ヤツカダキ恋奇譚


 

壱日目


目の前に打ち捨てられた死骸を見下ろす。
かつて黄金色に輝いていた体内器官と、それを濃く映し出す絹糸は、剣の刃か槍の先端で無残に引きちぎられていた。
緑色の体液はすっかり乾ききっていて、斬撃の合間に刈られた草ともども、湿った地面の上に規則性のある弧を複数描いている。
大きなものが一つ。更には小さいものが、一つ、二つ、三つ、四つ……声にも音にも出さず、悲哀に染まった吐息だけが、亡骸の軌道をなぞっていった。

『全部で、やっつ……私の大切な友と……彼女たちの、こどもたち』

腕を伸ばし、つるりと滑らかな自身の顔を覆う。荒れ狂う感情のままに掻きむしろうとして、しかしそれは取り止めた。
さながら、石榴石をつぎはぎしたような美しい自身の前脚。飛竜の甲殻さえ容易に貫くそれでは、同程度の耐久性を持つ顔面の表面すら傷つけられない。
そうだ……嘆き悲しむより先に、自分にはまだやるべきことがある。
のそりと重い四肢を引きずるようにして、湿気と泥土に塗れた森の奥地からひとり抜け出した。



『……それで、被害のほどはどんな感じかな?』
『先週と似たような具合だ。(おさ)よ、このまま放っておけば、奴らは種族ごと消されかねんぞ』

朽ち果てた高木と木造家屋、生い茂る竹林に、視界にちらつく雷光虫の群れ。
苔むし、ひっそりと月光に照らされるだけの広大な景色の中。むっと濃く漂う霧のその奥に、ひそひそと何者かの話し声がする。
片方は、霧にまぎれるように巨大な体表のあちらこちらが透けていた。
きょろりと忙しなく上下左右を見渡す眼は淡い藤色で、独特の凹凸を乗せた丸みを帯びている。

『いくら森の奥に隠れ潜んでいようと、密猟を謀る不届き者がおるならば意味がない。いっそ森の連中を総動員して、奴らの里ごと滅ぼすべきだ!』

もう片方は、怒りをあらわにして口髭を揺らした。体表は黒に近しい焦げ茶色で、髭や長い尻尾の先端に黄金の泥土が点々とこびりついている。
憤慨に燃えるその顔は、ナマズかドジョウのようにぬるりと泥で濡れていて、ただでさえ恐ろしい貌が余計に恐ろしく見えてくる。
しかし彼が怒り狂うのは大抵、高い自尊心に傷をつけられたときか、あるいは仲間内で何か異常があったときだ。
今回は正にそれで、まさかその風貌と気質が災いして多方に「翁」と称されているとは知りもしまい。
故に長身のそれが声を荒げて池を騒がせる度、藤色の怪物は心底愉快とばかりに笑うだけだった。
翁と呼ばれる黒い海竜はまたしても髭を揺らしたが、この地を広く束ねる怪物はうんうんと首を曖昧に振るばかりで、まるで堪えた様子がない。

『さて、オロミドロ。此度の件、肝心要の主役のご登場だよ』

藤色の怪物がゆっくりと、オロミドロの背後に視線をやる。
何を、驚き半分といった体で振り向いた翁は、山肌に開いた巨大な空洞からのそりと白い影が現れたのを視認して黙り込んだ。

『……長よ、この地を統べる、姿隠しの達人よ。私どもを……お助け下さい』

それはオロミドロより体長は短く、また藤色の長より少しばかり小柄だった。
しゃなりしゃなりと歩み出る姿は、まるで白無垢に身を包んだ年若い花嫁のように見える。
白無垢とは妙なたとえで、実際にはそれは白く強靱な蜘蛛糸だ。濃く艶めく紫色の体表を、複雑に織られた蜘蛛糸が美しく覆い隠しているのだ。
……それの名は、ヤツカダキという。人里離れた森の奥で、ひっそりと息を殺すように生きる怪異の一つだった。
のそりと、前脚に隠されていた顔が露出した。つるりと滑らかな赤黒い顔面は、先ほどの友たちの最期を憂いて濡れている。

『ヤツカダキ。確かに僕は姿隠しが得意だ、けれどそれが今、何の役に立つだろう』
『お願いです。これ以上、私は友を喪うことに耐えられません。どうか私に、この恨みを晴らす機会をお与え下さい』
『恨み? 恨みと今、言ったのかな。正直、僕はそれを許すわけには……』
『どうしても駄目だと言うのなら、私、この姿のままひとりで人間の里に向かいます。たとえそこで朽ち果てることになろうとも、もはや黙ってなどいられません』

人間。彼らモンスターと称される生き物とは全く異なる生態と思考を持つ、二本足の非力な生命体。世界に広く生息していながら、多勢で群れることで初めて力を発揮する獣たち。
藤色の長をはじめ、古来より多くの仲間が奴らに翻弄されてきた。
此度においては、無数の同胞がそのこどもごと犠牲となった……森の奥に身を潜ませて暮らしてきたヤツカダキからすれば、この蛮行を許せるはずがない。

『ハンターだか何だか存じませぬが、私の友を無差別に殺して回った。これで恨まずにおれましょうか。長よ、どうか止めないで下さい』

仇討ちだ――決して許さぬと八つの眼を光らせるヤツカダキを見て、長は短く嘆息した。

『……わかった、わかった、わかったよ。では、とっておきの秘術を君に貸してあげよう』
『なっ、お、長よ、正気か!?』
『おやあ、反対する道理があるかい、オロミドロ。それに、今は何を言っても無駄だろうからね』

人間たちは、自身の暮らしを安定ないし発展させる為に平気で他者の命を奪う。曰く、これはモンスターとの共存行為であり、モンスターの命とは自然の恵みであり、それらに対する感謝の念はきちんと存在しているという。
しかし、果たしてそれがどこまでを指すのかは、長であるオオナズチにも理解が及ばないときがあった。

『そうだなあ。そのまんま、テスカトたちと落ち合うときのにしようか』

白い霧が余計に濃く立ちこめる。オロミドロが当惑している間に、いつしかヤツカダキの姿は先の巨大蜘蛛のそれと大きく変化していた。
花崗岩で塗り固めたような白く艶のある髪に、伏せがちな目には金色の瞳が光る。細く、今にも折れそうな長い四肢を隠すのは上品な風合いの白い着物だ。

「こ、これは……人間そのもの? 長よ、この姿は!?」
『うんうん、いいのじゃないかなあ。それはね、ヤツカダキ。僕等が人里を観にいくのに用いる術だよ。容易に解けるものじゃない』

池に映った自身の姿を見て驚くヤツカダキに、オオナズチは常のように怪しく、至極楽しげに笑った。

『いいかい、よおくお聞き。その術は今日から八日間、今の姿を維持するだろう。けれど一時でも八日を過ぎれば、たちまち元の蜘蛛の姿に戻ってしまう。それまでに、必ず森のねぐらに戻るんだよ』

ついでにこれも、と紫色の液体が満たされた小瓶も受け取った。オオナズチ曰く、自身の毒霧を限界まで濃縮したとっておきの毒薬だという。
ヤツカダキは、小瓶を胸元に潜ませてもう一度水面を覗き込んだ。誰が見ても、この娘が巨大蜘蛛なのだとは思うまい。

『僕が人里で学んだ知識も与えてある。けれどね、勘のいい人間というのは何処にでもいるものさ。決して油断してはいけないよ』

言われた通り、立つ、歩くといった基本の動作だけでなく、一度口を開けば人間の言葉も発することさえできた。
これで人間の里にまぎれ込むことができる、そうすれば友を殺した奴らに報復することも夢じゃない……ヤツカダキはオオナズチに頭を深く下げ、着物が乱れないよう注意しながら門をくぐり出て行った。

『……長よ、本当に大丈夫であろうか。あれは意外と、短気なところがあるのだし』
『だからこその八日間だよ、オロミドロ。あの子もすぐに駄目だと知るはずさ、人間だって色々いるからね』

白い霧が再び濃くなる、森を統べる者たちを掻き消していく。
ぽたりと池の咬魚が跳ねた後、そこには誰の姿も残されていなかった。






長と翁の二頭と別れた直後、ヤツカダキは目の前に現れた光景に息を呑んだ。眼前、見上げた先に短い青色の毛を持つ巨体が堂々と佇んでいる。
普段は全く歯牙にも掛けない相手だ。怪異としての実力差はもちろん、自身が操る強力な火炎ガスとの相性も悪く、顔を合わせればまず向こうから立ち去ってくれる程度には。

「アオアシラ……?」

しかしそれも、普段であるならば、の話だ。今目の前に立ちふさがるこの青熊獣は、全身の至るところに無数の傷を負っている。
ただごとではない。ヤツカダキが一歩下がろうとした瞬間、それは両前脚をがばりと天高く掲げ、低い声で怒声を張り上げた。
明確に消耗し、痛みのあまり怒り狂っている。

「待って、私は!」

叫んだ直後、ヤツカダキははっとした。振り下ろされた爪を避けながら、糸を手繰ろうとした手が宙を空振る。
蜘蛛糸が使えない! 考えてみれば今の自分は非力な人間そのものだ。
怪異同士でなんとなく通じるはずの言語を放っても、アオアシラには全く通用した様子がない。姿形だけではない。纏う気配も、足を動かすスピードも、発声器官も、全ての要素が人間のそれなのだ。
オオナズチの言葉は決して大袈裟なものではなかった……頭が真っ白になり、刹那、ヤツカダキは着物に足を取られて転倒した。

「い……っ!」
「――目を! 目を閉じろ!!」

悲鳴も上げられずに頭を抱えた、次の瞬間。ふと、ヤツカダキは鼓膜に何らかの音を聞いた。すぐさまその声に従って、うずくまったまま固く両目を閉じる。
そのときだ。カッと視界が目映く輝き、全ての音が遠のいた。呼吸することも忘れて、強烈な光が止んだ後、すぐに顔を上げる。

「だっんっなっさーん!! 大タル爆弾、いっちゃうニャー!?」
「ぎゃああ、バカーッ! あかつきぃ! お前、また全部吹っ飛ばす気か!?」
「ワンワン! ワオーン!!」

そこは、混沌と化していた。濃い鮮やかな青色の服に身を包んだ一人の男が、似たような防具を纏ったアイルーと牙獣ガルクに翻弄されている。否、翻弄されているというよりは振り回されていた。
アオアシラを囲んで好きに攻撃を加える彼らを見て、ヤツカダキは「とんでもないところに出くわした」と歯噛みする。

「ラスト! 鉄蟲糸技、風車!」
「ニャー……旦那さん、ソレほんっと好きニャー。何とかの何とか覚えニャ」
「暁ぃ! 爆弾好きのお前に言われたかないわ!!」
「クゥン! ヒィン!」
「とーもーしーびー! お前も暁を止めとけよ!!」

鮮やかな青緑の甲殻と、それに備えつけられた淡黄の角が美しい一振りの剣、丈夫な盾。
振るう度にパリパリと電撃の軌道を描くその刃は、その男が「ハンター」と呼ばれる怪異を狩る立場の人間であることを教えてくれる。
ヤツカダキは座り込んだまま、拳を固く握りしめた。あれらの刃が、容易く友らの命を奪っていったのだ……想像しただけで、怒りで我が身が燃え盛るように思えた。

「シビレ罠、シビレ罠はー……暁、灯火、下がってろ!」

よだれを垂らし、息も絶え絶えといったアオアシラは、男が地表に埋め込んだ罠に容易に足を取られた。
そのまま赤茶色の手投げ玉を投げられ、瞬く間にその場に崩れ落ちていく。いとも簡単に、あの巨体が人間によって囚われの身となったのだ。
……逃げなければ、そう思った。
自分の正体が見破られた日には、あの青熊獣のようにあっという間に捕まるか、殺されて体を好き勝手に弄られるかに決まっている。
冗談ではない! 立ち上がろうとするが、何故かその場から動けなかった。よく目を凝らせば、着物に隠されていたはずの足ががくがくと震えている。

「もう、こっ、こんなときに……」
「おーい、君、大丈夫?」
「ひっ!」

ヤツカダキはついに悲鳴を上げた。見上げた先、先の狩人が手を差し出しながらこちらを見ている。

「や……こ、こないで……わ、私は大丈夫ですから」
「え、でも……」

ここは意地だ、ぐっと奥歯を噛みしめて立ち上がる。男は面食らったように目を白黒させていた。
乱れた着物の裾を手早く直し、怪しまれないようににこりと微笑みかける。さらりと白い髪が揺れ、月光を柔らかく照らしとっていた。

「助けて頂いて、ありがとうございました。商団と、その……はぐれてしまって」

心にもないことを吐いている、もっともらしい嘘を吐きながら、ヤツカダキは内心で男を見下していた。
古くから、この辺りが人里と人里をつなぐ一種の貿易路となっていることは知っている。恐らくこの男は、たまたま姿を現したアオアシラが商人たちの邪魔をしているとの報を受けて狩りに出てきたのだろう。
気取られないよう、容姿を観察した。まだ若い雄だ、恐らく二十数年ほどを生きているはず。
鍛えられた体つきに黒髪黒瞳、凛々しくも優しげな光を宿す眼差しに、磨き抜かれた片手剣。
装備と先の立ち回りから察するに、腕前はそこそこといったところだろうか。
一方、狩りの支援を担う二匹のうちアイルーは興味津々という体でこちらを見上げ、ガルクは身を低くしてうなり声を上げていた。
こちらの方がよほど狩人としての危機感を有しているわ――薄花色の毛の若い牙獣を柔らかい眼差しで見下ろして、ヤツカダキはふと視線を前に上げた。

「……」
「……? あの?」
「えっ? あっ、いや、な、なんでもっ」

何でもない、そう言おうとしたのか、男は思いきり舌を噛んだ。がぶり、という鈍い音がこちらまではっきり聞こえたほどだった。
大きく肩を跳ね上げた後、立ったまま一人で悶絶している。それを、アイルーはへらへらと笑いながらからかい、ガルクは心配そうにヒンヒン鳴きながら見上げていた。
ヤツカダキは、ぽかんとして彼らの様子を見つめていた。青熊獣の返り血に塗れていながら、彼らは楽しげに笑い合っている。

(やはり……私の友らを殺したのは、この男なのかもしれない)

手のひらに爪が食い込む感触があった。ぐっと歯噛みして、次の瞬間にはまた優しく微笑み返しておく。
男はまた、うっと息を詰まらせて黙り込んだ。みるみるうちに、その顔が赤く染まっていく。

「う、あ、その……君、商団からはぐれたんだろ? 行く当てはあるのか」
「えっ? いえ、それが……どうしましょうね」
「そ、そうか! だったら俺の家に来ないか? 商団が迎えに来るまででいい、ほら、この辺は何かと物騒だし……」
「おやー、旦那さん? へたれのくせにナンパしてるのかニャ?」
「あ、暁ぃ! お前っ、変なこと言うなよ! 俺はただ、困ってるかもしれないからって!!」

この男の家に転がり込めば、そうだ、仇討ちも容易になるかもしれない――袖に潜ませた毒薬を飲ませでもすれば、一気に仕留めることだってできる。
ヤツカダキは微笑みながら頷いた。男は今度こそ顔を真っ赤にして、なんとか体面を繕おうとして口を真一文字に結ぶ。

「お、俺はヨイチ。夜一っていうんだ。君は?」
「えっ……ああ、その、ツヤ……艶と申します」

名前を聞かれて、一瞬たじろいだ。そうだ、人間は互いを認識する為に、生まれた折にそれぞれ固有の名前をつけ合うと聞いている。
急遽、ヤツカダキの字をなぞって艶と名乗ることにした。男は「艶か、いい名前だ!」と頬を染めながら何度も頷いた。馬鹿な男だ、ヤツカダキは笑みを零しながら夜一の誘導に従った。
遠く煌々と燃えるかがり火が、小さな人里の周りを人魂鳥のようにぐるりと取り囲み、夜の外気を赤く染めている。
 
 

 
後書き
……

完結済作品ですので、少しずつ載せていきます。
よろしくお願いしまーす!(*ˊᗜˋ*)

【22/06/08 追記】

夜一が操った鉄蟲糸技「風車」は片手剣の専用技ですが、ライズ本編ではウツシ教官が翔蟲を発見後、飼育、調教を経て開発した技になっています。
モチロン、夜一が使用できているのは独自設定によるもの。いかに片手剣がカッコイイか、どうしても主張したかったので…!
ほーらみてみて、ぶんぶんソードだよー!!(…)
 

 

弐日目


「さあっ、何もないとこだけどゆっくりしてってくれ!」
「旦那さーん。薬草とか道具とか散らかしっぱなしニャー」
「うわーっ! ちょ、艶っ、ちょっとだけ待っててくれ!」

案内されたのは、夜一がオトモとともに暮らしているという彼の自宅だった。年季の入った木造の平屋で、この辺りではよく見る佇まいだ。
ヤツカダキは、明かりを灯しがてら室内を慌てて片付け始めた夜一とアイルー・暁から視線を外して周囲を見渡した。
思ったよりも掃除が行き届いていて、畳やい草の匂いが心地いい。外気と外光がよく入り、造りそのものは古びているものの清潔感も備わっている。
ふと白い粉が視界を過り、目を向けると、大きな窓の前に置かれた杵と臼、粉挽きの石臼が忙しなく絡繰り仕掛けで動いていて、ひっきりなしに米や麦の類を挽いていた。
……独特の匂いが鼻に刺さるが、そもそも人間は雑食性の生き物だ。あれらは恐らく、この男が主食としているものであるのに違いない。

「ウゥ~……ワン!!」
「ニャー? 灯火、さっきからどうしたのニャ?」
「あっ、艶! こ、こっちは片付いたから座ってくれ」
「ええ……ありがとう、夜一さん」

入り口付近で待機していたヤツカダキの真横で、未だにガルクの灯火がうなり声を上げていた。
首を傾げながら暁が近寄ると、彼は怯えたようにアイルーにしがみつく。
「これ」は勘がいい牙獣だ、気をつけなければ――ヤツカダキは艶の面でにこりと二匹に笑いかけ、夜一の手招きに従って囲炉裏の前に腰を下ろした。

「ごめんなさい、夜一さん。私、昔ガルクに噛まれたことがあって苦手なのです。怖がっているのが彼には分かるのかもしれません」
「えっ、そうなのか!? ……灯火は俺が拾ってきて、ずっと長いこと一緒にいるんだ。艶、申し訳ないんだが」
「いえ、大丈夫です。近寄らなければ……見ている分には怖くありません、可愛いとすら思いますし」
「かわい……そ、そうだよな、ガルクは可愛いよな。けど、俺が思うに艶もかわ……」
「え?」
「うおっ、な、何でもない!! と、灯火が艶に慣れてくれるといいと思っただけだ、うん!」
「ええ、そうですね。それは、もちろん……」

「お前のご主人様の命は私が握っているのよ」。そう言う代わりに、ヤツカダキは灯火の顔に一瞥を投げた。
察したのか、若いガルクはびくりと肩を跳ね上げて歯噛みする。宥めるように彼を撫で回していた暁は、主人と艶を交互に見上げて目を瞬かせた。

「ところで旦那さん、来客用のお布団ってあったかニャー」
「ぬあっ!?」

いそいそと布団を敷き始めていた夜一が、雷に打たれたように中腰のまま硬直する。
やーっぱりなんにも考えてなかったのニャ、静かな空間に小馬鹿にしたような暁の声が響き渡った。

「艶さん、旦那さんは土間に寝かすからあのお布団借りるのニャ。申し訳ないけど明日までの辛抱ニャー」
「えっ、ど、ど、土間っ?」
「あーかーつーきぃー!! お前っ、俺のこと実は嫌いなのか!?」
「嫌ってはいないニャ。ほんとーのことを言っただけなのニャ。旦那さんは何かしらどっか抜けてる人なのニャー」
「うおおおお! 泣かす! 泣かしてやる、そこに直れー!!」
「ワォン! ワフフン!!」

ヤツカダキを放置して、狩人とそのオトモたちは格闘し始めた。
雇用されている身でありながら、オトモたちに狩人を尊敬しているそぶりは全く見られない。
どうすればいいか分からず、ただ正座して事の成り行きを見守る。数分間待った後、ようやく落ち着きを取り戻した夜一が艶の隣に腰を下ろした。

「いっつもこんな感じなんだ。あー、疲れた」
「……オトモさんに、好かれているのですね」
「う、いや、そ、そういうわけじゃ……でも、そうだったらいいんだけどな」

照れくさそうに頬を掻いて笑う夜一に、艶が柔らかく微笑む。ぱちん、と囲炉裏の中で小枝が弾ける音がした。

「とにかく、今日はもう遅いから休もう。艶の布団とか、明日買いに行かなきゃな」
「そんな、私はここででも」
「いや、俺が寝るから! ほら、艶は布団に入って。その、汗のにおいとかしたら……ご、ごめんな」

強引に自分を寝かしつけ、夜一はさっさと囲炉裏の前に横になった。背中を向けて早々、いきなり寝息を立て始める様にぎょっとする。
警戒心や危機感などはないのかしら、言葉には出さずに掛け布団に埋もれた。
眠れるかどうか不安を覚えたヤツカダキだったが、意外にも眠気はすぐにやってくる。
目覚めたとき、元の姿になっていなければいいのだけど――朦朧とし始めた意識の中、ぼんやりとオオナズチの言葉を思い出していた。
「勘のいい人間には気をつけろ」。そんなもの、この男に果たして通じるものだろうか。疑わしいにもほどがあった。
ヤツカダキが目をしっかり閉じた後、更には暁と灯火が仲良く寄り添って深い夢に沈む中。
のそりと起き上がった夜一は、艶の眠る布団にそっと近寄った。
あぐらを掻き、ただ黙して座り込む。何事かを考え込む真摯な眼差しは、ぐっすりと寝入った白髪の娘の寝顔をいつまでも静かに見つめていた。






いつの間にか、熟睡してしまっていたようだった。射し込む陽光の眩しさに一瞬めまいを覚えながら、未だに落ちてこようとする瞼になんとか抗う。
途端、ヤツカダキは言葉にし難い異臭を嗅いだ。何かが焦げているような、それでいて生臭いような、酷い不快感を覚える悪臭だ。

「うっ。何、このにおい……」
「あっ、艶さん、おはようですニャー。もーすぐご飯できるのニャ!」
「え、ご……ご飯?」

土間の方から暁の声がする。見ると、備えつけのかまどの前でオトモアイルーは木べら片手に気楽なステップを踏んでいた。
その背後、かまどで煮込まれているのは如何にも毒物か失敗作かという体の料理鍋で、既に黒い煙が噴いている。
まず火が強すぎる――オオナズチが事前に与えてくれたという人間に纏わる予備知識が、脳内でものを言う。
艶は、慌てて土間に降りた。草履を履くのも忘れてかまどに駆け寄り、開かれた地獄の釜を覗く覚悟で鍋の中身を見下ろしてみる。

「ひっ! あ、暁さん、これはもう……」
「あ、心配しないでいいニャ。これは旦那さんの分なのニャ」
「ええっ!?」
「灯火はケータイショクリョーのこんがり焼きしか食べないし、ボクと艶さんのはこんがり魚ニャ。今日は旦那さんのボックスから盗んだサシミウオ……」
「……あーかーつーきぃー。お前っ、また俺のアイテムボックスから魚盗んだろ! サシミウオは狩りに使うって教えただろ!?」

いつの間にか主と飼い犬が帰宅していた。帰るなり助走までつけた夜一の跳び蹴りが炸裂する……と思いきや、暁は華麗に横っ飛びして緊急回避。
結果、夜一は粉挽きスペースに自ら突っ込んでいくことになった。ガッチャンパリンと派手な音がして、もうもうと粉塵が舞い上がる。

「……」
「ニャ。今日もボク、絶好調ニャ!」
「……よっ、よ、よ、夜一さん!!」

うわあ、と悲鳴を上げる傍ら、ヤツカダキは粉挽き場に走った。ゲホゲホと咳き込む声から察するに、一応彼は無事のようだ。

「ゲホッ、あ、暁ぃ……」
「よ、夜一さん、しっかりして下さい」
「うう……心配してくれるのは君だけだな、艶……」

倒れ込んでいた夜一の腕を掴み、なんとか立ち上がらせる。杵臼は無事だったが、石臼は分解されてしまっていた。
どれだけ頑丈な体をしているのだ、このハンターは……言いたくなるのを堪えつつ土間に戻ると、一足先に(!)暁と灯火が朝食を堪能している。
ああ、これは……思わず立ち尽くしたまま頭を抱えたヤツカダキの横、再び夜一が暁に突進していった。
朝から元気に取っ組み合いを始める三者に、どう声を掛けるべきか見当もつかない。

「くっ……この! このこんがり魚美味いぞ! 暁!」
「ふっふふふニャ、旦那さんはボクの料理の虜ニャ。もう逃れられない運命なのニャー」
「ワォン! ワフワフ!!」
「お、そうかそうか、灯火も分かるよな! うん、この焼きが絶妙で……」
「……夜一さん? もしかしてご飯、作り直さなくてもいいのですか」

しかし、全てはヤツカダキの杞憂でしかなかったようだ。
気がつけば一人と二匹はすっかり仲良く焼き魚を頬張っていて、先ほどの喧嘩など影も形もない。
途方に暮れる艶を見て、ようやく彼らは状況を察してくれたらしかった。食べかけの魚をオトモに押しつけ、夜一は艶を囲炉裏前に上げ直す。

「わ、悪い、ごめん、艶。いっつもこんな感じだから、その」
「あ、いえ。夜一さんがいいのなら、私はそれでいいんです」

むしろ今の流れで、この狩人が如何にオトモたちに舐められているのか観察することができた。
ハンターとしての実力、人間的魅力、危機管理能力。彼にはそれが決定的に欠落していることが、はっきりと見て取れる。
「この程度の男なら、私単独でも容易に始末できるはず」。その瞬間を夢想するだけで、心は晴れ晴れと踊り出すかのようだった。

「でも、そうですね。食材は……たくさん減ってしまったのじゃないですか」
「うっ。そこなんだよなー……暁、お前のせいだからな」
「ニャー? ボクのせいじゃないですニャ。そもそも旦那さん、今日は買い出しに行くって言ってたしちょうどいいニャ」
「ワン! ワォーン!」
「あー、もう! 分かった分かった! いいか、買い食いもお土産もほどほどに、だからな!」
「やったー! ガッポリ無駄買いしてやるニャ!」
「ワンワン! ワォーン!!」

……前言撤回。危機管理も魅力も実力も欠けているのは、きっと夜一本人だけではない。
ヤツカダキは艶の顔で苦笑する。馴れ合いと平和ぼけで成り立つ三者の信頼関係に、元より深入りするつもりはない。

「はあ……金、足りるかな……ああ、艶も来るだろ? 里のこと、案内したいしさ」
「でも夜一さん、私は……」
「いや、いいんだ。どっちみち里の名物もご馳走したかったし、近くで狩りの道具も補充しなきゃだし」
「やったー! アオキノコ焼きニャ、美味しいニャ!」
「ワォーン!」
「だーっ! お前ら、少しは大人しくしてくれ!」

手を取られ、家を出る。ぽかぽかと暖かな日差しが降り注ぎ、同時に涼やかな初夏の風が心地よく頬を撫でていった。
意外にも。意外にも男の手は予想よりずっと大きく、綺麗な形に整っている。目を瞬かせる艶に振り向き、夜一は不思議と嬉しそうに破顔した。
怪しまれないよう、釣られるように柔く微笑む。しゃりしゃりと砂利が小気味いい音を立て、四人の足取りはより軽くなっていった。






「……わぁ、すごいですね」
「だろ? まあ、大体よその里からの交易品なんだけどな」

素直な感想だった。夜一に連れられてきた里の市場は、早朝にもかかわらず賑わいに満ちている。
男と同じ藍色の衣服に身を包んだ里人が往来を闊歩し、あるいは店先で呼び込みに勤しんでいて、小規模ながらも活気に溢れていた。
軒先に並べられた品はヤツカダキには見覚えのないものばかりで、どれもが光を反射させ、魅惑的にキラキラと輝いている。

「旦那さん、旦那さん。見てニャ、ユクモの伝統、金色アイルーだるまニャー」
「暁ー、そんなの買わないからな? 先に食材を、」
「ワフーン。ワォッ? ワフ?」
「わあー、灯火! その首輪、とってもイカしてるニャ! めちゃくちゃ似合ってるニャ!」
「……今日は無駄買いするしかなさそうですね。夜一さん」
「うおお……あいつらぁ……あとで覚えとけよ……」

ヤツカダキがはしゃぎかけるということは、オトモたちははしゃいで止まない、ということでもあった。
現に暁と灯火は家を出た際の「無駄買いしない」約束をすっかり忘れている。微苦笑する艶の横、夜一は複雑な顔で眉間に皺を寄せていた。

「市場に全員揃って出るの、久しぶりだからなー。今日くらいは大目に見るか」
「そうなのですね。いつも、狩りに出ていらっしゃるから?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃないんだけど」

歯切れの悪いまま立ち止まられ、倣うように足を止める。夜一は一瞬苦いものを噛んだような顔をして、後に苦笑した。

「多分、二人とも力が有り余ってるんじゃないか。俺、あんまり狩猟に出ないから」
「え? そんなはずは、だって昨夜はアオアシラを」

不意に、手を離される。こちらを振り向きもしない。思いも寄らない夜一の行動に、ヤツカダキはその場で硬直した。

「艶。悪いんだけど、俺は先に布団とかの重いもの見てくる。君はオトモたちのこと、見ててくれないか」
「よ、夜一さん? あの、私……」
「一緒に荷車を借りてくるから。また後で合流しよう」

あっという間に人ごみに紛れていった狩人の背中を、呆然と見送る。
何かしてしまっただろうか、怪しまれたか、それとも怪異だと気付かれたか……考えても答えが出ず、ヤツカダキは辺りを見渡した。
基本的なカラーリングの、アイルーとガルクの連れ。喧噪の中でも、二匹の姿はすぐに見つけられた。

「あの……暁さん、灯火さん」
「ニャー? 艶さん、そこは暁ちゃん、って呼んで欲しいとこですニャ。どうしたのニャ?」
「クゥン? ワフ?」
「暁……ちゃん、灯火くん。その、夜一さんが先に行くと仰って」

話してみて初めて、自分は置き去りにされたのだと、それにショックを受けたのだと気がついた。言葉にし難い虚無感に任せて、顔を伏せる。
何故かは分からない。ただ、これまで厚意をあらわにしていた男から一方的に突き放された印象を受けたのだ。
それでいてヤツカダキは混乱していた。何故こんなにも自分は動揺しているのだろう。復讐の機会を逃しそうだからか、それとも。

「私……夜一さんに、何か悪いことを言ったのかしら。さっき、狩りがどうだとか、詮索するようなことを……」
「艶さん? あれ、それじゃ肝心の旦那さんは」
「私が狩りの話をし始めたら、急に離れていったのです。やはり、悪いことを言ったのに違いないわ」
「狩り、狩りかニャー……うーん、確かに旦那さんにはタブーな話かもしれないニャ」

俯いたままの艶の手のひら、その指先に、ふと柔らかい感触が灯される。はたと目線を上げると、暁の小さな両手が艶の手に触れていた。

「暁、ちゃん……あ、あの、私……」
「大丈夫ですニャ。ちゃらんぽらんなへたれにしか見えないけど、旦那さんはちょっと難しい立場の人なのニャ。下手に腕が立つから余計になのニャ」
「夜一さん本人は、さっき、あまり狩りに出ないのだと言っていましたけど」
「うーん、旦那さんは『最も狩猟に向いていて』『最もハンターらしからぬ』狩人だそうだから、その答えも仕方ないニャ」
「最も向いていて……らしからぬ? それって一体、」

こちらの問いには答えず、二匹は仲良く並んで歩き始めた。
時折、灯火の背中を暁の肉球が撫でている。その度に、ガルクは激しく尻尾を振っていた。
仲がいいのは宜しいことだが、如何せん二匹とも小柄で素早い。声を聞き逃さないよう、ヤツカダキは懸命に二匹の背を追った。

「旦那さんは、里長からもギルドからも評価されてる凄腕ニャ。隠してるつもりなんだろうけど、いざ狩りに出るとバレバレなのニャ」

……心臓が、ざわりと不気味な音を立てる。やはりあの男は、ヤツカダキという種族を殺して回った人物その人なのだろうか。
ごくりと唾を飲み込めば、その掠れた音が周囲に漏れ聞かれてしまうような錯覚さえ抱けた。
艶の内心を知るよしもない暁は、彼女の目の前で常のように買い物を楽しみ始める。手近な商品棚からかんざしを一本拝借し、光にかざした。

「このかんざし、いい品ニャ……ニャギャッ、お高いニャ! ボクのオコヅカイじゃ無理なのニャ!」
「おっ、なんだ、夜一のところのオトモじゃないか。こらこら、悪さするんじゃないぞ?」
「心外ですニャー、そんなことしないのニャ。旦那さんが乙女心の何たるかを勉強しないから、ボクが教えてあげるのニャ」

「ね、艶さん」、急に話を振られ、ヤツカダキは慌てふためいた。乙女心とはどういう意味か。自分は別に、彼らには何の期待もしていないのに。
商店の店主は、首を傾げながら艶を見た。しげしげと見つめられ、困惑と羞恥で体温が上がっていく。

「いやあ、別嬪さんだあ。夜一もあれかい、ついに女を買うようになったのかい」
「えっ? ……女を、」
「ああ、違ったんならすまなんだ。あいつ、モテるのに恋人の一人も作らんからさ。里長の娘もギルドから派遣されたお嬢ちゃんも夢中だってのに」
「夢中……そうなのですか、夜一さんが?」

一転、声色が急激に低くなったヤツカダキを余所に、店主は一人うんうんと頷いた。何故か暁と灯火はおろおろと狼狽えている。

「いやね、できれば里で結婚でもして永住してくれりゃ一番なんだがね。ハンターってのはあれだろ、要請があれば余所に遠征だってするんだろ?」
「……そうですね。私は、そのように聞いております」
「だろ? 仕事はサボりがちだが、あいつ腕だけは確かだからね。里に根付いてくれた方が安心ってわけさ」

この男は何を言っているのだろう……夜一がどこに行こうが、どのような狩りをしようが、彼の勝手ではないか。
気がつけば、艶たちの周りには店主の言葉に同意する里人もちらほらと現れ始めていた。
ヤツカダキは強く拳を握る。爪が食い込み、病的に白い皮膚から赤い血が流れ落ちたが、そこに留意してやる余裕は欠片もなかった。

「――暁ちゃん、灯火くん。行きましょう」
「ニャッ、つ、艶さん?」
「ワッ、ワフ」
「行きましょう、こんなところに長居したくありません。食材を買ってお料理して……あの人の帰りを待つ方が、ずっといいに決まってる」
「おい、娘さん。こんなところって、そんな言い方……」

振り向き様、睨めつける。引き留めようとした里人のうち何人かが、肩を跳ね上げて顔を青ざめさせた。

「……夜一さんのことは、彼からじかに聞けば宜しいのです。私からあなた方に問うことは金輪際ございません」

いっそう低い声を響かせた後、艶は振り向かずに夜一の自宅方面へ足を向けた。慌てた様子で、オトモたちが後ろから着いてくる。

(気に入らない、気に入らないわ。里長の娘? ギルドの担当者? そんな女、夜一さんが相手にするはずがない)

理由も根拠もない。しかし、ヤツカダキは何故か夜一が独り身で在り続けることを強く望んでいた。
それと同時に彼女は怒り狂っていた。焦がれるような胸の痛み……夜一の話を里人から聞かされる度、心臓の辺りに謎の痛みが湧き出て止まらない。
痛く、熱く、狂おしく、とても苦しい。原因がまるで分からないことも、余計に怒りを強めるきっかけになっている。

「……夜一さんの、ばか」

自分は、夜一の何を知りたかったのだろう。どのような話であれば、にこにこと笑って流すことができたのだろう。
胸が苦しい、なのに何故なのかがまるで分からない。ぽつりと吐き出した独り言に、この場にいない狩人が答えてくれるはずもなかった。

 
 

 
後書き

……

以下、こまごま設定。

暁のいう「灯火は携帯食料のこんがり焼きしか食べない」は若干の誤り。
夜一が里に居着いてすぐの頃、大社跡で密猟者に追われて家族と生き別れたのち行き倒れていた灯火に「手持ちの携帯食料を炙って食べさせた」ことがきっかけで彼にとっての思い出の味となった、が正解です。
火竜の上カルビや雌火竜のロースといったご馳走もたまには食べたいなあ…というのが本音のようです。
(この話は結局書かずに終わってしまいました…)

 

 

弐日目(2)


「ぐぁあああ……」

夜一は頭を抱えていた。それというのも、今し方艶をたった一人で市場のど真ん中に置いてきてしまったからだ。
少しあたりを見ただけで、朝食を求める客や夜間の狩りから帰ったハンターらが、そこかしこに顔を出し始めているのが分かる。
……彼女には、どこか放っておけない雰囲気がある。もし誘拐ないしナンパでもされれば、自分にとっては大打撃だ。

「俺はバカか、バカだったー……そもそも俺だって厚意で助けたわけじゃないってのに」

ぶつくさと独り言を並べて身を丸める男に声を掛ける猛者は、誰もいない。夜一は店先に並んだ置き鏡に映った自分の顔を、恨めしく睨みつけた。
朝の騒動で真っ白に染まった髪と防具。その防具とて、あたりを行き交う腕利きのそれと違い、交易品として入手した初期装備だ。
ここよりそう遠くない、炎とたたら鋳造で栄えるカムラの里。
昨今注目を浴びる件の里で製造された武具は、シンプルながら使い勝手が良いとして有名だった。
夜一もまた、優れた性能が気に入って長らく愛用している。しかし顔見知りからは「そろそろ上位版にしたらどうか」と勧められてばかりいた。

(いや、俺の装備がどうこうは今は問題じゃない。それよか、艶を迎えに行かないと)

こんな田舎で布団や着替えを揃えるにしても、せめて好みくらいは反映させてやりたい。よし、戻ろう――すくと立ち上がった、そのときだった。

「久しぶりだな、夜一!」
「ぶぐわっ!! いっ、いって、このっ……」

頭に衝撃、朝もはよからお空にお星様……と見せかけ、後頭部めがけて投げられた柿は受け身をとりつつしっかり捕球。
実はちょっとヒットしたけども――口を尖らせて振り向いたところに、赤い洋装に身を包んだ男の姿があった。夜一にとっては嫌というほど見知った顔だ。

「どうだ、最近は真面目に狩りに行ってるか」
「アーイ、オツカレサマデシター」
「おいおい、分かった、悪かったって。しかし本当、久しぶりだな。夜一」
「あー、うん。一年ぶりくらいかな、クーロ」

元はといえば、駆け出しの頃に一緒に腕を競い合っていた狩り仲間だ。こんなやりとりも愛嬌のうち。
自身と同じ黒髪黒瞳の長身を、夜一は嫌みと親しみを込めた目で見上げた。

「『ギルドの守護者』も大変だなー。わざわざドンドルマから出てきたんだろ?」
「交易船様々だよ。そんなに掛かってないさ」

羽根付きの鍔広帽子に、肩や関節を補強する金属具、光沢感のある良質な布地に、腰に下げられた一振りの剣。
クーロの装備は本人の長身も相まって非常に目立つ。雑談を挟みながら、夜一たちは里の外れへとさりげなく移動した。

「ドンドルマか、懐かしいなー。か、狩りすぎて鳥竜種値崩れとか」
「クーラードリンク忘れて泣く泣く撤退とか」
「あったなー。いやー、色んな人に助けられたっけ……」
「……そうだな。なあ、夜一。お前、本当にドンドルマに来るつもりはないのか」

笹のさざめき、眼下のせせらぎ。竹垣と竹林で囲まれた里の外れ、釣りをするにも藪深い場に人通りはない。時折鳥のさえずりだけが通り抜ける。
夜一は岸に立つクーロに振り向いた。小川の中央、僅かに水面に顔を出した苔石に立ち、狩人はすぐにまた前を向く。

「前にも言ったろ。俺は暁と灯火を置いていくつもりはないよ」
「何もここに残せとは言ってない。ギルドも配慮すると言っている、何ならオトモ登録し直して同行させればいい」
「クーロ。今でこそマシになったけど、ふたりとも人間嫌いなんだよ、俺と俺が信頼する人間以外にあいつらは懐かない。配慮以前の問題だ」

いつものことだ、人好きのする面立ちをしていながら夜一は時に他人を強く拒絶する――クーロは帽子の鍔を摘まむと、表情を隠すように俯いた。

「彼らにこじつけるな、人間嫌いはお前の方だろう。長いつきあいになるが、俺にも素を見せないくらいだからな」
「そんなことないだろ。オレハクーロダイスキダヨー」
「夜一、あまりオトモに感情移入しすぎるな。彼らとてモンスターの一種だぞ」
「クーロ……俺のスカウトとオトモたちはなんの関係もないだろ?」
「片や、性格、行動に難があるが故に雇用されず、あるいは雇用されても主人に解雇され続け各地のギルドをたらい回しにされたオトモアイルー。片や、毛皮目的に親を殺され、兄弟も連れ去られた野良ガルク……あれから何年経つ? お前が彼らを雇用したと聞いたとき、お前らしいと思ったよ」

鍔越しに見据えた先、夜一が感情の失せた表情でクーロを見る。普段の温厚さからは想像もつかない凍てつく眼差しだった。
ギルドの要職に勧誘し続けてはや数年。
彼の腕が他の追随を許さないものであることは周知の事実だが、夜一が首肯したことは過去一度もなかった。
謙遜でも卑下でもない。夜一というモンスターハンターは、ギルドを筆頭に人間そのものを毛嫌いしている。

「俺らしいってなんだよ? ……ふたりとも俺たち人間の都合で振り回されたんだ、適当に放置できないだろ」
「夜一。お前やギルドがそれを許したわけではないだろう、ギルドも密猟や裏取引は常に警戒している。現に近年はぞんざいに扱われるオトモの数も、」
「暁と灯火に何の関係があるんだ? あいつらには家族も帰る場所もないんだぞ」

「この話はここでおしまい」。ひらりと片手を振って、夜一は対岸に跳躍した。

「けど、そうだな。俺に万が一のことがあったら、そのときは暁たちを助けてやって欲しいよ」
「万が一? お前にか。基本どの狩猟対象も生け捕り前提、要求された条件は決して破らず完全な形で狩りを遂行する……そんな手練れが?」
「言いすぎ、買いかぶりすぎだ、クーロ。俺より優秀な狩人はいくらだっているよ」
「いないから勧誘しているんだろうに。お前も人が悪いな」

夜一は、ギギギ、と錆びたブリキ人形のような奇怪な動きで振り返る。目を瞬かせた後、クーロはぷはっと噴き出した。

「分かった、分かった。覚えておくさ……そんな日がこないことを祈ってるよ」
「当たり前だ。暁も灯火も、俺の家族だからな」

ニカッと子どものように破顔して、夜一は走り去っていった。竹垣を身軽に乗り越え、再び市場の方へ直進していく。
遠ざかる馴染みの背中を見送って、クーロはひとり静かに嘆息した。

「……近くに古龍の気配が出たと言いそびれたな。調査させる予定だったが、しかし」

今日の夜一はいつになく怒りやすく、また不思議と浮き足立っている。
彼が生まれて初めて「他人」に関心を抱いていることなど、クーロに知る術はない。

「してやられた。あの馬鹿、話くらい聞いてくれてもよかっただろうに」

廃れた大社、生い茂る竹林、山々の呼気。里からそう遠くない狩り場に、生態不明として名高い竜種が出現している……。
夜一ならば痕跡の回収、ないし狩ることすら可能と見込んだハンターズギルドは、顔見知りであるクーロに接触するよう命じたが、結果はこの通りだ。
古龍種の出現情報を待たずして、あるいは元より勘づいていたのか、肝心の狩人は聞く耳さえ持たなかった。
「最も狩猟に向いていて、最もハンターらしからぬ男」。比喩ではなく、夜一という男はモンスターやオトモたちに感情を寄せすぎる傾向がある。
クーロは口角を上げて苦笑した。だが、「それ」がなければきっと自分は今でも友人同士ではいられなかった。
夜一が狩りを避ける質であることを、その心と情の深さを自分はよく知っている。暁らを托された分、信用されているのだということも。

「さて、夜一ほどの猛者はいたかどうか。最悪、俺がじかに行くしかないか。厄介だな」

人間以外の種族を庇い、愛し続けることで、夜一はこの先余計に肩身が狭くなっていくことだろう。
そのとき、自分にしてやれることは残されているものだろうか……頭上の古龍観測船を見上げて、クーロは片目を細めた。






悩みに悩んだ末、艶の布団は自分の布団の柄の色違いにした。我ながら分かりやすい、と夜一は背負った荷物の山を見て嘆息する。
更に、ささやかな土産も買っておいた。暁や灯火が喜ぶものなら大体把握しているが、艶とは初対面も同然だ。
もし彼女の笑顔を見ることができたなら、自分はどうなってしまうのだろう。
頭を振る。周囲の好奇の眼差しはもちろん、荷もそこそこ重量があった。一度帰宅して、三人がいなければ迎えに行こう……そう決めて足を急がせる。

「……夜一さん? 夜一さんよね?」

聞き覚えのある声に足が強張った。聞こえなかったふりをして通り過ぎようとした夜一だが、既に相手は隣に駆け寄っている。

「スガリ……おはよう」
「おはよう。って、もうお昼も近いけど……夜一さんはこれからご飯? それとも狩りの準備かしら」

黒く艶やかな髪に朱色のかんざし、健康そのものの血色のいい肌。華やかな雰囲気の赤い着物と、桜色の羽織り物が屈託のない笑顔をより輝かせる。
艶を真夜中に浮かぶ月と例えるなら、この娘は真昼に輝く太陽と例えるのが適切だと思えた。
市場の外れ、一人きりの自分に親しげにかつ快活に話しかけてくる娘。彼女はこの里の長の愛娘だ。確か、自分より僅かに年下だったと聞いている。

「いや、朝は済ませたから買い出しに来ただけだ。スガリは?」
「私も今起きたところなの。ねえ、夜一さん。一緒にお茶かお昼でもどう?」

……さらりと自然に誘えるあたり、手慣れていると思う。自分もそうあれたら、艶ともっと親密になれるかもしれないのに。
夜一は苦笑いを顔に貼りつけて、首を静かに横に振った。先ほどから、初夏の空気に似つかわしくない香水の匂いがいやに気に障る。

「悪い。用事があるんだ」
「用事? ああ、模様替えか何か? 言ってくれたら用意させたのに。あなた方にマイハウスを提供しているのも、お父様だったでしょう」
「大丈夫、そこまで大げさにしなくてもいいから。里長にもご迷惑だろう?」
「下位装備で上位の青熊獣を狩るような人の住まいだもの。それくらいさせて貰わなきゃ、こちらの気が済まないわ」
「……スガリ。俺、いや、俺たちは」
「もっと頼ってほしいの。私、あなたの力になりたいのよ」

初対面の頃からずっとだ。彼女が自分を見つめる目が、夜一には受け入れ難かった。
純粋な好意でも年相応の憧憬でもない、獲物を値踏みするようなじっとりと絡みつく視線だ。向けられる度、呼び止められる度に足は都度固まった。
スガリが里長の娘として生まれたからには仕方のないことだ、そうは分かっていても不快なものは不快で堪らなかった。
カムラの里と違い、この里には目立った産業がない。
他の里から寄せられた品物を金銭と交換して成り立つ故に、新たな技術者や狩人が居着かないのだ。
この里は徐々に衰退している。ましてや、近年の大型モンスターの出没頻度の高さからしてもスガリにとっては今が正念場なのだ。

「スガリ。悪いが、俺は君に応えられない」
「夜一さん? 急に何を、」
「俺より優れた狩人なら他にもいる。他を当たってくれないか」

浮かんだ笑みが瞬く間に凍てつくのを、夜一は見た。「思い上がり」ではないかと身構えていたお陰で、動揺せずに済む。

「抱えてる依頼が片付いたら、近いうちここを離れるつもりだ。ギルドの使者もまかなきゃいけないし」
「……夜一さん」
「っと、じゃあ、荷物が重いからこの辺で! またな、スガリ」

振り返らずに駈け出した。荷物の重さが肩と背中を圧迫したが、あの空気には耐えられない。
ひたすら真っ直ぐに仮住まいの自宅を目指し、わらぶき屋根が見えたところで足を止める――煙突から、白い煙が棚引いていた。

「誰だ? おーい、暁なのかー?」

からりと引き戸を開いた瞬間、夜一は我が目を疑った。

(……艶)

土間に備えつけられた炊事場で、艶が煮物をこしらえていた。コトコトと鍋が軽快な音を立て、食欲をそそるいい匂いが部屋中に広がっている。
煮物だけでなく白米も炊かれているようだった。囲炉裏の方から流れてくる焼き魚の匂いも相まって、朝食後だというのに急に腹が空く。
しかし、それらに意識と視線を完全に傾けてしまうのは難しいことだった。夜一の目は、小皿で味見を試みている白髪の女に釘付けになっていたからだ。

「……艶」
「え? ……ああ、夜一さん。おかえりなさい」

「おかえりなさい」。その響きを耳にした瞬間、夜一は肩を跳ね上げていた。振り向きざま、彼女は本当にごく僅かに微笑してくれている。
長い髪をうなじの辺りで一本に纏め、着物はたすきで結わえてたくし上げ、艶はさもこの炊事場を使い慣れているような体だった。
少しばかり汗ばんだ肌と蒸気で濡れた顔が、彼女の儚げな美しさをより輝かせ、引き立てている。

「夜一さん、その荷物は」
「……ああ、あの、その……た、ただいま、艶」
「ええ、おかえりなさい? 今日はどなたかとご一緒じゃなかったのですね」
「うん……えっ?」

急激に、艶の声が硬化していった。いや、それだけでなくこちらの弁解など聞きたくないとばかりにいきなり背を向けられる。

「つ、艶?」
「先ほど里の方から聞いたのです。夜一さんは里の女性たちにとても人気があるそうですね」
「人気? そんな馬鹿な、俺はそんなんじゃ」
「否定なさらないのですね。そうですか、どうか私のことはお気になさらず」
「えっ、おい、艶? 一体どうして、」

空気が重い。夜一は、ひとまず山のような荷物を床上に下ろしつつ、艶の背中を見守った。
……あの突き放すような物言いは、なんなのだろう? 腰を下ろして眺めていると、怒っているのだという気配だけが伝わってくる。

(なんで怒ってるんだ? 俺がモテるとかモテないとか、そんなの艶には関係ないような……)

ふと思考を巡らせる。途端、あくまで予想にすぎない仮説が脳裏に閃き、夜一は体を強張らせた。
そろりと立ち上がり、気配を殺して背後に立つ。白髪と耳の間から表情を窺えば、艶がふてくされたように口を結んでいるのが見えた。
嘘だろう、まさかそんな、そんな夢みたいな話あるはずが……心臓が、全身をせっつくように早鐘を鳴らしている。
喘ぐように喉を鳴らして、静かにその横顔に手を伸ばした。

「……艶」
「っきゃ! な、なに、夜一さ……」
「艶。君、もしかして妬いてるのか」

横髪をかき分け、じかに触れる。頬に触れた直後、何故か「ああ、こんなに簡単に触れるものなのか」と思考した。
熱に浮かされる、とはこのことだ。反射という風にぱっと顔を逸らした女の頬と顎に指で触れ、半ば強引にこちらを振り向かせる。
汗か蒸気か、それとも。艶の顔に一瞬で朱が差し、慌てたように彼女は下を向く。夜一は、自分の中で禍禍しい何かが産声を上げたような気がした。

「艶。好きだ」

上向かせた刹那、蒸気と熱気にまぎれるようにして口を塞ぐ。微かに、ほんの一瞬唇に走っただけの柔らかさに眩暈さえ覚えた。
細すぎる体を引き寄せて、あっという間に腕に収める。こんなことは自分らしくない――冷静になろうとすればするほど、息苦しさが募っていった。
「俺は艶が好きなのだ」。気づいてしまえば隠すことなどできない。腕の中に感じる熱と鼓動で、気が狂ってしまいそうだった。

「好きだ、艶。好きなんだ……頼む、俺の背中に手を回してくれ。お願いだ」

身の程知らずな欲を口走った直後、そろりと白い手が背中に触れてくる。布越しに彼女の指と手のひらの感触を感じて、夜一は悲鳴を上げそうになった。
彼女もまた、自分を好いてくれている。その未だ曖昧すぎる不確かな事実が、若い狩人の体に火を点けていた。

「俺のことを……抱きしめてくれ。そうしてほしいんだ」

たまらず、艶の肩に顔を埋めていた。少しばかり汗ばんだ柔肌に、縋るように唇を寄せて息を滑らせる。
俺は馬鹿になったのだろうか、それとも元からだっただろうか――暁たちが買い物から帰宅するまでの間、時間も忘れて柔く抱きしめ合っていた。

 
 

 
後書き

……

ギルドナイト、クーロ登場回。使用武器種は弓、ボウガン類など。
共に所属すると予想していた夜一が応と言わなかったために孤軍奮闘するはめになった苦労人です。
艶の正体には気づかなかったものの、夜一が幸せなら、と応援する気でいた数少ない理解者の一人でもあります。

夜一が発した「抱きしめてくれ」、この台詞は後々のキーとなっています。
 

 

参日目


あのとき……何が起きていたのか、艶には全く理解が及ばなかった。
夜一が帰ってきた途端、自分でもどうかと思うくらいに彼にぞんざいな態度をとってしまった、そこまでは辛うじて覚えている。
問題はその後だ、いきなり背後に立たれたと思ったら抱きつかれ、耳元で何事かを囁かれ、勢いよく振り向かされ――

「……うぅわああぁっ!!」
「つっ、艶さん!? どうしたんですニャ!?」

――捏ねていた団子生地をまな板にボテッと取り落とした後で、艶は暁の声に我に返った。
夜一に抱きすくめられた翌日、ぎこちなさ満点の夜を明かした、その早朝。朝食作りの手伝いを名乗り出たオトモたちは、艶を見上げて目を忙しなく瞬かせている。
あまりに素っ頓狂な声を出してしまっていたのか、暁と灯火の目玉は顔からこぼれ落ちそうになっているほどまん丸に飛び出していた。

「あ……そ、その……ご、ごめんなさい、暁ちゃん、灯火くん」
「ニャー……? 昨日から艶さん、なんかおかしいニャ。旦那さんと何かあったのニャ?」
「うえっ、よっ、夜一さんと!? ど、どうしてそんなことをっ」
「ニャー、だって旦那さんもあーだからニャー」

暁の物言いたげな流し目に釣られて視線を動かす。
囲炉裏の前で狩りの道具の手入れに勤しんでいるはずの家主は、ぼうっと宙を眺めて固まっていた。

「夜一さん、ずっと『ああ』なのかしら」
「ずーっとニャ。何か始めちゃあ固まって、次に手を出しては固まって、ニャ」

暁が呆れるのも無理はない。夜一の手は完全に停止していて、瓶詰めを待つばかりのすりつぶした薬草や解毒草の根は半乾きになってしまっていた。
時折、何かを考え込むように眉間に皺が寄る。普段は温和な眼差しが鋭く細まり、まるで天井にモンスターが巣くっているかのように険しい表情が浮かぶときもあった。
粉を運ぶ手が空いた灯火が、彼に「クゥーン」と寂しげな鳴き声を投げてみるも、反応は返されない。
恒例の朝の掛け合いがないからか、気落ちしたように暁は嘆息している。諦めよう、とオトモたちは互いに励まし合っていた。
……一方で、艶は見たことのない夜一の顔に見とれてしまっていた。普段と打って変わる真剣な眼差しは、ある種の殺気に満ちているように見えてくる。

(私は……夜一さんに『狩られて』しまいたいのかしら)

はっと我に返り頭を振った。
違う、私は友らの仇討ちのためにここまで来たのだ――怪異としての本能が、彼に挑んでみたいと、狩人の技量に惚れているとでも言うのだろうか。
急に背筋にぞくりとした悪寒が走り、艶は薄い唇をきつく結んだ。すぐさま夜一から視線を外し、まな板に向き直る。






「艶。俺たち、これからしばらく狩り場に潜るから、そのあいだ留守を頼んでもいいか」

なんとか食事の体を整えた後、囲炉裏越しに夜一はそんなことを口にした。はじめ、何を言われたのか分からず艶はぱちりと目を瞬かせる。

「あの……夜一さんでも狩りに出るときが、あるのですね」
「えっ……」
「ニャー……? 調合してたの、狩りの準備だったのニャ? 明日はきっと雨、いや、ガンランスの砲撃が降るニャ」
「ワォーウン? ワォーン」
「えっ、俺が狩りに出ちゃ駄目なのか。っていうかどういう意味の反応だよ!? 暁、灯火!」

近場にいたオトモたちを両腕でぐわっと抱き寄せ、夜一は心底楽しそうに笑った。
眩くさえ見える笑顔に、艶は一人、不思議と胸のあたりがぎゅっと締めつけられるような感覚を抱いていた。

「でも、急にどうして。お金でも……そんなに切迫しているのですか、夜一さん」
「うん? そういうわけじゃないんだ。ただ、ちょっと都合っていうか、片付けておきたい用事ができたというか」
「ニャ~。回りくどいニャ。いつもの旦那さんらしくないのニャー」
「俺だって色々考えてるんだよっ! まあ、そういうわけだから。昨日買った布団、寝心地よかったって言ってただろ? なら大丈夫だよな」

一瞬言葉に詰まる。同時に、有無を言わせないような一方的な取り決めだ、と艶は思った。
しかしキャラバンの迎えを待つ一般人という立場を名乗る以上、家主である夜一の決定に逆らうことなどできない。
妙な詮索をされ、勘づかれても困る。力なく、首を縦に振るしかなかった。

「よし、じゃ、まずはお前らの装備の見直しからだな。行くぞ、暁、灯火」
「ニャア!? ちょっ、旦那さん、いつもはもっとケチケチしててっ……なんでそんなにはりきってるのニャ、意味不明だニャ!」
「ワ、ワンワン! ワォーォオン」
「お前ら……普段は働けー稼げーって言ってるのにどういう返事だよ。ほら、他に先回りされないうちに急ぐぞ!」

どたばたと、賑やかしくハンターたちは出掛けていった。ぽつんと取り残された艶は、一呼吸置いてからのそりと立ち上がる。
彼らと自分が使った食器を下げ、洗い、さっと軽く床を掃く。そうして一通り頼まれていた家事を済ませて、一息ついた頃には表通りに人気が出始めていた。

「お布団……干した方がいいのかしら。それより買い物? みんな、いつ頃帰ってくるのかしら」

肝心のところは聞けずじまいだ。完全に手持ち無沙汰になり、ひとまず床上に腰を下ろす。
背中に、囲炉裏から心地よい火の気が届けられた。自然ととろとろとした眠気に襲われ、何度か瞬きを繰り返す。
考えてみれば、昨日は夜一とのことがあってほとんど眠れていなかった。彼が用意してくれた赤い金魚柄の布団は実際に寝心地がよかったが、あんなことがあって眠れと言われても簡単には割り切れないというものだ。

(夜一さん……どうして、あんなことを)

好きだ――あの、熱に満ちた囁き声が不意に耳元に蘇る。途端にかっと顔に熱が上り、艶は慌てて頭を振った。
俯き、深呼吸をして、もう一度頭を振って。それでも一向に顔の火照りは取れてはくれない。

「どうし、よう……どうしよう、私、私は……」

……夜一たちが狩りに出てくれていてよかった、と艶は思う。そうでなければ、きっと彼らにこんな情けない顔を見せる羽目になっていたはずだ。

(好き……好きって? でも、夜一さんは人間で、私はただの怪異で)

それが、なんだと言うのだろう?

「私……私も、夜一さんのことが。あのひとのことが……」

その切なる言葉の続きは、辛うじて喉奥に閉じ込めることができた。
恐らく、一度でも口にしてしまえば取り返しのつかないことになる。そんな漠然とした予感が、「ヤツカダキ」の中にはあった。
恐々と顔を上げる。台所すぐ横の太い柱には、夜一が撮ったと思わしきオトモらの写真が素朴な額縁に収められていた。
ちょうど昼時になると陽光が窓から射し込み、鉱石製の透き通る蓋が、鏡のように室内を映し出す。
今はまだ、オオナズチらと離れて三日ほどしか経っていない。蓋に映る白髪の娘は、変わらず儚げな美しさを湛えたままでいた。

「……私の正体を知れば、夜一さんはきっと、あんなこと二度と言ってはくれないわ」

ぶるぶると手が震える。はっとして口元に手を添えれば、唇も青ざめ小刻みに震え始めていた。
私は恐ろしいのだ――友らのことを忘れるのが。自分が怪異でなくなってしまうことが。否、何より、どんなことよりも、夜一から嫌われ、拒まれてしまうことが……。

「……駄目だわ、このままでは」

目のあたりから、無色透明の液体が流れ落ちる。ヤツカダキは、それが「涙」と呼ばれることを知らなかった。

「早く、一刻も早く、彼女たちを殺した人間を探し出さなくては」

消沈した自分を奮い立たせるように乱暴に手の甲でそれを拭い、丁寧に屋内の火を消して回る。戸締まりについては、窓を閉めるだけに留めた。
幸せそうに寄り添う暁と灯火の写真を睨むようにして身なりを確認し、家を出ようと足を急がせる。

「ねえっ、夜一さん! ……あら? あなた、夜一さんのお知り合い?」
「――っ、ど、どちら様……?」

戸を開けるより早く、来客が勢いよく玄関に入り込んできた。とんだ邪魔が入った、とは口に出さずにおく。
相手は年若く美しい娘だった。長い黒髪は漆で染めたように艶やかで、自分とは違いはっきりとした存在感と活発そうな魅力に満ちている。
力強さを感じさせる瞳が、正面から艶を射抜いていた。そっと口元を覆う優雅な扇子の動きからして、それなりの身分にある娘であることが伝わってくる。

「質問しているのは私の方でしょう。あなた、一体どこの誰?」

隠す気のない棘を含んだ物言いが、艶の鼓膜を打った。あからさまな敵対心を前に、嫌な汗が背を伝う。

「私は……夜一さんに匿われている者です。一昨日の夜から、その、護衛の商隊とはぐれてしまって」

その気になれば、このような小娘など――わき上がる衝動を、拳を握ることで受け流す。今の自分は非力な娘、艶なのだ。
夜一はもちろんのこと、里の連中にも悟られるわけにはいかない。今ここで暴れることは容易いが、ヤツカダキ本体ほどの動きは決してできはしないのだ。

「あら、そう。昨日から里の者が噂していたわ、夜一さんのオトモとも親しくしているとか。一体、いつお迎えが来るのかしら」
「さあ、それは……私が取り決めることでは、ありませんから」
「ああ、そうでしょうねえ。そうに決まっているわ。だって、ここ数日の間、大社跡はモンスターがたむろしていてとても往来できる状態じゃなかったもの」

……息が詰まった。はっと顔を上げた先、里長の娘スガリは意味深に目を細めて笑う。

「どうせ調べられないだろう、とでも思っていたの? 里の集はあなたが思うほど間抜けじゃないわ。残念だったわね」
「あの……わ、私……」
「結構よ。我が里の自慢のハンターに取り入って盗みを働こうだなんて小悪党、名前を知る価値もないわ」
「えっ、盗み?」

我ながら、ずいぶんと間抜けな声が出せたものだと艶は思った。どうやら勘違いをされている、そう確信したのは黒髪の娘が得意げに胸を張っていたからだ。
てっきり正体がばれてしまったのだとばかり思っていたが、杞憂のようだった。そこにまず安堵する。

「それ以外にないでしょう? 調べたけれど、あなたと同じ人物を護送する商隊の記録は残っていなかった。驚いたわ、まさかこんなに堂々と夜一さんを誘惑するなんて」
「ゆっ、ゆうわ……っ!? わ、私はそんなことっ!」
「そうでしょう? 夜一さんは優しいから、あなたに泣きつかれて仕方なく家に上げてくれたのよ。でも私は違う。騙されたりなんかしないわ」

怒濤のごとく言い募られ、艶は顔を赤くしたり青くしたりと混乱していた。しかし、動揺してばかりもいられない。
相手は、こちらが夜一に話した身の上ではないことをすでに把握しているのだ。
もしそれを彼に話されてしまったら……冷たい眼差しで睥睨してくる夜一の姿を想像して、艶は全身からさっと血の気が引くような思いがした。

「ふん、所詮ただの盗人ね。皆、入ってちょうだい」

動転していて、反応が遅れた。眼前、黒髪の娘がさっと扇子を外に向けると、待機させられていたと思わしき男たちが続々と押し入ってくる。
一、二、ざっと数えて五人ほど。彼らが手に鎌や短刀、麻縄を握っているのを見て、艶は顔を引き攣らせた。

「……!? あ、あの、何をっ」
「スガリ様……いいんですかい? 夜一の奴に何も言わなくて」
「構わないわ、夜一さんなら庇おうとするだろうから。早く、捕まえてしまってちょうだい」

「捕らえられる」。そして恐らく、それだけでは済まされないであろうことも、艶は本能で感じ取っていた。
後ずさり、己を宥めすかすように胸元を握りしめる。じりじりと距離を詰めてくる男たちは、皆どこか困惑した表情を浮かべていた。

(夜一さんに家を守るように言われたのに……自分の事情を優先しようとした、罰なのかしら……)

男たちの顔や肩越しに、スガリの勝ち誇った笑みが見える。その瞬間、艶ははっと確信した。

(そうか。あの娘は、夜一さんを好いているのだわ)

彼女が里長の娘なのか、ギルドの受付嬢なのか。それは今は問題ではない、むしろどうでもいいことだ。
そうではない……あの黒髪の美しい娘が、夜一を好いている、彼を自分から「奪う」可能性がある。そちらの方が問題なのだ。
艶は、自分の体の奥から冥い炎が立ち上るのを感じていた。ぐらりと視界が揺れ、体が震え、両目が血走っていくのが手に取るように伝わってくる。
夜一を渡したくない――ぎしりと歯を鳴らした瞬間、艶は目の前でロープを解いた男に掴みかかろうとした。

「このっ! おとなしくしないか!!」

横やりが入る。脇から体当たりされ、視界が斜めに滑っていった。怒声を上げるのを堪え、たたらを踏む。
抵抗されるとは思っていなかったのか、間に入った若い狩人はぎょっとして艶の顔を見上げた。

「おいっ、こいつ結構力あるぞ! こないだ、オレが採ってきた糸を持ってこい!!」
「うっ……」
「早く! 早く、これだろ、ほらっ!!」

二、三人に押さえつけられ、艶は悔しげに顔を歪めた。人間の姿に化けたままでは、男たちの火事場力には敵わない。
その刹那……視界の端で、何かがきらりと煌めいた。辛うじて目を開けた艶は、恐怖と怒りで意識が一気に持ち上げられるのを感じた。
「白い蜘蛛糸」が、目の前にある。ただの蜘蛛糸ではない、見慣れた質感、見知った匂い、種の誇りとして自慢し合う美しい純白の、強靱な蜘蛛糸だ……。

「っ、あ、あ、あぁあああっ!!」

洗い流されてしまったのか、血の一滴も着いていない。しかし、その長くしなやかな糸は確かに友らのそれだった。
妃蜘蛛ヤツカダキの絹糸……頭の中が真っ白になり、艶は我も忘れて抵抗した。髪を振り乱し、腕を振り回し、発狂するに任せて言葉にならない声で喚き散らす。

「な、何よ、この女……」
「スガリ様、危険です! お下がりください!」
「は、早く蜘蛛糸を! 急げっ、この女、普通じゃない……」
「わ、分かってるって! 初めて扱う素材なんだから、仕方ないだろ……」
「ああっ! 触るな、それに触るなあっ!! 許さない、許さない……オマエが、オマエたちが、お前らがあっ!! よくも、よくも……っ」

なりふりなど構っていられなかった。空気中にごく僅かに解ける微かな残り香は、悲しいほどに友らの面影を思い出させる。
体は大きく、心は柔く。優しく、子煩悩で、まだつがいを見つけていない自分にもよくしてくれた仲間たちだった。
森の奥深くに揃って居を構え、人間はもちろん、他の怪異にも見つからないよう工夫しながら、種同士で寄り添い合って暮らしていたのだ……それなのに。

「『彼女ら』が……何をしたって言うの! どうしてっ、どうして放っておいてくれないの! どうして……オマエたちはいつだって、いつでもっ……」
「よし、解けた! 縛り上げろ!!」
「やめて、やめてえ!! 勝手なことしないで! あの娘たちのそれを、そんな……乱雑にっ――」
「――何の騒ぎだ? これ」

……取り乱した艶が、いよいよ捕縛されそうになった、その瞬間。
室内に、凜とした静かな声が響き渡る。不思議と、そのたった一声であらゆる人間たちがぴたりと動きを止めていた。

「もう一回聞くぞ。何の騒ぎだ、これ」

玄関先から、再度声が掛けられる。二度目のそれは明確な怒気と殺意を孕んでいた。
艶は、ぼろぼろになった顔を上げて入り口に目を向ける。潤み、霞み、焦点の合わない視点が、なんとか辛うじて声の主の姿を捉えてくれた。

「よっ、よいち……さん……」
「悪い、艶。忘れ物しちゃったんだ」

一度だけ。一度だけ、夜一はにこりと艶に笑いかけた。それだけで、艶は全身の力が一気に抜け落ちていくのを感じた。
一歩、家主である狩人が前に出る。ざり、と土間が鳴り、真っ先にスガリが肩を跳ね上げさせた。

「次は聞かない。スガリ、これは何の騒ぎなんだ」
「よ、夜一、さん」
「ああ、いいや。やっぱり言わなくていい。あんたの声なんか二度と聞きたくないからな」

顔を蒼白に染め、痙攣しているとさえ思えるほどに、スガリはがくがくと体を震わせる。夜一は彼女に一瞥を投げるだけに留めた。
歩み出た狩人は、次に純白の蜘蛛糸を持つ男の横に立つ。静かに伸ばされた指先は、決して蜘蛛糸には触れずに、今は亡き体躯を撫でるように宙を彷徨った。
困惑したように泳ぐ男の目と狩人の視線が重なる。射抜くように真っ直ぐに向けられた眼差しは、逃げ出すことを許さぬ威圧を纏っていた。

「これ、この糸。大型の蜘蛛の糸だよな。どこで見つけた?」

艶は、ヤツカダキは、殺された友らのために怒り狂ったのだ。しかし、夜一が目に燃やした火はそれとはまた別の怒りであった。

「ヒッ……も、森の奥だ。た、大社跡の……」
「大社跡? 大社跡の森って言ったら竹林だよな。あんた、どこまで『潜って行った』んだ」

さっと、男の顔から血の気が引くのを艶は見た。見上げた先、夜一の顔はこれまで一度も見たことがないほど冷えている。

「クーロが来たからには、ただごとじゃないんだろうなとは思っていたんだ。腑に落ちたよ……あんた、密猟者だな」

絶対零度の囁きは、その場にいる全員に抵抗せず座り込むことを命令していた。
力尽くで押さえつけられ、今になって痛みが走るようになった腕を庇うように抱きながら、艶は夜一の顔を盗み見る。
「密猟」――はっきりと躊躇せずにその禁断の言葉を口にした狩人は、まさにハンターの名に相応しい眼光鋭い立ち姿をしていた。
 
 

 
後書き

……

自作品でちょいちょい出てくる「密猟」話。
妃蜘蛛ヤツカダキがこの時代において未発見モンスターだったかどうかは不明です(独自解釈の一つになります)。
罠・捕縛用途に向く素材といえばどちらかというと影蜘蛛ネルスキュラの方が適切かもしれません!

Rise時間軸においてはヤツカダキは大社跡に出現しませんが、そちらの回収はクライマックスあたりに。
なお、村の娘スガリ・その父ヤドリの名前はクモの天敵・ハチの一部別称より拝借しています。
 

 

肆日目


「ま、待ってくれ、頼む! 初見の貴重な素材なんだ、ギルドには……」
「報告しないでくれ、って? あんた本当にハンターなのか、こうなる覚悟の上で剥ぎ取ったんだろ?」

やんわりと、夜一に腕を取られた。押さえ込んでいた里の狩人らについては強引に引き剥がして、気がつけば艶の体は夜一の腕の中にある。
逞しい胸板に包まれた瞬間、心臓が跳ねる音がした。濡れそぼった顔をどうするか逡巡するうちに、そっと頭を撫でられる。
もう、何もかもどうでもいい――緊迫した場に似つかわしくない柔らかな手のひらの感触が、顔を埋めてしまえ、楽になれ、としきりに艶に訴えかけていた。
躊躇ったのは一瞬だ、されるがままに身を預ける。抱きしめてくる片腕は、艶を騒動から隠してしまおうという意思の強さを感じさせた。

「よ、夜一さん……落ち着いて? 密猟だなんてそんな、この里の誇り高い狩人が、まさかそんなことをするなんて……」
「俺は十分落ち着いてるさ、冷静にならなきゃいけないのはそっちの方じゃないのか。スガリ」
「……!」
「見たことも聞いたこともない素材だ……影蜘蛛の糸とも違うみたいだし。少しくらいは疑う余地だってあったんじゃないか」

里長の娘の、スガリの悲鳴じみた声が聞こえる。夜一に抱き寄せられながら、艶はなんとか首だけを動かして、黒髪の娘と問題の素材とに目を向けた。
自身の吐き出すものと全く同じ、真っ白な蜘蛛の糸。それを睨むスガリの目は、悔しさと嫉妬に濡れて血走っている。

(責任転嫁にも、ほどがあるわ。愚行を見逃したのはお前の方でしょう)

そうだ、理不尽に一方的に奪ったのはそちらの方だ、庇い立てするならそいつだって同罪だ……強く歯噛みして、やりどころのない怒りを懸命に飲み下す。
ここで喚き散らしてしまうことは容易いが、夜一のことを思えば堪える以外の選択は取りようがない。
この里の人間たちと対立することは、この地を拠点にする彼にとって紛れもない死活問題だ。追い出されでもすれば、狩りの用意だけでなく生活さえできなくなる。

「心配しなくても、ちゃんとした判断はギルドがしてくれるさ。俺には何の権限もないからな」

……それでも、友らの命を好きになぶり、苦しめ、その遺骸すら弄んだ者たちが夜一に糾弾されている現状が嬉しくもあった。
手ずからではない復讐というのが歯がゆくもあったが、彼に好意を寄せているスガリが苦しみ悶える姿を見られただけで、ある程度の溜飲は下げられた。

「待って、夜一さん。違う、違うの。これは……」
「いいから出て行ってくれ。さあ、あんたたちも。里長に話をしなきゃいけないだろ」

耐えきれなくなったのか、スガリはぽろぽろと涙を流し始めた。
それすら簡単にあしらってしまうのだから、夜一という人間にも何かしらの問題がありそうだと艶は思う。

(……でも、それでも)

遠慮がちに伸ばした指先が彼の防具を握った瞬間、自分を抱きしめる腕が一本から二本に増えた。
呼吸が止まったのは一瞬で、刹那のうちに溢れ出る喜びと悲しみに暴れてしまいたくなる。堪らず、艶は夜一にしがみついた。
スガリと里の狩人たちに出ていくよう再度促し、全員がのろのろと退室し終えるのを見届けてから、夜一は艶をもう一度強く抱きしめ直す。

「……艶、艶。ごめんな、遅くなって」

顔を首元に埋めながら、狩人は何故か謝罪の言葉を口にした。呼気とともに肩に触れてくる声色に、艶は身じろぎをして頷き返す。

「夜一さん。どうして夜一さんが謝るのですか」
「それは……ほら、怪我もさせたし」
「えっ? ああ、さっき腕を掴まれて……でも薄皮が剥けただけですから」

夜一の目線に釣られて視線を落とすと、強引に捕らわれたからか右手首が赤くなっていた。引っかかれたのか、腕には太い爪痕も数本残されている。

「よくない。艶がこんな怪我する必要なんかどこにもなかっただろ」
「そんな、大げさな……本当に大丈夫ですから」
「ダメだ。ほら、こっちに来てくれ」

まるで話が通じない。そうして困惑しているうちに、あっという間に床上に座らされていた。
慣れた手つきで消毒液を塗られ、包帯が巻かれていく。冷たい薬液が僅かにしみたが、反論しても無駄のような気がして、艶は口を閉じていた。

「これでよし、と。どうだ、痛くないか」
「ええ……もう、大丈夫です」

土間に片膝を着いていた夜一が顔を上げる。艶はここで初めて、彼が自分に跪く格好をしていることに気がついた。
途端に顔に熱が上る。自分でも何を馬鹿げた反応を、と思ったが体が言うことを聞いてくれない。慌てて顔を逸らした瞬間、

「艶。今のって」

瞬く間に、夜一に顎を掴まれていた。

「え……えっ、」
「ほら。なんで顔逸らすんだよ」
「だ、だめ、だって……」

正面から、真っ黒な瞳が自分を覗き込んでくる。朱に染まった女の顔がそこに映されているのが見えて、艶はなんとか顔を背けようとした。

「だめなことなんて、何もないだろ。今は、俺たちしかいないのに」
「よっ、夜一さ……」

顔が熱い、呼吸が痛い、胸が苦しい。気がついたときには、夜一と唇を重ねていた。
心臓が馬鹿になったように激しい鼓動を打っていて、その音と衝撃が彼に漏れ伝わっていないかと、艶は目を閉じながら一人悶える。
……ようやく解放されたときには、艶だけでなく夜一の顔も上気して赤らんでいた。荒い呼吸を目の当たりにして、余計に顔に熱が上がってくる。

「ずっ、ずるい……夜一さんの、ばか」
「うん? そっか」
「もうっ、わ、私は怒って……!」
「はは、悪い。艶にみやげを渡したかったからさ」
「え……みや、なん、ですか」
「うん。だから、みやげ。昨日買ってきてたんだ。暁たちにはさっきやったんだけど、艶にはまだ渡せてなかったから」
「……そん、なことのために……戻ってきたのですか」
「いや、まあそうなんだけどな。けど、早いうちに渡しておきたかったからさ」

ちょっと待っててくれ、そう言われて素早く俯いた。これ以上、みっともない顔を彼に見られたくなかったからだ。羞恥の気持ちももちろんあるが、それ以上に自分の情けなさに艶は苦悩していた。
本来の目的も果たせず、異種である狩人に好意を寄せて執着してしまっている、自分。叶いもしない恋情を抱いたところで、いつかは離れなければならないのに……。
目頭が熱くなった瞬間、再び目の前に夜一が跪く。驚いているその一瞬の隙に、若い狩人は手のひらを艶の顔へと伸ばしていた。

「……うん、やっぱりだ。艶にはこの色だな」
「え……夜一、さん?」
「ほら、これ、手鏡も買ってきたんだ。見てみてくれないか」

頭に何かされた、そう感じたと同時に小さな手鏡を握らされる。
漆塗りに、銀色の細やかな装飾をあしらわれた如何にも高価な品だ、艶は瞬時にうろたえた。

「よ、夜一さん、これ!」
「ほらほら、早く」
「で、で、でもっ!?」

手を手鏡ごと一気に握り込まれ、悲鳴を上げそうになった。あっという間に顔が赤く染まり直し、鏡に映ったそれを見て艶はますます慌てふためく。
夜一は、声を出して笑っていた。そのまま強引に手鏡が持ち上げられ、白髪に添えられた紫色の艶やかな髪飾りが鏡面に現れる。

「……薔薇?」
「ああ。艶には、絶対似合うと思ってさ」

見事な、紫色の薔薇だった。正確には、染めた布で薔薇の花を模して造られた髪飾りであった。

「……似合い、ますか。私に」
「ああ。凄く似合ってるよ、思った通りだ」

さらりと揺れる白髪と、病的に白い肌。鏡に映された「艶」の身に、夜一があしらった薔薇飾り。言葉にし難い美しさを前に、我知らず感嘆の吐息が漏れる。
同時に、胸の内にぽっと暖かな火が灯されたような気がした。手鏡の中、娘ははにかみ、隠しもせずその貌に喜色を滲ませている。

「艶。本当に、とても綺麗だ」

耳元に囁いてくる甘い声に、ヤツカダキはそっと目を閉じた。刹那のうちに寄せられた柔い感触に、甘やかな幸福感が満ちていった。






それからというもの、しばらくの間は夜一も艶も忙しかった。
それもそのはず、狩りをしないことで知られていたハンターが、他の狩人らの違法行為をギルドに勤める知人に報告していたことが明らかになったためだ。
密猟の摘発――里の長さえ想定していなかった事態に、第一発見者である夜一は事情聴取や状況説明に追われることになった。
ギルドの職員を名乗る人間に家で待つように言われ、艶はオトモである暁、灯火とともに夜一の帰りを待った。その間、何人もの里人がひっきりなしに夜一に会わせて欲しいと懇願しに訪れたが、その都度暁と灯火が彼らを追い返してくれていた。

「ニャー。旦那さん、いつ帰ってくるのかニャー」
「ワォウ……」
「暁ちゃん、灯火くん。ご飯、できましたよ。ね、先に食べておきましょう?」
「ニャー。艶さん、旦那さんが帰ったら大タル爆弾の刑とマタタビ食べ放題コース、どっちがいいと思いますニャ?」
「えっ、大タ……そ、それなら、マタタビの方がいいのじゃないかしら」

すっかり作り慣れてしまっただんご汁を器によそいながら、夜一にも困ったものだ、と艶は思う。
ギルドの人間の話では、彼は当時未だかつてない速さで特産品の納品を済ませ、その足で狩り場に「たまたま」居合わせた知人に密猟の件を報告したという。その間、同行していたオトモたちに何の事情も明かさないまま狩り場と里を行き来していたというのだから、置き去りをくらった暁たちはたまったものではなかったはずだ。

(……それに、夜一さんが急いで里に戻ったのは)

何より、彼をそこまで逸らせたのは「惚れた女に髪飾りを渡したかったから」という理由なのだから笑えない。
昔からこうと決めたら梃子でも曲げない男だった、とは報告を直に受けたという黒髪の男の言で、哀れむような眼差しと苦笑いに艶は身が縮む思いだった。

「だいたい、旦那さんは金銭感覚がおかしいのニャ。今までケチケチのケチだったのに、急に大金をはたくようになっちゃって」
「う……あの、暁ちゃん。たぶんそれ、私のせいかもしれないから……」
「ニャー? 艶さんはなんっにも悪くないニャ。悪いのは満場一致で旦那さんニャ」
「クゥーン……」
「うああ……あ、暁ちゃん、灯火くん。夜一さんが呼び出されて、まだ一日しか経ってないですから……もう少し我慢しましょう? ね?」
「ニャー、やっぱり大タル爆弾の刑とマタタビ食べ放題コース、どっちもなのニャ!」
「ワンワン! ワォーン!」
「そうニャそうニャ! 灯火も『火竜の尻尾焼き』くらいご馳走になったって、バチなんて当たらないニャー!!」
「ワウーン! ワフワフッ!!」
「ああ、夜一さん……私にはもう止められそうにないですごめんなさい……」

不在の主人に対して暁たちが荒れるのは、これで一度や二度ではない。なんとか宥めて座らせ、いつものように配膳を済ませる。
ほどよく冷ましただんご汁で昼食を早々と片づけたと思ったら、彼らの要望に応えて敷いた夜一の布団の上で、暁たちは仲良く昼寝をし始めていた。口では悪く言っていても、その実彼らは夜一を心から信頼している……むしろ寂しさと甘えの裏返しなのだと、この数日のつきあいで分かるようになってきた。
期待していなければ、信用していなければ、一緒にいようと願うはずもない。二匹とも素直じゃないわね、と寝顔を見ながら艶は目元を綻ばせる。

「……すまない、『つやさん』はこちらにおられるか」

そのときだった。まるで聞き覚えのない声が玄関の外から投げられて、艶は文字通り跳ね上がった。
誰か、と問うより早く戸が開かれる。姿を見せたのは大柄の厳つい防具で身を固めた男で、里の長だ、と直感で察することができた。

「あの、艶は私です。あなたは?」
「ああ、あなたが艶さん、か……お初にお目に掛かる、俺はこの里を仕切っている者だ。名はヤドリという」
「ヤドリ、様。そうですか、その、夜一さんはまだ戻っておりませんので」
「いや、いいんだ。俺が話をしたいのは夜一くんでなく、あなたなものでね。艶さん」
「……私、ですか」

里長を名乗るということは、彼はあのスガリの実父ということになる。無意識に強張る体を引きずるようにして、艶はヤドリを囲炉裏の前に案内した。

「今、お茶を」
「いいんだ、手短に済ませるから。腰を下ろしてはくれないか」
「……そうですか。では」

この家の家主は夜一だ――たとえ目の前にいる男に借りている施設であったとしても、夜一以外の男にかしずく理由などどこにもない。
しかし、艶は反抗したくなる気持ちをなんとか噛み殺した。精一杯の作り笑顔を浮かべて、言われるまま正面に正座する。

「話というのは他でもない。艶さん、あなたにはこの里から一刻も早く出て行って欲しいのだ」

顔を見合わせた瞬間ヤドリが口走った要望に、艶の体は一瞬のうちに凍てついた。予想はしていたが、こうまではっきり言われるとは思っていなかったからだ。艶の反応を良しとしなかったのか、ヤドリは俄に口ごもる。言い回しを探すように視線が動き、それでもまっすぐに白髪の女を見返した。
心臓が、酷く五月蠅く鳴いている。荒れ狂う感情が露呈してしまうのを抑えるように、艶は一度ぐっと口を固く結んだ。

「うちの愚女、スガリのことは夜一くんから聞いているかな」
「……いいえ。昨日、こちらで初めてお会いしたくらいです」
「そうか……あのときは、いや、すまなかった。一度言い出したら聞かない娘でね、俺も困らされているのだ」
「左様でございますか。夜一さんからは何も聞かされておりませんでしたので、失礼な対応を取ってしまっていましたら申し訳ありません」

まくし立てるように声が出る。頭を下げ、もう一度上げたとき、ヤドリの顔は怪異を目にしたかのように青ざめていた。
艶は、自分はきちんと冷静に話ができているものだと思っていた。故にヤドリの全身が硬直しきっていることに気づいたときには、首を傾げるより他なかった。

「……あなたが、夜一くんと懇意にしていることは知っている」

絞り出すような声で、ヤドリは胸の内を吐露してみせる。

「夜一くんはこれまで里の誰とも、いや、ギルドの職員とすら噂になったことがなかったのだ。彼が、徹底的に視界から排除していたようだったからね」
「……」
「しかし、ここ数日で彼は変わった。変わってしまったと言ってもいい。里の者たちの話では、彼が大社跡から連れてきた女性がその一端を握っているという」
「その女性とは、つまり私のことでしょうか」
「……艶さん、あなたが夜一くんをどう見ているかは知らない。だが、少なくとも彼はあなたが来る前までは最低限の狩りを遂行してくれていたのだ」

ヤドリの額から頬にかけ、ゆっくりと汗が伝い落ちていく。まるで蛇に睨まれた蛙のようね、とは口に出せずにおれた。
艶の眼差しから逃れたいとばかりに、スガリの視線は忙しなく四方を彷徨う。それでも膝に拳を置き言葉を吐き続ける姿には、里長としての責が感じられた。

「あなたは気づいていただろうか。艶さん、あなたが里に居着くようになってから大型モンスターの目撃が後を絶たないのだ」
「……私が、近隣にモンスターを呼び寄せているとでも? まさかそんな、子供だましのおとぎ話のようなこと」
「自慢ではないが、スガリにはそういった先見や六感の才がある。あの子が言うには……艶さん、あなたは里の秩序を乱しているという自覚はおありだろうか」
「秩序、とは。どういった意味でしょう」
「あなたが夜一くんを誑かし、本業を疎かにさせているということです。たとえ夜一くんが一方的に入れ込んでいるだけであったとしても」

鼻で笑ってしまいそうだ、そう嘲りかけたと同時に、里長の娘もなかなか見る目がある、と艶は感心した。
目撃されたという大型モンスターとは、ほぼ十中八九、自分の安否を気に掛けてくれているオオナズチやオロミドロであるのに違いない。
怪異の中でも大賢と知られる彼らは、普段は森や沼地の奥に身を潜めていて、めったなことで人前に姿を現さない。複数のヤツカダキが密猟されている今、彼らもまた人間の動向に、あるいは単身人里に降りた自分を案じて動いてくれているのだろう。
懐かしさと申し訳なさが胸中に立ちこめ、艶はヤドリに何も答えられないまま、口を閉じてしまっていた。

(それにこの男……私が夜一さんを堕落させていると、弄んでいると、確かにそう言ったわ)

「好いてしまったのだから仕方がないではないか」。その一言が喉から溢れてしまいそうだった。
言ってしまえばきっと楽になる……しかし、果たしてそれで夜一は迷惑を被らないだろうか。幸せそうに熟睡している暁や灯火は不幸せに陥らないだろうか。
自分は怪異だ。それも今、密猟の渦中にある未知の種族。ぞっと背筋に寒気が走り、次の瞬間には艶は身動きが取れなくなっていた。

「すぐに出て行ってくれとは、言わない。だが、できることなら夜一くんと顔を合わせる前がいいだろう。必要なものがあればこちらで用意する」

沈黙を肯定と受け取ったのか、ヤドリの咳払いが聞こえる。それでもなお、艶はその場に縫いつけられたように動くことができずにいた。
入り用なものがあれば自分の家かギルドの受付嬢を訪ねて欲しい、そう言い残して、無責任に里長は夜一の家を出て行った。

「……夜一、さん」

戸が閉められ、ヤドリの気配が遠のき、しんとした静寂の中に身を置きながら。無意識にうな垂れた顔に手を伸ばして、艶は己が顔面を覆った。
いつの日かのように、大粒の水滴が何度も、いくつも流れ落ち、不可解に手のひらを濡らしていく。
 
 

 
後書き

……

大タル爆弾の刑:そのまんま、寝起き時に睡眠爆破されること。基本はマタタビ爆弾。
マタタビ食べ放題コース:もぎたて、とれたての厳選接待。その間、ガルクである灯火にはこんがり肉フェアで要対応。

艶が押しかけ女房(!)している間に覚えた「だんご汁」は、Riseのマイハウスに置かれていた汁物と同レシピ…という設定です。
囲炉裏もあるため、アツアツの出来たてがすぐに食べられる安心設計。
ホットドリンク類に同じく、日によって味噌・醤油の配合といった味付けや具材が変化したりする仕様のようです。
 

 

伍日目


「あのぅ……夜一さん、疲れてません~?」

目の前のテーブルに腰掛ける、眼鏡をかけた少女が小首を傾げながらこちらの顔を覗き込む。
男受けを狙うようなわざとらしい仕草ではあるが、彼女の場合それが素でやっている行動であることは、そこそこのつきあいの長さから把握できていた。

「疲れてるも何も……丸二日こんな狭いとこで完徹させられてるんだ、そりゃ疲れるさ」

分厚い本と大量の資料の山に囲まれながら、夜一はうな垂れていた頭を意地で持ち上げる。二日なんてまだまだですよぉ、とは眼前の少女の言だった。
緊急時を相して建てられたテントの中には、今は自分と少女の姿しか見えない。いや、先ほどまで慌ただしくギルドの職員が行き交っていたのは覚えている。しかし彼らがここで何をしていたか、何を話していたかまでの記憶は残っていなかった。寝不足は本当に人間を駄目にするな、と夜一はあくびを噛み殺して頭を振る。

「お前、控えめに言ってモンスターだろ。トゥーリ」
「ぴえっ!? モンスターって、どっちかというとそれは夜一さんの方ですよぉ!」
「二日完徹してまだ眠くないって、そっちの方がどうかしてるだろ」
「だってだって、新種ですよぉ、新種! しかも発見されたのは密猟起因って、それって相当奥地に隠れていたモンスターってことじゃないですかぁ!」

眼鏡の奥、榛色の瞳をきらきらさせながら、ギルドの受付嬢トゥーリは身を乗り出して主張する。
鼻息荒く、頬を赤く染め、胸を張り、むんと拳を熱く握りしめるその姿には、並々ならぬ怪異への熱意と好奇心を感じさせた。

「いいですか、夜一さん!」
「よくない。俺は家に帰る」
「よくなくないですっ! いいですかぁ、ギルドが名付けたこの『妃蜘蛛』は、これまで発見された鋏角種とはワケが違うんです! 完全な新種なんですよ!」
「アーハイハイシンシュシンシュ」
「真面目に聞いて下さいよぉ! 彼女の生態を明かすことで、これまで踏み込めなかった森の奥地の詳細も分かるようになるんです。人知の発展のためにも……」
「トゥーリ。それ、ハンターの俺が聞く必要ないんじゃないか。そんな未知の領域、俺は行きたいと思わないし」
「あの糸が大型の蜘蛛のものだって初見で気づいたの、夜一さんだけでしたからぁ……夜一さんの観察眼なら、もっと違うことにも気づけるんじゃないかって」

が、彼女の意欲と自分の意欲が必ずしも一致しているとは限らない。何度目かの講釈を前に、つきあいきれないと隠しもせずにあくびを解放する。
思えば、一昨日の昼に呼び出されて以降一向に家に帰れていない。人様の事情を慮らずにいるところは相変わらずだと、昨日のうちにクーロに零したばかりであった。
寝ずにいるのは最悪我慢できる、長丁場の狩りで何度か経験のあることだ。しかし自分はともかく、留守を任されたオトモたちはどうだろう。暁も灯火も、ああ見えてかなりの寂しがりだ。きちんと食べているだろうか、夜鳴きしていないだろうか、と心配は尽きなかった。
何より……夜一は、目の前に置かれた湯呑みに視線を落として嘆息する。脳裏に過るのは、最後に口づけを交わした後、何の話もできずに離れた想いびとの姿だ。

「……照れてる顔も、可愛かったよな」
「えぇ? なんの話ですかぁ」
「いや、何でもない」

トゥーリはトゥーリで、魅力ある女性だと夜一は思う。童顔がすぎるのが欠点かと思われたが、クーロの話ではギルドの中でも評価が分かれているとのことだった。
しかし彼女にしてもスガリにしても、自分は全く興味を引かれない。正しくは、異性としての魅力を感じるかどうか、という点だ。

(艶。艶……今頃、何をしているんだろうな)

興味があるのは、欲を駆られるのは、艶というただ一人だけ。長い髪も、薄い唇も、か細い手足も白い肌も……その全てが欲しいと、ここまで思えたことはない。
いっそ自分は枯れているのではないか、そう考え悩んでいた時期さえあったほどだ。しかしこの数日で、それが幻想であったことを知ってしまった。
彼女のことが愛おしいと、そう思う。手に入れたい、その身を好きにしたい、叶うことなら未来永劫傍にありたい……己がここまで欲深い男だとは、思わなかった。
無論、新種発見という大ニュースも世間的には大変なことであるのに違いない。しかし、今の自分にはそれよりも大切なことがある。

「なあ、トゥーリ」
「はあ、はあ……はいっ、なんですかぁ、質問ですか、夜一さん!」
「悪い、俺やっぱり家に帰らせて貰うから。クーロに宜しく伝えておいてくれ」
「ぴええ!? な、なんですかそれぇ、ちょっと待って下さいよぉ! だって、せっかく新種の第一発見者なのに……!」
「いや? 第一発見者は密猟を果たしたこの里の狩人だろ。考えてみたら、俺までここで研究に精を出す必要なんてなかったわけだしな」

自分は狩人だ、狩ること、ことに命を奪うことに対して抵抗こそあれ、ハンターとしての矜持を捨てたつもりはない。
だからといって、トゥーリのようにモンスターのこととなれば何がなんでも今すぐに興味を持たなければならない、という風にはなれなかった。
必要なときに必要な分だけ、必要な技量を持った者が恵みを受け取りに狩り場に赴く……夜一にとって、狩猟とは生活苦を救う一手に過ぎなかったのだ。

「……そんなの、ダメです」
「トゥーリ?」
「そんなの絶対ダメですぅ! 夜一さんはもっと自分は凄いハンターなんだって、この里にたくさん貢献してきたんだって……ちゃんと主張しないと!!」

突如、トゥーリは荒々しく音を立てて立ち上がった。まだ椅子に掛けていた夜一は、自然と彼女の顔を仰ぎ見ることになる。

「夜一さんはっ……悔しくないんですか!? あんなに強くてあんなに優れててっ……なのに、あんな人たちに臆病者呼ばわりされて!」

分厚いレンズ越しに涙が光っていた。思わず呆気にとられていた夜一は、はっとしてトゥーリに落ち着くよう利き手を差し伸べる。
しかし、少女は拒絶するようにその手を叩き払っていた。癇癪を起こすように怒りに燃える眼差しが、困惑した顔の狩人をまっすぐに見下ろしている。

「わたしっ、モンスターの知識くらいしか自慢できることがないですけど……夜一さん、わたしが初めて里に来たとき、言ってくれたじゃないですかぁ。ありがとうな、頼りにしてる、って……その後、ちゃんと狩りもして……火竜や雷狼竜だって一人で狩ったのに、ここの人たちは感謝すらしてなくて」
「トゥーリ、その、落ち着け。俺は別に、」
「わたしは落ち着いてますぅ、夜一さんがおかしいんです! もっと欲しいもの、やって欲しいこと、認めて欲しいこと……言ってくれなきゃ、伝わらないのに」

刹那、夜一は自分の中にどろりとした泥濘が湧いたような気がしていた。黒く、暗く、あらゆるものを飲み干してしまうような根深い泥濘だ。

「……俺が我慢してるって、そう言いたいのか」
「だ、って、そうじゃないですかぁ。こんな待遇、普通怒りますよぉ。夜一さんは上位、いいえぇ、それよりもっと上にいけそうなくらいの実力者なのにぃ」

少女が涙を流す度、自分は夜一というハンターを正しく評価していると訴えてくる度、強烈な拒絶感と苛立ちが込み上げる。
何がそこまで気に入らないのか、彼女を女性として見ることができないからか……自分でもよく分からなかった。
しかし、これ以上は聞くに堪えない。静かに立ち上がると、夜一は無表情のまま、トゥーリに構うこともなくテントの出入り口へと足を向ける。

「えっ、あ……夜一、さん?」
「悪い。言いそびれてたけど、家に大事なひとを待たせてるんだ」
「ぴ、ぴえぇっ!? な、なっ、大事なひとって!? だっ、だ、誰ですかそれっ……」

トゥーリの言葉を、最後まで聞く余裕はなかった。途中、何人かの職員とすれ違ったが、その中に見知った黒髪黒瞳の男はいなかった。
自然と溜め息が漏れていく。頭上に巣くう異様に巨大な積乱雲を見上げて、夜一は急ぎ調査拠点の大社跡入り口を後にした。






「……いない? 艶が……どこに行ったって?」

恐ろしいほどに勢いのある風雨が、里に猛威を振るっている。全身を重く濡らしながら自宅に辿り着いた夜一は、信じられない話をオトモから聞かされた。

「ニャー。さ、さっきまでいたのニャ。でも買い物に行ってくるって……全然帰ってこないのニャ」
「ワゥゥ……クゥーン」
「ボ、ボクも灯火も追いかけたけど、見失っちゃったのニャ。旦那さんは……艶さんとすれ違わなかったのニャ?」

主の帰りを待っていたはずの暁と灯火は、夜一と同じように濡れ鼠になっていた。ぼたぼたと流れ落ちる水滴は、大雨に濡れた名残だけではない。
たまらず夜一はふたりを抱きしめていた。体を震わせるオトモたちを見て、すぐに体を温めてやらなければ、と立ち上がる。部屋に火を点け直し、装備は外してやり、厚手の布で体を拭いてやった。何か言いたげな顔を覗き込み、それぞれの頭をわしわしといつものように撫で回す。

「艶が姿を消して、どれくらいだ? 暁」
「今朝、一緒にご飯を食べて……ついさっきニャ。だからボク、灯火の足なら間に合うと思って」

ガルクの足は速い。彼らは牙獣種というモンスターに分類されていて、一度本気で駆け始めれば熟練のハンターでさえ追いつくことは不可能だ。
その足で家を出たばかりの女を追って、なお見失ったというのなら……考え込み始めていた夜一の視界に、暁の泣き顔が入り込む。

「旦那さん、旦那さん。ボク、留守を頼まれたのに、艶さんのことを任されたのに……ごめんなさいニャ、ごめんなさいニャ……」
「……暁」
「こんな雨の中じゃ、艶さんが可哀想ニャ。見たことのない大嵐ニャ……まるで、鋼龍が来たみたいだニャア」

「鋼龍」。その名は、決して気軽に口にしてはならない恐るべき怪異の名だ。
ぞくりと背筋に冷たいものが伝い、同時に夜一は、顔なじみの男が何故今時分にこの里に姿を見せたのか、その理由を悟った。
暁の心情につられて無駄吠えをしそうになっている灯火の頭を抱えて無理やり黙らせ、空いた手で暁を抱き寄せる。
オトモたちの体は再び震撼し始めていた。悪天候での狩りは何度か経験があるふたりだ、やはりただごとではない――夜一は音が鳴るほど強く奥歯を噛む。

「大丈夫だ、そんな簡単に古龍が現れるわけないだろ? 考えすぎだ」
「でっ、でも旦那さん」
「ワォウ……クゥン、ヒィーン!」
「はは、二日離れただけでそんな甘えん坊になって大丈夫か。俺は猛吹雪の中でだって、ネムリ草やマツボックリ拾いに行ったりするヘタレだろ?」
「あっ、甘えてなんかいないニャ! 旦那さんの方がまだ甘えっ子さんニャ!!」
「ワン!」
「そうだろ? それでいいんだ、俺は甘ちゃんのハンターだからな……心配するな、艶なら必ず連れて帰るから」

ふたりは、まだ夜一に留まっていて欲しいと考えているようだった。濡れた防具を力強く掴んで、泣き出しそうになっているのを懸命に堪えている。
……なんと健気で愛おしい存在か。夜一は艶の安否を案じる中でも、苦笑混じりながらにふたりに笑みを返していた。

「いいか、暁、灯火。夜になっても俺たちが戻らなかったら、大社跡の臨時キャンプにいるトゥーリか、クーロって男を頼るんだぞ。力になってくれるはずだ」
「トゥーリさんは分かるけど、クーロさんの顔は……知らないニャ」
「あーっと、赤い服だ、あと無駄に背が高い。あとそうだな、なんか無駄に偉そうにしてる感じの奴だな」
「ワウワウゥ、ワゥン。ワオゥ」
「……灯火、そうなのニャ? ブリゲイド装備の人かニャ。分かったニャ、覚えておくのニャ」
「えっ、俺そんなに説明下手だったか……?」

首を傾げながら、夜一はそっと立ち上がる。一度こうと決めたら曲げられない、自分のそんな気質を理解してくれている暁たちは小さく頷き返した。

「じゃあ、行ってくる。いい子にして待ってるんだぞ」

外は大雨だ、ぐっと強く歯噛みして家を出る。雨音に掻き消されてしまったのか、あるいは相当疲れていたのか、オトモたちの声は追ってはこなかった。
水たまりを蹴り飛ばすようにして、夜一は当てもなく里を駆ける。密猟の件も効いているのか、里人の出歩く姿は見られなかった。
誰一人、何一つ気配のない、ある種の静寂に満たされた景色。豪雨さえ視界に入らなければ、この場に自分だけが取り残されたような錯覚さえ抱けるほどだった。荒い息と、爆発するような心音が感覚を失わせつつある耳を打つ。艶の身を思えば、一刻も早く彼女を見つけ出さなければならなかった。

「艶、艶ぁー! どこだっ、返事してくれ!!」

クーロと話を交わした、里の外れ。かつての穏やかな流れが見る影もない川の近くで、夜一は足を止めていた。
体が重い、息が苦しい。水を吸った防具が皮膚に纏わりつき、思うように足が動かなかった。
汗なのか雨水なのか分からない水滴に濡れながら、辛うじて顔を上げる。そうして大きく息を一つ吐いたところで、狩人は信じ難いものを目の当たりにした。

「……嘘だろう」

荒れ狂う急流のすぐ傍に、艶の姿があった。暗く閉ざされた景色の中でも、彼女の色の白さはいやに目につく。
どくりと心臓が大きく脈打ち、次の瞬間には夜一は柵を跳び越えていた。忍び足から並足へ、早足から駆け足へと、速度を一気に引き上げる。

「――艶! こんなところで何してるんだ!!」

逸る気持ちが、挙動を急がせる。伸ばした手が立ち尽くしたままの女の肩を捕らえたときには、彼女の意思を確認する間もなく引き寄せていた。

「っ……よいち、さ」
「探したぞ。危ないだろ、こんなところにいたら……」

互いの体は冷えきっていた。抱きしめても、包み込んでも、一向に温もりという温もりが感じられない。
顔を覗き込もうとして、しかし夜一は艶にやんわりと体を押しのけられていた。小刻みに震える指先が胸板を押し返し、苦しげな顔を外側へ背けている。

「……艶? どうして、」
「夜一さんこそ。どうして、どうして放っておいてくれないのですか」

ふと、雨水ではない透明な雫が彼女の顔を濡らしていることに気がついた。苦痛に歪んだ横結びの唇は、血の気を失せて青白く変色している。

「私がいれば、あなたは狩りに困るでしょう。スガリ様は、私がキャラバンの出でないことを見抜いておられましたよ……」
「そんなこと……艶、まさかスガリに何か言われたのか」
「……っ、違います。わ、私が来て以降、夜一さんは狩りにまともに出ていないではありませんか。先日だって、やっと向かったと思ったら密猟の摘発だけで」
「ああ、あんなのいつものことだ。そんなこと、艶が気にすることじゃないだろ?」
「気にします! だって私は、私はっ――」

「『私』はなんだと言うのだろう」。
唇を戦慄かせ、目を見開き、肩を震わせ、必死に大声で叫ぶ女。深刻で懸命な眼差しには、感情の吐出を強引に押さえ込んでいるような印象を受ける。
否、実際に艶は何らかの感情を押し殺そうとしているのだ……そうでなければ、あれほど悲痛な声で拒絶の言葉を口にするはずがない。
夜一はいつの日か感じたあのどす黒い感情が、全身を瞬く間に支配していく様を感じていた。衝動は焦燥にかき立てられ、激情となって強く体を突き動かす。

「――艶。君がいなければ、俺はこの里で何もしようと思わなかった」

抱きしめる。ただただ、強く抱きしめる。息が止まりそうになるくらい、気が遠のきそうになるくらいに、気づけば夜一はきつく艶を抱きしめていた。
荒い呼吸がすぐ傍にある。息も絶え絶えな愛しいひとが、確かに自分の腕の中に在る……二人分の心音が、耳元で弾けているような気がした。

「前にも話しただろ。艶、俺は君が好きなんだ」
「……やめて、ください」
「君がいたから、普段なら見なかったふりをするはずだった密猟のことも見逃さずにいようと思えた」
「おねがい……夜一さん……」
「好きだ、艶……俺の傍にいてくれ、俺の近くから離れないでくれ。俺を抱きしめて離さないでくれって、前にそう頼んだじゃないか……」

ひやりと冷たい感触が唇に触れる。抵抗するかと思いきや、艶は力なくその腕を夜一の背に回し、なすがまま、されるがままでいた。
冷えきった感触と甘やかな苦痛が全身を震わせる。たまらず、夜一は艶の手を取った。彼女が痛がらない程度に強引に手を引いて、川の側から引き離す。
……自分は身勝手だ、そう思えた。しかし、一度火が点いてしまったものはどう足掻いても消し去りようがない。

「夜一さん、どこに……」
「どこだっていいだろう? もう」

川沿いに下った先、河原の整備に使用されていた小さな小屋に艶を押し込める。続けざまに侵入すると、夜一は彼女の体を壁へと押しつけた。
そうだ……こうでもしなければ、今すぐにでも彼女は目の前から姿を消してしまう。俄に抵抗するそぶりを受け取りながらも、夜一は彼女を手放さなかった。
何度目かの口づけを交わした後、手近な備えつけの燭台に火を点ける。一時の雨宿りといってしまえばそれまでだった。濡れた服を脱がし合い、再び泣き出しそうになっている女の目蓋に、頬に、首筋に静かに唇を落とす。途端、力強くしがみついてくる艶を夜一は抱きしめ直した。

「艶……俺のことを、抱きしめてくれ。そうして欲しいんだ」

少しずつ時間は過ぎていく。熱に浮かされていく最中、夜一はぼんやりと二人分の影を写し取る壁へと視線を走らせていた。
若い男一人と、黒く巨大な八つ腕の怪異の影が一つ分。蠢き、圧し掛かり、人の身を貪ろうとするその影に、刹那、欲に焦がれた男が深く覆い被さっていった。
 
 

 
後書き

……

以下、こまごま裏話。

ギルドの受付嬢・トゥーリの元ネタは公式作品「MH・閃光の狩人」のトルチェ女史より。
似てない? そ、それは言わないお約束ナンデスヨ…!!
モンハン二次創作やってみたいな〜と触発されたきっかけが公式発のコミックアンソロジーないし上記のコミカライズ作品でしたので(他にも要因はこまごまありますが!)

ヤツカダキ恋奇譚の中には閃光の〜作品のオマージュがあちらこちらに含まれています。
流石に額に傷持ちの轟竜等々は出てきません…!(ティガが大好きなので)
 

 

伍日目(2)


目が覚めた後も、外は嵐の最中にあった。疲労と充足感に満ちた体を起こして、閉ざされた窓から視線を外す。
傍らで寝息を立てる狩人は、今までの荒々しさとは打って変わって穏やかで安らかな寝顔をしていた。普段は防具で隠されている黒髪にそっと指を潜らせる。
長くを小屋で過ごしたからか、乾いた髪は少し硬く纏まっていた。釣られるように自分の白髪に手を伸ばして、触り心地の違いに驚く。
……オオナズチは「人の姿に化ける術を施した」と言っていたはずだ。さらさらした絹糸を思わせる触感は、自慢の蜘蛛糸さながらの光沢と滑らかさがあった。

「……雨……やまないのね」

艶は、夜中なのか昼なのか、あるいは明け方なのか分からない闇の中、ぽつりと独りごちる。渇ききった喉からは、我がものとは思えない掠れた声が出た。

「……うぅ、ん」
「夜一さん? 目が覚めました?」
「ん……艶……」

隣から同じように掠れた声が漏れ聞こえる。視線を落とし、肩に触れてみるも、夜一は未だ夢の中にいた。起こすのも野暮か、と考え手を離す。もう一度正面を向いて、艶は緩やかに長く嘆息した。
溺れるように、焦がれるように互いを貪り合った深い一日……その狭間、休み休みの間に、艶は夜一から懺悔ともとれる彼の悲惨な過去を聞かされていた。

「……夜一さん。やはり、あなたは私と一緒にいるべきではないのに」

黒い雨は止む気配がない。長い睫毛を伏せさせて、それでもせめて雨が止むまでの間は、と祈るように顔を手で覆う――






――少年が生まれ育ったのは、深く入り組んだ森の奥にある村だった。地図にも載らないような小さな村で、村人たちは助け合いながらひっそりと暮らしていた。
村のしきたりで、それぞれの家にはそれぞれの役目が一年を通して定められている。家人の適性に応じて、仕事の内容は様々だった。ある者は建物を直し、ある者は家畜を飼い、またある者は作物を育て、ある者は害虫や害獣の駆除を担う。
しかし、ごく稀に訪れる野生のモンスター――たとえ小型であれ――の襲来については、講じられる策など皆無に等しかった。
世界共通の認識として、また長く村を守ってきた重鎮らに言わせれば、モンスターは専門職であるハンターでなければまともに相手にすることができない。そして実際に、鋭い爪牙を持つモンスターは驚異以外の何者でもなかった。村に居付きの狩人がいないことも、被害を拡大させる一因となった。
故に収穫間近の作物を荒らされようと、苦労して設置した防護柵を破壊されようと、村人たちは黙って堪えるより他なかった。

『お父さん、お母さん。僕、大きくなったらハンターになろうと思うんだ。どうかな……』

「ハンターさえいてくれたなら」。そんな言葉をずっと聞きながら育った子供が夢を抱くのは、無理からぬことだった。
少年「ヨイチ」の父母は若くして害獣駆除の任を任されている。彼は少しでもその手伝いができればいいと年相応に考え、悩み、真剣に提案したつもりだった。

『どうって……バカなことを、ハンターの仕事は大変なんだぞ。遊び半分でできるものじゃない、やめておきなさい』
『ヨイチ、あなたの気持ちはとっても嬉しいわ。でもね、害獣のことなら気にしなくていいのよ。母さんたちが守ってあげるからね』

任命を受けたその日から、二人は害獣、ひいては大猪や賊竜といったモンスターとの攻防に頭を悩ませていた。他の村人から成果を急かされている面もあり、柵や罠を手作りしては壊され、また作り直しては壊されてを繰り返すうちに、二人の顔は日に日に消沈していく。
……惜しまずに村総出で金をかき集め、早いうちにハンターズギルドに救援を求めていれば、まだ救いの道はあったのかもしれない。
しかし、村は繰り返されるモンスターの襲来で疲弊していた。少年の両親もまた同様だった。
自分にはどうすることもできない……荒らされた畑を二人と並んで見つめながら、泣き崩れる村人たちを見やりながら、「ヨイチ」はただ己の非力さを呪った。

『……どうした? モンスターに追われたのか』

転機は、突然に訪れる。ある暑い夏の日、一人の男がふらりと村を訪ねてきた。
汗を滴らせながらも笑みを浮かべるその男は「ヨイチ」より十五は年上の好青年で、近くで狩りをしている最中に仲間とはぐれてしまったのだと話した。これはいい機会だ――なんとしてでも留まらせようと、村の重鎮たちは村の蓄えから作物をかき集め、歓迎と称して彼をうんともてなした。
彼は、お礼と称して当時畑を荒らしに来ていた毒怪鳥を退けてくれた……あまりにも手早く鮮やかな狩猟に、隠れてそれを見に行った「ヨイチ」は衝撃を受けた。彼は文字通りの手練れだったのだ。その証拠に狩りが終わると同時に茂みの中から引きずり出され、どうしてここにいるのか、と説教される始末だった。

『ち、違うよ。その、ハンターさん一人じゃ心配だったから……』
『おいおい、泣くなよ。別に怒ってないさ。俺はこれでも毒系モンスターの狩りに慣れてるんだ、心配するな』
『でも、父さんはこのあたりは森の奥に繋がってて危ないから、って……』
『ああ、それは大当たりだ。こんなところに畑を作るなんてな……このあたりにはもっと質の悪いモンスターもいる。死にたくなかったら家に戻れ』

言われるまま、背中を押されるままに「ヨイチ」は獣道から街道へと追いやられた。既に日が暮れ始めていて、夜鷹の鳴き声がけたたましく響いていた。
一人で帰れというのも酷な話だ、少年は今の今まで、一人きりで黄昏の森に入ったことがなかった。ざわざわと大きく揺れる木々、西に傾きながらも未だ熱く燃える太陽、不気味な鳥の羽ばたき。
駈け出したくなるのを堪えて、汗を滴らせながら足を急がせる。

『……え?』

ガサリと、右隣の茂みが大きく音を立てた。不運といえばそれまでだったかもしれない。
立ち尽くしたまま、「ヨイチ」は深手を負ったあの毒怪鳥に対峙した。

『あ、あ……』

あまりに突然に襲いくる恐怖。瀕死においやられていたからか、毒怪鳥は激高していた。両翼を拡げて大きな怒声を上げてから、突進の構えを取る。
少年はたまらず逃げようとした。しかし手練れの狩人と違い、体が咄嗟に動いてくれるはずもない。後ずさり、よろめき、次の瞬間には尻餅をついていた。
助けて、と叫びたいのにその一声が喉に貼りついて出てこない。どっと駈け出したゲリョスの巨躯を、涙ぐんだ黒塗りの瞳が見上げていた。

 ――!

そのときだった。「ヨイチ」はこれまで一度も耳にしたことのない奇怪な音を聞いた。「伏せて」と、そう言われたような気がした。
眼前、弾け飛ぶようにしてゲリョスの巨体が吹き飛ばされていく。次いで突っ伏した少年の真横に着地したのは、毒怪鳥よりやや小さな体の持ち主だった。

『え? ……も、モンスター!?』

白塗りの体躯、そこに差し込む艶やかな朱色。最も特徴的な湾曲する鉤爪は、「ヨイチ」の頭など容易くもぎ取ってしまえるかのように大ぶりだ。山のように盛り上がった背中には、白い甲殻によく映える鮮やかな彩度の突起物が生えている。さながら天然の紫水晶のように、それは怪しく艶めいていた。
起き上がった毒怪鳥が、怒りに爛々と眼を燃やしながら振り返る。一方で、白い怪異も鉤爪を振りかざして威嚇の体勢を続けていた。

(モンスターが二匹も……に、逃げなきゃ、っ!?)

立ち上がろうとして、刹那、複雑に交差する物体に手を取られる。「ヨイチ」は絡みついた滑り気のある塊を見て眉根を寄せた。
白い蜘蛛の糸だった。力を入れて腕を引き抜こうとしても、びくともしない……それが蜘蛛糸であることに気がつけたのは、半ば直感のようなものだった。

 ――そこから動かないで!

同時に、またあの透き通る悲鳴じみた声が聞こえた。反射的に顔を上げた少年は、眼前のモンスターが取り組み合い、激しく争い始めるのを目の当たりにする。
声の出所は、あの白い大きな蜘蛛だ――「ヨイチ」を庇うように毒怪鳥の巨体に張りつく白影は、血を滴らせながら懸命に鉤爪を振るっていた。
瞬時に辺りを見渡して、手近に転がる大ぶりの石を拾う。当然、当たったところで大したダメージには繋がらない。ならば、と少年が目をつけたのは、すぐ近くの茂みの根元に生えているどぎつい色の木の実だった。手を伸ばし、足を伸ばし、なんとか一つだけをもぎ取った。

『このっ、こいつ……こっちだ、こっちを見ろ!』

「ヨイチ」の挑発に、しかしゲリョスは応えた。石の表面に木の実を塗りつけ、ゴム質の表皮に当たるように狙いを定め、倒れ込みながらもそれを放る。
口の中に砂を吸い込みながら、少年は鼻に突き刺さるような臭気が宙に解けたのを感じて拳を握りしめた。
……「狩れる」だなんて、思い上がりもいいところだ。本来の目的は、別のところにある。

『――おいっ、どうした!?』

ガサガサと、茂みを激しく揺さぶる音が聞こえた。「ペイントの実」は確かに仕事をこなしてくれたのだ。
来た、待ってた、助かった! 喜色を顔面に湛えて振り向いた「ヨイチ」はしかし、先のハンターの顔がみるみるうちに青ざめていく様を見た。

『さっきのゲリョス……と、そっちは……うおっ、【ネルスキュラ】!? くそっ、こんなときに!』
『ハンターさん! そっちの白いのは味方なんだ、僕を助けてくれた!』
『何ぃ!? ネルスキュラが……って、今はそんなこと言ってる場合じゃないな!』

つい先刻、見たばかりの黒い刀身。狩人の青年が太刀を抜いた瞬間、ゲリョスの血走った眼がこちらを睨めつけた。
振り払われるようにして白影――まだ幼いネルスキュラが蹴り飛ばされていく。近くに転がってきたその影を、「ヨイチ」は片腕で庇うように抱き寄せた。

『おおぉっ!!』

怒声とともに放たれた気合い一閃、夕焼けで赤く煌めく刃が、毒怪鳥の体にすうっと吸い込まれていった。
直後、ずぱん、と小気味良い音がして、太刀を振り抜いた青年の動きが停止する。黒塗りの体がゆっくりと夕日に沈んでいき、しまいには倒れて動かなくなった。
土煙と血臭を嗅ぎ取りながら、「ヨイチ」はただ呆然と一連の流れを見ていた。寸断される音以外、物音という物音がまるで聞こえてこなかった。

(これが、ハンターの狩りなんだ……)

ぶるっと体が震え、ネルスキュラをなお強く抱きしめる。途端にそれはもぞりと苦しげにのけぞり、慌てて小柄な体を放してやった。

『驚いた。本当にお前を襲う気がないみたいだな、そいつ』

ふうっと一呼吸置いていると、目の前に黒い影が落とされる。ぱっと顔を上げると、太刀を担いだまま呆れた顔で笑う青年と目が合った。

『……でしょ? ほら、こっちの蜘蛛糸だってもう取れたし』
『お前なあ! 今回はたまたま……まあ、いいか。それより、そいつとはここでサヨナラしないとな』
『えっ? どうして……だって助けてくれたのに』
『……そいつが良い子だってことは分かったよ、お前を守ってくれたってこともだ。でもな、そいつがお前以外にもイイヤツでいられるとは限らないだろ?』

何を言われているのか分からない、そう目で主張してしまっていたのかもしれない。狩人の青年はどこか悲しげな顔で、ぽつぽつと「ヨイチ」に言い聞かせた。
曰く、背中を向けて逃げ出せばゲリョスに狙われることを分かっていたからこそ、真っ先に蜘蛛糸で少年を拘束したこと。
そこまで賢くあるのなら、近付く人間のどれが自分にとって有益か、もしくは害があるか、判断を自ら下せるだけの決断力にも富んでいること。
となれば、いずれ来たる少年との別れを惜しんで少年以外の何者かに手を出しかねないということ……「ヨイチ」は、納得できない、とばかりに首を振った。

『だって、だって……僕を助けてくれたんだよ?』
『よく見ろ、ほら、こいつの背中には【乗り慣らした】鞍がつけられてるだろ。こいつは前に、誰かに飼われていたことがあるんだよ』
『でもっ、もう結構ボロボロだし! きっと前の飼い主は、こいつのことを忘れちゃってるんだよ!』
『それでも、だ。モンスターと人間は相容れないものなんだよ。入れ込みすぎたら駄目だ。お前の回りから、皆いなくなってしまうぞ』

村に連れて帰りたいと願う少年と、それを断固として否定する青年。二人の顔を交互に見比べながら、ネルスキュラは何度も首を傾げていた。
彼の背中、より太く大きな棘の前方に、狩人の言うように使い古して原形を留めていない鞍が設置されていた。鮮やかな赤と、濃い青色が特徴的な鞍だった。

『いいか、【夜一】。どんなにモンスターと仲良くなっても、俺たちは彼らとは根本的に分かり合えないんだ。仕方ないことなんだよ』
『……でも、』
『お前はうまくやれるかもしれない。でも、お前の親御さんはどうだ? 怖がるし、食事だって困るだろう。そのとき、お前は二人とこいつの間に入れるか?』
『……』
『難しいだろ? 今まで生きてきた環境も、価値観も、暮らしやすい場所に餌だって……全部違う。ギルドに見つかれば、討伐の指令さえ出るかもしれない』
『そっ、そんな! だってここに出てきたってだけなのに……村の近くだから、こいつが悪いの? そんなのひどいよ!』
『ネルスキュラっていうのはそれほど危険なんだ。賢いし機転も利いて、攻撃手段も豊富に揃ってる……蜘蛛糸なんかは罠として重宝されるくらいだぞ』

鞍に触れようとすると、ネルスキュラは後ずさりしてその手を拒んだ。よほど、前の飼い主のことを気に掛けているようだった。
「ヨイチ」が「それ」に似ていたのかどうかは定かではない。それでも少年が白い甲殻に触れると、影蜘蛛は喜ぶように顔面を柔い頬にこすりつけるのだった。
「ヨイチ」は涙が止まらなかった。命の恩人を恩人として連れ帰ることができないことも、礼をするためにもてなすことすらできないことも知ったからだ。

『分かった……でも、こいつは僕の友達だ。それでいい? ここにこいつがいる間だけ、いなくなるまででいいから……僕が会いに来るだけにするから!』
『あのなあ、夜一……』
『だって、だって……あんまりだよ! 鞍をつけたまま放り出されて、仲間だっていなくて、ゲリョスにも蹴られて……こんなの、寂しすぎるよ』

根負けしたのはどちらだったか。男同士の秘密だな、若きハンターはそう言って苦笑し、泣きじゃくる少年の頭を大きな手で撫で回した。
「男同士の秘密」。夕闇に沈むように茂みの中に潜っていった影蜘蛛の背を見送って、二人はにやっと含み笑いを交わしながら、村へと続く道を急いだ――






「……それで、ハンターさんはしばらく村に滞在することになったんだ。ギルドに一報を飛ばして、代わりが来るまでの間だけ居着く、って条件つきでさ」

――夜一の腕に頭を預け、体はぴたりと胸板に寄り添わせながら、艶はまどろみかけつつ彼の心臓の音を聴く。
夜一が明かしてくれた過去の出来事は、知ることのできなかった彼自身の「名もなき狩人の矜持」の一部分を、僅かながらに覗かせてくれたような気がした。

「では、夜一さんの狩猟技術はその方から?」
「うん、そんな感じだ。あの人は太刀をよく使ってたんだけど、そりゃあもう鬼神の如き! ってくらい強くってさ」
「そうなんですか。夜一さんがそんなに仰るなら、私なんて一太刀かもしれませんね」
「……」
「? 夜一さ……」

下手な冗談を打ったのだ、そう気がついたのは、一方的に熱く唇を塞がれた瞬間のことだった。
見上げた先、夜一の顔は悲哀に歪んでいる。何かあったのだ……直感で察すると同時、艶は夜一の頭を胸元に抱き込んでいた。

「つ、や?」
「夜一さん。もっとお話を聞かせてください」
「や、ほら、俺の昔話なんてつまらないだろ」
「いいえ……いいえ。教えてください、そのネルスキュラに、当時の夜一さんに何があったのか。どうして今も、あなたが苦しまなければならないのか」
「艶……」
「この数日の間、ずっとあなたを見てきました。それだけでは……私のことなど、信用に足りませんか」
「……そんなことない、そんなことないさ。ああ、艶。君が嫌じゃなければ、いくらだって話せるから」

逞しい腕が背中に回されるも、指先は小刻みに震えてしまっている。互いの心音を確認し合うように、二人はきつく抱きしめ合った。

「あの日……俺の友達は、『シロタエ』は、狩猟依頼を受諾したハンターに……『俺の先生』に殺された。依頼を出した相手は……俺の両親だったんだよ」

夜一の吐息は、冷えきってしまっている。彼にとって恐らく一番の心の傷だ、そう覚悟を決めて耳を澄ましながらも、艶は続けられた言葉に絶句した。
思い知る。所詮「男同士の秘密」など、純朴な子供を宥めすかすための口約束にしかならないのだと。
あまりにも身勝手な取り決めとその結末に、艶は自らの眼の奥に宿る灼熱の琥珀色が、より高温を帯びたような気がしていた。
 
 

 
後書き

……

蛇足の補足。

鞍を背負うモンスター、ということで、こちらのネルスキュラはライダーと絆を結んでいた個体ということになります。
彼とそのライダーについてもあれこれ考えていましたが、こちらも書かずに終わってしまいました。
メリーバッドエンドということで、何があったかは察して頂けると幸いです…!
 

 

陸日目


「『先生』から狩りのやり方を教わって、結構な年数が経っていたんだ。俺もうんと背が伸びて、『シロタエ』と互角に手合わせできるようになるくらいには」

シロタエとは、彼が助け、また助けられた影蜘蛛の幼体の名だ。夜一がそう言うのなら、幼体の時期を抜け成体として成長を果たすことができたのだろう。
艶は、胸元に埋めた狩人の頭を見下ろした。くすぐったそうに苦笑する夜一の顔は、やはりどこか、寂しげに見えた。

「夜一さん?」
「……あの日は、今日みたいにずっと雨だった。朝から真っ暗で、降り止まなくて、もしかしたら……いや、」

当時と現在を比較して、何か思うことがあったのだろう。夜一は一瞬口ごもったが、頭を振って艶に微笑み返した。

「いつの間にか、俺たちが知らない間にシロタエも力をつけててさ。自分で狩りができるようになったんだろうな、気がついたらゲリョスの皮を被ってたよ」
「聞いたことはありますが……弱点を隠すための保身術と、森に身を潜ませるための擬態の混合術だとか」
「ああ、先生もそう言ってた。『俺たちに懐いてなかったら、相当苦戦を強いられる個体だろうな』って」

「先生」の口ぶりに、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。察してくれたのか、夜一の手がそっと二の腕をさすってくれる。引き寄せられ、額と額が重なり、そのまま唇が触れ合った。この人はもしかしたら想像以上に甘えん坊なのかもしれない……気恥ずかしさに艶は身じろぐ。
構わない、とばかりに夜一は額、こめかみ、頬と、次から次へと口を寄せた。微かに触れ合う音に、艶は自分の心臓が爆発して霧散してしまうような気がした。
……同時に、こうでもしないと過去の亡霊に連れて行かれる心地になっているのかもしれない、と思い直す。手を伸ばし、男の頬をくすぐった。

「夜一さん。それで、シロタエさんは」
「……ああ。その、雨の日さ。あの日は雨漏りの様子を見なきゃいけないからって、家にいるように両親に言われたんだ」
「……まさか」
「はは、艶にも分かるよなあ……そのまさかだよ、俺の後を尾行してたんだろうな。朝にはもう、ギルドから真っ当な狩猟依頼書が村に届けられていたんだ」

「ネルスキュラは驚異にしかなり得ない」。結局、約束は果たされなかったわけだ。艶は心底悔しくなり、歯噛みする。

「泣かないでくれ、艶。話には、まだ続きがあるんだ」
「私は、大丈夫です。泣いてなど、おりません」
「うん、うん……ありがとうな」

夜一の話では、親の言いつけ通りに留守を守っている最中に「仕事だから」という至極まともな言い訳を共にして、件の狩人はシロタエを屠ったという。
村が一時騒然となり、何事かと興味本位で家から飛び出した夜一は、荷車に乗せられたシロタエの死骸を初めて目の当たりにしたのだ。

「そんな……その、人間のやり口では、捕獲することだって……できたはずではないのですか」
「予想より抵抗された、っていうのもあるんだろうけど。それ以前にシロタエの糸や甲殻、睡眠針……影蜘蛛の素材がすぐにでも欲しかったんだろうな」

村を守るため、村を発展させるため……何が「村のため」だというのか、艶は怒りのあまり両眼を固く閉ざしていた。
前提として、夜一を深く傷つけ、悲しみの底に沈めた身勝手な両親には怒りを禁じ得ない。彼らの方針を受け入れた他の村人や先生とやらも同罪だ。もしこの場に連中がいたならば、一人ずつ手足を蜘蛛糸で縛り上げ、首と肩に歩脚を突き刺し、天井まで引きずり上げてやりたいくらいだ。
しかし、今そうして自分が怒り喰らったところで何の足しにもなりはしない。夜一は既に独立し、暁らと共にハンターとして生計を立てているのだから。

「……夜一さん」
「うん」
「いえ……お話の、続きを」
「うん。なんか、眠くなってきてるけどな」

本当に、夜一は心底眠そうな声でそう呟いた。頭をそっと撫でてみれば、うとうとと目蓋が繰り返し上下する。
その様子があまりにも可愛らしくて、ふふ、と艶は小声で笑った。話の中身は酷く重く湿っているのにこれでは不謹慎だな、とも思う。
一方で、夜一は艶の声になんとか意識を持ち直そうとしているようだった。柔い双丘に埋まりながら嘆息するあたり、確信犯ではないのか、と艶は苦笑する。

「艶。俺は、君に大事なことを言わずにいたんだ」

不意に呼気が重くなる。それは、決して抗いがたい眠気からくるものではない。
硬質に強張る愛しい人の声に、艶は小さく肩を跳ね上げさせた。そろりと視線を落とすと、夜一の顔は変わらず胸元に隠されている。

「シロタエが死んだ。俺は、そのことが受け入れられなかった」

腰に回された腕が、強く力を込めてくる。色香よりも殺気を濃く感じさせる気配に、艶は反射でこくりと喉を鳴らしていた。

「村の皆が宴会の準備を始めて、その間に長や先生はギルドの到着を待たずにシロタエを解体し始めた。罠や狩りの道具に必要な分だけ、って話だったけど」
「……それは……夜一さんは、合流を?」
「いいや、遠目から見て、盗み聞きしていただけだ。皆が寝静まった頃を見計らって、動こうと思っていたんだ」

動く、とは――嫌な予感がして、艶は夜一を包む腕の力を強めた。心臓が早鐘のように鳴っている。それでも、男が顔を上げることはなかった。
……動植物が眠る頃、真夜中、活気の失せた小さな村。人々が泥酔しきったのを一通り確認してから、「ヨイチ」は「先生」の仮住まいへ足を運んだ。息を殺して忍び込み、机に置かれたままの睡眠針に手を伸ばす。まだ息があるかのように毒液を滴らせるそれを、「ヨイチ」は躊躇わず恩師に突き立てた。

「……っ、夜一、さ」
「『起きていた』んだよ、先生は。『やっぱり来たか』、苦笑いされながらそう言われた」

……刺した場所は右肩、男の利き腕の方だったと、夜一は感情の失せた顔で吐き捨てる。
やおら腰を引き寄せられ、艶はふと走った鮮烈な痛みに顔をしかめた。見下ろせば、狩人は女の鎖骨に歯を立てている。

「っ、う、」
「先生とは、寝起きも一緒にする機会が多かったんだ。だから、どんな道具がどこにしまわれているのか、俺はよく覚えてた」
「よい、ち、さ……いたい……っ」
「角笛って知ってるか、艶。どんなモンスターであれ、あの音には凄く敏感で敵対心を煽られるって話だけど」

息も絶え絶えな艶を笑うように、夜一の歯牙は器用に蠢く。ざらりとした感覚が皮膚をなぞり、次の瞬間には、血を舐めながらうっそりと笑む男と目が合った。

「村のやぐら……まあ、見張り台みたいなものかな。そこに角笛を持って行って、盛大に吹き鳴らしたんだ。後は、森に隠れていた連中の仕事さ」

「世界の終わりのようだった」。他人事のように夜一は言う。
跳ね起きた村人たちが目にしたのはシロタエ同様、森の中に身を潜ませていたあらゆる怪異の集団で、まるで百の鬼が軍を成してきたかのような光景だった。
鳴り響く警鐘の音は「ヨイチ」がやぐらの上から煽りに煽りを込めて鳴らすもので、それは事前に設置された鐘ではなく、角笛起因の悪意の音だ。
……思考のおぼつかない頭でその光景を想像し、艶は身を震わせる。彼は、夜一は、何故そんな話を自分にしようと思ったのだろう。

「……ただ、やっぱり先生の方がうわてだった。その頃にはもうギルドの調査員や先生の仲間が村に到着してて、モンスターは即座に狩られていったんだ」

痛みの次に襲いくるのは、甘やかな痺れ。荒い息を繰り返し吐きながら、艶は夜一が肌に刻みつけた無数の傷痕を見て切なげに顔を歪めた。
視界が掠れて、酷くぼやけている。頬に冷たい手の感触を感じたときには、首を伸ばした夜一に唇を塞がれていた。

「被害はせいぜい、畑や家屋の一部くらいで。村人や狩人たちは転んだとか、指をぶつけたとか、そういう怪我くらいしか負ってなかった」
「ん、ぅ、夜一さ……」
「一歩間違えれば人殺しになっていた、ハンターになりたいんじゃなかったのか、って先生の仲間に怒鳴られたけど。先生だけは最後まで俺を庇ってたなあ。先生も人が好すぎると思わないか、艶。シロタエを殺した連中なんて皆死ねばいいって、俺はそんな風に考えたのに。ギルドに恩赦を求めたのも先生だった」
「夜一さん、待って……は、話に専念させ、」
「先生、しばらく狩りを休まなきゃいけない程度には負傷したのにな。俺は結局、お咎めなしになったんだよ。だからこうして艶にも会えたわけだけど」
「よ、夜一さん? どうしてそんなっ……きゃっ!」

天地が入れ替わる。見上げた先、今まで見たことのない顔で夜一が艶に笑いかけていた。

「なあ、艶。まさか君も、シロタエと同じように俺を置いて行くつもりじゃないよな?」

この人はもう、そのときからずっと壊れているのだ――愕然として、「ヤツカダキ」は「愛する狩人」を見つめた。
刹那、首を噛まれ、舌でなぞられ……瞬時に歓喜と恐怖に駆られ、ぐっと目を閉じる。狩られる、殺される、そんな感情が瞬く間に脳内を支配していった。
「それでも、自分は彼を嫌いになれない」。濁流のように混乱の最中にいながら、艶は懸命に両手を夜一の背中に回した。

「夜一さん……それでもあなたはハンターになった、暁ちゃんや灯火くんに会って、今も剣を振るっているじゃありませんか。名も知らぬ、誰かのために」

びくりと、狩人の肩が跳ねたのが分かった。心なしか小刻みに震える体を、力の限り自身の方に引き寄せる。
矜持を、暁らへの信頼を、「艶」への……愛を。全てを忘れて知らぬ振りをできるほど、この男は器用な気質ではない。艶には、そんな自信があった。

「夜一さん、愛しています。私もあなたが好きなんです……あなたがどんな道を選ぼうと、私たちはあなたの傍にいます」
「つ、や?」
「あなたはもう、ひとりじゃないのに……大丈夫です、シロタエのように私たちもいずれは死にます。そのときには……あなたのお傍に、おりますから」

「泣かないで」、などとどの口が言えるものか。額に、頬に、肌という肌に、透明な塩っ気の混ざる雫が落ちてくる。
好きなだけ泣けばいい、今の今までそうすることを自ら戒めていたのだから。子供のように大声を上げて泣く夜一を、艶は柔らかく抱き留めた。
視界が暗闇に沈む。互いに抱擁を受け入れながら、幾度目かの熱が身に被さるのを感じた。






「愛しています、なんて……怪異のくせに、ばかみたい」

雨に紛れて吐露する虚言に、艶は自ら顔を歪めた。顔に残されたどちらの汗と涙か知らない痕跡を手で拭い、散らばった着物に身を包む。夜一の分をどうするか、と考えて、拾い上げた後に畳んで寝具の脇に寄せておくことにした。
これらの動作にも慣れてしまった。オオナズチの秘術もさることながら、夜一たちの生活能力のなさによって自分の家事能力もかなり上がってしまったらしい。

「……う。いた、い」

立ち上がろうとした矢先、首筋や鎖骨のあたりにずきりと疼く痛みを感じた。そっと指でなぞってみても、血の色はもう返されない。
それでも、この痛みは確かに夜一が刻んだものだ――一気に顔に熱が上り、艶はぶんぶんと頭を振った。

「よ、いちさんの、ばか。ばか、ばか……ずるい、もう……本当に……」

まともに立っていられない。ふらりとよろめいた勢いのままにしゃがみ込み、ふと未だ熟睡している狩人の寝顔を覗き込んだ。

「ひとの気も、知らないで……」

好きだ。この人が、この男がたまらなく好きだ。誰にも渡したくないし、自分のことだけを見つめていて欲しい。できることならば、昨夜のようにずっと一緒に……そこまで考えて、艶は深く嘆息する。
どう願っても、縋っても、それは叶わない夢物語だ。夜一は怪異の存在に――望んだものでなくとも――傷を負わされているし、里の人間には慕われている。
そこにどのようにして姿形を偽った自分が入っていけるというのだろう。はじめから分かりきっていたことではないか。

「夜一、さん……」

オオナズチの言った通りだと、艶は思う。
姿を変えられるのは八日間だけ、それがたった六日だけでこんなにも入れ込んでしまった。それ以上を求めることは、自ら修羅の道に堕ちようというものだ。変化の力を持ちながら森に潜み、外界との交流を拒む霞龍の姿勢は……決して、人間に恐れを成している故のものではなかったのだ。

「夜一さん、夜一さん……好きです、あなたが……あなたのことが、大好きです。できるなら、あなたの傍に、ずっといたかった」

自分は愚か者だ。「復讐」などと口にしておきながら、結局はオオナズチらに手間をかけさせただけで何の成果も上げられなかった。
それどころか、生きてきた環境も、価値観も、暮らしやすい場所や餌さえ異なる……怪異の敵、人間の男に恋をした。
彼の言葉を受け取り、甘い囁きに耳を貸し、手を重ね、親しいものを連れて人里を練り歩き、他のことには目もくれずに男と一夜さえ共にした。
あの痛みは、熱は、決して忘れることはないだろう。それだけでも良い思い出になる、嗚咽を堪えそう自分に言い聞かせた。
……落ち着いた呼吸で眠る夜一の頬に手を伸ばし、艶は最後の執着心を払おうとした。「これが最後、せめてもう一度だけ」。そんな軽い気持ちだった。

「……え?」

バキリ、と奇妙な音が聞こえた。凍てつく冬の泉に張った氷を踏み抜いたような、不吉で不穏極まりない音だ。

「え? え、え……や、いやっ、いやだ……!』

嘘だ、そんな悲鳴じみた発狂が口から漏れ聞こえた。バキバキと次々に鳴る音は、よりによって自分の腕から奏でられている。
艶は、否、「ヤツカダキ」はその場から後ずさった。眼前、「艶のもの」であったはずの白い皮膚に覆われた華奢な腕が、太く凶悪な歩脚に変わっていく。
濃紫の、怪しく不気味な蜘蛛の脚。見慣れたそれはしかし、発露するまで残り二日の猶予があったはずだった。

『あ、ぁ、ああ……! いやだ、いやっ、嘘だ、そんな……』

そのときだ。うぅん、と夜一が短く呻く声が聞こえた。
ヤツカダキは、はっとして嘆きの声を喉の奥に押しやった。もしここで彼が目を覚ましてしまえば、きっと恐ろしいことになる。

(……夜一さんにとっては、何も恐ろしくはないのかもしれないけど)

彼は、ハンターだ。過去に問題を起こしたことがあるとはいえ、腕がたち、顔もよく、誰からも慕われる心優しい「モンスターハンター」だ。
彼がもし、目の前の怪異を見つければ……防具の近くには、きちんと携帯されていた雷狼竜の剣もある。迷わず、彼はこの危機を滅することを選ぶだろう。
それにひきかえ、自分はどうだ。自身の愛欲のためなら友愛すら忘れて私欲のままにしか動けぬ、この醜い心と体は。
「いっそ彼に狩られてしまおうか」、揺らぐ自意識の中、自分の中のもうひとりの自分が耳元でそう囁いた。「その方がきっと幸せだから」と。

(いやだ、駄目、そんなこと……これ以上、夜一さんが苦しむ必要なんて……夜一さんには、帰りを待つ人たちがいるのだから)

胸が張り裂けそうだった。それでも、ヤツカダキは何とか悲鳴を飲み込むことに成功した。
ぐるりと夜一に背を向けて、歩脚を器用に動かし入り口をこじ開ける。一瞬引っかからないかと案じたが、まだ一部の肉体は人間の形を維持してくれていた。
よって、なんとか物音立てずに小屋から脱することができたのだった。外は未だに大雨だったが、辛うじて川は氾濫せずにいる。川沿いは避けて進もう、笹の葉に隠れるように姿を紛れさせながら、ヤツカダキはそろそろと里から距離を取った。

『どうしよう、どうしたら……そうだ、長に、オオナズチ様に会わなければ……』

「会って、どうするというのだろう」。
思わず立ち止まった直後、ヤツカダキはぐっと強く歯噛みした。そんな自問など意味のないことだ、オオナズチに会わない理由はどこにもない。
状況を説明し、夜一とは「切れた」ことを明らかにし、彼の住まう里に今後も手を出さないよう懇願し、それからの後にこれからのことを相談しなければ。
自分はいきなりのことに動転しているのだ、だから長に「帰ってこい」と言われることを恐れているのだ、そうに違いない。
「夜一への想いは封印する」。その決意がたとえ、口元に暗緑の体液を滴らせる激痛を伴うものであろうとも。

『……、夜一、さん』

雨が降っていてよかった、とヤツカダキは思う。
そうでなければきっと今頃、不気味な怪異が滂沱の涙を流すという奇妙な現象を何者かに見られてしまっていたかもしれない。
不幸中の幸いとはこのことだ――いよいよ二本脚が消え失せた頃、ヤツカダキは目の前、暗い大社跡の入り口に真っ白な影がちらついているのを見出した。

『……お前は……今時分、何用なの』
『待っておりましたよ、奥方様。さあ、我らが主がお待ちです。どうぞこちらへ』
『奥方様? 冗談は、』
『奥方、で間違いは御座いませんでしょう。狩人などという人間と逢瀬を重ねていたのですから……さあ、お早く。体を冷やしてしまわぬうちに』

雨に揺らぐこともなく、まっすぐに一本足ですっと立ち……否、そのように見えてしまうほどに、しゃんと立ち尽くしていた影が嘴を開いたのだ。
その姿にヤツカダキは一応の覚えがあった。傘鳥アケノシルム。大社跡に潜む怪異のうち、白塗りの羽鱗に身を包む同胞は、慇懃無礼に片翼を畳んで礼をした。
言われる嫌味には言い訳の一つさえ返せない。苦痛という苦痛を滲んだ血液とともに飲み込み、ヤツカダキは一路、大社跡の奥を目指す。
 
 

 
後書き

……

夜一の師、ネムは太刀使いでしたが弟子にあたる夜一、ならびに自身の息子、孫は教わりはしたものの彼と異なる武器を得物として選びました。
これはネムはハンターとモンスターの共存は有り得ない、とする考えの持ち主である一方、弟子たちはそれとは少し狩人としての方向性が異なっていることが理由に挙げられます。

ネムと夜一の出会いは、先述の「MH・閃光の狩人コミカライズ版」のオマージュを多用しています。
手負いのゲリョス、太刀使い、師弟等々。彼らと異なり、夜一は彼なりの「閃光」を見出すことができたのか。
それはこれから、後日譚にかけての話になっていきます。
 

 

陸日目(2)


雨は、全てを隠すように降り続いていた。時折分厚い積乱雲の向こうから、黒塗りの太刀筋に似た鋭い風が吹いてくる。大木を薙ぎ倒し、石灯籠を吹き飛ばし、草木を刈り取り……黒い暴風は、一片の慈悲もなく大社跡の周辺を喰らい尽くそうとしていた。
ふと、その勢いが何の前触れもなく緩む。竜巻はゆるりと弧を描き、次第に一時の収束を与えられ、やがては唐突な無風となって狩り場をしんと包み込んだ。

『うん。もう、そのくらいでいいと思うよ』

眼下、朽ちかけた鳥居の下に佇んでいた怪異が暴風の主を見上げていた。藤色の凹凸の目立つ目玉を動かして、天空に座す黒銀の塊に呑気な声を投げてくる。
大社跡の主オオナズチだ。円錐状の角を持ち上げて、降りてこい、と視線だけで上空の影に訴えていた。
刹那、滞空していた黒銀色が急降下を謀った。空を切りながら強烈な風圧とともに地上に降り立ったそれは、オオナズチとやや距離を置いた地点に着地する。雨水を溜め込みかさの増した池を光沢感溢れる四肢で掻き分けて進みながら、その黒銀色は長々とわざとらしい溜め息を吐き出した。

『霞の。呼び出しておいて礼もなしとは、貴様、どういう了見だ』

硬質で冷たい印象を与える姿に相応しい、実に冷徹な声が漏らされた。オオナズチはくるくると目玉を回し、次いで首を傾げ、旧知の友人を舌で手招きする。
苛立ったような舌打ちが漏れされたが、黒銀色は渋々といった体でオオナズチに歩み寄った。
なんだかんだで彼は他からの頼まれごとを断らない質なんだよね、とは決して口に出さず、オオナズチは大げさなほどに大きく頷き返す。

『久しぶりだね、風翔龍。そちらの方は、うまくやれているかい?』
『よしてくれ、何が風翔龍だ……貴様こそどうなのだ、いきなり呼びつけておいて「嵐を起こせ」とは。何があった』

眼前、青天を切り出してはめ込んだような深く美しい蒼色の眼が、オオナズチの姿を捉え込んだ。
鋼龍クシャルダオラ。オオナズチにとっては古い知人とも、或いは因縁の好敵手とも呼べる特別な怪異。
その体躯は鋼に酷似する堅牢な鱗と外殻に覆われていて、彼が大地を歩く度、また天空を飛翔する度にきらきらと鈍い光を周囲に零した。鋼龍と呼ばれる理由はそこにある。彼の体は文字通り鋼に守られているようなものなのだ。光沢を放つ姿には特有の魅力がある、とオオナズチは考えている。

『まあまあ。君が嵐を起こしてくれたおかげで……どうかな、この辺をうろついていた人間が逃げ帰って行っただろう。正直、長居されて困っていたんだ』

オオナズチはクシャルダオラの問いに答えない。眩しいものを見るように眼を細め、霞龍は着いてこい、とばかりに歩き出した。

『ギルドに属する人間どもだろう。放っておけばいいものを』
『でもねえ、クシャナ。ああいうのが大勢押しかけていると、ほら、小さい子たちがびっくりしちゃうし』
『霞の。悪知恵の働く貴様のことだ、それが狙いではないだろう。言え、何があった』

悪知恵とはまた人聞きの悪い――言い返そうとして、しかしオオナズチは頭を振った。クシャルダオラも長い時を生きる大賢だ、誤魔化しなどは通じまい。
しばらく歩いた後、二頭は開けた野原に出る。大社跡の入り口だ。恵み豊かな川とススキの群生の隙間に、先刻までこの地に居座っていた人間の痕跡がある。オオナズチは、手近なテントの残骸を翼で起こした風で薙ぎ倒した。骨ごと砕けたそれを一瞥して、クシャルダオラは不快そうに眼を細める。

『虫の居所でも悪いのか。どうしたというのだ、霞の』
『ねえ、クシャナ。君の管轄する群島には、変な気配は起きていないかな』

クシャルダオラは「天候を操る」力を持つ龍だ。金属質な体と肥大化した翼からは想像もつかないが、彼の本領はその強大な能力にある。一日、否、丸二日を通して彼に起こして貰った暴風雨は、人間たちをこの場から追い払うのに大いに役立った。
その証拠に、破壊したテントからは置き去りにされたと思わしき大量の資料が次から次へと溢れてくる。鋼龍は、霞龍の言葉に当惑したように一瞬沈黙した。

『……変な気配とは。ここは、そうなのか』
『もう十年くらい前からかなあ。兆候はあったんだけれどね、最近になるまで確証はなかったんだ』

オオナズチの視線は北部の竹林の向こう、遥か大社跡の最奥に向けられた。釣られるようにして眼を動かしたクシャルダオラが、物言いたげに顔を歪める。

『何か、とてつもなく大きな輩が近くに来ている。そのせいで、ここ数年はずっと「皆」が殺気立っているんだ』
『……なんだというのだ、それは』
『分からない、僕にも分からないよ。でもね、そいつはこの辺の土地の事情や怪異同士の相性、縄張りの分布……そういうのに、まるでお構いなしなんだ』
『霞の。まさか、貴様ほどの古龍が後れを取っているとでも言いたいのか』
『後れを取る、程度で済めばよかったんだけれどね。僕の話に耳を傾けられないほど興奮した子は、真っ先に人間の餌食になったから』

もうすっかり困り果てているんだよ、吐き捨てるように吐露した後でオオナズチは隠しもせずに嘆息した。
クシャルダオラは難しい顔で黙り込んだ。彼もまた、自分と同じように特定の狩り場全域に目を光らせておかなければならない立場にある。「自分だったらどうするか」、「最適解はどこにあるのか」、それを思案してくれているのだろう。「主」とは、そういうものだ。

『……数十年、いや、十数年くらい前の話か』
『うん?』
『忘れたか、霞の。似たような話が近くの森であったろう……人間の子供一人が怪しい笛を使って怪異たちを扇動し、己が村を滅ぼしたというやつだ』

言われるまで、そのようなことは忘れてしまっていた。クシャルダオラの考察にオオナズチは大きく首を縦に振る。

『あった、あったねえ、そんなこと。でもね、クシャナ。確か、村は今もまだ残っているのじゃなかったかな』
『細かいことまで俺が知るか。霞の、よく考えろ。たかだか人間の子供一人、笛の音一つ、その程度で怪異たちが思うように操れると思うか』
『……それは、そうかもしれないけれど』
『貴様の言うように「兆候はあった」のだろう、恐らくその頃にはな。霞の……用心しろ、此度の件、存外根が深いやもしれんぞ』

やはり彼を呼び寄せておいて正解だった――頷き返しながら、霞龍は独りごちる。
確か、件の子供の名は「ヨイチ」といったはずだ。ヨイチ……「夜一」。これまで見えていたようで見えていなかった盲点を見出し、オオナズチは絶句した。

『お願いごとを……』
『霞の?』
『お願いごとをね、聞いているんだ。僕が主として不甲斐なかったせいで同胞を大勢亡くした子がね、困っているようだったから』

森の奥深くに揃って居を構え、人間はもちろん、他の怪異にも見つからないよう工夫しながら、種同士で寄り添い合って暮らしていた怪異「ヤツカダキ」。
オオナズチにとって彼女は大社跡付近に根付く怪異の一つにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない、他の怪異と平等に扱うべき存在だ。
しかし、彼女が涙ながらに怨念を吐き出した、あの晴天の日。オオナズチは、大社跡の主として自身が既に後手に回ってしまったことを知ってしまった。

『霞の……貴様、よもや特定の怪異に思い入れを抱いたわけではあるまいな』
『そんなまさか、違うよ、そういうんじゃない』
『では、なんだ。言ってみろ』
『傷口を抉るのが好きだねえ……罪滅ぼしみたいなものかな。僕はね、クシャナ。少しばかり、今回の件を甘く見ていたようなんだ』
『人間に狩られたのだったか。だがそれも、その種族の運命だろう』
『そう、そうとも、その通りさ。でもね、縄張りの全域に眼を行き届かせられなかった時点で、僕は長として怪異として、失態を演じてしまっているんだよ』

「夜一」とは、あのヤツカダキの思い人そのひとだったはずだ。己が感情と欲望のままに動き、愛するもののためなら他の命など一切省みない、危険としか判断できない不当な思考の男。
……見張り役の怪異によれば、ふたりは既に褥を共にした仲となっていたはずだ。後手どころか手遅れかもしれない、霞龍は痛みを覚える頭を横に振った。

『ねえ、クシャナ。今し方力を振るって貰ったばかりで悪いのだけれど、もう少し、僕に力を貸してはくれないかな』

訝しむように、友人が冷たい息を吐くのが見える。反論しないあたり、彼はこちらを気遣ってくれているのだろう。
良い友人を持てて僕は幸せ者だよ、うそぶくように笑いかければ、貴様に友人などと呼ばれる筋合いはない、と冷淡極まりない返事が返される。
そっぽを向いたクシャルダオラの横顔は相も変わらず鋼鉄の龍鱗に包まれていて、その表情から彼の真意を読み取ることは難しい。
オオナズチは、大社跡の奥地へ視線を投げた。既に「対抗策」として放った刺客が、「狼藉者」相手に妃蜘蛛らのねぐらに通じる穴を守ってくれている。

『ふん。断る、と言っても無駄なのだろう。俺は群島の管理で忙しいのだ、そう長居はせんぞ』
『構わないよ。「テスカト」もそう言っていたから』
『……貴様、俺だけでなくあれにも声を掛けたのか』
『おやあ、妬いているのかい、クシャナ。もちろんだよ、彼も君も、僕の自慢の友人だからね』

気恥ずかしい奴め、苦いものを噛んだようにクシャルダオラは牙を鳴らした。オオナズチはにこりと笑いかけながら、今後の策を黒銀色に囁きかける。
……嵐を呼ぶ黒い影、そう称される古龍と別れた後。霞龍は、竹林の隙間を縫うようにして姿を見せた見知った顔らに頷き返した。

『おかえり。ヤツカダキ、アケノシルム』

渦中のひとにして、涙でぼろぼろになった貌で歩み出る怪異ヤツカダキ。そして彼女を先導した怪異アケノシルム。
眼を合わせた途端、妃蜘蛛はその場に泣き崩れた。困惑した様子の傘鳥を下がらせて、オオナズチは彼女を慰めるように片翼でその絹糸の上面を撫でてやる。

『お、オオナズチ、さま』
『うんうん、大変だったね。ごめんよ、僕の方こそ……別件に力を割いていたから、変化の術が失せてしまった』
『ち、がうん、です、違うのです……私、私は……っう、うぅううっ……』

泣きやむ様子のないヤツカダキを見て、霞龍は深く嘆息する。夜一という狩人は、一体どれだけの傷と希望を彼女に与えてくれてしまったのか。
ここまでの損傷だ、彼女には早々と巣に帰って貰うよりない。強引に引き裂いたところで二人の熱が引くかどうかは分からないが、それ以外に打つ手はない。
こうなれば、件の狩人がどれほど「本気」なのか確かめてみるしかあるまい――久方ぶりに沸いた感情に、オオナズチは誰にも気取られぬよう小さく笑った。






じっとりと肌に纏わりつく汗と、顔に張りつく涙の跡。ぼんやりとして上手く働かない頭を横に振って、夜一はのそりと起き上がった。
窓の外に広がるのは、豪雨ではなく見事なまでの快晴だった。いつの間に止んでいたのだろう、眩しさに目を細めて頭を掻く。小屋の中は僅かな湿気と特有の臭気を漂わせながらも、しんとしていた。ぐっと眉間に皺を刻んで、夜一は傍らの愛しいひとに触れようと手を伸ばした。

「……艶?」

返事は、ない。それどころか、手は容易く宙を空振る。見渡せど、彼女の気配はおろか、残り香ひとつ残されていなかった。
血の気が引く。熱の引いた布団を蹴り飛ばすようにして跳ね起き、揃えてあった防具を乱暴に身に着けた。
……手に馴染んだ片手剣を腰に戻した瞬間、夜一は「防具一式が綺麗に纏められていた」ことにはたと気づいて愕然とする。
これらは、艶が整えていってくれたのだ。そうして狩人が出した仮説と結論はただの一つ――彼女は恐らく、二度と自分の前に帰ってくるつもりがない。

「……嘘だ」

ひゅっ、と喉が引き攣る音がした。頭が真っ白に染まり、よろめき、歯噛みし、発狂しそうになるのを堪えながら外に走り出る。

「艶、どこだ」

さらさらと陽光を反射させて輝く小川。青い夏空、白い雲。鳥のさえずり、笹の葉の木漏れ日、若草の匂い。かつて見た、美しい里の風景が広がっていた。
立ち尽くした夜一の眼前、そこに艶の姿はない。ハンターとして初めてこの地を訪れたときと変わらぬ景色の中に、愛しい女の姿はなかった。
ぱっと振り向き、はにかみ、紫色の髪飾りを白髪に添えて笑う美しいひと。初めから、端から、最初から……そんなものは、どこにもいなかったかのように。彼女の熱は、気配と音は、その輝きは。あの夢のような一時の後に、夜一の前から跡形もなく消え失せていた。

「――ッ、……!!」

何かを叫ぼうとして、声にならないことに苛立ち、喘ぐ。ぎりっと音が鳴るほど奥歯を噛んで、夜一はすぐさま駈け出した。
柵を跳び越え、笹の葉を散らし、砂利を蹴って走り、走り、ただ走り。呼吸すら置き去りにするようにして、あっという間に自宅に着くや否や戸を開けた。

「だっ……旦那さん!?」

玄関に飛び込んだ夜一を出迎えたのは、艶ではなかった。幽霊でも見たかのように目をまん丸くした、オトモの暁と灯火だ。

「あっ、か……暁っ、ともし、びっ……」
「旦那さん、どうしたのニャ!? 酷い顔ニャ、今すぐ水を」
「ワ、ワオワォ、ワゥン」
「い、いや、いい……それより、そんなことより、ふたりともっ! 艶を……艶を見ていないか!?」

引いたはずの汗が止めどなく流れ落ちる。千切れそうな呼吸を振り払うようにして、一分一秒でも惜しい、と夜一はありったけの力を込めて叫んでいた。
びくりと肩を跳ね上げさせた二匹は、ちらと目を見合わせる。すぐに左右に振られた首を見て、夜一は膝から崩れ落ちそうになった。

「旦那さんこそ、艶さんを迎えに行ったんじゃなかったのニャ? ボクたち、そろそろクーロさんたちのところにいこうと思ってて……」
「……っあ、」
「ワゥオン」
「そうニャ、夜が明けても戻らなかったら、って言ったの旦那さんニャ。まさか旦那さん、艶さんに振られちゃったのかニャ?」

ニャハハ、と暁は冗談を言って場を和ませようとした。しかし、待てど暮らせど主からの返事はない。
どうにも様子がおかしい、そうして灯火と共に恐る恐る見上げた先で、狩人の顔は死人か病人かのように青ざめていた。
その場に立つのもやっと、という体の夜一を見て、ふたりは自分たちがとんでもない冗談を言い放ったことに気づいて慌てふためく。声を掛けても、夜一は何の反応も示さない。絶望に満ちた顔のまま、ただ呆然とその場に立ち尽くしたままでいた。

「――遅かったな、夜一。もう昼前だぞ」

外から声が掛けられたのは、そのときだ。開かれた玄関口に、いつの間にか赤い洋装に身を包んだ狩人が立っている。
聞き覚えのある声に振り向かず、夜一は黙って顔を俯かせた。その様子にふむ、と軽く頷いて、クーロは懐から手書きと思わしき紙切れを一枚取り出した。

「『仕事』だ。分かっているな、夜一」
「……」
「大社跡に古龍が現れた。今は俺たちのチームが対応しているが、被害が甚大だ。お前には負傷者を回収するまでの間、連中の足止めを頼みたい」
「……クー、ロ」

見慣れた背中、見知った声。クーロは常の調子で夜一に声を掛けたつもりでいた。結局最後には文句を並べながらも受注するだろう、と決めつけて。
しかし、ゆっくりとギルドの守護者に振り返った狩人は夜一ならざる者の顔をしていた。屍と鬼の狭間、慟哭を上げる寸前の、追いつめられた罪人の顔だ。顔の血の気を失せさせ、しかし黒瞳には明確な怒りと嘆きを湛えさせ、夜一はふらつく足取りで歩み出ると、目の前の狩猟依頼書を強奪する。

「おい、夜一……」
「行ってくる。暁と灯火を頼む」
「ちょっ、だ、旦那さん!? 旦那さんっ!!」
「ワ、ワオーン!! ワオォンッ!」

道具の補充も、武器の手入れも、依頼書の確認も、果てには身に着けた防具の調整も行わないままに。
夜一はとっ、と軽く土を蹴り、次の瞬間には息を呑む速さで走り去っていった。置き去りにされた、と残された誰もが確信する。
亡霊のような気配を纏った狩人は、一度も親しい仲間らに振り返ろうとしなかった。まるで目に見えない影を追うかのように、その足取りには迷いがない。

「……あなたがクーロさん、ですかニャ?」
「っ、そうだ。君たちは夜一のオトモの……話は、奴から聞いているよ」
「クゥン……」
「そうですか、ニャ。じゃ、話は早いのニャ……旦那さんを、止めて欲しいニャ。たぶん、旦那さん……あのまま、死ぬ気ニャ」

暁は、声を震わせながら吐き捨てた。過去に「シロタエ」と呼ばれた亡霊をなぞったような朱色の眼が、親の敵を見る眼差しでクーロを睨む。
体を強張らせたクーロは、まさか、とだけ呟いた。夜一に限ってオトモを置いて死ぬなど有り得ない……友人への信頼が、後を追うことを躊躇わせている。
暁は、そんな守護者の心情を見抜いているかのように舌打った。牙を剥き出しにし、悔しげに、心底悔しげに顔を歪め、灯火の体にしがみつく。

「旦那さんは、艶さんのことが本気で好きなのニャ。ボクたちはオトモだけど、艶さんとは付き合いも短いけど、でもそれくらいちゃんと分かるのニャ。あの旦那さんが里の中を一晩中ずっと探して、それでも見つけられなかったって言うんだから……艶さんはきっと、大社跡のどこかにいるはずなのニャ」

古龍種。どの生物の法則性からも外れる、未知なる恐るべき存在。
いくら夜一が手練れの狩人であろうとも、彼とて生身の人間だ。古龍を相手にして無事でいられる保証は、どこにもない。
「夜一が死ねば、それはお前たちのせいだ」。朱色の炎は、返事に詰まった黒瞳をひたむきに非難していた。

……彼らは知らない。
夜一が誰を、何を追って家を出たのかを。その行く先に、如何なる道が選ばれようとしているのかを。
 
 

 
後書き
……

以下、こまごま独自解釈。

ドス古龍の個々の性格・口調は、それぞれ
オオナズチ:個人解釈
クシャルダオラ:モンハンワールドにおける歴戦王
テオ・テスカトル:クエスト依頼主「古代の衣装を着た青年」
として設定しています。今回、テオさんはまだ出てきていませんけども…!
各々でそれぞれに対する呼び方を変えてみたりと、ドス古龍好きを詰め込んだ結果となりました。

オオナズチが達観したようなものの見方をするのには、彼が大社跡を任された個体であることが理由に挙げられます。
とはいえ、従来の彼らは「ものを盗んだり」「姿を消したり」する頭脳派です。
この時点で夜一は決定的なミスをおかしているのですが、そこはガンバレシュジンコウしてもらうしかなさそうです。
 

 

陸日目(3)


滝の横から崖下めがけて飛び降りて、翔蟲を繰りながら着地と同時に疾駆する。ひたすら、ただひたすら先を急ぐ。迷う余地も躊躇う暇もない。
ススキの原を駆け抜け、石でできた大鳥居をくぐり、俄に湿気を感じる竹林のその奥へ。けたたましく鳥が鳴き、いくつかの羽ばたきの音が頭上を過る。
切らした息は一歩、二歩と速歩を落とすことで強引に整えた。眼前、立ち塞がるようにして現れた小柄な怪異数匹をじっと睨む。長く柔らかな体毛の、橙と白色の対比が鮮やかな怪異だった。どこか愛嬌のある顔立ちとは裏腹に、その爪と長い尾の先端の鎌は爪のように尖っている。

「――どいてくれ」

自分でも異常だと思えるほどの冷たい声が、喉から絞り出された。腰に下げた剣の柄に触れながら、じり、と間合いを詰める。
刹那、一際大きな体の怪異が天空目掛けて威嚇の声を上げた。静まり返っていた竹林が俄にざわつく。

「いや、いいや。そのままでいい」

軽快に跳ね、飛び掛かってくる小型の怪異たち。小柄といえど、その爪牙は、尾の鎌は、人間の皮膚や肉を裂くには十分な鋭さと強度を誇る。
……夜一は右半身を半歩分後ろに下げ、次いで前に姿勢を前傾し、刹那のうちにまた、駆けた。暁にそろそろ切った方が、と言われていた前髪が視界を掠め、次の瞬間にはオサイズチたちの包囲と竹林のうち一つを抜けている。

『――ヨイチ。いいか、モンスターを無理に相手にする必要はないんだ。必要なときに必要な分だけ、依頼主に望まれた通りに、その命を狩らせて貰え』

焦燥の合間、過る、過る、記憶が過る。黒髪黒瞳、木漏れ日のように暖かな笑み、太刀振るう姿は勇ましく、正に理想そのものである狩人、その背中……。
心痛、苦み、歯噛み。笹の葉、草むら、熱を帯びる湿気……それら全てを置き去りにするようにして、夜一の体はあっという間に朽ちた門の前に出た。
雷光虫や灯蟲が眼前を行き交い、束の間、我に返って呼吸を整える。大きく息を吐き終えたところで、視界の端に黒い影が映り込んだ。

「二体同時か」

影の数は二つある。
一つは浅黄色の巨体。筋肉と水分で膨らんだ体と、大きな袋をつぎはぎして作られたような五指、嘴。一目で怪力の持ち主であることが分かる見目だった。
体表を覆う苔は半乾きで、主な生息地である大社跡奥の河川からしばらく離れて行動していた個体であることが窺えた。
もう一つは塀の上から降ってきた。先のオサイズチより更に特徴的な顔立ちをしている。人間味のある顔だが、それらは襟回りの角と体毛に囲まれていた。
緑、青、紺色と、色鮮やかな小翼と太く長い尾が地面をなぞる。音もなくふわりと着地したそれは、夜一の出方を窺うように忙しなく上半身を乗り出した。

「ヨツミワドウ、ビシュテンゴ」
『――ヨイチ。新しいモンスターに出くわしても、まずは驚かないことだ。観察して隙を見つける。相手は生き物だ、隙の一つくらい必ずあるもんさ』
「どう、だったかな。ネム先生」

追想に溺れている時間など、ないはずなのに。遠雷のような懐かしき人の声が、耳元に延々と木霊していた。
河童蛙の威嚇は地鳴りがするのではないかと思えるほど大きく、また、天狗獣は落ち着きのない様子で体を揺すって夜一の行く手を阻む。阻む、というのは恐らく正しい――まるで囚われの姫君を助けに行く異国の騎士の物語のようだ。黒髪の狩人は口角が上がっていくのを抑えられなかった。

「艶。俺は、」

一度目を閉じ、今は傍にいない愛しいひとの姿を頭の中に思い起こす。女の真横に立つ黒瞳の狩人については「見なかった」ことにした。
……彼女に、今の今まで誰にも話したことのなかった思い出話をしたせいだ。決してあの男を懐かしんでいるわけではない。
頭を振り、目を開く。眼前、ビシュテンゴの腕羽がすぐそこまで迫っていた。頬に僅かな風を感じ、刹那のうちに翔蟲に紡がせた糸を手元に手繰り寄せる。糸を雷狼竜の剣に絡め、巡らせると、たちまち天狗獣の体は硬直した。翔蟲の翅の音を頼りに両腕を交差させ、剣を軸に巨躯を縛りつける。

『……!』
「ほら、頼んだぞ」

強く糸を引く。がくりと前のめりに傾いだ天狗獣の腿を、腰を、背中を次々と踏み抜き、夜一の体はあっという間にビシュテンゴに飛び乗っていた。
軽く足裏で背中を蹴れば、狩人を振り払おうともがいていた体が有無を言わさず前方へ走らされていく。

『――!?』

追撃しようと両手のひらを突き出しかけていたヨツミワドウは、珍しく慌てふためいていた……少なくとも、夜一の目にはそう見えた。
「テンゴちゃんどうしたの」、そう叫ぶように嘴が震え、円らな瞳が歪み、逡巡するように肩が跳ね……次の瞬間には蹴飛ばされた天狗獣と激突している。
肉と肉、分厚い皮同士がぶつかる鈍い音がした。もんどり打って倒れた二体は、何が起きたのか分からない、というように苦鳴を上げてもがく。その隙に、夜一は旋回しながら戻ってきた王剣シツライ弐をはしっと掴んだ。次いで翔蟲が糸をほどくと、すぐに得物を腰に下げ直す。

『っ! ――!?』
「ごめんな、急いでるんだ」
『~~!!』

苔むした巨体と青緑の怪異は、何事かを必死に訴えていた。のたうち回る河童蛙は涙目で、衝撃で動けずにいる天狗獣は懸命に狩人の背中に手を伸ばす。

――なんだ、「艶」にはここまで心配してくれる友達がいるんじゃないか。

夜一はもう一度口角をつり上げた。これといった手を出さないまま二体から視線を外すと、きびすを返して門をくぐり、先を急ぐ。

『……夜一、さん』

不意に、控えめにこちらの名を呼び、はにかむ女の姿が脳裏を過った。強い湿気の臭いに顔を歪ませながら、大きく開けた池の前に出る。

「……艶。俺は、」

目と鼻の先。ゆらりと景色が歪み、また視界が白くけぶり、立ち止まった狩人を待ち伏せていたかのように、見覚えのない巨体が緩慢な動きで姿を現した。
藤色、紫、艶のないなめらかな表皮。くるくると忙しなく動く目玉は丸い凹凸が目立ち、まるで爬虫類のそれのよう。
ぞくり、と背筋が冷え、たちまち体が硬直するのを夜一は感じた。今まで様々な怪異を狩猟してきたが、眼前のこれはそのどれとも異なる。
これは「畏怖」だ……ざわりと恐怖心が胸を刺し、その場に体を縫いつけようとする。ぐっと拳を作り力を込めると、幸い呼吸だけは取り戻すことができた。

「あー……通してくれないか」
『――、』
「俺は、……艶に、大切な女に会いに来たんだ」

恐ろしく長い舌が蠢く。丸い眼が自分を見下ろしている。立ち込める霧は自然のものではなく、目の前の怪異が作り出したものであることは理解できた。
クーロは「古龍が現れた」と話していたはずだ……だとすれば、この藤色の怪異はほぼ十中八九古龍のうちひとつなのだろう。
脂汗が額から顎に伝い落ち、互いの出方を窺うように沈黙する。先に動いたのは狩人の方だ。片手剣には一切触れずに、夜一は自棄気味に前へ駈け出した。

「くっ、」

迎撃は、確かにあった。その見た目から想像もつかないほどの恐ろしい速さで、長く柔い舌が鋭く宙を切る。
頬を掠め、血が飛んだ。痺れるような痛みは無視をして、夜一は走る勢いのまま池の中に飛び込んだ。

(落ち着け、落ち着くんだ……無理にやり合う必要はない)

気泡が弾ける、耳障りな呼気の音が鳴る。雨上がりの後、深く濁った淡水はことごとく狩りに必要な感覚を奪っていった。
それでも頭上を仰ぎ見たときには、夜一の目にはっきりと紫色の怪しげな靄が見えていた。
靄、いや、霧か煙か、それとも霞か。いつしか一帯に広がっていた毒霧は、視界全域を紫に染め変え、この区画が彼の怪異の支配下にあることを主張する。
「霞龍」、オオナズチ……片田舎でしか狩りをしない夜一でも、その名だけは耳にしたことがある。
森や沼地に生息し、侵入者には悪戯を仕掛けて楽しみ、追い返そうと努める古龍種。その性質と攻撃の要として用いる毒霧から、霞の銘が与えられた存在だ。

(うん、まあ勝てるはずないしな。クーロは俺を買いかぶりすぎなんだよ)

首肯した後、霧が晴れたのを見計らって立ち上がった。首を巡らせると、オオナズチは先ほどとさほど変わらない場所に静かに佇んでいる。確かにそこに存在しているのに、白い霧と相まって夢幻の塊を見ているかのようだった。
黙って観察していると、一歩進んでは下がり、また進んでは下がり、と不思議な歩き方をし始める。「賢そうだ」、夜一が抱いた第一印象はそれだった。

――古龍種というくらいなら、彼はこの狩り場の主と見ていいのだろうか。だとしたら、「艶」を連れ戻したのは彼なのか。

心臓が不穏な鼓動を立てる。ぐっと口を真一文字に結んだ後、夜一は反射的に抜刀していた。
オオナズチはくるくると細かく動く眼で狩人を見下ろしていた。一介の人間の敵意など痛くも痒くもない、そう言いたげな、憐れみ嘲笑うような視線だった。

「お前は……艶を知ってるのか。彼女は今、どこにいる?」

そのように狩人を嘲りながら、彼は艶を手元に戻したというのだろうか。それとも、あるいは彼女に自らそう選択するように仕向けたのか……。
元から言葉など通用するはずもない。答えもせず涼しげな顔のままでいるオオナズチを見上げ、夜一は音が鳴るほど強く歯噛みする。

「――ッ、答える義理もないって言うのか」

頭に血が上る。観察眼など、平常心など、艶のことを想えばすぐさま幻となって消えてしまった。
夜一が駈け出したのと、霞龍がふと短く息を吸ったのはほぼ同時。吐き出されたのは溜め息でも罵声でもない、ただただ濃く、純粋な毒の霧。
食らいつく覚悟で夜一はその霞の中に飛び込んだ。喉に、肺に、恐ろしい速度で猛毒が浸透していく。ぐらりと脳が揺れ、強い吐き気と倦怠感に襲われた。

「頼む、通してくれ!」

意識が傾ぐ、揺らぐ、持って行かれそうになる。それでも狩人は卒倒するのを堪えた。一歩、二歩と強引に足を進め、青緑と淡黄色の一振りを横に払う。
藤色の体表に、すうっと横一直線の緋が走る。浅い、夜一が焦る一方でオオナズチは冷静だった。翼を素早くはためかせ、鈍い速度の風圧を起こして男の身をやんわりと引き剥がし、大きく後方に跳躍して距離を取る。
霞龍が着水したと同時に、夜一は盛大に吐血した。失血性の毒素だ、そう理解はしても絞り出される赤色は胃に留まろうとしてくれない。

「……艶、」

荒い呼気と滴る血が、否応なしに体力を奪っていく。絞り出した己が声が、まるで獣の唸り声のように聞こえた。

『……、』
「何? ……なんだって?」

大きく咳き込んだ瞬間、夜一は凛と透き通る、硝子片か朝露を連想させる不思議な音を耳にした。見渡してみても、この場には自分とオオナズチしかいない。
はっとして、狩人は霞龍の顔を見た。円錐形の角を傾げ、眼はくるくると細かく動かしながら、オオナズチは一つも動かずそこに座す。
「行ってやれ」と、そう言われたような気がした。頷くことも忘れ、夜一は振り向かずに大社跡の奥へ足を急がせる。

――艶。俺は、

途中、道ばたに生えていたげどく草をむしり、根に近い部分を噛みちぎった。強烈な苦みとえぐみ、土の味がしたが、吐き出すのを堪えて無理矢理嚥下する。
惚れた女に会いに行くのに、無様な姿は見せられない――げほっと一度咳き込んで、涙目になりながら山道を登る。

「……ここ、は」

狭い道を抜けきると、開けた水場に出た。どこまでも清らかな水が高山から降り注ぎ、あたりを水しぶきで薄く白くけぶらせている。滝壺の中には鱗を輝かせる魚が複数遊泳していて、青々と伸びる水草や笹の葉、水面が陽光をきらきらと跳ね返す様と重なり、実に美しい風景となっていた。
束の間、夜一はゆっくりと深く息を吐く。腰を下げ、手を伸ばし、冷たく澄んだ水をすくって顔を洗った。
初夏にもかかわらずきんと冷えた水は、血の上った頭をすっかり冷やしてくれた。

「……ここは、確か大社跡の最奥、だったよな」

一人呟いて、暁たちが同行していないことに気づく。視線を巡らせても、白い毛並みの生意気な獣人も、薄花色の毛並みの愛らしい牙獣も姿を見せない。
置いてきたのは自分なのに……空を仰いで夜一は心底深く嘆息した。次第に頬や手のひらに痛みが蘇り、また、気だるさと疲労が足を重くし始める。
急がなければ、ぐっと目を閉じ自分に言い聞かせた。心が枯れてしまう前に、艶の気持ちが離れてしまわぬうちに、早く……彼女と言葉を交わさなければ。

「なあ、艶。君はきっと、『俺が気づいていない』と思っていたんだろうけど」

夜一さん、そう自分の名を呼ぶ美しい女の姿を思い描く。
真っ白な髪に琥珀の瞳、いやに白く細い四肢と、上品な風合いの着物。はにかみ微笑む度に、白磁の肌にほんのりと朱が差すのがたまらなく愛おしかった。
……初めて彼女に出会った夜、夜一は暁たちに翻弄されながらも、彼女の足元に映し出された彼女の「影」を確かに見た。
糸を、蜘蛛糸を幾重も重ねて作り出された繊細な織物。それを体躯に乗せ、巻きつけ、纏わせ、細く硬質で不気味な歩脚を覆い隠して佇む巨体……。
「『彼女』は人間ではない」。初めから、端から、最初から。夜一という狩人は、艶が人の身ではないことに気がついていた。

「なあ、そんなの今更じゃないか。俺は君が好きで、君も俺が好きなのに。それのどこに間違いがあるって言うんだ」

ざあざあと、滝の音が聞こえる。次第に強まるように感じられるそれは、狩人の本能が酷く昂り、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていくが故の警鐘だ。
ぐるんと素早く振り向いた夜一の前に、オオナズチとは異なる姿の怪異が現れる。
赤く、紅く燃えるようなたてがみ。ゆらりと揺れる尾や、体を覆う甲殻もまた炎を塗り固めたような深紅の色で、その姿は水場にはあまりにも不釣り合いだ。艶やかな紅鶸や洋紅といった差し色とは別に、唯一、より一層鮮やかな空色の眼が夜一を射抜く。
湾曲した角も相まって、目の前に炎を抱く王が降り立ったかのように見えて仕方がなかった。硬直する体を叱咤して、逃げ出そうとする足を無理矢理留める。

「……なあ、艶。俺は君が何者であろうと、君の傍にいたくて仕方がないのに」

「炎王龍」、テオ・テスカトル。水場はおろか、森林地帯になど間違っても現れないはずの、炎と爆破粉塵を操る偉大な古龍。
オオナズチがけしかけたのか、ここ最近の怪異たちの不安定な挙動に釣られたのか。いずれにせよ、予想だにしない遭遇に夜一は冷や汗が止まらなかった。

「艶。君は俺から離れたって後悔しないって、昨日だけの夢でもいいって……そう言うのか」

ぶわりと、熱せられた風が頬を撫でる。一瞬で汗が蒸発し、次の瞬間にはテスカトルの巨躯が眼前に走り寄っていた。
剣を抜き、盾を構え、とん、と川底を蹴る。真横に突進を避けた狩人は、取って返すと水しぶきに紛れて炎王龍の横腹に斬撃を振り下ろしていた。

『……夜一、さん』

熱と雷、爪と剣、牙と盾、空色と黒瞳。交差し、互いに互いの出方を窺うような攻防が続く。そんな中でも、夜一は苦い追想を止められない。
――一夜目、二夜目と、日を重ねるごとに疑念は確信に変化していった。夜ごと、壁や天井に映し出される女の影は、どう見ても蜘蛛型の怪異のそれだった。
いつ喰われるか分からない。いつ殺されても文句は言えない……それでも、自分は彼女を追い出そうとは思わなかった。
最初こそ怯え、警戒し、威嚇や無駄吠えを繰り返していた灯火も、気がつけば彼女から手渡しで食餌を貰うほどにまで懐いていた。
暁に至っては端からこちらの恋情に早々に気がついたのか、ちらちらと双方を見比べては、にやにやと意地の悪い笑みを向けてくる始末だった。
心と感情、思い出を殺された男たちに、彼女は光を与えてくれた。たとえその身が怪異そのものであろうとも、夜一たちにとって艶という女は特別だった。

「――ッ、あ、」

――じり、と皮膚が引き裂かれる感覚が走る。意識を強引に狩り場に引き戻され、夜一はたまらず悲鳴を上げた。
袈裟懸けに振るわれた豪腕、その爪が片腕をなぞる。咄嗟に上半身を反らしていたからか、肉や骨は辛うじて繋がっていた。ばっ、と鮮血が宙に溶け、たたらを踏む。激痛に顔が歪み、どっと噴き出した脂汗に焦りが募った。
荒い息遣いが耳元に届き、どくどくと早鐘を打つ心臓の音が頭の中にまで響く。濃い鉄の臭いがして、夜一は肺に溜めていた息を思いきり吐き出した。

「っは、この……!」

息に毒素由来の血が混ざる。ばしゃりと川が悲鳴を上げ、水面に炎と血しぶきの鮮やかな赤が映った。
だらんと垂れ下がるばかりの左腕を見下ろして、頭を振る。ぐっと力を込めれば、噴き出す血の熱と、裂かれた皮膚がもたらす痺れに似た痛みで肩が震えた。
熱い、痛い、寒い、冷たい、息が苦しい。ぐらりと体が揺れ、意識を手放しかける。しかし、それを炎帝と称される古龍が許すはずがない。

『――!』
「五月蠅いな、分かってるよ!!」

迫る巨躯に対し、狩人は吠えた。躊躇も激痛も置き去りにして、強く強く前に出る。
考え難いことだが、一つの仮説が脳裏を過ってやまない。「彼ら古龍は、自分の、夜一という狩人の覚悟を試している」というものだ。ヤツカダキという怪異と本当に結ばれたいと思っているのか、生涯を添い遂げたいと覚悟しているのか……馬鹿げた仮説ではあるが、そうとしか思えない。
彼らは手を抜いている、そのようにしか見えなかったからだ。本気を出せば、考え事に耽る自分などあっという間に骨か消し炭にされている。

「うあっ……このっ、死んだら会うも何もできないだろ!!」

避けて、転がって、立ち上がり、駆け上がり、また避けて。対峙すればするほど、実力を測られているような気しかしてこない。
それでも自分は精一杯だ、ぎりっと音が鳴るほど奥歯を噛んで、血の味を噛みながら業火の中に飛び込んだ。

ここを乗り越えられないようなら、決して艶には会えない、会わせてなど貰えない。
躊躇いの霞を振りきり、痛切の灼熱を踏み越えて――狩人よ、前へ。
 
 

 
後書き

……

Riseにて登場した新モンスターのうち、大社跡が初登場にあたる面子をここで 属☆性☆解☆放(…)
そして夜一の鉄蟲糸技は相変わらず独自設定にてフル稼働となっています。

テオさんはオオナズチ氏の要請でギルド職員さんたちとやり合った後に出てきているので、三頭のうち一番の功労者。
メインストーリーは夜一と艶の話になるので、だいぶん端折ってしまいました…ぐぬぬ。
次回よりクライマックスです。
 

 

漆日目 「通夜」


どれくらいの時間が経ったのか、もう思い出すこともできない。
真っ暗闇に沈む穴の中で、ヤツカダキはふと物音を聞いたような気がして顔を上げた。しかし、折り畳んでいた鋭爪を開いてそっとあたりを見渡してみても、何者の気配も感じられない。
無理もない。ここは大社跡の最奥の更に奥、他の生き物が入り込むのが困難な洞穴を妃蜘蛛の同胞が歳月をかけ、より深く削って創り出した特別な巣穴だ。その深度たるや遠く離れた砂の大地の地下遺跡に匹敵するほどで、一度潜れば二度と出ることが適わぬ天然の迷宮となっている。
ふと水滴が鍾乳石や霰石にぶつかって音を立てる。ヤツカダキの灯腹に籠もる高熱の灯に照らされた水草や苔が煌々と輝き、幻想的な空気を醸し出していた。

『……夜一、さん』

うな垂れ、俯き、そっと愛しい人間の名を呟けば、たちまち視界が潤んで掠れていく。
オオナズチに言われてこの住処に戻った後、何度も繰り返してきたことだった。自分でも甘えている、馬鹿げているとヤツカダキは思う。
自らここに戻ってきたはずなのに、この未練たらしさはどうなのか。足下の水たまりに視線を落とせば、そこに映るのは不気味な怪異の姿そのものだ。

『……いっそ、あの人に出会っていなければ』

悔しい、悲しい、切ない、涙が止まらない。夜一と出会っていなければ、確かにこんな痛みや苦しさは感じずに済んだだろう。
だがそれがなんだと言うのか。たった六日間、その間に自分はどれほど彼に、彼と親しいオトモたちに愛して貰えたか……忘れることなど、できはしない。

「――、」
『……? なに?』

嗚咽に肩を震わせていると、今度こそヤツカダキは何らかの物音を耳にした。水たまりを踏み、ゆっくり、ゆっくりと亀の速度でこちらに向かってくる。
誰だろう、と身構えた直後、ヤツカダキははっとして固まった。この巣穴は大社跡の奥深く、更に森の深部を越えた土の下にある。
……気易く入ってこられるような場所ではない。灯りがないところから察するに、たまたま迷い込んだ動物か、霞龍の指示を届けにきたオサイズチだろうか。じり、と僅かに後退すれば、今度こそ荒い息遣いと、ふらつきながらも一歩一歩進んでくる確かな足音が聞こえた。

(にっ……人間? そんな、そんなまさか!?)

密猟者だろうか。まだ、妃蜘蛛の絹糸が欲しいというのだろうか。
ごくりと唾を飲み、ヤツカダキはそっと前に踏み出し爪を構えた。こんな暗がり、まともな人間なら一歩入るだけで恐怖で逃げ出しそうなものなのに。
そうしてヤツカダキは、自身の居座る横穴の曲がり角に咲く光苔が、侵入者の影をぼんやりと照らし出すのを視認した。
……酷い血の臭いがする。訝しむように顔を伸ばしてみると、その人影が見るも無惨な怪我を負っていることがはっきりと見てとれた。

『……え、あっ……?』
「……艶。そこに、いるのか」

自分は夢でも見ているのだろうか。あるいは、あまりにも強く恋い焦がれるあまり幻を待ち望むようになったのか。
血は滴り、一部の肉は焦げ、長かった黒髪は途中で千切れてしまっている。防具は散々に破れ、焼け焦げ、元の美しい紺色を煤けさせていた。
歩く度、歩み寄る度、からからと身に着けていたクナイや留め具が零されていく。左腕は力なく垂れ下がり、携帯している筈の雷狼竜の剣も見当たらない。

『……ッ、よ、夜一、さ……』
「艶。悪い……ちょっと、疲れたみたい、だ」
『!? 夜一さん、夜一さんっ!!』

ばしゃん、と大音が鳴った。表情の全てを覗かせる前に、最愛の狩人は曲がり角の途中で倒れ伏す。
ヤツカダキは悲鳴を上げた。絹糸を纏わせた歩脚を突き動かし、水面に顔を埋める男の体を絹糸の繊維を駆使して持ち上げる。
顔色が悪い、息も絶え絶えだ。何故、どうして彼ほどの手練れがこのようなことになったのか。吐き出した糸で体を支えてやり、ひとまず壁にもたれさせる。
ただごとではない――死なせてしまうかもしれない。そんな恐怖に怯えながら、しかしヤツカダキは心の底で歓喜していた。
会えて、嬉しい。顔が見れて嬉しい、また会えるとは、思わなかった……身勝手な思考を振り払うように頭を振り、慰めるように鉤爪で男の頬をなぞった。






「う、ん……?」

ぽたり、と冷たい感覚が頬に落ちる。暗がりの中で目を開くと、そこかしこがぼんやりと薄く光を放っていた。
多くは自生する光苔であり、その灯は酷く頼りない。あたりの景色は朧気で、ここがどれほどの広さの空間であるのか検討もつかなかった。
見渡そうとして上半身に力を入れた瞬間、ずきりと強烈な痛みが迸る。苦鳴を上げると、空間の奥で何かが蠢いたのが見えた。
大きな影だ、少なくとも人間ではない。だが、夜一には恐怖心など欠片も沸かなかった。

「……そんなところに」

小さく失笑した。一方で、穴のより奥、暗闇の中隠れるように小さくなっているその影は、存在を気取られないよう懸命に息を殺している。
視線だけで己の体を見下ろしてみると、不思議な布地の上に寄りかけられているのが分かった。白い糸を何重にも重ねて織られた、しなやかで頑丈な織物だ。左腕を中心に体の一部は編まれた糸で緩く固定されていて、引き裂かれるように痛んでいた傷口も少しは気にならずに済む。

「艶。そこに、いるんだろ?」

夜一は背中を敷物に預け、甘く呼びかけた。黒い影はびくりと大きく体を跳ね上げさせ、後にすぐ息を潜ませ沈黙する。
今度こそ夜一は噴き出した。いちいちこちらの様子を窺い、無視も出来ずに些細な変化に逐一反応してしまうあたり、「彼女」は本当に優しいひとだと思う。

「あー……なんか、あちこち痛くなってきたな」
『……!』
「どうするかな、ちょっとだけ体を動かしてみるかな」
『……!?』
「うっ。これ、骨折れてないか……」
『――っ!!』

がさり、と堪えきれずにそれは這い出てきた。予想していた通り、それは大きな蜘蛛型の怪異であった。
蜘蛛糸で編まれた鎧を歩脚に纏わせ、石榴の爪は鋭く、腹の奥にしまわれた顔面はどくろのような形をしており、その上に八つの琥珀が散りばめられている。見慣れた金色だ。煌々と明滅するそれをじっと見つめて、夜一は背中を敷物に預けたままにやりと意地悪く笑いかけた。

「つーや。なんで出てきてくれなかったんだよ」
『……!!』

怪異はぶるぶると巨体を震わせた。もし彼女が以前のような人の姿形をしていれば、きっと顔を真っ赤にしてむくれているのに違いない。
痛みを堪えて右手で手招きする。妃蜘蛛は逡巡するように眼を下に彷徨わせ、歩み寄ってきた――本当に、心底可愛い女だ。夜一は笑いを抑えられなかった。

「艶だよな」
『……』
「艶だろ? なんで黙ってるんだよ、バレバレだぞ」
『……』
「艶なんだろ? ……俺のこと、助けてくれたんだよな。ありがとうな」

微笑みかけ、うんと手を伸ばして鉤爪をそっと撫でてみれば、琥珀から大粒の雫がぼたぼたと流れ落ちる。
泣くなよ、そう言いながら夜一は喜びを噛みしめるように爪に頬ずりした。緩慢な動きで戻された鉤爪が、ごり、と頬骨にぶつかりながら触れ返してくる。
途端、ヤツカダキはさっと身を翻した。確かに触感は「艶」とは大きく異なる、だがそれがなんだと言うのだ。夜一は荒く息を吐き出した。

「艶。逃げるなよ」
『……っ』

手を伸ばせば届く位置で彼女は止まった。無理やり体を起こそうとして、皮膚に刻まれた裂傷と火傷の酷さに顔をしかめる。あの炎王龍め、覚えてろよ――ぎりっと強く歯噛みして、敷物を支えに立ち上がった。足下の水音で気がついたのか、妃蜘蛛ははっとしたように振り返る。
真っ向から、ようやく向かい合った。赤黒い頭部を目の当たりにして、夜一は震えるでも逃げ出すでもなく、柔らかく笑う。
命を懸け、職も名誉も全てを置き去りにして、それでもなお会いたかった女だ。それを見つけられたというのに、どうして怯えることができようか。

「なんでここが分かったかって? そんなの、邪魔してくる奴らを逆に辿れば簡単なことだろ」

へなへなと、力なく歩脚を折りヤツカダキはへたり込む。できれば近くまで来て欲しかったんだけどな、夜一は痛みを噛み殺して一歩、二歩と前へ進んだ。

「それより、艶。君の人脈ってどうなってるんだ? 大社跡の怪異はまだいいとして、霞龍とか炎王龍とか……顔が広すぎるんじゃないか」
『……』
「俺は心配だなー……俺よりいい男揃いだろ。いや、君は浮気とかするようには見えないけど。男ってのは欲しい女は力ずくで手に入れようとするからな」
『……っ、』
「艶だって女の子なんだから、力では適わないだろ? だからよその男には十分注意して、」

刹那、視点がぐるりと回転する。ばしゃん、としたたかに背中を水の張った地面に叩きつけられ、息が詰まった。
見上げた先、蜘蛛型の怪異は口惜しげにぎりぎりと顎を鳴らしてこちらを見下ろしている。これは怒ってるな――眉根を寄せて夜一は彼女の顔を見つめた。

『……、……!!』
「えーと、艶?」
『~~っ!!』

座り込んでいたのが嘘のようだ。妃蜘蛛はばたばたと織物を纏った歩脚をばたつかせて、いかにも地団駄を踏むかのように「抗議」した。
自身が言い放った言を思い返し、夜一はああ、と苦笑混じりに頷き返す。

「馬鹿だな。俺が君を他の男に渡すはずないだろ」
『――っ!』
「あ、や、違うな。あー……俺は浮気なんかしないよ、艶がいるのにそんなことするわけないだろ」

琥珀色が歓喜に震えるように激しく明滅し、頭部に乗せられた敷物はぐらぐらと危なげに傾いだ。
顔面をこちらに向け、目が合いそうになればさっと鉤爪で隠し、またそろりとこちらの様子を窺い……ヤツカダキは忙しなく、かつ情熱的に夜一を求める。

――馬鹿だな。そんな可愛いことしてくれるんじゃ、手放したくても手放せないじゃないか。

くつくつと喉を鳴らして、夜一は寝転んだまま目を閉じた。「愛している、愛されている」。その確信と幸福感が、朽ちかけていた身体に力を与えてくれる。
腕を伸ばし、引っ張り上げるよう催促してみた。一瞬ぴくりと肩を跳ねさせた妃蜘蛛だったが、すぐにするすると糸を吐き出し始める。
何度も繰り返し端で折り返し、器用に蜘蛛糸を丈夫な紐に仕上げた後。夜一の眼前にそれを垂らし、ヤツカダキは意固地にぷいっと顔を逸らしてみせた。

「ん、しょ」
『……』
「あ、やべ。力、入らない」
『!?』

垂らされた紐を掴んだはいいが、あえて夜一は途中で力を抜いた。ずるりと落ちかける体を、慌てたように怪異が両前脚で支えてくれる。
強度だけでなく弾力性と柔軟性を兼ね揃える蜘蛛糸が背中に触れた。ネルスキュラのそれとは性質が異なるように感じて、狩人は素直に感心する。
顔を上げれば、不気味としか言いようのない暗い頭が自分を見下ろしていた。表情は垣間見ることさえできないが、明らかに当惑している気配が読み取れた。

「艶。はは……やっと捕まえた」
『……! っ、』
「馬鹿だな。俺が君を離すと思ったのか」

至近距離だ。噛まれればそれで終わり、顎を突き立てられたとしても抵抗のしようがない。
だが、それでよかった。手を伸ばせば、すぐに愛しい女の顔に触れることができる。逃がさずに捕らえきることができる。ぺたりと冷たい触感を感じた直後、夜一は間髪入れずにその黒い上顎に口付けした。輪郭を手で押さえつけ、八つ眼を避けて位置を変えては何度も繰り返す。
当然妃蜘蛛は逃れようとして身じろいだが、しばらくすると夜一の体を抱きかかえたまま、諦めたようにその場に座り込んでいた。
……きっと、いつもの艶ならぎゅっと目を閉じたままの真っ赤な顔で、上向きがちに唇を結んでいるはずだ。悪戯心に負けて、なお首を上へと伸ばす。

――よっ、夜一さん!!

頭の中に、切実な叫びが響いた……ような気がした。そっと目を開いてみれば、小刻みに震える怪異と視線が重なる。
上顎、触脚、鋭い牙。その奥に見え隠れする口器に触れてみたいと、舌を突き入れてみたいと考えていた男の思考を捉えたのか、ヤツカダキは戦慄していた。
どうあってもその一線を越えさせる気はないらしい。残念だ、そう思うと同時に、まあ無理もないか、と夜一は背を蜘蛛糸に預け直した。

(俺は全然構わないんだけどな。けど艶が嫌だって言うなら、無理やりするのと同じだからなあ)

「それでは面白くない」。ふふ、と堪えきれずに笑い声を漏らすと、あとは止まってくれなかった。
抱きかかえられたまま声を上げて笑う狩人を、怪異は愕然とした顔で――夜一の目にはそのように見えた――まじまじと見つめている。
自分はおかしいのかもしれない。彼女を好くあまり、シロタエのときと同じように「己が壊れてさえしまえば我が儘も通る」と学んでしまったのだろうか。

『……』
「艶、」

その瞬間、音もなく妃蜘蛛ははらはらと涙を流していた。はっとして笑い止んだ狩人を見下ろして、嗚咽を上げるように顎から小さな音を漏らし続ける。
何故、どうして。動揺して夜一が手を伸ばすと、そろりと頭を下げ、上顎や触脚で頬ずりをするように手に触れてくる。

「……艶。君ってひとは、本当に」

心臓が引き裂かれるような苦痛を訴える。頭が割れそうに痛む。ぎりっと強く奥歯を噛んで、夜一はその昏い頭を撫でてやった。
何故、自分は人間なのだろう。
どうして、彼女は怪異なのだろう。
生きてきた環境も、価値観も、暮らしやすい場所や餌さえ違う。それだけではない、彼女は自分に「人間として」の生を全うして欲しいとさえ願っている。
村に戻り、腕利きとして人々を救い、オトモと共に古龍を狩って英雄として名を馳せる。それが最善であり、人としての幸福だというように。
……そんな単純な話ではないことくらい、自分でも分かっている。彼女は身を引こうとしているのだ、暗い穴に身を埋め、全ての甘やかな思い出に蓋をして。
何故そんな残酷なことを願ってくれるのか。
どうして傍にいてくれないのか。
何故、どうして……涙を流し続ける艶に思いきり手を伸ばし、その顔に触れ指でくすぐりながら、夜一は静かに涙した。

「……艶。お別れだ」
『……っ』
「最後に俺の頼みを聞いてくれないか。本当に、これで最後にするから」

牙に、触脚に――その奥に。固く、ざらついていて、柔らかさはおろか色香の欠片すら感じさせられないその最奥に口付けて、狩人と怪異は寄り添い合う。
遠くから嵐の音が聞こえたような気がした。それでもなお口器に舌を這わせ、見つめ合いながら、夜一は支えられるまま艶に笑いかける。

「艶。艶……お願いだ。俺のことを抱きしめてくれ。傍にいてくれなんて、俺の近くから離れないでくれなんて……そんな我が儘は、もう言わないから」

ああ、なんて美しい琥珀の灯なのだろう。見上げた先で、最愛の美しい蜘蛛が息を呑む気配が伝わった。
いつものように、慣れたように夜一は両の腕を広げる。左腕に巻かれた包帯代わりの蜘蛛糸が、みしりと悲鳴を上げていた。
悩み、逡巡し、困り果てたようにヤツカダキは顎を左右に揺する。夜一は辛抱たまらないと訴えるように、ほら、と腕を広げ直して懇願した。

「艶。艶……好きだ、君が好きなんだ。俺のことを……抱きしめてくれ。本当に、そうして欲しいんだ」

それが決定打となった。
意を決したように、妃蜘蛛は――「艶」は「両の腕」を広げた。濃紫が灯腹の灯火を映し取り、暁の空の如き不穏な輝きを帯びる。
夜一が艶を抱きしめるのと、艶が夜一を抱き留めるのは同時だった。一刻の差異もない。ぶちりと肉と骨、血管と皮膚を突き破る、鈍く残虐な音がした。

「……ッつ、や」

湧き出る、沸き立つ、匂い立つ。深紅の体液が一滴、一筋、滝のように溢れ出し、掠れた恍惚とした声を拾った。
艶はその姿のまま硬直していた。眼前、しかと抱きしめたはずの狩人の身体が大きく跳ね上がる。体内で燃えていた男の猛き生命が、瞬く間に零れていった。
熱い、冷たい、痛い、寒い……嬉しい、嬉しい。茫然自失の艶を置き去りに、夜一は口角を上げて陶酔する。

「……好きだ、愛、して」
『――ッッ!!』
「……つ、や」

「もっと早くにこうしておくべきだった」。薄れいく意識の中、夜一はそんなことを考えていた。
両親のこと、シロタエのこと、先生のこと、村のこと……暁と灯火のこと。全てのものたちが、漆黒の暗がりの中に沈んでいく。遠くに離れて消えていく。
そんな中でも、艶の姿だけはしかと捉えられていた。儚く笑い、はにかみ喜色を貌に滲ませ、名を呼んでくれる最愛のひと。
……痛みは、もう感じられない。ただただ純粋な幸福感が満ち満ちていた。
ひときわ熱い液体が、急速に冷えていく体の内側から駆け上っていった。噴き出したそれは、留まることも知らずに外側に緋を散らしていく。
視界の端、今も艶が身に着けてくれていた紫色の髪飾りが、びしゃりとそれを受け止めていた。艶やかな紫色が、たちまち赤黒く醜い色に染められていく。

――艶。本当に、綺麗だ。

生ける証を大量に零して、残されたものに爪痕を深く刻みつけながら。黒髪黒瞳の狩人は、鋭爪に貫かれたままついにだらりと動かなくなった。
遠くから嵐の音が聞こえたような気がした。真っ暗に沈んだ穴の中、切り裂けそうな怪異の絶叫が響いていた。
 
 

 
後書き

……

クライマックスその壱。「艶」と「通夜」の単語重ねは、一話目の作成時点というかなり早いタイミングで思いついたものでした。
お目通し下さった読者の方の多くに、概ね好評でした。とてもありがたいことです。

ふたりの間にツケヒバキが授けられたり…など様々なケースを想像していましたが、夜一の最期はスタート時点で決まっていました。
このお話は妃蜘蛛装備のテキストをベースとしているため、「男」は「抱き方を忘れたヤツカダキ」に貫かれることが初めから確定していたからです。
なおRise公式資料発売前の完結作品だったため、この話におけるヤツカダキの繁殖事情については独自解釈となってしまいました。トホホ…
 

 

漆日目(2) 「灯」


「駄目です、秘薬まだ足りません!」
「枝でも竹でもいいから持ってこい! 固定できればなんとかなる!!」
「痛い、痛いよ……」

大社跡ベースキャンプ。普段は竹林とせせらぎ、静寂に包まれるこの広場は、狩りに赴くハンターたちにとって一息吐ける休息の場であったはずだった。それも今となっては見る影もない。街道に通じる道路を中心に、テントの周りには怪我人、重傷者、救命士と大勢の人間がごった返している。
その多くは怪異の研究、生態解明の方面に明るい者たちばかりであったが、想定外の事態に直面した今、統率は崩れかけていた。
治療、搬送の指揮を飛ばしているのは赤い洋装に身を包む年配の男だったが、その努力も虚しく、その場にいる誰もが疲労と疲弊に飲まれかけている。

「あのぅ、ヒューイ隊長」
「トゥーリくんか。どうした」

包帯を詰めた籠を持ちながら遠慮がちに男に声をかけたのは、近くの人里から派遣された職員だった。眼鏡には泥が付着し、服も皺だらけになっている。
外観は疲労を隠そうともしていなかったが、少女は毅然と背筋を伸ばしていた。その姿はまるで何者かに焦がれ、その到着を待ち侘びているかのようだった。

「その、夜一さんを見てないです? あの、黒の一本結びの髪でぇ……」
「ああ、君の里のハンターかね。残念だが、見かけていないな」
「ぴえ……夜一さん、どうしちゃったんでしょぉ……」

それはこちらが聞きたい、と間延びした口調に苛立ちながらヒューイは口を噤んだ。狩りの受注をするもしないも、当の狩人の判断次第だ。特にこのような非常事態においては、命の保証がされないことも多い。よほどの胆力と覚悟がなければ「自慢の」夜一とやらも邪魔となる可能性もある。
……自身の直属である部下がその夜一という狩人を頼って人里に向かったと聞いたとき、ヒューイは誰がお前たちの上司なのか、と叫びかけたほどだった。

「おかしいですよぉ、夜一さん、こんなときは絶対駆けつけてくれるはずなのにぃ」
「トゥーリくん、君はそのハンターと懇意にしているのかね」
「ぴえっ!? まさかそんな、わたしなんて相手にもされてないですよぉ」
「それは酷い男だな、君の魅力に気がつけないとは。全く、見る目がない……」

黙り込んだ受付嬢を見て、ヒューイは気取られないように鼻で笑う。こんなときに色恋などにかまけていられる人間がいればお目に掛かりたいくらいだ。
俯いたトゥーリの肩に手を乗せようとして、しかしヒューイはウッと唸りその手を止めた。彼の右隣、完全な死角を美しい白と青の毛並みが過ったからだ。

「――トゥーリさんニャ、灯火!」
「ワンッ!」

砂と雑草を滑るように蹴散らしながら、朱色の眼の獣人を背に乗せた、若い不言色の眼の牙獣が振り返る。
ざりざりと急停止をかけながら、二匹はヒューイを無視して受付嬢に頭を下げた。このとき、トゥーリの顔がぱっと輝いたのをヒューイは見逃さなかった。

「暁ちゃん、灯火くん!」
「遅くなっちゃったのニャ! 状況を教えて欲しいですニャ」
「ワウワウ!」
「え、っと、それはぁ……」

えへんと胸を張るアイルーを前に、受付嬢は言葉を詰まらせる。ちら、とこちらの機嫌を伺うような視線が向けられ、ヒューイは内心でにやりと笑った。

「君たちだけか、肝心のご主人様はどうしたのかね」
「ニャ、旦那さんはもう先に、」
「おや、薄情な狩人もいたものだ。ご主人様が不在なら狩り場に入れるわけにはいかないな、『置いて行かれた』わけだろう? 無許可で通すわけにいかん」

あんた誰だ、そう言いたげな獣人に正面から嘲笑を浴びせると、白毛のアイルーは言葉をなくして固まった。大人げないと思わなくもないが、指揮官の話を聞かない部下に辟易とさせられていたのだから仕方ない。何より素人に怪我をさせるわけにもいかないのだ。
ヒューイは満足したように頷いた。眼前、受付嬢も獣人も悔しげな顔で黙り込んでいた――ただの、一匹を除いては。

「ウゥー……ワンッッ!!」
「ギャッ!?」
「うわっ、と、灯火っ……」

ガブリと、鈍く重苦しい音がした。血の玉が飛ぶ。突如として、ガルクがヒューイの太股に噛みついた。場は騒然となった。モンスターだ、誰かが叫び、隊長を護れ、誰かが武器を手に掴む。狼狽えるトゥーリを置き去りに、身を翻した灯火が軽々と地を蹴った。
高速、目にも留まらぬ駿足だ。風を切り、笹の葉を掻き分け、身軽な体はあっという間に大社跡の入口に降り立った。
暁が背中にしがみつきながら何度も声を掛けるも、その足が止められることはない。

「灯火、灯火ぃ! 言うこと、聞くニャー!!」
「ヴァウッ」
「どーしたのニャ、何があったのニャ!? 灯火はそんな悪い子じゃ、」

いでっ、と低い唸り声。灯火が段差を飛び退いた瞬間、暁は自分の舌を噛んだようだった。掴まりながら器用に悶絶している。
それでもなお、灯火は足を止めなかった。「いつもの良い子の灯火」なら、暁が負傷しようものならどんな状況下であっても無理に足を止めるはずだった。しかし、今の灯火にそれを守る余裕はない。先ほどから、否、夜一が戻らぬ夜の頃から、ずっと髭がぴりぴりするのだ。
頭上高く、大社跡の最奥のあたりから、びりびりと毛を叩く殺気が感じられる。ちらと夜空を仰いだ瞬間、その予感は的中していた。

「! な、なんなのニャ!?」

暁が背中の毛をぐっと掴む。痛みを覚えたが、灯火は立ち止まらずにひたすら駆けた。
大音、震動。遙か彼方、大社跡の奥地から火柱が上がった。恐るべきことに業火が風の渦に巻かれて逆巻き、天高くまでに届く灼熱の竜巻を作り出している。
森がざわめき、空気がひりついた。鳥たちは群れを成して竹林を飛び立ち、小型の怪異たちもこれはたまらんとばかりに入れ替わりで逃げていく。

「火、ニャ……燃えているのニャ……?」
「ウゥ……ワォーンッ!!」

愕然とする暁を余所に、灯火は体躯を思いきり地面すれすれまで横に倒し、駆ける清流の上に暁ごと全身を浸した。
アイルーの悲鳴と罵声が耳を打つが、構っている暇はない。あの先、炎の迷宮のその奥に――嗅ぎ慣れた、唯一無二の匂いが立ちこめているからだ。

「ワゥ……ワォーンッ!!」

水飛沫を走らせながら、懸命に名を呼ぶ。必死にその後を追う。何故ならば、夜一の血臭は既に消え入りそうになっていたからだ。






熱風が頬を叩く。鼻先がじりじりと焼ける。眼前、辿り着いた大社跡の最奥……人間はおろか自身でさえ決して入ろうと思わない、深く暗い大穴。
大型の怪異が狩りの最中、ほうほうの体で逃げ込むその先に今は暗闇など欠片も存在しない。穴を中心に炎が燃え盛っているからだ。体を吹き飛ばすような暴風が荒れ狂い、穴の奥から噴き出る業火を巻き上げる竜巻に仕立てている。
……灯火は、身を低くして渦の流れを読み取っていた。土と水草、苔を焼き尽くす炎の勢いは、全く衰える様子がない。間を見誤ればたちまち黒焦げになる。
それでも、その先に行かなければならないのだ――大好きな狩人が、その底で自分たちの到着を待っている。

「灯火……本当に、ここに入るのニャ?」

もちろんだ、そう答える代わりに一度唸った。灯火にとって、暁は共に育った兄弟に近しい存在だ。彼ならばこちらの意図もある程度汲み取ってくれるはず。
だからこそ遠慮はしない。体をずぶ濡れにしたのも、少しでも損傷を軽減するためだ。決して命知らずな特攻を仕掛けるわけではない。
『帰るんだ』、叫んで頭を振る。『ご主人様と暁、艶さんの三人でお家に帰るんだ』、楽しげに笑い合っていた二人を、共に過ごす日々を取り戻すために。

「……そっか。分かったニャ、ボクもオトコニャ、死なば諸共なのニャ!」

いや死んだら駄目だよ、灯火は苦笑いと共に小さく鳴く。釣られるように暁が噴き出して、刹那、燃え続ける穴の中へと飛び込んだ。

「うっ、く……灯火っ、無事なのニャ!?」
『今、口開けちゃ駄目だよ! 焼けるから』

熱さと痛みが全身を打つ。信じ難いことに、炎は穴の内部から生み出されていた。外で火が竜巻と化していたのは、黒い暴風が炎を吸い寄せていたからだ。もはや二匹ともども冥い穴の中、外がどうなっているか、暴風を起こした主が誰なのか……知る術は失われてしまった。
ばしゃりと音が跳ねる。熱湯のような地下水に足が浸る。苦鳴を上げた灯火のうなじのあたりを、暁の小さな手が懸命にさすっていた。
ごちゃごちゃと考えている暇はない。汗すら乾ききる穴の中を、炎の出所を探るように逆行して奥へ進む。

『暁っ、前、どうなってるか分かる!?』
「うニャァ……あっ、何かいるのニャ!」

喉が焼ける。毛が縮れる。足の感覚はもうなくなってしまった……力の限り叫ぶと、同じように息も絶え絶えな相棒から悲鳴混じりの応答があった。
眼前、入り組んだ穴の奥深く。不意に横に反れるその先に、目映く輝く黄金色の光を見た。
炎の赤と混ざっていて分かりにくいが、確かにあれは業火と異なる「灯」だ。呼吸さえ難しくなった口を開いたまま、灯火は這いつくばるように歩を進めた。

『……あれ、なに?』

跳ねる水音がより強まる。同時に、曲がり角に差し掛かっていた灯火と暁は言葉を失った。横穴の全てが深紅の炎に覆い尽くされていたからだ。
天井から岩壁、足元まで、目に入る全ての光景を焼き払わんとする火災だった。絶句した二人の眼に、その中央、踊り狂うように頭部を回す怪異の姿が映る。
蜘蛛の形をしていた。纏っていた織物は焼け落ち、濃紫や石榴といった艶やかな爪や歩脚は黒く焦げ……それは怒り喰らっていた。
「八」つの眼を光らせて、この世の全ての「禍」を焼くように、焼けただれる何者かの肉塊を折り畳んだ鋭爪にしかと「抱」く――雌個体の麗しき「姫」君。
……それの名は、ヤツカダキという。人里離れた森の奥で、ひっそりと息を殺すように生きる怪異の一つだった。

「あれ……なんなのニャ……」
「……ヴゥ、」
「とも……ッ、ゲホッ」
「ヴゥ……ワォーンッ! ギャウウッ!!」

喉が焼かれ、まともに言葉を発せない暁をその場に残し。灯火は、目の前の憤怒に狂ったヤツカダキめがけて疾走した。
血臭はもう放たれない。面影も、紺色の揃いの装備も、笑った顔も、撫でてくれる長い五指も、何もかも。その全ては、あの赤熱の中に埋もれてしまった。

『ご主人様……ご主人様ぁ! なんでっ、どうして……!!』

ぐるんと首を回して、おぞましい顔の怪異がこちらを見る。真っ向から向き合った瞬間、灯火は走る勢いそのままに跳び、その大顎に噛みついた。
牙が滑る、眼にも掠らない、傷一つつけられない。ずるんと滑った瞬間、情けなくべしゃりと地面に落ちる。
四本足が震えていた。思うように力が入らない。ぐずぐずと毛皮が火の粉で焼け始め、灯火は痛みと恐怖に泣きながら顔を上げた。

『――、』
『痛い……痛いよ、もう怖いよ……ご主人様……「艶さん」……』
『……、とも、しび……くん?』

聞き慣れた声が、聞こえたような気がした。既に燃え尽きかけている最愛の主人を抱えた怪異が、ゆっくりと頭を下げ、灯火の顔を覗き込む。
見つめ合った直後、それは可燃性の気体を腹部に押し戻した。口から射出していた炎も塞き止め、即座に両前脚を振り下ろす。

「とっ、灯火、」
『暁ちゃん! ――逃げて!!』

前のめりになり、多量の蜘蛛糸を出糸突起から吐き出すと、動かなくなった灯火を絡め取り、その片脚へとくくりつけ。ヤツカダキは――「艶」は走った。
途中、暁をも蜘蛛糸に巻き込んで二人を連れ去り、火中をひた走る。鋭爪に貫かれたままの死体は決して手放さず、穴の入り口、その出口へ。

『……っ、ああ、そんな』

見上げた先、遥か頭上に出口の穴へと通じる暗闇が広がっていた。あの暗がりを抜け、少し走った先に出口はある。炎は急停止させたが、灯腹に宿していた可燃性の気体は穴の中に根強く拡散されていた。そのため、外気に最も近い高所でさえ残り火で明るく照っている。
艶は手元に視線を落とした。火傷と熱中症で苦しみ悶えるオトモたちと、彼らの主。嘆いている時間はない――何としてでも、ここから助け出さなければ。
再度多量の蜘蛛糸を吐き出して、ほとんど垂直である岩壁の出っ張りへ投擲する。灯火をくくりつけた片脚に暁の体を固定して、崖に片脚をかけた。

「ニャ、ど、して……」
『暁ちゃん』
「やっぱり……艶さん、なのニャ?」

艶は愕然として小さな獣人を見た。これほどまでにおぞましく、恐ろしく、元の面影など欠片も残さない化け物なのに……何故、それが分かるのか。

「ニャハハ、当たった、ニャ。ケホッ、グゥッ……」
『暁ちゃん、喋らないで……』
「だん、なさんを……大事にして、くれたのは。クーロさんと……艶さんだけ、ニャ。忘れるワケ、ないのニャ」

ニカリと、それこそ夜一を真似るように暁は笑う。心臓のあたりが強く跳ね、視界が瞬く間に潤んでいった。
「自分こそが夜一の命を摘み取った罪人なのに」。その一言は、喘ぐように震える口器の奥に貼りついていて、一欠片さえ吐き出すことができない。

「それに……艶さん、艶さんは、」
『暁ちゃん、もういいから……もう、喋らないで……』
「艶さんは、旦那さんの大好きなひとニャ。ボクたちだって……そうなのニャ。だから、その髪飾りを見れば……すぐにそうだって……分かるのニャ……」

むしろ分かんない方がバカなのニャ、それだけを言い残すと、暁は朱色の眼を目蓋でゆっくりと覆い隠した。
……艶は、忘れてしまっていたはずの涙を流してその場で喚き散らした。纏い直した織物を揺すって地面を踏み鳴らし、言葉にならない声を上げて慟哭する。
ぎっと天井を睨みつけ、半端になっていた崖登りを再開させた。もう、手元には何の熱も残っていない。歩脚に結んだふたつの灯も、絶えようとしている。
それでも崖に後ろ脚をかけた。天地が入れ替わり、残り火で照らされた水たまりに、灯腹を突き出して上下逆さまになった怪異の間抜けな姿が映り込む。

『何故、どうして……』

みしみしと、蜘蛛糸が軋んだ。思い返してみれば、おや、と思う瞬間は何度でもあったはずだ。
夜一に抱かれた夜、彼は自分が失言した落命の件について何も触れなかった。それどころか、自身の痕跡を刻むようにより一層強く、この身を抱いてくれた。
灯火は最初こそ自分に唸っていたが、洗い物のついでにこっそり仕留めた狸獣や川魚の焼き物を「携帯食料のこんがり焼き」と代えて渡すと、喜んでくれた。
暁に至っては、柱に飾った額縁で何度も髪飾りの位置を確認している自分を見てニヤニヤしていた。それがたとえ丑三つ時でも、漆黒の闇の中であろうとも。
皆、「艶」が「ヤツカダキ」であることに気がついていた。いつかのオオナズチの言葉は、真実まことだったのだ。

 ――勘のいい人間というのは何処にでもいるものさ

ぐっ、と力を込め糸を握る。半ばほどまで登ったところで、艶は霞龍の言葉を反芻した。彼はこうなることが分かっていたのだろうか、それとも。
ぼろりと大粒の涙が流れ、眼下へと吸い込まれていった。ふと意識をその底へと向けて、艶は絶句する。
……王剣シツライ弐が、穴の底に深々と突き刺さっていた。夜一が片時も離さず腰に下げていた、彼の武器。彼の分身、相棒ともいえる青緑と淡黄色の得物。焼け焦げ、一部の部品は剥離し、あるいは刀身をひしゃげさせ、尖角由来の気高くも美しい獰猛さは失われている。

『……ああ、ああ……夜一、さん』

あの場に剣を残したのは、夜一当人であるのに違いない。彼は、端から武器も持たずに自分に会いに来てくれたのだ。
自分が艶本人であるという保障も、それこそ穴の中が安全な場所である根拠もないままに。その身一つで、あんな昏いところに訪れてくれたのだ。

『……い、ごめんなさい……』

自分は愚か者だ。夜一がそこまでの覚悟を決めていたことなど、まるで気がつかなかった。うな垂れ、艶は呻くように謝罪の言葉を列挙した。
――それが決定打となった。
みしり、と限界を迎えていた蜘蛛糸が、頭上遥か、僅かな岩の突起から剥がれ落ちる。ぶちり、と鈍い音を耳にして、艶ははっと顔を上げた。

『……あ、』

巨躯が傾ぐ。音が遠のく。視界が、滑るように下方へと落ちていった。あっという間の出来事だった。
バチリ、と鋭い音と閃烈な雷光が暗がりを舐めるように迸り、まっすぐに落ちてくる獲物の巨体を柄が穿つ。
青白い稲光は、果たして得物にとっての最期の意地となったのか。大音とともに妃蜘蛛の体は地面に叩きつけられ、その心は雷狼竜の化身に呑まれていった。

残り火が、ちらちらと昏い穴の中を照らしていた。
しんと静まり返った巣穴の奥に、命ある者の気配は残らなかった。終ぞ、継がれる光は灯されない。
 
 

 
後書き

……

オトモたちについてはかなり悩みました。生存、別タイミング、クーロかトゥーリへの引き取り等々。
しかし彼らが夜一に懐いていたこと、逆にいえば夜一以外には懐けなかったこと、何より妃蜘蛛のオトモ防具のことも踏まえてこの形に行き着きました。

ヤツカダキに対して雷属性は無効。雷狼竜の片手剣が最後の最期に艶を屠ったのは、とある狩人の矜持を汲んだ結果となります。
仕事を常に回避していた夜一でしたが、相棒とした剣は本来「無双の狩人」と呼ばれるモンスターの素材由来のもの。
ここでいう狩人とは夜一のことではなく…「武器防具はモンスターからの『借り物』である」、これは個人的に重要な解釈となっています。
 

 

最終夜 「赤月」


『……また随分と、派手にやられたねえ』

のんびりとした声を夜風がさらう。濁った池を掻き分けながら姿を見せた馴染みの顔は、常に比べて疲れているように見えた。
赤く、紅く燃えるようなたてがみは一部が削ぎ落とされ、ゆらりと揺れる尾には至るところに傷があり、炎を塗り固めたような甲殻には血が付着している。
紅鶸や洋紅といった差し色は変わらず艶やかなままだったが、麻痺の傾向が体内に残されてしまっているのか、歩き方もどこかぎこちない。

『幻影。君の言うように足止めはしたが……意味はあったのだろうか。あの火事だ、今頃彼らは』
『テスカト。ありがとうね。いいんだ、あの子らのことは、もう』

空色の眼が藤色の怪異の顔をじっと見つめた。何か言いたげな眼差しではあったが、彼はそれ以上オオナズチを問いただすようなことはしなかった。
炎と爆破粉塵を操る古龍、テオ・テスカトル。火に弱いオオナズチにとって脅威となり得る力の持ち主だが、彼はその外見とは裏腹に沈着な風格も併せ持つ。
多くを語らないまま、炎王龍は頭を振った。ちらと後方に投げられた空色の視線は、徐々に勢いを死なせていく竜巻を映して黒く艶めく。
ふ、と短い溜め息が漏らされた。オオナズチに向け直された視線には疲労はもちろんのこと、呆れや憐れみの念も滲んでいた。

『彼の狩人、筋が良かった』
『おや、そうかい? なら彼も本望なのでないかなあ』
『喪われることが彼の者の運命とは。しかしそれも定められたこと……惜しい、そして皮肉なものだ』
『テスカトは優しいねえ。それとも、今のは皮肉かい?』

どちらと捉えても構わない、そう答えるようにテスカトルは頷いた。ふむ、とオオナズチが首を傾ぐと、不意に二頭の周りに風が起こる。
ぶわりと水飛沫を巻き上げ、風は翔るように周囲の落葉を吹き飛ばした。派手な登場だねえ、と霞龍は楽しげに笑い、炎王龍は眩しげに眼を細めてみせる。

『――霞の! 生き物の気配が、死に絶えたぞ!』

ずん、と派手に音を立てて着地し、焦燥した声色で暴風の主はまくし立てた。根は神経質であれど、冷静さを欠かさぬ彼には珍しいことだ。
クシャルダオラはぎしりと牙を鳴らした。面食らったように左右の眼を反回転させながら、オオナズチはクシャナも大概お人好しだなあ、と独白する。
……彼には「大社跡奥、妃蜘蛛の巣で起こり得る『火災』の鎮火」を依頼していた。まさか本当に、あれほどの炎を起こされるとは予想していなかったが。
力強く歩み寄ってきた鋼龍は、睨めつけるような眼で霞龍の前に立つ。動揺しているのか、それとも動転か。彼の口端には凍てつく風が纏わりついていた。

『うん。端からね、あの子たちが助かるとは思っていなかったから』
『……分かっていて、俺に嵐を起こさせたのか』
『クシャナ、テスカト。言い方は悪いかもしれないけれど、僕が君たちに足を運んで貰ったのは妃蜘蛛の件だけではないんだよ』

オオナズチの視線は冷淡に二頭から離された。遙か彼方、異質な気配が大気を打つ。
ぎょっとして、鋼龍と炎王龍は目線を上げた。竹林がざわつき、空気が揺れる。風は強まり、次第に天上の雲は薙ぎ払われていった。
誰かの悲鳴が聞こえた。誰かがむせび泣く声を聴いた。真っ赤な月が顔を出し、大社跡全域を不気味に紅く染め上げる。
轟音、震動、心臓を鷲掴みにする純粋な恐怖……土埃と血の臭いがして、次の瞬間には、その「群れ」が百の鬼として列を連ね、大挙して押し寄せていた。

『ッおい、霞の!!』
『不穏な気配だ。これも定めだというのか』
『言っている場合か、炎王!』
『――落ち着きなよ、クシャナ。テスカトの言う通り、これは「避けられない」ことだ』

竹林が、落葉が、池が、山々が、滝が、清流が。ありとあらゆるものが踏みにじられ、荒らされ、砕かれていった。
妃蜘蛛の暴走が止まったことでようやく訪れた静寂は、瞬く間にその「群れ」に奪われ尽くした。
列を成す怪異は、どれもが発狂したようにけたたましい鳴き声を上げ、または怒り狂い、泣き叫び、我を忘れたように一斉に大社跡を通り過ぎていく。
オオナズチは微動だにしなかった。黙して眼を閉じ、親しい古龍にその場に留まるよう勧め、禍が過ぎるのをじっと待っている。

『……行った、のか』

クシャルダオラが呻くように呟いた頃には、荒れ果てた河川と大地が遠望に広がっていた。時間が経てば元に戻るさ、大社跡の主は嘆息交じりにそう諭した。

『考えていたんだ。何故、怪異たちが殺気立っているのか。どうして、一部のヤツカダキがあの巣穴から出て人間に見つかるような真似をしたのか』

一歩進んでは下がり、また一歩進んでは下がり。オオナズチは荒らされた直後の池に降り立って、夜の空に浮かんだ月を仰ぐ。

『全ての物事には理由がある……人間の持論だってさ。だったら、僕たちの知らぬ何者かがあれらを率いている可能性もないとは言い切れないよね』
『……霞の』
『テスカト。君の奥さん、今は溶岩地帯の奥地で子育てしているのじゃなかったっけ。元気にしているかい?』

ざわりと、炎王龍のたてがみが揺らぎ、震え、逆立つのが見えた。煽るな、小声で仲裁に入った鋼龍は、双方を見比べた直後苦い顔を浮かべて舌打ちする。

『つまり、俺たちの管轄下でも起こり得るという話か』
『うん。向こうの正体なんてのは……さっきも言った通りさ、分からないままなのだけれどね』
『……君にしては珍しいな、幻影。来るべき災厄と知っていて策を練らなかったのか』
『どうだろうねえ。何か来そうだ、それしか分かっていなかったから。僕も長生きしすぎて、勘が鈍ってしまったかなあ』

自虐と茶目を嘆息に混ぜて、オオナズチは視線を元に戻した。一方で、眼前の二頭の古龍は苛立ちと悔しさに口をへの字に曲げている。
聞く耳を持たないのか、生来の気位の高さ故か。鋼龍と炎王龍は、霞龍が我が身を以て知らせた警告に反発する素振りを見せた。

『古来より、縄張りとは個々定められしもの。聴かざる竜、守れぬ無法者がいるのなら……より優れた竜を狩りし者に摘ませるのも、悪くない』
『馬鹿を言え、悠長に待っていられるか。そら、そこのたたらの里でさえ先の連中に呑まれているではないか』
『……うーん。ふたりとも、気持ちはありがたいのだけれど、僕のお話聞いていたかい?』

悲鳴、慟哭、怒号、阿鼻叫喚。未だ明けぬ暁の下、灯火は容易く折られ、踏みにじられていった。それは何も、大社跡に限ったことではない。
霞龍は頭を振った。「百の竜が夜を行く」。そのような災禍、長い刻を生きてきたがこれまで一度も見たことがない。
しかし現実として、その大波は近辺の里を人間の生命ごと刈り取っていったのだ。遠くから、彼方から、人間のものだけでなく怪異の悲嘆も聞こえてくる。
……食い止めなければならない。元凶を突き止め、支配下の怪異を先導して被害を抑え。これ以上「禍群」の好きにさせてはいけない。

『古龍の腕の見せ所だ。霞の、俺は群島に戻るぞ。雪鬼だの轟きだの人魚だのと、策を立てねばならん』
『私もそうさせて貰おう。妻にも用心するよう、伝えねばならないのでね』
『ふたりとも、本当に僕のお話……いや、無粋だったね。分かったよ、特にテスカト、十分に気をつけて』
『嗚呼』
『ではまた』
『次の其の日まで』

――何時しかの密談は、こうして幕を閉じた。人知れず紫紺の炎が大気を撫でつけ、夜陰を好きに通り過ぎるうち、三古龍は確かな盟約を取り交わす。
何時の日か、あぶれた竜どもが摘まれる日も来るだろう。ぽたりと池の咬魚が跳ねた後、そこには誰の姿も残されていなかった。






ギルドが正式に名付けた災禍、「百竜夜行」。その被害総数は三日を過ぎてもなお把握しきれず、荒れ果てた里や村は片手では足りないほどだった。
焼け焦げた元は住居であったはずの瓦礫に腰を下ろし、黒髪の男は彼にとって人生初、といえるほどの深い溜め息を吐く。赤い洋装は返り血のどす黒さや泥土で汚れており、元の鮮やかさなど欠片も残していなかった。

「……大丈夫か、お若いの」

ふと目の前に影が差す。顔を上げると、四十ほどと思わしき中年の男がクーロを見下ろしていた。黒髪黒瞳の長身で、青年と同じように防具の損傷が激しい。
背中には一振りの黒い太刀を背負っている。こちらも刃こぼれが目立ち、酷い有様だった。返事ができずにいると、ほら、と手を差し出された。

「……どうも」
「何、困ったときはお互い様だ」

放っておいて欲しい、その言葉を飲み込んで手を掴む。互いの全身から砂埃が落ち、この男もあの災禍に立ち向かった一人か、と納得させられた。
貫禄はもちろんのこと胆力も備わっている。長いこと狩人をしているのだろう、大きな硬い手にはところどころ血豆が浮いていた。

「酷かったな。百竜夜行、といったか」
「……ああ。だが、一番大変なのは村の者だ。ギルドも支援は行うが、」
「お若いの。まず俺は、あんたを労いたいんだ」

どういう意味か、そう問う代わりに顔を上げたクーロは、男が今にも泣き出しそうなほどに顔をくしゃくしゃに歪めている様を見た。
この男は何者だ、疑問に片眉を上げていると背後から名を呼ばれる。ふらつき、よろめきつつ駆け寄ってきたのは、この里で受付嬢を勤めるトゥーリだった。

「トゥーリ、」
「ぴえぇ……見つけましたよぉ、クーロさん。あの、支援物資の第二陣が届きましてぇ」
「ああ、それなら……」

刹那、はっとクーロは振り返る。いつの間にか先の男は姿をくらましていた。足元には足跡の一つも残っていない、まるで幻でも見たかのようだ。

「クーロさん? どうかしました?」
「ああ、いや……それよりトゥーリ、夜一やそのオトモは」

刹那、悲痛に歪んだ顔は容赦なく横に振られた。涙を流して悔しがる受付嬢を前に、泣きたいのは俺も同じだ、とは言えず黙り込む。
外れ里の狩人、夜一。流れ者ではあったが、近年はトゥーリが常駐する里を拠点として名を上げ始めたばかりだった。当人は知らぬままだったのかもしれないが、既にドンドルマではその名も知られるところとなっていた――否、それ以前に自慢の友人だったのだ。
ニカリと子供のように笑う顔を思い出し、クーロは声を詰まらせる。馬鹿が、と罵りたくとも行方不明者が相手ではどうすることもできない。
それが酷く、もどかしかった。

「暁ちゃんや灯火くんの痕跡も……大社跡もかなりの被害を被っていて、捜すのも困難なんだそうですぅ」
「ああ。聞いているよ」
「クーロさん。わたし、里の受付嬢を辞めるつもり、ありませんからぁ」

不意に鼓膜に響いた宣言に、クーロは静かに顔を上げた。眼前、ひびの入った眼鏡の奥に涙を光らせながら、トゥーリは毅然として黒髪の騎士の前に立つ。
いつからこんな顔をするようになったのだろう。記憶が正しければ、彼女はいつも夜一の背中を目で追うだけの臆病な気質だったはずだ。

「辞めずにいれば夜一さんが戻ったとき出迎えられるじゃないですかぁ。だからわたし、辞めません。どんなに辛くても、あの人の導きの星になれるよう」
「……辛い人生になるぞ」
「平気ですよぅ。待つのには……モンスターの生態報告書待ちで、慣れてますからぁ」

えへへ、と笑う少女を前に、夜一も惜しい女を逃したな、とクーロは苦笑した。しかし、友人が他の女性を心から愛していたことも知っているのだ。
名は確か、艶といったはずだ。トゥーリと別れた後、ふとクーロは夜一と最後に言葉を交わした彼の自宅へ足を向けた。
火竜に焼かれ、雷狼竜に踏みにじられ、泡狐竜に打ち破られ……夜一の仮住まいは、他と同様、目も当てられないくらいに傷みきっていた。意味を成さない引き戸を開け、中に踏み込む。そうしてクーロは、無人と決めつけていた家屋の中に人影を見つけて固まった。

「君は……」
「なっ、何よ、ここは私の父が貸していたのよ! 夜一さんの物くらい、私の好きにしたっていいでしょう!?」

元は艶やかだった黒髪に、美しい着物。今や見る影もないほどに憔悴しきったその娘は、里長の一人娘だったはずだ。
何かを両手で隠し持ち、急いでその場から逃げ去ろうとする――火事場泥棒か、カッと頭に血が上り、クーロは珍しく怒気の籠もった手で娘の腕を掴んだ。

「いっ、痛い! 離してっ!」
「ふざけるな、夜一の家で何をしていた!」
「あなた何様なの、私の勝手でしょう!? お父様に言ってやるから!」
「――俺は夜一の友人だ! 勝手な真似は許さん!!」

「もう、あの男は生きていないかもしれない」。
クーロにとって、それは職業柄身に染みついた直感だった。誰にも吐露しなかったが、それは偽らざる本音だった。
あの日、あのとき、夜一を追わなかったこと。痺れを切らした暁と灯火の、泣き出しそうな睨めつける眼差し。あの燃える眼は今も忘れられない。
できることなら生きていてほしい。オトモ共々ふとしたときに何事もなかったようにふらっと戻ってきてほしい。いっそ元気な姿を見せてくれるだけでいい。
ただそれだけだった。多くを望めるような交友ではなかったし、夜一もそのくらいは理解してくれていると思っていたのだ……。

「やめっ……離してっ――」

――それが決定打となった。
つるりとスガリの手から取りこぼされた「小瓶」は、呆気なく土間に落ち粉々に砕け散る。カチン、とごく僅かな音が聞こえるばかりだった。
次の瞬間、ぶわり、と視界全域が紫に染め変わる。靄、いや、霧か煙か、それとも霞か。小瓶から飛び出した気体は、あっという間に夜一の自宅を覆った。

「うっ、」
「こ、これは……っぐう……ッ」

真っ先に、長の娘が膝を折った。咄嗟に腕で鼻口を覆ったクーロもまた、恐るべき速度で浸透してくる毒素に抗えない。
脂汗が滴り、悪寒が走り、両足が震えた。これはまずい――ふらつく足を叱咤して歩を進め、夜一の狩猟道具が詰められた青色の収納箱に手をかける。

(……すまん、夜一)

視界が霞み、手元がおぼつかない。それでも辛うじて、青色の液体が詰められた薬瓶を取り出した。一気にそれを呷ると、呼吸を止め直して家屋を飛び出す。

「あっ、クーロさん! これって……」
「息をするな! 毒霧だ!!」

クーロが怒声を張り上げた瞬間、トゥーリの行動は早かった。すぐさま取って返した彼女は、残存している里人を誘導して街道に退避を図る。
里は、一瞬にして恐怖に陥った。しかし、幸いにも毒霧がその場に滞留する仕様であったこと。何より避難が早かったことで、被害は最小限に抑えられた。里長は愛娘を喪ったことで消沈していた。しかし「限界まで濃縮された毒素」の影響は計り知れず、里への立ち入りはしばらくの間禁じられた。
以後数年、件の里は人の住めない不毛の地として地図上から登録を抹消されることとなった。毒の主がそれを見越していたかどうかは、未だ分かっていない。



 最終夜 「赤月」



……暗がりが、広がっていた。はっとして顔を上げると、薄ぼんやりと自分の姿形が見て取れる。
恐る恐る、手のひらを目の前にかざした。驚くべきことに、元の形に戻っていたはずのそれは霞龍が施したあの秘術を元にした人間のそれに変化していた。
ぱっと腕を動かし、顔面をさする。目元も、額も、頬も、鼻筋も、唇も、首筋も、肩も、腕も……全ての部位が「艶」のものになっていた。
言葉をなくして立ち竦んだ。一体、自分はどうなってしまったのだろう。何故今更、この姿に化けることができているのだろう。
「もう、この姿で会いたい人間は死んでしまった後なのに」。そう考えた瞬間、瞬く間に視界が潤み、霞んでいった。

『……夜一、さん』

常のように涙が零れる。両手で顔を覆い隠して、よろめくままにしゃがみかけた次の瞬間――艶は、横から誰かに肩を掴まれていた。

『……艶』

頬に、目尻に、柔らかな感触が触れる。溢れ出た涙がその唇に吸い取られ、息つく間もなく抱き寄せられる。
目を白黒させたまま、艶は自分を掻き抱く男の姿を見た。黒く長い髪の一本結びに、人好きのする面立ち、黒い瞳。逞しい腕と胸。
驚きに染まった顔で見上げると、照れくさそうに頬を掻く夜一と、はっきりと目が合った。

『よ、いち、さん?』
『うん。遅くなってごめんな、艶』
『夜一さん……ほ、本当に夜一さん、なのですか』
『ああ。ただいま、艶』

艶は、激情に駆られるままに夜一に抱きついた。直後、「あの貫き刺した瞬間」を思い出して男の胸板を指先で押し返す。夜一はそれを許さなかった。互いの体が離れかけた瞬間、狩人は渾身の力を込めて最愛の女を抱きしめ直す。
むせ返るような甘い香りが満ちる。気がつけば、二人はどこまでも透き通る水が流れる清流の傍にいた。その傍らには、季節外れの薔薇の花が咲いている。
どれも、艶の髪飾りと同じ艶やかな紫色をしていた。香りは綻ぶように立ち上り、その様は紫紺の炎を揺らめかせているように見えた。

『……っ』
『艶。ああ、艶。ずっと、こうしたかった』
『よ、いちさん……く、苦し……』
『うんっ? あ、わ、悪い。ごめんな、艶』

ようやっと、ほどよい力加減で緩く抱き合う。至近距離に愛しい狩人の呼気を感じて、艶はたまらず自らその元に唇を寄せた。驚いたように固まる夜一を見上げて、涙混じりの目で微笑みかける。途端に狩人の顔が夕焼けのように真っ赤に染まって、我に返った艶も頬を朱に染めた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。そっと手を取られ、されるがまま任せてみると、夜一は何を思ったのか艶の指を解いて自身のそれと絡め始めた。

『……っっ』
『うん。やってみたかった、んだけどなっ、これ、結構恥ずかしいな……』

だんだん尻すぼみになる男の口調に、艶はもう何が何だか分からない、というように混乱した。指同士が絡まり合い、直接的な感触と熱が纏わりついてくる。
恥ずかしいどころの話ではない。うう、とも、ああ、とも言えない声を漏らして俯くと、今度は顎を掴まれ上向かされた。

『よ……っ、』
『……艶……』

久方ぶりの甘い触感に、体がぞくりと震えた。荒い息を繰り返して額を重ね合わせれば、互いの鼓動がいつにも増して速まっているのが分かる。
この人が、この男がたまらなく好きだ――もう一度、そうねだるように目を閉じれば、何度でも甘やかな幸福感が降ってくる。

『夜一、さん。愛して……』
『俺もだ、艶。艶……ッ、いっで!!』

このままこの時間が続けばいい……うっとりと陶酔する間、ふと唇が離れた瞬間、艶は夜一の唐突な悲鳴に目を瞬かせた。
すぱん、と小気味いい音がしたのだ。慌てて周囲を見渡すと、これまた驚くべきことに、見知った顔の影が二つ分、艶たちの応酬を物言いたげに眺めている。

『ニャー。旦那さん、それせくはらってやつですニャ。ギルドナイト案件ニャ』
『ワォウ。ワォーン、ワゥゥン』
『えっ……まさか、暁ちゃん、灯火くん!?』

艶は、頭を分厚い本で叩かれた夜一を置き去りにしてオトモたちに抱きついた。川辺と同じような薔薇の香りがして、胸に立ちこめる切なさ共々力を強める。
あの日、あのとき、助けられなかったこと。そんなことなど露ほども気にせぬ様子で、ふたりは艶の抱擁を受け入れた。背中に回される小さな手と前脚の感触に、艶はまたしても視界が潤み、霞んでいくのを自覚した。

『ニャー。艶さん、旦那さんに泣かされてないですニャ?』
『……あ、暁ちゃん。それは……その』
『ワンワン、ワフフーン?』
『えぇと……ええ、大丈夫よ、灯火くん。私も、今はお腹すいていないから』
『あーかーつーきー……艶……っていうか、君灯火の言葉分かるようになったのか!? いつの間に!? 俺だってまだ完璧に読み取れないのに!!』

地団駄を踏んで駄々をこねる狩人に、艶は苦笑いを返した。そうだ、彼らはやはり、こうでなくては。

『ところで、その、夜一さん?』
『うん? どうした、艶』
『いえ、私たち、死んだのでは』
『あー……死後の世界、ってやつじゃないか。俺、日頃の行いが良かったから』
『……』
『じ、冗談だ。でもほら、もう痛くないし腹も減らないし……艶にも会えたから。もう、いいんだ』

俯き、涙を零しそうになる艶の額に己のそれを重ね、夜一は柔らかく苦笑する。泣くなよ、そう言われてもしばらくの間涙は止まらなかった。
暁たちもそっと両隣にやってきて、慰めるように丁寧に肌を撫でてくれる。それが幸せすぎて、夢のようで、艶は何度も頷き返した。

『……夜一さん』
『うん。あ、謝るのはなしだぞ、艶。俺の方が君に酷いことさせたんだから』
『……で、でも』
『いいから、恨みっこなしだ。ほら、他に言いたいことがあるんじゃないか』
『……それなら、その』
『うん』
『その……その格好、どうされたのですか』
『へっ、格好?』

一段落、とばかりに川岸に腰を下ろした矢先、艶はずっと気になっていたことを指摘する。夜一やオトモの出で立ちについてだ。
先端が歪曲した濃紫の棘や濡れたように光る甲殻、ぼうと点る琥珀の灯をアクセントに、白く強靱な蜘蛛糸を重ねて織られた織物が身を包む。
彼らは皆、そのような「妃蜘蛛」を思わせる衣装を纏っていた。自分とて例外ではない。艶は、左太腿が露わになる形のそれを気恥ずかしそうに見渡した。

『どうって……艶はどうなんだ? 俺はここにいたときから、こんな格好だったけど』
『私もなのです。では夜一さんの趣味というわけでは、』
『うん? 俺は艶のそれ、祝言を挙げるみたいで綺麗だなって思ってるけど』

艶は、ぼんっと顔が真っ赤になったことを知覚した。慌ててそっぽを向こうとすると、お約束のように顎を掴まれ振り向かされる。そのまま熱く口付けし合う主人たちを見て、暁は灯火の眼を塞ぎながら大はしゃぎしていた。ついに結婚ニャ、そんな野次を飛ばされ、もう気が気でない。
しかし、夜一に好かれ、愛されていると自覚することは何物にも代え難い喜びだった。熱い吐息を漏らして見つめ合えば、胸いっぱいに充足感が満ちてくる。
こちらの心情を見透かしているのか、夜一はふと柔らかく、幸せそうに笑った。またも指を絡ませ合い、今度はその指先に口付ける。

『よっ、夜一さん!?』
『艶。俺の伴侶に……俺のつがいになってくれ』
『……!』
『君が欲しいんだ、誰にも渡したくない。なあ、いいよな?』

駄目か、耳元で囁かれ、艶はたまらず何度も首を縦に振った。明らかにふっと笑う気配が聞こえて、次の瞬間にはこめかみに唇を寄せられている。

『し……』
『うん?』
『死んでしまいます……し、心臓が、保ちません』
『はは、死んだら困るなあ……俺と今度こそずっと一緒にいてくれ、艶。暁も灯火もな、ずっとだ。ずっと……今度こそ、皆で一緒にいよう』
『はいですニャー! 旦那さんは泣き虫だから、仕方なく、ですけどニャ!』
『ワンワン! ワォーンッ、ワゥゥン!!』
『もうっ……夜一さんの、ばか。ばか、ばか……ずるい、んだから。本当に……』
『……うん。俺もそう思うよ。艶』

寄り添う。語り合う。見つめ合う。指を絡め合い、歩調を合わせ、笑い合いながら冥い川岸のほとりを往く。
次第に暗がりは夜陰のように深さを増し、異形と人型、砂利の上に置かれた二つ分の影がどろりと溶け合い、重なっていった。
暁は抱える書物を読み上げ、灯火は薔薇の花束を背に乗せ、式場までの道を先導する。
艶は、夜一は、笑みを交わした。オトモたちに気取られないよう唇を重ね、いつしか、白と紫で彩られた美しい門の前に立つ。

『この先って、どうなっているのでしょう。夜一さん』
『分かんないな。でも、一緒なら何も怖くないさ。艶』

絡めていた指を解き、強く手を繋いだ。空いている手をオトモたちの手や装飾品に絡め直し、誓いを立てた二人が躊躇なく眼前の扉に重ねた手を当てる。
重苦しい音を立て、門は開かれた。踏み出した夫婦の背を押すように、どこからか柔らかな旅立ちの風が吹き寄せた。



――斯くて、其れら咎人は旅に出た。彼等が此の後、如何なったのか。其れはまた、然るべきときに語るとしよう。
 
 

 
後書き

……

多くは語るまい(ふんぞり)
クーロ、トゥーリの未来についてはぼんやりとした構想はありました。蛇足ということもあり書かずに終わっています。
スガリの最期は「彼女の我が儘」、「危機を予見した結果」、どちらの可能性もあります。
もしかしたら彼女だけが霞龍の策を見出したのかもしれません。

ヤツカダキのモチーフとなった怪談も参考資料としていますが、実はそれらの設定は艶ではなく夜一に付与しています。
やぐらに登る、(火事ではなくとも)プチ百竜夜行を扇動する、蜘蛛女と交わる、など。
彼の気質の危険性はネム、霞龍らが見抜いていましたが、暁、灯火はそのストッパーとしての役割を果たす存在でもありました。
裏話、零れ話です。
 

 

番外編 鎌鼬竜の意地(前編)

 
前書き

サイト掲載分と順序を変えての投稿です。

…… 

 

何が正しいか、誰が違えているか。そんなもん知ったことか。
残された側には残された側だけの矜持ってもんがある、それだけの話だ。
何故、どうしてなんて、今のオレには無用の悩みだ。
オレにはまだやらなきゃならんことがある。悲劇とやらに浸ってる暇なんざ、あるわけねぇ。

そうだろう……ヤツカダの、姐さん方。



 百竜夜行後日譚――鎌鼬竜の意地(前編)



『は……はあっ、は……』

頭を抱えたまま、目線だけを動かす。心臓が恐ろしい速さでドクドク言っていて、呼吸するだけで精一杯だ。
しんと、あたりは静まり返っていた。いつもシャアシャア喧しくたむろしている賊竜の小さい連中も、今はどこぞに出払っているらしい。生い茂る竹林、そこに他の気配は感じられない。
そろりと手を頭から外して、ようやく一呼吸。どこからか生臭いにおいがして、オレは鼻をひくつかせた。血と、土と、水飛沫と、大量に通り過ぎて行った竜どもの残り香だ。竹林の向こう側、それこそオレの数十歩先は酷い有様だった。

『こいつは……ひでぇや』

喉を潤す川も、身を潜ませる石灯籠も、寝床代わりの草むらも、虫を捕る樹木も、病気をこそぎ落とす泥溜まりも、どれもが踏み荒らされていた。
とんでもない損害だ。どいつもこいつも……事情はこっちも知りゃしないが、てんでお構いなしに荒らして行きやがった。

(火竜だ、泡狐竜だ、様々だが……なんだってデカブツどもは、他人様の縄張りへのハイリョってもんを知らねぇかね)

オレは、自慢じゃねぇがここの御主人様じきじきにヨノアレコレってのを習っている。そんじょそこらの竜と違ってチエがあるのは、ソノオカゲだ。
だから、昨夜いきなり現れていきなりこの辺りを荒らして行ったデカブツの竜どもには呆れた。ここまで荒らされて、残されたオレやその子分どもは、今後どうやって生きていきゃいいってんだ。
オレは近くに隠れるように指示していた子分どもに視線を投げた。オレが無事であることを察したのか、子分どもは石塔の影や竹やぶの中からもぞもぞと這い出てくる。

『おりゃ、イチノジ』
『へい! 親分!』
『よし、ニノク』
『あい! 親分!』
『そら、サンタ』
『合点! 親分!』
『よーし、よし。全員、きちんと揃ってんな』
『へい! 親分!』
『あい! 親分!』
『合点! 親分!』
『だあっ、いまカンガエゴトしてんだろっ! ちったぁ黙ってねぇか!』

他のより少しだけ、爪が長いイチノジ。他のより少しだけ、尾の鎌が鋭いニノク。他のより少しだけ、毛が長いサンタ。
どいつもこいつも、世話は焼けるがオレの大事な子分どもだ。御主人様からも『生涯の仲間は宝物だからね、大切にしておやりよ』とか言われてるからだ。
いいや、御主人様の命令だからってだけじゃねぇ。オレはこいつらのリーダーだ。ちゃんと、一人前になるまで面倒をみてやる心算なのさ。

『親分、親分。さっきのあれって……』
『なんだったのかな!? なんか、すっげー怒ってたよな!』
『ぶるぶる……おっかねぇよぉ。また、あんなのが来たら……おいら……』
『バカタレども。でぇじょうぶだ、オレがいるだろ』

子分どもが一斉にオレを見る。まだ丸さを残す眼にじっと見つめられ、オレは一瞬息を詰まらせた。
――バカタレどもが。オレだって、あんな暴動見たことねぇよ!

『心配すんな。ほら、連中のにおいなんざすっかり遠のいたじゃねぇか。もう当分、戻ってこねぇよ』
『そっか。なんか、安心したら腹減ってきちゃったな』
『だよなー! 親分が言うなら違いねえや!』
『ぶるぶる……そうかなぁ、もう、来ないといいなぁ……』

どいつもこいつも未熟もんだが、オレと同じで見る眼がある。あんな暴動……こいつらには二度と見せられねぇ。オレは一度、牙をガリッと鳴らした。

『だが、何があったのかは知らねぇとならねぇ。オレはひとっ走り御主人様のとこに行ってくらぁ、オマエラは隠し食料でも漁ってな』
『へい、親分。道中、お気をつけて』
『えっ、生肉とかナントカコロガシだろ! ぜーたくうー!!』
『親分……は、早く、帰ってきてよぅ……』

イチノジ、ニノク、サンタの頭を尾で撫でつけて、オレは一度子分どもの元から離れた。
育ち盛りの甘えん坊なバカタレどもだ、早いとこ帰ってやらにゃならねぇだろう。背中越しに振り向いて、あいつらが見慣れた茂みに潜っていったのを視認してから、オレはヤシロアトの真ん中に急いだ。






『……おや、鎌風じゃあないか。どうしたんだい、こんな朝早くに。まだ、曙光すら見えていないよ』

オレたちの御主人様ってのは、えらい真面目な方だ。誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起きる。むしろ、寝てねぇんじゃねぇかってのがイチノジの見だ。オレもだいたい同意見だ。
ものを喰ってるところを見たことがねぇし、居眠りや盗み食いだって……いんや、これはニノクのバカのアレだ。御主人様は、そんな「盗み」だなんだ絶対しねぇ。

『や、散歩ってんじゃねぇんです。その……』
『……ああ。この惨状のことだね? 君の可愛い子分たちに、聞いてくるように言われたのかい?』

藤色の体表に、凹凸の目立つ目玉。長い舌の見た目通りに、ジョウゼツな物言い。
怪我ひとつしちゃいなかったが、御主人様はどこか気落ちしたようにしょんぼりしていた……少なくとも、オレの眼にはそう映った。
御主人様の周りも酷い有様だった。池は濁り、灯籠は倒され、木々にゃ焦げ痕があり、地面にゃ円だか鎌だかよく分からない曲線が何本も残されている。ここもあのデカブツどもに荒らされたんだろうか……オレが応えられずにまごついていると、御主人様は口端からふすんと息を漏らした。

『大したことじゃあないよ。君たちが無事なら、僕はそれでいいんだ』
『御主人様?』
『巻き込まれてやしないかと案じていたからね』

あの暴動のことを思い出す。なるほど、あれだけの勢いだ。オレや子分どもみたいな小柄な身体なら、引きずり込まれていたって文句も言えねぇ。
『そんなら心配いりません、きちんと隠れてやり過ごしたんで』――オレは、そう返事をしようとした。
けど、次の瞬間、オレはそう言うのをやめていた。
御主人様は、ヤシロアトの偉大な主オオナズチ様は、眼を閉じて口端を震わせていたからだ。

『ごしゅ……じんさま?』
『いや、いいや、いいんだ……なんでもないよ。ねえ、鎌風。君、少しおつかいを頼まれてくれないかな』
『へえ、了解の合点承知。それで、どこに行きゃいいんです?』

何故だろう。オレには、あのどんと構えて何ごとにも動じずにいた御主人様が、酷く落ち込んでいるように見えてならなかった。
どうしてだろう。それでも御主人様は、誰にもその理由を明かしちゃくれねぇんだ。オレがガキの頃からそういう質だったから。

『一番奥、一番離れた場所に、僕たちが逃げ込める大冥の穴があっただろう。火吹きに貸していた巣穴だよ。少し、様子を見てきてくれないかな』

火吹き……ここ最近、ちょくちょく姿を見せてくれるようになった、気難しい、恥ずかしがり屋の大型の蜘蛛の姐さん方だ。
彼女らはオレよりうんとでかい身体をしちゃいたが、心はずっとセンサイで、滅多なことで会えやしない。子分どもは怖がってたが、オレはあの白い見事な織物を眺めるのが好きだった。たまに御主人様の伝言を伝えに行くこともあったからか、話をする機会だってそこそこあった。
そこそこ、上手くつきあえていたような気がしていたんだ。少なくとも、オレはそう思っていた。

『合点承知。様子見だけですね? じゃ、元気にしてるか確認したら、すぐ戻ってきまっさぁ』

言うが早いか、オレはすぐに石灯籠や壁を飛び上がってヤシロアトの最奥を目指した。子分どもを待たせてたし、またデカブツどもに出くわしたらたまったもんじゃねぇからだ。
御主人様が眼を閉じて固まったままでいたことなんて、欠片も気づきゃあしなかったんだ。
あの姐さん方が……特に、中でもより小柄な独り身の、花だの星だのを愛でる、ことさら優しい姐さんが如何しているかなんて想像だにしていなかった。






『……なんだってぇんだ、こいつぁ』

焼け跡だ。川そのものは無事だったが、そこらの木々は全部が焼け落ち、ペンペン草だって一本も残っちゃいない。
異臭と、沸騰した泥土のこびりつき、真っ黒に焦げた石ころども、あたりに散らばる焼けカス。御主人様が案じていた姐さん方の巣穴は、何から何まで焼け尽くされた後だった。
ざりざりと、黒く変色した岩石や砂を踏み、中を覗く。むっとした湿気と焦げ臭さにうっ、と唸った後で、オレはしぶしぶ穴の中に潜ってみた。

『……姐さーん。ヤツカダの姐さん方ー。いやせんか、オサイズチですぜー』

張り上げた大声は、真っ黒に焼け落ちた岩盤に飲まれて消えた。オレは、ぞくっと背筋が冷えたような心地になった。
オレや子分どもは生粋の怪異だ――そういう種族名なんだよ、と御主人様に聞いている――怖いもんなんざ、どこにもありゃしねぇのに。
真っ暗闇の中、どこかで誰かに見られているような、聞き耳を立てられているような気がしてならなかった。

(おかしい、おかしいだろう。姐さん方は強ぇ怪異じゃねぇか。だのに、なんだこの有様は)

御主人様の話じゃぁ、そこらの生き物っつぅ生き物を全部喰わにゃ気が収まらねぇ怪物だとか、なんでも腕っぷしで捻じ伏せなきゃ気が済まねぇ黒毛の化け物だとか。そういった連中は、目の前にあるもんを一直線に焼き尽くすような不思議な力を使うことがあったって、そういう話だ。
だからって洞窟丸々ひとつ、いんや、オレたち怪物が何百匹も収まるような穴を燃やすことができるやつなんて、そうそういやしねぇハズなんだ。
なのに、火吹き姐さん方の巣穴は真っ黒焦げだった。まるで、奥の方から一斉に火を焚きつけたみてぇにボロボロに焼けている。
……まるで、姐さん方が自分たちで自ら火を点けた、みたいに。オレは、咄嗟に頭をぶんぶん振っていた。

『バカ言うんじゃねぇや。姐さん方がんなことする理由なんざ、あるわきゃねぇ』

互いを思いやり、慈しみ、仔を育て……姐さん方は、そりゃあもう心根の優しい怪異だった。
ヤシロアトの下っ端中の下っ端なオレにだって優しくしてくれたくらいなんだ。帰り道にゃ、土産にってんで、珍しい苔や食べられる蟲なんかをくれたりした。特に、中でもより小柄な独り身の、花だの星だのを愛でる、ことさら優しい姐さんなんかはマメだった。

「――ねえ。お前、子分がさんにんいたでしょう。これを持っていってあげるといいわ」
「姐さん。けど、こいつぁ……このへんじゃ滅多に採れねぇ不死の虫じゃねぇですかい」
「いいのよ。私には、過ぎた代物だもの――」

あの姐さんのことは、よく覚えてる。火吹き姐さん方の中でも特に背が低かったし、絹糸の織り方が上手かったから、よく眼についたんだ。
控えめに笑う怪異だった。オレは下っ端中の下っ端だったし、用があるのはだいたい御主人様からの伝令を渡しに行くときくらいだったから、そうそうお眼にかかれなかったが。
どの姐さん方からも大事にされていて、将来はより若々しくて元気のいい雄とくっつくんだろうな、なんて考えていた。

『……それなのに』

全部が、焼け落ちてしまった。琥珀色に明滅する灯も、暁の中で寄り添い合う織物も、なにひとつ、欠片の一個すら残っちゃいない。
誰が何のために。いや……何故、どうしてこんなことに。オレは、たったひとり、穴の中に立ち尽くしていた。

『……姐さん方に、何があったってぇんだ』

もう、何もかもが手遅れだった。オレは、困惑と動揺の果てにすぐにその場から立ち去ることにした。
正直に言うと、怖くなったんだ。
理由なんざ分からねぇ。けど、一刻も早く穴から出にゃならん気がした。誰にも踏み入って欲しくない……誰かが、あの暗がりの中でそう叫んだような気がしたからだ。






その後、報告に戻ったオレを御主人様は特に咎めることも諫めることもなく、『そうかい、そうかい。お疲れ様だったねえ』と宥めて終わった。
……宥められたのだと、そう思った。なんでかは、やっぱり分からねぇ。けど、その日の御主人様はやっぱり気落ちしているように見えてならなかったんだ。

まさか、あの暗がりの一番下、一番深くて冥い穴の底で。
あの心根の優しい姐さんが、ここらで好きにやっているニソクホコウとやらのエモノに刺し貫かれて死んでいるなんて、予想できやしなかった。
あの姐さんがそのニソクホコウに恋をしていたなんて……オレは、オロミドロのじいさんからそれを聞かされるまで、なにも知りゃしなかったんだ。
 
 

 
後書き

……

本来なら、10話目「陸日目(3)」にてもっと掘り下げて書くつもりでいた話。
没案にしようと思っていたのですが、ハーメルンさんで頂いた読者さんからの嬉しい感想が起爆剤となり一気に書き上げることができました。

モンスターたちの悲喜こもごも。
当初、オサイズチはもっとチャラくてノリの軽い、いかにも三下な性格になる予定でした。
書いているうちに「子分を統括するならフロギィしかりで賢くもあるだろう」と予定変更。
こうして鎌風は威勢の良い江戸っ子に…あれ? なんか変だな?
 

 

番外編 鎌鼬竜の意地(後編)


『……なんだ、聞かされておらなんだか。あの妃蜘蛛らは全滅してしまったぞ』

淡水と泥を混ぜた特製の湯船に半身を浸しながら、長身の怪異が物を言う。オレは、金にも橙にも見える不思議な光り方をする眼をただ呆然として見上げた。
オロミドロ。オレや子分どもが「じいさん」と呼んでいる、見た通り気難しい海竜型のじいさんだ。御主人様が教えてくれないあれこれは、じいさんに聞けばだいたいのことは解決する。
煮えきらない御主人様の返答に納得できなかったオレが縄張りを訪れたのが、ほんの少し前のこと。じいさんは泥だまりを撫でつけながら空を仰いで嘆息した。黒に近い焦げ茶色のたんまりと蓄えられたヒゲを見ていると、煙草か葉巻が似合いそうだと思えてくる。いや……今は、んなこたぁどうでもいい。

『おい、じいさん! どういうことだ、御主人様は何もっ、』
『やはりそうか。おれも雷狼竜伝に蟲どもに探らせただけだから、詳細までは知らん。だがお前に黙っていたということは……そういうことだろう』
『そういうって、どういうことだよ! 話が見えねぇぞ!!』
『吠えるな、若造が! お前の子分どもに聞かれでもしたらどうする心算だ!』

ばしゃん、と泥水が飛んでくる。じいさんが尻尾を使って投げ飛ばした泥の塊を、オレはもろに顔面に浴びてすっ転んだ。

『……お前があれらと親しくしていたのは知っている。だが、過ぎたことだ。淘汰された種を憂いても仕方があるまい』
『っ、ぺっぺっ! ふざけんなよ、ニソクホコウと恋仲だ? 騙された、の間違いなんじゃねぇのか』
『痴れ者め、「艶」に思い入れを寄せすぎたな。だから言っておるだろう、早く忘れた方がいいと。恐らく、長も同じ意見に違いなかろうよ』

起き上がった先で、オロミドロのじいさんは苛立ったように溜め息を吐く。
じいさんと御主人様は親しい。ヤシロアトのまとめ役だからというのもあるが、じいさんは他から話を聞き出すのが上手かった。憎たらしいが、オレにはそこまでのチエはねぇ。
じいさんの言うこともごもっともだ。「忘れた方がいい」、そうなんだろう。実際にオレは件の「艶」の姐さんから直に悩みを聞き出せたわけじゃねぇ。所詮、中型と大型の怪異の身分違いだ。そこまでのつきあいだったってこともよく分かってる。

(けどよ、じいさん。それでもオレは姐さん方には十分に世話になったんだぜ。恩も何も返せちゃいねぇのに……これじゃ、鎌風の名折れだ)

貰った蟲の数は、天上に散らばる青色と同じだけ。種や木の実なんかは、赤色のと同じだけ……「艶」の姐さんを忘れろなんて、そんな残酷な話があっていいものか。
黙り込んだオレから視線を外すと、じいさんはホレ、と竹林の向こう側を顎で指し示した。笹の葉の隙間から、イチノジとニノクがちらちらとオレたちの様子を窺っているのが見える……バカタレどもが、すぐだから待ってろって言ったのに。

『あいつら。オレは留守番してろって、』
『ふん、阿呆め。甘えた盛りで可愛らしいではないか』
『……おい、じいさん。頼まれたってあいつらはくれてやらねぇぞ』
『……阿呆。いいから、早く戻ってやれ』

サンタの姿が見えない。あいつは最近毛がまた伸びてきたから、そろそろ迅竜の兄貴に頼むなりしねぇと、と思ってたのに。
のろのろと戻ったオレを見るなり、イチノジとニノクはワッと飛びついてきた。ユウレイか何かを見たかのように、ぎゃあぴい喚いていてまるで話にならない。

『おっ、親分、親分!! どっ、どうしようっ!』
『ヤバいのが、危ないのがね! そ、それで、サンタが……!』
『バカタレども、落ち着け! どうしたってんだ、サンタは一緒じゃねぇのか』

頭を撫で、肩を叩き、背も撫でて。そうしてようやく、バカタレふたりはぐずぐずと泣きべそを掻きながら話し始めた。

『……見たこともねぇ、新顔だって?』

曰く、紫紺の焔がゆらりとざわめき。
曰く、恫喝の咆哮が閃き。
……曰く、縄張りを守ろうと抵抗したサンタがそいつの腕に生えた凶刃に斬り伏せられた、と。
たった一太刀で、今朝まであんなに元気だったサンタがぴくりとも動かなくなったのだ、と。目の前の子分たちは泣きながらそう告げた。イチノジとニノクは、そいつが倒れたサンタに近寄るのを見て恐怖のあまり逃げ出してしまった、と自白する。
オレは、全身の血の気がさっと引くのを感じた。オレのせいだ、すぐにそう思った。姐さん方のことを気に掛けすぎて、大事な仲間のことをシツネンしていたんだ、と。

『親分、親分……ごめん、ごめんなさい!』
『サンタ……サンタ、きっとあの怖いのに……食べられっ……』
『バカ言え!! オレが、オレがっ……なんとかしてやらぁ! オマエラは御主人様に報告に行ってこいッ!!』

返事も待たずに、オレは駈け出していた。
オレのせいだ……サンタに何かあったら、それはこの間抜けなオレのせいだ。

『クソッ、くそ……! ふざけやがって!!』

垣根を越え、竹やぶを潜り、岩山を蹴り飛ばして、すぐさま駆けつけたその先に。
見慣れた鳥居跡、朽ちた門構え、開けたオレたちのいつもの遊び場に。オレは、血塗れのサンタと、紫紺の焔を携えた紫色の巨躯を見つけて身を震わせた。






『おい、どこの誰だ。オマエさんは』

声が震えるのを止められない。情けねぇ、脚だってぶるぶる震えちまって、まっすぐ構えることも儘ならねぇ。
ソイツは、ちらとオレを見上げるだけだった――なんてことはねぇ、オレが門構えの上からソイツを見下ろしてるってだけの話だ。別にビビってるってわけじゃねぇ。様子を窺う、ってのは狩りの基本中の基本だろ?

『おい、無視してんじゃねぇぞ。「ヤシロアトの鎌風」って言ったら、オレのことよ』

ソイツは、オレのことなんざ眼中にもねぇって風だった。無言で視線を反らして、倒れたままのサンタを見つめ直す。
野郎、ナメやがって……オレは焦るあまり、せっかく陣取った門の上から飛び降りていた。ぱっと振り向いたソイツと、嫌でも視線が重なる。
厳つい顔をしていた。恐ろしい貌をしていた。影青の眼がぎらりとオレを射抜いて、オレはガリッと牙を鳴らしていた。
昔、御主人様が面白半分に教えてくれた鬼とか不動とか、そんなおとぎ話に出てくる神さんみてぇなツラだ……冗談じゃねぇ。神さんなんざ、御主人様ひとりだけで十分だ!

『サンタから……オレの子分から離れろ! 近寄んじゃねぇ!!』

ソイツは不思議と微動だにしなかった。オレが自慢の刃尾を振り下ろしたときも、ちらと一瞥を投げるだけで――

『……! んなっ、』

――ぱっと焔が散る。乾き始めた砂がさっと舞う。
とん、と地面を蹴って、ソイツは軽々と飛び退いた。でかい図体のどこにそんな素早さがあるっていうんだ、まるで天狗獣か掻鳥みてぇな身のこなしだ。
一定の距離を開けての着地。ちょうどオレが刃尾の必殺の一撃を見舞うのに僅かに足りない間合いだ。
じり、と前脚で歩幅を計るように横歩きして、それでもオレから視線を外さない。オレがめり込んだ刃尾を引っこ抜くのを黙って見て……そう、観察しているような体だった。

『くそっ、おりゃ、仕切り直しだ! 覚悟はできてんだろうな!?』
『……、』
『! なんっ、なんだよ!?』

ゆらりと焔は揺らめく。奴が口を開き、牙を晒し、空気中に呼気をゆっくりと溶かした刹那。

『貴様は、強いのか』

恐ろしく冷たい声色が、オレの鼓膜を打った。

『つよ……どういう意味だよ』
『貴様は強いのか。霞龍と、どちらが強い?』
『かすみ……っバカ言え! そんな、御主人様の方が強ぇに決まってんだろ!』
『そうか。ならば』

 ――貴様に、用はない。

『……ッ、う、』

ゆらりと紫紺は揺らめく。一層光を増し、ちりちりと激しく明滅し、閃光羽虫さながらに瞬間的に活性化する。
大して熱くもない、不思議な火だった。生き物の命や活力を形にしたらこうなる、みてぇな、強く目を惹く光り方をしていた。

『……や、ぶん……』
『っ、サンタぁ!!』

そのとき、オレは鬼火に見とれちまっていた。サンタの絞り出すような声を聞いて、やっと我に返ったくらいだった。
走り出す。尾を伸ばし、腕を伸ばし、次第に明るさを増すばかりの鬼火から子分を隠すように――サンタの血でべっとりと濡れた身体を掴むと、オレは無我夢中でそいつを放った。

『――ッッ!!』

耳鳴り、閃光、砂の雨。バパン、と何かの破裂音を立て続けに聞いて、直後オレは吹き飛ばされていた。
オロミドロのじいさんから泥団子を飛ばされたときよりも、うっかり子育て中の雌火竜の姐さんの巣に迷い込んでブッ叩かれたときよりも、ずっと……ずっと重く、苦い痛みが身体を打つ。
毛の一本一本が、爪先が、頭の裏が、目蓋の底が。熱く、溶かされていくみてぇだった。臓腑をかき回されたような感覚が走って、オレは盛大に血を噴いた。

『んぶッ、……ゲホッ、』
『――なんだ。まだ生きているか』

視界がおぼつかない。頭がぐらぐらする。耳はざあざあ言いやがるし、鼻も利かねえ。口の中は鉄錆の味と臭いで、最悪の気分だ。
眼前、くたりとしたサンタの肩が辛うじて上下に動いているのを見て、オレは心底ほっとした。もし間に合わなかったら……御主人様はおろか、イチノジたちにも顔向けできねぇ。
のろりと、切り裂けそうな痛みを堪えて頭を上げる。どろりと眉間伝いに生温かい液体がこぼれ落ちて、オレはあの紫色の憎たらしい新顔のツラをまともに見れない。

『貴様は、強いな』
『……ケッ。……ったら……んだよ』
『だが、生憎いまの(おれ)は腹がいっぱいだ。貴様からは、あの「気狂い」の気配も感じられん』

満腹? 気狂い? ……なんの話をしていやがる。
オレは、よっぽど困惑した顔をしていたんだろう。目の前まで迫りきたソイツは、オレの具合を覗きながら鬼の顔をぐにゃりと歪めて、派手に笑った。

『用は済んだ。もうしばらくは、「気狂い」の行進もないだろう』
『……から、なんの、はなし……』
『ヤシロアトの仲間とやらも面倒だ。「有相無相の獣等のパレード」……また、其の日に来るとしよう』

不思議と、恐ろしいとも、怖いとも思わなかった。オレが応えられずにいるのを見て取ると、ソイツは口を真一文字に結び直した。そのままくるりときびすを返して、竹林の向こうに消えていく。
オレは、ようやく痛みのことを思い出していた。遠くから、近くから、オレたちがよく知るヤシロアトの住民どもの声が聞こえた。






『……まあ、今回は特例って話だし。良かったねえ、ふたりとも無事で!』
『ヤック。おまえ、その余りのタマゴは返しなさいよ』
『レイア。運悪く死した仔だ……きっと、私たちを赦してくれるだろう』

喧しい……ぼんやりとした重苦しい頭を動かすと、視界に賑やかしい連中の顔が映る。
左から、雄火竜、雌火竜の夫妻。次いで、掻鳥、何かをこねくり回す毒妖鳥と、それを電気で煮立てる飛雷竜、小難しい顔をした毒狗竜の兄貴分。フロギィ兄貴の手には、黄金色のべたべたした液体が付着していた。匂いからして、ハチミツと竜の卵、クソ苦虫と不死の虫、青色キノコの混合物だ。
ふとオレは、自分の舌を動かして口内がそれと同じ味で満たされているのを感じて目を瞬かせた。どうやら、気を失っていたところを連中に助け出された体らしい。

『――お待たせっ。探してみたけど、あのオンコ……なんだっけ? あの怖いの、どこにもいなかったよっ』
『怨虎竜ですよ、ビシュテンゴ。わたくしからもご報告を。空からも確認しましたが、うまく行方をくらませたようです。我らが主もそのように仰っておいでです』

この声は、ぶっ飛び野郎の天狗獣とキザ野郎の傘鳥か。どいつもこいつも、ちったぁ静かに喋れねぇもんかね。

『あっ……? ああっ、イズチちゃん! 目が覚めたの!? おぉ〜い、皆! イズチちゃん、気がついたよぉ〜!!』
『ばっ……やめ、やめねぇか、ヨツミ!! オマエに抱きつかれたら、オレが死ぬわっ!』
『はわぁ、よかったねえ。ボクが大事な大事なトッテオキのハチミツをお裾分けした甲斐、あったんだねえ』
『って、オマエ、オレの命よりハチミツのが大事だってのか! えぇ、アシラァ!!』
『ンア? ンだよ、生きてンじゃねーか。無駄に心配させやがって』
『はは、ま、無事で良かった。アンジャナフ、君もそう素直に言ったらいいのに』

オレが両側から全力でホールドされているのを遠巻きに見守るのは、デカブツの蛮顎竜と、頼りになる迅竜の兄貴だ。
おいこら、ちょっと待て。オレは怪我人だぞ、ちったぁ労ろうとは思わねぇのか、オマエら。

『あー! 親分、親分ー!! よかった、気がついたんだね! おいら、おいら……っ』
『こらこら、お待ちなさい、サンタ。まだ血が全部落ちていませんよ……ああ、オサイズチ。お目覚めですか、今回の件はご苦労様でした』

ふわりと、特有の香りがとける。傷口は焼いて塞がれ、すっかり汚れを落とされたサンタがぎゃあぴい泣きながらオレに抱きついた。続け、とばかりにどこからともなくイチノジとニノクも飛び込んでくる。こういうときだけ、河童蛙も青熊獣もサッと素早く道を譲りやがるから憎たらしい。
オレたちがわあわあ騒いでいるのを、洗濯をしてくれていたタマミツネの兄さんがにこにこしながら見守っていた……丁寧すぎる労いを聞かされると、首がむず痒くなってくらぁ。

『皆、集まっておるな。聞いてくれ』
『ミドロじーちゃん! あのねぇ、イズチちゃんが気がついたよ!』
『嗚呼、ご苦労……さて、鎌風。貴様が出くわしたのは、鬼の顔をした紫色の怪異だったな』

ひらり、と目の前に青白く光る虫が過った。ぱちぱちと帯電しているそれは、この辺じゃあまりに見慣れた虫だ。

『その名は「怨虎竜マガイマガド」。長の話では、人知れず強者を求めて彷徨う孤高の怪異だそうだ。おれも気がつくのが遅かった、すまない』
『……じいさん』
『俺からも謝罪させてくれ。雷光虫たちに追わせたが、途中で気取られて振りきられたようだ。奴は勘もいい、よく無事でいてくれた』
『雷狼竜の旦那まで……いや。それが、オレも何がなんだか……』

本心だった。オレは鬼火の直撃を受けてなお生き延びた。憎たらしいが、奴に見逃されたとしか思えなかった。
妙な話ではあった。オレが話した「怨虎竜の言い分」を聞いて、オロミドロのじいさんとヤシロアトの狩りの重鎮である雷狼竜の旦那は、うん、と喉奥で唸るばかりだ。

『奴の気紛れか、貴様の運が良かったのか。いずれも定かではない、が』
『また来る、と言ったのなら確実にそうする心算でいるだろう。それまでに皆で備えなければならないな』

居合わせた面々の顔つきが険しくなる。誰もが手を止めて、双方の話にしっかりと耳を傾け始めていた。

『「気狂い」とは、先日の「百の竜が夜を行った」ことやもしれん。こちらは引き続き、おれと長で調査を進めるとしよう』
『オサイズチ。奴の狙いが明らかでない今、君の邂逅状況だけが頼りだ。このあたりの人間がヤシロアトを探っていることもある……手伝ってはくれないか』

雷狼竜の旦那の提案を、中型のオレが断ることができるハズもねぇ。否、それ以前にあのデカブツには言ってやりてぇことが山のようにある。
断る、なんて選択肢は端からなかった。
イチノジとニノクを小脇に引き寄せて、サンタはあぐらを掻いた股の間に入れてやりながら。オレはじいさんと旦那、居合わせた連中に向かってニヤリと笑い返した。

『合点承知。ヤシロアトは切込み隊長、鎌風だ。オレにできることなら、なんだってお任せあれってんだ』

死ぬのが怖くないのか、と誰かが言った。
そんなら死なずに済むように、戦いと逃げ足の訓練をつけたらいい。オレはそう言って笑った。
傷付けられて恐ろしくないのか、と誰かが窘めた。
万が一のときには、オマエらがまたこうして助けてくれるんだろう。オレはそう言って頷いた。
どいつもこいつも、最終的にはオレたちに「うん」と言うしかねぇのさ。今までもこれからも、オレたち先鋒がずっとそうして走り抜けてきたんだから。
……たとえ護りたい連中の中に、あの「艶」の姐さんをはじめとした、蜘蛛型の姐さん方の顔ぶれがなかったとしても。

『よーし、よし。まずは腹ごしらえだな。おい、バカタレども。隠し食料はちゃんと残してあるんだろうな?』
『へい、親分。ゼロだよ!』
『あい、親分。おいしかったぁ!』
『合点、親分……お、おいら、ちょぴっとしか食べてないよぅ……』
『オマエら……こんの、バカタレどもが!! オレの怪我が治ったら、覚悟しやがれ!!』

尻尾を巻きつけて子分どもをからかいながら、オレは怨虎竜に言われたことを思い出していた。
「しばらくは気狂いの行進もない」。それなら、あの暴動はいつ再発するっていうんだ。むしろ……次もある、と奴は宣告したも同じじゃねぇのか。
ふと、甘ったるい中に強烈な苦みを舌先に覚えた。ガリッと牙を鳴らして、オレは奴が姿を消した竹林の向こうを睨めつけてやる。






『――おや。君が噂の、「怨虎竜」だね――』

真っ赤な月が浮く夜だった。夜陰を過る紫紺の揺らめきに向かって、藤色の体表の怪異が霧にまぎれながら声を掛けた。

『――そう。やはり君は、「気狂いの群れ」の荒ぶる血肉と生命で自己強化をしていたのだね。でも何故だい? 君ほどの実力者なら――』
『……』
『――それなら、僕には君を止めることは出来そうにないねえ。しかしそれなら、君にひとつ、試練をもうけてみようじゃあないか』

不思議な話もあったものだ。気紛れか、暇潰しか、はたまた縁か。紫紺の焔は、不意にぴたりと歩みを止め、朧げな霞の話に耳を傾けた。
まるで、果てのない旅路の供を迎え入れるかのように。
ひとしきり話を聞き終えた後、焔は再び燃え上がった。とん、と地面を蹴って軽々ときびすを返すと、不言色の刃を翻して闇夜に消える。

『――憎悪と悲嘆で塗り固めた結晶、か。いくら武人気質とはいえ、君ひとりで背負うにはあまりに荷が重すぎるのではないのかなあ。黒狼鳥じゃあ、あるまいし』

とはいえ。とはいえ、霞の龍は自身が課した課題もまた、ただの怪異には荷の重い代物であることを理解していた。
「気狂いの行進の原因を見つけた暁には、話を聞き入れなかった鋼や炎王のように、其の灯をこの大社跡より離れられぬ管理者の代わりに摘み取って欲しい」、と。
怨虎竜はその提案を受け入れた。己の血塗られた闘いの路の為ならば、其れすらも魅力的な試練である、と。
……斯くして此の日、強者どもの秘密裏の契約は締結された。ぽたりと池の咬魚が跳ねた後、そこには誰の姿も残されていなかった。



――踏み台と、贄と称される魂なくして、諸君らの悲願が果たされることはないだろう。
抗いたまえ、狩り人よ。君達の旅路の果て、此より数十年の後、死をも恐れぬ三陣の鎌鼬が朽ちた社跡に吹くだろう。
鬼火を逃れた喧々と駆ける魂は、踏み入った諸君らの良い手馴らしとなるべく君達の訪れを待っている。
何時の時代も、諸君らはそう在っただろう?
 
 

 
後書き

……

設定資料販売前完結であったのでマガイマガドの設定が完全独自解釈に(またかよ)。マガイさん…格好いいじゃん…!?
ストファイも真っ青な「俺より強いやつに会いに行く」個体となりましたが、自分では気に入っています。

今作については「淵源にてドス古龍のうちオオナズチのみが乱入しない理由付け」としての作成理由もありました。
ゲームのデータ処理など都合もあるのでしょうが、「霧に隠れて侵入者を散々弄び帰らせる」、そんな霞龍の設定が活かせていたらいいなあと思っています。


・残り、後日譚+番外編2話分で完結でーす!
 

 

後日譚 「宵血」

 
前書き
時間軸を回して。
MHXX→Riseに旅路を向けます。

……
 

 

――此れは、彼の災禍より、数拾年ほどを過ぎた時代の話だ。



「親父、親父……もう少しで医者が来るから、それまで……頼むよ……」

重苦しい呻きが聞こえる。病魔に蝕まれ、衰弱し、息も絶え絶えで今にも事切れそうな男が一人、床に伏す。
傍らで祈るようにその左手を握るのは、涙ながらに生への執着を促すその息子。
黒髪黒瞳、身に纏うは狩人御用達の鉄と毛皮で仕立てられた蛮族の出で立ち。右腕には小ぶりの盾、腰には一振りの剣がそれぞれ銀朱の色で艶めいていた。
ぜい、と荒い息が零される。いても立ってもいられないとばかりに、息子は部屋の入り口に立ち尽くしたままの小柄な影に振り向いた。

「くそっ、お医者はまだか!?」
「……父さん」

手入れの行き届いた、年季の入った家屋。少しでも気が紛れるようにと広く設計した庭、それを一望できる縁側に、老翁の孫は立ちすくむ。
黒髪も黒瞳も男ら譲りだが、その顔立ちは酷くあどけない。先日七つになったというのに、うんとそれより幼く見える。
これは少年の母親譲りの所以だった。父のように凛々しい炎を宿す眼差しはしかし、人好きのしそうな面立ちで幾分かその鋭さが和らいでいる。

「お医者は、お医者は……ああっ、もういい! 俺が直接見てくる!」
「と、父さん、父さん!」

どたどたと、男は少年を置いて飛び出していった。落ち着いた口調と優しい気配の父親の豹変ぶりに、少年はじわりと目に涙を溜め込む。
そろりと振り返ると、彼はゆっくりと、怯えたような足取りで祖父の元に近寄った。祖父は、近隣では名を知らぬ者なしと言わしめる手練れの狩人だった。
短い黒髪には白が混じり、頬はこけ、青い皮膚には不健康そのものの赤黒い血管が浮いている。今となっては、かつての栄光や名誉など欠片も見当たらない。
物心つく頃にふらりと村に戻ってきた祖父のことを、少年はよく知らない。剣の指導を受けたこともあったが、太刀は手に馴染まなかった。
曰く、近場の里で「残党」を狩っていたという。父はその話に何度も頷き返していたが、母は祖父に自分を近寄らせたがらなかった。

「……、」
「じ、じいちゃん?」

あと一歩のところで立ち止まり、困惑したまま立ち尽くしていると、祖父の口から何かしらの物音が漏らされた。
木枯らしのように掠れた音に、死期が近づいていることを否でも予感させられる。少年は、慌てたように祖父の枕元の脇に駆け寄った。

「……ち、……よい、」
「なに? どうしたの、じいちゃん……」
「夜一……すまん、すまん……」

――時刻は黄昏時。ざわざわと木々が揺れ、紅い空を渡る烏どもが急激にどよめいた。じわりと部屋を溶かす日が雲に覆われ、俄に部屋が暗く閉ざされる。

「……よい、ち……?」

ネムと呼ばれた、名うての太刀使い。見る影もない老翁は、枕元に座す黒髪黒瞳の子供を見上げて目を見開いた。

「『ネム先生。俺はあんたを、許さない』」

口元が裂け、欠けゆく月のように険しく歪む。正座して顔を覗いてくるその少年は、確かに自身の孫のはずだった。
いつしか、部屋は暗がりの中に沈んでいる。はくはくと口を忙しなく開閉させ、直後、ネムは上手く呼吸ができずに己が喉を両手で掻き毟った。

「『シロタエを殺した罰だ。思い知れ』」
「……!!」
「『――さよなら。先生』」

びくり、と大きく老翁の体躯が跳ね上がる。ぱたりと力なく崩れ落ちた枯れ枝は、二度と動かなかった。
ふと、正座していた少年はゆっくり目を開く。ふわりと部屋に橙色の夕日が差し込んで、眼前、彼は祖父が絶命している様を目の当たりにした。

「あ、ぁ、ああっ……うわぁあああっ!!」

悲鳴を上げて、少年は父親を呼ぼうと駈け出した。呼び戻された大人たちは、あまりにも常識から外れた尋常ならざる狩人の死に様に動揺する。
老翁を取り囲み、ざわざわと小声で彼らが囁き合う最中。ふらりと戻ってきた少年は、屋内の遺体を見てまた嗤った。
欠けゆく三日月の如き、鋭い爪牙さながらの怪異の笑み。後に、少年「カシワ」の記憶の中に、祖父の存在は薄ぼんやりとした霞としてしか残されなかった。



 ヤツカダキ恋奇譚 後日譚 「宵血」



さわさわと、風に紛れて花びらが舞う。穏やかな日差しと満開の桜を仰ぎ見て、男はぼんやりと佇んでいた。
俄に、その背後が騒がしくなる。振り向いてみれば、よく見知った小生意気な面立ちの娘が、派遣先であるこの里の教官にあれやこれやと絡まれていた。

「やぁ、愛弟子! 今日も絶好の狩猟日和だね!!」
「うわあっ、ちがっ、愛弟子じゃないし! あんたの愛弟子はこの里にいる子たちでしょ!!」
「翔蟲の扱い方を教えたよね? じゃあ、君も立派な僕の愛弟子さ! 遠慮はいらないよ、さあっ、今日も元気に頑張っておいで!!」
「ぎぃー!! ユカの方が、あんたより何倍もマシっ!!」

天色の髪は額から後ろに撫でつけるように掻き上げられてあり、象牙色のバンダナで形が崩れないよう、額のあたりで固定されている。両耳の前に僅かにあまった毛髪を残し、視界は確保しやすく、かつ年相応にお洒落を楽しんでいるという体だった。
女性にしては鍛えられた体つきで、特に上腕と太腿の発育が顕著である。動きやすい格好がいいと豪語するだけあって、件の部位と腹の一部が露出していた。
ぱりっと仕立てられた革製の装備は鶏冠石と樺色のまだら模様で、丈夫でしなやかな材質が売りだ。そこに金属や革のベルトをあてがい、強度を増している。荒野を警護する人々の出で立ちをモチーフにしたその防具は、現大陸においてフロギィ一式と呼ばれていた。
「駆け出しの頃に愛用した装備だから」と、防具に防具を重ねるという近年開発された特殊加工を施して以来、長く愛用しているようだった。

「カーシワー! 何してんの、新しい武器派生、見に行かないのー!?」

実に元気がいい。正確には、里の教官――名はウツシといったはずだ――を振りきった勢いで、興奮しきっているのかもしれなかった。
駆け寄ってくるや否や、ばしばしと遠慮なしに二の腕を叩いてくる。いで、いっで、と、男は苦笑いを交えて娘を見下ろした。

「クリノス……お前なあ、ウツシ教官にもう少し愛想とか振りまけないのか。せっかく色々教えてくれてるのに、」
「――やぁ、カシワ! 元気に狩りに行っているかい!?」
「どわあっ! い、いつの間に後ろにっ!?」
「……へー、あっ、そう。じゃ、あんたが教官と仲良く狩りに行ったらいいんじゃない」
「うわっ、ちょっ、ま、待てよ! き、教官! 俺たちこれから、装備の調整入れてくるので!!」

おやそうかい、とウツシはすんなり二人の狩人を解放した。元より、里の中心にあたるたたら場前広場は里のあらゆる出入りを見守ることができる。
彼は真実まことの自身の愛弟子らの帰りを待つべくここにいたのだ。休憩時間も兼ねていたようで、任務中に装着している雷狼竜モチーフの面も外してある。
心なしか浮き足立つ傍ら、びし、と片腕を上げて見送りをしてくれたウツシに苦笑いを返して、カシワは慌ててクリノスの背を追った。



……炎とたたら製鉄で栄える里、カムラの里。
豊かな自然と良質な資源に恵まれたこの土地は、今から五十年もの昔、「百竜夜行」に見舞われた。被害は甚大で、それを機に里を離れた者もあったという。
しかし、当時の里長や次期里長として奮起した現里長フゲン、彼を支える仲間たちの懸命な努力のお陰で、歳月を掛け、活気溢れる里は取り戻された。
カシワとクリノスが数ヶ月前にこの地に派遣されたのは、他でもない、件の「百の竜が夜を行く」現象が再発したことが要因となっている。手伝い要員といってしまえばそれまでだが、狩りの業を磨くため、未だ見ぬ素材を目にするためと、二人の希望は合致していた。

『そうか、引き受けてくれるか。助かった。俺も手が空いたら、顔を出しに行くとしよう』

新大陸と呼ばれる未開の地での調査活動が一段落ついた頃、現大陸に戻る船の上で、二人はカムラの里の件を馴染みの男「ユカ」から聞かされていた。二人宛ての出向依頼は、だいたいがこうしてハンターズギルド直属の狩人である彼から指示されるものだった。
いつものように気軽に受諾して、カシワとクリノスはそれぞれの立ち寄りたい拠点に顔を出した後、すぐさまカムラ行きの船に飛び乗った。
……よもや、出発直前、クリノスが冷徹で無愛想なあのユカに「あれこれ」されていようとは露ほども思わなかったが。
彼女の首元に、ユカの髪や瞳と同じ色の石をあしらった革製のチョーカーが結ばれているのを遠目に見て、カシワは気恥ずかしそうに加工屋前に向かった。

「うーん……やっぱり。龍歴院周辺では見ない造り、素材ばっかりだね」
「ここも閉ざされた環境にあったからな。適応したモンスターが、余所とは違った進化を遂げているのやもしれん」
「ふーん、どうでもいいけどねー。わたしは珍しいレアアイテムが手に入るなら、それでいいし」
「強力な加工に希少素材は必須だからな。流石、仲間思いなだけはある」
「べ、べっつに。そ、そんなんじゃないし……」

先に武具加工屋の前に着いていたクリノスは、店主である鍛冶師ハモンと何やら話し込んでいた。
あいつの度胸はどこに行っても大したもんだな、カシワは頭をぼりぼり搔きながら歩み寄ると、さっと娘の横にしゃがみ込んだ。

「来たな、ハンター。今日はどうする?」
「こんにちは、ハモンさん。フクラも!」

ハモンの隣でオトモ装備の加工を任されているアイルーが、カシワの声に手を止めてぱっと顔を上げた。彼に任せているのは、交易に出ているオトモたちの装備品の新調だ。小さな手が細々と装飾を纏めている様は、流石カムラの加工屋と呼べるほど手際がいい。
幸せそうににこーっと笑うフクラに同じくにこにこと頷き返して、カシワはクリノスが覗き込んでいた武器派生表に視線を落とした。

「……ちょっとカシワ。邪魔ー」
「はあっ!? お前なあ、もうちょっとそっち寄れよ!」
「こら、喧嘩をするんじゃない」
「ちがっ……クーリーノースー! お前のせいでハモンさんに怒られただろ!」
「はいはーい、ごめーんねーっ」

笑い合い、茶化し合いながらカタログを覗き込む。描かれているのは、元々の所属先である龍歴院周辺には存在しなかった武具、素材の山だ。
龍歴院つきハンターとして龍識船や新大陸など、各地に出向するようになって早数年。カシワは、生まれて初めて見る宝を眺めるように目をキラキラさせた。

「……うん? いや、ちょっと待てよ。俺の武器の新しい派生は見当たらないな」
「えぇ? あんた弓も使うじゃない、そっちも見てみたら?」
「いや、簡単に言うけどな……」
「見て、必要な素材数、強化素材を事前に確認する。基本でしょ?」

クリノスの実家は、商家にして隊商でもある。その関係で、彼女はカシワよりもうんと早くにハンター稼業に就いていた。
故に、年下でこそあれ狩りの経験は男の倍に相当する。至極真っ当な指摘に、カシワは口をもごもごさせるしかなかった。目の前でハモンが苦笑している。

「してやられたな、ハンター」
「うう……ハモンさんまで。見てなくていいですから」
「うーんと、弓、弓はー……ああ、ほら。この間倒してきた『ヤツカダキ』なら、弓の派生あるみたいだよ?」
「! ヤツ……カダキ……」

それは、最初こそ聞き覚えのない名前だったのだ――不思議とカシワは、龍歴院が活動の拠点として推奨する麓の村の光景を思い出していた。
緑と風に囲まれた村、ベルナ。狩人として初めて訪れた彼の地には、求婚した最愛の女が自分の帰りを気長に待ってくれている。
控えめにこちらの名を呼び、はにかむ女。長い髪に名花である星見の花を飾ってやったのは、いつのことだっただろう。

「弓か。お前はどうする、ヤツカダキなら素材が揃えば今すぐにでも打てるぞ」
「わたしは今はパスかなー……そうそう、ヤツカダキ! びっくりしたよ、まさか炎を吐いてくるなんて思わなかったから」
「ほお、我が里のハンターはつい先刻狩りに出たばかりだったがな。なかなか手強かっただろう」
「まーね。ねえ、聞いてよハモンさん。こいつ、カシワの奴、最初ぼーっと突っ立ってて何にもしなかったんだよ? しっかりしろよ相棒、って……」

カシワの耳に、クリノスたちの声は聞こえていない。おもむろに立ち上がり、ハモンが提示した妃蜘蛛の素材を見下ろして――

「ッえ、ちょっと、なに、カシワ……あんた、どうしたの!?」
「……え?」

――黒髪黒瞳の男は、滂沱の涙を流していた。音もなく溢れ出るそれは、意識して止まらせることも儘ならない。
つられて立ち上がったクリノスに、カシワは自分でもわけが分からない、と答えるように頭を振った。
言われて初めて、泣いていることに気がついたくらいだ。里の象徴でもある紺色の防具の手甲で目元を拭い、垂れ流されるばかりの雫を見て当惑する。

「……何故、どうして」
「ちょっと、カシワ?」
「悪い、クリノス。俺にもよく、分からないんだ……」

急速に潤み、霞んでいく視界。嗚咽さえ漏らし始めた男の頭を、彼の相棒は必死に撫で回してやっていた。
その先で、妃蜘蛛の鉤棘はただ黙して加工台の上に横たわっている。艶めく濃紫の輝きは、今日の晴天を映してどこか気高く、誇らしげに煌めいていた。



――真実とは、存外近くに転がっているものだ。ならば踊れ、竜を相手にする者よ。
より深い土の下、其の竜宮の更なる底へ。禁断の地に住まう獣たちは、今も諸君の訪れを悪意を囁きながら待っている。
「退屈はつまらない」。諸君らは、何時の時代もそう在っただろう?
 
 

 
後書き

……

恋奇譚より五十数年後の話。
サイトでのもう一つの連載枠、黒髪黒瞳ハンター・カシワの乱入回になります。
ネムの孫にあたる彼が、果たして夜一とどんな繋がりにあるのか。それは「カシワの書」で明かしていく予定でいます。

夜一の死を防げなかったネムは、故郷に帰った後、里の周辺で起こるプチ百竜夜行を妨害しながらハンターとしての生を全うします。
彼に嫌悪を募らせていた夜一ですが、皮肉なことに教わった太刀筋は極めて優秀なものでした。
片手剣はあくまで師への抵抗の表れでしかなかったようです。
 

 

番外編 荊棘の残り灯 「nor」

 
前書き

時間軸はサイト掲載作品「カシワの書」に移行。
本編としてはMHX〜MHXXに相当します。

……
 

 

物心ついた頃には、家に独りでいることが多かった。わたしの父は優秀なハンターで、一度家を出ると数日どころか下手をすると数ヶ月も帰ってこない。
砂塵の舞う大砂漠や、湿った泥土の暗い森、熔岩と岩石が並ぶ火山地帯……父が向かう狩り場はそういった厳しい環境にあるところばかりで、帰りの便りが届くのを、窓枠にしがみついて心待ちにしていた記憶がある。
父が多額の報酬金を手に戻ってきた日には、食卓に豪華なご馳走が並べられた。ご近所さんもたくさんの差し入れを分けてくれて、わたしたちを精一杯労ってくれた。お酒のにおいと、焼いた肉やゆでた野菜、チーズがとろけていく湯気の向こう……父は、酒気で真っ赤になった顔で破顔していた。
母もにこにこして喜んでいたけれど、わたしは正直、そんなことより父にもっと家にいて欲しかった。
父は、若い頃から大物相手に単身で臨むことが多く、怪我をして帰ってくることは日常茶飯事だった。血の臭い、打ち身、赤色、青ざめた顔。それに恐怖しない日は、一度だってなかった。
母は母で病気がちなひとで、父の帰りを待ちわびながら、わたしに気づかれないように隠れて咳をしていたのを覚えている。
父も母も、幼いわたしに弱さを見せまいと必死だった。十代の半ばで親の反対を押しきって結婚したから頑張らなければならないのだと、いつの日か母がこっそりと教えてくれた。

(そんなに好き同士なら、もっとずっと一緒にいたらいいのに)

母に手を引かれ、夕日に焼かれる草原の上から龍歴院印のついた飛行船を見上げながら、わたしはいつもそんなことを考えていた。
どこか青白い顔を赤く染めながら、母はわたしに振り向いていつも必ずこう話す。
『もうすぐ、マルクスさんが帰ってくるのよ』。わたしの父はマルクスという。なんでも、異国の難しい学問に精通した学者先生と同じ名前なのだそうだ。
義両親がお偉い学者先生から名を取ったというわりに、父はあまり頭がよろしくないのだと母は言う。狩り以外のことはからきしなのよ、とは彼女の口癖のようなものだった。
母の言いたいことは、幼いわたしにも理解できていた。父は料理はもちろん、片付けはおろか風呂を沸かすのだって上手くない。
けれど、わたしも母もそれでよかった。父は忙しいひとだったけど、わたしたちのことや飼っているムーファのことも、うんと愛してくれていると知っていたから。

『――っ、エレノア!!』

母が亡くなったのは、久方ぶりに長引いた遠征から父が戻ったその日のことだった。
雲羊鹿たちが妙に騒いでいて、わたしはいつも世話を焼いてくれる親切な村のひとに手を引かれて、自宅の横の畜舎に向かった。
母は、身を案じるムーファに囲まれたまま畜舎の冷たい土床の上に倒れていた。一緒に食べようと抱えていったバスケットの中身が散らばって、先輩が隣で悲鳴を上げたのが聞こえた。
何が起きているのかわからず、呆然と立ち尽くしたわたしの横から、帰ったばかりの父が見たこともないスピードで母に駆け寄っていくのが見えた。
父は、包帯だらけだった。粗末な白い布地に鮮血が艶やかに滲んでいたのを、いまでもよく覚えている。
……お葬式を済ませたあの日から、父は余計に家に居着かないようになっていった。わたしが雲羊鹿の世話に慣れたことも、もちろん理由の一つ。
でも、一番の理由は「つがいを亡くした」からだと村の大人たちは話していた。二人で過ごした愛の巣には思い出が多すぎて、愛娘は最愛の妻に似すぎていて、顔を見るのも辛いのだろう、と。

『――や。……つ、』

その頃からだ。わたしは深い眠りに落ちる最中、よく夢を見るようになっていた。
夢の中で会うのは、決まって同じひと。真っ黒な髪に、射干玉みたいな黒い瞳の一人の男のひと。見上げた先で、そのひとは心底嬉しそうに、子どもみたいな顔でニカリと笑った。
ベルナ村とは全く違う、見たことのない風景。遠慮がちにそっと手を繋いで賑わう市場に出かけたり、大雨の中ふたりきりできつく抱きしめ合ったりした。
ときに、不思議な色合いの薔薇が咲き誇る暗闇に覆われた河の畔で、彼と親密な時間を過ごすときもあった。
素敵なひとだと、そう思った。目が覚める直前まで、わたしはその人と過ごす時間を心待ちにし、逢えたときには大いに喜んだ。
名前も知らない、黒髪黒瞳の狩り人。藍色に染まった布地と鉄製の装飾に身を包んだその人は、恐らくわたしの初恋相手なのだろうと、今では思う。






「……ねえ、ノアちゃん。ノアちゃんには『いいひと』っていないの?」

いつものようにムーファの世話を済ませて、糸紡ぎに精を出す昼下がり。恒例のように様子見にきてくれた親切な先輩の言に、わたしは糸車から視線を外した。
押し込み式の踏み板から足を外して、少しずつ回転を緩めさせていく。糸紡ぎ機の稼働にはちょっとしたコツがいる――先輩は、すっかり手慣れたわねえ、と感心したように苦笑した。

「先輩。いいひと、っていうのは……」
「そのまんまよ。ほら、龍歴院の研究所の人とか、それこそハンターさんたちとか! ここ数年で、すっかり人が増えたじゃない?」
「うーん? そう、ですね。皆さん、本当にとってもいい人ばかりで頼りにしてます」
「そうじゃなくて……ほら、素敵だなーとか、格好いいなーとか! 何か、ないの?」

村の大人たちに悪気なんてものはない。わたしは、どうでしょう、と眉尻を下げながら笑い返した。
今も昔も、父の落ち込みようと狩りへの執念には目に余るものがあった。ときには単独で火竜と雌火竜の二頭を同時に相手取り、辛勝したこともあったという。
父がいくら豪胆な腕利きであろうとも、無謀な狩猟を続けていることは紛れもない事実だった。
母を……最愛の「つがい」を亡くしたことでそこまで人が変わってしまうというのなら、愛とは、恋とはなんなのだろう。
だからわたしは、つがいなんて、そう簡単に手に入れていいものだとは思えない。
夢の中でしか逢えない、あの素敵な狩り人のこともある。わたしは周りの同い年くらいの少年少女が恋愛を謳歌するのを尻目に、ひたすら仕事に打ち込むようになっていた。

「マルクスさんが心配なのも、ムーファが可愛いっていうのもあたしは十分に分かるけど。そろそろ自分の幸せを考えたって、」
「先輩。わたし、お産の近い仔の様子を見に行ってきますね」
「あっ、ちょっと! ノアちゃん!」

先輩が案じてくれていることは、分かっている。父だって乱雑な狩りをして家に戻らずにいるけれど、定期的に手紙や仕送りを送ってくれる程度にはわたしのことを気に掛けてくれている。
きっと、どうしたらいいのか分からないのだ。わたしもそう。
幼い頃こそ、火竜を狩って帰った父を無邪気に絶賛したけれど、今となっては母のようにいつか喪うんじゃないかとか、そんなことばかり気にしてしまっている。
心配なのだ。無くしたらどうしようと、不安で堪らない。父にもそれが伝わっているのだろう、あのひとは周りがよく見える人だから……。

「――あれっ、ノア? やっぱり、こっちにいたか」

畜舎に入ろうとしたとき、背後から声を掛けられた。聞き覚えのある声に振り向くと、最近知り合ったばかりの狩人が気楽に手を振っている姿が目に映る。
真っ黒な髪に、射干玉みたいな黒い瞳の一人の男のひと。ベルダー装備と呼ばれる防具に身を包んだその人は、最近になって龍歴院に所属を許可され、めざましい活躍を見せ始めた新人だった。

「カシワさん! こんにちは」
「ああ、元気そうでよかった。ちょっと近くまで来たからさ」

いつもは跳狗竜とその親玉の混合防具を愛用しているはずなのに、どうして今日は一番最初に支給された装備を着ているのだろう。
いつものはどうしたんですか、と正直に聞いてみたところ、狩りをしすぎて痛めたから加工屋に没収された、と気まずそうに苦笑する。彼はとても努力家で、人好きのする笑顔が眩しい人だった。

「そうなんですか。無茶しないでくださいね、わたしの父も、たまに身ぐるみ剥がされたりするんですよ?」
「えっ、そうなのか!? あー……うん、もう大丈夫だ。さっき、クリノスにしてやられたからな」
「して、やられ……?」
「うわっ、な、なんでもない!! と、とにかくっ、整備がちゃんと終わってから狩りに出るつもりだから……本当に、今はもう大丈夫だ」

彼との出会いは、それはもう衝撃的すぎるもので……自分たちの危険も省みずに危ういところを救ってくれた彼とその相棒にあたる人物に、わたしはとても感謝していた。
助けて貰って以来、彼はこうして思い出したときにわたしの元を訪ねてくれる。わたしは御礼も兼ねて、以前より更に彼らに自家製の焼き菓子を差し入れするようになっていた。
ムーファ製のチーズ入りクッキーは、母からの直伝だ。香り豊かなそれは、甘く柔らかめに焼いたものと、塩っ気を強くして固めに焼いたものの二種がある。
どっちも美味しいよー! とは、それらを特に気に入ってくれているカシワさんの相棒、クリノスさんの言葉だった。彼女の姿は今は見えない。
どうしたんだろう、ときょろきょろあたりを見渡すわたしを余所に、カシワさんはわざとらしく咳払いする。
ふと、目が合った。吸い込まれそうな黒い瞳……あの夢の中に出てくる狩り人と、彼、カシワさんは面立ちから気配まで何もかもがよく似ている。思わずまじまじと見つめてしまった。

「ノア? 俺の顔に何かついてるか」
「えっ? いえ……カシワさん、次の狩猟も頑張ってくださいね」
「ああ、分かってる。ありがとうな」

愛なんて、恋なんて、とんでもない。
思い出しただけで胸が痛むような、痛切な恋心を感じさせる、あの狩り人。せめて彼とどこかで逢うことができたなら……。
心底嬉しそうに、子どもみたいな顔でニカリと笑うカシワさんを見上げて、わたしも笑った。よく晴れた、嵐の前触れさえ欠片も感じさせないような、平和な日のことだった。
 
 

 
後書き

……

連載作品「カシワの書」より、ベルナ村の雲羊鹿飼い・ノアの話。モブです、NPCではないです、誤解なきよう…!
カシワが夜一に近しいならば、彼女は艶に近しい人物。繋がりについてはやはりカシワの書待ちです。

荊棘とは薔薇のこと。とはいえ、性格その他を考えるとノアには紫色は合わないような…そのあたりは自分で折り合いをつけるしかなさそうです。ないです。
ちなみにスペルはnor。古い短縮形だそうですが、「いずれでもない」の意。そしてフランス語の「黒」に単語重ねをしています。裏話、零れ話!
 

 

『ヤツカダキ恋奇譚』 登場人物



夜一(ヨイチ)

黒髪黒瞳の上位ハンター。二十五才。カムラの里のほど近くに位置する、小さな交易村で流れのハンターを務める。
人好きのする顔立ちが特徴の男で、腕は立つが仕事はサボりがち。
オトモの暁とは長いつきあいで、数年前に拾ったガルク・灯火と日々細々と暮らしている。
使用武器種は片手剣、メイン武器は王剣シツライ弐。真に得意とする武器種は太刀であるらしい。

(つや)

夜一らが狩りの最中に大社跡で出会った謎の人物。白い長髪に琥珀の瞳をもつ、儚げな雰囲気の女。
その正体は大型モンスター「妃蜘蛛ヤツカダキ」。
密猟に追われて命を落とした仲間たちの仇をとるべく、単身人里に降りてきた。
大社跡の主であるオオナズチの秘術で、八日間の間だけ人間の姿形に化けている。当初は夜一を利用するつもりで近づいた様子だったが……

(アカツキ)

天真爛漫を通り越して小生意気なオトモアイルー。白い毛並みに朱色の眼を持つ。タイプはボマー。好物は夜一が手渡してくれるマタタビ。
夜一に雇用される以前は多くのハンターに厄介払いされ、狩り場と斡旋所の間を行き来していた。
理由としては爆弾の火力が高すぎる上に、狩りに熱中しすぎて主人を省みなくなる点から。
夜一は逆にその威力を気に入っていたらしい。

灯火(トモシビ)

元は野良のガルクだったが、親兄弟を密猟者に捕らわれ、命からがら逃げおおせたところで夜一と出会う。
一般的に知られるガルクそのままの、薄花色の毛並みに不言色の眼。好物はブンブジナ製のこんがり肉、火竜の尻尾焼き。
警戒心が強く夜一ら以外に全く懐かないほどだが、一度でも気を許した相手には非常に従順、素直な気質。
暁より若干、若い個体であるらしい。

・クーロ

黒髪黒瞳のギルドナイト。使用武器種は弓、次いでライトボウガン、ヘビィボウガン。
夜一とは同期であり、現在の拠点に流れ着くまではドンドルマ、ココット村を中心に二人で狩りをして過ごしていた。
冷静沈着な人物としてギルドの仲間からは知られているが、義理人情には厚い男。
モンスターを気遣うあまり評判が下落している夜一を気に掛けている。

・トゥーリ

茶色の髪に榛色の丸い瞳、大きな眼鏡をかけた小柄な愛らしい少女。言動もどこか幼く見えるが、正式にギルドから任命を受けた受付嬢。
夜一が暮らす村を担当し、若いながらもモンスターへの知識、観察眼に優れ、研究機関からも一目置かれている。
夜一に淡い恋心を抱いていたが、百竜夜行の発生をきっかけにモンスター研究により一層取り組むことを決意。
クーロの協力を得ながら日々研鑽に勤しむ。

・スガリ

夜一が暮らす村の長の愛娘。美しい黒髪と理知的な黒瞳が特徴。次期里長候補として、夜一との婚姻を長より言いつけられていた。
先見、予知といった第六感に優れ、人知れず感知した百竜夜行に戦慄していたが誰にも打ち明けられないまま当日を迎えてしまった悲劇の人。
特に好む色は赤、桜などの暖色系で、艶とは雰囲気から好物まで全て真逆である。
思い込みが激しく、また言葉不足によって損することも多かったよう。

・ネム

ユクモ、カムラの里方面にある小さな農村出身のハンター。太刀使い。人当たりがよくまた勤勉で、ギルドや依頼主からは重宝されていた。
故郷の村に妻と生まれたばかりの赤子を残し、給金を郵送しながら高難度の狩猟で出稼ぎをしている最中、夜一と出会う。
家族よりも狩猟、もしくは夜一とシロタエの指導に熱中するあまり、晩年は自身の妻ならびに息子夫婦の妻側から疎まれていたほどだった。死因不明。


(後日譚 MHXX編)


・カシワ
黒髪黒瞳の新米ハンター。二十四、五才。童顔。
世界一有名なおとぎ話「黒龍伝説」に登場する「黒龍」との遭遇を夢見てハンターとなる。
田舎者でお人好し、ややへたれ。頻繁に道に迷う方向音痴。片手剣使いだが、後にガンナーデビューも果たす。

・クリノス
天色の髪に銀朱の瞳の双剣使い。家の都合でカシワより早く、龍歴院つきのハンターに就いている。二十歳前後。
レアアイテム、オトモ大好き。その昔モガ、タンジア、バルバレなどで狩りをした経験がある。
好物はこんがり肉と強走薬G。歯に衣着せない性格。
 
 

 
後書き

……

これにて「ヤツカダキ恋奇譚」の更新終了となります。
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