めらとすれ違ったが、目を合わせようともしませぬ。あれだけ殿や我らを侮っていただけに、その反動が出ているのかと」

 黄巾党絡みでの風聞は、どの程度耳にしていたかはわからぬが、あの様子では私を単に運が良いか、賊相手に戦功を立てた輩……その程度に見ていた節がある。
 だが、それは私のみならず皆に対しても、甘過ぎる認識だったとしか言えまい。
 やはり、この世界でも、後世に汚名を残した者はそのまま、という事か。

「……わかった。では、それも含めた手立てを、早急に考えねばなるまい。稟と風、それに元皓(田豊)と嵐(沮授)を呼んでくれ」
「応っ」

 部屋を飛び出していく彩の背を見ながら、ふと思う。
 ……一見、武一辺倒に見える彩だが、やはり張コウという人物なのだと。
 私がおらねば、やはり華琳に仕える事になっていたのであろうか……。



 謁見の間に赴いた私の元に、文官が集められた。
 昨日溜まり場にいた者全てが対象である。
 非番の者もいたが、有無を言わさずの出頭を命じ否は言わせなかった。

「何事でございますか。如何に太守と言えども、些か強引ではありませんか」
「全くで。我らは、理不尽には屈しませんぞ?」

 全員が口々に不満を申し立て、露骨に不機嫌な顔をする。
 中には、気丈にも睨み据える者すらいる。
 その気骨はなかなかの物だが、発揮すべき処を誤ったな。

「その方らに、見せたい物がある」

 合図と共に、謁見の間に引かれた幕が開く。
 そこには、大量の竹簡が積まれていた。

「これが、何だと?」
「中を改めよ」
「…………」

 渋々ながら、各々がそれを手に取り、広げる。
 その一人の手許から何かがはらり、と落ちた。
 それは、黄色く色づいた一枚の葉。

「これは……?」
「黄色の葉を挟んだ竹簡。……それは本来、県令が処理すべき案件が記されている。確かめてみよ」
「…………」
「他も改めてみるがいい。赤い葉は県長、茶色の葉は尉の案件だ」
「で、これが何と言われるのですかな?」

 ふむ、まだ余裕綽々か。
 ……それとも、気付かぬ程愚かなだけか。

「では、お前達に尋ねる。これらを仕訳し、しかるべき先に割り振るのが役目の筈。だが、昨日の時点でこれは全て、郡太守分として置かれていた。何故だ?」
「そ、それは……」
「職務怠慢も許し難いが、職務放棄は重大な違法行為。それを知らぬ貴様らではあるまい?」

 みるみるうちに、全員の顔が青ざめて行く。
 今更、己の立場を理解し始めたか。

「も、もしや……あの山を全て、精査なされた……と?」
「そうだ」
「で、出鱈目だ! 俄太守などに、こんなに早く、誤りなく書簡の仕訳が出来る筈などない!」

 一人が、そう叫んだ。

「往生際の悪い奴が、まだいるようだな。けど、それはおいらが調べたんだぜ?」

 嵐が、そう言いながら連中の前に姿を現す。

「な、何だ。お前のような小娘に用などない」
「はん。語るに落ちる、とはてめえらの事だな。おいらは沮授、前冀州刺史の文官頭やってたモンさ」
「な……」
「少なくとも、この魏郡だけ他の郡とやり方が違うなんて話は聞いた事がないがな。それでもまだ、ゴチャゴチャぬかすのか? ああ?」

 啖呵を切られた文官共は池の鯉の如く、ただ口を開いたり閉じたりするばかり。

「嵐。この場合、適切な処分は何か?」
「そうさな。職務放棄は私財没収の上に一族郎党死罪、ってとこかな?」
「し、死罪だって?」
「無茶苦茶だ! 職権乱用だ!」

 喚き騒ぐ文官共に、私は歩み寄る。

「黙れ。貴様ら、官吏とは何か。それを忘れ、本来の職責を果たさぬ者など、死すら生温い!」

 兼定を抜き、じりじりと迫る。

「お、お、お許し下され!」
「い、命ばかりは! 何卒!」

 見苦しく、この期に及んで命乞いとは。
 恐怖からか、失禁する者すらいる始末だ。

「主。お待ち下され」

 その時。
 星が、私の前に立ちはだかった。

「星、何の真似か。そこを退けよ」
「いいえ、なりませぬ。如何に主とは申せ、こればかりはお止め申しますぞ?」

 すると、傍に控えていた彩が、剣に手をかける。

「星! 貴様、殿の思し召しに逆らうつもりか!」
「ああ! 主に真名を預けた身だが、無法には加担できん!」
「見損なったぞ、それでも貴様、武人か! こうなれば、貴様諸共、そこの阿呆共を皆殺しにしてくれるわ!」

 縮み上がった文官共が、必死になって星に縋り始めた。

「お、お助け下さいませ! 趙雲将軍!」
「な、何でも致します。金子をお望みなら、如何様にも。ほ、他にもご所望があれば、何でも。で、ですから!」
「……その言葉、二言はあるまいな?」

 星が念を押すと、文官共はガクガクと首肯した。

「そうか。……主、こ奴らは、斯様に申しておりますぞ?」

 さっきまでの気迫はどこへやら、星は普段の飄々とした様に戻っていた。

「……は?」
「あ、あの……趙雲将軍……?」

 そんな星の豹変ぶりに、文官共は目を白黒させる。

「さ、では全て吐いて貰おうか」
「だ、騙したな!」
「騙すとは人聞きの悪い。私が止めなければ、貴様らは皆、主の手にかかっていたのだぞ?」
「詭弁だ!」
「ほう? 私に言ったではないか、何でもすると、な?」
「だ、黙れ!」
「……武人に対し、言葉を偽るとは。貴様、死に値する!」

 喚き散らす文官に、星が龍牙を向けた。

「はいっ、はいっ、はいっ!」

 鋭く繰り出される槍。
 だが、その一突きたりとも、文官を傷つけはしない。
 その代わり、冠に衣服は穴だらけ、襤褸と化していたが。

「おお、手許が定まらぬな。邪な心の輩は、龍牙では貫けないものと見える」
「全く、精進が足りないのではないか? 私の戦斧ならば、一思いに。……おっと」

 疾風が、手にした大斧を床に落とした。
 大音響と共に、床に大きな穴が開く。

「私とした事が、つまらぬ失態を。では、今度こそ」

 躙り寄る疾風から逃れようにも、星に加え、剣に手をかけたままの彩が仁王立ちしているのだ。
 この場から逃れる方法など、私も思いつかぬな。

「も、もう止めてくれ! 知ってる事は何でも話す!」
「だ、だから、この通りだ!」

 ついに堪りかねたのだろう、全員がその場にひれ伏した。



 結局、思いもよらぬ事実まで含め、文官共は洗いざらい吐いた。

「嵐、元皓。死一等を減じ、私財没収の上一族郎党全て魏郡からの追放でどうか?」
「まぁ、命惜しさとは言え吐いたんだし。おいらは賛成かな」
「僕も、それで十分と思います」
「よし。嵐は星と、元皓は愛紗と共に、速やかに処分にかかれ。従わぬ者は、全て捕らえよ」
「あいよ、任せといて」
「はい、太守様」

 その間にも、稟と風は聞き出した事を取りまとめていた。

「歳三様。これで十分かと」
「後は、風達が集めた証拠と合わせれば、もう年貢を納めるしかないかとー」
「ならば、郭図らを呼ぶとしよう」

 すかさず、召喚の使者を出した。
 ……が。

「郭図は頭痛、審配は腹痛で参れぬ、だと?」
「はっ。そして逢紀様は、家人も行方を知らぬとの事にござります」

 その報告を聞いた私は、座を立った。

「皆、大掃除の仕上げと参るぞ。稟、疾風の二人は審配の屋敷を頼む。風、私と共に、郭図の屋敷へ」
「御意です」
「御意!」
「御意ですー」
「そして、彩。逢紀は逃亡を謀る恐れがある。鈴々と共に、城門と城壁を固め、絶対に外に出すな」
「お任せあれ」



 郭図の屋敷は、城に程近い場所にある。

「大きなお屋敷ですねー」
「うむ。ただの文官の身分では、これだけの規模の屋敷には到底住めまい」
「ですねー。ではでは、郭図さんのところへ参りましょう」

 風と兵を連れ、門に向かう。
 すると、厳つい男が、行く手を遮る。
 門番なのだろうが、お世辞にも人相が良いとは言えぬな。

「止まれ! ここを何処だと思っている!」
「魏郡太守、土方だ。郭図は在宅であろう、直ちにここに連れて参れ」
「主人は今朝から酷い下痢に見舞われておられる。何人たりとも通してはならぬ、との仰せだ。太守だろうが何だろうが、お引き取り願おう」
「おかしいですねー。郭図さんは確か、頭痛と仰っていた筈ですが」

 風の指摘に、男は一瞬怯んだ。

「と、とにかく、取り次ぎは無理だ。さ、お引き取りを」
「時間を稼げ、そのように指示をされているのか?」
「な、何の話だ?」
「惚けるな。さて、そこを退くか、郭図と共に捕らえられるのが望みか?」
「お、脅すのか?」
「……脅しかどうか、試してみるか?」

 兼定の鯉口を切り、男に迫る。

「や、や、やってやるっ!」

 手にした槍を、繰り出してきた。
 ……星に比べると、蠅でも止まりそうな勢いだな。
 兼定を抜くと、穂先を斬り飛ばす。
 そのまま、刃を男の頸に当てた。

「さて、もう一度尋ねるぞ。このまま死を選ぶか、そこを退くか」
「さ、さっきと選択肢が違うじゃねぇか!」
「武人に刃を向けたのだ、当然覚悟があっての事。私は、そう受け取ったまでの事」

 男は、ガタガタと身体を震わせた。

「わ、わかった。退く、退くから、剣を引いてくれ」
「……良かろう」

 兼定を収めると、男は安堵の溜息を漏らした。
 その刹那。

「ぐへっ!」

 男の腹に拳を叩き込んだ。

「叩けば埃の出る者と見た。捕らえて、牢に入れておけ」
「はっ!」

 兵が二人、男を縛り始めた。

「残りの者は、参るぞ。続け」
「応っ!」

 抵抗する家人を押し退け、屋敷内をくまなく探す。

「いませんねー」
「うむ。だが、屋敷は取り囲み、何人たりとも出してはならぬと命じてある。……何処かにいる筈だ」

 ふと、私は庭に眼を向けた。

「あの建物は?」
「はっ、蔵のようです。家人の話では、滅多に人の出入りはないとの事ですが」

 兵士の答えに、風と顔を見合わせ、頷いた。

「あそこだな」
「ですねー」

 そのまま庭に出て、蔵の前に立つ。
 だが、頑丈そうな鍵がかけられ、扉はびくともせぬ。
 家人に糺したが、鍵はないとの一点張りである。

「歳三様! 審配は捕らえました!」

 そこに、稟と疾風が駆けつけてきた。

「それで歳三殿。郭図はどうなりました?」
「恐らく、この中なのだが。この通り、鍵がかけられている。家人も鍵はない、と言い張っているようでな」
「そうですか。ならば、私にお任せを」

 疾風はそう言い、大斧を構える。
 そして、

「やっ!」

 バキン、という音と共に、見事に錠前が壊された。

「よし、入るぞ」
「はっ!」

 重い扉を押し開けた。

「ひ、ひいっ!」
「……何と言う、醜さ」
「……鬼畜めが」
「……問答無用で、地獄に落ちやがれなのですよ」

 皆が呆れ、そして冷ややかに郭図を見る。
 その周囲には、鎖で繋がれた、全裸の少女が数名、ぐったりとしていた。

「……さて、郭図。何か、言い逃れはあるか?」
「ひ、土方……」

 もう、虚勢を張る気力すら失せたようだな。

「風の調べた通りでしたねー。郡の見麗しい女の子を拐かしては、このように慰み者にしていた、と。死ねばいいのですよ」
「私も、全面的に賛成です」
「……歳三殿。是非、その役目、私に」

 三人の怒りは、凄まじいものがある。
 ……無論、私もはらわたが煮えくり返っているが。
 私は兼定を抜き、郭図へと躙り寄った。

「よ、寄るな……寄るなっ!」
「……貴様には死を以て贖うしかない。が、その前に、私からの鉄槌を下す」

 兼定を一閃。

「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」

 郭図は、股間を押さえて転げ回る。
 その手の隙間からは、鮮血が噴き出してきた。

「宮刑ですかー」
「確かに、相応しい処罰ですね」
「……ああ。ですが歳三殿、我ら以上に容赦がありませぬな」
「当然だ。こ奴は、それだけの事をしたのだからな」



 逢紀は女装して逃亡を謀ったが、彩が見破り捕縛。
 異変を察した豪族が押し寄せたが、全て鈴々が追い払った。
 こうして、魏郡の大掃除は、山場を超えた。 

 

三十九 ~大掃除・弐~

 
前書き
12/25 会話の括弧閉じを修正しました。 

 
「おい、キリキリ歩け!」

 縛られた審配と逢紀が、謁見の間に連行されてきた。
 郭図は、もう立ち上がる気力もないのか、床でぐったりとしている。
 未だ出血が止まらぬのか、股間は朱に染まったままだ。
 無論まだ殺す訳には参らぬ故、手当は施してはいるが。

「さて、何故こうなったかは……当然理解していような?」
「土方殿! 貴殿は何をしているか、わかっておられるのか!」

 唯一、審配だけは気力が残っているらしい。

「ほう? 風、あれを」
「はいはーい」

 風は、会計帳簿を取り出した。

「審配さんにお伺いしますけど。例えばですね、今年の魏県の税収額が明らかにおかしいのですよ。ここ数年の平均から見ても、少な過ぎるみたいでして」
「し、知らん!」
「おやおや、この帳簿の監査と承認は、審配さんが責任者と聞いていますがねー」
「…………」
「責任を負う、つまり知らなかったでは済まされませんよねー?」
「黙れ、小娘! 身分を弁えろ!」
「おおぅ、そんな事を言っていいのですかねー?」

 と、風は口に手を当てて笑う。

「ど、どういう意味だ?」
「いえいえ。審配さんはもう、官吏ではありませんから」
「ななな、何を巫山戯た事を!」

 黙って聞いていたが、そろそろ口を挟んでも良かろう。

「巫山戯てはおらぬ。貴様の屋敷から押収した裏帳簿、本来は公に納められる筈の税収を、懐にしていた証拠。職責剥奪には十分な理由であろう」
「郡太守に、そのような権限などない!」
「往生際が悪いぞ。おい、連れて参れ」
「はっ!」

 後ろ手に縛られた文官数名に、城下の商人らが兵に連行されてきた。

「貴様らに、改めて問う。各地より集めた税を誤魔化し、着服するよう指示した者が誰か、今一度申せ」
「は、はい。そこにいる、審配様です」
「何を馬鹿な!」
「もう諦めましょうや。証拠が揃っていて、今となっては言い逃れようもありませんぜ」

 ガクリ、と審配は膝を折った。

「さて、逢紀よ。貴様も、何か言い逃れするつもりか?」
「……は、はは……。も、もうおしまいだ……あははは……」
「どうやら、追求するまでもないみたいですねー」
「そのようだな。全員、牢へ放り込んでおけ」
「ははっ!」

 まずは、古狸共は片付いたな。

「稟。城内の官吏に残らず、庭に集まるように通達せよ。一刻後、遅れは許さんとな」
「残らず、ですか」
「そうだ」
「わかりました」
「元皓(田豊)、嵐(沮授)。経緯を記した高札を、市中の主立った辻に立てよ。数は揃えられるだけで良い、急げよ」
「太守様。高札とは一体?」
「それに、急げって言われても。手間がかかるモンじゃないのか?」

 そうか……高札の習慣は、此処ではないようだな。

「板に文言を記し、それを一本の柱に打ち付けて立てる。構造は至って単純だ、費えもさほどかかるまい」
「……文言を書く方が、骨ですね。わかりました、太守様のお話が終わり次第、文官仲間に手伝って貰います」
「ったく、元皓が受けるんなら、おいらも手伝わない訳にはいかないな。わかったよ、やるよ」

 さて、後は豪族共への備え、か。
 ふう、一息つくにはまだまだ成すべき事が多いようだな。



 一刻後。
 集まった官吏の目の前に、三人を引き出した。

「あ、あれは郭図様?」
「審配様に逢紀様まで……」

 皆の間に、動揺が走る。

「静まれ。……改めて名乗っておく。私がこの度、陛下よりこの魏郡太守を仰せつかった土方だ」
「…………」
「諸君の中には、郷挙里選でなく、いきなり名も素性も知らぬ私がこの座にいる事に対し、快く思わぬ者もいるだろうが」

 言葉を切り、皆を見渡す。
 戸惑いの色を浮かべる者、冷ややかに見据えてくる者、無表情の者……反応は様々だ。

「諸君らが、私の事をどう思おうが勝手だ。だが、一つだけ、改めて考えて欲しい事がある。官吏とは何か、という事だ」

 再び、場が騒然となる。
 今更何を、という者、これから私が何を言い出すのか、という者、半々と言ったところか。

「言うまでもないが、諸君が日々の糧を得られているのは、庶人が納める税があるからだ。では、何故庶人は税を納めるのか……そこの者、答えよ」

 一番前にいた、中年の官吏に問いかけた。

「無論、それが義務だからでしょう」
「確かに義務だが。では、重ねて問う。その庶人が義務だけを押しつけられて、自分に得るものがない……そうなったら、どう考えるか?」
「それは……」

 言い淀むその官吏の隣にいる、若い官吏に眼を向けた。

「では、お前はどう思う?」
「はい。働く意欲を失うでしょう」
「それで、その後はどうなる?」
「そうですね、逃亡するか……或いは、賊に身を落とす者もいるかと」
「そうだ。今の魏郡は、まさにその状態。そして、それを主導していたのが、この三名だ」

 居並ぶ官吏の一部が、明らかに狼狽している。

「愛紗、三名の罪状を読み上げよ」
「はっ」

 愛紗は、皆の前に立ち、良く通る声で文書を読み上げ始めた。

「まず、郭図。一部商人と結託し、郡で使用する物品の購入に便宜を図る見返りに、多額の賄賂を受け取っていた。また、郡内の子女を拐かし、己の慰み者として監禁していた」
「拐かしだって……そ、そんな……」
「静まれ。では、次に審配。会計監査の役にありながら、徴収した税の額を誤魔化し、それを自らの財として不正に貯め込んでいた。また、お前達官吏に本来支給すべき給金の一部を、税収不足を名目に減らし、差額を己のものとしていた」
「何だって!」
「馬鹿な! その為に俺達は協力していたってのに、騙されていたのか」
「まだ終わってはおらぬぞ、静まれ!」

 愛紗の一喝で、官吏達は押し黙る。

「そして、逢紀。城壁の補修や市井の費えとして立てられた予算を、名目を転じて己の一族の利に繋がる事業への投資としていた。また郭図同様、一部の商人と結託していた」
「…………」

 どうやら、全てを知っていた者は、この中にはほとんどおらぬと見える。
 隠しようのない動揺が、それを物語っていた。

「さて……。諸君、この三名の罪状は今、明らかにした通り。既に証拠も揃っており、言い逃れの許されぬところだ。だが、この者らばかりではない、お前達にも、この三人の跳梁跋扈を許してきたという、許し難い罪がある」
「た、た、助けてくれーっ!」

 たまりかねたのか、一人の官吏がその場から逃げ去ろうとする。

「取り押さえよ」
「はっ!」

 すかさず、控えていた兵により、捕縛された。

「私は、全員の罪を明らかにするつもりはない。そのような事をすれば、この魏郡がどうなるか、その程度は理解しているつもりだ」
「…………」
「今後、官吏としてあるべき姿に戻り、庶人の暮らしを守るために尽力するというのであれば、此度の事については全て、不問と致す」

 再び、場がざわつき始める。

「それに不服な者、従えぬという者は、この魏郡には不要。三日の猶予を与える、その間に立ち去るが良い」

 官吏達は、互いにひそひそと話をしたり、あらぬ方角に視線を向けたり。
 事態の急展開に、どうすべきか判断がつきかねている者が大半、か。

「なお、軍役にある者だが。本来、郡太守には軍権はないとの事。とは申せ、この冀州には現在、それを持つ者はおらぬ。よって、沙汰あるまで私が、一時的にそれを預かる。左様、心得よ。同じく、不服の者は三日のうちに立ち去れ」

 何のために呼ばれたのか理解していなかったのであろうが、武官共は漸く、得心がいったらしい。
 官吏と同じく、互いに何かを言い合っている。

「も、申し上げます!」

 そこに、兵が駆け込んできた。

「市中の庶人達が、一斉に城に押し寄せてきました」
「ほう。暴動か?」
「い、いえ。どうやら、触を目にしたようです」

 そして、叫び声が聞こえ始めた。
 郭図らへの弾劾を求める声……それは、居並ぶ官吏や兵の耳にも入ったようだ。

「では、私からの話は以上だ。己が何を成すべきか、今一度よく考えよ」

 それだけを言い残し、私はその場を後にする。

「さて、風。庶人とも話し合いが必要であろう、参るぞ」
「確かに、お兄さんが行かれた方がいいかも知れませんねー。騒ぎが大きくなっていますから」
「そういう事だ。言葉が足りぬ、と見たら補佐を頼むぞ」
「御意ですよー」



 夜になり、漸く一息つく事が出来た。
 主立った皆を、市中の食堂に集めた。

「大掃除は、これで目処がついた。皆、ご苦労だったな」
「はっ」
「遅くなったが、黒山賊の事、大掃除の事、改めて礼を申す。今日は私の持ちだ、存分に過ごせ」

 卓上には、様々な料理と、酒が並べられている。

「お兄ちゃん、本当に好きなだけ、食べていいのか?」
「うむ。今宵は、な」
「やったのだ♪」

 大食漢の鈴々は、嬉しげに大皿に箸を伸ばした。

「これ、鈴々。ではご主人様、乾杯と参りましょう」
「わかった。では、乾杯」
「乾杯!」

 そして、思い思いに皆が、料理や酒を口にする。

「それにしても、芝居とは言え真に迫っていたな。私も、本気で斬りかかりそうになったぞ?」
「ははは、あれが手っ取り早い、咄嗟にそう思ったのだよ、彩(張コウ)」

 昨日の、文官共を前にした一件か。

「おいらも、最初は旦那と星さんが本気で喧嘩始めたのかと、ひやひやしたぜ?」
「ふっ、相手は星だぞ? そのような懸念など、初めからしておらぬ」
「そうですな、私も天地が入れ替わろうとも、主に槍を向けるなど、出来ませぬ」

 そう言いながら、星はもたれかかってきた。

「こ、こら! 場を弁えろ、星!」
「おや、妬いておるのか、愛紗? 良いではありませぬか。なぁ、主?」
「……程々に致せ。ここは市中だという事を、忘れるな」
「やれやれ、相変わらず主は堅い御方だ」
「星がくだけすぎなだけですよ。それにしても、今回は大変でした」

 しみじみと、稟が言う。

「全くだよ。旦那、決断が早いのは大したモンだけどさ」
「でも、太守様のご決断があったからこそ、最短で悪しき毒を絶つ事が出来そうですよ」
「ああ。韓馥殿では、到底望めない胆力だからな。殿には、敬服するばかりだ」
「風がお仕えするのに相応しいと、見込んだお兄さんですよ? まだまだ、これからなのです」
「確かに、これからが本番……。そう言えば歳三殿、豪族共ですが。静観を決め込んだ模様です、郭図らの悪行が明白で、擁護に回れば自らにも火の粉がふりかかる事を恐れているのでしょう」
「う~、みんな難しい話ばかりなのだ。折角のご馳走が、冷めてしまうのだ」

 と言いつつも、鈴々は取り皿を山盛りにしているのだが。

「ははは、鈴々の申す通りですぞ?」
「そうですよ、皆さん。この時だけは、仕事から離れましょう」

 そして、和やかに歓談が始まった。



 半刻程、過ぎた頃であろうか。
 ガシャン、と皿の割れる音がした。

「何事でしょうか? 見て参ります」

 愛紗が席を立つと、

「や、やめて下せぇ!」
「うるせぇ! てめぇらなんかに、何がわかる!」

 続けて聞こえる、怒声。

「酔っぱらい同士の喧嘩か?」
「全く、無粋な。酒の席を何だと思ってる」

 穏やかではないな。
 あまり、庶人の事に介入するのは好ましくないが、やむを得まい。

「彩、疾風(徐晃)、参れ。他の者は良い」
「承知」
「はいっ!」

 騒ぎの張本人は、兵士数名。

「酒に酔って暴れているようです」

 と、愛紗。

「ふむ。何処の兵か?」
「少なくとも、元義勇兵ではありませぬな」
「私の部下でもありません」
「韓馥殿の兵でもないようだ」

 となると、元々このギョウにいた兵か。
 とにかく、話を聞いてみるとしよう。

「何を騒いでいる」
「あ、アンタは……」
「私が誰かはわかるようだな。では、貴様らが何をしているのか、当然わかっているのであろうな?」
「う、うるせぇ! アンタなんかに、俺の気持ちがわかってたまるか!」
「何! 貴様!」

 いきり立つ彩を、手で制した。

「此処は、私に任せよ」
「……は」

 私は、兵らと向き合う。

「私の処置が不服か? 立ち去る自由は与えた筈だが」
「何が自由だ! 今、裸一貫で放り出されたらどうなるか、アンタにはわかってるのかよ!」
「生きるための糧や金に事欠く、そう申すか」
「ああ! 俺達兵士は、放逐されたら行く当てなんざねぇんだよ!」
「ならば、残って共に働くしかあるまい?」
「……怖いんだよ」

 髭面の兵が、そう呟いた。

「怖い?」
「ああ。アンタは郭図様達を処断した、何の容赦もなく、な」
「当然の処置をしたまでだ。奴らは、それだけの事をされて然るべき罪を犯したのだからな」
「だからって、やり過ぎだろうが! アンタには情けってものがないのか?」
「情けは、かける相手を選ばねばならぬ。特に、郭図は、何の罪もない子女を拐かし、己の欲望のためだけにその一生を棒に振るような真似をした外道だ。情けをかける余地が何処にある?」
「そ、それでもだ。あんなに容赦のないやり方を見せられたら……怖いんだよ!」

 それで、酒に逃げたか。
 だが、庶人に迷惑をかける理由にはならぬ。

「一つ、尋ねるが。貴様らは何故、兵になったのだ?」

 私の言葉に、兵らは顔を見合わせる。

「まさか、理由もなしに兵を務めている訳ではあるまい」
「……俺は、家族を賊に殺されたんだ。だから、自分が強くなりたい……そう思ったんだ」

 一人が話し出すと、他の者も続いた。

「頭はからっきし、力だけが俺の取り柄。それで、兵以外に働く場所がなかったのさ」
「俺は、憧れがあったんだ。鎧を着て、剣を持つって奴に」

 全員が話し終えるのを待ち、私は言葉を返す。

「ふむ、動機はわかった。では今一つ、今の己に誇りを持っているか?」
「誇り、だと……?」
「そうだ。その剣、その槍は、確かに人殺しの道具だ。だが、闇雲に他者の命を奪うのはただの獣、人ではない」
「…………」
「だが、私は剣を振るうのは、誇りのため。誇りとは、他者から決して後ろ指を指されぬ生き様……私は、そう思っている」

 彩が、一歩前に出た。

「私も武人、殿と同じだ。武を誇るというのは、ただ暴れる事ではない。他者から認められてこその、誇りだ」
「その誇りすらなくした……そんな獣だからこそ、我が主は容赦をしなかった。それだけの事だ」

 疾風が続く。

「……なら、俺達も誇ればいい、そう言うのか?」
「ああ。庶人の暮らしを、その笑顔を守る事。それは、誇りではないか? ですよね、殿」
「うむ。彩の申す通り、己に誇りを持ち、立派に生きてみせる者には、私は敬意を払う。それだけだ」

 兵らは、漸く大人しくなった。

「この事、よくよく考えよ。その上で結論を出しても遅くはあるまい?」

 頷く兵ら。

「では、戻るか」
「は」

 ……と、周囲にいた客が皆、立ち上がった。

「太守様。今の言葉、嘘はありますまいな?」

 一人が、そう言った。

「武人の誇りにかけて」
「……なるほど」

 全員が頷き合い、そして跪いた。

「太守様! 我ら、あなた様についていきますぞ!」
「そうだ! 皆で、この魏郡を、ギョウを立て直しましょうぞ!」

 そして、騒ぎを聞きつけた庶人が、店に押し寄せてくる始末。
 夜通しで、思いも寄らぬ大宴会となってしまった。
 皆が、晴れ晴れとした顔で過ごした一時……悪いものではなかった。 

 

四十 ~愛の狭間~

 翌朝。
 唇に触れる、柔らかな感触。
 夢にしては妙に現実的なそれで、目が覚めた。

「ふふ、おはようございます」
「……愛紗か」
「はい。熟睡しておられたようですね」

 優しく微笑む愛紗。

「疲れが出たか。私も若くはない、という事だろうな」
「そんな事はないかと。昨夜も……その、あんなに激しく愛していただきましたし」

 相変わらず、愛紗の初々しさは変わらぬな。
 愛おしくなり、そっと抱き寄せる。

「ご、ご主人様?」
「かなりの間、寂しい思いをさせた。改めて、相済まぬ」
「い、いえっ! ご主人様にはお考えあっての事。我らはご主人様を信じて……それから、お慕い申し上げておりますから」
「ああ。私も、皆を心から頼りにしている。……そして、大切に思っている」
「ご主人様……」

 眼を閉じた愛紗に、顔を寄せる。

「ん……」

 唇を重ね、舌を割り入れた。
 互いに舌を絡め合い、唾液を交換し合う。

「ぷはっ!」
「ふう……」

 二人の間を、銀色の細い糸が繋ぎ、そして切れた。

「ふっ、愛紗も積極的になってきたものだな」
「……ご主人様がいけないのです。私をこのようにしたのは、あなた様なのですから」

 膨れてみせるが、まるで迫力がない。
 美髯公ならぬ美髪公も、私の前ではこのように、素顔を晒してくれる。
 このままこうしていたいが、そうもいくまい。
 今の私は、この魏郡を預かる太守、それを忘れる訳にはいかぬからな。


 執務室に出向くと、元皓(田豊)らが待っていた。

「太守様、おはようございます」
「おっす。今日はゆっくりだね、旦那」
「おはよう。待たせたようだな」
「い、いえ、そんな事はありません。嵐(沮授)、どうして君は一言多いんだ?」
「だって、おいら達、半刻は待ってるぞ?」
「でも、太守様に向かって……」

 口論が始まりそうだ、その前に詫びておくか。

「済まぬ。元皓、待たせた私が悪いのだ。その辺にしておけ」
「全くだよ。いい、おいら達だって暇じゃないんだから、明日からしっかり頼むよ、旦那?」
「……善処しよう」

 それから、内政面や人事面での打ち合わせとなる。
 二人が様々な意見や提案を行い、私が疑問に思うところを挙げていく。
 途中で稟と風、それに若手の文官数名が加わり、なかなか白熱したものとなった。


 昼近く。
 先ほどの議論を元に、施策の骨格作りを行っていた私は、一息入れようと筆を置いた。
 局中法度を定めたのも確かに私だが……これではまるで、土佐の坂本だな。

「歳三殿、失礼します」

 そこに、疾風(徐晃)が姿を見せた。

「ご報告申し上げます。宜しいですか?」
「構わぬ」

 我らの情報収集は、全て疾風次第。
 そして、その報告は一件たりとも誤りのない、正確なものばかりだ。

「はっ。袁紹殿の件、その後判明した事を持って参りました」
「そうか。皆を、集めた方が良いか?」
「いえ。まずは、歳三殿にお伝えしたいと思います。……お人払いを」

 ふむ、余人には聞かれたくない話、という事か。

「良かろう。皆、外してくれ」
「はっ」

 執務室にいた、数人の文官が一礼し、退出して行く。

「さて、これで良いか?」
「はい、ありがとうございます」

 疾風は、それでも辺りを見回し、声を潜めた。

「……あまり、良からぬ知らせか?」
「……はい。まず、先の戦い、袁紹軍は行軍を隠そうともしなかった割には、黒山賊との戦いには加わりませんでした」
「……うむ」

 やはり、何度思い返しても、あの行動は不自然である。
 あの装備では存在を秘匿するのは困難……という事を差し引いても、全く意図がわからぬままである。

「一つは、我が軍の実力を確かめるという目的があったようです」
「ほう? それは、都で私が理不尽な要求を突っぱねたからか?」
「いえ、あれは計算ずくのものではなく、袁紹殿の思いつきに等しいものだったようです」

 ……思いつきで、他人の一生を左右されては困るのだがな。

「では、他に理由があった筈だ。それはどうなのだ?」
「……それなのですが」

 と、疾風は顔を強張らせた。

「どうやら、袁紹殿は渤海郡太守で収まるつもりはなく、冀州牧を狙っている模様なのです」
「州牧?」
「そうです。刺史はご承知の通り、兵権を持ちません。ですが、黄巾党の終息後も、各地で反乱や賊の動きが沈静化する気配はありません。現状は、刺史も郡太守も、己の才覚で兵を集めるよりありません」
「うむ」
「ですが、それは現状に即しているとは言い難い有様です。そこで、兵権を併せ持つ地方長官として、新たに州牧を設けるという動きがあるようです」

 朝廷も、漸く現実を見始めた、というところか。
 恐らくは、華琳や睡蓮らにとっては、待ち望んでいた話であろう。
 野心と実力を備えた者にとって、その地で更なる力を持つ切欠となる筈だ。
 ……だが、あの袁紹が冀州牧になれば、もはや対岸の火事では済まぬ。

「袁紹が、州牧を欲するのは何故か?」
「歳三様もご承知の通り、袁紹殿は名家としてのご自身を、人一倍誇示したがる御方です。宦官共と相容れぬのは当然ですが、外戚である何進殿とも折り合いが悪いようです」
「それは、何進殿が卑賤の出にも関わらず、要職の身にある故……そうだな?」
「その通りです。ただ、都にて今、袁紹殿が出世を遂げるのは、如何に名家とは申せ至難の業です」
「そこで、州牧に眼を付けた、か」

 疾風は、小さく頷いた。

「冀州は、洛陽にも近く、土地も豊かです。渤海郡太守を切欠として、狙いを定めたのかと」
「そして、力を蓄えて、要職の座を伺う……そう言う筋書きだな」
「……それから、今一つ」
「む? まだあるのか?」
「はい。袁紹殿と曹操殿が、因縁の間柄、という事もあると見ています」

 華琳は、エン州刺史に任ぜられた。
 となれば、華琳に対抗意識を燃やす袁紹としては、同格ではなく、更に強大な権限を持つ州牧を、と考えても不思議はない。

「……だが、わからぬな。黒山賊の一件での奴らの態度、あれは、何と見る?」
「推測ですが、既に冀州に勢力を築いている事を見せつけ、我らを牽制するつもりだったのではないかと」

 袁紹が、冀州牧を狙う理由はわかる。
 ……だが、その為の手回しの良さ、これが気がかりだ。
 袁紹本人は無論だが、顔良や文醜には、このように策を講じる事は出来まい。

「疾風。袁紹か、若しくは袁紹の預かり知らぬ場所で、画策する者がいるな」
「ええ。それも、ただの策士ではないでしょう」
「その者を突き止めよ。袁紹が州牧の座を手にしてからでは、手の打ちようがなくなる」
「御意!」

 兵権を持つ州牧となれば、刺史と郡太守のような、曖昧な関係ではなくなるだろう。
 無論、郡太守は実質州牧に取り込まれる……そう見た方が良い。
 いずれにせよ、早急に対策を講じる必要があるな。

「疾風、ご苦労だった。お前でなければ、これだけの事を調べ上げるのは不可能だ」
「い、いえ。私は武骨者、こんな事でしか歳三殿のお役には立てませぬ」
「何を言うか。私は、本心から感謝しているのだ」
「……ありがとうございます」

 疾風が、ふと上目遣いになった。

「む? 如何致した?」
「……あの。歳三殿、先ほどのお言葉、嘘ではありませぬな?」
「何を言うのだ? このような事、偽りで言う私と思っているのか?」
「……いえ。ならば、お願いがございます」

 珍しいな、疾風から願いとは。
 だが、疾風の事だ、無理難題は申さぬだろう。

「良いだろう。言ってみるがいい」
「……で、では。今宵、お側に……」
「…………」
「は、はしたない女と、お思いですか……?」

 よほど思い詰めていたのか、いつになく疾風は真剣な眼差しだ。

「いや。だが、唐突だな。何があった?」

 ふう、と大きく息を吐いた。

「歳三殿は、皆の前で申されました。全員を等しく愛して下さる、と」
「確かに申したな。今も、その気持ちに変わりはない」
「……はい。ですが、私は不器用。本当に、歳三殿に想いを伝えきれているか。……不安なのです」

 一笑に付す事も出来る。
 少なくとも、私は疾風を受け入れたのは、その想いが真摯だったからだ。
 誰一人として欠かせぬ仲間だが、見境なしに手を出すつもりもなく、また相手が望まぬ限り、男女の仲を強いるつもりもない。
 疾風も、それはわかっている筈……そう、思っていた。

「私は、皆のように素直になったり、甘えたりも出来ませぬ。……今朝の、そ、その……」

 見ていたか。
 後ろめたき事は何一つないが、疾風なりに思い詰めてしまったようだ。

「疾風。思い違いを致すな」
「……え?」
「相手を求めるのに、決まりなどない。疾風の気持ちは、嘘偽りなどないのであろう?」
「無論です。……歳三殿にこの身を預けた事、後悔など、微塵もありませぬ。寧ろ、感謝の念ばかりです」
「ならば、その想い、自ら確かめてみるがいい。今宵は、共に過ごそうぞ」
「あ、ありがとうございます!」

 しかし、疾風の事……理解していたつもりだったが。
 ふ、私もまだまだだな。



 昼過ぎ、星を伴い、市中を見回った。

「思いの外、混乱はないようだな」
「そうですな。主が、情報を早めに流したのが効いたようです」
「情報を如何に活用するか。その重要性に気づかぬ輩が、存外多い。正確な情報を間を置かずに入手出来れば、人は安心する。逆に隠蔽したり虚偽ばかりすれば、信用を失い不安を煽る。少なくとも、味方に対しては前者でありたいものだからな」
「はっ。それに、前途に絶望していた庶人が、希望を取り戻したという話も来ておりますぞ」

 飢える者に対し、炊き出しを行うと共に、城壁や道路の修復事業を初め、働き口のない者に職を与える。
 それを今朝から始めた結果、すぐさま効果が表れたらしい。
 無論、これだけでは一時凌ぎに過ぎぬが、まずきっかけを与える事。
 万が一、効果が期待ほど得られぬならば、次の手を打つ。
 手をこまねいているよりは、まず行動。
 ……幕府の要職にあるご歴々を見ていて、痛感した事でもある。

「農地の様子も見ておかねばなるまいな。糧食の蓄えが無限にある訳ではなく、税の徴収を免除は出来ぬ以上、そこを再建しない限り、焼け石に水だ」
「酒も、畑が荒れていては飲めませぬからな。美味い酒に美味いメンマ……それも、食が不自由なければこそ、楽しめるものですからな」
「星の場合は、その二つだけあれば良いのではないのか?」
「……主。私を何だとお思いなので?」

 事実を指摘しただけなのだが、星は不服そうだ。

「あの……」

 不意に、声をかけられた。
 歳の頃は、鈴々と同じぐらいであろうか。
 亜麻色の髪を、短く切り揃えた少女が、私を見上げている。

「私に何か?」
「はい。……あの、太守さん、ですよね?」
「うむ。確かに私は土方だが?」

 すると、少女は勢いよく、頭を下げた。

「ありがとうございました!」
「主。何かなさったのですかな?」

 星にそう言われても、心当たりはない。

「済まぬが、礼を言われるような真似をした覚えがないのだが」
「あ……。ですよね……」

 不意に、少女は落ち込む。

「主……。本当に、ご存じない、と?」
「何を怒っている。私が、そんな輩だと思っているのか?」
「そうではござらん。ですが、人違いでもありますまい」
「ならば、本人に確かめれば良いだけであろうが。ところで、名は?」
「あ、も、申し遅れました。わ、わたしは徐庶、字を元直と申しますっ!」
「徐庶……確かか?」
「ひっ!」

 徐庶と名乗る少女は、ビクッと身を竦めた。

「怯えているではありませぬか」
「い、いえ……。そ、その、すみません……」

 徐庶と言えば……あの徐庶しかおらぬであろう。
 だが、どう見ても剣の遣い手には見えぬ。
 ……とは申せ、外見だけで判断がつかぬのがこの世界でもあるのだが。

「一つ、尋ねたい」
「は、はい! な、何でしょうか?」
「司馬徽門下の徐庶、で相違ないか?」

 私の言葉に、徐庶の顔が驚愕に変わる。

「ど、どうしてそれをご存じなんですか?」
「……悪いが、それには答えられん。それよりも、礼の訳を知りたい」
「そ、そうですね。……太守さんに、助けていただきましたから」

 何処の話か……。
 この世界に来てより、救えた命も少なくはない。
 ……無論、そうでない命の方が、圧倒的に多いのだが。

「え、ええと……。先日、その……」

 赤くなる徐庶。

「主……。一体、この娘に何をなさったので?」
「いい加減にせぬか、星。徐庶、言い辛いのであれば、無理にとは申さぬ」
「いえっ!……わたし、郭図の屋敷にいたんです」
「……では、郭図に拉致されていたのか」
「……はい。旅の道中、このギョウに立ち寄ったのですが……」

 だが、妙だな。

「徐庶。お前は、撃剣の遣い手ではないのか?」
「ええっ! そんな事までご存じなのですか?」
「私の事は良い。それで、どうなのだ?」
「え、ええ。確かにわたしは、普段は剣を帯びています。……ただ、お風呂をいただいている最中に襲われてしまって」
「何と……。女の入浴時を狙うなど、卑劣にも程がある」

 星が、珍しく憤怒を露わにする。

「それで、郭図に……か」
「はい……。ただ、わたし自身は、太守さんのお陰で穢されずに済みましたが……」

 そう言って、徐庶は目を伏せる。
 あの蔵の中では、夜な夜な郭図による陵辱が繰り広げられていたらしい。
 拐かした女子《おなご》を鎖で繋ぎ、その眼前で別の女子を。
 それを繰り返す事で諦めを覚えさせ、意のままに……という事だ。

「何処までも腐りきった奴ですな……あの男は」
「ああ。だが、奴はもう処罰を受けている。あのような目に遭う事は二度とあるまい」
「……そ、それと……」
「まだ何かあるのか?」
「このお礼もあります……」

 耳まで真っ赤になりながら、徐庶が差し出したもの。

「これは……主の羽織ではありませぬか」
「……そうか。あの時の少女は、お前であったのか」
「……はい」

 蔵に踏み込んだ時、何人もの少女が裸体のまま、囚われていた。
 見かねて、手近にいた一人に、この羽織を着せた覚えがある。

「これ、きちんとお洗濯してありますから。……本当に、ありがとうございました」
「うむ。ところでお前は、これからどうする?」
「え?」
「旅の道中である事は聞いた。再び、旅に出るつもりか?」
「…………」

 徐庶は、少し考えてから、

「……太守さん。お願いがあります」
「私に?」
「はい。わたしを、使って下さいませんか?」

 そう言って、頭を下げる。

「仕官する、という事か?」
「はいっ!……わたしの事、ご存じみたいですけど……これでも、軍師として一通りの事は、学んできたつもりです。きっと、太守さんのお役に立てるかと」

 徐庶の眼は、真剣そのものだ。

「司馬徽門下であれば、私ならずとももっと大身の許に仕官も適うであろう。それに旅とは、仕えるべき者を探すものではないのか?」
「仰る通り、旅をしながら、このわたしを役立てて貰える方を探していました。わたしは、自分の栄華は求めていません。既に身分のある方かどうかは関係なく、徳と、仁を備えた方にこそ、お仕えしたい、そう思っているんです。太守さんは、少なくともわたしが探し求めていた方、そう確信しています」
「本当に良いのか? 私が、お前の理想とする者かどうか、見定めるには性急に過ぎるやも知れぬぞ?」
「いいえ。太守さんの事、いろいろと調べさせていただきました。……不思議な方ですけど、わたしの求めていた方でもあるって。ただ、いきなり仕官を求めても断られるかも知れない……だから、今日はお礼だけのつもりだったんです」

 その言葉に、嘘は感じられぬ。

「唐突で失礼なのは承知しています。でも、どうか。お願いします!」

 ただ、必死である。

「ふむ。主、如何なさいますか?」
「星はどうなのだ?」
「主のお決めになる事、私はただ従うまでです。ですが、この者の言葉、真のものかと」
「……よし。いいだろう」

 すると徐庶は、いきなり抱き付いてきた。

「ありがとうございます!」
「こ、これ。落ち着かぬか」
「……あ。す、すみません!」

 慌てて飛び退き、何度も頭を下げた。

「ともあれ、城中に明日、参るが良い。皆にもそこで引き合わせる」
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」

 勢いよく駆けだしていく徐庶。
 ……しかし、あの徐庶までもが、私の許に集うとは……。

「……主。一つ、お尋ねしますが」
「何だ?」
「……その羽織、あの少女に着せたとか。一糸纏わぬ姿だったのですな?」
「そうだ。そのままにしてはおけまい?」
「……よもや、あの少女に懸想しただけではありますまいな? 他にも、拐かされた少女はいたと聞いておりますが」
「埒もない。偶さかの事だ」
「ならば。今宵、それを確かめさせていただきますぞ」
「……どういう意味か?」
「さて。では私は、準備があります故」

 そう言って、星は駆けていく。
 ……何を言いたいのかわからぬつもりはないが、今宵は……。



 そして。
 部屋の前で、二人は見事に鉢合わせ。

「せ、星? 何故ここに?」
「おや、疾風ではないか。お主こそ、如何致したのだ?」
「こ、今宵は歳三殿と共に過ごすと。そう、約束をいただいたのだ」

 と、二人がそのまま、部屋に入ってくる。

「ほう? 主、これはどういう事にござりますかな?」

 ずい、と星が迫ってくる。

「どうもこうもあるまい。お前が話も聞かずに立ち去るからであろうが」
「では、今伺いましょう。主、どうなさるおつもりか?」
「…………」

 星は、一歩も引くつもりはないようだ。
 だが、疾風もまた、一大決心で言い出した事、今更後には引くまい。

「……仕方あるまい。二人とも、参れ」
「それは、どちらも選ばぬ、という理解で宜しいか?」
「歳三殿……」
「この状況で、一方を選べば一方が傷つこう。私には、そのような無粋な真似は出来ぬ」
「……はっはっは。主、私の負けですな」
「歳三殿。そ、その……」

 そんな二人を、抱き締める。
 交互に口づけし、そのまま臥所へと向かった。



「主……。お慕い申しておりますぞ……」
「歳三殿……。離れませぬ、ずっと……」

 二人とも、寝顔は安らかであった。 

 

四十一 ~至誠一貫~

 翌朝。
 執務室に入ってすぐに、兵がやって来た。

「土方様。徐庶と名乗る少女が、面会を求めて来ています」
「そうか。ここに通してくれ」
「は? この部屋に、ですか?」
「そうだ。何か問題があるか?」
「い、いえ。では、お連れします」

 慌てて出ていく兵と入れ違いに、風が入ってきた。

「お兄さん、何かありましたか?」
「うむ。仕官希望の者が来たので、通すように申し渡した」
「お兄さんが直に、という事は、見所のある人材なのでしょうねー」
「それは、風も共に確かめると良い」

 人を見る眼は、私よりも確かな風だ。
 それに、仕官となれば、共に働く仲間となる。
 先に顔合わせしておくのは、何ら不都合はなかろう。

「それでお兄さん。今度は、どんな女の子なのですか?」
「……風。私はまだ、何も言ってはおらぬぞ?」
「いえいえ。お兄さんはモテモテですからねー。油断ならないのです」
「私は、そんな下心で仲間を募ったりはせぬ」
「勿論、お兄さんがそんな事をするとは思いませんけどね。でもでも、風みたいに、女の子から好きになってしまう場合はどうしようもないのですよ」
「……ならば、先に申しておく。仕官を望んできた者は、確かに少女だ」
「むー。やっぱり、風の言った通りではありませんか」
「だが、才は確かだ。人物は、風が得意とする鑑定をしてみせよ」
「わかりました。ただし、風は容赦しませんけどねー」

 そして、徐庶が姿を見せた。

「拝謁を賜り、恐悦至極にございます。姓は徐、名は庶、字は元直と申します」

 礼に適った、見事な挨拶だった。

「魏郡太守、土方歳三だ」
「風は軍師を務める程立ですよー」

 そして、予告通り、風の質問責めが始まる。



 問答は、一刻ほども続いた。

「どうだ、風?」
「お兄さんが見込んだだけの事はありますねー。風も驚きました」

 兵の動かし方から、外交、内政、多岐に渡る問いかけにも、徐庶は的確に答えを返した。
 常識の中から、最適の答えを導こうとするその姿勢は、派手さはないが堅実な性格を物語っている。

「徐庶、私からも良いか?」
「はい、どうぞ」
「お前は、この魏郡で何を為そうとするか?」

 徐庶は頷くと、

「ご承知の通り、私は水鏡女学院で学びました。勿論、兵法だけではありません。農業、商業、外交……いろんな書物に触れ、身に付けてきたつもりです」

 それは、風との問答に集約されていた通りだろう。

「でも、一人で全てに通じる……それは到底無理だと悟りました」
「ふむ。それで?」
「わたしは、仁愛を第一に考えています。それも、いろんな形があるでしょうけど。叶うなら、庶人の為に、学んだ事を活かせたら、と」
「すると、軍師ではなく、文官が所望、と申すのだな?」
「はい」

 軍師としても、恐らくは一流のものがあるに違いない。
 ……だが、私には既に、稟、風がいる。
 やや立ち位置は異なるが、元皓(田豊)や嵐(沮授)もいる。
 多くて困る存在ではないのであろうが、より文官に特化した人材が必要なのも事実。
 そう考えると、徐庶はまさに打ってつけの存在とも言える。
 そう思い、風を見た。

「どうか?」
「風は問題ありませんねー。大掃除はまだまだ終わってませんし、人手は必要ですから」

 能力については、今更という訳だな。

「ならば、決まりだな。徐庶、これからの働き、期待させて貰おう」

 私の言葉に、徐庶が喜色満面となった。

「ありがとうございます! 以後、私の事は愛里、とお呼び下さい」
「真名を預けると言うのか?」
「はい!」
「そうか。私は真名がない、好きに呼ぶが良い」
「それなら、風も真名でいいですよ? 宜しくですよ、愛里ちゃん」
「はい、こちらこそ。歳三さんに風さん」

 こうして、新たな人材を得る事になった。
 他の皆とも真名を交換し合い、ささやかな歓迎の酒宴を開いた。


 それから、一週間が過ぎた。
 一部の官吏は、逃げ出すように魏郡を後にしたが、調べてみると不正に蓄財していたり、何らかの後ろめたい事を抱えている者ばかり。
 尤も、積極的に不正に手を染めていた者ばかりではなく、上司や周囲に強いられた者も少なからずいた。
 そうした者は、不正に得た分を返納の上、再度同じ過ちは犯さぬという誓紙を入れさせ、元の地位に戻した。
 全てを罰するのは困難を伴い、第一行政そのものが麻痺してしまう。
 それならば、性根を入れ替えると誓う者は、今一度機会を与えても良かろう。
 それに、官吏と言えども、全てを没個性化させてしまうのは好ましくない。
 多少癖があろうとも、能力のある人物ならば活かすべき。
 ……皆と話し合い、得た結論だ。
 若干の混乱は残ってはいたが、概ね、ギョウ県については落ち着きが戻ったようだ。



「歳三さん、次はこれを」

 ドサリと、竹簡が積まれた。

「愛里。先程よりも、増えたようだが?」
「ええ。とにかく、少し前まで怠慢な行政でしたからね。新規事業が加われば、こうなりますよ」
「……うむ」

 愛里は、予想以上に優秀であった。
 元皓らと手分けしながら、予算の無駄排除と効率化を進めている最中である。
 人気取りや点数稼ぎだけの仕分けではなく、的確に問題点を指摘しするので、相手の官吏も黙らざるを得ない。
 尤も、指摘だけでなく、どうすればより改善が見込めるか、その点を忘れずに添えるので、結果として改善する場合が圧倒的に多いのだが。
 それを見て、若手の官吏が奮起した結果が、目の前の山という訳だ。

「それにしても……。あの変態共、貯め込んでいたよね」
「うん。それだけ、多くの庶人が泣かされてきたって事だけどね……」

 嵐と元皓の二人も、多少は余裕が出てきたのだろう。
 ……私の方は、一向にその気配がないが。

「愛里」
「何ですか、歳三さん?」
「これでは落款が追いつかぬ。至急の案件とそれ以外を、分けてはくれぬか?」
「あ、申し訳ありません」

 愛里は、山の片方を指し示す。

「申し上げ忘れていました。此方が、至急の分です」

 よく見ると、積み方に一定の決まりがあるようで、山はいくつかに分けられている。

「……では、これは?」
「はい。明日までに、落款をいただきたい分です」
「…………」
「それで、順に三日以内、一週間以内です。……あの、どうかなさいましたか?」

 首を傾げる愛里。

「……いや、何でもない」

 今更、職務を放棄するつもりも厭うつもりもない。
 ……が、これはまた、凄まじい量だ。
 まぁ、ゆるりと片付けるとしよう。
 一度に気張っても、先は長いのだからな。



「うりゃりゃりゃーっ!」
「踏み込みが甘いぞ、鈴々!」
「五月蠅いのだ!」

 昼食を済ませた私は、槍を交える音に中庭へと出てみた。
 ほう、彩(張コウ)と鈴々が鍛錬の最中か。

「おや、ご主人様もおいででしたか」

 そこに、愛紗も姿を見せる。

「隣、宜しいですか?」
「ああ」
「失礼します」

 並んで腰掛け、鍛錬を見守る。

「ご主人様。この二人の勝負、どう思われますか?」
「うむ」

 鈴々の手並みは、無論承知している。
 小さな身体からは想像もつかぬ程、重い一撃を繰り出す。
 そして、何よりも俊敏な動きを見せる。
 ……ただ、攻撃が性格故か、やや直線的なきらいがあるようにも思える。
 彩は、確とその腕を見た事はまだない。
 少なくとも、今は鈴々相手に、余裕があるようだが。

「実力はまだわからぬが、恐らく彩の勝ち、と見た」
「根拠は何ですか?」
「経験の差だな。鈴々と彩を比べると、潜り抜けた修羅場の数が違うであろう」
「……はい。それに、鈴々はまだまだ子供、素直なのは良いのですが」

 愛紗も、鈴々の欠点には気がついているのだろう。

「まるで、本当の姉妹のようだな。愛紗と鈴々は」
「ええ。楼桑村での誓いもありますが……何故か、放ってはおけないのです」

 実際、関羽と張飛は何の血縁もないにも関わらず、最後までその仲は良かったと聞く。
 それが、この世界でも作用しているのやも知れぬな。

「勝負あったな」
「うにゃー、また負けたのだ……」

 彩の槍が、鈴々の喉元を捉えていた。

「まだまだ、修行が足りんな。それでは、私には勝てんぞ?」
「よし、ならまた今度、勝負なのだ」
「おや、殿に愛紗。見ておいででしたか」
「あ、お兄ちゃんなのだ!」

 二人が、私に気付き、近寄ってきた。

「彩。腕前は初めて見るが、なかなか見事なものだ」
「ははは、私は根っからの武人。鈴々には悪いが、後れを取るつもりはありませぬぞ」
「うー、悔しいのだ。愛紗、相手になって欲しいのだ!」
「ふふ、良かろう」

 愛紗は得物を手に、立ち上がった。

「ところで殿。折り入ってお話が」

 汗を拭っていた彩が、私を見た。

「何か?」
「疾風(徐晃)とも話していたのですが、牙門旗は如何なさるおつもりか?」
「牙門旗?」
「然様。郡太守は確かに兵権はない。だが、自衛の戦力を持つ事は禁止されておらぬ故、我らも当然、官軍となります」
「うむ」
「となれば、正規軍として牙門旗があって然るべきかと。意匠も含め、殿のご意向を伺いたい」

 旗印か。
 確かに、共和国でも旗は作っていた。
 敵味方に存在を誇示する役目もあり、その旗を倒したり奪う事は、合戦の勝利を意味する。
 彩に指摘されるまで失念していたが、用意せねばならぬな。

「そうだな。急ぎ、作らせるとしよう」
「意匠はどうなさる? 一般的には、姓を記すのが習わしだが、殿は姓が変わっておいでだ」
「……いや、私に考えがある。夜、皆を集めてくれぬか?」
「承知した。では、夜に」

 月は『董』、華琳は『曹』、睡蓮は『孫』。
 皆、姓が一文字だからこそ、牙門旗としての見栄えがする。
 ……『土方』では、目立つだけで違和感が拭えぬ。
 だが、家紋、という訳にも行かぬであろう。
 そもそも、家紋の習慣のない地では、あまり意味がない。

「あ、歳三様。探しましたよ」
「稟か。如何致した?」
「郡の巡検が終わりましたので、そのご報告にと」
「わかった」

 ともあれ、政務を片付けるか。



 そして、夜。

「皆、相済まぬ。各々が多忙であろうが」
「いえ、牙門旗の事、ずっと気がかりでしたから。彩と、今日にも申し上げようかと話していたところです」

 と、疾風。

「主。既に案をお持ちと、彩より聞きましたが?」
「その通りだ、星。その前に、皆の分も作らねばならぬが、意匠の案があるか?」
「私は不要だ。韓馥殿の許で作った物がある」
「おいらもだね。昼行灯の形見でもあるし、このままでいいよ」

 彩と嵐は、本人がそれで良いのなら無理強いする事もあるまい。

「風は、日輪が登る意匠がいいですねー」
「ほう? 拘りがあるのか?」
「はいー。まだ、お兄さんには話してませんでしたが、お兄さんにお仕えする前の日、夢で見たのですよ。風が、日輪を支えているというものでしたが」

 確か、史実の程昱はそれで改名をしたのであったな。
 この世界では風もまた、そうするつもりなのであろうか?

「本当は、お仕えする相手を見つけた後で、風は名を変える予定だったのですけどねー。でも、それはもういいのです」
「何故だ?」
「お兄さんは、風達に共に歩む、と仰いましたよね? それなのに、支える、というのはおかしいかと思いまして」
「わかった。では、その線で決めるが良い。他の者は?」

 星は蝶をあしらった意匠を希望したが、愛紗らは特に希望はないようだ。

「それよりも、歳三さんご自身のを、お聞かせ下さい」
「そうですね。何と言っても、歳三様の牙門旗は、そのまま私達の旗印でもありますから」
「僕も見たいですね。太守様の意匠を」

 皆、同意とばかりに頷く。

「良かろう」

 流石に竹に、という訳にはいかぬので、紙に認めた物を取りだし、卓上に広げた。
 墨一色なので、色合いは指定するしかないが、大凡の想像がつけば良い。

「赤字に金色で『誠』の字を染め抜く。……染めるのが難しければ、刺繍でも良かろう」
「お兄ちゃん、この模様は何なのだ?」
「うむ。これは『だんだら』と言う。いくつも段を作る意匠だ」
「しかし、派手ですねー」
「そうですね。これは、どこからでも目につきます」
「牙門旗自体、己の存在を誇示する役割があるのであろう? ならば、地味な意匠にするよりは派手な方が良かろう」
「ですが、主。この『誠』は、何でござる? 主の名に、一文字たりとも含まれておりませぬぞ」

 星の指摘は、尤もだ。

「……この字は、『至誠一貫』を意味する」
「至誠一貫……ですか?」

 彩と星は、首を傾げる。

「孟子の言葉ですね」

 流石は稟、即座に言い当てた。

「至誠にして動かざる者いまだこれあらざるなり、でしたねー」

 風が続けた。

「で、一体どんな意味なのだ?」
「鈴々! お前はもっと勉強しろ!」
「まぁまぁ、愛紗さん。落ち着いて下さい」

 愛紗の剣幕に、愛里が慌てて取りなす。
 ……つくづく、賑やかな事だ。

「真心をもって一生を生きていく、って意味さ。そうだろ、旦那?」
「嵐の申す通りだ。これは、我が生き様……そう捉えて貰いたい」

 これ以外の意味もあるのだが、それを皆に言うつもりはない。

「簡単なようで、難しい決心です。でも、太守様が仰るなら、説得力があります」
「確かに、殿らしいな」
「ああ。それでこそ、主です」
「では歳三殿。これで決めさせていただきます」

 ふっ、またあの旗の下で戦う事になるとは思わなかった。
 だが、我が旗と言えば、これ以外には考えられぬからな。



 数日後。

「歳三殿、如何ですか?」
「良い出来映えだ……本当に、良い」

 出来上がった牙門旗が、城門に立てられた。
 『誠』の文字が、日の光に反射して煌めいている。

「改めて、我が軍の船出だ。皆、頼む」
「御意!」

 牙門旗の前で、皆と共に、誓いを新たにした。 

 

四十二 ~偽物~

 私が魏郡に来てから、早いもので数ヵ月が過ぎようとしていた。
 郡の経営も軌道に乗り、郭図らの悪しき時代の慣習もほぼ、一掃されたようだ。
 様子を窺いながらも、隙あらば、と不穏な動きを見せる豪族共もいたが、此方が隙を見せぬ上、庶人が治政を受け入れている現状、逆らっても無益、と悟ったのだろう。
 近頃は、郡や県の統治に協力を申し出てくるようになっていた。
 県令らも、権限と責任を一定の比率で与えた結果、自ら考え、行動する事が殆どになってきた。
 結果、行政の意思決定が迅速になり、庶人らの声がより届きやすくなったと聞く。
 無論、人の欲望は無限、全てを満たす事など叶う訳もないが、納得させる事なら不可能ではない。
 私自身も、一日中机と向き合う生活からは、多少だが解放されて始めてきた。

「時に疾風(徐晃)。袁紹の動きはどうか?」
「はい。頻りに都との間に使者が往来しているのは確認しています。ただ、勃海郡から動く気配は今のところ、全くありませぬ」
 ふむ。
 何かを企んでいる事だけは確か、か……。
「権力志向の強い御方です。州牧の座を手にする為に、どんな手を打ってくるか」
「だよねぇ。あの悪趣味な鎧の通り、金だけは持ってるし」
「それにしても、あの袁紹さんをここまで動かす策士、一体誰なのでしょうねー?」
 風の申す通り、この動きには影で糸を引く者がいるのは間違いない。
 だが、その正体が依然として掴めぬ。
「方々、手は尽くしているのですが……」
 疾風の歯切れも悪い。
「しかし、疾風ほどの手練れが探れぬというのも妙な話ですな、主」
「うむ。……ならば、直接当たってみるか」
「お兄ちゃん、どうするのだ?」
「向こうは、州牧の座を狙っている。もし仮に思惑通りに事が運べば、我らにも手を伸ばしてくるに相違あるまい。それであれば、先手を打って様子を探りに参るのだ」
「しかし、殿。洛陽でも、袁紹殿は殿に危害を加えようとしたとか。危険では?」
「そうです。彩(張コウ)の申す通り、敵情偵察なら、我らが行います」
「いや、虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。それに、今の私は正式な魏郡太守。洛陽の時とは立場が違う」
「……決心は、固いようですね。それならばまず、使者を出して反応を見るべきかと」
「使者か。それは良いが、誰が参るのだ?」
 私は、皆を見渡す。
「よし。使者は嵐(沮授)、それに星が同行せよ」
「え、おいらかい?」
「そうだ。この中で最も冀州の事情に精通し、かつ機転が利くとなればお前以外におるまい」
「いや、それを言われるとなぁ……」
「大丈夫。嵐ならば上手くやれるって」
「元皓(田豊)も心配だろうが、二人とも、という訳には参らぬぞ?」
「え、ええっ! た、太守様」
「ちょ、ちょっと旦那! どうしてそこで、元皓が出てくるのさ」
 真っ赤になって慌てる二人。
「ふふ、冀州の二賢も、ご主人様にあっては形無しだな」
 愛紗の言葉にもあったが、今やこの二人、冀州では知らぬ者がない程の有名人でもある。
 その息の合いようは、他の追随を許さぬ程だ。
 ……相思相愛なのだから、当然とも言えるが、な。
「星も良いな? お前も機転が利く、何か起これば、その時は己の判断で動け」
「はっ!」
「ったく、旦那も人が悪いぜ。すっかり退路を断っちまうんだもんなぁ」
「そう申すな。私とて、お前が適任と思えばこそだ」
「ハァ。わかったよ、その役目、引き受けた」
 私は、大きく頷く。
「では、ご苦労だが明日、出立で良いな?」
「へいへい」
「御意!」


 夕刻。
 私は愛里(徐庶)と元皓を伴い、城下に出た。
「人の往来が、随分増えましたね」
「商店の数も、僕が官吏になった時と比べて、倍近くになりましたしね」
 内政に携わってきた二人に取って、感慨深いものがあるのだろう。
「ところで、歳三さん。わたし達に見せたい物って、何ですか?」
「そうそう。僕も、最前から気になっているんですけど」
「うむ。もう見えてくる頃だが……む?」
 目指す場所に着くと、そこは人だかりが出来ていた。
「うわぁ。何でしょうか、これは?」
「行列が凄い事になっていますよ」
 二人は、目が点になっている。
 この先にある店から、列が続いているようだ。
 人波をかき分け、進んでいくと、列の先頭が見えた。
「あれが、今日の目的の店だ」
「ふえっ?」
「太守様。まさか、これに並ぶと仰るんじゃないでしょうね?」
「そのつもりはない。……だが、これ程までとは想定外であったな」
 店に入ると、
「お客様。誠に恐れ入りますが、列にお並びいただきたいのですが」
 若い奉公人が、私に話しかけてきた。
「主人は在宅か?」
「お約束で?」
「いや。だが、在宅しているのであろう?」
 奉公人は、ジロジロと私を上から下まで見る。
「恐れ入りますが、主は只今商いで外出しておりまして」
 私も含め、皆華美な服装は好まぬ上、公用でもないので地味な装いである。
 どうやら、それを見て侮られたようだ。
「……そうか。私の顔を知らぬ、と申すのだな?」
「存じ上げませんな」
「な、何て失礼な! この方は」
 愛里が、ムッとした顔で文句を言おうとする。
「止せ、愛里。躾のなっておらぬ輩に、言葉は通じまい」
 途端に、奉公人の表情が変わった。
「おい。どうかしたのか?」
「いや、この方々が旦那様に会わせろと。大方、強請たかりの類でしょう」
「なら、叩き出すまでだ。先生方、出番ですよ」
 その声を合図に、奥から数人の大男がのそり、と姿を見せた。
「何か用か?」
「強請の手合いみたいなので。叩き出してしまって下さいませ」
「良かろう」
 ジロリ、と男達は私を睨み付ける。
「フン、優男が。少し、痛い目に遭わせてやる」
「言葉が通じぬ獣が、まだいたとはな。店の中では狭いだろう、外へ出よ」
「ほざけ!」
 男の一人が、いきり立って剣を抜いた。
「愛里。この手合いなら、お前で十分だろう。相手をしてやるが良い」
「えっ? でも……愛里さんでは」
 そうか、元皓は知らぬのだな。
「大丈夫ですよ、元皓さん。歳三さん、小刀をお借りできますか?」
「うむ」
 堀川国広を鞘ごと、愛里に手渡した。
「ありがとうございます」
「おいおい、こんな嬢ちゃんが相手かい? 優男さんよ」
 下卑じみた笑いをする三人。
 愛里は国広を抜き、構える。
「よく見ると、なかなか可愛らしい嬢ちゃんだな。後で可愛がってやるか」
「お断りですね。お顔も、心も腐りきってる人は、嫌いですから」
「何をこのガキ!」
 剣を抜いた男が、愛里に向けてそれを力任せに振り下ろす。
 さっと躱した愛里、峰に返した国広で、強かに男の小手を打った。
「ぐぁっ!」
 たまらず、男は剣を取り落とす。
 すかさず、愛里がその懐に飛び込み、柄を鳩尾に叩き込んだ。
「ぐへっ!」
 よろめいた男は、腹を押さえながらその場に倒れ込む。
「……す、凄い……」
「元皓。愛里は頭脳明晰だが、撃剣の遣い手でもある。覚えておくが良い」
「は、はぁ……」
「このガキ! ぶっ殺す!」
 残った二人が、顔を真っ赤にして得物を手にした。
 一人は槍、もう一人は斧か。
「二人がかりとは、卑怯だな」
「やかましい! 腰抜けはすっこんでろ!」
「愛里。やれるか?」
 男の言葉を無視して、愛里に問うた。
「二人同時は厳しいですね。一人ずつなら問題ありません」
「……よし」
 兼定を抜き、斧を手にした三人の兄貴分らしき男に、相対した。
「なんだ? やろうってのか?」
「やれるものならやってみるがいい」
「何を。……う」
 斧を構えた男だが、私を見て動きが止まる。
 抑えていた殺気を解き放っただけだが、それを見てもう一人の男の顔も、驚愕に変わった。
「な……」
「あなたの相手はこっちですよ。やあっ!」
 その隙に、愛里が斬りかかる。
 慌てて槍を繰り出したが、愛里は慌てず、その穂先をバッサリと斬った。
 そのまま飛び上がると、男の肩を強かに打ちのめす。
「うぎゃっ!」
 肩を押さえ、転げ回る男。
 恐らくは、肩の骨が砕けたことだろう。
 剣術は力ではない、その事をまざまざと見せつけられ、残る一人は唖然としている。
「さて、残るは貴様だけだな」
「お、お、おのれっ!」
 自棄になり、斧を振り回す男。
 周囲で固唾を呑んでいた野次馬が、その剣幕に慌てて散っていく。
 ……取り押さえる前に、怪我人をだしは意味がないな。
 そう思った私の眼に、店頭に置かれた袋が目に入る。
「あ、ああっ! 何をなさる!」
 慌てて止めに入る奉公人を振り払い、袋を男に投げつけた。
 男が振り回す斧に引っかかり、袋が裂け、中身が飛び散る。
「な、何だこれは! め、目がぁ!」
「愛里。今だ」
「は、はい!」
 気を取り直した愛里の一撃で、最後の男も崩れ落ちた。
「あ、あああ……」
 先ほどの奉公人共は、顔面蒼白になって後ずさりする。
「さて……。商家にこのような無法者を雇い入れるなど、ちと無法が過ぎるな。元皓、この場合の処分は?」
「え? あ、は、はい。狼藉を働いた者は死罪、教唆は鞭打ち百回の上追放……ですね」
 その時、店から恰幅の良い男が出てきた。
「なんやなんや。店の軒先で何を騒いではりますのや?」
「あ、旦那さん。実はこの男が、言いがかりをつけてきまして」
「何やて?……あ、あんさんは」
 店の主人は、私を指さしながら、震えている。
「貴様が、ここの責任者らしいな。この者が、私を強請たかりと決めつけ、無法を働いてくれたのだがな」
「ほ、ほんまでっか?……あ、あんさん方、な、なんちゅう事してくれるんや!」
 そう言いながら、店の主人は、奉公人を殴りつけた。
「な、何するんですか、旦那!」
「ど阿呆! この方はな、この郡の太守様や!」
「え、ええっ? し、しかし、太守様なら、もっと見栄えのするお召し物では?」
「とにかく、あんさんは馘首や! 今すぐ出て行きなはれ!」
 そして、ペコペコと頭を下げる。
「申し訳おへん。この者、ギョウに来たばっかなんですわ。太守様にえらいご無礼働いてしもうて」
 そんな主人を、私は冷ややかに見据える。
「主人。謝罪は、それだけか?」
「ちゃ、ちゃいまっせ! せや、金子でよろしゅうおまっか? それとも、とびきりのええ女で?」
「…………」
 傍らの二人からも、怒りの気配が漂ってきた。
 だが、糺すべきはこの態度ではない。
 私は、店頭の袋を掴み、中身を手のひらに開けた。
「主人。これは、貴様の商品か?」
「へへ、勿論だす。それ、『石田散薬』言いますねん、打ち身や切り傷に、よう効きまっせ」
 その粉をひとつまみ、口に含んだ。
 そして、すぐさま吐き出す。
「これが、石田散薬だと?」
「へ、へえ? 商いの許可は得てまっせ? わてら、疚しい事は」
「黙れ! 偽物を売っておいて、よくもぬけぬけと」
 私の剣幕に、主人はたじたじとなる。
「そもそも貴様。この製法をどこで学んだ?」
「こ、これはわてが独自に研究したもんで」
 私は兼定を、主人の喉元に突きつけた。
「な、何しはりますねん?」
「それ以上偽りを重ねるなら、その首、永遠に胴と別れる事になるが?」
「い、いくら太守様かて、やり過ぎちゃいまっか!」
「まだしらを切るか。偽物という根拠、それは私自身が証人だ」
「は、はは、太守様。なかなか、面白うおますな。あ、こうしまひょ。太守様に、売上の三割、差し上げますわ。悪い話やおまへんでっしゃろ?」
 ……如何に私でも、我慢の限度という物がある。
 衆目がなければ、確実に斬り捨てているところだが……。
 と、その時。
「どけどけ! 何事か?」
 兵の一団が現れた。
 今日の警備担当のようだ。
「おお、土方様。如何なさいました?」
「……この者らを、即刻引っ立てよ。牢にぶち込んでおけ」
「罪状は何でしょうか?」
 兵士は、落ち着いて確認する。
 それを見て、私もどうにか、怒りを抑え込んだ。
「偽物販売による不当な荒稼ぎ、乱暴狼藉にその教唆、まずは以上だ。後は取り調べれば良い」
「ははっ!」
 兵士らは、手際よく連行していく。
 だが、店主は納得がいかないのか、抗議の声を上げる。
「ま、待っておくんなはれ! 偽物販売やなんて、言い掛かりでおます!」
「まだ言うか!」
 思わず、私は一喝してしまう。
 それに怯んだのか、店主は漸く、大人しくなった。
「石田散薬は、我が生家に伝わる秘伝薬。その製法を知るのは、この大陸では張世平のみの筈だ。大方、張世平の成功を見て、本人の許しも得ずに粗悪品を模倣したのであろうが。違うか?」
「んな、アホな……」
 私が決めつけると、店主はガクリ、と項垂れた。
「連れていけ」
「はっ!」

「堂々と、太守様のお膝元で偽物を売るとは……」
「呆れて物も言えませんね。……あ、これお返しします」
 愛里はそう言って、国広を捧げる。
「見事な腕だ。流石であった」
「い、いえ……」
 恥じらいがあるのか、愛里は頬を染めた。
「元皓。愛里の事、お前に説明する間がなかった。許せ」
「いえ、それは構いません。それにしても愛里さん、強いですね」
 だが、愛里は頭を振るばかり。
「わたしの剣は、本当の強さはありません。戦場では愛紗さんや彩さん達にはまず敵いませんし、一対一なら……」
 と、愛里は私を見て、
「歳三さんには絶対に勝てません。あの殺気を見ただけでも、良くわかりました」
「……いや。愛里はそれで良い。此度はお前の腕前を確かめたかったが故に、敢えて私は手を出さなかった。だが、お前の本分は文官、剣を振るわずとも良い」
「……はい」
 愛里と元皓が、頷いた。

「あの……太守様」
 列に並んでいたらしき老爺が、おずおずと話しかけてきた。
「何か?」
「真の石田散薬、太守様が発案されたとは、真の事ですかの?」
「正確には生家の秘伝だが、事実だ。あのような事で、偽りは申さぬ」
 すると、老爺は、土下座を始めた。
「何の真似か。私は、土下座される謂れはない、止せ」
「いいえ。太守様、是非とも、本物の石田散薬、この爺にお分け下さいませ」
「…………」
「実は、酷い神経痛に悩まされていましてな。医師にも見放され、藁にもすがる思いでこの薬を、と。何卒、この通りですじゃ」
 すると、
「俺もどうかお願いします! 母が、捻挫が治らず難渋していまして」
「私も、この子の骨折に効く薬が必要なんです」
 ……列に並んでいた皆が、口々に訴えてきた。
 その全員が、真剣そのものだ。
「元皓、愛里。張世平という商人を、至急探し出してくれ。大陸の何処かにいる筈だ」
「ええっ? 太守様、大陸全部と言われましても……」
「……あの。とっても広い上に、名前と職業だけでは難しいかと」
 元皓と愛里が、盛大に溜息をつく。
「月、白蓮、華琳、睡蓮、それに何進殿にも頼めば良い。書状は認める。この者らが、我が生家の秘伝薬を頼りにするならば、それは無に出来ぬ」
「ですが、それでも今日明日に、とは行きませんよ? どうするのですか?」
「……やむを得まい。私が処方する」

 張世平が、ギョウに姿を見せたのは、それより二月後の事である。
 その間、私は政務の傍ら、ひたすら石田散薬の処方に追われる羽目になった。
 ……その分、魏郡のみならず、冀州全土から多大な感謝を受ける事にもなったが。 

 

四十三 ~棄民~

「…………」
 私は今、二通の書簡を前にしている。
 一通は、月から。
 そしてもう一通は、何進から。
 この書簡、書かれている内容には共通点がある。
「歳三様、失礼します」
「稟か。入れ」
「はい」
 手にしていた竹簡を私に差し出そうとして、稟は机上に気付いたようだ。
「あ、申し訳ありません。何か、お取り込み中でしたか?」
「いや、構わぬ。……むしろ、丁度意見を聞こうと思っていたところだ」
 私は、稟の竹簡を受け取り、机上の書簡を二通とも、稟の方へと押しやった。
「拝見しても宜しいのですか?」
「うむ」
「では、失礼します」
 素早く、稟は書簡に目を通す。
 ものの数分で読み終えたらしく、顔を上げた。
「月殿が、少府に任ぜられるのですか」
「そうあるな。……少府とは、どのような官職か?」
 稟は眼鏡を持ち上げて、
「九卿と呼ばれる高官の一つで、宮中の財務を司るのが職務です」
「ほう。中郎将から、更に出世という訳か」
「そうですね。ただし、朝廷の高官であり、宮中に賊する事になりますから」
「……洛陽に行く事になる、という事か」
 そして、もう一通の、何進からの書簡。
 其処にも、月の少府任命について、触れられていた。
 違うのは、その裏事情について書かれている事だ。
「協皇子の強い意向で、か。あの御仁を御輿に、と考えている宦官共の事だ、これは拒むまい」
「ええ。月殿はご自身も優れた人物、また麾下の人材も揃っています。ですが、百戦錬磨の宦官の事です、その月殿を逆に利用し、何進殿に対抗する為の手駒、と企んでいるのでしょう」
 協皇子と月は、かねてからの知己の間柄。
 これは、月が書簡で明かしている。
「つまり、協皇子は頼れる後ろ盾が欲しくて月さんを都に呼んだのですが、宦官さん達はむしろ自分たちの戦力として操ろうとしている、と。で、何進さんはそれで権力闘争が激化したり、月さんが巻き込まれるのを懸念しているという訳ですかー。奇々怪々ですね」
「ふ、風? あなた、何処から?」
 よいしょ、と机の下から、見慣れた金髪が現れた。
 ……何の気配も感じなかったのだが、私とした事が不覚を取ったのであろうか。
「心配無用ですよ、お兄さん。風が、神出鬼没なだけですから」
 本当に言葉通りならば、立派に間諜が務まるな。
 尤も、そんな事をさせるつもりは微塵もないが。
「月殿も、かなり困惑されているようですね」
「うむ。優しき奴故、協皇子の為にも動きたいのは山々であろう。だが、月ほどの者が宮中に赴けば、即ち火種となる」
「断り切れないでしょうねー、勅許を断るとなれば相応の理由が必要ですし」
「何進殿はそれを避けたいと思っておいでのようですが……」
 何進の書簡には、切々とした思いが綴られていた。
 無用な権力争いは好むところではないが、彼が動けば全て、妹である何太后と、弁皇子の為、と取られてしまう。
 本人にそのつもりがなくとも、宦官らはそのように見せようと暗躍するだけであろう。
「それに、陛下はお加減が優れぬようだ。確たる後継も定まらぬ中だ、まさに今月が赴けば、火中の栗を拾うようなものだ」
「ですが、勅許を覆すなど不可能です」
「何進さんのお気持ちもわかりますが、風達でもいい知恵は浮かばないのですよ」
 月には詠がついているが、やはり同じであろう。
 それに、決断するのは月本人。
 苦悩の様は記されているが、最後には受諾するしかあるまい。
 それは、何進もわかっているのであろうが、一縷の望みを託して、このような書簡を送ってきたという事であろう。
「……一度、月に会っておく必要があるな」
「でもお兄さん、此処から并州は遠すぎますね。それに、お兄さんが長期にギョウを離れるのは好ましくありませんよ?」
「わかっておる」
「それに、袁紹殿がその間に動きを見せる可能性もあります。月殿には申し訳ありませんが、我らはそちらを優先せざるを得ません」
「……何とも、歯痒い事だな」
 やはり、連合軍結成は避け得ぬ運命なのであろうか。
 ……些か、暗澹たる思いを禁じ得ぬ。


 翌日。
 渤海郡より、嵐(沮授)と星が帰還した。
「二人とも、ご苦労であった」
「本当だよ、全く。疲れるったらありゃしない」
「おや、書簡と睨み合いから解放されて楽だ、と言っていたのは何処の誰だったかな?」
「せ、星! 余計な事バラすんじゃない!」
 気ままな二人、ウマが合うようだな。
 珍しく狼狽する嵐に、場に笑いが広がる。
「さて、では報告を聞こう」
「あ、そ、そうだった」
 嵐は居住まいを正した。
「まず、袁紹は州牧を狙う事を隠す素振りは全くないね。それどころか、堂々と宣言されたぐらいだよ」
「主が、その折には傘下に入る事も、信じて疑わぬようでしたな」
 その話ならば、あれだけはっきりと拒絶した筈なのだがな。
 案の定、皆が呆れている。
「懲りない御仁ですね」
「全くです。ご主人様を何だと思っているのだ」
「それは、今更とやかく申すまい。嵐、続けよ」
「はいはい。どうも、その事ばかりに注力しているみたいで、渤海の復興は殆ど手つかずって印象だったな。城自体は、かなり手を加えている最中だったようだけど」
「嵐、それは防備を固めている、という事か?」
「それも少しは見られたよ、彩(張コウ)さん。けど、袁紹が指示したってより、顔良あたりが自発的にやっているって感じだったけどさ」
「兵の装備は確かに充実していたように見えましたな。ただ、練度は今一つ、白蓮殿の軍にも見劣りするでしょう」
「星ちゃん、さらっと酷い事言いますねー」
「にゃはは、でも白蓮お姉ちゃんの軍は、確かに弱いのだ。騎馬隊だけは強かったけど、その他は大した事ないのだ」
「全てを一人でこなさなければならないのでしょうから、調練が行き届かないのでしょう。袁紹殿の場合は、単なる怠慢、と言われても仕方ありませんが」
 話が逸れてきたな。
「渤海の現状はわかった。それと、袁紹の影にいる人物は如何であった?」
「それなんだけど……」
 と、嵐は言い淀む。
「まさか、袁紹本人が全て画策していた、と申すのではあるまいな?」
「んな訳ないじゃん。いるにはいるらしいんだけど、正体が掴めなかったんだ」
「面目次第もござらん。鎌をかけてみたのですが、顔良に遮られましてな」
 無念そうな二人。
「なかなか、尻尾を掴ませぬか。疾風(徐晃)が探り出せぬ程だ、余程の者と見て良いな」
「ますます、気になりますね。袁紹さんとの関わりが切れない以上、何としても確かめておいた方がいいですね」
「愛里(徐庶)様の言う通りですが……」
 では、どうすれば良いか、となると。
 搦め手を攻めても無益、とならば、正面攻撃しかあるまいな。
「嵐、星。袁紹は、私を拒絶する様子はない、それで間違いないな?」
「ああ。旦那の事嫌ってるなら、そもそもおいら達に会おうとはしないだろうしさ」
「ですな。少なくとも、袁紹殿にはそのような芝居は不可能でござろう。兵士にも、我らを警戒する様子はまるでありませぬ」
 ならば、次の一手を打つとするか。
「……風、愛里、鈴々。渤海に出向く、共に参れ」
「歳三さん? わたしも……ですか?」
 愛里は戸惑ったように言う。
「そうだ。何か不都合があるか?」
「い、いえ……。ただ、わたしは文官、お役に立てますでしょうか?」
「お前の才は、皆が認めるところだ。それに、お前は袁紹に顔を知られておらぬからな」
「風は、お兄さんが炙り出した人物の目利きをすればいいのでしょうか?」
「流石だな。お前と愛里、二人がかりならば万全であろう、頼むぞ」
「は、はい」
「御意ですー」
「お兄ちゃん。鈴々は何をすればいいのだ?」
「無論、我らの警護を頼む。お前なら問題あるまい」
「了解なのだ!」
「他の者は、留守を頼むぞ」
 皆、大きく頷いた。


「此処が渤海郡……ですよね?」
 愛里が、呆然と立ち尽くす。
 無理もあるまい、私が最初に魏郡で目にした以上の光景が、そこにあるのだ。
「これでは、徴税もままならないでしょうねー」
「酷すぎるのだ……」
 冀州よりも食糧事情の悪い幽州ですら、ここまで凄惨ではなかった。
 村と思しき場所で、人の姿が全く見当たらぬのだ。
 畑は枯れ、手入れされた気配すらない。
 ガアガアと、鴉の鳴き声ばかりが木霊する。
「……参るぞ。我らに出来る事は、何もないのだ」
「……はい」
 そう、看過するしかないのだ。
 如何に袁紹の治政が劣悪であろうと、それを糺す権限はない。
 そして、その為に苦しむ庶人にも、手を差し伸べる訳にもいかぬ。
「袁紹さんは、この事をご存じなのでしょうか?」
「知っているなら、普通は何とかしようと思うのだ」
「普通は、ですけどねー。でも、あの袁紹さんですからね」
「……だが、国の礎は民。それを顧みぬ者は、為政者たる資格はない」
「……当たり前の事なのですが、どうしてそれを理解しない方が多いのでしょうか」
 沈痛な表情の愛里。
「このような地獄絵図は、永遠には続かぬ。……そう、信じる他あるまい」
 私は、手綱を握り締めた。

「止まれ!」
 不意に、行く手を遮られた。
 不揃いの得物を手にした集団で、人数は五十名余、と言ったところか。
 男ばかりではなく、女子(おなご)も混じっているようだ。
「何用か?」
「此処を通るなら、通行料を置いていけ」
 先頭の女子(おなご)が、叫んだ。
「通行料だと?」
「そうだ。とりあえず、有り金と食糧全てだ」
「お前達、山賊なのか?」
 鈴々がそう言いながら、蛇矛を構える。
「山賊ではない!」
「ならば、何故通行料を要求する? 見ての通り、我らは公務中だが?」
「そんな事は関係ない。皇帝だろうが何だろうが、此処を通りたきゃ、通行料をいただくまでだ」
 白昼堂々、このような者共が大手を振って歩くとは。
 治安など、まるで守られてはおらぬという事か。
「お兄ちゃん。やっちゃっていいか?」
「待て」
 単なる山賊や野盗の類にしては、荒んだ空気がない。
 それに、風や愛里らに目もくれぬというのは、何とも解せぬ。
 私は、馬を下り、連中の前へと出る。
「理由を聞かせよ。何故、問答無用で襲わぬ?」
「手向かいしないならば、無用な殺生をするつもりがない。見たところ、金と食糧がなくとも不自由はなさそうだからな」
「ほう。それは、我らが官吏だからか?」
「そうだ。貴様らは、あたしら民から搾取するだけ搾取し、自分達ばかりがぬくぬくと暮らしている。それを返して貰う、ただそれだけだ」
 そう言って、女子(おなご)は反りの大きな剣を抜いた。
「鈴々、相手をしてやれ。ただし、殺すな」
「合点なのだ!」
「あまり、あたしを舐めない方がいいぞ? おチビちゃん」
「鈴々はチビじゃないのだ! 行くぞ!」
 蛇矛を水車のように、ブンブンと振り回す鈴々。
 それを見て、女子(おなご)の顔が引き締まった。
「うりゃりゃりゃりゃりゃっ!」
 怒濤のような鈴々の突き。
「くっ! な、なんて速さだ!」
 必死の形相で、女子(おなご)はそれを受け止めている。
「愛里。どう見る?」
「は、はい。鈴々ちゃんを相手にするには、実力不足かと。程なく、勝負がつくでしょう」
 確かに、まともに討ち合うなら、そうであろう。
 ……だが、あの女子(おなご)……何かを窺っているようだ。
 鈴々に押されるように、じりじりと下がっていく。
「逃げてばかりじゃ、勝てないのだ」
「う、うるさいっ!」
「なら、止めなのだ!」
 鈴々は蛇矛を構え直すと、女子(おなご)に向けて踏み込んだ。
 その時。
「にゃあっ?」
 足元がいきなり崩れ、鈴々の姿が消える。
 ……落とし穴を仕込んでいたか。
「鈴々ちゃん!」
「おおー!」
 愛里と風が、同時に叫んだ。
「油断大敵だぞ、おチビちゃん」
 女子(おなご)は、蛇矛を踏みつけて抑えながら、剣を鈴々に突き付けた。
「は、放せなのだ!」
「嫌だね。さ、このおチビちゃんを助けたければ、言う事を聞きな」
 女子は、私に向けて言い放つ。
「……いいだろう。暫し待て」
 私はそう答え、腰から皮袋を外した。
 さりげなく、愛里に視線を送りながら。
「金は、全てここにある」
「よし。こっちに投げて寄越せ」
「良かろう。……受け取れ」
 女子(おなご)の足許に、袋を投げた。
 ドサリ、と音がして……女子の、遥か手前に落ちた。
「届かないじゃないか。おい、そっちのおチビちゃんに持って来させるんだ」
「愛里」
「は、はい!」
 愛里は、皮袋のところまで駆けていく。
「お、おわわわわわっ!」
 そして、盛大に転んでしまう。
「おいおい、大丈夫か?」
「あいたたた……」
 一瞬、女子の視線が逸れた。
 その隙に、私は足下の石塊を拾い、女子に向かって投げつけた。
「!」
 咄嗟に、女子(おなご)は剣でそれを払う。
「何しやがる!……あ」
 剣が、半ばからポキリと折れた。
「愛里!」
「はいっ!」
 転んでいた愛里、素早く起き上がると、懐から小刀を取りだし、女子に投げつけた。
「うおっ!」
 見事に躱したが、当然、身体は動いてしまう。
「へへーん。形勢逆転なのだ」
 鈴々がその隙に、穴から這い出て、蛇矛を手にした。
「さて、まだ戦うか?」
「ひ、卑怯だぞ!」
「落とし穴を使うお前に言われたくないのだ」
「ぐ……」
 折れた剣では、もはや、鈴々の攻撃は防げまい。
「それに、戦えるのはお前一人であろう? 無駄な抵抗は止せ。大人しくすれば、危害は加えぬ」
「……わかったよ。あたしの負けだ」
 女子(おなご)は、剣から手を離した。

 兵が縛り上げようとしたが、私はそれを止めさせた。
「何故、このような真似をした?」
「……仕方なかったんだ。見ての通り、畑は荒れ放題、それなのに官吏共は何もしてくれない。じゃあ、どうやって生きろって言うんだ?」
 女子(おなご)の叫びは、切実だ。
「お前ら官吏は、あたし達全員に死ねというつもりなのかよ!」
「そのような事は言わぬ。……だが、お前は一つ、思い違いをしているようだ」
「何?」
「私は、この渤海郡の官吏ではない。また、郡太守の袁紹とは、何の縁もない」
「…………」
「このお兄さんはですねー。魏郡の太守さんなのですよ」
 風の言葉に、女子が驚愕した。
「じ、じゃあ……。アンタがあの、鬼の土方?」
 ……また、その二つ名か。
「お兄ちゃんは鬼なんかじゃないのだ。とっても優しいのだ」
「そうですよ。歳三さんが太守になられてから、魏郡がどれだけ立ち直った事か。同じ冀州にいるあなたなら、少しはご存じではありませんか?」
「……ああ。そうか、アンタが……。済まなかった」
 女子(おなご)は、頭を下げる。
「お前は、この渤海郡の民なのだな?」
「……そうさ」
「ならば、共に参るが良い。私はこれより、袁紹に会いに参るところだ」
「……あたしを、突き出すつもりか?」
「いや。お前のその想い、袁紹にぶつけるが良い。少しは、目が覚めるやも知れぬからな」
 女子は、ちらりと仲間達に目を遣る。
「……なら、頼みがある。アイツらを、アンタのところで受け入れて欲しい」
「この渤海郡を出る、と申すか?」
「どのみち、此処にいれば餓死するのを待つだけだ。それなら、生きる希望を持てる場所に、連れて行ってやりたいんだ」
 必死に、女子(おなご)は訴えかける。
「風、愛里。どうか?」
「とりあえず、袁紹さんの出方如何ですが。預かるだけなら問題ないかと」
「民の移動は、禁止されている事ではありませんし。それに、この様子では戸籍管理も杜撰と思われます」
「……よし。鈴々、半数の兵と共に、この者をギョウへ連れて行け。元皓(田豊)に書簡を認める故、ギョウに着いてよりは奴に任せよ」
「いいけど、お兄ちゃんはどうするのだ? 鈴々がいなくて平気か?」
「袁紹の本拠まではあと僅かだ。戻ったら、愛紗に手勢を連れて此方に来るよう、それも書簡を認めよう」
「わかったのだ」

 鈴々が去るのを見届け、私達も出発した。
「ところで、名は何と申す」
「……まだ、言えない。アンタの言う事を、全部信じた訳じゃないんでね」
「そうか。ならば、無理には問うまい」
 私の答えが意外だったのか、女子(おなご)は驚いた。
「いいのか、それで?」
「うむ」
「お兄さんは、そういう方ですから。あ、風は程立ですよ」
「わたしは、徐庶と言います」
「……ああ」
 名も知らぬ道連れと共に、私は荒涼とした渤海郡を、袁紹の元へと進み始めた。 

 

四十四 ~袁本初~

 漸く、行く手に城が見えてきた。
「あれが南皮城さ。けど、城って言うのもどうかな」
 そう話す少女の口調には、嘲りが感じられる。
 自分たちを苦しめている張本人がいるのだ、やむを得まい。
 私はそう、解釈した。
 ……だが、それは思い違いであったようだ。

「…………」
「ほえー」
「……ここ、城……ですよね?」
 一同、声を失っていた。
 屋根は黄金色に輝き、見るからに豪奢な構えの城。
 このような城は書物の中で、太閤秀吉が築いたと言われるものしか思い当たらぬ。
 京の鹿苑寺や、奥州の中尊寺にも金箔を貼った建物はあるが、まるで比較にはなるまい。
 城壁や城門に至るまで、瑕疵一つないのは見事とも言えるが……。
 そんな中、件の少女だけは冷めた表情だ。
「あたしらが日々苦しむ中、此処だけは別世界さ」
「確かに、これだけ手を加えるとなると、相当な費えが必要でしょうねー」
「あり得ません。袁紹さんは、何を考えているのでしょう?」
 風と愛里(徐庶)は、ただ呆れている。
「……ともあれ、袁紹に会わねばなるまい。参るぞ」
 私は頭を振って、歩き出した。

 嵐らが事前に行っていた事もあり、すんなりと城内へと通された。
 少女だけは事前に、一見文官に見える衣装に着替えさせた。
 当人はかなり渋ったが、とにかく袁紹の前に連れて行かねば意味がない。
 お陰で、誰にも見咎められる事もなかった。
 そして、
「おーほっほっほ。お久しぶりですわ、土方さん」
「……袁紹殿も、壮健で何よりだ」
 今は対等な立場、此方がへりくだる必要はない。
 謁見の間には、袁紹の他に顔良、そして見知らぬ少女が一人。
 妙に敵意の籠もった眼で、私を睨み付けている。
 何故か、猫の耳に似た形状の、服と一体化した帽子を被っている。
 歳の頃は、愛里と同じか、やや年上、と言ったところか。
 ……ただ、私は、全く見覚えがない。
「お兄さん、風の知らないところで何かしたんですか?」
 流石に、風らもそれに気付いたようだ。
「風。私をそのような奴だと思うのか?」
「勿論、お兄さんはそんな軽い男じゃないと信じてますけどねー。でもでも、あの敵視ぶりは異常なのですよ」
「ええ。憎悪というか……確かに、怖いですね」
 少なくとも、この世界で謂われなく恨まれる筋合いはない。
「袁紹殿。そちらの御仁は?」
「ああ。そう言えば荀彧さんは初めてでしたわね。荀彧さん、ご挨拶なさい」
「お断りします」
 即答であった。
 高笑いをしていた袁紹も、流石に表情を変えた。
「じ、荀彧さん? 今、何と仰いまして?」
「……ですから、お断りします、と」
 袁紹の顔が、引き攣っている。
 ……荀彧と言えば、あの荀彧なのであろうが。
 それにしても、初対面の私がここまで嫌われる理由がわからぬ。
「荀彧さん! 貴女、わたくしの命が聞けないのですか!」
「袁紹様。私は男などと一言たりとも話すつもりはありません。ですから、お断りします」
 とりつく島もない、と言った風情の荀彧。
 袁紹は怒りで身体を震わせていて、顔良はこめかみを押さえている。
「荀彧とやら。性別だけで差別するとは……それでも貴様、軍師か?」
「な……」
 私の言葉に、ギョッとしたように顔を上げた。
 軍師、という言葉に反応したのであろう。
 が、すぐに憎々しげな顔に戻る。
「話しかけないでよ! 男なんかに話しかけられたら、妊娠しちゃうわ! この全身精液男!」
「ほう。風、私が女子(おなご)に話しかけると、それだけで子が授かるそうだが」
「だったら、今頃魏郡は子供だらけですねー。確かにお兄さんの子だったら、風は本望ですけど」
 ……最後の一言は余計だ。
「な、なんて事よ! やっぱり男は厭らしいわ! これ以上話しかけないで、息もしないで!」
 荀彧ほどの人物なら、もっと筋道の立った話をするかと思っていたのだが。
 これではただの暴論、思い込みと偏見だけで話をする愚物ではないか。
「……袁紹殿。拙者を侮辱するおつもりか?」
「そ、そんなつもりはありませんわ。荀彧さん、席をお外しなさい」
「袁紹様! このような汚らわしい男の言葉を聞き入れるのですか?」
「お、お黙りなさい! 斗誌さん、連れ出しなさい!」
「え、ええ! 私ですか?」
 いきなり話を振られた顔良は、困惑するばかりだ。
「そうですわ! 早くなさい!」
「で、ですが……」
 どうした訳か、顔良は動こうとしない。
「……貴様。武士(もののふ)への侮辱、覚悟あっての事であろうな?」
 私は、兼定に手をかける。
「ま、まさか、城中、しかも袁紹様の御前で剣を抜く気?」
 流石に顔は青ざめてはいるが、それでもまだ、気丈に私を睨む荀彧。
「な、何してるんですか! 土方さんを止めて下さい!」
 漸く、呪縛から解けたのか、顔良が慌てて駆け寄ってきた。
「邪魔をするな。非がどちらにあるか、問うまでもあるまい?」
「で、でも……」
 愛里と風が、顔良との間に立つ。
「謂われなく、我が主が辱めを受けているのです。お仕えする者として、邪魔はさせません」
「お兄さんが恨まれる筋合いがないのもありますが、それ以前に場を弁えない時点で、この場にいる資格はないのですよ。何故、袁紹さんのご指示通り、連れ出されないのでしょうかねー?」
「そ、それは……」
 顔良はまだ、良識がある者と見ていたが。
 私の、思い違いであろうか?
 ……ともあれ、あの小娘を黙らせねばならんな。
 荀彧に視線を戻した私は、そのまま睨み返した。
 これでも、数々の修羅場を潜り抜け、少なからぬ人の命を奪ってきたのだ。
 刀こそ手をかけただけだが、何時でも斬り結ぶつもりで、暫し荀彧を見据えた。
 ……と。
 荀彧は腰を抜かしたのか、その場にへたり込んだ。
 顔は完全に青ざめ、歯の根が合わぬのか、ガチガチと音を立てている。
「……おい」
「ひ、ヒッ!」
 短く声をかけたところ、とうとう精神の限界を超えたらしい。
 そのまま、ガクリと気を失った。
 私も兼定から手を離し、袁紹の方を向く。
「ご無礼仕った」
「……はっ? い、いえ、私の方こそ、とんだ醜態をお見せしましたわね。おほ、おほほほほ」
 取り繕うように笑う袁紹だが、その声は、乾ききっていた。
「では、用件に入らせていただく」
 そう言って、件の少女に、前に出るよう促した。


 その夜。
 袁紹から提供された宿舎に入った私達は、食事の後で集まった。
「……しかし、本当に袁紹に会えるとは思わなかったぜ」
 そう話す少女は、幾らか表情が柔らかである。
「存外、素直であったな」
「ですねー。それにしても、袁紹さんは全然、渤海郡の現状をご存じなかったんですね」
「仕える官吏が皆、都合の良い事しか知らせていなかったようですし。……知ろうとしなかった袁紹さんにも、責任はありますけどね」
 袁紹は、郡太守という身分には拘っていたが、その職責に相応しい働きをするつもりはないようだ。
 それ故、全てを配下に丸投げ、報告だけを受けているらしい。
 文醜はさておき、顔良がその矛先となっているようだが、本分は武官、行政手腕など期待するだけ酷というものだろう。
 それでも、南皮周辺だけは何とか目を届かせようと努力はしている為、袁紹の目にも領内は平穏、と映ったのかも知れぬ。
 少女の訴えに、最初は怪訝な表情を見せていたが、その真剣さに、事態の深刻さに遅ればせながら気付いたらしい。
 ……尤も、どこまで有効な手を打てるのか、怪しい限りではあるが。
「とにかく、あたしの話を聞かせられただけ、良かったよ。……あたし、何平ってんだ」
 と、少女はぶっきらぼうに名乗る。
「何平……。元の名は王平、それに相違ないか?」
 少女、いや何平は、私の言葉に目を見開いた。
「な、なんであたしの事を知ってるんだ?」
 ……やはりな。
 策を立てたとは言え、鈴々の蛇矛を受けきる腕前、ただ者ではないと思っていたが。
「このお兄さんはですねー、いろいろと不思議な知識をお持ちなのですよ」
「わたしもお仕えしてまだ日は浅いですが、全くの同感です。名前を聞いただけで、その人の主な経歴を述べられる事も、珍しくないんですよ」
「……じゃあ、あたしの事もそうだってのか?」
「そう考えて貰って構わない。だが、知っているからどう、というつもりはない。そこは誤解せぬようにな」
「あたしは学がないからよくわかんないけどさ。……ただ、アンタが嘘をつくような奴じゃないって事ぐらい、わかるさ」
 そう言って、何平は笑った。
「さて、じゃああたしは先に寝てもいいかな? 柄にもない場所に出たんで、疲れちまった」
「構わぬ。どのみち、我らはまだ話す事がある」
「わかったよ。じゃ、おやすみ」
 手をひらひらと振りながら、何平は出て行った。
「気を遣ったんでしょうかねー」
「そうかも知れませんね。何平さん、ただの棄民じゃないみたいですね」
 あの少女が、真に王平ならば、このまま埋もれてしまう事もあるまい。

 そして、話題は袁紹の州牧の事へと移る。
「袁紹さんに影で助言していたのは、あの荀彧という者で間違いなさそうですね」
「それにしては、あんまり軍師として役立っているようには見えませんでしたけどねー」
「その通りだな。恐らく、才はかなりの物を持っているのであろうが、あのように思考が偏っていては、な」
 その点、稟や風、愛里、嵐(沮授)、元皓(田豊)は皆、視野が広く、物事を公平に見る。
 軍師に限らぬ事ではあるが、視野を狭める事は人物を狭量にするだけ。
 理由はわからぬが、荀彧のようにただ男嫌いというだけで、それを露わにするのでは働き場もあるまい。
 少なくとも、私が袁紹であれば用いるべき人材にはならぬ。
「お兄さん。あの荀彧ちゃんの事も、ご存じではなかったのですか?」
「……いや。私が知る荀彧は、少なくとも、あのような人物ではない。『王佐の才』と呼ばれる程の才を持つ者なのだが」
 実際、私が知るのは、曹操の覇業に多大な貢献をしたという事。
 この世界の華琳が果たして、あのような偏見に満ちた人材を用いるかどうかはわからぬが、少なくともあのまま、袁紹の下にいるとは考えにくいな。
 そう思っていると、不意に外が騒がしくなった。
「何かあったんでしょうか?」
「兵士さん達が、走り回っているようですねー」
 考えられるとすれば敵襲だが、賊の類が兵の居る事が明確な城を攻めるとは考えにくい。
 漢王朝は斜陽とは申せ、群雄割拠にまでは至っておらぬ以上、私闘もあるまい。
「土方様。顔良様がお見えです」
 そこに、同行している兵士が、取り次ぎに現れた。
「よし、通せ」
「はっ」
 入れ替わりに、やや慌てた様子の顔良が、入ってきた。
「申し訳ありません、夜分に」
「いや。火急の用件とみたが、何事か?」
「は、はい。実は、荀彧さんをご存じないかと思いまして」
 私は、愛里や風と顔を見合わせた。
「いや。そもそも、先ほどの様子では私と顔を合わせる事すら望まぬであろう」
「そうですよね……。はぁ、もうどこ行っちゃったんだろう……」
 がっくりと肩を落とす顔良。
「もしかして、行方を眩ましてしまったのでしょうかー?」
「……そうなんです。こんな書き置きを残していったんですが」
 と、顔良は一通の書簡を差し出した。
「あの、読んでも宜しいのですか?」
「どうぞ。機密になるような事は、書かれていませんから」
「では、失礼します」
 愛里がそれを受け取り、卓上に広げた。
 そこには、仕えるべき主人をもう一度見定めたい、それ故今一度旅に出る、とだけ記されていた。
「……失礼だが、荀彧は袁紹殿を見限った、としか読み取れぬが?」
「……やっぱり、そうですよねぇ。以前から、麗羽様に不満を持っていたのは知っていたんですけど」
「それにしても、唐突ですね。失踪前の様子はわかりますか?」
 愛里がそう言うと、顔良は少し、首を傾げた。
「はい。土方さんの前であのような無礼を働いた後、だいぶ後で意識が戻ったんです。その後で、麗羽様から酷くお叱りを受けまして……麗羽様、恥をかかされたってカンカンでしたから」
「自業自得ですね、それは。それで、その後はどうなりましたかー?」
「麗羽様と口論の末、部屋に閉じこもってしまったんです。夕食にも手を付けずにいたみたいなんですが、その後で様子を見に行った兵が、部屋からいなくなっている事に気付きまして……それで」
 慌てて大捜索、という次第か。
 袁紹の下には、軍師はおろかまともな文官がいない事は、先ほどの会話で知り得た事だ。
 性格を別にすれば、荀彧ほどの人材は、袁紹麾下では貴重どころの話ではあるまい。
 ……尤も、袁紹本人がどこまでその価値に気付いているかは、甚だ疑問ではあるが。
「あの、土方さん。……気を悪くされたかと思いますが、荀彧さん、男の人には誰でもあんな態度なんです」
「さもあろう。全くの初対面で、あそこまで一方的に憎まれる謂われはない」
「そうなんです。お陰で、彼女が麗羽様に仕官して以来、一方的に罵倒されたりする男の文官が、次々に辞めてしまいまして……。ただでさえ人手不足なのに、うう……」
「いくら何でも、それは問題だと思うのですけど。……もしかして、先ほど荀彧さんを庇ったのは……」
 愛里の言葉に、顔良は俯いた。
「……はい。性格に難がある事はわかっているんですけど、それを補って余りあるだけの智謀を持っていますから。麗羽様も文ちゃんも、内向きの事では全く頼りにならなくて」
「良いのか、そのような内情を私に話しても?」
「……いいんです。外見だけ取り繕っても、いずれ露見してしまいますしね」
 顔良は苦笑した。
「だから、今荀彧さんにいなくなられては困るんです。それで、私の一存で兵を出して探させているんですが……」
 事情はわかったが、荀彧探しに協力する理由は何処にもない。
 私が男と言うだけで、一方的に無礼を働いた事もあるが、今の袁紹が州牧だけに目が行っているのも、荀彧という存在が影響しているのは確かだ。
 軍師ならば、策を講じるのみならず、必要があれば主君を諫めるぐらいでも良い筈。
 だが、荀彧にはそんな素振りはなく、ただ袁紹を煽り立てているだけにしか見えぬ。
 顔良には気の毒だが、荀彧の存在は、今の袁紹に取っては利よりも害が勝っている。
 袁紹が苦しむのは統治者たる資質の問題、それは良い。
 だが、支配される側、庶人の苦しみはそのまま、悪化するばかり。
 手を貸す訳にはいかぬが、少なくとも眼を向けさせる事には成功したのだ、また元の木阿弥では意味がない。
 ……ならば、少しばかり手を出すとするか。
「顔良。此処にはおらぬが、城外は探させたのか?」
「いえ。こんな時間で城門も閉まっていますし、それに荀彧さん一人でとは考えられませんから」
「そうかな? 奴は頭が切れる、顔良がそう考える事を見抜き、敢えて城外に出た可能性もあると思うが?」
 私がそう言うと、顔良はあっという顔をした。
「そ、そうですね! ご助言、感謝します。それでは、失礼します!」
 そう言い残し、慌てて飛び出して行った。
「お兄さん。わざと顔良さんに嘘を教えましたね?」
「ふっ、流石風、見抜いていたか」
「でも歳三さん。一体、どうなさるおつもりですか?」
「……少しばかり、灸を据えてやろうと思ってな。さて、まずは荀彧を捕らえねばならんな」
 私は、腰を上げた。


 翌日の早朝。
 城門が開かれるのと同時に、小さな影が素早く、城外へと走り出た。
「フフフ、ほんっと馬鹿ばっかよね。夜中に城外になんて出る訳ないのにね」
 得意満面でそう呟きながら、荀彧が此方に向かってきた。
「よし。手筈通りに動くのだ。良いな?」
「応!」
「なぁ、土方さん。本当にいいのか、こんな事やっちまって?」
 棄民姿に戻った何平が、呆れたように言う。
「構わんさ」
「まぁ、面白そうだからいいけどさ。んじゃ、ちょっくらやってくるか」
 そして、荀彧の前に、男の兵士が扮した盗賊が立ち塞がる。
「な、何よあんた達!」
「へっへっへ、おい野郎ども!」
 合図と共に、他の兵が飛び出す。
 皆、盗賊に扮しているのと、付け髭などでわざとむさ苦しい格好をしている。
「い、いや……。ちょ、ちょっと来ないでよ……」
「かかれっ!」
 合図と共に、兵達は荀彧に群がり、あっという間に縛り上げた。
「捕まえたか?」
「へい、お頭!」
 そこに姿を見せた何平、芝居が板についているな。
 ……兵らも、随分と乗り気なのは、少々意外であったが。
「あ、あんた達! 私を誰だか知っているのでしょうね?」
「あ~? 袁紹んとこの、自称軍師様だろ?」
「な、何ですって……?」
 何平は不敵に笑って、荀彧を小突く。
「ま、こんな貧相な身体つきじゃ、高くは売れねーけど、仕方ないだろ。おい、野郎共」
「へい!」
 兵の中でも、一層むさ苦しい格好の者が二人、荀彧の両側に着いた。
「ちょ、ちょっと、近寄らないでよっ!」
「うるせぇ!」
「へっへっへ、大人しくするんだな!」
「い、いやぁぁぁぁぁぁ!」

 そのまま、何平の指揮の下、魏郡まで連れて行き、領内の外れで解放させた。
 近くを大規模な商隊が通る事を見越して、である。
 無論、私は同行出来なかったのだが、
「縄を解いたのに、暫くは身動きしてなかったぜ? 『男が怖い男が怖い……』ってブツブツ呟きながらさ」
 律儀にも、最後まで付き合った挙げ句に戻ってきた何平が、そう報告してきた。
 尤も、その時は私もまた、ギョウに戻っていたのだが。
「お兄さんも、なかなかえげつないですねー」
「でも、自業自得ですしね。少しは懲りたでしょう」
 些かやり過ぎたかと思っていたが、風だけでなく愛里までこの調子であった。
 余程、私を罵倒した事が、腹に据えかねているようだ。
「何平、ご苦労であった。少ないが、報酬を受け取るが良い」
 自身の手持ちから、幾許かの金を何平に手渡した。
「え? いいのか?」
「ただ働きをさせるつもりはない。それだけの働きをしたのだからな」
「そうか。なら、いただいておくぜ、へへ、じゃあな」
「うむ」
「……本当に良かったのですか? 鈴々ちゃんと渡り合った腕前といい、機転といい、惜しいと思うんですが」
 去って行く何平を見送りながら、愛里が言う。
「だが、本人が仕官を望まぬのだ。無理強いをしても仕方あるまい」
「……はい」
 あれだけの人物、野にあっても存在感を示すであろう。
 ふっ、いずれまた何処かで会うやも知れぬな。 

 

四十五 ~南皮~

 密かに荀彧を捕らえ、送り出したその日。
「ご主人様、お待たせしました」
 宿舎に、愛紗が現れた。
 どうやら、かなりの強行軍で来たらしく、兵共々、疲労が見て取れる程だ。
「ご苦労。ひとまず、ゆるりと休むが良い」
「いえ、お気遣いなく。ご主人様達をお守りするのが我が役目、これしきの事で音を上げる訳には参りませぬ」
 真面目な愛紗らしい返答。
 だが、無理をさせるつもりもなければ、その必要もあるまい。
「愛里(徐庶)。愛紗を部屋に連れて行ってくれぬか?」
「わかりました」
「ご主人様、私は……」
「愛紗、これは私の命令だ。良いな?」
 愛紗は唇を噛み締めた後で、
「……わかりました。ご命令とあれば、仕方ありません」
 大人しく、愛里と共に出て行った。
「その方らも休息を取れ。ここは袁紹殿の城中、安心して休むが良い」
「はっ!」
 兵らは、安堵した様子で、それぞれの部屋へと向かって行った。
「将が休まないって言ったら、兵の皆さんも休めませんからねー」
「その通りだ、風。……その点、愛紗は生真面目過ぎる。少しは星を見習った方が良いのかも知れぬな」
「それはどうですかねー。真似をするのはいいのですが、星ちゃんみたいに不真面目が服を着て歩く存在が二人とか、お兄さんが苦労すると思うのですよ」
 そう言う風はどうなのだ、と言いかけたが、止めておこう。
 戻ってきた愛里は、
「やはり、お疲れだったようですね。着替えた後、すぐに眠ってしまわれましたよ」
 そう、報告した。
「今日一日は休ませてやるが良い。明日、変わりがなければ出立で良かろう」
「ですねー。袁紹さんに影で指示していた人も突き止めましたし、もう此処には用がありませんね」
「それに、あまり長くギョウを不在にする訳にもいきませんから。後で、暇を告げに参りましょう」
 同じ州内とは申せ、任地を離れているのは確かに不適切だ。
「よし。では袁紹に……」
 私がそう言いかけた時。
「土方様。袁紹様より、城中までお運び願いたいと使者が参りました。如何致しましょう?」
 取り次ぎに出た兵が、そう告げた。
 思わず、二人と顔を見合わせる。
「どうやら、使者を出す手間が省けたらしいな」
「それにしても、袁紹さんから呼び出すなんて、一体何でしょう?」
「行けばわかりますから、今から気にしても仕方ないのですよ」
 全くだな。
 荀彧以外には策士がいる可能性は、まずなかろう。
 それに、此方には風と愛里がいるのだ、何の懸念もない。


 袁紹の様子が、明らかにおかしい。
 あの、尊大な態度こそそのままだが、何処か気も漫ろ、という印象がある。
 荀彧は当然として、顔良も姿が見えぬ事が原因なのであろうか。
 その代わりではないのであろうが、文醜が側に控えていた。
「よ、よく来て下さいましたわね」
「我らも、長居は許されぬ身。そろそろ、暇を、と考えていたところだ」
「そんな。まだ、何のおもてなしもしていませんわ。それどころか、大変なご無礼を」
「私は気にしておらぬ。それに、気遣いは無用に願いたいのだ」
「そうですか……」
 やはり、いつもの居丈高な様ではなく、むしろしおらしい程だ。
 むむ、調子が狂うな。
「……袁紹殿。単刀直入に、用向きを申されよ」
「そ、そうですわね」
 居住まいを正し、袁紹は私を見据える。
「……土方さん、わたくしが冀州牧の座を願っている事は、御存知ですわね?」
「ああ」
「単刀直入に言いますわ。わたくしに、力添えしていただけませんこと? 袁家の名声と財に、土方さんの武と智が加われば鬼に金棒、向かうところ敵なしですわ」
 また、その話か。
「以前にも申した通りだ。私は、貴殿に与するつもりもなければ、その義理もない」
「わかっていますわ。ですから、金塊などではなく。……わ、わたくしを好きになさって構いませんのよ?」
 袁紹は、耳まで真っ赤だ。
 ……なるほど、今度は己自身を餌にするのか。
 確かに袁紹は美形で、身体つきも立派だ。
 ……む、控えている文醜が、にやにやと笑みを浮かべている。
 ふむ、どうやらこの入れ知恵をした張本人らしいな。
「袁紹殿。ご自身が何を言ったか、意味はわかっておいでか?」
「と、当然ですわ。袁家たるもの、嗜みとしては」
「……だが、貴殿は生娘であろう? 仮にも名家ならば、今少し慎まれよ」
「姫、はっきり言ったらどうですか?」
 焦れたように、文醜が口を挟む。
「い、猪々子さん、お黙りなさい!」
「いや~、見てらんないんですよね」
 ますます、袁紹は赤くなる。
 ……よもや、とは思うが。
「袁紹殿。私がそのような男とお思いか? 見損なわないでいただきたいものだな」
「あ。ち、違いますわ!……うう」
「あ~、もうじれったいなぁ。はっきり言わないとダメですってば」
「やれやれ、そう言う訳ですかー」
 ここまで来れば、私も風も飲み込めた。
「……あの、歳三さん? まさか、とは思いますが……」
「愛里ちゃんが想像している通りみたいですよー?」
「にゃわわ……。そ、そんなのありですか?」
 愛里でなくとも、驚くのは無理からぬところだ。
 ……しかし、合点はいかぬな。
 如何に上から目線とは申せ、私は袁紹の誘いを手酷く突っぱねた。
 洛陽では、一触即発にまでなった間柄だ。
 嫌われるならまだしも、好意を持たれる要素など微塵もあり得ぬ筈だが。
「さてさて、お兄さん。どうされますか?」
「うむ……」
 想定外だけに、咄嗟に良き案は思いつかぬな。
 そんな私を、袁紹は上目遣いで見ている。
 これが芝居ならば大したものだが、この女子(おなご)には似つかわしくない。
 ……さて、どうしたものか。
「袁紹殿。人払いを願おうか」
「……は?」
 私は振り向くと、
「風、愛里。お前達も外してくれぬか?」
「……わかりました。お兄さん、信じているのですよ?」
「歳三さんがそう仰るなら」
 二人は頷き、部屋を出て行った。
「姫? あたいはどうするんです?」
「猪々子さんも外しなさい」
「へ~い。姫、何かあれば叫ぶなりなんなりして下さいよ?」
 意味ありげに笑いながら、文醜も出て行った。


「さて、袁紹殿。もう聞く者はおらぬ。存分に話されよ」
「……は、はい」
 が、袁紹は視線を逸らしたままだ。
「如何なされた?」
「…………」
 どう切り出すべきか、迷いがあるのか。
 ……ならば、此方から問い質すしかあるまい。
「袁紹殿。ならば、私から話させていただく。宜しいな?」
 袁紹は、黙って頷いた。
「貴殿が、州牧を熱望しているのは存じている。いや、その事を隠そうともせぬ以上、当然ではあるな」
「ええ、その通りですわ」
「ふむ。貴殿が名家であるが故の宿命、それに華琳への対抗意識で相違ないか?」
「それが、袁家の当主たるわたくしの務め。華琳さんの事も勿論ですわ、あの方に負ける訳には参りませんもの」
「だが、その為の手段とは申せ、今の貴殿はこの渤海郡の民を治める立場にある。その事、本当に得心出来ているか?」
「それは……」
 言葉を濁す袁紹。
「荀彧という謀臣を得て、貴殿の目的には近づいたやも知れぬ。だが、任じられた責務を果たす事なく、己の立身出世のみを成し遂げる。それが、本当に名家たる者の採るべき道であると思うか?」
「わたくしだって、栄達だけを望んでいる訳ではありませんわ」
「だが、行動にそれが現れなくては、他人は貴殿をそのようには思わぬ。華琳はその点、行動し結果で示している。それ故、民の支持も得られ、周囲も華琳という人物を認めるようになる。貴殿と華琳の決定的な差は、そこにあるのではないか」
「……土方さんは、華琳さんを認めていらっしゃいますの?」
「ああ。少なくとも、己の言動と行動に伴う責任から目を逸らす事なく、正面から向き合う姿勢は評価しているつもりだ」
 袁紹はふう、と息を吐くと、
「……では、土方さんは華琳さんの事、どう想われていますの?」
「そうだな。知勇を兼ね備え、為政者としても優れている。平時ならば宰相として優れた才能を発揮するだろうな」
「そ、そうではありませんわ!」
 何故か、妙に迫力があるようだが。
「女として、華琳さんをどう想われているのか、それを聞かせていただきたいのですわ!」
「……特に、何もないな」
「何も?」
「そうだ。確かに華琳は才色兼備の女子(おなご)だ。だが、少なくとも男女の仲たる関係とは考えた事はない」
「で、では。……わたくしは、どう想いまして?」
 そう言いながら、袁紹はずい、と顔を近づけてきた。
「…………」
「正直に、ありのままお答えいただきたいのですわ」
「……そうか、では答えよう。今の貴殿には、少なくとも私が好意を抱く事はない」
「な、何故ですの? わたくしは名家袁家の者、財貨にも事欠きませんわよ」
「それが、私が好意を持てぬ理由だ。私は、外見や家柄、身分で女子(おなご)を愛そうとは思わぬ」
「……っ!」
「今の私には、仲間であり、麾下でもある者が大勢いてくれる。その者らのうち数名とは、互いの合意の下、契りも交わした」
 衝撃を受けたのか、袁紹はふらふらと蹌踉めいた。
「な、何ですって……」
「それは、その者らの性根を、心を愛したが故の事。何ら悔いる事も恥じる事もない」
「……では。わたくしには、それがない、そう仰るのですね?」
「そうだ。もし、貴殿が私に好意を抱いてくれているのであれば、一つだけ言っておく」
「……は、はい」
 体勢を立て直すと、袁紹は私に向き合う。
「仮に、今の貴殿の想いを私が受け入れれば、世間は私を何と評すであろうか? 袁家の血筋や財に目が眩んだ……さしずめ、そのような風評が立つであろうな」
「そ、そんな事させませんわ!」
「袁紹殿。煙なき場所に火は立たぬもの。実情はどうあれ、世間がそう見る向きがある限り、私にも貴殿にも、失うものばかりで得るものは少ないのだ」
「…………」
「今少し、ご自身で考えられよ。その上で、貴殿が真に変わられた時、また話を伺うと致す」
 それだけを言うと、私は席を立つ。
 そのまま、部屋を出た。
 振り向きはせぬが、背後から慟哭が聞こえてきた。


 翌朝。
「ご主人様、おはようございます」
 朝食の席に、愛紗も姿を見せた。
 休養を得たせいだろう、顔色が優れているようだ。
「うむ。疲れは取れたか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
 愛紗は、いい笑顔でそう言った。
「お、お待ち下さい!」
「やかましい、そこをどけってんだよ!」
 ……と、何やら外が騒がしいようだが。
 バタン、と勢いよく戸が開かれた。
「文醜殿。このような早朝から、何用だ?」
「……アンタ、姫を泣かせたな?」
 怒りを隠す事もせず、文醜は私に迫る。
「泣かせたつもりはない。袁紹殿が、真の言葉で語る事を求められたので、それに応えたまでだ」
「そうかい。んじゃ、あたいも言わせて貰うぜ?」
 そう言って、大剣を抜いた。
「……理由はどうあれ、姫を泣かせたんだ。それは、許せねぇ」
「ほう。文醜殿とやら、貴殿が何をしようとしているのか。おわかりであろうな?」
 愛紗が、私の前に立ちはだかる。
「どけ。あたいが用があるのは、その男にだ」
「そうは参らん。貴殿はご主人様に害を与えようとしているのだ、私が何としてもそれを阻止するまで」
「ああ、そうかい。なら、力尽くでどかしてやるよ!」
 そう言いながら、文醜は剣を構える。
「止せ。貴殿では、私に勝つ事は叶わんぞ?」
「うるせぇ!」
 聞く耳を持たぬ、という事か。
「愛紗、これを」
 私は、立てかけられていた青龍偃月刀を、愛紗に手渡した。
「だぁぁぁぁっ!」
「ふんっ!」
 重そうな文醜の一撃を、愛紗は事もなげに受け止めてみせた。
「どうした? この程度か?」
「くそっ! でやっ!」
 文醜も愛紗も、室内で振り回す得物には些か不適切だ。
 だが、共にひとかどの武人、それを感じさせぬ立ち会いを見せている。
「歳三さん。宜しいのですか、このままで」
「確かに、何処かで止めないと、建物が壊れますねー」
 二人の申す通り、無理に得物を振るう結果、柱や壁が、徐々に傷つき始めている。
 まずは、一旦二人を止めねばならぬな。
 私は国広を抜くと、二人の間に投げつけた。
「なっ!」
「おっと!」
 文醜と愛紗は、素早く互いに身を引いた。
「何するんだ!」
「勝負ならば表に出るがよい。それとも、この宿舎を破壊するつもりか?」
 私の言葉で、周囲の惨状に気付いたようだ。
「……チッ、しゃあねぇな」
「ご主人様、ご配慮、痛み入ります」

 そして、庭に出ての仕切り直し。
「じゃあ、行くぜ!」
「応、いつでも来い!」
「だりゃぁぁぁっ!」
 相変わらずの、大ぶりな文醜の一撃。
 攻撃の型が、常に一直線なだけに、見切るのも容易い。
 ……案の定、勝負は一瞬でついた。
 文醜の一撃を跳ね返した愛紗が、返す刀でその喉元に、青龍偃月刀を突き付けていた。
 無論寸止めだが、愛紗がその気ならば、文醜の首と胴は永遠に別れを告げていたであろう。
「な、何でだよ!」
「諦めろ、貴殿の負けだ。恨むなら、己の腕の未熟さを恨むのだな」
 冷たく、愛紗が言い放つ。
「ぶ、文ちゃん! 何やってるのよ!」
 そこに、顔良が駆け込んできた。
「あ、斗誌。いや、あたいはただ、姫を泣かせた奴を許せなくて」
「もう、麗羽様がカンカンよ。すぐに、麗羽様のところに戻って!」
「いいっ?」
「ほら、早く!」
 そう言いながら、顔良は文醜を引きずっていく。
 途中で、何度も何度も、私に向かって頭を下げながら。
「愛紗、ご苦労だったな」
「いえ、猪武者に後れを取るようでは、ご主人様のお役には立てませんから」
 そう答える愛紗の表情には、余裕が感じられた。
 この世界でも、両者には歴然とした力の差があるようだな。
「さて、要らぬ横槍がまた入るやも知れぬ。早々に、出立するぞ」
「応っ!」
「はいっ!」
「御意ですよー」

 袁紹の意外な告白には少々驚かされたが……さて、袁紹はどう出るであろうか。 

 

四十六 ~父娘~

 南皮から戻り、早一週間が過ぎようとしていた。
「疾風(徐晃)、ご苦労」
「いえ。これが私の役目、お気遣いは無用に願います」
 真面目な疾風らしく、律儀に頭を下げる。
 私の前には、詳細に記された報告書が並べられていた。
 黄巾党の乱が終息し、郡内は平静を保っている。
 幸い、荀彧のいなくなった袁紹は、以前のような警戒すべき存在ではなくなっている。
 今、懸念すべきは中央の、朝廷を巡る情勢……それが、皆の一致した見解であった。
 ここ冀州は洛陽に近いだけに、それを極力、詳細に把握しておくに越したことはない。
 その点、私の許には、疾風と風がいる。
 情報を重視する私にとって、この二人はどれほど得難い存在かわからぬ。
 疾風は的確な情報収集に長け、風はその分析に長けている。
 新撰組があれほど迅速に活動できたのも、偏に山崎ら監察の存在が大きかったと、私は信じている。
「やはり、何進さんは巻き込まれているだけのようですねー」
 そう言いながら、報告書を手に取る風。
「ああ。とにかく何皇后という方はお気が強い上に、何としても弁皇子を後継者に、と躍起になっておられるからな」
「陛下も何故か、後継を明言されておられないようですしねー。このままでは、確実に争乱が起きるのですよ」
「……だが、その中に飛び込むかのように、月が洛陽に向かう事になった。疾風、それはどのように見られているのだ?」
「はい。協皇子と月殿が昵懇の仲、というのは周知の事実です。皇子ご自身の意思はともかく、宦官共からすれば、何進殿が持つ軍という力に対抗する、有力な手駒と考えているようです」
「恋ちゃんに霞ちゃん、閃嘩(華雄)ちゃんと武将が揃っている上に、兵士の皆さんもなかなかにお強いですからねー」
「それに、詠殿とねね殿もいる。協皇子の名を借りて、宦官共が何を強いるか」
 私の脳裏に、宮中で出会った二人の皇子の姿が浮かんだ。
 ……仲の良い姉妹、そんな印象があった。
 少なくとも、当人らが相争うつもりは毛頭なかろう。
 月といい、このような醜悪極まりない権力争いに巻き込まれるべきではない存在ほど、周囲に利用されるとは……何とも不条理の限りだ。
「そう言えば、月殿は道中、此処に立ち寄られると聞きましたが」
「うむ。并州から司隷への道中、本来ならば真っ直ぐに向かわねばならぬところであろうが」
「それを咎め立てするような方もおられないでしょうしねー。詠ちゃん達と、善後策を立てる絶好の機会なのですよ」
「そうだな。皆で、話し合えば道が開けるやも知れぬ。疾風、引き続き情報収集を頼むぞ」
「はっ、お任せを」
「風も、良いな?」
「勿論ですよー。お兄さんの頼みが、風の何よりのやり甲斐なのですよ」
 私は、大きく頷いてみせた。


 その夜。
「…………」
「寝付かれませんか、歳三様」
「……起きていたか」
 そっと、私の背に、稟の手が置かれる。
「隣にいるのです、気付いて当然です」
「そうか」
 臥所から起き上がり、窓の傍に立つ。
 今日は、朧月夜か。
 ……今宵の月のように、洛陽に向かって居るであろう月の心中も、朧気に霞んでいるのであろうか。
「月殿の事が、気がかりですか」
「ふっ、稟にはお見通しか」
「ふふ、そのぐらい予想できなくては、歳三様の軍師は務まりませんからね」
 そう言いながら、私の隣に立つ稟。
「……少しばかり、昔語りをするが、良いか?」
「はい、伺いましょう」
「……私は、父の顔を知らぬのだ。生まれる三月前に、労咳で死んだらしい」
「…………」
「それ故、私は父子の繋がり、というものが実感できぬのだ」
「それで、月殿に父、と呼ぶ事を赦されたのですか?」
「……さて、な。今となっては、我が事ながらわからぬが。成り行きとは申せ、そのような心づもりがあったのやも知れぬな」
「ですが、月殿は真の家族の如く、歳三様を敬愛しています。血の繋がりはなくとも、余所目には父子、と映りますよ」
「無論、そのつもりでいる。……それ故、父として何を成すべきか、正直思い悩むところでもある」
 稟が、私の腕を取った。
「……如何致した」
「あまり、お一人で思い詰めないで下さい。歳三様には、私がついています。いいえ、私だけではなく、風も、星も、皆がついているではありませんか」
「だが、お前達には日頃から負担をかけている。私的な事で、更なる荷を負わせる訳には参らぬ」
「それこそ、水くさいというものですよ? 歳三様が月殿を家族、と思われているならば、私達にとってもそれは同じ事です」
「稟……」
「確かに、月殿が今、洛陽に赴かれるのは得策ではありません。ですが、そのまま并州におられれば平穏なままか、とも思えません。戦乱の世は、目前に迫っていますから」
「…………」
「それに、歳三様の今一つの懸念も、まずは何か手を打たなければ始まりません」
「それも、気付いていたか。流石だな」
「世間では、歳三様を鬼、と見なして恐れるばかりの輩もいます。ですが、私達は歳三様の本質を知っていますから」
「……私の知識通りに事が進めば、あの仲の良い姉妹は引き裂かれる。思い上がりかも知れぬが、看過は出来ぬのだ」
「ならば、その為の策を立てよ、と一言お命じ下さい。結果で後悔するよりも、見過ごす事での後悔が大きいならば、やってみせるだけの事です」
「……わかった。ならば、その為の手立て、皆と進めよ」
「御意」
 稟には、一切の迷いも躊躇いもない。
 私とした事が、気の迷いとは……これでは、いかぬな。
「さ、歳三様。明日に差し障ります、お休み下さい」
「うむ」
 私は、稟の手を握り返す。
「歳三様……」
「良いな?」
「……はい」
 稟は、そっと眼を閉じた。


 一月後。
 月が、ギョウへと姿を見せた。
 無論、詠を始め、皆が付き従っている。
 あまり大仰にしては、どのように揚げ足を取られるかわからぬ故、入城は夜半、密かに行わせた。
 引き連れた兵を宿舎に向かわせた後、主立った者が皆、謁見の間に集まった。
「お父様。お久しぶりです」
「うむ。壮健で何よりだ」
「はい」
 可憐な微笑みは変わらぬが、どこか翳りが感じられる。
 やはり、これからの事で不安を抱いているのか。
「詠、霞、恋、閃嘩、ねね。皆も、よく月を支えてくれた。私からも、礼を申すぞ」
「ボクは、月の為なら何だってする。それだけよ」
「せやな。ウチも、月か歳っち以外のトコにいるつもりはあらへんよ」
「……恋は、月も歳三も好き。みんな、家族」
「私は、月様の親衛隊長。当然の務めだ」
「恋殿あるところに、ねねは常にありますぞ!」
 各々が口にする言葉は、相も変わらぬ。
 結束が微塵も崩れぬのは、流石は月というべきであろうな。
 彩(張コウ)や愛里(徐庶)らも名乗りを上げ、互いの主が預かっているなら、と真名を交換。
 ……改めて、壮観な顔触れが揃ったな。
「少し遅いが、再会を祝して宴と致そう。愛里、準備は良いか?」
「はい!」
「星。あれの用意も出来ているな?」
「愚問でござるよ、主。霞、お主も楽しみにしているが良い」
「おっ、何や何や?」
「……お腹空いた」
「恋は相変わらずなのだ」
 賑やかな宴になる事、請け合いだな。

 愛里心づくしの料理に、酒もふんだんに用意させたのだが。
 ……女子(おなご)ばかりなのだが、この減りようは何の冗談か、とも思いたくなる。
 特に、酒の減り具合が尋常ではない。
「かぁーっ! 歳っち、何やのこの酒?」
 その犯人の一人は、ひどく上機嫌だ。
「気に入ったようだな、霞」
「あったり前や。こないな酒、ウチよう知らへんで?」
「それはそうだろう。我が主直伝の、異国の酒だからな」
 犯人のもう一人は、秘蔵中の秘蔵というメンマを山積みにして、こちらもご満悦だ。
「殿は本当に博識だ。このような酒、確かに初めてだ」
「一度いただいた時よりも、更に美味になっていますね。蘇双なる者、相当に研鑽を積んだようですね」
 彩と疾風も、負けじと杯を傾けている。
「月様。もう一献」
「へう~。でも、美味しいからいただきますね」
「ちょっと、閃嘩。アンタ、月に飲ませ過ぎじゃないの?」
「いや、月様には今宵、思う存分過ごしていただく。詠と言えども、邪魔はさせん」
 ……まぁ、私が口を挟む世界ではないようだな。
「ささ、ご主人様も」
「愛紗。私があまり過ごせぬ事は存じていよう?」
「むう。今宵ぐらい良いではありませぬか?」
 口を尖らせる愛紗。
 ……うむ、相当に酔っているな、これは。
「あ~もう! 歳っち、アンタ最高や!」
 そう言いながら、霞はバシバシと私の背を叩く。
 この細腕の何処に、これだけの力があるのであろうな。
「全くだ。主、私の酒もお受け下され」
 そう言いながら、反対側に寄ってくる星。
 二人とも、その豊かな腕を押し当ててくる。
 ……男冥利に尽きるのやも知れぬが、安易に流される訳にはいかぬ。
「むー。霞ちゃんまで、お兄さんに密着するとは許せないのです」
「そ、そうれす! 歳三しゃま、わたひの酒を」
 呂律の怪しい稟、何を思ったか、大ぶりの杯を一気に口に含んだ。
 そして、いきなり私に抱き付いてきた。
「おわわわわわ、り、稟さん……大胆過ぎます」
 真っ赤になる愛里を余所に、稟は私に口づけしてきた。
 生温い酒が、流し込まれる。
「な、何をするのだ稟! 離れろ、離れんか!」
「い~や~れ~す~よ」
 愛紗が稟を引き剥がそうとするが、何処にそのような力があるのか、私にしがみついて離れようとせぬ。
「稟! 如何にお前とて、歳三殿は譲らぬぞ!」
「お、疾風、やる気だな。では、私も加勢するぞ」
 ……既に、収拾は不可能のようだ。
 数少ない素面の筈の元皓(田豊)に眼を向けたが、
「にゃははははっ! 元皓、大好きだぞ~!」
「ちょ、ちょっと嵐。飲み過ぎだってば」
 ……救いを求めるだけ、無駄か。


「ふう……」
 混沌としたまま、宴は次々に酔い潰れた者が出て、なし崩し的に終わりを告げた。
 元皓と嵐は姿が見えず、愛里は真っ赤になりながら早々に退出したようだ。
 蘇双の酒は確かに美味ではあるが、少々破壊力があり過ぎたらしいな。
 あの霞や星までもが、あり得ぬ量を過ごした結果、今は食堂の床に伸びている始末だ。
 私はその場を抜け出すと、井戸へ。
 皆の移り香を消すのは無粋やも知れぬが、兵や庶人に見せられた姿ではない。
 ざぶざぶと、水音だけが静寂を破る。
 冷たい水が、私の心身を引き締めてくれる。
「どうぞ」
 と、傍らから手拭いが差し出された。
「……月か」
「はい。ふふ、大変ですね」
「今宵は無礼講、とは確かに申した以上、何も言えまい。月は酔っておらぬのか?」
「いえ、だいぶいただきましたが?」
 首を傾げる月は、傍目には酔っているように見えぬ。
 ……全く、この小さな身体の何処に、あれだけの酒を過ごせる秘訣があるのか。
 そう思いながら、月から手渡された手拭いで、顔を拭う。
「あ、お背中拭きますね。屈んで下さい」
「わかった」
 膝を曲げた私の背に、小さな手が触れた。
 同時に、吐息が肌をくすぐる。
「大きいんですね、お父様の背は」
「……月も、父御の覚えがないのか?」
「……はい。私が物心つく前に、他界しましたから」
 一瞬気落ちしたようだが、それを振り払うかのように、私の背を拭き始めた。
「どうですか? 痒いところがあったら言って下さいね?」
「うむ。もう少し、上を頼む」
「はい。こうですね?」
 懸命に手を動かす月。
 ……これが、私が知る歴史では、多数の人命を奪う暴君と同一人物だと、誰が信じようか?
 儚げで、純真で。
「月」
「何でしょうか、お父様?」
「……お前は、私の娘。そう思うが、良いか?」
「ど、どうなさったのですか? 急に」
「いや。今までは、曖昧なまま、好きに呼ばせていたつもりであったが。お前が良ければ、正式に父子の関係を結びたいのだ」
「お父様……」
 月の手が、止まった。
「……私の事なら、お気遣いは無用です。きっと、上手くやって見せます」
「お前の悪い癖が出たな。何でも、一人で抱え込もうとするな」
「え?」
「お前が努力家という事も、人を惹き付けるものを備えている事も確かだ。だが、これからお前が向かう場所は、魑魅魍魎の世界だ。お前の美点が、そのまま利用される恐れもまた、十二分にある。それも、承知しているのであろうが」
「…………」
「だが、お前一人が重荷を背負う事はない。無論、お前が望まぬならば話は別だが」
「そ、そんな事ありません! お父様は、本当に素晴らしい方ですし……わ、私も、本当のお父様だと思っています」
「そうか。……月、泣きたい時は泣くが良い。困った時には遠慮は要らぬぞ?」
「お父様……お父様っ!」
 そのまま、月は私の背に抱き付いた。
 嗚咽が聞こえ始めた。
 ……このまま、暫し時を過ごすしかあるまいな。


「すう、すう……」
 翌朝。
 月は、安らかな寝息を立てている。
 ……私と共に寝る事を望んだ月を、突き放す理由など何処にもなかった。
 無論、月は我が子、手を出すつもりは毛頭ないのだが。
 そのまま、朝を迎えた次第だ。
 彼女を起こさぬよう、そっと臥所を出る。
「お父様……」
 長旅の疲れが出たのであろう、このままそっとしておいてやるとしよう。

 その日は、殆どの者が二日酔いになっていた事は、言うまでもない。
 例外は元皓だが、見事なまでに窶れ果てていた。
 ……嵐が、妙に活き活きとしていたのとは、酷く対照的であった。 

 

四十七 ~愛刀~

「お父様……」
「……まさか、こうなるとは、な」
 執務室に出向いた私は、昨夜の影響を厭という程見せつけられた。
 殆どの者は重度の二日酔いで部屋から出てこられず、愛里(徐庶)は後片付けで疲弊して寝込んでいる始末。
 嵐(沮授)と元皓(田豊)は……どうやら、ただならぬ事になっているようだ。
 ……二人は、ひとまずそっとしておくに限るな。
 馬に蹴られるような真似は、それこそ無粋というもの。
 ともあれ、元気なのは恋とねね、鈴々のみという有様だ。
 恋とねねは魏郡とはそもそも関わりがなく、鈴々は警邏に出した。
 ……つまり、此処には誰もおらぬという状態だ。
「あの……。私、お手伝いしますから」
 月はそう言うが、私は頭を振る。
「いや、如何に我が娘とは申せ、そのような真似はさせられぬ」
「ですが、それでは」
「今日は政務どころではあるまい。どのみち、愛里や元皓らが出仕出来ぬのであれば、どうにもならぬ」
 私も、決して怠けるつもりはない。
 ただ、事実、各々に役目を割り当てた事が、こんな形で裏目に出るとは予想外であった。
 詳細がわからぬのに、個々に口を挟む訳にもいかぬし、指示が違えばその部署全てが混乱する。
 指示を仰ぎにやって来ていた文官に、
「急ぎ、落款が必要な物は全て持って参れ。それ以外の物は明日以降で良い」
 そう伝えると、彼らは慌てて飛び出していき、該当する書簡を運んできた。
 それなりに山積みになる書簡。
「これで全部だな?」
「はっ」
 数にすれば、さほどではない。
「月、暫し待て。片付けてしまうとする」
「え? これを全て、ですか?」
 眼を丸くする月。
「そうだ。四半刻程あれば良い」
「は、はい。ではお待ちします」
 確かに、それなりの量ではある。
 だが、この程度で音を上げていては、愛里の溜め息が癖になるであろうな。
 そんな他愛もない事を考えながら、最初の書簡を手に取った。


 四半刻後。
 予告通り、書簡は全て片付いていた。
「お父様……凄いですね。私ならとても無理です」
「それは謙遜であろう? 詠も、月の政務は的確で速い、と褒めているようだが」
「詠ちゃんが優しいだけですよ」
「それが謙遜と申すのだ。……さて、後は明日で良いな?」
「は、はっ!」
 緊張気味の文官。
 その肩を軽く叩いてから、私は月の手を取る。
「さて、出かけるとするか」

「お父様、本当に宜しいのですか?」
 城下に出てから、何度となく月は同じ台詞を繰り返している。
「良いと申しているであろう?」
「ですが、お父様は……」
「かねてより、ギョウを見たいと申していたであろう? お前も長居は叶わぬ身、ならば今日しかあるまい」
「……はい」
「政務ならば、明日片付ければよいだけの事。少なくとも、その程度で全てが停滞するような組織ではない。気にするな」
「わかりました。お父様が、そこまで仰るなら」
 月はそう言って微笑んだ。
「……月。その顔で言っても、あまり説得力はないぞ?」
「え? へ、へう~」
 ……素直なのは良いが、あまりにも顔に出過ぎだな。
 この性格が、魑魅魍魎どもに利用されぬ事を願うばかりだ。
「それより、お父様。何方かに案内していただければ、私一人でも廻れますが……」
「私が、お前と共に歩きたいのだ。それに、城下の事は存じておる。心配は無用だ」
「……お忙しいのに、いいんでしょうか。私一人の為に」
「良い。骨肉相食む時代に、娘を大切にしたいと願う父が、一人ぐらいいても良かろう?」
「……はい、お父様」
 我ながら、親馬鹿なのやも、と思う事もあるが。
 ……気にしたら負けだな。

 目抜通りを、手を繋いで歩く。
「賑やかですね、此処は」
「うむ。……私が来た当初からは、想像もつかぬ」
「前の郡太守は、私欲ばかりな方だったとか。お父様や皆さんが苦労された結果でしょうね、行き交う人々の顔に、笑顔があります」
「一部の者だけがこの世の春を謳歌するのは、裏を返せばそれだけ哀しむ者、苦しむ者がいるという事だ。この光景、当たり前と思うぐらいでなければいかぬ」
「お父様の理想、素敵です。私も、いつかこんな世が来ると信じて、頑張ろうと思います」
 肩に力が入り過ぎ……そんな印象を受ける。
「月、気負い過ぎは良くない。特にお前は真っ直ぐに過ぎる」
「そうでしょうか?」
「そうだ。……月、知っておるか。清き水は確かに美しいが、魚は濁った水でなければ棲めぬのだ」
「何故ですか?」
「魚も、他の生物を食さねばならぬ。そして、それらの生物もまた、更に小さき生物を食す。その為には、水が濁る、つまり様々な生物が棲息出来る環境が必要、という訳だ」
「……お父様は、不思議な御方ですね。御自身では武人と仰られるのに、治世の妙も心得ておいでです」
 月は、眩しそうに私を見た。
「全て、先人の為した事を存じているまでだ。独自の考えではない」
 例えるなら田沼意次公と、松平定信公。
 いずれも老中として幕政改革に当たったが、その手法も思想もまるで異なっていた。
 このように、先人には学ぶべき事も多い。
「それは、私達も同じですよ。学問も米麦の育て方も、みんな昔の人が残した、為した事に学んでいる訳ですし。でも、学ぶだけなら、機会さえあれば誰にでも出来る事。そこからの取捨選択は、個々の才能と努力になると思います」
「その通りだ。だが、我が本分は武。それは今更変えようがあるまい」
「…………」
「ならば、月のような、戦を望まぬ者らが中心になる世を創るため、礎となるだけの事だ」
「お父様……。そのような悲しい事を仰らないで下さい。お父様は平和な世にも立派に生きられます。いいえ、生きて下さい」
 真剣な眼差しの月。
「心配致すな。むざむざとお前達を遺して逝くつもりはない」
「きっと、ですよ?約束しましたからね?」
「……わかった」
 ふっ、これでは、やすやすと斃れる訳にはいかぬな。

 商家が立ち並ぶ一角。
 その中に、行列が続く店があった。
「お父様、これは何の行列でしょうか?」
「ふむ。見た方が早かろう」
 月の手を引いて、店の入口へ。
「お客様、困ります。皆さんお並びでして」
 若い奉公人が私を呼び止めようとする。
 と、横から初老の男が慌ててそれを止めた。
「これ、この御方はよいのだ。それより旦那様をお呼びしなさい」
「は、はいっ!」
 若者は、慌ただしく店に駆け込んでいく。
「申し訳ありません、太守様」
「気にせずとも良い。主人は息災か?」
「はい、それはもう」
 番頭らしき男は、愛想笑いを浮かべる。
「おや、此方は?」
「我が娘だ」
「これはこれは。いつも、お父上には御世話になっております」
「は、はぁ……」
 月が反応に困っていると、主人がやって来た。
「ご無沙汰しておりましたな、土方様。……そして、董卓様」
「あなたは……」
「はい」
 店の主人、張世平は笑みを浮かべながら、頭を下げた。

 店の奥に通され、茶菓を出される。
「董卓様がお立ち寄りとは存じませんで。ご挨拶にも伺わずに申し訳ございません」
「いえ、私は……」
 月はチラ、と私を見る。
「お前も既に存じているであろうが、月は洛陽に向かう道中でな。此処には立ち寄ったまでだ」
「左様でございますか」
 張世平は頷く。
「石田散薬の方はどうか? 評判は上々と見たが」
「はっはっは、あの通りでございますよ、土方様。蘇双の日本酒と合わせ、効果は抜群と評判でして」
 我が生家の秘伝薬、それが世の為人の為になっているのであれば、何も言う事はない。
「つきましては土方様。御礼を差し上げたいと存じますが」
「礼だと? だが、お前からは以前に」
「はい、確かに資金や糧秣をご用立てしました。ですが、それは同時に、あなた様への投資でもあった訳です」
「投資か」
「そうです。我々商人は、物を売り買いするばかりでは、稼ぎは大きくなりません。そこで、投資をする訳です」
「……だが、お前が稼いだのは、私の武功によるものではあるまい?」
「直接的にはそうでしょうな。ですが、石田散薬は、効き目がいくら優れていても、土方様のお名前がなければ、此処まで売れる事はなかった事も事実ですな」
「…………」
「ですが、土方様は私の見込んだ通り、大陸中に噂されるまでのご活躍をなされました。無位無冠だったあなた様が、今ではこのようにご立派な郡太守。それ故、ご伝授戴いた石田散薬も、人々にあっという間に受け入れられた次第なのです」
 結局は、知名度が物を言う、という事か。
 池田屋での働きがあればこそ、新撰組も、世間にその名を知られるようになった。
 ……無闇に目立つ必要はなかろうが、私の働きがこのような形で功を奏すとは、な。
「ですから、私の行った投資が、このように利を生んだ訳です。となれば、土方様には借りはありますが、もはや貸しはございませぬ。御礼を差し上げるのは当然でございましょう」
「……わかった、そこまで申すならば。ただし、今はまだ、無用に願おう」
「と、仰いますと?」
「理由は二つある。第一は、要らぬ疑念を抱かれぬようにする為だ」
「疑念、ですか」
 隣で話を聞いていた月が、首を傾げる。
「そうだ。確かに石田散薬は、私の名によって売れたのであろう。だが、その元締めである張世平から金を貰った事が公になれば、世間はどう見る?」
「……(まいない)、そう勘ぐられますね」
「その通りだ。無論、私にも張世平にもそのようなつもりがなくとも、だ。私一人が悪く言われるのは構わぬが、それで皆に迷惑がかかる事、散薬の印象まで悪くする事は避けねばならぬ」
「……仰るとおりでしょうな。手前とした事が、迂闊でした」
 頭を下げる張世平。
「今一つだが……月」
「はい」
「張世平には、話しておきたいのだ。良いな?」
「……わかりました。お父様にお任せします」
 どのみち、いずれは明らかにする事ではあるが、今はまだ秘事。
 だが、この者には話しておかねばなるまい。
「張世平、その前に一つ、確かめたい」
「何なりと」
「商人は信用が第一と聞く。無用な口外はせぬ、そう誓えるか?」
 私の言葉に、張世平は居住まいを正す。
「仰せのままに。手前にも、商人としての誇りがございますからな」
「いいだろう。……私はこの月と、正式に親子の縁を結ぶ事と相成った」
「土方様と、董卓様が?」
「そうだ」
 と、張世平はふう、と息を吐く。
「……土方様。思いきった事をなさいますな」
「さて、どういう意味かな?」
「お惚けなさいますな。少府と申せば朝廷の高官ですぞ。そのような方のお父君ともなれば、土方様御自身にも箔がつくどころではありますまい」
「確かに、絶好の機会、とは申さぬ。だが、この機を逃せば、月の父を名乗る事は永遠に適わぬものとなろう」
「どういう事にございますかな?」
「お前も存じているであろうが、陛下のお加減が優れぬとの事だ。そして、皇位継承者は未だ、明確にされておらぬ」
「そう、聞いております」
「その最中、月が赴けば宦官と外戚の争いに巻き込まれるは必定。……成り行き次第では、血で血を洗う事にもなりかねぬ」
「でしょうな。確かに、土方様と董卓様、お二人にとってはまたとない好機かと。……ですが、同時に危険なご判断、とも言えますな」
 ジッと、張世平は私を見る。
「そもそも、そのご決断。土方様御自身には、何の得がありましょうか?」
「……損得勘定、か」
「手前は商人ですからな。失礼ではございますが、董卓様と共に土方様まで巻き添えになる……その恐れが多分にありますな」
「そうだ。私と月がただ思いつきで動き、手をこまねいているならば、な」
「……なるほど。何やら、思案がおありのご様子。いや、手前の危惧など、ただの取り越し苦労のようですな」
 どうやら、得心がいったようだな。
 私も、多くは語るつもりなどない。
「では、土方様。手前の御礼、受けていただける事は確か、ですな?」
「好意を無にするつもりはない。ただし、今は受け取る訳には参らぬ。今は、だがな」
「わかりました。では、その日まで、手前がお預かりするという事で」
 と、何かを思い出したかのように、張世平は手を打った。
「そうそう。土方様、刀剣にはお詳しいですかな?」
「些かなら」
「そうですか。実は、ひょんな事で手に入れた剣がございましてな。土方様に是非、見ていただきたいのですが」
「良かろう」
「では、暫しお待ちを」

 奥に入った張世平は、二振りの剣を手にしていた。
 ……日本刀のような、いや、日本刀そのものではないか。
「これにございますよ」
 受け取った私は、長刀を鞘から抜いた。
 ……まさか、これは。
 刃文といい、造り込みといい……あり得ぬ。
「張世平」
「はい」
「これを、何処で手にした?」
「商いで、立ち寄った市に売られていたものです。錆が酷いので捨て値でしたが、何故か心惹かれまして」
「お父様? どうなさったのです?」
 月が、不思議そうに私を見る。
「……私は、夢でも見ているのであろうか」
 そう呟き、兼定を抜いた。
 我が愛刀、和泉守兼定。
 ……いや、正しくはこれは『会津兼定』。
 無論、業物である事は今更疑わぬ。
 だが、この一見、錆だらけの刀……これは紛れもなく、二代目兼定。
 探し求めて、ついに手にする事の適わなかった、『之定』……信じられぬ。
 もしや、と思い、もう一振りも抜いてみた。
 ……やはり、な。
 贋作ではない、真の堀川国広まで揃うとは。
 しかも、『本作長義』の銘……尾張公拝刀の、『山姥切』。
 冗談としても、笑い飛ばせぬ組み合わせだ。
「土方様。どうやらその剣は、あなた様のお手元にあるべきのようですな」
「……何故、そう思う?」
「はっはっは。普段何事にも冷静な土方様が、そこまで動揺なされるとはよくよくの事。それに、手前は商人、刀剣は持っていても宝の持ち腐れにございますよ」
「では、この二振り……私に?」
「はい、どうぞお持ち下さい」
「忝い。この通りだ」
 私は、思わず頭を下げた。
 その手が、震えるのを止める術もなく。
 その様を見て、月は暫し、呆気に取られていたようだ。

 張世平のところを辞し、城下一と呼ばれる刀鍛冶を訪ねた。
「これを頼む。研ぎ料は言い値で良い」
「太守様、本気ですかい?」
 老いた刀鍛冶は、目を見開く。
「その代わり、お前の全身全霊を込めて、研いで貰いたい。良いな?」
「……わかりやした。ただし、お代は見ていただいてからで結構」
「ほう?」
 刀鍛冶は、不敵に笑うと、
「太守様ほどの御方がそこまで言われるのなら、天下無双の業物と見やしたぜ。わっしも、職人としての意地がある。任せておくんなさい」
「わかった。では、終えたら城に知らせよ」
「へい!」


 そして、二日後。
 件の刀鍛冶から、兼定と国広を受け取った。
 ……全てが、別次元だな。
 軽く、何度か振ってみる。
 長年の友のように、しっくりと手に馴染む。
「見事だ。約定通り、研ぎ料は望む額を申すが良い」
「いえ、お代は結構。その代わり、あっしから頼みがありやす」
 と、老鍛冶は眼を光らせた。
「申してみよ」
「へい。その剣、今後も必ず、あっしに研がせていただきたいんで。……それだけの業物、他の奴に任せる訳にはいかないんでさぁ」
「……良かろう。私もお前の腕、確と見させて貰った。お前になら、託せる」
「ありがてぇ。へへっ」
 私は、武人。
 刀を手放す事は、生涯あるまい。
 ……まさしく、真の友を得た気分だな。 

 

四十八 ~郷挙里選~

 月が、洛陽に赴く前夜。
 私室に、月と詠、稟、風が顔を揃えていた。
 無論、善後策を話し合う場である。
「皆、揃ったようだな。では、始めるとするか」
 私の言葉に、皆が頷く。
「では、現状整理から参りましょう。まず、洛陽ですが……」
 稟が、口火を切った。
「陛下の御加減は優れず、かなり重態とも噂されています。その為、十常侍を中心とする宦官が実質、全てを取り仕切っているようです」
「ただ、軍事に関しては何進さんに権限が集中しているままのようですねー」
「……このまま洛陽に月が赴けば、間違いなく十常侍に利用されるわね。連中にすれば、恋や霞達を擁するうちの軍は、外戚に対抗するのに打ってつけ……そう思っているに違いないわ」
 正史でも、曹操が重用した三人だけの事はある。
 議論に無駄がなく、的確に問題点を洗い出していく。
 冀州情勢が落ち着いている今、私のところでは差し当たり、懸念事項はない。
 強いて言うなら、増加一方の人口に対し、農地の開拓や都市の整備が追い付かぬ事、増え続ける仕事に比べ、文官の質・量共に慢性的に不足がちな事がある。
 こればかりは一朝一夕で解決出来るものではなく、地道に進めるしかないのだが。
「本来なら、旗幟を鮮明にすれば済む事ではあるのだが……」
「それが出来ればとっくにやっているわよ。月に、アンタみたいな果断な真似が出来る筈ないもの」
 詠は、大きく溜め息をついた。
「協皇子との繋がりが、やはり足枷になってきますね」
「正直、今の朝廷と関わり合いになるのは得策ではありませんしねー」
 理想は、十常侍を廃した上、何皇后にも身を引いていただく。
 さすれば、姉妹どちらが後継となっても、月が巻き添えになる事はあるまい。
 ……だが、実現させるのは至難の業、としか言えぬ。
 宦官も何皇后も、どちらも共倒れは望んでいまい。
「すみません、私……」
「月、自分を責める必要はない。私は、お前の性格を承知の上で受け入れたのだ」
「そうですよ、月殿。歳三様が選んだ道は、私達の道でもあるのですから」
「お兄さんにお仕えしている以上、覚悟の上ですよー。軍師としては、やり甲斐もありますしね」
「お父様、稟さん、風さん……ありがとうございます」
「……月には、ボクがいれば十分だけどね。でも、月が歳三とそうしたい、って言うんなら仕方ないから」
 半ば本心、半ば照れであろうな。
 誤解されやすいが、詠は本来、そういう人物。
 ……今少し、視野を広く持てれば違うのであろうが、それは申すまい。
「さて、難題に頭を抱えているばかりでも何も解決しません。策、というには少々相手が大がかりですが……」
「風はですねー、そこはこうした方がいいと思うのですよ」
「ちょっと待って。ボクならそこは……」
 三人の議論は、白熱していく。
「ふふ、本当に皆さん、頼もしいですね」
「ああ」
 武田観柳斎の如き似非軍師ではどうにもならぬが、今目の前に居るのは歴史に名を残した名軍師ばかり。
 如何に宦官どもが狡知に長けていようとも、この顔触れがいれば案ずる事もあるまい。


 未明になり、月らを城門まで見送った。
 軍勢は昨日のうちに、恋と霞らが、郡内の巡検に出向く愛紗の手勢に紛れて出発させてあった。
 ここ数日、疾風(徐晃)の手の者から、不審者を捕らえたという報告が屡々上がっている。
 己らの権力争いに汲々とする連中に、そこまで気が回るとも思えぬが、用心に越した事はあるまい。
「月」
「はい」
「これを持っていけ」
 私は、贋作の堀川国広を手渡した。
「お父様、宜しいのですか?」
「構わぬ。それは贋作ではあるが、紛れもなき我が愛刀であったものだ。守りとして、持つが良い」
「……わかりました。この剣、お父様だと思い、大切にします」
「うむ。……閃華(華雄)」
「何でしょうか、歳三様」
 閃華は、言葉遣いが以前と変わった。
 月を主として敬意を現すようになり、その父となった私にも、同様に接するようになっていた。
 言葉だけではなく、短慮は影を潜め、冷静に戦場を見るようになった……とは、同僚である霞の評。
 真名を与えられた、という切欠があったとは申せ、まるで別人であるかのような変貌ぶりだ。
「月が、これを抜くような事にならぬよう、頼んだぞ」
「お任せを。例えこの身に代えようとも、月様はお守り致します」
「うむ。だが、くれぐれも命を粗末にするでない。武人たるもの、命を賭けて戦うのは当然だが、使いどころを見誤ってはならぬ」
「そうですよ、閃嘩さん。あなたは、私にとって掛け替えのない方の一人なのですから」
「歳三様、月様……。お気遣い、ありがとうございます。お言葉、肝に銘じます」
 迷いのない、いい眼をしている。
 愛紗と斬り結ぶ事は万が一にもあるまいが、今の閃嘩ならば、両者とも拮抗した勝負になるやも知れぬな。
 ……無論、そうさせる気は微塵もないが、な。
「詠、手に負えぬ事態ならば、直ちに知らせよ。決して、一人で抱え込むような真似は止すのだ」
「わ、わかってるわよ。稟や風にも釘を刺されたけど……ボクって、そんな風に見える?」
「お前は、月に対する責任感が強過ぎる。自覚してない筈はあるまい?」
「……そう言われると、返す言葉がないわね。でも、今の月はアンタっていう、頼れる存在があるからね。ボクも、それは頭に入れているから」
「殿。そろそろ発たぬと、人目につきますぞ?」
 途中まで、月らの警護に当たる彩(張コウ)に促され、一行は城門を出た。
「では、行って参ります。お父様」
「息災でな」
 月は、何度も何度も、振り返りながら遠ざかっていく。
「城門を閉じよ」
「……宜しいのですか?」
「ああ」
 名残惜しいのは事実だが、如何に未明とは申せ、あまり城門を開けたままにしておくのは好ましくない。
 城門が閉じられていく音を聞きながら、私は踵を返した。

 翌朝。
 執務室に出向くと、元皓(田豊)と嵐(沮授)が待っていた。
「太守様、おはようございます」
「おはよう、旦那」
「うむ。朝から二人揃うとは珍しいな」
 愛里(徐庶)と違い、二人は郡内に出向く事が多い。
 各々に役目があり、一日姿を見ぬ日も度々である。
 ……ただ、先夜の一件から、二人が共に在る時間が増えたようだ、と皆が口を揃えてはいる。
 下衆の勘ぐりをするつもりはないが、つまりはそういう事なのであろうな。
「新たに官吏を採用する時期が来たので、そのご相談にあがったんです」
「今のところ、以前と同じ郷挙里選で、ってなるんだけどさ。これ、旦那と豪族どもの協議になるからね」
「そうか。具体的に、私は何をすれば良い?」
 嵐は、書簡を一つ、私の机に置いた。
「それが、各里から上がってきた、推挙者の一覧さ。今までのやり方だと、それを見て、旦那が落款をして終わりだね」
「……前の太守様は、豪族の方々となあなあで選ばれていましたから。ただ、その結果がどうなったかは……」
 言わずもがな、だな。
 折角、大掃除が済んだばかりのところに、また汚泥を持ち込む訳にはいくまい。
「一つ聞くが。郭図らと繋がりのある、若しくはそれが疑われる人材が混じっている可能性は?」
「あるだろうね」
「明確に関わっていたという者はさすがに少ないでしょうけど。ただ、郭図様達が絶大な権力を誇っていたのも、いろいろな利権を握っていた事が大きいですから。当然、豪族の方々にもそれは残っているでしょう」
「利が全て悪とは申すまい。全ての人間が、無私でいられる筈がないからな。だが、それを無制限に見逃す訳にはいかぬ」
「そこなんだよね、問題は。頭からこの一覧の人材を否定すれば、豪族共は旋毛を曲げるだろうし」
「第一、それでは郷挙里選が成り立たなくなります。この制度は、郡太守と豪族の協調を前提としていますからね」
 官吏の絶対数が不足している以上、執り行わぬ、という選択肢はない。
 そもそも、それを理由に官吏の採用を中止すれば、郡内に要らぬ波風を立たせる事にもなろう。
 最悪、朝廷からそれを理由にこの地位を追われる事になるやも知れぬ。
 それでは、皆がここまでやってきた苦労や努力が、全て水泡に帰してしまう。
「ならば、学問試を行うというのはどうか?」
「学問試?」
「そうだ。官吏として登用する以上、当然学問は修めていよう。それをまず見極める」
「試験、という訳ですか。確かに、一定の目安にはなりますが」
「その上で、私と豪族の主立った者が同席の上、見分を行う。これならば、一方的な選抜と言われる事はあるまい?」
「……確かに、今までの方法よりは公正だと思うけどさ。ただ、いくつか問題があると思うぜ?」
「無論だ。何よりも、豪族共を説得する必要があるな」
「そうですね。ただ、郭図様の一件で苦い思いをしている方も少なくない筈です。素直に協力していただけるかどうか……」
「だが、他によき思案が思い浮かばぬ。あまり時間もかけられぬであろうしな」
 私の言葉に、二人は考え込む。
「旦那。この案、他の人には?」
「まだ話しておらぬ。私の腹案だ」
「ともかく、一度稟様達を交えて、検討すべき事案かと。基本方針は僕も賛成ですけど」
「良かろう。お前達二人が中心となり、取り急ぎ進めてくれ」
「あいよ」
「御意です」
 二人が下がってから、私は推薦者の一覧に目を通して見た。
 姓名に出身地、略歴。
 そして推薦者である豪族からの人物評。
 ……無論、推薦する以上、佳き事ばかりが並べられている。
 鵜呑みにするならば、全員をそのまま官吏として登用する事になるであろうな。
 だが、私がこの郡に対して責を負う以上、それは許される事ではない。
 郡の官吏は、基本的にその郡の官吏であり続ける。
 私自身は、いつまでこの地にいるかはわからぬが、官吏らはずっと、この魏郡の庶人らと関わり続けるのだ。
 迂闊な者を選んでは、将来の禍根となる恐れすらある。
 そう考えると、慎重を期すに越したことはない……それが、私の想いだ。
「歳三さん、お待たせしました」
 愛里の声で、思考を中断する。
「何かあったんですか? 嵐さんと元皓さん、何やら難しい顔をされていましたけど」
「うむ。その事だが、愛里にも呼び出しがある筈だ」
「私も、ですか?」
 首を傾げる愛里。
 とにかく、皆で知恵を出し合えば、どうにかなるであろう。
 そんな事を思いながら、私は愛里が置いた書簡に、手をつけ始めた。


 一週間後。
 豪族の主立った者を、ギョウへと招集した。
 郷挙里選での推挙者も、同時にギョウへと集まったようだ。
「初対面の御仁もおられるであろう。拙者が、郡太守の土方だ。見知り置き願いたい」
「此方こそ、高名な土方様にお会い出来て光栄ですな」
 世辞か本心かは知らぬが、豪族共は下手に出てきた。
 一人一人が名乗りを上げるが、当然、聞かぬ名の者ばかりであった。
「それで、土方様。此度の郷挙里選、何やらご存念がおありとか」
「然様。……先だっての一件、皆の衆も存じておられようが、真に残念至極な限りであった」
「私腹を肥やし、あろう事か年端のいかぬ少女を慰み者にしていたとか」
「全く、不届きな者共にございましたな」
「迅速で手厳しいご処置でしたが、やむを得ますまい。自業自得というものですな」
 流石に、郭図らを擁護する発言はない。
「二度と、あのような者を官吏として登用すべきではない。ご一同、この点にはご異存ないでしょうな?」
「無論ですとも。推薦する我々にしても、あのような者を再度出しては恥というもの」
 一人の豪族の言葉に、全員が頷いた。
「そこで、拙者より提案がござる。お聞き下さるか?」
「ほう、太守様に。是非、伺いたいものですな」
 皆の視線が、私に集まる。
 中には、成り上がり者めが、と言わんばかりの軽蔑も混じっているが、気にする必要もあるまい。
「では、申し上げる。まず、本来の郷挙里選とは何か。各々方、それを思い起こしていただきたい」
「…………」
「各里より、素行に問題がなく、優れた人物を選ぶ制度。それはまず、ご一同もよくおわかりの筈」
「当然ですな」
「人選そのものは各里の有力者、つまりは貴殿らが行い、推挙する。郡太守はそれを元に、豪族のご一同と協議の上、官吏として採用する。この流れそのものは、国が定めた制度故、変えるべき箇所はござらぬ」
 何を当たり前の事を、という顔をしている者が大半だな。
 だが、本題はここからだ。
「調べたところ、定められているのはそこまでにござった。それ以外は各太守の裁量次第……と」
「太守様。はっきりと仰っては如何ですかな?」
 豪族の一人が、苛立ったように言う。
「では、申し上げよう。拙者は、選考を私とご一同の協議のみ、とせず、段階を踏むべきと存ずる」
「ほほう。それで?」
「まず、志望者に自らが望む部署を選ばせ、その部署の官吏を相手に、口述にて学を問わせる。然る後、私と貴殿らにて、口述試験を通った者と個別に面談を行う。その結果を、従来通りに協議で決める……それを加えたいと存ずる」
 豪族共が、互いに顔を見合わせる。
 何人かは、ひそひそと密談を始めた。
「太守様。それは候補者全員に対して……という事ですかな?」
「然様。そうでなくては意味がござらぬ」
「はっはっは、これはまた。太守様はご冗談が上手いようで」
 その者は、高々と笑ってから、
「太守様。候補者が何人いるか、ご承知なのでしょうな?」
「無論にござる」
「その為に、官吏だけでなく、我々も付き合わされると? 何日かけるおつもりか?」
「そうだそうだ。その間、何日里を不在にさせるつもりだ!」
「その為の費えは誰が持つと思っているのだ」
「第一、それでは我らが信用されていないという事ではないか。如何に太守でも、無礼極まりない!」
 まさに、非難囂々だ。
「馬鹿馬鹿しい。まるでお話になりませぬな」
「これでは協議など無理。どうやら太守様は、官吏の登用をする気がないようですな」
 そう言って、豪族共は皆、席を立とうとする。
「待たれよ」
「もう結構。太守様、勝手になされるが宜しいでしょう」
「勝手にしろ、と仰せられるか」
「如何にも。横紙破りに付き合えるほど、我々も暇ではありませぬからな」
「その言葉、二言はござらぬな?」
「くどいですぞ!」
「……皆。今の言葉、聞いたな?」
 その場に居合わせた仲間と官吏らが、一斉に頷いた。
 豪族共は憤慨しつつ、全員立ち去った。

 その夜。
 改めて、主立った者が集まった。
「上手く行きましたね」
「売り言葉に買い言葉、って奴か。しかし、旦那もえげつないねぇ」
「ふっ、確かにそうかも知れぬ。だが、連中も堪え性がないな」
 確かに、私の案では豪族共に何の利もない。
 無論、説得するのならば言いようもあるのだが、最初からそのつもりはなかった。
 勝手にしろ、そう言わせるのが目的であったからな。
「どちらにせよ、これで豪族達は自らの責務を怠り、国の法に反した事になります。歳三様の思惑通りになりました」
「豪族さん達が推したかった人物でも、問題があれば此方の判断で不採用に出来ますしねー」
「ただ、その分わたし達の仕事は増えますけどね」
 苦笑する愛里。
「済まぬな。だが、愛里とて、あのような目に遭う者を出したくはあるまい?」
「勿論です。ですから、異を唱えるつもりはありませんし、歳三さんの判断に間違いはないと思います」
「うむ。疾風、この事、広く郡内に流布せよ。豪族共が、後から取り消しが出来ぬようにしておきたい」
「そう思いまして。既に、手の者を発たせました」
 流石、心得たものだ。
「面談は、星、愛紗、彩も加わるように」
「はぁ……。我らも、ですか」
「し、しかし私は武骨者。宜しいのでしょうか?」
「殿のご指示とあれば従うのみですが……」
「お前達が躊躇う気持ちはわかる。だが、一軍の将として、人を見る眼を養うのは必要な事だ。良いな?」
 三人は戸惑いの色を隠せないまま、頷いた。
「お兄ちゃん、鈴々は何もしなくていいのか?」
「そうだな。……鈴々は、学問試を受けてみるか? どうだ、愛紗?」
「いいお考えかと。また最近、勉強を怠けているようですから」
「や、やっぱりいいのだ!」
 慌てて、鈴々は走り去る。
「こら、待て鈴々!」
 一座に、笑いが広がった。


 そして。
 従来とは違う形となった郷挙里選だが、予想以上に優秀な人材を集める事に成功。
 郡太守の推挙、という名目で行った、魏郡以外の者に対する募集にも数多くの申し込みがあった。
 それなりに名の知れた人物も混じっていたようで、愛里がひどく喜んでいたのが印象的であった。
 ……その分、必然的に皆、寝不足気味とはなったが。
「歳三さん。ぼやっとしてないで、手を動かして下さい」
 そう言いながら、ドサリと書簡を積む愛里。
「……書簡が、随分と増えたようだが?」
「そうかも知れませんね。でも、それだけ働く人数が増えたという証拠ですよ」
 ……加えて、私自身の仕事も増えてしまったようだ。 

 

四十九 ~新たなる告白~

 凶報は、予期せずやって来るもの。
 それは承知している筈ではあるが、まるで衝撃なし……とはいかぬようだ。
「陛下が、崩御されたとの事だ」
「とうとう、この日が来ましたか」
「時間の問題ではありましたけどねー」
 その場に居合わせた稟と風は……冷静そのものだ。
 尤も、無闇に取り乱す軍師など不要ではあるが、な。
「土方様。今一つ、お伝えしたい事がございます」
「聞こう」
「はっ」
 陛下崩御の知らせをもたらした使者-何進麾下の者-は、声を潜める。
「実は陛下は、近衛軍の整備を進めていたところで。そこに、土方様や曹操様などが候補として入れられていたそうにございます」
「西園八校尉、か?」
「……ご存じでしたか。流石でございます」
 これは、私が知る正史そのままであったらしい。
 ただ、時期も顔触れも、まるで異なるが。
「私と華琳だけではあるまい。どのような者が任じられる予定であったのだ?」
「申し訳ありません、私もそこまで詳しくは。ただ、筆頭は蹇碩様であったとの事は、聞き及んでおります」
 やはりそうか。
 となれば、他にも袁紹や淳于瓊、張融らが名を連ねている筈だ。
「それを命じられた陛下ご自身は逝去されてしまったが、既に令は発せられているのか?」
「はい。追っつけ、勅使が到着するかと」
「……わかった。何進殿に、宜しく伝えていただきたい。まず、一休みなされよ」
「はっ! では御免!」
 使者が下がった後で、二人から当然の質問をされた。
「歳三様。西園八校尉、とは?」
「近衛軍の役職という事はわかりましたけど、どうしてお兄さんがそれをご存じなのでしょうかー?」
「……うむ。前にも話した通り、これは私の知る歴史での出来事。ただ、な」
「ただ、何でしょうか?」
「順序が違うのだ。もともとは、黄巾党の首領である張角らが、将軍を自称した事に対抗して、陛下自らが将軍を名乗り、その下に近衛軍を率いる将を設けた、というものなのだ」
「でも、黄巾党は既になくなっちゃいましたしねー」
「そうだ。それに、華琳も袁紹も、既に地方に派遣された後だ。それ故、今後の展開は全く読めぬ」
「とにかく、勅使を待つしかありませんね。それまでに、情報を集めましょう」
「ですねー。早速、疾風(徐晃)ちゃんと相談しておきますね」
 漸く、魏郡の経営が軌道に乗ってきた矢先だ。
 課題も山積している中、此処を離れるべきではなかろうが。
 ……だが、月の事もある。
 とにかく、座して待つ訳にはいかぬな。


 巡検や調練、流民への農作指導など、各々に役目をこなしていた皆だが、急な知らせに集まってきた。
 疾風と風も、可能な限りかき集めた情報を手に、戻っていた。
「では、始めてくれ」
「はい」
 稟が頷き、軍議が始まる。
「既に全員承知とは思いますが……陛下が崩御なさいました」
「ついに、この日が来てしまいましたか」
 愛紗の言葉は、この場にいる全員の思いだろう。
 陛下が健在である限り、堕落と腐敗こそ止まらぬが、少なくとも乱世にはなるまい。
 だが、それももう、望むべくもない。
「それで、お世継は結局、どうなったのでしょうか?」
「そこなんですよ、愛里(徐庶)ちゃん。いろいろ調べたんですが、陛下は何もご遺言されていないようなのですよ」
「……つまり、だ。次なる陛下を決める術は誰も持たぬ、と?」
「そうなるね、彩(張コウ)さん」
「両皇子ご自身はともかく、その背後におられる方々は、早速動いていると見ていいでしょう」
「待て、元皓(田豊)。それは、あまりにも不敬ではないか?」
「それが現実と言うものだぞ、愛紗よ」
「……くかー」
 ……寝ている鈴々はさておき。
 早急に結論を出さねばならぬ事が、二つ。
 皆、思いの丈をぶつけ合うのも良いが、今は一刻を争う事態。
「皆。もう一つ、知らせがある。この度、西園八校尉というものが定められた。一言で申せば、陛下直属の武官、つまり近衛軍の将だ」
「歳三様も、その一人に撰ばれたようなのです。……陛下崩御の前に出された勅令との事だとか」
「無論、お断りする事は出来ませんねー。出世には違いないんですが」
「……つまり、主も洛陽に赴く事になる、そうですな?」
「そうだ。……恐らくは、華琳と袁紹も、同時に招集される筈だ」
「こんな時に、地方の有力者を洛陽に集めるなんて、何考えてんだろうねぇ」
 大仰に、嵐(沮授)が肩を竦めた。
「しかも、それをお決めになった陛下ご自身は、既におられませんよね」
「うむ。元皓の言う通り、今更何の意味もない話だが……」
「彩、それを言っても仕方あるまい。歳三殿、西園八校尉の詳細、調べておきます」
「頼むぞ、疾風」
 ……そして、もう一つ。
「嵐、元皓、愛里、そして彩」
「何だい、旦那?」
「私が洛陽に赴くとなっても、魏郡太守の役目が解かれた訳ではない。……お前達は、その留守を任せたいのだ」
「…………」
 四人共に、複雑な顔だ。
「私とて、お前達がいればこそ、ここまで郡の経営を軌道に乗せられた、そう確信している。仮に、郡太守の役目御免となった場合は、共に洛陽に連れて参る。それはこの場で約定しよう」
「歳三さん。私……」
「愛里。文官志望で、見事にその役目を果たしているお前は、今此処を離れる訳にはいくまい?」
「はい……」
「元皓、嵐。お前達は何より、この冀州の事に通じている。そうであろう?」
「太守様の、仰る通りです」
「まぁ……ね」
「そして、彩。今すぐに何者かに攻め入られる懸念はないが、お前ならば火急の事態にも対応出来よう」
「殿……」
「四人とも……良いな?」
 納得はしておらぬようだが、それでも四人は不揃いに頷いてみせた。

 その夜。
 私室で書物を読んでいると、
「殿。少し、宜しいか?」
「彩か。入れ」
「はっ、失礼致す」
 珍しく緊張した表情の彩が、入ってきた。
「どうかしたか?」
「いえ……。殿に、伺いたい事があります」
「うむ。申してみよ」
「……ゴホン。と、殿は……その……」
 何故か、顔を赤らめる彩。
「皆に、し、慕われている事は承知ですが……。だ、誰が一番なのかと?」
「それは、星や稟らの事を申しているのか?」
「そ、そうだ」
 ふむ、彩にはまだ話してなかったか。
「その事なら、優劣はない。皆、等しく想っているが」
「等しく?」
「ああ。優柔不断、と思うか?」
 彩は、激しく頭を振る。
「そんな事はありませぬ。皆、一角の人物で、器量も良い。それを相手に、誰からも愛想を尽かされぬ男が、優柔不断な筈がありませぬ」
「想いを告げられた者全てとの約定でもある。誰かを特別扱いはせぬ、とな」
「…………」
 何やら考え込んでいるようだが。
「……で、では、今一つお伺いする。か、仮にだが……他の女が、言い寄ってきたとしたら、どうなされる?」
「仮に、か?」
「そ、そうだ」
 ……なるほど。
 彩の言わんとしている事は、察する事が出来た。
 だが、あまり率直に指摘しては、彩が傷つくやも知れぬな。
「そうだな。繰り返すが、私は誰か一人を特別扱いはせぬ。他の者と同じ立場、そう見るが」
「そ、それが、例え女らしからぬ者だったとしても?」
「大事なのは心根、ではないかな。女子は容貌や雰囲気も問われるのやも知れぬが、私は互いを想う心根、それを重んじているつもりだ」
「互いを想う……か」
「そうだ。世の男全てがそうとは申さぬが、私はそのように信じている」
 ふう、と彩は大きく息を吐く。
「やはり、殿は……」
「私がどうかしたか?」
「……いや。で、では、私の話も聞いていただきたい」
「わかった、聞こう」
 彩は居住まいを正し、私に向き合う。
「殿。……わ、私を」
「彩を?」
「そ、その……。いや、そうではなく……ええと」
 これ以上、言わせるのは酷というものか。
 そう思った私は、腰を上げた。
 そして、
「えっ?」
 驚く彩を、腕の中に。
「厭ならば申すが良い。私は、お前が嫌がる真似をするつもりはない」
「…………」
「どうだ?」
「……殿。狡いですぞ」
「狡いか?」
「そ、そうです。このようにされて、否と言える訳がないではありませぬか」
「それは、私が主人だからか?」
「ち、違う!……殿、気付いておられたのですな?」
 彩が、私の胸に手を置いた。
「ふっ、そこまで私は鈍感ではないつもりだ。だが、彩自身の言葉が聞きたかったのだ」
「……私の負けです。殿には全てお見通しでは……な」
 そう言って、彩は顔を上げた。
「殿……お慕い申しております。私も、傍に置いていただきたい」
「良かろう。お前の心根、私にも愛すべきものだ」
「嬉しい……。殿と、やっと……」
 眼を閉じた彩に、私はそっと、顔を近づけた。

 そして。
 彩は布団の中に潜ってしまっている。
 その隙間から除く肌は、真っ赤になっているようだが。
「彩、辛くないか?」
「へ、平気です。この程度の痛み、物の数ではありませぬ」
 強がってはいるが……そっとしておくべきだな。
「一つだけ、聞かせよ」
「……はっ」
 漸く、布団から顔を覗かせた。
「いつから、私の事を?」
「……実を申せば、初対面の時だ。韓馥殿もそうだが、それまで出会った男は、軟弱者ばかりであった」
「お前の父親はどうなのだ?」
「……父は、物心がつく前に……」
「そうか。……済まぬ」
「お気になされますな。だが、殿は違いました。凛々しく、堂々とされていた。……ですが、その時はまだ、殿という人物を理解していなかった上、好いた男もおらぬ。恋など、私には無縁……そう思っていたのです」
 彩程の武人ならば、尚更であろうな。
「だから、殿にお仕えする事になった時は、嬉しさ半分、戸惑い半分でした。……主としての才や人物には申し分ないが、私自身の気持ちに整理がついていなかったのです」
「…………」
「……だが、殿が洛陽に赴くとなり……このままでは後悔する、そう思った。だから……」
「そうか」
 そんな彩が、いじらしかった。
 布団の上から、そっと身体を撫でてやる。
「殿」
「何だ?」
「……本当に、宜しいのですか? 私はこの通り武骨者。稟や風のような才知もなければ、疾風のように身軽でもない。星や愛紗とて……」
「止せ」
 腕を布団の中に入れ、彩を抱き寄せた。
「殿……」
「申した筈だ。お前の心根は、好ましいものだ。それに、この時代、お前のような者は欠かせぬ。他の者と比べてどうとか、そのような事で己を卑下するな」
「……わかり申した……殿が、そう仰せならば」
 彩が、私の首に手を回してきた。
 何度目かの、接吻を交わす。
「殿。今一つ、お願いがあります」
「申してみよ」
「……今宵はこのまま、眠らせていただきたいのです。宜しいでうか?」
「否……と申すとでも思うか?」
「ふふ……。では殿、お休みなさいませ」


 翌朝。
 衣擦れの音で、目が覚めた。
「あ、殿……。起こしてしまったか?」
「いや。身体の方は、大丈夫か?」
 少し頬を染めながら、彩は頷く。
「お気遣い、痛み入ります。では殿、また後で」
 そして、部屋を出て行った。
 ……さて、皆に話をせねばならぬな。
 その前に、水でも被るとしよう。
 そう思い、私は臥所を出た。

「ふう……」
 冷たい水を浴びると、心身が引き締まる気がする。
 湯も良いが、ここギョウには温泉がなく、この時代の薪炭は貴重品。
 贅沢は慎まねばならぬ。
「主。お使い下され」
 と、手拭いが差し出された。
「星か。早いな」
「……昨夜」
 やや、拗ねたような口調だな。
「彩の事か?」
「然様。主の事、隠すおつもりはないでしょうが……」
「無論だ。他の者にも、包み隠さず話すつもりだ」
「ならば結構……と言いたいところですが」
 そう言いながら、星は私の背を拭い始めた。
「……私とて、主を慕う気持ちは負けておりませぬぞ。今宵は、傍に参りますぞ?」
「ふむ……。それも、あの者らに話した上で、だな。そうであろう、稟、風、それに愛紗」
 私が声をかけると、ぞろぞろと三人が姿を見せた。
「だから言ったのです。隠れるだけ無駄だと」
「むー。そう言いながら、稟ちゃんだって乗り気だったじゃないですかー?」
「全く……。何も、私まで巻き添えにしなくても良いではないか」
 私は濡れた手拭いを絞りながら、立ち上がった。
「疾風が戻ったら、皆にも改めて話す。それで良いな?」


 朝食に向うと、食堂では衝撃の事実が待ち構えていた。
「うわぁ……」
「これは……」
 全員が、その光景に呆然と立ち尽くす。
 食卓の上が、凄まじい事になっていたからだが。
 ……ただし、良い意味でだが。
「あの、まさかこれ全部を……?」
「そうだぞ、愛里。何か問題でも?」
「い、いえ……。ちょっと、意外でしたので」
 彩は、少しばかり、胸を張った。
「武骨者だが、料理の心得ぐらいはあるぞ。殿、席に」
「……うむ」
 私も内心では、少々驚いていたりするのだが。
 品数もそうだが、盛りつけも豪快どころか、繊細さすら感じさせる物が、並べられていた。
「彩、食べていいのか?」
「ああ」
「じゃ、いっただきまーす!」
 早速、鈴々が箸を取る。
 そして、満面の笑顔で、
「すっごく、美味しいのだ!」
 次々に平らげていく。
 その様を見て、皆も箸を取り、口に運んだ。
「む。美味い」
「むう。これはなかなか……」
「ちょっと、彩さん。これ本当に彩さんが……?」
 誰もが、唸っている。
 彩の奴、取り柄がないなどと……全く、どの口が申すのやら。
「見事だぞ、彩」
「……は」
 顔を赤らめながらも、良い笑顔を見せた。


 その日から暫く、皆の指が妙に傷だらけであった事は、敢えて触れるまい。 

 

五十 ~伏龍~

 勅使が到着し、私は正式に助軍校尉に叙された。
 上軍校尉は宦官の蹇碩(けんせき)、中軍校尉に袁紹、下軍校尉が鮑鴻、典軍校尉は華琳、佐軍校尉は淳于瓊……この辺りは、正史と同様。
 但し、左校尉が睡蓮、右校尉は馬騰、との事である。
 郡太守としての役目については、何の沙汰もないまま、
「速やかに洛陽へ向かうように」
 それだけが告げられた。
 先帝亡き後、皇位は空白のままであり、勅令だけという不可思議な状態だが、今はそれを取り消す者もおらぬ。
 如何に宦官共と言えども、正式な勅令を覆す事だけは叶わず、それは外戚とて同じ。
 何皇后にしてみれば、敵対関係にある宦官共に力を与えかねない制度など、認められる筈もなかろう。
 だが、宦官側でも、どのような影響があるか、読み切れぬようだ。
 私としては、どちらに荷担するつもりもないが……さて、どうなる事か。

 出立までの日々は、慌ただしく過ぎていった。
 とにかく、為さねばならぬ事が多岐に渡るのだ。
 元皓(田豊)を別駕従事に任じ、後を託す事にする。
 この魏郡での経験が最も長く、人物的にも申し分ない。
 年若い、という事であれば、皆似たようなもの。
 実力がある以上、とやかく申す者もおらぬであろう。
 ……とは言え、迷いの払拭が出来ぬらしく、引き継ぎの最中にふと、弱音を吐いた。
「太守様。本当に、僕で宜しいのでしょうか?」
「自信を持て。お前以上にこの地を理解し、把握している者はおらぬ」
「ですが、僕は太守様みたいに強くもありませんし、人の上に立つなど」
「……元皓。私とて、人の上に立つ事を望んでもおらぬし、そのような人間でもない」
「そ、そんな事ありません! 太守様は、本当にご立派です!」
 前太守の所業が目に余るものだったのはわかるが……少々、私を買い被り過ぎだな。
「良いか、元皓。人の上に立つ、それは名誉でもあり、重い責務でもある」
「……はい」
「それ故、立った者自身が、その覚悟をするより他にない、それだけの事だ」
「…………」
「本来、上に立つに相応しい者は他にいよう。だが、それは自ら決める事ではない。私自身はともかく、お前はそれだけの器量を備えているのだ。何より、庶人を思いやる心がある」
「……ありがとうございます。僕、やってみます」
「うむ。それから、強さとは何も武の腕前だけではない。その為に彩(張コウ)もいる、軍を率いるのは嵐(沮授)。並の賊など、相手にもならぬ顔触れだ。その上、愛里(徐庶)までいる。……それでもまだ、不安か?」
「……いえ。そうですね、僕はこんなに恵まれているんですよね……。申し訳ありませんでした、弱気になってしまって」
 元皓の顔から、迷いが消えたようだ。
「一人で抱え込む事はない。私とて、未来永劫洛陽に留まる訳ではない。それまでの間、頼んだぞ?」
「はいっ!」


 それから、更に二週間が過ぎた。
 出立の準備もほぼ整い、皆と詰めの打ち合わせをしている最中。
「失礼します。土方様、渤海郡太守、袁紹様から使者が参りました」
「稟。確か、袁紹は私の上官に当たるのであったな?」
「一応、そのようです。ただ、陛下がお亡くなりになり、この制度そのものが既に宙に浮いていますが」
 ……よもや、それを笠に着るような真似などするとは思えぬが。
「とにかく、ここに通せ。皆も、此処にいるが良い」
「はっ!」
 案内されてきた兵士を見て、何か違和感を覚えた。
 ……身に纏う鎧が、あの悪趣味な金一色ではない。
 むしろ、動きを妨げぬ軽そうな鎧である。
 袁紹らに、そのような発想の転換があるとは、意外であった。
「土方様に、我が主袁紹よりの口上をお伝えします」
「うむ、聞こう」
「はっ。まずは、助軍校尉叙任、心よりお祝い申し上げます、との事です」
「相わかった。忝い、とお伝え願おうか」
「畏まりました。それから、土方様の出立前に、一度このギョウを拝見したい、と」
「ほう。だが、袁紹殿も洛陽に向かわねばならぬ筈だが、如何なされると?」
「願わくば、この地よりご同道願いたい、と」
 確かに、ギョウは洛陽へ向かう途次。
 隠すべきものは別にないが……意図は何であろうか。
「……良かろう。袁紹殿に、この地にてお待ち申し上げる。そうお伝えせよ」
「ははっ! それでは、御免」
 一礼し、兵士はすぐさま踵を返した。
「愛紗。あの兵の出で立ち、どう見る?」
「はい。以前の金色の鎧、防御には向いてはいても、実用には程遠い印象でしたが。あれならば、戦場で素早く立ち回れるでしょう」
「主、それだけではありますまい。動きやすいという事は、行軍速度も上がります。その分、糧秣の消費も抑えられましょう」
「そうだな。……ふむ、何やら、新たな動きがあったと見て良いな」
「ではでは、早速調べてみますねー」
 私が指示する前に、風は動いた。
 ふっ、以心伝心、という奴か。


 数日後。
 自室で私物の整理をしていると、急使が来たとの知らせを受けた。
 急ぎ、謁見の間に行き、息を切らせた兵士の報告を受ける。
「袁紹殿が……?」
「はっ。如何致しましょう?」
「放ってもおけまい。至急対応する、下がって休め」
「はっ!」
 さて、すぐに動ける者は……。
「主。何かありましたか?」
 異変を察したか、星が駆けつけてきた。
「うむ。勃海郡にて、住民反乱が起きたとの知らせが入った」
「反乱とは、穏やかではないですな。しかし、袁紹軍は練度はさておき、兵数では弱小ではありますまい」
「確かに、単なる反乱ならば騒ぎ立てるまでもあるまい。だが、相手にしているのはそれだけではないらしい」
「と、おっしゃいますと?」
「どうやら、住民を先導しているのは、黄巾党の残党らしいのだ」
「なるほど……。それでは、袁紹軍が手を焼くのも仕方ありませぬな」
 星が腕組みをする。
「星、すぐに動かせる兵は如何ほどか?」
「そうですな。直ちに、となれば三千ほどかと」
「では、それを全て出そう。私が率いる、星も参れ」
「主自らお出になるのですか?」
「非常事態に、私だけ無聊を託つ訳には行くまい? 他に、手空きの者は?」
「そうですな……」
 星は少し考えてから、
「留守を預かる者は皆引き継ぎで出払っておりますし、他の者も出立の準備に追われておりますな」
「わかった。ならば直ちに準備にかかれ。兵の準備だけで良い」
「御意!」
 さて、糧秣の準備は私の方で行うか。


「主。四千の兵を揃える事が出来ました」
 二刻後、武装した星が報告に来た。
「ほう。予定よりも増えたようだが?」
「志願する者が、思いの外おりましてな。無論、ギョウの守備に支障を来さない数ですが」
「よし、では参るか」
「あ、歳三さん。ちょっと、待って下さい」
 息を弾ませながら、愛里がやって来た。
「如何した?」
「は、はい。こんな時に申し訳ないんですけど、是非、連れて行っていただきたい娘がいるんです」
「此度の戦に、か?」
「ええ。実は、一度歳三さんに会っていただくつもりだったんですが、急にこんな事になってしまって」
「して。その者は?」
「待って貰っています。歳三さんのお許しがいただければ、すぐに連れて来ます」
 愛里が推挙する人物となれば、間違いはなかろう。
「いいだろう。此処で待つ」
「はい、ありがとうございます!」
 慌ただしく、愛里は駆けていく。
「星、城門にて待て。私もすぐに向かう」
「はっ!」

「は、初めまして……」
 帽子を被り、髪を短めに切り揃えた少女。
 身の丈は愛里とほぼ同じぐらい、歳も同様というところか。
「私が土方だ」
「は、はわっ! あ、あの、私は諸葛亮、字を孔明と言いましゅ。あう、噛んじゃった……」
 諸葛亮と申せば……唯一人だけ。
 無論、その名は存じている。
 劉備が三顧の礼で迎えた、伏竜と呼ばれる程の天才に相違あるまい。
 見た目は幼く頼りないが、愛里がこのような時に、無為の人物を推挙する筈がない。
「愛里。水鏡塾の同期……そうだな?」
「え? 朱里ちゃんの事、ご存じだったんですか?」
 驚く愛里。
「いや、面識はないが。……諸葛亮」
「は、はい」
「私に面会を申し込んだ理由は何だ? 有り体に申せ」
「え、えっと……。わ、私をどうか、軍師として使って下さい!」
「私に仕官したい、そう申すのだな?」
「は、はい」
 諸葛亮ほどの人材ともなれば、望んでも手に入らぬであろう。
 それが、向こうから仕官を申し出てくるとは。
「何故、私なのだ?」
「はい。土方さんは常に、民の皆さんの事を考えて行動されています。私は、お仕えするならそういう方、と心に決めていたんです」
「ふむ。だが、民の事を重んじているのは私だけではない。曹操や公孫賛、我が娘月もそうだ。私でなくとも、仕官先には事欠かぬのではないか?」
「いえ。いろいろな方を見て、考えた末の結論です。それに、愛里ちゃんが選んだ御方です、それだけでも理由としては十分です」
「……なるほど」
「お願いします! これでも私、軍師としての自信はあるつもりです」
 決して戯れで申しているのではない、それはわかる。。
 愛里の推挙でもあり、構わぬ気はするが。
「愛里。稟と風はこの事、存じているのか?」
「……いえ。そうしたかったのですが、お二人ともお忙しいようでしたので」
 それはあまり、好ましいとは言えんな。
 見苦しく嫉妬するような二人ではないが、自他共に認める、私の掛け替えのない軍師だ。
 やはり、筋目は通すべきであろう。
「愛里、私は出陣せねばならぬ。二人に、この事は伝えておけ」
「わかりました」
「それから、諸葛亮」
「は、はい」
「此度の戦、同行は認めるが。軍師としての適性、見せて貰ってから仕官については決めさせて貰う事になる。良いか?」
「…………」
 諸葛亮は、何やら考えている。
 ややあって、
「わかりました。それで結構です」
 しっかりと、頷いてみせた。
 ……本来なら、諸手を挙げての歓迎、と行くべきなのやも知れぬが。
 これで諸葛亮が私を見限るのなら、それもまた定めなのであろう。


 兵の疲労も考慮しながらではあるが、それでも数日後には無事、渤海郡に辿り着いた。
 小休止を兼ねて、ここで敵の情報を集める事とした。
「はわわ、こ、ここまで短時間に敵情を探れちゃうんですね」
「これも、我が軍の強さの一つだからな。常に情報を重視する、というのが我が主の方針なのだ」
 星は、誇らしげに言う。
 持参した地図に、敵陣の位置と数を記していく。
「敵の数は、凡そ二万。対して、我が軍は三千、そして袁紹軍は三万五千。数の上では圧倒的に有利ですな」
「そうですね。勿論、袁紹軍と上手く連携を取れれば、ですけど……」
「しかし、解せぬ事があるな。袁紹軍にも、顔良と文醜という剛の者がいる筈だが」
 私の言葉に、星が頷く。
「……あのお二人は確かに強いのですが、軍を率いて戦う、という点に関してはあまり……」
「諸葛亮殿は、顔良殿や文醜殿と面識がおありなのですかな?」
「い、いえ。そうではなく、主な将の方とか軍師の方とかは、だいたい把握していますので」
「ほお。では、私は如何に?」
 興味津々と言った風情の星。
「え? 趙雲さん……ですか?」
「うむ、興味がありますな」
「あ、あの……。お気を悪くしないで下さいますか?」
「貴殿の知るところは、世の評価。そう考えますぞ」
 諸葛亮はまだ躊躇っていたが、
「……わかりました。そこまで仰るなら」
 意を決したように、大きく深呼吸を一つ。
「趙雲さんは、朱槍を自在に操り、突破力に長けた将で、ここ最近は騎兵を用いての戦で頭角を現しています。武だけでなく、冷静な判断力を併せ持ち、土方さんの軍で中核的存在となっています。……あと、お酒とメンマが大好物、と」
「ふっ、まさに星そのものだな」
「うむ、よくおわかりですな。ちなみに、主はどうですかな?」
「はわわっ、ひ、土方さんについても、ですか?」
 諸葛亮は、上目遣いに私を見る。
「構わぬ、有り体に申すが良い。それで判断を左右するような真似はせぬ」
「わ、わかりました。土方さんは、ずば抜けた戦略眼と指揮能力を持ち、慎重さと思い切りの良さ、両面を備えています。ご自身の腕前もかなりのもので、いろいろな知識とか発案もお持ちとか。その上、大陸の諸侯でも指折りの人材が揃っている、と」
「……どうだ、星」
「はっ、主を的確に言い表せているかと。人物を見る眼は確かなようですな」
 誉められたせいか、星は上機嫌そのもの。
 諸葛亮も、それで得意気にならぬあたりは、流石と言うべきか。
 ……私自身については多少、褒められ過ぎの気もするが。
「人物評は一先ずそこまでだ。さて、敵の布陣はこの通りだが」
「はい。ちょっと、失礼しますね」
 そう言って、懐から何かを取り出し、広げる諸葛亮。
「諸葛亮殿、それは?」
「あ、はい。この辺りの詳細な地形図です」
「この辺りだと? 何時の間に用意したのだ?」
「あ、いえ。大陸の主なところは、一通り持っていますが」
 ふむ……地形は確かに戦の優劣を左右する要素の一つ。
 それを大陸ほぼ全て網羅しているとは、それだけで途方もない価値があると言えよう。
 諸葛亮は敵の布陣と地形を見比べていたが、
「此処に、袁紹さんの軍を二手に分けて進め、背後から土方さんが突入する、というのはどうでしょうか?」
 と、敵陣の一つを示した。
「根拠は何か?」
「はい。この部隊が、一番黄巾党残党が多いそうですね? 当然、中核となる部隊ですから、これを叩けば他の隊は鎧袖一触かと」
「ですが諸葛亮殿。それだけ、精強な部隊という事も言えますな。当然、我々の被害も大きくなるのでは?」
「そのまま当たれば、その恐れは十分にあるかと。その為に、袁紹さんの部隊に出ていただく訳です」
「……つまり、袁紹殿の隊は大人数で目立つ。それを囮に、という事だな?」
「そうです。もともと、袁紹さんに対して起きた反乱ですから、向かってくれば当然、そちらに注意が集まります」
 見た目は穏やかな少女なのだが、やはり頭は切れるな。
 袁紹軍が、まだあの金色の装備のままなのかどうかはわからぬが、流石に牙門旗はそのままであろう。
「では、その策で決まりだな」
 袁紹が、この策に異を唱えなければ、だが。
 とは申せ、そもそも我らは援軍、本来戦うべきは袁紹なのだ。
 意図に気付くかどうかはともかく、袁紹には動いて貰わねばなるまい。

 そして。
 夜陰に紛れて、袁紹軍が二手に分かれ、必要以上に鬨の声を上げ始めた。
「敵陣に動きあり。袁紹軍に向かっていきます」
 斥候の知らせを受け、我が軍も動き出した。
「星、頼んだぞ」
「はっ、お任せあれ。……ただ、一つだけ残念な事がありますな、主」
 そう言いながら、星は牙門旗を見上げる。
「主の、新たな牙門旗のお披露目なのですが。こう暗くては、敵味方に見えませぬ」
「仕方なかろう。これより先、そのような機会を待てば良い」
「そうですな。その時も主、先駆けはこの星にお任せ下されよ?」
 星は馬に乗り、槍を振りかざした。
「者ども、続け!」
「応っ!」

 不意を打たれた敵軍は大混乱。
 敵の首魁らしき者は星が討ち取り、黄巾党の残党は殆どが戦死、庶人で反乱に荷担した者は降伏してきた。
 結果、他の敵陣も雪崩を打って潰走したようで、夜が明けると事は片付いていた。
 袁紹軍も被害は軽微だったとの事。
 そして、袁紹らと合流を果たす事も出来た。
「土方さん、この通りですわ」
 あれだけ高慢ちきだった態度も影を潜め、袁紹は素直に頭を下げてきた。
「ありがとうございました、土方さん。ほら、文ちゃんも」
「あ、ああ。助かったぜ、アンタらが来なきゃ、あたいも姫も、どうなっていた事か」
 顔良は素直に礼を述べ、文醜は……まぁ、相変わらずだな。
「袁紹殿。このまま、ギョウまでご案内致そう」
「ええ……。助かりますわ」
「出立は、数刻後。それまで、一休みなされよ」
 そう告げ、天幕を出る。
「諸葛亮、見事であったぞ」
「エヘヘ、ありがとうございます」
 素直に喜ぶ諸葛亮。
「手腕は見事という他ござらぬな。尤も、更なる難敵がギョウで待ち構えておりますがな」
「え? あ、あの……。もしかして、郭嘉さんと程立さんの事でしょうか?」
「これ、星。からかうのは止せ」
「むう、これは心外な。私は事実を申したまでですぞ?」


 ギョウに戻り、諸葛亮は新しい我が仲間となった。
「朱里、とお呼び下さい。ご主人様」
 ……いきなり真名を預かった時の一言も含め、一悶着はあったが。 

 

五十一 ~城下での出会い~

「歳三様……お慕いしています……」
「風は、ずーっとお兄さんの軍師ですからね……むにゃむにゃ」
 二人にしがみつかれた格好で、朝を迎えた。

 諸葛亮、もとい朱里を迎え入れる事自体には、皆の異存はなかった。
 愛里の推挙でもあり、また相手が賊混じりの一揆軍であったとは申せ、才の片鱗は証明して見せたのだ。
 人材が揃う私の許でも、朱里ならば十分過ぎる程通用するのが、疑いようのない事実。
 ……だが、問題は朱里が、軍師という地位を望んでいる事である。
 朱里当人にしてみれば、かねてよりそれを志していたのであり、その事自体は他人が口を挟むべきではない。
 ただ、私の許には既に、稟と風という、優れた軍師が揃っている。
 そこに割り込む格好になってしまう朱里に対し、素直に歓迎出来ぬのも仕方なかろう。
「ですから、お兄さんが風達を特別だ、と思っていただけている証拠が欲しいのですよー」
「我ながら、厚かましい事とは思いますが……。風の言う事にも一理あります」
 二人に迫られた末が……今の有様という訳だ。
 だが、当人らが望んだ事であり、私もそれを拒む理由などない。
 ……とは言うものの、そろそろ起きねばならぬな。
 そう思い、身体を動かす。
「……んん……あれ、お兄さん。お目覚めですかー?」
「あ、歳三様……おはようございます」
「おはよう。起こしてしまったようだな」
 と、風が私の胸に、頭を載せた。
「お兄さんの匂いがするのですよ」
「汗臭いのではないか?」
「いえいえ。風はこの匂いが好きなのでー」
 一方、稟はと言うと……私の手を取り、頬に当てている。
「やはり、こうしている時が一番安らげます」
「……そうか」
「ええ。ですから、何人たりとも、歳三様には手出しさせません。この温もりを失いたくないですから」
 気怠い朝の一時。
 決して悪いものではないが……この調子では、暫く起きられそうにもないな。


 水を被り、朝食を済ませ、謁見の間へ。
 主立った者が、その場に揃っていた。
「主。顔良殿が御礼を申し上げたいと、お目通りを願っておりますが」
「ふむ。では、後で会うと致そう」
 そう言いながら、その場を見渡す。
 向かって右の列には、星、愛紗、鈴々、彩(張コウ)、疾風(徐晃)が。
 左の列には、稟、風、愛里(徐庶)、元皓(田豊)、嵐(沮授)、そして朱里。
 ……壮観、の一言に尽きるな。
「さて、渤海郡の一件も片付いた。そろそろ、洛陽に向かわねばなるまい。疾風、他に此度任ぜられた者らの動向は?」
「はい。宦官の蹇碩は当然ですが、曹操殿、淳于瓊殿は既に洛陽に到着されたようです。孫堅殿、馬騰殿は既に出立されたとの事です」
 ……私の聞き違いでなければ、一名足りぬようだが。
「疾風。下軍校尉の鮑鴻殿が抜けているようですが」
「……そうなのだ、稟。鮑鴻は、雍州で起きた反乱の鎮圧に向かったらしいのだが、激戦の中、討ち取られた、との知らせが来ている」
「なんと。早くも欠員が出てしまうとは……幸先の悪い」
「ああ。袁紹殿も危うくそうなりかかった事もあるが、不吉な事は確かだな」
 彩も愛紗も、表情を曇らせる。
「とは言え、既に着任した者もいる以上、私が此処に留まる事は赦されぬ。袁紹殿共々、早々に出立せねばなるまい」
「……主。やはり、袁紹殿を伴うおつもりですか?」
「うむ。急を要したとは申せ、手を貸した事もある。それに、この地より同じ目的で洛陽に向かうのに、別々に行動する方が不自然でもある」
「でも、袁紹はお兄ちゃんを一度は襲おうとしたのだ」
「ですねー。風は、そこまでする義理は、お兄さんにはないと思うのですよ」
 他の者らも、同感とばかりに頷いている。
 確かに、無条件で水に流すのでは、皆は納得せぬであろう。
 今の袁紹に、過去の遺恨を持ち出すのは憚られる気もするが……けじめは必要か。
「ならば、袁紹の意向を確かめておこう。その上で、結論を出すとする。それで良いな?」
「御意!」
「元皓、嵐、彩、それに愛里。後を、くれぐれも頼むぞ?」
「はい。まだ、正直不安ですけど……やれるだけ、やってみます」
「大丈夫だって、おいらもついているし。旦那、任せておいてよ」
「殿が戻られるまでの間、この魏郡を賊どもには指一本触れさせませぬ。ご安心めされい」
「……あの。朱里ちゃんは、どうなるのでしょう?」
 愛里は、隣に立つ朱里を見た。
 やはり、気がかりなのであろう。
「その件だが……朱里」
「は、はいっ!」
「不本意やも知れぬが、お前もギョウに残れ。愛里と共に、政務を任せる」
「……わかりました」
 肩を落とす朱里。
「お前に、軍師としての才がある事は私も星も、認めるところだ。だが、お前には実務経験が不足している。愛里の元で、それを学ぶ方がお前の為でもあるのだ」
「…………」
 黙っている朱里の前に、稟と風が向かった。
「歳三様の軍師を自負する私としては、確かにあなたの加入は複雑なものがあります。……ただ、ますます人材が必要になる事も、わかっているつもりです」
「ですから、まずは実績を作って下さいねー。風は、お兄さんが決めた事に反対するつもりもありませんし。あ、でも、お兄さんを取るようなら容赦はしませんよ?」
「稟さん、風さん……。わかりました、私、頑張ってみます」
 漸く、朱里が笑顔を見せた。


 軍議の後。
 皆を下がらせ、顔良を謁見の間に入れた。
 愛紗や鈴々らは同席すると言って聞かなかったが、得物を預かる事を条件に、どうにか宥めた。
「待たせたな」
「いえ、お忙しいところ申し訳ありません」
 ギョウに着いた頃と比べると、幾分疲労が抜けたようだな。
「あの、遅くなりましたけど。先だっては、本当にありがとうございました」
「うむ」
「土方さんが救援に駆けつけてきていただけなかったら、と思うと……ゾッとします」
 顔良は、頭を振った。
「しかし、如何に黄巾党が紛れ込んだとは申せ、袁紹殿の方が数で圧倒していた聞いているが?」
「……はい」
「それが、何故にあそこまで追い込まれたのだ? 訓練を積んだ兵を率いていれば、単純に力押しでも負けぬ……普通は、そう考えるな」
「そうですよね……。やっぱり、そう思われますよね?」
「ああ」
「うう……。麗羽さまと文ちゃんがいけないんですよ」
 そう言って、顔良は片手を顔に置く。
「最初、賊軍の規模を聞いた時は、土方さんの仰る通り、これなら普通に勝てると思ったんです」
「だろうな」
「それで出陣したんですけど……。麗羽さまが、華麗に勝ちたい、って仰いまして」
 華麗に勝つ、か。
 ……わからぬでもないが、戦に華麗さを求める時点で、根本的に破綻を来しているな。
「麗羽さま、何度か土方さんの戦いをご覧になっていたんですが。鮮やかに勝利を収めているのを見て、ご自分でもああしたいって」
「…………」
「それはいいんですが、その為の策とか……全然ないって仰ったんです」
 ……頭痛がしてきた。
「それだけじゃないんです。賊軍を見つけた途端、文ちゃんが勝手に突撃を始めちゃって」
「止めなかったのか?」
「勿論、止めようとしましたけど。文ちゃんが、敵を全部蹴散らしてくるって豪語して、止める間もなかったんです」
 猪突猛進、我が軍なら無論、処罰ものだ。
「おまけに麗羽さまが、文ちゃんの後に続きなさいって……。でも賊軍は真っ正面からぶつかってくれる訳もなくて、それで……」
「翻弄されてただ疲弊させられ、被害だけが増えた……という事か」
「はい……」
 まともな軍ではあり得ぬ事ばかりだ。
 これでは、いくら相手が賊軍であろうと、勝利を得るのは至難の業。
「一つ聞くが」
「はい」
「袁紹に、実戦経験はあるのか? 無論、兵を率いての、という意味だが」
「殆ど、ないと言っていいと思います」
 初陣に近いような状態で、しかも軍師もなしに指揮を執った訳か。
 あれだけの名家なのだ、然るべき老練の将がついていても良さそうなものだが。
 ……『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』、か。
 ともあれ、今のままでは袁紹は一生、軍功を立てる事は適わぬであろうな。
「顔良、袁紹殿の様子はどうか?」
「あ、はい。今度の事がだいぶ堪えたみたいで、今日になってやっと、起きられたみたいです」
「ふむ。……少し、話がしたいのだが」
「わかりました。では、麗羽さまに伺って参ります」
 一礼し、顔良は出て行く。
「疾風。もう良いぞ」
「……お気づきでしたか」
 物陰から、疾風が顔を覗かせた。
 私の事が気がかりだったらしく、下がる振りをして潜んでいたようだ。
 すぐに気はついたが、好きにさせておいた。
「顔良は、全く気付かなかったようだな。流石だ」
「いえ。顔良殿には申し訳ないのですが……彼女も武人としては、隙がありますね」
「そうかも知れぬな。正面切っての一騎打ちならばともかく、それ以外では疾風らには及ぶまい」
「……苦労している事だけは、伝わりましたが。袁紹殿がそこまでとは……」
 規模こそ違えど、疾風は立派に、一軍の将を勤め上げている。
 呆れるのも、無理はない。
「歳三殿。袁紹殿の事、あまり深く関わらぬ方が良いかと」
「……うむ」
 難しいところだな。

 すぐに顔良が戻らぬ為、私は私室に戻っていた。
「ご主人様」
 そこに、愛紗が顔を出した。
「どうかしたか?」
「いえ、鈴々を見かけませんでしたか?」
「いや、軍議の後から見てはおらぬが」
「そうですか……。全く、どこへ行ったのやら」
 愛紗は、大きな溜息をついた。
 ……ふと、空腹感を覚えた。
 外を見ると、日がかなり高い。
「そろそろ昼時ではないか?」
「もう、そんな刻限ですか?」
「……もしや、鈴々はそれで見当たらぬのではないか?」
 あっ、と愛紗は声を上げる。
「鈴々め、こんな時に……。すぐに、探して参ります」
「いや、待て。私も参る」
「え? ですが、お忙しいご主人様にご足労をおかけしなくても……」
「いや、気晴らしに城下に出てみたいというのもある。暫くは、見納めになるであろうしな」
「はぁ……。そう仰せとあらば、お供致しますが」
「よし。誰かいるか?」
「はっ!」
 廊下にいた兵士が、駆け寄ってきた。