冥王来訪
はじめに
前書き
注意書きです
必ずお読みください
本作品はマブラヴシリーズの『シュヴァルツェスマーケン』の前日譚、『隻影のベルンハルト』の二次創作に当たります。
細かく申せば、『隻影のベルンハルト』と『冥王計画ゼオライマー』のクロスオーバー小説です。
1970年代後半の話なので、武ちゃんや鑑純夏、その等のヒロイン勢は、出ません。
(香月夕呼博士も神宮司まりも少佐も、時代的に幼児ですので、活躍しようが御座いません)
物語の展開上、エーリヒ・シュミットを筆頭に、複数の原作登場人物へのアンチ・ヘイト表現が含まれて居ります。
一部、『トータル・イクリプス』や『オルタネイティヴ』に出た人物は登場しますが、二次創作なので雰囲気が違うかもしれません
マブラヴシリーズの世界観に対し、不明瞭な部分に関して、私なりに解釈をしております。
それ故、原作との乖離が多少発生する点が御座います。
作中の東ドイツ軍の階級呼称、会話の応対、その他の解釈は、同人サークルVEB Ostalgie発行、雨竜大樹 著の『進メ同志!兵士ノススメ 1969年版』(2021年)を参考にさせて頂きました
『冥王計画ゼオライマー』の設定は、東芝EMIから出されたOVA版(1988~1990年)に準拠しています
ガバガバな設定で雑な文章ですが、お読みいただければ幸いです
特に粗雑な歴史考証、ご容赦下さい
『この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・地名・名称とは一切関係御座いません』
後書き
本文の感想、お待ちしております
設定や歴史考証のご指摘等でも構いません
転移
前書き
初投稿です
横たわる巨人の前に、軍用車が近づいた。
車を離れた場所に止めると、数名の男達が、後ろから飛び出す。
助手席から、降りた男の指示の下、目の前の物へ、駆け寄った。
鉄帽に、深緑の戎衣を纏っている。
彼等は、針の様な銃剣を付けた小銃を持って、近づく。
静かに、忍び寄ると、巨人から一組の男女が表れて周囲を伺う。
拳銃を手にした指揮官が、手招きをする。
立ち止まった兵士達は、銃を構え、呆然とする男女へ銃を構える。
指揮官は、銃を構えた右手に左手を添える。
そして、拳銃をゆっくり挙げて、彼らに、尋ねた。
「動くな。人民解放軍だ」
近くに止めた車からは、煌々と、前照灯が照らされる
灯火の中、一組の男女は、両手を上げて無抵抗の意思を示した。
その後、再び問うた。
「あなた方は、何方から来られたのですか」
まず、黒い服を着た男の方が話し掛けたが、理解出来なかった。
どうやら外国語らしい。
顔立ちからすると、恐らくは、日本人、或いは、朝鮮人。
ひとしきり話した後、脇に居た女が変わって話し始めた。
流暢な北京官話で、話しかけて来る。
「私たちは日本から来ました。ここはどこですか」
指揮官は、外国人だとわかると、拳銃をゆっくり下げ、拳銃嚢に仕舞う。
ここで、もし殺せば、場合によっては、自分の政治生命は立たれる。
そう思って、態度を軟化させた。
俄かに、周囲の兵達が騒ぎ始めた。
見た事も無い、大型の戦術機と思しき機体に、一組の男女。
そして、半ば鎖国状態の、この国に、日本人とは……
指揮官は、兵達を宥めてから、再び話し始めた。
「ここは、蘭州より150キロほど西方に来た場所です」
おそらく、強化服であろう異様な服を着た長い髪の女。
彼女は、脇にいる男に話し掛けていた。
男が話すと、女が通訳をし、指揮官に語り始める。
横たわっている巨人を、操縦中に、道に迷って不時着したのだという。
その話を聞いて、おそらく新型の戦術機は、戦闘中に迷ったのであろうと、彼は判断した。
取り敢えず、その場で対応出来る様、本部に連絡を入れる。
彼らは、指揮官と1名の兵士を残し、その他は、敵の集団が消えたとされる場所の確認へ向かって行った。
ちょうど夜が明け始まる時間帯であった。
後書き
ご批判、ご指摘お待ちしております
転移 その2
前書き
初投稿です
深夜2時、紫煙が立ち込める執務室に一人の男が立っていた
灰色の制服を着て、両切りタバコを手にした男は、机に置いた報告書を眺めていた
彼が目を落とした書類には、秘密を表すスタンプが押されている
ドアをたたく音が聞こえて、男は呼びかけた
「入り給え」
ドアが開くと書類を抱えた深緑の指揮員(軍官)の服を着た男が入ってきた
「昨晩の続報をお持ちしました」
そして報告書の内容が彼の口から説明された
蘭州の西方300キロにいた《BETA》の大群は、一晩で≪消え≫、そこから150キロほど先で怪しげな人間を≪保護≫したと言う
全長が50メートルもあろうかという白色の戦術機に、日本から来たと話す男女。
男女の服装や態度からすると、黒の軍服を着た男がおそらく指揮官で、強化服に似た服を着た女がパイロットという推測
男は中国語は全く話せないが、多少は英語が出来る様であり、今は同行している女が通訳の代わりを務めているという
彼は、タバコを黙って差し出すと、軍官は深くお辞儀をし、火を点けた
「日本語のできる通訳はいないのかね」
男は椅子に腰かけながら、話し始める
「なにせ、文革と今回の動乱で通訳できる人間は前線にいませんからねぇ」
深くタバコを吸うと、こう続けた
「ロシア語なら前線でも用意できるのですが……」
灰色の制服を着た男はタバコを片手に執務室を歩き回る
男はじっと下を向いたまま、待った
そして、こう告げられた
「この報告は党中央には上げない。一旦、私が預かろう」
男は驚いた表情をしながら、話し始めた
「省長、それは……」
タバコに火をつけながら、続けた
「党への背信行為になるかもしれんが、あまりにも報告書の内容が酷過ぎる。
それに、男の方から何も聞けていないのだろう。
丁度良い所に、日本語の出来る男が、居るではないか」
笑いながら省長と呼ばれた男は、椅子に近寄った。
彼は腕時計を見た後、灰皿に、タバコを捨てながら、こう続けた
「8時までに、新品の軍服と上等な食事を用意してやれ。そして尋問が終わった後、北京に報告しろ
。以上だ。」
軍官はタバコをもみ消した後、立ち上がり敬礼をすると、部屋から静かに出て行った
「しかし、興味深い話だ。本当ならば……」
新しいタバコに火をつけながら、彼は佇んでいた
後書き
批判、批評おまちしております
転移 その3
周囲を武装した兵士に囲まれた建物
狭い室内には、寝台と簡素な机、椅子が2脚ある
その中に白い巨人から現れた男女が、寝台に腰かけて居た
彼らこそ、ゼオライマーのパイロット、木原マサキと、それに付き従うアンドロイド、氷室美久である
ゼオライマーは鉄甲龍との最終決戦の後、消滅したはずであった
マサキは静かに語り始めた
「なあ、俺達は、あの時、マサトの自爆で消えたはずだ……」
立ち上がり、脇にいた美久の左頬を触った
「こうして、パーツであるお前が、無事。そしてゼオライマーの能力も欠けた所が無い、と言う事は、おそらく次元連結システムの保護機能が働き、助かったと考えるのが妥当だろう」
不意に彼は微笑んだ
「だとすれば、再び俺はこの世の覇者として君臨できる機会が巡ってきたということだ」
そして、都合の良いことに、_忌々しい_秋津マサトの人格が表れてこない
現場に来た将兵の話から類推すると、時代を10年ほど遡った事に当初驚いた
だが逆に、彼には、チャンスに見えてきた
唯、この世界を掌握するにしても、それなりに障害になる物が在るのを、知った
《BETA》と、呼ばれる異様な化け物共だ……
しかし不思議なのは、人民解放軍の航空戦力が_元の世界より_古すぎる点
そして18メートルの量産型軍事用ロボットが存在するという点だ
おそらくは次元連結システムの応用により並行世界に転移してしまったと言う事であろう
多分BETAぐらいで、変わりはなかろう。
もし、科学技術の立ち遅れや、歴史的な事象の相違があるのであれば、話は変わって来るが……
マサキは静かに美久の左ほおから手を放し、今度は彼女の胸を、つかみ始める
思わず美久は、彼の右手を両手で掴んで、叫んだ
「何をするのですか」
彼は高らかに笑った後、こう告げた
「俺の高ぶる気持ちを、落ち着かせることぐらいできるであろう、例え、ガラクタであってもな」
そして美久を抱き上げて、顔を近づける
彼は、彼女の耳元で、囁く
「貴様には、俺の野望の為、再び馬車馬の如く働いてもらう。そして、その喜びを、全身で味わえ」
そう言い終わるとマサキは乱暴に美久の唇を奪った
転移 その4
前書き
初投稿です
ガバガバな内容ですいません
翌朝、木原マサキのもとに新しい軍服一式と食料が来た
昨晩までの冷たく硬い食事ではなく、温かい食事だった
肉が少なく、味付けが辛い点は、不満であったが。
この地に来て初めて暖かい湯で体を清めた後、新しい服に袖を通して別の場所に移動させられた
立派な建物のある場所に着くと、中に入って50前後の人物と会った
この地域の省長と名乗る男は、多少訛りはあるが流ちょうな日本語で話しかけてきて、要望を聞いてきた
そして2日前の話を、訪ねてきた
マサキはおもむろに口を開き語り始めた
「で、あんたらが言うBETAという化け物を退治すれば俺は自由にしてくれるんだな」
省長はタバコを差し出しながら、こう答えた
「もしあなた方が言うように、単独でBETAを殲滅したというのならば、我々はソ連なり、アルバニアなりにどこに行ってもかまいません」
マサキはタバコを受け取ると火をつけ、吹かし始めた
「別にカシュガルまでとは申しませんが、綺麗さっぱりに無くしてくれれば、我々はあなた方の自由を保障しますよ」
彼はそういうとこの世界に関して語り始めた。
今から数年前、文革が激烈な時期に新彊のカシュガルに宇宙より襲撃してきた存在で、軍の指揮系統が混乱していた故に初動の対応が遅れに遅れ、ソ連軍の増援を仰いだ時にはすでに遅かりし状態であった
現地の建設兵団の装備はソ連国境沿いで十分であり、核攻撃も実施したが起爆した場所が悪く、思ったより効果が得られず、レーザー光線を出す新型のBETAに既存の航空戦力では劣勢に回ったこと。
そして米国で開発された戦術機というロボットで何とか倒しているという話を受けたところで、マサキは思い悩んだ
(とんでもない場所に来てしまったようだ。しかしこの機会を利用すれば俺は、この世界において冥王として君臨できる)
幸いなことに自分を邪魔する秋津マサトも、鉄甲龍もいない。
ゼオライマーの次元連結システムの秘密さえ守れば、うまくやれる。
あとは自分のスペアパーツが不在という点だけか……
レーザー光線も詳しく調べていないが、最初の戦闘でタイムラグがあるのは分かったし、あとは中共やソ連なりから詳しい記録が欲しい
タバコを吸い終わるとマサキは話し始めた
「まず、俺からの要望は3点だ。美久が居なければゼオライマーには乗らん。二人で一つと扱ってもらうように便宜を図ってくれ。第二に、できるだけ詳細な戦闘報告書なり、記録が欲しい。地理にも詳しくないから資料が欲しい
第三に、ある程度、片が付いたら、自由にやらせてもらう。もし俺を止めるようならばタダでは済まないと覚えておくように。
あと、俺たちは客人。だから、それ相応の対応をしてもらうよう、期待している。
以上だ」
彼は思い悩んでいる美久の手を引っ張ると立ち上がって、こう告げた
「話がなければ帰らさせてもらうぞ」
そして勢いよくドアを開けて、その場を後にした
後書き
誤字報告等あれば連絡お願いします
新彊 その1
暗くかび臭い一室
うずたかく積まれた書類の山の中にいた木原マサキは、この世界について調べていた
まず気に為ったのは故国、日本
国家元首の皇帝のほかに、政威大将軍なる不可思議な役職
そして将軍を輔弼する内閣制度、議会
三軍の他に、親衛隊のようなものがあるらしい
「不合理な社会制度をしているな」
資料からわかったのは19世紀中葉までの大まかな歴史の流れは一緒だが、細部が違う異世界に来てしまったということだ……
おそらく次元連結システムの影響で、本来の世界や次元を超越してしまったのだろう
次に気になったのは航空機だった
大型旅客機や爆撃機はあるが、戦闘機は写真資料や文献から類推すると元の世界より発達が止まっている。あっても1950年代までの水準だった
先日説明を受けた≪光線級≫という化け物の影響だろうか。
あるいは、戦術歩行戦闘機とよばれるロボットの開発の為に、航空機分野の発展は遅れてしまったのだろうか
実物を手にしてみて構造や性能を理解してみないと結論は出せないであろうと、考えていると兵士が呼びに来た
ここの司令官が呼んでいるのだという
しかし、人民解放軍の制度はよくわからない
何せ、階級制度を廃止した為に、誰がどの役職で、どの様な立場に居るのか良く判らない
精々分かるのは、制服の色から三軍の違いと、上着のポケットの数で指令員と戦闘員__古い言い方をすれば軍官(将校)と士兵(下士官・兵)_を判別することだ
これでは現場指揮官が戦死したときに、誰に引き継ぐかも決められていなくて混乱したのであろう
おそらくカシュガルに飛来した≪BETA≫への対応が遅れて、核爆弾投下やソ連軍への協力要請が遅延したのは≪プロレタリア独裁≫の負の一面のが強く作用した為であろうと、類推できる
時間を置かず、飛来した≪BETA≫への対応に、米軍は核攻撃を以てして成功していることを鑑みれば、そうであったと考察できる……
そのような思いを巡らせているうちに、呼ばれていた指揮所へたどり着いていた
後書き
ご意見、ご批判、お待ちしております
新彊 その2
紫煙が立ち込め、騒々しい指揮所に着くなり、司令官がいる席に案内された
その席に近づくなり、椅子に座った男が立ち上がって敬礼をしてきた
ぎこちない動作で、敬礼を返すと、折り畳み椅子をすすめられたが、そのまま立ち続けた
脇から通訳やら事務手続きをする人間が集まってきた
その様にしていると、司令官という男は着席し、彼から通訳越しに告げられた
「本来ならば、外国人であるあなたには命令する権利はありませんが、今回の作戦へ協力をしてほしいのです」
これは命令ではなく要請ということか。
木原マサキは、不意に微笑んでしまった
(「あの時と一緒か」)
彼は椅子に座るなり、足を組んで、どこからか用意された熱い茶を飲んだ後、答えた
「いいだろう。だが俺の好きにやらさせてもらう。
そして今回の作戦が終わったら、ここから出ていく」
その場に沈黙が訪れた。
周りで作業していた人間が立ち止まり、こちらを見ている
けたたましい音を立てながら電話が鳴ると、再びその場の静寂は破られて、元の状態に戻っていった
司令官は口つきタバコに火を付けると、勧めてきたので受け取ると、再び口を開いた
「条件については私の方で留保しておきます」
マサキは、タバコに火を付けると、目の前の男に尋ねた
「では、何をしてほしい。単純に言えば」
男はこう答えた
「戦術機と合同で、≪光線級≫の注意を引き付けてほしいのです。
≪光線級≫さえ排除できれば、砲弾で対応できるので、十分です」
マサキは、机の上にある引き延ばした写真を指差した
「もう一つ尋ねるが、この構造物はどうするんだ」
彼が構造物と呼んだもの、それは、《BETA》が地上に「建設」したハイヴと呼ばれるのもので、全世界に今のところ4か所ほどあるものだ。
ソ連領内とイラン領内にあり、大本をたどると、新疆のカシュガルにある≪甲1号目標≫とか≪H:01≫などと称される≪ハイヴ≫にたどり着くという
男は、灰皿に吸いかけのタバコを投げ入れ、新しいタバコに火を付けながら、続けた
「出来るものなら、その存在を消してほしい。出来るものならば……」
茶を飲むと、立ち上がって右手を差し出してきた
飲みかけの茶を置いて、マサキも立ち上がると、右手を差し出して、応じた
「大体の話は分かった。ゼオライマーのできる限りをを尽くすとしよう」
男は、厚く太い指をした手でしっかりと握手をすると、敬礼をして、部屋を出ていくマサキを見送った
後書き
ご感想、ご指摘、ご批判、宜しくお願い致します。
新彊 その3
作戦開始の号令とともに砲撃が始まった
新彊に近接する甘粛、青海よりかき集めらるだけの火砲、戦車を用意し、大量の砲弾が準備された
砲撃と並行するように戦術機部隊に出撃が命じられ、同様にゼオライマーへの出撃も打診された
全長50m近いゼオライマーは、先行する戦術機部隊に追随したが、速度を落として距離を放されていた
前方投影面積が一般的な戦術機の二倍以上ある、この機体ではレーザー光線や誘導兵器の直撃を受けやすく、近接する兵器への二次被害を避けるためである
もっと次元連結システムの応用によるバリア機能があるが、それを極力隠ぺいするためでもあった
前回、≪BETA≫との遭遇戦の際は、メイオウ攻撃によって一網打尽にしたことと、深夜であった為、十分な視認をしなかったのだが、今回の作戦は日中。
マサキは、この世界に来てから初めて≪BETA≫の姿を見た
薄気味の悪い昆虫のような姿をした化け物が、無数に湧いてくる
先行する部隊と砲撃によってだいぶ数が減らされてはいるが、近寄れば群れになって絡みついてくる厄介な存在
部隊の隙間から抜けて近寄ってくる≪BETA≫を、両腕から出されるビームと衝撃波で蹴散らすが、数が多すぎる
(「これでは時間が掛かり過ぎる」)
その刹那、目の前にいた≪BETA≫の群れが左右にひき始め、先行する部隊も散会し始める
直後、ゼオライマーにレーザーが照射され、数秒のうちに連続してレーザー光線が発射された
「避けろ、大型機!」
先行部隊の隊長が通信を入れると同時に数十発のレーザーが直撃し、ゼオライマーが焼失したかに見えた
「いくら大型でも、間に合わなかったか……」
悔しい思いをしていても仕方がない
彼はそう考えて、≪光線級≫への連射を続けた
連射される光線により、仲間の機体はどんどん数を減らしてゆく
今のところ、距離を保ちながら後退をしているから、戦死者は思ったより少ないが、動ける機体が減りつつある
まるで嬲り殺すのを楽しんでいるようだ
間隙を縫って動ける機体によって、衛士の無事な機体が回収されようとしてきたところ、大型の≪BETA≫の群れが、突撃してきた
彼の脳裏にこれまでの戦闘で無残に散っていった同士のことが過る
「これまでか……」
大型の群れの真下が光り輝き、巨大な機体が表れた
白磁色をした機体が地上に飛び出し、下から≪BETA≫を薙ぎ払うと、両腕を胸に押し当てる
発光すると同時に、眩い光が前面に向かって照射される
強烈な閃光と衝撃波が、機体に降り注ぐ
爆風と付随する振動によって近接する数機が横倒しになり、計器類も狂ってしまった
けたたましい警報音によって、混乱する
操縦席より脱出して、敵陣を走破しなくてはならない
そう考え、自動拳銃の準備をする
弾倉に7発、クリップに止めた予備弾が2列……
拳銃の確認をしている間に数度の閃光が煌めく
彼は諦めて、右手に拳銃を握って機外に脱出した
そして急いで横転している僚機のそばへ駆け寄った
僚機は、両腕が爆風でもがれ、全身に≪BETA≫の返り血がこびり付いている
右手で警戒しながら、左手で機体をたたくと返事が返ってきた
どうやら仲間は無事らしい
操縦席の扉が開くと、頭から血を流した衛士が出てきた
圧縮包帯包を投げ渡し、周囲を警戒してると数名の衛士が駆け寄ってきた
多少怪我をしている者もいるが、奇跡的に無事だったようだ
衝撃で、ほぼ全ての手段_無線連絡_が壊れたので信号弾の準備をしながら、警戒する
しかし30分近く経つが、≪BETA≫が寄ってこない
緊張と砂漠の日光で、喉が渇く
「不気味だ」
僚機の衛士は、仲間に応急処置をされながらこう呟いた
「俺もだよ。奴らが寄って来ないなんて不思議じゃないか」
双眼鏡で周囲を警戒する衛士が、叫んだ
「車が来たぞ」
猛スピードのオートバイに先導された、古いソ連製のジープが、2台が付くと衛士達は乗り込んでその場を立ち去った
後書き
ご意見、ご感想、ご批判、お待ちしております
深潭
前書き
中共の軍備は史実を考慮して、多少抑え気味にしてあります
軍の近代化以前の話ですので、その辺を加味して読んでいただけると幸いです
マサキは、構造物のそばにあった巨大な縦穴に入っていた
底知れぬ深さと闇、地表とは違って寒さすら感じる
次元連結砲で、手当たり次第に破壊し進んでいくが、まるで迷路
地図を作るべきか、悩んだが、どうせ地上諸共消滅させる心算だったので、気にせず進む
雲霞の如し敵は、砲の連射でも間に合わないほどので、嫌気がさす
おそらく戦術機の速射機関砲などでは簡単に弾切れを起こすであろう
無限のエネルギーを持つ次元連結システムだからこそ出来る方法であった
作戦指揮所は俄かに騒がしくなる
陝西省、武功空軍基地から核搭載の爆撃機が複数離陸したとの報告が入った
光線級の排除と、地上部隊の後退が進んだ為、核の集中投下の作戦に切り替わったのだ
もっとも15キロ以上離れた地点から継続した重火器による火力投射は継続されている
ヘリや戦術機部隊は補給と整備の名目で退避済み
_失う兵力が少なくて済む_
それが本音であった
核搭載機による航空撃滅戦
中共の対BETA戦では戦術機の近接戦闘が優先されつつあるが、やはり労力が少なく効果の大きい核は捨てがたい
人民解放軍の考え方は核に依存した戦術が優位であった
ゼオライマーは、道を進むうちに巨大な空間に出ていた
白い機体は、爆風と衝撃波で全体が薄汚れており、所々に返り血が染みの様にこびり付いている
次元連結砲をもってすれば鎧袖一触だが、無数に湧いてくる亡者共に、苛立ちを覚えていた
(「化け物どもの巣穴だとすれば、巣の主が居るはずだ」)
その時、轟音と共に見たことのない化け物が表れた
削岩機を思わせる外観に、かなりの巨体
すかさず、メイオウ攻撃を懸けた
出力を抑え、前面に向けた攻撃だった為、崩落は防げたが_最悪の場合はワープすれば済む_、危険すぎる
最新鋭の熱線暗視装置もあるが、心もとない。
電磁波の探査をしてみると直進すれば、50mほど先に巨大な空洞があり、400mほど下降すると行き止まりになっているとの観測結果が出た
(「おそらく奴らの主が居る場所だ」)
推進装置を全速力にして、先へ進んだ
後書き
ご感想、ご批判、ご連絡、宜しくお願い致します。
深潭 その2
推進装置で勢いよく進むと壁のようなものに当たった
電磁波の探査ではこの先に大規模な空間があり何か巨大な存在が確認できる
砲撃で≪壁≫を破壊すると、開けた場所に着いた
周囲は暗黒でよく見えない
気配は感じる
マサキは、美久に呼びかけた
「おい、俺が攻撃すると同時に、転送しろ。この場所諸共吹き飛ばす」
美久は戸惑いながら応じた
「ですが、地上の部隊はどうするのですか。此の儘じゃ最悪巻き添えですよ」
彼は失笑しながら
「あいつ等は、ここまでの道案内にしか過ぎん。そもそも人民解放軍を信用しすぎだぞ
奴らは俺たちをうまく使って政治的利益を稼ぐ材料にしか考えていない」
美久は、彼を宥めるために、いったん置いた後、こう答えた
「それは酷過ぎるのでは」
言い終わる前に、彼は答えた
「お前はガラクタのくせに甘すぎる」
言い過ぎてしまったかと、美久は思ったが遅かった
逆鱗に触れてしまったようだ
「そもそも俺はどれだけ、利用されてきたか。鉄甲龍にも、日本政府にも良い様に弄ばれ、剰え、殺されてしまったではないか」
操作盤をたたいて、言い切った
「お前は俺が作った人形だ。いうことさえ聞いていればよい。下手な推論は状況によっては判断を誤り、命さえ脅かす」
その時、ゼオライマーに触手状のものが絡まってきた
運よく瞬間的に移動した為、捕まれなかったが、油断はできない
「メイオウ攻撃で塵にしてやる」
スイッチを押した瞬間に振動が走る
「どうした」
左足に何かが絡まっている
どうやら化け物の触手に絡め捕られてしまったらしい
目の前に≪BETA≫が近づいてくる
いや、引き寄せられてるのだろう
タコのような姿かたちをしており、六つの目が見える
複数の触手が胴体を縛り始める
発射されるべき攻撃が始まらない
苛立ちと焦りを感じながら、叫んだ
「美久、何をしている、早く撃て」
彼女からの反応はなかった
(「まさか、電子制御を混乱させる妨害波でも出しているのか」)
彼は焦った
このマシンは、次元連結システムが無力化してしまえば、推力も攻撃力も著しく損耗してしまう
自分が作ったものとはいえ、こんな形で欠陥が露呈してしまうとは
補助兵装に、火器も、刀剣類もない。
文字通り素手なのだ
だからといって、メイオウ攻撃を解くわけにはいかない
システムさえ回復すれば、こんな化け物を吹き飛ばせる
次元連結砲のエネルギーを最大まで引き上げた
もし、エネルギーを吸い取るのであれば、吸い取るだけ吸い取らせればよい
おそらく吸い取る器のような物があるとすれば、上限があり、溢れ出る筈
こちらは無限の動力源なのだから、何れは、容量に収まり切らなくなり、やがては向こうは自滅するであろう
操作盤の電源が復旧し始めた
もう一度呼びかける
「おい、仕掛けるぞ」
彼女からの返答が返ってきた
「分かりました」
もう一度、発射操作をしながら、言い放った
「全力で攻撃した後、できるだけ遠くへワープしろ」
その刹那、一帯は眩いばかりの光が広がっていった
全身に絡まっていた触手は千切れ、両腕を持ち上げ、胸の前にかざす
「失せろ」
深潭 その3
カシュガルでの戦闘は通算12時間ほどで終わった
≪ハイヴ≫と呼ばれる構造物は、地下数百メートルに渡って崩落し、巨大なクレーターへ変化していた
核攻撃隊が、新疆に入った時にはすでに遠方より視認できるほどの茸雲が上がっており、中止
通常爆撃と、近隣の基地から飛ばした航空機の近接航空支援による残党狩りへと、作戦は変更となった
ゼオライマーは爆破直後に、上空から降下しながら、周囲を攻撃し、地上50メートルの距離で空中浮揚してた
強烈な吹きおろし風が嵐のように周囲を舞い、近隣の車両や兵に降りかかる
機体から外部に向かって声が出された
「俺の仕事は終わった。あとは好きにさせてもらうぞ」
急いで4人乗りのジープがやってくる
指揮員の制服を着た人間ともう一人が立ち上がって両手を上にあげた
その場で浮遊し続けると、ジープから拡声器を取り出し、指揮員は話し始めた
「今日はいったん基地まで引き上げましょう、明日改めて指令が来るまで待ちましょう」
索敵用のサーチライトが、当たって眩しい
「良いだろう。一旦基地に引き上げる」
轟音と共に、ゼオライマーは飛び立っていった
翌日、早朝五時に起こされたマサキ達は、北京へ行くよう指示された
最初に(安全を最優先で)、陸路でウルムチまで行き、そこから複数の経由地を経て、ヘリで北京入りするという話を聞かされた時は、呆れた
ゼオライマーで直接乗り込む話をしたが、中々納得して貰えず、2時間ほど待たされた後、南苑基地なら乗付て良いとの指示があった
昼近くまで時間が掛かった事に些か不満ではあったが、承知してすぐに出発した
高度1000メートルを20キロほど低速力で北へ飛んだ後、ワープ
ワープした後、北京郊外から南苑基地に向かった
基地に近づいた瞬間、迎撃用のミサイルと数機の戦術機が上がって来た
ミサイルを回避しながら、通信で呼びかけると反応があった
敵意が無い事が判ると、戦術機部隊は下がっていく
15分ほど上空で待機させられた後、着陸許可が出た
空港に着陸するなり、司令官が陳謝してきたが、遠巻きに重火器が配置してあるのが視認できるほどの緊張状態
仮に、美久が居なかったならば、流血の事態になる寸前であった
彼らの弁によると、「予想時刻より大幅に早く」、「ソ連側の攻撃と考え」、防空体制が引かれた、というのだ
日本大使館の職員が来るまでということで、南苑に足止めされていた
迎えが来たのは、深夜2時頃
仮眠している所を叩き起されると、別室へ案内される
室内には、屈強な男達が待っており、彼らは挨拶の後、名刺を差し出して来た
おそらく職員ではなく、治安機関の関係者だろう
ほぼ全員が、拳銃を携帯しているのが、脇腹の膨らみから見て取れた
まず若いビジネスマン風の男が、ソフト帽を脱いで挨拶をすると、声をかけてきた
男は品定めをするようにマサキ達を見ている
マサキは、こう返した
「そうだ。早く休ませてくれ。周りが鬱陶しくて叶わない」
手に持った名刺を、中に着たワイシャツの胸ポケットへ乱雑に放り込む
「先ずは、この服じゃないのを用意してくれ。何時までも、着ては居られないだろう」
彼は、自身の着ている服を指差した
一度着替えてから、ずっと人民解放軍の軍服姿だ
「帰国するまでには準備します」
男は胸から手帳を出して、記録していた
その様子を見ながらマサキは、訪ねる
「で、どれ位かかるんだ」
男は顔を見上げて、続けた
「早くても船ですから1週間は待ってもらうしかありませんね」
(「この際だ、日本に行ってみるのも良いか。俺が知る日本ではないのだろうから取り込む余地があるかもしれん」)
話しかけられながら考えていたが、他に良策は無い様に思えた
米ソの超大国の考えは分からないし、何より生活習慣が違うのは疲れる
今回のように上手い具合に逃げられれば良いが、そうとは限らない
両国とも、堅牢な軍隊と強靭な防諜機関のあり、距離も遠い
脱出するまで、どの様な姦計に貶められるか、解らない
いくら無限のエネルギーといっても整備や保守もしなくてはならない
そう考えていると、男が話しかけてきた
「詳しい話は、帰国船の中でしましょう」
男が言うと、マサキは、肯いて返した
(「たしかに、何処に間者が居るのか、判らんからな」)
「良いだろう。詳しい話はあとで決めるとして、先ずは先約は守ってくれるだろうな」
彼がそう言うと、男は微笑んでいた
後書き
ご感想、ご意見、ご指摘、お待ちしております
帰郷
マサキ達は、2週間後、中共から離れた
天津からコンテナ船にゼオライマーを載せ、一路神戸へ向かう
待機期間中、ほぼ大使館の中で軟禁状態に近い形で過ごした
職員達は、深くは探ってこなかったが、色々と世話をしてくれた
夜半に目が覚めると、ドアを開け、船室から甲板に向かった
夜風に当たるために、外に出ていると、「帝都城出入り御免」と話す、例のビジネスマン風の男が居る
脹脛まで丈の有るダスターを着て、タバコを吸っている彼から、声をかけられた
「あんた、どうするんだい。この先よ……」
彼の言葉が、響いた
マサキ達は、この世界では、寄る辺なき漂流者なのだ
頼るべき家族も、友も、集団も、国家も、無い
この異世界、そして今から向かっている日本とも何ら関係は無い
名前が同じだけで、別な道を辿る国
冷静に考えると、危険な橋を渡っている様な感覚に陥る
偶々、大使館の職員が来てくれたから良かったが、接点は無い所へ、向かうのだ
嘗て、前の世界で、科学者・木原マサキであった時を、彼は思い起こしていた
秘密結社鉄甲龍に背き、反逆の末、輸送機、双鳳凰で日本に逃亡
しかし、助けを求めた日本政府に、簡単に裏切られる
計略により、治安当局に暗殺された彼は、不信感が拭えずに居た
暗澹たる気持ちに、飲み込まれて、考える
何れ、《BETA》という化け物共を消し去れば、恐らく用済みになって消されるか、半ば幽閉されて飼い殺しにされる
仮に肉体的に死んでも、ゼオライマーの中にある記憶装置さえあれば、スペアの肉体で、自分の記憶を容易に《上書き》出来る
そして、美久を鍵とする、次元連結システムがあれば立ち回れるが、その秘密を知られれば、方策はない
もっとも、スペアの肉体を用意するにしても、この世界の化学水準は不明だ
仮に、クローンや人工授精の技術があっても、鉄甲龍に居た時のように簡単に携えるとは限らない
欄干に寄り掛かりながら、悩む
この際、こいつ等の策謀に乗った振りをして、逆に利用出来る様策を練ろう
前回、暗殺されたように、政治や社会と距離をとるのではなく、手出し出来ぬ様な立場を得ねば、不味い
その様な思いが逡巡していると、再び男は声をかけてきた
「で、どうする。俺たちに協力するほかあるまい。アンタは帝国では根無し草だからな
日本人だと言う事で迎えに来たが、帰る家も、家族もないだろう……
協力するならば、整えてやるよ」
そう言うとタバコを、海に放り投げた
「そうか。じゃあ協力してやるよ。条件を飲むならな」
顔を上げながら、答え始める
「俺達には拠点も無ければ、生活手段もない。
ある程度、自由に動ける権利も欲しい。それが無ければゼオライマーも、唯の鉄屑だ」
男は驚いたような声を出す
「脅しかね。ならば……」
「違うな。要望だ。
要望を聞いてもらえねば、手伝えん。
このゼオライマーがどれ程の物か、知らないと思うが、只で動かせる様な安物では無い」
彼は振り返って男の方を向く
「まず、家だ。都心に近い方がいい」
「そして自由にゼオライマーを動かすことを考えると、何かしらの官職に就いていないと不味いだろう。差し詰め、自衛隊の准尉にでも、して呉れれば良い」
男は、顔をしかめた
「斯衛軍?」
聞きなれぬ単語を聞いたが、無視して続ける
話しながらここが異世界だと言う事を忘れるほど興奮していた
「後は、身の回りを世話する人間を2,3人用意して呉れれば良い。
俺は、貴様らの社会に疎いからな
但し、政府や治安機関の関係者以外だ。覗き見される趣味は無いからな」
欄干から離れて、男に近づく
「最後に裏切る様な真似をして見ろ。俺は、只では済まさんぞ」
すれ違いざまに、こう放った
「3つの約束を守ったら、お前らに協力してやるよ」
彼は、高笑いをしながら、その場を後にして行く
「しっかり言質は取らせて貰ったぞ。木原マサキよ」
そう呟くと、男は甲板を後にした
後書き
ご批判、ご感想、ご意見、よろしくお願いします
帰郷 その2
前書き
マサキは、現代日本の価値観で考えて行動しています
神戸港から、日本に入ったマサキは、驚いた
あの大戦により焼失した建物、失われた社会制度、慣習が息づく姿に
大都市圏は、ほぼ《元の世界》の戦前の影響を色濃く残る
解体されず残った帝国陸海軍、複線型の学校制度
不思議な感覚に陥った
二台のセダンで、京都へ向かう
道路事情は多少は良くなっているが、何か立ち遅れた感じがしないでもない
高速道路網も、空襲や世銀の借款が無かったせいか、少ないように感じる
妙に、変なのだ
驚いたのは琵琶湖運河掘削計画だ
これは《元の世界》でも計画されたが、結局、立案者が病死したことで立ち消えになった愚案
何より衝撃的な事実は、都が、未だ京都にあったことだ
《東京奠都》《ご維新》が無く、よく列強に伍する地位になった事に感心したのと同時に、先に要望した《仮住まい》の事を悔やんだ
自分は、東京郊外の心算で言ったのに、交通事情の悪く、蒸し暑く底冷えする盆地になど住む気など更々無かった
京都へ向かう車中、渡された書類を見ながら、同行する人間に問いかけた
「なあ、斯衛軍とは何だ」
脇に座る男が振り返った
男は悩んだ後、こう返した
「斯衛というのは、城内省に付属する独立した軍ですよ」
「城内省、なんだそれは……」
男は呆れた様子で、彼に説明を続けた
「皇帝陛下より大政を委任されている政威大将軍、つまり殿下をお支えする機関です」
(「ということは、将軍直属の親衛隊に……。抜かった」)
「もっとも今は殿下も《表》に、お出ましになる機会も少なくなってしまいましたが」
こちらを睨むような素振りで話し続ける
「外国に長く居らしたと聞いておりましたが……」
マサキは、落ち着いた様子で、返す
「正直、俺はよく知らん。美久も同じだ。そう思って応対してもらえば助かる」
(「で、誰と会うんだ」)
彼は車窓を覘いた
(「着けばわかるが……」)
彼の心中は不安に苛まれていた
マサキは、数名の男が待つ、京都郊外のゴルフ場に連れて行かれた
別にプレーをする訳でも無く、ゴルフコースに出ていたのは訳があった
それは防諜上の理由で、、あえてゴルフ場を選んだのだ
「大臣」、「閣下」という単語から類推するに、恐らく政治家と軍人
彼は、渡されたポロシャツとスラックスに着替えて、男達と歩きながら話した
「君が木原君かね。詳しい話は聞かせてもらっているよ」
初老の男が声をかけてきた
「そうだ。で、何を頼みたい」
持っていたゴルフクラブを、キャディーに渡しながら、続けた
「ならば単刀直入に言おう。来年度中に欧州で大規模な攻勢計画があってね。
君には我が国の、観戦武官と共に欧州戦線を詳しく確認してきてほしい」
当事者ではない日本にとっては、関係のない話にも見える
初老の男は、脇から若い秘書と思しき男に書類を渡されていた
「榊君、この他にも、《例》の資料を持ってきてくれ」
榊と呼ばれた若い男は、カートに資料を取りに向う
マサキは、《例》の資料について訊ねた
NATO案による、白ロシア・ミンスクハイヴ攻略作戦仮計画書、だという答えが返ってきた
「ソ連にまで行って、ゼオライマーのテストでもするのか」
初老の男は、笑いながら答える
「話が早い。それもあるが実は、その気に乗じて欧州戦線において我が国の立場を明らかにしたい
その為のミンスクハイヴ攻略作戦の《観戦》だよ」
話をしている内に、榊が戻ってきた
「大臣、《例》の資料を持って来ました」
厚いB4判の封筒に入った資料が、彼の手に渡された
「一旦、休憩にしましょうか」
左手にはめている自動巻きの時計を確認すると、時間もなく正午であった
後書き
榊 是親の年齢ですが、年齢に関する資料は恥ずかしながら自分のわかる範囲ではありませんでした
集英社刊行の全七巻の『マブラヴ』公式小説、『マブラヴ オルタネイティヴ』公式メカ設定資料集や、Muv-Luv Alternative Memorial Art Book、Muv-Luv Memorial Art Bookにはありませんでした。
『オルタネイティブ』本編開始時の2001年に総理なので、類推することにしました
現実の世界を反映し、総理大臣就任時の年齢が50代から60代が多いと言う事で考えて、1970年代後半を題材にする今作品に登場させました
『オルタネイティブ』の20年以上前になりますので、だいぶ若い年齢だとは思いますが、遜色はないと思います
ご意見、ご感想、よろしくお願いします
帰郷 その3
休憩室に場所を移し、秘密計画に関する話が始まった
大臣と呼ばれている男が口を開いた
「中共での話は聞かせてもらった。だいぶ暴れたそうじゃないか」
出されたコーヒーを飲みながら、マサキは、頷いた
「実は今回の作戦には、ソ連が秘密作戦を行うという話を聞いてね。
ハイヴに突入した君に聞きたい。早速だが、胸襟を開陳したまえ」
カップを置くと、マサキは、語り始めた
「貴様らの資料を見せてもらったが、戦闘経験から言うと、あの化け物共に到底人間と同様の思考能力が備わっているとは思えない」
「意思疎通が出来るとかいう、学者は気が狂ってるとしか思えん。奴らはまるで誘蛾灯に寄る真夏の虫のように群れてきて襲ってくる」
遠くにあったガラス製の灰皿を引き寄せる
「もし意思があるなら逃げるか、別な行動を示すはずだ」
包み紙を開け、タバコを取り出し、火を付ける
「それに、なぜソ連は核攻撃をしない。ミンスクぐらいなら仮に核で焼いてもソ連経済に影響はあると思えないが」
男はマサキの発言に唖然とした様子であった
目を閉じて、深くタバコを吸うと、静かに語った
「西側が見ている目の前で、そのような暴挙には出られんのだろう。ウクライナすら何時まで持つか分からん状態だ」
目の前にある灰皿にタバコを置いて、続ける
「ましてや、大規模な援助を米国に頼っているソ連がそんなことをしてみろ。今度の作戦はおそらくご破算になりかねん」
(たしか、ソ連は元の世界でも穀物を500万トン弱を輸入していたな……。戦時下となれば、恐らくその割合はかなりの物になっているはず)
「そこでだが、その弱り切ったソ連の中で形勢逆転の秘策があってな……」
英語で書かれた資料と共に、翻訳された文書が渡される
報告書には太字で、こう記されていた
"UN:Alternative3 commences"
_国連、オルタネイティブ3計画始動_
新しいたばこの箱を開けながら、男は語った
「これは米国務省経由で我が国に齎された資料だが、大本はおそらくハバロフスク遷都の際に持ち出されたものらしい」
『ESP発現体』
マサキは、文中にある、怪しげな言葉に興味を引いた
「その資料にある通り、ソ連では思考を透視できる人間を作る計画が推進中だ
なんでも超能力者を人工的に育てて、BETAとの意思疎通をとり、彼らの意図をくみ取ろうという計画だそうだ」
大臣は彼の方を向いた
「大変な苦労を掛けるが、君にはこの作戦を通じてソ連の秘密計画を粉砕してほしい」
黙って聞いていたマサキは、答え始めた
「今の発言は、どういう意図があってだ……」
深刻な表情をした大臣は、彼へ返答をする
「仮にソ連に思考を透視出来る兵士の量産が実現してみろ。それだけで我が国や、西側社会にとって危険だ。この混乱に乗じて、禍根を断ってほしい」
ゆっくりと新しいタバコに火を付ける
「つまり、ソ連領内で、破壊工作をしろと言う事か」
タバコを吹かしながら、男は答える
「ああ、そうだ」
彼は、大臣を睨んだ
「ほう。別に構わないが、それ相応の見返りは必要だな。
大体、危険が大きすぎる。それにこんな《仕事》は、あんたらの役目だろう
もし捕まってみろ。間違いなく死ぬぞ。
そしてゼオライマーも奴らの手に渡る。
俺はそんな馬鹿な作戦には、ただでは乗らん」
彼は机にあるたばこをとって、吸い始める
「少なくとも時間があるはずだ。よく考えてからにしてほしい。
俺はそれまでは動かんぞ」
後ろ手で手を組み、椅子に寄り掛かる
「見通しが甘すぎる。まあ、ハイヴを吹き飛ばすぐらいなら考えてやっても良い」
机にある資料をB4の茶封筒に、かき集める
「時間が無いからよく理解できんが、この資料は全部頂いていくぞ」
彼は、たばこをもみ消し、立ち上がる
「用件は済んだのか。じゃあ、次の場所に行かせてもらうぞ」
そしてドアを開けると、マサキは、去っていった
後書き
ご感想、ご意見、よろしくお願いします
帰郷 その4
マサキの脳裏に、再び、前の世界での一度目の死の直前にあったことが思い浮かぶ
亡命した彼を日本政府は日ソ関係の改善の道具として利用し、ゼオライマーの技術を独占する目的で暗殺された
目先の利益の為に日ソ関係改善に走った当時の防衛長官、その時の政治事情が分からない故、結論は出せないが、再度ゼオライマーの中にある意志として15年ぶりに目覚めたときは、その企みが不発で終わったことに内心安堵した
ソ連、時の米国大統領をして「悪の帝国」と言わしめた国家
国際法を弊履が如くかなぐり捨てる野蛮国。
政治の為に科学すら捻じ曲げ、共産主義の教義に沿った「獲得形質遺伝」なる説を唱え、その結果大飢饉や政変で多数の人命が失われる国家
メンデル遺伝学を研究する学者を多数追放し、処刑した国家など科学者・木原マサキとしては受け入れられなかった
その様な国家に関わることさえ、彼にとっては苦痛であった
元居た世界に似た、この世界において、化け物共にソ連が、共産圏の大半と侵攻されていく様を見たときは、何とも言えない気持ちに陥った
『どうせ化け物共に飲み込まれて消えていく国だ。関わり合いになりたくない』というのが偽らざる本音であった
あの大臣が言う事をすべて信じられないが、この世界では何が起きてもおかしくはない
18メートルのロボットが闊歩し、火星まで探査機が行く世界だ
「待ってください」
その声で、マサキは現実に連れ戻された
美久が左手を両手で掴んでくる。かなり強い力で
「離せ」
手を払いのけ、車まで戻ろうとした所を後ろから覆い被さる様にして、止められた
「どうか、あの方々の真剣な言葉を聞いてあげてください
悪意があってやってるようには見えません」
なおも歩き出そうとしている彼を、両手を脇腹に回して背中から抱き着いて止める
「鬱陶しい」
ふと立ち止まった
(「どうせ、拒否して無理やり行かされるぐらいなら、堂々と正面から参加して、暴れてやれば良いか」)
彼女は抱き着いたまま、離れない
「おい、美久。離れろ。鬱陶しいし、重い」
彼女はゆっくりと離れた
「お納め頂きましたか」
振り返り、彼女の顎を右手で掴む
「ほう、推論型人工知能の癖に、主人にまで逆らうとは。我ながらよく出来た物を作ってしまった物だ」
右手を彼女の左肩に寄せ、顔を近づけ抱き寄せる
恐怖で慄いた表情をしている
「お前を弄んでいたら、興も醒めてしまった」
「一度乗った船だ。奴らには協力しよう。だが俺と、ゼオライマーは奴らの自由にはさせん。
俺を出汁にするならば、内訌を起こさせて、その目論見を崩壊させてやる」
後方に立っている男を呼ぶ
「おい、榊とか言ったな。俺は欧州に行くぞ、そう伝えて置け」
ゴルフ場を後にして、市内に連れ出されたマサキ達は、ある屋敷に、連れて出された
まるで大時代物に出てくるような広大な屋敷であった
数町歩ほどあろう庭には、手入れされた草木が生い茂る
恐らくこの国の支配層に近い人物であろうことは、察することが出来る
広い庭で、着物姿で、長髪の男と、例のビジネスマン風の男が立ち話をしていた
使用人に案内されると、榊が深々と礼をしたのを見て真似てる
壮年の男は、口を開いた
「榊君、半月前に、支那で拾って来た男というのは、彼かね」
榊は頷いた
「そうです」
男は続ける
「何でも、斯衛軍に入りたいと聞いたが、儂の方で出来なくもない」
男は、ビジネスマン風の男に声をかけた
「来年の夏ごろまでには仕上がるかね」
「翁、それは教育次第では出来るかもしれませんよ……」
翁と呼ばれた男はマサキ達を向いた
「脇にいる娘御は何だね」
「サブパイロットだそうです。詳しい話は……」
マサキが口を挟む
「おい、爺さん。俺をどうする気だ。それと美久は唯のサブパイロットではない。
こいつが居なければゼオライマーは動かせんぞ」
「ゼオライマーが無ければ、貴様らはその野望とやらも実現できまい、違うか」
《翁》と呼ばれた男は高笑いした
「抜かせ、小童共に何が判る。所詮、大型の戦術機一台ぐらいでどうにかなると思っているのか」
マサキの表情が険しくなる
「じゃあソ連の秘密基地破壊と、ミンスクハイヴを消したら、その時はどうする」
男は、なおも笑いながら答えた
「それ相応の態度を見せてくれれば、貴様の望み道理にしてやっても良いぞ」
周囲の人間は一様に困惑した様であった
その姿を楽しんでいるかのような男は、
「来年の暮れまでに結果を持ってこい。楽しみに待っているぞ」
彼は、そういうと屋敷の中に、従者たちと共に消えていった
霈
前書き
原作人物回、初投稿です
今回は長文です
ウクライナに展開するドイツ人民軍、第一戦車軍団と戦術機実験集団に呼び出しがかかった
当該部隊の指揮官、参謀は、急遽、ベルリンへ向かった
彼らは、首都に着くなり、官衙に招かれ、驚愕の事実を知らされた
東独の首脳部の口から伝えられたのは『中共政権による《単独》での《ハイヴ》攻略』
「独力で中共がハイヴ攻略をした」
その話は、わずか数日の間に国際報道に乗り、全世界を駆け巡った
前衛を務める東欧諸国の青年将校達に、衝撃が走った
帰京して数日たったある夜、ベルリン郊外の然る屋敷
とある党中央委員の私宅に、二人の男が呼ばれていた
屋敷の主人は、青年時代から党大会に参加し、新進気鋭の議会委員として、有名な男であった
「よく来てくれたな、二人とも」
人民軍地上軍の軍服姿の男たちが部屋に入る
壮年の男が敬礼をすると、脇にいる男も少し遅れて敬礼をした
機甲科(戦車部隊)を示す桃色の台座の上に、将官を示す金糸と銀糸が織り込んだ肩章。
金属製の星形章の数から少将
胸には略綬と職務章を付け、年のころは40代半ば
若干日焼けしており、最前線で戦っていることが一目で判る
生地は、艶やかな灰色で、質の良いウールサージ、体に合った仕立ての良い軍服を着ている
恐らくテーラーでのカスタムメイドであろうことが、うかがい知れる
青年は、水色の台座の航空軍(空軍)肩章で、銀糸の刺繡模様から尉官
肩章に輝く菱形の金属製星形章の数から中尉
陸軍と同じ灰色のサージで出来た将校用の軍服を着ている
隣の男と比して、生地の質が幾分が落ちることから、判るのは既製品であろう事
美丈夫と呼んでも差し支えない男で、年のころは20代前半
輝くような金髪に、碧眼、青白く美しい肌の青年であった
「此方こそ御招き頂いて有難う御座います。自分は……」
屋敷の主人は、遮るように言う
「知っているよ。噂の《婿殿》だろう。奴が居たら面白かったな」
青年は反論した
「待ってください。
自分は、まだ独身で、彼女とは結婚はしていません。
たしかに友人以上の関係ではありますが、誤解なさらないで下さい」
興奮した様子の青年を、主人は宥める
「まあ、待て。その話は追ってするから、これを見ろ」
主人は、青年と脇にいる壮年の男に一枚のB3判の封筒を渡す
「これは……」
複数の写真と独文の報告書と、英字新聞の複写が挟んであった
(なんで「南華早報」、何故、西側の新聞が……)
隣を振り向くと、50がらみの男が熱心に資料を読んでいる
「実はな、支那でのハイヴ攻略。未確認だが、西側の新兵器が使われたらしい」
左手で、椅子に腰かける様に促された彼等は、着席した
屋敷の主人はその様子を見届けると座り、奥に向かって茶を催促する様、呼びかける
まもなく暖かい湯の入った薬缶と、急須に茶碗が盆に載せられ運ばれる
「お待たせしたな、フランスの茶しかなかったんだけど、良いかね」
青年は驚いた、フランスのフォション(FAUCHON)
缶を裏返してみると、先頃より手に入りにくいセイロン(スリランカの雅称)茶葉であった
続いて運ばれてきた、白磁の皿には、直径15センチもあろうかというクッキーが10枚ほど並んでいた
「なんでもベルンハルト君、西側の茶葉が好きだそうだね。君の好みに合うかは知らんが、味わってくれ」
彼は驚いた。
自分は、すでに目の前の男にとっては、丸裸寸前の状態であることに。
「話を戻そう。すでに諸君も報道で知っているとは思うが、先日、中共がハイヴを単独攻略をした。
我が国も様々な筋からの情報でもそれが裏付けられた
なんでも超大型の戦術機による空爆で、ハイヴを粉砕したらしい事まで分かった」
壮年の少将が口を開いた
「超大型ですか」
彼に主人が写真を差し出した
「この写真を見たまえ」
撮影日時は不明ではあるが、横倒しの状態でコンテナ船に乗る戦術機の姿が映っていた
縮尺から考えると50メートル近い巨大な全長。
武装は見えるところにはないが、恐らく別積みしてあるのだろう
「こんな物を、何時の間に……、
この混乱の前に、10年に及ぶ文革で数千万が被害にあったと聞き及んでいます。
彼らに、その様な工業力があったとは、思えませんが……」
屋敷の主人は、脇からフランスたばこを出す
右手で、封を切り、箱から一本取りだす
縦型のオイルライター、恐らくオーストリア製のライターであろうものを取り出し、火を点ける
ゆっくりと吸い始め、そして語り始めた
「実は、未確認の情報だが、西側の新兵器らしい。
最終的に、天津港から、日本の神戸港に運ばれた」
ベルンハルトは、驚いたような声で尋ねた
「じゃあ、支那は独力ではなく日本に助力を求めたというのですか!
今頃になって他国に援軍を求めるなど虫が良すぎではありませんか。
その様な我田引水は、許されるものではありません」
主人は彼を宥める
「まあ、落ち着き給え」
彼に、紙巻きたばこの箱を、右手で差し出す
ジダン(Gitanes)の文字が見え、フランスの有名な黒タバコであることを理解した
このような物を自在に手に入れる立場であること、自分の地位の高さを見せつけるためであろう
それとなく、目前の男は、彼に説明しているのだ
「君、たばこは吸うか」
彼は右手で遮った
「自分は吸いません。それに……」
たばこの箱を、少将の方へ向けた
少将は彼の右手から、自分の右手に、タバコの箱を受け取る
「宇宙飛行士になりたいんだろう。
まだ20代じゃないか、夢をあきらめるは、早い。
たしかに体が資本だ。だからこそ君の様な男に、この動乱を生き残ってほしい」
彼は、主人に黙って会釈した
少将はタバコを3本取ると、胸ポケットからマッチの木箱を取り出した
其の内の一本に、マッチで火を点け、吸い始める
タバコの箱を机の上に静かに置いた
「マホルカ(ロシアタバコの一種)と違って癖が少ないですな。
でも《ラタキア》や《バージニア》のような吸いやすさはないですな」
目前の人物は、自分のもてなしをたいそう気に入ったようだ
男は喜びながら答えた
「なあ、旨いだろう。この独特の風味が《癖》になる。
気に入ったなら、また来た時に用意してやるよ」
彼は、男の顔を見ながら答える
顔は正面を見ていたが、どこか遠くを見るような目で、何か寂しさを感じているような表情であった
「兵達に吸わせたかったですな……」
おそらく戦場で戦死した兵士たちへの手向けた言葉であろうことは、その場に居るものには理解できた
暫しの間、場は静まった
再び現実に戻すように、青年が男に問うた
「宜しいでしょうか」
男は頷いた
「お話というのは、その支那情勢の事ばかりではないでしょう。
本心を聞かせてもらえますか」
男は目を瞑り、白いフィルター付きのタバコをゆっくりと吸う
ゆっくりと紫煙を吐き出すと、語り始めた
「ぶちまけた話をいえば、君等に、我々の派閥に入ってほしい。
《おやじ》も年を取り過ぎた。この辺りで何か、起死回生の策を採らねば、我が国は消える」
男の話を、彼は熱心に聞き入った
「そこでだ。
今回の欧州全土を巻き込んだミンスクハイヴ攻略作戦の帰趨は、我が国の将来に掛かっている。
成功すれば、西側へ、より良い条件を引き出す切っ掛けに為るやもしれん」
タバコを、ゆっくりと灰皿に押し付ける
「実はな、保安省(国家保安省、シュタージ)の一部の極左冒険主義者共が策謀を巡らせていてな、なんでも青年や大学生を誘致しているらしい」
彼等は、この発言に驚いた
「そういった話を聞いたことは、ないか」
無言の彼等に代わって、男は、なおも続ける
「戦術機部隊を作って、連隊(フェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊)を拡大強化する案を省内で纏めていると聞く」
少将は二本目のタバコに火を付けながら答えた
「我々にそれを潰せと……」
「あくまで噂だよ。俺が《おやじ》の《家》に、《遊び》に行ったときに、小耳に挟んだのだよ」
彼等は、一通りの話を聞いて理解した
《おやじ》とは、この国の最高指導者の事を謙遜した表現であり、《家》とは何かしらの施設か、府庁であろうことを
男は冷めた茶を飲み終えると再び話し始めた
「噂だが」
そう置きした後、真剣な表情で語った
「なんでも一部の極左冒険主義者共、露助の茶坊主と、《褐色の野獣》とかいう、綽名の優男を中心に大学や青年団(自由ドイツ青年団)の中に入ってきて、《男狩り》を始めた」
男は、白磁の皿に手を伸ばして、大きいクッキーを掴み取る
「青年団は俺の島だ。島に黙って入ってきて食い荒らされては困る。
それ故、人民の軍隊である人民軍の将校に、《陳情》しているのだよ」
高級幹部特有の言い回しに、少将の目が鋭くなる
今の一言は、政治的に、危うい発言だ
「それは、どのような立場でだ」
クッキーを弄びながら、男は答えた
顔は、背けたままであった
「党中央委員の意見としてだ」
少将は、火のついたタバコを灰皿にそっと置いた
その態度から、彼は少将が静かに怒っているのを悟った
「党中央委員会の意見としてか」
クッキーを割りながら、なおも続ける
「それは君の判断に任せる」
少将は、両肘を机の上に突き出すように座って、答える
机の上に置いた両手が握りしめられていく
「脅しかね」
灰皿の吸い殻へ、種火が移り、燻り続ける
部屋は、天井の方に煙で空気が白く濁ったようになっている
「要望だよ」
そういうと男は、クッキーを食べ始めた
食べ終わると、こちらを見ながら話し始めた
「つまり、君達がそれなりの結果を示さないと、あの茶坊主共にこの国は滅茶苦茶にされると言う事だよ」
ベルンハルトは腕時計を見た
時刻は午後10時半
せっかくの帰国だ……
そう悩んでいると、男が声を掛けた
「妹や、愛する《妻》に逢いたかろう。今夜はお開きだ
明日、親父さんを連れてきなさい。如何しても外せない話が有るからと伝えて置いてくれ」
彼は、その一言を聞いて一瞬戸惑ったが、理解した
《親父さん》とは精神病院に幽閉されている実父ヨゼフ・ベルンハルトではなく、将来の岳父、アーベル・ブレーメであることを
その様な思いを巡らせていると、少将が右肩に手を置いた
「一旦帰ろうではないか」
彼は立ち上がり、少将と共に敬礼
ドアを開けると、軍帽を被って屋敷を後にした
後書き
ご意見、ご感想、ご要望、お願いいたします
霈 その2
前書き
今回も長文です
翌日、早朝に改めてベルンハルトと岳父アーベル・ブレーメは屋敷を再訪した
館の主人とアーベルはベルンハルト達を置いて10分ほど室内で密議
興奮した様子で、部屋から出てくると外で待っている二人を呼んだ
「二人とも来給え」
屋敷の主人が椅子に腰かける
そして彼らを食卓に案内した
「まだ朝の6時前だ。軽く飯ぐらい喰ってからでも遅くはあるまい」
食卓には湯気の立ったソーセージと厚く焼いたパン、そして豆のスープが並んでいた
全員が座ると、
「朝早く呼んだのは、昨晩の話を彼に伝えるためだ
いくら保安省に近い、経済官僚とはいえ、売国奴共のことは見逃すことは出来んよな」
彼はアーベルを一瞥する
「さあ、喰え。冷めてしまうぞ」
「で、保安省の連中をどう抑えるのですかな」
コーヒーを飲みながら少将は尋ねた
「まずは穏便な方法で行く。まさかクーデターなんて大それたことをやる必要はない
あまり焦り過ぎるのは良くないぞ。シュトラハヴィッツ君」
灰皿を机に並べながら
「多少時間は掛かるが、中央委員会に根回しをしなくてはならない」
彼はそういうと少将にタバコの箱を手渡す
少将は軽く会釈をすると、数本のタバコを抜き取り、彼に返した
館の主人は、タバコの箱を回し終える
そして、もの言いたげな表情をしている少将の方を向いて、彼に発言を促した
「と言う事は」
男は眉一つ動かさず、聞く
覚悟したかのように、男は言った
「《おやじ》に、隠居してもらうのさ」
その場にいる全員の表情が凍り付く
彼は真新しいゴロワーズのタバコを開けながら、続ける
「その為に、軍には協力してもらいたい。前線の君達にこの事を話したのは訳がある」
そういうとシガレットホルダーを取り出し、両切りタバコを差し込む
覚悟したかのように、ベルンハルトが尋ねた
「つまり穏便な方策が、駄目であった時……」
屋敷の主人は、タバコに火を付ける
「みなまで言うな」
ゆっくりとタバコを吹かす
そして天井を仰いだ
「まずは、《表玄関》から入って、茶坊主共を掃除しなければなるまい。駄目だったら《裏口》から入る方策を用意して置けば良い」
「ですが……」
彼は、青年の方に顔を近づける
「ベルンハルト君。君は、政治家には向かんな」
そういうと笑いながらアーベルの方へ顔を向けた
「君が惚れ込むのも分かるよ。
こんな好青年を鉄火場には置いておけんな」
吸っていたタバコを右手でホルダーから外しす
ホルダーを左手にはさんだまま、思い付いたかのように手を叩いた
「なあ、身を固めなさい
年頃のお嬢さんを何時まで待たせる気だね」
ベルンハルトの目が泳ぐ
白く美しい顔の頬は赤く染まり、気分は高揚している様だ
「自分はまだ……」
男は新しいタバコをホルダーに差し込みながら話し続けた
「妹さん達のような若い婦女子を前線には送りたくない気持ちは私にも判る。
しかし昨今の国際情勢の下では何れ、動員令が下って、前線へ出さざるを得なくなるやもしれん。
それに、なんでも戦術機の訓練学校にいるそうではないか」
精悍な顔つきになり、男に尋ねた
「何を仰りたいんですか」
男はマッチを取り出し、ゆっくりとタバコに火を点けた
「婦人はね、結婚すれば前線勤務の免除を条件とする案を中央委員会の議題にしようかと思ってね。まあイスラエル辺りでは、実施されている方策だから、わが国でも同様の策を取り入れても問題はないと考えている」
男の話の内容から、彼は、既婚婦人兵の前線勤務免除が確定済みなのを確信した
タバコの灰をゆっくりと灰皿へ落すと、彼の方を向いた
「私はね、君の様な好青年が独り身で戦死するようなことを減らしたいと考えている。
仮に家族が居れば、考え方も変わるだろうと」
彼は驚きながら、周りをうかがった
アーベルは、今までに見た事のない、優しげな表情で、見返してきた
少将は、新しいタバコに火を付けながら、真剣にこちらの話を聞いている
「甘く幻想的な考えかもしれんが、君の様な男を見ていると、年甲斐もなくその様な夢を見たいと思えてしまうわけだよ」
そう告げると、タバコをゆっくりと外し、右手で灰皿に押し付け、火を消した
「なあ、アーベル、シュトラハヴィッツ君、そうであろう」
二人は深く頷いた
少将の顔がほころんだのが見える
彼も、やはり、一人の父親であろう
将官ゆえに、政治的発言は慎んでいるが、やはり愛する娘の事を思う人間なのだと
冷徹な鉄人ではないと言う事を、あらためて認識した
男は、冷めた茶を飲み干すと、再び、彼に向かって話し始めた
「君は、我が国の独自外交だ、武器輸出による国際的地位の確立だの、言っているそうだがね。
それは無理な話だよ」
ベルンハルトは、再び尋ねた
「なぜですか。今ソ連の力が弱った時に……」
男は、再びタバコに火を点けた
彼の顔を見ぬまま、喋る
「我が国はソ連の後ろ盾があったからこそ、ある程度社会主義圏で、自由に振舞え、西側に影響力を行使しえた」
下を向いていた顔を、起こす
「その後ろ盾が無くなれば、どうなる。
この民主共和国は、恐らく20年も持たずに消え去るやもしれん。
チェコやハンガリーでの反動的な運動が盛んになれば、何時か、この国に飛び火するか」
何時になく真剣な表情で、彼の顔を見つめながら
「農業生産品や工業生産品もソ連から滞っていて、社会生活を何とか維持できるかも怪しくなりつつある。だからこそ……」
少将が声を遮る
「西側に近寄ると……」
男は、少将の方に振り向いた
「いや、違うな。《挙国一致》体制で乗り切るんだよ」
黙っていたアーベルが答えた
「どういうことだね」
左手で、灰皿を引き寄せ、ホルダーからタバコを外す
右手に燻るタバコを持ちながら、問いに答える
「非常時と言う事で《占領地》に協力を申し付けるのさ」
彼は呆れ果てた様な表情で、男を見た
「今更、その様な古い理論を……」
男は、右手で、タバコを静かに消した
「遣るしか有るまい。そしてそれを交渉材料にすれば、軟着陸できる方策があるはずだ」
ベルンハルトは、背筋を伸ばしたまま、再び尋ねた
「仮に挙国一致の統一が成っても、社会主義のシステムを内包したまま、統一を図ると言う事ですか」
屋敷の主人は驚いた顔をしながら、彼を凝視した
「詳しく話してくれ」
彼は、断りを入れてから話した
「思い付きですがね」
「自分が空想するのですが、国土の統一はなっても、両方の社会システムを維持したまま、穏便に時間をかけてどちらかの体制をとるか、或いは片方の制度に移行する期間を設けるべきかと」
彼は、横目で、周囲を見る
少将は、熱心にタバコを吸いながら聞いている
義父は、腕を組んで、深く椅子に腰かけている
男は前のめりになって、問うてきた
「つまり、一国に統一した後、2つの制度で、運営すると」
彼は、身じろぎせず話す
「そうです」
男は、背もたれに寄り掛かる
目を閉じて、一頻り悩んだ後、こう言った
「(西ドイツの)ブルジョア選挙(普通選挙)で前衛党(共産党、社会主義政党)が、議会を支配するようになれば、上手く行くやもしれん」
アーベルが、組んでいた手をほどき、ひじ掛けに手をかけて、身を起こす
そして男の方を向き、囁く
「ワイマールの悪夢を再び見ろというのかね……」
男は、鋭い眼光で返した
「向こうの情報はこっちに筒抜けだから、上手く操縦できるさ」
ベルンハルトは恐る恐る尋ねた
「仮に、ブルジョア選挙で上手くいっても、民主集中制(プロレタリア独裁)の問題で、行き詰りそうですが……」
二人は唖然といた
タバコを吸い終えた、少将が、静かに低い声を掛ける
今までに聞いたことのない声の低さであった
「それ以上の話は、中央委員会であんた等がやって呉れ。
俺達は、軍人だ。命令や陳情を受け入れるのみ」
男は少将の一声に驚いて、冷静さを取り戻した
「たしかにそうだな。茶坊主共を片付けるのを優先にしよう。
捕らぬ狸の皮算用をしても目先のBETA、売国奴共にケジメをつけないと話が前に進まないしな」
アーベルが、勢い良く椅子から立ち上がった
「それではお暇させてもらうよ」
それに続いて、青年と少将も立ち上がる
右手で、机に置いた軍帽を持ち上げる
「俺の方で可能な限り動いてやるよ。茶坊主共が、娘さんには手出しさせない様にな」
彼は男に右手を差し出し、男も応じて強く握手する
「頼む。あの様な奴らの毒牙になど……」
青年と少将は、軍帽を被り、身なりをを整え、敬礼をする
返礼の敬礼をして、ドアから出ていく彼らの姿が見えなくなるまでその姿勢でいた
そして、走り去る自動車を見送ると、こう呟いた
「ああ、あのいけ好かない《おかま野郎》を退治してやる機会だ。有効活用させてもらうよ」
時刻は午前7時前だった
後書き
前回、今回の話に出てくる人物は屋敷の主人以外は原作人物です
初見の方もいるので説明いたします。
ユルゲン・ベルンハルト中尉(アイリスディナー・ベルンハルトの実兄、ベアトリクス・ブレーメの恋人)
アルフレート・シュトラハヴィッツ少将(カティア・ヴァルトハイムこと、ウルスラ・シュトラハヴィッツの実父)
アーベル・ブレーメ(ベアトリクス・ブレーメの実父。戦前にソ連邦に亡命経験あり)
ご意見、ご感想、ご批判、お願いいたします
慕情
前書き
内ゲバ回初投稿です
航空機の発達が遅れている世界なので、一応ベトナム戦争で活躍した旧型機コルセアを出しています
空母も史実では退役しているエセックス級です
1977年9月11日
アルバニアに突如、米海軍の空母機動部隊が進行した
四隻のエセックス級空母を主力とする機動部隊と地上から隣国ギリシャの支援による大攻勢を実施
F4Uコルセア、F8Uクルセイダーの航空機のほかに、大々的に戦術機の海軍航空隊運用による初の対人実戦が行われた
先頃、ロンドンで、国連及び英政府仲介の米ソ交渉が行われた後の事件に、世界中が驚愕した
中共と唯一の友好国であり、鎖国中のアルバニアへの攻撃には、様々な報道が飛び交った
『米国による代理《懲罰戦争》』
『《戦術機》の実証実験』
『ミンスクハイヴ攻略作戦の退路確保の為の《掃除》』
戦闘は2週間続き、社会主義政権は機能を喪失
その国の首領は、ルーマニアへの脱出途中で《捕縛》され、ソ連へ引き渡された
その後、『アルバニア人民への反逆』『スターリン主義の走狗』『BETA侵攻を理由とした世界人民への背信行為』の罪状で起訴
ソ連領・モルダヴィアでの《見せしめ裁判》の後、公開処刑。
その遺体は、キシニョフ市中に7日間曝された
この中共への、米ソの牽制は、東欧諸国へ様々な影響を加速した
ソ連軍シベリア撤退を受けて、ゼネラルストライキが始まったハンガリーでは、7日間のストの後、複数政党による選挙の実施を、ハンガリー社会労働党が公約することで収まった
幸いなことに、ウクライナ情勢は安定した
BETAの進行は停止しており、状況は注視され続けていた
敵集団は、アフガンとソ連の国境線に留まっているという状態
中央委員会への説明の後、最前線に戻るつもりであったベルンハルト中尉とシュトラハヴィッツ少将は、ベルリンに2か月留め置かれることになってしまった
手持無沙汰になっていた彼等に待っていたのは、あの館の主人への協力であった
『同志中尉、お帰りになられては』
最先任上級曹長が、ベルンハルト中尉へ、声を掛けた
彼は、タイプライターを前に突っ伏して寝てしまったようだ
思えば連日の会合と、報告書作り
徹夜で臨んだのが祟ったのだろう
『同志曹長、まだ参謀本部に出す書類が……』
机から、椅子に腰かけたまま、起き上がると、彼は曹長の方を振り向いた
そんな彼の顔を覘く
青白く美しい肌は、いつにもまして青白く、唇も白く見える
時折、肩で息をしており、息苦しく様
何か、風邪でも引いたのだろうと、感じ取った曹長は、彼に答えた
『そんなのは、俺の方で何とかしますから。
同志中尉は、この数枚の書類に決裁の署名をなさった後は、ご帰宅ください』
彼は震える手で、サインをした
恐らく、熱が上がってくる際の悪寒に違ない
そう感じ取った曹長は、直ちに、脇に立っていた上等兵を医務室へ向かわせた
青白い顔で、彼はこちらを向き、話しかける
『何、少しばかり寝ただけだよ。
強い酒か、コーヒーでも飲めば、疲れなんて吹き飛ぶさ』
そういうと、彼は、椅子から立ち上がろうとする
だが、姿勢を崩し、前へ倒れ掛かる
とっさに倒れ掛かる彼を、曹長は支えた
ゆっくりと、椅子に座らせてから、額へ右手を添える
その体温の高さから、彼は、高熱が出始めたことを悟った
『いや、帰って下さい。
兵達に示しがつきません』
そんなやり取りをしている内に、軍医と衛生兵が来て体温と脈を図っている
軍医は、衛生兵から体温計を渡されると一瞥し、彼に告げた
『8度6分……、帰って寝なさい』
青白い顔の彼を、曹長がゆっくり、後ろから持ち上げる
室外に居た屈強な衛生兵二人を呼び入れ、彼の体を担架に載せた
担架に乗せられながら、ベットのある医務室まで連れて行かれた
横たわる彼は、首を曲げ、連れ出される部屋を覘く
奥では曹長が、机にある電話をかけているのが判ったが、段々頭が働かなくなっていくのが解る
2時間後、幼いころからベルンハルト兄弟を世話していたというボルツ老人が車で迎えに来た
聞けば、父兄の代わりだという、老人に曹長は一部始終を話し、中尉を帰宅させた
彼は気が付くと、ベットに寄り掛かって寝る美女の存在に気が付いた
月明りで、美しく艶やかな金髪が光る
妹が、寝ずの番をしてくれたのだと……
壁時計を見ると、深夜3時
帰国してから、様々な理由で妹と恋人には会っていなかった
そういえば3週間、土日返上でベルリン市内を駆け回っていたことを思い起こしていた
再び目を瞑った
翌朝、目覚めると長い黒髪の美女が室内の椅子に座って寝ていた
彼が戦場で片時も忘れることの出来なかった、ベアトリクス・ブレーメ、その人であった
宝玉のような赤い瞳、豊かな胸と尻、美しく括れた腰、ふと過ぎず細すぎない太もも
着ているセーターや長いスカートの上からでもはっきり判る、その姿を唯々見ていた
辺りを見回すと、妹は居ない
彼は静かに彼女を見ていた
『兄さん、お目覚めですか』
ドアが開くと、妹が声を掛けてきた
士官学校の制服ではなく、ベージュ色のカーディガンに、茶色のスカートを履いている彼女の姿から、今日が休みであることを知った
『何曜日だ』
彼は、ゆっくりと上半身を起こした
『土曜日ですよ』
こうしては居れない。はやく館に行かねば……
『大丈夫よ。私から連絡してあるから』
ベアトリクスが目を覚ましたようだ
『何時からそこに居るんだ』
『昨日からよ』
彼は恥じた
『気が付かなかった』
彼女は長い黒髪を右手で掻き分ける
『そう』
『なあ、聞いてくれるか』
横から体温計を持った妹が来て、脇の下に差し込む
『なによ』
真剣な表情で語った
『俺達、一緒にならないか。何時如何なっても可笑しくないだろう。
こんな社会情勢だ。法律婚でも良い。
結婚しよう』
彼女は彼から顔を背けた
『熱で頭が可笑しくなったのかしら』
見かねた妹がたしなめる
『ベアトリクス』
そして椅子から立ち上がる
『まあ、良いわ』
彼の方を振り向いた
『後ね、私の所にスカウトマンが来たの』
彼の表情が曇った
『まさか、あの……』
彼女は彼に近づく
『多分《褐色の野獣》のシンパサイザーだと思うんだけど、丁度アイリスが居る時に来てね……』
アイリスが続ける
『金髪の小柄な男性でしたが、私も一緒にスカウトしようとしたんです』
彼女は体温計を取り出し、温度を見る
『丁度、教官がいらして、その方と揉み合いの喧嘩になって、事なきを得ました』
ベアトリクスが振り返る
『多分、《野獣》の情夫って噂のある男よ。父も驚いていたわ』
『兄さん、8度2分です。今週はゆっくり休まれては……』
彼は目を見開いて驚いた
その様な破廉恥な関係を公然と見せつける保安省の職員の意識の低さに……
『情夫!社会主義者に非ざる奴だな……』
黒髪の美女は、笑いながら答えた
『なんでも噂だと、男も女も選ばないそうよ。特に年下の美丈夫は好みだそうで』
仮に噂とはいっても、その様な薄気味の悪い奴が妹や恋人に近づいたのだ
許せない
興奮のあまり、熱が再び上がってきたのが判る
彼はベットへ倒れこんだ
『寒気がしてきた』
夜半に目が覚めた彼は、再び考えた
保安省のスカウトマンが、アイリスの事を《戦術機マフィア》の頭目の妹と知らぬわけがない
彼等は焦っているのだ
_アルバニアの事をソビエトが見捨てた_
なりふり構わず、行動している連中に、こちらが合わせる必要はない
淡々と用意をして評議会で辞表を出させる
一月前は、時間が掛かるような感じがしたが、そうでもない
聞いた話によると少将は人民軍の青年将校達の《相談》に乗っているらしい
岳父も屋敷の主人と共に政界工作を行っている様だ
椅子に腰かけて寝ている二人の美女の姿を一瞥すると、彼は再び夢の世界に戻った
後書き
ご意見、ご批判、ご感想宜しくお願いします
慕情 その2
前書き
東独編は一旦終わりにします
ベルンハルト中尉は2週間後、病床から戻った
過労による急性気管支炎との診断で、予後を確認するため、戦術機への搭乗は一時的に禁止
基地での後方勤務となり、大量の決裁書類を処理していた
タイプライターを止めて、そばに居る曹長に尋ねる
「同志曹長、ハイヴ攻略作戦の件だが……」
脇に立つ曹長は、立ったまま、答えた
「同志中尉、実は作戦が多少変更になったのです」
そういうと、白板の方へ歩いて行く
白板に張り付けてある地図と資料を剝がし、彼の下へ持って着た
彼は渡された資料を読む
「これは……」
ソ連軍が急遽、通常編成外の部隊を投入することが書き加えてあった
「第43戦術機機甲師団。こんな部隊、前線では聞いたことが無いぞ」
驚いた表情で顔を上げ、脇に居る曹長の顔を覗き込む
「どうやら臨時編成の部隊らしいです。ハイヴの内部探索をする装備の部隊で……」
不意に彼は大声を上げた
「そんなことが出来る部隊があるのなら、なぜ前線に投入しない」
ふと思い悩んだ
(「どこまでも、人をこき使う気なんだ、モスクワ(ソ連)は……」)
曹長が声を掛ける
「良いでしょうか」
意識を現実に引き戻す
「どうした」
「なんでも噂ですが、思考を判読する能力を持った《兵士》を使うそうで……」
彼は再び黙り込んだ
(「この期に及んで、超能力者だと。連中はどこまで行き詰ってるんだ」)
三回ほど、ノックされた後
突然、部屋のドアが開く
椅子に、腰かけているベルンハルト中尉に、向かって青年が歩いて来る
「やっとその気になったか、ユルゲン。だから言ったじゃないか」
中尉は、顔を上げた
脇に居る曹長が、訝しんだ顔をして尋ねる
「誰ですか、同志中尉」
困惑する曹長に向かって、彼は紹介をした
「紹介しよう、(空軍)士官学校の同期で、同志ヨーク・ヤウク少尉」
遮るように声を掛ける
「唯の同期じゃないぞ。次席卒業だ」
ヤウク少尉は、曹長に敬礼をする
彼の敬礼を受けて、曹長が返礼をする
「上も、ちゃんと分ってるんだね。
君には僕みたいな補佐役が居ないと駄目だとね」
曹長が目配せすると、彼は改まって
「無礼な対応をして申し訳ありませんでした」
ヤウク少尉は階級章を見て、慌てて敬礼をしてきたのだ
中尉は、彼の子供じみた態度に呆れた
「お前こそ、前線を放って置いて、何で、ここに居るんだ」
少尉は、腰かけているベルンハルトに答えた
「聞いていないのか。一時帰国命令が出たんだよ」
彼のいない間にウクライナ派遣軍の戦術機実験集団の主だった面々は一時帰国していたのだ
「どういうことだよ」
彼は、同輩に尋ねる
同輩は、おどけたように答えた
「君が帰国して、寝込んでる間に、《パレオロゴス作戦》の下準備が始まったんだよ」
勝ち誇ったように答えると、彼の顔を、目を細めて見た
その様な態度に、不安感を覚えながら、彼は再び、訪ねた
「《パレオロゴス作戦》、初めて聞くな。何だよ、それ」
静かな声で、曹長が割り込んできた
まるで、子供を諭すような素振りで話す
「ミンスクハイヴ攻略作戦の正式名称です……」
同輩は、話している途中に割り込んできた
彼は、自己顕示欲を満足させるためであろうか、と内心不安に思った
「先頃NATO(北大西洋条約機構)とWTO(ワルシャワ条約機構)の双方の話し合いで決まった名称で、何でもギリシャ語で、《古い理論》を指す言葉だそうだ」
少尉の士官学校時代と変わらぬ態度に、彼は呆れて、声も出なかった
目の前の先任曹長をないがしろにするとは……
いくら自分たちは将校とは言えども、年季の違う古参兵を蔑ろにするのは、《軍》という暴力装置の中にあっては禁忌ではないか
彼の背中に、汗が流れていくのがわかる
下着は湿り、寒気すら覚えるほどであった
「どうした、反論の一つもないのか。ユルゲン」
厳しい顔をした曹長が、二人の間に入ってきた
低い声で二人に話しかける
「宜しいでしょうか。ご学友同士のお戯れも、程々に為さるべきかと」
「同志曹長、貴官の意見を参照しよう」
彼は、足り障りのない返答をすると、項垂れる友人と共に部屋を出た
その際に、彼等は年上の曹長へ、謝罪して、その場を後にした
「少し、こいつと話してきますので、席を開けます。
ですがよろしくお願いします」
「やっと結婚する気になったんだろ、ユルゲン」
二人の青年将校は、基地の敷地内を歩きながら、話し合った
ヤウク少尉が前を向いて歩いているのと対照的に、中尉は、下を向きながら歩いている
「まあ、告白はした。返事は……」
隣に居る少尉が、彼に返した
「君は、そういう所が、本当に意気地なしで優柔不断だよな」
彼の顔が顔を上げる
青白く美しい顔は、その言葉で赤くなり、昂揚しているのが判るほどであった
「で、何時、結婚……」
少尉の問いへ、たどたどしく返した
「来年の……」
少尉は、目を見開いく
大げさに、手を振り上げ、絶叫した
「来年だと。散々待たせておいて、君は。最低じゃないか」
彼は、少尉の肩を掴み、正面を見据える
燥ぐ彼を押さえつけ、告げた
「まだ、《パレオロゴス作戦》の下準備すら始まっていない段階で、そんなこと出来るかよ」
少尉は、顔を背けながら答える
「本当に、君は人の心が分からない人だね。大体、そんなんじゃ彼女が20歳超えてしまうじゃないか。散々引き延ばして仮に……」
彼は、少尉の体から手を離した
「何だよ。仮にって……」
彼の脳裏に《死》の文字が浮かぶ
戦死以外に、この国には、《死》が近すぎるのだ
「今結婚すれば、来年には子供が……」
その話を聞いた時、彼は混乱の極みに達した
顔は耳まで赤く染まり、体温が上がるのがわかる
鼓動が早くなり、握る拳は汗ばんでいく……
(「俺とベアトリクスの子供……、アイリスの甥姪、どの様な物だろうか……
あの美女と……、あの美しい躰の……」)
「この話は続けるつもりはないぞ」
少尉が、手を握りしめて、両腕を振る
興奮して語っているのが、一目で判る状態だ
「そうやって逃げ続けてどうするんだね。君は。
5年近く付き合ってる、彼女の気持ちを考えたことは、ないのかい。
傍に居たいから、君の反対を押し切って陸軍士官学校には行ったんだろう。
違うかい。
そうだろ、ユルゲン」
興奮して、少尉の左手を掴もうとするが、払いのけられる
それでもなお、彼の面前に、顔を寄せる
「士官学校次席として、補佐役としていう。今すぐにでも結婚しろよ。
現実から逃げてるんじゃ、君の父君と同じではないか」
彼の脳裏に、妻との離婚から、酒害に苦しみ、《発狂》した父が浮かぶ
思えば、母、メルツィーデスは、寂しさから、父の同僚と不倫関係になり、異父弟を成した
10年以上前の苦い記憶が甦る
「忠告は受けよう。ただ、今は動けない」
少尉が、興奮したままだ
彼を、再び抑えようとして動く
彼は退き、背を向ける
そして、別方向へ動き出した
「何でだよ。僕は君の事を考えて……、待ってくれよ。ユルゲン」
彼は、友人を置き去りにして、走り始めていた
(「お前の言う事は分かっている。唯、今動けば、妹も、彼女も危ない」)
頬に涙が伝え落ちてくるのが、解った
ヤウク少尉の忠告は、正しい。しかし、未だ、その時期ではない
その本心では、目の前の友人には、話しておきたかったのだ
愛しい人ベアトリクスと、血肉を分けたアイリスの身に、危険が迫っていると言う事を
言えば、自分達の企みが保安省の間者に漏れ伝わる
もどかしい思いを胸に秘めて、その場を、彼は黙って立ち去って行った
後書き
前回、今回の話で、新たに出てくる人物は、先任曹長以外は原作人物です
(本編ではなく外伝『隻影のベルンハルト』)
初見の方もいるので説明いたします。
ヤン・ボルツ (ベルンハルト兄弟の後見人、東独外務省非常勤職員。軍隊勤務経験あり)
ヨーク・ヤウク少尉 (ベルンハルトの補佐役。ボルガ系ドイツ人)
また2021年の投稿は本日が最終日です
ご意見、ご感想、ご批判、よろしくお願いします。
潜入工作
前書き
今回は心情描写多めです
対ソ作戦として秘密研究所の襲撃作戦
計画段階から、CIAより入手した航空写真と、それを基にした地図
秘密都市や研究所に関しては、先次大戦で抑留されたドイツ軍将兵の証言やその報告書を参考にされた
マサキは、その様な経緯から改めて、元の世界との差異をまざまざと見せつけられた
この世界では、1944年に日本は講和
主要都市への大規模空襲、原子爆弾投下、ソ連の条約違反の侵攻、国際法を無視したシベリア抑留は発生おらず、対ソ感情は、冷戦下にあって、現実社会よりかなり融和的な面が見え隠れする
不思議なことに、以上の出来事は、すべて、ドイツ国内で起こっているのだ
二昼夜行われたドレスデン空襲は、現実より過酷なものになり、東部戦線で降伏したドイツ将兵の数も、その強制抑留者の規模も格段に大きい
何より、ベルリン中心部に2発以上の原子爆弾が投下されるという凄惨な結末になった事を未だ受け入れられぬ自身が居た
帝国陸海軍内部にも、それなりの数の対ソ融和派がおり、今回の件でもその一派は騒擾事件の寸前であったことをのちに知らされた
聞くところによれば、大伴忠範という青年将校が主たる人物として戦術機に関する《勉強会》があり、その一派が、《将来の日ソ間における戦術機研究》の為、参謀本部に作戦中止の血判状を出したと聞いた時、彼は、不快感を覚えた
あの、《大東亜戦争》の際、ソ連への備えが甘かったゆえに、愚にもつかない対米交渉仲介を依頼し、満洲からの根こそぎ動員で、ほぼ無防備であった北方を事ごく掠め取られた事
その地に居た軍民270万人は、奴隷としてシベリア奥地へ拉致、10年近く抑留され40万近い人命を失ってしまった事実を、苦々しく思い起こしていた
何より、マサキ個人としては、生前ソ連交渉の道具となった経緯から、今一つソ連という国家を信用できなかった
《右派》を自称しながら、英米への接近を危惧し、共産圏に近づくという大伴一派の姿に、彼はかつて元の世界で、亡国への道を辿らせた《統制派》の《革新将校》の姿を、見るような感じがしてならなかった
神聖不可侵の君主をして、スターリン主義を日本に当てはめんとし、あの破滅を招いた《売国奴》共への、深い怒りの感情が、彼の内心に、まるで溶岩の様に、沸々と湧いてくる
異世界においても、日本が再び自滅の道を進むことに呆れるとともに、この国の上層部の迷走に呆れ果てた
異界の住人である自分にとってはどのような結果になっても構わないが、ただ今は居候の身
寄るべき場所である、この世界の日本が、その様な愚かな策謀や内訌によって、簡単に滅びられては困るのだ
せめて自滅の果てに滅びるのであれば、自身が《冥府の王》として、全世界を支配してからでも遅くは無かろう
「どうかしましたか」
その様な思いに耽っているとき、ふと彼に声を掛けるものが居た
彼が、ゼオライマーの次元連結システムの部品として作ったアンドロイド、氷室美久であった
彼女は、支那で、中共軍の戦術機パイロットが来ていた、身体の姿が透ける様な特別な繋ぎ服を着ていた
なんでも《衛士強化装備》と呼ばれる服で、戦闘機飛行士の飛行服に相当する物であった
ゴムやビニールに見える生地は、伸縮性を保持し対衝撃に優れた《特殊保護被膜》と呼ばれるもの
ヘルメットや飛行帽の代わりに、通信機を内蔵した顎当てを付ける
ゴーグルや眼鏡に相当する物はないが、網膜に外部映像を透過する機能があるという
彼は、薄ら笑いをし、見下すような表情で、彼女へ答えた
「美久、その様な破廉恥な服などを着て、何をしている。大方、ロボット操縦士の慰安でもさせられているのか」
そういうと、彼女は赤面し、胸を隠すように右腕を当て、左手で下半身を覆うような仕草をした
彼は、その姿を見逃さなかった
「流石は、推論型の人工知能だ。部品にしかすぎぬのに、さも、人間の女の様に振舞うとは、貴様の学習機能というのも捨てたものではないな」
そう言って近づき、彼女の右腕を左手で掴み、右手で左胸を強く揉む
彼女は赤面し、下を向いている
「止めて下さい」
「これが、奴らの飛行服か。面白い材質だな。
だが、身体の形状が露になるというのは、設計上の機能に見合うとは思えん」
そう言い放つと、彼は彼女を軽く突き放す
「で、奴らのロボットに乗った感想は……」
彼女は、ゼオライマーの副操縦士と言う事で、試験的に戦術機への訓練に参加させられたのだ
アンドロイドであることを知らない軍は、彼女の《身体能力の高さ》に驚愕し、軍事教練を飛ばし、簡素な試験の後、戦術機訓練に放り込んだのだ
一連の経緯を聞いた時、マサキは、近い将来起こるであろうことを夢想した
現時点で、ソ連圏での大規模な敗北。
やがてはBETAと呼ばれる化け物共は、東亜まで侵食してくることは想像に難くない
高々常備兵力が20万前後に帝国陸海軍には対応は厳しかろう
そうなれば促成栽培による徴兵
教育期間の短い兵士の質の低さでは、前線の維持は厳しい
忽ち国内の成年男子は、選抜された兵士を使い果たしてしまうであろう事
その時起るのは、恐らく大規模な学徒動員と婦女子の徴兵
幾らカシュガルのハイヴを消し飛ばしたとはいえ、まだ世界には4つあり、状況の悪化は時間の問題であろう事
仮に欧州で食い止めても、制圧した支那を迂回して、シベリア経由で東進される可能性は否定できない
この社会の日本は、自身の社会の日本以上に、冷血で非情な国家だ
恐らくは見せしめとして、《高貴なる義務》などと、偽りの賛美で、貴族層、所謂《武家》の婦女子などを徴兵
彼女達をBETA共への《生贄》とし、饗するのであろう
そうでなければ身分制度の濃厚に残る社会において、婦人兵を前線に送れぬであろう
男女の肉体差から男社会の軍隊では、婦人兵は元の世界でも扱いに困る存在でしかない
多少《まともな》頭をしていれば、精々軍の学校を出た後に、《腰かけ》で、後方勤務や教官などをやらせて、それなりの男と結婚してくれた方がマシであろう事は、幼児でもわかる
仮に、今の最前線であるソ連の場合は、共産国で、《男女平等》の観点から婦人兵を採用したという建前が成り立つかもしれないが、いくら不足とはいっても扱いに困る支配層の子弟、ことに、婦女子を送るという判断は、狂気の沙汰でなければ出来ぬであろう事
最も、元の世界の共産圏ですら、婦人兵の割合は多かったが、殆どが後方勤務であったことを考えると、特別な事情が無ければ婦女子を前線に立たせるのは非合理的だ
もし、この世界の日本政府が、判断を誤って本土決戦前に、十分な衛士や候補生がいる状態で、このような方針を決定すれば、血統や婚姻関係によって成り立つ貴族層、《武家》を壊すためにやってるようにしか見えぬであろう
その様な方針を示せば、武家や一部の過激派、俗にいう烈士が、反乱起こしかねない
まるで政府上層部が、反乱の火種を配って歩く姿が見える
戦時の重要局面で、内乱を招けば、前線ではなく銃後から、この国は崩壊するであろうと
美久の強化装備姿を見た彼は、深いため息をつくと、呆然とする彼女を置き去りにしたまま、その場を後にした
後書き
大伴忠範は、「トータル・イクリプス」の時点で参謀本部勤務の中佐ですが、年齢が明記されていなかったように記憶しています
現実の登用や、昇進から考えて、士官学校卒業から中佐任官まで20年近い年月が掛かったと言う事で、本作に登場させました
潜入工作 その2
様々なデータからオルタネイティブ3計画の基地が、オビ川河畔のノボシビルスク市にあるのが分かった
しかし、空路で、シベリア上空を行けば、ソ連の防空網に引っ掛かり、隠密性は失われる
瞬間移動をするにしても、秘密基地の正確な座標は分からないし、、作戦成功も怪しい
敵を混乱させる目的で、新疆にワープした後、陸路から、アルタイ山脈を越え、街道沿いに北上する案がとられた
中ソ国境から、攻撃した後、移動すれば、両陣営を紛争状態に陥れることができる
それが、秘密作戦の最終案であった
最悪の場合、帝国軍は、彼等の存在は否定すればよい
マサキ達は、帝国政府にとって都合の良い、使い捨ての駒という認識であった
マサキ自身もそれは承知の上で、ソ連への憎悪と、この世界への混乱を引き起こせるという点で、彼等の策に、自ら乗ったのであった
{{i14227傾向があることを忘れていたのだ
ウサギの様に飛び跳ねる、一機の戦術機
その機体は、背中にもう一本、刀の様な物と、機関砲を背負っている
次元連結砲の単射を、避けて、後退していく様を見たとき、この機体を操縦している人物は相当の手練れであろう事が判る
そしている内に、周囲を残存する戦術機に囲まれた
レーダーによると、その機影は14機
機関砲を単射で、詰め寄ってくる
「そろそろ、茶番は終わりにするか」
マサキは、口を開いた
彼は、潜入作戦開始以降、切られていた無線を入れる
無線通告してきた周波数に合わせ、、敵側に英語で話しかけた
敵への混乱させるためと、戦意を喪失させるために、あえて無線通信したのだ
「貴様らの無駄な抵抗は、よせ。この俺には、どうあがいても勝てぬのだから」
向こう側からの返事は、ない
銃弾での応酬が続く
「消し飛ぶが、良い」
彼は、笑いながらスイッチを押し、メイオウ攻撃を仕掛ける
対象物の消滅するのを確認せずに、ワープした
ソ連・ノボシビルスク郊外に居た戦術機部隊は秘中の秘であるオルタネイティブ3の防護のために置かれた部隊であった
GRU(赤軍総参謀部情報課)の選抜された部隊であり、最高の機密を保持するためにKGB(秘密警察)やMVD(内務省)にすら内密で用意された虎の子の部隊
それが、ものの30分で消滅した
ノボシビルスク市内は大混乱に陥り、研究施設を警護するKGBの部隊は、大童で、施設の爆破と関係者の脱出を始めた
研究施設を破壊しても、研究資料さえ残ればよい
KGBの現場責任者は、混乱していた
「実験体の大部分を《焼却処分》」し、「出入りする工作員」を一か所に集め、「機銃掃射」の命令が出すほどであった
「何としても、西側に研究成果を渡してはならない」「渡すくらいなら、燃やして灰ににしてしまえば、良い」
混乱する現場での出来事をよそに、市内の大部分が消失したとの連絡が入った
大急ぎで、関係者を脱出させようとした矢先、周囲は強烈な閃光に包まれた
後書き
ご意見、ご感想、ご批判、よろしくお願いします
潜入工作 その3
その日、ノボシビルスクで何かが起きた
ソ連近海で特殊任務にあたっていた米海軍の《環境調査船》は、一部始終を聞いていたのだ
その情報によるとハバロフスク・ノボシビルスク間の通信量は深夜になって急増し、翌朝にはほぼ絶えた
膨大な通信の内容は、一旦日本国内にある米軍基地から、メリーランド州にある米軍基地へ持ち込まれた
その場所は、米国内の最高機密の一つに当たるNSA(国家安全保障省)の総本部
数千から数万の人員が出入りすると噂されるが、謎の機関
ワシントン官衙に出入りする官吏からは、「何でもないで省」などと冷やかされる部局
対BETA戦では、対人諜報活動は重視されてきたが、通信傍受や分析は、やや疎かにされてきた面は否めない
CIAやFBI(連邦捜査局)と違って、表に出ない秘密の組織。
ここで、何かしらの纏まった成果を出さねばならない。
かつてのブラックチェンバーの様に、無理解な上長や国務長官によって、組織そのものの存続が危うくなりかねない事態も否定できない
《調査船》も立て続けに数隻失われる事態も、この10年来相次いだ
軍や情報機関の動きとは別に政府も動いた
深夜、ホワイトハウスに、閣僚が集められる
約半年後に迫る欧州の合同作戦に関して、NSC(国家安全保障会議)の臨時の会合が開かれた
議題となったのは、ソ連軍の動員兵力の実数に関してであった
会議冒頭から、国務長官は、CIAや陸軍省の報告は、ソ連の実働部隊に関して《過大報告》されているのではないかと、詰め寄った
BETA侵攻にあっている状態とはいえ、動員能力に問題があり、報告にあるような大規模兵力をうまく活用できていない
このような状況下において、予定される《パレオロゴス作戦》の主導的立場を取らせるのは、危険だと述べた
無論、反共や戦後の欧州の政治状況の変化を見込んでの発言ではあったが、副大統領やFBI長官もその見解に一定の理解を示した
しかし、国防長官と、CIA長官は、ソ連の戦力は《強大》で、隠匿された部隊が、各衛星国にある状態で、ミンスク以東の東部戦線を任せるには、《十分》との見解を示した
国防長官が恐れたのは、何よりソ連国内の派兵で、貴重な戦力が失われることであった
道路事情が劣悪で、疫病の根拠地の一つである白ロシアやウクライナの平原に、大規模兵力の展開は、世論の反対も多い
将兵の父兄等の理解も十分に得ていない現状
その様な状況での大動員の実施は、厳しいであろう事
かの地で、あの《大帝》や《総統》が数十万単位の将兵を損耗させた《冬将軍》の凄さに、内心たじろいでいる面もあることを彼は否定しなかった
対人戦と違って、BETAとの間には、講和も休戦もない
恐らくソ連が計画している秘密実験、超能力者の意思疎通も失敗する概算が高い
核ミサイルによる飽和攻撃も、光線を出すBETA共の前では無力に等しい
原子爆弾を超える新型爆弾や、高速で移動し全方位攻撃が可能な新兵器でも出来れば話は違うが、それも夢物語であろう
新進気鋭のウイリアム・グレイ博士の下、ロスアラモスの研究所で実験がなされているのは報告に上がっている
カールス・ムアコック、リストマッティ・レヒテ両博士が、《戦略航空起動要塞》計画に、斬新な手法を持ち込んで研究をしてることも把握している
但し、今回の作戦には間に合わぬであろう事
そうすれば、日本が中共で実験した新型兵器を使って、時間稼ぎをしたい
新彊を実験場にし、広大な破壊力と高速移動可能な動力を持った大型機
リバース・エンジニアリングをして分析してみたいが、それを許さぬほどの厳重な警備
日本政府に問い合わせた所、『府中、宮中の別』と言う事で、手出しできなかった
そのような新型兵器をうまく誘い出させるような政治状況を作らねばなるまい
深く状況を憂慮する大統領に、FBI長官が、上申した
「閣下、恐れながら申し上げます」
会議に居る全員が振り向く
「日本に対する工作ですが、人質に近しいことができる状況下にあるのです」
項垂れていた顔が持ち上がり、彼の方を向く
「実は、かのブリッジス家の令嬢と、懇意にしている日本人がおりまして。
彼は貴族、なんでも至尊の血族、数代遡ると父方がそれに連なる子孫、と伺っております
彼は、件の令嬢と、朝雲暮雨の間柄、との報告を受けております」
副大統領が、乗り出す
「南部人のブリッジス大佐が、良く、その様な黄人との間の仲を許したな」
彼は、副大統領の方を向いて語る
「いや、その様な報告は受けておりませんので、どの様に思っているのか、解りかねます」
会議の間、黙っていたCFR(外交問題評議会)の重鎮とされる老人が口を開いた
本来、このような人物は、参加すら出来ぬのだが、歴代大統領との《親密な関係》と言う事で、《ホワイトハウス出入り御免》の立場にあった
「つまり、君はこう言いたいのかね。貴族の子弟とブリッジス嬢との間に、子を成させて、それを人質にすると……」
彼は薄ら笑いを浮かべながら老人の方を向いた
「はい。すでに手筈は整っております」
一同が驚愕の声を上げる
CIA長官は厳し顔つきになると、彼に向かって、面罵した
「貴様がそれほどまでに恥知らずだとは思わなんだ。
人間の顔を被った悪魔とは、貴様を指し示すにふさわしい」
興奮した男は、立ち上がって彼を指差し、罵倒し続けた
「純粋な人の恋路を邪魔して、剰え政治の道具にするとは、人非人という言葉ですら生ぬるい」
赤面した顔で、男はなおも続ける
「ラマ僧に聞いたことがあるが、仏教においては、六つの世界があり、餓鬼道、というものがあるそうだ。
貴様の政治的貪欲さは、いくらこの世の物を喰っても満たされない餓鬼、その物。
もし貴様より先に死んだ場合は、地獄で待っていてやる。
そして二度と輪廻転生から外され、牛馬の姿以下にするよう、閻魔に願い出てやろう」
FBI長官は、涼しい顔をして、男の方を向いていった
表情の割に、彼の顔面は蒼白となり、額から汗が流れ出る
「脅しですかな。まあ貴方も私も善人ではありますまい。
寧ろ女一つで、兵乱なしに、日本のような国家を左右できるのであれば、掛かる費用としては安かろうと思います」
「また例の貴族は、戦術機の技術将校と聞き及んでいます。ボーニング社のハイネマンの弟子筋になるとの話もあります」
副大統領は、右手で勢いよく机を叩いた
机の上にあるティーカップや、灰皿が揺れる
「お前たち、いい加減にしろ。
ここに居る人間は大なり小なり、《汚れた仕事》に関わって来たではないか。
違うか。
未だ続けるなら、貴様らが地獄に行った後にしてくれ」
そしてFBI長官の方を向いて、訪ねた
「其の貴族をして、米国に例の新兵器の情報を入れさせるというのか」
副大統領に尋ねられた彼は、深く頷いた後、こう告げた
「ほぼ準備は、万端です」
全員で大統領の方を向く
まるで儀式のような場面で、副大統領が尋ねた
「閣下、ご決断をお願いしたします」
大統領は、決裁書を一瞥する
筆を取ると、慣れた手つきで花押を書き、それを脇に立つ補佐官に渡した
補佐官から、決裁書が回される
継承順位に沿って副大統領、国務長官と数名の閣僚が続けて署名した
署名し終えるのを見届けると、正面を向いた
「すべては私の責任だ。処務は諸君等に任せる」
そう言い残すと、席を立ち、会議場を後にして、執務室の奥へと消えていった
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
策謀
一人の男が保安省の一室に呼ばれた
少佐の階級章を付け、《俳優のような顔》と、そやされるほどの眉目秀麗
通り名を《褐色の野獣》と呼ばれる、中央偵察管理局の《精鋭》工作員、アスクマン
彼は、直属上司の下に来ていたが、その際、衝撃的な出来事に遭遇していた
色眼鏡を掛けた禿髪の上司の下に、男が居た
男は、非武装で、白い襟布が縫い付けられたソ連軍服を着ており、勲章もつけていなければ、階級章や識別章もなかった
国家章のついた草臥れた軍帽を弄んで、上司と話している
ただ、その態度からただならぬ人物である事が判った
彼等の話し言葉からすると、ドイツ語ではなく、ロシア語であったことがおおよそ分かった
男は、アスクマンがいるのに気が付かぬほど興奮しており、激しい口調で罵っていたのだ
「あの冷酷そうな男が怯えるほどの人物とはどれ程の者なのか」
好奇心が湧いては来たが、その様な間違いをするほど、《青く》ない。
静かにドアの方に戻ると、静かになるまで待った
「入れ、若造」
件の男が、流暢なドイツ語で話しかけてきた
「失礼致します」
敬礼をすると、軍帽を脱ぎ、彼はその人物に、改めて挨拶した
「私は、中央偵察管理局の……」
その男は、顔を引きつらせながら答えた
「君が《男狩り》をやっている、《褐色の野獣》かね。
兼ねがね話は聞いている。
NVA(国家人民軍)への工作を任されているそうだが……」
彼は驚いた
目の前のソ連人は、唯の軍人ではないのは分かっていたが、同業者であったことに……
「しかし、情けないとは思わんのかね。
対抗手段を作ると息巻いたものの、あれから2か月近く経つのに何も青写真一つ描けていないとは。
大方、色事にでも、現を抜かしていたのかね。
聞くところによると、詰まらぬ《覗き見》や、美男美女を選んで《御飯事》の真似事をして居るそうではないか。
その様な《児戯》で、少佐の地位を得られるとは……」
彼は、男に尋ねた
「貴様、何がしたいんだ」
男はにやけながら室内を歩いて、こう続けた
「さあ、何がしたいと思う」
彼は上着の内側から小型拳銃を取り出す
素早い動きで、男の胸元へ向ける
「ピストルなんか出して、何のつもりだ」
身動ぎ一つせず、男は彼に語り続けた
「俺を恐喝しにでも来たか。小僧」
拳銃を突き付けられながらも、焦る様子はない
彼は不安に駆られた
挑発するように、詰め寄って来た
「貴様のような、《部外者》が何を騒ごうが構わないが、ここをどこだと思っているんだ」
引き金に指を掛けようとした瞬間、彼は気が付いた
自分が、複数に囲まれていることを……
ヘルメットを被り、野戦服を着た完全武装の兵士が、銃を向ける
「お前たち、何のつもりだ」
両目で、自動小銃を構える同僚たちの顔色を窺う
明らかに焦っている
どうやら自分が考える以上の存在らしい
彼は左手で弾倉を抜き取って、高く掲げる
右手に持った拳銃と左手で握った弾倉を、ゆっくりと床に置く
直後、後ろに居る兵士達に羽交い絞めにされた
「やっと話を聞く気になったのだな」
そういうと男は、机の上にあるものを床に散らかし、そこに腰かける
そして語りだした
「NVAの高級将校を逮捕して、軍内部の粛清を進めよ」
ホチキス止めしてある資料を、手で掴み上げる
彼の面前に向かって放り投げる
「これが名簿だ。
罪状は、反乱未遂とでも作って、逮捕しろ。
そうすれば、《俺たち》が《居なくなった》後も、《この国》を、貴様等は、《操縦》出来る」
そういうと、胸からタバコの箱を取り出す
口つきタバコを一本抜き取り、丁寧に吸い口を手で潰す
タバコを口に咥えると、使い捨てライターで火を点けた
どこからか、持ち出した花瓶を灰皿の代わりに使う
「走り出した馬車は、もう止められない。
止めれば、大事故になる」
机から立ち上がり、彼に近づく
顔に、紫煙を吹きかけた
「貴様等が、西ドイツでの工作が成功したのは、ルビヤンカ(KGB本部の所在地)でも話題の種になっている。
その興奮が醒めやらぬ内に、来てみれば、この様な姿だとは、思わなんだ」
顔を背けた彼は、後ろから顔を抑えられ、再度、紫煙を吹きかけられた
「用件は以上だ。即刻失せろ」
締め上げていた手が緩む
飛び掛かろうとした瞬間、後ろから複数の男に、押さえつけられ、床に伏す
「出ていけ、小僧」
再び羽交い絞めにされた彼は、腹部に強烈な鉄拳を喰らい、蹲る
ドアが開け放たれると、兵士達が彼の体を持ち上げる
持ち物と同時に投げ出すようにして、廊下に打ち捨てられた
兵達が出て行った後、静かにドアを閉める
男は無言のまま、室内を歩く
椅子の前まで来ると、後ろに居た禿髪の男の方を向いた
太い額縁の眼鏡をかけた男は、無言で立ち尽くしている
薄く色の付いたレンズは、光が反射しており、目から表情が窺い知ることが出来ないほどであった
「同志シュミット」
ソ連人が、ひじ掛けが付いた椅子に腰かける
顔を上げると、禿髪に声を掛けた
「今日から《暴れろ》」
禿髪の男は絶句している
「本日より、ソ連人として、ドイツ人にどういう立場か、《教育》してやれ」
目に力を入れて、彼の方を睨む
「KGBとして、何をすべきか……。
KGBであるから、何が行えるか。
堂々と、振舞え。
そして、貴様の野望とやらを、見せてみるが良い」
男は、勢いよく返事をすると同時に敬礼する
「了解しました。同志大佐」
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
策謀 その2
前書き
今回も長文です
来る《パレオロゴス作戦》に向けて、第一戦車軍団の訓練が始まった
戦術機部隊と砲兵、機甲部隊による連携訓練
ウクライナ戦線での経験により発案された《光線級吶喊》の他に、新たな科目が加わった
対人戦、対航空機戦を想定した訓練であった
対BETA戦を第一に考えていた彼等には衝撃的だった
人造毛の防寒帽の耳を下ろして被り、綿の入った防寒服を着た男が、青年に声を掛ける
防寒服は、人造毛の別布の襟が付き、上下揃いの深緑色
防寒用の長靴を履き、服と同じ色の防寒手袋をはめて居る
金髪碧眼の屈強な体躯で、顔には整えた口髭を蓄えている
青年は、灰色に染められた羊皮に、空軍の帽章が刺繍してある防寒帽
ダークグリーンの別布を付けた襟のオーバーコートを着て、羊皮製の防寒手袋をしている
オーバーコートは脛丈の長さ
純毛の厚手のトリコット織で、深い灰色から将校用の物と一目でわかる
足首から膝下までがフェルト地で出来た防寒長靴
首の下から、耳まで覆うように、筒状の頭巾を被り、顔だけを出している
「今回の訓練について、何か、聞いているのか」
口髭の男が、青年に聞いた
青年は黙ったままだ
「戦術機の習熟ですら、鍛え上げられた戦闘機パイロットが半年かかるというのに、対人訓練とは作戦開始までに間に合うのだろうか。
来年の夏、早ければ7月までには仕上げなくてはなるまい。
或いは、NATO軍の都合によって早く仕上げねばならなくなるかもしれない。
WTOや参謀本部がどのような機会で、我々を投入するか分からないが、来年初春までにはある程度まとまった結果を示さねばならないだろう」
男は懐疑的な見解を青年に述べる
「参謀本部がアルバニアの事例を参考にして組み込んだのは分かる。
だが、我々の第一任務は、第一戦車軍団の支援と、《光線級吶喊》による戦線の露払いだ。
この様なことをしていては、十分な訓練時間がとれるとは思わない」
青年は答えた
「自分の方で、参謀本部に掛け合って、都合してみます」
彼は、静かに答える
「ですが、《光線級吶喊》も対人戦も、技量の向上には変わりのないように思えます。
戦車や航空機に比して前方投影面積が一般的な戦術機の場合、18メートルもありますので、低空飛行や高機動により攻撃を避けるしかありません。
通信や状況によってより的確な判断がなされ、部隊が自在に運用できなければ、唯の標的と何ら変わりありません。
ある程度、行動様式の決まったBETAと違って、対人戦は読めないところがあります。
対空砲や対戦車砲の攻撃を受ければ、いかに装甲の厚い戦術機でも防ぎきれません」
「詰り、この訓練は無駄ではないと言う事か」
青年は、息を吐き出すと、目の前の男に答えた
「はい。
仮に内乱や暴動による出動命令が下った時、対人訓練がなされていなければ、行動パターンから敵側に一方的に撃破される事態に陥ることもあり得ます」
男は口髭を触る
「戦術機同士の戦闘に発展する事態があり得ると言う事か」
青年は深く頷く
「先日のアルバニアの事例はそういった点で、今後の研究材料になります。
米海軍は、航空機との連携で戦術機を使い、アルバニアの部隊を数日で壊滅させたと伺っています。
新型の戦術機が数種投入されたとの話もありますが、実態がつかめていないのが現状です」
「最悪、今作戦の終了を待たずに戦争状態に発展する可能性もあると言う事か……」
青年は、男の周囲をゆっくり歩きながら話す
身に染入る様な寒さで、じっとしていられない様子だ
「仮想敵の米英軍ばかりではなく、ソ連の動向も気になるところです。
シベリアにあるKGB管轄の収容所が、何者かに襲撃され、壊滅。
その際、防衛に当たった戦術機部隊が一方的に失われるという事例があったとも聞いています」
手袋越しにしきりに口髭に触れる
呼気で、髭が凍るのを気にしている
「例の超能力者の実験施設か」
青年は立ち止まって振り返る
「噂ですが、その様に伺っています。
事件の余波で、ソ連軍が、戦線から離脱、或いはわが軍と事を構える様になれば……」
『ソ連の完全支配』
最悪の事態を避けるために、軍事的均衡の為の戦術機部隊
青年なりの考えであった
「対人戦も無駄ではないと言う事か」
「ただ、BETAと違ってソ連はまだ多少は話し合いの余地があろうかに思えます」
「米英軍も同じであろう」
「はい。
それ故、こちらの力を鼓舞するためにも、多少なりとも対人戦能力向上は、役に立つかと……」
男は暫し黙ると、頬に手を当てて考え込んだ
ゆっくりと口を開く
「概ね、君たちの意見には賛成しよう。
なるべく損害の少ないことに越したことはない」
目の前の青年は破顔し、謝意を述べた
「ありがとうございます。同志大尉」
彼は、真剣な眼差しで、目の前に居る男を見つめた
眼前に居る男こそ、戦術機実験集団の指揮官であるバルツァー・ハンニバル大尉であった
大尉は、空軍地対空ミサイル部隊の出身で、同集団に多数を占める空軍操縦士候補生とは違い、航空機操縦経験はない
しかし、対BETA戦による軍事編成の変化の煽りを受けて、《左遷》させられた将校の一人であった
ソ連留学のある彼は、前任者のユップ・ヴァイグル少佐と違い、青年将校たちに一定の理解を示すよき人物でもある
何より留学による衛士訓練経験のある上司との出会いは、ベルンハルト青年には僥倖であった
脇で、静かに別な青年が佇んでいた
ベルンハルト少尉より、質の落ちた化繊混紡の灰色がかった生地のオーバーコート
ダークカラーの別布の襟を立て、空軍の帽章が刺繍してある人造毛の防寒帽を目深に被っている
彼らが話し終えるのを待っていたかのように、両手を外套のマフポケットに入れ、縮まっている
周囲の様子をうかがってから、両手をポケットの外に出す
化繊の防寒手袋をした手を振りながら、彼は語りだした
「ソ連の戦況は、新疆のハイヴが陥落してから停滞しています。
仮に今回の事件の損害があったとしても、大勢に大きな影響はないと考えられます。
まあ、どの様な結果になったとしても……」
ハンニバル大尉は、目の前の青年に語り掛けた
「BETAの撃滅するという主任務には変化は生じないと言う事か」
青年は、続ける
「はい、ベルリンっ子の噂ですが、何でも今回襲撃を行ったのは米軍の特殊部隊で、黒海を経由してカザフスタンから、ノボシビルスク市に潜入し、新型の原子爆弾を爆発させたそうです。
市内は、ほぼ跡形もなく消え去り、駐留していた部隊は30分ほどで壊滅させられてます」
大尉は、目を大きく見開いて、面前の青年を見る
「核武装の戦術機部隊だと!」
彼は目を輝かせ、言葉を淀みなく伝える
「何でも、目撃談によると、大型の戦術機が持ち込まれたと、モスクワっ子の間で話題になってるそうです。
最も噂ですから、どこまでが真実か不明瞭ですし、その相手がどのような行動に出るか、予想も出来るとは思えません」
青年は、大げさに手を振ると、肩を竦めた
その様子を見たベルンハルト中尉は、彼を窘めた
「ヤウク、仮にも参謀の立場にある君が、根拠のない噂を、流布するような真似は慎んでほしい」
両手をヤウク少尉の方に置く
「君は、参謀として部隊の為に情報を集めるのは助かるが、何よりも正確な情報が欲しい。
そんな噂話より、一番大事なのは根拠のある一次情報だ。
公文書や機関誌、各国の新聞報道から真実を探すことをすべきではないのか。
文諜(文字情報による諜報)で、一番大事なのは分析だ。
市井の噂話は、あくまで参考にしかならない」
「根拠はあるさ、これを見てくれ」
そういうと、肩から下げた図嚢(書類や地図を入れる野戦用のカバン)から数枚の紙を取り出した
彼は、ヤウク少尉からそれを受け取ると驚いた
英国の大手通信社ルイターのイスタンブール発の外電を報じた西側の新聞の複写
「デイリー・テレグラフ」(The Daily Telegraph)「ワシントン・ポスト」(The Washington Post)「ル・フィガロ」 (Le Figaro)などの《ご禁制》の品々であったからだ
「どうやってこんなもん、手に入れたんだ」
ヤウク少尉は、満面の笑みで応じる
「君の《親父さん》の友人さ。同級生だと話したら、茶飲み話のついでに貰って来た」
彼は、その話を聞いた瞬間、頭が真っ白になった
まさか、育ててくれたボルツ老人がその様な危険な橋を渡ったのかと……
恐る恐る尋ねる
「ボルツさんのところでも行って来たのか……」
彼の発言を聞いて、肩を竦める
「まさか。お屋敷の《旦那様》から頂いたのさ」
唖然としたが、彼に対して怒りが湧いてきた
まだベアトリクスとは結婚もしていないのに、彼女の父・アーベルを《親父さん》と呼んだヤウクの行為が気に入らなかった
幾ら将来を誓い合った仲とはいえ、法律婚すら躊躇っているのに、その思い人の父を、すでに岳父として扱う彼の無神経さが許せなかった
彼は目の前の青年の肩を強く掴み、前後に揺らした
「まだ俺は、独身だ。お前はそうやって周囲に言って回ってるのか。
人の気持ちも考えろ。この……」
その時、ハンニバル大尉が笑った
彼は、笑いながらベルンハルト中尉に向けて言った
「貴様の気持ちも分からんでもない。
俺も気になる若い娘がいる。
まだいい年頃になるまで待っているところさ」
二人はあまりの事実に唖然としていた
この強面で、どこか知性を感じさせる雰囲気を持つ男に、その様な思い人が居た事実に
そして柄にもない冗談に参加したことが、信じられなかったのだ
「まあ、人の事も言えんが、諸君等もそろそろ身でも固めておくのも悪くなかろう。
5年近くに及ぶ対BETA戦でソ連邦では人口の3割強が失われたとの国連報告がある。
将来に向かって若い妻を迎えて、人口を増加せしめ、国力の涵養に努めるのも、立派な愛国心の発露の一つではなかろうか。
それに家庭内で愛欲の発散というのも、健康な人間としては自然なことであると考えている」
こんな笑顔をする大尉を見た事がない
思わず顔を見合わせる
そして笑った
ヤウク少尉が周囲を窺う
そして大尉に向かって話しかけた
「では、同志大尉、食事にでも致しましょう。
外も寒いですし、宿舎に戻って夕食にでもしませんか。
少し早いですが」
ベルンハルト中尉は、腕時計を見る
もうすぐ15時半だ
周囲はすでに日が落ち始めている
ドイツの冬は日没が早い
16時には暗くなってしまう
男たちは談笑しながら、宿舎への道を急いだ
後書き
前回、今回の話で、新たに出てくる人物は、ソ連大佐以外は原作人物です
(役職等は外伝『隻影のベルンハルト』準拠になります)
初見の方もいるので説明いたします。
ホルツァー・ハンニバル大尉(空軍地対空ミサイル部隊出身)
ハインツ・アクスマン中佐 (国家保安省中央偵察管理局)
エーリヒ・シュミット (国家保安省中央第一局)
ご意見、ご批判、ご感想、よろしくお願いいたします
ご要望等ございましたら、検討の上、採用させていただく場合もあります
策謀 その3
その夜、降りしきる霙の中、宿舎に一台の軍用車が来た
後部座席より降り立った男は足早に室内に入る
脛まで有るマント型の雨衣を着て、頭巾を被っている
室内に入ると、待っていた下士官が、彼を奥にある軍団長室に案内する
部屋の前まで案内をした下士官に、敬礼
返礼をした彼を見送ったと、ドアを開ける
静かにドアを閉め、部屋に入る
男は、顔を覆っていた頭巾をゆっくり下ろしてから、雨衣を脱いだ
雨衣を脱いだ後、煌びやかな刺繍が施された軍服姿が露になる
赤いパイピングが入ったギャバジン地のクラウンに、赤地の鉢巻(帽子のサイド)に金メッキの帽章
その被っている帽子から、将官だと判別できる
脇に太い赤の二本の側章が入ったストレート型のズボンを履き、襟には金の刺繍が配われている赤地の階級章
ダークグリーンの襟の内側に白い襟布を付け、金糸と銀糸の織り込んである肩章
その階級章は、星の数から少将
霙と泥で汚れてはいるが、磨き上げた黒革の靴
脱いだ雨衣を手に持った白髪の男の顔には深い皴が刻み込まれている
その男は、フランツ・ハイム
地上軍司令部(参謀本部)勤務の将官で、来る《パレオロゴス作戦》についての見解を窺いに来たのであった
彼は、室内に居る人物に声を掛ける
「話とは何だ」
執務中であったシュトラハヴィッツ少将は、手を止めて正面を向く
ペンを置くと、立ち上がって敬礼をした
敬礼を返すと、軍帽を脱いで、軍帽を逆さまにして机の上に置く
後ろに下がって、雨衣を室内にある外套掛けに吊るす
室内にあった椅子に腰かけた後、彼に尋ねた
「忙しい所に済まんが、こうでもせねば話を聞いてくれまい」
事務机から、テーブルに移動すると、脇から灰皿を取り出し、タバコに火を点けた
何時ぞやの如く、外国たばこではなく、CASINOという国産たばこで、その箱を机に置く
「吸うか」
彼は、頷くと、手を伸ばして、箱から3本タバコを取る
14個の略綬が輝く左胸のポケットから、マッチの紙箱を出す
紙箱よりマッチを摘み取り、火を点ける
深く吸い込んだ後、ゆっくりと紫煙を吐き出す
「お前に関して少しばかり噂を聞いた」
「それで。話の出所は、どこだ」
彼は、内ポケットより折り畳んだ紙を取り出し、訪ねた
「これの存在は聞いているか」
少将は、数枚の紙をを広げると、目を見開く
「大方、保安省辺りの小役人が作ったものか」
彼は、腕を組んで背もたれに寄り掛かる
「然る筋から私のところに来た。
恐らく半分は警告の心算で送って寄越したのであろう」
「ほう。奴等も走狗ではないわけか」
彼は、話しながら右手でタバコの灰を落とす
「省内では、ソ連派と独立派がいて派閥闘争を始める算段が出来ている様だ」
少将は、ゆっくりタバコをもみ消す
「どこも一緒だな。
で、そんな話をしに来たのではあるまい」
深く頷くと、振り向いて正面を見る
「実はな、連中が私に近づいてきたのだ。
件の名簿を持って来て、大規模な摘発をすることを仄めかした。
まさかとは思うが、馬鹿げた事は考えては居るまい」
下を向いて、新しいタバコに火を点ける
「俺は、あの男と話す気にはなれん。
ソ連の茶坊主と噂がある気色の悪い輩に、何を吹き込まれた」
顔を上げ、正面の男の顔を見る
「兼ねがねその話は、伝え聞いている。
私とて、何れは民主的な手法による議会選挙の導入に関しては否定はしない。
ただこの戦時に、やるのは危険すぎないか……」
「仮に今、行動せねば、奴らの専横を許すことにならんか」
彼は、右手でタバコを持ったまま、話し続けた
「それは否定せんよ。ただ機会というものがある」
少将は、襟のホックを外し、椅子に深く座る
「奴等に《認められる結果》を見せればよいのかもしれんな。
もっとも貪欲な連中だ。
どの様な結末でも納得する《果実》が無ければ、否定してくるであろうが……」
「話は変わるが、貴様に頼み事をしたい。
戦術機に関する件だが、西側の機体との通信網の連携を進めるような対策を取ってほしい」
彼は、驚く
「何故その様な事を」
タバコを吸いながら、話しかける
「実はな、戦闘方法の違いで我々が危険に曝される可能性があるのだよ」
「詳しく聞こうではないか」
シュトラハヴィッツ少将が、語った危惧とはこのような物であった
英米を中心とするNATO軍と戦術の差異
《光線級》を選んで殲滅し、その後に爆撃機による攻撃をする《光線級吶喊》ではなく、ミサイル飽和攻撃や砲弾による集中砲火
防御陣地に誘い込んで、その他の集団を殲滅するのではなく、先ず攻撃した後に残存兵力を刈り取る手法の違いについてであった
人民軍が現在行っているBETA群に対する《光線級吶喊》では、先に戦術機部隊が先行
NATO軍が行う攻撃は、先に重爆撃ありきの運用
予定される《パレオロゴス作戦》では、西部戦線をNATO、東部戦線をWTO、ソ連軍が担当
戦場とは常に状況が変化する
もし仮に東西の部隊が混戦状態になれば、一時的とはいえ、作戦上《友軍》となった米軍に爆撃され、被害が出る恐れがあるのだ
被害が出れば、貴重な戦術機部隊だ
簡単には現在のような熟練兵を補充できるような状態にはならない
WTO軍の間であっても同様だ
仮に作戦が失敗した際、その様な事が多発すれば、対BETA戦では後れを取ることになる
支那での初期対応の失敗で、2週間以上の時間が浪費され、敗北を招いたのは苦い記憶として新しい
あの時、米軍の様に即座に核飽和攻撃に移っていれば、惨状は防ぎえた
馬鹿げた《プロレタリア独裁》の末に、階級制度を廃して、軍の機能不全を招いたと聞いた時、深い失望感を覚えたことが思い起こされる
作戦遂行の為には、党派対立や思想闘争などを脇に置いて軍事編成の運用をせねば、危険だ
1600万人前後と人口の少ない人民共和国だ
数億の人口を抱える支那や膨大な領土のあるソ連とは違う
瞬く間に、この国は消え去るであろうことを……
そうなってからでは遅い
恐らく英仏は、この国を時間稼ぎの場所としか考えて居らず、作戦が不発に終われば、地図の上から消える
ポーランドまで戦火が広がるようでは駄目だ
白ロシアで食い止めて、ソ連領内に追い返す位の勢いでないと、大軍勢に闊歩される
あの恐ろしいジンギスカンの大軍が攻めよって来た時、欧州の騎士達は、キリスト教の下、十字軍に次ぐ軍勢をもってして食い止めた
過去の事例のように上手く行くとは言わないが、我々も欧州という名のもとに、キリスト教文化圏の下に、合同軍を立ち上げ戦うような姿勢で臨まないと、やがては、ジンギスカンに滅ぼされた中央アジアの回教国の様に、蹂躙される
広い大海に覆われた日本や、国力の盛んな米国とは違うのだ
地理的にも、政治的にも、現状を維持させる方策しかない
その方策としての西側との連携
国土の大半を蹂躙され、人口の大半を失い、斜陽に成りつつある赤い帝国
シベリアへの遷都では飽き足らず、アラスカへの逃避計画に着手しているとの話も上がっている
やがて東欧諸国から完全撤兵の日も近い
その日を待たずして、自主独立の道を選び、専制的な社会主義の放棄とソ連との決別
かの帝国と決別を奇貨として、西側社会への参画の手段にすべきではないか
それ故に、この軍事作戦の足を引っ張る保安省の連中を出し抜くような方策を打つべきである
少将は、その様な熱い思いを、目前の男に語った
彼は、話を聞き届けた後、最後のタバコに火を点けた
静かに紫煙を吐き出すと、語った
「話は分かった。
全機とは言わんが、せめて指揮官機だけでも西側と連携可能に改良するよう、技術本部と参謀本部に持ち込もう」
少将は机を支えにして、立ち上がった
「本当か。そいつは助かる
交渉チャンネルの有無で、話が全然違うからな」
「もっともそれには前線での裁量の拡大も絡んでくる。
その辺を参謀本部で決めねばなるまい」
前に身を乗り出す
「そいつさえ決めれば、あとは政治局に持ち込むだけなんだな」
深く頷き、同意の声を上げる
「それ以上は党の仕事だ。良い伝手があれば良いが……」
少将は微笑みを持って、彼への返事とした
男は、彼の右手を取ると、強く握手した
後書き
ご意見、ご批判、ご感想、よろしくお願いいたします
策謀 その4
前書き
次回から東独編から本編に戻ります
翌日早朝、事態は動いた
保安相に伴なわれて、シュミットはその場に向う
彼の狙いは、《直訴》して策謀を潰すことであった
《おやじ》と保安相の週一度の相談
その機会は彼にとって、チャンスにすら思えた
会議が始まるまでは……
《おやじ》と大臣の話に一区切りがついた時を見計らって彼は言った
「議長、宜しいでしょうか」
《おやじ》は、顔を上げて、彼の方を向く
小柄ではあるが、《絶妙》の政治手腕で、国際共産主義の粛清の荒波を泳いできた《怪人》
そのソ連への追従の姿は、ある種の芸術品の様である
彼の手にある報告書を、恭しく差し出す
《おやじ》は、報告書を一瞥する
顔色は、一瞬青ざめたかと思うと、赤く染まっていく
鼻息は荒く、掛けている厚いレンズの入った眼鏡が上下するさまが判る
即座に不機嫌になるのが彼には分った
立ち上がると、書斎の奥にある金庫の前に向かう
金庫を開けると、報告書を勢いよく投げ込む
そして厚い扉を手荒く締めた
鍵の掛かる音が聞こえる
彼は焦った
KGBの資料を基に作った秘密報告書が、読まずに仕舞われてしまったのだ
「お待ち下さい。どうぞ、再考を御願い致します」
明らかに興奮した顔で、彼の方を向く
目が血走っており、髪が僅かであるが逆立っている様に見える
「過労の傾向があるな」
握っていた手袋を落とす
「2か月間の休養を命ずる。構わんよな」
脇に居る大臣が頷く
彼は、なおも食い下がった
「何故ですか、議長。
この国家の騒乱を未然に防ぐべきでは、ありませんか」
不機嫌な顔をしたまま、彼に返答した
「先立つ《作戦》の手前、私の顔に泥を塗るような真似は止め給え」
この時、確信した
眼前の老人は、《パレオロゴス作戦》を目前にして軍事クーデター未遂などという、恥を被りたくないと言う事を語っている
《ソ連への盲従》、それは良い
だが、危うい状況にあっても決断すら出来ない人物が国を左右している時点で、ある種の不安を覚えた
半ば耄碌した男であることは、曖昧模糊とした態度から判別出来た
いざ、面前で対面してみると予想以上であった
黙っていた保安相が、重い口を開く
「そもそも君達が、軍を、まともに監視出来て居ない様では、なあ……
シュミット君、少しばかり《バカンス》へ出かけなさい」
この時期に中央から遠ざけるのは、危険ではないか
重大局面での2か月近い休暇は、先々の《キャリア》に傷がつく
彼は、焦った
「お待ちください……」
一笑に付すと、静かに返す
「君が作らせた報告書とやらは、《誇大妄想》が過ぎる。
その様な事を、暗に議長は仰りたいのだよ」
大臣の鋭い眼光が、なおも彼を捉える
「我々もソ連の面前で、恥ずかしい思いはしたくはない。
党の体面が辱められるような事が、ソ連に伝わればどういうことになるか、判るかね」
腕を組んで、椅子に深く腰掛ける
「だが見せしめは必要だ。
私から、ブレーメの様な《反動派》を、つるし上げる方策を練ろう。
奴らの親類縁者100人に、今までの10倍の監視要員を回せ。
だが、直接手出しはするな。ゆっくり弄れ。
発狂させて、倒れこむのを待つのが、一番の方策だ」
彼は自らを恥じた
自分達がどのような立場にあるか、目前の危機から目を背けている様に
「分かりました」
大臣は、納得しかねているようであったが、返答してきた
「宜しい。
今日は、帰りなさい」
彼は部屋を後にした
彼は、帰りの車中で考えた
無駄とはわかっていたが、踏むべき手順はすべて踏んだ
その後は、人民共和国の政権を簒奪し、ソ連の為に自在に動く防御壁にする
《パレオロゴス作戦》など、一笑に付すべき愚案に頼ろうとは思わない
BETA等、より強力な原水爆で、焼き払えば、この国の住民も、その威力に傅くであろう
共産圏の盟主たるソ連が睥睨するだけで、右往左往する連中だ
扱いやすい奴隷として、保安省の木っ端どもを使い、自ら調教してやれば、良い
その前段階として、暴力での政権簒奪
多少過激だが、暗殺隊を送り込んで、《おやじ》と、その一派を消すしか有るまい
『時間は、無い』
軍の仕業に見せるために、秘密裏に、ソ連から持ち込んだ4台の戦術機もある
これで、共和国宮殿を急襲して、その後に連隊を送り込んで鎮圧する
荒業であるが、成功すれば利益も大きい
その暁には、《反乱の首謀》として軍の大粛清が待っている
軍首脳部を一掃して、子飼いのスパイを送り込む
思想的に操りやすい少年兵でも集めて、《親衛隊》を作れば、上出来だ
秘密作戦の適任者は、アクスマン
彼の《情夫》との噂のある、ゾーネとか言う若造と共にやらせれば良い
あの男は、自分の利益の為なら《何でもする》
恐らく《塗れ仕事》でも喜んで参加するであろう
仮に失敗すれば、奴等に詰め腹を切らせれば良い
飽く迄、自分の最終目的は、この国の支配者だ
《玉座》に在って、その意向を示す
《反乱鎮圧》という結果は、十分すぎる材料であろう
10万人の保安省の職員と秘密工作員は、その為の踏み台にしか過ぎない
嘗てソ連が、ハンガリーにチェキスト(KGB工作員の古い言い方)を送り込んだ事例が思い起こされる
NKVD(内部人民委員部・KGBの旧名称)は、其の間者を首相に据えて、ハンガリーを自在に操縦したように、自らも出来るであろうか
いや、遣らねばなるまい
その様な決意を胸に秘め、早朝の官衙を後にした
後書き
前回、今回の話で、新たに出てくる原作人物です
(役職等は、『シュヴァルツェス・マーケン』準拠になります)
初見の方もいるので説明いたします。
フランツ・ハイム中将(国家人民軍西方総軍隷下教育軍総監、反乱軍の指導者)
ミヒャエル・ゾーネ中尉 (アクスマン中佐の副官)
ご意見、ご批判、ご感想、よろしくお願いいたします
服務
前書き
ほぼ今回はマサキの独白です
会話は少なめです
マサキは、自ら《志願》した形になった斯衛軍の訓練に参加する様、下命があった
通常の志願兵ではなく、下士官課程の教導団に入学
時間的な制約、経歴から予備士官学校や士官学校への入学は見送られた
通常の一年から二年弱の訓練ではなく、半年の特別課程
特別課程は、戦術機操縦士養成の為、新設されたものだという
期間を短くしたのは、「嘗て航空機操縦士が不足したことを鑑みて」という説明を受けた
促成栽培に近い印象を受けた
教導団とは言いながら実態は、かつての陸軍の幹部候補生や准尉制度に近い印象を受ける
科目は、軍制・戦術・兵器・築城・交通・地形・剣術・体操・馬術・現地戦術・測図
約4か月間で上記の科目を収めると聞いた時は、さすがの彼も驚いた
軍隊経験のない彼は、まず歩兵としての基礎訓練を3か月という短期間で、ほかの訓練生とともに一から学んだ
体力には自信があるつもりだったが、流石に10貫(37.5キログラム)の背嚢を背負わされて、小銃を保持し、悪天候の中を行軍させられたのは、思い出すのも嫌になるほどであった
「軽く冗談半分で言ったつもりが、この世界の人間の考えることは違う」
彼は、就寝前に思った
戦術機というマシンは、既存兵器に比して無駄が多すぎる
航空機より、高コストでありながら、その飛行能力は低く
戦車よりも、走破性、装甲も火力投射量も劣る
約3万発に及ぶ機関砲弾は、全てケースレス弾で、パテント(特許)は一社が独占している
20㎜機関砲など、既存の対空砲や艦載砲を流用した方が安かろうのに……
射出可能な操縦席、美久が着せられていた《衛士強化装備》も一社独占の製品だ
《衛士強化装備》は、流石に最近では東欧で国産化が進んでいると聞く
それでも大本の特許は米国の企業
様々な軍産複合体の利権としての《戦術機》
失われる人命や国家予算の浪費という結果から鑑みれば、費用対効果は最悪だ
近接戦闘などすれば、ゼオライマーを代表とした八卦ロボより軽く脆い機体
忽ちのうちに、関節部や装甲板に損傷を起こす
ゼオライマーとて、同じ八卦ロボのローズ・セラヴィーには近接戦闘で苦戦したことが思い起こされる
四方や、帝国軍は実戦用の刀など作ってはいまい
ソ連で刀を見たが、対人戦には有効かもしれないが、BETA戦には不利だ
仮に認めても、指揮官機の装飾品や儀礼刀の域を出ないようなものでないと駄目だ
誉めるべき点は跳躍ユニット
この世界において優れたロケット技術の集大成と呼べるものであろう
だが、惜しいことに航空機やロケットには大して反映されなかった
ノボシビルスクに進軍した時、ソ連軍の装備が今一つだったのは、恐らく戦術機に予算が割かれたためであろう
幾ら、米国からの軍事援助とはいえ、借款や返済前提の援助であるから、相当の負債にはなろう
ただでさえ、国土の大半を失って、衛星国(ソ連の影響下にある国家)との貿易も不十分で、ソ連国内にある資金も限られる
暴動や反乱を防ぐため、ある程度、民生予算を組んだ上での、軍事予算だ
元の世界より見劣りするのも仕方があるまい
まさか、米国の援助を当てにして、《国父》や《大元帥》が青くなるほどの軍事最優先を進めているのだろうか
そもそもこの世界の国家というのは合理的な判断をしたのであろうかと悩んだが、馬鹿馬鹿しくなり止めた
小銃訓練をしていた時、新型の試作小銃の見本を見せてもらった
フランス陸軍のサン=テティエンヌ造兵廠が製造した自動小銃に似たブルパップ方式
どうせなら、最新式とはいえ、米国製のM16小銃のほうが良かった
ブルパップ方式は閉所で扱うのは良いが、射撃時の騒音と排莢が顔面に近く危険
銃剣格闘の間合いが短いのも良くない点だ
弾倉も後方なので、不便だ
いっそ、古い銃とはいえ、取り回しの良いM1カービン(騎兵銃)、重いが信頼性の高いM1ガーランド
理想を言えば、軽量で扱いやすいM16小銃、現在の銃と銃弾規格が同じM14が最良に思える
今扱っている64式小銃もなかなか良い銃だ
分解部品数が多く、重いが、二脚がついて、軽機関銃のような運用ができる点では優れた工業製品であろう
しかし、世界の辿った歴史が違うとはいえ、帝国陸軍の軍服が、自衛隊其の物であった事には驚いた
軍管区、師団編成、武器や装備もほぼ一緒だ
あの茶褐色の制服を見たとき、何とも言えぬ感覚に襲われた
野戦服まで同じだったときは、この世界は、元の世界の並行世界ではないかと類推した
その割には、国家の制度や歴史が違い過ぎる
聞く所によれば、美久も同様の処遇を受けている
機械部品なので心配はせぬが、情報漏洩が気がかりだ
一応、ゼオライマーの分解整備に関する図面、カシュガルハイヴに潜った際のガンカメラの記録は連中に渡した
建前上、協力すると言う事で
撮影記録機器の規格が合うか、どうかは確認はしなかった
搭載してあった2インチVTRのテープで対応した
30年近く使われている規格であるから大丈夫であろう
無論、次元連結システムは、隠匿できているはずだ
生体認証のほかに、別にある美久という《鍵》
唯一つ気がかりなのは、あの連中がどのような策謀をもって、自身を貶める可能性があることだ
深く考えても仕方がない
彼は、横になると、目を瞑った
後書き
ほぼ今回は、帝国陸軍の訓練や軍事制度は、でっち上げてます
俗にいう『メカ本』、設定集を参照したのですが、国連横浜基地(白陵校)の話しかありませんでした
ご意見、ご批判、ご感想、よろしくお願いいたします
服務 その2
前書き
日本編原作人物登場回
帝国・国防省
ある一室で、大臣他複数名を集めた秘密会合が催されていた
議題は、「曙計画」の今後と、ソ連・白ロシアでの「パレオロゴス作戦」への派遣であった
一見無関係に見える同計画と、白ロシア派遣
全ては、次期国産戦術機開発の実戦データや運用結果を得る為
ここで問題が起きた
米国内の情報筋から怪情報が齎される
当地に留学中の篁祐唯が、然る高級将校の娘と《深い関係》にあると、報告が上がった
篁祐唯という人物が唯の技術将校であったのならば、その娘と結婚させて話は終わりであった
彼は、武家で、黄色の衣を赦された《名門》
血統から言えば、志尊の血脈を受け継ぐ家から分家した、五摂家に近しい貴種
そして戦術機に、配備予定の74式近接戦用長刀の設計主任
扇情的なタブロイド紙や赤本(劣情を搔き立てる様な書籍)を賑すだけの醜聞で済む話ではなかった
話し合いは、同計画より彼個人の扱いに関する件に移っていた
「篁の徒事は、本当かね」
大臣の一声が会議室に響いた
大声ではないが、良く通り明瞭な声
声の主の方に一同の顔が集まった
「情報筋からの話では……、そう伺っています」
周囲が騒がしくなる
「米国へは、事実関係は、調査中との事で、乗り切ったが……」
「彼は、思想的にも家柄的にも問題ない人物として送り出した。
これが事実なら……、大規模に仕掛けられたのかね」
「当人が知らぬところで、美人局にでも載せられたのかもしれませんな……」
周囲の話声が静まるのを待っていたかの様に、男が語り始める
年の頃は、50代半ばであった
「なんでも噂のある美女とやらは、先次大戦で父親が捕虜になったと聞き及んでいます。
その様な事を勘案すると、工作があったとも、考えられます」
周囲の反応を余所に、壮年の男が口を開いた
場違いな着物姿からは、奇異な印象を受ける
一番離れた席に座る彼に、視線が集まる
「事務次官としての意見かね」
次官と呼ばれた男は、一礼した後、彼に答えた
「ご参考までに、これが資料です」
彼は、脇に置いたカバンから、タイプされた資料を取り出し、人数分配る
白黒刷りの写真と共に、英文と日本語の資料が各人の手に渡る
周囲から感嘆の声が上がった
何処から、声がした
「あやつも、この様なことをするとは……」
再び周囲の人間が振り向くと、声の主は、先程の男
元枢府や内閣に隠然たる影響力を持つ人物
《影の大御所》と噂される怪人
帝都城内の出入りが自由に許される数少ない一人でもあった
一葉の写真を見せつける様にして手に持って、話し続ける
「この美女が、ミラ・ブリッジスかね。
南部出身で、米陸軍、エドワード・ブリッジス大佐の娘とある。
本当ならば、彼はその様な背景のある人物と《関係》したというのか」
次官が頷く
「そういわれて居ります」
男が、口を開いた
「篁は、失うのに惜しい男だ。
それにその娘御とやらも、戦術機開発の技術者であろう。
米国から、戦術機のノウハウと技術は、ぜひとも欲しい。
上手く誘い出して、日本に連れ出す手立てはありそうかね……」
「実は、今夕の次官会議で、その件が上がったのですが……」
男は頷く
「例の作戦を理由に、彼を日本国内に帰国させるか、欧州に行かせるか、紛糾いたしまして……」
右手で、襟元を直す
「一番無難な案は、日本で保護するという案が出ました。
彼女を、彼の妻、或いは妾と言う事にして、日本に連れ出す案です」
男は、右手を額に置いて悩んだ
直後、姿勢を正すと、彼の問いに答えた
「それならば、儂の方で何とかしてみたいと思う。
直々に参内して、殿下に上申書を認める用意がある。
奴には、、常々気を付けるよう釘を刺しておいたのだが……
巌谷では抑えにならなかったな」
陸軍大将の階級章を付けた人物が口を開く
「《翁》、ご存じでしたか。
ご相談いただければ、我々で動いたものを……」
《翁》は、正面を向いたまま、続けた
「何、儂もあの様な小童共を信用しすぎただけの事よ。
今回の件は、城内省、ひいては斯衛軍の恥部故、我々の方で預からせて貰う」
海軍の黒い制服を着た男が言った
袖章から海軍大将だと分かる
「詰り、《閣下》のお預かりで、納めるのですか」
男は、身を椅子から乗り出して答えた
「そうだ。
ただ、奴程の男には、《相応しい家格》の娘を宛がってやりたかったなと……。
これが殿下の耳にでも入れば、さぞ落胆されるであろうよ」
彼が黙るのを待っていたかのように、次官が答えた
「では、一計が御座います」
《翁》は、次官に問うた
「聞こうではないか」
次官は立ち上がり、簡単な報告を述べた
「国連発表に拠りますと、対BETA作戦によって、凡そ世界人口の3割が失われる程の事態になっています。
この事を踏まえて政府部内では、検討がなされ、六法の大規模改廃が、俎上に載っています。
法制局や内務省内からも、事態の推移を鑑み、嫡子と庶子の相続の差異を解消する改正案が、提出されました。
既に、中ソにあっては、成年男子の急速な減少が問題となっております。
喫緊の課題ゆえに、今夕の次官会議で、了承。
具体案は、明日の閣議に持ち込む予定です」
男は身動ぎせず、語った
「それで」
次官は、手に持つ書類を一瞥すると、顔を見上げて続けた
「そのブリッジス家の令嬢と関係を、問題にせずとも、済むかもしれません。
仮に、彼と、彼女の間に、子息が在っても、相続法上は嫡子と変わらないとなれば対応は変わるやもしれません。
もっとも現行法上は、父親が認知すれば、その子供には日本国籍が付与されます。
やはり、一番良いのは彼女を日本に《招聘》するという建前を作る事でしょうか。
こればかりは、官房や城内でお決め頂かないと……」
奥の方から声が上がる
声の主は大臣であった
「詰り、あとは政治の問題と言う事かね」
次官は、大臣へ次のように回答した
「概ね、『欧州派遣』と『曙計画』に関しては、明日の閣議で了解を得るだけです」
件の老人が声を出した
「では、奴と、その娘を呼び出せ。
理由は、《鹵獲》した大型戦術機の整備等でもよい。
或いは、『欧州派遣』の為のF4の整備、調整名目などという尤もらしい理由をつけてな」
大臣は恐る恐る彼に尋ねた
「では、留学はどうするのですが」
彼は、大臣を見ながら、述べた
「篁、巌谷両人に代わる形で、大伴とその一派から相応しい人間でも連れて行けば良い。
あの男は、今国内においても、ソ連に行かせても危険だ。
何分、《過激思想》に被れている傾向が見える」
陸軍大将が答える
「左遷ですかな」
男は笑った
「そう受け取ってもらっても良い」
彼は、列席者の方へ顔を向けた
「所で、大臣。
例の大型機のエンジンの解析は出来たのかね」
指名を受けた大臣に代わり、先程の陸軍大将が答える
「分解整備は滞りなく進んでおりますが、エンジン自体には未知の物が使われています
技術本部で、周辺の確認を行いましたが、燃料槽、移送ポンプの様な物が見受けられないのです」
男は、椅子の手摺を掴む
「とすると、あの木原とかいう小僧が全てを知っている可能性があると言う事か。
では奴ごと、欧州に連れて行って試験させようではないか」
話は終わりに近づいている
そう感じた大臣は、彼に結論を促すように導いた
「我々もその様な方針で動いております。
後は城内で、お決めに為られれば……」
男は、椅子から立ち上がり、周囲を両眼で見まわした後、言い放った
「其の事も、儂の方で上申する。
明日の閣議でもその様に進める様、頼むぞ」
一同が立ち上がり、男に深い礼をする
「《翁》、解りました。
我々も事を運びます」
後書き
巖谷 榮二は「トータル・イクリプス」(以下、TE)の時点で、帝国陸軍中佐ですが、年齢が明記されていなかったように記憶しています
篁 祐唯も年齢表記が明記されていなかったように記憶しています
「オルタネイティヴ」「TE」の20年以上前ですが、本作に登場させました
個別の人物紹介を書いたほうが良いか、ご意見があれば、別枠で登場人物の概要を作ろうかと思います
服務 その3
前書き
日本編原作人物登場回
次官会議から、閣議に上がった時点で、ほぼ決定が慣例ではある
即座に斯衛軍F-5新規調達と、試験部隊の欧州派遣が了承された
篁祐唯問題では、異例の事態が起きた
総理と官房長官が、慣例に反して、否定し、会議は紛糾
同問題に関して、城内省の立場を否定する構えを取ったのだ
洋行中の技術将校の単なる《自由恋愛》では、済まなくなっていた
一個人の問題から、日米関係の重要課題に発展する様子さえ見えた
閣議の紛糾を余所に、情報省や城内省で、二人を別れさせる方向で話が進んでいた時、事態が動く
予想外の場所から《裁可》が出され、解決に至った
だが、裁可を出した場所が問題視された。
《城内》ではなく、《竹の園》
詰り、通常のルートを通り越し、首脳の頭越しで決まったのだ
だが、その様な解決策に、腹の虫が治まらない人々がいた
情報省と、五摂家縁者の一部、譜代武家、烈士を自称する帝国陸海軍内のはみ出し者達
彼等は、「《御所》を軽んじた」として、政府への遠回しな嫌がらせを行った
米国内の雑誌や地方紙に、情報を持ち込む暴挙に出る
持ち込んだ話の内容は、以下のような物であった
『総理が《はしゃぎ過ぎた》為、殿下から《ご下問》がなされた』
『日本政府は、ホワイトハウスに謝罪文を書く専門家を呼び寄せた』
『《曙計画》の計画段階で、日本国内から米国内に変更される様、工作を働いた』
一方の米政府は、日本政府の対応に困惑した
最初は否定的な態度であったが、一転してミラ・ブリッジスとの関係を認める回答を寄越したのだ
何かしらの高度な政治的判断があったのは間違いない
FBIに対して、引き続き調略を続ける様、ホワイトハウスは指示を出した
ほぼ同時期に、篁の使者と在ヒューストン総領事が、《私的》にブリッジス家を訪問した事実を、ラングレー(CIA本部所在地)が掴んだ
彼らの弁によると、「新春早々に日本国内で婚儀を上げる」という
この話を持ち込んだ時、副大統領は、CIA長官を慰めた
「日本人の思考回路は、奇想天外である」
ワシントン官衙では、噂として、その日の内に広まった
渦中の人、篁祐唯は、静かだった
世間の諠譟から離れ、いつも通り研究に入れ込んだ
様々な《説得》が来たが、気には留めなかった
唯、《鹵獲》された大型戦術機のメインエンジンに関して、何も記されていなかったことを除いて
通常は、その様な事があれば、報告書に記載されるはずである
無記載と言う事は、《何かしらの問題》があったと言う事だ
自分達が知らぬ間に、策謀が巡らされているのではないか
昨日、国連からオルタネイティブ3の失敗と、同計画の凍結が発表された
ソ連政府からも、米国に「《実験中の事故》で、多数の死傷者が出た」為、同計画の中止が伝えられたという
異例の事態だ
もし、事故でなく、何か人為的な物であったならば、大変だ
よもや、この件に日本政府が関係しているわけではあるまい
折角、日米合同の研究会が作られ、計画は進んでいる最中
一転して、ミラとの結婚を認めて、日本への帰国を急かす政府の方針が判らない
「何かが起きている」
あまりにも不気味だ
巌谷に話したところで、彼は本音で語ってくれるだろうか
多分、此方の事に気を使わせてしまうだけであろう
彼が思い悩んでいると、声を掛けてきた人物がいた
大使館付武官補佐官の彩峰萩閣陸軍大尉である
彼は、この男に良い印象を憶えなかった
大学教授や政治学者と、論争を挑み、政治的な発言も多い
正義感が強い男ではあるが、軍人としては疑問を感じる行動を行う時がある
ただ、語学の才があり、弁舌爽やかで、同行の青年将校達が彼の周囲に集まってると聞く
その様な男に目を付けられるのは、甚だ迷惑な感じがする
彩峰は、敬礼をすると、軍帽を脱ぎ、椅子に腰かける
ステンレスの灰皿を引き寄せる
内ポケットより、オイルライターとタバコを取り出し、火を点ける
タバコはソフトパックで、銘柄はラッキーストライク(LUCKYSTRIKE)
国粋主義者と噂される彼が、米国タバコを吸うとは……
物珍しさに凝視してしまった
「なあ、篁君、君の話は聞いているよ。
日米親善の為の結婚、悪くはない。
中々、良いお嬢さんじゃないか。
都の年寄り共が、騒ぐかもしれないが、何かあったら俺が手助けしてやるよ」
悠々と紫煙を吐き出しながら、彼は語った
「君の立場は斯衛の派遣技術将校、謂わば陸軍技術本部駐在官に準ずる立場だ。
一挙手一投足が注目の的だ。
それなのに、あの様な美女を本気で愛するとは、中々出来る事ではないよ」
手持無沙汰になった篁は、彼のタバコを拝借した
2本ほど抜き取ると、火を点ける
目を瞑り、深く吸い込んだ後、静かに紫煙を吐き出す
目を見開くと、狐につままれたような彩峰が居た
「タバコを吸うのか。やらないと思ってたんだが」
しばしの沈黙の後、語った
「こういう時には煙草の一つでも吸いたくなりますよ。
フィルター付きは癖が無いですね」
下を向きながら、答える
「まあ、色々あって、タバコを止めてたんですよ」
「大方、あのお嬢さんにでも言われたのか」
「技術職で、火器や燃料を扱うことが多いので。
基本的に火気厳禁で、喫煙所が遠く、足を運ぶのが億劫になってしまいました。
休憩する時間が惜しくて、其の侭……」
そこにマグカップを二つ持った巌谷が来る
彼の方を向いて彩峰が言う
「敬礼は良い。俺の分も用意して呉れ。
コーヒーは嫌だから、コーラか、オレンジジュースにしてくれ」
彼は静かにマグカップを置くと、PX(購買所)の方に向かった様であった
「無口な同輩君の事、どう思うかね。
俺は、俺なりに彼のことを評価しているよ。
見どころのある男だ。陸軍に転属するなら世話してやっても良いぞ」
篁は、やんわり断った
「アイツは、そんな事をされるのを嫌がる男です。
お気遣いは、有難いですが」
彼は、右手で頬杖を突き、左手にタバコを握ったまま、答えた
「君も、顔に似合わず、はっきり物を言う男だな。
これは、モテるわけだよ」
彼は、大声を出して笑った
篁は、困惑しながら愛想笑いを浮かべるしかなかった
一頻り笑った後、彼は真顔になり、タバコをもみ消す
「例の作戦の話は聞いているかね」
首を横に振る
「F-4と、斯衛軍に納入される新型機F-5の訓練部隊を欧州に派遣することになってる。
早速だが君達も帰国した後、直ぐに欧州行きだ。
新婚早々、済まないがね」
彼は居住まいを直すと、深々と頭を下げた
「頭をお上げください。
大尉の謝る事ではありません。
それに例の大型機の実験をするという話でしょうか」
彼は、腕を組みながら、背もたれに倒れこんだ
「そうだ。
私が部隊長で、君が戦闘隊長を務める計画になっている。
何とか、乗って飛ばせるぐらいだがね……」
新しいタバコに火を点けた
深々と吸い込むと、静かに吐き出す
「もっとも、育成中の下士官や志願兵が主力になるとは思う」
巌谷が、数本の瓶を抱えて戻って来た
よく見るとコーラと炭酸飲料、オレンジジュース
彼は、静かに瓶を並べた
「好みは分かりませんでした。お好きな物を……」
彩峰は、胸元より栓抜きを出す
「ああ、頂くよ」
彼は、コーラの瓶を手に取り、栓を開ける
そして、胸から袋を取り出し、テーブルに置く
袋から出したのは、ステンレス製カップ
コーラを並々と注ぐと、勢い良く呷る
「ペプシも捨てたもんじゃないな。生き返るようだ」
其の侭、数度カップに注ぎながらコーラを飲み干す
彼は、再び語り始めた
「まあ、詳しい話は、後日、文書で出される。
覚えておいてくれればよい」
腕時計を眺めると、こう呟いた
「とりあえず、飯にでもするか。
やる事もあるまい。
君とお嬢さんとの馴初めでも話してくれよ」
彼は、周囲に散らばた小物を内ポケットに仕舞いながら、答える
巌谷と篁は、驚いた顔をしている
「俺は、世間で言われているような過激な右翼じゃない。
貴様等と、同じ宮仕えの身分。
ただ、帝国陸軍か、斯衛軍か、の違いでしかない。
情報省の辺りに居る連中の方が、過激度数は高い」
そう言って彼は立ち上がり、軍帽を被る
「お前たち、刀は?」
「流石に、持って着てませんよ」
「俺も、だよ」
彼等は談笑しながら、その場を後にした
後書き
彩峰 萩閣の年齢ですが、年齢に関する資料は恥ずかしながら自分のわかる範囲ではありませんでした
集英社刊行の公式小説、『マブラヴ オルタネイティヴ』公式メカ設定資料集や、Muv-Luv Alternative Memorial Art Book、Muv-Luv Memorial Art Bookにはありませんでした。
『オルタネイティブ』本編開始前の1998年に陸軍中将なので、類推することにしました
現実の世界を反映し、陸軍中将昇進時の年齢が50代後半が多いと言う事で考えて、1970年代後半を題材にする今作品に登場させました
『オルタネイティブ』の20年以上前になりますので、だいぶ若い年齢だとは思いますが、遜色はないと思います
ご意見、ご感想、ご批判、よろしくお願いします
服務 その4
前書き
第一部終了
先の篁祐唯問題の際、様々な怪情報がホワイトハウスに持ち込まれた
物議を醸し、一際目立つ物
それは、カシュガルハイヴの内部映像であった
帝国陸軍と連携関係にある在日米軍の基地に持ち込まれた際、虚偽と言う事で一笑に付された
だが、後日CIAとNSAで情報解析をした所、本物であることを確認
その夜、再び秘密会合が持たれた
会議の顔ぶれは、前回とほぼ同じ
違う点は、NSA長官が新たに釈明の為に呼び出された事である
会議の冒頭、副大統領がNSA長官に問うた
彼は、珍しく南米産のシガリロ(細い葉巻)を吹かしながら、訪ねた
室内には濃い紫煙と共に、甘いヴァニラの香料が漂う
プロジェクターの掛かった室内は薄暗く、その機械の音だけが響いている
「君達は、多額の予算を掛け、膨大な人員を国内外に配置しながら、何一つまとまった成果が得られなかった。
これは、どういうつもりかね。
先ず、責任者の君から、説明し給え」
会議の参加者は、副大統領を見た
彼が、あのヴァニア味の葉巻を吸うと言う事を知っている者は恐れ戦いた
あの仕草は、極度の怒りを冷ます為に、行う《一連の儀式》
脇にあるコカ・コーラの数本の空き瓶は、見る者を圧倒させた
不快感を示すサイン
NSA長官は、身震いしながら答えた
「この数年来、黄海周辺にあって、電子探査船を派遣していましたが、先年の過失を恐れ、規模を縮小させた責任は、小官が負います。
ただ、支那における電信の傍受は、その成果は目まぐるし物が有り……」
右手の拳で机を叩く
机の上にある瓶が倒れ、灰皿の中身が宙を舞う
「その様な、官僚答弁を聞きたいわけではない。
秘密作戦すら確かめられぬ組織は、不要と言っているのだ」
その瞬間、副大統領は立ち上がり、頭上より彼に飲みかけのコーラを浴びせる
彼は、顔面からコーラを浴び、悲鳴を上げる
「もう良い。貴様は下がれ。
この穀潰しが……」
彼は座ると、再びシガリロを吸い始める
周囲の人間は、顔をティッシュで拭いて、退室していくNSA長官を見送った
再び副大統領が口を開く
「今回のデータだが、ソ連を出し抜く為に、米国から全世界に、ばら撒く。
それで宜しいですよね。閣下」
衆目が、その呼び掛けられた男に集まる
深い皴が刻まれた顔を上げ、周囲を見回す
その男こそ、米国大統領であった
男は、言葉を選びながら話し始めた
「諸君、迎える来年は中間選挙だ。
それ故、来年の11月までは大規模な軍事行動は控えたい。
今、この国にあって多数の市民の意見として、欧州戦線への出兵反対は無視しがたき情勢だ。
様々な手法で、議会工作が成されているのは、耳に入っている。
しかし、国際協調と言う事で、派兵せねばならぬもの事実だ。
私としては、ドイツ在住の合衆国市民保護の名目で海兵隊を出すつもりでいる」
その言葉を受け、国防長官が尋ねた
「では、大統領令を近々出されるのですか」
「追って詳細は、副大統領より発表させるが、現状の侭なら、6月頃を予定している」
周囲が喧しくなる
大統領は、喧騒を余所に、卓上のヒュミドールを開け、葉巻を取る
シガーカッターを出し、ヘッドを切り落とす
サイズは、ロンズデール(太巻きの葉巻)、銘柄は「パルタガス」(Partagas)
柄の長いマッチを擦り、炙る様にして火を点ける
静かに吸い込み、火が付いたのを確認すると一度消して、再度着火する
味わう様にして吹かし、静かに吐き出す
紫煙がほぼ出ぬ様な上品な吸い方で、タバコそのものを楽しんでいた
副大統領が、問うた
「閣下、ハバナ(キューバ)産の葉巻ですな……」
男は、したり顔で、続けた
「成程、共産圏の内訌を利用して、ソ連を弱めるというお考えですか。
では、最前線たる東ドイツで、工作を仕掛けましょう」
副大統領の脇に居るCIA長官が深く頷く
そして、彼の口から驚くようなことが伝えられた
「閣下。実は、わが方で先方の保安省職員に接触がなされ、其れなりの地位の男を引き込むことに成功しました。
上手くいけば、伏魔殿にある閻魔帳の一つや二つほど手に入るやもしれません」
大統領は静かに灰皿に葉巻を置き、彼の方を向く
「して、方策はあるのか」
彼は姿勢を変えず続けた
「その男は、市民権と、現金10万ドル(1977年段階で、1ドル225円)程を欲しています」
「安いな」
「そう思われます。
妻や愛人などを引き連れて来ましょうから、20から30万ドル要求するかもしれません
保安省秘蔵の個人情報とKGBの名簿を買うのですから、それでも十分元のとれる額です」
大統領は身を起こし、彼に向かって放った
「では、東ドイツに工作を仕掛け給え。
本工作の諸経費に関しては、事後に議会報告に回すように対応。
今回の件に関しては、議事録は作成するが、公開は50年後の特別指定とする」
副大統領が立ち上がる
「諸君、以上で本年の会議は終了だ。
次回はクリスマス休暇明けに会おう」
掛け声と共に室内に明かりが点く
プロジェクターは止まり、スクリーンは職員によって片づけられる
一連の作業が終わった事を確認すると、一同が立つ
椅子に腰かける大統領に深い立礼をすると、執務室から各々が去っていった
後書き
ご意見、ご要望、ご感想、ご批判、よろしくお願いします
検討のうえ、採用させていただく場合もあります
人物紹介(第一章まで)
前書き
既に登場した人物の一覧表です
第一章本編に未登場人物も含めますので、簡単な説明にとどめます
(以下、順不同)
役職は、『隻影のベルンハルト』に準じますが、一部は、本作品による二次創作になります
原作人物
ドイツ民主共和国(東ドイツ)
ユルゲン・ベルンハルト空軍中尉
(『隻影のベルンハルト』主人公。アイリスディナー・ベルンハルトの実兄。
ベアトリクス・ブレーメの恋人。第40戦術機実験集団主席幕僚)
アルフレート・シュトラハヴィッツ陸軍少将
(カティア・ヴァルトハイムこと、ウルスラ・シュトラハヴィッツの実父
国家人民軍司令部(参謀本部)作戦部次長、第一戦車軍団長)
アーベル・ブレーメ
(ベアトリクス・ブレーメの実父。戦前にソ連邦に亡命経験あり)
ヤン・ボルツ
(ベルンハルト兄弟の後見人、東独外務省非常勤職員。軍隊勤務経験あり)
ヨーク・ヤウク空軍少尉
(ベルンハルトの補佐役。ボルガ系ドイツ人。戦術機実験集団次席幕僚)
ホルツァー・ハンニバル空軍大尉
(空軍地対空ミサイル部隊出身。既婚者)
フランツ・ハイム陸軍少将
(国家人民軍司令部(参謀本部)次長)
ハインツ・アクスマン国家保安少佐
(国家保安省中央偵察管理局)
ミヒャエル・ゾーネ国家保安少尉
(アクスマン中佐の副官)
エーリヒ・シュミット国家保安少将
(国家保安省中央第一局。KGB特務少尉。
本名:グレゴリー・アンドロポフ)
アイリスディナー・ベルンハルト陸軍士官学校生
(ユルゲン・ベルンハルト空軍中尉の実妹)
ベアトリクス・ブレーメ陸軍士官学校生
(ユルゲン・ベルンハルト空軍中尉の恋人。アーベル・ブレーメの実娘)
日本帝国
榊 是親
(国防省政務次官、衆議院3回生議員)
篁 祐唯
(「曙計画」日本側メンバー、斯衛軍特務少尉)
巖谷 榮二
(「曙計画」日本側メンバー、斯衛軍特務曹長)
彩峰 萩閣
(駐米大使館付武官補佐官、帝国陸軍大尉)
大伴 忠範
(帝国陸軍内での戦術機研究サークル「勉強会」リーダー、帝国陸軍中尉。
日ソ友好論者)
アメリカ合衆国(米国)
エドワード・ブリッジス陸軍大佐
(米南部、名門ブリッジス家の当主。ミラ・ブリッジスの実父。第二次大戦従軍経験あり)
ミラ・ブリッジス
(「曙計画」米国側ホストメンバー、戦術機設計技師。ブリッジス大佐の実娘)
フランク・ハイネマン
(「曙計画」米国側ホストメンバー、戦術機設計技師、航空機メーカー「グラナン」社員)
『冥王計画ゼオライマー』登場人物
木原 マサキ
(ゼオライマーの設計者兼操縦者。この世界への転移者)
氷室 美久
(ゼオライマーのサブパイロット。マサキが作ったアンドロイド)
下命
前書き
第二部開始
今回も、ほぼ主人公の独白です
明けて、1978年正月15日
マサキは、この世界に来て、初めての正月を祝うのを後に欧州へ旅立った
羽田発アンカレッジ経由ヒースロー(ロンドン)行きの航空機に乗った
片道7時間のフライトは、ゼオライマーを長時間操縦するより疲れる
その様に感じられた
初めて乗るこの世界の大型航空機は、ドグラム社の三発ジェット旅客機
あの《DC-10》に酷似した形には、苦笑しか出なかった
車窓から見る雪原は、途切れなく続き、その広大さを感じさせる
この地が、ソ連への売却案が出て米国議会で大問題になっているのを、英字紙で見た
自国の都合で、100年前に国家予算の不足で売り払った地を、BETAを理由に買いなおす
ソ連の行動に、憤慨する米国民の気持ちも、理解出来る
いくらビジネスクラスとはいえ、狭い席だ
脇に居る美久は、良く寝られると思う
恐らく、推論型人工知能が人間の睡眠周期を計算し、それに類似した休息時間であろう
周りを見ると、引率役の斯衛軍将校が居るが、二人はずっと話し込んでいる
良くも、5時間近く話していて飽きないものだ
騒々しくて結局一睡も出来なかった
あの黄服と黒服の男達には、経由地に着いた際には苦情を告げると決め、車窓に視線を戻す
彼は背もたれに深く腰掛け、瞑想した
恐らく、この並行世界では全てが一緒なのではなく大きな枠が一緒で、細部が違う
航空機メーカーがほぼ其の儘なのには、苦笑した
この世界の「マクダエル・ドグラム」が、元の世界の「マクドネル・ダグラス」
もしかすると、今乗っている航空機はあの、《DC-10》なのだろうか……
妙な寒気を感じるが、それは高高度の低気圧のせいであろう
そう自分に言い聞かせる
経由地に降り立った際、3時間ほどの時間があったが、例の男たちとは逸れてしまった
引率者なのに、無責任ではなかろうか
しかし、機体は輸送船で送り、人員だけ先に欧州入りとは、変な計画である
最前線のソ連の隣国、西ドイツに行くのも、億劫だ
観光や新婚旅行のごとく、南独やノイシュバンシュタイン城を巡ることが目的ではない
ビールを味わい、ソーセージをほお張り、冬景色を楽しむわけでもない
戦争なのだ
最前線に立たされて、あの禍々しい化け物共と戦うのだ
些か、気が引ける
彼は再び機内に戻った
アンカレッジ経由ヒースロー行きの後半部分の飛行
およそ10時間近く掛かるフライトの中、再び瞑想へと入っていった
実際の訓練開始と作戦決行日まで結構な時間がある
日にして約3か月弱
何でも、ソ連国内の雪解けを待ち、夏になってから実施するという
道路事情も悪く、疫病の猖獗する白ロシア、ウクライナ
1941年のバルバロッサ作戦(対ソ戦の作戦名)の二の舞にならねば良いが……
その様な思いが巡った
北極海沿いのポーラールート(polar route)を通って、ロンドンまで10時間近く掛かるのは腹立たしい
ゼオライマーに乗って、瞬間移動すれば、ほんの数十秒で着く
今度こそは、寝よう
美久が、抱き着くようにして寝ている
形状記憶シリコンの皮膚は、人肌と変わらぬ様な柔らかさと独特の暖かさを感じる
しかし、人肌の温もりとは違うのだ……
この陰々滅々を紛らわす為に、女など求めようものなら、危険だ
仙姿玉質の令嬢などを用意して、篭絡させるであろう事が予想される
思えば、この秋津 正人の肉体に精神を移してから、人の温もりと言う物を感じたことがあったであろうか……
秋津正人は、養父母との間でそれなりの愛情を受け、不自由のない暮らしをしたと、沖に聞いたことがあった
しかし、過ぎた事だ
一度死んで転生した身
この不思議な異界に来てしまったのだから、二度目だというべきか……
自身をこの異界に呼び込んだ物が居るならば、会ってみたい
会って殴り飛ばしたところで、気が済むわけでは無かろう……
表現出来ぬ様な虚無感に包まれている気がする
疲労であろう……
彼は、そう思うと、毛布に包まり、美久を抱え込むようにして、眠りについた
下命 その2
前書き
小生も、チャンバラがやりたくなったので、チャンバラ回初投稿です
1978年2月、再びウクライナ派遣が下令された
第一戦車軍団ばかりでは無く、ベルンハルト中尉が所属する第40戦術機実験中隊も同様の命が下る
彼等は、寒風吹きすさぶハリコフに向かった
東部ウクライナの要衝である、この地は嘗て独ソ両軍が4度に渡って干戈を交えた場所
冬季は平均気温が氷点下10度近くに下がり、寒さも身に染みる
静かに息を吐く
寒さで肺の中まで清められるような空気
市内を眺めると、まるで墓標のようなビル群が立ち並ぶ
BETA戦争が始まる前は、この街は学校や研究施設がある静かな町であったことを思い出す
わずか数年前の事とは言え、酷く昔に感じる
耳付きの防寒帽を被り、将校外套を着て脇を歩くヤウクは、ずっと黙ったままだった
「なあ、あの話は本当なのか」
彼はヤウクに問うた
ヤウクは周囲を見回した後、囁く様に言った
「本当さ。
ハンニバル大尉には、家族が有ったというべきかな……
今は、奥さんと息子さん二人と、週末だけ家庭生活を送る暮らしをしているらしい。
なんでも、僕の聞いた話だと、奥さんの従兄弟が色々な所に出入りして保安省に目を付けられているそうだ。
だから別居生活をして、大尉を庇う様な暮らしをなさっていると聞いている」
彼は、ヤウクの方を静かに振り向く
曇模様で、路面に降り積もった雪の寒さを強く感じる
「だからといって若い娘と付き合うのはおかしくないか……」
ヤウクは立ち止まって、彼の方を向く
「彼女の方から誘ったらしい事は、大尉から伺っている。
好き合った彼氏と、喧嘩別れしたそうだ。
彼の進路に関する事で反対したら、別れを切り出されて……」
彼の目を見つめる
「聞いて思ったよ。
まるで君達みたいじゃないか。
ベアトリクスの入学を最後まで反対したのは、君だろう。
君は、あの後怒って、暫く会わなかったそうじゃないか。
思い詰て、過激な手段に出るかもしれない……」
彼は静かに問うた
「どういう意味だ」
肩を竦めて、おどける
「何、言葉の通りだよ。
君のやり方では時間が掛かるとか言って、保安省や党中央に近づくかもしれない。
表現出来ない様な才色兼備と聞く
その様な才媛を、連中が放っておくと思う?
狙われたんだろう。
一度で、済むとは思えない……」
強い口調で問いかける
「何が言いたい……」
暫しの沈黙の後、ヤウク少尉は語った
「君が守ってやる様な姿勢や理解する行動をしない限り、彼女から見捨てられるかもしれないってことさ」
顔が紅葉し、革手袋をした拳が握りしめられる
「貴様、言わせて置けば……」
ヤウクは、彼の興奮を余所に、話し続けた
「どちらにしても、今の僕達は、奴等から狙われている。
あの悪名高い野獣が見逃してくれるとは思えない」
無論、奴等とは国家保安省の事で、野獣とはアスクマン少佐の事である
彼が理解しているであろう事を考え、あえて説明しなかった
「あいつ等、この国をソ連の様な専制国家に変えたいのか。
スターリンが築いた《収容所群島》を、民主共和国で実現させる心算なら……」
彼は口ごもる
幾ら、屋外で盗聴の危険性は低くなったとはいえ、何処かに間者が潜んでいるかもしれない
自分一人なら、どうでも良い。
妹である、あの聡明なアイリスディナーの事を案じると、そら恐ろしくなってしまう
唯一の愛しい家族であるのだから……
次第に日が傾き、風が強くなってくる
勤務服の上から着て居る外套に突き刺さる様な寒さ
足早に、宿営地に戻る
夜間に為れば、現地では賊徒が闊歩し、危険
戦地と言う事で、内務省軍(MVD直属の武装組織)も警察も引き上げてしまった
宿営地では、小銃に着剣し、ヘルメットを被った歩哨を立てている
だが、ライフルでの狙撃や、仕掛け爆弾に数度、遭遇した
幸い、人的被害はなかったものの、この地の反独感情の根深さを感じる
或いは、ソ連支援の為に来た外征軍を、体制維持の先兵として、土民(現地住民)は見ているのかもしれない
宿営地に近づくと、門のところに、一人の男が立って待っているのが見える
防寒帽を被り、羊皮の別襟を付けた外套を着て、腰には拳銃嚢を下げたベルト
両腕を腰に当て、周囲を見張っていた
門から数メートル先の歩哨は、自動小銃に弾倉を付け、直立している
門に近づくなり、声が飛んだ
「同志中尉、遅かったではないか」
声の主は、シュトラハヴィッツ少将
一番帰りが遅かった将校の二人を窘める為に来ていたのだ
「同志将軍、少しばかり、話し込んでしまいました」
ベルンハルトは彼に歩み寄っていった
彼に向けて謝罪の言葉を伝える
彼は厳しい顔つきになると、二人に忠告した
「狙撃手は待ってくれんぞ。
奴等は、隙があれば撃ってくる。
今度出歩くときは、小銃か、機関銃ぐらい持って行け。
どんな服装をしても狙われるから、勤務服でも構わん。
連中は、軍人だと分かれば仕掛けて来る」
ベルンハルトは、彼の方を向く
「ソ連では戦術機も狙われると聞きます。
紐や針金に巻き付けた仕掛け爆弾で。
何か、刃物でも付ける対策でもせねば、ならぬでしょう」
彼は、思い出すかのように考える
「ソ連では、先んじて戦術機に炭素複合材の刀身を備え付けている。
ただ、その因で、頗る整備性が落ちたと聞き及んでいる。
戦術機に、高性能アンテナを付けた君だ。
何か、考えているんだろ」
中尉は考え込んだ末、一つの答えを示した
「支那や日本では、大型の刀剣を装備し、戦っていると聞いています。
ただ取り回しに困る長剣ではなく、合口(鍔の無い短刀)程短くもなく、程よい長さの刀剣でもあれば……」
「実はな、同様の情報はT委員会経由で、入ってきている。
新型のソ連機には、人間でいう所の山刀程度の長さの刀剣を標準装備にするそうだ」
《T委員会》
それは、ドイツ民主共和国において戦術機導入を進めるために設置された特別委員会
ほかならぬ委員長こそ、目の前に居るシュトラハヴィッツ少将であった
「俺の所に、支那の商人が来て、刀を数振り置いていった。
ソ連でも使っているそうらしいから、それなりに評判のあるものであろう。
貴様等で好きにして良いぞ」
彼が言った「支那で作られた刀剣」、それは新型の武器
正式名称を77式近接戦闘長刀、と言い、先端が幅広の刀剣
人民解放軍の工廠で作られていたとは聞いたが、実戦配備はまだであったはず
その様な物を、国外に売りさばくと言う事は、余程自信作の様だ
「同志中尉、貴様はその刀を使って、他に先んじて、サーベルの専門家になれ。
何れ、対人戦が起きるやもしれん。
そうなった時、そのサーベルが役に立つであろうと、思える。
些か、古めかしいかもしれんが、戦士たるもの剣を帯びてこそ、その姿が映える」
剣、なんという響きであろう
彼は、興奮して答えた
「つまり、BETAを断ち切る破邪の剣になるかもしれないと言う事ですか」
「ああ、俺達自身はすでに、その存在自体がBETA狩りの剣其の物だ。
刀を帯びれば、文字通り、人類に仇なす魔物を狩る騎士になる」
かのワグナーが愛して已まなかった「ジークフリート」
あの英雄も、父の剣を鍛えなおし、雄々しく龍と戦った
対BETA戦での戦意高揚の道具として、刀剣を振るい、戦うのも悪くない
今用いている短刀では、戦車級に取りつかれた時、心もとない
長刀であれば、《光線級吶喊》の際、機銃弾が絶えた時、役に立つ
否、弾薬を節約して、《光線級吶喊》の際に、有りっ丈の砲弾を浴びせる様にせねば駄目だ
彼の心は、決まった
何れ、近接戦闘は避けがたい
ならば、対人戦の訓練として、長刀を振るい、その技術を我が物にせねば、戦術機に未来はない
砲弾を打つのならば、自走砲や戦車、ヘリコプター、低空飛行の航空機で十分だ
絶妙の剣技で、BETAを狩る
それは、極限まで鍛え上げられた衛士と、洗練された戦術機でなければ、実現不可能だ
帰国した後、早速その手法を取り入れよう
そうすれば、欧州初の剣術使いの部隊が出来る
興奮した様子で、友を連れ立ち、己の天幕へ向かった
後書き
小説情報に、『シュヴァルツェス・マーケン』『隻影のベルンハルト』と付けた方が宜しいでしょうか。
『マブラヴ』だけですと、『オルタネイティヴ』『アンリミテッド』『ザ・デイ・アフター』と、混同される可能が有るので。
ご意見、よろしくお願いいたします
下命 その3
前書き
マサキ達一行が西ドイツに到着して約3週間後、ゼオライマーを積んだ運搬船がハンブルク港に入港した
当初、ゼオライマーの総トン数から、オーバー・パナマックスの貨物船が計画された
だが、予定日数の超過と陸揚げ港が限定される為、変更
全長53メートルの機体は、横倒しの状態で、帝国陸軍が徴用した重量物運搬船で移送
全体を覆う防水布が掛けられ、紐で周囲を固定した状態だった
その様を見た彼は、まるで小人の国に迷い込んだガリバーが運ばれる様を連想させる
本隊である戦術機部隊は、改造された
油槽船に縦に並べ、輸送
日本より直送されたF-4Jと、米国で委託受注されたF-5が、ほぼ同日に到着
米国・東海岸と、日本からの距離を考えれば、十分に早い
人員は、既にドイツ国内に呼び寄せ済みだ
後は、訓練開始を待つばかり
作戦まで4か月程とは言え、時間は無いのだ
彼は、初めて見るF-5戦術機の姿を注視する
F-4とは違い、角ばってはいるが、その細身の作りに、ある種の不安を覚えた
恐らく軽装甲で、被弾面積の大きさから
脆弱さが増す事
F-4との重量換算から比して、電子装備や通信機能が削減され、出力低下の可能性も否めない
一度は、帝国陸軍の方で納品拒否された機体と聞く
この様な機体が主力になる様では、戦術機パイロットの生還率も今以上に下がるであろうことを危惧した
戦車の様に、爆発反応装甲や補助兵装を付けねばなるまい……
その機体を見て、暫し夢想したのであった
重量物運搬船から陸揚げされる際、彼は美久と共に早速改修後の試運転に出掛けた
見たところ、外装上の変化はなかったが、関節の潤滑油や電子部品の一部が改められた事が報告書にあった
この世界は、電子部品の発達が元の世界より進んでいる
だが、民生品に関してはその水準は劣っているように思う
喫茶店にすらアーケードゲームが無く、パチンコやスロットマシンも手回しの筐体
「正村ゲージ」が、最新機種として持て
囃されている
就学期の児童は、あやとりやメンコ等をして遊び、青少年の娯楽は花札やビリヤード等々
まるで、1950年代の水準である事を見て、いかに軍事最優先で世界経済を回してきた事に、唖然とした
その様な事を思いつつ、彼は港を出て、洋上から高度を5000メートルまで上昇させる
一応、付いてきた連中に、「光線に落とされる可能性」を注意されたが、無視
帰還場所と時刻を告げると、無線を切り、暫し《フライト》に出かけた
バルト海へ北上するかに見せかけて、更に高度を上昇させる
ポーランド上空を高度1万5千メートルで通過
途中から
迎撃機でも来るかと構えていたが、ほぼ来なかったので安堵した
白ロシアに向かう途中、光線の照射を受ける
全面に張り巡らされたバリア体の御蔭で防いだが、それでも煩わしい
再射撃の時差を利用して、敵の位置を計算
高高度よりメイオウ攻撃を打ち込む
着弾すると同時に、周囲に強烈な衝撃波と閃光が広がる
巨大な虫のような化け物の群れも、一網打尽で吹き飛ぶ
更に攻撃しようと考えたが、帰還時間が迫っていることを考え、当初のハンブルク港へ転移した
同時刻、ミンスクから西方30キロ地点で、BETA集団を観測していたソ連軍は、大爆発に
驚愕した
レーダーから大型爆撃機、或いは高速偵察機と思しきものが侵入した事を認知
光線級に撃ち落されることを想定し、迎撃しなかった
正確に言えば、迎撃出来なかったのだ
迎撃用のミサイルも航空機も、ほぼBETAとの戦いで失われ、貴重な戦術機も、出し惜しんだ
それに現場を確認しに行くにも、ミンスクハイヴの目と鼻の先で危険
決死の覚悟で偵察に出ていた戦車部隊の写真と報告書から大まかな事しか判らなかった
人工衛星による確認で、原子爆弾に相当する様な衝撃波と閃光と類推した
写真資料による
類推ではあったが、ミンスク周辺のBETA群のおよそ7割強が一撃で消し飛んだのだ
総数は、航空写真から確認すると3万から6万強の間であった
GRUは持ち込まれた資料から、支那で実験が行われた新型機が欧州に
搬入されたと、認識
あのノボシビルスクの研究施設を壊滅させた機体が、目の前に来たのだ
其の事実は、GRUばかりではなく、KGBも動かさせた
時間を空けずに、西ドイツ在住の潜入工作員から秘密電報が入る
日本の戦術機部隊が、ハンブルク港に
揚陸した事を入手
ルビヤンカは、早速シュミットに直接連絡を入れた
駐独ソ連大使館やKGBの現地事務所を通さず、異例の事態であった
KGB本部は慎重さより、時間短縮を選んだのだ
命令は、以下のような物である
「大型戦術機のパイロットを捕縛して、尋問せよ」
「戦術機を持ち出し、ドイツで分解し、その性能と技術的ノウハウを取得せよ」
深夜、アスクマン少佐は、ゾーネ少尉の運転する自動車でベルリン市内を急いだ
副官同様の扱いを受けている彼は、後部座席に深く座り、目を瞑っている上司を垣間見る
今日は、普段と様子が違った
ここ最近、立て続けに保安省本部に呼ばれている
寝食を共にし、日頃からの疲労が溜まっているのも知っている
電話を受けた際の狼狽ぶりには、驚いた
何時も冷静で非情な男が、
大童で支度をし、車を飛ばすよう命じたのだ
何かが、起こる前兆だ
軍や党中央の
大粛清が近いと、少佐との
睦言で聞いたが、矢張りそうであろうか……
少佐は、目を開けると運転をする彼に声を掛けた
「なあ、何があっても私に付いて来てくれるか」
彼は、ハンドルを握りながら答える
「どうか、なされましたか。少佐」
「ソ連が動いた。
奴等の事さ、保安省にも手を入れて来るであろう」
彼は、静かにハンドルを切る
大通りを抜けて、本部への道へ車を進める
「自分の力の限り、お供させて頂きます」
車外を見ていた少佐は、正面に顔を向ける
彼の方に向かっていった
「行ける所まで行こうと思う。
君も私と来ると言う事ならば、それなりの覚悟はしてほしい」
そう言うと、彼に向かって不敵な笑みを浮かべ、天を仰いだ
参考資料:1978年当時の東西ドイツの地図
後書き
アスクマン少佐とゾーネ少尉の間柄は、完全に二次創作です
本編では明示されておりません
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
我が妹よ
2月下旬のある夜、極秘電文が第一戦車軍団司令部に届く
「緊急帰国せよ」
参謀本部の指令に、同本部は混乱した
僅か一か月間の間に独ソ間の往復の命令
1800キロの距離を帰還するのは、容易ではない
大部隊を率いて緊急帰国の指令
何かが起きている
大童で支度をすると、深夜ベルリンへ向かって部隊は移動を開始した
先ずキエフまで戻って燃料を補給した後、ワルシャワまで最高速で走破
ワルシャワに戻れば、あとは道路事情は格段に良くなる
ワルシャワから、数時間でベルリン市内に入れるであろう
数時間おきに小休止を入れ、全速力で帰路を急いだ
一方ベルリン市内では、表立ってKGBが動いた
政府や軍に察知されることを気にせずに大胆な行動に出た
公用車で、大使館や事務所から直接、官衙に出向いた
午前10時前後に、各省庁に乗り付け、シュミット等ソ連派人士を直接指導したのだ
其の事は同日昼頃までに、他の官公庁や軍の情報部隊の知るところになる
保安省内からの《リーク》で、事前情報を得ていたハイム少将は、動く
保安省子飼いの監視員を恐れずに、この国を動かす面々が居る中央委員会に乗り込む
午後1時過ぎごろ、自分が影響力を持つ連隊に指示を出し、庁舎周辺に非武装の兵を配置
会議場内に少数の手勢と乗り込むなり、座上にある委員長に立礼をして話を切り出した
「会議中、失礼致します。
KGBが、我が国に対して破壊工作を始めているとの緊急の情報が入りました。
詳細は未確認ながら、実力部隊を持って官衙を制圧すると計画が漏れ伝わっております。
どうか、緊急に非常線を引く準備を要請致します」
委員長に掛け合った
「議長、ご決断を!」
目前の老人は、石像の様に固まっている
保安相が立ち上がって、制止する
「貴様。立場を分かって申しているのか。
これは党への反逆に当たるのではないのか」
国防相が彼を弁護する
「本当ならどうする。
この国の主力は、ほぼウクライナに行ってしまったぞ。
早速だが、首都近郊の戦車部隊、高射砲部隊を呼び寄せろ。
仮に敵が戦術機部隊を引き連れてきたなら、事は内乱まで発展するぞ」
遅れて、小火器で武装した保安省職員がなだれ込んだ
彼等は遠巻きに非武装の人民軍将兵を囲む
議場に声が響いた
周囲の顔がその声の主に振り替える
件の屋敷の主人で有った
「この非常時に、軍も警察も縄張り争いをやっている暇は、ありますまい。
そうでは御座いませんか、議長」
委員長は押し黙ったままで、身動ぎもしない
彼はそれを気にせずに、保安省職員を一瞥する
「貴様等も小銃を置け。
危なっかしくて、話も出来んわ」
保安相は、職員に小銃弾倉を外す命令を下し、彼等は小銃を壁際に立てかけた
退出命令を下し、その場から兵を引き上げさせた
そしてある人物を指名して、議場に呼び寄せた
「アクスマン少佐を、此処に呼べ」
既に日は傾き始めており、幹線道路は渋滞し始める直前
交通警官の制止を振り切り、大急ぎで、中央委員会のビルに一台の乗用車が乗り込む
周囲を確認せずに荒々しく車を止める
車内で、アスクマン少佐は、上着を脱ぐ
普段上着の下に隠して保持する小型拳銃を、インサイドホルスターごと車内に置いた
改めて、軍帽を被り、上着を着なおし、ネクタイを直す
肩からランヤードと拳銃嚢の負い紐を下げ、ギャリソンベルトに着け直す
弾倉を確認し、ランヤードを付けると、自動拳銃を拳銃嚢に仕舞いこむ
予備マガジンの入ったポーチを付け、ベルトを締めこむ
相手を威圧するために、あえて自動拳銃を目に見える形で帯びたのであった
ドアを開ける際、運転手に声を掛けた
「車を回す準備をしておけ。ゾーネ」
彼は、両手で軍帽の位置を直すと、長靴を鳴らしながら庁舎内へ消えていった
議場のドアが勢い良く開けられる
拳銃を帯びた兵士に連れられて、アクスマン少佐の姿が目に入る
両腕を後ろ手に縛られながら、後ろから催促され歩いて来る
帯びていた拳銃は、ベルト一式、衛兵に没収されしまった
「議長、不届き者が居たので、お連れしました」
保安相だった男が立ち上がって、声を掛ける
「アスクマン少佐……」
奥の方から、声が飛ぶ
「先程、議長と保安相は辞意を示された。
新任の議長は未だ決まっていないが、暫定の立場で、俺が仕切る事になっている。
少佐、君は元議長をシェーネフェルト(ベルリン市内の空港)までお連れしなさい」
彼はその言葉に唖然とした
自分が呼び出される間に事態は大きく動いたのだ
「遅かったか」
膝から力が抜け、その場に屈した
例の男から声が飛ぶ
「君と取引がしたい。
まず、元議長と、そのご家族を国外に送り出しす。
そのを成功させたのであれば、君の地位を保全しよう
中佐に一旦昇進させた後、大佐にして保安省の次官級の職責を任せたいと思う。
受け入れるつもりはあるかね」
非武装とはいえ、数百人規模の兵に、この庁舎は囲まれている
自らの生命は危うい
彼は一旦、提案を飲むことにした
後書き
ご意見、よろしくお願いいたします
我が妹よ その2
前書き
この話から試験的にルビを入れました
今後、ルビを入れれたほうが良ければ、難字や外語の説明で行おうかと思います
政変の報に接したのはワルシャワ入城後であった
まだポーランド側での報道はないが、噂話では広まっている様子
現地語が出来ない彼等には、詳しい内容は分からなかったが、委員長が辞職したらしいことは漏れ伝わって来る
ユルゲンは悔やんだ
あの父が如く、数か国語を自在に操り、市井の人々から本音を聞けたらどれだけ良かったか……
しかし今の立場は、人民軍中尉
無闇に聞けば、彼等も訝しがって話はしない
もどかしい気持ちになる
本音を言えば、誰が首脳になってもドイツはソ連の隷属の下
ソ連は、彼等なりにドイツに気を使ってはいるが、WTO(ワルシャワ条約機構)から離れるようなことをすれば許しはしない
嘗て、アーベルやシュトラハヴィッツが話していた様に、ソ連が軍事行動をする危険性は十二分にある
己が都合で、傀儡政権の首を挿げ替える事さえ、厭わない
いずれにせよ、社会主義の一党独裁体制下では、憲章や法典に定められたプロレタリアの自由も平等もない
5年前のソ連留学の時、ソ連軍は味方ごと核爆弾で焼いた
BETAを倒す為には、市民の死すら厭わないあの醜悪な政治体制……
二百機の戦略爆撃機に、千発の核弾頭を装備し、カザフスタン西部を核飽和攻撃で焼いた
あの悍ましい光景が、鮮明に蘇る
核による遅滞戦術……
中共ではハイヴ攻略まで取られていたと聞く……
自らが推し進める《光線級吶喊》戦術
これは正しいのであろうか…
闇雲に兵を損耗させるだけではなかろうか…
やはり、嘗てシュトラハヴィッツが提唱していた諸兵科連合部隊による運用で戦うべきか……
様々な思いを逡巡させていると、心配そうな顔つきでヤウクが話しかけて来る
いつもの勤務服ではなく、深緑の綿入れ野戦服を着こみ、頭には防寒帽
手には、磨かれたアルミ製のマグカップを二つ持ち、中には湯気が立つコーヒー
「飲めよ。寒いだろう」
馨しい豆の香りがする
息を吹きかけ、冷ましながら、静かに口に含む
これは代用コーヒーではなく、本物だ
「どこで手に入れた」
「母が工面してくれたのさ……」
ふと、満天を仰ぐ
月明りに照らされた木々の間を、飄々と寒風が通り抜ける
降り積もった雪には、幾つもの足跡と何列もの轍……
彼はヤウクの言葉を聞いて、在りし日の家族を思い起こす
まだ父が健在で、愛しい妹が幼子であった頃、美しい母は傍にいてくれた
だが、寂しさから間男に走り、生き別れる
異父弟も、もう入学する頃合いであろう
自然と目が潤み、涙が流れ落ちる
脇に居るヨーク・ヤウクを、まじまじと見る
彼の生い立ちは、自身より壮絶だった
ソ連の為に志願して、あの《大祖国戦争》(独ソ戦のソ連側呼称)を戦った祖父に待っていたのは国外追放であった
17世紀にドイツから移住したボルガ系ドイツ人を祖に持つ彼の祖父母
彼等は、大粛清の折、中央アジアに強制移住させられた後、ドイツに再移住させられた
大本を辿ればドイツ人だが、言葉や宗教、習慣も違うドイツに、捨てられたのだ……
祖父は志願して、東部戦線に参加したにも関わらず、勲章も恩給一つも貰えず、弊履を棄つるが如し扱いを受ける
その様な環境から身を起こして、空軍士官学校次席を取るのであるから、彼の努力は並々ならぬものである事が判る
やはり、家族の強い絆と深い愛の裏付けがあって、為し得たのであろう……
貧しいながらも、温かい家庭……
ヤウクが羨ましいと、心から思うた……
「どうした、急に泣き出して」
同輩が滂沱する様に、ヤウクは困惑した
目頭を、官給品のハンカチで抑え、下を向いた侭だ
ハンカチを取り、内ポケットへ畳むと、綿入れの腰ポケットから落とし紙を取る
鼻をかみ、眼を拭くと、彼の方に振り返った
「ああ、昔を思い出していたのさ……」
羊皮の防寒帽を被ったベルンハルトの顔は、涙で濡れ、目は赤く充血している
彼は、同輩の真横を向きながら、話し始めた
「最近の君は、感傷的では無いかい……。
妹さんが気になるんだろう。
美丈夫の君に似て、麗しい目鼻立ちと聞くし……。
色々、先々が心配なんだろう」
「ああ……、俺の取り越し苦労かもしれんが、アイツは、俺が死んだら俺を思うて苦しむのであろうと悩んでいた。
ベアトリクスも、そうだ。
時々、思うのだが、彼女達の愛は深く、そして重い。
贅沢な悩みかもしれんがな……」
彼は、冷めたコーヒーを口に含む
「ユルゲン……」
泣き腫らした顔を彼に向ける
「俺はときどき思うのさ。
あいつ等は、俺が無き後も独り身で、寂しく死ぬのではないかと。
変に操など立って、高邁な思想とやらで覆い隠し、国の為に殉ずる……。
そう思えてくるのだよ」
彼は、目の前の同輩に心から忠告した
「彼女たちを幸せにするか、否かは君の行動次第じゃないかな。
有触れた言葉だけど、女の幸せを知らせてやる。
それを出来るのは君しか居ないじゃないか……。
何時までも逃げていないで、彼女を娶ってあげなよ。
君が承諾しなければ、薹が立つまで待ち続ける」
同輩は、冷笑した後、天を仰ぐ
「貴様は、其れしか言えんのか……。
まあ、良い。
思い人など居るのか……」
彼は、満面朱を注いだ様子になる
「実は、まだ誰にも明かしていないんだけど、同志将軍の御嬢さん。
可愛らしいだろう。
まるで、天女の様じゃないか」
同輩は、酷く狼狽した
「お前、本当なのか……」
彼は真摯な眼差しで、狼狽する男を見る
「本当さ、あの穢れなき姿。
思うだけで……、十分さ。
望む事なら、妻に迎え入れたい位だよ」
「その言葉、本当であろうな」
背後から、低音で通る声が聞こえる
彼等は、後ろを振り返ると、逞しい体つきの男が、腰に手を当てている
綺麗に剃られた口髭の顔は厳しく、鋭い目付きで彼等を睨む
綿入れの野戦服上下を着た、彼女の父が居た
彼を、品定めするかの様に見つめ、黙っている
眉が動き、被った防寒帽が微かに盛り上がったかのように感じた
「今の言葉が、偽りでないのであれば、10年、いや5年待ってやろう。
貴様が、フリードリッヒ・エンゲルス軍大学を出て、佐官に昇進するのが最低条件だ。
無論、この戦争を五体満足で生き残り、幕僚として活躍できる自信があって、そう抜かしているのであろうな。
戯言であるのならば、この場で撃ち殺す」
腰のベルトに付けたホルスターに手を伸ばし、蓋を開けて拳銃を取り出す
銀色に輝くPPK(Polizei pistole Kriminal/刑事警察用拳銃)拳銃が握られた右手を、彼の方に向ける
弾倉は外され、食指は引き金から離されて伸びた状態ではあった
その姿に圧倒された彼は、確かめる余裕さえなかった
ベルンハルト中尉は脇目で、彼を見る
あの落ち葉を散らした顔色は、雪景色のように白く
灰色の人造毛の防寒帽は、汗で湿り変色している
彼は諦観する
深々と最敬礼をして、述べた
「御嬢さんを僕にくれませんか」
少将は銃を向けた侭だ
「貴様等は、こんな所で腐って地べたを這いずり回る様な存在ではない。
相応しい働きをして、それ相応の地位に就け。
先ず、男として遣るべき事だ」
眼前の男は、同輩の方を振り向いた
「同志ベルンハルト中尉!
貴様もだ。
貴様が国を思う気持ちも分かる。
だが、一人の父親として、わが娘の幸せを願うのも人情。
あのブレーメの娘御を愛しているのなら、何時までも焦がせるな。
人にも旬がある。
猶更、女だ……」
彼はそういうと、手に持ったピストルを拳銃嚢に静かに収めた
そして、背を向け歩き始めた
「明日は早い。夕刻までにはベルリン市内に入る。
良く準備をして、早く休め」
佇む彼等を後にして、月明りの中を、宿舎まで歩いて行った
後書き
本来であれば、将官が、配下の下級将校に空砲の拳銃を突き付けるのは相応しくない行為です
ですが、物語の展開上、その様に致しました
このような話作りになったのは小生の力不足です
ご意見、ご批判、よろしくお願いいたします
我が妹よ その3
前書き
無血クーデターの話が暫し続きます
文章量も今回の話は多少多めのが続きます
大部隊を引き連れてシュトラハヴィッツ少将達は帰ってきた
一か月ぶりのベルリン市内は、交通警官が多数配置されている以外、変わりはなかった
一旦基地に帰った後、官衙に呼び出される
数名の将校と最先任曹長に部隊を任せて、幕僚と共に共和国宮殿に出向く
道すがら、議長が辞表を出した事は伺って居たが、まさか国外に出ていたとは思わなかった
名目は病気療養
出国先は、最先端の医療設備のある米国ではなく、隣国メキシコ
共産主義に親和的な政権がある国故に違和感は少なかった
だが、あの右派冒険主義者の終焉の地
キューバ革命の過激派学生の訓練場
良い印象は彼の中にはなかった
新任の議長代理に、形ばかりの挨拶と報告を済ませると、男は彼に人払いを命じた
ハンニバルやベルンハルト達を、室外に送り出す
彼に腰かけるよう指示する
「座れよ。
多少時間が掛かる」
彼が座った後、ひじ掛けの付いた椅子に座る
男の口からあることを告げられた
「KGBと保安省の一部過激派が集まり始めた。
どうやら「作戦」の事で、ボン(ドイツの地方都市、西ドイツ暫定首都)に動きがあったらしい」
彼は、内ポケットから潰れたタバコの箱を出すと、2本ほどタバコを摘まむ
そして目の前の男に差し出し、マッチを擦る
二人で火を分け合う様にしてタバコに火を点ける
深く吸い込み、勢いよく紫煙を吹き出す
「フランスか、イギリスの部隊でもきたのですか」
「違うな。連中の話だと日本軍の一個小隊が来たそうだ」
連中とは、保安省内部にある現政権に近い一派の事で、彼等からの情報提供を暗示させた
男は続ける
「貴様らが、BETAと戦っているときに、茶坊主共が急に騒めき出してな。
俺の方で探ってみたんだ。
なんでも、入れ違いに近い形で先発隊がドイツ(西ドイツ)国内に入ったらしい。
ハンブルグで、飛行訓練をしている写真を見た」
男は、タバコを叩きつける様にして、灰を捨てる
「それで、ハイムの所に《鉄砲玉》を準備しているということを耳にしてな。
奴に先に動いて、《卓袱台返し》させたのさ」
彼は、男の言葉に驚愕した
昨年末以来、ハイムの事は避けていたが、奴等は事前に察知していたのだ
もし自分が青年将校達と行動をしていたら、恐らくこの国の軍事組織は内部崩壊していたであろう
「後、《鉄砲玉》は、俺が預かってるよ。
アイツは、お前さんたちが扱うのには危ない人材だからな」
男は、タバコをフィルターの近くまで吸うと、ゆっくり灰皿に立て、火を消した
「万に一つの事かもしれないが、お前さんの家族はボンなり、ハンブルグに行かせる準備はしておけ。
いくら優秀な飼い犬でも、所詮、畜生だ。
飼い主の手位、咬む事は、良くある話だ
餌付けする人間の方を好きになるなんて話も、良く聞く」
餌付けする人間……、恐らくKGBか、GRUであろう
彼等のスパイ工作網は、優秀
大戦前から秘密裏に米国内にスパイ網を構築
原子爆弾のノウハウを我が物にした事実は、今でも語り草だ
「なあ、俺の事は構わないが、隊内の小僧共がなあ……」
彼が言った小僧達とは、ベルンハルト達のグループ、《戦術機マフィア》の面々であった
党内はおろか、軍内部にも、彼等を目の敵にする人物は多い
「今しがた、アベールにその事を話したんだが、奴は首を振らなかった。
見上げた忠誠心だが、些か脇が甘い。
そうでなくても、目立つ存在だから、俺自身も困っているのだよ。
まあ、目を付けている連中の事は、十分把握しているのだがな」
男は、彼にそう嘯く
「話は変わるが、お前さん達が、西側部隊との通信連携の話を持ち込んだ件。
あれが、国防評議会(東独の軍事方針を決める党傘下の会議)で揉めた。
《おやじ》からダメ出しを喰らって、廃案になりかけたが、検討課題で残した。
俺が、代行をやってるうちに通してやるよ」
彼は、背広の胸ポケットから新しいタバコの包み紙を取り出す
封を切ると、シュトラハヴィッツに差し出し、好きなだけ取らせた
彼の手に包み紙を戻すと、数本抜き出し、机の上に並べる
新たに火を起こして、タバコを吸い始めた
「いずれにせよ、東西の再統合は避けて通れぬ問題だ。
米ソも、やがては折れる。
工業力に欠け、冶金技術もチェコやハンガリーよりはマシだが、自動車と小銃ぐらいしか作れぬ。
おまけに、ポーランドの連中も信用できん。
そうすると、同胞に頼るほかあるまい。
米国の圧力で、戦術機の工場を移転させたが、俺はあんな玩具を信用しては居ない。
どうせ、この戦争が終われば役立たずになるのが、目に見えている。
多少は安く、中近東やアフリカにでも売れるだろうが、其れとて米ソや販路を持つ英仏には負ける。
いっそ、ドイツ一国で作るの諦めて、欧州の航空機産業でも集めて作った方が楽かもしれん。
支那辺りでは、細々に分解し、研究しているそうだが、時間も金も掛かり過ぎる」
タバコを深く吸うと、天を仰ぎ、紫煙を吐き出す
「だから、俺は、お前らの計画に乗ることにした。
これを足掛かりにして、西側との連携を進めたい。
《おやじ》も様々な方法で駄々を捏ねて、西側から金を《せびった》。
門前の小僧ではないが、俺も備にその様を見て知っている。
俺が立ち会ってやるから、上手くやって呉れ」
少将は、腕を組みながら冷笑した
灰皿に載せられた吸いかけのタバコは燻り、部屋中に煙が舞う
「随分勝手な話だな。
今更認めるなんて自分勝手な話ではないか……」
右手で、タバコを取り、咥える
マッチを擦り、左手で覆う様にして、火を点ける
強く吹かした後、紫煙を吐く
「議長の指示だ、協力も吝かではない。
例の鉄砲玉の件だけ、どうにかして呉れるなら……、動く。
ただ、今はこの混乱を収めるのが先だろう」
更に二口ほど吸うと、右手で揉消す
「最も、俺たちの仕事ではないがな……。
その辺は、あんた等に任せるよ」
そういうと、少将は立ち上がる
男も立ち上がり、返答した
「ああ、任せてくれ」
室外で待つベルンハルト達の前に、少将が出てきた
ドアを開けると、疲れ切った顔をしており、白い襟布がかすかに湿っていた
顔の汗は拭きとった様子であったが、軍帽の下から見える幾らか灰色がかった髪には汗が滲んでいる
ハンニバル大尉が敬礼をすると、続けて他の将校も同様の姿勢を取った
少将は挙手の礼で返すと、ゆっくり歩きながら話し始めた
「今夕、幕僚会議をしようと思っている。
18時までに諸業務を終わらせた後、会議室に集合。
以上」
一同が返答する
最後方を歩くベルンハルト中尉は、横目で周囲を見た
少将は、黙って列の先頭を歩く
多少遅れて、副官が後からついて来る
列の真ん中にいるハンニバル大尉は、相変わらず正面を向いた侭、堂々と歩いている
あの喧しいヤウクが、しおらしい
昨晩の事が堪えたのであろうか……
この様な場に来る機会が無いカッツェとヴィークマンは、物珍しさから忙しなく辺りを見ている
士官学校時代から同じ釜の飯を食う仲間とは言え、ここまで差が開くとは思っても居なかった
まるで、この数か月間は夢の中にいる様な感じがする
彼と彼女は優秀なパイロットになり得たはずだ……
衛士としても申し分ない
やはり、ノーメンクラツーラ(Nomenklatura/共産圏の特権階級)と関係したことが大きいのであろうか
愛すべき人の父が、偶々特権階級であった事が人事や縁故に反映されるとは……
彼は将来の妻を思い、歩みを進めた
一団の将校が列を組んで歩いて来る
長靴の歩く音が、宮殿内を響き、周囲から反響する
衛兵や案内係の人間も、然程いない
やがて出口まで来ると、小銃を下げた衛兵が見える
少将が敬礼すると、直立し、捧げ銃
銃を下げると、扉を開ける
戸外にある、2台の乗用車に分乗すると、昼下がりの宮殿を後にした
後書き
ご意見、よろしくお願いいたします
我が妹よ その4
翌朝、ドイツ首脳部はソ連への連絡を入れる
議長辞任と内閣総辞職を伝えたが、ソ連政府の反応は冷淡で、むしろ彼等自身が驚いたほどであった
其の事は彼等にある事を確信させた
「ソ連は東欧情勢に構う余裕すらない」
今の国力を半減させた状態では、東欧の社会主義圏の維持など重荷でしかない
だが、首脳部とKGBの考えは違うようだ
KGBは自らの障壁として、東欧諸国を考えて居り、如何に活用するか、を重視しているように見える
アスクマン少佐は、宮殿に呼び出された
早朝の蕭然たる殿中を歩く
誠意を示すために、敢て拳銃を帯びずに来た
ある部屋の前まで来ると、室外からノックをして入る
室内には平服の男達が数人座っていた
見慣れぬ人物もいるが、今回の新閣僚達であろう
「お呼びに預かり、参りました」
静かに敬礼すると、直立の姿勢を取る
書類挟みを持った男が、声を掛ける
「一つ尋ねる。
シュミットの事をどう思うかね……」
彼は不敵な笑みを浮かべる
「それなりに優秀な上司だと、個人的には考えて居ります」
男達は頷く
「まあ、良い。
君には一つ頼み事がある。
例の個人票を3つほど複製して、各所に隠匿してほしい。
まだ利用価値の十分にあるものだ。
若しもの時、外に持ち出されたりすれば、事は重大だ」
笑みを浮かべた侭、答える
「外と申されても、それは場所によります。
国外であるか、国内か。
対応が全く違ってきます故……」
「まあ、マイクロフィルムか、磁気テープに複写して持ち運び出来る様にするのも方策かもしれぬな。
KGBの分だけでも先に、仕上げ給え」
「BND(連邦情報局/西ドイツの防諜機関)の動きはどうかね。
対外諜報の専門家の率直な意見を聞きたい」
彼は直立したまま、答える
「彼等は、この混乱に乗じて浸透工作を行っているの事実です。
ですが、それ以上にCIAやMI6(英国情報部)等が、多額の秘密資金を国内に持ち込んだとの未確認情報が持ち上がっております。
想定される事態ですが、《パレオロゴス作戦》を通じて我が国に進駐する準備なども成されるかもしれません」
左端の男が、眼鏡を右手で上げる
「ほう、君の言い分だと西側の軍隊がハンガリーやチェコに進駐する可能性があると……」
「否定出来ません」
「その件は、後日決めさせてもらうとする。
所で、衛兵連隊強化の話ではあるが、却下とする。
あんな戦術機を増やした所で、意味があるとは思えん」
彼は焦った
「何故ですか。
これ以上亡命者を増やすおつもりですか」
書類挟みを持った男が薄ら笑いを浮かべる
「違うな。
戦力の分散を避けるためだよ。
二重の指揮系統は、前衛党には不要であろう……」
書類挟みを膝の上に立掛ける
「無論、従来通りの党が決めて軍が動く、単線型の組織運営では問題が多いのも事実。
先ずは手始めとして政治将校の権限縮小を考えている」
暫しの間、沈黙が訪れる
一人の男が口を開いた
「国連のオルタネイティヴ3計画が中止になったのは知っておろう。
今回の作戦とやらは、其れの実証実験だった線は無いのかね」
彼は、その男の方を向いた
新任された外相だ
外務省で、国連の折衝に当たる部署にいた20年近く人物である
「いえ、私にはその様な推論は申せませんが……
唯、予定にはない、第43戦術機機甲師団が組織され、近々ホメリ(白ロシアの都市)に配備されると聞き及んでおります」
再び、書類挟みの男が彼に声を掛ける
「詰り、連中は我々を生贄にして実験するつもりという事かね」
男は、顎を右手に置いて考え込む
そして顔を上げる
「そこで君に頼みたい。
君は独立派の主要人物と看做されている。
危険を承知で、CIAの工作員と接触して欲しい」
彼は姿勢を崩して、前のめりになる
「お尋ねしますが、党の見解としてでしょうか……
私も簡単に、その様な危険な橋は渡れませぬ故」
「今更党の見解などという必要もあるまい」
例の男は、彼に向かって言い放った
「ぶちまけて言えば、この国を守る為の方便さ。
社会主義なぞ真面目に信じてる幹部がどれほど居るかね」
特権階級にとって、保身を最重視する事を改めて認識させられた
「どうにかして、この国と体制を軟着陸させたい。
米国は自由民主の国とは嘯くが、状況次第では独裁制も認める。
自国内の根深い民族問題すら解決出来ぬ国が、自由だの平等をいうのは可笑しくないかね」
彼は、男の融通無碍な態度に驚愕する
「俺等は、暫定政権にしか過ぎない。
ある程度道筋を示したら、表舞台から去る。
だから道筋をつけるまでには利用出来る物は利用する。
何でもすると言う事だよ」
唖然とする彼を差し置いて、話を続けた
「実はな、ハイヴの情報は、昨晩遅く持ち込まれたのだよ。
USTR(米国通商代表部)の人間が、食料購入の件と一緒に開示したのさ」
右端の男が同意する
「驚きましたな」
「俺もだよ。
詰り、ミンスクハイヴに然程入れ込む必要が無くなったと言う事さ。
だから君はKGBに気にしないで、遣りたいことをやって呉れれば良い」
眼前の男は呆けた侭である
「(ソ連に追従する)幇間の真似をする必要はないってことさ。
もっとも君の態度も、中々の《男芸者》だがな」
男達は、一斉に笑い出した
笑い声に我に返ると、彼は自分の立場を改めて思った
これは、ある種の自己批判の場ではなかろうか……
目の前の閣僚達は、要請を理由に嘲笑しているのではなかろうか
一頻り男達は笑った後、彼にこう告げた
「この件と並行して、日本から持ち込まれた大型戦術機のパイロットに接触してほしい。
彼をベルリンにまで誘い出せれば、上出来だ」
彼は顔を顰める
「何故その様な事を……」
「何、そいつを上手く使って、兵達に楽をさせたいのさ。
高々、総動員したところで40万しかいない兵だ。
無駄死には避けたい……」
例の男の右隣に座る人物が、彼の方を向く
右手を頬に当て、ひじ掛けに寄り掛かりながら言う
「支那での言動を見る限り、志操堅固な人物であることが類推できる」
例の男が言葉を繋ぐ
「並の策、女や金で転ぶ様な人物ではないことは確かだ。
上手く扱えるのは君ほどの男でなくてはならん」
彼は姿勢を正す
「詰り、人類の為や己が使命感に訴えかける様にして協力させろと……」
隣に座る男は、右手を顔から離す
右の食指で彼を指示した
「その線で行き給え」
例の男は、上着の内ポケットから一枚の名刺を差し出す
「これは、通商代表(USTR)の担当者の電話番号だ。
ここに電話を入れれば向こうで都合して呉れるやもしれん」
内務省の副大臣、次の大臣候補が言う
「実は、ベルリン観光に、連中を招待しようという案が出ている。
上手く先方と折衝し給え。
民警(Volks Polizei/人民警察)や、内務省には私から話を通す」
自らの上司となる男が、声を掛ける
この男は第2局(防諜担当)のトップを10年近く勤めていて、シュミットと犬猿の仲であった
「なるべく手荒な真似は止めろ。
上手く誘い込んで、その気にさせるのだ」
彼は、敬礼で応じた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ベルリン
マサキは、他の日本人達と共に東ベルリンに入った
国境検問所、俗に言う、 《チェックポイント・チャーリー》を抜けて、入市
入市する際に、西ドイツの国境警備隊とちょっとしたいざこざが起きた
自動小銃を担ぎ、弾納を帯びた状態で検問所を通り過ぎようとした際、止められる
最終的に将校に限り、拳銃や軍刀は装飾品と言う事で許可が出た
小銃と弾薬納一式は、名札を書いて検問所で預かる事になる
巌谷と篁は、丈の長い斯衛軍の将校服ではなく、帝国陸軍の勤務服を着用
帽章以外は、同じように見えるが細部が違うそうだ
自身も似た制服を着ているが、気にはしなかった
美久も、彼等が用意した婦人兵用の制服を着ている
ただ《風紀》に関わるとして、腰まで有る髪は、《シニヨン》という方法で結った
ネクタイの制服は、何時もの野戦服や詰襟より、疲れる
1961年10月の事件の影響で、国境を行き来する際は、軍人は制服着用厳守が課されている
それ故に、軍に所属する彼等は、軍服で移動させられたのだ
向こうの案内役という人物が付いた
たどたどしい日本語が話せるのが数名いるくらいで、会話はほぼ英語で行った
世話なので黙っていたが、何かと探りを入れる様子が分かる
恐らく、悪名高い国家保安省の工作員であろう
部隊を指揮する彩峰は、流石に在外公館勤務が長いだけあって流暢に英語を操る
見た感じ、ドイツ語も出来るのであろうが、知らない振りをしている様だ
敢て聞かなかった
彼は暫し想起する
資本主義の諸問題を《解決》する名目で、ソ連共産党は政権簒奪を成した
恐慌や生産過剰の問題を回避する為、独裁的な計画経済を実施する
しかし、実態はどうであったか
元の世界でもそうだが、BETAに蹂躙されつつあるこの世界では凄惨さを極めた
流通や分配の手段が不十分な為、深刻な飢饉と、死屍累々という結果
元の世界では、1972年に畜産用の穀物飼料不足を原因にソ連は米国から穀物輸入に頼った
その結果は、世界的な穀物価格の高騰で、食糧危機を招いたのだ
元の世界だと、地球上の穀物の2割強をソ連一か国で輸入していたのだから、この世界はどうであろうか
彼等が言う様に、対BETA戦による核飽和攻撃による放射能汚染と光線級を阻害する重金属雲による土壌及び水質汚染
其ればかりではないであろう……
東ドイツの政権は盛んにBETAの害と核汚染を喧伝している様だが、違うように思う
未だ、後方には健在な米国、豪州、アフリカが控え、十分な穀物生産量がある
フランスやイタリアなどの南欧、トルコも陥落すらしていない
重金属の土壌・海洋汚染があるとはいえ、其れとてソ連近辺のみであろう
そもそも高緯度で寒冷、降水量も少なく穀物収穫が不安定な不毛の地……
やはり、考えられるのは計画経済による物流遅滞や需要への不十分な対応
現実の社会は、象牙の塔や衙門の奥深くに居る鴻儒や官吏が思い描く物とは違い、無数の変化と不確実性が混在する
個別具体的な経験と知識が必要で、それを反映した政策決定
何よりも、費用対効果が最重要課題である
共産党の計画経済では、それを一切無視するという重大な欠陥
それ故、恒常的な食料や日用品に代表される耐久消費財不足が起きる
この悪循環を改善せぬ限り、彼の地に安寧は訪れぬであろう
二月下旬とはいえ、東ベルリンは寒い
あの日本の様な高湿度で底から冷える物は違い、乾燥しきった何とも表現できぬ寒さ
厚く重い膝丈の外套は、薄いキルティングのライナーが付いているが、其れとて不足する
通信販売で買った羽毛服などを着ていたら、どれ程良かったであろう
ヒマラヤ・カラコルム山脈登頂成功を謳い文句にして居り、大仰な頭巾が付いて嵩張るが、軽くて暖かった
私服でなかったのが悔やまれる……
観光案内とはいえ、退屈であった
彼は、端の方に居て、終始受け身で押し黙って過ごすことに努めた
この訪問の真の目的は、ゼオライマーのパイロットの洗い出し、及び接触
そう思い、極力関わってくる東ドイツ側の人員を避けた
細々な対応は、美久に任せた
彼女は、そつ無く熟せるであろう
推論型AIによって、人間の表情や動向から適切な判断を下し、言語も内蔵する機能によって意思疎通に問題は無かろう
勘の良い人間なら、言葉に何処か違和感を感じるかもしれないが、外国人だという先入観で、緩和される筈……
退屈な観光の合間にカフェに寄った
市街地は、ざっと見た所、終戦後の古い街並みと新築の共和国宮殿ばかりが目立つ異様な風景
廃墟のようなレンガ造りの市街は薄暗く、人の気配も疎ら
囁くような話声で、この国を支配する総監視体制の強固さを実感させる
給仕によって出された大ぶりなケーキは、生地もクリームも見るからに粗悪、言葉に出来ぬ様な不味さ
コーヒーも、紅茶も、水で増した様な薄さであった
思えば、途中で頬張った焼きソーセージも、西ドイツの西ベルリン市街で食した物より質が悪く、ゴムを噛む様な、表現出来ぬ不味さであった
一生忘れ得ぬ味であろう事を、彼は思うた
この国にあって、高級幹部や党中央、司法、教育関係者であれば相応に良い暮らしは出来よう
見た所、整備された高層住宅なども市街の一部には見える
しかし、その他大勢を占める一般市民にとっては暗く厳しい環境
ソ連の衛星国として、自由な表現、際限なき個人所有、司法からの保護も怪しい
この地獄の様な国に住まう軍人とはどの様に心構えを持つのであろうか……
脇目で、見ると流暢な独語で、篁が向うのガイドと話をしている
技師とは言え、矢張り貴族の出
独語等を出来る素振り等見せずに、話す様を見て、感心した
屈強な体付きで、剣術も其れなりに出来ると言うから、文武両道を兼ね備える様務めたのであろう
話していても、身分を嵩に掛ける様な厭らしさもない
人に好かれるというのも米留学の選考基準を満たしたのであろうと、彼は考えた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ベルリン その2
前書き
アスクマン少佐の容姿は、原作では媒体によって描写がガバガバなので、困惑しております
時間は遡る
場所は、ベルリン市内のリヒテンベルク区にある国家保安省本部
その一室に関係者が集められた
プロジェクターの前に立つ男は、灰色の勤務服に、長靴
髪の色は赤みを帯びた茶色で、それなりの美丈夫であった
年の頃は40前後であろうか。
ドアが開き、数名の男達が入ってくる
年齢はバラバラで、階級は一番高位の物で大尉、下は曹長であった
男は改まった声で言う
「諸君、今回の作戦は、謂わば要人護送と同じだ。
準備期間も短い中で、各人とも適切に対応してほしい」
プロジェクターが回り、スクリーンに映像が映る
少佐の階級章を付け、指示帽を手に、映像を説明している
白色の大型ロボットの画像が表示される
「先ず、諸君等も知っての通り、支那で日本軍が新型兵器のテストをしたのは記憶に新しい。
この大型戦術機のパイロットであるが、未だ詳細は不明な点も多い。
それ故に、今回の作戦を通じて、いかに正確で確実な情報を得るかが重要視される」
映像が切り替わり、新しい画像が映し出される
「判明しているのは、二点
先ず、新型戦術機は50mを優に超える点で、操縦席は複座であること。
そして、男女混成のペアである事だけだ」
彼は、スクリーンから顔を士官達の方に向ける
「また標的以外に、注意すべき点がある。
大使、駐在武官は考慮の他と考えてほしい。
其方は、外務省、人民軍に一任させる」
二人の画像が映り込む
「この右の黄色い服を着た男が、篁 祐唯。
日本の貴族で王の血筋を引く人物。
相応の態度をもって、任務に当たらせよ。
左の黒服の男が、巖谷榮二。
技師でもあるが、パイロットとしても優秀な人物だ。
両名とも、王の身辺を護衛する親衛隊の隊員である事を付け加えて置こう」
プロジェクターが止まり、室内に明かりが点く
男は指揮棒を畳み、全員の顔を見回す
「他に質問は、あるかね」
小柄で金髪の少尉が、勢いよく挙手する
「KGBはどう動くでしょうか」
彼は、眉一つ動かさずいう
「良い質問だ、同志ゾーネ少尉。
KGBとモスクワ一派は、本件に対して策謀を図る事が予想される。
それを考え、交通警察に助力を仰ぎ、我が方の協力者で周囲を固める様、要請した」
交通警察とは内務省傘下の警察組織で、人民警察の一部門である
この様な発言は、保安省の他省庁への浸食の一端を示す事例であった
「了解しました」
彼は、頷く
顔を動かし、周囲を窺う
「言い足りないことがあれば、申しても良いぞ」
壮年の曹長が、挙手し、質問した
「ブレーメの件ですが、如何致しましょうか」
男は、真剣な顔つきで、彼に答えた
「同志曹長、その件であるが、目ぼしい女学生を潜入工作員として採用してある。
彼女と、ベルンハルト嬢を穏当な手段で篭絡せしめれば、この件は最良であろうと考えられる。
極力我々は、関知しない」
「アスクマン少佐、彼女等の愛国心や民族愛に沿う様な自発的行動を待たれると言う事ですな」
指揮棒で、手袋をした左手を叩く
「そうだ。通産官僚と外務官僚の娘。
下手に粗暴な手段を使えば、党や他省庁からの信用失墜に繋がる。
それに、ベルンハルト嬢の背景は、すでに私の方では、把握済みだ」
曹長は、身を乗り出して尋ねた
「如何様にして知り得たのですか」
彼は、腕を組んで背中を後ろに倒す
「貴様等には、特別に話してやろう。
実はな、ベルンハルト嬢の生母は、わが方の協力者として、すでに篭絡させている」
一同に衝撃が走った
アスクマン少佐は、不敵な笑みを浮かべながら、続けた
「10年ほど前、彼女に職員が不倫相手として接触し、情報を入手したのだ。
その際、外交官であった彼女の夫を、酒漬けにさせ、精神分裂病と言う事で収監させた。
彼女は体制批判をしたと言う事で通報してきたが、本心でダウム君に惚れ込んだと私は考えている。
それ故に、かの令嬢も、その兄君の空軍中尉も備に状況が分かっているのだよ」
ゾーネ少尉が、問うた
「詰り、遠くから丸裸の姿を覗き見ていると言う事ですか」
彼は冷笑を浮かべる
「その通りだ。
そして、アーベル・ブレーメは我が方を利用しているつもりでいる愚か者故、自在に奴の動きが判る。
あの天香国色の御令嬢も、裸体を曝け出して歩くが如く状態である事を奴は知らなんだ。
我等は、その天女の舞を特等席で楽しみ、愛でているという状態なのだよ。
諸君!」
狭く、静まり返った室内に、彼の嘲笑が響き渡る
その眼光は鋭く、まるで獲物を狩る獣の様であった
後書き
2000字程度の投稿を休日複数回するのと、纏めて6000字ほどにして、土日各一回にするか。
本サイトや他サイトを見ると6000字前後が一般的なので悩んでます。
個人的には今のスタイルで良いかなと思いますが、どうなんでしょうか
皆様は、どちらの方は良いのでしょうか
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ベルリン その3
前書き
「国連次官って何だよ」
マブラヴ特有のガバガバ設定、多すぎる
西ドイツの暫定首都ボン
其処に居を構える、在ドイツ連邦共和国日本国大使館
その館内を走ってくる男が見える
筋肉質で屈強な体付き、戦士を思わせる風格
蓄えた口髭と、豊かな髪
黒の様な深い濃紺で、細身のダブルブレストのスーツ
六つボタンで、襟は、ピークドラペル
シャツは薄い水色で、ネクタイは濃紺
靴は、濃い茶色のプレーントゥの造りで、厚い革の靴底
地味ではあるが、生地や造りからして、身に着ける物が全てが上等なカスタムメイドと判る
勢いよく、大使室のドアが開けられる
「閣下、今回の件で説明をお願い致します。
小官は納得出来ません」
生憎、大使は、室内で電話中であった
黒い受話器を右手で持ち、右耳に当てている
彼は、その官吏の事を左手で指示する
外側に向い掌を二度降る
彼の意図を理解した官吏は、部屋を出た
30分後、件の官吏は呼び出された
部屋に入ると大きな事務机の上に有る黒電話と灰皿が目に入る
室内には、金庫と両側にガラス戸で開閉する書棚
書棚には、外交協会発行の直近20年ほどの「ソ連人物録」や「東ドイツ人物録」が並ぶ
個人情報の取集が困難な共産圏においてはこの様な外交協会発行の個人目録の役目は大きい
表の人事や機関誌に出てくる人間であっても、杳として足取りが掴めなくなる
共産圏では、その様な事が儘有るのだ
大使は、来客用のソファーとテーブルを指で指し示す
「まあ、座りなさい」
一礼をすると、官吏は座った
その様子を見て、大使は引き出しよりパイプと葉タバコを出す
パイプは、ブライヤー製で、一般的なビリヤード型
タバコを押すようにして、パイプに詰めると、柄の長いマッチで炙る
一旦炙った後、再び火を点け、軽く吹かす
ゆっくり噴き出すと、何とも言えぬラム酒の香りが漂う
「この香りは《桃山》ですな」
専売公社が発売するタバコの銘柄を当てる
彼は眉を動かす
この男の見識の広さに、驚いた様子が傍から見て取れる
「君は、パイプは遣らんと聞いたが……」
「独特の香りです。一度嗅いだら忘れませんよ」
彼は目の前の官吏に、顔を向ける
「今回の東ドイツ非公式訪問の件は、省内でも喧々諤々の議論が起きた。
私とて、本音を言えば反対だ。
何も、殿下からお預かりしている禁軍将兵を敵地に差し出す愚かな策には乗らん。
だが、これが同盟国からの要請であれば、話は違う」
官吏は、驚いた表情で彼を見る
「先立つ、米国・東独間の貿易交渉の際、米側が食料購入を東独に求めた。
その折、東独側から、見返りとして西ドイツに展開している日本軍関係者のベルリン訪問を要請された。
米側は、飽く迄日本は主権を有する独立国であるので、自らに決定権は無いとしながら、日本側に連絡するとその場で応じた」
パイプから立ち上がる煙は薄く、吐き出す紫煙も少ない
しかし、仄かに香る
「米国からの連絡とは言え、曙計画や今後の新規戦術機開発にも影響する。
また、彼等がこの件に乗ったのは、最終的にはNATOの拡大を視野に入れてであろう。
彼等の本音としては、西ドイツでは満足せず、北はフィンランド、東はバルト三国、南はトルコという路線で行きたいのであろう」
若い官吏は両掌を組み、椅子に座りながら尋ねる
「ハバロフスク遷都の影響を考慮してですか」
大使は、右手にパイプを持ちながら聞く
一口吸うと、彼の疑問に応じた
「そうだ。
現在、ソ連はBETAに侵食された中央アジアを中心にして東西に分割されつつあるが、仮に今回の事が終わったとしても、復興には相応の時間が掛かる。
ポーランドや東ドイツに居る欧州派遣ソ連軍の維持も厳しいというのが、情報筋の見立てだ。
その様な事から導き出されるのは、白ロシア、ウクライナを対ソ緩衝地帯にするという試案だ」
官吏は、大使の見解に絶句した
彼は、その様な事実が、夢物語を語る様で不信感を強める
「BETAの混乱に乗じ、東欧圏を非共産化させ、NATO諸国に組み込む。
この様な、恐るべき策謀の中に、我が国は利用されつつあると言う事だよ。
珠瀬君、君の意見は正しい。
だが、外交は正論ばかりでは通らない。
政治とは常に妥協の産物。
私とて、これ以上の日米関係の混乱は殿下に申し訳できぬのだよ……」
彼は、ゆっくりとパイプを吹かす
回転椅子の背もたれに寄り掛かり、机を支えにして背面の窓側に体を向ける
「閣下……」
珠瀬は、窓の外を見る大使の背を見る
彼から見て、小柄な男は、何時にも増して小さく感じた
「私としては、殿下をお守りする為に、あの新型機のパイロットや新型機を米国の駒として差し出す。
その件は、問題ないと、思っている。
殿下あっての日本、殿下あっての武家。
大命を拝領しながら、日々どの様にして、その御心に沿えるか……」
彼は立ち上がると、深々と大使に礼をした
「閣下には、貴重な御時間を割いて頂いて……。
私は、これで失礼いたします」
後ろを向いた侭の大使に再度、ドアから礼をすると、静かに戸を閉め、その場から立ち去った
後書き
読者様の意見を参考にして説明不足であった点を説明する回になりました
自分の中では説明した気になっておりましたが、今回改めてご意見をいただいて説明不足であったと考えて居ります
話作りに夢中になっており、周囲やそこに至るまでの過程を丁寧に説明出来なかった。
偏に、小生の不徳の致すところです
また、主人公、マサキに関しては後日、その経緯を作中で説明したいと思います
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
ベルリン その4
再び時間は遡る
昨日の夕刻の事をベルンハルト中尉は思い起こしていた
あの「褐色の野獣」に初めて相対した時のことを……
何時も通り、第一戦車軍団がある陸軍基地で勤務していた時、出入り口で騒動が起きた
保安省の制服を着た係員が数名、自動車で乗り付ける
其処に警備兵や部隊付きの下士官等が集まり、一寸した口論へ発展
同行していた保安省少尉が拳銃を取り出すと蜂の巣を突いた様な騒ぎ
その時に、最高階級であった彼が呼び出されたのだ
中隊を事実上仕切る最先任上級曹長に連れられ、彼は門へ急ぐ
「保安省の馬鹿共が車で乗り付けております。
どうか、追い返してやって下さい」
着古しの空軍勤務服ではなく、真新しい陸軍の灰色折襟服を着て、官帽を被るベルンハルト中尉
乗馬ズボンの替りに、ストレート型のズボンを履く
足元は営内と言う事で、黒色の短靴
その表面は、鏡の様に磨き上げられている
その服装は、まるで空軍戦闘機部隊の再編に伴い陸軍へと一時的に預かりと為っている彼の立場を示している
当人の心情は兎も角、傍から見てその様に受け取れる状態であった
彼は、脇を歩く曹長に問うた
「軍団長はどうした」
彼に曹長は歩きながら返答する
「同志少佐や幕僚と共に、国防省に出頭中です」
深緑の別襟が付いた灰色の折襟制服を身に着け、船形略帽を被り、第二ボタンを開けて手帳を挟む
上着と同色のズボンに、膝下までの合成皮革の長靴を履き、ほぼ同じ速度で歩く
彼等のような先任下士官は《槍》と称され、下士官・兵のまとめ役
国防軍時代は、「中隊の母」等と呼ばれた
彼の口から呪うような言葉が出る
「今日は厄日だ。
それで、拳銃で強盗遊びをやってる馬鹿が居ると聞いたが」
曹長は、彼の言葉に振り返る
「あの金髪の小僧です」
右の食指で、件の人物を指し示す
「ピストルを出したので、見せしめに重機関銃を衛所から覗かせたら、ケースに仕舞いました」
彼は顔を顰める
「俺も色々な悪戯は遣ったが、他職場に銃を持ち込んで見せびらかす様な真似はしたことはないぞ」
内心の不安を隠す為に、敢て強がって見せた
「あいつ等は、段平を振り回す匪賊か」
彼の言葉を肯定する
「確かに法匪には違いありませんな」
《法匪》
曹長の言い放った一言が重くのしかかる
保安省は、かの牽制を誇ったKGBやNKVD等のチェーカー機関と負けず劣らず、民衆を弄んだ
法解釈を恣に、一字一句の条文通りに社会を統制
僅か30年足らずで国民総監視体制を築き上げたのだ
彼等はゆっくりと、その場に近づく
門の所には数名の保安省職員を取り囲むようにおよそ40名ほどの兵士達が立っており、口々に不満を述べている
一番階級の高い少佐の階級章を付けた優男は、罵詈雑言を物ともせず、両腕を腰に当てて立っている
背筋を伸ばし、周囲を窺っている
「気色の悪い男」
彼の率直な感想であった
その男が不意に彼の方を向くと、声を上げてきた
「君かね。同志ベルンハルト中尉」
「何の用があってこの基地まで来たんだ。
法執行なら、憲兵隊を呼べば十分だろう。
民間施設じゃないんだから、引き取ってくれ」
男は彼に向かって、敬礼をする
「君も妹さんと同じで釣れないね、同志中尉。
改めまして、私は保安省第一総局のアスクマン少佐だ。
今後ともお見知りおきを」
そして白い革手袋をした右手を伸ばし、握手を求めてきた
彼は困惑した
あの母を堕落させ、父を狂わせた国家保安省
目の前にその憎むべき存在が、居るのだ
あの禍々しい制服を着て、自らに握手を求めて来る
彼は、拒絶という返答をもって男に示した
「少佐《殿》が、なぜ、基地に来られたのか、理解に苦しむね」
右手で勢い良く指揮棒を振り、左の掌に当てる
音を立てて、叩き付ける様は、男の不満を表していた
「残念ながら、我が人民共和国には「領主」も居なくば、「奥方」も居らぬのだよ。
《同志》ベルンハルト中尉。
君の、この封建主義的な特権階級を黙認する発言は、無論《閻魔帳》に記させて頂くよ。
それが保安省職員たる、私の《任務》だからね」
アスクマン少佐は、声を立てて笑った
不敵な笑みを見て、彼の心の中に憎悪が渦巻いた
あの団欒を奪った憎むべき組織
今、恋人と妹を毒牙に掛けんとしている
彼は、政治的に危ない橋を敢て渡る選択をした
もう引き返せないであろう……
軍の上司、同僚、部下、その家族……
妹や両親、育ての親。恋人、岳父と義母。
数少ない友人達の為にも、その様な道を選んだのだ
「俺からも言わせて貰おう。
あんたの、今の行為は越権行為だ。
それを認められているのは政治総本部から出向される政治将校だ。
文民警察官たる保安省職員にその責務は無い」
曹長が割り込んでくる
「さあ、同志アスクマン少佐、お引き取り願いますかな。
此処には血気盛んな若人が多数いますので、不測の事態が起きれば、貴官の責任問題に発展するのではないでしょうか。
何なら、憲兵立会いの下で、お話は伺いますが……」
曹長が話している最中に、後ろから声が飛ぶ
「話が有るなら、軍団長が居る時に来い。
そこに居る中隊長には、何も出来んぞ。
さあ、帰った、帰った」
兵の一人が、少佐に言葉を投げかけたのだ
脇に居る曹長は、目を白黒させている
遅れてきたヤウクは、不敵な笑みを浮かべている
ヤウクの存在に気付いた彼は、訪ねる
「お前さん、今頃来て何さ?
何か仕出かしたのか」
笑う彼が、返す
「あと少し待ってくれ」
不思議な事を言う彼を無視して、再び少佐の方を向いた
少佐達は、兵からの帰宅を促す言葉や罵声を浴びて、委縮しているようにも見える
車に乗ろうにも、鍵は奪われ、車輪には三角形の車止めが前後から設置され動かせない状態
基地の敷地外から遠巻きに見ている秘密情報員も、双眼鏡で覘くだけで動く気配が無い
何処からかカメラを持ち込んだ兵士が、情報員の写真を撮り始めている
30分もしないうちに、軍用トラックが二台ほど乗り付け、最寄りの部隊から軍巡邏員(憲兵)が来た
ヘルメットに白線が引かれ、黄色い菱形文様の中にKD(Kommandanten Dienst)の文字が大書されている
事情聴取と言う事で、敷地内の倉庫に彼らの身柄を運んだ
車を、手で押し掛けして敷地内の駐車場に移動させようとする
青白い煙が上がり、2ストロークエンジンから騒音が響く
ボンネットから、煙が立ち込め、油を焦がした様な臭いが広がる
エンジンを掛けようとして、壊れた様であった
何者かが、角砂糖でも入れたのであろうか……
それとも粗悪な東ドイツ製であった為か
やむなく彼等は、整備兵に車を預けることにした
事務所に入るなり、少佐は腰かけた
尊大な態度で、彼等を見回す
「私がここに来た理由が分かるかね、同志中尉」
彼は、椅子で足を組む男を見つめた
「アイリスの事か。それならば話には乗らないぞ」
「待ちたまえ、私はまだ何も説明して居ないぞ……
君は焦る癖がある。
人の話を聞き給え。
君とヤウク少尉だが、一日ほど身柄を借りたいのだよ。
何、党の為に少しばかり働いてもらうだけだがね……」
困惑する青年将校たちをしり目に、曹長が切り出した
「困りますな。
飽く迄人民軍は国家組織です。
現実はともかく、建前としては、労働者と農民、人民の為の軍隊です。
あなた方の部署へ私的に貸し出しをする等、行動規範に反する事です」
彼は、背凭れに寄り掛かる少佐を直視する
腕を組み、歩幅を広げながら室内を歩く
「同志少佐にはもう少し、軍について学ばれてから此処へいらっしゃる様にして下さい。
我々も今回のような訪問には非常に困惑して居りますゆえ」
合成皮革の長靴が擦れる音がする
少佐は身を起こして立ち上がった
「まあ、良い。
明日の君達の態度、楽しみに待っているぞ」
その様に言い放つと、彼等は、基地を後にして行ったのだ
「ユルゲン、起きろよ」
彼は、ヤウクの声で目を覚ました
暫し考え込んでいる間に転寝をしてしまったようだ
慌てて、第一ボタンを閉め、襟ホックを掛ける
「まだ大丈夫だ」
左側の少将が答えた
将官を前にして眠るとは……
だいぶ疲れているのだろう
ふと周囲を見回す
軍用車の後部座席に三人掛け
右の助手席にはハンニバル少佐
運転席には新任の伍長
最近転属してきたというから、補充兵であろう
先月までいたウクライナ戦線は去年の夏ごろと違ってBETAが少なかった
やはりカシュガルハイヴを中共軍が焼いた御蔭であろうか……
彼は、脇に居る同輩に尋ねた
「今からどこに向かうんだ」
同輩の黒い瞳が動く
緑の黒髪が逆立つ様が分かる
「君は昨日、何を聞いていたんだい。
また、妹さんの事でも考えていたんだろう。
今日は、今から日本軍の連中に会って、簡単な茶会をして、我々の宣伝をする。
そうやって司令官から訓示を受けたではないか。
人の気持ちも分からないから、僕が居なければ君は本当に駄目なんだね」
隣にいる少将は失笑する
前に居る少佐は顎髭に手を伸ばして正面を見ていた
「同志中尉、あと15分ほどで着きますから、それまで頭をスッキリさせて下さいよ」
運転する伍長が声を掛けて来る
ポツダムの司令部からこんなに早く着くとは……
彼はそう思うと、車窓から外を眺めた
後書き
ヤウクの髪色は『隻影のベルンハルト』で、『青みがかった逆立ちがちな髪型』とあります
ですが、日本語でその様な表現は無いのです
青は日本語で緑と混同されるので、緑の黒髪と致しました
ヤウクはボルガ・ドイツ人なので、三世紀近いロシアの生活で、彼の家族に蒙古系の血が混血していても不思議ではありません
又、黒髪は、白人、黄色人種、黒人と非常に多様で且つ一般的なので、その様に解釈いたしました
むしろベルンハルト兄弟の様な金髪碧眼の美人というのが、ドイツ系では稀です
(それ故、過去から理想化されたゲルマン・ドイツ人像になったのです)
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
ベルリン その5
前書き
ガバガバな話作りで済みません
マサキ達は、ベルリン市内の軍事施設に招かれた
当初は、シュプレーヴァルトの森深くにあるグリューンハイデ基地に招かれる予定であったが、政治的横やりで変更になった
その様に、大柄な陸軍中尉が語ったのだ
一同の眼前に立つ中尉は、180センチを超える体躯を持つ美丈夫
金髪碧眼の容姿から、さも神話に出て来るであろう精霊や神々を思わせる様な面
年端の行かぬ頃であれば、妖精や天使を思わせる姿であったであろう……
若干訛りはあるが、聞き取りやすい英語を話す
脇に立つ黒髪の少尉も其れなりの目鼻立ちで背も低くはない
吊るしであろう制服が、体に合っており、胸板も見た所、厚い
ただ、若干落ち着きが無いのは見て取れる
奥で、大使や駐在武官と話す灰色の髪の少将は、チェコスロバキアの「プラハの春」の弾圧に参加した人物だと事前に教えられていた
受け答えや態度を見る限り、共産主義を金科玉条にする人物ではなさそうだ
しかし、ドイツ語を知らぬ振りをして聞いて居れば、目の前の男達は、随分と物騒な話をしているのが分かる
何やら、帝国の制度について質問したくて仕方が無いのが、あの若い少尉達の様だ
彼は、ここで一つ、その騒ぎに乗ってやる事にした
篁や巖谷の刀を使った演武や長剣装備の戦術機の運用方法等を一通り説明した後、東側の訓練方法や実戦経験について1時間ほど討議が持たれた
自在に英語を話せたのは、あの中尉だけで、後は通訳を介して会話となった
ロシア語教育の方が、この国では外語教育の比重を占め、エリートコースにロシア語は必須だ
仮に西側に移った際、ロシア語教師は失職するであろう事が予想される
その失業対策まで考えているのだろうか……
討議は終わると簡単な茶会が用意された
見た事のない焼き菓子やデザートが振舞われる
味は、お世辞にも旨いとは言えないが、市中で買い求めた物よりは数段上
紅茶は、グルジア産の茶葉で、コーヒーは共産圏寄りのインドネシア製であった
見せ掛けだけの為に、物資不足の中で、これほどの物を用意するとは、ポチョムキン村を作って招いたソ連の顰に倣う
その様を見て、彼は苦笑した
幾ら政変で議長が変わろうとは言え、上辺だけを飾る共産主義の隠蔽の構造
これが根本的に変わらぬ限り、この国には未来は無い……
『彼等の目前で、共和国宮殿を焼いてみたら、さぞ面白かろう』
どす黒い欲望が彼の中で渦巻く……
篁や巖谷と話しているとき、例の美丈夫が声を掛けてきた
詰まらぬ話だと思って、聞き流していたら、驚くようなことを言い放った
「あなた方の国の指導者が、誰か分かりません。
行政府の長である首相か、将又傲慢な王か、或いは精神的な皇帝なのか……」
彼は慌てて其方に顔を向けた
脇には、彩峰が真剣な顔をして立つ
先程迄の薄ら笑いは消えて、目が据っている
彼は、得意の英語で、解りやすく答えた
「我が国の大政を、聖上より一任されているのは殿下で御座います。
実務は宰相ですが、これは先の大戦や政治事情で変わらざるを得なかったのです」
奥で焼き菓子を頬張っていた黒髪の少尉が、皿を放って此方に走ってくる
『面白くなってきた』
『ここ等辺で、爆弾を落としてやろう』
その様に考え、マサキのは早速行動に移すことにした
白皙の美男子が続けて聞いて来る
「ではあなた方の国は二重の権威構造なのですか。
王と皇帝の……。
しかも王は世襲ではないと、聞き及んでいます。
さっぱり理解出来ません」
マサキは敢て発言した
何も考えずに、ドイツ語で応ずる
「権威は金甌無欠の帝室だ。
将軍は、飽く迄、神輿飾りでしかない。
国策に疵瑕が生じた際、その責を負って貰う存在だ。
宸儀は国家その物であるが故に、責任には問えん
その為の人身御供の制度と言えば、理解出来るか。
俺は、そう理解してるとだけ、伝えて置く」
其の青年は納得した様子であったが、周囲の者たちの様子がおかしい
篁は唖然としており、巖谷は薄ら笑いを浮かべている
彩峰は、能面の様な表情ではあったが目だけ動かしてきた
傍から見てハッキリ怒りの態度が分かる
その場にいる帝国軍人達は、ほぼ同じ気持ちであったのを、彼は察した
しかし、眼前の東ドイツ軍人は、笑みを浮かべている
恐らく、東洋人と違って、目から表情を読むと言う事が出来ぬのであろう
斜め後ろの美久を見ると、心配そうな顔で、胸に手を当てている
「事実を言ったまでであろう!」
彼は、彼女に笑い返してやった
彩峰は、懐よりタバコを出す
一本摘まんで、使い捨てライターで火を点けると、遠慮せず吸い始めた
テーブルにあった使っていない灰皿を引き寄せ、椅子に腰かける
そして、静かに言った
「篁君、その青年にドイツ語で話してやれ。
誰が国家元首かを……」
血の気が引いていた篁の顔に色が戻る
彼は、短い返事を彩峰に向かってする
「なあ、篁、俺が間違っているのか。
俺は歴史的事実を言ったまでだぞ」
彼は冷笑しながら篁への返答する
マサキは誤ってしまった
此処が、彼のいた現代日本であれば、それは事実である
しかし、此処は異星種起源の怪物に蹂躙されつつある異界
歴史も化学も文明も同床異夢の世界で、彼の言葉は危うかった
共産圏の東ドイツであろうか無かろうが、失敗だった
仮にアメリカでも同じ結末を迎えたであろう
政威大将軍を神聖視する軍人の前で、神輿飾りとまで評した
まだ「神輿に担ぐ」とでも済ませば違ったであろう
神輿ですらなく、それを構成する飾り
しかも、《人身御供》と結論付けたのが不興を買う一因になった
彼の言動は、その様な意味で非常に拙かったのだ……
遠くに居た大使と駐在武官が、此方の方を見ている
脇に立つ東独陸軍少将と通訳も気が付いたようだ
件の青年が締めくくるように言った
「不合理な二重権威など止めて、その十善の君、御一人にすべきではないでしょうか。
政治の実態は首相が回しているのですから、英国の様に立憲君主制でも良いのでは……」
遠くで見つめる東独軍少将と通訳の顔色が一瞬変わった
彼の君主制を肯定する発言が、不味かったようだ
敢て気にはしなかった
彼は、冷笑する
篁が言葉を選びながら話し始めた
「その……主上より、武家に大政を委任されて800有余年。
三度政権は変わりましたが、今の元枢府に委任状を出されて、既に100余年になります。
その……、歴史的重みは、簡単には捨てられませぬ故……。
貴方がたの様に、合従連衡して出来た国家とは違います故、簡単な回答は差し控えたいと存じまする」
些か古風な言い回しで、青年に返答した
彼の言葉に、青年二人は酷く納得した様子であった
マサキはその様を見て、ほくそ笑む
これは、上手くいけばこの白面の中尉を利用できるのではないか……
次元連結システムを応用した仕掛け道具でも渡せば、混乱させることも出来るかもしれない
奴等の内訌を利用して、ソ連を破壊させる
恐らく、米国は東欧の軍事力を温存せしめ、BETA戦争の次なる米ソ冷戦再開に備えている
彼等も其れを分かって接触してきたのだ
この若者たちを、戦場で《保護》してやって恩を売って、内訌の足掛かりにする
悪くはない
心の奥底にある黒い野望を胸に秘め、彼は椅子に腰かけた
後書き
実はアイリスもベアトリクスも当時の日本人の基準で言う170以上の大女なのです
ユルゲンの身長は劇中や設定で明言されておりませんが、挿絵から判断するとベアトリクスよりも背が高いのです
逆に背が低いと明言されているのがヴィークマン少尉ぐらいです
ご意見、ご感想、ご要望、ご批判、お待ちしております。
ベルリン その6
前書き
誤字報告などありましたら、気兼ねなくお願いします
同日、夕刻迫る議長公邸の一室に男が二人居た
椅子に反り返る男は、目の前の初老の男に尋ねる
「貴様に、通産官僚としての率直な意見を聞きたい」
新しく議長代行に就いた男の問いに、アーベル・ブレーメは応じた
「先ず、海軍の戦艦整備計画は頂けん。
今更BETA対策とは言え、塩漬けにしていた戦艦を再設計して建造するなぞ、国費の無駄だ。
費用対効果を考えれば、ケーニヒスベルクのバルチック艦隊でも借りた方が安い」
彼は敢て、カリーニングラードではなく、旧名のケーニヒスベルクの名称を使う
敗戦の結果、奪取されたあの東プロイセンの地に居座るソ連艦隊
役に立たない無用の長物という内心からの不満を込めて、そう言い放った
「俺も其れが出来たなら、お前を呼ばんよ」
男は彼の方を一瞥する
彼の瞳は、眼鏡越しではあるが血走っており、憤懣遣る方無い様が見て取れた
「であろうな。
誰が、こんな馬鹿げた青写真を描いたか……」
ソ連の弱体化を受けて、人民海軍は嘗て国防軍時代に計画されていたフリードヒ・デア・グロッセ級の建造を実施しようとしていた
地域海軍というより、沿岸海軍に近い人民海軍にとって、戦艦は扱いに困る存在
経済規模や人口比から考えて、軽武装の哨戒艇や警備艦の運用ですら、相応の負担を強いた
アーベルは、この無計画な軍拡を危惧した
幾ら、米国の援助が見込める可能性が出てきたとはいえ、捕らぬ狸の皮算用にしか過ぎない
あの1970年代初頭までのソ連からの潤沢な支援を受けて居た時であっても、軽武装の海軍の維持は困難を極めた
戦艦運用のノウハウや人員、今から新艦建造などをすれば、国内経済にどの様な影響が出るか
ただでさえ、国有企業のトラバントは何年も納期を待たせている状態
10万の国家保安省職員が1600万の住民の不満を抑え込んではいるが、何時どの様に爆発するか、解らない……
保安省、前衛党、其の物の力の裏付けは、飽く迄駐留ソ連軍有っての物だ
それが完全撤退した際、この国の国民が食料品や日用品などの耐久消費財不足に何時まで我慢できるであろうか……
ソ連での物不足は著しく、市中では無計画のデモや暴動が多発していると聞く
我が国の場合は、人口も少なく、国土も手狭だ……
何より、同じベルリンの中に離島の如く西側社会の西ベルリンがあるのだ
壁を挟んだとはいえ、住民はその生活実態をよく知っている
幾ら、統計や数字を操作しても、その事実は変えられない
現に、ドイツマルク一つをとっても東西で交換レートが5倍の差が開いている
(1978年当時、一西ドイツ・マルク=115円)
高々、市民が日常生活や食事の際に25マルク使うだけでも苦労するような経済規模でしかないのだ……
アーベルの口から嘆息が漏れる
「私も、君が言う様に国家保安省の連隊強化と謂う形で第四軍を手に入れても、ドイツ経済にとっては何の利益も無い。
それをこの様な形で実感するとは、情けない事になった物だ」
議長代行は、その言葉を肯定する
タバコに火を点けながら、呟いた
「な、解っただろう。
俺も、あの馬鹿共には手を焼いてたんだ。
連中に近いお前さんが諦めてくれれば、大勢は動く」
ガラス製の灰皿を、彼の前に差し出す
懐より赤白の特徴的なパッケージのタバコを取る
黒文字でマールボロ(Marlboro)の文字が見える
資本主義の代名詞の様な商品
コカ・コーラやマクドナルド等と同様に商業広告で世界中に販路を広げた
《カウ・ボーイのタバコ》などと喧伝して西側では売られていたのを彼は思い起こす
「君は、是を何処で……」
男は悪戯っぽく笑う
「何、食料購入の際、連中が茶菓子と共に俺に置いてたのさ。
段ボール10箱程在るから、その辺にばら撒けってことだろう」
段ボール10箱……
それを聞いて唖然とした
一箱1万本だと計算すれば、標準的な20本入りで50カートン
マールボロは、ソ連国内では通貨代わりに闇で流通している人気商品
モスクワ辺りで交通警官に捕まった際は、このタバコ一箱で軽い訓告やお目こぼしで済む《商材》
それを、挨拶代わりに持ち込む米国の厭らしさと物流の凄さ
彼は改めて、その国力差に打ちのめされるのであった
「お前さんは、保安省の馬鹿共が経済界を牛耳ってこの国を回そうなんて絵空事を倅に話したそうじゃないか。
だいぶ感化されていて、真剣になって俺に聞いてきたんだ。
この間、来た時、シュトラハヴィッツの小僧と一緒に言ってやったんだよ。
手前等の父親を蔑ろにするなとな」
アーベルは右手を頬に当てる
「シュトラハヴィッツに妙齢の息子がいるとは初耳だ。
奴には10歳にならない娘だけだと思ったが……」
男は破顔し、部屋中に笑い声が反響する
「お前さんと同じだよ。
奴も、《青田買い》して、先々に備えてるんだ」
彼も追従した
「あの男がそんな事を……。
随分と速い婿探しなどをして……」
男は、彼の姿を見てさらに笑った
「なあ、可笑しかろう。
若い娘を持つ父兄の所に出向いては、娘の顔写真を見せるあの親莫迦が……
傑作だよ」
一頻り笑った後、男は語りだした
「このBETA戦争は、体制強化や統制で乗り切れるものではない。
如何に西側から金を無心するか、どうかだ。
ソ連の連中はそういう意味で手際が良い。
もうアラスカくんだりに遷都する心算で居る」
箱より、茶色いフィルターのタバコを取り出す
慣れた手つきで、オイルライターの蓋を親指で開け、着火
縦型の細いライターをゆっくりとタバコに近づけ、火を点ける
静かに吸い込むと、目を瞑り紫煙を、吐き出す
「奴等がどんな手を使ったが知らないが……。
尻を捲って、俺達にご高説を垂れる様な事を始めた。
手前の国一つ満足に管理出来ねえ癖して、あれやこれや指図する様には俺も腹が立った。
だから、お前さんも引き込んで、《おやじ》を追い出した。
その茶坊主も俺は近々手入れする積りだよ」
彼は目の前の男に恐る恐る尋ねた
「私に、その様な事を話して大丈夫なのかね」
男は、左手の食指と中指にタバコを挟み、彼の方を暫し見る
不敵な笑みを浮かべる
「お前さんは、娘と息子という人質が居るから、自分の手駒だと連中は考えている。
御目出度い連中だよ」
深々とタバコを吸いこむと、灰皿に立てて消した
「党の代紋背負っている以上、手前の子飼いの部下すら守れねえ様じゃ情けねえ。
巫山戯た真似をするようなら連中には消えて貰うまでよ……」
新しいタバコに火を点けながら、男は彼に向かって言った
「話は変わるけどよ。
お前の娘御、今度の11月23日で19になるだろ」
彼は、組んでいた両手を解く
眼前の男は、娘の誕生日を正確に答えたのだ……
詰り、全て内情を知っていると暗に彼に答えている
これは遠回しな脅しとも取れる
「どうだ、この際あの小僧に本当の家族になって貰うのはどうだ。
牧師でも呼んで、盛大な祝言でも挙げさせるか。
作戦がどうなるか、解らねえが、何時までも責任を取らねえのは、なあ」
彼は、再び右手を頬に当て、考え込む
「その、ミンスクを落とせば一段落着くと……」
男は左手に持った煙草を下に向け、灰皿の上に置く
再び手で摘まみ、口元に近づけると、二口程吸う
そして、天を仰ぎながら、呟いた
「甘い見立てかもしれねえが、化け物退治は、一段落は付く。
結末がどうであれ、どっちにしろ米ソの陣取合戦が再開するのは目に見えてる。
後片付けの方が恐ろしい。
今は形振り構わず金をばら撒いているが、それが終わった時、現状のままだったら何が残る。
不味い飯を喰って、襤褸車を乗り回し、素っ気もねえ売り子が居る商店に行って、小汚ねえ住宅に押し込まれて暮らす。
ボンの連中が流すTV映像を見てる市民が納得するか。
満足出来ねえのは、小僧でも解る」
男は灰皿にタバコを押し付ける
「東西の協力というお題目を形ばかりの物ではなく実現させて見せる。
仮に党が吹っ飛んでも、その実績があれば、俺やお前さんの事を、ボンの連中は軽視出来ねえだろう」
男は彼に首を垂れる
「お前さんが引退するのは、暫く先に為りそうだ。
少しばかり老骨に鞭を打って走ってほしい」
彼は、立ち上がって、言った
「仮にも議長の任に有る者が、簡単に頭を下げるではない。
私もそうもされては、断るものも断れないではないか……」
男は居直ると、彼に向かって言った
「そう言う訳だから、お前さんは今まで通り頼む。
俺が言ったことを上手く利用して、連中を誤魔化せ」
彼は、深く頷く
「邪魔したな」
そういうと、ドアを開け、部屋から去っていった
後書き
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
原拠 その1
前書き
読者様の意見反映回 その1
軍団長に呼び出されたベルンハルト中尉は、急いぐ
腕時計を覘くと、時間は7時55分になる所であった
部屋に着くと、陸軍勤務服を着た大尉が椅子に腰かけている
初めて見る顔で、恐らく政治将校であろう事が察せられる
シュトラハヴィッツ少将は、勤務服姿で椅子に座り、此方を注視している
其の横には冬季野戦服姿のハンニバル大尉が書類挟みを右脇に抱え、立っている
一同に敬礼をした後、白髪の大尉が、少将に声を掛ける
「同志将軍、同志ベルンハルト中尉への会話の許可を願います」
彼も同様に少将に、許可を取る
「同志将軍、同志大尉への質問に応じても宜しいのでしょうか」
形式ばった手法で、尋ねる彼に、少将も同様の返答を行う
「同志大尉、同志ベルンハルト中尉への質問を許可する。
並びに、同志中尉の応対も同様の措置とする」
彼は、やや緊張しながら応ずる
「同志大尉、何でありましょうか」
勤務服姿の大尉は、胸元より合成樹脂製の眼鏡ケースを出し、老眼鏡をかける
足元から封筒を持ち上げ、中の書類を取り出し、読み始めた
「君が昨日、日本軍との会談の際に、ブルジョア社会の封建制度を肯定する発言をしたと、保安省から我が隊へ告発があった。
事実であるか、否か。答えてほしい」
彼は内心焦った
あの場には、保安省の制服を着た職員は居ず、軍人のみだった
通訳も軍で手配した人間
精々、考えられるのは敷地外に居た交通警官ぐらいだ……
彼は嘗てのソ連留学を思い起こした
ソ連軍の内部にはKGBの秘密工作員がおり、ОО(オー・オー)と呼ばれ、蛇蝎の如く嫌われていた
ヤウクにも散々留学中にそのことを指摘された覚えがある
あの独ソ戦の際も、少しでも疑惑の目で見られれば、最前線から収容所に送り込む等、恣にした
彼の国を真似た祖国の監視体制を失念していたのだ。
何と脇の甘い対応をしてしまったのだろうか……
件の政治将校が、動く
長靴の音を立て、室内を歩き回る
脱いだ帽子を左脇に挟み、彼の周囲に近づく
「私としては、君の様な将来有望な幕僚が帝国主義の煽動に乗せられ、誤った言動が行われたという話を聞いて、俄かに信じられない。
勤務内外を問わず、革命的警戒心を維持すべきではないのか……
同志ベルンハルト中尉」
「では報告という形ですれば宜しいのでしょうか」
「軍人に求められることは、軍事上正確で適切な答えのみ。
つまり、是か非か」
半ば呆れるような形で、彼は質問を返した
「叱責のご報告ですか……」
鋭い目付きと厳しい表情で、彼を睨み返す
「貴官は、小官を侮辱するのかね。
同志ベルンハルト中尉、君の対応如何によっては、諭旨以上の対応を検討せねばならぬ様だな」
彼は覚悟を決める
「同志将軍。昨日の会談の際、小官の不確実な言葉遣いで、民主共和国及び国家人民軍の威信を著しく傷つける様な行動を起こしてしまいました。
ベルンハルト中尉は、以上の様に命令通り発言致します」
ハンニバル大尉が尋ねた
「同志将軍。宜しいでしょうか」
少将は、机の上で手を組んでこちらを見る
「申せ」
ハンニバル大尉は彼の方を向いて、答えた
「同志ベルンハルト中尉への処分は如何様に為さるのでしょうか」
暫し悩んだ後、答える
「本来ならば懲戒処分や職責の剝奪にまで及ぶような案件ではあるが、国家人民軍記念日も間近である。
軍事パレードに、戦術機部隊の幕僚が営倉入りして参加出来ないとなれば、我が隊の恥。
職務怠慢とまでは看做さないが、思想的再教育が妥当と考えている。
同志大尉、君の意見はどうだね」
少将は、政治将校の大尉に問うた
「エンゲルス全集から、『空想から科学への社会主義の発展』を読み、その感想文を一週間以内に提出する事と致す。
同志将軍、私の考えとしてはそれ位して当然だと思っています」
政治将校の判断に頷く
「同志ベルンハルト中尉へ、命ずる。
同志ヤウク少尉以下、幕僚3名と共に、エンゲルスの『空想から科学へ』の感想文を提出する事。
タイプ打ち、手書きは問わないが、凡そ3,000字以上、2万字以内の文書へ纏める事。
以上」
退室を赦されたベルンハルト中尉は、遅れた朝食を取りに食堂に向かう
その最中、再び《野獣》に遭遇した
青白く、気色悪い顔で、此方を窺う
「同志ベルンハルト中尉、君はまたとんでもない行動を起こしてしまった様だね」
男は薄気味悪い笑みを浮かべる
「同志少佐、あなた方には関係のない話です。
お引き取り下さい」
そう言って、彼の脇を通り過ぎようとする
蔑むような表情で此方を見ながら、答える
「同志中尉、君の言動は逐一《閻魔帳》に記させて貰う。
今から、国防大臣と議長に《陳情》させて頂く積りだよ」
乾いた笑いが響く
『陳情』
社会主義圏である東ドイツにおいて民衆の声を直接上層部に届けられる唯一の手段である
間接民主制や直接民主制の選挙制度を持たぬ彼の国に有って、口頭或いは文書での陳情は、非常に重要な意思表明の手段であった
通常であれば、職場や自治体を通じて、国に提出され、苦情係で処理
遅くとも3週間前後で中間報告が返答されるシステム
彼は、通常の手段ではないことを表明したのだ
直接国防評議会に顔が利くと、暗にベルンハルト中尉に示す
しかし、このアスクマン少佐の行動は、ソ連一辺倒であるシュミットを代表とするモスクワ一派には、現政権への阿諛追従へと映った
彼は未だ知る由もないが、この行動は保安省内部に修復しがたい亀裂を生じさせる結果になってしまった
この一介の法匪が取った自己利益の追求
それによって保安省内の内訌という地獄の門が開いてしまったのだ
後ろでは、アスクマン少佐の冷笑は続く
その声を無視しながら、ベルンハルト中尉は食堂に急いだ
後書き
お話の展開上、漫画特有の激甘対応になってしまいました
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
原拠 その2
前書き
読者様の意見反映回 その2
昔の理想郷だったら叱られるほどのガバガバ話作りで、済みません
翌日、西ドイツ、ニーダーザクセン州オスターホルツ郡、オスターホルツ=シャルムベック
ガルルシュテットの米軍第2機甲師団の敷地の一部を間借りする形で建てられた仮設の事務所
その建屋にある隊長室へ出頭要請の出ているマサキは向かう
遊び半分で、入隊した斯衛軍……
まさか合同部隊で、ドイツくんだりまで来るとは夢にも思っていなかった
前の世界では、富士山麓の秘密基地から自由に出撃して、野放図に振舞う
沖達は、文句を言いながらも渋々我儘を認めてくれていたし、実力で認めさせていた
些か読みが甘かったのだろうか……
この際、隊長と引率役の斯衛軍将校二名に洗い浚い打ち明けてやろうか……
そう考えている内に隊長室に着いた
ドアをノックした後、入室を促す声がする
室内に入ると、机に備え付けられた椅子に腰かけた彩峰の姿
何時もの勤務服ではなく、深緑色の野戦服で、タバコを吹かしている
部屋の中を一瞥すると応接用の椅子に座る同じ姿の巌谷と篁
立礼をすると、その場で『休め』の指示が出る
少しすると、美久が来た
「どうやら揃った様だな」
彩峰が、此方に振り向く
開口一番、マサキを問うた
「木原曹長、貴様の目的はなんだ。
国防省経由で調べさせてもらったが、貴様は去年の秋口まで戸籍が無かった。
一体何者なんだ……」
巌谷が黙ったまま睨む
脇に居る篁が、訊ねる
「城内省の基礎情報を探ったが、君に関する物は一番古くても去年の9月までの物だった。
中共以前の記録が無い。説明してほしい」
彼等の問いにマサキは冷笑する
「長い話になる。まず座らせろ」
彩峰は、彼の言動に顔を顰めたが、一先ず着席を許可した
「俺は貴様等の言う通り、この世の人間ではない」
彼等は、俄かに信じられないのか、顔を顰めて驚いた表情を見せる
「信じるか信じないかは自由だ。
続けさせてもらう」
彼は、膝の上で手を組み、淡々と語り始めた
「俺と美久は、この世界に少しばかり似た世界に居た……。
そこで貴様等が言う大型機、詰りゼオライマーで戦闘中に自爆したはずだった……。
俺の肉体は、秋津マサトという男の物を借りて居り、その男の人格に全て書き換えられた状態でその世界から文字通り消えたはずだった。
だが、目が覚めると丁度蘭州市から150キロほど西方にずれた場所の上空に居たのだ……
そこで化け物共、貴様等が言う光線級の攻撃を受けた」
押し黙っている巌谷が、身を乗り出す
「光線級の攻撃を受けて、良く無事だった物だ……」
彼は巌谷の方を振り向き、答える
「詳しい話は後でする。
話を元に戻すが、そこで人民解放軍に《拾われた》。
奴等の謂うカシュガルハイヴと言う物を焼き払って、一か月ばかり、支那に居た……」
彩峰と篁が勢いよく立ち上がる
「ひと月でハイヴ攻略を成し遂げただと!」
彼は薄ら笑いを浮かべて、男たちを見る
「ひと月ではない、一日だ。
正確に言えば12時間ほどで、最深部ごと吹き飛ばしたのさ」
彼等は顔を見合わせる
目前の青年が語る事が、夢のような話に思えたのだ
未だハイヴの中は人跡未踏の地
湧き出て来る無数の亡者が、あの新彊の地を赤く染めたのは記憶に新しい
どれ程の惨劇であったのであろうか……
中共政権の徹底した情報統制の結果、彼等には知る由もなかった
「その後は大使館員を名乗る連中に北京で会って、日本に来た。
それだけの事だ」
彩峰は、座るなり、懐中よりタバコの箱を出す
封を開け、茶色いフィルターが顔を覘かせる
3本取り出すと、机に並べ、横にある使い捨てライターを握る
咥えながら、火を点け、吹かす
気分を落ち着かせようとして、深く吸い込む
目を瞑り、ゆっくり紫煙を吐き出すと彼に尋ねた
「貴様の真の目的はなんだ。
冥府の住人であるならば、なぜ日本を選んだ。
なぜ、この世界に留まり続ける……」
乾いた笑いが室内に木霊する
一頻り、笑った後、マサキは彩峰の疑問に答えた
「俺がこの世界を選んできた訳ではない。
気が付いたら居たのだ。
差し詰め、『ハンク・モーガン』の如く、異界に居たのだ。
しかも過去の世界と来たものだ……。
笑わずには居られまい」
眼光鋭く、彼等を見る
「俺が圧倒的な力を持ってして、この世界の百鬼夜行に参加するのは、訳がある。
何れ、BETA共が居なくなった後、対人戦が起きる。
規模の大小は問わん。
その際、圧倒的な戦力差で、人類を屈服させ、世界を征服する。
それが俺の望みの一つよ。
陳腐な表現かもしれぬがな!」
「俺は、前の世界で、秘密結社・鐵甲龍に在って人類を抹殺する『冥王計画』を立てた。
だが、些か急ぎ過ぎたのと、俺の人格を乗っ取った秋津マサトの妨害で失敗した。
故に、この世界で、再び慎重さを持って、各国の政財界や軍などの動向を探り、機を見て行動すると決めた。
まずその足掛かりとしてBETA狩りを進んで行う。
そうすれば、俺の名は売れ、無闇に手を出す阿呆共は少なくなるであろう事。
この様に計算して、俺はお前達の策謀に載った迄よ。
マサトも、鐵甲龍の愚か者共も居ぬ。
今こそ、その野望も夢ではない様に思えてきたのだ」
再び彼は笑う
不気味な声で、笑う様は狂人を思わせる様であった
篁は、座りながら、彼の面を見る
笑顔ではあるが、目は据わっている
笑い終えた瞬間、もの悲しそうな瞳で、淵に沈んだような蒼褪めた表情になった
彼の本心はどの様な物なのか……
篁は、真意を図りかねる様な気がした
「初めの頃は、この世界を消し去る事を考えたが、途中で考えが変わった。
俺の為に奴隷として馬車馬の如く働かせて、その様を眺める。
新しい遊び場として、この世界を選んだ。
本心を言えば、そう言う事さ」
右隣に居る美久の肩に手を伸ばす
右手で肩ごと抱き寄せる
彼女は、満面朱を注いだ様になった
「最も、貴様等との茶番に飽きれば、此処に居る美久と共に、この世界事消し去ってしまうのも容易い。
その際には、手始めとして、間近にある月や火星でも焼いてやろう。
地球に居ながら、月や火星が消える。
愉しかろうよ」
彼は冷笑する
「或いは、世界各国の主要都市を衛星軌道より各個撃破する。
原水爆などを用いて、ロンドン、パリ、ニューヨーク等を焼くのも一興の内であろう。
最高の宇宙ショウと思うだろう」
巌谷が蔑む様な目で見ていたのを彼は気付いたが、無視する
「貴様、言わせて置けば……」
彩峰の発言を聞きながら、彼は右手で美久の上着の中に手を入れる
首の間から胸元に向かい、指を這わせる
嬌声を上げる彼女を後目に、左手で後ろ手にした両手を締め上げながら、弄んだ
「俺の話が本当か、どうか。
今から8時間ほど暇をくれ。
そうすれば、ソ連のウラリスクハイヴでも焼いて来てやる。
吉報を待つのだな」
「なぜ、ミンスクにしないのだ」
篁は、問うた
「ソ連の欧州戦力を削るためだ」
美久の反応に飽きた彼は、突き放すと篁の方に振り返る
「質問はそれだけか。俺は早速ウラリスクを焼いて来る」
立ち上がると、不敵な笑みを浮かべ、周囲を窺う
「話を聞け、木原!」
彩峰は、立ち上がって待つように声を掛ける
彼は呼び掛けを平然と無視し、美久の右手を掴む
「今日の所は勘弁してやるよ。
貴様等の戯言で、興が醒めた」
彼は、そう言い放つ
《世界を睥睨するソ連を焼き消す》
楽しいではなかろうか
彼の脳裏に、その様が浮かぶ
美久を右手で勢いよく引っ張り上げると、引きずりながらドアを開ける
「邪魔したな」
一言告げた後、部屋を後にする
室外から彼の冷笑が響くばかりであった
後書き
『ハンク・モーガン』は19世紀の小説、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』の主人公です
昨今流行の異世界転生小説の先駆けに当たります
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
原拠 その3
前書き
今回は、主人公の独白回
自室に戻った後、美久はマサキの言動を問うた
普段の冷静な彼とは違い、今日はまるで気が違ったような振る舞いをする様に驚いたのだ
「なぜ、あのような振る舞いをなさったのですか」
野戦服姿の彼は、防寒外被のファスナーとボタンを鳩尾の位置まで開けて、中の下着が見える様
椅子の背もたれに、斜めに座る
左手には口の空いたコーラーの瓶を持ち、右手で目頭を押さえている
「あいつ等には、ほとほと疲れた果てた。
如何にあの化け物共を軽視してるか。解るであろう」
彼女は、冷笑する彼の方を向く
野戦服ではなく、上着を脱ぎ、ブラウスの上から深緑の軍用セーターを付け、スカートの勤務服姿
立ったまま、語り掛ける
「昨日の、あの対応は酷いじゃありませんか。
幾ら他国の制度とはいえ、あそこ迄貶す必要は……」
彼は、瓶を下に置き、居住まいを直す
「今は書類の上では自国だ。
俺は東ドイツ人の率直な質問に応じた迄だ。
そもそも、政威大将軍等という形ばかりの制度など不要であろう。
政務次官より役に立たん」
『政務次官』
大正期、維新以来続いた各府庁の次官自由任用による政治的混乱を収めるために、代替案として始まった制度である
しかし、政変や選挙の度に政務次官は変わり、役割も限定的、且つ不明瞭であった
官僚出身の事務次官の代用には為らず、《盲腸》とまで表現されるほど
当初の目標は形骸化し、人脈作りのポストとして看做され、1~3回生の衆議院議員に当てられるように変質した
逆に、事務次官は政治の荒波のよる浮き沈みなも少なく、影響を保持、拡大する方向に成って行った
彼は、摂家から選出される政威大将軍を、前世の制度に準えたのだ
「そもそも一つの血統ではなく、五摂家という曖昧なものにしてしまったのが間違いなのだ。
俺は、そんな物を有難がる馬鹿者共に媚びるつもりは毛頭ない。
鰯の頭も信心からという言葉があるが、人為的な教育の産物であろうよ。
まだ、一統の材料として、古の時代からある神裔を奉る方が自然ではないか……
おそらく出発点は、政治的荒波から禁闕を覆い隠すための方策であろう。
連中は歴史的な経緯を忘れて、勘違いしている。
それ故、あのドイツ軍人の言動を用いて、気づかせてやった迄の事よ」
「何も揉め事を起こさなくても……」
彼は立ち上がって、右手で強引に美久を引き寄せる
「だから、お前は人形なのだよ……。
何方にしてもあの場で、あのような発言をさせた時点で、政治的な問題にはなっている。
どう頑張っても荒れるなら、荒れ狂うほどにまで騒ぎを起こせばいい。
それに、奴等にも外からの新鮮な感覚を味わわせる良い機会ではないか……」
彼の左頬を平手で打ち付ける
「話を逸らかさないで下さい」
赤く鬱血した頬を右手で擦る
彼女の右手を掴むと背中の方に向けて捻じ曲げる
「覚えて置くが良い。誰が貴様を作ったのかをな!」
委縮する彼女を正面の椅子に向かって、突き放す
その表情を見て、彼は満足そうに笑った
「まあ、良い。
後で、それなりに可愛がってやるよ……」
左の頬に鏡を見ながら湿布を張る
「俺が、なぜお前に似せて幽羅を作ったのか……。
今日は気分が良い。ついでに包み隠さず明かしてやろう」
手鏡を下向きにして机の上に置く
「本気で世界征服を目指すなら、鉄甲龍の首領なぞは、むしろ男の方が良かった。
なぜ、女にしたのか。それは内側から瓦解させる為よ。
仮に美男の葎を首領にしたとする……。
例えば、シ・アエン、シ・タウ辺りを側女に置き、寵愛の対象にするようプログラムして居たら、俺は大変な苦戦を強いられたであろう……」
正面の椅子に座る美久は、彼を真剣な眼差しで見る
「だが、俺は敢て幽羅を首領とし、耐爬のような匹夫を用いるよう仕組んだ。
その結果はどうなった」
冷笑しながら続けた
「奴等は、俺と戦う前から、組織内で自らの仲間と戦い始めたではないか。
首領が男で、部下の殆どが女であったならば、等しく寵愛を授けるぐらい出来たであろう。
女では精々、対応出来ても二人ぐらいまでよ……。深い関係になって見よ。
もうその亀裂は修復不可能になる……、それ故そうしたのだよ」
「俺は、女の指導者や、女帝、女王の類は信用できん。
思い起こしてみよ。
煌びやかな祭器を作り、強大な軍事力を誇った西周は、幽王が美女と名高い褒姒という女性を妃に迎え入れた事によって惑わされ、滅んだではないか。
ギリシャの残香漂い、栄華を極めたプトレマイオス朝は、クレオパトラと言う、シーザーに取り入った淫らな女王の為に、ローマの属州に落とされたではないか。
はるか遠い古の話ばかりではない。
あの女スパイ、マタ・ハリが色香の為に、どれだけの人命が世界大戦で弄ばれたか。
俺は、女が……、女の指導者が怖いのだよ」
「無論、俺とて男だ。
多少は、人肌が恋しくなる時もある……。
だが、この世界に在って、現世より信用為らん連中に囲まれている。
蛾眉と語らい、佳醸を呑み、嘉肴を味わう。
雲雨の夢を見るのも良し。
ゼオライマーの力を持ってすれば、実現は容易いであろう。
果たして、本当にそれで良いのであろうか……
思い悩むときもあるのだよ……」
彼は内心にある寂寞の情を吐露したのだ
彼女は目の前にいるマサキを見る
彼は、まるで遠くを見るような目で、窓の方を覘いていた
夕日が沈むさまを眺める彼には、何時もの荒々しさは消えていた
肉体は青年であっても、矢張り精神は、枯れ始めているのではないのか
その様な心配が、彼女の電子頭脳に浮かぶ
「飾り窓にお出掛けになって、瑞々しい紅裙でも、お求めに為られては」
彼女は、設計者である彼への微かに残る憐憫の情から、そう告げた
「惨めになる様な、戯言は止せ。
俺達を駒のように扱う連中は、褒賞と称して、仙姿玉質の令嬢を用意するかもしれぬ。
或いは、戻ってから豊麗な女を、手に入れ、如何様にでも辱めるのも良かろう。
先々の事情も分からぬ内に、手弱女を見繕う話など、今為すべき事ではない。
お前も中々のガラクタだな」
手酷い扱いを受け、項垂れる美久
彼は、その様を見て冷笑する
「その推論型AIというのも、中々興をそそられる物だ。
久々に逸楽に耽るのも良いかもしれん……。
俺の昂る気持ちを納めさせてみよ」
彼はそう告げ、右手で彼女を引き寄せ、抱きしめる
黄昏る周囲を見ながら、幕帷を静かに引き寄せた
後書き
一応、保険として「R-15」のタグ、付けたほうが良いでしょうか
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
青天の霹靂
前書き
いろいろ思うところあったのですが、史実で建造済みのモスクワ級航空巡洋艦にしました
1978年3月1日、未明
事態は動く
ソ連、セバストポリ軍港
同地との通信途絶との連絡が深夜2時、ハバロフスクの軍司令部に届く
即座に、近隣の軍管区から出せるだけの兵力を出して制圧に向かわせる
雷鳴のような音を轟かせ、艦砲が唸る
セバストポリ市内のBETA群に向けて、雨霰と砲撃が繰り返される
ロケット弾が地表すれすれに飛び交い、周囲を焼く
街は数里先からも赤く燃え広がっているのが見え、絶え間なく爆音が響く
市中を制圧した化け物共に、洋上に鎮座するモスクワ級航空巡洋艦や改造タンカーの艦載戦術機から爆撃を仕掛けるも失敗
市街に近寄るも、突如として現れた光線級に因る熾烈な対空砲火でほぼ全てが未帰還
6個大隊相当の戦術機と衛士が失われる結果に総参謀部は慌てた
12時間続いたBETAの攻勢は、洋上よりミサイル巡洋艦や潜水艦からセバストポリ市への核飽和攻撃で一時的な事態の終結へと向かった
一部始終を黒海洋上から米海軍の電子調査船は見ていた
暗号の掛かっていない膨大な通信量からソ連軍の混乱ぶりが判る
撃ち落される衛士の阿鼻叫喚や恨み言がレコーダーに記録され、通信員の耳に響く
艦内の電装表示を見る艦長が呟いた
「どういうことだ……」
3か月後に控えたパレオロゴス作戦の主力部隊を務めるソ連軍の敗退
幾らミンスクハイヴより千数百キロ離れた黒海とはいえ、既にあの禍々しいBETA共は侵食しつつある
望むならこのまま終わってほしい
彼の心からの願いでもあった
カシュガルハイヴが崩壊して周囲数千キロに化け物共が居ないのが幸いしたのか……
極東は非常に安定した情勢に戻りつつあった
数年来の天候不順と混乱で物不足に悩む欧州を横目に日本にも欧州の大企業の移転話が出始めていた
後方基地として些か遠いが、商機を逃さないようにとの考えから進んで各種戦術機の大規模メーカーや部材を作る機材が持ち込まれる
大陸で行われている対BETA戦は、宇宙開発競争で疲弊した帝国経済を立ち直らせる契機になり、極東の軍需や、欧州の軍備拡張を背景とする輸出で、生気を取り戻し、好景気を支えにした株式市場は沸いた
その様な矢先での、ソ連・ウクライナ地域の混乱
同日、帝都に近い大阪証券取引所では、主力株や軍需関連株を中心に売り物が殺到し、数年ぶりの本格的な株価大暴落に見舞われた
後にこの日の事を報道機関は、「漆黒の水曜日」と呼んだ
地獄絵図のような光景を潜入したCIA工作員がカメラに収める
ソ連風支度をして、トルコ支局より同地に入る
薄汚れた茶色の綿入服を着て、耳付防寒帽を被り、その惨状を見つめる
「カンボジア戦線でも、これほどの地獄は見た事は無いぞ……」
脇に居る着古しの両前合わせの外套の男の方を向く
広いつばの中折れ帽を被り、フィルター付きタバコを吹かしながら、彼に応じる
「全くだ……。10年前の新春攻勢の際が極楽に思える。
順化市中の包囲戦で匪賊狩りをした時よりも酷い」
男は懐中より革で包まれたアルミ製の水筒を取り出す
キャップをひねり、開けると彼に差し出す
「一杯やれよ。少しは楽になる」
彼は、男より水筒を取ると中にある蒸留酒を味わった
芳醇な香りと味が彼の五感を通して脳に伝わる
その一杯で居心地の悪い現実から逃げようとしたのだ
カメラを持つ手が止まり、男は言葉少なに語る
「この仕打ちはあるまいよ……」
怪物は、市中で暴虐の限りを尽くし、無辜の市民を蹂躙し、そして弄んで殺した
彼等の足元には、遺体が複数転がる
およそ確認できるだけで、120体を下らない数……
恐らく生きた侭、屠られたのであろう
静かに心の中で、神仏に冥福を祈った
場所は国家保安省本部の会議室
一人の男が、数名の男たちを前にして冷笑する
《褐色の野獣》と称される保安省少佐はソ連の悲劇を本心から喜んだ
手にした報告書には、数日前にあったソ連西部での惨事が記されていた
「これで、私に有利な舞台がそろったと言う事だよ。
あとは役者の配置を待つばかりだ」
若い金髪の少尉が、その優男に問う
「ベルンハルト達は如何致しましょうか、同志少佐」
「何、3人を捕まえてきて、私が代わる代わる遊んでやっても良い……」
暗に男女を問わず辱めることを匂わせる
その様な態度から彼は省内外から倒錯者として見られていた
最も当人に至っては馬耳東風が如く無視していた
小柄な少尉は、再び問うた
「同志少佐、ボンの兵隊共にバラバラにして売り渡すのは如何でしょうか」
彼に対して、一人づつ人質として売り払うことを提案したのだ
「君も中々の 嗜虐的性向な事を言うではないか……」
男の顔が綻ぶ
「貴方様の御仕込みで、この様な姿になりました故」
室内に男たちの高笑いが反響する
彼は机の下から醸造酒を取り出す
「これは安酒ではあるが、前祝だ。
景気づけに一杯やろうではないか」
1977年のボジョレー・ヌーボーを、机の上に置く
ビニール袋に入れたガラス製のコップを取り出して、並べる
普段よりつけている化学繊維製の白手袋を取ると、コップを持つ
少尉は、彼のコップに酒を並々と注ぐ
《褐色の野獣》が音頭を取る
「では、諸君らの健康を祈って、乾杯」
一同が、乾杯の音頭を返す
そして一息に呷る
奥で黙っていた曹長が少佐に質問する
「同志少佐、ベルンハルト嬢も中々の美女です。安く売って雑兵の一夜妻などにするのは勿体無う御座います。
この際、ボンに下る手土産として高級将校やCIA工作員へ、細君として差し出すのも策の一つではありませんか。
その方が、あのいけ好かない小僧も身悶えします故」
彼は、顎に手を当てる
「敵国の支配階層へ、特権階級の美姫として差し出すか。
それ相応の化粧をして、忠を示す貢物とする。
ブルジョア趣味としては良いかもしれぬ。
同志曹長、君が企みに私も乗ろう。
私も、早速下準備に入るとするか」
彼は、脇に立つ少尉を抱き寄せる
「打ち拉がれたあの男を、私が慰めるのも良いかもしれぬな」
頬を赤く染めた少尉は、彼の右腕を服の上から抓る
「美姫に飽き足らず、美丈夫までとは。
相変わらず手が早いですね」
彼は右手の方を覘く
「下品な物言いは、君らしくないぞ。
同志ゾーネ少尉。
その際は、あのブレーメ嬢を私と彼の眼前で弄ぶ様を見せて欲しいが、どう思うかね」
白髪の大尉が応じる
「結構な趣味ですな」
右脇にゾーネを抱えながら、彼は大尉に返す
その大尉は《ロメオ》諜報員と呼ばれる婦人専門の色仕掛け工作員であった
「何、私は寝取りの趣味は無い。
間男の生業ばかりしている君とは違うがね」
再び室内に男たちの高笑いが反響する
「敢て、奴らを結婚させてから引き裂く。
父と同じ道を歩ませる……、一興であろう。
幼妻というのも良いやもしれぬ」
空になったコップにゾーネが酒を注ぐ
秘蔵の酒を瞬く間に飲み干してしまう
「いや、実に甘い酒ですな」
へべれけになった曹長が応じる
大尉は胸からCASINO(東ドイツ製のタバコ)の包み紙から、シガレットを取り出す
火を点け、吹かし始める
「後は、女さえあれば……」
「そうだ、あとは女」
ほろ酔い気分になった彼は、部下を一瞥するとこう締めくくる
「諸君、今日はお開きだ」
彼等は、その場を後にした
後書き
40年ほど前の日本でも官公庁の中で定時以降の飲酒はザラでした
その様な事を考慮し、今回の描写に反映しました
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
青天の霹靂 その2
前書き
カッツェはユルゲンの数少ない男友達です
セバストポリの急襲は、東側諸国に再び緊張感を与えた
48時間以内に出撃可能なように準備がなされたが、結論から言えば杞憂であった
米軍も一時的にデフコン3の指示をトルコ駐留軍に出したが、BETA群の侵攻は無かった
寧ろ恐ろしいほどの沈黙と停滞が起きたのだ
深夜、再招集を掛けた時、ヴィークマンの様子がおかしいのが判った
彼等を纏めるベルンハルト中尉は、ハンニバル大尉に相談する
傍から見ても本調子ではなく、軍医の所にヤウクと共に無理やり連れて行く
カッツェが、青い顔をしていたのに気が付く
何か、あったのであろうか……
「貴様も、顔が青いぞ」
ベルンハルト中尉は、幼馴染に問うた
「大したことではない……」
青い顔をする同輩を窺う
「ヴィタミン不足か何かだろうな……」
BETA戦争以降、ソ連経由の石油資源に飽き足らず、生鮮食料品不足が深刻だ
ボルツ老人が嘗て話してくれたように、ベルリン市中に壁ができる前であれば、西ベルリン側に買い出しに出かけられた
其れも出来ぬ今、柑橘類など、まさに宝石のような価値ある存在になりつつある
バナナなど南洋の産物はしばらく目にかけていない
ジャワ産のコーヒーや果実など、日本人が来た時、数年ぶりに食べた
何とも言えぬ味でもあった
「生野菜でも齧れば違うだろうが……、俺もこればかりはどうすることも出来ん」
「なあ、カッツェ。彼女の様子はどうだ。
俺は構ってられんからな……。貴様ならわかるだろう」
「アイツはここの所、食欲がないんだ……。左党で何でも飲む女なのにみんな吐き出しちまう……」
後ろから来たヤウクが、驚いた顔をしている
「まさか、君達の関係がそこまで進展したとは思いもよらなかったよ。
僕の管理責任不足だ」
彼は、ヤウクのその発言を聞き逃さなかった
「貴様、どういうことだ。隊長はハンニバル大尉、主席幕僚は俺だ。
寝ぼけてるのか」
掌を上にして、お道化た表情を見せる
「本当に君は何も知らないんだね。ユルゲン。
彼等は、暇さえあれば逢瀬を重ねていたのさ。
そうであろう、同志・カッツェ・少尉」
些か、煽るような口調でカッツェに告げる
「お前らさあ、何が言いたいんだよ。
こんな時に喧嘩してる暇なぞ無いだろう」
その様なやり取りをしていると先任曹長と軍医が表れる
疲れ切った表情の軍医は、彼等に尋ねてきた
「君たち、医務室に来なさい。
此処で話は憚られる」
腕を組んで立つ曹長に、彼は問うた
「同志曹長、どういう事でありましょうか」
勃然とした態度で、彼に応じる
「貴方方の胸に、聞くべきではありませんかな。
同志ベルンハルト中尉」
「彼は違いますよ、同志曹長」
脇からヤウクが口を挟む
軍医の表情が変わり始めたのが判ったのか、ヤウクは進んで医務室に向かった
その後を、彼等も追う
医務室で待っていたのは、顔色赤く怫然した政治将校と司令官であった
30分に及ぶ聴取の結果、カッツェが白状したのだ
ヴィークマンとは、既に男女の間柄に成っていた
帰国直後に、その様な関係へ発展したとの事
結果的に言えば、大騒動になった
未婚の男女が契りを結び、その上妊娠させた
今回ばかりは、司令官も庇いきれなかったのか、きつい叱責になった
経歴に傷がつかぬとの配慮から、一週間の《精神的療法》と言う事で謹慎処分
後日、ヴィークマンと共に双方の両親に挨拶に行き、式を挙げるという形に落ち着いた
第一戦車軍団司令部は、悩ましい結末に頭を痛めた
ベテラン衛士の脱落
しかも作戦開始までに、復帰は絶望的
ベルンハルト中尉とヤウク少尉は、方々へ足を運び、陳情しに回った
人探しをする様、各連隊や部署に懇願した
偶々、下士官から選抜された、ヴァルター・クリューガー曹長という青年を見繕ってくることで決着を得た
カッツェは、クリューガー曹長に頭が上がらないであろう
自分勝手な行動の結果、その青年を転属させたのだから
《一からの衛士育成》
ベルンハルト中尉は、中隊の執務室でタイプライターを打ちながら悩んだ
何れ、わが身の在り様も考えねばなるまい
ベアトリクスとの祝言も戦時と言う事で先延ばしにしていたが、同輩の過失を横で見ていると自制できるであろうか、不安になった
案外、ヤウクなどは5年でも10年でも待てるが、自分には自信がない
あの豊満で美しい肉体を思うと、正直夜も眠れぬ日があるのだ
アルミ製のマグカップに入った、冷めた代用コーヒーに手を伸ばす
不味いコーヒーではあるが、これしかない
薄い茶も質の悪い牛乳も飽き飽きするが、其れしかない
タバコなどを吸う司令やヤウクは経済的負担は大きかろう
ふと物思いに耽っているとき、ドアがノックされる
第一ボタンを閉め、居住まいを直す
「どうぞ、入って下さい」
ドアを開け、筋肉質で角刈りの青年が入ってくる
「失礼いたします」
曹長を示す階級章、襟にトレッセの付いた勤務服姿で逞しい肉体の男は彼に挙手の礼をする
彼も返礼をし、立ち上がる
「先日着任いたしましたヴァルター・クリューガー曹長であります。
同志中尉、よろしくお願いします」
彼等は、右手で固い握手を交わす
「同志曹長、私はユルゲン・ベルンハルト中尉だ。
今後、よろしくお願いする」
壁時計を一瞥する
「失礼ではあるが、執務中故、後日詳しい話は伺おう」
「了解しました。同志中尉、失礼いたしました」
再び、敬礼をするとドアを静かに閉め、去っていく
彼は着席する
年の頃は近いとはいえ、落ち着いた人物で信頼できそうだ
しばし背凭れに身を任せると課業時間終了を知らせる音が聞こえる
急いで、身支度をして、部屋を後にした
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
青天の霹靂 その3
前書き
パイロットの拳銃はリボルバーでもいいんじゃないかと思い、敢てM29の8インチにしました
どうせ、拳銃使う事無いから好みの拳銃にしました
マサキは夕刻、一人、ゼオライマーの中に居た
次元連結システムの簡単な動作確認と出撃可能な様に整備を進める
数日前、ウクライナのセバストポリを化け物共が襲った
少なくとも自身がカシュガルハイヴと呼ばれる構造物を地中深くから崩壊させて以降、目立った動きはなかったはずだ
思い当たる節があるとすれば、その攻略の際、地中奥深くで遭った異形の化け物
その際に受けた攻撃を解析して、その事例に前後するように、戦地で一時的に生け捕ったBETAに解析した周波数を照射したことであろうか
確かに、暴れはしたが、即座に次元連結砲で灰燼に帰した
或いは、宇宙其の物から異次元のエネルギーを変換させる次元連結システムの作用が、この異世界に与えたのか……
この禍々しい化け物自身を構成する物質に、何かしらの時空間への影響を及ぼす作用が有るのか……
消滅したはずの自身とゼオライマーを呼び寄せる存在……
有るのであろうか
確かめてみたいし、知りたくもない
その様な相反する気持ちに悩む
気分転換にと、機外に降り立ち、駐機場の端に向かう
灰皿用に赤く染めたペール缶の前に立つと、胸ポケットからレギュラーサイズのタバコを出し火を点ける
頭を冷やして考える
今までは遊びを優先で事を進めてきたが、次元連結システムと怪物に何かしらの影響が出る様では怪物どもを素早く片付けねばなるまい
そして、この世界の人間どもを様々な策を弄すのも良かろう……
水の張った灰皿にタバコを投げ捨てると、機体に向かう
操縦席に乗り込むと操作卓に触れ、電源を入れる
美久が駆け寄ってきた
普段着て居る保護具付きの操縦服ではなく、件の衛士強化装備
幾度見ても、あの肉体その物をそのまま曝け出してしまう姿格好には慣れない
一旦降りて機体の足元で、腕組みをして待つ
すると声が聞こえる
「お待たせしました」
腰を曲げ、両腕を膝に付き、肩で静かに息をつく彼女が居た
垂れ下がる長い髪の隙間から見える首筋は、艶かしく、劣情を引き起こさせる
我ながら、形状記憶シリコンと推論型AIの完成度に満足した
「お前自身が機械なのだから、あんな木偶人形で操縦士遊びをする必要もあるまい」
彼は後ろを向くと再び乗り込む準備をし始める
《ペルシャへ、冷やかしに行く》
無論、連中には話は通してある。
すっと潜って、巣穴を焼いて帰ってくるだけ
簡単な作戦……
そう思っていると、奥より見慣れぬ人影が表れる
《ドブネズミ色》の背広姿に、茶色の膝下丈のトレンチコート
中折帽を被る男が、薄ら笑みを浮かべて近づく
オーバーのマフポケットに両手を突っ込み、此方へ歩み寄る
およそ軍事基地には不相応の姿格好
まるで決まりきったサラリーマンのような支度に不信感を憶える
彼は上着を押し上げ、ズボンのベルト右側に挟んであるインサイドホルスターに手を掛ける
私物の8インチの銃身を持つ拳銃をゆっくり取り出す
(1インチ=2.54センチメートル)
脇に居る美久にも目配せする
彼女の手には、米軍貸与の大型自動拳銃がすでに握られている
「動くな。ここをどこだと思っているんだ」
ゆっくり右手で構え、丁度ズボンのベルトのあたりに向けて照準を合わせる
左手を右ひじに添える形で保持し、撃鉄を上げる
男は、両腕をだらりと下げた侭、笑いながら足を止める
再び、彼女に目配せをする
銃を構えた右手を勢いよく天井に向けると、一発撃つ
倉庫内に雷鳴の様な爆音が反響する
強烈な音と吐き気を催すような耳鳴り
思わず顔を顰める
男は、猶も笑ってはいるが、若干顔色が悪くなった程度だった
「次は貴様を撃つ。両手を上げて、官姓名を名乗れ。
さもなくば、伏せて身動きするな。
俺の気は短いぞ……、忠告は一度だけだ」
男は敵意を無いのを示すように、両腕を腰のあたりまで上げる
掌をこちらに向け、止まる
「もっと上げろ、《万歳》の姿勢まで上げろ」
右掌を包むように左手を添え、拳銃を相手の顔面の位置まで上げる
拳銃の銃把を握りなおし、照門を覘く
.44レミントン・マグナム弾であれば、確実に殺せる
どけていた食指を用心金から引き金に移動させ、左目を瞑り、右目に照星を合わせる
「ほう、スミスアンドウェッソンのM29ですか。良い回転拳銃ですな」
男は日本語で、話しかけてきた
「減らず口を叩ける立場か、貴様。
俺は警告したぞ。手順通りやったから、後は逝ね!
美久、同時に仕掛けるぞ」
僅かに、顔を彼女の方にずらす
「貴方方が噂のアベックですか。
色々、先々で話は伺って居ますよ。
しかし素晴らしい戦術機ですな。
これほど大きなものを御一人で組み上げたとは、いやはや関心致しますよ」
彼は顔を顰める
「貴様、何処の間者だ」
男は、なおも笑みを浮かべた侭だ
再度彼女の方を見る
「火災報知器のベルを鳴らせ。
曲者だ」
彼女は、その場から素早く二発撃つ
爆音が響き、薬莢が勢いよく排出口よりコンクリート敷きの床に転がる
放たれた弾丸は、防火用の非常ベルの保護カバーを破壊し、警報が作動する
けたたましい騒音が鳴り、火災発生を知らせる無線が場内に響く
彼は冷笑する
「これで貴様は袋の鼠だ」
銃を構える彼女に檄を飛ばす
「おい!紐を持てい」
彼女は、其の侭、防災用品の入った棚へ向かう
彼の指示通り、捕縛するために紐を取りに走った
「恐らく、10分もしないうちに警備が来て、お前は捕まる。
詳しい話は、後で聞かせてもらうぞ」
5人乗りのジープが2台止まる
白地のヘルメットにMPの文字が掛かれた腕章、黒革地のサムブラウンベルトを締めた兵達が降りて来る
「おい!木原、氷室、大丈夫か」
別な方角から、野戦服に鉄帽姿の巖谷が声を掛けて来る
小銃を抱えた数名の兵を連れ、やってきたのだ
彼は、警報音により複数の足音が近づいて来るのに気付かなかった
遠くには、白い五芒星が描かれたジープが見える
巖谷が来た前後、米軍のMP(憲兵)が敷地外まで来た模様だ
「いや、失礼しましたな。木原マサキ曹長。
もう少し歓談を楽しみたかったのですが、どうやらMPが来た様で……」
軍刀を手にして駆けてきた篁達が近づく
彼等を押しのける様に彩峰が、前に出る
軍帽に、オーバーコートを着ていたが、下は白いフランネルのシャツ一枚であった
押っ取り刀で来たのであろう
「貴様等は、毎度毎度騒ぎばかり起こして、我々を侮辱しているのか」
右手に握った刀を、左手に移す
彩峰は刀に手を掛けると、叫ぶ
「乱波風情が、何をしている」
男は観念したかのように目を瞑ると、素っ頓狂な声を上げる彩峰に返す
高らかに笑い彼の方を向く
「君も……、無粋な男だな……。
《翁》が知られたら、さぞ嘆かれるであろうよ」
暗に五摂家の関係者と近いことを匂わす
男の態度を不快に感じたマサキは弁明する
「俺は悪くないぞ。この帽子男が名乗らずに蔭から出てきたので、誰何した迄の事よ」
消防車のサイレンが聞こえる
如何やら、大騒ぎになってしまった様だ
彼は、天を仰ぐと観念することにした
騒ぎは基地内で済む話で終わらなかった
不審に感じた彩峰は、駐在武官経由で国防省に問い合わせたのだ
返答があったのは城内省
逆に篁、巖谷の両名に当てた《叱責》する電話が来た
城内省を仕切るナンバー3の軍監直々の《苦情電話》
慌てぶりからは上層部、特に五摂家の関与を感じさせた
一番怪しまれた情報省からの連絡はなかった
彼等は沈黙を通した
「おい、殿中出入り御免のワカサギ売りの商人風情が、こんな欧州くんだりまで来るのか」
机に腰かけ、腕を組む彩峰は、目の前で平謝りを繰り返す大使館職員達を一括する
彼は、京の将軍御所に出入りするワカサギ売りの商人という前提で話を進めた
「そもそも何で霞ケ浦のワカサギ売りが、都まで売りに来るのだ……」
巖谷が、逆に彼に問うた
末席とはいえ斯衛軍に身を置く彼にとって、その話は腑に落ちなかった……
「私が、当人から以前聞いた話だと『光菱重工北米事務所の販売員』という事でした……」
篁が、そう呟く
ミラとの逢瀬の件が、殿中はおろか、禁裏に迄、露見していたのも件の人物と接触していたのが有るのかもしれない
己が、脇の甘さを恥じた
「北米担当が何で西ドイツに居る。おかしいではないか」
大柄な職員が、篁に問うた
仕立ての良い両前合わせの背広を着て、立つ男はまるで壁の様に見えた
侃々諤々の議論が起きている様を横目で見ていたマサキは呆れた
彼は、弁明する巖谷等の話を聞き流して、懐中に手を入れる
『ホープ』の箱からタバコを取り出すと、火を点ける
そして近くにあった椅子に座ると、独り言を言った
「随分と雑な素破だな。
五摂家の何某が関わってると暗に認めているようなものではないか」
周囲の気を引く発言をわざとして、秘密を聞き出す算段であった
「何がしたい」
誰かが、そう言った
彼は、その男の声を聴きながら返す
「俺を道具のように扱う将軍とやらもそうだが、その《翁》とかいう人間が気に入らん。
かき回すだけ、かき回して、意味不明な言動をする。
貴様等に問いたい。その爺はどれ程の人物で、なぜお前らは恐れるのだ。
そんな耄碌なぞ、座敷牢にでも押し込めれば良かろう。
違うのか」
周囲を一瞥する
一様に押し黙っている所を見ると、かなり深刻な話題の様だ
これ以上、関わるのは得策では無かろう
彼は、この件に関しては諦めた
「大方、その素破とやらも、例の爺が用意した物であろう。
一つ言っておく。
大がかりな仕掛けを用意して、俺を弄繰り回している様だが、どの様な結末になるか。
ペルシアにある化け物の巣穴を焼く様を見るが良い」
右手の食指で、声のする方を指差す
「そしてその事を一言一句、違えず、その耄碌爺に伝えて置け」
彼は勢いよく、立ち上がる
「一寸ばかりペルシアへ飛んでくる。
何、気分転換のドライブだ」
そして、冷笑をしながら後ろを振り向く
「無駄な被害を出したくなければ、CIAのテヘラン支局にでも電話して置け。
ホラサン州から兵力を極力下げる様にとな……」
彼は、出口の方に踵を返すと、ドアを開ける
呆然とする職員達を目の前にして、其の侭部屋を後にした
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
青天の霹靂 その4
帝政イラン ホラーサーン州 マシュハド
有数の地方都市であり、シーア派の巡礼地である彼の地
歴代王朝が建立した荘厳な霊廟や、寺院
嘗てサファビー朝時代に築かれ、帝政ロシア軍が爆破したイマーム・レザー廟
黄金で覆われた大伽藍に、モザイク模様の豪奢な拝殿
羊毛で織られたペルシア絨毯が敷き詰められ、シャンデリアの吊るされた回廊
この街を象徴する寺院の一つであり、重要な観光資源であった
その都市は1974年10月のハイヴの出現によって事情は変わる
巣穴から這い出て行く異星より来訪した禍々しい化け物
隣国ソ連は予防攻撃と称して、中央アジアのトルクメンから核飽和攻撃を実施
(トルクメン・ソビエト社会主義共和国は、今日のトルクメニスタン)
およそ300機の重爆撃機と1500発近い爆弾に、地上配備型の核弾頭搭載ミサイル数十発
旧市街を含む、この都市の全てが、一瞬にして灰燼に帰したのだ
その様な攻撃をもってしても、BETAの進撃にとっては時間稼ぎにすらならなかった
マサキは、その核飽和攻撃をもってして為し得なかったハイヴ攻略を、数時間で行う
《メイオウ攻撃》
ゼオライマーの胸部より発射される同攻撃は、全ての原子を無に帰す効果があり、照射時間も無限
彼は、鉄甲龍本部を吹き飛ばした同等の威力の攻撃を、上空より実施
カシュガルハイヴの時と同じように、光線級の強烈な対空砲火を恐れた
BETAの群れは、ただ周辺を彷徨うばかりで、近寄らなければ能動的な反応は無い
紐の切れた操り人形の様で、その不気味さを訝しむ
前回の時の様に縦穴から潜ると、内部から爆発させ、構造物を崩壊させた
数十キロ先に退避させたイラン軍と派遣されていた中近東諸国の連合部隊
彼等が備える陣地を睥睨するように通り過ぎると、再び西ドイツへ転移した
米国バージニア州ラングレー
同地にあるCIA本部にある人物が呼ばれていた
金髪で、レンズの厚い牛乳瓶の底の様な眼鏡を掛け、職員に案内される白人の男
ツイードの三つ揃えの背広を着て、右手には黒無地の兎毛で織ったテンガロンハットを持ち、左手には厚いB3の資料を抱え、茶色の編上靴を履いた足で大股に歩く
白地のシャンブレー・シャツに臙脂色のウール・タイ
その姿はまるで西部や南部の田舎紳士という支度であった
男の名前は、フランク・ハイネマン
彼は、航空機メーカー、グラナン社の戦術機開発部門に勤務
米国有数の若手技師として、期待の星と見られている
その様な事情もあってか、本人の意思とは無関係に日米合同の「曙計画」への参加を命ぜられた
夕闇迫る室内に入ると、シャツ姿で足を組んで床に座る長官が居た
室内は暗く、香が焚かれ、何やら画が掛けてある
長官は、案内役の声を聴くと立ち上がり、部屋の明かりをつけるよう指示した
閉じた目を開くと、左手に嵌めたタイメックスの腕時計を流し見した後、彼の方を向いた
「私も、今流行りのニューエイジ・カルチャーの研究をしていたのだよ。
なんでも西海岸では、BETAを神から使いと崇める狂信者共が出始めたと聞いている。
奴等は、阿芙蓉やマリワナの吸い過ぎで、気が狂ったかと思ったが違うらしい。
本気で、神に縋り始めていると言う事だよ」
左手に抱えた資料を置くと、机に座るよう指示されたハイネマンは、長官に問うた
「私の事を、呼び立てたのは、そんな世事に関する話ではないでしょう」
長官は、床に敷いた濃紺の羊毛製絨毯の上に立ち、ストレートチップの茶革靴を履きながら、応じる
「日本で新型戦術機が開発された話は知っていよう」
彼の顔色が豹変する
「篁という男が、この件で帰国したのは我々も掴んでいる。
君も浅からぬ間柄であろう」
靴を履くと、屈んで絨毯を巻き上げる
「ブリッジス君の事が、忘れられぬか。
あの貴公子に、寝取られたことを昨日の事の様に悔やんでいるのも分かる。
良い女なら、私の方で世話をしよう」
彼は、勢い良く立ち上がる
「その様な話をしに来たのではありません。
私は帰らせていただきます」
強い麝香が立ち込める室内で、男はオイルライターを取り出し、着火させる
『SALEM』の文字が掛かれた白と緑の紙箱から、白色のフィルター付きタバコを取り出し、火を点ける
紙巻きたばこを深く吸い込み、重く苦しい話から逃れるべく、バージニア種の甘みと薄荷の味付による爽快感
一時の安らぎを求めた
「待ちたまえ。君に詰まらぬ話をさせに来たのではない。
実は、大型戦術機のデータをわが方で得たのだよ。
彼等の機体は、核動力相当の新型エンジンで動いていると言う事が判明した」
「お待ちください。その話が本当であるならば、自分はこの案件には関係ありません。
それは、すでにロスアラモスの扱いです」
彼は語気を強めて、眼前の男に請う
「お願いです。私はこの案件には、関わりたくありません。
確かに、篁には複雑な感情は持っています。
ですが、技師としては、その様な操縦者への悪影響が計り知れない核搭載エンジンの戦術機という禁じ手は、魅力的です。
しかし、新元素の解明も途上の今、その様な怪しげなものに頼り切るのは、些か不安が拭えぬのです」
長官は、椅子に腰かけると、彼に向かって言った
「新型機のパイロットは、自分を何と評したか、知っているか」
訝しむ彼を横目に続ける
「《冥王》だそうだ」
思わず、目を見開く
「……つまり地獄の主と、自分から」
右手に握ったタバコを、灰皿に押し付ける
「そうだ、冥府の王と。
冥府の王の事を、日本では閻魔大王と言う
日本の仏教信仰では、閻魔大王は地蔵菩薩の仮の姿。
僧形に身を窶し、地獄の責め苦から救う、代受苦の菩薩と聞く」
「それがどのような関係が……」
「彼は、BETAの艱難から、我らの身代わりになって救ってくれる存在かもしれんと言う事だよ」
彼は、椅子に腰かける長官を見つめる
その表情は恍惚としており、壁を眺めている
彼は、思う
長官自身が、例の戦術機に魅了されている事を……
暫しの沈黙の後、長官は口を開く
「この件は、君の戦術機開発に役立つかもしれん。
また、機会があれば声を掛けよう。よろしく頼む」
彼は立ち上がって、送り出す長官に見送られる
職員の案内で、来訪者用の出口から退庁
帽子を被り、日の落ちた空を見上げながら駐車場まで歩いて行った
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
青天の霹靂 その5
前書き
サミット主要5か国の内、日米以外の国に関してのお話です
(英、仏、西ドイツの順になります)
午前二時、眩いシャンデリアの輝く大広間に、響く足音
勲章を胸一杯に付けた完全正装の軍人や燕尾服姿の紳士、ドレス姿の貴婦人
まるで絵画から抜け出してきたような人々は、引切り無しに続く軍楽隊の演奏に乗って踊る
その夜会の主人は、浮かぬ顔をしていた
王立空軍将校の軍服を着て、目立たぬように、窓辺に立つ
一人、深夜のロンドン市中を眺めていた
彼は、今夕の話を思い起こしていたのだ
時間は数刻ほど遡る
首相からの上奏の折、日本の戦術機に関して、彼は尋ねた
「陛下、彼の国では既にハイヴ攻略を2か所単独で成したと聞き及んでおります」
「本当か」
男は、振り向かずに答える
「では尋ねる。どれ程の損害が日本軍に生じたのか……」
「信じられぬ話ではありますが、全くの損害無しです」
男は、振り返る
「誠か」
この男は、嘗て七つの海を制覇した大英帝国の皇帝で、今は英連邦の国王であった
「秘密情報部長官を此処に呼び出せ」
「陛下、ただいま参内致しました」
秘密情報部長官は、今にも譴責されるかと震撼していた
「では、聞こう。日本の大型戦術機とはどれ程の物か」
情報部長官は、額の汗をハンカチで拭うと、答え始めた
「先ず、支那の新彊、嘗ての東トルキスタンに置いて、僅か12時間でハイヴ攻略を成し得ました。
その後、西ドイツのハンブルグでパレオロゴス作戦の下準備の為に入った後、米軍第二機甲師団の基地に駐留しています」
「それだけかね」
眼光鋭く、彼を睨む
「では、余が教えてやろう。
今しがた入った情報であるが、ペルシアのマシュハドのハイヴを同様に破壊したのだ。しかも2時間も掛からずにな。
それで良く、情報部長が務まるわ」
右の食指で、彼の胸元を指差す
彼を追い出すように部屋から出すと、入れ替わる様に国防長官が入ってきた
「国防情報参謀部の意見はどうか」
男に深い礼をすると、国防長官は話し始めた
「では申し上げます。国防情報部では、例の大型機は 核爆弾数百発に相当する威力であり、其れ一台でまさに一騎当千の価値があると考えて居ります。
操縦者と開発者は男女混成のペアで、その機体を動かしていると聞き及んでいます。
しかしながら、その動力源に関しては一切不明です」
男は、執務用の椅子に腰かけると、こう漏らした
「《コロンビア》(米国の雅称)の統領に書状を認める。この件に関しては、政府部内でよく意見をまとめた後、報告せよ」
机の上に立掛けてある老眼鏡をかけると、万年筆で流れる様に書き上げる
署名した後、国璽を押し、封をする
「これを、明日一番の飛行機でD.C(District of Columbia/コロンビア特別区)に届けよ」
両手で親書を受け取ると、国防長官は最敬礼の姿勢を取る
そして部屋を後にした
「若かりし頃、《コロンビア》の寡婦に熱を上げたが、今思えば愚かな事であった物よ……」
脇に立ち尽くす首相へ、聞こえる様に囁く
「そなた達が、自死を持って迄、諫めてくれたからこそ、今日の余があると言っても過言ではない」
首相は、その男の顔を直視できなかった
「臣民が、王朝の弥栄を願う気持ち。無駄には出来ぬからな」
龍顔から流れ出る滂沱の姿を見て、彼は咽び泣いた
「この愚か者共が!」
深夜の宮殿内に、怒声が響き渡る
「閣下、お怒りをお納めください」
初老の男は、彼を諫める秘書官たちを一括する
「貴様等は、揃いも揃って、英米に先を越されるとは何事か。
この栄光ある、第五共和国に泥を塗りつけているのと何ら変わりはない」
彼は、椅子に腰かけ、腕を組む
「あの老人共にコケにされてるのは、懲り懲りだ」
暫し、瞑想をすると、目を見開き、言葉少なに答える
「首相を呼べい!」
秘書官が恐る恐る問いかける
「閣下、今は深夜一時で御座います。今から呼び立てるとは……」
「事は急を要する。そして奴の他を置いてこの工作を行える人物はいない」
秘書官が問い直す
「なぜですか。ほかにも、専従工作員や軍のクーリエがおります」
右手を持ち上げ、天井を指差す
「奴には、日本国内に妾がおって、そしてその女との間に子が有る。
その女は、武家の娘と聞く。
彼女を通じて、城内省に話を付けてもらう」
一同に衝撃が走る
「例の新型機に関する情報は、城内省の中に立ち入らねば手に入れられぬ。
将に『虎穴に入らずんば虎児を得ず』とは、この事よ」
机の上に有るシガレットケースを開け、フィルター付きのタバコを取り出すと、火を点ける
《ジダン》(Gitanes)の青色の箱から開け、詰め替えた物であった
「そうよのう、この《ジダン》の様な、壮麗な踊り子でも用意して、戦術機の衛士に近づけよ」
タバコを吹かし、吐き出す
「どの様な人物か知らぬが、男であれば、転ぶ様な絶世の美女を仕立て上げてな」
彼は不敵の笑みを浮かべた後、こう告げた
「《フリッツ》共に先を越されてはならぬ。あの負け犬共には、その地位に甘んじてもらわねば」
タバコを、右手で灰皿に押し付け、もみ消す
「我が国の平安の為に、彼等は永遠にその立場に据え置かねばならぬのだよ」
そう答えると、再び瞑想の世界に戻った
ボンの合同庁舎では、深夜を過ぎても作業が続いていた
三か月後に迫ったパレオロゴス作戦の補給計画の遅れを取り戻すべく毎夜残業が行われていた
政府部内の試算では、現在の保有弾薬数や燃料備蓄量ではハイヴ攻略には不足
各所を通じて、合わせて食料や需品の確保に追われていた
男はタイプライターの前から立ち上がると、眠気覚ましにコーヒーを取りに給湯室に向かった
周囲を見ると、自宅に帰れずに机に突っ伏して仮眠している人物がそれなりに居る事に気が付く
既に、残業は常態化しており、彼は、気には留めなかった
給湯室で出涸らしのコーヒーを入れると、紙コップを持ったまま、室外に出た
季節は既に4月に近いが、肌寒くオーバーが必要なくらいの温度
窓辺から、入り込む深夜の風は冷たく、目が冴える
懐より両切りタバコを取り出すと、火を点け、吹かす
噂では、日本軍の大型戦術機は、高出力で大火力
高度1万メートルまで悠々と飛び上がり、推進剤の消耗の心配もいらないと聞く
光線級の攻撃を物ともせず、逆にBETAの群れを一撃で灰燼に帰す
その話が本当ならば、この様な準備計画は無駄ではなかろうか……
いつ終わるか、わからぬ残業を続けているせいであろう
そう自分自身に言い聞かせ、心を落ち着かせる
この作戦が終わったならば、妻と共にオーストリーのウィーンに行って湯治でもしたいものだと考える
足腰の痛みは辛く、長時間のデスクワークで体も凝り固まってしまった
35度の熱泉に入って、体を休めたい
或いは、バーデン・バーデンの混浴に入って、妻と暫し語らうのも良かろう……
ふと腕時計を見ると、深夜3時
開庁時間まで仮眠するかと、その場を後にした
後書き
ソ連の反応に関しては後日改めて書かせていただきます
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
褐色の野獣
前書き
深夜、東西ドイツ国境の森で密談をする男達、その狙いとは何か……
百姓姿の男が、眼光鋭く見つめる先に有るものとは
深夜二時 東西ドイツ国境
背広姿の男達が、しきりに腕時計を気にしながら待っていた
「なあ、こんな所で《飛び込みの営業》とは、君も仕事熱心だね。
《エコノミック・アニマル》という前評判も嘘ではないらしいな」
中折帽にトレンチコート姿の男が、頭を下げる
「お褒めに預かり、光栄の極みです」
男は、山高帽に厚いウールコートを着た栗色の髪の紳士に、紙袋から物を取り出す
「お近づきの印とは言ってはなんですが、これを」
化粧箱に入った何かを差し出す
封を開けるなり、驚く
「こんな高価なものを……」
男は、冷笑する
「商いの都合上、様々なお客様の所に出入りするので、つまらぬものでは御座いますが」
見た所、日本製の時計であり、彼の記憶が間違いなければ『クオーツ・アストロン35SQ』という商品である事に違いはなかった
「そちらの方も、同じものが御座いますので、どうぞお納めください」
シルクハットに、脹脛を覆い隠す長さのマントという支度の黒髪の紳士にも進める
その姿格好は、片眼鏡を掛けさせ、杖を手に持たせれば、まるで英国紳士という格好であった
「些か、成金趣味で厭らしい作りではあるが、秒針と機械は正確ですな。
絡繰り細工の得意な日本ならではの、品物とお見受けいたす。
小倅めにでも、授けましょうぞ」
そう言うと、懐に収めた
深い森の中を一台のトラックが抜けて来る
青い煤を吐き出しながら走る車は、前照灯に人影を認めると止まる
エンジンを掛けた儘、二人の男が降りてきた
灰色のキャスケット帽を被り、黒色のモールスキンの上着に、薄汚れた茶色のコール天のズボン
何処にでもいる百姓姿で、両手には不似合いな皮手袋。
後ろには同様の支度をした金髪の小柄な男が、アタッシェケース二つを下げて立ちすくんでいる
帽子を持ち上げて、眼前に立つ紳士達に挨拶をする
「いや、お久しぶりですな。
見慣れぬ顔が二人ほどいますが、説明して頂いてもよろしいでしょうか。
《紳士》殿」
彼は、シルクハット姿の男に声を掛ける
件の紳士は、シルクハットのつばを持ち上げ、返礼の挨拶をすると話し始めた
「今回、同席頂いたのは、日本と米国から来た《ビジネスマン》です」
トレンチコート姿の男は、マフポケットから両手を出すと、こう付け加えた
「私は、ビジネスマン等と大層な事は申しません。ただの営業員ですよ」
百姓は、右手を顎に添える
「まあ、良い。
して、目的の物は用意してきた」
左掌を後方に立つ小男に向ける
彼の指図に従って、手提げかばんをゆっくりと紳士に渡す
紳士は、中を検めると黙ってカバンを持って下がった
山高帽の男が、ジュラルミン製の大型カバンを両手で抱えて、小姓と思しき男に渡す
一連の作業を黙って見ていたトレンチコート姿の男は、動き出す
車の前に立つ百姓に、一礼をした後、懐中に手を入れ、名刺を差し出す
百姓は、名刺を見ると、こう応じた
「ほう、大空寺物産とは。
それなりの企業ではありませんか」
男は、中折帽のクラウンを持ち上げ、挨拶する
「申し遅れましたが、私は、そこの西ドイツ支社にこの度転勤して参りました。
《鎌田》というものです」
懐中より、化粧箱を取り出す
「どうか、お近づきの印として、お納めください」
百姓は、受け取るなり、中を改める
そして時計のバンドを持ち、裏に書かれた銘鈑を確かめる
「初めて会う方から、斯様な高価なものを頂いては……」
百姓は、彼からの贈答品を後ろに立つ小男に渡すと、代わりにファイルを受け取った
「代わりになるか、解りませぬが、貴方方が欲しがった《目録》で御座います」
トレンチコート姿の男は、ファイルを受け取った後、一瞬顔色が変わった
男は思った
これが、悪名高い保安省の《個人情報》ファイル
聞き及んではいたが、政府に不都合な人間や移住希望者、危険思想に感化された人物、等の《監視》を通じ、情報を収集しているとの噂は真実であった事に、今更ながら驚いていた
男が出した資料を、改めて見る
付箋が付いているページに載る人物は、年の頃は、18歳から20歳の間と言ったところであった……
「まあ、私なりの誠意に御座います。
どうか、良れば、受け取って頂ければ幸いです」
シルクハットの紳士が告げる
「君なりの、恭順の意かね……」
百姓は不敵の笑みを浮かべる
「端的に申し上げましょう。
万が一の際、西に下る保険に御座います。
もし宜しければ……」
婉曲な表現で、告げる
彼は暗に、貢物として差し出す様な事を示した
紳士は、マントを押し上げ、腕を組む
「何ゆえに」
百姓は、皮手袋越しに、右手で顎を撫でる
「《我が同志》の……」
薄ら笑いを浮かべながら、続ける
「いや、知人の妹なのです。
彼女の兄の頼みもあって、せめて彼女だけ西に逃してほしい、との考えて居ります」
紳士は、トレンチコート姿の男からファイルを取り上げると、付箋があるページまで捲る
暫し凝視した後、答える
「田舎百姓とは言え、慣れぬ《頼み事》などすべきではない」
冷笑が響き渡る
「田舎者故に、西の事情を知りませぬ無作法、お許しください」
男に向かって百姓は頭を下げる
その際、彼に気付かれぬよう、舌を出す
紳士は、百姓の姿を見て、こう応じた
「相分かった。ではこちらで《相応の話》を用意しようではないか。
それでどうだね、諸君!」
脇に居る《ビジネスマン》二人は頷いて応じた
「では、明日の仕込みもありますので、この辺でお暇させて頂きます。
《旦那》」
キャスケットの鍔を持ち上げて、挨拶をすると、車に乗り込む
深緑色のトラックは、元来た道を駆け抜けていった
紳士は、トラックが立ち去るのを見届けると、周囲を窺う
山高帽の男は、持ってきた革張りのアタッシェケースから電動工具のような外観をした物を取り出す
ベトナム戦争で使われた『M10』と呼ばれる小型機関銃で、銃把の下から弾倉を差し込む
コッキングレバーを引き、何時でも射撃可能なように、つり革を左手で掴む
《安全》が確認された後、懐中電灯を取り出し、ファイルを再び見た
「これは、東ドイツの戦術機部隊長の妹ではないのか……」
紳士は、思わず独り言を漏らした
脇から、トレンチコート姿の男が、改めて覗き込む
見目麗しい、金髪碧眼の美女の写真
Irisdina Bernhard.
1959年9月8日生まれ
その他、家族構成や子細な情報が独語の原文と、別刷りの紙に英字のタイプで書き込んである
「アイリスダイナ・バーナードと読むのでしょうか」
日本人の男は、考え込むような素振りをする
「中々の麗人で御座いますな」
英国紳士は、表情を厳しくして言う
「諸君!これは大事になったぞ。今しがた入れた東ドイツ財政の機密資料の比ではない。
本物の《閻魔帳》だ。
しかも、戦術機部隊メンバーに関する物であることは間違いない」
彼は、帽子の鍔を握る
「我々も、奴等の政治的策謀に載せられていると言う事だよ」
山高帽の米国人《取次人》が、問う
「《旦那》、どうしますか。解せぬ話ですが」
紳士は、米人に返答する
「君も、《会社》に持ち帰って話し合い給え。
こればかりは、我等で判断できるレベルではない……」
紳士は、トレンチコート姿の男を振り向く
「《鎌田》君、一旦日本に持ち帰り給え。これは大事だよ。
下手すれば、西ドイツの宰相の首が再び飛びかねん」
男は、中折帽のクラウンに手を置く
「いやはや、今年はとんでもない年になりそうですな」
米人が同調する
「ああ、全くだ。お月さんに化け物が巣食ったときよりも酷え年になりそうだ」
男達の談笑の声が、深夜の森に響いた
「この話は本当なのか、同志シュミット将軍」
「議長、小職は、そう伺っております。
アスクマン少佐が、直々に《仕入れた》情報を精査した結果、その様な結論が出ました」
濃紺の背広を着た男が、椅子に深く腰掛ける
この男は、ドイツ民主共和国の国家指導者である国家評議会議長であり、社会主義統一党書記長を兼務している人物でもある
「つまり我々は、既に、その男と接触していたと言う事かね」
「小職も、KGB(国家保安委員会)に問い合わせた所、同様の見解を得ました」
『KGB』との言葉を聞いて、男の目が鋭くなる
「では、私が直々に、同志ベルンハルト中尉を宮殿に呼ぼう。
君達は、引き続き、その大型戦術機の衛士の内偵を続けよ……」
机の上に有る、《casino》と書かれたタバコの箱を引き寄せて、掴む
中から、一本取りだして、火を点ける
深く吸うと、溜息を吐き出すような勢いで紫煙を燻らせる
「これは、とんでもないことになったぞ……。
ご苦労であった、同志シュミット将軍。
君は、下がり給え。
後は、評議会で、どうにかすべき話だ……」
議長は、立ち上がると深夜の執務室の窓を開ける
遠くから、車両の行きかう音が微かに聞こえる
宵の街に響く音は、軍関係であろうか
昼夜問わずパレオロゴス作戦の準備をしていると、聞く
シュミットは、内心馬鹿々々しく思ったが、その場では顔には出さなかった
部屋を後にすると、静かに苦笑した
アスクマン少佐は、西側から大型戦術機の情報、つまりゼオライマーの秘密の一部を手に入れた
憎きユルゲン・ベルンハルト空軍中尉の妹、アイリスディーナ・ベルンハルト
彼女を、文字通り西側に《売り飛ばす》事によって、その秘密を我が物としたのだ
彼は、ほくそ笑んだ
女一人を、西の社会に貢物と出す確約をする代わりに、ソ連KGBやGRU(赤軍総参謀本部)が最も欲した秘密情報を得る
敵対する《モスクワ》一派を出し抜き、優位に立つ
無論、表立って敵対者を作るのを避けるために、上司のシュミットには一応、明かした
其れより先に、議長と大臣には私信を送る形で報告済み
今頃、それを知らぬ間抜けな上司が、《献言》しに行っているのであろう
その様な事を思いながら、味わう嘉醸の格別さは表現できない
薬湯に浸りながら、ガラス細工の施された杯を持ち上げる
自然と笑みが浮かぶ
奴等に先んじて、その《ゼオライマー》パイロットと接触してみるのも一策であろう
杯を置き、湯舟より立ち上がる
姿見鏡の前に立ち、自らの裸体をまじまじと眺める
細く痩せてはいるが、筋肉はまだ残っている
若かりし頃よりは衰えたとはいえ、小娘などを簡単に捻って屈せるであろう
かのベルンハルトの妹、アイリスディーナや、その恋人、ベアトリクスを辱める様を思い浮かべる
「実に愉快」
ふと、独り言を言う
寝台の上では、バスローブ姿で横になっている愛人が待っているであろう事を思い起こす
ハンガーにかけてある、バスローブを着こむと、浴室から出て寝所に向かう
この興奮冷めやらぬうちに、愉しませて貰うとするかと考え、戸を閉めた
後書き
アイリスディーナ・ベルンハルトの誕生年は、1983年に24歳と言う事から逆算して1959年にしました
(本編の設定では、年齢と誕生日のみです)
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
褐色の野獣 その2
前書き
アスクマン少佐のもたらした情報の影響は、西側にどのような反応を与えたのか……
東ドイツに潜入した工作員が持ち帰った情報にCIA、MI6は困惑した
散々、宣伝煽動で、持ち上げた戦術機実験集団の隊長の妹
その人物を西に亡命させたいと受け取れる内容の話を、保安省職員が持ち込んだ
しかも、只の小吏ではない。
中央偵察管理局の《精鋭》工作員と名高い男が、直々に手渡ししたのだ
中央第一局で、少佐の立場にあるとも、聞く……
両者は、この件を《塩漬け》にすることにした
しかし、日本帝国の情報省は違った
その場に来ていた《営業員》を自称する男が、名刺に紛れ込ませて情報を渡した
東ドイツとソ連の出方を見るために、敢て《冒険》に出たのだ
脇で見ていた工作員達は、内心で何を考えていたのであろうか……
それを知らなかったのが、彼に対して唯一の救いであった
彼は、数週間前の事を思い起こしていた
城内省の本拠である、帝都城の一室に、着物姿をした長髪の人物が入る
彼の傍に立つ、僧形の大男も続く
袈裟の上から大振りの数珠を首に下げ、手には太刀
堂々とした態度からすると、将軍に使える茶坊主や側用人ではなさそうである
平伏して待つ彼を、一瞥すると上座に着物姿の男が座るのを待つ
男が座ると、その大男も右手に太刀を携えて座る
「面を上げよ」
男の声で、彼は顔を上げる
「貴様を呼んだのは、他でもない」
長い鬚を右手で触りながら、問う
「支那で拾った男の話は、聞いて居ろう。
其奴の情報を東側に流せ」
彼は驚愕した
この東西冷戦下で、それは自殺行為にも思えた
彼は思わず、叫ぶ
「翁、それは……危険な賭けでは御座りませぬか。
今、米国の後塵を拝して居るとはいえ、仮想敵国にその様な《餌》を与えるのは」
《翁》と呼ばれる男は、応じる
「儂とて、危険な行為であることは承知しておる。
何れ、米国がハイヴより得た新元素をもってして新型爆弾を完成させる日も、そう遠くは無いと聞く。
米国一国支配の体制では、殿下の御威光も陰ろう。
故に、ソ連との形ばかりの冷戦を続けさせ、疲弊させるのだ」
《翁》は、冷笑した
「無論、頼みの綱が米国一本槍である限り、我が国は使いやすい便利な傀儡の儘よ。
細くとも、ソ連という他の伝を構築しておかねばならぬ事情も否定はせぬ」
男は再び考え込むと、暫し間をおいて話した
「今、欧州は風前の灯火じゃ……。
何れは、我が国にも飛び火しよう……。
そこで、後方で栄える連中、特に米国に痛みを思い出させる」
彼は、困惑した
「我が国に害を与える可能性があっても、猶、その必要がお有りでしょうか」
《翁》は、居住まいを正し、告げる
「武人とは、常に死を覚悟して臨むもの。
誰かが、夜叉にならねばなるまい……
其方が、今日より夜叉となって、その任に当たれ」
不敵の笑みを浮かべる
「その為に、支那で拾った男には、捨て石になって貰うのよ」
《翁》は高らかに笑った
《翁》が、一頻り笑った後、彼は尋ねた
「《例の男》が、生き延びた際は、如何様に扱われるのですか」
腕を組んで、彼の方を見る
「形ばかりの褒賞を、幾らでも与え、飼い殺しにでもしようぞ。
女を侍らせている所を見ると、余程の好色家に思える。
好みそうな美女でも仕立て上げ、情で其奴を縛れば、無闇なことも出来まいよ」
再び、高らかに笑う
「其方が活躍、愉しみに待っておるぞ」
彼は、その会話を思い出しながら、木原マサキに会いに向かう
マサキは、帝国軍の戦術機訓練に参加していたが、飽きた彼は、抜け出す
訓練場の裏で、タバコを吹かしていた
うんざりする様な曇り模様に、この寒さ……
コヨーテの毛皮が付いた軍用防寒着を着て、爆薬箱を椅子代わりにし、腰かけていると、草叢から、例の《会社員》が表れる
帽子を被った男は、オーバーのマフポケットに手を突っ込んだ状態で、彼に向かって問う
笑みを浮かべながら、諧謔を弄した
「君が冥府より、わざわざ現世を訪ねた事は、すで伺っているよ」
その一言を聞いて訝しむマサキ
思わず、こう言い放った
「俺は、この世界に来て様々な連中に在ってきたが、貴様等ほど傲慢な人間は、知らぬ。
こんな偉そうに振舞っている乞食なぞは、見た事も聞いた事もない」
男は、立ち竦んだ侭、冷笑している
彼は、眼前の男に、こう答えた
「しかし、覗き見も大変であろうよ。
俺と美久を、貴様は覗いていたのは把握している」
彼は、次元連結システムを応用した携帯型探知装置で、男の動きを逐一観察していた
「中々、他人の目に曝されながら暮らす等と言う事は、出来ぬ。
良い経験になった」
彼は、苦笑する
「何時でも、俺を尋ねれば良い」
そして、捨て台詞を言い放った
「見たけりゃ、見せてやるよ」
男は、一瞬唖然とした表情になった後、剽軽な態度を取った
「おやおや……。
吃驚させようと思って居たが、全てお見通しかね」
男は、一瞬目を瞑る
目を見開くと、静かに告げる
「ふむ、中々、君も秘密の多い男だね。
では、私は帰る途中なのでね……。
此処で、失礼するとしよう」
男はそう言うと、草叢の中に消えて行く
(「この溝鼠野郎が……」)
姿の見えなくなった男に、彼は心の中で叫んだ
入れ替わる様に、強化装備の篁と巖谷が来る
脇にオートバイのヘルメットの様な物を抱えている
彼は、ふと思い出した
あれは確か、美久が、この間持ってきた77式気密装甲兜という物
通電することで色が変化し、非常時には前面を金属製の装甲で覆うという良く判らない造りで、強化装備と同じくらい意味不明な物であった
あんな不格好な強化装備とヘルメットを被るくらいなら、まだ米空軍の戦闘機パイロットスーツとヘルメットを着る方がマシに思える……
「木原、休憩時間にはまだ早いな」
巌谷が声を掛ける
「何、俺は出歯亀の相手をしていた迄だ。
何時ぞやは、美久と一緒に居るとき、覗いていた男だ」
(「中々の下種だよ」)
二人の男は渋い顔をする
「帽子男が、先日、こうほざいた。
『山吹の衣を着た武人の様に、外遊に行ってまで、他人の女を寝取る趣味は無い』、と」
篁の目が据わる
「しかし何の話だ。俺には、さっぱり解らぬ」
彼は、真顔で篁に問うた
段々と二人の顔色が変わるを見て、聞くのを諦める事にした
事務所に帰ると、隊長に叱責された
何が問題なのか、質した事が、再度の叱責理由になったのだ
日頃より自由気侭に振舞う彼は、組織の中では浮いた存在であった
一応、時間厳守や行事には参加するが、あまりにも有図無碍な態度に他のメンバーから問題視される
それが、今回の叱責の本当の理由であった
無邪気に問い質したのは、藪をつついて蛇を出す結果になったのだ
『「兵隊ごっこ」も、飽きた』
彼の偽らざる感想であった
あと3か月程我慢して、その後ソ連を焼いて、火星か、月でも消し飛ばすのも良いかもしれぬ
デモンストレーションとして実害の少ない木星の衛星ガニメデでも、良かろう
案外、化け物共の巣にでもなっているかもしれないし、感謝されこそすれ、恨まれぬであろう
或いは、嘗て秋津マサトの人格が残っていた時の様に、敵に捕まって、奴等の反応を見るのも楽しかろう
あの時も、鉄甲龍の間者に捕まり、首領直々の拷問を受けたが、然程ひどい扱いではなかった
システム化された拷問方法があるKGB、CIAはともかく、ゲーレン機関やシュタージ辺りの田舎の組織では、洗練された尋問法も無かろう
少しばかり仄めかして揶揄い、遊ぶのも良かろう
最悪、奥の手を準備して置いて、逃げ出せばよい
あまり考え事をしていては、風呂に入って温まった体も冷めてしまう
まさか、昼間忠告したであろうから、帽子男も覗き見せぬであろう
床に入ると、美久を行火の替りにして、寝ることにした
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
褐色の野獣 その3
前書き
今回、3回に分けました
あまり長いと、読むほうも辛いかと思いまして……
米国と並び立つ大国として、世界を二分した、超大国・ソ連
しかし、今はBETAの侵攻もあって、嘗ての都モスクワから9000キロも離れたハバロフスクに落ち延びていた
スターリン時代に、ウクライナの人口の半分を死滅させるほどの大収奪から得た外貨
其の殆どは、6年近い戦争の結果、失われた
戦費調達の為に、戦時国債、資源採掘権や石油採掘の証文を売り払ったが、到底足りなかった
其処に、東ドイツに居る工作員から情報が届く
一騎当千の大型戦術機と、その設計者
予想を上回る性能と、測り知れないエネルギー効率
正しく、《超兵器》と呼ぶにふさわしい
ソ連首脳を集めた秘密会合で、早速ゼオライマーに関する話が上がった
一人の男が冷笑する
「どうやら他国の手まで借りて、お作りになられた《ESP発現体》とやらは、失敗のようですな」
対面する老人が、睨む
「君ならば、成功すると言うのかね」
彼は、その老人の方を振り返る
「ただし、KGBから人手は、お貸し頂きたい」
ソ連陸軍大将の服を着た男が、答える
「お前に、その日本野郎から情報を引き出して、超兵器など作れるものか」
彼は、苦笑する
「失敗したお方が、その様な大口を叩いて良いのでしょうか」
陸軍大将の男は、右の食指で彼を指差す
「何の根拠があって、その様な自信を持てるのだ」
男は、立ち上がる
「我が科学アカデミーに於いて、先日特殊な蛋白質の開発に、成功致しました。
無色透明且つ、無味無臭。
向精神作用は、阿芙蓉の比ではなく、しかも依存性も非常に低いのです。
極端な話、水に混ぜて、市民にばら撒けば一定の効果を得ましょう」
陸軍大将は、苦言を呈した
「貴様は、あの《ウルトラMK作戦》を我が国で行うというのか。悍ましい男よ」
《ウルトラMK作戦》
朝鮮戦争における中共の思想工作、《洗脳》
この事に衝撃を受けたCIAは、人間行動の操作を目的として、薬や電気ショックなどを用いた実験を開始
そこで乱用されたのが向精神作用のある薬物の一種である、LSD
無味無臭、無色で、微量でも効果のある幻覚剤
後に公開された資料の一部によると、少なくとも80の機関、185人の民間研究者が参加
被害者の正確な数は、CIAの資料廃棄によって現在も闇の中である
「何を仰いますか。我が国とて、批難出来ますまい。
政治犯に対して致死量の生理食塩水の投与や、野兎病の発病実験の為に大型の檻に病原菌と一緒に放り込む……。
ヴォズロジデニヤ島などでは、ドイツ人捕虜を大量に《消費》したと聞き及んでいます」
彼は、冷笑する
「その新開発の蛋白質を、捕縛してきた男に摂取させ、超兵器の設計図を描き起こさせる。
そして我が国が誇る科学アカデミーの学者達に、その製作ノウハウを学ばせるのです」
彼の話を、遮る声が響く
「随分と、その超兵器に入れ込んでいる様だが、それほど素晴らしいものなのかね」
周囲の人間が、声の主の方を振り向く
声の主は、ソ連邦の議長であった
彼は、平身低頭し、応じる
「議長、何でも鋼鉄の装甲を簡単に貫通するビーム砲を兼ね備えていると聞いております。
かの、光線級の攻撃よりも優れて居り、範囲も長大であるとの報告も聞き及んでいます」
そう述べると、彼は着席した
議長は、彼の言葉に思い悩んだ
西側に露見した時のリスクが高すぎるのだ……
同席したKGB長官も、同様の見解を示す
「今、我が国は存亡の瀬戸際だ。
その様な時に、西側と相対する真似はしたくはない……」
暫し思い悩んだ末、結論を絞り出す
「科学アカデミーが、全責任を取るという形ならば、名うての工作員を貸し出しても良い」
ソ連陸軍参謀総長の顔色は優れなかった
GRU(赤軍総参謀本部)肝煎りで進めた、《虎の子》のオルタネイティヴ3計画
去年の末、謎の攻撃によって水泡に帰した
聞いた噂話によると、彼が欲する超兵器によって消された
それが事実ならなんという皮肉であろうか
ドイツ国家人民軍に、駐留ソ連軍を通じて問い合わせる事を考える
『プラハの春』で、轡を並べたシュトラハヴィッツ少将に手紙でも書くとしようか……
小生意気な科学アカデミーの若造の企みを潰す為にも、奴らを利用させてもらおう
議長は、その場を締めくくる様に、告げる
「では、その日本人を聴取して、超兵器の秘密を入手せよ。
方法の如何は問わぬ」
その場にいる人間は、議長へ、了解の意を伝えた
マサキは、休日を利用して、西ベルリン市内に来ていた
動物園駅で、屋台のカレー・ソーセージを頬張りながら、佇む
遠くに見える、先次大戦の空襲で壊されたカイザー・ヴィルヘルム記念教会の廃墟を眺め、考える
偶々流れ着いた異世界
思ったより深く関わってしまった
それ故に、不思議な感情を抱くようになった
この、何とも表現できぬ焦燥感に悩む必要も無かろう……
その様にしていると、ホンブルグを被り、外套姿の4人の男に周囲を囲まれる
傍にある屑籠に食べ滓を捨てると、ドイツ語で尋ねる
「何の用だ……」
其の内の一人が、流暢なドイツ語で返してきた
「貴方が、木原マサキさんですね。
我々と共に、来ていただけませんか」
見ると、既に胸元には、ソ連製の自動拳銃が押し付けられている
奴等に聞こえる様、日本語で漏らす
「俺の意思は無視か。
蛮人の露助らしい、やり口だ」
左側に立つ男が、眉を動かすのが見えた
日本語のできる工作員も居る様だ……
彼は、正面を向くと、こう伝える
「良かろう。俺もこんな所で雑兵ごときに殺されては詰まらぬからな」
暫く、其の儘で待つと、年代物のセダンが近寄ってくる
外交官ナンバーの付いたソ連の高級国産車、チャイカ
脇に止まった車を見ていた彼は、男達に押さえつけられる
抵抗する間もなくトランクに、手荒く投げ入れられ、勢いよくドアを閉められる
車は、轟音を上げながら、西ベルリン市内を後にした
ソ連邦各構成国のKGBから選抜された特殊工作員
彼等をもってして、「木原マサキ」誘拐作戦は実行に移された
丁度、西ベルリン市内に居た彼を誘拐し、ソ連大使館公用車に乗せ、連れ去るという策は成功した
しかし、連れ去るまでの過程を、西ベルリン市民に見られてしまう
その失態を犯しても、猶、ソ連共産党は木原マサキという人物を欲しがったのだ
乗り心地の悪いソ連車のトランクで、じっと身をひそめるマサキ
彼は、停車した際の話声を聞き入る
チェックポイント・チャーリーを超えて、東ドイツに入る手続きをしている所であることが分かった
恐らく、奴等の大使館に連れ去らわれるのであろう
これでは、然しもの彩峰達も、外交特権とやらで手出しは出来まい……
万が一のことを想定し、位置情報機能のある携帯次元連結システムの子機から、美久に連絡を入れる
何かあった時の為に、ゼオライマーを瞬時に転送出来る様、操作し、次に備えた
後書き
「オルタネイティヴ」本編で、乱用されている「指向性蛋白質」を出しました。
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
乱賊
前書き
主席卒業者が、公聴会で議事妨害するってすごい悪童だぜ
ベルンハルト中尉は、ベルリン市内の共和国宮殿に呼び出された
勤務服ではなく外出服と呼ばれる一種の礼装を身に着け、ヤウク少尉と共に議長に面会に行く
公式の場で、かの《屋敷の主人》に会うのは、今日が初めてであった
思えば、1975年6月半ば頃に公聴会への出席依頼に応じた時に来てから、約3年ぶりであった
あの公聴会で、社会主義統一党(SED/東ドイツの独裁政党)幹部、各省庁の官僚、軍関係者を前にして、意見陳述書を読み上げ、不規則発言をし、議場を荒らしたことが昨日の様に思い出される
その時も、罰と言う事で、『精神療養』と称し、1週間の休息を命じられた
今思えば謹慎処分で済んだのが、幸いだったのだろう
先任の戦術機部隊長ユップ・ヴァイグル少佐には、色々な悪戯をして面倒を掛けた
後で謝ろうと、内心思う
陸軍ヘリ操縦士と言う事で、空軍パイロットの悪童共と、反りが合わなかった
だが今思えば、自由気儘に振舞っていた事が、彼の精神的な負担になったのであろう
「なあ、今度は変な事は止してくれよ」
脇を歩くヤウクが、彼に釘をさす
官帽を被り、各種装飾品を付けた外出服を着る彼は、何時ものお道化た雰囲気とは違う
次席卒業者であり、士官学校生徒時代から大真面目で通っている印象に戻った気がする
磨き上げた長靴で、力強く歩くヤウクの後ろ姿を見ながら、彼は、指定された部屋に急いだ
豪奢な室内に、壮麗な机と椅子
机の上には、陶器製の灰皿と黒電話、報告書が数冊、雑然と置かれている
その背もたれに身を預ける壮年の男
漆黒に見える濃紺のウールフランネルのスーツ姿
生成りの綿フラノのシャツに、濃紺のネクタイの組み合わせを自然に着こなす
組んだ足から見える濃紺の靴下に、茶色の革靴
金メッキのバックルが付いたモンクストラップで、恐らくカスタムメイドであろう
右手で、紫煙が立ち昇る茶色いフィルターのタバコを持って、此方を見る
脇には外出服姿の国防大臣が腰かけて居り、近くには彼の従卒であろう下士官が立っている
「今日は、意見陳述書は要らんぞ」
男は、彼に不敵な笑みを浮かべる
奥に控えていた職員が、熱い茶と菓子を人数分持ってくる
右手で着席を許可され、応接用の机に備え付けられた椅子に座る
ブロートヒェンと呼ばれるパンやソーセージなどの軽食が、クロスが掛かったテーブルに置かれる
「俺は、まだ飯を食っておらん。
君達もこの際だから、何か摘まんでいきなさい。
遠慮はいらん」
気兼ねする彼等に、国防大臣が声を掛ける
「同志議長からの馳走だ。
有難く頂こうではないか」
二人は、黙礼をする
昼食は、ハンガリー風のトマトスープに、ザワーブラーテンと呼ばれる牛肉の煮付料理……
この数年来、手に入れにくい柑橘類のデザートを食す
人払いをするように従卒に申し付け、茶飲み話になった
雑談を楽しんでいる最中、不意に男は問うてきた
「ソ連が進めていたオルタネイティヴ3とかいう無用の長物が有ったろう。
あの研究施設が、何者かに吹き飛ばされて、今モスクワの連中が責任の所在を巡って揉めてる。
愚にも付かぬ事であろう。諸君」
ベルンハルト中尉は、男に、この度の会談の真意を訪ねた
「まず、ご発言お許しください。
僭越ながら、今回の件と何の関係が有るのでしょうか……」
男は、花柄の模様の付いたコーヒーカップを机に置くと、応じる
「KGBの特別部隊が我が国に入ったとの情報を得た。
其の事は、今回の件とは無縁ではない」
机より、フランスたばこの『ジダン』を引き寄せる
箱より一本抜き出し、火を点け、周囲に居る彼等に告げる
「俺を気にせず、タバコ位吸え。
暫し、長い話になるのだからな」
彼の言葉を聞いた後、灰皿を置く
大臣とヤウクは、それぞれタバコを出して吸い始める
紫煙を燻らせながら、暫しの沈黙が生じた
脇で、その男の様子を見ていた大臣が、言葉を選びながら、答える
「同志ヤウク少尉、同志ベルンハルト中尉が、風変わりな日本人と話していたのを覚えているであろう」
彼は、問うて来た大臣に対して頷く
「その日本人の名前は、木原マサキ。
彼は、大型機の設計師であり、操縦士なのだよ」
その場に、衝撃が走る
「私がアルフレート、いや、同志シュトラハヴィッツ将軍から聞いた話によると、だな。
KGBが、その日本兵をソ連大使館に誘拐。
密かに国外に連れ出し、ソ連に抑留する計画があると……、言うのだ」
大臣は、丸めた紙を広げる
「最初は、俄かに信じられなかったのだが……」
男は、重い口を開いた
「一寸ばかり、同志大臣に走って貰って、面白いものを持って来てもらった。
君達には少しばかり過激な内容かもしれんが、ぜひ目を通してほしい」
キリル文字特有の、波の様な筆記体
ソ連留学経験のある彼等には、理解するのは造作もない事であった
手紙の内容は、ソ連科学アカデミーが、オルタネイティヴ3の失策を取り戻す為、新型戦術機の設計者である木原マサキを誘拐する旨が記されていた
ベルンハルト中尉は、その様な私信を怪訝に思う
「これは……」
ヤウク少尉も、彼に同調する
「本当ですか」
男は、彼等の疑問に応じる
「シュトラハヴィッツ君宛に出された、赤軍参謀総長の直筆の手紙だ」
新しいタバコに火を点けながら、続ける
「彼は、先のチェコ事件(プラハの春)の折、手紙を書いて寄越した参謀総長と面識を持った。
その男が、この様に密書を送ると言う事は余程の事だ……」
燻る煙草を持つ右手で、灰皿へ、灰を落とす
「我等の意向を無視して、その日本人を堂々と誘拐しようと言う話は、事実であるか、確認中だ。
俺が穿り返す迄、保安省の馬鹿共も把握していなかった。
西に間者を送り込んでいても、この様なんだよ」
ベルンハルト中尉は、勢い良く立ち上がる
「これが事実なら、我が国の主権侵害ではありませんか、議長」
一服吸うと、彼の方を向き、答える
「まあ、落ち着け」
彼は、再び腰かけた
「無論その通りだ……。だが奴等は、主権尊重と内政不干渉よりも社会主義防衛を持ち出してくるだろう。
ハンガリー動乱も、チェコ事件も、その理論で動いた……。
策は無い訳では無いが……」
事務机の左脇にある電話が鳴り始める
男は、立ち上がって受話器を取ると、一言、二言伝える
受話器を一度置き、再びダイヤルを回し、何処かへ電話を掛ける
大臣とヤウクは、電話をする議長の姿を見ながら、再びタバコを出して吸い始めた
電話を掛け終えた男は、居住まいを正して、待つ
すると、青い顔をしたアスクマン少佐が入ってきた
彼等は思わず、顔を見合わせる
少佐は、男に挙手の礼を取ると、左脇に抱えた書類を恭しく差し出す
男は黙って頷き、間もなく少佐は部屋を後にした
その際、彼等に振り返って睨め付けて、行った
脇に居るヤウクは、思わず顔を顰めるのが判る
ドアが閉まり、足音が遠くなると、男は徐に口を開いた
手には、火の点いていない新しいタバコが握られている
「あの下種野郎とは、関わらぬほうが良い。
奴は、所詮使い捨ての駒にしか過ぎない……」
火を起こし、一頻りタバコを吸う
椅子に腰かけると、再び話し掛ける
「局長や次官でもないのに、何を勘違いしたのか、自分が保安省を動かしていると考えている戯け者だ」
暫しの沈黙の後、男は、ベルンハルト中尉に不思議な質問をしてきた
「付かぬ事を聞くが……、良いかね」
彼は、その男の方を向く
「何でありましょうか、同志議長」
男は、居住まいを正す
「君が妹御、アイリスディーナ嬢に関してだが……。
『西側に行きたい』と申し出てたと、詰まらぬ噂話を聞いた。
事実かね」
彼の目が鋭くなった
「妹に限って言えば、その様な事は御座いません。
彼女は、この祖国を誰よりも愛しております」
愛する人へ、襲い掛からんとする敵に、立ち向かう戦士の顔になる
「ゲルマン民族の興隆を、祈願して已まぬ、純真な娘で御座います」
男は、彼の真剣な態度に圧倒される
そして、一頻り笑うと、彼へ言葉を返した
「良かろう。そこまで言うのならば、俺が君達の後ろ盾に為ろう。
アーベルが目の中に入れても痛くない佳人の娘を娶るに、相応しい男へ、させる心算だ」
唖然とする彼に対して、こう付け加える
「蛇足かもしれんが、何時頃、式を挙げるのだね……」
彼は、その言葉を聞いて、満面朱を注いだ様になり、目を背ける
「来年の夏ごろと、考えて居ります……」
男は哄笑する
「遅いな。出征前の4月、日取りが良い時を選んでしなさい」
彼は、男の立場を考えながら、恐る恐る尋ねる
「ご命令ですか……」
常套句を返してきた
「要望だよ」
彼は、男の発言に帰伏した
「君には、何れ、重責を担う立場になって欲しいのだよ」
その様を見て、大臣とヤウクは、それぞれ笑みを浮かべる
ベルンハルト中尉は、同輩と共に立ち上がり、議長に最敬礼をする
右手に持った、軍帽を被ると、ドアを開け、廊下へ抜ける
ボルツ老人が待つ車へと向かうと、静かに宮殿を後にした
後書き
ご意見、ご感想、ご要望、お待ちしております。
乱賊 その2
前書き
木原マサキ拉致事件の衝撃と、在ボン日本大使館の対応とは
予定時刻をはるかに超えて、帰営しないマサキを不審に感じながら彩峰達は対策を論じていた
駐在武官との対応策を検討しているとき、ドアを叩く音が聞こえる
「入り給え」
駐在武官が声を掛けると、ドアが開く
大使館職員が、白人の男を引き連れて彼等の部屋に入る
机に腰かける駐在武官は、職員へ声を掛けた
「珠瀬君、その外人は何者かね」
彼は直立したまま、応じる
「CIAの《取次人》です。まずは彼の話を伺ってからにしてください」
周囲の目が、その男に集まる
男は流暢な日本語で応じた
「挨拶は抜きで話しましょう。木原マサキ帝国陸軍曹長がソ連大使館に拘禁されたとの未確認の情報が届いております。
状況からして、西ベルリンの動物園駅で拉致されたと、視て居ります」
立ち上がって、彩峰が応じる
「奴の所属は帝国陸軍ではない、斯衛軍だ」
短く告げると、椅子に再び座った
男は、顎に手を置く
「それは失礼しました。
話を戻しますと、ソ連大使館ですので、我々としても非常に扱いに困っているのです」
机の上で腕を組む、駐在武官が尋ねる
「東独政権の反応は……」
珠瀬が、返す
「現在、外務省と情報省で事実確認に努めて居ります……」
「君ね、ここは帝国議会じゃない。端的に申し給え」
彼の顔から、汗が噴き出す
「参事官風情では話にならんな。
君、帰っていいよ」
彼は、その一言を受けて忸怩たる思いにかられる
「して、ラングレーの意向は……」
駐在武官は、フィルター付きのタバコを取り出すと、弄びながら取次人に尋ねる
男はしばしの沈黙の後、応じた
「ウィーン条約の件もあります。
何より、我々も本国の意思を無視してまでは、行動できぬのです」
男は、1961年に国際連合で批准された、ウィーン条約を盾に、断りを入れてきたのだ
同条約は、在外公館の不可侵を定めた国際慣習法の規則を明文化した物である
「最も、貴国は東独政権未承認の状態で、御座いますから、取りなす事が出来ぬ筈ではありませんかな」
駐在武官は、男に真意を訪ねる
「何が言いたいのかね」
「我等が動きましょう……。貴国は対ソ関係で微妙な立場にあるのを十分理解しております」
彼は、タバコに火を点ける
一服吸うと、深く吐き出す
「ベルリン政権との伝手はあるのかね……」
男は不敵な笑みを浮かべる
「我が通商代表部の関係者が幾度となく訪れて居り、議長との個人的な関係を構築した人物もおります。
その辺は、ご安心なさってもよろしいかと」
「貴官の提案は、痛み入る。早速、国防省に……」
ドアが開け放たれると、一人の兵士が入ってきた
「大尉殿、来てください。
食堂で兵達が、木原曹長の奪還作戦の準備をしております」
彩峰は、脇に立掛けた刀を取り、立ち上がる
「少佐、馬鹿者共を説得して参ります」
椅子に腰かける駐在武官にそう告げると、部屋を小走りで出て行った
彼は、途中で巌谷と篁に会うと、其の侭食堂に直行した
部屋に入ると、鉄帽を被り、野戦服姿で銃の手入れをする下卒達
彼等に向かって、彩峰は一括する
「貴様等、今からどこへ行こうと言うのだ」
彼の左手が、ゆっくりと軍刀に触れる
「どうしても行くと言うのなら、俺を切り捨ててからにしろ」
そう言うと、鯉口を切る
「駐独ソ連大使館に、乗り込みたくなる気持ちも分かる」
彼は、刀の柄に手を掛ける
「だが、それは我が国の国際的信用を地に落とすことにもなりかねない。
一番、その様な事を臨んでいないのは、ほかならぬ殿下だ」
篁が、彼の右手を力強く抑える
「大尉、お待ちください」
彼は、篁の一言で冷静になると、鞘に納めた
脇に立つ巖谷が、彼等に告げる
「状況次第では、貴様等は、主上に背く逆賊になる。
主上ばかりではない、殿下、政府、貴様等の故郷、親兄弟……。
失った信用は、金銀より価値の重たいものだと、考えられぬのか」
左手から刀を離した彼が告げる
「一度、下命されるまで、待て……」
兵達は、静かに銃を置いた
彼等が休まる暇もなく、部屋に男が駆け込んでくる
作業服姿の整備兵は、肩で息をつくと、こう告げた
「駐機しているゼオライマーが、目前より消えました」
その場を震撼させた
「何だと!」
左手で刀を握りしめた彩峰が告げる
「奴の相方の氷室美久は、どこぞに居るのだ」
混乱する現場で、誰かが言った
「今しがた、彼女も消えました」
唖然とする彼等に、篁が声を上げる
「まさか……、空間転移」
彩峰は、振り返り、後ろに立った彼に尋ねる
「何、空間転移だと……。どういう事だね」
彼は腕を組んで、答えた
「自分は、側聞しか知りませんが、ロスアラモスの研究所ではG元素を利用した戦術機開発が進められております。
新元素には未知の領域も多く、空間跳躍や大規模な重力偏差を発生させるとの試算が出されたと報告があります……」
目を見開いて、彼に問う
「まさか、ゼオライマーはそのG元素を内燃機関にしていると言うのか……」
彼は、正面を見据えたまま、続ける
「可能性は否定できません……。
木原自身がG元素の独占を図るためにハイヴを攻略しているのであれば、話の辻褄は合うかと……」
「それでは、氷室が消えた理由にはならん」
振り返ると、声の主は背広姿の男だった
「閣下、何方に居らしたのですか……」
男は、在ボン日本大使館の主、特命全権大使であった
「西ドイツ政府と、米領事館に行って居った。仔細は後程話す」
そう言うと、紙巻きたばこを胸より出して、火を点ける
「氷室とゼオライマーが消えたのは無関係ではあるまい。私はベルリンの議長公邸に直電を入れる……」
「貴様、ここをどこだと、思っている」
大使の話を遮るように彩峰が叫ぶ
後ろを振り返ると、ドブネズミ色の背広に、茶色のトレンチコート姿の男が立っている
「まさか、皆さんお揃いでこんな場所にいるとは……」
男は、声の主を見る
「いやはや、流石、青年将校の纏め役と名高い彩峰大尉殿ですな……」
マフポケットに腕を入れ、室内であるのにも関わらず中折帽を被っている
「情報相の使い走りが、何の用かね……」
大使は怪訝な表情をする
「私は、しがない只の会社員。
商人という関係上、シュタージとの少しばかりの伝手が御座います。
その線で、皆様のお手伝いを、と考えて居ります」
怪しげな男は、笑みを浮かべながら、 諧謔を弄した
彩峰は、右の食指で男を指差しながら罵った
「胡散臭い奴め。
何が、個人的な伝手だ。
貴様等は、只踊らされているだけだ」
男は、マフポケットより両手を差し出すと、掌を彼の前に差し出す
「その様な見方をされるとは……、驚嘆ですな」
右腰から私物の小型自動拳銃を取り出す
「戯けた事を抜かすのも、いい加減にしろ。
先の大戦の折も、FBIに踊らされて、あわや無条件降伏という恥辱を得ようとしてたではないか」
男は、拳銃を突き付けられながらも涼しい顔をする
左腕の腕時計を見る
「失礼、貴方方とてCIAの手の上に有るとの変わりませんがな……」
そう言い残すと、彼の左脇をすり抜け、奥へ消えて行った
「この恥知らずが」
大使が、恨めしそうに吐き捨てる
「閣下、取り敢えず……」
彩峰が尋ねる
「彩峰君、国防省に連絡を入れなさい。事は急を要する」
脇を通り抜け、篁が、公電室に向かって行く
恐らく城内省へ、連絡を入れに行くのであろう
「私は、省に連絡を入れて、一時的にも彼を大使館職員の身分を与えるつもりだ」
奥で待機していた珠瀬が、何処かへ駆けて行く
彼は、耳を疑う
「本当ですか」
大使は、机に腰かけた
「ここまで、舐められた態度を取られるのは、我慢ならぬ。
状況によっては、我が国への最後通牒だよ」
腕を組んで、続ける
「我々は、剣は持たぬとは言え、戦士。
外交という戦場で、国際法という武器を用いて戦う戦士なのだよ」
徐に、タバコを取り出し、火を点ける
「ソ連という国を、60年前の様に国際社会から追放してやろうではないか」
男の内心は、ソ連への深い憎悪に燃えた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
乱賊 その3
前書き
今回も3分割にしました
木原マサキは、ある建物に着くなり、後ろから目隠しと手錠をされ、連れ込まれた
部屋に着くなり、手荒く扱われる
その際、腕時計を奪われる
唯一、私物で持ち込んだセイコー5
異世界に転移しても、自動巻き故に狂いはしなかった
流行の電子時計などであったら、恐らく壊れていたであろう
物には執着しない方ではあると自覚していたが、使いやすく手放せなかった
椅子に紐で縛り付けられると、彼を誘拐した男達の他に数人の人物が入って来る
彼等は、強い照明をこちらに当てる
顔を背けようとすると、後ろから屈強な男に押さえつけられた
「貴様が、木原マサキだな。
早速ではあるが、超兵器の設計ノウハウを持つお前に我がソビエトに協力してもらいたい」
40がらみの男が、彼に声を掛ける
青白く不健康そうな顔をしている
彼は男の姿格好から、研究者或いは科学者と見立てた
「貴様等が、作った超能力者擬きがどれ程の物かは知らぬが……。
人攫い迄せねばならぬほどの基礎科学の無さには、聞いて呆れる」
その男の顔をまじまじと見る
「貴様等が国は、広くて資源もあり余るほどなのに経済規模はイタリア以下と聞く。
格安の突撃銃、ご自慢の宇宙ロケット、何にせよ
技術もナチスドイツのを露骨に盗んだものばかりではないか」
彼は哄笑する
その瞬間、拳骨が飛び、頬に当たる
痛みと共に口の中から血が流れ出るのが判った
幸い、奥歯は欠けていない様で、安心する
男は、大型の自動拳銃を脇の下から出すと、彼に向ける
「もうそれくらいで、弁明は良かろう。断ればどうなるか」
その刹那、雷鳴の様な轟と銃火が室内に響く
彼の真横を弾丸が通り過ぎる
強烈な耳鳴りとそれに伴う眩暈
「お前は科学者として、超兵器の製作ノウハウを得た」
男は拳銃を片手に持ち、彼の周囲を歩く
「しかし日本政府に協力する事を拒み、支那へ身を隠した。図星であろう」
彼は不敵の笑みを浮かべる
「天下御免のソ連KGBが、その程度とは聞いて呆れるわ。
貴様等が、精々隠し通せた事を言ってやろう
ポーランド人をスモレンスクで2万ほど殺した事や、戦前から建てたシベリア鉄道建設計画。
捕虜を使い、鉄道建設に従事させる……。
その程度であろうよ」
男は、その言葉に震撼する
秘中の秘である『カティンの森』事件の全容や、強制収容所の運営方法を知り得ていたのだから
マサキは、賭けに出た
腰のベルトにある次元連結装置の子機が無事なのを確認すると、彼等を煽って冷静さを失わせる
虚を突いて、次元連結システムを作動させる準備に取り掛かった
「貴様は、やはり生かしてはおけぬな」
別な男が前に出て、自動拳銃をこちらに向ける
「待て、こいつから秘密を聞いてからでも遅くはない」
彼は苦笑する
「俺がその秘密を教える代わりに、オルタネイティヴ3計画を教えてくれぬか」
「良かろう。
我がソビエト連邦では、すでに対象の思考を読み取ったり、対象に自身の持つ印象を投射する能力者の開発に成功した」
彼は、その男の話を真剣に聞き入る振りをする
「具体的に申せば、超能力の素質を持つ人間同士を人工授精により交配させ、遺伝子操作や人工培養を行うことで、より強力な超能力を人為的に生み出した」
緩んだ紐から右腕が動かせるのが判った
「我等が望んだことは、言葉の通じぬBETAを相手に直に思考を判読させる事によって情報を収集し、直接的印象を投射する事で停戦の意思疎通を実現させるという事だ。
そしてそれは既に、実用段階に入り、成功したのだ」
鎌を掛け、彼等が本心を吐露させた
今の話は、恐らく子機にある記憶装置にほぼ全てが収録されているであろう
後ろより黄緑色の透明の液体を持った兵士が、男にそれを渡す
男はコップに開けると、それを彼に見せる
「これが何か分かるか」
彼は、溜息をついた
口から、先程の拳骨で傷ついた唇の血が流れ出る
「大方自白剤であろう」
男は、冷笑する
「今日は気分が良い。冥途の土産に教えてやろう。
わが科学アカデミーでは、既存の阿芙蓉やLSD、コカインの比でない低依存、強向精神性作用のある特殊な蛋白質の開発に成功した」
男は、『指向性蛋白質』について語った
「これを一口含めば、他人の思考操作は自在になる。
しかも、人体を傷つけずに体内へ直接薬剤などを投与できるとなれば、容易に洗脳工作も可能になる」
彼は哄笑する
「所詮貴様等は、匈奴の血を引いた蛮族よ。
あの輝んばかりの古代支那や、ギリシャの科学を継いだ回教国の諸王朝より、簒奪した文物で、やっとこさユーラシアを支配する準備をした蒙古人の落とし子にしか過ぎぬ事がハッキリした」
左手も、自由に動けることを確認した
彼は続ける
「ギリシャの坊主が説法した折に文字が無い事を不憫に思うまで、文字すらなく。
先史時代を調べようにも土器の破片すらなく、陵墓や遺構の数も少ない。
法や約束の概念もない。
紛う事なき、スキタイの蛮人ではないか」
男は、スキタイという言葉に激怒した
その言葉は、嘗て蛮人としてのロシア人を指す言葉として用いられた経緯を持っていたからだ
自動拳銃を彼の眼前に差し出す
その刹那、彼はベルトのバックルに両手で触れた
眩い光が室内に広がる
ほぼ同時に衝撃波が広がり、銃を構えた男は周囲で待ち構える兵士共々壁際に押し付けられる
室内にあるすべての物が、宙を舞う
彼は、紐を振りほどくと立ち上がり、こう吐き捨てる
「これは、貴様等が見たかった次元連結システムの一部だ」
彼は冷笑する
痛む口内と血が流れ出る唇を懐中よりハンカチを出し、抑える
自身も、重力操作に耐え切れなくなり、膝をつく
部屋が揺れ、壁に立った兵士たちが倒れ込む
敷地内に警報音が鳴り、怒号が聞こえる
彼は、この振動を感じると、立ち上がる
表情を強張らせ、一言漏らす
「お望みの物が、どれ程の物か、篤と見るが良い」
横たわる兵士に歩み寄る
その兵士の左腕から、奪われた時計を取り戻す
腕に嵌めて、窓を椅子で叩き割り、窓より身を投げ出した
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
国都敗れる
前書き
情景描写をより深くするために、大量の解説用語を併記した内容になってしまいました
マサキは、窓から飛び降りると即座にゼオライマーの操縦席に収容された
操作卓に触れ、現在地を調べる
ブランデンブルク門にほど近い、ウンター・デン・リンデンに面した巨大な建物が、画面表示される
場所は、駐ドイツ・ソ連大使館と出た
周囲はすっかり暗くなっており、時刻を見ると20時を回るところであった
此処より見えるシュプーレ川を挟んだ先には、ベルリン王宮を爆破解体して建てた『共和国宮殿』が見える
白い大理石にブロンズミラーガラス張りの外観は、彼は悪趣味に感じた
古い絵付け写真で見たバロック様式のファサードの方が美しく、趣があるように思える
彼は、事前に基地内にある資料室で、東独国内に配置されたソ連軍を調べ上げていた
斯衛軍曹長の立場を利用し、ARPANETに接続。
CIA発行の資料を取り寄せる事も行った
記憶が確かならば、ベルリン市内には第6独立自動車化狙撃旅団
近郊10キロの村落ベルナウ・バイ・ベルリンには第90親衛機械化師団が待ち構えている
動かないでいると人民警察とシュタージであろうか、パトカーの他に装甲車や武装車両が次々集まってくる。
超大型のロボットを見物しようと集まった野次馬を追い払うために、治安当局が寄越したのであろう
彼は、機密資料を焼却処分される前に確保する様、美久に指示を出す
周囲の気を引き付ける為、建物の破壊を始めた
出力が3分の一以下になっても、あの鬱陶しい戦術機が出てこなければ十分間に合うと考える
美久は、強化服にヘルメットという出で立ちで、敷地内に潜入した
かき集めるだけ、集めて来るよう指示を出したから十分であろう
資料は最悪、次元連結システムを応用して日本の仮住まいに転移させれば良いだけだ
そうすれば、面倒な外交旅嚢の手続きもいらない
偶々、所用で共和国宮殿に来ていたアスクマン少佐は、ソ連大使館前に呼び出された
時刻も20時過ぎと言う事で、連絡を取っている最中
近くを制服姿で通ったところ、呼び止められ、野戦服姿の衛兵連隊長と話し合う
『衛兵連隊』
正式名称を『フェリックス・E・ジェルジンスキー衛兵連隊』と言い、国家保安省の準軍事組織
政府官庁舎及び党施設、党幹部居住区域の護衛任務にあたる専従部隊である
国際的には警察部隊として認知されてる同部隊は、ベルリン市内に駐屯が許された数少ない戦力でもあった
彼等は、ソ連大使館内で何かが起きていることは察知したが、ウィーン条約の都合上、在外公館には手出しが出来ない
しかも、ブランデンブルク門の近くと来ている
チェックポイント・チャーリーからも銃火を交えれば、見えるであろう
うかつに動けない状態が続いた
建屋の中から銃声が響く
周囲を囲む人民警察と保安省の衛兵連隊に対して、ソ連の警備兵は着剣した自動小銃を向ける
白刃を見せつける様にして周囲を伺う
アスクマンは、万が一の事を考えて、ボディーアーマーを受け取る
20キロ近い保護具を、メルトンのオーバーコートの下に着る
肩に重量が架かり、動き辛いが、無いよりはマシであろう……
米軍の最新医療設備が利用できるなら、最悪助かるかもしれないが、新型弾の威力は未知数だ
まざまざと感じる死の恐怖……
喉が渇き、不感蒸泄で全身が湿らせるのが判る
彼は、近くの兵より水筒を受け取ると、忽ちの内に飲み干す
拳銃の弾薬数を数え、若しもの事態に備える
近くに居た連隊長が、彼に問う
「同志アスクマン少佐、大丈夫ですか」
体が震えているのが判る
「君、武者震いだよ」
食指をソ連大使館の方角に向ける
「あの者たちに、対応せねばなるまい」
その行動が、仇となった
銃声が響き、男が勢いよく倒れる
「同志少佐!」
勤務服姿の男が勢い良く地面にぶつかる
唸り声が、響き、周囲の兵は自動小銃に弾倉を差し込む
「救急車を呼べい」
連隊長は叫んだ
ソ連兵は混乱状態であった
建屋内での爆発と銃声……、一向に来ない上官の指示
其処に保安省少佐が表れ、指で自分達を指した
攻撃の合図かもしれない
そう勘違いした衛兵は、咄嗟に銃を撃ってしまったのだ
恐怖にかられたソ連兵が一斉に銃火を開く
全自動で連射し、周囲の動く物を打ち始めた
通りを行きかう自家用車や、アスクマンを救護しに来た救急車を狙い撃つ
人民警察と保安省職員は、自衛の為に自動火器を用いて応戦する
交通警察は、ソ連大使館に通じる道路をすべて封鎖した
共和国宮殿の前を、戦車隊が通り抜ける
宮殿の窓より、国籍表示のないT-55を議長は目視すると、事態の深刻さを理解した
「アーベル、此奴は飛んでも無い事になったぞ。
連中は恥知らずにも、市中で戦争をおっ始めるつもりだ」
タバコを吹かす彼の脇で、腕を組んで立つ男
アーベル・ブレーメは、眼鏡越しに外の様子を見る
偶々、通産官僚として議長に講義をしている時、事件に遭遇
彼の脳裏に1953年のベルリン暴動や、1961年のチェックポイント・チャーリーでの出来事が思い起こされる
「お前さん、坊主が気になるかい」
右の食指と中指に両切りタバコを挟み、話しかける男
彼は無言の侭、男の横顔を見る
「俺もだよ」
男は、両切りタバコを口に挟む
両手で覆う様にして、ライターで火を点ける
「常々、聞きたいと思っていたが……」
ゆっくりと紫煙を燻らさせる
「言えよ。俺とお前さんの仲であろう。気にはせんよ」
彼は、首を垂れる
「君は、やはり死んだ息子さんと、ユルゲン君を重ねているのかね……」
勢いよく、紫煙を吐き出す
「最初の妻と子供と言う物は、忘れられぬのよ……。
アイツが生きていたら……、年の頃も同じで、しかも、金髪だ」
彼は右手で、眼鏡を持ち上げる
「まるで、そっくりに思えちまう……。
良い美男子で、馬鹿正直だ」
彼は冷笑する
「君らしくないな」
照れ隠しであろうか、タバコを深く吸い込んだ
「俺は、あんな男が父無子扱いされてるのを見てな、不憫に思った訳よ」
男は、精神病院奥深く幽閉されているヨゼフ・ベルンハルトの事を思い起こす
シュタージの策謀で酒漬けにされ、暗黒の監獄へと消えて行った元外交官を悲しんだ
親指で、タバコを弾き、灰を灰皿に捨てる
「今の立場に居る間は、奴の実績を積ませたい」
再び、右手に持った煙草を吸いこむ
「いざ倅だと思うと、甘やかしちまう。
シュトラハヴィッツ君やハイムに教師役をやらせるにも不安がある。
いっそ、雑事が済んだら、米国に出して『武者修行』させたいと考えている」
彼は組んでいた腕を解いて、腰に回した
「君、その話は……」
力なく、両腕を垂れる
「義父になる貴様に話したのが初めてだ」
男は真剣な表情で、彼の方に振り返った
「どうせ、この国は吹っ飛ぶ。
俺は店仕舞の支度をしてる番頭にしかすぎん」
男は、再び窓外の景色を見る
「俺としては、半ば押し込めに近い形で《おやじ》を追い出して得た権力だ。
常日頃から、民主共和国は正統性が問われてきた」
灰皿に、火が点いたタバコを投げ入れる
「10年前の憲法改正や、各種の法改正も記憶に新しいであろう。
もっとも君はそれ以前の事から知る立場であろうが……」
懐中より『ジダン』の紙箱を取ると、タバコを摘まむ
「おやじは、ボンの傀儡政権ではなく、アメリカの消費社会を見つめた。
それは、なぜか。
民衆は、確かに西の豊かさを壁伝いに聞いているし、欲している。
おやじとて、政権を取って以来、民衆がアメリカの消費社会に焦がれている様を知っていたからだよ。
君等とてそうであろう」
唇に挟むと、再び火を点けた
「それ故、アメリカに歩み寄る姿勢を見せ始めたのだよ。
俺はその《おやじ》の描いた絵をある意味、なぞっているにしか過ぎぬのであろう……。
そう思えてきたのだよ」
「貴様に行っておくが、今年の秋までにブル選をやりたい。
SPDにいる元の共産党の仲間にでも声を掛けろ」
彼は、男の一言が信じられなかった
ブルジョア選挙(普通選挙)……
SPD(ドイツ社会民主党/Sozialdemokratische Partei Deutschlands)は、1946年4月末に共産党に吸収合併され、SED(ドイツ社会主義統一党)になった
目の前の男は、国禁の自由政党を復活させようとしているのだ
「正気かね……」
悠々と煙草を燻らせる
「俺も策はある。今は下野してSPDは野党だから工作がしやすいのよ。
目立つ人物を連れてきて、若手官僚を引っこ抜いて党の支部を作りたい」
「何故だね」
再び、灰をはじく
「此の儘、自由社会に入って見ろ。今のガキ共は指示待ち人間だ。
あっと言う間に、西の連中に弄ばれて、男は乞食、女は娼婦の真似事をするやもしれん。
俺は、そんな姿、視たくは無い」
男は、振り向く
「お前さんの娘も、そんなことにはさせんよ」
彼は再び腕を組んだ
男達が密議をしていると、ドアがノックされる
許可を出すと、息も絶え絶えの人民警察大佐が入ってきた
明るい緑色で、陸軍制服に似た意匠の制服を着て、胸には略綬が下がっている
「議長、退避下さい。危険で御座います」
男はタバコを握ったまま、腕を組んだ
「まさか、戦術機でも出たのか」
「日本軍の大型戦術機がソ連大使館に出現しました」
彼等は、驚嘆した
「まさか、ゼオライマーが……」
アーベルは、眼鏡を持ち上げた
「ゼオライマーとは何かね……」
男は驚きのあまり、タバコを持った手で彼を指差した
「例の、支那で大暴れした機体だよ」
男は、人民警察大佐の方を向く
「同志大佐、君は急いで、近隣住民の安否確認を所属する警察部隊にさせよ」
人民警察大佐は、敬礼すると、大急ぎで駆けて行った
男は、室内にある電話を取ると、ダイヤルを回す
通話が始まると、次のように告げた
「米大使館へ電話を入れろ」
電話を一旦切ると、受話器を置く
彼の方を向いて、こう告げた
「お前さんは、一旦家に帰れ。
申し訳ないが、今から緊急閣議だ」
彼は頷く
「最後に、言っておくが茶坊主共が何をしでかすか、解らん」
ソ連の茶坊主と呼ばれるモスクワ一派
その首領格のシュミット保安少将……
策謀に気を付ける様、男は彼に釘を刺した
「女房と、娘さんは何処か、頼れるところに預けさせる準備でもしておけ」
彼は顎に手を置く
「娘は、軍の学校に居る」
「そいつは安心だ」
彼は右手を上げる
「一旦寝に帰ったら、また来る」
男も右手を上げて応じる
「お前さんも無理するなよ」
「お互い様であろう」
彼は、ドアを閉めて通路に出る
急ぎ足で警備兵の案内を受け、宮殿を後にした
後書き
ソ連軍の部隊名は露語を英訳した文章を参照し、重訳した物です
間違っていたら、ご指摘ください
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
国都敗れる その2
前書き
今回は、試験的に2回分の投稿を一度にまとめました
6千字を超える長文になってます
また歴史用語の解説多めになっています
場所はソ連大使館
警官隊との撃ち合いを続けるソ連警備隊は、対戦車砲まで持ち出して応戦を始めた
川の向こう側に戦車が見える
国籍表示のしていないT-55戦車……
戦車隊の砲門が定まらぬ姿を見て、緊張感を強いる
装甲車両を盾にしている警官隊の方に向けられれば……
負傷者は、隙を見て後送させたが、これでは戦死者が出る
そう判断した衛兵連隊長は、部隊の撤退を決断
万事休すか……
彼は、野戦服からタバコを取り出して吸い始めた
悩んでいる間に、目前の白い機体が動く
マサキは、独ソ間の内訌に呆れた
本心では、矢張りロシア人への複雑な感情を抱くドイツ人
彼等の事を見て、何処か安心するような気持にもなった
美久が大量の資料を数度持って往復している間、ソ連側からロケット弾が着弾する
『RPG-7』と呼ばれる携帯式対戦車擲弾発射器で、数度攻撃を受けたが、被害は思いのほか軽傷だった
煤けた程度で、装甲板は貫通していない
その度に、衝撃波と重力操作で応戦
ゆっくりと嬲り殺しにしてやろうと思い、低出力で攻撃する
最も、美久が機外で暴れているから、出力は上がらぬのだが……
警告音が機内に鳴り響く
対空レーダーが近づく飛翔物の反応を示す
回転翼の航空機やミサイルであろうか……
まさか、戦術機ではあるまい
然しものソ連も、国都で戦術機部隊は使うまい
万が一の事を考え、操作卓のボタンを押し、美久に連絡を入れる
「おい、家探しは一旦中止だ」
彼女が応じる
「ですが、あと一回でほぼ持ち運べます」
彼は、右手を額に移し、髪をかき上げる
「それを運んだら、即座に対空戦闘の準備に入る」
別画面に目を移す
ソ連兵数人が、対戦車地雷を足元に巻き付けている
彼は、独り言を漏らした
「無駄な事を……」
ゼオライマーの右手を下げて、衝撃波を放つ
衝撃を受けた対戦車地雷が爆発し、ソ連兵共々吹き飛んだ
画面から目を背けると、暴政の下で露と消えたソ連兵を哀れむ
『苛政は虎よりも猛し』
古代支那の古典『禮記』に記された諺
周代の先人の教訓を沁々と思い浮かべた
中近東の兵達が、死力を持ってBETAに対抗している様を見た
この異星起源種の害よりもプロレタリア独裁の悪政が、惨状を生んでいるのではないか
米国は一撃で破壊したハイヴ
奴等は、10年近い歳月をかけていても進展さえ、出来ない
自分の推論の正しさを改めて、確認した
ソ連大使館正面での武力衝突
思わぬ事件に遭遇し、混乱する国家保安省本部
その一室で、開催されているモスクワ一派の秘密会合
右往左往する彼等を前にして、シュミットの口から驚くべき計画が打ち明けられていた
「諸君等も驚嘆したであろう」
派閥の幹部達は、困惑を隠しきれていない
ある職員が、彼の言葉を復唱した
「この民主共和国に、核戦力を持ち込むとですと……」
周囲が騒がしくなる
「そうだ。秘密裏に、ソ連より譲受た核を配備し、防衛要塞を設置。
他に類のない軍事力を兼ね備え、この国を支配する権力を手に入れる」
顔を持ち上げた彼の色眼鏡に光が反射する
「その為に、密かにこの秘密部隊を集めた」
彼等の面前に、プロジェクターから4体の戦術機が映し出される
MiG-21バラライカ
迷彩塗装も無ければ、国籍表示、部隊を表す番号もない
灰色に塗り上げられた4機の戦術機は、全てが最新式の77式近接戦闘長刀を装備しており、突撃砲を3門兼ね備えてある
「我々は、持てる頭脳と力を駆使して、プロレタリア独裁の権威を永遠とさせるのだ」
シュミットは、内に秘めたる野望を口にし始める……
「今までは指導部を立ててきたが、今日を持って決別する」
幹部の一人が、真意を訪ねる
「どういうことでありましょうか。同志将軍」
彼は、派閥の領袖の地位を超えた事を言う
「現指導部の采配は、何れはプロレタリア独裁の権威の失墜に繋がる」
彼は、声を掛けた職員の方を向く
「この上は、私が総帥の地位に就き、この国を導く」
男達は、冷笑する
「すると、面白い……、いよいよ国盗りですな」
彼は、男達を窘める
「諸君らは、まず焦って事を仕損じるのは、避けねばなるまい」
冷笑した男は、彼に尋ねた
「手当たり次第に暴れ回れるとの、ご承認を得たと受け取っても良いのでしょうか」
正面を向くと、頷く
「早速、共和国宮殿を占拠し、党権力奪取の段取りを付ける」
急襲する別動隊
シュミットは、今回の混乱に乗じて権力奪取を図る
事前にKGBを通じて、ドイツ国内のソ連基地に戦力を隠匿
戦術機の他に、数台の新型回転翼機まで工面した
新型ヘリの正式名称は、『Mi-24』
ソ連空軍汎用ヘリコプター『Mi-8』を原型とし開発された、ソ連初の攻撃ヘリコプター
強力な武装で地上を制圧し、搭乗した歩兵部隊を展開
ヘリボーン任務を想定して開発された大型機体
NATOコードネーム「ハインド(Hind/雌鹿)」の異名を持つ回転翼機
彼は、灰色の勤務服より白色の大礼服に着替える
大型で連射可能な、ステーチキン式自動拳銃を握る
予備弾倉4本と共に、本体を包む木製ケースごと、懐中に仕舞う
彼と共に、ソ連軍の軍服を着た一団がAK-74を手に持ち、乗り込む
『74年式カラシニコフ自動小銃』
最新型の5.45x39mm弾
人体に命中した場合、射入口は小さいが、射出口が口径と比して大きい
筋肉血管を含む周辺組織に広い体積で損傷を受ける為、治療が難しい
最新鋭の装備を持った特殊部隊は、空路、ベルリン市の共和国宮殿に向かった
ほぼ時を同じくして、閣議に参加していた国防大臣の下に保安省の動向が伝えられる
人民軍情報部は、潜入させてた二重工作員よりシュミットの野望を入手していたのだ
耳打ちしてきた従卒を送り返すと、彼は席より立ち上がって、会議室を後にする
彼の姿を確認する物はいたが、全員が閣議を優先してた
日本軍の超大型戦術機、ゼオライマーの出現
首都の混乱に拍車をかけた
国防相は、電話のある一室に着く
周囲を確認すると、ドアを閉める
ダイヤルを回すと、受話器を持ち、通話開始を待つ
一分一秒が惜しい……
焦る気持ちでいると、相手先に繋がる
「此方、第一戦車軍団」
交換手への呼びかけの後、目的の人物への通話に切り替わる
手短に伝えると、電話を切った
彼は、足早に会議室へ戻った
一報を受けた第一戦車軍団司令部は大童であった
しかも、運が悪い事に今日は土曜日
東ドイツではすでに週休二日制度が採用され、軍隊も例外ではなかった
急遽、基地内に居る人員で出撃体制を整える
偶々、その場に居合わせたハイム少将は、シュトラハヴィッツ少将に問うた
同輩は、何処からか持ち出したシモノフ式・半自動装填騎兵銃の手入れをしている
「貴様がそんな銃など持ち出してどうした」
ボルト・キャリアの動作を確認を続ける
「『兄貴』からの呼び出しがあった……」
銃の手入れを止め、彼の方を向く
同輩の話を聞いた彼は眉を動かす
「貴様も、昔と変わらんな。
今は同志大臣であろうよ。内輪で話す分には構わんが……」
彼は、面前の同輩にそう答えた
「お前も来てほしい」
同輩は、彼を誘った
「良かろう。体が鈍っていた所だ……」
シュトラハヴィッツ少将は、勤務服の上から大外套を羽織る
ハイム少将と共に、BTR-70装甲車に乗り込む寸前、男が駆け寄ってくる
彼は、男の方を振り向く
「どうした」
男は、強化装備のハンニバル大尉だった
ハンニバル大尉は、敬礼をする
返礼の後、彼は問うた
「同志大尉、全機エンジンを温めて置け。
最悪、戦術機同士の戦闘に発展するかもしれん」
ハンニバル大尉は、力強く答える
「同志将軍、何時でも出撃準備は出来ています」
男の真剣な眼差しを見つめる
「気を付けて行け」
短く告げると、装甲車の扉を閉める
十数両の戦車隊は、ゆっくりと基地の門を出る
前照灯を煌々と付けると、夜半の道路を、最高速度で駆け抜けて行く
ベルリン市上空に現れた複数の戦術機
市民は不安に思った。
深夜に為ろうと言う時刻で、戦術機を飛ばす事があったであろうか……
国都ベルリンの騒乱は、米軍にも察知された
核戦力の相互確証破壊(Mutual Assured Destruction/MAD)……
1965年に、当時の米国務長官が公式に表明した政治的表現
米ソ両国は、一方から大規模な核攻撃を受けた場合、相手国を確実に破壊できる報復用の核戦力を保持
見つかりにくいSLBM(submarine-launched ballistic missile/潜水艦発射弾道ミサイル)の形で用いる
この『恐怖の均衡』ともいうべき状態にあって、彼等は動けなかった
一応、東独政権首班から連絡があれば、人道部隊と言う事で動くことも検討されていたが……
対BETA戦争という熱戦と東西思想戦という冷戦
この二正面作戦を行う米国に在っても、世論の反応は捨てがい……
空襲警報の鳴る西ベルリンに在って、彼等は受動的な態度を取る事に決めた
東ドイツ首脳部は、ソ連大使館の対応に苦慮した
偶発的な事故として始まった市街戦……
ソ連本国とのホットラインを繋ごうにもBETA戦で通信インフラは壊滅
はるか極東のハバロフスクへの連絡にも一苦労する状態……
米大使館や、先の米ソ会談を主催した英政府に連絡を入れ、対応を待つ
宮殿の傍は既に国籍表示の無いの戦車隊が鎮座している
囲まれてはいないが、何かあればただでは済まないであろう……
臨時閣議中、衛兵が入ってくる
「失礼します。見慣れぬヘリ数機が近寄ってきていますので、退避の準備を……」
国防大臣が、問う
「短翼、腕の様な物が付いているのか」
「ミサイルと思しき筒の様なものを吊り下げてます」
大臣は立ち上がる
「ソ連の新型攻撃ヘリだ。ここに乗り込む算段だ」
議長は立ち上がる
「近隣の部隊は……」
「防空部隊も戦車隊も、出動要請を掛けました」
窓際では狙い撃ちされる……
大ホールも薄壁一枚で打ち抜かれたら一溜りもない
精々アスベストが粉塵として舞うぐらいだ
そう考えた彼は、行動に出る
「一旦、奥に逃げるぞ。ここでは不利だ」
彼へ、国防大臣が耳打ちする
真剣な表情で聞き入った後、彼は着席する
そして、暫し悩んだ後、こう告げた
「もしもの事を考え、国防相、外相、首相以外は、この場から退避しろ」
政治局員が、声を掛ける
「明日の政治局会議は如何致しますか、同志議長」
彼は、最悪の事態を想定して動いた
「我々が不在でも対応できるよう、計らえ」
『政治局会議』
週一回という限られた時間で、国政全般の諸事項を決定する東ドイツの最高意思決定機関
その実態は、中央委員会所属の41部局が情報収集
官僚が作成した原案に部分修正を加え、事後決定する場でしかなかった
会議室から閣僚と政治員を逃した後、彼は、三名の閣僚と共に、ここに残る決意をした
間違いなく、あのヘリは暗殺隊……
分散して居れば、最悪自分の遺志に続く者が出るかもしれない……
男は目を瞑り、独り言を言う
「タバコも、後10本か」
国防相が漏らす
「買い溜めでもして置けば良かったよ」
室内に笑い声が響く
精一杯の痩せ我慢であろう
複数の足音が聞こえる……、彼等は覚悟した
ヘリより降りた暗殺隊が近づいて来るのだと……
ノックも無しに、ドアが開く
男は、残り少ないタバコを箱から出すと火を点けた
「議長、此処に居りましたか。
お迎えに上がりました」
白色で両前合の上着に、赤い側線が入った濃紺のズボン
場違いな将官礼服を着て現れた禿髪の男
ソ連派の首魁、クレムリンの茶坊主と評される、エーリヒ・シュミット保安少将、その人であった
開け放たれたドアの向こうには、ソ連の1969年制定野外服を来た人物が数人立つ
鉄帽を被り、硬い綿布製の装備品を支える合皮製ベルトを締め
『キルザチー』と言われる合皮製長靴を履いている
首相が揶揄う
「君は、何時ソ連の茶坊主になったのだね」
彼は無表情のまま、懐中より見慣れぬ大型拳銃を右手で取り出す
「手荒な真似はしたく御座いません……」
その刹那、用心金から引き金に食指を動かす
彼等の背後に掃射する
電気鋸の様な音と共に、壁が剥がれ落ち、埃が舞う
凍り付く首相に代わり、議長がシュミットに尋ねる
「貴様、何が欲しい。
言ってみろ」
茶色の官帽型軍帽を被り、薄く色の付いた眼鏡を掛けた顔が動く
「私が欲しいのは、この民主共和国です」
男は哄笑した
「良かろう。1600万人民を餓えさせぬ自信があるのか……」
シュミットは、困惑した
「対外債務の実額はどれだけあるのか……」
彼は、男の問いから逃げた
国防相も同調する
「今後の国防安保の展望はどうするのだ……」
彼は沈黙を続ける
「言えんのか」
国防相の問いには答えなかった
遠くから駆け寄ってくる足音がする
兵達は気にせず此方を見ている
自動小銃は、釣り紐で担ったままだ
外相も、賭けに出た
「対ソ関係は最悪。
今更、胡麻を擦っても遅いぞ。
貴様のような木っ端役人が騒いだところで、国際社会は助けてくれぬ。
現実は、甘くない」
シュミットは、自動拳銃の引き金を引く
撃鉄の音ばかりで、弾が出なかった
20発の装弾は全て打ち尽くした後であるのを、忘れていた
轟音が響き、怒声と共に男達が乱入してきた
「シュトラハヴィッツ君!」
男は叫んだ
勤務服の上から大外套を羽織り、小銃を構えたシュトラハヴィッツ少将が仁王立ちする
シュミットは素早く弾倉を変えようと、左手で操作する
即座に、拳銃を握った右手を、少将が騎兵銃の銃床で叩き付ける
拳銃が弾き飛ばされ、床に転がると、握っていた弾倉を放り投げ、一目散に逃げて行った
数度、銃声が響く
「おい、あの茶坊主は逃げたぞ」
小銃を構え、脇を向いた侭、外套姿のハイム少将が言った
居並ぶ閣僚を前に、シュトラハヴィッツ少将は敬礼をする
国防大臣が挙手の礼で応じた後、彼に語り掛ける
「アルフレート、お前一人で来るものとばかり思っていたが……」
彼は不敵の笑みを浮かべる
「喧嘩は一人では出来ません。それに、これは国の面子に関わる問題です」
大臣は哄笑した
「じゃあ、ハイムを呼んだのも、確認の為か。そうであろう」
彼は、大臣の方を振り返る
「否定はしません」
「若い頃と変わらんな、お前は」
戯言を述べた後、大臣の表情は変わる
「脱出路は……」
「確保済みです」
議長が割り込んできた
「ヘリは如何した」
男は、空挺作戦を行おうとしていたヘリの動向を気に掛ける
「自走対空機関砲を随伴させてきました」
彼等は困惑した
「どうやって……」
「61年10月の手法を参考にした迄です」
彼等は、同事件に置いて国際法を無視して国籍表示を外したT-34戦車33台を運用した手法を真似たのだ
男は、右手で持っていたタバコを素早く点けると、一言告げた
「ソ連の『顰に倣う』か」
再び深く吸い込む
「グズグズして居れんな。『ランプ館』から脱出するぞ」
『ランプ館』
男は、ベルリン市民が、宮殿内にある1001個のシャンデリアを揶揄した表現をあえて口にする
タバコを灰皿に投げ入れると、男達は足早にその場を後にした
後書き
カティア・パパの銃をSKSカービンにしたのは個人的趣味です
東独において、SKSカービンはKarS小銃という名称で採用、国産化されてます
実は、東独では小銃に至るまで独自の名称を付けているのですが、煩雑になるので、ソ連側の名称とNATOコードだけにしました
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
国都敗れる その3
前書き
柴犬本編でのRPG7対戦車砲での攻撃による被撃墜描写を鑑みて、ミサイルの排気炎から放射される赤外線は検知出来ないと言う事と解釈しました
もっとも、この時代(1970年代)は、現実世界でも航空機搭載の赤外線検知装置は発展途上です
自室で手紙を書いていたヤウク少尉は、室内にある内線電話を取る
受話器越しにハンニバル大尉の呼び出しを聞き、応じる
着慣れた運動着から、強化装備に着替え、走る
首都で何かあったのであろうか……
生憎、カッフェは結婚した為、寮外で暮らしている為、到着が遅れるとの連絡があった
新人のクリューガー曹長の実力も未知数だ……
訓練時間は十分ではあろうが、実戦経験はほぼ無いに等しい
その様な事を思っていると、指令室に着く
何時もは勤務服姿の最先任上級曹長が、珍しく深緑色の野戦服に身を包んでいた
椅子に腰かけ、腕を組むハンニバル大尉に敬礼をすると、開口一番問うた
「非常招集とは、どうかしましたか」
彼の言葉に、大尉は顔を向ける
「これを見ろ」
大尉は、電子探査装置の画面を指差す
「ベルリン市街に戦術機が一機出現した。
そして市街地より東南東20キロメートルの地点を時速200キロで戦術機が飛行している」
彼は驚愕した
「防空隊はなぜ市街地に戦術機着陸を許したのですか……」
大尉は目頭を押さえる
「君でも分からぬか。
はっきり言おう。出現までレーダーには捕捉されなかったのだ」
彼はしばしの沈黙の後、答えた
外字紙や欧米の軍事情報雑誌からの情報を基に、推論をくみ上げる
「もしかしたら、あの米国内で開発中のレーダーに映らない新型機……。
其れではないでしょうか」
「電波を遮断できる装置を兼ね備えてるとでも……」
彼は、右手を顎に当て答える
「手短に言いますと、米国では特殊な塗料や複合材で電磁波を遮断できる高性能機。
そのような物を設計中だと、軍事雑誌に載っておりました。もっとも噂レベルですが……」
大尉は立ち上がり、左手の腕時計を見る
「分かった。5分後に出撃だ」
「同志カッフェ少尉は……」
大尉は、彼の方を向き、答える
「奴を待たずに出撃する」
基地より緊急発進した戦術機大隊、およそ40機
ハンニバル大尉の指示で、大隊は三つに分けられ、ヤウク少尉の率いる部隊は共和国宮殿に接近する不明機に向かった
大尉指揮の本隊と、ベルンハルト中尉の別動隊は宮殿周辺に向かう
彼は、操作卓を指でなぞる
ユルゲンの事が心配だ……
彼は、此の所、家族の事で思い悩んでいる
戦闘に支障が出なければよいが……
「戦闘指揮所の将校は、すべて出払っただと!」
遅れてきたカッフェは驚嘆する
非常時とは言え、ハンニバル大尉迄出払うとは……
最先任上級曹長が続ける
「同志大尉の意見としては、同志カッフェ少尉に全体の指揮をお願いすると……」
彼は思い悩んだ
「こんなのだったら、アイツを連れてくればよかったな……」
家で休んでいる妻の事を思う
曹長は笑みを浮かべると、彼の独り言に返答した
「同志少尉、身籠られた細君に無理させる必要はありません。
違いますかな」
曹長は、身重のヴィークマンを気遣う
知らぬ間に独り言が漏れた彼は、己を恥じた
ソ連大使館に佇む白磁色の大型戦術機
戦術機隊に周辺を囲まれても、身動ぎせぬ姿
ベルンハルト中尉は、その様から、帝王を思わせる風格を感じた
彼は一か八かの勝負に出た
もし、ゼオライマーという機体ならば、操縦者は木原マサキ
一度、面識のある人物だ
彼は部隊の仲間に通信を入れた
「1番機より、中隊各機へ。所属不明機を説得する。
自分よりの指示があるまで衛士の攻撃は禁ず。
繰り返す、衛士の攻撃は禁ずる」
「ソ連大使館への対応は如何しますか」
彼は、画面に映る衛士を見る
「3番機、余計な事は考えるな。
良いか、市街地故に擲弾や散弾の使用は制限するように」
僚機から心強い返事が返ってくる
「了解」
彼は、頷く
指で、航空無線機の国際緊急周波数121.5MHzにダイヤルを回す
彼は英語で答えた
「警告する。貴機はDDR(ドイツ民主共和国)領内を侵犯している。速やかに現在地から退去せよ」
白磁色の機体が、ゆっくり此方に向く
即座に、向こうから通信が入った
男の高笑いが聞こえる
そして、ドイツ語で話しかけてきた
「この天のゼオライマーに、何の用だ」
ゆっくりと機体の右手が上がり始める
「此方に攻撃の意思はない。
操縦者は木原マサキ曹長であろう。違うか」
彼は賭けに出た
男は応じる
「如何にも、俺は木原マサキだ」
彼の応答に、マサキは応じた
暫しの沈黙が起きる
画面にマサキの画像が映る
不敵の笑みを浮かべ、此方を見る
「何時ぞやの懇親会以来だな」
哄笑する声が響き、彼の心を騒がせる
「貴様等なりの歓迎と受け取ろう。
だが、俺には構わず遣るべき事がある」
機体の右手を挙げ、食指で共和国宮殿の方角を指し示す
「向こうから来るヘリコプターを撃退するのが先であろう。
貴様等が望むのであれば、俺はいつでも相手になってやる」
再び哄笑する声が聞こえる
「もっとも無残な姿を晒すだけであるから、止めて置けば良い」
マサキは、画面越しに映る美丈夫に応じた
あの時、見た碧眼の美しい瞳
忘れもしなかった
「今日の所は見本だ。
ソ連大使館と戦闘ヘリだけで勘弁してやる」
彼は、右手で髪をかき上げる
「天のゼオライマーの威力、特等席で観覧できる喜び。
全身で感じるが良い」
数機の戦闘ヘリがこちらに向かって、ロケット砲を放つ
面前の機体は気付くのが遅れた模様だ……
借りを作ってやろう
そうすれば、何かしらの工作の下地になる
彼はそう考えると、操作卓に指を触れる
ベルンハルト中尉は、自分の判断を誤ったことを後悔した
9M17《ファーランガ》対戦車ミサイル(AT-2 スワッター/蠅叩き)が、連続して直進する
手動指令照準のミサイルの為、照準用レーダー波は発生しない
レーダー警戒装置は未検知……
つまり警告装置は作動しなかったのだ
飛び上がって避ければ、ソ連大使館へ直撃……
向きを変えれば、時間的に被弾する可能性も高い
突撃砲で迎撃するよう、背面に向けて、180度搬送腕を曲げる
背中にある補助腕を展開させ、懸下した突撃砲を向けた
操縦桿を強く引き、火器発射ボタンを押す
突撃砲は勢い良く火を噴き、飛翔物を狙う
後方射撃を繰り返すが、思うように命中しない
二発、迎撃できたが……もう二発は通り抜けて来る
対戦車弾ですら簡単に損傷させる機体……
跳躍ユニットやコックピット背面に当たれば、助かるまい
しかも勝手知ったる平原や山岳地帯ではなく、市街地
不慣れな状況も、彼の心に動揺を与える
そうしている間に閃光に包まれた
周囲の機体は、モニターより接近する飛翔物を見る
発射炎を上げ、接近する対戦車ミサイル
攻撃を察知すると、即座に散開した
一番機のベルンハルト中尉が光に包まれたのが見える
恐らく跳躍ユニットか、燃料にでも引火誘爆したのであろう……
彼等は、後方のヘリに意識を集中した
瞬間的に跳躍して、ヘリの上空に出る
有りっ丈の20ミリ機関砲弾を喰らわせた
十数機の戦術機より攻撃を受けたヘリは爆散
後方に居たヘリ数機は、高度を上げると引き返していく……
「射線上から回避しろ」
撃墜されたとばかり思っていた一番機からの通信が入る
急いで、散開すると一筋の光線が勢い良く通りぬけて行く
光線級の攻撃を思わせる、その一撃ははるか遠くにいるヘリに命中
機体を光線をかすって誘爆すると、全滅させた
ベルンハルト中尉は困惑した
目前に居た機体が、一瞬にして後方に転移
その後即座に、大使館へ戻ったかと思うと自分の機体に覆い被さるよう佇む
50メートルは優に有る機体が、瞬間移動……
信じられなかった……
唖然とする彼に、マサキは話し掛けてきた
「これも、ゼオライマーの力の一部にしか過ぎん。
貴様等が首魁が居る、共和国宮殿。
焼ける姿が見たいか」
不敵の笑みを浮かべ、彼を煽り立てる
「その代わり、俺と共にソ連を焼き払う……
文句はあるまい」
困惑をしていると、なおも続ける
「貴様にその意思があるならば、俺は喜んで手を貸そう」
マサキは哄笑した後、こう吐き捨てた
「楽しみに待っているぞ」
そう言い残すと、面前の機体は消え去る
氷室美久は、この騒動をゼオライマーを通して見ていた
自分の主人の真意を測りかねる……
彼女は通信機越しに、マサキに問いかけた
「何が為さりたいのですか……」
マサキは応じた
「俺が望むのはただ一つ、世界征服よ」
彼は不敵の笑みを浮かべる
「まず足掛かりとしてソ連を戦場にした世界大戦を引き起す。
東欧諸国を巻き込み、西側に迎え入れ、社会主義経済圏を破壊する……。
やがては経済的に孤立させ、核に汚染された大地を当てもなく彷徨わせる」
上空に転移し、浮遊させたゼオライマーより市街を睥睨する
所々燃え上がる市街……
ヘリやミサイルの残骸が火事を引き起こしたのであろう
「あの蛮人に相応しい、鎌と鍬で暮らせる原始共産社会……。
奴等を再び世界の孤児の立場に追い込む」
眼光鋭く、画面を睨む
「俺が、東ドイツの小僧を助けたのも、その亀裂を広げるための方策よ。
奴等は諜報戦の世界で、割れ目をこじ開ける方策を西側に仕掛けて来る……。
自分で味わうと、どうなるか……。
この目で見たくなったのよ」
「今日、手に入れた資料は複写して全世界にばら撒く」
彼女は困惑した
「それでは、世界中が混乱します。
御願いですから、お止めください」
彼は哄笑する
「CIAとゲーレン機関にだけ、限定してやるよ」
慌てふためく彼女の様を見て、一頻り笑う
「この上で、シュタージファイルでもあれば、奴等を強請って小遣い稼ぎでも出来たかもしれんな」
ふと思いついたように言う
「俺は決めたぞ。
これより大使館を跡形もなく破壊した後、ミンスクとウラリスクを灰燼に帰す」
このゼオライマーの力を持って容易い……
彼は、続ける
「そうすれば、その戦力はすべて対ソ戦争とやらに使えるであろう。
嘗て列強が支那をパンケーキの様に切り取ったように、ソ連を細切りにして国力を減退させる。
その戦争で国力を疲弊させた各国を恫喝し、ほぼ無傷の侭、我が手中に収める」
その様に嘯く
「この世界の人間どもを、BETA等という化け物の餌にするのは惜しい。
我が奴隷として、傅かせる」
内に秘めたる黒い感情を吐露した
「想像してみよ、愉しかろうよ」
彼は心より、己が策謀を楽しんだ
後書き
偶然かもしれませんが、『ゼオライマー』のノンスケールプラモデルが出るそうです
一部彩色済みで、7月頃発売だそうです
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
シュミットの最期
前書き
シュミットの行動、その余波はどれ程の物であったか
命辛々、共和国宮殿を後にしたシュミットはその足で保安省本部へと向かう
僅かな手勢を引き連れ、庁舎に乗り込む
先程あった、宮殿での混乱
事情を知らない職員達は、深夜に為ろうともする時間に現れた高級将校に驚く
将官礼装の姿を見て、不審に思う
彼は、周囲を一瞥した後、こう告げる
「責任者の連絡会議をする。関係者を集めてほしい」
省内に居る下僚達が、駆けずり回る
10分もしないうちに会議場へ、主だった関係者が集まったことを確認する
すると、彼は外から鍵を閉めさせた
「諸君、ご苦労であった」
そう言い放つと、懐中より何かを取り出す
宮殿で投げ捨てた物と同型の大型拳銃を構える
何処からか現れたソ連軍の軍服を着た複数の人物
突撃銃を構え、彼等に向ける
混乱する職員達へ、銃口から火を噴く
電気鋸の様な音が響き、薬莢が散乱する
その場は、一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化す
幾名かは、懐中より拳銃を取り出すが間に合わなかった
自動小銃の斉射によってドアに向かって重なる様に屍が倒れ、血が滲む
彼は、横たわる遺体を見つめながら、独り言ちる
「これで、この国の頭脳さえ抹殺すれば、全て終わる」
どうせ、簒奪出来ぬのであれば、自分の手でこの国を破壊しつくす……
ソ連へ献上しようかと考えたが、この際、反逆的なドイツ人を全て焼き尽くしてやろう
KGBの秘密作戦は失敗したのだ……
自分と共に社会主義統一党は地獄に落ちてもらうまでだ
シュミットの心の中に、どす黒い妄念が渦巻く
怒声と足音が近づいて来るのが聞こえる
脇に立つ兵士に窓を蹴破る様に命じる
割れた窓から、あらかじめ用意した落下傘の紐を室外に垂らす
建物の外壁を蹴りながら、地上へと向かう
手勢の物たちが脱出したのを確認した後、栓を抜いた手投げ弾を勢い良く放る
元居た場所に、ぶつかる音が聞こえた
閃光と爆風が、広がる姿を背にして、用意した乗用車で脱出した
シュミットの襲撃から逃れた東ドイツの首脳
彼等は、その夜の内に人民軍参謀本部を臨時指揮所とした
市街地での混乱によって政府機能が停止する事態は避けなくてはならない……
その様に考え、行動に移す
今回の反乱の規模は不明……
しかも、国家保安省本部との連絡網は遮断されている
反乱軍への対応に追われている首脳陣に、驚くべきことが伝えられた
「保安省が襲撃されただと!」
内務大臣が立ち上がる
「被害は……」
「省内の状況はいまだ不明です。
負傷者多数との報告を受けました……。
ただ、襲撃事件が発生する直前に何者かによってソ連・東欧関係の資料、党の秘密資金関連がごっそり持ち出された模様です」
崩れ落ちる内相を、シュトラハヴィッツ少将が後ろから支えた
「同志大臣、気を確かに為さってください」
彼を、椅子に座らせる
落ち着かせた後、議長が再度、尋ねた
「資料の管理は、俺がアスクマンに任せた。
まさか……」
己が失態を暗に認める発言をする
額に、右手を当てる
襲撃事件の首謀者は、アスクマン少佐の一派……
シュミットの反乱に乗じて、資料を持ち出す
名うての工作員であれば、容易かろう
万が一の事を考え、アスクマン少佐の対応を念頭に置いた発言をする
「奴の子飼いの部下共が、欲に目が眩んで、外に持ち出した。
有り得ぬとも言えぬな」
男は、机に置いてある『ジダン』の封を切り、タバコを取り出す
両切りの紙巻きタバコを机に数度叩き付ける
葉を詰め、吸い口を作ると口に挟む
マッチで火を起こし、紫煙を燻らせる
暫し、目を瞑る
「原本は無事か」
再び目を開き、タバコを吹かす
面前で立ち尽くす保安省職員に尋ねた
「個人票の方は……秘密の場所に移してあります。
大部分が無事な状態です。
ですが、複写物は丸ごと消えました」
人差し指と中指に挟んだタバコを灰皿に置く
灰皿より紫煙が立ち昇り、部屋中に広がる
「個人票が残ったのは、せめてもの救いだ……。
大方、ボンか、CIAにでも売り飛ばしたのだろう」
タバコを掴むと、再び吹かす
「で、お前さんは如何したいんだ……」
項垂れる内相に、顔を向ける
彼の口から、アスクマン少佐の対応を聞き出すつもりで尋ねる
「奴と、奴の部下を免職の上、国外追放の処分にするつもりです」
「つまり、俺に恩赦を出せと……」
内相は、ゆっくりと頷く
「来年は建国30周年記念です。それまで形ばかりの裁判をして拘留し……」
火の付いたタバコを持つ右手を、顔から離す
「今日、只今を持って奴を罷免。
シュミット同様、反革命罪にする」
『反革命罪』
嘗てスターリン時代のソ連で出された罪状
謂わば、国家反逆罪に相当する
その内容は、『国際ブルジョワジー幇助』『労農ソビエト政権の転覆及び破壊』
死刑が条文から廃止されていた1922年のソ連刑法において、事実上の死刑判決に相当する物
事を穏便に収めようとする内相に対して、男は敢てその言葉を選んで伝えたのだ
タバコを弄びながら答える
「これは議長命令だ。政治局会議も、その線で行く」
内相は、男に束になった資料を渡す
「これが奴の監視して居た被疑者の一例です」
資料を乱雑に受け取り、その中から無選別で抜き取る
写真入りの個人票を一瞥した
男の表情が、変わる
彼に、問う
「この資料にあるリィズ・ホーエンシュタインという人物……。
まだ、12、3の小娘ではないか」
美男美女と見るなり、被疑者に仕立て上げ、手を出し、辱める
ベルリンに来たソ連要人や党幹部に貢物として収める
噂では聞いていたが、その話が本当ならば……
自己の栄達の為に支配層に取り入り、守るべき国民を屠る
何が、有能な工作員だと言うのか
《野獣》という通り名、其の儘ではないか
体が燃え上がる様に熱くなる
「奴が抱えた被疑者は……」
男は、慨嘆する
「既決囚以外は、ボンにでも放り出せ……」
アスクマンが監視していた人間は全員恩赦の扱いにするように指示を出す
火のついたタバコを、右手で灰皿に置く
目頭を押さえ、椅子に腰かける
横から男の姿を見る
苦虫を噛み潰した様な顔で、肩で息をしている
無言ではあるが、明らかに怒りの表情が見て取れる
彼は、静かに同意した
「了解しました……」
苛立ちを隠すために、タバコを取り出す
火を点け、吹かしながら国防大臣に問うた
「戦術機の訓練校に居るアーベルの娘2人は、どうした」
男の言葉を聞いた国防相は困惑した
通産官僚ブレーメの娘は、一人だったはず……
激しい剣幕を見せる男
国防相は、たじろぐ風も見せずに、平然と答えた
「同志議長、未確認です」
「不逞の輩に誘拐される」
シュミットか、或いは、アスクマン
何方かが人質にとるかもしれない
最悪の事態を想定した
「万に一つの事があるかもしれん……。
使いを出して、坊主の傍にでも呼んでやれ」
男は、立ち上がった
「どちらへ」
「頭を冷やした後、3時間ほど休む。
何かあったら呼べ」
そう言い残すと、部屋を後にした
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
シュミットの最期 その2
前書き
なんやかんやで、5千字の長文になってしまいました
ハバロフスクのソ連共産党臨時本部
ベルリンの駐独大使館との連絡途絶の一報を受け、臨時の会議が開かれていた
昨夕の『木原マサキ誘拐作戦』の成功を受け、安心していた彼等にとって寝耳に水
早朝5時からの政治局会議は紛糾した
KGBと科学アカデミーの双方は、責任の擦り付け合いに終始
事態は一向に進展しなかった
一旦、会議を休会して遅めの朝食を取っていた時、さらなる続報が伝えられた
「何、シュミットが仕損じただと」
KGB長官は、報告を上げた職員の襟首をつかむ
「冗談ではあるまいな……」
職員は、目を泳がせ、押し黙る
彼の勢いに気後れしてしまった
議長は、彼の方を向いて言う
「そのものに責任は無い。下がらせろ」
職員はその一言で、手を離される
申し訳なさそうに部屋を後にした
9時間の時差は大きく、ソ連の対応に遅れが出始める
議長の口が再び開く
「本作戦の失敗は、駐独大使館内の一部過激派分子と国際金融資本の走狗となった科学アカデミー内の米国スパイ団による物とする。
関係者は、国事犯として収容せよ」
検事総長が、彼に問うた
「国連のオルタネイティヴ計画に参加した者の扱いに関してですが……」
参謀総長が立ち上がり、割り込む
「軍内部の研究会は如何する……。貴様の言い分だと、粛清でもせよというのか。
情勢を見て判断しろ。
この薄ノロが」
「お前たちの様に、中央アジアの反乱一つ抑え込めぬ役立たずに言われたくはない」
「五月蠅い。KGBもMVDも揃いも揃って宣撫工作をしくじったのが原因であろう」
議長が一括する
「黙れ。弁明はもう沢山だ」
両者は、議長に叩頭した
両者が着席するのを見届けた後、周囲を見回す
彼の口から驚くべきことが言い放たれた
「シュミット及びベルリンのKGB支部は切り捨てる」
周囲の人間は、驚愕した表情を見せる
「米議会に工作し、G元素研究の施設に我が国の人間を噛ませる」
黙っていたKGB長官は、彼の方を向いて一言伝える
「すると、原爆スパイ団と同じ手法で我が国にG元素の基礎研究を持ち込ませると……」
彼は、黙って頷く
参謀総長は、椅子に座りなおすと、歴戦のチェキストの意見を否定する
「パリの宝飾品店に行ってダイヤの首飾りを買うのとは、訳が違いますぞ」
そう言い放つと、苦笑する
「無論、成功するとは言ってはいない。
最悪、西の兵隊共を磨り潰してG元素を手に入れれば、如何様にでも出来るであろう」
参謀総長は、哄笑する
「『麒麟も老いては駑馬に劣る』
契丹(支那の雅称)の古典に、その様な言い回しがあります。
その様な絵空事を言うようであれば、貴殿も老いを隠せぬと言う事でしょうな」
「貴様は、シュトラハヴィッツ少将に手紙を送ったそうではないか」
男の言葉に、参謀総長は目を剥く
「貴様の党への背信行為は、重々承知して居る。
党内の政治バランスのみで、昇進した小童には我らが深謀遠慮は理解出来まい。
違うか」
暫しの間、沈黙がその場を支配する
議長が口を開いた
「米議会に置いて、一定の工作が成功し、アラスカ租借の目途が着きつつある。
最悪、東ドイツを失っても米本土の眼前に核ミサイルを配備出来る。
上手く行きさえすれば、北太平洋は我がソビエトの領海同然となり、あの禍々しい日本を一捻りで潰せる」
「つまり、東欧を米国にくれてやる代わりに、アラスカを取ると……」
KGB長官は笑みを浮かべる
「ドイツ人やポーランドの狂人共を世話を連中にさせるのだ。
痩せて石炭しか採れぬ片田舎など貰ってもソ連の為にはならん」
男は、議長の妄言に阿諛追従する
「お約束しましょう。
KGBは、BETA戦勝利の為に労農プロレタリア独裁体制の維持を致します事を」
男達の呵呵大笑が響き渡った
東ベルリンでのソ連大使館前の銃撃事件を受け、ホワイトハウスでは対応に追われる
土曜の18時という時間に緊急会議が行われていた
西ベルリンに被害が及んだ際の対応に徹するべきという意見が、大多数を占める
葉巻を咥え、椅子に深く倒れ込む副大統領に、CIA長官が尋ねる
「国家保安省内の間者によりますと、3時間ほど前、反乱が発生した模様です。
反乱軍への対応は如何しますか」
彼の言葉を聞いた男は、前のめりになり、机に肘を置く
「情勢が明らかになるまで保留せよ」
「そうは言ってられぬ事態になったのです」
人工衛星の通信を謄写印刷した物を彼に見せる
「これは……」
口に咥えた葉巻を落としそうになり、右手で押さえる
「例の大型戦術機で、ゼオライマーと称されるものです」
葉巻を再び咥え、吹かす
周囲に紫煙が広がる
「東ベルリンに日本軍の戦術機だと……。
ややこしい話になるな」
男は、国防長官に話を振る
「ペンタゴン(バージニア州にある五芒星形の国防総省本部)の意思は……」
国防長官は、男の方を向く
「西ベルリンにある兵は、動かすつもりは御座いません」
煙が立ち上る葉巻を、右の食指と親指で掴み、灰皿に立てる
「日本政府は何と言っている……」
「国防省は現在調査中とだけ返答してきました」
ガラス製のコップにある水を口に含む
「煙に巻く積りか」
黙っていた大統領が口を開く
「良かれと思って手を出せば、最悪の事態に発展しかねない。
現状維持で行く」
CIA長官は、大統領に意見した
「同盟国の戦術機とそのパイロットを見捨てろと申されるのですか。
閣下、自分は納得出来かねます。
核攻撃を恐れるなら、何のためにパーシングミサイルが西ドイツにあると言うのですか」
副大統領は、CIA長官を宥める
「君は、そのゼオライマーとやらに心酔していると聞く。
たかがその様な高価な玩具の為に、合衆国市民の権益を害するようなことは認められぬ」
CIA長官は押し黙る
男の意見に不満があるのか、肩で息をして、落ち着かない様子であった
葉巻を灰皿から掴むと、シガーカッターを取る
立ち消えした葉巻の焦げた部分を切り取り、新たに火を点け、吹かす
「君が、立ち遅れている戦略航空機動要塞開発計画を進めるためにゼオライマーの新技術を欲しているのは分かる。
だが、どの様に優れた機械であってもBETA退治だけにしか役に立たなければ、それは所詮高価な玩具でしかないのだよ」
黒ぶちの老眼鏡を右手で持ち上げる
「シュタージの閻魔帳でも一式持ち込む事さえ叶えば、君が計画は考えてやっても良い」
「ご約束頂けるのであれば、今回は諦めましょう」
整った黄髪の頭を、彼の方に向ける
「君がそれほどの覚悟であるのなら誓紙の一つでも書こう」
CIA長官は事前に用意したタイプ打ちの文書を男に渡す
麗麗しく飾り立てた字を書き記すと、CIA長官に投げ渡した
「この件はこれで終わりだ」
一方、東ベルリンの市街上空では激しい戦闘が繰り広げられていた
上空を哨戒していたヤウク少尉率いる小隊12機は、4機の所属不明機と遭遇
20㎜突撃砲の射撃を受けると散開し、距離を取る
機種は、MiG-21バラライカ
射撃戦が一般的な戦術機で、長剣装備……
彼の記憶が間違いなければ、対人戦に特化したソ連のKGB直属部隊
丁度、自分も二本、刀を積んでいる……
ヤウク少尉は、絶え間ない射撃の間隙を縫って、高度を下げる
テンプリン湖上を勢いよく飛ぶ
衝撃で舞い上がる波しぶきが機体の両側に打ち付ける
背後に臨むサンスーシ宮殿の姿を見る
「ポツダムまで来ていたのか……」
このプロイセン王国の文化遺産を韃靼の血を引く蛮族に焼かせてはならない
ヴォルガ河畔の地より遥か遠い中央アジアに送られた祖父母……
必ず生きて帰って、待つ父母や兄弟に会う
家族愛、それ以上に強く思うのは、自らが恋慕する娘への感情
美しい亜麻色の髪をした美少女……
何れは、この胸に抱きたい
4機編隊の内、一機はこちらに引き付けた
通信を入れる
「此方一番機、2番機どうぞ」
湖上を滑る様に、飛びながら、背後からの射撃を避ける
通り抜けた個所に、曳光弾が撃ち込まれるのが見えた
「2番機より、一番機へ。
指示をお願いします」
返信があった
推進剤の消費量を見る
飛び方さえ気を付ければ、あと2時間ぐらいは大丈夫であろう
「格闘戦は避けろ、集団で叩け。
繰り返す、集団戦で叩け。
以上」
硬く強固に見える戦術機……
乗りなれれば判るが、恐ろしいほど脆い機体
対戦車砲や対戦車地雷で吹き飛ぶ装甲板
どの様に優秀な衛士が乗っていようと数を持って対応すれば、必ず落ちる
地獄のウクライナ戦線で嫌というほど見せつけられてきた……
引き付けた一機以外は、集団で叩けば初心者でも勝てる筈
一人でも多く、僚機を返さねば6月のパレオロゴス作戦に影響する
再び機種を上げ、上空に向かう
ウクライナの戦場から遠く離れたベルリンは、幸い光線級の影響もない
急加速し、高度を上げる
深夜だったのが幸いした……
日中であればカヌー遊びに興じる観光客であふれていたであろう
後ろから追いかけてきた敵機の背後に回り込むことに成功
開いている左手に、突撃砲を移動
兵装担架より長剣を、右手で掴む
左手の突撃砲を担架に乗せ、もう片方の長剣を受け取る
一瞬の隙を見て、両腕の連結部を破壊
薙ぎ払う様にして、跳躍ユニットを正確に切り取った
下は湖だ……
上手く行けば不時着、生け捕りに出来る
落下する機体を見ながら、彼は残る3機の対応に向かった
空中で再び突撃砲に換装するとヴィルドパークの方角に向かう
対空砲火が上がっているのが見える
ヴィルドパークを超えれば、ポツダムの人民軍参謀本部だ
ここで死守しなければ、この国の中枢機能は瓦解する
彼は再び通信を入れる
「こちら第40戦術機実験中隊、どうぞ」
無線の混信が有ったと返信が入った
「こちら、第一戦車軍団……、友軍機か」
「対空砲火を下げてくれ……」
通信をしている間に、背後に一機付く
猛スピードで機体全面を後方に向ける
火器管制のレバーを手放す
「ユルゲンか。脅かすな」
背後に来たのはベルンハルト中尉
彼が率いた中隊12機が続けて飛んでくる
危うく友軍射撃を受けそうになっただけではなく、友軍機撃墜の可能性もあり得たのだ
アフターバーナーの火力を調整し、ゆっくりと着陸の姿勢に入る
既に地上で、ハンニバル大尉達が待つ姿を視認した
難なく着陸すると、管制ユニットより降りる
機内より持ってきた陸軍の防寒着を着こみ、ベルンハルト中尉達の傍まで行く
綿の入った防寒電熱服……
着心地が悪く、重い為、ウクライナ帰りの古参兵達は誰も着ようともしなかった
ユルゲンに至っては戦闘機乗りの証である濃紺のフライトジャケットを着ていた
この男は、自分同様宇宙飛行士になるのが夢であったのを思い出した
翼をもがれても猶、空への夢は諦めきれぬのであろう
しばらく、雑談をしながらタバコを吹かしていると司令官と数名の男達が来た
「総員、傾注」
ハンニバル大尉の掛け声で、40名の中隊が整列する
シュトラハヴィッツ少将の敬礼を受け、全員で返礼をする
ホンブルグ帽に、脹脛まで有る分厚いウール製の狩猟用防寒コートを着た人物が来る
彼も同じように敬礼をした後、立ち去って行く
後ろから来た防寒外套を着た国防大臣の姿を見て、初めて議長である事に気が付いた
見知った人物の顔すら認識できなかった……
疲れているのであろう
大尉が、腕時計を見る
周囲を見回した後、こう告げる
「追加の指示が無ければ、明日の0600に再び練兵場に集合。
同志ベルンハルト、同志ヤウクの両名以外は一旦解散する。
以上」
隊員たちが引き上げた後、ヤウクとベルンハルトの両名は残された
ヤウクは、ハンニバル大尉に問う
「話とは何でしょうか」
「同志ヤウク少尉。
貴様、まず近接戦闘を捨てて、砲撃戦に徹する様、指示したのは評価しよう。
ただ、その本人が格闘戦に夢中になって小隊の指揮を疎かにするのは何事か。
小隊の指揮を執る将校として、落第だ」
彼は、ベルンハルト中尉の方を向く
「同志ベルンハルト中尉、あの状況でソ連大使館への被害を拡大させなかったのは技量の高さを認める。
しかし、日本軍機の介入が無ければ戦死していた可能性は高い。
ここ最近は判断に遅れがみられる。注意せよ」
彼は両名を改めて見る
「俺からの説教は以上だ。一先ず風呂にでも入って寝ろ」
挙手の礼に応じた後、参謀本部に隣接する兵舎へ向かった
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
シュミットの最期 その3
前書き
週を跨ぐ投稿になってしまいました
早朝のベルリン市内を走る車列
外交官ナンバーの黒塗りの高級車が3台
その後から似つかわしくない軍用トラック2台が続く
「同志シュミット、この上はどうするのかね」
ソ連KGB大佐の階級章を付けた男が、礼装のシュミットに尋ねる
「すでに戦術機部隊は壊滅しました……。
斯くなる上は、ハバロフスクへ落ち延びましょう」
男は左手で顔を撫でる
「駐留軍も動かずか……」
頼みの綱とした駐独ソ連軍は、彼等への協力を一切拒絶した
早暁、シェーネフェルト空港へ向かうも、既に人民空軍が全権を掌握
慌てて引き返すも、憲兵隊のオートバイ隊に追われる
外交官特権で彼等を追い払うと一目散に、秘密基地へ逃げ延びる
勢いよく車道を進む中、車列の前方から銃撃を受ける
運転手は危険を察知
ブレーキを踏み、車を止める
「どうしたのだ」
運転手の咄嗟の動作に、男は狼狽する
まさか、外交官保護を認めた1961年のウィーン条約を反故にする愚か者が居るとは……
「車を出せ!」
そう伝え、運転手が車を反転させ様とした時、銃声が響く
破裂音と共に車が揺れる
車は縦に揺れ、地面に叩き付けられる
「タイヤか……」
それなりの腕が有る人物にタイヤか車軸を狙撃されたらしい
反転して車列を離れる軍用トラック
其の一台が攻撃を受ける
エンジンが入ったボンネット部分に命中し、爆発炎上
彼等は、焦る
身動きの出来ない状態で、敵は降伏を認めないようだ……
男は、折り畳み式銃床のカラシニコフ自動小銃を取り出し、弾倉を組む
槓桿を引き、装弾して射撃可能にする
「車外に出て、血路を開く」
勢いよくドアをあけ放つと同時に四方に銃弾を放つ
切換装置を操作し、半自動から全自動にしてばら撒く
「駆け抜けるぞ」
腰を低く落とし、有りっ丈の弾を盲射して、その場から離れようとする
その刹那、男の軍帽に銃弾が当たり、倒れ込む
脳天を一撃で打ち抜かれた骸を目の当たりにしたシュミットは、一目散に駆ける
韋駄天の如く駆け抜け、森の中へ逃げ込んだ
命辛々、逃げ出したシュミットは自分が頼みとする手勢と逸れてしまった
鬱蒼と茂る森の中を、ひたすら歩く
深い木々の中にある僅かな獣道を進む
この道を進めば、間もなく秘密のヘリ発着場が有る
KGB所有のヘリコプターで脱出できれば、この国に未練はない
やっとの思いで秘密の発着場に着く
ヘリが二台あるのを見ると、駆け寄る
しかし待ち構えていたのはKGB部隊ではなかった
国家保安省衛兵連隊の制服を着た一団が自動小銃を構え、無言で此方に狙いを定める
「貴様たちは、私を裏切る気か」
周囲の男達にそう呼び掛け、命乞いをする
自分が策謀に貶めようとして図った国家保安省
ドイツを核ミサイル基地に改造して 権力の独裁を企む
エーリヒ・シュミットの恐るべき野望。
しかし それは、その為の道具に使われると知った保安省幹部
多くの職員たちの離反を招く
無論、工作の中心にいた彼自身は知る由もなかった……
彼がその場から退こうとする間に、衛兵連隊の将兵に周囲を囲まれる
自動拳銃を持ち上げ、引き金を引く
早朝の森の中に、銃声が鳴り響く
一斉射撃が彼の体を貫くと、勢いよく倒れ込む
その際、被っていた軍帽は脱げ、白色の上着が徐々に赤く染まる
「この様な所で、夢破れようとは……」
そう呟き、再度銃を男に向ける
彼の反撃よりも早く、背後から銃弾が撃ち込まれる
盆の窪から二発の拳銃弾が脳へと放たれ、息絶えた
エーリヒ・シュミットの最期はあっけの無いものであった
KGB流の暗殺方法で最期を迎えた男の亡骸は、持ってきた携帯天幕に包まれる
止めの一撃を放った男は、地面に横たわる骸を見下ろす
この様に成るまで放っておいた我等も……責任があるのではなかろうか
外套のポケットよりタバコを出すと、火を点ける
何れ、権力機構を支えた国家保安省は解体されるであろう
そしてその暁には、公正な自由選挙が行われ、真の意味での民意を反映した政権が出来る
甘い夢かもしれない……
だが子や、まだ見ぬ子孫達に幾らかでも選択の余地を残してやる
それが、この国の政治を担う者としての立場ではないのか……
彼は、そう自問する
遺体を積み込むと、ヘリに乗り込み、その場から立ち去った
同じころのポツダムの国家人民軍参謀本部
其処では東ドイツの行く末をめぐって政治局員同士の議論がなされていた
「これはチャンスだよ、諸君」
「同志議長、どういう事ですか」
上座の男は、語り始める
「今回の事件の結果次第によっては独ソ関係は変わる。
仮にソ連の態度が今以上に冷たくなれば、我が国を……否、東欧を捨てたを意味する」
今回の事件を斟酌する
「先年の米国との取り決めを無視し、ハバロフスクに逃避して以来の衝撃だよ。
つまり、独自交渉の余地が出来上がったとも受け取れるという事さ」
国防相は、彼の言葉を聞いて背もたれに寄り掛かる
「事を構えるつもりだと……」
男は、真剣な面持ちでゆっくり語り始める
国防相の疑問を返した
「遅かれ、早かれケーニヒスベルクの帰属をはっきりしない限り、この欧州の地でのソ連の潜在的な脅威は取り除けない……。
歴史を紐解けば、かのキエフ公国以来、異常とも言える領土的野心……。
それを、彼等は一度も捨てた事は無い。
放置すれば、あの忌々しいナチスのダンチヒの二の舞になる。
新たな火種を置いておく必要は無かろう」
周囲を見回す
「米国を巻き込んだ国際世論の形成工作をしようと思っている……」
議長の言葉が言い終わると同じころドアが開かれる
不意に、男が部屋へ乗り込んできた
黒い詰襟を着た男に、衆目が集まる
「最後に頼るのは米国って訳だ……。
それだけではあるまい……。
貴様等が、この国の周囲に鉄条網を張り巡らせていた頃から……、東ドイツの財政。
半分は、西ドイツによって助けられていた」
周囲が騒然となる
「何だと」
腕を組んで立つ東洋系外人の男は、苦笑交じりに続ける
「SEDも堕ちた物だ。
ソ連の搾取に甘んじながら、独立国と天下に嘯く連中が、他の大国に尻尾を振る」
男は、怫然とした態度を取る議長の顔を見る
「大道芸でも始めるつもりかね……。
議長さんよ……」
彼の問いに、議長は苦虫を嚙み潰したような表情をする
国防相はすかさず、叫ぶ
「衛兵を呼べい」
号令の下、直立した護衛の警笛が成る
建屋の中に足音が響く
白色のサムブラウンベルトをした警備兵が男の周囲を囲み始める
「貴様は何者だ。官姓名を名乗れ」
一頻り哄笑をした後、名乗る
「俺の名前は、木原マサキ。
天のゼオライマーのパイロットだ」
その東洋人は、自らを木原マサキと名乗り、周囲を睥睨する
「ここをどこであるか知っての狼藉か。
日本軍のパイロットが何の目的だ」
マサキは不敵の笑みを浮かべる
「すっかり漏らさず聞かせてもらったぞ。
お前達にソ連を破滅させる意思が有るのならば、手を貸そう」
立ち上がった外相は、反論する
「戯言を抜かすな、小僧」
「東欧の盟主と称して、クレムリンへの命乞いをしていた小心者とは思えぬ態度。
気に入った」
警備兵が飛び掛かろうとした瞬間、周囲に見えぬ壁を張り巡らさせる
勢いよく衝突し、倒れ込む
蹲る兵士たちを掻き分け、一歩前に出る
「議長やらよ。
明日の夜、貴様等が宮殿に出向いてやる。
楽しみに待つが良い」
踵を返すと、彼は高笑いをしながら部屋を後にする
難なく参謀本部から脱出する
ゼオライマーに乗り込むと、その場を離脱
マサキは、其の儘ハンブルク近郊の町、ガルルシュテットへと空間転移させた
同地にある日本軍の臨時基地へ帰る事を選択する
持ち出した秘密資料を仕分けるためにわざわざ舞い戻ったのだ
無論唯では済む訳もなく、上司達の下に呼び出される
資料を再び隠匿した後、彼等の待つ場所へ
ハンブルク迄、用意された車で向かった
昨夜より一睡もしていない彼は、後部座席に座るなり仮眠をとる
脇に座る美久に寄り掛かりながら、微睡む
ハンブルク市庁舎にほど近い場所に立つ日本国総領事館
彼は職員に案内されながら、総領事の待つ部屋に向かう
領事室に入ると、執務机の椅子に腰かけた総領事の姿を一瞥
体が気怠い
眠気で、頭が今一つ冴えぬ彼は、休めの姿勢で待つ
顔を上げた総領事は、彼に向かって尋ねる
「何をしていたのだね……」
開口一番、こう伝える
「奴等の首領にあった」
総領事は、机に両手を置くと、それを支えにして立ち上がる
驚きの声を上げた後、再び問うた
「議長と会っただと……」
そう問われると、室内にある革張りのソファーに腰かける
体を斜めにして、男の方を向く
「ソ連占領地での暮らし……。
ドイツ民族至上主義という危険な爆弾が湿気る様では詰まらぬ。
活力を与えるために、少しばかり《カンフル注射》をしたのよ」
右手で、金属製のガスライターを取り出す
口にタバコを咥えると、火を点ける
「楽しみに待つが良い……。
一度連中は火が付けば、暴走した民族主義は簡単に止められぬからな」
紫煙を燻らせると、哄笑する
男は、憮然とした態度で、こう云った
「君は、ソ連大使館に連れ去らわれたと言う話を聞いていたが……。
それがどういう訳で、行方の知れぬ国家評議会議長の所に行ったのだね」
「俺が持てる力の一端を、用いた迄よ。
次元連結システムの一寸した応用だ」
机の上に有る灰皿に、灰を捨てる
「詳しい話とやらは篁辺りに聞くのだな。
クドクドと説明するのは飽きた所だ」
男は、彼の頬に張られた絆創膏を見る
「その傷は……」
斜に構えて、男を見る
「KGBからの手土産さ」
彼は椅子から立ち上がる
「帰らせてもらうぞ」
そう言うとズボンの側面ポケットに両手を突っ込み、背を向けて歩き出す
右手でドアを開け、部屋より出る
後ろから見つめる男を振り返ることなく、立ち去って行った
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
(2022年4月2日13時修正)
華燭の典
前書き
ベアトリクス登場回
ベルリン・フリードリヒスハイン人民公園
ユルゲンは、ソ連留学組の仲間を連れ立って国家保安省本部にほど近い公園を散策していた
この場所は、彼にとって思い入れの深い場所
ベアトリクスとの逢瀬の度に良く訪れたデートスポットの一つ
広大な公園の片隅で、気のおけぬ会話を楽しんだことを懐かしむ
ここに戦時中避難させていた美術品の類はソ連占領の際に忽然と消えた
一説には焼き払ったとも、誰かの豪奢な邸宅を飾ってるとも聞く
かのティムールの陵墓を暴き、遺骸を晒すという、神をも畏れぬ所業をする連中の事だ
恐らく掠め取ってモスクワにでも秘蔵してあるのであろう
そんなことを考えている時、カッフェが不意に尋ねる
「それにしてもさ、前から気にはなっていたんだけどよ」
彼は竹馬の友の問いに応じる
「何だよ」
「お前さあ、いけ好かない女に惚れたんだよ。
特権階級らしく、目付きの悪い……」
半ば怫然として答える
「あの鋭く美しい赤い瞳……、晃々たる光を内に秘め、知性を感じさせる……。
良い面構えじゃないか」
彼女の眼光炯炯たる面構えを彼は思い描く
ヤウクは、思い人を熱く語る彼を窘めた
「ユルゲン、今は休日とはいえ、制服姿……。
いわば勤務中と同じだぞ。
主席幕僚として恥ずかしくは無いのかい」
建前とはいえ、堅苦しい事を言う
彼は、同輩に返答する
「別に問題は無かろう。今日は、休日だ。
惚れた女の話位した所で、罰も当たるまい……。
お前さんだって、彼女の良さに興味が無い訳でないであろう」
同輩は黙って頷く
暫しの沈黙の後、カッフェが口を開く
「何故って、一度見たらあの傲慢さ……、忘れねえぜ。
人を見下すような目で見て、態度も悪いし……
不愛想とはいえ、ヴィークマンの方が余程可愛げのある女だぜ」
事情を知らないヤウクが驚く
「通産次官のお嬢さんって、そんなに酷い娘さんなのかい。
なんでも、あの助兵衛が惚れ込むほどの美人だって話には聞いてはいるけど……
如何なんだい、ユルゲン」
暗にアスクマンの事を腐した
カッフェは、同輩の戯言を無視して続ける
「あんな性悪女、見た事ないくらいだぜ」
右の親指で、満面朱を注いだようになっている彼を指差す
「もっとも、惚の字の馬鹿には何を言っても無駄だろうがな」
そう言い放って揶揄する
「言わせておけば、貴様こそ《手順》すら守れない恥知らずじゃないか……」
暗に婚前妊娠の責任を取って結婚したカッフェを面罵する
邪険な雰囲気を感じ取ったヤウクが止めに入る
「もう止めよう。こんな話は……」
興奮した彼は続ける
「あのな、ベアトリクスは気難しい所もある。
とんでもない我儘娘だけど、そういう所がまるで猫みたいで可愛いらしいじゃないか」
内面にある感情を開陳する
「勿論、彼女の美しい体つきも、俺の心を惑わさせる……。
それは、否定しない」
熱心に話し続ける彼は気が付かなかったが、向こうより黒髪の女が歩み寄ってくる
カッフェの表情が、忽ち青くなっていく
ヤウクは、近づく見知らぬ女の存在に、落ち着かない素振りを見せる
そうする内に、彼の後ろから可憐な女の声がした
「女の気持ちを蔑ろにする貴方にしては、気の利いた表現をした物ね」
ユルゲンの立ち位置より、半歩下がった所で立ち竦む
仏頂面をする若い女が彼の背後から反論したのだ
ヤウクは、波打った長い黒髪の美女を一瞥する
彼女に尋ねた
「失礼ですが、御嬢さん。
男同士の会話に水を差すのは、無粋ですな」
彼女は不敵の笑みを浮かべ、ヤウクに返す
「先程から話題の、アベール・ブレーメの娘よ」
然しものヤウクも肝を冷やした様で、蒼白になる
彼女は、その様を見るなり、破顔する
口に手を当てわざとらしく哄笑してみせた
「どう、吃驚したでしょ。ヤウクさん」
彼は、全身より血の気が引くのが判った
背筋に寒気を感じて、まるで冬の様な寒さを憶える
流石は、保安省に近いアベール・ブレーメの愛児
四六時中、保安省職員が護衛に付いていただけあって、何でも知っているのだと……
「ユルゲン……、次は承知しないからね。
解ったかしら」
縮こまって小さくなっている彼女の愛する男は、力なく応じる
「はい……」
右手を耳に当てて、再度問う
「声が小さくて、何も聞こえなかったわ」
彼は、力強く答える
まるで、最先任下士官に問われ、応じた新兵の様に
「はい!御嬢様」
彼女は微笑むと、こう返した
「宜しい」
彼の安堵した様を一瞥すると、止めの一撃というばかりに言い放つ
「是からは面白い話を仕入れたら私に教えなさい。
そうね……、現指導部を批判した、政治絡みの楽しい冗談が望ましいわね」
彼は、悲鳴を上げる
その様を見ていた同輩達は失笑した
ヤウクは、彼女に問い質す
「お嬢さん、護衛を引き連れて、大方僕達を監視にでも来たのかい。
何せ、伏魔殿の目と鼻の先だからね」
保安省に近い場所であった為か……
慎重に言葉を選んで、彼女の反応を伺う
宝玉のような瞳が彼の顔を覘く
静かに言い放つ
「御名答。
私の護衛は、日常生活を全て父に報告することになってるの……。
もちろん貴方方との会話も……。その時の報告の様を想像すると楽しいでしょう」
ヤウクは、哄笑する
「それは傑作だ。
聞きしに勝る才媛とは、君のような方を言うのだね」
鋭い眼光が彼に向けられる
「恋慕している人がいるとは思えない優美さに欠ける言葉ね」
内密にしている美少女への思い
調べ上げていたとは……
人民軍内部への浸透工作に、改めて舌を巻く
「貴方にお返ししますよ。お嬢さん」
そう漏らすと、ユルゲンの右腕に彼女が両腕を巻き付け、抱き着く
巻き付かれた当人は、自らに向けられる周囲の視線が、身を切られる様に痛い
大層恥ずかしがっているのが、彼には分った
彼は、懐中より紙巻きたばこを取り出し、火を点ける
軽く吸い込むと、紫煙を吐き出す
「話してみると、至って普通の御嬢様って感じじゃないか。
安心したよ、ユルゲン」
ユルゲンを安心させるようなことを言う
だが彼は、内心こう思った
(『君の事だから、保安省の間者共に弄ばれたかと思って、冷や冷やさせられたよ』)
脇の甘い同輩を本心より心配したのだ
夕刻、議長公邸にユルゲンは呼ばれた
ベアトリクスを伴ってきた彼には、呼び出した男の意思が理解出来なかった
男は、彼女の考えを知るべく、執務の合間の貴重な時間を使ってわざわざ会った
来客用のソファーに腰かけると熱い茶が出される
彼女は、甘い香りのする茶を頂く
静かに白磁の茶碗をテーブルに置いた後、男へ尋ねた
「何が言いたいのかしら」
きつく睨み返された男は、薄ら笑いを浮かべて続ける
「端的に言おう。君のような人間は政治の世界に踏み込んではいけない。
ユルゲンが戦術機の国産化の為に君やアベールを介して保安省に近づこうとしてたのは、俺も知っている」
彼女は驚いた
まるで自分の息子に呼び掛ける様にして、ユルゲンの名前を告げた事を……
「君が士官学校に入ったのも、ユルゲンを後方支援するためだったろう。
本気だったことは理解できる」
彼は驚愕した
あの慎重な男がここまで踏み込んだ発言をするとは……
「政治とは圧倒的な力の下で如何に支配するかという薄汚れた世界だ」
彼女は苦笑した
甘い希望を言う様に呆れた素振りを見せる
彼は怯まなかった
「政治ってのは綺麗事や理想では出来ない……。
政治家は良い意味でも悪い意味でも常識は捨てなければならない」
タバコを灰皿に捨てると、右手で揉み消す
立ち上がると、彼女の周囲を歩き始めた
「自分の裸身を曝け出して、衆人の前で練り歩く……。
それくらいの覚悟が無ければ、政治家は出来ない……」
彼女の見た事のない表情にユルゲンは焦った
厳しい表情で、男は続ける
「君に、それ程の覚悟はあるかね」
懐中よりタバコを取り出し、口に咥える
再び椅子に腰かけると、右手で火を点けた
暫しの沈黙の後、
「君は、ユルゲンの手助けをするつもりで士官学校でスパイの真似事をしたそうではないか。
それは君の父の立場があって初めて出来た事だ。
だが政治の世界はそんなに甘くはない」
ゆっくりと紫煙を燻らせる
「政治家に為ればあらゆるものと戦わなくてはならない
例えばKGB、独ソ関係はこの国の根幹だ。
奴等は文字通り地の果てまで追いかけて来る」
一旦考え込むようにして、目を閉じる
再び目を開くと、語り始めた
「嘗て帝政ロシアとインドを結ぶ中間地点にあったチベットに影響力を及ぼす為に、秘密警察は蒙古人の仏法僧を仕立てた。
同地の支配者である活仏のダライラマに近づき、親露的な態度に変化させるという離れ業をやった」
白磁の茶碗を掴むと、冷めた茶を飲む
「何時ぞやの逢瀬の際に、君はこう言ったそうではないか
『人類を救うために、多少の犠牲は必要』と
乳飲み子の戯言だと思えば、怒る気にもならない。
だが、政治家なら別だ。
その様な絵空事では国は運営できない。
10万平方キロメートルの国土と1600万の人口を抱える小国の我が国ですら、自分達を餓えさせぬ為にはあらゆる手段を用いてきた。
遥かに豊かで国力も強大な米国ですら、自国民を守るのに必死だ……」
面前に座る男女の顔色を一瞥する
「嘗てソ連は国際共産主義運動の名のもとに様々な悪行を成したが、どの結果も惨憺たるものであった。
君の今の言葉は、私にはそれと同じに思える。
三億の人口と広大な領土を持つソ連は、途方もない噓や誤魔化しが常態化している。
多数の収容所と、それに依存した経済制度……。
成年男子の大量減少という未だ癒えぬ大祖国戦争の傷跡。
仮にBETA戦争から勝利したとしても、前から誤魔化しが残り続ければ、人々を苦しませるであろう」
じっと彼女の赤い瞳を見つめる
「君のような夢想家は、一介の職業婦人、一介の妻として過ごした方が幸せに思える……。
君のこの様な態度は、君自身や家族ばかりではなく、やがては、ユルゲンや彼の親類縁者までも不幸にしよう」
右手で、灰皿にタバコを押し付ける
そして吸い殻を入れた
「女が政治の世界に入ると言う事は、家庭人としての幸せ……。
つまり妻や母となる楽しみや機会すら捨てざるを得ない。
常に寂寥感に苛まれ、疑心暗鬼の中で一生を過ごす……。
仮に彼が思う所の理想を叶えたとしても、果たして幸せと言えるのかね」
不意に立ち上がり、室内を歩く
窓外の風景を覘く
「ユルゲンの理想を成就させる同志の立場ではなく、妻としてこの男に寄り添ってはくれぬかね……。
ハリコフでの初陣の際、戦死した部下を思うて夜も寝れぬ日々を過ごした繊細な男だ……。
傍にあって、そっと支えてやって欲しい」
ユルゲンは、その一言を聞き入った
ウクライナ出兵の際、初陣で光線級吶喊をした際の話まで調べ上げているとは……
この男の底知れぬ深さに改めて喫驚する
彼女は相も変わらず仏頂面をして、男を見つめる
そして突然哄笑した
男は一瞬驚いた表情を見せると、笑みを浮かべた表情に変える
その様を見ていたユルゲンは、両人の真意を量りかねていた
奥に立っていた職員が近づき、何やら告げる
時間が来たと言う事で、議長が立ち去る
一礼をして見送ると、一旦部屋を後にした
疑問の氷解せぬまま、帰宅の途に就く二人
彼女が不意に言葉を発した
「来て、正解だったわ」
ユルゲンはその真意を訪ねた
「何だよ。それは……」
「貴方の出処進退で、議長が私に頼み込む……」
「詰り……」
「自信を持って前に進めることが出来る。
でなければ、議長が私を頼る事も無かっただろうから……
貴方はこの国にとってかけがえのない人材と言う事のお墨付きをもらったのよ」
その一言に衝撃を受ける
「貴方の傍にずっと居ることの覚悟も出来たし」
そう漏らすと、彼の胸に飛び込む
厚い胸板に顔を埋める様に抱き着く
彼も、そっと両腕を彼女の肩に回す
幾度も戦場に赴く際に静かに見送ってくれた彼女
今生の別れとなるかもしれぬのに涙一つ浮かべなかった
「決めたぞ。
近いうちに、盛大な婚礼の儀式を挙げる」
これからも彼女の艶やかな笑みを傍らで見続けたい
一時の安らぎではなく、家庭という心休まる場を持つ
淡い希望を現実にしたい……
彼の心の中に強い決意が固まった
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
華燭の典 その2
「アスクマンの件だが、本当なのか」
議長は共和国宮殿の一室で、頭を深く下げる国家保安大臣に問う
男からの問いに保安相は顔を上げる
声の主の方を向き、答える
「『ソ連軍の射撃による殉職』と発表するつもりです……」
彼の最期は呆気の無いものであった……
『殉職』という形にはなっているが、連中が得意とする暗殺
後味の悪い結末に嘆いた
「保安省職員として黄泉の国に送り届けたかったのか」
男の問いに、頷く
「せめてもの情けです……」
一部始終を聞き、観念する
「過ぎた事ゆえ、対処は出来ぬが……」
吸っていたタバコを灰皿に押し付ける
勢い良く押された為、紙巻きタバコが中ほどから折れ曲がる程であった
その様を見ていた彼は、男の静かな怒りを感じ取る
「今後は無きようにせよ」
先斬後奏を暗に戒める
「奴の棺を部下共に担せてやるのは許す」
その言葉を聞くなり、立ち上がる
保安相は逃げ出すようにして、部屋を後にした
彼の立ち去る姿を見送った後、椅子に腰かける
一人、室内に残された男は、憂慮した
先々を考え、再び暗い気持ちになる
出来るならば衆目の前で裁き、獄に繋いでやりたかった……
時期が来れば、この国もボンの政権と同じように死刑制度の廃止に向かうだろう
今のままの法体系を維持すれば将来の統一事業の足枷の一つになるのは間違いない
夜の更けて往く中、窓辺より市街の景色を見ていた
降りしきる雨の中、葬列が行く
シュミットの襲撃事件で死んだ国家保安省職員の合同葬が行われていた
共和国宮殿からブランデンブルク門の前を埋め尽くす三軍の儀仗兵
軍旗に包まれた棺を担ぐ兵が進む
その様をコート型の雨具を着て、見つめるベルンハルト中尉
人民空軍の大礼服に、儀礼刀を佩いて、最後の別れに参列した
葬儀開始前、仲間たちと連れ立って、霊安室に忍び込む
こっそり、アスクマン少佐の変わり果てた姿を見る
白っぽい肌色で、眠る様にして横渡る亡骸……
今すぐにでも起きて来そうな印象を受けた
『野獣』と恐れられた男は、思ったより小さく感じる
彼の存在感……
あれほど、大きく見えていたのであろうか
亡骸を前にして、夢想する
……この偽りの自由の中で、静かに暮らす
父母や妻の為に生き残る、そういう考えもあろう
『BETA戦継続の為の独裁体制』
ベアトリクスと討議していた際に出た腹案
良かれと思って彼女の進路に国家保安省を薦めようとした
だが、先日の説得で不安に感じた……
やはり妻として静かに傍にいて欲しい
『彼女を守りたい』
その様な思いばかりが増していくのが判る
自分が悩み追い求めた、中央集権的な専制政治
本当にそれで良いのだろうか……
この世界は、あのゼオライマーという大型機が表れて変化しつつある
何が正しいのか、解らなくなってきた……
釈然としない気持ちが残る
その様な思いに耽っている時、右肩に手が置かれた
振り返るとヤウクの真剣な表情
無言で頷くと現実へ意識を戻す
軍楽隊の奏でる葬送曲
悲しい調べと共に儀仗兵が居並ぶ中を、霊柩が進む
指揮官が「捧げ銃」を令し、小銃を捧げる
正面に対し、栄誉礼を持って、葬列を見送る
運命が違えば、自分もそうなっていたのであろうか
頭巾の上から帽子に雨が滲み、寒さで手足が震えて来る
コートの下……薄ら湿ってきた
『好事魔多し』
雨で風邪をひいて大病を抱えるようなことは避けねば……
その様な事を考える
居並ぶ儀仗兵は小銃で、上空に射撃の姿勢を取る
「弔銃」
指揮官の掛け声とともに、三発の空砲が放たれる
雨の市街地に鳴り響く
挙手の礼を持って、目前を通り過ぎる棺を見送る
嘗ての仇敵に弔意を示し、冥府への旅路の手向けとした
リィズ・ホーエンシュタインは、車窓より離れ行く祖国の姿を見た
『領域通過列車』と呼ばれ、東西ドイツ間で運行される特別列車
「国外追放処分」という名目で、被疑者及び関係者達が一纏めに乗せられる
雨の降る中、ベルリン・フリードリヒ通り駅から西ドイツのハンブルグへ向かう
規定額の西ドイツマルクと、僅かばかりの手荷物
見知らぬ場所へ送り出される
義兄と自分はこの場所より離れるのを躊躇したが、父母は違った
思えば、住み慣れた祖国を離れると言うのに何処か安堵した様子……
鉄条網の向こうに着いたら詳しく聞いてみたい
学校で教わったように自由社会というのは堕落しているのだろうか……
あの廃頽的なロックンロールダンスやディスコという米国文化に若い男女が狂乱
詐欺や薬物中毒も多く、治安情勢も祖国と違うと聞く
不安を感じながら、列車は西への旅路を進んだ
「なあ、送り出した未決囚の事を、ボンの連中は丁重に扱ってくれるのだろうか……」
窓辺に立つアベール・ブレーメは、振り返って、奥に腰かける男を見る
紫煙を燻らせ、同じように窓外の景色を眺めていた
「建前とは言え、ドイツ国民の扱いだからそう無下にはしまいよ」
彼は、深い憂いの表情を湛えた男に、改めて問う
「やはり潰すのか」
国家保安省の扱いを訪ねる
今回の事件で主要な幹部は何かしらの被害に遭った。
指揮命令系統は寸断され、現場は混乱状態
「今の規模では駄目なのは事実だ。
ネズミ退治をしっかり行ってからではないと話は進むまい……」
男は、国家保安省内に存在するモスクワ一派の完全排除を匂わす
ソ連はBETAの禍によって、既に往時の面影は無い
米国より潤沢な援助はあるが、軍事力のほぼ全てを核戦力にのみ頼るほど困窮
それでも、衛星国の一つである東ドイツにとってKGBの諜報網は恐るべき脅威であった
灰皿にタバコを押し付ける
顔を持ち上げ、再び口を開いた
「無論、組織内部の意識改革や制度も問題だが、技術的に立ち遅れ過ぎている。
通信傍受の能力に立ち遅れが見られるのも事実だ。
何れは、無線も丸裸になる……」
彼は、再び男の顔を見る
暫し、思い悩むとこう答えた
「……最悪、人民軍情報部があるだろう」
顔を上げて反論する
「貧乏所帯で今以上の事をさせてどうする。
仮にそうなったとしても、貴様とて安心は出来まい」
彼は苦笑する
「……不安材料は確かにあり過ぎる。
コンピューターの通信網を構築するにも機材も論理も立ち遅れ過ぎている。
オマケに半導体や電子部品を作るにしても基礎工業力の問題が解決せぬ事には……」
新しいタバコを取り出し、火を点ける
「そこに行きつくか。
実に通関官僚らしい意見だ」
「電力事情も改善せぬのに、夢語りは出来ぬ」
暫しの静謐の後、男は語りだした
「忌み嫌った国際銀行家に頭を下げるしか有るまい……。
BETAに食い荒らされた事を理由に、ソ連からの資源供給。
いずれは、絶える……。
その前に、とことん西の連中の同情を引いて、統一の同意を得る」
男の真意を量りかねた彼は問うた
「何……、つまりどう言う事だね」
その場より、室内を歩き始める
「アーベル……。
此の儘では未来永劫、傀儡だ」
右の食指と親指で、掴んでいたタバコを灰皿に入れる
灰皿の中にある水に、投げ入れる様にして捨てたタバコが沈んでゆく
「我々は、奴等を上手く使う立場にならねばなるまい……」
男の発言に茫然自失となる
「き、君……、本気かね」
彼の問いに答えるべく、振り返る
不敵の笑みを浮かべながら、こう答えた
「アーベル、俺と一緒に、『祖国統一』という名の果実を得ようではないか」
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
華燭の典 その3
二人の婚儀は盛大に執り行われた
アーベル・ブレーメの娘ともあって、東ドイツ各界の人物が参列
式そのものが、一寸した特権階級の社交の場にもなる
軍の関係者も多数参加して、賑やかな宴を楽しんだ
この晴れの日に在ってユルゲン・ベルンハルトは2週間前の不思議な体験を思い起こしていた
「待っていたぞ」
逢瀬からの帰路、ベルリンのパンコウ区にある官衙の通り抜けている時、一人の東洋人が声を掛けてきた
脇に居たベアトリクスは彼の腕に両腕を巻き付ける
上下黒色の詰襟服を着た男は、不敵の笑みを浮かべ、此方に歩み寄ってくる
「何時ぞや、ソ連の攻撃ヘリから助けてやったのを忘れたか」
詰襟は下に来ている黒色のカッターシャツと一緒に鳩尾迄開けられ、黒色の肌着が覗く
男は両腕で、二人の手を掴む
「何をする」
ユルゲンは、男に言い放った
男は、不気味な表情でこう返した
「何、良い男だから少し借りることにしたのさ」
彼女は不気味な事を言う東洋人の手を払いのけようとする
開いている反対側の手で、男の頬を平手打ちした
「走って、ユルゲン」
彼女は、唖然とする彼の手を引いて、勢いよく走りだそうとする
男は弾き飛ばされると、立ち上がり、両腕を胴の中心に持っていく
二人は、勢いよく壁の様な物に弾き飛ばされる
地面にぶつかりそうになったが、寸での所で回避
まるで空中に浮いたような感じを味わう
脇を振り返るとユルゲンが浮いている……
改めて周囲を確認する
自分も浮いている……
どういう事であろうか
「どうだ、素晴らしかろう。
今日は少しばかり気分が良い……。
俺が作った次元連結システムをたっぷり聞かせてやろう」
もう一度振り返る
ユルゲンは、一言も発せず男を睨んでいる
白く美しい顔は、薄く赤色に変わっているのが見える
「何者なの、目的は」
彼女は、たまらず彼に尋ねた
「奴は、日本軍の……」
男の声が割り込んでくる
徹る声でこう言った
「俺の名前は、木原マサキ。
詰まらぬ科学者だよ」
そう言い放つと、哄笑する
男は、右手を懐に入れる
懐中より小ぶりな箱を取り出す
黒色のベルベットであしらわれた宝石箱の様な物
蓋を開けると指輪が2個あるのが見える
「これは俺からの贈り物だ」
銀色の指輪を見せつける
男は、彼の右薬指に嵌める
その際、強烈な肘鉄砲を喰らい、右頬が赤く腫れる
彼女の右手にも同様に嵌める
無論唯では済まず、再度平手打ちを喰らわせた
男はふら付きながら、後ろに引き下がる
「この冥王に手を挙げるとは……、益々気に入った。
俺が今よりソ連上空へ遠乗りに連れて行ってやるよ」
そう言うと、男の体から眩しい光が放たれた
両名は気が付くと見慣れぬ戦術機の操縦席に居た
狭い操縦席の左右に振り分けられて立った状態で乗っている
体は暴れないように太さ1センチ程の紐で不思議な縛り方で縛られている
「大丈夫だ。
俺はお前たちに危害を与えるつもりはない……。
無事帰って俺の力がどれ程の物であるかを広めて欲しいのよ」
彼女は顔を背けた
「なあ、ベルンハルトよ。
人形細工のように美しい女を娶る……。
羨ましい限りよ」
男はそう言って哄笑した
「ふざけるな。
俺たちを解放しろ」
男は彼の言葉を無視して、飛行を続ける
「何、後悔はさせんよ。
ほんの2時間ほど飛んでウラリスクハイヴを綺麗に焼く様を間近で見せてやるというだけさ。
こんな特別サービスは滅多にお目にかかれぬぞ」
不敵の笑みを浮かべる
右の食指で、操作卓のボタンを押す
マサキは、彼等に分かる様にドイツ語でわざとらしく尋ねた
「美久、現在地は」
美久はいつも通り日本語で返答したが、もう一度ドイツ語で返した
怫然とした表情を読み取って、慌てて復唱したのだ
「現在地は……、ウラリスクの西方100キロです」
ユルゲンは、モニターを見る
視覚よりできる限りの情報を得ようと努力した
「安心しろ。この機体には全身にバリア体が張られている。
光線を出す化け物の心配は要らん」
一瞬にして仲間たちの半分を消し去った禍々しい光線級……
かなりの高度で飛行しているのを確認した彼は、気が気でなかったのだ
航空機操縦士としての訓練を受けていたことがこんな形で役に立つとは……
複雑な気持ちになる
「ハイヴを焼くまでに少しばかり俺の話をしてやろう」
「俺は科学者で、このマシンを作った……。
望まぬ形で戦いに放り込まれたのだが、この際、それを利用してこの世界を俺の遊び場にすることにした」
彼等の顔を見回す
「ベルンハルトよ。貴様と会うのは三度目だが、俺はお前の反抗的な態度が甚く気に入った。
だから、簡単に死なぬように俺が特別な仕掛け道具を貴様ら二人にくれてやる事にした」
彼は、思わず失笑する
「その指輪は只の指輪ではない。外見は白銀で作ってあり、埋め込まれた宝玉は特殊偏光加工をした水晶……。
内部は、次元連結システムとの通信が可能な細工がして在り、同じ次元に居るのならば、常にこちらから影響力を行使できる。
無論、そちらからこちらにも相互の呼びかけは可能だ……」
マサキは、流暢なドイツ語で捲し立てる様に説明する
「俺が持っている次元連結システムの子機には劣るが、100分の一のエネルギーを扱えるようにはなっている。
もっともこの俺とゼオライマーにはそのような物は効かぬがな……」
ユルゲンの反対側に居る、彼女の方を一瞬振り向く
だが、再び彼の方を向くと、説明を続けた
「副次的な効能として人体の活性化も出るかもしれない……。
生命徴候にどのような影響をもたらすかは、俺自身も確かめていない。
推論ではあるが、老化を促す可能性もあるから、調整はしておいた。
例えば、血流や内分泌腺、性ホルモンなどの通常の倍に活性化させ、加齢に対抗出来る様にしてある」
ベアトリクスは困惑した
目の前の男の目的……
行動も、あまりにも荒唐無稽な事に……
男の横顔を見ていると、男が振り返る
「おい娘御、日光の下に居る際はサングラスを掛ける事だな。
赤い目が台無しになるぞ」
男は哄笑する
マサキは僅かばかりの仏心で彼女にそう答えた
しかし、ここは元の世界とは異なる世界
遠く銀河の彼方から飛来した化け物に攻撃を受けつつある世界である事を意識するのを忘れていた
同じ人の形をしていても、元の世界とは微妙に異なる事を考慮しなかった
彼の対応は危うかった
一番の秘密である『異世界の住人』である事を、外国人に匂わせてしまった……
「少々、無駄話が過ぎてしまったが、如何やら着いたようだ……」
彼等はモニターに映る景色を見た
天に届くような勢いでそそり立つ構造物
BETAが来て地上に構築したハイヴという存在
改めて、その姿を見ると恐ろしくなった
こんな構造物に潜ってデーターを得ようとするのは並大抵の努力では出来ない……
時折、光線が飛んでくるかと思ったが全く来ない
矢張り、カシュガルハイヴを根本から破壊した影響であろうか
そう考えていると、男が声を掛ける
「おい、今から特別ショーを見せてやる。
ハイヴを根元から消し去る様を特等席で観覧できる栄誉……」
首を斜めに傾ける
「今逃せば、金輪際味わえまい」
彼の方を向くなり、不敵の笑みを浮かべた
そう言うと、操作卓のボタンを押す
ゼオライマーの前腕部を機体の胸に近づける
胸と、両腕部の球体が輝き、眩い光が広がる
光はやがて地表まで広がると、勢いよく構造物を破壊し、周囲を彷徨っていたBETA事、消し去っていった
ふと、意識を祭場に戻す
どれくらい夢想していたのだろうか……
周囲を見ると騒がしい
何かあったのだろうか……
後ろを振り返ると、議長と話しているベアトリクス
相変わらず突慳貪な対応に苦笑する
そうしていると、此方を振り向いて男が話し掛けてきた
また、仕事や政治の話か……
半ばうんざりする気持ちになるが、気を取り直して受け答えするよう努める
「おめでとう、ユルゲン」
「ありがとうございます……」
男は、その言葉に笑みを浮かべる
「本当に良かった」
そう言うと、彼を抱き寄せる
言葉にならなかった
彼は知る由もなかったが、この議長の行動は様々な波紋を呼ぶ結果になった
周囲を騒がせた男……
その彼は、現議長が庇護の下にある
宴は、なおも続いた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
首府ハバロフスク
前書き
主人公独白回
マサキは自室で、佇んでいた
持ち込んだ製図版で、記憶の中にあるローズ・セラヴィーの図面を、書き起こしていた最中であった
鉛筆を置くと、ラッキーストライクの封を開け、茶色いフィルターが付いたタバコを抜き取る
ガスライターを胸元より取り出し、口に咥えたタバコに火を点ける
紫煙を燻らせながら、思案する
暫しロシアの歴史を思う
史書によれば、およそ1000年前、長らく無主の地であった彼の地に小規模な国家が勃興
東ローマや当時の回教国、蒙古人との戦乱の後、300年の軛を受ける
そして地球寒冷化の影響もあって蒙古人の勢力が弱体化した後、独立を取り戻す
数度の政変の後、300年ほどロマノフ朝が支配した
今一度彼等の立場になって考えてみる
両大戦にしても、ナポレオン戦争にしても、ジンギスカンの存在も……
彼等の視点に立つと全て、悉く被害者の目線なのだ
事あるごとにナチスや日本帝国主義を持ち出し、自分達の加害の事実を薄める
ポーランドの指導層を惨殺し、ベルリン市民を辱め、金銀財宝を略奪
満蒙の地にあった日本軍将兵180万をシベリア奥地に誘拐し、奴隷として扱って虐め殺す
僅かばかり良心の呵責に苦しんでるゆえであろうか……
既に影も形もない「ナチス」や「日本帝国主義」を持ち出し、清涼剤にしているのであろう……
嘗て暮らした元の世界の日本は、ロシアの存在と言う物は常に悩みの種であった
およそロマノフ朝が、満洲王朝・清の始祖の地を侵略し、黒竜江の源流を奪取
彼等の言う沿海州に到達した時より、その禍に苦しんだ
思えば、160年前の文化年間(1804年から1818年)の頃より蝦夷に海賊が出入りし、沿岸を焼き払った
同地より漁民や化外の民を拉致、抑留した
その事実は、光格帝の叡聞に達し、幕府に下問が在ったと伝え聞く
明治維新が無かったこの世界でも、恐らく維新以前は同じであろうと考えることが出来る
それにしても、この世界にある日本は危機が無さすぎる
北樺太をソ連領のままにしておくのだから……
思えば、樺太もすでに13世紀には日本人が支那人や蒙古人に先んじて居住し、影響力を及ぼした地域であった
幕末の川路 聖謨の日露交渉の際に『雑居地』と認めたのがまずかった
同年代のチェーホフの旅行記などを見れば、彼等の認識は日本領……
樺太は流刑地の一つでしかなく、全くと言っていいほど経済的発展は無かった
ロシア革命の際に保証占領したまま、全島を日本領にして置けば、樺太での惨劇は防ぎえたであろう……
過ぎた事とは言え、悔やまれる
その様な事を思案していると、美久が熱い茶を持ってきた
『ロンネフェルト』(Ronnefeldt)というメーカーの紅茶
甘い柑橘系の香りが、鼻腔を擽る……
青磁の茶碗を受け取り、熱い茶を一口含む
茶器をテーブルに置くと、ふと漏らす
「良い茶葉だ、気に入った……。また買っておけ」
椅子に腰かけ、『ショカコーラ』(SCHO-KA-KOLA)という青い缶詰に入ったチョコを頬張る
風味は、チョコにしては固めで、程よく甘い……
どことなく米・マース(Mars)社の名品『スニッカーズ』(Snickers)に似た印象を受ける
彼女は、革張りのソファーにまっすぐ腰かけた
机を隔てて対坐する
そして彼の姿を静かに見届けながら、手前に置いてある青磁の急須を持つ
左手を添えながら、空になった椀に熱い茶を注いだ
「俺の機嫌でも取りに来たのか……、まあ良い」
そう言うと、タバコを取り出し、火を点ける
「なぜ、次元連結システムの話をしたのか……。
俺自身が、奴等の中に不破を招く足掛かりとして、仕掛けた」
放たれた言葉に、彼女は驚く
目を見開いて、絶句する
その様を見た彼は、ふと失笑を漏らす
「勿論、奴等のために働くつもりはさらさら無い。
俺は、ある意味賭けて見ることにした。
連中が欲しがっているゼオライマーを餌にして、東欧諸国とソ連の間を引き裂く……」
湯気の立つ紅茶を口に含む
「東ドイツは、ソ連以上の情報統制社会だ……。
2千万人も満たない人口に対して、20万人の監視組織が暗躍している。
ベルンハルトとその妻と会った事は、すぐに露見しよう。
恐らく伝えた話も、彼等の口を通して指導部に漏れ伝わろう……」
灰皿に、灰をゆっくりと捨てる
「と、するならば、シュタージと関係の深いとされるKGBが黙っては居るまい。
先頃の失点を取り返そうとするはずだ……」
急須から茶を注ぎながら、彼女は尋ねる
「どうして、その様な考えになられたのですか……」
目を閉じて、タバコを握ったままの右手を額に置く
すると、苦笑し始めた
「ソ連は、ゼオライマーを欲しがっているからさ」
額から手を離すと、彼女の顔をまじまじと眺める
「この際だ、詳しくかみ砕いて説明してやろう。
ソ連では第二次大戦以上の被害を出しながら、BETA戦争を行っている。
深刻な核汚染により疲弊した国土、成年男子の大多数が死滅するほどの敗走……。
加えて、遠隔地への運搬さえ儘ならないほどの流通システムの停滞。
自慢の鉄道網も戦争で寸断されたとなれば、収穫物も、産出地の倉庫で腐るばかりであろう。
従前から経済破綻に加え、住民には塗炭の苦しみを与えて、暴動が続発していると聞く」
不意に立ち上がると、開いている左手で、彼女の右腕を掴む
驚いて後ずさりするが、其の儘、右脇まで引っ張る
「天下にソ連共産党の健在ぶりと、その威信を見せつける方策とは何か。
そこで一気呵成にハイヴを攻略……。
しかも無傷に近い形で行わねば、軍は維持できない……」
持っているタバコを左手に持ち替える
「その様な事を出来る存在……」
右手で、彼女の上着の前合わせを掴んむ
驚く間もなく、胸を開けさせる
肌着越しに乳房に、掌で包むように触れる
満面朱を注いだような表情を見て愉しむ
「この世界に在って、為し得る人物とは、誰か」
彼女は、右手を除けると、後ずさりする
胸を両腕で覆って、含羞む様を見ながら、続けた
「次元連結システムから繰り出す無限のエネルギーを持つ天のゼオライマー。
その操縦パイロットの木原マサキ」
顔を、左耳の方に近づけ、囁く
「この俺を置いて他にはおるまい」
彼女の紅潮させた頬を食指でなぞり乍ら、焦点の合わない瞳を見つめる
新しいタバコを取り出して、火を点ける
「この賭け勝負……、どの様な結末に為ろうとも俺は負けぬようには考えてはある。
久々にスリルを味わおうではないか」
そう述べると不敵の笑みを浮かべ、ゆっくりと腰かけた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
首府ハバロフスク その2
ハバロフスク時間、早朝4時
モスクワから退避してきた同地で、ソ連政府の臨時庁舎が居並ぶ大通り
早暁の官衙に、車が乗りつける
車を降りた男は、KGB臨時本部がある建物の中に速足で入り込む
『ウラリスクハイヴ消滅』の一報をこの建屋の主に届ける為に急いだ
「帰ったか」
部屋に出入りした諜報員が返ったことを確認する
「先程、送り届けました」
缶に入った両切りタバコの封を開ける
アルミ箔の封印を切り、中よりタバコを抜き出す
其の儘、口に咥えると、マッチで火を点ける
紫煙を燻らせた後、老人は室内で立つ男に声を掛けた
「なあ……」
起こしていた身を、革張りの椅子に預ける
「この老人の私がその気になれば、18、9のチェコスロバキアの小僧の命でも自由に出来る……」
対面する人物は、静かに聞く
「それが今のKGBの立場だ……」
言外に、10年前のチェコスロバキアで起きた『プラハの春』を振り返る
『プラハの春』
1968年1月チェコスロバキアでは、共産党第1書記に就いた新指導者の下、改革に乗り出す
市場経済の一部導入等、社会主義の枠内で民主化を目指した
同年6月には、知識人等が改革路線への支持を表明
7万人の同意を得た『二千語宣言』を世に出す
世人は、一連の流れを受けて、『人間の顔をした社会主義』と評した
だが、ソ連は彼等を認めなかった
党の埒外に置かれた『二千語宣言』……
同宣言を、ソ連は危険視した
自らが主導する、ワルシャワ条約機構の部隊を差し向け、同年8月20日深夜に侵攻を開始
介入後、指導者がソ連に一時連行され、方針を変更
数百名の犠牲が出た同事件の結果、改革は断念された
「奈落の底へ、転げ落ちたくはあるまい」
男は、老人の問いかけに応じる
「ベルリンの反動主義者、其の事ですが……」
その老人の顔色を窺いながら言葉を繋ぐ
「ハンガリーやチェコの件の様に、直ぐにけりを付ける心算です」
老人の真正面に顔を向ける
「我が国との友好関係を考える一派を通じて、各国に働きかけを行い……、
長官の思う通りに動きつつあります」
静謐がその場を湛える
一頻り、タバコを吸いこむと、ゆっくり口を開く
「貴様も憶えておくが良い……」
腰かけた椅子より上体を起こす
「東ドイツやポーランド、奴等が土台だ……
土台が動けば、ワルシャワ条約機構という基礎が傾き、ソビエト連邦共和国という屋台が崩れる」
眼光鋭く、彼を見る
「奴等に意志を持たせてはならない」
同日、東ドイツ18時
夕暮れのポツダム・サンスーシ宮殿
シュトラハヴィッツ少将とハイム少将は、ある人物と密会をしていた
陸軍総司令官であり、副大臣である男
参謀本部よりほど近い場所に散歩という形で誘った
ここならば、間者が潜んでいても盗聴も不十分
念には念を入れての対応であった
ハイム少将は、男に意見を伺う
「同志大将、ソ連の対応ですが……」
男は不敵の笑みを浮かべる
「話は聞いている。いずれにせよ、ソ連は持たん。
学徒兵に及ばず、徴兵年齢をこの三年で3歳下げた。
1941年と同じことを連中はしている……」
シュトラハヴィッツ少将は、不意に男の顔を覗き込む
深い憂いを湛えた表情をしている様を時折見せる男は、続ける
「ルガンスクで見た、凍え死んだ少年兵の亡骸は、未だに夢に出てくる……」
サンスーシ宮殿の庭園を歩きながら話した
ふと立ち止まり、天を仰ぐ
「貴様達には初めて話すが、俺は先の大戦のとき、国防軍に居たのは知っていよう。
第3装甲師団で装甲擲弾兵……、准尉の立場でウクライナに居た」
男の独白に狼狽えた
聞く所によれば、ソ連での3年間の抑留生活を過ごしたと言う
その様な人物が、他者に内心を打ち明ける
「我々の軍隊が駐留したウクライナ……、ソ連有数の農業地帯なのは知っていよう」
顔を下げると、彼等の周囲を歩き始めた
「嘗てヒトラーとステファン・パンデーラの圧政によって国土の大半を焼いて人口の半分を失った……。
それは半分あっていて、半分は嘘だ。既にそれ以前に尊い人命が失われた。
俺は、この目で見てきた……」
石畳の上に長靴の音が響く
磨き上げた黒革の長靴に、朱色の側章の入った乗馬ズボン
軍帽に東ドイツの国章が入っていなければ、まさに分裂前のドイツ国防軍人と見まがう姿
彼等は、黙って男の姿を見ていた
「40有余年前、スターリンは外貨欲しさに、やくざ者やチンピラを集めて『貧農委員会』という組織をでっち上げた。
奴等を指嗾して村落を荒らし回った……。
翌年の種籾はおろか、婦女子の誘拐や資産の強奪迄、行った」
厳しい表情で、彼は続ける
「歴史的にみれば、今の西部ウクライナは勇壮な有翼重騎兵を多数抱えたポーランド・リトアニア公国の一部だった。
そんな彼等をスターリンは恐れた」
懐中よりタバコを取り出し、口に咥える
再び立ち止まると、右手で火を点ける
「日本軍が満洲より兵を動かすことを恐れ、極東より師団を動かすのを躊躇ってモスクワは落城寸前までいった。
あの時、米国からの大量援助と季節外れの大寒波が無ければ、クレムリン宮殿には三色旗が翻って居たであろう事は想像に難くはない」
右手の親指と食指でタバコを挟み、此方を見る男
「積年の思いというのは……、そう簡単には消えぬのだよ」
男の瞳は、何処か遠くを見るような目で、黄昏を見つめる
「同志大将……」
この男は、前の議長の新任厚く政治局員にも推挙された人物
先年、ポツダムの陸軍総参謀本部が出来た際、議長直々に総司令官に任命されたほどの男
俄かに信じられなかった
「俺は、誰が議長になろうとも関係は無い。
国が消えてなくなる事の方が問題だ」
タバコを地面に捨てると、軍靴で踏みつぶす
「同志ハイム、退役将校作業部会に連絡を取れ」
1957年以降、社会主義統一党政治局の決定に基づき、旧国防軍軍人は退役を余儀なくされた
彼等は退役将校作業部会という親睦団体に集められる
党より危険視され、監視されていた
「緊急会合って事で、押し通せ。
俺の名前を出せば、国防軍時代の年寄り共がうまくやって呉れる」
旧国防軍軍人を通じてボンの西ドイツ参謀本部との連絡を取る事を匂わせる
呆然となるが、気を取り戻して返事をする
「はい、同志大将」
男は、彼の方を振り向く
「同志シュトラハヴィッツ、貴様はソ連との細い糸をつなぐようにし給え。
彼等の動向次第では、対応を変えねばなるまい」
シュトラハヴィッツ少将は、沈黙を破り、重たい口を開く
「同志大将、宜しいでしょうか。
今回の翻意の理由をお聞かせいただけませんか」
再び、タバコを取り出すと、静かに火を点ける
目を瞑り、紫煙を燻らせた後、述べた
「俺は、すでに貴様達のような情熱は無い……。
一介の軍人として国家の存亡が一大事だ。
党の政治方針や社会主義など些事にしか過ぎん」
彼は、男の方を見る
「その言葉を信じましょう、同志大将」
「時勢の流れに逆らう程、老いてはいぬ」
その言葉を受けて、二人は笑みを浮かべた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
首府ハバロフスク その3
昼下がりのハバロフスク、カール・マルクス通り
嘗てこの周辺は、アムール開拓を進めたニコライ・ムラヴィヨフ伯爵を讃えて、ムラビヨフ・アムールスキー通りと呼ばれた
1917年のボリシェビキの暴力革命によって、同伯爵の銅像は破壊撤去
レーニン像が並び、名称もカール・マルクス通りに変更となった
そのカール・マルクス通り7番地に聳え立つ、ホテル『ルーシ』
この建物は1910年に、日本人によってウスペンスキー教会保有土地を借り受けられ、「大日本帝国極東貿易会社」により、建設された。
設計はロシア人技師、建設は支那人と朝鮮人労働者によって実施
建物の最も目立つ部分は正面玄関上部のロシア風丸屋根
嘗ての所有者の家紋があしらわれている
シベリア出兵に際し、帝国陸軍将校指定ホテルとして徴用された場所でもあった
そこで、数人の男達が密議をしていた
「木原を我が陣営に招き入れるだと……」
KGB長官は、立ったまま、右手を振り上げる
勢い良く手を下げると、机の上に有るガラス製のコップを弾き飛ばす
床に勢い良くぶつかり、粉々に砕け散る
足元には、割れたグラスと共に中の液体が広がる
室内にいる男達は恐縮した
「何を考えているのだ」
彼は先の木原マサキ誘拐事件の失敗を悔やんでいた
科学アカデミーの企てに参加した形とはいえ、名うてのKGB工作員を失ったのは手痛い損失
その上、シュミットをはじめとした東ドイツ国内のKGB諜報網はほぼ壊滅状態
原因はすべて木原マサキではないかとの結論に居たり、この様な言動になった
「その様な事は許されない。
議長、貴方はソビエト連邦社会主義国の最高指導者。
赤軍参謀総長の考えなど一蹴したら良いではないか」
「木原マサキは消し去る、抹殺で良いではないか」
常日頃より、議長を庇い続ける姿勢を示していた第二書記は、反論する
「しかし……」
「何だね」
興奮した様子で、長官は彼の方を向く
「危ない橋を渡ることに成る……。
私は長い間、ソ連共産党中央委員会書記長の右腕をやってきた」
両手を広げる
「議長は党益を優先された人物、皆も良く知っている。
その益を捨てて、自分の盟友の願いを優先させる……、大変な問題だ」
じろりと、KGB長官の顔を見つめる
「個人的名誉よりも党益を優先させるのが、ソ連共産党の大原則……」
KGB長官は、室内を歩き始める
男の対応に苛立ちを隠せない様子であった
「何が何でも木原を抹殺するんだ。
そうしなければ、我等は御終いだ」
護衛のように寄り添う首相が、口を開く
「ミンスクハイヴの攻略を完了させてから、木原を殺せば……」
男の右頬に鉄拳が舞い、弾き飛ばされる
倒れ込んだ男を眺めるKGB長官
周囲を睥睨する様に、顔を動かす
「木原をソ連邦に招いてみろ……」
青筋の滲みあがってきた顔で、語り続ける
「奴と接触した中共や東ドイツの首脳部がどうなったか忘れたか。
社会主義を捨て、修正主義に走り、ブルジョア経済に簡単に翻意したではないか」
彼は、ソ連経済圏からの東欧諸国の離脱を恐れた
社会主義経済の誤謬という事実を、認めたくはなかった……
「それ程の男なのだよ……」
その逃げ口として、木原マサキの言動を原因とする発言を行う
しかし、それはまたマサキという男を過剰に畏れたという事実の裏返しでもあった
周囲の人間がたじろぐ中、こう言い放つ
「奴の行動を思い起こしてみよ……、全てを破壊する為に生まれて来た様な男……」
立ち上がると、右の食指で壁を指差す
「世界に比肩する者のない超大型戦術機、ゼオライマー。
それを自在に扱う木原マサキ……」
振り返ると、周囲の混乱を余所に窓外の景色を眺める
二階より市街を俯瞰しながら、男は深く悩んだ
夕刻、レーニン広場に面したハバロフスクの臨時庁舎
ソ連政権では、嘗ての地方政府庁舎を改装して、クレムリン宮殿の代わりに使用
そこでは、ソ連首脳の秘密会合が始まっていた
議題は「ゼオライマーの対応」で、喧々諤々の議論がなされる
「お言葉を返すようですが、議長。
どうして木原マサキ抹殺をそんなに急ぐのですか」
赤軍参謀総長が、上座の議長に問いかける
「ミンスクハイヴの攻略を完了させて、十分な褒賞を与える。
それから工作員を用いて殺せばよいではないでしょうか……」
議長と呼ばれた老人は、目の前の軍人にこう返す
「それが非道だと言っているのだ。参謀総長、良く聞いてくれ」
諭すように答える
「木原にそれだけの仕事を任せれば、我々が利益を受ける。
彼は我が党の為に、貢献したわけだ……。
その彼を今度は殺すとなると、それ相応の理由が必要であろう」
両手を掌を上にして広げる
「私の信任厚いKGB長官の名誉のために殺すとなると聞こえが悪い。
ソ連共産党は、KGBに唆されると党組織に貢献した者まで殺すのかと……」
太いへの字型の眉を動かし、黒色の瞳で参謀総長を睨む
「党員達に軋みを与えかねん」
左側の外相の方を振り向く
「なあ、そうは思わんかね」
言葉を振られた外相は、正面を向いて話し始める
スターリン時代の粛清を生き延びた数少ない人物として、党内での地位も高い男
長らく外相の地位にあり、若かりし頃は駐米大使を務めあげた
「議長、貴方はチェコスロバキアの首相を『修正主義者』として非難して、拘束してるじゃろう」
彼は、困惑する老人の顔を覘く
「そんな貴方がいまさら何を惜しむのかね」
「し、しかし……」
すっと、国家計画委員会委員長が立ち上がる
国家計画委員会と言えば、50年近くソ連の国家戦略を牽引してきた機関
ここの経験者は後に首相の地位に就いたものも少なくはない
その様な人物が立ち上がって発言する
周囲の目線が、件の男に集中した
「議長、この失政続きにろくな活躍も出来ずにいる党員たちにとっては、名よりも実です」
第一副首相が、その場を纏める
「木原は共産党の人間ではない。
使い捨てても十分ではないかな……、ここは一先ず党益を優先させよう」
彼はその言葉を皮切りに挙手をする
一斉に、閣僚たちが同意を示す
彼の提灯持ちのとの評判がある第二書記は、その様に唖然とする
参謀総長が、立ち上がる
「直ぐに、特殊部隊と、ポーランドの大使館に連絡だ」
老人の顔を真正面から見る
「木原暗殺計画は中止とする」
後書き
一時間ほど前、操作を間違って、未完成の状態の草稿を挙げてしまいました。
謝罪として、翌週公開予定の続きを本日公開いたします。
ご迷惑をおかけいたしました。
(2022年4月17日18時30分 追記)
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
首府ハバロフスク その4
西ドイツの臨時首都ボンにある連邦国防省
そこにある一室では、密議が始まっていた
約20年ぶりの壁の向こうの連絡に、彼等は困惑した
党の方針で追放された旧国防軍人からの密書の内容は俄かに信じがたかった
出席者の一人が、濃紺の空軍士官制服を着た人物に問うた
左胸に略綬と首からダイヤモンド付騎士鉄十字章を下げている
国法により、鉤十字の紋章から柏葉に置き換えた勲章に変えられてはいるが、紛れもない真物
この男が並々ならぬ戦功を重ねてきた証
「シュタインホフ君、君はどう思うのかね……」
彼は立ち上がると、面前に居る男に返す
戦時中に200機のソ連空軍機を撃墜したとされる男の目が鋭くなる
「これはKGBの策謀の可能性は御座いませんか」
濃い灰色の背広を着た老人が口を挟む
濃紺のネクタイを締め、白色のシャツの襟から深い皴が畳まれた首筋が覗く
「儂もその線は考えた……」
色の付いた遮光眼鏡越しに、彼の顔を伺う
「だが、手紙の差出人にはフランツ・ハイム参謀次長の名まであるのだ」
右手に持った手紙を、衆目に晒す
周囲が騒がしくなる
「東の参謀次長の直筆の手紙ですと!」
「そんな馬鹿な……」
杖で床を一突きする
音が室内に響く
「諸君、静粛にし給え」
周囲の目線が集まる
「では良いかな」
杖に両手を預けると、男は話し始めた
「ハイム参謀次長がこの手紙を送って寄越したと言う事は、奴等の仲にも何らかの方針変換があったと言う事ではないか」
「閣下、それで……」
閣下と呼ばれた老人は、男の質問に応じる
「我等から出向くのは、危険だ。
国防軍の再建……その様な米ソ両国の疑念を拂拭出来ぬ」
1945年のあの日、ドイツ国防軍を思い起こす
新型爆弾を前に、彼等の奮戦虚しく連合国に対し城下の盟を結んだ
首都ベルリンは、米ソ英仏の4か国に分けられ、国土も分断された
何れは軌を一にして立ち上がろうと考えては来たが、既に30有余年が過ぎた……
「そこでだ。奴等の中に乗り込む算段として、適当な人材を見繕う」
「そんな人材、何処に居りますか……」
老人は淡々と告げた
「米国の指示で立ち上げた戦術機部隊の連中でも交流名目で送り込む。
どうせ、役立たずの烏合の衆だ……、こういう機会に汗をかいてもらおうではないか」
眼鏡越しに鋭い眼光で睨む
「あの愚連隊には、ホトホト手を焼いていましたからな」
男達は一斉に、室内に響くほどの哄笑を発した
「各所から兵を集めて米軍に指導させる……、宛ら昔の陸軍教化隊。
……其れも、閣下の発案でしたな」
参謀顕章を付けた男が、呟く
老人は無言で頷くと、彼に返答した
「奴等の中隊長に、ハルトウィック辺りを選べ。
奴は成績優秀な男だ、ソ連お手製の宣伝煽動にも感化されまい」
男は、顎に右手を当てる
「隊に屯しているチンピラ共を抑えるには分不相応に思えますが……。
何せ、信念と言う物が有りませんからなあ」
閣下と呼ばれた老人は、顔をその男の方に向ける
「寧ろ、信念が無いと言うのが安全なのだよ……。
なまじ強烈な愛国心など持っていようものなら右派冒険主義に資金を差し出すソ連の工作に乗ってしまう。
反米愛国という甘い誘い口で、どれ程の将来有望な若者たちが拐かされてきた事か……」
ふと、両切りのタバコを取り出し、火を点ける
紫煙を燻らせながら、続けた
「政治的には無関心な能吏……、不安もあろうが、至らぬ処はバルクが補佐しよう。
彼奴も莫迦ではない……、少しばかり手癖が悪いだけよ」
そう言うと苦笑する
「方々に出入りして、粗野な振る舞いをしていたそうではありませんか。
それで、東と揉め事に為ったら……、唯では済みますまい」
総兵力6万弱の東ドイツとは違って、35万の兵力を要する西ドイツ軍
兵員のほぼ全てが徴兵を受けた青年男子
志願した婦人兵は、通信隊や看護部隊専門
彼の卑陋な言行は、戦術機部隊での悩みの種ではあった
だがエリート部隊と言う事で、彼らの言動は黙認された
閣下と呼ばれた老人は、シュタインホフ大将に問う
「そこでだ、シュタインホフ君。
君の方からNATOに出向いて話を付けて欲しい……」
その話を聞くなり、立ち上がって反論する
「お待ちください、閣下。
仮に各加盟国が納得してもフランスの対応が読めません……」
彼の困惑する顔を見ずに続ける
「奴等は自分で抜けて置いて、口だけは挟んでくるからなぁ……」
フランスは時の大統領の意向で1966年にNATOより脱退した
その影響もあって、本部機能はフランス・パリからベルギー・ブリュッセルに移転した
だが抜け出したのは、軍事部門だけで政治的な影響力は残す処置を取る
彼等はそのことを悩んだ
老人は、色眼鏡を外して、周囲を伺いながら告げる
「思えばあの敗戦以来、我が国は独立自尊の道を歩めたのかね」
出席者の一人が漏らす
「11年間にわたる再軍備禁止……、『モーゲンソー計画』での脱工業化。
自前の核も持てず、国土防衛の姿勢で歩んできた」
同調する声が上がる
「赫々たる光栄に包まれたプロイセン王国以来の伝統も捨てさせられ、銃剣はおろか、軍帽の類も被れぬ……。
こんな惨めな軍隊では……末代までの恥だよ」
「皮肉だな。露助の傀儡共の方がドイツ軍らしいとは……」
「CIAより変な話が持ち込まれたのは聞いておるかね……」
色眼鏡を再びかけると、男が尋ねる
灰色の開襟型の上着を着て、陸軍総監の記章を付けた男が応じる
「お聞かせ願えますかな、閣下」
赤い裏地の階級章は、この男が将官である事を示ている
陸軍総監に問われた彼は、机の下から封筒を取り出す
「ベルリンの周囲を嗅ぎまわっているCIAが、東側と接触した際、ある話が出た。
東ドイツ空軍の戦術機部隊長の妹の処遇に関する件が持ち上がった」
封筒を開けると、数葉の写真と厚いA4判の資料を机の上に置く
「この写真に写ってる金髪の女が、件の娘御だ」
一葉の総天然色の写真を指差す
「アイリスディーナ・ベルンハルトと言う名で……、それなりの美女。
国家保安省が、我等に貢物として送り出す算段をしていたそうだ……」
漆黒の様な濃紺のダブルブレストの上着に、並列する金ボタン
その話を聞いた海軍大将の袖章を付けた男が嘆く
「知った事ではないが……、中々酷い話ではないか。
淳樸な娘を貢物に差し出す……。
遠い支那の故事になるが……、前漢・武帝の治世の折。
匈奴の単于に、王昭君という美女を貢がせた……。
その逸話にどれ程の人が涙した物か、想像に難くない」
老人は、口元より両切りタバコを離すと、紫煙を燻らせる
艶色滴るばかりの乙女子の行方を案じた男に、返答した
「私はそのことをあの男に尋ねたかったのだが、終ぞ聞きそびれてしまった……」
彼は、周囲を憚ってあえて口には出さなかったが、こう思った
救いは、同胞である西ドイツであると言う事であろうか……
粗野なスラブ人などに下げ渡されれば、肉体どころか、尊厳まで破壊つくされるであろう……
幾ら目の前に立っているのが、独ソ戦の4年間、苦楽を共にした戦友達
気の置けない間柄とは言え、一人の美女の悲劇的な行く末……
言うのも引けたのだ
「この娘の扱いは……」
件の老人はシュタインホフの方を振り向き、問いかける
彼はしばしの沈黙の後、口を開いた
「聞かなかったことにしましょう……、我等を誘い出す為の毒入りの餌かもしれませぬ故」
ふと、誰かが漏らす
「気の毒よの」
老人は、右の食指と親指に挟んだタバコを口元から遠ざける
噴出される息より紫煙が揺らぐようにして、室内を漂う
「シュタインホフ君、君も同情もするのかね」
尋ねられたシュタインホフ大将は、ゆっくりと灰皿に灰を捨てる
「ふと、自分の孫娘と重ねただけですよ……。
年頃も10歳とは離れていません。
恨むなら彼等の政治体制を恨むべきでしょう」
両切りタバコから立ち昇る紫煙を見つめながら、告げた
「そうかもしれぬな」
紫煙のまみれる室内に、男達の哄笑が響いた
後書き
今回の話で、新たに出てくる原作人物に関して説明いたします。
クラウス・ハルトウィックは、『トータル・イクリプス』で、西ドイツ軍大佐ですが、欧州戦線の経験者で、西ドイツ軍の戦術機部隊創設にも尽力した設定です
なので登場させても問題ないと思い、登場させました
キルケ・シュタインホフの祖父もNATO幕僚という設定です
1970年代後半の話なので時間的には問題ないと思い、登場させました
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
欺瞞
赤軍総参謀本部直下のGRUはKGBやMVDと違って、ソ連共産党の影響を受けない
情報のほぼ全ては、国防省内に留め置かれるのが暗黙の了解
GRU本部長は参謀次長を兼任し、主に対外工作を専門とする部門を管轄する
独自の教育機関として軍事外交アカデミーを持ち、対外工作員養成や駐在武官の教育を担う
嘗てモスクワより移転する前は《水族館》と称された庁舎に盤踞した
二重の防護壁で守られ、鏡面加工のガラス張りという異様な伏魔殿
そこでは、かの国際諜報団・ラムザイ機関(ゾルゲ諜報団)をも自在に操り、独ソ戦を有利に進める手順を整えた
今は、惨めに極東まで落ち延び、当該地にあるGRUの支部庁舎に臨時本部を移した
「同志大将、ヴォールク連隊を持ってハイヴ攻略後、全世界に対して成功を宣伝すると言う話は本当ですか」
参加者の一人が上座に座る男に問うた
彼が口にしたヴォールク連隊
ヴォールク(ВОЛК/ volk)とは、露語で狼を意味する
戦術機108機、戦闘車両240輌、自動車化狙撃兵(歩兵)を含め、総員4300名を有する
野獣の名前を授けられた同連隊は第43戦術機甲師団麾下でミンスクハイヴ攻略作戦の主力部隊になるはずであった
しかし、日本帝国が秘密裏に準備した超兵器ゼオライマーの登場によって状況は一変する
僅か数時間余りでハイヴそのものを消滅させ、その存在意義を問われた
「我々が実際攻略する必要はない……。
NATO或いは社会主義同胞の諸国軍が得た物をその様にすり替えれば宜しいのでは」
男は、背凭れより身を起こす
「本作戦は、参謀総長たる私の一存に任せてくれ」
そういうと、男は立ち上がり、部屋を出て行く
「同志大将、勝算は……」
掛け声を背にして無言のまま、ドアを閉めた
一貫して、今回の東ドイツへの政治介入を反対した赤軍参謀総長
彼は、パレオロゴス作戦対応に苦慮した
作戦開始が目前に迫る今、東欧諸国に離反されてしまっては全てが水泡に帰す
試算では、単独で実施した場合、ソ連地上部隊の現有戦力の8割を失う可能性があるハイヴ攻略
一縷の望みを託して送ったシュトラハヴィッツ少将への手紙
功を奏したようだ……
上手く彼等を利用せねば、ソ連邦は雲散霧消するであろう
その様な思いを胸にして階段を登り切り、屋上に出た
懐中より口つきタバコを取り出すと、火を点ける
「赦せ、シュトラハヴィッツ……」
立ち昇る紫煙を見つめて、ひとり呟いた
屋上で紫煙を燻らせていると、一人の男がやってきた
「同志大将、ご用件は……」
敬礼をする男を横目で見る
「伝令を用意して呉れ。
なるべく職責に忠実な人間が良い」
深くタバコを吸いこむ
「はい……」
男の方を振り返る
彼の顔は、夏の日差しを浴びたわけでもないのに額に汗がにじみ出ていた
「そいつに木原と接触させる」
悲愴な面持ちをした男は、思わず絶句する
「き、木原とは……、あ、あの……」
タバコを地面に投げ捨てると、合成皮革の短靴で踏みつける
(「後は、木原の心次第と言う事か……」)
西ドイツ・ハンブルク 4月23日 13時
休日を利用してマサキは市内に繰り出した
カフェで、大規模書店で見繕った10数冊の本を眺める
一般紙からソ連の動向を得る為、時折本を買い求めていたのだ
春の日差しの中、屋外の席に腰かける
橄欖色の羽毛服を脱ぎ、黒色のウールフランネルのシャツ姿で休んでいた所、美久が耳元で囁く
「ソ連通商代表部の関係者が会っても良いと来ていますが……」
声を掛けた彼女の方を振り返る
「通商代表部が……」
『ソ連通商代表部』
貿易の国家独占状態にあるソ連において、西側社会との通商による外貨獲得は重要な手段
同代表部は、相手国へ窓口として設置し、スパイ工作の隠れ蓑としても使われる
前の世界においても、対日有害工作はほぼ『通商代表部』が関わっていた
その様な経緯を知っている彼は、警戒した
「どういう風の吹き回しか……」
本を閉じて立ち上がると、彼女に耳打ちする
「ハンドバッグにある自動拳銃を用意して置け……」
そう告げた後、懐中よりラッキーストライクを取り出す
白地の紙箱より、茶色のフィルター付きタバコを抜き出すと、火を点ける
ゆっくりと紫煙を吐き出すと、ホンブルグを被った背広姿の大男を見た
男は彼の傍を通り過ぎようとした時、一枚の紙を渡す
紙を開くと、亀甲文字で書かれた文言が目に飛び込む
思わず口走った
「ミンスクハイヴ……」
背中越しに、ドイツ語で告げる
「この巣窟……、どんな形であっても潰れてくれれば、私共は助かりますので」
そう言い残すと、男は雑踏に消えて行った
立ち尽くす彼は、思うた
ソ連の形振り構わぬ態度……、此処まで追い詰められていたとは
今日あった男は、恐らくGRUの鉄砲玉であろう
前の世界で、落命する原因の一つとなったソ連……
彼の心の中に、深い憎悪の念が渦巻いていた
夕刻、日本総領事館でマサキからの話を聞かされた綾峰大尉ら一行は唖然としていた
ソ連が前回の誘拐事件に続き、再び接触を図ってきたことに思い悩んだ
日本政府の対応は、昨日のベルリン共和国宮殿のKGB部隊襲撃事件に遭っても変わらなかった
「君の考えは如何なのだね」
応接間にある来客用のテーブルに着くと総領事が尋ねて来た
「俺は帝国政府の対応なぞ関係なしに暴れようと思っている……。
だが、貴様等がソ連の足を引っ張る覚悟があるのならば、俺は手助けする心算だ」
彼は、面前の貴公子に問うた
「なあ篁よ……、一つだけ質問がある。
斯衛軍も帝国陸軍と同じように親ソ的雰囲気が強いのか」
茶褐色の勤務服姿の篁は、両手を机の上で組む
正面を見据え、話し始めた
「木原、貴様も分かっているであろうが斯衛も一枚岩ではない。
歴史的経緯から佐幕派、討幕派、尊皇派、攘夷派の流れを汲んだ人間が多数いる。
元帥府とて先の幕閣を無下には扱えなかった……。
民草の中から延喜帝以来の御親政を望む声があるのも承知している」
貴族然とした凛とした佇まい
女人であったならば一目惚れするであろう美貌……
彼は、思わず見入った
「我等の中にも将軍職を本来の形に取り戻したいと思っている人間も多数いるのは事実だ。
主上を輔弼する為の存在であったものが、いつの間にか形骸化した。
しかも世襲職ではないのだから、非常に不安定な立場……」
「大体分かった」
そう言って言葉を遮ると、額に手を当てて瞑想する
意識を遠い過去の世界へ送り込み、前の世界の日本社会を振り返った
伯爵位を持つ人間がソ連のコミンテルン大会に参加し、其の儘亡命した事件……
至尊の血脈を受け継ぐ公爵が軸となって国際スパイ団を招き入れ、敗戦を招く
その当人は、青酸カリの自決となっているが、明らかに不自然な最期であった事……
貴族というのは自らの血脈を残すことを考える節があるのではないのか……
異星起源種の禍に苦しむ、この世界に在っても変わらぬであろう
尊い犠牲の精神や、燃え盛る愛国心を振るう人物ばかりでは無い事は、前の世界で嫌という程見てきた
フランス革命前後から欧州外交を率い、ナポレオンをも弄んだ怪人……
その名は、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
帝政ロシアのスパイであり、終生ペテルブルグより年金を得て暮らしていた……
ドイツ統一を果たしたビスマルクですら、親露的な態度を隠さなかった
策謀渦巻く欧州でそうなのだから、人の好い我が国などだまされるのは当たり前だ
今の問いは、篁自身に対しての憂虞を抱いていることの表れでもあった
雲雨の交わりを持った相手が、留学先の米国人
幸い、南部名門で上院議員を輩出し、陸軍大佐を父に持つブリッジス家令嬢……
素性不明の女であったならば、どうしたことで有ったろうか
フランス植民地の残り香漂い、自由闊達な気風の南部人と言う事が救いであった
例えば進歩的な思想にすり寄った東欧系ユダヤ人の多い東部の商都・ニューヨーク
摩天楼に巣食う国際銀行家の連なる人間であったならば、どうなったであろうか……
モスクワの長い手によって、進歩思想に被れる可能性は十二分にあった
また、この事は自分に対する戒めでもある
どの様な豊麗な女性を紹介されても、無闇に手出しは出来ない
白面書生であれば、その愛の囁きに惑わされ、逸楽に耽り、身を滅ぼすであろう
もっともこの異界に在って、心の安らぎを得た事があったであろうか
宛ら雷雨の中を、当ても無く彷徨う様な感覚に襲われる
思えば元の世界の日本であっても、この心の孤独と言う物は満たされたことは無かった
答えの出ぬ自問を止め、意識を現実に振り戻す
ホープの紙箱を開け、アルミ箔の封を切る
茶色いフィルターの付いたレギュラーサイズのタバコを掴むと、口に咥えた
懐中より体温で仄かに温まったガスライターを出し、火を点ける
ブタンガスの臭いが一瞬したかと思うと、さや紙に広がる様に燃え移る
ゆっくりと紫煙を吐き出し、現状を確かめた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
欺瞞 その2
ホワイトハウスにCIAは秘密報告書を提出した
相次いだハイヴの消滅は、複数の情報からゼオライマーの全方位攻撃と類推される事
やがて地上のハイヴが無くなれば、米ソの奇妙な関係は雲散霧消
軍事バランスの変化はやがては欧州大戦の危機をはらんでいると言う内容であった
「ソ連に対し甘言を弄すれば、朝鮮動乱の如くなりかねん」
『アチソン防衛線』
1950年1月12日、朝鮮戦争勃発半年前にD.C.の記者クラブで、当時の米国務長官の発言
『我が国は、フィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島の軍事防衛線に責任を持つ。それ以外の地域は責任を持たない』
同発言を奇貨居くべしと、スターリンは秘密指令を平壌のソ連傀儡政権に伝達
北緯38度線を大部隊を持って突破し、南朝鮮を侵略
首府・京城を落城、僅かな時間で釜山まで後退させた
40年近く前の苦い記憶を悔やんだ
「日本の手緩い対応を鍛え直しますか……」
米ソ間の間で顔色を窺う日本政府の対応を非難した
「黄人共の諍いで済めばよいが、サンフランシスコやロサンゼルスまで飛び火することは避けねばならん」
押し黙っていた大統領が、ふと告げる
「化け物退治の副産物で、良い物が有る」
その発言に周囲が騒がしくなる
大統領の方へ、閣僚達の顔が向く
CIA長官が、口を挟む
「まさか新型爆弾の見通しが立ったのですか」
大統領は、彼の問いに応じる
「ロスアラモスに於いて、新元素に対する臨界実験がすでに大詰め段階に入っている。
本年中に仕上がったとしても、実験成功発表は来年に行う」
椅子に凭れ掛かる
「BETAを焼くついでに、シベリアで実証実験を行えるよう手はずを整えてくれればよい」
彼等の反応を見ていた、副大統領が応じる
「ハバロフスクを原野に戻す……、中々刺激的な提案ですな」
男は、CIA長官の方に向ける
「ボーニング社の新進気鋭の設計技師、ハイネマンを呼び出せ……。
『曙計画』を通じて、ミラ・ブリッジスと懇意な間柄だったと聞く」
日本帝国の軍民合同戦術機開発研修プロジェクト・『曙計画』
合同研修チームが米国に派遣され、そこでミラ・ブリッジスと篁祐唯は知り合った
もし、ゼオライマーが現れなければ、彼等の辿った運命は違ったであろうか……
ふと、その様な事が頭の片隅を過る
一瞬、目を閉じた後、再び視線を男の所に戻した
「奴を通じて、ブリッジス……、否、篁夫人に連絡を入れろ」
右手を伸ばすと、卓上にある小箱を目の前に引き寄せる
「何故その様な事を……」
小箱は、スペイン杉で出来たヒュミドール
鍵を開け、蓋を、右手で押し上げる
薫り高いバハマ産のタバコ葉の匂いが周囲に広がっていく
「ゼオライマーのパイロットの上司は、彼女の夫の篁だ。
上手く米国に誘い出す糸口にしたい」
静かに蓋を閉めると、左手に持ったシガーカッターで吸い口を切る
「ソビエトは彼を誘拐しようとして失敗した。
上手く行くかは分からぬが……、遣らぬよりはマシであろうよ」
CIA長官は男の提案に不信感を抱いた
何故、この期に及んであれほど否定していたゼオライマーに関する話を持ち出すのかと……
「副大統領、お聞きしたいことがあります」
CIA長官は男の顔を見つめる
「今回の翻意の理由は何ですか」
黒縁眼鏡の奥にある瞳が合う
「出所不明の文書が持ち込まれた話は聞いていよう」
懐中より、細長い葉巻用のマッチを取り出すと、机の上に置く
箱から抜き出した軸木を勢いよく、側面の紙鑢に擦り付ける
「ソ連公文書の形式で書かれた怪文書、約数百冊……。
秘密裏に東ドイツ国内、ベルリン市内に核戦力を持ち込む話……。
シュタージの主だったメンバーがKGB工作員であったことが記されていた」
燃え盛る火を見つめながら、葉巻をゆっくり炙る
「また、我が方が用意した間者が裏付けを取った。
結果から言えば、駐留ソ連軍の小火器や戦車保有数まで正確……。
独ソ双方の資料を突き合せた結果、寸分違わず書かれていたこと。
以上の事を考慮すると、ソ連公文書の蓋然性が高い」
数度、空ぶかしをした後、念を入れて葉巻に着火する
紫煙を燻らせながら、長官の方に視線を移した
「君には、飯と一杯食わされたよ。
こんな隠し玉を用意してまでゼオライマーに惚れ込んでいたのだから……。
誓紙迄認めた事だ……、この件は君に預ける。
機密費で存分にやり給え」
猶も怪訝な表情を浮かべる長官に対して、苦笑しながら答えた
彼の心中は穏やかではなかった
自分の知らぬ間に、何者かがKGBの秘密文書をホワイトハウスに持ち込んだのだ
数百冊の単位で……
常識では考えられぬ手法を用いねば、その様な事は無理だ
其の事を思うと動悸がして、空恐ろしくさえなる
「分かりました。手抜かりの無きように進めます」
そう言うと着席した
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
欺瞞 その3
マサキは、日本総領事館の手配した車に乗ってハンブルグよりボンに向かっていた
「情報によれば、ソ連指導部は君を招聘したそうじゃないか」
左隣に居る男は、瞑想している彼の方を向く
その声に気付いた彼は、一瞬顔を傾けた後、正面を見据える
「別に構わないさ。
俺は奴等に向かって、ピストルを撃つのだからな」
そういうと、回転拳銃を取り出し、彼の面前に向ける
ドブネズミ色の背広姿の男は、彼の行動に驚愕する
「その弾には、空洞加工が入っている」
ホローポイント(hollow point)
弾頭を擂鉢状に加工し、人体に命中すると、茸状に変形、径が大きくなる
先端部が運動エネルギーを、効率よく目標に伝達して重症を与えるとされる弾丸
それを、彼は用意していたのだ
「今回の話が、嘘か誠か。確かめに行くのではない」
男は、被っている中折帽の頭頂部を掴む
「殺しに行くのさ……、ソ連指導部を」
不敵の笑みを浮かべる
「共産党指導部という頭が消し飛べば、ソ連という体は死ぬ」
彼の発言に車中は凍り付いた
「本当の悪人と取られかねない発言をするとは、意外だね」
スナップ・ブリムの帽子を持ち上げ、彼に見せつけた
脱帽して、降参の意思を示す
それを見て納得したかのように、一頻り哄笑する
「俺はもとより善人などではない……」
拳銃を懐中に仕舞うと、タバコの箱を取り出す
『ホープ』の紙箱より紙巻きたばこを抜き、火を点ける
「この世界の文明程度であれば、BETAへの対抗は苦慮するであろう……。
それ故、ソ連がこの俺の力を求めているのは分かる」
セミアメリカンブレンドのタバコ葉の味わいを感じながら、紫煙を燻らせる
「もっとも、俺を一度ならず殺そうとしようとした相手とは話し合いなど出来ぬ」
蜂蜜風の味付けを愉しみ乍ら、悠々と吹かす
「間違ってはいなかろう……」
そう言うと、面前に紫煙を吹きかけた
「ほう、君なりのソ連政府への答えかね」
冷笑する男の顔を一瞥する
「好きにしろ」
そう言うと、再び瞑想の世界に戻った
日本京都
ミラ・ブリッジスの下に、段ボール数箱に及ぶ国際郵便が届いた
差出人はハンブルグの日本総領事館で、中には数十冊に及ぶドイツ語の文書
その他には、食べきれぬ量のグミキャンデーとクマのぬいぐるみ
外遊中の夫からの細やかな贈り物に感に堪えない面持ちになる
泫然と落涙する様を見た女中から心配されるほどであった
異国の貴公子に見初められ、輿入れして半年余り……
寂寞の情を催す事は今に始まった事ではないが、この贈り物を目の前にしてより強く感じる
ただ待つ事しか出来ぬ事に焦りを感じた
翌日、帝都城に濃紺の色無地を纏った白皙の美女が参上した
女は、篁夫人のミラ・ブリッジスで、文書を下げて登城したのだ
一時騒然となるも、山吹の衣を許された名家の関係者
無下に扱うことも出来ぬ為、奥御殿に呼ばれた
関係者は、彼女に真意を訪ねた
尋問ではなく、茶飲み話と言う事で、聞き出した話は以下の様な物であった
夫、篁祐唯からの贈り物の中にドイツ語の文書が大量にあって、対応に苦慮した
その相談の為に、城内省の武家の風紀を扱う部局に尋ねたと言う
事情を知らぬ警備関係者と悶着があったことを謝罪し、彼女は帰宅の途に就いた
持ち込まれた文書はドイツ語でタイプ打ちされており、形式から東ドイツの物であることが判明した
住所氏名のほかに職業や血液型、個人的な政治信条や指向まで記されていた
内容から類推するに、国家保安省秘蔵の個人情報資料
あの悪名高い『シュタージファイル』という結論に至った
事情を精査した後、彼等は動く
帝国陸海軍や外務省関係者まで呼んで、翻訳作業に取り掛かる準備をする
一か月程で仮翻訳を済ませることを目標に、その日より情報省内に臨時の部署を設けた
ハンブルグ郊外でF4戦術機の完熟訓練をしていた篁祐唯は、急遽領事館へ呼ばれた
彼を待っていたのは、夫人が帝都城に持ち込んだ文書に対しての尋問であった
強化装備を脱ぎ、勤務服に着替えて領事館に向かう
幌が張られた四人乗りの小型トラック
米軍軍用車『ウィリス M38』の影響を強く受け、『ジープ』其の物であった
揺れる車中で、後部座席に座る綾峰に問うた
「どの様な用件で呼び出されたのか……、皆目見当が付きません」
軍刀を杖の様にして腰かけ、軍帽を目深に被った綾峰
目を見開き、彼の方を向く
「俺が判る事は、ただ事ではないと言う事だよ」
そう告げると、再び目を瞑った
彼は前を振り向くと、背凭れに身を預けた
アウトバーンを飛ばしてきた彼等はすぐさま領事室に呼ばれる
敬礼を終えた後、総領事が腰かけるよう促してきた
直ぐには帰れそうにはない事を悟った彼は、ゆっくり腰かけた
出された茶と、茶菓子を勧められると一礼をして軽く口に含む
総領事は、懐中より紙巻きたばこを出すと火を点けた
紫煙を燻らせながら、彼に尋ねた
「奥方にドイツ土産を送ったのは確かかね」
彼は、総領事の顔を見ながら話す
「小官が、家内に家苞を送ったのは事実です。
ですが、何故その様な事をお尋ねになられるのですか……」
「何を……」
右手で髪を撫でる
「『ハリボー』というクマのキャンデーとテディベアのぬいぐるみですよ。
シュタイフ社のクマのぬいぐるみは本場ですから……」
領事の顔から笑みがこぼれる
「初々しい夫婦だね、実に結構」
悠々と煙草を燻らせる
「……とすると、君はシュタージファイルのことは知らぬと言い張るのかい」
その言葉に唖然となる
全身の血の気が引くような感じがした
「自分は……」
言い終わらぬうちにドアが開かれる
勢い良く開いた扉の向こうに、野戦服姿の木原マサキが立っていた
腕を組み、不敵の笑みを浮かべている
綾峰が眼光鋭く睨む
「どうした、木原」
不敵の笑みを浮かべ、彼等を見つめる
「ソ連の小国に対し恫喝も辞さぬ態度……、何れは世界大戦に発展する」
眼光鋭く、総領事を睨む
「貴様等も態度をはっきりすべきだ……。
そこで弛んだ日本社会を鍛え直す為、少しばかり細工させてもらった」
そう言い放つと、堪え切れなくなった彼は哄笑する
困惑する彼等を尻目に、部屋を後にした
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
欺瞞 その4
「たった一人の人間……、
それも黄猿にドイツの組織を潰され、おめおめと逃げ帰ってきた」
窓辺より、ハバロフスク市街の景色を眺めながら、KGB長官は応じた
「それで済むのかね」
釈明の機会が与えられた男は、グルジア訛りの強いロシア語で返す
「申し訳無え話です、長官」
男は東欧KGBの諜報責任者で、表の肩書はドイツ民主共和国駐箚大使でもあった
「しかし、東西ドイツでの工作は多大な益を党に齎しました……。
投入した工作員の秘密組織網、BETA侵略に遭っても健在です」
額から流れ出る汗を、懸命に拭き取る
「東欧から引き揚げても、良い頃合いじゃねえんですかねぇ」
彼の方を振り向くと、グルジア語で返した
「その、木原という男を抹殺して居たら、お前さんはソビエトへ帰って来れたかい」
木原マサキ誘拐事件
当該事件は、結末から言えば国際関係に多大な影響を及ぼした
チェコスロバキアやポーランドは表立って外交官追放という形で、反ソの姿勢を内外に示すという行動に出る
ハンガリーに在っては外交使節団の追放ばかりではなく、ハバロフスクに対し、最後通牒とばかりに大使館を引き上げてしまったのだ
もっとも、駐留ソ連軍が、ベルリンで行動しなかった事も影響があろう
赤軍とKGBの亀裂は、この事件を結果として日に日に増していった
暫しの沈黙の後、長官は何時もの如くロシア語で応じた
訛りの無い流暢な発言で、話す
「国外のドイツでは、貴様がKGBのトップだが、ソビエト国内では違う。
ただの末端にしか過ぎぬのだよ」
再び、正面の窓を見据える
「帰って来ぬであろうな」
後ろ手に腕を組んで、背を伸ばす
「常々、私に話してくれたではないか……。
戦争というのは負けたら御終いだと言う事を」
ちらりと、顔を背ける
「露日戦争の結末がどうであったか、憶えているかね」
正面から振り返り、男の方に体を向ける
「君の様な敗北主義者……、東欧諜報責任者の地位は、後進に道を譲り給え」
「お待ち下せえ、ア、アニキ」
額に青筋を張って、言い放つ
「内務人民委員会以来の同輩の仲、今日限りだ」
1930年代のNKVD以来の老チェキストを冷たくあしらう
男の運命は既に決まってしまった
「今一度、機会を頂けねえでしょうか……」
それでも猶、一縷の望みをかけて懇願した
「必ず木原を抹殺して、東欧の組織を立て直して見せます」
静かにドアが開く
振り返ると、彼に自動拳銃を向けて立つ数人の男達が居た
「き、貴様!」
消音装置の付いたマカロフ自動拳銃を男の面前に突き出す
「貴様呼ばわりは無えだろう、俺はKGB第一総局長だ……
その俺が、あんたの最期を見届けてやるんだよ」
拳銃の銃把を握りしめる
「消えてくれるか」
不敵の笑みを浮かべ、引き金を引く
「待ってくれ、俺はソ連外交の要の……」
自動釘打ち機の様な音が響き、男は倒れ込む
来ていた背広より、血が滲む
「任務に失敗した……、党とのしての示しを付けるために死んでくれ」
脳天に向け、二発の銃弾を撃ち込む
男は言い返す間もなく、こと切れた
木原マサキ襲撃事件失敗への対応は、政治局会議で事前に決定していた
KGBは、東独大使館関係者250人を既に拘束
主だった官僚と高級将校は、粛清、下士官兵は、最前線送り
大使は、尋問中に《自殺》、同地のKGB幹部も死亡した状態で《発見》
その様な筋書きで、事態は動いていたのだ
「引退すると言えば、楽に殺した物を……」
消音装置を分解し、銃を背広の腰ポケットに仕舞う
「木原が何が目的か分かりませんが……、最もどうでも良い話です」
長官の左脇に移動した
「我等、共産党に勝負を挑んでくる。
だから、仕掛け爆弾で消し飛ばしましょう」
長官は、その発言に耳を疑った
「奴等の乗った汽車や船ごと、爆弾で吹き飛ばす。
実に簡単でしょう」
長官は左脇に居る第一総局長の顔を覘く
「本気かね」
男は、驚きの表情を浮かべる長官には目を呉れず続ける
「実に簡単な仕事です」
長官は、室内電話を取ると3桁の数字を押した
「第7局破壊工作対策課に繋げ」
そう告げると、受話器を勢い良く置いた
カーキ色の開襟野戦服に身を包んだ男が敬礼をする
「お呼びでしょうか、同志長官」
大佐の階級章を付け、ソ連軍では珍しいつば付きの野戦帽を被り、紐靴を履く
男は第7局破壊工作対策課長で、KGB特殊部隊『アルファ』の司令官であった
長官に代わり、第一総局長が伝える
「消してほしい人物がいる」
「誰を」
大佐の方を振り向く
「木原マサキと氷室美久の二名だ……」
長官が、ふと漏らす
「同志大佐、木原は手強い。気を付けて任務にあたり給え」
不敵の笑みを浮かべる
「すでに東ドイツの組織は壊滅した……。
君達がしくじれば、奴を汽車ごと爆弾で消そうと思っている」
真剣な面持ちで、大佐は答えた
「では私の行動は、西のプロレタリア人民と社会主義諸国の同胞の命を救うと……」
眼光鋭く、彼を見つめる
「その通りだ」
そう言い放つと、男達は哄笑した
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
牙城
前書き
ゴールデンウイーク特別投稿 初日
西ドイツ・ハンブルク 4月28日
マサキは日本総領事館の一室で、次の行動に対して備えていた
机の上には手入れ用具と銃弾が散乱し、今し方まで拳銃の手入れをしていたことを伺わせる
重いセラミック製の防弾チョッキを長袖の下着の上から着け、美久に手伝わせた
体に合わせなけば、効果は半減する
無論、次元連結システムのバリアを使えば、防弾に過不足は無い
だが手札を隠すために敢て、重い甲冑を着たのだ
「鎖帷子でも着れば、あとは抜かりないか……」
そう独り言ちる
美久が心配そうに応じた
「さすがに相手も警戒しますから……」
「奴等に分からせるのさ。一片の信用も無いとな」
不敵の笑みを浮かべる
「なあ、あの帽子男が護衛に着くと言うのは本当か」
雨でもないのに草臥れたトレンチコートを着こむフェドーラ帽姿の男
アタッシェケースを下げて、歩けばただのサラリーマンにも見えなくはない
意味ありげな事を言う男に関して、彼は不信感が拭えなかった
あの男から感じる、不気味な感じ……
明確な政治的立場も無く、信念も無いように見える
日本という国が形だけ残れば誰とでも手を組み、裏切る態度……
幾ら名うてのスパイとはいえ、個人に諜報を頼る日本政府……
些か不快感を憶える
ズボンのマフポケットより『ホープ』の紙箱を取る
服を着つける美久の邪魔にならぬように、口に紙巻きを咥え、火を点ける
着付け易い様、案山子の様に両手を広げて立ちながら思う
小国日本が、国際的地位を得た理由
それは信頼故ではなかろうか
無論、四方を大海に囲まれて容易に侵略を受けにくく、また然程大陸とも遠くはない地の利
10世紀にも及ぶ封建社会を経て、契約や法概念という近代化の基礎が整ったのもあろう
それ以上に、米国から見て重要視されたのもあろう
19世紀中葉、米国は通商の観点から日本の経済的発展や政治的安定性に注目
早くから友好的な手段で日本との通義を望んでいた
この事実は、北方の豺狼、ロシアとは決定的に異なる
不幸にも4年の歳月をかけた大戦で、干戈を交えたがそれとて一度だけ
事あるごとに国境周辺に出入りし、僻地を脅かしたロシアとは違う
確かに、原子爆弾や大都市圏への絨毯爆撃など惨たらしい事も行った
だが、それは堂々と宣戦布告をして正面から戦った日本も同じではないか
口では賠償や謝罪などとは言わなかったが、ガリオア資金やフルブライト奨学金という形で返してくれたではないのか
工業発展の為にデミング博士の様な人材を送り込んでくれた点も大きい
自身に薄暗い感情として、米国への憎悪がある事は否定しない
だが、冷静に考えればそれを何時まで引きずるのだろうか
既に戦争に関してはサンフランシスコ条約で終わった話
既に存在しない『ナチス』や『日本帝国主義』の亡霊に怯えるソ連と何ら変わりはないのではないか……
この異界に遭っても、同じだ
たかが戦術機の納品時期が遅れた事で米国への恨み節を言う様……
原爆で20万人の人命が失われるより、害は無かろう
『曙計画』と言う事で軍民合同の研修計画を立てているのだから、決して軽んじてはいない
あの帽子男の態度は、米国の日本への信頼を気付着けるばかりではなく、ひいては国益を損ねるのではないのか
米国は独立以来、君主制こそ経験しなかった
とはいえ、慣習や契約を重視する封建社会の遺風が漂う社会
WASPと呼ばれる人々も、見ようによっては貴族層だ
貴族社会は名誉や道義を重んじる……
1000年前まで、先史時代の続いたロシア社会とは決定的に異なる
その様な事を想起しながら、タバコを燻らせていると彼女が声を掛けてきた
「タバコを……」
見ると、手には茶灰色のネクタイ
艶がかっている所を見ると毛織であろうか……
右の食指と親指でタバコを掴み、灰皿に置く
開けていた白地のシャツを閉め、ネクタイを綺麗に巻く
ダブルノットで締め、両手で襟を正す
「奴等は、公衆の面前で平然と暗殺をする」
バックヘイマー社製の8インチ用ショルダーホルスターに、拳銃を押し込む
白色の布製ハーネスを背中に回し、右腰のベルトに付けてサスペンダーの様に固定
上着を羽織り、金無垢のボタンを閉め、軽くブラシを掛ける
茶灰色の紡毛カルゼ織の服地は、無地でありながら、綾のうねりが光沢がかって見える
タバコを4箱ほど左右の腰ポケットに入れ、茶灰色の軍帽を掴む
「奴等の牙城に乗り込む」
領事館の前に立つトレンチコート姿の男は、右手をドアに向ける
「乗り給え、木原君」
マサキは、周囲を見回す
「70年型のリンカーン・コンチネンタルか」
男は、一瞬目を閉じる
「世事に疎い君にしては珍しいね」
思わず一瞬顔を顰める
「政府の一部局が、8000ドル(1978年時、一ドル195円)は下らないものを良く用意した物だ……」
彼の方を振り向き、不敵の笑みを浮かべる
「特別な手法さ……」
そう言うと哄笑する
笑う男を尻目に、靴ひもを結ぶ振りをして車体の下を覘く
仕掛け爆弾が無いかを、確かめたのだ
両足の短靴を整えると、車両に乗り込んだ
大型セダンが高速道路を走り抜ける
今よりハンブルク空港に向かい、北海経由でソ連ハバロフスクに向かう途中であった
ソ連政府からの招きに情報省が応じたのだ
当のマサキ自身や外務省は難色を示したが、彼等が無理に押し切ったのだ
車中で、男はマサキに尋ねて来た
「防弾チョッキとは、恐れ入ったよ」
左側に乗り込む男の方を振り返る
「あんたも、人の事は言えんだろう」
彼の一言に唖然とする
「え……」
正面に顔を戻す
「体付きの割に、胴回りが若干太く見える。
それにトレンチコートを愛用しているのは、暗器を隠すばかりではあるまい」
「流石だ」
一言漏らすと哄笑する
「何か飲むかね」
そう言うと男は、箱よりガラス瓶を取り出す
丸みを帯びた独特の形、スーパーニッカである事が判る
「悪酔いするから、酒は飲まぬ」
そう言って、瓶を突き返した
「パイロットが、車酔いとはね……」
蓋を開け、グラスに注ぐ
先程の箱より常温の水を取り出し、注いだ
男より、瓶入りのオレンジジュースを受け取る
栓抜きで開け、一口に呷る
飲み終えると、瓶ごと男に返した
男はその様を見て不敵の笑みを浮かべる
「仮に俺が撃たれた場合はどうする……」
その質問をした瞬間、男は真顔になった
「直ぐに雪辱を果たしてもらう。帝国政府の体面に関わるからな」
ベルトのバックルにある装置が振動する
次元連結システムを応用した装置には特別なレーダーが備え付けてあり、感応する仕組みになっていた
彼は周囲を警戒した後、バックミラーを覘く
背後より高速で近づいて来る一台のサイドカー付きオートバイ
右側の側車には折り畳み式銃床のカラシニコフ自動小銃を持った人物が見える
フルフェイスのヘルメットで、黒革製のジャケットを着て居るのが判った
「如何やら、雪辱を果たされるのは俺達の様だ」
右手を懐中に入れ、拳銃を取り出す
「応戦したほうが良いな」
男は、唖然とするとトランクを手に取る
閉じている鍵を開けると、中よりウージー機関銃を取り出し、弾倉を込める
コッキングレバーを引き、射撃可能なようにする
窓を手動ハンドルで全開にし、身を乗り出す
左側からくるオートバイに対して、射撃する
電動工具に似た轟音が鳴り響き、薬莢が勢いよく地面に散乱する
男は、左手で、帽子を押さえながら社内を振り向く
「飛ばせ」
そう叫ぶと、速度を上げる
急加速によりエンジンの回転数が上がり、悲鳴の様な音が聞こえて来る
対するオートバイの方は、ウイリー走行をしながら避ける
間隙を縫って、単射で数度反撃してくる
(「おそらくバイクは軍用バイクのウラル。その上に手練れの暗殺者か……」)
マサキは、冷静に事態の推移を見つめた
男は、運転席を守ろうと懸命に銃弾を振りまく
これが、右ハンドルの国産車であれば違ったであろう……
そう思いながら、数度弾倉を変え、射撃する
バイクは、機関銃の射撃に当たることなく走り去っていった
結局、バイクには損害らしい損害を与えられず、此方も被害はなかった
だが、男の心中は穏やかではなかった
マサキは、脇の男を窺う
拳銃を向けても顔色一つ変えなかった男が、青筋を立て、肩で息をしている
怒り心頭の様だ……
「いくらKGBとはいえども、唯では済ませる心算は無い」
タバコを掴むと、火を点ける
そして、彼は不敵の笑みを浮かべた
後書き
1970年代にはケブラー繊維は登場していますが、まだケブラー製の防弾衣は一般的ではありません
現実に即して、セラミック製の防弾チョッキにしました
当時の乗用車は趣味でリンカーン・コンチネンタルにしました
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
牙城 その2
前書き
ゴールデンウイーク特別投稿 中日
ベルリン 4月28日 22時
ベルリン郊外にある館で、密議がなされていた
テーブルの上に有るのはバランタインの30年物のウィスキー
二人の男が椅子に腰かけ、酒を片手に語り合っていた
一人は東ドイツの指導者で、もう一人はアーベル・ブレーメ
「なあ、アーベル。俺は奴がやりたかったことは間違ってはいないように思える」
嘗ての敵対者、シュミットの核保有の腹案を認める趣旨の発言をする
そう言うと氷の入ったグラスを傾ける
「どういう事だね」
彼の方を向く
「自前の核戦力……、間違ってはいない」
先次大戦においてベルリンに核爆弾投下の事実を知る者にとっては、彼の発言は危うかった
厄災を齎す兵器との認識から、東西ドイツでは強烈なまでの反核感情が醸成
西ドイツでの反核運動たるや凄まじく、核配備はおろか原子力利用まで否定した
米軍はボン政権の非核原則によって、表立って核の持ち込みをしてこなかった
核ミサイルは存在しないと言う事で、ソ連も同様の措置を取る
両者とも住民感情に配慮し、表面上は核持ち込みをしていないことが暗黙の了解……
更にドイツ国民の感情を悪化させたのがBETA戦争の核使用である
ソ連の核飽和攻撃は、東西ドイツ間にあったソ連への怨嗟を再び蘇らせた
シュミットが国家保安省の派閥内で核保有を提案するまで、その意見が一切出ない……
ドイツ国民の放射能汚染への過剰な恐怖を証左して居た
男は、自分が危ない橋を渡っていることを認識しながら続けた
「俺が青年団を島にしているのは知っていよう。
物心の付いた小僧っ子を一人前にするのに10年掛かる……」
相槌を打つ
「ああ……」
一口、酒を呷る
グラスの氷が揺れ、深いウィスキーの味わいが口の中に広がる
「軍とて同じだ。5年で戦術機部隊はそれらしい形になりつつあるが、不十分だ……。
やはり新型の軍事兵器構想を立ち上げ、人材教育を成し、物にするのには10年は必要だ」
テーブルに静かにグラスを置く
「その点、核戦力は比較的短期間で整備でき、安全保障上の問題を先送り出来る。
その時間を通じて軍事力の涵養に努める……。
この様な結論ならば、俺は奴に賛意を示したであろう」
断固とした口調で続ける
「無論、核兵器の操作ボタンは我らが手中に置く。
核の操作ボタンが他国の手に在る……、其れでは駄目だ。
飽く迄自国の都合に応じて自由に使える形でなければなるまい……」
アベールの方を見る
彼は、口を結んだままだ
「米国は朝鮮動乱の折、核使用を躊躇ったが故に38度線で膠着せざるを得なかった。
あの時、陸軍元帥が言う様に核を満洲に投下していれば、ソ連は即座に北鮮を切り捨てたはずだ。
この事からも、日米、韓米の間にある核の傘と言う物は、虚構でしかない事実が広く知られた」
彼は、左手でグラスを掴む
「ある時、仏大統領が米国に出向き、ホワイトハウスに真意を訪ねた話は知っておろう」
男は、机の上に有る「ジダン」の紙箱を開け、フィルター付きのタバコを抜き出す
「キューバ危機で名前を売った若造か……」
紙巻きタバコに火を点けると、彼の言葉を繋ぐ
「あの魚雷艇乗り上がりの大統領は、終ぞ核防衛計画をフランスの老元帥に明かせなかった」
紫煙を燻らせながら、熱っぽく語った
「それはなぜか、簡単な事さ。そのような物は最初から無いのだから約束などできる筈もない。
ボンの連中も同じことを思い、嘆いているであろう」
タバコを片手に、室内をゆっくり歩き始める
「俺はボンとの統一が成った際、核の問題は避けられぬと思っている。
甘い連中は中立国が出来ると思っているが、そんなのは絵空事だ」
「既にボンの政権自身は発足以来米国の傀儡であり、対ソ姿勢を明確にしている。
我が党も既に先頃の事件で、ソ連とは決別状態になった……」
彼はグラスを置くと、立ち上がり、一言尋ねる
「で、どうするのかね……。
核濃縮のノウハウも無いうちからその様な空論を述べるのは……」
タバコを右手より左手に持ち替え、一口吸いこむ
ゆっくりと紫煙を漂わせながら、答えた
「なあ、話は変わるが、西で環境問題活動家という連中が暴れ回ってるのは知っていよう」
彼は、両腕をズボンのマフポケットに入れた侭、男の話に聞き入る
「あの無政府主義者のことか」
男は下を向き、机の上に有るグラスを右手で掴む
其のまま、ウイスキーを一口含む
「俺がブル選をやりたいのは、この国が社会主義で持たぬ事もある……。
だが核利用の道筋を作り、ガキどもに残してやりたいからだよ……。
環境活動家の中に入り込み、石炭発電より綺麗な核利用という宣伝文句を広める。
奴等は排ガス規制や大気汚染、公害を問題にしてるから、取り込みやすい」
グラスを静かに置く
「放射能廃棄物の処理はどうするのかね」
男は、彼の方を振り向く
「その辺は米英の先進的な手法を取り入れる。
原子力業界は、国際金融資本の連中が仕切っている。
奴等に金とノウハウを提供させ、我等はそこから学べばよい」
安心したかのように笑みを浮かべた
ポツダム 4月29日 5時
早暁のサンスーシ宮殿、庭園内を軍服姿の男達が散策していた
参謀本部にほど近いこの場所で、密議がなされていた
参加者は、国防省トップの軍官僚数名……
参謀次長の地位にあるハイム少将が問う
「赤軍参謀総長を担ぐと言う案、些か拙速ではないかね」
男は、最年少の将官を諭すように答える
「シュトラハヴィッツ君、確かに核の操作権を握っているのは議長、国防相、参謀総長。
だが、二人の首を挿げ替えるのは容易ではあるまい……」
ソ連の核ミサイル発射手順は、議長と国防相と参謀総長の3人に最終決断の権限があった
万が一に備え、3人の内の2人揃えば、起動出来るシステム
議長が死亡しても参謀総長と国防相が健在なら、核の脅威は消える事は無かった
長老格の一人である、人民軍参謀総長が応じる
「同志議長、彼は根っからの職業軍人ですぞ。政治の世界では……」
シュトラハヴィッツと懇意な国防相が、笑みを浮かべながら答える
「アルフレートの提案は、一理ある。
冗談抜きで言えば、今の議長を失脚させた後……、英米が担ぐには丁度良い人物なのは間違いない」
男は紫煙を燻らせながら、彼等の顔を見回す
「神輿を担ぐにも、担ぎ手の体力も関係してくる。
軽い方が楽であることは間違いない」
「同志議長……」
シュトラハヴィッツ少将は戸惑った
果たして自分の提案と言う物が荒唐無稽でなかったのか……
周囲の混乱を余所に、男は答える
「国家保安省の連中を通じ、欺瞞情報を流させた。
駐独ソ連軍は、国家人民軍の側に着いたとな……。
仮に駐独ソ連軍司令官が無事でも、肝心の駐ドイツ大使館が吹っ飛ばされた。
当面の作戦指揮が混乱するのは、必至。
その割れ目をついて、こじ開ける方策に掛けてみることにした」
男は、一か八かの勝負に出た
まさか、この中に間者はいないであろうが……
万に一つの事を考え欺瞞作戦を行っていることを吹聴した
混乱は必須であろう
そうして居る内に背広姿の護衛が駆け寄ってきた
「同志議長、そろそろお時間です……」
懐中時計を取り出し、時間を見る
「シュトラハヴィッツ君、中々刺激的な提案であったよ」
周囲を駆け寄ってきた人民警察の警官が取り囲む
シュトラハヴィッツ少将とハイム少将は、その場で議長一行を見送る事にした
彼等の姿が見えなくなるまで、挙手の礼で応じた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
牙城 その3
前書き
ゴールデンウイーク投稿、最終日
ベルリン 4月30日
ユルゲンたちは、ベルリン市内のレストランに居た
結婚休暇より戻ってきた二人を歓迎すると言う名目でソ連留学組の面々と市街に繰り出したのだ
ベアトリクスの提案で、『ルッター&ヴェグナー』という店に決まった
シャルロッテン通り沿いにある1811年開業の老舗で、特権階級御用達
この店は、元を辿れば、150年弱の歴史を有するワイン商
19世紀半ばには、すでにワイン・バー、軽食堂を経営していた
ここの常連であった宮廷役者ルートヴィヒ・デヴリエン
彼がジャンダルメンマルクトの劇場で『ヘンリー四世』を演じた際の逸話は、有名であろう
同店に飛び込み、演劇の台詞で、ゼック(シェリー)を一杯くれ給えと、注文
給仕がシェリー酒ではなく、名物であった発泡ぶどう酒を出した
この故事から、発泡ぶどう酒をゼクトと呼ぶようになった
この店は、ボルツ老夫妻に連れられ、実妹と訪ねた事がある
ユルゲンにとっては、勝手知ったる場所であった
思えば、この店でボルツ翁より結婚を勧められたのが懐かしい
あの時は、まだ決心がつかず、悩んでいた
一番乗り気だったのは、アイリスディーナであった
彼女が自分に兄弟以上の好意を向けているのは、うすうす感づいていた
ベアトリクスとの関係が進展した時も、時々見せた不安げな表情……
あれは、兄弟以上の感情を持っていたのではないであろうか
運ばれてくる料理を待ちながらワインを飲んでいると、ヤウクが尋ねて来た
「妹さんはどうするんだい。このままじゃ行き遅れになるだろう」
東ドイツは、米国の影響を受けた西ドイツとは違い、早婚の習慣が色濃く残る
平均婚姻年齢は23歳で、学生結婚も推奨された
彼なりに、アイリスディーナの将来を案じたのだ……
ベアトリクスが、ふと言い放った
「貴方は、相変わらず優美さに欠ける人ばかり、戦友に持つのね」
彼女は遠回しに、ユルゲンを非難した
彼は、妻の一言を苦笑しながら聞き流す
その一言に噛みついたのは、カッフェだった
「おいユルゲンよ、お前さん、女房の教育が足らねえんじゃねえかい」
ヤウクは周囲を伺う
昼過ぎとはいっても、それなりに客はいるのだ
しかも高級店
カッフェの粗野な奴詞は、この店の雰囲気にはそぐわない
右ひじでカッフェを突く
「軍隊手帳にも書いてあるだろう。人民軍将校に相応しい振舞いをしたらどうだい」
赤い顔をしたカッフェは応じる
「お前さんも、教官みてぇなこと言うんだな」
彼女は、赤い瞳でカッフェの顔を見る
「政治将校に叱られたのを、全然反省していないのね」
エリート部隊である戦術機実験集団内での恋愛騒動……
婚前妊娠の末の入籍の話は、既に士官学校生徒たちの耳にまで広まっていたのだ
5歳も年下の女にその様に言われた事より、周囲に広まっていた事が恥ずかしかった
忽ち彼の顔が青くなる
ヤウクは、赤ワインを一口含む
灰皿を引き寄せ、一言告げる
「本当に良い奥様だよ、君は彼女の愛を満たせる自信はあるかい」
「貴様らしくない哲学的な問いだな」
そう言っている内に暖かい料理が運ばれてくる
「まあ、こういう所で聞く話ではないのは知っている。冷めぬ内に頂こうではないか」
そう言うとナイフを手に取った
「なあヤウクさんよ、同志将軍の御姫さまとはどうだい」
ヤウクはワインを一口含み、同輩の問いに応じた
「先週、初めて会って来た……、天真爛漫な人だったよ」
ベアトリクスは、その発言に失笑を漏らす
彼は感づいていたが、無視する
「何れは、教会婚でも挙げるのもいいかなと」
「ちょっと危ないな、其れ……」
東ドイツではソ連とは違い、一応教会や布教活動は認められてはいた
だが、それは制限付きの物であった
西ドイツと同じようにキリスト教ルター派の信仰を告白することは、社会から疎外されることを意味した
一応、信仰を理由とした兵役拒否やその他の権利は有していたが、それは同時に党から監視される立場になった
「士官学校次席としては、随分脇が甘いのね」
彼女は、ヤウクを窘めた
「貴女の夫君には負けますよ」
彼は、同輩の幼妻にその様に回答する
「ユルゲン、本当に賢しい女性だ。一緒に死ぬ覚悟で愛してやるべきだ」
『ジダン』の紙箱を出すと、中敷きを開ける
中より紙巻きたばこを抜き出し、火を点けた
「何を……」
紫煙を燻らせながら、答える
「支那の諺に『覆水盆に返らず』という言葉がある。夫婦とは言えども一度関係が壊れれば戻らない」
その言葉を聞いて焦りを感じたユルゲンは、ワインで喉を湿らせる
「なあ……」
彼は、微妙な表情をする夫君の方を改めて振り返った
「我々の首席参謀の家庭環境と言う物を本心から心配したのだよ。
僕達四人で話し合って解決できる問題じゃあるまい……。
こういう事言うとヴィークマンに、また叱られそうだけどさ」
ちらりと、静かにしているカッフェの方を見る
「最も、彼女の愛はバルト海よりも深い……。
だから、その心配は無いだろうけどね」
そう言うと笑みを浮かべる
「なあ、家で飲み直さないか」
家で軍隊に関することを話そうと、ヤウクへ暗に提案する
公衆の面前で軍や政治討論をするほど浅はかではないが、一応誘ってみたのだ
「新婚さんのお宅に邪魔するほど、僕も無粋ではないよ」
黙っていたカッフェも同調する
真っ赤な顔をしながら、呂律の回らない口調で言う
「もう俺を必要としめえ、帰らせてもらうぜ。お前さんらの熱々の話を聞いていたら、酒どころじゃあるめぇよ」
そう答えるとその場にへたり込んだ
その様を呆れる様に、ヤウクは一言漏らす
「相変わらずカッフェは酒に弱いな。もう飲ませない方が良いぞ」
彼女は皮肉を伝える
「酒豪と家庭を持ってる人が意外ね」
「いや、関係ないから……」
しばし唖然としながら、妻の顔を伺う
悪びれることなくヤウクと談笑する姿を見て、大きな溜息をつく
店外で、ボルツ翁の迎えを待っていると、遠くより男の叫び声がした
「申し!」
彼等は、そちらを振り返る
「こ、こんな所にいましたか……、探しましたよ」
勤務服姿のクリューガー曹長が駆け込んでくる
立ち止まり、深く息をつく
「のんびり遊んでいられなくなりそうです」
顔を上げ、彼等の顔を伺う
「如何やら、ボンとの合同作戦が既定の様です」
ヤウクは、右の食指と中指で握っていたタバコを落とす
「そ、それじゃあ……」
手で、顔の汗を拭う
「ええ、ハイム参謀次長が動いたと言う噂ですがね」
真剣な面持ちに改める
「間違いないでしょう」
ユルゲンは、ふと漏らす
「い、いよいよか……」
そっと、ベアトリクスが右手に腕を絡ませてくる
思い起こせば、先ごろのロンドンでの米ソ首脳会談
社会主義圏内における西側軍隊の活動容認とも取れる外交的妥協
米国の仲介の下での日本帝国軍との接触……
今、ミンスクハイヴ攻略という事を入り口として祖国統一の悲願への道筋
大きく動く事態に、彼の心は決まっていた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
牙城 その4
前書き
ドイツと極東シベリアの時差は8時間です
5月1日 ハンブルグ 10時
暗殺者の襲撃後、再び総領事館に呼び戻されたマサキ達
領事館員等の相談を、別室で待機していた
25口径の自動拳銃を徐に取り出すと、トレンチコート姿の男に向ける
紫煙を燻らせながら、面前の男に尋ねた
「貴様の本当の名前を聞かせてもらおうか」
男は不敵の笑みを浮かべ、立ち尽くす
オーバーコートのマフポケットより両腕を出すと、力なく下げる
左手で、ゆっくりと遊底を引き下げる
「ナイフやポケットピストルを隠し持ってるのは、分かっている……。
ゆっくり、捨てろ」
観念したかのように、掌を開く
真鍮とプラスチックで作られた柄の折り畳みナイフが、床に落ちる
「BUCKのレンジャーナイフか……」
「いやはや、私にここまでさせる男は君が初めてだよ。木原君。
本日は特別サービスだ……」
用心金より、引き金へ食指を動かす
「勿体ぶらず、さっさと言え」
彼が銃を向け、急かしてもなお男は平然としていた
静かな室内に冷笑する声が響く
「聞けば、必ず答えが返ってくると思っているのかね」
男の言葉に、彼は笑い返す
「全くふざけた男だ……、鎧衣左近」
絶句した男は、彼を凝視する
目を見開き、身動ぎせず、その場に立ち尽くす
「如何やら図星の様だな……。
幾ら田舎の諜報組織とはいえ、シュタージにはKGBが後ろについている」
右の食指を用心金に移動させる
「奴等を甘く見ていると、痛い目に遭うぞ……」
彼はそう言うと、在りし日の事を思い起こした
前世において、秘密結社・鉄甲龍を立ち上げた時、一番気を使ったのは情報機関の潜入であった
彼が八卦ロボを建造するまで、ロボット兵器の存在しなかった前世
その世界に在って、核戦力並みの超兵器の存在
常に情報機関の接触に怯える暮らしでもあった
内訌の末、日本政府に頼った彼は結果的に落命する事にはなった
皮肉なことに、その秘密は、彼の死によって守られる結末を迎える
「どの様に知り得たのかね……」
男は見た事のない様な表情で、尋ねて来る
「必要な情報の入手と解析……、これが出来なくては科学者というのは務まらぬのさ」
マサキは、ソ連大使館や国家保安省本部より入手していた情報から男の名前を割り出していた
男の名前は、鎧衣 左近
商人に偽装し、各国に潜入する工作員
情報省外事部に籍を置く人間という所まで把握済みであった
その様にしていると、ドアをノックする音が聞こえる
身動ぎせず、声だけで応じた
「取り込み中だ。誰か知らんが……」
ドア越しに声が掛かる
「氷室です」
「美久、後にしろ」
一瞬、顔をドアの方に向ける
其の隙を突き、男は飛び掛かる
あっという間に彼の右手首を掴むと、背中に向けて拳銃ごと右手を捻った
苦悶の表情を浮かべ、思わず悲鳴を上げる
「流石の物だ……、木原マサキ君。
冥府の王を自称するだけの自信は、ある様だね」
彼の右手より、自動拳銃を取り上げると引き金を引く
反動で遊底が作動するも、ばねの音のみ、虚しく響く
「驚いたものだね。空の拳銃を使って私を脅していたとは……」
「もし、お前が俺のピストルを奪ったら……どうする。
間違いなく狙うであろう」
男は不敵の笑みを浮かべる
「いやはや、君を甘く見ていた様だ……」
その時、ドアが静かに開く
自動小銃を構えた美久と拳銃を手にした綾峰たち
鋭い表情で此方を見る
「貴様には、色々と聞くことがある」
筒の様な物を取り出し、周囲に見せつける
「私もやらねばならぬ事があるので……。
ここは、痛み分けと言う事で、どうかね」
男の持っている物は発煙筒で、栓を抜き放り投げる
綾峰たちは、咄嗟に避け、地面に伏せた
小さい爆音とともに緑色の煙が広がる
充満した煙を防ぐため、咄嗟に次元連結システムを作動させる
気が付くと、男の姿はどこにも見当たらなかった
後ろを振り返ると、窓が開いているのに気が付く
3階の窓から逃げたのであろうか……
彼は、床に膝を付けながら肩で呼吸をした
「俺も、甘く見られたものだ……」
煙幕により火災報知器が作動したようだ……
鳴り響く警報音を聞きながら、彼は床に倒れ込んだ
5月1日 ハバロフスク 12時
「な、何て恐ろしい事をしてくれたのだ。気でも違ったのかね」
目の前に立つKGB長官に向かって、男は吐き捨てた
「今、木原の立場はソビエトが招いた賓客なのだよ」
肩を震わせながら、拳を握りしめる
「その彼を襲うとは……」
怫然とする首相を横目に、KGB長官は感心したかのようにマサキを誉める
「抜け目のない男よ。短機関銃まで用意していたとは」
顎に当てていた手を、机に伸ばす
「ロケット弾を撃ち込めば良かったかもしれぬな。同志大佐」
机の上に置いてあるシャシュカと呼ばれる、カフカス地方由来の刀剣を手に取る
鍔のない独特の形で、まるで合口を思い起こさせる拵え
鯉口を切り、滑らかに刀身を抜き出す
「木原を招くことは政治局会議の既定路線……。
この采配を反故にすることは、議長の信用に関わる。どうする心算なのだ」
男は、言葉を言い終えるのを待っていたかのように持っていた刀を振りかぶる
そして、机の端を切り落とした
首相は、その様を見て思わず絶叫する
「戦うまでだ」
そう言って、切っ先を椅子に腰かける老人に向ける
「議長、貴方はソビエト連邦共和国の最高指導者。小童共に軽んじられて、どうなさる心算か」
「『綸言汗の如し』……。
木原を抹殺するとの言、一度出れば取り消せない」
左手で、置いてある金属製の鞘を掴む
「貴方自身の体面保持の為、党益はお捨てなされ」
右手に握った刀を、ゆっくりと鞘に納める
「同志首相、連邦共和国の行政を一手に握る貴様が、何を恐れるのだね。
自由に差配できるではないのか」
鞘尻を下にして、柄頭を持ち上げ、杖の様に構える
「是よりKGBに招集をかけ、参謀総長を抹殺する。
参謀本部とGRUに巣食う反革命分子を一掃すれば、党は自在に動かせる」
「ソビエトを二つに割る心算か!」
男は、首相の方を向く
「ソビエトが常に一つであった試しが、あったかね。」
右手を挙げ、壁に掛かった肖像画を、食指で指し示す
「同志レーニンが1898年に社会民主党を創設して以来、常に内部闘争の歴史が繰り返されてきたのを忘れたか」
右掌を天に向け、ゆっくり持ち上げる
「反革命分子の社会革命党の一斉処刑、極右冒険主義の追放……。
これらがあって、初めてソビエトは形作られた」
勢い良く、老人の方に右手を差し出す
「議長、貴方が主体的になって、今度の闘争を勝ち抜かねばならない。
木原の首とミンスクハイヴ攻略という果実、議長退任への花道を飾る良い機会ではないか……」
其のまま、力強く拳を振り上げる
「反革命的傾向のある赤軍への闘争を是より始める」
男の言葉に、気圧された首相……
身を震撼させ、額には脂汗が滲む
顫動する彼を尻目に、男は力強く言い放った
「我等に残された道は、闘争しかないのだよ」
その言葉に観念したかのように、漏らす
「嗚呼……」
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
牙城 その5
京都 5月1日
「何、鎧衣ほどの手練れが襲われただと……」
羽織姿の男は、面前で跪く男の言葉に耳を疑った
情報省外事部生え抜きの有能工作員として、鎧衣左近は期待されていた
その彼がハンブルグ空港に向かう道すがら、暗殺者に襲撃されたことに驚きを隠せなかった
「しかし困ったものだ……、殿下には申し訳が出来ぬ」
そう答えると、深く椅子に腰かける
右手を額に当て、考える
「少しばかり、時間を頂けませんか……」
平伏する男は、初老の男に申し訳なさそうに謝る
「ミンスクハイヴ攻略……、作戦決行日は6月22日と内定して居る。
それまでにソ連との話し合いを付けよ」
そう言い残すと、立ち上がり、部屋を後にした
下座で平伏する男は、彼の気配が無くなるまでその姿勢のままでいた
京都 議員宿舎
政務次官である榊 是親は、個人的な友誼関係にある綾峰を想った
彼を、戦術機部隊の責任者として推薦した経緯もあり、人一倍、動向が気になった
嘗て学窓で、共に過ごした朋友からの定時連絡を、今か今かと待っていた
机の上に有るファクシミリ付き電話のベルを気にしていて、何も手が付かない
灰皿にある山盛りになった吸い殻……
紫煙が立ち昇る様も、気にならない様子で、電話をじっと眺める
思わず、左腕に嵌めた腕時計を見る
20時になる頃か……
そろそろ引き上げようかと考えていた矢先、電話のベルがけたたましく鳴り響く
「はい、此方榊……、遅かったではないか」
受話器越しに綾峰が言う
「なあ是親、大臣に話しておいてくれないか……、何かあったら木原を国防省で引き取るって」
受話器を左側に変え、右手にボールペンを持つ
「何があった」
「情報省の木端が詰まらない騒ぎを起こしてな……」
声色から焦りを感じた彼は、然程深く尋ねなかった
「俺の方からも根回ししておくよ……」
「ああ、助かる」
ボールペンを、机の上に置く
「ソ連の連中は一筋縄ではいかん……、身辺に気を付けてくれ」
「お互いにな……」
そう言い残すと、電話が切れた
受話器をゆっくり置くと、潰れた紙箱よりタバコを取り出す
使い捨てライターで火を点け、軽く吹かす
紫煙を燻らせながら、友を思う
思えば国政の場に道を選んだことを考え直す
竹馬の友は、赫赫たる栄光に包まれた帝国陸軍を選んだ
鮮やかな勲章に飾られた戎衣を装い、欧州の地に居る
三回生議員として、国防政務次官にはなって見たものの、改めて自分の無力さに気付いた
当選したばかりの頃は意気揚々と議場に足を運んだものだ……
この国を変えるには、矢張り首相になるしかない
お飾り職とはいえ、政務次官になった事を足掛かりにして、与党内に自分の政策研究会を立ち上げる頃合いであろうか
25年、否、20年以内に首相に上がれるようにならなくては駄目だ……
BETA戦争が終わった後に、世界情勢の変化は必須……
形骸化しつつあるとはいえ、中ソ両国は依然として国連常任理事国
この機会を利用して、綾峰が押すゼオライマーに暴れてもらいたい
事と次第によっては、衰微著しい中ソを常任理事からの交代
積年の夢でもある国連常任理事国入り、叶うかもしれない……
かのパイロットの青年には気の毒だが、日本の為に犠牲になってもらうのが一番であろう
下手に生き残れば、間違いなく米国が欲しがるのは必須
それに、斯衛軍では持て余しているとも聞く
仮に帝国陸軍には転属したところで扱いきれるであろうか……、不安は拭えなかった
そう一人で考えている矢先、机の電話が鳴り響く
静かに受話器を取ると、向こうより初老の男が声を掛けてきた
「榊君、急いで私の所まで来てくれないか」
状況の今一つ掴めぬ彼は、力なく返事をすると受話器を置く
立ち上がると、近くにいる秘書を呼び出す
「今から、国防省に車を回せ」
急ぎ、車を手配するように伝える
衣紋掛けに懸けてある背広を取り、羽織る
部屋を後にすると、車の待つ駐車場に急いだ
京都 国防省本部
国防省に着くと会議室へと案内される
陸海軍の幕僚たちと大臣が、大型モニターを前にした円卓に居並ぶ
モニターの画面上には樺太とソ連沿海州の地図が投影されていた
大臣に一礼した後、席に着く
「これは一体……」
濃紺の海軍第一種軍装を身に着けた男が、彼の方を振り向く
「ソ連極東艦隊に動きがあった……」
そう言って、地図上にある間宮海峡の位置を指揮棒で示す
「パレオロゴス作戦の一環で艦隊移動をしていたと思ったが如何やら違うらしい」
周囲の目が、画面に向く
「欧州戦線への派兵であるのならば、揚陸艇や戦術機運搬船が居るはずなのだが見当たらない。
詳細は不明ながら、戦艦2隻と巡洋艦数隻の編成で、間宮海峡を南下し始めている」
思わず声を出す
「まさか……」
「ゼオライマーパイロットの誘拐失敗の報復……、可能性もあるかもしれん。
事と次第によっては、北海道と南樺太には特別警戒を出すつもりだ」
よもや武力衝突と為ったらどうするのであろうか……
「舞鶴港より最上、三隅を向かわせることにした。旧式艦ではあるが牽制には為ろう」
机の上で腕を組む大臣が、答える
「最悪の場合、呉で改装中の大和、武蔵を出す準備をしている」
男の言葉に周囲が騒がしくなる
「新潟にある戦術機部隊にも、待機命令は既に下した」
男は、周囲が静まるのを待った
そして、再び答えた
「諸君、覚悟して呉れ」
赤軍とKGBの対立は日々深まっていると聞く
一党独裁を堅持する上で、軍とKGBの対立構造
独裁維持の常套手段として、不合理なシステムは存在すると聞く
時勢によっては何方かを立て、何方かを貶めることで党の支配権を保持してきた
失策続きの赤軍が存在価値を高めるために日本への脅かしをする
我々には理解できない常識で、彼等は動く……
榊は、目の前の情勢に、ただ唖然とするばかりであった
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ミンスクハイヴ攻略 その1
「ミンスクハイヴ攻略の為……、特別攻撃隊を組織したい」
ソ連赤軍参謀本部の一室に、男の声が響く
その一言に、周囲は騒然となる
声の主は、ソ連赤軍300万の全てを掌る赤軍参謀総長であった
「嘗て対米戦において、日本帝国主義者がとった方法を取ると言うのですか」
一人の赤軍中佐が立ち上がり反論する
彼は、その中佐の方を向き、こう答えた
「オルタネイティヴ3計画が水泡に帰した今、手段は限定すべきではない」
ソ連赤軍の持てる英知をを結集した一大作品、ESP発現体……
ノボシビルスクにあった同研究所は、核開発設備やICBM発射車両と共に消し飛んだ
数百名のスタッフと研究データー、被験体……
彼等は知らなかったが、ゼオライマーの『メイオウ攻撃』で、全て灰燼に帰した
「既に、シベリア、極東、ザバイカルの各軍管区、蒙古駐留軍より招集を掛けている……。
だが、新兵の大部分は18歳未満……、とても役に立つとは思えない。
このまま続けば、大祖国戦争の二の舞だ。
産業構造ばかりではなく、人口増加率に悪影響を与えかねない」
1973年4月19日に支那・新疆にカシュガルハイヴが出来て以降、世界状況は一変した
ソ連では、5年に及ぶ長く苦しい戦いの末、人口の3割が失われた
1970年に行われた国勢調査の統計結果では2億4170万人
それを基に推定すると、7251万人の人口が失われたことに成る
2000万人近い人口が失われた大祖国戦争を上回る勢いに、ソ連指導部は焦っていた
戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力で徐々に攻勢を強める方針を取る
しかし、BETAの勢いは留まる所を知らず、兵力が恐ろしい勢いで失われた
絶望的な状況に追い込まれていた矢先、一条の光明が差し込む
異界より現れた超大型機動兵器、天のゼオライマー
一瞬にして、ハイヴを灰燼に帰す『メイオウ攻撃』
無限のエネルギーを供給し続ける『次元連結システム』
座標を確認できる範囲であれば、随意の攻撃が可能な『次元連結砲』
湧き出て来るBETAに対して、鬼神の如く戦い、一人勝ち誇る姿を見せつける
その様にソ連指導部が、心を奪われるのも無理からぬ話ではあった
「日本野郎に頭を下げ、ゼオライマーを借りる。
危険な賭けかもしれないが、これしかない」
皮肉なことに、彼等はオルタネイティヴ3計画中断の道筋を付けた木原マサキに頭を下げ、助力を仰ごうとしていた
「既に、手段を選んでいる時ではないのだ」
まるで物に憑かれたように、ゼオライマーへの渇望を吐露する参謀総長
熱い思いを語る、その男の姿を周囲の者たちは引き気味で見ていた
「東ドイツの連中に光線級吶喊をやらせて、ハイヴに核を抱いた戦術機部隊を突入させる……
この様な最悪の事態を避けるために、帝国主義者の力を持って対応する。
何もやらぬよりはマシであろう」
今日までに実施した赤軍主導の軍事作戦は悉く失敗に終わった
この状況下で、ソ連単独によるハイヴ攻略などが実現したならば、どうであろうか……
ソ連の権威回復は確実であり、国際情勢に与える影響は絶大
そうなれば北大西洋条約機構に新規加盟する国家は居なくなる
その先に待つのは、統制による人類の結束……
其の事は、男にとって明らかな事実であるように感じていた
ほぼ同時刻、市内にあるKGB臨時本部の一室で会合が持たれていた
十数人の男達が、ある老人の一挙手一投足を注視する
「今回、GRUに先んじて日本の工作員と接触した」
NKVD時代よりの伝統を受け継いだ青みがかった緑色の制服を着て、青色の肩章を付る
制服姿の老人が、男達の前に躍り出る
「その際、写真投影装置を仕組んだ部屋に当該人物を招き、閾下知覚を通じて洗脳工作を実施した」
サブリミナル効果を施したことを暗示させる
衆目が、その男に集まった
「木原を爆殺させるよう、手投げ弾の写真を当該画像に紛れ込ませ、視聴させた。
成否はどうでも良い……、これにより日本は混乱するのは必須」
室内を忙しなく歩きながら言う
「其の隙をついて、最新型の戦術機部隊を差し向けた……。
読みが正しければ、ゼオライマーは出てこよう」
最新鋭戦術機搭載のタンカーを、密かに放った事を明かした
「よく手配出来ましたな」
眼光鋭く、その男を射すくめる
「鶴の一声よ……。小童共なぞ、如何とでも遇える」
男の委縮する様を見ると、ふと冷笑を顔に浮かべる
「話を元に戻すが、仮に木原が出てこなくても、出ざるを得ない様仕向ける……。
洋上決戦で、KGB戦術機部隊が敗北した場合は、ロケットを撃ち込む手筈になっている。
如何に大型戦術機とはいえ、核弾頭ロケットの前では消し飛ぶはず……」
ソ連国内に秘匿配備されたR-16 ミサイルを用いる事を説明した
二段式の液体燃料ロケットで、全長30メートル
ゼオライマー諸共、木原マサキを消す……
その様な情念の炎を燃やす男の様を、チェキストたちは遠巻きに見ていた
「同志諸君、これはソビエト存続の為の聖戦なのだよ」
男の声を合図に、室内に鯨波が響き渡った
ハバロフスク市中を移動する米国製リムジン
KGB長官の公用車として使われる車両の一つ
米国からの特別ルートを通じ、KGBで入手した物であった
「同志長官、お聞かせ願えますかな」
移動する車中で、特殊部隊『アルファ』司令官は、KGB長官に木原マサキ抹殺の理由を問い質した
「あの男は生かしておいては危険だ……、何れは我らが覇道の阻害になる。
危険な芽は早めに摘むのが一番……、奴にはパレオロゴス作戦開始前に死んでもらう」
対坐する長官は、革張りのアタッシェケースより一枚の紙を取り出す
「もし、今回の件が失敗した場合は、この密書に書いた通りに事を運べ」
男の表情が曇る
「米国のド真ン中で……、中々厳しい注文ですな」
その資料には、以下のようなことが書かれていた
国連職員の制服を着て、公用車でニューヨークにあるアイドルワイルド空港(現:JFK国際空港)に乗り付ける
其処を経由して、東京行の便に乗り換える際に襲撃すると言う指令
パレオロゴス作戦終了後、帰国途上のマサキを暗殺する計画であった
「工作員は、ルムンバ大学より選抜した外人留学生チームで行く。
そうすれば、KGBだと足もつくまい」
ルムンバ大学
正式名称をパトリス・ルムンバ名称民族友好大学といい、東亜、中近東、アフリカ、南米における共産主義伝播の為、設置された工作機関の一つである
戦前は、東方勤労者共産大学と称し、頭文字を取ってクートヴェ(КУТВ)
ここの卒業生は、支那、北ベトナム、インドネシアなどの共産主義運動を主導
日本も例外ではなく、少なからず影響を与えた
戦前の日共ではクートヴェ帰りに対し、羨望の眼差しを向けるほどであった
アルファ部隊司令官は、KGB長官の発言を取り持つ
「その暁には、木原の首であったものを用いて、蹴鞠遊びでもしようではありませんか」
車中に、男達の哄笑が響き渡った
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ミンスクハイヴ攻略 その2
前書き
今回は5000字越えの長文です
極東の果てにあるハバロフスクより遠く離れたドイツ・ベルリン
そこにある議長公邸で、男達が密議をしている最中であった
「何、GRUの連中が我々に協力を求めて来ただと……」
背広姿の男は、正面に立つ40がらみの軍人の顔を見つめる
「この期に及んで、どう言う積りかね。
無論、断るのであろう、シュトラハヴィッツ君」
折襟の勤務服に朱色の将官用階級章を付けたシュトラハヴィッツ少将
彼は、軍帽を右脇に挟み、立ったまま男の意見に頷く
「同志議長、小官も同意見です」
灰色がかった髪と綺麗に整えられた口髭
アイデンティティーの一つであった蓄えていた顎髭は、綺麗に剃り上げられていた
「居丈高に振舞っておきながら、都合が悪くなると平伏して泣きついて来る……。
あまりにも身勝手な話ではないか」
窓際より、降り頻る雨を眺める
「我々は今、西側に入ろうと努力している矢先に、水を掛けるような真似をするとは……」
ソ連支配下の東側は、困窮に喘ぐ暮らしを余儀なくされていた
社会主義という実情を無視した経済政策により、貧困状態に長く留め置かれざるを得なかった
国民の間にある怨嗟は凄まじく、其の事を各国の指導部は薄々感づいてはいた
だが、国家体制維持の為、無視する施策を取り続けてきた
今、ソ連の弱体化によって東欧諸国の政治的態度は変化しつつある
GRUは、その点を読み間違えていたのだ……
雨は次第に強くなり、吹き付ける様に降り続く
まるで独ソの関係を表すかの様に、男には見えた
「国家保安省の所にはKGBから連絡もないし、外交ルートを通じての話も一切ない。
アベールの所に、ソ連外務省関係者が出入りしているが……」
男の言葉に、彼は驚愕した
ソ連経済圏の一翼を担う東ドイツの経済官僚が、ソ連政府関係者と連絡を取り合うのは珍しい話ではない
外交ルートの他に、ソ連外務省と個人的な関係を結んでいるアベール・ブレーメ
女婿ユルゲン・ベルンハルトとの縁で敵対関係にはならなかった
一介の経済官僚とはいえ、そのような人脈を持つ男
考えるだけで空恐ろしくなる……
その娘に、禽獣が如く飼いならされているベルンハルト……
未だ真意を量りかねる面も多い男、末恐ろしさを感じた
「西との初顔合わせ……、誰を行かせたのかね」
男の言葉に、我に返ったシュトラハヴィッツ少将
少し間を置いた後、ゆっくり答えた
「同志ベルンハルト中尉、同志ヤウク少尉です」
何時もの如く、タバコを差し出して来る
青色の『ゴロワーズ』の紙箱を受け取ると、一本抜きだす
「何故、同志ハンニバル大尉にしなかった……」
軽く会釈をして、箱を男の手元に返す
両切りタバコを口に挟み、火を点ける
「彼は、元々地対空ミサイルの専門家で、専門的な知識が足りぬ点もあります。
それに年齢も年齢です。妙に警戒されても困ります」
男も同様に紙箱より、タバコを取り出す
窓の方へ、再び向き直る
「分かった。何かあれば、俺の所に持ち込んで来い」
紫煙を燻らせながら、応じた
「話は変わるが、嬢ちゃん、来年の正月で12歳になるんだろう」
男の言葉を耳にして、彼は血が引くような気がした
この人物の底知れぬ深さに、恐怖を感じた
「御存じでしたか……」
彼の言葉に、不敵の笑みを浮かべた
「君は、今回の出征に関して責任を感じている様だが……、生き急ぐ必要もあるまい。
花嫁姿を一目見てから、泉下の待ち人の元へ行くのは遅くはあるまい……」
そう言うと、タバコを灰皿に押し付ける
「内々で決まった事だが……、今年の9月にブル選と住民投票をやる事になった。
恐らく大敗する……。
SEDは、所詮占領政策の忌み子だ……。ひっそりと役割を終えられれば良いと思っている」
男はそう漏らすと、再び部屋の中を歩き始める
「遠からぬ内に、総辞職。俺は政治局から降りることに、成るであろう」
窓辺で立ち止まると、屋外に視線を移す
「任期中に、壁を取り払う手続きだけはしておいてやるよ……」
窓外の景色を見た侭、振り返らず応じる
その言葉を聞いた後、彼は、敬礼して部屋を後にした
ポツダムの参謀本部への帰路、一人悩む
愛娘、ウルスラの事をふと思い描く
この数年来、彼女は妻の実家にほぼ預けたままで暮らしていた
軍務で昼夜を問わず働いているのも大きかったが、国家保安省の目から守るために隠していたのも事実
自分を執拗につけ狙ったクレムリンの茶坊主・シュミットの死
それを持っても、未だ恐怖心が拭えない
今回の作戦は、是が非でも成功させねばなるまい
地上に残る最後のハイヴとはいえ、白ロシアの首都ミンスク
東欧の最前線ポーランドの目と鼻の先なのだ
唇亡歯寒の間柄である、東欧諸国へのBETA侵略……
今、まさに古のドイツ騎士団の姿と自身の立場を重ねる
蒙古の侵略軍にワールシュタットの戦場で打ち破られた後、その災禍に苦しめられた
遠い極東の日本では、勇敢な戦士達によって水際で侵略を防ぎ切ったと聞く
10万の軍勢を一度の海戦で消滅させた猛者
国力盛んなロシア帝国と相対しても、怯まず打ち破った
その彼等が、先次大戦の時と同じように我等に力添えをしてくれているのだ
あの頼もしいゼオライマーという、超兵器
木原という青年が、そのマシンを持って欧州に来なければどうであったろうか……
美しい山河や、満々と湛えるバルト海、今暮れようとしている夕日も拝む事すら出来なかったであろう
暫し感傷に浸っていると、車はポツダムに着いた
公用車から降りて、歩いていると声を掛けられた
振り向くとハイム少将であった
驚いた顔をして、此方の顔を伺う
「どうした、アルフレート」
盟友の滂沱の涙に、不安を感じた
「ふと、古の戦士たちを思い起こしていただけさ」
彼は懐中より、官給品のハンカチを取り出す
涙の溜まった目頭を、静かに押さえる
「貴様らしくないな……」
再び、ハンカチを懐中に入れる
「否定はしない……」
茶色い紙箱のタバコを差し出す
赤い線に白抜きの文字で『CASINO』と書かれた東ドイツ製の口付きタバコ
「気分転換に、一本吸うか」
タバコを抜き出し、吸い口を潰す
胸ポケットより紙マッチを取り出すと、火を点ける
目を瞑り、深く吸い込む
「作戦まで2か月を切ったのに、今更顔合わせとは……」
「呆れて、ものも言えんだろう」
ハイム少将は、紫煙を燻らせながら答える
「出征する兵士どころか、その父兄や妻迄心配しているほどだ」
彼は、男の横顔を見る
「急にどうしたのだ」
男は苦笑する
「ベルンハルトの妻が、参謀本部に来たのだ」
思わず絶句した
唖然とする彼を、尻目に続けた
「いや、驚いたよ……。
士官学校の制服の侭、参謀総長に直談判しようと来たのだからな」
右の親指と食指で、紫煙の立ち昇る煙草を唇より遠ざける
ゆっくりと吐き出しながら、深く呼吸をする
「詳しく聞かせてくれないか」
「良かろう」
そう言うと、男は数時間前の出来事を語り始めた
朝より雨の降りしきるポツダムの参謀本部に一人の士官候補生が尋ねた
婦人兵用の雨衣外套を着て、衛兵と言い合いになっている人物がいる
執務室で、今後の作戦計画を練っているときに従卒がそう連絡してきたのだ
気分転換を兼ねて、彼が確認に行くことに成った
「しかし、連絡も無しに乗り付けるとは、どの様な人物なのかね」
彼は、脇を歩く従卒に尋ねた
「ベルンハルトと名乗っています」
思わず目を見開く
「例の『戦術機マフィア』の……」
「年は、18,9の娘ですが……」
深い溜息をつく
奴の妹であろうか……
幾ら議長の秘蔵っ子とは言え、つくづく先が思いやられる男だ
弟妹の扱いすら、満足に出来ぬとは……
「私が会って、諭して来る。
それと、同志ハイゼンベルクを呼べ」
従卒の方を振り向く
「大急ぎで、熱い茶と菓子を持ってくるように伝えてな」
彼は、ハンニバル大尉の愛人との噂の有るマライ・ハイゼンベルク少尉を呼び寄せた
若い娘と話す際には、年の近い彼女を呼んでおいたほうが良かろう
左目の下にある泣き黒子の魅力的な美女
左の泣き黒子は、一説によると情が深く、母性本能が強いという
その様な所に、ハンニバル大尉は惚れたのであろう
妻子の有る男の心の隙間に入り込む、魔性の女という見方も出来るかもしれない
そう考えながら、衛門へ進んだ
衛門に近づくと、女の話声と衛兵のやり取りが聞こえる
マント型の外套を羽織り、そちらへ足早に進む
「何度言ったら分かってくれるのかしら、私は参謀総長に話を聞きに来ただけ」
カーキ色の雨衣を着た衛兵が、目の前の婦人兵に丁寧に説明して居る
「困ります、同志ベルンハルト……。正式な書類が無ければ、御通しすることは出来ません」
件の婦人兵は、軍帽の縁から雨が零れ、漆黒の髪を濡らしている
白磁の様な透き通った肌色の顔が動き、宝玉のような赤い瞳で、此方を見る
「ブレーメ嬢……、如何したのだね」
思わず、言葉が飛び出した
その言葉を聞いた衛兵は、顔を動かさず返答した
「同志将軍、ご存じなのですか……」
幾ら雨衣を着ているからとはいっても、春先の冷たい雨……
風邪でも引いて返したら、どうした物か
彼は、一計を案じた
「彼女は、急用で招いた。別室に通しなさい」
空いている一室に招くと、タオルを渡し、髪を拭かせた
ストーブを点け、ハイゼンベルク少尉が持ってきた熱い茶を進める
灰皿を引き寄せると、タバコに火を点けた
「君らしくないではないか……、同志ブレーメ」
彼女は怪訝な表情を浮かべる
「失礼ですが、同志将軍。既にベルンハルトに嫁した身です」
ドイツに在って、姓は一般的に夫の姓を名乗る慣習があった
1794年に施行されたプロイセン一般ラント法は、婚姻した男女が夫の姓を名乗ることが定められた
1900年のドイツ帝国・民法典に在ってもその慣習を引き継いだ
家族姓は、夫の姓を名乗る事が義務付けられた
西ドイツで1976年に合同姓を名乗る事が法律で許可されたが、依然として9割以上が、家族姓で夫の姓を選んだ
社会主義下の東ドイツでも、そのプロイセン王国以来の慣習は尊重された
「それは、大変失礼な事をした……、では本題とやらを聞こうではないか」
ゆっくりとソファーへ腰を下ろし、彼女と対坐する
ハイゼンベルク少尉が急須より熱い茶を入れる
「既に、地上にあるハイヴはミンスクを除いて攻略済みと伺っております。
ミンスクハイヴ攻略の軍事的意義、政治的意義も理解している積りです。
この期に及んで、ソ連との友好関係を続ける必要があるのでしょうか」
紫煙を燻らせながら、応じた
「難しい問題だ……」
彼女は無言のまま、彼を見続けた
「君の父君の関係もあるから知っていよう。
国家保安省のシュミット保安少将はソ連との核密約を通じて、ソ連を引き込もうとしていた。
当人は核弾道弾で、ソ連をコントロールできると考えていたが、甘かった。
ソ連を引き込むと言う事は、ロシア人に全てを握られ、奴隷の暮らしに身を窶すことを意味する」
タバコを、灰皿に押し付ける
「我が国の産業構造上、石油、天然ガス、鉄鉱石、食料品……、あらゆる物資をソ連圏に依存してきた。
1973年のBETA飛来以後も、根本的な問題は解決していない」
彼女は、顔を上げる
「それに関しては私も長らく疑問には思っていました。
本当に西側社会に民主共和国を引き入れても、その構造を変えない限り、無理ではないかと……。
今のソ連圏への資源依存体制の維持、それはそれとして余りにも危殆が高すぎますので」
彼は、彼女の顔を見つめながら続けた
「方策は無いわけではない……、例えば、最新型の軽水炉型原子力発電所。
数基作れば電力事情は劇的に改善出来よう。
だが、それ以上は既に政治の問題だ」
そう話していると、ドアをノックする音が聞こえる
「入り給え」
入室を許可し、ハイゼンベルク少尉にドアを開けさせる
勤務服姿の軍曹が敬礼し、呼びかける
「同志将軍、参謀総長がお呼びです」
返礼すると、立ち上がって軍帽を掴む
「直ぐに向かう」
部屋を後にする軍曹を、見送りながら告げた
「同志ハイゼンベルク、着替えを用意してやったら車を手配しなさい。
適当な時間で返してやりなさい」
右手で、軍帽を被りながら答える
「電話をお貸しいただければ、迎えの物を呼びますから、そこまでの手数は結構です」
彼女はブレーメ家付の護衛を呼ぶつもりであった
幼い頃より、彼女の身辺警護をしていたヨハン・デュルク
彼もまた若い頃、国家人民軍に籍を置いた身であり、第40降下猟兵大隊で勤務した
特殊部隊の狙撃手として、名を馳せた彼ならば、迎えに来させても揉め事にはならぬであろう
その様に考えていたのだ
「では、夫君に宜しく頼むと言伝して置いてくれ」
そう言うと、部屋を後にした
一通り室内で、話を聞いていたシュトラハヴィッツは呆れ果てていた
愛する夫の為とは言え、参謀本部に乗り込むとは……
士官学校主席の地位を入学以来保っているとは聞くが、些か常識外れではないか
「なあ、このじゃじゃ馬、何処の部署が面倒見るんだ……。
第一戦車軍団では見切れんぞ」
彼は、額に右手を添えた
「下手に頭が良いからなあ、参謀本部で庶務か、通信課にでも放り込むしか有るまい」
紫煙を燻らせながら、男の問いに答える
「既婚者だから、正直扱いに困るだろう。一層の事、ハンニバルの情婦に投げるか」
「参謀本部で雑務をやってるが、確かにいい娘だ。
奴が心底から惚れ込むのも分かる気がする」
彼を、軽く睨む
「否定はしない」
その時、室内の電話がけたたましく鳴り響く
彼は、受話器を取ると黙って頷いていた
「こんな時間に……」
静かに受話器を置くと、深い溜息をつく
「情報部から連絡だ。
未確認ではあるが、ソ連船籍と思われるタンカー数隻がケーニヒスベルクより出港したらしい」
「ポーランドに、何かするつもりか」
彼は、頭を横に振る
「まだ分からん。そのまさかでは無い事を祈ろうではないか」
後書き
マライ・ハイゼンベルクは「シュヴァルツェス・マーケン」(以下、柴犬)の時点で、国家人民軍陸軍中尉ですが、年齢が明記されていなかったように記憶しています
「柴犬」の5年前ですが、本作に登場させました
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ミンスクハイヴ攻略 その3
前書き
『カズベック』という銘柄は日本の柘植製作所が販売する前からソ連国内で存在した銘柄でした
一昨年まで販売されたものはロシア国内で復刻生産した物です
秘密裏にカリーニングラードより発信した数隻のタンカー
タンカーは、特別に改造された戦術機母艦であり、戦術機を複数搭載していた
その船団の旗艦艦内で、男達が一室に集められる
これからの作戦に関して、密議を凝らしていた
KGB「アルファ」部隊司令を務める大佐から、説明がなされる
「諸君、今回は特別任務だ。ゼオライマーごと、木原マサキを抹殺する」
一人の隊員が呟く
「あのいけ好かない黄色猿か、嬲り殺しにしてやるぜ」
大佐は歩き回りながら、説明を続けた
「我々、KGBが水面下で進めていた東ドイツのクーデターをベルリン民族主義政権と共に邪魔した」
雄々しい声と共に、軍靴の音が、室内に響き渡る
「その事を近々開かれるニューヨークの国連総会で、暴露するとの情報が入った」
先程の隊員とは、別な男が口を挟んだ
「日本野郎め……、そこまで許せば、ファシスト共が増々デカい顔をし始めますな」
立ち止まると、隊員の方に振り返る
「そこで、我らが出番だ。
これよりベルリンの民族主義者共に懲罰を与える」
両腕を腰に当て、力強く叫ぶ
「この船に搭載された戦術機を使い、奴等に恥を知らせようではないか」
その場に、勝ち鬨が上がる
男達は戦術機に乗り込むために船室より甲板に移動した
「我等は、東ドイツの戦術機部隊に陽動を掛ける」
バルト海の冷たい夜風が、纏っている強化装備に吹き付ける
「ゼオライマーは出てきても相手にするな。30分後にミサイルをぶち込む手筈になっている」
不安を感じた男は、大佐に尋ねる
「同志大佐、NATOへの宣戦布告になりませんか」
大佐は、甲板にある煙草盆の前に立ち止まると、彼等の方を振り返った
「バルト海で、核実験をするのと変わらぬ。
諸君らの懸念している人的被害は最小限度で済む」
手に持った黒色の口付煙草の紙箱
封を乱雑に開け、煙草を抜き出す
オリエント葉の割合が多い『カズベック』
左手に持った煙草の吸い口を、右手で潰す
噛む様にして、口に咥える
酒保でも、中々手に入らない闕乏品
「既に深夜だ。操業している漁船も貨物船も、この海域には居ない」
紙箱から取り出した煙草を、周囲の人間に一本づつ配る
懐中より取り出した紙マッチの封を開け、千切ったマッチを勢いよく擦る
回し飲みする様にして、一本のマッチで数本のタバコに火が点けられた
「ベルリンの民族主義政権は、この中距離核ミサイルで心胆を寒からしめるであろう」
悠々と紫煙を燻らせる大佐に、隊員の一人は尋ねた
「同志議長の狙いはそこにあると……」
男は、不敵の笑みを浮かべる
「皆迄言うな……」
そう言うと、口つきタバコを深く吸い込む
ゆっくりと息を吐き出すと、漆黒の海にタバコを放り投げた
「この作戦が終わった暁には、皆で30年物のティーリング(TEELING) でも飲もうではないか」
そう言うと、隊員たちを一瞥する
無事帰った際は、30年物の アイリッシュ・ウイスキーの封を開けることを約束した
闇夜に男達の哄笑が響いた
バルト海上に展開されたタンカーの構造物が吹き飛ぶ
爆風が消え去った後、タンカーの甲板があった場所には箱のようなものが現れる
そこには、戦術機が縦に2列で6機づつ並んでいる
「出撃準備」
KGB工作員の一団は、大佐の掛け声と同時に戦術機に乗り込んだ
「ベルリンのみならず、ボンのファシスト共を調教してやろうではないか」
複数の母船より、次々に戦術機が跳躍ユニットを全開にして、前方に向かい飛び上がる
自然落下で、海面擦れ擦れに降下し、高所より飛び込むように跳躍する
噴射跳躍と称される戦術機の立体軌道の一つだ
噴射跳躍をしたかと思うと、跳躍ユニットを全開にして水平に飛ぶ
横一列に隊列を組んで、深夜のバルト海を低空飛行した
水面との距離を取らないのは、レーダー対策
地上のレーダー基地では、航空機の超低空飛行には対応出来ない
戦闘機パイロット出身者にとっては常識であった
「同志大佐、匍匐飛行では燃料は……」
「30分あれば十分足りる。
ファシスト達の首を抱えて帰ってきても、間に合おう」
戦術機の最大の弱点の一つ……
それは従前からある兵器とは違い、航続距離の短さ
燃料タンクの大きさにより戦闘行動半径は150キロメートル、巡航は600キロメートル
戦前に設計され、第二次大戦と朝鮮戦争を戦ったF4U コルセアの4分の一以下の航続距離
米ソ両国に在って、未だ通常兵器への信奉があるのは、此の為であった
通信用アンテナの付いた戦術機よりKGB大佐の訓示がなされる
「同志諸君、東ドイツの連中はかなりの手練れ……。
だが対人戦にはめっぽう弱いと聞く。歓迎してやろうではないか」
謎のタンカーの接近は、時間を置かずして、ドイツ人民海軍に察知された
バルト海上の、東ドイツ領・リューゲン島にある人民海軍基地から即座にベルリンに齎された
同島は戦前にはリゾート地の一つであったが、東西分割後は軍事拠点として整備される
東独唯一の特殊部隊・第40降下猟兵大隊も、同島に配備されていた
ベルリンの第一戦車軍団基地
戦闘指揮所に、男の声が響き渡る
「同志ベルンハルト中尉、君は精鋭10名を連れてソ連機の対応に当たれ」
深緑色の野戦服を着たハンニバル大尉は、真向かいに立つユルゲンを指差すと下命した
敬礼を返すと、強化装備姿の彼は大尉に尋ねた
「同志大尉は出撃されぬのですか」
ハンニバル大尉は、金色の顎髭を撫でながら応じた
「奴さん達、低空飛行しているから俺達が気づいてないと思っている。
だから、夜会の出し物として対空砲火の演奏の一つでも聞かせたいと思ってな」
ハンニバル大尉は、戦闘機パイロットではなく、空軍地対空ミサイル部隊の出身
対空戦闘は、彼の十八番であった
「思う存分、暴れてこい。奴等は航空優勢の一つも取ろうとはしてない。
自分達のばら撒いたミサイルの威力を知る良い機会であろう」
中高度対応三連ミサイルランチャー、2K12 クープ(NATOコード:SA-6 ゲインフル)
低高度対応地対空ミサイル、9K31 ストレラ-1(NATOコード:SA-9 ガスキン)
自走式高射機関砲、ZSU-23-4 《シルカ》(NATOコード:ゼウス)……
ソ連製の機動防空システムが配備されていたことを、KGB特殊部隊は甘く見ていた
ゼオライマー奪取やマサキ暗殺に血道を上げていた彼等にとって対空装備など認識外……
BETA戦での航空優勢の低下は、対空防御への関心を低下させた
軍事部門の殆どを戦術機に優先としたこの世界にあって、それが常識となっていた
軍の再編成が不十分で、遅かった東ドイツ軍にとって、この事は幸いした
冷戦下の対空火器が温存されたことによって、戦術機部隊に対しての即応が可能となったのだ
「回せ!」
戦術機部隊に緊急発進の準備が整えられた
強化装備を身に纏った屈強な男達が、勢いよく操縦席に滑り込む
操縦席に座ったユルゲンは、深く息を吸い込む
直後、通信が入る
「怪我だけはするなよ……。僕は奥様が哭く姿なんか見たくないからね」
士官学校で席次を競った同輩がそう諭す
「分かっている」
彼は頷いた
「分かってるなら良い」
「有難な」
同輩は彼の返事に驚いた様子であった
何時もであれば、喰ってかかってくる白皙の美丈夫
「ユルゲン、君は色んな筋から標的にされている。
ソ連留学の時もそうだったけど、KGBにも目を付けられているだろう……。
『他人の不幸は蜜の味』、と喜ぶ悪辣な連中だ。
部隊長の不首尾などは想像したくもない……」
放たれた同輩の言葉
長きに渡ってロシア国内で暮らした、ボルガ系ドイツ人の血を引く男の哀愁を感じさせる
3世紀近くロシアの為に尽くしたドイツ系住民に対して、ボリシェビキは追放や粛清を持って応じた
ヤウクの心の中にある、ソ連への深い憎悪……
画面越しではあるが、緊々と伝わって来るような気がした
「愚痴だ……。忘れてくれ」
そう言って同輩は済まなそうに呟いで謝罪してきた
黒い瞳は、何処か愁いを帯びている
「貴様らしくないぞ。思う存分暴れようではないか」
不安に感じた彼は、そう嘯き、同輩を励ます
「ユルゲン……」
「一足先に行ってるぜ」
そう言うと両手の親指を立て、モニター越しに整備員に合図する
親指を立てる……、駐機体制から飛行体制への合図
戦闘機乗り時代から続く『チョーク外せ』のポーズを取った後、彼は滑走路に向かった
そして跳躍ユニットを吹かして、勢いよく出撃する
みるみるうちに小さくなっていく基地の姿を振り返る
正面に向き直ると、エンジンを全開にして、匍匐飛行に切り替えた
後書き
申し訳ないのですが、内容の充実を維持する為、翌週以降は週一回のペースで更新にさせてもらいます
理由は、繫忙の為です
(追って、報告させてもらいます)
ご意見、ご批判、ご感想、よろしくお願いいたします
ご要望等ございましたら、検討の上、採用させていただく場合もあります
(2022年5月23日、加筆修正)
ミンスクハイヴ攻略 その4
深夜2時過ぎ、ベルリン郊外の館にある電話が鳴り響いた
気怠そうに受話器を取ると、話の相手は参謀次長のハイム少将であった
「どうした、こんな夜更けに……」
「同志議長、緊急事態です」
護衛に叩き起された時から、良からぬ内容である事は察知していた
「今から政治局会議を開くようでは間に合うまい……、貴様等に一任する」
近くに置いてある「ゴロワーズ」の紙箱を引き寄せる
両切りタバコを抜き出すと、火を点けた
「一時間くれ、頭が冴えたら俺も行く……」
前日遅くまで、経済問題に関して若手官僚と討議したのが不味かったか……
受話器を置くと、深い溜息をついた
「露助共は、俺に一時の夢も見させてくれぬのか……」
そう呟くと立ち上がり、護衛に指示を出す
「一風呂浴びた後、出掛ける。車を回して置け」
そう言い残すと、浴室に向かった
東ドイツにとって喫緊の課題はBETAではなく、経済問題
1974年以降、ソ連の核使用は欧州の自然環境を悪化させた
まるで氷河期が訪れたような厳冬と天候不順
雪害に、冷夏……
加えて、社会主義化した農業も状況を悪化させた
1958年の農業集団化を強行した際、自作農の農民は大量に西ドイツへ逃亡
この10年余りで、何とか一定の程度の水準まで農作物の収穫量を持ち直させた
その矢先の天候不順……
しかも、ソ連の核飽和攻撃という形で人為的に起きた
一時的ではあるが生鮮食料品がスーパーから消え、食肉やチーズも店頭に並ばなくなった
国家保安省はその際に、防諜機関の増大を進める計画を出す
「民心の動揺を避ける」との理由で、党に上伸したのだ
しかし、住民は既に様々な手段で西側の情報を仕入れているのだ
身を清めた男は、この数年来の出来事を振り返った
前議長は、1971年に国家保安省の仕組んだ政変によって指導部を乗っ取った
ソ連留学経験もあり、彼等の意向に沿う政治を行った
ソ連がBETA侵攻を受けた際、士官学校、教導隊の各種教育期間を短縮
其れだけに飽き足らず、予備役、後備役の動員を掛けた
彼は経済的観点から、前議長に掛け合ったが、聞く耳を持たなかった
逆に国家保安省と一緒になって恫喝してきたのだ
被害を受けなかったのは、党下部組織である自由青年団の統括者であった為であろうか
偶々、上手く行った無血クーデター
それとて中共のハイヴ消滅による政治的混乱が起きなければ、為し得なかったであろう
シュトラハヴィッツ少将が行おうとしていた軍事クーデターは、ほぼ筒抜けだった
アベールはおろか、末端の将兵まで漏れ伝わっていた節がある
隙をついて、ハイム少将が議場を兵で囲む真似をしなければ、どうなっていたのか
下手をすれば、今頃は刑場の露と消えていた可能性も否定できない……
折角繋いだ命だ……、存分に使わさせてもらおう
背広を着ると、机の上に有るホンブルグ帽を手に取った
護衛が公用車のドアを開ける
男は、ふと尋ねた
「どこの部隊を出した」
「第3防空師団と第一戦車軍団だそうです」
第3防空師団
バルト海に近い北部ノイブランデンブルク近郊のトロレンハーゲン空港に本部を置く部隊
BETA戦以降は解散の手続きが進められていたが、空軍の反対で沙汰止みになっていた
「そうか……、ご苦労であった」
そう言うとドアを閉め、車に乗り込む
後部座席の背凭れに腰かけると、車は深夜の町へゆっくり走りだした
東ドイツ ヴァンペン・シュトランド近郊
洋上に向け、ミサイルや砲弾が雨霰と降り注ぐ
護衛に飛んでいたヘリの尾翼にミサイルが命中した
煙を出しながら、海面に急降下していく
「護衛のヘリが……」
ミサイル攻撃を防ぐため、急遽タンカーに艦載されたヘリを飛ばしたのだ
フレアを撒けば、ミサイル攻撃は攪乱出来る
そう考えての対応だった
「有りっ丈の弾をばら撒け、3万発あるんだ。気にせず使え」
大佐の檄が飛ぶ
直後、僚機がミサイル攻撃を受けた
推進装置に直撃した機体は黒煙を上げると急降下してゆく
音速に近い速度を出せる戦術機は、攻撃を受けると航空機より弱かった
元々、宇宙区間での作業用装置が起源……
月面での対BETA戦闘で用いられたものを地上に持ち込んだ
猛烈な対空砲火で次々と落とされる機体……
ミサイル対策として電子戦装備がなかったの不味かった
KGB大佐はそう考えるも、両手に構える突撃砲を乱射した
携行性を重視して、短砲身の突撃砲は命中精度が戦闘機搭載の機銃より数段劣った
無薬莢弾薬の20ミリ機関砲
湿気に弱く、暴発事故も多い……
他方、シルカの対空機関砲は23x152ミリでガス圧作動方式
信頼性も高く、光学標準機を付ければ精密射撃も可能
毎分2000発の弾丸が、隙間の無い槍衾の様に彼等を襲う
戦闘機と違い、前面投影面積の高い戦術機は格好の標的であった
「何機、残っている」
大佐は、僚機に尋ねた
「1、2、1、2、……」
男はしばらく数えた後、答えた
「36機ほどです」
「半数も食われただと……」
KGBの任務は、防諜
暗殺や破壊工作、国内の治安維持
非武装の市民の鎮圧などを請け負ったが、正規軍との戦闘経験が無い事が裏目に出る
時折、督戦隊として戦場から逃げ出す衛士や戦術機を粛清した
其れとて、稀な事であった
大部分は混乱の内にBETAの餌食に変わっていった
男が思う以上に、東ドイツ軍は必死の抵抗を見せた
対空機関砲の死角から、歩兵が肉薄してきて対戦車砲を打ち込んでくる
管制ユニットを撃ち抜かれた一機が、爆散する様を網膜投射越しに眺めていた
「小癪な……」
銃身を向けた瞬間、突撃砲に何かがぶつかる
咄嗟に、火砲を捨て去り、後ろに引き下がる
直後、破損した砲は爆散した
飛来物に、メインカメラの照準を合わせる
振り返ると朱色の塗装がされた戦術機
頭部には大型の通信アンテナ
まるで中世の武人が用いた兜の前立てを想起させる
朱染めの機体が、接近戦闘短刀を手裏剣の様に投げつけてきたのだ
噂に聞く光線級吶喊専門部隊の隊長機
男は不敵の笑みを浮かべる
撒き餌に引っ掛かったようだ……
「同志大尉、私は隊長機をやる。君は副長を仕留めろ」
画面越しに移る男は、頷く
「了解」
操作卓の上に放り投げたタバコを取り、口に咥える
「狩りの時間だ」
そう呟くと、火を点けた
ユルゲンはゆっくり機体を着陸させると、黒一色の機体と相対する
左手に構えた突撃砲を面前の機体に向けた侭、通信を入れる
国際緊急周波数121.5MHzを通じ、ロシア語で呼びかけた
「警告する。貴機はГДР(ドイツ民主共和国)領内を侵犯……」
(露語名称:Германская Демократическая Республика、の略称)
黒色の鉄人は、長刀を背中の兵装担架から抜き出す
手首を回転させると、逆手に構える
対峙する朱色のMIG-21も、背面より長刀を抜き取る
「御託は聞き飽きた。
文句があるなら、俺を切ってからにしろ。小童」
長剣を構えて、身動ぎすらせぬ隊長機
両名の間に、何とも言えぬ空間が出来上がろうとしていた
まるで触れることさえ、許されざる様な存在……
周囲の兵達は、遠巻きに推移を見守った
ユルゲンが、KGB隊長機と睨み合っている頃、ヤウク少尉は別行動を取っていた
彼は乗り慣れたF-4Rを駆り、迷彩塗装の施されたMIG-21の手勢を引き連れる
噴射地表面滑走で、勢いよく前進していた目の前に、ソ連機が下りて来る
識別番号も国籍表示も無い、MIG-21
全身は黒く染められ、メインカメラは赤色灯に換装されていた
改良型であろうか、見慣れぬ突起や装甲も確認できる
射撃をしようとした仲間を空いている左手で、制する
すると件の機体は、右手に構えた突撃砲を投げ捨てた
「降伏するのか……」
そう呟くと、向こうより返答があった
「二刀装備のF-4ファントム、戦術機実験集団の副長と見受けた……。
一廉の武人であるならば、この勝負受けられい」
背後より抜き出した長刀を、勢いよく振りかぶる
咄嗟に、右腕にマウントした短剣を左手で抜き取り、剣を弾く
強化炭素複合材製の刃がぶつかり、火花が舞う
鈍い音が、闇夜の海岸に木霊する
「その訛り……、カフカス人だな」
黒染めのソ連機に乗る男は、苦笑する
「野蛮人の割には、生きの良い標準語を話すな」
野蛮人
悍ましい表現で、ドイツ人を罵る
ニメーツ("немец")とはドイツ人一般を指し示す言葉である
唖を意味する二モーイ("немой")が語源
元来は露語を介さない外人一般を指示していた
侮辱を込めて、彼を煽ったのだ
彼は、冷笑を漏らした後、呟く
「プーシキンの名高い詩に書かれたカフカス人が、未開人の後塵を拝するとは……。
そんな情けない格好、恥ずかしいとは思わないのかい」
男は怒りに身を震わせ、操縦桿を力強く握りしめる
「減らず口を叩くとは……」
噴射を掛けると、勢い良く切り込んでくる
「野人め、刀の錆にしてくれるわ」
黒色の機体は、勢いよく長刀を振り下ろす
幅広の77式近接戦用長刀と呼ばれる重量のある刀剣……
当たれば、重装甲のファントムとも言えど無傷では済まない
ヤウクは操縦桿を握り、背後の推進装置を逆転させる
難なく避けると、横から薙ぐようにして右手に持った長刀を切り込む
黒鉄色のMIG-21を左腕の関節事、胴を切りつける
その動作と並行して、逆噴射を掛ける
右の肩間接に短刀を差し込み、其の儘後退
長刀ごと、機体を突き放す
一瞬体勢を崩して、捨て置かれたソ連機の突撃砲を拾う
噴出を掛け、起き上がる
姿勢を直すと同時に、突撃砲の下部に搭載された105㎜滑腔砲を連射
これでもかと言わんばかりに、止めの一撃を与える
爆散する機体を尻目に、その場を後にした
「同志大佐……、同志大尉が撃墜されました」
ユルゲンと対峙し続けた大佐の下に通信が入る
「何!」
一瞬の隙をついて、朱色の機体が持つ突撃砲が火を噴く
105㎜滑腔砲から、放たれる砲弾
弾頭から、複数の破片が飛び散る
「散弾だと……」
空いている左手で、管制ユニットを覆う
その瞬間、長刀が振り下ろされる
頭部から管制ユニットに目掛けて縦に切り裂くように、長刀を一閃する
ユルゲンは、篁達の演武から唐竹割りを模倣した
機体を「一本の刀」に見立てている、示現流の技法
フェンシングの名人であるヤウク少尉との、血の滲む様な訓練
漸く、ここに身を結んだのだ
長刀を背面の兵装担架に収納すると、噴出を掛け、跳躍した
別動隊は、残存するKGB特殊部隊を誘い込む事にした
「東ドイツの衛士は口だけの雑兵よ。追撃して殲滅するぞ」
突撃砲を連射しながら、後退する東ドイツ軍を追いかける
巡航速度を上げ、轟音の鳴り響く噴射装置
滑るように地面をを駆け抜けると、敵の盲射に遭う
「どうせ当たらぬ、突っ切るぞ」
そう、通信を入れた機体は、次の瞬間には爆散していた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ミンスクハイヴ攻略 その5
西ドイツ・アウクスブルク
『象の檻』と呼ばれる奇妙な建物
ここはNATO最前線の西ドイツにあるNSAの通信傍受施設
機械の操作音が鳴り響く室内に、電話が入る
鳴り響くベルを疎ましく思う男は、渋い顔をして受話器を取る
「此方。アウクスブルク通信観測所……」
受話器の向こうの人物がこう告げた
「カリーニングラードで、固形燃料ロケットの発射体制が整いつつある」
受話器を右耳に当てた侭の男は、其の儘固まった
顔色は蒼白になり、身動ぎすらしない
静かに受話器を置くと、椅子に深く腰掛けた
「『ヴァンデンバーグ』から連絡だ……」
米海軍所属の情報収集艦、USNS.ジェネラル・ホイトS. ヴァンデンバーグ (T-AGM-10)
同艦は、第二次大戦中にジェネラル・G.O.スクワイア級輸送船として建造
USNS.ハリー・テイラー(T-AP-145)という艦名で海軍に在籍後、1961年に米空軍に売却
再度、1964年に米海軍に買収されたと言う数奇な運命をたどった船……
対ソ戦における通信傍受艦として米海軍によって運用
バルト海上に展開し、独ソ両軍の動きを逐一監視していた
圧倒的な航空優勢を誇る米空軍の高高度航空偵察は、この世界でも常識であった
1961年のソ連上空におけるU-2偵察機撃墜事件、1973年のカシュガルハイヴ造営……
ソ連防空軍の高高度迎撃ミサイルの配備や光線級の登場によって、状況は一変する
高高度偵察機の相次ぐ損失により、情報収集艦の担う防諜の比重は以前よりも増大した
この数年来、ソ連の急速な赤化工作によって、活動の場をアフリカ大陸に移していた
同大陸を管轄下に置く米欧州軍は、パレオロゴス作戦においてこの船を呼び寄せた
通信部隊の補助艦艇という形で、バルト海上に展開
遠路はるばる、セネガルのダカール港より、態々引っ張り出されてきたのだ
通信室に居る職員達は、俄かに色めき立つ
大型の通信アンテナに、微弱だがICBMに関する送受信が観測される
基本的にICBMの発射実験は太平洋、カムチャッカ半島沖で行われた
ソ連軍のミサイル発射兆候……
しかも僻地のカムチャツカ半島や極東ではなく、バルト海
「欧州軍本部に連絡だ」
奥にある机から声が上がる
声の主は基地司令であった
ある職員が立ち上がり、司令に問いかける
「司令、ドイツ軍には……」
「連中は恐らくバルト海上に展開している不審船の対応で手一杯であろう。
それに欧州軍本部の面子もある……。
本部に一任しようではないか」
基地司令は、その様に部下の問いに応じた
「ペンタゴンに連絡だ」
米国 ワシントン.D.C
ソ連のミサイル発射兆候の連絡を受けたホワイトハウス
煌々と照明が輝き、不夜城の如く官衙に聳えている
白堊の殿堂の中を、忙しなく給仕達が駆け巡る
その一角にある大統領執務室
将にその中では、ソ連への先制攻撃への準備を巡って白熱した議論がなされていた
「閣下、白ロシアに先制核弾頭攻撃を実施すべきです」
国防長官が、立ち上がって提案した
「この状況下で、些か拙速ではないかね……」
大統領は、国防長官を戒める発言をする
「核攻撃のついでにハイヴごと吹き飛ばしましょう」
太巻きの葉巻を右手に持ち、足を組んで椅子に座る男
周囲を伺う様に、顔を動かす
「アサバスカの時とは、訳が違うのだよ。君」
『アサバスカ事件』
1974年7月6日、カナダ・サスカチュワン州アサバスカ湖周辺に、月面より飛来する
飛来物は、後に『降着ユニット』と呼ばれるものであった
前年のカシュガルの惨劇を防ぐべく、戦術核による攻撃を実施
この際に、BETAの落着ユニットの残骸を得て、新元素の研究に当てた
アサバスカ湖周辺は、米加両政府の秘密協定により、放射能汚染地域として指定
事件直後、居留民の退去を実施した
既にBETA飛来以前より、ウラン鉱山の有ったアサバスカ湖
同地域での核物質採掘に因る放射能汚染は、世人に広く周知されていた
近隣住民にとっては、その判断は受け入れやすかった
「ソ連の核攻撃に、黙って指を銜えて見て居れと言うのですか!」
CIA長官が、すっと立ち上がった
「ゼオライマーに頼みましょう……」
副大統領は、見かねて注意する
「正気かね、たかが一台の戦術機に国運を掛けるだとは……。
寝言も、休み休み言い給え」
見かねた国務長官が口を挟む
「彼の提案に乗りましょう、副大統領……」
周囲を見回しながら、続ける
「そうすれば、我が国への核攻撃は防げるかもしれません」
男の言葉を聞いた副大統領は、暫しの間、無言になる
ずり落ちていた黒縁の眼鏡を、右手で掴み持ち上げる
「それは、甘い夢の見過ぎではないのかね」
男は、不敵の笑みを浮かべる
「いや、この際、全責任をゼオライマーのパイロットと日本政府に負わせるのです……」
「友好国の一つを見捨てるのかね!」
「対ソ静謐等と称して、積極姿勢に出ない国を信用出来ますか……。
私から言わせて貰えば、貴殿は些か、ゼオライマーに入れ込み過ぎている」
興奮する閣僚たちを宥めようと、副大統領は立ち上がる
勢いよく机を両掌で叩く
その行為に一同は、恐悚する
「国務長官としての言かね……」
周囲を睥睨した後、CIA長官の方に体を向ける
顔には軽侮の念が浮かぶ
「CIA長官としての君の判断を認めよう……。だがゼオライマーの件が片付くまでは辞表は認めん」
西ドイツ ハンブルグ
マサキは、一人深夜の戸外に居た
深緑色の野戦服の上から、フードの付いた外被を羽織り、立ち竦む
冷めたコーヒーの入った紙コップを左手に持ちながら、紫煙を燻らせていた
右の食指と中指でタバコを挟み、天を仰ぐ
ゼオライマーに搭載してある次元連結システムを応用した三次元レーダー
その装置によって、ソ連の動向は把握済み
「あとは大義名分か……」
紫煙を燻らせながら、そう呟く
「そこに居りましたか」
ふと、女の声がする
振り返ると強化装備の美久が居た
苦笑を漏らすと、ひとり呟く
「既に俺達は、経略の上に居る……」
再び、口にタバコを近づける
一口吸いこんだ後、勢いよく紫煙を吐き出す
「東西冷戦という名の政治構造の中に在って、上手く立ち回る……
その様な浅はかな考えは身を滅ぼすだけだ」
黙って立つ彼女の脇を通り抜ける
「しかし、それとて常人の考え……」
そっと、肩に左手を添える
「ここは一つ、ソ連領内に打ち上げ花火でも投げ込んでやろうではないか」
背中から抱き付き、手繰り寄せる
強化装備の特殊被膜の上から、胸から臍に掛けて撫でる様に右手を動かす
「ミンスクハイヴを灰燼に帰す……、ソ連という国家と共にな」
右手に持った煙草を地面に放り投げると、茶色の半長靴で踏みつける
髪をかき上げると、こう告げた
「目障りなソ連艦隊を消し去ってから、ミンスクハイヴの正面に出る。
奴等には、廃墟となった市街を見せて、驚嘆せしめる」
顔を上げ、天を仰ぐ
「じきに夜も開けよう……、機甲師団との大乱戦になるかもしれん。
しっかりと奴等の目に、冥王の活躍を焼き付けようではないか」
そう答えると彼女の身から離れ、一人格納庫の方へ向かう
磨き上げられた茶皮の軍靴で、力強く踏みしめながら横倒しになった愛機の下へ向かう
全長50メートルの機体は、戦術機専用の格納庫には収納できず、特別の物が用意された
かつて飛行船や観測気球の為に作られた木造の格納庫を模した物
格納時は、板状の台車に横倒しで乗せられ、連結された大型トレーラー2台に牽引された
マサキは、格納庫入り口の備え付けられた有線電話を使い、整備員に出撃する旨を伝える
格納庫の大戸が開き、トレーラーがゆっくりと滑走路まで運んでくる
頭部直下にある搭乗口より機体に滑り込み、操作卓に触れる
上着を脱ぎ、座席の後ろに放り投げた後、立ち上がった電気系統の動作を確認
美久の登場を確認した後、勢いよく操縦桿を引く
両腕を地面につけ、掌を重心にして機体が持ちあげる
ミサイル起立発射機を転用した昇降装置の使用も検討するも、断念
500トン近い重量を持ち上げるのは困難で、尚且つ危険なためであった
ミサイル貯蔵施設を基に設計された、富士山麓の『ラストガーディアン』秘密基地
今思えば、ゼオライマーの為とは言え、巨額を投じて基地建設をした前世の日本政府
彼を殺した沖も、転生用の肉体として確保していた秋津マサトを十分に育て上げた事には感謝しかない
ゆっくりと推進装置を吹かし、滑走路を暖機運転していると通信が入る
操作卓の通話装置のボタンを押し、返答する
「何の用だ……」
口髭を蓄えた凛々しい男が画面に映る
「木原君、外務省の珠瀬だが……」
彼は顔を顰めた後、男に返答する
「俺の上司は書類の上では綾峰だったはず、貴様等は部署が違うだろう」
そう呟いた後、右手を顎に添える
男は押し黙ったまま、黒い瞳で此方の顔色を窺う
「外交ルートを通じた案件か……。
それとも米軍はB-52で爆撃してくれることに成ったのか」
ふと、冷笑を漏らす
「俺がミンスクハイヴを消し去った後、絨毯爆撃してくれるならば喜んで協力しよう。
蛮族とBETAを肥やしにして、白ロシアの地に莫迦でかい畑でも拵える計画……。
悪くはない」
画面を覗き込むと、件の外交官は唖然としている
「その代わり、派手にやろうではないか。 手を貸すぞ」
推進装置の出力を上げ、機体を前進させる
「なんだと……」
大きく目を見開く
「楽しみに待ってるぞ」
そう答えた後、推力を全開にして浮上する
其の儘、離陸して、上空へ向け飛び去って行った
単機で、バルト海上を東に進むゼオライマー
次元連結システムを有する同機には空間転移機能があり、即座にハイヴ正面に乗り込めた
敢て見せつける様に、東ドイツとポーランドに跨る海域を100メートルの低空飛行で巡航
ポーランド空軍や海軍の動きを調べたい為でもあった
操作卓にある対空レーダーが反応する
距離から計算すると、1分ほどで接近
一番の原因は彼自身の慢心であろうか、近寄る大型ロケットの発射兆候を見落としていた
ゼオライマーは、その場で空中浮揚し、両腕を胸の位置まで上げる
全身をバリア体で包むと、両腕の手甲部分にある球が光り輝く
強烈な吹きおろし風が嵐のように周囲を舞い、海上に降りかかる
レーダーには、遠く大気圏上を飛んでくるものが見える
件の火箭であろうか、即座にメイオウ攻撃を放つ
強烈な爆風と電磁波が降り注ぐ
バリア体によって機体には全く影響は受けなかったが、かなり強力な電磁波
恐らく被害は数十キロに及ぼう……
目を操作卓に向けると、計器類の数値が乱高下する
彼は即座に調べるよう命じた
「今の電磁波は何だ……、四方や放射線ではあるまい」
美久は淡々とした様子で答えた
「ガンマ線です」
途端に顔が厳しくなる
「奴らめ、核弾頭を使ったな」
核搭載の八卦ロボ・山のバーストンを作ったマサキ自身には、核忌避の感情は無かった
世界的に反核運動が下火で、1960年代を生きた彼にとっては当たり前の感覚
当時の世界に在って、『核爆弾』は強力な兵器の一つでしかなく、放射線医学も発展途上
だからと言って面前に放射線を浴びせられるのは、いい感情はしない……
力を信奉し、法の概念も無く、約束を弊履が如く捨てる蛮人
飢えと寒さの中に身を置き、最前線で戦ってきた兵士達への手酷い対応……
捕虜となっていた50万の復員兵をシベリアの収容所に投げ入れる
10年に及ぶ強制労働の果て、痩せ衰え死なせた事
傷痍軍人に、保障らしい保証も与えずをいとも簡単に見捨てる
その多くは家族や社会から見放され、身窄らしい養老院で手酷い扱いを受けた事
ペレストロイカが始まるまで、『ソ連には障碍者はいない』と、当局は嘯くほどであった
同胞に対してそうなのだから、異邦人に対しては推して知るべしだ
ワルシャワ条約機構の盟邦であるポーランドと東ドイツに、核弾頭を放り込む蛮行
彼の中に暗い情念が渦巻いていた
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ミンスクハイヴ攻略 その6
前書き
ゼオライマーは一気にバルト海上より、シベリアにあるハバロフスクまで転移した
ソ連極東ハバロフスク市にある、ソ連赤軍参謀本部
時間は、18時を過ぎたころで、今まさに日が暮れようとしている
その建物の目の前に、白磁色の機体が現れた
天のゼオライマーは姿を現すや否や、右手を握り締め、勢いよく打ち込む
拳が風を切って壁を打ち付けると、素早く拳を引く
壁が打ち抜けるまで、正拳突きを繰り返した
拳から繰り出された一撃で、赤レンガの壁が打ち抜かれ、轟音と共に砕け散る
機体は、右の片膝を立て、左膝を地面につけるような姿勢で駐機させる
右掌を上に向けて、頭部付近にある操縦席に近づける
マサキは、愛用する回転拳銃と、最新型のM16A1自動小銃を手に持つ
肩掛弾帯を付けると、コックピットより右掌に乗り移る
機体の上半身を斜めに傾け、地面に手の甲をの付いた状態に持っていく
掌から飛び降りると、勢いよく駆けだした
彼は駆け出しながら、耳栓を付ける
左手で、弾帯より30連弾倉をとりだすと、弾倉取り出しボタンを押しながら差し込む
右脇に、小銃を挟み、黒色プラ製の被筒を左手で下から支える
右手で棹桿を勢い良く引くと、銃の左側にある安全装置を右手親指で操作する
棒状のセレクターを、時計回りに安全から自動に一気に移動させた
右脇から抜き出した黒色のプラスチック製銃床を持ち上げ、頬付けする
そして、用心金から右の食指を動かし、右掌全体で銃把を握りしめると引き金を引く
次から次に来る警備兵たちに打ち込みながら、建物内を進んだ
彼が敢て、単身参謀本部に乗り込んだ理由……
それは、ソ連全土を守る核ミサイル制御装置を破壊する為であった
元々は、ミンスクハイヴを焼いて終わりにするという心積もりで動いていた
だが、その様な考えを一変させるような出来事が起きる
ソ連の核攻撃だ。
不意にゼオライマーから降りた時、攻撃を受けたら自身の身は守れない
ならば、遣られる前に遣ろう……
彼は、その様な方針で動くことにした
腰を落とし、銃を構えて建物内を進んでいくと、背後より声がした
「止まれ、木原……」
顔をゆっくり左後ろに動かすと、茶色のトレンチコートを着た男が立っていた
ホンブルグ帽を被り、黒色の短機関銃を構える
「鎧衣、貴様……」
「詳しい話は後だ。核ミサイル制御室まで私が案内しよう」
そう言うと、腰の位置で機関銃を構え、突き進んだ
ある部屋のドアの前に立つと、鎧衣は腰をかがめ右手でドアノブを掴む
即座に反撃できるよう左手に機関銃を持ち、ゆっくりとドアノブを回す
マサキは少し離れた位置で、自動小銃の照星を覘きながら、その様を見ていた
ドアが、ゆっくり開かれると、銃を突き出すようにして滑り込んだ
消音機付きの機関銃は火が吹き、薬莢が宙を舞う
ドアが開いた事に気が付く間もなく、室内に居たソ連兵は全て斃れた
後方を警戒しながら、マサキは室内に入る
ふと彼は、男に尋ねた
「なぜ、貴様は俺を助けた……」
男は、帽子のクラウンを左手で押さえながら、こう告げた
「任務だからさ……」
しばし唖然となる
「それより、君はここで私と無駄話をしに来たのではあるまい……」
ふと不敵の笑みを浮かべる
「それもそうだな」
50インチ以上はあろうかという大画面モニターの有る室内
そこに複数並べられた操作盤に近づくと、彼は核ミサイルの発射設定を変更し始めた
キリル文字は分からなかったが、出鱈目に操作する
一通り荒した後、配電盤の電源を落とすと、ラジオペンチで配線を切る
持ってきた手榴弾を、操作盤内に設置すると部屋を後にした
ドアを開けると既にKGBの制服を着た一団に囲まれていた
「武器を捨てろ」
その問いかけに鎧衣は応じ、静かに足元に機関銃を置く
マサキも、弾倉を抜き取り、M16を放る
カラシニコフ自動小銃を構えた男達の後ろから、軍服姿の老人が現れる
回転拳銃を片手に、無言のまま近寄ってくる
不敵の笑みを浮かべると、口を開いた
「東独の工作員より連絡を受け、我々は計画を立てた」
「参謀本部に誘い込み、襲撃現場を押さえる。
貴様には偽の核操作ボタンを破壊させ、我々がゼオライマーを無事に頂く」
KGB少将の階級章を付けた男が、脇よりしゃしゃり出て来る
「で、貴様もその男も殺す」
そう言うと後ろに振り返る
兵達は、銃を突きつけられ、驚くよりも早く銃弾を撃ち込まれる
ボロ・モーゼルと呼ばれる大型自動拳銃は、轟音を挙げながら火を噴いた
男達は脳天に一撃を喰らい、後ろ向きに勢いよく倒れ込む
白い床は撃ち殺された兵士達の血によって、瞬く間に赤く染まった
「我等の部下は何も知らない……この連中と君達は凄惨な銃撃戦の末、果てた」
マサキは、色眼鏡を掛けた老人を睨む
「貴様がKGB長官か」
老人は不敵の笑みを浮かべる
「御想像に任せよう」
「ガスパージン・木原、この人類最高の国家で最期を迎える。
本望であろう」
KBG少将は、彼を煽った
「ゼオライマーが存在する限り、君の名も伝説としてついて回る。
核を奪おうとして、KGBに撃ち殺された日本帝国陸軍の有能科学者としてね」
「末期の水の替りと言っては何だが、葉巻を吸わせてくれないかね」
そう鎧衣はKGB少将に問いかけた
「構わぬが……」
シガーカッターで葉巻を切ると、口に咥える
金属製のオイルライターを取り出すと、葉巻を炙る
出し抜けに、胸元を開けて見せた
開けた胸元には、縦型に袋状になった前掛け
袋状の部分には、縦にダイナマイトが6本、均等に並べてある
「さあ、打ち給え。
私が吹き飛べば、貴方方も、ビル諸共一緒に吹き飛ぶ。
無論、ゼオライマーも無傷ではあるまい」
老人は、額に汗を浮かべるも、強がってみせる
「どうせ偽物だ。やれるものならやって見よ」
男はダイナマイトを取り出すと、導火線に葉巻を近づける
彼等の面前に放り投げると、同時に伏せた
マサキは、あまりの急転直下の出来事に身動ぎすらできなかった
男達は、大童でその場から立ち去ろうとした
その矢先、鎧衣は自分が放った短機関銃を拾い上げると、素早く撃つ
わずか2発の銃弾は、正確に男達の眉間を貫く
立ち上がると、こう吐き捨てた
「KGBの上司と部下がゼオライマーを巡って、打ち合い双方とも果てる。
哀しいかな……」
恐る恐る、投げたダイナマイトを見る
すでに立ち消えしており、端の方へ転がっていた
「おい、今のダイナマイトは……」
「火薬の量を調整して置いた」
そう言うと、もう一つのダイナマイトの封を切り、床に火薬をぶちまける
先を描くようにして、振りかけながら別の道へ進んでいった
通路の角に差し掛かると、男はブックマッチを取り出し、火を点ける
燃え盛るマッチは火薬の上に落ち、勢い良く火花を散らす
その様を一瞥すると、素早く立ち去った
後書き
ご意見、ご感想、お願いします
(2022年6月15日 加筆修正)
ソ連の落日
日の落ち始めたハバロフスク市内
一機のロボットが、まるで巨人の様に、居並ぶ建物の間を闊歩する
夜間警邏中であった警察は、振動音に気付いく
市内を蹂躙する、見慣れぬ形の戦術機に拳銃を向ける
「あっ、あれは!」
両手で構えた拳銃を向けるも、どんどん近づいて来る機体にたじろぐ
18メートル程度だと思っていた機体は、接近するたびに大きく感じる
黄色く光る目が不気味に輝き、見る者を畏怖させる
丁度、レーニン広場の脇に立つハバロフスク地方庁舎の前に通りかかった時、彼等は実感した
地方庁舎を睥睨する白亜の機体……、ゆうに30メートルはあろうか
指揮官の号令の下、一斉に拳銃が火を噴く
しかし、雷鳴の様な音と共に放たれた弾丸は、全て弾き返された
止めてある警邏車や装甲車を、勢いよく弾き飛ばす
バリケード代わりに持ち込んだ囚人護送車は、左側面が潰れると同時に全ての窓が割れる
其の儘、勢いに乗って右側に勢いよく横転した
ボンネットより煙が立ち上がると同時に軋む様な音が聞こえる
「逃げろ、燃料タンクが爆発するぞ」
隊長格の男は、身の危険を感じると叫んだ
尚も機体は止まることなく、彼等の方へ突っ込んでくる
「逃げろ」
誰かがそう叫ぶと、その場は混乱の極みに至る
己が命が惜しい警官たちは、四散していった
ゼオライマーが接近し、激しい銃撃戦が始まった地方庁舎
まさに、その建物の裏口からセダンの一団が走り抜けていく
前後をパトカーに警護された最新型のZiL-4104(ZiL-115)
低車高で幅広のシルエットをした3・5トンの車体が全速力で市街を抜け出そうとする
既に道路は、ゼオライマーの出現によって渋滞状態
軍や交通警察が、無理やりに市街に入ってくる車を追い返すも混雑していた
空港から市街に向かうカール・マルクス通りは、すし詰め状態で身動きが取れずにいる
クラクションの音が引っ切り無しに聞こえ、ジャズ音楽の様に感じさせるほどであった
車内にいるソ連の最高指導者は、部下を一喝する
「早く、追い払え」
苛立ちを抑えるために、右の食指と中指に挟んだ口つきタバコを深く吸い込む
紫煙を勢い良く吐き出すと、社内に設置された自動車電話を取る
受話器を持ち上げ、ダイヤルを回すと男はこう告げた
「ハバロフスク空港から有りっ丈の戦術機部隊を出せ。今すぐにだ」
受話器を乱暴に置くと、後部座席に踏ん反り返った
レニングラーツカヤ通りにある、エネルゴプラザ
隣に立つ、労働組合文化宮殿と共に周囲には幾重もの厳重な警備が張り巡らされている
その建物の地下にある、KGBの秘密の避難所
KGB長官と幹部達はゼオライマー接近の報を受け、首脳を見捨てる形で、一足先に逃げ込んでいた
核ミサイル発射装置の情報を囮にして、包囲陣に招き入れ、砲火を浴びせる
ソビエトが戦場で幾度となく繰り返されてきた手法、包囲殲滅戦
だが彼等の真の狙いはゼオライマーをおびき出し、核ミサイル攻撃で吹き飛ばす事であった
『欧州の恥部』を集めたと称される国家保安省文書集
長年に渡って収集されたKGBの機密情報に、工作員名簿……
ごく一部を除いて、すべてが失われた
ソ連大使館に乗り込んできた、木原マサキという男によって
シュミット排除の裏側に、ゼオライマーが居る
KGB長官はそう考え、BETA用に準備された核ミサイルを持ち出し、撃ち込むことにしたのだ
室内をゆっくりと歩きながら、ひとり呟いた
「核の炎で、ゼオライマーとファシストを焼き払う。
その衝撃をもってすれば、全世界を我がソビエト連邦の前へ、屈させる事も容易かろう」
傍で護衛する兵士に、まるで話し掛けるかのように続ける
余りの感嘆に、思わず身を震わせた
「愉しめる最高のショー、そう思わないかね」
ゼオライマーが核の炎で灰燼に帰す……
その様を脳裏に浮かべて、一人哄笑した
マサキ達は、赤軍参謀本部を脱出するべく行動した
雲霞の如く湧き出て来る赤軍兵を打ち倒しながら、屋上に向かって進む
窓を蹴割って脱出することも考えたが、無理であった
赤壁の三階建ての庁舎は、外周を囲むように戦車隊が配備
東部軍管区司令部の建物を流用した、この場所からの脱出は至難の業
ゼオライマーの居るレーニン広場までは、常識では考えられない事であった
この建物の有る警備厳重なセルィシェフ広場から四つほど大通りを抜けねばならない
仮に血路を開いて、カール・マルクス通りには行ったとしても無傷で辿り着けるであろうか
「此の儘、屋上に向かってどうする気だね。
この建物は年代物だ。とてもヘリが止まれる造りをしているとは思えん」
機関銃を撃つ手を止め、鎧衣は怒鳴るような声で彼に問うた
何時もの飄々とした態度で、物静かにしゃべる男とは思えぬ様
幾度となく血路を開き、敵地奥深くから生還してきた人物とは言え、焦っているのであろうか
彼は、照星を覗き込みながら、応じる
「まあ、任せて置け。隠し玉はある」
そう言うと、素早く自動小銃を連射した
男は諦めたかのように肩を竦めると、苦笑した
「君のマジックショーとやらを、楽しみに待とうではないか」
そう吐き捨てると、オーバーコートより卵型の手榴弾を取り出す
米軍のM26手榴弾で、同盟国である日本でも広く使用されている
安全ピンを抜くと、下投げで勢い良く放った
空中で安全レバーが外れると、数秒のタイムラグの後に爆発
哀れな兵士の五体は、爆散して果てた
爆風を避ける為、その場に伏せている時、鎧衣は懐中より深緑色の雑納を取り出した
雑納のふたを開けると、何やらオリーブドラブの箱を抜き出す
四角い弁当箱の様な物で、それを立掛けると紐をくっつける
「グズグズしていると、ソ連兵が来るぞ」
マサキも、何時もの様な冷静さを失いかけていた
「カンボジアで習ったことがここで役に立つとはな……」
「お前は、一体何者なんだ」
彼の疑問に対して、不敵の笑みを浮かべる
「それはお互い様だよ」
そう告げると、立ち上がった
マサキ達は、階段に向かって逃げる
時折振り返りながら、銃撃を浴びせるもソ連兵達は突き進んできた
だが兵達は、マサキ捕縛を焦るあまり、足元に仕掛けられた紐を見落としてしまう
張り伸ばされた紐が切れ、勢いよく安全ピンが抜ける音が響く
「仕掛け爆弾だ!」
米軍製の最新鋭指向性地雷・M18《クレイモア》がソ連兵を襲う
柘榴の身の様に詰まった箱より、無数の鉄球が飛び出す
爆風と共に近寄る敵へ、雨霰と降りかかる
爆音が轟き、閃光が走るのを背後に感じ取りながら、彼等は屋上へ急いだ
支那 北京・中南海
けたたましく鳴り響く電話のベル
夜のしじまを破る様に、執務室内に鳴り響いた
灰色の人民服を着た男は、タバコを吹かしながら一人思い悩む
受話器を取ると、耳に近づけた
「もしもし……」
聞き耳を立てて、受話器の向こう側に居る男の声を聞き取る
訛りの無い北京官話で、こう告げた
「ハバロフスクで、何か動きがあったようです」
男は、相槌を打つ
「引き続き、赤軍の動向を探って呉れ」
そう伝えると静かに受話器を置いた
中国共産党は、1977年のゼオライマー出現によって、すんでの所で首の皮一枚を繋ぎとめた
あの時、新疆のカシュガルにあるハイヴが消滅せねば、ソ連の様に少年兵の大動員をかけねばならなかったであろう
新彊はおろか、西蔵、四川、甘粛……ほぼ全てが灰燼に帰していたかもしれない
男の脳裏に、暗い未来が浮かんでは消えた
プロレタリア文化大革命の混乱の中で、襲来した異界の化け物……
混乱の内に黄泉の国に旅立っていった国家主席
その未亡人と取り巻き達は権力闘争に邁進したが、戦時と言う事で黙認された
だが、ゼオライマーの出現によって情勢は変化した
BETA戦に一定の目途が着き、政治的な余裕が生じる
文革の為、長らく下放されていた経済改革派の官僚や憂国の知識人達は、中央に呼び戻された
彼等は、国家主席の死による政治的空白とBETA退治の決着という、この機を逃さなかった
東ドイツの無血クーデターに促される形で、政変を起こす
件の未亡人と取り巻き達は、逮捕された
近々裁判が始まるが、どの様な末路を迎えるであろうか……
再び静寂を取り戻した室内から、庭園にある池に映る満月を眺めながら、男は再び深く沈潜した
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ソ連の落日 その2
東ドイツ ヴァンペン・シュトランド近郊
第一戦車軍団の先遣隊は、混乱していた
ソ連KGBの特殊部隊と戦闘中、謎の電波障害が発生し、通信機器が全て機能停止する事態に陥る
戦術機に備え付けられた無線装置が作動しなくなり、ポツダムの参謀本部との通信途絶
すわ、通信妨害かという事で現地部隊の判断で行動が進められた
混乱して投降してきたソ連兵を細引きで縛り上げ、一か所に集める
ユルゲンは機体を降りた後、混乱する現場の指揮を執った
負傷した兵士を担架で運ぶよう指示を出している時、声を掛けられる
両腕を縛られたソ連兵が彼に向かって、訛りの強いロシア語で呪詛の言葉を吐いた
「お前たちは勝ったと思って勘違いしているであろう……。
だがKGBを舐めるな……、例え風呂場であろうと、厠であろうと隠れても無駄だ。
地獄の底まで追いかけて行って、その首を掻き切ってやる」
ちらりと、顔を向ける
蒙古系の黒髪で、小柄な男
大股で近づいていくと、酒の匂いがする
先程迄飲んでいたのであろうか……
「今に見ていろ、貴様の妻や妹を散々に可愛がってやるよ。
泣いて懇願する様を見ながら、嬲り殺しにしてやる」
右手で蒙古人の襟首をつかみ持ち上げる
「黙れ、韃靼人!」
駆け寄る音が聞こえるが、左手に持ち替えて構わず掴み上げる
「莫迦には莫迦らしい死に方を、してもらわなくてはな」
空いた右手で、自動拳銃をホルスターより抜き出すべく、蓋を開ける
その瞬間、右手が何者かに捕まれた
彼は顔を顰めて、振り返る
「離せ、ヤウク。この粗野な男に教育してやるんだ」
何時にない表情の同輩が、立って居た
「ユルゲン、君がその野蛮人と同じ土俵に立って奥様は喜ぶのかね……。
此奴は蒙古人だ。どうせ野良犬みたいに見捨てられて死ぬ運命……。
放っておきなよ」
持っていた左手から蒙古人を突き放す
直後、蒙古人は同輩の顔面に目掛け、唾を吐きかける
「野蛮人共が仲間割れか。傑作だ」
そして、不敵の笑みを浮かべた
「手前の黒髪のかあちゃんは気に入ったぜ。たっぷりと辱めてやるよ」
幼さを残しながら、どこか妖艶な雰囲気を感じさせる吾が妻
末端のKGB兵士が、それを知っているとは……
得体の知れぬ寒気を感じるとともに、全身の血が逆流するような感覚に陥る
蒙古人の方に体を向けるが、背中から両腕を回し、同輩にしがみつかれる
「後生だ、君がこんな蛮人の為に手を血で汚す必要はない」
彼は同輩を振り落とそうと必死にもがく
「離れろ。貴様に……」
直後、蒙古兵は弾き飛ばされた
口と鼻から血を流し、膝をついて倒れ込む
殴ったのは、ヴァルター・クリューガー曹長だった
「同じ条約機構軍の兵士だからと言って容赦しない。上官への侮辱……、覚悟しておけ」
同輩が、悲鳴を上げる
「君、なんてことをしてくれたんだね」
騒ぎに気が付いた政治将校と、憲兵が駆け寄ってくる
銀縁眼鏡を掛け、灰色の折襟勤務服に、少佐の階級章を付けた男が言い放つ
「貴様等、ハーグ陸戦協定違反だ。全員、重営倉にぶち込んでやる」
官帽を被った白髪の頭をこちらに向ける
「大体、同志ベルンハルト。君は問題を起こし過ぎだ。
言動も志向もあまりにも反革命的すぎる……」
「大体議長の秘蔵っ子だか、通産次官の婿だか、知らんが……。余りにも身勝手すぎる」
そう言うと、腰のベルトに通した茶革の拳銃嚢から拳銃を取り出し、彼に向けた
星の文様が入った茶色い銃把にランヤードリングのが付いている
外観から類推すると、ソ連製のマカロフPM
ドイツ国産のワルサー・PP拳銃の粗悪な模倣品を使わざるを得ない東ドイツ軍の政治的事情
その事を示す様な事例であった
「状況によっては暴力をも使わざるを得ない……」
彼は、威嚇する男を煽る様に不敵の笑みを浮かべた
「説得できないからと言って拳銃を取り出して、恫喝ですか……。少佐殿」
男は青筋を立てて、言い放つ
「今の言葉を取り消したまえ。続けるようであれば、抗命と見做す」
彼は哄笑した
「政治局本部も、随分と質の低い人間を昇進させたものですな」
騒ぎは次第に大きくなり、第一戦車軍団の中だけでは収まらなくなっていた
第三防空師団の兵士や、後から駆け付けた海軍の兵士迄見物に来ている模様
いつの間にかユルゲンたちを囲んでいた憲兵は、騒ぎを収めようと持ち場を離れてしまった
ちらりと、脇に目をやる
件の蒙古人は既に誰かによって、連れ出されていたようだ……
「君が良からぬことを企んでいるのは分かっているぞ、同志ベルンハルト。
略式だが軍法……」
男がそう言いかけた直後、周囲の人垣が綺麗に分かれていく
官帽を被り、灰色のオーバーコートを着た人物が歩いて来る
開襟型の灰色の制服に、将官を示す赤地の襟章
金銀の刺繍が施され、空色の台布が縫われた肩章
その場に現れた空軍将校服を着た男は、第三防空師団長であった
「同志ベルンハルトと同志ヤウクは俺が預かる。文句はあるまい」
第三防空師団本部まで連れ出された彼等は、師団長室に呼ばれていた
ユルゲンは、かつて所属した空軍の将軍に感謝を意を表した
「有難う御座います、同志将軍」
男は咥え煙草のまま、相好を崩す
「空軍士官学校創立以来の問題児の面がどんなものか、拝んでみたくなっただけよ」
そう言って、煙草を差し出す
早速、ヤウクは一礼すると2本抜き取り、火を点ける
ユルゲンに向かっても進めたが、左掌を見せ断った
「戦場帰りってのにタバコはやらんのか。珍しいな」
ふと同輩が漏らす
「これで酒をやらねば、いい男なんですけどね」
男は、彼の碧海のような瞳を覗き込む
「高いウィスキーを持ち込んで飲むのは気を着けろ。何処でだれが見てるか分からん」
そう言い放つと、苦笑する
アベールに留学記念に貰ったスコッチ・ウイスキーを、勤務中に4人組で飲んだ件
大分前の話とは言え、知れ渡っていたとは……
身の凍る思いがした
「美人の女房にちょっかいを出すと言われれば、腹が立つのは分かる。
だが、君も15、6の少年志願兵ではあるまい。仮にも戦術機実験集団を預かる隊長」
灰皿にタバコを押し付けて、もみ消す
「その辺の分別が出来ぬ様では、高級将校には上がれない。
岳父の期待に沿う人間になり給えとは言わんが、もう少しは士官学校卒らしく振舞い給え」
男は立ち上がると、椅子に腰かけた彼等に向かって言い放つ
「風呂に入って着替えた後、少し休んでから帰れ。
軍団司令部には、俺から話を着けて置く。
何時までもそんなボロボロの強化装備姿で居られては困るからな。
通信員の目の毒だ」
確かに、この男の言う通りであった
師団本部に連れてこられた時、婦人兵がユルゲンたちを一瞥すると頬を赤らめていた
その事には、彼等も気が付いてはいたのだが、敢て知らぬ振りで通すつもりであった
そう言って、男は部屋を後にした
軽くシャワーを浴びた後、師団長室で昼過ぎまで仮眠した二人
真新しい下着と野戦服に着替えた彼等は、遅めの昼食を取っていた
久しぶりに温かい食事を楽しんでいた時、ドアが開く
食事する手を止め、立ち上がり敬礼をする
ドアを開けて入ってきたのは、野戦服姿のハンニバル大尉であった
「30分後に出発だ」
「同志大尉、今回の通信遮断の件は……」
挙手の礼をしていた右腕を下げる
「まだ未確認ではあるが、多量のガンマ線が検出された。
参謀本部では高高度で実施される核爆発、詰り電磁パルス攻撃の可能性が示唆されている」
ハンニバル大尉は紙巻きたばこを懐中より取り出しながら、告げる
白地に赤い円が書かれた特徴的なパッケージ……、『ラッキーストライク』
両切りタバコを口に咥えた後、ヤウクに差し出す
「それじゃ、部分的核実験禁止条約を一方的に破棄したと……」
ライターで火を点けると、紫煙を燻らせながら、大尉は彼の瞳を見た
「ソ連政権からの通告も、政府発表も無い。
「プラウダ」「イズベスチヤ」両紙にも全く関連記事が無い」
脇に居るヤウクは、相変わらず黙ったままだ
「と言う事は、現場の暴走ですか」
大尉の碧眼が鋭くなる
「考えられるのはソ連国内で政変があったのか、或いは……」
彼は、突っ込んだ質問をしてみることにした
「東ドイツを地図上から消そうとしたと言う事ですか」
大尉は、黒革バンドの腕時計を覘いた後、顔を上げた
「想像もしたくはないが、その線も否定はできない」
紫煙を勢い良く吐き出すと、深い溜息をつく
灰皿でタバコをもみ消した後、こう告げた
「あと未確認情報だが……、ポーランド政府が米空軍の基地使用を許可したそうだ。
長距離爆撃機の中継地点という名目でな」
顎に左手を触れながら、尋ねた
「本当ですか」
「取り敢えず、詳しい話は帰ってからだ。参謀本部から直々に訓令がある」
いよいよ、米空軍の戦略爆撃機が、白ロシアに投入されるのか
ユルゲンは、思った
超大型起動兵器、ゼオライマーの登場によって、今まさにドイツ民族の宿願が叶う
多数の命を吸ったソ連共産党が、この地上より消え去るのも夢ではない
そんな希望が、心の中に湧いてくるのを実感し始めていた
今は最後の準備期間なのだと、昂る気持ちを抑える
そして、戦いの火蓋が切られるのを待つばかりであった
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
ソ連の落日 その3
ベルリン 国防省本部
「何ぃ!、ソ連が極東軍管区に招集をかけただと」
シュトラハヴィッツ少将は受話器越しに話される衝撃的な内容を信じ切れなかった
「ああ……、解った」
静かに受話器を置くと、室内にベルの音が響き渡る
心を落ち着かせるかのように、深い溜息をついた
「情報部から連絡だ……、間違いは無かろう」
シュトラハヴィッツ少将は、上座に居るハイム少将の方を向く
「どうやらシベリアのハバロフスクに動きがあったそうだ」
その一言にハイム少将は、衝撃を受ける
背筋を伸ばし、手摺を両手でしっかりと掴む
よもや、あの日本人か……
ハイム少将は一瞬俯くや、くつくつと喉の奥で押し殺すように笑う
そして、勢い良く椅子から立ち上がった
「これでソ連の関心は極東に動いた。
この虚を衝いて、一気呵成に行動に出る」
シュトラハヴィッツ少将は、彼の左側に居るポーランド人将校の方を振り向いた
彼は不敵の笑みを浮かべながら、ポーランド人に尋ねた
「一服付き合ってくれないか」
屋上にきた彼は、フランスたばこの「ジダン」を取り出すと男に差し出す
マッチを擦ると、煙草に火を点けた
深く吸い込んだ後、勢いよく紫煙を吐き出す
「背後に誰が居る」
じろりと男の顔を伺うシュトラハヴィッツ
「シュトラハヴィッツ……、モスクワとの対決なぞという青写真は、貴様には描けまい……」
彼は、押し黙ってしまう
男の問いに答えられずにいた
「答え辛かろう。無理に答えなくともよい」
男は、そう言うと顔を上げる
その顔には、今にでも夕立が来そうな暗い影を負っていた
「だがな、俺もお前も軍人だ。一番使いやすい存在……。道を見間違ったら、そこで終わりだ。
前非を悔悟するような真似は出来ない」
不敵の笑みを浮かべ、俯き加減の顔を上げる
「軍人なら、そうであろう」
男の方を振り向き、流し目で見つめた
「惚れ込んだのさ……、年甲斐もなくな」
燃え盛る白いフィルター付きのタバコを口から遠ざけると、立ち竦む
「シュトラハヴィッツ……」
男を室内に送り返した後、シュトラハヴィッツ少将は、一人もの思いに耽る
紫煙を燻らせながら、この数日間の事を思い起こす
シュトラハヴィッツ少将は、東欧各国を非公式訪問し、軍関係者との折衝を繰り返した
その道すがら寄った東欧の雄・ハンガリー
首都・ブダペストを訪ね、彼はある人物との会見に及ぶ
「お久しぶりです、同志大将」
「シュトラハヴィッツか。暫くぶりではないか……」
白髪頭で老眼鏡を掛けた、どこにでもいそうな好々爺といった風情の男
ツイードの背広でも着ていたら、百姓とでも言い張れたであろう
茶色の将校用夏季勤務服で足を組んで座る姿は、男がどの様な立場かを示すのには十分であった
「モスクワと件でお伺いいたしました。同志大将のお答え方によっては我等は違う道を歩まざるを得ません」
そう言うと懐中より、『マルボロ』のソフトパックを取り出す
封緘紙の糊付けを剥がすと銀紙の包装紙を開け、茶色いフィルターのタバコを抜き出す
「シュトラハヴィッツ。君がやろうとしていることがどれ程の事か分かっているのかね」
男は、彼の差し出した煙草を受け取る
「はい、ご理解いただけると思い、ご意見を伺いに参りました」
火の点いた使い捨てライターを、男の手元に近づける
「その内容とは何だね」
差し出されたライターにタバコを近づけ、口に咥えながら火を点ける
男が深く紫煙を燻らせた後、次のように彼は切り出した
「東欧一の伝統と勢力を誇る組織……、嘗ての栄光も虚しくモスクワに頭が上がらぬと聞き及んでいます」
老眼鏡越しの緑色の瞳が、見開かれる
「不可侵を条件にモスクワと兄弟党の盟約を交わし合ったとされますが、現状はどうでしょうか。
社会主義の兄弟党の立場ではなく、隷属関係ではないのでしょうか。違いませんか!」
「貴様等、何が言いたいんだ」
シュトラハヴィッツ少将は目を輝かせながら、言い放った
「参謀総長……、モスクワとの血の盟約、反故にしてみませんか」
じっと彼の顔色を窺うと、深い溜息をついた
「貴様等、まだ懲りてないのか。モスクワに背いた挙句、我々はどうなった。
党其の物が解体されたではないか」
男の脳裏に22年前のハンガリー動乱の事が思い起こされた
ソ連国内のスターリン批判に乗じて、自由を求めて立ち上がった知識人や市民
2万人以上が犠牲になり、20万人が国外脱出を余儀なくされる
ソ連工作員の首相や大統領もその混乱に際してKGBの手で抹殺
当時の世界に与えた政治的影響は、計り知れないものであった
「本来、ハンガリーはモスクワの意向やドイツと関係なしに、独自の歴史を歩んできたはずです。
私の記憶が違うのでしょうか……。同志大将」
彼の話を一通り聞いた後、煙草を卓上にある灰皿へ押し付けた
右の親指と食指に握られた紙巻きタバコは、力強く揉み消され、真ん中から折れ曲がる
眼前の老人は、ふと冷笑を漏らした
「スターリン以来の血の盟約を反故するのは明日にでも出来る」
顎を下に向けると、上目遣いで彼の顔色を窺った
「だが戦争に勝てるのかね」
「なければ、ここまで私は来ません。チェコスロバキアとポーランドから人を出す確約を得ました」
右の食指と中指でタバコを口に近づけると、火を点けた
唖然とする男を尻目に、紫煙を燻らせる
「貴方方がモスクワに背けば、バルト三国も何れや立ち上がるでしょう」
そう漏らすと、勢いよく紫煙を吐き出す
「何より我々の後ろ盾にはあのゼオライマーが居ります。お話はそれだけです」
立ち去ろうとした彼等を、男は椅子に腰かけたまま呼び掛ける
「待ち給え、参謀本部にはモスクワの間者が居る。ちょっとばかり騒げばどうなるか分かっているのか」
彼は不敵の笑みを浮かべる
「貴方と言う、男の懐の深さが計り知れると言う物です」
そう告げると、彼は足早に屋敷を後にした
「アルフレート、ここにいたのか」
シュトラハヴィッツ少将は、追想の中から現実にひき戻された
「良い知らせと悪い知らせがある……」
ハイム少将は紫煙を燻らせながら、彼の歩み寄る
「ハンガリーの狸爺が議長に直電を入れた。奴さんも俺達の船に乗る事にしたそうだ。
お前さんのお使いも、まんざら無駄ではなかったと言う事だ」
白髪の頭を、撫でる様にして整える
「で、もう一つの方は……」
「ソ連が核弾頭をバルト海上に向けて発射した」
彼はあまりの衝撃に、右の食指と薬指に挟んでいた紙巻きたばこを取り落とした
不幸中の幸いは、国土に対して核被害による変化が無い事であった
「なあ、今回の襲撃事件どう思う。色々とおかしい……」
落とした煙草を拾い、再び口に咥える。
「何が言いたい」
そこで彼は、ある推論に達する
「奴等の狙いは我が国ではなく、最初からゼオライマーではなかったのか?」
唖然とするハイム少将に向け、言い放った
「我等は、その出汁に使われたのだとしたら」
ベルリン・共和国宮殿
臨時閣議の最中に、核パルス攻撃の情報に接した党幹部と閣僚達
普段は冷静なアベール・ブレーメの脱力し落胆した姿に、幹部たちは一様に驚いた
手すりに両手を預けて、深く項垂れる姿……
上座で足を組む男は、周囲を確認する
その刹那、静まり返った哄笑する声が室内に響き渡る
周囲の人間は、アベールのこの行動に度肝を抜かれた
「この30年は、この30年の私の仕事はなんであったのか」
「ア、アベール。貴様……」
何時になく深い落胆の色を滲ませ、こう告げた
「三度、核の炎からこの国土を守るため、多くの物を差し出してきた。
ナチス賠償としての工業資産。尊い青年の命、貴重な労働力……。
BETA戦争の為の犠牲は、全て無駄だったというのか」
「通産次官、お気を確かに……」
アベールは両眼を閉じると天を仰いだ
大粛清の頃よりソ連に居た人間にとって、ソ連の裏切りは当たり前であった
だが、彼の心の中のどこかにソ連を信じたい気持ちがあった
その思いも虚しく裏切られてしまう
40年余り信じて来たソ連に弊履を棄つるが如く扱われた事に放心していた
「ソ連指導部を否定しようが、肯定しようが挑発されたのは事実。
受け入れるしか有るまい、諸君!」
すっと、不敵の笑みを浮かべた議長が立ち上がる
「風向きが変わった……」
両眼が見開かれ、叫ぶようにして声をあげた
「戦争だ。今動けば、屯して居る露助どもは蹴散らせる」
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします
燃える極東 その1
ソ連・ハバロフスク 19時
既に日の落ちたハバロフスク
市内某所にある臨時の赤軍指揮所
そこには国防省本部から脱出していた赤軍最高司令部の面々が密議を凝らしていた
上級大将の軍服を着た老人は、勢いよく机を叩く
「たかが一機に、何時まで手間取っているんだ」
一向に変化のないゼオライマーへの対応に苛立った国防大臣
男は声を荒げ、周囲の者を叱責する
「この上は、ヴォールク連隊を持って対応する。
一刻も早く、ゼオライマーを鹵獲しろ」
食指を、傍らに立つ赤軍参謀総長に向ける
「同志大臣、御一考を……」
彼は、大臣の面前に体を動かす
「我がソ連邦には、ブルジョワ諸国の様に精強部隊を遊ばせておく余裕はない……」
じろりと両目を動かし、参謀総長の顔を覘く
「君は、もっと物分かりの良い男だと思っていたのだがね……」
言外に参謀総長へ、揺さぶりをかける
「ハイヴ攻略は……、如何なさるおつもりですか」
椅子に踏ん反り返る国防大臣は、彼の方を睨めつけ乍ら応じる
「喧しいわ!黄色猿共が作った大型機とやらを捕れば、如何様にでも出来るであろう。
君の意見ではそうではなかったか……」
男の言葉に、参謀総長は苦渋の色を滲ませた
「ゼオライマーに関し、今まで君に一任してきたが何一つ成果が上がらなかったではないか。
本件は、これより私の采配で自由にさせてもらう」
再び右手を挙げて、食指を指し示す
「生死の如何は問わぬ。木原マサキを引っ立てて参れ!」
ゼオライマーの鹵獲命令が下った
参謀総長は挙手の礼で応じた後、遣り切れぬ思いを胸に抱きながらその場を後にした
ハバロフスク空港内にある空軍基地
会議室に集められた衛士達に、声が掛かる
「総員集合!」
整列する彼等に、強化装備姿の部隊長からの訓示がなされた
空襲警報が鳴り響き、遮音加工の施された室内まで聞こえる
「これより日本野郎の戦術機を鹵獲する。
市中への着弾被害は無視しても良いと政治委員から助言があった」
一人の衛士が、隊長に尋ねる
「隊長、鹵獲が困難な場合は……」
隊長は、苦笑交じりに答えた
「操縦席ごと打ち抜いてよいとの許可は既に下っている。
相手は一機だ、存分に暴れろ」
管制ユニットに乗り込もうとした時、胸にある十字架が風に揺れる
思わず手で掴み、考え込む
BETA戦を戦い抜いてきた手練れの兵士、その投入に疑問を覚える者はいなかったのか……
そう自問しながら、顎につけられた通信装置を起動し、網膜投射を作動させる
男は、視野を通じて脳に伝達される情報を確認する
駐機場より滑走路に機体を動かす
敵の武装は未だ不明……
一説には、小型核を装備した大型戦術機との噂を聞いたほどだ
日本野郎共が作った大型機……、どの様な物であろうか
撃破すれば、十分な解析も出来よう
跳躍ユニットの推進装置を吹かしながら、滑走路上で匍匐飛行の準備を取る
勢いよく離陸すると、揺れる座席の中で静かに神に祈った
宵の口、市街地に向かって飛ぶ40機余りの戦術機の編隊
市内で立ち竦むゼオライマーの姿を一瞥すると、手に構えた突撃砲が呻らせた
暗闇の中を標的目掛けて雨霰と砲弾が降り注ぐ
曳光弾が、まるで一条の光が線を引くかのごとく駆け抜けていった
市街地の大半は、既に火の手が回り、列をなして逃げ回る避難民の群れが道路を埋めていた
乗り捨てられた乗用車やバスを気にせず突っ込んできた戦車隊は、所かまわず盲射する
唸り声をあげながら火を噴く、重機関銃
彼等は、ゼオライマーではなく市民に向けて発砲したのだ
斃れた市民を踏みつける様にして、戦車隊は市中へ前進する
東部軍管区ビルの屋上に、やっとの思いでたどり着いたマサキ達
その場所より市街の混乱する様を、弾薬納より取り出したダハプリズム式の双眼鏡で眺めていた
思わず、ふと苦笑を漏らす
退避する市民が居てもお構いなしに対空機関砲や突撃砲を連射するソ連軍……
前世に於いて、富士山麓でゼオライマーに乗り、八卦ロボと戦った時を思い起こす
敵の注意を引くために避難民が居る中で戦闘をしたことがあった
自分も決して他者の人命を尊重する方ではないが、この様には他人事とは言え、呆れ果てた
飛び交う弾丸に身を屈めながら、彼は周囲を伺う
砲声はいよいよ近くなって、時々思いもかけぬ場所で炸裂する音が響き渡る
盲射するソ連赤軍の弾は、間近に落ちてきている
何れは、ここにも着弾しよう……
脇に居る鎧衣に、声を掛けた
「茶番は終わりにするか……、ここから飛ぶぞ!」
男はその様な状況の中で顔色一つ変えず、マサキの方を伺う
手早く双眼鏡を弾薬納に戻したマサキは、顔を上げて脇に居る鎧衣を一瞥する
頭から粉塵を被りながらも、身動ぎすらしない……
思い出したかのようにひとしきり笑った後、こう告げた
「ソ連赤軍の包囲網の中央を踏破するか……、久しぶりに沸々と血が滾る」
つられるようにして彼も哄笑する
「貴様には、こんなしみったれた場所で野垂れ死にされては困る。
俺を玩具にしようとしている馬鹿共……、例えば将軍や五摂家、武家。
奴等にゼオライマーの恐ろしさを余すところなく伝える義務があるからな」
彼はそう言うと、ズボンのベルトに手を掛けた
ベルトのバックル部分に内蔵した次元連結システムの子機から光が広がる
閃光と共に彼等の姿は一瞬にして消え去った
後書き
ゼオライマーの全長は53メートル、50メートルと媒体によってバラバラなのです。
OVA発売終了当時の公式資料を見ると50メートル越えなので53メートルが正しいのかなと考えてます。
昭和版ゴジラの全長と変わらない大きさなので、今の摩天楼の高さだと拍子抜けする大きさです。
(この30年で都心の高層ビルは100メートル越えが当たり前になった事実に時の流れの速さを感じています……)
ご意見、ご感想お待ちしております。
(ハーメルンの方のご感想でも構いません)
燃える極東 その2
夜陰に紛れて、マサキ達はゼオライマーが居る市街地の反対の場所に向かった
船着き場の有るアムール川(支那側呼称:黒龍江)の方に歩みを進める
遠目にソ連の巡邏隊を認めた時、背負って来たM16自動小銃を使おうとするが、鎧衣に止められた
一瞬驚く彼の目の前で、折り畳み銃床のカラシニコフ自動小銃を出す
何処から持ち出したのであろうか……、そんな彼の疑問より早く発砲する
単射で素早く巡邏隊の兵士の脳天を撃ち抜くと、彼の左手を強く引っ張り物陰に隠れた
友軍の銃器で狙撃された彼等は混乱し、その場で警戒態勢を敷く
男は懐中より望遠鏡のような物を取り出して、周囲を見回す
携帯式の暗視装置であろうか……
その様な事を考えていた彼の耳元に右手をかざすと、こう囁いた
「今のうちに駆け抜けるぞ。木原君」
自動小銃を腰だめで抱えて、その場から駆け出すようにして逃げた
マサキは鎧衣と共にアムール川の河畔に居た
重装備の儘、駆け抜けた事で着ている戎衣は汗で肌に張り付き、所々色が変わっている
米軍のプラスチック製水筒を取り出し、水が滴り落ちるのを気にせずに一飲み
タオルで顔を拭うと、深く深呼吸する
上着を鳩尾まで開けると、男の方を振り向かずに、こう告げた
「鎧衣よ、貴様の事だ。
ソ連側から中共まで川を泳ぐぐらい造作も無かろう。しかも今は夏だ……。
凍えて死ぬ心配はあるまい」
不敵の笑みを浮かべた
「ほう、船着き場まで連れてきたと言う事は……、中共党幹部と渡りを付けろと……。
そう言いたかったのかね」
懐より、紙巻きたばこの「ホープ」を取り出す
「支那をまるで庭の如く知っている貴様なら、どうとでもなるであろう」
金属製のガスライターで火を点けると、悠々と紫煙を燻らせた
男は、その様をオーバーのマフポケットに手を突っ込んで眺めている
「いやいや、結構、結構。では北戴河で舟遊びをして来ようと思う」
北戴河、記憶が確かならば共産党幹部が夏季に集まる渤海湾沿いの避暑地……
ふと、その一言が気になった
鎧衣は、意味深な言葉を残して、背を向ける
すっと消える様にして、夜霧の立ち込める船着き場へと向かった
男の姿を見送りながら、煙草を深く吸い込む
深く息を吐き出した後、側溝に向かって放り投げた
それとほぼ同時に、彼の姿は消えた
マサキは、ゼオライマーの操縦席に転移すると、一人思い悩んだ
暫し目を閉じて、過去の追憶に旅立つ……
元の世界のソ連・極東のシベリアを思い浮かべる
真夏は摂氏40度を超え、真冬は氷点下40度以下……
年間の温度差が摂氏百度にまで達するほどの過酷な環境
資源は有り余るほどあるが、採掘する機具も流通手段も不十分なこの地
人力に頼らざるを得なかった……
そこで目を付けたのが、囚人であった
シベリアの地は、帝政時代以来、政治犯や国事犯、軍事捕虜の流刑地
同地の開発で流された血は如何程であったろうか……、想像すらつかない
1918年に、ボリシェビキ一派が暴力でロシア全土を占拠すると囚人の意味は変化する
無辜の市民や農民といった政治とは全く無関係な人々まで、その定義は拡大した
政治的に危険視された人物は、その九族に至るまでこの自然の監獄に送り込まれる
帝政時代はシベリアに向かう政治犯に対して、時折心優しき土民は、暖かい差し入れや心づくしをしたがそれさえ禁止された
1945年から1946年にかけて百万を優に超える日本人抑留者は、満洲よりこの地に連れ去らわれた
囚われ人は仮設の住居さえなく、薄い夏用天幕で凍える原野に放り出された
一説によれば、272万人の日本人抑留者は37万人がこの地で落命したという
如何に過酷であったかを物語る事例であろう
はっと目を見開き、機内の観測機器を見る
接近する40機余りの機影……、恐らくソ連赤軍の戦術機
モニターに映る地上を走るBMP-1歩兵戦闘車やBTR-70装甲車は、ざっと見た所で20台以上
雨霰と飛び交う弾丸やミサイル……、戦車や自走砲から放たれる断続的な砲撃
地響きのような重低音が響き渡る
砲弾の幾つかはゼオライマーの装甲板に直撃し、機体を振動させる
T-64戦車の自動装填装置とは、これ程の物か……
ついつい一技術者として、ソ連赤軍の戦車性能に関心を持ってしまう
だが今は戦闘中……、気を取り直して椅子に深く座り直す
「美久、メイオウ攻撃の準備をしろ。出力は通常の30パーセントで行く」
操作卓のボタンを押し、即座に射撃体制に入れる様、準備を進める
「なぜ、出力を抑え気味で斉射されるのですか……。通常時の出力でも可能です」
グッと操縦桿を引き、推進装置を全開にして跳躍し、赤軍戦車隊の上空に出る
「小賢しい蠅どもに全力を掛けるほど、天のゼオライマーは安っぽいマシンではない」
マサキの考えとしては、ソ連赤軍の部隊を嬲り殺しにする心算であった
機体の奥底に居る美久は、その搭載されている推論型AIでマサキの思考を読み解こうとする
人間の知的能力を超越した電子頭脳で、彼が何を思っているか分かったのであろうか……
それ以降、押し黙ってしまう
その様を見て、ふとマサキは冷笑を漏らした
勢い良く、垂れ下げていたゼオライマーの両腕を上げ、胸部にある大型球体の前にかざす
「この冥王の力の前に、消え去るが良い。塵一つ残さずな……」
胸部にある球体が輝き出すと同時に手の甲に付いた球体も、煌めきを増してゆく
周辺に広がっていく強烈な閃光……
ゼオライマーの必殺技・メイオウ攻撃
その刹那、一筋の光線が地表に向かって通り抜けると、爆風が吹き抜ける
強烈な吹き上げ風が機体に覆い被さり、破片が宙を舞う
依然として距離を取り続ける戦術機部隊……
空調を利かせた操縦席に座りながらも、操縦桿を握る手まで汗ばんで来た
何とも言えぬ興奮に身震いしているのであろうか、そう思う
この様な形で、生の喜びをありありと実感するとは……
思わず、不敵の笑みを浮かべる
やがて東の空が白み始めると、攻撃の惨禍が表に出始める
塵一つなく戦車隊が消え去った機体周辺……
その様子を上空で見ながら、マサキはコックピットの中で哄笑した
ゼオライマーに突如襲撃された市内は、混乱の嵐に包まれた
われ先にと逃げ出す党関係者とその家族、役所や国営企業など公共施設の職員……
最初の頃は交通警察と内務省(MVD)軍将校が検問をしていた
だが直ぐに溢れて、滞りを見せ始める……
制御を失った市民は、次第に順番争いの為、乱闘騒ぎをはじめた
遠目でその様子を見ていた軍に持っていた家財道具を投げ始めるものが出始めると状況は一変する
混乱するMVDと警察の対応を見かねてであろうか、何処より現れた応援部隊
彼等は、KGB直属警備隊の制服を着こみ、数台の重機関銃を引っ張って来た
隊長と思しきKGB少佐の制服を着た男が飛び出してくると、周囲を見回す
一通り現場を確認した後、こう告げた
「こうなっては仕方が有るまい。非常手段に出る」
付近を警備する内務省軍将校や警察幹部が集められ、KGB少佐からの檄が飛んだ
「宜しいか、諸君!たとえソビエト市民と言えども躊躇してはいかん。
ここでの敗走を止めねば、我が軍は何れや崩壊するであろう。只今より、配置に付け」
小銃を槊杖で簡単に手入れした後、弾倉を付ける
迫撃砲には弾が込められ、ベルトリンクが付いた重機関銃の槓桿を勢い良く引く
「一斉射撃!」
雷鳴の様な音が周囲に響き渡ると同時に、濛々と立ち上がる白煙と粉塵
降り注ぐ弾丸によって避難民の群れは、忽ち阿鼻叫喚の巷と化した
噴煙が晴れると、斃れた人の群れから唸り声が聞こえはじめる
マカロフPM拳銃を持ったKGB少佐は、歩み出るとこう叫んだ
「これより、反革命分子を処断する。部隊は前へ」
横たわる屍の大部分は五体のどこかを失っており、僅かに息の有るものもそうであった
這って逃げ出そうとする者を見つけるや否や、件のチェキストは銃を向ける
自動拳銃の遊底が前後すると、哀れな逃亡者は冷たい骸になり果てていた
「ソビエト市民なら、銃を取って日本帝国主義者と戦うべきではないのかね」
そう告げながら、男はまだ息のある人間を選び出すよう兵に指示させる
血の海から連れ出された人事不省の避難民……
再び、銃声が鳴り響いた
後書き
ロシア側のアムール川も中国側の黒竜江も夏季は水温が20度近くになります。
日中なら水泳は可能な温度です。
そう言った理由からマサキに泳げる旨の事を発言させました。
ご意見、ご感想よろしくお願いします.
燃える極東 その3
前書き
今回より通常小説の技法に則って地の文に句点を着けるようにいたしました。
フューチャーフォンの画面で読む際、句点があると鬱陶しいと思い、今までは携帯小説の技法で排除してきました。
フリガナや句読点で読みづらいな、違和感があるなと言う場合は、ご意見いただければ幸いです。
「かかれぇ!日本野郎の横腹を突くのだ。
如何に堅牢な機体とは言えども、横入れされては踏みとどまることも出来まい」
号令をかけた指揮官機が右腕を背面に回して、77式近接戦用長刀を背中の兵装担架から抜き出す。
指揮官自ら長刀を振るい戦う姿勢を見せれば、円居は奮い立つ。
推進装置を全開にした30機余りの軍勢が、怒涛の如く突進してきた。
突撃砲に装弾数2000発の弾倉が差し込められると、隙間無くゼオライマーに向けられる。
仁王像の如く起立する、天のゼオライマー。
全長50メートルの機体は、前面投影面積の高さゆえに狙いやすく、格好の標的。
如何に強固な次元連結システムがあっても、パイロットは生身の人間……。
人海戦術でマサキの体力や気力を奪い、ゼオライマーの鹵獲や殲滅を狙う。
「自走砲と戦車隊は前へ、日本野郎を撃ち竦め、其の間に奴が首を取るのだ」
戦術機部隊が動くより早く、攻撃ヘリの一群がゼオライマーに奇襲をかける。
羽虫の呻る様な音を立てて近づく攻撃ヘリコプターMi-24「ハインド」
ある時は低く、ある時は高く、獲物を狙う鷹其の物……。
機銃が呻り、ミサイルが轟音と共に飛び交う。
後より続くは100台以上のT-54/55、T-64戦車と、2S1グヴォズジーカ 122mm自走榴弾砲。
落雷の様な轟音が段々と近づいて来る。
薄く全面に張り付けたバリア体によって、そのすべてを凌いでいる事に美久は疑問を持った。
一思いにメイオウ攻撃で灰燼に帰せばよいのに……
やはり秋津マサトの肉体を乗っ取った際、精神が幾分か取り込まれた為か……
あの心優しい青年の気持ちが忍人・木原マサキに変化を与えたのであろうか。
コックピットの中で、椅子に深く座り込む男の事をモニター越しに眺めていた。
犠牲をいとわぬソ連軍の挺身攻撃……、狙いはパイロットの戦意喪失か。
マサキは、既にソ連軍参謀本部潜入の時以来の疲労が出始めていた。
数時間に及ぶ逃避行は、彼の肉体から体力を削り取るには十分であった。
操縦席に項垂れていた彼は、段々と気怠くなる肉体を奮い立たせるべく、興奮剤を飲む。
僅かに残った水筒の水を飲み干すと、布製の入れ物ごと空の容器を放り投げた。
「この俺としたことが……、奴等の計略に乗せられるとはな」
「全機射撃許可、 撃て!」
指揮官の号令の下、一斉射撃が開始された。
30機余りの戦術機はゼオライマーを囲むや否や、雨霰と矢玉を浴びせかける。
微動だにせず佇む白亜の巨人に向け、火を噴く20ミリ突撃砲。
「奴の武装は両手に付けられたレーザー砲2門!接近して一刀のもと切り捨てれば勝算はある!」
連隊長がそう叫ぶと跳躍し、長刀を振るいあげ、切り掛かる。
脇から第一中隊長も同様に薙ぐようにして、ゼオライマーの左側から剣を打ち付ける。
いくら自分達より優勢な敵とはいえ、指呼の間に入られてはご自慢の光線銃も使えまい……。
連隊長はそう考えて、切り掛かかる。
一瞬射撃が止むと、二機のMiG-21 バラライカは飛び掛かった。
ゼオライマーは両手を上げると、手甲で長刀を押さえつける。
鈍い金属音と共に、一瞬火花が飛び散る。
次元連結砲の照準をを合わせ、射撃してきた。
敢て直撃させず、牽制するかのように光線を放つ。
そこは精鋭・ヴォールク連隊の強兵……。
光線をするりと避けると、左手に持った突撃砲を至近距離でぶっ放した。
残弾表示が0になるまで打ち付けると、下部に備え付けられた105㎜滑腔砲が咆哮を上げる。
殷々とした砲弾は、連続した轟音を響かせ胸部装甲に直撃。
白亜の機体は、漠々たる煙塵に包まれる。
あの業火と噴煙の中に在っては、操縦士は生きてはいぬだろうと想像した。
連隊の衛士誰も彼もが、血走った眼を火線に曝し、汗ばんだ手で操縦桿を握りしめる。
随伴歩兵たちは茶色の戎衣を纏った身体を震撼させていた。
日は登り気温は上昇しているのに……、まるで雹にあったかのように寒気を感じさせる存在。
今にも50メートルもあろうかと言うの鉄の巨人が、推進装置を吹かして突っ込んで来やしないか……。
そんな怖れを抱かせたからだ。
その恐怖は現実のものになった。
周りを取り囲んでいた噴煙が晴れると、白亜の機体を日光が照らす。
ゼオライマーの全体は塗装の禿げた所も無ければ、頭部の角飾りも欠けたところも見当たらない。
息をつく暇もないくらい激烈を極めた、突撃砲の斉射を受けたというのに……
「中々歯ごたえのある敵になりそうだな……」
マサキは不敵な笑みを浮かべると、推進装置の出力調整を行う。
通常の5分の一以下にメモリを合わせると、戦術機の方に突っ込む。
右手の拳を繰り出し、次元連結砲を咆哮させる。
閃光が光ったかと思うと、周囲の物をなぎ倒す勢いで連隊長機に衝撃波が直進する。
一瞬にして連隊長機は吹き飛ばされる。
「連隊長!」
爆散こそ免れるも、跳躍ユニットは衝撃波の影響で使えなくなってしまった。
その様を見ていたマサキは一瞬俯くや、くつくつと喉の奥で押し殺すように笑い声をあげる。
「この木原マサキを弄ぶとは、なかなかの者よ。面白い。
楽に死ねると思うなよ……」
横に90度振り向くと、左側から切りかかって来た第一中隊長機目掛けて次元連結砲を放つ。
長刀を持つ右前腕部を吹き飛ばした。
「火線に付け!」
号令と共に、突撃砲が轟音を上げながら再び火を噴いた。
一列に並んだBM-21 グラートが、発射音を奏でながらロケット弾を次々に斉射する。
この発射装置は、世界最初の自走式多連装ロケット砲、82mm BM-8の系譜をひく。
最前線にあるドイツ国防軍兵士の心胆を寒からしめた、オルガンに似た発射音。
『スターリンのオルガン』と恐れられた。
機銃で払われても払われても突撃してくる、天のゼオライマー。
恐怖に慄いた衛士が叫んだ。
「こいつぁ、化け物だ!」
今まで戦って来たBETAは物量こそ赤軍を圧倒するも、最後には押しとどめることが出来た。
ミサイル飽和攻撃、光線級吶喊、戦略爆撃機による空爆……。
硬い殻を持つ突撃級など自走砲の榴弾で背面から打ち抜けたものだ。
しかし、この日本野郎は違う。
砲火の嵐どころか、ミサイル飽和攻撃も物ともせず、全てを睥睨する様に峙つ。
ここで退けば、ソ連赤軍全体の士気に影響を与えるのは必須……。
連隊長は、管制ユニットの中で深い溜息をついた。
我等が敗退すれば、18に満たない子供に銃を担がせて送り込むほかはない……。
中ソ国境に居る蒙古駐留軍を引き抜くにも限界がある……。
男は、女・子供までかき集めて衛士の訓練を始めているソ連赤軍の様を密かに憂れいていたのだ。
現在ソ連赤軍の青年志願兵はほぼ尽きようとしており、300万人の兵力維持はとても厳しい状態
非スラブ人の中央アジアやカフカスに在っては、15歳まで徴兵年齢を下げていた。
1918年のボルシェビキ革命以来、急激に識字率の向上を果たしたロシア社会。
僅か50年余りで、すさまじい勢いの少子化が進んでいた。
1945年に終えた大祖国戦争(第二次大戦のソ連側名称)によって、2000万人の成年人口を喪ったのも大きかろう。
女子教育の普及や婦人参政権を始めとする婦人の社会進出は、ロシア女性の価値観を変容させるに十分であった。
またスターリンの死後、1955年に堕胎罪の廃止も少子化を勧める遠因になった。
その様な状況にあっても、ソ連政権は婦女子や年少者の徴兵を止めなかった。
理由は、実に単純である。
思想的に未熟な少年兵は、思考操作や洗脳を施すのに労力がかからないからである。
そう言った理由からソ連赤軍は少年兵への依存度を高めていくことになった。
「第二中隊は、戦闘指揮所の要員と共にウラジオストックにまで下がれ……」
突如として第43師団の本部より指令が入る。
第二中隊は確かグルジア人の政治局幹部の子息が居る部隊……
自分達は捨て駒になって幹部の息子を逃がせという指示か……
だが、我らが犠牲になってこのマシンを手に入れれば、ソ連の輝かしい栄光は再び全世界を照らすであろう。
そう考えなおすと、吶喊をかけた。
「なあフィカーツィアよ。俺の倅と一緒にウラジオくんだりまで行く話……。
了承してくれるであろう」
五十搦みの男が、壁際に直立する赤軍兵に向かって、声を掛ける。
鳥打帽に灰色の背広服……、何処にでも居るロシアの百姓といった風采。
声を掛けられたのは、小銃を担いで直立する白人の婦人兵。
年の頃は、二十歳くらいであろうか……。
軍帽の下にある淡黄蘗色の髪を束ね、透き通る様な色白の肌に碧眼。
白樺迷彩の野戦服の上から弾薬納を付け、将校を示すマカロフ拳銃を帯びている。
「ですが……」
右肩に担ったAKM自動小銃の吊り紐を、きつく掴む。
男は、カフカス訛りの強いロシア語で、滔々と語り始めた。
「野郎はクソ真面目だが、英語も上手いし弁も立つ。
贔屓目に見ても、グルジア人に生まれた事が惜しいくらいさ。
既に師団長には俺から話を通してある」
男は、混乱に乗じて密かに自分の子息と彼女を避難させること告げてきたのだ。
「俺は常々君に、あの男と所帯を持ってほしいと思ってたのよ。
最悪、太平洋艦隊でサハリン(樺太の露語名称)にまで落ち延びるってのも悪かねえなぁ」
懐中より、一枚の封書を取り出す
「こいつは、俺からウラジオの党関係者に当てた手紙だ。
政治局に出入りする人間が書いたものであれば、奴等も無下には扱うまい……」
手紙を両手で持ったまま固まる彼女を尻目に、男は話し続ける。
右の食指と中指に挟んでいた口付きたばこを口に近づけると、咥えた。
「なぜ、ここまでの事を……」
男は茶色の瞳で彼女を伺うと、頬を緩ませた。
改まった口調で、こう告げる。
「同志ラトロワ。俺は君の気に入ってたのだよ。
君の様な、聡明で麗しいスラブ娘の事を気に入らぬ男は居まい。
そんな唐変木が居たら、一度会って見たいものだ。
どうせ偏執な男色家か、気狂いであろうよ」
そう言うと、懐中よりマッチを取り出し、煙草に火を点けた。
「お心遣い、有難う御座います」
そう言って深々と頭を下げると、戸外へ向かって駆けて行った。
走り去る彼女の背に向かって、こう告げた
「小倅の事は頼んだぞ!」
後書き
ソ連軍関係者が名無しのモブばかりでは味気ないので、フィカーツィア・ラトロワを出しました。
年齢は「トータル・イクリプス」(以下TE)の中で言及されていません。
中佐である事、未亡人で一定の年齢になるであろう子息が居ることを勘案して、2001年ごろには40代ではなかろうかと推測しました。
(ロシア人は、現在も婚姻可能年齢が16歳以上で、平均結婚年齢が18から20代前半と言う早婚です。)
ネット上で出ている42歳説が正しければ、1959年生まれでベア様、アイリスと同い年です。
その他のご意見、ご感想、ご要望があれば、よろしくお願いします。
崩れ落ちる赤色宮殿
北京駐在日本大使は、北京から東へ約300キロメートル離れた河北省の避暑地・北戴河を訪れていた。
そこにある別荘の一室に、通訳や参事官たちと共に通される。
部屋の中では灰色のズボンに白い開襟シャツを着て、椅子に背を預ける小柄な男が寛いでいた。
彼等は、寛ぐ男に深々と一礼をする。
大使は顔を上げると、男の方を向いて、こう告げた
「大人、お休みのところ申し訳ありませんが喫緊の課題で参上しました」
男は、今にも夕立が来そうな暗い表情で言った。
「率直に申しましょう。我々は今の所、北方に割ける兵力は御座いません。
何より我が国に反動的な立場を取る河内傀儡政権への懲罰に出向くしかありませんので……」
話の内容は、北ベトナムへの軍事侵攻を匂わせる物であった。
大使は肘掛椅子に腰かけると、脇に立つ護衛に手紙を渡した。
ここにいる人間は、恐らく護衛と言えども中共調査部か、中共中央統一戦線工作部の物であろう。
皆、筋骨たくましく恰幅が良く人間ばかりだ。
長らく続いた文革とBETA戦争で人民は飢えて食うや食わずの生活をしている。
共産主義とは言っても、所詮田舎の人間は奴隷なのだ……
遠い商代の古より変わらぬ、支那の現実。
気を取り直して、手紙の事に関して言及した。
「先ずはこれをご照覧を」
手紙を見るなり、男の表情は凍り付く……
其処には驚くべきことが記されていた。
BETAが一種の電気信号で動く生体ロボットと類推される……。
「これは日本政府の見解ですか、俄かに信じられません……」
男は、ぼうっと目の前が暗くなって、目の前にあるすべての事象が自分から離れていくのを感じ取った。
しかもどこか知れぬ、深淵に引きずり込まれるかのような感覚に陥っていく……。
この話が事実ならば、この5年に及ぶ地獄の歳月は何であったのであろうか……
得るべき成果は無く、多くの尊い人命が失われたのは無駄であったのか。
あの化け物共が、ただの機械の類と言う話を受け入れることが出来なかった。
「そんな馬鹿な……、絶対にありえようはずがないではないか」
20年前、火星で生命体が発見された事を喜んだことも、10年前の月面でのBETAとの初接触の衝撃も何の価値も無かったのか……
だが、そう言って打ち消せば打ち消すほど、彼の想像ははっきりと、理屈ではなく事実として脳裏に映し出される。
大使はテーブルの上に有る熱い茶を両手で持つと、蓋碗で扇ぐ様にして冷ます。
血の気を喪って、死人の様に唖然とする男の姿を見ながら、一口含む。
「私も正直驚きましたよ……。陸軍参謀本部ではその様に分析して居ります」
「やはり、あのゼオライマーを作った木原博士が関わっているのですか……」
「面白い事を仰りますな」
彼はそう告げると、不敵の笑みを浮かべた。
一瞬、男の顔色が曇る。
「この話をソ連は……」
「公式、非公式にも伝達して居りません」
両切りタバコを二本立て続けに吹かした後、押し黙る彼等の方を振り向く。
「中ソ国境、中蒙国境で近々大規模演習を行う予定が御座います」
暗にソ連侵攻を匂わせる発言をする。
「7年間の抗日戦争(支那事変)を上回る、このBETA戦争の惨禍から復興……。
日本の力無くして為し得ません。故に我等は過去を一切水に流すつもりでおります。
その事を皇帝陛下並びに殿下(将軍)に宜しくお伝えいただきたい」
男の言葉を最後まで聞いた後、大使はおもむろに立ち上がる。
「分かりました」
そう言って室内を後にした。
一部始終を聞いていた鎧衣は、困惑していた。
思えば、木原マサキと言う得体の知れない男が現れてから、全てが変わった。
何百億ドルも費用をかけて実施した国連のオルタネイティヴ計画……。
ソ連が熱心に推進していたオルタネイティヴ3計画は、いともたやすく捨てられた。
数百人いたとされるESP発現体も研究施設も核爆発の下、全て消滅。
「あの木原マサキと言う男がオルタネイティヴ計画の中止に関わっているのだとしたら……」
男は慌てて打ち消した。
第一、そんな想像は自国の諜報組織や科学者たちに対する侮辱だ。冒涜だ。
日夜秘密工作に従事する諜報員たちが役立たずであるという事ではないか。
とても理屈に合わないように思えた。
12世紀末、世界史上に突如現れた蒙古王、成吉思汗。
短期間に勢力拡大を成し、蒙古平原の奥底より全世界に打って出た。
それに伴い、ユーラシア全土をくまなく掠奪した事は、つとに有名であろう。
そのタルタル人の惨禍を思わせる様なBETAという異星からの化け物。
その群れから運よく逃れている、この地・シベリア。
何れは、ジンギスカンの時の様に、ロシアは焼け落ちよう……
ソ連指導部はそんな懸念から米国政府との間にアラスカ売却計画を交渉していた。
その矢先に現れた無敵の超大型兵器・天のゼオライマー。
天才科学者・木原マサキ。
彼等が、喉から手が出るほど欲しがったのも、無理からぬ話であろう。
「ゼオライマーさえ、ソ連の物になれば……、ハイヴは疎か米国まで我等の物よ」
高らかに笑い声をあげるKGB長官。
「手強い男よ……、木原マサキ」
薄い水色のレンズをした銀縁の眼鏡を取ると、周囲の人間を見回す。
「すでに2度、KGB特殊部隊を派遣したがすべて水泡に帰した。
君達がしくじれば、ハバロフスクを核で焼き払わねばなるまい」
どこからか、声が上がる。
「同志長官……」
右の食指を、ドアに向かって指し示す。
「ソビエト2億の民の運命は、君達の双肩にかかっているのだ!
赤旗を高く掲げる前衛党の為、勇ましく死んで来い」
居並ぶ男達は、老人に対して挙手の礼をする。そして力強く叫んだ。
「万国の労働者の祖国、ソビエト連邦に栄光あれ!」
再び色眼鏡を掛けると右手を上げ、挙手で応じる。
不敵の笑みを浮かべるながら、彼等を見送った。
「既に勝負はついたような物よ……、然しもの木原もゼオライマー単機のみでは第43機甲師団の砲火より抜け出せまい」
奥に座るソ連邦最高評議会議長の方を振り返る。
「GRUの馬鹿者共と木原が共倒れすれば、残すは東独の反逆者のみよ」
一頻り哄笑する。
そこに伝令が息を切らして、駆け込んできた。
「どうしたのだ!」
焦慮に駆られた議長は伝令に問い質した。
喉も破れんばかりの声でこう告げたのだ。
「た、大変で御座います、同志議長。第43機甲師団との連絡が途絶いたしました」
「何、43機甲師団もか。何と言う事だ」
隣にいるKGB長官の顔から先程迄の上辺だけの笑みは消えて、額に深い皴を刻み込んでいた。
「おのれ、木原マサキ、ゼオライマーめ……」
拳を握りしめ、身を震わせる。ただ眼だけが窓に向けられる。
窓からは7月のシベリアの涼しい風が吹き込んで来るばかりであった……
後書き
ハーメルンに完結済みの第一部の部分だけを掲載しようか、考えて居ります。
(8月・9月の夏休みシーズン限定で公開しようかなと思っています)
連載は引き続き暁のみで続けるつもりですが、この作品がどう思われているか、知りたい為です。
(暁の静かな執筆環境は、個人的に大変良く、捨てがたいものと思っております)
他所の意見を知りたく、理想郷の掲示板に出向いたのですが、無視されました。
15年前とは違い、すっかり廃れた事に驚いています。
(流行り廃りが激しいPIXIVは論外かな……)
ご意見、ご感想、ご要望があれば、よろしくお願いします。
崩れ落ちる赤色宮殿 その2
場所はワシントン郊外ラングレー・米中央情報局(CIA)本部。そこで密議が行なわれた。
「長官、今回のゼオライマーの件は……」
じろりと、長官の目に強い一瞥を投げかけた。
「実はな……現在調査中なのだよ。大統領直々に御剣雷電公に密使を派遣したばかりだ」
「御剣公……、たしか将軍の親族でしたよね。煌武院の分家筋の……」
長官は、重苦しく頷く。
「そうだ。ゼオライマーの行動次第によっては、今後に東アジア情勢に変化を与えるのは必須。
岩国から京都まで密書を送り届けたばかりだよ……」
「何故準備も不十分なうちに……」
長官は紫煙を燻らせながら、室内を何度か往復する。
そしてこう答えた。
「時間が経てば経つほど、KGBの潜入工作員がこの情報を掴む蓋然性が高くなる」
「中ソ関係には影響は与えるでしょうか……」
再び、男の方を振り返る。
「20年前に熱戦を繰り広げた間柄だ。
中ソ関係は、対日、対米、対BETAで一応同じ立場を取っているが……、例えば対印や対越では立場が分かれる。
なので、第二次大戦時の時の連合国のようにはならない可能性が高い」
そう言って、灰皿を引き寄せる。
「一例を挙げれば、軍事分野でも中国は対空兵器はソ連に依存している。
それ故に技術移転を度々打診しているのだが、ソ連の反応は決して芳しい物ではない。
それくらい微妙な関係なのだよ。あの二国関係は……」
静かにタバコを灰皿に押し付けた。
「確実なのはBETAによってもたらされた米ソ間の偽りの平和……。
その様な時代は終わりつつあることだよ」
ふと男は、下卑た笑いを唇に浮かべる。
「今一度、アムール川あたりで衝突が起こって、中ソ対立して欲しいものですなぁ……」
ニタニタと笑う男の顔を、長官はまじまじと見た。
「なに笑っているのだね」
「中ソ双方の弱体化は、決して我が国にとって悪い事ばかりではありますまい」
男は長官の愁眉を開かせようとして、その様な事を口走ったのだ。
放心したかのようにぐったりしている長官に、男は再び声を掛けた。
「中断しつつあるパレオロゴス作戦の件はどうなりましたか……」
長官は気を取り直して、答えた。
「実はな……ルイジアナのバークスデール空軍基地から50機ほどのB52を飛ばして焼き消すつもりだ」
長官が口にした「成層圏要塞」の異名を持つ、戦略爆撃機B52。
翼幅56メートル、8基のターボファンエンジンを搭載した5人乗りの大型機。
同機は31トン超の爆弾やミサイルを搭載可能。最大航続距離は14,000キロメートルを超える。
空中給油を受ければ、即座に全世界に展開可能だ。
米国の核戦力の中核を担うとされている。
初の実戦配備はベトナム戦争で、1965年から開始された、「北爆」で絨毯爆撃を行い、様々な戦果を挙げた。
BETA戦争では航空機を一撃で消滅させる光線級の影響も大きく、時代遅れと思われていた機体。
ゼオライマーの活躍によってBETAの攻勢が落ち着きを見せてきたことによってふたたび日の目を浴びたのだ。
「明朝……、7月4日の6時には、ミンスク上空から爆弾の雨を降らせるつもりだ」
「202回目の独立記念日に合わせた花火大会ですか……」
タバコを取り出すと、火を点けた。
ゆっくりと紫煙を燻らせると、再び語り始める。
「国際世論の反対を懸念して、核弾頭ではなく、新開発のS-11爆弾を使う。
無益な殺生によって、ポーランドやバルト諸国の青年たちの命が失われるよりは良かろうよ……」
超高性能指向性爆薬・S11。
戦術核に匹敵する破壊力を持つ高性能爆弾で、ハイヴ破壊を名目として開発された。
一部では戦術機に搭載して『特別攻撃』をするプランもあったが、米軍では却下された。
多大な費用をかけ、育成した戦術機パイロットを自爆攻撃で失わせる……
費用対効果からしてもあまりにも馬鹿々々しい作戦故、否定された。
放射能汚染の危険性がない核にも匹敵する威力の新型爆弾。
一見魅力的に見えるが、あまりにも高価なために実戦配備が進んでいなかった。
「グレイ博士が作っている新型爆弾は実現するのでしょうかね……」
男はそう告げた後、椅子から立ち上がる。
「何もそんなものがなくても心配はするまいよ……。我等には無敵の機体ゼオライマーがあるのだから」
ドアの前まで行くと、ドアノブを掴みながら尋ねた。
「木原と言う男が信用できますか……」
「ミンスクの件が終わったら、私の所に呼ぶつもりだよ」
そう言うと、部屋を去る男をそのまま見送った。
崩れ落ちる赤色宮殿 その3
混乱する市外の喧騒を余所に重武装の車列が一路ハバロフスク空港に向かう。
周囲を装甲車で固め、軍用道路を驀進し、去っていく姿を市民は唯々見守っていた。
走り去る車の中で、男達は密議を凝らしていた。
「議長、空港にはすでに大型ジェットが用意してあります。
そこよりウラジオストック経由でオハ(北樺太の都市)に落ち延びましょう…」
「アラスカの件はどうなったのかね……」
不安そうな顔をするソ連邦議長の愁眉を開かせようと、KGB長官は語り掛けた。
「議長。心配なさいますな……。我等が手の物がすでに米国議会に潜入して居ります。
我国の領土となるのも然程時間が掛かりますまい」
車から降りた一行は、大型旅客機のイリューシン62に乗り込むべくタラップに近寄った。
その直後、唸り声をあげた自動小銃の音が響き渡る。
AKM自動小銃で武装し、茶色い夏季野戦服を着た集団が議長達一行を囲んだ。
彼等を掻き分ける様にして深緑色のM69常勤服を着た将校が、マカロフ拳銃を片手に現れる。
「同志議長。残念ですが、この飛行機は我等GRUが使わせて頂くことになりました」
官帽を被った顔を向けると、不気味な笑みを浮かべながら口を開いた。
「5分後にはここはスペルナズの空挺コマンド部隊が襲撃する手はずになって居ります。
貴方方は日本野郎と共にこの場で討ち死になされる運命……」
黒い革鞘に入ったシャーシュカ・サーベルを杖の様にして、身を預けるKGB長官。
彼の口からGRU将校に疑問を呈した。
「此処を爆破すれば、貴様も生きては帰れまい。違うか……」
将校は不敵の笑みを浮かべるばかりで、ただ拳銃を向けた手を降ろそうともしなかった。
間もなくすると、羽虫の様な音を立てた航空機が3機、空港上空に現れた。
茶色い繋ぎ服を着て、厚い綿の入った降下帽をかぶった集団が落下傘で降下してくる。
「我々の負けの様だな……」
議長は観念したかのように呟いた。
「持って回った言い方をなされますな、同志議長。
あなた方の殺生与奪は既に我等の手の中にあるも同然です」
60名ほどの空挺兵士達は着地をすると、姿勢を正してソ連首脳を囲む様にして駆け寄って来る。
「同志議長、核爆弾操作装置をこちらにお渡しいただけませんかっ!
言う通りにしていただければ脱出用の航空機も爆破せず、あなた方の生命も保証しましょう」
議長はKGB長官の方を振り返る。
「此処は逆らうべきではありませんな……。いう通りにしましょう」
男は不敵な笑みを浮かべる。
議長は、トランク型の核ミサイル誘導装置をGRUの将校に手渡す。
受け取った男はひとしきり笑った後、態度を豹変させる。
「皆殺しにして、イリューシン62は我等が頂いていく」
「了解しました。同志大佐!」
何処から聞きなれぬ自動小銃の音がすると空挺部隊の兵士達は姿勢を低くして、小銃を構える。
槓桿を引き、弾倉から薬室に銃弾を送り込むと射撃姿勢を取る。
大佐は、KGB長官をねめつける。
「こいつらは捨ておけぃ!どうせ死ぬ運命だ」
そう言い残すと足早にジェットに乗り込んだ。
空挺兵士の乗ったイリューシン62は、轟音と共に離陸準備を始めた。
ソ連首脳陣は、空港の端の方に逃げるべく滑走路を横断し、ターミナルビルの方へ駆けこむ。
ふとKGB長官は立ち止まると、遠くより駆け寄って来る兵士達に敬礼をした。
カーキ色の開襟野戦服に編上靴。『パナマ』と呼ばれる鍔の広い防暑帽を被った一群。
彼等は、KGB虎の子の部隊である、アルファ部隊の兵士達であった。
遅れて来た兵士達に指示を出す。
「裏切者どもを撃ち殺せ!」
無線機を持った兵士が、空港に待機しているストレラ-10に連絡を入れる。
即座に赤外線誘導ミサイルが発射されると、ロケット弾は直進し、航空機に衝突。
爆音が響き渡ると同時に閃光が広がった。
眩い閃光と共に白磁色の機体が滑走路に出現した。
天のゼオライマーは、ハバロフスク市内より空港に転移してきたのだ。
ゼオライマーより飛び降りて来る、帝国陸軍の深緑色の野戦服を着た男。
着地すると、姿勢を正すより早く拳銃を取り出す。
右手に構えた長銃身の回転拳銃をソ連邦最高会議議長に向けた。
ピストルは火を噴くと、議長の眉間を一撃で貫いた。
巨大ロボの出現に唖然とする彼等の目の前で、ソ連邦議長は暗殺された。
回転拳銃を片手に、ソ連首脳に近づいて来る。
「何者だ。貴様は……」
男は、不敵な笑みを浮かべつつ、ドイツ語で答えた。
「俺は木原マサキ……天のゼオライマーのパイロットさ」
KGB長官は怒りのあまり、身体を震撼させる。
右の食指でマサキを指差し、こう吐き捨てた。
「こやつを殺せ!」
周囲を警護する側衛官達が自動拳銃を一斉に取り出す。
雷鳴の様な音が周囲に響き渡ると同時に、 濛々と立ち上がる白煙……
轟音の後、横たわる首相の遺体を前に側衛官の一人が呟いた。
「あなた方の指示が原因で、ソ連はゼオライマーに荒された……。
それが今はっきり判りました。その責任を首相に取ってもらったまでです」
唖然とするマサキを余所に、ソ連人たちは内訌を始めた。
「勿論、貴方にも責任を取ってもらいますよ……長官」
政治局員の一人が、重い口を開いた。
「だが、その前に聞きたい。木原マサキの抹殺命令は、国益の為か……」
KGB長官は一頻り哄笑した後、彼等の方を振り向く。
「そうだ。ソ連国家100年の計の為、私は木原の抹殺を指示した。
残念なことにその企てを知る首相を君達は殺してしまったのだよ……」
「嘘を抜かせ。はなから俺の事を狙っていたではないか。違うか……」
マサキは、ソ連人の間を掻き分けると、KGB長官に相対した。
「遺言があるのなら、俺が聞き届けてやるよ」
彼は、インサイドホルスターに回転拳銃を仕舞うと男の方を向いた。
長官服を着た老チェキストは、右に立掛けたサーベルを取ると、鯉口を切る。
老人は、流暢なドイツ語でマサキの問いに応じた。
「この場所に君が来た時点から、君の負けは決まっていたのだよ……。木原マサキ君」
抜き身のサーベルを、マサキの方に向ける。
サーベルを振りかぶり、マサキの顔に近づける。
頬を白刃でひたひたと叩く。マサキは身動ぎすらしなかった……。
「木原よ……聞こう。貴様の望みとは何だ」
マサキは鋭い眼光で、目の前の老人を睨みつけた。
「俺の方こそ聞きたいね……何故俺を付け狙う」
薄く色の付いた眼鏡のレンズが夏の日差しを受け、怪しく光る。
「私個人の感情としては我が甥ゴーラ(グレゴリーの略称)の敵を取らせてもらうためとだけ言っておこう」
黒く太い秀眉を動かす。
「ゴーラだと……聞いた事がないな。そんな雑兵」
老人は、左手で色眼鏡を取ると懐に仕舞った。
「せめてもの慈悲だ、教えてやろう。ゴーラはKGBの優れたスパイとして東ドイツに潜入。
シュタージの少将にまでなった。その名をエーリッヒ・シュミットと変えてな!」
「故に貴様の動きは逐一この私の耳に入ったのだよ……。
今頃は駐留ドイツ・ソ連軍の中にいるKGB部隊が暴れ回る手筈。
シュトラハヴィッツ少将と忌々しいベルンハルト中尉、議長諸共殺している事であろう」
マサキは、一頻り哄笑する。
「何がおかしい」
じりじりと歩み寄ると、腰のベルトから何かを差し出す。
「今の話……、すべてばっちり記録させてもらった」
そう言って、右手に握った携帯レコーダーを見せる。
「貴様……」
吊り紐で背負ったM16自動小銃を取ろうとした矢先、六連式のナガン回転拳銃が火を噴く。
「お互い銃は抜きだ……、お前も日本野郎であろう、侍の末裔だろう。
剣技で決めようではないか」
そう言って拳銃を捨てると、サーベルを振りかぶる。
マサキは思わず後ろに引き、間一髪のところで一撃を避ける。
「死ねぃ!」
背を向けて、その場より退いた。
銃を抜こうとする兵士達に向けて、長官は言い放った。
「諸君。手出しは無用だ、私の好きなようにさせてくれ。
ソ連を守る盾であるKGB長官の私が、今こそ、このたわけ者に思い知らせてやるのだ」
剣を構えたKGB長官は、さながら憤怒した豹を思わせた。
マサキは失笑を漏らした後、M16小銃から20連発の弾倉を外して捨てた。
「面白い。茶番に付き合ってやろう」
左腰より銃剣を抜き出すと着剣する。そして刃の先を、老人に向けた。
薄ら笑いを浮かべる老人は、サーベルを持ちながら段々とにじり寄って来る。
マサキの繰り出した銃剣の一撃を難なく交わすと、彼の動く方に刃先を向ける。
「あっ……」
マサキの顔に、不安と躊躇いの色が浮かんだ。
もう一度、銃剣を繰り出すも、サーベルを払い落とすどころか、寸での所で弾き返されてしまう。
火花が散り、カチンと鈍い金属の音が不気味に響き渡る。
「何を怯えている。さあかかってこい、木原よ」
老人は、左手で煽る様にマサキの事を手招きする。
マサキは再び小銃を構えるが、負けを悟った……。
このままでは勝てない……。
だが薬室には、挿入した5.56x45ミリ NATO弾が一発は入っている。
至近距離なら外しはしまい……。
戦いとは情け無用なのだ。KGB長官のお遊びも終わりにしよう……。
僅かばかりの勇気を振り絞って、男の胸目掛けて銃剣を着き出す。
老人は身をかわすと、左手で銃身を握りしめ、サーベルで彼の肩から切りつけた。
刀は背中から着けていた×字型の背負紐の留め具に当たり、火花を散らす。
力いっぱい小銃を振り回して、老人の手から離す。
マサキは、胸元に銃口を突き付けると躊躇いなく小銃の引き金を引いた。
後書き
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崩れ落ちる赤色宮殿 その4
絶妙の剣技で攻め立てた老チェキストの亡骸から銃剣を引き抜くと、周囲を見渡す。
興奮が醒めて来たマサキは、恐る恐る左肩を見る。
強烈な一撃を喰らうも、背負紐の金具によって裂傷は防げた模様。
だが痺れるような痛みが、左手の指先まで広がって来るのを実感した。
小銃を負い紐で背中に回した後、右手でぐっと抑える。
左肩の傷は段々と痛みを増して来て、下に着ている肌着を滲み出る汗が湿らせる。
額から流れ出る汗を拭う事もせずに、マサキは並み居る赤軍兵を一瞥。
右手をベルトのバックルに当てると、眩い光とほぼ同時に衝撃波が広がっていく。
咆哮を上げ、吶喊してくる赤軍兵士をなぎ倒すと、光はマサキを包んだ。
光球は素早く移動し、ゼオライマーの元に向かった。
ゼオライマーの操縦席に転移したマサキは、背負っていた自動小銃を脇に投げ出す。
左肩を押さえ、やっとの思いで背凭れに座り込むと同時に合図した。
「美久、出力80パーセントでメイオウ攻撃を仕掛ける」
彼は、操作卓のボタンを右手で手早く連打する。
「了解しました」
ゼオライマーの手の甲に付いた球体が光り輝き、周囲を照らす。
次元連結システムを通じて、異次元空間よりエネルギーが集められ始まる。
力なく垂れ下がっていた機体の両腕が、勢い良く肩の位置まで上がった。
市街地より濛々と土ぼこりを舞い上げ、勢いよく前進して来る40機余りの集団。
噴射地表面滑走で、先頭を走るは、黒色の見慣れぬ戦術機。
恐らく試作機か、新型機であろうか。後方よりMIG-21を引き連れ、突進してくる。
件の機体は、ずんぐりむっくりとしたMIG-21バラライカとは違い、ほっそりとしている。
各部の意匠や全身が角ばった装甲板が配置された外観は、従前のバラライカとは大きく異なった。
刃の切っ先を思わせる様な鋭い面構えに、ソ連技術陣の期待の高さを伺わせる。
轟々と空より、響き渡る跳躍ユニットの音。
西の方角より匍匐飛行で、80機余りの灰色の塗装の施されたMIG-21が現れた。
右肩に大きく描かれた赤い星……、ソ連赤軍を示す国家識別章。
左肩に書かれた連隊番号がバラバラな所を見ると、残存部隊の寄せ集めだろうか。
横一列に隊列を組んで、段々と低空飛行で接近してくるのがレーダーで確認できた。
如何に多数の戦術機を運用するソ連赤軍とはいえ、今回の損失は如何ばかりであろうか……
ふとマサキは思ったが、この手で消し去る存在。どうでも良くなった。
「かかれ!奴はたった一機だ。我がソビエトの為に打ち取れ」
檄を飛ばしながら、突撃砲を唸らせ、近づいて来る。
隙間なく降り注ぐ弾丸の雨が、ゼオライマーを覆う。
背部兵装担架に懸架している二門の突撃砲も含めた計四門の火砲から浴びせられる攻撃。
何事もないかのように、ゼオライマーは射撃準備を取り続けていた。
胸の球体から、灼熱の太陽を思わせる様な強い光が放たれる。
直後、僚機から戸惑いの声が上がる。
「ええ!」
「何だ、アレは……」
全部隊の状況を確認する余裕は隊長にはなかったが、必死の思いで指示を出す。
「全機後退!タミナール・ビルまで退避ぃ!」
ただ隊長にさえも説明する時間などなかった。
ゼオライマーの攻撃準備を確認する間さえなく、滑走路の路面が大きく割れ始める。
戦術機に搭載可能な兵器では満足に削る事さえ困難な強度を誇るコンクリート……
まるで綿あめのように溶けていく様を見ていると、光に包まれた。
新型機の管制ユニットに、強烈な衝撃が走る。
「此処で退けばソ連の運命は……」
男の駆る灰色の戦術機は、全身を完全に消し去っていった。
空路、ウラジオストックに向かう数台のソ連空軍汎用ヘリコプター『Mi-8』。
その機内から遠く離れたハバロフスクから上がるキノコ雲を唖然と見つめていたラトロワ。
「ハバロフスクが……」
心配そうに西の方角を見つめる彼女の背中に、カフカス人の若い男が近寄る。
M69将校勤務服を着た黒髪の男が、そっと包み込む様に両手で肩から抱きしめた。
「フィカーツィア。親父が……俺を逃がした理由は分かるか」
左側に立つ男の顔を覘く。緑色の瞳がじっと彼女の顔を捉えた。
「親父は、最初から日本野郎と討ち死にする心算だった……」
抱きしめられたラトロワは、男の体の震えを背中越しに感じ取っていた。
「親父はグルジア共産党第一書記として、グルジアの自主独立の道を探っていた。
30年余り共産主義青年団から身を起こしてグルジア共産党中央委員を務めあげた。
グルジア保安省大臣も務めた男だ……。あのゼオライマーと言う大型兵器に勝てぬのは百も承知だったに違いない」
男の潤む翠眼を、唯々ラトロワは見ていた。
「俺に落ち延びる様に命じたのは、何れグルジア再独立の際に……」
ソ連はBETA戦争初期、ロシア系市民以外の少数民族の戦線投入を実施した。
しかしBETAの迫りくる物量の恐怖は、プロレタリア独裁の専制政治を遥かに凌駕した。
時にソ連市民にさえ仏心を見せたKGBとは違い、BETAはまるで機械の様に動き回り、ソ連を貪った。
政治将校からの粛清や、KGBの弾圧の恐怖さえも忘れさせるBETA……
最前線での脱走や反乱は日常化し、指揮系統の維持は困難を極めた。
そこでソ連政権の採った方策は、スターリン時代以来禁忌の存在であった民族問題。
同民族での部隊編成や、終戦後の民族共和国ごとの自主独立をソ連政治局の指令で認めた。
しかし同時に、楔を打ち込むことは忘れなかった。
出生した乳児は生後間もない段階で軍事施設に送り込む政治局指令を合わせて発令。
1936年以来、家庭保護、母性の尊重を続けたソ連政権の家族政策を一変させる出来事でもあった。
人々は、かつて孤児が徒党を組み、街を練り歩き、婦女子を辱め、店を破壊したを思い起こす。
その再来を、心から危惧した。
男は、志半ばで倒れた亡父を想い、嗚咽しながら続ける。
ラトロワは、背中で男の温もりを感じながら、静かに聞いていた。
「ソ連の銀狐の息子として……、グルジア第一書記の息子として……」
言葉に詰まった男は、思わず天を仰いだ。
「自分の遺志を継いで、政治の表舞台に立ってほしいという事だよ。俺はそう思っている」
そう告げると、男は再び項垂れた。
傷心の男を慰めようと、機内にいる人物の口々から発せられた。
抱き着く男の前に佇むラトロワの耳にまで、カフカス訛りの強いロシア語が聞こえて来る。
「若……」
「無念で御座ります……」
男の頬から流れ出る滂沱の姿を見て、深緑の制服を着た彼の護衛達は咽び泣いた。
1978年7月3日。
その日、帝政ロシア時代より続いた120年に及ぶハバロフスクの歴史は終わった。
マサキは、睥睨する様に聳えるゼオライマーを背にして、日の傾き始めた屋外に佇む。
機密性の高い操縦席で喫煙をするのは、ご法度ゆえ、一人機外に降り立っていた。
マサキは痛む左肩を庇いながら、懐中より紙巻きたばこを取り出す。
ホープの紙箱よりタバコを抜き出すと、口に咥える。
右手に持つライターで、炙る様に火を点けた。
「あまりにも他愛無いものだ。あの様な連中に……この俺が傷つけられようとは」
そうつぶやくと、紫煙を燻らせながら跡形もなく消えたハバロフスク市街を一人歩いた。
暫し考え込んだ後、煙草を投げ捨てると再び機内に乗り込む。
荒野に吹く一陣の風と共に、ゼオライマーは姿を消した。
後書き
ご意見・ご感想、宜しくお願いします。
恩師
前書き
ソ連軍も現実はともかく軍隊手帳や教育で『ヘーグ陸戦条約』の可能な限りの順守を指導されます。
東ドイツ・ベルリン
ベルリンにあるドイツ駐留ソ連軍総司令部。
深夜にもかかわらずハバロフスク襲撃の報は、即座に総司令官の元に入った。
テレックスで伝わった電報を読む司令の元に、数名の男達がなだれ込む。
男達は着て居る軍服も階級もまちまちで、それぞれ自動拳銃や回転拳銃で武装していた。
執務机の椅子に腰かける薄い灰色をした両前合の将官勤務服の男に、銃が付き付けられる。
男は、椅子から身を乗り出して叫んだ。
「ゲ、ゲルツィン!」
司令官は、老眼鏡越しに男を睨め付けた。
「き、貴様等、何のつもりだ……」
大佐の階級章を付けたM69野戦服の男が、挨拶代わりに軍帽を脱ぐ。
「ソビエトの主人公は誰か。教えに来たのさ……」
男は、懐中よりマカロフ拳銃を素早く取り出す。
既に司令を取り囲む様に、赤軍兵が居並んでいる状態だった。
「我々は、党指導部の人形じゃない……」
消音装置を銃口に付けると、遊底を強く引く。
「労農プロレタリアートこそが、ソ連を動かしていると……」
大佐は居並ぶ兵士に、檄を飛ばす。
「諸君!泡沫でもいい……新しいソ連邦の夢を描こうではないか」
ピストルを勢いよく司令官の左の顳顬に突きつける。
「ど……、同志ゲルツィン……」
その刹那、拳銃の遊底が前進し、9x18ミリ弾の薬莢が宙を舞う。
司令官は衝撃で顔を歪めると、右側に崩れ落ちる。
椅子事、後頭部を叩き付ける様に倒れ込んだ。
床に広がる血の海を見ながら、唖然とする周囲を余所にゲルツィンは続ける。
「東ドイツの連中への手土産は用意できた……」
彼の脇に、すっと中尉の階級章を付けた男が近寄る。
「同志大佐。無血で駐留軍を我が物にするという話は、駄目でしたな……」
男はゲルツィン大佐に、黒い『ゲルべゾンデ』の箱を差し出す。
西ドイツの高級煙草で、ターキッシュ・ブレンド。
両切りで何とも言えない甘い香りは、口つきタバコが好きなソ連人さえも魅了した。
ゲルツィン大佐は、男に差し出された箱より両切りタバコを取ると口に咥える。
「オレは、端から無血で片付くとは思ってねえよ」
酌婦のように火の点いたライターを差し出して来る男に、顔を近づける。
「司令の首を持参して、交渉の入り口づくりをする……」
一頻りタバコを吹かした後、ふうと紫煙を吹き出し、天を仰ぐ。
大佐は、左手の食指と中指でタバコを挟んだ儘、指示を出す。
「ベルリンのドイツ軍参謀本部に直電を入れて置け……。
連絡の文面は……、次の様に書け。
『同志ユルゲン・ベルンハルト中尉へ……同志エフゲニー・ゲルツィンより』
以上」
男の合図とともに、連絡要員が通信室に駆け込んだ。
「同志大佐からの命令だ、ヴュンスドルフの空軍基地から戦術機部隊を回せ」
総司令部から連絡の有ったヴュンスドルフの空軍基地で慌ただしく出撃準備が始まる。
滑走路に数台の戦術機が居並び、跳躍ユニットのエンジンが吹かされる。
そのうちの一機の手に握られているのは、20メートル近くある二本の旗竿。
それぞれには、軍艦に掲げられる大きさのソ連国旗と白旗。
国家間の交戦規程を記した『ハーグ陸戦条約』32条に基づく措置であった。
強化装備姿の男達が駆け込んでくると、管制ユニットに滑り込む様にして乗り込む。
轟音と共に戦術機はベルリンへと向かった。
深夜のベルリン・パンコウ区。
自宅の寝所で妻と寝ていたユルゲン・ベルンハルト中尉は、叩き起された。
彼は、毛布を蹴飛ばすとベットより起き上がる。
黒いランニングシャツに深緑のパジャマのズボン姿で、周囲を見回す。
気が付けば、真横に野戦服姿のヤウク少尉がタバコを口に咥えた姿で佇んでいる。
多分、渡しておいた合鍵で入って来たのであろう。
怒気を含んだ顔つきでヤウクの顔を見ると、こう告げた。
「随分と荒々しい起こし方だな。それに我が家では寝室は禁煙だぞ……」
茶色いフィルターのタバコを咥えたヤウクは、右の親指で外を指す。
「僕に起こされたことを感謝するが良いさ。シュタージの送迎で来た……」
何時もはユルゲンに気を使ってタバコを吸わない彼が紫煙を燻らせている。
ただ事でないのは、理解できた。
「可愛い奥様のパジャマ姿は、奴等に見せたくはあるまい」
ヤウクは、ベットの端に座るベアトリクスの方を見る。
彼女は濃紺の寝間着一枚。状況を把握できず、右手で寝ぼけ眼を擦っている。
開けた上着から見える豊満な胸は、何とも艶かしく見る者を魅了した。
「ヤウクさん……何時だと思ってるの。深夜2時よ」
ベアトリクスの一言に、ヤウクは気を取り戻すと余所行きの笑みを浮かべる。
「申し訳ないけど、御主人……連れて行きます……」
怫然とする彼女は、乱れた髪を手櫛で梳きながらヤウクを睨む。
ヤウクは表情を改めると、左わきに抱えたビニール袋をユルゲンに投げ渡す。
「君のサイズの行軍セットだ……急いで支度して呉れ」
行軍パックセットと言われる上下長袖の下着と靴下やハンカチの入った一揃いの袋を受け取る。
袋をまじまじと見たユルゲンは、思わず不満を漏らした。
「うわ、官品かよ……、これ嫌なんだよな」
その一言に苛立ちを感じたのか、ヤウクは紫煙を勢い良く吐き出す。
普段、行儀のよい彼にしては珍しく舌打ちをした後、反論した。
「こんな時間に酒保が開いてるわけないだろ……無理して用意したんだ。
我儘はいい加減にしろよ」
彼は、ヤウクの説教に辟易したのか、顔を背けて返事をした。
「ハイ、ハイ……」
ユルゲンは、話しながらクローゼットの前に移動する。
観音開きの扉を開けると、中にあるレイン・ドロップ模様の迷彩服の一式を取り出した。
脱いだパジャマをベットの上に投げ捨てると、夏季野戦服に手早く着替える。
腰を屈めながら官帽を被ると、鏡台を見ながら両手で整える。
「良し、準備万端……」
そう言うとユルゲンは、立ち上がる。
「じゃあ、ベア……行ってくるよ」
ベットの端に座るベアトリクスの方へ振り返って、彼女の薄い桃色の唇に口付けをした。
玄関先に待っていたのは、小柄で金髪な男だった。
「同志ベルンハルト、久しぶりだな。ゾーネだ」
右手で挙手の礼を取り、ユルゲンを見据えた。
ゾーネは、灰色の国家保安省の開襟制服に身を包み、官帽を目深に被っている。
「お前さんはアスクマン少佐の……」
「これでも自分は少尉だ……。将校らしく扱って欲しい」
キュッと長靴の踵を鳴らし、向きを変える。
「あと自分の事は、同志大佐の色男でも何とでも呼べばいい……」
何気ない一言であったが、ユルゲンの心には響いた。
ゾーネは、今し方アスクマン少佐の事を、大佐と呼んだ。
ああ……、あの『褐色の野獣』は黄泉の国に旅立ったのだな……
何時も不敵の笑みを浮かべてた、あの俳優顔の男はもうこの世に居ない。
ヤウクやカッツェと棺を蓋う、その時に立ち会ったのに……
ユルゲンは半年近く経って、改めてアスクマンの死を実感した。
ゾーネ少尉は咳ばらいをすると、ユルゲンの顔を覘く。
「単刀直入に言おう。
駐留ソ連軍が軍使を参謀本部に寄越した。先方からの御指名で君を迎えに来た」
妖しい目で、ユルゲンの事を舐めまわすように見る。
そして一頻り哄笑した。
「ふふ……、同志大佐が君の事を焦がれたのも、分かる気がするよ」
そう言うとゾーネ少尉は、ユルゲンの臀部に右手を当てた。
ユルゲンは、左手で彼の右手を押しのける。
「気色の悪い冗談は止してくれ……」
彼等の真後ろに立つ、明るい緑色の人民警察を制服を着た男が口を開いた。
「宜しいでしょうか」
口調からすると下士官だろうか。運転手の男が、ゾーネ少尉に呼び掛ける。
「同志少尉、お時間の方は……」
腕に嵌めたグランドセイコーの腕時計を見る。
「さあ、詳しい話は車に乗ってからだ」
彼等はゾーネ少尉の指示に従って、後部座席から人民警察の緑色のパトカーに乗り込む。
警察使用のヴォルガGAZ-24は青色の警告灯を回転させながら、走り抜ける。
深夜のパンコウ区を勢い良く進む車内で、密議を凝らしていた。
ユルゲンは思い出したかのように、ふと漏らした。
「野獣の腰巾着が、俺に用って何かい……新手の軟派か」
彼は、先程のゾーネの戯れに拒否感を示した。
ゾーネは気にすることなく、淡々と返した。
「気が立っている所を済まないが……同志ベルンハルト。
エフゲニー・ゲルツィンという男を知っているかね」
そっと懐中より電報の写しを取り出すと、ユルゲンに手渡す。
それを一瞥した彼は、ふと告げた。
「ゲルツィン教官が生きて居られたとは……」
ユルゲンは電報を握りしめながら、過去の記憶に深く沈潜した。
忘れもしない……、4年前のソ連留学。
モスクワ近郊のクビンカ基地で受けた、半年間の地獄のような特訓。
ゲルツィン教官は、空軍パイロット出身で数少ないカシュガル帰りの衛士。
ソ連改修型のF-4Rで光線級に肉薄。ナイフを振るい、単機生還という噂も聞いた。
超音速のジェット戦闘機乗りから転身して生き残っただけでも驚異的なのに……
並のドイツ人以上にロシア人に詳しいヤウクは、嘗ての教官に不信感を抱いた。
ヴォルガ・ドイツ人の祖父母や両親からロシアの習慣を聞いていた故に、ふと疑問に思う。
ロシア人の姓でゲルツィンという姓は庶子であったアレクサンドル・イワノヴッチ・ゲルツェンの為に、父イワン・アレクセイヴッチ・ヤコブレフが特別に作った姓。
しかも子息や孫は欧州に移住し、其処で最期を迎えたはず。
モスクワで1947年に亡くなった孫・ピア・ヘルツェンの子孫が居るという話も、寡聞にして知らない。
テロ組織『人民の意志』の系統をひくロシアの党組織は秘密主義。
議会を通じて、社会主義を広めようとしたドイツやフランスのと違い、暗殺や強盗もいとわなかった。
暗殺者を兄に持つレーニンや銀行強盗で数度の脱獄を繰り返したスターリン……。
彼等が偽名なのは、つとに有名……
今もソ連共産党の幹部の少なからぬ人間は偽名で活動している。
アルメニア人やカザフ人、ユダヤ人なのにロシア風の姓を名乗り、公職に就く。
教官が出自を隠ぺいするために、人民主義の元祖、ゲルツィンの名を偽名で名乗る。
十分、あり得る話だ……
矢張り件の男は、KGBかGRUの工作員だったのではないか。
スターリン時代、モスクワで国際共産党大会が開かれた時、各国からの招待者をNKVDが世話したことは夙に有名だ。
あのトロツキーを暗殺した伝説的なNKVD工作員、レオニード・アレクサンドロヴッチ・エイチンゴン。
彼もレイバ・ラザレヴッチ・フェリドビンという名前のユダヤ人だった。
東ドイツからの36名の生徒を、KGB或いはGRUが付きっ切りで教える。
今回もその線ではないのか……、決してあり得ない話では無いのだ。
ソ連の策に乗るシュタージも愚かだが、理解して付いて行くユルゲンも考え物だ。
もっとも彼を叩き起した自分もそれ以上に愚かではあるが……
ヤウクは煙草に使い捨てライターで火を点けると、後部座席の窓を手動ハンドルで開けた。
紫煙を燻らせながら、助手席で正面を向いて座るゾーネ少尉に問うた。
「君達が動いたと言う事は誰の指示だい。政治局絡みだろ……」
ゾーネは後ろに振り返ると、彼の顔をちらと見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「親父っさんと言えばわかるだろう……」
それまで黙っていたユルゲンが、口を開く。
「あの人がやりたい事は、荒唐無稽だが理解できる」
刺すような目つきで、窓より振り返るとゾーネの事を見つめた。
「あの人の夢は……俺の夢でもあるのさ。一緒に命賭けて戦う仲間だよ」
そう告げると、再び車窓に視線を移した。
思わぬユルゲンの一言。
ゾーネ少尉は目を見開いて、彼の方を見る。
「議長と君との関係は、噂通りだったのか……」
ユルゲンは、右の助手席から身を乗り出しているゾーネに顔を向ける。
不敵の笑みを浮かべながら、漏らした。
「どんな綺麗事でも力がなくては駄目だ……。
俺はこの4年間戦術機を駆ってBETA共と戦う合間、政治の世界に翻弄されてきた」
彼は鋭い眼光で、ゾーネの眼を射抜く様に見つめた。
「政治は力や数の論理で動く。
この祖国や愛する家族を前にして詰まらぬ良心は要らない……。
俺一人ですべて抱え込むのも限界がある。そう考えてあの人と杯を交わしたのさ」
再び静寂を取り戻した車内。
ユルゲンは嘗ての恩師からの電文を握りしめながら、一人家に置いて来た妻を想う。
漫然と車窓より、新月で薄暗い市中を眺めていた。
後書き
「隻影のベルンハルト」より、ユルゲンのソ連留学時代の教官を出しました。
ご意見・ご感想お待ちしております。
恩師 その2
前書き
ソ連軍・ロシア軍では規則で私的な鉄拳制裁やいじめは禁止になっています。
ですが今日も集団いじめやリンチ殺人、報復としての銃乱射事件、上官の殺害などは続いています。
東ドイツ・ベルリン東駅
早朝のベルリン東駅は、駅舎の中から溢れるくらいのソ連軍兵士でごった返していた。
国鉄職員達は、乗り付けた貨車から降り、整然と居並ぶ赤軍兵をただ見守る。
状況を確認に駆け付けた民警の鉄道保安隊員達は、不逮捕特権を盾に追い返された。
警察当局はすぐさま、在独ソ連軍将兵に対する捜査権を持つ特別機動隊に連絡を入れた。
(内務省麾下の人民警察機動隊。ソ連の内務省軍、中共の武装警察に相当)
ほぼ同じころの共和国宮殿。
前日のハバロフスク襲撃の報を受け、臨時閣議を招集。
議論が白熱している会議室に、野戦服姿の伝令が息を切らして駆け込んで来る。
「ど、同志大臣、大変で御座います。赤軍兵が大挙してベルリン東駅に乗り付けました」
伝令の言葉に国防大臣は驚愕の声を上げる。
「な、何!駐留ソ連軍の兵隊がベルリン東駅に……」
直立する伝令は、続ける。
「同志将軍、兵隊だけじゃありません。ゲルツィン大佐からの使いと名乗る男ですが……司令の首を持って現れました」
困惑する会議室を余所に、シュトラハヴィッツ少将が口を開いた。
「ゲルツィンか……、カシュガル帰りの衛士で怖いもの知らずの男です」
少将の発言を受け、国防大臣が告げる。
「如何やら向こうは本気のようですね……」
上座に座る議長が、重い口を開いた。
「支度をしてくれ」
そう告げると男は立ち上がった。
「露助共には話し合いだけでは侮られる。力には力だ……」
ソ連・ウラジオストック
太平洋艦隊の母港であるウラジオストック。
この地は古くは蒙古や鮮卑系の渤海や金の一部で、外満洲と呼ばれる地域。
ロシア人到達以前より、同地は支那王朝の影響下にあり、明代は永明城、清代は海參崴と称した。
17世紀末、毛皮交易と称して領土拡張の野心を抱くモスクワの意図を汲んだロシア人が侵入。
数度武力衝突があったが、康熙28年(1689年)、清朝によって国境が策定された。
世に知られているネルチンスク条約(尼布楚條約)である。
しかしロシア側は、次第に国境を無視。清朝の領土を侵食。
太平天国の乱(1851年から1864年)で混乱する清国を、一方的に武力で威嚇。
咸豊7年(1858年)と咸豊9年(1860年)には、帝政ロシアに有利な領土条約を一方的に結んだ。
これにより黒龍江左岸の外満洲はロシア領の沿海州になった。
そのウラジオストック防衛のために金角湾を臨む丘の上に聳える要塞。
19世紀末に極東の不凍港として開発された際に設置。
要塞にはソ連時代に入ると赤色海軍・太平洋艦隊司令部が置かれる。
対日、対米の軍事戦略上、重要視された。
要塞の中にある一室に、陸軍の将校が入っていく。
木綿綾織りのM69夏季野戦服に、熱帯用の編上短靴を履いた男が上座に声を掛ける。
深緑色の中尉の野戦階級章を付け、将校を示すサムブラウンベルトを締めている。
「どうしますか……駐留軍司令の粛清も彼の独断。
参謀本部の方針に不満で勝手に突っ走てるんですよ」
前日、齎された戦術機による首都壊滅の報は、より緊張を高めた。
「己の力を東欧諸国に示して主導権を自分たちの物にしようと……」
上座に腰かける男が口を開いた。
姿格好は、灰色の上着と太い赤色の側章が二本入った濃紺のズボン。
夏季将官勤務服を着て居り、大将の階級章を付けている。
男は、ソ連赤軍参謀総長であった。
彼は、臨時の『前線視察』と言う事でウラジオストックに先立って入市していた。
結果的に、ゼオライマー襲撃から運良く難を逃れていたのだ。
「ゲルツィン大佐か……」
参謀総長は、不敵の笑みを湛えた。
「思い通りに動いてくれたってことさ」
若い中尉は、予想外の答えに絶句した。
「えっ……」
勢いよく参謀総長は立ち上がる。
「同志ロゴフスキー……、ゲルツィンみたいな軍人は、そういう行動しか取れない。
だからこそ、使い道がある」
立ち尽くすロゴフスキー中尉の顔を見つめる。
「シュトラハヴィッツがはたして、どういう対応を取るか……。
ゲルツィンは、絶好の捨て石になる」
ベルリン市街に続く国道を全速力で走り抜ける黒塗りの大型セダン。
車種は最新型のチャイカ・M14型。ソ連国旗が掲げられ、外国間ナンバーを付けている。
ZiL『114』モデルが2台、先導するチャイカの後を続く。
車中の高級将校は、背凭れに寄り掛かられながら、後部座席に座っていた。
目深に軍帽を被り、ソ連赤軍大佐の制服を着た男は車窓を眺めながら独り言った。
「あれから4年か……時は早いな」
ゲルツィン大佐は、目を瞑ると在りし日の追憶に耽る。
優秀な学識と技量を持ち、ギリシア彫刻を思わせる容姿端麗な青年を振り返った。
1974年夏。暑い日差しが照り注ぐクビンカ基地。
首都モスクワより24キロの場所にあるこの基地には航空基地の他に建設途中の博物館があった。
BETA戦争前に計画されたが情勢の悪化で中止。
急遽、その敷地は戦術機の臨時訓練場になった。
深緑のM69野戦服姿の男が地面に倒れ込む東独軍兵士に声を掛ける。
「貴様等がモスクワまで来たのは観光の為か?それとも援農の為か……」
鼻血を流しながら、仰向けに倒れるレインドロップ迷彩服姿の青年士官。
教官役の軍曹は軍靴を響かせながら、彼の脇まで近寄った。
「い、いえ同志軍曹。自分は……」
「聞こえんな……」
軍曹は青年将校の事を軍靴で蹴りつけようとした瞬間、誰かに肩を掴まれる。
「離せ」
彼を掴んだのは、ユルゲンだった。
「同志軍曹。同志ヘンぺルの事は許してやってください。彼の失態は俺が取りましょう」
ユルゲンは、赤軍兵の過剰なまでの鉄拳制裁に見かねて止めに入った。
予てよりソ連軍の新兵虐め(ジェドフシーナ。Дедовщина)は知っていたし、赤軍内部での法の埒外での私的制裁は今に始まった事ではない。
一発殴って、罵倒する位なら東独軍でも仏軍外人部隊でも良くある話だ。
だが、既に倒れて抵抗の意思のない人間を足蹴にしようとしたことに耐えかねたのだった。
ブリヤート人軍曹の周囲を、ドイツ留学生組がぐるりと囲む。
何時もの『4人組』の他に、ユルゲンたちと一緒に留学した陸軍航空隊の青年将校の姿もあった。
「な、舐めるんじゃねえぞ!東欧のガキどもが」
男はユルゲンの手を振りほどくと、右手で腰に差したNR-40と呼ばれる短剣の柄を掴む。
鯉口を切ると、白刃をチラつかせながら東独からの留学生を恫喝した。
ユルゲンは、腰のベルトから素早く短剣を抜き出す。
右手にはソ連製の6kh3銃剣を模倣した、黒い柄の東独軍銃剣が握りしめられていた。
「どうか、刀をお納めください。出来ぬというのであらば、差し違える覚悟です」
彼は、ブリヤート人軍曹が同輩に兇刃を振るおうとしたので已む無く抜き合わせた。
遠くで事態の推移を見ていたゲルツィンは、拳銃嚢に右手を伸ばす。
マカロフ拳銃を取り出し、弾倉を即座に装填すると空中に向かって威嚇射撃をした。
数発の弾が発射され、雷鳴の様な音が演習場に響き渡る。
「静かにしろ」
立ち尽くすドイツ留学生たちを無視して、赤軍の教官の方に向かう。
その場にへたり込み、短剣を地面に落としたブリヤート人軍曹の目の前にまで来る。
拳銃を、男の面前に突きつけると指示を出した。
「お前らは舐められて当然だ。ろくに指導も出来ぬのだからな」
開いた左手で左肩を叩き、こう言い放った。
「ま、精々今のうちに頭を冷やしておくんだな」
ゲルツィンは、拳銃を仕舞って振り返る。
立ち去ろうとしていたドイツ留学生組の中から、ユルゲンの事を呼び止めた。
「同志ベルンハルト、二人だけで話がしたい」
赤く日焼けしているも青白く美しい肌。サファイヤを思わせる瞳でじっと彼の事を睨んでいた。
演習場の端に移動したゲルツィンは、目の前の好男子に問うた。
「先程の言葉……、留学生部隊長としての言かね」
そう言ってユルゲンは両手を差し出した。
「落とし前を付けましょう」
重営倉に放り込まれる覚悟であることを、ゲルツィンに示したのだ。
男は、手を差し出して来るユルゲンの事を笑い飛ばした。
「ほう、頭でっかちな男と思っていたが中々情熱的なんだな」
そう告げると、立ち尽くすユルゲンに背を向ける。
「今の事は見なかったことにしてやる。
同志ベルンハルト、代わりに腕立て伏せ100回とグランド3周を命ずる」
そう吐き捨てると、演習場へ踵を返した。
その言葉を聞いたユルゲンは、姿勢を正して、敬礼した。
「了解しました。同志教官」
『どこに居るのだよ。ベルンハルト候補生よ……』
あの輝かしいばかりの笑顔を浮かべる男が、酷く懐かしく感じられた。
「同志大佐、ハバロフスクは何と言ってたのですか」
その一言で、再び現実に意識を戻した彼は軍帽の鍔を押し上げる。
「どうもこうもあるか。通信途絶状態なのだよ」
象牙製のシガレットホルダーを取り出すと、両切りタバコを差し込む。
米国製のオイルライターが鈍い音を響かせ、蓋が開く。
ジッポライターで火を点ると、紫煙を燻らせた。
「東欧に舐められ、日本野郎にまで好き勝手を許した。此の儘じゃ赤い星も地に落ちる」
(赤い星はソ連赤軍のエンブレムで、赤軍の事を指し示す)
「如何に立派な船でも船頭が愚かならば嵐に遭わずとも沈むのは避けられまい」
ゲルツィンは紫煙を燻らせながら、一人沈みゆく祖国・ソビエトを想う。
再び背凭れに寄り掛かると、瞼を閉じた。
後書き
前回、今回の話で、新たに出てくる原作人物の説明です。
(役職等は外伝『隻影のベルンハルト』準拠になります)
初見の方もいるので説明いたします。
エフゲニー・ゲルツィン(ソ連軍の戦術機教官。カシュガル帰りのエース)
カシミール・ヘンぺル(ソ連留学組の一人。陸軍航空隊出身)
ブドミール・ロゴフスキーは、TEが初出です。
ですが、2001年に中佐である事を勘案し、1978年当時20代後半から30代前半と考えて登場させました。
ご意見・ご感想お待ちしております。
恩師 その3
前書き
東ドイツ・ベルリン
東ベルリン市内にある第6独立親衛自動車化狙撃旅団本部。
(ソ連軍の狙撃兵とは歩兵の事)
上座に座るゲルツィン大佐を前に、東独軍の青年将校達が立ち竦んでいた。
居並ぶ青年将校達はユルゲン・ベルンハルト中尉を始めとする『4人組』。
何時もと違うのは、『4人組』のメンバーが紅一点のツァリーツェ・ヴィークマンではなく、ソ連留学組同期のカシミール・ヘンペル陸軍中尉であった。
上座に座るゲルツィンが、青年将校達に尋ねた。
「要は後始末を付けろと……」
背筋を伸ばし、直立するユルゲンは、男の問いに静かに答える。
「そういう事です」
手前に居たトルクメン人の男が立ち上がり、鋭く呼び止めた。
「己惚れるじゃねえぞ、この戯けが」
青筋を立ててひどく興奮した様子で、恫喝する。
「仕掛けてきたのは貴様等ではないか!」
ヤウク少尉は、ロシア語で男を一喝する。
「黙らっしゃい」
ヤウクは、顔を上座の方に向ける。
「同志ゲルツィン。こちらは議長の暗殺未遂、戦術機まで持ち出して宮殿を襲撃。
おまけに大使館前で護衛に付いていたアスクマン少佐まで撃たれた」
手前の椅子を引っ張り出すと、それに踏ん反り返る様に腰かけた。
「こちらは、ソ連の人間を標的に掛けてないのにですよ……」
「ベルンハルト、ヤウクよ……」
大佐は、二人を諭すように呼び掛けた。
「我が『大ロシア』は、一度としてブルジョア諸国やファッショ政権に叩頭した歴史はない。
それがソビエト連邦と言う物だ」
その一言を聞いたユルゲンは思わず不敵の笑みを湛える。
額には玉の汗を掻きながら、堂々と答える。
「では、その見解を改めてもらいましょう……」
その場に衝撃が走る。
居る男たちは慌てふためいた様子で、一斉に声を上げる。
「何だと!」
発言の主である青年将校を見つめた。
男は、額に深い皴を刻みながら、ユルゲンの問いに答えた。
「となると……結末は一つか。残念だな。同志ベルンハルトよ……」
ゲルツィン大佐の副官が立ち上がり、叫んだ。
「懲らしめてやりましょうよ、同志大佐」
顔に嘲りの色を浮かべながら、ユルゲンをねめつける。
「この小童どもに駐留軍30万の力を見せつけてやれば、寝ぼけた頭も冷めるでしょう」
男の言葉に、ユルゲンは嘗てボルツ老人から聞いた話を思い出していた。
ソ連政権は1945年以来、30万を超える軍勢を小国・東ドイツに設置。
壁の向こうにある西ドイツとNATO軍牽制の為でもあるが、もう一つ重大な理由があった。
それは東ドイツの監視、反乱阻止。
それを証明するかの如く、1973年以前の東独軍は脆弱な軍隊であった。
戦車師団は2個師団しかなく、第一戦車軍団の様な1万人規模の部隊は無かった。
また即戦力と言えば、自動車化歩兵4個師団と参謀本部直轄の空挺特殊部隊(第40降下猟兵連隊)のみ。
とても4200両の戦車を有する駐東独ソ連軍には対抗できず、蹂躙されるのは目に見えていた。
時々ソ連軍は市外に繰り出すと、これ見よがしに最新鋭のT-72戦車を乗り回し、東独政権を牽制していた。
ソ連は、何か不穏な動きを東独政府が行おうとすれば、すぐ鎮圧できる態勢を構築していた。
高い工業力、技術力を有する東独を注視し、民主化運動の波及を恐れた。
それは現実のものとなった。
一例を挙げれば1953年6月16日のベルリン暴動であろう。
同年3月5日のスターリン『薨去』の報に接したベルリン市民は、立ち上がった。
不条理な賃金カットと言う、SEDの無為無策に激高し、市街地でデモ活動を開始。
SED政権幹部は、1896年の露館播遷の顰に倣うかの如く、駐留ソ連軍司令部に逃亡。
デモ活動はベルリン全市を覆う様に燃え広がり、政権打倒の可能性まで見え始めた。
事態を重く見た東独政府は、デモ隊と話し合いに応じる姿勢を見せる。
しかし、東独の姿勢を問題視したソ連軍は、事態の鎮静化の為に武力を用いた。
即座に2万人の軍勢とT-34戦車の部隊を送り込み、武力制圧。
東独政府関係者116名を含む500名前後が死亡し、2000人近い負傷者が出た。
少なくとも5000人以上が逮捕され、200人近くが裁判なしで処刑。
この事件は、独ソ両国間に深い傷跡を残した。
ユルゲンは、老爺の昔話を思い出すことによって、自分が必ずしも祖国の為ばかりではなく……、ベアトリクスの為に、時に剣を取って戦う事が許されても良い……かと思えた。
ユルゲンの脇に居るヘンペル中尉が、不敵の笑みを浮かべる。
「此方には、東欧諸国が付いている事をお忘れなく……」
長年の暴政により、東欧諸国からの怨府となっている祖国・ソ連。
立ち上がった男は、苦虫を嚙み潰したような顔をすると吐き捨てた。
「この忌々しい餓鬼どもが……」
ゲルツィン大佐は微動だにせず、上座に腰かけていた。
ソ連軍の事務官が尋ねた。
「ベルンハルト君。それでも全面対決も辞さずと……」
意を決して、男の顔を覗き見ると呟く。
「もとより覚悟で乗り込んできました……」
ゲルツィンが不意に立ち上がった。
「同志ベルンハルト!」
顔をユルゲンの方に向ける。
「何も国を挙げての戦争をする必要はない……ここで二人で決着をつけるのも方法の一つだ」
紙巻きたばこを取り出すと、火を点けた。
ユルゲンは不敵の笑みを湛えると、一言告げた。
「お望みならば……」
ゲルツィンは、薄ら笑いを浮かべる。
「その意気買った。サーベルだけでの一騎打ち。無論自前の戦術機でな」
先程まで平静さを保っていたカッツェは、その時ユルゲンが目を逸らした程、驚愕の色を表した。
「バカ、止めるんだ。そ、そんな事っ……」
ユルゲンは、おもむろに手を挙げ、カッツェの事を制する。
「もし議長の名代の私が勝ったら、貴方方はベルリン……否、ドイツ全土から引き揚げる覚悟を持ってもらいたい」
大佐は、紫煙を燻らせながら語り掛ける。
「ほう、面白い。ならば決着がつくまでベルリンには手を出さない確約はしよう。
明日の正午、場所はロストック軍港だ。楽しみに待っているぜ」
その言葉を聞いて、ユルゲンは不敵の笑みを湛える。
「良いでしょう」
青年将校の一団は、そう言い残すとその場を後にした。
ベルリン・共和国宮殿
早朝の宮殿内の一室。そこで男達が密議を凝らしていた。
白無地のシャツに薄い灰色のスラックス姿で立ち尽くす男。
男は、アベール・ブレーメの発言に血相を変える。
「何ぃ、ソ連首脳部が死んだって!」
ソファーに深々と腰かけるアベールが告げる。
「ゲルツィン大佐という怪しげな男の暴走……」
黒縁眼鏡を右手で押し上げる。
「党組織や細胞(共産党用語で下部組織の事)が健在だったらあんなことはあり得ない。そう考えると辻褄が合うではないか」
「じゃあ、仮にソ連最高指導部が死に絶えたというのなら、誰がソ連を操っているのだ」
ふと彼は、冷笑を漏らす。
「考えてみ給え」
右手をスラックスの側面ポケットに入れ、中より「CAMEL」のタバコを取り出す。
「『チェコ事件』の折にシュトラハヴィッツ君と轡を並べた、あの参謀総長か……」
縦長のオーストリー製のオイルライターで火を点ける。
「もしゼオライマーを利用してソ連指導部を消したのなら……」
アベールの発言に紫煙を燻らせながら、男は応じた。
「シュトラハヴィッツ君の話を聞く限り、党中央の意見には盲従するとの評判。
そうは思えぬが……」
「参謀総長の狙いは、端から共産党組織を乗っ取る事だったかもしれん。
予め作戦を練ってから、ゼオライマーを引き込んだ」
「いくら何でも滅茶苦茶な話だ」
すっと立ち上がり、背広の前ボタンを止める。
「或いは、首脳をゼオライマーに殺させてから、奴が赤軍に話を持ち込んだ。
ソ連を牛耳らないかと……。
軍は如何すると思う。ましてや指導部の死は、赤軍の責任問題に発展する。
決してあり得ない話ではない」
テーブルの上に置いてあるホンブルグのクラウンを掴み、持ち上げた。
右手で鍔を押さえて、左手で水平になる様に整えながら被る。
「確かに今回のゲルツィン大佐の行動は不自然すぎる」
「邪魔したな……」
ドアノブに手を掛けたアベールに男が声を掛ける。
「坊主には会わねえのかい」
「彼も一人前の男だ……。今更私が同行できる立場ではあるまい」
アベールの言葉に、男は相好を崩した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
恩師 その4
前書き
シュタージが東ドイツ内にKGBの指導でテロリストの秘密基地を作ったのは公然の事実です。
1970年代後半から1980年代の西ドイツ国内での赤色テロルは、シュタージの支援で行われました。
東ドイツ・ポツダム
ユルゲンたち一行は、正午ごろベルリン市内から、ポツダム市に移動した。
車は、サンスーシ宮殿の脇を通り抜け、ゲルトウにある建物の前に乗り付ける。
その場所は、東独軍の参謀本部。
車が止まると、ドアを開けて、彼等は勢いよく飛び出した。
庁舎の中に入るなり、向こうから歩いてきたハイゼンベルク少尉とばったり会う。
彼女から敬礼を受けた際、呼びかけた。
「丁度良い。参謀総長の所に連れて行ってくれないか」
そう告げると、ユルゲンは、ハイゼンベルクの右肩に手を置く。
「参謀総長ですか……」
満面朱を注いだ様になった彼女の顔を一瞥した後、右手を両手で包む様に持ち上げる。
「これから騒がしくなる。参謀総長にも話を通しておくのが筋だろう」
ヤウクは、その様子を見て、しばし困惑した。
「参謀総長に自分から乗り込んでいくのか……」
ユルゲンは、同輩の方を振り返ると、呟いた。
「恐らく参謀総長も俺に会いたがってるはずだ……」
照れを隠すように笑みを浮かべたハイゼンベルクは、ユルゲンの右手を掴んだ儘、導くように歩き出す。
「さあ、行きましょう。恐らく同志将軍達も待っておられる筈です」
ハイゼンベルク少尉に連れられながら、ユルゲンは、ふと考えた。
人民軍情報部は軍内部にある機関で、「プラウダ」等の分析など受動的な情報収集を行う部署。
駐留ソ連軍の奇妙な行動は、寝耳に水であろう。
外国雑誌を情報源にする彼等には、とても確認できる話ではなかった。
もっとも、ユルゲン自身も、生の情報を得たわけではない。
只、彼等の偽情報工作や暗号運用の能力の高さ……
ソ連留学の経験から、身をもって知っているつもりだ。
米国議会をして、アラスカの領土租借計画を立てさせるほどの辣腕を振るったKGB。
今回の事件にも、おそらく無関係ではあるまい……
KGBは度重なるソ連国内の権力闘争で生き残って来た猛者たちが操縦する機関。
白刃の上で、辛うじてバランスを取る連中……
無論、この件にも、シュタージは無関係ではあるまい。
表立って、反ソ傾向の強かったベルリン派の残党が動き出したのだ。
間違いなく、KGBに動きがあったと言う事だ。
今の議長の方針に対して、KGBの助力を得て、謀反を起こしたシュミット。
彼も、恐らくはKGBの間者だったのではないのか……
あの反乱がなければ、今も工作部隊ごとにKGBの連絡将校が配属されて、此方の事情は今以上に筒抜けだったであろう。
とんでもない魔窟に、あわや愛する人を送り込む寸前であった。
その事を改めて、悔恨した。
英米に比べて科学技術も軍事力も劣るソ連が唯一誇れるものは、何か。
地下破壊工作や、極左暴力集団への援助、諜報戦だ。
シュタージがKGBにコバンザメのように寄り添い、国際社会で赤色テロリズムを支援している可能性。
30数年前の敗戦の時より、ソ連の隷属下に置かれている状況から考えると、疑いのない事実に思える。
前の議長の時など、中東のパレスチナ解放人民戦線の幹部等が、毎年の様にベルリン詣でをしていた事を、昨日のように思い出す。
後進国の政治活動の支援と称して、ザイール辺りから留学生などを呼んでいたが、あれは工作員養成ではなかったのか……
物思いに耽っていると、参謀総長がいる会議室の前に着く。
ハイゼンベルク少尉の傍から離れて、室内に入った。
ドアを閉めると、掛け声がかかる。
「総員傾注!」
姿勢を正すと、全員で参謀総長に敬礼をする。
その場には、国防大臣、情報部長、ハイム少将、その他数人の将校が顔を揃えていた。
彼等の姿を認めるなり、ユルゲンは軍帽を脱ぐと脇の下に挟む。
目の前に座る男達に、深々と頭を下げる。
「同志大臣、同志大将……、小官の独断専行をまず謝罪いたします」
会議場にざわめきが広がった。
椅子に腰かけていた国防大臣は立ち上がるなり、右手を上げ、声を上げる。
「諸君、同志ベルンハルトの話を聞こうではないか」
頭を上げるように指示を出す。
「同志ベルンハルトよ……、面を挙げ給え。過ぎたのことは、まず良い。
今回の騒擾事件は……、間違いなくソ連指導部に何かがあった兆候だ」
近寄ると、彼の周囲を歩く。
「ゲルツィンが仕掛けてきたと言う事は、極東に動きがあったのかもしれない。
我等は、そう考えている」
ユルゲンは、国防大臣の言葉にハッとさせられた。
確かにロシアは東西に長い国だ。一度に二正面作戦など無理……
だとすれば、彼等の狙いは、駐留ソ連軍の極東への大規模な移動。
三十数年前の戦争の時も、ソ連はモスクワ防衛の為に、モンゴルから十数個師団を引き抜いた。
後方の安全を確保する為、日本軍の関心を満洲から南方に移させてるように、スパイ工作を実施したほどだ。
仮に日米対策で、BETA戦争で手薄になったシベリアやカムチャツカ半島。
そこに兵力を補充させるのなら、決してありえない話ではない。
世界有数の大艦艇を誇る日米両国に対抗するには、現状のソ連太平洋艦隊では厳しい。
国防大臣は、俯き加減のユルゲンに声を掛ける。
「同志ベルンハルト、ゲルツィン大佐との一戦。もし失態を演ずれば……」
立ち竦む彼の前を、腕を組みながら通り過ぎる。
「今、議長が目指している自主への道は根底から崩れることになり、ソ連の思うがままにされるであろう」
後ろに立っていたヤウクは、右手を差し出すと、食指で天井を指差す。
「ユルゲン。こんな大事な時に臆するなんて、君らしくないじゃないか……」
こぶしを握り締めて、力強く励ました。
「ここは、一思いにケリを付けるべきだ」
相槌を打つかのように、大臣は振り返った。
「是非とも、君の力の限りを尽くしてくれ」
奥で立っている参謀総長から、大臣へ縦長の箱の様な物が手渡される。
大臣は、それを高く掲げて、ユルゲンの前に差し出す。
「これは議長からお預かりした剣だ。
これを奉じてゲルツィン大佐の暴走を抑え、駐留ソ連軍を牽制して欲しい」
ユルゲンが受け取った、紫のベルベットに包まれた物。
それは、指揮官の証である、軍刀と拳銃の一式であった。
ユルゲンは、首を垂れると、宝剣と一揃いの箱を恭しく受け取る。
威儀を正すと、国防大臣に返答した。
「軍人たるもの一旦引き受けた以上、死を賭して使命を果たす所存です」
太くごつごつとした男の両手が、ユルゲンの掌を包む様に触れた。
「否、軽々しく死などと、口にするものではない……。
必ず、必ず、我等の元に戻ってきて、吉報を告げて欲しい」
ユルゲンは、大臣の差し出した手を握りしめ、感激に胸を震わせた。
目を瞑ると、深々と頭を下げた。
「お言葉、胸に畳んでおきます……」
それから、その場にいる重臣達に一礼をして、仲間たちと会議場を後にした。
ユルゲンは自宅に帰らず、基地に泊まって明日の準備をすることにした。
強化装備から戦術機の不具合個所の確認と、追加装甲の装備をする為である。
追加装甲とはいっても、人間に相当すると手持ちの持盾に当たるもの。
特殊な耐熱対弾複合装甲材で形成され、対レーザー蒸散塗膜加工が施されている。
速度を上げて敵中を突破する光線級吶喊の戦法を取る東独軍では、あまり好まれなかった。
重く、嵩張る盾は、高い機動力を活かしての攻撃回避を主とする戦術機の運用に影響するとして忌避される傾向にあったのも事実。
刀折れ矢尽きた時、最後の方策として、打撃用の武具にはなったが、それに頼るときは既に戦場で孤立した時が多かった。
「これの縁に、鋼鉄製の装甲板を追加してくれ」
「今から人をかければ、明日の正午までならば……」
「いや、明日の早朝までに……」
ユルゲンが、整備兵相手に熱弁を振るっていると、年老いた男が奥から出て来る。
男は白い整備服に、眼帯姿で頭を丸坊主にし、胸まで届くような白いあごひげを蓄えていた。
その人物は、整備主任である、オットー・シュトラウス技術中尉。
第二次大戦以来、航空機や戦術機の整備をして来た海千山千の古強者。
「縁を鉄枠で囲むって、聞いた事がねえぜ」
「同志シュトラウス、無理を承知でお願いいたします」
蓄えた顎髭を撫でるシュトラウス技術中尉に、ユルゲンは深々と頭を下げた。
「おめえさんは、戦術機の頭に鍬形(兜の飾り。通信アンテナの事)を付けてみたり、支那のサーベルを複製させたり、突拍子もねえことばかり言うからよ……。
俺もこれくらいの事じゃあ、驚かなくなったぜ」
シュトラウス技術中尉は、彼に背を向けると、整備中の技師たちに向かって声を上げる。
「おめえ等、聞いたか!グズグズしてるじゃねえぞ、一晩で仕上げる」
技師達は力強い声で返事をした。
「了解!」
こうして、夜は更けていった。
気分転換に屋外の喫煙所に来ていたユルゲンは、脇に居るヤウクに問うた。
「今日は二十六夜月か……、ハイヴ攻略には不向きだな」
薄暗い屋外のベンチに腰かけながら、悠々と紫煙を燻らせるヤウクは、立ち竦むユルゲンの方を向く。
「米軍の連中、新型爆薬を使って高高度から爆撃するんだろ……カシュガルの時みたいに変な新型が出てきて全滅何てならなければ良いが……」
彼は努めて、明るい声で言った。
「今回は多分、日本軍のゼオライマーが支援に回ってくれるさ」
「でも僕の聞いた話だと極東に居るんだろう……どうやって9000キロの距離を移動するんだい。
そんな魔法みたいにパッと消えて、パッと現れるならいいけど」
ふとユルゲンは、右の薬指に嵌められた白銀製の指輪を覗き見る。
それは、木原マサキより送られた次元連結システムを応用した特殊な指輪であった。
「何とかなるさ。あの男は二時間でBETAの巣穴を消し飛ばした魔法使いみたいな物だから」
深夜の格納庫に、二人の男の笑い声が、木霊した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
恩師 その5
前書き
100話記念で今週は久しぶりに祝日投稿いたします。
翌日の払暁、ロストック港近くの埋め立て地で蠢く人影。
駐留ソ連軍の工兵部隊が、数台のタンクローリーで乗り付けると作業が始まる。
車は、チェコスロバキア製のタトラC111で、ホースを伸ばして、地面に向かって何かを撒いていた。
「油を撒いて、ドロドロにするんだ。たっぷり燃える様にな」
ホースより轟々と流れるのは、可燃性の高い航空機燃料であった。
ガスマスク姿の工兵達は必死に金てこで、地面に埋まった岩や土塊を掘り起こす。
「対戦車地雷もたっぷりくれてやれ。あの小生意気な餓鬼を吹き飛ばす位にな!」
深さ1メートルほどの穴に直径50センチほどの対戦車地雷を埋め込むと、上からスコップで土をかける。
もう50個ほど埋めた事を確認すると、ソ連軍の将校は合図する。
「細工は上々だ。急げ」
「了解」
兵達は道具を持ったまま、幌の掛かったGAZ-66トラックの荷台に乗り込む。
前照灯を煌々と焚いて、その場から走り去っていった。
ゲルツィン大佐は、兵達に強化装備を付けさせながら、秘密報告を聞いていた。
「そうか、例の新型機は準備したか。
まさか東独軍の連中に気付かれるようなへまをしていないだろうな」
各種装置を収納したハードプロテクター類の密着を確認しながら、眼前の男に尋ねた。
「でえじょうぶですさ。この最新型で、然しもの美丈夫も一瞬にして昇天しまさあ」
蒙古訛りの強いロシア語で話す軍曹は、下卑た笑みを浮かべる。
ゲルツィン大佐は、ミコヤム・グルビッチ設計局が開発中の新型機を秘密ルートで持ち込んでいた。
それは『チュボラシカ』という開発コードで、F‐4Rファントムを再設計した機体。
ソ連製では初となる純国産の戦術機で、最先端情報を元に作り上げていた。
可変翼を装備していたが、燃費や整備性は、すこぶる悪かった。
それはBETA戦争前まで、ソ連が潤沢な石油資源のお陰である。
ほぼ無料に近い値段でとれる天然資源は、航空機エンジンの燃費を気にする必要がなく、整備性や静粛性などは軽視された。
技術的な事が原因ではなく、欧米のエンジンに出力さえ劣らなければ、他の事は些細な事として無視する設計思想が根底にある為であった。
「より慎重に待機して置け」
ヘッドセットを付けるために、顎を上向きにする。
「体が鈍ってしまいますんで、同志大佐、早えこと頼みますぜ」
「分かって居る」
仁王立ちしていた、ゲルツィン大佐は気合を入れて、声を上げる。
全身に力を入れ、両腕の上腕の筋肉を盛り上げて、健在ぶりを兵達に見せつける。
「よおしっ!」
周囲を見回した後、号令を下す。
「出撃準備」
赤軍兵士達は、鯨波の声を上げて、建物を飛び出していった。
通常飛行でロストック港に向かう赤軍戦術機部隊の一群。
鎌と槌が描かれたソ連国旗を掲げながら、堂々と東ドイツの空を飛んでいた。
だが、誰も咎める者も、抗議する物も居なかった。
この様に、東ドイツの置かれた状況は、一言で言えば、惨めであった。
KGBの恣にされ、駐留ソ連軍はもとより大使館員の下働きまで、勝者の特権を思う存分に行使した。
BETA戦争で、ソ連が凋落し、極東に僅かばかりの領土を残す状況になっても、変わりはなかった。
だからこそ、ソ連にとっては光線級吶喊で名を挙げた二人の英雄は、目の上のたん瘤であった。
ユルゲン・ベルンハルト中尉とアルフレート・シュトラハヴィッツ少将には今回の決闘で死んでもらう必要がある。
そして、後ろで嗾ける、新任の議長と今の指導部も同様だ。
彼等には、「思想的鍛え直し」が必要ではないか……
嘗ての様にシュタージ長官でさえ、KGBの許しがなければ、厠にすら行けぬようにせねばなるまい。
その様にゲルツィン大佐は思い悩んでいると、副官の中尉から通信が入る。
「どうした同志中尉」
網膜投射越しに、浅黒い中尉の顔が映る。
「もうそろそろ付きます。ご準備を」
機内にある高度計に目を落とす。
「うむ」
地上には、すでに色も機種もバラバラな三体の戦術機が居並んでいた。
その内、深紅のバラライカPFが、川の中州で、佇んでいた。
追加装甲に左手を委ねる様にし、右手は非武装の状態で待機している。
30メートルほど離れた所に、東独軍の迷彩を施したバラライカと深緑のF-4Rファントムの姿が見える。
ユルゲンの目の前に、ゆっくりと銀面塗装のされた新型機が降りて来る。
ゲルツィン大佐は、機体の姿勢を正すと、ユルゲンに通信を入れた。
「その意気は買おう、そんな旧型機で俺に勝てると思ってるのか……」
右手を肩の位置まで上げると、兵装担架より長剣を取り出す。
ユルゲンは、網膜投射越しのゲルツィン大佐に、不敵の笑みを浮かべる。
深紅のバラライカは、前進し、僅か数メートルの距離で止まる。
同様に長剣を抜き出し、振り下ろす。
「最初からあなた方がこのように動けば、こんな無益な殺生は避けられた」
彼の言葉に、意表を突かれた様子で、暫し呆然とする。
「どういう事だ、同志ベルンハルトよ」
「シュミットを使い、コソコソ裏から手を回して、暗殺隊をベルリンに送り込んだ」
外側に向かって下げた切っ先を、円弧を描く様にして内側に向ける。
「昔のソ連ならそんなことはしなかった。自らの力で俺達を潰しにかかったはずだ」
「何が言いたい」
ゲルツィンは、そう言うと操縦桿を動かす。
新型機・チュボラシカは、刀に左手を添えて、右肩に乗せる様に構える。
「既にソ連の社会主義は停滞した。その姿は守りに入ったのと一緒だ」
相対する深紅の機体は、盾を、管制ユニットを覆う様に構えた。
「守りの姿勢になった国家など、脅威ではない」
「ほざけ」
その瞬間、チュボラシカが踏み込む。
繰り出した一振りを、深紅のバラライカは刀の腹で払いのける。
鈍い音と共に火花が散る。
ユルゲンは機体を主脚走行で左側に移動しようとした瞬間、思わず泥濘に足元を掬われた。
網膜投射越しに見ていたヤウク少尉は、思わず声を上げる。
「あっ!」
その刹那、チュボラシカは、噴出跳躍で飛び上がると、八双の構えで切り掛かる。
バラライカは、咄嗟に盾で右肩を覆う様に、構えた。
振り下ろされた一撃は、追加装甲の縁に当たり、火花を散らす。
それと同時に刀の中ごろから折れ曲がり、使い物にならなくなってしまった。
ユルゲンは、追加装甲の縁を鋼鉄で覆う仕掛けを用いた。
カーボン材は軽量で耐久性が高いも、耐衝撃性が鉄に劣る。
重い長剣をぶつけたら、どうなるか……
幾らカーボン製の刃が焼き付けしてあると言っても、戦術機に搭載する為、軽量化してあるはず。
恐らく中は、中空……。簡単に曲がるはずである。
そう考えて、敢て重量のある鋼鉄で覆ったのだ。
「まさか、盾に仕掛けをしていたとはな……」
への字型に折れ曲がった接近戦闘長刀を遠くへ、放り投げる。
地面にぶつかると、勢い良く火柱が上がり、爆発した。
「足元に仕掛けをする、あなた方が言えた事ではないでしょう」
ゲルツィンはユルゲンの問いを無視すると、操縦桿を捻る。
左腕のナイフシースを展開し、柄を掴むと勢いよく切っ先を深紅のバラライカに向けた。
「そういう事なら、ナイフの方が攻めやすいってことさ」
「別な武器を使うなんて卑怯だぞ!ゲルツィン」
突撃砲を構えようとしたカッツェ機の右腕を、深緑のF-4Rが左手で押さえる。
「待つんだ、カッツェ……。奴等、地面に重油をまき散らしている。
これじゃあ、火器管制システムを使えば、ユルゲンまで火だるまになってしまう」
ヤウク少尉はメインカメラで、周囲を見回す。
「不自然な地面の盛り上がり方からすると、そこら中一杯に地雷が埋まってる。
攻撃ヘリや戦車が支援に来れないように、奴等が仕掛けて来たんだ」
「万事休すか……」
思わずカッツェは機体の操作盤を右手で強く叩いた。
「諦めるのはまだ早い。僕たちはユルゲンを信じよう」
「こんな目の前に居るのに何も出来ないって、それはねえだろう」
興奮したカッツェの顔が、網膜投射越しにヤウク少尉の視界に入って来る。
「兎に角、今は機会を待とうじゃないか」
噴出地表面滑走で太陽が背中に来る位置に移動する。
「ベルンハルトよ。俺がナイフ使いであることを忘れたか」
太陽の眩しさに一瞬、目が眩んだ隙に噴出跳躍で飛び上がった。
メインカメラを潰そうとして、袈裟掛けを喰らうも済んでの所で避ける。
右側の錣のように盛り上がった部分に当たり、滑り落ちる。
幸い、メインカメラも通信アンテナも影響はなく、深紅の塗装が剥げ、地金が見えただけに止まった。
再びナイフで攻寄るチュボラシカ。
勢い良く跳躍ユニットを吹かし、バラライカの管制ユニット目掛けて突っ込んで来る。
その瞬間、轟音と共に深紅の機体は跳躍した。
泥濘に立てた追加装甲を足場代わりにして、更に跳躍する。
追加装甲が倒れ込むことに、気を取られたチュボラシカ目掛けて飛び降りる。
その際、太刀の握りに左手を添えて八双の構えを取る。
右手の握力を調整し、軽く乗せるようにした後、左手で剣を支える様に持つ。
袈裟掛けで振り下ろす刹那、再び右手の圧力を調整し、強く握りしめる。
地面に着地すると同時に、刀ごと上半身を左側に捻る。
銀色の機体の左肩から、管制ユニットの前面に向かって斜めに切りつけた。
其の儘、力なく銀色の鉄人は、崩れ落ちる様に倒れて行った。
通信装置を通じて、ゲルツィンの断末魔の声が聞こえた瞬間、ユルゲンの戦意は失われた。
深紅の機体は立ち止まると、管制ユニットを開いて、砂地に飛び降りていった。
横倒しになった、チュボラシカの胴体に飛び移る。
国際救難コードを素早く打ち込み、管制ユニットを開く、ユルゲン。
そうして居る合間、突然、奥に居るソ連赤軍の戦術機部隊の副長機が動く。
「ええい、血祭りに上げてやるわ」
そう吐き捨てると、機体の右手を挙げた。
ソ連側の戦術機十数機は、一斉に突撃砲を構え、攻撃の姿勢を見せる。
対岸に居る深緑のF-4Rと迷彩模様のバラライカも突撃砲を構える。
「この数じゃ……」
ヤウク少尉は、思わず唇を強く噛み締めた。
ソ連側の提案を真剣に守って、最低限の武装のみで来た事を今更ながら悔いた。
突撃砲は各機一門。残りの武装は自分が背負っている二振りの長刀のみ。
この距離で敵を牽制しながら攻撃しても、自分の身は守れてもユルゲンが危ない。
重油が撒かれ、地雷が多数埋まる中州に居るのだ……
そうしている内にレーダーに多数の機影が映る。
「僕の運命もここまでか……」
まもなく轟々と響き声をあげた戦術機の群れが近づいて来るのが判った。
左手で右のナイフシースを展開し、逆手に持ち替える。
これで管制ユニットを貫けば、一思いに死ねるだろう……
夢半ばで果てるのは無念だ……
そう思ってナイフを突き立てるのを躊躇って居た時、同輩のヘンペル少尉の機体が目の前に飛び降りて来た。
両手に突撃砲を持ち、腰を低くして、身構える。
「大丈夫だ。味方を連れて来た」
ヤウク少尉は、機体のメインカメラを上空の方に動かす。
銀色の塗装の戦術機が20機以上。左肩には黒地の塗装にしゃれこうべの文様……
確か、米海軍第84戦闘飛行隊の文様のはず。
米海軍の部隊が、何故ここに……
唖然とするヤウクやカッツェを尻目にヘンペル少尉は、勢いよく喋り出す。
「丁度、第84戦術歩行戦闘隊が、ドイツに表敬訪問してくれたのさ」
彼は軍事全般に詳しく、東西両陣営の兵器にも明るかった。
「元々1955年7月1日にオシアナ海軍航空基地に発足した米海軍第84戦闘飛行隊。
それを元に、戦術機部隊に改組して、作ったのがこの部隊さ」
機種や車種を見ただけで製造年度や年式が判る程の知識の持ち主でもあった。
「元々は放浪者という綽名だったけど、1959年4月15日に第61戦闘飛行隊が解体されてから海賊旗を引き継いだ」
唯、欠点もあって、一度自分の持っているうんちくを話し出すと止まらない悪癖があったのだ。
「1964年にベトナム戦争に参加したのを皮切りに……」
何時までもおしゃべりを止めないヘンペルにしびれを切らしたヤウクが釘をさす。
「同志ヘンペル、いい加減にしろ。国際回線で他国の軍隊に筒抜けだぞ」
再びヤウクが、対岸に意識を戻すと、目の前にいたソ連赤軍の部隊はかき消すように姿を消していた。
傷つき、斃れたゲルツィン大佐を見捨てて、尻尾を撒いて逃げ去った様に呆れた。
それと共に、血みどろの大佐の亡骸を抱き上げて、立ち竦むユルゲンの姿を遠くより見守っていた。
後書き
設定資料集を見ると『チュボラシカ』の部隊配備は1980年です。
しかし実際の開発や試作機と言う物は数年前に出来上がっています。
あのカラシニコフ自動小銃は1947年の配備ですが、実際には戦後間もなく完成していました。
シュマイザー博士のMP43を再設計した銃で、世界的ベストセラー商品でした。
元となったMP43も実際の配備年より先に1941年の段階で東部戦線で使われた記録が御座います。
また「ジョリーロジャー」部隊ですが、史実だと1995年まで第84戦闘飛行隊なのです。
柴犬本編は基本史実準拠なのですが、一部の設定は1980年代後半や1990年代後半の軍事編成や組織編成になっているので、史実と齟齬が生じています。
一応、パレオロゴス作戦で米軍も大損害が出て編成の変更があったかなと考えて、1978年までは史実の編成じゃないかと言う事で、第84戦闘飛行隊にしました。
雷鳴止まず
前書き
次元連結システムがあればG元素は必要ないんですが、盛り上がりに欠けるので絡ませました。
マサキはハバロフスクから遠く離れた西ドイツのハンブルグに転移した。
間もなく始まるB-52『ストラトフォートレス』爆撃機による絨毯爆撃に先立ち、地上のBETA群掃討の連絡を受けたためであった。
昨晩より一睡もしていない彼は、命令を伝達した珠瀬と綾峰に一度抗議する為にわざわざ基地に戻ってきたのだ。
だが基地に戻るなり、彼はCIAの工作員と引き合わされた。
「貴方が木原博士ですね」
背の高いの白人の男が、声を掛ける。
右手にホンブルグを持ち、金縁のレイバンのサングラスをかけ、ブルックスブラザーズの背広姿。
如何にも映画に出てくるような、工作員風の姿格好であった。
マサキは椅子の背もたれに寄り掛かると、気怠そうな顔をして男を見つめる。
大きな欠伸をした後、紫煙を燻らせながら、応じる。
「手短に頼む。俺は昨日から寝ていないんだ」
男はサングラスを取ると、茶色の瞳でマサキの顔を伺った。
「左様ですか。では貴方にこのハイヴ攻略が成就なさった後、米国で我等が研究のお手伝いをしてほしいのです」
たどたどしい日本語で話しかける工作員の方を振り向くと、こう告げた。
「俺は、あの化け物共が持ち込んだ物質がどんなものか、さっぱり分からぬ。
その研究とやらを詳しく教えてくれ」
左手に持ったコーラを一気飲みする。
「実は我々は5年ほど前、ハイヴから特別な物質を発見いたしました。
ロスアラモス研究所のグレイ博士が発見した『G元素』と呼ばれるものです」
『G元素』
1974年、カナダ・サスカチュワン州アサバスカにBETAの着陸ユニットが落着し、核飽和攻撃で殲滅した際、残存物から人類未発見の物質が発見された。
米国のロスアラモス国立研究所のウィリアム・グレイ博士が研究し、それをG元素と名付けた。
重力操作や強力な電磁波の発生など未知の領域の技術の発展の可能性を秘めた物質である。
「ほう。俺に化け物の巣穴を掘り返せと……」
タバコを灰皿に押し付けてもみ消すと、斜め後ろに立つ美久に声を掛ける。
「美久、俺の部屋からファイルを持ってこい。それを此奴らの親玉に暮れてやれ」
野戦服姿の彼女は一礼をすると、部屋から出て行った。
「BETAの不可解な行動から、俺はある推論を立てた。
遠く銀河系の果てから来て、自己増殖を繰り返す化け物……世間はそう見ているが違う」
「奴等の狙いは地球上の資源集め。
カシュガルハイヴでの人民解放軍の調査にも協力したが、大変な量の埋蔵資源が持ち出された形跡がある。
中ソの核爆弾投下作戦失敗から2週間足らずで光線級と言うレーザーを出す化け物を作った所を見ると少なくとも奴等の中継基地は14光日、或いは情報が往復することを考えて7光日の距離にあるとみることが出来る」
胸ポケットより、ホープの箱を取り出すとタバコを咥える。
ふたたびタバコに火を点けて、紫煙を燻らせる。
「ただ、この世界のロケットエンジンがいかに進んでいるとはいえ、打ち上げ準備期間や燃料の問題からそんな短期間で奴等の基地を破壊することは困難であろう」
唖然とする工作員を前に、不敵の笑みを浮かべる。
「そうなって来ると、この俺に頭を下げに来たと言う事か」
マサキは、勢いよく立ち上がる。
「良かろう。この際、俺が露助共に先んじてG元素とやらを盗み出して、それをシベリア中にばら撒いてやる」
一頻り笑った後、再び男の顔を覘く。
「強力な磁場を発生させて、二度と蛮族しか住めぬような土地に変えるのも悪くはあるまい」
「只今お持ち致しました」
美久が持ってきた資料を一瞥した後、胸に刺したボールペンを取り、白紙に文字を書く。
「これをグレイ博士とやらに見せてくれ。俺からの頼みはそれだけだ」
そう言って白紙をファイルの中に挟むと、男に渡した。
CIA工作員の男が部屋から退出した後、奥で座っていた綾峰に声を掛ける。
「おい綾峰!この世界の三菱重工か川崎重工でもいい。とにかく戦術機の研究をしている会社に連絡してくれ」
「木原よ、何故にそんな会社に連絡をするのだ。俺を通して陸軍の技術本部でも良いゾ」
「一か所に限定すれば恐らくKGBに情報を素破抜かれる。それに俺は陸軍内に燻っている親ソ派の連中が怖い」
マサキは親ソ反米派の独断行動を恐れたのだ。
元の世界で、嘗ての世界大戦の際も各国に居た容共親ソの工作員の為に避けられる戦争が避けることが出来ず、一千万単位の人命が失われた事を苦々しく思い起こしていた。
ルーズベルト政権下で辣腕を振るったハリー・ホプキンスやアルジャー・ヒスなどがGRUやNKVDの工作員であったのは公然の事実。
ソ連を生き延びさせた武器貸与法や原爆開発へのソ連側の協力等は、ホプキンスの独壇場だった。
防諜関係の甘い日本にも、KGBの間者が居ないとは言い切れない。
綾峰はひとしきり悩んだ後、引き出しからラミネート加工のされた紙を取り出す。
そして、マサキに渡した
「光菱重工に富嶽重工、河崎の連絡先だ」
日本の主要な国防産業の連絡網だった。
「何がしたいが分からないが、俺の名前を出して電話しろ。取り次いでくれるはずだ」
マサキは、まじまじと電話帳を見る。
「綾峰……」
綾峰は引き出しから、ラッキーストライクを出すと、封緘紙を切り、開ける。
両切りのタバコを机に叩き付けながら、告げる。
「お前の頼みは聞いた。今度は俺の頼みを聞く番ではないのか」
コツコツとタバコを叩き付ける音が響き渡る。
マサキは冷笑を浮かべた後、一言漏らした。
「ミンスクの化け物を消したら、暇をもらいたい」
そう言うと、彼は立ち上がる。
立ち竦む美久の手を引いて、ドアを開けると、部屋を後にした。
同じ頃、ウラジオストック要塞では、数時間後に始まるミンスクハイヴ空爆の対策を練っていた。
その場に伝令兵が駆け込んで来る。
「同志大将、一大事に御座います。米海軍第七艦隊が日本海軍と一緒になって、日本海上で軍事演習を開始しました」
ミンスクハイヴ空爆と時を同じくして、日米両国は動く。
サンディエゴを母港にする揚陸指揮艦『ブルーリッジ』の元、多数の空母機動部隊を引き連れて、日本海に展開した。
帝国海軍も旧式ながら、戦艦大和を始めとして数隻の戦艦と重巡洋艦が随伴した。
1961年に相次いだベルリンの政治的緊迫と、1962年のキューバ危機。
核戦争の危機を覚えた米ソは、1963年の『部分的核兵器禁止条約』を皮切りに、対話を通じた軍縮を図った。
それが、世にいう『緊張緩和』である。
本来ならば、軍縮によって帝国海軍は大規模な戦艦の退役を行う予定であった。
建造から30年近くが経つ超弩級戦艦・大和、武蔵。
大東亜戦争を生き延びた同艦は、呉や横須賀と言った鎮守府で静かな余生を過ごす筈であった。
しかし、1973年のBETA地球侵略によって、運命は変わった。
カシュガルハイヴの建設と、それに伴う中ソ両国々民の3割が死ぬ事態に、世界は身構えた。
また帝国も例外ではなく、再び軍事力強化に舵を切る。
永い眠りに就こうとしていた戦艦大和、武蔵や重巡洋艦三隅の近代化改修を行い、戦列に復帰させることにしたのだ。
「どうしたものか。前に進んで東欧に一撃を加えるか、それとも背後の日本野郎に対応するか……」
赤軍参謀総長は、狭い室内を何度も往復しながら考えた。
背後から迫る天のゼオライマーと木原マサキ。
ソ連に対して積年の恨みを晴らさんとする東ドイツをはじめとする東欧諸国。
眼前の日本海上には既に日米両軍が陣取って攻撃を伺うばかり。
この5年に及ぶBETA侵略のせいで、米ソの軍事力均衡は既に虚構の産物に成り代わっていた。
10年来の穀物輸入は、石油危機による資源価格の高騰による差額で得た外貨を失わせ、嘗ての活力は損なわれ始めていた。
脇に居る、副官が告げた。
「恐れながら……当面最大の敵はBETAです。
東ドイツには、シュトラハヴィッツの親書を受け入れたと見せかけて、一旦兵を引き、恩を売れば、あの男の事です。
後ろから我が国を襲う事はありますまい。
むしろ、今は全軍を挙げて、ミンスクのBETAを討つべきです……」
男は一頻り顎を撫でた後、納得したように告げる。
「よし、その線で行こう」
右の食指で指し示すと、命令を出す。
「日本野郎と毛唐人の動きは引き続き、注視しろ」
副官は、彼に敬礼をした後、部屋を去って行った。
「木原マサキよ……何れや、貴様にも地獄を見てもらおうぞ」
男は窓を開けて、一人呟く。
要塞から望む、金角湾の方角をただ眺める。
時刻は午前4時になる頃であった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
雷鳴止まず その2
マサキは単機ゼオライマーを駆り、ミンスクハイヴに向かった。
時刻は午前三時ごろで、夜明けとともに開始されるミンスクハイヴ空爆まで残された時間はあと僅か。
ウラリスクやマシュハドの時の様に、さっさと片付ければ終わるであろう。
ただ今回はG元素を採取してきて欲しいとの依頼があったので手間はかかろう。
コンテナ20ケース程を拾い集めたら、ソ連赤軍が使えぬように原子レベルで灰にするつもりだ。
ハイヴ内にはG元素に相当する物を作る精製設備があるのではないかという米軍やCIAの報告書を基に直近に転移した。
以前より数を減らしたとはいえ、多数のBETAが群れる様にして周辺を彷徨っている。
『あのカシュガルにあった、タコの化け物が何かの指令を中継する装置だったのであろうか』
マサキの脳裏にふと疑問が浮かんだが、どうせ吹き飛ばす存在故にどうでも良くなった。
次元連結砲を連射して、手当たり次第にBETAを駆逐すると、地上構造物に突っ込む。
東京タワー程はあろうかという高さの構造物を即座にメイオウ攻撃で破壊。
天に向かってぽっかり口を開けた深い縦穴に向かって降りる準備をする。
底知れぬ深さの主縦抗。
ゼオライマーの地中探査レーダーの測定結果は、1200メートル。
ざっと自由落下の速度を計算したが、153メートル毎秒……
勢い良く飛び込むと、加速が掛かり、強烈な眩暈と共に身体全体が軽くなるように感じる。
落下する寸前、自動制御でブースターが掛かり、軟着陸をする。
薄暗いホール状の空間の中央に近づくと、やがて青白い光を放つ異様な物体が浮かび上がって来た。
まるで卵に似た形状をしており、よく見ると表面はまるでパイナップルの様なデコボコとした姿が見える。
恐らくこれが化け物共を誘導する装置なのではないか……
形は違えども、カシュガルで見たタコ足の生えた気色の悪い化け物と同じ類ではないか……
CIAの資料に在った反応炉というのは、此の事であろう。
もしこの巣穴の主ならば、遠い異星との通信を担当しているのであろうか。
ならば、この場から信号を送られ、地球に向けて増援を寄越される事態になってからでは遅い。
躊躇せず、メイオウ攻撃で原子レベルまで灰燼に帰した。
マサキは着ている深緑の野戦服を脱ぐと、強化装備と機密兜に着替えて、機外に下りる。
できれば防毒面や防護服で作業したかったのだが、ハイヴの中は未だに謎。
人体にどの様な悪影響を及ぼすか、不安だったため、嫌々ながら装備を付けたのだ。
持ってきたスコップで、コンテナボックスに残土を拾い集めている時、機内に居る美久が訊ねて来た。
「何か、向こう側から呼びかけのような反応がありましたが……」
マサキは、ふとスコップを落とした。
『俺は、勘違いをしていたのかもしれない』
マサキは、BETAが一種の生体ロボットであることは類推していた。
カシュガルでのタコの化け物がコンピューターを、美久を乗っ取ろうとしかけていた事からそう考えていた。
故に、今回も電子機器に何かしらの反応があると踏んで、次元連結システムをフルに活用し反応を調べていた。
だが、めぼしい反応がなかったと諦めていた矢先に、この話を聞いて思い悩んだ。
今は、鉄骨のような状態でメインエンジンの構成パーツになっているも、普段は人間の姿に似せて特殊形状シリコンで、外皮の様に覆っている。
もし今の事が事実ならば、BETAはシリコン、詰り珪素に反応したという事……
有機生命体である人類や哺乳類を生命として認識しているか、疑わしくなってきた。
彼は、一つの結論に達した。
『やはり奴等は、母星から滅ぼさねば……』
そうなって来ると、この地球を支配する事より、まず先にBETAの母星に乗り込んで、本拠地ごと灰燼に帰すしか有るまい。
途端に不安になった。
今のゼオライマーの装備では、次元連結砲以外の武装が無いのが、最大の弱点だ。
未だ人類未到達の月や火星にあるハイヴに乗り込んだ際に近接戦闘に持ち込まれたりすれば、防ぐ手立てはない。
マサキは、そう思うと、背筋に冷たいものを感じた。
天のゼオライマーは他の八卦ロボとは違い、無限のエネルギーを有する。
それ故に、ほぼすべての武装を遠距離攻撃を主とするものに限定して設計した。
月のローズ・セラヴィーのように近接戦闘に対応する武器がない……
山のバーストンの如く、多段ロケット連装砲のような補助兵装も無ければ、火炎放射器やビーム兵器の類も無い。
天候操作や人工地震の発生も一応可能だが、風のランスターほど十分ではない。
やはり新型機を、この世界で作るしかないか……
一層の事、八卦ロボの装備を闇鍋の様に混ぜた機体を一から作るのも悪くはない。
この世界のロボット建造技術があれば、元の世界で10年掛かる所を半年で出来るかもしれない。
鉄甲龍に残った同僚・ルーランは15年の歳月を掛け、自分が破壊した八卦ロボを再建した。
凡夫のルーランですら作れるのだから、この世界の人間にも可能であろう。
異界の天才技術者の手を借りるのも、悪くは無い。
そうなると先んじて戦術機と言う大型ロボットを開発した米国の知見を利用する。
悪くないように思える……。
早速基地に還った後、戦術機の技師である篁に知恵を借りるとするか……
手慰みに書き起こした月のローズセラヴィーの図面でも持って行って、あの貴公子の機嫌でも取ろう。
その様な事を考えながら、コンテナを機内に回収するとコックピットに乗り込む。
椅子に腰かけて、地上に発進する準備をしている最中に、美久の報告を受けた。
「未確認の機影が多数接近。その数50機ほどです」
通信を聞いたマサキは、思わず歯ぎしりをする。
「恐らく米空軍だ」
事前連絡の有った通り、大規模な絨毯爆撃が開始されるのであろう。
新型の高性能爆薬の威力は、未知数。
余計な損耗を避けるために一刻も、早く脱出するのが得策。
操作卓を右の食指で強く打刻すると、即座に機体は転移された。
マサキは、ミンスクハイヴから西方に30キロほどの位置に移転すると機体を着陸させる。
場所は、ラコフと表示され、リトアニアのビルニュスに向かう街道沿いの村落である事が判った。
態々白ロシア国内に残ったのは、米軍の絨毯爆撃を遠くから見届ける為。
爆撃を一通り終えた後、最後の仕上げとして白ロシアの東半分を廃墟にするためであった。
段々と東の空が明るくなって来ると、深い朝靄が晴れ始め、近くに建物が見えた。
廃墟となったロシア正教の寺院と思しき建物が目に入る。
その様を見ながら、マサキは過去の追憶へ沈潜していた。
ソ連は、マルクスの言う所の『宗教は人民の阿片』という共産主義の原理に基づいて、あらゆる宗教を否定した。
ギリシア正教の流れをくむロシア正教は言うに及ばず、イスラム教、仏教、土着信仰の類まで徹底的に弾圧。
王侯貴族の墓所を暴き、金銀財宝を略奪したばかりではなく、古代から崇拝の対象になっていた権力者や各宗教の聖人の墓所を暴き、屍を弄んだ。
各宗教、宗派から荘園や寺院を暴力で取り上げ、僧侶や神父などの聖職者の大部分は、刑場の露と消えた。
ロシア正教の壮麗な寺院や大伽藍は、食糧倉庫やラジオ局に改造されたのはマシな位で、その多くはゴミ捨て場や共同便所になった。
モスクワの救世主ハリストス大聖堂など、代表的な施設は爆破されて、無残な姿をさらした事を思い起こす。
爆破の指令を出したスターリンは、神学校出の強盗犯であったのは、何という皮肉であろうか……
冴え冴えと朝日が廃墟となったロシア正教寺院に差す様を見ながら、マサキは思う。
何れや、BETA戦に一定の目途が着いた暁には、この世界から共産主義者を滅することを心に誓った。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
雷鳴止まず その3
ハンブルグの基地に久しぶりに戻ったマサキは、一人寛いでいた。
休憩所のベンチの上で野戦服を着崩して、大の字になって横たわっていると、美久がグラスに入ったコーラを持ってきた。
テーブルに置くなり、マサキの具合を訊ねる。
「どうですか、久しぶりに戻った気分は」
ふと不敵の笑みを湛える。
「悪かろうはずが有るまい……」
遠くより漆黒に見える濃紺のダブルブレストの背広を着た人物と茶色い三つ揃えの背広を着た人物が歩いて来る。
茶色い背広の男は、黒いリボンの巻かれた白地のパナマ帽を被り、黄緑色のネクタイの下にカラーバーを付けたワイシャツを着て、両手をズボンのマフポケットに突っ込んで歩いて来ていた。
男達は珠瀬と鎧衣で、彼等の後ろから勤務服に軍刀を佩いた綾峰がゆっくり近づいてきた。
珠瀬は絵柄の掛かれた缶を差し出す。
「差し入れだ。君の口に合うかどうかは分からないが……」
渡したものはハーシーズ(米国の製菓メーカー)の缶入り『キスチョコ』で、長らくBETA戦争での物流停滞により甘味料の手に入りにくい東欧では喜ばれた品物であった。
マサキは身を起こすと、彼等に問いかけた。
「こんな所に、油を売りに来ても良いのか……」
「特別機を駆る斯衛軍将校の動向を探るのも、立派な任務なのだよ」
鎧衣は、顔を太陽の方に向けながら、そう嘯いた。
「ソ連に何をしたのだね」
珠瀬の問いに、薄ら笑いを浮かべるマサキ。
「別に……」
「そんなはずは、無かろう……」
珠瀬は怪訝な表情をすると、次のように告げた。
「ソ連赤軍参謀総長が、東欧からの完全撤退の意向を、内々に表明したのだよ」
彼の一言で、その場に衝撃が走った。
「8月31日までに完全撤退が予定されてる。近々、ソ連国民向けの放送で正式に公表される運びだ」
マサキは、あまりの衝撃に瞠目して立ち尽くした綾峰たちを余所に机の上に有る『ホープ』
を取る。
『ホープ』の箱を開けると、右の親指と食指でタバコを摘まみ、口に咥えると、一言漏らした。
「ソ連が……」
ソ連極東にあるウラジオストック要塞では、臨時の政治局会議が開かれていた。
ハバロフスクより落ち延びてきた政治局員や高級将校が、その場に集められる。
すると、参謀総長の口から衝撃的な言葉が発せられた。
「さ、参謀総長……、本気ですか」
動揺の声が一斉に、奥の方にあるビロード張りの為された肘掛椅子の方に掛けられる。
椅子の脇に立つ赤軍参謀総長は、部屋の正面を向く形で掲げられたレーニンの肖像画の前で置物の様に固まっていた。
「木原マサキと言う、一人の人間の書いた策に乗せられる……、あってはならぬソ連の恥辱だ」
男は振り返ると、立ち竦む政治局員やソ連最高会議幹部会委員の方に振り返る。
「すべては参謀総長である、この俺の慢心と時勢の読み違えが原因よ……」
「東欧から引けば、ミンスクハイヴ攻略を手伝った米国への筋も通る。これ以上の折り合いはあるまい」
「ま、真ですか……」
参謀総長は天を仰ぎながら、告げた。
「正直に言えば、未練はある。
だが、BETA戦争で混乱の最中にあるソ連の現状……それを許すまい!」
ソ連は5年に及ぶBETA戦争で、恐ろしいほど疲弊した。
戦火に斃れた9000万人近い人口は、1970年の国勢調査で2億人を数えた人口の3割以上……
4年に及ぶ大祖国戦争で失われた2700万人以上の悲劇で、成年労働人口の大部分を喪った。
成人男性ばかりでなく、共産党青年団や婦人志願兵、果ては囚人懲罰大隊まで動員した。
彼等は、BETAの前に肉弾突撃し、『大砲の肉』へ、なり果てた。
その結果、僻地に残る人口の殆どは老人と未就学児ばかりという惨憺たる状況に陥った。
シベリアでは首都機能移転をしたとは言え、ハバロフスクやウラジオストックの人口は、嘗ての欧露の地にあったペテルブルグやモスクワより少なかった。
ドイツ人捕虜やポーランド人捕虜を酷使してシベリアの天然資源を開発した30年前のような事は望めない。
NKVD(KGBの前身組織)長官のラヴァレンツィ・ベリヤがソ連経済に強制収容所のシステムを組み込んで実現するかに見えた第二のシベリヤ鉄道横断計画、バム鉄道(バイカル湖・アムール川の区間の鉄道)の建設も終ぞ叶わなかった。
参謀総長は一頻り思案に耽りながら、荒れる日本海を臨む。
右の食指と中指にハバナ製の葉巻を持ち、冷たい雨が吹き込むベランダに立ち尽くしていた。
「10年、いや20年国力を蓄えた後、忌々しい東の小島に巣食う黄色猿共を、我が手で支配してくれようぞ……」
共産国・キューバより貢納された高級葉巻「パルタガス」を、7月の噎せ返る様な湿度の中でゆっくりと吹かす。
「木原マサキよ……、ソビエトを、この私を踏み台にして世界に飛び出したツケは、何れキッチリと払ってもらう」
マサキへの怨嗟の念を吐いた男は、深い怒りに身を震わせた。
マサキは、自室に帰って来て一風呂を浴びた後、寝台の上で横になる。
俯せになりながら、脇に立つ美久からマッサージを受けていた。
左肩の傷は、次元連結システムの応用で常人の数倍の速さで回復するも、些か全身の倦怠感が残ったためであった。
上下黒色のポリプロピレン製の下着姿になり、全身の筋肉を揉み解されながら、声を上げた。
「美久、俺は欧州旅行が終わったら、CIAの誘いに乗って、米国に乗り込むぞ」
驚いた美久は、手を止める。
「何ゆえにですか」
寝台の上で身体を反転させると、上半身を起こす。
「何、ニューヨークの街中で、其処にある国連本部で、少しばかり暴れたくなったのさ」
脇に寄せてあった、薄いアクリル製で黒無地のスウェット上下を着る。
「国連と言う米ソ冷戦の構造物が……、いやソ連や、国際金融資本の世界調略の一機関がこの世にある限り、この世界は俺の遊び場にはならない。
国連は、ソ連が戦後世界を左右する為に国際金融資本家に資金を出させ、共産主義者たちが作り上げた工作機関。
故にロシア国家に何らかの利益を求める国際金融資本家がある限り、国連を通じて有害工作をし続けよう」
タバコとガラス製の灰皿を、ベットの脇にあるテーブルの端まで引き寄せる。
「BETAという宇宙怪獣の発見や発表も、この機関が関与した故に遅れ、混乱した。
だから歴史の中から綺麗さっぱり消したくなったのよ」
困惑する美久を余所に、タバコの箱から、紙巻きたばこを取り出すと、火を点ける。
「でも世界平和は……」
美久の質問を聞きながら、マサキは紫煙を燻らせた。
「外交は所詮国家間の暴力のバランスでしか解決できない。軍事同盟程度で十分であろう」
タバコをフィルターの間際まで吸うと、灰皿に押し付ける。
「まあミンスクハイヴも片付いた事だし、後は帰る準備をするだけさ」
その時、マサキの目が妖しく光る。
「但し約束した通り、俺の意思を尊重する様、武家の奴等に仕向けてからな」
そう告げると、一頻り哄笑した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
百鬼夜行
前書き
不定期で祝日投稿しました。
東ドイツ・ベルリン
場所は、ベルリン郊外から少し離れた場所にあるヴァントリッツ。
ここに居並ぶ閑静な邸宅街は、主に東ドイツ政府高官、SED幹部の為の高級住宅街。
その一角にあるアベール・ブレーメの屋敷。
屋敷の奥にある部屋で、二人の男が酒杯を傾けていた。
紫煙を燻らせながら男は、グラスを傾けるアベール・ブレーメに尋ねた。
「なあ、アベールよ。坊主の留学の話受けるか……」
静かに氷の入ったグラスを置くとシャツ姿のアベールは、面前の男に答えた。
「なぜまたコロンビア大学なのかね……ソ連研究ならワルシャワやわが国でも出来るではないか」
男はタバコを片手に持ち、室内を歩きながら語り始めた。
「援助の見返りという形だが留学を暗に進めて来た。恐らくは……」
「息子と娘を米国に人質に差し出せば、ドイツ国家を安泰させると……」
「ああ、下種なやり方かもしれぬが……。民主共和国には既に対外戦争をやる気力も能力もない」
喉を潤すようにソーダ水で割った酒を、一口含む。
「このまま、東西分裂が続けば、我国のは未来永劫ソ連の肉壁……」
アベールは男の話を聞きながら、右手で眼鏡を持ち上げる
「それはNATOや米国に阿っても同じではないかね」
男は紫煙を吐き出すと、応じた。
「否定はしない。この国が生き残るには西側に入ってショウ・ウインドウになれば良い。
西側の望むは、対ソ防衛の壁であり、戦争リスクをドイツに押し付けて来るであろう。
我が国民は彼等から見返りとしての施し金を受け取り、その益に甘んじればいい。
両者納得の関係……。悪くも無かろう。」
アベールは、男の一言で酔いが醒めるのを実感した。
1600万人の国を守るために、義子ユルゲンを差し出さざるを得ない。
思えばあの青年は、娘ベアトリクスの為に全てを投げたしてくれた。
宇宙飛行士の夢さえ捨て、戦術機を駆り、BETAやソ連との死闘を繰り広げた。
岳父として、彼の事を守ってやれぬことに、幾ばくかの不甲斐無さを感じていた。
アベールは男から注がれる酒を注視しながら、答えた。
「ユルゲン君と言う男は、ドイツ一国で収まる人物ではないと思っていたが……」
男は、氷で満たされた自分のグラスに並々と酒を注ぐ。
「米ソ両国から注目されるとは思わなんだ。俺も奴には武者修行をしてきて欲しいと思ってたが……」
男は心苦しそうな顔をして、アベールの方を向いた。
「良い機会ではないのか……。二人とも新婚旅行にも行けてはいないのだし……」
その言葉に男は、相好を崩す。
「貴様も柄にもなく、父親らしい事を言うのだな」
「君が言うのかね……」
アベールは、ふと冷笑を漏らした。
男は再び思いつめたような顔をして、アベールに尋ねた。
「所でつかぬ事を聞くが、アイリスディーナに好いた男など居るのかね」
「私も、義理の娘の事までは詳しく把握していないが……。
護衛に付けているデュルクや他の側衛官からの報告では、その様な話は聞いてないぞ」
男は一頻りタバコを吹かした後、こう告げた。
「男の影はないか」
そう言い放つと静かにグラスを傾ける男に、アベールは問うた。
「急にどうしたのだね……嫁ぎ先でも当てがあるのか」
アベールは、今年19歳になるアイリスディーナの将来をふと思った。
東ドイツの女性の平均結婚年齢は21歳。学生結婚も珍しくなく若い母親も多かった。
国策として出産奨励金を第三子まで2000マルクほど出すのもあろう。
出生数は平均二人で推移し続けた。
アイリスディーナは、兄ユルゲンの白皙端麗の容姿に劣らず、美貌の持ち主。
白雪を思わせるような透明感がある美肌、金糸の様な髪、サファイヤのごとき眼。
士官学校も女生徒では常に次席をキープし、知性も肉体も申し分ない才色兼備。
そのような彼女であっても欠点はあった。172センチの大柄な背丈……。
戦前生まれのアベールにとっては、大女の婚姻の大変さは身にしみて判っているつもりであった。
周囲は、間もなく19になろうという彼女が独身で居ることに不安を感じ始めるのも無理は無かろう……
娘ベアトリクスの様に、ユルゲンの様な良き人が見つかって呉れれば違うであろうが……
ユルゲンの事を息子の様に扱う男の口から出た、アイリスディーナの先行き……
「妙齢のアイリスディーナに、白無垢の花嫁衣装を着せてやりたい」
一女の父であるアベールは、男の言葉をその様に解釈した。
「君がアイリスちゃんの先々を想って行動するのなら、私なりに努力してみようと思う」
静かに酒杯を置いて、男の方を見つめる。
「済まぬな……」
男は右の手で目頭を押さえた侭、アベールへの相槌を返した。
ユルゲンは宵の口に、義父の私宅を訪ねていた。
いよいよ十数時間後に迫ったソ連政府の『重大発表』の前日。
奥座敷に居たのは、義父と議長だった。
「少し娘と話して来る……」
そう言い残して義父は、部屋を後にした。
部屋に残された男は開口一番、ユルゲンに問うた。
「明日以降の駐留ソ連軍の扱い……どう考えている」
紫煙を燻らせながら椅子に腰かける男に、ユルゲンは応じた。
「巷で噂されている全軍撤退が事実ならば、宿営地で武装解除して、ロストック港より仕立てた帰国船に乗せるのが、一番安全かと存じますが……」
男は、すっとユルゲンに氷の入ったグラスを差し出す。
「やはり……、そうなるのかね」
ユルゲンは、レモネードの瓶の栓を開けるとゆっくりとグラスに注ぐ。
「現状の我が国の立場では、我々が生き残る道は選択肢が多い訳ではありませんから……」
男は、ふと冷笑を漏らすと、ユルゲンに皮肉交じりの言葉をかけた。
「君もすっかり、青年将校らしい口の利き方が出来る様になったな……」
男は酔いを醒ます為に、レモネードを一気に呷る。
静かにグラスを置いた後、ユルゲンに訊ねた。
「話は変わるが、アイリスディーナの今後は如何思い描いている……」
奥の方より真新しいグラスを取ると、アイスペールから氷を数個トングで摘まみ、グラスに入れる。
「これは、俺からの提案だ……否なら断っても良い。お前さんとアイリスを俺の猶子にしたい」
男からの提案は、ユルゲンの頭の中を真っ白にさせた。
杯事だけの関係ではなく、息子として取り扱ってくれるという提案に衝撃を受けた。
グラスをユルゲンの方に差し出すと、男は『ルジェ』の『クレーム・ド・カシス』を注いだ。
ユルゲンは、自分が好きな酒の事まで調べていた男の気遣いに心を打たれる。
「ど、どうして、俺を……、これほどまでに特別扱いなさって下さるのですか」
いつの間にか、頬を濡らしていることに驚いた。
男は、30年物のブランデーをグラスに注いだ後、静かに杯を傾けた。
そっと、グラスを置いた後、滔々と語り始めた。
「俺には、前の妻との間に、生きていれば、お前さんと同じくらいの倅が居てな……。
一目見た時から、知らぬ間に、死んだ倅の姿に重ね合わせている自分がいた……。
どうも段々と接している間に、ユルゲン、お前さんの事を他人とは思えなくなってきた」
声を震わせるユルゲンに、男は諭すように語り掛ける。
「アイリスディーナの先々を考えれば、俺の猶子になる事も悪くはあるまい。
アイリスディーナは並の女よりも聡く、そして純粋だ……。
もし君に何かがあった時の為だ。
一人……、この社会で生きる強さを求めるのは、18歳の少女に対しては酷であろう」
「確かに優しい娘ですから……」
「俺が後ろ盾になるから、盤石な相手に嫁がせてやりたい……」
ユルゲンは、男の言葉の端々から政略結婚の意図をくみ取った。
自身が一介の戦術機乗りであったならば、激しく抵抗し拒否したであろう。
しかし今は、支配階層の姻族。
義父アベールや上司シュトラハヴィッツ少将の手助け無くしては容易に事も成せぬ事を実感してきた。
祖国や民族の為にわが身を捨てる覚悟は十分できていたつもりだ。
だが、妹の事となると……
溢れ出る涙を拭うのも忘れ、男の注いだ酒を一気に呷った。
思えば己が夢は、幼い頃より父母の代わりに妹の事を立派に育て上げ、白無垢の花嫁衣装を着せて送り出す事であった。
もしそれがどの様な形で有れ、叶うのならば……。
一種のあきらめに似た感情が彼の心を支配し始めた。
「何れにせよ、ミンスクハイヴの攻略が成された今。米ソの対立構造や、欧州の安全保障環境は変わる」
戦後30有余年、ソ連隷属下にあった東ドイツは資源・食料を通じてを深くソ連経済圏に依存してきた。
伝統的にドイツは、1871年の帝政時代以降、ロシアとの密接な関係こそが重要。
故にアメリカやECは距離を置くべきだとしてきた。
親ソ反米は、何も東ドイツばかりではない。西ドイツも似たような考えであった。
彼等の運命は、敗戦の恥辱を受けながら政体を残し君主制を維持出来た日本と違い悲惨であった。
ソ連のシベリア抑留による500万人強の拉致に及ばず、米英占領地で100万人強の喪失……
鉄条網の引かれた荒野に軍事捕虜たちは放置され、飢餓やコロモジラミが媒介する発疹チフスなどの疫病に苦しんだ。
ドイツ占領軍の対応も不味かった。
書類上にある捕虜の身分を変更し、米軍に責任が及ばぬようにし、食料供給を意図的に減らした。
英仏軍の恒常的な虐待も大きかろう……
ドイツ国民の中には拭えぬ不信感が醸成されることになった。
ハンカチで目頭を押さえた後、ユルゲンは立ち上がり、男に深々と頭を下げる。
「では、明日もありますので失礼します……」
「何かあったら俺の所に来い……」
ユルゲンは無言で静かにドアの前に行くと、其のまま部屋を後にした。
男は、立ち去ったユルゲンに呼び掛ける様に、一人呟く。
「俺がお前たちにしてやれることと言ったら、仮初でもいいから家族の愛を知らせてやりたかったのだよ……。
シュタージに愛を引き裂かれた男に本当の愛をな……」
後書き
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百鬼夜行 その2
前書き
マブラヴ世界特有の内ゲバ回。
5年に及ぶBETA戦争で、地球上にある全てのハイヴ攻略が成ると、列強諸国の対応に足並みの乱れが早くも出始めていた。
ここは、西ドイツ臨時首都のボンの官衙に隠れる様にして立つ憲法擁護局。
(憲法擁護局。Bundesamt für Verfassungsschutz /略称:BfV)
その一室で男達は、今後のドイツ連邦の先行きに関して、密議を凝らしていた。
先頃のハバロフスクの首都機能喪失とウラジオストックへの急な遷都に関しての討議が成されている最中。
ふいに、丸刈りの男が立ち上がって、奥座に座る人物に尋ねる。
「起死回生の策としてゼオライマーを討つというのはどうでしょうか」
会議の冒頭から奥に座り、一言も発しなかった老人が声を上げる。
「木原マサキを消せ……、後腐れなく始末するのだ」
黄色味を帯びた白髪から類推するに、年の頃は80過ぎにもなろうかと言う、深い皴を顔に刻まれた男は、窪んだ眼を左右に動かす。
「アヤツはたった一人で米ソを手玉に取る……手強い相手じゃ。何としても葬り去らねばならん」
対ソで結束している西側陣営最前線の一つであった西ドイツも、当初の目的を忘れ、月面や火星に居るBETAよりも、木原マサキという人物、彼が駆るゼオライマーを恐れる。
地の底より幾千万と湧いて来るBETAの血煙を浴びながら、難攻不落のハイヴを正面から攻め掛け、その奥深くに潜り、白塗りの装甲を赤黒く染めながら四たび戻って来た。
マサキの駆るゼオライマーは万夫不当との言葉に相応しく、彼の首を取ろうとした、精鋭KGBや赤軍の特殊部隊を、まるで赤子のように扱い、50メートルにも及ぶ巨体を駆って数百の精兵を踏みつぶした。
ソ連政権は、議長以下首脳部の首を取られ、這う這うの体で日本海面前のウラジオストックまで落ち延びる無残な姿を天下に曝した。
男は、その事実に身震いしていた。
「プロシアが共産主義者を頼ったように、我等もテロリストどもを頼ろうではないか……。
そうよのう、BETA教団が、根城のサンフランシスコに飛んで、奴等へ工作を仕掛けよ」
男が言ったBETA教団とは、キリスト教を信仰を元に、BETAを神からの使徒と崇める過激な一派である。
自らを、『恭順派』と称し、戦火の及ばぬ欧米で手広く活動していた。
やがてカルト団体としての兆しが見え始めると、事態を重く見たローマ法王庁や東方正教会、プロテスタントの各宗派から破門され、異端宣告が出された。
聖書の教えを曲解した彼等は、破門によって過激な道に走った。
報復とばかりに各宗派の信徒を惨殺し、回教や仏教を始めとする異教の社殿や伽藍に火を点け、秘仏や聖遺物を打ちこわした。
また世界各地に工作の手を広め、聖者や賢人の墓を掘り暴き、遺体を辱めた後、珍宝珠玉や朱泥金銀など得難い歴史の財宝を掠めた。
そして彼等は、BETA戦争の混乱を利用し、先年フランスが頼みとする旧植民地のアルジェリアで兵乱を起こした。
フランス外人部隊と国家憲兵による大規模な取り締まりを受けるも、賊徒を裏から煽動・援助し、地下に潜り、延々と各国の軍事施設や政府機構に対して破壊活動を続けていた。
「あのアジア人の男もBETAが無い世界では不要……BETA教団共々死んでもらうのよ」
老人はそう告げると、くつくつと不気味な笑い声を上げた。
老人は、60年前の1917年にロシア革命で、赤匪の頭目レーニンを帝政ドイツが支援した顰に倣って、BETA教団への大規模な援助の策を企む。
憲法擁護局での密議は、その日の内に、ドイツ連邦情報局(BND)局長の耳に伝わる。
木原マサキ暗殺計画案の報を受けたBND局長は仰天して、首相に仔細を告げた。
色を失った首相は、机の上に有る気付け薬を口に含むと、マグカップを取って水と共に呷る。
「木原は、まだハンブルグに居るのだな」
首相の問いかけに、青白い顔色をして、局長は応じる。
「郊外にある米軍第二師団の基地にあって、機体の整備をしてると聞き及んでおります」
「物騒だ。もし、この事実が明るみになって木原の耳に入って見ろ。我等は血祭りにあげられるぞ」
「私も、同様に案じて居ります」
「由々しき事態だ。この際、彼等には消えて貰おう」
情報局長は、室内にある秘密回線で連邦国境警備隊(BGS)に連絡を入れた。
即座に、国境警備隊指揮下の第9国境警備群に出動命令が下った。
第9国境警備群は、1972年のミュンヘン五輪の際に起きた、「黒い九月」によるイスラエル選手団惨殺のテロ事件を受け、結成された特殊部隊である。
隊員は警察官の身分ではあるが、英国SASやイスラエルの総司令部偵察局の指導の元、訓練を受けた部隊で、最新鋭のMP5短機関銃を装備した精鋭。
市内にある憲法擁護局の庁舎にヘリで乗り付け、表裏から急襲する。
黒装束に防弾チョッキを着て、ヘルメットを被る隊員は、建屋に入ると、内部を爆破しながら、逃げ出して来る職員や調査員を男女問わず射殺した。
無論、件の老人も逃がさなかった。
待ち構えた隊員に、短機関銃で雨霰のごとき弾を浴びせられ、冥府へ旅立った。
首相は、後先を考えずに憲法擁護局の破壊を命じたが、それには彼なりの考えがあった。
もしこの西ドイツが、木原マサキと言う無敵の男に目を付けられたら……
男は、木原マサキと言う人物を、天のゼオライマーの存在を考え直した。そして心に懼れた。
月面基地にあったサクロボスコクレーターの襲撃事件から考えて、10年以上も人類を苦しめぬいたBETA。
幾多の血を吸って増長した化け物を、両手から繰り出す必殺の一撃を持って、悉く粉砕。
また彼を恐れて、暗殺を企み、あまつさえ核攻撃も躊躇わなかったソ連政権を相手に、縦横無尽に暴れ回った。
300万の精兵を抱えるソ連でさえ負けたのだ。35万の兵力しかない西ドイツが、まともに戦っても勝てる術はない。
地を埋め尽くし、濛々と土煙を上げて、怒涛の如く突撃してくるBETAと相対し、八方から射浴びせられるレーザーの中を駆け巡り、群がる敵をバタバタと、苦も無く打ち倒した。
あの50メートルもある、白塗りの大型機。天のゼオライマーに狙われれば、最後。
ソ連赤軍の精鋭ヴォールク連隊の、百機以上の戦術機も灰燼に帰してしまうほどの砲撃を連射しながら、猪突してくるであろう事は明白。
それを避けるために、必死の思いでよこしまな企みをしていた調査員を、組織諸共抹殺した。
BETAの襲撃でもそうだったが、誰在っても、すき好んで生命を捨てに出る者はない。
ましてや、天下無双と鳴り響いたゼオライマーを相手にまわしたとなれば、この35万の精兵とは言え、惨敗を喫するであろう。
一人、執務室に居る首相は、椅子から立ち上がって窓辺に立つと、口を開く。
「我が国が生き延びるためには、多少の犠牲も必要なのだ。憲法擁護局長よ……赦してくれ」
ドイツ国家存続のために、咎無き人々を殺したことに慙愧の言葉を吐いた男。
彼の心中は、混乱をきわめ、ただ憂懼が渦まくばかりであった。
後書き
ドイツがキリスト教恭順派と関係している話が、『TE』で出ていたので今回の話を作りました。
一応設定だと、1996年に米国でテオドールがまとめたとなっています。
常識的に考えれば、わずか数年で大規模な工作網が出来る訳がないので、BETAが暴れ回った1970年代から接触があったのかなと考えて書きました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
百鬼夜行 その3
前書き
マブラヴ世界の武家お約束回
ここは、米国・東部最大の商都、ニューヨーク。
その都市の真ん中に流れるハドソン川河口部の中州にあるマンハッタン島。
同島には、ニューヨーク証券取引所をはじめとした米国金融業界と所縁のあるウォール街を擁し、ユダヤ系の商人や銀行家達が、世界中のあらゆる富を集める。
その為、世人は『ジューヨーク』と密かに噂し合う程であった。
マンハッタンの中心街48番街から51番街の22エーカーの土地に跨り、聳え立つ摩天楼。
(1エーカー=4046.86平方メートル)
国際金融資本の系列が保持する超高層ビルディング。そこで米国を代表する産業界の重役による秘密会合が開かれていた。
ソ連極東最大都市・ハバロフスク市からの通信途絶という情報を元にして始まった会議は、紛糾していた。
東欧駐留ソ連軍の完全撤退という怪情報が持ち込まれてから、密議に参加する面々から不安が漏れる。
「ソ連首脳部の重大発表……どのように扱う積りかね……」
どこか気難しそうな表情をした老人が口を開いた。
「何、ウラジオストックの支店から連絡は確実なのかね……」
「昼頃、東京よりも似たような応答が御座いました……。
ただ京都支店も大阪支店も独自に動いて、対日通商代表部にも連絡いたしましたがファクシミリもテレックスも駄目だったそうです」
「KGBの日本でのスパイ活動も低調か……、何かあったのは間違いない」
「バクー油田の石油採掘事業。再開の見通しは立ちそうにもないか……」
「我等が60年の長き月日をかけて築いた、米ソ・二国間のの世界構造……、たかが一台の戦術機によって壊されようとは」
会議に参加する人間からの嘆きの声を遮るようにして、笑い声が響く。
末席に居る一人の50がらみの男が、満面に紅潮をみなぎらせて、生気なく項垂れる者たちを、出し抜けに笑って見せた。
老人は、その無礼をとがめた。
「誰かと思えば、副大統領のご舎弟ではないか……、今は何方に」
「チェース・マンハッタン銀行で形ばかりの会長などと言う、詰まらぬ仕事をしております。しかし各界を先導なされた皆様方の情けない姿は惨めで御座いますな。
木原マサキと言う男を、我等の中に招き入れる。それ位の事は言えぬものなのでしょうか……」
そう言って、男は再び笑い声を上げた。
男の皮肉に、老人をはじめ、参加者たちもむっと色をなして、座は白け渡った。
「それならば何か、君はそのような広言を吐くからには、木原を招き入れる計でもあるというのか。その自信があっての大言か」
老人は憤激の表情を見せながら詰ったので、その場にいた人々は、彼の返答を固唾を呑んで見守った。
「なくて、如何しましょうか!」
毅然として彼は、立ち上がり、
「実は私の方で5年ほど前より、日米欧の著名人や新進気鋭の官僚を集めた勉強会を主催しております。
俗にいう、『三極委員会』の集いを通じて、多少は日本との縁が御座います」
と言い切った。
「もし今の言葉に偽りがないならば、君にいかなる計画があるのだ。良ければ聞かしてもらいたいが」
「それならば私が常より日本に近づいて、表面上甘い言葉で彼等と関係しているのは、何を隠そう、隙もあれば日本そのものを我が手にしようと内心誓っているからです」
と臆面も無く言った。
「不肖ながら私におまかせ頂ければ、木原が秘密を暴き、白日の下に晒して御覧に入れましょう」
老人は、副大統領の弟の言葉に非常に満足し、会議に参加する人々もまた安堵感から喜色を漲らした。
彼等は、ハイヴ攻略の経緯を記した秘密報告書からゼオライマーの特殊機構に注目した。
原子力を超えるエネルギーを集めるシステムは、木原マサキが開発した。
それ以上の詳しい情報は入手されておらず、不明な点も多い謎のマシン、ゼオライマー。
ただ間違いなく言えることは、このシステムに関して詳しく知っているのは、世界では木原マサキただ一人。
木原マサキの去就が、衆目を集めるのには、然程時間が掛からなかった。
遠くに臨むエンパイヤ・ステート・ビルを眺めながら、老人は満足気に呟いた。
「費用はどれ程かかっても構わぬ。何としても彼を我等の側に引き込みたい……。
早速、調略にかかりなさい」
円卓に座る面々は、男の言葉に相槌を打つ。
「分かりました」
翌日、男は動いた。
早朝の時間にニューヨークのJFK空港に行くと、そこから大阪国際空港行きの便に持つものも持たず、乗り込んだ。
大阪に着くや否や、京都市内に住まう日本有数の財閥である大空寺財閥の総帥、大空寺真龍の元に急いだ。
ふらりと京都の大空寺財閥を訪ねると、奥にある総帥室まで乗り込む。
「久しいのう、大空寺殿よ」
突然の来訪に驚いた大空寺真龍は、酷く狼狽した様子で男の事を見るや、
「なあ、会長職を打っ棄って、はるばる儂の所に来たと言う事は、例の木原と言う小童をどうにかしろと言う事かね」と訊ねる。
2メートル以上もある身丈の体を、革張りのソファーに預けた。
男は改まったかのように、
「話が早い。では、ここは一つ、汗を掻いてくれぬかね」と訊ねる。
浅黒い顔に呆れた表情を浮かべる大空寺は、
「儂に御剣雷電公と連絡を取れと……、あのお方は殿上人ぞ。そう軽々にお会いできる立場ではない」
と、金色の髪を撫でつけながら、男の話を聞き入り、
「だが、わざわざマンハッタンより来た貴様の頼みだ。御剣公には取り計らおうぞ」
と渋々ながら応じた。
大空寺は男の魂胆を読みかねていた。
態々ニューヨークより直行便で大阪まで来て即日で京都入りするに、何か重大なわけがあると考えた。
男の久方ぶりの訪日を喜んだが、その一方で危険視した。
あくる日、男は単身、二条にある帝都城へ参内する途中の車列を、ボディーガードの運転する1969年式の赤いマスタングに乗りながら待った。
オートバイの警官隊に守られた御剣雷電の車列を見かけると、その後を追った。
勢いよくマスタングで、バイクの前に飛び出し、車列を遮る。
男は助手席より飛び降りると、「待たれよ、御剣公!」と、駆け寄ってくる警官の制止を振り行って、御剣の車のドアを開け、乗り込む。
男は、御剣の仰天した顔を見ながら、不敵の笑みを浮かべ、訊ねた。
「貴殿の方でも、その木原と言う男は困りかねているのかね」
急な男の行動に、御剣は、太い眉を顰め、
「我等は今、木原の力に頼ってはいるも、信用はしておらん。
聞けば、豺狼のような立ち振る舞いをすると……」
と応じた。
「ならば、その男、我等に預けてくれぬかね……」
「あの男は疑り深い。早々に策に乗るとは思えぬが」
男は下卑た笑いを浮かべ、
「実は、ロスアラモスの学者共が木原に興味を示して、奴を招いたのよ」
「ほう、それで……」
「奴も、米国に乗り込むと周囲に漏らしたとか……なお、都合が良いかと」
御剣は、膝を打って、
「よい考えだ。褒美として、この度の無礼は、不問に帰す」
と、いった。
木原マサキの米国訪問の話は、即座に御座所にまで伝わった。
正午の頃、政威大将軍は、二の丸御殿黒書院に御剣を呼んだ。
黒書院は嘗て江戸の頃、「小広間」と称され、上洛した徳川に近しい大名や高位の公家しか立ち入れぬ場所であった。
露払いの小姓に連れだてられた将軍は席に着くなり、上座にあたる一の間から訊ねた。
「木原渡米の話は、誠か。身共は今し方、茶坊主共より聞いたが信じられぬ」
二の間に平伏する御剣は顔を上げて、どこか不安げな表情をする将軍の顔を見つめる。
「殿下、某も、今朝米国の知人から伺ったばかりで御座います」
「この機会を通じて、我等も手に出来ていないゼオライマーの秘密が米国に漏れ伝わったら、どうする心算か」
「何、木原を、その前に殺せばよいのです」
不意に立ち上がると、食指で御剣の事を指差し、急き込んで詰った。
「其方は、身共を揶揄っているのか。その様な事は幼子でも判るわ……」
将軍は再び腰かけると、深い憂いを湛えた顔になり、
「聞く所によれば、東ドイツの将校と懇意にしているそうではないか。
もし木原が、その将校の妻妾や姉妹などに情が移って、手を出してみよ。
ここぞとばかりに奴等は、自分の陣営に引き込もうぞ」と嘆いた。
将軍は、マサキが、東ドイツに篭絡されることを懼れた。
もし東ドイツの支配層が謝礼とばかりに嫋やかな娘でも差し出そうものなら、欲に目が眩んで木原は食いつくかもしれぬ……
愛欲の泉に溺れ、何れはこの元枢府に、武家社会に、刃を持って襲い掛かってくるかもしれない。
その様な恐ろしい考えが、男の脳裏を支配し始めた。
御剣は、深く憂う将軍の愁眉を開かせようとして、答えた。
「殿下の御心配には及びません。武家や財閥から妙齢の美しい娘を選り抜き、縁談を受けさせる準備は整っております」
御剣の発言を疑う様な声の調子で、尋ねる。
「ほう、あのような凡夫に娘を差し出す家などあるものか」
「某の方で、斑鳩の翁から話を受けて、1年ほど前より訳有りの物を探し出し、準備して置いたのです」
でもまだ迷っている顔付きで、悩む将軍に、
「斑鳩の翁も常々申しておりましたが、天下無双の兵器を得るために、なぜ一人の女性をお惜しみになるんですか。安うございましょう」と答えた。
意外な意見にはっとさせられた将軍は、甚く納得した様子で、
「良かろう。その件は貴様に任せる」
脇息の脇にある扇子を掴み、御剣の方を指す。
「御意!」
御剣は将軍からの指示を受けると満足そうな顔をして、深々と平伏して見せた。
後書き
大空寺真龍は、『君が望む永遠』のサブヒロインのひとりである大空寺 あゆの父親です。
『君が望む永遠』は、マブラヴ世界の一部である『エクストラ』の前日譚に当たる話です。
速瀬水月、涼宮遙の両ヒロインもマブラヴシリーズに出ているので、大空寺真龍もこの世界線に居てもおかしくないかなと思って出しました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
一笑千金 その1
前書き
主人公独白回
マサキの声が、彼の自室に響き渡る。
「何、篁が帰国するだと」
計算尺を机の上に置くと、眉を顰め、美久の方を振り向く。
「何でも戦術機の開発計画の件で呼び戻されるとか」
「そうか、じゃあここは一つ奴に土産でも呉れてやるか」
そう言って奥より筒状の図面入れを出して、書き起こしておいた図面を放り込む。
大層驚いた仕掛けで美久が呟く。
「それは苦心して、お書きになられたローズ・セラヴィーの図面ではありませんか……」
彼女の横顔を見ながら、不敵の笑みを湛え、
「これは、俺のリハビリがてらに書いたものよ。今更何の価値があろうものか」
と答える。
そしてタバコに火を点けて、紫煙を燻らせながら、
「このローズ・セラヴィーさえも色あせるような新型機の素案が出来つつある」
眼光鋭く、美久をねめつける。
「ゼオライマーの予備部品を組み合わせて、八卦ロボの武装を追加加工した機体。
天下無双の存在と言うべき巨大ロボ」
その様を恐れおののく美久の左頬を右手で撫でる。
「名付けて、グレートゼオライマーとな……」
そういうと、今書き起こしている図面を左の食指で指し示す。
ゼオライマーの全身に追加装甲が施されたかのような設計図に、思わず美久は仰天した。
呆然とする美久の顎を、右手で掴むと、マサキは顔を近づけ、彼女の唇を不意に口付けをする。
「な、何をなさるんですか」
美久は、色を失っていた頬の色がグッと赤みを増し、マサキの傍から無理やり離れ、羞恥心をあらわにする。
マサキは、腰まで有る艶やかな髪を乱しながら、肩で息をする美久の様を一瞥し、
「決まっているだろう」と、満面に笑みを湛える。
真っ赤に火照った顔をする彼女を眺めながら、フフフと不気味な笑い声を上げ、
「篁を通じて米国のハイネマンを俺の目の前に誘い出す。これから奴を利用をするのだよ」
と告げ、部屋を後にした。
マサキは図面筒を引っ提げて、篁たちの部屋に颯爽と乗り込む。
ダッフルバッグ型の雑嚢やアタッシェケースに明日の帰り支度を詰め込む二人に向け、図面入れを手渡し、
「こいつを帰国次第、国防大臣か、政務次官の榊に届けてくれ」と呟く。
篁と巖谷は、帝国国内の戦術機開発計画の遅延を取り返すとの名目で、帰朝を促されていた。
ミンスクハイヴ攻略まではと先延ばししていたが、ゼオライマーの活躍によって僅か数時間でミンスクを灰燼に帰すと事情は変化した。
続々と東ドイツに入るNATO軍や東欧諸国の部隊を横目に見ながらに、明日のハンブルグ発ニューヨーク経由の成田行きの便で、急遽帰国の途に就くことになったのだ。
「そんなものは外交行嚢で送ればいいじゃないか」
「俺はドイツ人がそこまで行儀がいいとは思っていない。肌身離さず持って運んでいけば、それが安全であると考えている」
マサキは俯くと、前の世界でソ連が日本政府の伝令使を毒入りの酒で昏睡させ、秘密文書を略取したことを思い起こしていた。
幾ら、欧州共同体領域内のKGB組織が弱体化したとはいえ、西ドイツにどれだけ浸透しているかは定かではない。
西ドイツ首相の秘書がシュタージ将校であることが判明した、『ギヨーム事件』から、まだ4年の年月しか経っていない。無論、警戒するに越したことはない。
また同盟国たる米国の中にも見えないソ連の工作の手を懼れたのだ。
自らの手によって握った銃剣を、KGB長官の脾腹へ深く刺しこんで、白刃を血で濡らしたが、それだけで怯むスパイ組織ではない……
何れはこのグレートゼオライマーの設計も漏れよう。
余計な茶々が入る前に太陽系のBETAをどうにかせねば、この世界でも安穏としてはいられまい。
タバコを懐中より取り出して、火を点けると気持ちを落ち着かせる。
再び篁の方に顔を向けて、
「それに篁、お前は戦術機開発の技師。城内省の人間でもあるが国防省本部にも自在に出入りできるはずだ。これを持参してどの様な物か説明してほしい」
と伝える。
「そしてもう一つ頼みがある。貴様の妻であるミラとやらにも見せて、1年以内、いや半年以内に作成可能かだけを教えて欲しい。それによっては月にあるハイヴ攻略の見立ても変わって来る」
話している内に、ふと思い出した。
篁は、日米合同で立ち上げた曙計画のメンバーであるミラ・ブリッジスを妻に娶っている。
どんなものを設計していたかは詳らかに知らないが、戦術機開発の技師と言う事は知っている。
鎧衣の話によると、ミラは、音に聞こえる、米国の天才戦術機設計技師、フランク・ハイネマンの恋人。
日本から来た篁に見初められ、曙計画で同じ釜の飯を食ううちに段々と打ち解けていき、ハイネマンより半ば奪う形で結婚したと言う。
鎧衣から、その話を初めて詳しく聞かさた時は、大層気分の良いものでもなかったのを覚えている。
女の貞操など、美丈夫の前では簡単に転がされるのか……
ハイネマンと言う男も恐らくかなりの堅物で、彼女に気などをかけてやらなかったのではなかろうか。
風采の上がらぬ技師と、気立ての良い色白の貴公子では、比べるのも酷であろう。
禽獣の雌が、より強い雄、より美しい雄にひかれるのは世の常。人間とて同じだ。
どの様な事情かは詳しくは知りたくもないが、篁の情炎にミラはすっかりその身を焦がしたのだろう。
柄にもなく人の色道などの事を考えてしまったことを一人悔やみながら、眼光鋭く篁を睨みつける。
額に手を当てて、思案する振りをしながら、生気のない顔で、
「何れや、ハイネマンとやらとも会ってみたいものよのう」
と告げる。
マサキは、悶々とした気分を払い飛ばすように、呵々と笑って、彼等の前から去っていった。
一人、屋外の喫煙所で傾き始めた太陽を眺めながら、思案する。
たまたま次元連結システムで流れ着いたこの異世界。
深い関わりを持つうちに、複雑な感情を抱き始めていた事をマサキは実感していた。
怏々としてすぐれぬ顔をしていると、美久が心配そうな顔をして、
「大分、気分がすぐれぬ様なお顔をしていましたが……」と声を掛けて来た。
マサキは、乾いた笑いを漏らす。
「篁の妻の事を思ううちに、女性の温もりに触れたくなって見て、猥雑な事をこの頭で思い描いていた」
「えっ」
大きく目を見開いて仰天する、美久の顔を睨みつけながら、
「地球上のBETAの巣窟はほぼ消し去った。故に悶々とするうちに柔肌を掻き抱いてみるなどと言う愚かしい思いを……、ふと女々しい事を考えていたのよ」
と告げると、顔を背ける。
篁の妻、ミラの事を考える内、知らず知らずのうちにベルンハルトの新妻を思っていた。
一目見ただけで、すっかりベアトリクスに魅されてしまった。
あの彼女の妖艶な佇まいと言ったら、言葉にない。
以前あった時、珠玉の様な眼をむけたベアトリクスの明眸といい、その艶姿といい、ハッと、男を蠱惑するかのような何かがある。
柳眉を逆だてる様も、顰めた様も、形容しがたい程の美しさがあった。
甘く翻る艶やかな腰丈の黒髪など、眺めれば眺めるほど、ジンと胸を痺れさせる。
ベルンハルトは、毎夜毎夜、白磁の様な玉の肌を、この胸に抱いて、枕を交わしているのだろうか。
一瞬、ユルゲンへの嫉妬の感情を覚えた事に、内心驚く。
深い憂慮の表情を湛えるマサキの様を見た美久は、ただ彼の傍らに立って見守るしかなかった。
嘗て、八卦衆のクローン人間を愛に苦しみ悩む様、遺伝子操作し、鎧袖一触で打ち倒した男とは思えぬ様に、困惑した。
この男こそが、思えば一番人の温もりや信頼を求めていたのではなかろうか。
心の渇きを癒す愛を、冥王計画と言う勝者の無いゲームの中で探し求めてたのではないか。
美久は推論型の人工知能を活用し、そう結論付けようとしていた。
マサキは、一頻り、鬱々と思い悩んだ後、
「天のゼオライマーを自在に操り、江湖にその名を轟かす、この俺としたことが……こんな初心にもなるもんかとつくづく思って」
と告げる。
クククと自嘲する様な笑い声を上げながら、段々と顔を上げ、
「素人の生娘を欲したり、人妻に横恋慕することなど、この世界を我が手に収めてからでも十分できるではないか。15年の歳月をかけて冥王計画を準備したように、気長に待つ事など造作もないのに……、如何した物かと気弱になっただけよ」
と強がって見せ、美久の方より顔を背ける。
紫煙を燻らせながら、再び黄昏の中を茫然と立ち尽くしていた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
一笑千金 その2
前書き
読者様意見反映回
季節はもう9月の初秋だった。
ユルゲンはつらつら思うに、ここ七、八か月は夢の如く過ぎていた。
人生とは変わりやすく頼りにならないもの。明日はどんな日がこの先に待つことか。
「ユルゲン、君だけじゃなく、この僕まで議長に呼ばれるって一体全体どうなってるんだ」
ヤウクは歎くも、ユルゲンも己を自嘲するかのように薄く笑った。
「ま、男は後悔しないものさ」
ユルゲンたちが向かう先は何処か。
共和国宮殿にある議長の執務室であった。
その内、執務室に着くと、そのドアを開け、中にはいる。
すると、背を向けて窓の方を見ている議長と義父・アベール・ブレーメが居るのが判った。
白髪の頭が動き、眼鏡越しに茶色い瞳で彼を一瞥した。
「ユルゲン君、遅かったではないか」
何時もの様に厳格な表情をしていないことに、ユルゲンは驚いた。
一体どういう心境なのだろうか……
喜色を漲らした議長が振り返ると整列する。
彼等は、踵を鳴らし、背筋を伸ばして、敬礼をする。
その際、議長は国防軍式の敬礼を淀みなく送り返した。
「諸君等には、特別な話が有って呼んだ。何か分かるか……」
満足気な表情で、男はそう言うと肘掛椅子に腰を下ろした。
「失礼ですが、同志議長。同志ベルンハルトが何か問題でも……」
訝しんだ顔をするヤウク少尉の問いに、男は相好を崩す。
「同志ベルンハルトが何をしでかしたかは、今日は問題にしない。
実はな……、お前さんたちに遊学に行って欲しい。
我が国のエリートも、英米の大学留学は何れは進めなくてはいけないと西との合邦の際に困るであろう」
男は懐中よりフランス製の紙巻きたばこを取り出すと、火を点けた。
紫煙を燻らせると、黒タバコの詰められた「ジダン」の香りが部屋中に広がる。
「同志議長、失礼ですが、どちらにですか」
「俺の方で推薦状を書いてな……。
同志ベルンハルト、君はニューヨークにあるコロンビア大学を知ってるかい」
男は、ユルゲンに米国留学の話を臆面もなくいった。
紫煙を燻らせながら、ユルゲンのサファイヤのような瞳を覘く。
「そこのロシア研究所で君を受け入れるという話が来てな……。
戦術機から離れることになる故、衛士としての技量は落ちるかもしれんが受けてはくれないか。
露語が自由闊達に操れて、英語も話せる人間となると少なくてな……」
ユルゲンはその言葉に、心を動かされた。
コロンビア大学のロシア研究所……、聞いた事がある。
確か石油で財を成した大財閥の財団の支援で作られた研究所のはずだ。
その財団は、米国資本にしては珍しく中近東のとの関係も重視しているとも聞く。
BETA戦争前の、ソ連の石油採掘事業にも縁が深かったはず……
「ですが同志議長、小官では無くても英語能力の高いものはいるのではありませんか」
立ち竦むアベールは、両腕を組むと彼の方を向いた。
「ユルゲン君。君は自分を、そう卑下する物ではない。
……議長は外に出して学んできて欲しいと、君に言っているのだよ」
「お前さんたち、悪童どもが集まって西の新聞を熱心に読んでる件……」
男は、燻る煙草を持つ右手で、灰皿へ灰を落とす。
「その事は、俺の耳にまで伝わっている。
まず一人、ニューヨークで遊学して来い。詳しい話は追ってする」
ユルゲンはひどく怪訝な顔をして、二人に尋ねた。
「ベアトリクスとではなくてですか……」
外交官の子息として単身留学に強烈な違和感を覚えたためであった。
訝しむ彼の眼前に立つ二人は、一瞬狐につままれたような顔になる。
呆気に取られたアベールが尋ねた。
「娘から、何も聞いてないのか……」
「何のことですか」
さっぱり事情がつかめず両目を瞬きさせるユルゲンを見て、男は思わず苦笑を漏らした。
「アベール、余り追及してやるな。若夫婦だから色々あるのであろう」
哄笑する声に吊られて、アベールも追従した。
相も変わらず感の鈍いユルゲンに呆れたヤウク少尉は、深いため息をついた。
「同志ヤウク、君には英国のサンドハースト士官学校に留学してもらう。
空軍士官学校次席の人間が今更そんなところに入るのは馬鹿らしいかもしれんが……」
議長の呼びかけに対して、抜からぬ顔をしたヤウク少尉は直立して答える。
「人脈作りですか」
男は、深く頷く。
「話が早くて助かる。西の王侯貴族の連中と人脈を作る……、大変であろうがその事を君に任せたい。
それに君の出自はヴォルガ・ドイツ人、事情を知る人間からは同情も引こう。
その点も考慮しての人選だ。遠慮なく学んできてくれ」
机の上で指を組んで、一瞬戸惑うヤウク少尉を見る男は、続けざまにこう漏らした。
「シュトラハヴィッツ君の愛娘を迎え入れるのに、ふさわしい男になる覚悟。
十分、確かめさせてもらった。
後は君の努力次第……、話は以上だ。下がって良い」
「了解しました」
男に挙手の礼をした後、ヤウク少尉は両手で軍帽を被るとドアに向かう。
ヤウク少尉は、自分の思い人を考えた。
一通り学び終えたころには、彼女も花を恥じらう乙女になっていよう。
10歳以上離れた娘御とはいえ、一目惚れしてしまったのだ……。
何れ18になったら迎えに行こう、そう思いながら部屋を後にした。
椅子に腰かけていたユルゲンは、勢い良く立ち上がる。
「同志議長、用件が済んだなら自分も……」
一服吸うと、彼の方を向き、答える。
男は相好を崩すや、次のように言った。
「実はとっておきの客を招待している」
ユルゲンは喜色に満ちた顔を引き締め、背筋を伸ばす。
「近いうちに木原マサキが来る。君にはその接待をしてほしいのだよ」
その夜、私宅に数名の物を招いて、議長は夕刻よりゼオライマーの取り扱いに関して討議をしていた。
会議の座中、ハイム少将は、深刻な面持ちをする議長に、
「では私に考えが御座います。伝え聞く所によると、ゼオライマーのパイロットは独り身であるそうです」と答える。
「丁度アイリスディーナ嬢は、はや婿殿を迎えてよい年齢になりますから、この際、婚姻を通じて、まず、木原の心を籠絡するのです……、その縁談を、受けるか受けないかで、我々に対する彼の立場も、はっきり致します」
「うむ……」
「もし彼が、縁談をうけて、二つ返事で引き受けるようでしたら、しめたものです。 我が国が史上最強の兵器を労せずして手に入れることが出来るのですよ。こんな話は滅多にありません」と木原マサキとの政略結婚を、匂わせる答えをした。
男は紫煙を燻らせながら、
「たしかにハイムの言う事には一理ある」と、彼の意見はもっともだと感心していた。
ハイムの意見に聞き入る様に驚いたシュトラハヴィッツ少将は、男を諫めた。
「形の上とはいえ、義理の娘だろう。アンタは余りにも人非人じゃないか」
一女の父親である彼は、アイリスディーナの姿を、愛娘ウルスラと重ねた。
ゼオライマーのパイロット、木原マサキとの婚姻。
彼は、その事を多方面より考え、国益の為の良縁と思い、その反面に危うさを覚えた。
議長の面には、わずかに動揺が見えだした。
「シュトラハヴィッツ君、君の言う通りだ……だがね。核より安く核爆弾以上のものが手に入るとなれば、我が国を囲む安保情勢は変わる」
だがシュトラハヴィッツ少将の意見を受けても、男の決心は変わらなかった。
その様を見て、アベール・ブレーメは、
「待ち給え、あまりにも無謀過ぎないか……」と口を極めて、その無謀をなじった。
「何だって、そんな乗るか分からない策に全力を注ぐのかね。
甘い見立てではないのか……英仏は核戦力維持のために通常戦力を減らした。ゼオライマーにかかる費用と言う物がどれ程なのか、皆目見当がつかない」
嘗て7つの海を制し、南米より中東、インド、極東まで支配した大英帝国は見る影もなく凋落した。
2000隻近くの威容を誇った大艦艇も、精鋭を誇った陸軍も、ドーバー海峡の向こうより渡洋爆撃を繰り返す空軍と幾度となく干戈を交えた航空隊も、かつての面影はない。
核戦力維持の為、英国政府の財務官僚は、繰り返し、しかも過剰に、三軍の装備・人員を削減してきた。
またフランスも同様である。
ナポレオン大帝の頃より多数の精兵で、その武威を天下に示してきた大陸軍や、北アフリカや、清朝より掠め取った印度支那諸国を従え、果ては南太平洋の小島まで影響を及ぼした海軍。
今や、核の傘にかかる費用の為に、四海にその威光を及ぼす事など論外と言えるほど縮小し、その姿は往時を知る者を嘆かせた。
アベールは、通産次官として東ドイツの状況を誰よりも把握していた。
国民福祉の為の社会保障費を維持するためとはいえ、西ドイツより秘密裏に施し金を受け取っている以上に、ソ連よりパイプラインを通じて提供されていた格安の天然ガス、石油。
BETA戦争によりその供給量は減るも、自国使用分を削って転売していた差額を持って、国費に当てるのも限度がある。
ましてや核に同等するとも言われている天のゼオライマーの特殊機構……。
一人皮算用をしながら、悶々と思い悩んでいた。
「どちらにしろ木原博士に関しては男女の関係とか淫猥な話は聞いた事がない。思想も反ソで一本筋が通っているし、信用できる男やもしれん」
議長の言葉に、気を良くしたハイム少将は、
「不安にお思いならば、誰か、木原と会った者を呼び寄せて、その人物に聞きましょう」と答える。
ふと、不安げな表情のアーベルが漏らす。
「娘は、危険な男と言っていたが」
「次官、真ですか。お嬢様は何方で、博士と……」
ハイム少将に応じる形で、アベールは娘・ベアトリクスから伝え聞いた話を、打ち明ける。
「ユルゲン君と遊びに行った折に会ったそうだ。何でも例の戦術機に乗せて遠乗りに出たと……」
シュトラハヴィッツ少将は、苦笑を浮かべながら、
「初耳だな。あのベルンハルトと遊び仲間だったとは」
と、皮肉交じりに答えるも、
「おい、アルフレート、口を慎め」と、ハイム少将が彼を窘めた。
男は、密議に参加する面々からの発言を聞いた後、手に持った煙草をゆっくりと灰皿に押し付ける。
そして、覚悟したかのように述べた。
「まあ、俺の方でミンスクハイヴ攻略作戦の功績による勲章授与と言う事で、木原博士を呼び出して、アイリスに逢わせる。ちと不安な事もあるがな」
アベールは、彼の発言に内心おどろいたが、さあらぬ顔して、
「なんだね」と云いやった。
議長は、ふと冷笑を漏らしつつ、
「東洋人だろ、アイリスより小柄だったら……」と嘆く。
ハイムは、眉をひそめ、
「身丈や風采も重要でしょうが、彼は科学者です。やはり重要なのは人格や政治信条でしょう。
今の彼の立場は日本政府の傭兵の様な物です。上手く行けば引き込めるかもしれません」
と、小声を寄せて、マサキと日本政府との関係をはなした。
シュトラハヴィッツも、いやな顔をして、ふさいでいたが、ハイムの言を聞くと、いきなり鬱憤を吐きだすようにいった。
「悪魔のようなことを考える科学者だったら、どうする。奴の背景も分からぬ内に嫁入り話などと言うのは危険すぎないか」
「それはその時に考えればいいさ。シュトラハヴィッツ君」
ハイムは、シュトラハヴィッツの怒っている問題にはふれないで、そっと議長に答えた。
「ごもっともですが、こういうことは、あまりお口にしないほうがよいでしょう」
「しかし、困ったものだ……」
「まあ、ご安心ください。その代りに、木原へは、報うべきものを報いておやりになればよいでしょう」
と、ハイムは堂々と答えた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
欧米だと、既婚者は基本的にワンセットで海外赴任します。
これは東欧の共産圏も変わりません。ソ連時代の外交官やKGB工作員(任務によっては例外有り)もそうでした。
社交慣習やハニートラップ対策でもあります。
一笑千金 その3
前書き
(誰が悪党か)これもうわかんねぇな
翌朝、議長公邸は驚きと混乱の声が響き渡っていた。
「えっ。アイリスディーナの結婚のはなしですって?」
初耳とみえて、ユルゲンは桃のような血色を見せながら目を丸くした。
「で、何方に……」
「ゼオライマーのパイロット、木原マサキにだよ。ハイムの提案でな」
案の定、ユルゲンはおもしろくない顔をした。
議長はたたみかけて、若い義子を諭した。
「外交とは、すべて逆境に在っても耐え忍んで成し遂げるものだ。時にはじっとこらえて我慢するのも必要と言えよう。
木原にアイリスディーナを与える。勿論、嫌でたまらないだろうが、その効果は大きい。
どのような英傑や賢人でも人間だ。
遂に人間的な弱点、つまり凡情を抱くのは世の常。
思うに、傾城の美女、一人で、剣で血を濡らさずして国土の難を救える」
話を受けてしばらく、ユルゲンは熟慮にふけり、やがて議長には、最初の気色とは打って変って、
「取り敢えず、舅や妻に相談し、自分の方で妹は口説いて見せるつもりです」
と答えて、その場を辞した。
帰宅するなり、ユルゲンは、妻を呼び出して、事の経緯を相談した。
するとベアトリクスは、怪訝な顔をして、
「アイリスディーナを娶いに来るって……何処までもあつかましい男ね」
ユルゲンは、あわてて手を振りながら、
「違う、違う。ハイム少将の提案で、我等のほうから木原を婚姻に誘い出すんだよ」
「嘘、嘘。貴方は私を揶揄って笑おうとしてるのでしょ」
「本当。嘘と思うならば、人を出して聞いて来いよ」
ベアトリクスは、まだ信じない顔で、護衛の一名であるデュルクに、事の経緯を確かめる様をいいつけた。
デュルクは、官衙から帰ると、すぐベアトリクスの前へ来て語った。
「例のお噂で、政治局や重臣の皆様はもちきりでした」
ベアトリクスは、声を上げて、哭き出した。
たちまち彼女は、わが義妹のアイリスディーナのいる部屋へと、走って行った。
その様に仰天したアイリスディーナは、
「ベアトリクス、どうかしたの」と訝しんだ。
ベアトリクスは、袖でおおった顔を上げて、
「アイリス。どんな立場になっても、私は貴方の嫂、義姉よ」
「何を言うの、今さら」
「じゃあ、なんで私に相談も無く、大事な女の一生を簡単に決めたのよ」
「わけが分からない。なんのこと、一体?」
「それその通り。木原へ嫁がすことなど許すつもりはないわ」
アイリスディーナは、眼をみはって、
「えっ、誰がそんなことを……」と、二の句もつげない顔をした。
「兄に訊いてご覧なさい」と、涙で濡れた目でユルゲンをねめつけた。
ベアトリクスのうしろへ来て立っていたユルゲンは、
「アイリス、赦してくれ。
何れ、俺の口からお前の真心を見込んで頼むつもりで居たが……」
と言いかける夫の肩を掴んで、
「そんなのは知りません!」
とベアトリクスは、前にも増して怒り出した。そして口を極めてその謀をそしった。
「ハイム将軍も、ハイム将軍よ。一国の将官たるものが、そんな愚者にも劣る考えで……。
絶対に許さない……、決してアイリスを、そんな道具みたいな扱いにするなんて許さない」
兄弟姉妹のいないベアトリクスにとって、アイリスディーナは実の妹も同然。
ユルゲンへの特別な感情を持っている事には嫉妬してはいたが、それでもその情の深さは特別だった。
だから、その義妹を生贄として捧げようとする計略を聞いては、頭から怒りを震わせて、
「駄目、駄目、誰がなんといおうと、アイリスの一生を誤まらせるようなことなんて……。
貴方、ハイム将軍を討ちましょう。国家人民軍の将官にその様な人間は必要ありません」
という剣幕で、国益の為の策を否定した。
(『もうこうなったら、手が付けられないな』)
ベアトリクスの痛切な嘆きに、ただユルゲンは漠然としていた。
もらい泣きしたアイリスディーナと抱き合って哭くベアトリクスの姿を、見守っていた。
さて数日後、一方のマサキは、僅かな人間を連れだて、東ベルリンに入る。
無論、日本政府も共産圏と言う事で、駐西独大使館付武官補佐官の彩峰と参事官の珠瀬を同時に送り出して。
黒塗りの公用車を連ねて、チェックポイントチャーリを堂々と通過していく。
その車中、マサキは、
「ミンスクハイヴ攻略に対する勲章の授与か、そんなくだらん話とは思わなかった。
これは興ざめだな」と気怠そうな表情をして、呟いた。
助手席の鎧衣は、後部座席に振り返り、
「木原君、付かぬ事を聞くが……」と尋ねる。
一瞬、眉をひそめたマサキは紫煙を燻らせながら、
「用件があるならあけすけに言っても構わんぞ。美久に気を使う必要もあるまい」
と、いぶかりだした。
「女性の色香に惑わされないかと……、職業柄、不安になったのだよ。
私は幾多の科学者が、色仕掛けによって、破滅的な結末になるのを見てきてね」
マサキは、満面に喜色をめぐらせ、
「確かに、この数年は、まったく童貞も同じであったからな」
と出し抜けに、笑って見せた。
マサキからの意外な言葉に、鎧衣と運転手は心底仰天した態度を見せる。
美久は頬を真っ赤に染めると、俯いてしまう程で、マサキは、その様を見ながら、
「お前にも、その様な態度を取る所があったのか」
と彼女の横顔を、興味深そうにぬすみ見た後、笑って見せた。
勝ち誇った態度で、吸い殻を灰皿に投げ入れ、
「鎧衣、貴様が許すのであれば、ベルンハルトが囲っている女どもと戯れて見せよう」
と、鎧衣を揶揄う様な事を言い放った。
共和国宮殿に着くと、車のドアが勢いよく開けられる。
正面口の外には、一組の男女が待ちかねた様子で立っていた。
女はやや小柄で、濃い灰色でウールサージのタイトスカートの婦人用勤務服姿。
胸まで有るセミロングの茶色がかった金髪で、左目の下にはっきりとわかるぐらいの大きな泣き黒子。
もう一人の男は、見上げるような偉丈夫で、灰色の外出服を着ていた。
ダークグリーンの襟には、下士官の刺繍があり、飾り緒を胸に付けていた事から曹長である事が判った。
奇妙な二人組の後ろには、官帽に将校用の冬季勤務服を着たユルゲンが、ゆっくり姿を現す。
偉丈夫の下士官は、両手にマサキ達が持ってきたA2サイズのアタッシェケースを抱える。
その際ユルゲンは、
「同志曹長。執務室の前で待機しててくれ」と、声を掛ける。
曹長は、直立したまま、
「同志中尉、クリューガー曹長はご命令された通り、任務を実行します」
と告げて、彼に会釈した後、庁舎の中に入っていった。
顔なじみのユルゲンを見るなり、マサキは近寄って、
「ベルンハルトよ、待たせたな。この木原マサキに話とは何だ」
「折りいっての話は……、奥で議長がお待ちしております。
そこで、お茶でも飲みながら……」
綾峰たちが揃うのを待ってから、ユルゲンは、
「では、お待たせいたしました。さっそく、同志議長の室へご案内いたしましょう。どうぞ、こちらへ」
と、庁舎に案内した。
丁度その時、執務室では、議長が他念なく喫緊の課題に関する書類に目を通していた。
ユルゲンは、静かに扉を訪れて、
「同志議長、ベルンハルト中尉はご命令の通り、御客人方をお連れ致しました。
お目通りの方、お願いいたします」
と、形式に則った挨拶をした。
議長は、椅子から立ち上がって、彼の姿を迎えるなり、
「其方に居られる綾峰大尉と木原さん、後ろにいる氷室さん。
帝国軍人の方々には、我が国を代表して略式ながら英雄勲章を授与したいと思ってね」
と、机の引き出しを開け、スウェード素材の化粧箱と筒状に丸めた紙を取り出し、
「議会を飛ばして、政治局の方針として勲章を贈る事にしたのだよ」と、机の上に置いた。
男は、深々と頭を下げる綾峰の方を向くと、
「本日お見えにならなかった大使閣下、駐在武官のご両人には後日改めて授与する事だけは、議長の私から伝えて置きます」と鷹揚に、礼を返した。
「めったにお越しにならない日本の皆様のお訪ね下さったのです。
後ほど大広間で、茶会でも……」
「もう俺を必要としないであろう」
ユルゲンはじめ、みな冷やとした顔色である。
室中、氷のようにしんとなったところで、マサキはなお言った。
「今更、茶会どころじゃあるまい。俺も忙しいんでな」
慌てふためいた男は、おもしからぬ顔をするマサキの黒い瞳を覗きながら、
「ま、待ってください」
強張った顔に、余所行きの笑みを湛え、
「何分、硬い話ですから、木原博士の方は、なんなら愚息にでもベルリン近郊を案内させましょう。
もし、その際には娘にもよろしくと、声を掛けてやってください」
と、別行動を提案した。
このときユルゲンの眉に、一瞬の驚きがサッと掠かすめたのを、マサキ達はつい気がつかなかった。
また、気づきもさせぬほど、ユルゲンの姿は静かだった。
気をよくしたマサキは、不敵の笑みを湛え乍ら、
「それは楽しみだ。雑多な茶会などあきあきしていたからな……」と満足げに答えた。
不安になった綾峰は、
「おい木原、単独行動は」と声を掛けるも、
「まあ、まあ、大尉殿、この不肖鎧衣が付いて行きますので、ご安心を」
と鎧衣に遮られ、渋々ながら、
「……認められぬが、貴様が責任を取るなら別だ。何かあったら情報省に乗り込んでやる」と、くぎを刺した。
マサキは、綾峰たちと別れると美久と鎧衣を引き連れて、ユルゲンたちの用意した車に乗った。
3台の115型『ジル』に別々に乗せられると、ベルリン郊外に向かって走り出した。
(東ドイツでは国産車トラバントの信用がなく、公用車でソ連製ジルが多用されていた)
車中、マサキは後部座席に寄り掛かりながら、
「いや、別嬪さんだ。本当いかしてるね。ハイゼンベルクさんだっけ」
と懐中からホープの紙箱を取り出し、
「吸うかい」と左隣に居るマライ・ハイゼンベルクにタバコを勧めた。
マライが右手を差し出して断ると、マサキは煙草を口に咥えて、
「ベルンハルトよ、お前ら男女の仲なのか。そうでなければここまで連れてこまい」
と、助手席にいるユルゲンに声を掛け、
「もしあれならば、俺に譲ってくれないか」
と呟くと、ガスライターで紫煙を燻らせた。
ユルゲンは顔色を変じて、
「断る」と怒気をあらわにして言い返した。
「出来てなければ、強引にでも俺のものにするんだがな」
と言い放つと、満面に喜色をたぎらせ、
「出来てるってことか。本当であろうな」
と椅子の間から身を乗り出し、ユルゲンの項に紫煙を吹きかけ、
「まっ、しょうがねえか。俺も女の事で揉めたくないからな」
と勢いよく、椅子に腰かけた。
運転席にいるヤウクは、その様を苦笑しながらハンドルを握っていた。
車はしばらく走ると、郊外にある住宅街に着いた。
マサキは、車より降りると、懐中よりミノルタ製の双眼鏡を取り出す。
ダハプリズム式のレンズで周囲を見回し、ふと思慮に耽った。
はるか遠くに見えるコンクリート製の所々崩れかけた壁は西ドイツの飛び地を覆う物だろう。
ベルリン市内でも無数の飛び地があって米ソ英仏の四か国軍が定期的に巡回している。
その様な場所で度々暗殺未遂や誘拐事件が起きても不思議ではない。
KGBもKGBだが、止めなかったCIAもCIAだと、紫煙を燻らせながら、周囲を観察していた。
やがてユルゲンの招きで立派な屋敷に案内された。
建屋は戦前に立てた物であろうか。壁は所々色が褪めて、補修も満足されてない様子。
中に入るなり、ユルゲンは
「俺の家だ。ここなら万が一ソ連も手を出せまい」と呟いた。
マサキはその様を見て、この男の無謀を逞しく思い、また苦しく思った。
持ち寄った茶や菓子を前にして雑談をしていると、
「アイリス、お客人だ。挨拶しなさい」と奥に声を掛けた。
ドアが静かに開くと、マサキは目を見張った。
そこには白皙の美貌を湛え、腰まで届く長い金色の髪を編み下げで綺麗に結った、楚々たる麗人が居た。
金糸の様な眉の麗しさ、透き通るばかりの肌の白さ、また、愁いを含んだサファイヤ色の眼、この世の物とも言えぬものばかりで、まるで19世紀の絵画から出て来た様な麗しい女神や妖精を思わせた。
また彼女の身に着けている象牙色のカーディガンセーターと白地のブラウスからは、砲弾型の乳房や腰の括れも浮き立たせ、非常に艶かしく見える。
濃紺のフレアスカートの下から浮かび上がる、黒いストッキングにパンプスを履いた足はなんとも言えない細さ。
咄嗟に、マサキにも、何とも言えない眩い心地がした。
(『ああ、この様な珠玉の様な乙女が居ようとは』)
今まで感じた事のない様な動悸と共に、全身の血が熱くなっていくのを感じた。
マサキは、今まで見た事のない美女の新鮮な姿にすっかり見入ってしまっていた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
一笑千金 その4
前書き
愛の多重衝突事故回
「木原。お前が俺をソ連の害悪から幾度か助けたことへの恩として、帰国するついでに、この娘を連れてくれぬか」
ユルゲンの言葉は、アイリスディーナとの結婚を意味する物であった。
東ドイツ国民の国外への移動は制限されていた。
但し、それにも条件があり、65歳以上の高齢者と政治犯、外国人と結婚した配偶者は出入国が自由であった。
BETA戦争たけなわの頃、SEDはこの例外条件すらも認めぬ立場を取ろうとしていた。
だが、思いのほか早く、戦争の勝利が見えて来たので、その例外規定は残された。
この甘言に、マサキは、己の身の安全を考えれば、即座に否と答えるべきである。
だが、目の前に立つ人が、あまりに美し過ぎるので、なんとなく戸惑った。
マサキの正面に立つユルゲンは、彼の戸惑いを、どう解釈したか。
「そうだ、出自の分からぬ娘をと疑っているであろうが、心配するな。
彼女は、この世でたった二人、血で結ばれ生きて来た、俺の同母妹。
世間の風の冷たさも、知らせぬように育てた……」
マサキが目を動かすと、
「俺なりに彼女の幸せを考えて、こうしたのだ」
と、ユルゲンが彼の袖をとらえ、なお、語りつづけた。
彼の妹は、名前はアイリスディーナ、生年月日は1959年9月8日、齢は19歳。
陸軍士官学校を卒業したばかりで、成績は上位の方ということ。
だから、アイリスディーナの身を、壁の外に出してくれさえすれば、後はどうにかなると、祈るようにいうのだった。
マサキは、彼女の名に感銘を受けた。
アイリスという名前は、ギリシャ神話に起源を持つ虹を神格化した、女神イリスに由来する名。
また、東亜と欧州にのみ咲く多年草、菖蒲の異称。
寒風酷暑にも強く、山中でもその可憐な姿を見せる事から、虹の使者とも称される。
その花言葉は、『素晴らしい出会い』『素晴らしい結婚』『燃える思い』等など……
彼女の白玉の肌を、白い独逸菖蒲に例えれば、まさに『純粋』という花言葉に相応しいように思えた。
諺にある、『何れ菖蒲か杜若』との表現も、アイリスディーナとベアトリクスの義姉妹にはぴったりだ。
そう考え、ますます、目の前の麗人をほれぼれと見入ってしまった。
昂る気持ちを落ち着かせるように、懐中よりタバコを取り出すも、緊張のせいか、思わず取りこぼす。
『ホープ』の箱を、ゆっくりと拾い上げた後、一本抜き出し、紫煙を燻らせる。
喫烟の吐息に紛らわせるように深い溜息をつき、胸の鼓動を落ち着かせた後、
「貴様の誠心誠意、承知した。だが娘御の心も無下には出来まい」と、ユルゲンに答えた。
そんなマサキの姿を見たユルゲンは、優しげな表情で、
「アイリス、おいで」と、アイリスディーナをさし招いた。
彼の妹は、それへ来て、ただ恥らっていた。
「アイリスとやらよ、お前の心を俺に教えてくれ」と、訊いた。
アイリスディーナは答えず、ユルゲンの陰に、うつ向いてしまった。
「恥ずかしいのか……」
そして、あろうことか、マサキの右手は、彼女の白玉の様な肌の手を握った。
「怖がることはない。少しばかり聞きたいことがある」
マサキは、恍惚と、見守りながら言った。
「貴様は、こんな先も無いソ連の衛星国の将来の為に、その操を俺に捧げるというのか」
かすかに、彼女は答えた。
「私は、兄さんの……、兄の手助けが出来ればと思って……」
紅涙が頬を流れ落ちる。
うつむくアイリスディーナを前に、何時になく真剣な表情を見せるマサキ。
その姿を見た鎧衣は、驚愕の色を隠せなかった。
猥雑な冗談も軽くあしらって、女にも興味のない風を見せている男が、大真面目な表情でいるのだ。
篁とミラの愛の成り行きを語った時、一顧だにしなかった冷血漢が。
この娘の清らかな気持ちが、漆黒の闇の様な彼の心に何か、変化を与えたのであろうか。
古の呉王・夫差に送られた西施の例を出す迄も無く、よくある美人の計。
女色を持って、情事に耽らせ、マサキを貶めるための姦計であることは間違いない。
木原マサキという人物は木や竹でもない。ふと好奇心を持ってもおかしくはあるまい……
初心な科学者が、何かに魅入られてしまったようなものだ。
鎧衣は、そう思うと、苦渋の色を顔に滲ませて、部屋を後にした。
マサキがアイリスの姿に恍惚になる様を見ては、美久も胸をかきむしられるようだった。
酒色に惑溺する様な人物ではないと思っていただけに、驚きようも、大変な物であった。
推論型AIに前世の記憶を持つ彼女にとっても、19の小娘に面を赤らめ、はにかむ様など記憶にない。
肉体こそは秋津マサトの若々しい青年の体であっても、既に精神は老境に入ったものとばかり。
既に二度、冥府の門をたたいた男である。
世界征服という飽くなき欲望こそ、この男を突き動かす原動力とばかり思っていたが……
ああ、これが世にいう『墓場に近き、老いらくの恋は怖るる何ものもなし』という心境であろうか。
美久は、胸のうちでため息をおぼえた。ふしぎなため息ではある。
アンドロイドである彼女自身でさえ、自分の推論型AIの内に、こんな性格があったろうかと怪しまれるような気持が抑えきれなかった。
それは嫉妬に似た感情だった。
そんな周囲の心配をよそにマサキは、興奮した様子のユルゲンに、
「ベルンハルトよ。お前の妹の可憐さは、言葉に出来ぬものだ。
真の美人というものを、初めて見た気がする」と、熱っぽく語り、
「世間の冷たい風から隠してまで、大層かわいがるのは、解らぬでもない」
と、ユルゲンの妹への感情に、理解を示した。
ユルゲンはマサキの言葉を受けて、まるで心の中まで覗かれた気がした。
思えば、ひとえにアイリスディーナの幸せを願っての為、戦術機という甲冑を纏い、怒涛の如く押し寄せて来るBETA共に膺懲の剣を振るった。
またアイリスや愛しい人ベアトリクスの為には、全世界を巻き込み、東ドイツの社会主義体制の崩壊さえもいとわない覚悟であったし、また、その様に行動さえもした。
例えこの身が滅びても、シュタージや軍を巻き込んで、妹や妻が生き残って欲しいと、思って、日々苦しみ悶えた。
ハイム将軍の提案も、聞いた時は嚇怒したものの、今となっては彼女の幸せのためなら、そう言うのも悪くないように思えてきていた。
マサキは、抑えようもなく心の底にむらむらと起ってくる不思議な感情を恥じながら、打ち払おうと努めていたが、その理性と反対なことを口に出していた。
「だが、今のこの俺に、あの娘を人並の幸せを掴ませてやることは難しかろう」
押し黙るユルゲンにたたみかける様に、マサキは、何時になくねばりっこく言った。
「世に美人は一人とは限らぬ。
それに俺の様な匹夫に嫁いで、その宝石にも等しい純潔や貞節を汚すような真似をする必要もあるまい。
ただ、どうしても俺が忘れられぬというのなら、5年待って。返事が無ければ、縁が無いと思って諦めろ」
その発言を受けて、ユルゲンの脇に立つアイリスディーナは、俯いて縮こまってしまう。
そんな素振りが、マサキをいっそう痺れさせた。
一通り、話が終わった後、落ち着いたユルゲンは茶の準備のために台所に向かった。
その背後より、駆けてきたマライから、
「ユルゲン君、お待ちになって」と、息も忙しげに、声を掛けられる。
咄嗟に、マライは、ユルゲンにふるいついた。
「ど、どうかしました」
「ユルゲン君、どこか人気のない部屋でちょっと話したいの」
そう言って、手近のドアを開けて、空き部屋に滑り込む。
ユルゲンにとって運が良かったのか悪かったのか。そこは夫婦の寝室だった。
「ここなら誰も来ません。それで、話とは」
「同志ベルンハルト」
マライはじっと瞳を澄まして、彼を見つめた。思いなしか、その眼底には涙があった。
ユルゲンも、胸をつかれて、思わず、
「はいっ」と、改まった。
「貴方は、大変な事をしてくれましたね」
「えっ?」
「私は、貴方を、常々、弟のように思っていました。
貴方もまた、よく部下のお世話をし、部隊の為に働き、衛士としても将校としても、恥かしくないお人として、様々な信頼をうけておられます……。
どうして今、私があなたを、見捨てる事ができまして」
「ど、どういうことです。仰っしゃる意味が分かりかねますが……」
「妹さんを木原という日本人に引き渡すなんって、本当は望んでいないのではありませんか」
「ええ。じゃあ、すっかりバレてたのか」
「私は、ハイム将軍から、今回の件を事細かに伺っております。
もし断れば、状況次第によっては、この国の存立にも影響しかねないかと……」
マライは、突然、彼の手をかたく握って、
「ですから、貴方が、どうしてそんな大胆な行動を敢えてなさったのか。
私にも、その心の中の気持ちが、全くわからない訳ではありません」
「す、すみません」
マライの本心からの言葉に何処か、ジンと来るものがあり、ユルゲンもまたそっと眦を指で拭いていた。
「なにを仰っしゃるんですの。貴方や妹さんを、あんな人物の為に生贄にしていいほどなら、ここへは来ません。
私は軍人としてでなく、一人の女として、日ごろの好みを捨てがたく、飛んでまいったのです」
「で、では、このユルゲン・ベルンハルトをそれほどまでに」
「貴方のご温情には一方ならぬお世話になり、深い交わりをしてきた仲です。
なんでその間柄の貴方を捨てられましょうか」
いつの間にか、ユルゲンはマライの事を強く抱きすくめていた。
マライとユルゲンが、寝所から出てくるや、声を掛ける者があった。
ユルゲンの副官、ヤウクで、急ぎ彼の元に駆けより、
「僕も君に相談がある」と、マライに聞くより早く、連れて行ってしまった。
一人残され、呆然とするマライに、
「よろしくて」と、呼びかける声がした。
声の主は、ユルゲンの新妻、ベアトリクス。
朝より気分のすぐれぬ彼女は、外出先から、急ぎ帰宅し、早めに休もうとしたところ、偶然、ユルゲンたちが寝所への出入りする様を、目にしたのだ。
マライは、一部始終を知られた事を悟り、色を失い、恐れおののく。
そんなマライの前に立ち、ベアトリクスは、両腕を豊満な胸の前で組む。
青白い顔色に、乾いた笑みを浮かべ、
「お話し聞かせて下さらないかしら」と、話しかけ、マライの右手を引いて、別室へいざなった。
そんな事も知らないユルゲンはヤウクに連れられて、屋外にある警備陣の為の喫煙所に着くなり、
「急に改まってなんだよ」と訊ねた。
常日頃から秘書の様に付き添うヤウクは、深刻な面持ちで、
「君は、簡単に木原マサキという男が操れると、思ってるのかい」と同輩を窘めた。
「アイリスを見る目は、嘘じゃないだろ」と応じるも、
「もし、我々の姦計に、気付いた木原が怒って、ゼオライマーが牙を剥いたらどうなるのだろうか。
この国は、いとも容易く木っ端微塵に、されるだろう」
紫煙を燻らせるヤウクから、諫めの言葉を聞いて、ユルゲンは途端に恐ろしくなった。
カザフスタンのウラリスクハイヴに行った時の事を思い起こす。
かざした腕より放たれる一撃の技で、あの60メートル近くある要塞級をいとも簡単に消し去る。
蟻のように群がり、戦術機をいとも簡単に食い破る戦車級を、まるで芥の如く一陣の風で消し去った。
あのような天下無双の機体には、恐らく核飽和攻撃も、無意味であろう。
奇しくも5年前、ソ連留学中に訪問したウラリスクの町を、ソ連赤軍が核飽和攻撃で焼く様を、ヤウク達留学組と一緒に見ていたが、ゼオライマーの攻撃は、その比ではなかった。
文字通り、BETAは塵一つ残らず消滅させられ、ハイヴは砂で作ったの城塞の如く、濛々と土煙を上げて崩れ去っていったことを、いまだ鮮明に覚えている。
ヤウクの後ろ姿を見送ってから、その足で客間に向かうユルゲンは、一人、心のうちで、
「ああ、大変な事をしてしまった物だ」と、慚愧の念に苛まれていた。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
マライさんとユルゲン兄さんの深い交わりの話は、ハーメルンの外伝に書いてあります。
18禁なので、成人で、興味のある方は覗いてみてください。
一笑千金 その5
前書き
すいません、乗りに乗ってひさしぶりに6000字越えになってしまいました。
「ベルンハルトよ。お前は俺の同志になれ。
ソ連に乗っ取られたドイツという国を、俺と共に我が物にし、自在に操ろうではないか」
「ええ!」
「だが、安心しろ。外部からの監視装置や盗聴は、次元連結システムの一寸した応用で遮断してある。」
泣き腫らしたベアトリクスとマライを連れて戻ったユルゲンは、文字通り腰を抜かした。
2時間近くかけ、寝室で3人で話し合いをしている間に、こんな事態になるとはと……
主客を放置して、幼な妻や同僚を宥めた事を悔やんだ。
そんなユルゲンの気持ちは関係なしに、マサキはずけずけと、
「戦争とは、負けたほうが悪くなる。
勝者はすべてを手に入れ、敗者はすべてを失う。これが世界の鉄則。
一敗地に塗れ、露助共の奴隷になり下がった現状を苦々しく思っている。
だからこそ、この俺を頼ったのではないか。違うか」
そして出し抜けに、アハハと声を上げて笑い、
「これくらいにして、お前たちの馴初めなぞ、聞かせてみよ。まあ、座ってくれ」
と、湯気の出る膳を指差す。
西ベルリンから持ち込んだ食材で作った、色とりどりの料理が並んだ。
現地で出される食事に、どの様な仕掛けがあるか、分からない。
故に、アイリスディーナに頼み込んで、台所を借り、鎧衣と美久に作らさせた。
「勝手ながら、俺の好みで、四川料理にさせてもらった」
椅子に腰かけようとしたベアトリクスは、マサキの顔も見ずに、
「好き嫌いはないけど、自分が食べる物は自分で選びたかったわ」
と、嫌味を告げるも、マサキは、机の上で腕を組みながら
「それは、それは承知しました。奥方様」と、不敵の笑みを湛えて、言いやった。
彼女の脇に立つユルゲンも、追随する様に、
「俺は良いが、他の連中は箸を使ったことがないぞ」と漏らすも、
「社会勉強だと思って、アイリスディーナに教えろ。
また、異なる文化に触れ、知識の引き出しを増やすのも、淑女のたしなみとして必要。
箸を使いこなせれば、自ずと三千年の歴史を有する東亜文明の素晴らしさに親しめる」
と、余りにも堂々と言う物だから、呆れ果てた顔で、椅子に腰かけた。
3人が、一時間以上戻ってこなかったことを、根に持ったマサキは、
「茶を挽くのにしては、馬鹿に時間が掛かり過ぎたな。3人で戯れていたのか」
とユルゲンに問いかけるも、アイリスの左脇に座ったヤウクが、
「君ね、どうだっていいけど、結構……無作法じゃないのかい? 」
「東独の特権階級の間では客を打ち捨てて、愛を語るのが行儀なのか」と、眉をひそめ、問い質した。
「まあ、よい。ともかく、欧州における俺の分身として、ベルンハルトという男を一廉の人物にするつもりだ」
その話を聞いたベアトリクスは、嫣然と笑い、
「どう。ユルゲンはいい人でしょう。こんなの探しても中々いないわ」とマサキの言葉に、ただただ喜び抜ていた。
ベアトリクスの機嫌は一通りではなく、先程までとは別人だった。
マサキは、その様子を見て思う所が在ったものの、酒席と言う事もあって、あえて問い質さなかった。
そんな折、現れた鎧衣は、マサキにそっと、日本語で耳打ちをする。
「木原君、屋敷の周囲は、ぐるりと警備兵がいる。油断は出来ぬと……」
「そうすると、俺は最初からアイリスと一緒にならなければ出られぬと言う事か……」
懐中より取り出した、2箱目のホープの包み紙を開けながら、
「鎧衣よ、貴様もしてやられたな。で、武器は……」
「今持ち合わせてるのは、西ドイツ製の短機関銃二丁と自動小銃一丁と言ったところか」
しばしの沈黙の後、
「俺は今、最高にいい気分だ。荒事をするつもりは無い」
と、ライターを出し、おもむろに紫煙を燻らせた。
マサキは箸を止め、アイリスディーナの方を向き、
「少々、料理の盛り付けも多かったか」と、目を細め、
「なかなか話してみれば社交的ではないか。兄や父親のお陰か」と訊ねた。
「ありがとうございます」
「ずっとベルリンで暮らしてたとか……両親は」
凡その話は把握済みであったが、詳しい話を、当人の口から伝え聞きたかった。
アイリスディーナは、顔色を曇らせ、
「幼い頃、離婚しました。私は特権階級の可哀想な子でした」
マサキは、じっと聞き入りながら、美久に注がれたコーラのグラスを取って、唇を濡らす。
「仕事熱心な父は、家庭を顧みない人で、母は寂しさから間男に走って、私たちを捨てました。
その後、親権を勝ち取った父は、色々あって育児を放棄しました」
アイリスディーナは、実父ヨーゼフ・ベルンハルトが酒害の末、発狂したことは伝えなかった。
隠すつもりは無かったが、言えなかったのだ。
「それで、屋敷に居た、あの爺と婆に育てられたのか」
「言わせてくれ」と、ユルゲンが、瞋恚をあらわにして、呼びかけた。
「貴方」とベアトリクスが袖をつかんで引き留めるも、立ち上がり、昂然と、
「たしかに俺やボルツさん夫妻が、世間の辛い風も当たらぬように育て上げた。
何か問題でもあるのか」と言いやった。
マサキは、静かに杯を置くと、
「俺の心にかなった娘ゆえ、その背景までも、詳しく聞いてみたくなったものよ。
しかし、妻を持つ身にしては、男女の心の在り方も分からぬとは。相変わらず、無粋よの」
と、満面に喜色をたぎらせ、黒い瞳で、ユルゲンを睨み返した。
「兄さんも私も、無償の愛や家族の幸せなんて、信じられないのです。全てまやかしのように思えて……。
幼くしてそんなことに気付いた兄さんは、母から出来るだけ距離を置き、自立しようとして入隊したのです」
ユルゲンは悲愴な面持ちで、
「アイリスディーナ」と叫ぶも、左手をベアトリクスに捕まれた。
彼女の顔色は青白く、一目見て体調が優れないが判るほどであった。
ユルゲンは、ベアトリクスの手を振りほどいて、彼女の背後に立つと後ろから抱き寄せ、
「随分調子悪そうじゃないか。最近機嫌も悪いし、何処か、おかしいのか……」
と、人目も気にせず、彼女の耳元でそっと囁いた。
「こんな時だけ……、何時もは、人の話を聞かないくせに……」
ベアトリクスの白磁の様な肌が赤らみ、生気を取り戻す。
ユルゲンは、一瞬驚いた顔をするも、照れるベアトリクスの様子を見て、相好を崩した。
マサキは、脇で抱き合っているユルゲンたちに、一瞬軽蔑の色を見せた。
再び喜色を表し、アイリスディーナを眺め、左の手で頬杖をつき、
「お前が、どこか年頃の男を近づけさせないのは、その為か」と漏らした。
アイリスディーナは、サファイヤ色の目を丸くさせ、
「何故……わかったのですか」
「単なる勘さ。お前の眼は、どこか虚ろだったから……。
確かに、はじめから人を愛さなければ裏切られることはない」と、煙草を咥える。
「あ……私……」
(『私、どうにかしてる。ベアトリクス以外の誰にもそんな過去のこと話したことないのに……』)
と、ひどく狼狽した表情のアイリスディーナを横目で見つめながら、紫煙を燻らせた。
しばし沈黙した後、美久が熱い茶を用意して呉れた。
茶葉は西ドイツのロンネフェルトで、ダージリンの春摘新茶だった。
東ドイツでも特権階級層に人気で、ユルゲンやベアトリクスが好きな物を用意した。
マサキが気を使って、用意した茶を飲まないベアトリクスを見かねた、アイリスディーナは、
「あら、ベアトリクス。紅茶飲まないの。冷めちゃうわ」と、遠回しに窘めた。
「最近、紅茶を受け付けなくて……」と力なく答える。
その話を聞いたマサキは、途端に驚愕の色を見せ、煙草をもみ消す。
(『ま、まさか……』)
立ち上がって、アイリスディーナの脇に居る、ヤウクを手招きし、
「おいロシア人、灰皿を仕舞って、俺を喫煙所に案内しろ」と、命令する。
すると彼は、ロシア人との綽名に、眉をひそめ、
「出し抜けになんだい。僕は君の召使じゃないよ」と不満を漏らす。
「聡い貴様に話が有るから、来い」と、手を引いて、部屋を後にした。
喫煙所に着くや否や、マサキは、ヤウクに驚愕の事実を伝えた。
「おそらく、俺の見立てでは……ベアトリクスは妊娠している」
「何だって!」
「俺は産科医ではないから、正確な事は言えんが……。
情緒の不安定さや、貧血、コーヒーや紅茶への嫌悪感を示す味覚の変化……。
以上の事から、十分可能性が高い」
「でも、吐き気や頭痛を訴えてなかったし……」
「病気もそうだが、性ホルモンや妊娠による人体の変化は人によって千差万別だ。
一応、次元連結システムで調べてやるが、医者の診断を仰げ。
最悪、裏場に待機している軍医でも呼んで来い」と、青い顔をして、伝えた。
途端に、ヤウクは納得したような顔をして、何処か安堵した様子だった。
そして右手を額に沿えて、ユルゲンをなじった。
「しかし、あの唐変木は気が付いていないのか」
「まさか」と、ヤウクは、あきらめの表情を見せる。
「たしかに18の小娘を、考えなしに娶るくらいだからな」と深くため息をついた。
その様に、ヤウクは、酷く戸惑いの表情を面に見せ、
「じゃあ君は幾つくらいの女性が良いんだね」と問いただした。
むっとしたマサキは、
「妊娠に関しては、肉体的には16歳前後でも大丈夫だが、あの娘は精神が完成して居まい。
22、3歳の頃でも良かったのではないか」と、持論を展開した。
やはりマサキは、現代の日本人である。
高級将校になる人物の妻には、夫を支えるだけの知識や教養、行儀作法なども必要と思い、そう答えたのだ。
早婚の東欧諸国、ソ連圏では、異質な見解であった。
学生結婚がザラで、妊娠を機に退職や休学をし、後に復学や復職が一般的価値観だった彼等からすると奇異。
意図せぬ形で、マサキは異世界の人間であることをヤウクに伝えたのと同じであった。
日没の頃、共和国宮殿に着いたマサキ達は、待ちかねていた綾峰と合流する。
抜け出したユルゲンたちを見送った後、マサキは、アイリスディーナに別れの挨拶をかける。
「今日は愉しませてもらった。こんな瑞々しい気持ちに、久しぶりになっている己自身に驚いている」
と、相好を崩し、アイリスディーナの両手を握り、
「お前がこんな魅惑的とは知らなんだ。女として自信を持て」と励まし、
「これで、何かあったら連絡して来い」と、次元連結システムを内蔵したペンダントを手渡した。
そして、何時もの如く不敵の笑みを浮かべ、ヤウクに向かい、
「ロシア人、ベルンハルトを頼む」と、肩を叩き、そしてマライの方を振り返り、
「ベルンハルトの滾る情熱を、妻の代わりに受け止めてやってくれ。
そうせねば美人局にひっかかるやもしれん」と、自分を棚に上げ、言いやった。
マサキは満面に喜色をたぎらせながら、満足気に哄笑すると、車に乗り込み、その場を後にした。
車の姿が見えなくなるや、困惑した表情のマライは、そっとアイリスディーナに近づき、
「アイリスさん、あなた本当に木原マサキという男と一緒になるの……」と訊ねた。
アイリスディーナは、マライの方を振り返り、
「ハイゼンベルクさん」と笑顔で応じた。
「とても不気味な男よ、心配で……。今だって顔色が良くないし」
アイリスディーナは、両方の頬に両手を当て、
「大丈夫です。マリッジブルーって言葉があるじゃないですか」と、微笑む。
黄昏の中でも、その顔は、真珠の様に白かった。
何時もは、胸の奥深くに秘する思いを、齢も近い、ユルゲンの同僚に思わず、
「一生をこの国に捧げる積りでしたし、自分が結婚するなんて夢にも思っていなくて」と、打ち明けた。
アイリスディーナも、また不幸児であった。
生母の不倫という形で、幼少期に両親の離婚を経験し、家庭と言う物に絶望しか感じていなかった。
そのためか、恋愛や結婚をあきらめている節があった。
「木原さんは、そう、良い人に思えますし……」
(『どこか、心をざわつかせ、組み敷かれるような威圧感はある不思議な人。
だけど、たぶん、心の優しい方。
中国政府からBETA退治を依頼された時も、ミンスクハイヴ攻略も、結局、聞き届けてくれた。
自分の犠牲をもいとわずに……』)
アイリスディーナは、心の中で、知らず知らずのうちに、そう思った。
そんなアイリスディーナの姿を見かねた、ヤウクは、
「アイリスちゃん、君は拒否する権利があるんだよ。
ここは、婦人の基本的人権が認められた民主共和国だ。ボンの貴族社会とは違う。
嫌ならはっきり、いいなよ。ユルゲンに気を使ってるのかい」
と、諭すように、告げ、優しい顔で宥める。
「君は、未だ二十歳にもならない深窓の令嬢。世間を知らないから、あの男の怖さを分からないんだ」
ヤウクは、木原マサキと言う人物を、心から畏れた。
天のゼオライマーを駆り、世界を股にかけ、周囲の迷惑を顧みずに、好き勝手振舞う様は、まるで鬼神が如し。
そんな人物に、可憐なアイリスディーナを嫁がせることを、
「君は人が好過ぎる。心配だ」と、長嘆した。
さて、マサキ達と言えば、3台の公用車でハンブルグへの帰路に就いた。
チェックポイントチャーリの厳重な検査を抜けた後、西ベルリンに給油のために立ち寄る。
ソ連製の石油と中東産の石油は品質に違いがあり、また東独の精油施設は西独よりはるかに劣っていた為でもあった。
東独高速道路網は、ソ連軍の管理下にあり、東独交通警察や人民軍はいないも同然の扱いだった。
東独領内のインターチェンジの立ち入りは、厳しく制限され、ベルリン駐留の米英仏軍ですら容易に近づけなかった。
再び、西ベルリンよりアウトバーンに沿って、車は、全速力で東独領内を駆け抜ける。
帰りの車中は、いたって静か。
もうブランデンブルク門の影もかすんでから、美久はそっと言った。
「まさか、本当に一緒になるおつもりなのですか……」
それまで、感傷に浸っていたマサキは、左脇の彼女に顔を向けると、
「人形の貴様が妬いているのか、俺の作った推論型AIもこれ程の出来とはな。傑作だ」
くつくつと声を上げて笑い、
「この際だ、よく言っておこう。俺は、柄にもなく、あの娘に本心から惚れた」
何処か恍惚と語るマサキに、美久は唖然とするも、
「あんな小娘に心を弄ばれて……。それでは、東ドイツの言いなりになる様な物ではありませんか。」
「何より、愛に全てを捧げる処女の純真さ……そのものに。
愛と、言っても肉欲の愛ばかりが愛ではない。
肉親への情愛、自分が所属する共同体への献身、民族愛、そして愛国心……」
と、いうと俯き、紫煙を燻らせる。
マサキは、激情が収まった後、再び口を開き、
「俺は、たしかにベルンハルトの妻に一目ぼれした。
だが、やはりそれは、あのどこか、惑わすような眼や唇に、心奪われたにしか過ぎない。
思えば、アイリスディーナと比して、あくどく感じる。あの清らかさは、得難きものだ」
と、正直に言った。
不敵の笑みを浮かべ、
「この色道は、もとより本気よ。男の生き方として、筋を通さねばなるまい」
「ええ……」
「だが俺が今生に黄泉返ったのは、ひとえに、この世界を征服する為よ。
その為には、月面と火星に居る化け物共を、塵一つ残さず、消滅させる」
既に、地上にあるハイヴは灰燼に帰した。
遠く、銀河の彼方にある、化け物の巣穴。
やがては、次元連結システムによって、存在そのものを、この宇宙、次元から消滅させる。
準備も、既に万端。残る懸念は、超大国・アメリカの思惑のみ……。
マサキの瞳は、妖しく光った。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
先憂後楽 その1
前書き
ちょっとこてこての少女漫画風の展開が続いたので、二昔前の青年漫画みたいな展開に戻しました
木原マサキが色香に惑わされた影響は、当人だけで済む話ではなくなっていた。
すでにソ連KGBの誘拐事件やGRUスパイとの接触を起こしてることを鑑みて、日本政府は重い腰を上げた。
彼を護衛する為のスパイを付けることにしたのだ。
無論、鎧衣左近という有能な破壊工作員がいるのだが、その件では見送られた。
彼は、情報将校としての側面があるので専属にするには惜しい。
新たに、マサキと年齢の近いであろう、有名大卒の若手工作員が派遣されることになった。
さて、当のマサキと言えば、綾峰たちと一緒に、東欧諸国の歴訪に出掛ける。
手始めに、チェコスロバキアのプラハに、公式訪問した。
さすがに前日の件もあって、自由行動をきつく戒められていたマサキは、勝手に出歩くことはしなかった。
だが、この男も、唯では済ませる人間ではない。
チェコスロバキアに行くなり、チェコ側にあるチェスカー・ゾブロヨフカ(チェコ兵器廠国営会社。現在は株式会社化されている)の工場見学中に、Cz75拳銃を2ダースほど購入したり、耳目を集める行動に事をかかなかった。
丁度、スロバキア側にあるZTS(国営戦車工場。今日のKONSTRUKTA-Defence社)の本社工場を訊ねた際の事である。
T-55、T-62などのソ連製戦車のライセンス生産品について、工場長より説明を受けてる折、
「なあ、工場長よ。一つ尋ねるが、BETAの光線を防ぐペンキなどは無いのか」
と、出し抜けに、周囲を困惑させることを言い放った。
日本語通辞から、その話を聞いた工場長は、驚きの色を隠せず、
「そのような物が有れば、我等も5年も戦争に時間をかけません」
と、半ばあきれ顔で返すも、訝しんだマサキは、
「じゃあ、作ってみるか」と、軽口をたたいた。
マサキの言を見るや、綾峰は、呆れた顔をし、
「木原、お前という奴は……もう少し静かに出来ぬのか……」
「俺は、不思議に思ったから聞いただけだが……」
「東ドイツでの件は、懲りてないのか」
マサキは、ちらりと綾峰の顔を覗き見て、
「それは……」
「なあ、解ってるなら余計な仕事を作ってくれるな。大体……」
さすがに客先で説教は不味いと思ったのか、珠瀬が、
「まあ、まあ、大尉殿。チェコスロヴァキアの案内役が困惑していますから、これくらいにしておいては」
と、綾峰の怒りを収めるような事を言った。
さすが陸大出の将校である綾峰は、周囲を見回すや、怒りを冷まし、
「あまりふざけた行動をしていると、後で始末書を書いて、本省報告してやるからな」と言い捨てた。
マサキが面白くない顔をしていると、先程の工場長が訊ねた。
「木原さん、あなたの言う光線級を防ぐペンキというのは、どの様な物なのか、教えてくれまいか」
マサキは、途端に喜色をたぎさせ、
「試作段階だが、1秒間に75回の照射を浴びても、3万秒ほど持つ対光線ペンキは、出来ている。
ただ、耐候性に弱点があって、3か月ほどで劣化して、再度塗装をするしかない。
また、水分を含むと強度は増すが、重量も5パーセントから25パーセントほど増える欠点もある」
と、脇に居る美久から、資料の入ったトランクを受けとり、
「詳しい成分と化学合成式が、この中に書いてある。
特許料は、年間売り上げの0.5パーセントから1パーセントで良いから、寄越せ」
と、勝手に話を進めてしまった。
綾峰は、その様を見るなり、途端に嚇怒し、
「貴様は、俺を蔑ろにするのか。毎度毎度問題ばかり起こして」
マサキの襟首に手を掛け、制服の茶色いネクタイを掴み、
「責任を取るのは、駐在武官や大使閣下、それに俺なんだ。
議会や陸軍参謀本部に、責任の負えない、特務曹長のお前は説明できるのか」
と、青白い顔色で、血走った目を向けた。
「お前も気が短い男だな」と、マサキが呆れてみせるや、
綾峰は、ますます興奮し、顔に浮き出た青筋を太らせ、
「貴様、欧州まで遊びで来てるのか。これは仕事だ、戦争だぞ。
殿下の顔に泥を塗るつもりか」と、周囲が驚くばかりの大声を上げ、一喝した。
綾峰は、一通り、うっぷんを吐き出した後、
「なあ、木原よ。なぜ、先ず我々に相談しないんだ。
手助けするにしても、我々に最低限の連絡が欲しい。
貴様が何がしたいのか分からければ、我等も動きようがない」
珠瀬も、困り果てた綾峰を助ける様に、
「木原君、君がしたいことは分からんでもない。だが事前の話し合い無しに行動されては困る。
ましてや、今回の件は技術的な話だ。化学産業のメーカーや技術本部にも相談が欲しかった」
と言いやると、幾分白髪の混じった頭を掻きむしり、
「で、綾峰大尉殿、どうしますか」と、問いかける。
「今の話はオフレコにしてもらって、俺がこの場を収める。
あと、チェコに居る商社マンを呼んで、都の化学メーカーでも頼るしか有るまい。
実現可能か、どうかは、ともかく、一度外に出てしまった話だ」
と、あきらめの言葉を吐いた。
その様を見たマサキは、暫し考え込んだ表情をした後、
「俺の方も少し、はしゃぎ過ぎた」と申し訳なさそうに呟いた。
無論、この男の事である。本心からの謝罪ではない。
頭の中には、グレートゼオライマー建造計画の事でいっぱいだった。
グレートゼオライマーを手早く完成させるには、日本企業の力添えも必要。
故に、形ばかりの謝罪をしたのだ。
翌日、ハンガリーのブタペストの参謀本部に招かれ、青年将校団との討議がなされた。
質疑応答の殆どを、綾峰に任せ、椅子の背もたれに寄り掛かっていると、
「木原さん、光線級吶喊の件をどう思いますか」
と、向こうの参謀総長から問いかけられた。
マサキは、頬杖をつきながら、
「光線級吶喊に関しては、失うものが大きく、得るものが少ない」と率直な意見を述べた。
彼の素っ気ない答えに、
「ええ!」と、驚きの声を上げた参謀総長は、
「貴方は東独軍と行動を共にしたと聞いてますが、先のソ連軍のセバストポリ攻防戦はどうお考えですか。
あの時は、ソ連軍は戦術機隊でBETAを食い止めたではないですか」
と、問い質した。
マサキは、出し抜けに声を上げて笑うや、
「あれはソ連側の国外向け宣伝の好例だ。戦火が実情より誇張され過ぎる。
貴様等は、条約機構軍としてソ連に軍を派遣して、それ程の事も分からぬとはな」
と、満面に喜色をたぎらせ、
「まあ、良かろう。
俺自身、支那での戦闘でその辺は実感している。
セバストポリの件は、最後の決め手となったのは、黒海洋上からの火力投射だ。
端的に言えば、巡洋艦や駆逐艦から艦砲射撃と、核ミサイルの飽和攻撃が勝因となった。
BETAの梯団攻撃の遅延にしかならない。
ベルンハルトより光線級吶喊の厳しさを聞いているし、また奴が考案した光線級吶喊の問題点。
端的に言えば、実際の戦果以上に誇張されたとの証言は、カセットテープに録音してある。
詳しい話は、脇に居る綾峰に問い合わせてくれ」と、話を振った。
綾峰が熱心にハンガリー将校団に説明して居る折、マサキは一昨日の事を振り返っていた。
アイリスディーナとの見合いの際に、マサキは只では帰らなかった。
次元連結システムを応用したペンダントを渡したばかりではない。
ユルゲンを秘蔵の酒で泥酔させ、西側に詳らかになっていないソ連のBETA戦争の実情を聞き出していた。
易々と東側の実情を聞き出せたのは、妻であるベアトリクスが妊娠のつわりで不調だったのも大きい。
彼女が、健康で気を張っていた状態ならば、おそらく止められたであろう。
人の好い、初心で世間知らずなアイリスディーナには、其処まで気が回らなかったのもあった。
副官のヤウクや、お目付け役として派遣されたハイゼンベルクにも、大分聞かれたろう。
だが、構わず、マサキは、旨酒に不覚を取ったユルゲンから情報を抜いたのだ。
無論、対価として鎧衣の方から、ソ連へのアラスカ割譲に関する米国政府の秘密文書を渡した。
彼等が喉が出るほど欲しがった情報だが、既に古い情報なので、鎧衣は躊躇わずに差し出した。
つまり、マサキも、日本政府も、ただ同然で有意義な情報を手に入れたのだ。
その返礼としてではないが、ユルゲンとヤウクに勲五等双光旭日章が送られることになった。
東独議長には、勲一等旭日桐花大綬章、シュトラハヴィッツ少将にも勲三等旭日中綬章と決まった。
無論、表向きはマサキ達の勲章授与の返礼で、あったが。
マサキが、そんなことを考えていた時、ふと、
『この謝礼として、あとでハイヴの奥深くから持ち出した宝石でも渡そうか。
ユルゲンの周りにいる女どもに、誕生石の原石でも20キロばかり、袋に詰めてくれてやろう』
と、そう一人想い、ほくそ笑んでいた。
夕刻、ブタペスト市内のホテルに戻った際、バルコニーから市街を眺めながら、思案に耽った。
隣国、オーストリアからかなりの数のCIAや西ドイツの間者が入っている事には気が付いていたが、知らぬふりをしていた。
こちらが興味を持っていなくても、向こうは違うらしい。
ハンガリーの諜報機関関係者らしい人間がずっとマークしているほかに、時折鋭い眼光を見せる百姓や旅行者風の人間が目につく。
シュタージほどにあからさまではないが、ソ連に痛めつけられた国とは言え、社会主義国なのだなと、あらためて実感した。
一人感慨にふけりながら、紫煙を燻らしていると、美久が一煎の茶を用意し、
「明日はポーランド訪問です。少し休まれたら、いかがですか」と、不安な面持ちで声を掛ける。
茶葉はリプトンのアールグレイで、唇を濡らした後、
「なあ、美久。この戦争でソ連は弱体化した。歯牙にもかけない存在になろう、ただ……」
「なにか、気掛りな事でも」と答え、マサキの方を振り向く。
マサキは、静かに茶碗を置くと、ずかずかと五歩ほど近寄り、右手で上着の上から美久の乳房を掴む。
火を噴かんばかりに顔を赤くする美久の、驚く様を楽しみながら、
「ソ連に、資金提供した国際金融資本の存在だ」と、耳元で囁く。
引き続き、喘ぐ美久の、両胸を弄びながら、
「奴等は、1920年代の資金封鎖の際も、制裁を迂回し、バクー(今日のアゼルバイジャン共和国の首都)油田の開発などをした」
と言いやり、恍惚とした彼女を抱きしめる。
マサキは、吸い殻を灰皿に投げ入れると、
「怖いのはテロ組織や過激派ではなく、裏で金を用意する連中さ」
と、驚くようなことを口走り、くつくつと笑い声を上げ、
「俺は、元の世界で、鉄甲龍という秘密結社を作った。
その組織を作るにあたって、隠れ蓑として、或いは資金源として国際電脳という世界シェア7割の電気通信の会社を準備した」
そして、不敵の笑みを湛えながら、
「それほどまでの事をしても、俺は国際金融資本に手も足も出なかった。
故に八卦ロボを、天のゼオライマーを秘密裏に建造し、世界を冥府にする計画を立てた」
と、美久のわななく唇に濃厚なキスをし、甘い口腔に深々と舌を差し込んで、貪り、
「頼む、美久。俺に力を貸してくれ。二人で国際金融資本へ挑戦しようではないか」
と、垂れさがる彼女の眦を眺めながら、囁いた。
マサキのその言葉に、美久は色を失うも、
「それは、やり過ぎではありませんか。
多くの系列企業を傘下に持つ国際金融資本を打倒すれば、市井の徒を苦しめる遠因になります」
と、興奮する彼を諭した。
マサキは、不安な面持ちをする彼女を抱きすくめながら、
「いや、良いのだ。やり過ぎでも何でもない。
世界を二分し、武威を誇った超大国ソ連だけでなく、その富の象徴たる国際銀行家を一撃で下す。
その事によって俺は、武力ばかりでなく、全世界の富の大部分も我が手に牛耳れる。
資金力さえあれば、この腐敗した社会など簡単に買収できよう。
権力の源泉たる武力と資金力を手にし、世界をほしいまま操る」
と、美久に胸の内を吐露した。
そして、満面に喜色をたぎらせて、アハハと哄笑し、
「木原マサキは、混乱する世界を制した後、まさに世紀の帝王として、この世に君臨しよう。
天のゼオライマーは、その時こそ、光り輝き、世界最強のマシンたり得る」
マサキの胸の中で、唖然とする美久を一瞥した後、
「これは、天のゼオライマーの世界制覇の為の、正に戦争なのだよ。
そのシナリオを描くのも、また楽しい。ハハハハハ」と、天を仰いだ。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
先憂後楽 その2
前書き
鎧衣、激怒した政府上層部にお叱りを受ける回。
鎧衣左近は、急遽日本に呼び戻された。
内閣府の一室に入ると、数名の男達がテーブルを囲む様にしていた。
鎧衣は、直立不動のまま、目だけを動かす。
内閣官房調査室長を筆頭に、内務省警保局保安課長、情報省外事情報部長、外務省欧州局中・東欧課長等々。
そこには、実に、錚々たる外事情報専門の責任者がいた。
上座にいる内閣官房調査室長から、鎧衣に質疑がなされ、
「木原を支那から連れ出して、1年近くが経っている。彼を操縦して物に出来たのかね」
「まだですが、全力を尽くして……」
「やめたまえ、全力を尽くしているとか、努力しているとか……
善処するなどの抽象的な発言は、帝国議会の答弁だけで十分だ」
外務省欧州局中・東欧課長は内心の怒りを、露骨にし、
「木原に関しては、既に100万ドルも下らない額を円借款という形で支那の共産政権に払ったのだ。
なのにまだ我が物にしていないとは」
(1978年為替レート、1ドル=195円)
「そういう事実しかないと言う事は、誠に遺憾だね」
鎧衣は、顔色も変えずに、
「お言葉を返すようですが、木原はこの世界に何らつながりを持つ人物では御座いません。
KGBやGRUも最精鋭を持って、抹殺しようと試みました」
いかにも心外でたまらないような面持ちをたたえて、調査室長はじっと座っていた。
それをなだめる為、鎧衣は、また言い足した。
「もし木原がこの世界と関係を持つようになれば、困るのはCIAもKGBも一緒です。
彼等としても、有害工作の結果、篭絡が不可能という根拠を得て、諦めた模様です。
それに簡単には……」
内務省警保局保安課長が重い口を開き、
「可能性は」と問いただす。
「まだ何とも申し上げられない状態でして……、しかし十分に使える状態かと」
「根拠は……」
「女です」
そういうと、恭しくB3判の封書を差し出して、
「この中に仔細が御座います」と、深々と頭を下げた。
鎧衣の提出した報告書には、アイリスディーナとマサキの見合いの件が書かれていた。
報告書を一読した後、調査室長は顔色を変じて、
「どういうことだね」と、大喝した。
稀代の麗人、アイリスディーナ・ベルンハルト。
彼女の国籍が、東ドイツというのも問題になったが、それ以上に、出自が不味かった。
例えば、中小の自営業者や自作地の百姓だったら、この様なことには成らなかったろう。
父ヨーゼフは、東独外務省職員という、特権階級の末席とはいえ、その一員。
兄は東独陸軍将校、本人もまた士官学校卒で、未任官の軍人である事が、不味かった。
その上、兄ユルゲンは、東独軍戦術機部隊主席参謀で、アベール・ブレーメ通産次官の聟。
そして一番のネックになったのは、ユルゲンが議長と親子盃を交わした事実。
秘密結社を起源に持つ共産党組織において、杯を交わして親密な間柄になる事は重要な行事。
既に個人主義が一般化した現代では、無意味と、鎧衣の方としては、冷ややかな視線を向けた。
だが、武家社会という伝統の中で暮らす、外事情報専門家は違った。
甚だしく不快な顔をした男達は、青い顔をする鎧衣を責め立てる様に、一斉に口を開く。
「ベルリンに派遣した監視工作員はおろか、珠瀬や綾峰まで東独に弄ばれるとはッ」
「しかも城内省から派遣された篁の若様まで巻き込んでいる。
先の北米のブリッジス嬢との件は、もみ消しに苦労したよ。その比ではない」
「こんなことで木原の事件が公になったらどうする。
奴には、莫大な金額を税金から支出しているんだ。野党に突き上げられたら一大事だぞ!」
黙然と首を垂れていた鎧衣は、
「申し訳ございません、私の不徳の致すところです。
しかし木原マサキを、再び国益に利するまでは私に責任を取らせて下さい。
その後は、どの様な処分でも」
内閣官房調査室長は、じろりと鎧衣をねめつけ、
「当たり前だ。ここで君を辞めさせるわけにはいかんよ」
情報省外事情報部長も、異口同音に、木原マサキの危険性を訴え、今後の対応を激越な口調で論じた。
「我々も彼を甘く見てすぎていたようだがね」
なお附け加えて、
「これで、木原という、単独でゼオライマーを作り上げた男の価値が、まずは保証されたことになる」
「はい」
調査室長が右手をかざすと、後ろから秘書官が現れて、
「君はこれからある人物の指揮を執ってもらうことになる」
「はっ!」
秘書官からB4判の書類を受け取るや、
「ラオスでCIAとともに現地の反共工作を担当した人物だ。しかも中野学校卒で君より若い」
その書類を、鎧衣に放り投げ、
「彼の名は、白銀影行」
中の写真を眺める鎧衣を見ながら、
「陸軍に拾われ、中野学校に入る前、青山のメソジスト系私立専門学校に4年間いた。
専門卒だが、理工学の知識はそこで学んだから木原の補佐ぐらいは出来よう」
「たしか合同メソジスト教会といえば、米国で影響を持つキリスト教の一派ではありませんか。
米国派遣を見越して、その様な人材を用意していたとは。
いやはや、この鎧衣、皆様のご慧眼には感服いたしました」
と、鎧衣は眼をかがやかして、調査室長の面を見まもった。
「実は斑鳩の翁が、全国に居る情報工作員の中から選び、準備して置いたのだよ。
素封家の次男坊なので、育ちも良く、行儀作法は、その辺の百姓より出来る男よ」
鎧衣は、笑いを含んで、調査室長に、
「翁直々に推挙された人物で、その上、武家ではない。つまり、自由に使って良いと」
「みなまで言うな」と、苦笑を送った。
さて、日本で鎧衣が尋問を受けている頃、マサキ達は歴訪の最後にポーランドにいた。
空港に着くなり、儀仗兵の堵列を受け、まるで凱旋してきた将軍の様な歓待に驚きつつ、
「BETAへの積年の恨みとは、これ程までか」と、一人呟いていた。
若手官僚や研究者との懇談会の後、昼食会を挟んで、大統領との謁見となった。
駐ポーランド日本大使と通訳の同席の元、謁見の際に、ずけずけとマサキは、
「俺は、ソ連のESP兵士計画をソ連科学アカデミー会員から聞いた」と、周囲を慌てさせ、
「奴等は、新型の阿芙蓉を作っている」と驚くようなことを口走った。
同席したポーランド情報部の長官は、色を失いながら、
「セルブスキー司法精神医学研究所で、指向性蛋白が完成した話は、本当だったのですか」
と驚きの表情を浮かべ、マサキに問い質す。
喜色をたぎらせて、一頻り笑った後、
「仔細は綾峰の方から話すとして、証拠だが、俺の方で、録音テープと映像がある」
と応じて、椅子に踏ん反り返った。
後ろに居た綾峰は、大統領に最敬礼をした後、
「実は来たる国連の年次総会で、我が帝国は東欧三国と図って、ソ連の人権侵害を告発する心算です。
東欧の雄である貴国の協力が必要なため、どうかご助力の方を」
と言い終わらぬ内に、日本大使も、
「帝国政府といたしましては、貴国のEC早期加盟を英仏に外交ルートを通じ、要請する所存です」
「ふうむ」と、大統領が溜息をついた後、重ねて、
「とすると、東欧州社会主義同盟の構想も、ご存じですかな」
大統領の言葉に訝しんだマサキは、男をねめつけながら、
「東欧州社会主義同盟とはなんだよ。詳しく話せ」と言いやるも、
「これ、木原君。先方を困らせるでない」と、大使が諭した。
大統領は、その様を見て、一頻り笑った後、
「木原博士が、ご存じないのも無理はありません。
先頃、シュトラハヴィッツ少将が提案した、将来の欧州統合に向けた地域協力機構の設立構想です。
今の、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーは、かつてヤゲロ朝の元で同じ国でした。
ソ連に盗み出されたバルト三国やドイツの一部も同じです。
伝統・文化的に近縁であることを持って、友好協力関係を進めることを、少将が発議されたのです」
『シュトラハヴィッツは、そんな大人物なのか』という顔をしたマサキは、
「奴はプラハの春で、ソ連の威を借りて、戦車隊でチェコスロバキアに乗り込んだ張本人だぞ。
そんな姦族をチェコ人は簡単に赦せるのか」
と、心にある不安を表明すると、情報部長官が、
「博士もご存知でしょうが、BETAがいなくなってもソ連は健在です。
我が国は常に歴史を通じて東方の蛮族からの襲撃を受けてきました。
チェコやスロバキア、ハンガリーも同様です。
ハンガリー人の姓名の表記の順が、東洋人と同じなのをご存じですよね」
「ああ、東亜人の様に姓から名乗って、名を後に書く習慣を持つのは俺も知っている。
今のハンガリー人の祖先が、マジャール人といって東亜を起源にする騎馬民族だからであろう」
「流石ですな。我がポーランドも少なからず蒙古の軛の影響は受けています。
歴代ポーランド王の肖像画をご覧になれば、蒙古風の装束を着ているのが判るでしょう」
「ホープ」の箱を取り出すや、タバコを口に咥え、
「御託は良い。しかし、世の中、判らぬ事ばかりだ」と、紫煙を燻らせながら、
「ソ連赤軍参謀総長を口説いて、T72戦車を100両買ったシュトラハヴィッツが、今や反ソの旗頭か。
ハハハハハ」と、満座の中で、一人笑って見せた。
帰りのパンアメリカン航空のチャーター機内で、マサキはタバコを弄びながら、
「俺は、血濡らさずして、東欧の反ソ同盟を作り上げることが出来た。
後は、ソ連の彼奴等が二度と俺に矛を向けぬほど、縮み上がらせねばなるまい」
満面に笑みをたぎらせながら、美久に言いやった。
「つかぬ事を聞きますが」と顔色を曇らせながら、
「どうした」
「最近、思うにアイリスディーナという小娘に心を踊らされ過ぎです。
稀代の美女に心奪われるのは、人情として、この私にもわかります。
でも、その色香に惑わされれば、やがては身を滅ぼしかねないかと」
「フフフ、お前らしからぬな。人形の癖に嫉妬するとは」
と、告げるとタバコに火を点け、彼女の顔を見た。
「このままいけば、貴方はアイリスという娘の、愛の奴隷になります。
どうか、あぶない火遊びと、諦めた方が宜しいかと」
「確かにお前の言わんとすることも分かる。
唐の玄宗は、傾国傾城と名高い楊貴妃の愛に溺れ、国都長安まで焼いた。
クレオパトラは、ローマの覇者シーザーとの間に子を成し、老将軍を我が物の様に弄んだ。
女性の色香は、時の権力者を自在に動かしたのは事実」
悠々と紫煙を燻らせながら、
「俺もその事は、重々承知している。
だが、あの娘は人間の抜け殻みたいな俺に何かを与えた。
あの手の温もりは、夢まぼろしではなかった……」
そう告げると、マサキは、静かに機窓から沈む夕日を眺めていた。
後書き
白銀影行は、名前だけ出て来る武ちゃんのパパです。
多くの二次創作作家の題材になってるので、本作でも好き勝手に創作いたしました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
先憂後楽 その3
前書き
ユルゲン兄ちゃん、久しぶりのクソガキムーブ回
マサキ達を送り返した一週間もした日、ユルゲンは副官のヤウクを伴って家路へ向かっていた。
途中、国営商店の「ハーオー」の店の前で、行列に出くわすと、
「なあヤウク。あそこに居るのはアイリスじゃないか」と訊ねた。
丁度、向こうから両手いっぱいに紙袋を下げたアイリスディーナが来るなり、
「もう帰ってたのか。別にハーオーで安物買わなくても良いだろ。
デリカートで上手いもの買ってきて、ベアに食べさせた方が良い」と窘めた。
ここで、読者諸賢には、すでに歴史の中に消えてしまった、東ドイツの住民の暮らしが、どんなものであったか。
その一端を説明する為に、筆者から、解説を許してもらいたい。
社会主義による平等を標榜する、東ドイツには、基本的にスーパーマーケットは国営商店であったが、おかしなことに、金額によってランクがあった。
一般的に、低価格スーパー「ハーオー」(HO)が有名だが、15の中心都市に置かれた大型デパート「中央」、商店チェーン「コンズーム」が、あった。
1960年代後半になると、ウルブリヒトの経済政策で「富裕層」が出現したので、高級店が公に設置された。
高級品店「エクス・クヴィジット」と高級食材店「エクス・デリカート」である。
「デリカート」には品質の良いものが並び、「ハーオー」には安いが品質の悪いものが供給された。
庶民は「ハーオー」に昼間の早い時間から並び、数時間の行列の後、店内で粗悪な品物を購入した。
入荷時期などが流通の関係で不明瞭だったので、一度の買い物により、しばしば不必要な買い占めが行われた。
買い占めた品物は、自宅に貯められ、親族や近隣の住民と物々交換や僅かばかりの西ドイツマルクと交換された。
さて、ユルゲンたちの所に再び視点を戻そう。
ユルゲンから叱られた、アイリスディーナは、一瞬ためらったような表情を見せた後、
「流石に、将校服を着て、デリカートに入るのは……拙いと思います。
ベアトリクスの事を気になさるのはわかりますが、何処で、だれが、見てるか分かりませんし。
それに……」
「なんだよ」と、笑みを浮かべながら、答えた。
「兄さんは、色々なやっかみを買っているのをご存じないと思いますが……」
その声に気が付いて、ヤウクはずけずけと割り込んできた。
そして顔を見合うと、
「なんだ、そんな事か」と、おたがいにまた、笑った。
「大体、そんなことに気付く人物だったら、懲罰委員会に数度かけられるかね。
酒保(軍事基地の売店)で戦車兵と喧嘩したり、議会で議事妨害するもんか。
ソ連留学の時、カザフスタンで、僕と一緒になって基地司令と喧嘩する男だよ。ハハハハハ」
と声を上げて笑った。
アイリスディーナは、呆っ気にとられて、
「おふたりは、そんな事まで……」と、たずねた。
「そうだよ」と、ユルゲンは誇るように肯定して、かつ紹介した。
「こいつは、あの時、司令官に直言を呈し、あまり強く、核使用反対を表明した。
『君はドイツ人だ、この国の人間ではない』と言われた上、GRUの監視までつけられたのだよ。
フハハハハ」
「ワハハハハ」と、ヤウクも一緒になって、他人事みたいに笑って見せた。
するとほどなく、スカーフを被った、年のころは40前後の、細面の女性が、駆け寄って来た。
「坊や」と、声を上げ、とるものを取らずに、近づいて来た様に、驚いた顔をしたヤウクは、
「ママ」といって、駆け寄るなり、抱き着いた。
ロシア人の既婚者と一目で見て、判る、首の周りに巻き付けるスカーフの被り方。
目の前に立つ婦人が、ヤウクの生母であることを、ユルゲンは理解し、
「ヤウク、君の御母堂か」と訊ねた。
「ああ。僕の母親さ……戦争になると思って会いに行ってなかった」
と、ヤウクの母は、息子から紹介されて、ユルゲンの人物を見、よろこびを現して、
「隊長さんですね。愚息がいつも、世話になって居ります」
とグレーの瞳を輝かせ、心からの礼を言った。
ユルゲンは、ヤウクの母に一礼を施した後、
「御母堂、いつも世話になっているのは、私の方です。
小官が、今こうしてあるのも、同志ヤウク少尉の助けがあっての事。
士官学校で席を並べて以来、御子息の存在なくば、職務を全うすることも叶いませんでした」
と慇懃に謝辞を述べた。
一頻り話した後、照れた表情をするヤウクは、
「では、僕は失礼させてもらうよ」と言い残し、母と共にその場を去っていった。
さてまた。ヤウク達と別れたユルゲンは、アイリスと共に帰宅した。
しんと静まり返った家の中を見回し、
「おい、帰ったぞ。誰もいないのか」と、大声で呼びかけた。
すると奥より、ウエーブの掛かった黒髪が、特徴的な婦人を認めるや、ユルゲンは、
「あ、お義母さま。お久しぶりです」と、会釈をした。
件の婦人は、アベール・ブレーメ夫人で、ベアトリクスの母。
まさかの人物の来客に、驚いたアイリスディーナは、
「ザビーネさん、お仕事は」と、問い質すと、
「ベアトリクスの様子が不安になり、休みを頂いてきました。
あの子の我儘で振り回され、ユルゲン君がやせ細っていないかと心配でしたが、安心いたしました。
ホホホ」と微笑を浮かべて、
「わたくしのほうでも、アイリスちゃんにも聞きたいことがありましてね」
「どうか致しましたか」
「例の木原博士と称する、東洋人が来ましてね」と、驚くようなことを言う。
その場に、衝撃が走った。
ブレーメ夫人の、ザビーネがいうには、
昨夕、ふらりと一人の東洋人が、音もなく屋敷を訊ねてきて、
「自分はアイリスディーナの事を見初めた男だが、この際、親族の者たちに近づきの印を持ってきた」
と、腕時計や真珠の首飾り、絹と羊毛を5疋ばかり、進物として持って来て、
(疋は長さの単位。一反の倍。着物は24メートル、洋服の生地の場合は50メートル)
「俺は、木原マサキ、天のゼオライマーのパイロットだ」と、啖呵を切った。
色を失って慄く、アベールを別室に連れて行き、2時間ほど、ねんごろに話したという。
ブレーメ夫人は、その時の興奮が、冷めやらぬように、
「うちの人は、経済企画委員会に名を連ねる、すこしは名の知れた官吏。
ですから、ソ連やチェコなどより、ふいの来客など、決して珍しい事では御座いません。
でも、海の彼方の、日本より、壁を越えて来られるなど、今まで有ったことがありましょうか。
木原博士は、世には明かしていない、私たちの東屋まで訊ねられたのは、驚きでした。
姻族の、義父母にまで、丁寧に礼節を尽くされて、極東より、いらして下すったのです。
この事をお知らせしようかと思いましてね」という相談であった。
興奮して話す姑の様を、なかば呆れた様な表情で見いていたユルゲンは、
「さあ、お茶でも淹れますので……」と、アイリスに目配せをする。
茶の準備を急がせ、玄関より応接間に向かった。
応接間より、女の話声が聞こえるのを不思議に思ったユルゲンは、
「お義母さま、誰か客人でもお呼びになられたのですか」
「貴方がたにも縁のない人では、ございませんのよ。ホホホホ」と微笑を湛え、ドアを開けた。
部屋に入るなり、ユルゲンの表情は凍り付いた。
この数年来、絶縁状態になっていた、母、メルツィーデスの姿があったからだ。
愉し気に、ベアトリクスの話す様を見るなり、途端に嚇怒の表情を明らかにし、
「貴方が、どうしてここに居られるのですか」と他人行儀な対応を取った。
表情を曇らせたメルツィーデスを見た、ベアトリクスは不快感を露わにし、
「わざわざ訪ねてきた人にそれはないんじゃない」と、睨め付ける。
メルツィーデスの後ろへ来て、立っていたブレーメ夫人は、
「わたくしが呼びましたのよ」
と、説いたので、ユルゲンは、難渋した顔いろで、
「ですが……」と言って口をつぐんでしまった。
「貴方が、母君の不義を、父君に密告したが原因で、ご両親が離婚された。
そのことを、今でも悔やんでいる。
なにも、それならそれで、よろしいではありませんか」
と、ブレーメ夫人は、うららかに胸を伸ばして、
「木原博士は、わざわざメルツィーデスさんの所までも、あいさつに出向いたというのですよ。
聞けば、今の夫であるダウム氏に会って、博士は、深くお話をされたそうです」
面目なさげに立つユルゲンとアイリスディーナに、なおも、
「それに、まだあなた方はベアトリクスの祝言も、懐妊の話もなさっていないそうじゃないですか。
わたくしも、同じように娘を持つ身です。
それにユルゲン君。自分の子が孫を儲けたとなれば、会わせてやりたいのが人情。
わたくしの方で、デュルクに手配してお招きいたしましたのよ。ホホホホ」
ブレーメ夫人のザビーネは、こういって、ユルゲンの小心を笑った。
ブレーメ夫人の、その男まさりな凛たる気性や、アベールや政治的な方面まで動かす力を知っていたユルゲンは、ただ黙するしかなかった。
それに元より、妹の事を考えて暮らしてきたので、その義母の頼みを、すげなく拒む気にはなれなかった。
「いや、お義母さまにはかないませんわ。ハハハハハ」と、天を仰いで、乾いた笑いを浮かべた。
『この女丈夫には、なんともかなわん』という思いは、深くかくして。
後書き
「隻影のベルンハルト」二次創作という原点を振り返って、ベア様のママとお姑さんを出しました。
あと、ヤウクのママとのやり取りは、ロシア人では普通のやり取りです。
ロシア人自身が、人前でフルネームで呼ぶのは好まず、愛称で呼んだり、坊やと今でも言います。
ご意見、ご感想お待ちしております。
先憂後楽 その4
前書き
ユルゲン兄ちゃん、因縁のママとのお話です。
ユルゲンは母の顔を見た途端、胸が締め付けられた。
思い出したくないのに、かつての家族の団欒が頭をかすめてしまう。
母は、すでに四十路は越えてはいるが、蠱惑と思える艶美は、少しも色褪せていなかった。
この圧倒的な妖艶の前に、あのシュタージ工作員、ダウムも魅了されたのであろうか。
一層妖しいまでの皮膚の白さと、金糸のごとき、美しく長くまっすぐな髪が煌めいて見える。
彼女の娘であるアイリスディーナに、あの忍人、木原マサキが、頬を熱くして、心噪すも、兄ながら、理解できる気がした。
妖艶な母と、楚々たる妹では全く雰囲気が違うが、やはり、その冴えた美貌は、どこかこの世の人とも思えぬ感じもしないでもない。
「この際だから、洗い浚い、聞いてみたらどうなの」
肘掛椅子に座るベアトリクスは、鬱勃とした表情のユルゲンに問いかけた。
「すまない。気にはなっていたが……」と、幼な妻の肩に、手を置いて、メルツィーデスを睨み、
「アンタに一つ尋ねたい。なんで俺達を捨てて、あんな間夫の元に奔ったんだ」
と、目の前の女に、瞋恚を明らかにした。
「それは、貴方たちを庇うために、ダウムを頼ったのよ」
母の衝撃的な告白に、ユルゲンは唖然とした。
メルツィーデスの告白を、心の中で反芻していたユルゲンは、その衝撃から立ち直れずにいた。
「母さん!」
アイリスディーナの呼びかけを制し、メルツィーデスは、沈黙するユルゲンの方を向き、
「彼と話がしたいの。ベルンハルトの家族には酷い事をしたから」
にべもなく言い放つと、淡々と語り始めた。
「ヨゼフが、貴方がたの父がなぜ、シュタージに付け狙われたか。本当の事を話しましょう。
あの人は、先ごろ亡くなったアンドロポフKGB長官に目を付けられてたの……」
すでにお忘れの読者もいるかもしれないので、説明する。
メルツィーデスの話に出て来る、KGB長官とは、マサキと少なからず因縁のある人物であった。
シュタージ内部のKGB工作員、エーリッヒ・シュミットの叔父であり、東ドイツ首脳暗殺を企み、幾度となく工作隊を送り込んだ張本人。
また、ゼオライマーに核攻撃を指示した責任者でもあり、ハバロフスク空港で、剣を揮って、マサキと壮絶な一戦を交え、彼に殺された人物である。
「丁度、22年前の今頃に、なるかしらね……。
ハンガリーで、ソ連の軍事介入で政変があったのを覚えている?
いいえ、あなたはまだ2歳になったばかりだったからね」
脇で聞いていたザビーネが、同調する様に、
「奥様、あの時、わたくしも娘の頃でしたが、よく憶えてますわ。
買い出しに行った西ベルリンでは、それこそ酷い騒ぎでしたの。
連日連夜、オーストリーに亡命する人々の話が、西ベルリン経由で漏れ伝わってきましたわ」
「ザビーネさん、私はハンガリーに、主人とユルゲンといたから、詳しい経緯は知ってます」
と、メルツィーデスは、軽くあしらって、
「あの人は、軍事介入が決まった後、蛮勇を振るって、ソ連大使館に単身乗り込んでいったの。
そこで、駐ハンガリーソ連大使に、意見したの」
「何て?」
「正確な所は知らないけど、何でもこういったそうよ。
『ソ連がハンガリーでやったようなことは帝国主義国がやってきた事と同じである』と」
「あの恐ろしいKGBが、よく許しましたこと!」
「どういう経緯で帰って来たかは知らないけど、でも、それ以来、目を付けられたのは確かよ。
ソ連からも、KGBからも」
メルツィーデスは、押し黙るユルゲンの頬を撫でながら、
「シュタージの前の長官のミルケ、知ってるでしょ」
「……」
「彼は、ベルリンで2人の警官殺しの後、ソ連に逃げてKGBに拾われた男よ。
そんな人間だから、ソ連の操り人形で、モスクワの許可が無ければ何にもできない人だった」
母が、何かを語ろうとしているのは、分かる。
しかし、ユルゲンには、彼女の気持ちが判らなかった。
何時しか、怒りより戸惑いの感情が強くなっていき、
「何が言いたいんだ」と、初めて強い姿勢で、ものをいった。
「もう少しで終わるから待っていて」
「……」
「その後、ハンガリー大使だったアンドロポフが、67年にKGB長官の地位に就いたの。
私から言えることは、これだけよ」
母の面は、色蒼く醒めて、いつの間にか咽び声になっていた。
ユルゲンは、その一言で、目の前が真っ暗になるようであった。
1967年と言えば、父と母の離婚した年である。
あの憎い間夫、シュタージ職員のダウムが、眉目秀麗な顔をほころばせ、母に言い寄った年でもある。
母の話を勘案すれば、父はハンガリー大使だったアンドロポフの恨みを買っていた。
そして、KGB長官の就任祝いとして、シュタージが忠誠心を示す貢物として差し出すべく、父母を貶めたと、伝えたかったのだと。
今、精神病院の暗い病室の中で、恍惚としている父が、よもや、その様な大陰謀に巻き込まれていたとは……
たまらない憐愍がわいて、彼はメルツィーデスの脇に座る。
「そんな事情があったとは……赦して下さい」と、彼は、四十路を超えた母を抱きしめた。
幼き日、母の胸の中で泣き喚いたように、体中で慟哭した。
夜が更ける中、アイリスディーナは一人、フリードリヒスハイン人民公園まで来ていた。
母の衝撃的な話を聞いて、信じられず、制服姿のまま、家を飛び出してしまったのだ。
兄や、護衛のデュルクが探しに来るだろうが、何も考えられないほど憔悴しきっていた。
「どうした。年頃の娘がこの様な時間に出歩くとは、いくら社会主義独裁の国でもあぶないぞ」
ふいの声に驚く間もなく、そっと抱きすくめられた。
「暴力など受けたらどうする。俺だから良かったものの……」
声の主は、木原マサキだった。
着古しの詰襟の上から、黒色の脹脛丈のコートを羽織って、紫煙を燻らせていた。
今回の訪問は、連絡を取った訳ではない。つい衝動的に、来てしまったのだ。
アイリスディーナへの想いは、日が経つに連れ、強く激しくなってきている。
それを一旦制御する為に、マサキは、彼女の元を訊ねたのであった。
彼は、着ているウールのオーバーを脱ぐと、アイリスディーナの肩にかけ、
「どうだ、温かいだろう」と、手を引いて、パンコウ区の方に進む。
「どうして……」
「別れのあいさつに来た。俺は明日、ハンブルクを発って、ニューヨークに行く。
その前に、お前の顔を拝んでおきたかったからさ」
「……」
「どうやって来たか、理由は聞かんのか……、フフフ」
マサキは、アイリスディーナの方を向かずに、
「何、驚くべき事ではない。次元連結システムの一寸した応用さ」
と、言った後、顔を彼女の方に向け、じっと碧海のような瞳を見て、
「俺の方でも女遊びにかまけていられなくなってきてな。だからアイリス。
暫し、お前の所には顔は出せん」と言いやった。
彼の視線が耐えきれず、アイリスディーナは視線を落とした。
胸の奥で、高鳴る鼓動に惑わされながら、歩みを進める。
なんと声を掛けてよいのか、どの様な態度を取ればよいか、彼女には解からなかった。
一週間前なら何ともなかったのに、頬を紅潮させるような羞恥を覚える。
マサキは、おもむろに、ホープの箱を取り出し、タバコを口に咥え、
「この先、俺は月と火星に居るBETA退治の為、新兵器の開発に入る」
と、その場の雰囲気を、変えるような事を口走った。
暫しの沈黙の後、アイリスディーナは、顔を上げ、
「まだミンスクハイヴ攻略から日が浅いのにですか……お疲れも癒え切らぬ内に」
どことなく悲しげな表情の、マサキの瞳を再びとらえると、
「しかたがない。これが科学者というものだ。軍人と言うものだ。
この木原マサキは、木や石で出来た像では、ない。
身体の疲れも辛いが、お前との別れはもっと辛い。だが一度、自ら望んで軍籍に身を置いた立場」
「ええ……」
マサキの声に動揺はなかった。いつも以上に落ち着いていた。
「出来れば、お前には軍から身を引いて欲しい。
あのような剣の中に身を置いて欲しくない。まだお前は花開かぬ青いつぼみだ。
暖かい春の日差しも、花を咲かせるような夏の太陽も、実を生らせる秋も知らない。
願えば、どんなことでも出来る。
兄の為とか、こんな傾いた国の為とかと言って、軍に残って、衛士などという馬鹿げた事をする必要はない。
女の一生を、そんな一時の自己満足の為に、棒に振る様な必要は無かろう」
ガスライターで火を点け、紫煙を燻らせながら、
「男は、この世に生まれて以来、己の大義に、己の正義に殉じるのが宿命。
俺も、俺自身の野望の為に、あえて、剣の中に身を置き、魑魅魍魎どもと戦っている」
静かにうつむいた顔を上げ、
「だが、女は違う。
幾千年の歴史の中で、志に殉じて死んでいった男達を横目に見ながら、その命を長らえて来た。
何時しか許され、その命を全うしてきた。また許される存在なのだ。
だから、高い理想のために働くなどではなく、どの様に生きるかを考えるべきではないか。
もう少し、女らしく自由に生きてみよ」
と、どこかあどけなさの残るアイリスディーナの表情を見つめ、俄かに彼女を抱き寄せる。
咄嗟に、彼女のうけたマサキの唇は、炎のように熱かった。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
年末は、29日ごろに不定期投稿するかもしれません。
魔都ニューヨーク その1
前書き
アメリカ編にはいりました
木原マサキの動向は、国際社会の耳目を集めた。
一人ソ連の首都に乗り込み、最高会議議長とKGB長官を抹殺した男、としてだけばかりではない。
BETAの解析をした天才科学者として、また無敵のスーパーロボット、天のゼオライマーパイロットとしても。
そんな彼の東ドイツ訪問を受け、その事態に一人、憂う人物がいた。
米国対外諜報機関のトップ、CIA長官であった。
彼は、東独政府の怪しげな動きを受けて、ラングレーのCIA本部では、臨時会合が持たれた。
長官は、深い憂いを、満面にたたえながら、
「何、木原博士が、東独を訪ねたと。まことか」
「はい、その事実は間違いないかと」
「いくら、優秀な科学者とは言え、彼は青年。
見目麗しい、珠玉の様な令嬢に、引き合わされれば、絡め捕られる危険性は高い」
「まさか。彼は、日本政府や西ドイツに、何かしらを要求した、と聞いておりませんが」
「いや、どんな聖人君子であっても、人間の奥底にある情、と言うのは否定できない。
それに独身者だ……なおさら危険だ」
「ではこちらでも、驚くような美女を、仕立て上げますか……」
「彼は、見え透いた餌に食らいつくような人物でもあるまい。それ故に恐ろしいのだよ。
ところで、連中が、引き合わせた相手などは、見当がついているのかね」
「こちらの写真を、ご覧ください」
と、長官に一様の写真を見せ、
「アイリスディーナ・ベルンハルトか。なんと……可憐な娘ではないか。どの様な立場で」
「東独軍の戦術機隊長の妹です。年の頃は18歳」
「なぜ、そんな話が……」
「先頃、ソ連に殺されたアスクマン少佐からです。
我が方の工作員が、生前の彼に接触した際、手に入れた物です」
「まさか、売り込んでいたのではあるまい」
「そのまさかです。彼には既に10万ドルを、ポンとくれてやりました。
もっとも、その家族を含めれば、30万ドルほどになりましょうか」
「10万ドルの美少女か……何たることよ」
長官は、眦を押さえ、
「この娘を、どうにかしてやりたいものよ」と、贈り物とされた悲運の少女に、涙した。
「彼女の兄、ユルゲンが近いうちにコロンビア大学のロシア研究所に招かれる予定です」
充血した目を見開きながら、長官は、
「あの外交問題評議会(CFR)の息のかかった、ロシア研究所!
連中は見えざる政府として、この50有余年、我が米国の外交を好き放題してきた連中だぞ!」
CIA長官は、ニューヨークに本部を置く民間研究機関が、米国の対外関係を牛耳っている事実を、嘆いた。
ソ連スパイと近しい容共人士の息が掛かったルーズベルト政権への、人材派遣の本部。
対日戦争を進めた、太平洋問題調査会に関係する石油財閥が作った伏魔殿の一つでもあった。
「恐れながら、副大統領も関係して居ります。彼の御実家は、その石油財閥。
このままいけば副大統領と事を構えることになりますな」
「困ったものだ。日本政府は何をしているんだ……」
この男は、各国の指導者層と違って、偽りの平和に惑溺しなかった。
いずれ、BETAによる再侵略の日も近いと、心より懼れていた。
万事、その様に考え、
「今、博士に美女に入れ込み、恋路に熱を上げられては、困る。
地上のBETAが消えただけで、火星や月には山ほどいるのだぞ……
少なくとも太陽系より、BETAという怪獣を、消してもらわねば、この合衆国も危うい」
「何とか、ご破算に出来れば、違うのでしょうが……、若気の至りとは、困りますな」
長官は、一頻り思案した後、思い付いたかのように、膝を打ち、
「では彼を、客人として招こう。
近いうち、曙計画の事で、榊政務次官が訪米する予定になっているから、それを利用しよう」
「私の方で、国防総省に掛け合って、木原を、公式訪問団に入れる様に手配いたします」
「よし、その線で行きたまえ」
CIA長官の憂慮を余所に、一方ホワイトハウスでは大統領の下に秘密報告が上げられていた。
黄昏を執務室から眺める大統領に、国家安全保障問題担当大統領補佐官から、
「実に激しい死闘を繰り広げて居ります。
あの若い男女、ゼオライマーのパイロット、木原マサキと、副操縦士の氷室美久。
これまでに手掛けたハイヴ攻略は既に五か所にも達して居ります。
しかも、此方の調べでは中共のカシュガル以外は、全くの損害無しであることが判明いたしました。
なお、これらの軍事作戦には、KGBも驚いたようで工作隊を幾度となく送り込んでいますが、速やかに排除されており、闇の事件として処理する心算でしょう」
「それで……」と、大統領は、初めて口を開き、訊ねた。
「現在までに報告を受けた所によりますと、KGBの工作員と思しき者たちが、続々と入国してきております。
既に30名ほどが確認され、FBIでは監視体制を引いております」
おもむろに懐中より、ステンレス製の葉巻チューブを取り出し、葉巻を咥え、火を点けた。
「たった二人の力でここまで戦ってきたのだ。なんと形容したらいいのか。言葉にはならない」
「同感です」と、五十路に入ったばかりの補佐官は、力強く答えた。
執務室から眺める夕日は、何時もに増して美しく、また悲しげだった。
ゼオライマーという超兵器のお陰で、地上のハイヴは攻略され、人類に反抗の猶予が出来たの事実。
木原マサキという人物によって、この世界に一時の平和がもたらされようとしていた。
だが、大統領は心の中で、彼の手で、ソ連首脳部が抹殺された事を、憂慮し始める。
ふいに大統領は、紫煙を燻らせながら、補佐官の方を振り返り、
「昨日の友は今日の敵、と言う事もありうる」
と、感情をこめて見上げた目には、深い憂慮を浮かばせ、
「やはりゼオライマーという機体は、この世に存在しないほうが良い」と、補佐官に漏らすも、
「火星の件が片付いた後でも宜しいのでは」との意見に頷き、隣室に退いた。
ここで、大統領補佐官という日本人になじみのない役職について説明を許してもらいたい。
国家安全保障問題担当大統領補佐官は、朝鮮動乱の熱戦冷めやらぬ1953年に時の大統領、アイゼンハワーによって設置された非常職。
ホワイトハウスの一部屋を執務室として与えられ、常に大統領に近侍していた為、時代を経るにしたがって、その利益にあやかろうとする有象無象の輩が、何時しか頼みとする存在になった。
最初期は毎年の様に交代していたが、大統領の退任まで居座る例も出始め、閣僚に比する影響力を行使した。
大統領のゼオライマー排除を危ぶんだ補佐官は、執務室に戻るなり、
「早速だが、日本の御剣公に連絡を取って欲しい」と、事務官を呼び寄せ、
「明後日のニューヨークの国連総会の前に、私の所まで来るように」と命じた。
事務官は、驚きの色を隠さずに、
「彼は、今の将軍の親族ですぞ。おいそれと、簡単にはこれますまい」と、慌てるも、
「ゼオライマーの件に関してと、伝えて置け」と言うなり、カバンを持って、そのまま出て行く。
ダレス国際空港から、ユナイテッド航空に乗り、もう一つの職場に帰ってしまった。
ジョージア州のニューアーク空港からマンハッタンに向かう車の中で、資料を読んでいる補佐官が、
「私のゼミに来る、東欧のご令息というのは、どんな人物なのかね」と、脇に居る男に訊ねた。
脇に居る男は、彼の秘書で、
「先生、なんでも東ドイツの戦術機隊長をしていた人物で、外交官の親族と聞き及んでいます」
補佐官は、資料をどけ、彼の方に目線を動かし、
「ほう、外交関係者の子息と」
「そういう先生も、元はと言えばポーランドの、名の知れた貴族の出ではありませんか。
自由社会か、社会主義の違いはありますが、貴族の子息で、父君が外交官。境遇が似て居りますな」
「うむ」
「実は世界各国との交換留学生をとっているフルブライト財団の方で、東独の方に話を持ち込んだ折。
向こうの議長から、子息をぜひ送りたいと申し出がありまして」
「なに、フルブライト財団が東独政府に」
「はい。東独政府からの依頼ですから、財団を通じ、ロシア研究所の有るハーバート大学にも声が掛かりました。
東独議長の子息などとは嫌がっておりました所を、わがコロンビア大の方でお引き受けした模様です」
「聞いては居るが、例の光線級吶喊の発案者か」
「眉目秀麗な青年で、大層聡明とも伺っております」
「なるほど」
「ゼオライマーのパイロットからも、常々、目を付けられていたそうです」
「それで」
「ゼオライマーのパイロット、木原に近づく手段として、その若君を学生になるよう手配して置いたのです」
「だが、その東欧の若様と、木原の関係とはどれ程の物なのだね」
「木原は、若君の妹に恋慕しておりまして、嫁に迎えたいと、結納をしたそうなのです」
「結納とは、初めて聞くが、どんな事なのかね」と、怪訝な表情を浮かべる。
東欧のポーランド出身で、カナダで育った補佐官には、なじみのない習慣だった。
結納とは、東亜特有の婚姻儀礼で、吉日を選び、婚約確定の為に、金品を取り交わす慣習である。
その起源は古く、鎬京に都をおいた西周の代にまで遡れる。
四書五経の一つ、禮記に記された「昏義」に六礼と謂う物がある。
(昏は婚の仮借文字で、婚儀の事を示す。古代支那では同音文字を仮借する事がしばしばあった)
六礼とは、「納采」「聞名」「納吉」「納徴」「請期」「親迎」と、言う。
その内の「納采」が、上古の仁徳天皇の御代に伝わり、帝室から公家へ、中世の頃に公家から武家へ。
やがて近代には、武家から豪商や名主などの富裕層を通して伝わり、今日「結納」とされるものである。
無論、マサキが、アイリスディーナとその親族たちに贈り物をしたのは、その結納の儀式の心算ではない。
ただ単純に、ユルゲンから光線級吶喊の詳報を貰った、お礼代わりに渡した物だった。
だが、事情を知らぬ外野の者たちは、違った見方をした。
木原マサキは、兄、ユルゲンの元に出向いて、婚姻の約束の挨拶に出向いた。
マサキの知らぬ所で、そういう具合に、話は出来上がっていたのだ。
一通り、結納に関する説明を受けた補佐官は、頷くと無言のうちに目を瞑った。
最初の頃は、白皙の美丈夫、ユルゲン・ベルンハルトを、教え子に持てると喜ぶそぶりも、見せてはいた。
だが、ああ、大変な青年を預かってしまったのだなと、一人、心の中で悔やんでいた。
車は、ハドソン川をかかる橋を越えながら、コロンビア大学のあるマンハッタン島に向かった。
後書き
12月31日は通常投稿した後、年明けに再度不定期投稿いたします。
予定では、2023年1月4日ごろかな……
ご意見、ご感想、お待ちしております。
魔都ニューヨーク その2
前書き
マブラヴ世界特有のザル警備回
その頃、ハンブルグに居る彩峰達は、帰国の準備に追われていた。
ゼオライマーを運ぶ大型輸送船の手配やら、国連発表する資料の取りまとめをしていたの最中。
不意に現れたマサキは、
「なあ、彩峰。対レーザー塗装の件で会社を作る話だが……」と、問いかけ、
「特務曹長とはいえ、軍に身を置く状態では、兼業は不味い。だから外に出すしか有るまい」
「特許関連はともかく、俺があれこれ指図できないのはなあ……」
と、一頻り思案した後、
「彩峰よ。お前の妻か、愛人の名義を、俺に貸せ。
ペーパーカンパニーを作って、そこで特許関連の管理をやらせる」
暫しの沈黙の後、彩峰は思いつめた表情で、
「俺の妻は軍人の家の出だぞ。済まないが自由に動ける身ではないし、妾の類も居ない」
一頻り思案した後、そっと懐中よりタバコを取り出して、
「だが、是親、いや榊なら、身請けした芸者を囲って、妾にしている女がいてな」
紫煙を燻らせながら、
「今は確か、京の四条河原に店を構え、小さなスナックのママをしている」
「じゃあ、俺が色町に出掛けて、妾の名義を、借りて来よう」
「待て、物事には順序がある。榊には話しておくよ」
「済まぬが、あと一つ頼みがある。商法に詳しい経営の専門家を連れてきてくれ」
と告げるも、綾峰は、怪訝な表情を浮かべ、
「会社を作るのに、お前が直接指揮を執らんのか」
「俺は、機械工学と遺伝子工学を、少しばかりかじっているだけで、娑婆の暮らしは知らん。
それに素人が、経営などという難事に手を出せば、どうなるか。
『士族の商法』の言葉通り、大失敗するのが目に見えている」
と、机より立ち上がって、
「俺は、商法や特許法に関して詳しく知らぬ。
たとえば特許権を持つ俺が、安値で海外企業に技術提供などしたとしよう。
俺の一存で、会社の資産を不当に安く、外部に提供する。
その事で、会社に大きな損害を与えたと、司直の判断で有罪になる恐れがある。
会社の経営者でも、特許権者であっても、特別背任に認定される可能性が出て来る。
そうすると、俺が今欲している新兵器の開発に、悪影響を及ぼしかねない。
無駄な裁判などに時間をかければ、設計や製造が大幅に遅れ、多額の金銭を浪費しよう。
最悪の場合、火星に居るBETA共の再侵略を招きかねない」
と、両手を広げて、演説した。
いつしかタバコを吸うのも忘れ、真剣に話すマサキの様に、突如、
「今の言葉は、篁君が聞いたら仰天するだろうよ」
「篁は貴族なのに商売もしていたのか」と、たずねた。
「そうだが」と、彩峰は誇るように紹介した。
「篁君は、彼の祖父の代にちょっとした先物取引で小金を得て、財を成した家でな。
彼が近接戦闘用の長刀を開発できたのも、その資金を元手にしたところが大きい」
「篁は多才な男だ。女遊びの才の他に、商才もあったのか」
彩峰の言におどきながら、すこし無気味な感を抱いたふうでもあった。
その日の夕刻、マサキは、引率の綾峰たちと一緒に、パンナム航空の大型ジェット機に乗り込む。
まだ、心の奥底には、アイリスディーナの香りを漂わせ、茶褐色の70式制服に身を包んでいた。
あの口付けは、今まで感じた事のない高揚を覚えさせ、まるで童貞の様な、初々しい気分にさせた。
これまでの恋路の事が、酷く色あせて見える、そんな抱擁だった。
しかし、既に賽は投げられた。
今、自分が向かうのはニューヨークの国連本部だ。
ソ連を壊滅させる総仕上げに、彼の用意したKGB秘蔵の資料を持って、国際社会に一大波乱をもたらす。
そんな企みを心の中に抱きながら、目を閉じながら、ドイツを後にした。
ニューヨークに向かう機内の中で、まもなくマサキは眠りに入った。
日々の戦いで、疲れた体と心を癒す為、泥の様に眠った。
この世界に来て以来、目の前に異形の化け物と相対してから、こんなに眠ったことがあったであろうか。
眠りながらマサキは、このまま夢の中に消えてしまいたい……
それ程までに深く、静かな眠りであった。
『大変お疲れさまでした。間もなく当機は、15分ほどでニューヨークのJFK国際空港に到着いたします。
シートベルトや座席の確認等を今一度、お願いいたします。
本日は、パン・アメリカン航空をご利用いただき、ありがとうございました。
またのご利用をお待ちしております』
スチュワーデスのアナウンスの声で、目が覚めたマサキは、
「もう着いたのか」と、美久を振り向くも、通路を挟んだ向う側の彩峰が、
「身支度したら、ニューヨークの総領事館に行く手筈になっている。
ドイツ娘への想い出以外は、忘れ物をするなよ」と、声を掛けた。
気を紛らわす為に、ホープの箱を取り出して、紫煙を燻らせていると、
「アイリスディーナさんは、貴方と同じところに立っていられない人なんです。
だから、今回の米国行きは、諦める機会と思って……」
美久は、何時にない真剣な表情で、押し黙るマサキを見つめながら、
「貴方が諦めて頂ければ、特権階級の娘です。
東独政府や党に保護されて、きっと彼女は平凡な一生を、幸せな人生を送られると思います」
と、慰めるような言葉を、静かに告げた。
彼が、物寂しそうな表情をしている内に、パンナム航空のボーニング747は着陸に入った。
マサキは静かだった。
周囲の人間が心配する程、静かにしながら、タラップを降りていく。
すると、裃姿の者たちに守られるように、折烏帽子に小素襖姿の男が立っていた。
4尺近い太刀を太い太鼓革を通し、ずり落ちないように佩いているの見て、真剣である事が遠目にも判る。
彩峰は、薄黒の小素襖姿の男に駆け寄ると、軍帽を脱いで、
「態々のお出迎え、ありがとうございます」と、深々頭を下げ、慇懃に謝辞を述べた。
男は、太刀に左手を乗せながら、軽く頷くと、マサキの方を向いて、
「そなたが、木原マサキ殿か」と問いただした。
マサキは、浮かぬ顔で、
「そうだが」と素っ気なく返す。
マサキは、少しばかりおいて、男の様子をしげしげと見る風であった。
「で、貴様は何者なんだ。俺に名を聞いておいて、答えぬのは無礼であろう。
あれか、名を名乗らぬと言う事はどこぞの宮様か、将軍の身内か」
彩峰たちが急にそわそわし始めたが、気にせず、
「では、この機会に、お見知りおき下され。
見共は、煌武院傍流の御剣雷電と申すものでござる」と、堂々と名乗った。
さっぱり誰であるか分からぬマサキは、彩峰に顔を向け、
「煌武院とはなんだ」と、訊ねた。
彩峰は、面色蒼く、震えながら、
「煌武院とは、徳川倒幕以来の名族。今の殿下の御実家だ」と短く答え、マサキをキュッと睨んだ。
「すると、将軍の親族か」
「雷電公は殿下の大叔父に当たる方でもあり、今の御台様は雷電公のご息女……」
「今の将軍の妻の父親で、しかも将軍の大叔父か。
まあ、名族どうしの近親婚は良くある話だからな」とあけすけに答えた。
彩峰は、マサキの無礼を、打ち慄えて見せながら、
「いささか、BETA退治に明け暮れた日々を過ごした世間知らずの小童ゆえ。
無礼な振る舞い、この彩峰に免じて、お許しください」
と、深々と頭を下げ、平あやまりに詫び入った。
御剣は気にすることなく、
「フフフ。これが真の名乗り合いよ。彩峰、気にするな」と打ち笑った。
「どうした、気分でも優れぬのか」と、御剣が、なおも尋ねるので、マサキは、
「少しばかりな」と、答えて、その場を過ごそうとした。
御剣は、胸元まで伸びた顎髭を撫でながら、
「よもや恋の煩いとやらではあるまい……」
「篁と同じ病気さ」
「して、どこぞの誰に惚れた」
「……」
マサキは答えなかった。面白くなさそうである。持ち前の気儘な態度が出たようであった。
「木原、返答は」
マサキが背筋を伸ばし、黙っているので、いずこから、注意する様な叱咤が飛ぶ。
「東ドイツの娘」と答えると、御剣の眼は、マサキの眼を捕らえて、離さない。
マサキは、脇で立ちすましている護衛の全身から殺気が上るのを感じられる。
焦るな、慌てるな、と心を落ち着かせながら、
「戦術機部隊参謀のベルンハルトの妹、アイリスディーナ・ベルンハルトに」
男は、ようやくマサキの眼から視線を外し、
「少しばかり、貴様の好いた女は有名すぎたかな。フフフ」と、笑って見せた。
「御迷惑かな。このような心を許した話などをするのは」と、御剣の頬が笑った。
「余計な心配は要らん」
「どちらにしても、そなたも身を固めてもらわねばなるまい」
何とも言えぬ殺気と、入り込むような言葉に、マサキは自分の肝を触られるような感覚を覚えた。
「貴様等の知った事か。俺は自分が好いた女をどうしようと、勝手であろう」
護衛達は、反射的に、右手を拳銃の有る脇腹に隠し、威嚇の姿勢を取る。
久しぶりの長旅で疲れ、空港内で、余計な騒ぎを起こしたくないマサキは、見ぬふりをした。
「それより、当今や、将軍に側室など居るのか。
決まった家から正室を取り、結果的に近親婚を続けていれば、やがては破滅する。
竹の園が、武家が、頼みとする血統上の正当性、男系血統が絶え果てる。
御剣よ、俺の心配より、そっちの方が大事ではないのか」
マサキがあんまりにも堂々と言うので、御剣は言を横に譲った。
「紅蓮よ。どう思う」
紅蓮醍三郎は、待っていましたと言わんばかりに、血走った眼でねめつける。
「殿下のみならず、主上の在り様にまで口に出すとは、おそれ多い。
ここがニューヨークでなければ、この場で切り捨ててやるものを」
紅蓮は、帯びている打刀の柄を右手で掴むと、鯉口を切った。
「言うに事欠いて、刀の柄に手を掛けるとは。なにが武家だ。笑わせるな。ハハハ」
満面に喜色をめぐらせたマサキは、腰に手を当て、周囲が驚くほどに哄笑して見せた。
見上げるばかりの偉丈夫である紅蓮の面を下から見上げながら、
「ハハハハハ。『大男、総身に知恵が回りかね』という諺、その通りではないか。
蛮人の露助、傲慢な北部人や粗野な南部人に相応しい言葉と思ったが、違うようだな。
女たらしの優男、篁の方が余程武士らしいわ」
「き、貴様!」と、紅蓮は、途端に嚇怒し、眉間の血管を太らせた。
「ほれ、どうした。俺が憎いなら言葉で返してみよ。
次元連結システムの一つすら作れぬ、この世界の人間など怖くもなんともないわ。ワハハハハハ」
マサキの笑い声が途切れた。
遠くだった。突然、夕暮れのJFK国際空港のしじまを破って、足音が響いた。
マサキ達が身構える間もなく、国連職員の水色のチョッキを身にまとった一団が駆け寄って来る。
中には、制服を身に着けている物も居るから、空港の保安職員か。
そう考えていると、水色の鉄帽に、濃紺の戦闘服姿の男が、トカレフ拳銃をマサキに向け、
「同志アンドロポフの敵、KGBの鉄槌を受けよ」と、彼の胸目掛けて、ぶっ放した。
周囲の空港職員が逃げ惑う中、男達は彼方へ走り去る。
御剣の護衛と彩峰は拳銃を取り出す間もなく、国連仕様の白いジープに乗って、消えてしまった。
ブローニングハイパワーを取り出した彩峰が駆けだそうとした瞬間、誰かに右手を掴まれる。
撃たれたはずのマサキだった。
体を起こした彼は、不敵の笑みを浮かべると、呆然とする彩峰に、
「大丈夫だ」と、着ている上着とシャツを、開けて、胸元を見せつける。
そこには厚いクッションで覆われた、防弾チョッキが6発の銃弾を綺麗に防いでいた。
奥に隠れ、一部始終を見ていた鎧衣は、懐にモーゼル拳銃を仕舞うと、
「さすがだ、木原マサキ君」と、流れ出る汗を気にせずに、笑みを浮かべた。
後書き
御剣雷電は、『マブラヴ』本編の御剣冥夜と煌武院悠陽の祖父になる人物です。
御剣家と煌武院家が遠縁にあたるとしか有りませんので、背景は創作しました。
ご意見、ご感想、お待ちしております。
魔都ニューヨーク その3
前書き
なんやかんやで、6000字越えになってしまいました。
ロサンゼルス近郊、ビバリーヒルズにある豪奢な館。
昼頃、玄関先に、1969年式のマスタング・クーペで、乗り込んだ怪しげな者がいる。
「待て」
たちまち、警備により、捕らえられ、拳銃を突き付けられて、立ち竦む男は、
「もしやここは、キリスト教恭順派の本部では間違いありませんか」
「余計な事を言うな。何でもあれ、通すことは出来ぬ」
「ならば、指導者へお取次ぎ下さい。時計屋ですがと」
彼の正体は、FBIロサンゼルス支部の職員で、FBIが恭順派と名乗る邪教団に潜入させた工作員。
大急ぎで、マサキ襲撃事件の報告に来たのだった。
「えっ、時計屋だと」
末端の信者では、この男の素性を知らない者が多い。
しかし時計屋と聞けば、しばしば指導者が会っている重要人物と知っている。
まもなくその時計屋は、指導者のいる奥座敷へ導かれていた。
指導者が彼と会うときは、いつも人を側におかなかった程の信頼関係。
先の大戦の折、フィリピンのオードネル捕虜収容所で同室だった、彼等の結束は固かった。
命を共にした戦友としての付き合いがあり、簡単に離れられぬほどの深い間柄であった。
自身の子息や複数いる妻たちより、指導者の傍に近寄れ、しかも彼の私室に出入り御免であった。
だから彼等の密議などは、二人以外に知る者もないのだった。
レイバンのサングラスをし、椅子に腰かけた五十路の人物は、
「何、ソ連の犯行に見せかけた銃撃で、木原を殺す作戦は失敗か」
立ち上がると、彼の横面を思い切り、叩き付けた。
「も、申し訳ございません」と、秘密報告をした時計屋は、倒れた身を起き上がらせる。
紺に白の縦縞のズートスーツ姿をした男は、指導者と呼ばれる、この団体の教祖であった。
「我等が邪魔になる、米ソを互いに消耗させ、その戦に疲れた世界中の民を、我が信仰に誘い込む。
この妙案も、木原の手によって、潰えたか。ならば、情報を流し、奴を誘い出せ。
さしもの木原も、あのマシンが無ければ、ただの人間よ。本部に引き入れ、女操縦士と共に抹殺する」
と、丸めた頭を、ぬかづく男の方に動かし、睥睨して見せた。
「木原という、邪教徒の黄色猿公の為に、神の御使いであらせられるBETAは絶滅した。
もし木原がこのまま生き続ければ、地上に、使徒の再来は覚束無くなる。
何が何でも始末するのだ。奴が死ねば、八方丸く収まる」
指導者には、その事は疑いない事実であった。
「心得ました。では木原を騙くらかして、奴をこの本部に誘い込みます」
ロサンゼルスのFBI支部からワシントンのジョン・エドガー・フーバー・ビルに電報が入った。
その秘密報告を受け、ホワイトハウスでは、国連総会の警備に関し、緊急会合が開かれていた。
FBI長官は、上座の大統領に向かって、
「現在国連総会でのテロが懸念されます。その危険性があるのは、恭順派と称する団体です。
西海岸、ロサンゼルスに拠点を持っており、俗にいうBETA教団と呼ばれております」
「BETA教団?なんだそれは。奴等の目的は……」
大統領の言葉が終わらぬ内に、CIA長官が重ねる様にして、
「BETAの襲来は、神の意志によるもので、人類はそれを受け入れろと、公言してやまない団体です。
そんな彼等は、今回の国連総会で、パレオロゴス作戦に関わった人間を殺す可能性が非常に大きいのです」
「パレオロゴス作戦に関わった人間を殺して、奴等は何を得ようとしているのだ」
「組織の売名と、対BETA戦において米国による介入の一切拒否するという姿勢表明する為でしょう。
また、KGBを騙って米国内で騒擾事件を起こし、米ソ戦争を開始させるとも聞き及んでいます。
今回の木原の襲撃事件は、その一環でしょう」
嚇怒した大統領は、両腕を組み、机を叩きならしながら
「そんなにまでして、米ソを戦わせたいのかね。要は自分たちの過激思想を広めたいだけではないか」
と、檄色を隠さない様を見て、FBI長官は、宥めようと、
「FBIとしましては、只今総力を挙げて彼等の動向を探っています。
今週末までには、かなりの線まで洗い出せるでしょう」と答えた。
憤懣やる方無い大統領は、
「遅い。それでは火曜日の国連総会まで間に合わないではないか」
と、嘆くも、大統領は、全米最大規模を誇るニューヨーク市警本部長に、
「では、本部長、警備の人員は、どれ程出せるのかね」と訊ねた。
「お答えいたします。市警全職員8万人の内から、2万の警官と500名の機動隊員。
そして、本部より100名からなる緊急出動隊が加わる予定です」
追従する様にFBI長官も、
「FBIとしても、本部直轄の人質救出隊を編成して、1000名の人員と100台の武装ヘリを準備いたします」
彼等に重ねる様にして、国家安全保障問題担当大統領補佐官が、
「さらに沿岸警備隊とシークレットサービスにも出動準備をかけました」と、言い切った。
「それでもだ。
国連総会に来る要人の家族などは警備のしようがない。何処で誘拐されるか分からん。
仮に一人でも誘拐されれば、この合衆国の国威は地に落ちる。
万全の配備をしても、守り切れるものではない。そうなってからでは遅いのだ」
大統領が、その様に理由を述べると、副大統領もまた、
「しかし閣下、FBIでもCIAでも出来ぬ仕事をこなすものなど、この世に居りましょうか」
と、その心にある不安を、一応あきらかにした。
藁を掴む気持ちで、大統領は、
「ゼオライマーを使おうと思う」と、マサキに頼る事を明かした。
その場に、衝撃が走った。
副大統領はじめ、みな凍り付いた表情である。
「ゼオライマーを使って、BETA教団を潰そうと思う。
パイロットの木原は、KGBと戦って勝った男だ。彼なら何でもできる。
BETA教団に、国連本部を襲われる前に先手を打つ」
室中、氷のようにしんとなったところで、大統領は、
「現在ニューヨークに居る、御剣公に橋渡しを頼んだのだよ。
木原をホワイトハウスに呼んで、BETA教団抹殺を依頼する。
その上で、警備を万全にし、まずは国連総会を無事に終わらせる」
さて、同じ頃、マサキは、救急車で、近くの大型私立病院に運ばれた。
防弾チョッキを着ていても、銃撃の衝撃までは防げない。
内蔵の損傷や、ろっ骨などの骨折を調べるために駆け込んだのだ。
数時間の検査を終えた所、辺りはすっかり暗くなっていた。
幸い、軽い内出血と転倒時の打撲で済んだ事に安堵していると、トレンチコート姿の男が現れた。
ベットに横たわるマサキは、枕元に立つ男の方に顔を向け、
「なあ、鎧衣。あれは本当にKGBか。暗殺のプロとは思えぬ稚拙な犯行だ」と訊ねると、
「ふむ。君が撃たれた弾丸は9mmパラベラム弾だ。
それに、鉄芯製のトカレフ弾だったら、とっくに防弾チョッキを抜けている」
「ソ連ではないと。じゃあ、誰が何の目的で……」
美久に手を引っ張られて、起き上がり、
「今回の拳銃は、トゥーラ兵器工廠純正のトカレフじゃない。
ソ連の拳銃弾、小銃弾は、帝政時代より7.62ミリだ。
現場近くに捨ててあった拳銃は、9ミリパラベラム弾の弾丸仕様。
トゥーラ兵器工廠純正を示す、遊底のスライドに記されたキリル文字がない。
製造番号が削られていたし、ソ連製拳銃にはない、安全装置が追加された。
以上の点を見ると、間違くハンガリーか、ユーゴスラビア製のコピー品。
それに、安全装置付きと言う事は、対米輸出用だ。そうすると……」
「米国内に拠点を置く過激派か。しかもソ連の所為にしたがっていると」
「私が教えられるのはここまでだ。後は詳しい話はFBIが相談に来るだろう」
「捜査じゃなくてか」
「御剣公は、外交特権を持っておられる。故にFBIもCIAも捜査権が及ばない。
それに私たちは彼の庇護下にある。だから相談しか出来ぬのだよ」
近くでヘリコプターの音がすると、間もなく廊下をかける足音が聞こえる。
「何、寝ているだと。それなら、起こせ。通さんなら通るまでだぞ」
と、看護婦と護衛に来ていたニューヨーク市警の警官を叱りつける者が在った。
彩峰大尉だった。
看護婦の取次よりも早く病室に入るなり、椅子に腰かけ、
「彩峰か。しかしこんな夜中になんだ」
「早速だがホワイトハウスに、御剣公と行って欲しい」
顔色が赤い所を見ると、いくぶん怒気を帯びていて、
「俺の暗殺未遂の件で、明日から始まる国連総会が危なくなったのか」
「そうだ」
「俺は、そこまで首を突っ込む理由があるか」
何か、マサキについて、腹をたてて来たものらしい。
「俺も、その事を説明した。ところが御剣公は笑っておられた。
君が信頼した木原という男は、女にはだらしがないと。
そして、パレオロゴス作戦の支援を取り持ったことも、また、せっかくの殿下のご意向も仇になった。
日本の為に、西ドイツに送ったのに、東ドイツの女に惑わされた。これでは逆になった……。
と、しきりなお悔やみなさっていた」
マサキの瞳に、ちらと懐疑の色が浮かぶ。
「何を……」
「アイリスディーナという少女と、離れがたい心もあるには違いない。
純真な彼女の愛にひかれ、心弱くなったと」
其処まで馬鹿にされていては、黙っていられない。マサキの意地である。
「この俺が、女色に溺れているだと。よし、御剣の望む様にしてやろうではないか。
美久、鎧衣、俺はホワイトハウスに乗り込むぞ。準備しろ」
マサキは、病衣から軍服へ、美久に着替えさせると、間もなくヘリが待ち構えた屋上に向かった。
マサキ達は、綾峰に連れられ、海兵隊のヘリで2時間ほどかけ、ワシントンに向かった。
ホワイトハウスに着くなり、シークレットサービスの身体検査を受け、大広間に入る。
そこには別なヘリで来た御剣と紅蓮。そのほかに見慣れぬ日本人の護衛が一人ついていた。
大広間には、すでに七旬を超え、鬢髪も白くも、矍鑠とした偉丈夫が待ち構えていた。
彩峰は、鷹揚に敬礼をし、マサキ達も続いた。
男は敬礼を返すと、御剣の傍により、
「今度の協力には感謝しているよ。御剣公」と、右手を差し出し、言って来た。
御剣は感に堪えない面持ちで、頭を下げ、
「光栄です。大統領閣下」と、握手した。
そして、彩峰はマサキ達の方を向いて、右手を広げ、
「ご紹介いたします。こちらがゼオライマーの操縦士と副操縦士です」
敬礼していた右手を下げると、
「紹介にあった木原マサキだ。挨拶は抜きにして本題に入ろう」
大統領が、椅子に腰かけると、そのまま質疑応答が始まった。
「どうだろう。引き受けてもらえるか。FBIもCIAも協力を惜しまない。
更に君の方から条件があれば、聞かせてもらおう」
護衛からBETA教団の本部と、その指導者の顔写真をもらったマサキ。
不敵の笑みを浮かべ、食指を立てた右手を差し出し、
「まず、俺に新兵器開発にかませろ。
ロスアラモスでも、ハイネマンでも、戦略航空機動要塞の研究でもいい」
次に中指を立てると、
「第二に、暗殺業務だから、あらゆる司法手続きから免除される書類が欲しい。
FBIでも、大統領命令でもいい。それが無ければ、話にならん」
ゆっくり、薬指を上げて、
「そして、最後に50メートルを超える大型ロケットが欲しい。BETAがいる星に乗り込む為だ。
サターンVロケット、スペースシャトル、核ミサイルを転用したタイタンロケット。なんでもいい」
と、不敵の笑みを浮かべた。
さしものマサキからの要求に、副大統領が立ち上がり、
「いくら何でも法外すぎる。たしかに君はハイヴ5か所を攻略したが、我々はその実力を知らぬ。
失敗せぬ保証はあるのかね」
毅然としてマサキは、副大統領の方を向き、
「その証として、首領のそっ首をホワイトハウスの前に並べよう」と、大言を吐いた。
そして、秘密任務を受けたマサキ達は、ゼオライマーで、即座にサンフランシスコに転移した。
機体から降りた後、宵闇の街へ繰り出し、現地に居るFBI工作員を頼った。
時計屋と呼ばれる、彼の手引きを得て、堂々と正面から教団本部に侵入した。
無論、有名人のマサキである。簡単に侵入できるはずがない。
手引きした工作員によって拉致された振りをして、幹部たちの前に引き立てられたのだ。
後ろ手に縛られ、教祖の部屋まで行くと、五十路の紳士が、葉巻を燻らせていた。
50センチほどの羽飾りのついたスペイン帽に、紺に白いストライプのズートスーツ。
姿格好から、おそらくメキシコ人と思しき白人男は、マサキをねめつけ、
「君が木原マサキかね。BETA退治をしている衛士の……」
と、言い終わらぬ内に、マサキは、満面に喜色をめぐらせて、
「世界中に、操縦士はごまんといるが、BETAの光線を浴びて、生還したのは、俺ぐらいだろう」
と、言いやり、唖然とするミラーレンズのサングラスをかけた、教祖の顔を見て、
「そんなこの俺に暗殺者を仕立てて殺そうなど、出来る訳がない。
なぜなら、この俺は造物主にして、冥王なのだからな。ハハハハハ」
と、喜色を明らかに、嘯いて見せた。
途端に指導者は、嚇怒し、脇に居る男達に指示を出す。
護衛達は、マサキの両手から紐をほどくと、いきなりねじり上げた。
「ほざけ、この猿公めが」と、指導者は、彼の襟首をつかみ上げる。
そして、歯を食いしばったマサキの顔を、鉄拳で数発、殴りつけ、
「貴様、神になったつもりか」と、言いやった。
拳骨で、口の中が切れ、血を流しながら、
「この木原マサキ、既に神の領域をも超越した。
生命の禁忌も、無限の力も、この手の中に得た。つまり、人の命など自在に出来るのだ。
生老病死に加え、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。
世のあらゆる四苦八苦を、この天のゼオライマーを持って超越した、存在。
それがこの俺よ。ハハハハハ」
と、周囲を囲む者たちに、満面の笑みを見せつける。
マサキは一瞬目を動かすと、彼等を連れて来た時計屋は、いつの間にか、消えていたことに気付いた。
どうやら、FBIの工作員だったようだ。
『帰ったら、FBIの奴等も血祭りにあげてやろう』
一人、そう心の中で、誓うのであった。
青筋を太らせた指導者は、懐中より、コルト・ピースメーカーを取り出すと、
「丸腰の此奴らの戯言に付き合ってる暇があるか。では木原よ。そのマシンを呼んで見せよ。
神でもないのに、その様な事が出来る筈が有るまい」と、マサキに向ける。
マサキは、眉間に拳銃を突き付けられるも、
「良かろう。貴様等が、お望みの物を出してやろう」と、不敵の笑みを湛え、
「美久、ゼオライマーを呼び出せ」
と、きつく縄で縛められた美久に向かって、大声で叫んだ。
その刹那、美久がまばゆい光に包まれると、轟音と共に部屋全体が揺れ、屋根や天井が崩れ去る。
瞬く間に、面前に一体の巨人が現れ、周囲の物を仰天させた。
マサキは、彼をねじり上げた男達を振りほどくと、ゼオライマーに目掛けて、走る。
駆けこんだマサキの体を光球が包み込むと、そのままコックピットに移動する。
操縦席に座った彼は、韋駄天走りで、脱出しようとする件の男を逃がさなかった。
即座に右手で掴むや、両掌でねじり、レモンの様に絞ってしまった。
そして休む間もなく、目標座標にメイオウ攻撃を発射した。
建物に居た全ての者が、ゼオライマーの必殺の一撃の下、消え去った。
ビバリーヒルズに正体不明の大型機出現の報を受けたロス市長は、市警スワット隊に、出撃命令を出す。
秘密任務の為、カリフォルニア州には知らされていなかったため、ロス市より要請を受けた知事は、緊急発進を掛ける。
ロス近郊のトラビス空軍基地滑走路から、F-4ファントムの1個小隊4機が、即座に空に上げられた。
しかし、ロス市警スワット隊が現場に着いた時にはすでに遅かった。
例の正体不明機は忽然と消え、廃墟が残るのみであった。
こうして暮夜ひそかに、ロサンゼルスにあった恭順派は、拠点と信者を含め、全て消滅した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
1月7日からは通常投稿に戻ります。
米国に游ぶ その1
前書き
ユルゲン兄ちゃん、ギャルゲーの主人公みたいな扱いになってしまいました。
原作が18禁恋愛ゲーム(大嘘)だから良いかなと、思ってます。
ここは、ポツダムの国家人民軍参謀本部の参謀総長執務室。
東ドイツの兵権全てを預かる、この場所にマライ・ハイゼンベルクは呼び出されていた。
冬用コートの代わりに着て来た綿入り服の上着を脱いで、勤務服姿で待っていると、
「よく来てくれたね」と、声が掛かる。
慌てて敬礼した先に居たのは、参謀総長に、ハイム将軍であった。
「まあ、椅子にかけ給え」
参謀総長とハイムは、軍帽を脱ぐと、椅子に腰かけ、
「君には頼みたいことがある」と告げた。
マライは、腰かけるも、クッションの利いた椅子に戸惑いながら、膝に上着を掛けて、
「同志大将、どの様な事でしょうか」と、タイトスカートを押えながら、訊ねる。
「実は、同志ベルンハルトと一緒に米国に行って貰いたい。
その際、隠密作戦として、アベックに偽装してほしい」
「えっ」
答えに詰まって、恥じらっているマライに向かって、ハイム将軍は、
「これは、同志議長からのお申しつけなのだよ」と、詳しい経緯を話し始めた。
ベアトリクスの父、アベール・ブレーメは、全てを政治に囚われた人物。
東ドイツの官界では、そう噂され、秘かに怖れられていた。
また、彼の父の代より、ソ連と関係し、党幹部として権勢を誇る忍人であると。
国家保安省と関係し、政敵の怪情報を握り、排除してきた冷徹な男としての面もある。
家族関係もそうではないか、妻はおろか、娘ともろくに口を利かない薄情な男。
家族すら政治の道具に使い、娘すらも国家の為に差し出す、非情の人と。
実際は、通産官僚として恐ろしいほど忙しく、家に帰る暇も無かっただけであった。
彼自身は、娘に護衛を付け、何不自由の無い様にさせてやるこそが愛情だと考えていた。
だが、それを娘に惚れたユルゲンに指摘されるまで、放置に近い事であると気が付かなかった。
そんな彼も今になって、娘・ベアトリクスの事を心配しだした。
一番はBETA戦争が一段落し、国家保安省の統制を引く必要が無くなったためである。
流入してくると恐れたソ連からの難民は、バルト三国とポーランドに収容所を作り、そこで留め置かれた。
そして、BETAの恐怖から、東ドイツ国民の逃亡に関し、然程、気を使わなくなったのも大きい。
ただ、内部への監視は引き続いてはいるも、シュミットの乱で、人材が払底した影響は計り知れない。
二番目は、駐留ソ連軍の撤退が開始された事である。
東ドイツをソ連の隷属下に置く駐留軍の撤退、すなわちソ連の弱体化は東ドイツの環境を変えた。
徐々にであるが、強烈な思想統制も、ソ連への阿諛追従も緩和されてきた。
最後に、ベアトリクスの妊娠である。
この事で、アベールは、密かに企んでいた、国家保安省を監視する案を放棄せざるを得なかった。
なんで、妊娠した娘を、秘密警察という、その様な剣の中に送れようかと。
いくら、忍人とは言えども、自分の娘と孫は可愛いのである。
その愛の深さは、彼女がユルゲンと共に行くはずだった渡米留学にも影響した。
まだ妊娠安定期にも入らない娘を、米国のニューヨークに送り出す等とはと、議長に迫ったのだ。
昔馴染みの男の申し出も無下に出来まい。軍の方で、だれか目ぼしい人間を立てて欲しい。
そう、自分とシュトラハヴィッツ将軍に行ってきたのだと、語った。
「まあ、次官には初孫であるし、娘さんもまだ長期出張などで耐えられる体ではないから……」
「それでわたくしが……」
「君も知っての通り、同志ベルンハルトはモテる。老若男女問わずだ」
「はい」
「そこで、ここは一つ、君に護衛任務に就いて欲しいのだよ」
「……護衛任務ですか」
何を思ったのか、参謀総長が立ち上がり、執務机の方に向かう。
引き出しから、ファイルを取り出し、老眼鏡で眺めながら、
「同志ハイゼンベルク、君は婦人兵にしては拳銃の成績も、シモノフ半自動銃の成績も良好だ。
そして、衛士になる転属申請も、しているそうじゃないか」
「いえ、いえ、わたくしには出来ません」
マライは、手を振った。
「ブレーメ嬢が怖いのか。その辺は本人を呼んで、私が説得する」
と、顔を上げた、参謀総長が自信満々に答えた。
ベアトリクスが参謀本部に乗り込んで、珍しく悶着を起こしたのを覚えていたマライは、
「あの方の恐ろしさを存じないのですか」と、初めてうろたえの色を現した。
彼女は、ユルゲンと親しくなればなるほど、ベアトリクスの監視がたえず身にそそがれているのに気づいた。
あの赤い瞳に灯した、ユルゲンへの燃え盛る愛情が、嫉妬の炎に代わる事を、何より懼れた。
ゼオライマーのパイロットが、ベルンハルト邸を訪問したあの日以来、彼女の嫉みを買うようになる事を避けた。
「まあ、どっちにしろ、まだブレーメ嬢は19にもならぬ娘御だ。何かあったら私がかばうよ」
そう言って、笑みを浮かべるハイム将軍に不安を覚えながら、マライは、
「わかりました」と自我を抑えた。
この場で参謀総長や軍上層部と争うのは愚かである。争って勝てっこない。
少なくとも自分は、この国家と軍隊に忠誠を捧げている。
ベアトリクスの様な小娘、アイリスディーナの様な世間知らずと、同列であってはならない。
今、命令された任務を無事貫徹させよう。
アイリスディーナの見合いや、ベアトリクス一人の内心などは問題でない。どうにでもなる。
そのどうでもいい事に、議長のごきげんを損じ、軍上層部と気まずくなる等は、愚であった。
愚かしさよと、ようやく、身の内で落ち着かせる雰囲気を作り上げていた。
さて翌日。ベルリンのシェーネフェルト空港は見送りの人でごった返していた。
9月の第3火曜日に開催される国連総会に向け、議長が出発する為である。
「お前たちもこんな所まで見送りに来なくていいのに」
ユルゲンは困惑したような声を出し、アイリスディーナとベアトリクスの方を向く。
「兄さん、忘れ物は」
「昨日の夜の内に確かめたし、今朝もう一度確認した」
これはまずいと、妻のベアトリクスはすぐ覚ると、ユルゲンの顔色を見て、
「大丈夫よ。もうこの人は大尉だから。士官学校を出たばかりの、その辺の新品の少尉と違うわ」
と軽く笑いながら、アイリスをあしらうと、
「向こうに付いたら、一度連絡をくれれば良いわ」と、袖をつかんだ。
瞳の奥に愁いを湛えたベアトリクスは、何時になく蠱惑的だった。
化粧をした頬を赤く染める姿などは、実に妖しいばかりに見える。
ソ連留学の時もそうだが、ベアトリクスは、気丈にも涙さえ浮かべず、笑って送り出してくれた。
彼女の男まさりな気強さも、その胸の深い所は別にして、知らぬ人には冷酷に見えよう。
ユルゲンは、じっと無言のまま、彼女の情念の炎を点した赤い瞳を見つめていた。
しばらくして、ユルゲンは、かたくなっていたアイリスを落ち着かせようと、
「心配するな、アイリス。俺もお前も幼弱の頃から海外暮らしの方が長かった。
ニューヨークの廃頽的な暮らしも、直ぐなれるさ」
「ハーレムの黒人街やクイーンズの南京町などには近寄らぬようにしてくださいね」
「揶揄っているのか。もうすぐ父親になる男にかける言葉ではないだろ。
たしかにコロンビア大学のキャンパスはマンハッタン島にあるが、住むのはニューヨーク郊外の地区だ。
そこに民主共和国名義で借り上げた宿舎がある。
何なら隣のニュージャージに、誰かと一緒にルームシェアして住むさ」
「今の所、一番危険なのは兄さんですからね。CIAやFBIが近づいてこないとも限りませんし。
彼等の命を受けた、どんな美人が言い寄って来るのか、不安です」
興奮を隠さないアイリスディーナの事を、ユルゲンは抱きすくめ、
「大丈夫だって、安心しろよ。平気、平気だから。お目付け役が付いているしさ。
俺は逆にお前が心配だよ。研修が終わった後、来年1月からどこに行くんだっけ」と、訊ねた。
「誰ですか、兄さんにつく護衛は」
兄は笑って答えなかった。知らない様だった。
「ヤウクさんもカッツェさんも、アメリカには行きませんよ。
ヤウクさんは、兄さんたちと飛行機に乗った後、一人英国で降りて、サンドハースト士官学校留学ですし。
それに、カッツェさんは、私と一緒にコトブス県の北部飛行場に配備される予定です。
(今日のドイツ連邦ブランデンブルク州コトブス市)
基地司令は、ハンニバル大尉。ですから兄さんは安心して、ニューヨークで勉学に励んでください。
手紙は出来るだけ書きますので」
アイリスディーナの毅然とした声に、圧倒されつつも、
「わかった」
二人の声が途切れると、後ろに佇むマライが、
「でも、そろそろ出発のお時間が」
「今行く。少し待っていてくれ」
ユルゲンは、つい起つのが惜しまれてはそう言っていた。
するとまた、軍靴の足音がして、出発の時間が近い事を告げた。
「ユルゲン、そろそろ奥方様と別れは終わりにして。議長がお呼びだ」
「では、行こうか。ヤウク」
颯爽と、空港のロビーを後にして、貴賓室に向かった。
貴賓室の中では、紫煙を燻らせた議長が、首相や外相と話し込んでいた。
聞き耳を立てていると、明後日開催される国連の一般演説に関しての事らしい。
ハイム少将が、ユルゲンの後ろに立っているマライに目を向けると、
「一応、大使館から護衛が着くことになっているが、ハイゼンベルク少尉を君の護衛につける」
「同志将軍、ありがとうございます」
そうは答えた物の、ユルゲンは、自身の胸のざわつきに驚いていた。
そんな疑問を頭に浮かべていると、ハイム将軍は深い溜息をついて、
「失礼だが、君は抜けている所があるな。
今度の留学は海の向こうのアメリカだ。ソ連の様においそれと助けることが出来ん。
だからハイゼンベルク少尉に護衛任務に就いてもらう。
彼女と一緒に暮らしてもらって、留学を無事終えてきて欲しいのだ」と小声で述べた。
「えっ、そんな」
「美人は嫌いか」
「いや、小官も美人は好きですが、今の話と何の関係が」
「同志議長が、君が、色仕掛けで狂わされないかと」
今の言葉が、何処か耳の遠くへ、消えてしまいそうな感じがする。
わずか1週間ほど前に、アイリスディーナの色香で木原マサキを惑わせた張本人の言葉である。
その内、遠くの議長や閣僚からの視線を感じた彼は、一度黙考してから、
「はい」と頷くしかなかった。
「これって、同棲じゃないか……」
過ぎていく機窓の景色をぼんやり眺めながら、ユルゲンが呟いた。
衝撃的な命令を受けてから、国防大臣からの訓示も、政治将校から生活指導もみんな吹き飛んでしまった。
議長の傍に呼ばれて話した内容もさっぱり覚えてはいない。
警護とはいえ、マライを四六時中側に置くなんて……どうしようもなく恥じ入っていた。
何処か男勝りの幼な妻や、清楚な妹とは違って、どこか、しっとりと濡れた感じの典雅な女性だ。
二人にない、マライの、何とも艶っぽい姿態に、物腰柔らかな受け答え。
そんな所が、周囲の気を引いたのだろうか。
ハンニバル大尉と、彼女が付き合っているという、怪しげなうわさも流れた。
大尉も枯木ではない。ないどころか、40代の性も盛んなはずである。
自然、マライの立ち振る舞いや匂いには、ふと心を奪とられても、おかしくはない。
だが、事実無根だった事は、昨日の事の様に思い出せる。
恐らく、シュタージに目を付けられていたハンニバル大尉の妻を貶める為の、流言だったのだろう。
彼と、妻の関係は続いている様だし、アスクマンが泉下の客になってからは、噂はなくなった。
第一戦車軍団は、戦術機を扱うため、独自の通信隊を抱える関係上、婦人兵が他の部隊より多かった。
若い男女が同じ屋根の下にいる為か、何かしら道ならぬ恋や旺盛な愛欲に悩まされた。
年初のヴィークマンの婚前妊娠に始まり、少なからぬ者が人妻や若い通信兵と戯れたりと、醜聞に塗れた。
上層部から期待されていたベアトリクス・ブレーメが祝言を挙げるや、間もなく懐妊してしまった。
当事者で、彼女の良人であるユルゲンも、流石に笑うしかなかった。
そんな事もあって、軍団は、恋多き場所と嘲笑れているのも知っている。
軍全体からやっかまれているせいでもあろうが、事実だった。
『これで、俺がマライに心を捕らえられたりしたら……』
ユルゲンは一人で赤くなりながら、マライに向きそうな視線を、無理に窓に向けた。
マライは、ユルゲンからの恋情を感じた途端、凄艶な流し目となり、耳までほの紅く染めた。
年延えから見ても、この二人は、一対の美男美女であったばかりでなく、知らぬ人には夫婦にしか見えない。
ユルゲンのそばで、眺めていたヤウク少尉は、それを嫉たむという事すらも、知らなかった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
米国に游ぶ その2
前書き
読者様、意見反映回。
馬鹿兄貴達の所為で、アイリスディーナが苦労するお話です。
ユルゲンがニューヨークに出発した、翌日の月曜日。
アイリスディーナは、パンコウの自宅から、ベアトリクスと共にシュトラウスベルクに出掛けた。
そこには、東ドイツの軍政を取り仕切る国防省があり、そこで戦術機隊の研修が行われた。
元々は任官後、間もなく基地配属で訓練を受けていたのだが、変更せざるを得なかった。
理由は、陸士卒と、ユルゲンたちのような空軍転属組との間に、軋轢が生じた事による。
戦争が4年も続いたので、下士官からの昇進した古参兵、渡世人の様な者が幅を利かせ始めたのだ。
戦術機マフィアと呼ばれたユルゲンの顰に倣い、古参兵たちは、荒々しい言葉を使い、一家などと称した。
軍の規則に反して、長靴をズボンのすそで覆わず、見せつける様に履き、米軍風の認識票を付けた。
そんな職場である。
士官学校卒の新品少尉などは、たちまちもてあそばれ、部隊運営に支障をきたし始めた。
そこで、国防省は、階級を問わず、戦術機の基礎訓練を終えた物を、纏めて研修をさせることにした。
アイリスディーナは、兄を案じながら、営門をくぐり、4階建ての庁舎に入る。
広間で、兄嫁と別れた後、しばらくして、上階からソ連赤軍少佐の軍服を着た男が、降りて来た。
敬礼をしてきた赤軍少佐に対して、彼女は、立ち止まって敬礼を返すと、男は彼女の顔を伺った。
あれが、兄が言っていた連絡員だろうか、静かに立ち去っていく姿を見ながら、思う。
かつては、ソ連は、連絡員という監視役を各省庁に派遣した。
国防省だけで、公然、非公然の連絡員が100人ほどいたが、今はほぼ帰ったようであった。
さっき、すれ違った少佐は、駐留軍の引き上げ事務の為に、残されているのだろう。
そう考えて、研修をする3階の会議室に向かった。
会議室で、彼女を待っていたのは、同輩達からの驚愕の声であった。
室に入るなり、一緒に研修を受けている先輩の陸軍婦人兵から、
「ちょっ……、もしかしてアイリスディーナなの?」と、黄色い声を張り上げ、訊ねられた。
金糸の様な髪をルーズサイドテールに、その先を三つ編みにしたアイリスディーナは、
「そうよ。どうしたの」と、訝しんだ顔をする。
彼女の目の前に、集まった婦人兵達は口々に、
「ど……、どうかしちゃったじゃないの、その恰好」
「印象変えたの」と、姦しく、それぞれの思いを口にした。
その様に、アイリスディーナは、目じりを下げ、笑い、
「好きな人が、この姿の方が似合うって……、言ってくれたから……」と、毅然と応じた。
人の羨むような金髪を、風に棚引かせ、颯爽と歩く姿を知る者たちの衝撃は大きかった。
あの迷彩柄の戦袍をドレスの様に着こなし、黒一色の軍靴をハイヒールの様に履く。
長身を翻す、その様は、軍神アテネを思わせると、持て囃したアイリスディーナが。
男装の麗人と、後輩たちが憬れていた、あのベルンハルト候補生が……。
乙女のような髪型をして、優しい言葉を述べる様は、周囲の人間を仰天させた。
本当は、気持ちの優しく引っ込み思案な娘なのだが、士官学校に入り、あえて兵隊言葉を使う。
男物の野戦服を着て、膝まで長靴の底を鳴らし、凛々と兵営の前を歩いて見せた。
いちいち指導するベアトリクスが傍にいないのも大きい。
やはり、一番の影響は、木原マサキの存在であった。
「もう少し、女らしく自由に生きてみよ」との、言葉と共に交わした口付けは、それほど強烈であった。
午前の研修を終え、食堂で、一人資料を読みながら、軽食を取って居る折、
「なあ、御嬢さん。となり座っても良いか」と、数名の若い将校が、声を掛けて来る。
見ると、黄色い歩兵の兵科色をした肩章を、それぞれ付けていた。
彼等の着ている勤務服の生地は、上質なウールサージで、階級や年齢にそぐわない。
恐らく、テーラーで仕立てた物。党幹部や軍上層部の公達であろうか。
色々目立つ自分に、ちょっかいを出しに来たのだろう。
彼等の様を一瞥した後、顔を背けて、資料に目を落としていると、間もなく、
「ユルゲンの妹さんって、君か」と、脇から来た男が、彼女の肩を叩いて、
「アンタみたいなお姫様は、こんな奴等と遊んじゃだめだよ」
と、困惑するアイリスディーナをよそに、彼女の隣に座り、持ってきた食事を摂り始めた。
すると、一人の青年将校が、声を荒げ、
「なっ、何を、もう一度いってみろ」と、憤懣遣る方無い表情で、男を睨んだ。
彼女の脇に座った中尉は、 サングラスの下から、立ち竦む男達に、侮蔑するような目線を向ける。
「なんだ貴様、声を掛けたのは我々が先だぞ。割り込みとは、怪しからん」
青年将校がつぶやいた一言に、一方のアイリスディーナも、ぴくりと顔をあげていた。
すると、音も無く背後より、トレーを持った偉丈夫が現れ、彼女の周囲にいる将校達に、
「彼女の兄貴からの先約なんでな。帰ってくれ」
と、両方の眼と、眉を吊り上げ、仁王の様な形相をして、凄んでみせる。
声は、部屋の天井に木霊し、殺気は轟く雷鳴のようであった。
そのすさまじさに、彼女の周囲にいた者どもは、思わず、あッとふるえおののいた。
そして、にわかに、
「後で覚えていろよ。戦術機乗り共が」と、負け惜しみを言って、引っ返した。
アイリスディーナの脇に来たのは、兄ユルゲンの同級、カシミール・ヘンペル少尉。
ヘンペル少尉に関して、お忘れの読者もいると思うので、説明を許していただきたい。
彼は、元は陸軍航空隊のヘリコプター操縦士で、ユルゲンのモスクワ留学組の同級である。
ユルゲンとゲルツィンの一騎打ちの際に、米海軍の「海賊旗」隊を引き連れてきた人物。
彼女の背後に立つ、見上げるような偉丈夫は、ヴァルター・クリューガー曹長であった。
ユルゲンのから信任の厚い彼は、ユルゲンに依頼され、アイリスディーナを見守っていたのであった。
兄は、密かに信頼できる人物を、彼女の傍に置くよう、配慮した。
無論、妹アイリスディーナに、よからぬ虫が近寄らぬように、準備していたのである。
アイリス本人は、兄の、蝶よ花よと、扱うのを煩わしく感じていたが、この時ばかりは感謝した。
ヘンペルは、薄い紅茶で唇を濡らすと、
「おどかして、ごめんね、アイリスちゃん。俺はユルゲンの同級、ヘンペルだよ。
アンタみたいなお姫様は、こうしないと、ちょっかい出しに来る馬鹿が居るからさあ」
「ありがとうございます。ヘンペルさん。それにクリューガー曹長も」
クリューガーは、
「礼には及びません。同志少尉。兄君からは色々私自身が世話になっているので。
こういう機会でなければ、御恩返しは出来ません」
と、慇懃に頭を下げた。
朝、営門で別れたベアトリクスは、どうしたのであろうか。
妊娠が判明した彼女は、流石に通常勤務は過酷であるとして、戦術機部隊から外された。
そして、戦術機部隊からの転属と言う事で、国防省本部にある大臣官房に面接に来ていた。
では、大臣官房というのは、どんな仕事する部署であろうか。
その業務は、一般省庁を例にとれば、法務や秘書、人事等の管理業務や、宣伝、会計、恩給など多岐にわたる。
無論、各省すべてに設置され、省全体の運営に関して調整を行う部局。
10万人近い人員を誇る軍隊では、流石に法務や会計は独立した部門を儲けてはいるが、雑務に関しては他省庁と同じである。
ユルゲンと共に渡米したマライの抜けた穴を埋めると言う事で、妊娠中の彼女を呼び込んだ。
しかし、それは表向きの理由である。
実際の所は、彼女が、通産次官アベール・ブレーメの娘だからである。
成績最優秀だが、シュタージに近い人物の令嬢で、夫は空軍始まって以来の問題児、ユルゲン。
どの部署も、そんな人物を引き取るのを嫌がり、たらい回しの上、大臣官房にお鉢が回ってきた。
また、ユルゲンの妻と言う事で、上層部が直に目を配って彼女を監視するために呼びよせたのだ。
つまり、この仕事は、ベアトリクスの首にかかった鈴のような物であった。
無論、そんな事が判らぬ彼女ではない。
この上ない幸運ではないのか。ぜひ機会を利用し、散々に、暴れ回ろう。
上手く大臣官房を操縦して、ユルゲンの理想の為に。愛の為に。
その様な思いを、密かに胸に抱いて、執務室の扉をくぐった。
執務室で、5年に及ぶBETA戦争に関わった人員への、叙勲手続きの書類を決裁している時である。
「失礼いたします」
大臣は、ふと耳を打たれて、振り向いた。そして肉づきのよい真白な佳人の影を、扉の向こうに見た。
年ごろはまだ十八、九か。とにかく、仙姿玉質たる美貌の持ち主である。
灰色の婦人兵用勤務服という格好であるが、匂い立つような色香までは、隠せなかった。
ウェーブの掛かった長い髪に、綺麗な山形の眉、すっと通った鼻筋の下に、浮かぶ薄い桃色の唇。
さらに、大臣が眼をみはったのは、その真白な面に浮かぶ、紅玉のような赤い目。
潤んでいるように見える眼は、何処か愁いを湛えているようで、その愁いまでが美しい。
「御招きにより出頭いたしました、ベアトリクス・ブレーメです」
と、頬を染めながら、彼女は旧姓で答えた。
こういう場所では、夫ユルゲンの名を出すより、父アベールの名のほうが良いと打算した結果である。
あんまり可憐な受け答えなので、大臣は、汐らしさよと、思わず向かい側で微笑していた。
国防大臣は、ベアトリクスの事を詳しく知らなかった。
国家人民軍は、平時人員10万人、戦時動員40万人の巨大組織だったためである。
将校や職業軍人の下士官の他に、1年半の徴募兵、4年の予備士官、3年の予備下士官等の任期制軍人。
戦時下に軍に編入される民兵組織の労働者階級戦闘団、建設部隊と呼ばれる徴兵忌避者の為の部隊まで管理せねばならなかった。
BETA戦の推移や今後の国防計画で忙しい彼等に、他省庁の幹部子弟にまで目を配る余裕すらなかった。
士官学校長と本来の配属先だった第一戦車軍団長のシュトラハヴィッツ少将が認めた推薦状を見て、
「中々、見どころのある士官学校生じゃないか。何、任官したての少尉か。まあ、かけなさい」
と、着席を促され、間もなく口頭試問が始まった。
国防大臣から直々の試問をうけても、彼女は、自己の才を、調子よく見せびらかす様な真似はしなかった。
あくまで初心でお淑やかな令夫人のごとく、初対面の貴人へ印象づけた。
「なるほど、アルフレートの吹挙だけあって、この内室なら、大臣官房の職員に加えても恥ずかしくはないな」
大臣は、ベアトリクスを一見するや、すっかり気に入ってしまったらしい。
秘書官の列をかえりみては、
「どうだな。同志諸君はどう思う。彼女は、なかなかよい人相をしているではないか」
などと品評したりして、即座に採用と、事は決まった。
こうして、ベアトリクスは、図らずも、東独軍の中枢たる大臣官房に仕える身とはなった。
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いします。
米国に游ぶ その3
前書き
恋愛原子核を持つ息子の父親だから、人たらしで良いかなと言う事にしました。
ニューヨークの国連本部で始まった年次総会は、冒頭から大荒れだった。
ソ連外相が、一般討論演説を始める段階になった時、日米、英仏の外交団が、一斉に退席した。
EC等の西側計27か国と、ポーランドや東ドイツなどの東欧諸国も、それに続く。
米国の主導により、事前に申し合わせをして、東ドイツの軍事介入未遂への抗議の意思を示したのだ。
ソ連代表団は、その事に関して、
「米国による帝国主義の陰謀」と、批判するとともに自らの正当性を主張した。
ソ連の資金や食料支援を受けているアフリカ諸国、反米姿勢の強い南米、キューバー、昨年加盟したばかりのベトナムも、それに続く。
国際連盟に代わる国際協調の場として設けられたはずの国連は、大国間の諍いに関しては、全く機能しなかった
東西両陣営の宣伝の場の一つでしかなく、本部での討議が問題の解決に何の役にも立たなかった。
マサキは、日本側代表の席の奥に座りながら、虚ろな眼差しで、米国の演説を聞き流していた。
彼の心を占めていたのは、資本主義圏の経済的優位に関する話ではなく、あの可憐な少女の事であった。
アイリスディーナとの抱擁を交わした日以来、すべてが虚ろになっていた。
甘い囁きと共に交わした口付けは、全てを忘れさせるほど強烈であった。
ふいの口付けに驚いたは、実はマサキの方だった。
まるで、アイリスディーナの唇に、心無い触れ方をしたような、罪の意識に苛まれた。
薄い肩を震わし、驚きに冴えた顔をアイリスディーナが見せたので、マサキは慌てた。
彼女自身の中に恥ずかしい心の揺らぎが在ったのか、そっと耳を紅く染めた様は忘れられない。
そんな思いが、マサキの身の内で燻っていた。
寝ても覚めても、彼女の事を想い、陰々滅々と悩んだ。
自分が助けるべく手を差し伸べたユルゲンの最愛の妹に、本気になるとは。
思えば、いろんな事情が重なり過ぎていた。
まず、ユルゲンの不在。公園で見かけたアイリスディーナの可憐な姿。
そして、アイリスディーナの豊満な肢体を後ろから抱きすくめる内に、熱い血が滾ってきたのだ。
立ち昇る馨しい匂いや雪のように白くきめ細やかな肌、金糸の様な髪。
抱きしめた時の温かくて柔らかな体も、マサキの理性を失わせるには十分だった。
あれが、本当の愛だったのではないか。
まるで、これまでの恋路が子供の遊びに思える。
それ程までにマサキは、アイリスディーナの純真な心にひかれていた。
あの羞月閉花の美貌をしみじみと眺め、柳腰を抱く興奮は、形容しがたい。
そして、あの日の衝撃的な口付けを振り返りながら、怏々と物思いに耽った。
年次総会の休憩時間、会議室から抜け出して、屋外の喫煙所で休んでいると、
「ゼオライマー建造の科学者、木原先生って、アンタだろう」と、声を掛けて来る者がいた。
慌てて振り返ると、地毛であろう茶色い髪を、坊ちゃん刈りにした男がいた。
御剣といた護衛であったのを、覚えていたマサキは、
「おい。貴様は、御剣の……」と、彼が言い終わらぬ内に、男が重ねて、
「氷室さん。今から博士借りて良いかな」と、マサキの肩を叩いて、
「アンタみたいないい男は、もっと遊ばなきゃだめだよ。俺と付き合ってよ」
と、困惑する美久の前で、マサキを誘い出そうとした。
侮辱するような言葉に、さすがのマサキも怒って、
「なんだ、その恰好は。フラノのシャツにジーンズ。それにダウンベストか。
ここはキャンプ場じゃないんだぞ。」
と、遊び人風の仕度をする男を左手を振って、追い返そうとした。
すると鎧衣が寄って来るなり、
「ここにいたのかね、木原君、探したよ」と、相好を崩した。
「鎧衣、この男は」
「彼は陸軍省から派遣された白銀影行君だ。
CIAと仕事をした事がある人物で……」
茶髪の男は、慇懃に挨拶をした後、
「よろしく、木原先生。じゃあ俺の事は、遊び人の影さんって呼んでよ」と応じる。
マサキは、はっと気が付いた。
この男は、帝国陸軍の情報将校を育成する中野学校の卒業生だ。
陸軍では認められない長髪に、砕けた私服。およそ将校らしからぬ口に聞き方。
恐らくマサキを揶揄う心算だろう。自分を連れ出そうとしたことに呆れた。
白銀は、マサキをまじまじと眺めながら、
「冴えない顔してるな、例のかわいこちゃんに冷たくされたのかい」と、言った
マサキは、白銀の問いに、声の無い笑いを持って、
「フフフ。白銀よ、軽々しく、アイリスディーナのことなど口にするな。
この木原マサキ、一婦女子にかまけるほど、暇ではないのは分かって居よう」
と、誓っていたが、どうも本気とは思われない。
白銀が少し白い歯を見せると、マサキは図に乗って言った。
「それに俺が東独まで出掛けたのは、日本政府の都合だろうが……」
「そうか。いわれてみれば、俺達、帝国政府にも責任があったことか。
なんなら、木原先生、それすらも忘れさせる刺激を授けましょう。男らしい、でっかい話をよ」
マサキは、タバコを吸おうとホープの箱を取り出すなり、
「ところで、白銀よ。お前がいうデカい話とやらを聞こうではないか」
紫煙を燻らせながら、平静を装って訊ねた。
本当は、白銀の言う話とやらが気になって仕方がなかったのだ。
内心、この世界に、どの様な変化を与えるか、ワクワクする自身が居た。
「ああ、1時間ほど前かな、俺の方にフェイアチルド・リムパリック社の社長さんが、あんたと会いたいと、連絡があった。
向こうの監視員を通じて、なんでも米軍に正式採用されたばかりのA-10という重武装の中距離支援用戦術機の改良をしてほしいと、相談を受けた。
天のゼオライマーだっけ、その戦術機の強力なエンジン出力を参考に、跳躍ユニットを作って欲しいってね。
そうだ、夕方に、ニューヨークの老舗レストランで御剣公と会食される予定だから、都合をつけてくれないか」
マサキは、今更みたいに、
「待ってくれ、俺は下士官だから、彩峰の許可を得ねばなるまい……」
等と渋っているも、白銀は、
「じゃあ、18時に、ウォール街のど真ん中にあるデルモニコス(Delmonico’s)で会いましょう」
と、困惑するマサキをよそに帰ってしまった。
その様を見ていた鎧衣は、肩をすくめて、
「全く困ったものだよ」と、唖然とするマサキの前で、おどけて見せた。
マサキは、国連本部ビルのあるマンハッタン区国連広場からタクシー乗り場に一人で歩いていく。
後ろから怪しげなホンブルグ帽を被り、雨傘を持った男が近づいてきたので、流しのタクシーを捕まえ、乗り込む。
イースト川に沿って立つ高速道路のFDRドライブ(Franklin D. Roosevelt East River Drive)を走り抜け、マンハッタン島を南に下る。
マンハッタン島南端のバッテリー・パークで高速の高架から降りると、車はウォール街に向かった。
埋め立て工事中のバッテリー・パーク・シティを横目に見ながら、老舗ステーキレストランのデルモニコスにまで来ていた。
ドレスコードに、ややうるさい店なので、プレスの掛かった勤務服で来たのだが、ビジネスマンばかりのなかでは浮くような感じがしてしまった。
(ドレスコードの例外として、軍服は野戦服であっても、舞踏会に参加できる為)
少しばかり後悔したのは、気の利いた私服でも着させた美久でも連れてくれば良かったと。
もっとも、美久はアンドロイドなので食事はしないが……
テーブルに案内されるなり、紋付き袴姿の御剣に、
「ハハハハハ、木原よ。密談に、軍服姿なんて考えられるか、常識の外だな」
と笑い飛ばされ、顔を顰めた白銀に、
「目立ちたがり屋なんですね」と嫌味を言われてしまった。
流石に昼間とは違って、頭をポマードで綺麗に撫でつけ、チョークストラップのスーツを着ていた。
マサキは気にする風も無く、不敵の笑みを湛え、
「俺に会おうという社長は、奥にいる白人の爺か」と白銀に訊ねると、
「こちらがフェイアチルド・リムパリックの社長さんだ」と、立ち上がり、右手で上座の老人を指し示した。
「木原だ。よろしく頼む」と、右手を差し出し、握手すると
「御足労痛み入ります。
予てより、先生の御高名は承ております。どうぞ良しなに」と慇懃に頭を下げた。
早速、深刻な面持ちの社長は
「実は海軍用に設計したA-6イントルーダーを元に新規設計したのですが、いかんせんうまく飛べなくて。
搭載された機関砲の重量の所為で、最大跳躍時間は340秒ほどが限界で……」
マサキは、前菜として運ばれてきたアスパラガスを煮付けたサラダをどかし、灰皿を引き寄せ、
「跳躍時間が7分弱か。確かにこれではBETAにのみ特化した武装メカだな」
と、ホープの箱からタバコを抜き出し、火を点け、
「ロケットエンジンがそんなに貧弱か」と逆に訊ねた。
「パレオロゴス作戦に間に合わせるために、生産ラインをそのまま生かしたので、どうしても外付けの跳躍ユニットの出力が……」
「俺も、雇われ軍人と貧乏学者という、二足の草鞋を履いている身だ。
暇な時間に図面を手直ししてやるから、設計部門に連絡を付けてくれ」
「申し訳ございません」
「フフフ、俺も、おもちゃのロボットでも作ってみたくなったのよ。
まあ、飯が不味くなるから、これくらいにしておこう」と、勝手に話を切り上げてしまった。
その内、店の看板商品である厚切りのステーキが運ばれてきた。
塩コショウだけの味付けだが、一口食べてみると、外側が焼き上がっているのに肉汁を多く含んでいた。
あまりの美味に、マサキは驚いて、
「これは、上等なサーロインか……」と独り言を漏らすと、
「骨なしのリブアイだね。
1837年に、アメリカで最初にオープンした高級レストランだから、その辺はニューヨークの食堂と違うよ」
と、白銀が返してきた。
「さすが中野学校卒だけあるわ。この俺を楽しませるな」
「なあ、先生。今夜暇かい」
「12時までなら付き合ってやる。但し酌婦の類が居ない店でな」
「随分、例のかわいこちゃんに首ったけなんだな」
「ハハハハハ」と、マサキは軽くうけ流した。
それから。マサキは、白銀と共にマンハッタン島対岸のブロードウェイの小さなバーに入っていった。
酒を酌み交わすうちに、この白銀という青年将校の事が、いたく気に入ってしまった。
10年来の知人であっても理解しえない間柄もあるし、一晩の内にまるで長年の友人関係に勝る知己を得る人もいる。
マサキと白銀とは、お互いに、まるで旧知の間柄のような感情を抱いた。
いわゆる意気投合したという事である。
白銀は、酒で唇を濡らした後、言った。
「もし先生が、俺のような何も知らない人間の話を真剣に聞いてくれるなら、すこしばかり所見がないわけではありませんが」
「この際だ、明け透けに言ってみろ。どいつもこいつも俺に遠慮ばかりしていて飽きていた所よ」
マサキは、斜めになっていた体を起こして、真剣に聞き入った。
「今、全世界を二分した超大国ソ連は、BETA戦争の結果、衰微した。
この事は、間もなくソ連の影響が強い中東、特にシリアや、アフリカの社会主義国に影響する。
それにこのまま、米国がG元素を使った新型爆弾を作れば、核の傘によってできた大国間のバランスは崩れる。
そうすれば、また40年前の様に大国間の世界大戦になると思うのだが、先生はどうですか」
「あのケネディが言っていたが、核というのは「ダモクレスの剣」だ。
核ミサイルという使えぬ兵器があってこそ、米ソの冷戦構造がなり得た。
これが19世紀末から世界大戦前のベル・エポック(Belle Époque)期の様に、大型戦艦や重機関銃であったのであれば、間違いなく億単位の人的被害が出た。
ハンガリーやチェコスロバキアの人間には気の毒だが、あの軍事介入は、所詮地域紛争の域を出ない。
俺は、イスラエルやイラク、シリアなどが核武装をして、互いに牽制し合うことこそ、中東紛争を鎮静化させる妙薬となると、信じている。
印パ戦争が、この世界でも収まったのは、インドがソ連からの核技術を得て、核実験をした影響が大きい。
あんなBETAとかいう化け物の所為ばかりではない。そう確信している」
「じゃあ、先生はG元素の拡散には賛成なのかい」
「フフフ、俺は、あの化け物の成分を使った新型爆弾の拡散には反対だ。
あんなものに頼らなくても、このゼオライマーが、次元連結システムがある限り、無敵よ」
「じゃあ、帝国政府が持つのも反対だと」
「ああ、あんな自制心の無い連中には、次元連結システムはおろか、G元素でも危険すぎる。
精々、威嚇用に、核弾頭を御座所の近くに展示して置くぐらいでいいと思ってる」
マサキは、自説を全て詳論して見せた。
このような内に秘めたる思いを人に語ったのは、おそらく今日が初めてであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております
米国に游ぶ その4
前書き
ハイネマンと会う前座の話です。
視点を、日本に転じてみよう。
ここは、京都祇園のある料亭。
その場に不似合いな、陸軍将校服に身を包んだ男が、酌婦に酒を注がれながら、密議を凝らしていた。
軍服姿の男は、大伴忠範で、親ソ容共の思想の持ち主だった。
陸軍参謀本部付の彩峰や、斯衛軍の篁たちとは別に陸軍省内に独自の《勉強会》を持ち、夜な夜な財閥系の人士と密会を重ねていた。
「米国のハイネマン博士が、斑鳩翁に近づいたという、情報があるが本当かね」
じろりと、左に座る男をねめつけ、
「斑鳩先生が、ハイネマンを嗾け、あちらの戦術機企業グラナンに、研究部署を組織させ、北米で大々的に研究をさせようというんでしょう。
金も出していると思います」
「日本が、日米安保で軍事協力を保証されているとはいえ、一企業にその様な事を頼むとは。
ソ連から苦情は、来やしないかね」
「グラナンが北米で暴れるとなれば、色々揉めるのは必須でしょうし、当然ソ連から苦情も出ます。
それに日本が裏で糸を引いてるのは、直ぐに露見しましょう」
「河崎重工専務としての意見を聞こうか」
と、右脇に座り、猫背にしている年の頃は40代の男に問いかけた。
男は、苦笑いを浮かべた後、酒を飲み干し、
「ハイネマン博士は、パレオロゴス作戦以前から海軍機の開発に携わって居りました。
篁が娶った女技術者ミラ・ブリッジスと共同で、空母運用を前提とする機体開発に取り組んでいたようですが、サッパリの模様です」
「成果が上がらんのかね」
「そりゃ、大伴中尉。米国海軍は、この分野に関しては未経験ですからな。
いきなりやって、成功するはずが、御座いませんよ」
男は媚びる様にそう言って、酒を注いだ。
酒豪で名を知られた大伴は、お猪口をものの1時間で10本開けているが顔色一つ変えなかった。
「じゃあ、斑鳩翁は大損かね」
「ひとつだけ、気になる事が御座います。
つい先ほど、ニューヨークから連絡があったのですが、ハイネマンに一人の日本人が接触しようとしたというのです」
「それは、誰かね」
「調べた所では、東欧の戦場でBETA狩りをして名を売った木原マサキという支那帰りの青年ですが」
といって、おもむろに資料を取り出し、彼等に配る。
大伴は、渡された資料を見ながら、じっと考え込む。
「大伴さんの御母堂は、満洲出身ですから、或いはご存じかと……」
「いや、知らんね。随分若いじゃないか」
大伴は、高級たばこ「パーラメント」の、キングサイズのタバコを掴んで、
「うむ。木原マサキか」と呟く。
そう言い終わると、酌婦が近づいてダンヒルのガスライターで火を点ける。
「今、ソ連を刺激するようなことをすれば、困ったことになる。
君の方で、何とか阻止することは出来んかね」
「私の方で、国防省に掛け合ってみますよ。
日本国籍を有する者及びその配偶者は、何人たりとも他国の軍事産業や研究に協力出来ないという省令を出させる様、働きかけましょう」
専務は、下卑た笑みを浮かべながら、一気に酒を呷る。
そして、ついに本音を漏らした。
「これで、篁もミラ・ブリッジスも身動きできますまい。ハハハハハ」
「なるほど。ハハハ」
さて、同じ頃、マサキと言えば。
翌日も、白銀と共に、ニューヨーク観光に出掛けた。
昼頃から南華茶室という中華料理の店にいた。
人気店だが、3人以上だと予約が可能と言う事とで、白銀の知人の日本人青年を誘って、奥座敷に居た。
白銀から紹介された人物は、涼宮宗一郎という青年で、身長は170センチ越え。
早稲田卒で、北海漁業で通訳をした後、外語大に再入学し、フルブライト奨学生としてコロンビア大に留学したという異色の経歴の持ち主。
紺のツイードの背広上下に、灰色のハイネックセーターだが、逞しい体が一目瞭然だった。
ラグビーで鍛えた筋肉の付き方は、サッカーなどをするほかの留学生とは違った。
真冬のベーリング海で、蟹漁師の屈強な男達に混ざって、米ソ両国の漁船団員の通訳をしたという話は、まんざら嘘ではなさそうだ。
「白銀さんもお元気そうで。そちらの方は」
会釈をする涼宮に、マサキは、
「まあ、掛けろや」
そう言って、「ホープ」の箱を取り出し、ガスライターでタバコに火を点けた。
マサキは、涼宮という青年をじろりと見回した。
短く刈り込んだ髪型に、濃くて太い眉。力強い目に、逞しく張った顎。
篁程の美丈夫ではないが、ピンと伸びた背筋に、分厚い胸板という精悍な風貌。
露語専攻の留学生というより、武闘家というような雰囲気を放っていた。
マサキは、何処か安心感を感じていた。
逆にその方が、自分の駒として使いやすそうに思えたからである。
通り一遍、自己紹介をした後、涼宮は、にらみつける様にして、
「貴方は……、本当に軍人なんですか」
と訊ねて来たので、マサキは、目を爛々と輝かせ、
「職業軍人ではないが、俺の利益になるときは、日本政府の為に動く。
そして、政府も其れを追認する」
「貴方の噂を聞いた事があります」
「どんな話だ」
「世界を股にかける闇の戦術機乗り、悪魔の天才科学者」
「ハハハハハ、闇の戦術機乗りか!気に入った。ハハハハハ」
マサキはほくそ笑みながら、
「なあ、涼宮よ」
「はい」
「ユルゲンと同じ研究室と聞いたが……」
「東独軍のベルンハルト中尉とどんな関係ですか。
まさか、あの物凄い美人の妹さんと恋仲なんかに……」
マサキは、呆れた。
世の冷たい風から隠しておくべき妹の写真を、よく知らぬ異国の留学生に見せる愚かさに。
本当に大切な女性なら、妻であろうと、姉妹であろうと、また、母であろうと、世の飢えた男達から隠すべきではないか。
ユルゲンは、己が父が、KGBの操り人形である国家保安省 の策謀で、妻を寝取られた事を忘れたのだろうか。
素晴らしい宝石だからと言って、自慢する様では、強盗犯を誘う様な物である。
日本人の、東亜的な儒教文化圏で、育ったマサキには、ユルゲンの妻や妹を見せびらかせる神経が理解できなかった。
よもや、懐妊中の妻の事など話してはいまい……
他人ながら、ベアトリクスの苦労がしのばれた。
結論から言えば、涼宮は、アスクマン少佐がCIAに売り込んだシュタージファイルの情報を、大統領補佐官を務める教授に見せてもらったのだ。
教授は、副大統領の弟と一緒に日米欧の若手政治家の懇親会、「三極委員会」の立ち上げメンバーであった。
成績優秀な涼宮を、教授は目にかけて居り、マサキがKGB長官と話した録音テープの真贋鑑定や、機密文書の分析に立ち会う程であった。
「俺の心に、魔法の様に火を点けた……そんな存在さ」
冷たくあしらわれるかと、内心恐れていた涼宮は、マサキの落ち着いた声を聴いて安心した。
そして、如何にアイリスディーナとの恋が危険かを、情熱を持った口調で話しだした。
「木原さん。ベルンハルト嬢の事を、本当に愛するならば、身を引くべきでしょう。
彼女は、有名すぎる兄の為に、政争の道具として利用されています」
そう言うと、涼宮は胸ポケットよりマホガニーのパイプを取り出し、悠々と燻らせた。
口惜しいが事実であるのは、認めざるを得なかった。
あの時、ユルゲンが、議長がマサキの気を引くために、アイリスディーナと面会させなかったら、知り合う機会はなかったであろう。
わずかな事実から、その様な事を見抜くとは……
マサキは、涼宮青年の洞察力に、舌を巻いた。
だが、マサキは、涼宮の忠告を、てんで受け付けなかった。
「お前は俺の事を馬鹿にしているのか。アイリスディーナの俺へ愛が、偽りだというのか」
アイリスディーナの可憐な姿や純真な思いから、その様な策謀に彼女が参加するとはとても信じられなかった。
沈黙するマサキに向かって、涼宮は続ける。
「愛の絆というのは、そんなに脆い物でしょうか。
肌に触れるだけや、一緒に朝を迎えるばかりが、愛の全てでは、ありません。
たとえ、千里の距離を離れていようとも、心の深いつながりのもの……
一日千秋の想いで、待ち焦がれていても、色あせぬものでないでしょうか」
話を聞いてるうちに、正面に座ったマサキの顔がみるみる紅潮していく。
苦笑いを浮かべ、手を振り、
「ワハハ、待て待て、俺はアイリスディーナに、指一本触れてない」
明け透けに話したつもりだが、流石に、口付けした事実は心の中に秘した。
彼らしくなく、あの夜の事は、思い出すだけでも顔から火が出るような恥ずかしさだった。
「それに……」
マサキは、薄ら笑いを浮かべ、思わせぶりに間をおいてから、
「アイリスディーナの名を、途方も無く大きく、天下に轟かせる物にしてやろう。
そんな大人物となった彼女を、我が物とした方が、その感慨も、また格別であろう」
紫煙を燻らせながら、興奮した調子で、まくしたてる。
その話を黙って聞いていた白銀も、めずらしく、胸が高ぶって、どうしようもなかった。
「涼宮よ。この木原マサキ、天のゼオライマーが、どれ程の物か。証明してやる。待っておれ。
ハハハハハ」
涼宮は、ただただ、マサキの変貌ぶりに戸惑っていた。
後書き
マイナーな遙・茜パパを出しました。
三界に家無し その1
前書き
洋画お約束の、FBIと地方自治警察の担当事件の所轄争い。
ニューヨーク州ベスページにある航空機メーカー「グラナン」本社。
1967年型のシボレー・カマロで乗り付けたフランク・ハイネマンの目の前に、突然現れた数人の男達。
社屋まで駆け込もうとした彼は、怪しげな人物に足を引っかけられ、倒れ込み、
「私共と一緒に来てください」と、取り囲まれる。
そして、起き上がった彼に、懐中からピストルを取り出して、威嚇した。
スチェッキン自動拳銃を見た途端に、ハイネマンの取り乱し方はすさまじかった。
心のどこかに、世界各国の要人を暗殺するKGBの指金ではないか、という疑念を頂いていたのであろう。
「軍事機密を奪うのに飽き足らず、戦術機設計技師の私まで誘拐に来たのか。
ああ、何という強情な奴だ。とうとうこんな恐ろしい工作隊まで仕向けて!」
怒りに任し、身体を震わせ、
「来るな!おい、誰か。助けてくれ」と、恨みと罵りの混じった言葉を投げつける。
男は一瞬の隙を見て、ハイネマンに当て身を喰らわせると、車に押し込もうとした。
彼は、運が良かった。
丁度、マサキ達一行を連れた、FBI捜査官が、グラナン本社を訊ねて来たのだ。
道案内で、グラナン本社のハイネマンでの誘拐事件に遭遇した。
パトカーから降りたFBI捜査官とマサキ達は、騒ぎ声のする方に駆け寄ろうとする。
誘拐犯たちは、突如現れた捜査官に冷静さを失ってしまった。
大童になって、持っていた自動拳銃を取り出すなり、警官よりも早く、攻撃を仕掛けてきた。
捜査官は、脇のマサキの左袖を引っ張り、車の陰に隠れると、車載無線で応援要請をした。
機関銃で攻撃してくる誘拐犯に対して、携帯する火力が貧弱だったため、応援が来るまでじっと身をひそめることにしたのだ。
ニューヨークは、全米でもっとも銃器所有制限の厳しい場所である。
それ故、FBIも州当局に遠慮し、派遣している捜査官は、基本軽武装だった。
そして、この時代のFBIは、現代と違って自動拳銃への信頼性は低かった。
FBI捜査官や特別機動隊隊員であっても、回転拳銃への信頼が強かった。
一応、回転拳銃の輪胴部に、弾丸を瞬間装填するスピードローダーという現代の早合が存在して、警官や回転拳銃の愛用者たちは持ち運んでいたが、20連射のスチェッキン自動拳銃にはかなわなかった。
マサキも合間を見て、M29でマグナム弾を撃ち込んだが、自動車の陰に隠れながらの盲撃ちである。
持ってきた6発の弾を使い切ってしまった。
マサキがスピードローダーで装填する間に、鎧衣と白銀は音も無く敵の背後に回る。
二人して、イングラムM10を取り出すと、瞬く間に誘拐犯を仕留め、気絶したハイネマンを運び出した。
それから。
マサキ達は、ニューヨーク市警のパトカーで、応援に来た警官隊に、足止めを喰らっていた。
一応、一緒に来たFBI捜査官2名が、マサキ達の事情を説明したが、所轄違いを理由に受け付けなかった。
外国人である彼等が、許可なく拳銃を使った科で、事情聴取を続けていると、マンハッタンの総領事館から御剣がすっ飛んできた。
キャデラックのストレッチリムジンとともに、荷台に幌をかぶせたボンネットトラックで乗り付けた。
車から降りた御剣は、杖を突き、羽織姿で、マサキ達を拘束した警官の前に行くなり、
「彼等を連行することは出来んのだ。何せ私の部下だからな」
「なんですと」
「私は帝国政府の特命全権大使、御剣雷電」
「身分証明は!」
「後ろに連れてきた、一個小隊の護衛が、何よりの証だ」
彼がそう声を掛けると、熊笹迷彩と呼ばれる模様の野戦服に身を包んだ兵士達が、一斉に捧げ銃をした。
「ハイネマン博士と、彼を訊ねた、そこの3人組の紳士は、ともに篁君の友人だ。
そして、私は篁君の古くからの友人だ。よって大使館に連れ帰るが文句あるかね」
外交特権を利用した御剣の、あまりの強引さに、警官たちはシーンとなってしまった。
御剣は、マサキの方を振り向くなり、
「さあ、行こうか。木原君」
「ああ」
さしものマサキも、御剣という男の好き勝手さに呆れて、声も出なかった。
唖然とする警官たちを尻目に、マサキ達は迎えに来た大使館の車に、乗せられる。
帰りの車中、リムジンの後部座席に座った御剣は、興奮冷めやらぬマサキに、
「こんなこともあろうかと、斯衛軍一個小隊を連れて来たんじゃ」
鷹の様な鋭い目を向けると、威嚇する様に光らせて、
「武家のおもちゃの兵隊だが、武器は本物。
彼等は、私が撃てと言えば、ためらいも無く撃つ」
マサキは、御剣の言葉を聞いて、わざとらしく呆れた顔をして見せた。
「こんなことをして、貴様等が奉戴する皇帝に迷惑は掛からんのか……」
マサキは、この世界とはよく似ているが、違う社会制度の日本で育った人間である。
元の世界では、常に国の歴史の中心に、万世の君が関わっていた。
遠い神護景雲の頃の、道鏡の害は、言うに及ばず、国家存亡の秋であった文永・弘安の外寇、応仁の乱を嚆矢とする朝廷の衰微からも、乗り越えて見せた。
幾度となく訪れた摂関家や幕府の専横や、皇統断絶の危機から脱出する様は、正に奇跡としか表現できない。
あの焦土から立ち直った経済復興、アジアで初開催された国際五輪大会。
屈辱の敗戦から僅か20年余りの恢復も恐らく、一統の君がおわさねば、為し得なかったであろう。
全世界を驚嘆せしめた事を、まるで昨日の出来事であるかのごとく、思い返していた。
そう言った経緯から、歴史を知る者としては、どうしても、決して軽んじる事のできぬものという認識があった。
天下無双の大型ロボットを操り、人知を超える推論型AIを作って、クローン技術で神の領域を侵した男であっても、二千有余年を過ごしてきた、その人事知を無下には出来なかったのだ。
天皇という至尊の存在は、それほどマサキを畏れさせた。
しかし、この世界の日本では違った。
古代から連綿と続く皇統、それは同じだが、帝の地位も立場も違った。
20世紀の電子情報化時代にあっても、政威大将軍という存在が、全てを仕切った。
字こそ違えども、鎌倉以来の征夷大将軍と同じように、武家の棟梁として六十余州を支配した。
元枢府は、悠久の歴史から、比類なき皇統の権威を畏れた。
鎌倉や室町を騒がせた、承久の乱や正平の一統という、苦い記憶を恐れるあまり、帝室の影響力は、極端なまでに削がれていた。
宸儀を、九重の奥深くに押し込め、囚われ人に近い暮らしをさせた。
その締め付けは厳しく、覇府の心ひとつで、大嘗祭はおろか、雨漏りする内裏の鴟尾の架け替えなども出来ないほどであった。
(大嘗祭とは、毎年秋に行われる国家安寧や五穀豊穣を祈る宮中祭祀の事である)
無論、そんな事をマサキは知らなかった。
だから、皇帝の事を口に出したのだ。
皇帝という、何気ない言葉を聞いた、白銀たちが、まるで幽鬼に会った様に、恐れおののく様を見て、マサキは心から驚いていたのだった。
御剣が、唖然とするマサキに対して声を掛けた。
「フフフ、主上の事か。面白い事を言うよのう」
先程とは打って変わって、厳しい表情から緩んでいた。
そして、まるで子供に諭すように、
「何を隠そう、実は政威大将軍直々のお申し出なのだよ。
殿下は日本帝国三軍の長で在らせられる方。故に日本の戦術機開発を憂いたのだよ」
「何」
「斯衛軍の方で、武家専用の戦術機を作ることになってね。
今の激震、日本版のF4ファントムの性能の低さを、殿下ご自身が操縦なさって、憂慮されて居った。
篁君の件もあって、日本と因縁の深いグラナンの設計ノウハウを参考した物を作れと内々にお話が有った。
私の方で、色々手配したが、何せプロではない。
それで、最新型のF14を開発中のハイネマン博士を日本に招聘しようと準備していた所なんじゃ」
「ハイネマン博士は、篁君の件があって、日本行きを渋っていた。
そこで君だ」
右の食指を、マサキの方に向ける。
「君がハイネマン博士と会えば、彼を日本に誘い込むことが出来ると思ってね。
ハイネマン博士も、君が東ドイツで散々に暴れ回った話は知って居よう」
「つまり、俺は出汁に使われたって事かい」
「君の件では、既に官房機密費から50億の金が出ている。
異例の対応で、年俸560万円、家付きで雇っておるのだ。
これくらい好きにしてもらっても文句あるまい。ハハハハハ」
参考までに言えば、1970年は、トヨタ自動車の人気車、カローラが50万円の時代であった。
2022年のカローラの値段は、最低価格が200万円である。
マサキは、現在の貨幣価値で2000万円近い金額の報酬を工作費込みで支払われていたのだ。
もっとも、日々、研究資料を集めていたマサキには有り余るくらいだった。
精々、最新の電子工学資料の他に、複数の外国雑誌や洋書を買い漁って、国際情勢を研究する位。
如何に創意工夫を凝らして、世界征服をするか。と、陰謀をめぐらせていたからである。
それ故に、手を付けず貯めていた400万円ほどを、東ドイツへの工作に使えた。
アイリスディーナの件への謝礼や口止め料として、現金ではなく物品で親族や関係者にばら撒いた。
その影響はすさまじく、シュタージはおろか、警察すらも露骨に近づかなくなった。
給与の他に、支那政府からハイヴ攻略の報酬として埋蔵資源を貰ったが、使い勝手が悪い。
時折現金化しているが、こんな調子で両替し続ければ、安く買い叩かれるだけであろう。
最悪困った時は、海水中に含まれる金を次元連結システムを応用して抽出でもするか……
政界工作でばらまく現金も、数百億単位で必要であろうし……。
そんな事を考えながら、総領事館に帰った。
その日の夕刻。
パークアベニューに聳える日本総領事館の最上階の一室で、御剣と鎧衣が密議を凝らしていた。
話の内容は、マサキの怪しげな動きについてであった。
グレートゼオライマー建造の為、戦術機メーカーと折衝している経緯を御剣に話したのだ。
窓より薄暗くなる街並みを眺めていた御剣は、不敵の笑みを浮かべながら、
「なるほど、木原に気を許すなというのだな」
と、右の方を向いて、直立する鎧衣に顔を向けた。
「はい、自分の見る限り、彼はとんでもないことを企んでいるような……」
「この私が、気が付かぬと思ったのか」
「ハッ」
右掌を上にし、鎧衣の方に差し出して、
「分かって居るからこそ、殿下の計画を話したのだ」と、彼の愁眉を開かせるような事を告げた。
鎧衣は、敬服の意味を込めて、頭を下げる。
「恐れ入りました。しかし、彼は殿下の計画に賛成できぬ様子……」
「放っておけ。例え木原が何を企もうが、殿下を裏切るような真似はさせん」
と、言い終わると、窓の方に歩き出し、腕を組んで、黄昏るニューヨークの街を眺めた。
「分かりました。
殿下の素晴らしい妙案が円滑に実現できるよう、我が国に仇なす敵の排除、自分は命に代えて全うする所存です」
そう言い終わると、窓から身を鎧衣の方に向き直し、組んでいた腕を降ろす。
「良く言ってくれた。期待して居るぞ」
「木原には、つまらぬ考えを捨てる様、機を見て、自分が話しましょう。お任せを」
鎧衣は、そう告げると、再び深い会釈をして、その場を立ち去って行った。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
来週2月11日、12日は、祝日投稿する予定です。
三界に家無し その2
前書き
A-10 サンダーボルト関連の話が続きます。
米国の戦術機メーカの改良に木原マサキが参加したとの噂が出ると、マサキのスカウト合戦が始まった。
戦車級とよばれる小型BETAを一撃の下に撃破する為に作られたA-10 サンダーボルトの形に興味を持ち、
「公私ともに、暇な時間に図面を手直ししたい」
という話が、いつの間にか、
「日米両国の最新戦術機を作ってみたくなった」と、本来と違う形で天下に広まった。
その話を聞いて蒼くなったのは大伴一派だった。
過激な民族主義思想を信奉する彼等の目的は、「純国産の高性能戦術機の完成」
日本独自設計の新型戦術機の制作と、海外製戦術機、特に米国製戦術機の排除。
木原マサキの参加で、彼の技術をものにできると、喜ぶ者ばかりではなかった。
もし、日米両国にしがらみのない木原が戦術機業界に参加したら、どうなるか。
戦車よりも脆く、航空機より割高な戦術機の値段が、木原の参加によってどれだけ高騰するのやら。
昨年の夏、BETAの禍に混乱する支那に、颯爽と現れた万夫不当のロボット、天のゼオライマー。
光線級の攻撃を物ともせず、遠方より幾千万のBETAを一撃の下に、血煙に変えるメイオウ攻撃。
あらゆるものを内部から崩壊させる衝撃波に、座標設定すれば、自在に打ち込むことのできる次元連結砲。
日本国内の戦術機メーカーも、また、ゼオライマーに興味を持った。
対BETA戦での圧倒的な力を見せつけられ、米ソを手玉に取った男、木原マサキ。
彼等は、マサキの事を必要以上に畏れた。
大伴は、この件で、自分の派閥に属する者を通じて、光菱重工と大空寺財閥の関係者を頼った。
早速、マサキが参加しているA-10 サンダーボルトの試験機購入をしている両者を呼び寄せ、
「DC-3の顰に倣ってくれまいか」と、告げた。
DC-3とは、現実世界で、1935年に作られたダグラス・エアクラフト社の大型双発飛行機である。
世界初の大型商業旅客機としても、軍用の大型輸送機しても、その後の航空機産業や航空旅客業に与えた影響は計り知れない。
世界各国でも注目され、日本とソ連の両方でライセンス生産がなされたほどであった。
BETAの侵略を許した、この異世界でも、その歴史の流れは同じであった。
日米両軍は、ドグラム社の同じ輸送機で大東亜戦争を戦い、米ソ両国は冷戦初期、ベルリン上空を同じ輸送機で飛び回ったのだ。
さて、大伴の意見を受けた彼等と言えば、困惑していた。
「大伴さん、国産機開発の旗振りをしているあなたが、そんな弱気でどうなさる積りだ」
光菱重工の専務は、憤懣遣る方無い表情で、大伴をなじった。
「木原の裏をかく。その為に、光菱重工と大空寺さんに汗を掻いて欲しい」
淡々と語る大伴を見ながら、大空寺財閥の総帥、大空寺真龍は、
「儂の方では、戦術機の互換部品しか収めてないからのう……本体の方はちょっと」
と言葉を濁した。
大空寺には別な考えがあった。
国際金融資本と近しい関係の彼は、親ソ容共の大伴と関係したのはあくまでも木原マサキ対策であって、大伴の考えに完全に賛成したわけではなかった。
将軍を頂点とする歪んだ国粋主義思想には、一定の理解を示しながらも、本心としては一定の距離を持ちたかったのだ。
電子部品をも扱うフェイアチルド社の案件に、日本企業が関われば、国際金融資本の逆鱗に触れやしないか。
このBETA戦争も、ユダヤ商人や米国の石油財閥の援助無くせば為し得なかった部分もある。
国粋主義は結構だが、それに溺れる青年将校達は余りにも幼稚過ぎる。
現実がさっぱり見えていないのではないか。
商人としての感が、そう訴えかけたのだ。
大空寺は各種財閥の間を縫って金儲けをしてきて、あざとい商人である。
先程の大空寺の戸惑った表情に眉をひそめる大伴を宥めようと、おだてるような事を言った。
「しかし、やるもんですな。陸士創設以来の秀才。
さすがの儂も、聞いていてあっけにとられましたわ」
大伴は紫煙を燻らせながら、頭を掻いた。
「大空寺さん、一体どうやって木原を」
「貴殿には黙って居りましたが、儂の方で、斉御司の若様を手配しております」
その言葉を聞いた大伴は、眉を開き、
「それは助かる。
さしもの木原もお武家様のご登壇とあらば、身動きできますまい」
「おまけに五摂家の協力もある。天才科学者、木原マサキの自滅も確実って、訳だ」
その言葉に光菱専務は慌てて、かすれた声を上げた。
「そんな大事が、もし木原の耳に入ったら……」
専務は、木原マサキとゼオライマーの復讐を恐れた。
マサキに知れ渡ったら、国産機開発どころか、二度と朝日を拝めなくなるではないか。
「大丈夫ですよ。フフフ、我々を裏切らない限り、木原には漏れ伝わりますまい」
「大伴中尉。ああ……貴方は、なんて恐ろしいお方だ」
「さあ、斉御司の若様に、この後の事はお任せしようではないか」
光菱専務と入れ替わり、大空寺は大伴に近づき、酒杯を掲げる。
「よし、乗った」
商談成立を祝して、彼等は乾杯し、細かな打ち合わせに入った。
専務は、恐ろしい企みを聞いて、不安になった。
ふと、マサキの荒々しい心を鎮めるために何ができるかを考え、
『こうなれば、娘の一つでも差し出して命乞いでもするか』と、いう結論に至った。
その足で彼は洛外にある妾の家に転がり込むと、妾とその間に出来た娘を呼び寄せた。
専務は、娘の手を握るなり、
「お前達には申し訳ないが、この帝国の先行きの為に犠牲に成って欲しい」
と、平謝りに謝って、深々と土下座して見せた。
「ま、まさかっ……」
妾の表情が凍り付いた。
「木原マサキという科学者の情婦になって欲しい。博士はなにしろ優秀なお方だ。
きっとお前との相性はぴったりだ」
「どういうつもりですか。この子はまだ15になったばかりですよ……」
マサキ達が居た世界の日本とは違って、この世界の日本の迎えた大東亜戦争の結末は異なった。
原爆投下も都市部への無差別爆撃も無く、そして国土占領の末の無条件降伏でもなかった。
形ばかりの措置として、将軍の権力を削り、米国を納得させたのだ。
米軍は、ナチスドイツとソ連の影響力を恐れ、日本帝国に寛大な処置での講和を受け入れた。
憲法典はおろか、軍隊や官僚機構は温存され、法制度も戦前のままであった。
旧民法典の婚姻年齢は、男子17歳、女子15歳である。
この専務の庶子は、丁度15になったばかりの麗しい少女であった。
娘と言えば、その狼狽ぶりは哀れなほどであった。
「ああっっ、あんまりよ。それに女学校にも通わせてくれると言ったはずだわ」
肩を小刻みに振るわせて、端正な美貌を、父への怒りとマサキという見知らぬ男への恐怖に引きつらせる。
男は、再び、深々と土下座をすると、顔を上げぬまま、滂沱の涙にくれた。
「恨むならこの私を、無力な父を恨んでくれ。
そして木原の元に嫁がざるを得ないことを帝国の為と思って、赦してくれ」
妾と娘は、二人して自らの運命を呪い、紅涙を絞った。
さて、場所は変わって、ニューヨーク州ファーミングデール。
一台の1959年型キャデラックが、フェイアチルド社の本社に乗り付けた。
中から降りてきた若い日本人の男女一組。
男の姿と言えば。
灰色の山高帽に、ラッコの毛皮襟がついた、向う脛まで有るフラノのアルスターコートを羽織り、サキソニー織の濃紺のダブルの背広上下に、山羊革の黒い手袋とモンクストラップの靴といういでたち。
女の方は、長い黒髪をアップに結って、黒縁のベークライトの眼鏡に、分厚いフラノの濃紺のリーファーコートを、胸元の大きく開いた黒の婦人用スーツの上に重ねて、黒のタイトスカートを履き、黒い絹のストッキングに紺のローファーパンプスという格好だった。
後から、別な車で来た使用人たちは、手に手に大きなアタッシェケースを持ち、彼等の後を追う。
丁度、フェイアチルド社に来ていたマサキは、制服の上から冬外套を着こんだ市警巡査とタバコを燻らせ、談笑していた。
件の男女は、警備をする警官隊に握手をすると、建屋に入ろうとした。
脇を通り抜けようとする一組の男女に、不敵の笑みを浮かべ、
「天のゼオライマーのパイロット、木原マサキとは、俺の事だ」
と、握手に応じるべく、寒さでかじかんだ右手を差し出した。
男は、驚く様子も無く、帝国陸軍の茶褐色の勤務服を着たマサキの面を、睨むなり、
「冥府から来たBETA狩りの男。支那で情報省に拾われた科学者とは、君の事か。
流れ者とは親しくしない主義でね」
その言葉を聞いた、脇に居る女秘書も、面白がって、
「戦術機の設計技師というから、もっとお年寄りと思ったわ。ニューヨークに何しに来たの」
その態度に、マサキは思わず、
「俺を呼んだのは、フェイアチルド社の方だ」と、失笑を漏らした。
「五摂家の一つ、斎御司家、嫡子。名は経盛だ。
次期当主という立場もある。悪く思わないでくれ」
右手で帽子を脱ぐなり、胸元に抱えて、
「それとも、君は各国政府首脳との直通電話を持っているのかね。
それなら話は聞くのだが」
「西側はないが、東側ならある。支那と東ドイツは、俺の一声ですぐさ」
途端に、斎御司の顔色が曇った。
この冷戦時代に、その一言は不味かった。
東側と直通電話を持つと言う事は、容共人士とみられても、仕方のない行動だった。
マサキ本人は、ソ連への憎悪に燃え、反共の志操を持ち、自由社会の美風を楽しむ人間である。
野望の為に、赤色支那や東欧の社会主義国を利用し、ソ連を弱体化させる。
世界征服の手段の為には、あえて共産国と手を結ぶ方便を使ったのだ。
だが、様々な事情を知らない、斎御司の目には、如何わしい人物に映った。
斎御司は、不敵の笑みを浮かべ、
「いよいよ、喰うに困って、東側の御用聞きを始めようっていうのかい」
脇に居る女秘書も、笑い声に連れられて、
「キャハハハハハ」と、白い歯を見せるも、途中でバツの悪そうに口を右手で覆った。
斎御司は、歩み寄って、マサキの面前に顔を近づけると、
「消えてくれ」
そういって、そっけなく右掌をマサキに見せつけ、
「断っておくが、同じ日本人だなんて露ほどは思わないでくれよ。
日本にいた所で、君が僕に対して簡単に口をきける立場か」
紫煙を燻らせながら佇んでいたマサキの前に、脇に居た女がしゃしゃり出てきて、
「さあ、早く消えて頂戴。若様はお忙しいのよっ!」
と右手を腰に当てて、左手で、しっしと追い払った。
護衛についていた日系人警官が思わず、
「どうしたんだ、木原。話がさっぱり分からないのだが」
と、困惑する姿を横目に、マサキは、内心あきらめに似た感情をいだきながら、
「散々、この俺に頭を下げて、ゼオライマーを使い倒して、今更、関係ないか。
アハハハ」と、乾いた笑いを浮かべ、
「良かろう。斎御司よ、今の言葉憶えて居るが良い。
グレートゼオライマー完成の暁には、月面のBETA共と同じように貴様とその女に地獄を見せてやる」
満面に喜色をたぎらせて、マサキは、その場から立ち去って行った。
後書き
明日12日も投稿いたします。
ご意見、ご感想お願いします。
三界に家無し その3
前書き
F4ファントムも好きなので、ファントムも手入れさせました。
マサキは戦術機の図面を目の前にして思い悩んでいた。
彼が、元の世界で図面を書いて作った八卦ロボは全高50メートル、総トン数500トンの大型機体である。
航空母艦での運用や輸送トレーラーでの戦地運搬など考えてもいなかった。
一応、超大型輸送機、双鳳凰という双胴体型のジェットエンジン航空機を作ったが、それも2機だけであった。
天のゼオライマーや、その試験機である月のローズ・セラヴィーは、背面の推進装置で自力飛行が可能である。
故に目的地まではそのまま飛んでいけばよいとしか考えなかった。
自分が生前いた世界とよく似た歴史を持つ、この世界のロボット、戦術歩行戦闘機は航空機と宇宙空間の作業用パワードスーツを組み合わせたものである。
故に推進装置はマサキが得意とした背面に付けるのではなく、腰部に申し訳程度の接続装置を付け、そこで方向制御するという、非常に技量の居る物だった。
近衛軍での訓練期間中に、運転シミュレーターに触って見たのだが、安定性のあるゼオライマーと違って乗り心地も悪く、操作性も癖が強かった。
戦闘機パイロット出身のユルゲンは、そんな海の物とも山の物とも分からない物を自在に操るとは……
エースパイロットであるばかりではなく、英語と露語を自在に操り、人を惹きつけるような愁いを帯びた青い瞳の美丈夫。
妹、アイリスディーナへの異常な執着心と、アルコール中毒を招きかねないほどの深酒に溺れる悪癖さえなければ、本当に理想的な男であろう。
東ベルリン初訪問時の懇親会で『大してモテた事がない』と、謙遜していたが、それは恐らく彼の周囲にいる人物が並外れた容姿の持ち主が多く、余程の事がない限り、気後れしてしまうためであろう。
あの監視役として来ていたハイゼンベルクも、しっとりと濡れた細面の冴えた美貌の持ち主だった。
そんな人物でも衛士の教育を受けさせる準備をしていたというのだから、よほどであったのであろうか。
欧州でのBETA侵攻の恐怖は、嘗ての蒙古人襲来以上なのは間違いなかろう。
そんな事を考えながら、F4ファントムの図面に朱を入れていた。
人型である以上、脚部に何か強力な推進装置が必要だ。
脚部の徹底的な改修をと、図面に朱を加える。
飽きて来たので、一旦冷静になるために、ホープの箱を取り出し、紫煙を燻らせる。
冷めた紅茶で唇を濡らしながら、図面を見つめ直す。
まるで、落第点を喰らった回答用紙の様に、図面は朱色に染まっていた。
『書き直した方が早いのでは』
そう考えたマサキは、製図版に張られた図面を取ると四つ折りにして、送られてきた封筒の中に仕舞いこむ。
新たにA0判の新用紙を取り出すと、タバコを咥えた侭、製図板に張り直した。
製図版に烏口を走らせながら、内臓コンピュータと操作システムについて考えた。
光線級の攻撃を防ぐために張り巡らされた重金属の雲の下を走り抜ける戦術機には、通信機能が強化されているとはいえ、電波航法システムに依存している。
元の世界では、1978年に米軍は全地球衛星測位システム、俗にいうGPSが作られ始めていたが、この世界では人工衛星を用いた大気圏迎撃システムが構築され始めている。
おそらくGPSに似たシステムがあるのだろうが、活用しない手はない。
そして、GPSによる電波航法と自らのセンサー類に基づく自立航法が簡単にできるようなシステムを組み込めたらと、夢想してみる。
ただ、同様の事は戦術機の技術者でも考えている者がいるだろうから、それらにまかせるとして、簡易版の人工知能装置について考え始めた。
人工知能は、パイロットが意識を失っても基地に帰還可能な自動操縦装置と、自動射撃補正は必要であろう。
マサキ自身は八卦ロボの操作システムをBASIC言語で作った男である。
(BASIC言語は、1964年に米国で作られたパソコン用プログラミング言語)
戦術機のシステム改変で、裏口を仕込む事など造作もなかった。
無人の戦術機に仕掛けた自動操縦のプログラムで、、ゼオライマーからの秘密指令で動く大型ロボットと変化する裏口を準備した。
かつて自分をだまして殺した元の世界の日本政府の様に、この世界の日本政府も命を奪いかねない。
現にソ連からは複数回、命を狙われたのだ。
『備えあれば患いなし』との言葉通り、設計している戦術機の改良型システムには、仕掛けを入れよう。
ダイダロスが作った青銅の巨人タロスの様に、この自分とゼオライマーの危機の際は、敵を殲滅させるのも一興だ。
その様な事を考えつつ、射撃補正のシステムに関する簡単なメモを、書き加えながら、一人ほくそ笑んだ。
結論から言えば、マサキのかき上げたF4ファントム、A10サンダーボルトの図面は全く別な機体になっていた。
機体の頭部、上半身の外装部品こそ、元の面影を残しているが、下半身はまったく別物だった。
まず、機体を支える脚は2倍から2・5倍の太さになった。
脚部の背面部分は、新造の推進装置に置き換えられ、まるで放熱板を並べる様に付けた形になっていた。
腰部の噴出跳躍システムは外され、新造された草摺り型の推進装置を、腰回りを覆う様にして付け足した。
その姿は、まるで古代の武人をかたどった埴輪の様に見えた。
背中の可動兵装システムと突撃砲のシステムは複雑であるし、特許関係もあるので、温存した。
ただ、意見としてブルパップ方式から従前型の自動小銃の形に変更する様、書き添えた。
ブルパップ方式は、たしかにハイヴ攻略の閉所戦闘では、取り回しが楽で使いやすい。
ただ、再装填時の弾倉を取り替える為に行う動作の大きさは、場合によっては危険を伴う。
そして、全長が短くなっている分、照門と照星の間の距離は短くなり、狙いが定めにくくなる。
無論、戦術機に搭載されている補正機能で補うから問題は無かろうが、非常時の目視標準が出来ないのは、十分なデメリットではないのか。
長銃身の方が、機関砲の冷却が十分に出来るし、装薬量を減らして銃身や銃本体の寿命が伸ばせられる。
長銃身の機関砲を標準装備したほうが生還率が上がりそうだが、この世界の人間の考えることは良く判らない。
一応、ゼオライマー同様、最低限の格闘戦も可能なように、強力なフレームとモーターに換装した。
人工筋肉や、間接思考制御という怪しげな技術に関しては、事情を詳しく知らないが、この存在が戦術機開発や操縦のデメリットになっていやしないだろうか。
先に篁に渡した図面にかいた月のローズ・セラヴィーの必殺兵器、ジェイ・カイザー。
一撃で山を吹き飛ばすほど強力なエネルギー砲であるが、次元連結システムがなければ連射は出来ない。
鉄甲龍の同僚ルーランが改良したように、エネルギーチャージシステムにするにしても、何のエネルギーをチャージするかによって変わって来る。
使い捨ての衛星で落雷の衝撃をエネルギー変換するには、非常に効率が悪いし、費用も掛かり過ぎる。
光線級のレーザーを吸収して、撃ち返すビーム砲も作れなくもないが、18メートルしかない戦術機にはもてあますであろう。
ちょうど、この世界の海軍の艦艇は、未だに大艦巨砲主義なので、艦載ビーム砲にするのも良いかもしれない。
だが、葎が操縦するローズ・セラヴィーが繰り出してきたジェイ・カイザーで、散々な目に遭ったマサキは、其の案を一度書き起こしたものの、危険視した。
一度書き起こしては見たものの、考え直して、ゴミ箱に入れてしまった。
篁にローズ・セラヴィーの図面は渡したから、解析されるだろうが、次元連結システムが無ければ連射出来ないガラクタ。
グレートゼオライマーに積めば、無敵の武器となると考え、一応改良案を書き起こすことにした。
その様な事を考えて、紫煙を燻らせていると、ドアを叩く音がして、顔を向け、
「誰だ」と返事をする。
「わたしです、せめてお食事でも」
美久の声で、現実に引き戻されたマサキは、左腕のセイコー5を見る。
すでに時刻は、9時前であった。
タバコを咥えた侭、隣の部屋に行き、
「中華の出前か」
「この間、白銀さんといった店がおいしいというので」
「俺がそんな事を言った覚えはないぞ」
「黙っていても、顔に書いてありましたから」
美久はそう言って、マサキから顔を背けた。
「人形の癖に、随分大胆な事を言うじゃないか」
マサキは立ち上がるなり、美久の背後に近寄ると、いきなり彼女の耳を舐める。
全身を粟立て、震える美久の背中から両手を胸の前に回す。
彼女の胸を、茶褐色の婦人兵用勤務服の上から、揉みしだきながら、
「貴様の事を、あまりに人間を真似て作りすぎたかな」と、耳元で囁いた。
彼女が顔を紅潮させ、体を震わす様を見ながら、マサキは不敵の笑みを浮かべた。
マサキが、食後の茶を飲んでいると、美久は、
「ハイネマン博士の襲撃事件ですが、やはり東側の……」
と、訊ねて来たので、湯飲みを置くなり、
「フフフ、今日は気分が良い。特別に話してやろう」と不敵の笑みを浮かべ、
「ハイネマンの誘拐を企んだ連中。
そういう組織は、この米国に対して極度の敵愾心を持っていると言う事になる」
「それで」
「今一番考えられるのがソ連のGRUだ。枝葉の組織、つまり出先機関が米国内にある。
当然の事として……」
「なるほど……」
「そのGRUのソ連人が、米国内を駆けずり回ったり、伝令を使えば、色々と目立つ。
故に連絡員は、ほとんど米国人を雇う」
右手を、食指と中指にタバコを挟んだまま、振り上げ、
「どのような諜報機関でもそうだ。秘密連絡員に工作対象国の国民を利用する。
だから連絡員を狙って殺せば済む訳ではない」
「敵はこの俺の事を熟知している。
鳴り物入りで、大統領とホワイトハウスで面会し、シークレットサービスやFBIの護衛が付いている。
そのことも、とっくに連中に露見している」
「だから、俺は派手に遊びながら、奴等の出方を待つ。
そうだ、今週末辺り、東ドイツにでも久しぶりに遊びに行くか。
そして、シュタージの奴等が支援したパレスチナ過激派のテロ情報を使って、強請るのも良かろう」
「どうして、その様な事をなさるのですか」
「奴等は、不安になって来る。自分達の連絡員が支持も無く勝手に動きやしないかとね」
「その結果、奴等は俺とお前を狙って来る。
本部からの催促もあって、じっとして居られなくなって、再び誘拐でもしよう」
マサキは、そう言葉を切り、タバコに火を点ける。
「だから、遊びながら待っているのさ。準備万端のゼオライマーを待機させてな。
無論、来た奴等には、地獄行きの特別切符を渡してやるつもりだがな」
マサキの胸は、嫌がおうにも高鳴った。
仕留め損ねたGRUの組織と人員をこの世から抹殺する事、考えると、全身の血が滾った。
後書き
新造機作った方がいいのかなと悩んでます。
三界に家無し その4
前書き
一番気になる、米ソ両国の動きになります。
米国ニューメキシコ州北部にあるロスアラモス群。
標高2,200メートルの、この地にある、国立ロスアラモス研究所。
1943年にマンハッタン計画で核兵器開発を目的に設立された科学研究所である。
核研究の主要拠点として、多くのノーベル賞受賞者を含む世界で最も有名な科学者が集まった。
2,000棟を超える研究施設には1万人以上の研究員を有し、『米国安全保障の至宝』と称された。
研究所の真北にあるロスアラモスの町は、1943年の「Y計画」の時期を通して大きく発展している。
今日、米国エネルギー省の管理下に置かれているロスアラモス研究所の研究分野は、以下のとおりである。
国家安全保障、宇宙開発、核融合、再生可能エネルギー、医学、超微細技術、電子計算機。
多岐にわたる分野で、学際的な研究を行い、全世界の最新技術をリードしてきた。
同研究所の地下数百メートルの大空洞で、秘密実験が行われていた。
全自動化された装置を通じて、ベルトコンベアより運ばれていく運ばれていく未知の物質、G元素。
その一種である、グレイイレブンは、遠心分離器によって、抽出される。
抽出された粉末状の物質は、溶鉱炉により、インゴットに成形された後、ロボットアームで運ばれる。
奥にある作業指揮所より、その様を見ていた研究員の一人が呟いた。
「これがG元素」
空気冷却のなされたグレイイレブンは、まもなく特殊タービンを備えた動力炉へ投入された。
説明役を務めるリストマッティ・レヒテ博士は、興奮した面持ちで語り掛け、
「これが、私とカールス・ムアコック博士で作った新型の動力炉に御座います。
発生させる電力は原子力発電に相当し、機関部分だけでも軍艦を動かして余りあるほどに御座います」
指示棒を片手に奥に座る男達に、詳細な説明をした。
「この新機関の余剰電力の使い道ですが、新開発の荷電粒子を用いたエネルギー砲を運用する予定です。
癌治療の最新研究に使われている重粒子線の破壊力には、恐るべきものがあり、我等も軍事利用が出来ぬものかと考え、開発中の物です。
その威力から、一機だけでもソ連の太平洋艦隊を全滅させることも可能と思われます」
手前の椅子に腰かける小柄な男が、突然大声を上げる。
聲の張りぐわいと言い、明瞭さと言い、50代を過ぎた男とは思えぬ声だった。
「それは、待ち遠しいのう」
「ありがとうございます。ディヴさま」
「今の私は、石油財閥の3代目ではなく、チェース・マンハッタン銀行の会長という立場で来ている。
レヒテ博士、気をつけ給え」
会長からたしなめられると、レヒテ博士は深々と頭を下げた。
博士が謝罪し終えると、別な研究員が歩み出る。
「宜しいでしょうか。エネルギーチャージが完了いたしました。
間もなくラザフォード場の発生装置の実験を行います」
そう言って、大型の遮光眼鏡を全員に渡した。
「これは……」
「会長、レーザー砲を用いた実験をしますので、遮光眼鏡の着用をお願いいたします」
男達は思い思いに遮光眼鏡を掛け、レーザー砲の実験を待った。
指揮所より、ファイバーレーザー砲に無線操作で、射撃指令を出す。
ファイバーレーザー砲とは、文字通り光ファイバーを束ねて作った光線銃である。
光ファイバーには、少ない損失率で光を長距離まで届けることができる特性がある。
研究所ではBETAのレーザー照射を模倣した低燃費、高出力レーザー砲を作り上げたのだ。
砲を、ジュラルミン製の装甲板に向けて、照射を行う。
その瞬間、G元素を入れた動力炉から発生させた特殊な磁場がジュラルミンを保護する。
無数の光ファイバーが束ねられた砲から打ち出された高出力なレーザーを受けても装甲板には傷一つつかなかった。
ロックウィードのレーザー・センサーシステム部門上級研究員でもあるムアコック博士が興奮した面持ちで語る。
「見ろ。この強度。
ラザフォード場で、戦略航空起動要塞を補強すれば、ゼオライマーなど」
脇に立つレヒテ博士も、驚きを隠せぬ様子であった。
「グレイ博士は、よくこんな物質を発見できたのですね」
レヒテの質問に、グレイ博士は淡々と応じた。
「この物質を発見しようとして、BETAの着陸ユニットを探ったのではない。
偶然、カナダの現地調査チームが持ち帰った残土の中にあった」
「カナダの調査隊が……」
「そうだ。着陸ユニットの落下地点を捜索した際の事だ。
捜索隊が地下に潜ろうとした時、放射線測定装置が異様な反応を示したのだ。
何かあると思った。それがきっかけで……」
ムアコック博士は会長の愁眉を開かせようと、安心させるようなことを口走った。
「ディヴさま。いえ、会長。
このG元素があれば、地球に、我等が理想の帝国を築くことになるのは間違いありません」
レヒテ博士も彼に続く。
「そうですとも。G元素を焚き上げた発動機から出るラザフォード場の強力なバリア体をつかえば、ゼオライマーなど簡単に倒せる」
ゼオライマーの名前を聞いた途端に、グレイ博士は、焦りの表情を浮かべる。
「甘い。ゼオライマーのメイオウ攻撃は、BETAのレーザー光線より遥かに強い」
「このG元素より、ラザフォード場より……」
諭すように言いながら、グレイ博士は、動力炉を見つめる。
「戦略航空起動要塞の機体は30Gぐらいまでしか耐えられん。
操作するパイロットの肉体は10Gを超えれば、厳しいであろう……
しかし、ゼオライマーは高速移動することを考えると、100G以上耐えられるはずだ」
脇に居る研究員たちは、一斉に驚愕の声を上げた。
「100G」
奥ですべてを聞いていた大統領は、重い口を開いた。
「そこまででよい。
身の凍るような様々な話を聞かせてもらったが、私には到底信じられんのだよ、博士。
日本で実現可能だったことが、合衆国で実現不可能だと言う事がありうるのかね」
その表情は、国家の威信を背負う指導者の面差しではなかった。
哀れなほど憔悴しきった、一人の老人、そのものであった。
「全世界の科学の粋を集め、研究に取り組んでいる合衆国の技術陣から、重力操作装置の最終的段階に至りましたと報告を受けていないのに……」
まるで、遠くを見つめるような目で答える。
「一人の日本人科学者の手によって、そんな摩訶不思議な装置が完成した等と……。
そんな馬鹿な話が有るのかね」
グレイ博士は、今にも夕暮れの降りだしそうな顔つきで述べる。
「私がお答えしましょう、大統領閣下。
実は重力操作としか考えられない事例が存在するのです。
ゼオライマーはソ連の核爆弾の直撃を受けましたが、傷一つなく、耐えて見せたのです」
チェースマンハッタン銀行会長も、同調を示した。
「ゼオライマーには、我等にない重力操作の装置が積んであると考えられる。
だから、その秘密を知りたいのだ。どうしても欲しい……」
そう言いながら、窓に近づき、新型動力炉を確かめる。
「ゼオライマーに勝つためには、ラザフォード場を強化するしかない。
なんとしても手に入れろ」
会長は振り返ると、三博士は力強く答えた。
「はっ」
さて、場所は変わって、ソ連極東のウラジオストック要塞にある赤軍参謀本部。
そこでは、参謀総長をはじめとする赤軍首脳部の一団が密議を凝らしていた。
参謀総長は、スフォーニ設計局長からの説明に驚きの声を上げる。
「何、スフォーニ設計局のコムソモリスク・ナ・アムーレの工場で、新型が完成しただと……」
コムソモリスク・ナ・アムーレとは、極東のアムール川近辺にある一大工業都市である。
『アムール川にある共産党青年団の都市』の名を持つ、秘密都市の建設は1930年に始まった。
将来の世界大戦を見据えたスターリンの指令により、極東に大規模な工業都市を設置したのだ。
この地には、ソ連極東随一のアムール製鉄所をはじめ、各種軍事生産の拠点が作られた。
無論、シベリアの地にある、この秘密都市の急速な発展の裏側には、悲劇があったことを忘れてはならない。
日本をはじめとする捕虜や政治犯が送り込まれ、過酷な労働環境で、ほぼ無給に近い低賃金労働を強いられた。
「しかし、BETAの大群は地上から居なくなったのだぞ。何処で実験をする」
GRU部長の懸念に、スフォーニ設計局長であるスフォーニ博士がこう答えた。
「早速、実験場にもってこいの場所が御座います」
「どこだね」
そういって、壁に貼られた世界地図を指で指し示した。
「レバノンに御座います」
「フランスが自国の影響力を強めるために作ったキリスト教の傀儡国家か」
「さようです。今彼の地は、イスラエルとシリアの両軍が国境線沿いに展開し、明日にも軍事作戦を始めんとするばかりです」
「最新型のSU-15で、ユダヤ商人の傀儡国家、イスラエルと対峙するパレスチナゲリラを支援すると言う事かね……」
「既にKGBでは暴徒鎮圧に戦術機が用いられていますから、対人用として軍事利用しても問題ありますまい。
そして、その成果を持って全世界に、対人戦術機SU-15を売り込むのです。
世界に販路を広げ、低価格化したSU-15は、戦術機界隈のAK47になりましょうぞ」
満足した参謀総長は、スフォーニ博士に対して、こう告げた。
「SU-15の量産化は、何としても急がせろ。いかほど苦労しても構わぬ」
「はっ!
この最新機を持って、近いうちに、ゼオライマーと木原マサキの首を並べましょう」
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いします。
今年も、2月23日の祝日投稿を致しますので、よろしくお願いします。
(2月20日1時 追記)
熱砂の王 その1
前書き
1970年代と言えば中東危機なので、ちょっとばかり中東の小難しい話が出ます。
全世界の熱い視線は、ニューヨークの国連本部から中近東のアラビア半島北部に向けられた。
BETAの侵攻をすんでで防いだ聖地エルサレムは、再び不穏な空気に包まれる。
同一の神を信仰し、兄弟の関係にある三大宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。
BETAの危機が去った今、固い結束を見せていた中近東の政治情勢は、分裂の兆しを見せ始めていた。
ここは、中東の小国レバノン。
地中海沿いに豊かな港を持つこの地は、数千年の古い歴史を有する。
古代フェニキア人がエジプトやギリシャとの交易をして、富を集めたこの地は、常に大国の影響を伺わざるを得なかった。
隣国アッシリアや、バビロニア、セレウコス朝シリアやローマ帝国の支配下に置かれた。
その際、多種多様な宗教や文化が流入し、アラブ人の支配を受けてもキリスト教文化が根強く残った。
この地の運命は19世紀のオスマン帝国衰退以降、変化を見せ始める。
中東の権益を狙う英仏や、ユダヤ人によるイスラエル国家の再建を願うシオニズム勢力によって、パレスチナに隣接するこの地域は、トルコやシリアより分割された。
戦時中の1943年、レバノンは、宗派対立という根深い問題を残したまま、フランスより独立を果たす。
首都ベイルートは、1958年のレバノン危機を乗り越え、石油取引や金融業を通じて、中東のパリと呼ばれる近代的な都市へと変化した。
しかし、ヨルダンを追放されたパレスチナ移民の流入により、レバノン情勢は不安定化した。
パレスチナ解放を掲げる極左暴力集団がレバノン国内南部に秘密基地を建設したことで、隣国イスラエルとの一触即発の事態が続いた。
1975年の武力衝突よりレバノン全土は、米ソとその影響下にあるシリア、イスラエルなどの各国の勢力が競い合う草刈り場となった。
しかし、この世界の辿った中近東の運命は、我々の知る歴史とは違う道をたどる事となる。
1973年のBETA侵攻の翌年、イランのマシュハドにハイヴが建設されると、数年の間にイラン全土を荒らし回った。
アラビア半島への侵攻を恐れた中東諸国は、中東最古の王室を擁するヨルダンや大国シリアの呼びかけもあって、聖戦連合軍を結成する。
エジプトのナセルやバース党の掲げてきた汎アラブ主義によるアラブ民族の結束という悲願が、BETAの危機を前にして、為されたのであった。
そして、この亡国の関頭に際して、思わぬ天祐が訪れる。
突如として現れた無敵のマシン、天のゼオライマーと、木原マサキという男の存在である。
重金属の雲の中より、降臨し、光線級のレーザーを浴びながらも、必殺のメイオウ攻撃で、一撃の下、ハイヴを灰燼に帰してしまった。
これにより、中近東の石油資源喪失と世界経済への損失拡大は免れた。
だが、それを良しとしない人間たちが居たのだ。
ソ連をはじめとする共産主義勢力であり、また国際金融資本の面々であった。
1973年のBETA戦争により結束をした中近東を分裂させ、紛争による漁夫の利を得るために、宗教的、民族的に不安定なレバノンが狙われたのだ。
中近東に関するソ連と国際金融資本の動きを察知したマサキは、単身、ゼオライマーで動く。
東ドイツに乗り込んで、ベルリンの共和国宮殿で、議長や政治局の幹部達と面会をしていた。
マサキは、開口一番、議長に向かって驚くべき発言をした。
「貴様の力を貸してほしい。中東の大国、シリアの大統領と連絡を取りたい」
マサキの無体な要求に、議長は凍り付いた。
会議室に居ならんでいる顔、顔、顔……のすべては、みな、にがりきってマサキを見すえていた。
無茶にも程がある。
シリアと友好関係がある東ドイツの議長に対して、こんなにまで無遠慮に頼み込む者がほかにあるだろうか。
幹部達は、マサキの正気をさえ疑って、ただあきれるのみだった。
このとき、ついにたまりかねたように、幹部のうちから、アベール・ブレーメが、
「君は、自分がしようとしている事が判っているのかね。
本当に、西側の人間とは思えないようなことをいうのだな」と、言った。いや叱った。
マサキは、ほんのこころもち、その体を、SED幹部たちのほうへ向けかえて。
「BETAの影響が薄まった今、西側の資本家の狙いは、中近東でのソ連の影響力を削ぐことにある。
アラブ民族主義で大分油田などを国有化されてしまったからな。
奴等はこのBETA戦争の復興の名目でアラビア半島に乗り込むのは必至」
そう言って、妖しく光る眼差しを議長に向けた。
1946年にフランスから独立したシリア共和国は、数度の政変の後、東側陣営に近づいた。
1950年代のスターリン時代の末期からソ連の親アラブ政策によって、資金援助を受け、社会主義政党のアラブ社会主義復興党(通称:バース党)が実権を握った。
東側陣営であるシリアは、対トルコ、対イスラエルの要として軍隊の近代化を図り、一定の影響力を持つ大国でもあった。
マサキは、パレスチナ・ゲリラを支援しているシリアに近づく姿勢を見せれば、必ずイスラエルが動くと踏んで、敢て東ドイツの首脳部に頼み込んだのだ。
だが、東ドイツ首脳部も馬鹿ではなかった。
前議長のホーネッカー時代に、KGBを通じてシュタージが、中東のテロ集団を支援していた事実が明るみに出れば、アベールが苦心して考えた経済開発の計画も、EC加盟の道筋も水泡に帰す恐れがあった。
「どちらにしても、中東におけるソ連の影響力を削ぐのに、まずエジプトか、シリアを西に引き込む必要がある。
西側資本による、シリアの経済開発が始まるのは時間の問題さ。
そうなると、中近東に植民地を持たない日米のどちらかが、金を出すことになる。
だから、俺もすこしばかり小銭稼ぎがしたくて、シリア大統領にアポを取りたくなったのさ」
憤懣遣る方無い表情のアベールを、じろりと睨み返したマサキは、意味ありげな哄笑する。
「フフフ、俺の頼みを、嫌とは言わせん。
貴様等が、ドレスデンでパレスチナ解放人民戦線の幹部を訓練していたことを俺は知っている。
KGBの命令で、シュタージが関わった国際テロ事件の全貌を、白日の下に晒してやる」
満面に喜色をたぎらせ、興奮する面持ちのアベールを嘲笑って見せた。
パレスチナ解放人民戦線とは、1967年に「パレスチナ解放機構」(PLO)の傘下として、パレスチナ・ゲリラ極左組織を統合して作った団体である。
シリアとレバノンに拠点を置き、暴力によってパレスチナ解放を進める極左テロ集団。
彼等の目的は、「破壊活動によってパレスチナ問題を世界の関心を集める」という過激な物であった。
ソ連KGBの支援を受けたテロリストによって引き起こされたエル・アル航空426便ハイジャック事件や同時ハイジャック事件が夙に有名であろう。
さすが議長も、カッと逆上するのではないかと、みな、目をこらして、議長を見まもっていた。
けれど、議長は、マサキの嘲笑を浴びると、自分も共に、その面に、うっすらと苦笑を持って、
「貴様……何故その様な事を」
「そんなに秘密が聞きたいのか……いいのか、俺の心ひとつでゼオライマーは自在に動かせる。
ベルリンの共和国宮殿はおろか、東ドイツを廃墟にすることも簡単だ。
そんな力を持つ、この俺を止めているのは、はかない少女の真情だけだと言う事を忘れるな」
「脅しているのかね」
「取引だ。そんなちゃちな革命野郎の件で、俺の夢を道草させるわけにはいかんからな」
マサキは、怯みもなく言った。
「まあ、よい。シュトラハヴィッツでもいい。
あの空軍出身のハーフィズ・アル=アサド大統領とコンタクトを取りたいと、シリアに伝えてくれ」
シュトラハヴィッツは、やや重たげに、マサキに返した
「俺も、アサド将軍とは知らぬ仲ではないが……」
その声は、低すぎるくらいで、声の表に感情は出ていなかった。
話は、1956年のスエズ動乱の頃にまでさかのぼる。
エジプトで、1952年に軍事クーデターで政権掌握した自由将校団は、親ソ容共思想を前面に押し出す団体であった。
1953年の革命以来、米軍からの武器援助を断られたエジプト軍は、チェコスロバキアから最新の自動小銃を、ソ連から最新鋭のジェット戦闘機の貸与と訓練を受けた。
当時、エジプトとの合邦を進めていたシリアも、また、1957年に訪ソ将校団を結成し、最新鋭ジェット戦闘機、MiG-17の操縦訓練を受けさせていた。
その折、若かりし頃のアサド空軍大尉は、ソ連でジェット戦闘機への機種転換訓練を受けた。
留学先のソ連で、高等士官の教育を受けていたシュトラハヴィッツと、知己を得たのである。
「さすが参謀本部作戦部長だけあって、顔が広いな。シュトラハヴィッツ。
じゃあ、帰らせてもらうぜ」
立ち去ろうとするマサキの事を、アベールは呼び止めた。
「待ち給え、それで、我等は何を得ようというのだね」
マサキは、満面の笑みで振り返り、
「俺が、東ドイツにラタキア経由で、シリア産原油の融通を聞かせるよう伝えてやるよ。
ロシア産の粗悪な石油より、中近東産の甘い原油の方が、質はずっと上だ」
甘い原油とは石油系硫黄化合物の割合の少ない原油の事である。
一応、ソ連国内でもバクー油田の石油は硫黄分が数百分の一と高品質であったが、ウラル・ボルガ地方の油田やシベリアの油田ではその割合は6パーセント近くあり、高度な精製技術が必要だった。
硫黄化合物の割合の多い石油は、化学的安定性や燃焼効率を低下させ、不快な臭いを放ち、エンジンの腐食の原因となる。
ガソリンでは、抗爆発性を低下させ、硫黄酸化物を放出して大気を汚染する原因になった。
通産官僚のアベールには、その話は魅力的だった。
ソ連製原油が手に入っているとはいえ、BETA戦争で、その割合は大幅に低下した。
西ドイツにも秘密裏に転売している分もあり、東ドイツ国内では、どうしても産業用の原油や石油が不足している。
そして一番の問題は西ドイツにも、東ドイツにも大規模な石油精製コンビナートを兼ね備えた港がないと言う事だった。
全てを海上輸送で賄う日本とは違い、石油パイプラインで融通していた東西ドイツにしてみれば湾港整備の方がかえって費用がかかる為であった。
「貴様等にも悪くない話であるまい」
と、告げると、足早に共和国宮殿を後にした。
マサキが、東ドイツを介して、シリアと接触した事は、すぐさまダマスカスに居る工作員を通じて、イスラエルに漏れ伝わった。
世にモサドとして知られる、防諜機関、イスラエル諜報特務庁は、同国の対アラブ政策の盾である。
元ナチス幹部の誘拐やシリア首脳部へのスパイ工作、要人暗殺などの荒々しい事をすることで有名であろう。
シリアとのコンタクトの件は、モサドを通じて、即座に情報省に照会が成された。
ニューヨークの総領事館に居た鎧衣は、本省の情報員と接触した後、動く。
国連総会出席の後、中東問題の交渉で訪米中だったイスラエル外相と接触を図る。
翌日、ブロンクスのファーストフード店に白銀と出かけていたマサキの所に、鎧衣が大童で現れ、
「木原君、急ぎで悪いが、ザ・ペニンシュラに行ってくれないか」
マサキは、食事する手を止めて。
「ほう、俺をそんな高級ホテルに呼ぶとは。ダンスパーティでもするのか」
「イスラエルの外相が会いたいそうだ」
鎧衣を振り向かずに、椅子から立ち上がって、
「フフフ、よかろう。制服に着替えたら、直ぐにでも行く」
ホテルの一室に着くと、そこには頭を綺麗に刈り上げ、左目に眼帯をした屈強な壮年の男がいた。
彼こそは、中東戦争でその名をはせた片目のモシェ・ダヤン、その人であった。
「おまたせしました」
深々と頭を下げた鎧衣をみるなり、ダヤン将軍は相好を崩した。
「ミスター鎧衣、お久しいですな。貴殿も随分逞しく成られましたな」
「ダヤン将軍、私的訪日の折、護衛を兼ねた通訳を務めさせて頂いて以来ですが、お変わりなく……」
マサキに向かって、ダヤン将軍は一礼をした後、
「挨拶は抜きにして、話に入りましょう。
木原博士、シリアとの接触の狙いは何でしょうか。
シナイ半島の帰属問題ですか、我が国の核武装に関するうわさでしょうか……」
1978年当時、エジプトのシナイ半島は、第三次中東戦争の結果、イスラエルに占領された領土であった。
「シリアの件は、貴様等を呼び出す方便さ。
俺は、ゴラン高原の問題やエルサレム問題、シナイ半島の帰属などどうでもいい。
本当の狙いは、英国のユダヤ人男爵に話をつけたい。
その為に貴様を頼った。男爵は元情報将校と聞く。
モサドを通じてMI6との伝手を使えば、簡単に会えると聞いてな」
「男爵?」
不敵の笑みを湛えたマサキは、ドイツ語で、
「赤色表札」と短く答えた。
マサキのことばは、その場にいたすべての者の肺腑をドキッとさせたようだった。
「ユダヤ人男爵は、イスラエル建国の真の立役者。
オスマン・トルコ時代からパレスチナの農地を買い集めた大地主と連絡を取るのは、この俺では役不足でな……」
ダヤン将軍は、さすが何か、ただ事ならじと察したらしく、不安そうなまなざしでマサキを見つめていた。
「安心しろ。俺は、黒人もユダヤ人も差別はせん。
世界征服の暁には、等しく、この俺の奴隷になるのだから。ハハハハハ」
キョトンとするダヤンと鎧衣を後にして、マサキは美久の手を引っ張って帰ってしまった。
後書き
中近東のお話なので、へんにオリキャラ出すより史実の人物に頼りました。
その方が、読者の皆様も想像がしやすいと思いまして。
一応現実と混同することを避けるために、出てくる政治家や軍人は既に鬼籍に入られた方のみにしました。
ご意見、ご感想、よろしくお願いします。
熱砂の王 その2
前書き
乾杯は、古今東西問わず、水以外ならばマナー的には問題ありません。
場所は変わって、ここはシリア・タルタスにあるソ連海軍第720補給処。
このタルタスの海軍兵站拠点は、1971年にソ連がシリアとの二国間協定に基づき設置したものである。
米海軍の第六艦隊(1971年当時、第六艦隊の司令本部はイタリアにあった)に対抗するべく、ソ連海軍の地中海第5作戦飛行隊後方支援として設置した。
BETA戦争での国力低下により、昨年まではエジプトのアレクサンドリアとメルサマトルーにあった支援基地を退去させ、このタルタスの海軍基地に艦隊とその設備を集約したのだ。
中近東とエーゲ海に、にらみを利かす海外拠点にあるGRU支部。
GRUのシリア支部長は、一人悩んでいた。
彼はなんとかして、シリアに接触を図ってきた、木原マサキを取り込みたかった。
KGBが暴力を持って従えようとして、失敗した人物である。
今度は、軟化した態度を持って取り込みたい。そう考えていた矢先の事であった。
支部長室に、若い係官が駆け込んで来るなり、
「支部長、木原を色仕掛けで落とす作戦ですが、その必要はない様です」
「どういう事だね」
「こちらをご覧ください」
そう言うと男は持ってきたA3判の茶封筒から、引き伸ばした写真を取り出す。
「何ぃ!」
「如何やら二人は……」
そこには、アイリスディーナと抱き合うマサキの写真が、広げられていた。
一月ほど前、ベルリンのフリードリヒスハイン人民公園で、熱い口付けを交わした二人。
彼等の姿を見ていたのは、アイリスの護衛達だけではなかった。
軍から派遣された護衛の他に、GRUの現地工作員が目撃していたのだ。
ソーセージの屋台の業者に化け、ベルリンの官衙で諜報工作を続けていた工作員が偶然小型カメラで撮影し、即日、ウラジオストックに向け、発送された。
シュタージやポーランドの情報部を出し抜くべく、ジッポライターを改造したケースにマイクロフィルムに入れ、持ち出した物であった。
GRUは、4年前の留学時から、空軍士官学校主席のユルゲンと次席のヤウク少尉を取り込むべく、監視していた。
無論、ユルゲンの妹、アイリスディーナの動向も追っていたのである。
シュタージが後ろにいるベアトリクスや、その他のブレーメ家の面々に関しては、KGBより妨害を受けながらも、情報を抜き出していた。
東ドイツに駐留する30万将兵の間にGRUの工作員を配置することなど、造作もなかった。
また、東ドイツ国民の方もKGB機関に関しては、深い憎悪と恐怖を持っていたが、GRUには何の興味を持たなかったためである。
無論、シュトラハヴィッツ将軍など軍の上層部やソ連抑留経験者、国防軍出身者は知っていたが、余りにも秘密主義の機関ゆえ、おそれて近づかなかったと言っても過言ではない。
写真を一瞥した情報部長は、喜色をめぐらせ、
「フフフ。愛の力は偉大だね。暴力など足元にも及ばん」
と声を上げ、椅子から立ち上がり、
「あの氷のような冷たさを持つ木原マサキの心を溶かした、少女の想い。
偉大なる愛の力とやらを持って、我等は木原に近づく。
G元素を遥かに凌ぐ、ゼオライマーの秘密を手にする事も夢ではないと言う事だよ。フフフ」
と満面の笑みを男に見せつけた。
「そうすると、木原とベルンハルト嬢が一緒になってくれると良いのですが……」
「やはり、ベルンハルト嬢の事を気にしているのかね」
「はい。彼女は壁の中です。シュトラハヴィッツ将軍も彼女に気を掛けてるでしょう。
誘拐も難しいと思われます。そうすると、彼女が木原に本気になって呉れれば違うのでしょうが。
こればかりは、我等の一存では……」
「まず、マスメディアを使って、木原がベルンハルト嬢と婚約したという情報を流せ。
日本政府がどう動くかが、見ものだ。フフフ」
と、不敵の笑みを浮かべながら、
「米国には、淫靡な飾り窓もないし、貴族の洒脱な社交会もない。
それ故に、彼等は愛を語らう場所として、男女の純愛を楽しみにしている所がある。
『世界を股にかける、ゼオライマーのパイロットが、東ドイツ軍人の妹に恋した。
だが、国法の為、結婚できない。悲劇の愛を結ぶためには……』などと新聞紙面に出すように提案しよう。
ニューヨークやロサンゼルスの現地工作隊を用い、米国世論を巻き込み、ラジオや新聞でやんや騒げば、日本は落ちる。
貴公子、篁祐唯と、ミラ・ブリッジスの恋を参考にしてな」
「では、デイリーニューズやシカゴ・トリビューンの一面にぶち抜きで彼女の写真を掲載させるように、本部には上申しておきましょう。
マスメディアが敵となっては、さしもの木原もゼオライマーも自由に動けますまい」
木原マサキが中東への接触を図ったことは、米国にも漏れ伝わった。
早速、米国の石油財閥の当主の耳にも入り、秘密会合が成されることになった。
マンハッタンの石油財閥本部ビルの最上階の一室に、副大統領が入るなり、窓を眺めていた男が振り返った。
「御足労掛けます。副大統領閣下……」
「ディヴ、冗談は止せ」
副大統領の言葉に、男はたちかけて、
「ネルソン兄さん、ワシントンから御足労を掛けました。ハハハ」
と、他人事みたいに笑った。
急な弟の呼び出しに、副大統領は、何を思ったのか。
日頃から関心のある話を、問い質してみることにした。
「日本という極東の小国に、君はそこまで執着する理由が分からない。教えてくれぬか」
「兄さん、僕が日本を我が物にしたいのは知っていますね」
「お前の長年の夢だったからな」
「我が理想の帝国を築くにあって必要なのは、潤沢な資金と世界最強の武力、そしてそれを裏付けする権威。
この三つのうち、どれか一つ欠けても駄目なのです」
「それで」
「既に我等は石油取引や金融業の世界を通じて世界の富の一部を牛耳る事に成功しました」
「末弟のお前には、金融業という修羅の道を歩ませてしまったを兄として申し訳なく思っている」
と言葉を受けて、男は心から恐縮した。
「いえいえ、兄さんたちが政治の世界に入ってくれたからこそ、僕は後方で自在に動けたのです」
副大統領は、快然と笑った。
「思えば、長い道のりであった。
40年かけて政界という魔窟の中から這い出てて、山の頂が見える場所に上り詰めるまで」
「次の大統領選には出られるのですか。
もし出られるのであれば、政財界に200億ドルの資金をばら撒く準備が御座います」
(1978年のドル円のレート、一ドル195円)
弟は、兄の勝利をみじんも、疑っていないらしい。
「兄さんが大統領職に就けば、我等は名実ともに世界の軍事と金融をこの手に出来るのです。
ただ、足りぬものが御座います」
「何かね。教えてくれぬか」
副大統領は、なお糺した。
「世界最強の軍隊と、無敵のドル体制を持って満足出来ぬ理由とは」
弟は、静かに答えた。
「権威の裏付けです」
「権威?」
「我らは、祖父の代にニューヨークから世界に躍り出て、あらゆる富と名誉を得ましたが、歴史が御座いません。
荒々しい中近東の土侯や東南アジア諸国のものどもを手なずけるには、すこしばかり戦争でもしなくてはいけません。
でもそんな無益な殺生をしなくても良い方法が御座います」
「兵乱を経ずして、あの土侯を手なずけるだと」
「僕は、極東研究を若い頃からしているのを知っていますね」
「ああ」
「3000年の東亜の歴史を紐解いた時、ローマの坊主どもさえ手を余す存在に気が付いたのです」
「初耳だ。そんな存在があるのかね」
「日本帝国の皇帝です。
彼等は自分の君主の存在を忘れ去っていて、京都のみすぼらしい宮殿に、秘仏が如く厳重に隠しています。
ですが、その歴史的長さはあのアビシニア(エチオピア)のソロモン王の血脈に匹敵する物なのです」
「イタリアのムッソリーニがかつてアビシニアを求めたように、僕としても日本を、その秘密の園の奥底にある宝玉を我が物にしたいのです」
副大統領は、弟の意見に理解を示しつつも、
「今更、歴史の中で埋もれた宝玉など持ち出して、なんになるのだね」
むしろ責めるような語気で、なお云った。
「中東問題で我等と歩調を合わせ、イスラエルを承認している日本が、中近東で一定の力を持つのか。
僕なりに調べ、考えてみました。
資金力も製油設備も劣る彼等が、なぜ中近東とこれ程上手く行ったのか……」
「大君の影響力か」
「あのお飾りの将軍ではありません。彼の後ろに隠されている、皇帝の歴史的権威のお陰ですよ。
硬い扉の向こうから漏れ出て来る2000年の歴史の輝きは、200年の合衆国の歴史ではとてもかなうものではありません。
歴史的権威は、ローマのバチカン寺院に匹敵し、チベットの活仏、ダライラマの影響力をも凌駕します。
また、支那や蒙古人の襲撃を幾度となく乗り越えてきました。
その様な存在は、世界広しと言えども他には御座いません」
「買い被り過ぎではないのかね」
副大統領は、なお少し、ためらっている風だった。
弟は、瞑目して、考えこんでいたが、
「僕なりに考えました。
その権威を無傷で我が手中に収めれば、東亜と印度支那、いや、中近東を含むアジアの大半を血濡らさずして我が物に出来るのではないかと」
「それでお前は三極委員会という子供のごっこ遊びの団体を作ったのかね」
「そうです。
その上で、皇帝の権威と新開発のG元素爆弾があれば、欧州の片田舎に住まう貴族共を出し抜けるのではないかと」
副大統領も、遂に肚をきめた。
「フフフ、お前は甘い。政治家には向かないな。
だが、ディヴ。君の兄として、この私はその企みに協力しよう。
一族郎党の力を合わせて、我が理想の帝国をこの地球上に成立させようではないか」
そういうと、コーラの瓶をコップに開け、乾杯の音頭を取る。
「我等が理想の帝国の建設を祈って乾杯」
「乾杯」
コーラで唇を濡らした後、二人は詳細を話し合った。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
熱砂の王 その3
ダヤン将軍との会見の翌日、早朝にマサキの元を訊ねる人物があった。
遠田技研の北米事務所の人間で、米国オハイオ州の日本人工場長だった。
マサキが朝食も取らぬ内に、大量のカタログや戦術機の資料を持って来て、話し始めたためであろう。
何時もは、半日かかる「ホープ」が入った煙草の箱も、2時間もしないで空っぽになってしまった。
だが、マサキの機嫌は上々だった。
「じゃあ、戦術機の自動航法支援装置は俺の案を採用してくれると……」
紫煙を燻らせながら、満足気に応じるマサキを見ながら、北米事務所の社長は、
「博士のシステムは、弊社の遠田が考えている構想そのものなのです。
どうか、参照にさせて頂けるならば、私共も協力は惜しみません」
と、満面の笑みで応じた。
多少、謝礼ぐらい要求しても問題はあるまい。
マサキはそう考えて、無体と思える要求をしてみた。
「フフフ、面白いやつよの。オートバイに自家用車が二台ほど欲しい。手配してくれ」
北米支社長は、唖然とした様子で、答えた。
「その様な、つまらぬものでよろしいのですか。
博士の、お役に立てるのでしょうか……」
流石に、自動車の無償提供は効いたのであろう。
不敵の笑みを浮かべながら、カタログをめくり、高級車と大型バイクを指差した。
車の方は、前世の本田技研工業の高級車『アコード』に似て居り、バイクはナナハンの名で有名な『CB750FOUR』其の物であった。
「役に立つどころか、自分の足がない俺には、なくてはならない物なんだ。
貴様の所には、たくさん有るので何よりだがな」
新しい「ホープ」の封を開けながら、男の瞳を見つめて、
「貴様等には、俺の最新式のシステムを呉れてやる。
そして、俺は日米を股にかける、有名企業の関係情報を手に入れる。
それを持って、俺はこの世界の戦術機業界に、乗り込む。
俺がバックに付けば、もう、他の奴等に邪魔される心配は、ないぞ」
と、紫煙を燻らせながら、満足気に答えた。
茶を入れに来た、美久に視線を移すと、
「美久も、オートバイの一つでも欲しかろう。ハハハハハ」
と、オートバイの一つでも買ってやろうかと思っていたので、頼んでみることにしたのだ。
アイリスディーナの件で、やきもきしている美久の機嫌を取るためでもあるが、別な理由があった。
アンドロイドである美久は、推論型Aiというすぐれた人工知能のお陰で、オートバイの運転も得意だった。
かつて鉄甲龍の首領に拉致された時、オートバイに跨り、敵に乗り込み、単騎マサキを救出したことがある。
美久が運転するオートバイの背中に跨って、アメリカの高速道路をノーヘルメットで走るのも楽しかろう。
そんな事を考えていたのだ。
「博士ではなくて、奥様がオートバイですか。いや、驚きました」
その刹那、美久の面が、ぱあと赤く色づいた。
支社長の称賛のひと声が、美久の電子頭脳に染み渡る。
「お世辞でも嬉しいです。有難う御座います」
「いや、良い奥方ですな」
他人から称賛など、久しく聞いていなかったので、なおの事、嬉しかった。
「納車の方ですが、11月、遅くとも今年中には間に合わせます。
恐らく狭山の工場から取り寄せにはなりますが……」
「名義は俺で、俺の家と、関東の……」
思えば、この世界の日本における住居は、城内省が用意した京都郊外の一軒家。
関東には、拠点が無いのだ。
どうした物かと、悩んでいる時である。
丁度、白銀が入ってきて、
「おはようございます、先生。今日のご予定は……」
と、言い終わらぬ内にマサキが重ねて、
「白銀。丁度いい所に来た。お前の実家に、車を置け。
名義は俺の名義で、車庫にでも入れてすぐ使える様にしてな」
と、答えた。
「ええ、ちょ、ちょっと待ってください。俺の実家は神奈川ですよ」
「いや、いいんだ。埼玉の狭山から近いし、都合が良い。
家の親父にでも電話して、近くの代理店に納車させろ」
と、目を白黒させる白銀を無視して、契約書にサインしてしまった。
戸惑った様子の白銀を、横目で見ながら、
「あと、お前の百姓家に遊びに行くからな。楽しみにしておれ。ハハハハハ」
と、満面に笑みをたぎらせて、
「ただで新車が手に入るのだ。文句は無かろう。それとも車は欲しくないか」
「どうして新車なんかを……」
「新規事業立ち上げの前金だよ。言ってみれば記念品の手ぬぐい変わりだ。フハハハハ」
白銀には、面前で不敵の笑みを浮かべる男の真意が分かりかねた。
夕方の頃である、美久は、マサキからタバコを買ってくるよう頼まれて、ブロンクスにあるタバコ屋まで出掛けた。
マサキの吸っているタバコの銘柄は、専売公社の「ホープ」。
何時もは、カートンで買っておくのだが、折り悪く切らしてしまった。
ただ、ドイツ駐留時は、ブリティッシュアメリカンタバコの「ラッキーストライク」で、我慢していた。
そんな事を考えながら、頼まれた「ラッキーストライク」の両切り6カートンを両手で抱えながら、帰ろうとした時である。
背後から、黒装束の男が、近寄る。
美久の首筋に棍棒のような物をぶつけると同時に電撃が全身を走ると、美久は意識を失った。
まもなく何者かが近づき、彼女の事をBMWのリムジンに乗せて連れ去ってしまった。
マサキは、二時間ほど転寝してしまった。
20時を過ぎたころ、目が覚めた彼は、流石に帰らない美久の事が気になった。
最悪の場合、次元連結システムを応用した位置情報の追跡を行えばよいだけなので、然程気に留めなかった。
ただ、ゼオライマーは、今ワシントン州シアトルにある日系企業の倉庫で、整備中。
次元連結システムを使って呼び出すにしても可能だが……。
そんな事を、思案していた矢先である。
鎧衣が訊ねてきて、
「氷室さんが、誘拐された。大使館まで急ぎ来てくれ」
さて領事館では、誘拐事件の件で話し合いが始まっていた。
総領事は真剣な面持ちで、
「外交官ナンバーの車に連れ去らわれただと……」と白銀と鎧衣に訊ねた。
白銀は、平謝りにわびた後、
「申し訳ありません。ですが、ナンバーは控えてあります」
「どこだね」
「イエメン民主人民共和国の国連代表部の車です」
「南イエメンか。我が国と外交関係がない。
それに空港から逃げられたら、どうすることも出来んぞ」
それまで黙っていたマサキは、
「で、土曜の深夜22時なのに、なんでみんな集まってるんだ。
まさか、今から南イエメンに殴り込むのか。
じゃあ、俺が更地にしてきて、飛行機が止まりやすいようにしてやるよ。ハハハハハ」
と、笑って見せた。
その場に、衝撃が走った。
総領事はじめ、みな凍り付いた表情である。
「フフフ、白銀、ゼオライマーを準備しろ」
白銀の表情は、暗かった。
「南イエメンは、ソ連の支援を受けたアラブの社会主義国です」
マサキが、思っていた以上に、ソ連の魔の手は長かった。
「中東やインド洋におけるソ連の足場ですから、先日の復讐に燃える、GRUの特殊部隊が待ち構えていたらどうしますか」
と、その心にある不安を、一応あきらかにした。
GRUの特殊部隊、通称「スペツナズ」
ラオスでの戦闘経験から、危険でのキチガイじみた存在と言う事は、嫌という程、白銀自身も自覚はしている。
一例を挙げれば。1968年8月21日、「プラハの春」のときである。
ワルシャワ条約機構軍がチェコのプラハ侵攻前夜、GRU特殊部隊隊員は、難なくプラハの主要官庁を制圧した。
毅然としてマサキは、総領事の方を向き、
「知った事か。そんな、ソ連の操り人形の国、俺が滅ぼしてやるよ」と、大言を吐く。
「氷室さんは……どうするのだね」
マサキは、鎧衣の方に顔を向け、
「美久がいなくても、暴れるだけ、暴れてやるさ」
と、喜色を明らかに、うそぶいて見せた。
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いします。
熱砂の王 その4
前書き
連れ去らわれた美久は、どうしたであろうか。
電撃で眠らされた彼女は、BMWのリムジンに乗せられて、拉致された。
マンハッタン近くの高級ホテル、「マンダリン オリエンタル」に連れ込まれる。
彼女といえば、気を失っている状態で、ホテルの一室に監禁されていた。
美久は、推論型AIの人工知能が起動すると、即座に周囲の状況を確認し始めた。
豪奢な部屋に似合わない、大型動物用の檻に入れられて、毛布を掛けられていた。
起き上がるなり、近づいてきたナツメのような褐色の肌をした男たちに驚いた美久は、
「や、や?」とばかり、色を失って立ちすくんだ。
二人のアラブ人と思しき大男の真ん中に立つ、白人の男が、流暢な英語で声を掛けた。
「気がついたようだな。氷室美久よ」
美久は、眼を怒らして、敢然、反対の口火を切っていった。
「あなた達、臨時職とはいえ、帝国陸軍軍人に、この様な事をして唯で済むと思いますか。
きっと日本政府の依頼を受けた、CIAやFBIが不当監禁と誘拐で捜査するでしょう。
今、黙って返せば、日本政府にも、木原に知らせるつもりはありません……」
二人の大男を見るに、頭に赤色のベレー帽をかぶっているし、カーキ色の軍服、脚には茶色の軍靴をはき、腰にはスタームルガーの大型拳銃を横たえている。
問うまでもなく、南イエメン軍の兵士である。
しかも、その将校であることは、肩章や高級そうな服地でもすぐ分った。
檻のカギが開くと、男たちは美久を引きずり出した。
「同志少佐、こいつを、どうするんですか」
美久の襟がみをつかんだのが、もう一人のほうに向って訊くと、ソ連赤軍将校の軍服を着た男は、
「おい」と、少佐は手下の南イエメン軍兵士が、まだ危ぶんでいる様子に、顎で大きくいった。
「そいつを、もっと前へ引きずってこい、そうだ俺の前へ」
美久は、襟がみを持たれたまま、少佐の足もとへ引き据えられた。
「ゼオライマーというおもちゃを持ち出して、この泣く子も黙る、KGBを脅しているのかね。
いやあ、恐ろしい娘じゃのう」
紫煙を燻らせながら、ねめつける。
「御生憎様、ここは米国であって米国でないのだよ……言っている意味が分かるかね」
「まさか、このホテルが……領事館と言う事なのかしら」
「そう、ここは民主イエメンの領事館。即ち、米国の司法権が及ばない。
したがって、CIAやFBIは踏み込めないのだよ。わかるかね」
美久は思った。これは悪い者に出合ったと。
マサキに知られれば、また血の雨が降ることを心より恐れた。
「……ッ!」
ソ連軍将校は、憮然とする美久をかえりみて、
「氷室よ、よく聞くがよい。
貴様は、これより、わがKGBによって特別な尋問を受けることになる。
フフフ、楽しみにしているがよい」
下卑た笑みを浮かべると、大声で笑った。
「貴様には、KGBが作ったベイルートにあるパレスチナ解放人民戦線の地下要塞に来てもらう。
そこには復習に燃えるKGBと血に飢えたアラブの革命戦士たちが待っている。
いつでも、貴様を……われらは殺せるというのを、忘れるな」
美久は、後ろ手に手錠で縛り上げて、部屋の大黒柱にくくりつけられた。
「そして、木原のカップルとしてゼオライマーを操縦した罪……
ソ連に逆らったことを後悔させてやる。一生かけてな。フフフ、ハハハハハ」
美久は、終始黙然と聞いているのみだった。
美久は後ろ手に緊縛されたまま、トランクに詰められ、大型ジャンボに載せられた。
「レバノンまで、しばらくの辛抱だぜ。おとなしくしていてくれ、子猫ちゃんよ。」
KGB工作員が向かう先は南イエメンではなく、本当の目的地はレバノンだった。
パリ経由ベイルート行きの、レバノンの国策航空会社、ミドル・イースト航空所有のボーイング707はJFK空港から飛び立ってしまった。
さて、米国当局はどうであったろうか。
ここは、ホワイトハウスの中にある会議室。
今まさに閣僚を前にしてFBIのニューヨーク支部の職員たちが詰問を受けていた。
憤懣やるかたない表情をしたFBI長官は、青い顔をする職員を一括する。
「外交官ナンバーの車だからと行って見逃しただと、君達はそれでもFBIの職員かね。
大切な同盟国のパイロットの護衛を任されておきながら……」
職員は、閣僚たちに平謝りに詫びながら、釈明する。
「しかしながら長官、仮に我々が職務質問をし、停車させた所でも……。
外交官特権を理由に、応じるとは思えません」
「で、どこの国だったのだね」
「67年11月に英国より独立した、南イエメンです」
FBI長官は、真ッ青になって、
「しまった!南イエメン!中東におけるソ連の傀儡国家か。
……確か、国連総会出席で、総領事一行が、ニューヨークに滞在中だったな」
と口走ったが、時すでに遅しである。
美久は、すでにJFK空港をレバノンに向けて後にしていたのだから。
FBI長官の発言を受けて、CIA長官も同調するように、大統領に意見を述べた。
「よし、日本政府と相談して、正式に抗議しよう」
興奮するCIA長官を、国務長官が止める。
「まちたまえ、外交問題にも発展しかねないのを承知で……」
「同盟国のパイロットを見捨てろというのかね。
それに裏にはソ連がいるのは明々白々。黙って見過ごすわけにはいかんのだよ」
副大統領は、喧騒をよそに、大統領のほうに顔を向け、
「日本の危機管理能力は相変わらずのようですな」
と嘆くと、大統領も一緒になって、嘆いた。
「史上最強のマシンパイロットを白昼堂々、拳銃しか持たぬ工作員に易々と誘拐させた。
日本と国の甘さを、世界中が認識した」
副大統領は、日本の危機管理能力に、ふかく失望を感じて、
「これは、今の元枢府を廃して、われらの意向を反映する政権に立てたほうが……?」
と、いう大陰謀が、早くもこの時、彼の胸には芽をきざしていた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
熱砂の王 その5
前書き
美久の拷問描写があります。
マブラヴといえば、催眠と麻薬による思考操作なので、ちょっとばかりハードな展開にしました。
ソ連の秘密工作員は、マサキたちがヨルダンに到着したことを直ちに、戦艦「ソビエツカヤ・ロシア」に連絡した。
インドのムンバイ港に寄港中だった同艦は、急遽、アデン湾に向け出港させる。
ソ連赤軍は、レバノンから目をそらして、日米の目をアデン湾の共産国に向けさせることで撹乱させることにしたのだ。
さて、戦艦「ソビエツカヤ・ロシア」の艦橋の中で、密議を凝らされていた。
GRUとKGBのアルファ部隊の面々がそろって作戦に参加することを奇異に思われる読者もおられよう。
ここは、著者より簡単な説明を許されたい。
スターリン時代以来、犬猿の仲であったGRUとKGBは、基本的に別行動であった。
GRUは軍事情報、KGBは産業スパイ、外交関係と棲み分けがなされていたのは事実である。
だが、本国の影響の少ない中近東やアフリカでは、合同作戦を実施することが、時折あった。
一般的にKGBが対外諜報部門では有名であったが、党の直轄機関のため、自由な行動が資金面から制限されていた。
その点、赤軍の一部門であり、党や政治局の影響の少ない参謀本部の一部局であるGRUは、予算も人材も豊富で、対外工作には制約がなかった。
おまけに、GRUは工作全般を党指導部に報告する義務がなかったので、自由に差配できた点も大きい。
KGBは創設以来、職員の法的立場は軍人ということになり、ソ連赤軍と同じ軍服と階級章を着けた。
両者には、ライバル意識があり、キューバ危機の際にKGB経由で米国の情報を送ったGRUの諜報員は懲戒を受けた。
参謀本部に非難され、結果的に軍を引退させられたという逸話が残るほどである。
艦橋で通信士がポツリと述べた。
「なあ、日米のファシストどもの好き勝手にはさせまいと思っていたが、かなりやられたなあ」
航海員の若い中尉が、忌々し気に言った。
「ああ。日本野郎の奴らは東欧の7か国に工作し、半数の国から政権奪取を成功させている」
「相当な数の国を従えさせたが、木原はその力をもって何をしようとしているのだ」
「ファシストの考えが分からん。何かたくらみがあって、勢力を広げているのは確かだ」
内から湧き出る怒りも露わに、両手をたたき合わせる。
「くそ、奴らが日本に引き上げる前に叩き潰してやりたいな」
「ゼオライマーの弱点さえわかれば、木原をやっつけられるんだがなあ」
「セルプスキー研究所から来た大学者にも、まだわからないのか。ゼオライマーの弱点は」
中尉から。非常にきわどいことを尋ねられた政治将校が、
「同志諸君、それがまだなのだよ」
「折角、女パイロットを誘拐したんだ。さっさと秘密を暴いてくれよ」
「やっているさ。
だが簡単に弱点が見つかるのであれば、東独の奴らが絶世の美女を差し出す必要があるのかね」
「よし、見て居ろ。今度は徹底的に黄色猿の奴らを懲らしめてやるぞ」
「ソビエツカヤ・ロシア」艦長の海軍大佐は、GRUの工作員をなだめる。
「焦るな。性急な作戦は自ら墓穴を掘るようなものだ。
今度の作戦は、GRUの威信がかかっている。絶対に失敗は許されんぞ」
じろりと、艦橋の中にいる戦闘指揮要員を見回して、
「日米を、西側の目を、アデン湾の入り口である、この南イエメンに向けさせておくのだ。
ベイルートでの、我らが存在を悟られないためにな」
そのベイルート港では、何やら巨大な建造物の作業が急ピッチで進められていた。
スフォーニ設計局が開発した最新型のSU-15戦術機が、この場所で秘密裏に改修が行われている最中であった。
ベイルート港の1区画にある、KGBの秘密基地に連れ去られた美久は、KGBの尋問を受けていた。
彼女は、着ていたボアのついた革ジャンやブラウス、ジーンズを脱がされて、強化装備に着替えさせ、両腕と両足を縛れて、天井から宙づりにさせられていた。
強化装備にはもともと、着用者の生体情報を収集させる機能が備え付けてある。
準備に煩わしい心電図モニターや医療機器を準備しなくて良い面もあろう。
KGBとしてはなによりも、赤裸にさせるより、羞恥心を感じさせ、美久を早く篭絡させる目的で、わざわざ美久を着替えさせたのだ。
盛夏服姿の女性職員が心臓マッサージ用の電気的除細動器のダイヤルを回す。
(盛夏服は、ソ連軍の勤務服の一種。シャツとスラックス、婦人兵はシャツ、スカートからなる略装)
電気ならば、簡単に刺激が与えられ、なおかつ外傷も残りにくい……
成人の心室細動に対する設定は150J以上が推奨される、この機器を用いて拷問をすることにしたのだ。
無論、放電の効果を高めるためにジェルや専用のシートを張り付けるのだが、強化装備の特殊保護被膜がその代わりを果たす為、KGBは用いた。
女職員が無言でパドルを美久の両方の乳房に押し付ける。
その刹那、30Jの電流が美久の全身を駆け巡った。
「うぅぅ……」
焦点の定まらぬ目を見開き、虚しく首を左右に振るばかりであった。
「さあ早く、ゼオライマーの秘密を吐け」
そういって、ダイヤルを回して、50Jに電流を上げる。
美久は流れ出る電流から逃れようと、苦しげな声を上げて、悶えた。
「うふぅ……くふぅ……あぁぁぁ」
女職員がパドルを両胸から離すと、もどかしげに身をくねらせる美久の耳元で、
「木原が、単独でゼオライマーを作り上げた。嘘よね」
英語でささやきかけ、まくし立てる様に尋問を続ける。
「さあ、本当のことを吐けば、楽にさせてあげるわ」
首をうなだれた美久は、肩を震わせて、全身で息を吐きだした。
「う、あうぅ……」
尋問を見守るKGBの女職員たちの後ろのドアが、開く。
まもなくすると、軍服の上から白衣を着て、円筒型のナースキャップをかぶった男が入ってくる。
「自白強要剤を使え。これを飲ませれば、たちどころに何でも吐くであろう」
「この娘は、自己の思考操作をしているようなのです。
うそ発見器にも反応しませんから……おそらく、自白剤も効きません」
男は、怪しげな笑みを浮かべた後、
「では、残る方法は、一つしかないな。
催眠麻薬0号と指向性蛋白を練り合わせて、口から流し込め」
と、指示を出した。
「あの、セルプスキー研究所で作られた新型麻薬を……
阿芙蓉から精製した催眠麻薬0号を使えと、申すのですか。
催眠暗示でも、鎮静効果のない錯乱状態にある衛士に使う薬などを使って、狂ってしまったら……
支那で投薬3号として売り込んだ際は、意識障害の後遺症を数多く出した薬などを……」
正式名称は、セルブスキー司法精神医学研究所といい、1921年開設された精神医学の研究所である。
スターリン時代から秘密警察と共に強制収容所の運営にも関与し、歴代所長はNKVDの幹部が占めた。
同研究所はKGBと一緒になって、反体制派を『不活発性精神分裂病』と認定し、精神医学を政治的にもてあそんだ。
「上手くいけば、君のことを昇進できるよう、同志長官代理にお伝えしよう」
そういうと、男は女職員に口づけした。
「素晴らしいデーターの収集を楽しみにしているよ。ハハハハハ」
喜色をめぐらせた男は、その場を後にした。
肘掛椅子に腰かけた夏季勤務服姿の女が、わきの女兵士に呼びかける。
「革鞭を持て」
ナガイカとは、カフカス地方に由来する乗馬用の皮の短い鞭で、コサック騎兵が使う鞭とされている。
「同志大尉、これを」
黒髪の女大尉は立ち上がると黒い乗馬鞭を握りしめ、美久の胸目掛けて、袈裟懸けにたたきつける。
「あああっ、ふぁああああ」
身体の奥底から、聞いた事のない様な悲痛な声をあげ、長い茶色の髪をおどろに振り乱しながら、肩と細腰をユラユラとくねらせる。
美久の絶叫を聞いた女大尉は、顔色一つ変えずに鞭の動きを止める。
ずかずかと軍靴を踏み鳴らして、美久に近寄ると、彼女の顎に右手でかけて、ゆっくりと持ち上げ、尋ねた。
「いうがよい。氷室美久。
あのゼオライマーは長大なエネルギー砲を備えながら、核燃料を必要としないのか。
なぜ、なぜなのか」
ゆっくりと、美久は眼を見開いて、きりりと、女大尉をねめつける。
「その秘密は、サブパイロットであるお前が知らぬはずがあるまい」
美久の態度が逆鱗に触れたのであろうか、女大尉は途端に赫怒した。
「おのれ!東の小島の牝猿のくせして、その反抗的な目は、なんだ」
眉をひそめ、朱色の口紅が塗られた唇の両端がつり上がる。
ロシアの迷信の中には、「睨んで呪いをかける」というものがある。
そのため、ロシア人は、自分の子供が写真を撮られれたり、ずっと見られるのを嫌う習慣がある。
子供があまりにもかわいいからといって、ずっと褒めていると変な呪いをかけていると思い、嫌がるのである。
このカフカス人の女大尉も、美久の態度を、日本の怪しい邪教の術と解釈したのだ。
もともと、ロシア人は素朴で信心深い人々だった。
だが、ソ連60年の歪んだ思想教育や無宗教政策のため、必要以上にまじないや呪いの類を恐れるようになってしまったのだ。
「この私に、悪魔の呪いをかけようとは……
いまわしき侍、日本野郎の木原の情婦のくせに、生意気な。
電撃のボルテージを上げて、この娘に食らわせてやれ」
先ほどの白衣を着た女職員が駆け寄って、哀願する。
「これ以上は心停止の恐れがあります。危険かと……」
激高していた大尉は、女職員に平手打ちを喰らわせる。
「ええい、だまれ、だまれ、このたわけが」
不意を突かれて抵抗できなかった彼女を、いきおいよく罵る。
「ならば私の手ずから、この木原の情婦を手なずけようぞ」
大尉に打たれた頬を手で押さえながら、今にも泣きださんばかりの顔をする女職員は、こう答えた。
「こんな小娘、一人痛めつけて何があるでは、ありますまいのに……
なぜそれほどまでに……」
瞋恚を明らかにした女大尉は、女職員の襟首をつかむと、こう吐き捨てた。
「木原を討とうとして、戦地に倒れた我が良人の仇……
お前に、この未亡人の心が、一人の寂しい人妻の心が、わかるのか」
この未亡人は、笑みを浮かべながら、拳銃嚢からナガン回転拳銃を取り出して、
「日本野郎よ。わが良人の仇、受けてもらうぞ」
きつく縛められた美久に、回転拳銃を向ける。
美久は、親指で押し上げられる撃鉄の音を聞きながら、ただ困惑しているしかなかった。
ソ連KGBは今回の誘拐作戦で相手を混乱させるべく、複数の国家間をまたぐ撹乱作戦に出た。
だがそのことは、彼らの足並みを乱す原因にもなった。
中東で打倒イスラエル、打倒西側を掲げるパレスチナゲリラのもとに日本を追われて逃げ込んでいた共産主義を掲げるテロ集団がいた。
そのグループは、美久誘拐事件を聞きつけて、パレスチナゲリラを訓練していたKGB将校に話を持ち込む。
「同志大佐、氷室を理由にして、日本政府から金と人員を強請るというのはどうでしょうか。
網走刑務所に収監中の同志達20名のほかに日本全土から100名の精鋭を連れてまいります」
「なに、身代金と人材リクルートということかね」
「3億ドルほど要求して、1億ドルずつ分けませんか。
ハバロフスクがなくなって、同志大佐もだいぶ物入りでしょうし」
「フフフ、帝国主義者どもが集めた金で、帝国主義者を退治するのか。よかろう」
「ではさっそく準備いたします」
KGB大佐は日本人テロリストがいなくなった後、悪霊を追い払うかのごとく罵った。
「薄汚い犬畜生めが!」
椅子の背もたれに倒れ掛かった後、しばし物思いにふけった後、
「猿同士のいがみ合いか。これは面白くなってきたぞ」
机から陶器製のパイプを取り出し、シリア名産の「ラタキア」を詰める。
ゆっくり火をつけると、紫煙を燻らせながら、
「木原め、必ず血祭りにあげてやる」と、満面の笑みを浮かべた。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
問題点があったら、修正しますので、ご指摘ください。
あと、3月21日は休日投稿します。
今年のゴールデンウィーク期間中の連続投稿は時間的に厳しいので、天長節のみにする予定です
熱砂の王 その6
前書き
ソ連は、縦割り行政なのに同じような役所が多くて、調べていて困惑してます……
ソ連の影響下にある、中東の大国、シリア。
その隣国レバノンは、ソ連にとって、なんとしても抑えたい拠点の一つであった。
BETA戦争によって弱体化したソ連は、隣国、NATO加盟国のトルコと、親米の帝政イランの強大国を前にして、震えあがっていた。
(当時のソ連では、黒海を挟んで、トルコ、カスピ海を挟んで、イランが隣接してた)
無論、帝政ロシアの時代から、トルコとイランは宿敵であり、幾度となく干戈を交えた。
戦争で簡単に勝てなかったロシアは、様々な秘密工作を仕掛け、クリミア・ハン国や、カフカス地方、果てはイランの影響力の強い中央アジアまで、その版図に収めた。
スターリン時代の1920年代には、積極的にアフガン紛争に参加し、親ソ派のアマーヌッラー・ハーン王を支援するも、英国の支援を受けたハビーブッラー・カラカーニーにより廃位され、その野望は潰えた苦い経験があった。
だから、英米とイスラエルの目が光っているトルコやイランで活動するのではなく、シリアやイラクといったすでに社会主義を採る国に軍事支援という形で多数の軍事顧問団を送り込んでいた。
史実の中東戦争やレバノン紛争の際も、ソ連政府は、数千人の人員を送り込んだ。
エジプトやシリアの依頼を受けたという形で、ソ連軍事顧問団は、防空部隊やパイロットを指導した。
1960年後半の消耗戦争の際、ソ連軍パイロットは、エジプト軍の戦闘機でイスラエル軍と戦った。
ここは、シリアのダマスカス近郊にあるメッツェ空軍基地。
そこの一室に、ソ連軍の将校が集められ、密議が凝らされていた。
彼らは、シリアに派遣されたソ連軍の戦術機部隊の将校と、政治将校であった。
肘掛椅子に腰かける、杉綾織の熱帯服姿の陸軍大尉は、机より顔を上げる。
正面に立つ白髪のアブハズ人の少佐に向かって、翡翠色の瞳を向けて、
「ゼオライマーと戦って、勝てる保証はない……
仲介役を申し出ているシリアとヨルダンを通じ、人質の女衛士を返せば、済む話では」
遮光眼鏡をかけた少佐の顔を見上げながら、告げる。
上質なトロピカルウール製の熱帯勤務服を着たアブハズ人は、政治部将校であった。
遮光眼鏡を外すと、正面に立つ若いグルジア人の大尉を見ながら、
「グルジアの党書記を務めた、御父上のご尊名を汚したくはあるまい」
と、能面のような表情をしたまま、答えた。
黒髪のグルジア人青年将校は、男をきつくねめつける。
「何、私を懲罰にかけるだと」
思い人の様子を、フィカーツィア・ラトロワは、黙って見守る。
脇に立つ、長い銀髪を束ねた副隊長と一緒に、直立不動の姿勢で、注視していた。
政治将校は、顎に手を当てながら、室内を数度往復した後、
「もしもだ。そのようなことになれば、つまらんであろう。
悪いことは言わん。GRUの計画に協力せよ」
両手を広げて、男に同意を求めた。
「馬鹿な。党指導部が、この私を懲罰にかけるものか。
第一、ソ連のことを思えばこそ」
椅子より身を乗り出して、反論した。
政治将校は、彼に顔を近づけて、強い口調で言い放つ。
「とらえた女兵士を、木原がゼオライマーで救出すれば」
「救出するという保証はあるのかね」
政治将校は畳みかける様に続ける。
「救出しないという保証も、又、無い」
大尉は、自嘲するような笑みを浮かべ、
「フフフ、なるほど。つまり、危険な芽は早いうちに摘んでしまえと」
「その通りだ。木原を倒し、中近東でのソ連の足場を完成させる。まさに一石二鳥」
半ばあきらめたかのように、言い放つ。
「その話は、了解した。
ただし今の我々は、シリア政府の許可がなければ、シリア領空からレバノンを攻撃することはできない。
そのことだけは、忘れないでほしい」
政治将校の説得を受けた大尉は、一頻り思案した後、電話で戦術機部隊に待機命令を出す。
中隊長室を後にし、シリア側と話し合いに行く際、駆け込んできたラトロワに止められる。
「中隊長、ぜひ聞いてほしい」
カーキ色の熱帯服姿の彼女を一瞥した後、碧眼を見つめながら、
「悪いが時間がない。歩きながら話してくれないか」
そう告げると、立ちふさがる彼女の右わきから通り抜ける。
ラトロワは振り返ると、すぐに先を進む男を追いかけて、
「率直に言う。出撃をやめてくれないか」
男は立ち止まると、彼女のほうを振り返って、驚愕の表情を見せる。
「なんだって!どういうことだ」
「出撃をすれば、その日本人の思うつぼだ。
いたずらに犠牲を増やすより、ほかに方法はあるはずだ」
男は、首を横に振る。
「いや、いかにフィカーツィアの意見でも、それだけは聞けないな」
ラトロワの表情が変わったことに気が付いた大尉は、じっと見つめる。
「亡くなった御父上の名誉が、大切なことはわかる。
懲罰が実施されるかも、わからないし……
それに無駄に戦わずとも、上層部の不興を買わないで済む方法が、ほかにある」
彼女の深い憂慮の念をたたえた眦には、うっすらと涙が浮かんでいた。
そこに後ろから、政治将校が現れて、
「もっと大切なことが、あるのだ」
思わず絶句したラトロワと男は、直立不動のまま、政治将校に顔を向ける。
「母なる祖国、ソビエトの大地を荒らした宿敵、ゼオライマーの首を他の国に奪われる事になってからでは遅い。
断じて、米国や帝国主義者に、渡すわけにはいかない」
立ちすくむ、二人の若い男女の顔色が変わる。
(「70万の人口が住む都市が一瞬に消せる相手などにかなうものか……」)
ラトロワの胸は、悲壮感で張り裂けそうだった。
苦しい思いに押しつぶされそうな彼女は、思わず基地の外に駆け出していた。
忘れもしない、あの恐ろしいゼオライマーの攻撃。
ソ連極東の巨大都市が、一台の戦術機の攻撃によって、一瞬にして灰燼に帰したのだ。
しかも、前線からはるか後方で、安全だと思われていた臨時首都で行われた、白昼の大虐殺。
死を覚悟して、BETAの溢れる支那に近い蒙古駐留軍に送り出した弟のほうが安全で、首都で政治局員候補として勤めていた義父があっけない最期だったのも、受け入れられない事実だった。
自分があの時、戦って止めていれば、変わったのだろうか。
「ソビエト社会主義の旗の下、全人類が団結すれば、いずれはBETAに勝てる」
いくら、党指導部が作った大嘘と分かっていても、信じて戦ったものが大勢いる。
ソ連の社会主義建設のために、純粋にその燃える血潮をたぎらせて、散っていった幾千万の勇者たち。
長い戦争で見知った顔が消えていくのは、今に始まったことではない。
鋼鉄の意思をもって、『ファシスト』枢軸国と戦ったソ連政権。
あの4年半も続いた『反ファシスト』の『大祖国戦争』も、勝ち抜いたが、その傷跡は30年以上が過ぎた今も癒えていない。
幼いころからさんざん聞かされた政治プロパガンダで、『ソ連は独力で戦って勝った』とされたが、それも今回の戦争で嘘だということが分かった。
ソ連は米国からの食糧購入をBETA戦争前からしていたし、今自分が乗り回しているMIG-21ももとはといえば、米国のF4ファントムの改良版。
着ている被服も、履いている軍靴も、米国からの有償貸与品だ。
結局、自国では、何の技術も設備もない。
あるのは、資源と生産力のない人間と、国費を懐に入れる腐敗役人だけ。
東ドイツやポーランドと敵対した今、経済相互援助会議での、社会主義経済圏の豊かな生活も機能していない。
一度その様な生活を覚えると、昔に戻るのはかなり厳しい。
今、戦おうとしている相手は、口のきけない怪獣、BETAではない。
木原マサキという、生身の青年科学者だ。
彼との対話は、出来ないのだろうか……
いくら、侍という、野蛮な戦士とはいっても、人間なのだから。
彼の愛した女は、東ドイツの戦術機部隊隊長の妹だという。
だから、決して話し合いに応じない相手ではないことは、確かだ。
どうすれば、無益な戦争を避けられるのだろうか……
そんな事を、つらつらと思い浮かべていた時である。
熱帯用の編上靴を踏み鳴らす音がして、彼女は、振り返った。
「フィカーツィア、こんなところにいたの。
いつ、緊急発進の指令が下るかわからないのに、食事ぐらいとったら、どうなの」
そこには、長い銀髪をラトロワと同じようにゴールデンポニーテールで結った婦人兵がいた。
男物の熱帯野戦服に、航空科を示す青色の襟章を着け、肩には三つの金星が並ぶ肩章。
「なんだ、ソーニャか……
ちょっと、例のゼオライマーとかいう機体が、気になって考えていた」
ラトロワがソーニャと呼んだ上級中尉の階級章を着けた女は、副隊長だった。
名前を、ソフィア・ペトロフスカヤといい、偶然にも人民主義者の女暗殺者と同じだった。
ただ、父称が、アントノヴァナと違った。
(父称とは、スラブ文化圏やアラブ文化圏にみられる父系の先祖を遡るための名称である。
これがあることでその人物が私生児でないことを示し、一種の敬称や姓の代わりとして用いられた)
「そんなこと、気にしても始まらないでしょ。
悪魔の戦術機を、開発した男のことなんか……」
「じゃあ、何故BETAと戦ったんだ。そんな強い戦術機があるなら、ハイヴ攻略する前に世界征服を出来たろうに」
ラトロワの問いに、ソーニャは素っ気なく答えた。
「知らないわよ。そんなの、その日本野郎に聞いてみなさいよ」
シガレットケースから、細く巻いたマホルカを取り出して、火をつける。
(『マホルカ』とは、茎・葉ともに粉々にしたロシアタバコの事であり、ソ連時代は粉の状態で配給や販売された)
今日でも、ソ連、東欧圏で、婦人の喫煙は珍しいことではなかった。
東ドイツでは婦人の約3割近くが喫煙し、より娯楽の少ないソ連では約半数が喫煙していた。
ただ、マホルカよりも、外国たばこのマルボーロやキャメルといった軽い吸い口のものが好まれていた。
ソーニャは歴戦の兵らしく、麻紙を使った手巻きタバコを愛用していた。
だが、それとて高級な部類であった。
物資の欠乏が激しい最前線では、イヌハッカやレタスを乾燥させた物を刻んで、プラウダやイズベスチヤなどの新聞紙に巻いて、吸うほどであった。
「ただ、我々に与えられた任務は、ハバロフスクの雪辱を果たす事よ。
ヴォールク連隊の衛士たちの敵討ちという……」
ソーニャは、紫煙を燻し、どこか遠くを見つめながら、告げた。
さて、レバノンのソ連大使館では、そのころ動きがあった。
駐箚大使以下、GRU支部長やソ連軍事顧問団の将校、KGBの幹部たちが一堂に会して密議を凝らしていた。
「氷室美久という女衛士が、人造人間だと!」
レバノン大使が、驚愕の声を上げる。
「とても、信じられる話ではないね」
防空ミサイル部隊を指揮する防空軍大佐も同調する。
BETA相手では役立たずになっていたミサイル部隊も、戦術機やゼオライマーには効果がある。
そういう事で、呼び寄せ、基地防衛の任務にあたらせていた。
KGB所属の軍医大尉は、興奮した面持ちで、
「これだけの資料を、ご覧になられてもですか」
大使は、訝しげに尋ね返した
「君は、信じるのかね」
「胸部エックス線写真、コンピュータ断層撮影装置の測定結果は十分な根拠になりうるかと」
セルブスキー精神研究所の研究員もいまだ信じられぬ面持ちで、答える。
「氷室は、日本野郎の、普通の女にしか見えんが」
会議に参加していた、ソ連外国貿易省のレバノン駐在員も、追随する。
この男は、貿易省の役人に偽装したGRU工作員であった。
「そうだとも、それをどう説明するのかね」
それまで黙っていたGRU大佐が、
「これ、以上議論の余地はないな。百歩譲って、木原がそのようなものを作ったとしても……
現在に至るまで、我々GRUの諜報網に引っかからなかったのだね……」
レバノン大使が畳みかける様に、KGBの軍医大尉をなじる。
「あの米国ですら人工知能の実用化は、まだ達成していない。まして小型化など……
その、人造人間とやらでも、機械があんなにはっきりと受け答えできるかね」
男は、憤懣やるかたない表情で立ち上がると、言い放つ。
「やれやれ、時間の無駄だったようだな!」
一斉に席を立つ幹部たちを見ながら、軍医大尉は一人残ったKGB大佐を見つめる。
「どうする……」
大佐から問われた軍医大尉は、
「コンピュータ断層写真の件が、どうも引っ掛かります。
それに、あの拷問を受けても即座に回復したのを見て居れば、機械人形としか思えないのです」
KGB大佐は、懐中より、曲線を描いたベント型のメシャムパイプを取り出し、火をつける。
「うむ」
ブランデーの香りがする、紫煙を燻らせながら、
「私も、その点は気になる。納得いくまで調べるかね」
「はい」
「では、その線でいきたまえ」
そういうと、肘掛椅子に深く腰掛けた。
後書き
ソ連軍はほとんどモブキャラばかりなので、名ありのオリキャラ出しました。
名前と容貌は、内田弘樹先生の最新作から借りました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
奪還作戦 その1
前書き
特殊任務といえばデルタフォース
ここは地中海。
キプロス島の洋上50キロメートルに展開している戦艦「ニュージャージ」
第二次大戦前に起工された同艦は、本来ならば静かな余生を送るはずだった。
BETAの襲来を受け、姉妹艦と共に16発のハープーン対艦ミサイルや32発のトマホーク巡航ミサイルなどで近代化改修され、大西洋に戻ってきたのだ。
その後ろから続く、駆逐艦「ジョン・ロジャース」を始めとする駆逐艦や巡洋艦数隻。
少し距離を離れて追いかけてくる、海兵隊の揚陸艦艇1隻。
その揚陸艦艇の一室に、響き渡る男の声。
「おはよう、デルタフォースの諸君!」
極彩色の部隊章が縫い付けられた深緑色のOG107作業服を着た男が敬礼をする。
襟に輝く銀色の星型階級章。男が少将である事を示している。
レイバンの金縁のサングラスを取り、周囲を見渡す。
居並ぶ男達が来ている服は、俗に虎縞模様と称される迷彩被服。
顔は黒・緑・茶の三色のドーランで塗りたくられ、目だけが恐ろしいほど輝いていた。
最新式のイングラムM10機関銃や西ドイツ製のMP5短機関銃を抱えて、直立不動の姿勢を取る。
「これより、氷室美久女史の救出作戦と、木原マサキ博士の支援作戦を実施する。
イスラエルの暫定首都テルアビブよりCH-47で発進し、ベイルートで氷室女史を確保後、ソ連の基地を爆破して撤退する」
隊員の誰かが口を開いた。
「もし、敵が戦術機を用いる場合は、如何しますか……」
「海兵隊より戦術機の航空支援をさせる。彼等に格闘戦させる。
もし、航空支援が間に合わなくて駄目なら、通信機器を取り除いた後、爆破して撤退しろ」
「Sir, yes sir!」
男達は力強く返した。
仄かに東の空が白みがかってきた頃、大型輸送ヘリはレバノン南部にいた。
航続距離2,252キロメートルを持つCH-47。
回転翼の爆音が響く中、一人の兵士は今回の作戦について隊長に尋ねた。
「隊長……、なんだって日本軍の衛士を救うのに、我々がやるしかないんですか……。
連中、南ベトナムやカンボジアと違って立派な軍隊持ってるじゃないですか」
隊員の誰の心にも、そう言った疑問がわくのには不思議はなかった。
「これはな、国防総省の命令じゃなくて中央情報局からの依頼なのだよ」
「カンパニー(CIAの別称)案件ですか……」
隊長は、不安げに彼を見つめる隊員たちを、振り返った後
「露助は、越南人共とは違うぞ……。心してかかれ」
隊員たちの力強い返事が、機内に木霊した。
「了解」
さて、マサキたちといえば、ヨルダン王国の首都、アンマンに来ていた。
この国はシリア、レバノンと陸路でつながるこの中東の小国。
かつては反イスラエル、反英運動の拠点であったが、1970年に事情が変わる。
時の国王が、傍若無人の振る舞いをする過激派集団、PLOの存在を疎ましく思い、イスラエルとの対話姿勢を打ち出し始める。
同年9月6日にPLOの過激派PFLPによる連続ハイジャック事件が発生した際、王は怒髪天を衝く。
即座に、パレスチナ難民ともども国外退去を命じた際、件の過激派は黙ってなかった。
市中の銀行や商家を襲い、金銀を略奪し、首都を焼き払い、政府転覆をはかった。
ヨルダン王は、近衛兵を中心とした政府軍の部隊を送り、鎮圧したが話はそれで済まなかった。
1970年当時、PLO支援に積極的だったシリアは、陸軍部隊をヨルダンに侵入させ、PLOに加勢した。
戦争の危機を危ぶんだエジプトの仲介もあって、停戦合意はなされたが、その恨みは骨髄に達するほどであった。
だから、マサキたちが美久の誘拐事件でレバノンに乗り込むと聞いた際、国王は即座に協力を申し出たのだ。
この世界で、一下士官であるマサキの立場では、おいそれと一国の王と会える身分ではない。
国王との謁見は、同行してきた御剣という形で行われた。
鷹揚に挨拶をした後、御剣は国王に対して、今回の誘拐事件の協力に関し、尋ねた。
「では、氷室君の奪還作戦に協力していただけると……」
国王は、御剣の目を見ながら、
「72時間だけ、我が国の領土、領空の自由通行権は保障いたしましょう」
そして、脇の護衛官から紙を受け取ると、
「あと、レバノンに潜り込ませているわが情報部の報告によれば、氷室さんはおそらくベイルート市内にいると考えられます」
それまでマサキは、端の方で静かに座っていたが、その情報を聞くや、立ち上がった。
「王よ。貴様の話、信じさせてもらうぞ」
そう言い残すと、周囲の喧騒をよそに、マサキは部屋を後にした。
深緑の野戦服に、両肩から掛けた二本の弾帯、七連の弾薬納には20連マガジンが隙間なく詰められている。
腰のベルトには満杯になった弾薬納のほかに、ピストルと銃剣が二本づつ吊り下げられていた
鉄帽を片手に持ち、M16を担い、完全装備を付けたマサキを見た白銀は、
「先生、どこに行こうっていうんだね」
M16の最終確認をしていたマサキは、顔を上げて、
「今から、ベイルートのテロリストどもを抹殺してくる」
「道案内は……」
「問題ない」
この時代、人工衛星によるGPSシステムは未完成だった。
しかし、マサキは慌てなかった。
次元連結ステムがあれば、美久の場所は即座にわかる。
そして、最悪の場合、美久だけをゼオライマーに呼び出すことができる。
だが、鉄甲龍に美久が捕まった際、アンドロイドと露見したように、KGBにも知られる可能性がある。
万に一つのことを考えて、マサキはKGB、いやベイルートにいるテロリストもろともソ連の関係者を抹殺することにしたのだ。
「なあ、先生。この俺じゃあ、役不足かい」
「フフフ、俺は貴様のことを知らぬからなあ」
「鎧衣の旦那には、負けない自信はあるぜ。
それと、イスラエルに頼んで、陽動作戦用の武装ヘリと戦術機隊を用意しましょうか」
「その必要はない。天のゼオライマー、それ一台があれば、すむ。
それにユダヤの連中は法外な値段で吹っ掛けてくるだろう。
人手を借りるにしても、金を借りるにしても、高くつきすぎる。
分解整備中のゼオライマーも何時でも稼働可能なように、準備してくれ」
マサキの発言に、白銀は信じられない顔をして、問い返す。
「ここから、一万キロ以上離れた、シアトル郊外のタコマ基地に連絡するのかい」
「ああ、それさえ準備すれば、最高のダンスパーティができる。ハハハハハ」
ヨルダン訪問の翌日。
マサキたち一行は、ソ連の意表を突くため、陸路でレバノンに乗り込むことにしたのだ。
日章旗を着け、機関銃で武装したランドクルーザー55型の車列は、ダマスカス経由でベイルートへ向かった。
ダマスカス郊外に、近づいた時である。
すると、轟音一声、たちまち上空から黒い影が車列の上に現れた。
なお街道の附近にある丘の上には、象牙色と深緑の砂漠迷彩を施した数台の戦術機が地ひびきして降ってきた。
その様を見て居た御剣は、即座に指示を出す。
「戦うな。わが備えはすでに破れた。ただ損害を極力少なくとどめて退却せよ」
車列の後ろにも、赤、白、黒の円形章を着けたMIG-21が一台下りてきて、ふさぐ様に立ちすくんでいた。
万事休すか。
誰しもが、そう考えた時である。
砂地に着陸した戦術機の管制ユニットが開き、ソ連製の機密兜に強化装備をつけた男たちが下りてきた。
ソ連製の強化装備の左腕につけられた国家識別章は赤、白、黒の三色旗に、緑の星が二つ。
アラブ連合共和国の国旗を起源とするシリア国旗だった。
白旗を持った衛士の後から、強化装備姿の偉丈夫が近づいてくると、ゆっくりと機密兜を脱いだ。
男はマサキのほうを向くと、手招きしてきた。
男の正体は、シリアの大統領だった。
彼は、空軍パイロット出身であったので、戦術機に乗って陣頭指揮を執ることがあったのだ。
マサキは、その話を聞いてあきれるばかりであった。
古代より陣頭指揮は、士気を鼓舞できるが、常に戦死や捕虜の危険性がある諸刃の剣。
電子戦の発達した現代で、国家元首が最前線に立つのはどれだけ危険か。
約100年前の普仏戦争のとき、皇帝ナポレオン三世はプロイセン軍に捕縛されてしまい、戦争自体が継続できなくなってしまった。
たしかにBETA戦争は、重金属の雲で電子装置や無線通信を制限したが、それでも国家元首の戦死というリスクは避けられない。
暗殺のリスクを押してまで、自分に会いに来たのか。
そう考えて、話し合いに応じることにした。
話し合いが始まるまで、中東の政治事情に疎いマサキは、シリアとソ連の関係が蜜月とばかり思っていた。
大統領の話によると、ソ連を信用していない様子だった。
ソ連からの約束された武器支援は滞っており、戦術機も100機以上納入されるはずが20機程度しか送ってよこさなかった。
マシュハドハイヴ建設の際は、政権崩壊の懸念から再三にわたって支援を要請するも、逆に、翌年には軍事支援を停止してしまった。
ミンスクハイヴ攻略がすんでから、軍事援助の再開を決定し、ソ連軍顧問の派遣を含む、新しい武器協定が結ばれた。
追加のMIG21バラライカ25機と、技術要員の新規派遣。
しかし、ソ連は、BETAの脅威が軽減したことを理由に、より高度な戦術機の納入を拒否し続けた。
そのことに、シリア側は、強く不満を感じていたのだ。
一通り、話を聞いた後、マサキは懐中より、タバコを取り出し、
「それにしても社会主義国のシリアが、この俺を手助けしようなどとは聞いたこともないな。
破天荒だぜ」
紫煙を燻らせながら、半ばあきれ顔で、笑う事しかできなかった。
「俺のことを助けて、日本政府から円借款を引き出す。
まったく、うまい算段を考え出したものだ。ハハハハハ」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
奪還作戦 その2
前書き
日本政府のがばがば対応。
さて、日本政府の反応は、どうであったろう。
米軍特殊部隊による救援活動を知らない日本政府は、美久誘拐事件でも米国やマサキたちの意図とは違った反応を見せる。
ニューヨークの総領事を通じて、誘拐事件の連絡を受けた日本政府は、対策本部を設置した。
西ベルリンの時と違って、今回の様な複数の国家間を跨ぐ誘拐事件の対応は混乱を極めた。
ここは、日本帝国の首都、京都。
官衙の中心に立つ、首相官邸の、最上階にある総理執務室。
次官会議の取りまとめを務める、内閣書記官長(今日の事務担当の内閣官房副長官)の発議で始まった会議は紛糾していた。
執務室の中では、閣僚や事務次官たちの喧々諤々の議論が飛び交う。
内務省警保局長(今日の国家公安委員長に相当)が、
「総理、こんな難題を帝国政府が負う必要はない。安保を理由に米国に処理させよう」
総理の脇にいた警視総監は、うなづいた後、
「とにかく、早急に具体的な案を考えねば……」
と、発言すると、今度は商務次官(今日の経産次官)が、
「ゼオライマーは帝国陸軍の管理下にある事になっている。責任転嫁は許されますまい」
官房長官が、 勢いよく机をたたきつけ、
「パレスチナ解放人民戦線などという、テロ集団と交渉などできるものか!」
と、右往左往する官僚たちを一喝する。
その場に、衝撃が走った。
その場にいた、内閣書記官長はじめ、次官や官僚たちはみな凍り付いた表情である。
室中、氷のようにしんとなったところで、外相は立ち上がり、
「パレスチナ解放人民戦線は、帝国政府のみとの交渉を望んでいる。
日本の、いや世界の安全のためには、応じるしか有るまい」とその場をなだめた
その時である。
執務室にある電話が鳴り響いた。
誰もが、血走った眼を机の上の黒電話に向ける。
応対した総理秘書官の男は、受話器を右の耳からゆっくり遠ざけ、
「総理、パレスチナ解放人民戦線の首領と名乗る男から電話が……」
と、総理の方に、悲壮感の漂った表情を向ける。
「こちらに、回線をつなぎたまえ」
警察と情報省の逆探知班が、脇でレコーダーを静かに捜査していた。
電話会談は、外務省の英語通訳を挟んで、行われた。
すでに、この時代には、米国AT&Tにより商業化されたテレビ電話があった。
米国の例を採れば、30分の無料通話つきで月額160ドル(当時のレートで3万2千円。現在の9万3千円)というかなり高価なものであったが、相手の表情が見れるというのは新鮮であった。
また書類や写真などを、即座に画像で送れるのは、企業に喜ばれた。
だが、相手は匪賊の頭目なので、そのような高価なものは持っておらず、通常回線による電話だった。
逆を言えば、通常回線なので、情報省や警察当局による逆探知が可能でもあった。
首相は、電話に応じる姿勢を見せながら、相手の本部がどこにあるか、情報収集の時間を稼ぐことにした。
「先ほど、ご紹介いただいた件ですが、人民戦線の議長さん、会談はどちらで……」
「レバノンのベイルートで……」
首相は静かに、男からの返事を待つ。
「では客人としておかずかりしている衛士返還についてだが……
その前に、飲んでほしい条件がある」
「はい」
「日本政府に捕らえられている社会主義を信じる革命戦士。
いわゆる、赤軍派とか革命軍といわれる活動家の100名と交換ということでどうだね。
両者の会談を行う前提条件として、これらの人物の全員の即時釈放を要求する」
首領を名乗る男の声に、一斉に執務室の中が色めき立つ。
「犯罪者の釈放だって……」
「爆弾魔どもを野に解き放てと!」
苦虫を嚙み潰したような表情をした総理は、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「数分の猶予をいただきたい」
そういって、保留音のボタンを操作すると、静かに受話器を脇に置いた。
憤る官房長官は、
「よくも、ぬけぬけとそんな事を」
瞋恚をあらわにし、紫煙を燻らせた後、
「このまま、テロリストと会談を持てば、日本は法治国家ではないと全世界に表明することになる」
と、心にある不安を打ち明けた。
奥より、老人が声を上げる。
「鎧衣を呼び出せ」
「翁、真ですか。
あの木原という小僧の子守りをしておきながら、事件を未然に防げなかった奴をですか」
「あ奴は、カンボジア戦線で敵地奥深く侵入し、無事国外に脱出した実績の持ち主。
今度もうまくいく」
翁と呼ばれ、閣議や次官会議に出入り御免の謎の老人。
この人物のことをお忘れの読者もいよう。
彼は、帝都城出入り御免の人物で、『影の大御所』と呼ばれる人物。
マサキをミンスクハイヴ攻略に向かわせた人物で、斑鳩の元当主でもあった。
閣議に参加していた、国防政務次官の榊是親のほうを向くと、
「榊君、すまぬが人柱になってくれぬかね」
「翁がそうおっしゃるのなら……」
榊は、静かにうなづいた。
首相は、背もたれに寄りかかりながら、落ち着いた声で、賊徒の首領に返答した。
「こちらからは榊国防政務次官を特命全権大使として会談に向かわせましょう」
「ああ。分かった」
首領は、そう満足げに答えて、受話器を置いた。
そのころ、マサキたちといえば。
彼らは御剣の許しを得たうえで、日本政府の指示を待たずに行動に走った。
武装した車で、暮夜ひそかに、ベイルートに入る。
その夜の、マサキのいでたちといえば。
深緑の布カバーを着けた鉄帽を被り、深緑の野戦服上下に、赤い布きれを両方の二の腕に縛り付け、磨き上げた茶革の軍靴。
白銀は、虎縞模様の鍔広帽子に迷彩服を着こみ、黒色のドーランを顔中に塗りたくって、熱帯用軍靴を履いていた。
ウィリスM38のコピー車両である三菱重工の「ジープ」に、これまたM2機関銃のコピーモデルを載せて。
鎧衣は、相変わらずのホンブルグ帽に、トレンチコートを羽織り、背広姿であった。
ただ黒革のD-3A手袋をし、M2機関銃のハンドルを握りながら、周囲に目を光らせていた。
「なあ、鎧衣。そんなひらひらとしたオーバーコートなどを着ていて、引火したらどうするんだ」
「木原君。これは私の戦闘服、バトルドレスなのだよ。
諜報活動や破壊工作では、如何に市井の人間に化けるかが重要だ。
故に、ホンブルグ帽にドブネズミ色の背広上下が、サラリーマンにふさわしい装いなのだよ」
ハンドルを握る白銀は、大声で尋ねてきた。
「ドレスといえば、先生。例のかわいこちゃんにドレスの一つでも買ってやらないのかい」
「アイリスにドレスを作ってやる話。今の件は、考えておこう」
マサキは、じろりと横目でハンドルを握る白銀の表情をうかがう。
恐ろしいくらいリラックスした表情であった。
不思議に思ったマサキは、めずらしく白銀の過去について、尋ねてみることにした。
「だが白銀よ。今からドンパチに行こうというのにそんな話ができるな……
やはり、お前も鎧衣と同じで死線をくぐってきたのか」
白銀は、うなりを立てるエンジンの音に顔をしかめるマサキのことを横目で見た後、
「ラオスにいたときはヘリに乗りながら最前線に向かう際は、こんな話ばかりしてたのさ」
「お前も鎧衣と同じで、南方にいたのか……」
白銀は、どこか、遠くを見つめるような表情になりながら、答えた。
「ああ、俺はラオス王国軍を指導する軍事顧問団に、参加していた。
ソ連の軍事介入がなければ、あのメコン流域の静かな王国は今も健在だった……」
ラオスもまた、ソ連の対外政策によって国を乱された地域だった。
傀儡の王族を立てて、親ソ容共の左派が全土を支配した。
マサキは、憤る白銀の表情を見ながら、安堵した顔色になり、
「まあ、俺もお前も、ソ連には恨み骨髄というわけか」
白銀はハンドルを握りながら、静かにうなづくばかりであった。
車は、やがてベイルート港の倉庫街に近づく。
しばしの沈黙の後、白銀は、覚悟したかのようにマサキに尋ねた。
「博士は何で、BETA退治に……」
左の胸ポケットから使い捨てライターとホープの箱を取り出す。
「たまたま、俺好みの人間がいたからさ。
好きになった人間を俺の奴隷として、飼ってみたくなった。
いい男がいて、いい女がいる。それだけだ」
フィルムを破り、銀紙の包装を切り取り、タバコを抜き取る。
「そんなことで……BETA戦争に参加されたんですか」
口に煙草をくわえると、静かに火をつけ、紫煙を燻らせる。
白銀の言葉に、マサキは白く整った歯を剥いて、大きくうなづく。
白皙の美丈夫ユルゲンや、明眸皓歯な妻ベアトリクス。
そして、思いを寄せる可憐な乙女、アイリスディーナのことを、しみじみと思い浮かべて。
「俺は、やりたいようにやる。ただそれだけの事だよ。フハハハハ」
マサキは、わが意を得たりとばかりに、哄笑して見せた。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
今年に入って公私ともに忙しく、今までの作品内容を維持できないので、投稿ペースを落とそうか、思案しております。
(たとえば、毎週土曜5時更新から、毎週土日どちらかの更新、あるいは第二、第四土曜日五時更新など……)
更新ペースを変えずに、内容を現状の3000時前後から2000字前後にするか……。
書き漏らしたヴェリスクハイヴの件など……
ご意見いただければ幸いです。
奪還作戦 その3
前書き
米ソ間の小難しいお金の話になってしまいました。
ニューヨークは、マンハッタン島にある石油財閥の本部。
この財閥のオーナーで、チェースマンハッタン銀行の会長である男は、ニューヨークに本店があった貿易会社「アムトルグ」に電話をかけていた。
「アムトルグ」とは、ソ連の対米輸出向けの貿易団体である。
1924年にソ連と関係の深いA・ハマー博士によって設立された半官半民の株式会社である。
合法的なアメリカ法人であったが、その実態はソ連の対外貿易を担う貿易省の一管理部門だった。
1933年の米ソ国交開始までは、大使館的性格を有し、日本における対日通商代表部と同じ役割を果たした。
無論、GRUやOGPU(合同国家政治総本部、今日のKGB機関)の非合法工作員を多数抱え、米国内での諜報活動に参加した。
1940年代に原爆スパイ団を指揮したパヴェル・スダプラトフKGB大佐は、回想録において「アムトルグ」にも原爆スパイの工作隊がいたという証言を残している。
米ソ貿易は1920年に始まったが、ソ連ルーブルの国際的信用は一切なかった。
その為、通商関係にあった___スエーデン、リトアニア、ドイツなど___各国へは金や宝石という形での料金支配をせざるを得なかった。
しかし、米国政府や商業界の多くはソ連の金塊を、ロマノフ王室や貴族、商人からの略奪物とみなし、受け入れなかった。
ソ連側は、代金支払いを米国ドルで建て替える必要があった。
ソ連のダイヤモンドや金塊を、米ドルに換金してくれる金融業者や銀行を探す必要があった。
そんな時、名乗りを上げた銀行があった。
ニューヨークのマンハッタンに本店を置く、チェース・ナショナル銀行である。
同行は、ニューヨークに支店があったソ連国営貿易会社「アムトルグ」を支援し、積極的に取引した間柄であった。
1922年、チェース・ナショナル銀行は、利潤を追求する資本家の大敵とされていた共産党を助けるため、米ソ商工会議所を設立した。
米ソ商工会議所の会頭は、チェース・ナショナル銀行の副頭取だった。
そして、何より驚くべきことに1928年にソ連国債を米国で初めて取り扱ったのは、チェース・ナショナル銀行だった。
チェース・ナショナル銀行とは、チェース・マンハッタン銀行の昔の名前である。
1955年のマンハッタン銀行との合併前の名前で、1920年代ごろから石油財閥の影響下にある銀行だった。
つまり、石油財閥はソ連建国以来の秘密の支援者の一人であったのだ。
摩天楼の最上階にある会長室に、男の声が響く。
ビロード張りの肘掛椅子に座りながら、チェースマンハッタン銀行会長は、驚くべきことを告げた。
「ええ、支店長さん。レバノンには今より2時間ほど後に艦砲射撃を行います」
ソ連人の支店長は、男の発言を受けて、途端に狼狽の色を現した。
「真ですか……ディブさま。
あのPFLPがらみで……」
「そうです。あなた方は私共の大切な商売相手です。
どうぞ、デルターフォースが来る前に、大使館を閉鎖なさって、お逃げなさい」
「ご連絡ありがとうございます」
「いえ、いえ。ソ連という、米国の競争相手。
あなた方の存在があってこそ、冷戦という最高のゲームが行えるのですから」
支店長は、深々と頭を下げて、慇懃に謝辞を述べた。
「常日頃からの、多大な援助。ソ連政府を代表して、感謝申し上げます。
50年前の経済封鎖の時、共産党に7500万ドルの資金を貸し出していただいた件など……」
(1920年のドル円レート、1ドル=2円。1920年の旧円は2020年現在の300円相当する)
会長は満面に笑みをたぎらせながら、
「私共の狙いは、通商を通じた相互理解です。
ビジネスの世界に敵味方はありますまい。ハハハハハ」
レバノン沖に展開する米海軍の空母打撃群。
その周囲を護衛するように並ぶ戦艦「アリゾナ」「ニュージャージ」「ミズーリ」「ウィスコンシン」
BETA戦争での艦砲射撃の対地火力を再認識した米海軍は、モスボールされていた全戦艦と巡洋艦の現役復帰を命じた。
30有余年の眠りからたたき起こされた戦艦は、黒煙を上げ、鉄の巨体を揺らしながら、再び戦場に戻ってきたのである。
戦艦「ミズーリ」といえば、我々日本人には忘れられぬ戦艦である。
武運拙く敗れ去った大東亜戦争の折、昭和20年9月2日に城下の盟を結ばされた場所の一つであった。
既に8月15日のご聖断により、自発的に武装解除していた帝国陸海軍は、これにより完全に武装解除され、その後7年の長きにわたる占領時代が幕を開けるのであった。
日本民族が歩んだ苦難の7年間に関しては、後日機会があるときに触れたい。
では、過ぎ去った歴史より、BETA戦争の世界の1978年に、再び視点を転じたい。
レバノン派遣艦隊の旗艦「アリゾナ」の艦橋では、艦長以下幕僚たちが真剣に、ゼオライマーパイロット、氷室美久の救出作戦を練っていた。
「空母エンタープライズの調整は、まだか!」
艦橋内に、怒号が響き渡る。
副長の声に叱責され、通信員は、おずおずと船内電話の受話器に手を伸ばす。
「F4戦術機の兵装転換に、手間取っているそうです。
なんでも、新型のミサイル。フェニックスミサイルの準備に……」
「集束爆弾だろうと、ナパーム弾だろうと、早く準備させろ!」
副長は怒りのあまり、真っ赤になって叫んだ。
夏季白色勤務服姿の艦長は、心にある不安を鎮めるために、マドラスパイプを燻らせながら、指示を出す。
「戦術機部隊の出撃を待たずに、順次艦砲射撃に移れ」
夏季戦闘服姿の砲術長は、挙手の礼を執ると、
「アイ・アイ・サー」と力強く応じた。
米海軍では、今日においても艦内での禁酒は、つとに有名であろう。
1914年のJ・ダニエルズ長官によって発令された「一般命令第99号」を嚆矢とし、飲酒が厳しく戒められている。
また、幾度の海戦経験から、引火の可能性がある艦橋内での喫煙も、ご法度だった。
だが、その様なことを忘れさせるほどに、この空間は戦場の熱気で興奮していた。
「全艦、戦闘配備完了」
砲術長の掛け声の後、艦長席から立ち上がった艦長は、双眼鏡でベイルート市内を伺う。
そして彼は、艦橋を一通り見まわした後、次のように指示を出す。
「砲術長、一つ派手に頼む。
われらがゼオライマー救出作戦。世界各国の新聞記者諸君が、見て居るのだよ」
ベイルート港に米国艦隊現れる。
その一報を聞いた、KGBの国際諜報団は、大童だった。
美久誘拐を指揮したKGB大佐は、巨漢を揺らしながら、部下たちに美術品の搬出を命ずる。
彼が個人的に集めた、古代ローマやアケメネス朝ペルシア時代の遺物で、本来ならばレバノン政府の許可なくば持ち出せない物であった。
「急げ、黄色日本猿どもが来てからでは遅い」
そういって檄を飛ばすと、木箱に詰められた金銀財宝や陶瓦の塑像。
休みなく偽装工作員や現地協力者などの非合法工作員が、トラックへと運び出す。
複数止められたZIL-131トラックの荷台に次々と、美術品が積み込まれていく。
肥満体のKGB大佐は、美術品を運び出すさまを見ながら、流れ出る汗を拭きとっていた。
「例の女衛士は!」
鞭を持ったKGBの女大尉は、怪しげな笑みを浮かべながら、応じる。
「連れてまいりました。あとは科学アカデミーに連れて行って詳しく解析するだけですわ」
後ろ手錠に猿轡、腰縄を着けさせられた美久が、引っ張ってこられる。
女大尉は、美久の長い茶色の髪をつかんで、手元まで手繰り寄せる。
「この女の事さえわかれば、ゼオライマーの秘密を丸裸にできましょう」
腰までの髪を乱暴につかまれ、腰縄の縄尻もろともぐいぐい引き寄せされる。
美久は、猿轡をされた唇から悲鳴をほとばしらせた。
「ン、ウウンッ……」
KGB大佐は、美久の顎をつかんで、ゆっくりと顔を近づける。
「ウへへ、ヒャヒャヒャ」
恐怖で恐れおののく表情をする彼女を、満足げに眺めながら、野卑な笑いを漏らす。
「氷室よ。ウラジオストックについたら、タップリかわいがってやるよ」
2メートル近い巨体を揺らしながら、舌なめずりをした。
カーキ色の戦闘服に黒覆面を着けた、PLFPの戦闘員が近寄り、大佐たちに告げる。
「とりあえずレバノン政府が用意したバスがございます」
外交官ナンバーのついたフォルクスワーゲンのマイクロバス、タイプ2を指し示す。
大佐は、大きなため息をついた後、KGB工作員と戦闘員たちを見回し、号令をかける。
「では乗り込もう」
タイプ2の後部座席にある、観音扉を開けた瞬間である。
背を向け、寝そべり、紫煙を燻らせている人物があった。
深緑色のシャツとズボンを着け、茶革の軍靴。
その姿は、まさしく帝国陸軍の防暑作業服、そのもの。
日本兵の軍服を着た男は、ゆっくりと背中のほうに顔を向けて、
「寝ている子を起こすなよ」と、低い声で答える。
東洋人を見て、彼らは途端に驚愕の色を示す。
誰もいないはずのワーゲン・タイプ2の中にいる野戦服姿の日本兵。
あっけにとられたKGB大佐は、食指で男を指し示す。
「貴様、この水も漏らさぬ警備をどうやって……」
「ハハハハハ」
満面に喜色をたぎらせながら、流暢なロシア語で答えた。
「次元連結システムのちょっとした応用さ」
女大尉の表情が、にわかに険を帯びてくる。
「誰だ、お前は……」
男はM16自動小銃を抱え、立ち上がると、相好を崩す。
「俺は、木原マサキ。天のゼオライマーのパイロットさ」
鎧衣たちと潜入したマサキは、外交官ナンバーのついたタイプ2を見つけると乗り込む。
銃を抱えたまま、後部座席に寝そべって、敵が来るのを待つことにしたのだ。
マサキは、満面の笑みで、唖然とするKGB将校たちを見る。
「俺の人形を盗んだ罪、その命で払ってもらうぜ」
そういうと、吸っていたホープの紙巻煙草を軍靴で踏みつけた。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
奪還作戦 その4
前書き
戦闘描写回
そのころ、マサキと別れた鎧衣たちは、ソ連の秘密基地の爆破準備を急いでいた。
ベトナム戦争の折、長距離偵察隊が使っていた布製の背嚢を背負い、足早に敵陣を駆け抜けていく。
彼らが背負う布製の背嚢は、LRRPラックサックと呼ばれるもので、北ベトナム軍の背嚢に酷似したものであった。
米国CIAの一部門、対反乱作戦支援局(CISO)によって、日本国内や沖縄で製造されたものである。
(CISOの本部は、沖縄にあった)
深緑色の帆布、あるいはナイロン繊維製で、四角い雨蓋に、外付けのポケットが2から3個ついており、キスリングザックに似た背負い心地だった。
彼らは布製背嚢の中に予備弾薬や、M72 LAWバズーカ、C4爆薬を多数詰めていた。
駆けながら、鎧衣は、首から下げたBAR軽機関銃の負い紐を握りしめ、白銀に尋ねた。
「米海軍の大艦隊が近づいているからと言って、ベイルートから逃げたとはどうしても思えない」
白銀は、周囲を警戒しながら、UZI機関銃を構え、周囲を見回す。
「同感です。敵の目を欺くやり口を散々見てきました」
「ベイルートは、いろいろと古い建物も多い。隠れ場所としては、最高だ」
背嚢の中にあるC4爆薬を、基地中に設置し終えた頃、煌々と明かりのつく建屋が目に入った。
白銀は、UZI機関銃の遊底をゆっくり操作しながら、鎧衣に尋ねる。
「どうやらあの建屋の中で何かを作っているようですね」
ニコンのポロプリズム式双眼鏡で、後ろから覗く鎧衣も同意を示す。
「なんとか、あの中に潜り込んでみたいものだ」
そっと白銀は、鎧衣に耳打ちする。
「じゃあ、僕が行ってきます」
「行ってくれるのか」
背負ってきていた布製の背嚢を置くと、再びUZI機関銃を構える。
「気をつけろよ」
白銀は、音もなく秘密工場へ向かった。
偶然とは恐ろしいものである。
デルタフォースの精鋭工作員たちは、厳重な警備が敷かれた秘密工場を見つけた。
「見つけたぞ」
「この建物はGRUが準備した戦術機の整備工場だぜ」
「ようし、それならGRUの工作隊ごと、爆破してやるか」
デルタフォースとはいえ、血気盛んな男たちである。
マサキたちの救出を命ぜられた彼らは、基地爆破の一環として、この戦術機の整備工場を破壊することにしたのだ。
XM177コルトコマンドーを装備した特殊部隊員が、夜の警備陣地を駆け巡る。
その刹那、照明弾が上がり、数名の特殊部隊の姿が煌々と照らし出される。
秘密基地中に鳴り響く、非常事態を知らせる警報音。
「動くな」
GRUスペツナズの兵士がぐるりと周囲を囲む。
砂漠の地形に対応したカーキ色の戦闘服に、アフガン帽やパナマハットという熱帯用の帽子をかぶり、胸には中共軍の胸掛式弾帯を着けた姿。
最新式の暗視装置БН-2を装備し、SVD小銃や専用のフラッシュハイダーを着けたRPK機関銃を手に手に持って、米軍兵の行く手を阻む。
その場から脱出を図った米兵の足を、暗視スコープを載せたAK47で素早く撃つ。
太ももを打ち抜かれた米兵は、迷彩柄のズボンを真黒く染め、その場に倒れこんでしまった。
背後から、じっと彼らの姿を見て居た鎧衣は、苦虫を嚙み潰したような表情をする。
「早まったことをしてくれたものだ!」
そういうと、BAR軽機関銃をゆっくりおいて、忍び足でGRUの背後に向かった。
まもなく暗闇から、濃い象牙色の服を着た男が、20連射のスチェッキン拳銃を構え、姿を現す。
丈の短い上着と、対のカーゴポケットのついたズボンという恰好。
『マブータ』と呼ばれるGRU特殊部隊に支給された戦闘服だった。
ザイール(今日のコンゴ民主共和国)の独裁者モブツの名前に由来するこの制服は、1970年代初めに同国での特殊作戦で使われた。
この服は、地形や季節に合わせ、様々な保護色の生地で作られ、複数の裁断パターンがある。
一例をあげれば、夏用は、薄いシャツとズボンの組み合わせ。
冬用は、人造毛のつけ襟が付いた厚い綿の入った上下一式が、一般的だった。
後ろから来た隊長格の男は、乱杭歯をむき出しにして、勝ち誇ったようにニヤリと笑う。
「脅しのきく人質が、一気に6人とは。正に勿怪の幸いとは、この事だぜ」
満足げに笑うGRUスペツナズの兵士の後ろから、忍び寄る影。
兵士が気付くより先に、鎧衣は強烈な飛び蹴りを食らわせる。
振り返った別のスペツナズ兵士に向け、袖口より、棒手裏剣を投げつける。
兵士たちは悲鳴を上げる暇もなく、手裏剣を首に受けて、こと切れた。
「ミスター鎧衣!」
デルタフォースの隊員が驚きの声を上げるも、鎧衣は、彼らの背中を押して、退却を促す。
「早く、逃げるんだ」
鎧衣は、負傷した兵士のズボンをナイフで切り裂くと、懐から包帯と衛生パッチを取り出し、手早く巻き付ける。
手負いのデルタフォース隊員を担ぎ上げると、一目散に自分たちが乗ってきたジープに向かった。
さしものGRUも逃がしてくれるほど、やさしくはなかった。
「火線を開け」
指揮官の合図とともに、戦闘の火蓋が切って落とされる。
一斉に、対戦車砲や自動小銃が咆哮を始める。
RPK機関銃による、ひときわ激しい砲火が、鎧衣たちに向けられた。
鎧衣たちは物陰に隠れると、小銃で応射する。
複数の銃砲火によって、彼らは立ち往生してしまったのだ。
混乱の中にあって、米軍特殊部隊と、彼らに囲まれる形になっていた鎧衣は、ひとかたまりになって、要領よく応戦していた。
幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦の勇士である鎧衣は、闇夜を照らす提灯のごとく、彼らを誘導し、安全な場所へと後退させていった。
鎧衣は、巧みに地形を利用し、自身の姿を敵の砲火にさらさなかった。
流石、デルタフォースの隊員である。
冷静さを取り戻した彼らは伏射姿勢のまま、負傷兵を引きずり、ジープの付近まで近づく。
背嚢にしまってある伸縮式の携帯対戦車砲M72LAWを取り出し、砲身を引き延ばす。
射撃準備が整うと、即座に前方の闇の中に向けられる。
雷鳴に似た鋭い砲声が、闇夜を引き裂いた。
M72LAWから発射された砲弾が、GRU支部が置かれた建屋の至近で炸裂する。
漆黒の闇夜を背景に、猛烈な火の手が上がる。
「なんだ!どうした」
壮絶な銃撃戦が始まったことを受けて、後方の建屋にいるGRUのレバノン支部長は慌てた。
「ハッ!」
意表を突かれたGRU大佐は、狼狽の色を顔に滲ませる。
「この肝心な時に……敵が攻めてくるとは」
GRUはKGBの秘密連絡網の蚊帳の外だった。
ソ連の諜報組織は複数あるも、すべて縦割り人事だったため、人材交流や横のつながりは薄かった。
KGBとGRUは互いをライバル視し、困っていても助けなかったのだ。
GRU支部長の嘆きを受けても、ほかの幹部たちは何の意見も挟みようがなかった。
米軍の特殊部隊襲撃の事情に通じていなかった彼らは、種々雑多な怒号叫喚を飛び交わす。
「こうなれば、手当たり次第に出撃させろ」
支部長は、振り返って、後ろにいるGRUの工作員に指示を出した。
まもなく、兵士たちを満載した数台の武装トラックが、鎧衣たちの陣地めがけて、乗り込んでくる。
チェコ製のスコーピオン機関銃とVz 58自動小銃で武装した黒覆面に、カーキ色の戦闘服を着た一団。
彼らは、パレスチナ解放人民戦線(PLFP)の戦闘員であった。
喚声を上げ、小銃を乱射しながら、迫る数百名の戦闘員。
大軍勢の接近によって、戦闘は激化の一路を辿っていった。
激烈な掃射の間を縫って、白銀が鎧衣の目の前に現れる。
「なんだ、白銀君、君一人かね」
白銀の姿を認めると、鎧衣の顔に落胆の色がありありと浮かんだ。
マサキと合流して連れてくるなどと、白銀は一言も言っていないのだが、ひそかに期待していたようだった。
「鎧衣の旦那、基地の爆破準備をしている途中で、デルタフォースの隊員と合流できました。
あとは脱出するだけです」
20名ほどの特殊部隊員が、彼の後ろから音もなく現れる。
鎧衣の表情が、にわかに曇りだす。
「このままではまずい」
思わず、うつむいて沈黙してしまった。
「どうした、ミスター鎧衣!」
デルタフォースの隊長の声を聴くと、静かに顔を上げて、深々と息を吸い込む。
込み上げてくる不安を何とかして抑えようとしている様子だった。
「君たちは氷室さんを救出に着た部隊であろう。
本隊のほうには、何名残っている」
「向こうのほうには、数名の部隊しかおりません」
「彼らは囮だ。本当の狙いは木原君のほうだ」
その場に、衝撃が走った。
隊長をはじめ、みな凍り付いた表情である。
その場が氷のようにしんとなったところで、隊長は、腕時計を一瞥する。
「あと1時間で戦艦アリゾナからの艦砲射撃が始まります。
ここは、ひとまず退却しましょう……」
「幾多の犠牲を払って、氷室さんの救出作戦を組んだ。
今更やめるというのかね……」
隊長は、カッとなって鎧衣のネクタイをつかんだ。
だが、逆に血の気の引いた顔をする鎧衣に諭された。
「今、木原君とその彼が作ったマシーン、ゼオライマーがソ連の手に渡ったら、デルタフォースの犠牲よりもっと大きい犠牲が出る。
それに……」
「それに何ですか。これ以上犠牲が出れば……」
隊長の目を見ながら、鎧衣は冷酷に告げる。
「君個人の責任云々を言っているのではない。
木原君の力を借りて、BETAとの戦争にけじめを付けねば、冷戦という茶番をする事さえ難しいのだよ」
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
奪還作戦 その5
前書き
一部残虐な描写があります。
マサキの目の前に現れた肥満漢のKGB大佐は、右手を高く掲げた。
脇に立つKGBの女大尉はスチェッキン自動拳銃を、見せつける様に、美久のこめかみに突きつける。
「飛んで火にいる夏の虫とはこのことだな、日本野郎。
ここが、お前たちの墓場となるのだ」
マサキは、それに動じるような人物ではなかった。
既にこの世界に転移して以来、KGBの卑劣なやり口を見てきた彼にとっては、むしろ好都合だった。
美久を人質に取ったので、危険を感じて全員射殺した。
その様な言い訳ができると、こころから喜んでいたのだ。
余裕綽々のマサキは、KGBを揶揄して、彼らを挑発することにした。
「撃てよ。この木原マサキ、そんな自動拳銃ごときでやられる男ではないのだからな」
不敵の笑みを浮かべて、恐れおののく表情をする美久を見つめた。
マサキは美久が銃撃されたくらいでは、何ともないのを知っている。
彼女は成長記憶シリコンという、特殊な形状記憶機能のある人工皮膚で覆われたアンドロイド。
多少人工皮膚が破れたり、貫通しても次元連結システムには影響はなかった。
また、マサキの腰にあるベルトは、次元連結システムの子機が内蔵されていた。
それは、自己防衛機能で、範囲250キロメートルからの攻撃動作に感応する装置である。
外部からのあらゆる攻撃が仕掛けられても、緊急でゼオライマーと同様の物理攻撃を無効化するバリア体が発生する仕組みになっていた。
この次元連結システムの応用で作られた秘密の防御装置を前にして、銃弾や剣戟など恐れるに足るものではなかった。
「では死ぬ前に、木原よ。ひとつ、貴様から聞きたいことがある」
「もったいぶらずに言えよ。露助ども」
「この期に及んで減らず口を抜かすとは……、たわけた男よの。フォフォフォ。
貴様は、なぜ東ドイツの犬畜生どもに肩入れをする。
その訳も聞かせてくれまいか」
マサキの周りをぐるりと、PFLPの兵士たちが囲んだ。
AKMやVZ58小銃の銃口を突き付けられても、彼の表情は変わらなかった。
「フハハハハ。よいことを教えてやろう。
俺がやつらを如何こうしたわけではない。奴らが自ら頭を下げ、俺に助けを求めたのだよ。
共産主義という匪賊の集まりからも追放されて、行き場もなく世界の孤児となった東ドイツの連中。
そのみじめな姿が、あんまりにも可哀想なんでな。俺が拾って世話してやることにした。
こうも媚びを売ってくるとは、逆にかわいいものよ」
KGB大佐は、マサキの顔を覗き込んで揶揄する。
「アーベル・ブレーメも、強いものに、しっぽを振る山犬でしかなかった。
奴が目の中に入れても痛くないほど可愛がっている牝狼にでも惚れたのか」
「なんのことだ」
「知らぬとは言わせぬ。美女と評判のアーベル・ブレーメの娘よ。
彼奴が父、その娘の祖父にあたる男は、我らが同志エジョフが直々に引き抜いた男であったが……」
エジョフとは、KGB機関の前身組織である内務人民委員部の初代長官である。
1930年代にソ連全土を粛清のあらしが吹き荒れた際、先頭に立ってその被疑者を銃殺刑に処した人物である。
「エジョフシナーチ」と称されるその時代、前任者のゲンリフ・ヤゴダを断頭台に送り、スターリンに取り入った小男でもある。
ある時、スターリンの急な呼び出しに、エジョフは出かけなかった。
自宅でへべれけになるまで泥酔し、御大の怒りを買うこととなった。
間もなく逮捕され、厳しい拷問にかけられると、米英のスパイと男色家の罪を自白した。
後に見せしめの裁判での弁明の機会すら与えられず、即座に刑場の露と消えた。
「裏切り者の、アーベル・ブレーメの奴め。
我らの軍門に下るふりはしていても、所詮は独逸野郎。
犬畜生以下の存在に、我らKGBもまんまと一杯食わされたものよ」
マサキの表情が先ほどとは打って変わって、険を帯びたようになる。
「口を開けば、奇異なことを言う……」
マサキの真剣な表情を見て、おもわずKGB大佐はこらえきれずに吹き出してしまう。
「フォフォフォ。日本猿にはわかるまい」
マサキは、自分が気にかけているユルゲンやベアトリクス。
彼等が、犬畜生と馬鹿にされたことには、腹が立たなかったわけではない。
ただ、KGBの自由な発言をテープレコーダーや小型ビデオカメラに録音して、独ソ関係を悪化させる材料にできることのほうが都合が良いと思い、彼らの自由にさせていたのだ。
何も事情を知らないKGB大佐はひとしきり笑った後、マサキにこう問い詰めた。
「フフフ、我々にも協力者を裁く権利がある。違うかね……」
黄色い乱杭歯をむき出しにし、マサキに近寄ってくる。
すだれ禿の頭をマサキのほうに向けて、勝ち誇ったように彼をねめつける。
マサキは、深いため息をつくと、左胸のポケットに右手を伸ばす。
胸ポケットより、ライターとホープの箱を取り出すと、タバコに火をつける。
「俺は間違っていたのかもしれない」
マサキがタバコを吸い始めたので、観念したかと思ったKGB大佐が満面の笑みで問いただす。
「木原よ。己の愚かさを認めるというのか」
濁った眼で、紫煙を燻らせるマサキの顔をながめやった。
マサキは、途端に、落胆の色を顔中にあらわす。
「俺は……貴様たちを買いかぶりすぎていた」
KGB大佐は、思わず眉を顰める。
「なんだと……」
マサキは、紫煙とともに深いため息を吐き出しながら、答えた。
「やはり、民族としての成熟度が、驚くべきほど低すぎる……」
KGB大佐はその言葉に赫怒し、顔を紅潮させる。
「何を!」
すだれ頭にある、汗で縮れた不潔な髪をパラパラと乱しながら、体を震わす。
「お前たちが、近代文明に接するには、あまりにも早すぎた」
KGB大佐の怒りは、心の底からメラメラと燃えて、どうにもならないほどであった。
マサキは、満面に喜色をたぎらせながら、答える。
「では、お前たちの言葉で説明してやろう。
ベルンハルトを犬畜生、ベアトリクスを牝狼といったが……」
PLFPの兵士たちはKGBの指示がない限り、銃撃してこないことを確かめながら、続ける。
「犬は有史以来、人類にとって与えた影響は計り知れぬ。
畜生の中で、牛馬に比類する存在だ。
また、猫や豚と違い、教育次第でどうとでもできる優秀な畜生だ。
支那人どもも『犬馬の労』と称すほど……」
そっとベルトのバックルを左手で触れて、瞬間移動の準備を始める。
「狼は遺伝的にいえば、イヌのそれとほぼ同等だ。
体格も大きく、知的で警戒心が強い。
言いかえれば、内向的で臆病であり、人に懐くまでには時間がかかるが……
幼体のうちから人手で飼えば、懐き、犬同様に愛でることもできる。
ひとたび主従関係を結べば、愛玩用の室内犬に比して、その関係は強固なものとなる。
それに犬と狼は交雑でき、数世代でほぼ同化する」
フィルターの間際になったタバコを、足元に捨てて、軍靴で踏みつける。
「そのようなことも分からぬとは……真に蛮人よの。ハハハ」
白い歯をカチカチ鳴らし、怒りをあらわにするKGBの女大尉。
縛り付けていた美久の腰ひもを手放すと、ギャリソンベルトに付けた鞭を引き抜く。
「言わせておけば、そのような世迷言を!」
女大尉が、鞭でマサキをたたきつけようとするも、マサキは即座に左手を女の顔面に差し出す。
袖から出したコルト・25オートで、女は眉間を打ち抜れ、その場に崩れ去った。
銃声を合図に、一斉に、AKM自動小銃がマサキのほうに向けられる。
KGB大佐は、芋虫の様に太い食指で、マサキの胸を指し示すと、号令をかける。
「氷室よ。この男が消し飛ぶさまを見るがよい」
その刹那、兵士たちの持った機関銃や自動小銃が、全自動で連射される。
銃砲は咆哮をあげ、ごうッと、凄まじい一瞬の音響とともに、マサキの影が見えなくなった。
やがて弾倉の中が空になり、遊底の動きが止まる。
硝煙が晴れ渡ると、血だまりの上に、上半身が血まみれの遺体が力なくうつぶせで倒れていた。
ズボンは返り血で真っ黒に染まり、軍靴まで濡らすほどであった。
周囲には、偽装網のついた日本軍の鉄兜が転がり、
ボロボロにちぎれた上着に、両手をひろげ、力なく横たわるばかりであった。
「これで奴はお終いだ」
「あとは奴の死体を検分するだけよ」
だんだんと近づいていくと、彼らは気が付いた。
遺体が着いている軍服の色と軍靴の形が違うことに。
「この服と軍靴は……日本兵のではない」
身に着けているものは、カーキ色の軍服に茶革の短靴だった。
その違いは一目でわかるものだった。
PLOやPLFPの兵士が履いていたのは、フランス軍の軍靴に似たツーバックルの革ゲートルが付いた短靴。
一方、マサキが履いている軍靴は、空挺半長靴とよばれる物。
空挺部隊でないマサキが持っていたのは、形を気に入った彼が私物で買い求めたものだった。
全体が艶がかった茶色の革で、米軍空挺部隊のコーコランジャンプブーツに近似したつくりである。
また軍服も違った。
マサキが着ている軍服は、防暑一型とよばれる熱帯専用の戦闘服だった。
灰色がかった茶色の生地でオリーブ色に近い色合いだった。
シャツは開襟のボタン式で、通常の野戦服の様に真鍮のファスナーで開け閉めするつくりではなかった。
履いているズボンは、切り込みポケットがなく、大きいカーゴポケットがついていた。
また上着を中に入れるため、股上が深く、ダブダブとしたものだった。
1972年に、沖縄進駐の第一混成旅団のために制定された軍服だった。
(第一混成団は、今日の第15旅団)
それゆえか、兵士たちからは、「オキナワ」と呼ばれていた。
PLOの戦闘員たちの軍服は、上下カーキ色で、日焼け防止のために生地はぶ厚かった。
上着は折り襟のシャツ型で、ズボンは細身のストレート型。
カーゴポケットはなく、ベルト通しのついたポケットがない簡素なものだった。
KGB大佐の命を受けたPLFP兵士が56式自動歩槍に付けられたスパイク型銃剣で遺体を突っつく。
力いっぱい倒れた男の上半身を転がし、顔を確認する。
「これは……」
銃撃で殺されたのはマサキではなく、PFLPに参加した日本人の革命戦士だった。
その時である。
工作員たちに向かって、突然雷鳴のような音が鳴り響く。
彼らは、高速で飛び交う弾丸によってたちまち撃ち抜かれ、これまた面白いように死んでいった。
逃げまどう工作員たちの背後から、忽然と姿を現したマサキ。
左手で弾薬納を開けると、空になった30連射の弾倉を交換する。
すると、銃把を握る右の親指で、左側についたセレクターを安全から連射に切り替える。
火を噴き、咆哮を上げるM16小銃を振り回しながら、だんだんと歩み寄っていった。
2メートル近い身長のあるKGB大佐は、美久を引っ張て行くと、一目散に逃げていった。
その巨体から考えられぬような速度で、広間に護衛たちを置き去りにして。
まもなく、広間から隣の指令室に逃げ込むと、時限爆弾の装置を操作する。
「おのれ、木原マサキめ。こうなったら、この基地ごと爆破してくれるわ」
屋上の階段につながるドアが開かれると、兵士が入ってきて、
「同志大佐、ヘリの準備ができました」
「よし、出発だ」
KGBの兵士が美久の扱いを尋ねた。
「この女は、どうしますか」
KGB大佐は、興奮のあまり、美久がアンドロイドである事を失念していた。
連れて帰ってるまでに、騒がれても面倒だ。
どうせ基地事処分してしまったほうがいいだろうと考えて、置いていく指示を出す。
「木原も一人じゃ寂しかろう。この女を置いていくまでよ。ハハハハハ」
笑い声をあげながら、美久の横面を右手で勢い良く、たたきつける。
その衝撃で、彼女は床に倒れこんだ。
床に横たわる美久を見ながら、KGB大佐たちは、その部屋を後にした
警報音が鳴り響き、爆風と硝煙のにおいが立ち込める基地から、一台の回転翼機が離陸した。
ソ連製の汎用ヘリコプターMi-8。
砂漠迷彩に赤い星の国家識別章を付けたこの機体は、勢いよく上昇する。
その機内で、KGB大佐はだんだんと遠ざかっていく地面を見ながら吐き捨てた。
「木原よ。基地もろとも、アラブの地に骨をうずめるが良い。フォフォフォ」
その時である。
漆黒の闇の中から天空に向けて、一筋の光線が駆け抜けた。
光の玉は、テール・ブームと機体の間に直撃し、エンジンオイルタンクに誘爆。
轟音とともにKGBのMI-8ヘリコプターは、爆散した。
直後、空を覆っていた雲が晴れ渡ると、満月が基地全体を照らす。
漆黒の闇の中から月明かりによって照らされる一台の戦術機。
その大きさは15階建てのビルに相当し、全身が白かった。
逃げ出そうとしたソ連KGBのヘリに向けた、謎の攻撃。
まさしく、天のゼオライマーの必殺武器である、次元連結砲の攻撃であった。
マサキは、基地が爆破される直前に、ゼオライマーを呼び寄せていた。
この機体は、米国ワシントン州シアトル郊外のタコマより一万キロを瞬間移動したのだ。
ゼオライマーの機体が、不気味な声を上げて咆哮する。
必殺の攻撃、メイオウ攻撃発射の合図であった。
「フハハハハ。かけら一つ残さず消え去るがよい」
彼はコックピットの中に座り、操作卓にあるボタンを押しながら、悪魔の哄笑をこぼすのだった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
奪還作戦 その6
前書き
戦闘描写が長いので、話のまとめは明日の夕方以降に切り分けます。
ベイルート市内のほうに向け、攻めかけるゼオライマーにむけて、轟音一発。
数百の兵が、ビルの屋上や、工場、貨物倉庫の上などに、一斉に姿を現す。
市内に拠点を置くPLOやその支援組織の戦闘員たちは、壮絶な銃砲火のあらしを浴びせる。
トラックの荷台に搭載されたZPU-4機関砲や、RPG-7を用いて、迫りくるゼオライマーの脅威を防ごうとする。
地上より打ち出される濃密な対空砲火と、音速ミサイルの攻撃。
ロケットや砲弾が、ゼオライマーの上へいちどに降りそそいできた。
もしこれが、高硬度爆撃機B52や最新鋭の戦術機F4ファントムであったならば撃ち落されていたであろう。
しかし、無敵のスーパーロボット、天のゼオライマーである。
その白い装甲板には、かすり傷一つつかなかった。
ゼオライマーは、その右腕を虚空に振り回し、次元連結砲を連射する。
その刹那、搭載された防御システムの警報が、けたたましく鳴り響く。
「無駄、無駄」
マサキは、哄笑を響かせながら、すばやく操作卓のボタンを連打する。
はるか後方のシリア上空から、出現したツポレフTu-95戦略爆撃機。
ツポレフTu-95に続いて、接近する戦術機の一群があった。
それはシリア空軍に軍事顧問団として派遣された、ソ連赤軍の戦術機部隊である。
先のシリア大統領とマサキたちの会談でシリア政府は、レバノンにおける日本政府の軍事行動を完全に黙認することで合意ができていた。
だが、米軍に関しては何の合意も取り決められていなかったことをよいことに、ソ連赤軍は思い切ったっ行動に出る。
核弾頭を搭載したKh-20空対艦巡航ミサイルや、雷装を積んだ爆撃機を、米艦隊に差し向けたのだ。
彼らを指揮する司令官は、電子情報支援機であるイリューシン20(イリューシン18の軍用モデル)の中から、号令をかける。
「ゼオライマーの事は無視して、米艦隊への攻撃に移れ!」
一方、そのころレバノン沖に展開する米海軍の艦隊に、動きがあった。
KGBに誘拐された美久とマサキを支援する目的で来ていた彼らは、突如としてベイルート洋上に出現したソ連赤軍の対応に苦慮していたのだ。
この沿岸に現れることのない新たな敵が襲い掛かってきたことは、米艦隊に混乱をもたらした。
「シリア領空から、こちらに直進してくる未確認の戦術機が出現しました」
「IFFの反応は!」
(IFF=敵味方識別装置)
「ございません!」
「こちらから呼びかけを行って、反応がなくば、その機体もろとも」
レーダー監視員が、声を張り上げる。
「二時の方向、高速で接近する飛翔物を、確認!」
「本艦までの距離は……」
「およそ20マイル」
(1国際マイル=1.609キロメートル)
「ソ連の雷撃隊か……」
ソ連戦術機隊の接近の一報を受け、戦艦アリゾナの艦橋内が騒然となる。
艦長は艦内電話の受話器をつかむと、落ち着いた声で命令を下す。
「全艦艇に告ぐ。これより対空戦闘に入る」
砲術長の声が艦橋に響き渡る。
「主砲、射撃用意!」
対地砲撃を行っていた三連装の主砲が、一斉に旋回し、艦の上方に砲身を向ける。
「レーダーに連動良し」
艦載されたロケットランチャーと誘導装置も、連動して射撃準備に入る。
「自動発射に切り替えた後、スパローミサイルとスタンダードミサイルをありったけくれてやれ!」
上空に向け、探照灯が煌々と照らされると、轟音とともに一斉に火を噴いた。
戦艦アリゾナやミサイル巡洋艦は、遠距離からの火力投射に重点を置いた軍艦である。
無論、対空機関砲やスパローミサイルを積載しているも、艦隊の防空能力は後のイージスシステムを搭載した駆逐艦に劣った。
防空装備のフリゲートや駆逐艦を随伴しなかったのは、BETA戦争の戦訓で、ほぼ空からの攻撃がなかったためである。
光線級の脅威は恐ろしかったが、戦艦の大火力の前に鎮圧できたので、時代を逆行するかのように大艦巨砲主義に各国の海軍はその武力を求めた。
戦術機は、BETAとの格闘戦が、主目的である。
航空機より軽量な装甲板と、新開発のロケットエンジンで、自在に空間を跳躍できるように特化した機体である。
基本的に、ロケットランチャーやミサイルのような重く高価な兵器は装備しなかった。
装備は外付けの発射機構を用いれば可能であるが、いざ装備すると機動力が落ち、被撃墜率が上がった。
ロケットランチャーやミサイルは、後方の砲兵や自走砲に依存することになった。
イリューシン20の機中にいるシリア派遣軍の指揮官は、戦術機隊を鼓舞する。
「突撃しろ、防空装備も甘い戦艦を連れた米艦隊なぞ、わが敵ではないぞ」
耳を聾する砲撃と、目をくらます大火力の閃光を目の当たりにした彼は、だんだんと平常心を失っていった。
無謀にも、大規模な航空攻撃での米艦隊への突撃を命じたのだ。
ダイヤモンドに比する硬度を持つBETAをも、一撃で粉砕する大火力の前に、軽量な戦術機は無力だった。
退避する間もなく、閃光の中に消えていった雷撃隊。
烈火と衝撃波にはねとばされた戦術機の装甲は、爆風と共に宙天の塵となっていた。
かくしてベイルート洋上では、シリア派遣ソ連軍と米艦隊の熾烈な戦闘が始まった。
一連の流れを見て居たマサキは、意識をそちらのほうに移す。
「ほう、露助のロボットどもが、群れを成して米艦隊に襲撃を仕掛けたのか……」
対空機関砲の弾が、雨の如く降り注いでくる。
「フハハハハ、死に急ぐとは……愚かなものよ」
流れ弾で、港湾にある石油精製施設に火がつくと、さしも広い市街地も、まもなく油鍋に火が落ちたような地獄となってしまった。
「この木原マサキ、逃げも隠れもせん。何処からでもかかって来い」
コンビナートから出る、炎は夜天に乱れ、爆音は鳴りやまず、濛々の煙は異臭をおびてきた。
マサキの駆る天のゼオライマーは、推進装置を全開にし、高度を一気に上げた。
ベイルート上空に出ると、市街を俯瞰しながら、次の手を考えた。
レーダーを見れば、西方の地中海の方面から接近する艦隊が確認できる。
また、北のシリア方面からも同様に艦艇数隻が南下中である。
レバノンから西方100キロほどに位置するキプロス沖にいるのは、米海軍第六艦隊。
南下中の部隊は、シリア・タルタスに海軍基地を持つソ連軍艦隊であろう。
ふとその時、マサキの心に邪悪な思惑が浮かぶ。
米ソ両国の大艦隊の目の前で、レバノンを消し飛ばす。
前代未聞の規模を誇る花火ショウをおこなって、天のゼオライマーの威力を全世界に見せつける。
それも悪くはない。
「ハハハハハ、この、天のゼオライマーの力さえあれば、この世は思いのままに支配できる」
彼は一人、コックピットの中でほくそ笑むのだった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
賊徒の末路 その1
前書き
話として、まとめに入ります。
前後編に分けて、中東編は終わりにします。
ここは、ベイルートにあるレバノン大統領府。
米国艦隊の艦砲射撃を受け、対応を協議していた政府首脳に一つの事実が伝えられた。
「ゼオライマーの来襲」
閣僚の間に、衝撃が走った。
レバノンは、「オリエントの諸民族と文化、宗教を集めた博物館」と称される地域である。
そこには、キリスト教とイスラムの代表的な18宗派があった。
フランスが、中東の植民地経営の円滑化のために人工的に分離独立させた地域である。
フランスの差配の元、各宗派に政治権力配分がなされ、政府の円滑な運営を目指していた。
大統領は、キリスト教マロン派、首相はイスラム教シーア派、国会議長はイスラム教スンニ派という具合である。
微妙な政治的バランスの上に立っていたレバノンの政治状況を狂わせた始めたのが1970年のPLOの大移動である。
このアラブ民族社会主義を掲げる集団の侵入によって、過激な思想と武器が持ち込まれた。
政府上層部はキリスト教少数派のマロン派である。無論両者は相容れなかった。
1974年のイランのマシュハドハイヴ建設で、この問題が先送りされていたが、ゼオライマーの登場で変わった。
マサキが、マシュハドハイヴごと中東域のBETAを消し去ったことで、再び緊張を高めたのだ。
「なぜ、我が国が襲撃されねばならんのだね」
首相の一言で始まった討議は、30分に及んだ。
彼らは、結論の出ない議論を続けている内に、大統領は、一つの決断を下す。
「やむをえまい。ラヤーク空軍基地にある戦術機隊に出動要請をかけたまえ」
ラヤーク空軍基地は、独立前にフランス軍が作った軍事拠点。
レバノン山脈とアンチレバノン山脈の間にある要衝のベッカー高原にあり、広大な湿地帯と湖の間に置かれた近代的な空軍基地である。
そこにはフランスから購入した最新鋭の戦術機「ミラージュ3」が、倉庫の奥深くに新品同様の状態で眠っていた。
1974年、レバノン政府は、米空軍の最新鋭戦術機「F4ファントム」の購入を希望していたのだが、フランスの圧力の下、新しい「ミラージュ3」を調達することが決定された。
この契約に関する納入は、1977年9月に始まると同時に、レバノン人パイロットは、フランスで衛士への機種転換訓練を受けた。
しかしながら戦術機は、格納庫の奥深くに仕舞われ、非常に限定的に使用された。
新参の戦術機は、多くのパイロットが好んだ戦闘機に取って代われなかった。
大統領は、かけていた老眼鏡を外した後、しばしの沈黙に入った。
懐中より、フランス煙草のゴロワーズ・カポラルを取り出すと、封を切り、紫煙を燻らせる。
一服を終えると、真剣な表情でたたずむ閣僚を前にして、驚くべきことを口にした。
「ベイルートを捨て、脱出準備に入る。対外情報・防諜局(SDECE)に連絡を取ってくれ」
レバノン大統領が言ったSDECEとは、フランスにおける情報機関の事である。
第二次大戦中の情報行動局を発端とし、1945年に組織されたフランスの対外諜報機関である。
1943年に独立したレバノンは、脆弱な国家基盤の維持のために、旧宗主国フランスの支援を受け入れることが、ままあった。
1958年のレバノン危機の際は、フランス外人部隊が混乱を収めるのに一役を買うほどである。
対外情報網も、またフランス政府との協力関係を結びながら運営されていた。
米軍救出部隊の航空支援としてついていたF4ファントム中隊の前に、遠くから近づくものがあった。
夜間監視装置のついた偵察機の複座に座る偵察員が、レーダーに映る遠くの機影を伝達する
「正面に敵、数は36」
口頭で報告を受けたパイロット役の衛士は、
「敵さんのお出ましか。歓迎パーティーと行こうじゃないか」と応じた。
F4戦術機のレーダーに映る謎の機影。
それは、ソ連製のMIG21で、総勢36機の大編隊だった。
各機とも漆黒の夜間迷彩塗装が施され、突撃砲を4問装備していた。
米海軍戦術機隊の隊長は各機に指示を出す。
「両肩に装備してあるサイドワインダーでの攻撃後、本空域より離脱する」
そういうと、隊長は操縦桿にある透明な樹脂製のケースを親指で押し上げ、
「ミサイル発射!」と、赤い射撃ボタンを強く押した。
両肩の上に付けられた三連装のロケットランチャーが火を噴くと、勢いよくミサイルが噴出していった。
計六本のサイドワインダーミサイルが、ソ連機に向け、蛇行した軌跡を描きながら進んでいく。
ソ連機には熱感知装置はついているものの、それは米海軍の物とは違い、BETA戦に特化したものだった。
空対空ミサイルの電子妨害装置や対応するミサイルなどの装備は、重量と費用の関係で見送られていたのだ。
ソ連機は、搭載する突撃砲で必死にミサイルを迎撃するも、衛士の技量は米海軍に劣った。
ミサイルを必死に回避している最中に、ファントムが彼らの後ろにつくと、20ミリ機関砲の餌食となって、そのまま火を噴いて、洋上に真っ逆さまに落ちていった。
戦闘は10分もしないうちに、一方的に終わった。
「全機集合!被害状況を知らせよ」
隊長からの応答に、副長は、
「全機健在。わが方被害なし」
「新たな機影を確認、数は25」
戦術機隊長は、監視員からの報告を受けた後、燃料メーターを見る。
戦術機の航続距離は、軍事兵器としては短かった。
レシプロ戦闘機にも劣る戦闘行動半径は150キロメートル、巡航は600キロメートルであった。
『これ以上は推進剤の燃料が持たない』と、考えた隊長は、一つの決断を下す。
「全機に次ぐ、これより全速力をもって、敵の追撃を断ち、空母「エンタープライズ」に向かう」
跳躍ユニットのロケットエンジンを全開にすると、高度を上げて、戦闘空域から離脱した。
その頃、ベイルートは混乱の渦に巻き込まれていた。
ゼオライマーの登場で、破れかぶれになったPLFPなどの団体が、黒い怒濤を持って、市内の略奪を開始した。
アラブ民族社会主義を掲げるPLO、PLFPと、この国の指導層であるキリスト教マロン派の両者は相入れぬ関係であった。
1970年のPLOのベイルート移住以来、両者は度々武力衝突を重ね、その不満はたまっていた。
ついに米艦隊の艦砲射撃を受け、混乱する市内の略奪という暴挙に走ったのだ。
マサキは、ゼオライマーの球体上のメインカメラを市中に向けてズームする。
画面に映る街の様子といえば、真っ赤に焼けていた。
女子どもは、焔の下に悲鳴をあげて逃げまどい、昼のようにベイルート市中は明るい。
見れば、悪鬼のような人影が、銃剣をふるい、銃を放ちながら、逃げ散る者を見あたり次第に殺戮していた。
目をおおうような地獄が再現されていた。
『ああ、人間というものは、ここまで醜くなれるものか……』
マサキの胸中は、人間への絶望に覆われ始めていた。
『所詮、パレスチナ解放という大義を掲げても、やることは強盗や賊徒と変わらぬではないか』
氷のような感情が、ふたたびマサキを覆い始めていた。
あの可憐な少女、アイリスディーナとの出会いを受け、僅かに溶け始めていた厚い氷河。
彼女の純粋な想いすらも、忘れさせるほどの衝撃だった。
そのとき、マサキの心中に暗い情念が渦巻く。
(『このような輩が、この世に存在しては拙い』)
思えば前の世界でも、日本赤軍などの赤色テロリストが、このアラブの過激派を頼り、世界を震撼させた。
イスラエルのテルアビブ空港での銃乱射事件や、よど号などの日航機ハイジャック事件。
オランダ・ハーグの仏大使館やマレーシア・クアラルンプールの米国大使館等を占拠し、国際関係をも悪化させた。
国内でも、妄想の実現のために、彼らはお構いなしだった。
銀行強盗や警察署の襲撃、自衛隊施設への侵入は無論のこと、民間企業にもその矛先は向いた。
三菱重工や鹿島建設などの有名企業を爆破し、韓国産業経済研究所やチリの練習艦などの外国施設への襲撃で血の雨を降らした。
革命を誓う同志すらも疑い、妊婦にまで手をかけた人の皮を被った悪魔。
人面獣心との言葉が、ふさわしい連中であった。
日本列島を赤化せんとする野望のために、テロルの恐怖で、無辜の市民がのたうち回る。
彼の脳裏に、その地獄絵がまざまざとよぎった。
(『残された道は、ただ一つ……』)
うつむいていた顔を上げる。
(『このレバノンの首都ごと、テロリストどもを完全に葬り去る』)
赤色テロリストへの憎悪が、たぎる血潮を高ぶらせる。
「共産主義者が、勝手なことを……」
マサキは、天を仰ぐと、小声でつぶやく。
「このうえは、レバノンもろとも、テロリストを吹き飛ばす」
力強く操作卓のボタンを連打し、攻撃準備を始めた。
美久は、必死に、怒りを表すマサキをなだめようとする。
「お気持ちはわかりますが、お止めください。
まだ避難できていない住民が多数おりますし、近くにはパレスチナの難民キャンプが……」
マサキは、諦めたかのように乾いた笑い声をあげ、右の食指でメイオウ攻撃の射撃指令を出す。
「フフフ、そのような人非人は、俺が作る新世界には必要のない」
顔に暗い影を落としながら、冷酷に告げた。
直後、静止していたゼオライマーは両腕を勢いよく、胸の球体の前に掲げる。
大地が裂けるような衝撃波とともに、眩いばかりの光が市街を照らす。
強烈な熱波の後、地表から巻き上げられたチリや煤は、やがて白い爆煙として立ち上っていった。
そのころ、鎧衣たちといえば。
彼等は、米海軍が差し向けたF4戦術機小隊の支援により、辛くも窮地を脱していた。
八台のHH-53B/C スーパージョリーグリーンに救助されて、米兵たちとともに乗り込む。
まもなくベイルートを後にし、遠くなっていくソ連軍基地を見ながら、ぼんやりしていると、
「なんだ、あの光!」
米兵の誰かが叫んだかと思うと、強烈な閃光とともに、雷鳴のような轟音が鳴り響く。
「まさか、ゼオライマーの……」
おもわず口走ってしまったことを後悔する間もなく、白銀が訊ねてきた。
「鎧衣の旦那、あれが木原先生のマシンの攻撃なのですか。
デイジーカッターと同じくらいの威力はありますよ」
その発言に、デルタフォースの部隊長が仰天して、
「白銀君、あれはデイジーカッターの爆風どころではない。
自分は北ベトナムの大部隊と戦った時に、航空支援を頼んだ折、至近弾を間近で浴びたが、その威力の数倍、十数倍あると思っている」
「でも旦那、あなたはハバロフスクに潜入して先生と行動を一緒にされたんじゃ」
ゼオライマーは、公然の秘密だった。
日米の間とはいえ、秘密裡にして置く必要があるとみえ、鎧衣は、いつになく厳として、
「白銀君、それ以上は止めたまえ」と、戒める。
見かねた隊長は、彼らを止めに入った。
「まあ。まあ。ご両人ともこんなところで言い争っても仕方ありません。
木原博士と合流した後に詳しい話を聞かせてもらってからでも遅くはありません」
一旦鎧衣は、顔をほころばせると、昂然と笑い、
「いやはや、この鎧衣としたことが……。
砂漠の熱さで、つい冷静さを欠いておりましたわ。
暑気払いに、ウイスキーでも一杯ひっかけたいものですな」
といつもの如く、諧謔を弄した。
白銀もそれに合わせるようにして、持ち前の明るさで、
「じゃあ僕は、キンキンに冷えたバドワイザーで……」とその場を和ませる冗談を言う。
ヘリの機長は、正面を向きながら、後ろから聞こえた彼らの冗談にこう応じた。
「米海軍の運営する当機では、アルコールの提供はご遠慮いただいております。
その代わりに、アイスクリンとコカ・コーラについては母艦到着後、何時でもお届けに参ります」
機内は、男たちの笑い声に包まれた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております
賊徒の末路 その2
前書き
話としてまとめに入ります。
榊パパと一緒に旅立ったテロリストどものその後です。
日本のフラッグシップキャリアである「日本航空」所属のボーニング727-89、通称「よど号」は、空路、バングラデッシュのダッカを経由地として、ベイルートに向かっていた。
機内には、客室乗務員の制服を着た内務省所属の婦人警官が乗り込み、100名近い犯罪者たちを満載していた。
機長と副操縦士は、帝国陸軍航空隊から選抜されたエリートで、先次大戦において夜間爆撃の経験のある人物であった。
機内の犯罪者たちは、超法規的措置により、釈放され、氷室美久との交換することになっていることを口々に喜んでいた。
「ウハハ。これで俺たちは自由の身ってわけよ」
「しかし気の毒だね。俺らと交換する予定になってる姉ちゃんは……」
PLFLと日本人テロリストの要求で、人質役として榊是親国防政務次官が乗り込んでいた。
彼の前に席では、次のテロ計画が大っぴらに語られていた。
「レバノンに就いたらよお、米帝の大使館を爆破してみますか」
(米帝=アメリカ帝国主義。米国の蔑称。)
「そいつは見ものだ。一つ派手にやろうじゃないか。同志」
男たちの話を聞いて、苦渋の表情を浮かべる榊は、後ろより突然髪をつかまれて、
「おい、政務次官さんよお……」
テロリストの一人は、彼の耳元で脅すようにして声をかける。
「あんたも俺たちの国際共産主義の連絡網を見たろう。
アラビア半島は、すでに世界革命の根拠地の一つなのだよ」
榊は、そこで初めて、こう訊ねた。
「では、PLFPの議長は、レバノン政府を亡ぼした後で、自分が大統領につく肚なんですか」
「同志議長はそんなことを望んでおられない」
「では、誰が、次の支配者になるのでしょう」
「フフフ、冥途の土産に聞かせてやろう」
そういうと、男は自分が知る限りの秘密を語りだした。
「レバノン問題は、今の政府を亡ぼしてから後の重大な評議になるんだ。
KGBのほうとも相談しなければならないから」
「へえ?」
詳しく聞き出せると踏み込んだ榊は、男に鎌をかけることにした。
「なぜです。
どうしてレバノンの大統領を決めるのに、ソ連などと相談する必要があるのですか。
昔からロシアは、トルコ国境を侵して、アラブ民族を脅かしてきた存在じゃありませんか」
「それは、大いにあるさ」
男は、当然のように答えた。
「いくら俺たちPLFPが暴れ廻ろうたって、金や武器がなくちゃ何も出来ねえ。
俺たちの背後から、軍費や兵器をどしどし廻してくれる黒幕がなくっちゃ、こんな短い年月に、中東を攪乱することはできまい」
「えっ、ではPLFPのうしろには、KGBがついているわけですか」
「だから絶対に、俺たちは敗けるはずはないさ。
訓練所は東ドイツの都市、ドレスデンにあるシュタージの秘密基地で行ってな。
そこには、KGBの手練れ、アルファ部隊の精鋭たちがいた訳よ。
機関銃の扱い方や、自動車爆弾づくり、それに短剣の訓練まで仕込んでくれるのさ」
男は饒舌に、PLFPとKGB、シュタージの関係を明らかにした。
「でもよお、あのゼオライマーのパイロットに入れ込んでいる今の議長になってから、その秘密基地は閉鎖されちまった。
だから俺たちは、レバノンくんだりまで行ってKGBに直接指導を仰ごうってわけさ」
だが、残念なことに榊政務次官とマサキが知己の関係であることを知らなかった。
そして今の内容は、マサキが渡した秘密の通信装置によってすべて録音されていた。
「フフフ。どうだ、恐ろしかろう。
あんたも命が惜しかったら、俺の配下に入れ、すぐここで。
KGBと関係してれば、何かあっても連中が助けれくれるしよお」
男が頷くと、榊は礼とばかりに胸ポケットから高級煙草のダンヒルを差し出す。
(ダンヒルは1967年にCarreras Tobacco Companyに買収された関係で、ダンヒル名義で煙草や喫煙具を出すようになった)
赤に金文字の箱を受け取ると、右手の親指を立て、食指と中指の間に挟み、スパスパと勢いよく空ぶかしをする。
両眼を閉じて、気障にタバコを吸い、ふうっと紫煙を吐き出す。
そして、まるで勝ち誇ったかのように榊をねめつけた。
ダッカ近郊にあるテズガオン空港に航空機は降りた。
テズガオン空港は、戦時中の1941年に建設された軍用空港で、1947年のパキスタン独立後は軍民共用空港だった。
1971年の第三次印パ戦争によって、パキスタンから独立以降も同じように使用された。
本格的な国際空港であるダッカ国際空港は、この当時は建設中で、ダッカには手狭なこの空港しかなかったのだ。
(ダッカ国際空港は、今日のシャージャラル国際空港。2010年まではジア国際空港)
この空港に降り立った理由は、給油のためとされ、機内の囚人たちは休憩と称して、機外に解き放たれた。
そのとき、榊達政府職員たちは奇妙なことに機内に残った。
囚人たちは狭い機内から飛び出した解放感から、好きなことを口走る。
「ウへへ。あとすこしで俺たちは自由の身だぜ」
「日本政府も馬鹿だな。翼の生えたトラを野に放つようなものなのに」
不幸なことに、囚人たちは空港のロビーの先に待つものを知らなかった。
囚人たちはやがて、バングラ兵の立っているゲートを超えて、ロビーに入ろうとした。
その時である。
M16小銃を持った男が、100名近い囚人たちの行く手を遮ったのだ。
「なんだ、てめぇは!」
男の後ろに立つ、別なトレンチコート姿の男は不敵の笑みを浮かべ、
「ただ、君たちとお話がしたくてね」
「話だぁ?」
囚人たちは、口々に好き勝手なことを口走った。
「俺たちは法律で守られる権利がある。」
「なあ、あんちゃん、俺たちを殺しに来たのか。殺しは法に反してるから無理だよな」
囚人の一人が、深緑の日本兵の服を着た男の肩をたたく。
「俺たちを逮捕しに来たのかい。早く令状を見せなよな」
からかわれた青年は、にっこりとほほ笑んだ。
「そんなものは、ない」
「何!」
その場に衝撃が走った。
周囲の人間はその言葉を受けて、たちどころに凍り付た表情に変わる。
「俺には法律は通用しない。なぜなら既に、二度死んだ人間だからな」
目の前の日本兵は、判決を言い渡す司直の如く、冷徹に答えた。
囚人の代表格の男が、飛び出して、日本兵に答えた。
「日本を支配する旧態依然とした反動勢力、五摂家から解放するためには暴力が必要なのだ」
日本兵の服装をした男はマサキだった。
彼は、囚人の頭目に蔑みの目を向けながら、応じる。
「革命?闘争だと?たわけたことを抜かしおって、笑わせてくれるわ。
ソ連のKGBにいいように使われた、間抜けの癖をして……」
「ソ連や中共、PLFPやシュタージの手を借りたのは、その手段にしかすぎん。
この、日本政府の犬野郎め!」
マサキは天を向いて、高らかに笑った。
「フフフ、情けないのう、みじめよのう。
自力で暴力を使い、革命もできぬのとは……」
満面の笑みで、自動小銃を構えなおす。
「じゃあ、俺が本当の暴力とやらの手ほどきをしてやるよ」
M16小銃の槓桿を強く引き、弾倉内の銃弾を薬室に送り込む。
「待って、待ってくれ。は、話せばわかる」
親指で安全装置を解除し、連射の位置に動かす。
「この冥王、木原マサキが手づから裁いてやるのだ。喜んで死ねぃ」
そういうと三人の男たちは一斉に囚人に向け、機関銃から弾丸を放った。
鎧衣の持つイングラムM10短機関銃は、轟音と共に火を噴き、囚人たちをハチの巣にした。
その場から逃げ出そうとするものを見つけると、マサキは躊躇いもなく小銃で両足を打ち抜いた。
「助けてくれ、俺たちは、お前に何もしてないだろう」
命乞いを無視しながら、マサキは、銃弾を胸に打ち込んだ。
「今になって懺悔の言葉などを口走るとは……。
俺ではなくて、貴様らが手に掛けた人間に言うべきだったな」
鎧衣と白銀が、機関銃で、殺人マシーンの様に、冷徹に囚人たちを処刑している間。
囚人の代表格の男の事を、マサキは部屋の隅に追い詰めた。
そして、KA-BARの茶色い革の鞘に入った短剣を投げ渡す。
「木原よ。お前は欲深い男よ」
男は、短剣をぴゅっと鞘から抜き出し、震える手で握りしめながら答えた。
「せめて、中東の地で、至らぬ身を悔悟しつつ、死んでいこうと覚悟を決めたこの俺を、テロリストに引き戻そうというのか」
マサキは、不適の笑みを浮かべながら、銃剣を小銃に装着する。
短剣を構えて、身動ぎすらせぬ両名の間に、何とも言えぬ空間が出来上がろうとしていた。
まるで触れることさえ、許されざる様な存在……周囲のもの達は、遠巻きに推移を見守った。
男は短剣を強く握りしめると、マサキのほうに駆け出す。
「所詮は、犯罪者は、犯罪者として……」
その瞬間、短剣ごと右手を勢いよく繰り出した。
「死ねということか」
マサキは、すんでのところでかわすと、小銃の先を男に向ける。
そして目いっぱいの力で、銃剣をその男の喉元に突き立てた。
頸動脈からの血しぶきが、マサキに向かって降りかかる。
懐中から回転拳銃を取り出し、
「俺からの手向けだ」と、強烈な一撃を脳天に放つ。
その日、バングラディッシュのテズガオン国際空港は、囚人たちの血で真っ赤に染まった。
こうして、マサキと日本政府の秘密工作員は、日本人テロリストをこの世から消し去った。
後書き
やっと長い話が、ひと段落つきました。
次回からは、読者の皆様が長らくお待ちしておりましたテオドール・エーベルバッハの登場です。
お楽しみに。
ご意見、ご感想、お待ちしております。
もう一つの敗戦国 その1
前書き
西ドイツ編のはじまり
半年前に東ドイツから一家で亡命したテオドール・エーベルバッハは、学校からの帰り道、キオスクを覗きながら帰るのが楽しみだった。
東ドイツから亡命した一家の生計は安定したものではなかったし、菓子などを簡単に買える身ではなかった。
だが、一度食べたあの味は、忘れがたいものであった。
きれいな模様のついた包装紙にくるまれた菓子やチョコレート。
硬く、ぼそぼそとした食感の、東ドイツ産の菓子と違って、はっきりと甘く、卵や牛乳もふんだんに使ってあって、食べ応えがあり、彼も病みつきになるほどであった。
後ろから付いてきた義妹の、リィズ・ホーエンシュタインに向かって、
「コカ・コーラも何回も飲むと飽きるもんだな。
向こうにいるときはあの苦いコーラしかなかったから、毎日飲みたいって思ったけど……」
東ベルリンでも、コカ・コーラやファンタなどは売ってはいたが、高価だった。
大体が「インターショップ」という外貨建ての店のみで、西ドイツマルクを持たない庶民は買えなかった。
リィズは、まじまじとテオドール少年の顔をながめて言った。
「お兄ちゃんとこうしてハンブルクの街を歩いて学校に通うのが、まるで夢を見ているようで……」
「いまだに信じられないのか」
「どうしてこんなところまで来ちゃったんだろうかって……」
古着のラングラーのスリムジーンズ「936」をぴっちり着こなした両足は、ウットリするほど奇麗だった。
いつの間にか、妹の体つきがぐんと大人びてき始めたことに、テオドール少年は歩きながら気づいた。
「そういえば、リィズ。先生からギムナジウムに進むよう推薦された話はどうした」
すでにエーベルバッハ少年が養子に来た頃から、非常な語学の才覚があることで教職員たちから褒められているほどだった。
西ドイツに来てからも同じだった。
少し前に、英語の点数が優秀であることを教頭に目を付けられて、かなり熱心にギムナジウムの推薦を受けていたのである。
「私はちょっとわかんないって……答えちゃったけどね。
今のまま、家族みんなで暮らせればいいかなって」
彼女の幸せは、ギムナジウムの進学などより、兄と平々凡々に暮らす事であった。
西ドイツは、全国民に画一的な教育を推進することを進める単線式の学校制度の東ドイツとは違い、帝政時代から続いている複線式の学校制度が維持されていた。
初等教育に当たる4年制の基礎学校の卒業の際に、教員によって進路を選択され、成績優秀者はギムナジウム、中くらいの成績の人物は実科学校、劣等生は5年制の基幹学校。
基幹学校に行った人物は、基本的に大学試験資格がなく、筋肉労働者への道しかなかった。
基幹学校から大学に行くには、実科学校に編入し、さらにギムナジウムに入学せねば、受験資格である卒業資格が得られなかった。
そして上級学校への進路を険しくさせたのは、基礎学校に入った時点からある留年制度であった。
日本で言えば小学校にあたる基礎学校の1年生で留年などをしてしまうと、そこから評価を回復するのは非常に困難であった。
テオドールは照れを隠すように、頭を掻きむしりながら述べた。
「まあ、俺はBMWのセールスマンか、自動車修理工とかで、いいかな。
学があって、ヘンに頭の固い女より、可愛いお姉さんにお近づきになれたら……」
あのKGBと並び立つと人民におそれられた秘密警察「シュタージ」もない西ドイツ。
テオドールにとって、西ドイツの自由はまぶしかった。
リィズは、笑いながら、エーベルバッハ少年の冗談に応じた。
「もう、お兄ちゃんは変態さんね」
その姿は、いつにもまして蠱惑的で、妖しげであった。
東ドイツ人にとって、西ドイツは文字通り堕落した、廃頽的な文化の咲き誇るソドムの町だった。
町中に立つキヨスクには「PLAYBOY」や「Penthouse」と言った写真週刊誌のほかに、タブロイド紙が並ぶ。
それは、東ドイツの法で禁止されていたきわどい水着姿の裸婦が掲載された、猥褻な週刊誌。
屋台の奥には何十種類もの紙巻煙草や手巻きタバコと巻紙。
ガラスの冷蔵ショーケースには、米国製の炭酸飲料とともに、バドワイザーや瓶詰のペール・エールがぎっしり詰められていた。
ラジオやテレビからひっきりなしに聞こえる、煽情的な報道に、淫靡な歌詞の音楽。
法で組織的な売買春が禁止されている日本とは違って、西ドイツでは売春は事実上合法化されていた。
ハンブルグやケルンといった大都市部に置かれた歓楽街、通称『飾り窓』。
そこでは、劣情をかき立てる下着姿の娼婦が、窓より半身を乗り出して、街を歩く青年を手招きする。
色街の入り口には、厳重な門があって、屈強な男が立っていた。
18歳以下の男性と娼婦以外の女性は入場が禁止されており、大抵の場合は見えるところに派出所がおかれていた。
また、決まりきったように、ソーセージの屋台があった。
そこには、焼きたてのカレーソーセージや、茹であがったばかりのフランクフルトソーセージ。
(本場ドイツのフランクフルトソーセージは茹でて食べる専用のソーセージ)
なみなみと容器に入ったケチャップやマスタードなどが、これ見よがしに置かれていた。
裏通りに行けば、米国文化や英国の文化にかぶれた不良青年たちがたむろする地区があった。
彼らは、革のジャンパーに色褪せたジーンズ姿で、頭をモヒカン刈りにそり上げ、純金製の耳飾りや首飾りをつけ、街を徘徊していた。
夜になると、いずこから現れる、麻薬を売る闇の商人。
アヘン、覚せい剤といった麻薬のみならず、LSDやMDMAなどの錠剤状の向精神薬。
ヒッピーに人気のマリワナを低価格で売りさばき、青少年たちを悪の道に引きずり込んでいた。
だが、彼が道を踏み外し、不良へと転落しなかったのは、同い年の義妹、リィズ・ホーエンシュタインの支えがあったからである。
この可憐で、聡明な少女の愛のおかげで、エーベルバッハ少年は、人知れず救われたのだ。
近代ドイツでは、常に労働力の不足が深刻な社会問題であった。
帝政時代より外人労働者を東欧から呼び寄せてはいたが、繰り返された敗戦のたびに、彼らは帰国し、定住しなかった。
戦後復興を支えたのは、「被追放者」と呼ばれる存在である。
第三帝国の敗戦によって外地から引き揚げてきた「在外ドイツ人」とその子孫であった。
ソ連の影響を受けたポーランド、ハンガリーではその支配層にあたったドイツ系住民数百万人が追放の憂き目にあい、西ドイツに流入してきた。
1950年の統計によれば、その割合は全人口の16パーセントに上ったという。
また東ドイツからの労働力は、1950年代初頭の西ドイツの経済発展の立役者の一人だった。
その数は「在外ドイツ人」やイタリア人の季節労働者よりも多く、1961年の壁建設まで300万人が来ていた。
1958年の農業の集団化以降、毎年20万人の農民が西ドイツに逃亡した。
そのことは、東ドイツを支配する独裁党のSEDに衝撃を与えた。
1961年に西ドイツとの融和政策を進めていたソ連の反対を押し切って、国境沿いに鉄条網を引いたのは、このことが原因といっても過言ではない。
1964年に西ドイツが身代金制度を作り、東ドイツから亡命希望者を買い取るまで、その亡命は非常に困難なものであった。
経済発展著しい西ドイツでは、農林水産業や工場労働者など、職種を選ばねば、亡命者であっても簡単に就業できるほどであった。
人民の監獄たる社会主義から逃れてきた彼らは、反共宣伝のために西ドイツ政府に大いに利用された。
西ドイツは、東ドイツからの亡命者を手厚く保護した。
住宅や就労の支援、教育や年金制度に、民間の支援団体の援助。
ポーランドやハンガリーの社会主義圏から落ちのびてくる「被追放者」も同様だった。
東ドイツから亡命したホーエンシュタイン一家もその例に漏れなかった。
二人の両親、トーマスとマレーネは劇作家とは、違う職業を斡旋されて、就業していた。
社会主義化していく東ドイツの暮らしになれた夫妻は、戸惑いこそしたもの、この自由社会に順応していった。
後書き
今のドイツでは飾り窓は少なくなり、総合型の健康センターやサウナの名称で大都市で営業しています。
例を挙げれば、アラブ系に人気の「東欧風喫茶店」や「交際クラブ」、オンラインでの出前など……
文中にある飾り窓は、40~50年前の実話をもとに書きました。
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
あとアンケートを実施しています。ご回答いただければ幸いです。
(2023年5月15日21時追記)
もう一つの敗戦国 その2
前書き
マサキ、西ドイツに行くの巻。
木原マサキは、中東から、再びニューヨークに戻っていた。
軍務から解放された土曜の午後から定宿としているホテルの一室にこもり、秘密資料集をながめた。
異世界の人間とは言え、冷戦の結末を知る時代の人間である。
ゼオライマーのデータベースから印刷した前の世界の資料を見ながら、今後の事を考えていた。
東ドイツを牛耳るにも、奴隷にするにしても、シュタージをどうかせねばならないことはわかっていた。
そんな折である。
美久が、部屋に入ってくるなり、来客があることを告げた。
「お客様がお見えになられておりますが……」
「何、客だと!誰だ」
「榊国防政務次官です」
国防政務次官の彼が来るのは何事だろう。
マサキは、いそいそと身なりを整えると、客人の待たせた隣室に急いだ。
久しぶりに会った榊は、傍目に見て、疲れている様子だった。
頬も以前よりやつれ、目のクマを隠すように薄く化粧をしていた。
(「ひどく、瘦せこけたな。
肌色のドーランを顔中に塗りたくって、まさかガンなどではなければよいが……
俺の道具として使おうとしている男に、ここで死なれては困るものだ」)
彼らしくなく、思わず心配するほどであった。
「早速だが、君は私の西ドイツ外遊に同行してほしい」
榊の命令を受け、マサキは開口一番、不平をぶちまけた。
「俺に、欧州へ旅行しろというのか。何を考えているのだ貴様らは……」
「あ、そうだ。萩閣、いや彩峰と、白銀君も一緒だから心配はなかろう」
鎧衣の名がないことを不思議に思ったマサキは、タバコの火を付けながら、尋ねる。
「鎧衣は?」
「彼は情報省の人間だ。私の部下ではない。
それに、君を守ることもせずに、東ドイツの女性を近づけた人物だぞ。信用できるかね」
国家の一大事を前にして、つまらぬ派閥争いとは……
役人の世界もいろいろあるものだと、マサキは飽きれていた。
「で、なんで政務次官のお前が西ドイツまで行くのだ」
「11月にボンで首脳会合が行われることになってね」
「G5サミット?」
たしかに前の世界でも1978年の西ドイツでサミットがあった。
ただ、その時は経済的な議題。
一応、日本の福田首相の提案で、ハイジャックの共同声明があったくらいだ。
安保問題は1980年に入ってからのはずだが……
「西側主要国7か国の会合を前にして、各大臣、次官級の作業部会が開かれることになった。
その関係で私も行くことになったから、君もぜひ来てほしい」
つい意識を前の世界の西ドイツサミットに持って言ったマサキは、その発言に衝撃を受けた。
彼は、会議とか相談事が好きではない性格である。
もっともらしい理由を付けて、断ろうとした。
「下士官の俺が、何故……」
榊は見透かしていたかのように、間髪入れず、理由を述べた。
「君はハイヴ攻略の立役者だからだよ」
そういって大臣の公印と署名の入った命令書を、マサキに見せつける。
「この件は国防大臣の命令だ。嫌とは言わせない」
タバコをもみ消したマサキは、怒っている風でもなかった。
「ま、しょうがねえなぁ。一度乗った船だ。
向こうに就いたら、俺の好きにさせてもらうぜ」
そういってマサキは、椅子より立ち上がる。
困惑する美久の手を引くと、部屋を後にし、自室で準備をすることにした。
慌しく、飛行機に乗り込んだマサキたちは、JFK空港より空路ハンブルグに向かった。
日航機のチャーター便に乗って、機窓より渺茫たる大西洋をながめながら、
「しかし、この俺を西ドイツに行かせる理由が分からん。
サミットなぞただの経済会合だろう。なぜ一パイロットの俺がそんなものに……」
思わず、一人ごとをつぶやいていた。
引率役を引き受けている彩峰は、マサキにくぎを刺す。
「簡単だ。貴様がハイヴを全滅させたからだよ。
今後の経済運営にはBETA戦争の後のことも決めねばならん。そういう事で軍事会合になったのだ」
その答えを聞いて、マサキはおもしからぬ顔をしながら、紫煙を燻らせていた。
マサキは、心やすらかでいられなかった。
徹底的にBETAと戦って、そして勝って、いま、深緑の野戦服を茶褐色の制服に脱ぎかえ、紫煙の糸に閑かな身を巻かれてみると、ちょうど酔いから醒めたような、むなしいものだけが心に澱んでくるのだった。
こうしている間に、ソ連にしてやられそうな、焦慮に駆られずにいられなかった。
ふと、そのうちに、彼は椅子から背を離した。
渋い顔をして、タバコを取り出すマサキの様子を見た、白銀が、心配そうに声をかける。
「いろいろお疲れでしょうし、僕と一緒に南ドイツでも会合の間に見てきましょうよ」
マサキは、火をつけたばかりのタバコを一服吸い込むと、
「ドイツの上手いビールでも案内してくれるのか。
俺みたいな少しばかり名の通った人間が、観光地に一人で行くにも危ないからな」
燻らせていた紙巻煙草を灰皿に押し付けると、過去への追憶の旅に出た。
1970年代の西ドイツ情勢は、1950年代の対共産圏への対決姿勢からだいぶ変化していた。
1969年より首相を務めたヴィリー・ブラントは、『東方外交』という前例のない政策を実施する。
自身が進める対共産圏融和政策によって、ソ連以外の東欧の社会主義国家と国交回復を図った。
時の首相、ブラントの掲げた東方外交は、言ってみれば東ドイツを利する結果でしかなかった。
東ドイツはブラントの差し出した数億マルクの金によってその独裁体制を維持させ、結果的にその寿命を永らえた。
なぜ、そのようなことが起きたのか。
それは西ドイツ首相のそばにシュタージ将校が紛れ込むという前代未聞の事件があったからである。
ブラント首相の最も信頼する秘書の一人に、ギュンター・ギヨームという男がいた。
後に判明するのだが、彼は国家人民軍将校で、シュタージ工作員だったのである。
つまりが東ドイツのスパイが、西ドイツ首相の筆頭秘書として近侍していたのだ。
彼は若いころ、写真屋などの職を転々とした後、空軍に入隊し、戦時中NSDAPの青年組織にいた。
終戦後ベルリンに住んでいた時、シュタージにスカウトされ、SEDの秘密党員になった。
シュタージの対外組織、中央偵察総局は彼を西ドイツ潜入の工作員として、フランクフルト市に送り込む。
妻であり、女工作員でもあるクリステル・ボームがSPDヘッセン州南部地区事務所の秘書となったのを皮切りに、SPD内部に入り込み、フランクフルト市議にまでなった。
当時、権勢を誇ったレーバー運輸大臣の知己を得て、同大臣の秘蔵っ子として可愛がられた彼は、首相府の中に入り込むことに成功した。
KGBの手助けを得て、連邦議会(西ドイツ議会)の議員を買収し、1972年4月27日の信任投票でブランドの勝利を確実にしたことである。
これにより、西ドイツは東ドイツと東西ドイツ基本条約を結び、東ドイツは正式に国家として承認された。
彼の影響かははっきりわからないが、1969年以降ブラント政権が進めた「東方外交」はソ連を大いに利するものだった。
西ドイツには、日本と同じようにソ連に占領された領土があった。
周囲を広い海で囲まれ、天然の国境がある日本と違って、ドイツの場合はすべて地続きだった故に、その返還交渉は、極めて困難だった。
ブラント政権は、融和政策を合言葉にプロイセン王国始祖の地である東プロイセンの放棄を事実上認めた。
これは日本政府がソ連占領下の南樺太の帰属をあいまいにし、その領土返還交渉を諦めるより早かった。
また人道主義という美名に基づいて、「在外ドイツ人」の受け入れの取引として、ソ連に押し付けられたオーデル・ナイセ線を国境として認めた影響は計り知れなかった。
シュタージの中央偵察総局とは何か。
疑問に思われる読者も多いであろう、簡単に説明したい。
別名、A総局とも呼ばれるこの部署は、東ドイツ建国時に秘密裏にKGBによって立ち上げられた。
KGBの第一総局をモデルにして、スカウトした青年たちを訓練し、200名のKGB工作員がスパイとして育て上げた。
その責任者は「ミーシャ」こと、マックス・ヴォルフで、KGBにより育てられた人物である。
彼はロメオ工作員というリクルートした美丈夫を用いて、西ドイツのオールドミスや戦争未亡人に近づいた。
西ドイツ官庁内に秘密の連絡網を作り、政界工作を実施した。
しかし、彼の仕事はKGBに比べれば、子供の遊びだった。
KGBは単独で、西ドイツの閣僚や情報機関__憲法擁護局やBND__幹部の個人情報を調べ上げ、高額の報酬を餌に誘い出し、一本釣りにした。
米国のCIAやドイツのBNDも対策はしたが、秘密のスパイ網を知ったのは壁が崩壊し、KGB工作員がモスクワに引き上げた後だった。
つまり、この情報戦争はソ連の独壇場であった。
どうしたら、西ドイツに工作を仕掛けられるか。
マサキが、紫煙を燻らせ、思案をしていた時である。
彩峰が怒って、呟く。
「なんだ、今の話は」
「ちょっとばかし、ノイシュバンシュタイン城でも見に行こうかと……」
「そんなことをこの期に及んで、もくろんでいるとは、まったく反省していぬのだな。
貴様というやつは!」と呟き、
「お前たちだけで南ドイツに行くなどは、もってのほかだ。
これ以上の好き勝手は、軍法会議を開いて、厳罰に処す」
「彩峰よ。安心しろ。
この木原マサキ、うら若い小娘にもてあそばれるほど、初心ではない。
令嬢などを紹介してもらっても、自分の虚栄心を満たす道具になどはせぬ。
それに、ベルンハルトの妹や妻の美しさを見れば、並の女などかすむものさ」
アイリスディーナのいきさつを訊きとっていた彩峰は、なおさら彼の神経質らしい半面をみせて、きびしくこういった。
「また、どこぞの令嬢でも紹介されたら……。誰が話をまとめるんだ」
「ハハハ。それもまた、楽しかろう」
そういってマサキは、彩峰を軽くあしらう。
とにかくそんな冗談も、彼を、いきどおらせていたのであった。
美久が細面に影を浮かべて、
「失礼とは思いますが……」、と告げた。
マサキは笑って、彼女に問いただした。
「申してみよ」
不安げな顔をしながら、慎重に言葉を選び、
「胸の大きさや腰のくびれなどではなく、知性で相手を選んではいかかでしょうか」
マサキは、美久の発言を一笑に付す。
「フハハハハ。率直で前向きな意見、気に入ったわ」
椅子から身を乗り出すと、彼女の細い腕をつかんで目の前に引き寄せる。
「だが、一理ある」
しかし、怒っているようではなかった。
「美久。お前が言う通り、俺の好みじゃないことが分かれば、女どもは騒ごう。
その上、お前にもつまらぬ小言を言われる」
彼を見る美久の表情が、みるみる変わって行く。
何か言いたくても言葉にならない、声にならないと言った表情だ。
「言いすぎました……冗談と思って、忘れてください」
赤面しつつも抗議する美久を遮って、面と向かい合う。
「さぞかし反抗的だ。今日はいつもにも増して。ほかの女に嫉妬しているのか」
美久は改めて込み上げる羞恥を、隠すかのように呟く。
「しようのないお方……」
「可愛いことを言うやつだ。フハハハハ」
マサキはそう言って、満足げに哄笑をして見せた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
ライン川の夕べ その1
前書き
西ドイツ軍原作キャラ登場回
マサキはボンに着くなり、ライン川沿いにある大統領公邸に招かれた。
『ヴィラ・ハンマーシュミット』は米国大統領府に似た白塗りの外観から、『ボンのホワイトハウス』と称されている。
大統領と面会するなり、ドイツ連邦共和国功労勲章を彩峰たち一行とともに授与された。
流石に東ドイツの時とは違って、陸軍曹長にふさわしい一等功労十字章となった。
ボン・サミットの初日には大統領宮殿で、各国代表を集めた大規模な晩餐会がなされた。
総員2000名の人間が、ボンの手狭な宮殿に集まった。
マサキを驚かせたのは、この世界のサミットと元の世界のサミットの違いに関してであった。
首脳会合であるのにもかかわらず、晩餐会や夜会が開かれ、それが深夜まで及ぶのが慣例だということに。
初開催のパリサミットの時から、夜会は政治外交の場とみなされ、重視されていた。
フランス大統領主催の晩さん会は3日間行われ、延べ人数5000人が招かれたことを模範として、西ドイツ政府もそれに倣うと聞いたときは、あまりにも貴族趣味的であると仰天した。
先年のロンドンサミットに際して行われた舞踏会は、午前4時過ぎにまで行われたため、戦時にふさわしくないと非難を受け、今回は深夜2時までとすると事務局から発表があった。
マサキは舞踏会や夜会が開かれるに合わせて、黒い正装を身につけた。
この制服は、前の世界の戦前の帝国陸軍の正装そのものであった。
黒いフロックコートに側章の入ったズボン、黒革製のチャッカブーツからなるもので、仰々しい房飾りのついたケピ帽といういでたちであった。
金属製の鞘に入ったサーベル型の儀礼刀は、1キロであったが、かさばり想像以上に重かった。
慣れぬ衣装を身に着け、彩峰たちと端の方のテーブルで座っていたのだが、彼を辟易させたのは挨拶に来る人物の多さだった。
同盟国の米軍をはじめ、英軍、戦前より関係の深い仏軍、そして主催国である西ドイツ軍であった。
西ドイツ軍の将校団は異様な組み合わせだった。
ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字星大綬章とレジオン・オブ・メリット勲章を胸に付けた濃紺の空軍制服を身にまとった老人と、複数名の士官。
その後ろから来る、空色のドレスを着た160センチほどの小柄な少女。
彼女は黒い髪を後頭部で結いあげるフレンチツイストという髪型をしていたが、まとめた髪が大きく盛り上がっているところを見ると相当の量の長さであることがわかる。
サングラスをかけ、口ひげを蓄えた老人は、マサキの方を向くなり、
「あなたが木原博士ですか」と、握手を求めてきた。
マサキは、男の手をつかむなり、皮膚の触感が微妙に違うことに気が付いた。
「失礼だが、大やけどでも負ったか。作り物の皮膚では皮膚呼吸も満足にできずに蒸し暑かろう。
俺ともう少し早く知り合っておれば、本物の皮膚を使って直してやったものを」
老人は一瞬、驚愕の色を見せるも、何事もなかったかのように挨拶を告げてきた。
「シュタインホフです。どうぞお見知りおきを」
マサキも力強く握手で応じた。
シュタインホフ将軍は、あいさつを終えるなり、驚くようなことを告げてきた。
「君さえよければ、私の孫娘を側に置いてくれまいか」
マサキは、あまりの言葉にただ苦笑するばかりであった。
「この俺を揶揄っているのか。
何処の世界に自分の孫娘を贈答品として差し出す莫迦が居るのだ……」
マサキは、てんで受け付けようとはしなかった。
「待ってくれ、こんな小娘貰っても足手まといだ……銃の一つも碌に撃てまい。
それに徒手空拳で男に襲い掛かられてみろ……目も当てられんぞ」
マサキは、彼女が士官学校在学中、女子生徒の中で首位を維持しているのを知らなかった。
「何とでも言うが良い。ただキルケは……私が言うのもなんだが才色兼備で自慢の孫娘だ。
日独友好の為に君さえよければ……」
マサキは、強気で押し切る男の表情に困惑した。
「娘の意見は聞かないのか……」
体の向きをキルケの方に向ける。
「おい!娘御」
ドイツでは廃れつつある古風な言い回しで、マサキは呼び掛けた。
彼は、ずかずかと彼女のすぐ脇まで歩み寄った。
「俺は、お前のような青い果実を食らうほど飢えてはいない」
その視線は彼女の細面をとらえたまま、微動だにしない。
「もっと良い女になってから来るのだな。フハハハハ」
右手をキルケの顎に添えようと伸ばすも、手首をつかまれて払いのけられる。
そして一気呵成に、背中の方に向けて後ろ手にされ、押さえつけられてしまう。
想定外の出来事にマサキは、ただただ声を上げることしかできなかった。
「な、何をする……離せ、娘御」
苦悶の表情を見せながら藻掻き苦しむと、やっとキルケの方から手を離した。
左手で捻られた右手を擦りながら、キルケの方に向かって訊ねる。
「俺も無理強いする心算も無ければ、貴様等の祖父の都合などどうでも良いからな……。
そこでだ、お前の本心を聞きたい。嫌がる人間を連れて行くほど野蛮ではない。
嫌ならば正直に断る自由もある」
先程までの太々しい笑い顔は消え、何時になく真剣な表情を浮かべた。
マサキは、彼女の祖父・シュタインホフ将軍の胸に輝く、数々の勲章を見ながら、キルケを揶揄った。
「貴様が祖父は、かなりの敵機撃墜数を誇る勇者のようだな。
その祖父の顰に倣って、俺を落としに来たのか。
俺ほどの有名人を一人落とせば、並の男100人に声をかけるよりはるかに価値があるからのう」
キルケの表情が、見る見るうちに赤くなっていく。
「気取ることはあるまい、お前自身も俺に気があるのであろう。
だが、安心しろ。俺は15、16の小娘には興味があまりない。もう少し美しくなってから来るのだな」
言葉より先に、キルケの平手がマサキの頬に飛んだ。
「言っていいことと、悪いことがあるわ。日本人がこんなに失礼な人種だとは思いませんでした」
思いもしなかった令嬢の激高に、マサキは自身の右ほおに手を当てて、面食らってしまう。
「それとも、東ドイツの時のように、豊満な美女が誘いに来ると期待してたんでしょう。
私みたいな、痩せっぽちの貧相な娘が来て、ショックを受けた。違って?」
さしものマサキにも、返す言葉がなかった。
「あなたが何度もちょっかいをかけてきても、ダンスでペアを組んで踊るような愚は犯しません」
キルケは、マサキを忌々しげににらむと一人引き返してしまった。
困惑する周囲をよそに、帰ってしまったキルケ。
呆然とするマサキの傍に、タキシード姿の白銀が近寄ると、慰めの言葉をかけた。
「思いっきりたたかれましたね」
「ああ」
「でも案外、脈がありそうですね」
何気なしに白銀が言った言葉に、マサキはかすかな胸騒ぎを覚える。
「どういうことだよ」
「嫌よ嫌よも好きのうちと、申しますから」
「何、あのキルケという娘御は気取っていて、俺を叩いたのか」
「その線も捨てきれませんよ」
(「以前、ユルゲンの妻は俺の頬を二度もぶったな。
ということはつまり……、この俺に気があったという事か」)
彼は心に、ベアトリクスの炎のように赤い瞳を浮かべながら、呟いていた。
「遠慮などをせずに……咲き誇っていた美しい花を、一思いに手折っておけば。
まったく……惜しいことをしたものよ」
その言葉を聞いた白銀は勘違いしてしまった。
マサキは、キルケに一目ぼれしてしまったと。
「その気なら、僕がいくらでも手配しますよ」
「フフフ、待たせた娘がいる身の上で、他の女性に気を奪われるなど……
この木原マサキ、そこまでは乾いてはおらぬ」
そのマサキの言葉を聞いた白銀は、そそくさとその場を後にした。
白銀が引き上げたのを待つかのように、一人の男がマサキのそばに寄ってきた。
「のろけ話とは君らしくないね。木原君」
鎧衣はいつもの着古しのトレンチコート姿ではなく、黒い蝶ネクタイにタキシード姿だった。
「鎧衣。貴様、いつの間に」
太いドミニカ産の葉巻である「アルトゥーロ・フエンテス」を取り出すとマッチで火をつける。
「商工省貿易局(今日の経済産業省貿易経済協力局)の関係者と話をしていてね。どうしても君の手助けが必要だと」
それにつられたマサキもシガレットケースからホープを取り出すと、紫煙を燻らせる。
「東独の案件か」
「わが国の大手ゼネコンが欧州進出の足掛かりとして、東ベルリンの再開発事業に入札したくてね……。
向こうの通産次官とアポイントメントとを取ってほしいと。
でも彼は政治局役員も兼ねてるから、警備の関係上、紹介がないと会えなくてね」
「通産次官……」
鎧衣の老練な話術に乗せられてしまったことに、マサキは今更ながら気づいた。
「まさか、アーベルか」
「ご名答」
おそらく、自分の知らないところで話が出来上がっている。
鎧衣はただ、伝えに来ただけだ。
こうなってはもうどうすることも出来まい。
マサキは、覚悟を決める。
「ところで今何時だ」
「まだ20時だよ。夜会の本番はこれからさ」
欧州の夜会は、午前3時ごろまで夜通し続くのが慣例だった。
この際だ。ブレーメ家に電話するか。
おそらく電話口に出るのは、アイリスか、ベアトリクス。
久しぶりに、彼女たちをからかってやろう。
「電話はあるか」
「奥に行けば、プレス用の国際電話ボックスがあるが……」
善は急げだということで、マサキはその場を辞した。
電話ボックスに向かって、小走りで書けていくとき、白銀とすれ違う。
「博士、こんな時間に、誰に電話するのですか」
「ちょっと野暮用でな。フハハハハ」
明るい灰色の軍服を着た集団といるところを見るとフランス軍か。
マサキは、白銀の方を向かずに、電話ボックスに急いだ。
二人の男が夜会の端の方で話をしていた。
「なあ、あれが噂に聞くゼオライマーのパイロットか」
「ああ、あの20そこそこの青年将校だが、先頭に立ってBETAの中に切り込んでいったらしい」
「大分浮かぬ顔をしている様子だな」
「何かあったのだろう」
軍楽隊の奏でる音楽の中、若い将校たちは静かに酒を飲んでいた。
皆一様に暗い表情を浮かべている。
「なあ、君はどう思う?」
「隊長、何がです?」
男の名はクラウス・ハルトウィック上級大尉。
西ドイツ軍の戦術機隊長であった。
金髪の髪を短く借り上げ、屈強な体つきではあるが、風采の冴えぬ男であった。
浮いた話もなく、けっして誇大な話はしないので、さほど人気はなかった。
ただ大尉の身の上でありながら、戦術機部隊を米軍の協力を得て一から立ち上げた人物である。
世人は『現代のグーデリアン将軍』と、そやすほどの行動力の持ち主であった。
「バルクよ。我々の作戦は成功したんだろう。なのにこの暗さは何だ」
「……」
ヨアヒム・バルク大尉は、グラスに入ったワインを一気に飲み干すと小さくため息をつく。
「まぁ、なんというか……正直こんな気分では酒も美味くないですね」
「ふむ、確かにそうだな。私も全く同じ気持ちだよ」
二人はしばし、感慨にふけった。
既にソ連もKGBも弱体化した。残すは火星と月に居るBETAだけなのだ。
宇宙怪獣の巣を元から退治せねばならないのは分かってはいるが、場所がいかんせん遠い。
地球外なのだ。
しかも、その巣には恐らく奴らの前線基地の一つがあるのは間違いないのだ。
今更ながら、何故人類はこの手遅れになるまで放置してしまったか?
「我々は本当に勝ったと言えるんでしょうか?」
バルクの言葉に、男は頭を横に振ると、グラスに残ったワインを飲みほす。
彼は、グラスをテーブルに置くとバルクに向かってこう言った。
「いや、まだだ。奴らが居なくならない限り勝利とは言えまいよ」
まっすぐ正面を見つめる緑色の目には、どこか愁いを帯びていた。
後書き
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ライン川の夕べ その2
前書き
キルケ回のつづき。
「家やお祖父さまのためとはいえ、見知らぬ極東の離れ小島などには行きたくありません」
キルケの激情を込めた訴えに、シュタインホフ将軍は彼女の両手をつかむと、諭すように話しかけた。
「キルケ、博士はわざわざボンにまで来てくれたのだよ。
それを、お前は何と言う事をしてくれたのだ……訳を教えておくれ」
祖父のしずかな瞳は、やがてしげしげとキルケの面を見まもっていた。
「私は、たしかにゼオライマーという機体が、わが国に必要なのは十分理解しているつもりです」
彼女は乾いた唇をなめた。
もう何を語っても大丈夫と、思ったものであったらしい。
「でもあの男から、何かうすら寒いような、不気味なものを覚えるのです……」
それ以上言葉が出なかった。
彼女も思うところがあったのであろう。
キルケの背後から、低い男の声がした。
「御令嬢、君の言う事はもっとだ。だが若いゆえに、君は日本人の本当のおそろしさを知らぬ」
キルケが振り返ると、そこには、背広姿の矍鑠とした老人が立っていた。
こうもり傘の柄のように曲がった持ち手の杖を持ちながらも、ピンと伸びた180センチを超える背筋。
年齢にそぐわぬ厚い胸板と隆々とした肉体からは、この男が只者でないことを感じさせた
シュタインホフ将軍たち、将校団は整列をすると一斉に敬礼をした。
男は国防軍式の敬礼を返した後、再びキルケの方を振り返る。
「いささか昔の話をするのだがね……日本人は一旦怒らせると簡単には怒りを解かない。
こんな話、まだ君にはすこし難しかろう」
あいまいな表情をするキルケの方を向くと、笑い顔を見せた。
「どういうことですの。言っている意味が分かりませんが……」
「私はね、台湾に亡命した蒋介石政権の軍事顧問を務めていたことがある。
なので、日華事変にかかわり、国府軍の実態を知っている。
我らによって近代化され、200万の精兵を誇った孫逸仙の政府軍。
(孫逸仙は、欧米で一般的な孫文の号。日本では孫中山の方が有名)
そんな彼等が、わずか20万もいない日本軍によって上海から蹴散らされ、惨めに重慶の山奥まで落ちのびた話をさんざん聞かされたものだよ」
そういうと、男はキルケに、ドイツの軍事顧問団の長い歴史を語り始めた。
支那へのドイツ軍事顧問団とは、中独関係の戦前から続く秘密工作である。
時代は、第一次大戦の敗戦にさかのぼる。
ドイツは国内の赤化革命によって、その戦争を中止せざるを得ず、本土決戦を回避した。
皇帝の退位やソ連との講和で一定のけじめを付けたが、国土は無傷で、多数の兵力が残される結果になった。
ベルサイユ講和会議において、厳しい賠償を請求されたドイツは国軍を縮小せざるを得なかった。
だが、賠償の支払いのためには外貨が必要だった。
そこで目を付けたのが、軍事顧問団、今風にいえば、人材派遣業である。
まず手始めにソ連赤軍の近代化をし、中南米の戦争に参加した後、帝政時代からつながりの深い支那に軍事顧問団として参加した。
中独合作の名目で秘密裏に送り込まれていたドイツ軍事顧問団は、1930年代末まで続いた。
第二次大戦の敗戦により解体した国防軍の将校たちは、第一次大戦後に海外にに軍事顧問団として参加した顰に倣って、エジプト、独立直後のシリアなどに活路を求めた。
国共内戦で台湾に落ちのびた国民革命政府軍は、ソ連によって支援され組織化された人民解放軍に敗れ去ったことを反省し、かつての敵国である日本に秘密裏に頼った。
団長富田直亮を代表とする83名の軍事顧問団は、富田直亮の支那名:白鴻亮から白団と名乗った。
金門島防衛などの一定の成果を上げ、国府軍の増強を成功させたのを見た西ドイツ軍は、1963年より再び秘密裏に軍事顧問団を組織して、退役扱いにした将校たちを送り込んだ。
それが世に言う「明德小組」で、正式名称を「明德專案連絡人室」というものである。
「閣下、失礼ですが……あの恐ろしい科学者、木原を説得してわれらの陣営に引き込むことが出来ましょうか……」
「いや、できる!」
老人は、思わず、満身の声でいってしまった。
「わがドイツ、6000万国民のために、その身を捧げてくれまいか」
杖をもって、大地を打ち、老人は、深々と頭を下げて、キルケにお辞儀した。
その言葉を聞いた瞬間、キルケの体が一瞬震えた。
シュタインホフ将軍は、力なく垂れている孫娘の両腕を右手で握りしめると、
「キルケ。わしからも頼む。この通りじゃ」
肩を震わせ、枯れた声で語った。
キルケは、ちょっと、うつ向いた。珠のような涙が床に落ちる。
「軍学校の門をくぐったときから、すでにこの身は祖国のためと覚悟はしておりましたが……」
だが、やがて面を上げると、告白を始めた。
「喜んで、お引き受けいたしましょう」
周囲が驚くほどに、きっぱりいった。
そして、覚悟のほどを改めて示す。
「もし、失敗いたしましたら、その時は、笑って死にましょう。
この世にふたたび、女の身を受けて生まれては来ません」
凛々とした態度になると、両肩の露出したロマンチック様式のドレス姿のキルケは立ち上がる。
水色のドレスの長い裾を持ち上げて、慇懃に膝折礼で、挨拶をして見せた。
キルケが出ていくのを待ちかねていたように、男は後ろに待ち構えていた将校団を呼び寄せる。
「このBETA戦争の時代にあって、我らは、本当の自立を得たのかね」
男の前に歩み出たシュタインホフ将軍は、しいて語気に気をつけながら、
「国際外交という場は、敗者には残酷な世界ですから……」
「我らもこのままいけば、三度敗者になるのだよ、シュタインホフ君」
男の言葉は、敗戦の恥辱を知る者には苦しかった。
シュタインホフとしても、すでにヴァルハラで待つ戦友を想うことも、それを心の底に秘していることも、はらわたの千切れる様な思いだった。
「ソ連が弱体化した今、いずれは欧州の地から米軍も去ろう。
そして、いやおうなしに自立化が求められる。
その為には、核抑止力に匹敵する戦力が必要なのだよ」
男の言を聞いたシュタインホフは、愁然としたきりであった。
「しかし連邦軍は前方展開において米軍に攻勢打撃力を依存してきた軍事編成……。
また国民感情として現段階での核保有も、核搭載の原子力潜水艦も厳しかろう。
BETAに対しても核攻撃は最初のうちだけで、奴らも光線級という対策をしてきた。
ソ連の様に特別攻撃隊をもって核爆弾を送り届けるにしても、敵の数が多すぎる……」
「対外戦争の禁止という原則を掲げるボン基本法26条に準拠した、連邦軍の専守防衛姿勢。
そして米ソ英仏4か国、いやあらゆる核戦力の製造と持ち込み、配備を禁止した非核三原則……
この政策を変えぬ限り、わがドイツ民族は米ソから、敗戦のくびきから自立できまい」
ボン基本法とは、1949年5月8日に制定された西ドイツの暫定憲法の事である。
憲法制定の日、5月8日とは、ドイツ第三帝国が城下の盟を受け入れた日でもあった。
我々の世界の日本国憲法が制定されたのは1947年11月3日である。
11月3日は、明治大帝の誕生日、つまり天長節の日であった。
憲法典一つ見ても、日独の扱いはこれほどまでに違っていたのだ。
男は、このとき火のごとき言を吐いた。
「このままいけば、民主主義が残って国が亡びるという状況が眼前に広がろう……」
シュタインホフはじめ、人々もそれに打たれて二言となかった。
さて、マサキといえば。
彼は報道ブースにある電話ボックスの中にいた。
そこから東ベルリンに国際電話をかけている最中で、ゆっくりとダイヤルを回す。
受話器を右耳に当て、ダイヤルが戻る音を聞きながら、緊張する自身に驚いていた。
前の世界を含めれば。国際電話など数え切れぬ回数をしてきたつもりだ。
それにゼオライマーから前線基地、他国の戦術機、敵機への呼びかけもなれたものである。
この世界は戦術機というロボットのおかげで軍事通信技術は超速の発展を遂げていた。
だが民間の電気通信技術は、まるで魔法にかかったかのように20世紀中ごろのままで止まっている。
東ドイツへの電話も交換手を通してではないと無理であり、いちいち東ベルリンにある交換局を通して、ミッテ区やパンコウ区といった住宅地や商用地につなぐ方式だった。
東ベルリン郊外にある幹部用高級住宅地、ヴァントリッツへの電話は予想以上に時間のかかるものであった。
複数の電話交換手をまたいだ後、やっと目的のブレーメ家に電話がつながった。
受話器を通じて入るわずかな雑音から、マサキは盗聴されていることに気が付いた。
一応、次元連結システムのちょっとした応用で、相手からの録音は出来ないようにしてはあるが、通話相手から話の内容は間違いなく書き起こされるであろう。
何を話すか、あらかじめ決めておくことにした。
この時代の国際回線経由の電話回線は、電話交換手を通じて、あるいは同一の回線から振り分けられたものを通じて盗聴が簡単にできた。
党幹部であるアーベルには、間違いなく護衛についている。
シュタージか、軍の特殊部隊『第40降下猟兵大隊』かは、問題ではない。
受話器を握る手が汗でまみれていくのを実感しながら、向こうからの応答を待った。
「もしもし」
低い男の声で呼びかけがあったので、マサキはドイツ語で返す。
「もしもし、木原だが……」
その瞬間、受話器の向こうでハッと息をのむ気配がした。
「アーベル・ブレーメを出してくれないか」
「……」
「いないのなら、アイリスか、ベアトリクスでも構わん」
軍人に任官後、国外勤務の多いユルゲンは、アイリスディーナのことを心配した。
自分が国外にいる間は、父の同僚、ボルツ老夫妻では心もとない。
だからブレーメ家に、最愛の妹の面倒を見るように頼んでおいたのだ。
これはベアトリクスとの結婚前からしていることであり、アイリスも納得済みだった。
また義父のアーベルと義母のザビーネなどは、妹を実の娘のようにかわいがってくれたのだ。
マサキはそのことをユルゲンから聞いていたので、あわよくばアイリスと電話ができると踏んで、このようなことを無理強いしてみたのだった。
向こうで咳払いをする声を聴きながら、だんだんといら立ってきたマサキは煙草に火をつけた。
紫煙を燻らせながら、少し強めに言い放った。
「護衛のデュルクか、だれか知らんが……こっちは国際回線でかけているんだ。
さっさと、アーベルを呼んで来い」
「さっきから聞いてはいるが、君がここまで無礼な人間とは思いもよらなんだ。
それに私の代わりに娘たちを呼び出そうとは何だね」
電話口の相手はアーベルだった。
マサキは、アーベルに軽くひねられたようなものだった。
流石は、30代で政治局員になる人物である。
役者が違うとは、まさにこの事だった。
「九時過ぎに電話をよこすにはそれなりの理由があろう。
まず、どんな要件なのか、言い給え」
アーベルは、マサキを冷たく突き放す。
「フフフ、アーベルか。最初からそう言えよ……。
俺はお前とこの国の通産省に関係のある話がしたくてな……」
相手が驚いている様子に、マサキはニヤリとほくそ笑んだ。
「ここでは邪魔者も多い。今週の木曜日……都合がつくか」
「……」
「まあ、とりあえず俺がベルリンに乗り込むから事前の折衝を頼む。
いつぞやの様に、国境検問所から入るのに2時間近く尋問されるのはたまったものではないからな」
最初の訪問の際は、国境警備隊の検問に対してけんか腰になってしまったのを思い出した。
チェックポイントチャーリーで、鞄はおろか、ポケットの縫い目まで念入りに調べられたものだ。
あの時は彩峰や篁がいなかったら、間違いなく騒動になっていたろう。
「しかし、君は何を考えているのかね。夜の9時だぞ。
こんな時間に年頃の娘と電話しようなどとは、ふしだらすぎる」
アベールの勢いに気押され始めたマサキは、逃げるように告げる。
「アイリスに伝えておいてくれ。よろしくとな」
アーベルは憤懣やるかたない声で、きっぱり答えた。
「このたわけものが!」
電話越しに聞こえるを怒鳴る声から耳を離して、受話器を勢いよく本体に戻した。
そして会話は終わった。
全く、若い娘がいる家に電話をかけるのがこんなに疲れるとは思ってもいなかった。
今度、ユルゲンやアイリスに携帯電話方式の通信装置を作って、改めて渡すか。
電子部品を買ってきて、簡単なポケットベルの代わりでも作るか……
あるいはショルダーフォンでも準備して、アイリスたちに持たせるか……
ポケットに入る携帯式の電話を持たせるのもいいかもしれないが、盗難が怖いし、何より人前で電話などをされたらさぞかし目立つであろう。
一応、アイリスたちには次元連結システムを応用した指輪や首飾りを持たせている。
だが一向に使った様子がない。
思い返せば、彼女たちには、シュタージという送迎付きの護衛が四六時中、傍にいるのだ。
彼らを通せば、ほぼ100パーセント足取りがつかめる。
連絡手段に関しては、マサキは時代ということで後回しにすることにした。
どちらにしても、アイリスディーナは軍隊の中にいる。
休暇中のベアトリクスの様に家に行けば、簡単に、いつでも会えるわけではない。
簡単に会えぬとなると、諦めがつくどころか、かえって未練がわくのだ。
一目ぼれして、言いつのった娘だけになおさらだった。
(『罠とはわかっていても、このまま引き下がれるものか』)
目の前にアイリスディーナの美貌が浮かんでは消えて、狂おしい思いに悩む。
あの娘に再び会いに行けるのならと、マサキは頭に血を上らせ、一人興奮するのだった。
後書き
国家人民軍の女性兵士は男性の兵士より8週間多く休みが取れる制度でした。
寮や福利厚生、その他の制度も男性兵士とは別でした。
東独崩壊までこれは変わりがありませんでした。
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
ライン川の夕べ その3
前書き
キルケ登場まとめ回
さて、マサキといえば。
大広間の端の席で、白銀たちと酒を酌み交わしていた。
「それより博士、もう少しでダンスが始まるのですがどうしますか」
と、白銀は、マサキの顔いろを見ながら言った。
「しかし、暢気な連中だ。宇宙怪獣との戦争中だというのにダンスパーティなどとは」
すると、案の定、彩峰は不快の色をみせて、
「東独指導部の令嬢と戯れていた貴様が言える立場か」
と、マサキの顔を目で弾いた。
「それより彩峰よ、美久はどうした。さっきから姿が見えないが……」
「氷室君なら、榊の事を、あれの妾と一緒に抱えて控室の方に下がったぞ」
「肝心な時にいないとは、本当に使えぬ女、ガラクタだよ」
「博士、いくら氷室さんと男女の仲とはいえ、それは言い過ぎではありませんか」
白銀の言う事にも、一理ある。
マサキも、これはすこし自分の方が悪く取りすぎていたかと思った。
「勘違いするな!俺と美久は、男女の仲などという簡単な関係ではない」
ゼオライマーの最大の秘密、氷室美久が次元連結システムを構成する部品であると言う事である。
形状記憶シリコンの皮膚に覆われ、推論型AIという電子頭脳のおかげで、まるで人にしか見えない。
そんな彼女が、アンドロイドであることは秘中の秘であった。
マサキにとって、確かに前の世界から来た唯一のパートナーであることは間違いなかった。
だが、自分の作った芸術作品の一つであることは、彼にとって疑いのない事実である。
だんだんと酒で思考が衰え、理性が薄れてきたのを実感したマサキは、
「それに美久との話は、もうお終いだ。せっかくの酒がまずくなろう」
と、その話題から逃げるようなことを言う。
マサキの屈託を気にせずに、白銀は尋ねた。
「それより博士、さっきから西ドイツの将軍のお嬢さんが来てますが……。
声をかけてやった方が」
ちらりとキルケを一瞥する。
くっきりとした彫りの深い美貌は、どことなく華やかな感じを受ける。
確かにスリムで小柄ではあるが、胸や腰などの全体的なバランスは本人が言うほど悪くはない。
「やはり女は、あの様に愁いを湛えた顔が美しい……」
キルケを見るよう促して、開口一番、周囲を驚かせるようなことを口走る。
アイリスディーナの件で周囲に迷惑をかけたのにもかかわらず、悪びれる様子もない。
「そう思わぬか」
マサキのそんな言葉に、白銀は、彩峰と顔を見合わせ、
「え、それは……」
と、たがいの戸まどいを、ちょっと笑顔のうちに溶かしあった。
いつものマサキらしからぬことをいう様に、感動しきった口調である。
先ほどのスコッチウイスキーで頭が痺れているのだろうか。
白銀は思わず、人目もはばからずにため息をついた。
マサキの言動は、幾多の死線の乗り越えてきた工作員の心を戸惑わせるほどであった。
「諸々ありがとうございました。彩峰大尉殿。改めて自己紹介いたします。
ドイツ連邦軍のキルケ・シュタインホフです。
日本に関し、いっこう不案内な若輩者ではございますが、今後ともよろしくお願いします」
と、彼女はまず彩峰を拝してあいさつを先にした。
「ねえ、ヘル・木原……、さっきのお詫びでなんだけど、踊らない」
マサキは、磊落に応じる。
「すまぬが、俺は踊りは不得手でな……」
一応マサキに気を使って、愛そう良く受け答える。
「その辺は、将校の私がリードしますから……」
脇で見ている白銀たちは、ハラハラしていた。
キルケの横顔が傍目に見てひきつっているのが分かるほどであったからだ。
キルケからの誘いを鼻先でせせら笑いながら、追い打ちをかけるようなことを口走る。
「くどい!」
キルケは彫りの深い顔を真っ赤にさせながら、叫んだ。
「失礼しました」
その場を収めるべく、白銀は立ち上がって、立ち去ろうとするキルケの右腕をつかむ。
「御嬢様、僕でよければ」
その際、左手に持ったグラスをマサキに渡して、広間の中央にエスコートしていった。
マサキは気の抜けたシャンパンを飲んでいると、肩をたたく者があった。
陸軍大尉の礼装姿の彩峰は、
「木原よ」
彼は、そういうとマサキの左肩から手を離す。
マサキは振りかって、彼の方を向く。
じっと彩峰の真剣な顔を見つめた。
「一つ忠告してやる。こういう場での、女からの誘いは受けるものだ」
そういうと、唖然とするマサキの前から去っていった。
(「この宴席の場を壊すような真似も考え物か」)
そう思いながらマサキは、アイスペールから取り出した冷えたビールをグラスにあける。
グラスを持ったまま、ゆっくりと白銀の方に進み、バドワイザー・ビールを進めた。
「なあ、白銀よ。バドワイザーでも飲まぬか」
白銀はマサキから渡されたビールを貰うと、即座にその場を後にする。
開いた右手で、キルケの右腕をつかむなり、
「俺のようなつまらぬ男と踊って、後悔したなどと申すなよ」
そのまま、滑るようにして、広間の方に導いていった。
二人は、周囲の喧騒も気にならぬほど、軍楽隊の演奏に合わせ、陶然と踊っていた。
空色のロマンチックスタイルのドレスの裾を翻しながら、キルケはマサキにそっと囁き掛けた。
「あなたの事をなんて、お呼びすれば、良いかしら。
博士、それとも上級曹長……」
「娘御よ、俺は木原マサキ。ただの日本人で、つまらぬ男さ」
「フロイラインじゃなくて、私には、キルケという名がございます」
「初対面の俺に……名など教えてしまってよいのか」
それを聞いたキルケは、大きな目をキラキラとかがやかせながら、熱っぽく尋ねる。
「どうして」
「知らぬ男に名を教える。
つまり男女の名を知るというのは、それ以上の事を望んでいるといっても過言ではないのだぞ」
その言葉に心をくすぐらされるも、キルケにはあまりにも現実離れしているように感じた。
「まあ、俺だから良いものの、それくらい大変な事なのだよ」
マサキは、にこやかに答えていた。
間近でキルケを眺めるていると、その魅力に引き込まれそうになる。
透けるような色白の肌は、光沢できらめく長い黒髪を一層引き立たせた。
「怪獣やタルタル人と戯れるのが好きな田夫野人とばかり思ってけど……」
キルケは陶然とした目で、マサキを熱心に見入る。
長い睫毛を時折上下に揺らしながら、
「口説き文句も、中々のものね」
「お前がそうさせたのではないか、フフフ」
性格はきついし、口も飛びぬけて悪い。
しかし、悔しいほどに頗る付きの美人なのだ。
正直に言えば、キルケに半ば期待しているところがある。
マサキは、そんな自分に驚いていた。
だんだんと踊るうちに、キルケは鼓動の高まりと全身の血が熱くなっていく様に戸惑っていた。
ときめきとも取れる様な、不思議な感覚に陥っていくことに。
ひっきりなしに鳴り響く、軍楽隊の演奏に熱狂してしまったのだろうか。
いや、それは違う。
なぜならば、今宵の曲目は、ロンドンで流行っているパンク音楽などではなく、18世紀の古典音楽。
静かな音色で興奮するのだから、それは目の前にいる謎めいた男に引き込まれているのには相違ない。
この漆黒の髪と深い琥珀色の目をし、恐ろしいほどに傲慢な男。
キルケに対して決して謙遜したり、阿ったりしない青年将校は初めてだった。
自分が負い目に感じている出自を顧みずに、好き勝手振舞う。
その様に、だんだんと惹かれていくのを彼女は実感していた。
『いま、裸のままの自分を受け入れてくれる男は、西ドイツに、いや欧州の社会にいようか』
キルケが内心に擁いた、不思議な感情。
彼女自身にはそれが淡い恋心なのか、尊敬であるのか、それとも憧憬であるか、判別がつかなかった。
「木原は、律義な男とみえる」
遠くから二人の様子を見ていたシュタインホフ将軍は、すっかり惚れこんだふうだった。
『西ドイツ軍の衛士たちにくらべて、その人品も劣らず、ずっと立派だ』
などと彼はマサキをより高く値ぶみしていた。
上機嫌なシュタインホフは、日頃よりかわいがっているバルクたちを呼び寄せると、
「ここだけの話だが」
と、キルケに関するいろんな機微を、予備知識として洩らしてくれた。
いま政府の方では、米軍が開発中の新型爆弾でもちきりだという。
新型爆弾の配備が実現するまでの間、空白期間を埋めるためにゼオライマーを使う。
それにあたって、設計者の木原博士の機嫌を取るために、娘や若い人妻などをすすめることになっている。
だが、まだそれぞれ人選中で、情報機関が、はたらき出すまでにはいたっていない。
「木原博士は……、本当に、よい機会に、ご訪問にあったものといってよい。
ボンにおいでなさったら、ぜひ、キルケを推挙申し上げるつもりでおった」
老将軍はそんなことまで言ったりした。
バルクは、あやぶんで、
「じゃああれですか。ゼオライマー獲得のために将軍のお孫さんを捧げようっていうんですか。
あんまりじゃありませんか。
しかし参ったな。こういう時にユングの奴でもいればな」
「君の同級生の、アリョーシャ・ユング嬢か。
たしか彼女は、連邦情報局員で、東ベルリン勤務だったよな」
「はい。彼女は常設代表部の職員として東ベルリンにいましたが、今は外務省に出向し……」
バルク大尉の発言に出てくる常設代表部。
その機関は、東ドイツにおける西ドイツの外交業務をする事務所である。
名こそ「ドイツ連邦常設代表部」であるが、その実態は西ドイツ大使館であった。
また東ドイツ当局も、事実上の大使館と認めていた。
これには理由があった。
1968年にウルブリヒトら指導部が決めた憲法が原因である。
1968年憲法第8条の条項、特に統一の要件にこう書かれたためである。
「ドイツ民主共和国とその国民は、民主主義と社会主義を基礎として統一されるまで、二つのドイツ国家が徐々に和解することを目指す」
第8条が制定された時点で、東西ドイツの問題は解決済みという立場を取っていたのだ。
老将軍は、注意ぶかく、窓のそとを見て。
「外務省だって。それで、どこに……」
「米国の、ニューヨーク総領事館に勤務しております……」
「なぜだね」
「東の戦術機隊長、ベルンハルト中尉がニューヨーク総領事館の武官を務めています。
彼との接触を図る目的で……」
それまで黙っていたハルトウィック上級大尉が口を開く。
「例の美丈夫ユルゲン・ベルンハルトか」
バルクの直属上司である彼は、同じような立場であるユルゲンに対抗意識を持っていた。
自分になくて、彼にあるもの。
羨むような金髪に、人を引き付ける様な、愁いを湛えたスカイブルーの瞳。
ギリシャ彫刻のごとしと形容できる、彫りの深い美貌であった。
一言のもとに、ハルトウィックはその人物までをけなし去った。
「BNDは、東の色男を誘い込むために、デートクラブの真似事までする様になったのかね
それでは、赤匪の連中がやっている色仕掛け工作と何も変わらぬではないか!」
一層バルクは、慇懃に答える。
「ごもっともです」
なにがおかしいのか、いつまでも肩をゆすっているふうだった。
さすがの彼もあきれていたのか。
「…………」
ふと黙った。ハルトウィックがである。
やがて、ハルトウィックはぷッつり言った。
「自由社会を守る組織が、なぜそのよう汚い仕事に従事するのか、理解できぬ」
人をそしるおのれにも嫌厭をおぼえてきたように。
後書き
読者意見やハーメルンのアンケートの傾向を見て作ったらこんな話になってしまいました。
あと、アリョーシャ・ユングは、原作第6巻に出てくる西ドイツのBNDの女工作員です。
(原文中ではBDNと誤植されています)
アリョーシャは男性名のアレクセイの愛称なので、本来ならば女性に使う名前ではないのですが。
潜入工作員の偽名と考えれば、自然かなと思っています。
(『藤波竜之介』なみに目立つ名前ではと思いますが……)
ご意見、ご感想、ご要望お待ちしております。
F5採用騒動 その1
前書き
読者要望であったF5フリーダムファイターに関するお話になります。
晩餐会の翌日、マサキは朝風呂を浴びていた。
そして、いつもとの片頭痛は違う、頭痛にひどく悩まされていた。
やはり、違う種類の酒を、まぜこぜに飲んだせいであろう。
日頃、酒を飲まない彼に、二日酔いの頭痛は堪えた。
何より、西ドイツのキルケと名乗る少女との一時の逢瀬もあろう。
マサキにとっても、キルケのような娘は久しぶりに心を惹かれた女性である。
初対面で平手打ちをされるなどと言う事は、彼にとっては、骨髄に徹するほどの、衝撃だった。
ベアトリクスに叩かれたときは、ゼオライマーに強引に乗せようとしたためであったので、自分が悪いのはよくわかっていた。
マライに煙草を進めたとき、嫌な顔をされたのも彼女が喫煙習慣がなかったためであるのを知って、納得していた。
このキルケの恐れを知らぬ態度に対して、興味を持たなかったかと言えば、うそになる。
彼女の姿を見たとき、尻まで届く、恐ろしく長い黒髪に目が行った。
確かに、あまり豊かではない東ドイツ人の標準的な身長のマライより小柄で、スリムな体系にショックを受けたのは事実だ。
(1970年代のドイツ人女性の平均身長は165センチ。2010年代の統計だと168.3センチ)
彼女に男が近寄らなかったのは、背が低く、痩せていて胸がないからではない。
あの老将軍・シュタインホフの強面を前にして、娶りたいなどという勇気がなかったからではないか。
さしものユルゲンですら、たじろいたであろう。
もっともあの男は自分の妻や妹を基準に女を選ぶ節があるので、まず見た目でキルケは除外されよう。
思えば、マライも着やせするタイプではなかろうか。
でなければ、巨乳好きのユルゲンと男女の中にはなるまい。
ユルゲンの確認を取らずにわがものにしていれば……
マサキは、惜しいことをしてしまったと、一人心の中で悔やんだ。
マサキは、その様なことを思い悩みながら、たくましい青年の体に、熱い湯を浴びる。
「今日はゆっくり出来るんだろうな……」
脇で背中を流す美久に予定を尋ねた。
「榊次官と一緒にフランス軍関係者とお会いする予定になっています」
「キルケとか言ったな。あの娘と遊び疲れたからと言って、断れ」
思わず振り返ると、美久は一瞬言葉を失ったかのようになる。
「ええ、それは先方には無体では……」
驚く美久にかまわず、ザブっと熱い湯を頭から浴びなおした。
そのようなやり取りをしているとき、風呂場に入ってきたものがあった。
護衛兼通訳の白銀は、大童で入ってくるなり、
「先生、10分で支度してください」と声をかける。
湯気が満ちていて、視界が奪われていたことは、美久には幸いだった。
咄嗟に、壁に掛けてあったバスタオルをつかむと両腕で体を覆い、奥の方に引っ込んだ。
だんだんと湯気が晴れ渡ってきたとき、乳白色の裸身が浮かび上がる。
白銀は、自分のしたことを後悔した。
耳まで赤くした美久の姿を一目見て、彼女から目をそむけてしまう。
「先生、20分差し上げますから早いとこ、すましてください」
赤裸で椅子に腰を落としていたマサキは、ただただ苦笑するばかりであった。
さて、マサキたちは、予定より30分遅れて朝食会の会場に来た。
大臣から苦笑され、榊と彩峰には侮蔑の目を向けられるも、いつもの如く不敵の笑みで返した。
フランス政府関係者との食事は、北欧風の「スモーガスボード」と呼ばれるものであった。
冷たいハムやサラミ、塩や酢漬けの魚類。ぬるいコーヒーに、硬くすっぱい黒パン。
朝から並ぶワインに、ぬるい常温のビール。
それらはドイツでは当たり前で、朝晩ともこの「冷感食事」
朝食に温かい食事をとるのが当たり前だった、彼にとって非常に不満だった。
「しかし、冷えた食事を出すなど、支那だったら大喧嘩の元だぞ」
と心にある不満をぶちまけた。
マサキが前の世界で長くいた支那では、常に温かい食事が一般的だった。
市井の徒ばかりではなく、軍隊でも同じである。
支那兵たちは寒冷な気候も相まってか、冷えた食事を、伝統的に、極端に嫌った。
野戦でも竈を作って、常に温かい食事を取った。
そばがゆにしろ、麦の雑炊にしても温かければ喜んで食べた。
日本人の様に握り飯に漬物などでは決して口にせず、炊煙を気にせず食事を準備した。
支那事変の際、帝国陸海軍は支那人捕虜の食事にも非常に苦労したものであった。
それに東洋人である自分が、北欧のゲルマン系の様に冷たい肉など食えば、体調を狂わせる。
産業革命の産物とは言うが、如何にドイツが貧しい国だったかを示す事例ではないのか。
思えば、ドイツは貧しい国だった。
マサキは食事をほどほどにして、暖かいコーヒーで唇を濡らすと、
「美久、後でアイリスに飯の炊き方でも教えてやれ。
俺はこんな冷えた飯ばかり食うて、病気にはなりたくないからな。
こんな暮らしをしていては、どんな男でも気が違うであろうよ」
脇に座る美久は思わず顔を上げる。
薄く笑っているが、頬は強張り、視線を斜めに下げるほどであった。
「あまり、皆様を困らせない方が……」
「お前の炊いた麦飯に、焼き鮭を載せた茶漬けなどの方がマシだ。
こんど永谷園の即席茶漬けでも用意しておけ」
美久の頬がさっきより赤くなっていることに気が付いたが、あえて無視する。
額に手を当てて、わざとらしく哄笑して見せた。
「フフフ。そう拗ねるな」
そんな彼等の様を、彩峰は睨む勢いで視線を飛ばした。
マサキがけだるそうに煙草をふかしているとき、声をかける人物があった。
稀代の知日家として知られる、フランス首相であった。
壮年のこの男は、若かりし頃、陸軍将校として勤務し、軍部に人脈があった。
また青年時代は、フランス共産党員でありながらハーバード大学にも留学するなどと、政治の世界を自在に泳ぐ優れた直観力の持ち主でもあった。
濃紺のチョークストライプのスーツに、ベークライトの茶色い縁の眼鏡をかけた黒髪の男。
日本風に会釈をした後、ゆっくりとした調子で語りかけてきた。
「ムッシュ・木原、どうして科学者のあなたが矢面に立たれるのですか。
天のゼオライマーというスーパーロボット、そして新型の機関、次元連結システム……。
あなたに万に一つの事があれば……この世界は再び危機に瀕するのですよ」
マサキは、通訳をする白銀の言葉を待たずに返答する。
彼に対して、ずけずけと自分の意見を言った。
「それは、この木原マサキという男が、つまらぬ科学者だからだよ。
ロボット工学の科学者だからこそ、遺伝子工学の科学者だからこそ。
俺はルイセンコの似非学問で、近代科学を軽視したソ連社会主義が許せない。
BETAという宇宙怪獣に40億の奴隷労働力が貪られるのが、我慢できない。
ただ、それだけの事さ」
「それに大の男が女子供を矢面に立たせて、後ろで研究開発なぞする振りをして隠れんぼをする。
実に情けないではないか。
あのようなゴム製のスーツを着て、満足な稼働時間もない、薄ぺらな装甲板のロボットに好いた女性を乗せるなど、惨めではないか」
首相は、初対面の彼から、いきなりこれをいわれたので、つい目をキラと赤くうるませてしまった。
「妻や娘が、仮にいたとしても、俺は差し出すような真似はせぬ。
場末の娼婦でも着ない服を着せ、そんなガラクタで怪獣退治をさせるなど、恥ずかしくて出来ぬわ。ハハハハハ」
とマサキは笑い捨てる。
「男が勝負をかけるには、常に全力投球でなければならない。
BETAという怪獣退治は、100点満点のロボットでやらねばならない。
10点、20点と段階を踏んで、最後に100点などでは遅い。
ここぞというときに、救ってやらねばならぬ存在や守るべきものがあるのではないのか。
違うか」
マサキは、しんから言った。
「この世界の科学者どもは、時間をかけすぎる。
救うべき命や富、貴重な文化。国土や資源も失われてからでは遅い……
だから貴様らが救えぬようなら、この俺が地球ごと分捕ることにしたのよ」
首相はマサキの話を聞いているあいだに「うむ」と、二度ほどうなずいていたが、
「ムッシュ木原、ではあなたは今の婦人解放運動にも反対だと」
と、マサキは、彼のせきこむ語気をさえぎった。
「ああ、そんな象牙の塔に住まう鴻儒どもの絵空事にしかすぎん。
そもそも男女はその成り立ちは脳からして違う。一緒には出来ぬ」
と、マサキがこのとき、婦人解放運動に拠って男女平等を尊重する意志などはちっともない。
そんな語気を出したので、将校はみな彼へ疑惑の眼をそそぎかけた。
「人種もそうだ。白色人種、黒色人種、黄色人種……
筋肉量も違えば、脳の大きさ、特定の毒物の耐性、IQも人種ごとに異なる。」
しかし当のマサキは、そんな瑣末を気にしていなかった。
初対面だった首相は、このとき、マサキという人間に、一見、よほど感じたところがあったらしい。
「ムッシュ木原、よおく分かりました。では我らの話を聞いていただけますね」
「よかろう」
「わが国の航空機メーカー・ダッソーにおいて開発された新型戦術機ミラージュⅢに関してですが……」
そういって、彼の秘書官から資料を受け取る。
欧州の陸軍国、フランスにおいて開発された最新機ミラージュⅢ。
その機体は、F5フリーダムファイターを元にした戦術歩行戦闘機の一種である。
F5フリーダムファイターに関してご存じではない読者もいよう。
ここで、改めて説明をしたい。
1973年に始まったBETA戦争における戦場の花形でもある戦術歩行戦闘機F4ファントム。
この現代の騎兵は、ソ連機mig21に多大なる影響を与えた事がつとに有名であろう。
だが、このF4ファントムの電子戦装備や高価格な機体。
生産能力を持たぬ自由陣営に属する諸国は二の足を踏んでしまった。
日本や英国、金満国である帝政イランともかく、後進国のパキスタンやエチオピアでは整備すら難しい。
共産圏と対峙する韓国、台湾、南ベトナムなどの国家への配備も進めなくてはいけない。
事態を重く見た米国政府は、急遽ノースロップ社で開発を進めていた練習機に着目する。
新人衛士の訓練機であるT-38タロンを基に新型機を採用し、世界各国に特許情報を公開した。
その機体こそ、F-5戦術機である。
17.3メートルと小型で軽量な機体は、欧州戦線で高く評価され、フリーダムファイターの名を得た。
木原マサキがF5フリーダムファイターを初めて見たとき、その姿を嘆いた。
50メートルを優に超え、総トン数500トンの機体と比べると、あまりにも貧相だった。
自身が作った八卦ロボと比して、跳躍力も飛行時間も短く、バランスも悪い。
またマサキ自身がこの世界に来て初めて見た戦術機は、mig21の兄弟機であった殲撃8型であった。
そして一番深く触れた機体は、訓練機であったF4ファントムのライセンス品である激震である。
度々かかわらざるを得なかったのはMIG-21バラライカであった。
ユルゲンの対BETA戦闘データを得る観点からも、ソ連の暗殺隊から降りかかる火の粉を払うにも、MIG-21バラライカの研究は必要だった。
故に海のものとも山のものとも知れないF5フリーダムファイターに関しては好きになれなかったのだ。
フランス語の資料を一瞥したマサキは、わざとらしく嘆いて見せた。
「装甲板が薄すぎる。俺の求めるものではないな」
「ムッシュ木原。
でもあなたは、米海軍が採用を目指しているF14の開発者であるハイネマン博士にお会いになったばかりではありませんか」
男の質問に、マサキもいささか慌てた。
「俺は、あの男と話をする前に、レバノンで火遊びをした。
ニューヨークに帰った後、そのまま、ボンに来てしまったからな……」
男は、マサキの話をじっと聞いている風だった。
叱責の一つでも、言われた方がどれだけ楽か。
重苦しい無言に押しつぶされそうだった。
「ただし、ダッソーとの研究ノウハウは俺も欲しい。貴様らとの関係も続けたい。
既存のジェットエンジンから、レイセオンのエンジンで強化する案などは気に入った」
男は感情の読み取れない目でこちらを見た後、微笑を浮かべて、手を振った。
「では、後日。パリの首相府において、またお目にかかりましょう」
と、早々にいとまをつげて、部屋へ返っていった。
後書き
ご意見、ご要望お待ちしております。
書いてほしい話があれば、感想欄にお書きください。
気に入った内容であれば、話として採用します。
F5採用騒動 その2
前書き
定番の新型機選定のトラブルです。
F-5戦術機は、その開発経緯から純粋に貸与機として考えられていた。
後進国の軍への技術指導と訓練以外で、米軍内部での使用予定はなかった。
しかし、供与国からの実績要求を受けて、 米軍内で試験的にF-5戦術機隊の編成が行われた。
そしてBETA戦争において、対地攻撃に用いられることになった。
日本は、元々F4ファントムを採用し、激震として光菱重工でライセンス生産していた。
その様な経緯から、系統の違うF5フリーダムファイターには興味すら示さなかった。
だが、ミラ・ブリッジスが来日したことによって、F5フリーダムファイターへの認識が改められた。
彼女は、米海軍との関係が深いグラナン社でハイネマンとともに新型の空母艦載機の開発を進めていた才媛。
城内省の提案を一笑に付し、自身が書いた絵図面を見せつける事件を引き起こした。
純国産期の生産を急いでいる城内省にとって、この女技術者の持ち込んだF5由来の設計ノウハウは大きかった。
城内省に図面を持ち込んだ事件は、F4改造案を進めていた河崎や光菱の関係者には恨みを買うには十分だった。
反英米派の大伴は、この事件を利用して、ソ連に近づく姿勢をより強めることになる。
その話は、後日機会を改めてしたいと思う。
マサキ自身もF5フリーダムファイターへの関心がないわけではなかった。
彼の認識を改める事例があった。
それは、先のレバノン空軍に配備されたミラージュⅢとの実戦経験である。
この小型戦術機は、有視界戦闘の際は、高速機動によって発見するのが困難な機体。
美久の不在時にゼオライマーを動かし、対応したが、小癪なまでの動きに辟易したものであった。
仮に、サイドワインダーなどのミサイルと電子妨害装置を積んだ数百機のF5戦術機が攻め寄せたら、さしものゼオライマーでも損害が出たであろう。
マサキも、空恐ろしくなったものであった。
もし仮に後進国の指導者であったならば、拠点防衛用の戦術機として、F5を導入するであろう。
そう考えさせられたものであった。
さて、フランス軍との朝食会を終えたマサキたちといえば。
大臣の部屋で、次官たちが今後の戦術機開発計画の行く末を話し合っていた。
「彩峰大尉、欧州各国の動きをどう見るかね。君の意見を開陳したまえ」
先に気が付いていた事を、資料を見てあらためて確認したようだとみて、大臣は彩峰を指名する。
「はっ、個人的な所感となりますが……個々の開発方針は、ともかくとして」
と、彩峰は前置きしたうえで、
「欧州側の開発計画において、戦術機の強化とは……
機動性、射撃能力の向上、あるいは近接戦闘能力の向上を目指していると、小官は愚考いたします」
「そんなところだな。
忌々しい事に、欧州勢の中で、ダッソーの計画だけが独自性を持っているわけだが……
まあ、今はそれはよい」
大臣は、脇に立つ榊政務次官をかえりみると、
「では……」
と、いかにも爽快らしくわれから言った。
「米国の動きとしてはどうなのだね。榊君」
「米海軍のヘレンカーター提督を中心とする研究チームによって、新型兵器を開発中と聞いております」
「それは、いったいどういう事なんだ」
「海軍より依頼を受けたヒューズ航空機が、フェニックスミサイルの製造を開始したとの事です」
「フェニックスミサイルだと……」
「今までのクラスター弾を数倍上回る、戦術機に搭載可能な、超強力なロケット弾です」
「そいつはすごい。もし手に入れば……」
榊の言葉を、大臣は興奮した様子で尋ねる。
「たしかに、ヒューズ航空機にしか、作れない代物なのだな」
「その通りです。問題はいかにして我々の手に入れるか」
「そいつは簡単だ。新型の戦術機ごと導入するのよ」
「ミサイルどころか、機体ごとですか……
開発中のものは複座の戦術機で、空母での運用を前提にした艦載機ですよ」
榊は、ちょっと目をつよめて。
「わが帝国海軍からは、既に空母機動部隊の運用ノウハウが失われて30年の月日を経てます。
まず問題になるのは、操縦席が複座という事でしょう。
操縦士とレーダー管制官を乗せる問題は、スーパーコンピューターでも積めば、解消するでしょうが……」
彼の話を、彩峰が受けて、深刻そうに大臣にうながした。
「たしかに、是親のいう複座と運用コスト……
その問題を解決しない限り、採用から時間を置かずに退役をするのは、火を見るより明らか……。
我が日本の国情を考えますと、そう思われます」
すると大臣は、彩峰に聞き返した。
「そうか。ハイネマン博士の作品は、それほどまでに高くつく代物なのかね」
「わが国の篁君や木原もそうですが……」
「どうもロボット工学の研究者というものは、工業デザイナーというより芸術家なのです。
彼らの作品は、工業製品としての兵器というより、数十人の技術者が作り出した芸術品なのです。
性能自体は間違いなく、一線級なのでしょうが……」
榊は、やや間をおいてから、
「それに、今欧州勢が開発中なのはF5系列の機体ですから、F4系統を使っている我が国に導入するにしてはノウハウも役に立たない」
と、明答した。
すると、ク、ク、クと噛みころし切れない笑いを白い歯にもらしたマサキが脇から現れる。
大臣の側近はみな、緊張していた氷のような空気にひびいて、それは常人の笑いとも聞えなかった。
どこかで、べつな妖しいの物がふと奇声を立てたかとおもわれた。
「早い話が、グレートゼオライマー建造と違って役に立たないんだろう」
人を吸いこむような柔らかい顔でいながら、マサキは諧謔を弄していた。
ぐっと、みな息をつめ、そしてどの顔にも、青味が走った。
「木原。貴様、脇から口をはさむとは何事だ」
ちらと、マサキも眼のすみで彩峰のそれを射返した。
小癪なと、すこし不快にとったようだった。
「技師としての率直な意見を聞きたい。つづけたまえ」
ほとんど無表情にちかい大臣のつぶやきだった。
「金も時間も無駄にするような話はお終いにする。そういう事さ」
と、マサキは言いつづける。
「だが、ミサイルとロケットランチャーに関しては俺は有益と思っている。
開発中の新型機F14にだけではなく、F4やその系列機にハードポイントを追加して、使える様にすればいいだけだ」
左右の側近たちは、ぎょッと顔から顔へ明らかなうろたえを表に出した。
「まず、ミサイル運用の前提として燃料タンクの巨大化。
そして、コックピットの複座とシステムの問題がある」
大臣は、なんども頷いて聞きすました。
「燃料タンクは増槽を付ければいい。
それにシステムはグレートゼオライマーに搭載予定のスーパーコンピューターの簡易版を乗せればいい」
俄然、榊の調子も、するどく変って来て。
「スーパーコンピューター?」
「そうだな。グレートゼオライマーだから、GZコンピューターと名付けよう。
様々な記憶や情報収集を兼ね備えた制御装置で、俺の指示で自立走行可能なシステムの事さ。
こいつがあれば、その超強力なミサイルどころか、空母への離陸着艦も容易になる」
GZコンピューターと呼んではいるが何のことはない。
美久に搭載された推論型AIの簡易版である。
マサキとしては、このAIをもってして、ファントムやサンダーボルトに搭載し、月面偵察の際に使おうと考えていたのだ。
「GZコンピューターが完成すれば、今までのような人的被害は最小に抑えることが出来る。
ただし、BETAの妨害工作に関してどれほど有用か、未知数だがな」
「一応、その簡易版なら、俺が8インチのフロッピーディスク20枚に焼いておいた。
それを戦術機のコンピューターに差し込めば、変わるはずさ」
その話を聞いて、大臣は腰が抜けそうになった。
「どうやって、そんな情報量を圧縮したのだね」
「これも、次元連結システムのちょっとした応用さ」
「なあ、貴様らがほめそやすミラとやらに、会ってみたくなった」
彩峰は、冷たい肌を這う油のような汗を覚えた。
あの貴公子、篁は、そんなことをマサキの耳に入れていたのか。憤怒の気持ちがくすぶる。
「深窓の令嬢の次は、人妻にちょっかいを出そうというのか。
放蕩三昧もいい加減にしろ」
竹馬の友、彩峰にも覆いえないものが今日はみえるが、榊の方はもっと正直に興奮していた。
「木原君、遊ぶなとは言わんが……」
と、途方に暮れたように、マサキを笑った。
「シュタインホフ将軍の孫娘、キルケ嬢の件と言い、少しはわきまえるべきじゃないのか」
「……ち」
マサキは唇を鳴らした。
ミラの名前を出しただけで、これである。
思い人のアイリスディーナの場合はどうだろうか。見てはいられない。
「貴様にそんな質問をする権利は、あるまい」
と、明答した。
だが、ひとり彩峰は、マサキの落胆の色を、烈しい鞭のような眼つきでにらんだ。
マサキのもろい一面を、彼は知り抜いていたからだろう。
マサキの意志のくずれを怖れたのだ。
マサキは硬めていた体をほぐして胸を上げた。
そして面には微笑に似たものをもって、あわれむような眼差しをじっと凝こらして、
「キルケの件は……なんの、いらぬ斟酌だ」
と、判然と応じ、
「宴の席ゆえ、少々常より酒の過ぎたまでのことよ」
そして大臣のうなずきを見るなり、すぐ部屋を後にした。
後書き
ラスコー・ヘレンカーター提督は公式資料集に出てくる人物です。
ご意見、ご感想お待ちしております。
その名はトーネード その1
前書き
キルケデート回。
長くなるので2回に分けます。
フランス関係者との会食の翌日。
早朝よりけたたましく鳴る室内電話で目が覚めたマサキは、不快感をあらわに受話器をを取る。
通話口の相手は、先にフロントに降りていた美久だった。
「先ほどからフロントに人が見えられておりますが……」
「俺にか……」
「面会希望と申しております」
まだソ連の誘拐事件から、日も浅かった。
マサキは、ソ連KGBの誘拐を怖れていた。
KGBと通じた高級娼婦や配達業者を装ったGRU工作員の可能性を否定しきれなかったのだ。
「連絡もなしか。新聞記者なら追い返せ」
「報道関係者ではありません。」
「どんな人物だね」
「うら若い娘で……」
「直接会って、用件を伝えるとしか」
「とりあえず、会いに行く」
素早く着替えると、小型拳銃オート25をポケットに突っ込んでエレベーターに乗った。
マサキは丁度、ロビーに降りてきた時、彩峰と話をする人物がいた。
ホテルのフロントの椅子に腰かけているブルネットの髪をした小柄な娘。
「何をしている、こんなところで!」
そこには先日会った少女、キルケ・シュタインホフが待ち構えていた。
西ドイツ陸軍の婦人用制服をきっちり着こなし、黒いセカンドバッグを膝の上に置いていた。
「おい木原、迎えに来た彼女に失礼であろう。
キルケさんは、西ドイツ軍シュタインホフ将軍の孫……
ボン訪問をしたこの機会に、ぜひ我々に色々見せたいものがあるそうだ。
お前は行くよな」
彩峰はやや凄んで言った。いわば柔軟な強迫だった。
「アポなしで他軍の将校に会いに来る。ドイツ娘の専売特許だったのかな」
キルケは今朝から黒髪に香水を振りかけて、入念に化粧を凝らしていた。
「貴方って、意地悪な男ね」
彼女の返答は、いつになくきつい調子だった。
「俺と話がしたいんだろう。だから、こうして来てやったんだぜ」
意味ありげにそう言いながら、
「じゃあ、お前と南ドイツにある戦術機のメーカーに行くか」
「え!」
てっきり断るものばかりと思っていた彼女にとって、返事は飛び上がらんばかりの驚きだった。
マサキの口からそんな言葉が出るとは思っていもいなかったし、考えを見透かされるようだった。
「俺にとって、今更欧州の戦術機に参加したところで、意味がない。
だが、この話には興味があるのは事実だ。一度確かめねば一生後悔しそうだしな」
と、いや味な笑い方をして、彼はまた、
「それに」
乱暴に腕を取って、彼女の横顔へ、身をすり寄せる。
「こんな麗しい女性が同行するなら、楽しめよう」
キルケは、あわてて彼のたまらない熱気から身を離して。
「私は、あなたの饗応役ではございません」
この時は、マサキも声に出して笑った。
まもなくサングラスをかけた老人と見たことのない偉丈夫が来て、彼に慇懃に挨拶をした。
「木原マサキ君、かね……」
「どうした」
「君に一つ頼みごとをしたい」
既に、70は超えているのであろうとマサキは思った。
かけているミラーレンズの遮光眼鏡で、表情は読み取れない。
「改めて名乗ろう。わしはドイツ軍退役将校で、ドイツ連邦の先行きをいささか憂いている男だ。
君の話は、シュタインホフ将軍からも、詳しく聞かされていたが……
余りにも若いので、支那での話などは一概に信じられなくてね」
マサキは、動じもしない。
「突然の無礼、許してくれたまえ。
敗戦国ドイツはのう、モーゲンソープランにより厳しい産業規制によって割り当てられた工業製品しか作れなかった時期が長かった。
11年に及ぶ再軍備禁止と20年にわたる航空機産業への参加締め出し……
この影響は、いまだに続いている」
それは、マサキにも意外だったに相違なく、
「こんな所へ、今ごろ何しに」
と、舌打ちはしたものの、しかし、すぐ黙って聞き入っていた。
「それでな、日本の斑鳩公がこのわしに仕掛けてきた。
日本はモーゲンソープランの対象国でもないし、最前線でもない。
ドイツに代わって、欧州で戦術機メーカーが暴れる下地を作ってくれ。
とりあえず500万ドル出すと……」
(1978年当時のドル円レート、1ドル195円)
「つまり、日本のメーカーが欧州で暴れれば、困った米国が乗り出してくる。
そこでドイツが仲裁役に入ってきて、米国にいい顔をし、ソ連を抑えて、戦術機の世界シェアを増やすことを条件にするというわけだ。
ドイツが作った戦術機も日本が安く入手できるしのう」
マサキは、充分疑っている。
「わが国には欧州各国が共同設立したパナヴィア・エアクラフトという半官半民の企業がある。
わしらが作った会社じゃが、ここで戦術機開発をすることにしたものの……
プロフェッショナルの専門家がいない。
そこで君じゃ」
「貴様、俺の事をどこで聞いた」
と、マサキは、困ったような顔を見せて、
「ニューヨークのフェイアチルド社長から、ちょっとばかりね」
これには、マサキも色を変えた。
無視できない何らかの支障をふと、彼にしても思わぬわけにゆかなかった。
「どうかね。
ここはひとつパナヴィアの参加企業、メッサーシュミット本社へ来て、見学でもしてくれぬかね。
ハルトウィック大尉も引率の一人としてつくから、君の上司、彩峰大尉も納得するであろう」
ふと、マサキは変な顔をした。
男の言ったハルトウィック大尉を見るなり、内心落胆した。
筋肉質の逞しい体の偉丈夫であるが、白皙の美貌を湛えたユルゲンとは違い、興味をそそられなかった。
東ドイツが、マサキの傍に連れ出された人物たちは、それ相応の容姿の持ち主だった。
容姿だけではなく。服装やその他に、SEDの配慮があったろう事は想像に何硬くない。
従って、国境検問所から先では、乗物から扱いまで、西ドイツと比べて劃然と、待遇がちがっていた。
氷細工の様な貌のユルゲンをはじめ、スラブ系の血が入っていて彫りの深い顔のヤウク。
彼らのような美丈夫の他に、眩いばかり美女にも心を踊らされた。
18歳という年齢の割には妖艶な美を秘めたベアトリクス、泣き黒子が印象的で、しっとりとした感じの典雅なハイゼンベルク。
何よりも、マサキを夢中にさせたのは、心を洗われる様な清らかさのアイリスディーナであった。
人間、美食になれると、どうしてもそれ以外のものがひどくまずく感じるものである。
マサキはなにか、味気ないここちがした。
さて、マサキの一行はボンから15キロほど先あるケルン・ボン空港に向かう。
ルフトハンザ航空の国内路線で、ミュンヘンにとんだ。
一時間ほどでミュンヘンに着くと、隣町のアウグスブルクに向かった。
マサキたちは、キルケの案内でアウグスブルクにあるメッサーシュミット本社を訪問した。
本社工場の脇に併設されている『メッサーシュミット技術者センター』。
総ガラス張りの5階建てビルの中では、欧州戦術機計画の主だった技術者たちが待機していた。
簡単な茶会の形で始まった、技術者との懇親会。
マサキは開口一番、心の内にある思いを伝えた。
「説明してほしい」
あの特有な淡褐色の眼で、マサキは部屋中のメッサーシュミットの役員らを、ねめ廻し、
「東ドイツと違って、産業の制限のない西ドイツ。
なぜ貴様らが、欧州各国と合同で戦術機開発をせねばならぬのだ」
紫煙を燻らせながら、問いただした。
木原マサキは噂通り、猫の目より変りやすい御機嫌様なのだ。
人々は、彼を連れてきたキルケ・シュタインホフの方をつい見てしまった。
若いキルケは、ただ赤くなっているばかりであった。
同席していたヴィリー・メッサーシュミット会長が、そのとき、初めて口をひらいた。
「お恥ずかしい話ですが、30有余年前の戦争では、欧州一……」
椅子より立ち上がった会長は、座っているときより老けて見える。
「いや、世界一の技術を誇っていたのです。
今思えば、ずいぶんと分不相応な暮らしをしたものです」
老会長の助け舟で、キルケもほっとし、社員たちも、わざと話題をほかへ、迷ぐらした。
「国民皆が勝てぬ戦いを勝てると信じ込み、必要以上に戦ったのです」
「そうか」
そういって、彼らのわきを通り抜け、窓辺に歩み寄る。
マサキは、5階の窓から滑走路に居並ぶ戦術機を睥睨する。
前の戦争ではドイツは700万人の尊い人命が失われた。
もしBETAを食い止めなかったら、東独はおろか、西独も歴史の渦に消え去っていたであろう。
「確かに人的資源には限りがあるからな……」
意味ありげに、タバコをふかした後、
「生かすのも、殺してしまうのも……」
マサキの言葉に室中、氷の様にしんとなってしまう。
マサキを本社に連れてきたキルケは、すっかり狼狽えていた。
メッサーシュミットの社長に対して、いきなりこれである。
重役たちの腹の中は煮えくり返っているに違いない。
それが気が気でなく、不安と緊張で体を強張らせて、とても彼とのデートではなくなっていた。
「フフフ……」
声高に笑うマサキを見て、反射的にキルケは腰を引いた。
「ちと、不躾なことを申してしまったな……」
そうは言われても、気にせずにはいられない。
「こいつは、失敬した」
逃げ出せるものなら、逃げ出したい。
怖気づきながらも、マサキの方に視線を向ける。
本能と理性の、恐怖と任務の間の板挟みにあって、彼女は身動きできずにいた。
「でも日本とて、下手をすれば同じ道をたどったであろうよ……」
「そんなことはないでしょう」
マサキは、会長のお世辞を耳にしたが、驚いたふうもない。
「わが国の航空機技術、既に失われた20年のノウハウは想像以上に大きいものでした」
刻々、変ってゆき、また悪くばかりなってゆくドイツの形勢図。
男の言葉から、マサキには波と聞え、眼にも見えるここちがした。
「それでも数年前からですが、新しく戦術機開発の部門を開設しました」
憫笑を禁じ得なかった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
その名はトーネード その2
前書き
キルケ回は一旦終わりにします。
累計数億人が戦死したBETA戦争。
この空前絶後の大戦争によって、欧州各国はそれまで個別に進めていた戦術機開発を一旦棚上げすることになった。
フランスを主としたNATO諸国は、合同の戦術機開発に乗り出す。
途中、フランスが政治的都合で合同開発計画から離脱すると、西ドイツと英国が主体になって計画を進めた。
まず初めに名乗りを上げたのは、英国のブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション。
次に西ドイツにメッサーシュミット・ベルコウ・ブローム。
そして、オランダのフォッカー・アエロプラーンバウとイタリアのフィアット。
四か国が共同設立した会社が、パナヴィア・エアクラフトとして知られる会社である。
トーネードは、電子自動操縦装置が故障したとしても、乗組員が地図や高度計を使用し、状況に応じては手動での飛行操縦を可能なように設計されていた。
また増槽の追加を想定していない軍事作戦を前提にしていたので、同じF5戦術機から派生したミラージュⅢよりも、操作性に難しさを感じるとの評判でもあった。
マサキたちは駐機場に行くと、そこには銀面に塗装された3機のロボットが立ち並んでいた。
吹き抜ける11月の風は肌寒く、着ている軍用外套の隙間から熱を奪った。
ここミュンヘンは、ドイツ南部にありながら、北海道の札幌より北の北緯48度8分。
11月の平均気温は8度前後で、最低気温は0度前後である。
ドイツの冬の寒さに慣れてきたとはいえ、マサキにとっては負担であった。
直前に中近東の温暖な場所にいたのもあろうが、やはり生まれ育った日本より厳しい乾燥した寒さは、体に堪えた。
のどに若干違和感を覚えるも、愛煙家特有のものであろうと見過ごしていた。
「これが、わが社が誇る新型戦術機の試作機、トーネードADVです」
案内役からそう説明を受けるも、マサキは困惑していた。
違いといえば、ドイツ鉄十字紋章の他には、色の組み合わせが違う円形章がついているぐらいであった。
どれも、マサキには同じに見えてしまった。
軽く咳払いをした後、
「両手についている箱のようなものと、刃物は何だ」
「近接戦闘用の刀ですよ。ご覧ください」
そうすると手の甲を覆うように、箱の側面についた板が反転した。、
「このカギ爪状のもの、私共はブレードベーンと称していますが……
戦車級に取りつかれた際、これを用いて戦術機からBETAを排除するのです。」
ロボット同士ならともかく、怪獣、しかも資源採掘用の重機相手に大立ち回りはおろかではないか。
そんな白けた感情が、先に出てくる。
結局、十分な距離を取って射撃が正解であるし、接近される方が悪いと思えてしまう。
「馬鹿か」
マサキは呟いた。
誇張したあきれ顔をその下に作って。
「俺は光線級にミサイルの飽和攻撃が有効だと考えている」
マサキの設計した、八卦ロボの思想と戦術機の思想は根本から違った。
彼は、遠距離からの強力な火力投射こそ正義であり、それこそがパイロットの安全性を守るものと信じてやまなかった。
故に、彼に設計し、建造した山のバーストン、月のローズ・セラヴィー、雷のオムザック。
敵の接近を許さず、ごく初期の山のバーストン以降は、自在に飛行できる能力を付与した。
また相手の視界に入ることなく、一方的に撃破できるのを目的としていた。
バーストンには、500発の誘導弾に18発の核ミサイル。
ローズ・セラヴィーには、指向性のビームに、エネルギー砲のジェイ・カイザー。
オムザックには、周囲数キロメートルの物質を微粒子化する原子核破砕砲『プロトン・サンダー』。
そして、宇宙のエネルギーを無尽蔵に集める次元連結システムの天のゼオライマー。
両腕から繰り出す『メイオウ攻撃』は、原子そのものまで消滅させる威力であった。
「TU95爆撃機からの核搭載のKh-20ミサイルの飽和攻撃をもってして、BETA梯団の進行を止めた。
その様な事例があると、ベルンハルトより聞いている。
そして、東ドイツ軍の戦闘報告でも一部光線級の防御に損害を与えた、ともある。
そういう意味では、戦術機に誘導ミサイルの搭載は有効と考える」
「肩に緑色の箱を積んでいるのは何だ」
「あれは、英国が作ったミサイル発射装置ですよ」
彼はわざと非情を顔に作って、言った。
「あの程度じゃ、せいぜい戦車級に牽制を与えるぐらいだぞ。
時間稼ぎにしかならん……」
どうして、この世界の人間は人命を軽んじる傾向が強いのだろうか。
あの悪名高い、前の世界の帝国陸海軍でさえ、有効打でなければ特攻作戦を中止したのに……
なにかと、自爆攻撃を好む傾向にあるのではないか。
そんな風に思い悩んでいた。
「ドクトル木原……」
次の言葉でマサキは我に返る。
「だいぶ、難しい顔をされていますな」
声をかけてきたのは、上品なウールフランネルの灰色の背広に身を包んだ老人であった。
「フフフ。俺には、どれも同じブリキの人形にしか見えぬからな。
ファントムの粗悪品であるMIG21でさえ、露助と東独の機体でも、色の違いはあったぞ」
老紳士は、マサキの佇まいを一通り見た後、顔をほころばせる。
「自己紹介が遅れましたな。
フィアット自動車で自動車設計技師をしておりました、ジアコーザと申すものです。
博士、どうかお見知りおきを」
フィアット自動車と聞いて、マサキは眉を動かす。
日本でも人気がある、イタリアの大衆車メーカーの名前だ。
「ほう。イタリアは自動車設計技師を引っ張り出すほど困った居たのか。
イタリア車は、フィアット、フェラーリなど官能をくすぐるような、デザインが多いのは事実だ。
形容しがたいほど素晴らしいが、勝気なじゃじゃ馬娘と同じで、少々維持に金がかかりすぎる。
もう少し壊れなくて、安い自動車が欲しいものよ」
イタリア車が壊れやすい、これはある一面事実であり、事実でなかった。
四方を海に囲まれ、豊かな森林と山河を抱える日本列島は、常に水資源の恩恵にあずかっていた。
他方、そのことによって、年間を通して多量の雨が降り、湿潤な環境下では、欧州の乾燥した環境に対応した製品にとっては不向きだった。
工業製品にとどまらず、衣類や革製品などもあっという間に湿度に侵され、無残に風化してしまう過酷な環境であったからだ。
約1000年前の平安朝のころなどは、今日よりも気温が3度ほど高く、渤海より献上された黒貂の毛皮などは管理された状態であっても、2年も経ずして腐り果ててしまったという記録があるほどである。
(渤海とは、今日の中国東北部周辺において、7世紀から10世紀に存在した騎馬民族王朝のことである)
故に、どんなに素晴らしい自動車であっても、日本の環境下ではゴムパッキンなど用をなしえなかった。
その為、運転可能に維持するのがやっとであった。
マサキは、二度の大戦でイタリアが途中で連合国に降伏したことを非難した。
「途中で嫌になって、ほっぽり出す。今度は、そのような真似はするまいな。
二度あることは三度あると、よく聞くものでな……。
俺らの邪魔にならないよう、最高のインテリアとして頑張ってくれや」
ラテン系のイタリア人はドイツ人や北欧系の人々と比して、明朗快活で親しみやすい面があるのは事実である。
しかし、ドイツ人のような生真面目さもなく、バカンスを優先し、精密機械でも雑な仕上げが多かった。
そのことを知っていたマサキは、彼らを揶揄った。
ペンキの色がところどころ違うボディー、抜け落ちるブレーキパッド、割れる樹脂製のコンポーネント。
整備性を無視した乱雑な配線、雨漏りのする屋根……
彼には、イタリア車に関して、いい思い出がなかったのも大きかった。
そうした内に、ジアコーザー老が、口を開いた。
「博士がもう少しお若ければ……孫娘のモニカの相手にでもと思ったのですが」
本気かと、マサキは疑った。
だが、曖昧模糊なジアコーザ老の顔はまた笑っていた。
「ほう。いくつの娘だ」
「今年の7月に、4つになったばかりにございます。
15年ほどお待ちいただければの話ですが」
「ハハハ」
マサキは、初めて笑い出して。
「見損うな。この木原マサキ、そんな小娘一人で満足すると思ったか。
俺はお前たちが思っているよりは、ずっと欲深い悪党なのだ。
俺が仕尽くす悪行は、こんなことでは終るまい。楽しみに待って居れ」
彼はそう言って、まもなくその場から退がって行った。
さてマサキたちといえば。
夜半も過ぎたころ、ミュンヘン空港にあるマクドナルドに来ていた。
ドイツの一般的なレストランや飲食店は、20時で閉まってしまうためである。
(2006年以降、ドイツの閉店法は改正され、24時間営業は全面的に解禁された)
この法律の元となったのは、ワイマール共和国時代の労働者保護の精神である。
しかし、20世紀も半ばを過ぎた1970年代後半に在っては、やや時代遅れなものとなりつつあった。
この悪名高い『閉店法』の都合上、営業している店舗などは非常に限られたものであった。
例外として、空港、ガソリンスタンド、鉄道駅は深夜営業が許可されていた。
それ故に、マサキはわざわざミュンヘン空港のホテルからでてマクドナルドにまで来ていたのだ。
さっきから、二人は「ここなら人目もない」と、密語に時も忘れていた。
「迷惑じゃなかったか」
「迷惑だなんって、そんな……」
少しはにかむ様に言いながら、飲みかけのコーラに口を付けるキルケの装いは華やかだった。
紺青のダブルジャケットに、共布のタイトスカート姿は、決して派手ではなく、キルケの女らしさを上品に引き立てて、優美でさえあった。
「こういう場所は、あまり好きではないのか……」
漆黒の髪をした東洋人に情熱的な眼で見つめられ、キルケは感激で胸が詰まり、それ以上言葉が出てこなかった。
ここで、何と答えればよいのだろうか……
適切な答えが出てくるほど、キルケは男の扱いに慣れていなかった。
むしろ、恐ろしいほどに男というものを知らなかったのだ。
「い、いえ、そんなことはないですけど」
そういう彼女を見ながら、マサキはニュルンバーガーを頬張った。
ニュルンバーガーとはドイツ国内で限定販売されているソーセージ入りのハンバーガーである
太いニュルンベルクソーセージが3本、フライドオニオンがバンズに挟まっていて、マスタードで味付けされている。
ソーセージはいくらかハーブがきいていたが、値段の割には思ったより小さかった。
食べ応えを求めていた、マサキには不服だった。
こんなものを食うより、てりやきバーガーの方がうまいのではないか。
ふと食事をしながら、マサキは一人、望郷の念に苛まれていた。
沈黙したまま、窓の外の夜景を見つめる二人。
紫煙を燻らせながら、そっとキルケの方を覗き、いつもの調子で尋ねる。
「BETAもいなくなった今、なぜそんなに新兵器開発を急ぐのだ」
緊張したキルケは、さりげなさを装って、コーラのグラスに唇を付ける。
「米国の生産能力の枯渇を見越して、多目的戦闘機の開発を急いでいるの」
マサキは意外そうに。
「米国は、そんなに武器の在庫がないのか」
ぐっと体を近づけて聞いてくるマサキに、否が応でも緊張が高まる。
夜景ですら、まともにキルケの目に入ってこなかった。
「産業のすべてを軍事優先にしているソ連とは違って、今のアメリカは無理だわ。
民需の都合もあるから戦時体制に入らない限り、増産は出来ないはずよ」
「本当か」
マサキの怪しみは、むりもない。
それは既に30年以上の時を経た、大東亜戦争の苦い敗北の記憶が染みついたためであった。
1940年時点において、GDPは、日本2017億ドル、米国9308億ドル。
4倍以上国力差を見せつけた米国の産業。
どうしてもその時の印象ばかりが、頭を離れなかったのは事実だ。
彼は、アメリカの生産能力を過剰に恐れていた。
「もっとも米国市民のほとんどは海外派兵を望んでいないでしょう……
それに今年の中間選挙。
今の野党、共和党が勝てば、BETAがいなくなったことを理由に大規模な欧州から撤兵を表明するでしょうから。
民主党が議会を維持しても、現状のままとは思えないし……」
マサキは窓ごしの夜空をにらんで、いかにも無念そうな面を澄ました。
けれど何もことばには現わさなかった。そしてやがて。
「つまり、米国には期待していないと」
「早い話、そう言う事ね。
東のおバカさんたちはそうじゃないかもしれないけど、私たちはそう思ってるの」
この期にしろ、ドイツには本心、米国を捨て去る気持ちなどは毛頭ないのである。
ただしかし、欧州にとっては当面、まことに困る存在であった。
自分たちの要望を、受け入れてもらえばよいのだった。
「話は変わるけど……」
「どうした」
キルケの呼びかけに、マサキは、また顔を澄ました。
「サミットが終わったら、私と役所に行ってくれる」
「役所?」
「貴方には戸籍謄本とか、個人証明の書類を用意してほしいの……」
マサキの頭に浮かんだのは、戦術機関連の特許申請に関してであった。
改良型のサンダーボルトⅡか、あるいは光線級の対レーザーペンキの特許か。
どちらにしても大使館経由で関連書類を整えるしかあるまい。
「いいだろう。早い方がいいからな」
キルケは口にこそ出さないが、
「もう、しめたもの」と、思ったような態であった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
ジアコーザ博士はTEのVGこと、ヴァレリオ・ジアコーザの祖父にあたる人です。
孫娘のモニカは、1974年7月1日生まれで、VGの3歳年上のお姉さんになります。
なお、本文中のデータは『世界経済の成長史1820‐1992年―199カ国を対象とする分析と推計』より参照しました。
少女の戸惑い
前書き
読者リクエスト回
1973年から続いた対BETA戦争。
前年のソ連の穀物輸入を発端として起きた資源、原材料価格の高騰は全世界へ影響した。
特に顕著だったのは、石油、天然ガスなどのエネルギー資源に関してである。
より情勢を悪化させたのは、1974年のマシュハドハイヴ建設である。
石油資源の主要な輸出国である帝政イランの情勢不安は、石油販売価格を70パーセント上げる原因になった。
日本のように、中近東より工業原材料を輸入する国にとっては死活問題であった。
「石油供給が途絶えれば、日本は物不足になる」との不安は、大きかった。
28年前の戦争末期、海上封鎖を受けて、物不足に苦しんだ人々の記憶が鮮明だったのもあろう。
市中の主婦は、トイレットペーパーや洗剤の買いだめに走るという事態になった。
また一部の悪辣な商店などでは売り惜しみも流行った。
このBETA戦争での石油危機は、何も日本ばかりではなかった。
石油輸出国機構(OPEC)が原油供給制限と輸出価格の大幅な引き上げを実施。
これにより、国際原油価格は、わずか3カ月で約4倍に高騰し、世界経済は大きく混乱した。
1960年代から1970年代初頭まで、先進国を中心に石炭から石油へとエネルギーの転換が起きていた時期のこの騒動は深刻だった。
原油価格上昇は、ガソリンなどの石油関連製品の値上げに直結し、物価は瞬く間に上昇した。
急激なインフレーションは、それまで旺盛だった経済活動に歯止めをかけ、日本の戦後復興はここに終わる原因となった。
1974年10月15日、突如としてソ連国際貿易省は、原油販売価格を3倍に変更すると発表する。
マシュハドハイヴ発見直後の、この通告は、一瞬にして全世界を駆け巡る。
影響が深刻だったのは、陸上パイプライン経由で、ソ連の石油資源を輸入していた欧州、とりわけ東欧であった。
第一報が西ドイツの国営テレビで伝わると、自然発生的であるが、ベルリン市民の一部が買い占めに走った。
東ドイツでは、表向き、西ドイツのテレビ放送は禁止されていた。
だが、西ベルリンに立った強力な電波塔のおかげで、ほぼ全域で西ドイツ国営テレビの放送が見れたのだ。
また、市民のみならず、幹部たちもシュタージ職員たちも東ドイツの報道を信じていなかったことも大きい。
当局の規制よりも早く、物不足が深刻化するという噂は、口コミで広まり、各地に飛び火する。
国営商店のハーオーやコンズームの店頭では、長い行列が発生し、警察が交通整理する事態に発展した。
東ドイツ首脳の頭を悩ませていたのは、建国以来の物不足であった。
社会主義経済による計画経済の下では、需要と供給のバランスは常に不安定で、物不足は解決しえなかった。
ゆえに石油危機のような不測の事態は、国家の危機そのものであった。
当時の東ドイツ政府は、ソ連の援助の縮小に対応すべく、西側に解決策を求めた。
それは、5年物の建設国債の販売である。
英仏などの諸国は足踏みしたが、西ドイツは積極的に国債を買い求めた。
また、米国のモルガン・スタンレー証券、チェース・マンハッタン銀行など、名だたる民間投資銀行も名乗りを上げた。
このことによって、東ドイツの政情不安は一時的に先送りされることとなった。
今、議長の胸を騒がせているのは、その時に発行した対外債務の返還であった。
特に、1975年に発行した5年物の債券の返済期限が、だんだんと近づいてきたためである
早朝からの閣議は、紛糾していた。
それはブルガリアが近いうちに債務不履行に落ちいるとの報告を、秘密裏に受けたためである。
「諸君、ブルガリアの債権放棄が事実だとすれば……」
議長がそう言いかけたとき、アーベル・ブレーメは重ねて、
「ルーマニアやユーゴスラビアも同様の姿勢を取れば、一気に旧経済開発機構内の信用不安に陥る。
そうなってからでは、西側に比して産業の立ち遅れた、わが国の経済発展は頭打ちになる」
と、常にない様子でいった。
むしろそれは、議長のほうでこそ、待っていたことのごとく、
「だが、うまい具合にそれは避けられそうになった」
「どういう事でございますか、同志議長」
政治局員からの問いかけに、ちょっと議長は、居ずまいを直した。
「近々、木原博士が、日本の商社マンとともに来られると連絡があった。
私としては、この機会を存分に利用したいと考えている」
議長は、やや眉をあかるくして、答える。
「同志諸君らは、この意見はどう思うかね」
ふいにいま、ひとりの若手官僚が、挙手したと思うと、席から立ち上がった。
東ドイツでは人気のない、ソ連製の袖の長い茶色の背広姿をした小男が、
「建設省都市局都市計画課長のイェッケルンです」
閣僚たちは、一せいに目を向ける。
「同志議長、そのことに関してですが……」
と、イェッケルンは、いよいよ早口となって、
「今の政府の見解は、国際共産主義運動への分派活動ではありませんか。
理由を、お聞かせ願えませんか」
と、声も高らかに答えた。
その場に衝撃が走った。
みな沈黙におちたが、訊きかえす者はない。
「…………」
議長は、うんもすんも答えなかった。
興ざめた顔して、イェッケルンのを見まもっていた。
議長のわきに座っていたアーベルは、うろたえ顔に、
「見損なったよ。同志イェッケルン」
と、ついに喰ってかかった。
「君は、もう少し冷静に現実を受け止めらるとは、思っていたが……
国際共産主義運動?そんなものは、国家体制の維持に比べれば、大したことではない。
物不足や社会不安によって、国内の労働力が海外に流出することの方が危機なのだよ」
と、相手の若い真額をにらみつけ、
「不服か」
と、語音をあげて云った。
イェッケルンは、その眼をすぐそらしてしまった。
興奮するアーベルとは、別に周囲の反応は冷ややかだった。
そして声のない笑いを、イェッケルンの背へ向けながら、みな彼を見すえていた。
遠巻きに見ていたシュトラハヴィッツ少将は、脇で俯いているハイム少将に耳打ちする。
「あのバカは、何だ」
妙なことがあるものと、シュトラハヴィッツは、変に思った。
「ほう? ……では、その顔で、想像がつかんわけではあるまい」
ハイムは、そう一言いっては、眼のすみからシュトラハヴィッツの顔色を見、
「あれはイェッケルンとかいう建設官僚で、前議長の小姓と言われた例のお気に入り組だよ」
また一言いっては、相手の反応を打診していた。
「前議長の小姓か……、そいつは面白そうだな」
打てばひびくというふうに、シュトラハヴィッツも図にのって、その血気と鬱憤を、不平らしいことばの内にちらちら洩らした。
「一気に切り崩しにかかるか」
ハイムは、聞き流してゆくうちに、その顔にもただならぬ色が動いた。
「ガチガチの社会主義者だ。その辺の政治将校より融通が利かんぞ」
「ふん、ちょっと利用してみるか」
会議の後、イェッケルン課長は控室に戻った。
彼の勤める建設省に帰る準備をしている折、声を掛けられた。
「大臣」
「同志イェッケルン、ちょっといいかな……」
建設大臣の案内で、議長執務室に呼び出された彼は、議長の面前に通される。
重苦しい空気を壊すかのように、議長は笑みを浮かべた。
「同志イェッケルン……今の君の気持ちは、痛いほどわかる。
俺も若いころは、何度となくそういう気持ちを味わったものだ」
イェッケルン課長は、微動だにしない。
すると議長の表情が、にわかに険をおび始めた。
「だが、今回の件は俺に貸しを作ったと言う事で納得してくれぬか」
「同志イェッケルン、今の国際情勢は、実に微妙な状態だ。
ソ連という大国の凋落、それによるEC各国の動き、そして日米の経済交渉……
わが国にとって、今まで以上に、西側との外交通商が最重要課題になる」
再び、議長はよそ行きの笑みを浮かべる。
脇で聞いている建設大臣の顔色は、決して優れているものではなかった。
「誤解しないでくれよ。
これは君の力を不安に思っているわけではない」
「だが、いま求められているのは、社会主義にとらわれない自由な発想なのだよ」
大臣は、イェッケルン課長の機嫌を伺うような言葉を吐く。
「分かってくれ、同志イェッケルン。
議長は国のためを思って、日米との関係修復を急いでいるのだ……」
イェッケルン課長は、冷たく突き放した。
「話は、それだけですか」
彼は居住まいをただすと、議長の方に向き直って、
「失礼します」
深々と一礼をし、その場を辞した。
イェッケルン課長がいなくなったのを見計らって、大臣が釈明をした。
「しかし有能な男なんですがね……
何度も言うようですが、社会主義に凝り固まっていなければ」
議長は、大臣の言葉が終わらぬうちに言葉を重ねた。
机の上にある煙草盆から、愛用するフランス煙草のゴロワーズをつかみながら、
「彼をここに呼んだのは、貴様にも責任がある」
大臣は、男の言葉の真意を測りかねている様子だった。
「えっ」
男は、両切りタバコを口にくわえ、
「シュタージの第8局の捜査官……」
静かに、ガスライターで火をつけた。
「会ったそうだね……」
途端に、大臣は驚愕の色を示す。
「えぇ……あ、あの……」
「あまり小細工はするな。
今回は見逃してやる。つぎはないぞ」
イェッケルン課長は、厠に入るなり、今までの憤懣をぶちまけた。
「所詮は、アメリカの飼い犬ってことか。
力のない男だから、ゼオライマーのパイロットに、愛娘を妾に差し出すことしかできない宿命か。
腹を立てても、仕方ないか……」
今の議長は官界では嫌われていた。
ソ連の次は、米国と西ドイツに、最終的な責任を持って貰う。
議長は、「西と東が手を取り合って」と良き事の様にいっている。
だが、結局豊かな西側におんぶに抱っこ。
つまり、東ドイツは自力で何も出来ない。
東ドイツ人の自尊心に対して、物凄く不誠実ではないか。
そんな声も少なくなかった。
米ソの思惑によって、ドイツ国家が西と東が分断されて三十有余年の時間を経た。
人生の大半を東ドイツで過ごしてきたという人も、1600万人と、決して少なくはなかった。
どんな批判すべき体制であろうと、東ドイツという国でを一つの生涯を過ごしきたのは事実である。
そのつらい経験も、また人間を構成する一つの要素であることに変わりはなかった。
「このクソジジイどもが」
イェッケルンは怒りのあまり、トイレの鏡を鉄拳で割り砕いた。
まもなく、妙な噂が立った。
それも官衙の中からである。政治局会議の直後だった。
「イェッケルン課長が乱心した」
「いや躁鬱病だとか」
「何、そうでない。議長の御前にてあるまじき狂語を吐き、ために訓戒を受けたそうな」
「そうらしい。自分の聞いたところもそれに近い」
と、いったような臆測まじりの風聞だった。
その噂は、彼の娘、グレーテル・イェッケルンの耳にまで届いていた。
グレーテルは、総合技術学校(Allgemeine. polytechnischeOberschule)の10年生になったばかり。
総合技術学校とは、満6歳から16歳までの10年間の義務教育機関で、日本の小中学校にあたる。
今年はグレーテルにとって、重要な年であった。
職業学校か、高校進学かに関しての進路に対する重大な決定を決めなくてはならないからである。
職業学校とは、2年制の学校である。
卒業後、企業や公団への進路が決まっていて、東ドイツ国民の9割以上がこの道を選んだ。
一応、3年制の特別職業学校もあり、そちらは大学進学の道が開けていた。
高校は二年制で、西ドイツのギムナジウムに相当するものであった。
東ドイツでは、西ドイツと違い、社会人になってからも大学の受験資格は存在した。
社会人青年学校と呼ばれるものや、職業学校から専門学校に入れば、大学進学が可能であった。
グレーテルには、青天の霹靂であった。
自分の一生を左右するこの時期に、父の怪しげなうわさなどは……
党の反対派に関しては、つねづね聞き及んでいることも多々ある。
シュタージの心事を理解するに、全くわからないグレーテルでもなかった。
特に今度の唐突な噂については、彼女も解せぬものを抱いていた。
子供とは、残酷なものである。
父の事を思い悩むグレーテルのもとに、いつしか同級生たちが集まっていた。
「ねえ、グレーテル。こんな話、知っている……」
そういって、女生徒の一人が声をかけてきた。
「うわさで聞いたんだけど……
議長のお嬢さんが、ゼオライマーのパイロットに見初めれられて、彼と結婚するらしいのよ……」
何、世話話とグレーテルは訝しんだ顔を向ける。
「知っているわ。
少年団でも、学校も、もちきりだもの。おとぎ話のような話ね」
「そう、おとぎ話、別世界だと思っていた。
でも、その噂の人が、東ベルリンに来るとしたらどうする」
そういって、不安と恐れとともに呟く。
その言葉に、グレーテルの心は揺れた。
『どうしよう……でも父さんを助けなければ……』
今、党内や職場で不利な立場に置かれている父を救うには、その日本軍のパイロットに頼み込むしかない。
議長の娘の婚約者となれば、東ドイツの政財界に影響を持つのではないか。
窮地にある父や母を救うためには、この私が出来ることをするしかない。
子供心にそう考えた彼女は、ある決断をする。
グレーテルは、夢からさめたような面持を向けて、
「ゼオライマーのパイロットに頼めば、父はどうにかなるんでしょう。
その人に会いに行くわ」と、つぶやいた。
後書き
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少女の戸惑い その2
前書き
冷戦時代から、ペルガモン美術館は東ドイツ観光の穴場でした。
さて、場面は変わって、ここはボンの日本大使館。
マサキは、大使公邸の一室に差し招かれて、密議を凝らしていた。
大使は紫煙を燻らせながら、マサキに事のあらましを説明した。
「鎧衣から、話は聞いたと思う。
日本のゼネコンが、東ベルリンのミッテ区再開発事業に参加するのは事実だ。
その事前交渉をやってもらいたい。
急いでいるのは、西ドイツの企業連合が参加する意向を見せているためでね」
駐西ドイツ大使館勤務の珠瀬玄丞齋は、
「ざっと、総事業規模500億円にもなる。
とても泣き寝入りできる金額ではないのだよ」
と熱弁をふるった。
マサキは、ついに口をきり出した。
「どこへ行けばいい」
大使をさしてである。
大使は、向う側の席から正視を向け、
「東ドイツの建設省と通産省、貿易省だ」
強いて、その顔を笑い作りながら、
「東ドイツに日本政府が融資した理由は、東西統一を見越しての事だ。
既に東ベルリンを数度訪れた君に言うのもなんだが……。
戦後復興の遅れた場所が多いのは、わかるだろう。
その不動産を出来るだけ、買いあさる。それが日本政府の目的なのだ」
と、至極、談合的に話かけた。
マサキが少し顔の色を変えると、珠瀬は笑って、
「返還後に日本企業が進出する。
後ろには東欧2億人の市場が控えているのだ。
ココム規制で、欧米の輸出が制限されている今、東欧市場への参入を図るのは必然といえよう。
したがって今の混乱期に多くの不動産を抑えて、既得権を主張しようというわけだ」
大使は、ちょっと、語気をかえて、
「無論、約束を守らないソ連の薫陶を受けた東欧の連中だ。
金を貸したところで、返済期限が来たら、居直って債務不履行にするのは目に見えている。
勿論、そんなことは絶対に許されることではない」
マサキは、頷いて見せながら、探るように尋ねた。
「俺に、何をしろ……と」
大使の方は、もっと覇気があるだけに、マサキの横顔を、上座から凝視するの風を示していた。
「その話をまとめてほしい。
アイリスディーナ嬢だったか……。
ベルンハルト大尉の妹と関係している君には、議長を説得することなど簡単な事であろう」
という大使の言葉に、たいがいなことは聞き入れるマサキも、
『正気か』と、疑う様な顔をした。
マサキの東ベルリン訪問は、西ベルリン経由で行われた。
東ベルリンに直接乗り込む方法もあったが、会社と方法が限られていた。
まずは電車である。
東西ドイツ間で運行された特別列車で、俗に『領域通過列車』と呼ばれる。
その車両は、ベルリン・フリードリヒ通り駅から西ドイツのハンブルグを往復した。
ただ、途中通過する、東ドイツの駅ではドアが開かなかった。
許可証のない東ドイツ国民が乗り込まない為である。
許可を得た西ドイツ鉄道警察隊と東ドイツ国境警備隊が乗り合わせ、国境を超えると同時にパスポート確認をした。
その際、特例として、東ドイツ国民は亡命を申請することが暗黙の了解として認められていた。
次に、アウトバーンと呼ばれる交通網である。
東ドイツの高速道路網は、高速交通を監督したソ連の意向もあって、ほぼ戦前のままだった。
速度制限はなかったが、道路予算の少ない東ドイツである。
西ドイツが資金援助した東ベルリンにつながる道路網以外は、道は穴だらけで、凸凹しており、かなり酷い状態のものが多かった。
文字通り、ボロボロだったのだ。
また、東ドイツ交通警察の『ネズミ捕り』が、頻繁に行われていた。
速度超過と言う事で、ドイツ語に不慣れな旅行者から20マルクを度々徴発していた。
不服を申し立てて、料金を払わないでいると、シュタージ第8局と彼らを監督するドイツ駐留ソ連軍の憲兵隊が来て、解放してくれる場合が多かった。
もめ事を嫌う日本人旅行者の多くは、交通警察のネズミ捕りに応じて違反料を支払っていた。
最後は、空路である。
東ベルリンのシェーネフェルト空港は、国際線に限って、西側の空港会社を受け入れていた。
許可されていたのは、フランスのエールフランスである。
その他にソ連のアエロフロートと、東側の航空路線が数社認められていた。
ソ連機に乗るのは、さんざんKGBと干戈を交えたマサキには除外される選択肢である。
エールフランスの場合は、安全に東ベルリンに到達できたが、時間と費用が掛かり過ぎた。
西ドイツ国内上空を通過せずに、デンマーク上空を迂回する空路だった。
以上の経緯から、マサキは一番安全で速い、西ベルリンのテンペルホーフ空港行きパンナム航空の便に乗ることにしたのだ。
西ベルリンのテンペルホーフ空港から、タクシーを拾うと市内に入った。
丁度朝の通勤時間帯であるためか、市街の道路はものすごい渋滞であった。
時折渋滞をかき分けていく、パットン戦車や装甲車などの米軍の車列を見て、
「あれはなんだ」
と瞋恚を明らかに、車夫へ問いただした。
「お客さん、あれは米軍の演習ですよ。
毎週抜き打ちで、通勤時間にやられるのでこっちは商売あがったりですよ」
「西ドイツ政府は何も言わぬのかと」
彼をいらだたせたのは、渋滞ばかりではなかった。
チェックポイント・チャーリーの通過手続きである。
今年(1978年)3月に、はじめて東ベルリンに入った時には集団行動であったので、その様な小難しい査証はなかった。
また9月に行ったときは、外交交渉の一環として入国だったので、国境警備隊もただ見守っているだけだった。
個人の東ドイツ訪問客、とくに西ドイツ国民以外は、入国査証発行料、10西ドイツマルク(1978年当時、1西ドイツマルク=115円)を徴収させられる。
強制的に一対一の為替歩合で、20西ドイツマルクから20東ドイツマルクに両替させられた。
そのことはマサキをいらだたせた。
西ベルリンの銀行では、4対1の為替歩合で交換され、一般的には物価の相場から5対1で両替された。
東ベルリンに行っても、正直買うものがないのである。
東ドイツに在住しているわけではないから、商店や食料品店で買うものもないし、20マルクは使えなかった。
物価が5分の一の東ドイツで20マルクは100マルクに相当する。
一人で来て、レストランで20マルク分の食事をするのは非常に面倒だった。
物価の安い東ドイツで、10マルク分の食事をするというのは、大変な事だった。
アメリカ統治地区とソ連統治地区の境界にある検問所、チェックポイント・チャーリー。
そこでも、マサキをめぐる一波乱があった。
「ドクトル木原、入国の目的は通産省の訪問ですか」
「ああ、そうだ」
「次官のアーベル・ブレーメに合われるんですよね。では紹介状は」
マサキは、正直、驚いた。
驚くべきことを、驚かないような顔はしていられない彼である。
「紹介状がいるのか。関係者に聞いたがそんなものは必要ないと言っておったぞ」
衛兵は鋭い眼で、マサキの激色を冷々と見ている。
「紹介状がなければ、訪問は認められません」
これは、警備兵の二度目の警告であった。
マサキは、余りの答えに、慌てた。
その顔色に示された通り、怒りに駆られて、気持ちの遣り場にどうしようもないような恰好であった。
「アーベルとはすでに約束済みだ。シュタージなり、通産省なりに電話して確かめろ」
国境警備隊を押しのけていこうとするマサキに対して、PPSH41短機関銃を向ける。
「動くな!撃つぞ」
マンドリンとして、日本人になじみの深い7.62ミリ弾を使うソ連製短機関銃。
製造から20年以上たったこの機関銃は、ソ連ですでに退役済みだが、東ドイツでは現役だった。
双眼鏡で、検問所の向こうから見ていた米軍憲兵隊は色めき立った。
ベルリンの交差点のど真ん中で起きた、白昼の事件。
しかも、非武装の旅行者に機関銃を向ける事態。
M14小銃を構えた米軍憲兵隊と、ピストルを取り出した西ドイツの警官隊が一斉に詰め寄る。
騒ぎは、東西両方の警備隊長が出てくるまでの状態になった。
米、英、仏、三軍の警備隊や憲兵隊が集まり始めた中、乗り付けたパトカーが一台あった。
現場に着いたミヒャエル・ゾーネは、車から降りると、出迎えの国境警備隊将校が応対する。
すると、チェックポイント・チャーリーの検問所のほうで、2,3発の銃声がした。
入国手続きをする旅行者が騒ぎを起こしたのかと、ゾーネはその方角に車を走らせた。
見ると、ひとりの旅行者が、国境警備隊員に何事かわめいている。
警備兵が、短機関銃を空に向け、威嚇射撃をしても、なお前へ進みだそうとしている。
案内役の将校は腰からピストルを抜き出し、
「言う事を聞かない奴は、さっさと逮捕するんだ」と、怒鳴り、ピストルを男に向けた。
「待ちたまえ」
ゾーネが止めた。
彼は、揉めている男が、東洋人であることを認めたからである。
「ここへ連れてきたまえ」
かくしてマサキは、事情を知らない警備隊に危うく逮捕されるところを、事なきを得た。
ゾーネの前に引き立てられてきた。
マサキは、しばらく一人のシュタージ将校を見つめていた。
それは彼の知らない顔であった。
実際は、今年9月のベルリン訪問の際に会ったはずなのに、アイリスディーナの気を引くのに夢中で、他の者には全く注意を払わなかったのである。
一方ゾーネは、目の前の男が、アイリスディーナやユルゲンに言い寄った男であることを知った。
脇に立つ警備隊長が、ゾーネに囁いた。
「この男は、用心した方がよさそうですね」
マサキは、高みからものを言った。
「貴様らは、何者だ」
傍まで来ている米軍憲兵隊に聞こえるようにドイツ語ではなく、英語だった。
「シュタージ中央偵察総局の者です」
と、ゾーネは、威を張るような顔もせず、畏まって、
「木原マサキ先生とお見受けされますが、身分を確認できるものは……」
急に丁寧な言葉になり、彼の差し出す証明書を受け取った。
そして念を入れて、調べたが、
「いいでしょう。貴殿は今よりご自由になさってください」
と、気味の悪い笑みを浮かべていた。
「ところで、木原先生とやら。
アイリスディーナ嬢のお味は、お気に召されましたかな」
マサキはふとゾーネに対して、冷やかな感情を覚えた。
「婦人の権利拡大をうたう社会主義の東ドイツでは、その様に女を見るのか……」
「貴方は西側の人間だ。それにいろいろな浮き名も聞いております」
マサキは正直にいって、はやくその問題から話をそらしたいような顔をした。
「女を己がものにしたなどと、喧伝するのは、10代の小童の戯言。
のぞき見公社の職員とはいえ、そこまで詮索するのは無粋というものよ」
と、マサキは少しも慌てずに言い返した。
ゾーネは、びっしと長靴を鳴らすと、車に乗り込み、走り去った。
マサキは、後ろから二人の男の話声がするのに、気が付いた。
そして思わず、後ろから歩み寄って来た二人の男の姿を、振り返ってみた。
男たちのしゃべっている言葉が、日本語で、なおかつ突拍子もないものだったからだ。
「これは困ったことになった。今度は本当で軍法会議ものだ」
「全くです。こんな街中で拳銃騒ぎとは……」
「こんな時に、よく笑えるものだね」
「鎧衣さん。こんな滑稽なことはめったにありませんよ」
はてと、マサキはそれへ眼をそそいでいた様子である。
この時代の東ドイツには、東洋人、特に日本人は滅多に居ないからである。
マサキは背広を着て、帽子をかぶった二人組を凝視した。
やがて、白銀と鎧衣であることが分かり、ほっとして、そばに歩いて行った。
「怪しからん話だろう。
俺が、東ドイツ政府に訴えて、あの警備隊員を銃殺刑に処してやる」
鎧衣は、理解し難い顔をして、
「今の行動は、君にとって賢明とは思えないが……」
「賢明ならば、最初から、こんなところへ何も知らずに出かけてこないさ」
けれどマサキは、鎧衣の忠告に、易々として、甘んじるふうはなかった。
「だったら、なぜ来たのかね」
鎧衣はいったが、マサキは、むしろ喜ばない様子を示して、
「それについては、俺から直接、議長に伝えるさ」
と、心底のものを吐露するように、答えると、白銀はさらに、
「とりあえず、共和国宮殿に行って、どういう結末になるか、見物してみましょう」
白銀の脇で見ていた鎧衣の顔は、晴れ晴れとしていた。
「そのあと、ベルンハルト嬢の案内で、ペルガモン博物館の観光もいいですな」
マサキは、二人をせかして、国境検問所を後にした。
3人は、周囲の喧騒を心から楽しむ様に、東ベルリンの街中を歩いていた。
後書き
ご意見、ご感想、お待ちしております。
少女の戸惑い その3
前書き
グレーテルいわく、カレルは反社会的な人間なので、より反社会的な人間にしました。
1978年の暮れの東ベルリンは、年初の緊張と一変して、恐ろしいくらい平和だった。
相変わらず西と違って、町は薄暗く、戦後の焼け跡の間からひそと話声が聞こえる程度であった。
さて、グレーテルは、校庭の端で昼食をとっていた。
学校では社会主義を信奉する優等生として通っているせいか、友人らしい友人がいなかったためだ。
しかし、今は、寂しさはない。
マルティン・カレルという、秘密を共有する仲間が出来たからである。
カレルとの関係は、今年の夏休みにまでさかのぼる。
7月20日の終業式の際、オラニエンブルク近郊の町にある不法投棄現場まで、彼の後を付けていったのが関係の始まりだった。
それから夏休み中、彼の調査活動を手伝うとして、一緒にベルリン近郊の村落を見て歩いた。
何か特別なことをするわけではなく、彼と一緒に時間を過ごす。
そんな何気ない事が、グレーテルには愛おしい時間だった。
突然、グレーテルの面前へ、男子生徒が、眼いろを変えて駈けて来た。
「カレル、一体どうしたの」
短い金髪に、怜悧そうな顔をし、十代にしては逞しい体つきの男子生徒。
この少年こそが、グレーテルの思い人カレルであった。
彼は、身をふるわしていうのだった。
「答えてくれ、グレーテル。
君のお父上が、議長に暴言を吐いたそうじゃないか」
カレルは、瞋恚も明らかに、ぐっとグレーテルへ詰め寄った。
「やっぱり、例の話は本当だったのだね。
君のお父上が大変なのは、僕も聞いている。
でも、党幹部や大臣、お偉方にどうやって説明するんだい。
それに僕たちは未成年だ。陳情書も出せないよ」
グレーテルは、力をこめていった。
「ベルリンにね、近いうちゼオライマーのパイロットが来るの。
彼に会って、私の父の件を頼みこもうかって……」
そういうカレルの顔を、穴のあくほど見つめていた。
グレーテルは、なおさら、真面目づくって、
「貴方を、巻き込みたくなかった」
グレーテルは、気まずさをこらえきれず、目を伏せてしまう。
「巻き込む、僕は、君の友人じゃなかったのかい。
今更、水臭いことを言うなよ。巻き込むも、何もないだろう」
カレルの言葉に、感激で胸が震えた。
同時に強い悲しみが、グレーテルの胸を襲う。
彼に迷惑をかけてしまったと、双眸に熱いものが溜まる。
カレルは、グレーテルに密着し、腰に手を回した。
二人は、視線を交わしている。
以前にはなかった、親密な空気に支配されていた。
カレルが、ここまで感情をあらわにするのを、グレーテルは初めて見た。
しかし、それは当然の反応だった。
「無茶だよ。外国人だろ、日本人だろ。僕たちじゃ接点がなさすぎる」
カレルの感情を抑えるような声が、グレーテルの頭上に振ってきた。
父を救うために、木原マサキに会いに行く。
純情な少女の執念ともいえる、グレーテルの計画。
この計画には、致命的な欠陥があった。
それは、彼女がマサキの顔を知らないと言う事である。
この時代の東ドイツには東洋人は少なかった。
BETA戦争で、東欧から帰国してしまったのも大きい。
なにより、9年前の中ソ対立によって、ソ連と中国の関係が悪化したのが原因だった。
1960年代に多数いた、中国人留学生や外交官は皆、帰国してしまった。
また、出稼ぎに来ていた北ベトナム人や北朝鮮人。
彼らのような親ソ衛星国の国民の事を、現政権は怖れた。
ソ連の煽動工作を怖れて、政府は帰国命令を下した。
つい先ごろ、ドイツ国内から、退去するように命じた議長名の政令を発布したばかりであった。
その為、東洋人は、東ドイツ全土からほとんどいなくなってしまったのだ。
「まさか、ベルリンの繁華街を歩いて探そうっていうのかい」
グレーテルは、金縛りにあったように、足は動かず、声も出なかった。
「図星だね……」
そういいながら、カレルはグレーテルの周りをゆっくりと威圧的に歩き続ける。
グレーテルは、暗然と、眼をくもらせたまま、なすすべを知らなかった。
「日本人、いや外国人観光客のたくさん来る場所なら心当たりがある」
カレルの計画は、実に簡単なものだった。
学校から帰った後、二人でペルガモン博物館に行こうと言う事だった。
グレーテルがさらに衝撃を受けたのは、マサキに会うまで毎日続けるという途方もないものだった。
グレーテルは、日々変化していく自分にかすかな不安を覚えはしたものの、カレルとの秘密の関係には満足していた。
その至福と絶頂は、何物にも代えがたいものに感じてならなかった。
だがそんな秘密の関係は、露見せずにはいられなかった。
いつまでも、一人密かに恋に浸り続ける事は出来なかった。
今日もなお36万人の人員を誇る諜報機関KGB。
それに勝るとも劣らない東ドイツの諜報機関シュタージ。
約20万人の職員の大半は、嘱託の医師や看護婦、料理人や炊事婦、ボイラー技士や整備工だった。
また首都を防衛するフェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊や高速道路警備隊などである。
実際のスパイ作戦に従事する者は少なかったが、それでも9万人近い情報提供者を抱えていた。
これは人口1600万の東ドイツでは、異様な人数だった。
また地方の監視活動は、KGBの国内保安局の手法をまねて、網の目の様な防諜網が敷かれていた。
ゆえに、カレル少年とグレーテルの夏休みの逢瀬は、シュタージの地方局からすでに本部に上がっていたのだ。
シュタージは、イェッケルン課長の失態を手ぐすねを引いて、待っていた。
そして、今回の事件を大いに利用しようとしたのだ。
上手くいけば、グレーテルと、その父であるイェッケルン課長を貶めることが出来る。
成績優秀なグレーテルを逆恨みする生徒や父兄も多く、彼女は狙われていたのだ。
また、イェッケルン課長は生真面目すぎることで、各所から恨みを買っていたのも事実だった。
当人たちの知らないところで、大規模なシュタージの工作が、今、仕掛けられようとしていた。
その夜。
失意のうちに、イェッケルン課長は帰宅の途に就いた。
彼は、茫然と歩いていた。
ミッテ区の共和国宮殿から出て、プレンツラウアー・ベルク区のわが家のほうへ。
こう歩いていても、人ごこちのない程、彼は、憔悴しきっていた。
「お帰りなさい」
わが家へはいって、椅子へ坐っても、まだ考えていた。
「グレーテルの事で、学校から通知が来ております」
彼の妻は、彼が坐るとさっそく、一煎の薄い茶と、一通の手紙を前へ持って来た。
手紙は、学年主任からで、ひと眼見ても、ことの重大さが、すぐ知れた。
内容は以下のとおりである。
『成績優秀な貴兄のご息女ですが、何やら芳しくない噂を聞いております。
過激なブルジョア思想にかぶれた少年と交友し、いかがわしい場所に出入りしていると伺っております。
後日、警察や教育委員会と協議し、今後の対応を検討したいと考えております』
妻が、前にいるのも知らぬように、課長は、ぶるぶると身を震わしながら、二度も三度も読みかえしていた。
余りに興奮しているので、前にいた彼の妻のほうが、間が悪くなって、もじもじしていた。
手紙を畳みながら、彼は、にがりきって、独り言を大きくつぶやいた。
「この話は本当なのかね!」
「はい」
そういって、妻が耳打ちをしてきた。
「役所のうわさで聞いたんだけど……どうもそうらしいのよ……」
「西のヒッピー思想にかぶれた小僧と、グレーテルが遊んでいるだと……」
彼には直ぐ思いあたることがあった。
ここ数年来、危険な思想をもちつづけているヒッピーの活動家に、娘がたぶらかされたのではあるまいかということだった。
経済発展を最優先にする東独では、環境問題の活動家はヒッピーと同一視された。
「もしもだけど、うちのグレーテルがそういう輩に誑し込まれて、駆け落ちしたら……」
「その時は、俺の方でシュタージなり、警察なりに、そのヒッピー野郎を訴えてやる」
と、呼吸も荒く、妻を叱ったが、
「グレーテルは、意固地だが、根は正直な娘だ。
そんな大事な一人娘を、西のブルジョア思想にかぶれた屑野郎にくれてやる理由もない。
あの子は、田舎の役所の簿記でも務めながら、いい男の目にでも止まってくれれば……」
彼は、反省した。
しかし反省は、あきらめではない。
グレーテルを、早く諭したほうがよいと考えたまでのことである。
積極情報、世にいう偽情報工作は、KGBの十八番であった。
例をとれば、戦前に世界各国を騒がせた『田中上奏文』である。
この怪文書は、1925年ごろ、ジェルジンスキーの提案に基づき、OGPUが作った物である。
(OGPU、合同国家政治総本部とは、KGBの前進機関である)
1929年9月、突如として日本国内に持ち込まれ、当時京都で開かれていた太平洋問題調査会の会議の座上で提出されたの始まりという。
そして日米開戦前の1930年代に米国共産党の秘密ネットワークによって全世界にばらまかれた。
東ドイツの環境問題に関心を持ったカレル少年。
カレルが調査していた、高速道路沿いの不法投棄。
それは、人民コンビナートと呼ばれる、東独の国営企業の産業廃棄物が原因。
急速な戦時増産体制によって、ごみ処分場が足りなくなり、空き地に建設残土とともに廃棄していたのだ。
そして、カレルが調べていた高速道路は、シュタージ第8局の管轄だった。
いくら総合技術学校の9年生とは言えども、シュタージはその目を逃さなかったのだ。
彼は、シュタージの陰謀によって、ヒッピー思想にかぶれた危険人物とされてしまったのだ。
そんな彼と夏休み中、逢瀬を重ねたグレーテルは、ヒッピーの恋人という烙印を押された。
駐留ソ連軍が撤退し始め、ソ連による抑圧政策が弱まってきた時世である。
KGBの下で働いていた、シュタージにも敵対的な眼が増えてきていた。
つまり、イェッケルン家は、シュタージの偽情報工作の真っ只中に放り込まれてしまったのだ。
後書き
ご意見、ご感想、お待ちしております。
マルティン・カレルは、アニメの最終回でグレーテルの病室を見舞いに来た青年です。
外伝小説の短編の登場人物です。
シュタージの資金源 その1
前書き
今回の話もだいぶ話数をかけることになると思います
今回のマサキの東ベルリン訪問は、全くの私人での訪問という建前だった。
だから、仰々しい車列も、儀仗隊のと列も一切なかった。
なにより、マサキは商売道具を入れたアタッシェケースの他に、着替えの私服を持ってきていた。
それは、将校鞄と呼ばれる大型の鞄で背広とワイシャツを入れることのできるものであった。
今風にいえば、ガーメントケースのことである。
なぜ、マサキが私服を持ってきたかといえば、ずばり東独内部の調査のためである。
日本軍の制服では、あまりにも目立ちすぎるのだ。
かといって、着古しの黒い詰襟も、アイリスとの逢瀬にはふさわしくない。
そのようにいろいろと悩んだ末に、アクアスキュータムのオーバーコートと既製服にしたのだ。
マサキが訪れた場所は、国家人民軍の作戦本部。つまり参謀本部である。
場所はベルリン市街からSバーンと呼ばれる鉄道で1時間ほどで着くシュトラウスベルクにあった。
中央情報センターと呼ばれる建物の他に、複数の兵舎、核爆弾の直撃に耐えられる防空壕を備えた軍事施設である。
BETA戦争が始まる前までは、モスクワのソ連赤軍総参謀本部との直通電話が通っており、24時間連絡可能であった。
また、ワルシャワ条約機構軍の構成国との連絡網も備えていた。
そのような場所に西側の、帝国陸軍の制服を着て、門をくぐるのは、何とも言えない感激でもあった。
『俺は、この国に対して自由にモノが言える』と一人おごっていたのも事実だった。
参謀総長は、基地視察に出かけていたので、参謀次長のハイム少将がマサキと会うことになった。
四方やまばなしの末に、
「博士の、時ならぬご訪問は、何事でございますか」と、ハイム少将から訊ねだした。
マサキはあらたまって、
「貴様は、たしかアルフレート・シュトラハヴィッツと水魚の交わりをしていると聞く。
パレオロゴス作戦の折、シュトラハヴィッツと協力してシュタージの将軍、シュミットを処刑した。
その詳細を聞きたいと思ってな」
ハイムは、色を失った。自分の予感とちがって、さては、詰問に来たのかと思われたからである。
だが、隠すべきことでもなく、隠しようもない破目と、ハイムは心をきめた。
「私の親友でもあるアルフレートは、本当に一途な男ですから。
あの時、シュタージを止めねば、この国は今まで以上にソ連の傀儡になっていたものでしょう」
その時、マサキの胸中に、ユルゲンの顔が浮かんできた。
今年の2月下旬に、もし彼と運命的な出会いをしなければ、彼の溺愛する妹のアイリスやベアトリクスと出会えたであろうか。
もし、KGBの軍事介入の際に、ユルゲンをヘリから発射された熱源ミサイルから助けなかったら……
KGBのほしいままにさせて居たら、ユルゲンやシュトラハヴィッツは、シュタージに処刑されていただろうか。
アイリスディーナやベアトリクスは、どんな人生を歩んだのだろうか……
そう思うと、熱い感情が、頬を伝わって落ちた。
「博士、どうなされました」
ハッと現実に意識を引き戻されたマサキは、椅子の上で居住まいをただした。
「颯爽と、支那のハイヴを攻略されたあなたのような存在があって、今の世界は泰平ではありませんか。
なにを憂いとなされるか」
ハイムの鋭い目線は、上から振り下ろされるように感じる。
今の秋津マサトの若い肉体ゆえに仕方ないことだが、臆さず、答えた。
「将軍……」
マサキは濡れた目をあげて、断言した。
「俺に、シュタージの資金源を教えてほしい。
ユルゲンやアイリスから団欒を奪い、家庭を引き裂いた、ソ連の茶坊主。
ベアトリクスを孤独の中に押し込めて、長い年月苦しめた、邪悪な諜報機関。
KGBの傀儡から、ありとあらゆる秘密を暴きたくなってな……」
その答えに満足したのか、ハイムは相好を崩した。
目を細めて、マサキを見てくる。
「博士のご胸中、およそわかりました」
シュタージファイルには、東独国民のあらゆる情報の他に、KGBとシュタージの関係、欧州の諜報網が詳しく書かれていた。
だが、その資金源に関しては、厚いベールに包まれていた。
マサキは、美久に搭載された推論型AIを使って、KGBとシュタージの関係を洗いざらい調べた。
その過程で、中東での国際テロ支援活動や、西ドイツでの赤軍派による誘拐事件の全貌を解明した。
それでも、シュタージの富の源泉というものには、莫大な資料からたどり着くのには程遠かった。
故に、シュタージと対立関係にある国家人民軍を頼ることにしたのだ。
無論、マサキも馬鹿ではない。
シュタージファイルと、CIAからの情報提供から、KGBから警戒されている人物にあたりを付けて、近づくことにしたのだ。
KGBから嫌われていると言う事は、こちらに協力する公算が高い。
敵の敵は、味方であるという、大時代的な手法をとることにしたのだ。
密議を終えたマサキは、ハイムの副官の黒髪の男の案内で、作戦本部の最上階から降りていた。
副官であるエドゥアルト・グラーフが、マサキを駅まで送迎することになっていた。
後ろを歩くマサキは、東独軍にいるアイリスディーナの事を思慕していた。
(『アイリスは今頃、なにをしているのだろうか。
こんな閉鎖された社会にいても、人を信じることのできる純粋な娘……
いつまでも放っておけるものだろうか……
前の世界の事や、二度あの世からよみがえったこと、年の差やあの娘の境遇……
そんな事よりも、純粋なアイリスに誠意を示してやるのが先ではないだろうか』
つらつらと、そんなことを考えていた時である。
ふと、階段を下りる足を止め、階下を歩く二人の男女に目を留めたのだ。
マサキの顔色が変わったことに気が付いたグラーフは、
「博士、どうなさいましたか」
マサキの顔色が変わったことに気が付いて、声をかけてきたのだ。
マサキの視線の先にあったのは、迷彩服を着て歩くアイリスディーナと一緒にいた偉丈夫だった。
件の男は、栗色の髪をし、中尉の階級章を付けた灰色の勤務服を着て、目をきらりとかがやいて、アイリスと楽し気に話をしていた。
そのさまを見た、マサキの内心は穏やかでなかった。
嫉妬という感情とは、ほぼ無縁の彼であったが、この時ばかりは違った。
まるで業火の傍にいる様に、体が焼けんばかりに全身の血がたぎった。
(あの小童は、何者だ。親しげに話すアイリスもアイリスだ。
俺という男がいながら……)
マサキは、前の世界で男女の三角関係を用いて、鉄甲龍のクローン人間を苦しめた男である。
塞臥と祗鎗という二人の男が、ロクフェルという一人の女をめぐって仲たがいするように遺伝子操作をして楽しんだ男でもある。
だが、そのマサキ自身が、それに似た状況に置かれるとは思いもよらなかったのだ。
マサキは、脇にいて心配するグラーフに、安心させるような声をかける。
「すまなかったな。俺は駅まで歩いて帰させてもらうぜ」
「えっ、博士。お車の方は……」
「あばよ!」
そういって、精いっぱいの笑顔を作って、作戦本部を後にした。
駅までの道中、マサキは、己のふがいなさを恥じらう様にうつ向いていた。
(何と言う事だ。この俺があんな小童に負けるとは……
嫉妬で気が違ってしまいそうだ。こんなにもアイリスに惹かれるなんって……)
悲憤のあまり、彼の黒髪はそそけ立って、おののきふるえていた。
マサキが立ち去って行った、国家人民軍作戦本部。
その建物の屋上で、将官用の赤い裏地のついた大外套を羽織った二人の男が何やら話していた。
ハイム将軍は、シュトラハヴィッツ少将のほうを振り返って、
「そうか、木原マサキを……」
「ああ……奴は腐りかけているが、腐っちゃいない。
俺たちがこの先の高みに昇るには、奴の力が必要だ」
静かに脇で聞くハイムを横目にシュトラハヴィッツは、懐中より紙巻煙草を取り出す。
「それにしても、俺は最近こう考える……。
貴様なら、もっとうまくやるとな」
ハイムは、煙草を口にくわえたシュトラハヴィッツをかえりみた。
しばらく、二人して押し黙っていたが、
「私も同じことを考えていたよ」
と、イムコのオイルライターを取り出して、シュトラハヴィッツに差し出す。
シュトラハヴィッツは相好を崩すと、両手でライターの火を覆い、タバコに火をつける。
パッチンとライターの蓋を占めると、呟いた。
「いずれにせよ、一刻も早く、シュタージの息の根を止めねば……」
後書き
エドゥアルト・グラーフは、原作でハイムの代わりに建物の下敷きになった副官です。
アニメ版になって、名前と容姿が決まりました。
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
シュタージの資金源 その2
前書き
短めですけど、いったん切ります。
アイリスディーナと歩いていた栗色の髪の偉丈夫。
それは、兄ユルゲンの竹馬の友であるオスヴァルト・カッツェであった。
ここでオスヴァルト・カッツェその人の、人となりを、すこし詳しくいっておく必要があろう。
彼の出自はユルゲンやベアトリクスと違い、ノーメンクラツーラーではなかった。
ベルリン市内のパンコウ区にある小規模なパン屋の次男坊で、政治的には無関心であった。
性格は明朗快活で、周囲からの反応が良く、また女にもそれなりにモテた。
彼の事を、ユルゲンは総合技術学校から頼りにし、家庭内の話まで明かしていた。
そんな縁もあって、アイリスディーナが幼いころから彼女の事をよく知る人物でもあった。
カッツェ自身は、アイリスディーナが美人であることを早くから認識していた。
だが、好意は一切抱いていなかった。
兄であるユルゲンが義兄になることを嫌がっていたし、年齢が離れすぎていて、興味を持たなかったのだ。
カッツェが、アイリスディーナと歩いていたのは訳がある。
彼は自分が管理する中隊に、アイリスディーナが配属されることが決まっていたので、面倒を見ていたのである。
「アイリス、情報センターでの研修中に、呼び出して悪かったな。
早速だけど、勤務服に着替えろ」
「はい」
カッツェの指示を受けたアイリスは、急いで更衣室に向かった。
軽くシャワーを浴びてから、髪をとかして、勤務服に着替えるともう小一時間が過ぎていた。
「急いでるときに、ゆっくり着替えるとは本当に肝の座った子だね。
変わっているというか、なんというか……」
と、カッツェは苦笑した。
だが、アイリスディーナはどこまでも生きまじめだった。
彼の冗談を真に受け、恥じた彼女は、いかにも済まなそうに、俯いてもじもじとした。
そんな態度にカッツェの方が、ドギマギしてしまった。
まるで小さい女の子をいじめているような、気持ちになってしまったのだ。
カッツェはここは男らしく、先任の将校として立派に振るわねばと、自身を励ました。
「議長官邸に呼ばれるってことは、誰に会うかわからないもんな。
今のは冗談だから、赦せよ」
と、さりげなく、アイリスを励ました。
まもなく彼女は、車で迎えに来たヴァルターの傍に駆け寄った。
そして、カッツェと衛門の前で別れた。
東ドイツ国家評議会議長の官邸は、国家評議会ビルの一室に置かれていた。
シュトゥットガルトのマルクス・エンゲルス広場の南に位置する近代的な建物は、1964年に建設された。
(マルクス・エンゲルス広場は、今日の宮殿広場である)
その際、ベルリン王宮からファサードが移築され、左右非対称の外観になった。
このバルコニーは、第一次大戦終戦前夜、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」を宣言した場所である。
帝国議会で、社会民主党がドイツ帝政の崩壊を告げた、2時間後の出来事であった。
1960年代の東ドイツを代表する社会主義モダニズムの建築物は、ローランド・コルンとハンス・エーリッヒ・ボガツキーを中心とする建築家集団によって建造された。
一階には、国家評議会議長執務室と、その代理人の執務室があった。
また、東ドイツ国旗が掲げられた議場と外交官迎賓室、クラブホールも設置されていた。
迎賓室には35メートルもあるマイセン磁器の絵画が飾ってあったが、それでもソ連の建築物よりは内装は地味であった。
ここで使われる食器やグラスは、ロココ様式で東ドイツ製ではあった。
そのすべてに、海外輸出のされているライヘンバッハ磁器工場の刻印がなされていた。
ライヘンバッハ磁器工場の製品は、品質は折り紙付きで、東ドイツのマイセン陶磁器として海外に売りさばいた商品である。
東独が崩壊した今日も、この磁器工場は生き残り、東独時代そのままで、唯一営業している。
だが、ライヘンバッハ磁器工場の刻印があるだけで、実際は別な工場で焼いた量産品に、上等な釉をかけた見せかけの品物であった。
社会主義特有の『ポチョムキン村』の偽装は、その崩壊まで秘密とされていた。
アイリスが国家評議会ビルに着いたとき、玄関先には見慣れぬ車が数台止まっていた。
それは、アメリカ製のセダンで、ゼネラルモーターズのキャデラック・セビルの新型車であった。
1970年代前半に巻き起こったオイルショックの影響を受け、全長が5メートル強とサイズこそ小さくなったものの、エンジン性能や内装は以前の車にも劣らなかった。
BETA戦争での資材不足への懸念から、内装をより粗末にしたソ連製のチャイカとの違いに、アイリスはひとしきり驚いていた。
議長は、海外からの客の応対をしている最中だった。
相手国の国旗も掲げておらず、儀仗兵の役目をするシュタージのフェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊もいなかったから、私的訪問なのは判別がついた。
迎賓室の隣で待つうちに、話声が聞こえてきた。
どうやら話している言葉は英語で、内容は石油に関しての事らしい。
周囲に誰もいないことを確認すると、壁に耳を近づけて、話を盗み聞くことにした。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いいたします。
シュタージの資金源 その3
前書き
マサキ、大失態の巻。
マサキは、国家評議会ビルに来ていた。
歩いて駅に向かう途中、運よく人民警察のパトカーに声を掛けられて、乗せてきてもらったのだ。
軍服姿で目立つこともあったろうが、すぐさまパトカーで乗り付けるとは。
東ドイツの総監視体制に、改めて驚いている自身がいた。
別な男と歩く、アイリスディーナの姿を見て以来、マサキの口の中は砂を噛んでいるような不快感に襲われていた。
パトカーで送られているときも、ずっとそうだった。
(あんな小童に、アイリスディーナの事を渡せようか)
知れば知るほど、ユルゲンの妹に愛着が湧き、とても手放せない気持ちになっていたのだ。
国家評議会ビルは、共和国宮殿から、ほど近い場所に立つ三階建ての建物である。
護衛兵に議長との面会に来た旨を告げると、奥にある応接室にまで案内された。
その際、マサキと入れ違いに出てくる白人の男と、すれ違った。
男の顔といえば。
ハリウッドの銀幕の中に出てくるような色白で、鷲鼻の、目の細い顔、典型的な白人。
ニューヨークで数多く見た、ヨーロピアン・ジューそのものであることを、彼は一瞬にして気が付いた。
深い濃紺地に白い線が書かれたチョーク・ストライプのスーツに、純白のシャツ。
金のタイ・バーに挟まれた、紺と銀の縞が描かれた上質な絹のネクタイ。
欧州人がバカにする左上がりのストライプを見て、マサキは、あることを確信した。
目の前の男が、アメリカ人で、ウォール街のビジネスマンと言う事を。
縞模様のネクタイは、16世紀の英国陸軍に起源を求めることが出来る。
元々英国で慣習法で、常備軍の設置が忌避されてきた。
その為、地域ごとに独自性の強い連隊がおかれ、地方領主や王侯が名誉連隊長に就いた。
(名誉連隊長をColonel-in-Chiefという。Colonelは日本語訳で大佐にあたる)
独自色を示すために、連隊ごとに奇抜な軍旗や、色や形の違う縞模様が作られた。
その名残が、現代に残るレジメンタル・タイである。
(レジメントとは、軍事用語で連隊を意味する英語である)
このレジメンタル・タイは基本的に右上がりの縞模様であった。
今日では、英軍の各連隊の他に、英国内の有名私立大学の卒業生を示すものでもある。
その為、各国首脳が集まる場面で、英国人やフランス人は、無地やコモン柄といったネクタイを付けた。
そして、ストライプ柄の由来を知らない、米国人や日本人の首脳を、陰であざ笑っていたものである。
『なんでこんなところに、ニューヨークのビジネスマンが』という不安が頭をよぎった。
確かに、今の東ドイツは経済的に不安定だ。
ソ連からの資源供給量は大幅に減り、そして今の議長は対ソ自立派だった。
ウォール街のビジネスマンを頼るのは、無理からぬことであろう。
マサキは、議長があった人物を知らなかったが、ぴんと直感に来たものはあった。
相手は、自分を知っている風だった。
議長と会いに来た人物は、アメリカの石油財閥の3代目だった。
敵対する二人が、今まさに東ドイツの首脳がいるビルで運命的な出会いをしたのであった。
マサキは、部屋に入るなり、上座の議長から慇懃な挨拶を受けた。
「わざわざ、ご足労を掛けましたが……」
「挨拶はいい。要件を済ませよう」
マサキは席に着くと、日本の大手ゼネコンが東ベルリンの再開発事業に参加する計画を話した。
ベルリン中心のミッテ区に、25階建ての近代的な高層ビルを、建設しようというものである。
「図面は東ドイツの書いたものを使う予定だ。
建設省まで取りに行ってやるよ」
それは建前であった。
マサキは、東ベルリンの再開発をする復興管理局の事務所に行って、ちょっとひと暴れするつもりだったからである。
だが、マサキの甘い考えは、直ぐにうち砕かれた。
「図面の方は、午後までに用意してお届けしますので……
それまで、市中にあるペルガモン博物館にでもご覧になってお待ちください」
調子を合わせ、マサキは男を揶揄った。
「男一人で、そんなところに行ったところでつまらぬからのう。
誰か、名物であるペルガモンの大祭壇でも、案内してくれるのか」
議長は、マサキの言葉を待ちかねたように、手を鳴らした。
すると、その途端に後ろの大扉が開き、誰かが入ってきた。
灰色の婦人用冬季勤務服をまとう大柄な女性は、アイリスディーナだった。
思いもよらない人物の登場に、マサキは、驚愕した。
「あ、アイリスディーナ、どうしてここに!」
艶やかな長い金髪の下で、アイリスディーナは碧い目をひときわ輝かせていた。
(如何したら良いものか。まさかこんな形で再開するとは……)
マサキの胸の動悸が、弥増す。
二人は、黙ってお互いの顔を見つめていると、そこでドアがノックされ、別な秘書が入ってきた。
「失礼いたします。同志議長、お電話が入っております」
「ああ、分かった」
マサキは、複雑な気分で、男たちの会話を聞いていた。
もじもじするばかりのアイリスディーナと二人きりにされるのは、流石に気まずい。
「すみません博士、少し電話してまいりますので、お時間を頂きます。
その間、ご退屈でも、アイリスと話していて下さいませんか」
連絡を受けたことを汐時とみて、議長は、一旦、席を立った。
そして部屋を出ると、護衛を務める第40降下猟兵大隊の兵士たちに下がるよう命じた。
ゲスト役を務めているアイリスディーナには、マサキが何で鬱勃としているのか。
彼女は心外で、ならないらしい。
いまも、マサキが、湯気の立った茶を飲まずに紫煙を燻らせている、その席で、
「察するに、不都合な事でもございましたか。何かお心当りでも?」
と、彼の胸へ、自己の不満をたたいていた。
「うるさい」
マサキは、怒気を、青白く眉にみなぎらせた。
「もういうな。
無駄にこうしているのではない。おれにもここへ来ては考えがあることだ。
……それより、アイリスディーナ、後ろを閉めて、こっちへ寄れ」
アイリスディーナはいわれるまま、観音開きの大戸をしめて、恐々とすこし前へすすんだ。
「久しぶりだな」
「お元気そうで……」
としていたものが、どうしても、いまだに、どこかの恐れにある。
「アイリスディーナ」
マサキは、急に、相好をくずしてみせた。
といって、女の細かな用心は解けようもないのである。
「お前の事を、今日、軍の情報センターで見かけた。
男と一緒に歩いていたが……
あの男、ずいぶん親しそうだったな。一体どういう関係なんだ」
アイリスディーナは、恥ずかしそうにマサキを見やった。
「えっ、カッツェさんですか。
昔からの知り合いで、色々と親交のある方ですよ」
マサキは、その言葉を訝った。
「親交、どんな……
お前があんな楽しそうにするのは初めて見た」
アイリスディーナは、頬を赤く染めて、躊躇いがちに答える。
「それは、貴方が、私の事をよく知らないからでは……」
「確かにそうだな……」
(俺は、アイリスディーナの事を驚くほど知らない……
俺の知らぬ男と、親しげに遊んでいたとしても……)
マサキは、沸々と、腹が煮えてたまらない。
落ち着こうとすればするほど、嫉妬は、逆に込み上げてくるばかり。
「俺は、カッツェという小童に負けたくない」
「何を……カッツェさんは兄の昔からの友人です。」
白々しいとは憎みながらも、憎み切れぬ程なやさしさ。
いつか、マサキも、ややなだめられていた。
その上、つい恨みを、はぐらかされもする。
また、何となく気もおちつき、アイリスディーナの人柄までが、これまでになく優雅に思えた。
「俺は、カッツェに嫉妬している。
アイリス、俺はこれほどまでにお前に惹かれたのだ」
沈黙したまま、見つめあう二人の耳元に壁時計の音ばかりが聞こえてきた。
マサキの口から思わず、ため息が漏れる。
「何としても、お前の心のうちへも、木原マサキという男を焼付けねば、一生、妄執は晴れぬ。
アイリス、これほど男からいわれたら、もうどうしようもあるまい」
こうなると、その眼には、アイリスディーナの女の美のみ映ってくる。
彼の心にある邪悪なものが、白雪を思わせる彼女の美に、ひそかな舌なめずりを思うのだった。
「兄の友人と一緒に歩いたぐらいで、嫉妬なさるなんて……
いくら天のゼオライマーのパイロットは、言っても……」
アイリスディーナは、少しずつ、後ろへと、身をずらせた。
そして、女の身をまもるべく、その体を硬めた。
「ばかな。な、何を言うか」
マサキは、するどく直って。
「無敵のスーパーロボット、天のゼオライマーのパイロット。
そんなものを鼻にかけて、、誰が、これほどに手間をかけて女を口説くか。
お前の兄、この東ドイツにしろ、以後も変りなく付き合っているのをみても考えるがいい。
俺はただの男として、お前を口説いているのだよ」
アイリスディーナの胸は、苦しくなって、下へ崩れかけた。
マサキは、アイリスディーナの体を片手すくいに抱いたまま、ひたと自身の唇を近づける。
彼の焼けつくような唇は、烈しく彼女の甘美な紅唇をむさぼり吸った。
抱擁もぐんと深くなって、激しくなった。
口付けを交わしながら、マサキは抜け目なく彼女の背中や腰に手を伸ばした。
灰色の勤務服の上着やタイトスカートを、ゆっくりと撫でさする。
抱きすくめられたアイリスディーナは、陶然となっていく自分に困惑していた。
(「あ……、蕩けて行ってしまいそう……」)
まるで、夢の世界を揺蕩う様なキス。
それは、アイリスディーナが、かつて味わったことのない、情熱の口付けだった。
アイリスディーナは、深く睫毛を閉じたまま、白い喉を伸ばし、マサキの手に寄りかかる。
興奮した息づかいを漏らしながら、まもなく濡れた瞳で、マサキの顔を丹念に見まわした。
部屋の外の足音に感づいたマサキは、意識を一気に現実に戻した。
アイリスディーナの両腕を持ったまま、突き放すと、」
「議長が、戻ってきたようだ」
議長が入って行くと、密かに二人を見くらべてから、席を離れたことをわびた。
「本当に申し訳ない」
室内の二人は、身仕舞いにうろたえながら、慌てて立ち別れた気配である。
マサキの隣にいた、アイリスディーナを裏口から帰してしまうと、男はさっそく尋ねた。
「どうか、なされましたか」
白々しく、不敵の笑みを浮かべる男に、マサキは、
「いや、何でもない」と笑ってばかりいるのであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
シュタージの資金源 その4
前書き
すいません、夏休み期間の特別企画として、今週は2日連続の投稿にしました。
お待ちかねの、グレーテルとの、接触回です。
マサキたちは、シュプレー川の中州にある島に来ていた。
そこは博物館島と呼ばれ、帝政時代から複数の博物館がたつ島である。
先の大戦の折、米英軍の空爆を怖れ、多くの発掘品や遺物を地方に疎開させるも、東西分割によって、その遺物は散り散りになってしまった。
また1945年5月に入市したソ連軍によって、多くの得難い秘宝が持ち出される憂き目にあう。
19世紀にシュリーマンが発掘した、古代トロイヤの秘宝である、かの有名な『黄金の首飾り』などは根こそぎ、奪われる事態になった。
長らく、東西ドイツの研究者が所在を確かめるべく、モスクワ当局に尋ねたが梨の礫であった。
モスクワのプーシキン美術館にあることが、「再発見」されたのは、1991年の4月。
その現物が公開されたのは、戦後50年を経た1996年になってからである。
しかし、1945年の夏には、プーシキン国立造形美術館の収蔵庫の奥深くに持ち去らわれていたのだ。
(ソ連時代はA.S.プーシキン国立造形美術館。今日のモスクワ州立プーシキン美術館)
彼等が向かったペルガモン博物館に関して、簡単な解説を許されたい。
我々日本人がベルリンを訪問した旅行者から聞く『ペルガモン博物館』は個別の組織としてはなかった。
それは単なる施設の名称である。
『ペルガモン博物館』は、「回教美術博物館」「近東博物館」「ギリシャ・ローマーコレクション」からなる複合施設の総称である。
(近東とは、欧州からみた近い東の国の意味で、今日のトルコ・エジプトを指す言葉である)
展示内容は、隣接する「旧博物館」や「新博物館」と重なっており、「ギリシャ・ローマーコレクション」などは、「旧博物館」に所狭しと並べてあった。
マサキは時間的な都合から、ペルガモンの大祭壇と、プロイセン王室が中近東から購入した様々な遺物に限ってみることにした。
大小さまざまな展示を見た後、バビロンのイシュタール門の目の前に立った時である。
大勢の観光客が、マサキの事をまじまじと見ていたのに気が付いた。
博物館に行く際、軍服だと面倒なので、濃紺のダッフルコートを身に着けていた。
オリジナルの腰丈のコートではなく、着丈がふくらはぎまである市街地用であった。
外套の下は、分厚いウーリープーリーの黒いセーターと、裏地付きのジーンズといういでたち。
社会見学に来ていたであろう小学生らしき集団が、マサキを物珍しそうに見ている。
そのうち、引率の女教師が近づいてきて、
「失礼ですが、どちらからいらしたのですか。
肌や黒い髪から、お見受けすると、支那人とおもわれますが」
「日本から来ました」
鎧衣の流暢なドイツ語に驚いたのか、はたまた東洋人の珍しさか。
皆、一様に驚いた顔をしていた。
会った集団は、ドイツ北部から来ていた修学旅行中の技術学校の低学年であった。
マサキに年齢や旅行の理由を尋ねてきたが、マサキには非常に目障りに思えた。
鎧衣と白銀にその場を任せて、手を振って去ると、その場を後にした。
喫煙所のベンチに一人腰かけ、紫煙を燻らせながら休んでいると、一組の少年少女が近寄ってきた。
この1970年代では、子供が喫煙所に出入りすることは珍しくはない。
だが、自分以外がいないところに何故と、マサキは訝しがった。
成人の喫煙率の非常に高いソ連であれば、小学校高学年からの喫煙はざらであった。
成人の9割、婦人の7割が喫煙し、モスクワやレーニングラードの街中ですら、堂々と子供が外人に煙草をねだることがあったソ連と違って、東ドイツは喫煙にはうるさかった。
紙巻煙草の値段も、東側諸国の中では比較的高く、軍や警察の教本でも喫煙に関しては、早くから医学的見地から注意がなれるほどであった。
マサキは、彼等から目をそらしながら、新しいホープの箱を開けた。
気分を落ち着かせるために、タバコを立て続けに2本から3本吸う。
この一連の動作は、マサキの精神にとって、重要な一種の儀式と呼べるほどになっていた為である。
黙って紫煙を燻らせていると、金髪の小利口そうな少年が声をかけてきた。
「失礼ですが、木原マサキさんですよね」
マサキは、ちょっと眉をひそめ、
「何の用だ。小僧」
「マルティン・カレルと申します」
そう名乗った少年は、しばらく辺りの気配を、確認した後、やがて小声をひそめて、
「貴方を見込んで、この国の環境汚染の惨状を話したいと思います」
と、彼の知りうる範囲の事を話し始めた。
BETA戦争の結果、ソ連製の石油が不足して、質の悪い褐炭を用いている。
そのために、工業地帯の近隣住民に、公害が出ていること。
東ドイツ政府は、環境汚染を隠すために、シュタージを用いている。
その様なことを、熱心に説き始めたのだ。
マサキは、カレル少年の話を聞くうちに、過去への追憶に旅立っていた。
ドイツはほかの先進職に先駆けて、環境問題への関心が高い国であった。
1898年にできた世界初の全裸団体、FKK。
彼らの思想には、すでに環境問題への関心の萌芽さえ、見えはじめていたほどであった。
FKKという集団はワイマール共和国、第三帝国、東ドイツのSED政権さえもその存続を許した団体であり、逆に西ドイツではナチス時代の悪癖と危険視された集団であった。
ドイツの全裸主義に関して言えば、東ドイツ国民の5人に4人の割合で全裸で海水浴をしていたというから、その思想の浸透ぶりが分かるであろう。
意外なことに東ドイツは、環境問題に1960年代から取り組んでいた。
ただし、社会主義諸国特有のお役所の事情で、書類と政治宣伝のみであった。
事態が変わるのは、ホーネッカーの登場である。
シュタージと手を結んだホーネッカーは、先進的な政策をとり、ソ連から距離を置くウルブリヒトを危険視し、追放した。
その際、ウルブリヒトが肝いりで作った環境省は有名無実化され、1968年から公開されていた環境報告書は、1974年にシュタージが管理する国家機密となった。
そして一番の理由は東西ドイツ基本条約である。
東ドイツが独立国として認められた。
そう考えたホーネッカーは、環境政策を外交の道具として取り扱うのを止めた。
西ドイツからの施し金も、その施策を後押しさせたのは間違いない。
だが、当時は東西ドイツの経済的発展は急務だったのも大きい。
同じ敗戦国で海外からの資源を輸入する日本が環境庁を厚生省から分離独立させたのは1971年である。
西ドイツの連邦環境庁が設置されたのは、1974年。
1973年のオイルショックを受けてであった。
本格的に活動をするのは1986年のチェルノブイリ原発事故を受けての事であった。
この事を見ても、ドイツ人というのは立派なお題目ばかりを立てて、実現する能力が低い。
ドイツ民族の大言壮語の癖を直さない限り、ナチズムが再度支配するであろう。
一人マサキは、ドイツ人の頑迷さに、あきれ果てていたのであった。
マサキは、ふとカレル少年に尋ねた。
「一番の環境問題は、何か知っているか……」
「それは褐炭の使用と、深刻な地下水汚染、未処理の工業化用水の河川流出と思っています」
「そんなことは、大事を前にして、些事にしかすぎん」
「でも、わが国で気管支ぜんそくが増えているのはご存じでしょう。
児童の約半数が、何かしらの呼吸器に疾患を抱えていると……」
「ああ」
「俺が些事と言ったのは、そんなものはSEDをぶっ飛ばせはどうにかなる。
しかし、それより深刻なのは、BETA戦争における、ソ連の核の連続使用による放射線被害だ。
少なくとも中央アジアの放射能汚染は、セミ・パラチンスクの実験場の数倍にもなろう。
あとに残されるのは、数世代による遺伝障害だ」
マサキは、遺伝子工学の研究者でもあった。
20世紀初めに実施された、米国の学者マラーが行った、放射線実験の事が頭をよぎる。
放射線により遺伝子異常をもたらしたショウジョウバエの実験から、遺伝障害が数世代続いていくことを思い起こしていたのだ。
生物実験の推定から、両親のどちらかが1シーベルト以上の被爆をすれば、子孫に0.2パーセント以下の確率で遺伝的障害がおこるとされた。
先の大戦において、広島や長崎で原爆が投下された際は、その様な障害は、日米両政府の疫学調査で、確認されなかった。
だが、深刻な就職や結婚差別が起きたことを、昨日のように甦ってくる。
「そして、一番の環境破壊は、BETAによる浸食だ。
中央アジアとアフガンでは、地形そのものが変わった。
7000メートルの高さを誇るヒンズークシ山脈もだいぶ削り取られた。
バーミヤンの石仏も、今や、灰となってしまった」
「東ドイツの環境汚染は俺が写真を撮って、雑誌にでも売り込めばよくなるきっかけにはなる。
おい、小僧。場所だけ教えてくれ。俺が後で調べてやるよ」
前の世界で、環境問題から西ドイツの協力を引き入れた反体制派の事を思い起こした。
東ドイツの環境問題は、東ドイツ一国で済む問題ではなかった。
環境基準の甘いことをいいことに、オランダをはじめとするEC諸国は自国内で処理に困る産業廃棄物の処分場を、西ドイツの金で建設した。
その際には西ドイツから年間使用料として3300万マルクの金が支払われていたのである。
(1978年現在:1マルク=115円)
東ドイツのごみ処分場は、西ドイツにとっては非常な軽減負担であった。
西ドイツとの国境沿いには大規模な埋め立て場やごみ処分場が建設され、東ドイツの建設会社がその事業を請け負った。
東ドイツには従業員数20人以下の私企業は認められていたが、そのほとんどは個人経営の食料品店か、テーラーであった。
建設会社などは、国営企業か、それに連なる団体である。
つまり、西ドイツと東ドイツの間では、金で産業廃棄物の売買がなされていたと言う事である。
その時、マサキの脳裏に黒い考えが浮かんだ。
写真家、映像を取って、売ればいい金になる。
さしずめ、ナショナルジオグラフィックやネイチャーといった知識層向けの有名雑誌。
あるいは、英国のザ・サンや、米国のニューヨーク・ポストなどのタブロイド紙でもいい。
全米一のケーブルテレビ、CNNやフランス第二放送にでも持ち込むのもよかろう。
「話はそれだけか。
俺も忙しい身分でな、暇を見つけて対応しよう」
だから、東ドイツの環境問題のことを、マサキが本当に憂えてくれての扱いなら……。
この出会いは、カレルやグレーテルにとっては、願ってない邂逅の機を作ってくれた。
彼の好意を、大いに感謝せねばなるまい。
だが、マサキの真意がどこにあるかは、カレルには全くつかまれていなかった。
ベルリンに来て遊んではいるが、しかしその辺には、カレルも腹に一線の警戒をおいている。
同様に。
グレーテルの様子にも、どこやらマサキの言葉を、そのままには受けとってない節がみえた。
グレーテルが、静かな口調で、訊ねたのである。
「ところで、私の話も聞いていただけましょうか」
マサキは、カレル少年との会話は、そこで切って、不承不承に、連れの少女へも声をかけた。
「どうした、小娘」
「どうか、父を救ってほしいのです」
「外人の俺にそんな話を頼みに来たとみると、政府関係者。
それも事務次官級か、あるいは局長級。課長職以上か。
さしずめ、どこかの省庁に出入りする木っ端役人ではなさそうだな」
当のグレーテルよりも、この話は、カレルの気色を、妙にざわめかせた。
「シュタージに、西ドイツの金が流れているって噂を流すんだ。
嘘だってかまわない」
そう聞くと、カレル少年は色を失った。
「この国に西ドイツの金が入ってきているのは事実だ。東独政府の全職員が感づいている。
小娘、お前の父も例外ではない」
聞くうちに。
グレーテルは唇を白くし、その姿も、石みたいなものに変った。
「西側と対峙している国が西の金で回っているって、知れ始めたら、この国は動かなくなる。
党が、政治局が、声を嗄らしたところで終わりだ」
まさかと、信じられない気もしつつ、体のふるえは、どうしようもない。
「1000年以上の伝統を持つ、誇り高きドイツ人だろう。
外国の乞食じゃないことを証明されるまで、簡単に怒りは収めまいよ」
マサキの話す勢いに、二人は固くならざるをえなかった。
「党と政治局は、シュタージを使ってまで、そのことを証明せざるを得なくなる。
そこに隙が生まれる。こちらから仕掛けられる」
カレル少年は、いやな顔をして、
「さ、流石、冥王と呼ばれる男……木原マサキ」
マサキはそれを機に、ベンチから立ち上がる。
「俺も、こんなしみったれた国で、死にたかねえんでな」
そういって、彼は不敵の笑みを漏らし、その場を辞した。
後書き
ご意見、ご感想、お待ちしております。
(ご要望でも結構です)
シュタージの資金源 その5
前書き
週間連載の文章量、2000字程度ですいません。
翌日。
マサキたちは、ベルリンから260キロほど南にあるゲラ県イエナ郡に来ていた。
(今日のドイツ連邦テューリンゲン自由州イエナ郡イエナ市)
移動方法は、シュトラハヴィッツ少将に手配してもらった陸軍のヘリだった。
無論、東ドイツにも戦前の高速道路網が整備はされている。
だが、予算不足のためにハンブルグ・ベルリン間の主要幹線道以外は、放置されたままだった。
正確にいえば、ひび割れにアスファルトを流し込むぐらいの整備はなされているに留まっていた。
また制限速度が設定されていて、時速100キロメートルを超えてはいけない決まりになっていた。
一説には東ドイツの国民自動車トラバントの性能に配慮しての為だという。
トラバントのエンジンは、戦前に設計された600ccの2サイクル2気筒であり、速度を出せなかったのも大きい。
これは、東ドイツの公用車であるソ連製のジル、ボルガに大いに劣った。
またベルリン・イエナ間の往復で、最低でも5時間がかかることも考慮されて、ヘリにしたのだ。
ヘリコプターは、最新鋭のMI-24ハインドヘリコプターであった。
これは、シュタージ少将であったシュミットが独自に購入したものを、国家人民軍で押収したもの。
実は国家人民軍でも購入を計画していたが、ソ連との紛争で沙汰止みになってしまった。
その為、止む無く押収品を使ったのだ。
MI-24の大本となったMI-8は、すでに国家人民軍と人民警察で使われていた。
資料によれば、同機種のヘリを、軍では115機ほど所有していたとされる。
ヘリパイロットも、シュトラハヴィッツの息のかかった人物であった。
彼の部下であり、衛士でもあるカシミール・ヘンペル中尉。
衛士に転属する前は、創設されたばかりの戦闘ヘリコプター連隊のパイロットでもあった。
訪問先は、市中の人民公社カール・ツァイス・イエナ(VEB Carl Zeiss Jena)本社であった。
戦前から培った高い高額技術は、東側のみならず、西側でも評価された。
ツアイス・イエナのレンズは、東ドイツが誇る主要輸出品の一つで、しかも安価だった。
同社は、また最新の電子部品、精密機器も扱っていた企業の一つであった。
西ドイツの企業、カールツアイスが、なぜ東ドイツにと思われる読者もいよう。
ここで簡単に、カールツアイスの戦後の歴史を説明したい。
19世紀末に設立された、世界的レンズメーカーカールツアイス。
同社は、創業以来、テューリンゲンにある長閑な田舎町、イエナに本社を置いていた。
1945年の敗戦直後、イエナ市に入った米軍は優れたレンズ・光学技術を確保するべく奔走する。
しかし、6月以降、テューリンゲンがソ連に引き渡すことが決定されると、技術流出を怖れた。
そこで、米軍は、暮夜密かに、126名の技術者とその家族を拉致し、高性能機材をトラックに乗せ、運び去った。
その後入ってきたソ連軍によって、250名の技術者が5年もの間、モスクワに連れ去らわれた。
機材の9割は、ソ連に運び出すも、ソ連人に扱えるものではなく、やむなくドイツに戻される。
後に会社の存続は認められるも、そこで、戦後賠償という形で、ソ連に製品を上納した。
再建された同社では、戦前のライカカメラや一眼レフカメラ、双眼鏡の製造にあたった。
技術がそのまま、ウクライナに持ち出されて、『キエフ・コンタックス』というソ連製のカメラになったのである。
そうして分かれたカールツァイスは、1953年ごろまでは技術者同士の交流はあった。
しかし、西側の情報が入ることを怖れたSEDやソ連当局によって、十数名の技術者が逮捕される事件が起きる。
それ以降、西ドイツに落ちのびたカールツアイスの技術者たちが、先々を憂いて、カールツアイスの社号を特許申請してしまう事件が起きた。
事態は、両国の間だけで済む問題ではなくなった。
かつて、ルフトハンザ航空の社号をめぐって争った時のように、国際裁判に持ち込まれた。
1971年にロンドンの最高裁で、西ドイツが西側で販売する場合と東ドイツが東側で販売する場合に限り、両社とも『カールツアイス』の社号を名乗ることが認められた。
(例外として、日本と英国のみが、両国ともにツアイスの社号を名乗ることが許された)
こうして東西に分かれたカールツアイス社は、愛憎相半ばする感情をいだいたまま、今日に至ったのである。
さて、マサキたちは、カール・ツァイス・イエナの簡単な見学をした。
数点の双眼鏡と一眼レフカメラの購入契約を結んだ後、総裁室に向う。
シュトラハヴィッツの案内で、最上階にある総裁室の扉を開けた。
「今日は貴様に紹介したい相手を連れてきた」
奥に座っていた総裁は、東洋人の姿を見ておどろいた。
「紹介……」
ありのままをシュトラハヴィッツに伝えるも、
「あんた、たしかソ連議長殺しの……」
シュトラハヴィッツも笑っていたが、やがてマサキが、
「そうだ。俺は木原マサキだ」
と、名を明かした。
総裁は、、天のゼオライマーパイロット、木原マサキが来たと知って、大動揺を起していた。
(『反社会主義を掲げる日本の科学者と、社会主義国の軍隊の将軍が何故……』)
と、信じられない顔つきだったが、
「この大先生は、俺たちと同じく冒険主義者なのだよ。
これ以上の説明は居るか」
シュトラハヴィッツ少将は、総裁の意中をいぶかった。
「いや、それで十分だ。
ところで、天下のゼオライマーパイロットの大先生が、何を聞きたいんだ」
シュトラハヴィッツは、総裁に東ドイツの政財界の資金の流れについて糺した。
「貴様が知っている範囲で良い。
今の政府と産業界の関係……金の流れを聞きたいんだ」
そして、彼が語るには、
「政府と産業界か。
それなら簡単だ。1960年代のころよりその関係は弱くなっている」
マサキは、おうむ返しに訊く。
「弱くなっている?」
「だが、シュタージは、別さ」
マサキはうなずいて見せながら、更に問いただした。
「別?」
すると、総裁は、はばかりなく、
「ああ、シュタージは独自のパイプラインを持っている。
あの警官殺しのミルケが、別建てで金儲けをする独自の仕組みを作っておいたの」
と、断言した。
そして、彼が語るには、
「例えば、急成長を見せる電子産業、計算機、高速大容量の通信機器、数えたらきりがない。
こういったものには、西の優れた工業機械が必要だ。
でも普通に輸入したら、馬鹿でかい関税がかかる」
「それが、どういうわけで?」
と、マサキが聞くと、総裁はなおつぶさに語っていう。
「そこで、ボン(西ドイツ)の連中と悪だくみをして、貿易ではなく国内の通商という扱いにし、商社を作った。
ゲーネックスというやつだよ。
西に文通友達がいれば、東の品物を高値で売りさばき、裏ルートで物を持ち込める。
ベルリンで売っているトラバントは35000マルクだが……。
ゲーネックス経由で、ボンに持ち込むと49000マルクへ、化ける。
こいつはおいしい商売さ。
その為に、いくらでもシュタージに海外貿易の利益が入り込む」
総裁の話に、驚かぬ者はなかったが、やがて彼の説明に依って、ようやく仔細は解けた。
「それじゃあ、シュタージはその金を……」
「ああ……、表に出ない金のかき集めに関しては天才的だよ。
俺も相当むしられた。
そうやって、シュタージの権力だけが強大になっていく」
「面白い。
確かに、この金はシュタージにとって強みだが、逆に弱みになる」
気の弱い総裁は、それを聞くや、思わず嘆息していさめた。
「木原さん、それは止めた方がいい。
外人であるあなたが、そこまで踏み込んだら命を懸けることになる」
眉をひそめた総裁を気にする風もなく、マサキは断言した。
「俺は、元より命がけよ」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
シュタージの資金源 その6
前書き
6回でまとまりませんので、本作品の連載史上、一番長い話になりそうです……
読者の皆様、もう少しばかりお付き合いのほう、よろしくお願いします。
マサキは、内心焦っていた。
西ドイツより、シュタージに流れた、多額の金。
このカラクリさえつかめれば、シュタージがどう動こうと、シュタージの息の根を止められる。
これから捜すわけだが、しかし、証拠がなければ、ただの流言飛語にされてしまう。
もはや今日の戦いは、マサキ対シュミットという個人の物ではなかった。
一日も早く、シュタージが組織的に関与した証拠を示さぬことには……
我に大義名分がないのは、軍に旗がないのに等しい。
大きな弱みだ。
詰めが甘ければ、次はない。
東ドイツが窓口としている西側の銀行や企業には、間違いなくシュタージの手が伸びているだろう。
シュタージでなくとも、KGBの影響力が及んでいるのは間違いない。
一撃のもとに、抹殺せねば、己も危うい。
アイリスディーナとの一件を、変な形で西側のマスコミに報道されれば、一巻の終わりだ。
マサキは、その点では、無条件に楽観してはいられなかった。
「はて、負ければさんざん、勝ってもこの様。
とにかく戦いとは、次から次へと難しいことが起るものだ」
と、マサキは、つらつら痛感していた。
そうしたうちに、迎えの兵士たちが来ていた。
「同志将軍、そろそろベルリンに戻りましょう。
博士の滞在日程も迫っておりますし……」
マサキは、その連絡には当惑していた。
今日も、つい、貴重な時間を、あてのない捜索に、過ごしてしまった形だった。
証拠集めは容易でない。
まして敵地だ。
立ち去り際に、総裁に尋ねてみることにした。
「3月に死んだシュミットは、何も残していなかったのか」
「ああ……この件に関する書類は、ものの見事に姿を消している」
と、シュトラハヴィッツも今は半ばあきらめ顔に。
「では、やはり……」
総裁も、さじ投げ気味で。
「そうか……だが、なお、望みはないでもない」
「何だと……」
「モスクワ派の重鎮で、先日のクーデターに関わり、以来、ドレスデンに隠れて居る人物がいる」
「誰だ」
「俺が知る限り、裏金作りに関わってるのは、ザンデルリングだよ。
シュミットの反乱直前に、シュタージ本部から関係書類を持って行ったのはザンデルリングだ」
「ザ、ザンデルリング!」
「SEDの衛星政党ドイツ民主農民党、モスクワ派のザンデルリング。
現在は、ドイツ民主農民党に属しているが、その前はシュミットの腰ぎんちゃくと呼ばれた男……
常に、時の最大勢力を誇る派閥に所属し、SEDの策士とも、政界の寝業師とも呼ばれる人物さ」
それまで黙っていた、ハイム少将が口を開く。
「その日和見主義のザンデルリングが、KGBへの裏献金を知っているのか。
厄介な奴だ、一筋縄ではいかん、したたかな奴だぞ」
シュトラハヴィッツは、にわかに一縷の光を見いだしたようだった。
もうほかに手段もない切迫つまった状況では、どうしてもその関係書類が必要なのだ。
「いや、それは絶好のチャンスだ。高潔な男なら、どんな餌にも転ばない。
だが、ザンデルリングは、高潔とは無縁の貪欲な野心家だ。
こっちが与える餌によっては、今の飼い主を、平気で噛みつけることもある」
ついにシュトラハヴィッツ将軍みずから、この問題に踏み込んでいく。
マサキは紫煙を燻らせながら、会心の笑みを漏らした。
さて。
エルベ川の谷間に位置する、古都ドレスデン。
エルベ川の真珠とも呼ばれる、この町は、日本人にもなじみの深い町であった。
青年期の森鷗外も学び、同地に半年間滞在したほどでもある。
ドレスデンは、かつては、ザクセン王国の中心地として栄えた古都でもあった。
同地には、ザクセン選帝侯アウグスト2世こと、アウグスト強王により作られた日本宮殿があった。
宮殿の中には、所狭しと東洋より持ち込まれた白磁が並んでいた。
アウグスト強王は白磁に惚れこむあまり、自身でその白磁の生産に乗り出すほどの愛好家であった。
1710年に王立ザクセン磁器工場を設け、その研究に乗り出した。
後に、『白い黄金』として知られるマイセン陶磁器は、この酔狂人のおかげで発展したのである。
ドレスデンは、ワイマール共和国、第三帝国の時代を通じ、ドイツでもっとも重要な都市のひとつであった。
戦前の1939年には、63万人の人口を擁し、華麗な文化都市として栄えた。
だが、1945年2月13日から14日にかけて、米英軍の激しい空爆により壊滅的な被害を受けた。
この2昼夜の空襲の被害は、10万といわれる犠牲者を出した。
かつて、アウグスト強王により作られた古都は、その美しさから「エルベ川のフィレンツェ」と呼ばれていた。
しかし、英空軍の激しい爆撃により、そのほとんどは灰燼に帰した。
東ドイツ政府は、チェコ国境に近い、この都市を政治的に注目した。
戦後復興として、社会主義的な町づくりをした。
市の中心部に文化センターを建設し、ソ連式の集合住宅を立ち並べた。
しかし、ほんとうの戦後復興にはまだまだ遠く、いたるところは焼け跡だらけであった。
名跡であるフラウエン教会やツヴィンガー宮殿などは、瓦礫の山と廃墟が放置されていた。
マサキたちは、空路ドレスデンに入った。
高速を使っても2時間は書かる175キロの道を、ヘリのおかげで30分弱で移動した。
最大速度、時速320キロを誇るMI-24の恩恵はすさまじかった。
ドレスデン市内にあるクロッチェ飛行場に降りたつと、基地の中で夜を待った。
クロッチェ基地には、物資・人員の空輸を主任務にする第24輸送航空隊が置かれていた。
大隊規模の航空隊で、ヘリとセスナ機の他に、16機のイリューシン14を所有していた。
イリューシン14は、東ドイツがライセンス生産した数少ない航空機である。
1956年から1959年までの間、人民公社ドレスデン航空機工場(VEB Flugzeugwerke Dresden)で80機が生産された。
(ドレスデン航空製作所は、今日のエアバス傘下のエルベ・フルークツォークヴェルケ社である)
1955年に設立された、人民公社航空製作所(VVB Flugzeugbau)。
同社は、1950年代後半に、国中から集められた戦前からの技術者とともに航空機開発に望んだ。
しかし、開発の遅れと、ソ連の援助中止という形で東ドイツの国産飛行機は立ち消えになった。
目指していたアフリカ、中南米諸国への販売も、市場原理を無視した社会主義ゆえの国際市場への甘い見通しの為、失敗した。
1961年以後、ドレスデン航空機工場と社名を改め、航空機とヘリコプターの修理工場になった。
同社はワルシャワ条約機構軍と国家人民軍向けに、航空機の整備を専門とした。
総裁が言った通り、ザンデルリングは、ドレスデンにいた。
シュタージが運営するホテルに潜み、そこで半月に渡る綿密な逃亡計画を練っていた。
その日、シュタージ少将と、ホテルの一室で飲んでいるときだった。
不意に、官帽にオーバーコート姿の将校たちが現れて、
「お時間を頂けないでしょうか」と声をかけてきた。
シュタージ少将は、ドレスデン県本部長で、KGBと近しい人物であった。
でっぷりと太った体躯に、剃り上げた頭からは、とても想像も付かない。
ザンデルリングをはじめとする党幹部とのつながりが噂される男であった。
肥満漢のシュタージ少将を追い出した後、ザンデルリングはいらだちを隠さなかった。
突如として現れたシュトラハヴィッツ将軍に、敵意をむき出しにする。
「何だね。君たち、これは少し失礼じゃないかね」
「無礼は重々承知しております
単刀直入に申し上げましょう、同志ザンデルリング。
同志はSEDの主席、国政の首班になる気はございませんか」
「な、何だって」
ザンデルリングは、途端に驚愕の色をあらわした。
「何を言い出すかといえば、同志シュトラハヴィッツ将軍。
君がどういう考えで、シュタージと対決し……
どの思って、こういう若い軍人たちと徒党を組んでいるのか、分からない」
ザンデルリングは冷たく言い、曲がったネクタイに手をやる。
「だがね、君がどんなに行動を起こそうとも、党と癒着したシュタージは動かない」
「一党独裁体制は盤石と言う事ですか」
「その通り」
「シュタージは、国家、国政の上に根を張った巨樹なのだよ。
簡単に倒せる相手じゃない……。
利口な人間なら、倒す事よりもその大きな幹の下に入って、利益に甘んじることを選ぶ。
それが、政治家の選択というものじゃないのかね」
「もしその木を切り倒す道具があるとしたら、どうする」
沈黙を破るように、マサキが口を開く。
彼は、今にも吹き出しそうなのをこらえて言った。
「知らねえとは言わせねえぜ。
シュミットと近い貴様は、この計画にも絡んでいるはずだろう」
「同志ザンデルリング。
貴方はシュミットの事を可愛がっていたから、KGBにも認められている……
そう思っていたら、大間違いですよ。
いくらKGBに取り入ったところで、所詮あなたは、モスクワ派の外様。
ソ連人じゃない、ドイツ人。外国人だ。
いざとなったら、トカゲのしっぽきりで、ばっさりってことも……」
シュトラハヴィッツの眼差しの真摯さに、ザンデルリングも動かされたようだった。
後書き
フリードリヒ・ザンデルリングは、原作小説第七巻でシュミットが立てた傀儡政権の首班です。
またKGBに近い少将は、外伝小説『REQUIEM-願い-』第二巻に出てくる武装警察軍少将です。
ご意見、ご感想お願いします。
シュタージの資金源 その7
前書き
ドレスデン日帰り観光の巻。
マサキは、その夜ドレスデンに泊まった。
本当ならば、日帰りでベルリンに帰るつもりであったが、夜10時を過ぎてしまったので急遽泊まることにしたのだ。
ホテルの一室は、シャワーと簡単なベッドだけ。
ルームサービスも台所もない簡単な宿泊施設で、冷蔵庫すらないのには驚いた。
ただ、シュトラハヴィッツ将軍が無理を言ってくれたおかげで、市内で一番高層を誇るホテルに宿をとれたのだ。
コーラの入ったグラスを片手に、地方都市の夜景を眺め、次の方策を一頻り思案していた。
おもむろに立ち上がると、念入りに部屋中を見て回った。
ソ連をはじめとする東側諸国では、外人用ホテルに盗聴はつきものであった。
いや、同国人であっても、監視の目を緩めない。
硬直したスターリン主義の支配制度の中にある、東ドイツでは、より顕著であった。
マサキは、ベッドわきにあるラジオや室内電話、電球などをくまなく調べる。
ソ連では、マイクロ波を用いた優れた音響装置による盗聴器があるためだ。
衛星国であった東ドイツで使わない理由はない。
そして、このドレスデンの町は、KGBの秘密基地があった場所である。
何事も、用心して足りぬことはない。
そうこうするうちに、壁掛け時計の中に怪しげな部品を認めた。
『やはり、シュタージは腐ってもシュタージなのだな……』
そっと壁時計を戻した後、次元連結システムの子機を取り出して、起動する。
あらゆる電波や熱線を遮断するバリア体を、部屋中に張り巡らせた。
これで、ひとまずは安心だろう。
そう考えながら、鞄の中から、ある道具を取り出した。
それは、携帯式の通信機器である。
テーブルの上に置かれた機材の形状はノートパソコンに似ており、受話器がついていた。
折りたたむと、縦幅21センチ、横幅30センチ強で、A4判ほどの大きさだった。
マサキは、通信機を起動させるなる。
画面に映る美久に向かって、静かに、
「美久。今からデーターをゼオライマーに送る」
美久は、画面越しに部屋中の様子をうかがっている風だった。
「はい」
「映像と音声は、カセットテープとビデオに焼き直しておいてくれ」
そういうと記録装置の端子をつないだ。
情報量にして、500ギガバイト。
次元連結システムのちょっとした応用で、一時間もあれば、すべて送り終わるであろう。
懐中より煙草を取り出して、火をつける。
悠々と紫煙を燻らせながら、
「あと、キルケに連絡を入れてくれ。
西ドイツのメディアと接触を図りたい。
なるべく早く、と言ってな」
そういって通信を切ると、ベットに横たわる。
「あとは、この木原マサキの意志と覚悟だけか……」
そう意味ありげに呟き、愛用の回転拳銃を抱えたまま、眠りに就いた。
マサキ一行は、翌日もドレスデンにいた。
午前中はシュトラハヴィッツ将軍たちと別れて、市街に出る。
半径2キロほどの小さい町なので、観光するのに4時間もあれば十分だろうと、徒歩で出かけた。
東ドイツ有数の地方都市という割には、活気がなく、汚い建物ばかり。
教会も、オペラ座前広場も、ツヴィンガー宮殿も、どれも爆撃の後で、薄く煤けているばかり。
驚くべきことに、道路にはまったく車が走っていなかった。
ポーランド方面に行くのは深緑の塗装をした軍用車両ばかり。
時折、薄汚れたトラバントやトラクターを見かける程度である。
もっとも、路面電車がかなりの本数で走っているので、車は必要なさそうだったが。
社会主義国で成功した東ドイツでこれなのだから、隣国ポーランドはもっと貧しいのだろうか。
マサキは、力なくため息をついた。
アイリスを、日本に連れ出したら苦労しそうだと一人思案していた。
ドレスデンは、東ドイツの端で、外人が少ないせいもあろう。
マサキたちは非常に目立った存在だった。
またこの町が、KGBとシュタージの秘密拠点であったこともあろう。
監視の目も、異様なほど、多いことに気が付いた。
それとなく様子を見るつもりで、ぶらぶらとドレスデンの町の中を歩いた。
彼は至る所で町中の目という目が、己に注がれている。
マサキは、そのような気がして、妙に背筋に薄ら寒さを感じた。
ホテルには台所もなく、ルームサービスもなかった。
その為、わざわざ朝食を市内に買いに行くしかなかった。
近くの国営商店に寄った際、店内を探索して、気になる点があった。
値段はかなり格安で、補助金等の政府による価格調整の影響もうかがえる。
ライ麦パン、1キログラム34ペニヒ、ブレートヒェン、1個5ペニヒなど……
ドレスデン名産の菓子、アイアシェッケ (Eierschecke)も85センチ四方で 1マルク25ペニヒ。
驚くべき安さだった。
(ペニヒとはドイツマルクの補助通貨単位である。100ペニヒ=1マルク。
この貨幣単位は、東西ドイツとも同じである)
目についたのは、青果類などの青物が少なく、ビールなどは逆に30種類以上あるの事。
社会主義特有の需要と供給を無視した、発注ゆえだろうか……
店員の話によると、これでもBETA戦争での物不足は解消した方だという。
その話を聞いて、東ドイツに住む主婦やパートタイマーの職業婦人は大変であろう。
朝から商店に並んでも、お目当ての品物がかえないという馬鹿げたことになるのだから……
マサキは、不思議と、そんな事ばかりを考えていた。
市中のパン屋に寄り、アイアシェッケという、ドレスデン地方発祥のチーズケーキを買った。
その際、店員は、動物にエサを渡すがごとく、パンを投げてきた。
店員の愛想の悪さと、乱暴な対応が、非常に気になった。
東洋人の事を、見慣れぬのもあろう。
だが、カシュガルハイヴの構築を許してしまった支那に、よからぬ感情を持っている。
その様なことも、今回の態度の一因ではなかろうか。
もっとも、社会主義国特有のサービス精神の欠如もあろう。
ここで、ドレスデン名産のひとつである、バームクーヘンを買い求めた。
だが、卵や牛乳の供給量の関係で、週に1度しか作れないと聞いたとき、マサキはあきれていた。
仮に売っていたとしても、朝から行列ができて、昼には売り切れてしまうほどだという。
そしてバームクーヘンは、東ドイツでは高級菓子の部類であった。
クリスマスや、慶事での贈答品の習慣が根強かった。
西ドイツへの贈答品として売られて、ほとんど東ドイツ人は食べないと言う事だった。
さて。
午後、マサキはシュトラハヴィッツ達の下に出向いていた。
彼等と共に、今後の事を話し合っていると、不意にザンデルリングが現れた。
何やら重たげに、箱を抱えてきて部屋に入ってきた。
いきなり段ボール箱を置くと、そのまま帰ってしまった。
不思議な行為をするものだと、マサキは訝しんだ。
ザンデルリングの持ってきたものは、資料だった。
ロシア語とドイツ語からなり、A4判の300枚入りのファイルで、25冊。
一番古いものは1957年からの物で、最新のは1977年だった。
資料を手に取ったハイムは思わず、
「完璧だ……完璧に資金の流れが解明できる。
この資料だけでも、毎年、2億マルクの金がシュタージを通して、KGBの手に渡っている」
(1978年の1ドイツマルク=115円)
さっきとは打って変わった熱心さで資料を見入るシュトラハヴィッツは、やや興奮気味に答えた。
「それにしても、ザンデルリングは見事なものだ。
この資料から完全に名前を消している」
マサキは、ちょっと考えて。
「問題はそこだ……」
「というと……」
「この資料を西ドイツなり、米国に持ち込んだにしろ、どこから出たかが問われる。
ザンデルリングが名乗るわけがない。
この資料から名前を消したように、一切自分に関わりのないと、否定するのは目に見えている」
と、マサキは語尾に力をこめて、もう一度、
「はっきりとした出所が分からなければ、根も葉もない怪文書として切り捨てられる」
五分間ばかり、沈黙の時間が続いた。
互いの胸の鼓動が聞こえるのではないかと思えるぐらい、静かな一刻であった。
そのうち、マサキの監視役として来ていたゾーネが入ってきた。
灰色の開襟制服に、ベルトにマカロフ拳銃という厳めしい巡察の格好で来て、
「アクスマン少佐の遺品から出て来たことにすればいい」
と、やがて、彼はしずかに、
「少佐は、西ドイツに調略をかける中央偵察総局の将校。
出所としては文句はないでしょう」
それは、まんざらのでたらめでもなさそうな話し具合だった。
だが、ゾーネはシュタージの現役将校。
それは、余程割引きして聞かねばならない。
ハイム達は、その話を聞いた瞬間、
「シュミットと同じ、シュタージのくせに何を寝ぼけたことを」
と、いう言葉が、のどまで出かかっていた。
シュトラハヴィッツのしずかな眼は、やがてしげしげとゾーネの面を見まもっていた。
さて、別に言う事もないような無感動をそのまま置いて。
「いいのか……。
それをしたら、お前さんの派閥の長は……この闇資金の流れを知って、関与していたことになる」
「そうだぞ、ゾーネ少尉。アクスマン少佐の名前に傷がつくことになる」
しかし、ゾーネはあくまでも、懸命だった。
ハイムの問いに答えて、
「構いません」
と、息をつめた。
「KGBと刺し違えるのなら、アクスマン少佐も本望でしょう」
その話を聞き終わると、シュトラハヴィッツは不意に椅子から立って、
「西ドイツにヴァルトハイムという俺の知り合いがいる……。
その男に、ドイツ連邦検察庁の特捜部の検事を紹介してもらう」
彼らの顔に、さっと一脈の生色が浮かんだ。
それは力強い、全身全霊をかけて頼れる存在だった。
「よし、その線で行こう」
マサキは、話が一段落すると、市中に再び出かけた。
再び、バウムクーヘンを買うためである。
ドレスデン土産にバームクーヘンを買おうをしていたマサキは、納得がいかなかった。
色々思案した末に、護衛役の私服警察官に聞いて、別な店に行って買うことにした。
別な店では、外人と言う事で無理をして、バームクーヘンを用意してくれた。
出されたバームクーヘンは、4段リングで、1キロ50マルクほどだった。
店主によれば、数時間かけて、わざわざ焼いてくれたという。
なので、東ドイツマルクの代わりに、西ドイツマルクで支払い、買って帰った。
店主は、マサキの差し出した西ドイツマルクにひどく驚くも、喜んで受け取ってくれた。
夕方、薄暗くなってから戻ると、やっと話は終わったようだった。
ドレスデンの空港からベルリンに戻るべく、ヘリコプターを準備していた時である。
シュトラハヴィッツは、見送りに来たゾーネを認めると、
「おもわず時を過ごしたぞ。
同志ゾーネ。これから一人で帰るのも面倒であろう。俺が連れて行ってやるよ」
ゾーネは、あわてて、ヘリへ飛び乗った。
少し先には、ハイムとヘンペル少尉が、なお用心ぶかく、物蔭からじっとにらんでいた。
「シュトラハヴィッツ、本当にふしぎな男だ」
シュトラハヴィッツは、ただただ、解らない男、この一語につきる。
本心、シュタージを敵とみるならば、そのシュタージの正規職員であり監視役でもある自分を、どうしてこう寛大にして帰すのか。
手ぶらで送り返さぬまでも、重要な情報源として、これを拷問のすえ、敵状を知る手懸りとする。
そういうは、KGBやCIAなどの秘密警察、情報員の常識といってよい。
「それなのに……」
ゾーネは、疑いながらも、その怪しみに引かれて、ついつい犬の子の如く、シュトラハヴィッツのあとについて行った。
シュトラハヴィッツもまた、ゾーネを、野良犬ほども、気に止めていない風だった。
しかし、マサキはシュトラハヴィッツの対応に気乗りしない感じだった。
「これは……」
彼は、シュトラハヴィッツに、ある種の不安を感じた。
シュトラハヴィッツは、どうして、シュタージの現役将校と共にここにいるのか。
これは解らない方がもっともだった。
およそ、わが身を狙う間者といえば、これを銃殺にしても問題ないのが当然なのに……
シュトラハヴィッツは、かつて自分を狙ったことも明確な下手人を、こうも許すのか。
まさか、ゾーネとかいうシュタージ将校に、貸しでも作っているつもりなのだろうか。
マサキは、あきれるほかなかった。
後書き
今も東欧やロシアの地方都市にあるホテルでは、食事の出ないホテルが一般的です。
旧東ドイツ地域、東欧だと宿泊者は外食する前提で、冷蔵庫すらありません。
またロシアのホテルだと、宿泊者自身が食材を用意し、共用の台所で自炊する必要があります。
ご意見、ご感想お待ちしております。
危険の予兆
前書き
大分前にいただいた、読者意見反映回になります。
マサキが、東ドイツに一週間ほどの私的訪問をしている同じころ。
なにやら月面で、不穏な動きがあった。
そのことに一番最初の感づいたのは、米国のジョンソン宇宙センターであった。
基地のレーダーサイトに怪電波が入ったのが発端であった。
「所長、妙な隕石が地球上に接近しています」
「どうした。隕石の一つなど今に始まったことではあるまい」
地球上には、毎年2万個の隕石が飛来していた。
そのほとんどは、小型で、人里離れた山奥や大海原に着陸し、発見されることはまれであった。
「月面からです。
ハイヴから、何か飛翔物が……」
地球上のハイヴは、既に完全攻略されていた。
だが、肝心な月面上の本拠地――ルナ・ゼロ・ハイヴだけは、なおまだ頑としておちずにあった。
「着陸ユニットか!」
着陸ユニットとは、BETAの発生源であるハイヴを内包した飛翔物である。
1973年、1974年と続けて地球上に飛来して、多大な被害をもたらした存在。
米国では、戦術核の飽和攻撃でハイヴ建設を防いだ。
だが、カナダの東半分が深刻な放射能汚染のために、居住地域が制限されてしまう事態になった。
「コンピュータの計算によりますと、着陸まで3日ほどです」
「軌道上に発射可能な核ミサイルは……」
この当時の大陸間弾道弾ミサイルは、米ソともに液体燃料であった。
液体燃料ロケットは、軌道制御が簡単な反面、燃料注入に日数がかかるのが難点だった。
固体燃料を主としたピースキーパーミサイルが配備されるのは、1986年になってからである。
1970年代で、世界に先駆けて全固体燃料のロケットを開発したのは、日本であった。
「隼」「鍾馗」を開発した糸川英夫博士が、来る宇宙開発時代に向けて、1950年代から研究していたのだ。
それが功を制して、わが日本国は世界で4番目に人工衛星を打ち上げた国家になった。
(ソ連、アメリカ合衆国、フランスに次いで、世界で4番目)
「打つべき手段はないものか……」
「日本軍のゼオライマーを使う案はどうですか」
「再突入駆逐艦に乗せて、軌道上に運ぶのかね……
ゼオライマーの大きさは50メートル、500トン。
再突入艦は60メートルだよ」
再突入駆逐艦とは、大気圏突入用のスペースシャトルである。
全長60メートルで、地球の軌道上から戦術機を輸送するために開発された輸送機である。
駆逐艦と呼ばれているが、非武装の有人宇宙船である。
ミサイルはおろか、大砲、機関銃すらついていなかった。
所長は、懐中に手を入れると、白に緑の文字が書かれたタバコの箱を取り出す。
「Kool」と書かれた箱から、数本のタバコを抜き出し、机の上にきれいに並べる。
「とりあえず、BETAの攻撃に踊らされず、出来るだけ多くの情報を収集したい」
整然と並べられたタバコを端から掴んで、口にくわえる。
ジッポライターで、炙るように火をつけた後、悠々と紫煙を燻らせた。
男は、咽頭を通じて伝わる結晶ハッカ油に、心の安らぎを求めた。
その様を見た副官は、所長の愁眉を開かせようと、
「任せてください」と、力強く答えた。
その頃、東ドイツにいるマサキたちといえば。
議長専用のリムジンに、マサキも厚い羅紗のダッフルコートにくるまりながら、同乗し、ベルリン近郊にある、高級幹部専用の住宅地に向かっていた。
この場所は、ヴァントリッツと呼ばれていたが、実際は違った。
ベルリン郊外のの村落ベルナウ・バイ・ベルリンにあり、ヴァルトジードルングと呼ばれていた。
ミッテ区からA11号道路を40キロほど進んだ場所にあった。
「私が提案した条件は、飲んでくれるのかね」
ソ連製大型リムジン、ジル(ZIL)114型の中で、議長は紫煙を燻らせながら訊ねてきた。
「ああ、まあ……なあ」
籍を入れなくてもいい、アイリスディーナと式を挙げてほしい。
形だけの人前式を上げてほしいというのが、条件だった。
移動時間は40分程度なのだから、それに合わせて返答してほしいという要求だった。
後部座席はミラー加工された窓ガラスに変えられ、外から見えなくなっているとはいえ、運転手の存在が気になった。
黒いスーツに、レイバンの黒縁のサングラスをかけた寡黙な男。
屈強な体つきと見あげるばかりの背丈から、如何にも軍人然とした風貌だった。
「大丈夫だ。運転手は俺が議長になる前からの長い付き合いの男だ。
口は堅いし、こういう事には慣れっこだ」
議長の言葉に、マサキは、何で今さらといわぬばかりな顔していた。
いきなり人前式の話を持ちだされて、マサキは焦った。
義理の親とは言え、妙齢の娘の先行きを気にする気持ちはわかる。
マサキも、アイリスディーナとの同居することには意義はない。
だが、その身分が問題になった。
アイリスディーナは、国家人民軍陸軍少尉。
BETA戦争の為、2年早く繰り上げ卒業をしたとはいえ、士官教育を受けた現役将校。
いくら東ドイツがOKしても、日本政府が許すわけがない。
外国人との結婚は、その後の進路ばかりか、マサキの日本国内での立場を危うくしかねない。
ミラと結婚した篁と違い、マサキには、爵位も、後ろ盾もない。
武家でもない、この世界では根無し草のマサキにとって、外人との結婚は自殺行為だ。
前の世界の自衛隊の様に、この世界の帝国陸海軍は外国人との結婚には甘くない。
もっとも、陸海空の自衛隊、海上保安庁、警察消防、公安調査庁等々……
日本国憲法24条によって婚姻の自由は、両性間の合意にのみゆだねられている面が大きかった。
慣習として、外国人との結婚をした治安・法執行機関関係者は、出世を絶たれた。
無論、マサキもそのことを知らぬわけではない。
日本帝国に調略工作を仕掛ける面から言っても、適当な武家や素封家から娘を妻に迎え入れる方が安全なのは知っていた。
ただ、東ドイツに工作拠点の一つを作る点から、アイリスディーナとの関係を利用するのも悪くない。
そう考えていた面もある。
議長の爛々とした眼が、マサキの顔や姿を見つめ合った。
瞬間は、やはりどうにもならない。
相手の意識に圧しられて、顔のすじも肩の骨も、こわばりきったままだった。
「形だけの結婚式でもいいんですよ、博士。
そして、いつでもアイリスディーナの所に来てやってください。
但し、このおままごとに関しては決して口外しないと……」
それに対して、マサキは十分心が動いた。
その証拠に、応じる色を見せて来た。
「内縁関係……、妾なら考えてもやらんでもないが」
マサキのつぶやきを聞くと、議長は相好を崩した。
「そう。博士のその言葉を待って居りました」
「うあっ……あ」
綸言、汗のごとし。
マサキは、自分の失言に、もう全てが、どうでもよくなり、深い後悔の念に苛まれた。
車窓から見えるのは畑や森林、そして晴れ渡る空に、豊かな自然。
冬の澄み切った空気で、遠くまで一望できる。
マサキは、後部座席に寄りかかりながら、呆然とその景色を見ていた。
やがて運転手が、
「あと5分ほどで着きます」と告げると、目的地が見えてきた。
金網のフェンスに囲まれた深い森で、『野生生物保護区』、との看板も見える。
国家人民軍の勤務服に似た開襟式のジャケットに乗馬ズボン、ワイシャツに黒のネクタイ。
鉄兜に自動小銃を持った一群が近づいてくる。
彼らはシュタージの武装部隊、フェリックス・ジェルジンスキー連隊の兵士であった。
車は、キノコ型の守衛所の前に一時停止する。
運転手が鑑札を見せると、兵士たちは敬礼をして、門を開けて、車を中に招き入れた。
深緑の中に、ぽつぽつと建物が点在している。
薄暗い森林の中に、突如として、閑静な住宅街が出現した。
マサキが車を降りるなり、背広姿の老翁が近づいてきて、住宅に続く道を案内される。
給仕と思しき老人は、矍鑠としており、一般人でないことは察せられた。
議長の別荘は、2階建てだった。
15部屋のある戸建てで、広さは、180平方メートル。
木漏れ日に佇む姿は、ベルリンのパンコウ区の喧騒とは一線を画していた。
「アーベルの家はここから2軒先にある。
もっともアイツは、ベルリン市内で寝起きしているけどな」
使用人たちが、マサキの脇を通り過ぎ、彼の荷物を運んでいく。
見た感じ、3人以上いるのが分かる。
「俺は、今は一人もんだから、使用人は5人までに減らした。
前議長は、多い時には60人の使用人を使っていた」
「シュタージは家政婦の派遣業もしているのか……」
「ソ連のノーメンクラツーラーの劣化コピーと考えてもらえば、早い」
「だろうな……」
マサキの察した通り、使用人はシュタージからの派遣であった。
総勢650人の使用人の主な業務は、身辺警護、庭師、運転手、炊事婦、住宅管理。
そのほかに、140人ほどの警備員が4交代で、24時間体制の警備を敷いている。
腕時計を見ると、時刻は午後3時を過ぎたあたりであった。
マサキは、深いため息をついた。
『えらいところに連れてこられてしまった』
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
危険の予兆 その2
前書き
連載開始から1年半以上たって、やっと、影の政府の大本、CFR出しました。
さて、ホワイトハウスでは。
テキサスにあるジョンソン宇宙センターからの一報を受けて、緊急会議が招集されていた。
会議の冒頭、航空宇宙(NASA)局長が立ち上がって、上座の方を向いた。
「今回の隕石は、情報分析によりますと、着陸ユニットと思われますが……」
白版に張られた地図を見ながら、副大統領は、
「うむ」
と、航空宇宙局長の意見に深くうなずき、
「諸君らも、月面のハイヴの隆盛をみれば、膨大なG元素が眠っているのが一目でわかる」
思わず声を上げて笑った。
哄笑している副大統領に、意見をはさむものがあった。
彼との関係が微妙である、CIA長官であった。
「副大統領!G元素集めに無駄な時間を割くより、例の計画を進めた方が得策かと……」
副大統領の目が途端に鋭くなる。
彼は精悍な顔つきをしている為に、かなりの迫力を感じさせた。
「まだ、こだわっているのか」
腕組みを解いて、席より立ち上がった。
「悪いとは言ってはいません。私は、貴重な味方の戦力を無駄にはしたくないだけです」
国防長官は、その言を聞くや、いつにない激色を見せ、
「ならばこそ、例の計画を進めるために、G元素の収集を続けているではないか」
と、席から立ち上がって、CIA長官を叱りつけた。
「その通りだ。心配はいらん。
調査隊の成果を楽しみにしていたまえ」
そういうと副大統領は、会議場から辞した。
CIA長官は、立ち去る彼に、懸命に食い下がった。
「犠牲を……、最小限にとどめたいものですな」
議場に残った閣僚たちは、CIA長官に冷ややかな目を向けるばかりであった。
ホワイトハウスでの秘密会合から、わずか数時間後。
場所は変わって、ニューヨークにある国連日本政府代表部。
全権大使の御剣は、ある人物の非公式な訪問を受けていた。
米国の諜報をつかさどるCIA長官であった。
黒塗りの公用車で来たCIA長官は、代表部の一室に差し招かれて、
「結論から申し上げます。
殿下並びに、元帥府も、内閣も、このBETA戦争を終結させるものは新元素爆弾であると……
その様な考え方を否定なさらないと思います」
御剣が鋭い目でしげしげと見おろしながら、たずねる。
「それで……」
「多額の予算を投入したにもかかわらず、我が合衆国はいまだにG元素爆弾を完成しておりません」
男は意味ありげに、深い深呼吸をした後、
「ですが……、状況に深刻な変化が出たと申し上げなくてはいけません」
「ロスアラモス研究所で、新元素の分裂実験に成功したという件かね」
「やはりご存じでしたか」
「しかし、余りにも大きく、航空機にも、大陸間弾道弾にも搭載できぬという話だが……」
「ですが、彼らは戦略航空機動要塞という途方もない手段を思いついたようです」
御剣は、CIA長官の発言にほとほと感じ入った様子で、
「なんと……」
脇にいた次席公使も驚きの声を上げる。
「それは初耳です」
「実は」
と、CIA長官は注意深く、大使館の周囲を覆う竹林の外を見て。
「G元素の反応を利用した機関を乗せた大型攻撃機を月面に近づけて、地表で炉を暴走させる計画なのです」
長官は口を切った。
御剣はうなずいた。――大いに聞こうという態度である。
「NASAによりますと、着陸ユニットの発射源は月の静かの海にあると言う事です。
クレーターを抉り、地下に建設されたハイヴらしく、空爆やミサイル攻撃による損害を与えることは難しく、特殊作戦は不可能と結論がなされました」
御剣は息を内へ飲んだ。
「つまり正攻法で行くしかありません。
合衆国は国家の命運をかけ、相当の損害を覚悟のうえで、大規模な月面降下作戦を実施する事にいたしました」
「実施時期は……」
「ロケット燃料充填や人員の確保、月面の温度が上昇を勘案しますと、早くとも半月後になります。
詳細は追って、連絡いたします」
CIA長官は席から立ちかけて、
「大統領閣下からの伝言でありますが、貴国には、ぜひ、ゼオライマーの作戦参加をとのことです」
御剣はひとみを正した。
長官の終りの一言によってである。
男は、それを猛烈な反駁の出る準備かと覚悟した。
今回の依頼が、無理を承知の上でしていたからである。
「わかりました」
案外、御剣は、幾度も大きくうなずいた。
決して、軽々しくではない。歎息して言った。
「元帥府、内閣との検討の上に可及的速やかに返答を申し上げましょう」
御剣も同意の色を満面に見せた。
「よろしくお願いします」
男は、御剣に深い礼をした後、静かに部屋を後にする。
迎えに来た屈強な護衛たちと共、に車でマンハッタンの町へ去っていった。
CIA長官が帰って間もなく、執務室から人払いをした御剣は、大急ぎ電話を掛けた。
既に米国ニューヨークは昼下がり、6時間先の西ドイツのボンは夜の時間帯になっていた。
「御剣だ。大使館付武官補佐官に連絡して、訪独中の彩峰大尉を呼んでくれ」
それから5分ほどもすると、電話は彩峰につながった。
「御剣閣下、彩峰です。火急の要件とは……」
「木原は、どこにいる……」
「ゼオライマーを出撃させろと、いうんですかッ」
彩峰は御剣の問いかけを聞いて、本音を漏らした。
いや、口に出せない感想もまだあるのだ。
「まぁ、聞いてくれ。
先ごろ、米国のNASAで月面から異様な飛翔物の発射を確認した。
それに対応するために、近々米軍の降下部隊を送ることが決まった」
「じゃあ、どうやって安全な場所に送り込むのですか。
10年前のサクロボスコクレーターでの、接触事件以来……
ただ、月面がどうなっているかわからないのですよ……」
その先を言うか迷った。
出過ぎたことをしゃべって、彼の逆鱗に触れたら、大変だ。
「簡単な事だよ。
降下作戦が始まるまでに候補に挙がっている月面のハイヴ全てを破壊すればいいだけだよ」
「エッ」
「それが帝国に対する米国のやり方なのだよ」
そこで、御剣は口をつぐんでしまう。
彩峰は受話器を握りながら、相手の反応を待った。
御剣は口を開くなり、受話器の向こうに問わせた。
「木原はどこにおる」
「いずれも、まだ確かなるところは」
彩峰の手元にも、まだ的確な情報はないような返答だった。
「では……木原を探し出しまいれ」
御剣は、彩峰にいいつけ、それも、
「ニューヨーク時間の月曜午前8時までに」
と、時を限った。
「了解しました」
受話器を置くと、彩峰は、窓の向こうの、夕闇に染まり始めたボンの街並みを見つめた。
(『赦せ、木原。これが薄く汚れた政治の世界の現実なのだ……』)
権力者の手の上で踊らされる一人の青年の身の上を、人知れず涙していた。
同じころ、CIA長官といえば。
マンハッタン島中心部にあるセントラルパークの近隣に、こじんまりとした建物があった。
その建物こそが、米国の内政外交に影響を与える奥の院、外交問題評議会本部である。
最上階の会長室では、数人の男たちが集まり、今密議が凝らされていた。
「私にCIA長官をやめろというのですか」
CIA長官の問いを受けて、上座にいる男が顔を上げる。
「このあたりで考えてみては、どうですかと……。
ご相談しているのです」
「今のは退職勧告と同じではないか、私にはそう聞こえますが!」
別な男が、口つきの紙巻煙草をもてあそびながら、長官をにらむ。
「はっきり言おう。我々はゼオライマーの活躍を支援する君を……
いや、今後もそんな主張をする君を今後も支持するわけにはいかんのだよ」
「そこまで聞いて分かったぞ」
と、たまりかねたように、長官は言った。
「副大統領をそそのかし、G元素獲得工作を進めているのは君たちなのだね」
「長官、我々がゼオライマーを、木原マサキを支援してきたのは……
BETAの進行によって、経済活動が立ち行かなくなる懸念が増大してきたことへの不安だったのです」
「だが、状況は大きく変わった。地球上にあったハイヴは消滅した。
脅威であったソ連はBETA戦争で国力が疲弊し、コメコン諸国も西側との連携を模索し始めている」
「そんな事で、本質は変わってはおりません。
BETAはまだ月と火星におるのですよ!」
はなはだしく不快な顔をした男達は、興奮する長官を責め立てる様に、一斉に口を開く。
「かもしれません。
でも国際政治とは、常に変化するものです、生き物ですよ。
少しでも現実に即したものを選ばなければ、我が合衆国は、時代に取り残されてしまいます」
「我らにとって、黄色い猿の科学者、そして彼の作った超マシン……百害あって一利なしだ」
長官は瞋恚もむき出しに、机から立ち上がった。
無敵の存在であるゼオライマーが失われれば……
BETA戦争はまた、かつてのように凄惨な結末を迎える。
その様な懸念を抱いて、彼らに反撃したのだ。
「皆まで言うのか……。
宜しい!ならば私も言わせていただこう。私は辞めぬぞ」
赫怒のあまり、机を何度もたたく。
「諜報機関の長として、守らねばならぬのは、君たちだけではない。
合衆国を支える、2億の民を思えばこそ、職責を全うせねばならん。
その様に、決意を新たにした」
しかし、誰もが一瞬、その面を研いだだけで、しんとしていた。
来るべきものが来たという悽愴な気以外、何もない。
「残念ですな……
中間選挙の結果が開票される前に、辞任していただきたかったのですが……」
「明日も早朝からの閣議があるので、失礼させてもらうぞ」
長官は、きつい口調でそのように告げると、背を向けて逃げるようにして、その部屋を後にした。
彼にできることは、ドアを勢い良く閉める事だけだった。
CIA長官が去った後、会議室の中は冷たい笑いに包まれていた。
上座の男は、パーラメントの箱から、タバコを抜き出すと、紫煙を燻らせ、夜景を覗いた。
ビルの最上階からは、壮大な絵画の様な、精緻で眩い夜景が広がっている。
他の男たちは、肩を揺すって笑い、そして、二言三言囁き合っていた。
「あのバカ者は、別といたしまして……」
「木原という黄色猿はどうしますか」
「しかし、まったく不可能とされたハイヴ攻略を単独で成し遂げるとはな……」
「パレオロゴス作戦の参加……
活躍させない為の、無理難題であったのにな。
おかげで日本政府まで、奴を重視し始める結果になった」
「しかしあれだけの行動ができる男を失うのは、惜しいがね……」
上座の男は、初めて強い調子で答えた。
「自分で行動のできる猿などいらぬ。
主人の言う事を聞く有能な猿が欲しいのだよ」
「なるほど」
「で、どういう筋書きで……」
「心配はありません。
月面偵察にかこつけて、機械もろとも、宇宙の海の藻屑にするつもりです」
上座の男は、つい微笑を持った。
「黄色い猿の見る夢など……、この世界にはなかったと言う事か」
地上のハイヴ攻略はなった、この上は危険なゼオライマーと木原マサキは消えてもらう。
彼の腹はできたのである。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
危険の予兆 その3
前書き
シュタージやSEDに協力した牧師がいたのは事実です。
今も少なからぬ人間が、ドイツ国内で悠々自適に暮らしています。
さて、マサキといえば。
茶もそこそこに、別荘近辺を散策していた。
とは言っても、後ろから2名の護衛がついて、詳しく案内してくれた。
マサキは、この場所を全く知らなかったし、東ドイツの公式の地図には載っていなかった。
CIAの発行したベルリン周辺の地図にあるかどうかは、不明の場所だった。
紫煙を燻らせながら、遊歩道を散策していると二重の壁で区切られていることに感づいた。
高さはおよそ2メートル、総延長5キロに及ぶ、深緑色に染められた壁がぐるりと囲んでいる。
市街地にまで買い物に行くのは大変であろう。
そう思って、護衛の一人を呼んで訊ねてみた。
「ガソリンは近くの村落まで入れに行くのか」
そっと、懐中より、アメリカ煙草の「マルボーロ」を差し出す。
西側との限られた通商が許可された東ドイツでは、物不足のソ連ほどではないにしても、外国たばこは商材として有効だった。
一応、インターショップという外貨建ての店で東ドイツ国民が購入できたが、高嶺の花だった。
一方、西から入る人間には免税された状態で販売されていたので、ほぼ原価で買えるのが魅力的だった。
護衛は、マサキの差し出したタバコに火を付けながら、
「外壁と内壁の間に、ガソリンスタンドと洗車場、従業員のためのショッピングセンターがあります」
「オレンジなど食いたくなったときはどうする」
オレンジやグレープフルーツといった柑橘類は東ドイツでは高級食材であった。
一応、共産圏のキューバから、バナナやオレンジが入ってきてはいるも、粗悪品であった。
バナナは腐敗を避けるため、青いまま輸送されて、店頭で黄色く熟成させられた。
逆にオレンジは、収穫から時間がたち、瑞々しさを失ったものが多かった。
散々に質してみたが、男は口を閉じ、どうかすると、その口辺に、不敵な薄ら笑いをみせるだけだった。
「そうか」
マサキは、しばらく彼と根くらべのように黙りあった。
そして、今度はズバッと言った。
「ソ連では、ブレジネフが作った幹部用の住宅地がクンツェヴォにあったそうだ。
たしか、そこはもともとスターリンが使う別荘地という。
幹部専用の店があったとも」
「…………」
「顔にも出たぞ、口を閉じている意味はあるまい。つまらん痩せ意地はよせ」
「どうしてわかった」
「どうして知っていたか。それはベアトリクスの護衛、デュルクにでも聞くんだな」
「デュルク?」
こうして、地面の枯れ草を踏んでいるだけで、ここは特別な場所と実感する。
マサキは、余裕のある雰囲気を残して、その場を辞した。
ソ連に限らず、東欧諸国、支那、北鮮、越南、キューバ等々……
社会主義国の党専従者、幹部並びにその子弟は、特権を享受できた。
家族でなくても、党の重役につながる人間は、優先された。
自家用車の所有が厳しく制限されていたソ連では、人口の54人に一人が、一台の車を持っていたのに対して、党幹部たちは個人用の自家用車を好きなだけ買えた。
1970年代の指導者であるブレジネフは、ジルやボルガといったソ連製の高級車の他に、複数の外車を所有した。
東ドイツのホーネッカーもその顰に倣って、めぼしい高級車を買いあさった。
特にお気に入りだったのは、フランスのシトロエンのCXという高級セダンであった。
幹部用のスーパーや特別な牧場や専用農場も、あった。
東ドイツのそれに関して言えば、西ドイツの商業スーパーとそん色のないものが並び、新鮮な柑橘類と野菜が年中手に入った。
だが、それでも西ドイツの中流家庭、日米の一般家庭の水準であった。
社会主義の優等生として知られている東ドイツは、対外的に消費の平等を打ち出していた。
住民の不平不満を抑えるために、ホーネッカーはそのことに細心の注意を払うほどであった。
1970年には、リーバイスのジンーズを1万2千本輸入して、国営商店に並べたりもした。
しかし、その利益の恩恵を受ける人々は、わずかであった。
社会的立場によって、耐久消費財や一般雑貨、食料品など、得られる機会が限られていた。
マサキは、前の世界でソ連崩壊を、社会主義の失敗を見てきた男である。
たかがオレンジのこととはいえ、食料の供給システムは、その国家の真の豊かさを測る尺度になる。
そう思って訊ねたのだ。
日が暮れて間もなく。
外出先から、アイリスディーナが帰ってきた。
「ただいま、もどりました」
勤務服姿の彼女が、玄関をくぐると、声がする。
屋敷の居間からであった。
なにやら、ベアトリクスと誰かが語り合っている最中であった。
そっと、覗いてみると、意外な人物であることに、アイリスは驚愕した。
ベアトリクスと今で話していたのは黒髪の東洋人。
木原マサキだった。
軽食の後、居間で二人して、トランプに興じていたのだ。
「やられたわね。ま、まったく……あんた、やるじゃない」
「七ならべがこんなに強いとはなあ……。
9回連続で負け通しだぜ」
「負けたから、私の約束を聞いてよ」
マサキはトランプの札を手で、もてあそびながらささやいた。
「なあ……最初の一回は俺の勝ちだ。
勝った人間の言う事を聞くのなら……
勿論、俺の言う事も聞いてくれるんだろう」
ベアトリクスの顔が、パアと赤らんでしまう。
「それは……人妻に掛ける言葉なの。酷いわ」
ベアトリクスは、すねて少し怒った。
そのさまを見たマサキは、会心の笑みを漏らした。
「だから、断っておいたじゃないか。本当に面白い女だよ」
唖然としているアイリスディーナに向かって、英語訛りのドイツ語が帰ってきた。
「邪魔してるぜ」
ベアトリクスの脇に座るマサキは、立ち上がると、
「俺についてくる意思はあるか。
もしお前がその気があるのなら……
少なくとも、今よりは自由で刺激的な暮らしをさせてやるつもりだ」
用ありげな使用人の一人が、何気なく、ひょいとドアを開けて入りかけた。
だが、使用人でさえ、顔を赤くして、あわてて引き下がってしまった。
「そのままでいいから、聞いてくれ。
俺はゼオライマーのパイロットだ。
今のままでいれば、俺とお前との関係はどうあがいても縮まるまい。
一生、俺の事を名前で呼ぶ関係になれず、先生とか、博士と呼ぶ関係に終わる」
マサキも、また若い一人の男だった。
その性も逞しく、悶々とアイリスディーナで思い悩んでいたほどである。
体の奥底から這い上がってくる欲望に触発され、理性が飛ばないように抑えるだけで精一杯であった。
前世では、絶対に手に入れられないような美少女に心を握られているのだから、猶更である。
「アイリスディーナ。兵隊の道を捨てる覚悟はあるか」
帝国陸軍に籍を置いている以上、外国人との結婚は、いろいろな影響を与えないわけがない。
こんな真似はいけないと思いながらも、自分の心には抗うことが出来なかった。
ゲストハウスの一室に設けられた簡素な祭壇。
黒の長いガウンを着た男が、
「これより結婚の手続きを進める」と、宣言した。
そうすると、タキシード姿の議長が、滔々と東ドイツの民法典に関して説明を始めた。
立会人を務めるシュトラハヴィッツ中将は、大社交服と呼ばれる室内用の礼装だった。
金色の飾緒と肩章のついた象牙色の両前合わせのジャケット。
四つの大きなメダルを胸から下げ、ヤタガン型の短剣を履き、赤い側線の入ったズボンに黒革靴。
同じ格好をしたハイム少将と共に、議長の脇に起立していた。
「木原マサキさん、貴方はアイリスディーナ・ベルンハルトを妻として永遠に愛することを誓うかね」
「……」
どうしてこんなことになってしまったのか。
ついさっきまでは、事実婚でいいと言っていたはずなのに……
キツネにつままれた気分のまま、マサキは渋い顔をするしかなかった。
「なあ、坊主なんて呼んで大丈夫か。アイリスの今後をどうする。
東ドイツでは、公務員がキリスト教を信奉すると差別されると聞いたが……」
議長が、不敵の笑みを浮かべながら、
「木原先生、このお坊さんは、私の古い友人なのだよ」
何のはばかりも屈託も、彼にはない。
議長は、マサキのやや小麦色に日焼けした顔をのぞきこんで、
「それに、わが民主共和国では一応信仰の自由は認められています」
と、告げるばかりだった。
確かに、東ドイツでは教会の活動は限定的に認められていた。
そして、少なからぬ牧師や神父の中から、SEDやシュタージに協力する者たちもいた。
彼らは、俗に言うIM、非公式協力者というシュタージの非常勤公務員になった者も多かった。
故にマサキの警戒心は解けなかった。
ここで簡単にドイツの宗教を振り返ってみたい。
ドイツは17世紀に宗教改革でプロテスタントが誕生した国家と言う事もあって、プロテスタントの影響が強かった。
だが、南部のバイエルン地方に行けば、中世以来のカトリックの影響も残っていた。
それゆえに、結婚式というのは教会ではなく、戸籍役場で上げるのが一般的だった。
物語の時間軸である1970年代ではなく、40年後の2010年代のドイツ連邦統計庁の調査によれば。
カトリック29.9パーセント、プロテスタント28.9パーセント。回教2.8パーセントである。
教会税10パーセントの影響もあろう。
今は無宗教も増えているという。
我々日本人になじみの薄い人前式に関して、述べよう。
人前式とは文字通り、神仏の代わりに、人を立てて婚姻の宣誓を行う儀式である。
西欧では、近代、フランス革命後になってから一般化した婚姻方法である。
東ドイツでは教会は認められていた。
だが、東ドイツ当局は、教会を黙認する代わりに、熱心な信者の社会的活動を制限した。
国家人民軍の将校や党幹部に進むには、日曜礼拝や懺悔に行くことすら、よくは思われなかった。
議長の声が、室内に響く。
「フフフ……。
気持ちはわかるが、結婚しないとこの国から出す事は出来ない。
二人で、手を取り合って、自由にこの国から出たいとは思わないかね」
確かに、この男の言う通りだった。
東ドイツ国民への自由な出国は、認められていなかった。
事の始まりは、1961年の壁建設で、BETA戦争になっても変わらない事であった。
アイリスを、合法的に出国させるには、結婚しかなかったのだ。
無論、非公式に連れ去る方法は、いくらでも出来るし、ゼオライマーの恫喝でどうにかなる。
だが、マサキにそんな考えがなかったというのが、事実だった。
それに連れ去ったとしても、日本政府と東ドイツの関係はこじれることになる。
今までの努力が水泡に帰すという結果を、受け入れがたいものであった。
「木原さんを自由にしてください。何でもしますから」
「待て、アイリス。余計なことを言うな!」
「だから、結婚しなさいと言ってるじゃないか」
「もっとも、この結婚は私が書類にハンコを押すまで、法律的に無効だがね……
私たちの前で誓ってほしいのだよ」
「そしてこの指輪をはめてほしいのだ」
「では誓いの言葉を……」
後書き
ネット界隈で流行りの「……しないと出れぬ部屋」の話にしました
ご意見、ご感想、お待ちしております。
危険の予兆 その4
前書き
読者意見リクエスト回
披露宴は、こじんまりとして、ささやかな集まりだった。
呼ばれたのは、ヴァントリッツの住人たちと、議長の親しい間柄の人間。
多くが政府高官と言う事もあって、3時間ほどと短めだったのも異例だった。
ドイツの結婚式では、基本的に披露宴は深夜まで行うのが当たり前だった。
老若男女問わず、明け方まで踊ったり、酒盛りをするのが一般的だった。
まだ、ごたごたとしたざわめきの中で、マサキの声がはっきりと、皆の耳朶を打った。
「なあ、議長さんよ。
どうして俺のような凡夫に取り入った。訳を聞かせてほしい」
マサキの質問を受けて、部屋の中に、ちょっとしたざわめきが起きた。
議長が不敵の笑みを浮かべて、マサキを揶揄う。
「博士は、ずいぶんと意地の悪い質問をなされる」
マサキは不審な顔をした。東ドイツはまだ彼の支配下でない。
この国の政治家との交友や通商には、彼も尠なからぬ神経をはたらかせていた。
「お前たちが、俺に近づいた理由は、大体見当がついている。
この東ドイツが、国際社会の荒波の中で生き残るのには、道は非常に少ない。
例えば、シベリア移転でソ連が減らした武器生産を、東ドイツが担い、アフリカや中近東に安く売りさばく……
ユルゲンは、その様に考えたそうだな」
ちらりとベアトリクスの方を向いて、彼女の瞳をながめた。
「あるいは、力による統制でBETAに対抗する究極の戦闘国家の創造……。
なんて馬鹿げた絵空事を、考えているわけではあるまい。
圧倒的な物量を誇るBETAには、戦術機の突撃ぐらいで時間稼ぎにもならない」
ベアトリクスは、先ほどまでの高圧的な態度に比べて、どこか落ち着きのないように感ぜられる。
しきりに手を組み替え、机を触れたりして、視線を泳がせていた。
わずかに頬を赤らめているほどであった。
マサキは、ベアトリクスの名さえ出さなかったが、聴衆は誰に対して言っているかわかっているようだった。
「たしかに、支配の原理として、力は有効だ。
富や名声、知性など、この世のすべては移ろいやすいものだ……
だが、それは人間の心も同じではないか。俺自身がそれを最も実感している」
そういうと、マサキは、はるか遠い過去への追憶に旅立った。
人の想像もつかない所に、いつも人の表裏はひそんでいる。
思えば、ゼオライマーを建造している時から、鉄甲龍はマサキを忌むようになった。
うるさくなった。なければと、いとう邪魔物になった。
自分の力を凌駕する存在と、敵視するようになった。
けれど、それを表面化して、マサキと争うほどの勇気もない。
彼等の智謀は、極めて陰性であった。
そのことを察知したマサキは、密かに幾つの布石を打っておいた。
まず、八卦ロボの爆破と図面の焼却。
簡単に復元できぬよう重要な部分に高性能爆薬を仕掛け、粉々に砕いた。
次に、鉄甲龍首領とパイロット、名だたる幹部の暗殺。
マサキ自ら、イングラムM10機関銃を使って、手を下したのだ。
最後に、ゼオライマーに施された幾重の防御機構。
ゼオライマーの生体認証には、マサキ自身のクローン受精卵を登録した。
一番の秘密である次元連結システムも同様であった。
主要部品を人間の姿に偽装させ、氷室美久というアンドロイドを開発した。
前の世界で、日ソ交渉の保険としてゼオライマーを欲した日本政府の陰謀によって、凶弾に倒れたことをまじまじと思い返していた。
クローン受精卵や自分の遺伝子を何らかの形で伝えるものを残していないことを、今更ながら思い返していた。
この世界に、俺の敵はいないと驕ってはいなかったか。
たしかに、秋津マサトの人格さえは消え去ったが、それだけに満足していないか。
この世に冥府を築き、世界を征服するという野望も道半ばだ……
見目麗しい女性に心奪われて、己が積年の夢をあきらめるとはどうかしている。
クローン受精卵を用意できぬのなら、生身の女を抱いて、孕ませれば、済むこと。
そんなことも気が付かぬとは、俺もだいぶ呆けてしまったものよ……
マサキは、何喰わぬ体をつくろって、改めてアイリスディーナを振り返った。
彼女の鼓動は、息が詰まるほどに、激しく跳ね上がる。
突然の事態に困惑しながらも、ドキドキと心を震わせていた。
「でも、ソ連とは言えども、何千万人の思想を操作するのは……さすがに無理でしょう」
一生懸命に背筋を伸ばして話し出すきっかけを作ろうとするアイリスディーナ。
どうしても口ごもってしまう様子の彼女は、思わず抱きしめたくなるほど初々しかった。
アイリスディーナは、本当に純粋で汚れも知らない表情で、それに似合わず大胆な質問をした。ズバッと切り込んでくることに、マサキ自身が、かえって困惑をした。
「ただ、出来なくもないことはない……。
特定の薬剤による集団洗脳。奴らはそれを実用段階まで達成した」
余りの衝撃に、未知の狂気に、アイリスディーナは身をすくませた。
「薬物といっても、既存の麻薬や向精神薬ではない。
阿芙蓉、ヘロインでは依存性が強すぎるし、人体への悪影響も大きい。
そこで奴らが作ったのは、指向性蛋白と呼ばれる特殊な酵素さ」
ベアトリクスは、マサキの言葉に驚いて、キッと目を吊り上げて言う。
「指向性蛋白?」
ユルゲンやヤウクからの話を聞いていたベアトリクスには、思い当たる節があった。
以前からソ連の兵士の態度が、BETAへの恐怖を喪失していて、何かおかしいと直感していたのだ。
洗脳教育だけではないことは、その虚ろな目つきからわかっていた。
軍人の、いや、女の直感だろう。
何か麻薬をやっている。
そういう目で見れば、ソ連赤軍兵士の虚無感に、そのことがありありとうかがえた。
しかし、情報不足の軍学校での生活の中で、中々真相はつかめないでいた。
「ソ連で実用化された洗脳用のたんぱく質さ」
ベアトリクスの勢いに気圧されたマサキは、しぶしぶ答えた。
「これの恐ろしいところは、無色透明、無味無臭。
ヘロインより簡単に合成出来て、検査試薬に反応しない」
考えるだにおぞましい光景だった。
ベアトリクスは込み上げる怒りをもてあまして、コップをもてあそび続けるしかなかった。
「だから、ソ連では水源地にこれを散布する計画を持っていた」
今一つ話を信じられない様子のザビーネが、
「なぜ、そんなものを用意したのですか」
と問いただしてくると、マサキは不気味な笑みを浮かべて、
「ソ連指導部は、そうまでせねば生き残れない。
奴らが、そうと思ったからと、俺は思っている」
アーベルが、まるでとがめるような声音でいった。
「待ちたまえ、木原君。君の説明は難しすぎて、意味不明すぎる。
説明とは、女子供でも分かるようにしなくてはだめだ」
困惑顔をするザビーネやアイリスディーナの方を向くと、
「いいかい。
BETAが侵攻してくる前のソ連にも、コーヒー、オレンジやバナナがあり、娯楽もあった。
車や被服にしても、東ドイツに少し劣る、戦前のそれとさほど変わらない生活をしていた訳だ。
それがBETAの侵攻で、代用食材しか手に入らなくなり、制限されていた国内移動がさらに制限された。
平時の記憶を保ったままでは、戦時体制に耐えられない。
そういうことで、政治局はある決定をした。
それが、指向性蛋白による記憶操作という政策だよ」
それは、まんざらでたらめという感じでもなさそうな話具合だった。
アーベルの事なので、恐らくソ連経由での話であろう。
だが、そこは余程割引いて聞く必要がある。
マサキは感じながら、耳を傾けた。
「指向性蛋白は、偶然発見された代謝低下酵素によるものだ」
「代謝低下酵素?」
「ああ。国連の秘密計画であるオルタネイティヴ2。
1968年に開始され、BETAの地球降下まで実施された計画で、BETAの捕獲・解剖によって調査分析を行うものだ。
BETAが、炭素生命体であることはわかったが……」
「その際に、代謝低下酵素を……」
「そうだ。
ソ連科学アカデミーではその基礎代謝を低下させる酵素に早くから注目し、特殊な蛋白質の抽出に成功した」
「それを使って、死を恐れぬ兵士を作っていたと……」
「ああそうだ。
ソ連では、生後間もない乳幼児を軍の保育施設で養育することを決定した政治局決定が出されている」
マサキは、アーベルの話に、反射的に答えていた。
今まで見せなかった狼狽えの色を、いよいよ明らかにして。
「どういうことだ。
兵士としての教育なら、10代前半からでも間に合うはずだ……。
ソ連には、党直属のピオネールという少数精鋭の組織があるだろう」
愕として、疑いと、半ば信じたくないような感情を声にして放ったのは、マサキのほうであった。
「私もソ連にいた時、ピオネールにいたからわかるが、入隊基準は厳格だ。
参加資格は、健康で、優秀で、品行方正な人物と決まっている」
アーベルは、氷のように冷たく答えた。
ソ連はレーニン時代の失敗を見直さないのか……。
家族制度の否定は、やがて国家体制の崩壊につながる。
それに、乳幼児期の生活は今後の人格形成に大きな影響を与える……
アイリスディーナは、容易にしずまらない胸の鼓動を、なお語気のふるえにみせながら、
「つまり、ソ連は洗脳教育と指向性蛋白によって、死を恐れない無敵の兵士を作ると……」
アーベルの弁解は、中々熱心だった。
マサキの言葉から、彼を怖れ、警戒している様子だった。
「私も人の親だ。この話を初めて聞いたときは……言葉すら思い浮かばなかった」
マサキは、抑え難きいきどおりもこめて、おもわずつぶやいた。
「しかし、妙な話だ。
ソ連では成年男子が大分減少したというのに、少年兵まで繰り出したら、人口形態がいびつになるぞ。
女ばかり残って、男が少ないのでは人口減少もおさまるまいよ」
まだ納得できず言いつのろうとするマサキに、アーベルは手を振って抑えた。
「実は……ソ連では人工子宮の実用段階に入ったと聞く。
優れた体格や容姿などを持つ人物の遺伝子を選別して、人工授精によって、培養する計画があるそうだ」
同席した客たちも首をあげて、そこへ瞳をあつめた。
驚くべきものを、そこに見たような眼いろである。
凝視したまま、しばしの間、皆心をうつろにしていた。
「オルタネイティヴ3計画の、人工ESP発現体の技術を応用して……。
何者かによって、ノボシビルスクのESP培養施設が破壊された。
だが……仕方のなかった事かもしれない」
マサキは、木像の様な顔で、突っ立っていた。
アーベルの言ったことが耳に入ったのか、入らなかったのか。
虚無を思わせたマサキの目は、その瞬間、惨とした悲痛な色に満たされて、
「人を人とも思わぬ研究など、滅びて当然だ」
と、呻く様に言った。
「同志将軍、それにおいでになられましたか。一大事です」
と、ハイム将軍の副官の、エドゥアルト・グラーフ少佐が、顔のいろを変えて、何事か告げに来た。
ハイムは叱って、
「同志グラーフ少佐、貴官は少し慎みをもて。
一大事などということは、佐官の職責にあるものが滅多に口にすべきではない」
と、いった。
若い副官に教えるばかりでなく、ハイム将軍は、議長のおどろきをなだめるためにもいわざるを得なかった。
なぜならば日頃の毅然とした姿にも似合わず、議長がひどく顔色を変えたからである。
ところが、グラーフ少佐は、
「いい加減なことを申しているわけではありません。真に一大事にございます」
と、はや廊下を駈けて来て、テーブルのそばに平伏し、
「ただ今、軍情報へ、プラハの米大使館からの急電があり、月面ハイヴから飛翔物射出との報を、受け賜わりました」
と、一息にいった。
その場に、衝撃が走った。
首相はじめ、みな凍り付いた表情である。
室中、氷のようにしんとなったところで、議長は、容易にしずまらない胸の鼓動を、なお語気のふるえにみせながら、
「電報は。電報は」
と、グラーフ少佐が携えて来たはずの、プラハの米大使館からの急電の提出を求めた。
マサキはすでにある予感をもっていたのか、唇を噛んで、グラーフの姿を見下ろしているのみだった。
その後、披露宴はそのまま臨時閣議の場になった。
マサキは明後日までいるつもりであったが、出立は早暁。
シュトラハヴィッツ少将とともに、ベルリン市内のシェーネフェルト空港に向かう事と決まった
閣議を終えた後、外に出たマサキは、妊娠しているベアトリクスの前で、我慢していたタバコを取り出した。
「怖れていたことが、ついに実現したか」
とひとり呟き、紫煙を燻らせて、思慮にふけった。
せめて今日一日だけでも、戦争のつかれ、旅の気疲れなど、すべてを放りだして、気ままに籠っていたい。
そう思っていたが、それも周囲がゆるしてくれない。
「ここにいたんだ」
ベアトリクスの声は、その闇夜がもっている寂寞を鐘のように破るものだった。
澄むような声の明るさに対しては、マサキもどうしても快活にせずにいられなかった。
「どうした」
ベアトリクスは、薄いウール製のストールを羽織り、足首までの長いネグリジェ姿。
そんな薄着の姿に、マサキの方がびっくりするほどであった。
「こんな冬の夜更けに、薄着で身重の女が出歩くのは、体を冷やすだけだぞ」
マサキとしては、最大な表現といっていい。努めて磊落であろうとしたのだ。
けれどすこし話している間に、そういう努力はすぐ霧消していた。
幾多の困難を乗り越えてくると、おのずから重厚が備わって来る。
まして戦場の中で心胆を磨き、逆境から立身の過程に飽くまで教養を積んで来たほどな人物というものには、云い知れぬ奥行がある、床ゆかしいにおいがある。
(『ユルゲンが、注目するだけの男だけあるわ』)
ベアトリクスの眼で見ても、しみじみ思う。
議長がその政治生命を傾けて打ちこんだのも無理はないと思う。
帝国陸軍の下士官にあって、戦術機を操縦する衛士として見ても、すこしも不足のない人がらと頷ける。
「何が可笑しい」
ふと、話のとぎれに、マサキからこう訊かれて、ベアトリクスは初めて、しげしげと彼に見入っていた自分の恍惚に気がついた。
「アハハハ。いや別に」
と、卑屈なく声を放って、
「せめて、アイリスと話しぐらいしてやって……」
マサキは、うらやましげにすら、相手を見ていた。
何不足ない扱いを自覚しながら、気持ちだけはもう10歳、20歳も若くあって欲しい。
マサキは、そう言いたげな顔いろである。
自分の秘めたる思いを言い出された事から、客としての居心地は、たいへん気楽になって来た。
マサキは、何でも言いたい事の言えるベアトリクスにも、また羨ましさを感じないでいられなかった。
哀願するように言うベアトリクスに、マサキはすまして答えた。
それは、まるで壮年の男が幼児に話しかける様な、やさしい声だった。
「俺は、その気のない奴を抱く気はない。
心を通っていない状態で、欲望の赴くままに、求めたりはしない。
この一件が終わり、そして、アイリスがただの女になった時、本当の男女の仲になるつもりだ」
そう言いながら、マサキは新しい煙草を取り出した。
ベアトリクスの姿など目に入らないかのように、紫煙をゆっくり燻らせる。
「今は、闇夜に潜む獣と戦う為に、剣の様に感覚を研ぎ澄まさせねばならない時だ。
愛欲を充足させれば、そこに油断が生まれる……
アイリスが欲しいと思えばこそ、いつも彼女に心が向いている」
まるで、心を覗かれている!
唐突なマサキの告白に、ベアトリクスの背筋がゾクと震え上がった。
「アイリスに気を引かれて、注意が散漫になったらどうするのよ」
悲しげな眼でマサキを覗きあげて言えば、胸が締め付けられる。
「アイリスが身を任せたら、そうなるかもしれない。
だが、欲しいだけで物にはしていない。
だから、気を取られることはない」
大きくうなづくマサキを見るなり、ベアトリクスは、くるりと向きを変えて、
「色んな体験をしてきたんでしょうけど、ずいぶん気障な事を言うのね……
ネンネのアイリスが首ったけになるのはわかる気がするわ」
立ち去ろうとするベアトリクスの背中に、マサキは着ていたダウンジャケットをかけた。
「今日は特段冷える。もう少し自分の身を大事にするんだな」
反射的に振り返りそうになるのを、ベアトリクスは抑えた。
自分でどうにかしていいかわからないまま、素知らぬ振りをしてマサキが通り過ぎていくのを待つばかりであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
危険の予兆 その5
前書き
西ドイツサミット編も大詰めになります。
あと数回で終える予定……
その頃、ウラジオストック空軍基地では。
ソ連も、米国に後れを取ったものの、月面からの飛翔物の情報をとらえていた。
並みいる閣僚たちを前にして、ソ連戦略ロケット軍司令官は、
「考えうるあらゆる角度からの分析の結果、例の飛翔物は着陸ユニットの一部。
アサバスカでの例からしますと、着陸ユニットには、大量のG元素が埋蔵されていると思われます」
宇宙開発のための部署は、ソ連では軍の一部だった。
軍事組織から分離させ、NASAを作った米国と違い、資金も人員も軍に依存したものだった。
その為、計画や運営は、ICBMを取り扱う戦略ロケット軍がほぼ管理したのだ。
議長は、戦略ロケット軍司令官の言葉を聞いて、感嘆の声を上げる。
「入手できれば、すごい利用価値があるな」
「では、同志議長。早速、先制攻撃として飛翔物に……」
「そうだ。
米軍に察知されるよりも早く、迎撃準備に取り掛かり給え」
「例の不確定要素さえ、介入してこなければな……」
「不確定要素でありますか」
「天のゼオライマーだ……
我らの計画が成功するまで、木原を宇宙にあげさせるな。
何としてもだ」
一方、シベリアにあるスヴォボードヌイ基地では。
駐留する戦略ロケット軍の部隊が、ロケットの発射準備に取り掛かっていた。
「最終点検急げ!」
粉のような雪が降る中、ロケットの移動発射台に集まる作業員たち。
そこに向かって、メガホンで将校が呼びかける。
「作業員は速やかに退避せよ。繰り返す。作業員は速やかに退避せよ」
「ロケット発射準備!」
発射基地に、滔々とサイレンが響き渡たる。
「射場の周辺異常なし」
まもなく、放送でカウントが開始された。
「ロケット発射まで、あと410,9、8、7、6……」
指令所より、オペレーターや操作員はロケットの様子を見守った。
「液体窒素準備完了」
カウントの合間に、ロケット点火の合図が響き渡る。
「ロケットモーター点火、メインシステム準備完了」
ロケットからうっすらっと白い煙が上がり始める。
「5、4、3、2、1……」
ロケットブースターが点火され、上段マストにあるケーブルが切断された。
「発射!」
4本の液体燃料補助ロケットを備えた大型ロケットは、上空に向けて、飛び上がっていく。
空に白い線を書くように煙を上げ、たちまちのうちに大気圏に消えていった。
場所は変わって、ニューヨーク。
マンハッタン島にある、コロンビア大学ロシア研究所。
ソ連のミサイル発射を探知した米軍は、情報分析に乗り出していた。
大統領補佐官の下に、その情報分析がゆだねられていた。
同教授は、米国におけるソ連研究の第一人者であり、コロンビア大学ロシア研究所の教授でもあった。
教授は研究室に入るなり、応接用の椅子に腰掛ける二人の青年に声をかけた。
「涼宮君、ベルンハルト君、待たせたな」
「いいえ……」
大統領補佐官の助手として涼宮宗一郎とユルゲン・ベルンハルトが呼ばれていた。
この事は、日本にとって、マサキにとって幸運だった。
「大詰めに来て、余計なことに頭を使わされる」
「ソ連がロケットの準備態勢に入っていることはわかっているが……
まだ、どの程度の規模の攻撃を行うか、判ってはおらん」
「判明しているのは、大型ロケットを打ち上げ地点だけだ」
「場所は、スヴォボードヌイ」
このとき、ユルゲンの眉に、一瞬の驚きがサッとかすめた。
涼宮の手から地図を奪い取ると、
「涼宮さん、もう一度名前を言ってくれ」
「スヴォボードヌイだが……」
ユルゲンの想いは、確信に変わった。
「スヴォボードヌイ……やはりか。
俺は、前にこの基地に関して、聞いたことがある」
スヴォボードヌイとは、中ソ国境を流れるアムール川支流、ゼヤ川中流の右岸にある都市。
アムール州州都のブラゴヴェシチェンスクからは北へ1670キロの場所にある。
1930年代には第二シベリア鉄道の建設の為、大規模な収容所群がこの地に設けられた。
同市の50km北方には、閉鎖都市ウグレゴルスクがあった。
この町は1961年にソ連軍のミサイル発射のために作られた町。
1969年以降、「スヴォボードヌイ18」という暗号名で呼ばれた。
町の中心から5キロの場所にシベリア鉄道の支駅、レデャーナヤ駅があり、軍事物資の搬入も可能であった。
「俺がまだ駆け出しの軍人で、モスクワに留学中の話だ。
ソ連のロケット学者から、この場所の話を直に聞いた」
涼宮は口元をゆがめ、驚愕の表情でユルゲンを見やった。
「ロケット学者!」
「クビンカ基地で、歓迎パーティーが開かれた時だ。
ソ連の人工衛星コスモス1号の打ち上げが話題になったのが、記憶に残っている」
そういって冷徹な一瞥を、教授と涼宮にくれる。
「その時は確か、シベリアの原野に、秘密都市が建設されていたという話を耳にした。
それも、日本とも関係の深い極東、シベリアにあるミサイル基地だった」
教授の鋭い目が、ユルゲンの端正な顔立ちに、くぎ付けになった。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」との諺通り、しばらくぶり会うユルゲンは、以前に比べて頼もしく感ぜられた。
「秘密都市……」
感情を押し殺した声で告げると、脇にいる涼宮の方に向き直った。
「それが……今は宇宙ロケットの発射基地か」
涼宮は無表情で答えた。
三名の顔は、同じものだった。
不安に塗りつぶされたのである。
いかに勇猛な者とはいえども、こうした非常時に立つと、日頃の顔色もない。
「とにかく、米国一国では止むおえん場所だ」
といううめきが、教授の唇から出たとき、二人はもう一度、胸を衝つかれた。
だが、教授は、その太い眉をもって、うろたえるな、と叱るように二人を睨んだ。
「涼宮君」
「はい」
「君は、日本政府筋にこのことを伝えたまえ」
涼宮は、これ以上の情報収集が出来ないと考え、一足先に研究室を後にした。
東ドイツ大使にあてた書状を、したためるしかあるまい。
そう考えた教授は、机に座ると、早や便覧に筆を走らせ始めた。
「ベルンハルト君、本当にいいんだな」
教授の顔が途端に鋭くなる。
精悍な顔つきをしている為に、かなりの迫力が漂った。
「これは日米同盟という、安全保障上の問題だ。
だが、失敗したら、東ドイツも共倒れだ」
「はい。分かっております」
そういって、恭しく大使へあてた手紙を受け取った。
内心の不安を覚えつつも、ユルゲンは笑みを浮かべながら答えた。
『唯一の勝算は……、味方が天のゼオライマーである事か……』
さしものユルゲンも、そう思わざるを得なかった。
ブレジンスキー教授から、一報を聞いたユルゲンの行動は早かった。
即座に車を手配して、マンハッタンにある東ドイツ代表部に駆け込んだ。
ユルゲンは、その手紙を携えて、大使公室を尋ねた。
詳しい内容を伝えると、公使は、
「ベルリンは何時だね」と尋ねてきた。
ユルゲンは腕時計を見て、
『ニューヨーク・ベルリン間の時差は6時間』
と時間を計算した後、
「いまは午前4時になります」
その朝、木原マサキは、早暁から台所を借り、朝餉などを作っていた。
不意に、日本食が食べたくなり、飯を炊き、鮭を焼いている所だった。
本心を言えば、緊張の為、まったく寝付けなかったのだ。
マサキは、鉄人ではなかった。
普段の振る舞いと違って、非常に繊細な男であった。
仮初とはいえ、結婚式を挙げた興奮もあろう。
それよりも彼の心を悩ませたのは、着陸ユニットの接近であった。
いくら素晴らしいマシンがあっても、地球上に再び着陸されたらやりようがない。
超マシンで巻き返そうにも、建造するための原材料や、兵站を維持できなければ、無意味なのだ。
今ここでもたもたしていたら、取り返しのつかないことになる。
鉄甲龍を倒した時も、躊躇なくやっていれば、日本本土への被害は防げたろう。
幽羅を、八卦ロボを誘い出すためとはいえ、米海軍第七艦隊の損失は割に合わなかった……
前世の失敗を、今更ながら悔いていた。
マサキの意識は、若い女の声で現実に戻される。
まもなく、寝間着姿のベアトリクスとアイリスディーナが来た。
「木原、木原はいる!」
ベアトリクスとアイリスディーナは、とにかく過敏な眼いろだった。
だが、さすがにマサキは、何気ないふりを振舞いながら、
「どうした」
と、落着き払っていた。
「主人から電話が来てるの!」
ヴァントリッツに電話がつながった時、ベアトリクスは偶然起きていた。
ユルゲンの話を聞くなり、アイリスを起こして、急いで台所まで来たのだ。
今にある電話機の傍まで行った後、受話器を取り、
「ユルゲン、どうした。俺だ、木原マサキだ」
いつにない真剣な表情で、ユルゲンに尋ねた。
ユルゲンは一呼吸おいてから、
「未確認情報だが、ソ連がロケットを上げた。
発射場所はスヴォボードヌイ……シベリアのアムール川流域で中ソ国境地帯だ」
「スヴォボードヌイ」
マサキにも、初めて聞く名前である。
それは無理からぬことであった。
その場所は、前の世界でさえ、ソ連崩壊まで完全に隠蔽された閉鎖都市。
CIA発行の航空写真では判明していても、どのようなものがどれだけあるかは秘中の秘だったからだ。
「場所の事はどうでもいい。お前が話せる限りのことを話せ」
「プロトンロケットではない新型だ……今はこれしか言えない」
そう言って、受話器をベアトリクスに渡した。
夫婦であれば、積もる話もあろう……
マサキなりの最大限の気づかいだった。
国際電話はたちまちシュタージの知るところになった。
マサキ番のゾーネ少尉は仮眠から起きると、通信室に入った。
複数並ぶモニターの電源を、一斉に付ける。
椅子に座って、国際電話の内容を傍受していると、後ろから声がした。
「なるほどな。ずいぶんと金のかかった部屋だ」
ゾーネは後ろから入ってきて感悦をくり返しす男に、驚愕の色を示す。
「誰だ、お前」
「マネージャーさ、木原先生のな」
白銀は、軽く笑っていなした。
「たまには、木原先生の特別講義を聴講させてもらわないとね。
あんただって、そのつもりなんだろう」
と、本音を吐いたときの、ゾーネの顔つきは、ひどく複雑だった。
「美男好きのどうにもならない諜報員でも、将校は将校だもんな」
その瞬間、瞋恚をむき出しにしたゾーネは、白銀のネクタイをつかんだ。
「な、何だと」
白銀は、一瞬驚くも、ゾーネの腕を逆につかみ帰して、興奮するゾーネを抑えた。
「まあ、まあ、怒るなよ。本当のところ言われてさあ」
そのうち、白銀ともみ合いになりながら、ゾーネは、
「出ていけ、警備兵をよぶぞ」と叫んで、電話機の方にかけていった。
白銀は背広の上から来ていたオーバーコートを直すと、
「連れないね」
と、ドアの方に下がっていった。
慌てたゾーネが、受話器を持ち上げると、
「分かった。分かったよ」
白銀は、そういって背を向け、
「よくお勉強なさってください……」
ると、会心の笑みを漏らしながら、その場を後にした。
マサキは、アイリスディーナと一言も交わさないで、庭まで来てた。
誰もいないのを確認した後、懐中よりホープの箱を取り出す。
悠々と紫煙を燻らせると、再び過去への追憶へ沈降した。
この時代のソ連で核搭載可能な宇宙ロケットは限られてくる。
プロトンロケットでなければ、1980年代後半に完成した大型ロケットエネルギアぐらいか。
エネルギアは記憶が確かならばペイロードが35トンまで耐えられるはず……
27トンの核爆弾「ツァーリボンバー」であるならば、搭載可能だ……
低軌道か、静止軌道か、判らない。
だが、着陸ユニットを迎撃するとすれば、50メガトンクラスの核爆弾でなければ厳しかろう。
核での粉砕が成功すればよいが、破片が落下する事態になれば、地球上への被害は免れない。
何よりも、マサキを怖れさせたのは、着陸ユニットそのものが無傷である可能性であった。
今までは新疆やアサバスカなど、はるか蕭疎の邑落だから良かったものの……
大都市ならば、その影響は甚大だ……
問題は、低軌道上にどうやって上がるかである。
次元連結システムを使えば、指定したあらゆる座標に移動可能ではある。
だが、マサキ自身は宇宙空間での実験を一切してこなかった。
地上での戦闘のみを想定していた為である。
まさか、異世界に来て宇宙怪獣のBETAと戦うとは夢にも思っていなかった。
全長50メートル強の機体を運ぶ宇宙ロケットがあるのか、どうかも不明だ。
マサキの悩みは留まることを知らなかった。
後書き
読者の皆様へ。
近いうち、グレートゼオライマー出そうと思っています。
ですが、OVA本編は未登場で、設定のみは公式資料集。
映像化の初出が『スーパーロボット大戦J』となっています。
その際は、スパロボのタグが必要なのでしょうか。
ご意見いただけると幸いです。
ユーザー登録している方は、下のアンケートに答えていただければ幸いです。
https://www.akatsuki-novels.com/surveies/view/793
ご感想、ご要望お待ちしております。
危険の予兆 その6
前書き
実はBETAの着陸ユニットに対して、手をこまねいているばかりではなかった。
米軍は4年前のアサバスカへの着陸ユニット落下事件を受けて、迎撃システムの研究を開始する。
宇宙空間に核ミサイル迎撃システムを設置するというもので、その名はSHADOW。
ラグランジュ点L1、つまり太陽と地球の間に迎撃衛星を設置しようという案である。
しかし、軍事予算のほとんどを新規開発中のG元素爆弾にとられ、迎撃衛星の研究は滞ってしまった。
その為、計画からすでに5年の月日がたっても、衛星は一機すら上がっていない状況になっていたのだ。
さて、マサキはどうしたであろうか。
シュトラハヴィッツ少将とチェックポイントチャーリーで分かれた後、西ベルリンに入った。
西ベルリンのテーゲル空港から、チャーター機でハンブルグ空港へ向かった。
この時代の西ドイツ本土と西ベルリンを結ぶ航空路は1946年2月に設定された『空の回廊』と呼ばれる限定された空域でのみ飛行が許可されていた。
東ドイツ上空の高度は10,000フィート、空域の幅は20マイル。
(1フィート=30.48センチメートル、1マイル=1609.34キロメートル)
基本的に西ベルリンを管轄する米英仏の3か国と例外的にポーランドの国営航空の身が離着陸を許可されていた。
ハンブルグ空港に着くなり、マサキは彩峰から衝撃的な事を聞かされた。
結論から言えば、ソ連が発射した迎撃用の核ミサイルは、失敗した。
大気のない宇宙空間では核爆発の威力は半減し、着陸ユニットを破壊するまでには至らなかったのだ。
小惑星の直径が、どれほどかわからない。
もし、今回の迎撃に用いた核ミサイルがツァーリボンバーであったのならば……。
広島型原爆の1500倍の威力の原爆で破壊できないとなると、恐らく非常に大きい。
或いは、狙いが外れて至近距離で爆破したために、十分な威力が出なかったか……
米軍が行った1962年の高高度核爆発実験の際は、大気が少ないために予想通りの威力が発揮できなかった。
その代わり、爆発に伴う電磁パルスの影響で、大規模な停電がハワイ全島で起きるほどであった。
すでにゼオライマーはハンブルグ空港の駐機場に準備されていた。
マサキは、渡された宇宙服に着替えながら、彩峰に尋ねる。
「彩峰、射出物の場所は……出来る限り正確なデータが欲しい」
「まだ地球周回軌道には、入っていない」
その話を聞いて、マサキは内心ほっとした。
地球周回軌道に入っていないのならば、宇宙空間でメイオウ攻撃をしても問題はない。
ただ、宇宙空間にいきなりワープするにしても、正確な座標や目標がなければ移動はできない。
そこで、対地同期軌道上を飛んでいる人工衛星の位置を頼りにワープすることにしたのだ。
「彩峰、衛星放送用の人工衛星の座標を教えてくれ。今からそこにワープする」
「じゃあ、今から人工衛星シンコム3号の場所を言う……」
そういって、詳細な位置を伝えてきた。
マサキは、コックピットに乗り込むと、ゼオライマーを転移する準備に取り掛かる。
彩峰の話を基に、高度3万5786キロメートルの円軌道上を飛んでいる人工衛星の位置情報を入力した。
ゼオライマーは、基地から飛び上がった後、即座に対地同期軌道上にワープする。
管制塔からゼオライマーの発進を見守っていた彩峰は、ゼオライマーの姿が消えるまで敬礼していた。
他の管制官やスタッフたちもそれに続いた。
マサキは、ワープした瞬間、どこにいるか、判らないような感覚に襲われた。
太陽光の反射で白く輝くゼオライマーの機体とは別に、周囲は漆黒の闇夜。
まるで、虚空に放り出されたようだ。
そんな感覚に陥っていた。
マサキは、宇宙服のぶ厚い手袋の上から操作盤に触れながら、美久に隕石の位置を尋ねた。
「この方角で間違いないのだな」
「計算が正しければ、この位置で隕石は来るはずです」
「120パーセントの威力でメイオウ攻撃を実施する」
この方角ならば、メイオウ攻撃の最大出力で、大丈夫なはずだ。
そう考えると操作盤を連打して、攻撃準備に取り掛かった。
メイオウ攻撃は、異次元から取り出したエネルギーを無尽蔵に放出し、あらゆる標的を破壊する。
それも原子レベルまで分解し、消滅させて。
大陸一つ消滅させる威力を誇る攻撃で、おそらく直径数キロの隕石は消し飛ぶ……
メイオウ攻撃を放った瞬間、衝撃波がゼオライマーに降りかかった。
大気のある地球上と違い、宇宙空間には遮るものが何もなかった。
その威力がそのまま、機体に直撃する。
無論マサキもそのことを想定して、バリアを張っていたし、即座にワープする準備もしていた。
だが思ったよりも、その衝撃はすさまじく、しかもワープの準備をするより早かった。
正面からの衝撃で座席にたたきつけられたマサキは、そのまま気を失ってしまうほどであった。
バリア体で周囲を保護したゼオライマーの機体は、そのままボールのように弾き飛ばされ、地球の方に向かった。
マサキが気が付いたときには、既に大気圏に突入している最中。
ぼんやりと落ちていく様をながめながら、
「奈落の底に落ちていくのか……」
奈落とは、地獄の事である。
このBETAのいる世界……地獄かもしれない。
今まで自分がして来た事を思えば、それは当然のことではないか。
だが自分は、一度ならず二度復活したのだ。
折角生き返ったこの機会に、己の長年の野望を叶えずしてどうするのだ。
死にたくない……
このまま、一度目の人生で自分を死に追いやったソ連への復讐を……
道具のように扱い、簡単に暗殺した連中への復讐を果たすまでは……
そう思うと、自動操縦を担当する美久に呼びかけた
「美久、聞いているか……
ぼさっとしてないで、姿勢制御のブースターを作動させろ」
「背中のブースターに異常が……」
同時に、マサキは必死の思いで操作盤に手を伸ばす。
「肝心な時に役に立たないとは、ガラクタだな」
操縦席にあるコントロールパネルに手動操作で座標を打ち込んでいく。
北緯53度38分、東経09度60分……
機体は即座に、ハンブルク空港に転移した。
ハンブルクは、ちょうど日の出前だった
空港の上空1500メートルに転移すると、航空管制に従って駐機場に着陸させる。
すると、5分もしないうちに化学消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら近寄ってきた。
どうやら彩峰の指示で、ゼオライマーの機体が損傷した可能性を考えて用意したものだった。
幸いなことに早朝だったので、ゼオライマーを隠す時間も十分だ。
マサキはそう考えながら、救急車のストレッチャーに乗せられると、救急車で医務室に運ばれていった。
今回の宇宙への出撃は、スペースシャトルによる短期フライトより短かった。
なので、空港にいる医師が健康状態を簡単に評価し、その後、診療所で診察、検査が行われた。
さらに3日後、より詳しい検査を大学病院で行い、異常がなければ通常の活動に戻れるという話であった。
昨日からほとんど寝ていないマサキは、診察の合間に転寝をするほどであった。
普段心配するそぶりすら見せない彩峰から、奇異に思えるほどに心配された。
マサキは遅めの昼食を取りながら、思い悩んでいた。
今回の宇宙空間での活動から、マサキは以前にもましてグレートゼオライマーを進めるしかない。
そのような結論に至った。
メイオウ攻撃は無敵なのは、間違いない。
だが、威力があまりにも強すぎるのだ。
牽制用のミサイルやレーザー、ビームの剣などは必要であろう。
そうすると、自分一人で何かするには対応しきれない……
篁あたりを引き込むか。
一緒の席でコーラを飲んでいる彩峰に聞いてみることにした。
「なあ彩峰。篁とミラ・ブリッジスに関してだが……」
「どうした」
ここはあえてグレートゼオライマーの件ではなく、戦術機の話をしてごまかすことにした。
「俺の計画している戦術機のロケットブースター改造計画に関して奴らの手を借りたいと思ってな」
「跳躍ユニットは米国のプラッツ・アンド・ウィットニー、英国のロールス・ロイス。
あとは自社で戦術機を作っているゼネラルダイノミクスの航空機エンジン開発部門ぐらいか」
(プラッツ・アンド・ウィットニーは、現実世界のプラット・アンド・ホイットニー社)
「日本国内でライセンス生産はしていないのか」
「富嶽重工で行っているが……
どうしてそんな事をいまさら聞くのだ」
彩峰はコーラの入ったグラスを片手に、真剣な表情になる。
マサキは、一頻りタバコを吸った後、彩峰の方を振り向く。
「実は昨日アイリスディーナと話しているときに跳躍ユニットの話になった」
そういうと弾んだ声で話し始めた。
「跳躍ユニットは操作性が悪く、ユニット自体の可動域が非常に狭い。
操作を誤ると、よく転ぶという話を聞いてな……」
「……だから背面の推進装置を作りたいというわけか」
「戦術機は宇宙服の有人操縦ユニットの発展形だろう。
月面や火星での作戦に向けて、改良は必要になってくる」
マサキはほくそ笑み、いかに次の作戦で背面バーニアが必要か、興奮した口調で話すのだ。
「……そこでだ。宇宙空間での姿勢制御は背面スラスターでなければ、十分にできない。
俺のゼオライマーの背面バーニアの技術と、有人操縦ユニットのノウハウを合わせれば……」
呆れた表情を見せる彩峰。
マサキのぞっこんぶりに戸惑っているのだ。
「あくまで民生用部品として、ルーマニアに輸出する。
ルーマニアは東側だが、米国の最恵国待遇の対象国だ。
世銀にも入っているし、合弁会社を作れば、ココム規制に引っかからない。
上手くいけば、ルーマニア経由で日本企業が金稼ぎを出来るようになる……」
それに、自分の製作した作品がアイリスディーナの手助けになるのなら、望外の喜びだと思った。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
グレートゼオライマーの件でスパロボタグを入れた方がいいか、アンケートを実施してます。
アカウント持っていない読者の方はコメント欄に、是か非か意見を頂ければ幸いです。
慮外 その1
前書き
閉会式大混乱の巻
さて、ボンサミットはどうしたであろうか。
今一度、首脳会合の場に戻ってみることにしよう。
ボンにある茶色い弐階建ての真新しい建物。
それは連邦首相府で、今回の先進国首脳会議の本会合の場であった。
日米英仏伊加の六か国の首脳が、ハンブルク空港に着くと、間もなく大規模な車列がボンに入った。
厳重な警備の中、開催されたボンサミットの本会合は、つつがなく二日間の日程を終えた。
われわれの世界と違って、11月開催となった理由。
それは、パレオロゴス作戦が6月22日に開始されるため、西ドイツ政府の意向で変更になったためである。
その閉会式がライン川沿いのシャウムブルク宮殿で行われていた。
同宮殿は、1976年までドイツ連邦首相府で、大統領府ヴィラ・ハンマーシュミットの目と鼻の先だった。
元々は豪商が立てた別荘を基に数度の改築を繰り返すも、手狭であった。
その為か、今は隣接する敷地に、茶色い連邦首相府の建物を新設した。
(新設された連邦首相府は、今日、ドイツ連邦経済協力開発省として使用されている)
ボン・サミットの最後として、閉会式という名の壮大な夜会が開かれた。
立食形式のパーティーで、ドレスコードも略礼装の簡単なものだった。
マサキにとっては、いずれにしても退屈であったが、ダンスがなかったのは幸いだった。
また知らぬ女を紹介されて、一緒に踊る気にはなれなかったのだ。
マサキ達は、部屋の隅で固まりながら、今後の事を話し合っていた。
その際、東独の話となり、アイリスディーナが議題になったのだ。
最初に声をかけてきたのは鎧衣だった。
彼は、いつも通りの茶色い背広姿。
流石に、愛用の中折れ帽と脹脛までの長さのあるオーバーコートは脱いでいたが。
「困ったものだな、木原君。
アイリスディーナさんの事ばかり考えて、夜も眠れなくなってしまうだろう。
そんな事では、高高度からの偵察任務でさえ、墜落事故を起こしかねない」
鎧衣が気遣っているのは、マサキの気持ちではないことはわかった。
「君は、軍人失格だ」
両腕を広げて、不敵の笑みをたたえる。
「ほっといてくれ。
いずれ、時が来れば、アイリスディーナの事を迎えに行く。
そう約束してきた……という訳で、一件落着となった。
あとは、返事を待つだけという訳さ。
既に、お前が出る幕ではない……という事だよ」
黒のイブニングドレス姿の美久は、右手でぐっとワイングラスを握りしめる。
周りにいる白銀や、近くから見ている彩峰ですら、彼女の苛立ちが分かるほどであった。
「ひとこと、言わせていただきます。
あの小娘から、別れると言う断りを入れてくるまでは、私もあきらめません」
マサキは、美久の態度を真剣に受け取っていない風だった。
満面に、不敵の笑みを湛えながら、
「……言うな、美久。
あのような薄幸の美少女の悲しむ姿……見るのは忍びない」
「明らかな罠と分かっていながら何故、それほどまでに執着なされるのですか」
苛立つように、美久はまくし立てた。
自分でも、なぜそんな言葉を言うのか、訳が分からない。
言っている美久自身が、困惑するほどに、唐突に出た言葉であった。
「本当に、不甲斐無い!」
一旦、口から出た負の感情は、独り歩きを始めた嫉妬心は、もう止まらない。
そんな心が自分にもあるのかと怪しみながら、いよいよ切なさを募らせていた。
マサキは、紫煙を燻らせた後、タバコを握る右手を額に乗せる。
不意に目をつむって俯きながら、会心の笑みを漏らした。
「フハハハハ、執着は、男の甲斐性よ」
いつの間にか邪険な雰囲気になる二人。
周囲の彩峰たちは、置いてきぼりになっていた。
白銀が意味ありげに、美久へ目配せをする。
「氷室さん……」
美久は鬱陶しそうに、白銀へ答えた。
「白銀さん、これは私と木原の問題です。
どうぞ、ご心配なく」
そして、いうなりこらえきれず、美久は一人でせかされるように部屋を後に知った。
取り付く島もなく長い髪をたなびかせ、部屋を出ていく美久の後ろ姿を、マサキは振り返って目で追う。
マサキは、大広間を出ていった美久の事を追いかけた。
シャウムブルク宮殿の庭で、一人で歩いてく彼女の姿を見つけるなり、
「美久、俺の話も聞いてくれ」
「よしてください、今更言い訳などとという女々しいことは……」
美久が振り返るより早く、右手をつかむ。
「いいから、ちょっと来い」
そういってからマサキは、来た道を帰っていった。
まず二人が入ったのは、誰もいない2階のバルコニーだった。
握っていた美久の腕を放すなり、マサキが切り出した。
「なあ、美久。
この俺が、女遊びにうつつを抜かしている色きちがいにみえるか。
無論、あんな珠玉の様な女性に惚れたのは事実だ。
だが、それとて策の一つよ、保険を掛けたにすぎん」
少しおびえたような上目遣いを向け、美久は尋ねる。
「え、それは……」
マサキは、茶色の長い髪の彼女の顔を、じっと見つめていた。
なにかに渇いている唇が、その激しい胸の高鳴りに耐えているさえ、思わせる。
「俺をBETA退治にケジメが着いた今、一番危険な存在は何か。
この木原マサキの存在よ。奴等は必ず俺を殺しに来る」
マサキは言葉を切り、タバコに火をつける。
「この俺が鎧衣や綾峰の前で、我を忘れて、色道におぼれる様をみせた。
その理由は、真の敵と戦うためよ」
美久は表情を変えず、マサキに訊ねた。
「既にソ連も見る影もございませんが……国際金融資本とて」
「国際金融資本の操る影の政府と言う物が有る。
やつらの間者は、いたるところに居る。
敵を欺くのには、まず味方からというわけさ……」
マサキからの言葉を聞いた瞬間、美久の顔がパッと明るさを取り戻した。
急な態度の変化ぶりに、逆にマサキの方が引いてしまうほどだった。
「やはりそうでしたか。
あなたが、東ドイツやチェコスロバキアに近づいたのも……何かの考えがあっての事。
大軍団をもってして東欧への再侵略の機会をうかがう、ソ連を牽制するため。
あるいは、G元素爆弾を開発し、世界制覇の野心を隠そうともしない国際金融資本……
彼等の暴挙を阻止するための、計略であった。
そう信じて、ただただ……お待ちしていた甲斐がありました」
驚きのあまり、マサキは苦笑いを浮かべるぐらいしか、出来なかった。
「フハハハハ、呑み込みが早い。
流石に、優秀な推論型AIだ」
立て続けに、新しい煙草に火を付けながら、
「ついでに、ベアトリクスのことも明かしてやろう。
ベアトリクスが欲しい、我が物にしたい……半分本当で、半分は嘘だ。
本当の狙いはベアトリクスの夫、ユルゲン・ベルンハルトのほうだ。
やつは俺の分身として、欧州に工作をするためには、ふさわしい存在。
故に、俺はアイリスやベアトリクスに近づいた。
それだけの事さ」
マサキは再び、美久との距離を縮める。
彼女の顔を、両腕の中にいれてじっと見ていた。
「何故その様な、回りくどい事を……」
そういってしなだれてくる美久を、マサキは広い胸で受け止める。
マサキの表情に、硬さは残っていたが、口元は緩んでいた。
「ユルゲンは、東ドイツのエースパイロット。
軍人と言う立場だけではなく、奴は白皙の美丈夫で、SED幹部の娘婿、議長の養子だ。
時が来れば、政治的後継者として、いずれは立身出世しよう……
その時、ベアトリクスと政府が対立をしたらどうなる。
……ベルンハルトの進退に差し障るのは必至。
そうすれば、困るのは俺だ。
故にユルゲンに憎悪が向かわぬように、俺が悪人になったまでよ……」
そういうと、二人は沈黙に入った。
要するに東ドイツに利用されているふりをして、彼らを利用しているのはマサキの方という事だ。
結局のところ、マサキが東ドイツに友好的だと勘違いしたのは、ユルゲンの方である。
マサキのことを率直に評価してくれた純粋な青年将校だと、喜ぶべきなのだろうか。
少々複雑ではあるが、美久は今の所、ユルゲン青年に感謝することにした。
濃厚な沈黙を破って、マサキから美久の唇を奪った。
美久は、マサキのたくましい両手を握りしめながら、唇を吸う。
急激な恥ずかしさが、美久を襲う。
その行為に驚き、美久はハッとマサキの体を突き放した。
「もとより俺の狙いは、世界征服……
たかが二十歳にも満たない小娘に、憎悪されたところで、怖くはない。
愛などと言う移ろいやすい感情で、国家や政治を見る夢見がちな少女の戯言など……
取るに足らん話よ」
まっすぐに美久の目を見つめるマサキ。
それだけで話は終わらない感じだった。
「しかし、あの女の知性……、それに裏付けられた政治的信念と教養の高さ。
利口でずる賢く、その上に男好きのする体を持つ良い女だ。
シュタージもKGBも、欲しがるわけよ。
放っておけば、俺を殺しに来るやもしれぬな……」
美久はマサキからの本心の告白を受けてもとりわけ驚く様子を見せず、いつも通りの表情だった。
余りの冷静な態度に、マサキは失笑を漏らしてしまうほどだった。
「だが所詮は、一人の女よ。
ベルンハルトとの情愛におぼれさせ、奴の泡沫の 夢とやらに酔わせて置けば……
この俺に背くような真似は、しまい……」
その言葉の端々から、美久はマサキなりの優しさである事を感じ取った。
「それに辱めて情婦などにしても、あの女の心の中にあるのは常にベルンハルトの事ばかり……。
毒まんじゅうを喰うほど、飢えてはいない。
自らの心の渇きをいやすために溢れるほどの情愛に溺れるような女などは俺の配下としても使い勝手が悪すぎる。
故に、俺はあの女をあきらめたのさ。
既に次元連結システムの子機を与えた時点で、彼奴らの活殺は自在に出来る。
今更、何を恐れようか」
「ええ」
感心するようにつぶやく美久の前で、自分だけが興奮しているように思える。
一層、マサキの羞恥心に似た気持ちを、高ぶらせる結果になった
「世に美しい花なら、いくらでもあろう……。
己が手を傷つける薔薇を手折った所で満足する程、俺の心は浅くはない。
毎夜夫と肌を合わせ、睦言を漏らす自由を与えてやったまでよ……感謝ぐらいしてほしい物よ」
美久はマサキの歯に衣着せぬ物言いに、思わず頷いてしまう。
その様を見ていたマサキの瞳は、妖しく光った。
マサキと美久がベランダから戻ると、宴もたけなわであった。
軽く彩峰を揶揄った後、白銀たちと酒を酌み交わす。
まもなくすると、ドイツ大統領が演壇に上がり、閉会の辞を述べ始めた。
「僭越ながら、閉会のご挨拶をさせていただきます。
本日はお忙しいなか、各国首脳の皆さま方にお集まり下さり、誠にありがとうございます。
本年も無事、このような先進国首脳会議を開くことができたこと、心より感謝申し上げます」
万雷の拍手が鳴り響く中、会場の隅に置かれた席から一群の男たちが演壇に向かう。
その瞬間、閉会の言葉を読み上げる大統領の表情がにわかに曇った。
男たちの先頭を歩くのは、大社交服姿のシュトラハヴィッツ中将だった。
薄い灰色をした両前合わせの上着に、濃紺のズボンという将官用礼装。
胸には、従軍経験を示すブリュッヘル勲章と祖国功労勲章、カール・マルクス勲章。
そして、最高位の勲章である民主共和国英雄称号をつけて。
シュトラハヴィッツに寄り添うようにして、三人の違う軍服を着た男たちが続く。
彼らは、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアと、それぞれ社会主義国の将軍であった。
壇上の大統領は、シュトラハヴィッツの姿と認め、余所行きの笑みを浮かべた。
シュトラハヴィッツに歩み寄りながら、
「わざわざ来てくれたのかね……」
シュトラハヴィッツは彼の方を見やって、不敵に笑った。
「ええ……」
シュトラハヴィッツの脇にいたポーランドの参謀総長は、しげしげとその人を仰ぎ見ながら、
「大統領閣下、この場をお借りして、どうしても発表したいことがございましてね……」
「公表だと……」
大統領の反応といえば、意外に、あっさりだった。
壇上のシュトラハヴィッツに向けて、万雷の拍手が鳴り響く。
「ただ今、ご紹介にあずかりました。
ドイツ国家人民軍地上軍中将のシュトラハヴィッツでございます。
本日は、お集まりいただき、ありがとうございます。
思えば、1945年――私たちの青年時代は、世界大戦の真っ盛りでしたが、心は砂漠のようでした。
しかし、あれから30年以上の歳月がたち、緊張緩和の兆しが見え始めました。
これも、ひとえに先進諸国の首脳の皆様方の努力の賜物と思っております」
シュトラハヴィッツは壇上から室内を見やって、深々と一礼をした後、
「この度、我々4人が発起人となり、
新たな地域協力機構『東欧州社会主義者同盟』を結成、旗揚げすることに相成りました」
各国の首脳は呆気にとられて、シュトラハヴィッツの顔を見る。
東欧諸国の将軍たちは、会心の笑みを漏らした。
「何だって……」
「冗談だろう!」
その反応に満足したのか、シュトラハヴィッツは不敵の笑みを浮かべる。
目を細めて、出席者たちを見やった。
「党派を問わず、ソ連のしがらみに捉われない純粋な友好・協力関係をもとめた新機構です」
聴衆が動揺した瞬間、ポーランド軍の将軍が一歩前に出て、宣言した。
「我らの狙いは、将来のEC加盟を目指して、ヨーロッパ統合の進展を目的したものです」
反社会主義を掲げる西ドイツ国会議員たちは、一斉に壇上に走りこむ。
それは、会場の警備が動くよりも早かった。
「や、やめさせろ」
素早い身のこなしで、西ドイツの国会議員たちが襲い掛かってくる。
「降りんか、このド百姓が!」
男たちが繰り出すアッパーカットをよけながら、ポーランド軍の将軍が叫ぶ。
「貴様ら、礼儀知らずにもほどがあるぞ」
サミットを主催した西ドイツ側は、急な事態に困惑した。
これが、現実に起こっていることだろうか……
おぞましい悪夢を、見ているかのようしか思えない事だった。
「ここをどこかと知っての、狼藉か!」
「国家元首に対する冒涜だぞ、クソガキが!」
男たちはシュトラハヴィッツを排除しようと意気揚々と乗り込んだ。
殴りかかったまではよかったものの、大立ち回りの末に将軍たちに取り押さえられてしまった。
「いや、これほどふさわしい場はないと思ってきたんですよ」
周囲の人間は、目の前で繰り広げられる光景に唖然とするばかり。
余りの出来事に、遠くから見ていたマサキは頭の痛くなる思いがした。
喧騒のさなか、首相が登壇して、閉会の辞を述べ始めた。
「78年11月24日から本日まで3日間にわたり「第4回主要国首脳会議」を開催させていただきました。
これを以って、「第4回主要国首脳会議」を閉会致します。
遅ればせながら、今回の首脳会合の御成功、心よりお祝いを申し上げます。
それと共に、大統領閣下ならびに諸閣僚方のご功労に対し、改めて敬意を表したいと存じます。
多忙のなか、沢山の皆様に出席していただいたこと、喜びに絶えません。
来年の「第5回主要国首脳会議」は、日本での開催を予定しております。
1年後に再び、お目にかかれることを祈念し、閉会のご挨拶とさせていただきます。
各国首脳の皆さま、閣僚の方々、ありがとうございました」
参加者から、再び拍手が鳴り響く。
そうして、混乱の内に1978年のボンサミットは終了した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
慮外 その2
前書き
なんでマブラヴ世界ではチェコスロバキアの航空機産業が注目されないのだろうか……
今も、第三世界ではチェコのL39の系譜を引く練習機は売れてるんですけどね……
季節はすでに12月だった。
1978年も残すところ、あと一月を切っていた。
今日の物語の舞台は、チェコスロバキアのアエロ・ヴォドホディ社。
同社は戦前から続くチェコスロバキアの航空機メーカーであった。
アエロ・ヴォドホディ社で有名なのは練習機L29であろう。
この複座のジェット練習機は、1961年にソ連のyak-38を抑えてワルシャワ条約機構で採用され、その後、共産圏や第三世界を中心に販路を広げた。
生産数3600機を誇った練習機は、もともと戦闘用ではないが、いくつかの戦争に投入された。
1967年のビアフラ紛争において、L29は求められる以上の役割を果たす。
東側の支援を受けたナイジェリア政府軍は12機のL29をもってして、ビアフラ側の攻勢を押しとどめた。
では、1973年にBETA戦争が起きた異世界のアエロ・ヴォドホディ社はどうしたであろうか。
この未曽有の危機に対して、同社の反応は素早かった。
初の戦術機F-4ファントムの存在が発表された、1974年の段階から練習用戦術機の開発に乗り出した。
既にソ連で開発されていたMIGー21の計器類を転用し、練習機T38を基に開発した世界初の複座練習機を完成させる。
1977年のパリ航空ショーで西側に公開されるも、販路は既になかった。
全世界の練習用戦術機のシェアは、ノースロップ社のT-38の独占状態。
東側諸国は、ソ連が1976年のハバロフスク移転前に転売したF4-Rであふれかえっていた。
新型練習戦術機L-39を買ってくれる国は、どこにもない状態。
アエロ・ヴォドホディ社は、創業以来の危機に瀕していた。
誰もが見捨てた会社に、近いづいた人物がいた。
天のゼオライマーのパイロット兼設計者である、木原マサキである。
彼は、アエロ・ヴォドホディ本社を訪れ、新型推進機の生産を提案したのだった。
「これが、新型の後付けエンジンですか……」
新型の推進装置の図面を手に入れたチェコスロバキアの技術陣は、感嘆するばかりであった
マサキが設計した戦術機用の新型推進装置の外観は、四角い箱だった。
戦術機の背中に増設し、背嚢にどことなく似ていたことから、ランドセルと称された。
ジェット燃料の増槽を兼ねた、この大型推進機の生産計画は一度、富嶽重工にマサキが持ち込んだものであった。
だが、生産ラインの都合とライセンス契約で頓挫してしまう。
特に生存性の向上を考え、予備エンジンとしてソ連製のイーフチェンコ設計局製のロケットエンジンのコピーを乗せるという案に、富嶽重工側が難色を示したのが大きかった。
またマサキが提案した、八卦ロボ共通の背面スラスターに使われている大型ブースターも、鬼門の一つだった。
もともと50メートル超の機体を安全に操縦するために、大量の燃料を消費するため、戦術機の燃料タンクでは不十分だったのだ。
マサキは、八卦ロボの動力を早くから異次元から無尽蔵にエネルギーを取り出す次元連結システムに変えていた為に問題にはならなかった。
だが、この異世界での戦術機の動力は、全く異なった。
ジェット燃料とその爆発から取り出したエネルギーを充電するリチウムイオン蓄電池、マグネシウム燃料電池の混合方式であった。
その為に、どこのメーカーでも嫌がられる存在であった。
「ジェット燃料の事を考えて、大型の推進装置にはそれ自体に増槽の機能が追加してある。
約5300リットル、1400ガロン相当のジェット燃料が入るようにした。
これはちょうどF104戦闘機と同じ容量だ。
油の比重を考えれば1.26トン、軽量な戦術機も影響は受けまい」
(現実のF15J戦闘機には、600ガロン増槽を3個、2271.25リットルを装備している)
「戦術機の背面に追加するんですよね」
「そうだ」
「兵装担架が使えなくなってしまうではありませんか」
戦術機には乱戦に備えて、突撃砲の搭載を前提とし、背面射撃が可能な補助椀が付いていた。
そしてこの補助椀には、破損した武器を交換する兵装担架としての役割も付与されていた。
「そんなものなくとも、肩にロケットランチャーを装備して、装甲を厚くすれば十分だ。
現にサンダーボルトA10には、そんな邪道なものはついていない」
マサキは一旦言葉を切って、たばこに火をつける。
「なんならフェイアチルド・リムパリックに頼んで、サンダーボルトに搭載予定の機関砲でも融通してもらうか。
30ミリのアヴェンジャー・ガトリング砲だったら、BETAでも戦術機でも一撃だぞ」
「でも弾薬の事を計算したら、最大離陸重量が30トンを超えませんか。
あのファントムですら、28トンが限界ですよ……」
「だったら、余計な刀を外すんだな」
「近接短刀は、衛士の最後の心のよりどころです。
外せと言われても、衛士たちが簡単に外さないでしょう」
「自前で軽量な30ミリ機関砲でも作れとしか、俺は言えんぞ……
銃器は、俺の専門外だ」
ここに、マサキとこの世界の人間の考えの差が、如実に表れた。
マサキは、サンダーボルトa10の大火力をもってして、BETAを、他の戦術機を圧倒すればよい。
その様に考えていた。
それは、天のゼオライマーや月のローズ・セラヴィー、山のバーストンなどの、大火力を誇るロボットを設計した経験から導き出された答えであった。
一方、この世界の戦術機は、光線級吶喊、つまり浸透突破と呼ばれる戦術を重点に置いていた。
軽量な装甲で高速機動をし、刀剣で格闘をすることが出来るという事を何よりも重視していたのだ。
故に、マサキとチェコスロバキアの技師たちの意見は平行線をたどってしまったのだ。
「木原博士、貴方の言う新型推進機は、わが社で研究させていただきます。
一応、特許申請を出しておきますので、ここにサインを頂ければ……」
「国際特許だろうな。
機密扱いにして国内特許にすると、輸出先で分解されてコピーされるからな……」
チェコスロバキアの新型拳銃CZ75は、設計者フランティシェク・コウツキー博士の意志とは別に国内特許とされた。
チェコスロバキア軍での採用のために重大機密とするためであったが、このためにイタリアやスペインで複製品が出回る結果になってしまった。
そしてイタリアのフラテリ・タンフォリオから、改良版のTA90を勝手に発売されてしまう事態となった。
マサキはそのことを知っていたので、チェコ側にくぎを刺したのだ。
サインをしながら、マサキは西側の特許取得に関して不安を感じた。
チェコで特許を取ったものが、西ヨーロッパや北米で有益とは思えない。
一応、EC加盟国である西ドイツで特許申請をして置くか。
西ドイツ軍人であるキルケに連絡を取れば、祖父のシュタインホフ将軍の手引きもあって申請も早いはず。
そう考えながら、英文とロシア語で書かれた契約書をアエロ・ヴォドホディ社の担当者に渡した。
チェコスロバキアから帰った、マサキの行動は早かった。
その日のうちにキルケに電話を入れると、なんと彼女の方でも役場に行くのを待っていたという。
翌日、マサキは以前言われた通り、戸籍謄本とパスポートのコピー、住民票をもって行った。
戸籍役場に行った後、ボンの特許庁まで案内してくれることとなったのだ。
特許の国際申請は、二種類あった。
一つは各国への直接出願で、特許出願をする国の形式に合わせた書類で、対象国の特許管理機関に出願する方式である。
この時代のチェコスロバキアは、国際特許を保護するパリ条約に加盟していなかった。
正式な加盟が行われたのは、チョコスロバキア解体後の1993年1月1日であった。
パリ条約とは、正式名称を工業所有権の保護に関する1883年3月20日のパリ条約といい、工業製品特許の保護に関する国際条約である。
我が国日本は、1899年7月15日にパリ条約に、1978年10月1日に特許協力条約(PCT)へ加盟している。
マサキは、特許協力条約を知ってはいたがドイツの加盟状況に関しては知らなかった。
だから直接、ドイツ特許庁(今日のドイツ特許商標庁)に提出しに行くことにしたのだ。
煩雑な手続きは、シュタインホフ将軍が準備してくれた代理人が手伝ってくれた。
事前に、書類を準備していたこともあろう。
順調なまでに、思うように事が運んで、あとは実態審査を待つばかりであった。
かくて、昼前からの役所巡りは、半日にして解決した。
ちょうど、カフェテリアの前を通りかかった時である。
「ドクトル木原、ちょっと」
キルケは、カフェテリアに寄りたいようだった。
「何だ、何か用か」
マサキは、役所詣でが終わったら、すぐに帰るつもりだった。
予定を狂わされて、不機嫌にいう。
「お茶でもしていかない?」
「わかったよ」
マサキは渋々、カフェテリアのテラス席に座った。
そっと、キルケの側へ座って、彼女の顔をさしのぞいた。
夕闇のせいか、キルケの顔は、宝石のように奇麗である。
「悪いけど、あと少し付き合ってもらえる」
キルケの申し出に、マサキは不思議に思いながらも、
「構わないが、一体どこに行くのだ」
「ここ、ボンの市街地からキロほど南に行った、ハルトベルク。
そこにある、おじいさまの自宅よ」
「ハルトベルク? お前の祖父の家だと?」
マサキは、キルケの言葉に思わず目を見張ってしまった。
「貴方と天のゼオライマーの活躍で、欧州はBETAの恐怖から救われたわ。
そのことについての……、今までの埋め合わせをしたくてね……」
そういったキルケの目に、邪悪な光が一瞬浮かび、直ぐに困惑したような表情を浮かんだ。
ボンの夜を行くには、懐中電灯は要らなかった。
歳暮のせいか、町の灯は様々な色彩をもち、家々の灯は赤く道を染めて、ざわめきを靄々と煌めかせていた。
冬の空には、一粒一粒に、星が浮かんでいた。
「何やら、騒々しいがどうした」
シュタインホフ将軍の用意した車に乗りながら、マサキは、運転手に話しかけた。
運転手がそれに答えて、
「もうすぐクリスマスです。
BETAもいなくなったことですし、5年ぶりの静かなクリスマスを楽しんでいるのでしょう」
――なるほど、市街地にかかると、賑やかな雑踏の中には、かならず人の姿が見えた。
もう12月、そんな時期なのかと、マサキは、一人心の中で今までの事を振り返っていた。
シュタインホフ将軍はその夜、彼が帰国の暇乞いに来るというので、心待ちに待ちわびていたらしい。
屋敷中のの灯りは、マサキを迎えた。
主客、夜食を共にした。
また西ドイツの高官から、贈り物の連絡などあった。
「ご進物は、明朝、御出発までに、ホテルへお届けます」
マサキは、その内容だけを聞いた。
ゾーリンゲンの指揮刀や、ニンフェンブルクの陶器などである。
「鄭重な扱い、痛み入る」
マサキはありがたさの余り、感激するばかりであった。
そして暇を告げかけると、
「いや待ちたまえ。
君とは、まだ申し交わした約束が残っておる」
といって、老将軍は、マサキをうながして屋敷の奥へともなった。
「木原博士、さあ、お入りなさい」
シュタインホフ将軍は、一室を開かせた。
驚くべき人間が、そこの扉を開いたのである。
薄絹のベールを被り、白無垢の花嫁衣裳を纏い、首飾りや耳環で飾っているキルケだった。
しかしキルケの姿については、マサキはそう瞠目しなかった。
彼女の態度からうすうす感じ取っていたし、また彩峰あたりが熱心に薦めたものということも知っていたからである。
けれど、老将軍について、一歩室内へ入ると、思わず、ああという声が出た。
寝室とリビングが続きになったスイートルーム仕様で、あわせて50坪ほどな広さはあろう。
キングサイズのベットがあり、天井、装飾、床、敷物にいたるまでことごとくが、白の色彩と調度品で揃えられていた。
「明朝まで、お休みになられませ」
老将軍は、そういうと外からカギをかけて、帰ってしまった。
この俺に、キルケを差し出したという事か……
たしかに、周囲に邪魔する者もいない。
ある意味、理想的な環境だ。
その間にも、しきりと鼻を襲ってくるのは、まだかつて嗅いだことのない執拗な香料の匂いであった。
そうした視覚、嗅覚、あらゆる官能から異様な刺激をうけて、マサキはやや呆れ顔をしていた。
あまりに珍奇な世界へいきなり連れて来ると、人は側の他人も忘れて口をきかなくなる。
そんなふうなマサキであった。
キルケは、それを見て、ひそかに楽しんでいた。
どうだ、といわないばかりな顔して。
この夜。
マサキとキルケは、壁を前にしたまま、ずいぶん長いこと、黙然と坐りこんでいた。
黙想に耽っていた。
何を語りあったろうか。
それは、その壁しか聞いていたものはない。
けれど、結論において、ふたりの理想が合致していたことは確かだ。
なぜならば、やがて夜が更けて、再び暇を告げて別れるに際しての時である。
二人の間には、これまでにない、もっともっと深い誓いともいえるものが、あきらかに双方の心にたたえられていたからである。
後書き
長かった1978年が終わりました。
1年10か月かかってしまった。
次回以降は1979年になります。
11月3日は休日投稿を久しぶりにする予定です。
お楽しみにお待ちください。
ご意見、ご感想お待ちしております。
人物紹介(第七章まで)
前書き
既に登場した人物の一覧表です。
第二章から第七章本編に未登場人物も含めますので、簡単な説明にとどめます。
(以下、順不同)
役職は、『隻影のベルンハルト』に準じますが、一部は、本作品による二次創作になります。
原作人物
ソビエト連邦社会主義共和国(ソ連)
エフゲニー・ゲルツィン大佐
(ユルゲンのソ連留学時代の恩師、ソ連空軍大佐、戦術機パイロット)
ブドミール・ロゴフスキー中尉
(ソ連赤軍参謀総長副官の一人、ソ連赤軍中尉)
フィカーツィア・ラトロワ
(ソ連赤軍少尉、戦術機パイロット)
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)
クラウス・ハルトウィック上級大尉
(西ドイツ陸軍戦術機部隊の創設者。部隊長も兼務)
ヨアヒム・バルク大尉
(西ドイツ陸軍大尉、戦術機パイロット)
キルケ・シュタインホフ
(西ドイツ陸軍、戦術機パイロット)
ヨハネス・シュタインホフ大将
(キルケの祖父、ドイツ空軍総監、元NATOドイツ軍代表)
ドイツ民主共和国(東ドイツ)
マライ・ハイゼンベルク中尉
(ドイツ国家人民軍地上軍中尉)
オズヴァルト・カッツェ少尉
(ドイツ国家人民軍航空軍少尉、ユルゲンの竹馬の友)
ツァリーツェ・ヴィークマン少尉
(ドイツ国家人民軍航空軍少尉、第40戦術機実験集団の紅一点)
ヴァルター・クリューガー曹長
(ドイツ国家人民軍地上軍曹長、ヴィークマン少尉の後任)
カシミール・ヘンペル少尉
(ドイツ国家人民軍地上軍少尉、地上軍航空部隊出身、ヘリコプターパイロット)
ザビーネ・ブレーメ
(アーベル・ブレーメ夫人。ベアトリクスの生母)
メルツィデス・ダウム
(旧姓ベルンハルト。ユルゲンとアイリスディーナの生母)
グレーテル・イェッケルン
(普通教育総合技術上級学校の10年生。日本の中学3年生に相当)
マルティン・カレル
(普通教育総合技術上級学校の10年生。グレーテルのボーイ・フレンド)
フリードリヒ・ザンデルリング
(人民議会議員、ドイツ民主農民党員、エーリッヒ・シュミットの協力者)
エドゥアルト・グラーフ少佐
(ドイツ国家人民軍地上軍少佐、ハイム少将の副官)
日本帝国
御剣 雷電
(五摂家筆頭、煌武院家の傍流の当主。
国際連合日本政府代表部特命全権大使)
紅蓮 醍三郎
(御剣の護衛。近衛軍第19警備小隊隊長)
白銀 影行
(帝国陸軍中尉。陸軍中野学校卒)
鎧衣 左近
(情報省外事2課)
涼宮 宗一郎
(コロンビア大学留学生、フルブライト奨学生。白銀の現地協力者)
大空寺 真龍
(大空寺財閥総帥)
斎御司 経盛
(五摂家斎御司家嫡子、大伴の後援者)
珠瀬 玄丞斎
(在ドイツ連邦ハンブルク総領事館参事、外務省職員)
アメリカ合衆国(米国)
ラスコー・ヘレンカーター海軍大将
(アメリカ合衆国海軍提督、米海軍戦術機の父、フェニックスミサイル開発チームリーダー)
リストマッティ・レヒテ博士
(国立ロスアラモス研究所職員、G元素解明チームメンバー)
カールス・ムアコック博士
(国立ロスアラモス研究所職員、G元素解明チームメンバー。
ロックウィード社レーザー・センサーシステム部門上級研究員)
ウィリアム・グレイ博士
(国立ロスアラモス研究所職員、G元素解明チームリーダー)
これまであらすじ(第二部まで)
前書き
連載が1年半以上に及んでいるので、簡単なあらすじを書き足すことにしました。
異界に臨む編
天のゼオライマーのパイロット、木原マサキと氷室美久。
彼等は、鉄甲龍との最終決戦で自爆したはずだった。
だが、気が付くとそこは20年以上前の冷戦が続く異世界だった。
1977年の支那に降り立った彼は、宇宙怪獣BETAと遭遇する。
100万を超える軍勢と、激烈な戦闘の末、カシュガルハイヴを攻略する。
驚異的な性能に目を付けた日本政府や、米ソを主とした東西両陣営が彼に近づく。
マサキは、次第に望まざる冷戦に巻き込まれていくのであった。
ミンスクへ編
BETAをミンスクから駆逐するパレオロゴス作戦。
木原マサキは、1978年6月に実施される予定の作戦に参加のために西ドイツへ出向いた。
そんな中、マサキは東西に分裂したベルリンを訪問する。
東ドイツ軍のエース、ユルゲン・ベルンハルト中尉との出会いが運命を変える。
ソ連の長い手編
エーリッヒ・シュミット将軍の反乱に遭遇し、東独軍を支援した木原マサキ。
シュタージの陰謀を未然に防いだ彼は、ソ連のKGB長官より危険視される。
そして、様々な計略と戦う事となった。
激烈な戦闘の末、KGBを下した彼は、パレオロゴス作戦を成功させる。
狙われた天才科学者編
パレオロゴス作戦の勝利に導いた木原マサキ。
彼は、東ドイツ政府からの勲章授与を理由に東ベルリンを訪問する。
だが、それはゼオライマーの驚異的な性能に目を付けた東ドイツ政府の奸計だった。
陰謀を知らないマサキは、ユルゲン・ベルンハルト中尉と再会する。
その際、一人の女性を紹介される。
ユルゲンの妹・アイリスディーナとの出会いが運命を変える。
マサキは、彼女と関わるうちに、次第に引き込まれていくのであった。
影の政府編
マサキを危険視するのはソ連ばかりではなかった。
自由陣営の盟主・米国もまた、マサキを危険視したのだ。
ニューヨークのビジネスマンは、マサキを打倒する陰謀を摩天楼で凝らしていた。
歪んだ冷戦構造編
西ドイツを訪れたマサキは、西ドイツ空軍総監から孫娘を紹介された。
キルケ嬢と共に欧州の戦術機開発計画の現状を聞かされる。
迫る危機編
月面より飛翔してくる着陸ユニット。
アイリスディーナとの逢瀬の途中に、その報に接したマサキは宇宙空間に向かう。
辛くも着陸ユニットの破壊に成功するも、グレートゼオライマーの建造を急ぐのであった。
甦る幻影
前書き
ユルゲン悪夢回
ユルゲンが、マライ・ハイゼンベルクと共にニューヨークに来て、3ヵ月が過ぎていた。
マライは、その間の勤務結果が認められ、晴れて陸軍中尉に昇進した。
マンハッタンのタイムズスクエアで、新年のカウントダウンが始まっていたころ。
彼女は今、ニューヨークのさるホテルにあるレストランで、豪奢なディナーを楽しんでいた。
ユルゲンがマライの事を招き、新年の祝いの酒をごちそうしてくれたのだ。
マライの姿は、いつになく艶やかであった。
東ドイツでは着た事もなかった薄い紫のワンピースドレスに、真珠の首飾り。
対するユルゲンは、ブルックスブラザーズで買った濃紺の2ピーススーツだった。
一応、ニューヨークに来る前に、東ドイツで2着背広を仕立てたが、余りの野暮ったさに、買いなおしたのであった。
「この度の中尉昇進、おめでとうございます。
俺もこれまでマライさんに、色々迷惑をかけてばかりいました。
反省しています」
「もういいのよ」
「しかし、人は見かけによらないんですね。
まさか、こんなに早く留学の環境に順応してくれるなんて……」
マライは照れ臭そうに、セミロングの茶色がかった金髪を左手で梳いた。
ホテルのガラス窓から、はるか遠くのロングアイランドシティーの灯りが見える。
見下ろせば、箱庭のような街が広がり、行き交う車の灯が、夜空をばらまいたように美しい。
「さあ、今日は大いに飲みましょう。
では、マライさんの昇進と来たる1979年を祝って、乾杯!」
ホテルの部屋に入ると、それまで保たれていたユルゲンの緊張が一気に解ける。
控えの間が付いた大部屋であるが、セミダブルのベットが2つ並んでいた。
ユルゲンは、着ていたサキソニー織のダブルのスーツを脱いで、浴室に入る。
軽くシャワーを浴びた後、ガウンに着替え、そのままベットへ倒れこむようして眠りについた。
――――話は遡る。
1976年12月。
ここは、ウクライナのヴォロシロフグラード(今日のルガンスク)。
前日よりの猛吹雪が地表に吹き付ける中、迷彩柄の戦術機の一群が駆け抜けていく。
網膜投射上に映し出されたウインドウに現れる、ソ連赤軍の勤務服姿の男。
ウクライナ派遣・ワルシャワ条約機構軍の司令官を務めるソ連赤軍大佐は、
「チェコスロバキアの装甲軍団がBETA梯団に包囲された。
東ドイツの同志諸君、ここを死守せねば、リボフに通じる街道が断絶されてしまう。
50万市民とチェコスロバキアの2万の兵が、厳冬の中に孤立するのだ。
光線級の為に航空輸送も心もとない。
わが社会主義同胞たちを、1941年のレニングラードにしてはいけないのだ!」
煽動する調子で熱弁を語る男に、ユルゲン・ベルンハルト中尉は冷めた一瞥をくれていた。
「今から行っても助からない」
彼の2年という長い実戦経験から、それが分かるのだ。
ましてや、冬季だ。
ここヴォロシロフグラードのBETAは10万単位で、カザフスタン西部と比べて、異様に数が多かった。
噂ではウラリスクハイヴからサラトフ、ヴォロネジを抜けて、ウクライナに入ってきたという。
取り残されたチェコスロバキア軍、約2万の軍団は勇猛果敢だった。
要塞級との距離が100メートルを切っても砲兵は退かず、踏みつぶされる寸前までBETAを駆逐した。
後続の戦車隊は、並みいるBETAの群れを踏みつぶしながら、果敢に前進した。
だが、光線級の群れの前に、彼らが頼みの綱とする戦闘ヘリ部隊は失われてしまったのだ。
「チェコスロバキア軍を救援し、浸透突破を実施せよ」
ソ連軍大佐の無茶ともいえる命令。
隊長のユルゲンが思い悩んでいると、副長のヤウク少尉が脇から回線に割り込んできた。
ソ連軍大佐に遠慮したのであろう。
公用語のロシア語ではなく、ドイツ語で尋ねてきた。
「ユルゲン、君はどう思う」
「無駄に兵力を損耗するだけだ。
それと、このまま重金属雲に入ったら、いつも通りの作戦で行く」
「了解!」
果たして、東ドイツ軍の戦術機体は、驚くべき果敢を示した。
BETA梯団も、その一触をうけるや、眠れる虎が立ち上がったような猛気をふるい、両勢、およそ同数の兵が広き地域へ分裂もせず、うずとなって戦い合った。
彼も必死、これも必死、まさに鮮血一色の死闘図だった。
約2万を誇るBETA梯団の中心部まで一気に駆け抜ける東ドイツ戦術機隊。
敵を撃ち倒し、叩きつけて、さんざんに駈け廻った。
「光線級吶喊に入るぞ!全機続け」
そういうと、ユルゲンの乗ったバラライカPFは、背中に突撃砲をしまうべく、右手をのばす。
それと同時に、一振りの長刀を、兵装担架システムから、ビュっと抜き出す。
「了解」
真っ先に、その目標を捉えて、部隊の中心から先頭に向かって駈け抜ける。
猛烈な剣戟を揃えて、ふたたびBETAの先手へ突っかかった。
ユルゲンの猛烈な白刃に答える様に、野火の様に広がりを見せていく戦果。
要撃級の群れを、殷々と唸り声をあげる突撃砲の斉射で、血煙に変えていく。
「ユルゲンを援護、刀を持っている奴は突っ込め!」
全身緑色のファントムが突撃砲を背中にしまうと、両手に長刀を構える。
その刹那、跳躍ユニットのロケットエンジンを限界まで吹かした。
長刀が閃くたびに光線級の体はひしゃげ、飛び散って、ズタズタにされていく。
20匹以上いた光線級は、塩辛みたいにされてしまった。
その砲声もハタと止んだ。
勝敗は一瞬に決したのだ。
ユルゲン以下わずかの機影が、綿のように戦い疲れて引っ返して来る。
戦術機までよろめいているかに見えた。
36機の一個大隊が、わずか4、5機しか戻って来なかったのである。
まもなく、戦略爆撃機による絨毯爆撃が開始された。
これにより、ワルシャワ条約機構軍には撤退する時間が得られ、戦線を立て直すことが出来た。
翌々日の夕方までに全軍は、ヴォロシロフグラードより撤退した。
そのことは、ユルゲンの心に深い傷を負わせた。
あれだけの死闘をして、結局ヴォロシロフグラードも、チェコスロバキア軍団も救出できなかった。
わずかに前線にあった戦闘指揮所を、ドニエプルに下げた位だ。
チェコスロバキア軍の陣地に弔問に行った際に見た、無表情の兵士たちが忘れられない。
互いに言葉もなく、芳名帳に記帳しながら斎場に入った。
本当ならばこの人たちを励ますべきではなかったか。
戦争で、部下が、知人が死ぬのは、今に始まったことではない……
そう己を律しても、心に渦巻く感情は収まる気配がなかった。
先頭に立って、剣を振るい、銃砲を放ち、敵陣を駆け抜けてきても、その気持ちは消えなかった。
死ぬべき筈は俺ではなかったのか……
…………
「……ううむ。う、う、む」
ユルゲンはうなされていた。
「ユルゲン君、ユルゲン君、どうかしたの」
しきりと、自分をゆり起していた者がある。
ユルゲンはハッと眠りからさめて、その人を見ると、マライ・ハイゼンベルクであった。
着ているものといえば、黒絹のネグリジェ一枚だ。
ドイツ人らしく、その下にはブラジャーもパンティーも付けていなかった。
「ああ。……さては、夢?」
全身の汗に冷え、肌着もずぶ濡れになっていた。
その瞳は、醒めてまだ落着かないように、天井を仰いだり、壁を見まわしていた。
「何か、飲む?」
「ありがとう。
ああマライさん、あなただったのか、何か寝言でも……」
「ユルゲン君」
と、マライは声をひそめて、ユルゲンの手をかたく握った。
「ようやくあなたの悩みをつきとめました。
BETAとの戦争で、仲間を、救うべき同胞を見捨てたことを今も人知れず苦しんでいらっしゃる」
「……えっ」
ユルゲンは、おもわずマライの方を盗み見る。
黒のネグリジェの大きく開いた胸元から、乳房のふくらみや谷間がはっきり覗けてしまう。
話すたびに、乳房で張り出した部分が、ゆったりと波打つ。
「隠さないで、それも病を悪化させた原因の一つです。
日頃から、およその事は察していましたが……
それほどまでにお覚悟あって、国のため全てを捨てて、忠義の鬼とならんとする。
そのご意義なら、このマライもかならずお力添えいたしましょう」
その潤んだ瞳には、何とも言えない風情が、情熱の高まりが感じられた。
ユルゲンの悩みは、今日でいう心的外傷後ストレス障害、PTSDである。
心的外傷後ストレス障害は、神経症性障害の一つである。
戦争など、死の危険に直面した後、その体験の記憶が自分の意志とは関係なく思い出される。
時として悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、辛さのあまり現実感がなくなったりする状態である。
その様な体験は一過性で、多くの場合は数か月で落ち着く場合が多い。
だが一部には時間がたつごとに悪化したり、突如としてその症状が出る場合もある。
厚生労働省の報告によれば、現代日本の総人口の1.3パーセントがかかる病気であり、実にありふれた精神疾患である。
しかし、時代は1970年代。
精神医学も途上で、精神疾患への偏見もあった時代である。
ユルゲンは、この苦しさを誰にも打ち明けられずにいたのだ。
以前マサキが危惧した通り、アルコール中毒の気があった。
それは彼の父ヨーゼフ・ベルンハルトの影響もあろう。
ヨーゼフは、妻メルツィデスとの離婚調停の際に心身を持ち崩し、重度のアルコール中毒になった。
KGBとシュタージによる卑劣な工作によって、父が狂った様を見たはずなのに……
この俺が酒におぼれて、世から逃げようとする何って……
その自責の念も、またユルゲンを苦しめることとなったのだ。
さて翌日。
研究室を訪れたユルゲンは新年のあいさつを済ますと、教授からある人物を紹介された。
「ベルンハルト君、君は空軍出身だそうだね。
一昨年までソ連に派遣されいて、BETAとの実戦経験も豊富だと……」
「はい。
……ですが、今はロシア研究所の留学生です」
「グラナン航空機という会社を知っておるかね」
「先の大戦中から米海軍と懇意な関係にある航空機メーカーですね。
一体、この事と何の関係が……」
すると、椅子に座っていた80を超える老人が立ち上がって、ユルゲンに近づいてきた。
「ベルンハルト大尉殿、どうぞお見知りおきを。
私はグラナンの社長を務めておりますリロイ・ランドル・グラナンと申すものです」
八十老の正体は、グラナン社長だった。
ユルゲンが後で知ったことだが、彼は第一次大戦中、海軍予備士官でありパイロットだった。
そして、コロンビア大学で駆潜艇の講習を受けた経験の持ち主だった。
「いえ、こちらこそ」
社長はマホガニーのパイプを取り出すと、詰めた煙草に火を点けた。
紫煙を燻らせながら、これまでの経緯を説明し始める。
「じつは貴国で鹵獲したミグ設計局のMIG-23試作機を解析したところ、わが社の特許が無断使用されていたのが判明したです。
これは、木原博士が鹵獲したスフォーニ設計局の試作機からも同様の事が判明しました」
ブランデーの香りがする煙を吐き出しながら、じっとユルゲンを見やった。
「大尉殿は、その辺に関して何かご存じなことはございませんか」
ユルゲンは、その端正な表情を変えずに、社長の問いに応じる。
「MIG-23試作機に関しては……
エフゲニー・ゲルツィン大佐、恩師とあがめていた男が乗っていたという事しか存じていません。
それに戦術機関連の技術は、ソ連でなくとも、我が国の情報部も知りたがっていましたよ」
「失礼ですが、貴殿の御離縁された御母堂。
彼女は、確か……シュタージの少佐と再婚されている……と聞き及んでおります。
何か、ご存じの件でもあればと……」
ユルゲンは薄く笑ってから、社長の瞳を凝視した。
詳しく聞いたら、承知しないぞ……。
そんな意志が込められているかのように、社長は感じ取っていた。
「母に関しては、既に父と離婚して10年にもなります。
彼女の事は、小官のあずかり知らぬことです」
ユルゲンは、咄嗟にそう答えた。
実は、母メルツィデスとの関係はそれほど疎遠ではなかった。
ベアトリクスとの結婚以降、母は以前のように月に一度はユルゲンと顔を合わせるほどには関係が回復していたのだ。
今の夫のダウム少佐とも、2、3度会ったことがあるが、誠実で平凡な男だった。
ロメオ工作員として篭絡して以降、本当に母の事を愛してくれている様だった。
だから、ユルゲンとしても父から寝取ったことは恨んでいても、それ以上の感情は割り切っている面があった。
そして母には、ダウム少佐との間に出来た幼い息子がいる。
もう一度、家庭を引き裂くのは、忍びない。
それが、息子ユルゲンとしての、最大限の譲歩であった。
困り顔をしているユルゲンに、涼宮が助け舟を出してくれた。
「それならば、私の方で木原先生に掛け合ってみましょう。
先生なら中共にもパイプがありますし、技術漏洩に関しては何かしらご存じかもしれませんから」
「涼宮君、君がそんな事をする必要があるかね。
それに、F14は日本に近々輸出する予定があるのだよ」
「差し出がましいようですが……」
「グラナン社長、私の方で政府筋に調べさせてみますわ。
とりあえず、今日はお引き取りを……」
「では教授、お願いしますよ」
後書き
近年の統計でも明らかですが、ドイツ人の約3割が睡眠時は全裸で寝て、その半分は全裸の上に寝間着を着るそうです。
マライさんの着方は、劣情を誘う為ではなく、ドイツ人では普通の着方です。
なお東欧圏では、今も真夏は全裸で寝ることを推奨している国もあります。
読者の皆様へ。
コメント欄の件ではお騒がせいたしました。
ひとえに小生の不徳の致すところです。
今回の件は、読者の皆様に、ご海容賜りますようお願い申し上げます。
ご意見、ご感想などのコメントお待ちしております。
甦る幻影 その2
前書き
今後の展開として、篁パパとミラ・ブリッジス関連の話が続きます。
なので、トータルイクリプスのタグ追加した方がいいんですかね?
開けた年は、1979年。
この異世界では、日本帝国の今後を左右する曙計画が終了した年である。
軍民合わせて216人の日本人が関わったこの一大プロジェクトは、今まさに終盤を迎えていた。
その年の始め。
マサキは、一月元旦というのに、京都の帝都城に来ていた。
年賀のあいさつと一連の欧州派遣軍の結果報告のためである。
彼は、斯衛軍の黒い特徴的な礼服を、身に着けていた。
まず上着は、詰襟で丈がひざ下まであり、肩には深い切込みが入っていた。
大元のデザインは、平安朝の頃、貴人たちが好んで着た狩衣装束に影響を受けているのだろう。
ズボンは、指貫という狩衣との対で着る袴を模倣したつくりであった。
ただひざ下まである革長靴を履き、上着の丈で隠れてしまったので大して目立たなかった。
美久も全く同じような服を着ていたが、婦人用の場合は着丈が足首まであり、腰が括れていた。
恐らく実用性を考え、奈良時代の女官朝服を基にしたのであろう事が一目見て分かった。
雪がちらつく寒空の中、一個師団の人員が着剣した64式小銃を構えて、中隊ごとに整列していた。
マサキも名簿上所属しているとされる中隊150名と共に待っていると、号令がかかる。
着辛い礼服を着て、寒さに震えていたマサキは、気だるそうに敬礼をした。
現れたのは、紫色の斯衛軍礼服を着た若い男だった。
1・5メートルはある長い黒漆で塗られた鞘の太刀を佩き、馬上から見下ろしていた。
その後を、青や赤の装束を着た者たちが、同様に騎乗して、列に続く。
マサキのいた場所は、列の真ん中ほどであったが、よくその男の顔が見える位置だった。
あれが御剣の甥で、今の日本を実質的に支配している政威大将軍か。
俺は、あのような男に頭を下げているのではない。
あくまで、日本の統治大権を持つ唯一の人物である皇帝に頭を下げているのだ。
このBETAに侵略されつつある世界であっても、変わることはあるものか。
そう、心の中で、将軍と五摂家への反抗心を、人知れず燃やしていたのであった。
新春年賀の閲兵式が終わった後、凍える身のまま、マサキは遠田技研に来ていた。
あの重苦しい礼服を脱ぎ去って、いつもの茶褐色の上下に、ネクタイの勤務服に着替えていた。
普段は襟が開いていて、着辛く寒い服と感じていたが、斯衛軍の礼服よりは温かく感じた。
雪に濡れて、湿っていたテトロン生地の服は、軍服として役に立つのかと思うほどだった。
さて、遠田技研の来賓室で待っていると、一人の男が入ってきた。
マサキに一礼をした後、名刺を差し出してくる。
名刺を見ながら、マサキは、
「詳しい話は、彩峰から聞いていると思う。
F-4ファントムの改造計画はどうなっているか、説明してほしい」
と尋ねた。
頭をきれいに剃り上げた男は、深く一礼をすると、
「木原先生、ご足労頂きありがとうございます。
社長の恩田です」
そう言って、マサキの目の前に座ると、資料を広げた。
「まず、自動操縦支援装置ですが、電装系を大幅にいじることになりました。
戦術機に搭載してあるレーダー観測装置は、従来と比較して2000メートル先まで検知可能に。
次に、一定の条件下では戦術機自体が自動運転を行うシステムの開発のめどが立ちました。
ただし、非常時には操縦士自身が運転操作を行わなければいけないという問題があります。
そして最後に、搭載するカメラの数を10個ほどに増やしました。
危険の認識を早くするためです」
「人工知能の搭載は、考えていないのか。
俺は、この技術があれば、衛士の生還率を向上できると考えている」
「実は先生から話を聞いた後、東大と京都大の然るべき教授と研究室に問い合わせをしました。
まず、その為には極小の半導体記憶装置が必要なのです。
我が国は今、10マイクロメートルのLSI(大規模集積回路)がやっとです。
京都大の霧山教授の話ですと、10ナノメートルほどではないと実現は不可能だと……」
いつもなら反論するマサキも、恩田の言に納得するばかりだった。
前の世界でマサキが最新鋭の半導体技術を用いることが出来たのは、国際電脳のおかげである。
国際電脳という会社を作り、100ナノメートルのDRAM(半導体記憶装置)の開発を秘密裏に成功した。
2020年代を生きる我々にとって、すでに半導体メモリーといえば、10ナノメートルは当たり前である。
だが、1980年代の時点では100ナノメートルは、空想の領域であった。
市場において一般化したのは、2000年代初頭である。
それが、如何に驚異的であったか。
半導体技術は長い間、マイクロメートルを基準に生産されていたのだ。
マサキは気分を落ち着かせるために、タバコを取り出す。
紫煙を燻らせながら、
「半導体技術の開発援助と、米国からの横やりをどうにかせねば実現不可能だな」
恩田も、マサキの意見に同調した。
「木原先生も、そうお考えですか」
「地球上のBETAが駆逐されたこととソ連の急速な弱体化……。
そうなってくると、敵がいなくなった米国の矛先は、どこに向かうか。
それから導き出されるのは、日本つぶしだ」
恩田に対して、まるで教えるような口調だった。
それは、近未来を知る異世界から来たマサキにとっては、無理もない事だった。
近いうちに、アメリカ国内から、強烈な日本たたきが始まる。
過ぎ去った1970年代や1980年代を知っている彼にとっては、常識だった。
日米半導体交渉や、プラザ合意など……。
日本の経済的進展をつぶす米国経済界の陰謀は、彼の脳裏に焼き付いていたからだ。
「貴様も自動車の輸出関連で手ひどい扱いを受けたから知っていよう。
間違いなく米国議会は、急速な電子工業化を進める日本を危険視する。
BETA戦争で疲弊して力を落とす欧州と比べて、無傷の日本の産業界。
これは、だれの目から見ても、脅威であることは明らかだ」
恩田は、マサキの言う通りだと思った。
それよりも、なぜ、まるで過去の出来事を見てきたように話すのかは気になった。
「量産を度外視した極小半導体なら、極端な話、研究室でも出来る。
だが、ある程度の品質で量をそろえるとなると、企業も工場も必用だ。
経済関係の役所の援助もなくては、外圧に負ける」
マサキは、おもわず苦笑をたたえた。
「策は、ないわけではありません」
恩田は、そういうばかりで結論を濁した。
「どういうことだ?」
「今の殿下と対立している五摂家に、崇宰家というのがございます。
その崇宰の当主のお力を借りて、役所の裏口から手を回すというのはいかがですか」
「どんな方法を」
今の恩田の一言には、マサキもおもわず生唾を飲み込んだらしい。
じっと、その顔を睨むように見て。
「危険な事を言うが、くだらない冗談ではあるまいな」
「いやいや」
と、恩田は正面のマサキを向いたままで。
「もし、計略をほどこすとすれば、それ以外に手はないと考えられます」
「だが、いかに良い策があるとは、五摂家とあっては、殿上人だ。
どうして、近づくことさえできるだろうか」
「木原先生は真正面に過ぎます。
帝都城も、五摂家も世間のうち。
抜け目ない海外商社などは、崇宰様といえば、庶民以上にお話もよくわかり、うまい商売さえしております」
「商売を」
「はい、それも東南アジア向けなどという小さい商売ではありません。アメリカ関係です。
そのほか、崇宰様を通してなら、どんなことも実現する。
そうと見て、何かと思惑を抱く輩は、伝手を求め、縁故をたどるありさまでして」
「なるほど」
「そこで、そうした崇宰様であれば、これは近づく方法がないでもない。
また、いつかはきっと、この計画のためにもなるものと考え、とうに道をつけておきました」
「では、貴様が直々に崇宰の所に行ったのか……」
「いいえ、裏で脚本を書く者は表には出ません。
それに、これからの筋書きもありますし」
マサキのやりくちは、その陰謀も行動も、人にやらせて見ているというふうだった。
胸には疑問を抱いていながら、判断と注意だけを与えるに止まっていた。
どんな場面においても、腹のなかのより大きな欲望はいつも忘れていなかった。
恩田の陰謀は、まもなく、その影響を城内省まで及ぼし始めていた。
彼への忠義だてに、精一杯な殿中の武官達は、競って崇宰の耳へしきりと風説をささやいた。
「崇宰様、お聞きなされましたか。
アメリカが規制を強化するという話を」
けれど、当の崇宰は、もとより世の常の男ではない。
人の告げ口や噂などに、すぐ動かされはしなかった。
崇宰の姻戚に鳳祥治中佐という人物がいた。
その鳳がある日、崇宰の屋敷に来たおりである。
「義兄さん。
アメリカが近いうちに日本の輸出産品への関税強化をするという話は知っておりますか」
崇宰家と鳳家は、親族同士だった。
同じ家から、姉妹を側室として迎え入れた間柄から、崇宰を義兄と呼ぶようになっていたのだ。
「祥治、君までがそんな戯言を信じるのかね」
「私の話を聞かぬうちに、判断なさるつもりですか」
「根拠のない話ではないと、証拠はあるのかね」
「口の軽い他人は、いざ知らず……。
この私が、何でそんな軽はずみな事で、義兄さんをわざわざ心配させましょうか」
鳳は言い切った。
本当の心情には違いあるまい、崇宰にもそう思われた。
それだけに、崇宰も鳳の言には、だいぶ心をうごかされたらしい。
だんだん聞き及んで行く内に、いつか理知のつよい彼も猜疑の塊になっていた。
それを執拗に訊ねる様は、むしろ鳳以上な動揺をうちにもってきたふうであった。
「……まこと、いまの話のようならば」
と、崇宰はもう抑えきれぬ興奮の色を、顔中に見せて。
「何か、対策を打たねばなるまい……」
「ここでご思案などとは、遅いくらいですよ。
昨年の11月に、ニューヨークの国連代表部にいる御剣の下に、CIA長官が訪ねたそうです」
「何!御剣公が……」
「今のCIA長官は、経済界との深い関係にある人物です。
御剣に、日米貿易交渉に関する裏話でも告げたに違いありません。
そうでなければ、米国の諜報をつかさどる人物が、わざわざ五摂家の一員と会う必要があるのですか」
御剣とCIA長官が何を話したかは、秘中の秘だった。
米国におけるG元素爆弾完成の日近しとの話は、将軍と御剣しか知らなかったのだ。
想像は、想像を呼んで、崇宰は恐怖に体を震わした。
まさか、御剣はCIA長官をそそのかして、自分の領域である対米輸出産業つぶしをするのではないか。
「御剣に、勝てる策はあるのか」
「ないわけでは御座いません。
天のゼオライマーという戦術機を駆る男を知っていますか」
崇宰もマサキの事を全く知らないわけではなかった。
気にならないといえば、嘘である。
ただ、マサキも油断ならないところのある男だ。
今は忠義面を決め込んでいるが、世界征服の野望を抱いていると聞く。
一応、斯衛軍の将校ということになっているが、崇宰は気を緩めていなかった。
「まずは……考えておく」
立ち上がる際にふらついた崇宰の事を、鳳は咄嗟に支えてやった。
その実、鳳も足元が確かではなかった。
密議にふけった夜は、波乱を予兆させて、静かに更けっていった。
後書き
鳳家は、唯依姫の母親・栴納の実家です。
崇宰恭子と鳳栴納は従姉妹にあたるので、その親同士は兄弟となります。
身分の高い武士や貴族は、基本に父系相続。
なので、母親同士が姉妹ということにしました。
唯依姫の母親は、この作品に出るとだけは言っておきましょう。
ご意見ご感想、お待ちしております。
甦る幻影 その3
ベトナム戦争において活躍した、超大型航空母艦「エンタープライズ」。
BETA戦争に対応するために改装計画を進めたアメリカ海軍は焦っていた。
原子力航空母艦とは何ぞやという読者もいよう。
ここで作者からの簡単な説明を許されたい。
原子力艦とは、小型の原子炉を搭載し,核反応熱で蒸気タービンを回して推進する艦艇である。
USSエンタープライズ (CVN-65)は、世界初の原子力空母でもある。
全長342メートル、満載排水量83350トン。
(最終的な改修の結果、満載排水量は93284トンになった)
専用に開発された原子炉A2Wを8基搭載し、そのほかにも蒸気タービンを装備した。
また原子力空母は、1度核燃料を交換すると20年以上燃料補給の必要がなかった。
その上、原子炉のおかげで、長時間の高速航行が可能。
キティ―ホークなど通常型空母に比べ、緊急展開能力が格段に高かった。
原子炉のおかげで、航空機の離発着を妨げる排煙がなく、煙突のスペースも必要ない。
その為、飛行甲板上の艦橋を小型化できるなど、運用上の利点は多かった。
原子炉のおかげで、艦艇用の燃料が必要なく、空間に航空燃料やジェット燃料を積載できた。
1961年に就役するも膨大な建造費や維持費の為に、同型艦は終ぞ作られることがなかった。
しかし、この異星起源の化け物が夜行する世界に在っては、そうではなかった。
一番艦エンタープライズの成功を受け、2番艦の建造が議会で承認される。
今まさに、バージニア州のニューポート・ニューズ造船所で始まったばかりであった。
ここは、サンフランシスコ。
市中にある南京町でも有名な高級中華料理店。
国防総省の一部局である海軍省の長官とヘレンカーター海軍大将は、密議を凝らしていた。
「グラナンの新進気鋭の技術者、フランク・ハイネマンによる新型機の着艦試験が成功した」
その報告を受けて、極上のウイスキーを片手に、今後の見通しについて話し合っていた。
「ヘレンカーター提督、この度の試験成功、おめでとう」
海軍長官は、そういうとウイスキーのボトルを傾けた。
12年物のシーバスリーガルを、オレンジジュースの如く並々と氷の入ったグラスに注ぐ。
酒を口に含むヘレンカーターは、いかにも満足そうだった。
「これも、ハイネマン君のおかげです」
安らぎの姿勢を見せながら言うヘレンカーターに、ハイネマンは苦笑した。
高級中華料理に箸を付けながら、海軍長官はハイネマンに謝辞を述べる。
「ご苦労さん、第一回目の試験としては上出来だった」
「問題は山積しております」
ハイネマンを尋ねる海軍長官の声は、穏やかだった。
「何かね」
「微修正の誤差があり過ぎることです」
一呼吸置いたハイネマンは、饒舌に語りだした。
「問題は、搭載しているLSIやセンサーではない。
姿勢制御用のスラスターを小型化し、なおも精度を高めれば……」
そういって、口ごもるハイネマン。
口直しに高級老酒「古越龍山」を一気に呷る。
この酒は中国外交部が国賓接待酒指定銘柄として証明書を発行し、大使館で供される品物である。
「引き続いて頼む。
ニューヨークのオフィスでは研究もしやすかろう」
「実用化のめどは、少なくともあと1年」
長官に注がれた老酒は、グラスから溢れんばかりであった。
慎重に口元に運び、のどを鳴らしながら一気に飲んだ。
「いや、2年か」
そういって、ハイネマンは天を仰ぐ。
一瞬、向かい側にいたヘレンカーターの目の色が変わった。
「だが、大統領は新型機の大量生産を指令してくる」
ハイネマンの顔に驚愕の色がありありと浮かぶ。
「そんなのは、無茶だ」
「戦術機開発競争は待ったなしだ。
今日の試験は非公開を主張したが、政府が許さなかった。
戦術機の保有数では、合衆国はソ連に後れを取っている」
米国に対して、軍事力の質の面で劣っていたソ連は、量の面で補う策に出ていた。
ここで、史実のソ連軍に関して振り返ってみたい。
ソ連赤軍の地上兵力は、173個師団183万人。
46個師団45万人を中ソ国境に配置し、ザバイカルには34個師団35万人が展開していた。
航空兵力については,全ソ連の作戦機、8500機。
極東に関して言えば、約4分の1である2060機を展開した。
その内訳は、爆撃機450機、戦闘機1450機、哨戒機160機である。
水上戦力は,ソ連の艦艇2620隻。
ウラジオストックにあるソ連太平洋艦隊では、785隻を保有していた。
「だが合衆国は、エレクトロニクスの点ではソ連をはるかに凌駕している。
ハイネマン君は謙遜しておるが、その点では世界最強だよ」
海軍長官は、少し飲んだだけなのにほんのり赤くなっていた。
いつもは白い顔に怜悧そうな表情を浮かべているのに、今宵は大違いである。
「ソ連には、フランク・ハイネマンがいない。
それがすべてですよ」
新しいシーバスリーガルを持ってきた海軍将校が横から口をはさむ。
夏季白色礼装に身を包んだ東洋系の好青年であった。
「今回の試験で開発競争に、拍車がかかりますな」
とたんにハイネマンの表情が険をおびた。
「なぜ」
「ソ連や日本に刺激を与えるでしょう」
そのとき、猛烈な勢いでハイネマンはテーブルを叩いた。
振動でグラスが揺れ、中に注がれた紹興酒が飛び散る。
「知った風な口をきくな!
BETA戦争での勝利には完璧な防御システムの完成しかないのだ。
その為にはLSI搭載の新型ミサイルと、高起動の戦術機が切り札になる」
ヘレンカーターは、委縮する青年将校を横目で見る。
静かに「パーラメント」の箱からタバコを抜き出すと、火をつける。
「大尉、君は下がりなさい」
海軍提督の言葉とあって、副官の青年将校は口をつぐんだ。
彼は、顔色一つ変えずに、教本の様な敬礼をするとその場を後にした。
アメリカ海軍の新型戦術機の試験飛行に、仰天したソ連。
緊急の政治局会議が、ウラジオストックの臨時本部でなされていた。
「米海軍が、300メートル超の大型空母の建造計画を進めているというのは、確かなのか」
書記長の問いに対して、外相は静かに答える。
かの人物は、国連で拒否権を連発したことから「ミスターニェット」と呼ばれていた。
「確認済みです。
駐米大使の報告の他に、公式非公式の資料からも間違いないように思えます」
それまで黙っていた国防大臣が口を開く。
彼は半世紀以上軍事産業に関わり、スターリンの手ずから軍需工業人民委員に抜擢されるほど。
30年ほどで、ソ連の軍拡を進め、米国に比するまで育てあげてきたのだ。
「同志議長、願ってもない軍拡の好機です。
米国の侵略的意図を世界中に公表し、我らが防衛のため軍拡を進めても……。
誰一人として、非難はできますまい」
ソ連戦略ロケット軍司令官を兼務する、国防次官もそれに続く。
「国連憲章第51条において、個別の自衛権は認められた権利です。
それに国際法の概念として、自衛権の行使、それそのものは、自然権であります。
生まれながらにして認められた権利であるのです、同志議長!」
赤軍参謀総長は瞋恚を明らかにして、立ち上がる。
いつにない激越な口調で、大臣を非難した。
「同志大臣、あなた方はアメリカを甘く見過ぎている。
彼らはそんな事では屈服しまい……。
それに、まちがいなく木原が出てくる」
国防大臣は、不敵の笑みを満面に湛えると、
「米国の顔色うかがう黄色い猿など、屈服させて見せる。
初戦で20・30万も死者が出たら、さしもの侍どももおっ魂消て、将軍の降伏文書をもってこよう。
それでもへこまねば、100万人を消せばいい」
「同志大臣、貴方はどうかなさっている。
そんな気違い沙汰を平然と口走るなどとは、少しばかり休まれてはいかがですかな」
一連の話を黙って聞いていた書記長は、立ち上がると、
「不毛な議論を続けている時ではあるまい。
一時、休会だ」
と、護衛と共に別室に退いた。
政治局会議は、邪険な雰囲気のまま、休会した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
篁家訪問 その1
前書き
読者要望であったミラ・ブリッジス関連の話になりますね。
戦術歩行戦闘機。
マサキが作った八卦ロボとの大きな違いは、その操縦方法であった。
衛士強化装備という特定のパイロットスーツから測定した脳波や体電流。
そこから、装着者の意思を数値化、蓄積されたデータを基に次に行う操作を予測。
機体の予備動作に、反映させるというものである。
一連の動作を間接思考制御と称されるものであった。
この高度な情報反映は万人が成功するものではなかった。
思うに、戦闘機パイロットであったユルゲンやヤウクなどが、機種変更を成功させた理由。
それは、BETA戦争初期の段階であったために、ソ連側から丁寧な指導を受けられた為であろう。
陸軍下士官出身のクリューガー、ヘリ操縦士のヘンペルも同じであろう。
第二次大戦時から婦人兵を重用したソ連であっても、婦人操縦士の割合が少ないのは、過酷な訓練故ではないか。
最前線になりかけていた東ドイツでも、婦人操縦士は指折り数えるほどでしかなかった。
アイリスディーナやベアトリクス、ユルゲンの同級生であるツァリーツェ・ヴィークマン。
いずれの人物に共通するのは運動神経が抜群の人物であるという事だ。
ヴィークマンに関して、ユルゲンから聞いた話によれば。
彼女は、柔道・空手の黒帯で、ミュンヘン五輪の強化選手候補であった。
国家保安省の陰謀に巻き込まれ、あらぬ薬物使用の疑いを掛けられ、柔道家の夢を諦めたという。
あの一見すると鈍そうなマライも、聞いたところによれば、身体能力は優れているという。
人は見かけによらぬものだと、マサキは心底驚いたものであった。
アイリスディーナは、幼少のみぎりから水泳に慣れ親しみ、県大会に出るほどの実力の持ち主だった。
(東ドイツの行政単位は、1953年以降、州制度から郡県制になった)
ベアトリクスとの出会いは、シンクロナイズドのペアを組んだことからだという。
ユルゲンとのなれそめも、その水泳に関連するものだった。
もしBETA戦争がなければ、大学か実業団に入っていたであろう。
今頃アイリスディーナは、ベアトリクスと一緒に大学で、教職の勉強をしていたかもしれない。
厳めしい迷彩服など着ずに、保母や幼稚園教諭として児童をあやしていたのかもしれない。
BETAという宇宙怪獣が、可憐な少女から、未来を奪うとは……
マサキは、つくづくBETAという存在が憎くなった。
グレートゼオライマーには、自分が作った八卦ロボのあらゆる特徴を盛り込むつもりだ。
これが完成すれば、惑星の一つや二つは簡単に消せるだろう。
そうすればBETAの前線基地はおろか、母星も滅ぼせよう。
マサキは、アイリスディーナを援助してやるのが、楽しくて仕方なかった。
特に地球征服の前段階としての東ドイツへの工作という理由を忘れて、若くて美しい彼女に溺れた。
新しいホープの包み紙を開けながら、可憐なアイリスディーナの姿を思い浮かべるうちに、あの娘を救ってやろうという気持ちが何も自分だけではないという考えに至った。
ユルゲンだって、宇宙飛行士の夢を諦めて戦術機パイロットになるぐらいだから、自分以上に彼女を救ってやりたかったのかもしれない。
自分の身に置き換えて、そう違いないという確信に至った。
いつしかマサキは、己の中に熱い情熱を感じ始めていた。
それは、今までの世界征服の野心とは、全く違った感情だった。
いずれにしろ、沸き上がった不思議な感情を落ち着かせるには、タバコを吸うしかない。
マサキは、何かにせかされるように、紫煙を燻らせた。
もし、自分がこの世界の戦争に介入せねば、前途洋洋な若者を大勢失われた。
その想像は、共青団動員や学徒出陣をしたソ連の事例を見れば難くない。
既に過ぎ去った、四十有余年前の戦争の時もそうだったではないか。
マサキの意識は、あの民族の興亡をかけた大東亜戦争への追憶に旅立っていた。
ソ連やナチスドイツと違い、自由で立憲君主制を引く日本では、戦時動員体制に入るのに長い時間を有した。
志那事変から大東亜戦争までは、学徒兵などは使わずに選抜徴兵と志願兵、予備役で乗り切っていた。
だが、それでも慢性的な下級将校の不足からは逃れられなかった。
大勢の青年将校を最前線で失った日露戦争の教訓から、様々な制度を整えていた。
だが志那事変が始まって、数年もすると日露戦争以上の人不足に陥った。
航空要員も同じであった。
既にそのことを見越して、帝国陸海軍は少年飛行兵の訓練を実施していたが、終ぞ米ソの大動員には勝てなかった。
今もそのことが教訓となって、自衛隊に生徒教育隊とか少年工科学校と呼ばれるものがある。
だが、古代より少年兵を使うのは国家の危厄時のみである。
毛沢東やカンボジアのポルポトのように少年兵を通常時から重用することになれば、およそ人倫や社会は崩壊するのは目に見えている。
既に夜は明けて、外は白み始めている。
ずっと、このような過去の追憶をしていても仕方があるまい。
マサキはそう考えると、再び布団の中に潜り込んで寝ることにした。
どうせ時間になれば、脇にいる美久が勝手に起きて、自分の目を覚ましてくれるだろう。
いくら秋津マサトの若い肉体とは言っても、休まねば己の脳は完全には働かない。
その様にあきらめると、しばしの休息を取った。
京都盆地の寒さは、想像以上だった。
城内省からあてがわれた住宅が、古い数寄屋づくりの住宅というのもあろう。
前世で温暖な静岡に住んでいた為か、非常に寒さが身に染みたのだ。
静岡では氷点下になることは珍しく、真冬でも日中は10度近くまで上がった。
その点が京都とは違うと、しみじみと思い返していた。
昼過ぎに仕事から帰ってくると、グレートゼオライマーの図面を修正していた。
製図版を抱き込むようにして座っていると、鎧衣が来た。
既にとっぷりと日が暮れた時間で不審に感じたが、一応来た理由を尋ねる。
「どうした、こんな日暮れに来て」
「私と一緒に、あるところまで付き合ってほしい」
その言葉に、一抹の不安を感じた。
この男がそういう時はたいていよからぬ話だからだ。
「土曜日の午後ぐらい、ゆっくり休ませてはくれぬのか」
まだこの時代の土曜日は、出勤日だった。
当時の日本社会では土曜は休日の扱いではなかったからである。
午前中だけ勤務するのがあたりまえで、そのことを指して半ドンと長らく呼ばれていた。
(半ドンとは、蘭語のzondagに由来し、半分の休日という意味である)
一般社会で完全週休二日制が導入されるのは1980年代以降であり、官公庁は1992年(平成4年)まで待たねばならなかった。
マサキには一応年間の有給が残っていたが、アイリス関連で使うつもりでいたので平日は休むつもりがなかった。
しぶしぶながらも鎧衣の対応に応じることにしたのだ。
連れてこられた場所は、洛中にある篁の邸宅。
作りからすると、江戸中期に建てられた武家屋敷で、立派な門構えであった。
鎧衣が屋敷の前で、取次をすると、間もなく屋敷の大門が開く。
マサキは、くぐり戸から内玄関からではなく、式台がある本玄関に車で乗り付けた。
式台とは、玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置される板の事である。
かつて未舗装の道が多い日本では、駕籠や馬で乗り付けた際、悪天候の際は足元を汚す場合が多かった。
それを避けて、貴人や主君を迎えるために、設けられた空間を指し示した。
いつしか、それは表座敷に接続し、家来の控える部屋を指し示す言葉となった。
マサキは、この異例の対応に驚いた。
自分は、この世界では何の縁もゆかりもない根無し草。
精々持っているのは、特務曹長の肩書と、近衛軍の黒い装束を着る権利。
あとは、胸に下げる何枚かの勲章だけなのだ。
表座敷(客間)で、出された茶を飲んで待っていると、着物姿の篁が入ってきた。
武家の慣習は、よくわからない。
だが、自宅というのに、茶色い羽織と同色の長着に、黒の襠高袴だった。
篁は、履いていた太刀を外すと柄の頭を下にして刃を太刀掛の方へ向けて立てかける。
そして着席するとまもなく、慇懃に頭を下げてきた。
「此度の訪問、誠にありがとうございます」
マサキも形だけの平伏をして、それに答えた。
「面倒くさい挨拶は良い。俺を呼んだ真意を聞かせてもらおうか」
篁はマサキの歯に衣を着せぬ言い方に失笑した後、
「実は、F-4の日本版である、激震のフレーム改造に協力してほしい。
以前貰ったローズ・セラヴィーの関節が特殊だったんでな」
マサキは、遠慮せずにタバコを吸うことにした。
篁との話し合いだ、女子供もいないだろうし、何の遠慮気兼ねも必要あるまい。
静かにホープの箱を取り出して、火をつける。
「言っておくが俺は戦術機に関しては、素人だ。
戦術機に使われている電磁伸縮炭素帯など信用しておらんからな。
ローズ・セラヴィーなら、内部フレームはゼオライマーと同じような作りになる」
夕方に来たから、茶菓子の一つも出ないのか。
案外、武家というものは質素な生活をしているのだなと、思った時である。
奥の方から色無地を着た白人の女がゆっくりと現れた。
「え……」
思わず、マサキはつぶやいていた。
紺の色無地姿の女は、年のころは20代後半であろうか。
化粧はあまりしていないが、肌艶がきれいで人目を引くような端正な顔立ちである。
きりっとした水色の瞳は深い輝きを放ち、氷のような鋭さを感じさせた。
まるで極寒の海に浮かぶ流氷の様な、瞳であった。
マサキは直感的にわかった。
これが、天才女技術者のミラ・ブリッジス。
これならば、篁が夢中になるのも分からないでもない。
思わず、タバコを口から取り落としてしまった。
「木原さんですね。
いつも、主人がお世話になっております。
ミラ・ブリッジスです。」
清楚で、繊細……それに笑顔が自然だ。
マサキは目の前のミラを、上から下まで眺める。
感無量の面持ちになりながら、タバコを拾って灰皿に押し付ける。
「ど、どうしたの。大丈夫」
「気にしないでくれ……何でもない」
肩まで伸びるセミロングの金髪は艶に満ち満ちている。
潤いのある前髪がふんわり額に垂れかかる眺めは、形容しがたいものであった。
身長は162、3センチ。
着物を着ているせいか、よくわからない。
だが女好きの篁が一目ぼれするくらいだから、恐らく熟れたグラマーな体系なのだろう。
「木原さんって、祐唯や榮二の話だと、ずいぶん元気のいい人ってイメージがあったけど違うのかしら」
「え、いや、そんな……」
この瞬間、マサキは至福を味わった。
それは、数十年ぶりに歓喜の爆発する様な感激を覚えた。
たとえ、それが社交辞令であっても、寛悦の時だった。
「吉祥天か、弁財天か」
吉祥天とは、インドの女神であるラクシュミーであり、美と豊穣の神である。
後に仏教に取り入れられ、守護神の一柱となった女神である。
弁財天は、又の名を弁才天ともいい、インドの神サラスヴァティーである。
水と豊穣の女神とされ、仏教の守護神として受け入れられた。
日本では、福徳の仏とみなされ、吉祥天と同一視する信仰まで生まれた。
「見目麗しい女神が、この世に降りてきたかと、つい思ってしまったのだよ」
何、水を差すようなことを口走ってしまったのか。
いや、口に出せない本音は、まだあるが。
心なしか、篁と美久からの視線が痛かった。
後書き
また23日も休日投稿するつもりです。
ご意見、ご感想お待ちしております。
篁家訪問 その2
前書き
ミラ・ブリッジス大暴れの巻
洛中にある武家、篁家の土曜の夜は静かだった。
帝都で、なおかつ景観を保護する条例もなかったら、マンションだらけになっていたろう。
マサキは、篁亭に時間が過ぎるのを忘れていた。
囲炉裏の前に座りながら、戦術機の改造や改良点について、熱心に話し合っていた為である。
マサキと、74式長刀の設計者である篁の意見。
それは、全く同じだった。
戦術機の腕は、重量や衝撃に弱すぎる。
マサキも、長刀使いのユルゲンやヤウクの経験を聞いていたので、納得するばかりであった。
戦術機は、軽量に作ってあって薄い装甲板しか載せられないからだ。
ゼオライマーと違って、腕には太い内部フレームが入っていない。
細かいギアとアクチュエータの塊で、非常に繊細だった。
フェンシングが特技のヤウクと違って、アイリスやベアトリクスは剣技の取得に苦労したろう。
よし、俺がローズ・セラヴィーの様に剣技に耐えうる腕に作り直してやると、一人興奮していた。
話が盛り上がっていたころ、美久が、おそるおそるマサキの前へ出た。
マサキの顔に近づくと、そっと耳に囁き掛けてきたのだ。
「いつまでも、若いお二人に迷惑をかけるのは何かと……」
マサキは、左手の腕時計をちらりと見る。
文字盤の上にある短針は、深夜10時を指していた。
「腹が減ったな」
篁は、わきにいるミラに目くばせをする。
「ウィスキーはないが、清酒はある」
「ほう、酒に造詣があるのか」
「我流でね」
ミラは立ち上がると、そそくさと、奥の方に消えていった。
恐らく、酒の準備だろう。
そう考えたマサキは、不敵な表情になる。
「馳走になるか」
予想通りの事なのに、美久はさもマサキが悪くなるような口調で言った。
「一体、貴方の神経はどうなっているのですか」
哄笑を漏らすマサキの耳に、美久の言葉など、ほとんど入っていなかった。
酒でも飲みながらということで、篁とミラを囲んで食事をした。
献立は、牛肉を中心にしたものだった。
すき焼きに、肉じゃが、肉吸いと、その豪華さにマサキは驚いた。
(肉吸いとは、大阪を中心に出される牛肉入りの汁物である)
これは、関東と関西の食文化の違いでもあった。
肉といえば豚肉という関東で育ったマサキには、衝撃でもあった。
「君が用意したのか。
女中たちは、何をしてるんだ」
いきなり篁から予期しなかった質問が出るも、ミラは笑いながら、
「もう帰しました」
「じゃあ、俺たちと木原君、氷室さんの四人だけか」
「うるさい人がいない方が、せいせいと話できるでしょうから」
くつろぎの表情を見せながら言うミラに、それまで黙っていたマサキは苦笑した。
確かに女中がいないと静かだ。
「人は見かけによらないものだ。
あんたみたいなしたたかな女は、嫌いじゃないぜ。
ベルンハルトの妻といい、珠玉のような女性巡り合えるとは……」
言うなりマサキは、惚れ惚れとミラの顔を眺めながら、酒を酌んでいた。
ミラは、技術者というのに話し上手で、マサキを飽きさせなかった。
話は弾んで、食事が進み、清酒がマサキの気持ちをリラックスさせた。
「ほう。なかなか機械工学に造詣が深いではないか。
まさかマサチューセッツ工科の大学院出ではあるまい。
もしそうならば、この俺は大変な才媛との出会いを得たわけだ」
マサキは、ミラが思ったよりも若いのに驚いた。
米国の工学系大学院というのは、基本5年間だからである。
日本と違って、米国の工学系の大学院は修士と博士課程がセットになっていた。
最初の2年で基礎的な数学の授業をした後、残りの3年間で博士課程を受けるという制度。
だから、ミラが3年に及ぶ曙計画に参加したというのに、まだ20代後半である。
その事実に、ひどく驚いたのだ。
普通ならば、22歳で大学を出て、そこから5年間博士課程をやれば、早くて27歳。
曙計画を考えれば、30歳になっていなければ、おかしいくらいだったからだ。
無紋の色無地を着ていても分かるすらっとした体に、抜けるような白さの肌。
上品な育ち方をした女は、やはり見た目も上品である。
南部出身の田舎者というイメージがあったが、会ってみれば、ミラは中々の美人ではある。
第一印象は、合格だった。
美しい女が奉仕をするので、マサキは目を細めて眺めた。
柔らかく繊細な指で酌をする内に、マサキの顔色はみるみる赤くなっていった。
「話は変わりますが、曙計画はどうなりましたか」
マサキの脇にいた美久は、穏やかな視線をミラに向ける。
「ええ、順調に進みましたよ」
ミラは、すぐに華やかな笑みを浮かべる。
この辺りは何の変哲もない社交辞令なのに、美久の電子頭脳には引っかかった。
ミラは、曙計画でのエピソードと篁との出会いを話してくれた。
その表情をみて、美久はどこか空々しいものを感じ取っていた。
「木原さんも、曙計画に来ればよかったのに」
ミラは、静かに酒を飲むマサキへ、それとなく話を振った。
マサキは、冷たい杯を手に挙げて白く笑った。
「ハハハハ。
この木原マサキが、いまさらその様な計画に真顔に耳が貸せようか。
笑止千万な話よ」
「でもね。こちらも楽しかったのよ」
そのうちミラの目が、マサキの方を向いた。
ミラの目はいくらか碧がかっており、宝石のような輝きを帯びていた。
「あの、木原さん。話があります」
ミラの口調には強い意志が感じられた。
マサキとしては、笑うのをやめて、聞き入るほかはなかった。
「何の話だ」
マサキの目的を知るには、相手の懐深く入り込むことである。
ミラは、マサキに一歩でも近づこうと決心した。
「私はあなたが創ろうとしているものには、協力は惜しみません」
篁がごくりと音を鳴らして、清酒を呑んだ。
「いいのか」
ミラは目を細めて、マサキに近づいた。
二人の距離は、1尺と離れていない。
お互いの息遣いさえ、肌で感じられるほど、近かった。
「いいの」
「本当にか!」
「ただし条件があります」
マサキは開き直ったように、ミラを、彼女の目を見据えた。
「どういう意味だ」
マサキの手を胸に押し付けながら、目を潤ませる。
しがみつこうと思えば、しがみつけるような距離までぐっと顔を近寄せる。
「木原さん、貴方がどういう意図で近づいてきたか、よくわからないの。
一緒に新型機開発をする為には、隠し事をしてほしくないの」
ミラは美しい声で言った。
マサキの秘密を隠そうとする態度を、知らないかのように。
「そうか……わかった。
では、ミラよ。お前から知りうる情報を話してくれぬか」
日本・米国・ソ連の3か国がわずかな時間の間に、それぞれ違った形で木原マサキと接する機会があったにもかかわらず、ゼオライマーの秘密が、この世界で露見しなかったのは、なぜか。
日米ソの3か国が、それぞれの思惑の中で密かにゼオライマーを解明しようとしたからである。
既に応用された技術や戦術機の改良だったのならば、研究機関で解明したり、多国間で調査をしたであろう。
しかし、次元連結システムという特殊なシステムの為に、日本もソ連も慎重になっていた。
だが米国だけは、2つの国は少し違った。
それには、いろいろな要素がある。
まず、G元素というBETA由来の新物質の研究が進んでいた点である。
それは、世界で初めて核爆弾を完成させたロスアラモス研究所を持っていたことが、起因するのかもしれない。
ここで特筆すべきは、ミラの積極性だった。
マサキの各国政府への近づき方は、異常である。
ミンスクハイヴ攻略を通して、各国の首脳に働きかけた点は、不振この上ない。
これは全て嘘だ、裏に何かがあると考えた。
何事にも積極的なミラは、自ら進んでマサキに真意を尋ねた。
それも生半可な事ではない。
自分の知りうる情報を、全て明かして見せる事であった。
「上院議員を務める父方の伯父にきいたんだけど、どうやらG元素爆弾は完成したらしいの。
ロスアラモスでは、今年の夏までに起爆実験を行う予定なんだけど、新聞社にすっぱ抜かれちゃってね」
マサキは、胸ポケットからつぶれたホープの箱を取ると、タバコを抜き出した。
「ほう」
言葉を切ると、タバコに火を点ける。
「G元素には、新型爆弾を作るのに必要なグレイ・イレブンというがあるの。
それをロスアラモス研究所のムアコック、レヒテの両博士が応用して、重力制御装置を完成させたらしいのよ。
どうやら今度の月面攻略で、その装置を乗せたスペースシャトルを月にぶつける。
そうという作戦案が外交問題評議会から提案されて、ホワイトハウスに持ち込まれたらしいの」
「それほどの事を、一介の兵士でしかすぎぬ俺に、何故明かす」
「大切な人を守りたいのよ。
私が、わざわざ南部の田舎、ルイジアナを抜け出して、スタンフォードに入って、グラナンまで行ったのはそういう理由からなのよ」
マサキは最初の内こそ慎重だった。
だが、ミラが、さりげなくG元素の秘密やその貯蔵量まで明らかにすると、マサキは油断を見せ始めた。
「でも俺は、お前を100パーセント信用してよいのだろうか」
マサキは驚きを隠しきれず、さらに決定的な返事を欲しくて、念を押した。
「嘘じゃないわ。
それに私は、あなたには日本政府さえも知らない情報を教えたじゃないの。
もうすっかり、あなたの仲間よ。あなたの申し出なら何でも協力するわ」
「絶対にか」
「ええ、絶対……」
マサキは静かに紫煙を燻らせながら、相好を崩した。
「お前のような優しい者が、そのように凄んでみては……
折角の、天女のような美貌も台無しだ」
「ねえ、ゼオライマーの秘密を教えてくれる?
私、興味があるのよ」
マサキの語調も、ミラにつられるように強くなった。
「何を」
「教えて、貴方の真の目的を。
どうして無敵のスーパーロボットがあるのに、なんで戦術機開発に参加するのか」
ミラは、はっきりそう言い切った。
脇で俯いていた美久は顔を上げた。
まさか、ミラがそんなことまで聞いてくるとは思ってもみなかったからだ。
「原子力や蒸気タービンを上回る、ゼオライマーのエンジン、次元連結システム。
私はこう思うのよ。
確かに帝国陸軍はゼオライマーのエンジンの検証をしても、どこからも異常はなかったという検査結果が出たし、今までBETAとの戦闘もつつがなくこなしてきた。
でもね。あのスーパーロボット、天のゼオライマーを建造した木原マサキの事。
簡単に、人にわかるような構造にするのかしら」
マサキは、真剣な表情でミラを見つめていた。
ほんの数秒前まであった、マサキの余所行きの笑みは消えていた。
「ひょっとして、肌身離さずその秘密を持ち歩いているんじゃないかって」
声にうながされるように、脇にいた篁はびくりっと振り返った。
ミラを見て、ハッとしたような表情になる。
「たとえば、装置の上からシリコンをかぶせて、人間の振りをしてね」
離れて座る篁にさえ、マサキが身を強張らせるのが、判るほどであった。
一瞬にして、周囲の空気が凍るような緊張が走った。
『わずかな情報からその様な結論に至るとは、鋭い女性よ』
マサキは思案になやむ。
もう秘密が露見するのは、時間の問題だ。
次元連結システムの事を聞き出そうとするミラの覚悟のほども、わからなくはない。
必然、篁の話に拠って、さらに状況証拠をあつめ、結論をかため直していることだろう。
その様に、彼には案じられて来た。
こうなったら、徹底的にミラを利用してやろう、と肚を決めた。
すると、マサキは滔々と持論を開陳して見せた。
「もし、俺がとてつもない兵器を持っていると世間に発表したらどうなる。
例えば、この京都のほとんどを一瞬にして消滅させる兵器をな」
マサキの言葉から、ミラは何かふッと、胸が騒いだ。
「混乱が起きるか、それとも世間は静かか。
どう思う、ミラさんよ」
マサキの口元の笑みが、広がる。
ミラは、彼流のコミュニケーションなのだと感じた。
気の利いたことを言ったつもりらしい。
ミラは頭の中で、それらしいことを言って、話を戻そうとした。
「きっと持っている。持っているからこそBETAに勝てる。
勝てる自信があるからこそ、落ち着いていられるのよ」
マサキの理論は、強引だった。
「そう、落ち着いていられる。
この汚れ切り、腐敗した世界。
金権にまみれ、人間の心を忘れた獣たちの住む日本を破壊し、消滅させることが出来るからな」
マサキは、会心の笑みを漏らし、タバコに火をつけ始めた。
部屋中の空気が落ちてくるような圧迫感に、ミラは思わず身をすくめる。
「貴方がいつも思っている可愛いお嬢さんとは、まるでかけ離れた世界ね」
「そうでもないさ。
夢だの、希望だの、正義だの……裏付けする力がなければただの絵空事さ」
マサキは、唇に傲慢な笑みを浮かべる。
「この冥王、木原マサキを突き動かしたもの。
それはアイリスディーナへ愛だよ、愛。
あの娘御は、家庭の団欒はおろか、世間のことも、何一つ知らなかった。
だからこそ、悲運に身にゆだねるしかない女の一生を救ってやりたかった。
ただせめて、人の真情をアイリスディーナに与えてやりたい」
「東ドイツには、男女の真実、それすらないのですか」
「人口の1パーセント以上が、秘密警察の密偵という住民総監視社会。
その様な火宅の中で、どうして真実が生れ出ようか」
マサキは腹から言った。
自分の身にも、くらべて言ったことだったが。
「乙女の一途な執念、これほど恐ろしいものとは……知らなかったよ」
すでに、あきらめ顔のミラは、こう彼に返した。
「正直言って、これは想像も付かなかったわ……。木原さん」
「こちらの肚を、見せたまでさ」
マサキは、話し終って、ほっとした。
次元連結システムの、秘密の露見。
忘れようとし、忘れてはいたものの、やはり彼の心の奥には、大きな弱身として、気づかわれていたことの一つではあった。
後書き
ご意見、ご要望お待ちしております。
篁家訪問 その3
前書き
ミラ・ブリッジス編まとめ回
世界征服を企むマサキは、情報収集に怠りはなかった。
常日頃より、新聞雑誌は元より、テレビやラジオも見聞きした。
この1970年代には、われわれの時代のようなインターネット通信回線はなかった。
マイコン通信と呼ばれるものが出てくるのは、1980年代後半を待たねばならなかった。
マサキは、この異世界で発行部数の多い新聞を読みながら、考えていた。
この時代は、まだ携帯電話も、パソコン通信も未発達だったな。
人と人との距離が近いのはよい面もあるが、色々と煩わしいものよ……。
再び新聞の一面に目を戻す。
『対BETA戦争、国連へ一本化
バンクーバー協議 実効性は不透明』
マサキが見た一面記事は、国連安全保障理事会に出されたある提案であった。
ソ連の提案によるもので、統括のない戦闘がBETAの拡大を招いた。
それを反省して、戦争を国連主導で行おうという決議案である。
次に目が留まったのは、城内省の戦術機開発の記事だった。
『時期戦術機策定計画 大手三社参加
国産機開発 82年度中めど』
ついに城内省で戦術機の選定作業が始まるのか。
そうすれば、グレートゼオライマーの建造は遅れる。
いつまでも篁やミラと他愛のない話をしていては仕方もなかろう。
マサキは大々的に動くことを決意した。
夜遅くまで語り合ったマサキは、そのまま篁家に一泊した。
ミラ手ずから作った朝食を取ってから、篁家の送迎で帰ることとなったのだ。
「木原さん、朝餉が出来ました」
ミラに呼ばれた先には、すでに朝食の準備がなされていた。
マサキは膳の前につき、ミラの用意した朝餉を食べている間も思い悩んでいた。
食後に、ミラの淹れた玉露を呑んでいる折である。
不意にマサキは、先ほど読んでいた新聞を広げた。
「美久!」
「はい」
そういって向かい側にいた美久が、マサキの前に跪いて、新聞を覗く。
懐から火のついていない紙巻煙草を取り出し、一面記事に載る写真を指差す。
それは、BETA戦争を国連に一本化するバンクーバー会議の写真だった。
「この集まりは、邪魔で目障りだな」
ちょうどその場には、篁もミラもいなかった。
ミラは膳を下げて台所に、篁は外に煙草を吸いに行ったらしい。
わざわざ冬なのに煙草を外に吸いに行くとは、とマサキは訝しんだ。
聞き耳を立てる篁がいなければ、仮にミラが来ても大丈夫だ。
彼女は日本に来て1年弱で、それほど日本語が得意ではなかろう。
昨晩の会話は、ほぼすべてが、英語だったからだ。
だから、マサキは己のたくらみを美久に明かしたのだ。
「潰せ」
「ニューヨーク市警とFBIが厳重に警備している集まりをどうやって……」
「裏から手を入れさえすれば、簡単であろう」
間もなく篁とミラがマサキたちの前に戻ってきた。
マサキが呼んだのだ。
「実は、二人に頼みがある。日米の親善を深めてほしい」
マサキの唐突な提案に、篁は色を変えて、
「よくもぬけぬけと日米親善などといえるのだな。君は。
両国の間の関係は必ずしも穏やかではない」
「先のF-4ショックも、あって日米間の感情は悪化してしまった面がある」
F-4ショックとはBETA戦争初期に日本に納入されるはずだった戦術機12機。
欧州での戦線拡大を理由に、次年度発注分までが、欧州に横流しされた。
このことは、日本の財界や国防関係者をして、米国に失望させる原因となった事件である。
「大きな誤解があるようだな」
「何!」
「たかが、戦術機数台で」
「たかが戦術機だと」
「そうだ、たかが戦術機だ。
戦争の成否に比べれば、たかが戦術機。
求めるべきものは戦争の勝利よ」
「何を馬鹿な事を……同盟関係にある日米二か国ですら戦争の合意が不十分なのに」
「だからこそ、篁。お前に頼んでいるのだ」
マサキは着ていた丹前の袂から、ホープの箱とライターを取り出す。
「日米はあの戦争の前から、長い間争い続けていた。
このまま争い続ければ、双方が疲れ果て、いずれはBETAに滅ぼされてしまう」
おもむろに火を起こすと、タバコに火をつけた。
「いや、狙っているのはBETAばかりではあるまい。
北のソ連や国際金融資本など、今のままでは危ういのは、火を見るよりも明らか」
火の点いたタバコを持ったまま、両手を広げ、
「だが、日米が手を握るには、これまでの怨念があまりにもありすぎた」
不動明王の天地眼を思わせる目が、篁を射抜いている。
彼は、動くことが出来なかった。
「篁、貴様は米国南部の名門の令嬢を娶った。
お前の寵愛を受けたミラとの間に子供を……」
「……」
「ミラには、なんとしても息子を産んでもらうしかない」
マサキはこの時、よもやミラが懐妊しているとは知らなかった。
彼女が、篁家の後継ぎをその身に宿しているとは夢想だにしなかった。
「そうすれば、その子は篁家とブリッジス家の血を引く子供だ。
両国の名門の血を引く子供になる。
その子が日米親善の架け橋の一つとなる」
マサキは唇をほころばせた。
篁は、自分の心の奥底まで見透かされたような気がして、俯いた。
「なんとしても、俺はお前たちの関係というものは守って見せる。
BETAを撃つためにも、ソ連を破滅させるためにも……」
マサキは簡明に答えてやった。
どこからともなく、すすり泣きの声がながれていた。
ミラが突っ伏すような格好で、嗚咽していたのだ。
そんな様子を不憫に思ったマサキが尋ねた。
「なにを泣いていた?」
「はい」
「遠い他国に輿入れして、嫁務めが辛くなったか」
「そんなことはございません」
「では、なんで泣いた」
「どうしたのか、わかりませんが……」
ミラは両方の眼を袖でかくしながら、身を起こす。
彼女は顔から袖を離して、呟いた。
「既に木原さんの宿願は叶っていますわ」
そうか、ミラは妊娠していたのか。
マサキは、狐につままれたような気がした。
びっくりしたように、坐り直して、呟く。
「一体どういうことだ」
呆然とするマサキに、ミラは静かに語りかけた。
「私は、祐唯を知って、愛の何たるかを知りました。
その時から、父から聞かされていた日本への憎しみも失いました。
憎しみは何も生じません。
でも、愛はあらゆるものを生み出します」
ミラの眼には、つきつめた感情が燃えていた。
早朝の無気味な静寂は、語気の微かなふるえまでを伝える。
どう答えていいかわからず、マサキはミラの顔を見つめていた。
「愛は、この私に喜びを与えてくれました。
祐唯、貴方を本当に愛したのです。
彼は、生まれて初めて、この世でたった一人だった私が、本当に愛した男なのです」
さしもの美久も、思わぬ展開に呆然としてしまった。
彼女は理知的とは言えども、所詮はアンドロイドという機械である。
女の、花の盛りを心の中で抑え、一人堪えていたミラの心は理解できなかった。
「愛は何物よりも勝ります。
憎しみよりも強いものは、愛だと確信しています」
その言葉は、マサキの骨髄に徹するものだった。
あの30有余年前の大戦争の事を引きずる彼には、衝撃的であった。
脇で見ていた篁は、おどろきのあまり、声を出さなかった。
彼は、話し終えたミラをいたわるように抱きしめる。
マサキは、その様を見ながら、ひとりで酌みはじめた。
天満切子のガラス杯から全身に、沁み入る気がした。
「…………」
酔い得ない酒だった。
寒々と、ほろ苦くばかりある。
「ミラよ。お前は強い女よ」
彼は、強いて、からからと打ち笑うような気を持とうと努めた。
しかし酒を含むたびに、心に冷たく沁みる。
どこかで、粛々とすすりなくのが、身に逼るような心地がする。
マサキは、元来、多情な男である。
その多情が働きだすと、他人事ながら、声をあげて泣きたい気持ちがしてきた。
「……もし自分が、篁祐唯の身であったら」等と、思いやったりした。
ところが、そう考えてから、ひどく気が変わって来た。
「しかし、男女の仲はわからぬものよ。
この木原マサキに、冷や汗をかかせるとはな……」
一人つぶやいて、また一杯、唇に含んだ。
その一杯から、ようやく普段の味覚が戻ってきたように、感じられて来た。
早速、自宅に帰ると、美久を金庫に連れて行った。
1町歩ある邸宅の地下に、200坪ほどの金庫を秘密裏に作っておいたのだ。
そこには、眩いばかりの金銀財宝が並んでいた。
金ははじめ、銀・プラチナなどの希少金属、ダイヤ、ルビーなどの約70種ほどの未加工の宝石。
「この日のために、俺は311万トンに相当する金塊を準備しておいた」
(1978年末の金の平均価格、1トロイオンス=226米ドル。1トロイオンス = 正確に 31.103 4768グラム。)
金塊は、海水中に含まれる金の成分を抽出し、生成したものであった。
マサキの作ったマシンに雷のオムザックというのがある。
物質を原子レベルに分解するプロトン・サンダーという機能があった。
マサキは、それを次元連結システムの応用で部分的に再現した結果、金の抽出に成功した。
ただ海水1トン当たり金1グラムなので、311万トン作ったところで、マサキの気力がなくなってしまったのだ。
金以外の希少金属と鉱物資源は、マサキがハイヴ跡から持ち出したものである。
無論、ミンスクハイヴでのG元素採掘の際に拾い集めたものも含まれていた。
マサキは、いつになく落ち着き払っていた。
「手始めに、100キロの金塊は、各国の政財界の要にばらまく。
ソ連の提案を否決させ、バンクーバー決議を廃案に追い込むために」
マサキの本音を聞いた美久の顔つきは、ひどく複雑だった。
「残り100キロは、マスコミだ。
そうよの、ソ連の支配下にあった東ドイツを悲劇のヒロインに仕立て上げる為に」
唖然とする美久を見て、マサキは悪魔の哄笑を浮かべた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
部隊配属 その1
前書き
ご要望のあったアイリスディーナの軍隊生活です。
リクエストを受けて話を書くのに、だいぶ時間がたってしまいました。
マサキが日本国内で多忙な日々を送るその頃、アイリスディーナも多忙だった。
彼女は教育隊での3か月の訓練を終えた後、ポーランド国境に近いコトブス基地に来ていた。
このコトブスには、東ドイツ空軍の第一防空師団の主力部隊である第1戦闘航空団が駐留していた。
同地は、1952年にソ連によって作られた兵営警察航空隊の訓練所があり、東独空軍の発祥の地ともいうべき場所であった。
第1防空師団はコトブスに司令部を置き、空軍主力部隊の1つで、東ドイツ南部の防空を担当した。
それぞれ三個の、航空戦闘団、高射ロケット大隊、通信技術大隊を有し、そのほかに輸送隊や移動基地機能も併せ持っていた。
「おはようございます。
すみません、高いところから失礼します。
この度、赴任になりましたアイリスディーナ・ベルンハルトです」
彼女の澄み渡るような凛とした声で、あいさつが始まってすぐ、
「高すぎて、全然見えねぇぞ!」
すると、間もなく、野次の声が整列する兵士の間から聞こえてきた。
台の前に立つ防空師団長は、苦笑を浮かべながら、
「誰だ、今のは!」
と注意した。
一連の出来事から、アイリスはとんでもないところに来たと思ってしまった。
ポーランド国境に配備された前線部隊である。
勿論、士官学校とはいろいろと勝手が違った。
戦術機の整備も、そうだった。
訓練の合間の出来事である。
郊外の訓練場に着陸をした際、休憩時間にアイリスは自分の訓練中の機体に近寄る。
その際、近くにいる古参兵から声を掛けられた。
「お嬢ちゃん」
「管制ユニットを点検しておきます」
その古参兵は、兄よりも大分年上だった。
年季が入り、色褪せた迷彩服からすると、下士官上がりであろう。
「ちょっと来な」
そう声を掛けられたアイリスは男の方に駆け寄る。
立ち止まって、両手を握りしめ直立の姿勢を取る。
「なんですか」
「この仕事で、飯を食っている連中がいる。
連中の邪魔をしないでおくんだな」
地べたに座る別な男は、タバコをふかしながら、
「整備の連中に嫌われたら、戦術機一つ満足に動かせねえぞ。
そんなことも知らねえのか」
胸に付けたウイングマークからすると、合同訓練中の第3攻撃ヘリコプター航空団の隊員か。
そんな事を考えていると、また別な兵士から声がかかる。
「その辺に寝そべって、コーヒーでも飲んでなよ」
「いや、牛乳の方がいいんじゃねえか」
男たちのあざ笑う声が響き渡る。
軍隊は階級社会であると同時に、年功序列社会でもある。
いくら階級が下であっても、現場にいる年数がものをいうのだ。
アイリスは教本のような敬礼をした後、溌溂と答えた。
「分かりました」
アイリスディーナは、生身の軍隊に触れて困惑していた。
女子生徒で構成された陸軍士官学校の班、婦人兵教育隊の時と違い、一般兵と働くのは初めてだった。
兄・ユルゲンという存在がいたから、男女の体力差が存在しているのは知っていた。
だが、部隊配属されて、自分の目の前に見えないガラスの壁が厳然と存在することは、いくら聡明な彼女とは言え、受け入れがたかった。
どんなに鍛えても、追いつけず、50を過ぎた老兵や古参将校にすら負けた。
彼女はシンクロナイズドの県大会の優勝選手だったが、その水泳すら小柄な兵士に劣った。
勿論、水泳の技量は並の男より勝ったが、その持久力や距離の差は埋めがたかったのだ。
時には、己が女に生まれたことさえ、恨めしく思うときもあった。
幸いにして月経の症状は軽く、頭痛や熱などは出なかったが、いざ戦争に巻き込まれたらと考えるとぞっとしたものである。
彼女は、士官学校での、約一週間の野外訓練を思い返す。
泥と硝煙にまみれ、満足な食事と睡眠すらできない不潔な環境。
風呂に入るどころか、シャワーを浴びる事さえ、夢のまた夢という状況。
つくづく、女の体は戦いに向かないと思い知らされた。
アイリスディーナを苦しめたのは、軍隊における制約の多さであった。
第一線の戦闘部隊に配属されたとは言っても、女性である、婦人兵である。
彼女は訓練以外にも、行事のたびに接待の要員として、呼び出された。
軍特有の茶の出し方から、行儀作法、躾などが、最先任の婦人古参兵から厳しく指導された。
だが、覚えたころには原隊復帰をするので、簡単に身にはつかなかったのだ。
土日の休みも、制限されたものであったのはつらいものであった。
休みに関しては、一般兵と違い、将校という立場上、気兼ねなく休めた。
演習や指導があった場合は代休を貰えたし、東ドイツ軍特有の制度で婦人兵は一般将兵に比べて8週間多く有給が取得できる制度があった。
ベルリンにいた時は地元だったので、日曜日の門限にあたる午後12時前までには簡単に帰れた。
だが、人口10万の小都市コトブスという東ドイツの東端にあっては、外出するのも困難だった。
土地勘のない彼女にとって、基地の門限午後6時までに戻るということは、ハードルの高い事だった。
結局、部隊に慣れるまで30分ほどで帰れる範囲しか外出しなかった。
(注:基地の門限は、宿営地の環境や隊員の状況によって変化する。米軍や自衛隊でも同じである)
アイリスの軍隊での生活は、マサキの耳には一切入ってこなかった。
それは、それぞれが住む国が東西の陣営に分かれているという政治的な状況ばかりではなく、欧州と日本という地理的な条件もあるためである。
だが、アメリカに留学中のユルゲンの耳には、アイリスの話は逐一入っていた。
それはユルゲンが現役の将校で、軍隊内の人脈のおかげで、どんな話も聞こえてきた。
拳銃の射撃訓練で一位を取ったなどのいい話の他に、悪い話もたくさん伝わっていた。
たとえば、演習先の陸軍基地に行った際、ユルゲンを恨んでいる戦車兵に絡まれた話などである。
アイリスを心配したのは、ユルゲンばかりではなかった。
ユルゲンと親子の杯を交わした議長も、また彼女の事を非常に案じていたのだ。
共和国宮殿の一室で密議を交わす男たち。
それは、議長と、50がらみの下士官であった。
「どうだね。アイリスの様子は」
「同志少尉はまじめに勤務しておりますとしか……」
議長の質問に答えたのは、アイリスの部隊に所属する最先任曹長であった。
彼は、前の戦争中、国防軍にいた経験のある人物で、議長と同じシベリアの収容所にいたことがあった。
いわば、30年来の戦友と呼べるような仲であった。
「戦術機の衛士として仕上がるころには25を超えてしまうか」
「新兵を一人前の衛士に育てるのに3年、部隊編成をするのに5年はかかります。
ですから……」
議長が、先ほどからしゃべっていた曹長の言葉を遮った。
「同志曹長。俺はあいつに軍服は似合わないと思っている。
大学でも入って、教職免許でも取って幼稚園の先生でもしているほうがいいんじゃないかと」
「外に出されるつもりはありませんか」
「あれはとびっきりの美人だ。外に出たら出たで苦労するぞ」
懐より、ゴロワーズ・カポラールの箱を取り出し、タバコを数本抜き取る。
それなく曹長に、タバコを勧めた。
「そんな話をしに私を呼んだわけではありますまい」
「要件を言おう。新機種の導入テストと防空システムに手を入れる専門家を呼んだ」
議長は言葉を切り、タバコに火をつける。
黒タバコ独特の、何とも言えない野性味のある香りが、部屋中に広がる。、
「今のソ連製の防空システムではいずれ高速化するミサイルや戦術機に対応できなくなる。
近いうち、米国から、その関係者が来る。
なるべくシュタージにも軍情報部にも縁のない人物で、英語のできる人間が欲しい」
久しぶりに吸うゴロワーズの味は、戦時中に吸ったマホルカやゲルベゾルテとは違う。
トルコ葉やロシアタバコには無い、豊かでコクがあり、ほんのり甘くて香ばしい匂い。
曹長は、紫煙を燻らせながら、30有余年前の遠い日々を思い出していた。
「同志ハイゼンベルクは留学中でしたな……同志大尉の夫人に依頼してみてはいかがですか」
「たしかに俺も考えたが……流石に身重の女にファーストレディーの真似事はさせられん。
それに、あれは英語の読み書きは並の男よりできるが、会話には訛りが強すぎてな……」
共産主義国家における国家元首の妻は、基本的に表に出ないのが慣例であった。
ソ連は言うに及ばず、支那、東欧も同じであった。
支那の様に、首相夫妻が国家元首夫妻の役目を代行したり、ソ連の様に国民的な知名度のある女性がファーストレディの代わりを務める場合がままあった。
無論、日本でも独身の総理や総理夫人が病弱な場合は代役が立てられた。
妾や実の娘、あるいは姉妹など、そのケースは多種多様であった。
今の東ドイツの議長は長らく男やもめであった。
ファーストレディー外交のない共産国や中近東にあっては、そのことは問題にはならなかった。
だが、西側の自由主義国では違った。
かつての王妃や皇后の役割を果たす、米国の大統領夫人。
国際親善の会談に、議長夫人の代行者として出席を求められる。
今、アイリスディーナの双肩には重大な任務が課せられようとしていたのだ。
「では私の方で同志少尉の方を手配するよう頼みましょう」
「ああ。助かる」
後書き
連載から2年が経ちました。
その記念として、読者様のご要望を募集します。
検討の結果、小説に反映する場合があります。
(今回のようにご要望を貰ってから時間がかかる場合もあります)
お待ちしております。
部隊配属 その2
前書き
アイリスディーナのお話といいながら、半分は食べ物の話になってしまいました。
ペプシ・コーラと米ソの歴史ですね……
あくる日、アイリスディーナを始めとする幹部候補生たち。
彼等は、将校初級課程の訓練の最中で、戦術機の操縦訓練をしていた。
各々が、コックピットを模した椅子に座りながら、大型モニターを眺める。
その脇には配属された幹部候補生たちを補佐する古参の下士官が静かにたたずんでいた。
機材の使い方の説明を受けたアイリスディーナは、ヘッドフォン付きのゴーグルを手渡される。
ゴーグルは、網膜投射を通じて眼球越しに映像が脳に反映される装置であった。
アイリスディーナは自慢の長い髪をかき分けると、静かにゴーグルをつけた。
そこには、対人戦闘用のコンピュータグラフィックスが視界に飛び込んでくる。
右手で握る操縦桿で、迫りくるミサイルを次々と撃破していた時である。
その瞬間、一機の戦術機が面前に現れた。
右肩に赤い星に、灰色の塗装をしたMIG-21バラライカ。
突撃砲を2門構えた、ソ連赤軍機であった。
彼女は、右の食指の先にいる突撃砲の射撃ボタンに触れるのをためらってしまう。
人が乗った機体を、20ミリの突撃砲で撃ち抜くしかない。
生きて帰るためには、相手に勝つしかない。
しかし、瞳に映る躊躇いは、さらに大きくなっていた。
驚く間もなく、 敵機の構えた20ミリ砲は、アイリスのバラライカの胸部を打ち抜いた。
撃墜の瞬間、座席が震え、警報音が鳴り響く。
シミュレーション映像の演習とはいえ、あるいはだからこそ。
この鬼気迫る戦場の現実感は、中々の物であると、聞いたことがある。
呆然とするアイリスディーナに、彼女の世話役を務めるヴァルター・クリュガーが声をかけた。
先ごろまで曹長だった彼は、少尉に昇進していた。
軍功の為ではなく、地上におけるBETA戦争終戦の結果によるものだった。
それは、退官手当や恩給がなるべく多くもらえるようにするために行った措置である。
ちょうど我が国が終戦の詔勅が発せられた後、行われたポツダム進級に似たものであった。
「同志少尉、どうしました。
目標を撃って下さい」
「ええ、判ってはいるんですが。
あの戦術機を見ると、どうしても中に乗っている人間が思えて……」
灰色の髪をしたヴァルターは、190センチ越えの偉丈夫。
兄ユルゲンや昔なじみで上司のカッツェより、立派な体格だった。
化繊の中綿が入ったレインドロップ迷彩の冬季野戦服が、筋肉質な体をより強調し、様になっている。
「奴らが何を考えているか……」
「えっ!」
驚愕の声をして振り返ると、そこには、いつになく真剣な表情のヴァルターがいた。
「そんな事はわかりません」
しゃがんでぐっと顔を近づけてきた彼は、
「名誉と尊厳のある死を迎えさせてやるのです」
と言ったので、アイリスディーナは右手に握った射撃ボタンに食指をかける。
「よく狙って……」
そういって、ヴァルターはアイリスディーナの背後に回り、彼女の右手を包む。
食指で、操縦桿にある射撃スイッチをゆっくりと押した。
「確実に打ち抜く」
兄さんや、木原さん以外でも、男の人の手って、こんなに温かったんだ。
アイリスディーナが、そんな事を思ってると、ヴァルターは感慨深げに語った。
「彼等も、また国のために剣を振るう戦士なのです。
そんな彼らに必殺の一撃を、情けの一撃をくらわす。敬意と惜別を込めて……」
ヴァルターの言ったとおりにやったら、成功した。
気持ちの弾んだアイリスディーナは、右わきに立つヴァルターの横顔を見つめた。
訓練を終えて、士官食堂に向かう途中である。
一人の将校が、アイリスディーナに声をかけた。
「同志ベルンハルト少尉!」
それは、灰色の空軍勤務服姿をした、隊付けの政治将校であった。
「ハンニバル大尉がお呼びです。執務室まで」
立ち止まるアイリスディーナを横に、ヴァルターは食堂の方に消えていった。
戦闘団とは、ソ連式の軍制を取る東独軍の軍事編成である。
NATO基準で言えば、およそ中隊から大隊の中間に位置する規模であった。
隊付けの政治将校に連れられて、基地の奥の方にある司令執務室にまで来ていた。
第一防空師団長室とは違い、戦闘団司令の執務室は殺風景だった。
執務机の他に、戦闘団の軍旗と応接用の簡単な机とパイプ椅子。
壁にかかるのは感状ぐらいで、よくある歴代国家元首の肖像画はかかっていなかった。
「うむ」
団長のハンニバル大尉は、今時珍しい朴訥な人物であった。
40半ばのこの大尉は、今600名の将兵と100名の軍属を管理する仕事をしている。
「アイリスディーナ・ベルンハルト少尉であります」
彼は、既に中年に差し掛かっているのに、筋肉質で逞しい偉丈夫であった。
「同志ベルンハルト少尉、君は射撃の成績に問題があるそうだな」
灰色の上着の襟を開けて勤務服を着崩したハンニバル大尉は椅子から立ち上がる。
「技術不足に関しては、鋭意努力し、向上に精進するつもりであります」
「中々、真摯な心掛けだ」
国家徽章のついた士官用ベルトこそしていなかったものの、乗馬ズボンに膝までの革長靴。
実に、東ドイツ軍の将校らしい恰好であった。
「君は士官学校で優秀な成績で卒業したのは聞いている。
だが、軍人としての覚悟が足りない。私にはそう思える」
ハンニバル大尉の感情の突き詰めた目が、アイリスディーナの顔に向けられる。
「は!」
「軍人に許された返答は、はいか、いいえだ」
「はい」
直立不動の姿勢を取るアイリスディーナの周りを、ハンニバル大尉は歩き回りながら、
「中々飲み込みが早い。うわさどおりの才媛だな」
本革製の長靴の音だけが、静かな室内に響き渡る。
「軍人とは、いかなる時にも命令に忠実であらねばならない。
たとえ見知った相手が乗った戦闘機であっても、撃墜せねばならぬときがあるのだよ」
ハンニバル大尉の低く鋭い声に、アイリスディーナは気圧された。
「同志少尉。人を見て、射撃ができない。迷いがあるではダメなのだよ。
守るべき人を守ることが出来なくなってしまう。
まあ、士官学校上位卒業生の君ならば戦闘職種にこだわる必要もなかろう。
軍隊の中で別の道を探すのも悪くない。
その辺のことを考慮してくれると、私はうれしい」
さて、翌日。
アイリスディーナは、急遽ベルリンに呼び出されて、共和国宮殿に来ていた。
そこにある多目的ホールで開催されていた米独親善産業展示会に参加していたのだ。
この行事は、1959年の夏にモスクワのソコルニキ公園で行われた米国産業展示会の顰に倣うものであった。
後に台所論争として名高いこの展示会では、副大統領のリチャード・ニクソンが、フルシチョフ首相にペプシコーラをふるまったことが夙に有名であろう。
朝鮮戦争やスエズ動乱以来緊張状態が続いた米ソの雪解けを図るべく、両国で展示会を企画したのが事の発端である。
1959年1月にニューヨークでソ連側が最新鋭のミサイル兵器を展示したのに対して、米国側は最新の電化製品や耐久消費財、食料品などを展示した。
米国の消費文化の粋を集めた展示物に、フルシチョフは衝撃を受け、憤慨するほどであった。
それに対してニクソンは、理路整然とした語り口で、自由経済と国民生活の充実を明らかにしたという故事である。
ニクソンは若かりし頃、ペプシの弁護士をした経験があり、フルシチョフにペプシコーラの味を覚えさせれば、勝ちと考えている節があった。
そして、企みは、1972年にソ連国内にペプシコーラの生産工場の建設という形で成功した。
こうしてペプシは、ソ連圏における営業を許された数少ない米国企業となったのだ。
(今日においても、ロシア・旧ソ連圏ではコーラといえば、ペプシコーラである)
米国から来た産業展示会のメンバーは様々だった。
チェース・マンハッタン銀行を始めとして、モービル石油。
モービル石油は、スタンダード石油を起源に持ち、チェース銀行と共に石油財閥の影響下にある企業だった。
参考までに言えば、チェース・マンハッタン銀行は冷戦下のモスクワで営業を許された数少ない米国の金融機関であった。
(ソ連当局からの営業許可は、1973年3月)
大手食品メーカー・ペプシコ、コンピューター関連企業IBM。
航空機メーカーに関しては、ロックウィードに、ゼネラルダイノミクス、ボーニングと多種多様であった。
(それぞれ、現実世界のロッキード、ジェネラル・ダイナミクス、ボーイングである)
展示会の昼食は、東ドイツの人々を驚かせるものであった。
1972年にソ連で販売されて以降、東欧圏になじみの深いペプシコーラは元より、様々な品目がテーブルに並べられた。
ペプシの系列企業が作ったフライドチキン、牛肉の入ったタコス、チーズ入りのブリトー。
ポテトチップス「レイズ」やトウモロコシを引き延ばし作ったトルティーヤ・チップス「ドリトス」。
幼い頃、外交官の父ヨーゼフに付いて行って東欧や文革前の支那で暮らしたアイリスディーナ。
彼女にとっても、このようなアメリカのファーストフードや駄菓子は初めて見るものだった。
一応、西ベルリンに買い出しに行ったボルツ老人や党幹部の購入ルートを持っているアーベル・ブレーメによって、コカ・コーラや西側の食べ物は知ってるつもりだった。
だが、壮年を過ぎた二人にとって、菓子といえば西ドイツの菓子であり、欧州の菓子だった。
熊のグミキャンデーや、ベルギーのチョコレート、オランダの焼きワッフルだった。
初めて食べる米国のフライドチキンの味は、形容しがたいものであった。
カリカリに焼きあがった衣と、肉汁が出てジューシーなチキン。
子供のころからパーティ慣れしているアイリスディーナは、あまり食べない方だった。
こういう場で食べ過ぎると女性として粗野にみられると、教育されたためである。
だがチキンやタコスの味に魅了され、我を忘れ、ついつい料理に手が伸びた。
冷えたペプシを脇に置いて、取り皿に盛った料理を食べている時である。
「見た目とは違い、随分と健啖家なのですね」
そう声をかけてきたのは、ゼネラルダイノミクスのビジネスマンだった。
彼の話によれば、新型のYF-16戦術機をゼネラルダイノミクスは開発中だという。
「ミス・ベルンハルト。
よろしければ、一度試験機のYF-16を試乗してみませんか。
合衆国では女性パイロットはいまだ認められていませんので、飛行データの参考が欲しいのです」
この時代、西側の士官学校は婦人の入校を認めていなかった。
史実を参考までに言えば、米軍は1980年、仏軍1983年、自衛隊1992年である。
婦人兵は、後方支援や医療部隊にのみ認められていたのだ。
そしてフランス軍に至っては、1951年の規定によって既婚者は一切軍務に付けないとされていた。
この規則は、1980年代にフランス軍からはなくなったが、イスラエルなどでは部分的に存続している。
(2017年までフランス軍では婦人兵の潜水艦勤務を禁止していた。これはわが自衛隊も同様であった)
軍隊は、現代社会に残された男の砦の一つであったのだ。
さて、アイリスディーナの話に戻そう。
彼女はビジネスマンの誘いに即座に返事が出来なかった。
それは階級が少尉という下級将校であったばかりではない。
申し出た相手が、西側の米国人だったためである。
軍上層部や政治局、議会の承認なしに自由に動けない案件だった。
「申し出はありがたく承ります。ですが、上司の許可を頂かねば……」
それが彼女にできる、精一杯の答えであった。
遠くの席から議長は心配そうにアイリスディーナを見つめていた。
そんな議長をよそに、彼の隣に座るアーベル・ブレーメに熱心に語りかける男がいた。
「ソ連を武装解除するには貿易が一番です。
実はわが社ではコーラ原液の代金の代わりとして、ウォッカを受け取っていたのですが……
去年のベルリンであったソ連の軍事介入未遂で、ボイコット運動が起きましてね。
その代わりと入っては何ですが、ソ連海軍の潜水艦や駆逐艦を購入する計画を立てているのです。
その資金からソ連向けのタンカーを買って、ソ連の石油を全世界に安く販売するつもりなのです」
そう語るペプシコーラの営業マンの脇にいた議長は、静かだった。
冷ややかな視線を送りながら、紫煙を燻らしながら聞いていた。
なるほど、今回の東ベルリンでのアメリカ産業博覧会の真の目的は東側の市場参入。
チェースマンハッタン銀行会長を頂点にいただく石油財閥にとって、東ドイツは有益な市場。
いや、資本主義経済から取り残された東欧、アラブ、アフリカ。
彼らにとって、まさに未開の処女地なのだ!
清純な乙女を口説き落として、我が物にするドン・ファンそのものではないか。
だが、石油も出ず、わずかに出る褐炭も今はポーランド領。
何も売るもののない東ドイツにとって、今回の話はまさに天祐。
貧すれば鈍する。
八方ふさがりの末の身売りともいえるが、金満家の老人の妾になると考えれば、納得がいく。
立ちんぼの娼婦より、艶福家のオンリーの方がずっといいではないか。
東独議長を務める男はそう考え、ドイツ人としてのわずかばかりのプライドを諦めることにした。
1600万人の国民を食わせていくためには、泥を被ろう。
俺が悪人になって、大勢の国民が救われるのなら、煉獄にも、地獄にも行こうではないか。
散々悪いことをしてきたのだ、今更わずかばかりの良心など持っていてどうになろう。
いま目の前にいる白皙の美貌を湛える、養女アイリスディーナ。
彼女でさえ、国のためにゼオライマーのパイロット、木原マサキに嫁がせたのだから……
そう思って飲むペプシコーラの味は、ひどく苦く思えた。
後書き
ご意見・ご感想お待ちしております。
部隊配属 その3
前書き
アイリスディーナの軍隊生活編は一旦終わりにします。
次回から主人公のマサキの視点に戻ります。
ここで眼を転じて、東欧諸国とソ連の動きを追ってみよう。
ゼオライマーの獅子奮迅の活躍によって、平穏の訪れた東欧諸国。
彼等にとっての最大の関心は、BETAではなく、ソ連の動きだった。
すでにBETAの支配域は地球上になく、月面まで後退した。
BETA戦争は次の段階に移り始めている。
だが、赤色帝国・ソ連の版図は一向に変化していない。
たしかに、ソ連は5年の戦争で疲弊はしていた。
人口の30パーセント以上が失われ、回復は容易ではなかった。
最も被害を被ったのは、中央アジア諸国である。
BETA戦争開戦前、ソ連の人口増加を支えたこの地域。
ロシア人の平均出生率1人に対して、4人を誇っていたほどである。
だが、今は見る影もないほどに衰退していた。
独ソ戦で移転した軍事工場も、地下資源もBETAによって貪られてしまう。
バイコヌール宇宙基地も、セミパラチンスク実験場もBETAの怒涛に消えていった。
ソ連の隣国・アフガンも、同様であった。
アフガンは1919年の対英戦争の結果、ソ連の友邦となった。
1973年に同国は、王政打倒のクーデターにより、親ソ衛星国となる。
ドゥッラーニー朝によって、10以上の部族が、かろうじて国家としてのまとまりをもっていた。
しかし、王制廃止により、同国は混乱の極みに陥った。
急速なソ連式社会主義と古代から続く部族社会のあつれきはあまりに大きかった。
その混乱に付け込み、米国CIAや英国MI6の支援を受けた部族が各地で反乱を起こす。
アフガン全土は、共産化して間もなく、戦国の世という修羅の時代になってしまった。
だが、宇宙怪獣BETAには、人間の事情はどうでもよかった。
彼らの目的は、アフガンにある未発掘の膨大な地下資源。
BETAの大群が押し寄せ、たちまちにアフガン全土を制圧した。
このために、アフガンに存在した部族や言語、歴史。
これらの物は、人間同士の争いがBETAを呼び込む遠因となり、永遠に失われてしまった。
その国土も、また被害から免れなかった。
イラン国境沿いにあった、ヒンズークシ山脈。
7000メートルの名峰は、怪獣によって平坦に均され、無残な瓦礫になり果てた。
疲弊した状態でも、なお軍事最優先の独裁体制を取る北方の豺狼。
東欧諸国の恐れ方が尋常でなかったのは、無理からぬ話である。
ソ連は、領土こそ維持したものの、日々衰えを見せているとも考えている人々もいた。
だが、未だに国際金融資本は、ソ連への膨大な援助を続けていた。
バルト三国での反ソデモに関して、経済界の対応は冷淡だった。
体制崩壊を恐れ、大戦車部隊が蹂躙するのを黙認すらしたのだ。
その上、ワルシャワ条約機構や、領土の維持すらも追認した。
いや、それどころか、かつての領土であるアラスカを取り戻すかもしれない。
米国経済界の対応次第によっては、ソ連指導部は生きながらえるであろう。
そんな経緯から、東欧諸国はBETA戦争前の軍事ドクトリンに戻り始めていた。
防空レーダーや地対空ミサイルを中心とする防空システムの再建である。
指令システムが高度に発達した今日の近代戦において、対空砲火は脅威であった。
ソ連防空軍が開発した対弾道弾防空システムС-300。
この装置は、米軍のパーシングミサイル迎撃用に、1975年に開発が完了した。
最大射撃高度40キロメートル。
低空からの攻撃を防ぐために、ЗСУ-23-4や9К33 Осаなどの近距離防空システムも併用した。
BETAの光線級の脅威がなくなっても、戦場では自由に飛行機は飛べなかったのだ。
戦闘機開発が遅れたこの世界にあって、地対空ミサイルの脅威は我々の世界以上だった。
特に航空機産業が失われて久しい東ドイツにおいて、その問題は喫緊の課題だった。
東独空軍は、本心から言えば、戦術機の否定論者であった。
莫大な研究開発費を掛けながら、数年で陳腐化する技術。
航空戦力は近代戦には必須だが、戦車や艦艇に比して継戦能力はおとる。
その上、衛士の教育は航空要員の育成より難しく、補充もきかない。
衛士たちが粗野な振る舞いをしても大目に見られたのは、そう言った理由からであった。
さて、東独首脳部の反応を見てみよう。
1月下旬、社会主義統一党と国家の重要政策を決める党中央委員会が招集された。
議長の司会で、BETA戦争後の国防安全保障、外交政策に関する議題討議を始めた。
そのことは、今後の軍事政策を決める国防評議会にも影響した。
国防評議会では、早速、BETA戦争に関する反省会が行われていた。
会議の冒頭、空軍参謀が、持論を述べた。
「一般論を申し上げます。
航空戦力、とりわけ戦闘機の近代化は、必要でしょう。
近代戦において、空間や地形の制約を受けない航空戦力なしに成り立つ軍事作戦はありません。
戦車や戦艦の比ではない、速度と行動範囲、そして特質すべき機動性と突破力。
その点を鑑みても、早急な近代空軍の再建は無難と思います」
地対空ミサイルや対空砲を看過する防空軍司令も、似たような意見であった。
「他方、同志議長が懸念されておる通り、予算面に関して言えば。
戦術機は、恐ろしいほどの金食い虫です。
戦術機の特性上、地上基地の補佐がなければ成り立ちません。
ですから、基地建設とレーダーサイトの配備は急務でしょう。
また、高射砲やミサイル防空システムも同様に設置せねばなりますまい」
防空軍と議長の戦術機に関する考えは、全く違った。
防空軍司令は、BETA戦争前から軍にいた経験上、新型兵器というものを認めてはいたものの、過信はしていなかった。
いずれ、航空機が発展すれば、巡航ミサイルに積む半導体が改善されれば、戦術機は無用の長物になると考える人物だった。
他方、議長は、通産官僚アーベル・ブレーメからの意見に関心を寄せていた。
アーベルとして、戦術機という最新技術の塊に傾倒しており、これが東ドイツ復興のカギになると信じてやまない面があった。
これは、女婿ユルゲン・ベルンハルトが熱心に口説き落としたことも大きい。
ユルゲンは、BETA戦争初期でのソ連の敗走を目の当たりにして、戦術機生産のほとんどを東ドイツに移転しようと計画するほどであった。
現実として、ソ連の戦術機開発は一時混乱したが、停滞していなかった。
BETAの欧露への進撃を受け、工場のほとんどは、極東ロシアに移転していた。
チタ、コムソモリスク・ナ・アムーレ、ハバロフスク。
シベリア各地にある軍用工場では、MIGやスフォーニの機種は生産され始めていた。
ユルゲンの想定した通り、シベリアはソ連の中で取り残された地域だった。
17世紀以降、ロシアに編入されたシベリアは、人口も少なく産業も立ち遅れた地域だった。
帝政時代を通じて、シベリアは巨大な監獄だった。
流民や政府に都合の悪い人物、重犯罪者などが追いやられ、厳しい環境に置かれた。
確かに天然資源の宝庫で、未開の原野が広がっていた。
だが、蒙古や支那に近く、度々彼らはロシアと干戈を交えた。
また、交通網も未発達で、採掘した資源を輸送し、採算をとるころも厳しかった。
ソ連政権は、革命初期のシベリア出兵の恐怖を忘れていなかった。
精強で勇猛果敢な帝国陸軍を非常に恐れた。
日露戦争の恐怖を忘れぬスターリンは、シベリアを一大軍事拠点に改造した。
秘密警察は、革命によって生じた囚人を使う大規模な開発計画を立てる。
その際、シベリア鉄道の各駅沿いに、収容所を作った。
ペレストロイカが始まる1980年代後半以前、極東ロシアの産業が軍事最優先だった。
極東および沿海州では、軍需生産は機械工業製品の生産高の約3分の2を占めていた。
ユルゲンは空軍将校としては優れていたが、ソ連の政治や社会構造には疎かった。
それは父・ヨーゼフが政治的失脚をして以降、政界や官界から隠れる生活をしてきたせいでもある。
ベルンハルト兄妹を養育したボルツ老人もまた、政治の荒波から彼らを守るべく、政治から遠ざけた。
ソ連や東欧諸国の情勢は、一般常識のみにしてしまった。
保護したつもりであるが、それがかえってあだとなってしまったのだ。
一応、意見として、聞いている顔はしていたが、議長は、防空軍司令などのいう理論に、決して肯定したのではない。
むしろ不満であった。
近代戦の常識論など聞く耳は持たぬ、といったような風さえ、うかがえる。
しかし、議長には、信念はあっても、彼らの常識論を言い破るだけの論拠が見つからないらしかった。
単に不満なる意思を面にみなぎらせるしかない沈黙であった。
「…………」
当然、評議の席は、沼のように声をひそめてしまう。
防空軍司令や参謀らの主張と、それに飽き足らない議長の顔つき。
一同の口を封じてしまった如く、しばらく、しんとしていた。
「お。――シュトラハヴィッツ君」
突然、議長が、名をさした。
遥か、末席のほうにいた彼の顔を、議長の眼は、見つけたように呼びかけた。
「シュトラハヴィッツ君。
君の意見はどうなのか。遠慮なく、そこにて発言したまえ」
「はいッ……」
返辞が聞えた。
しかし、上座の重臣たちには、それを振り向いても、姿が見えないほど、遠い末席であった。
「どうなのだ」
重ねて議長がいう。
自分の意思を、自分に代って述べそうな者は、議長の眼で、この大勢の中にも、彼しかなかったのであった。
「防空軍司令、参謀、その他、重臣方の御意見は、さすがに簡単明瞭。
ごもっともな御意見と拝聴いたしました」
シュトラハヴィッツは、そう言いながら、席から立ち上がって、議長のほうへ体を向けていた。
衆目が、一斉に、壮年の中将に注がれる。
唐突だった。
何を思い出したか、防空軍司令から急に訊たずねだしたのである。
「航空戦力2万機を誇るソ連赤軍が、BETAに惨敗した。
同志シュトラハヴィッツ中将、君の意見はどうだね」
シュトラハヴィッツは、防空軍司令の真剣な面を、微笑みで見上げ、
「同志大将。
制空権の確保は、戦争を優位に進めることにはなります。
ですが、戦争全般の勝利にはつながりません。
1950年の朝鮮動乱、1960年代のベトナム戦争。
いずれに際しても、米空軍の圧倒的な制空権の下で大量の爆弾の雨を降らしました。
ですが、それでも陸上戦力の壊滅には至りませんでした。
朝鮮の山がちな地形や、ベトナムの濃密な森林。
それらによって、高射砲や戦車などを隠すことができ、米軍側を困らせることに成功しました。
制空権があっても、先の大戦のように地上部隊を送り込まねば、勝利はおぼつかなかった……
小官は、そう愚考しております」
シュトラハヴィッツのことばに、防空軍司令は軽くうなずいた。
「そうか。そうであったか」
その間に、シュトラハヴィッツの人物を観ているふうであった。
シュトラハヴィッツは、敢えて、へつらわなかった。
また、いやしく媚びもせず、対等の人とはなすような態度であった。
嫌味がない。
虚心坦懐である。
猛勇一方のみでなく、人がらもなかなかいい。
議長は、そう思って、シュトラハヴィッツをながめていた
「ソ連が苦戦したのは、敵の防空網を十分に制圧せずに巡航ミサイルでの殲滅を行おうとしたからです。
事前偵察が不十分で、攻撃後の戦果判定も不足しておりました。
防空網を一時的にも制圧せずに、殲滅攻撃に移った。
ですから、光線級の補足にも失敗したうえ、攻撃しても破壊したかどうか、判定できなかったためです。
その為、潰したと思った光線級が実は生きており、ソ連赤軍の地上戦力を支援しようとして、作戦空域に入ってきた攻撃機や爆撃機がレーザーで撃墜されてしまったのです」
議長は、何度もうなずいた。
そしてなお、黙り返っている一同の上を見わたして、今度は、意見を問うのではなく、厳命するようにいった。
「すると、光線級吶喊はまんざら無駄ではなかったと」
「おっしゃる通りです」
「では、つづけたまえ」
「航空機は高く飛べば、レーダーに捕捉されやすくなり、地対空ミサイルに捕捉されやすくなります。
この点は、BETAの光線級も全く同じです。
攻撃を避けるためには、低空を飛ばざるを得ません。
BETAなら小型の光線級が厄介ですが、対人戦の場合は携帯式の地対空ミサイルが脅威になります。
……それに」
彼が、ことばの息をついだ機に、議長はやや斜めに胸をそらし、何か感じ入った態をした。
それは、自分を偉く見せようとか、得意気に調子づくとかいう、誰にもあり勝ちな飾り気の全く見えない。
余りにも正直すぎるくらいなシュトラハヴィッツの淡々たる舌の音に、妙味というか、呆れたというか。
とにかく、議長の心でもちょっと推し量り切れないものが、その顔を包んでしまったように見えた。
『この男、油断ができない』
と、議長がひそかに胸でつぶやいている間に、シュトラハヴィッツは虚飾のない言葉で、
「あと考えられるのが、ソ連赤軍の情報が事前に漏れていたという可能性です」
というシュトラハヴィッツのことばに、驚愕の色を示す。
「それはいったいどういう事だね」
たいがいなことは呑み込む議長も、正気かと、疑うような顔をした。
シュトラハヴィッツは、その顔色を敏察して、
「ソ連には人工ESP発現体という人造人間がいることは、すでに周知の事実と思います。
私の情報網によれば、ソ連は中央アジアでの戦闘に際して、ESP兵士を戦術機に同乗させ、直接思考探査なる行動をとっていたと聞いております」
人工ESP発現体と聞くと、みなピンと心臓が引き締まるようだった。
握りしめる手に力が入って、脂汗が滲んで来る。
「失敗した兵士がBETAにつかまって情報を抜き出されたと……」
「可能性は無きにしも非ずです。
ソ連の攻撃部隊の規模、時間、兵力などがBETAに漏れてしまったために、BETA側は8割以上……
いや、9割近い部隊を後ろに下げて、勢力を温存したという可能性も十分考えられます」
眼を閉じて聞いていると、議長は、自分のために世事軍政にも長じている大学教授が、講義でも聴かせているようにすら思われた。
「確かに、近代戦の権威らしい鋭敏で明快な発想だ。
ソ連砲兵の大火力から、突撃するしか能のないBETAは避けるすべを持たないであろう。
シュトラハヴィッツ君、君の言う意見が正しいかもしれん」
議長は、シュトラハヴィッツの意見を聞いて満足した風だった。
「よろしい、では議事録は、後日製作するものとて……。
本日は、散会とする」
政治局員と閣僚たちは、それぞれの部署に戻るべく、会議室を出ていった。
後に残ったのは、議長とアーベル・ブレーメだけだった。
「アーベル、ゼネラルダイノミクスに、連絡を入れてくれ。
サンダーボルトA-10を10機、試験購入したいと……。
開発中の第二世代の試験機に、我が国もかませてくれるようにな」
だがアーベルは、その一策を聞くと、それこそ不安なのだといわぬばかり眉をひそめ、
「ちょっと待ってくれ」
と、アーベルは突っ込むように言い出した。
「第一、最新機ならば、米国議会の輸出承認がなければ、手に入れられないぞ。
むずかしい……、それはむずかしい望みだ!」
そして、議長の考えを、諫めたいような顔をした。
「他言は憚る」
すると、議長は言葉を切り、シガレットケースを懐中から取り出す。
ケースから抜き出した手巻きタバコに、火をつける。
銘柄は、ダン・タバコのブルー・ノートであった。
熟成されたバージニアとキャヴェンディッシュの深い香りが、部屋中に立ち込める。
「何、機密か」
「これを見てくれ」
背広の中から一札の手紙を取り出して、議長は黙ってアーベルの手に渡した。
先日、米国の使節団が齎した議長への親書なのである。
内容は、ゼネラルダイノミクスの働きかけにより、サンダーボルトA10の対外輸出が許可された話であった。
まず20機ほどがエジプト向けに、その他15機が西ドイツと日本に輸出されるという内容である。
アーベルは、親書を返しながら、驚きの眼を相手の顔にすえる。
彼は、しばらくいう言葉を知らなかった。
「アメリカから直接我が国には支援できないから、エジプトに輸出するんだよ」
この時代のエジプトは、英米との関係改善を進めていた。
容共一辺倒であったナセルと違い、現在(1979年)のサダト大統領は現実主義者であった。
アラビア海に勢力を伸ばすソ連を怖れ、米国やイスラエル、帝政イランに期する方針を取った。
具体的に彼は1976年3月、ソ埃友好協力条約を破棄した。
そればかりか彼は、親米・反ソをさらに推し進め、イスラエルと平和条約締結の合意に調印した。
そして、平和条約への道筋を進むこととなる。
これに関しては、別な機会を設けて話をしたい。
さて、話を東独に戻そう。
議長は、ふいに頭を下げて、今回の話を詳しく説いた。
「そうすれば、サンダーボルトは輸入したエジプトの物。
だから、どう使おうとアメリカは関知しない」
「なるほど、アメリカは建前を作ってやったって事だな」
「ああ」
アーベルの眼は、茫然と、そういう議長の姿を、見ているばかりだった。
「アーベル!お前は俺の歳を知っているか」
「60歳だったな……」
「そうだ。急がねばならぬ
もはや、俺に残された時間はわずかだ」
アーベルは、男が今この国に何を求めていることを知った。
そして今までに覚えたことのない不安と焦燥感から、ぎゅっと身を固めるように腕を組む。
「ブラッセルへの道は遠い」
男の最終方針は、ソ連からの完全独立であった。
では、どうやれば、このソ連による東欧支配構造を反転的に転覆できるか。
方法は現状で言えば唯一つ。
東ドイツがEUに加盟し、親西欧の体制にいったん戻すこと。
つまり、東ドイツを反ソ国家にするための特効薬たるNATO加盟が、唯一の第一歩となる。
ベルギーの首都、ブラッセルには、EUとNATO本部がある場所である。
こう考えた末の、ブラッセルへの道だった。
「しかし、まず一歩を踏み出さねばならない。
その為には、党を、社会主義を捨てねばならない」
そして、この男の告白こそが、新しい東ドイツの外交方針の基軸であった。
後書き
読者リクエストであったアイリスディーナをサンダーボルトに乗せるための道筋です。
ご感想お待ちしております。
美人の計
前書き
読者希望であった、真壁零慈郎をだしました。
マサキは岐阜県の各務原市に来ていた。
ここには帝国陸軍の岐阜基地があり、ちょうど真向かいには河崎重工の岐阜工場があった。
(現実でも航空自衛隊の岐阜基地があり、川崎重工の岐阜工場が存在する)
2月に入ってからの日々は、忙しさに追われていた。
年度末ということもあろう。
ほとんど外出もせず、職場と自宅を行き来する日々だった。
篁やミラの協力もあって、グレートゼオライマーの建造も7割がた進んでいた。
無論、去年の段階でゼオライマーのフレームをコピーしたものを2組作っておいたお陰で、装甲板を乗せるだけだったのも大きい。
機体の色やデザインは、マサキの方で書いた図面通りに加工するだけなので、日数をかければ出来上がるばかりであった。
困難を極めたのは、特殊武装である。
山のバーストンをのぞく八卦ロボはすべて、この異世界では未知の技術だった。
そこで完成を急ぐマサキは、長距離エネルギー砲のジェイ・カイザー、原子分解砲のプロトンサンダー、ミサイル発射用の垂直発射装置に限定することにした。
基本的には、ゼオライマーの上からミサイル発射装置や分解可能なジェイ・カイザー用の砲身を取り付けることになったが、従来と大きく違った点があった。
それはマニピュレーターの指先に、ビーム発射用の内臓式の砲身を取り付けた所であった。
これは月のローズ・セラヴィーの固定武装の一つ、ルナ・フラッシュを部分的に採用したものだった。
本来ならば全身にくまなくビーム砲が装備されるのだが、マサキは効率を考えて指先だけに限定したのだ。
ローズセラヴィーのビーム砲は、出力を微調整し、集約すると剣のように扱えた。
このルナ・フラッシュでゼオライマーがローズセラヴィーに切り刻まれたことは、マサキのトラウマの一つであった。
だが、この異世界に来ては、それもまた懐かしく思えるのだった。
工場で、グレートゼオライマーのロボットアームを調整していた時である。
ミラが、ふいに訪ねてきたのだ。
「そんな体で、わざわざここまで来たのか」
彼女はこの2か月ほどの間に、一目見て妊婦と分かるほどになっていた。
羽織った白衣のに来た厚手のセーターから見える腹は、はっきりと丸くなっていた。
時おり、ミラはハッとした様に息切れを起こしている。
妊娠後期になって、成長した胎児によって拡大した子宮が肺を圧迫しているのだろう。
さしものマサキでさえ、そんなミラの事を心配するほどだった。
不安の感情と共に、ミラも科学者である前に、また一人の女であるのだなと思っていた。
「ねえ、ビームの刀って作れないの」
「どういうことだ?」
マサキは、ミラの顔色をうかがいながら、思案する。
今の彼女は、早く帰りたい反面、ローズセラヴィーのルナフラッシュについて知りたいのではないか。
マサキは、一呼吸置いた後、
「たしかに俺の作ったルナ・フラッシュは、高出力のビームの剣として使える。
こいつがあれば、戦艦はおろか、富士山ですらバターの様に切り刻める」
「それを戦術機に持たせる刀に応用すれば、要塞級も簡単に切れるかなって……」
「切るどころか、熱でドロドロに溶かすことも容易い。
重光線級のレンズ部分も、たとえ殻が閉じていても簡単に焼き切れる」
マサキは毅然と言い放ちながら、ミラの表情を伺った。
彼女は、不安そうな色が顔に浮かんでいた。
「戦術機に改造なしで搭載可能なの?」
「出来ないこともない。
リチウムイオン電池を用いたビーム発生装置を作ったとして……
使い捨ての短剣なら1時間、長剣なら3時間ほどは持たせる自信はある」
ミラの表情から、あらゆる感情のかけらが消えた。
次に現れたのは、まさしく安堵だった。
「すごいわ」
「試作品が出来たら、大小一振りづつくれてやるよ」
「嬉しいわ」
ミラを見送った後、岐阜工場の会議室に足を運んでいた。
工場長を始めとする河崎重工幹部たちと軽食をとっていた折である。
マサキの様子を見る為、神戸本社から来ていた専務が、ふと漏らした。
「話は変わりますが……」
「どうした、申してみよ」
「木原さんは、結婚しないのですか。
天才科学者として名高い貴方は、望めばそれこそより取り見取りですのに……」
「えっ」
その瞬間、マサキは答えに戸惑った。
飲むために握っていた紅茶のカップが、思わず震えるほどだった。
「俺には……」
アイリスディーナと挙げた秘密の結婚式の事を思わず言いそうになってしまった。
だが、彼女との関係は内々の式を挙げただけで、籍は入れていなかった。
マサキ自身も、彼女をまだ子供だと思っているせいで手を出していないので、そのままにしていたのだ。
そのせいで、去年の12月にシュタインホフ将軍からキルケとの結婚を勧められたのは、本当にいい迷惑であった。
結局、あの場から理由を付けて逃げだしたから良かったものの、留まっていたらどんな誤解をされたものか。
その時である。
マサキのすわる背後にあるドアの方で、騒がしい声がした。
「お願いです。ただいま工場長は会議中でして……」
社務の女性事務員が引き留めるのを無視して入ってきたものがあった。
ドアを乱暴に開けたのは、彩峰大尉だった。
「工場長、木原の事を少し借りるぞ」
「司令が部屋まで来いとの指示があった」
そう言って、隣の岐阜基地に連れていかれる。
司令室に待っていたのは、司令と数名の男たちだった。
ざっと見たところ、二本の線の入った階級章からは佐官級。
マサキは、ただならぬ気配を感じた。
「これは俺がしでかしたことへの懲罰でもする気か」
流石にマサキは緊張していた。
基地司令は、マサキの言葉に相好を崩す。
「木原君、君に耳寄りな話でね」
話しかけてきたのは、基地の総務課長を務める少佐だった。
「曹長、君は独身だったね。
見合いとかに興味はないかい?」
総務課といえば、基地の渉外担当も務める都合上、地元民との接触も多い。
彼の話だと、岐阜や愛知などの素封家の娘との縁談の話だった。
あれやこれや追及されることがないということに安堵した一方、マサキは危機を感じていた。
頼みもしないのに見合い写真を見せられ、相手の家柄に関して説明が始まったのだ。
俺のような根無し草に、そんな商家や豪農の娘は釣り合うはずがない。
マサキは、変な意味で恐縮してしまった。
良家の子女なら、もっといい男を紹介した方がいいではないか。
確かに帝国陸軍の禄を貰ってはいるが、俺は一所に留まるような生活をしていない人間だ。
彼女たちの望むような安穏とした家庭生活は難しかろうと、考えてしまった。
それに裏金は別として、下級士官である。
薄給で、気苦労も絶えないであろう……
面倒くさいし、断るか。
咄嗟に、マサキは、そう答えた。
「俺には先約があるのでな」
なんとか、その場を切り抜け、部屋を後にした。
部屋から、河崎の岐阜工場に戻ると彩峰が待っていた。
「何の話だった」
「見合いの話だが、面倒くさいから断った」
そう笑顔で答えるマサキに対して、
「お前、ちょっと裏に来い」
彩峰からは、キツイ説教があったとだけ書き記しておこう。
それで引き下がる相手ではなかった。
今度は河崎の工場にいると、富嶽の開発部長から電話がかかってくるようになった。
毎日、家業終了直前に電話がかかってくるので、頭に来たマサキは、
「そんなに要件があるのなら、俺のところに来い」
と、啖呵を切ってしまった。
その週の土曜日である。
岐阜市から近くのホテルで会合があると呼び出されて行ってみたら、富嶽重役の娘と引き合わされてしまった。
だまし討ちに近いことに会ったマサキは、相手に会うだけあって、帰ってしまった。
富嶽がマサキに相手を送って、見合いをしている話は城内省にまで届いていた。
話を聞いた五摂家の各家は独自に動くことになった。
まず、五摂家の斑鳩家は、代々の家臣で、有力武家の真壁家に頼ることにした。
真壁家の当主である真壁零慈郎を自宅に呼び寄せた。
「真壁よ。お前の家から女を出せぬか」
零慈郎青年は、人を魅了する好男子だった。
怜悧そうな目、色白の肌、刃の切っ先を思わせる細面。
一目見たら忘れられないほどの、美丈夫だった。
「翁、我が家に差し出す女などおりません。
木原などという馬の骨になぜそれほどまでに……」
「何、出戻り女でもいい。
お前も、あのゼオライマーの威力は知っていよう」
「たしかに素晴らしいマシンです。
ですが女一人で満足しましょうか」
「そこよ。
我らも、その辺は調べて、考えておる。
彼奴には惚れた女がいてな」
「では、なおさら、その女と一緒にさせれば」
「じゃが、夷狄の女では不味かろう」
「若輩者の私とて、城内の考えは分かります。
篁の愚か者の二の舞は、避けとうございますな」
「そこでじゃ、殿下の方で一計をご案じなされた。
奥に仕えておる、お前の従妹叔母を、木原に下賜するという話が出てな」
貴人が側仕えの女性を身分が下の物に下げ渡すことは、古今東西珍しいことではない。
わが国でも、封建時代以前からよく見られた、婚姻の形態の一つであった。
真壁にとって、それは侮辱にも近い事だった。
たしかに奥仕えの叔母は、とうに中年増を超えてはいたが、可哀想に思えた。
(中年増は、現在で言う25歳)
彼女は、真壁の曽祖父が外で作り、認知した妾の孫だった。
年は2歳としか離れていないので、零慈郎にとって叔母というより姉のような存在だった。
「何、安心せい。
彼女は、殿下のお手はついてはおらぬ。あの木原でも満足しようぞ」
零慈郎の叔母は、真壁の曽祖父が見初めた女の影響もあって、恐ろしいほどの佳人だった。
その美貌たるや、血縁関係を重視してきた武家社会では、恨みや嫉みを抱かれるほどのものであった
当時の日本人女性にしては背は高く、170センチ強で、これまたマサキ好みの女であった。
「木原と祝言を上げなくてもよい。
最悪の場合、奴の種さえ貰って、子さえ作れば、それは弱みになる。
鎖にもなる」
「木原が、そんなことで躊躇しましょうか」
「人間は元来、情に弱いものよ。
木原とて、情に絆されれば、この武家社会に刃を向けることはあるまいよ」
他方、富嶽重工の見合いの件は、大伴一派にも伝わっていた。
GRU、KGBと近い関係を持つ大伴は、マサキの情報を彼等から間接的に聞いていた。
「ここで他の五摂家はおろか、東独、西独の連中を出し抜く」
大伴からそう話を聞いた大空寺真龍と光菱の専務は、仰天した。
大空寺は独自の情報網で他家の出方を知っているからである。
一方、光菱の専務は、大伴の話を聞くなり覚悟した様だった。
この専務の事を、お忘れの読者の方もいよう。
ここで著者からの、簡単な説明を許されたい。
光菱の専務は大伴との陰謀に関わるうちに、マサキの復讐を恐れた。
そこで、ひそかに15歳になる自身の妾の子を、マサキに差し出す準備をしていた人物であった。
「大伴さん、実は……」
そういって専務は、京都郊外に住む自分の妾と娘の話をし始めた。
いつものごとく、大伴は顔色を変えずに酒杯をすすめた。
淡々と専務が話しているとき、大空寺の気はそぞろだった。
あまりにも自分と大伴が考えた計画と同じだったからである。
これで計画を断ったら……
秘密を城内省に持って行って、ぶちまけられるだろう。
江戸商人というのは、東京の人間というのは、油断ならぬ存在である。
大空寺の背筋には、冷たいものが走るように感じ始めた瞬間であった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
美人の計 その2
日本政府の暗殺から15年の時を経て、現世に意識を復活させた木原マサキ。
彼に、生への執着がなかったかといえば、嘘である。
そしてこの異世界に転移してから、その感情はより強くなった。
幾度となく襲い掛かるソ連の魔の手、あの忌々しい宇宙怪獣BETAとの戦闘。
前世に比べ、危険でスリリングな、手に汗を握る日々。
そうした体験は、若い秋津マサトの肉体を得たマサキに、ある種の焦燥感を抱かせるまでになってきていた。
かつてのように、公私ともに脂ののりきった時期に、殺されるのは避けたい。
いや、そのことを防げぬのなら、せめて見目麗しい女性を我が物にし、せめて自分の子孫を残したい。
そんな煩悩にまみれた、小市民的な感情だった。
勿論、世界征服の野望はあきらめていないし、それが第一の目標である。
最悪、自分の遺伝子というものは、前世の様にクローン受精卵を残して、誰かに託せばよい。
そうすれば、ゼオライマーがある限り、木原マサキは必ず復活するのだから……
幾度となく、その様に考えていても、やはり秋津マサトの若い肉体である。
段々と、マサキの精神は、若い青年の中でくすぶった、ある種の飢餓感から、逃れられなかった。
ベアトリクスを一目見た時、その稀有な容姿に心惹かれたのはそういう事情があった。
また、ユルゲンが企んだアイリスディーナのと見合いで、本心から求婚をしたのも、前世でのやり直しを求めていたものではなかったのか。
時々、冷静になってそう考えるのだが、若い時分に色々と体験したものである。
情熱的なキスの味などは、とうの昔に忘れてしまったはずだ。
仮にかつての木原マサキの元の肉体であったのならば、昔の歳であったのならば、アイリスディーナなどは親子ほどの年の差はあろうか。
前々世の時の年齢など、既にどうでもいい事なのに、こだわる必要はあるまい。
やはり、俺の心は乾いているのだろうか……
マサキは、深い沈潜から意識を戻すと、ものに取りつかれたかのように紫煙を燻らせた。
翌日、いつも通りに河崎の岐阜工場に赴いたマサキは、朝の全体朝礼が終わるとすぐに事務所を後にした。
貴賓用の応接室に入り、電話をかけ始めた。
かけた相手は、ニューヨークのフェイアチルド・リムパリックだった。
「もしもし、木原だが。
夜分遅くに済まないが……」
日本とニューヨークの時差は14時間。
マサキがいる岐阜市は朝9時だったが、マンハッタンのオフィスは前日の19時であった。
「お前の所に、半導体関連の系列企業があったよな。
ソフトウェアの専門家を呼んでほしい」
「どういうことですか」
「何、F-4ファントムの制御システムを近代化改修したい」
「私の方で、シリコンバレーの関係者に声を掛けましょう」
「助かる。
早速だが、今週の土曜……いや現地時間の金曜午後6時に出向く。
サンフランシスコの支那人街のレストランあたりを貸し切って来い」
そういうと電話を一方的に切った。
宇宙怪獣BETAが暴れまわる異世界にある戦術機企業フェイアチルド。
この世界のフェイアチルド社もまた、われわれの世界同様、大規模な半導体メーカーを子会社として抱えていた。
ここで、われわれの世界にあるフェアチャイルド・セミコンダクターに関して簡単な説明を許されたい。
同社は、1957年にトランジスタを開発したショックレー・トランジスター・コーポレーション出身の人物8名がつくった世界初の半導体メーカーであった。
カリフォルニア州のシリコンバレーに拠点を置くと、ここを基盤にし、多くの半導体技術者が育ち、そして独立していった。
一例をあげれば、インテル、ザイログ、ナショナル・セミコンダクター、アップルコンピュータ―。
彼らの発展は、フェアチャイルド・セミコンダクターの存在なかりせば、出来ないほどであった。
マサキの思惑は、ファントムの制御システムなどではなかった。
フェイアチルド・リムパリックの持つ半導体技術をそっくりそのまま、自分の手に入れる足掛かりが欲しかったからだ。
前の世界だと、ちょうど1979年にフェアチャイルド・セミコンダクターは資金難のため身売りをしていた。
その後も幾度か買収計画があり、日本企業の富士通が1986年に購入を計画するも対米投資委員会の懸念により阻止された経緯がある。
マサキが、フェイアチルド・リムパリックに近づいた真の目的は、ずばり会社の設立だった。
このICチップの技術を利用して、この世界においても、前の世界で作った『国際電脳』を再建するつもりである。
300万トンを超える金塊を元手にして、ドルに換金し、米国企業を買収して、自分の資金源の会社を作る。
ソ連のように力づくではなく、長い時間をかけて、米国の電子通信網やインフラストラクチャーに影響を及ぼす半導体・ソフトウエア企業に潜り込む方策を取ることにしたのだ。
これは前の世界で、世界シェア7割を収めたコンピューター企業・国際電脳の手法をそのまま用いたものだった。
ダミー会社だったために、中共が開発していた深セン市に本社機能を置いた。
深セン市は、香港に隣接する立地条件から、鄧小平が進めた文革後の経済開放政策によって開発された経済特区の一つであった。
我々の世界では、「支那のシリコンバレー」と称される場所で、世界的な半導体下請けメーカーである台湾のフォックスコンこと鴻海精密工業が市内に最初の工場を設けたことはつとに有名であろう。
あの時も、中共上層部に上手く工作して、電子機器メーカーを作ったものだ。
今回は非公然ではなく、公然と工作が出来る下地が揃っている。
何も、支那を肥え太らす必要はあるまい。
この世界の日本を、奴らを、俺の奴隷としてこき使ってやろう。
前世日本で、ゼオライマーをめぐる陰謀で抹殺されたマサキとしては、どうしても日本政府を信用できなかった。
この世界でも、同じである。
せっかく甦ったのだから、今度は政財界に裏から手を入れて、日本を、世界を支配してやろう。
幸い、まだ秋津マサトの肉体は若いのだ、時間はたっぷりある……
マサキは紫煙を燻らせながら、何とも言えない感傷に浸っていた。
さて、マサキといえば。
その日の午後は、城内省と陸軍、河崎をはじめとする戦術機メーカー数社の技術者とともに岐阜工場の生産ラインにいた。
ゼオライマーのフレーム技術の応用した戦術機用フレームの組み立て試験が行われていた。
工業製品は、芸術品とは違う。
いくら素晴らしい設計図や企画であっても、末端の作業員が組み立てられねば、製品としては通用しない。
日本政府の計画では年間120機の量産を望んでいた。
一方近衛軍は、武家の階級ごとに違う特注品の納品を望んでいた。
機体のカラーリングだけではなく、家格によって異なる装備、特殊なOS、通信機能などである。
最悪共食い整備と呼ばれる、同機種からの稼働部品を移植することも困難にするこの提案に現場は混乱していたのだ。
マサキは、各社合同の計画に戸惑っていた。
かつて所属した鉄鋼龍では、マサキのイニシアチブですべてが動いた。
計画のほとんどをマサキが立てて、その通りに現場が動いたし、マサキ自身も作業に加わった。
だが曙計画の人員に比べれば、規模は断然に小さかった。
曙計画は、200人を越す科学者や研究員、技術者が居た。
協力している軍の研究所や大学、企業など、産学官を含めれば、5万人からなる大規模プロジェクトだった。
投入される資金も膨大で、その範囲も広大だった。
一例をあげれば、F4戦術機でさえ、光菱重工を主とする約1500社の民間会社が、その国内生産を請け負った。
無論、ライセンスによる国産は、米国から直接購入するより割高になる。
だが、戦闘機の生産や大規模修理ができる技術基盤を持つ、というメリットの方が大きかったのだ。
鉄鋼龍というトップダウン型の組織にいたせいか、横のつながりで仕事を進める曙計画に、マサキは己の無力さを感じていた。
若干、過労気味だった彼は、休憩所のベンチで一人うなだれていた。
これから、国防省と城内省の会議を行い、予算案作成に向かう。
そのあとは長い国会審議だ、ちょっとうんざりする。
この俺に、政界に太いパイプでもあればな……
美久に渡した金塊という媚薬で、どれほどの大物政治家が釣れるのだろうか。
そんな事を考えていた矢先である。
ふと、声がかったのに気が付いて、居住まいをただす。
「この辺で、周囲を困らせる色恋沙汰はお終いにしてくれると助かるのだがね」
声をかけてきたのは鎧衣だった。
マサキは、自分の生き方にケチを付けられたかと思ったのだろう。
食って掛かるような剣幕で、反論した。
「貴様、言っておくがな。
俺は、むやみやたらに生娘や人妻にちょっかいを出しているわけじゃないぞ。
この間のキルケの件も、一時的なものと了解しているはずだ」
無論、アイリスディーナとベアトリクスを除外しての発言だった。
「君がどう生きようと、私には関係ない。
だが、殿下と政府首脳の目には否定的に映るんだ」
鎧衣から、諫言の言葉という表現方法ではない。
心臓の喚くような鼓動が、マサキの胸を苦しいほど強く圧迫してくる。
彼は唇を湿らせると、鎧衣から圧迫に答えた。
「どうしろというのだ。
あらゆる煩悩を断って、坊主のような暮らしをしろというのか」
「アイリスディーナさんや、キルケ嬢のようなことが続く様では、斯衛軍の威信にかかわる。
殿下は、君に結婚を命じた」
今の鎧衣の報告で、一時剃刀の刃のように鋭くとがったマサキの緊張は、その瞬間、脆くも崩れ去った。
「はぁ?
将軍が直々に?すると、これは上意か」
マサキは、深い諦めのため息をついた。
「そいつはなんとも、封建的な話だ」
一転して、居直ったように冷たいせせら笑いを浮かべる。
「どんな女だ。
どうせどこぞの武家か、素封家の娘だろう」
鎧衣は、ぬっと、その右手をマサキの前に突き出した。
「これが身上調査書だ」
鎧衣から見せられた写真には、17・8歳の少女が写っていた。
白黒写真だが、セーラー服に長い黒髪。
上半身しか映っていないため、身長はわからないが、肉付きはよさそうだ。
「五摂家、崇宰の姻戚にあたる鳳家の娘さんだ。
今度の土曜日に会う約束になっている」
鎧衣は悪びれもしないで、マサキに言い返した。
だが、マサキは憎々しげに口をゆがめる。
「ほう、情報省では結婚案内所の仕事もしているのか。
先進技術の海外進出事業推進の他に、見合いの手配までしてくれるのか。
フハハハハ、考えておこう」
後書き
ご感想お待ちしております。
美人の計 その3
前書き
ひさしぶりに6000字ごえになってしまいました。
木原マサキの扱いは、日本政府にとって頭痛の種だった。
核戦力のない日本にとって、天のゼオライマーの登場は福音だった。
そして、木原マサキ自身が望んで、日本政府に帰順したことは天祐であった。
だがマサキ自身は、毛頭そんな事を考えていないのは、公然の事実。
おまけに美女や美丈夫に弱く、東西ドイツの計略に乗せられそうになったこともあった。
そんな折、マサキを揺るがす話が帝国議会で持ち出される。
事の始まりは、週刊誌に載った記事であった。
「近衛軍将校が外人女性と外地で入籍した」
その報道がなされると、間もなく衆議院の予算委員会での野党からの国会質問で行われた。
政府および城内省は、「事実関係の確認に勤める」という形で逃げ切った。
「篁の事が掘り返されるのではないか」
事態を重く見た城内省は、独自の調査を始める。
調査結果は、驚くべきものであった。
野党議員に話を持ち込んだのは、ソ連大使館の参事官。
おそらくGRUかKGBの工作員。
彼らの狙いは、篁を離婚させて、曙計画の次の計画である次期戦術機開発計画を遅らせることではないか。
篁の元からミラが去ったりすれば、日米関係は悪化する。
ではどうすべきか。
篁のスキャンダルを、マサキの話しにすり替えればよい。
マサキとアイリスディーナの件ならば、日本政府の損害は少なくて済む。
その様に、城内省は考えたのだ。
では、真相はどうだったのか。
野党の下に情報を持ち込んだのは、外交官に偽装したKGB工作員だった。
この非公然工作員は、野党ばかりではなく、出版社や新聞社などのマスメディア、官界におけるソ連スパイ網、財閥などと接触をした。
その際、マサキに関する根の葉もないうわさを流して回ったのだ。
以下のような内容であった。
「木原マサキは、東独軍将校の妻と不倫関係にある」
或いは、
「マサキは、西ドイツ軍のシュタインホフ将軍の孫娘と極秘入籍している」
もっとひどいものだと、
「木原マサキは、東独に隠し子がいる」
などである。
無論、これらの話は、事実無根のうわさ話であった。
マサキにしてみれば、ベアトリクスの事は好きだった。
だが、まともに手すら握ったこともなかったし、ましてや不倫など考えたこともなかった。
たしかに頭の中では、口にも出せぬ猥雑な事を思い描いた。
それとて、美久にすら話したことがなかった。
キルケの件も、確かにシュタインホフ将軍に騙されかけた。
密室につれこまれ、キルケが花嫁衣装で近づいてきたが、咄嗟の機転で脱出したことがあった。
そして、この話を知るのは、指折り数える物しかいなかったのだ。
東独に隠し子などという噂は、人を食う様な話だった。
マサキはこの世界に来てから、この世界の女と戯れる事はなかった。
せいぜい、アイリスディーナと数度キスをしたようなものである。
確かにアイリスディーナは、今すぐ抱きしめたい存在であった。
だが、マサキ自身が自分の前々世の年齢を気にして、躊躇していたのだ。
それに彼自身が、あの可憐な少女をおもんばかって、美久以外の人間を近くから排除していたのも大きかった。
かつて、鎧衣の前で大言壮語した様に。
マサキはこの世界に来てから、まったく童貞と同じような生活をしていたのである。
マサキの事を恨んでいるものや、嫉妬している関係者は多かった。
親ソ反米を掲げる、陸軍の大伴一派ばかりではない。
ソ連・シベリアでの資源開発に参加している河崎重工や大空寺財閥系の総合商社などであった。
ソ連ビジネスを生業とする彼らにとって、マサキは目の上のたん瘤。
この報道やいかがわしいうわさを機会に、潰す気であった。
政府が一枚岩でない様に、業界団体も一枚岩ではなかった。
マサキに今、失脚されては困るグループもいた。
政府高官では、御剣雷電や榊政務次官である。
マサキをうまく利用して、BETA戦争を終わらせようと考えている集団である。
次に、業界団体では、恩田技研や反・大空寺系の総合商社である。
彼らは、マサキの交友関係を軸として、北米や西欧諸国のコネクションを増やそうと計画していたからである。
マサキを陰謀から、一時的に遠ざけるにはどうしたらいいか。
本当に結婚させてしまえばいいだけである。
そういう訳で、マサキの見合い計画が、ひそかに始まったのであった。
岐阜基地司令の見合い話や、富嶽重工業の専務の娘の縁談を断ったマサキ。
そんな彼の様子を鎧衣から聞いて、城内省はあれこれ考えていた。
マサキはアイリスディーナと引き合わされたとき、露骨に、思うさまな感情を示した。
どんな深窓の女性を、彼の目の前に出せばよいのだろうか。
それも豪農商家の類は、問題でない。
彼が欲していたのは、いわゆる上流社会の女性で、貴種でなければならなかったのではないか。
そういう経緯から、崇宰の姻戚にあたる鳳家の娘に狙いが定まった。
彼女をマサキと引き合わせることにしたのだ。
晩餐を終えた鳳栴納は、居間で過ごしていた。
メラミン色素の薄い茶色の髪は、彼女の母親譲りで、癖がなく太い髪質だった。
腰まである長い髪を結わずに伸ばし、リボンや髪飾りの類は着けていなかった。
それは質素を旨とする武家の娘、という事ばかりではない。
変に飾り付けるより、光り輝く髪の艶だけで、十分見栄えがするためである。
瑞々しい柔肌は、色もまるで雪化粧を施されたように、飛びぬけて白かった。
目の色は、明るい茶色で、若干吊り上がったようなシャープな瞳。
飛びぬけて端正な顔立ちに加え、その体つきも年相応の物であった。
たっぷりとした双丘と、それを強調するように括れた腰付き。
臀部は、たわわに実った白桃を思わせた。
離れてみれば、はっきりとした陰影を作るほど、見事な体つきであった。
しかし、栴納にとって、その冴えた美貌は非常にコンプレックスの元でもあった。
事あるごとに男たちから淫猥な目線を向けられ、女学校の同級生たちから羨望と嫉妬の入り混じった視線を感じるからである。
彼女の母は、鳳家の側室の一人、一般社会でいう妾である。
いつもは母と二人で過ごしているのだが、今日は珍しく父が来ていた。
父は正室、婚姻関係のある正式な妻と同居しており、本宅で過ごすことも珍しくなかった。
これは、武家社会の子孫繁栄のためのシステムである。
武家に限らず、貴人の血を引く家や豪商、素封家の常として、血筋をまず残すことを求められたためである。
妾腹であり、女の身空の自分が、文句を言ってもどうしようもない。
「お父様、これはどういうことですか」
近衛騎兵連隊長を務める鳳祥治中佐は、娘の反応を当然のように受け流した。
騎兵連隊という名称であるが、その実態は戦車と自走砲で編成された戦車連隊である。
航空戦力として、少数の米国製のUH-1ヘリコプターと戦術機を有していた。
鳳中佐は、渋面のままの娘を見据える。
そして、呻く様に漏らした。
「栴納、妾腹とはいえ、お前も弓箭の出の者だ。
かしこくも、殿下の思し召しに背くような振る舞いは、するまい」
父は型通りのことを言うも、娘の栴納には受け入れがたかった。
16歳になったばかりの少女とはいえ、彼女もまた、現代の女である。
敗戦後の価値観の変容の影響を、もろに浴びた世代である。
映画・小説などから、自由なアメリカ文化を知らぬわけでもない。
マスメディアや、その他の影響もあって、恋愛結婚こそすべてであった。
見ず知らずの男の下に嫁ぐ古風な習慣など、受け入れがたかったのだ。
さて土曜日になると、マサキは京都にいったん戻った。
市内の然る屋敷に招かれ、そこで見合い相手の女学生と引き合わされた。
あった娘は、年のころは16歳で、清楚な美少女だった。
確かに顔のつくりも、背丈も平均的で悪くはない。
ただ話していて、気が強そうなのと、思ったより体の線が平坦なのにはショックを受けた。
この辺は、マサキの好みの問題もあった。
栴納は、振袖そのものの美を重視するあまり、体型を犠牲にする着付けにした。
自身がコンプレックスに思っている大きな胸を晒しで巻いて、平坦にしていたのだ。
括れた腰や豊かな尻も補正下着をつけて、なるべく平坦に作っていた。
無論、マサキは、そんな事は知る由もない。
彼は、美久や八卦衆の女幹部を作る際に、グラビアモデルを参考にして造形した節があった。
卑近な言い方をすれば、出る所が出て、締まるところが締まっている体つきを目標とした。
マサキは美久を豊満な方とはみなしてはいなかったが、それは設計者としての面が大きい。
彼女の体格は、非常に均整の取れたもので、1970年代の日本女性の水準では十分な巨乳の部類だった。
体のラインを強調する、鉄甲龍のボディコンシャスな支那婦人服の幹部制服を着ても、恥ずかしくない様に女性の黄金律である「1:0.7:1」の比率で作り上げていたのだ。
マサキ自身、この見合いに乗り気ではなかったのもあろう。
内心ではそんな風にマサキは考えていたのだが、流石に口には出さなかった。
彼は、ひどく単純な快楽主義者といったような男ではなかったからだ。
それのみでない。
マサキは、自分の不人望を知っている。
昨日まで友と頼ったものに裏切られ、己の信じた正義も、ある日を境にすべてが悪に変わった日々を。
愛など、夢など、希望だのはとうの昔に捨て去ったのに……
人間を超越する存在になるべく、無敵のマシン・天のゼオライマーを建造し、世界征服を企んだのに。
なぜだろう。
マサキは、心の中で自問自答していた。
全世界を征服し、冥王となるべくしてこの世界に復活した自分が、どうしてアイリスディーナという少女にだけ、やさしくなれるのだろうか。
人間が、人間の女など汚らわしいだけの存在であり、肉欲を充足させるだけにあればいいとしていた。
事実、自分は前世において、そうやってふるまってきたではないか。
彼女が、愛というものに苦しんでいたからかもしれない。
その苦しみを、自分の力で取り除いてやったからではないか。
それこそ、美久のようなアンドロイドに、魂を入れてやったように……
結果的に、見合いはマサキの意向で断ってしまった。
彼は、日頃の疲れをいやすために、京都からほど近い有馬温泉に来ていた。
露天風呂付きの旅館を取って、美久と一緒に一泊二日の小旅行をすることにしたのだ。
露天風呂から見る月は、ちょうど満月であった。
マサキは、露天風呂のへりに寄りかかりながら、腰のあたりまで湯につかっていた。
後ろにいる美久も、同じように湯船につかっている。
ふと、マサキは振り返り、美久の裸身をまざまざと見た。
こうしてみると、全く人間と変わらない。
風は冷たいが、温泉からは限りなく湯気が立っている。
湯けむりが立ち込めて、真冬の寒さを緩和してくれている。
温泉の熱さと、降り積もった雪による冷たさを堪能していると、不意に入り口が開く音がした。
こんな深夜に、来るやつがいるのだろうか……
いくら11時過ぎとはいえ、ここは旅館。
とりあえず温泉につかる客は、いるだろう。
貸し切り状態でなくなってしまうのは、残念な話だ。
相変わらず愚かな考えよと、思わずため息が漏れる。
すると、入ってきた人物が声をかけてきた。
「いや、先生。探しましたよ。
何処に行くかぐらい、連絡が欲しいですな」
湯けむりが立ち込める中、現れたのは護衛の一人である白銀だった。
しかも手ぬぐいで体を隠さず、その青年の逞しい肉体を誇示していた。
後ろにいた美久は慌てふためきながら、両手で乳房を隠しながら湯船に肩までつかる。
ところが白銀は裸身を晒しながら、ゆっくりと湯船に入り、マサキの方に近寄った。
「氷室さん、そんなに慌てて、どうしたのかな」
「だって……ここは貸し切りにしたはずですよ」
白銀は美久の言葉が分からないかのように首を傾げた後、ぽんと手を叩いた。
「な、何を……」
「この旅館はもともと混浴ですし……
僕の方で事情を話したら、旅館の人にOKをもらいました」
「えぇ!ええええ――」
「はぁ、ああああ、馬鹿か!」
マサキと美久が驚愕の事実に声を上げた瞬間、白銀は柔和な笑みでつぶやく。
「いくら僕たち以外に客がいないからって、深夜に大声出すのは問題ですよ」
「で、でも、だからって、あの……」
単純に、マサキはあきれていた。
とにかく驚かされたのは、白銀が堂々と入ってきた挙句、旅館側も躊躇することなく入浴を認めたことだった。
護衛と説明したのもあろうが、前世ではこんなことあっただろうかと、訝しむほどだった。
「もう、先生も事前に連絡くださいよ。こんな遅くになっちゃったじゃないですか」
「そ、そういう問題じゃないと思うんですけど」
困惑する美久をよそに、白銀は、ため息を吐きながら、肩にお湯をかける。
「ああ、いいお湯ですね。景色もきれいで最高だ」
「先生、話は変わりますが……」
「どうした」
「アイリスさんの事が忘れられないんですか」
「何を……」
「この際です、僕と裸の話し合いをしてみませんか。
先生の本心が聞いてみたい」
一瞬困惑するマサキに、寄り添う美久。
彼女は、後ろから滑らかな素肌を背中に寄せてきた。
柔らかい体がぴったりと密着してきて、思わず何も考えられなくなる。
「私に遠慮せずに、どうぞお話しください。
それに、人間は裸の方が真実を話すと言いますから……」
今度は白銀のほうが意外そうな顔をする。
余計な事を口走ってしまったみたいで、情けなく狼狽した。
「い、いやっ……別に深い意味は……」
短いため息を漏らしながら、目の前に広がる雪化粧を見つめるマサキ
その表情には、暗い影が見え隠れし始めた。
「アイリスディーナが、俺を愛していないかって……そいつは愚問だな。
相手がどう思うか知るまいよ、この俺が愛したんだ」
マサキの問わず語りに、白銀は何と声をかけてよいか思いつかなかった。
マサキが落ち込んでいるとは思わなかったが、あえてこの2か月ほど結婚に関して聞かなかったのだ。
「片思いで結構。愛されてなくて結構。
俺が愛したんだからな」
しかし部外者である白銀が心配したところで、問題が解決するわけではない。
何かできるわけではないと、これまで触れてこなかったのだ。
「東ドイツという国籍も、東ドイツ軍将校という身分なんて関係ない。
年齢の差なんってのも関係ないさ。
愛するってのは、己の心を一人の女に捧げることさ。
相手の心を知るとか、確かめるとか、そんなのは必要のない事よ」
そういって、マサキは湯船から立ち上がる。
白銀の正面に来ると、深々と湯けむりの中に体を沈めた。
「だが、それだけの心を、それだけの愛を男から奉げられてみよ。
その男を憎む女がいるか、どうか。
その男を愛さぬ女がいるか、どうか」
かける言葉が見つからないと、意気消沈する白銀。
そんな反応を見ながら、マサキは苦笑した。
「俺自身にためらいがあるとすれば……
本心から、アイリスを愛していないからこそそういう恐れを抱くのではないか。
俺が作ったマシンも、財産も分けてやるつもりだ。
それで捨てられたら、それはそれでいいのではないかと……
本当に愛したんだからよ、満足できるではないかと……
そう思えてくるのだよ」
美久は、まるで気が詰るかのような動機に似た感情を覚えた。
かつてないほどの、鮮烈な感情の衝撃であった。
「俺が疑心暗鬼になればなるほど、彼女にも伝わるはずだ。
そして、それは俺に帰ってくる。
もし、アイリスが俺を愛していないのなら、それは俺の不甲斐無さのせいさ」
白銀は、マサキが本気でアイリスディーナの事を思っていることを内心ビックリした。
というのも、彼はマサキがキルケの時のように遊びだと思っていたからである。
遊びではなくて、本気で恋をしたというのなら違う。
マサキが悶々と悩んでいたのは……そういう弱みがあったからと、納得した。
それにしても許せないのは、東側の人間である。
アイリスディーナ嬢の純情を弄んだのだから。
白銀は、マサキの見合い話を思いながら、彼の純情さに思わず小さな笑みを浮かべた。
後書き
とりあえず、年内はこれで終わりにします。
ご意見、ご感想お待ちしております。
威力偵察 その1
前書き
久しぶりの戦闘シーン。
何ヵ月ぶりでしょうか……
核ミサイルの数は、プラモデルの脚部にあるミサイルランチャーの数から推定しました。
太陽系最大の惑星、木星。
その星は大きさが地球の11倍、質量が地球の320倍ある巨大ガス惑星である。
主に水素やヘリウムで構成されており、絶え間なくジェット気流によって大気が揺れ動いている。
また、非常に強い磁場を持っているため、北極や南極の周辺でオーロラが発生する。
現在、木星には92個の衛星が存在し、その数は土星の146個に次いで多い。
とくに大きい四つの衛星、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストを指して、ガリレオ衛星と称する。
これは、1610年に、科学者・ガリレオ・ガリレイが発見したためである。
まず最大の衛星・ガニメデは、直径5260キロメートル。
これは水星よりも大きく、また表面は氷に覆われていて、内部に海を有すると想像されている。
次に氷の衛星・エウロパ。
ガニメデと同様に氷天体と呼ばれ、氷で覆われた衛星である。
そして、火の衛星・イオ。
木星に最も近い天体で、絶えず木星からの潮汐力(強い重力)によって影響を受けている。
その潮汐力によって、天体内部が溶け、活発な火山活動が起きているとされる。
2016年から運用中の木星探査機「ジュノー」では、赤外線カメラによって、赤く光っているのが確認できるほどであった。
マサキは、グレートゼオライマーの実験場として、このガリレオ衛星を破壊することにした。
木星本体は強力な磁場から、恐らく着陸ユニットは到達できていないであろう。
そして、衛星イオは活発な火山活動の為、ハイヴ建設には向かない。
そうすると、エウロパ、ガニメデ、カリスト。
この三つの衛星に、BETAの前線基地があるはずだ。
BETAに感づかれずに、その惑星を壊す方法はないか……
それはグレートゼオライマーの新しい必殺技である、烈・メイオウ攻撃を浴びせるしかないのではなかろうか。
そういう結論に達した。
さて、マサキといえば。
彼は、朝五時というのに各務原にある岐阜基地の格納庫に佇んでいた。
ゼオライマーを駐機させておく格納庫は、全長200メートルを超える巨大なものであった。
全高70メートル、幅95メートルで、箱型の形状をしており、観音開きの大戸が備えてあった。
これは飛行船の格納庫を流用したものである。
飛行船は、第一次大戦から第二次大戦前までの戦間期の航空偵察の主力であった。
その巨大な倉庫には、二体の巨人の姿があった。
それは、まるで寺院の山門の左右に安置した金剛力士像の様に格納庫の左右に自立していた。
マサキは、二体のスーパーロボットの姿を、感慨深げに眺めていた。
右手には、愛用のタバコ「ホープ」を、左手でコーラの瓶を、それぞれ持ちながら。
グレートゼオライマーの姿にウットリしながら、コーラで唇を濡らす。
完成までに、2年近くかかったが、こうして一応形になると何とも言えない気持ちである。
8個の特殊装備の内、4つに限定したのも完成を早める原因になったろう。
何よりも、これでこの宇宙を自在に飛び回れるマシンが完成したのだ。
甘いカラメルと炭酸の味は、どんな美酒よりもうまく思えた。
グレートゼオライマーの飛行試験は、深夜に行われた。
例の如く、マサキは美久と共に、単騎で高高度の飛行試験を行う名目で基地を飛び立った。
高度2万メートルまで上昇した後、木星近辺に転移した。
漆黒の闇の中に浮かぶ、巨大なガス惑星。
水素とヘリウムによる、幻想的な階調と複雑な模様。
まるでそれは、天下の名品である曜変天目の茶碗を思い出させてくれる。
俺は、人跡未踏の木星まで来たのか。
マサキは、かつてない最高の充足感に浸っていた。
このグレートゼオライマーの特殊武装を使いこなせれば、地球を、太陽系のすべてを俺の物にするのはたやすい。
これさえあれば、BETA抹殺の夢も、夢で無くなろう。
またとない精神的な満足感に、一人涙を流していた。
まず試験は、両足にある54セルのミサイルで行われた。
近距離防空用24セル、遠距離防空用30セルの核弾頭搭載ミサイルが一斉に衛星ガニメデの地表に向かって放たれる。
事前の赤外線レーダの探査で、およそ1000万のBETAが群生していることは確認済み。
遠距離用弾頭は、およそ1万メガトン(100億トン)。
近距離用弾頭は、15メガトン。
15メガトンとは、広島に投下された原爆に相当する威力である。
搭載された核ミサイルは、すべて別次元から転移される仕組みになっていた。
それ故にどれだけの量を使おうと、機体のエネルギーが尽きない限り、無限に攻撃できた。
広範囲の核攻撃は、突撃するしかないBETAにとって、効果的であった。
木星の衛星では、ハイヴ建設以来攻撃を受けていなかったので、光線級が存在しなかったのだ。
ガニメデの地表面に降りるとBETAの大群は、畢生の勇猛をふるって、無二無三猪突してきた。
核の熱で、ガニメデの表面を覆った氷が解け、一斉に大量の水が周囲を覆う。
戦車級、突撃級、要塞級などは、氷を蹴り、霜にまみれ、真っ白な煙を立てて、怒涛の如く、ゼオライマーに接近してくる。
その矢先である。
「ルナ・フラッシュ!――」と一声、わめき、レバーを引く。
グレートゼオライマーの指の先から、超高速で光の弾が放たれていく。
ルナフラッシュとは、ローズセラヴィーに搭載された連射式のビーム兵器である。
欠点は一斉射撃のたびに、充電せねばならぬことであったが、次元連結システムのおかげで無限に射撃が可能となったのだ。
たった一回の射撃だけでも、何万というBETAが忽然地上から消え失せた。
水しぶきをあげ、ごうッと、凄まじい一瞬の音響とともに、その影が見えなくなった。
開いていた指を閉じ、手刀の形に変える。
その際、指先から放たれるビームが収束され、一本の刃の様になった。
「受けるが良い。この冥王の力をな」
要塞級めがけて、戛然、一閃の刃がおりてきた。
どうかわす間も受ける間もない。
要塞級は真っ二つになると、血煙を噴いてすッ飛んだ。
「美久、あれを使うぞ。射撃体勢への準備に入れ」
「わかりました」
その言葉と同時に、背中に搭載されたクワガタの形をしたバックパックが中空に飛び上がる。
ほぼ同時に腰の左右にあるフロントアーマーが胸のあたりまで跳ね上がる。
草摺型のフロントアーマーは90度回転し、垂直に向きを変える。
機体の正面に降りてきたバックパックは、フロントアーマーから両脇を挟まれる。
ガチャンという鈍い金属音が響き渡ると同時に、バックパックが正面に接続された。
その瞬間、グレートゼオライマーの目が、漆黒の闇に不気味に浮かび上がった。
それは中・遠距離用エネルギー砲への、変形完了の合図でもあった。
「チリ一つ残さず灰にしてやる、BETAどもめ。
このジェイ・カイザーでな!」
発射口にエネルギーが徐々に充填されていく。
充填完了のランプが操作盤に付くと、右の操縦桿を目いっぱい自分の方に引き寄せる。
「こいつから逃げられると思うな」
忽然と、堰を切られた怒濤のごときものが、グレートゼオライマーの目の前にへなだれ入った。
しかし、すでにそのときBETA勢は完全に逃げる道を失っていたのである。
砲声は、瞬時の間に起って、BETAの大半を殲滅した。
ビーム砲の一撃で、怯むBETAの軍勢ではなかった。
地は鳴る。音は響く。
濛々と土煙を上げて、あたかも堰を切って出た幾条もの奔流の如く、BETAの全軍は、先を争って、マサキの元へ馳けた。
100万を超える大群が攻め寄せるも、マサキは平然としていた。
その瞬間、機体の後方にあるバーニアを全開にし、上空に飛びあがる。
木星の強力な磁場すらも、グレートゼオライマーの機体には影響は与えなかったのだ。
「プロトンサンダー!」
オメガ・プロトンサンダーとは、雷のオムザックに搭載した原子核破壊砲の改良版である。
米海軍第7艦隊を一撃で殲滅した、このエネルギー攻撃はマサキの手によって強化されていた。
範囲、威力ともに8倍に増強され、100万の軍勢は一瞬に消えた。
木星のBETAは抵抗力を持たず、グレートゼオライマーの敵ではなかった。
すでにガニメデでの激烈な戦闘は、3時間近く経とうとしていた。
徐々に疲労を感じ始めていたマサキは、左の袖をめくりあげ、腕時計を覗き見る。
日本時間では、深夜2時過ぎか……
そろそろ戻らないと、明日に影響しよう。
「美久、仕上げにかかるぞ。例の新必殺技を使う」
「本当ですか」
「せっかく人的被害の及ばない木星まで来たのだ。今更、何をためらう必要がある」
「このグレートゼオライマーから撃つメイオウ攻撃がどれほどの威力か……
正直、私でも想像できません」
困惑する声を上げる美久をよそに、マサキは不敵な笑みを浮かべる。
妙に含みのある笑いだった。
「破壊範囲も、ジェイカイザーやプロトンサンダーの威力から推定して……
通常のメイオウ攻撃と比べ物にならないでしょう」
人造人間として、副操縦士として、アベックとして。
口に出せない美久の心情が、マサキにはよくわかる。
こんなものでは手ぬるいのだ。
もっと驚かせてやるぞ……
美久の当惑ぶりを見るのは、マサキにとって大きな悦びである。
マサキは操作卓に並ぶテンキーを、素早くブラインドタッチした。
「フハハハハ、だからこそ。
BETA事木星の衛星を全て壊して、新必殺技の威力を全世界に喧伝する必要があるのさ」
それまで垂れ下がっていた機体の両腕が、胸の位置までゆっくりせりあがって来る。
ほぼ同時に、目と胸と両方の手の甲にある宝玉が、漆黒の宇宙の闇の中で煌々と光り輝いた。
グレートゼオライマーの機体は、射撃指令を今や遅しと待っている。
「化け物どもめ、グレートゼオライマーの真の力を思い知るがいい」
マサキは叫びつつ、いっそう攻撃の準備を早める。
「出力全開」
メイオウ……
なんとも恐ろしい音がして、胸と両腕の間から光が噴出した。
それは、グレートゼオライマーの新必殺技、「烈・メイオウ攻撃」である。
今までこんな攻撃をしたことがないのに……
すさまじいまでの衝撃の波が、機体の内部にいる美久の電子頭脳を忘我の境地にさらっていった。
烈・メイオウ攻撃の一撃は、文字通り強烈だった。
一瞬にして、衛星ガニメデを崩壊させ、宇宙空間からその姿を永遠に消し去ってしまった。
ショックと感動が同時に美久を襲った。
受ける爆風は操縦席さえ振るわせるのに、飛び切り上等の興奮が次々に沸く。
もはや美久には、BETAへの攻撃の躊躇などなかった。
むしろハイヴごと、惑星ごと破壊することに喜びさえも覚えた。
「烈・メイオウ攻撃」の攻撃が木星の各衛星にぶつかると、衝撃波が一気に機体に浴びせられた。
美久は、夢の世界を漂うような心地がした。
「今のは次元連結システムのちょっとした応用にしか過ぎない。
本当の力は、まだまだ、これからだよ……」
グレートゼオライマーの操縦席から聞こえるマサキの声を聞いたとき、美久は不安に思った。
木原マサキという底しれない野望を持つ男との関係が、いつまで続くのだろうか。
ぼんやり考えながらも、ゆっくりと機体を動かして、木星の空域から離脱して行った。
後書き
今後の予定としては、年内に完結させるつもりでいます。
その後は、外伝か、これまた別なマブラヴ18禁の話でも書くかな……
ハーメルンの方は、少しお休みをいただきます。
年明けからは、公私ともに糞忙しくなってくるので……
話がある程度溜まってから、更新する予定です。
ご意見、ご感想お待ちしております。
1月6日から通常投稿に戻ります。
威力偵察 その2
前書き
なんだかんだいって、3年目突入か。
柴犬小説では珍しいほどの長期連載になりました。
土星は太陽系の第6惑星で、これまた巨大なガス惑星であった。
木星との大きな違いは、土星の赤道上を平行に囲む環であった。
1610年にガリレオ・ガリレイが発見し、最初は耳として紹介された。
今のように環であることが判明したのは、1655年にホイヘンスが確認してからである。
分厚い板のように見える土星の輪は、無数の微小天体の集まりであることが判明している。
ガス惑星である土星の表面は,厚い大気層に覆われていた。
大気の主成分は、大量の水素・ヘリウム・メタン・アンモニアなどである。
また土星の衛星・タイタンは厚い大気に覆われており、大気層を含めれば、木星の衛星ガニメデを凌駕する大きさであった。
別な衛星・エンケラドスは表面を厚い氷に覆われた白い星であった。
だがこの衛星には、ガニメデやタイタンとは違う変わった傾向があった。
有機物と謎の熱源、そして液体の水の3つの要素が全て揃っている。
生命体が存続可能な条件がそろっており、地球外生命体の根拠地の一つと推定されるほどであった。
マサキは、土星そのものではなく、タイタンやエンケラドスなどの衛星に注目した。
土星の衛星は、資源が豊富であり、またタイタンには大気層がある。
そしてエンケラドスには地下に大規模な水源と、マグマを中心とした熱源がある。
この二大衛星を秘密基地に改造すれば、BETA撃滅の前線基地に仕えるかもしれない。
人工知能を搭載した作業用ロボットを使って、大規模な戦術機工場を作る。
あるいは巨大戦艦の建造基地にするのも、良いかもしれない。
そんなことから、木星攻略から日を置かずに、土星の攻略にかかったのだ。
衛星・エンケラドスの地表は、全くの暗闇だった。
数万を超えるBETAの影が、目を赤く光らせながら、黙々と行進していた。
その時である。
突如として起きた大地震と共に地中から、地下のマグマ層が噴き出してきた。
発生した地震はマサキが引き起こした人工的なものだった
グレートゼオライマーの必殺技で「アトミック・クエイク」
マグニチュード10から12クラスの振動を加えた後に、核ミサイル飽和攻撃を実施する技であった。
また熱泉も天高く吹き上がり、エンケラドスを覆っていた氷の層を溶かしてゆく。
瞬く間に、エンケラドスにはマグマによる小さい沼がたくさんにできてきた。
氷の熱い表層は酷い泥濘になり、戦車級は、ぬかるみに没し、要塞級は動かない。
加えて、それとみて、いずこから現れたの戦術機隊が、横ざまに機関砲を撃ちかけてきた。
サンダーボルトA-10、6機、F-4Jファントム、6機、計12機である。
地球からはるかに遠い場所で、推進剤の補給も心もとない場所に、何故戦術機が現れたのであろうか。
それは、マサキが作った人工知能搭載の戦術機部隊であった。
美久に搭載した推論型AIの100分の一の人工知能で、マサキの指示に完璧に動く者であった。
もちろん人は載っていないから、軌道も回転も制限がなかった。
その上、機関砲の振動も気にしなくてよかったので、余計な心配はほぼなかった。
泥のようになったBETA勢は、急転して、マサキが引き連れた戦術機隊へ、突っこんで行った。
ざ、ざ、ざッと泥飛沫が2万の怪獣に煙り立った。
と見るまにである!
アヴェンジャーGAU-8ガトリング砲が、咆哮をあげ、火を噴いた。
30ミリ機関砲に当たって、そこに倒れ、かしこに倒れ、血を噴いて、呻くものが、列をみだし始めた。
血けむりの中へ、後続の1万5千の部隊は雲の如く前進を開始して来た。
マサキの方では、それまでの戦闘を、戦術機隊にまかせて、後方で寂としていた。
「よしッ!かたを付けるぞ」
颯爽と、戦術機体の目の前に現れ、射撃形態へ変形を開始した。
「ジェイカイザー、発射準備」
BETA勢は、グレートゼオライマーを目がけて、幾たびも近づいて来た。
射撃準備が整うまで、無人操縦の戦術機12機が、マサキを護衛した。
ガトリング砲、フェニックスミサイル、滑腔砲などが、無数の敵を撃滅させた。
だが、彼らはひるまない。
敵は、後から後から繋がってくる。
無人誘導の戦術機は、粘着性の高い油が充填された、ナパーム弾を投擲する。
戦車級も燃え、突撃級も燃え、要塞級も燃えた。
ジェイカイザーは次元連結システムを搭載する以上、本来、充填は不要である。
マサキが時間をかけたのは、試射を経ずに、第一射でBETAを殲滅する為であった。
美久がもう一体のゼオライマーに載っているので、標準を手動でするしかなかったためである。
「発射!」
ジェイカイザーの一撃は恐るべきものであった。
大地はとたんに狂震し出した。
山も裂け、雲もちぎれ飛ぶばかりである。
硝煙は周囲をつつみ、まるで蚊の落ちるように、その下にBETAは死屍を積みかさねた。
突如として起きた、土星軌道上にある衛星の謎の大爆発。
世界最大を誇るヘール望遠鏡によって、衛星・タイタン消滅の一部始終が観測されていたのだ。
その件は、直ちに米国の国政の中心であるホワイトハウスに知られることとなった。
それはマサキが基地に帰って、二日後の事であった。
会議の冒頭、NASA局長は、米国大統領に、
「大統領閣下!
すでに今週に入って、太陽系の各惑星で謎の衛星爆発があったことは聞いておりますね」
「ああ」
「閣下。NASAの方では、これらの事象は人為的なものと考えております」
「それで……」
「実は土星までパイオニア計画で無人機を飛ばしたのを知っておりますね」
「1962年の事だったね」
「閣下、その通りでございます。
あの時に木星と土星にそれぞれ10号と11号が接近して、ガニメデとタイタンからの映像を得ました。
何かしらの構造物や生命体らしき存在を認知しておったのですが……」
懺悔とともに、NASA局長が言った。
「時勢も時勢でしたので、公表はケネディ大統領によって差し控えられておりました」
「ダラス事件がなければ、変わったかね」
「それは何とも言えません」
「NASA局長、続けたまえ」
「我々はそれから再分析したのですが……BETAの支配域であることは間違いのない事実でした」
NASA局長は詫びぬくが、しかし閣僚たちは、ただ笑っていた。
少し離れた位置にいる国防長官が、ようやく口を開いた。
「問題は、大規模な戦闘兵力をいかに素早く送ることですな。
現状ですと、スペースシャトルによる鼠輸送しかありません」
鼠輸送とは、大東亜戦争時に帝国海軍が行った駆逐艦による輸送作戦の事である。
当時のガダルカナル島では米軍に制空権を奪われていた。
その為、同島への部隊輸送・物資補給は困難を極めた。
低速の輸送船ではたちまち戦闘機や潜水艦の餌食になる。
そこで海軍軍令部が思いついたのは、高速の駆逐艦を利用して行った輸送方法である。
駆逐艦に積める物資を、何度繰り返すことで日本軍の補給路を維持する。
その規模があまりに少なく足りなかったため、前線部隊がそのように揶揄したのであった。
「だが、他にも方法はある。輸送船は何もスペースシャトルとは限らん」
「!」
ここで読者諸兄も、月面に大規模な派兵に対して疑問に思うだろう。
2020年代の今ですら精々月に有人船を送るのは至難の業、ましてや1970年代は無理ではと。
マサキが来た並行世界は、我々の知る世界の歴史と大きな乖離があった。
まず1944年に、日本が降伏したばかりではない。
1950年に米国主導で月面着陸が成功し、8年後に火星探査船バイキング1号が火星の調査を終えてた。
火星の調査を終えた米国は、次の段階に宇宙開発事業を進めた。
それは、太陽系外への学術調査である。
核パルスエンジンを使用した無人探査船の建造は、地球軌道上で行われた。
調査船発射用の宇宙ステーションとともに調査船イカロス1号も衛星軌道上で建造されたのだ。
「諸君は、フォン・ブラウン博士を知っておるかね」
質問とともに、副大統領が言った。
すると、国務長官をはじめ、みな吹き出して、
「あのV2ロケットを作りし、航空及びロケット工学の泰斗。
ゲシュタポにつかまった際には、ヒトラー手づから助命嘆願をしたそうですな」
「悪魔にすら魂を売った世紀の大奇人。」
「彼については、私も聞いたことがあります。
晩年はオカルト思想に溺れた狂人でしたな」
と交まぜかえした。
こんな冗談も出るほど、うち解けていたのである。
「それくらいにしたまえ。
さて、そんな彼は、BETAの太陽系進出を恐れ、ある遺言を残した」
「さあ、聞かせてもらおうではないか。フォン・ブラウン博士の遺言を」
「はい」
「博士は、この太陽系に人類が留まることを危険に感じていたのです……」
「博士が存命だった一昨年までは、ユーラシアの大部分はBETAに占領されていたからね」
「今も月面にはハイヴがございます。時間の問題かと……」
「うむ」
「では聞くが、人類にとって安全な場所はあるかね」
「お見せします」
NASA局長は、部屋を暗くし、スクリーンを用意すると映写機を回し始めた。
そこには、何やら建造中の巨大な宇宙ロケットのような物が映し出された。
建造作業に参加していた戦術機のと比較を見ると、およそ20倍ほどの縮尺であろうか。
その大きさは、横倒しにすれば空母エンタープライズと同じ320メートルの大きさだった。
映写機が回る中、しばらくの間沈黙が続いた。
ホワイトハウスの老主人は、つぶやき、眼をほそめる。
「ほう、たいしたものだね。素晴らしい設備だ」
「お褒めにあずかり、光栄にございます」
NASA局長は、最敬礼の姿勢を取った。
そして居住まいをただした後、画面に映る巨大戦艦の説明を始めた。
「これはバーナード星系に行くためのロケットです」
バーナード星系とは、地球から6光年以上離れたへびつかい座にある惑星群の事である。
天体観測から、人類が居住可能な惑星が存在するとされている場所である。
「博士はバーナード星系こそ人類安住の地と思っていたのです。
第4のローマ帝国を、新時代のギリシャ共和制を作り上げるのもバーナード星系でならばと!」
男の驚くべき発言に、周囲も動揺していた。
6光年も先の、バーナード星系に移住する計画などというのは夢想だにしなかったからだ。
「15年かけて完璧につくった核パルスエンジンの宇宙船、このダイダロス10号。
合成ケロシン燃料や全固形燃料ロケットなどの、今までのガラクタとは、違うのです」
「そうだったのか」
大統領は、ただ驚きあきれる。
それに対して、閣僚たちの反応は、様々だった。
「予想以上だ」
「素晴らしい。
私たちにもこんな手札が残っていたとは……」
その話を黙って聞いていた副大統領は、同時に何か考えている風だった。
一頻り、バニラ風味の香りがするシガリロをふかした後、口を開いた。
「これで、合衆国はG元素爆弾の他に切り札を持ったことになる。
安心して、月面降下作戦の計画をすすめたまえ」
副大統領に最初に質問をしたのは、国防長官は、
「近々行われる月面攻略に関してですが……」
閣僚の中には困惑の色を示すものも少なくなかった。
FBI長官、保健教育福祉長官、運輸長官などの内政を担当する閣僚たちであった。
(保健教育福祉省とは、1959年から1980年まで存在した米国の省庁)
そんな彼らの事を気にせずに、国防長官は続けた。
「さしあたっては、合衆国の中から、精鋭100名ぐらい募ってはいかがでしょうか」
話を聞き終えた副大統領は、しばし黙考した後、口を開く。
その様は、どこか満足げな風であった。
「では大統領閣下……
よろしければ、月面降下の計画を国防長官から説明してもらいたいと思いますが……」
国防長官の口から、月面降下の作戦が語られた。
NASAと米軍の案は、至極簡単なものだった。
地上から飛ばしたスペースシャトルを、まず大気圏外にあるステーションに泊まらせる。
そこで、事前に建造しておいた戦術機用のカーゴ船を連結し、月面に向かう。
地球上で行わないのは、シャトルの推進剤の使用量をわずかにするためである。
戦術機のような大規模な装備を送るとなれば、月面までの距離は遠い。
それに莫大な燃料も必用だからである。
燃料が大量に残っていれば、月面から万が一の際に帰還できる。
降下作戦をサクロボスコ事件の二の舞にしないというものだった。
「以上の理由から、基礎的な素材を少し持ち込むだけで、月面攻略は難なく進むことでしょう。
ハイヴにあるG元素さえ、我が合衆国の手に入りさえすれば……
それを活用し、何でも作ることが出来ることは、疑いようもございません」
国防長官の言葉をつなぐようにして、副大統領は相好を崩す。
「国防長官の案は私も検討しましたが、今の所、それがベストでしょう。
英国やフランスをはじめとするEC諸国にもアプローチし始めています」
国防長官も同じだった。
この際、常任理事国の英仏も巻き込んでしまえと、まくし立てる。
「使い捨ての肉壁となる戦闘要員も、各国から集めつつあります」
国務長官の言に、国防長官は冷ややかな視線を送る。
使い捨ての肉壁という言葉は、彼の気持ちに衝撃を与えたようだった。
「ただし、極めて厄介な問題がございます。
ソ連をどうやって納得させるかという事です」
満座の者たちの意見は、ほぼ彼と同じだった。
たしかに、ソ連をどう納得させるかは重要であった。
BETAに惨めに負け、ゼオライマーの元にも敗れ去った。
だが、いまだ世界最大の核保有国であり、ICBMの恐怖は変わりないのだから。
「これだけ大規模な作戦ですから、ソ連赤軍を刺激するのは必須。
上手く宇宙基地を作れたところで、核ミサイル攻撃などを受ければ……」
副大統領の答えは実に明快であった。
閣僚たちの目が、彼の下に集まる。
「それについては、私の方で考えがある。
世界を黙らせる良い方法がある。
近いうちに、発表できるであろう」
これで、月面降下作戦は実施できる。
副大統領の言葉は、大統領を満足させるに十分だった。
「実に欣快だ。
30有余年前のロスアラモスでの出来事が昨日のように思い出されてくる」
満面に喜色をたぎらせながら、
「よし、諸君!盛大な晩餐会を催そう」
その夜、ホワイトハウスでは各界の関係者を集めた盛宴が開かれていた。
総勢、500名の来客を前に、大統領は挨拶を始める。
「今晩の催しに集まってくれた、紳士淑女の諸君!
私の生涯において、今日ほどうれしい日はない。
少年の日のような心のときめきすら覚える」
ことばは世のつねのものだが、万感の真情と尊敬がこもっている。
料理も豪華で、贈答品も両手に余るほどだった。
大統領の演説に万雷の拍手が鳴り響く。
「博士たちよ、よくぞG元素爆弾を完成させてもらった。
米国の知能である各分野の200名の権威者たちの内、3名の物がこれを成功に導いた。
このことは、地上に第4のローマ帝国を建設を可能にし、まさに望外の喜びである」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
今回の投稿で、読者リクエストでお願いされたことは、ほぼやりました。
なので、再度リクエストいただければ、考えます。
(残ったリクエストは、あとはアイリスディーナをサンダーボルトに乗せることと、マサキとユウヤの邂逅ぐらいかな)
原作キャラ関連のイベントだと、ヴァルターとシルヴィアを結婚させるぐらいしか、思い浮かばないんですよね。
やってほしいことあったら、コメントください。
威力偵察 その3
前書き
西ドイツ軍のバルク少佐って、そういえば対して活躍してませんよね。
そういうことで彼も一応、東独軍の連中と絡ませることにしました。
ゼオライマーによる威力偵察を受けて、日米両政府は秘密会合を行った。
その際、マサキの資料から判明したのは、違う惑星間でのBETAの連携が見られないという事であった。
また、土星にあったハイヴの規模は、カシュガルハイヴの2倍という途方もないものであった。
構造物の高さが2キロメートル、最大深度8キロメートル。
核搭載の特殊貫通弾でも、厳しかったであろうことが予測される。
今回のルナ・ゼロハイヴ攻略に関しては、その前段階として月にある静かの海に前線基地の建設が急務となった。
シャトル着陸地点の他に、月面での資源の活用や、G元素の搬出の為に、基地建設は必須。
米国としては、月面探査基地の回復は、重要な国威発動の一環だった。
1950年以来、月面に前線基地を作ってきた歴史もあって、基地建設は絶対譲れない条項だった。
また前線基地は、補給物資や武器弾薬を貯蔵するにも必要だった。
いくら輸送船での運搬とは言えども、上空からの投下と基地の搬入では運び込める物資の量が格段の差があったからである。
マサキ自身は、月面を核ミサイルの飽和攻撃で焼き払った後に、ハイヴを消せばよいと考えていたので、彼らの案はまともとは思えなかった。
別に人類は、地球圏の中で暮らせばいいではないかと考えていたのだ。
それは、マサキのいた世界では宇宙開発が月面への着陸で終わっていた為である。
さて、米国政府が主導して計画した月面攻略作戦はどうなったであろうか。
第一陣の出発は、半年後の10月と正式に決定された。
その為に、100名の精鋭が集められることとなった。
無論、人口2億2千万を誇る米国でも100名の衛士たちを選抜するのは厳しかった。
また、政治的な配慮から、NATOおよび西側諸国からも30名のパイロットが選抜された。
基地奪還を主力とする米兵と違い、NATOおよび西側諸国の兵士たちは決死隊の扱いであった。
部隊への参加に際して、厳しい身辺調査と、誓約書の提出が求められた。
身辺調査の内容は、以下のような物である。
その条件は、非常に厳しく過酷なものであった。
第一に、英語の他に、2か国語を完璧に話す語学力と知性。
仏語、露語など、世界各国で話者が多い言語が望ましい。
第二に、身長170センチ以上の強靭な肉体。
目だった既往歴がなく、五体満足である事。
第三に、精神的な憂いをなくすために、30歳以下の人物は独身者である事。
例外として、1967年のサクロボスコ事件の参加者は、既婚でも問題ないものとする。
第四に、階級は将校で、少尉以上。
高等指揮幕僚過程、士官学校卒、戦時任官など、昇進の過程は問わない物とする。
第五に、勤務経験5年以上である事。
下士官での勤務や、各種軍学校での経歴なども、加算したものとする。
BETA戦争での従軍歴が1年以上あれば、勤務歴5年と計算する。
第一、第二の条件に比して、第三の条件は非常に厳しかった。
当該人物の戸籍はおろか、婚姻歴、子の有無、交友歴まで調べられた。
正式な法律婚ではなくても、愛人との間に子供がいればアウトだった。
子供の状態は、成人していても、胎児の状態でも、いることが判明すれば、選抜から蹴落とされた。
幼い頃から宇宙飛行士の夢を持っていたユルゲンは、当然この選抜に参加した。
ベアトリクスにあてた離縁状と共に血判状を書いて、東独大使に提出するほどだった。
だが結果から言えば、彼は選考から有無も言わさず除外された。
つい先ごろ、ベアトリクスが生んだ息子のためである。
選考から漏れたのは、ベアトリクスの件ばかりではなかった。
実は彼の傍にいた人物が原因だったのである。
NASAは選考にあたって、ユルゲンの傍にいた人物への徹底的な身辺調査をした。
その際、彼の護衛兼秘書でもあったマライ・ハイゼンベルクからある問題点が浮上した為である。
ユルゲンの同級生であり、彼の副官であったヨーク・ヤウク少尉。
彼は、ちょうど英国のサンドハースト陸軍士官学校に留学中だった。
ヤウクも、ユルゲンの顰に倣って、もちろん選考に参加した。
そして1度目にして、合格した。
選抜をしたのが、英国空軍であった為もあろう。
彼は、東ドイツ人で、NATO非加盟の国家の出身。
しかも身長が規定より一センチ足りなく、本来ならば一発不合格である。
どんなに望んでも、再試験に回されたであろう。
だが、彼は熱心に自己アピールをして、担当官を口説いた。
独身で、反ソ感情の強い人間が月面に立ってハイヴ攻略に参加したことを示せば、ソ連への牽制になるという内容である。
英国空軍の担当官は、鬼気迫るヤウクの態度に感銘を受け、彼を推薦することにした。
東独空軍士官学校次席で、実戦経験豊富な人物である。
死地からも幾度となく、ほぼ無傷で生還してきた男である。
彼は難なく、筆記試験と実技を通り越し、晴れて攻撃隊のメンバーに選ばれたのだ。
ドイツ系ロシア人のヤウクにとって、ロンドンでの生活は刺激的だった。
流行りのパンク・ロック音楽、会員制のクラブ。
自由にモノを言える社会に、だれでも自動車を買える資本主義制度……
華やかな面ばかりではない。
当時の英国は、1960年代から続く長い停滞の時代に入っていた。
戦後長く続いた労働党政権による、国民福祉政策。
それは産業の分野まで影響し、より保護主義的なものとなった。
相次ぐ企業の国有化に、慢性化するストライキ。
頼みの綱となっていた自動車産業は、国有化のために国際競争力を失っていた。
当時飛ぶ鳥を落とす勢いの日本車に負け、多くの労働者は路頭に迷った。
彼のいた1979年は、『不満の冬』と呼ばれる最悪の時期だった。
街にあふれる多くのゴミに、はびこる違法薬物。
公務員のストも常態化し、警察や消防は人手不足であった。
医者や看護婦はストで出勤せず、墓場では死体が埋められず、鳥獣の餌になった。
ストライキのために、どれほど酷かったか。
都市部でさえ、暖房用の灯油すら不足し、生木を裂いて暖を取るほどである。
路地を歩いていると、何度もエクスタシーの密売人に声を掛けられた事か。
(エクスタシーとは、麻薬指定のされた向精神薬・MDMAの俗称である)
海外暮らしの長いユルゲンから、ロンドンの食事は不味いと言われたが、気にならなかった。
ソ連の一般的な食事よりも、クビンカ空軍基地の給食よりも、おいしかった。
物価高が深刻で、スターリングポンドの価値も乱高下した。
国から留学資金では厳しくなり、ソ連留学時代にためた外貨を使わざるを得ないほどであった。
ソ連から東ドイツに仕送りをする際は、外貨しか送れなかったので、ためておいて正解だった。
彼は、一人そう思っていた。
貧しい留学生であったヤウクは、士官学校での外出許可を貰っても出来ることは少なかった。
クラブやバーに行くことなどは、資金面から難しい。
古本を読むか、公園で運動をするくらいしか、楽しみがなかった。
子供の頃憧れたロンドンが社会主義のために廃墟となっていたとは……
行先のない乞食のたまり場になっていた、ハイド・パーク公園。
その一角にあるベンチに座り、タバコをふかしていた時である。
一人の男が、ドイツ語で声をかけてきた。
「おい、ロシア人の兄ちゃん」
不意に、彼は振りむく。
そこには金剛力士像のような体つきをした、見あげるばかりの実に立派な偉丈夫がいた。
「あんた……ヤウクか……」
咄嗟に上着の中から自動拳銃を取り出す。
男は、拳銃を向けられても、不敵な態度を崩さなかった。
「ふっ」
男の着ていた服装は、実に奇妙だった。
運動着の様な意匠の上着、側章の入ったズボン、合成皮革の長靴であった。
両方の袖に付けられた第51戦術機甲大隊のマークがなかったら、アディダスのジャージと勘違いしたであろう。
「なるほどな」
鳩尾まで開けた上着の下は、厚手のティシャツとペンダントだった。
ペンダントは、米軍の認識票を模した私物だった。
「おめえ、ただのいい子ちゃんってタイプじゃねえな」
話し方と言い、服装と言い、やくざ風ではないか。
西ドイツ軍の衛士はこんな感じなのかと、ヤウクは目を丸くするばかりだった。
「ちょっと待ってくれ。今吸っているシケモクで一服させてくれ」
ヤウクは、両切りタバコを爪の先のぎりぎりの長さまで吸っていた。
火傷しそうなほど短くなったシガレットを、空き缶に捨て、立ち上がった。
「さあ、いいよ。
僕に聞きたい事があるんだろう」
「あんた、資本主義と社会主義の共存共栄はありうるか」
厳しい表情をみせる男に、ヤウクは不敵な笑みを浮かべる。
男の質問など、彼は全く相手にしていなかった。
「何、寝ぼけたことを言ってるんだい。
そんな世迷言を言いに、はるばるロンドンまで来たのかい。
国際関係は、力と力のぶつかり合いだ。
食うか食われるかだよ」
男は、せせら笑いを浮かべながら、ヤウクの問いに答えた。
「飯でも食おうか、ヤウクさんよ」
食事は、ロンドン市内にある中華街で行われた。
代金は男持ちで、ヤウクは一銭も身銭を切らずに済んだ。
紹興酒を飲みながら、男の問わず語りが始まった。
男の名前は、ヨアヒム・バルク。
第51戦術機甲大隊「フッケバイン」所属の大尉だという。
その話を聞いた瞬間、彼は第51戦車大隊を思い浮かべた。
クルクス防衛戦で「大ドイツ師団」の麾下に入った戦車部隊だ。
西ドイツは、第三帝国時代の国防軍最精鋭部隊の名称までつかっているのか……
思わず苦笑してしまうほどであった。
西ドイツ軍では訓練の一環として、海外での研修が行われていた。
米本土に飛行訓練大隊が二個、英国のウェールズに戦車大隊が常駐しているという。
西ドイツ軍はNATOの任務割り当てで、低空侵入による航空阻止を担当していた。
その為、連邦空軍では過酷な訓練で、事故死が常態化しているほどであった。
保有する戦術機の4分の1は訓練で既に失われていた。
だが、18機編成の戦術機隊に、予備機が16機あり、保有数は34機という大規模な部隊であった。
その話を聞いて、ヤウクは、西ドイツ軍が少しばかり羨ましくなった。
ソ連軍は東ドイツをけっして信用せず、戦車や航空機の自主開発はおろか、重機関銃どころか、小銃でさえ旧式しか渡さなかった。
中近東に派遣された軍事顧問団も、シュタージのジェルジンスキー衛兵連隊が中心で、国家人民軍は東独政府とソ連から全く信用されていなかった。
プラハの春事件当時、第7戦車師団にいたシュトラハヴィッツは、高級将校の教育課程を終えていたので、視察団として許可されただけで、実戦の参加は出来なかった。
食事の後、彼らはロンドン市内を散策していた。
その内、 テムズ川の周辺に広がる貧民窟が一望できる場所に移動する。
「何を考えてるんだ、バルクさん」
「見るがいい。これがロンドンの光と影だ」
テムズ川をはさんで、眩い摩天楼と貧民窟がみえる。
摩天楼は星空を地上に下したように、きらびやかで美しい。
半面、貧民窟は、カザフスタンで見たソ連市民の住宅よりひどい有様であった。
Rの音の強い英語を話す、棗の様に肌の浅黒い人々。
住民の発音から、ヤウクは、インドか、パキスタンからの移民であることを理解した。
当時の英国は、労働力不足から大量の移民を受け入れていた。
その多くは、旧植民地からの出稼ぎで、黒人やインド人などの有色人種であった。
「ドイツも東西統一がなれば、東側から富を求めて押し寄せるだろう」
バルクは、タバコを燻らせながら、ヤウクに語りかけた。
脇にいるヤウクも、彼に分けてもらったステートエクスプレス555を吹かしていた。
(ステートエクスプレス555は、箱入りの高級タバコで、金正日の愛用品だった)
「ドイツの富は食い荒らされて、やせ細る。
いずれこの光景は、ドイツ全土に広がる……」
ロシア系なのに酒があまり得意ではないヤウクにとって、タバコは非常に重要な娯楽品であった。
ソ連留学時は、マホルカや高級煙草の「白海運河」、口付き「カズベック」、何でも吸った。
酸っぱい煙草も苦い煙草も吸ってきた。
バルクから貰ったタバコは、癖がなくて上品な味わいだが、物足りなく感じてしまう。
そんな事を考えながら、バルクの話を聞き流していた。
「そこで政府にいる年寄りどもが考えたのが、共存共栄路線だ」
ヤウクは、バルクのその言葉に跋を合わせる。
「ご老人は、どこでも同じことを考える」
バルクはタバコを喫いながら、
「ヤウクさん、あんた生まれは」
「僕は捨て猫みたいなものさ」
ヤウクの言葉は、彼の来歴を簡単にあらわしたようなものだった。
ロシア系ドイツ人の運命は、常に時代にほんろうされる存在だった。
18世紀に請われて、ロシアに渡った彼らの運命は、一言で言えば過酷だった。
帝政時代も、ソ連になってからも、同じだった。
一定の自治を認めるようで、その政治情勢で強制的に同化を求められた。
ソ連では、選挙権も徴兵権も剥奪され、カザフスタンにある居留地に留め置かれた。
追放された東ドイツの地でも、ロシア人として扱われた。
自分は、民族はドイツ人でありながら、人から見ればロシア人なのだろう。
生まれた時から恵まれた立場にいるユルゲンとアイリスディーナの兄妹。
党の大幹部の孫娘ベアトリクスなどとは、全然違うのだ。
それにロシア系ドイツ人とは言え、先住民のソルブ人の様に少数民族の得点はない。
上級学校への無資格での入学やソルブ語の使用のような、手厚い保護もない。
だから、ドイツ社会からも、ロシア社会からも捨てられた存在なのだ。
それ故に、捨て猫みたいな物と、つい、本音を口走ったのだ。
「君も同じだろう。暖衣飽食の育ちとは思えない」
ヤウクはつぶやくように、そういってから、眼をバルクに向けた。
「この大戦争の時代、生きようと思ったら這い上がるしかねえ。
生きるも死ぬも自分の能力さ」
バルクは、得意になって、相好を崩しながらヤウクはへ言った。
ヤウクは、苦笑をもちながら、ただうなずいた。
「つまり僕たちが生き残るには、方法は一つしかない」
「頭になるしかない」
「君の話だと、国を乗っ取るしかない」
問われたことには答えず、バルクは、タバコを吸い終ると、こういって、ヤウクの方をふり向いた。
「おめえさんが担いでいるシュトラハヴィッツ。
あの爺を神輿にして、東ドイツの世論を統一にまとめる。
そして、統一ドイツの旗、ブルッセルにおっ立てる!」
変な事を、臆面もなく言う男。
ヤウクは、感心しているような、またすこし、鼻白んだような面持ちで、まじまじと、バルクの口元を見まもった。
「これは木原が作ったグレートゼオライマーの資料映像だ。
土産に不足はねえだろう」
「確かに土産に不足はない。だけどそんなもので動く簡単な話ではない。
しかも、君の肚の中にある真意はつかめていない」
ヤウクは、当然なことを、当然いっているような態度である。
「駄目ってことか……」
バルクは、一応口をつぐんだ。
けれどヤウクは、それを不愉快らしくは少しも聞かなかった。
むしろこういうはっきりした男も、大いによろしい。
「だけど君は僕に気に入ることを一つ言った」
バルクは、使うには、使いよいことなども考えられた。
いや多分にそういう男であるから、さして不快とする理由もなかったのである。
「統一ドイツの旗、ブルッセルにおっ立てる」
「フッ、それでいいんだよ。
他人が何考えてようが関係えねえ」
「俺たちの目的は、同じ場所にある。
だから同じ月面作戦の船に乗る。
同じ作戦に参加したからって、一生親友って間柄じゃねえんだ」
「これは面白い冒険になりそうだね」
後書き
カティアの経歴調べたら、1968年生まれなんですよ……
ずっと1967年生まれだと思って勘違いしていました。
ヤウクが1954年生まれだとしたら、カティアとの年齢差は、14歳以上……
原作主人公のテオドールは1964年4月13日生まれですから、彼女とは4歳差ですね。
当時の東ドイツだと、一応16歳でも家庭裁判所の許可が下りれば結婚出来ました。
どうしても早く結婚したい場合は、婚姻年齢が15歳のフランスか、13歳のスペイン・ポルトガルで式上げるしかねえのかなと……考えております。
(フランスは2006年、スペインは2008年に婚姻年齢が18歳に引き上げられました。
なお婚前妊娠の場合は、ロシアを含む欧州のすべての地域で、家庭裁判所の許可で16歳で婚姻が可能です)
ご感想、ご意見、お待ちしております。
月面降下作戦
前書き
ソ連の動きが全くないので、書きました。
月面攻略作戦に関して、国際連合は無意味だった。
米国主導での国連軍結成は、79年1月から3月にかけて安保理で審議された。
だが、ソ連の拒否権行使、中共の棄権により何ら具体的結論を得られなかった。
中共が棄権した理由は、単純だった。
支那の国土は、未だBETAの災いから回復しておらず、ソ連の衛星国である北ベトナムとカンボジア問題で対立していた為である。
ソ連は、国連軍結成に際して、G元素の戦略兵器指定を打診し、第二次戦略兵器制限交渉の中に入れるよう求めてきた。
軍縮を進めたい米国国務省や国防省はその流れに応じる姿勢を見せ始めた。
しかし、米国議会はその表明に反発し、ヘルシンキで交渉中だった戦略兵器削減条約の批准を拒否した。
意趣返しと言わんばかりに、ソ連は安保理に上がるすべての議題を拒否するという事態に陥った。
その為に国連に向けられる世人の目は厳しかった。
安保理は、政治的解決に資する場所とは考えられず、有閑老人の茶話会と揶揄された。
マサキが威力偵察を行った話は、ソ連にも漏れ伝わっていた。
グレートゼオライマーに関する情報のは、斯衛軍に潜入したGRUスパイによってリークされた。
即座に在京のソ連大使館から、ウラジオストックのソ連共産党本部に渡っていた。
以上の理由から、ソ連共産党は、マサキの太陽系におけるBETA殲滅作戦の実態を把握していた。
無論、手をこまねいているばかりの彼等ではない。
様々な手練手管を使って、G元素の開発に参加する方策に乗り出したのだ。
書記長の質問から始まった、臨時閣議は以下のようなものだった。
「この作戦は、木原による単独行動かね」
書記長からの問いに、GRU部長は、驚いたふうもない。
事実、マサキの行動には、ソ連の上下とも、麻痺していた。
「……ともいえません。
つまり、CIAの指示により、日本の情報省が極秘に調査したという様な……」
「CIAが動いているのかね」
GRU部長は、CIAの同行をスパイから報告を受けながら、いま知ったように、わざと言った。
「CIAと、非常に強いつながりを持ったものが背後にいるとしか……」
「CIAは何を画策しているのか。
その背後関係を調べたまえ。その上で最高幹部会議で結論を出す」
「これは、KGBとしてもうかうかしておれませんな」
「何、」
KGB長官は、うなって、聞きすまし、
「KGBとしては、かえって、復讐心が湧くというものですよ」
と、天井を仰いで言った。
「ところで米軍が新作戦を練っているらしい」
議長がつぶやいた一言に、一方の外相も、ぴくりと顔をあげていた。
「新作戦?」
「作戦内容はまだわかってないらしい」
今、中に飛び込んでいったら、参加したNATO諸国の立場がなくなるどころか、話のこじれ方によっては緊張緩和そのものの崩壊もありうる。
外相という立場の判断で、グロムイコは途中参加をためらった。
このまま、放っておける問題ではないと思ったが、下手な行動は慎まねばならない。
第一、赤軍を散々苦しめた重光線級がいるかさえも、十分にわかっていないからだ。
確実なのは、木原マサキが土星への威力偵察をしたという事実だけ。
なぜ木原が、単独で……
これが解明されなければ、迂闊に介入できない。
かといって、このまま知らぬふりをすることは、なおの事、出来なかった。
「同志議長」
侍していた参謀総長が、そのとき、初めて口をひらいた。
「ん?」
「私は、木原に話し合いを申し入れようと思っております」
その場に衝撃が走った。
室中、氷を敷き詰めたように冷え冷えとした空気が、政治局員たちを包む。
「そんなはずはない」
「君の楽観論であろう」
「何かの、まちがいか?」
人々は、仰天して、騒いだ。
混乱を受けてか、チェルネンコは、途端に驚愕の色をあらわす。
両手を広げて、参謀総長の方に振り返った。
「木原と話し合い?」
外相は、参謀総長の提案を一笑の下に切り捨てた。
日ソの外交関係の30年を知っているものにとって、その提案はあまりにも馬鹿げていた為である。
「同志参謀総長、冗談はよしてくれ」
「私は真剣です」
最近のマサキの心境なども、ソ連赤軍には的確にまだつかめていない。
洞穴に隠れる熊みたいにそれは不気味な感がある。
なので、「まずは、ヘタに触さわるな」と様子を見ていたのである。
それをいま、議長が、
「で、日本野郎と会って、何を話し合おうというのだね」
さも憎げに怒りをもらしたので、参謀総長にすれば、マサキの秘密を探る、勿怪の幸いと、すぐ考えられていた。
「G元素の共同開発を申し出るのです」
参謀総長は口付きタバコの「白海運河」を出して、火をつけた。
話をほかへ持ってゆく手段である。
さし当って、マサキの作戦の狙いとは、何なのかか。
それを、議長の権力でつきとめさせたい。
「いかがなものでしょう」
参謀総長は、すすめた。
KGB長官も、当惑顔のほかなく、
「ま、皆さま、お静まり下さい」
と、左右をなだめ、
「同志参謀総長、それは夢物語ですよ。
我らとG元素の共同開発を進めるなんて、日本野郎が応じると思うんですか!」
KGB長官が、米ソの間を行き来している日本の立場をはなす。
参謀総長はまた、わざとのように、彼の気弱さを、あざわらった。
「出来るかどうか、一応話し合ってみるべきですな」
「議長殺しの悪党と、誰が話し合いに行くというのか!」
「この私が交渉に応じるのです」
「そいつは、あまりにも冒険主義的過ぎる」
「私は考えに考え抜いた後、それをいっているのだ。
今こそ、話し合いが必要なのだと……」
KGB長官は、いやいやうなずいた。
彼として、おもしろくない赤軍の形勢にふと気が重かったものだろう。
彼は自分の席から上座を仰いだ。
「木原は、ハバロフスクを爆破し、そしてベイルートまでも爆破した。
如何に長大な力を示そうとは言っても、このままいけばソ連の、いや地球の破滅を招く」
「現に、東ドイツをはじめとする東欧諸国はこぞってNATOの軍門に下りました。
国際関係のねじれは酷くなる一方で、その内、中近東での影響力を失う遠因になります」
参謀総長は、力をこめた。
「これは核による力の均衡が崩れてきている証拠です。
この破滅から逃れるには、日本野郎を一時的に利用するしかありますまい。
同志議長、どうぞご裁可を」
赤軍参謀総長の熱心な説得に、チェルネンコ議長はついに決心した。
「君の責任で、やり給え」
参謀総長は議長の裁可を拝して、押しいただき、
「ありがとうございます」
議長をはじめとする閣僚たちに、謝辞を述べる。
議場にかかる真影と国旗に最敬礼をした後、そのままその場から下がった。
その頃、日本政府は。
洛中にある首相官邸に、マサキ達を呼び出していた。
議場には、三権の長と、官房長官をはじめとした国務大臣。
ずらりと次官と次官級の高級官僚が居並んでいた。
「この報告は……本当かね、木原君。
木星と土星にもBETAが存在し、ハイヴが建設されていたというが……」
官房長官の言葉を受けて、マサキは氷のように冷たく答えた。
「木星の衛星ガニメデと、土星の衛星タイタンは、早い時期にはBETAの手に落ちていた」
そう告げると言葉を切り、タバコに火をつける。
上司の前で平然と喫煙する姿に、さしもの美久もあきれ果てるばかりであった。
「記録フィルムはあるかね」
「ああ」
「見せたまえ」
映写機から映し出されたのは、ガニメデでの戦闘記録であった。
氷で覆われた氷天体の5000キロの衛星内に、凄惨な地獄絵が繰り広げられている。
「これが、ジェイカイザー」
グレートゼオライマーが長距離射撃用の砲身に変形した様が映された。
「そして、オメガ・プロトンサンダー」
背中に付いた羽根型の大型バインダーの先端が、クローズアップされる。
先端から飛び出した蟹のはさみに似た形状のものが、原子核破壊砲の装置であった。
「標準なしの1斉射で、ジェイカイザーは、60万。
プロトンサンダーでは、200万のBETAを一瞬のうちに灰にすることが出来る」
酸鼻な奈落の底で、超然とそびえるグレートゼオライマー。
その姿は、地獄の業火の中から燦然と現れる閻魔王にさえ思えた。
「むう……これほどとは!」
首相のおもてには、どこにもほっとした容子はない。
土星BETAの殲滅報告をマサキから受けて、安堵もあるはずなのに、それとは逆な様子だった。
「これからだ! ……。むずかしいのは」
独り呟いているかのような硬めた眉の影だった。
内閣の質疑から解放されたマサキは、官邸近くにある喫茶店にいた。
個人経営の店であったが、政府関係者が主な客で、半ば職員用の休憩所であった。
美久とともに軽食を取りながら、熱いカフェラテとタバコで一服していた。
すると、二人の人影が現れた。
白銀と鎧衣である。
白銀は帽子を脱ぐと、一礼をした後、
「先生宛に、ソ連外務省から連絡がありました」
「何!」
マサキは、どきとした色で、聞き返す。
それの実否を、ただす間もなかった。
「エネルギーの共同開発を行いたいので、返答が欲しいそうです」
ソ連の国際的立場が危ういから、G元素の開発にかじを切ったのか。
そんな余裕が、どこにあるか、と言いたげに、マサキは眼を丸くした。
「エネルギーの共同開発だと!」
と、マサキは感情まる出しに、怒った。
「ソ連の奴ら、何を寝ぼけたことを言ってるのだ」
「断りますか……」
「その必要はない。捨ておけ!」
鎧衣と白銀は、思わず顔を見合せた。
思い当りがなくもないからであった。
「木原君……」
この時、鎧衣はチャンスとばかりに、マサキに水を向けた。
「なんだ、鎧衣!」
鎧衣は、マサキにそれとなく探りを入れてきた。
「考えようによっては、またとない機会……」
マサキは、むきになって、言いまくしたものだった。
「良い機会だと!」
臆面もなく鎧衣は、彼に打ち明けたことだった。
「ソ連の交渉に応じて、その間にG元素を全て米軍に渡せばよいのではないか」
鎧衣と白銀は、特に示し合わせた訳ではなかった。
だが、目を見合ううちに、互いの心をお読み取っていた。
「なるほど、それは良いですね。
先生、奴らの提案に応じてください」
白銀からの思わぬ発言に、ギョっとしつつもマサキは必死に心を静めた。
おおよその状況を把握してから、どう行動するか決めようと思ったのだ。
「……」
マサキは、途方に暮れた眉だった。
会話は、そこで途切れてしまった。
喫茶店での話もそぞろに、マサキは岐阜基地の格納庫に戻っていた。
対BETA用の新兵器の最終調整を一人進めているところに、美久は声をかける。
「これはなんですか」
美久が見たものは、奇妙なものだった。
タンクローリー用のセミトレーラーを流用したもので、横倒しのタンクを縦に配置し直したものである。
全高11.97メートル、全長3.095メートルもあり、タンクの背面には何やら連結器のような物が見えた。
「農薬噴霧器ではない。
俺が作った、真空でも使える新型の火炎放射器だ。
最大有効射程は、3キロメートル、タンクの最大容量は、240000ガロン。
ファントムの内部タンクは、2000ガロンだから、約20機分だ」
(240000米液量ガロン=約90キロリットル)
可燃性燃料を満載したタンクの前である。
さしものマサキもタバコに火を付けずに、口にくわえているばかりであった。
「次元連結システムを応用した装置で、一回の火炎放射で1500度の高温まで発射できる」
マサキが説明した装置は、M2A1火炎放射器を10倍ほどの大きさにしたようなものだった。
色は黒に近い深緑色に染められ、戦術機の両腕で保持できるようにグリップが装備されていた。
「この棒型のグリップは手元に手繰り寄せるポンプ式で、連続30分の火炎放射が可能だ。
また燃料タンクの容量から30時間の使用が可能で、最悪の場合、戦術機の増槽としても使える」
タンクには可燃性の燃料が満載している為であろう。
黒色の板に黄色の反射性の材料で、「危」と表示した標識が設置してあった。
「あと、真空ナパーム弾や、戦術機に装備する電子光線銃の開発も続けている。
これが完成すれば、BETAに近寄らずにハイヴごと奇麗に焼けて、跡地利用にも問題ない」
そういいながら格納庫から出て、外にある自動販売機の前に移動する。
マサキは格納庫の扉が閉まったことを確認すると、胸ポケットから使い捨てライターを出した。
「どうせ人の住んでいない月面です。
いっその事、核ミサイルを使えば済むのではありませんか……」
「お前も、すこしばかり過激な事を言うようになったな……」
いささか感傷的になったマサキに、美久も同調した。
胸がつまった。
「美久、お前はゴキブリやネズミを退治するのに家を爆破するのか……」
ポツリと漏らしたマサキの言葉だったが、美久には皮肉に聞こえた。
「違います……」
「いや、違うはずがない」
「違うと言ったら、違います」
マサキは勝ち誇ったような笑みを浮かべると、マサキは煙草に火をつけた。
ホープのアメリカンブレンドの何とも言えない香りが、その場に広がる。
「核爆弾を使うということは、ゴキブリごときで家を爆破する様なものだ。
俺としては、後に得られる資源の為にBETAとその副産物であるG元素だけを焼くことにした」
そういわれると、何も言い返せなかった。
確かに、核弾頭による飽和攻撃という自分の提案は月面の資源採掘を遅らせる原因になる。
……マサキさん。
この世界に来てから、あなたは変わりましたね。
以前でしたら、きっとハイヴどころか、惑星ごと爆破していたでしょう。
だいぶ優しくなられましたね……
美久はマサキの変化に内心驚きつつ、また喜んでいた。
くぐってきた修羅場の数だけしたたかになり、強くなってきた。
以前には感じられなかった、マサキの精神的な成長を実感するほどであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
月面降下作戦 その2
前書き
マブラヴ世界は外交の騙し合いが多いので、マサキもソ連も騙し合いをさせることにしました。
日ソ間交渉は、第三世界で行われることが決定し、日本代表団は直ちに南に向けて出発した。
マサキたち一行は、パキスタンに来ていた。
日本政府のチャーターした日本航空で、大型機のDC-10。
羽田から14時間のフライトで、イスラマバード国際空港に着陸した。
チャーターしたDC-10の搭乗口から、伸びる赤い絨毯。
居並ぶ儀仗兵に、大臣や通訳などの外交関係者。
その先には、灰色の詰襟姿の偉丈夫が立っていた。
男は、外交使節団長の御剣と話した後、マサキの方に歩み寄ってきた。
右手を差し出し、握手をすると、
「やあ、パキスタンへようこそ。
貴方が歴戦の強者、木原博士ですか。噂はかねがね伺っております」
声をかけてきた男は、パキスタンの大統領だった。
左派政策を進める首相をクーデターで追放した人物でもあった。
「機会があれば、もっと早く来る筈であったが、途中で手間取ってな……」
マサキは、なお少し、ためらっている風だった。
彼は、はなはだ冴えない顔をしていた。
ふと御剣のうしろに立って、ニヤニヤ笑みをふくんでいる鎧衣が眼についた。
『鎧衣め、俺の気弱さを笑うのか……
よし、ここはひと騒ぎを起こしてやろう』
マサキも、遂に肚をきめた。
パキスタンに核を配備し、ソ連と友好関係にあるインドを叩くことにした。
「パキスタンは、インド亜大陸における自由の砦だ。
俺個人としては、貴様らの核武装には全面的に賛成している。
核によるソ連の封じ込めの方が、核軍縮などという、ソ連を利する愚策より、ずっとましだ。
パキスタンの核をもって、ウズベクのタシケント空軍基地を攻撃させる。
その方が世界平和に寄与する」
思えば、日本外交の不幸と悲劇は、対露融和の政治家が対外政策を行うことによって発生した。
幕末の川路聖謨であり、明治初期の榎本武明の領土割譲である。
また大正期の後藤新平や戦前の東郷重徳、松岡洋介らの誤ったソ連接近である。
あの時、日ソ不可侵条約などなければ、ドイツを支援すべく、満蒙の地からシベリアに進撃したであろう。
ソ連崩壊も1991年を待たたずに、50年早く訪れていたであろう。
ソ連への第二のシベリア出兵は、世界から共産主義の闇を消す「聖戦」となったかもしれない。
あの大東亜戦争の悲劇も、またふせげたのではなかろうか。
対露対決という姿勢で日本の外交を行うとき、日本は世界に輝く国家となる。
明治において、対露姿勢を明確にした陸奥宗光や小村寿太郎が外相を務めた時、日本の外交は万全となった。
そして、日露戦争に勝利したとき、日本は世界の列強に伍する国家になった。
マサキは、個人的な恨みも含めて、対露対決こそ国益にかなうと信じてやまなかった。
彼は、自らの信念を打ち明けることで、大きな歓喜を、その声にも、満面にも現した。
「南アジア最大の戦場で、暴れまわるのは、俺の夢。
何としても、ゼオライマーの力をみてほしい」
マサキは、爆発寸前の印パ関係を煽り立てるような語気で、なお言った。
すると男は、皮肉な笑みをたたえながら、早くもマサキの来意を読んでいた。
「それは心強い限りです。
ところで、ちょっと厄介な事が有りまして……」
「厄介な事?」
「時間がありません。
詳しいことは、道々話しましょう」
車中、マサキは大統領から詳しい話を聞いた。
男の言う厄介ごととは、印パの領土問題である。
両国の関係は、再び悪化の様相を見せ始めていた。
BETA戦争以前からある、カシミール問題が再燃しつつあったためであった。
インドへの膨大なソ連からの軍事支援に対し、米国の行動は早かった。
隣国パキスタンに対して、米国議会は核技術の輸出を正式に許可。
その内容は、遠心分離機、ウラン、パーシング2ミサイルの設計図面等である。
既にパキスタンは、中共に核技術の提供を受け始めていた。
今回の米国議会の輸出許可は、それを追認した形となった。
マサキたちがパキスタンに来た理由は、今回の会談に先立つものである。
日ソのエネルギー交渉は、インド洋に浮かぶ島国モルディブで行われることとなった。
それに合わせたかのように、ソ連外交団はインド入りしていた。
親善訪問の名目で、ウラジオストックから大艦隊、約30隻。
太平洋艦隊旗艦、ソビエツキー・ソユーズと複数の軍艦で、ほぼすべてがミサイル巡洋艦だった。
特に目を引いたのが、新造艦であるソビエツカヤ・ウクライナである。
全長399メートル、最大幅35メートル、最大船速38ノット。
Ka-25を2基、露天係留し、戦術機も分解状態なら1機搭載可能だった。
最新式の防空レーダーMR-710「フレガート」に、主砲として20インチ砲12門。
対空火器としては、AK-630自動機関砲24基、短SAM54基。
S-300の艦艇用は未開発の為、搭載されなかったが、恐るべき火力投射力を持つ戦艦であった。
しかも、最新式のOK-900A原子炉という加圧水型原子炉を3基装備していた。
推進装置として、スクリュープロペラを5軸備えていた。
この艦は、ソビエツキー・ソユーズ級2番艦で、建造中にドイツ軍によって接収、後に破壊されたはずだった。
しかしBETA戦争の非常時ということで、世界初の原子力戦艦として蘇ったのだ。
インドは、ソ連の最新戦艦の寄港に沸いていた。
インドの首相は、シェルワニという民族衣装をまとって、すぐムンバイ港へ出迎えた。
見れば、ソ連外交団の車は、儀仗を持った数百名の衛兵にかこまれ、行装の絢爛は、かつてのムガル帝国の儀仗と見まがうばかりであった。
「遠いところを良くいらっしゃいました。
あなた方、ソ連こそ、わがインドにおける最大の友人です。
今日は、わが国土に、紫雲の降りたような光栄を覚えます」
インドの首相は、ソ連の外交団長を、高座に迎えて、最大の礼を尽した。
外交団長も、インドの歓待に、大満足な様子であった。、
やがて、日が暮れると共に、タージマハルホテルで盛宴の帳は開かれた。
赤軍参謀総長ら、550名の使節団は、酒泉を汲みあい、歓語の声が沸き返った。
インドはロシア人にとって常夏の国なので、ソ連軍人の服装は軽装だった。
青色のウール製の礼装ではなく、灰色の盛夏服と呼ばれる服装だった。
将官は灰色の上着に濃紺のズボン、佐官以下の将校は深緑の常勤服。
海軍将校は、1号軍装と言われる白い上下の夏服だった。
赤軍参謀総長は、インド側の歓待に斜めならぬ機嫌である。
非常な喜色で、ソ連とインドの関係を強調した。
「アハハ、安心するがいい。
悪辣な契丹の侵略者が来ても、ソ連赤軍がいる限り、指一本も触れさせん」
契丹とは、トルコ方面における支那の雅称である。
遼王朝を建設した民族に由来し、ロシア語の志那を指し示す、キタイ(Китай)という言葉の語源である。
首相は秘蔵の酒を開け、銀製の酒杯についで、献じながら静かにささやいた。
「なんとも心強いお言葉ですな。同志参謀総長」
参謀総長は、飲んで、
「その代わり、代償として南インドの開発は我らの思う通りに存分にやらせてもらうぞ」
「はい、ムンバイの湾港建設などお望みのままに……」
「お望みのままにか……フハハハハ」
赤軍参謀総長の甘い言葉と軍事支援に、インドの指導部はこびへつらい、膨大な権益を提供するのであった。
核ミサイルと新型の軽水炉の支援の代わりに、潜水艦基地建設と農産物の低価格輸出を決めたのだ。
『アメリカや日本野郎の邪魔が入る前に、残らず頂戴しようではないか!』
まるでそんな声が聞こえてくるようなばかりの、心からの哄笑であった。
日ソ交渉は、インド洋に浮かぶ美しい島、モルディブで行われることとなった。
既にソ連外交団は、同国初のリゾート地であるクルンバ・モルディブで待ち構えていた。
「木原は本当に来るのでしょうか」
副官であるブドミール・ロゴフスキー中尉は、赤軍参謀総長に心配そうに訊ねた。
しかし、その発言は杞憂だった。
水平線の向こうから、マレ国際空港に航空機が近づいてくるのが見えた。
その後ろには、複数の飛行物体が続いている。
「あれを見てください」
一体は、あの憎いゼオライマー。
もう一体は、白を基調とした機体で、背中に大きな羽のような物がついている。
「木原め、戦術機まで引き連れてきたとは……」
マサキはソ連を恐れるあまり、2台のゼオライマーの他に、護衛を準備していた。
A-10サンダーボルトⅡ、F-4ファントムを、それぞれ一基づつ従えていた。
ハバロフスクを一瞬で消滅させたことを知るソ連外交団の顔色は冴えなかった。
マレ国際空港からクルンバ・モルディブに日本外交団は30分もしないで来た。
スピードボートで、即座に乗り付けてきたのだ。
日本外交団の長である御剣は、口を開くなり、驚くべきことを提案した。
これには、さしものマサキも苦笑するばかりであった。
「話し合いが終わるまで、ソ連側から二名の人間を預かりたい」
参謀総長の怒りは、いうまでもないこと。
「人質だと!そんな話は聞いておらんぞ」
副官のロゴフスキー中尉はむっとして、腰に付けた拳銃に手をかけた。
彩峰も、彼に対して、あわや剣を抜こうとした。
「情けを加えれば情けに慣れて、身のほどもわきまえずにどこまでもツケ上がりおって!」
戦術機隊の隊長を務めるグルジア人の大尉は、口を極めて罵った。
どやどやと室外に、衛士やボデーガードたちの足音が馳け集まった。
南海のリゾート地は、殺気にみちた。
参謀総長が後ろには、ラトロワを始めとするヴォールク連隊の衛士が控えている。
また、御剣が後ろには、神野志虞摩や紅蓮醍三郎などの第19警備小隊の護衛。
彼らは、剣環を鳴らしてざわめき立った。
レバノン事件の後は、ここに戦いもなかった。
鬱気ばらしに、ひと喧嘩、血の雨も降りそうな時分である。
「もう、来るものか!」
マサキは言い放って、自分からさっと、ゼオライマーが駐機してある沖合の方へ歩いて行った。
まだ怒りの冷さめないソ連赤軍大尉は、火のような感情のまま、外道を憎むように唾して語った。
「この不届き者めッ!」
外交団長の御剣は、冷静である。
にが笑いさえうかべて聞いていたが、マサキが本当に帰るそぶりを見せ始めたので、
「木原君の要求が、嫌なら……
我ら日本外交団は、直ちに帰らさせてもらうことにします」
これはマサキと御剣の一世一代の大芝居だった。
ソ連を慌てさせるために、マサキと美久は帰るそぶりを見せたのだ。
参謀総長は、まずいと思ったが、あわてて、
「待てくれ……いう通りにしよう」
ソ連側は、日本政府の要求に応じる形で、二名の者が鎧衣たちの方に歩み寄っていった。
赤軍参謀総長の護衛隊長を兼任するグルジア人大尉とラトロワであった。
御剣も、そのことを確認すると、満足げに同意した。
「よかろう」
御剣の護衛隊長を務める紅蓮は、一瞬にして、主人の言葉を理解する。
そして、あわてて言った。
「おい、木原を呼んで来い。――大急ぎで!」
鎧衣たちは、馳けて行った。
簡単な昼食会を挟んだ後、話し合いが始まった。
あくまで、G元素そのものの不拡散を目的とする日本。
一方、日本との共同開発を主張するソ連。
相反する二つの主張は、平行線をたどった。
やがてソ連側は日米安保条約について、日本側を非難し始めた。
しかし、それで怯むような御剣ではない。
逆に東欧諸国にいる駐留ソ連軍に関して、非難を始めたのだ。
「大体、駐留軍を置きながら東ドイツが独立国家とはどういうことだ。
貴様らが忌み嫌った、帝国主義そのものではないか」
「それは……」
御剣の鋭い剣幕に、さしもの参謀総長も言葉がなかった。
チェコ事件に参加した経験があった故に、ソ連の暴力主義的な外交を実感していた為である。
「東欧から軍隊を引き揚げて、初めて日米安保条約や米独の軍事協定を非難できる」
話し合いは難航を極めた。
6時間に渡って、双方の政治体制の非難に終始したためである。
「では、最後の提案をしよう。
わが日本の脅威となる北樺太から、ソ連赤軍の全部隊を引き上げる。
この約束が実現されなければ、この話し合いには応じられない」
ソ連側の人員は、百戦錬磨のGRU工作員に、辣腕外交官と凄腕ぞろいだった。
けれどこの時は、さすがに、日本側の随行員の顔からも動揺の色が見えた。
「サハリンからの全軍撤兵だと!」
「そうすれば、日本政府としても、G元素の共同開発の話し合いに応じる準備がある」
事の重大に、にわかに、賛同の声も湧かなかった。
代りにまた、反対する者もなかった。
寂たる一瞬がつづいた。
「2時間ほど休憩をしよう。
その間に本国と連絡を取り給え」
赤軍参謀総長から連絡を受けたチェルネンコ議長は、意気銷沈していた。
「同志スースロフ、どうしたものか」
例によって、ソ連共産党イデオロギー担当で、懐刀といわれる彼に計った。
第二書記はいう。
「同志議長。遺憾ながら、ここは将来の展望に立って、作戦の大転機を計らねばなりますまい」
「大転機とは」
「ひと思いに、日本野郎の裏をかき、月面ハイヴを核攻撃で廃墟にすることです」
「横取りするのか」
「そうです。
レバノンの戦いで、KGBのアルファ部隊すら敗れてから、味方の戦意は、さっぱり振いません。
一度日本野郎に応じるふりをして、兵を引き上げて、時を待って、戦うがよいと思います」
第二書記の説を聞くと、チェルネンコは、にわかに前途が開けた気がした。
その説は、たちまち、政策の大方針となって、閣議にかけられた。
いや独裁的に、第二書記の口から、幹部へ言い渡されたのであった。
閣議とはいえ、彼が口を開けば、それは絶対なものだった。
すると、外相が、初めて口を切った。
「同志議長。今はその時ではありますまい。
もし、秘密作戦が露見すれば、我が国は信用をさらに失い、国際社会より捨てられます」
つづけざまに異論が沸きそうに見えたので、第二書記は、激色をあらわにした。
「国際社会が何だ。
ソ連自活の為に、いちいち外国の顔色など伺っていられるか」
外相は、またいった。
「報復として、米国が経済封鎖をすれば、国民は飢えさせられ、党を怨みましょう」
「おのれ、まだいうかっ。貴様を反党行為の疑いありとして、検察に告発してやる!」
第二書記は言い捨てると、即座に車の用意を命じて、党本部を後にしようとした。
すると、その途上を、二人の男が追いかけてきて、目の前に立ちふさがった。
見れば、国防相と、戦略ロケット軍司令を兼務する国防次官であった。
「なんだ、貴様ら、道をさえぎって!」
「無礼は、承知の上で申上げます」
「覚悟のまえだと。何を提案しようというのか」
「秘策を用いて、木原の考えを読もうかと……」
国防相は、云々と、策を語った。
その言葉を聞いた第二書記は、何やら分かった様子で複雑な笑みを浮かべた。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
リクエストありましたら、感想欄にお書きください。
場合によっては、採用させていただきます。
月面降下作戦 その3
前書き
インド編はもう2回ほどでまとめます。
かつて、七つを海を支配した大英帝国。
昔日の栄光さえも信じられぬほど衰微し、僅かな支配地を残すばかりとなった。
だが全世界に張り巡らされた情報網は、旧植民地を始めとして、いまだ健在であった。
モルディブは英国より独立はしたが、依然、英連邦の構成国であった。
故に、マサキ達が会場にしたホテルからの情報は、政府中枢にそのすべてが伝わっていた。
「日ソの急接近は、ゼオライマーという超マシンを共産圏に売り渡すことになる。
ソ連が超マシンの量産化に成功した暁には、月面はおろか、火星に赤旗が翻る。
悪夢のような事態は、何としても、阻止せねばならない!」
「……しかし、総理。
それはゼオライマーを過大評価していると思うのですが……
現在の日本政府に、それほどの科学技術はないと思います。」
「そりゃぁ、ハイヴの一つ、二つは攻略できるでしょう。
……ですが、惑星の一つを攻略することは無理かと……」
「イスラエルの諜報機関は、そうはいっておらん!」
そう言って、テルアビブからの報らせを机の上に放り投げた。
「ゼオライマーを世界最強のマシンと評価している。
とにかくその操縦士の男、木原マサキは、無敵の人物とだとも言ってきている」
モサドの報告によるメイオウ攻撃の強大さを、大いに怖れて動揺した。
首相の怒りは、極度にたかぶった。
「昨日の友は今日の敵とも成りうる。
やはり木原マサキという男はこの世に存在しない方が良い。
日ソ会談をつぶすと同時に、始末しなさい」
痛嘆を飲んでいるものの如く、情報部長はただ首相の血相に黙然としていた。
情報部長は、マサキ討伐の任をうけ、密かにバッキンガム宮に上って、国王を拝した。
そして国王は、人払いをした所で、初めて口を開いた。
「情報部長、木原については、どうなっているのかね」
「パレオロゴス作戦の後、西ベルリンの情報員が、しきりと変を伝えてきました。
それによると、東ドイツの議長は、旧怨を捨て、自分の娘を木原の妻として嫁がせたそうです。
その婚姻の引出物に、秘密資料の大半も、木原に渡したということです」
国王は行政に関して決定権は持っていなかったが、意見を述べることは権利として認められていた。
国王の意見は政治的な裏付けはなかったが、場合によっては議会を通り越して閣僚たちの判断に影響することがあった。
それゆえ、情報部長は、国王の意見をもって、英国政府を動かすことに決めたのだ。
マサキの力を警戒したほうが賢明ではあるまいかと、思うところを述べた。
「要するに、日独、二者の結合は、当然、わが英国へ向って、何事か大きな影響を及ぼさずにはいないものと……
ダウニング街においても、みな心痛のまま、お達しに参りました」
「なに。議長の娘が、木原へ嫁いだ……?」
国王は思わず、手に持っていた筆を取り落した。
そのおどろきが、いかに大きく、彼の心をうったか。
国王は、とたんに手脚を張って、茫然と、空の雲へ向けていた放心的な眼にも明らかであった。
「とにかく、これ以上の東側の増長は危険だ。
早急にインド方面にいる諜報員へ、工作を仕掛けよ」
国王の目には、涙があふれかけていた。
情報部長は、恐懼して、最敬礼をしたまま、宸襟を痛察した。
ああ、大英帝国のこの式微。
他方、米国は栄え、新型爆弾の威は振い、かのニューヨークの摩天楼など、世の耳目を集めるほどのものは聞く。
だが、ここサクス・コバーグ・ゴータ朝の宮廷は、さながら百年の氷河のようだ。
宮殿は排煙に煤け、幕体は破れ、壁は所々朽ち、執務室さえ寒げではないか。
「情報部長、忘れはおるまいな。
かつて英領インドの地を日本が支援した独立運動で奪われた事を。
……あの折は、戦争に勝って、政治に敗れた。
だが、この度の日ソ会談の由を聞いて、いかに余が心待ちしていたかを察せよ……」
情報部長は、悲嘆のあまり、しばしは胸がつまって、うつ向いていた。
国王は、彼の涙をながめて、怪しみながら、ふたたび下問した。
「月面攻略作戦は、目前に迫っている。
仮にゼオライマーのおかげで作戦が成功すれば、その評判は広く四海に及ぶ。
日本の奴らが、米国にとって代わる危険性もあるのだ」
「かならず、宸襟を安め奉りますれば……
陛下も、何とぞ、御心つよくお待ち遊ばすように……」
情報部長は、泣いた目を人に怪しまれまいと気づかいながら、宮殿から退出した。
場面は変わって、日本の京都。
二条にある帝都城の大広間では、臨時の会議が招集されていた。
閣僚、政務次官の他に、事務次官や局長、譜代の武家や公卿衆までがずらりと居並んでいた。
やがて一の間の扉が開かれ、紫の衣を着た将軍が入ってきた。
一斉にその場にいる者たちが、最敬礼の姿勢を取る
「誰ぞ!雷電と木原はどうした!」
将軍の下問に対し、閣僚の列から外相は歩み出る。
一の間の上座を前にして、平伏しながら答えた。
「殿下!ソ連赤軍参謀総長と会談中との情報が入りました」
「そうか……全て予定通り、物事が運んでいるとの事だな」
将軍のいる一の間から離れた二の間にある政務次官の席にいた、榊是親は訝しんだ。
日ソ会談をしたぐらいで閣僚や時間を集めて、評定をするのだろうか。
おそらく将軍の真意は別にあるのではないか。
今回の会談の脚本を書いたのは、誰であろうか。
おそらく計画を書いたのは御剣であろう。
まさか一科学者である木原マサキが、こんなことを計画できるはずがない。
マサキのような風来の徒を重用なさるなんて、御剣公も人を見る目がないな……
榊は、マサキをふと軽んじるような念を抱いた。
だが、いつか国防省内で、大臣からねんごろに諭された言葉を思い出して、
『いやそう見ては、自分こそ、人を観みる目がない者かも知れぬぞ』
すぐ、自己を戒めて、奥に下がっていく将軍の姿を見送っていた。
その頃、モルディブの日本側宿舎では。
御剣雷電が、随行員たちと密議を凝らしていた。
「雷電さま、なぜ木原などという怪しげな学者にこれほどまでに肩入れをなさるのですか」
紅蓮の声は詰問調になっていた。
しかし、御剣の答えは、意に返さない風だった。
「よい機会だ。貴様らにも言っておこう。
政府は本物の戦力を欲している。実戦経験を持ち、堂々と海外派遣できる存在だ」
即座には、御剣の意図するところが分からなかった。
分からないまま見返せば、御剣は満足な笑みを浮かべていた。
「しかし、冷戦という国際情勢と、現行の安保条約の下では不可能だ。
帝国陸海軍というおもちゃの兵隊は、何時まで経ってもオモチャの兵隊なのだ」
驚いたらしい。
側仕えの紅蓮と神野は、さらに御剣の顔を凝視していた。
「天のゼオライマーというマシンと、無限の可能性を持つ次元連結システム。
今回の支那からの連絡は、渡りに船だった。
ただし本当に一個大隊並みの戦力なのかは、実戦に投入して見ないとわからないがね」
老獪な政治家である御剣は、ゼオライマーの利用価値は買っていた。
だが、木原マサキという人物を買ってはいなかった。
既に、マサキは利にうごく人間と、御剣すら見ているのである。
いかにこれへ厚遇を約束しておこうと、戦いが終れば、後の処置は意のままにつく。
「それに、今の木原は、政府の正規職員だ。
日本政府にとって、こんな都合の良いことはない。
もし奴の身に何かがあれば、ゼオライマーを合法的に接収できるのだからな」
「……!」
そこまで言われれば、紅蓮たちにも飲み込めた。
飲み込めはしたものの、余りにも衝撃的な意図に困惑するばかりであった。
御剣が、内にある野望を語っていたころ、マサキもまた美久と歓談をしていた。
彼は、コテージに備え付けてある、長椅子に座りながら、コーラを飲んでいた。
意味ありげにほくそ笑んだ後、ジャグジーバスに入る美久の顔を見る。
「美久よ、今度の作戦に失敗は許されんぞ」
満足そうにつぶやき、再び、コーラの入ったグラスで唇を濡らす。
それから、ふいに長椅子を立った。
美久を手招きして、言ったのである。
「だが、混乱を避けるためには、絶対に秘密は守れ」
そう言いながらマサキは、ゆっくりと、ジャグジーの中に入ってきた。
二人ともモルディブの海で泳いできたばかりで、水着姿だった。
マサキはトランクス型の海水パンツで、美久は朱色のUバック・ワンピース型水着。
「心得ております……
日本政府とともに、作戦準備に万全を期しておけば……」
ジャグジーから出て、グラスをテーブルに置こうとした時だった。
いきなり背後から、マサキが強い力で抱きしめる。
「あ……」
不意打ちだったから、思わずふらついて、グラスをジャグジーの中に落とした。
コテージの中は暗い。
空の月のほのかな光が、カーテン越しに入ってくるぐらいで、やっと物の識別ができる程度だった。
体の向きをかえられた美久の唇に、マサキの生暖かい唇が押し付けられる。
ほとんど唇の感覚が失われかけた時、マサキはようやく唇を離した。
マサキの話は、こうだった。
彼はソ連との交渉が始まる前に先んじて、火星を極秘調査することにした。
月面攻略作戦の前までに、火星にあるハイヴから着陸ユニットが飛来しないとも限らない。
危険性を除去するために、火星にある500のハイヴを調査し、破壊することにしたのだ
一応、日本政府の協力の元、火星調査衛星ということで、探査ロボットを送り込むことにした。
だが、日本政府内にはマサキの独断行動を面白く思っていない人物も多い。
彼の動向は、反対派を通じ、潜入したGRUやKGBのスパイによって漏洩し続けているのは確か。
そこで、ある一計を思いつく。
既に篁とミラが完成させていった、月のローズ・セラヴィ。
その機体を、グレートゼオライマーの代わりに火星に派遣するという案である。
だが、パイロットがいない。
生体認証で動く八卦衆のクローン人間もいないし、マサキ自身もソ連を欺くために日ソ交渉の場に出なくてはいけない。
代理のパイロットに、篁や巖谷を乗せるほど、彼らを信頼したわけでもない。
ではどうするのか。
ローズセラヴィーのパイロットだった葎をそっくりそのままコピーすればいい。
そういう事で、マサキは大急ぎで、葎の記憶を入れたアンドロイドを作ることにしたのだ。
「ソ連の目を、なるべくこの俺に向けておくのだ。
火星での作戦を悟られないためにな……フハハハハ」
昂る激情が、抱擁となる。
マサキは優越感に浸り、勝利を確信した。
マサキの真意は、依然なぞのままだった。
百戦錬磨のスパイである鎧衣や幾度となく死地を潜り抜けてきた白銀にもわからなかった。
そんな彼らは、護衛を務める近衛第19警備小隊に代わって、平服で歩哨を続けていた。
「分かりません、全然わかりません」
「え、何が……」
「木原先生の考えですよ」
鎧衣は、半信半疑の体であった。
固持する自己の公算からも、割りきれない面持ちなのである。
「ハイヴには膨大なG元素が眠っています。
各惑星のハイヴを排除したら、G元素の確保はダメになるでしょう」
誰かが彼のうしろで、大いに笑った。
「そこで、何をしていた」
振向いた白銀は、そこにいたマサキを見て、一瞬、驚きの色を示す。
彼は、なお笑って、マサキの方に歩み寄る。
「これは、木原先生」
マサキは、そこにいた白銀を見て、むッと、眼にかどを立てる。
ふざけたことをいうと許さんぞと、いわぬばかりな威を示した。
「俺に、何か用か」
「実は、その……インド軍の動きが、妙に気になりまして……」
「何か、企んでいるのか」
「反政府派のタミル・イーラム解放の虎(LTTE)がテロを予告しているのに、インド軍の警備大隊以下、全く動きがないのです」
モルディブは独立以来、自前の戦力を持たなかった。
それ故に、友邦であるインドとの間に安保条約を結んで、駐留軍を置いていた。
国土防衛の他に、海難救助などをインド軍にほぼ依存する形となっていた。
「じれったいな」
鎧衣は、眉をひそめて、なお凝視しつづけていた。
一方、マサキは、なおも質した。
「早く結論を言え!」
「ええ、つまり防備手薄な、このモルディブの会見場を一気呵成に攻める肚かと……」
マサキは、口を極めて怒りをもらした。
「お前の推測か!」
「は、はい。そうですが……」
「裏付けもなく、下らん推測……いちいち報告するな!」
マサキは不敵に笑った後、呟く。
「俺は、忙しいんだ!」
「すると、何か計画を……」
白銀が問いただすと、マサキは得々とその内容を打ち明けた。
「夢と温めてきた、史上最大の作戦だ」
マサキはすべてが、万全であるかのように誇って話した。
「史上最大の作戦ですか……」
ふたりは、もう何もいうことを欲しなかった。
そんな彼らの姿を見たマサキは、大喜悦である。
「今にわかる。フハハハハ」
鎧衣は、待つ間ももどかしそうであった。
彼には何か思いあたりがあるらしく、胸騒ぐ心の影は、眉にもすぐあらわれていた。
空港に呼び出された参謀総長の前に、黒い高級セダンが勢いよく乗り付ける。
BMW2002ターボのドアが開くと、後部座席から、将官用勤務服を着た初老の男が二人。
助手席からは、腰まである銀髪をゴールデン・ポニーテールに結った熱帯服姿の婦人兵が下りてきた。
「手こずっておる様だな」
「同志大臣、何の用ですか」
ソ連側も無策ではなかった。
日本側に譲歩の姿勢を見せる赤軍参謀総長を叱責するために、国防相と次官が乗り込んできたのだ。
「交渉に入るために、サハリンから全軍を引き揚げさせるそうじゃないか……」
「仕掛けもなしに、兵を下げる馬鹿がいるとお思いですか。
冗談も休み休みにしていただきたい」
「それなら結構」
「情報が早いな。どうしてそのことを」
参謀総長はいぶかると、国防相は、きッと改まった。
「斎御司家の下にいる、二重スパイからの報告だ。
城内省から、帝大の宇宙科学研究所に協力依頼があった。
明日、いや、もう今日だが、火星探査衛星の打ち上げてほしいという依頼だ。
総理府の航空宇宙技術研究所も協力するという話だ」
ここで、日本の宇宙開発の組織の歴史を、簡単におさらいしてみたい。
日本には3つの宇宙開発組織があり、すべて独自の予算と計画で動いていた。
一つが、糸川英夫博士が1954年に立ち上げた、生産技術研究所の糸川研究班である。
その後、糸川博士の研究は規模が拡大し、宇宙科学研究所となった。
1981年、国の管轄下におかれることとなった。
文部省の宇宙科学研究所(ISAS)を経て、宇宙科学研究本部に改組された。
二つ目が、航空宇宙技術研究所である。
同研究所は、総理府の管轄にあったが、後に科学技術庁に移った。
その後、1997年からの行政改革により、文部科学省航空宇宙技術研究所に改組された。
三つめが科学技術庁内に設置された宇宙開発推進本部である。
そこから発展して、1969年に科学技術庁の下部機関として、宇宙開発事業団が設置された。
40年以上にわたって、日本の宇宙開発はばらばらの機関で行われたが、余りにも非効率だった。
効率化を図るために、2003年に宇宙航空研究開発機構として統合され、再出発を果たしたのだ。
「同志参謀総長、君が日本野郎の意見を素直に聞いていたら」
そう言ってマカロフ拳銃を参謀総長の方に向ける。
これは、参謀総長を撃つものではない。
彼を威圧するため、取り出したものであった。
「で、来た訳だ。よろしく頼むぞ」
参謀総長は、焔のような息を肩でついた。
覆い得ない悲痛は、唇をも、眦をも、常のものではなくしている。
しかも、将官たる矜持を失うまいとする努力は、彼にとってこの混乱の中では並ならぬものにちがいない。
マサキが仕掛けた陰謀のことも、彼は今、ここへ来て初めて知った程だった。
何か、信じられないような顔色ですらあった。
「同志参謀総長、その女を使ってもよいぞ。
なんなら、木原を暗殺させてもいい」
国防次官が連れてきた女は、赤軍中尉の階級章を付け、ワンピース型の婦人熱帯服を着ていた。
参謀総長は、迷惑そうにしていたが、男は、盛んにたきつけた。
「もっとも、ESPの数少ない生き残りの兵士だがな……」
そう言い捨てて、国防次官は車に乗り込むと、彼方へと走り去っていった。
参謀総長が得たものは、彼の迷いとは、正反対なものだった。
後書き
ご意見いただければ幸いです。
感想、お待ちしております。
姿を現す闇の主 その1
前書き
国際金融資本に関する話です。
日ソ和平という世界平和の入り口もなりうる、今回のエネルギー共同開発の会談。
なぜ、英国政府は、日ソ間の接近を過剰に恐れたのであろうか。
それは17世紀以降急速な勢いで、領土拡大を進めるロシア国家を恐れての事である。
しかし、理由はそればかりではなかった。
欧州の各国政府や王侯貴族までも自在に操る上位の存在が、ソ連を受け入れがかかったからである。
欧州の各政府を操る、上位の存在とは何か。
それは、ナポレオン戦争の最中に資金を蓄えた金満ユダヤ資本家である。
彼らは、ワーテルローの戦いに際して、情報をうまく操作した。
英国軍勝利の事実をいち早く知り、ナポレオン勝利の誤報を流して相場を操作し、莫大な富を得た。
それを元手にして、長い年月をかけて欧州の金融業界を自分たちの影響下に置いた存在である。
急速な資本主義の発展のために力を失いつつあった王侯貴族に資金援助し、その見返りとして爵位を得たりもした。
また20世紀にはいると、ハンガリー系ユダヤ人のテオドール・ヘルツルが始めたユダヤ人国家の建設運動である「シオニズム運動」に共鳴し、イスラエル再建を陰ながら支援するなどもした。
金満ユダヤ資本は、ロシアの地に関して複雑な感情をいだいていた。
長い歴史の中で繰り返し行われてきた、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害。
その多くが、東欧やロシアの地で盛んであった為である。
有名な反ユダヤの著作である「シオン賢者の議定書」などは、帝政ロシアの秘密警察アフラナの影響を抜きには語れない。
かの怪文書は、瞬く間に全世界に流布したが、元の文書が出たのは1903年のサンクトペテルブルグであった。
当地にあった反ユダヤ系新聞『軍旗』において連載され、後に一冊の単行本にまとめられた。
初期のソ連・ボリシェビキ政権は首魁レーニンを初めてとして、元勲の9割近くがユダヤ系であった。
だが、英国の金満ユダヤ人と対立していた。
国家の経済独占を狙うボリシェビキ政権にとって、外国の影響を受けた企業は国の利益を盗む泥棒のように見えた。
ユダヤ人マルクスの思想で、ユダヤ人の血を4分の1ほど引くレーニンがユダヤ資本家と対立すると いう奇妙な構図は革命以来ずっと続いた。
それは神学校出のスターリンが一貫して、宗教への弾圧政策を取ったのと同じである。
ソ連は、出自や経歴よりもソ連政権への盲信であることが重要視された。
ソ連共産党に否定的な立場をとるものは、たとえ革命の元勲であっても例外ではなかった。
トロツキーのような人物でさえも、同じだった。
亡命先のメキシコに暗殺団を送り込み、抹殺したのだ。
白軍のコルチャーク提督を支援し、列強のシベリア出兵をすすめた英国にとってソ連政権は内心受け入れがたいものであった。
極東最大の自由陣営の拠点で、2000年来独立を保つ日本。
彼等が自分たちの影響下から離れて、ソ連の影響下になるのは避けたい。
そういった理由もあって、今回の日ソ会談をつぶすことにしたのだ。
日ソ会談をつぶすには、どうしたらよいのだろうか
MI6を統括する情報部長は、次のような行動に出た。
まず手始めに、モルディブの政府機構を混乱させる。
そして駐留インド軍に潜り込ませたスパイを用いて反乱を起こさせる。
最後に、タミールイラムの虎をモルディブ近海に招き入れ、日ソの艦艇や戦術機を攻撃することにした。
英国政府は、会談の地となったモルディブやインド亜大陸において、かつて植民地という権益を持っていた。
1947年のインド独立に際して、各地に『スリーパー』というスパイネットワークを残してきた。
スリーパーとは、眠るものという意味の英語である。
文字通り、目標となる時期が来るまで寝ているスパイの事である。
彼らは指定された時期が来るまでひたすら眠り、時期が来れば武装蜂起や破壊活動に従事する。
英国情報部MI6は、日ソ会談に合わせて、作戦開始の暗号を打った。
『ガンジス川を渡る象』という写真広告を、インドの日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』に掲載したのである。
インド・モルディブ・セイロン(今日のスリランカ)・パキスタン・バングラディッシュ。
旧英領インドの同時破壊の指令を受けた、スリーパーたち。
彼等が、一斉に動き出すこととなったのだ!
マレ島の近海に、謎の貨物船が現れたのは、その日の早朝だった。
貨物船は、モルディブの治安を害する存在かもしれない。
大統領府は直ちに、調査を命じるも、すでに遅かった。
不審船事件にモルディブ政府が全力を注いでいる内に、事件が起きた。
同時多発的に事件を起こした集団は、速やかに首都を支配下に収めた。
首都を占拠した集団の手際は、実に鮮やかだった。
スリランカ船籍の謎の貨物船は、偽装であった。
別動隊が、空港や湾港に乗り込んでいたのだ。
キプロス航空の貨物機に偽装した飛行機は、50名の傭兵が乗り込んでいた。
既に前日から、外人旅行者を装った工作員200名が入り込んでいた。
彼らは、傭兵たちと合流する前に、主だった政府庁舎や、空港、港湾、放送局を昼前までに占拠した。
500名しかいない国家保安隊は、そのすべてが即座に降伏してしまった。
その為に、昼前には、大統領と閣僚全員が、敵に捕縛される有様だった。
首都のあるマレ島で、クーデター事件が発生した。
隣の島にあるクルンバ・モルディブに、その知らせが届いたのは昼過ぎだった。
事件の一報を聞いた警備大隊長のパウル・ラダビノット少佐は、即座にインド本国に連絡を入れた。
インド軍司令部に、精鋭の第50独立空挺旅団の派遣要請を行った。
だが、インド軍は即座に動かなかった。
同日、西ベンガル州で毛沢東主義者の反乱があったためである。
持てる空挺戦力のほとんどをカルカッタに投入し、予備の部隊をパキスタン方面に温存していた。
またモルディブまでは、インドのアグラ空軍基地から、2000キロメートル以上離れていたことも大きい。
航空機を使っても、高速の駆逐艦を使っても12時間以上かかってしまう。
これがモルディブ大統領府からであったのならば、違ったであろう。
ラダビノット少佐の電報は、インド軍司令部で放置されることとなってしまった。
その頃、鎧衣と白銀はマレ島の市街を、一組の男女と散策していた。
彼らが連れて歩ている男女は、ソ連人将校の二人で、グルジア人大尉とラトロワであった。
大尉は、薄いカーキ色の熱帯武官服ではなく、観光客らしい服装に着替えていた。
白の開襟シャツ姿で、薄手の長ズボンの後ろポケットに、小型拳銃と軍用ナイフを忍ばせていた。
またラトロワの方も、南インドで広く着られている民族衣装のパンジャビをまとっていた。
有名な民族衣装サリーは、ヒンズー教徒や仏教徒の衣装であった。
12世紀に来訪したアラブ人によってイスラム化したモルディブでは一般的ではなかった。
またサリーは5メートルの布地を全身に巻き付ける為、ラトロワには着こなせる技術がなかった。
ガウミリバースと呼ばれる民族衣装や、回教圏らしいヒジャブ(スカーフの一種)に長袖の服装は、ロシア人の彼女には暑苦しく思えた。
本当は胸元の空いた半袖の開襟シャツに、半ズボンという服装をしたかったのだが、警察とのトラブルに巻き込まれる可能性が大だった。
故に、比較的おとなしい印象のパンジャビ・ドレスを着ていたのだ。
市中にある、サルタン宮殿公園を散策している折である。
鎧衣の目に、怪しげなアラブ人の一団が目に留まった。
モルディブは、古代から南インドとアラブ世界をつなぐ位置にあったため、アラブ人が多かった。
だが銃火器の持ち込みが禁止されている同国であって、大型武器を隠し持てるようなトープと呼ばれる足首まである長い白装束。
そして、揃いに揃えた様に、赤白の千鳥格子頭巾姿は、余りにも奇異だった。
これは、何かが起きる前兆ではないか。
そう考えた彼は、ラトロワたちにモルディブの歴史を説明していた白銀に注意を投げかけた。
「白銀君、あのアラブ人の服装をした連中は奇妙だと思わないか」
「旦那もそう思われますか」
「いくら敬虔なアラブ人のビジネスマンでも、常夏の国でトープを着る義務はない。
それに彼らの履いていた物はサンダルではなくて、黒い布製のジャングルブーツだ」
その言葉を聞いた瞬間、白銀は理解した。
件のアラブ装束の男たちは、ビジネスマンや観光客ではない。
おそらく、テロリスト、あるいは工作員。
長いローブの下には、ウージやスターリングと言った短機関銃が隠してある。
「旦那、武器は……」
「刃渡り30センチのボウイナイフと、イングラムM11だけだ」
イングラムM11は、ベトナム戦争で活躍した、M10短機関銃の小型版である。
おもにカンボジア戦線やラオスなど、南ベトナムから奥地の補給が難しい場所で使われた高性能の短機関銃。
特別な消音器具を使えば、静粛性に優れた暗殺用の武器であった。
「白銀君、君の道具は」
「シャツの下にブローニングのピストルが、一丁入っています」
「そうか」
アラブ人の男たちは、咄嗟にトープを脱ぎ去る。
長い衣の下に着ていたのは、タイガーストラップの迷彩服で、胸掛け式の弾薬納を付けていた。
見ると、銃剣の密集したひらめきが、鎧衣たちに押し寄せていた。
つづいて、銃口を向けかえて、一閃の光を浴びせかける。
「うわあぁ」
ドドドッと、銃弾のひびきがすさまじい音が聞こえる。
鎧衣は、咄嗟に、手にもっておいた鞄の蓋を開いた。
彼の持っていたのは、アタッシェケース型の折り畳み式の防弾シールドであった。
「伏せろ!」
危機一髪だった。
洪水の際、河水が堤防のすき間からあふれはじめるのと同じ、恐るべき瞬間だった。
もう一秒、後れていたら、命は奪われていたに違いない。
「鎧衣左近、動くなっ」
とたんに、大喝と共に、彼の眼にとびこんで来たのは、迷彩服姿の白人。
鎧衣には、見覚えのあるの男だった。
「何、貴様はッ」
自分の記憶が確かならば、男はオーストラリアの精鋭部隊、特殊空挺連隊の大佐。
1966年からベトナム戦争介入や、カンボジア戦線での作戦に関係した人物であった。
「大人しくしていれば殺しはしない。あきらめろ」
「たわけた雑言を……」
「それこそ、世迷い言よ。
あんたの命はいらない……一緒にいるソ連人の男女をいただきたい」
「な、何の事だ」
「とぼけても無駄だ。
あんたが連れているのは日本政府が人質にしているソ連赤軍の将校……
そんなことは、モルディブにいるスパイ関係者なら誰でも知っていることだぜ」
「ソ連赤軍の将校を手に入れて、どうする。
君が代わりにソ連に送り返してくれるのか」
「人質にして、ソ連政府に渡すのさ。
かなりの額を払ってくれるはずだ」
鎧衣は、眉をひそめて、なお凝視し続けていた。
解せぬと思ったのは、余りにも、彼の予感があたり過ぎていた為であった。
「あんたは、そこの工作員の坊やと日本に帰ればいい。
ゼオライマーのパイロットの面倒も、見るしかないだろう」
そう話す、男の後ろには、銃身や槍の穂先が林立していた。
「このどさくさに紛れて、モルディブから逃げ出すつもりだろう。
それが早まったと思えばいいだろうに……
あんたには、メリットのある話だぜ」
「う……」
「この話を飲めば、あんたの命は奪わない。
だが断れば……」
さっと、形相を変えるやいな、上衣の下からピストルを取り出して、
「こうだ!」
鎧衣の顔面に突きつける。
黒い革手袋から引き金を引き絞る、かすかな音が聞こえた。
「本気だぜッ!覚悟を決めな」
「むむむ……」
要求を、聞き入れるか、入れないか。
鎧衣の肚としては、実は、敵兵に囲まれる最中で、既に決まっていたのである。
いいかえれば。
肚を決めかねて、SASR大佐と問答をしたわけでなく、肚をきめた。
なので、どうだろうと、一応、問答にかけてみたのである。
そこにも、彼の腹芸があった。
もし、SASR大佐の要求を受け入れてやらないと、どうなるか。
人質として預かっているソ連将校の立場は、非常にまずいものになる。
また、いきり立っている工作員たちの興奮は、ここで抑えても、ほかの場合で、何かの形をとって、復讐という形であらわれるにちがいない。
それは、外交上の、大きな危険だ。
いや、それ以上にも、鎧衣がおそれたのは、SASR大佐に、不平をいだかせておくことであった。
放置しておけば、彼の背後にいる、老獪な英国王が、必ず手を回して来るに違いない。
そう、思われることだった。
「……」
多くの小さな鋭い音が一度に起こった。
それは、支那製の63式自動歩槍(小銃)を構える音だった。
「わ、わかった」
「よろしい!」
と同時に、銃をおろす音が聞こえた。
「では連れていけ」
「はいッ!」
そうして、グルジア人の大尉とラトロワは、近くに止めてあったワゴン車に乗せられる。
そのまま、いずこへと連れ去らわれていった。
後書き
明日、2月11日は祝日なので、久しぶりに休日投稿を行います。
ご意見、ご感想よろしくお願いいたします
姿を現す闇の主 その2
前書き
でかい話になって、あと2話でまとめるというのは無理そうですね……
さて、その頃マサキたちの関心は、難航する日ソ会談に向けられていた。
マサキのは、会場となったクルンバ・モルディブの外で起きた襲撃事件を知らなかった。
会議の最中、マサキは、ソ連を盛んに非難した。
のみならず、外交団長の御剣は、マサキの誘拐未遂を例に挙げ、散々に悪罵の限りを尽くした。
ところが、御剣の副官を務める紅蓮醍三郎は、後方の鎧衣から急報を受けた。
「報告によれば、武装した集団が、マーレ島の政府庁舎を制圧中。
市中の外人を捕縛した後、漁船を仕立てて、ヴィハマナフシに向かっている」
襲撃事件の報告は、マサキを激昂させるに十分だった。
「何!モルディブでクーデターだと……いったい誰が」
マサキと日本側スタッフが襲撃事件に大童になる一方、ソ連側は冷静沈着だった。
すでにソ連は、インド軍警備隊の中にいるGRU工作員から、クーデターの報告を受けていた。
一方を聞いたブドミール・ロゴフスキー中尉の動きは、早かった。
そこで彼は、万事は休すと思ったか、方針一転を参謀総長に献言した。
「今回のクーデター騒ぎの裏には、MI6が絡んでいるとみるべきでしょう」
参謀総長は戦機を観ること、さすが慧眼だった。
「同志ロゴフスキー、撤退だ!
直ちに戦艦に乗り、インドへ撤退するッ」
「まだ同志ラトロワたちが戻っていないのに……」
「戦術機隊長と、ラトロワは後回しだ」
未だラトロワとグルジア人大尉は、暴徒の管理下に置かれていた。
SASR大佐が指揮する傭兵たちが監視する形で、市中に留め置かれていたのだ
「一刻を争うぞッ!もたもたするな」
ソ連外交団は、近海に停泊していた戦艦ソビエツキー・ソユーズを呼び寄せる。
彼らは、島の港から船に乗り込むと、大急ぎでモルディブを後にした。
マサキの計算に、狂いが生じた。
まさか、このインド洋に浮かぶ常夏の島、モルディブ。
白昼堂々、インド軍の警備の裏をかいて、テロリスト集団が、クーデター事件を起こすなどとは……
大いなる誤算であった……
マサキは、興奮のあまり、唇の色まで変えてしまった。
紅蓮のいう報告の半分も耳に入らないような目の動きである。
恟々と心臓を打つような胸の音に、じっと黙っていられないように、
「ええい!警備役のインド兵共はどうなっているのだ!」
「まだ何も連絡を……」
「見損なったぞ、この役立たずどもめ!」
マサキは罵りつつ、不意に立ち上がった。
後ろにいる警備兵の手から、強引に彼が愛用するM16小銃を引ッたくった。
そして、あたふたと、クルンバ・モルディブの外へ出て行くので、美久もあわてて後を追った。
後ろから追いかけながら、問いかける。
「どちらに行かれるのですか」
マサキは、振り向いて声をひそめ、
「グレートゼオライマーで出る!お前も準備しろ」
突然、クルンバ・モルディブの上空に、ジェットエンジンの音が鳴り響いた。
外に飛び出していたマサキは、美久の方を向くなり、
「美久!機種は」
美久は、人間の女性に擬態した高性能アンドロイドである。
ゼオライマーのメインエンジンである、次元連結システムを構成する重要な部品の一つ。
それと同時に、ゼオライマーの戦闘用のシステムを補助する機能を備えていた。
彼女の眼の中にある光学レンズは、瞬間的に飛来する物体の分析を始めた。
視覚から入る映像を通して、搭載された推論型AIの中にあるデータベースとの照合を行った。
電子頭脳の中にある膨大な記録の中から、該当する機種を即座に浮かび上がらせた。
A Tactical Surface Fighter,(Kingdom of Sweden.)SAAB 35 Draken.
Mach1.5 Aremd Assault Cannon×4
「機体はスエーデン王国製のサーブ35、ドラケン、フランス製のミラージュⅢのコピー機です。
速度はマッハ1.5、武装は突撃砲4門です。」
「機数は!」
「4機!」
間を置いて方々に、叫びの声、騒擾の音、砲撃の鈍いとどろきなどが、風のまにまに漠然と聞こえていた。
対岸のマレ島の方面には市街から煙が見えていた。
銃火の騒然たる響きが遠くに響いていた。
「なに、ここを爆撃する気か……」
マサキは、怒りと共に愕然とした。
俺の計画のすべては破綻か、と思わぬわけにゆかなかった。
そして常々、心の深くに持っていた破滅の感情が、すぐ意識となって、肌の毛穴に、人知れず、覚悟をそそけ立たせてくる。
一度は志半ばで死んだ身だ。
絶体絶命とみたら、いつでも乗騎のゼオライマーで、世界を灰にする決意を秘めていたのである。
「こうなったら、じたばたしても始まらん」
マサキはポケットから小型の電子機器を取り出す。
それは、グレートゼオライマーの護衛戦術機の誘導装置である。
その戦術機は、人工知能を搭載したA-10 サンダーボルトとF-4ファントムの二台である。
マサキは、それを遠隔操作しようとしたのだ。
会場の外に佇んでいた二台の戦術機は、命令を受けると、即座に対空戦闘の構えを取る。
ファントムは両肩と両足の脹脛に付けた6連装の箱型ロケットランチャを上空に向ける。
搭載されているミサイルは、AIM-7Cスパロー3、合計24基。
本来はフェニックスミサイルを搭載しているが、今回は実験の為、航空機で使われていたスパローミサイルに変更したのだ。
A-10 サンダーボルトも同様の改修を受けていた。
両足の脹脛に正三角形の形をしたロケットランチャに、AIM-9サイドワインダーを計12基配備していた。
また両肩から吊ってある2門のガトリング砲も、仰角ギリギリに上空に向けた。
まもなくすると、急いで操縦された二個の砲は、未確認の戦術機が飛んできた南西の方角に向かって火蓋を切った。
二門の砲が未確認機に打ちかかったと同時に、ファントムが持つ二門の突撃砲は水上に据えられて、沖合に停泊する不審な船を攻撃したのである。
四個の砲門は互いに恐ろしく反響をかわした。
長く沈黙を守っていた敵機は、突撃砲の火蓋を切った。
その上、七、八回の一斉射撃は、クルンバ・モルディブに向かって相次いで行なわれた。
激烈な対空砲火をものともせずに、呪うべき存在は、マサキ達の上空で盛んに乱舞した。
それと呼応して殷々とした敵弾は、轟音となって、マサキたちの気を違わせずにはおかない。
そういった具合で、突撃砲は、凶暴の咆哮を続けていた。
まもなく、ファントムに搭載されたスパローミサイル24基が、一斉に火を噴く。
ここを先途と砲弾が送られている。
スパローミサイルから発信される電波を察知した4機の敵は、回避運動を取った。
結果として、ファントムからの地対空ミサイルは命中しなかった。
敵機は去った。
命中しなかったとはいえ、中距離空対空ミサイルのスパローを恐れての事らしい。
とにかく、マサキは迎撃に夢中だった。
早く敵機を撃墜して、安全を確保せねばならない、という考えの他はなかった。
指呼の間にあった、グレートゼオライマーとゼオライマーの二機の存在は忘れるほどであった。
――同時刻。
モルディブの警備を任された駐留インド軍の隊長であるラダビノット少佐は、焦っていた。
5時間以上たっても、インド本国から連絡がない。
しかし、依然としてマレ島の街からは、濃霧のような煙が立ち上り、市街の大半をおおい隠している。
モルディブ大統領府の相談はない。
しかし待っている時間的猶予はない。
刻々と事態は動き、マレ国際空港のあたりまで、砲声も聞こえてくる。
独断で動けば、軍紀違反で軍法会議に掛けられるだろう。
いまやラダビノット少佐の心は、矢のように急がれていた。
1時間遅れれば、1時間味方の不利である。
それだけ敵軍は強化され、反乱軍の横奪した政府を認めることにもなる
事態を重く見た彼は、駐留インド軍の警備大隊を使って、モルディブの騒擾事件に介入することにした。
「精鋭を誇るシーク兵とグルカ兵を選抜した部隊を編成したい」
モルディブ駐留インド軍の部隊構成は、インドの国情をあらわすように複雑だった。
ラダビノット少佐が大隊長を兼務する、ヒンズー教徒を主体としたベンガル人の警備大隊。
その他に、シーク教徒部隊、グルカ人部隊などで編成されていた。
シーク兵とは、インドの地域宗教、シーク教を信仰する人々から選抜された兵士である。
シーク教の教義により、軍帽に代わって、軍服と同色のターバンを巻いていた。
また特例として、非武装の場合でもサーベルを履くことを許されていた。
シーク教徒にとって、サーベルは護符と同じだからである。
グルカ兵は、ネパール出身のグルカ人傭兵を主体し、その精強さは全世界に知られていた。
グルカ人の多くは、160センチにも満たない小柄であった。
だが、ネパールの山岳民族であるため、どんな地形でも俊敏に動けた。
部隊の隊員は、深緑のスラウチハットを被り、腰にはククリナイフという蛮刀を漏れなく帯びていた。
シーク兵とグルカ兵の装備は、一般のインド軍とは違った。
精鋭部隊ということで、インド軍で広く使われているリー・エンフィールド小銃ではなく、スターリング短機関銃を装備。
一般兵にもかかわらず、将校と同じようにブローニング拳銃を帯びていた。
しかし、時すでに遅く。
ヴィハマナフシ島の、御剣雷電以下日本外交団は、恐るべき毒牙に掛かろうとしていた。
「この期に及んで、どいつもこいつも……だれか頼りになるやつはいないのか!」
滅多に感情の起伏を出さない、御剣雷電が取り乱しているのだ。
主従関係にある紅蓮は、御剣の心を愁眉を開こうとした。
「近衛第19警備小隊を信頼ください。
我らは、殿下に赤心の誠を捧げております」
御剣は、馬鹿なと、腹が立った。
所在なくて仕方がなかった程だ、と怒鳴りたかった。
けれど、いかに主人足れども、彼らの善意な考え方までいちいち是正することもできない。
「忠誠は、戦術にはならん!」
周囲のものたちは、おろおろした。
いかに一外交使節団長でも、将軍の大叔父である。
もし御剣の激怒にふれてはと、細心の注意を払った。
「雷電様!木原が見えられました」
そう報告してくる神野の表情は、ぎょっとして、仮面のように強張っていた。
御剣のきらつく眼が、無遠慮に護衛の二人を撫でた。
「彼奴もな……今の所、売込みほど力を出しておらん」
「左様、いまいち期待通りとは申せません」
雷電はさすがに今の言葉に、むッとしたらしい。
「このたわけが!偉そうな口を叩ける義理か」
「はっ、わたしは持てる力を最大限に……」
「それには及ばん」
御剣はそう答えると、眉間の皴が立つようなするどい顔に変る。
そして、消え入るがごとく、マサキのいる外の方に向かった。
戦術機の襲撃は、台風のようだった。
たちまち、クルンバ・モルディブのロッジは、火焔に包まれ、煙に満たされた。
そして数分間の後、炎の線に貫かれた煙をとおして、非難をし始めた従業員の三分の二は瓦礫の下に倒れてるのがかすかに見られた。
外は、武装した警備兵で、ごッた返しの状態だった。
まして、攻撃が日ソ会談の会場の近くとあっては、混乱した第19小隊の兵が少なくなかったことであろう。
御剣は警備兵をかき分けながら、マサキを探していた。
マサキはちょうど、グレートゼオライマーの出撃準備をしている最中であった。
御剣は、機体から降りてきたマサキの姿を、さも、意外そうにながめて、
「こうして君が自由に動けるのは、殿下の特別な計らいによるものだ。
心してその責任のために働くべきではないか」
「……当然なんとかするさ」
マサキは、おちついた声だった。
おそらく御剣は、俺の計画を分かっているのかもしれない。
だから、自由に動けるようにしているのではないか。
なにか、恐ろしいようにも感じた。
「この木原マサキの命を狙うとは、良い度胸だ……」
マサキは、タバコに火をつけると、器用に煙の輪を吐いた。
うなずく顔もなくはなかった。
ところが、この険しさも、突然、調子外れの高笑いに、すぐはぐらかされてしまった。
「俺の計画をつぶした奴らは、全員生きて帰すつもりはない」
御剣も、同調するかのように哄笑する。
まもなく、二人はそれぞれの思惑に、笑い興じた。
後書き
あと、本日18時に暁の方で外伝を投稿します。
「冥王来訪 補遺集」
https://www.akatsuki-novels.com/stories/index/novel_id~29123
暫くはハーメルンに掲載する際に追加で書いた話になります。
ご意見、ご感想お待ちしております。
姿を現す闇の主 その3
前書き
劇中のインド軍の装備が古いのは、今も同じなので、大目に見てください。
マレ国際空港内には、また元の小康状態に復活するかに見えた。
その後、国籍不明の戦術機がやって来なかったし、市街から聞こえる銃声も至極緩慢だった。
ただ駐留インド軍にとって、困ることは、外部からの襲撃が刻一刻と緊張の度合いを増して来る事であった。
その為に部隊の三分の一は、塹壕の構築という仕事に没頭せねばならぬことであった。
空港の管制塔にある司令室では、インド本国からかかってきていた電話を副指令が受けていた。
司令官のラダビノッド少佐は、副指令の傍らに立って、静かに受け答えを聞いていた。
電話の内容が、非常に重大性を含んでいることに気が付いたからだ。
彼は、副官が受話器を置くのを待つことにした。
シーク兵の副官は姿勢を正すと、その目に食い入るような視線を注ぎながら、 答えた。
「少佐、先ごろの国籍不明機の機種が判明いたしました」
「どんな機種だね」
「スウェーデン製のドラケンとして知られる、サーブ35です」
「たしか、北欧以外には採用されていない機種のはずだ」
ラダビノッド少佐は、不安に駆られた様子で室内を歩き回っている。
彼は増援が来なくて、何もかも心配でたまらぬという顔つきである。
「実は、次期戦術機の選定をしていた西ドイツ向けに少数の改良型が発注をされていたことが判明をしています」
司令官は、苦い顔をしてそれを聞いていた。
「つまり、木原博士をつぶしたい勢力による犯行という事か」
その調子はまるで、マサキに責任があるかのように叱責する調子だった。
「と言いますと……」
シーク兵の中尉が腑に落ちないような顔をしていると、少佐は決めつけるように言い放った。
「博士の親しい友人には、東ドイツのシュトラハヴィッツ少将が居られる。
彼は親ソ派の将軍として有名だったし、プラハの春の際に今のソ連赤軍の参謀総長と懇意になった。
今回の会談の真相は明らかになっていない……
だが、木原博士がシュトラハヴィッツ少将を通じて、ソ連側に提案したとなれば、話につじつまが合う」
そう答えた時には、ラダビノッド少佐もすでに観念の眼を心にとじていた。
「西ドイツは、ソ連との国交回復に際して、ドイツ国内の外交権を一手に担うことを前提としていた。
博士が善意でシュトラハヴィッツ少将を使ってソ連側にアプローチをしたとなる。
そうすると、西ドイツはどう思う」
「面目が丸つぶれですな……」
「そうだ。
西ドイツがソ連と近づいたとき、対立関係にあった中共が東ドイツに近づいたが失敗に終わった」
「木原博士は、志那の北京政権とも昵懇の間柄とも聞いております」
「これは博士が知らないところで、我々が知らないところで陰謀があったのかもしれん」
「どうしますか」
「誘拐されたソ連軍人の事は、日本政府に頼もうと思う」
「司令官、私もそれがよいとおもいます。
この会談自体、木原博士自身がまいた種ですから、彼らが片付けに来ますね。
テロリストどもを消すつもりで……」
ふしぎな事に指令室の要員の顔には、誰の顔を見ても緊張感が欠けていた。
これから戦争が始まるのかもしれないのに。
各自の顔を見ても、通常の軍事演習と変わらないような静かな気持ちで、驚くほどであった。
誰もことさらにこのことに関して、反省する者はいなかったらしい。
これは一体どうしたものだろうと、反問する者がいたら違ったかもしれない。
だが、司令官の言葉で兵たちの不安は、消え去ってしまった。
「私がすることは許されないことだが、これでインド政府は無関係でいられる」
こうして話しているうちに、ラダビノッド少佐も心の内で、やや安堵を抱いて来た。
救援に来たグルカ兵たちによって、御剣以下日本政府外交団はマイソール級巡洋艦に移っていた。
戦前に作られたこの船は、英国海軍からインド軍に武装を撤去した後引き渡された。
建造から40年近い歳月がたっている為か、すでに老朽化し、その上、海難事故の影響で速力も大してでなくなっていた。
今はインド海軍の軽巡洋艦デリーとともに、停泊練習艦となっていたのだ。
マサキは御剣と共に、マイソールの艦橋に呼ばれていた。
その時、現地協力者と接触した鎧衣が情報をもたらした。
「今回の事件を引き起こしたグループの多くは、南アフリカ経由で来たとの事です。
その点から考えられるのは、コンゴ動乱で知られる「灰色雁」が関与しているという可能性です」
鎧の話はこうだった。
「灰色雁」とは、コンゴ動乱時に活躍した傭兵を中心としたコマンド部隊である。
傭兵の多くは白人で、ベルギー軍退役将校、CIA工作員、南アやローデシアの義勇兵などであった。
彼らを率いたマイケル・ホーアは、敵軍に包囲されたスタンリービル(今日のキサンガニ)から1600名の民間人救出を成功させた。
その後、コンゴ動乱の敗戦を受けて、南アに隠居した。
そして、見初めたスチュワーデスを後添えとして迎え、最近は映画撮影に没頭しているとされる人物である。
「昨晩発生した、ベンガル州での反乱も……
この度、モルディブを襲撃したタミル・イーラム解放の虎も……
双方とも、表看板としては、インド共産党毛沢東派の集団です。
インド、モルディブ、セイロンの三か所同時に発生していますから、中共が起こしたという風に目を持っていきやすい面があります」
そう話しながらも、鎧衣は傭兵グループに旧知の仲間たちが多く参加していることに心を痛めていた。
彼自身も、ベトナムやカンボジア戦線で、商人という肩書で共産ゲリラに潜り込み、CIAやSASRの破壊工作を手伝ったからだ。
「木原君は、東ドイツと関係が深い人物です。
ホアー少佐は、かつて東ドイツから血塗られた狂犬と宣伝煽動されたことがございます。
反共主義者ですし、英国からの誘いがあって、木原君の命を狙うような行動をとっても矛盾はありません。
案外、日ソ交渉つぶしも彼から英国に持ち込んだ線もあります」
「そうか、英国の連中はそんな恐るべき計画を立てていたのか」
「敵としては、支那や東ドイツ仲と間割れをすれば、良い機会になります。
今こそ、叩き潰すチャンスです」
「うむ……」
御剣が、語気を強めて聞く。
「では、木原よ。中南海に連絡してくれ。
インド亜大陸の共産党組織は、あきらめろとなッ」
その時、マサキには中南海という言葉の意味が解らなかった。
中南海という言葉は、単に北京にある中国共産党の施設を表す言葉だからだ。
インドの話なのに、なぜ支那政府に相談するのだ……
信じられない面持ちで、御剣に聞き返す。
「ど、どういうことだ」
「これを機会に日本政府がインド、モルディブ、セイロン、ネパールの共産党組織をつぶす」
御剣が言わんとしている共産党組織とは、インド周辺国にいる毛沢東主義の集団。
つまりこの機会に乗じて、中国共産党の影響や支援を受けた団体をつぶそうという話だった。
「何!」
「それから、東ドイツ政府を通じて、セイロンにあるスリランカ人民解放戦線に連絡を問てほしい。
彼等ならば、タミル・イーラム解放の虎の拠点を知っているはずだ」
御剣に冷ややかな声で言われて、マサキは改めて事の重大さに身をすくめる。
「……」
マサキは一瞬、沈黙するしかなかった。
インド周辺において中共の影響力を削げば、自然とソ連が優位になる。
ただでさえ、今インド軍は、旧式化した英国製の装備から、ソ連製の装備に更新し始めている。
戦術機でさえ、英国や米国の提案した案を拒否し、ソ連製のMIG21を導入したのだから……
「そいつぁ、無理だ!スリランカ人民解放戦線は毛沢東主義のグループ。
東ドイツは1969年の中ソ紛争以降、支那の中共政府と断交に近い状態だ」
「だから、こうして君に頼んでいるのではないか。
世界最強のマシンを持つ人物で、しかも共産圏に有人が多い木原マサキ君に……」
マサキは、自分で自分が、今更ながら口惜しくてたまらなかった。
ユルゲンと組んで、東欧全域まで事実上支配下におきながら、ついに最後の一線を超えることが出来なかった自分が、不甲斐無かった。
そんな自分が、ここで御剣の条件を飲むというのは、男として敗北を認めるように思えたのだった。
いや、命令を受け入れたならば、前の世界の様に惨めな最期を迎えるかもしれない。
世界征服という、自分の野望の為ばかりではない。
アイリスディーナの為にも、ここは頑張りとおすしかない。
「俺は人から命令されるのが、大嫌いでね。
特に老いさらばえた政治家からな……」
マサキは言葉を切ると、胸ポケットからホープの箱を取り出した。
使い捨てライターで、茶色のフィルターのついたシガレットをあぶり、火をつける。
彼がタバコを吸うときは、大体話を別なところに持っていく手段でもあった。
「そうか……。
これはわしの独り言だがな……」
そういうと、御剣は懐中より煙管入れを取り出した。
胴乱の中にある刻み煙草を丸めて、純銀製のキセルに詰める。
火をつけ、ゆっくりとキセルを吹かした。
器用に煙の輪を吐いた後、問わず語りが始まった。
「次の臨時国会では、ココム規制の……緩和に関する改正案が提出される。
5年の時限立法ではあるが、BETA戦争を鑑みて、20年ぶりに紛争当事国への先進技術輸出が再開される見通しとなった。
これは東欧も含んだ、合法的な輸出制度だ」
御剣の言う意味は、周囲のものにも、そしてマサキにも伝わった。
これは日本政府としての、マサキへの譲歩なのだと。
「ま、まてッ!た、頼まれたら別だ。
見返りのあるお願いに喜んで答えるのが、俺の心情だからな」
御剣が今しがた言ったことは、日本政府の懐柔策であることは、マサキにも理解できた。
それに、今のこの場では、マサキは弱い立場だった。
「一つだけ、聞かせてくれ」
これで、俺が改良したF-4とA-10を、アイリスディーナの手元に送り込むができる。
アイリスディーナへの思慕と自己陶酔な高ぶりに、マサキは甘酸っぱい胸騒ぎを覚えてしまった。
「本当に、東側に戦術機を輸出できるのだな」
老獪な政治家は、マサキがもう拒めないのを見越していた。
「そうだ……」
御剣は、意味ありげにマサキの顔を見て、ほくそ笑んだ。
マサキ達を襲撃した謎の犯人たちは、ラトロワたちを誘拐したまま、マレ市内にいた。
彼は、ちょうどスリランカへ向けて飛行艇の離陸準備をしているところであった。
「どうしたマイク」
マイケル・ホーア元英国軍少佐は、仲間内ではマイクと呼ばれていた。
「どうもこうもねえよ。今回の日ソ会談を仕掛けたのは例のガキだってよ。
木原マサキとかいう」
マサキの行動には、マイクも呆れるしかなかった。
いや時には、何か不気味な感じすらうけないこともない。
「聞いたことあるな、その名前」
「『ザ・サン』(英国のスポーツ新聞)で見たんだよ。
アイツだろう、東トルキスタンのハイヴを落とした……」
「おお、生きていたのか」
「さっき連絡があって、ジャフナに向かう船に、鎧衣左近がいる」
ジャフナとは、セイロン島北部にある都市である。
13世紀に建国されたジャフナ王国の王都の歴史を持つ、古都でもある。
植民地時代から1983年のスリランカ内戦勃発前までは、首都コロンボに次ぐ人口を持つスリランカ第2の都市であった。
ここにはタミル・イーラム解放のトラの一大拠点があったのだ。
かすれた声でマイクが言葉を切ると、大きなため息をついた。
その仕草は、鎧衣に興奮しているのか、あるいは恐れを抱いているのか。
少なくとも何らかの影響を受けて、落ち着きを失ていることを意味していた。
ベルギー人の副官は、カナディア・CL-215飛行艇のエンジンの起動をかける。
そういう手配りをした後、彼はマイクの方を向いて、言った。
「なんで木原と鎧衣が一緒に」
「鎧衣が護衛に付いたんだろう」
そしてテーブルの上に一梃のピストルを置いて、彼は言い添えた。
「ジャフナに行ってくる。鎧衣には死んでもらうしかないな」
レシプロエンジンの轟音が響き始めた機内には、人質の他に十数名の乗員がいた。
イスラエル製のウージ機関銃を持った男が、マイクの方に向かって怒鳴る。
「俺も行くぜ、相手は鎧衣だ。簡単にはいかん」
ドドドと、爆音をあげるエンジンの為に大声を張り上げねば、話が出来ないほどであった。
男はいったが、マイクは、むしろよろこばない様子を示して、
「待ちな、何かの罠かもしれない」
「例えば、どんな」
男は、解し難い顔をして、仔細を追求した。
マイクは、顔を振って、傍らの迷彩服姿の男たちへ眼をそそぎながら、
「俺たちをあぶりだすための」
「そうか、ジャフナへノコノコでかけていけば、俺たちの事がばれてしまうかもな」
「木原ってガキは、ソ連に近づくために、この会談を始めたんだ。
当然、日本政府にもこのことを話している」
「どうする」
「危険な芽は、摘まなくちゃなぁ」
マイクの声は一転して、かなり上気したものになっていた。
話している内に心身が高揚してきたようだった。
「人間狩りに、良い場所さ」
そういって、木箱の中から真新しい自動小銃を取り出して見せる。
銃は、ベルギー製の自動小銃・FNFALのコピー品である、インド製の1A自動小銃であった。
ベルギーとのライセンス契約を無視し、英国軍の銃を模倣して作った違法生産品であった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
匪賊狩り その1
前書き
本日は天長節なので、休日投稿することにしました。
インド洋に浮かぶセイロン島。
この地にあるスリランカは、南アジア最大の仏教国である。
伝承によれば、紀元前4世紀にヴィジャヤ王子がインドから来訪し、その子孫がアヌラーダプラに都を構え、シンハラ王朝を建国したとされる。
また、ヴィジャヤ王子の子孫から、シンハラ人がはじまったとも伝わっている。
史実でも、インドとも非常に近い距離にあるため、紀元前250年にはすでに仏教が伝来した。
その後、小乗仏教(上座部仏教)の拠点となり、ここから12世紀ごろにかけて東南アジア諸国に伝播していった。
しかし、17世紀以降の列強侵略により、一時的に仏教は衰えるも、18世紀半ばにビルマやシャム(今日のタイ)から再伝来した。
19世紀にはいると、英国統治下という背景の中で、シンハラ人民族主義という形で、今日の仏教の隆盛を取り戻した。
インド亜大陸に支配権を持っていたイギリスは、抵抗を続けるシンハラ人を差別し、タミル人を重用した。
彼らは少数者でありながら、英国の支配下で農場の労働者としてインド南部から大量入植した。
このことは、今日まで続くシンハラ人とインド系のヒンズー教徒であるタミル人との間に軋轢を生じさせることとなった。
さて、マサキたち一行といえば、モルディブを抜け出してスリランカに向かった。
スリランカの北部を根城にするタミル・イーラム解放の虎を壊滅するためである。
BETAに侵略された世界の並行世界である出身のマサキにとって、タミル・イーラム解放の虎は危険な存在であった。
このテロリスト集団の為にスリランカは30年近い血みどろの内戦を繰り広げた。
では、テロ集団、タミル・イーラム解放の虎とは、何者か。
この組織は、1976年スリランカ北部にタミル人国家建国を目標として作られた武装集団である。
スリランカの少数民族で、ヒンズー教徒のタミル人。
彼らは、スリランカの多数を占める仏教徒のシンハラ人との融和を拒否した。
そして、排他的で民族主義的なテロ集団を作り上げた。
無論、インド洋に浮かぶ島で他国の援助なくして存続できない。
内戦中に北部に駐留したインド軍によって支援を受けた彼らは、勢力を拡大し、航空戦力と水上戦力を持つほどとなった。
タミル・イーラム解放の虎は、一時帰国軍をもしのぐ武力を手に入れた。
それ故に、スリランカの国情は混乱し、相次ぐ首脳暗殺や無差別テロを繰り返すほどであった。
マサキはスリランカにとって思うところはない。
思い出されるのは、上座部仏教の一大拠点ということである。
信心深い人々が、シャムやビルマに通って、受具式を行い、古代からの仏教信仰を復興させた土地ということぐらい。
付け加えれば、1952年のサンフランシスコ講和条約の際に、時の首相が、仏教の精神をもって、敗戦国日本への追訴を止めるように訴えかけたことぐらいだろうか。
これによって、日本の国際社会復帰は、多少早まった。
マサキには、別な考えがあった。
セイロン島を含めて、インド洋からイランにかけて、数珠の様に対ソ・対中の防衛拠点を作ることを夢想していた。
この首飾りのような防衛構想は、後の時代に真珠の首飾りと呼ばれるが、その話は別な機会に改めてしたい。
さて、マサキ達はインド海軍の船から降りた後、コロンボにある大統領府に来ていた。
執務室に招かれた彼らは、まず政府首脳からの謝罪を受けることとなった。
「今度の襲撃事件はマスコミには伏せておく。
モルディブでのクーデター騒ぎに関わったスリランカのテロ組織が外国のひも付きなどということがバレては、大騒ぎになるからなぁ……」
マサキは、にっと、冷ややかな笑みをふくんで、彼等を見ていた。
「大統領、あんたも辞職せねばならんだろう」
大統領はじめ閣僚たちは、いやに仰々しく、マサキの前に平伏して、わび入った。
「ど、どうも……」
「ご配慮くださり、ありがとうございます」
マサキは、ひどく馴れ馴れしい態度と来ている。
そんな慇懃ぶりなどに用はない、といった風で単刀直入に言って返した。
「その代わり、この俺が、島の北部を根城にするタミル・イーラム解放の虎を壊滅することを認めてほしい」
マサキは、かねて期したることと、あわてもせず、攻撃の準備をいいつけた。
大統領をはじめ諸臣は、その軽挙を危ぶんで、諫めた。
「そ、それは……」
マサキの発想は、あまりにも奇想天外であった。
なお疑っている様子の閣僚たちに、説明をし始めた。
「俺たちは、スリランカ人でも、インド人でもない。
大統領、お前にとってもこんなに都合の良い話はないだろう。」
マサキは、あっさり言ってのけた。
しかし彼自身にすれば、以前から考えぬいていたあげくのもので、とっさから提案ではない。
「日本の近衛軍は、セイロンの土匪と対決させるために我々を派遣した。
もし、俺たちの身に何かあっても、その責任は日本政府にあるのだからな!」
マサキは言った。
たのもしい武人と見えもするが、しかし大統領たちは、木原マサキは何とも腹のわからないお人であるとも、ひそかに思った。
そのまま晩遅くまで会談をしながら、スリランカ政府の閣僚たちは、何かとマサキの知恵を借り、将来の計を授かっていた。
マサキがスリランカ政府との交渉をしている頃、ソ連は別な方策を取っていた。
それは、戦術機と爆撃機の大部隊によるセイロン島北部の空爆である。
ソ連赤軍は、かつての消耗戦争やインドシナ紛争の顰に倣って、準備した。
衛士にインド空軍の強化装備と認識票を付けさせ、国籍マークをインド空軍に塗りなおしたmig21を用意する。
通信漏洩される前提で、無線封鎖し、大型爆撃機を引き連れて、マドラスから出撃したのだ。
戦後におけるソ連の南アジア政策は、一貫して、この地域の安定化であった。
たしかにインド共産党は、コミンテルン、コミンフォルムの一地方組織であったが、武装闘争の姿勢をよしとしなかった。
また、ネルーらインド建国の父たちも、モスクワとインド共産党を別物と考えていた。
ソ連の方針転換は、あの血塗られた支配者スターリンの死とともに始まった。
東西デタントの方針をいち早く模索していた、ニキータ・フルシチョフの考えによるところが大きい。
非共産圏のインド地域に足場を築き、自国の影響力を南アジア全体に伸ばしていくのがソ連の狙いとするところであった。
西側と融和や非共産圏と脱イデオロギーでの融和関係。
無論このことは、フルシチョフ自身の性格ばかりではなく、スターリン主義の否定の面もあった。
ここで、スターリンとフルシチョフにある、個人的なわだかまりに関して話しておこう。
先の大戦の折、フルシチョフは長男レオニードを空軍パイロットとして、出征させていた。
ある時、ドイツ軍の捕虜になったレオニードを特殊部隊を使って、救出する作戦が練られた。
パルチザンに偽装した特殊部隊によって救出されたレオニードは、秘密裁判にかけられ、銃殺刑が宣告された。
愛息を救うべくフルシチョフは、スターリンの足に泣きすがって助命嘆願をした。
だが、御大は、一顧だにしなかった。
翌日、レオニードは、NKVDによって刑場の露と消えた。
フルシチョフは、スターリンによって、家族を奪われたのはこれが初めてではない。
1937年の大粛清で、レオニードの最初の妻であるロザリア・ミハイロヴナ・トレイヴァスの大叔父で、党の幹部であったボリス・トレイヴァスを銃殺刑にされた。
その際、自分に累が及ぶことを恐れたフルシチョフは、レオニードとロザリアを離婚させた。
レオニードの二度目の妻も、スターリンによって、5年ほど収容所に送られた。
そういう経緯から、一連のスターリンの謎の死に関しても、フルシチョフ黒幕説がいまだにロシア国内でささやかれているのだ。
さて、話を、異世界の南アジアに戻したい。
場所は、スリランカ北部にある都市、ジャフナ。
ここは、タミル・イーラム解放の虎、最大の秘密拠点だった。
彼らは、捕虜たちを基地本部に集めていた。
その中には、ソ連軍のラトロワたちも含まれていた。
今まさに、特別軍事法廷が開かれようとしていた。
マサキやインド空軍の爆撃隊が接近しているのも知らずに、軍事裁判にかけ、処刑しようとたくらんでいたのだ。
「当法廷は、一つの結論に達した。
君たちは日本政府およびソ連政府の破壊工作員であると」
「君に呼応する様に、政府軍がジャフナに近づいてきているとの情報が入った。
当法廷は、二つの罪状により銃殺刑に処すことにした。
一つは、残虐なるスリランカ政府に支援した事。
二つは、タミル人の人心を惑わしたことだ。
ゼオライマーが来るとな……」
と、答えた。
ソ連赤軍大尉は、ゆがめていた唇もとから一笑を放って、
「どうして日本野郎が来ないと言い切れるのだ!
空と陸から攻めるのが近代戦の定石。
戦闘教義も知らないとは、それでもあなたたちは軍人か」
ハーグ条約において、戦闘員の定義に合致していれば、義勇軍や民兵でも保護の対象になった。
第一章第二項の『遠方から識別可能な固著の徽章を着用していること』に記されているように、原色の階級章やワッペンでなくても、迷彩服を着ていれば、問題はなかった。
ソ連赤軍大尉は、解放の虎の首領に激色も露わにして詰った。
「貴方のような指導者を頂いた、タミル人は不幸であると思う。
貴方の名は歴史に残されるであろう!タミル人を壊滅に追いやった指導者として」
解放の虎の首領は、軍事法廷の壇上から、グルジア人大尉に視線を送る。
そのまなざしには、もし何かの謀略でもありはしまいかと、なお充分警戒しているふうが見えた。
「では、ゼオライマーのパイロット木原が、何のためにスリランカ北部を攻撃するのだ。
ただタミル人がいる地域を……」
「実験だ!新型の装備の実験だ!
そうだ、そうに違いない」
聞くと、解放の虎の首領は、大笑して、それに答えた。
「ハハハハハハハ!それは悪魔の所業だ。
木原は悪魔かね!」
「奴は、最低の悪魔野郎だ!」
「そんな事をしたら、全世界を敵に回すようなものではないか。フハハハハ!」
タミル・イーラム解放の虎の首領は、マサキの行ってきたことを知らな過ぎた。
彼はソ連への復讐のためにハバロフスクを焼き、PLFPごとレバノンを灰にしたのだ。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
不定期連載の外伝も、コメントやご意見よろしくお願いします。
匪賊狩り その2
前書き
作中のブラウン国防長官は、史実でも軍縮交渉に力を入れたハロルド・ブラウン氏です。
米国の内閣は、原作設定のある大統領と、副大統領、CIA長官だけ別にして、あとは史実通りにしました。
スリランカ政府がマサキたちにタミル・イーラム解放のトラ壊滅を依頼したのはなぜか。
それは、この地域でのインドのプレゼンスが拡大することを恐れたためである。
史実ではインド軍はスリランカ内戦に介入し、結果として解放の虎を肥え太らせる結果になった。
タミル人を支援し、スリランカ政府の停戦交渉を妨害し、この内戦を深刻化させた。
また同様の事はモルディブにも言えた。
英国艦隊がモルディブから去った後、1988年のクーデター未遂事件を理由にモルディブに駐留し、政府に影響を及ぼしたのだ。
ここで、著者の意見をわずかばかり述べたいと思う。
今日のスリランカ政府の親中姿勢は、この内戦時のインドの軍事介入というトラウマが遠因の一つとは考えられないではなかろうか。
インドに軍港を貸すより、人民解放軍に課した方が良いと考えてしまったのではなかろうか。
ここにも英帝国の根深い植民地の爪痕が、見え隠れする事例である。
さて、視点を異世界のスリランカに戻してみよう。
今回の作戦は、何時ものようにマサキが単騎で乗り込む方式ではなかった。
陽動としてグレートゼオライマーを南部から来る政府軍と同時に動かすことにした、
作戦の計画を立てたのは御剣で、主力は戦術機2機とヘリ一機。
機種は、f-4J2と、a-10サンダーボルトⅡB型である。
まず機体に関して説明をしたい。
f-4J2とは、ファントムの日本仕様『激震』の改良J2型。
管制ユニットそのものをマサキが再設計したもので、マッハ1以下の低速なら、最悪、専用のヘルメットとフライトスーツでも可能で、強化装備なしでも操縦できるようにされていた。
操縦席は複座で、上空での脱出用に座席自体にロケットモーターとパラシュートを装備していた。
これは操縦席と装備ごと守る管制ユニットより退化したつくりだが、価格面では優れていた。
またゼオライマーなどの八卦ロボの思想も取り入れられ、網膜投射が使えない場合は予備のモニターで外部が観察できるようになっていた。
もう一基のa-10サンダーボルトの改良版であるB型は、従来からの弱点であった滞空時間の短さが軽減されていた。
専用の機関砲、アヴェンジャーの使用時は、連射すると失速するというのは無くなっただが、減速することには変わりなかった
このB型は、後日、河崎重工でのライセンス契約が結ばれ、『屠龍』で生産が決定している。
ただF‐5系統の戦術機と比べて鈍重なため、迅速な航空支援などといった体制が取りづらい機種であることは変わりがなかった。
BETA戦でいえば、光線族種のいない戦場、対人戦でいればソ連の防空コンプレックスが整備されていない戦場でしか活躍できない欠陥は残したままだった。
さて、マサキは、白銀と鎧衣から敵基地の襲撃に関して詳しい話を聞いていた。
今回は美久とグレートゼオライマーを陽動に使い、マサキが乗り込む算段になっていたからである。
ゼオライマーも、グレートゼオライマーも、マサキが操縦する前提ではあったが、一応美久の自動操縦による戦闘も可能であったからだ。
ただ50発以上搭載した核弾頭は、マサキの生体認証が必要なために使えず、通常のトマホークミサイルとクラスター弾に切り替えて装備した。
また、人工知能搭載の無人戦術機も使えたが、美久自身がゼオライマーの操縦にかかりきりになるので、今回は推論型AIの負担を軽減する意味で、使用しないことにした。
マサキがソ連を憎むことは、ひと通りでなかった。
前々世では、ソ連と通じた防衛庁長官の仕向けた刺客によって、志半ばで落命したためである。
「なんで、俺が露助どもを助けに行かねばならんのだ」
鎧衣は、さして苦にする様子もなく、かえって彼に反問した。
「詳しい話は、今から合う人物に聞くとよい」
「き、貴様……露助二人を救うだけのために貴重な戦力を割くのだぞ」
奮然マサキは、反抗しかけた。
だが、美久になだめられて、不承不承、
「どういうことか、わかっているのか」
「君にも悪くない話が合ってね。
一人では余りにももった得なくてね。私も日本の為に、たぎる愛国心に燃えて相談に来たのだよ」
鎧衣は、敢然と答えた。
すこし小癪にさわったような語気もまじっていた。
なぜならば、昨日、大統領官邸で面談したときの態度と、きょうの彼の様子とは、まるで違って見えたからである。
「僕も、とにかく何のことかわからないけど鎧衣の旦那が行うからついてきたわけで……」
やり場のない心を抑えるために、左胸のポケットに入ったホープの箱を取り出す。
馬鹿を言えといわぬばかりに、マサキは鎧衣の顔をしり目に見ながら、タバコに火をつける。
「訳を利かせよ」
紫煙を燻らせながら、ふと面の怒気をひそめていた。
「我々が、ラトロワさんたちを救出しようと計画していることをソ連が知ったらどうなるか……
ソ連の国家の威信を傷つけることを、必死になって避けるはずだ。
KGBに命じて、彼らを救出することになるだろう」
マサキは内心、どきとした。
だが、何時ものように不平顔を見せると、鎧衣は笑って、その肩を撫で、かつなだめて、
「特に、一緒にいるグルジア人の彼は、グルジア共産党第一書記の息子だ。
ソ連の中央政界とのつながりも深い……そんな人間が他国の軍隊の手で救出されてみたまえ。
そうしたら、KGBのスリランカ支部の人間は、全員これだろうね」
鎧衣は、不敵の笑みを浮かべ、立てた親指で首のところに一筋の線を書いた。
斬首される……つまり処刑されるという暗示である。
「分かったかね。木原君……
つまり作戦が成功すれば、この地のKGB支部は壊滅して、ソ連の影響は削げるという事だよ」
「話は分かった……
それで、二人の露助どもの容姿は……」
マサキは、なにせソ連嫌いで、大のロシア人嫌いでもある。
ラトロワの容姿も、一緒につかまっていた赤軍大尉の容姿も、気にして覚えていなかったのだ。
白銀の説明は、こうだった。
助けに行く女の名前は、フィカーツィア・ラトロワ。
人種はロシア人、目の色が薄い青色で、端正な目鼻立ちをしている。
雪のような白い肌に、明るいブロンド色の長い髪の毛をポニーテールに結っている。
ロシア人女性だが、かなりの高身長で、運動選手のような体格をしている。
グルジア人大尉に関しても説明を受けた。
黒の短髪に、オパールに近い碧眼。
190センチ越えの偉丈夫で、30歳前後だという。
「そのようなことまでは、どうでもいい。
それよりラトロワというのは、ユルゲンの妻・ベアトリクスより大女か。
俺は、そんな大女を負ぶってはこれぬ……
最悪、ひもで縛って引きづってでも連れて帰るしか、あるまいな」
マサキの不満を聞いて、白銀は、からからと笑った。
意識的にくだけた調子で、
「博士、大丈夫ですよ。
僕の見たてでは、彼女は60キロ無いですから」
あきらかに、マサキの面は憤懣の色におおわれた。
しかしと、白銀は、唇を舐めてそれに言い足し、
「バストは、USサイズ(インチ表記)で、32のHで、トップバストとアンダーバストの差が、26センチ。
バスト98.5、ウエスト70、ヒップ100と、かなりグラマーで、とにかく美い人。
……ですから、ベアトリクスさん同様に、一目見れば気に入るでしょう」
マサキは、眉をひそめた。
変なことをいう男かなと、いぶかったのであろう。
急に怒る色もなく、それ以上、強いる言葉も、諭す辞もなく、マサキは口をつぐんだ。
この男は、いつの間に、ソ連兵の体格を調べたのであろうか。
まさか体格指数でも計ったのであろうか……
マサキさえ、知らなかった、ベアトリクスのトップバストとアンダーバストの差。
それを、一目見ただけで、30センチメートルと、ぴたりと言い当てただけの男だ。
ベアトリクスへの贈り物に悩んでいた際などは、マサキの悩みへ即座にこたえて、
「32Iのサイズのブラジャーを送ればいい」
と、はばかる色もなく直言した。
本当かどうか、心配になって、夫のユルゲンに訊ねたことがある。
さしもの彼も、大層おどろいていたのは、記憶に新しい。
工作員特有の、観察眼なのだろう。
眼をみひらき、耳を立てて、マサキは始終を聞き入っていた。
だが白銀は、相手の顔色が変ったのを見ながら、すぐ自分で自分のことばを打消した。
「アハハハハ、いや冗談、冗談」
と、かえって、声を放って笑った。
出発前、マサキ達は、ある男に引き合わされた。
その人物とは、スリランカまで秘密裏に来た、CIA長官であった。
彼は背広姿のシークレットサービスに物々しく護衛させて、マサキの元に出向いた。
白銀らはあわてて敬礼した。
返礼して、CIA長官は答える。
「CIA長官だ。まあ、楽にしなさい」
彼は、諸兵の顔を見渡しながら、ここでちょっと、言葉を休め、マサキの顔にその目を留めて言い足した。
「国務省のヴァンス長官、国防総省のブラウン長官とも相談したが、君たちの作戦は非常に役に立つ。
ソ連に大きな貸しを作ることによって、我が陣営の交渉が楽になる。
特に戦略兵器制限交渉では、優位に立てるであろう。フハハハハ」
CIA長官は、大口あいて、不遠慮に笑いながら、
「ワハハハ、アハハハ。実に素晴らしいことだ。
合衆国政府はこの件に関してCIAのみならず軍・国務省も協力しよう」
あらましの指令は終った。
命をうけたマサキ達は、勇躍して立ち去った。
後書き
ラトロワさんが大女という表現は、白銀が1970年代の日本人女性の平均身長152センチと比較しての見解です。
なので、作中では、大女の前提で書いてます。
今のロシア人女性は平均身長は、166cm(Global Burden of Disease Study, 2017)。
日本人女性は158.2cm(令和元年の「国民健康・栄養調査」より)。
今のロシア人は体格は割と良くて、ドイツには負けますが、アメリカといい勝負です。
3月以降は、休日投稿出来る時間があったらします。
というか、ハーメルンの方で連載している18禁外伝も、アイリスディーナの結婚式IFをぶん投げっぱなしだし、どうしようか、悩んでます。
やっぱ読者の皆様は、アイリスディーナの旦那さんはテオドールの方が良いのかな……
これに関しては本当に意見が欲しい。
お兄ちゃんと禁断の恋か、それとも王道中の王道で主人公テオドールとのEX時空で結婚か……
そうすると、リィズ・ホーエンシュタインが報われねえんだよな……
匪賊狩り その3
前書き
以前読者希望であった、マサキを戦術機に乗せたらという話を基に作りました。
コロンボにあるカトゥナーヤカ空軍基地。
滑走路には、整備員を始めとして大勢の軍人が待機している。
マサキの護衛を務める白銀は、身に纏う77式強化装備の最終確認をしていた。
「中々似合う。うむ……」
御剣から渡された機密兜の顎ひもを締めながら、彼の話を聞いていた。
「木原は天才科学者だ、わがままで怖いもの知らずだ。
日本政府の信任も厚い。加えて世界一の戦術機ゼオライマーを持っている。
この男のバックアップなくして、BETA戦争の貫徹も難しい……
といっても、下手に出たくはない。
私も武家としての誇りがある」
強化装備の上から、航空機パイロットの着るSRU-21/P サバイバル ベストを付ける。
なぜ、そんな装備を付けるのであろうか。
今回の作戦は、空を飛ぶ戦術機からの落下傘降下で、相手の意表を突く作戦のためである。
「人間としては好きではないが、失うには惜しい人材だ。
白銀……木原を守ってくれ」
「力の及ぶ、限りは!」
既に、エンジンの温めてあるF-4戦術機。
それは、出撃を今か今かとばかりに待ち望んでいるようであった。
白銀は、押っ取り刀で、格納庫の方に走り込む。
マサキは、機体前面にある管制ユニットの入り口に立ちながら、
「早く乗れ」
マサキは、さすがにゼオライマーのパイロットだけあって、乗りなれない戦術機の操縦席に座ることに抵抗はなかった。
あれこれ準備している白銀の姿を見ると、むしろ笑って言った。
「何をしている!怖かったら乗らなくていいぞ。
乗らなければ、俺の護衛も出来ないだろう、フハハハハ」
「落下傘がいると思って準備させていたんです」
白銀が持ってきたのは、落下傘だった。
米軍が、人員降下作戦に使用するRA-1型パラシュートハーネスシステムであった。
するとマサキは、一笑のもとに、
「フハハハハ、俺はそんなものを一度も使ったことがない!
自分が作ったマシンにはそれなり信用をしているからな。ハハハハハ」
白銀が後部座席に移ると、管制ユニットのハッチを閉める。
「エンジン始動!」
右側に跳躍ユニットにあるエンジンからエアを送り、エンジン回転数をあげる。
ファントムはその機体特性として、左右のエンジン始動を時間差で行なう必要があった。
理由は、点火ボタンがスロットルグリップの後方にあり、両エンジンの点火ボタンを同時に押すことが難しいためであった。
「車輪止めはずせ!」
その言葉と共に、機体の足元にあった車輪止めと呼ばれる固定装置が外される。
まもなくエンジンの回転数が10パーセントになると、スロットルレバーを低速運転位置に前進させて点火装置を押す。
エンジンの回転数が40パーセントになったところで、スロットルをアイドルに前進させ、燃料をエンジンに送り込み、ノズルから豪快に炎が出た。
跳躍ユニットから甲高いジェットの排気音を立てながら、滑走路を突っ切っていく。
複座に改造されたF-4ファントムは、高度100メートルの匍匐飛行で、スリランカ北部に接近した。
迎撃してきた敵の戦術機・サーブ35を認めると、WS-16A突撃砲で応戦する。
「博士、脱出準備をして下さいッ、飛び出しますッ」
その声を聴いたマサキは、意外だという顔だった。
国籍表示のない深緑の三機編隊による追撃を受けて、自動操縦に切り替えようとしたところであった。
「バカな、F‐5の偽物など、訳なく撃墜して見せるさ」
マサキには、勝つ自信があった。
簡易版とはいえ、運転支援システムとして、人工知能を搭載しており、操縦が簡素化していた。
素人でも乗れるようにと、自動変速機付の乗用車並みの操作性を実現。
一度離陸さえすれば、フットペダルとスロットルで目的地まで難なく行けるように改造されていた。
「誰が、脱出するものか!」
その時、サバイバルベストに装着していたM10リボルバーを取り出す。
計器に向けて、一斉に射撃を始めた。
「わァ、何をする!」
マサキは座席にあるシートベルトを締め、操縦桿を引き、機体を水平の位置に持って行く。
機体が水平であればあるほど、低高度での脱出が有利になるからだ。
左手側にあるコンソールパネルを開けると、その中にある脱出装置のボタンを強打した。
その瞬間、被っていた機密兜ごと頭部全体が固定された。
頭部全体が固定されたのは、衛士を強力なGから守るためである。
戦術機が登場する前のジェット戦闘機まで、操縦士が被っていたのは単純なヘルメットであった。
だが戦術機では、ヘルメット自体が頭部装着投影機となり、形状の複雑化や重量増に繋がった。
その為、従来のヘルメットよりも射出される際に、頭部や首、頚椎への負担が大きくなる。
その事から、射出時に座席が強制的に衛士の頭部を固定するというシステムが採用された。
また頭部のみならず、新規開発されたロケットモーターや姿勢制御の高精度化により、負傷の危険性も低減された。
その進化は、BETA戦争での戦訓によるところが大きい。
「脱出して生き残れればよい」ものから、「脱出しても戦線復帰できる」ものが求められた為である。
背面にある完成ユニット脱出用のカバーが、内部にある爆薬で吹き飛ばされる。
ロケットモーターが点火し、管制ユニットがモジュールごと空中に射出された。
間もなく、内蔵されている落下傘が自動展開すると、地表に向かってゆっくり降下していった。
「馬鹿野郎!」
制御を失ったF-4ファントムは敵機の機関砲で、機体を損傷されるもミサイルで応戦した。
管制ユニットの制御を失った際に対応できるよう、電子機器搭載のミサイルを装備していた為であった。
ファントムは黒煙を吐きながら、地表に落下していくも、敵機はミサイルによって全滅した。
管制ユニットのない戦術機から、攻撃を受けることはない、と油断したためであった。
落下傘降下したマサキたちは、強化装備を脱ぎ捨てると、用意した深緑色の野戦服をまとう。
グレネードランチャーを装着したM16小銃と、日本刀や手投げ弾といっためいめいの武器を持つ。
モジュールから脱出し、暮夜密かに基地に侵入した。
マサキには、不安で仕方なかった。
いくら、M203擲弾筒付きの最新のM16A2自動小銃でも、数百名が潜む基地に乗り込むのは自殺行為。
弾薬はそれぞれ20連マガジン15本で、300発と、グレネードが6発。
リボルバーは、予備のスピードローダー二つで18発に、手投げ弾6つ。
白銀は、そのほかに鞘袋に入れた軍刀を背負ってはいるが、不安はぬぐえなかった。
「どうするのだ……」
「切り込みます」
「何!」
「上杉謙信公は、かつて、こう申されました。
『死中生あり、生中生なし』」
敵地に潜入するからは、覚悟のまえだった。
この期になって、もがくこともない。
精一杯、この一瞬を生き残る。
白銀の悲壮なまでの決意に、マサキは圧倒されるばかりだった。
「日本人に、帝国軍人にのみ、出来る戦い方です」
そう言って、背中にある軍刀のひもを解く。
鞘ごと握って、マサキの目の前に突き出した。
「だから、これを持ってきたんです」
そう言い残すと、軍刀を背負い、駆けだしていった。
基地へ近づくや、立ちどころに歩哨を斬り捨て、無言で、陣中へ入った。
軍刀をふりかぶったまま、血けむりの中へ消えこむように駆けてゆく。
その姿を後ろで見ていたマサキは、白銀の猪武者ぶりに、呆れる事しかできなかった。
不意の襲撃に、寝耳に水の愕きを受け、ジャハナにある敵基地は、上を下へと、混乱を極めていた。
暗さは暗し、「イーラムの虎」の戦闘員は、右往左往、到る所で、同士討ちばかり演じた。
白銀は、思う存分、あばれ廻った。
それに呼応するように、マサキは持ってきたグレネードを全弾発射した。
たちまち、諸所に火の手があがる。
前からは、敵兵、三千ほどが、ふたりの影を認めて、雨のごとく、銃を撃ってくる。
しかし、わずか二人では、ひとたまりもない。
持ってきた300発の銃弾は、既に60発を割るほど少なくなってきていた。
マサキの生命は、暴風の中にゆられる一本の燈火にも似ていた。
武勇にも、限度がある。
白銀も、やがては、戦いつかれ、マサキも進退きわまって、すでに自刃を覚悟した時だった。
突如として、象牙色の軍服を着た一隊が、銃剣を構えて、彼の前にあらわれた。
顎ひも付きのパナマハット、ドラグノフ小銃や最新鋭のAK74小銃などの装備から、GRUのスペツナズであることが分かった。
「ソ連兵を救いに来た部隊の様ですね」
覆面を付けたスペツナズ隊員は、マサキ達の方に小銃を振り向ける。
ソ連兵の突いてくる銃剣の柄にしがみついて、マサキは離さなかった。
「日本野郎、このまま、お前を殺してやりたいところだが……」
黙然と、見つめていたが、やがてマサキは、フフフフと、唇を抑えて失笑した。
「そんな事は出来ないな……、さっさと銃を下ろせ」
マサキは眼を怒らして、ソ連兵を睨みつけ、拳銃に手をかけていた。
ソ連兵の笑っている目に気づいた。見くだしているのである。
「フッ、さっきのお礼という訳かい」
「『イーラムの虎』の首領の首を取って、ラトロワたち二人とともに帰るんだ」
「何故、俺たちに預ける?貴様らの仲間だろう」
「……囮だ。
ラトロワと同志大尉に敵の目が集まっている最中に、この基地を根こそぎ爆破する為にな」
「人質の露助のお守りを俺たちに押し付けた方が、かえって好都合という訳か」
「あと2時間もすれば、航空支援が来て、ここは一面灰に覆われるであろう。
貴様ら、しっかり戦えよ。精々、俺たちの足手まといにならないようにな」
と言ったソ連兵のその唇もとが、マサキの方には必然な挑戦の笑みかのように眼に映った。
そこでマサキは、間髪をいれずに、ソ連兵へ、こう言いかぶせた。
「露助どもよ、お前らと組むのは、これが最後だぜ。
この決着は、必ずつけてやるからな!」
マサキは、大容に、ふてぶてしく、笑って退けた。
後書き
今回は戦術機の操縦を、設定資料集と、実際のF-4戦闘機の操作法を基に、より詳しく書き起こしました。
変だな、おかしいなということがあったら、意見ください。
ご意見、ご感想お待ちしております。
匪賊狩り その4
前書き
インド編は、まとめに入ります。
「イーラムの虎」の首領は、その晩も、美妓を呼び寄せ、部下と共に酒をのんで深更まで戯れていた。
ところが、基地の諸所にあたって、ドドドと異様な音がするので、あわてて、斥候を送り出してみた。
斥候の報告よりも、早く基地一体は、火の海と化していた。
硝煙の光、手投げ弾の火光などが火の渦となって入り乱れている間を、銃声、轟音、突喊の叫びが響く。
その音は、たちまち、耳も聾せんばかりだった。
「あっ、夜討だっ」
首領は、ピストルだけを持て、わずかな手勢を引き連れて、脱出を試みようとした。
車庫にあるジープにさえ行けば、大丈夫だろうと思っていた矢先である。
そこに、閃々晃々とした太刀を持った男が立ちふさがった。
虎縞模様の「イーラムの虎」の戦闘員とは違う、階級章まで深緑色の野戦服。
「邪魔だ!」
とたんに、ドドドッと、銃弾のひびきがすさまじい音と煙の壁を作った。
宵闇の中から、M16A2自動小銃を持った男が突っ込んできた。
「その男を殺せ!」
白人の護衛は、拳銃を取り出すと、マサキと白銀に向けられる。
二人の両方から、銃を構えた男とまったく同じような迷彩服姿をした仲間がおよそ十数名、じわじわ詰め寄って来る。
そこに、インド系の男が両手を広げて、止めた。
「待て、殺すな……」
銃を突き付けられながらも、不敵の笑みで見返す、M16小銃を持つ戦闘服姿の男。
その後ろには、顔を黒のドーランで塗り固め、3尺はある長い打刀を持ち、深緑色の頭巾姿の男。
首領が、彼らに、向き直って訊ねた。
「うぬらッ、何者だ!」
それを横目に、M16小銃を持つ男は、からからと笑う。
ひるみかけた兵をしり目に、こう名乗った。
「俺は、木原マサキ!
天のゼオライマーのパイロットとは、俺の事さ」
「パ、操縦士……貴様がっ」
男は輪の中へ割って入って、急に押し黙った面々を見まわして、彼から訊ねた。
「どこに依頼された!
言え、米国か、ソ連か、それとも東ドイツ、あるいは西ドイツか……
いくら貰った!いくら貰ったか言えば、俺がその報酬の倍を出してやるッ」
マサキは、嘯く。
「依頼主などいなければ、報酬も貰ったわけではない」
土匪の首領は、なにか怒っていた。
「な、何ぃ」
「俺の野望の妨げになるやつらを……
特に共産主義テロリズムに関わる人間を狙って、俺の意志で殺したのだからな……」
マサキは、あわれむような深い眼差しを、じっとこらして、
「そこの白人の二人は、コンゴ動乱に関わったワイルドギースの兵隊だろう……
ミスター・プラバカラン、俺の狙いは、英国人傭兵グループだ。
だから、そのおびき出し役としてアンタを標的に絞った」
「イーラムの虎を支援しているのが、協力者(現地人工作員)を通じて英国人ということは噂の域を出なかった。
ソ連人を捕虜にして、ジャフナ市内のどこかに潜んでいるというのも分かった。
だが、その存在をつかむ手がかりはない。
そこでソ連軍とインド軍を使って、アンタらをいぶりだしたわけさ」
「これが俺の作戦さ。
もうアンタは籠の鳥だ。俺のために死ね!」
首領は、体のふるえを堪えながら、努めて冷笑して見せようとした。
「フハハハハ、籠の鳥は、お前ではないか、木原よ。
ハハハハハ、何ができるというのだ、ハハハハハ」
今度は、首領からいった。
マサキは、笑みをつつみながら、反論した。
「俺は、この基地を爆破できる」
「何ッ」
「警備兵が、基地の外に出払っている間に、俺の仲間の忍者が爆弾を仕掛けたのさ。
それにもうじき俺の人形が、この基地もろとも核ミサイルで攻撃する手はずを取っている」
シーンとした闇の中で、マサキのはっきりとした声が、皆の耳朶を打った。
「お前が、戦争ごっこのために集めた秘密資金や有価証券、金銀財宝……
全てが、灰になり果てるのだ!」
マサキは、傲岸な微笑を含んで、その人々を見下しながら、
「聞けぃ、木っ端ども!
もうすぐ、この男は破産して、『イーラムの虎』は無一文になる。
お前たちには1ドル、いや1セントも支払いですることが出来なくなるであろう」
(1979年のドル円レート、1ドル= 239円)
答えは、唇の端に歪めた微笑をもってした。
低い一声、静かな呼吸の一つも、もういたずらに費やすことはできないものになっている。
銃を握って佇んでいた護衛たちの顔は、途端にさっと蒼ざめた。
いかに勇猛な者どもも、こうした破綻を目の前に立つと、日頃の顔色もない。
「待ってくれッ、よし、分かった。
と、取引をしようじゃないか、木原博士」
マサキがいったために、首領は急に動顛したのであろうか。
ふいに横からいった。
「あんたらの本当の狙いが、英国のMI6というのならば、私がその全容を明らかにしよう。
それでどうだッ、ソ連兵の誘拐の件からも手を引こう!」
その瞬間、プラバカランは、後ろに立つ白人傭兵に脳天を狙撃された。
首領の影が、ただ一発の弾音に、地上へころげ落ちると共に、タミル人戦闘員たちは、もとの道へ散っていった。
後に残ったのは、ワイルドギースの傭兵メンバーと、そのリーダーのみだった。
リーダーのマッドマイクは、談笑でもしている様に、こんな露骨な言い分をも、さも気軽げに口にした。
「フォッフォフォ、結構、結構。
さすがはゼオライマーのパイロットだけは、あるな」
白人の男は、自動拳銃をホルスターにしまうと、
「お前たち、下がっていいぞ」
部下たちにその場から引き下がるように命じた。
傭兵たちが引き上げて、間もなく、
「このマッドマイク、木原博士の冒険心に敬意を表し、一対一の決闘を申し込む」
そういうと、SASの汎用ナイフを黒革製の鞘から抜き掃った。
マサキは、KA-BARナイフを、横に差した革製の鞘からゆっくりと取り出す。
黒染加工のされた、米国製の、1095炭素鋼で鍛えられた、片刃の短剣。
それは、世界大戦の折、米海兵隊が日本兵との格闘戦用に作った物であった。
「部下は全て帰した。私一人だ……さあ、どこからでもかかって来い!」
マサキは、すでにマッドマイクの剣の前に、その運命をさらしていた。
男が、ナイフの鞘を払った瞬間に、マサキはもう自分の運命がわかったような気がして、体がさっと冷たくなった。
「いくぞ!」
さっと、形相を変えるやいな、男は、マサキに躍りかかった。
マサキは、受け太刀ぎみに、だだだと、踏み退がる。
「いつまで、俺の剣から逃げられるかな」
と云いながら、男は、マサキのまわりを走り歩いた。
剣を数回、打ち合わせ、激しい格闘が、なお続いた。
ガキン!
火花とともに鳴り響く鋭い剣の音。
白銀も、負けじと、軍刀をびゅッと低く薙いでいたのである。
しかし、一筋の白い閃光は、いずれも空を打ッてしまい、およそ予想もしなかった姿態を描いて勢いよく泳いでいた。
そして、その体勢をまだ持ち直さぬ間に、
「小童、洒落た真似を」
マッドマイクの嘲笑う声がどこかで耳を打った。
「なにをッ」
マサキは身を翻かえすのに、早かった。
しかし短剣を一つな奮迅も、男がビシッと構えた短剣の前は、どうしても踏み込めなかった。
側面を窺う白銀にしても、おなじである。
いや二人を併せた力よりも格段に、マッドマイク、一人の方が強かったということに尽きている。
決して一瞬の仮借もするのではなかった。
10歩下がれば10歩迫り、身をかわせば、寄ってくる。
男が持つ短剣の閃光は、風の如く、マサキの身ひとつにつめよる。
耐えきれなくなった白銀は、手に白刃を提げながら狼狽し始めた。
「博士、どいてください。
邪魔で、そいつを斬ることができません」
マサキは、男が白銀に一瞬気を向けた瞬間を計って、飛び込んだ。
飛び込んだと思うと、マサキの短剣が、白銀の軍刀をまたず、男の脾腹を突き通していた。
ぱあと鮮血がほとばしり、マサキの顔に、煙の様に降りかかった。
一面の鮮血を見ても、マサキは案外、平然としていた。
気が弱いように見えて、一面、残忍酷薄な性質も、そのどこかには持っているらしい。
白銀には、そのようなマサキの態度から、そう感じるのであった。
「フォフォフォ、これで目的は達した」
差された腹を抑えながら、笑い止まないのである。
むっとしてマサキが、
「どういう事だ?」
かというと、その男は、なお笑って、
「知れたこと。お前は偽物に引っかかったのだ」
「偽物だと!」
男は、それに答えていう。
「今頃、本物のマイクは、センチュリーハウスのMI6本部に逃げ帰っているであろうよ」
この当時のMI6は、今日の様に、テムズ川の川沿いのヴォクソール交差点にある新庁舎ではなく、 ランべスにあるセンチュリーハウスという庁舎に本部を構えていた。
「地獄で待っているぜ!」
そう言い残すと、男は懐中に隠したベビー・ブローニング拳銃を取り出す。
マサキが止める間もなく、25口径のピストルで頭を打ち抜いた。
勝ち誇ったように笑みを湛えて、この世から別れ去ったのである。
呆然とするマサキをよそに、白銀はどこからか持ち出したガソリンをかける。
脱出するついでに、基地を燃やすことにしたのだ。
戦い疲れて、棒のように立つマサキの気持ちもわからないでもない。
だが、白銀には時間が気になった。
ここで2時間もぐずぐずしていたら、爆撃隊が来るからだ。
「博士、夜明けまで時間がありません。
インド空軍の爆撃隊が来ます!
ラトロワさんたちを救いに行きましょう」
「ああ……」
マサキの返事を聞くや否や、白銀はマッチに火をつけた。
火種を投げ込むと同時に、マサキと共にその場を後にした。
基地を脱出した後、マサキたちは捕虜が収容されているナッルール寺院の門前に来ていた。
途中、手に入れた赤いヒンズー教の袈裟を、軍服と装備の上から被り、杖を突いていた。
警備兵の目をかいくぐって、寺院の内部に潜り込んだ。
何もない堂の真ん中に、樹の前に腰かけている骨と皮ばかりな老僧がいた。
しかし老僧は眠っているのか、死んでいるのか、空虚な眼をこちらへ向けたまま、答えもしない。
「おい、坊主」
マサキは、M16の銃床で、老僧の脛をなぐった。
老僧は、やっとにぶい眼をあいて、眼の前にいるマサキと、閃めく軍刀を持つ白銀を見まわした。
「和上、我々の願いを聞いてくれますか」
白銀は、老僧に優しい英語で丁寧に、これまでの経緯とここに来た理由を教えた。
誘拐されたソ連人の特徴を説明し、彼らの居場所を聞いた。
「わしは何度か、白人の連中を見ておりますが、寺院の奥の部屋におるとしか……」
赤い頭巾をかぶったマサキは、タバコをふかしながら、僧侶に感謝の意を示した。
「俺からのお布施だ、受け取ってくれ」
マサキは、ヒンズー教の僧侶にお礼として、首から下げていた頭陀袋を渡した。
中には、ビディーというインド製のタバコとキングフィッシャーという瓶ビールが数本入っていた。
「こんなもの、受け取れませぬ」
「インドの坊主は乞食が仕事だろ!ありがたく受け取っておけ」
先生は、禁欲中のヒンズー教のお坊さんに酒とたばこを渡すのか……
相変わらず、破天荒な人だ。
白銀は、そう思いながら、マサキと共に先を急いだ。
遠くの空から、エンジンの轟音が聞こえ始めてきた。
それと共に、市中に空襲警報の音が鳴り響く。
寺院内にいる警備兵たちは、途端に狼狽し始めた。
武装したマサキたちの事はどうでもよく、彼らは逃げ惑った。
走りながら、マサキは自動小銃の安全装置を解除した。
何時でも打てるように言う準備だったが、それより早く白銀は警備兵を捕まえて、物陰に引きずり込んだ。
白銀は無言のまま、軍刀の柄に手をかけ、さっと抜くなり、刃を捕まえた男の目のまえに突き出した。
「白人の二人組の部屋は……」
「一番奥の右側」
鈍く光る白刃を首へまわして、
「鍵は……」
警備兵は、やむなく、肌深く持っていた鍵束を差し出してしまった。
すると、白銀は、左手で、さっと奪り上げて、男の腹に、刀の柄で一撃を叩き込んだ。
彼らは混乱する警備の目をかいくぐりながら、部屋の前にたどり着いた。
鍵を外し、ドアを開けると、ベットの上に腰かける二人の男女が目の前に現れた。
赤軍大尉とラトロワは、若干疲労の色は見えるが、衰弱した様子はなかった。
白銀は、さっと刀を構えて、外から入ってくる敵を警戒した。
「出ろ!ロシア人」
「貴様たちは!」
「テロリストどもに処刑されたいか!早くしろ」
マサキは、鍵束をラトロワに放り投げた。
彼女は赤軍大尉の両手にはめられた手錠を外すと、彼に自分の手錠の鍵を外してもらう。
「よし、もたもたするな」
「お前たちは……」
マサキは、うろたえるソ連兵を背後に、M16小銃の安全装置を装着しながら、銃を構える。
「余計な質問はするな。お前たちに危害は加えんッ、それとも敵に見つかって死にたいか!」
「わかった……」
マサキ達の説得に、ソ連兵たちは、納得した様子だった。
「俺は、木原マサキ」
「白銀影行」
そういうと、二人の手を引いて、牢屋から脱出する。
空襲警報で混乱する、寺院の大伽藍に躍り出る。
途中で敵兵との遭遇戦を切り抜けながら、一気に駆け抜けた。
「車取ってきます」
「へま、するなよ」
白銀は、マサキに見向きもせず、立ち去った。
マサキはしきりに、その後ろ姿にまで眼をつけていた。
無言のまま、マサキは、男女一組のソ連兵を連れて、大廊下へ流れ出した。
戛々とした軍靴のひびきと3名の足音が一つになる。
長い廊下や階段を幾つも上り降りした。
眼を塞がれるような闇も歩かせられた。
『この間に、殺す気なのか』
赤軍大尉は、多少身構えてもいたが、そんな気ぶりはない。
赤軍大尉にとって、その懸念は全く根拠のないことではなかった。
彼は、かつてハバロフスクでマサキによって己の父を殺され、幾度となく復讐の機械を伺った相手であった。
またソ連赤軍とマサキも、この事件に遭遇するまで、お互いに砲撃をしたり、銃を撃つ闘争を演じる間柄だったからだ。
しかもその深怨を含む、お互いの意識は今日にいたっても少しは消えてはいなかった。
油断のならない敵であり、警戒を有する相手であった。
「敵が来るぞ」
マサキは慌てず、袈裟の下から手投げ弾を取り出す。
そして、驚くラトロワたちの前に見せつけた。
「これが何だか、わかるか」
生気の軍人教育を受けた彼等には、即座に分かった。
マサキが手にしているのは、米軍が開発配備している、M26手榴弾だった。
勢いよく放り投げると、敵兵が驚く間もなく爆散した。
「貴様ら、無茶苦茶だ」
「俺たちをとらえるには、2、30人の兵士では無理なのさ」
マサキは、二人のソ連兵をかえりみて、にこと微笑しながら大言を吐いた。
赤軍大尉は、マサキの態度を疑い、むしろ不安をすらおぼえた。
マサキが装備しているものは、米国製の小銃と銃剣のみ。
精々、隠し持った武器といえば、手投げ弾と拳銃ぐらいだ。
一たび弾薬が尽きれば、白刃を噛み、肉弾をうつ、白兵戦となるのは必至。
自分たちはピストルの一つはおろか、短剣すら持っていない。
このまま、大部隊と遭遇すれば、全滅ではないか。
赤軍大尉は大いに怖れた。
「これからどうする」
彼の不意の問いに対して、マサキはそれに答えて、
「俺には、お迎えが来るのさ」
「ほう……誰だ、知り合いか」
マサキは、何を答えるのも明晰で、妙に怖れたりするふうなど少しもなかった。
「俺の人形さ……」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
匪賊狩り その5
前書き
インド編のけじめになります。
昨日の投稿で終わらなかったので、10日の日曜日に臨時投稿することにしました。
インド南部にあるタンジャヴル空軍基地を発進した、第222戦術機中隊。
f-5戦術機のコピーであるソ連製のSU-11を配備していた。
F-5との大きな違いは、頭部に付いたセンサーマストと呼ばれる通信アンテナである。
ハチの針に似た細長い通信用アンテナは、対BETA戦での近接密集戦闘を念頭に置いたものである。
su-11は、高度な電子戦装備を設置したMIG21バラライカよりも安価であった。
だが、マクドネル社の低価格輸出攻勢と、ミグ設計局の政治工作によって、本来ならば日の目を見ることのない機体であった。
事態が変化したのはゼオライマーの登場で、MIG-21が手も足も出なかったという事実を突きつけられた為である。
ソ連参謀本部は、質よりも量を取り、より安価で、製造しやすく訓練期間の短い学徒兵でも扱いのしやすいsu-11の増産を決定した。
マサキがハバロフスクを襲撃するころには、コムソモリスク・ナ・アムーレの工場で試作機が完成し、インド空軍に約140機が納められることとなった。
インドは、英国との関係や歴史的経緯、政治的背景などにより、初期には旧宗主国イギリスをはじめとする欧州から、トーネードADVを160機ほど購入した。
だが、ミンスクハイヴ建設による欧州戦線の緊迫化により、英国からの輸出は途絶えてしまった。
その不足を補うために、ソ連から300機のMIG-21を導入した。
近年では、ソ連機やフランス機を多く導入しており、様々な機体を擁している。
以上の様な経緯からか、インドには多数のソ連パイロットと教官が軍事顧問団として駐留した。
今回の作戦に参加したのは、そのほとんどがインド空軍の強化装備を付けたソ連軍衛士で、インド空軍のパイロットはほとんどいなかった。
インド空軍のパイロットの多くは、米国製のコンソリデーテッド・B-24 リベレーター・重爆撃機を操縦していた。
インド空軍はこの機体を45機ほど所有していて、一度1968年に退役させている。
だがBETA戦争で、光線級吶喊後における絨毯爆撃がにわかに効果を見せ始めると、モスボールを解除し、最前線に復帰させたのだ。
B-24の欠点としては、銃弾を機体に受けると安定性に難が有る、飛行高度がB-17より低いなどがあった。
第二次大戦の欧州では、米軍のパイロットの間ではB-17が好まれたが、B-24は優秀で、多用途性のある軍用機であった。
英国空軍は、この機体を気に入り、特に爆弾搭載量が多いことに関しては、彼らをして満足させるほどであった。
ジャフナ上空に現れたインド空軍のB-24D爆撃機、40機は一斉に爆弾倉を開いた。
計88トンの爆弾が、このジャフナ王国の古都に降り注ぐ。
寝こみを衝かれ、不意を襲われて、右往左往、あわて廻る敵陣の中へ、焼夷弾の光は、花火のように舞い飛んだ。
草は燃え、兵舎は焼け、逃げ崩れる賊兵の軍衣にも、火がついていないのはなかった。
半数は、すべて火焔の下に消え、少なくないものが逃亡を始めた。
火は燃えひろがるばかりで賊徒らの住む尺地も余さなかった。
賊の大軍は、ほとんど、秋風に舞う木の葉のように四散した。
燃えたのは、賊徒ばかりではなかった。
13世紀にたてられたジャフナ朝の貴重な古書10万冊や、ポルトガル・オランダ統治時代の建物。
ヒンズー・回教・仏教の秘宝・古跡・名勝。
そのすべてが、灰燼に帰したのだ。
ジャフナの街が、爆撃で燃え盛るころ。
角を曲がり、また角を曲がり、おそろしい勢いで、市外へ向って、疾走して行った車がある。
普段なら、何事かと、すぐ人々の注目をうけるところだが、この宵からの騒動中である。
あれも出撃する部隊か。或いは、各地の味方へ、伝令に行く密使か。
誰あって、怪しむものはなかった。いや、怪しんでいる遑いとまもない空気だった。
「どけ、どけッ」
まるで、敵中へ、斬りこんで行くようなわめきだった。
夜ながら、白い排気ガスを立てて、数台のジープが基地の守衛へ、ぶつかって来たのだった。
ここは、要塞の入り口だ。滅多に通すべきではない。
だが、助手席から降りた一人が、
「非常事態だ」
と、いきなり門の鍵を勝手に外し、さっと押開いて、
「それ行け」
と、すぐまた助手席に跳び乗るやいな、まるで弾丸のように駆け抜けて行った。
もちろん、警備兵は、
「待てっ」とか「何者だっ」
と、咎めることも怠りはしなかった。
しかし、次々と、関門を駆け抜けてゆくジープの運転手は、
「敵襲だっ、敵の襲撃だ」
と、呶鳴って行くので、時しも非常時なので、警備兵も、無下なこともやりかねて、ついその後の闇に仄白く曳いている前照灯を見送っていた。
ところが、また再び、同じような車の音が、町の方から聞えて来た。
ぞくぞくと、かたまり合って、駆けて来る軍靴のひびきも耳を打つ。
忽ち、眼に見えたのは閃々たる銃剣の刃、機関銃、自動小銃、それから対戦車砲なども入り交じった100人ほどの軍隊だった。
「警備兵、警備兵ッ。
たった、いま敵国のスパイが、基地から逃亡した。
市街を警備する全部隊をもって、追撃するよう命令を出せ!」
警備を突破したのは、総勢100名の、GRU特殊部隊であった。
彼らはマサキがラトロワたちを救出している間に、町中にビーコンを設置して、ソ連の戦術機隊が無事爆撃できるようにした準備をしていたのであった。
そして、行きがけの駄賃として、『イーラムの虎』が蓄えた金銀財宝やドル紙幣を根こそぎ持ち去った。
ソ連のスペツナズが撤退して、間もなく。
美久の駆るグレートゼオライマーは、単騎、ジャフナ要塞に現れた。
ジャフナ要塞は、ポルトガル人が16世紀にたてた要塞で、オランダ・英国時代を通じて、その当時を形を残す貴重な史跡であった。
だが、今は匪賊の手に落ちて、一大軍事拠点へと改造されていた。
グレートゼオライマー接近を察知した匪賊は、自身の持てる航空戦力のすべてを、グレートゼオライマーに向けた。
だが、天下無双のマシンであるゼオライマーにとって、それは無意味な攻撃であった。
指にあるビーム砲で、追いすがってくる戦術機やCOIN機、武装ヘリを難なく撃ち落す。
両足に搭載した精密誘導ミサイル、およそ100発。
それらは、要塞や市街にある対空火器に向けて、順次発射されていった。
対空陣地にある機関砲は、狼狽を極めて、急に防戦してみた。
だが、敵機は、一気に高度1万メートルの上空に飛び上がった。
何もかも、間に合わない。
突如の敵機出現に、虚を突かれた「イーラムの虎」は、上を下へと混乱を極めていた。
そのあげく、潰乱してくる途中、運悪くグレートゼオライマーから発射されたミサイルにぶつかってしまった。
ここでは、徹底的に叩かれて、要塞にいた5000の兵士のうち生き還ったものは、100にも足らなかった。
場面は変わって、ここは英国。
バッキンガムシャーにある、邸宅、『ワデズドン・マナー』。
この豪奢な屋敷の一室で、密議を凝らす男たちがいた。
屋敷の主人と、英国首相、MI6部長などである。
「木原の暗殺は失敗したか」
「申し訳ありません」
「今日限りで、MI6長官の職を辞したまえ」
「分かりました……」
MI6部長は、屋敷の主人に問いただした。
「男爵様、ただ、一つお尋ねしたいことがございます」
「うん」
「なぜ、そこまで執拗に木原を狙うのですか」
男爵様と呼ばれる、このユダヤ人の男は、英国一の金満家。
総資産は、1京円とも、9000兆円ともいわれ、米国の国家予算をはるかにしのぐ規模であった。
その為、ロンドンのシティはおろか、英国政界のみならず、王室さえも自在に操れた。
彼の祖先は、ドイツのフランクフルト・アム・マインにあったユダヤ部落の出身者であった。
赤札通りといわれる地域の出身者であった為、屋号を「赤札屋」とした。
「奴は、我らが宿敵となったドイツ民族の統一を望んでいる」
「まさか……」
「奴は、東ドイツのシュトラハヴィッツを支援して、KGBの影響力を東ベルリンから削いだ」
「それがどうして……」
「シュトラハヴィッツは、その見返りとして木原の行動を手助けしている。
このまま放っておけば、東西ドイツは再び手を結んで、EUに加盟し、EUを隠れ蓑に第四のドイツ帝国を築く」
酒蔵から持ち出した年代物のワインを、グラスに注ぐ。
秘蔵の酒は、帝政ロシア時代にクリミアで作られたスパーリングワインであった。
「ナポレオンの力をもって崩壊させた神聖ローマ帝国。
戦争まで仕掛けて、引きずり込んだ米国の手を借りて、ようやくつぶした、第二帝国、第三帝国。
それの牽制をしのぐEUを後ろ盾にした第四帝国が出来てみろ!」
ワイングラスをくるくると回したあと、口に含む。
100年前の豊潤な白ブドウの味が、口に広がった。
「我らが血のにじむような思いをして作り上げた、ロンドンの富も、この金融の世界も危うい……。
故にあのアジア人のパイロットを殺し、ゼオライマーというマシンを破壊することにしたのだ」
憮然とする男爵に、首相は平謝りに詫びいった。
「大変、申し訳ございませんでした」
「首相、形ばかりの謝罪などどうでもいい。
君の選挙のために、私はすでに200億ポンドの金を払っているのだ。
その働きをしてもらわないと困る」
(1スターリングポンド=418円)
男爵が、選挙に多額の資金を使った話をした直後である。
その刹那、部屋へ、黒の詰襟姿の男が入ってきた。
「それで俺の命を狙ったのか」
「貴様!」
突如としてあらわれた不気味な東洋人。
彼は、不敵の笑みを満面にたぎらせて、
「お前たちは俺の世界征服の後にいいように使ってやろうと思っていたが……
気が変わった!」
首相たちが、自動拳銃を取り出すよりも早く、男はM29回転拳銃を向ける。
「ここで俺のために死ね」
その瞬間、部屋の電気が消えた。
続いて、火花と銃声が数回響く。
「馬鹿な奴等よ。
目先の利益のために、この俺に喧嘩を売るとは……」
暗い室内に、不気味な笑い声が広がった。
「フハハハハ、人間の欲ほど愚かなものはないな。
それがある限り、戦いは終わらないという事か」
そういうと、男は屋内へ、持ってきたガソリンをぶちまける。
マッチを擦り、火を放つけた。
邸宅は見るまに、燃えあがった。
男は、紫煙を燻らせながら、屋敷を後にした。
その夜半。
英国王は、支那から来た高位のラマ僧、パンチェン・ラマとの会見の場に急いだ。
毛沢東の政策を非難した、この高僧。
彼は、昨年まで支那の奥深くにある労働改造所と呼ばれる暗黒監獄に押し込められていた。
改革開放を謳う新政権によって、出国を許され、世界各国の要人との面会に出かけたのであった。
バッキンガム宮殿の奥の間に、黄色い三角帽子と赤い袈裟を付けた僧形の男が後ろ向きで立っていた。
部屋には、何やら香のような物が焚いてあり、霊験あらたかな真言を唱えていた。
「パンチェン・ラマ猊下、遅れて申し訳ありませんでした」
その瞬間、黄帽を被った僧が振り向いた。
目を隠すように、レイバンのミラーレンズのサングラスをかけていた。
「貴様!パンチェン・ラマではないな!」
その瞬間、ラマ僧は、両手で黄帽とサングラスを取った。
たしか、パンチェン・ラマは四十がらみの男だったはず。
大分、聞いた話より若い男だった。
龍顔が、さっと曇った。
王は、口を極めて怒りをもらした。
「お前は誰だ!」
僧形の男は、満面に喜色をたぎらせる。
「俺は、木原マサキ!
お前の葬式をあげに、地獄から来た男さ」
笑いながら話していることだが、元々、マサキのそのことばには、寸毫の嘘もない。
やましさのない真実の力は、微笑の内にも充分相手を圧して来る。
「今頃、本物のパンチェン・ラマは、ロンドンのスタジオでBBCの単独インタヴューに答えている頃さ。
忙しい坊様から、ちょっと衣装を借りて、今宵限りの生前葬をしてみたくなったのよ」
龍顔からは、血の気も失ってしまった。
威圧といえば、こんな酷い威圧はない。
「王よ、貴様の宝算は幾つだ」
「84だが」
「一般社会じゃ、引退している年齢だな」
さっと、袈裟の中からホープの箱を取り出す。
言葉を切るとタバコに火をつけた。
「王よ、お前は政治を弄ぶより、孫と遊んでいるほうが似合う年齢だ」
「どういうことだ!」
いつにない激色である。
マサキは、冷静な眼で、相手の怒りを冷々と見ている。
「何、貴様の支配地をそっくりいただくという事さ」
突然、マサキは身を反らして、仰山に笑い出した。
「フハハハハ、お前たちは、釈迦の手の平で暴れまわる孫行者でしかない。
俺が望めば、何時でも潰せるのだ。
今回のユダヤ人男爵のようにな……」
孫行者とは、西遊記の主人公孫悟空の支那風の呼び方である。
マサキは、己の立場を孫悟空を懲らしめた釈迦如来と重ねて、そう脅したのだ。
「これは、せめてもの慈悲だ。
英帝室を存続させてやる代わりに、お前は譲位しろ。
そうすれば、この一件は水に流して、俺は英国と事を構えることを止めてやる」
瞬間、激色は激色ながら、龍顔の怒りは、ふと眉の辺に、すこし晴れたかの如く見えた。
「ひとつだけ、お前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「なぜ、天才科学者の貴様は、ゼオライマーというマシンを作って戦いの中に身を投じた」
「普通の人間が50年かかってやることを……1日で為せるからよ」
マサキは煙草をもみ消すと、黄帽を被り、サングラスをかけた。
「あばよ」
彼は般若心経を唱え、ティンシャというシンバル形の仏具を鳴らしながら、宮殿を後にする。
『これほどな大事を、一人の男を動かされるなどとは……』
王は、しばらく呆然としていた。
翌日の新聞では、一面に英国王の譲位が報じられた。
英国王室史上初の退位に、世人は混乱し、帝室の永続を危ぶんで、自決する者も少なくなかった。
三面には、一昨日の晩に起きたワデズドン・マナーの火事と、その館の主人の逝去が小さく載った。
首相及び情報部長の逝去は、英国王退位の報道にかき消されてしまった形となった。
マサキは、スチュワーデスから手渡されたデイリー・テレグラフを受ける。
1日遅れの記事を読みながら何食わぬ顔で、国際線の機内にいた。
今回の日ソ会談では、何の成果もなかった。
手に入れたものは、精々、アイリスディーナに手渡す土産と、インド旅行のどうでもいい話位である。
ただ、世界を二分する金融資本家の一人を抹殺したことが成果と呼べるものであった。
これで、アイリスディーナが夢と描くドイツ統一の邪魔になる勢力は、いくらか減らせた。
『アイリスに、このことを話しても信じまい』
マサキは、年下の恋人の事を夢想しながら、相変わらず紫煙を燻らせるのであった。
後書き
長かったインド編の終わりです。
今回登場する第222戦術機中隊は、実在するインド空軍第222戦闘団をモデルとしました。
この部隊は、早くからソ連製のSU-7を装備しており、パキスタンとの実戦経験もあります。
予想外に長くなったインド編。
当初は2月中に終わらせる予定でした。
このペースだと、200話超えることは決定的ですね。
マブラヴの二次創作の中では、〇岳〇氏の『Muv-Luv Alternative ~take back the sky~』に次いで、二番目の長さになりました。
向こうは連載7年で275話ですが、こちらは連載3年で、18禁外伝を込めば、既に200話越えですからね……
来週以降は原作キャラの話に久しぶりに戻ります。
おたのしみに。
隠然たる力 その1 (旧題:マライの純情)
前書き
ユルゲンに近づく西ドイツの情報将校の巻。
なんと、7000字越えになってしまいました。
1979年4月。
米国政府は、北太平洋上にあるジョンストン島で新型兵器、G元素爆弾を実施した。
その起爆実験の成功を祝し、ニューヨークのプラザ・ホテルで、セレモニーを開催した。
招待されたのは、日本、英・仏・西ドイツなどの主要6か国。
その他、ソ連をはじめとする東側諸国を含む50か国以上の大使や公使、駐在武官や外交官。
総勢1200名以上の人物が集められて、壮大な盛宴が執り行われた。
コロンビア大学に留学中のユルゲン・ベルンハルトも、この祝宴に参加していた。
BETA戦争での核爆弾被害をまじかで見た彼にとって、今宵の旨酒は味のしない物であった。
4年前、カザフスタンで見た光景が、時折フラッシュバックしてくるような感覚に陥った。
カラガンダの街のそこら中に山積みにされた、黒く焼け焦げた市民だった物。
全身をケロイドで覆われて、泣き叫びながら死んでいったソ連の少年兵。
それらの遺体は、町はずれに集められ、火葬された後、埋められた。
墓標すらなく、数千や数万の土饅頭がある臨時墓地。
聞いた話では、後に軍用地に転化するために、ブルドーザーで手荒に破壊し、整地されたという。
思い出すだけで、おぞましい出来事だった。
核戦力はBETAの侵攻を止める効果があったのは確かだが、それも彼らの物量の前には一時的であった。
G元素爆弾がどんなものか知らないが、信用ならないというのが、ユルゲンの偽らざる本音であった。
陰陰滅滅とした気分を変えるために、飲みなおそう。
一緒に来ていた同僚のマライ・ハイゼンベルクの姿を探したが、見当たらない。
何処に行ったかと、探している時である。
「ミスター・ベルンハルト、少しお時間を頂けないかしら」
ユルゲンは目だけを動かして、声の主を見た。
栗毛に、抜けるほど白い花顔の人で、どこかりんとした響きさえあった。
「貴女は」
「アリョーシャ・ユングよ」
ソ連での生活経験のあるユルゲンには、アリョーシャという名前が非常に気になった。
アリョーシャとは、ロシア語における、アレクセイという男性名の愛称だからだ。
アレクセイという名前は、守護者を意味するギリシャ語の名前で、その変化形の一つが、アレクサンドロスである。
アレクサンドロスは、男たちの守護者を意味する言葉で、戦の女神ヘーラーの尊称の一つであった。
ギリシャ語由来の言葉は、長い時間をかけて欧州各国に伝播した。
代表的なものだけを、ここに記す。
ラテン語だとアレクサンデル、ロシア語だとアレクサンドル、英語だとアレキサンダーである。
女性であれば、その変化形であるアレクサンドラで、欧州各国とも共通である。
この名前は、スラブ圏のみならず、ドイツでも一般的で、愛称だとサンドラと呼ばれる。
一応男女共通の愛称は、なくはない。
ロシア語の場合だと、サーシャで、英語・ドイツ語であれば、アレックスである。
ユルゲンは、困惑していた。
サーシャやアレックスなら、まだわかるが……
多分偽名であろうが、さぞ目立つで名前で、一度会たら忘れないであろう。
随分とものを知らない人間が、名前を決めたのであろうか。
彼は、ものすごい違和感を感じざるを得なかった。
目の前の貴婦人は、ロシア風の男の名前を名乗っている。
だが、甘い香りが匂い立つような容姿は、実に妖しい……
一瞬、目の前の女性に惹かれてしまったユルゲンは、故国で待つ幼な妻を思い浮かべる。
あの可憐な人を裏切るようなことを、これ以上してしまってよいのだろうか。
そんな彼の思慕も、次の言葉で現実に引き戻されてしまった。
「お連れの方は……」
「さて、どこかに行ってしまったような」
ユルゲンは、胸の戸まどいを、ふとそんな呟きにして。
「マダム、貴女の方は」
ユルゲンが使ったMa dameという言葉は、今日の英語のMs.に近い意味だった。
成人した女性に対して、既婚・未婚を問わず使える言葉であり、日本語のそれとは違い、職業婦人など、社会的地位のある女性には、むしろ喜ばれた表現であった。
仏語だけではなく、英国英語においてもマダムという表現は、中流階層以上の使う婦人への最上級の呼びかけであった。
女主人を語源に持つMistressの短縮形である英語のミスとおなじく、仏語のMa dameは、語源は私の女主人という言葉である。
近代以前は、貴族や王室の貴婦人を指し示す言葉であった。
変化形で有名なのはNotre dameという物である。
我らの貴婦人という意味で、これは聖母マリアを指す婉曲表現の一つであった。
パリで、有名なノートルダム寺院は、聖母マリアを讃えるキリスト教寺院であった。
さて、話をニューヨークの祝賀会に戻そう。
ユルゲンに声を掛けた、謎の貴婦人は妖美な笑みを浮かべて、彼の疑問に答える。
「ちょっと席を外しているわ」
ユルゲンは、一瞬にして、成熟した女の色香に惑わされてしまう。
彼の胸は嫌がうえにも、高鳴る。
「ほう、私もです。
ここは、騒々しいので、場所を変えて話しませんか」
ユルゲンは、上品なイギリス英語を話す、黒のイブニングドレスを着た淑女と共に近くの公園に出た。
夜会巻きをしたブリュネットの長い髪は、この手で解いてみたい。
(ブリュネットは、英語では黒髪も含むが、本来は栗毛色を指す仏語である)
目の前に立つ細面をこの胸にかき抱いてみたら、どうなるのであろうか。
ほっそりとした体が、薄物の絹のシミーズから透けて見え、栗色の髪が背中に波打ち……
ああ、俺は何を考えているのだ。
酔いが回っていなければ、そんなことも考えもしないのに……
彼女の美しいうなじに視線を奪われていると、女の方から声がかかった。
「わたしね。ニューヨークの西ドイツ総領事館で、副領事の補佐をしておりますの。
前から一度、東ドイツを代表する、第一戦車軍団の戦術機隊幕僚長とお会いしたいと思っていましたの」
そんな因縁がなくとも、普段なら決して相手にしてもらえないような上流階級の女性。
それも婀娜っぽい色香をムンムンと発散させた妖艶な女性から誘いを受ければ、若い彼は一も二もなく付いて行ってしまう。
「貴方は、最愛の妹さんを、ゼオライマーパイロットの木原マサキに近づけたそうね」
そういって、彼らは、セントラルパークに場所を移した。
いつの間にか、公園の北側にある、コンサバトリーガーデンにある噴水の前に来た。
近くにあるベンチに腰掛けるなり、ユングの方から話しかけた。
「木原と、どの程度の間柄は判りませんけど……
知ってることは、すべて話したと考えてよさそうね」
ユルゲンは、苦笑をたたえた。
女とはいえ、尋常な不敵さではない。
「お近づきのしるしとして、ベルンハルト君、いくつか、重要な事を教えてあげるわ。
もう貴方は、一線に復帰することはないだろうから」
ユルゲンは、この留学に伴って、指揮幕僚過程への栄転が内々に約束されていた。
駐在武官補佐に選ばれたのも、将来の高級将校の足掛かりとしてである。
駐在武官に求められるのは、情報収集・分析能力はもちろん、英語・露語・仏語をはじめとする語学能力。
接受国の政府・軍などのカウンターパートと、関係を築くためのコミュニケーション能力。
求められる範囲と内容は、前線勤務の将校に比べて、幅広い。
「実はね、この数年間、欧州諸国が戦術機の新規ソフトウェア開発にかけていたことは全く無駄だったのよ」
「どういうことです。
戦術機のソフトウェア開発が、西ドイツですら、できないという事ですか」
「そういうこと。
管制ユニットの中にあるコンピューターには、メモリープロテクタという一種の遮断機がついていて、これが作動している限り、外部の技術者が、たとえKGBやシュタージの産業スパイがどんなことをしても、システムは書き換えることが出来ません」
「なぜそんなものを!では俺たちを騙していたという事ですか」
「たしかに、そうなるかしら。
でもそれはマクダエル・ドグラムや、IBMの一存ではないのよ。
CIAから聞いた話を総合するとね、合衆国政府の意向だったの」
ユングは、躊躇いもなく、自分の知る情報の全てを明かした。
「彼等の見解では、戦術機の動作に関して、ソ連政府や西側諸国が数年は我慢するだろうという予測だった。
ちょうど今頃までは……」
二人の会話を、一部始終、暗闇で聞いていたものがいた。
ユルゲンの補佐役として渡米したマライ・ハイゼンベルクだった。
この手の外交セレモニーでは、武官だけでなく夫人を招待するのが常だった。
故に妊娠中で東ドイツに残った正妻のベアトリクスに代わって、ユルゲンの妻役として役目を果たしていた。
各国からの駐在武官・軍関係者夫人と懇談し、親交を深めるのも重要な任務だった。
武官のみならず、夫人にもそれなりの語学力や教養が求められた。
ワインを片手に懇談の途中、不意に悪心を感じた彼女は、ユルゲンに声をかけることなく化粧室に駆け込んだ。
身だしなみを整えてから、会場に戻った彼女は、ペアで来ていたユルゲンの姿が消えたのを不審に思って、ホテル中を探索した。
そこで偶然、近くのセントラルパークに移動するユルゲンたちに遭遇したのだ。
そして、こっそり尾行し、会話が終わるまで辛抱強く、植木の中に身を潜めていたのだった。
『大変な事を聞いてしまったわ。
でも、なんで、そんな最重要機密を、ユルゲン君に話したのかしら』
マライは、前線国家の東側だけではなく、西側諸国も金融資本の生贄になっているのに、内心びっくりした。
というのも、マライは、戦術機という未完成の製品が輸出されたのは、ソ連の指金ではないかと疑っていたからだ。
いくら表面上仲が良くても、所詮は敗戦国である。
何か政治的な事件に巻き込んで、証拠を作り、追放する手段として、ソ連指導部が利用したと企てたと考えが及ぶことがあったからだ。
西側諸国まで巻き込んだとなると、話がまるで違う。
それにしても許せないのは、米国政府を牛耳る支配者階層である。
マライは彼らに感づかれない様に、つとめて冷静に聞いた。
ユルゲンは、ユングの顔をにらみつけた。
「しびれを切らした我々が、米国に手助けを求めると……」
「そういう事ね。
始めは、操縦訓練シミュレーターを適当に進めるのよ。
効果は抜群だったはずな訳よ。
……その頃には、少しずつ完熟訓練が出来るほど技量が向上しているからね。
別にシミュレーターの効果ではないわ」
「焦った各国政府は、当然アメリカや製造元に対処を求めるわけか」
「その通りね」
「そこで、米国企業は法外な値段でサポートシステムやソフトウェアを売りつけるの。
およそ5億ドルでね」
(1979年のドル円レート、1USドル=239円)
「マクドネル社のファントムは、2400万ドル。
その倍以上の値段だぞ!」
ユルゲンは、少し責めるような顔つきになった。
ユングは、ひるまない。
「そしてファントム……
いいえ、戦術機のBETA戦の価値を知った各国政府は簡単に手放さなくなるわけ。
……ということは、米国やCIAの言いなりになるしかないのよ」
「そんなにうまくいくはずがないぞ」
「ゼオライマーの登場さえなかったら、計画通りなのにね……
いいえ、彼が世界各国とかかわりを持つ前ならば、計画の修復が可能だったのに。
もう駄目でしょうね……、一からやり直しだわ」
「計画通りってなんだ」
「そんなことも分からないの」
ユングは、言葉では強く出ていたが、正直ユルゲンの反応が怖かった。
「主要先進国のコンピューターを米国の製品にすることが出来たら……
設置する段階で、米本国の最新コンピューターと連携することが可能になるの……」
ユルゲンは目に見えて、不機嫌になった。
ズボンのマフポケットに突っ込んでいた両手を、胸の前で組む。
「そうなれば、世界各国の政治も、経済も、米国の想いのままになる。
文字通り、属国になるわ」
ユルゲンは、蒼白な色を顔に浮かべていた。
とっさに、荒い感情を吐きそこねて、かえって、打たれた自分を憐われむ様にしゅんと色を沈めている。
そして、静かに、薄い自嘲と度胸をすえた太々しい笑みを、どこやらに湛えていた。
「信じられないな。どうしてそんな最重要機密を、俺に……
戦術機部隊に復帰できなくても、俺は東ドイツの軍人だぜ」
ユングは決然とした表情で言った。
体の内側で、小さな震えが起こる。
「もう戦術機は、米国にとって価値がなくなった……
でもゼオライマーに関しては、まだ利用価値があるの……
ドイツの為に、お互いの将来のために、私と組みましょう」
ユルゲンの目が、ユングの目をとらえた。
瞳に、鋭い輝きが浮かんでいる。
「どういう意味だ」
ユルゲンはユングの両肩をがっしりと掴んだ。
彼女は、全身を包んだ震えと、燃えるような情熱に、意識が霞んでいくのを感じた。
ユルゲンの目に、野獣の輝きが浮かびかけているのに、体が動かない。
ユングの両肩に、さらに力が加わった。
このまま、ユルゲンに屈服されるのかもしれない……
しかし、その時はその時だ。
彼女の心のどこかで、それすらも受け入れようという考えが浮かんでくる。
「このまま、本国に戻ったら、私の立場はないの……」
胸がドキドキし、体が小刻みに震える。
ユルゲンの瞳に、一瞬、優しさが戻った。
「私の、所属している外務省の……いえ、西ドイツ官界の派閥は非主流派なの。
今、シュトラハヴィッツ中将が率いて、SEDにまで勢力を及ぼす国家人民軍の軍閥がどれほど持つかわからない」
そういってしなだれかかってくるユングに、ユルゲンはまごついてしまう。
「失敗すれば、ソ連の介入を招いた、10年前のチェコ事件、22年前のハンガリア事件の二の舞になるわ。
KGB長官が暗殺され、国家保安省が弱体化した、今しかチャンスがないのよ」
彼女は初めて、狼狽えの色を表した。
静かでいた瞳よりは、心さわがしい瞳のほうが、より一層美しさを増していた。
たちこめるバニラの香水の甘い香り、しな垂れかかる柔らかいからだ。
大きくあいたドレスの襟ぐりから見える、豊かな谷間を形成する豊満な双丘。
突然、意中の者同士がなんらの前提もなく密会の機に恵まれる。
そのようなときめきを、ユルゲンはとたんに覚えた。
「お願い、私を助けて……」
ユングは、はっきりとそういった。
ユルゲンはビックと反応した。
まさか、面と向かってそんな事を言ってくるとは思わなかったからだ
いつの間にか、ユルゲンはユングを抱きすくめていた。
柔らかくて、ぬくもりのある、優美な肢体。
絹のような栗色の髪から、香り立つバニラの甘い匂いが、顔をなぶる。
沈黙があった。
ユルゲンの息をのむ気配が伝わってくる。
灼けつくような視線を感じる。
それにつられて、ユングも妖しい雰囲気になってきた。
抱きすくめていた腕の中で、その顔が切なげに揺れ動く。
「どうして、俺の事を……」
ユルゲンはそう呼びかけると、一層、抱擁を強めた。
そして二人の体は身じろぎもせず、岩のように立ったままだった。
戦術機のコンピューターに、情報を筒抜けにするカラクリがしてある。
この話を聞いて、ユルゲンは、何か思いある節があった。
もともと戦術機は、この異世界の米ソが、1960年代から使用していた有人操縦ユニットを起源する。
宇宙空間や衛星軌道上での使用を目的に、大型化し、発展させた。
航空機やヘリコプターにない三次元機動を持ち、ハイヴ攻略を目的として作られた。
そして、BETAの地球侵攻の1年前である1972年に完成し、日本や英、仏や西独を始めとするEC諸国との間でライセンス生産を開始する秘密協定を結んだ。
ソ連への提供は、1973年の後半に行われ、その時には、既に寒冷仕様のF-4Rが完成されていた。
マグダネル社の方で、モスクワにあるミグ設計局の兵器工場に、新設機械を設置した建屋を建造し、熟練技師を派遣するほどの力の入れようだった。
ソ連への支援は、当初、米国議会の承認を得られなかった。
故に、先次大戦のB-17譲渡を踏襲する形で行われた。
かつてソ連赤軍が、B-17爆撃機を欲したとき、表向き米政府は断った。
だが、東欧諸国に、計器類が破壊されたB-17爆撃機を乗り捨てる形で、米軍は間接的にソ連に
B-17を提供した。
今回も、その顰に倣って、50機のF-4Rファントムが、カスピ海沿いの都市・アスタラに乗り捨てる形で、ソ連赤軍に供給された。
ソ連の技術陣は、遺棄された戦術機を組み直して、戦闘に用い、緒戦を乗り切った。
先次大戦の折、ソ連は連合国からほぼ1万4千機の戦闘機を、軍事援助として供給された。
その時は、1万機がアメリカから、約4千機がイギリスから供与された。
今回もまた、米国議会の同意の元、2500機が貸与されることとなった。
ソ連は、 また、労働党政権下の英国にも、支援を打診した。
「同機は輸出を目的としていない」という冷たい返事だった。
にもかかわらず、その後、ブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーションより、150機のトーネードADVが供与された。
近接密集戦闘を主眼に置くソ連では、装甲を軽量化し、機動性を向上させたトーネードは喜ばれなかった。
低空で、複雑な三次元機動をすると、簡単に失速し、きりもみ状態に陥ってしまった。
とはいえ、このイギリス機は、全体の勝利に貢献した。
それは、ソ連にとって開戦初期の戦術機の不足が深刻だったときの最も困難な時期に登場し、ソ連が持ちこたえるのに役立った。
赤軍のより進んだ改良型のソ連製「バラライカ」が納入され始めると、トーネードは、極東の国土防空軍にまとめて送られるようになった。
ユルゲンは、戦術機という兵器の成り立ち、ソ連及び東欧諸国への影響、そして今後の世界情勢に与える結果を考えていた。
長い時間、二人は立ったまま、抱き合っていた。
ユングは、かつてこれほどまでに、キスの洗礼を受けたことがなかった。
情報部員とは言っても、荒事をやる工作員ではなく、現地での公然非公然の資料を収集する情報将校である。
キスの味が、これほど甘美であることを知らなかった。
それだけに、ユングは狼狽し、彼女は時間の感覚を失った。
ユルゲンは、夢を見ている感覚だった。
しかし、彼が経験したことは、まぎれもない現実だった。
不思議なものである。
本来ならば、敵対する陣営の二人なのだが、今は憎しみも嫌悪感もすっかり忘れ去ってしまった。
あるのは、ドイツ統一をするという一つの目的に向かって、ひた走り、協力し合う関係になっていた。
ユルゲンは興奮し、息をつめて、ユングのブラウンの目を凝視した。
「奇麗な目の色だ」
嘘偽りない男の声は、28歳の女情報員に、沸々と湧き起こる官能を意識させた。
「いえ、嘘でしょう」
「本当さ」
若いだけあって、一旦決断をすれば、切り替えも早い。
ドイツ民族が求めてやまない、統一への道へ向けて、一気にひた走ることにした。
後書き
アリョーシャ・ユングは、原作6巻に出てくる、キルヒ・ホルスト基地(キルヒ・ホルステンの誤植。正確には近隣にあるビュッケブルク陸軍飛行場)に来たキルケを東ベルリンまで案内したスパイ組織の長です
バルク少佐の大学時代の同級生になります。
ご意見、ご感想お待ちしております。
隠然たる力 その2 (旧題:マライの純情)
前書き
秘事の結末がどうなるかといえば、こうなるとしか……
その頃、アイリスディーナは初級士官の課程として、人文・社会科学の講義を受けていた。
冷戦期は、19世紀以降の近代軍隊から変容の時期であった。
軍隊が戦争遂行の道具であるという一面的な認識は、すでに過去のものとなりつつあった。
そして急速な科学技術の発展は、そのことをより強めた。
将校に求められることは、高度な科学技術に基づく装備を運用する技術者という面も大きくなっていた。
従前の東ドイツ軍では、ソ連赤軍と同様に、厳格に定義された職務を遂行する人材が重要視された。
しかし、BETA戦争で各部隊を指揮する将校の自己裁量が求められる場面が増大した。
通信が途絶し、孤立した部隊をどう運用するか。
自ら問題解決を試行錯誤しなければならない場面が増えてきた為、自ら判断を組み立てることができる能力を育む人文科学教育のカリキュラムを大幅に追加することとなった。
ちなみに現在の米空軍では、学科教育の半分の時間を人文・社会科学に割り当てることが決められている。
午前の講義が終わったころ、アイリスディーナは戦闘団長室に呼ばれていた。
そこには、帝国陸軍の野戦服に身を包んだマサキが立っていた。
彼女の目には、どことなく気障に映った。
「き、木原さん……いつの間に来られたのですか」
驚きとも好奇心ともつかない声を出した彼女は、目を丸くした様子だった。
「せめて、事前に連絡でもくれれば……」
アイリスディーナとの半年ぶりの再会に、マサキも心躍った。
久しぶりに聞く「木原さん」という声が、マサキの鼓膜を心地よく震わせた。
「お前に逢いに来た」
突然のコットブス空軍基地訪問に、アイリスディーナは、まだ驚きを隠せないようだった。
マサキが目の前に現れたことを、信じられないようにつぶやく。
「どのような要件で……」
ある種の感動に包まれて、マサキの手を両手で覆った。
「午前の課業が終わったばかりなので、帰宅するはちょっと先になりますが、待っていてもらえますか。
家に帰ったら、ゆっくりお伺いします。
私の方からも重要な話がありますので……
昨日いただいたばかりの、南米のグァテマラ産の本物のコーヒーを入れましょう」
「その必要はない」
アイリスディーナの表情が、途端に曇った。
目の前にいる、責任者のハンニバル大尉をないがしろにする言動の為ばかりではない。
マサキが、自分の事を差し置いて、仕事を優先すると思ったからである。
「えっ!」
彼女もまた、若い現代の女であった。
私より仕事が大事なんだ……でも、それは仕方ない。
そう、考えた矢先である。
アイリスディーナの意図を察したマサキは、その手を握り返した。
「今すぐ、お前を、連れ出す許可を取りたい。
年頃の娘が帰りが遅くなるようでは、周囲も心配するからな」
「……」
彼女は、心の隅で申し訳ないという気持ちを抱きながら、羞じらいの笑みを浮かべた。
「俺とゼオライマーで遠乗りに出かけよう。今すぐにな……」
戦闘団長室の椅子に座るハンニバル大尉は、その場で二つ返事で快諾してくれた。
「同志ベルンハルト少尉、只今より12時間開放する」
本来ならば、前日の午前中までに提出せねばならないのだが、急な半休を調整してくれた様だった。
午前0時までの門限を決められて、外出を許されたアイリスディーナ。
彼女は、マサキと共に基地の外に出た。
ベルリンにあるボルツ老人の邸宅に場所を移して、マサキの土産話に花を咲かせた。
「先日まで、インドにいらしたと……」
本来ならば、そういう質問に答えないのが軍人の常である。
元々が民間人のマサキは、警戒心が甘かった。
「ちょっとばっかり、モルディブやセイロン(今日のスリランカ)に遊びに行っていた」
マサキは、日に焼けた頬へ微笑を浮べながら、
「一応、土産は何がいいかわからないから、適当に買ってきた。
バナナや、ダージリン、アッサム、セイロンの茶葉。
絨毯に、カシミヤのスカーフ……」
そういって、山積みになった段ボールから包み紙に包まれた物を取り出す。
包み紙にくるまれていたのは、インド原産の宝石や貴金属類であった。
それらを、無造作に机の上に並べながら、
「セイロンは、ルビーの原産地の一つでな……
お前の好みに合うかわからないが、民族衣装のサリーもあるぞ……気が向いたら着てくれ」
アイリスディーナは、瞬きもせずに、赤く頬を染めて、マサキを見上げている。
夢を見ている感じだ。
そんな表情だった。
「お忙しいところを……一番に……」
彼女は、瞳を震わせ、感極まって、打ち震えている。
思いがけない一言に、マサキは昂奮を覚えた。
「ああそうだ、お前の顔を拝んでみたくなったのさ」
おもむろにホープの箱を取り出して、タバコに火をつけると、こう切り出した。
「アイリス、重要な話とは何だ」
「実は……」
アイリスディーナの話はこうだった。
ユルゲンと一緒にいるマライが何やら重大な問題があるので、マサキの事を呼んでほしいという内容の電話を昨日受けたという事である。
マサキは、重要な話と聞いて、いくつかのパターンを類推した。
まず、ユルゲンに西側のスパイが接近したという事である。
駐在武官、外交官、大使館事務員を装ったスパイが虚実織り交ぜた怪情報をユルゲンに渡し、彼を自分たちの協力者にするというパターン。
次に、ユルゲンとマライの関係の変化である。
もっとも懸念されるのは、マライの妊娠である。
国家人民軍の任務とはいえ、夫婦としてアンダーカバーを装ううちに本当の夫婦同然になり、深い関係になった。
あるいは、出国前から深い関係なのかもしれないが、国外という事で羽目を外したことも考えられる。
家庭環境が、決して幸せとは言えない、ユルゲンとアイリスディーナの兄妹だ。
今回の問題も決着の付け方によっては、全員が不幸になる。
ユルゲンやアイリスディーナはおろか、一方の当事者であるマライ。
そしてユルゲンの妻であるベアトリクス……
救いはユルゲンとの間にすでに一子がいる事か……
ベアトリクスの妻としての立場はゆるぎないし、問題はないと思うが……
ただ彼女は、文化的に妻妾を設ける東洋人でもないし、一夫多妻制を許容する第三世界人ではない。
どう諭すか、これも考え物だな……
マライもマライで、自分の子供は愛しかろう……
好んで自らの体に宿った生命に手をかける女はいない……
少なくとも、彼女に関してはそう信じたい。
海外出張で、単身赴任中の夫が男女の過ちを犯すというのは、よくあるパターンだ。
せめてもの救いは、同国人同士という事か……
最後に考えられるのは、ユルゲン自身が米政府に出奔する用意をみせるという事である。
しかし、これは考えづらい。
東ドイツ政府はすでにベアトリクスとユルゲンの息子という人質を抱えている。
元の世界で、1976年に函館に亡命したソ連防空軍のベレンコ中尉という人物がいた。
彼の場合は、母親が継母で、妻との間は疎遠で、子供もなかった。
亡命するにしても、ユルゲンとベレンコ中尉では環境が違い過ぎる。
ユルゲンの母は離婚したとはいえ、彼の事を気遣っているし、ベアトリクスとの結婚も長い恋愛の末だった。
順当な手続きを踏んで結婚もしたし、子供も一人とはいえ、いる。
子は鎹という言葉があるように、ユルゲンとベアトリクスの仲は、そう簡単には切れるものではない。
おそらく、最後のパターンではないはずだ。
あと考えられる最悪のパターンは、ユルゲンが西側の諜報員に接触を受けたのと、マライが妊娠が判明したのが、同時期に起きた可能性だ。
これは、ありえなくはない。
避妊をしていない20代の夫婦の妊孕率というのは1年で80パーセント、2年で90パーセントだからだ。
マライの年齢が、いくつか知らない。
だが、ユルゲンと同い年、あるいは2・3歳上だとすると、その可能性は排除できない。
思えば、アイリスディーナは、不遇な人生を辿った娘だ。
父がアルコール中毒、母が家庭を捨てて、間男に走った。
幼少期から、家族の愛に飢え、団欒を知らず、寂しい思い出しかなかったのではないか。
5歳年上の兄、ユルゲンがいなければ……、こんなに優しく、清楚には育つこともなかったであろう。
大概、このような崩壊家庭に育った少女というのは、生の実感が乏しく、自傷行為に走りがちだ。
リストカット、薬物の過剰摂取、不純異性交遊……
男でも脱落する戦術機の衛士勤務も、ある種の自傷行為とも受け取れる。
母メルセデスの事を反面教師としての、非常に強い信仰心と貞操観念も同じだ。
ここで、ユルゲンという彼女の精神の支えに何か不都合が起きれば……
このまま、軍隊にのめり込んで、家庭の幸せや、女としての生活を捨ててしまうのではないか。
そんな薄幸の美少女を、救ってやりたい……
この時、マサキは、アイリスディーナに対して、男としての強い欲望を感じた。
マサキが紫煙を燻らせながら、悶々と思いあぐねてる時である。
何気なくアイリスディーナの顔に目線を移した。
アイリスディーナが見つめていた。
「どうか、木原さん、兄さんやマライさんを救ってあげてください……
どのような事になっているか、わかりませんが……」
いつもの優しい声がしたが、マサキは視線を外すことも、身動きすらも出来なかった。
マサキは商人服に着替えると、その日の内に、ニューヨークに飛んだ。
アイリスディーナの話を総合すれば、ニューヨークにいるユルゲンに何かあったらしいことが判明した。
どんな内容の事か、誰と接触したかは、現地を調べてみないとわからない……
ニューヨークの日本総領事館を頼るしかないのか……
そう考えている時である。
現地時間の15時前に、涼宮総一郎から、連絡があった。
彼は、コロンビア大学の留学生で、マサキの護衛を務める白銀と懇意にしている間柄だった。
「木原先生、ベルンハルト大尉の奥さんの事を知りませんか」
この話を聞いたとき、マサキはキツネにつままれた感覚に陥った。
ユルゲンの妻、ベアトリクスは、今、産休でベルリン郊外の実家にいるはずだ。
そんな判り切ったことを、なぜというのが第一印象だった。
しかし、詳しく聞いてみると、涼宮の言う妻というのはマライの事を指し示いるらしいことが分かった。
どうやら、留学中にマライを自分の妻として周囲に紹介していたらしい。
そのことが、この誤解の原因だった。
マサキは、マライの姿が見えなくなったことを恐れた。
まさか、誘拐事件ではあるまいか。
散々、ソ連や東側諸国の誘拐事件を経験してきた彼は、第一番にそのことが頭に浮かんだ。
FBIとニューヨーク市警に連絡を入れた後、美久や白銀と手分けして、ニューヨークの街中を探すことにしたのだ。
時は1979年。
この時代は、携帯電話もポケットベルもない時代である。
捜索には困難を極めると思ったが、偶然立ち寄ったセントラルパーク内の動物園にいる所で彼女と再会した。
「よお、マライ、久しぶりだな」
背中を向けていたマライに後ろから声をかけた直後、いつもとは違う空気が流れていることに気が付いた。
「どうして……」
東ベルリンならともかく、ニューヨークに降ってわいたように現れたマサキの事を不思議そうに見つめていた。
無言のまま、マサキはマライの前に立っていた。
直後、マライはしゃがみ込んでしまう始末だった。
マサキは抱え起こした。
しかし、完全に力をなくした女の体は、意外と重い。
「どうした」
耳元でささやくと、やっとマサキに縋り付いて、マライは立ち上がった。
「こんなところでへこたれてどうする。ニューヨークの夜は冷える……そんな薄着では凍え死ぬぞ」
マライの支度は、ベージュの薄手のプルオーバーセーターに、リーバイスのジーンズ。
日没になれば氷点下近くまで気温が下がる、短いニューヨークの春に向かない格好であった。
「それで良いの……もう死にたいわ」
あながち冗談ではなさそうだ。
マサキは、ますます何かあると感じたが、そんな素振りは見せず、着ていた濃紺のローデンコートをマライの背中にかけてやった。
「そいつは構わないが、死ぬ前に何があったか、詳しく教えてくれないか」
そんな会話を交わしながら、マライを支えて、セントラルパークの近くにあるホテルに向かった。
マライの話は、思ったより深刻なものであった。
米国務省主催のレセプションに参加したユルゲンに、西ドイツ領事館職員を名乗る怪しげな女が近づいた。
そこで女は、ユルゲンに戦術機に関する機密情報を提供し、その見返りに西ドイツの協力者になれと迫ったというのだ。
マライはそのことを物陰で漏らさず聞いていたが、ユルゲンには問いたださなかった。
ふとマサキは思慮に返って、しばらくは沈黙していた。
マライの様子を見極めながら、マサキは口を開いた。
「フフフ、なんだそんな事か……それくらいなら、俺がどうにかしてやるよ」
マサキは言葉を切り、タバコに火をつける。
「てっきり、ユルゲンが……お前の事を孕ませたのかと思ったが……」
それにしても、孕ませたという言葉を聞いたマライの驚きは大きかった。
思いがけない言葉に愕然とした。
この男は、どこまで知っているのだろう。
この時、初めて、マライはマサキに恐怖に似た感情を覚えた。
「奇麗ごとを並べ立ててても仕方があるまい。
真実をさらけ出した方が、かえってすっきりとすることもある」
マライは、外人であるマサキに、自分とユルゲンとの関係を話しても、詮方ない事ではないか。
その様に諦めていた。
彼女は、妊娠している事実を何の感慨もなく、他人事のように受け止めていた。
驚き、慌てるどころか、ひどく冷静で、まるで軽い風邪に掛かった様な受け取り方であった。
なかば唖然とするマライの両手を、マサキは強く握った。
「お前はユルゲンの女だ、つまりはアイリスの身内という事だ。
遠慮はいらん。なんならお前の事を助けてやってもいい」
「貴方には、関係のない事でしょう!」
マライは、マサキの手を邪険に振り払うと、いつになく声を強張らせていった。
彼女は、マサキの顔を見れないまま、目を閉じた。
「今の反応を見ると、図星の様だな」
その言葉は質問というよりも、マサキの独り言の様だった。
「お前とユルゲンに何があったが知らんし、聞きたくもないが、お前に今、死なれては困るのだ」
マライは、つき上げられたように胸をおこした。
その顔は、能面より白かった。
マサキは、そのとき見た。
彼女の顔が、涙に洗われている。
「えっ」
マサキは、あらぬ方に視線を泳がせていた。
この男は、何を考えているのだろう。
マライは、東洋人の瞳の中に、無限の哀しみを見たような感じがした。
今までに、一度も見せたこともない色だった。
「詳しいスパイの情報や、内容を聞いていないからな……
それに、今お前が抱えているのは、ユルゲンの子だろう……」
「ええ、そうよ……」
マライの忍び泣くような声が、聞こえた。
「そうすると、アイリスの大事な甥になる……アイリスは俺の女だ、つまりは俺の甥にもなるってことさ」
静謐を破るような嗚咽が、聞こえた。
マライの、烈しいこらえ泣きであったのだ。
その悲泣は、見るにも堪えない。
マサキは、その逞しい体を馴れ馴れと、すり寄せて、彼女の背をなでるのだった。
「とりあえず、今回の件が決着がつくまで、お前とお前の子供の命を預からせてくれないか。
ユルゲンに近づいた、すべた女は、俺が調べて、懲らしめてやるよ」
西ドイツのスパイが、ユルゲンに接触した。
この大きな秘密を知ったことは、何かの役に立てそうな気がした。
東西ドイツ両国にも、政治的スキャンダルとして、なにか利用できるのではないか。
マサキは、初めて悪魔的な笑みを浮かべるのであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
隠然たる力 その3
前書き
つらつら書いていたら、軽く2万字を超えてしまいました。
読みづらいでしょうし、長いのも考え物なので、今回は2回に割り振って投稿することにしました。
昨年の夏に、種子島から打ち上げられた、国産の液体燃料ロケット、N-1ロケット。
マクドネル・ダグラス製のデルタロケットの技術提供を受けた、このロケットに搭載された火星探査衛星。
八か月かけて火星に近づいた衛星から送られてきた写真と各種資料。
それらに目を通しながら、マサキは別な事を考えていた。
彼の関心は、火星に群生するBETA、約1億2500万匹ではなかった。
マライが明かした秘密――戦術機のコンピュータに米国が細工をした話――だった。
彼女は、ユルゲンと西ドイツの女スパイの話を残さず、聞いていた。
盗み聞きした内容の全てを、マサキに包み隠さず、教えたのであった。
マライの話は、こうだった。
戦術機の管制ユニット――戦闘機でいうところの操縦席――に搭載された内臓コンピューターに、秘密の仕掛けがしてある。
管制ユニットは、米国企業・マーキン・ベルガーの一社による独占特許だ。
(マーキン・ベルガーは、現実世界の英国企業、マーティン=ベイカー・エアクラフトに相当する)
戦術機の操縦方法の中核を担う、間接思考制御とされる装置。
この装置は、操縦者の思考や反応を読み取って、搭載するコンピュータに情報を帰還させる物である。
パイロットが着用した強化装備を通じて、個人の生体情報や操縦記録がコンピュータに蓄積される。
数値化された生体情報によって、機体の操縦に影響するという特殊な仕組みである。
つまり、簡単に言えば、搭載されたコンピューターでロボットの手足を動かすという方法ではなく、人間の思考を間接的に利用して、ロボットを操縦する仕組みである。
故に、間接思考制御と呼ばれるのだ。
非常に複雑で、特殊な電子機器を用いる為、高度な生産設備と素材が必要となった。
その為に、主要先進国以外では、管制ユニットに関しては、完全な輸入に頼った。
レンドリースの関係もあって、ソ連ではライセンス生産はしなかったようだ。
ユルゲンの話を勘案すると、東ドイツでも管制ユニットのみは、直輸入に頼っていたという。
その他の国も同じであろう。
今までの話を総合すれば、戦術機とそれに対応したスーパーコンピューターは、米国内にあるサーバーとリンクしている。
搭乗者のバイタルデータや、戦術機のガンカメラからの画像が、即座にワシントンやニューヨークにあるデータセンターに情報が伝達される。
しかし、ソ連がよくそんなものを認めたという事だった。
全く知らないのか、政治的裏取引の結果か……
これは、今回の調査の後にでも、調べよう。
マサキは、米国がスパイウエアを仕掛けたという、今回のマライの話を聞いて、思い当たる節があった。
それは、ほかならぬマサキ自身が、前世において、全世界に仕掛けた陰謀によく似ていたからである。
前の世界で、マサキは鉄甲龍の表の団体として、国際電脳という電子機器メーカーを作った。
その主な販売先は、日米を始めとする西側諸国、中共、中南米。
事業規模は、原子力発電所、気象観測用の人工衛星、固定式核ミサイルサイロへの電子部品の提供である。
秘密裏に、全世界の七割をも影響下に置く、情報ネットワークシステムを構築した。
だが、鉄甲龍の首領、幽羅の世界征服を望む陰謀により、ことごとく破壊されてしまった。
ハイヴから回収した希少資源や金塊は、いずれにせよ、枯渇するだろう。
前の世界で、電子部品を売って、半永続的な軍事費を得た国際電脳。
この世界でも、今一度作り直すか。
マサキは、紫煙を燻らせながら、昔日の夢を一人思い返すのであった。
マサキはロボット工学の専門家であるが、有人機動ユニットから発展した戦術機に関しては、ずぶの素人だった。
そこで、専門家に頼ることにした。
マサキがまず頼ったのは、サンダーボルトA-10の設計技師だったピエール・スプレイ。
米空軍長官の信任厚い彼の下に、涼宮を派遣し、それとなく今回の件を尋ねてみたのだ。
「私の作ったサンダーボルトの評判は、どうですか」
「日本政府としては、この戦術機に改良の余地があると考えて、手を入れているのですが……
どうも今一つなのです。
もしかして、ソフトウエアに重大な謎が……」
半ば疑うように、男は涼宮の顔を、やや暫し見まもっていた。
突然、声を上ずらせて、身を前へにじり寄せた。
「どこで、今回の件をお聴きなさった」
「先日、マンハッタン界隈であった国際会合で、小耳に……」
博士は、涼宮のその言葉を聞いた瞬間、持っていたウイスキーのグラスを落とした。
「では、スプレイ博士、我々の情報解析に協力してくれますな」
「とてもとても、私には荷が勝ちすぎます。
それに、米空軍からの契約を抱えていますし……」
スプレイ博士の断りの言葉を聞いた涼宮は、とたんに困惑の色を示した。
「じゃあ、誰が良いのですか、優秀な方を紹介してくれませんか」
博士は、新しいグラスに注いだロック割のウイスキーを呷る。
しばし思案した後、重い口を開いた。
「イタリアの、ジアコーザ博士。
ミラ・ブリッジス女史は……彼女は、この前、グラナンから寿退社したか……
それに、もう一人、ソ連のアントン・スフォーニ……
あ、ソ連は、対象外でしたな……」
言葉を切ると、男はタバコに火をつけた。
「となると、残る一人は、グラナンのフランク・ハイネマン」
「な!」
涼宮は、人形のように立ち尽くした。
ハイネマン博士といえば、戦術機を一切知らない涼宮でも、知っているほどの著名人。
例の一件で、篁祐唯中尉とミラ・ブリッジスを巡って、鍔迫り合いを演じた人物と聞き及んでいる。
日本政府や各種メーカーも、直言を憚らない、彼の事を嫌がるであろう。
それに、マサキが、どう思うかだ。
男女の三角関係を非常に嫌うほど、女性関係に潔癖で、清廉な人物とも聞く。
正直なところ、涼宮は、気が重かった。
スプレイ博士と会った涼宮は、詳しい事情をマサキたちに話した。
「ジアコーザ博士は、フィアット自動車お抱えの設計技師です。
自動車開発の技術部長を務めてらっしゃりますから、急な依頼は無理でしょう。
篁夫人のミラさんは、いま臨月でお答えできる状態じゃありません」
マサキが、眉を顰めた。
射るような視線で、涼宮の顔を見つめる。
「となると、技術者は一人しかいません。
グラナンのフランク・ハイネマン……」
途端に、マサキは嚇怒の色を示した。
彼は、ハイネマンという人物を一語の下に否定した。
「駄目だ!
奴は、篁との件で、日本によからぬ感情をいだいている節している」
それまで、黙っていた白銀が初めて言葉を出した。
マサキの顔色を、うかがうような口調だった。
「しかしですがぁ、木原先生。
色恋沙汰は、後からいくらでも決着をつけることが出来ます。
西ドイツ側に感づかれる前に、技術解析を頼むのは、今しかできません」
白銀は、やや機嫌を損ねたように口元をゆがめる。
彼の表情を見たマサキは、ふとため息をもらしった。
「ほ、他の奴を探すんだ」
「相手は、諜報関係に関して百戦錬磨のゲーレン機関です。
ソ連の脅威を誇張し、米国を煽って、西ドイツの再軍備をすすめた連中です。
手ごわい相手になるでしょう……」
白銀は、ため息交じりに言った。
マサキの顔には、諦めの色が浮かぶ。
「こいつは困った。
チェコの技術チームに頼むか……」
「……」
白銀は、うな垂れていたが、やがて神妙に答えた。
「もしよろしければ、僕の方で、フランスにそれとなく接触して見ます。
ベトナムやラオスでの経験上、フランスとはコネクションがありますので……」
白銀の言葉に、マサキは驚いたように顔をあげた。
闇夜の中から、一条の光が差し込んだような気持であった。
「本当か……」
「この際、フランス企業のダッソーに、力添えを頼むのはどうです?
第一線を退いた方とはいえ、ダッソー会長なら、航空業界に明るいはずです」
マサキは疑ったが、事実、白銀の瞳は、涼やかであった。
「分かったよ……フランス関係はお前に任せる」
こうして、マサキ達は、戦術機の管制ユニットの解析を、フランスとチェコに任せることにしたのだった。
後書き
「マライの純情」という挑戦的な題名にしたら、一気にアクセス数減りました。
まあ、くどいような恋愛描写かなと読者様が引いたんでしょうね……
剣戟を振るう熱戦と違って、諜報戦は人気がねえな……
ご感想、ご意見、お待ちしてます。
隠然たる力 その4
前書き
昨日のつづきになります。
本当は来週に投稿するつもりでしたが、あまり時間を空けると読者様も内容を忘れますし、熱量も下がります。
なので、今回は土日連続での投稿にしました。
春分の日に投稿出来なかった分と、お考えいただければ幸いです。
マサキの命を受けた白銀は、一路ニューヨークからパリに飛んだ。
フランスを代表する軍需エレクトロニクス企業、サジェム社の関係者に逢うためである。
白銀はサジェムやダッソーの社長との懇談にあたって、仲介役としてフランスの首相を頼った。
件の人物は、知日派として知られ、相撲や歌舞伎、古典に造詣が深い人物であった。
ある時、大統領が博物館での日本展にに出向いた際、土偶と埴輪の違いを熱心に説明した。
そのような日本文化への理解が非常に高い事を、外交界隈では知らぬ人がいないほどであった。
また、彼には、日本国内に没落した武家の若い女性を、囲って、妾にしていた。
妾との間に出来た二人の隠し子は、日本人として暮らしており、日仏間の公然の秘密だった。
フランスは、王侯貴族や政治家の愛人に関しては問題視されなかった。
対岸の英国や新教徒の多い米国と違って、公人の私生活にはマスメディアは関心を持たなかった。
公金横領ならばともかく、他人の個人情報を探れば、自分の痛くもない腹を探られる恐れがある。
そういう事から、フランスのマスメディアは愛人問題に口を突っ込まなかった。
フランスは、12世紀に生まれた騎士道恋愛物語を中心とした不倫を公然と認める文化が栄えた場所である。
一例をあげれば、太陽王ルイ14世や、皇帝ナポレオン1世、ミッテラン大統領など。
近代になってからも、多数の愛人を抱えた権力者は、比較的多かった。
そういう文化圏なので、男性の方は、気に入った相手が人妻であろうが、未婚の生娘であろうが、お構いなしに声をかけた。
口説かれる女性の方も、相手が美丈夫や金満家であれば、また喜んで、公然と愛人になったりもした。
公職にあるものは、公的な援助をせず、また離婚さえしなければ、複数の異性と恋愛関係になるのは個人の自由。
その様な生き方も、また良し、とされる中世以来の気風が残っていた。
白銀は、マサキの作戦を行うにあたって、仏首相の妾が書いた手紙を持参して、首相の下に出向いた。
実は御剣からの公的な手紙を用意する案もあった。
だが、外交上の話し合いになると、色々今回の件は不味い。
それ故に、首相の個人的な件で、白銀が会いに行く。
一切の、公的な記録が残らない形を取ったのだ。
白銀から手紙を受け取った首相は、妾の手紙を何度も目を通した後、
「一体、どこで、どのような経緯でお知りになられたのですか」
と、マサキの明かした話を信じていない様子だった。
「ムッシュ白銀。今回の話は、本当なのですか。
しかし、米国と西ドイツが絡んでいるとなると、話は別です」
首相はフランスの政治家として、西ドイツの国力を恐れていた。
10年前の1969年当時で、西ドイツの人口は、5870万人。
これは、フランスの5032万、イタリアの5317万や英国の5553万とほぼ同数か、それ以上であった。
統一ドイツの出現は、欧州の各国間の均衡を崩しかねない。
西欧諸国やソ連、或いは東欧と足並みをそろえて、ドイツの影響力を抑えてきた政策が水泡に帰してしまう。
そんな懸念を、首相に擁かせる様な、内容の話でもあった。
白銀も、首相の警戒心をうまく利用した。
西ドイツの対マサキ工作を実態以上に大きく説明し、彼の関心を誘ったのだ。
キルケの祖父・シュタインホフ将軍と西ドイツ軍が企んだ計画などを、針小棒大に話した
マサキは、罠にはめられて、シュタインホフ将軍の孫娘との結婚の間際まで行ったように伝えたりもした。
首相は、一頻り思案した後、ダッソーとサジェムの関係者を白銀に引き合わすことを約束してくれた。
かくして、マサキは労せずして、フランスの軍産複合体との関係を持つこととなったのだ。
一方、その頃。
西ドイツの連邦情報局では、なにやら秘密の会合が開かれていた。
「いいかね、我らの目的は一つなんだ、それ以上の事を望むんじゃない。
目的を遂げたら、対象者との関係をうまく持続させるんだ。
どんな手段を用いてもいいが、派出所に駆け込まれるような事は避けろ。
そうさせないのが、腕の見せ所だな」
「長官……」
20代後半と思われる最年少者のユングが、先ほどから話し続ける上品な顔立ちの四十がらみの男の言葉を遮った。
「なんだ?」
「我々の仕事は、そこで終わりですか」
「おそらくな」
そこに、英国留学中のヤウクと接触したバルク大尉が駆け込んできた。
「副長のヨーク・ヤウクにあって参りました」
「感触は……」
「上手く行きそうです」
「では、今日の会合は解散だ」
首相府外局の情報局を監督する首相府長官(官房長官に相当)は、間もなく情報局を後にする。
ボンの情報局を出た車は、そのままケルンに向かい、郊外にある植物園へと入っていった。
長官は、その植物園で待っていた男と、野外にある庭園を歩きながら、密議を交わしていた。
その男は、連邦軍や情報関係者から閣下と呼ばれている老人で、旧国防軍の高級将校だった。
「そうか……
シュトラハヴィッツの一派と同盟を……行くところまで行くかね!!」
「はい……」
老人は、ホンブルグに漆黒のローデンコートという春先には似合わない格好であった。
「そうか……」
老人は天を仰いだ。
「諜報の世界だけではなく……このドイツ民族が再び動く時が来たのかもしれない」
長官は、男の言葉に驚きと焦りの色を見せる。
「ドイツ民族が……」
「強く大きくなれば、前に立ち塞がる壁も、また大きく、強靭になる。
もう逃げて、許してもらえる小国ではない……
このドイツにも、大きな変化が必要な時が来たのだよ……」
老人の言葉は、この時代にあっては非常に危険視される物であった。
米ソの二大国は、かつての帝政ドイツや第三帝国の事を心より畏れた。
再びビスマルクやヒトラーのような傑物が現れれば、ドイツは一つにまとまる。
そして、我らの前に立ち塞がるであろう……
畏れを抱いたのは、米ソばかりではない。
第一次大戦で数多くの成年人口を失ったフランスや、イギリスも同じであった。
ドイツ再統一という老人の言葉は、彼らから危険視されるのには十分だった。
ここで、史実の世界はどうであったかを、簡単に振り返ってみたい。
英仏が、統一ドイツに対してどう考えていたかを、である。
先ごろ公開された、1990年のフランス政府の外交電報によれば。
1990年当時の首相だったサッチャーは、同年3月、フランスの駐英大使にこう語ったとされる。
「フランスと英国は、手を取り合って新しいドイツの脅威に向かうべきだ」
そして、こうも述べたともいう。
「ヘルムート・コールは、別人になってしまった。
彼は、もはや自分というものを知らない。
彼は自分を『マスター』と勘違いし、支配者であるかのように振る舞い始めている」
またサッチャーは、敵国ソ連のゴルバチョフに対しても、次のように語った。
当時のゴルバチョフの立場は、東独にかける費用がソ連経済を圧迫していたので、統一ドイツを容認していた。
「英国も西欧もドイツの再統一を望んではいない。
戦後の勢力地図が変わってしまうことは、容認できない。
そんなことが起こったら、国際社会全体の安定が損なわれてしまうし、我々の安全保障を危うくする可能性がある」
サッチャーは、敵国ソ連をして西ドイツの勢力拡大を阻止しようとさえ企んでいたのだ。
フランスのミッテランも同じであった。
ミッテランは、1990年1月にパリで行われた夕食会で、サッチャーに次のように漏らしたとされる。
「統一ドイツは、アドルフ・ヒトラー以上の力を持つかもしれない」
後に、ミッテランは、自分の側近をソ連に派遣し、ソ連の統一ドイツに対する姿勢を非難するほどであった。
統一ドイツを阻止できなかったことを反省してであろう。
ミッテランは、自分の最側近を欧州復興開発銀行総裁の地位に潜り込ませ、東欧の経済を牛耳ろうとした。
視点を再び、異星起源種が暴れまわる世界に移したい。
我々の世界と違う歴史を進む、この異世界でも英仏の態度は同様であった。
この異界では、先次大戦において連合国は、ベルリンに4発の原子爆弾を投下した。
どのような理由かは、実は不明である。
本来の原爆投下予定であった日本が、1944年に米国との講和条約を結んだため、作戦が中止になった。
このままでは、新型兵器の市街地での実験が出来なくなる……
そのことを恐れた、トルーマン大統領が決めたという説。
あるいは戦後を見据えて、東欧を支配下に置きつつあるソ連を牽制するために、ベルリンに原爆投下したという説が一般的であった。
いずれにせよ、ドイツは核爆弾4発の為に、政府機能が消滅。
終戦間際で、第三帝国が崩壊し、なし崩し的に占領軍の直接統治を受け入れることになったのだ。
政府のない国の国民の末路は、最悪だった。
勝者たる連合軍のほしいままにされ、あらゆる恥辱を受け入れざるを得なかった。
これ以上の事は、今回の趣旨から外れるので、別な機会を設けて話をしたいと思う。
場面は変わって、西ドイツの臨時首都・ボン。
ユルゲン・ベルンハルトと接触した西ドイツの女スパイは、ぼんやりと空を眺めていた。
ボン市内にあるカフェテリアで、アリョーシャ・ユングは、思い悩んでいた。
それは、ドイツ国家の将来ではない。
ふと、ユングの脳裏に浮かぶのは、一瞬の出来事。
忘れようとしても、勝手に思い浮かんでくる。
彼女は、白皙の美貌をたたえた好青年に、魅了されていた。
何をやっても集中できず、思い浮かぶのは、例の美丈夫の事ばかり。
今の自分は、情報部員としての職責を果たしていない。
こんなことではいけないと思いながら、ぼんやりとしてしまう。
ユルゲン・ベルンハルト大尉か……
ユングはユルゲンの顔を思い浮かべながら、ふとため息をついた。
それは官能と情熱のため息であった。
ユングは、今まで世の男たちに、雰囲気があるなどと思ったことはない。
西ドイツ官界の若い官僚たちの中には、美顔で仕事のできる人間は大勢いた。
仕事がら参加した政財界のパーティーの中にも、素敵だなと思える人物はいた。
しかし誰一人として、ユルゲンの持っているような雰囲気の人物は、いなかった。
ベルンハルト大尉は、確かにハンサムだけど、それだけじゃない。
なにか、特別なものを、あの青年将校はを持っている。
ユングは頭を振って、窓から見える空を見上げた。
なぜ、こんなにユルゲンの事を思い、ため息などをついたのだろう……
やはりおかしい。
だけど、それだけでは割り切れない感情が、自分を支配している。
どんな理由があるにしろ、積極工作の対象者に諜報員が惚れこんでいい理由があるわけがない。
そこでまた、胸の内側にもやもやとした感情が広がっていく。
本当にそれでいいのだろうか。
たとえば、二人が軍人と諜報部員という立場を超えて、惹かれ合ったのならば……
ユングは混乱していた。
これは、運命的な出会いかもしれない。
胸をかきむしられるような痛みだった。
彼女は、その痛みさえもどこから来るものか、理解できなかった。
米ソ対立という冷戦構造化で、東西に分割されたドイツ国家。
双方の国民の多くは、統一を望んでいたし、また東側のSEDも、西側のSPDも統一を理念に掲げていた。
だが統一という夢は、実のところ、同床異夢であった。
SEDの望んだ統一は、社会主義による統一ドイツであり、統制経済をそのまま存続させることであった。
SPDの望んだ統一は、西ドイツによる併合で、最終的に欧州における経済超大国を作り上げることであった。
また米ソの狙いも違った。
米国は、統一ドイツをNATOの一構造として、巻き込み、対ソ防衛権の一翼を担わせる心づもりであった。
他方、ソ連は、統一ドイツの非武装中立化を望んでいた。
ドイツを管理する4大強国の狙いは、全く違うものであった。
米ソの狙いは、最初から統一ドイツの存在を両勢力の緩衝地帯にすることであった。
英仏の狙いは、分割に乗じて、二度と統一ドイツという存在を復活させないことであった。
すでに1970年代後半から人口減少期に入り、少子高齢化の始まっていた西ドイツ。
彼等は、移民労働者を入れなければ、その経済規模も、人口規模も維持できないところになっていた。
東独も、既にその傾向は見え始めていた。
だが、出産を奨励する制度や母子家庭への援助で、何とか人口数を1600万に維持していた。
英仏の狙いとしては、西ドイツを今のままにしておけば、いずれ人口減に陥り、欧州の責任ある立場は果たせなくなるという考えであった。
特にフランスなどは、西ドイツ憎しのあまり、飛ぶ鳥を落とす勢いで経済復興を成し遂げ、世界のGDP2位になった日本を擁護するような姿勢さえ、みせることもあった。
もちろん、日仏間での諍いはなかったわけではない。
先次大戦での仏印進駐の経緯は、講和条約の際にもめる原因となった。
だが、それ以上に、ドイツ国家の拡大を心から畏れたのだ。
故に、マサキの今回の提案を、仏首相は快く受け入れた節があった。
異世界に天のゼオライマーという超マシンを駆って、颯爽と現れた木原マサキ。
彼もまた、ユルゲンと同じように、望まざる国際政治の世界に巻き込まれることとなってしまったのだ。
後書き
マブラヴ世界お約束の恋愛原子核の回。
個人的にはユルゲンも恋愛原子核あったと思います。
難攻不落のベアトリクスを一目ぼれで、撃沈させていますから……
連載初期の心意気に戻って、東西ドイツを巡る各国間の話にしました。
小難しい政治の話が、今回は多くなってしまったと思います。
ご意見、ご感想、リクエスト等ございましたら、コメント欄に一言ください。
時期的に忙しくて、十分なコメントをお返しできませんが、すべて意見は拝読させていただいております。
権謀術数 その1
前書き
F‐14関連の話です。
季節は既に、初夏に向かっていた。
10月の月面降下作戦まで残すところ、三ヵ月となっていた。
場面は変わって、米国東部最大の都・ニューヨーク。
マンハッタン島にある摩天楼の一つで、今まさに密議が行われていた。
「対人戦を念頭に置いた戦術機だと……」
黒縁の眼鏡をかけ、濃紺の三つ揃えのスーツに身を包んだ男が、周囲のものに訊ねた。
「はい、副大統領。
これは今、先進戦術機という計画が国防総省内部の研究グループで持ち上がっていまして……
ロックウィードやノースロップに新型機を作らせ、5年以内に試験機を、10年以内には実戦配備をしたいと考えております」
国防長官の言葉を遮るように、男は幾分怒気を含んだ言葉で返す。
「待ちたまえ、先の閣外での協議では、合衆国政府は対BETA戦に関してはG元素爆弾のみで行くという案が決定したばかりだ。
舌の根の乾かぬ内に、戦術機というオモチャに、国家予算は出せん。
第一、議会の大多数も裏工作で、G元素爆弾推進に舵を切っている……
それを、いまさら君たちの都合で……」
米国では、月面降下作戦を前に、大規模な軍事方針の転換が打ち出されていた。
東側を含む、最前線国家への軍事支援の停止である。
それまで、米国は武器供与の一環として、マクドネル社のF-4ファントムの特許を公開していた。
ノースロップから世界各国に、F‐5フリーダムファイターの提供も進めていた。
しかし、1978年の中間選挙の結果によって、上院の過半数が野党である共和党に議席を奪われた。
政府が民主党、議会が共和党のねじれた状態になり、増大する連邦予算へのメスが入ることとなった。
国民は1963年のベトナム介入以降、長らく続く戦争にうんざりし、連邦政府の方針を否定するようになった。
膨大する軍事費と削減される民生予算。
国民健康保険のないこの国で、貧民層の最後の救いの手とされる無料食品引換券。
非常時という事で切り捨てられた。
また傷痍軍人の扱いも、ひどかった。
BETA戦争に参加した兵士はおろか、ベトナム戦争や朝鮮戦争どころか、第二次大戦の復員兵にすら、恩給の支払いは微々たるものであった。
月48ドル、20日の労働として割れば、一日2ドル40セントの恩給は、彼らの受けた被害に対しては安すぎた。
ニューヨークやロスアンゼルスの街中で、軍服姿で乞食行為をする傷痍軍人などが現れるほどであった。
早くから、社会問題視されてはいたが、連邦政府は各州ごとの自治を理由に州政府に丸投げした。
傷痍軍人や復員兵を見る社会の目も、また冷たかった。
彼等はベトナム戦争での反戦運動のせいか、定職にすらつけず、一般社会になじめなかった。
下士官兵は言うに及ばず、高級士官、パイロットですら、タクシーの車夫をするほど零落した。
恩給で生活する復員兵の事を、世人はニコヨンとよんで蔑むほどであった。
ニコヨンとは、2ドル40セントの事で、ドル紙幣2個と10セント硬貨四つから出た言葉であった。
そんな厭戦的な風潮である。
戦術機産業に関わる人物は、人殺しの道具を作る人間と陰ながら揶揄され、技師たちも開戦当初の熱意が失われ始めていた。
この米国の世論変化の影響をもろに受けたのが、ハイネマン博士であった。
彼は、F‐14の後継機となる戦術機開発に邁進していたのだが、折からのねじれ国会の影響をもろに受けた。
議会は新規戦術機の配備数を、3000機から250機にまで減らすように提案し、その予算案が上院を通過した。
これにより、ハイネマン博士が望んだ道は、絶たれることとなったのだ。
議会の方針を政権側が受け入れたのは、国内対策ばかりではなかった。
既に、米国政府としてはG元素爆弾の配備による、新たな国際秩序の形成を秘密目標としていたのだ。
米国一国による世界支配体制を維持する存在としての核戦力は、その意義を急速に失われつつあった。
ソ連の諜報活動と、核物質を扱う国際金融資本家の策略によって、全世界にそのノウハウが流出してしまった為である。
米・英・仏・ソ・中共の常任理事国ばかりではなく、南アジアの大国・印パ。
ユダヤ人国家イスラエルや、最近では南アでも核の研究が始まっている。
そして、一番の原因は、天のゼオライマーという存在であった。
無限のエネルギーを、異次元より供給する次元連結システムと、それを最大出力で放つメイオウ攻撃。
核を凌駕し、惑星一つさえ軽々と消し去る、この超マシンの存在を、彼らは身震いした。
日本の一科学者が作ったマシンによって、この東西冷戦の構造は簡単に消え去るであろう。
異次元の力をつぶすには、異次元の力のみだ。
そういう事で、強力な重力偏重を起こすG元素爆弾の配備を急ぐことにしたのだ。
一頻り悩む副大統領に、声をかけるものがあった。
彼の弟で、石油財閥の当主であった。
「ハハハハ、兄さん、これはわたくしたち財界の都合なのです」
彼は、副大統領はあしらって、
「現在、我々の仲間が、韓国や台湾といった西側後進国に、格安で半導体の製造装置を販売をしている。
その事を、ご存じですね」
「ああ。欧州や日本に対抗するために、輸入規制の法案も準備したからな……」
「近いうちに、新型コンピュータと連動した高性能のソフトウエアが完成します」
国防長官は、ちらと顔いろを変えた。
このごろ彼の耳へも入っていたことがある。
通信傍受装置の噂だ。
石油財閥が、新規戦術機開発に熱を上げるのは、この不正侵入装置を仕掛ける為だ……
ワシントン官衙にいるスズメたちの間では、その様に取り沙汰されている。
「このソフトウエアは現在流通している管制ユニットに搭載されたソフトの改良型で、面白い仕掛けを追加したものになります」
「面白い仕掛け?」
「戦術機の管制ユニットに仕掛けられたソフトウエア経由で、相手方の機体の情報をハッキングし、改ざんものです。
レーダー装置を混乱させ、相手のパイロットにこちらの機体の接近を気づかなくさせるものです」
「目隠しみたいなものか」
「おっしゃる通りです。
我々としては、血を流さずに全世界の戦術機を操作することも可能となります」
副大統領のひとみに、ちらと猜疑めいた光が動く。
「では、ソ連の衛士のバイタルサインやデータも盗み放題だと……」
「GRUが熱を上げていたESP兵士やスペツナズ部隊、KGB直轄のアルファ部隊も丸裸に出来るのです」
副大統領は、ちょっと、考え込む。
あらぬ方へそらした目は、何か、いちばい目的への希望に燃えたふうだった。
「それで、君たちは、戦術機のソ連への供与を、議会承認の前に進めたのだね……
だが、KGBがそれに気が付かないとは思えぬのだが……」
「はい。
この新型の集積装置は、ソ連などの、田舎の整備工場などの検査ではわかりません。
単一光子放射型コンピューター断面撮影法といった最新装置でなければ……」
SPECTは、1977年に米国で実用化した核医学における断層撮影装置の事である。
簡単に切開手術のできない脳の断面などを撮影することを目的に開発された。
「ほう、そいつはすごいな」
「強化装備を着てれば、その衛士のデータは自動的に蓄積されます。
一たび、戦術機に乗れば、そのデータはマンハッタンの地下にあるデータセンターに送信される仕組みになっています。
また、開発中のGPSとの連動も含めれば、相手側の位置情報がほぼ盗み見することが可能になります。
位置情報ばかりではありません。
思考・状態・軍事作戦の全容も、管制ユニットを通じて、読み解くことも可能です」
「ソ連の思惑が筒抜けになれば、我らの積年の夢も叶う日も近い」
「そうです」
「新世界秩序の実現もな……」
場面は変わって、カリフォルニア州にある海軍兵器センター。
場所は、州南部のハイデザート砂漠の中央部にあり、チャイナ・レイクと呼ばれる乾湖の傍にある米海軍の試験場である。
1942年から海軍の航空機やミサイル実験場として使われていた。
同様の基地としては、米空軍のエドワーズ空軍基地が有名であろう。
1992年以降は、チャイナレイク海軍航空武器基地という名称に変更になった。
さて、基地にある滑走路上で、十数名の男女が双眼鏡を片手に、上空を飛ぶ新型機を見つめていた。
その多くは海軍関係者で、白色夏季勤務服の詰襟姿だった。
背広姿の人物たちは、グラナンやノースロップなどの航空機メーカーの技術陣である。
中でも、ひときわ目を引いたのは、全く違う軍服を着た二人の偉丈夫であった。
一人は、帝国海軍の白の詰襟の軍服姿で、胸に目いっぱいの勲章を付けていた。
帝国海軍から派遣されていた駐在武官である、田所海軍大尉であった。
本来、彼は艦艇勤務要員なのだが、米側の申し出にふさわしい人物として参加していた。
もう一人は、北欧系の血を引く金髪碧眼で、ヒトラーが理想としたアーリア人の手本ともいえるような、美丈夫であった。
ユルゲン・ベルンハルト大尉である。
彼の服装は、いつもの陸軍の折り襟服ではなく、空軍の略装であった。
青みがかった灰色の開襟の上着に、揃いの生地で出来た乗馬ズボンに、膝下までの長靴。
胸には、ブリュッヘル勲章の他に、勲五等双光旭日章が輝いていた。
新型の戦術機・F‐14は、既に完成し、量産段階に入っていた。
あとは、米議会での予算執行を待つばかりである。
「……ようやく、長年の夢が形になりましたな」
小柄で痩身の、三つ揃えの姿の30代後半の男が、思わず言葉を漏らす。
「75年から実に4年……
途中のつまらぬ騒ぎが無ければ、今少し早く完成出来たはずだった」
途中、設計主任である、フランク・ハイネマン博士の設計室でちょっとした騒動があった。
彼の部下であるミラ・ブリッジス嬢が突如として、寿退職をしたのだ。
相手は、日本の武家で、篁祐唯。
日米合同の戦術機開発計画の曙計画に参加した折、ミラを見初めて、娶ったのであった。
このことによって、ミラの保持する商標権は、日本に渡ることとなり、その部分の特許権交渉に時間を取られてしまった。
最年長である老提督・ヘレンカーター中将も、つい愚痴じみた言葉になるほどだった。
だが、ハイネマン博士は、気にする風もない。
「ですが、ヘレンカーター提督、クゼ大尉。
今こうして形となったのだ。 新たなる剣として……」
ハイネマン博士の感慨は、如何ばかりであろうか。
来客の一人として招かれていたユルゲン・ベルンハルト大尉は、黙然と見終った。
米軍全体の戦術機運用計画の見直しにあたって、米海軍はそれまで輸出を見合わせていたF‐14の海外販売を一転して認めることとなった。
新型機の披露を兼ねて、各国の軍関係者に販売や供与を含んだ説明会を実施する事になったのだ。
「初めまして、同志・ベルンハルト大尉……」
不意のロシア語に、ユルゲンは思わず振り返った。
そこには、東洋系の海軍将校が立っていたからだ。
件の男は、米海軍の夏季作業服にG-1フライトジャケットを身に纏っていた。
3オンスのゴートスキン製ジャケットは、空調機能の整ったジェット機の時代には不要だった。
だが、海軍操縦士の証しであることには変わりがなかったので、米海軍の衛士たちは好んで身に付けていた。
ユルゲンは、男の方に振り返ると、教本の様な陸軍式敬礼で応じた。
「初めまして、海軍大尉のクゼです。どうかお見知りおきを」
海軍式の敬礼をした男は、日系人のクゼ大尉だった。
クゼは、またあらためて、ユルゲンへ頭を下げていた。
「先ほどのロシア語でのお呼びかけ。さぞ不振に思われたでしたでしょう。
何とぞ、平にお許しを……」
「いや、こちらも先ごろまでソ連麾下のワルシャワ条約機構にいた身の上。
致し方ないことと、思っております」
二人の青年将校は、一頻り自分たちの身の上話に花を咲かせた。
やがて、ユルゲンが言った。
「一つお尋ねしたいことがありますが……」
ユルゲンの話はこうだった。
ソ連では光線級に対して、ミサイル攻撃を繰り返したが、大して効果がなかった。
戦闘ヘリや戦術機に搭載した突撃砲で対応した経験から、大型ミサイルを搭載した
F‐14の有用性が理解できないという。
その疑問に対するクゼ大尉の意見は簡単だった。
「海軍戦術機に求められる事は、まず一番に戦域制圧能力です。
海岸線上陸作戦、その支援が海軍戦術機の存在理由と、小官は考えております」
確かに、米海軍はそうなのだろう。
しかし、東ドイツのような陸軍国が有する弱小海軍の場合は、どうであろうか……
クゼ大尉の答えに、若干の疑問符が付く。
「もっとも合衆国海軍の場合ですが、戦術機による戦域制圧能力を突き詰める必要性は、必ずしもありません。
戦艦による大口径艦砲の射撃、ミサイル巡洋艦による地対艦ミサイルの飽和攻撃。
面制圧は、それをもってすれば、事足ります。
戦術機は近接航空支援、むしろ海兵隊の様な運用へと変化しつつあります」
上陸後の近接航空支援という言葉に、ユルゲンはいささか不安を覚えるほどであった。
「あまり飛行高度が高いと、撃墜される可能性が……」
「それは今から見せる新兵器をご覧になれば、納得できるはずです」
ユルゲンは素直にうなずいてみせた。
しかし一歩も、自分の考えを譲っているのではなかった。
「つまりは、上陸後の支配戦域拡大の為。 つまりは、地上で正面切って敵部隊と戦う為と……」
それ以外の目的はあるだろう。
だが、今はむやみに聞き出さない方が良い。
どういう形で、自分に米海軍の関係者が近づいたのだろうか。
いや、待てよ……
この日系人の大尉は、自分の妹がゼオライマーのパイロットとの恋愛関係になっているのを知っているかもしれない。
そう思うと、今回の米海軍基地訪問は、新たな陰謀に巻き込まれていく予兆という気持ちが芽生えてくるのであった。
後書き
田所大尉は、マブラヴオルタ本編で出てくる戦艦大和の田所艦長です。
20年後に大佐ですから、平均的な昇進速度を考えて、海軍大尉にしました。
クゼ大尉は、レオン・クゼの父親のクゼ提督です。
米海軍では、ジェームズ・ホロウェイ3世(1922年~2019年)の様な空中勤務経験者でも、第7艦隊の司令官にはなれるので、クゼ提督は空中勤務者出身という事にしました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
ご感想は、返答が遅れることがありますが、必ず目を通しております。
権謀術数 その2
前書き
書きたい事を書いたら、6000字超えてしまいました。
なんか最近は、週間連載の割に文章量が多くて、申し訳ありません。
グラナン社製の新型戦術機、F‐14トムキャット。
新型兵器、AIM-54 フェニックスミサイルの運搬を目的として作られた世界最初の第二世代戦術機である。
F‐5系統の影響を受けながら、その前衛的なデザインとともにも一つの特徴があった。
それは標準装備となった複座式のコックピットである。
大型ミサイルを扱う都合上、火器管制要員とパイロットの二人乗りにならざるを得なかった。
それに伴い、機体もファントムの18メートルから19.3メートルに拡大された。
しかし、空母エンタープライズでの運用を前提としていた為、新素材の装甲板で軽量化され、尚且つ跳躍ユニットの出力も強化された。
実は、米海軍は、F-11タイガーという小型戦術機を1976年に配備していた。
だが、空母着艦能力における出力不足が問題となり、F-4ファントムの改修型を使わざるを得なかった。
戦前から、米海軍と関係の深く、海軍将校出身のグラナン社長はそのリベンジの機会を伺っていた。
その為に、彼は金に糸目を付けず、各界の学識者や技術者を月額2万ドルという大金で雇った。
当時、スタンフォード大の工学部に在籍していたミラ・ブリッジスも、その一員であった。
閉鎖的な南部の暮らしに嫌気の差したミラは、スタンフォード大学に入った。
大学院を飛び級で卒業したものの、卒業後の就職先に困っていた。
長らく続くベトナム戦争による不景気と、女性への就業差別である。
彼女が、スタンフォードの文学部卒で、たとえばフォード自動車など有名企業の社長秘書などであれば、問題はなかったであろう。
しかし、並みいる男たちを抜き、スタンフォード大学院を22歳で卒業したことは、彼女の進路を却って狭くすることとなった。
世の男たちに嫉妬され、場合によっては疎まれる存在だった。
そんな彼女を拾ったのは、グラナン社長であった。
彼女が大学院時代に書いた大型操縦ユニットの絵図面を見て、密かにグラナンの戦術機開発に招き入れたのだ。
F-14と第一世代の大きな違いは、近接戦闘への対応である。
ミラは、従来ファントムやバラライカで重要視されていた重厚な合金製から新素材の耐熱樹脂材に装甲板を変えた。
そのことにより、約100トン近くあった機体重量は、約半分の54トンまで軽減でき、その浮いた分として、計6発のフェニックスミサイルを搭載できた。
フェアチャイルドのサンダーボルトA-10のように跳躍時間を減らすのではなく、装甲を軽量化して、飛行時間や跳躍速度を上げることとしたのだ。
だが、その為に近接戦闘は全くの不利になってしまった。
米軍兵士が持つ携帯型のFIM-43 レッドアイミサイルの直撃を受ければ、F‐14は撃墜されるほど、装甲は弱くなってしまったのだ。
故に、このF‐14の衛士は、基本的に一から育て上げた専属のパイロットが運用することとなってしまった。
F‐14の戦闘は、基本的に遠距離からの引き撃ちに限定された。
超低空で戦域に近づいて、6発のフェニックスミサイルを発射した後、直ぐに戦場から離脱することが基本戦術だった。
新開発の跳躍ユニットは、F-4ファントムのそれと比べて、格段の性能差を持ち、高機動での戦闘行動が可能であった。
設計主任であるハイネマンは、ソ連赤軍の書いた戦闘報告書を丹念に調べ上げた。
ソ連赤軍は、伝統的にロケット砲や火砲による砲兵火力による攻撃に重点を置いている。
敵に対し、火力の優位性を確保し、火力を持って敵を制圧することで戦闘を優位に進めるためである。
BETA戦争初戦において、光線級によって対戦車ヘリや戦闘機が多数被害を受けてからは、その傾向は顕著である。
長らく続いたBETA戦争で、中央アジアに駐留していたソ連赤軍の部隊の練度は下がった。
兵士の質は下がり、指揮官の能力も乏しく、諸兵器を組み合わせた効果的な作戦機動が出来なくなった。
そのため、単純かつ無差別の大規模砲撃により、光線級を弱体化させ、その後、戦車や歩兵先頭車を中心とした部隊を突入させ、BETAを殲滅する作戦を取っている。
しかし、この戦術では、仮に成功したとしても犠牲が大きすぎるのが難点であった。
同じような事は、ユルゲンが提案した光線級吶喊にも言える。
多数の死傷者を出し、膨大な軍需品を喪失してしまうという点では変わりなかった。
問題は、如何に死傷者を減らし、軍需品の損耗を減らすか。
光線級の特性を研究すれば、解決の糸口があるのではないか。
ハイネマンは、BETAの機密資料をソ連経由で多数入手した。
光線級の攻撃には、次弾発射までの約12秒の時差があることに気が付いた。
標準射を受けて、即座にその場所から移動した後、目的の光線級にクラスター弾をぶつければ、良いのではないか。
人的被害のあまりにも大きい、光線級吶喊を過去のものに出来れば……
そんな彼の思想から、フェニックスミサイル運搬機としての、F‐14が完成したのである。
ユルゲンは思わず絶句した。
木原マサキの作った超大型機、天のゼオライマーを見たときほどではないが、今までの戦術機に比して前衛的な機体のデザインに、心底驚いていた。
逆三角形を思わせる機体設計、両肩に搭載可能な3連ミサイルランチャー。
一番の点は、可変翼を採用した跳躍ユニットである。
パナヴィアのトーネードに採用された可変翼の事を資料では知っていたが、実物を見るのはは初めて出会った。
「これが、F‐14トムキャット……」
「野良猫とは、良い名前だろう」
幾分甲高い男の声に、ユルゲンは思わず振り返った。
設計主任のフランク・ハイネマン博士であった。
「初めまして、ハイネマン博士、お会いできて光栄の極みです」
いささか興奮気味に、ハイネマンの差し出した右手を握る。
ハイネマンは、ユルゲンの気持ちをよそに、不敵の笑みを湛えながら、
「ベルンハルト大尉、君の来歴は色々伺っているよ。
私の事は、フランクとか、ハイネマンで構わないよ」
ハイネマンは内心、大喜悦であった。
目の前にいる白皙の美丈夫は、今まさに自分に熱心に教えを乞うているという様を楽しんでいた。
彼自身が、小柄で風采の上がらない科学者であったことも、関係があるのかもしれない。
しかし、何よりの喜びは敵側であった東ドイツの戦術機部隊長が自分の作品を手放しでほめてくれることであった。
表向き、ソ連参謀本部が考えたことになっている光線級吶喊。
しかし、ハイネマンは、その提案者が目の前にいる堂々たる美丈夫であることを知っていた。
あの光線級吶喊の提案者が、自分の作品を手放しで絶賛している。
ユルゲンの変わりようは、ハイネマンをして、狂喜させた。
「いや、実に素晴らしい。とくにフェニックスミサイルがあれば、ずいぶん楽になるだろう。
是非とも、ドイツ語の資料を頂けませんか!
きっと、シュトラハヴィッツ将軍に見せたら、お喜びのはずです」
ユルゲンの思いがけない狂乱ぶりに、欣喜雀躍したハイネマンは、
「遅くとも明後日には、英語と独語の資料をニューヨークの総領事館にお送りしましょう」
内心でにんまりしながら、少し上半身を後方にずらした。
既にF‐14の機体の魅力に取りつかれたユルゲンは、ほかの事をかえりみることなく、ひたすら試乗体験という最終目標に突き進んでいた。
胸が痛くなるような興奮が、青年将校を包んでいた。
「F-14トムキャットは、最新のスーパーコンピューターを積んでいるんですよ」
「どんなものですか」
「オペレーション・バイ・ワイヤー。
機体の操縦処理に新型のコンピューター処理を挟む方式で、パイロットの反応を一部、コンピューターで予想しながら、補正するプログラムです。
これにより、F-14は、T型フォードから、オートマの64年型マスタングになった様なものですよ」
ホスト役のクゼ大尉も、探求心旺盛なユルゲンにとってもよかった。
何でも細かいことまで、答えてくれて、尚且つ実戦経験豊富な海軍大尉の海容さに、ユルゲンは満足していた。
普段では出来ないような経験も、青年将校をウキウキさせた。
「ベルンハルト大尉は、光線級には大分苦しめられたでしょう」
「ええ」
思い出すだけでも、嫌になる。
それがユルゲンの本音だった。
「このチャイナレイクの基地は、ミサイル関連も研究対象なんです。
フェニックスミサイルの前には、AIM-9サイドワインダーなどの試験も行っていたのですよ」
時代は幾分後になるが、レイセオンが作ったAGM-88高速レーダー破壊用空対地ミサイルも、このチャイナレイクの基地で研究されたものであった。
1972年の第一次戦略兵器制限条約調印直後に、当時の大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーの提案で開始された新たな核運搬手段しての巡航ミサイル。
後のトマホーク巡航ミサイルや長距離空対地ミサイルSLAM‐ERの開発研究も、1970年代後半から1980年代にかけ、同基地で実施された。
「新型の空中発射型の巡航ミサイルが、戦術機に搭載されれば、今よりずっとBETA戦は楽になりますよ」
「まさか」
ユルゲンには、俄に信じられない容子もあった。
クゼ大尉の答えは、弾んでいた。
「貴殿が持ち込んだゼオライマーに関する方向書を丹念に調べれば、大火力をもってして、光線級さえ排除すれば、BETA戦は簡単なように思えるのです。
自分の少ない経験で何ですが、防空駆逐艦や対空陣地に比べれば、光線級の怖いところは標準射が正確なところぐらいです。
水平線の陰に隠れて、対象物と認識されない地点から、ホーミング誘導式の多弾頭ミサイルで攻撃すれば、勝てると自分は考えております。
今、陸軍のレッドストーン実験場で開発中のAGM-114対地ミサイルも、その候補になると思っております。
合衆国と国防総省の方針としては、誘導弾による視界外からの攻撃に重点を置きつつあります。
その証拠に、第31航空試験評価飛行隊の予算もフェニックスミサイルの開発がなければ、減らされる予定でした」
「なにっ、米国政府が」
愕として……。
「あの米国政府が、軍事予算の縮小を?」
半信半疑、ユルゲンは茫とする。
クゼ大尉はユルゲンの関心を引きたい一心で打ち明けた。
去年の暮れごろ、米政府の一機関・ロスアラモス研究所は、G元素の抽出に成功した。
それ以後、副大統領に近い元大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーは、核戦力の代替策として新型爆弾の開発に軍事予算の大部分を移すように提言を入れた。
米軍全体としては、恐ろしい彼の執念につきまとわれていることを、告げて、
「キッシンジャー前国務長官は、ニクソン時代に国家安全保障会議を牛耳っていた人物ですからね。
支那に極秘訪問して、周首相と二度も直談判したほどの方です。
我々の様な一介の軍人が正論で諫めた所でも、届きはしません。
正に蟷螂の斧です」
ユルゲンは、キッシンジャーの事は米国に来る以前からは知っていたが、それほどまでに各界に影響を及ぼす人物とは思ってもいなかった。
「まあ、つまらない愚痴はこれくらいにして、F-14の飛行試験に行きましょう」
そういうと、クゼ大尉は部屋を出た。
強化装備に着替えたユルゲンとクゼ大尉は、F‐14の機内にいた。
各国軍への性能アピールを兼ねたF‐14の試乗試験を行うためである。
戦術機の搭乗員資格を持つ衛士を火器管制用の後部座席に座らせ、前部座席には操縦士役の米海軍将校が登場し、機体の性能を説明するためである。
最新鋭のF‐14は、それまでのF-4系統とはコンピューターシステムが全く違った。
米軍の開発したGPSシステムに依存し、遠距離からの射撃戦を重視した作動系統になっている。
一応、格闘戦用として膝の部分に近接短刀が内蔵してあるが、これは衛士の希望で追加したもので、ハイネマンの図面ではなかったものである。
米海軍では、1958年9月24日に発生した金門馬祖周辺での中共軍と国府軍の空戦以降、格闘戦を避ける傾向にあった。
この時、数に劣る国府軍の戦闘機32機がサイドワインダーミサイルによって、100機以上を誇る中共軍を撃退したからだ。
格闘戦は、瞬間的な空間認識能力が求められるためである。
相手を視認できる距離での戦闘では、パイロットの死傷率は格段に跳ね上がった。
極力、視認できる範囲外からのミサイル攻撃へと依存していった。
かといって、ミサイル万能論に陥ったわけでもない。
ベトナム戦争でのソ連空軍機との戦闘で、機関砲を搭載しない航空機では運動性の高い戦闘機との接触を果たした際に格闘戦が行うことが出来なかったからだ。
BETA戦争の場合は、光線級の脅威よりも戦術としての重金属雲による視認低下が大きかった。
通信障害やGPS誘導装置を狂わせるバリア体のために、場合によっては格闘戦をせざるを得なかった。
止む無く近接短刀を追加装備に加えたが、米海軍の要求としては12.7ミリのM2重機関銃を搭載する予定であった。
要塞級を除くBETAの殆どは、対空砲や車載型の重機関銃で対応可能だからである。
それに要塞級はフェニックスミサイルを使えば、簡単に撃滅できる。
これが米海軍の、いや、米軍の基本的な対BETA戦術の中心であった。
「トリム 0度OK、調整OK。ANTI SKID SPOILER BK S/W BOTH」
滑走路上で、F‐14を移動するクゼ大尉の機動を見ながら、ユルゲンはぼんやりと米ソ両軍の戦術を考えていた。
大火力を中心とする米ソ両軍の攻撃方法は、資金力と兵器貯蔵量を誇る超大国だからできる方策である。
東欧の小国である東ドイツでは、到底無理な話だ……
民族の存亡をかけたBETA戦争においては、彼らの力によるところが大きい。
時代的な制約も大きかった。
この1970年代は、ようやく今日でいうところの早期警戒管制機がボーイング社から実用化され、試験段階であった。
実戦配備は、1991年の湾岸戦争からで、それまでは空中戦は戦闘機単独で行うのが前提であった。
クゼ大尉は滑走路からの離陸許可の申請を行った。
「クリアード・テイクオフ」
後部座席に座るユルゲンは、米海軍の航空管制とはこういうものなのかと感心するばかりであった。
「燃料流量OK、ブレーキリリース」
機体の巡航速度が、130ノットになったのを見計らって、
「ローテーション、エアボーン・フルアフターバーナー、ギアアップ!」
空ぶかしをしていた跳躍ユニットからの轟音とともに、勢いよく機体が離陸する。
網膜投射越しに、カリフォルニアの澄んだ青空が目に入ってくる。
このチャイナレイクの基地は、年間を通して降雨量がほとんどなかった。
その為、ほぼ晴天という条件で飛行試験が行える好条件の立地だった。
クゼ大尉は、奔馬を操るロデオ大会の牧童みたいに、機体を強く躍動させた。
ユルゲンも負けじと、その起動に合わせる。
F-14は、戦術機としては初のマッハ2での戦術起動が可能な機体である。
この機体の新技術を東ドイツが、欧州が手に入れれば、戦術機の常識は根底から変わる。
ユルゲンはそんな思いをいだきながら、空に昇った。
後書き
戦術機の離陸描写は、実機のF‐14を参考にしました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
権謀術数 その3
前書き
セリフ少なめの説明回
BETA戦争において、勝敗の帰趨を左右したのは、火砲を中心とした大火力であった。
初期のソ連トルキスタン方面における遅滞戦術で、主役を飾ったのは多連装ロケット砲や地対地ミサイル「FROG 」。
黒海周辺やペルシャ湾岸などの沿岸部では、戦艦やミサイル巡洋艦による艦砲射撃や巡航ミサイルによる攻撃も効果的であった。
以上の経緯から、米海軍は戦術機の格闘戦能力よりもミサイルキャリアとしての能力を求めることとなった。
米海軍は、計画段階で、すでに100機の発注をするほどの期待の入れようであった。
この新概念の戦術機に関して、米海軍は新型の空母の建造を決定したほどである。
それ故に、ユルゲンが参加したF-14の展示飛行は、世界各国の熱い視線が注がれていた。
今回のF‐14公開セレモニーの招待国は、以下の通りだった。
急速に勢力を伸ばすソ連海軍に対抗して海軍の近代化をはかる日本。
その他にイスラエル、サウジアラビアなどの中東の親米国、オーストラリア、カナダといった英連邦加盟国であった。
空母の試験導入を決めていたスペインも検討に入ったが、予算の制約上、断らざるを得なかった。
彼等以上に、F‐14戦術機に対して、ひときわ熱い視線を注ぐものがいた。
中東有数の親米国家、帝政イランである。
ここで、すでに歴史の中に消えていった国家、帝政イランこと、パーレビ朝イランに関して説明を許されたい。
パーレビ朝イランは、ガージャール朝イランが、英国とソ連の侵略と立憲君主制を求める騒擾事件との内憂外患に苦しむ中、陸軍総司令官であったレザー・ハーンが起こした軍事クーデターによって成立した国家である。
クーデターの後、議会を掌握したレザー・ハーンは、ガージャール朝の廃位を決めると、レザー・シャーという名前を名乗り自身が帝位についた。
帝政イランは1925年の建国以来、ソ連の脅威に悩まされてきた。
加えて、建国の父の外交政策もあって、対英関係も消して芳しいものではなかった。
故に、初代のレザー・シャーはナチスドイツに近づき、その結果として英ソ両軍の進駐を許すこととなった。
レザー・シャーの退位を受けて即位した二代目の国王は、引き続き英ソ関係に苦難した。
親ソ派首相による石油国有化政策により起きたアーバーダーン危機の際、国王はCIAに救いの手を求めた。
国王の救援要請は米英の石油資本にとって、将に蜘蛛の糸だった。
ソ連によるイランの共産化防止を口実に、アジャックス作戦と呼ばれるクーデターを起こす。
親ソ派の首相は追放され、国王派の将軍が政権を奪還し、親米政権が樹立された。
二代目の国王――日本ではパーレビ国王として知られる人物――は、ソ連の脅威から軍の近代化を進めた。
高性能の武器に、ミサイルシステム、そしてF-4、F‐5などの最新鋭ジェット機である。
パーレビ国王は、戦後急速な経済発展を進める極東の小邦、日本の姿に注目した。
ケネディ政権からの要求にこたえる形をとって、日本をモデルとして、急速な近代化政策を進めた。
イスラエルとの国交樹立、婦人参政権の許可、土地改革や国営企業の民営化である。
特に、ヒジャブとよばれるスカーフの着用廃止例は、保守的な地方やイスラム法学者の反発を招いた。
後に、ホメイニ師による、イラン革命と呼ばれる一連のクーデターを招くことになった。
現実世界の史実を振り返ってみたが、さて異世界において、1979年の段階でなぜ帝政イランが存続しているのかという疑問をお持ちの読者もいよう。
ここで、端的に帝政イランが存続できたかを説明したい。
イラン革命の発端の地とされるマシュハドは、1974年にアフガニスタンとソ連のトルクメン(今日のトルクメニスタン)からBETAが進撃してきたことによって荒廃してしまった。
イラン軍の航空波状攻撃や、ソ連からの核飽和攻撃もむなしく、同地にハイヴが建設された。
その際、イラクに亡命していたイラン革命の首領であるホメイニは、不慮の事故に見舞われ、亡くなった。
通夜当日に、何者かによって彼の首が持ち去らわれ、5000キロ離れたパリのベルサイユ宮殿の前にさらされるという事件が起きた。
一説には、イランの情報局員による暗殺とも、CIAによる殺害ともいわれているが定かではない。
前年イラクにいたホメイニの長男が、不審死した事件があったばかりである。
マシュハドという根拠地とホメイニという思想的な柱を失ったイスラム革命をもくろむ反体制派は、次の指針を示せなかった。
BETA戦争の混乱の渦に巻き込まれる形で、彼らは歴史の闇へと消えていった。
イランはイスラエルに次ぐ親米国家であり、中東第二の空軍力を持つ近代国家である。
そしてトルクメン方面やアフガン方面から南下してくるソ連を押しとどめる防波堤でもある。
米国は早くから対ソ防衛網の拠点として、軍事力の強化を進めた。
新型兵器の供与は、1972年5月のニクソン大統領のイラン訪問時に決定していたことであった。
イランは隣国ソ連から度々領空侵犯をされており、ノースアメリカン製のF‐86戦闘機では対応できなかった。
ソ連の高高度偵察機を撃墜する兵器の提供は、同年11月には議会を通り、1973年の春の段階では装備と人員を送るばかりであった。
しかし、事態は暗転する。
1973年4月のBETA侵攻である。
新疆から全世界に向けて進撃するBETAを受けて、米軍はソ連に新型の戦術機を供与し、隣国イランにも同様の措置を取った。
F-4、F‐5などの最新鋭戦術機だけではなく、開発中のF-14まで供与することが内定していた。
さて。
グラナンの動きに焦りをみせたのが、航空機製造大手のロックウィード(現実のロッキード)であった。
ベトナム戦争終結とBETA戦争による航空機需要の減少によって、軍事部門・民間部門合わせて赤字経営に転落していた。
同社は戦術機開発にも出遅れており、その遅れを挽回すべく各国に、様々な資金工作を行った。
ロックウィードは、西側各国に秘密代理人を置き、各国の政府高官に多額の賄賂を渡して、航空機P-3Cオライオンの売り込みを図っていた。
この事件は、日本のみならず、蘭、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、米本国も無関係ではなかった。
敵対する同業他社のマクダエル・ドグラム(現実のマクドネル・ダグラス)も、その事件を受けて、焦りをみせた。
マクダエルの秘密代理人は、政府首脳や国防省関係者――国防大臣や国防政務次官の榊だけではなく、参謀本部直轄の技術部門にまでその手を伸ばした――だけではなかった。
マサキの所まで、マクダエルの秘密代理人が現れたのだ。
「話とは何だ」
マサキに現れた男は、 斑鳩家の老当主だった。
座るなり、雑誌のゲラ刷りを彼の前に広げて見せ、
「これは週刊誌「男性自身」のゲラ刷りだ。数日後には店頭に並ぶ」
――記事の内容は、センセーショナルなものであった――
『現職軍人に黒い交際!?
陸軍木原准尉と東ドイツ軍某大尉との深い関係。
次期戦術機開発の裏に東側の影』
「これが出たら、どうなると思うかね……
私の一存でこの記事は差し替えることが出来る」
「それを条件に、戦術機開発から俺の身を引けと……」
「引退?
私がそんな事を望む人間に見えるかね」
老人はいきなりゲラ刷りの原稿を破り去った。
「木原君、君には貴族院議員になってもらった後、大臣のポストを用意する」
「何!」
「私は政治家だ。
ただ権力にしがみついているだけの老人ではない……
貴族院への推薦は、私としての君への評価だ」
「……」
「15年だ、15年待ちたまえ。
そうすれば、君が思う通り、この国を動かせる」
「……15年」
「そうだ……いずれは武家をこの国を裏から操る地位を継いでもらうかもしれん。
悪い話ではないはずだ」
男の話を聞くなり、マサキは不敵に笑った。
「フハハハハ、今すぐこの国を乗っ取れるなら、その条件を飲もう」
男はマサキの言葉に、途端に驚愕の色を表す。
「な、何ぃ!」
立ち上がったマサキは、見下すような目線を男に向けて、
「話は済んだ。帰るぞ、美久」
「わかりました」
男は、マサキの予想外の反応に、大いに慌てたらしく、
「待ちなさい、氷室さん。君は木原を止めんのかね。
こ、これが発表されたら、君たちがやってきたことは全部水泡に帰すんだぞ」
振り返った美久は、冷たい一瞥をくれた。
「……翁、もし木原が貴方の条件に尾を振るような男でしたら……
木原も私も、この世界では、生き残って来れなかったでしょう」
男は、不敵な日ごろの顔も失っていた。
「一度、他者の軍門に下った人間は、そこで自分の意志と強さを失う」
マサキは言葉を切ると、タバコに火をつけた。
「たとえ、20年、30年かかっても自分の意志で生き、己の野望を築きあげる。
それが、この木原マサキという男だ。忘れるな」
男の腹を見すかしているように笑って、マサキはその場を後にした。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
権謀術数 その4
前書き
ソ連の産業スパイに関する話です。
合衆国海軍へのF‐14の公開引き渡しセレモニーは、世界へと衝撃を与えた。
フランク・ハイネマンの作った新型への期待はさることながら、新型兵器はそれ以上であった。
AIM-54 フェニックスミサイル。
元々は、ソ連が開発した長距離空対艦ミサイルKh-22とその発射母機であるTu-22を空母機動艦隊のはるか遠方で迎撃する目的で開発された。
セミアクティブレーダーによる誘導方式で、最大有効射程距離、150キロメートル。
F‐14に搭載された電波探信儀には、200キロメートル以上の探知距離を持つ能力を備えていた。
史実のフェニックスミサイルに対して、この異世界のフェニックスミサイルは少し様相が変わっていた。
アクティブレーダーによる誘導方式の、大型クラスターミサイルであったのだ。
BETA戦争の戦術機部隊の損失の多さを受けて、米海軍は対BETA用に転用した。
その際、誘導方式をアクティブレーダーに変更し、大型クラスター弾を追加装備したものである。
その為、一基当たりの値段は、47万ドルから85万ドル(1979年のドル円レート、1ドル=239円)に高騰してしまった。
とはいっても、その脅威は、決して減じることはなかった。
この最新鋭の戦術機と長距離空対空ミサイルの事を、ソ連は過剰に恐れることとなった。
さて場面は変わって。
ソ連ウラジオストックにある、ソ連軍需産業委員会の建物。
その一室では、各国のGRUスパイからの報告が、委員長の前に集められていた。
「何、米海軍では新型のミサイルを搭載した戦術機が実用段階になったと……」
「はい。なんでも電子工学の粋を集めた兵器で……」
ソ連では、長らく産業の中心は、電子工学ではなく、ロケットと核関連技術であった。
いわゆるサイバネティクスは、「ブルジョアの似非科学」として忌避される傾向が長く続いた。
このハイテク技術の立ち遅れを取り戻すには、どうしたらよいのか。
ソ連は、かつてのピョートル大帝の顰に倣って、外人の手に頼った。
ソ連の電子工学が発展したのは、ギリシャ系米人、アルフレッド・エパミノンダス・セーラントの亡命であった。
彼は米国の電子技術開発者であったが、原爆スパイ団のローゼンバーグ夫妻との交際をしていた。
戦後になって、その事が問題視され、セーラントは、FBIからの尋問を受けた。
身の危険を感じた彼は、隣家の人妻と、メキシコに駆け落ちをした。
メキシコからチェコ経由で、ソ連への亡命を果たし、ソ連・電子工学の父となった。
その際、ソ連より新しい名前を与えられ、フィリップ・ゲオルギビッチ・スタロスと名乗った。
ソ連ではスタロスの建議で、1963年にはゼレノグラードというソ連版のシリコンバレーが完成していた。
その2年後には、政府部内に電子工学を専門とする電子工業省という部局を設けた。
しかし、コンピュータ本体の開発は成功しても、ソフトウエアや周辺機器の開発には、成功しなかった。
社会主義特有の体制の欠陥や、技術的視野の狭さに因るためである。
故に1970年代に入ってから、ソ連と東欧諸国は合法・非合法を問わず、西側のハードウェア・ソフトウェアとそのノウハウの吸収を急ぐこととなったのだ。
委員長は、すこし揶揄をもてあそびながら、温容なごやかに訊問した。
「新型の集積回路か……量産は可能か」
ソ連ではBETA戦争以後の大規模な軍事支援によって、電子工業技術が飛躍した。
IBMやテキサス・インスツルメンツの海賊版を軍事利用することが可能になった。
「月産1万台は生産可能になるでしょう」
ソ連の電子工学は、遅れてはいたものの、東側の中では随一だった。
東欧の優等生と言われた東ドイツでは、ソ連との関係悪化や電子工学技術者の亡命もあって、西ドイツのそれと比して10年は遅れている状況であった。
故に、ユルゲンの望んだように戦術機のライセンス国内生産など、夢のまた夢であった。
戦術機工場は建設はしたが、それは米国やソ連の戦術機部品を市価の2倍で輸入し、くみ上げるだけであった。
「今、GRUの方ではノースロップの関係者に接触しています。
彼等はサンダーボルトA-10との競争に敗れ、新型機開発が低調になり、困っているところです」
「技師を抱き込むのか」
「人類の戦いに対する使命感とやらをもってして、ノースロップが作ったYA-9の設計図面を得るつもりです」
YA-9とは、F‐5フリーダムファイターを基に試作した対地攻撃機である。
軽量な装甲板と推力に優れた跳躍ユニットで、機動力を上げ、一撃離脱攻撃を専門として設計された。
一応、管制ユニットは25ミリの合金で覆われていたが、A-10と比して、飛行時間も機動性も優れていた。
米国に潜入してスパイは、なお言葉を続けた。
「そうすれば、ソ連はA-10のような地上攻撃機を、いやそれ以上の物を手に入れるでしょう」
委員長の顔色は、明るかった。
「良かろう。予算は重機械・運輸機械製作省から出すものとする」
英国に亡命したGRU少佐のヴィクトル・スヴォ―ロフ(1947年~)によれば、ソ連の省庁という物は、軍事に関係ない省庁は無かったという。
例えば、造船工業省では、その予算の全てを軍艦の建造費に費やしたという。
その為にGRUはKGBに比べて予算規模は少なかったが、政府の諮問を通さないで使える予算は大きかった。
化学兵器や細菌兵器の研究も、全て別な省庁が立て替えて、軍事予算には影響しなかった。
ソ連参謀本部は、米空軍の対地攻撃機に関して早い段階から情報を得ていた。
参謀本部直轄の諜報機関であるGRUは、米国の航空機メーカーにスパイを潜り込ませ、その情報を水族館(GRU本部)に送り込んでいた。
米軍初の対地攻撃型戦術機のサンダーボルトA-10などは、開発段階から察知していたのである。
だが、ここで一つの誤算が生じてしまう。
木原マサキとゼオライマーの存在である。
マサキはサンダーボルトA-10の思想とその姿かたちに惚れこみ、開発元であるフェアチャイルド社に接近した。
そこで、サンダーボルトA-10の改修事業に参画したのだ。
GRUと競争関係にあり、マサキと敵対するKGBは、マサキつぶしの一環として、CIAにフェアチャイルド社内にあるGRUスパイ網を暴露した。
これにより、マサキが事業計画に関わる直前に、GRUの細胞が壊滅するという事態に至った。
GRUは、この予想外の出来事に慌てた。
フェアチャイルドとその関連子会社であるセミコンダクターにいたGRUのスパイ組織が一網打尽に逮捕されてしまったからだ。
おまけに協力関係にあった東ドイツが、マサキの側に寝返ったのも大きかった。
彼等は司法取引として、半導体関連企業に潜り込ませたシュタージのスパイ網をFBIに提供し、GRU壊滅作戦に協力したのであった。
ソ連の対地攻撃機開発は振出しに戻るかと思えた。
そんな矢先である。
ノースロップの試験機、YA-9攻撃機の設計データが何者かに持ち出され、ソ連に手渡されるという事件が起きたのだ。
そのデータを基にして出来た機体が、SU-25戦術機である。
スフォーニ設計局の主任である、アントン・スフォーニは満足していた。
ノースロップのYA-9攻撃機は、F-5フリーダムファイターの基本設計を応用して作られた機体である。
ライバルとなったサンダーボルトA-10の前衛的なデザインと違って、手堅い設計であるが、対地攻撃機としての任務には十分対応可能だった。
BETA戦での被害を受けて、管制ユニットと跳躍ユニットには大規模な改修が加えられた。
管制ユニットは、厚さ25ミリのチタン合金で覆われ、BETAはおろか、スティンガーミサイルなどの直撃から耐えられるようになった。
跳躍ユニットは、前線での燃料補給の煩雑さを反省し、航空燃料からT-80戦車用の軽油、家庭用の灯油でさえ稼働するように再設計された。
これは度々航空燃料が横領され、転売した差額を懐に入れるソ連赤軍の汚職という特殊事情を考慮した為でもあった。
ソ連では、政府・軍は言うに及ばず、KGB機関でさえも、国家規模の窃盗が横行した。
スターリン時代には、強制収容所の管理責任者が、10万人分の捕虜の食糧を水増しして申請し、その差額を横領し、懐に入れることなどは日常茶飯事であった。
そういった経緯から、米軍の大量のレンドリースがソ連国内に送られるも、その5割近くが最前線に届く前に消えるという珍事が多発した。
書類上のミスで、シベリアの倉庫で死蔵されているなどというのは良い方であった。
分解され、鉄くずとして転売されたり、ひどい場合には、ユーゴスラビアやインドなどの第三国を経由して、敵国に高額で売り払われるということもままあった。
この異世界のロボット兵器である戦術機の開発は、1967年のサクロボスコ事件にさかのぼる。
BETAの月面振興と同時に開始されたNCAF-X計画。
12年前の事件の段階で、月面、宇宙空間、そして地上での運用が前提とされていた。
国連総会の場で、米ソ両国が戦術核の使用を提案するも、英仏が拒否したのが大きかった。
そして6年の戦争は何の進展もなく、終わりを告げる。
支那最西端にある都市、カシュガルへのBETA侵攻によってであった。
タクラマカン砂漠西端に位置するこの都市は、中ソ国境沿いの重要拠点で、古代からシルクロードの経由地であった。
周囲が高原である事、また支那の鉄道網が整備されていなかったことから、軍事作戦に大きな弊害となった。
4年前の中ソ紛争も、同様に影を落としていた。
人民解放軍の軍事動員が2週間の遅れが生じたのは、タジクとキルギスのソ連駐留軍を刺激することを恐れての事であった。
同年の3月に起きたアフガンの政変も、またそのことを補強した。
トルクメン・ウズベク国境沿いにソ連赤軍を集中的に配備し、アフガンの暴発を抑えていたが故にソ連はBETAの進行を遅らせることが出来たが、それは戦術核の飽和攻撃という対処療法の為であった。
人民解放軍は、中ソ間の軍事的誤解からの核戦争への発展を恐れ、朝鮮戦争当時の人海戦術をとることにした。
標高1200メートルの高地故に、航空攻撃は芳しくなかった。
対空機関砲を搭載した武装トラック、軽機関銃を装備した騎兵部隊、迫撃砲と分解可能な榴弾砲での戦闘はそれなりの戦果を挙げた。
国連総会で、支那への国連軍派遣の提案がなされるも、中共政権はそれを拒否した。
あの忌まわしい大戦争から、20年ほどしかたっていない時期でもある。
支那の国民感情として、外国の軍隊が土足で踏み入るのは、受け入れがたかったのだ!
支那政府が、この提案を失敗と認識したのは、3週間が過ぎての頃だった。
爆撃機や音速を超えるジェット戦闘機が、一度に失われる事件が起きた。
光線級の登場で、人民解放軍は混乱を極めた。
折悪く、当時進行中だったプロ文革で、対日戦や内戦を経験し、朝鮮戦争を戦った軍事指導者たちを追放している最中だった。
急遽、彭徳懐や朱徳など建国期からの元帥などを助命する嘆願が毛沢東に出されたが、既に遅かりしことであった。
彼らの多くは、文革と紅衛兵の専横によって既に健康を害し、病に侵され、少なくない者たちが落命した。
人民解放軍内部の不満を押さえつける為、急遽1971年に事故死した林彪をつるし上げることにしたが、それでも何の解決には程遠かった。
中ソの連合軍が新疆ウイグルや中央アジアで戦っている頃、米国は大々的にソ連への軍事支援を開始した。
議会での長い議論を経たため、1974年12月1日まで遅れることとなった。
この為に、ソ連軍は中央アジアで、50個師団を失い、軍民合わせて2000万人近い人命が失われた。
それは4年の独ソ戦のペースを上回る規模であった。
ソ連軍には、それぞれ兵員充足率によって、A・B・C、正確にはА・Б・Вという分類がなされていた。
まず、А集団は、おおむね75パーセント以上の充足率を誇った。
武装がいきわたり、練度と士気の高い部隊で、即応性が保証されていた。
主に東欧とモスクワ周辺に配備されていて、高い充足率であった。
続く、Б集団は、おおむね50パーセント以上の充足率。
72時間以内の動員が義務付けられており、4分の3が狙撃兵師団(歩兵師団)で、機甲師団の割合は少なかった。
最後に、В集団は、おおむね25パーセント以上の充足率。
2か月以内の動員が義務付けられており、師団数はА・Бと変わりがなかった。
だが、その実態は司令部に連絡将校の身を配置し、兵員数が不十分だった部隊がほとんどだった。
俗に幽霊師団と呼ばれ、主に国境からほど遠い内陸部、中央アジアに主に配置された。
BETA戦争で中央アジア方面で戦ったのは、В集団であった。
ソ連政府は、モスクワ周辺と東欧の駐留軍を移動させるのをよしとしなかった。
一番の理由は、東西冷戦。
だが東欧の駐留軍は、幹部子弟の避難先という事情もあった。
最高指導部に近い人間ほどモスクワ周辺に配属され、その次に重要な幹部たちの子弟はバルト三国と東欧。
隠れた避難先として共産蒙古も、また人気があった。
志那との国境沿いでありながら、BETAがなかなか来なかった。
その為、比較的安全な勤務地として、ロシア人やウクライナ人などの白人のスラブ系や中堅幹部の子弟が配属されていた。
また、中ソ紛争の経緯もあって、精強なロケット軍と戦車師団を7個ほど配備されていた。
中央アジアは、ソ連政権維持のため、捨て石にされた。
現地募集された兵士の殆どは、ロシア語での意思疎通が非常に難しかった。
部隊によっては、古参の下士官や現地勤務経験のある将校がいないと、兵士たちを思い通りに動かせなかった。
また、その装備の充足率も、練度も非常に低く、航空支援が到着する前に師団ごとで全滅することもままあった。
虎の子の、攻撃ヘリや戦術機を投入しても、BETAの物量の前に焼け石に水の状態。
それ故に、ソ連は中央アジアに関して、航空部隊の配置を止め、核飽和攻撃に専念することになったのだ。
ソ連では、東ドイツ軍がとった様な浸透戦術――光線級吶喊――は、一般的ではなかった。
多数の火砲・ロケット砲を運用する軍の編成上、十分な砲弾数を備えていた為である。
かえって、西ヨーロッパの軍隊のように、戦術機の偏重運用の方がコストが高くついた為でもある。
ソ連では、G元素の確保の為に、ハイヴ攻略を目的とした軍事編成に変更されつつあった。
米国から輸入したF-4R、約5千機を中心に、稼働可能な戦術機を1万機ほど有していた。
ミグ設計局がF-4Rを改修したMIG-21バラライカを生産し、配備してもソ連が目標とする物には程遠かった。
赤軍参謀本部の方針としては、航空機部隊を全廃し、10万規模の戦術機部隊に再編する予定であった。
航空機全廃の際に問題になったのが、対地攻撃機の存在である。
ソ連は独ソ戦の経験から、近接支援航空機(штурмовик)の開発に力を入れていた。
とくに有名なのはイリューシン設計局の作ったIl-2戦闘機やIl-4爆撃機である。
戦後、イリューシン設計局は軍用爆撃機から手を引き、もっぱら輸送機の設計に専念するようになった。
民間機も多く手掛け、Il-14や、Il-62などをアエロフロートや東欧、第三世界に販売した。
後書き
4月29日には休日投稿します。
ただ、今年は一昨年や昨年と違い、公私ともに忙しいので、多分休日投稿の頻度はぐっと減るかもしれません。
(連載の頻度はどうするかな……)
ご意見、ご感想お待ちしております。
マブラヴ及び、シュヴァルツェスマーケンの世界観に関して
前書き
秘密結社鉄甲龍と国際電脳が存在する以外に現実世界と変わらない世界観の「冥王計画ゼオライマー」。
ゼオライマーと違い、マブラヴ世界は非常に込み入った設定になっています。
ここで初心に帰って、マブラヴ世界と私たちの住む現実世界との差異を簡単にまとめてみました。
常人理事国とその他の列強諸国に関して。
常任理事国
アメリカ合衆国(米国)
政治の世界ではほぼ変化はありません。
ただ、ジミー・カーター元大統領がご健在なので、第39代大統領(在任:1977年1月20日 - 1981年1月20日)は、カーター大統領ではなく、架空の人物になっています。
公式資料集である「公式メカ設定資料集 MUV-LUV ALTERNATIVE INTEGRAL WORKS」によれば、大統領は、ハリー・オラックリンという人物になっております。
ソビエト連邦社会主義共和国(ソ連)
ソ連の首脳は史実通りとなっています。
ただ、宇宙怪獣BETAの侵略を受けて、それまで進めていた東西デタントによる融和政策や一部の市民生活の改善が中止されている状況です。
スターリン時代以上のファシズム的恐怖政治で、少数民族を前線に送り込む政策を実施しております。
超能力者の活用や、人造人間の開発、麻薬や催眠による洗脳などを通じて、国家総動員体制を敷く恐るべき軍事独裁国家へと変化しました。
フランス第五共和国
フランスに関しては、国土が1985年に蹂躙されるまで、いっさいの変化が見られません。
ということで、大統領や首相は史実通りとし、私の二次創作ではすでに物故された政治家を登場人物で活用させてもらいました。
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
英国も1985年の本土進攻まで、史実とは変化は見られません。
ただ、執筆開始当時、エリザベス2世陛下がご存命であらせらました。
なので、政治家と違い、反論のできない存命中の王室や皇室関係者を小説で登場させない不文律に従うことにしました。
既に後嗣がいなく、断絶した家系で、王位を経験したウインザー公爵エドワード殿下を、1936年の退位を経験せずに、エドワード8世陛下として登場させました。
中華人民共和国(支那)
物語の発端となる、重大事件が起きました。
1973年4月13日に、新疆ウイグル自治区カシュガル市への宇宙怪獣BETAの攻撃が行われました。
中共政権は、宇宙怪獣から自分たちに有利な情報が得られるという事で、国連を通じての米国やその他の国の申し出を断り、戦利品を独占しようと単独で戦争を始めました。
2週間もしないうちに人民解放軍は光線級という対空防御能力を持つ小型怪獣のために劣勢に回り、敵国ソ連への軍事支援を要請します。
中共政権の対応の悪さで、ユーラシア大陸が宇宙怪獣の被害を受けることになりました。
極東
日本帝国(日本)
この異世界の日本は、慶応4年(1867年)の大政奉還の後、明治維新を経験していません。
そのまま、薩長同盟は、新しい幕府である元枢府をつくり、幕府体制のまま、近代議会を持つ国家へと移行しました。
その後の流れは大東亜戦争まで同じですが、大東亜戦争は1944年(昭和19年)に、米国との講和条約を結び、停戦にこぎつけました。
米国は対独戦と、終戦後に起きるソ連との冷戦のために、日本政府に対して、条件付きの独立を認めました。
幕府の権益を弱くする憲法典を設置することと、空母機動部隊の所有を禁止することを条件として、1950年(昭和25年)に、日米安保条約を結びました。
その為か、六法典はほとんど戦前のままで、自衛隊は存在せず、帝国陸海軍が現存しています。
一番の差異は、帯刀した武士が堂々と街中を歩いている社会という事です。
軍人も自衛官の服装をして、日本刀やサーベルを指していると考えていただければ幸いです。
中華民国(台湾)
公式同人誌の「Muv-Luv Alternative Stories III - Bite Off The Desperation」の中で
は、蒋経国の存在が確認されております。
1986年の第三次国共合作まで、史実通りです。
ただ、私の二次創作では、極力余計なトラブルを避けるため、近隣諸国は作中から可能な限り排除させていただきました。
大韓民国(韓国)
実は1997年の鐵原ハイヴまで韓国に関しては、一切記述がないのです。
史実通りということで、あえて書かないことにしております。
暁やハーメルンの読者様の中には、韓国人や台湾人も1パーセントから3パーセントほどいます。
極力余計なトラブルを避けるため、朝鮮半島に関しては、作中から可能な限り排除させていただきました。
中近東
湾岸諸国(アラブ系の国家)
アラブ連合共和国を夢見て、志半ばで亡くなった、ガマール・アブドゥル=ナーセルが居たら、喜んだことでしょう。
ヨルダンやシリアを中心として、1978年に聖戦連合軍という宗教の協議を超越したアラブ民族主義による大同団結がなされております。
イラン帝国(パーレビ朝・イラン)
1974年にイランのマシュハドにハイヴ(宇宙怪獣の巣)が出来たために、1979年のイスラム革命の原因となる暴動がマシュハドから起きなくなりました。
その為に、帝政イランは、史実とは違い温存しました。
パーレビ国王は開明的な君主で、アメリカとの連携を模索しつつ、アラブの盟主であったエジプトのサダト大統領やイスラエルのメナヘム・ベギン首相と昵懇の仲でした。
パーレビ国王が健在なので、中東情勢はBETAを除いて、安定した状態になっております。
欧州
ドイツ民主共和国(東ドイツ)
1973年まではほぼ史実通りです。
ただ1973年以降は、ソ連KGBの深慮遠謀によって、より強固なスターリン主義的な国家に逆戻りしていきました。
そのことを憂う一部の青年将校たちが1978年にクーデター騒ぎを起こしますが、KGBの支援を受けた秘密警察シュタージによって大弾圧されました。
国内での粛清は1983年の国家崩壊まで続き、軍とシュタージによる内戦をしながらBETAとの戦争をするという意味不明な状態でした。
私の二次創作では、マサキがクーデター騒ぎを起こす予定であったユルゲン・ベルンハルト中尉の白皙の美貌に惚れこんで、マサキが彼を救う結果になりました。
ソ連の思惑とは別に、ソ連への恨みを持つマサキは、KGBと戦う事となりました。
結果として、原作で死亡するはずだったキャラクターは全員生存し、ソ連の弾圧は失敗に終わりました。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)
1973年まではほぼ史実通りです。
ただ1973年以降は、ソ連の動きを警戒して、軍事独裁国家への色彩を強めていくこととなります。
GDP四位なのに、配給制を始めたり、石炭の採掘を大々的に再開したりなどと、時代に逆行するようなことをする国家になっています。
あと1983年の国土崩壊後は、アイスランド、アイルランド、チリに国民を疎開させ、エジプトから租借地を貰うほどになっております。
私の二次創作では、西ドイツは欧州経済共同体(EEC)を通じて、ドイツ第4帝国の建設をはかる陰謀を企んでいる国家にしました。
理由は、その方が面白いという単純な発想のためです。
後書き
私としては、ベア様やアイリス嬢を救いたい一心で書きなぐってきたので、読者の皆様が知っている前提で進めていました。
WOOD12様、今回のご指摘には非常に感謝しています。
読者を置き去りにしてしまったことは、慙愧に耐えません。
どうか、ご不満や難解な点がありましたら、どしどしご意見をお聞かせください。
会員、非会員問わず、お待ちしております。
如法暗夜 その1
前書き
2024年4月27日、約二年ぶりに、暁の日間ランキング一位を取らせていただきました。
ご評価を頂いた読者様、毎回見てくださっている方々には、感謝の念しかございません。
1979年に入ってからのマサキは、思うように動けなかった。
それは彼自身が、すでに国際政治の陰謀の中にいる為でもある。
だが、それと同時に気を遣うようなことが増えたためである。
日米両政府、対ソ関係から陰ながら重視した中共政権。
ユルゲン、アイリスディーナのベルンハルト兄妹、ベアトリクス・ブレーメ。
彼等を筆頭とした東ドイツの面々などのためである。
先ごろ行われた、カナダでの国連軍に関する協議を潰すのに、労力を取られたのも大きかった。
この決議を潰すのに、マサキは海水から作った純金200トンをカナダの政財界にばらまいた。
その結果として、会議自体をご破算にしたのだ。
その手法は、核保有国の常任理事国による提案は受け入れられないという形をとった、非暴力の大規模デモだった。
マサキが関与したと足がつかぬように、準備した。
バンクーバー在住で、西ドイツ出身のクリストファーという青年を200万ドルで買収し、反核運動を組織した。
反核運動を組織するにあたって、日本の原水爆反対運動を参考にした。
会議に参加する各国の国連大使に、陳情や請願という名目で押し掛ける手法を行った。
夜討ち朝駆けは、当たり前。
太鼓や銅鑼を鳴らし、聖書の一説を読経させて、相手の思考力を奪うという方法であった。
カナダの警官隊もこの非暴力のデモに対して、騎馬警官隊を繰り出した。
だが、次第に流血の事態になると、世論はデモ側によることとなった。
ニューヨークの国連本部前では、キリスト教・イスラム教・仏教などの各宗教の聖職者を集めた。
無制限のハンガーストライキなどを行い、国際的に注目を浴びるように工作したのであった。
国内世論の反対を受けたアメリカの態度変化は、西側諸国の足並みの乱れを招いた。
「統括のない戦闘がBETA支配領域拡大を招いた」という事で始まった協議は、結果として物別れに終わった。
東京での、第五回先進国首脳会議が近づいていたある日。
マサキは、京都市内の篁家の一室にいた。
ミラが用意してくれた戦術機の管制ユニットの資料を基にして、機密情報を分析していた。
機密情報とは、マライが言っていた西ドイツの女スパイの会話である。
戦術機に搭載される新型ソフトウエアには、米国内にあるスーパーコンピュータにリンクする機能が追加される。
もし本当ならば、すべての軍事作戦は、米国の手の上という事だ。
コンピューターのキーボードを連打しながら、過去の記憶へと徐々に沈潜していった。
紫煙を燻らせながら、つい先日のマライとの会話を思い出していた。
ニューヨークのセントラル公園の近くにある、某ホテルにマライを連れ込んだ時である。
彼女は、マサキに、東ドイツに肩入れする目的を詳しく尋ねたことがあった。
「それじゃあ、貴方は最初から東ドイツを乗っ取る気だったの!」
「そうだ。俺が書いた脚本通りで。
もっとも、お前の様な得難い存在を手に入れたのは予想外だったがな」
マライは、マサキの言葉にびっくりして、引き下がった。
「な、なんて人なの!」
途中、彼女の目が涙に潤んでいることに気が付いた。
だがそれについて、マサキは何も言わなかった。
「目的のためならば、国までを動かすなんて……貴方はとんでもない悪党ね」
マサキは、最初、見て見ぬふりをしていた。
ただの女の哀願も、切々と聞いている内には、マサキは一層、マライという女が憐れまれた。
嫌厭も憎しみも湧かず、いよいよ不憫を増すばかり。
男にとれば、強迫とも感じられるような、マライの烈しい紅涙。
それは、マサキを、だらしのない、懊悩に苦しむ男にしていた。
……そうだ。
それを悪というのならば、俺は悪党なのだ。
だが、正義とは何だ、悪とは何だ。
何も知らない頃だったら、法を犯せば悪党だった。
しかし、本当にそうなのだろうか。
自分の利益のために組織を動かし、損失をだせば、犯罪者。
だが、同じ理由にしても、組織に多大な利益を与えれば、英雄だ。
国家のために戦い、数千、数万の人間を殺せば、人は称賛されるのは青史が証明している。
ゼオライマーさえなければ、そんな事は疑問に思わなかったろう。
いや、この世界に来なければ……
心のささやきは、マライに決して届くものではなかった。
だが、マサキの偽らざる本音であった。
「先生、お呼びで」
訪ねてきたのは白銀だった。
「本当に、資料はこれだけなのだな」
マサキが白銀に問いただしたのは、ユルゲンに接触したアリョーシャ・ユングに対する情報であった。
西ドイツ総領事館の秘書官を名乗る、謎の女の事を、マサキは帝国陸軍の情報網で探索していた。
「涼宮君に調べさせたのですが……
当日の会合に出入りしていた、関係者の名簿はこれだけです。
詳しい内容は、シークレットサービスの管轄下で、これを持ち出すだけでやっとでした。
通常、こういう名簿は国務省の管轄なのですが、シークレットサービスとなると……」
「つまりは、正規の職務とは別に、何者かが動いているという事か」
マサキは色を失った。
マサキとてそれを考えていないではない。
だが、白銀が心の底から将来の禍いを恐れている。
その様子を見ると、彼も改めて、深刻に思わずにいられなかった。
白銀は、さらに言った。
「僕の推測によれば、ベルンハルト大尉と会っていた人物は、既に西ドイツに出国した後かと」
「俺は、いささか悠長に事を運び過ぎたのかもしれん」
そこで暫し歓談をしていると、鎧衣が不意に、入ってきた。
「どうだった」
「いやはや、木原君、調べてみたがさっぱりだ。
西ドイツの政府職員名簿にないところを見ると、アリョーシャ・ユングというのは偽名だろうな。
ただ……」
「ただ?」
「親しくしている米国の友人に聞いたところによれば……
ユングと名乗る女性は、外交問題評議会という、ニューヨークの会合に、頻繁に出入りしているらしい。
会員制の会合で。政財界のお偉方を相手にしていて、紹介料は100万ドル以上からだそうだ」
「何!」
紹介料は100万ドルは、恐らく相手を欺く表向きの理由。
実際は、紹介者を通じて、簡単に入会できる。
会員となれば、専用のVIPルームで、何か秘密会合が持たれていることは間違いない。
「私としても、確証がつかめない。
彼も、うわさとして聞いた程度だからな……」
こういう国際的な対策に微妙な計を按ずるものは、さすがに鎧衣をおいてほかにはない。
マサキは、この諜報員の言を珍重して、すぐに対策をとることにした。
「白銀、大至急、ロールス・ロイスのシルバーシャドウを用意してくれ。
年式は77年型で、出来れば新車が良い……」
シルバーシャドウとは、ロールスロイスの高級サルーンである。
4段階変速ATで、エアコンディショナー搭載の最新車種であった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何、俺が乗り込んで、調べようっていうんだ。文句はあるまい」
そういって、タバコを懐中から取り出した。
話を、別なところへ持っていく手段である。
「鎧衣、俺に、三極委員会の人間を紹介しろ。
そうだな、若手の国会議員か、官僚でいいだろう」
言葉を切ると、タバコに火をつけた。
マサキは、紫煙を燻らせながら、自分の意識の中に思索していった。
BETAの戦いは、ただその屍山血河の天地ばかりでない。
今は外交に舞台を移し、その上での駆け引きや人心の把握にも、虚々実々が火花を散らし始めてきた。
着陸ユニットが支那に降り立った序戦と比べると、もう戦争そのものの遂行も性格も全然違ってきたことが分る。
すなわち、かつてのように部分的な戦勝や戦果を以て、祝杯に酔ってはいられなくなったのである。
いまや、東西両陣営は、その総力をあげて、BETAへの乾坤を決せねばならぬ時代に入った。
それと同時に、この東西冷戦という対立の形が、変化してきた。
世界各国は、一対一で戦うか、変じて、その二者が結んで、他の一へ当るか。
そういう国際的な動きや外交戦などに、より重大な国運が賭けられてきたものといってよい。
大戦の舞台裏には、なお戦争以上の戦争がつねに人智のあらゆるものを動員して戦っている。
その様な表裏の様相を、この時代の戦争にもまた観ることができるのである。
マサキは暮夜密かに、京都市内の繁華街、四条河原を訪ねていた。
そこは、榊政務次官の妾の経営するスナックであった。
榊、彩峰と共に酒杯を酌み交わしながら、密議を凝らしていた。
半酣(ほろ酔い加減)の頃、榊はマサキに向って、
「君に会わせたい人物がいる。
君も好むと好まざるとに関わらず、会わねばならんのだ」
間もなく、ある人物が尋ねてきた。
ドアを開けて入ってきた、開襟シャツにカンカン帽姿の男を、榊は指さして、
「内務官僚の、瀧元君だ。
彼は、私の大学の後輩で、今は警保局長(今日の警察庁長官)をやっている」
瀧元は一礼して、
「どうも木原さん、瀧元です。
貴方の事は、我々の方ですっかり調べがついている」
内務省警保局ということは、ただの警察の関係者ではなく、生え抜きの内務官僚である。
男は、経済安全保障にかかわる話をマサキの下に持ち込んだのであった。
「彼はね、三極会議の創設時からのメンバーで、外交問題評議会にも親しい友人を持っている。
ユングとかいう、怪しげな女の正体を探るにはもってこいだろう」
瀧元は、ようやく面をあげて、
「まったく貴方は、本当に大した男だ。
先のレバノンの事件と言い、これまで貴方が関わった案件には舌を巻くものがある」
そういって男は、高級国産たばこの「ピース」を取り出すと、火をつけた。
「おそらく貴方のような男は、今の斯衛にも陸海軍にもおらんでしょう」
「では、俺をその会合に連れて行ってくれるのだな」
「私の個人通訳という事で、氷室さんをお借りしたい。
貴方の場合だと、すでに人相が知れ渡っているし、むやみに表に出ない方が良い」
マサキは、しばらく黙考してから、
「美久は、ただの女ではない。
大変優秀な人形だ。大切に扱ってもらわねば困る」
すると、それまで、口をつぐんでマサキの様子を見ていた榊の妾は、眼を以て、彼の心を見た。
榊を陰になり、日向になり、支えてきた彼女にとって、同じような立場の美久が羨ましく思えたのだ。
囁くような声は、女の鳴き声となって、マサキの鼓膜を震わせた。
愛されていると思っていた榊の妾・祥子にも影の部分がある。
ミラもマライも、簡単に幸せを手に入れられないのは、世の常だろうか。
薄幸の美少女、アイリスディーナに対しても、そう言えるのではなかろうか。
もしかしたら、アイリスディーナは、俺に遠慮をしているのではなかろうか。
マサキは改めて、自分が不完全な人間であること再認識させられた。
「榊、貴様を見込んで、もう一つ、頼みたいことがある。
戦術機開発に携わっていて、なおかつ電子工学に明るい人間を集めてほしい。
それも、本人にもわからぬようにな……」
榊は、さっそくに、いぶかり顔をしてみせた。
だがマサキには、他人事であった。
彼には苦笑ものらしい。
「今、米国では新型の戦術機のソフトウェア開発が進んでいるらしい」
「新型?」
マサキの言う話は、おそらく本当の事だろう。
だが榊は、何となく、後味の悪さは拭いきれない顔つきだった。
「新型が何を意味するかは、分からん。
ただそいつは、想像を絶する性能を有したソフトウェアなのは、確かだ。
もし日本を通じて、ソ連の手に渡れば、これからの戦争は厳しいものになる」
脇で黙って聞いていた彩峰たちは、ぎょッと顔から顔へ騒めきを呼び起こした。
明らかなうろたえが表に出た。
しかしマサキは、気に掛けなかった。
「俺の方では、2か月前から、そいつを追いかけていた。
やっと、西ドイツと日本からの技術流出が影響しているらしいことが、分かったのだ。
そうなる前に、俺が新しい電子機器の会社を立ち上げて、奴らを潰す」
榊は、一驚した。
「どうして、私たちにそんな事を!」
「榊、お前は俺に関係したときから、すでに後戻りのできない修羅の道に入り込んでいる」
ぐっと、みな息をつめ、そしてどの顔にも、青味が走った。
「お前の妾も同じだ。
ならば……天のゼオライマーという庇護のもとに、権力をその手でつかめ」
マサキの思わぬ一言に、さすがの榊も、胸を掻きむしられた。
やはり彼も妾の祥子を愛していたというほかはない。
こんな愛憐を一人の女に集中して、理性も何も失いかけるなどは、これまで彼も覚えなかったことだろう。
とつぜん、自分の中の埋火があげた炎に、困惑していた。
……いつの世も愚鈍な大衆を導くのが、政治家の役目。
そんな使命を担う自分が、私情を持ち込むなんって……
しばしの沈黙の後、マサキは懐中からホープを取り出した。
煙草に火をつけて、燻らせた後、
「おい女、お前は祥子といったな。
祥子、貴様には、俺が作る、電子機器の会社、国際電脳の表の社長になってほしい。
顔の知れた俺や、代議士の榊、軍人の彩峰では、司直の手から逃れられん。
一方、お前は、ただの妾だ。政治家の妻ではない。
……とすると、色々と議会などでは追及されにくくなる。
悪いが、貴様の命、この俺に預けさせてくれ」
マサキはちらりと、祥子の顔を見た。
祥子の顔はどこか、寂しそうであった。
後書き
榊祥子は榊千鶴の生母です。
名前はネット上で調べたら出てきたので、二次創作なのかもしれません。
公式資料である「Muv-Luv Memorial Art Book」では、離婚した千鶴の母としか書かれていませんでした。
千鶴の名字が離婚した父と代わっていないのは、離婚しても旧姓に戻さない女性が一定数居る為、不自然ではありません。
瀧元は、榊政権の重臣、瀧元官房長官です。
故・後藤田正晴・元官房長官がそうだったように、内務官僚にしました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
如法暗夜 その2
前書き
ミラさん出番回。
場面は変わって、米国の首都ワシントン。
官衙の中にある連邦準備制度理事会の本部ビルでは、白熱した議論が行われていた。
「何、カナダ国内の金の相場が下がっているだと」
「はい、なんでもすでに市場関係者の間では、多量の純金が出回っているとのうわさが……」
「由々しき事態だ」
「早急に対処します」
マサキが、カナダ国内に200トンの無刻印の純金を持ち込んだことは、北米の金市場に大きな影響を与えた。
その事は、米国の金融政策を取り仕切る連邦準備制度理事会に大きな懸念を抱かせた。
金の保有量が増えれば、ドル建て資産を長期保有する利点は薄れるのではないか。
カナダにおける、米国の影響力の低下を懸念する動きも出てきた。
「何者かが、金融市場に対して、金の供給量を増やしているのは間違いない。
これは、連邦準備制度、ひいては合衆国政府への宣戦布告ともいえよう」
「BETAの侵略に合わせて、金本位制を復活させる案を潰しに来るとは、いったい何者が……」
ここで、金本位制という物に関して簡単な説明を許されたい。
金本位制とは、1816年(文化13年)に、英国で始まった金貨を通貨の価値基準とする制度である。
その後、19世紀末に国際金本位制が成立したが、第一次世界大戦前後に停止した。
第一次世界大戦の際、各国が武器購入の代金として金塊を取引し、国庫から流出したためである。
大戦後、世界各国は、米国を皮切りとして、再び金本位制に戻す。
だが、1929年以降の世界恐慌下での深刻な金融不安の為に、金本位制は廃れることとなった。
第二次世界大戦後、米国は経済不安からの世界大戦を避ける目的で、世界銀行を創設し、米ドルを基軸としたブレトン・ウッズ体制を作り上げる。
その際、日本円は、1ドル=360円と固定された。
これは、日本にとっての円安の効果を生み、輸出が増大し、戦後復興の大きな要因であった。
なお、世界銀行を作った露系ユダヤ人、ハリー・デクスター・ホワイトは、ソ連の秘密スパイであったが、それに関する話は改めて機会を設けたいと思う。
連邦準備制度理事会での混乱は、各国の大蔵関係者(今日でいうところの財務・金融関係者)にまで波及した。
事態を重く見た、主要7か国の首脳は、早急に電話会談を行い、蔵相会合を行うことを決定した。
そして、日本の第二の都市、東京で開かれることとなったのだ。
さて、マサキに視点を戻してみよう。
彼は、金融市場の動きを注視はしなかった。
マサキの本当の狙いは金融市場そのものではなく、その混乱により表に出てくる影の存在を探ることであった。
この宇宙怪獣が闊歩する世界において、日本を支配する存在を探ることであったのだ。
彼は、京都市内の待合に、恩田技研の社長を招いて、密議を凝らしていた。
恩田技研では、社長室という物がなく、重役と社長が同じフロアを使っていた。
なので、こういった話し合いのたびに、マサキは身銭を切って、待合などに呼んでいたのだ。
待合とは、人との待ち合わせや会合のために席を貸すことを主とした飲食店である。
今日でいうところの料亭の事であり、今でも京都で茶屋といえば、待合茶屋の事を指す。
ただし、京都以外の場所で、茶屋という言葉は、出会い茶屋や色茶屋であった。
今でいうところの、連れ込み宿――俗に言うラブホテル――や、風俗店の類を指す言葉である。
なので、使用にはくれぐれも注意が必要である。
「恩田、お前の方で政財界の資金源を調べてほしい」
「はい」
「五摂家の連中の資金源となっている銀行の一つを見つけて、頭取と会う算段をしてくれ」
五摂家とは、日本帝国を事実上支配している、元枢府を運営する五大武家の名称である。
煌武院、斑鳩、斉御司、九條、崇宰。
この異世界では、元枢府とは別に、帝国政府が存在した。
近代的な帝国議会、内閣、大審院(今日の最高裁判所)があった。
現実世界に当てはめれば、イランイスラム共和国を構成する革命評議会とイラン政府の関係に例えられよう。
斯衛軍と帝国陸海軍の関係も、さながら革命防衛隊とイラン共和国軍の関係に近似していると言えよう。
「それは、まさか!」
「たとえば、崇宰や、斉御司でもいい。
奴らの政治資金の源泉となっている銀行の一つを調べるのよ」
「そうだな、大蔵省の破綻金融機関リストに載っていて、今は経営が回復した銀行の一つや二つを探って来い。
公的資金の注入がなされた銀行のリストが欲しい」
この時代では、民間銀行の監督管理は、大蔵省が行っていた。
金融行政が大蔵省から分離されたのは、1998年(平成10年)の行政改革以降である。
「五摂家の、金の出どころさえわかれば、日本の政界を牛耳るのは簡単だからな」
「では、いよいよ乗っ取る算段を……」
「金の流れさえ止めれば、俺の本当の敵が出てくるはずだ」
俺が動きさえすれば、必ず奴らは阻止しようと動いてくるはずだ。
この世界を牛耳る何者かが、牙をむいてくる。
その時の武器は、情報と金、そして天のゼオライマー。
銀行の一つや二つを乗っ取って、闇金の個人名簿さえ手に入れば、俺は権力と真っ向から戦える。
夕刻。
マサキは再び篁亭に来ていた。
理由は、個人用の大型コンピュータが、屋敷の別棟にあったためである。
この時代のコンピューターは、非常に高価なものであった。
IBMのIBM 5100ポータブル・コンピューターなどの卓上型コンピュータが、日本国内でも発売されていた。
だが一台当たり最低価格が8000ドル以上と大変高価であり、1983年の段階でも300万円ほどした。
車よりも高かったので、基本的には、大企業などの限られた部門が購入できたに過ぎなかった。
しかも処理能力は、今日の携帯電話やスマートフォンに劣るほど。
その為、ある程度の計算はIBMのSystem/370の様な大型コンピュータに頼らざるを得なかった。
篁は、戦術機の設計をする都合上、System/360、System/370を個人的に購入していた。
IBMの日本法人から市価の半値ほどで、購入し、特別の電算室を自宅に備えていたのだ。
ブラウン管とにらめっこするマサキに、後ろから声をかける人物がいた。
屋敷の主である篁であった。
「どうだ、ソフトウエアの解読は出来そうか」
マサキは、火のついていない煙草をくわえながら、操作卓を連打する。
鍵盤を打つカタカタという音が、部屋中に響き渡る。
「パスワードは説いた」
「そうか、それなら」
マサキは、焦ることなく、ブラウン管の出力画面を注視していた。
「慌てるな。
ただその建物の入り口に入ったにしかすぎん。
こいつにはRSA暗号という特殊な仕掛けがしてあって、鍵の長さが100桁以上を超えた難物さ」
「分かるように説明してくれ」
「暗号とは、元のデータや通信内容を第三者や外部から解読できない状態にする処理のことだ。
RSA暗号とは、2つの素数を使って暗号化と復号を行う仕組みで、素因数分解を使う。
こいつを解こうとしたら、その規則性を探すだけで何年もかかるのさ」
RSA暗号とは、素数を掛けあわせた数字の素因数分解の仕組みを利用した暗号技術の一つである。
1977年に三人の米国人によって開発された。
「高速演算処理能力のあるスーパーコンピュータが必要だが、そんなもんはこの世界にはそうそうあるまいよ。
おそらく、米国のIBMか、MIT(マサチューセッツ工科大学)、ペンタゴン(国防総省本部)……
そのどこかに、1,2台あるぐらいさ」
その時、ミラが部屋に入ってきた。
彼女は、マサキと篁のために、焼いたばかりのクッキー、――厳密に言えば南部風のスコーン――と、熱いコーヒーを持って来たのであった。
「私は学生時代に、MITの電算室に行ったことがあるけど、そんなものを計算できる代物はなかったわ。
せいぜいIBMのSystem/370が、ずらっと並べてあったぐらいだわ」
一瞬、マサキの表情がほころんだ。
ミラが食いついてきたことに気を良くしたマサキは、思わせぶりに、
「この情報さえ、分析できれば、無敵の武器を持つことになる」
「無敵の武器?」
これは誘い文句だった。
案の定、興奮していたマサキは、引っかかった。
「フフフフ、今からの時代、情報というのが一番の武器さ」
「えっ」
わざと意味ありげな表情をして、問いただした。
マサキが食いついてきて、説明してくれると踏んだからである。
「この世界を揺るがす、極秘情報さ。
そもそも、ユングとかいうマタ・ハリに目を付けたのは、この情報があったからさ」
ミラは、マサキのペースに乗っていると思っていた。
この美人妻は、俺の協力者。
そう確信したマサキは、さりげなくユングの持ち込んだ秘密の解析計画に関することを話した。
「この管制ユニットに組み込まれた機密情報は、戦術機開発メーカーの裏にいる銀行家や国際金融資本の利益の源泉や、陰謀の一部に繋がっている。
マライからその話を聞いた俺は、秘密の一端を暴く武器になる。
そう見立てて、この情報の解析を急いだ。
この機密は、いわば、敵を壊滅させるミサイルだ。
それを発射するための砲台が、必要になってくる」
「分析するにも、肝心のスーパーコンピュータは?」
「ただし、俺たちには、自由にできるスーパーコンピュータがある」
その時、ミラの手は、マサキの背中に置かれていた。
そして、肩に向かって撫でさすりながら移動していた。
「ゼオライマーに搭載された、スーパーコンピュータかしら」
その言葉を聞いたマサキは、途端に振り返る。
いつにない、驚愕の色を見せ、ミラをねめつけた。
「何故、それを!!」
思いがけない言葉であったのであろう。
マサキは、唖然とした表情で、ミラを見た。
「私は、F‐14の設計技師の一人よ。
飛行制御用デジタルコンピュータの開発や設計経緯は、詳しくハイネマンから聞いているわ。
セントラル・エア・データ・コンピュータの事を考えれば、それくらいは判りますもの」
ミラは、露骨な言い方をし、それとなくマサキの動揺ぶりを盗み見た。
驚愕しているのが、手に取るようにわかる。
「……」
淡々とミラが推論を話しているときに、マサキの気はそぞろだった。
余りにも、実際と同じをミラが言ったからである。
先ごろ生まれたばかりの、子息・祐弥の件で仲間に引き込んでいなかったら……
彼女に渡した、八卦ロボの資料の秘密をぶちまけられていたかもしれない。
そう思うと、率直にミラを計画に引き込んで良かったと、胸をなでおろしていた。
そして今回の件は、ミラを油断のならない女技術者と思いはじめたきっかけでもあった。
現実世界のF-14でも、最新鋭のマイクロプロセッサーが搭載されていた。
F‐14には、専用の外気情報処理機が標準装備されていた。
それは、高高度を高速で飛行する為に、必要とする、気圧高度・対気速度・外気温度などを出力する装置である。
そして、そのほかに専用のフェニックスミサイルを誘導するレーダー用に、強力な火器管制装置も同時に搭載していた。
ミラは、ゼオライマーの電子光学装置について、うすうす感づいていた。
1秒間に浮動小数点演算が、百穣回以上できる、スーパーコンピュータ。
一度に、500発以上のミサイルを、正確無比に制御可能な、イージスシステム搭載駆逐艦並みの火器管制装置。
(1穰とは、1,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000.である。
それ以上の単位で、ぎりぎり使われているのが、溝、澗、正、載、極、である。
なお、それ以上大きい数の単位である、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数。
以上は、仏典に由来する数の単位である)
ミラは、F‐14を設計に携わった経験から、グレートゼオライマーの事を、マサキが驚くほどに理解していた。
それらの物が、ゼオライマーには搭載されていると、見抜いていたのだ。
後書き
ユウヤ・ブリッジスの漢字名、祐弥は公式表記です。
この世界線だと、最初から篁祐弥ですけどね……
個人的な意見ですが……
この数話ほど、他の二次創作者を模倣して、原作重視の話を書いてきました。
ですが、非常に肩が凝ってきたので、近いうちに、また好き勝手な政治の話に戻ろうかと思います。
書いていて楽しくない話は、ダメですね。
段々と18禁原作のエロゲーの二次創作というより、架空戦記、仮想歴史小説になってますね。
読者の皆様、ご意見、ご感想お待ちしております。
如法暗夜 その3
前書き
資料集によれば、1979年にサンタフェ計画が大統領に上がる設定なので、年内に完成させるという無茶ぶりな話になりました。
米国の首都、ワシントン。
ホワイトハウスにある執務室から、一人の男が、窓外の沈みつつある夕陽を様子を眺めていた。
「私は、男としての、己が夢を達成しつつある。
男は、まず権力だ。
権力を持ってこそ、自分の夢を実現できる……」
男の名前は、ハリー・オラックリン。
この異界の米国において、ジェラルド・R・フォードの後を継ぎ、第38代米国大統領になった人物である。
「いくら荒稼ぎした新興成金でも、権力の力の前には平伏せねばならない。
暴力も、国家権力の前には、弱い。
どんなやくざ者でも、国家権力の前にはひざまずく……」
オラックリンは、名実ともに米国の覇者であった。
ニクソン大統領の辞任を受け、副大統領から昇格し、選挙の洗礼を受けていないフォード。
彼を、経済界からの膨大な選挙資金協力という一刀のもとに下し、勝利した。
「私は、200万のアメリカ合衆国軍の全てを握る、最高司令官だ。
中近東の土侯や、南米の独裁者たちも、私には、おべっかを使い、恐れおののく……
私が守ってやらねば、彼らは、すぐにも生命の危機に曝されるからな」
前任者のフォードが、各州での選挙戦を全敗した理由は、東欧に対する認識であった。
フォードは1976年の選挙戦の最中、『東欧はソ連の占領下にない』という失言を発した。
それは、民主党系のネオコングループに属するユダヤ人たちを激怒させるに十分だった。
(正確には、民主党系の場合は、リベラルホークと呼ばれるが、本作ではネオコンという呼称で通す)
この事によって、世論は、民主党の支持者ばかりか、無党派層まで、反発を招いた。
ソ連の強権的な支配にあえぐ、東欧の実情を報道を通じて知っていた良識派の市民たち。
彼等は、対ソ対決姿勢を鮮明にする民主党のタカ派に、票を移す結果となった。
「私は、苦労に、苦労を重ねてきて、この地位まで上り詰めたのだ。
当然、その苦労も、報われねばなるまい……
私は夢は、核をはるかに超える、世界最強の超兵器の所有だ」
米国のロスアラモスで開発された核爆弾。
この新兵器の独占をもって、世界平和を実現するという米国の夢は、国際金融資本の陰謀とソ連の諜報活動によって、脆くも崩れ去った。
FBIやマッカーシー議員らによる啓発によって、米国内のスパイ摘発運動を行うも、すでに時遅し。
核開発技術は、KGBの諜報作戦によって、堂々と、モスクワに持ち出された後だった。
ソ連を通じて、中共などの共産陣営に渡り、優れた核技術者も米国から流出した。
「生産設備も、ノウハウも、何もかも手に入れたが、最大の夢である超兵器が手に入らない。
何百という科学者たちと引き合い、試作品を見てきたが、私の希求を満たしてくれるものはなかった……
だが、見つかったのだ。ついに、その材料が……」
男は、興奮した面持ちで、コイーバの葉巻を燻らせる。
ハバナ産の高級銘柄で、キューバの急激な共産化以後、容易に手に入らない珍品であった。
「あのBETAが作った、G元素という物質が、世界最強と、にらむ。
この目に、狂いがあろうはずがない!
私は、自分の夢の実現のために、あの原材料を手に入れねばならない」
1979年に入って、米国の対BETA戦略は岐路を迎えた。
それは大型船外ユニットを起源とする戦術機ではなく、G元素を由来とする新型兵器開発である。
g元素とは、1974年にカナダのアサバスカ湖で、グレイ博士が発見した新元素。
ムアコック・レヒテの両博士が発明した新型タービン、通称、ML機関。
この新装置によって、発生させる重力操作は、既存の兵器は、ほぼすべて無力化させる。
また、同機関は、稼働の際、余剰電力として、原子力発電所を優に超える電力を発生させる。
それまで空想とされていたレーザーによる荷電粒子砲の実現の可能性が見えてきた
その事によって、BETAとの戦争に勝利し、地球の全覇権を握るのが、米大統領の夢であった。
場面は変わって、 ラスベガスの北西約130キロにあるアメリカ空軍ネリス試験訓練場。
ネバダ核実験場の近くにあるグルーム湖と呼ばれる場所。
公式には何もないことになっているが、地民たちは、そこに基地があることを知っている。
その基地は、パラダイスランチやレッドスクエアなど数々の異名をもつ、秘密基地エリア51である。
元々は銀や鉛の採掘場であったが、第二次世界大戦前、米陸軍によって接収された。
そして、冷戦期になると、CIAのスパイ偵察機の開発基地となった。
1955年、時のCIA長官リチャード・ビッセル・ジュニアは、ここを本部とした。
また、ロッキード社も計画に参画し、航空機設計者ケリー・ジョンソンを始めとするスタッフが常駐するようになった。
その基地に佇むウイリアム・グレイ博士。
木原マサキを仇敵とし、打倒を企む彼は、ここで、恐るべき巨大戦術機・XB-70を建造していたのだ。
「あの忌々しい、黄色い日本猿、木原マサキよ……
おのれゼオライマーめ、如何に機体を強化しようとも、必ず血祭りにあげてやる。
フフフフ……」
彼は自身の勝利を確信し、不敵の笑みをたたえた。
G元素を利用して重力操作を可能にする「ムアコック・リヒテ機関」。
その装置を転用した、大型戦略爆撃機XB-70。
設計メーカーは、米国の航空機メーカー、ノースアメリカーナ。
(ノースアメリカーナは、現実の航空機メーカー、ノースアメリカン)
戦術機開発に後れを取った同社は、この大型機で巻き返す心づもりであった。
では、大型戦略爆撃機XB-70について、簡単に説明をしてみたい。
全長120メートル、総トン数は3000トン。
乗員は、11名。
機長、副機長、飛行技術士、各1人、航測及び爆撃士2名、計5名が将校。
整備士兼銃手4名、無線手、レーダー係各1人、計6名が下士官兵という編成である。
この機体には、30ミリ機関砲のMk 44 ブッシュマスター II、計12門が、くまなく配置されている。
その他に、ミサイル垂直発射装置が、大小、計52セル搭載されていた。
その内訳は、以下のとおりである。
まず、全身の12か所に搭載されたMark41垂直発射システムは、36セル。
RIM-66スタンダードミサイルの他に、AIM-7スパローミサイル。
技術的には、核搭載型のトマホークミサイルの搭載が可能であるが、まだこの時代には未完成であった。
その他に、原子力潜水艦用のMark45垂直発射システムが2か所設置され、計16セルを備えている。
搭載武器は、RGM-6 レギュラス艦対地ミサイルの改良型で、艦対地巡航ミサイルであるRGM-15 レギュラスIIが搭載された。
このミサイルは核弾頭装備可能で、飛距離は1800キロメートルであった。
その頃、ワシントンの国防総省本部ビルには、米国政府の主だった面々が集結していた。
「議会対応で、遅くなりました」
上院議長が慌てて入ってくると、国務長官が、
「今、大統領閣下と連絡を取っているところだ」
そう話すと、間もなく操作盤にある大型モニターの画面スイッチを入れる。
テレビモニターには、自由の女神像に匹敵する物陰が映し出された。
「おお!」
一斉に、集まった閣僚から驚きの声が上がった。
「今のは、なんだ!」
薄暗かった倉庫の中に、一斉に照明が付けられる。
戦術機のおよそ数倍はある大型ロボットの姿が、闇の中から浮かび上がったのだ。
ネリス試験訓練場にいる米国大統領は、満面に笑みを浮かべながら、
「遂に完成したぞ。
これでサンタフェ計画も、最終盤だ」
ついに姿を現した戦略航空機動要塞XB-70。
格納庫のハッチが開くと、そのまま、基地の上空に飛びたつ。
機体は、戦術機形態から、航空機形態となり、国防総省本部へと発進した。
「こ、これは……」
「す、凄い。
これが、グレイ博士の戦術機か……」
感嘆する閣僚や三権の長をよそに、CIA長官は冷めた一瞥をくれていた。
(「グレイ博士の戦術機……悪魔のマシンが完成してしまったか」)
CIA長官は、BETA由来のG元素を警戒する数少ない人物であった。
これで、核戦力以上の暴力兵器が、全世界に拡散するのではと、ひとり懸念をしていた。
「大統領閣下を、お迎えするぞ」
「おお!」
一時間もしないうちに、戦略航空機動要塞XB-70は、国防総省本部の付近にあるワシントン・ナショナル空港に降り立った。
機体のすぐわきにタラップ車が横付けされ、搭乗ハッチが開く。
間もなく、濃紺のパイロットキャップに、赤い航空機要員のつなぎ服を着た大統領たちが下りてきた。
この機体は強化装備なしでも運用が可能なため、搭乗員たちは、米軍共通の航空機用つなぎ服を着ていた。
「大統領閣下、ワシントンへ、ようこそ」
「G元素爆弾の準備は、どうなっている」
タラップの上から大統領の下問に対して、階下の国防長官は、最敬礼の姿勢のまま、答えた。
「合衆国の三軍ともに、準備は万全です」
ここでいう三軍とは、米国の陸海空軍の事ではなく、米軍全体の事を指す表現である。
米国の武官組織は、陸海空軍、海兵隊、沿岸警備隊の5大軍事組織からなっていた。
通常は、三軍といえば、陸海空軍ではあるが、国防長官の言葉の意味は違った。
古代支那の「上・中・下・軍」に由来する言葉で、政府が管理する軍事組織を意味する代名詞である。
国防長官の一言に、大統領のほおが緩む。
「よし。フハハハハ」
大統領は、悪魔の哄笑を漏らした。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
今日(5月11日)の返答は、遅くなるかもしれません。
今後に関して言えば、公私ともに多忙なので、2週に一回に連載速度を変えるか、毎週土曜5時のままにするか、悩んでおります。
正直、資料を集める時間も、推敲する間もないので、不十分かなと悩んでおります。
忌憚なき意見を頂けたら、幸いです。
忌まわしき老チェーカー その1
前書き
東西の諜報合戦の回。
荷電粒子。
それは、電気を帯びた高速の粒子のことである。
一般的には、電子や陽子、または原子から電子をはぎ取ったイオンなどを指す言葉である。
けして我々にも縁の遠いものではなく、太陽から出る太陽風を通じて、地球に降り注いでいる。
太陽風の、その影響する距離は、太陽系も超えてはるか150億キロメートル先にある、星間ガスとの間に球状の終端衝撃波を形成するまで吹き渡るほどである。
荷電粒子は、この強力な太陽風ばかりではなく、人工的に再現できるものでもあった。
超大型の加速機を使ったレーザー実験設備や、ガン治療に使われる粒子線治療装置ですでに実現された技術である。
では、なぜ兵器転用がされていないのか。
それは膨大な電力を消費し、巨大な加速器と言われる粒子にエネルギ-を与える機械が必要だからである。
それ故に、現実世界ではいまだ艦船はおろか、軍事基地にさえ、設置できるレベルではない。
そして、荷電粒子の特性として、磁場により容易に偏向するので、地磁気の影響を受けやすい。
故に実用化しても、地球上では発射することが、簡単ではないのだ。
ただし、天のゼオライマーのように、次元連結システムによって、あらゆる次元や時空間を超越することが可能ならば、荷電粒子砲は容易に発射可能である。
またエネルギーの問題も、全宇宙のエネルギーを集めることが可能な次元連結システムを用いることが可能ならば、実に簡単に解決するのであった。
エネルギーの問題が解決しても、他の問題が立ちはだかっていた。
それは粒子加速器の小型化である。
例えば、艦船や航空機に搭載するにしても、最低でも人体並みに小さくすることが出来ねば、荷電粒子砲は武器として使えない。
要塞や重要拠点に設置するにしても、最低でもプレハブ並みに小さくする必要がある。
現実世界にあるガン治療の粒子線治療装置でさえ、数メートルから数十メートルの加速器が必要である。
兵器として基準を満たすものは、どれほどの大きさになることやら。
そういう経緯もあって、現実世界は未だに空想の域を出ない兵器であった。
ロスアラモス研究所のムアコック博士は、荷電粒子砲の実用化を急いでいた。
それは、宿敵と一方的に決めつけた木原マサキ。
彼の作ったマシン、天のゼオライマー及びグレートゼオライマーを打倒するためである。
ゼオライマーがいかに危険なマシンであるかは、ロスアラモス研究所は早くから情報で手に入れていた。
それは、FBIやCIAを経由した情報ではない。
シュタージのハインツ・アクスマン少佐が作ったとされる、一冊のファイルが始まりであった。
アクスマンはどのようにして、ゼオライマーの情報を手に入れたのだろうか。
それはアクスマンが、鎧衣から貰った私的な文書を基に、想像で書き上げた偽造資料であった。
鎧衣は、私文書を作り、アクスマンに渡した。
彼から、東ドイツの国家機密である、東ドイツ政府の財政状況の秘密を手に入れる為である。
そして、アクスマンは、その私的文書を基にし、針小棒大にゼオライマーの性能を書きなぐった。
その文書は、アクスマンが東ベルリンに滞在している西ドイツ常設代表部の職員に渡した。
そこから連邦情報局のアリョーシャ・ユングを経由し、米国に渡ったものである。
東西ドイツ間では、1972年12月21日の東西ドイツ基本条約以降、奇妙な外交関係が樹立された。
両国ともに、常設代表部というという非常設の外交使節団を、それぞれの首都に設置した。
1961年のウイーン条約とは別に、独自の外交ルールに基づいて、双方の常設代表部は運営された。
双方ともに代表は、東ドイツ外務省と西ドイツ国務省の職員であったが、連絡は相手政府に行くような仕組みになっていた。
では、双方の常設代表部の簡単な説明をしてみたい。
西ドイツの常設代表部は、正式名称を連邦共和国常設代表部と称した。
東ベルリンの建設アカデミーの元校舎に、1974年から1990年まで存在した事実上の大使館の事である。
世人は、「白い家」と呼んだが、シュタージは「監視対象499」と呼んで忌み嫌う場所であった。
そして、公式の外交使節ではないので、大使や公使とは呼ばれず、代表と称した。
また、東ドイツ側も同様に、西ドイツの臨時首都・ボンに常設代表部を設置した。
正式名称を民主共和国常設代表部と言い、4階建ての白い建物で、全ての窓枠には金網がはめ込んであった。
周囲を高いフェンスで守られ、西ドイツ警察の選りすぐりの部隊が、24時間体制で警備をした。
ほかに職員用の住宅が隣接されており、代表用の邸宅もヘーゼルにはあった。
代表の邸宅は、1960年代に作られた別荘を改修したもので、これは2024年現在、取り壊されている。
さて、話をムアコック博士の所に戻したい。
彼は、アクスマンのファイルを見て、ゼオライマーの武装である次元連結砲が、荷電粒子砲であると勘違いしていた。
それは、アクスマンがCIAから30万ドルの大金をせしめるために作った全く根拠のない文書ではあった。
それらしい科学的な考察を、シュタージお抱えの科学者に書かせたのである。
実際は、マサキの作った次元連結システムも、それを応用した武器も全くの謎ではある。
だが、ムアコック博士は、その論拠を偽造文書に求めることにしたのだ。
情報の流出元である、当の東ドイツも、そのことをベルリン訪問中のCIA長官から聞いて慌てるほどであった。
急遽、事実関係の調査という事で、アクスマンが生前勤務していた中央偵察総局の関係者に対する査問会が行われていた。
議長を始めとする党の重役、シュタージ長官や内務省大臣(警察庁長官)などの治安関係者、国家人民軍情報部を前にして、中央偵察総局の副局長、ダウム保安少佐は、質疑応答に応じていた。
彼は、ユルゲンとアイリスディーナの母である、メルツィーデスの再婚相手であった。
「アクスマンが、BND経由でCIAに文書を渡したという記録は残っているのかね」
内相の問いかけに対して、ダウムは、
「彼は、極めて変質的な人物として、私たちの中では有名でした」
「変質的とはどういうことかね」
アーベル・ブレーメの問いに対して、ダウムは理路整然と応じた。
「BETA戦争で、ポーランドやハンガリー経由で逃れてきていたドイツ系ロシア人の事を……
西側に、高値で売っていたのです。
特に見目麗しい子供などは、養子斡旋の取り組みを通じて、西ドイツの素封家などに……」
「本当か」
「気に入った人妻などは囲っていたそうですが、東ドイツ国籍に書類を偽造して、横流しをしていました」
ダウム少佐の証言は、以下の通りだった。
アクスマンは、何時の頃からか高圧的に指導するKGBの事に嫌気がさして、西との密貿易に関与するようになった。
それは物品や国家財産ではなく、シュタージが捕縛した外人や不法移民であった。
西ドイツの囚人買い取りプログラムを悪用して、東ドイツに亡命してきたドイツ系のロシア人の身分証明を偽造して、人身売買に手を染めたという事であった。
中には志願して、ロメオ工作員になった男性や、ハニートラップ要員になった女性もいた。
だが、大部分は彼が西ドイツにいる金満家に売り払った被害者だった。
変質的な性欲解消を求める顧客に対して、眉目秀麗な男児や美少女を選抜して送り込んでいたという。
時々、KGBの連絡員の機嫌を取るために、大々的な接待をしていたという。
また、人身売買の売り上げ金の2割を上納し、モスクワへの連絡をさせないなどの裏工作を行っていた。
「実はアクスマン君に一度、なぜ、その様な取引しているかと聞いたことがあります。
そうしたら……」
「もうよせよ。みなまで言うな」
ダウム少佐の話をさえぎった議長は、話の途中からアクスマンが狂ったのは、この国の体制に原因があると気がついていた。
それにしても、対西ドイツ諜報で手柄を上げた人物が、西ドイツの闇社会とつながっていたことを信じられなかった。
非は、東ドイツ政府と、SEDの指導部にもある。
そのことは、議長に重くのしかかった。
過ぎたこととはいえ、どうすればいいのか。
米国の諜報機関までを巻き込んでいて、余りにも問題は大きくなり過ぎていた。
だが、一刻も早く解決の糸口を見つけねば、ならないことは確かだった。
「同志ダウム少佐、いらぬ心配をかけたな。
それにしても、アクスマンとシュミットのやり口は、酷い。
ともかく、今回の件は、我々に任せてほしい」
そういったものの、不安は広がるばかりであった。
何か問題があるとそれに追従するように、問題は起きる物である。
査問会で、アクスマンの忌まわしい話を聞いた翌日、今度はソ連からの外交秘密文書が届いた。
その内容は、ソ連が占領中のケーニヒスベルクをポーランドに割譲する代わりに、ポーランドが戦後自国領に編入したポメラニアを含む西プロイセンとの交換の提案であった。
仮にポーランドがこの提案を受け入れたとしても、問題は、東ドイツとポーランドだけで済む話ではなかった。
ポーランドとドイツの国境策定は、両国の意思を関係なしに、戦勝国が、オーデル・ナイセ線を国境として策定したのが始まりである。
東ドイツ政府の頭越しで、1950年にソ連が決めただけではなかった。
東方政策を進めるヴィリー・ブラントが、1970年に西ドイツ政府を代表して、ポーランドと平和条約を結んだ後であった。
ゆえに、この問題は東ドイツとポーランドでは決められない問題となっていたのだ。
早朝からの閣議で、この話が持ち出されたとき、出席者の全員がきょとんとするほどの事態であった。
時期も悪かった。
来週からの東京サミットには、オブザーバー参加として東ドイツの議長が呼ばれることになっているし、時を同じくしてポーランドのダンツィヒで米軍・NATO軍との合同演習にも東ドイツ軍は参加することになっていたからだ。
「どうする」
議長の声は、詰問調になっていた。
「同志議長、米国と日本の誘いです。
両方とも受けましょう。
そして、この機会を利用して、全世界にソ連の秘密外交の手段を暴いてやればいいのです」
参謀次長のハイム少将の答えに、アーベル・ブレーメは待ったをかけた。
「私としては、ソ連の提案に応じて、オーデル・ナイセ線の問題を解決したい。
ポーランドに編入された土地が戻ってくれば、戦後のわだかまりは、いくらか軽減される」
「ケーニヒスベルクを諦めろというのですか」
声を荒げて反論したのは、シュトラハヴィッツ中将だった。
「同志ブレーメ。
私は戦争中に戦車兵として、東プロイセンにいましたが、あそこで大勢の仲間を失ったのですよ。
それを簡単にソ連の国内の都合であきらめろというのですか。
絶対にそのような反論が出ることは間違いないでしょう。
それに西ドイツが絡んだとなると、先々の統一交渉にも影響しますし……
また、オーデル・ナイセ線の問題は、ポーランドとの友好関係も悪化します。
どうも今回の件は、ソ連の独自の思想に基づいた遠交近攻政策に思えるのです。
同志議長、どうか、熟慮を……」
議長は、何も言えなかった。
正に、青天の霹靂とは、この事である。
議長よりも先に、外相が口を出した。
「そのことに関して、私も同様の事を危惧しています。
かつてソ連は、建国当初、日米間のシベリア出兵に苦しめられていました。
そこで、カムチャッカ半島を米国に譲るふりをして、千島列島を近くに持つ日本の権益を脅かすようなそぶりをみせました。
この提案の結果、日米の外交関係は一時的にぎくしゃくし、米軍はシベリアからさっさと引き上げる事態になりました。
今回の領土交換の件は、50年前の日米離間の計略に似ております」
「難しい問題ですな」
先程から何か言いたげにしていたハイム少将は、ようやく割り込んだ。
「内々に、木原博士にでも相談なされては、どうでしょうか。
彼ならば、裏のルートで日本政府や米国政府筋に連絡を取ってくれるでしょう」
「そいつはいい」
外相は、にっこりとうなずいた。
閣僚たちの会話が続いていたが、議長の耳には入らなかった。
ソ連が、さりげなく最後通牒をポーランドと東ドイツに突きつけてきたのだ。
そう思うしかなかった。
解決したかに思えた領土問題を蒸し返して、統一交渉やEC加盟を遅らせて、東ドイツを国際的に孤立させるのだと。
「君も賛成してくれるね」
アーベル・ブレーメからいきなり言葉を振られたので、我に返った議長は、反射的にうなずいた。
だが、アーベルのその言葉は、
『東ドイツに降りかかった災難を、今すぐにでもどうにかしなければならない』
という、男の気持ちに拍車をかけることとなった。
後書き
6月1日以降は、2週間に一回の隔週連載とさせていただきます。
理由は、多忙のために執筆活動に差し障りが出てきたことと、質の低下を感じるためです。
断腸の思いですが、隔週連載になることをお許しください。
なお、毎週連載に移行する際は、今回のように事前連絡をいたしますので、その辺はご安心ください。
ご意見、ご感想お待ちしております。
忌まわしき老チェーカー その2
前書き
エルメネジルド・ゼニアは、イタリアの高級スーツ生地メーカーです。
ゼニア社といった方が有名かな。
同じころ、西ドイツ。
バイエルン州の南部に位置するオーバーバイエルン行政管区ミュンヘン郡。
この近郊にあるシュタルンベルク湖畔の田舎町、プラッハ・イム・イーザルタール。
深い森の中にひっそりとある建物は、周囲を2メートル以上ある高い壁に覆われていた。
緑の多い駐車場に一台の車が入ってきた。
渋いブルーグレーのメルセデス・ベンツの280SEセダンから出てきたのは、一人の紳士。
(W116.024)
ボルサリーノの濃紺のソフト帽に、エルメネジルド・ゼニアの濃紺のシングルブレストスーツ姿。
「これか。BNDの秘密本部とは」
男の目的は、BNDではなかった。
この秘密機関の創設者である老人をおびき出すべく、BND本部を訪れていたのだ。
鎧衣は、トランクからジュラルミン製のアタッシェケースを取ると、BND本部の中に入っていった。
駐車場の近くにある一般来訪者専用の入り口から、訪問窓口の受付に直行する。
「もう閉館ですよ」
まだ14時にならない時間である。
さっとアタッシェケースを受付嬢の目の前に見せつける。
「このカバンが、なんですか」
さりげなく受付嬢に鋭い視線を投げかけた。
その時だけ鎧衣の目は鋭くなるも、直ぐに柔和な表情に戻った。
「私の名刺代わりに、クラウス・キンケルさんに。
お会いしたいのでね。ぜひ」
「オホホホ、誰に会いたいですって」
「ここの責任者のクラウス・キンケル長官に」
BNDの第3代長官のクラウス・キンケルは、弁護士出身で、当時43歳。
西ドイツ政界で権勢を誇ったハンス=ディートリヒ・ゲンシャーの秘蔵っ子として有名であった。
史実において、ゲンシャーは、1974年から1992年までの18年間外相の地位にあった。
彼は、作家トーマス・マンが、1952年に語ったとされる言葉を座右の銘にして行動していた。
『我等が求めるのは、欧州あってのドイツ国家であり、ドイツ国家あっての欧州ではない』
このような人物であったので、西ドイツは無論、東ドイツでも彼の人気は高かった。
史実での統一直後後、彼が率いた自由民主党への東ドイツ国民の入党が相次ぐほどであった。
無論、ゲンシャーの対東欧、対ソ融和姿勢は、ワシントンから早い時期に警戒された。
そして彼のその様な態度は、東ドイツに付け入るスキを与えるのに十分なものであった。
ここで、ゲンシャーという人物の過去を振り返ってみよう。
彼自身は、ハレ出身で、青年期に国家社会主義労働者党の正式党員となり、国防軍に志願した。
東ドイツ建国後は、ドイツ自由民主党に参加していったが、1952年に亡命し、自由民主党に入党した。
1954年に青年部副部長になったのを皮切りに、1965年に政界入りし、1969年には内相の地位をえた。
受付嬢の態度は終始、東洋人の男を馬鹿にしたままだった。
冷めた一瞥を男にくれたまま、顔をゆがめて、
「気は確かですか、旦那。
紹介状もなしに逢おうだなんて……
まあ一年ぐらい待ったら、お断りという返事ぐらいはいただけるかしら」
ナインとは、英語でのノーである。
鎧衣は、言外に帰れと言われたも同じであった。
「この資料を見たら、会って下さると思うんですがね」
「ちなみに、何の資料?」
「ゼオライマーに関する資料です」
「オホホホ、あなた、新聞記者かしら。オホホホ」
「私は、鎧衣左近。
ただのしがないサラリーマンです」
「どこかで、聞いた名前ね」
受付嬢が困惑する間に、鎧衣は一人でエレベーターホールまで直行しようとする。
「ちょ、ちょっと、お待ちなさいよ。あんた」
受付嬢は、引き出しから黒の自動拳銃を取り出す。
それは、ザウエル・アンド・ゾーン社の、最新式のP220であった。
しかし鎧衣は、不敵の笑みを浮かべるだけで、堂々とエントランスホールの中に入っていった。
その後を、受付嬢は、すごい剣幕で追いかける。
まもなく、鎧衣の目の前に現れたスーツ姿の若い女性。
彼女は、後ろで拳銃を構える受付嬢に、こう忠告をした。
「そんなもの、おしまいなさい」
受付嬢が、自動拳銃をしまったのを見届けた後、件の女性は会釈をして来た。
「私は、クリステル・ココットと申します。
ここの相談窓口の担当官をしております」
若い女の顔を見た瞬間、鎧衣にはピンとくるものがあった。
目の前の娘は、ただの女子職員ではない。
恐らく、BNDお抱えの女スパイであろうと……。
年のころは、18から20歳前後か。
ココットという名前は、ドイツ人の姓ではまずない名前だ。
おそらく、フランス語のcocotteに由来する偽名であろう。
cocotteの意味としては、小ぶりの蓋つきの両手鍋の事を言い、煮込み料理一般をさす言葉であった。
特殊な事例としては、第二帝政期からベル・エポックにかけ、高級娼婦の代名詞となった。
今日では、かわいこちゃんという言葉の意味に変化している。
ココットとは、なかなか、しゃれた偽名を付けたものではないか。
鎧衣が不敵に笑うと、若い女は、妖艶な笑みを浮かべながら、彼の方を向いて。
「今、クラウス・キンケルは留守にしております。
お部屋を用意しますので、そちらでごゆっくりお待ちください」
別室に連れていかれた鎧衣は、そこでキンケル長官を待つことにした。
もっとも、彼は、女の言葉を信じていなかった。
事前に把握していたキンケル長官のスケジュールでは、連邦議会でへの出席をしている最中。
しかも、連邦議会の場所は、ノルトライン=ヴェストファーレン州の南端にあるボン。
ここバイエルン州ミュンヘン郡にある、プラッハ・イム・イーザルタールから450キロ先だ。
おそらく女は、この監視カメラ付きの部屋に、閉じ込めておくのが目的。
もう少ししたら、西ドイツ軍の警備兵を大勢連れてきて、尋問でもするつもりだろう。
胸ポケットから取り出したダビドフの葉巻に火をつけて、暫しの時間を過ごすこととした。
案の定、女は一人で来なかった。
後ろから黒い覆面を付け、深緑色の西ドイツ軍の野戦服を着た一群を引き連れてきた。
彼らの手には、最新鋭の短機関銃、ヘッケラー・アンド・コック社のMP5が握られていた。
この小銃は、1960年代にはすでに完成していたが、売り上げは決して芳しくはなかった。
短機関銃としては自動小銃並みの値段で、対抗するトンプソンやイングラムM10、スエーデン製のカールグスタフm/45と比すると、高価格帯であった。
事態を変えるのは、1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。
同事件において、西ドイツ警察精鋭である連邦国境警備隊のGSG-9が、人質救出作戦にこのMP5を用いた。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に所属する4名のハイジャック犯を、5分の間に無力化した。
正確な射撃を行うMP5は、捕らえられていた90名の乗員・乗客を傷つけることなく、三名のテロリストを射殺し、一命を捕縛することに成功した。
この事は、MP5の国際販売戦略に裨益した。
今日では、西側先進国の法執行機関において、短機関銃といえば、MP5という不動の地位を得ることとなったのだ。
「何が目的なの、貴方の目的は何なの……
お金なの」
丸腰の鎧衣に向け、女は銀色のP9S拳銃を向ける。
その途端、ピューンという音とともに、銃弾が拳銃をかすめた。
女はマグナム弾の衝撃で、持っていた銀色の自動拳銃を取り落とした。
周囲の人間は、一瞬の出来事に理解が追いついていないようだった。
まもなくすると、その場に、拍手が鳴り響く。
応援として来ていた西ドイツ軍の兵士たちが振り向くと、一人の男が立っていた。
「やはり、欧州随一のスパイ組織、ゲーレン機関となると……
その辺の、やくざ者顔負けの、興味深い見世物を披露してくれる」
スミスアンドウェッソン社の回転拳銃を手にした、若い東洋人。
薄い灰色の長袖の開襟シャツに、黒のスラックスなどを着ているところを見ると、大学生風である。
「誰だ……、お前は!」
「俺は、木原マサキ。
人は、悪魔の科学者と呼んでいるぜ……」
マサキは周囲を見回し、8インチのM29回転拳銃を懐中にしまう。
「木原……、アッ!!」
木原マサキという名を聞いた女は途端に驚愕の色を示す。
「撃たないでッ!」
マサキは、周囲の喧騒をよそに不敵に笑った。
「やるわね。
でもあなたは生き延びて、ここを再び出られない……」
ココットの言葉はかえって逆効果だった。
マサキの感情を刺激し、興奮させ、鼓舞させた。
もう抵抗しないという確信を、マサキに擁かせたのか。
マサキのやり方を変えさせることとなった。
「お前より、俺の方が優位になっていることを忘れないでほしい」
これは、自分の立場を逆手に取った、マサキの誘いの言葉であった。
果たせるかな、ココットは去られては困ると思ったか、マサキの方に歩み寄った。
「何ですって」
ココット自身の驚きと焦りが、体の動きにも声にも、顕著に表れていた。
こんなはずではない……という思いは、マサキへの畏怖へと変わっていった。
焦りに焦らされ、知らないうちにマサキの術中にはまって、感情的な驚きの声を上げてしまった。
「今撃てば、永久にゼオライマーの秘密は手に入らない。
それでもいいのか!」
マサキは、この異界において、西ドイツにとって、かけがえのない情報源の一つであった。
長年シュタージの対外諜報部門・中央偵察管理局の機関長を務めた、マックス・ヴォルフの顔写真をもたらした等である。
マックス・ヴォルフは、1951年からシュタージ少将として、ソ連の意向のままに動き、KGBを支援した。
その際、米軍は彼の存在を察知していたが、人相までは把握できなかった。
それ故に、4000人の間者を操る怪人として、「顔のない男」と称され、恐れられていた。
マサキがシュタージ本部から盗んだ、膨大な顔写真と職員名簿の一部は、BNDの活動に陰ながら裨益したのだ。
そんな人物を、もし一発の銃弾で失うようなことがあれば……
ついにココットは、仕方がないとあきらめた。
「ま、負けたわ」
護衛たちは短機関銃から弾倉を取り除くと、静かに地面に置く。
そして、ココットは、彼等に下がるように命じた。
「みんな引き上げて。今すぐに!」
彼女の一言で、ドイツ軍のコマンド部隊は、片手で奉げ銃の姿勢をとる。
そして軍靴の音を響かせながら、即座に部屋を後にした。
「これで、邪魔者はいなくなったわ」
マサキは大きな不安をいだきながら、交渉のチャンスを狙っていた。
もっとココットが焦ってからと、何度も言い聞かせていた。
その点ではマサキの方が辛抱強かった。
むしろココットの方が、焦燥感を抱くほどであった。
「さあ、早く!貴方の条件を言って」
言葉を切ると、ココットはタバコに火をつけた。
銘柄はアール・ジェイ・レイノルズ社のセーラム。
フィルター付きのハッカタバコで、婦人層に人気の商品であった。
「ゲーレン機関創設以来の、過去30年の外国人スパイ名簿が欲しい」
「ホホホホ、そんなものがある訳ないじゃない。
スパイは過去を抹消しているのよ」
教えることはココットの立場上、出来なかった。
BND本部の資料室に手を引いて導けば簡単なのに、あくまでも非協力の姿勢を崩さなかった。
「給与明細書ぐらい残っているだろう。
BNDはいかにCIAのドイツ出張所とは言えども、出納帳ぐらい残っているだろう。
どのスパイにどれだけの金額を払ったか」
ココットの吸うセーラムのハッカ特有の強烈な匂いが、部屋中に広まる。
その香りに酔いながら、しかし鎧衣は、話がまだ終わりではないという確信を抱いた。
かつて同じような経験があったからだ。
特別な情報に接触した、実務経験の少ない若いスパイというのは、興奮のあまり相手の術中にはまる。
その様なことが、彼の経験上、多々あったからだ。
「ゲーレン機関の創設メンバーに会わせてくれ。
あんただったら、それくらいの事は簡単に出来るだろう」
夕刻、プラッハ・イム・イーザルタールから程近い、シュタルンベルク湖畔のベルクに来ていた。
シュタルンベルクこの東岸にあるこの村は、バイエルン候の為に作られた離宮の一つがあった場所である。
そして、第四代バイエルン王のルートヴィヒ2世終焉の地でもあった。
近くから遊覧船は出ているが、湖畔にある多くの城は、いまだ個人所有で、観光地というのにも程遠い。
人口5200人ほどの寒村で、本当に何もない、辺鄙な場所であった。
(1970年当時。2018年現在の人口は、8296人)
マサキが、このような場所に来たのは、訳があった。
ここはバイエルン州有数の高級住宅地であり、連邦政府関係者の隠居所の一つでもあったからだ。
閑静な住宅街の中にある、一軒の住宅。
それはBND創設メンバーの一人で、ゲーレン機関の長の邸宅であった。
屋敷に着いて、20分ほどすると、一人の老紳士が杖を突いて現れた。
年のころは70歳過ぎであろうか。
「ラインハルト・ゲーレンじゃ。
BNDの創設者でもある」
老人は言うなり、マサキ達が座るテーブルに腰掛けた。
メシャムのパイプを取り出すと、タバコを詰め、火をつける。
「そりゃ、無理という物だ。
スパイが顔と本籍地を知られたら、どうなる」
紫煙を燻らせている老人やココットに合わせるようにして、マサキもタバコに火をつけた。
「しかも、金銭授受の資料まであったら、それは死刑宣告を出されたも同じだ……
教えるわけにはいかんね」
老人は改めて、マサキの方を向いた。
不敵の笑みを浮かべているマサキが、何とも不思議だった。
「だが、わしらはゼオライマーの秘密が欲しい。
ある人物に 届けなければ、我らの様な闇の住人は、それこそ闇の中に沈んでしまう」
「貴様らを消せるような存在があるとは思えないが……」
「それがあるんじゃよ」
後書き
クリステル・ココットは、第7巻と外伝に出てくる西ドイツ軍の将校です。
なんで西ドイツ軍の将校がBNDに、という答えは次週以降に明かします。
ご意見、ご感想お待ちしております。
追記:
6月1日以降は、第1、第3、第5土曜日の午前五時からの投稿になります。
第2、第4土曜日は、お休みさせていただきます。
忌まわしき老チェーカー その3
前書き
申し訳ありません。
本日は公開が遅れました。
「では、木原博士……」
ゲーレンは、初めて自己の秘懐を解くかの如く、膝をすすめて、言い出した。
「ズバリ、ビルダーバーグ会議じゃよ。
まあ、外交問題評議会が米国の見えざる政府ならば、ビルダーバーグは、米欧の陰の政府といえるじゃろう」
ゲーレンは、重たい口振りでいった。
その瞬間、はっと、鎧衣の眼が、真剣になって振りかえった。
ビルダーバーグ会議とは、欧州における政財界のトップによる秘密会議の事である。
一説によれば、蘭王室の王配殿下の提案によって始まったと流布されている。
表向きは対ソの資本主義国連合を作るという名目で始まったと関係者の証言にある。
オランダのオーステルベークにあるビルダーバーグ・ホテルで結成され、第一回会合が開かれた。
そのことから、ビルダーバーグ会議と称されるようになった。
参加者はおよそ100名前後。
その大部分が、24名のヨーロッパのメンバーと15名のアメリカのメンバーから成る運営委員会によって招待され、招待者のリストは毎年変わる。
参加国のすべて北米と西ヨーロッパからで、毎年、カナダ、西ドイツ、イギリス、フランス、オーストリアなどで開催されてきた。
会議は原則非公開で、交通費と宿泊費は参加者が負担する。
配偶者や秘所を同行させることは認められておらず、単身で参加し、専属の護衛が付いた。
三日間の会議期間中は、会場内に缶詰めになり、会場外の警備は開催国の軍の特殊部隊が行った。
「いま、世界に冠たるこのドイツを悩ませ、開闢以来の大問題となっているのは、東西冷戦と国家の分断じゃ」
「このドイツ再統一の問題を解決するためには、どうしても欧州各国間の協力が不可欠じゃ。
そこで、われわれは各国間の利害を調整して、自分たちの賛同者を増やす必要がある」
「ちょうどスターリンが死んだ頃じゃった。
ポーランド人の社会主義者、ジョセフ・レティンガーという人物が国際会議を計画した。
蘭王室に国婿として入ったリッペ=ビーステルフェルト公に対して、欧米の有力者を集めて、諸問題について定期的に討議する提案をした」
マサキは、ゲーレンの話にやや意外な顔した。
だがそれにも、否と顔を横に振って、
「蘭王室と西ドイツに、何の関係がある?」
ゲーレンは、怪訝な顔をするマサキの問いに答えて、
「リッペ=ビーステルフェルト公はな、われわれの古い協力者の一人じゃ。
彼は、若いころ突撃隊にいて、その後NSDAPの正式党員になり、経歴を洗う為に民間に下った。
IG・ファルベンインドゥストリーに入った後、蘭王室に婿として入った。
戦争中もカナダに疎開せずにロンドンにいて、その情報をベルリンにもたらしてくれていた」
「!」
連合国側も馬鹿ではなかった。
リッペ=ビーステルフェルトの弱みは、NSDAPの正式党員という事であった。
その秘密を世間に明らかにすると脅しをかけて、その秘密会合の団体を作らせた面がある。
彼を利用したのは、そればかりではない。
欧州の王室や産業界の重鎮と幅広い深交があり、 おあつらえ向きの仲介者だったからだ。
無論、リッペ=ビーステルフェルト公自身も、ビルダーバーグ会議を利用した面がある。
国際組織を隠れ蓑にして、第三帝国の再建をもくろんでいた節もあった。
「ビルダーバーグ会議は、第三帝国の世界征服思想の隠れた継承者って訳か……」
「そうみてもらっても構わん」
鎧衣は、初耳なので、驚きの目をみはった。
「しかし、蘭王室の最高権力者が、なぜ……」
「人間だれしも、手に入れた権力を使ってみたいという、潜在的な欲望があるからじゃよ」
そういった後、ゲーレン翁は、笑いだして、
「フォフォフォ……。
これがただの新興成金とか、マフィアの首領だったら、やりたい放題し放題。
だがよ……
蘭王室の王配殿下じゃ、何もできない」
マサキは、何も言えなかった。
裏事情を聞いて何になるのだろう、という気持ちだったからだ。
「朝遅くに宮殿から執務室に行って、報告を2つから3つ聞いて、あとは何もすることがない。
国王じゃなくて、ただの女王の配偶者だからな……」
饒舌に話すゲーレンを見ながら、マサキは新しいタバコに火をつけた。
如何に権力者や支配者となっても、何も出来ないことがあるかと、関心を新たにした。
「精々、どこかの役所の長を叱るぐらいが、関の山……
宮殿に帰ったら、善き夫、善き父を演じねばなるまい。
やはりなんにも出来んで、羽目を外すことが出来んだろう。
酒にしたたかに酔う事すらできずに、まずい飯を食って、品行方正に過ごす」
一瞬、テーブルに座っているココットの方に目をやる。
さしもの彼女も、ゲーレン翁の話は初耳だったようで、黙って聞いている様子であった。
「権力がなければそれでもいい、金がなければそれでもいいかもしれない。
だが、金持ちからも有り余るほど持っていると来てる……」
鎧衣は、苦笑をゆがめて、
「しかも、今の地位に上り詰めるまで、かなりの荒事をやって来たとなると……
今の何も出来ないことには、我慢の限界が出てくるわけですな」
「そういう事だ」
室内は、煙の濃度が異常に高くなっていた。
この場に同席している全員が、何かしらの方法で紫煙を燻らせていた為である。
「なぜ欧州各国の軍隊がF-4ファントムを止めて、F‐5フリーダムファイターを選んだか。
わかるかね」
「値段が安いからだろう」
「それは表向きの理由じゃ。
設備投資や整備の面を考えれば、ファントムの方が格安で、既存の技術で生産しやすい……」
「どういうことだ?」
「リッペ=ビーステルフェルト公にはな、弱みがあって、色々と金がかかる面がある。
公開されている王室予算を使うわけにはいかんし、または税金でということも出来ん。
そこでじゃ、ノースロックとロックウィードがそれに目を付けてな。
彼に、賂を送ることにしたのじゃよ」
「まさか、それが戦術機開発にも……」
「そうじゃ。
1956年の事じゃったかの、ドイツ国防軍へのロックウィード製の戦闘機の売りこみを進めた。
当時の国防相フランツ・シュトラウスも同席のもとで、F-104スターファイターを選定したのじゃ」
F-104スターファイターとは、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機である。
軽量で、機動性と高速性を極限にまで高めた機体で、米軍初のマッハ2級の超音速戦闘機でもあった。
西ドイツにおいては、916機のF-104が運用された。
だが事故率は非常に高く、およそ292機が失われ、未亡人製造機と称される機体でもあった。
日本でも配備され、栄光という愛称を持ち、三菱重工業がライセンス生産を担当した。
1986年(昭和61年)、米国からの援助相当分の36機が米軍に返還という形をとって、間接的に台湾に供与された。
「早く結論を言え、俺は忙しいんだ。
スパイのリストを出すか、出さないか……」
この時点でマサキは、質問者という意識を捨てて、対等になった。
彼は、ゲーレンの話が、ひと段落するタイミングを計っていたのだ。
「わしらに死ねというのと同じじゃ」
マサキは、その言葉がにわかに本当とは信じられなかった。
「じゃあ、勝手にすればいい」
マサキは、悠々と許可の言葉を告げる自分に自信が湧いた。
だが、本当の勝負はこれからだと気を引き締めていた。
「ではこうしよう。闇の組織を教えよう。
だが、わしらドイツ民族も、救ってくれ」
「いいだろう」
場面は変わって、西ドイツのケルン。
ここにある連邦憲法擁護庁の本部には、夜半というのに電話が鳴り響いていた。
「何、サラリーマンを名乗る怪しい外人がBND本部に乗り込んだだと!
乗り込んできたやつらは……」
「帰りやした」
「帰すな、この大馬鹿野郎!
手がかりが無くなっちまうじゃねえか」
彼等の後ろで、ワルサー社の自動拳銃P1を組んでいた別な男が、遮るように言った。
連邦国境警備隊(今日のドイツ連邦警察)からの出向者だった。
「ただのサラリーマンじゃねえな。こいつは面白くなってきたぜ」
男は、しり眼に振向いて、
「電算室に繋いでくれ」
「え」
「憲法擁護庁本部には、電算室があるだろう。
そこにはホストコンピューターがあって、ドイツに入国した外人の全データーがあるはずだ」
「はいッ」
それとは別に、同じケルンには、連邦政府所管の外人中央記録保管所という施設があった。
ここではドイツに入国した全外人のデータが保管され、逐一記録されていた。
後の1991年に露見することになるが、保管所の管理者はシュタージの工作員であった。
西ドイツに入国する人間の情報は全て、その日のうちに東ドイツに漏れていた。
さて。
地下一階の電算室では、謎の東洋人に関しての情報分析が行われていた。
操作卓を叩く音が部屋中に響き渡る。
「解析結果は出たか」
「へえ……」
電算室の事務官は、男にプリントアウトしたパンチカードを渡す。
「木原マサキ……。
日本帝国斯衛軍第19警備小隊所属。
ほう……天のゼオライマーのパイロットか……」
男は資料をめくりながら、もう一人のサラリーマンに関して問いただした。
「この鎧衣左近とかいうサラリーマン風の男が臭い。調べてくれ」
「はい」
ブラインドタッチで操作卓を打つと、ブラウン管に画像が映し出された。
そこには鎧衣の顔写真と生年月日が表示された。
NAME:SAKON YOROI
NATIONALITY:JAPAN
DATE OF BIRTH:16TH FEBRUARY 1945
「データはこれだけか」
「はい」
「臭いな。よし長官に相談だ」
連邦憲法擁護庁は1950年にドイツ国内に作られた諜報機関である。
共産主義者による西ドイツ国内の反憲法的活動の監視を主目的に設立された。
だが初代長官のオットー・ヨーンを始めとし、その多くがKGBやシュタージのスパイの浸透工作を受けていた。
故に、捜査情報が長官室に上がった時点で、KGB支部に通達されるという馬鹿げた事態に陥っていたのだ。
1968年の学生運動「5月革命」以降、世論に迎合し、旧ドイツ軍関係者やナチス関係者を追放した。
新聞社向けのパンフレットなどを発行し、積極的な情報公開を行い、世人への透明性を高めた。
また1972年以降は外国人過激派、極左過激派対策も任務に加わり、その存在意義ををアピールした。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
忌まわしき老チェーカー その4
前書き
もうちょっと面倒くさい諜報の話が続きます。
「どうしてそんな事を西ドイツ政府じゃなく、俺に頼む。
ドイツ人の問題はドイツ人同士で話し合えばいいじゃないか」
「今の首相は、ヘルムート・シュミット。
奴は、ビルダーバーグ会議の手の物によってえらばれた男なのでな……」
「えっ!」
「この男こそが、西ドイツの石油危機を招いた一人なのじゃよ。
1973年5月11日から13日にかけて、スエーデンで行われたビルダーバーグ会議が行われてな。
彼は蔵相として参加し、その座上で、世界の原油価格を4倍に値上げする決定にも関わっていた」
ゲーレンの話は、この異世界の事を詳しく知らないマサキにとって衝撃的な内容であった。
1973年の急激な原油価格の高騰は、BETA戦争を理由に石油輸出国機構が決めた事だとばかり……
それが支那でのハイヴ発見から一月もたたないうちに計画されていたとなれば……
まったく、話は違う。
原油価格の上昇による市場操作が、BETA戦争に関係なく行われていたとなれば……
中共の文革が理由で、ソ連によるカシュガルハイヴへの介入が遅れたのではない。
おそらく意図的に遅らせたのではないか……
原油価格の上昇は、何も欧米のオイルメジャーを潤わせるばかりではない。
地下資源に依存するソ連や中近東諸国も同様に利益を享受するはずだ。
この異世界でも、ソ連の石油依存度は非常に高い。
石油産業は、同国のGDPの3割以上を占める経済の屋台骨である。
輸出の内訳としては、石油75パーセント、天然ガス25パーセントである。
1980年のデータによれば、原油60321万トンを算出し、12200万トンを輸出していた。
産出量は世界の2割強で、輸出量は世界の1割弱であった。
天然ガスは、16733万トンを算出し、2014万トンを輸出していた。
産出量は世界の29パーセントで、輸出量は世界の27パーセントであった。
(横山昭市著『国際関係の政治地理学』古今書院、2014年、P87-88より参照)
東欧のポーランドやチェコスロバキアはおろか、西ドイツやフランスまでソ連の石油資源に依存していた。
BETA戦争に関係なく、石油や天然ガスの供給が打ち切られれば、欧州の経済活動は破綻するのは目に見えている。
前の世界とは違い、この世界の東西ドイツは被爆国だ。
原子力船はおろか、軽水炉型の原子力発電所も、試験用の黒鉛炉もない……
そうすると、ソ連からの石油・天然ガスはまさに命綱なのだ。
東ドイツの経済を支えた国営のコンビナート群も、ソ連の石油が入らねば、あっという間に破綻するのは目に見えている。
トルコ経由のパイプラインを作る計画もあるであろう。
だが、それが実現するには時間がかかり過ぎるのが実情だ。
今の話を聞いていたマサキは、自身の背中に、焦りと悲嘆を感じ始めていた。
「ビルダーバーグ会議の本当の狙いは、何か知っているかね」
「BETA戦争を利用して、自分たちの利益を得る事か?」
「もっと悪い。BETAを利用して市場の一本化を狙っているのだよ。
BETA戦争を通じて地域共同体や国連など、世界的な統合を推し進めるのが、奴らの狙いだ。
国家という物が無くなれば、そこに依存する民族資本も亡くなる。
そうすれば、あとは国際金融資本と大企業の独壇場だ」
灯台下暗し……
マサキは、怒ることよりも不安を感じた。
「ここまでいえば、自明の理だ。木原博士」
まさか……
マサキはある一つの結論に行きついた。
ビルダーバーク会議や三極委員会、ローマクラブなどの世界の支配層の本当の狙いは人口削減。
石油資源の枯渇を恐れて、人口抑制政策を行うべしと働きかけようとしたところに降ってわいてきたBTEAという宇宙怪獣。
支那の地に飛来したのを、これ幸いとばかりに悪用したのではないか。
ビルダーバーグ会議のメンバーの多くは白人で欧州の王族や企業家だ。
アジア人やスキタイ人が多く死のうが、知ったことではない。
むしろ彼等にとっては、石油資源や天然ガスの利用分が増えるので好都合なのだ。
連中の頭の中では、世界人口を5億人ほどにまで減らすまでは何もしないつもりだったのだろう。
その証拠に、ソ連で人口の3割が減った時も米国は具体的な支援策をしなかったからだ。
いや正確に言えば、戦術機関連の技術を渡して、独裁政権を維持させたというだけだ。
全世界的企業や国際金融資本にとって、利益を得るためには競争のない社会こそ理想だ。
国によって利益が制限され、市場が限定されている共産国家こそ理想の場所だ。
いくらゼオライマーで大暴れしたところでも、ビルダーバーク会議や三極委員会、ローマクラブなどの世界の支配層の会合で秘密の計画を立てられてしまったら対処の使用がない。
マサキは己の立ててきた計画が、恐ろしく甘い見通しであったことを突き付けられるような感覚に陥った。
「わたしは、ドイツ軍人として50有余年、ワイマール共和国、第三帝国、連邦共和国に仕えてきた。
ドイツ民族が自立し、どの様な形で残りさえすれば、政体などどうでもいい。
敵の米軍に頼ったように、悪魔や鬼にでも頼るときは頼る。
だから木原博士、君を頼ったのはドイツ民族独立のためなのだ。
欧州共同体や国連などという有象無象の機関の事は、これっぽっちも信用しておらん」
ゲーレンの告白は、マサキに違う意味での感動を与えた。
かつて大東亜戦争で敗れた日本は、社稷を守るために、偽りの裁判結果を受け入れ、偽物の憲法典を奉った。
一軍人として、2度の敗戦は思うところがあるであろう。
マサキは同時代人として、ゲーレンの姿勢に同情の色を示した。
「君はビルダーバーク会議と戦わねばならない宿命を背負っているのだよ」
「よかろう」
西ドイツの諜報機関の全てを知る男、ラインハルト・ゲーレン。
なぜ彼が、東ドイツ人のベルンハルト兄妹と懇意な木原マサキに近づいたか。
まずマサキがKGBとの対決姿勢を公然と見せる人物だからである。
ユーリー・アンドロポフKGB長官に決闘を挑み、一撃のもとに葬り去った事ばかりではない。
PLFPや日本赤軍などの過激派を向こうに回して、その根城であるレバノンを焼き払った。
この事をゲーレンは高く評価していた。
なぜ、西ドイツの捜査機関が友好国である日本人のマサキをマークしたのか。
それは当時の国際情勢と切っても切り離せない理由があったからだ。
1970年代以降、西ドイツ国内ではドイツ赤軍と称する過激派のテロ事件が続発した。
この団体は、KGBから資金援助を受け、シュタージの支援の下、西ドイツ国内での犯罪を繰り返した。
有名なのは、ドイツ工業連盟会長シュライヤー暗殺事件であろう。
ドイツ赤軍はシュライヤー会長を誘拐し、身代金を要求したがBNDは応じなかった。
ドイツ赤軍は、パレスチナ解放人民戦線とともにルフトハンザ航空ハイジャック事件を起こすも、失敗した。
その報道を受け、首領ら数名はその日のうちに不審死を遂げた。
犯人グループはハイジャック事件の失敗と同時にフランスへ逃亡。
ミュルーズ郊外で、シュライヤーを暗殺し、その遺体をアウディの乗用車に捨てて逃亡した。
パレスチナ解放人民戦線は、KGBによって創設されたテロ機関である。
アラブ民族主義による社会主義国家の建設を目指して作られた極左暴力集団であった。
PLFPの共同創設者であるワジ・ハダド。
彼はユーリー・アンドロポフKGB長官の信任が厚く、KGBは三度の武器貸与を実施していた。
ハダドは、1960年代後半から1970年代末までの国際ハイジャック事件を敢行した人物。
PLFPのみならず、日本赤軍、ドイツ赤軍を使嗾して、国際テロで世界を恐怖のどん底に押し入れた極悪人である。
1970年代当時、日本国内でのテロ活動で国民の支持を失っていた極左暴力集団。
彼等は海外に逃亡し、遠いパレスチナやレバノンの地にいるPLFPを頼った。
その際、国際的なテロ集団である、日本赤軍を結成し、幾多の国際テロを敢行した。
改めて、1970年代に日本赤軍とPLFPが合同で行った国際テロに関して、説明を許されたい。
ドバイ日航機ハイジャック事件(1973年(昭和48年)7月20日)
ロイヤルダッチシェル石油精製施設爆破事件及び船舶シージャック事件(1974年(昭和49年)1月31日『いわゆるシンガポール事件』)
シンガポール事件に呼応して起きた在クウェート日本大使館占領事件(1974年2月6日)
この一連の赤色テロリズムは、西側の世人を恐怖のどん底に陥れ、相互の国家間の不振を抱かせることに成功した。
当時のBNDは、東ドイツのシュタージ同様に、中近東への秘密工作を進めている最中であった。
それは1973年の石油危機の影響の為である。
BND現長官のクラウス・キンケルも同様の策を進めていた所である。
だがゲーレンら古参幹部とキンケル長官は、非常に不仲であった。
キンケル長官は、元々軍人や諜報畑の人間ではなかった。
内科医の父を持ち、司法試験に合格した法曹の専門家であった。
郡役場の吏人を起点にして、1968年に内務省に採用され、中央の官界に入った。
当時内相であったゲンシャーによって見出され、彼の個人秘書を務めた。
その際、憲法擁護局から接触があって、情報の世界に入った。
親であるゲンシャーが外相になると、外務省に移って、企画部長を務めた。
そして、BNDと外務省企画部の人事交流を進める方針を示した。
1979年1月1日、ゲーレンの信任が厚かったヴィッセルに代わってBND長官となる。
弁護士出身ということもあり、人権の観点から東ドイツへの積極的な工作を進めることとなった。
だが彼の方針は、ゲーレンら長老閥との折り合いが合わなかった。
キンケル長官のあまりにも情熱的な人権外交とやらに、辟易していた面があったのも事実である。
東ドイツでの諜報作戦が失敗していたのも大きい。
彼の長官時代はKGBやシュタージの間者が堂々と暴れまわっている時代でもあった。
マサキがバイエルン州を訪れた情報は、その日の夕刻にはすでにボンに通報されていた。
事態を重く見た首相は、緊急の秘密閣議を行う事となった。
連邦議会副議長ショルシュ・レーバーが忌々しげにつぶやいた。
「日本の奴らめ……
進退窮まって、ゲーレンの所に泣きついたか」
不愉快そうなうめき声が漏れる。
それは当然の結果であった。
レーバーはギヨーム事件のあおりを受けて、BNDに電話盗聴をされていたからだ。
今の首相であるヘルムート・シュミットが引き留めていなければ、そのまま政界から引退するつもりでもあった。
「超マシン、ゼオライマーの機密情報が手に入るのは結構だが……
木原は、なあ……」
レーバーの問いに対し、キンケルBND長官が応じる。
「しかし、木原マサキは、ゼオライマーの開発者でもあります」
「超マシンは、たしかに、核戦力を持たぬ、この国の切り札となる。
独ソが親密度を深める以上、我々にも保険がいる」
西ドイツは、1960年代以降、ソ連の天然ガス資源のパイプライン延長を模索していた。
中近東の絶え間ない混乱によるは、石油や天然ガスの供給そのものを不安視させていたのだ。
1970年に独ソ間で結ばれた「天然ガス・ガスパイプライン交換協定」
これにより、西独の企業は、ソ連に対し、高品質の大口径鋼管を供給することを決定した。
当時、西ドイツと日本だけがこうした大口径鋼管を生産可能なためであった。
米国の横やりもあったが、ソ連からの天然ガスの割合は20年で35倍に増えた。
1980年代当時で言えば、ドイツでは30パーセントに達した。
このように、ソ連は、欧州を自国のガスに依存させた。
だが、それと同時に、急速な経済成長をもたらした。
「保険ですか……」
「だが、木原が生きている限り、いつ奴がまたソ連へと牙をむかないとも限らん。
調略するよりは、いっそ……」
それまで、すべての発言を黙って聞いていた首相が口を開いた。
キンケル長官とレーバー副議長の言を遮るようにして、
「木原の事は頼らんでも、わが国にはすでに秘密裏にパーシング2が配備してある。
奴らは核ミサイルをモスクワに飛ばされるくらいなら、中近東の半値で石油を売ろう。
何の心配もいらん」
男は、強いいらだちを隠すようにして、吸っていた紙巻煙草を灰皿に押し付ける。
休む間もなく、新しいゲルベゾルテの箱の封を開けた。
「ゲンシャー君、キンケル君。
木原の事は逐一、私の元に報告を上げたまえ」
男は言葉を切ると、取り出した煙草に火をつけた。
「はい、総理」
後書き
(参考文献:
熊谷徹著『顔のない男 - 東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』新潮社,2007年
関根伸一郎著『ドイツの秘密情報機関』,講談社,1995年
『治安フォーラム』令和3年1月号)
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忌まわしき老チェーカー その5
前書き
なんか今回の話は、西ドイツ諜報史の概要みたいな話になってしまいました。
場面は変わって、西ドイツの臨時首都・ボン。。
ここから245キロメートル先にあるオランダのハーグへ、暮夜密かに電話をするものがあった。
西ドイツ大統領の、ヴァルター・シェール。
彼は、ドイツ自由民主党の前党首で、政界の陰の実力者であった。
「かかる夜分に申し訳ありません。
実はボンの政府が、強烈な相手に打ちのめされておりまして……
名誉と伝統のあるFDPが、壊滅の危機に瀕しているのでございます」
「さあ、続けたまえ」
西ドイツ大統領は、蘭王室の王配殿下に事細かにこれまでの経緯を説明した。
米国と合同で行っている戦術機ソフトウエアへのバックドア工作に、マサキが感づいたこと。
その他もろもろを、簡略に説いた。
「今、木原は、バイエルンに来ておりまして……」
「それで……」
「例の二つの荷物は処分できずにおります」
「何だって……」
「は、はい……。
も、申し訳ございません。
ち、ちょっとした手違いがありまして……。
よもやこんなことになろうとは……」
それまで黙って聞いていた王配殿下が口を開く。
「だから私は言ったのだ。
鎧衣と木原を二人まとめて、いますぐにでも始末するように……。
木原は何も知らないから、後でもいい。
……などと、したり顔で言ったのは、君ではないか。
早く消しなさい」
「はい」
ハーグのノールドアインデ宮殿にいる通話相手は、怒りのあまり、電話機を放り投げる。
物が壊れるような大きな音とともに、電話はそこで切れた。
男は深いため息をついた後、内相の自宅に電話を繋いだ。
当時の内相は、ウェルナー・マイホーファー。
「マイホーファー君、わしじゃ、ヴァルター・シェールじゃ」
「あ、大統領閣下!」
マイホーファー内相も、またFDPの幹部だった。
彼はヴィリー・ブラント内閣で、連邦特命大臣と連邦首相府長官を歴任。
政治家でもあると同時に、法哲学の学者でもあった。
「BNDのキンケル君から連絡があってな。
しくじったそうではないか……」
当時のヘルムート・シュミット内閣の閣僚の重要ポストの殆どはFDPで締められていた。
副首相、内相、外相、BND長官、経済相、農相。
これらは、政界で影響力を持つシェール大統領とゲンシャーのおかげでFDPの意のままになっていた。
「もうしわけありません。
それでこちらからは国境警備隊の精鋭100名を送りました。
木原の写真を持たせて」
「殿下と私たちの関係が、公表される前に始末できるかね」
「ご安心を。
空港、駅、タクシー、バス、みんな張り込みしました。
勿論ホテルもです。
今日明日中には片が付きましょう」
マイホーファーの捜査手法は荒っぽかった。
反政府的な言動のある原子力技術者を、スパイと疑い盗聴させている事件があった。
ジーメンスの子会社、インターアトムの技術者、クラウス・トラウベ博士が、左翼弁護士と交友関係にある。
憲法擁護局の報告が、事件のが発端だった。
東ドイツの支配下にある、ドイツ赤軍派と関係しているのではないかと睨んでの事であった。
その際、雑誌デア・シュピーゲルなどにも報道され、トラウベ博士は辞任に追い込まれた。
西ドイツの警察国家化の危険が議員はおろか、知識人の間でも反響を呼ぶようになった。
だが、西ドイツ政府は、BETA戦争を理由に事態のうやむや化を図った。
そういう経緯があったので、マイホーファーはシェール大統領に頭が上がらなかった。
「危険な男は殺すのが一番。
世界の政治の歴史は、倒すか倒されるかの戦争の歴史。
吉報を待っているよ」
その頃、ゲーレンの邸宅ではマサキ達への別れの宴が行われていた。
参加者は、マサキ達の他に、ゲーレン、ココット。
屋敷の主人であるゲーレンが、乾杯の音頭をとる。
「これからの木原博士の旅路と、その成功を願って……」
続いて一同が一斉に杯を上げる。
「乾杯!」
一気に、モーゼルワインを呷った。
銘柄は『リースリンク』で、色は白だった。
口当たりは良いものの、一基に流し込むとアルコールが全身に回り、血が騒ぐ。
「ありがとう」
珍しくマサキから出た感謝の言葉に、一同は驚きの色を浮かべた。
脇にいる鎧衣は思わず失笑を漏らした。
「フフフフ」
マサキは気にする風もなく、席に着く。
ナイフを取ると、湯気の出るアイスバインに、食指をのばした。
「変わったアイスバインだな」
「シュヴァイネハクセといいます。
バイエルン州の郷土料理で、骨付きの豚肉のローストよ」
「こういう料理を、たまに食うのも悪くないな」
「望むなら毎日作ってあげるわ」
台所で煮炊きをするココットの姿が、頭の中に浮かんだ。
マサキは、意外な思いで見つめた。
「ねえ、木原。
すべてが終わったら、ここに戻ってきて。
そして……バイエルンのこの屋敷の主人になって、お願い」
マサキは、ワインでのどを潤し、肉料理を口に運んだ。
肉料理は、バイエルン州の郷土料理で、シュヴァイネブラーテン(Schweinebraten)と呼ばれるドイツ風ローストポークであった。
食事の間、鎧衣はよくしゃべったが、マサキはほとんど口を利かず、ただ相槌を打つばかり。
ココットの思わぬ言葉に、口をはさんだのは、同席していたキルケだった。
「いいえ、木原はこんな片田舎に留め置くのには惜しい男よ。
ボンやハンブルクに住む方がふさわしいわ。
それはゼオライマーのパイロットとして、当然の事よ」
――女とは、本当に図々しいものだ――
晩餐の席で、マサキはつくづく思った。
最初にあった時は、キルケもココットもマサキに敵意むき出しだった。
なのに、何事もなかったかのように平然とマサキと会食をしている。
そういう姿を見ていると、マサキは今までの事が夢の中の出来事のように感じた。
間もなく、ココットとキルケが口喧嘩を始めた。
二人とも、負けていない。
「わかっていないのう。
木原博士が西ドイツから離れるという事は、彼に危機が迫っているからじゃ」
軽くたしなめるようなゲーレンの口調には、彼女たちの苦悩を理解している気配があった。
「ハーグの奥の院にいる男は、何を欲しがるか。
もうゼオライマーは、どうでもよい……。
木原博士の命を欲しがるのじゃ」
ゲーレンは椅子から立ち上がって、開け放しにしておいた窓から外を見つめた。
「いままで一度も傷つけられなかった欧州人としての誇り。
それを傷つけた、天のゼオライマーと木原マサキ……」
「それこそ死に物狂いで、木原博士の命を狙おう……」
「とにかく、木原博士は我々を巻き添えにしないために、ここから去るのであろう」
マサキたちは、ゲーレンの邸宅を後にすることにした。
この場所をかぎつけた官憲が、いつ乗り込んでくるかわからない為である。
「さあ、行こうか」
マサキが出発をうながすと、鎧衣とキルケが立ち上がる。
鎧衣は、慇懃に頭を下げた後、謝辞を述べた。
「ゲーレン翁、お世話になりました」
「わしとしては、これ以上、何もしてやれんが……」
つづいて、キルケがゲーレンの手を取って、お礼の言葉を言った。
彼女は運転手役として、秘密裏にマサキが呼び出したのであった。
「本当にご迷惑をおかけして……」
ゲーレンは、マサキ達に忠告を告げた。
入らぬ親切とは思ったが、道に詳しくない三人のために述べたのだ。
「95号線を通って、オーストリーに駆け込むか……。
あるいは、南に下って、スイスに行く方法もある。
ただ、国境検問は厳重じゃ」
マサキと鎧衣が外に出ようとしたとき、さっと懐から一枚の書類を取り出す。
ラミネート加工のされたB7版ほどの大きさの書類だった。
「キルケ嬢、これを持っていきなさい」
「これは!」
それは、バイエルン州の身分証だった。
ゲーレンが、バイエルン州長官から融通してもらったものである。
「バイエルン州発行の特別許可証じゃ。
これがあれば、州警察や州の役人は手出しできん。
何かあれば、この鑑札を差し出せばいい」
もたもたするキルケに、マサキは声をかけた。
「急げよ」
キルケはゲーレンに一礼をすると、マサキ達の後をすぐに追いかけた。
闇夜に紛れて、BMWの白の2002ターボが駆け抜けていった。
1973年のオイルショック以前に作られたこの車は、世界初のターボチャージャーを搭載した市販車であった。
だが、今日のようには電子制御もされていない機械式インジェクションシステムであった。
そのうえ、インタークーラーも付いていなかったため、省燃費エンジンとは程遠かった。
第一次オイルショックの影響もあって、わずか1672台で生産が終了となった幻の車である。
以前、マサキが西ドイツを訪問した際に中古販売店で買って、キルケに預けておいた車であった。
それをマサキが現代の自動車と同じように、電子制御の緻密化、直噴エンジンや多段ATなどに組み替えた。
ハイパワーによって、レーシングカー並みに改造を施したものである。
十数時間に及ぶドイツ滞在は、マサキを疲労困憊させるに十分であった。
後部座席にいる彼は、シートベルトを締めると同時に転寝をしてしまうほどだった。
「尾行てくる車はいないみたいよ」
「いずれ追ってくるだろう。
彼等も必死だ。
我々を殺せば、ゼオライマーの秘密が手に入るのだから……」
鎧衣とキルケの会話で目が覚めたマサキは、コーラの瓶を呷った。
そして、懐より煙草を取り出す。
カーラジオがかかっていたのに目が覚めなかったのは、熟睡した為であろう。
米軍放送の内容からすれば、深夜12時ぐらいか……
「これで、BND、国境警備隊、みんな敵にまわしちゃったわね」
それまで黙っていたマサキは、脇から口をはさんだ。
「四面楚歌だが、まだ手はある」
言葉を切ると、タバコに火をつける。
「ミュンヘンの日本総領事館に、助けを求めるの?」
「いや、ゼオライマーだ。
美久に来てもらう」
「でも、自動車電話も傍受されている、こんなところから連絡を取る何って」
「仮に美久が駄目でも、対策はしてある。
こっちは深夜12時だが、向こうは朝の6時だ。
そろそろ彩峰や白銀が役所に出向くころさ」
そういって、キルケの顔を覗いたとき、彼女は少し汗ばんでいた。
キルケは内心の狼狽を知られた気がして、額の汗をハンカチで拭い去る。
「これで行ける所まで行こう。
夜のとばりにまぎれて、逃避行も悪くはあるまい。フハハハハ」
マサキは、不安な顔をする二人をよそに、不敵の笑みを浮かべて、平然と言った。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
シュヴァルツェスマーケンの主要人物の考察
前書き
ここで、一旦シュヴァルツェスマーケンの主要人物の考察をわかる範囲で書き記したいと思います。
読んでいて、誰の子供で、誰の父親か、判らない場合もあるでしょう。
アイリスディーナ・ベルンハルトの家族。
父:ヨーゼフ
母:メルツィーデス
兄:ユルゲン(1954年7月1日生。『隻影のベルンハルト』の主人公)
すでに作中で散々述べたので、簡単にまとめて書く。
ヨーゼフは外交官だったが、東ドイツや東欧の国家公務員の中で蔓延しがちだったアルコール依存症の患者だった。
ユルゲンの口からは、母が浮気してからアルコール依存症が始まったように言及しているが、恐らくそれ以前から傾向があったのではなかろうか。
息子であるユルゲンも、勤務中に幾度も飲酒をする傾向にあるからだ。
母であるメルツィーデスに近づいたダウムは、言及はされていないが、海外で彼女に接近したことを考えると中央偵察総局のロメオ工作員であることは疑いの余地がない。
メルツィーデスの年齢は言及されていないが、ダウムとの再婚後に男の子を設けていることを考えると、ヨーゼフとの結婚は20歳前後だったのであろう。
そしてユルゲンとアイリスディーナを捨てて、ダウムと結婚したときは30代後半だったのではなかろうか。
30代後半であれば、ギリギリ子供が産める年齢だからだ。
(50年前の、西側の医療水準に劣る東独で、40歳を超える高齢出産の子供は健康に育つ方が難しいからだ)
HVAは、局長のマックス・ヴォルフの方針で、そのほとんどが大卒者で固められていた。
なお、長官のエーリッヒ・ミルケは無学文盲の出で、正式な大学教育を受けていなかった。
のちに東独のスパイ学校の学長の地位に昇り、ヴォルフに学位を授与した。
ベアトリクス・ブレーメの家族
父:アーベル
母:ザビーネ
アベール・ブレーメは経済企画委員会に名を連ねる官僚。
経済企画委員会は、1960年代後半には解散している団体。
年齢の言及はないが、父親(ベアトリクスの祖父)がソ連に家族ごと亡命をしていることを考えると、1920年代から1930年代生まれと考えられる。
ベアトリクスが父親の事に関して年齢的な不満がないところを見ると1930年前後の生まれと考えられる。
妻ザビーネも同じくらいであろう。
なお、ザビーネの職業に関しては言及はない。
アーベル・ブレーメのモデルは、経済官僚のエーリッヒ・アーペル(Erich Apel)(1917年10月3日~1965年12月3日)。
なおアーペルは、ソ連との貿易協定の署名の数時間前に、自動拳銃で自殺したとされる。
(KGBおよび、シュタージによる暗殺説あり)
カティア・ヴァルトハイムこと、ウルスラ・シュトラハヴィッツ
父:アルフレート
母:エルネスティーネ(作中ではすでに故人。1968年1月8日に死去)
シュトラハヴィッツ少将は、ハイム少将とほぼ同年代で従軍経験があることから、作中では恐らく50代。
エルネスティーネは、婦人兵か、軍属。
シュトラハヴィッツ少将は、ハイム将軍の仲人で、エルネスティーネと結婚した。
原作中での明確な言及はなかったが、将軍と夫人とはかなり年齢差があった事がうかがえる。
エルネスティーネの死因は、本編では明らかにされていないが、産後の医療ミスによる事故死であることが、『隻影のベルンハルト』の雑誌掲載分で明らかになった。
シュトラハヴィッツ少将は、1968年当時、チェコスロバキアに派兵された経験がある第7装甲師団の師団長。
史実での師団長は少将で、従軍経験のある人物だった。
(モデルとなったヴェルナー・ヴィンター(Werner Winter)氏は1923年生まれで、101歳。
今もご健在のようだ)
リィズ・ホーエンシュタイン
父:トーマス
母:マレーネ
トーマスは劇作家で、マレーネは女優。
映画「善き人のためのソナタ」(原題: Das Leben der Anderen.2006年)をモデルにして作られた節がある。
原作中では、冬季の危険な越境を行い、シュタージ配下の国境警備隊に射殺される。
なお、史実では越境以外にも公式の亡命ルートがあり、弾圧に耐えて、待てば、出国できた。
人質のために西ドイツは1万ドル相当の身代金を払い、東ドイツから購入していた。
ちなみに国境警備隊は、1961年の創設以降、国防省の管轄であった。
劇中の国家保安省の下部組織というのは、明確な誤りである。
東独国境での越境は危険で、無警告で射殺するようにホーネッカーが指示を出していた。
ミルケやヴォルフは、ホーネッカーによる射殺命令を知っていたが、知らぬと答えて、後に虚偽罪で収監された。
(後にミルケは高齢のため、ヴォルフは恩赦で出獄した)
キルケ・シュタインホフ
祖父:ヨハネス・シュタインホフ将軍
キルケの家族構成は、公務員の両親と年の離れた弟である。
婚姻に際して夫の姓を名乗る西ドイツの制度を考えれば、キルケの父親は、シュタインホフ将軍の子息である。
(西ドイツの民法で統合姓が認められたのは1975年以降。夫婦別姓は1992年以降)
シュタインホフ将軍は実在の人物で、ルフトバッフェのエースパイロットだった人物。
ヨハネス・シュタインホフ(1913年9月15日-1994年2月21日)。
178機撃墜のエースパイロットだったが、終戦直前の航空機事故で大やけどを負い、全身に跡が残った。
その為、戦後の肖像写真ではいつもサングラスをかけるようになってしまった。
1969年に、靖国神社を公式参拝した際に記念植樹をしたことで知られる。
後書き
ご感想お待ちしております。
脱出行 その1
前書き
ドイツのバイエルン州には、農家民宿という制度で沢山民宿があります。
日本でも、かなり研究された民宿の制度でした。
夜陰に紛れて、マサキ達はシュタルンベルクを北上した。
警備の手薄な一般道を通って、ミュンヘン市方面に向かう。
ミュンヘン近郊に着くと、鎧衣が懇意にしているという一軒の家に案内してくれた。
「あんまり走り過ぎても、国境警備隊の網に引っかかることもある。
ここで、少し時間を置こう。タイミングを外す事も必用さ」
南ドイツによくある、二階建ての白い百姓家。
外には、何やらドイツ語で書かれた看板がかかっていた。
「空き部屋あります」
「地酒・ワイン販売中」
ワイン用のブドウを栽培する農家なのだろう。
予約無しでも泊まれるのだろうか……
マサキがそう懸念していると、奥から、その家の妻らしき人が出てくる。
鎧衣は、家人に一言二言尋ねてみると、二つ返事で家に上げてくれた。
マサキたちが民宿に入る際、鎧衣はこう告げて外に立ち去って行った。
「二部屋取るから、気兼ねしないで休み給え。
私は私で、情報収集に行ってくる」
鎧衣は、なぜ民宿を選んだのか?
それは司直の手が及びづらいというのもあるが、単純に予約なしで泊まれる安宿だったからでもある。
当時の西ドイツでは、国策で農村休暇という物を行っていた。
農家民宿という物に補助金を出して、都市住民の余暇を推奨していたのだ。
ドイツでは18世紀以来、都市部の知識人や貴族層が村落に出向いて夏の余暇を過ごす習慣があった。
その慣習は19世紀から20世紀になって、都市労働者や一般庶民にも伝播し、夏の風物詩となった。
東西分裂した両ドイツでもその慣習は維持され、このような避暑地の開発が進められることとなった。
このことは、逃避行を続けるマサキたちにとっては、好都合だった。
司直の影響が及んでいない村落で、金さえ払えれば安く泊まれるからだ。
またドイツ人のキルケを同伴していたことも行動をしやすくさせた。
傍から見れば、マサキとキルケは若い夫婦にも映ったからだ。
案内された部屋は、ユースホステルともホテルとも違う、小奇麗ながらも一般的な民家の一室だった。
百姓家の妻は、マサキの事を訝しむふうでもなかった。
西ドイツは従前の労働力不足から、外人の季節労働者が多数入っていたからである。
ワイン農家などは、トルコ人や韓国人の出稼ぎ労働者などもいたので、気にしなかったのである。
マサキは、シャワールーム付きの部屋に案内されると、旅装を解いた。
軽くシャワーを浴びた後、着替え、ベットに倒れ込むようにして横になる。
そして、靴を履き直すと、拳銃を抱いたまま、ひと時の安らぎに着いた。
鎧衣は、その村に一件しかないガソリンスタンドに出向いた。
そこで電話を借りると、ニューヨークの国連日本政府代表部に電話を掛けた。
30分ほどのち、日本政府代表部の電話交換手に繋がった。
「もしもし……こちら、鎧衣左近です。
情報省外事2課の……」
電話料金がどんどん上がっていくが、鎧衣は気に出来るような状況ではなかった。
電電公社(現在のNTT)を、例に出す。
当時の区域外通話料の代金は、昼間の時間台でも2.5秒で10円ほど。
ちなみに国際電話は、それ以上であった。
1981年当時の国際電信電話株式会社の例だと、英国までで6秒90円と非常に高価だった。
「さっそくですが、御剣閣下をお願いしたいのですが……」
「御剣は、今不在でして……」
「打ち合わせで、出ている?
それでは戻られたら、西ドイツのミュンヘン総領事館まで電話をくださるよう伝えてください」
電話を切ると、両切りタバコの「ロス・ハンドル」に火をつけた。
普段愛用してる葉巻を切らしてしまったので、仕方なくドイツ煙草を買ったのだ。
「うむ、間が悪いな……」
初めて買う銘柄ではあるが、三級品の「しんせい」に似た風合いである。
二口ほど吸った後、足元に捨てると踏みつぶした。
「もしもし……中央情報局本部ですか。
いますぐ長官をッ。
日本の鎧衣左近からとお伝えください」
日本代表部と違って、交換手は即座にCIA長官に繋いでくれた。
長官のさわやかな声が、鎧衣の耳朶を打つ。
「鎧衣くん、わたしだ」
「長官、ご無沙汰しております」
「私は元気だよ。
どうだね。無理をしているんじゃないかね」
「昨日のインドの件は、大変お世話になりました」
「そんなのは、礼には及ばんよ。
最重要友好国の日本のためにした事さ。当然の事だよ」
「実は、ハウスエンボスの老主人から、私と木原君が追われていまして……」
ハウスエンボスの老主人という言葉に、長官の表情が険しくなる。
これは蘭王室の国婿殿下を示す暗号だったからだ。
「ウンッ、それより何があったんだ……」
「まあ、聞いてください」
鎧衣は、これまでの経緯をおもむろに語りだした。
彼が語り終えて、一息つくとまもなく長官が口を開いた。
「少し待ってくれ、君の家にファックスを送るから」
君の家とは、日本の諜報機関の総元締めである内閣調査室である。
これは、情報省の幹部とCIA長官周辺だけが知る暗号であった
CIAからの電報は、即座に内閣調査室から帝都城に伝えられた。
急遽そこで、五摂家および政府首脳による臨時の閣議が行われていた。
「西ドイツ滞在中の二人がな……」
「ああ……CIAがファックスを突然送付してきた」
「西ドイツ政府の動向は!」
「ドイツ連邦検察庁が逮捕状を請求したとの、ミュンヘン総領事館から報告が上がっております」
「由々しき事態だ」
口々に好き勝手な事を言う閣僚たち。
そこに、首相が口をはさんだ。
「西ドイツ大使には、連絡しておいたのか」
外相が、短く答えた。
「はい、近くの観光ホテルに待たせております」
官房長官は紫煙を燻らせながら、ぼやいた。
「いずれにせよ、西ドイツで、何かが、起こっているわけだ」
「あとは、殿下にお任せするしかないか……」
翌日の早暁、駐日・西ドイツ大使が帝都城に招かれていた。
二条城の謁見の間で正座をして待つ、西ドイツ大使の顔色は優れなかった。
事実上、日本帝国六十有余州を差配する征夷大将軍と面会するという事は非常時である。
その様に、彼が認識していた為であった。
「日本駐箚ドイツ連邦、特命全権大使閣下の、お成り~」
在日・西ドイツ大使は、呼びかけと同時に畳に平伏した。
元帥府では、江戸幕府の行儀作法がそのまま継承されることとなった。
そのため、将軍からの声掛けがあるまでは、如何に大臣と言えども顔を上げてはならなかった。
「殿下の、お成り~」
入室を知らせる太鼓の音とともに、畳の上を衣擦れする音が聞こえる。
着席する気配があると、そこから声が聞こえた。
「面を上げるが良い」
聞き覚えのある若い男の声。
当代の将軍、煌武院であった
将軍の声掛けで、大使は顔を上げる。
その高座の手前には、護衛隊長を務める月詠がいた。
帝国斯衛軍第1独立警備大隊が正式名称だが、御庭番衆とも称されていた。
大使は、一旦平伏し、両手で畳をついた。
まもなく日本語で、大使は型通りの挨拶を伝えた。
「殿下には、ご機嫌麗しく、この度の御拝謁、恐悦至極に存じ上げます」
「西ドイツ大使も変わりなく、何よりだ」
将軍の格好は、幕末の慣習を踏襲し、紋付き袴であったが、夏用の単仕立てであった。
「これもひとえに、殿下の御配慮のおかげかと。
日独友好の観点から、倍旧の働きに励むつもりございます」
将軍は、たどたどしい大使の受け答えを受けて、一度、相好を崩した。
再び険しい表情に戻ると、詰問調で大使に呼びかけた。
「さて大使。
すでに聞き及ぶと思うが、わが国の軍関係者が、貴国で害されてのう。
正に由々しき、天下の一大事じゃ」
「はい。
車中で耳にいたしておりますが、一体どこの何者による仕業かと、驚き居る次第にて……」
「どうやら、バイエルン州で遭難したという情報省の報告が届いておる。
ハンブルクの西ドイツ領事の推測によれば。
襲撃者の一団は、もしや、政府機関の一部らしいではないかと申して居る」
大使は立ち上がると、将軍の方を向いて、
「しばらく!」
将軍は彼の方を向いて、真剣に話を聞き入った。
「これは、殿下のお言葉とは思えませぬ。
連邦政府の職員が、どうして友邦の日本に弓引きましょうか!
それに、ドイツ連邦軍は木原博士の件を通じて、帝国陸海軍に全面的に協力をしている所存です。
その連邦政府の名を名乗るものは、不届き千万!
お許しを賜りますならば、連邦政府の方で、処断いたします」
「ほほう、西ドイツの手で成敗を!」
「百篇の言葉をもって釈明するよりも、そのほうが連邦政府の潔白を証明する事ともなります。
また当然の事かと」
「西ドイツを代表する駐箚大使のおことがそう申されるのも、無理からぬところ。
よかろう、存分になされい」
「ありがたき幸せに、存じ上げまする」
大使と将軍の面会は、問題なく終わった。
西ドイツ情勢が急を要することは、帝都にある官衙にまで伝わっていた。
国防省の大臣室に急遽呼ばれていた榊と彩峰たち一行は、大臣から詳しい説明を受けている最中であった。
「木原の救出だが……
行動するなら、慎重にやれ」
たまりかねた様子で、彩峰は、われから進んで大臣へ訊ねた。
「どういうことです」
「……いくら経済的に好調でも、いきなりこんなことをするはずがない。
裏を調べていたら、とんでもない黒幕がいることが分かってきた」
驚いたらしい。
政務次官の榊は、さらに凝視していた。
「黒幕!!、西ドイツ政界に?」
「ビルダーバーグ会議といえばわかるか……」
大臣は、淡々と一同へ打明けていた。
彩峰たちの眉色もただならぬものを現わしたが、大臣もまた、一瞬、瞑目していた。
「こ、国際金融資本」
愕然と出た一語には、まったく予測も夢想もしていなかった驚き方が、余すところなく現われていた。
「それじゃあ、西ドイツのごたごたの裏には、国際金融資本が……」
「ああ……御剣閣下の情報だ。
間違いは、ないだろう」
その言葉が、幕僚の顔に、さっと凄気をながした。
「狙いは木原だけではあるまい」
彩峰は、聞き終るとともに、天井を仰いで長嘆した。
「ああ……」
彩峰は、そして、当然のように、独りこう答えていた。
「一週間後には東京サミットなのに……まてなかったのか」
期せずして、彩峰の口から沈痛な問いが出た。
そして、この危機を如何に処すか。
大臣の顔から読もうとするもののように皆、一点に凝視をあつめた。
大臣は、そのとき言った。
「いずれにせよ、ゼオライマーは渡せん。
榊君、彩峰大尉、この件は君たちの自由にやり給え」
命をうけた幕僚たちは、大臣の前を辞して、飛ぶが如く、各自の職場へ駈け出してゆくのだった。
後書き
1960年代から1980年代初めの頃には、韓国人の出稼ぎ労働者や留学生が西ドイツに多くいました。
故・渡部昇一先生の回顧録によれば、韓国人留学生とあって、戦前の時代の事を日本語で懐かしく話していたそうです。
ご意見、ご感想お待ちしております。
脱出行 その2
前書き
そういえば女連れの逃避行は書いてませんでしたね。
みんな男だけでの行動ばかりでした……
ここで18禁原作という初心に戻って、すこし女性キャラを絡ませた話を書きました。
勿論全年齢対象なので、お色気描写は少年誌レベルですが……
なぜ西ドイツ政界が、BETA戦争に裨益した天のゼオライマーを憎み、マサキを敵視するのか。
それは、極東の小国・日本が超速の勢いで経済発展をすることと無関係ではなかった。
繊維を代表する軽工業、自動車など重工業。
そればかりではない、時計、刃物などの伝統工芸も……
世界大戦後の欧州の生活の糧を、みんな日本に奪われてしまった。
小麦でさえ、日本の農林省が開発した農林10号に殆ど置き換わってしまった。
小麦農林10号は、日本で育成された品種である。
半矮性遺伝子(草丈が短くなる遺伝子)を持つため、背が低く茎が強靱である。
短く強い茎は、重い穂を支えて倒伏しにくい。
最大の特徴によって、小麦の収穫量を大きく増加させ、「緑の革命」を実現させた。
この「緑の革命」を行い、ノーベル賞を受賞したノーマン・ボーローグ博士。
彼は、この農林10号なしには研究は成功しなかったと述べたという。
ドイツはもともと、黄色人種への差別感情の強い地域であった。
19世紀後半の黄禍論が、この地から盛んに起こったことも無関係ではない。
1914年に起きた第一次大戦の結果、ドイツは全植民地と領土を失った。
当時の日本は、連合国として参加し、戦勝を収めた。
賠償金の代わりとして、ドイツより南洋群島と青島を割譲した。
その事はドイツ国民にとって、深い恨みとなって残っていた。
隣国オーストリア出身のヒトラーも「我が闘争」の中で、日本人への警戒心を隠そうともしなかった。
このことは、あの乾坤一擲の戦いを挑んだ大東亜戦争に関しても同じである。
日本は、一敗地に塗れ、占領の恥辱を得て、数々の海外領土を失った。
だが欧州はそれ以上であった。
英国は、英領インドとマラヤを失い、フランスは仏領インドシナを失った。
昔日の栄光を失った両国にとって、日本の存在はどう映ったであろうか。
だが過去の恨みよりも、急速に力をのばすソ連や中共の事を恐れ、日本との関係改善を模索した。
オランダは、300年以上支配してきた蘭領東インドをうしない、そこから得る利益を断たれた。
その恨みは骨髄にまで達し、国民はおろか、蘭王室まで日本を憎悪した。
ここで、一つ史実の世界を元に、蘭王室や蘭国民がどう日本を考えていたかの例を示したい。
1971年(昭和46年)10月、先帝陛下(昭和天皇)がオランダを訪問した折の事である。
鹵簿の中心にあった鳳輦に対して、魔法瓶が投擲される事件が起きた。
幸い、窓ガラスにひびが入っただけで済んだが、これが爆弾や危険物であったのならば、一大事であった。
同日の内に、日本大使館の窓ガラスにレンガが投げ込まれる事件も起きた。
このことは、国そのものでもある宸儀に対しての敵対行為である。
場合によっては、開戦理由になっても致し方のない事であった。
また、1989年(平成元年)の大喪の礼の際、蘭王室は一人たりとも王室メンバーを送らなかった。
太平洋を挟んで雌雄を決した米国や、領土問題やシベリア抑留問題を抱えるソ連。
戦火による多大な被害を受けた中共、複雑な感情を持つ韓国などよりも劣った。
東欧革命で混乱中の東欧諸国でさえ、副大統領級の人物の派遣をする。
そういう中で、オランダは、外相の派遣のみに終始した。
このことは、ほかの王室を持つ欧州の各国の中では異様。
なおかつ、日本への深い恨みを表す一例でもあった。
ふたたび視点をマサキたちのところに戻してみよう。
マサキは、南ドイツのミュンヘン郊外の農家民宿で、一夜を過ごしていた。
その際、キルケと別室で休むこととなった。
マサキは安全上の問題から同室もやむなしと考えていたが、西ドイツの法律が許さなかった。
刑法第182条、一般的に淫行勧誘罪として知られるものである。
もとは婦人の性的保護のために始まった物であり、売春から一般女性を守る法律であった。
それが過度に解釈され、未婚の男女が許可なく宿泊することが禁じられていたのだ。
(この刑法の条文と解釈は、1990年代以降改正され、今は適用範囲は未成年のみである)
その為、マサキとキルケは別室で泊まることとなったのだ。
さて、早暁。
マサキは、キルケの部屋に行くと、ドア越しにたたき起こした。
すらりとした体にガウンをまとったキルケは、マサキの姿を認めると、襟もとに手をやりながらドアを開けた。
「おはよう。朝飯を食ったら出発だ」
「まだ5時前よ」
「面倒くさいか。
ならば、俺が脱がしてやるよ……久しぶりに女性の柔肌を見たいしな」
その際、返事より早く、キルケの右手がマサキの頬に飛んだ。
案内された食堂には、ドイツでは典型的な冷たい食事が、テーブルの上に用意されていた。
朝食の献立では、スライスした黒パンに木苺のジャム、冷たいハム、チーズ、サラダといった具合である。
そしてかなり早い朝食をとった後、薄いコーヒーを飲みながら、キルケの頭がさえるのを待った。
マサキは、紫煙を燻らせながら、事の起こりとなった謎の女スパイの話を詳しく説いた。
「キルケ、今日はボンに行こう。
お前の友達に、連絡はとれるか」
「連絡は取れると思うけど……」
キルケはじっとマサキの顔を見ながら、その眼の中のものを何とは知らず、ただこれは何事かあったなという予感を持って読みとった。
マサキは、一層声をひそめて、一言に告げた。
「俺の勘だと、旧親衛隊関係者がこの件にはかかわっている気がする。
お前の知人で、祖父や曽祖父が突撃隊や親衛隊の関係者がいる人物に会いたい」
その時、キルケの頸から耳のあたりまで、さっと色が変った。
なので、マサキは、思わず身を前へ伸ばす。
「私はご一緒しません」
「エッ」
彼女は、目角を立てて、マサキを睨めつけた。
「貴方は、私たち、周りにいる女の事より仕事を優先する。
祖父と同じ……それが嫌で私は祖父と疎遠になったのです」
マサキは、キルケに因果を含めることにした。
「一緒に来ないというのなら仕方がない……」
言葉を切ると、タバコに火をつける。
マサキはふり向いて、浮かないキルケの顔つきへ、膠なくいった。
「だが殺されるぞ」
難かしい顔を示しながら、マサキは紙巻煙草で、すぱりとくゆらしながら、いった。
問題が重大なので、キルケは息をのんだ。
「なぜなの?」
「先ほど話した、東ドイツ軍の将校、ユルゲン・ベルンハルト。
あの男は、この事件にわざと乗った節がある」
「その根拠は」
マサキこそ、ここまで来るには、命がけだったのである。
冗談どころの沙汰ではない。
「俺が信頼しているユルゲンという男は、数十万マルクの金で転ぶような男ではない。
己の正義のためと、自分の愛した女のために、全てを捨てる。
これまで築き上げたすべてを泥にまみえても、国家のために、悪と立ち向かおうとする男だ」
ちょっとたじろいだような、キルケの顔が新鮮だった。
マサキは、まるで問題にしていないように笑って言った。
「何者かが、BNDとの二重スパイを仕立てて、ユルゲンを狙った。
……という事は、天のゼオライマーのパイロットである俺を誘い出す口実だ。
その背後には数十億マルクの金が動いたとみて、間違いない」
キルケは、のみこめない顔つきである。
もしそうだとすれば、自分の祖国・西ドイツの政治についても、だいぶ考えさせられることがある。
「しかも、来週の東京サミットの一週間前だ。
この時期に、堂々と国家間をまたいで動ける存在。
それは間違いなく、巨悪であることは明白だ」
マサキは、鋭く言った。
「ユルゲンは、駐在武官補佐だ。
外交特権もあるし、怪しいスパイに関してはシュタージや軍から教育を受けている。
ソ連留学の経験から、KGBやGRUと接触したときのように、適当にあしらうすべも知っている。
それが出来なったのだ……」
マサキは、言葉を切ると、静かにホープの箱を取り出す。
そして、静かにタバコに火をつけた。
「……だとすれば、自分の妻を通じて、密かに訴えるしか方法がない。
それほどまでに、ユルゲンの身辺は見張られていたということになるのだ。
だからこそ、身重の愛人を通じて、外に訴えたのだ」
いつになく、感情のこもった調子だった。
そんなマサキの声を聞くと、キルケはますます話にのめり込んだ。
「おそらく東独大使館は、勿論の事……
留学先の寮や、コロンビア大学の構内にも盗聴器が仕掛けてあったのかもしれない。
ユルゲンは、同窓生や外交関係者にも話せなかった」
そこまで聞くと、キルケは初めて得心の色を示した。
――それならあり得ないことではないという様子で。
「そんな陰謀は一つしかない。
国家間をまたぐ、世界的な陰謀という事だ。
それゆえに、この俺も命を狙われたのだ」
キルケの答えは、実に明確だった。
すこしもマサキに遠慮している風もなかった。
「だから、貴方や祖父の嫌なところはそこなんです。
どうして、付き合った女の所まで累を及ぼそうとするのですか。
普通は女の事を守ろうとするのに……」
嫋やかな女の口から哀願を聞くと、実行したくなるのが男の性である。
キルケの言葉に、マサキは、わざわざ腕組みをして答えた。
「だから俺が西ドイツにまで来て、現にこうしてお前を守っているではないか!
フハハハハハ、大船に乗った気分でいるが良い」
キルケの言葉に、マサキが笑った。
キルケは、唇をかんだ。
「笑い事じゃないのよ!」
マサキたちは、ラインラント方面に向かって、車を走らせた。
車に乗って早々、キルケが切り出した。
「フランス国境沿いのラインラントにある、ベンドルフへ行こうと、おもいます。
訓練校時代の親友で、代々地方領主をしていた知り合いがいます」
キルケの話にあった、訓練学校とはなにか。
ランツベルク・アム・レヒにあるヴンストルフ航空基地内にあった衛士幼年士官学校の事である。
同基地は1935年に新設されたドイツ空軍のために建設された。
そして、大戦後の1956年、米軍から返還されて、再び連邦空軍の基地となった。
その際に、同基地内に飛行学校が設立された。
A飛行学校という名称で知られる学校は、設立当初から米軍の協力の元、運営された。
固定翼とヘリコプターパイロットの教育を目的とし、1963年まで続いていた。
飛行学校自体は解散し、訓練自体はルフトハンザ航空が引き受けることとなった。
だが、同様の訓練形式は1978年まで続き、今は第62輸送体がその任務を引き継いでいる。
衛士訓練学校は、飛行学校の設備と訓練方式をそのまま継承して設立した軍学校である。
この異界特有のもので、法律上、14歳以上の男女が入学できた。
だが未だに女性の実戦部隊配備への忌避感の強い西ドイツでは、その運用は違った。
その大部分は女子生徒で、男子生徒は南部のメミンゲン空軍基地で行われることとなった。
「大丈夫、貴族なら連邦政府も借りがあるから、司直も簡単に手は出せないわ」
なぜ、キルケがそんなことを言い出したのか。
この世界では、地方領主やユンカーの力を借りて、西ドイツの建国を達成した結果だからである。
そうした経緯から、彼らはワイマール共和国や第三帝国時代と違って、厚遇されることとなった。
ソ連が東ドイツ地域でのユンカー層への大弾圧への対抗措置という面もあった。
ソ連占領軍とKGBは、ユンカー層をシベリア送りにし、その邸宅をブルドーザーで破壊した。
そのことも、西ドイツ側の態度をより、貴族層への同情を強める一旦となった。
マサキは、元の世界との違いをまざまざと見せつけられる気がした。
元の世界の統一ドイツ政府は、ユンカーに非常に冷たかった。
ドイツ統一後、1991年に締結したドイツ最終規約を根拠に、ユンカー層の訴えを棄却する。
ソ連による暴力的な農地解放を追認し、ユンカー層の名誉回復を拒否した。
2009年にハノーファー公の訴訟が敗訴すると、そうした動きは一斉に立ち消えした。
「お前の友人なんだが……」
「本名は、ドリス・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン……
ドリスは、私が訓練校にいる時に知り合った地方領主の末裔よ。
ナポレオン戦争で活躍したロシアの将軍、ピョートル・ヴィトゲンシュテインの男系子孫。
怪しい身分の人じゃないの。
義理堅い人物で、信頼できる人だわ」
一旦、ミュンヘンの日本総領事館に向かう事となった鎧衣と別れたマサキ達。
彼等は、高速道路ではなく、一般道を経由して、ベンドルフへ急いだ。
やっとの思いで、ベンドルフの手前、マインツにたどり着いたときは既に日没後であった。
レストランで遅い昼食をとることにしたのだ。
三十分もしないうちに、レストランへ電話が入った。
店の主人が、受話器を取った。
「国境警備隊、第9国境警備群のものだ。
アジア系の若い男で、20歳前後。
それに小柄な女の2人連れを探しているんだが……」
「はあ……」
「女は、ドイツ人で無理やり誘拐されていると思う。
見かけたら、連絡してくれ」
「それらしい2人連れなら……」
「いんのかい?」
「男1人に、女1人で……」
「よしッ、今すぐ行くッ」
村落の入り口には、明るい緑色の塗装がされた数台の装甲車があった。
ティッセン・ヘンシェル(今日のラインメタル・ランドシステムズ)のTM-170装甲兵員輸送車で、国境警備隊の物であった。
ドイツでは、1919年から2012年まで、文民警察官の制服の色は明るい緑色だった。
これは帝政時代の文民警察の色である紺色を否定するために、ワイマール共和国が始めた措置である。
第三帝国、東西ドイツ、統一ドイツでも同じ措置が取られた。
だが、EU域内の司法警察間の制服の色が紺色と決められたため、2012年以降は帝政時代の濃紺に戻すこととなった。
国境警備隊・第9国境警備群――通称:GSG-9――。
1972年のミュンヘンオリンピックのテロ事件を受けて、国境警備隊内に設置された特別機動隊の通商である。
なお、東ドイツでもミュンヘン事件を受けて、1972年に人民警察内に特別第9中隊という機動隊を設置することとなった。
こうして、ドイツ国民にとって第9機動隊と言えば、特殊部隊の通称となったのだ。
サイレンを消した状態で、数台のパトカーがレストランの前に停車した。
GSG-9の隊長は、無線越しに本部に連絡を入れる。
「現場に着きました」
「拳銃を持っている。気を付けろ」
「了解!」
シュタールヘルムに深緑の制服を着て、MP5機関銃で武装した一群が、店の周囲をぐるりと囲む。
店は、マサキたちの他には誰もいなかった。
遅い時間帯もあろう。
外は、漆の様に真っ暗闇だ。
人の姿など全く見えない。
足をする音であろう、シュッシュッという音が聞こえてくる。
マサキは、直感的に、意識を外に向けた。
その途端、彼はピタッと釘付けされたように、動かなくなってしまった。
「どうしたの」
「不吉な予感がする」
間もなく、どこか遠くで意味は分からないが異様な叫び声が、闇を縫って響いてくる。
しかも、その声は一人や二人ではない。
何か切迫した様子で、不思議な胸騒ぎを感じさせるものであった。
様々な暗殺経験を潜り抜けてきたマサキには、物々しくあわただしい雰囲気が何か、理解できた。
「どうして、ここが?」
そう言いながらマサキは素早くしゃがむと、キルケの手を引っ張って自分と同じ状態にさせた。
その直後、吶喊の声に入り混じって、激しい銃声とともに、雨霰と10発以上の銃弾が降り注ぐ。
「今のは、生きているものがいないかの、挨拶だ。
次は、乗り込んでくるッ」
キルケは、思わず床にうつ伏せてしまった。
生れてからこの年まで、こんな怖いと思ったことはまだなかった。
自分の位置を覚られる惧れさえなかったら、声をあげて泣き出したかも知れなかった。
「ど、どうするの?」
泣き出しそうなキルケを、マサキは宥めた。
やさしく抱くようにして、体を密着させる。
「フフフフ、国境警備隊の連中がやろうとしていたことをやるのさ。
俺の遊びに、仲良く付き合ってもらうぜ」
間もなく、ラインメタルMG3機関銃が車より降ろされて、地面に据え付けられる。
全員に、油紙に包まれた銃弾が配られる。
「射撃準備!」
短機関銃には新たな弾倉が組み込まれ、回転拳銃には銃弾が込められる。
G3小銃を持った隊員は、それぞれ引き金に指を添えた。
「木原が生きている可能性もある。
慎重に、ジグザグに行けッ!」
あとは号令を待つばかりだ。
そして、命令はついに下った!
「総員突撃!」
機関銃は、咆哮を始めた。
一斉に小火器から、火を噴く。
おびただしい銃声の、殷々とした轟音が鳴り響く。
飛び交う銃弾の、その数はだんだんと多くなり、やがては部屋の中までが、かすめて飛び始めた。
大部隊が発生させる靴の音が、ある一か所に向かって、集中されていく。
マサキは用心深く立ち上がって、窓際の死角に向かうと、リボルバーを外に向ける。
殷々とした音を響かせて、マグナム弾は敵陣に飛んでいった。
その途端、激しい機関銃の音が前面から聞こえ始めた。
銃弾は続いて、マサキが元居た場所に降り注いだ。
やがてマサキの頭上めがけて、銃弾の音がかすめていく。
そこでやむなく、マサキはしゃがんでいるしかなかった。
同じように、しゃがんでいたキルケは、首を傾ける暇もなかった。
頭上を、ピュンピュンと、風を切っていく銃弾が通り過ぎていく。
戦闘は予想通り、息つく暇もなく激烈を極めた。
燃えいぶる建物の内から、銃弾が飛んで来るのをものともせずに、GSG-9隊員は煙の中を銃を盲射し始める。
硝煙を嗅ぐと、なおさら彼らの気は、そぞろに猛り乱れた。
この状態は、古参兵でも、捨て身になりきれるまでの間には、どうしても一度は通る気持ちだった。
燃え盛るレストランから、一人の人影が飛び出してきた。
50歳前後の男で、ワイシャツにスラックス姿だった。
「撃つな、助けてくれ」
少なくも、7、80挺はあろうかと思われる短機関銃の影がうごいた。
それが皆、ひとつ焦点へ銃口を向けたのである。
「撃つな、俺はこの店のオーナーだ!」
店の入り口に立っていたオーナーは、当然、蜂の巣となるべき場所に位置していた。
隊員たちは、パパパッと、銃弾をあびせかけた。
オーナーは、つるべ撃ちに銃弾をうけ、打ち倒された。
レストランの建物は、漠々たる煙塵に包まれ始めていた。
あの火と煙を見ていれば、この中には、今、生きたものは猫一匹いないであろう。
誰も彼もが血走った眼を火線に曝し、汗ばんだ手でピストルの銃把を握りしめている。
一際激しい炎と煙の中に向かって、装甲車から軽機関銃を浴びせるものがあった。
「おい、どうした。何を撃っている」
機関銃手は、そう聞かれて大真面目に答えた。
「敵の戦術機だ。
見ろ!あそこに、堂々と姿を現したじゃないか」
気違いのたわごとだろうか。
ますます燃え盛る炎と煙の中から、何かがうごめきだしてきた。
「ゼオライマーだ!」
誰かが怒鳴った。
のども破れんばかりに怒鳴っている。
「退却だ、退却!」
機銃手の言葉は、本当だった。
しかも、GSG-9の頭上近くを、小癪なまでに堂々と落ち着き払って、敵機は姿を現した。
突然、両足にあるミサイル発射装置の蓋が開く。
夕立の様な、ミサイルの雨が集中した。
GSG-9の先鋒といえば、そのあらかたが、軽装といってもよい。
ヘルメットに野戦服、ただ短機関銃やピストルを振り廻すものが多かったのだ。
ぜひもない。
至近弾の爆発で、見るまにばたばた、倒れてゆく。
あとはわっと逃げ崩れる。
グレートゼオライマーは、一気に追う。
敵の屍を踏みこえ踏み越え、遠く敵を追っかけ出した。
やがて、それに答えて、暗闇の中から近づいて来たのは UH-1Dヘリコプター。
パパパパッと、たちまち機銃弾の飛んでくる赤い線が、闇を切る。
機上から、敵の声々が聞えてくる。
「のがすな、引っ捕えろ」
グレートゼオライマーは、両腕を上げ、指先のビーム砲を向ける。
武装ヘリの一隊へ、狂的な乱射をあびせかけた。
ダダタッ――と、近づくまでに、何機かは撃墜された。
けれど、GSG-9の隊員は狼狽しながら、MG3機関銃を撃ってくる。
たえまもない銃声の中を、グレートゼオライマーは突き進んでいく。
猛烈な砲撃のもとに、間もなくGSG-9のヘリ部隊は全機撃墜された。
こうして、国境警備隊は、主力の特殊部隊GSG-9から、完全なる殲滅をうけてしまった。
後書き
ドリス・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザインは、短編集「幸せでありますように」出てくる女性キャラです。
以前読者様のご意見であった、ユンカーと貴族を出す案を採用することにしました。
イングヒルト・ブロニコフスキー出すのためらってたんですが、ここでのご意見もありますし、ハーメルンでも希望があったので出すことにしました。
勿論マサキがらみですが……
ご意見、ご感想お待ちしております。
脱出行 その3
前書き
ネット環境が整う前のヨーロッパやアングロサクソン系国家の日本に対する認識は、こんなものでした。
というか、今も自分で調べない人はおんなじかな……
マサキはゼオライマーを使い、ベンドルフ郊外に転移した。
キルケの女友達であるドリス嬢の屋敷に立ち寄るためである。
キルケが来訪のベルを鳴らした後、古びた洋館から一人のうら若い乙女が出てきた。
淡いエメラルド色のノースリーブのワンピースに、奇麗に後ろに撫でつけられた白銀に近い金髪。
初陽に浮かび上がる奇麗なあごの線に、微笑が浮かび上がる。
ノースリーブから出ているドリスの腕を見た時、マサキはある種の感動を覚えた。
彼女の皮膚そのものが、今までに出会ってきた女とは違う事に気が付いた。
――本当の貴族のお姫様とは、こういう物なのか――
馥郁とした匂いが、マサキの鼻孔に流れ込んだ。
マサキの様な影の世界に生きてきたものにとって、それはまさしく高貴な香りだった。
ドリスは貴族令嬢というのに、本当に飾り気のない人物だった。
ざっくばらんとした口調で、キルケに話しかけてきた。
「ひさしぶりだな、元気にしていたか」
「もちろん!そっちはどう?
たしか、第44戦術機甲大隊に赴任したって聞いたけど……」
「半年前に除隊した」
マサキは、その言葉を脇で聞いた瞬間、何とも言えない感情に襲われた。
同じような境遇のアイリスディーナやベアトリクスは、簡単に除隊させてもらっていないのだ。
人不足の東独で、尚且つ技術者の少ない東側という事もあろう。
西ドイツ軍は、本心では女性兵士などお荷物と思っているのではないか。
あるいは、ドリスという人物が結婚でもして、それを機に除隊させられたのか。
この時代のフランス軍などではそうだから、恐らくそういう内規があるのであろう。
「そう。私は前と同じよ」
キルケとドリスは、お互いに相好を崩した。
まるで、女学生の頃に戻った様子である。
マサキは、タバコに火をつけながら、その様子を漫然と眺めていた。
キルケとドリスが何事もなかったのかのように平然としている姿に感心した。
女とは、かくも図々しいという結論に達した。
間もなくドリスは、キルケとの再会もほどほどに、邸宅の大広間に案内してくれた。
そこには、杖を突いた六十がらみの男が立っていた。
老ザイン候は、坐骨神経痛という病身であったにもかかわらず、威厳と落ち着きがあった。
マサキよりも背が高く、豊かな灰色の髪に、引き締まった体つきであった。
「木原博士、まずこれをご覧いただけますか」
マサキの頼みに応じて、老ザインは、机の引き出しから一つの書状を取り出した。
「30年以上前の名簿と写真だが……」
それは、突撃隊の隊員名簿と集合写真であった。
エルンスト・レームとともに写る50名以上の青年隊員。
1930年代初頭に撮影された、突撃隊幹部の写真であった。
マサキは、自分の推論が正しかったことに安堵した。
貴族であるドリスの祖父が、西ドイツ政界の闇を知っているのではないか。
その推測からの行動であり、まったく当てのない行動でもあった。
結果から言えば、マサキの読みは正しかった。
ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン候は、彼自身もヒトラーユーゲントに参加した経歴の持ち主だった。
若い頃親衛隊に所属して、空軍パイロットになり、戦死した兄がおり、これもパイロットを祖父にもつキルケにとっても幸いであった。
「こいつは預からせてもらうぜ。
美久、例の物を出せ」
そして、後ろに立つ美久に、持って来た鞄を机の上に置くように指示した。
ジュラルミン製のアタッシェケースで、1億マルクが入っている。
(1979年当時のレートは、1西ドイツマルク=138円)
「これは一体なんですか……」
マサキは、手の切れそうな紙幣の一束をアタッシェケースから取った。
すべて、当時の西ドイツ最高額面の1000マルク紙幣で、なおかつ新札であった。
「金の件だが……全部1000マルク紙幣で、一束10万マルクほどある」
さらに、鞄から新しい紙幣の束を出して、目の前に山と積む。
額面としては、およそ5000万マルクほどであった。
「欲しければ、倍も3倍もやろう」
「金は要りません」
「エッ!」
「私が引き受けたのは、シュタインホフ将軍が兄の戦友だからです。
そして、この国をめちゃくちゃにした共産主義者を憎んでいるからです」
「義侠心というやつか」
「左様、木原博士。
貴方は、非常に優秀で、なおかつ志操堅固な科学者でいらっしゃる。
私の方が、貴方を買いたいくらいですよ」
マサキは、警戒心もわすれた。
正直、百倍の力を得たよろこびだった。
「フハハハハ、よかろう」
「私は、いつか、あの変節漢に一杯食わせてやろうかと思っていたのです。
ありがとうございます。博士。
まあ、食事ぐらいしか、もてなせませんが……」
ドリスに案内されて、キルケとマサキは、屋敷の別棟にある食堂を兼ねた炊事場に来た。
ドリスの家族で、料理好きの物が立てたという。
見た感じ新築で、炊事場は、ほとんど使った様子はなかった。
一般的なドイツ人は、火を使う食事より軽食が好きだからである。
キルケやドリスも、その例から漏れなかった。
ドアを開けると、テーブルの上には、すでに豪華な食事が用意してあった。
酒の方も、モーゼルワインの他に、シーバス・リーガルなどのウイスキーが用意してあった。
「お嬢さん、初めまして。
私は第44戦術機甲大隊で、中隊長を務めておるもので、ドリスの夫です」
マサキ達より先に部屋にいた男は黒髪の白人で、ドイツ軍人だった。
見あげるばかりの、実に立派な偉丈夫であった。
黒く短いダブルブレストの上着に、黒のズボンに黒革の長靴。
意匠こそ戦時中のドイツ戦車兵制服に似ていた。
だが、色合いと言い、徽章や勲章の配置と言い、武装親衛隊の黒い制服を思い起こさせるものであった。
ソ連の政府機関紙「イズベスチヤ」紙上において、「武装親衛隊の再来」と評されるほど。
ソ連のプロパガンダ宣伝のも、仕方のない事であろう。
西ドイツ軍では珍しく、これ見よがしに短剣やサーベルを帯びていることが許された部隊であった。
戦後の西ドイツ軍では、ナチス時代の反省として、銃剣、サーベルなどの刀剣類はすべて廃止となった。
精々許されるのは、バターを切るための十徳ナイフぐらいで、格闘用の短剣さえ忌避された。
その為、プロイセン王国の騎兵を手本とした第44戦術機甲大隊の刀剣類を尊重する文化は、極めて異質だった。
現代の日本人として、ナチス時代にさほど忌避感のないマサキでさえ、黒の制服には驚くほどであった。
「まず……お掛け下さい」
ドリスの夫を名乗る男は、胸の前で、サラリとパイプを出して、火をつけた。
ラムリキュールと柑橘の香を放つ紫煙をくゆらしながら、徐々と語りだした話はこうである。
男の話では、彼は代々地方貴族の出で、爵位は男爵。
半年前に、第44戦術機甲大隊に配属になったドリスと知り合い、結婚したのだという。
1972年以前は、オランダのライデン大学で日本研究をしてたと言う人物だった。
BETA戦争が起きてから、新設されたドイツ連邦軍大学に入り、正規の将校教育を受けたという。
自己紹介を終えた後、自然と話は、日本に関することに向かった。
BETA戦争での日本の事やら、富士山や松島と言った景勝地に関するなどである。
その内、黙っていたドリスが、マサキの気になるようなことを言った。
日本の帝室に関してのことである。
「前の戦争で負けた後、皇帝はどちらにいられますか。
退位されて、どこか外国にお逃げ遊ばされたという話を、寡聞にして知りませんので……」
欧州では、いや世界では敗戦国の君主の扱いは、惨めだった。
ドイツのカイザーは、ともかく。
オーストリーハンガリー帝国、イタリアやルーマニアの王室もみな、追放の憂き目にあった。
敗戦こそしなかったオランダ、デンマーク、スエーデンの王室は、占領に際して海外に避難した。
だから、米国に7年の間占領されている日本の皇室は、滅びたものばかりと思って、ドリスは尋ねたのだ。
「宸儀は、今も昔も、御座所の九重の奥にあって、日本全土を領ろし召されている」
ドリスは一瞬、驚きの表情を浮かべ、口を開ける。
欧州の歴史では、世界の常識では考えられない。
キルケは何気なく帝室の歴史について聞いた。
それは全く歴史を知らない子供の質問だったが、マサキを興奮させるには十分だった。
「今は、何個目の王朝なの?」
「日本は、開闢以来、一つの朝廷さ。
俺たち、日本人は、ずっと帝室と共に生きてきた」
そして、マサキは、滔々と日本の歴史を語って聞かせた。
いきなり近代の話をするのでは理解しづらいと思い、古代から江戸時代までの大まかな事を教えたのだ。
ドリスが出した赤ワインも、マサキを饒舌にするのに手を貸したようだった。
キルケも、ドリスに勧められて、ワインを飲んだ。
マサキの話が終わるころには、目が回るぐらいに酔っていた。
それまで黙っていたドリスの夫である男爵は、何と思ったか。
われから先にマサキの杯に酒を注いで、愛想よくこう話しかけた。
「今までのご説明は、よくわかりました。
ただ一つ、疑問が残るのです。
貴方は何者で……狙いは何だと」
男爵が手酌をしたのを見ては、マサキも杯を受けないわけにゆかなかった。
またその愛想笑いにたいして、にべもない宿意を以てむくうほど小心にして正直な彼でもなかった。
「俺は日本人の科学者さ……
全てが嫌になって、ゼオライマーを作ったといえば信用してもらえるかな」
「日本は、万世一系の皇帝を頂く王制の国だ。
戦争で勝てぬと見ると講和を結んだのは、この国体を守るためだ。
完全な武装放棄とともに、国体を守ることを米国から許された」
はじめのほどは、ドリスもキルケも余りいい顔はしていなかった。
しかし、マサキが、まったく、他意はない様子で、ひたすら今夕の事情を説いた。
やがて、ドリスの夫である男爵は、ぷッつり言った。
まるで、話に飽きてきたように。
「過去の事を聞いても、始まらん。
貴方の考えは、どうなのだ」
これが何より、男の言いたかったことかも知れない。
マサキは、キルケの横顔へ、チラと訊ねてからまたドリスの面をじっと見入っている。
「フハハハハ」
マサキは、他人事みたいに笑った。
言葉を切ると、タバコに火をつける。
「この木原マサキという男が、何を考えて、何をしようとしているのか。
肚ん中みせてやる」
マサキは、こういって、二、三服の煙草をくゆらしてから、ゆったりと語り出した。
自分のゼオライマー建造の動機やら、昔の思い出を、むしろ愉しげにである。
「日本という極東にちっぽけな国が経済という力で膨れ上がった。
いつの日か、必ず、日本は世界中の標的にされる。
平和ボケをした今の日本には、その抵抗力はない」
マサキはまた、こうもいう。
「この世界とて同じこと……
今の日本なら一気に攻め込める」
彼の眼には、やがて、マサキの面に、ゆるい微笑が彫られてくるのを見た。
「俺は起こるべき事態に備えて、いくつかの布石を打つことにした。
秘密裏に核戦力を保持することと、核に比類する兵器の開発だ。
原子核破壊砲と、次元連結システムの開発だ」
ドリスは、その仰々しい武器の名前からして、何かふッと、胸が騒いだ。
「原子核破壊砲……?」
「原子核破壊砲は、文字通り、相手の原子核を根底から破壊する兵器だ。
原子を構成する中性子と陽子のバランスを崩し、放射性崩壊を引き起こさせる兵器だ」
「私には難しい科学の事はさっぱりだ。
もっと簡単に説明してくれ」
ドリスは、重ねて原子核破壊砲の説明を求めた。
マサキは、ひるみなく答えた。
「よかろう。
この光線を浴びたものは、その場で目に見えない原子単位で分解してしまう。
その気になれば、敵対する国の人間だけを消して、相手の国土を無償で手に入れられる兵器だ」
「そんな恐ろしい兵器を何処で使おうというのだね」
そうした危惧を、心理を、マサキも、充分知って知りぬいていたろう。
すると、笑って言った。
「使うのではない。
持っていることこそが、それだけで力になる」
マサキの態度は、一歩も譲っているのではなかった。
男爵は、黙るほかなく、しばし首をたれてしまった。
悪の天才科学者の、弄する奇言。
ドリスには、そう聞えた。
「中ソがなぜ国民生活を犠牲にして、核保有を急いだのか。
英仏が、強大な軍事力と引き換えに、核配備を進めたのか。
それは、核という武器があってこそ、初めて独立国として振舞えるからだ」
マサキは、胸の奥底にはある埋め火のような熱情の端を、このとき語気にちらと、掻き立ててみせた。
「敗戦の恥辱にまみえた日本が何故、その国体を維持できたか。
米国が君主制に憧憬を抱き、わずかばかりの仏心をみせたからではない。
日本という、不沈空母を欲したからだ。
世界の中における、極東最大の自由国家という場所に、軍事拠点を置きたかったからだ」
聞きてのキルケには、まんざら、そうばかりとも思えない。
日米間のあつれきも、相当ひどいものと聞いている。
たぶんにそれらの感情もあるだろう。
「日本が真に自立するためには、相手に左右されない戦力を持つ必要がある。
そこで、俺は天のゼオライマーを建造し、来るべき時に備えることとしたのだ!
現在は違うが、俺なりの日本への愛国心で行ったことなのだ」
こう、結んでマサキは、持っていた煙草に火をつけた。
「そのかぎりでは、俺が、危険な科学者と呼ばれても致し方あるまい」
マサキの言も、初めは、ちょっと奇矯に聞えた。
だが、キルケは、彼の無造作な言葉の端々には、真実がこぼれ出すのを知って驚いた。
――それとまた、自分の中に久しくいじけたままで眠っていた本来の自分が、マサキの声に、呼び醒まされていたことにも気がついた。
後書き
実時間2年半かけて、作中時間が2年半しか進んでないって、どういう事よ……
初期の構想より展開が遅いことに、悩んでおります。
他所様の所だと10年かけて、作中時間が1年半の所もありますからね……
まあ、週間連載だったせいもあるんでしょうね……
気を取り直して、話を進めることにします。
ご意見、ご感想お待ちしております。
卑劣なテロ作戦 その1
前書き
久しぶりに休日投稿します。
なお作中の史実上の人物は、全員物故者です。
歓迎の宴は深更まで続き、キルケは酒に酔いつぶれて、眠ってしまった。
白人種のキルケは、決して酒に弱い方ではない。
今までに経験したことのないような連日の逃避行の疲労から、深い眠りについてしまった。
マサキは、このような歓待に乗じて、旨酒に媚薬や眠り薬を入れる手段を想定した。
そこで、密かにビタミン剤を飲んで、酔いを緩和していたのだ。
敵の陰謀や暗殺隊という物は、決まって深夜に動き出すものである。
前の世界での、KGBによるアフガン書記長暗殺事件も夕方から夜半だった。
ザイン城の近くに、渋いブルーグレーの車が止まった。
車種はメルセデス・ベンツの280SEセダン。
運転していたのは東洋人で、運転席と、助手席にそれぞれ一人づつ乗っていた。
「私は、大使館に連絡する。
君は、あの城の中に潜入して、偵察を頼む」
「分かりました」
そうして外套姿の男は、自動車電話をとった。
受話器を取り、ダイヤルを回す。
「もしもし、私です。
これから白銀君と、ザイン城をあたります」
受話器の向こうの相手は、短く返答した。
「そうか。
気を付けて、木原を確保しろ」
「では大尉殿、了解しました」
午前2時ごろ、ザイン城の邸宅にある呼び鈴がなった。
ドリスがドアを開けると、そこには二人の男が立っていた。
「あの失礼ですけど、こんな夜更けに、どちら様ですか」
目の前に立つ男は、東洋人で、真夏の夜というのに、分厚いトレンチコート。
後ろの若い男は、半袖のシャンブレーシャツに、裾がラッパのように広がったズボン。
若い男が履いていたのは、ベルボトムと言われるジーンズ。
米海軍の作業が起源で、1970年代に若い男女の間で流行し、ヒッピーなどが好んで身に着けていた。
「私が主人ですが、要件は何ですか」
男爵は、煙草入れからパイプに煙草を詰めながら、外套姿の男にこう尋ねた。
男は右手を出しながら、
「要件はただ一つ。
ここに滞在している男を、私たちに引き合わせたまえ」
あまりの言葉に、ドリスと男爵は驚愕した。
姿と言い、言動と言い、まともな男ではない。
これはおそらく薬物中毒か、ヒッピーだと、彼らは結論付けた。
「藪から棒に、何を言い出すんだ。
君たちは、気違いか」
外套姿の男は、机の上にある1000マルク紙幣の束を取る。
弄ぶようにして、金額を数えながら、
「ふむ、500万マルクか。
こいつは大金だな……まあよかろう」
男は、不敵の笑みを浮かべながら、男爵の方を向く。
「木原君は、この家のどこかだな。
よし家探しをさせてもらおうか」
男爵にも、これは、ちょッと不可解な相手であった。
本気か、威嚇か、理解しかねていた。
「冗談を言うな。
勝手な真似はさせんぞ!」
男爵は、ちょっとイライラした様子で返した。
外套姿の男は、不気味な笑いを浮かべつつも、男爵の目をねめつける。
「私が冗談を言っていると思うか!
本当に怪我をしたいのか」
飛び出した男の手には、ブルーイング仕上げで、箒の柄に似た木製の銃把が付いた自動拳銃!
モーゼル・シュネルフォイヤーで知られる、M172自動拳銃である。
「何時までも、勝手な真似はさせんぞ」
男爵は、腰のホルスターに手を書けようとする。
そしてもう一人の男の動きを見て、手をホルスターから離した。
「あッ……」
後ろに立つもう一人の男の手には、フォアグリップとドラムマガジンのついた短機関銃。
シカゴ・タイプライターといった通称を持つ、M1928トンプソン・サブマシンガンである。
男爵は、自分の妻に危害が及ぶのを恐れ、止む無く銃を持つのを諦めたのだ。
「手荒いのは我慢してもらおう。
それが、我々の務めだからな」
その内、物音に気が付いたマサキがドアの向こうから出てきた。
途端にあきれ顔になったマサキは、こう言い放つ。
「よせ、そいつらは俺の仲間だ」
その時、ドリスと男爵は顔を見合わせた。
場所を大広間に移して、話し合いが行われた。
マサキの話は、こうだった。
外套姿の男はマサキの仲間で、所要があって自分たちと別行動をしていた。
そして、マサキとキルケの事を迎えに来たという。
事情を知らないドリスと男爵は、彼らを左翼系の過激派だと早合点して、銃を出しそうになった。
マサキが来なかったら、流血の事態は避けられなかったとも……
「ハハハハ、そういう訳だったのか。
そいつは、どうも気の毒にな!」
マサキは、腹を抱えて笑い止まないのである。
むっとした男爵が顔を向けると、マサキはなお笑って答えた。
「さっきは、相当手荒いやり方で入って来たらしいな」
マサキが糺すと、今度はむしろ気の毒になったように、外套姿の男も真顔になっていった。
「いや、どうも申し訳ございません。
実は事情があったのです」
男は、平謝りに詫びいった。
「改めて紹介しましょう。
私は、鎧衣左近。東京から来たビジネスマンさ。
こっちの彼は白銀君だ」
「旦那様、奥様、大変お騒がせしました」
こんどは、ドリスの方がほんとに怒ってしまう。
そしてマサキを、普通の礼儀を知らない馬鹿者と見なした。
「以後、こういう事がないように気を付けてください!」
ドリスの怒りももっともである。
興奮して言う彼女に、笑って答えた。
「まあ、夜に機関銃を持ってくるのは強盗か、左翼のテロリストぐらいだからな。
用心には越したことはないか。フハハハハ」
場面は変わって、西ドイツのボン。
マサキ事件の対応を巡って、西ドイツ首脳は夜を徹して、密議を凝らしていた。
「二人の足取りは、つかめんのか。
不愉快だ!」
西ドイツ首相、ヘルムート・シュミットは満腔の怒りを込めて、こう言い放つ。
ボンの首相府に集まった、閣僚たちの顔色は優れなかった。
間もなく、伝令が、一大事一大事と、告げ渡って、飛んで来た。
「し、失礼します。
BNDのラインラント=プファルツ州局長から、緊急連絡が入ってきました!」
「何!」
「報告によれば、ゼオライマーで、そのままマイエン=コブレンツ郡に逃亡したそうです。
土地の貴族のザイン=ヴィトゲンシュタインと、接触を持ったそうです」
彼の報は、急電より詳細だった。
しかもみじめにまで殲滅をうけた国境警備隊の運命に、いまは疑う余地もない。
「奴らはそろそろ、シュトゥットガルトあたりだろう」
官邸に集まった閣僚たちが、ぴくりと体を一瞬動かす。
その内、マイホーファー内相が、重々しい声で言った。
「それがプッツリと足跡を消してしまいまして……」
首相は、背広から、総象牙で出来たベント型のパイプを取り出す。
パイプに、上等なたばこをつめて、くゆらしながら、答えた。
「国境警備隊とBNDを相手にして、あの科学者はしぶとい奴よの!」
内相は、目にいぶる煙に、顔をそむけて、沈黙していた。
首相は、いよいよ怒って、閣僚たちを問い詰めた。
「問題は木原だ。
何としても探し出せ!」
西ドイツ首脳が、帷幕の内で、こんな密談を交わしていたことがあってから、2時間後あった。
工作員オルフこと、ウィリアム・ボルム下院議員は、数名の男たちを私宅に呼び寄せていた。
「ところで、下院議員。GSG-9が全滅させられたそうですな」
「だから君に頼んでるんじゃないか、ドゥチュケ君」
アルフレート・ヴィリ・ルディ・ドゥチュケは、西ドイツで名の知られた極左活動家の大物。
東ドイツ出身で、イタリアの思想家、アントニオ・グラムシの「ヘゲモニー論」に共鳴した人物だった。
1960年当時、東ドイツの徴兵制度に嫌気がさし、ベルリンの壁建設の前日に西ベルリンに逃亡した。
政府や社会の中から過激な変革を実現するという「制度内への長征」を提唱した男である。
そして長征という思想的な表現から解る通り、毛沢東思想を本心から礼賛した過激な人物だった。
西ドイツで再建されたドイツ共産党のグループ、Kグルッペに所属し、理論的指導者のひとり。
そんな彼を危険視した右翼活動家によって、脳に3発の銃弾を受け、重い言語障害を負うことになった。
史実の世界では、脳障害が治らず、1979年にそのことが原因で死去する。
だが、この異界では違った。
デンマークに渡った後、KGBのてびきによって、ソ連に密入国する。
そしてソ連科学アカデミーの手によって、最新の脳手術を受けた。
彼は、毛沢東思想の活動家から、ソ連KGBの破壊工作員として復活したのだ。
共産主義者や過激派にとって、木原マサキは、宿敵である。
ブルジョアの似非科学者であり、憎むべき日本帝国主義者であった。
ゆえに、マサキの抹殺の機会を伺がっていた彼は、西ドイツの依頼に応じたのであった。
「外人の木原は、私とシュタージの関係を洗い出すつもりだ。
もしこのことが、野党のキリスト教民主同盟に知られたら、下院議員としての立場は無くなる。
何が何でも抹殺するのだ」
「はい。
では下院議員、私の条件を飲んでもらえますかな」
「たしか、選挙協力の代わりとして、ドイツ赤軍派の戦闘員を動員する。
刑務所に捕らえられているKグルッペの囚人、250名の即時出獄と武器供与だね」
「彼らの手助けがあれば、あの木原とかいう黄色い猿めは、殺してごらんに入れましょう」
「吉報を楽しみに待っているよ」
「SPDだけじゃなくて、Kグルッペの様な、毛沢東主義者たちと手を組むつもりなのかね。」
ドゥチュケとオルフのやり取りに、ゲルト・バスティアン陸軍少将が口をはさんだ。
件の人物は、ドイツ連邦軍第12装甲師団長。
史実では、男やもめになった後、24歳も年下の緑の党の女党首を愛人にし、同棲していた。
バスティアン自身は、陸軍勤務中に思想が左傾化し、中距離弾道ミサイルの配備反対運動を始めるほどだった。
そして数名の将官たちと、「平和のための将軍団」という反戦組織の創設した。
また1980年代以降、緑の党の女党首と共に、東ドイツの野党勢力を支援するなど、元軍人らしからぬ行動をした人物であった。
――のちに、この反戦組織の実態が、1994年4月26日付のインディペンデント紙で、暴露された。
シュタージに26年間勤務したギュンター・ボーンサック中佐の証言によると以下の通りだった。
彼は、中央偵察局で積極工作に関与し、偽情報工作の専門家だった――
「平和のための将軍団は、シュタージによって構想され、資金提供された。
これによりモスクワの考えに沿った団体が組織され、常にモスクワと東ベルリンの諜報機関を通じて、管理した」
ドイツ連邦は、このように政府機関、警察はおろか、軍まで急速に左傾化していたのだ。
その事を憂いたゲーレンら、もと国防軍関係者や一部の財界人は、マサキの事を頼ったのは致し方のない事でもあった。
そんなことは、シュタージのスパイたちの知ったわけのものでないが、マサキが左翼を嫌いなのも分っている。
また、ゲーレンも元国防軍将校であるから、マサキに近寄るのは不審には思わなかった。
だが、今、突如として現れた天のゼオライマーには、恐ろしい疑念がわいた。
忌々しい黄色い猿。
殺してしまわないと、また襲ってくる。
そう思ったからオルフ達は、この機に乗じて、どこまでも追いかけることにしたのだ。
バスティアンは、オルフがゼオライマーの恐ろしさを知らないことを、却っていぶかり顔にいう。
「木原は人間じゃない、奴は悪魔だ。
人間に悪魔が殺せるのかね。
全学連とかなんだかしらないけど、彼らに木原は殺せないぞ!」
ドゥチュケは、もう勘弁ならぬという顔を示して、バスティアンをねめつけた。
オルフは、ドゥチュケを利用したいがために、弁護した。
「今話題の、ヒッピー集団、緑の党に加入戦術を進めている、ドゥチュケ君は優秀だ。
左翼学生運動活動家の信任も厚い。
左派の票を取り込むことが出来れば、CDUに勝てる。
私の議員としての再選は確実だ。
といっても、SPDの君たちの協力があってこそだ」
緑の党は、2020年現在、ドイツ議会に118議席を持つ第三の政党である。
環境意識の高まった1970年代末期、主に右派や保守派が中心となって、環境グループを組織した。
そこに毛沢東主義者や、1968年の学生運動に関わったドイツ国内の左派グループも参加し始めた。
この加入戦術は成功し、1979年11月4日の党大会で左翼過激派の加入が認められるほどだった。
党を組織した右派は、過激派の参加を拒んで反対動議を提出したものの、僅差で否決されるほど浸透されていた。
1980年1月13日の党大会での結党メンバーには、件のルディ・ドゥチュケも名を連ねた。
するとバスティアンは、そういう種類の男が、何を目的にうろついているのか、元より知っているので、
「このヒッピー野郎、帰れ」
ルディ・ドゥチュケは、他にも、機嫌のわるいものが胸にあったところとみえて、怒鳴った。
「うるせぇ!スケベ爺。
この、色きちがいが!」
あわてて、オルフは、反目しあう二人をなだめた。
自分が当選するまでは、緑の党は必要なのだ。
もしマサキに負けても、ルディ・ドゥチュケは極左の活動家だ。
マサキに消してもらえばいい、としか思っていなかった。
「そう反目せずに、私に力を貸してくれ。
栄光あるドイツのために!」
後書き
しばらく、隔週連載を続けます。
ご意見、ご感想お待ちしております。
卑劣なテロ作戦 その2
前書き
シュタージ関連の資料を調べると、まあスパイ戦が激しい事。
という訳で、史実を反映した話になります。
一応、登場する実在の人物は全員物故者です。
まあ、50年前が舞台の小説ですからね……
西ドイツにおける騒動は、遠く極東にあるウラジオストックのソ連KGB本部にも伝わっていた。
一連の事件の対応策が、KGB首脳の間で練られていた。
「ほう、やりますな」
失笑を漏らした第一総局長をたしなめるように、KGB長官が言った。
「ど、どうするのだ!」
神妙な顔をするKGB長官に、第一総局長は問いただした。
「木原は、ベンドルフ郊外のザイン城ですか」
「そうらしい」
「少し電話を貸していただけますか」
そういうと、男は黒電話のダイヤルを回して、ボンの駐独ソ連大使館に電話した。
「ボンにいる、オルフに仕事だ」
オルフとは、ドイツ連邦議会下院議員であるウィリアム・ボルムのコードネームである。
1950年代から、KGB、シュタージのスパイとなって、西ドイツ議会に潜入した。
「ま、まさか……」
KGB長官は、驚いたような声を出した。、
「そういう事もあろうかと段取りをつけておきました。
西ドイツ議会に潜入中のオルフを通じて、緑の党のメンバーを集めます。
そして木原をドカンとやります。
みんな、東ドイツの支援を受けたドイツ赤軍派の仕業だと思いますでしょう」
当時のKGBは、圧倒する米国の最新軍事技術に対抗する政策として、テロリズムを堂々と推し進めていた。
それを裏付けるような東側の情報機関当局者の発言もある。
証言者は、イオン・ミハイ・パチェパ(1928~2021)。
ルーマニアの対外情報機関長で、チャウシェスク大統領の政治顧問でもあった人物だ。
パチェパの証言によれば。
1956年から1971年までKGB第一総局長であったアレクサンドル・サハロフスキーKGB大将が、よく発言したとされる言葉である。
「核兵器のために軍事力が陳腐化した今は、テロリズムが我々の最大の武器になるであろう」
KGBは、ドイツ赤軍、日本赤軍などの極左暴力集団の支援を行った。
友邦の東ドイツや、シリア、レバノン、南イエメン、北鮮などを通じて、武器、資金、訓練所を提供させた。
ソ連が、テロリスト支援国家という、評判を防ぐためである。
数々の国際テロ事件を起こした、パレスチナ解放人民戦線は、無論の事。
1970年台に頻発した国際ハイジャック事件の裏には、常に赤色勢力の魔の手が伸びていたのである。
つまり、シュタージのミルケやヴォルフは、甘言で西ドイツの善男善女を非公式協力者にリクルートする傍ら、テロ集団であるドイツ赤軍に資金と武器を提供し、西ドイツの市民を恐怖のどん底に陥れていたのだ。
キルケが東ドイツを犯罪国家と表現したことは、全くの正論であり、事実であった。
ソ連にとって、東独のシュタージを使ってのテロは最大の国家機密の一つであった。
日夜、ソ連の宣伝部門は、「ソ連は平和友好国家」とか「ソ連は反テロリズム国家」と喧伝していた。
だが、それは、自らの犯罪行為をカバーする偽装工作であったのだ。
西ドイツにおけるドイツ赤軍のテロ事件は、西側社会の不安定化工作の一端であった。
盤石と見えたソ連の支配体制が揺らぎだしたこの時代において、ドイツ赤軍の行動はKGBの利益を守るものであったのだ。
KGB長官は、第一総局長に皮肉交じりに答える。
第一総局長は、冷笑をもらした。
「大勢の犠牲者が出る事だろうな」
「ホホホホホ。
やむを得ない事です。
木原が、わがソビエトの要求を呑んでいれば、爆破されずに済んだことですから」
「すべての非難は、東西ドイツに集まるという事か。
かつてドイツ赤軍を支援した東ドイツと、警備体制が不十分な西ドイツ当局……
黄色猿に下った犬畜生どもも、いい気味よ!」
当時のKGBは、西ドイツに対して深い敵意を抱いていた。
ルーマニアの対外諜報機関長パチェパが、ヘルムート・シュミットの手を経て、米国に政治亡命した為である。
これにより、ルーマニアの対外諜報は勿論のこと。
KGB、GRU、シュタージの、一連の対外テロ工作などの悪行が、白日の下にさらされた。
「左様です」
「よかろう。フハハハハ」
西ドイツ政界の上院議長を通じての、マサキ暗殺作戦。
なぜソ連秘密情報部は、そのような事が可能であったのか。
それはKGB、GRU、シュタージと言った東側のスパイが、西ドイツ諜報の奥底に入り込んでいた為である。
史実を基に関係者の名前を列挙したい。
オットー・ヨーン(憲法擁護庁長官)
戦前からの弁護士で、ルフトハンザ航空の顧問弁護士出身。
ヒトラー暗殺計画に参加後、亡命し、ロンドンに移住。
1950年に帰国後、憲法擁護庁の初代長官になる。
しかしまもなくKGBの調略により、スパイとなり、東ベルリンでシュタージに情報提供をしていた。
1954年にKGBの手引きで東ベルリンへ亡命未遂事件を起こすも、帰国し、逮捕される。
4年半の実刑判決を受けるも、後に恩赦。
1997年に死去。
ヨハイム・クラーゼ(軍事防諜局副局長)
戦前はナチス党員で、戦後は正式な将校教育を受けずに高級将校になった。
ソ連軍により家族を殺害されるも、金欲しさから東ドイツに近づき、2重スパイになる。
東ドイツと接触するたびに5000ドイツマルクを受けとっていた。
1988年にがんで死亡するまで、スパイであることが露見しなかった。
ハンス・ヨアヒム・ティートゲ(憲法擁護庁対外防諜局長)
別名:ヘルムート・フィッシャー。
1979年に東ドイツ防諜責任者になるも、妻の死によりうつ病に陥る。
(シュタージの尋問調書によれば、妻の死はティートゲの家庭内暴力だという)
多額の借金とアルコール中毒を抱えた彼に、KGBが近づき、スパイにリクルートした。
ティートゲは、1985年東ドイツに亡命し、東ベルリンのフンボルト大学で博士号を取得する。
1990年にKGBの手引きによりソ連に再移住し、当局の手配で大豪邸に暮らした。
最晩年は、ドイツ当局から逮捕におびえ、望郷の念を募らせたまま、2011年にモスクワで死去。
クラウス・エドゥアルド・クロン(憲法擁護庁)
金欲しさで、シュタージとKGBのスパイになった人物。
KGBによってソ連国内に移送される瞬間に心変わりし、自首する。
1992年に12年の刑を受けた後、1998年に恩赦で出獄。
2020年に死去。
ソーニャ・リューネブルクこと、ヨハンナ・オルブリッヒ(連邦議会議員秘書)
ドイツ連邦議会議員ウィリアム・ボルム及び、マルティン・バンゲマンの秘書。
2004年に死去するも、葬儀にはマックス・ヴォルフが参列した。
ウィリアム・ボルム(ドイツ連邦議会下院議員)
ボルム自身は、1950年代からシュタージの工作員で、オルフというコードネームで活躍していた。
ドイツ自由民主党から、ドイツ社会自由党に移籍し、1988年に死去。
スパイであることが露見したのは、東独崩壊後であった。
ウルスラ・リヒターこと、エリカ・リースマン(ドイツ追放者連盟書記長)
西ドイツにあるドイツ追放者連盟の書記長を務めていた。
その関係上、西ドイツの東側政策の裏側を知ることが出来、順次シュタージに報告されていた。
シュタージは前出のクラウス・クロンを守るために彼女を帰国させたくなかった。
だが、情勢悪化を理由に帰国した。
東ドイツに隠れ住むも、1992年に暴露され、罰金刑に処される。
2004年に死去。
アルフレッド・ハンス・ペーター・シュプーラー(ドイツ連邦情報局工作偵察部)
1968年から1989年までBND勤務の傍ら、シュタージのスパイを続けた2重スパイ。
BNDでの偽名は、アルフレッド・ペルガウ。
1971年にソ連とワルシャワ条約機構の監視任務に就く。
ドイツ連邦軍とBNDの連絡員を務める傍ら、ドイツ共産党に近づき、シュタージと連絡を取る。
シュタージでの偽名は、ピーター・フロリアンで、中央偵察総局の将校となった。
彼の報告書は、膨大で、未翻訳のまま、シュタージを通してKGBに譲渡された。
後に正規雇用のシュタージ中佐となり、特別に東ドイツの外交旅券を配布された。
褒賞として、33万マルクの大金の他に、数個の勲章を授与される。
1991年に逮捕され、1994年まで収監。2021年に死去するまで保護観察処分を受けていた。
著名な死没者だけでも、これである。
記録によれば、シュタージの非公式協力者は、西ドイツだけで6000人以上いたとされる。
立派な防諜組織のあるドイツでこれである。
スパイ防止法のないわが日本では、恐ろしいほどの非合法工作員による赤い蜘蛛の糸が張り巡らされていることやら。
KGBやGRUなど、敵国のスパイ機関から国民を守る組織がないのだ。
実に恐ろしい話である。
さて、閑話休題。
話をソ連の外交政策に戻してみよう。
ソ連の外交政策は、一貫して、近隣国家の弱体化である。
それは、日米欧の離間であり、急速に接近する日米中の関係崩壊である。
今回のマサキと西ドイツでの事件は、結果としてソ連を、KGBを元気づけることとなった。
ソ連は帝政ロシア以来、スパイ工作を外交方針の重要局面に置いた。
ソ連の諜報機関であるKGBでは、その傾向が強く、スパイに対するある種の信仰ともいえる思想が根付ていた。
その思想はチェーカー主義とも呼ばれるもので、全世界のどこにでも、敵のスパイが潜入し、体制転換の陰謀を企てているとする世界観である。
KGB長官、ユーリ・アンドロポフも、その例から漏れなかった。
彼はソ連の核戦力を質で凌駕する米国の核戦力、コンピューター技術を前にして、ある結論に至った。
それは、米国がソ連に対して先制核攻撃を仕掛けるという物であった。
このことはアンドロポフに東ドイツへの介入をすすめさせる遠因となった。
必死になってソ連の先制核攻撃を止め、スパイ工作での弱体化を図ろうとしてたソ連の幹部や東側諸国を信用していなかった。
ソ連指導部どころか、KGBも信用しなかった男である。
シュタージ幹部のミルケやヴォルフ達の事は、なおさら疑う事となった。
そこで、自らの甥であるエーリッヒ・シュミットこと、グレゴリー・アンドロポフを強引にシュタージに送り込み、東ドイツの再教育を狙ったのだ。
その際、予想外の事が起きる。
BETA戦争の真っ只中に現れた天のゼオライマーと、木原マサキという存在である。
マサキ自身も、謀略を用いて世界征服を狙った人物であったので、ソ連の弱体化を狙って、東ドイツに接近した。
そして、KGBからの妨害を受けると、これ幸いと、ソ連に乗り込み、大暴れする。
白昼堂々、ハバロフスク空港で、ブレジネフとアンドロポフを暗殺してしまった。
アンドロポフの妄想は、自らの死をもって、図らずも実現してしまうこととなった。
この事は、KGB職員たちの胸に、まぎれもない事実として、刻まれたのだ。
ある種、KGBの病的な誇大妄想は、ソ連国内のみならず、外国にも向けられた。
西欧最大の対ソ国家・西ドイツと、極東最大の自由の拠点である日本に対してである。
彼らは戦後の混乱期、いや戦前から長い時間をかけて、網の目の様なスパイ網を構築し、日独に対して、秘密作戦を実施した。
ことに、防諜機関も防諜法もない日本に対して、合法、違法を問わず苛烈な有害活動を行った。
その明朝。
ベンドルフ郊外のザイン城には、複数のボンネットトラックが向かっていた。
ドイツ連邦軍のトラックに偽装した20台の車列には、武装したドイツ赤軍のテロリストおよそ250名。
白いヘルメットにRAFとの黒い文字を書き、誤射を防ぐために赤い星の書かれた白地のゼッケンをつけていた。
そして身に着けた木綿製で紺地のプルオーバーのヤッケとオーバーズボンの下には、それぞれ私服を着ていた。
マサキにつかまった際に民間人だと言い張るためであり、また逃亡しやすくするためでもあった。
それは、国際法で否定されていた便衣兵という存在そのものであった。
運転席に座っていたRAF戦闘員のヴォルフガング・グラムスは、激しい機械音に気が付いた。
年代物のM54 5tトラックのエンジンとは明らかに違う音だ。
「もしや……」
今日は、早朝からの濃霧だ。
視界は、全く悪い。
車のライトで、2メートル先の道路がかろうじて見えるほどだ。
「どうした」
「爆音らしきものが聞こえます」
部下の報告に気づいたのであろう。
訝しげな声をかけた部隊長のクラウス・クロワッサンに、大声で声をかけた。
クロワッサンは、耳をそばだてた。
前方からは激しいエンジンの音が伝わってくるが、その音に混ざって遠くよりジェットエンジンらしい響きが聞こえてくる。
「間違いなさそうだな」
クロワッサンは、頷き、携帯型の無線機を取り上げた。
「こちら一号車から、各車両へ。
爆音らしきものを確認。
目視不可能なれど、敵の戦術機と思われる」
グラムスは、車を路肩に止めると、荷台に飛び乗った。
荷台の幌を外すと、M33対空2連装機関銃架を準備する。
敵の姿は依然肉眼で炉らえられないが、爆音はそれまでよりもはっきり聞こえる。
「射撃準備!」
誰かが叫んだ。
二連装のブローニング機関銃が空に向けられる。
12.7ミリの銃弾は、至近距離から射撃すれば、F-4ファントムの分厚い装甲板を穿つ能力をもつ。
霧の中より浮かび上がる戦術機の姿を見た。
「戦術機です。敵です!」
「何をしている!撃て」
号令一下、20台のトラックから一斉に銃砲が火を噴いた。
重重しい発射音と共に、赤い線が一直線に戦術機に向かって飛ぶ。
続けざまに手投げ弾と火炎瓶が投げつけられ、火焔と黒煙が上がる。
沸き起こる炎が、戦術機を照らし出す。
グラムスと数名のRAFのテロリストは米軍製の手投げ弾を投げる。
駐留米軍から横流しで手に入れたマーク2手榴弾で、形からパイナップルと呼ばれるものである。
クロワッサンが外したかと思った瞬間、戦術機の多目的追加装甲に火焔が躍った。
一拍置いて炸裂音が響き、黒煙が上がる。
手投げ弾の一発が当たって、爆発したのだ。
期せずして、テロリストたちの間に歓声が沸き起こり、こぶしを突き上げて、喝采した。
その声を標的にしたかのように、トラックの近くに銃火が閃いた。
別な戦術機が、応射をしてきたのだ。
腹に応える様な砲声が、周囲に響く。
20ミリ突撃砲のそれとは違う発射炎が煌めいた。
モーターに似た鋭い飛翔音が響き、M54トラックの正面や左右に爆炎が躍り、泥と土煙が飛び散った。
GAU-8 アヴェンジャーから出る30×177ミリ弾が通り抜けるや、周囲の地面が吹き飛ばされ、テロリストたちは苦鳴を発して倒れていく。
砲火を発していたM2重機関銃は、閃光と共に木っ端みじんとなり、機関銃手は朱に染まって倒れる。
バズーカ砲や、迫撃砲、重機関銃が随所で爆砕され、沈黙を強いられていく。
鋭い爆発音とともに火焔が躍り、RAFのトラック20台は、金属製のたいまつに代わった。
首領のルディ・ドゥチュケは、少数の手勢と共に脱出した。
火焔で全身が燃える部下たちを見捨てて、命からがら、近くにあったワーゲン・ビートルに乗り込む。
ライトをつけ、エンジンをかけると、そのままオーストリー方面に向かった。
RAFの一群を襲った中に、例の白い機体はなかった。
みな銀面塗装で、国籍表示のない戦術機……
米軍のファントムと、見たことのないずんぐりむっくりとした機体だった。
他に戦術機がいた様子はなかったから、手ごわいと思って撤退したのか……
走るビートルの後ろ上方から、地上に向かって黒い影が伸びた。
路面の影を見て、ドゥチュケの喉から悲鳴じみた声が漏れた。
「ああああ!!……」
最初に見た戦術機よりもはるかに大きな機影だ。
まっしぐらに、こちらに向かっている。
後部座席に乗っていた部下の一人が、サンルーフから身を乗り出す。
携帯用バズーカのM72 LAWの砲身を伸ばし、肩に担ぐ。
轟然たる砲声が上がり、戦術機の頭部に閃光が走る。
戦術機は砲撃をものともせずに、突き進んで来る。
この車に突っ込んでくるつもりなのだろう!
「撃ちまくれ!近寄らせるな」
その号令と共に運転手以外の人間は、ピストルや小銃でめいめいに攻撃を始める。
胸部装甲や肩に火花が散るが、阻止するには至らない。
巨大な機体は、銃弾を蹴散らすようにして突っ込んでくる。
やがて地響きと共に、戦術機が道路に乗り上げてきた。
呆然とするドゥチュケ達の前に、戦術機から二人の男が下りてきた。
先に出てきた男は、半袖シャツを身に着け、ベルボトムのジーンズを履いていた。
背中に赤い鞘の刀を一振り背負っており、手にはドラムマガジンの機関銃を引っ提げていた。
もう一人の男は、灰色の長袖開襟シャツに、黒のスラックス。
右手には、火のついたタバコ。
左手で、30連マガジンのついたM16A1自動小銃のキャリングハンドルを握っている。
「う、撃てッ!
て、敵は、た、たった二人だ……」
その場にいる賊の全員が銃を向けるも、硝煙の一つも上がらなかった。
白い戦術機を追い返そうとして、銃弾も手投げ弾も使い果たしてしまったのだ。
M16を持った男は、小銃を向けながら、不敵の笑みを浮かべる。
タバコを地面に投げ捨てると、こう切り出した。
「撃てないなら、消えてもらうぜ」
ドゥチュケは恐怖して、悲鳴をもらした。
「ひッ!!」
その叫びも終らないうちに、後ろにまわっていた男の手から、戛然、大剣は鳴った。
ドゥチュケの首すじへ振り落され、ぱあっと、すさまじい紅の閃きが光った。
つづいて、逃げようとした別の者たちの首も、一刀両断のもとに転がっていた。
剣を振るったのは、白銀だった。
正面に立ってすさまじい血煙を被ったマサキは、強いて豪笑しながら、こう嘯く。
「あははは。
俺の命を狙わねば、こんなことにはならなかったものを……」
しかもさすがに、そこの惨劇からは、眼をそらした。
やがて白銀の肩を叩くと、大股でゼオライマーの方に立ち去っていく。
陽光の中に浮かび上がった屍に、地面をどす黒く染める血の池。
その中から白銀は、その首を取ったかと思うと、ふたたびマサキの元へ馳けもどった。
後書き
ご意見ご感想お待ちしております。
卑劣なテロ作戦 その3
前書き
次の話は決まってるのに、長丁場になりました。
ということで、8月中に終わらせるべく、予定を変更して、今週も投稿することにしました。
今回のドイツ赤軍の襲撃事件はタイミングがあまりにもよすぎる。
政府関係者が背後にいるのは間違いない……
どう考えてもそのような結論に行きついたマサキは、殺したばかりのドゥチュケの手荷物を漁った。
麻布で出来た薄汚れた背嚢から出てきた、黒革の手帳を何気なしに手に取る。
鍵付きの手帳という事は、恐らく機密文書であるのは間違いない。
鎧衣に鍵を開けさせると、そこにはドゥチュケが生前に親交のあった人物の名前が書き記されていた。
日記帳に顔を近づけて、書きなぐった名前を見る。
ゲルト・バスチアンと読めた。
ドイツ連邦陸軍の少将で、平和のための将軍団の主催者だった。
ソ連崩壊後に露見した文書によれば、KGBが青写真を描いて、シュタージが資金援助し、マックス・ヴォルフが設立を準備した団体だった。
平和のための将軍団の代表取締役は、ゲルハルト・カーデという経済学者だった。
彼はシュタージの中央偵察局の非公然工作員であり、またKGBの協力者だった。
1974 年 12 月 7 日に設立された「平和・軍縮・協力のための委員会」の主要メンバーである。
同団体はケルンの出版社パール・ルーゲンシュタインの住所に本部を置いていた。
東ドイツから資金援助を受けて、反戦平和運動の人脈網を構築していた。
シュタージ、KGBは同団体を通じ、自分たちの宣伝煽動のために、影響力のある人物を調略していた。
マサキは、怒りで体が熱くなった。
ここの人物の名前が雑然と書いてあっても、ある程度の意味は理解できた。
日記帳に書かれているのは、ほぼ全員がKGBの代理人であり、シュタージの手によって踊らされた馬鹿者たちである。
ゲルト・バスチアンという男の顔が見たくなった。
顔を見たらただでは済まないのは思ったが、手帳を鎧衣に渡すと、ゼオライマーに飛び乗った。
キルケにもらったドイツ連邦軍の将校名簿から勤務地を探して、ファイツヘーヒハイムの第12装甲師団に電話した。
日曜日という事で、バスチアンは来ていなかった。
それは、あらかじめ予想していたことだった。
電話は、英語訛りの強いマサキだとバレる可能性があるので、美久が行った。
美久は、第4装甲擲弾兵旅団時代の部下の妻という立場を演じた。
「第4装甲擲弾兵旅団時代の部下の妻ですが、近いうちに戦友会をやるんでバスチアン閣下に連絡をしたいのです。
恐れ入りますが、ご住所と電話番号を教えてほしいのですが……」
そういうと交換手は、バスチアンの自宅と電話番号を教えてくれた。
この時代は、現代と違って電話の加入者が少なく、電話を持っているのが名士に限られたからである。
推論型AIの合成音声で電話を掛けた美久を、ドイツ婦人と勘違いした為であった。
バスチアンの家は、ボン郊外の静かな住宅街にあった。
都合がいいことに、公園があったのでゼオライマーを着陸させ、愛人宅の様子を見ることにした。
しばらくすると白のオペル・カデットが家の前にとまり、30代と思われる女性が下りた。
人妻風の女は周囲をきょろきょろ見た後、玄関ドアに消えた。
マサキには閃くものがあった。
あれはおそらくバスチアンと同棲している緑の党関係者だ。
マサキがドイツ赤軍とドゥチュケを殺したことを知って、慌ててきたとなればつじつまが合う。
足は自然とバスチアンの家に向かった。
念のため裏口に回ると、どういう訳か、外に設置してある焼却炉が燃えていた。
という事は、燃えているのは秘密文書で、裏口は空いているはずと思った。
ドアノブに手をかけると、裏口は空いており、簡単に中に入れた。
美久に秘密文書の確保を指示した後、屋敷に忍び込んだ。
家に入って間もなく、奥の部屋から男女のこもった会話が聞こえてきた。
「閣下ったら、いやねえ」
女の媚びた声がドアの隙間から漏れる。
「お前を見た瞬間、ほれ、この通りさ!」
「恐ろしいわ……」
マサキは思い切って、隙間から覗いた。
薄着の男女が顔を寄せ合い、キスをしていた。
頃合いを見て、マサキは物陰から姿を現した。
その際、わざと足音を立てて接近する。
バスチアン達は、同時に振り向いて、ギョッとなった。
「なんだ、お前は……」
持って来たポラロイドカメラのフラッシュをわざとらしく焚く。
バスチアンは醜い表情をすると、愛人の背後に隠れて、マサキを睨んだ。
「乱暴するつもりはない。
ただ、ドイツ国防軍将軍のアンタに話があってきた」
言葉を切ると、タバコに火をつける。
「それにしても、思わぬものを見て驚いているのはこっちだよ。
それからバスチアン将軍に、奥さん。
さっきみたいに、堂々とすればいいんだ」
「警察をよぶぞ!」
バスチアンの顔色は真っ赤だ。
「その前にアーペル国防相か。あるいは軍事情報局かな。
いやいや、ボンにいる大統領でもいいし、その政権与党であるSPDでもいいか……
どっちにする?」
するとバスチアンは女と顔を見合わせて、今にも泣きだしそうになった。
「あんたは一体誰なんだ!」
バスチアンは恐る恐る切り出した。
「俺は木原マサキ。天のゼオライマーのパイロットさ。
条件次第によっては、アンタらをKGBから守ってやってもいい」
「本当か」
死んだ魚のように濁っていたバスチアンの目にかすかに光が宿った。
狡猾さを感じさせるような、悪魔的な輝きだった。
マサキの方は、もっと邪悪な考えだった。
「簡単さ。
緑の党と平和団体にいるKGBスパイとシュタージの数を、全て告白すればいい」
「なんでだ!断る」
そこでマサキは、愛用のホープを取り出し、タバコに火をつける。
煙草を五、六服吸ったかと思うと、すこし微笑しながら声をかけてきた。
「じゃあ、断ればいい。
その代わり、緑の党のマドンナと、ドイツ陸軍の将軍の乱痴気騒ぎ。
赤裸々で刺激的な総天然色写真と共に、楽しい記事が、明日のビルトの一面を飾るだけさ」
ビルトとは1952年創刊のドイツ最大のタブロイド紙である。
政治的には中道右派で、スポーツ新聞ながら西ドイツ政界に大きな影響を与えていた。
創刊当時から東ドイツの事を、共和国ではなく、ソ連占領地域と呼称していた。
一面に水着姿の婦人や裸婦写真を載せ、婦人解放運動や極左団体から目の敵にされていた。
女は真っ赤になりながら、呟く。
マサキは、吸いつけたタバコを口にくわえたまま、ニヤニヤ笑って眺めていた。
「ひどい……」
「ひどいのはあんたたちだ。
国や軍、西ドイツ市民を裏切って、赤共の手先になっているのだからな。
余計な事を言うんじゃない。
俺を怒らせれば、全てを公表して、世間を歩けないようにしてやる」
マサキの意外な声に、バスチアンはたじろいだ。
女は、バスチアンの顔を見る。
バスチアンは、小さくうなづいて、こう切り出す。
「や、約束は守ってくれるね……」
「くどいのは嫌いなんだよ」
マサキはわざと苛立った声を出すと、バスチアンはもう一度女を見て、うなづいた。
「さあ、全部白状するんだ」
バスチアンの口から出た人物は、ドイツ連邦議会の議員の他に、反戦団体の幹部だった。
長年、反戦運動を行ってきたマルチン・メラーニー師やヨーゼフ・ヴェーバなどである。
ヴェーバは、ドイツ共産党系の団体、ドイツ平和同盟幹部のメンバー、ヨーゼフ・ヴェーバー。
特に力を入れた西ドイツの反核運動は、東ドイツで高く評価された。
これを受けて、東ドイツから1973年に平和友好メダルを授与された人物である。
前の世界の記憶が確かなら、モスクワからも、1985年に国際レーニン平和賞を贈与されたはず。
米誌、リーダーズダイジェストに「モスクワの代理人」と書かれ、憲法擁護庁などは「ソ連の第五列」と評した人物だった。
マサキは、バスチアンと女を手錠で縛った後、ドイツ大統領府の元に急いだ。
この際、西ドイツの反戦平和団体を一網打尽に壊滅させることにしたのだ。
アイリスディーナのためのドイツ統一という名目に、共産主義の復讐という自分の欲望が加わった。
この異常な状態が、マサキを次第に興奮させていった。
後書き
ご意見ご感想お待ちしております。
暮色のハーグ宮 その1
前書き
8月中に西ドイツでのスパイ作戦を終わりにしたい。
ということで、予定を変更して、8月25日の15時に急遽、投稿することにしました。
鎧衣が、CIA長官に一報を入れてからの米国の動きは早かった。
後にマサキは、涼宮総一郎の話によって知るのだが、外交筋は対策に乗り出す。
その日のうちに、米大統領府はブレジンスキー補佐官を呼びつけ、西ドイツへの調査を命じた。
ブレジンスキーは、翌日、ヘンリー・キッシンジャー博士に電話し、事件を調べさせた。
ここで、読者の多くは、キッシンジャー博士とブレジンスキー教授が犬猿の仲ではなかったかと考えておられる方も多いであろう。
たしかに、キッシンジャーは、米共和党に組みし、リアリズム外交に徹した戦略家であるのは事実である。
国際秩序を安定させるためならば、敵の中共とも手を組む柔軟な戦略家である。
それに対し、ブレジンスキーは、米民主党の戦略家として歴代民主党政権に影響力を及ぼしてきた。
生まれも、育ちも違った。
キッシンジャーはドイツ系ユダヤ人の移民で、戦前に米国に亡命した人物であった。
一方、ブレジンスキーはポーランドの草深いベレジャニ(今日のウクライナにある都市)に基盤を持つ貴族の出であった。
一説には、白ロシアあたりのユダヤ系ポーランド人を起源とする説もあるが、さだかではない。
だから、全く対照的な存在であるのではないかと。
しかし、米国においては、彼らは新天地を求めてやってきた成り上がりの外人であった。
民主党、共和党に限らず、外交問題評議会や国務省に盤踞する東欧系ユダヤ人という点では、彼らは同志だった。
世間での評判は別に、ブレジンスキーとキッシンジャーは、個人的な仲は良好であった。
ほぼ同年代で、ドイツ・東欧出身ということもあり、政治的見解も近かった。
頻繁に私的な電話を繰り返し、彼らの政策は、組織的な談合である程度の方針が決められていたのだ。
両人は、名うての反共人士との前評判だったが、実際は反ソ容共人士だった。
キッシンジャーは、さる会合で、ハーバード大のリチャード・パイプスと同席した。
核不拡散と対中接近は失敗であるという事を詰め寄られると、しぶしぶ認めた。
――パイプス教授は、ブレジンスキーと同様にポーランド系。
ユダヤ人で、ハーバード大にロシア研究センター所長を務めた。
後にレーガン政権で、国家安全保障会議ソ連・東欧部長として政策に関与した人物である――
ブレジンスキーは、反ソ思考は本物であったろう。
だが、米国の利益のためには考えていない節があった。
そしてなによりも、自他ともに認めるマルクス主義者であった。
彼の著作、『大いなる失敗: 20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中にも端的に表れている。
前掲著では、共産党一党独裁の人的被害を記した。
その一方、『共産主義諸国がとくに重工業、社会福祉、教育の分野で大きな発展をとげた』と手放しで、一党独裁の経済政策をほめそやす面があった。
ブレジンスキーが大統領補佐官であった時期(1977年1月20日から1981年1月20日)。
――時の大統領を説得し、泥沼のアフガン情勢に飛び込み、結果として米国の戦力を著しく低下させた――
などという説が、米国内ではまことしやかに流されるほどである。
そして驚くべきことに、ブレジンスキーのすぐそばにKGB工作員のチェコ人が助手として存在したのだ。
同人は、チェコスロバキアからの亡命者を装って、コロンビア大学に入学し、CIA工作員になった。
のちに同人は、FBIの操作とKGB内部に潜入したCIAスパイによって、スパイであることが露見し、ベルリン経由でプラハに帰国した。
今も存命で、時折ロシアのメディアに出る健在ぶりである。
さて、話を再び異界の物語に戻したい。
翌朝、ボンに米国政府高官の非公式訪問の連絡が入った。
その時、首相府では、夜を徹したマサキ対策の臨時閣議が行われている最中であった。
「何、元大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャー博士が、シュトゥットガルトの米軍基地に!
ど、どういう事だ」
会議を主催する首相は、報告を伝える首相補佐官に驚きの声を上げた。
一様に青い顔をする閣僚たちに向けて、補佐官は米国側の動きを伝える。
「米国大使館に問い合わせたところ、返答が来ました。
公式の訪問予定は入っていないそうです」
「全くの非公式という事かね……」
「しかし、何のために……」
キッシンジャーの突如としたドイツ訪問に、慌てたのはシュトゥットガルトの米陸軍基地ばかりではない。
近隣の航空基地であるラムシュタイン空軍基地まで、いつになく物々しかった。
上空を空中警戒機C-130 ハーキュリーズが行き来し、戦術機までが何機も飛び回っている。
昨年三月の東独政変以降、シュトゥットガルトの警戒態勢は格段に上がった。
ドイツ南部に対する警戒網は倍以上に増えたが、その日は常にもまして多かった。
最重要人物の為に、米駐留欧州軍の司令以下がその対応に追われている最中である。
突如として、キッシンジャー博士一行が、SH-3 シーキングでオランダ方面に飛び立ったのだ。
早朝のアムステルダムは騒がしかった。
市の中心部にあるハウステンボス宮殿に、突如として現れた米海兵隊の大型ヘリコプター。
米海兵隊の精兵50名に守られた関係者は、オランダ側の制止を無視し、宮殿に突入した。
折しも、蘭政府から王配殿下にマサキ襲撃事件の失敗が伝えられている最中。
「貴様ら、米国人には関係のない問題だ。
さっさと帰れ、このユダヤ野郎!」
不用意に、突然そういってしまってから、王配殿下はハッと思った。
キッシンジャーの顔色もうすく変っていた。
「このおたんちんが!」
蘭政府関係者の謝罪より早く、キッシンジャーの言葉が飛んだ。
「貴様らは、このキッシンジャーの頭をそれほどまでに抑えたいか!
貴様らの動きが、営々として築き上げてきた米ソ緊張緩和の動きに終止符をうつわ!」
ゾッと身の毛を立てて、蘭政府関係者は下を向いてしまった。
そして、巣にもぐった小鳥のように、おびえた目をして、動悸を抑えた。
「お前は、この先暫くは、一切公式の場に顔を出すな!」
王配殿下は、早く帰れと言わないばかりの態度。
キッシンジャーの眉間みけんにムッとした色が燃える。
だが、一緒に来ていたブレジンスキーが強く変ったのを見ると、にわかに、腰の弱い妥協性を出した。
「ゼ、ゼオライマーのパイロットとは、ほ、本当に知らなかったのです……
た、ただ、東西ドイツに入り浸っている日本軍の衛士としか……」
米側の動きは、オランダにとって全くの寝耳に水だった。
なぜなら、オランダは西欧四か国で進められているトーネード計画を密かに離脱して、最新の米国製戦術機を導入することで話が進められていたからだ。
ジェネラル・ダイナミクスが、開発中のYF-16ファイティングファルコンを実用段階以前から大規模導入することを決めていた。
そして、ジェネラル・ダイナミクスのみならず、敵対企業のマクドネルなどからも多額の賄賂を貰っていた。
米側は、この国家規模の汚職を見て見ぬふりをしてきた。
だがゲーレンとの接触で、マサキが蘭王室の闇を知ったので、状況が変わった。
キッシンジャーやブレジンスキーは、この機に乗じて、蘭王室を切ることにしたのだ。
重苦しい沈黙を破って、言葉をかけたのは、チェースマンハッタン銀行の頭取だった。
米国有数の銀行である同行の頭取は、ビルダーバーグ会議の常連メンバー。
「殿下、今日からあなたは病気だ。いいね」
「エッ!」
続けて、ブレジンスキー大統領補佐官が言う。
「病気療養のため、ビルダーバーグ会議の議長を辞任……
いいね」
「ブ、ブレジンスキー大統領補佐官!」
「我が合衆国に、これ以上資金援助する義務はない!」
ブレジンスキーの言葉に、王配殿下が強い語調で言い返した。
「ふざけるな!この帝国主義者め!
これはオランダへの、内政干渉だ」
「干渉するのは当然だ!
これは政権を担う大統領補佐官として、何よりも先に優先せねばならない事項だ!」
「こちらの要求には、電子産業を含めて、何一つ明確な返答をしていない。
そんな国に、これ以上の援助が必要かね……
もし必要なら、その提供した資金に対して、報告書が必要という事だ。
今までの資金援助が、いつ、どこで使われたか、我々にも知らされていない。
援助によって、オランダの戦術機産業が発展し、国民が豊かになったという噂も聞かない」
チェースマンハッタン銀行の頭取が、割って入るような形で言った。
黙って聞いていた彼は、苦笑を浮かべながら、最後通牒を行う。
ビルダーバーグ会議の中での立場も、影響力も彼の方が上だが、相手が王族なので丁寧に話している。
「もはや、我々の力では、いかんともしがたいところに行っているのです。
もし、ビルダーバーグ会議の議長職を辞任なされば……。
我々としても、手助けできるでしょう」
王配殿下はしばし絶句し、キッシンジャーとブレジンスキーの顔を見つめた。
次いで、二人ともばつの悪そうな表情を浮かべる。
「せめて、木原と日本政府への謝罪を実施すれば、如何様にでも、お助けをしましょう」
王配殿下は、背筋が冷たくなるのを感じた。
どうこうできる話ではないにしても、納得できるものではなかった。
腹が立った王配殿下は、思わず机を両手で叩いた。
「黄色い猿目に、頭を下げるだと!
もう、この命に未練などないわ!」
「もう君は必要ない。
我々が後始末しよう」
「フハハハハ、私の後始末を付けるだと!
貴様らに後始末をされる問題など抱えていない!」
王配殿下は、その時、机の引き出しを静かに開ける。
引き出しの中に入った44オートマグを即座に取り出せるように準備した。
「それじゃあ、仕方がないな。
これを持っていきなさい」
そういって、会長は机の上に一通の手紙を投げた。
除名処分と赤字で書かれた封書である。
「じょ、除名処分!」
「この除名処分には、添え状が付いている。
外交問題評議会の幹部全員……
それと、石油財閥傘下の各企業の添え状だ」
処分は思った以上に仰々しいものだった。
王配殿下は、込み上げる絶望感に喘いだ。
「まあ、早い話、この除名処分出された日には……
この自由世界には、どこにも行き場がないという事さ」
額に太い筋を立てていた王配殿下は、歯ぎしりを噛んだ。
まるでこの米人どもは、おれの今を冷やかしていやがる。
俺の、この形相を嘲笑っていやがる。
なにが面白い?……
全身はあぶら、額にも汗をしぼって、王配殿下の息は荒く苦しげだった。
「貴様ら、外交顧問風情が、王族の私に向かって、何だ!」
王配殿下は、机の中に手を突っ込む。
44オートマグを取り出すと、怒りのあまり、銃身を彼らに振り向ける。
安全装置を解除すると、食指を引き金に添えた。
「じゃあ、私を破門にでも何でもするがいい!
貴様らにビルダーバーグ会議を割られたところで、この蘭王室は痛くもかゆくもないわ!」
米国と蘭王室のもめごとは、NATOにとっては不幸であった。
だが、根無し草であるキッシンジャーやブレジンスキーにとっては、どうでもいい事であった。
彼らのような東欧移民は10代で国を捨てて、米国に帰化し、国土への愛着や愛国心はさほどない。
所詮は、自分の立身出世の階段にしか過ぎないという考えであった。
蘭王室の王配殿下も、国家をまたぐ貴族階層であったから彼らに似た面はあった。
だが、それでも地主貴族の出であったエリートにとって、東欧移民とはそりが合わなかった。
それ故に、この重大局面で仲たがいが起きたのだ。
視点を再び、西ドイツに戻してみよう。
ボンの首相府では、今後のドイツ政界に関して話し合いが行われていた。
政権与党のSPD、FDPの他に、野党であるCDUなどの各会派が呼ばれていた。
「ぎ、議会の解散ですって!
ぶ、ブラントさん、本気ですか」
居並ぶ各党の幹事長、書記局長を前に、SPD党首のヴィリー・ブラントの意志は固かった。
彼は、この木原マサキ事件の決着として、ドイツ両院の解散と、ヴァルター・シェールの大統領選挙の不出馬を主張したのだ。
「無責任な発言は困りますよ……
未だ月面攻略作戦が実施されていないのに、議会の解散なんって……」
FDPの党首を兼任するゲンシャー外相が、悲憤を込めて言い放った。
今の首相のシュミットはSPDの出身だが、党首ではなかった。
実際の党首は、ヴィリー・ブラントであり、彼の意のままに政権は操れたのだ。
「こればかりは納得がいきませんよ!」
西ドイツの暫定憲法であるボン基本法では、議会の解散権は非常に制限されたものだった。
首相が議会の信任を得られない状態に陥って、初めて議会の解散を大統領に提案し、そこから解散するという非常に込み入ったものだった。
それまで黙っていたブラントは、たちどころに赫怒した。
「このたわけが!
この中でNSDAPに関わっていない者がどれだけいるか!
ビルダーバーグ会議と一切かかわりのない人間がいるか!」
ブラントは、異色の経歴の持ち主だった。
本名は、ヘルベルト・エルンスト・カール・フラームといい、私生児だった。
父はヨーン・メラー、母はマルタ・フラームで、生涯、父に会うことなく育った。
第三帝国時代は、ノルウェーに亡命し、SPDの左派である社会主義労働者党に所属した。
その時代に、ヴィリー・ブラントのペンネームを用いて、ノルウェーの新聞社に潜入し、敗戦まで過ごした。
ニュルンベルク裁判の際、ノルウェー軍将校として帰国し、ふたたびSPDに復職した人物であった。
だから、NSDAPに関しても、ビルダーバーグ会議も自由にモノが言えたのだ。
他方、社会主義者や共産主義者に関してはかなり甘いものがあった。
中央偵察局所属のギュンター・ギヨーム大尉を私設秘書として可愛がり、各国首脳との会談にも参加させたりした。
それには、ブラントの個人的な因縁があった。
ブラントは、第三帝国時代に、ある男に助けられて亡命に成功した経緯がある。
実はその男こそ、東ドイツのスパイ、ギュンター・ギヨームの実父だった。
故にブラントは、恩人の息子であるギヨームの事を切れなかった面があった。
手練れの工作員、マックス・ヴォルフがそのことを知っていて、ギヨームを西ドイツ政界に送り込んだのであろうか?
既に関係者全員が鬼籍に入ったしまったため、真相は全て闇の中である。
「一度や二度、ビルダーバーグ会議を通じて、表に出せない仕事を頼んではいるのではないか。
そのせいで、キッシンジャーの言いなりになっているのと違うか!」
ブラント自身は、キッシンジャー博士と不仲だった。
同じ亡命者であっても、ブラントはドイツに戻り、祖国再建の道を選んだ。
一方キッシンジャーは祖国を捨て、米国で学者の道を選んだ。
そして1957年の「核兵器と外交政策」というベストセラーのおかげで、米国政界に入った。
ユダヤ系という事で、ニクソン大統領補佐官時代、西ドイツにイスラエル支援をするよう要請した。
イスラエル支援は、東方外交という緊張緩和策を進めるブラントには、受け入れられない話だった。
(ちなみにブラント自身は、反ユダヤ主義者でもなく、彼の友人にユダヤ人は多かった。
初めてイスラエルを公式訪問した西ドイツの首脳でもあった)
中近東に対して西ドイツは中立であるとの趣旨の返答をして以来、キッシンジャーはブラントを憎んだ。
そして、かねてより把握していたギヨーム事件が暴露され、ブラントは辞表を提出する。
かくして、1974年に政権の座を追われることとなった。
以上の経緯から、ブラントは人一倍、ビルダーバーグ会議に非常な恨みを持っていた。
言葉を切ると、タバコに火をつける。
銘柄は、R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーの名品、キャメルであった。
トルコ葉の何とも言えない香りが、室内に充満する。
「……BNDのゲーレンがな……
議会を解散しなきゃ、一切合切公表すると言っているんだよ」
ゲーレンは、週刊誌の「デア・シュピーゲル」の編集部と昵懇の仲だった。
同誌は、1947年創刊の西ドイツの週刊誌で、欧州最大の発行部数を誇る雑誌である。
1960年代初頭、西ドイツ軍は急激な軍拡を進めていた。
その事は東ドイツを刺激し、それまで志願兵制だった国家人民軍に選抜徴兵制を実施させる根拠となった。
東西両陣営での核戦争の危機が高かった時代である。
急速な東ドイツとソ連の軍拡を憂いたケネディは、ゲーレンを通じ、西ドイツ政府に忠告を入れた。
だが、西ドイツ政府は聞く耳を持たず、国防大臣のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは軍事産業の言いなりだった。
そんな折、デア・シュピーゲル紙上に、NATOの軍事演習の記事が載る。
シュトラウス国防相は嚇怒し、時の首相のコンラート・アデナウアーに関係者の逮捕を直訴した。
1962年にNATOの図上演習を手に入れた廉で編集長のルドルフ・アウグシュタインが逮捕される事件が起きる。
シュトラウス国防大臣は、警察とBNDに協力要請を取り付けた。
だが、ゲーレンは様子を見て、警察の捜査と政府の見解をデア・シュピーゲル編集部に伝えた。
その事件のために、アデナウアー首相から非難され、彼は政権内で不遇の立場に置かれた。
この事件は、ゲーレンの愛国心により、NATOの軍事的不備をリークした特集記事だった。
だが事件のために、ゲーレンは政界で浮く存在となって、彼の政治的生命は立たれたも同然だった。
そういう経緯から、シュトラウスへの恨みを募らせていた。
シュトラウスを調べるうちに、彼がビルダーバーグ会議の手先となっていることが判明する。
ゲーレンは、自分の利益誘導のために米国企業の言いなりになっている事実をつかんでいた。
だから、今回のマサキの事件を通じて、その復讐を果たすつもりでもあったのだ。
一連の経緯を知っている与野党の関係者は黙然した。
秘密情報部のゲーレンに情報で勝てる者はいないからだ。
やはりスパイは引退してもスパイなのだな……
一同が沈黙する中、ブラントの叱咤ばかり高かった。
「そうなってみろ、いずれにせよ、解散だ。
公表されて、SPDとFDUは勝てると思うか……
君たちに当選する自信はあるかね?」
後書き
チェコスロバキアのスパイは、れっきとした公人で、名前も顔写真も明らかになっているのですが、存命中の人物なので、文中での言及は控えます。
コメント欄でご質問があれば、どういった人物か、資料を提示します。
次回で異例の長さを誇ったゲーレン編が終わります。
足かけ4か月近くかかりました……
生臭い政治の話になっておりましたので、9月は息抜きできるような話にしようか考えています。
ご意見ご感想お待ちしております。
暮色のハーグ宮 その2
前書き
バスチアン宅のマサキは、一旦仲間を集めて、作戦会議を行った。
キルケに聞かれぬよう、白銀たちと日本語で話し合っていた。
「バスチアンの証言だけではダメだ。
緑の党の女党首の話では、KGBの浸透工作の実態は見えてこない。
ヒッピー野郎の集まりという事で、ドイツ国民は納得しないだろう。
ただの学生運動として切り捨てられる可能性がある」
渋面を作る白銀や鎧衣を前に、マサキは続けた。
内に抑えた憤懣から逃げるようにして、タバコに火をつける。
「そんな事より、国民の反感として残るのは、駐留米軍の存在によって引き起こされる問題だ。
早く言えば、核戦争の恐怖だ」
1970年代末から1980年代初頭にかけ、ドイツで懸念になっているのは米軍による核の持ち込み問題だった。
KGBやシュタージの影響下にあった知識人による宣伝煽動により、核戦争の恐怖が広がった。
欧州で反核運動が盛んになる中、1982年に突如として出たのが「核の冬」論であった。
米国の天文学者カール・エドワード・セーガンが唱えた内容は、こうであった。
核戦争の結果、煤煙や炭化した塵が舞い上がって、太陽光線を遮る。
その結果、地球を取り巻いている大気の温度が下がり、農作物が大打撃を受ける。
核の炎は、結果的に全てを凍り付かせ、食料を断たれた動植物は死に絶え、死の星になるという学説である。
広島型の原爆が、50発ほどポーランドでの限定戦で使われただけで、地上の生命は全て死に絶える。
そのように当時から喧伝されていた。
しかし、セーガン等の学説は、1991年の湾岸戦争で早くも崩れ去った。
イラク軍によるクウェート侵攻により、各地の油田や製油所が燃やされ、数か月間煤煙が巻き上がる事態になった。
ちょうどそれは、核戦争によって発生する大量の煤煙が太陽光を遮断する状況に相似していた。
だが、煤煙によって地球規模の気温低下が起こらず、ペルシャ湾岸地域で一部若干の気温低下があったものの、それ以外の場所にまで気温変動が起着なかった。
つまりは、「核の冬」は虚構であると実証されたのだった。
後年、セーガンは自著の中で、自らの誤りを認め、1996年に失意のうちにがんで病没した。
KGB大佐で第一総局勤務であったセルゲイ・トレチャコフ(1956年ー2010年)の回顧によれば以下の通りであった。
ユーリ・アンドロポフKGB長官の指示の下、KGBが「核の冬」という概念を発明したという。
理由は、NATOのパーシングIIミサイルの配備を阻止するためにである。
KGBは、ソ連科学アカデミーによる核戦争の気候への影響に関する「終末報告」にという偽文書に基づく工作を実施した。
トレチャコフの語るところによれば、偽情報を、平和団体、環境保護運動団体、環境問題の雑誌「AMBIO」に配布したと言う。
米国亡命後に、カナダの国会議員や国際原子力機関の専門家、国連当局者らをKGBの協力者に仕立てたことを明らかにした。
この様に、史実では、「核の冬」は、KGB第一総局が関わった偽情報工作であることはつとに知られている。
だが、マサキが来た異界では、「核の冬」は、大真面目に信じられていた。
それを補強するようなことが起きてしまう。
BETA戦初期にあったソ連の中央アジアにおける連続核攻撃と、米国によるアサバスカ湖のICBM攻撃である。
米軍の行った核攻撃は、カナダ東部という極寒の僻地であり、人的被害はほとんどなかった。
だが、放射線に対する恐怖からカナダ東部では急激な過疎化が進んだ。
ソ連の場合は深刻だった。
ソ連は、BETAのウラル以西への進軍を防ぐ目的で一度に10発から数十発の核爆弾を投下した。
大部分は光線級に阻止されたり、粗悪な電子部品の為に不発弾となったが、核の影響はすさまじかった。
原爆の閃光や威力は言うまでもなく、予測不可能で長期的な副作用をもたらした。
中央アジアで放射線障害による奇形児の多発や、原爆の戦術的効果より被害が大きいという事態にまで
発展した。
この世界に来てマサキが驚いたのは、時代的にはあり得ない核の冬という言葉がユルゲンたちの口から出た事だった。
どうやらソ連の野放図な核爆弾投下の為に地球慣例化が起きたという説がまことしやかに述べられているようだった。
1976年の世界的な冷夏は、ラニーニャ現象とエルニーニョ現象が続けて起きただけと学術調査で判明しているが、ユルゲンたちは核の冬を疑いもしなかった。
西ドイツ人のキルケやドリスもおんなじ考えだったので、恐らく4発の原爆投下の後遺症だろうと考えるようになった。
核爆弾の被害を受けた日本人として、この異世界のドイツ人の心情は理解することはできるが、納得はできない。
本当に核廃絶を望むなら、米国の核戦力を西ドイツや日本から引き下げるだけではなく、ソ連や中共の核ミサイル基地をすべて爆破解体するところまで進めねば、駄目だ。
日本を代表とする自由主義陣営は、世論を反映した政治体制だ。
政権の基盤は国民の意見や社会の動向によって左右される。
したがって、G7各国の世論がソ連の望む方向に導かれれば、ソ連は労せずして自国優位を維持できる。
この様な工作を一般的に「積極工作」といい、反戦・反核運動は、KGBの十八番である。
核廃絶運動は、実現性は別として、人類の悲願の一つである。
善男善女の想いを巧みに利用し、ソ連の軍事的優位を維持する反核運動の欺瞞。
孫子の謀攻篇にも書かれているように、戦わずして勝つというのは最善の策である。
ソ連が裏から西側の平和運動に人・物・金を提供するのは、非常に合理的で利益に見合った行動なのだ。
マサキは、遠い記憶と共に、欧州の反核運動に深い憂慮を覚えた。
過去の追憶から戻ったマサキは、二、三服の煙草をゆったりくゆらす。
白銀が、なんの気もなく言った。
「鍵はヴェーバーか……」
それまで黙っていた鎧衣が口を開いた。
「危ないな……」
「うん?」
マサキは鎧衣の意図がつかめないまま、返事をする。
「確かにヴェーバーを捕まえて、KGBとの関係を吐かす……
東側のスパイ工作を実体化するいい方法だ。
だが、向こうもそう考えていたら、どうする?」
おそらくKGBはこの機に乗じて、ヴァーバーを消すことも考えられる。
或いは、ソ連国内に連れ出す準備をしている。
ボンのソ連大使館に逃げ込まれたりすれば、外交特権で手出しできない。
いや、大使館ごと殺しても良いが、そのことを理由に日本は外交特権を失いかねなくなる。
目の前にいるKGB工作員か、或いはハーグ宮の王配殿下か……
マサキ達は難しい判断を迫られる状況に陥ってしまった。
ヴェーバーを捕まえて、西ドイツのスパイ網の一端を暴露させれば、西ドイツでのソ連の影響は削げる。
だが、ビルダーバーグ会議の陰謀から遠のく。
ハーグ宮に乗り込んで、王配殿下と話を付ければ、ビルダーバーグ会議の妨害は落ち着くだろう。
だが、KGBやシュタージの影響は残ったままでは、欧州の政治状況はよくはならない。
アイリスディーナやベアトリクスを取り巻く状況は悪化するかもしれない……
或いは西ドイツが今以上に左傾化し、キルケやココットにも迷惑がかかる……
「前門の虎か、後門の狼か」
マサキは、こういって後は眉をしわめたまま黙ってしまった。
倒すならKGBか、ビルダーバーグ会議か、それを考えあぐねていたのである。
白銀も、それを真似して眉を顰める。
しばらくは、どっちからも口を開かずに、沈思黙考というふうである。
悪知恵をめぐらす頭も、自然にシンと落ちついてくるらしい。
やがて白銀が、こううなった。
「ゲーレン翁に相談してはどうですか」
ゲーレンの自宅に連絡を入れたが、彼はココットと共にボンに来ているという。
これ幸いとばかりにバスチアン宅を後にし、ボン市内に車で乗り出した。
車はバスチアンの愛人のオペル・カデットを拝借し、運転はキルケに任せた。
一応美久はゼオライマーで待機させたまま、上空から二台の無人誘導の戦術機を随伴させる。
ゲーレンの情報によれば、ヴェーバーはボン大学計算機博物館からほど近いホテルにいた。
元秘密情報部長官だけあって、部屋番号まで正確に調べ上げていたのには、マサキも驚かされた。
4階の奥の部屋の前に着くと、鎧衣が音もなくカギを開けた。
キルケとマサキはカメラを持ち、その後ろから自動拳銃を持った白銀と鎧衣が続く。
中に入ると男たちの密議が聞こえてきた。
会話はドイツ語だったので、マサキはすかさず録音し始める。
「5000万マルク、これでよろしいですかな」
「いや、ありがとうございます」
部屋の中にいたのは、白髪頭に四角い眼鏡をかけた70歳前後痩身の男。
ゲーレンに聞いた人相からして、恐らくあれがヴェーバーだ。
もう一人の禿頭の老人は、大きい十字架に、黒い無紋の袈裟はルター派の祭服だ。
マルチン・ニーメラで間違いないだろう。
「緑の党の候補者を立てるのに金に苦労していましてね。
まだ安心できない状況なんですよ」
反対側に座っている恰幅のいい金髪の男は、恐らくドイツ人。
シュタージの工作員らしく、サングラスをかけて表情が分からない。
脇に座っている黒髪のスラブ人風の男が、おそらくKGBだろう。
そのスラブ人がニヤリと笑う。
「これで大丈夫です。
これだけの実弾があれば、最後の詰めが撃てます」
実弾とは、政界用語で現金の事である。
新聞紙上を騒がす、「実弾が飛び交う」という言葉は、選挙においての買収工作である。
その瞬間!
ヴェーバーたちに、閃光が浴びせられる。
キルケの持つ連写式のカメラからシャッター音が鳴り響き、閃光が続けざまに走る。
24枚撮りのフィルムが終わらないうちに、若いドイツ人の男は窓ガラスを割った。
そして、素早窓枠を躍ったかとみれば、翼をひろげた鳳凰のように、10メートルほど下へ飛び下りた。
スラブ人の男の怒気は、ムラムラと燃えた。
無防備だったマサキに、両手を広げて飛び掛かってくる。
マサキは咄嗟に部屋にあったスタンドを振り回し、男の方に向けた。
その瞬間、男は雲手の姿勢になると、右の手でチョップを振り下ろしてきた。
「イヤー!」
一瞬にして、金属製の電気スタンドは、手刀で両断されてしまう。
マサキは自分が拳銃を持っていることを忘れるほど、たじろいだ。
じりじりと男が近寄ってくると、マサキも後退した。
その部屋のつきあたりまで、マサキを追いつめてきたかと思うと、いきなり、跳びついてゆこうとした。
飢えた狼が、鶏へ飛び掛かったように。
一発の銃声が、ズドーンと鼓膜をつんざく。
ぎょッとして向こうを見ると、モーゼル拳銃を構えた鎧衣だった。
銃撃音を聞いた客が通報したのであろうか。
ボンを統括するノルトライン=ヴェストファーレン州の州警察の緑色のパトカーが現場に乗り付ける。
私服姿の刑事警察が、マサキたちの周囲をぐるりと囲む。
事情を説明するよりも早くマサキたちに手錠をかけると、パトカーに乗せられた。
近くで待機していたソ連大使館の秘密工作員たちは、事態を傍観しているばかりではなかった。
マサキがパトカーで連れ去らわれるの見て、すぐにボンのソ連大使館(今日の在ボン・ロシア総領事館)に電話を入れる。
「申し訳ありません。
日本野郎に逃げられてしまいました。
しかも地元の州警察に逮捕されてしまいました」
KGBの現地工作員の電話相手は、大使館の警備担当者だった。
ソ連の場合、大使館職員の殆どが、KGBか、GRUの工作員だった。
「まあいい。
あの黄色い猿めにはうんざりしていたところだ。
警察に連れていかれれば、我らが送り込んだスパイの手によって始末されるだろう。
ピストルを持った外人犯罪者として、内密に処理されるだろう。
こっちには、ニーメラやヴェーバーという反核の活動家がいるからな。
あれがあれば、何もいらん」
「す、すみません。
じ、実はヴェーバーも逮捕されてしまったのです。
われらがKGB職員と共に!」
その言葉を聞いた瞬間、西ドイツのKGB部隊を取り仕切るKGB大佐は色を失った。
自分の首に手を当てて、縛り首のひもの長さをあれこれ考えるほどの慌てぶりだった。
「ば、馬鹿者!すぐに取り戻せッ。
ヴェーバーが居なければ、反核運動の旗振り役はいなくなるのだぞ!
何もかもが無駄になる……判っておるのか!」
マサキたちが連れていかれたのは、ボン市内にある保安警察のボン本部ではなく、連邦内務省だった。
西ドイツでは基本的に地方自治が優先され、警察組織も各州ごとにゆだねられている。
だが刑事警察は、国際スパイ事件や政治案件を担当する国家保安部門が置かれている為、中央の統制を受けた。
内務省には連邦刑事局が置かれ、各州の犯罪捜査を調整・支援するとともに、国際刑事警察機構との国際捜査協力にも当たっている。
後ろ手に手錠をかけられたまま、マサキたちは内務省ビルの最上階に連れていかれる。
「どうなるの、私たち……」
全員が押し黙る中、キルケが口を開いた。
キルケの諦めに似た言葉に、マサキは淡々と答える。
「まあ、最悪の事態になるだろうな。
今の西ドイツは、ビルダーバーグ会議の王配殿下の部下たちとKGBスパイに牛耳られているからな」
エレベーターの中で、キルケは動こうともせずじっと扉と直面していた。
そのうちに、キルケの目頭は涙で一杯になり、扉が見えなくなった。
最悪の事態といわれて、KGBスパイのヴェーバーは意気地なく乱れてきた。
外で見たなら、面貌が真っ青に変っていたかもしれない。
マサキには、ありありとそのさまが見て取れる。
ヴェーバーはこう嘆じた。
「因縁だな……」
マサキは覚悟をしていた。
死に直面しつつある。
最上階のドアの向こうには、誰が待っているのだろうか。
エレベーターが最上階に着くと、マサキ達は最上階の内務大臣室に連れ込まれた。
彼等を待っていたのは、意外な人物だった。
青い顔をしたマイホーファー内相と、ヴィリー・ブラント前首相だった。
「まず、木原博士たちの手錠を外してやりなさい」
「はい」
ブラントの鶴の一声で、刑事たちが一斉に手錠を外す。
マサキ達は解放され、ヴェーバーとニーメラはKGB工作員と共に別室に連れていかれる。
「今しがた、ヴァルター・シェール大統領が辞意を表明されました。
近日中に、ヘルムート・シュミット内閣が総辞職し、連邦議会は解散されることとなりました」
「エッ!」
「ドイツ連邦始まって以来の大騒動になりそうです」
「何が一体、どうなっているのだ?」
突然、マサキの後ろのにある入り口が開いた。
振り返ると、裃姿の偉丈夫が立っている。
「御剣閣下、来てくれたんですね」
白銀が感悦の声を上げ、御剣に駆け寄った。
「可愛い部下たちが窮地に陥っているのに、見過ごすわけにはいかんだろう」
鎧衣は凝視するのみで、何もいわなかった。
ただ無量な感慨につつまれている姿であった。
「外務省や情報省では埒が明かんからな。
国連経済社会理事会を通じて、直接ドイツ内務省に働きかけたんだ」
経済社会理事会とは、国連憲章第10章の規定により経済と社会問題全般に関し、勧告等を行う委員会である。
内部組織に国連人権委員会があり、そこでは国家による拉致に関して、人道上の罪に問う措置をみせていた。
国家による拉致とは、早く言えば秘密警察による司法手続きを踏まない拘束や逮捕の事である。
狭義の意味では、共産国家による悪辣な人権侵害事案――ソ連のシベリア強制抑留や北鮮の拉致事件、シュタージなどによる誘拐事件など――である。
「折角ドイツまで来たんだ。
このぐらいの挨拶はしなきゃな!」
後書き
実は、核の冬に関する話は「隻影のベルンハルト」でユルゲンの独白という形で、かなりのスペースを取る話なのです。
その為、マサキの独白という形で、核の冬に関する見解を書いてみました。
核の冬自体は1954年の小説が初出なのですが、一般化するのは1980年代初頭にKGBがサガン(セ―ガン)を利用して以降です。
マブラヴ世界でなんでこの言葉がという事で、私なりの考察を書いてみました。
暮色のハーグ宮 その3
前書き
ゲーレン編はこれで終わりになります。
四か月の連載は長かった……
御剣は、ブラントの話を補足すべく、マサキ達に西ドイツ政界の動きに関して簡潔に述べた。
そして付け加えるように、米国から数名の政府関係者がオランダにヘリで急行した事を明かした。
「キッシンジャーが、蘭王室を……」
鎧衣は、本気かと、疑うような眼をして御剣の面を見直した。
先頃から国際金融資本の腹中に、何があるかは、およそ推量をつけていた。
だが、オランダまで出てきたと聞いては、一驚せずにいられなかった。
「動きが速い……
最初から誰かが描いていた絵だという事か……」
米政府の動きを聞いて、マサキは、首をかしげた。
鎧衣は、驚き顔のうちにも、御剣の話を、仔細に検討している気ぶりだった。
「王配殿下が木原博士となら引見なさりたいと、今しがた電話がありました」
だが白銀は、その連絡を聞くと、それこそ不安なのだといわぬばかり眉をひそめ、
「こういう誘いの時は、ろくな匂いがしない。
嫌な匂いだ」
白銀が、これ以上はいうべき言葉もなしと、総身を汗に濡らして、うつむいてしまった。
マサキは始終だまって聞いていたのだが、白銀の焦りを見ると、初めて穏やかに口をひらいた。
「白銀、せっかく御剣が作ってくれたチャンスだ。
乗らない手はない」
承知とも、不承知ともいわないのである。
マサキの心はすでに諾否の先へ超えているのであった。
白銀はからだが感激にふるえると同時に、ひそかに恥じた。
自分は軍事諜報員であるが、何かの場合、この人のように死生に超然としていられるだろうか。
危険を受くるのに、顔色もうごかさず、それを歓びとして迎えることができるだろうか……
カーチス・ライト社の輸送機C-46が、ボンからオランダのハーグに急いだ。
1930年代に作られた試作民間機CW-20を基にし、史上最大のピストンエンジン双発機である。
元々は米軍から帝国軍に供与され、昨年まで運用されていた機体である。
新機種選定のため、1978年に退役させたが、予想以上に状態が良かった。
そのため、帝国軍から譲り受け、近衛軍で整備し、使用することにしたのだ。
全長も25メートル弱なので、都市部の飛行場に着陸できるという利点があった。
ハーグ市郊外にあるハウステンボス宮殿は、近隣のロッテルダム空港から、20キロメートルほど先。
同地にある日本領事館が事前に準備した車列で、ハーグ市内に向かった。
宮殿は、オランダの政治の中心となっているハーグ市郊外に1645年、夏の離宮として建設された。
当初はオレンジ広場という名前だったが、世人は森の家と評した。
もともとオランダは沼地を干拓して、中世に定住がはじまった場所のため、固有の王室は無かった。
ハプスブルグ家から地元の有力貴族が総督に任命され、間接統治を任されていた。
その為、蘭王室には、強大な王権がなく、この王宮も別荘地として建てられた。
故にベルサイユ宮のような行政機能はなく、豪華さは一切ない。
18世紀に改装されたが、費用面からバロック形式の庭園が見送ら、未建設のまま終わった。
(なおバロック形式の庭園は、後日、日本の佐世保で作られた「ハウステンボス」で日の目を見ることになる)
車列が鬱蒼とした森に近づくと、高い塀に囲まれた建物が目に入ってくる。
この一帯は、ハーグの森と呼ばれるオランダ最古の森で、およそ100ヘクタールほどある。
16世紀以降に開発が進み、オランダ国内から森林は消えてしまった。
今は、このハーグの森とハーレムの森に残るわずかな緑地が、オランダの自然の一つであった。
マサキ達は、宮殿に入ると各部屋を手分けして探すことにした。
王配殿下からどこで引見するという指定を受けていなかったからだ。
そうこうする内に、大広間にたどり着くと、一人の偉丈夫が立っていた。
黒いダブルのスーツに、水色のワイシャツ、紺のネクタイを付けた男こそ、マサキが探し求めた人物であった。
「フフフフ……天のゼオライマーのパイロット、木原か……
こんな青二才に振り回されるとは……」
王配殿下は、それまで燻らせていたシガー・オリファントを投げ捨てる。
インドネシアの高級葉タバコ「ジャバノ」を使用した葉巻を、さも紙巻煙草の如く踏みつぶした。
「西ドイツの大統領は引退し、政府はばらばらになった。
内閣は私の手足となった者たちが次々と辞職に追い込まれた。
GSG-9の急襲も無駄だったようだな……
科学者の一途な執念がこれほどまでとは……知らなかった」
マサキは、ぶっきらぼうに訊ねた。
「どうして、俺を呼んだ」
「にくい黄色猿が殺したくてな」
王配殿下は、懐中から銀色のオートマグを取り出し、マサキの方に向ける。
マサキは動じることなく、不敵な笑みを湛えた。
「撃てるなら、撃ってみろ。
でも俺を撃てない。
貴様にとって、俺の様な悪党が羨ましいからだ!」
しかしそのとき、広間に、銃声が揚った。
ビュンッと、一弾、風を切って、彼の面と柱のあいだを通った。
ブスッと、そこらの家具にも、銃弾のもぐる鈍い音がした。
マサキは咄嗟に、近くにある鋼鉄製の暖炉に身を隠した。
連続した自動拳銃の発砲音が耳朶に響く。
何が起こっているか、判らない。
M29リボルバーと、2つの六連発スピードローダーを準備する。
頃あいを計って、反対側の敵へ、銃を揃えていちどに弾丸を浴びせる。
数発の銃声の後、どたッと、地ひびきを立てて人が倒れる音がする。
離れた場所から、恐る恐るみれば、70歳ぐらいの老婆が、血の池の中に倒れていた。
右手にイタリア製のベレッタM1951Rを握ったまま、動かない。
目の前の死体は、後頭部から前頭部にかけて撃ち抜かれている。
どうやら、マサキの放った弾が、死因ではないようだ。
物陰から姿を出してきたマサキに、王配殿下は声をかける。
「木原博士、これで邪魔者はいなくなった。
貴族として、名誉のために、一対一の決闘を君に申し込む」
突如とした決闘の申し込みに、マサキは面食らった。
「何!」
「木原博士、私は猛烈に感動しているのだよ。
君と対決できることにな……」
「そんなオモチャのピストルで俺を撃つのか。
フハハハハ」
ハリー・サンフォードが作った44オートマグには、重大な欠陥が存在した。
それは1970年代当時の未熟なステンレス加工による動作不良の多発である。
また自動拳銃故の機構の複雑さも、射撃に影響した。
頻繁に手入れをしなくてはならず、コッキングスプリングもかなり強力で非力な女性などには扱えなかった。
「そういうが、君の拳銃は6連リボルバー。
この銃は7連弾倉の自動拳銃。
リボルバーで、オートマグの前に生き残れるかな」
マサキはもしもに備えて、ナイロン製のインナーベスト型の防弾チョッキを着ていた。
だが精々効果があるのは25口径ほどで、マグナム弾では貫通してしまう恐れがあった。
この勝負は、マサキにも賭けだった。
そんなマサキの焦りを見たのか、王配殿下は不敵に笑う。
「今、私たちは19世紀の欧州にいるのだよ。
神妙に決闘を受けたまえ」
そういってピストルを持つ右手を前面に出した状態で、マサキの方を向く。
ポイントショルダーと呼ばれる射撃方法で、冷戦時代に一般的な方法だ。
利点は体の向きを変えることで銃弾の被害を抑えられることだが、弱点として弾道が安定しなかった。
今は射撃競技にのみ残る古典的な手法である。
対するマサキは、両手でM29を持ち、王配殿下に相対する。
この二等辺三角形の構え方は、当時非常に珍しかったアイソセレスと呼ばれる拳銃の保持方法であった。
利点は銃身が安定し、弾道が正確になるが、弱点として、無防備の胴部が晒されるという事だった。
「ここに1ペニー硬貨がある。
このコインが、宙を舞ったら、決闘の合図だ!」
(ペニーとは、英国及び英連邦における補助通貨の単位である)
王配殿下が合図のコインを投げると同時に、マサキはリボルバーの引き金を引いた。
一閃の光がほとばしる。
勝負は、一瞬にして決まった。
マサキのはなったマグナム弾が。王配殿下の腹部を貫いた。
「すべてを捨てて、純粋に悪のために生きる俺の姿が……
世界を征服するという野望のためにいる俺が羨ましかった」
床に崩れ落ちた王配殿下は、マサキの顔を見るなり満足そうに笑みをたたえる。
今、彼の命が旦夕に迫っているのは明確だった。
「フフフ……君もいずれ判る。
政治という泥の中に身を置けば、体中が泥で腐っていくのを……」
王配殿下は、オートマグを、自分のこめかみに押し付ける。
マサキが原因での死を、受け入れられないという姿勢だった。
「さらばだ」
その瞬間、銃声が鳴り響く。
弾は頭を貫き、王配殿下は黄泉路へと向かった。
西ドイツでの電撃的な内閣総辞職の翌日。
オランダは、全土で火が消えたようになっていた。
アムステルダム、ロッテルダム、デン・ハーグ、デルフトの各都市には黒い弔旗が垂れ下がる。
国家元首の女王殿下とその夫である王配殿下の本当の死因は隠された。
蘭政府により、二人が交通事故により薨御したと公式発表された。
王配殿下が運転する車が、西ドイツに向かう高速道路を走行中、事故を起こした。
カーブを曲がり切れずに、路側帯に衝突し、自爆事故を起こしたという形となった。
乗っていた1978年型の真紅のシボレー・コルベットは、瞬く間に燃料タンクに火が移った。
ウレタン製のバンパーが燃え盛り、消防隊が到着するころにはすっかり焼け落ちていたという内容だった。
オランダ政府の動きは早かった。
二日後、国葬を執り行い、3日間の喪に服すよう国民に告げたのであった。
蘭王室の対応に接したマサキは、疑問に感じていた。
国家元首の死と国葬、議会による後継者指名と新王即位。
王の死からあまりにも早すぎる動きに、何かしらの作為が見て取れる。
一種の宮廷革命であり、女王殿下と王配殿下の排除が事前に準備されていたのではなかったか……
これほど短時間で、国葬と国王宣言(即位式)は出来ない。
王配殿下は反対派によって暗殺され、ビルダーバーグ会議からの離脱、或いはマサキとの融和を望む勢力が権力を奪取したのではないか。
そうすると、ビルダーバーグ会議の情報を提供したゲーレンとココットが危ない。
ゲーレンは既に70を超えた老境だ。
いつ彼に、ヴァルハラからの迎えが来ても仕方がないが、ココットはまだ20歳そこそこだ。
BNDの秘密情報部員の彼女に待つ運命は、悲惨だ。
恐らく秘密情報を扱う都合上、男と簡単に関係することは難しかろう……
事と次第によっては、誰にも看取られず、人知れず死んでいくのであろう。
前々世において、防衛庁長官の陰謀のために暗殺され、人知れず葬り去られた。
ココットの姿を過去の自分に当てはめたマサキは、涙を禁じ得なかった。
その夜、マサキ達は、ベルクにあるゲーレン宅に滞在していた。
今回の事件の目的であるBNDの女スパイの情報と、ココットの進退について問うためである。
「例の事件はお前が絡んでいるのか」
マサキの問いに、ゲーレンは黙って頭を振った。
「ゲーレン……」
「礼が欲しいわけではない……
全てはドイツ国家自存自衛のためさ」
ゲーレンは持参した鞄を開けると、紙の束を取り出し、テーブルの上に広げ、おもむろに語りだした。
女スパイ、アリョーシャ・ユングの生い立ちから始まり、その勤務実態と交友関係などへ話をすすめた。
1972年にBNDに入った後、1973年に新設された連邦軍大学で幹部職員研修を受けた。
その際に西ドイツ軍の将校と知り合いになった経緯を、いっさい無駄な修辞を交えず、語った。
最後に、戦術機の機密情報提供に関しては、背後に米国大統領顧問団(米国の内閣)の閣僚の影が見え隠れすると付け加えた。
ゲーレンは語り終えて、息を突き、椅子の背もたれに身を預けた。
マサキは暫く黙っていたが、ゲーレンに静かに言った。
「よくわかった」
言葉を切ると、タバコに火をつける。
「ドイツ連邦軍まで関わっているとは、思いもよらなかった」
紫煙を燻らせながら、脇にいる鎧衣の方を向く。
それを受けて、鎧衣がゲーレンに語った。
「先日、木原君から話を聞いて、すぐにこの一件を調べ直したところ、ユング嬢の足取りがニューヨークで消えていました。
どうやら本来は、大罪である情報漏洩をしたユング嬢を西ドイツに戻すこと。
BNDには、CIAの諜報活動に全面協力をするという密約を結んだ。
そのことによって双方両得し、丸く収めたとするつもりだったらしいのです」
古今東西、権力機構の人間関係は複雑だ。
派閥間での激しい権力闘争が進行中で、時として外部にその内情が漏れ伝わることがある。
鎧衣は、米国内から出てくる膨大な情報を綿密に調べて、その一端をつかんだのであろう。
すぐれたスパイとはかくあるものなのかと、マサキは感服を覚えた。
「ありがとうございます。
これで、ドイツの政界は落ち着くでしょう」
ゲーレンは、マサキ達に深い謝意を伝えた。
その際、脇に立っていたココットがマサキの傍に駆け寄る。
「一区切りついたら、バイエルンで私と暮らしませんか」
突然の事に、びっくりしてマサキはココットを見つめた。
ココットも、強い情炎の光を放つような眼差しで見返して来る。
思わず、マサキはココットの唇に、自身の唇を重ねていた。
ココットは、マサキの春機に抗いもせず、受け止めていた。
マサキは情炎の誘惑に勝てないで、ココットの柳腰に手をかけて、引き寄せる。
まるで根元の朽ちた古木のようにココットの体が傾いて、マサキの胸に倒れてきた。
これには、マサキが慌てた。
二人が見つめ合ったのは一瞬だった。
ココットは目を閉じて、マサキの出方を待つ。
「済まなかった。
不意の内にお前を……」
マサキが、戸惑った表情で口ごもる。
目を見開いたココットは、顔を寄せて、マサキの表情を見た。
「ねえ……
何を考えているの……」
答えを引き出すまで、ココットは引き下がらないつもりだ。
マサキは、ココットに驚嘆すべき情熱があることを今知った。
「俺と暮らせば、死ぬか、生きるかを、ギリギリの日々で過ごすことになるぞ。
女の身空で、耐えられる自信はあるか……」
マサキとの冒険の日々にはドキドキ感が伴ったが、この先どんなことが起こるだろうという興味や不安もあった。
ココットの中に、様々な感情が交差した。
「落ち着いたら、私に連絡を頂戴……」
ココットは右手で、電話番号を書いた名刺を、マサキのシャツの胸ポケットに差し込む。
すると、マサキがいきなり抱き寄せる。
「ただ、浮気はゆるさんぞ。
俺以外の男に、その身を預けるような真似はするなよ」
マサキは、そういって、ココットのスカートに指を走らせて、雄大なヒップを撫でた。
何の気なくマサキの行動を許してしまったが、ココットは後から、かあっと熱くなった。
「……はい」
ココットは、襟もとまで赤くしながら、どうしていいか知れないような心地だった。
呆然とする彼女をしり目に、マサキはゲーレン邸を後にした。
後書き
ご意見ご感想お待ちしております。
険しい道
前書き
筆休めに温泉回を書きました。
今回は原作キャラのみで、マサキは出ません。
西ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に属する都市、バーデンバーデン。
同地は欧州最大の温泉で、国際的な高級保養地として世界から多くの保養観光客を迎える美しい街である。
およそ2000年前の古代ローマ時代に発見され、重宝されたが、中世以降は衰退した。
18世紀以降、飲泉と呼ばれる医療行為の一種が流行すると、王侯貴族の避暑地として発展した。
19世紀には保養所が作られ、カジノなどの遊興設備が盛んになり、大規模な温泉施設が整備された。
今も当時の面影を残す施設としては、フリードリッヒ浴場とカラカラ・テルメなどがある。
夏休みの家族旅行で、バーデンバーデンに来ていたテオドール・エーベルバッハの気持ちは、ドキドキだった。
昨年の春先に東ドイツから亡命してきたテオドールにとって、温泉という物を見るのは初めて。
一応、養父であるトマス・ホーエンシュタインは、東独出身でありながら、温泉という物を知っていた。
彼は、左翼作家のベルトット・ブレヒトの最晩年の内弟子の一人であったので、東欧の保養地を知っていた。
ブレヒトに連れて行ってもらった作家同盟の旅行で、隣国ハンガリーの温泉地にも出かけたことがあるし、チェコのカルロヴイ・ヴァリで飲泉をしたこともある。
だが、義理の妹のリィズとテオドールは、東独以外の暮らしや文化を知らなかったので、本当に驚くばかりであった。
本当の温泉を教えたいトマスは、全裸で入浴ができるフリードリヒスバートへ案内してくれた。
もう一つの浴場であるカラカラ・テルメは、大規模なプールや屋内外にサウナを兼ね備えたレジャー施設。
水着着用が義務で、基本的に日帰りの温泉だった。
フリードリヒスバートは、バーデンバーデンを代表する大浴場である。
19世紀に建造され、ルネサンス様式の建物を有し、カジノ場やレストランが充実していた。
ナポレオン三世やブラームス、ドストエフスキーなどが滞在した由緒ある場所でもあった。
ドイツの入浴施設は基本的に混浴である。
一応男女別の日も設定されてはいるが、夕方以降は基本的に混浴だった。
更衣室も、男女別の日以外は、男女共用で、全裸の婦人がいても男の三助が案内する仕組みであった。
事前に準備していたトマスは、家族旅行を男女別の日にし、予約を取ることにしたのだ。
理由は、息子のテオドールと娘のリィズが思春期だったからだ。
いくら兄弟として分け隔てなく育てたとはいえ、思春期であれば、羞恥を感じるだろう。
何よりも恐れたのは、男女の間違いに発展する事であった。
いずれは義理の息子であるテオドールに、本当の家族になってほしいという願いはあった。
だが親心としては、あと4年ほどは彼らに自制してほしいという気持ちもあったのだ。
広大なフリードリヒ浴場は、15の施設に分かれていてた。
これは、1877年の開園当時からの伝統で、およそ2時間ほどかけて移動するように設定されていた。
まず冷水のシャワーを5分間浴びた後、54度と68度の熱気で満たされた温室でそれぞれ5分間休憩する。
温水のシャワーを1分間浴びた後、8分間の石鹸とブラシによる洗浄を受ける。
ブラシの洗浄は、三助が待機しており、男女別の入浴の日以外は、男の三助だった。
その後、45度と48度のサウナをそれぞれ5分ずつ経た後、36度の温泉に10分間浸かった。
36度の温泉は、東洋人の我々からすると非常にぬるく感じる温度ではある。
だが欧州では、28度から36度の低い水温の温泉が一般的だった。
一説には寒さに強い白人種は、汗腺の数が黄色人種に比して少なく、暑さに弱いことが原因とされている。
基礎体温が高く、筋肉量の多い彼等からしてみれば、日本の温泉は熱く入っていられないという。
この温泉の水温の違いは、文化的な背景や人種の差異が大きかった。
36度の温泉の後は、34度の噴出浴に15分間浸る。
そして、その後はフリードリヒ浴場の目玉である28度の湧水浴場に移るのであった。
テオドールは、更衣室で分かれたリィズと遊水浴場で会うことになっていた。
遊水浴場は、建物の中央にあり、数百畳ほど。
照明は、天蓋の隙間のガラスから入ってくる天然光のおかげで、はっきり周りが見えるほど明るかった。
奥の方に、大理石で作られた古代ギリシア風の浴槽がある。
数十人は入れそうな大きさで、既に湯が満ち、薄っすらと湯気が立っている。
今自分は、古代ローマの大浴場にいる……
ふっと、現実世界から浮遊したような奇妙な感覚に、テオドールは陥った。
「思ったより、早かったね」
気づくと、そこにはリィズがいた。
一糸まとわぬ姿は、まるでモデルに細くて、均整の取れた抜群のプロポーション。
長年一緒に暮らしてきたテオドールでさえ、どきりとしてしまうような、素晴らしい体だ。
義妹は湯船に腰かけて、こちらを見ている。
赤裸のテオドールを前にして、相変わらず、全裸の肢体を隠そうともしない。
それはまるで、アキダリウスの泉に佇む、愛の女神ヴェーヌスを思い浮かべさせる。
時間帯のせいだろうか、義妹の他に誰もいない。
偶然とはいえ、貸し切りの状態だった。
「早く入ろうよ」
そういって、テオドールとリィズが湯船に身を浸した。
リィズと向き合う形となったテオドールは、頬の赤みが増してゆく。
湯の温度は28度と、それほど熱くない。
体が温まったという、言い訳が付かない赤面だった。
リィズは、背泳ぎする形で、テオドールの傍に近寄ってくる。
津々とわく温泉を泳ぐリィズの裸身が、湯の中から透けて見える。
隣に座ったリィズは、テオドールの姿を見ると、唇をほころばせる。
まだ少女のあどけなさを残した顔に、蠱惑的な笑みが広がった。
義妹に芽生えてきた大人の色香を感じ取ったテオドールは俯き、湯の中に浸った半身に目をやった。
華奢な肩に、細い二の腕。
美しく盛り上がった乳房となだらかなにくびれた腰。
本当に奇麗だ。
こんなに奇麗な義妹を他人の手に触れさせて良いものだろうか……
狂おしいほどの感情が、テオドールの中にのた打ち回った。
それは今までに感じた事のない激情だった。
切ないという感情にも似ているような、嵐のような激情だった。
あえて言うのなら嫉妬だ。
誰に対しての嫉妬だろうか。
でも、今の自分はリィズにふさわしい人間だろうか。
語学の才能があるリィズのように推薦を受け、ギムナジウムに入り、大学検定資格を取るという選択肢は非常に厳しい。
西ドイツの制度は、落伍者に救済する制度がないからだ。
精々なれるのは自動車整備工の資格を取るか、板金や塗装工の道だろう……
自分で、自分が嫌になる。
どうして、マイナスの面にばかり考えるのであろうか……
14歳になるテオドールの進路は厳しいものであった。
画一的な義務教育制度のある東独と違い、西独は戦前からの段階的な教育制度だったからだ。
義務教育は15歳までで、10歳になる段階で進路を決定し、上級学校を選択するしかない。
大学進学を選ぶ場合はギムナジウムしかなく、ここに入らねば職人や土方という筋肉労働の道しかなかったからだ。
そして男の場合は、18歳から45歳までの兵役義務が課されていた。
1956年に制定された兵士法と兵役義務法によって、18か月の兵役が課された。
一応、良心に基づく兵役忌避も可能であったが、厳しい審査と精神鑑定が要求された。
審査委員会での査問を受けるのだが、その際に多少弁の立つものが有利になる仕組みが出来ていた。
その様なシステムなので、口がうまく小狡い者や査問内容を事前に勉強したものが有利になった。
デア・シュピーゲル紙の報道によれば。
1977年の段階で15万人の兵役免除が認められたが、その多くは良家の子弟や大学生だった。
田舎の百姓より、フランクフルトやハンブルクの出身者が優遇される傾向があった、という。
西ドイツでも兵役忌避者の扱いは、よくなかった。
兵役忌避の場合は、20か月以上の代替服務を要求され、大概が土木工事や医療介護などの筋肉労働であった。
後に社会奉仕活動と呼ばれ、若く安価な労働力として政府に重宝されることとなっていく。
有力子弟の間で兵役忌避の方法として好まれたのが、西ベルリンへの移住である。
西ベルリンは西独の勢力圏ではなく、米英仏の支配地だったからだ。
兵役忌避者で、大学入学資格を持つものは、西ベルリンのベルリン自由大学への入学を希望するのが一般的だった。
西独では大学入学資格を持っていれば、入試なしに、他の大学に自由に移籍できる制度があった。
その為、大学入学資格を持つものは、空いているほかの国公立大にはいた後、ベルリン自由大学に移ることが続発した。
そこで上級生からヒッピー思想や環境問題を刷り込まれ、反戦反核運動に身を投じる者も少なくなかった。
1968年の学生運動以降、そういった卒業生たちは、自分たちが忌み嫌った官界に大挙して入るのが時流だった。
その問題に関しては、後日改めて話をしたい。
さて、テオドールを取り巻く環境は厳しかった。
実科学校や職業訓練校に行けば、兵役の際に有無を言わさず、兵卒に回される。
雑誌プレイボーイやビルトなどの記事を見れば、西側の軍隊でも厳しいしごきやいじめはある様だ。
米国では、ベトナム戦争に従軍した兵士が、今でも、前線でのPTSDによる後遺症で苦しんでいるという。
軍が運営する孤児院にいたテオドールは、東独軍内部の不条理を実体験として知っていた。
ソ連赤軍に逆らう事の出来ない東独軍と、慢性化したソ連の新兵いじめ。
西ベルリンに移住するにしても、移民の子だから、審査は厳しい。
それに壁の向こうは東独なのだ。
シュタージや国家人民軍の影がちらついて、落ち着く暇もなかろう……
テオドールの思考は、ここで途切れた。
誰かが、東ドイツに関して話しているのを耳にしたからだ。
思わずそちらの方を向き、耳を澄ます。
東独での習慣で、噂話という物に敏感になっていたからだ。
声の主は、50歳ぐらいの太った紳士と、中年婦人だった。
裸で、浴槽のヘリに腰かけながら、身振り手振りをし、熱心に話をしている。
「なんでも、今度の事件では、議員や官僚だけじゃなく、情報機関まで捜査されたそうね……
どこにスパイがいるかなんて考えると、本当に怖い話だわ」
「奥さん、今はこのドイツにも東側の間者が沢山いますからね。
知り合いだと思って、うっかりして、いろんなことを話せない時代になりましたよ」
丸坊主の壮年の男が、相槌を打つ。
彼は見た感じ、ユダヤ人であることが分かった。
「いや、恐ろしい話ですな。
ソ連を調査する軍事諜報の対外調査部長が、KGBなんて……」
「全くですな。
こう言う時世だから、気を付けねばいけませんよ」
ローマン・アイリッシュ浴場の天蓋の中に、笑い声が響き渡る。
西ドイツも、東と同じようにある種の監視社会なのだな……
再び回想に入り始めようとしたとき、テオドールは自分の名前が呼び止められて、ハッとなった。
天蓋の奥から、養父母のトマスとマレーネが姿を現したのだ。
「何をぼんやりしてる」
全裸の二人は、テオドールの姿を見つけ、こっちに近づき、声をかけたのだ。
脇にいたリィズは、いつの間にかローマン・アイリッシュ浴場を離れ、休養室の方に進んでいた。
温泉から出たテオドールたちは、その後、湯治客向けのカジノなどを視察し、レストランに足を運んでいた。
バーデンバーデンは温泉地でありながら、観光客向けの設備は充実していた。
郷土料理や地酒を出すレストランに、宿泊施設を併設したプール。
一部の高級ホテルには、湯治客向けの医療施設等が付随している。
別料金を払えばフィットネスセンターやエステもできるスパーもあった。
だが保養観光客は、街中にある種々の施設を自由に利用するのが一般的だった。
また近郊に行けば、酒蔵があり、そこで好みのワインなどを買い求めることも出来た。
バーデン州には火山性土壌が広がっており、そこで作られる葡萄酒にはミネラル豊な味わいの物が多かった。
「では、家族の健康を祝い、乾杯」
トマスの音頭で始まった夕食は、普段食べられないような豪華なものだった。
郷土料理のケーゼ・シュペッツレを始めとして、豚肉やパスタをふんだんに使ったものが所狭しと並ぶ。
初めて口にする赤ワインも、テオドールの暗い気持ちを緩和させた。
西ドイツは法律によって、両親の同席の元ならば14歳から低度数のワインの飲酒が許可された。
同様に低度数のビールは、16歳になれば、飲酒が許可され、購入も可能だった。
ウオッカやスピリッツなどの蒸留酒は、18歳以上から飲酒と購入が許可された。
タバコは、20歳以下に販売した店は、罰金刑の対象になったが、購入者を罰する法律はなかった。
その為、14歳から15歳で喫煙をする児童も少なくなかった。
統制国家の東ドイツも同様で、未成年の喫煙にはそれなりに苦慮していた。
「テオドール、君はどうしたいんだい」
ほろ酔い気味のテオドールは、義父の声に耳を傾けた。
自分は、ただ唯一の家族であるホーエンシュタイン家の人間と暮らしたいだけだ。
リィズが他人に盗られるとか、取り返したいだの思うのは変な話だ。
これからも一緒に暮らせばいいではないか。
テオドールは、おどおどしながらも答えた。
「俺は、リィズと一緒にいたいだけです。
リィズが嫌じゃなければ、一生一緒にいてもいいと思っています」
テオドールは、おずおずと顔を上げた。
対面のリィズは、夢を見ているかのような表情を浮かべ、長い金髪をかき上げる。
白い雪の様な肌が、薄っすらと朱に染まり、汗を浮かべている。
何か、大変な事を言ってしまったのだろうか……
テオドールは、背筋を駆け巡る羞恥の電撃を感じながら、下唇を嚙んで俯いた。
後書き
久しぶりに原作主人公であるテオドールの動向を書いてみました。
1年半ぶりの登場となってしまいましたが、よくよく考えれば、彼は物語に参加しない方が幸せなのかなと思って、何ともない話を書きました。
次回投稿は、可能ならば9月15日と9月21日を考えています。
ご意見ご感想お待ちしております。
険しい道 その2
前書き
今日は、会話はありません。
というか、ほとんど歴史の解説です。
物語上、シュタージが、どういう組織なのか、説明する必要があると思ったので、そうしました。
リィズの父、トマス・ホーエンシュタインが、なぜシュタージから危険視されたのであろうか。
彼が、シュタージやKGB関係者の言うところの『反体制派のブルジョアジー作家』だったからであろうか?
いや、そんなのを関係なしに、シュタージは文化人やマスコミ関係者を監視していた。
元々、東独はソ連の衛星国として成立した歴史からして、自由な報道などはあり得なかった。
作家や音楽家、映画監督などは作家協会に参加したうえで、人民警察の審査を受け、自由業の許可をえた。
つまり、特別に選ばれた人間の集まりだった。
ベルトルト・ブレヒトのように、対外宣伝のために自由な振る舞いを許される少数の例もあった。
だが、大部分はシュタージの監視付きだった。
シュタージの首領・ミルケの事を悩ませたのは、1968年のプラハの春事件だった。
シュタージの予想に反し、軍内部からの非難と知識人による署名活動が自然発生的に起こった。
その事に恐怖を感じたミルケは、次のように述べたという。
「敵は、特にマスコミや文化人の中に存在している。
古いブルジョア思考や生活習慣の残滓、彼ら特有の能力や感心、理想を敵対的行動に乱用しようと試みている」
ミルケは、プラハ事件の国民や
知識階級の共感や感心、とりわけ西側からの文化的影響を恐れた。
自由業とは、東独当局の許しを得た5業種17職種の事である。
5業種は、芸術家、作家、医師及び産婆、科学研究および教育者、発明家である。
17職種は主に作家や芸人、
国有映画制作会に属さない映画監督、写真報道家、演出家、劇場支配人、造形芸術家などの文化人。
その他に、医師、歯科医師、獣医師、産婆(助産婦)の医療関係者。
公的機関に属さない教師や科学研究者の学術研究者。
設計業、国営輸出入会社所属の輸出業者、インストラクター、建築家及び発明家など多岐にわたる。
営業許可は県及び県警から出され、問題があれば即座に営業禁止が言い渡された。
東独の自由業は、一種の特権階級であった。
記録によれば、1989年時点で東独全土で15722人。
これは全人口の0.2パーセントであるが、社会的な影響は強かった。
そして何よりも、彼らは優遇税制の対象となり、税負担は年収の2割で済んだ。
例外として、助産婦は1割の負担で、エンジニアと建築家は1970年から優遇対象から除外された。
自由業者の支持政党は、東独を支配するSEDの衛星政党である
ドイツ自由民主党と指定されていた。
彼等の権益は、LDPD支部からSEDに通達され、SEDの権益を損じない範囲なら許可される形だった。
つまり自由業とはいえ、SEDの怒りを買えば、SEDの認めた範囲内での自由は奪われた。
即座に許可が取り消され、職業活動が禁止された。
東西ドイツに知名度があり、西ドイツで出版活動のできる作家や海外公演の出来る監督や俳優は何とかなった。
だが、医師や教師は診察や研究そのものを禁止されたので、文字通り死活問題だった。
ちなみに、1979年当時の作家同盟の会長はヘルマン・カント(1926年-2016年)という男で、彼はシュタージの秘密工作員だった。
9人の作家による選集「ベルリン物語」が作成されそうになると、彼らをシュタージに密告し、除名処分にした。
カントは東独文学界を指導する立場であり続け、あらゆる栄誉に包まれた。
統一後の1990年代に、シュタージ工作員が露見すると、田舎に隠居し、悠々自適の暮らしを行った。
そして、時折マスメディアに平然と顔を出しながら、過去を反省することなく90歳の大往生を遂げた。
トマスの一人娘であるリィズは、ホーエンシュタイン家がシュタージに目を付けられたのは党幹部子弟との喧嘩が原因だと考えていた。
実はリィズ自身もなんども、総合技術学校の上級生の男子から声を掛けられ、遊ぶように誘われることがあった。
だが上級生の卑しいうわさを知っていたリィズは、演劇活動を理由に交際を断り、上級生をがっかりさせたことがあった。
上級生の父は、国家人民軍の露語通訳で、将校待遇の軍属だった。
公共・公安関係の職種に就く人間は反体制的な言動ばかりか、西独に親族が多いだけでも警戒した。
シュトラハヴィッツ少将のように戦前からの友人がいて、交際している程度なら黙認されることもあったが、あまりに露骨な場合は強制的な辞職に追い込まれた。
辞職しても、再就職先は経験を生かせない炊事婦やウェイター、炭鉱労働者などの肉体労働者になるしかなかった。
自由業者の営業の自由はなかったが、闇屋は別だった。
堂々と新聞に中古車譲渡の広告を載せて中古車を販売したり、国営企業から盗品を使って家のリフォームなどをするのが横行するほどだった。
国営企業からの盗品は、広く共産圏にみられる光景である。
給与の遅配が一般的だったソ連などでは、工場の終業のチャイムが鳴ると、備品を持ち出すのが当たり前だった。
1990年にある大学教授が、ソ連をバイクで冒険した際には、そのような事例を目撃したという。
モスクワ近郊のトリヤッチ市の自動車工場を訪問した時である。
終業のチャイムと同時に、従業員の殆どは、自動車のフロントガラスやドアを抱え、正門から帰宅を急いでいた。
気になった教授が彼らに確認したところ、堂々とエンジンやワイパーまで持ち出す最中だったという。
宗主国、ソ連でそうなのであるから、東独内部の規律弛緩や汚職もひどかった。
同様な事例は、東欧やソ連関係者の回顧録や見聞録に枚挙にいとまがない。
共産主義の言うところの、「生産手段・生産物などすべての財産を共有」なのであろうか?
ゴルバチョフは、生前この事を、「俺の物は俺の物、
他人の物は俺の物」と喝破した。
東独の国家貿易の殆どを担ったのは、対外貿易省の商業調整局である。
これは、以前のマサキのドレスデン訪問回でお話ししたココ機関の別称である。
正式には国家保安省通商調整担当局と言い、アレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキ(1932年~2015年)の直轄組織だった。
ゴロトコフスキ―自身は貿易省次官だったが、同時にシュタージ特務大佐でもあった。
ココ機関は、税関で押収した違法品や奢侈品を幹部の求めに応じて上納するのが一般的だった。
中には、脱税を理由に自由業者から美術品を没収し、それをそのまま幹部に転売することもままあった。
そして、西独からココ経由で日用品や奢侈品を輸入し、時には国禁のポルノグラフィティすら収めたりもした。
つまり、ゴルトコフスキ―は、国営の闇屋のボスだったわけである
そしてそれらを監督したのは後方支援総局で、1963年からルディ・ミッティヒ(1925年~1994年)が責任者。
この経済担当の局長は、シュタージ次官を兼務し、後に中央委員会に選出される重役だった。
(以下は、シュタージ組織図の簡単なものである)

このようにシュタージは、自分たちが西側の自由社会の享楽を知りながら、東独市民を弾圧する腐敗した機関であった。
スパイ活動を通じて、西側のエレクトロニクスがどれだけ進んでいて、東独がどれだけ遅れているかを知っていた。
なので、シュタージは諜報活動や偽情報工作と共に、最新技術の窃盗にも力を入れていたのだ。
トマス・ホーエンシュタイン自体は、特に反体制活動とは無縁だった。
だが、世界的な左翼作家ベルトルト・ブレヒトの薫陶を受け、その作風は暗に体制を批判する様なものだった。
ブレヒト自身は、1930年代まで放蕩と作家活動を続けた後、NSDAPの政権奪取と共に国外に亡命した。
その後、北欧を転々とした後、モスクワ経由でニューヨークに渡って、カリフォルニアに移住した。
映画『死刑執行人もまた死す』(1943年公開、原題:"Hangmen Also Die!")の脚本を執筆するなどして糊口をしのいだが、やがてトーマス・マンとも対立し、亡命ドイツ社会でも浮いた存在になった。
そんな人物が東独に帰国することになったのは、1947年に始まった非米調査委員会が原因である。
1947年10月30日の尋問の翌日、即座にスイスに逃亡し、オーストリア国籍を取った後、東独に帰国した。
当時の西独では、戦前にブレヒトが共産党やSPDに近かったことから、共産主義者とみなしていた。
その為、入国が拒否され、東独に帰国するしかなかったのだ。
東ベルリンに入ったブレヒトは、ソ連と東独政権から歓迎され、即座にベルリナー・アンサンブルと自分の劇団を持つことを許された。
体制批判を得意とする作家は、即座に党幹部から敵視されるも、国際世論を気にし、彼は死ぬまで自由にふるまえた。
だが彼の死後、関係者は逮捕され、その一部が炭鉱での重労働刑に処されるなど、厳しい対応を受けた。
そういう経緯があったので、ブレヒト最晩年の弟子であるトマスは、なにかと敵視される傾向があった。
つまり、トマスは自由業申請をした日より、シュタージの捜査対象であったのである。
東独は、ソ連型の非情で冷酷な監視国家である以上、避けられないことであった。
秘密警察シュタージの目を逃れ、自由な環境で創作活動をするにはシュタージのスパイになるか、亡命しかなかったのだ。
この一作家の家族の運命は、天のゼオライマーによる東独への武力介入が起きなければ、どうなった事であったろうか。
あの時、KGBの手によって、木原マサキが誘拐され、東ベルリンのソ連大使館に連れ込まれなかったら、起きえなかったことであった。
ソ連大使館前でのソ連警備兵と、シュタージのフェリックス・ジェルジンスキー連隊の銃撃戦が起きなかったのならば、シュタージファイルの複写をしていたアクスマン少佐はソ連兵に撃たれなかったであろう。
アクスマンの銃撃事件によって、それまで隠していた悪行の数々が議長の目に止まり、彼は解雇されなかったであろう。
密かに
先斬後奏を受け、失意のうちに世を去ることもなかったろう。
もし、アクスマンが生きていたら、追放刑を受けた関係者はどうなっていたか。
シュタージに監視されていた、トマスやマレーネ、娘のリィズや息子のテオドールはどうなったかであろうか。
それは、神のみぞ知る運命であった。
後書き
ご意見ご感想お待ちしております。
険しい道 その3
前書き
今回も「隻影のベルンハルト」2巻にある設定を掘り下げた話になります。
1970年代のソ連や東独がどんな工業生産であったかを説明する話が多くなります。
場面は変わって、東ドイツの首都、東ベルリン。
正午過ぎより始まった政治局会議では、昨日の西ドイツでのスパイ一斉摘発が議題となっていた。
西ドイツ要所に配置したシュタージ工作員が軒並み逮捕され、そこから入る情報が失われたのは大きかった。
一応、対抗策として、東ドイツは西側へ亡命希望者や政治犯を国外追放処分にし、解決を図った。
政治局会議で、問題になったのは西ドイツに入るシュタージとKGBの二重スパイに関する扱いだった。
以前であれば、KGBにお伺いを立てて、微罪で逮捕した外人などと引き換えに、ベルリンでスパイ交換をするのが常だった。
だが、BETA戦争で、米国による資金援助が増えたことと、KGBが仕掛けたクーデター未遂事件以降、ソ連との関係が急速に悪化したことで、以前の様なスパイ交換は出来なくなった。
西独当局に捕縛されたシュタージ将校を救うために、西独の旅行者を逮捕するという荒業もあった。
だが、今後の影響を鑑みれば、それは無理だった。
現在の東独は、国家予算の殆どを西独の資金援助に頼っており、資金が立たれる恐れの方が、恐ろしかった。
つまり東独当局は、スパイ救出より目の前の金を選んだのだ。
会議の座上、非難は シュタージの対外部門、中央偵察総局に集まった。
同局には、スパイ活動や破壊活動とは別に、政治偵察部という部署がある。
政治偵察部は、KGB第一総局諜報対抗部(通称А部)をモデルに設置された機関である。
相手国の世論を自国に優位に導く宣伝煽動を主とし、それぞれ第一課と第二課が存在した。
(アジプロとは、アジテーション・プロパガンダの略語で、ソ連などでは多用された)
第一課は対外交策が基本で、米国およびNATO加盟諸国、中共、親米英の姿勢を示す後進国であった。
潜入工作の他に、国際テロリズム支援や、共産国への軍事顧問団派遣を実施した。
ソ連KGB工作員と共にモザンビークに軍事顧問団を派遣し、モザンビーク軍の制服を階級章なしで着こみ、現地人を背後から煽動していた。
第二課は、政治宣伝、スパイ工作の後方支援などである。
西ドイツの首都であるボンでの政治宣伝の他に、各官庁に広がった諜報網から機密情報を詐取していた。
そして、同じ友邦条約諸国であるポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどにスパイを派遣していた。
現地の対外諜報機関との連携の他に、監視のためであった。
シュタージは、KGB以外の諜報機関を決して信用しなかった。
他国の諜報機関とは違い、シュタージ立ち上げ時からKGB生え抜きのマックス・ヴォルフが長官を務めていたこともあろう。
またシュタージは、KGBの指示がなければ動けない機関であるように最初から作られていたのも大きい。
それ故に職員たちは、「モスクワの許しがなければ、ミルケ長官は放屁さえできなかった」と嘆くほどであった。
シュタージが、KGB以外を信じなかったのはなぜか?
KGB当局による締め付けが極めて厳しい事ばかりではない。
ときおり、東側の対外諜報機関関係者が亡命をしたことも大きかろう。
直近で言えば、1978年のルーマニア対外諜報機関、国家保安局の長官、イオン・ミハイ・パチェパの亡命である。
チャウシェスク大統領の政治顧問を務め、対米外交を主導した人物の政治亡命の衝撃は、計り知れなかった。
後に、パチェパの政治亡命は、シュタージの高官亡命事件を引き起こす遠因の一つになるのだが、この話は後日の機会に改めて紹介しよう。
対外諜報を行う機関の失態に関して、批判はすさまじかった。
ヴォルフの後任、ヴェルナー・グロスマン大将は、平謝りに詫びいるばかりであった
一連の事件の失敗を、KGBの手法を取り入れたミルケ、ヴォルフの両人に原因があるとし、問題のうやむや化を図った。
一連の失敗は、自分に責はなく、それをそのまま実行した5人の副局長の手法であるとまで言い切った。
面白くないのは、5人の副局長たちであった。
彼等はミルケと違い、大卒者でそのほとんどが弁護士資格や税理士の資格を持ったインテリ層だったからだ。
俺たちはミルケのような文盲ではないと、怒りをあらわにし、グロスマンがソ連に留学し、ソ連共産党党員学校を卒業したことを暴露した。
そして、自分たちが西ドイツの世論を環境問題を隠れ蓑にして、反核運動を進めたことを滔々と説明し始めたのだ。
話は次第に、西側への政治工作から産業スパイで盗んだものの話に代わり、IBMから盗んだ電子基板や西独軍のレオパルド戦車の図面の話になった。
一通り話終わって落ち着いたころ、5人の課長補佐の内、ある中佐の口から驚くべきことが発せられた。
それは新型戦術機・F‐14に採用された特殊な装甲板に関しての事だった。
「何!ブリッジス博士の手によって、スーパーカーボンを超える複合材が完成しただと」
「分子構造式さえ手に入れれば、我が国でも完璧に製造できます」
中央偵察総局には科学技術偵察部という部署が存在し、産業スパイ活動を指揮していた。
電子部品ばかりではなく、最新の石油合成技術や化学繊維に関する特許などもその標的だった。
「その強度は、今までの炭素複合材の数倍、いや数十倍かもしれん。
それが我等の手に入れば……」
東ドイツでは、戦術機の生産が米ソ両国により許されていた。
政府の肝いりで、アイゼンヒュッテンシュタットに修理工場を作ったのを嚆矢に、生産工場を作った。
アイゼンヒュッテンシュタットは、1950年代にソ連によって計画され、建設された都市である。
東部製鉄所連合体の計画都市として設計され、当初の名前はスターリンシュタットだった。
1961年に鋼鉄の山を意味するアイゼンヒュッテンと改名され、フュルステンベルク(今日のブランデンブルグ州オーデル・スプリー郡)と合併した。
住民は、この長い名前を嫌い、単純にヒュッテと呼んだ。
ヒュッテとは、独語で山小屋の意味である。
ヒュッテ修理工場は、後に、東独初の兵器工廠となった。
これは、米国の圧力を受け、ソ連は許可したものであった。
シュトラハヴィッツ少将と、ブレーメ通産次官の活躍も大きかった。
兵器工廠だが、部品は国産化が思うように進まなかった。
ほぼすべてソ連本国から運び、組み立てのみを行った。
当時の東独の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。
東独の軍備強化と反乱を恐れたソ連の意向により、軍備増強は制限されていた。
自国生産できる武器は自動小銃、光学機器も双眼鏡のみという厳しいものだった。
何よりも、航空機設計のノウハウが失われ、戦車の部品すら作れない状態だったのも大きい。
東独には、近代的でシステマチックな機械工業がなかったからだ。
様々な思惑の結果、東独に許されたのはノックダウン生産と呼ばれる方式の物であった。
我々の想定している工業製品のライセンス生産よりも低水準の方法だった。
では、ノックダウン生産とは何者か、ご存じではない読者も大勢いよう。
簡単な説明を著者から許されたい。
ノックダウン生産とは、半完成品の段階で輸入した工業製品を輸入国の向上で組み立てる事である。
戦後日本では、自動車を生産する能力がなく、止む無く政府はノックダウン生産を受け入れ、段階的に自動車製造技術を獲得した。
三菱、日野、日産、いすゞの自動車メーカー各社は、英米の優れた技術とノウハウの提供を受けた。
それぞれ、ジープ、オースチンA40サマーセット・サルーン、ルノー4CV、ヒルマンミンクスなどである。
(ジープとルーツ自動車はかつて存在した自動車会社で、米国のクライスラー傘下となった。
オースチンは、その後英国企業を転々とした後、BMWに売られ、今は中国の南京汽車の商標である)
その後、日本はライセンス生産ではなく、独自の自動車技術を発展させていくことになる。
詳しい話は、後日改めて紹介するとしよう。
ソ連がなぜ自国で戦闘機や戦車を開発できるのに英米の技術を盗むのに腐心したのであろうか。
それは共産圏で、致命的なエレクトロニクスの遅れがあったからだ。
ソ連は、政策として質よりも量を重視した。
重量ベースの年間生産量を設定し、過酷な生産ノルマを自国民に課した。
その結果、ソ連の工業は重厚長大と呼ばれるものであった。
聞こえはいいが、経済的な効率を無駄にしたもので、無駄に大きく重たくて扱いづらい者ばかりが生産された。
高価格の部品や重量のある製品ばかりが重要視され、生産現場や国民の需要などを無視した生産が続けられた。
その結果、劣悪で画一的な工業製品が、大量に作られ、店頭に出された。
その様な粗悪な製品が売れることはなく、各国営企業は山の様な在庫を抱え、倉庫に積まれた。
1970年代のソ連では、各企業は新商品の開発よりも、倉庫づくりに余念がなかったという。
どれほど劣悪だったかといえば、火の吹く冷蔵庫に、割り算のできない電卓、サイドブレーキのない自動車などであった。
極めつけは、発射すると戻ってくるミサイル、居住性も悪く安全配慮のない戦車などである。
ソ連の工業製品の品質への無頓着は、軍事品であっても同じであった。
戦術機は電子部品の塊で、それを操縦する衛士は多額の費用をかけて育てたエリートである。
簡単に墜落することがあっても仕方がないが、脱出に失敗し、簡単に死なれても困る。
一応管制ユニットは米国製の物を使用していたが、安全装置は軽量化のために省かれていた。
一応脱出装置はあるが、英国製の無断コピー品で、脱出速度は20G以上の危険なものであった。
通常、西側では12Gほどであっても、脊椎損傷の恐れがあるので、いかに安全に脱出させるかを重視していた。
だがソ連では非常時に20G以上の圧力がかかり、むやみに使えなかった。
みだりに脱出せず、命を賭して機体を持ち帰れという冗談が出るような代物だった。
「問題はどうやって、ブリッジス女史に接触するかだ」
議長はそういうといつになく真剣な顔で、ゴロワーズの両切りを口にくわえた。
火をつけると、部屋中に黒タバコの何とも言えない香りが漂う。
ミラ・ブリッジスの名前は、東側でもつとに知られていた。
ハイネマン博士の若い助手の一人として、F‐14の設計に関わったという新聞報道を通じてである。
議長自身も、ライフ、ルックなどの写真週刊誌を通じ、米軍の戦術機開発の流れを把握していた。
ニューヨークタイムズやシカゴトリビューンの記事を基にしたシュタージのレポートも、毎週のように届けられていた
後に明らかになることだが、ルック誌の編集部にはKGBの影響下にある人物が出入りしていたと、ユーリ・べズメノフが米国亡命後の1983年に明らかにしている。
中佐の意見は簡単だった。
ミラ・ブリッジスが篁祐唯と結婚し、日本にいることは確実である。
そこで、新聞や雑誌社の記者を装ったシュタージ工作員を送り込み、ミラと会見させるという内容の事を告げた。
議長はその秘密工作に一抹の不安を感じたが、政治局員たちは賛成の意を一斉に表明する。
そして、G7東京サミットに合わせた議長の日本訪問と並行して、密使が派遣されることが正式に決まったのだ。
後書き
今月の三回の連載の内、ほとんどが1970年代のソ連と東独に関する説明となってしまいました。
参考文献は後日リスト化するつもりです。
ご意見ご感想お待ちしております。
東京サミット その1
前書き
某事件をモデルにした話です。
気になる方は、「周恩来の遺書」事件でググってください
1975年に始まった先進国首脳会議。
この度、極東で初めて開催されることとなり、その会議の場は日本第二の都市、東京と決まった。
首都の京都ではなく、なぜ東京になったのか。
それは、外国要人の京都訪問を嫌がった、武家の都合によるところが大きい。
明治維新を経験していない、この世界では、いびつな形での攘夷思想が存続された。
万世の君を頂く帝都に、不埒な異人を入れるとは。
その様な意見が、帝室に近い堂上公家や武家から出されたため、政府は彼らをなだめるために、会議の場を東京に移した。
また、交通の面からも東京は京都より優れていた。
古い中世の遺構の残る京都と違って、東京は関東大震災で街の殆どが焼けたため、比較的早い段階で近代的な街並みを作ることに成功していた。
マサキは、今回のサミットにあたっても、関わらざるを得なかった。
武家でも、官僚でもない、一人の雇われ軍人ではあったが、G7各国とは関係を持っていた。
そういう事で、ふたたび榊政務次官の公設秘書的な役割で、所属している城内省から国防省に出向扱いになっていたのだ。
榊次官と共に、マサキ達は、東京に滞在することとなったのだ。
さて、当のマサキ本人といえば、東京市内を、美久と共にドライブしている最中であった。
二台の750㏄の大型バイクにまたがり、夜の首都高を爆走していたのだ。
戦前のアールデコ様式のビルディングが並ぶ中に浮かぶようにある、江戸城と靖国神社。
江戸時代に建てられた徳川氏の霊廟や、大小さまざまな武家屋敷なども、そのまま残っている。
まるで、昭和初期の時代に、タイムスリップしたような感覚に襲われる。
実に奇妙な体験であった。
この世界では1944年に日本が降伏したので、1945年の東京大空襲がなく、既存のインフラが残ったのも大きかった。
東京の再開発は、関東大震災以降行われず、せいぜい首都高が整備されたぐらい。
大きな違いは、10本に渡る環状道路が、すでに戦前の時点で実現している点であった。
現実の世界では、2024年の段階で、計画から70年以上たつのに、いまだ外郭環状線が未完成の状態である。
翌日、マサキは鎧衣に英国領事館近くのダイヤモンドホテルに呼び出された。
半蔵門線からすぐそばにあり、1階にある中華レストラン「金剛飯店」で食事をする約束になっていた。
席に案内されたマサキを待っていたのは、白いスーツに灰色のネクタイをした人物だった。
白人で、気障ったらしいレイバンのサングラスをかけているも、精悍な顔立ちがはっきりわかるほどだった。
「君が木原マサキ君だね。ゲーレンとの一件は聞いているよ」
マサキに挨拶をしてきた五十がらみの男は、ビジネスマン風の感じだった。
だがマサキ自身は、これまでの経験から男が諜報の世界に身を置く人間だと察知した。
さしずめ、MI6の諜報員といった所か。
おそらくジェームズ・ボンドや、その類であろう。
「俺に何の用だ」
「新聞雑誌は、どんなものを読むのかね」
アメリカ風のスーツを着こなす男は、胸ポケットからシガレットケースを取り出す
言葉を切るとタバコに火をつけた。
「俺は岩波の世界とアサヒグラフしか読まないことにしている。
その方が女にもてるからな」
1950年代から60年代の大学生や知識人の間では、岩波の月刊誌「世界」と朝日新聞社のアサヒグラフがもてはやされた。
左翼的な内容は元より内容の小難しさから、インテリ層の本として評価が高く、読まなくても持ち歩い ているだけで、進歩的という評価を受けた。
現代風に言えば、自意識の高い人々が、大型のタブレット端末や英字新聞を持ち歩く姿に近いものがある。
「まあ、こいつを読んでくれ。
酷い偽情報工作の見本さ」
男が投げ渡したのは、題号がカタカナ表記の全国紙で、3日前の朝刊であった。
東京大手町と大阪堂島にそれぞれ本社を持つ工業系新聞社で、戦後は民族的な言動で有名な新聞だった。
それは、東京編集局次長の署名入りの記事だった。
褐色の野獣こと、シュタージ少佐のハインツ・アクスマン。
彼が、78年の3月にベルリンでソ連兵に銃殺される前に遺書を残したという物である。
遺書の中で、中共経由で西ドイツからゼオライマーに関する機密情報を得たことを示唆する内容だった。
「ハインツ・アクスマン?ドイツ人か。
シュタージ将校の遺書など、俺に見せて、どうする」
新聞の一面には筆記体で書かれたドイツ語の手紙と、アクスマンの顔写真が載っていた。
そして、手紙の内容を翻訳したものが、3面に記されていた。
その内容は、アクスマン少佐は、シュタージ将校で中央偵察総局勤務である事。
中央偵察総局で、西ドイツの軍事政策の専門家という記述から始まるものだった。
中共でのゼオライマーの活躍を知った西ドイツにいる内通者が、アクスマンに知らせた。
そして彼から、シュタージ本部にいるKGBの連絡員に密告したという記事であった。
マサキはアクスマンという男の人相も知らなければ、彼がどういう人物かも知らなかった。
ミルケ、ヴォルフ、ゴルドコフスキ―、グロースマンという主要な人物は、認知していた。
また、アイリスディーナに護衛役と称して付きまとっていたゾーネ少尉。
彼女と兄ユルゲンの人生を狂わせた一因となったダウム少佐の事も把握はしていた。
だがマサキが、シュタージ本部から文書を盗み出したとき、アスクマンはその場にいなかった。
正確に言えば、瀕死の重傷で、幹部専用の第一政府病院の病室に、軟禁に近い形で隔離されていた。
(東ベルリンには、幹部とシュタージ専用の第一政府病院と、芸人などの自由業者向けの第二政府病院があった。
そこに勤務した人物の証言によれば、一般病院の5倍の数の薬剤が揃っていた。
全国より選抜された優秀な医師と看護婦が24時間体制でおり、高額報酬が支払われていた。
ソ連や東欧製の医療機器ではなく、最新の欧米製の医療機器が備えられていたという)
そして褐色の野獣は、長官の手づからによって死刑を宣告され、毒杯を賜った。
この一連の簡易裁判は、議長もSEDもあずかり知らぬ場所で起きた惨劇だった。
SEDは、事実を隠蔽すべく、虚偽の報告書をまとめた。
シュタージの公式見解では、アクスマンの死因はソ連兵による銃撃が元とされ、最終的にKGBの責任とされた。
アクスマンの遺体はほかの犠牲者と共に国葬され、遺族には僅かばかりの見舞金と勲章が送られた。
まさにソ連が行った「殺した後に祀り上げる」というKGB機関の伝統行事が、醜悪な形で再現されたものだった。
結論から言えば、その新聞に書かれたことは、根も葉もない事実だった。
日本と西ドイツの関係悪化を狙った何者かがアクスマンという男の名前を借りて作った偽情報だった。
「こいつは、中々の出来だろう。
早速、今日発売のソ連の月刊誌、「新時代」に、紹介記事が載っているという具合さ」
ソ連時代からあるロシアの月刊誌新時代は、今でこそ反体制的な雰囲気の雑誌だが、ソ連時代は違った。
ここの海外特派員はKGB第一総局対抗諜報部選り抜きの将校であり、多くが非合法工作員だった。
後に日本を騒がすこととなったレフチェンコ事件のレフチェンコ少佐は、モスクワの東洋学院の出の日本専門家だった。
1993年に亡命先の米国で没したべズメノフによれば、東洋学院の生徒の75パーセントがKGB将校だったという。
教授や講師も無論、KGB将校で、その多くが定年者やスパイであることが発覚して引退した者たちだった。
スパイであることが外国の捜査機関により発覚したものの事を、KGBは感光と呼んでいた。
これはフィルム式カメラのフィルムが、太陽光線の作用を受け、化学変化を起こし、使い物にならなくなったことに由来する言葉である。
つまりKGB将校という身元が割れてしまったので、スパイとして使い物にならなくなったことを指し示した。
諜報員と思しき男は、断片的な情報しか言わなかった。
マサキは、その偽記事の出どころが気になっていた。
金剛飯店自慢の中華の味も、食事と一緒に饗された酒の味も感じなかった。
ホープの箱からタバコを抜き出すと、使い捨てライターで火をつける。
かすかに感じる蜂蜜の風味を味わいながら、思考を再び過去に戻していた。
前の世界でも似たようなことがあったな。
日本政府の世界征服計画と称する怪文書が出回り、世界中に流布された田中上奏文事件。
事情に通じた日本人が一目見れば、はっきりとした偽造文書と分かるが、何も知らない人間は信じてしまう作りだった。
あの事件は国家合同政治総本部――当時のKGB機関――の渾身の一作で、最初に出回ったのは日本だった。
日本から世界中に伝達する形で、拡大して報道され、いつの間にか既成事実化された。
今回のアクスマンの遺書という物も、おそらくはソ連の偽文書だ。
最終的には対ソで協力関係にある日中間の離間を目的とし、日本と西ドイツの関係を悪化させる。
それがこの偽造文書の最終目的だ。
下手したらシュタージ自身が知らないところで話が進んでいるのかもしれない。
ユルゲンやヤウクがこのアクスマンという木っ端役人の事を知っているのだろうか。
シュタージとの関係が深いアーベルにでも聞くか……
いや、俺がシュタージファイルを返し読みすればいいだけか……
とりとめのない会話の内に食事が終わると、酒席はお開きになった。
金剛飯店からの去り際に、諜報員は真面目な顔をして言った。
「木原君、アクスマンという男の事を調べてごらんなさい。
色々と面白いことが分かりますよ」
マサキは、つぶれかけたホープの箱からタバコを抜き出す。
口にくわえて火をつけると、興味を覚えた顔つきで尋ねた。
「アイリスディーナの為になるのか」
男は、なぜか楽しそうに答えた。
「アイリスディーナ嬢を幸せにしてやるには、その因果から解放してやるしかありません」
後書き
まあ、このところ諜報戦というか、情報戦のような地味な話しか書いてません。
よそ様はbeta戦だ、何だとやっているのに、政治の話ですからね。
久しぶりにご要望などありましたら、お聞かせください。
ご感想お待ちしております。
東京サミット その2
前書き
今回も6000字超えました。
マサキがあった英国のMI6の諜報員。
彼を、伝説的なスパイ小説「007」にあやかって、仮にジェームズ・ボンドと呼ぶとしよう。
ジェームズ・ボンドと別れて、マサキは半蔵門から桜田門に来ていた。
桜田門は、江戸城の内堀の一つで、かつては桜田土門と呼ばれた場所である。
幕末の井伊大老暗殺の桜田門外の変に始まり、大正時代の桜田門事件など日本史上を揺るがす大事件の場所であった。
我々の世界では、桜田門の正面に警視庁の庁舎、国道を挟んで法務省の赤レンガ庁舎が立っている。
この地名から、警視庁は隠語で桜田門と呼ばれることとなった。
さて、この宇宙怪獣に荒らされた異界も、奇妙な事に、桜田門に警察施設はあった。
内務省の本庁舎と警視庁は京都だが、東京府警本部として設置された。
何とも言えない懐かしい気持ちに浸りながら、マサキは桜田門に向かう。
前の世界なら建て替え工事中なのだが、あの茶色い薄汚れたビルディングが残っていたからだ。
府警本部長室にマサキはいた。
本部長の他に、外事課長以外は人はいなかった。
こういう国際諜報の世界ではいつどこにスパイがいるか、わからない。
なので、最低限の人員だけしか部屋に招かれなかった。
本部長は紫煙を燻らせながら、机の上の電気を消した。
ジェームズ・ボンドが持って来た資料に目を通した後、呆れたようにつぶやく。
「本当に、このような人物が中堅新聞社の編集委員にいるというのですか」
資料によれば、アクスマンの遺書という偽記事を書いた人物は、帝大出のエリート。
戦争中は陸軍士官学校にいて、敗戦後、帝大に編入した本当の秀才だった。
「間違いありませんか」
本部長からの問いに、鎧衣は理路整然と答えた。
「敗戦のショックで、それまで後生大事に温められてきた忠君愛国の価値観は打ち砕かれた。
そこに代用品として、共産主義思想を求めたとしても不思議ではありません」
敗戦の衝撃で、価値観の崩壊が起きたのは事実だった。
前途有望な若者の多くが進歩思想に触れ、その毒に痺れてしまったのだ。
マサキはシガレットケースから、ホープを一本取り出すと、口にくわえ、火をつけた。
東大法学部にいる様なガリ勉型の秀才は、とかく極端から極端に走りがちだ。
知識は豊富だが、知見に乏しいから、どういう結果になるか想像が出来ない。
外事課長は、鎧衣の言に跋を合わせる。
「陸軍士官学校は学費免除ですから、その多くが貧農出身ですからね。
特別な訓練を受けていなければ、ソ連の宣伝に、簡単に乗ってしまう……
その様な可能性は、大いにあるでしょう」
最後の質問は、マサキに向けたものだった。
「やはり、今回の事件の裏にはKGBだと……」
マサキは暗がりの中で座っている捜査官に応えた。
「レーニン全集を読んですぐに、赤い旗を持ち、ヘルメットをかぶって徒党を組んで歩く。
そんなにわか仕立ての連中は、それほど怖くない。
本当に怖いのは、後から赤い麻疹を発病した連中だ……
長い潜伏期間を経て、重要な地位に就いた後、確信犯的に左翼運動に精を出す……
潜伏期間が長ければ、隔離することも出来なければ、急に発病するまでこっちも動けん」
2時間ほどレクチャーを受けた後、マサキは桜田門を後にした。
美久が運転する遠田の最新式セダンの後部座席に座りながら、ぼんやり外を眺めていた。
このノッチバックの4ドアサルーンの外見は、前世のホンダ・アコードそのものであった。
排気量1・8リッターのエンジンを搭載し、パワーウインドウとフルオートエアコンが装備されている中型車だ。
その内側は、総革製の座席に始まり、自動車電話に至る内装が施された特注品である。
東京府警本部での話は、結論から言えば有益だった。
マサキが知らない、日本国内の治安情報が手に入ったからだ。
アクスマンの偽遺書事件を追う過程で、ソ連の対日スパイとその協力者が浮かび上がってきた。
それは、河崎重工の技術者から五摂家の姻戚という具合である。
そのスパイと思しき人物の名前が書かれた名簿を見ながら、マサキは誰から殺そうかとばかり考えていた。
気になる人物は、以下の通りだった。
1人は、大野何某なる貿易商で、与党・立憲政友会の代議士の孫だった。
(立憲政友会は、今日の自民党の元となった中道右派よりの政党である)
妻は白系ロシア人、あるいはウクライナ人とも。
噂ではGRUの工作員の妹を娶ったとされるが、この異界では財界要人とソ連人との婚姻は珍しくなかった。
1941年の日ソ不可侵条約が、40年近く更新されているためである。
この5年ごとの条約を、ソ連は珍しく維持していた。
恐らく条約を守る代わりに日本政府から有利な条件を引き出しているのだろう。
大野はソ連貿易ばかりなく、東欧にもいろいろ手を伸ばしていた。
大野の生母はドイツ人だった関係で、東独にも支社を置いていた。
ココム規制のせいもあろう。
国家人民軍や人民警察とは、さすがに表立っての貿易はしなかった。
だが、ゴルドコフスキ―の闇貿易には協力関係にあった。
文書や写真も残されており、逮捕する証拠も十分だ。
なんといっても、それに関するシュタージファイルをマサキが持っているのが大きい。
あとはシュタージ関係者の証言が二、三欲しいところである。
二人目は、穂積という人物で、機械部品会社の社長だった。
その会社は、戦術機のコックピットに備え付けてある強化外骨格の77式機械化装甲を作っていた。
機械化装甲とは、GEが1965年に作ったハーディマンを起源にもつ外骨格型強化服である。
史実の世界では油圧駆動の未発達と、680キログラムというその重量から、開発が中止された。
この異世界では、宇宙開発での利用で商用化に成功し、米軍で正式採用された。
そういう事もあってか、日本でもライセンス生産がなされ、戦術機の脱出装置に採用されたのだ。
強化外骨格の事は、マサキにはどうでもよかった。
実際の戦場や工事現場で使われているのはユンボやフォークリフトだったからだ。
ハーディマンや外骨格は、月面戦争という特殊な環境で使われた時代のあだ花にしか過ぎない。
マサキはそう考えて、無視していたが、ソ連との関係があると聞いたら話は別だった。
穂積何某は、ソ連に技術提供する見返りとして、ソ連人のバレーダンサーを関連会社や自宅に雇い入れていた。
バレーダンサーや舞踏家などというのは、KGBやGRUの隠れ蓑だ。
あるいはソ連が開発した超能力兵士をレンタルという形で借りているのかもしれない。
鎧衣の話によれば、ソ連の超能力兵士の殆どは、決まりきったように銀髪の女だという。
その話を聞いたマサキは、ある推論を立てた。
大元になる、女催眠術師や超能力者のミトコンドリアDNAから作った複製人間。
アーベルに前に聞いた話からすれば、美男美女も選考の対象にあるから、恐らく美女なのであろう。
それを1日1万円から2万円で、借りているのかもしれない。
あるいは、500万円相当のものと交換したのかもしれない。
ソ連はバーター取引の材料として、廃船予定の軍艦と石油などというとんでもない実例がある。
人間など2億もいるのだ、女一人ぐらい安いものだと思っているのかもしれない。
あるいは、共産主義思想の言うところの真理の一つである、量は質を凌駕する。
という事で、山のように複製人間を作って、持て余した分を売りさばいていたのかもしれない。
なにせ、フォードやオペルの複製品を堂々と西側で売るほどの厚顔無恥ぶりである。
フィアットからライセンスを借りていたVAZのラーダは、本家本元のフィアット124より多くの国に輸出。
捨て値同然の価格設定で、見境もなく売りさばき、利益を上げていたほどだったのだ。
三人目は、八楠という人物。
三菱で作っているF-4ファントムの改良案を、城内省に持ち込んだ人物である。
城内省にデータを持ち込むことはよくある話だ。
前にはF‐5フリーダムファイターの改良版であるトーネードの図面を、自作と偽って持ちこんだ事件が起きたばかりだった。
今回の図面は、ソ連の影響があるのは一目でわかるデザインだった。
西側では一般的ではないカーボンブレードが、全身に追加されていたのだ。
だがその情報の出どころが、問題になった。
ユルゲンが東ドイツで鹵獲した新型のソ連機・MIG-23にそっくりだったからである。
MIG-23は、ソ連の最新鋭戦術機で、主な配備先はKGBだった。
ソ連赤軍にも配備されていないものを、なぜ日本の企業人が持っているのだろう。
考えられるのは、KGB工作員から報酬代わりに渡されたという事だ。
ソ連への情報の見返りで貰うほかに、日本側を混乱させる偽情報をつかまさせらるケースも否定できない。
何にせよ、危険な香りのする案件だ。
八楠も表向きは貿易商で、ナホトカに事務所を置いている。
彼の親ソぶりは有名で、BETA戦争で頓挫したシベリアの資源開発交渉に参加した経験がある。
この時代にロシア関係に携わる者は、基本的に容共親ソ思想の持ち主だった。
八楠は、女性問題ではなく、思想的に共鳴して、ソ連を援助している。
三人の中で、一番危険な部類である。
資料に目を落としていたマサキは、わずかに口元をゆがめる。
着ている開襟シャツの右胸ポケットから、ロングサイズ用のシガレットケースを取り出す。
電解アルマイト加工がされた黒いパネルのついた真鍮製のケースから、ホープを一本ぬきだす。
煙草の長さが70ミリと短く、100ミリのケースにあっていないことは承知している。
だが、この坪田パールが作っている日本製のケースが、好みなので仕方がない。
煙草のフィルターをくわえたマサキは、100円ライターの火を顔に近づけながら、こう思った。
殺してもよい人物とは、存在するものだ。
そして、この俺にはそれだけの事を行う力も能力もある。
早速、マサキは丸の内にある八楠の本社ビルをたずねた。
しがないソ連相手の貿易商にしては、金回りのよさそうな感じを受けた。
資本金500万円ほどなのに、丸の内に大きなビルを持っており、多数の従業員を抱えている。
彼の経営手腕も関係あるだろうが、裏に金を貸す銀行なども絡んでいるのだろう。
ビルの受付に行くと、ちょっとした騒ぎがあった。
白い裃姿の男が、従業員を人質にとって、立てこもり事件を起こしていた。
「わ、私は、ほ、本気だぞ!
ここで、拳銃自殺をすれば、嫌でも明日の朝刊の一面に載る」
男の手には、2インチの銃身をもつ、コルト社製の回転拳銃、パイソンが握られていた。
.357マグナム弾を発射できる小型拳銃で、1955年に発売された。
ほかのコルト社製回転拳銃と違い、ほぼすべての工程が、熟練工による手作業での組み立て。
その高品質と、高価格帯から、「拳銃のロールスロイス」と評された。
「そうすれば、八楠の汚いやり口が、白日の下に晒されるだろう」
「好きにすればいい。
なんなら、今から在京キー局のテレビカメラマンを呼んでやろうか」
「な、何!」
「株式買い取りを通じた合併は、合法的な企業戦術にしかすぎん。
それに敗れたお前は、ただの負け犬ってことさ」
「この期に及んで、何を言うか!
人が心血を注いで築き上げた会社を、二束三文の金で奪い取ることの、どこが合法的なんだ」
激昂した男は、リボルバーの撃鉄をゆっくりと上げた。
ほぼ同時に、輪胴式の弾倉が、連動して回転する。
「頼む、八楠さん。
後生だ、私から……会社を奪わないでくれ」
「俺は忙しいんでね。
それに商人の自殺というのは、この目で見るのは初めてなんでね」
「き、貴様、正体を現したな。
青年実業家などと、持て囃されているが、薄汚い政商なんだ」
政商とは、政府や官僚との縁故や癒着により、優位に事業を進めた事業家や企業のことである。
俗に、御用商人とも呼ばれ、公共事業や新規発展の目覚ましい産業に食い込んだりもした。
明治期の御用商人として代表的な人物として、薩摩藩士であった五代友厚などが有名である。
もっとも彼は、事業の負債を抱えてまで、商船三井や南海鉄道などの、今日にまで残る仕事をした。
だが晩年は、重度の糖尿病に侵され、49歳で亡くなるという、あっけのない最期であった。
「こうなったら、地獄で待っているぜ。あばよ」
男は周囲の人間が止めるよりも早く、コルト・パイソンをこめかみに当てる。
その途端、ピューンという音とともに、手裏剣が拳銃をかすめた。
男は手裏剣の衝撃で、持っていた回転拳銃を取り落とした。
周囲の人間は、一瞬の出来事に理解が追いついていないようだった。
まもなくすると、その場に、拍手が鳴り響く。
野次馬として来ていた八楠の社員たちが振り向くと、数人の男女が立っていた。
1人は、季節外れの、茶色いトレンチコートを手にした、壮年の男。
薄い灰色の背広に、パナマハットなどを被っているところを見ると、サラリーマン風である。
「何だ、貴様らは!」
警備員の問いかけに、鎧衣は持ち前のユーモアをたっぷりと披露した。
「いや、東京は恐ろしいところですな。
ビルの中に入ってみれば、自殺未遂。
京都では考えられませんな」
藪から棒に変な事を口走る男。
人々は気違いと思って相手にしなかったが、社長の八楠はこう返した。
「京都から来たんだって?
じゃあ、大空寺の総帥、大空寺真龍は知っているかい。
総帥と俺は義理の兄弟なんだ」
マサキは苦笑すると、八楠の方を向いた。
手をのばせばすぐ届く距離に、肥満漢の大男が立っていた。
「知らんね。
俺には、お前の様な関取の知り合いはいないんだ」
男のだらしのない体型をあざ笑った後、タバコに火をつけた。
八楠は落ちているコルト・パイソンを拾うと怒りに任せ、拳銃をマサキに向ける。
引き金を引くと爆音が響いたが、当たったかどうかは判らない。
確認をする前に、彼自身が撃たれたためであった。
拳銃を持った八楠は、事件の通報を受けてきた警官に射殺された。
債権者の狂言を見て、美久が手配しておいたのだ。
事情を知らない警官は、八楠を立てこもり犯と勘違いした。
マサキに向けて発砲した直後、八楠の脳天を警告なしに撃ったのだ。
撃たれたマサキに被害はなかった。
次元連結システムのちょっとした応用で、難を逃れたのだった。
マサキは、流れ去ってゆく新宿の街並みに顔を向けた。
外はすっかり陽が落ちて、暗くなっていた。
高速道路から見える街の灯りは、星のまたたきのように美しい。
この大東京の繁栄ぶりを、いつかアイリスディーナに見せてやりたい。
いや、みせるどころか、銀座や有楽町と言った街中を二人でぶらぶら歩いてみたい。
デートまではいかないが、誰に気兼ねすることなく朝から晩まで連れまわしてみたいものだ。
別に東京じゃなくてもいい。
紅葉の時期に、京都の金閣寺や、日光の中禅寺湖に連れて行ってのもよかろう。
真冬に沖縄でバカンスなども、楽しかろう。
彼女の眼の色と同じ海で泳ぐのも、また一興だ。
ソ連の後ろ盾のなくなった東独は、10年もしないうちに滅ぶ。
石油や天然資源が格安で入らなくなり、経済的に立ち行かなくなるのは目に見えている。
だから、焦る必要はない。
だが、アイリスディーナの年齢を考えれば、悠長なことも言えまい。
今は19歳の美少女だが、10年もすれば29歳だ。
若い女の1年は、男の5年にあたる価値がある。
10年も無駄に過ごせば、50年を無為に過ごしたことと同じになる。
この黄金の日々を、あのくすんだ色の軍服を着て過ごさせるような真似は避けたい。
彼女に似合うのは、レインドロップ模様の迷彩服ではなく、パールホワイトのドレスだ。
胸を飾るのは略綬やメダルではなく、神々しい光を放つジュエリーでなくてはならない。
トレンチコートではなく、練り絹やメリノウールで編んだストールをまとってほしい。
細い腕には、ソ連製の自動小銃・AKMではなく、いとし子を擁く方がふさわしい。
そこまで思って、マサキは静かな笑みを浮かべた。
後書き
夏が過ぎれば、仕事が落ち着くと思ったのですが忙しくてまとまった執筆時間がありません。
なので、10月以降も当面隔週連載になると思います。
ご感想お待ちしております。
ご要望等ございましたら、コメント欄にご記入ください。
東京サミット その3
前書き
昔は喫煙マナーは今と比べて、非常に悪いものでした。
灰皿のない所でタバコを吸うのはザラで、道路を歩きながら吸うのは当たり前でした。
そういう時代背景を前提に、今回の喫煙シーンを書いています。
諜報戦というのは、実に地味な戦闘方法である。
劇映画のように敵地の奥深くに侵入して目標を破壊したり、機密文書や新兵器を盗むことばかりではない。
その多くは、敵国や第三国の世論を自国に有利なように煽動する情報工作がほとんどである。
日本や米国を代表する自由主義諸国は、ソ連や中共と違い、国民の声を政権に一定数反映する民主主義のシステムを採用している。
その為、対外工作や偽情報工作を受けやすく、KGBが仕掛けた世論誘導によって、政権転覆が起きた例もある。
1980年代の西ドイツの反核運動は、その起源の一つに環境問題を入り口とした偽情報工作があった。
当時の西ドイツでは、出来たばかりの緑の党や環境保護団体が地球寒冷化による気候変動の恐れを必死に説いていた。
中でも熱心に説いたのが、核戦争による核の冬の到来である。
彼らのやり口はこうだった。
いきなり核の冬を主張すれば、ソ連の核の脅威におびえる西ドイツ人でも警戒するので、自然保護運動を入り口に使われた。
自然保護という甘い言葉でくるんだ左翼思想を与え続け、気が付かない様に誘導を行う。
完全に左翼思想に痺れた頃合いを見て、気候変動による地球慣例化を話に挙げる。
そして、そこから核兵器のことを学び、核による気候への深刻な影響を刷り込むのである。
この様な洗脳を受けた人間は、自然と核兵器廃絶や平和運動という差翼活動にも携わっていくという具合であった。
当時の西ドイツは、共産党は非合法で、尚且つ破壊的な活動を行うドイツ赤軍や毛沢東主義者は警戒されていた。
連邦情報局、軍事諜報局、憲法擁護庁と言った諜報機関も設置され、スパイを取り締まる法律もあった。
その為、KGBは正面からの赤化工作や反戦運動ではなく、環境問題を切り口にした工作を行った節がある。
当時の西ドイツでは急速な経済発展で、公害問題が続発しており、KGB工作の入り込める余地が存在していた。
西ドイツ南部に広がる黒い森。
この広大な森林地帯が1970年代に急速に失われ始めており、酸性雨の被害であると連日連夜報道されていた。
だが、シュバルツバルトの大量枯死の原因は、酸性雨による環境破壊ではなく、高地特有の乾燥による枯死だった(注釈)。
西ドイツ以上に、東ドイツやチェコスロバキアの環境汚染の方が深刻だった。
だが環境問題は、東側諸国で国禁であり、シュタージやKGBの管轄だった。
弾圧下であっても一部の知識人や学生が問題化し、西側と連携して情報を公開していくのだが、その話は後日に譲りたいと思う。
(注釈:近年になって旧西ドイツの黒い森の枯死の原因は乾燥によるものだと判明してきている。
1980年代に緑の党が盛んに宣伝してきたことと事実が異なることが判明した好例である。
以下に参考URLを記載したい。
株式会社東環『きょうの東環』2019,07,03, Wednesday「常識が覆されるとき」
http://www.tokan-eco.jp/blog/index.php?e=1667)
アクスマンの遺書という、今回の偽情報工作の目的とは何か。
それはKGBによる対日世論工作であり、また日・米・中の離間工作であった。
ゼオライマーの機密情報をもとにし、反ソで結束しているこの三カ国間の連携を崩すという方策であった。
この作戦は日米間の離間工作だけではなく、ソ連と急速に距離を置き始めていた東独にも向けられたものだった。
東独側は日米と違い、事態を静観しているばかりではなかった。
早速、その対策として、密かに人員を派遣することとしたのだ。
ラインホルト・ダウムは、東独政府団が東京に来る前に日本に来た。
彼は、シュタージの対外諜報部門・中央偵察総局の副局長の一人である。
ダウム自身はシュタージに採用されて、すぐポーランドでの潜入工作員として活躍した老練な諜報員だ。
西ドイツへの積極工作という情報操作を専門とし、わずかな虚偽情報を混ぜた政府機密を意図的に流す事をしている男だった。
これはKGBが良く使う手で、英語でActive measuresとか、露語でАктивные мероприятияと呼ばれる。
防諜機関のない日本では、スパイ天国であることはシュタージの間でも常識だった。
KGBが東京の新聞社に出入りする人間に接触し、言葉巧みに世論誘導することは簡単である。
仮に非公然工作員が捕まっても、それを処罰する法律がない。
だから諜報関係者の間では、日本に来るという事は一種のバカンスである。
という様な政治的小話を、KGBの連絡員によく聞かされたものだ。
今回は東ドイツの雑誌、「Das Magazin」の記者という名目で、ビザ申請し、入国したのであった。
(ダス・マガツィーンという雑誌は、統一後、出版社を変えて存続している。
男性向けの雑誌で、読者層の75パーセントは旧東独となっている。
スイス国内でも同名の雑誌が発行されているが、前出のドイツ紙とは全く無関係である)
日本側も東独の新聞記者や雑誌社の人間を警戒しなかった。
それは日本が、東独では報道が許された数少ない西側先進国という面があったからだ。
東独では、西独の情報は入ってきていたが、大っぴらに語ってはいけないことだった。
住民はおろか、党幹部、軍関係者やシュタージでさえ、西独のテレビを見ていたが、そのことを口にするのはタブーだった。
資本主義的堕落の傾向とみなされ、最悪、懲役刑が待っている可能性があったからだ。
また米国に関して言えば、ソ連の衛星国という事で敵国の宣伝煽動を防ぐ意味合いから、否定的な宣伝以外は回避された。
ソ連とは違い、一応、ロック音楽やジーンズなどは入ってきていたが、当局の意図に沿う形に修正されたものだった。
ソ連のようにボロ布で闇のジーンズを作ったり、レントゲン写真を削ってレコードの音を複製する様な事はしないで済んでいた。
それでも闇屋が横行し、西ベルリン経由でジーンズを輸入したり、教会でロック音楽のレコードを掛けたりしていた。
日本に関する報道が許されたのは、米独と違い、直接の対立関係になく、地理的に遠かったのも大きい。
また日本も敗戦国だったので、その戦後復興や発展ぶりが東独で参考にされた部分もある。
日本人自身も、容共人士を中心に東独を詣でて、共産主義的な教育方針などを視察し、教育現場の参考にしようとしたり、比較対象として研究が進んでいた面もあった。
そういう事もあって、ダウム少佐はすんなりと日本国内に入れたのだ。
無論、内務省や情報省は、この外人に対して何もしなかったわけではない。
密偵を仕立てて、密かに尾行することにしたのだ。
ダウムは、流れ出る汗を拭きながら言った。
半袖姿で、先ほど買ったばかりの扇子で扇いではいるが、暑くてたまらない様子だ。
「君の国は、フィンランドのサウナより酷いところなのだな」
ZDF(ドイツ第二放送)のアナウンサーより流暢なドイツ語が返ってきた。
30度近くだというのに、きっちりとパナマ帽と夏物の背広を着こなしている。
「無茶苦茶な事を言ってくれるな」
ネクタイこそ緩めてはいるが、上着を脱ぐそぶりすら見せない。
日本人は夏の暑さに慣れているというが、本当にそうなのだろう。
「確かに湿度は50パーセント以上あるが……」
「この時期には毎日、日射病で死者が出ていると新聞で報道されているそうじゃないか」
ダウムは、サングラス越しに目を細めた。
上野公園のアスファルトからの日光の照り返しは、比較的涼しい国であるドイツの国民にとって、強烈なものだった。
「極端な話さ」
明瞭なドイツ語で、彼の傍にいた日本人が答えた。
大通りを行き交う車や、道路の反対側にある商店街を見ている。
「建設作業者や運動部に入っている学生が日射病で倒れることはあるが、暑さだけで死ぬ事はないな。
何なら、ラムネでも奢ってやろうか。
ここが温帯であることを忘れるほどの爽やかさだ。
冷えたものなら、多分、米国製のスプライトよりもおいしいぞ」
「冗談じゃない」
その話を聞いて、ダウムは余計に暑さを感じた。
「ソーダ水を飲んだぐらいじゃ、体にまとわりつく湿気は消えない」
「蒸し暑いのは嫌か」
「ここは地獄の窯だ」
「じゃあ、なんで真夏の日本に来たんだ」
「血のつながらない娘が、嫁ぐかもしれない国を見たくなったのさ」
血のつながらない娘とは、アイリスディーナ嬢の事か。
確かに、この男とアイリスディーナ嬢の母とは再婚関係にはあるが……
諜報員、鎧衣左近は笑った。
どうやら男は、自分が誰かと知っていて、身分を隠さないらしい。
「君の使える主人は、あのおままごとを本気でやるつもりなのかね」
「いくら社会主義国だからと言って、国際結婚を禁止する法律はない」
「自由を取り締まる人間が言う言葉じゃないな」
鎧衣は、面白くなさそうに言った。
ダウムは、かすかに笑みを浮かべて返す。
「お互い様だろう」
「ああ、そんな所さ」
鎧衣は、マルボーロと使い捨てライターを差し出した。
ダウムは白と赤いソフトパックとライターを受け取ると、封を開け、タバコに火をつける。
「ところで、君に頼みたいのが……」
鎧衣は、唐突に言った。
「信用出来る人間にこれをみせて、確認を取ってほしい」
そういうと鎧衣はワイシャツの胸ポケットにあるシガレットケースを取り出した。
ケースを開けると、中に挟んである紙をダウムに差し出した。
「目的はなんだ」
鎧衣は、ダウムから受け取った紙を見ると訊ねた。
そこには、アクスマンの遺書が東京の日刊紙に掲載された三日後にソ連で報道されたと書かれていた。
「ゼオライマーに関する偽情報にKGBが絡んでいるか、どうかだ。
アクスマンという男は、君の職場の人間なんだろ……
大方、今回の新聞報道で困っているそうじゃないか」
「損な話じゃないな」
ダウムは扇子であおぐと、首をかしげて言った
「KGBと彼の交友関係か。
それとも彼が二重スパイに仕立てた西ドイツの関係者の事か。
記事を書いた人間は……」
「中堅新聞社の編集局員だ。
その新聞社は、表向きは反共主義を掲げているが……」
「平和のためのスカウトを受けた人間かもしれないな」
平和のためのスカウトとは、中央偵察局長官マックス・ヴォルフが好んで使った表現である。
西側の人間をスパイや協力者に仕立てることを、戦争を防ぐためであると自己弁護したのが始まりだった。
この言葉は、シュタージ内部ではスパイとしての勧誘を意味する隠語となった。
「これがシュタージのやり口か」
「KGB直伝の手法さ。
もっとも、今はミルケ長官の時代ではないから、あまり好まれないがね……」
手練れの工作員は、さも10年来の友人のようにシュタージ少佐に答えた。
「まあ、仕事の話はこれくらいにして、冷えたビールでも飲もうではないか」
ダウムは、顔つきだけをにこやかなものに戻して応じた。
「日本人が作ったビールは、飲んだことがないからな」
後書き
今回の話を書いていて20数年ぶりに酸性雨という言葉を使いました(苦笑)。
今は環境改善が進んだことと科学研究の発達で酸性雨の被害という物の実態が判明し、被害とされてきたものも違うとわかってきたので、ほとんど使われない言葉になってしまいました。
1990年代は盛んに言われていたのですがね……
ご感想お待ちしております。
夏日
前書き
いろいろ悩んだ結果、公務として日本に行かせることにしました。
ドイツの天気は、日本と違って暦通りの物ではない。
7月に摂氏30度に迫る好天が続いたかと思えば、8月には20度を切る日がある。
また南部と北部では気候が違い、ベルリンなどでは海風の影響が強く降雨量も多い。
ただし、それとて我らが住む日本のそれより湿度が低く、降雨量も少なかった。
地上の陰鬱な天気を別として、上空は常に澄み渡るような晴天だった。
鮮烈な青い色合いが迫ってくるような感覚に陥る。
「ブラウ1より、ブラウ10へ、しっかりとついて来い」
「了解!」
気密装甲兜のレシーバーから響いた編隊長の声に返答したアイリスディーナ・ベルンハルト少尉。
MIG-21のコックピットで居心地の悪そうに背中を動かす。
網膜投射に移る画像から、右前方を飛ぶ編隊長機を見る。
向こうからこっちは見えないはずなのに、一体どこから目を付けているのだろうか。
経験豊富な古参兵だからだろうか、それとも戦場を生き残ってきた素質だろうか。
彼女は、北方の守りを任せられた東独コットブス空軍基地で、一番若いMIG-23の衛士だった。
第1防空師団第1戦闘航空団に配属されて、まだ1年もたたない。
この半年間、気の抜けない日々の連続だった。
第1戦闘航空団に配属されるという事は、将来の展望が開けていると同意義だった。
しかしそれは、ソ連帰りの実戦経験者から手荒い訓練を受けることを意味していた。
アイリスディーナの訓練を受け持つ人々は、普段は優しく、酒が入れば率直な人間だ。
だがひとたび空に上がれば、それ以上の力で物事に対処し、躊躇なく彼女の欠点を指摘してきた。
アイリスディーナが訓練していた日は、大規模な実働演習の開始日だった。
東独軍では数年ぶりに行うもので、空軍司令官の視察も兼ねていた。
実はワルシャワ条約機構軍の間では、1970年代の後半に西方77という軍事演習を行うつもりだった。
だがBETA侵攻でそれも取りやめになり、東側諸国の軍隊の練度は低下した。
そこで東独軍は新たに友好国となった米国やポーランドとの間で軍事演習を2年おきに実施する事にした。
実際に部隊を動かす実働演習と、地図上で部隊を動かす図上演習である。
米軍との相互理解・信頼関係の強化を目的とした実働演習が始まるとコットブス空軍基地は緊張に包まれた。
アイリスディーナが勤務する第1防空師団の庁舎は、いつもよりも騒々しかった。
基地を行き交う兵士の数が多く、彼らの足取りは早かった。
実働演習のメインは部隊であるが、司令部の中もあわただしかった。
報告や決済に訪れる幕僚の数も多く、副官室の前に並んで待つほどだった。
その日の昼間、司令部庁舎の車寄せに黒塗りの高級車が止まった。
東ドイツの国産車・ヴァルトブルク311ではなく、ソ連製のジル114だった。
このソ連製の高級車を、東独の要人たちは、GAZのチャイカと共に好んで使った。
中から降りてきたのは、薄い水色のシャツに灰色のスラックスという略装の航空軍司令官。
この四角い眼鏡をかけた男は、国防副大臣の一人でもあった。
そしてもう一人の陸軍将官は、シュトラハヴィッツだった。
彼は、真夏というのにワイシャツ型の略装ではなく、杉綾織のジャケットに、乗馬ズボン。
灰色の姿は、まるで1940年のフランス戦でのドイツ軍のそれであり、国章以外は全く同じつくりであった。
二人の来訪で、基地の機能は完全に止まった。
司令部への報告や決済は後回しにされて、近くにいた将校はその対応に追われた。
わずか二人のVIPのために、師団司令部が混乱したのはなぜか
東独軍は、ソ連式の軍事ドクトリンを採用しており、そのすべてが上意下達型だ。
大隊、連隊規模では考えることはなく、ベルリンにある最高司令部の命令で動く。
その為、司令部要員の数も、司令部の規模も小さく、中隊長が大隊の幕僚を務めた。
また、訓練された下士官団は存在したが、それは西独軍に比して規模が小さかった。
そして、本家本元であるソ連赤軍では、下士官団が存在しなかった。
ゆえに、下級将校は西側でいうところの下士官の仕事をせねばならず、負担が大きかった。
ソ連赤軍や衛星国の軍隊では、下士官とは、あくまで志願兵やその類である。
特殊な技能を持つ兵士や、定期雇用の一つでしかなかった。
「総員、傾注!」
裂帛一声、その場にいた将兵は気を付けの姿勢をとる。
「同志副大臣並びに、同志将軍に敬礼!」
彼等は、壇上の上にいる人物に礼を行い、それを受けた副大臣は教本のような見事な返礼を送った。
男の名前は、ハインツ・ゾルン(1912~1993)。
彼はかつて第三帝国時代のドイツ空軍に将校として10年間勤務した後、ソ連軍の捕虜になった人物だった。
1949年までソ連に抑留され、反ファシスト学校での再教育後に、東独に戻った。
SEDの幹部となった後、兵営人民警察に入隊し、1956年に人民航空軍少将になった人物である。
だがゾルン少将の様な旧軍人は、SEDお気に入りの新将校と違い、手ひどい扱いを受けた
1957年2月15日のSED政治局の決定により、旧軍関係者は、段階的に退役させられることとなったのだ。
旧軍関係者を信用できない指導部は、段階的に彼等を退役させ、実戦経験のない人物に任せることとしたのだ。
この結果、軍上層部は、参謀経験のある老練な将校が払底し、党や指導部におべっかを使う人物であふれた。
またゾルンが追放されたのは、当時の国防相ヴィリー・シュトフとの不仲によるものだった。
兵卒上がりの大臣と、このエースパイロットはそりが合わなかったのだ。
だが今の議長は、退役させられていたゾルンを現役復帰させ、航空軍および防空軍の中核へ彼を送った。
議長は、この事によって、三軍全てを自分の派閥の人事で固めることとなったのだ。
基地の総員は、不意の来訪にもかかわらず、うまく対応して見せた。
アイロンのかかった制服に、磨き上げられた軍靴、それらを見せつける様なガチョウ足行進。
奇麗に塗装し直された戦術機や自走ロケット砲などを展示し、副大臣を満足させ、彼からの感謝の意を受け取った。
共産国の軍隊の常として、このような政治指導者への接待は、訓練よりも重要視されたのだ。
一連の儀式が終わった後、アイリスディーナは師団長室に呼び出された。
彼女の服装は、濃紺の強化装備から男物の戦闘服に着替えていた。
アイリスディーナが、男物の戎衣を着ているのには訳があった。
彼女の172センチの身長と、98センチという豊満すぎるバストサイズのためである。
婦人用野戦服では、肩幅や胸周りがきつく、腕が思うように上がらなかったのも大きかった。
また基地の将兵や関係者のほとんどが男性だったので、彼等からの好機の目を避ける意味合いもあったのだ。
しかしその服装は、本人の意思を別として、大変に目立つものであったのは間違いがなかった。
政治将校に会うたびに風紀面で気を付けてほしいと、くだらない話をされたものだった。
アイリスディーナが部屋に入るなり、上座のゾルン副大臣兼防空軍司令から声を掛けられた。
室内には師団長の他に、シュトラハヴィッツ中将が、何故かいた。
「同志ベルンハルト少尉、君の着陸は、墜落かね」
かつてのドイツ空軍パイロットからの言葉は、非常に厳しいものだった。
その声と姿勢は、ソ連での抑留生活や長い退役生活を感じさせない軍人のそれであった。
空軍司令官は言葉を切ると、ゲルベ・ゾルテの箱を開け、両切りタバコを口に咥える。
楕円状の紙巻煙草に火をつけると、甘い独特の香りが室内に広がった。
数分の沈黙ののち、司令官が再び口を開いた。
それまでかけていた型の古い四角いフレームの老眼鏡を、ゆっくりと机の上に置く。
その眉と眼差しの間に、ふと、音の発するような感情が露出していた。
「君は国家人民軍の宣誓を覚えているかね」
アイリスディーナは、老将軍の視線に見つめられ、俄然、おののきを覚えた。
明らかな狼狽えを表し、新兵特有のコチコチの態度になり、やや間をおいてから答えた。
ゾルンの声と態度に、ついつい士官学校で教え込まれた習慣が顔を出したのだ。
「宣誓!
私はドイツ民主共和国に忠誠を誓い、労農政府の命令に従い、常にいかなる敵から……」
「答えなくて良いぞ」
ゾルンは、空軍大将の声と態度で、アイリスディーナの声を遮った。
老将の声は、そこが第1防空師団長室ではないかのように、堂々と響いた。
「要するに、君は国家と軍に忠誠を誓っているという態度は本物だという事だろう」
「その通りであります、同志ゾルン大将。
このアイリスディーナ・ベルンハルト少尉が、絶対の自信をもって確約いたします」
「よろしい!
私は、第一航空戦闘団の同志たちに全幅の信頼を置いている」
ゾルン大将が沈黙する間、アイリスディーナに遅れて、オズヴァルド・カッツェ中尉が入ってきた。
彼は、病気療養中のハンニバル大尉の後任として、大隊長代理についていた。
「強行軍で済まないが、同志ベルンハルト、同志カッツェの二人には明日中に東京に飛んでもらう」
カッツェが入室した頃合いを見て、それまで黙っていたシュトラハヴィッツ中将が口を開く。
「同志カッツェ、ちょうどよいところに来た。
君には、同志ベルンハルトと共に東京サミットの随行員として参加してほしいと同志議長から下命があった。
これは東西融和の一環と思ってくれればいい。
また向こうの政威大将軍御自らが東独軍の英雄にお会いになりたいとご所望になられている」
東独軍のソ連派遣部隊である第1戦車軍団の評判の高さは、ワルシャワ条約機構だけではなかった。
砲弾やミサイルが少ない状況下で光線級を撃破し、航空爆撃を可能とした光線級吶喊を行った部隊の名前は広く知れ渡っていた。
「随行員として参加し、向こうのショーグンとお会いできるのは、大変この上ない名誉と心得ますが……
僭越ですが……本官が行ってどうにかなるのでしょうか」
カッツェは、恥じ入って言う。
「同志カッツェ中尉、実をいうとな、私も君の考えに賛成なのだ。
完熟訓練も終えていない衛士を、そのような国際会議の場に引っ張り出すのはふさわしくない」
アイリスディーナが、めずらしく不機嫌な顔をしているのが気が付いた。
だがシュトラハヴィッツは穏やかな口調で、この若い少尉を諭すことにした。
「私としては、心苦しいのだが、しかし日本政府の要請を断れば、今後の国際関係に傷をつけかねない事態になる。
東西融和を行い、友好関係を保つのも、また祖国のためになるのだ。
これも任務だと思ってほしい」
シュトラハヴィッツは、若い将校たちにこれまでの交渉経緯を詳らかにした。
この話の四日前、東独政府首脳に秘密裏に日本大使が接触した。
そこで対ソ宣伝煽動として、東独軍精鋭であった第40戦術機実験中隊の関係者の訪日を要請されたのだ。
だがシュトラハヴィッツは、衛士たちの機密保護という観点から、その提案を固辞した。
大使から再三の提案がなされたが、アーベルを通じて日本側に連絡し、その提案を下げさせた経緯があった。
そこで日本側は宣伝戦ではなく、将軍個人による引見を希望したという形をとることにした。
(引見とは、身分の高い人間が身分の低い人間と会う事を示す言葉である)
日本との関係拡大を願っているのは、東ドイツ側である。
すでに日本の大手ゼネコンによる東ベルリンの再開発や、合弁会社による半導体工場の建設などが決まっている。
もしここで日本側から資本を引き揚げられたら、困るのは東ドイツである。
将軍の鶴の一声で、合弁事業が中止になれば、日本からの技術導入が不可能になる。
合弁事業を進めている大規模集積回路以外にも、東ドイツが必要としている技術は多数ある。
小規模な基地局を経由する無線電話を始めとする高性能な通信機器や、最新鋭の自動車生産設備。
どれを一つとっても、今後の経済発展には必要なものばかりだ。
日本との友好関係は、長い目で見なければならない。
その為に、将軍からの無体ともいえる要求を受け入れざるを得なかった。
そこで、送り出しても一番実害の少ないアイリスディーナが、カッツェ中尉と共に選ばれたのだ。
彼等は、戦術機部隊のメンバーとして訪日することが、軍指導部によって決められた。
「そういう事情ならば、日本に行きます」
カッツェは微笑を浮かべ、返答した。
「このような機会がなければ、日本の首都を訪れるなど、二度とないかもしれません。
ましてや国家元首に会えるなど、望外の僥倖です。
カッツェ中尉以下、喜んでご招待に与ります」
「そう言ってくれると助かる」
後書き
ご感想お待ちしております。
ただし、19日中の返事は遅れます。
夏日 その2
前書き
ツポレフ134は、史実のホーネッカー来日の時に使用された機体です。
またシュタージは、第10飛行隊の名称で、ツポレフ134を2機所有していました。
その任務は、囚人護送用とハイジャック事件の訓練用です。
その機体の内の一機は、今はコットブスの博物館で展示されています。
もう一機は、アエロフロートに転売され、ロシア国内で飛行していました。
東独軍が、なぜ実戦部隊である戦術機隊にまで婦人兵を配備したのか。
それはソ連からの強い要請によるものと、1970年代の婦人解放の影響であった。
すでに東独軍は1950年代の兵営人民警察時代から少数の婦人兵を後方勤務要員として迎え入れていた。
プロイセン軍の伝統を色濃く残す東独軍が、軍への婦人参加を認めたのは、第三帝国時代の先例があったからだ。
通信や看護要員として、既に女性職員が存在していた影響もあって、専門職である下士官の女性への門戸開放が行われた。
1961年まで東独は、ワイマール共和国と同じように完全志願制の軍隊で、兵役が存在しなかった。
戦争の惨禍の記憶が人々に残ったことと、東独政府自身が経済発展を重視した為である。
また、駐留ソ連軍に安全保障を任せきりにした面もある。
ソ連の衛星国という地位に甘んじ、自主的な軍備を控えるという形で安全保障を放棄していたのだ。
その様な考えは、1961年のベルリンの壁建設で脆くも崩れ去ることとなる。
東独政府は、35万を有する西ドイツ軍に対抗すべく、選抜徴兵制の導入に舵を切った。
だが、住民の反発も強く、徴兵拒否で逮捕されたり実刑判決が出る事態が相次ぐと態度を一転し、徴兵忌避を認めることとなった。
徴兵忌避者は、兵役を回避する代わりに、建設兵と呼ばれる特殊な階級章を付け、土木作業や災害対応任務、援農などに回された。
ちなみに西ドイツでも同様に徴兵忌避が認められたが、彼等もまた人が嫌がる仕事を低賃金で行わされることとなった。
この徴兵忌避制度は、戦後ドイツ社会の一種のあだ花となり、2011年の徴兵制停止まで様々な形で乱用されることとなった。
東独政府が女性衛士の育成に乗り出したのは、ソ連での相次ぐ敗戦を見越しての事だった。
第二次大戦による大量の戦死と相次ぐ亡命により、もともと成年男子人口の少ない東独では、兵員数の確保は急務であった。
だが急速な経済発展と産業の維持を考えて、兵員数は10万人以下と内々に決められていた。
仮に西ドイツと同じように40万人ほどを動員すれば、1600万人の人口のこの国に与える経済的損失は大きかった。
東独軍は、一定数の士官や下士官を確保するために様々な特典を付与して、その維持に努めるほどだった。
その一例として、選抜徴兵ではなく予備士官の教育を受けた人間は大学に無試験で入学できたり、4年以上の勤務経験のある予備士官及び下士官は国営企業や関連団体に再就職先が確保されていた。
この様に各種の恩恵を与えていても、徴兵忌避者は毎年2000人以上と一定数出て、士官の数が足りなかった。
手塩にかけて育てたパイロットなども有能な人間から退役し、国営航空のインターフルークや民間に流れていく状況だった。
そういう事もあって東独軍は、最前線が中央アジアというドイツ本土から遠い段階であるにもかかわらず、婦人兵の試験的な実戦配備を決めたのだ。
ユルゲンの同僚、ツァリーツェ・ヴィークマンは、そうした人間の一人だった。
彼女は柔道と空手の有段者という事で体力もあり、なおかつ露語を巧みに使いこなす才媛である。
東独政府の意向や世論を背景にして、彼女の未来は約束されたようなものだった。
ゆくゆくは東独発の女性戦闘航空団長という下馬評も、内局あたりから聞こえてくるほどだった。
だが彼女は、24歳という若さで部隊から去り、大臣官房付けとなった。
予想外の妊娠とそれに伴う結婚によってである。
この事によって、東独軍は混乱を起こした。
予定していた軍における女性の活躍推進というシナリオが狂ってしまったのだ・
その様な時代の流れを否定するようなことを起こした、オズヴァルト・カッツェに対する上層部の怒りはすさまじかった。
一組の夫婦の誕生という個人的な問題は、カッツェの昇進見送りという政治的決着に落ち着いた。
上層部から疎まれ、出世の機会も当分ないと思われていたヴィークマンの夫に出張の話が来たのは今朝だった。
昨日、ポーランドからの演習が終わったばかりだというのに……
しかも場所はワルシャワやプラハではなく、極東だという。
指導部は何を考えているのだろうか……
疑問に思ったヴィークマンは、食事という機会を利用して自分の夫に問いただした。
「どうして部隊勤務の貴方が日本なんかに……」
ヴィークマンは、他人が聞いたらなんと無神経なと思われる言葉をかけた。
だが彼女は、カッツェがそういう物言いを好んでいることを知っている。
「今回の出張は判らないことばかりだ」
ジントニックに口を付けながら、カッツェは答えた。
「ただの戦術機乗りじゃない。
ああいう場所に出るのは、軍でももっと毛色の違った人でしょう」
「俺もそう思っていた」
カッツェは正直に答えた。
「嫌なの。
だったら……」
否定の言葉を口にしようとして止めた。
カッツェの表情が、まるで知り合いの葬式に行かざるを得ないような顔をしていたからだ。
ああ、断れない事情があるのね……
「とにかく行くだけ行って見るさ」
東ドイツの首脳は、東京サミットに向けて出発した。
機種は、イリューシン62が2機と、随伴機のツポレフ134が1機。
これは国営航空のインターフルークの持ち物で、BETA戦争前に購入した古い機種である。
とくにツポレフの方は航続距離が3000キロしかなかったので、日本に行くのは一苦労だった。
ソ連上空を経由し、シベリアにある空港を使えば、比較的安全に訪日できた。
だが、政治がそれを許さなかった。
東独の首脳一行は、中東経由の南回りで2日かけて、日本に向かう事となった。
随伴用のツポレフ134は、シュタージが保有する三機の航空機の一台であった。
シュタージはKGBやCIA同様に独自の航空隊を持ち、ツポレフ134を2機と、アントノフ24を1台保有していた。
実は軍用のツポレフ154があり、民間機登録もしてあったが、満載時の航続距離が134と同じなので取りやめとなったのだ。
東ベルリンのシェーネフェルト空港から、羽田までの道地は過酷なものであった。
イリューシン62の航続距離が1万キロだったので、途中ダマスカスとラングーンを経由せざるを得なかった。
(ラングーンは、今日のミャンマー連邦のヤンゴン)
東独人にとって南方の地であるシリアとビルマでの給油と機体整備は、不慣れなため半日以上かかった。
機外に降りた議長たちは、シリアやビルマでの臨時の首脳会談を行った。
給油のためとはいえ、足止めされた彼らは、向こうの政府関係者からの接待に応じないわけにはいかなかった。
それに外交問題に関して、今更ソ連に気兼ねする必要もなかったからだ。
今回のサミットへのオブザーバー参加は、元々東独の地位安定化のためである。
国連による世界各国間の調整機能がほとんど意味が失われた現在、頼るべき相手は西側しかなかったのも大きい。
シリアやビルマは社会主義政権ではあるが、ソ連や西側との間を上手く行き来し、援助を受け取っていた。
かの国の首脳にあって、その顰に倣おうとしていた面も否めなかった。
東独の経済的低迷は致命的なものだった。
BETA戦争の結果、頼みの綱であるソ連からあらゆる資源が入って来なくなり、工場群は停止した。
僅かばかりある褐炭を掘り起こして、電力需要を満たそうとしたが、それも輪番停電などをして工場に回すのが精いっぱい。
友邦諸国のチェコスロバキアやハンガリーは、原発の建設が終わっているが、分けるほどではない。
隣国ポーランドは、BETA戦争の影響で、国内のロジスティックが破綻している。
西ドイツに頼るにしても、難しかった。
シュタージが行ったテロ作戦や壁のせいで、西独の国民感情は最悪だった。
まさに八方ふさがりの状況だった。
それ故に、東独は日本を頼るしかなかったのだ。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
核飽和攻撃 その1
前書き
日本三大花火大会の一つである、土浦花火大会が台風で中止になりました。
その腹いせといっては何ですが、小説の中で花火大会をすることにしました。
ソ連が何故、巨額の資金を投じた東欧諸国を易々と見捨てたのか。
それは、ゼオライマーによる攻撃を恐れたに他ならない。
マサキが日米両政府に公開した木星と土星の核飽和攻撃は、秘密裏にKGBの手に渡っていた。
それを見たチェルネンコ議長は、木原マサキという人物の手によってソ連が核の炎で焼かれるのを恐れたのだ。
そこで、東欧諸国の反乱を放置して、独立させる代わりに、ソ連を守ろうと考えた。
30有余年前の大戦争を知る人物として、核戦争は何としても回避せざるを得ない。
彼らなりに、考えた末の結論だった。
東京サミットを翌日に迎えたこの日、中ソ国境のハンカ湖(支那名:興凱湖)東岸にある別荘にKGB指導部が集まっていた。
これは狩猟好きのブレジネフのために、KGBが立てたアムール虎狩り用の別荘であった。
なおソ連では1956年以降、虎狩りは国法で禁じられていた。
「しかし同志長官、驚きましたな。
東京サミットの座上で、東独のNATO参加を認めさせ、我々を満座の笑いものにしようとは。
全く腐った帝国主義者の走狗らしい卑劣なやり方です」
「黄色い猿をなめてはいかん」
KGB長官は露骨に不快の色を示した。
「我々は、木原という日本野郎に何度も煮え湯を飲まされてきた。
今度の東独議長訪問は単なる偽装にしかすぎん」
「木原とゼオライマーの、次の動きの兆候はないか」
「今の所はございません。
ですが気になることがございます」
「どうした」
「実は……その個人的な情報源から得たのですが……」
「では話したまえ」
「実は、シベリア開発に参加していた八楠社長の会社が事件に遭い、彼が殺されたのをご存じですね」
「不幸な事件だった」
「その事件の現場近くで、木原を見たという話が持ち込まれたのです」
「すると銃撃事件は、木原が関係していると」
「或いは関係ないのかもしれませんが……」
「例のロケット発射は、いつかね」
「来週になるかと……」
「特別部に手配して、明日のサミットにぶつけるように指示したまえ」
「木原の関心を大野と穂積に向けているときに、ロケットを飛ばせ」
「彼らは、KGBの有益な情報源です。
見捨てろというのですか……」
「役に立つ馬鹿はいつでも補充出来る。
だが我等の秘密作戦が日本側に露見した事実の方が危険だ。
我らが進めている新計画が白日の下にさらされてみろ……」
「それこそ、ESP兵士の時と違って、世界各国から非難を浴びる。
穂積の件は、彼もろともその計画は廃棄する」
「どうせ、アンドロポフの手垢のついた工作だ。
代が私に代わった今、そんな危険な作戦は必要なくなった」
「そうよのう、穂積にはサミット会場で死んでもらうことにしよう。
そうすれば日本側は警備面の失敗で、国際的な信用を失う」
「すぐに腕の立つ人物を用意しなさい」
ソ連はこれまでの外交上の失点を取り戻すべく、二つの作戦を行うことにした。
一つは、東欧諸国の独立を認めることで、欧州の警戒を和らげる政策である。
この政策の真の目的は、欧州に置いた通常戦力を極東に移動し、日米との決戦に備えるための準備だった。
二つ目は、月面への核飽和攻撃の実施である。
米国に先んじて、ハイヴを制圧し、G元素をソ連の手中に収めるという物である。
ソ連は、G元素爆弾の威力を畏れ、この新兵器を一日も早く実用化したかったのだ。
G7各国が東京サミットの交渉の準備をしていた頃。
ソ連は月面に向けて、大規模な宇宙艦隊を発進させていた。
世界第二位を誇る宇宙艦隊は、実に錚々たるものであった。
装甲駆逐艦22隻、装甲ミサイル巡洋艦30隻。
装甲駆逐艦という名前だが、実際は60メートルほどの大型シャトルである。
152ミリのD-20榴弾砲を2門装備し、核砲弾を1分間に6発発射可能であった。
装甲ミサイル艦は、エネルギアロケットに開閉式のミサイルランチャーを搭載した宇宙船である。
ソ連独自の武装で、40門のミサイルランチャーから9K33ミサイルを発射可能。
BETA戦争の為、30隻ほどで配備が終了したが、計画では120隻を作る予定であった。
その他に、戦術機や貨物を輸送するスペースシャトル・ブラン、24隻。
白い色をしており、スペースシャトル・オービタに酷似した形をしている。
スペースシャトル・ブランに関して、ご存じではない読者も多いであろう。
ここで著者からの、簡単な説明を許されたい。
ブランは、旧ソ連が国家の威信をかけて開発した再利用型宇宙船である。
スペースシャトルと同じ形から、ソ連のスペースシャトルとも称された。
だが、構造は似て非なるものだった。
米国のスペースシャトル・オービターと違い、燃料タンクを内部に搭載していなかった。
メインブースターがないため、自立飛行こそ出来なかったものの、誘爆事故を未然に防げた。
その為、外部ロケットを切り離した後は、姿勢制御エンジンなどを用いて自力で帰還するしかなかった。
また相違点として、操縦席に、射出座席を搭載していた。
非常時には、機内から脱出できる。
米国の宇宙船よりソ連の宇宙船の方が非常に高い安全性を備えていたのだ。
ブランは、我々の世界で紙上の計画で終わった幻の機体である。
試験機を含め、3機ほど作られたが、終ぞ宇宙に行くことなく終わってしまった。
だが、この異世界では、米ソの宇宙開発競争で、すでに実用化されていた。
ソ連宇宙艦隊の旗艦「ヤロスラブリ」
その艦内で、宇宙艦隊の幕僚たちが密議を凝らしていた。
「同志諸君、ワシントンにいるGRU工作員の話によれば、今、米国で兵士100名を訓練中だ。
その他に英国でNATO諸国の精鋭30名の選抜試験が行われている……」
「今回の東京サミットに合わせ、花火大会をすると同志議長がお申し出になられたのは、日米への牽制だ。
日本野郎が驚いているの間に、わがソ連の精鋭で月面降下を成功させる」
「まず手始めとして、核を搭載したS300によって月面の地表を爆撃した後、落下傘降下をする。
損害を考えて、囚人懲罰大隊を使う予定だ」
ロシアは長い歴史の中で囚人兵というのは一般的であった。
その起源は、300年に及ぶ蒙古の軛に由来するものである。
12世紀に蒙古高原より打って出たジンギスカン。
彼の軍勢は、国から国を渡り歩き、殺戮と略奪を繰り返してきた。
その尖兵となったのは、征服した国々の捕囚であった。
竹崎季長などの九州武士の活躍で、有名な文永の役と弘安の役の際も、主力部隊は捕囚だった。
日本征服をけしかけた高麗ばかりではなく、蒙古に滅ぼされた南宋の兵士も多かった。
蒙古により国家の基礎を作ったロシア国家もまた、同様に囚人を重要視した。
囚人や捕虜を集めて、労働力や外国との戦争の『大砲の肉』にしたのだ。
30隻のミサイル巡洋艦から、一斉に1200発の9K33ミサイルが発射される。
そのすべてが特殊改造をされた核搭載型だった。
数秒後、夜空に最初の爆発が起こる。
暗い月面を連続した閃光で照らした。
30万を超えるBETAの大群は、閃光と共に弾き飛ばされ、続いてその周囲にある様々なものが蒸発する。
爆風や熱は、10万体以上のBETAを即死させた。
装甲駆逐艦22隻に搭載された152ミリ砲が、一斉に砲門を開く。
2.5キロトンの威力がある152ミリ核砲弾44発が、月に向かって斉射された。
(参考までに言えば、広島に投下された「リトル・ボーイ」の核出力は15キロトンと推測されている)
最初に核攻撃の洗礼を浴びたのは、月の静かの海である。
史実のこの場所は、アポロ計画によって、人類が初めて月面着陸をした場所であった。
だが今は、ルナ・ゼロ・ハイヴがそそり立つ化け物の巣だった。
44発の砲弾の内、確実に爆発したのは38発だった。
かつての国連月面基地に、直撃弾が落ちる。
この基地では、3年間の月面防衛戦で数百名の隊員が戦死し、大きな墓標となっていた。
月面に閃光が煌めいた。
次の瞬間、静かの海にあった月面基地の一部は蒸発し、鉄骨を残して、BETAもろとも吹き飛ぶ。
衝撃波によって爆心地に生じた一時的な真空状態。
間もなく、きのこの形をした独特の爆炎が上がる。
この世の終わりのような光景。
それでも関わらず、ソ連艦隊は続けて、1200発の核ミサイルを再度発射する。
ミサイルの作動は85パーセントだったが、月面の敵を一掃することはできた。
米軍基地は跡形もなく消え去り、爆風が吹きすさぶ。
月面攻撃隊司令は口元をゆがめる。
攻撃の効果は完璧だ。
あれほど恐れられていた100万のBETAは、ものの5分で消え去った。
ただ気になるのは光線級の存在だ。
だがどれほど偵察をしても、その存在は認められない。
ルナゼロハイヴの方面に逃げだしているBETAの生き残りにも、それらしき影はなかった。
男は、口つきタバコのカズベックを取り出すと、火をつける。
とりあえず、あとは、G元素の確保だけだ。
戦術機に乗った囚人兵300名をハイヴの中に送り込ませるという簡単な仕事だ。
男は紫煙を吐き出すと、安心したかのように不敵の笑みを浮かべるのだった。
後書き
ご感想お待ちしております。
明日3日には久しぶりに休日投稿しようと思います。
核飽和攻撃 その2
前書き
花火大会の結末。
ソ連艦隊の旗艦、ヤロスラヴリ。
その艦内では、攻撃の中核を担う戦術機部隊の会合が開かれようとしていた。
「総員集合!」
中隊長の掛け声の元、300名の特別攻撃隊隊員が一斉に整列する。
皆が真新しいM69野戦服を着ているが、軍人のそれには見えなかった。
北ベトナム製の、粗悪な縫製の制服というのもあろう。
染料の問題で、上着とズボンは著しく色が違く、迷彩効果はほとんどなかった。
「ずいぶん無理をして、編成したようだな」
カザフ帰りの中隊長は言った。
ロシア人らしくほぼ無表情のまま、兵士たちを見つめる。
「ええ」
アルメニア人の伍長は、表情を崩さずに答えた。
彼が対面している兵士は、恐るべき第7親衛空挺師団の兵士とはどうしても思えなかった。
ロシア人だけあって体格は大きいが、表情はあきらかに子供だった。
男は、着古しの勤務服の腰ポケットからマルボーロを取り出すと、火をつけた。
ハンガリー動乱とチェコ事件を制圧した、あの第7親衛空挺師団でも、この体たらく。
もし日本野郎と戦争になったら、確実に負けるであろう。
ソ連政府がG元素という物に固執するのも分かる気がした。
ソ連赤軍の内、精鋭は激戦が伝えられたカザフに送り込まれ、空挺師団からも少ない数が出された。
その多くはカザフに行って、二度と帰ってこなかった。
その欠員を埋めたのは、少年団員や動員された学徒兵だった。
「前進せよ!」
力強い命令と共に、300名の特別攻撃隊は一斉に動き始めた。
月面の平原にある静かの海を、20台の月面探査車が進む。
車に跨乗する特別攻撃隊の隊員は、海鷲と呼ばれる宇宙服を身に着けていた。
この船外活動ユニットを兼ねた宇宙服は、既製品でも、基本的に体に合わせた装備である。
重さ100キロに達し、地上の6分の一の月面でも歩行は非常に労力のいる服だった。
宇宙服の他に、RPK軽機関銃と500発の弾薬、その他にRPG7などの対戦車砲を個人装備としてつけていた。
ハーディマンなどの強化外骨格も検討されたが、武器弾薬を多く運ぶ都合上、除外された。
静寂に包まれた月面を、100の機影が北に向かっている。
彼らが目指すのは、アポロ計画で月面着陸をした静かの海の近くにある大空洞だ。
ソ連赤軍の灰色の塗装をしたバラライカは、10機ずつ、2列の単縦陣を組み、57ミリの支援突撃砲を持った10機F4Rが戦闘を進み、傘型の陣形を組んでいる。
その後方から、新型のMIG-23が、ゆっくりとした速度で部隊を追いかける。
この新型機は、ミグ設計局で作られた試作機で、KGBとスペツナズ向けに特別配備されたものである。
「中隊長、敵はどうですか。
自分は、まだ心構えが……」
副官を務める少年団員の一人が、不安げな表情のまま、中隊長の男に訊ねた。
男は、網膜投射に映る少年兵の方に力ない瞳を向けながら、答えた。
「大丈夫、すぐに慣れるさ」
「はあ……」
少年兵はいささか力の抜けた返事を返した。
「すぐに慣れるさ……」
間もなく彼らは、例の大空洞に近づいた。
ここはルナ・ゼロ・ハイヴの構造物があったところで、事前の砲爆撃で構造物の8割が吹き飛んでいた。
前方には火焔煙や巻き上げられた土埃がわだかまっている。
炎の下は視認できず、何が起きたかわからない。
だが、これまで得られた対BETA戦での戦訓から、はっきりした事がある。
地獄さながらの砲爆撃を浴びても、それだけで敵が壊滅するという事はない事だ。
殊に、BETAは頑強であり、地中に隠れる術に長けている。
ソ連は、中央アジアで血みどろの撤退戦を経験したことがある為、BETAのしぶとさはよく理解している。
不意に前方の丘から土煙が上がった。
丘やクレーターの窪みの中から、多数のBETAが出現した。
その多くは戦車級だが、要塞級や、突撃級が相当数混じっている。
それらが、足を駆り、体を揺すって、土煙を上げ、全速で突進してくる。
距離は近い。
先頭のF4Rと要塞級の距離は、すでに1000メートルを切っている。
「全車、停止!」
この直前まで移動していた戦術機の部隊は停止した。
突っ込んでくる戦車級や突撃級に、57ミリ支援突撃砲の標準を合わせる。
バラライカの20ミリ突撃砲が、突っ込んでくるBETAに狙いを定める。
「火線を開け!」
「撃て!」
号令と共に、各機のパイロットが引き金を引く。
57ミリ砲の砲口に閃光がほとばしり、強烈な砲声が大地を響かせる。
月面探検車に、跨乗する特別攻撃隊員の全身に衝撃が走る。
外れた弾は地面をえぐり、殷々とした砲声が木霊する。
57ミリ弾の直撃を食らった要塞級は、血しぶきを上げて、爆砕された。
F4Rには、土埃と共に、BETAの血煙がパアっと吹きかかる。
少年団の兵士が水平噴射跳躍で急速にBETAの上空に飛び上がる。
光線級の姿が見えないことから、存在しないと過信したための行動であった。
105ミリ砲弾を雨霰とBETAの大群に浴びせかけ、BETAの進撃を足止めしようとする。
ナパームを食らって火だるまになる要塞級を無視するかの如く、突撃級は遮二無二にソ連軍に迫る。
BETAは、爆砕されても、叩かれても、距離を詰めてくる。
どちらが優勢なのか、少年兵にはわからない。
突然、大空洞の中から火線が上がった。
閃光が闇を切り裂いて、空中に駆け上がり、爆音が轟く。
「ま、まさか光線級!」
空洞から姿を現したそれは、巨大だった。
パッと見たところ、要塞級の倍ほどの大きさがあり、三本の突起からは高速でレーザーを発射してくる。
チャージ時間は、見たところ、1秒もない。
中隊長の男は、乗機のバラライカを岩陰に移し、機内にある敵識別のカタログを取る。
太ももの上で、カタログを広げると、急いで目の前のBETAを確認した。
その本は、ブルジョア似非科学者の木原が、ハイヴを攻略した際に撮影したデータを基にした本である。
日本野郎が作った物をKGBが盗み出し、露語に翻訳したカタログではあるが、正確だった。
目の前の敵の事を探したが、どこにも載っていない。
「こいつは、新種だ!」
男の態度は、少年兵たちに絶望感を抱かせてた。
数台の戦術機が機首を後方に向けると、跳躍した。
一本の光線がバラライカに照射される。
閃光が通り抜けた直後、機体に火焔が起こった。
炎が広がった瞬間、爆音が響き、火の粉が飛び散る。
「馬鹿野郎!なんてことしやがる」
男は大音声で叫んだ!
「総員!転進」
こうなった以上、軌道上にある駆逐艦から核ミサイルを撃ち込んでもらう以外方法はない。
火器を動員して、この場から切り抜けるだけだ。
「中隊各機へ、ありったけの弾をくれてやれ。
緊急避難先に転進だ。以上」
「了解。これより転進を開始する。以上」
各機から一斉に返事が返ってくる。
それぞれの機関砲から、火山弾のように砲火をまき散らしながら、中隊は反転した。
後退する機体に対して、巨大なBETAは水兵射撃をして来た。
撤退中の何機かはレーザーの直撃を食らい、松明の様に燃え上がる。
続いて、57ミリ砲を持ったF4Rに爆発光が走り、火災によって暗闇の中にその姿を浮かび上がらせる。
「全機!出力最大で逃げろ」
各機が機体の出力を上げ始めた瞬間、前方から新たな大型BETAが突っ込んできた。
突撃級に砲身の様なものを付けたもので、堅い物体で出来た弾の様なものを飛ばして来る。
男が目を大きく見開いた瞬間、これまでにない衝撃が機体を襲う。
男は意識を失う直前、微笑を浮かべた。
1人の防人として、せめて戦場の中で華々しく散りたい。
これで、あの世で待つ息子と妻に顔向けできる。
次の瞬間、その五体はバラライカの管制ユニットと共に爆砕され、炎に焼き尽くされた。
中隊長の機体が燃え盛るころ、生き残った部隊は必死の行動に出た。
戦闘で損傷した機体が盾になって、無事な戦術機を脱出させようと抵抗を続けた。
砲撃の間隙を縫って、数台のバラライカがMIG-23を庇う様に駆け抜けていく。
それを見送った機体は、自爆装置を起動させる準備をした。
この新型のBETAもろとも、小型核の爆薬で吹き飛ばせば、仲間は逃げられる。
機体を操縦するアルメニア人の伍長は、腰にある雑嚢から折れ曲がった紙巻煙草を取り出す。
もしもの時にとっておいたフィルター付きタバコで、銘柄はウィンストンだった。
伍長は戦闘の間我慢していたタバコを咥えると、火をつけた。
最期の一服とはこんなものかと考えながら、核ミサイルの点火装置に指を置く。
残存したバラライカは、急いでエネルギアロケットに乗り込むと、月面を後にする。
その直後、大平原の静かの海は、核の火焔によって赤々と照らされ、真昼のように明るくなった。
上空では、待機していたロケット部隊や駆逐艦が一気に戦域から離脱し始めた。
こうして、ソ連の特別攻撃隊は、MIG-23と数機のバラライカを残して、全滅した。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
苦境 その1
前書き
今日はベルリンの壁崩壊から35年だそうです。
時間が経つのが早いですね……
場面は変わって、日本帝国の首都、京都。
再び視点は、マサキ達の所に戻る。
マサキは、ミラから米国の現大統領に関して、詳しく話を伺っていた。
今回のサミットで、米国大統領の協力を得るためである。
マサキは、この異界では日本以外の殆どの政治家がそのままだったので、てっきり大統領は史実通りと思っていた。
だが、英国王が、史実通りの女王ではなく、老境を迎えた男の国王であったように……
王冠を賭けた恋――年上の米人・シンプソン夫人との色恋沙汰――で退位したはずのエドワード8世が、長らく王位にあったのだ。
だから、史実通りの第38代大統領ではなく、見たことも聞いたこともない男であることには、正直驚きは隠せなかった。
ハリー・オラックリンが、どういう人物かは、新聞雑誌ですでに下調べはしてある。
だが人情として、米人のミラの口から、その人となりを、聞いてみたくなったのだ。
「戦争中に海軍にいたのは判った。
だが、それがなんで日本に不利なんだ?
あのケネディも、ニクソンも、フォードも海軍将校だが……
建前として、個人的な憎しみと国家的な利益ぐらいは分けていたぞ」
マサキはあきれて答えた。
自分が知る米人というのは、もう少し分別が付く人種だと思っていたが……
「オラックリンは、海軍のアベンジャー雷撃機乗りなの。
1944年のマリアナ沖で対空砲で撃墜されて、フカのいる海を16時間泳いでいたところを潜水艦に救助された。
九死に一生を得る経験の持ち主なのよ」
ミラは含みのある笑いを浮かべて、マサキの方を向く。
いろいろ言うが、彼女の本心は、この東洋人が何を知りたかったのか、考えていたのだ。
「不幸な偶然の積み重ねだな……、むしろ生きて帰ってきただけラッキーか」
まだ納得しきれていないマサキは、眉をひそめて尋ねた。
「どっちにしても面倒くさいことに巻き込まれるのか」
マサキは米軍の月面攻略が始まる前に、先んじて火星のハイヴを破壊することにした。
だが彼の動向は、政府内に潜入したGRUやKGBのスパイによって漏洩し続けているのは確かだった。
そこで、ある一計を思いつく。
既に篁とミラが完成させていった月のローズセラヴィをグレートゼオライマーの代わりに火星に派遣するという案である。
だが、パイロットがいない。
生体認証で動く八卦衆のクローン人間もいないし、マサキ自身もソ連を欺く為に国内に居なくてはいけない。
代理のパイロットに篁や巖谷を乗せるほど、彼らを信頼したわけでもない。
ではどうするのか。
ローズセラヴィーのパイロットだった葎をそっくりそのままコピーすればいい。
そういう事で、マサキは大急ぎで、予備パイロットを作ることにしたのだ。
アンドロイドをくみ上げながら、マサキはこれまでの日ソ関係を振り返ってきていた。
ソ連は、ロシアという国は交渉を通じて、幾度となく日本をだましぬいてきた。
それは幕末、明治、戦前ばかりではない。
戦後の国際社会復帰以降も、ソ連は様々な手を用いて、日本を騙し抜き、欺いてきたではないか。
この異世界にはソ連の対日参戦がなく、北方領土問題は存在しない。
だが、より元の世界より悪質で凶暴な人間だ。
何も、してこないはずがない。
思えば、戦後の領土返還交渉はボタンの掛け違えから始まった。
鳩山一郎ら日本代表団がソ連に入った時、ハンガリーで大規模な蜂起があった。
当時のフルシチョフはデタントを進めるために、どうしても日本との国交回復が重要だった。
またソ連大使館がないために、スパイ活動が不十分だったのもKGBやGRUにとって不満だったらしい。
あの時、日本側はソ連にいた抑留者の返還のために焦ってしまったが……
もし、目先の問題を脇に置いて、代表団一行が帰国していたらどうだったのだろうか。
フルシチョフは空港まで駆け寄って、日本代表団を引き留めていただろう。
北方領土も、のど元にあるハンガリーとは違い、辺鄙な田舎で、維持にも金がかかる場所である。
恐らく諦めて、帰したであろう。
そのことは19世紀に英国の進出を恐れて、アラスカをはした金で米国に売却した故事を思い起こせば、在りうる。
ロシアは相手国を混乱させるために、自国の領土を切り売りすることがあるのだ。
赤色革命真っ只中の1920年代初頭、シベリア出兵をしていた連合国を引き裂くためにカムチャッカの売却交渉を始めったではないか。
結局物別れに終わったが、この作戦のために日米は不信感をいだくようになり、シベリア出兵自体が空中分解したではないか。
一旦、手の動きを止めて、机の上にあるホープの箱からタバコを取り出す。
紫煙を燻らせながら、もう一度考えを整理する。
あの諦めの悪いロシア人の事だ。
恐らく、東ドイツと東欧諸国の間にくさびを打ち込むことを忘れまい。
西ドイツと東ドイツの合邦の阻害になるようなことを打ち出してこよう。
例えば、ソ連の占領下でドイツ領だったカリーニングラードをポーランドに渡す。
その代わりに、ポーランドがダンツィヒを東ドイツに割譲するという案である。
ソ連にとっては一石二鳥の名案だ。
維持費のかかるカリーニングラードを高値で売却することが出来、ドイツ・ポーランド間に長い憎しみの目を撒く事ともなる。
ポーランドは、この案を受ければ、長年の悲願だった東プロイツェンを取り戻す。
だが一方、ダンツィヒを再びドイツに割譲することになる。
東ドイツにしても、ドイツ民族の宿願であるダンツィヒ問題を解決する。
その代わりに、父祖の地である東プロイセンを諦めざるを得ない。
大所高所の視点に立てば、カリーニングラードのポーランド割譲は受け入れるべきである。
元の世界であったように、いずれEUの権益がバルト海を覆うようになったとき、カリーニングラードの問題は欧州統合の足かせになる。
バルチック艦隊の拠点は、NATOの脅威となる。
数百年にわたり、血みどろの戦争を続けてきたドイツ・ポーランド国民にとって、カリーニングラードの問題は簡単ではないかもしれない。
だが、現代の蒙古の版図を受け継ぐ赤色帝国、ソ連の脅威を前にして、その様な小異は捨て去るべきではないか。
思えばEUもNATOも反ソ、反露の理念があってこそ、成り立つ同盟。
今、極東が平穏無事なのは、中共も反ソで日米と妥協しているからではないか。
米国が、中共の東トルキスタンとチベット併合を黙認したのは、ソ連の脅威を減らす節があったのではないか。
無論、1950年代の国務省内部には多数の容共人士がいた影響もある。
あの悪名高い容共の支那学者、オーウェン・ラティモアなどは、アルジャー・ヒスと違い、刑務所にすらいかず、米国政府の職を退いた後、英米の大学教授の職を渡り歩き、悠々自適の生活を送ったではないか。
あのラティモアのせいで、日本は先の日支事変で苦しめられた事か。
ラティモアも、ヒスも元をたどれば、太平洋問題調査会という伏魔殿の出身。
あの伏魔殿を支援したのは、米国有数の石油企業……
1944年以前の歴史が同じ世界ならば……
いや、ミュンヘンオリンピックが開催された1972年まで同じか……
どちらでもよいが、いずれは米国の裏にいる真の敵と戦わざるをえまい。
第一次、第二次大戦を引き起こし、戦後の冷戦構造を作り上げた闇の紳士たち。
前世で冥王計画などという自分のクローン人間同士を戦わせるという人形遊びに逃げた自分を叱りたいものだ。
今生によみがえったからには、やはり世界征服こそ実現せねばなるまい。
一旦マサキは、深い沈潜の底から意識を呼び戻す。
そして、己の心を静めるかのように、紫煙を燻らすのであった。
夕刻、マサキは総理夫妻主催晩餐会が開かれている赤坂の迎賓館に来ていた。
この場所は紀州藩の赤坂屋敷があったを政府が接収し、洋風の建造物を建てたものである。
1867年以降の歴史が全く違うとはいえ、同様の建物が赤坂に立っているという事実に何かしらの因縁を感じた。
空想作品でいうところの、因果律や歴史の修正などが起きているのではないか。
だとすれば、後に起きるバブル崩壊や1997年のアジア通貨危機も避けられないのだろうか……
金モールのついた礼装をまとい、華やかな雰囲気の中にいるのにもかかわらず、マサキの気分は暗かった。
所詮、どうあがいても、今の俺のしていることは蟷螂之斧。
准尉官という、一下級将校に出来ることは、限られてくる。
懇意にしている榊などに金を出して、派閥などの政策グループを立ち上げるにしても時間がかかる。
かといって、この国を暴力でのっとったところで正当性には欠けるだろう。
やはり、鉄鋼龍を作った時と同じ時間をかけるしかないのか・・・・・・
マサキは、失意のどん底のように落とされたかの如く、鬱々としていた。
マサキの想いをよそに、晩餐会は華やかに進んだ。
通例ならば、豪勢なフランス料理と共にワインが供されるのだが、和食に日本酒だった。
外交の場で供される料理は、それそのものが極めて政治的である。
相手国が自国をどう評価しているかの目安になり、メニューにメッセージや皮肉が込められることもある。
その事から、しばしば饗宴外交とも称され、政治的駆け引きに利用されることすら、ままあった。
首脳たちは不慣れな箸を使いながら、風変わりなディナーに舌鼓を打った。
宴もたけなわの頃、イタリア首相から昨今の欧州経済に関する話題が上がった。
特に問題視をされたのは、西ドイツの急速なインフレーションだった。
表面上、西ドイツは、世界第3位の国内総生産を誇っている。
だが、BETA戦争の影響で、ソ連からの地下資源の供給が低下し、燃料費の高騰に苦しんでいる。
(1993年以降、GNPに代わり、海外からの純利益を取得した物を付け加えたGDPが経済指標として用いられている。
この作品は1970年代から1980年初頭をを話題にしているので、GNPという言葉を使う事とする)
電気代などは1973年に比して、6倍から10倍に上がった。
冬場に限っても、一月1000マルクほどまで高騰を続けている。
(1980年の西ドイツマルク=日本円 1西ドイツマルク=295円)
これまでは夏だったのでガス需要が抑制されていたため、危機的な状況には陥ってはいない。
しかし、割高であっても背に腹は変えられず、エネルギー確保を優先した。
そのため、物価高が西ドイツ国内に広がったのだ。
ソ連の石油を格安で手に入れて経済発展をしてきたのは、東独ばかりではなく、西独も同じである。
格安の資源を買い、それを使って、第三国に自動車を輸出し、利益を得る。
この様な経済発展のモデルは早々に破綻する、という見解であった。
その他にも問題視されたのは、東欧諸国の動向である。
ソ連との対立による危機や経済制裁解除後の貿易再開による消費活動の活発化も、西ドイツの負担になった。
主力の自動車産業も燃料費の高騰から、生産量の縮小を視野に入れた政府からの要求が出たばかり。
燃料費の高騰は、物価高にも派生し、住民は非常な生活苦に陥っているという。
西ドイツの急速なGNPの拡大は、物価高に起因するものだったのか。
どうやら東西問わず、BETA戦争後の欧州の経済状態は深刻なようだ。
議長の傍に近侍していたアイリスディーナは、事の重大さを改めて知った。
自分の祖国である東ドイツが生き残るには、日本や米国に頼らざるを得ない。
この様な現実に直面して、内心の驚きを隠せなかった。
彼女は、今までサミットの場に随行員として参加することに不満を覚えていた。
なぜ各国の内政報告という無意味な議論をする場に、制服を着た人間を引っ張り出すのか。
自分たちに命令を出す指導者たちの知性に、疑問をいだかざるを得ない。
兄がこの場に居たら、そう言っただろう……
女の身空でもそう思うのだから、空軍大尉という一廉の職責にある兄は大変だろう。
自分は最悪結婚して軍から離れればいいが、妻と乳飲み子を抱えた兄はそうはいくまい……
軍隊という中にいたから、こういう現実の世界が見えなかったのを恥ずかしく思った。
木原さんは、きっと自分以上に厳しい立場に置かれてるんだろうな……
そう思って、会場内に目をやると端の方に座っているマサキのことが目に止まった。
何やら、数人の人物が彼の周りに来て話し合いをしている様子だった。
声を掛けに行こうと思えば行けないこともないが、彼に迷惑をかけるだけだろう。
あくまで自分との関係は、秘密の関係なのだ。
いくら政府や首脳が日独関係の融和や親善を叫んでも、世間はそうは見てくれない。
事情を知らない人間からすれば、邪な意図をもって近づいたように見えるはずだ。
木原マサキという人間は、世間の評判とは別に優しい男なのに……
みんなは、彼の事を誤解しているのではないか。
何時も不敵の笑みを浮かべる鉄面皮の悪漢で、何か陰謀を企んでいるのだと。
けっして、そんな事ばかりを思っている人ではないのに……
心からそう思った。
しかしどうすれば、他人が本当のマサキの事を理解してくれるのだろうか。
目の前に紗がかかった様な感覚に、頭が霞んでいく。
驚きと興奮が混ざったような、不思議な感覚だった。
吐息が荒くなり、胸がどきどきしてくる。
そんな気持ちが落ち着くのを、アイリスディーナは、じっと待つことにした。
同じように議長に近侍していたシュトラハヴィッツ中将は、経済問題に退屈を感じていた。
煙草盆から両切りのピースを取ると、火をつける。
紫煙を燻らせた彼は、目だけを動かし、アイリスディーナの方を向く。
ユルゲンの若い妹は、やや俯き、頬を赤く染めている。
その変化に気が付いたシュトラハヴィッツは、ある一計を思い浮かべる。
この際、淡い気持ちを抱く相手に引き合わせてやるのもいいだろう。
そう考えると行動は早かった。
室内礼装の胸ポケットから、メモとペンを取り出すと何やら書いた。
立ち上がって、議長の脇から走り書きを見せる。
議長は、後ろを振り向かずに右手を振った。
このハンドサインは、自由にしてよいという許可だ。
マサキの席にいたのは、彩峰の他に、2名の高級将校だった。
東京からほど近い場所にある土浦海軍航空隊と、朝霞にある陸軍基地の司令。
それぞれ中将で、海軍予科練航空隊長と陸軍予科士官学校長だった。
彩峰はおろか、さしもの美久も緊張しているようだった。
思わず、マサキはため息をついた。
己の作った推論型AIの学習機能の素晴らしさに、感嘆のため息をついたのである。
愚にも付かぬことを考えていても、仕方があるまい。
煙草盆にある白いフィルター付きタバコを取る。
これは来賓用に用意された恩賜のタバコである。
純国産のタバコ葉で、何時も吸っているホープと違い風味も何もない素朴な味付けの紙巻タバコだった。
しかも湿度管理が甘くて、大抵の場合乾燥しきっており、非常に辛くきつい煙草だった。
煙草に火を付けようとした瞬間、向こうから灰色の制服に濃紺のズボンを着た一群が来るのを認めた。
それは彼にとって見慣れた両前合わせの東独軍の室内礼装だった。
後書き
私事で申し訳ないのですが、来週16日は連載を休載させていただきます。
どうしても外せない用事があり、満足する内容を執筆する時間が取れないので、やむなく休みを取ることにしました。
さて、今回の話は、柴犬世界が本来の世界線から外れたらどうなるかという話です。
一応設定資料見るとベトナム戦争はやっていますから、1973年の冷戦のつづきをする形になるのではという想定で進めてます。
ご要望やご意見等お待ちしております。
返信は遅れるかもしれませんが、全て目を通してはいます。
追記:
以前、視点のぶれが大きいと指摘を受けたので、それ以後は、なるべく各人の視点が分かるようにはしています。
ただマブラヴ自身は群像劇なので、多数の視点がないと話が進みません。
某二次創作のように一人称単数視点だと、周囲の状況や相手の感情が見えずに、主人公が振り回されているようになります。
そうすると話は進みませんし、読者も置いてきぼりになると考え、今のスタイルに落ち着きました。
苦境 その2
前書き
KGBらしい暗殺という事で、冷戦を題材にした作品に出てくるスペツナズ・ナイフを使う事にしました。
今回のサミットは、日本で初開催という事もあり、大規模なものだった。
大企業の社長や国会議員では足りなく、学者や軍人まで動員した。
その為、本来なら事前審査で弾かれるような人物までもが入り込むという異常事態になっていた。
こういう事情を大いに利用する人種も、またいた。
スパイや諜報員という闇の世界の住人である。
鎧衣は、会場外にある報道センターにいた。
各国の報道陣に紛れ、さも関係者の様な顔をして、会場の中を映す大画面のテレビジョンを見ていた。
見ただけで分かるスパイがかなりいることに、彼は内心驚いていた。
顔なじみのCNNの特派員をよそおったCIA工作員や、「デイリーテレグラフ」記者の名目で入ったMI6。
フランスのフィガロや、イタリアのTVクルーまでもが工作員と察知できた。
極左で知られる、南ドイツ新聞の記者もいるのか!
あの男は、シュタージと近いとされている話は本当なんだなと、一人考えていた。
なぜなら、南ドイツ新聞の記者は、シュタージ中佐のダウムと喫煙所でロシア語で話していたからだ。
日本にはロシア語を見聞きできる人間がいないと思って、油断したのだろう。
思わぬ収穫だった。
話の内容は、ハイネマンやミラ・ブリッジスの名前からすれば、F‐14関連であろう。
ほかに、戦術機に搭載する新型ロケットというのがはっきり聞こえたからだ。
ロシア語では、ロケットという意味はミサイルも含まれる。
だから、フェニックスミサイルであることは間違いなかった。
マサキの席に近づいて来たのは、東ドイツの随行武官たちであった。
議長の東京サミット参加に合わせて、10数名ほどついてきた様子だった。
シュトラハヴィッツの他には将官はいなく、彼以外の最高位の物は大佐だった。
制服を見ると、陸軍、海軍、空軍、そして人民警察。
顔見知りは、アイリスの他に、ユルゲンの幼馴染のカッツェだけだ。
そして、シュタージ第三総局の将校が間違いなく混ざっている。
鈍足で飛行距離の短いツポレフ134に、ぎっしり機材と要員を運んできたのを知っている。
シュタージの第三総局は、KGB第三総局をまねて作られた軍事防諜の機関。
政治将校や内務班とは別に、軍内部の治安維持を担当した部局である。
その他にKGBは軍内部に浸透工作員を置いた。
特別部と呼ばれる部署で、あらゆる部隊に配置された。
KGB本部直属の監視ネットワークとつながっており、秘密指令を速やかに受け取れる仕組みになっていた。
それは今日のロシア連邦でも継続され、KGBの後継機関であるFSBにもУООと呼ばれるものが存在している。
この様な機関を設けたのはソ連の歴史上、労農赤軍の将校の多くを帝政ロシア軍や外国軍隊の勤務者で賄ったためである。
党は軍の事をけっして信用せず、また軍も党の命令に忠実ではなかったからだ。
一応、陸海軍政治総本部という部署を設け、党の命令に従う将校を用意したが、それでもソ連軍は共産党の思う通りに動かなかった。
その為に、1918年12月19日のチェーカー命令によって、この秘密機関が設置されたのだ。
一説には600の部局があり、諜報任務の他に核輸送なども実施した。
マサキは、彼にしかわからない笑みを浮かべると、タバコに火をつけた。
しかし、シュタージの組織は、KGBそのものではないか……
管理部門の番号まで一緒とは、KGBのデッドコピーそのものだ。
タバコを吹かすうちに、マサキの関心は、KGBからタバコの味へと変わっていった。
恩賜のタバコというのは、本当に味もそっけもない煙草なのだな……
これならば、ゴールデンバットの方が美味に思える。
あの煙草は、芥川龍之介や太宰治などの名だたる文豪が愛した両切りタバコだから。
そして、また多くの兵士と共に前線を歩いたタバコであった。
フィルター付きのシガレットとは、また違った面もよいのかもしれない。
マサキは煙草をもみ消しながら、そう思った。
その直後、一斉に席を立ちあがる音がする。
マサキも続いて立ち上がり、挨拶をする。
マサキとアイリスディーナとの再会の挨拶は、敬礼という素っ気のないものだった。
淡々とした挨拶が続く中、マサキは興味無さそうな顔をして立っていた。
先程から首脳たちの所に耳打ちに来ている秘書官たちの方に、マサキの関心はあった。
何か、このところ静かなソ連に関する動きがあったのだろうか。
そう考えると、目の前に来た東独軍の随行武官の事など後回しになった。
側にいる美久に注意されるまで、首脳の動きに気を取られているほどだった。
マサキたちの様子を遠くからうかがうものがいた。
陸軍礼装を着こなした男と、頭を僧侶の様に反り上げたタキシード姿の男である。
1人は帝国陸軍の中で日ソ友好論者の急先鋒と知られる大伴忠範中尉。
もう一人は、穂積という人物で、機械部品会社の社長であった。
穂積は大学時代、左翼系の団体に参加した経歴の持ち主であったが、卒業をまじかにして団体から遠ざかり、実家の機械製作所を継いだ。
そこから産業界から遠ざけられていたソ連のシベリア開発に参加し、KGBのエージェントとなった男であった。
「木原と話している金髪の美女を知っているか……」
大伴は、アイリスディーナの事を一瞥し、こう口走った。
学生活動家崩れの若社長は、ラム酒と何かを混ぜた緑色の酒に口を付けた後、答える。
「東ドイツ軍の陸軍将校みたいですね」
「見ればわかる」
大伴の機嫌がだんだん悪くなってきたのを見計らってか、不意に彼らに話しかける者がいた。
160センチ強の背丈に、リンゴのような胴体に手足が生えた体型をしていた。
「ありゃ、ベルンハルトとかいう東ドイツのエースパイロットの妹ですよ。
なんなら私の方で裏から手を回して、手に入れますか」
話しかけた人物は、大野という貿易商だった。
彼の祖父は代議士で、与党・立憲政友会の最大会派の領袖だった。
大変な漁色家として知られ、常に女を侍らせていた。
その為か、KGBの色仕掛け作戦に引っかかり、工作員の妹とされる人物を妻として迎えていた。
「出る所が出て、締まるところが締まっている。
良い女じゃないですか……抱けばああいう女もイチコロですよ。
ヒイヒイとよがり声をあげて、求めてきますから」
大野は下卑た笑みを浮かべながら、熱っぽく語った。
遠くから、その様子を見ていた人物がいたのにも気が付かずに。
大伴は思わず眉をひそめる。
こういう場では、だれが聞いているかわからないからだ。
東ドイツの関係者の中に、日本語ができる人物がいてもおかしくはない。
いくら斜陽のシュタージとは言えど、KGBから手ほどきを受けた諜報機関なのだ。
関係が悪化する前なら笑ってすましていたかもしれんが……
こういう下品な男は、機会があったら殺そう。
今はソ連と東独に知り合いを多く持つ、大野の利用価値は捨てがたい。
大伴はそう考えると、目の前にあるぬるくなったビールに口を付けた。
無口な大伴をよそに、大野と穂積が酒を片手にアイリスディーナを見やった。
漁色家の大野は、大酒飲みの大伴に付き合ったせいでだいぶ酔っていた。
アルコールのせいで押し隠していた獣欲が顔を見せる。
「ウへへ、こうして観音様を拝めるとは、また感慨もひとしおですねぇ、穂積さん」
観音とは、仏教の菩薩の一つで、正式名称を観自在菩薩という。
またの名を観世音菩薩や、救世菩薩といい、広く信仰・礼拝の対象となっている存在である。
元は男性神であったが、北伝で支那に入った際に女神となり、日本に伝わった。
観世音菩薩は女性の表象された仏という経緯から、美しい女性を観音様と隠語で呼ぶようになった。
本来の仏とは性別の区別がなく、それから超越した存在なのだが、なぜかそのような言葉が出来てしまった。
またその事実は、日本文化にいかに仏教が浸透したかともいう裏付けでもあった。
大野の言葉に、黄色い歯を剥いて、穂積はうなずく。
邪悪な考えで濁った眼で、アイリスディーナの気高く近寄りがたい美貌を見る。
「若くピチピチで、その上、本当にいい体をしていやがる。皮を剥いてやるのが楽しみだわ」
大野は、下卑た笑みを浮かべると、こうつぶやいた。
「へへへ、木原の屑野郎め、今に見ておれ。
ドイツ美人は、お前の代わりにたっぷり可愛がってやるよ」
脇にいた大伴は聞いていられなくなり、すでに席を外していた。
男たちは酒をすすりながら、残忍な笑みを湛えた。
そこに白の色留袖を着た銀髪の女がやって来た。
大野は酒で濁った眼で彼女の白い肌を見やると、口を耳元に近づけた。
「あの木原とかいう男の頭の中を見ろ。
お前が危険と感じたならば、殺しても構わない」
雪女の様な姿恰好をした人物は、大野のソ連人妻だった。
人工ESP発現体の生き残りの一人だったのを、大野が見初めて妻とした女性だった。
彼女の兄はKGB第一総局の工作員で、彼女自身もKGBの協力者だった。
人工ESP発現体とは、ソ連が実施したオルタネイティヴ第3計画により開発された人造人間である。
超感覚的知覚によって精神感応や、予知視能力、透視能力を持つ。
英語のExtraSensoryPerceptionの頭文字を取り、ESPと一般的に言われる存在である
早く言えば、他人の思考を自在に覗き見出来たり、機械の中身を分解せずに見れる能力である。
その他に人工ESP発現体には、観念動力と呼ばれるものが存在する。
英語のPsychoKinesisの頭文字を取って、一般にはPKといわれるものである
俗に念力と呼ばれるもので、心に思うだけで自動車や鉄骨などを自在に空中浮遊させる能力を有する。
しかしESP発現体は、超能力を人工的に再現する為、多量のコカインや覚醒剤を日常的に投与されていた。
コカインや覚醒剤は、脳回路における化学伝達物質であるドーパミンの水準を上昇させる薬物である。
精神的覚醒と極度の興奮状態をもたらすが、強力な中毒性を持つ精神刺激薬でもある。
幻覚や妄想を生じさせ、つらい離脱症状を逃れる為に、より多くの薬物を依存性をもたらす薬である。
(注:ソ連では、西側に比して薬物規制が甘く、薬局で処方箋があればコカインが自由に購入できた。
ソ連の保健当局や警察、KGBが関心を持ったのは、麻薬中毒ではなく、アルコール中毒だった)
また反乱防止のため、指向性蛋白を一日一回は接種せざるを得なかった。
指向性蛋白は、BETA由来の物質で、食事や水に混入するだけで記憶操作ができる精神作用を持つ薬物である。
この薬物に注目したのは、KGB上層部である。
指向性蛋白がソ連科学アカデミーで発見されるまで、KGBは2年近い洗脳教育を施すしかなかった。
長時間の思想洗脳や、視覚を通じた潜在意識化の洗脳も必要なかった。
ステファン・バンデーラを暗殺したボグダン・スタシンスキーに施したようなことをしなくて済んだのだ。
その為、人口ESP発現体の多くは、麻薬の禁断症状で発狂し、薬なしでは長くは生きられなかった。
凶暴化した者は、大量殺人や自殺などの事件を引き起こし、ソ連赤軍では特別な管理下に置かれていた。
不思議な殺気を感じたマサキは、一旦会場から離れることにした。
今までに感じた事のないような頭痛を覚えた彼は、会場外に設置された仮設の手洗いに向かった。
その際、何者かが自分の後ろから近づいてくる。
時間を見るふりをして、鏡面加工のされた懐中時計で後ろを伺う。
プラチナブロンドとは違う、銀色の髪をしたスラブ系の女だった。
彫刻のような彫りの深い顔に、アルビノの様な赤い目。
自然界では絶対あり得ない組み合わせである。
遺伝子工学者のマサキには、後ろから近づいてくる女が只者ではないことを察知した。
間違いなく、遺伝子組み換えで生まれたクローン人間だ。
これがアーベルが言うところの人口ESPか……
マサキは、右袖の中に隠したコルト・ベスト・ポケットの安全装置を親指で解除する。
何時でも発射できるように、銃把を強く握りしめた。
マサキは、アーベルの話や国防大臣から聞いたESPの透視能力を思い起こした。
自身の思考を透視されている前提に立って、ソ連への憎悪を思い浮かべることにした。
こうすれば、後ろから来る超能力兵士も混乱するであろうという前提に立ってである。
手洗いのドアを開けて、中に入る。
足音が彼の後ろで止まると、背中に何か当たるような音がする。
マサキは振り返りざまに、25口径のコルト・ベスト・ポケットを発射する。
後ろに立っていた女は、マサキの方にナイフの柄を向けるようにして立っていた。
マサキの暗殺に使われたのは、スペツナズ・ナイフであった。
スペツナズ・ナイフといえば、ばねで刀身が飛ぶナイフというイメージがあるであろう。
ヴィクトル・スヴォ―ロフの著作が初見で広まった伝説は、広く人口に膾炙した。
だが、ナイフの刃を目標に向けて飛ばすというのは、西側メディアの神話にしか過ぎない。
一応、KGBは真剣にナイフ形のピストルを開発していたのは事実である。
実際のスペツナズ・ナイフは、NRS-偵察ナイフと呼ばれるものである。
トゥーラ―兵器工廠で開発された、6P25との正式番号のある暗殺拳銃で、25メートルの射程を誇る。
柄の後方から弾丸を装填し、柄頭にある装置から、弾丸が発射される仕組みになっていた。
消音装置はないものの、弾丸に特殊な消音加工がされたもので、現在もGRUやFSBで使われている。
マサキの攻撃より一瞬遅れて、ナイフの柄から火が吹く。
7.62ミリ×38ミリの弾丸は、マサキの着ている制服の左の肩章をかすめ、壁に当たる。
壁には、7ミリメートルほどの穴が開き、中から煙のようなほこりが舞う。
マサキの放った.25ACP弾は、正確に心臓に到達し、女は持っていた短剣を取りこぼした。
女は、断末魔の声を上げるよりも早く、地面に崩れ落ちた。
案の定、ソ連人の女は、マサキの思い浮かべたソ連への強い憎悪に混乱をきたしていた。
マサキの心の闇の深さに恐怖し、彼の付け入るスキを与えることとなった。
振り返りざま、ESP兵士が反撃をしなかったのは、そういう理由があったからである。
――だいぶ若い女だな。
倒れた女を見ながら、そんな感想を抱く。
だが一旦、命を狙われれば、手加減はできない。
自分や、仲間たちの生命が危険にさらされるからだ。
目の前の女は、もうほとんど動く様子は見られなかった。
けれど油断は禁物である。
死んだふりをする可能性があるからだ。
マサキは最後の慈悲として、女の脳天に.25ACP弾を2発撃ちこんだ。
血だまりが手洗い場に広がると、その様子を気にすることなくマサキは去っていった。
後書き
23日は祝日なので、明日は先週の振り替え分として投稿します。
ご感想、ご意見お待ちしております。
参考文献:「スパイ大辞典」、論創社、2016年
「諜報国家ロシア」、中公新書、2023年
「スペツナズ ロシア特殊部隊の全貌」、並木書房、2017年
「治安フォーラム」
苦境 その3
前書き
過激な話を書いてみたくなったので書きました。
それまで黙っていた東ドイツの議長が口を開いた。
話しかけた相手は、米国の大統領ハリー・オラックリンである。
「大統領閣下、私は正直、あなた方の国に不安を抱いております。
先のハンガリー動乱の件といい、12年前のチェコ事件といい、中途半端に妥協なさる点がある」
その場が、氷で包んだような冷え冷えとした空気で支配された。
傍目で見て、男の脇で通訳を務めるシュタージ中央偵察局の職員の顔色も優れないほどだった。
西ドイツの首相代理であるヴィリー・ブラントが、男を諫めた。
「サミットに招待されて、その言葉はないでしょう」
「ブラントさん。
貴方が運よく、首相に返り咲いたのは、我が東ドイツにとっても幸運な事と思っております」
男の言葉に、ブラントは押し黙った。
彼が一度辞職せざるを得なかったのは、シュタージスパイのせいだったからである。
こういう公式の場で、誤解を招くようなことを言われては、さしものブラントも言葉がなかった。
「不幸な事件でした。
作戦を指揮したミルケも、アンドロポフも役職から離れましたから終わった話ですが」
なぜ、一度辞職したブラントが、首相に返り咲いたのか。
それは、蘭王室事件の連座を問われ、ヘルムート・シュミットが内閣の総辞職させたからである。
そして、首相指名選挙が行われるまで、ブラントが代理の立場で、首相に返り咲いたのだ。
「大統領閣下、お一つお尋ねしたい事がございます。
あなた方の国は、どうしてユダヤ人や同性愛者などの顔色をうかがう政策を行うのですか」
男は、そういって話を元に戻すことにした。
「いくら票の一つとは言え、大多数の一般民衆の事を無視し過ぎではありませんか」
東独議長は皮肉たっぷりに、オラックリンに聞いた。
男の言葉に、米大統領は動揺の色を表す。
「そ、それは……」
「復員兵に恩給も与えず、街では餓死する乞食も多いと聞き及んでおります。
それなのに、ユダヤ人に媚びを売り、ホモセクシャルの票ばかりを気になさる……
そのようでは……これから先、あなた方との関係がどうなるのか不安なのです」
ハリー・オラックリンが、ジェラルド・R・フォードとの選挙で勝った一つに、少数者の票田の開拓があった。
それまで注目されていなかった東欧系ユダヤ人や、社会から疎外されていた同性愛者などの元を渡り歩き、丁寧に掘り起こした。
そのことが、半年間の選挙戦を勝利に導いた要因だった。
そういう経緯もあって、1977年1月20日の政権獲得以来、ユダヤ人票と同性愛者票が政権運営の重大事項とされることとなった。
1978年にマサキがゼオライマーと共に、突如として共産支那に現れるまでBETA戦争が遅れる原因の一つだった。
「それは、我が国の内政問題です」
押し黙る大統領に代わって、大統領補佐官のブレジンスキーがロシア語で口をはさんできた。
ブレジンスキーのロシア語に、議長は一瞬渋い顔をする。
ブレジンスキーは、虎の尾を踏むなと、暗にいってきたのだ。
義息ユルゲンの、預け先の男の言葉。
何か裏があるはずだ。
この言葉を警告として受け取った。
「そもそもドイツは、ユダヤ人への戦後補償も謝罪も不十分ではありませんか。
東ドイツがイスラエルに多大な賠償金を払ったという話は寡聞にして聞きません」
会議に同席していたヘンリー・キッシンジャー博士が、バイエルン訛りの強いドイツ語で議長に問いただした。
キッシンジャーは、ユダヤ系ドイツ人としてバイエルンに生まれ、1938年に米国に移住した人物。
1945年の終戦後、短期間だけ米軍下士官としてドイツに諜報員として滞在したことがある経験の持ち主だ。
そういう環境のせいか、終生、バイエルン訛りのドイツ語と英語を話した。
「すでに我が国における戦後賠償は、すべて解決済みであります。
ドクトル・キーシンガー」
議長は、皮肉たっぷりに訛りのないドイツ語で、キッシンジャーに言い返した。
東独政府は、1953年の協議でソ連との間では賠償放棄が確約していたからである。
またポーランドやハンガリー、チェコスロバキアとの個別交渉でもすべて解決済みであるとして、双方が賠償を放棄していた。
これは、ワルシャワ条約機構軍内のいさかいを抑えるためにソ連が行った措置であった。
そしてその立場は、1970年代初頭の西ドイツの東方外交でも維持されることとなり、賠償問題は解決を見ていた。
もっとも東ドイツの場合は、デモンタージュと呼ばれる過酷な現物賠償によって、すでに相応の金額を戦勝国に支払い済みだった。
工作機械や資材は勿論の事、有能な技術者や労働力をソ連に十二分に提供した後であった。
「では」
キッシンジャーは、デモンタージュなど知らぬとばかりに、開き直る。
大統領補佐官の彼も東独議長の言に、引けるに引けなくなっていたのだ。
「貴国への援助を止める方向で、考えるしかありませんな」
「そうなるとソ連赤軍が再びエルベ川を越えてくる事態になりますな。
三度、ジンギスカンの悲劇をご覧になりたいのですか!
そうなると困るのはあなた方ですよ」
大統領の傍にいる空軍将校の一人が、こう議長を威嚇した。
米国随行武官の中で、ただ1人70歳を超えており、最高齢の人物だった。
「そうでしょうか。
我が国は持てる空軍力をもって、あなた方の国土に出入りする不逞の輩を焼き払いましょう。
西ドイツ政府さえもたじろいだ、究極の戦術展開によって!」
男の名は、カーチス・エマーソン・ルメイ。
ドイツ全土に絨毯爆撃を行い、昼夜関係なく爆弾の雨を降らせて、10万単位の人間を焼き殺した人物だった。
後にケネディ政権下で国防長官を務めるロバート・マクナマラは、ハーバード大学助教授時代にこう評した。
「ルメイは、異常に好戦的で、多くの人が残忍だとさえ思える」
そしてそのことを裏付けるように、世人は彼の事を、「鬼畜ルメイ」や「皆殺しのルメイ」と呼んだ。
退役したルメイを呼び戻したのには、理由があった。
新型のG元素爆弾の運搬を扱う部署の設置を巡って、陸軍と空軍でもめた経緯があったためである。
ルメイは、陸軍航空隊出身で、ケネディ政権下で空軍大将を務めた人物である。
そこで退役済みであったルメイに、白羽の矢が立ったのだ。
彼は、最後の御奉公として、喜んで軍服を着こみ、中央政界に戻ってきたのだ。
「では長期戦も辞さないと……」
押し黙る東独議長に代わって、西ドイツ首相のブラントが、ルメイに問いただした。
ルメイは、悪魔的な笑みを浮かべ、こう答えた。
「地上兵力を送らず、爆撃を繰り返せば、短期間でカタは付きます。
BETAも同じです。新兵器さえ十分な数が揃えば、わが軍は労さずして平和を手に入れられます」
ルメイの空爆に対する考えは、一貫していた。
それは空軍力の独立と強化であり、先の大戦での絨毯爆撃の推進もその一つだった。
ルメイの思想的な父とされる人物に、ヘンリー・アーノルド元帥がいる。
彼は陸軍元帥になった後、空軍元帥になった唯一の人物である。
アーノルド元帥は、あの過酷なドレスデン空爆の提案者の一人だった。
そして日本家屋への焼夷弾投下の命令者でもあった。
アーノルド元帥を過激にさせたのは、戦略爆撃という思想だった。
アーノルド元帥は、ウィリアム・ミッチェル准将(死後:少将に追贈)から陸軍航空隊に根強くあった空軍独立運動を引き継いだ人物だった。
ウィリアム・ミッチェルは、米空軍の父と呼ばれる不世出の空軍軍人だった。
第一次大戦前から航空隊に参加し、大戦後に今の戦略爆撃論の基礎を作った人物である。
イタリアのドゥーエ陸軍少将の影響もあって、盛んに独立した爆撃機集団の設立を説いた。
一方、1920年代後半という早い時期から戦艦不要論を説き、海軍関係者から疎まれていた。
時の大統領、カルビン・クーリッジからの不興を買い、1929年に降格の上、退役させられた。
不満をかこったまま、ミッチェル大佐は、56年の生涯をバーモンドの寒村で終えた。
爾来、陸軍航空隊の中では、空軍独立論が継承され、その実現のために戦略爆撃が重要視されたのだ。
つまり、大都市への絨毯爆撃は、アーノルドの空軍独立のための政治的な実証実験だったのである。
そういう人物から薫陶を受けた人物の一人が、ルメイであった。
彼は1961年のキューバ危機の際、キューバ軍のミサイル基地に大規模な空爆を検討した人物であった。
この提案はケネディによって否定され、キューバ危機は回避されるのだが、詳しい話は後日ご紹介したい。
首脳同士の結論の出ない話を聞いていたのに飽きたマサキは、会場から抜け出していた。
人目をはばかるようにしてアイリスディーナを連れ出し、中庭に来ていた。
周囲に誰もいないことを確認した後、アイリスディーナに声をかけた。
呆然としている彼女の傍まで来ると、何時も如くタバコに火をつけた。
「アイリスディーナ、どうしたんだ。浮かない顔をして」
「ええ……」
アイリスディーナは、一瞬戸惑ったような表情になる。
しかし、困惑を隠すように無表情になると、マサキの胸にしなだれかかってきた。
「平和のためとはいえ、大量の核戦力が必要なのでしょうか」
アイリスディーナの表情に、たくらみは見えない。
まるで子供が、無邪気に質問の答えを求めている。
そんな風だった。
「戦争に勝つためには、仕方がないという事で作ったんだろう」
「国土を守るためなら、BETA由来の超兵器も仕方がないというんですか」
アイリスディーナの面に、わずかに怒りの色が見られた。
マサキは彼女のそんな表情を見ながら、少し動揺した。
「おい、おい、何をそう怒っているんだ?
日本は、常に敵国から狙われている。
何時、強力な兵器を持った侵略者が攻めてきてもおかしくない……
そういう時のために超兵器の一つ、二つがあった方が、まず心配がない」
アイリスディーナは、マサキにじっと眼を注いだまま、ふっと大きなため息をついた。
目が愁いを帯びたかのように、わずかに潤んでいた。
彼女の悲憤が、マサキにそのまま伝わってくるかのような、優艶な表情だった。
「侵略者がそれ以上の武器を持っていたら……」
マサキは、そっと煙草を灰皿に置くと、両手で彼女の両手を包んだ。
体から火山流が湧き出るように、急激な興奮が高まりつつあった。
「それを、凌駕する超兵器を作ればいいだけさ」
全身を痺れるような感覚が走っていく。
アイリスディーナの視線が、マサキを燃え盛らせているのは明らかだった。
「それでは、キリがないじゃありませんか。
まるで、終わりのないマラソンを続けているようで……
いつかは、血を吐いて倒れる悲壮なマラソンです」
アイリスディーナは、じっとマサキの目を見つめながら言う。
その瞬間、マサキには彼女の目がきらりと輝いた気がした。
「そんな事を続ければ、何時か、何時か、この国も血を吐いて倒れてしまうでしょう」
アイリスディーナの頬は、薔薇色に染まっていた。
何とも言えない、婉麗な表情になっている。
こんな表情のアイリスディーナを見るのは、初めてだった。
マサキは、年下の恋人の顔を見るだけで、高ぶってくるのが実感できた。
「だが……」
そう言おうとした瞬間、視線がぶつかった。
一瞬、マサキはひるんだような表情を、アイリスディーナに見せる。
しかし、何か確固たる意志を目に浮かべ、顔を近づける。
「超兵器の開発競争だけが、国土を守る手段ではないのかもしれないな……」
マサキが突然、顔を近づけてきた。
迷いが一瞬のすきになったのであろう。
アイリスディーナは避けることが出来なかった。
唇が重なり合う。
アイリスディーナは、唇を離した。
マサキの口の間から、行き場を失ったかのように舌がこぼれ出る。
「アイリス、反戦平和の思想もお前の口からきくと、甘美な愛の歌のように聞こえる。
たまにはこういう哲学的な話も、違う刺激になって楽しいものよのう」
アイリスディーナの体に、マサキの腕が回された。
マサキは、痛いほどきつく、アイリスディーナの体を抱きしめた。
アイリスディーナは、マサキの胸に顔を埋めた。
黒い大礼服から、仏教寺院で焚かれる線香のような香りがして来た。
伽羅の香りだ。
古来より武士が愛用した沈香という高級香木の匂いである。
アイリスディーナは伽羅の香りを嗅ぎながら、体が内側から溶けていくような感覚を味わった。
多分、マサキ以外にされたら、嫌悪感を感じて、悲鳴を上げたであろう。
「俺は、やはり冷戦構造の中での軍拡競争というひと時の平和という方法しかないと思っている。
いずれにしても、この終わりなきマラソンを続けていれば、ソ連の方から根を上げてくるだろう。
優れた科学技術さえ見せれば、根が野蛮人の露助どもは、自分から兜を脱ぐ」
マサキの言葉に、アイリスディーナはビックリしたかのように顔を上げた。
マサキの目に、冷たい目の輝きが浮かぶ。
「どうして、そんなようなことを……」
マサキは、意を決して、アイリスディーナの目を見据えた。
「俺は、自分自身と所属する国家の幸せを追求するのに、貪欲というだけさ」
アイリスディーナは、明らかに動揺していた。
マサキは、頬の端に毒のある笑みを浮かべた。
「わかってほしいな、アイリスディーナ。
俺はBETA教団の気違い共のように、運命なぞというものを受け入れて死んでいくという事は出来ないのだよ」
アイリスディーナは、マサキの言葉を受けて精神的なショックを受けてしまった。
そんな気持ちを察しながらも、マサキは、己の不安を隠すかのように哄笑を漏らすのだった。
後書き
ご感想お待ちしております。
苦境 その4
前書き
京都デート回。
首相夫妻開催晩餐会の翌日。
マサキ達は東京を離れて、東京発新大阪行に乗り、一路関西に向かった。
朝一番の新幹線「ひかり」号に乗り、東海道線を3時間ほどかけて、京都まで移動した。
なぜ、こんな手間のかかることをせざるを得なかったのか。
これは、この異界にある日本の首都が京都に置かれていた為である。
現代でこそ、東京は政治と経済の中心であるが、これは明治維新と戦争の影響である。
戦前までは工業地帯といえば阪神工業地帯であり、商業の都市といえば大阪だった。
この異界では、1944年に終戦を迎えた結果、大規模な年空襲が起きなかった。
その為、大阪の商業都市としての機能が生き残り、関西地域の経済的優位性が保たれた。
大阪を起点に置く大企業の多くが、そのまま関西を中心に商業活動を続けることとなった。
故に現実と同じように東京を中心として、京浜工業地帯に集中する形には成らなかったのだ。
東京、大阪、名古屋、北九州の産業圏に分散した形で、より強く残り、我々の世界よりもずっと均等のとれた産業地図が出現することとなったのだ。
マサキが京都に向かった理由は、単純に観光だった。
来日中のアイリスディーナに、京都御所や金閣寺といった名跡をみせたかったからである。
一方、アイリスディーナが、マサキの誘いに乗ったのは、別な理由からだった。
F‐14の共同開発者の一人であるミラ・ブリッジスに会いに行き、技術的な情報を得ようとしたからである。
本来はこういう仕事は、軍事技術の専門家やシュタージの工作員が行う方が適切であろう。
だが、東ドイツ側も日本側の警戒を恐れて、下級将校であるアイリスディーナにその任務を申し付けたのだ。
東ドイツにとってミラの持つ炭素複合材の秘密特許はどうしても欲しい秘密の一つだった。
既存の戦術機開発に行き詰った東側にとって、超軽量の装甲は新たな収益を増やす材料に思えたからである。
BETA戦争での戦訓から、米国では重装甲のF4ファントムに代わって、軽装甲高速機動の試作機が開発中だった。
それは第二世代機と呼ばれるもので、研究開発が各メーカーにより矢継ぎ早に進められていた。
これは月と火星のハイヴ攻略作戦が早期に実現困難だと考えていた米陸軍の意見を反映したものだった。
彼等は10年に及んだベトナム戦争と3年間続いた月面戦争の敗北という、手痛い経験から消極的になっていたのだ。
空軍は空軍で戦術機の事を役立たずと認識しており、再開される冷戦を考えて、F-111戦闘機の大規模発注を進めていた。
戦術機開発に遅れていたゼネラル・ダイナミクス社にとって、その計画は社運を賭けたものの一つであった。
1964年に完成したF-111は、世界初の実用可変翼機として知られる戦闘爆撃機である。
ロバート・マクナマラ国防長官の軍事費圧縮という意向を受け、空海軍共用の戦闘機として開発された。
しかし、肝心の戦闘爆撃機としての機能は不十分であり、当初から検討していた米海軍での採用は見送られた。
純粋な爆撃機としては、優れた兵器搭載量や低空侵攻能力を有しており、ベトナム戦争に投入された。
主に対地攻撃任務に用いられ、低空侵攻能力から、戦略爆撃機として米空軍戦略航空軍団で運用された。
一方、陸軍では戦術機を新たな兵器として認識し、重宝する運用方針を取っていた。
移動速度は早く、オフロードもある程度克服でき、機関銃やグレネードランチャーなど装備が可能。
戦場の上空には対空用のレーザーが飛び交っている為、低速のヘリは格好の標的になっており、より高速で移動できる戦術機は光線級に狙われにくい。
平地での高速移動手段としてだけでなく、装甲車両では侵入しづらい林間や山間部を利用した強襲などにも使えるなどである。
欠点は、敵陣に近づくと攻撃を受ける点で、戦術機には戦車ほどの装甲がない。
それでも砲撃によって光線級から対空用のレーザーを出すのを阻止できれば、戦術機は敵陣を通り抜けられることもある。
この戦術は、大きなリスクを伴うものの、双方にとっての戦術的課題、つまり光線級からレーザー射撃を受ける中、敵陣をどうやって移動するかという課題を解決すると考えられている。
この攻撃は大砲や弾薬の優位性にとって代わるものではなく完全に新しい戦術で、戦術機の使用は、効果で整備の大変な航空戦力の使用を節約するのに役立っており、陸軍省では一定の効果が認められる戦術と評価していた。
航空機の代案として編み出された戦術機だが,実際は航空機の援護があることで成立している一例である。
現代の戦場における皮肉な現象の一つとして、言えるであろう。
ひかり号が、終点の一つ手前である京都駅に着く。
プラットホームに降りた途端、京都盆地の何とも言えない蒸し暑さを感じた。
マサキは、さりげなく周囲を確認した後、アイリスディーナの方に振り返る。
暑さになれず、半ばぼうっとする彼女の手を引いて、駅舎を後にした。
駅前の停車場に来ると、真っ先に76年型のアコードの方に駆け寄った。
一足先に京都駅前に来ていた白銀が運転する車に乗って、市街に向かった。
その様子を止めた74年型のクラウンの車中から一部始終見ている者がいた。
男は、マサキ達の車が発信するなり、車載電話の受話器を持ち上げる。
「今、京都駅から、市街に向かいました」
「了解!」
彼らの動きは、城内省の下部機関である情報省によって逐一観察されていたのだ。
議長たちと別行動をする東独軍将校の存在を見逃すほど、彼らは無能ではなかった。
むしろアイリスディーナのことを、飛んで火にいる夏の虫とさえ思っていたのだ。
マサキ達は、東山にある都ホテル(今日のウェスティン都ホテル京都)の一室にいた。
ここを選んだのは、100人以上が宿泊でき、尚且つエアコンが常備されているホテルという点からであった。
近代日本式の大規模な日本庭園があり、戦前から外人にも人気の場所だった。
その為、長い期間、日本最大の観光地である京都の迎賓館として君臨し続けた。
「すごいお部屋ね」
アイリスディーナは、先ほどからしきりに感嘆の言葉を続けていた。
東ドイツでは、高級ホテルはほぼ外人専用で、この様な部屋に泊まることなどないのだろう……
「中程度のプレジデンシャルスイートだぞ?
そんなに驚くほどでもないと思うが……」
椅子に深く腰掛けたマサキは、懐中からホープとライターを取り出す。
窓の外を見ながら、タバコに火をつけた。
「でも、私にとっては……」
「ああ、お前は、まだ子供だったな。
こう言う世界を知らないのは無理もないか……」
マサキは、ホープを上手そうに燻らせながら、頬まで紅潮する彼女の美貌を眺めやる。
白いブラウスと、タイトな濃紺のスカートという地味な格好だが、かえってアイリスディーナの可憐さを引き立てる様だ。
「私は19歳です、もう大人ですから……」
マサキは、アイリスディーナの事をいとおしそうに見つめた。
大人を強調する彼女は、確かに成熟した女と何ら変わらないと思えてくる。
その時、机の上にある電話が鳴った。
マサキは素早く立ち上がった。
交換手の声の後、元気のいいミラの声が聞こえてきた。
「さっき、電話をくれたようだけど、何かしら」
「今から人を連れて行こうと思うんだが、そっちの都合はどうだ?」
「午後4時過ぎなら、主人も帰ってくるわ。
今日は土曜日だし……」
1979年6月30日は、土曜日だった。
マサキは前の世界の癖で、この時代の土曜日が半ドンであることをすっかり忘れていた。
「それで構わんよ。よろしく頼む」
「わかったわ」
そう言いながら、ミラは思いついた。
「そうそう、夕方の予定は特にないでしょう。
もしそうなら、今晩はなれずしでも御馳走しますわ」
なれずしとは、魚を塩と米飯を熟成させ乳酸発酵させた食品のことである。
現在一般的になっている江戸前寿司とは違い、独特の匂いと味で好き嫌いが分かれる食品である。
日本人の自分は良いが、アイリスディーナにとってこの未体験の味はきついだろう。
マサキは、ミラの厚意に感謝しつつ、違う料理を出すように提案した。
「そいつは結構だが、連れが嫌がるかもしれん。
なれずしなどより、お前がうまいと思うものを用意してくれ」
約束が決まって、電話を切ったマサキはアイリスディーナの方を向く。
「とりあえず、さっき俺の方からミラに連絡を入れた。
夕方にならないと都合がつかないから、それまで京都でもぶらぶら歩くか」
「ええ」
彼女は、やや俯き、頬をほんのり赤く染めている。
「新婚気分で、市内観光するのも面白かろうよ」
マサキがたわむれに新婚という言葉を出した瞬間、アイリスディーナの全身が発火したように熱くなった。
今までこんな感情をいだいたことがあるであろうか。
「嫌なのか」
「い、いいえ……」
羞恥の感情が、アイリスディーナの胸を焦がした。
もうまともに、マサキを見ることが出来なかった。
後書き
ご感想お待ちしております。
柵 その1
前書き
連載開始から3年が過ぎました。
時間が経つのが早い。
マサキが、アイリスディーナとの進展した関係にならなかったのは訳があった。
それは自分の遺伝子情報を秘匿するためである。
マサキはゼオライマーを含む八卦ロボを建造する際、自身の持つY染色体をマシンの起動システムに加えた。
つまり、マサキ自身の遺伝子が鍵となって、八卦ロボが稼働するという物である。
マサキ自身のクローン人間である鉄甲龍の八卦衆と秋津マサトが作られたのは、以下の目的の為だった。
八卦衆と秋津マサトが戦って、いずれかが生き残り、勝ち残ったものが世界を冥府に変える。
それが冥王計画の最終目標だった。
そして、それはゼオライマーではなくても実行できるように、準備されていた。
国際電脳が全世界の7割に設置した海底ケーブルや地下通信網、原子力発電所や核ミサイル施設に仕掛けられてた。
マサキがこの世界に来る直前、鉄甲龍の首領、幽羅は全世界に設置された通信網と共に死を遂げようとしていた。
その事を察知した秋津マサトは、鉄甲龍の野望を打ち砕くためとゼオライマーと自分の存在を消すべく、幽羅と共に自爆したのだ。
秋津マサトは、木原マサキの人格と知能をゼオライマーの中にある次元連結システムから吸収し、二重人格に苦しんだ。
そして、木原マサキに何時肉体を乗っ取られることを懸念して、彼はゼオライマー事、自爆して果てたのだ。
そういう経緯があって、この世界に転移してきたマサキ。
彼にとって、ゼオライマーの秘密ともいうべき自分の遺伝子情報を、簡単に渡すようなことが出来なかった。
惚れた女を抱けば、たとえ避妊具やピルなどを併用しても、1000分の1の確率で妊娠することもある。
万に一つの可能性を回避するために、性機能を切除する手術を受ける手法もあるが、論外である。
自身の性的な不満を解消する方法は別なものがあるが、見目麗しい美女を前に耐えられる彼でもなかった。
人知れず行き詰まって、懊悩に苦しむ日々を過ごすことも多くなっていたのである。
この世界に2年ほどいて、マサキの考えはだんだんと変わり始めてきていた。
一切のしがらみから逃れて、ただひたすら世界征服の道を突き進むという当初の目的も、煩悩の前に揺らぎ始めていた。
女性を遠ざけていたマサキの心の隙にいち早く気が付いたのは、東独軍のハイム少将だった。
彼は、軍内部の高級将校と婦人兵の結婚の仲人をしていた関係で、男女の色恋に関しては一際敏感だった。
かつて、シュトラハヴィッツに自分の部下を紹介し、結婚させた経験があった。
シュトラハヴィッツは、ソ連の抑留中に東西ドイツが分割した関係で、前妻とその家族と生き別れていた。
その為、東独軍に入って以降、二つの祖国の間で苦しむという不遇をかこつ生活を送っていたことがあった。
その事を不憫に思ったハイムが、エルネスティ―ネという若い婦人兵を紹介したのだ。
シュトラハヴィッツは若い妻を得たことで、活力を得て、持ち前の明るさを取り戻した経緯があった。
そういう経験から、マサキの中にある不平不満の中に性的欲求があるのではないかと見抜いていたのだ。
マサキの不満に気付いていたのは、ハイムだけではなかった。
老獪な政治家である御剣雷電も、また、マサキの弱点として単身者であることを恐れていたのだ。
今のまま放っておけば、マサキは精神に異常をきたし、やがては自分たちに牙をむく存在となるのではないか。
古来より凶悪犯罪者や大量殺人を行うものは、えてして性的不能者が多い傾向がある。
どんな形を用いても、マサキに普通の人間の性生活を送らせれば、自分たちへの反乱は防げるはずだ。
反抗心は防げずとも、それ自身がマサキの弱みになると考えていた。
そういう経緯があって、今回のマサキとアイリスディーナの京都旅行が許されたのだ。
色々な柵を恐れるマサキの性格上、進展した関係にならないと見ての判断だった。
マサキたちは、夕方になるまで京都市内を観光していた。
少し早い昼食を都ホテルで取った後、すぐ側にある八坂神社や知恩院を尋ねた後、清水寺に来ていた。
本当は銀閣寺として有名な東山慈照寺に連れて行こうと考えていたのだが、時間の関係で取りやめていた。
京都市内の交通事情の悪さから、タクシーで行けても、渋滞にはまって予定した時間に帰れないケースがあるからだ。
田舎からの観光客でごった返す清水の舞台などを一通り見た後、五条大橋のたもとに来た時のことである。
アイリスディーナの方から、声をかけてきた。
「不思議ですね……
こうしているとずっと昔から貴方と恋人だったみたいで……」
アイリスディーナは顔を赤く染めて、そっとマサキの方を振り向いた。
紫煙を燻らせていたマサキは、頬を緩め、屈託のない笑みを浮かべる。
「アイリスディーナ。俺はこうして女と京都を歩くのが初めてのように思える。
お前といると、目に入るもの全てが初めて見る様に感じる。
だが同時に、かつて見たことのあるものばかりなのに……」
そうだ……この世界は俺にとって異世界なのだ。
元居た世界と違う道筋をたどったもう一つの世界にしか過ぎない。
俺は、どう過ごしても異世界人なのだ。
この世界との、縁も柵もない根無し草なのだ。
いつしかマサキの顔から笑みは消え、いつもの如く無表情に戻っていた。
怏々と過去への追憶に浸っていると、アイリスディーナが声をかけてきた。
「暗くなっちゃ、駄目です」
その言葉とと同時に彼女がマサキの二の腕をつかんだ。
一瞬マサキは、驚きの表情を浮かべたが、腕越しに温かい体温に触れたら、口元が緩んだ。
だが足音が聞こえてくると、表情を引き締めた。
近づいてきたのは白銀で、マサキ達を迎えに来たのであった。
渋滞を予想して、洛中の篁亭に向かったのだが、予定よりも15分早く着いた。
マサキは屋敷に着くと、時間調整を兼ねて、庭でタバコをふかし始めた。
身近な人物に喫煙者のいないアイリスディーナは変に思わなかったが、白銀には不思議がられた。
この時代は、今の様な嫌煙権などという狂った思想もなく、副流煙の害という物も研究途上だったからだ。
マサキは、乳児のユウヤとミラに、受動喫煙の害が及ばないように考慮しての行動だった。
乳幼児期に副流煙を原因とした副鼻腔炎にかかれば、後の知能発達に悪影響を及ぼす。
そう考えての行動だった。
アイリスディーナは、マサキが屋外でタバコを吸っているのは単に軍の規則に従ったものだと思っていた。
国家人民軍は、当時では珍しく喫煙の規則が非常に厳しい軍隊だったからだ。
社会保障費の増大を防ぐ観点から禁煙を進めており、タバコは軍の配給品に含まれていない軍隊だった。
当時の米ソ軍では、糧食と共に紙巻煙草が支給されてるのが一般的だった。
西ドイツ軍では第三帝国時代と同じ軍用煙草や、日本軍でも旧三級品が配給された。
米軍では、一食ごとに箱に入った4本のタバコが支給された。
ただし銘柄は選べず、欲しい銘柄を交換したり、現金の代わりに重宝された。
ソ連の場合は、然るべき申請の手続きを踏めば、一日50グラムほどの葉タバコ・マホルカが支給された。
軍だけではなく、警察やKGBも同様で、政治犯収容所でも申請すれば、マホルカが配給された。
白銀は、喫煙習慣がなかったが、タバコは戦場で身近なものだった。
湿度100パーセントの密林の中で過ごすのに、野戦服をタバコの葉と共に煮ることが良くあったからだ。
ニコチンの溶液を吸った野戦服は、一定の防虫効果があり、蛇除けにもなるという迷信があったからだ。
ただし、下着を付けずに直に肌に着ると、接触性の皮膚炎に悩まされたものである。
もう一本の煙草に火を付けようとしたとき、甲高い男の声が聞こえた。
篁とも違う声で、話す内容は米国英語だった。
マサキは煙草をしまうと、その声のする方に向かった。
話し声が聞こえた場所にいたのは、背広を着た小柄な白人の男と着物姿のミラだった。
「なあ、ミラ。私と一緒に国に帰ろう。
タダマサのとの件は忘れるから、アメリカに帰って、私の研究を手助けしてくれ。
お父上も今回の件は許してくれるはずだ」
背広姿の男は、フランク・ハイネマンだった。
日本海軍がF‐14の試験導入をしたことを受けて、技術者として来日していたのだ。
東京とF‐14が配備される土浦海軍航空隊基地を訪問した後、京都にわざわざ出向いたのであった。
ハイネマンは、ミラに未練を感じて、一人篁の屋敷を訪れていたのだ。
その様子を見ていたマサキは、とんでもないことに遭遇したと思った。
思わず火のついていない煙草を口にくわえて、物陰から様子をうかがうことにした。
「どうしても君が嫌だと言っても連れて行く。
最新鋭のステルス戦術機の開発には、君のアイデアが必要なんだ」
ミラはその細面に悲憤を湛えると、何時になく興奮した様子で返した。
「私は、もう篁家の人間です。
それにブリッジス家から勘当された身……今更なんで戻れましょうか」
ハイネマンは、嫌がるミラの両腕を握った。
「そんな事は私がどうにかする。
なあ、アメリカに帰って、私と共に国防総省のために働こう!
人類の一日も早い平和の為に、一緒に働こう!」
その瞬間、ミラの美しい青い目が見開かれ、凍り付いた。
ハイネマンの後ろに、顔を真っ青にした篁が立っていたからである。
愛妻の元に、かつての同僚が来て、連れ出そうとした。
普段は大人しい篁が、激昂したのは言うまでもない。
そして静かに、右手に握っていた刀を左手に持ち替えた。
いつでも切って捨てることが出来るぞという、篁なりの警告である。
修羅場に遭遇したマサキは、いつの間にかタバコに火をつけていた。
余計なことに巻き込まれたなと思って、内心呆れていたのである。
篁とハイネマンが、無言のままにらみ合っていると、白銀が脇から出てきた。
刀を左手に持ち替えたのを見て、大慌てで仲裁したのだ。
「た、篁中尉、待ってください!」
白銀の事を、篁は必死の形相で睨み付ける。
その表情は、法隆寺にある金剛力士像そっくりに見えた。
二人が微動だにせず、睨み合っている内に、事態は動いた。
建物から、赤ん坊の泣く声が聞こえるとミラが部屋の奥に消えていったからだ。
ハイネマンは一瞬、驚いた顔をすると篁亭から足早に去っていった。
後書き
連載開始3周年を記念して、ひさしぶりにリクエストを募集します。
なんかやってほしいことがあったら、コメント欄にお書きください。
ご意見、ご感想、お待ちしております。
柵 その2
前書き
今日は短めです。
東独首脳の日本訪問の狙いは、G7サミットばかりではなかった。
議長の狙いは、東独への日本企業の誘致であり、そしてその交渉であった。
議長たち首脳陣は、東京に残り、めぼしい企業への訪問に出かけていた。
東ベルリンの再開発を進める大手ゼネコンの他に、自動車メーカー、半導体を扱う電機メーカーなどである。
軍の方は、土浦航空隊に試験配備されているF‐14の確認だった。
その為、シュトラハヴィッツ中将以下の随行武官は、議長と別れて、東京を発った。
国防省の用意したマイクロバスで、利根川を越えて、茨城県に向かった。
シュタージ工作員の多くは、議長一行の周囲に残っていた。
彼等の多くは、素知らぬ顔をして、訪問先に行き、様々な事を念入りに調べたりしていた。
そういった中で、ただ一人だけ別行動をとる人物がいた。
中央偵察総局のダウム中佐である。
彼は鎧衣と共に、都内のさびれたスナックで今後の事を話し合っていたのだ。
「例のESP発現体を殺したのは木原博士だろう。
これは不味いことになった」
「どういう事だね」
「実はソ連では、実験用の改造人間を作成する計画を進めていたのだ。
穂積という男の会社は、新概念の人造人間の開発協力をしていた」
ダウムの問わず語りが始まった。
ソ連では、戦前より人体機能の回復手術がソ連医学アカデミーの支援の下、行われていた。
1936年の世界初の生体腎移植や、人工心臓の研究などである。
米ソ両国は科学技術でもしのぎを削っており、この事は医療分野にもつながることだった。
1961年、ケネディ政権下で完全置換型人工心臓の開発を進める国家計画が始まった。
月面着陸の成功を収めた米国が、医療分野でも世界をリードしようとするためである。
そのことを受けて、ソ連科学アカデミー内でも秘密裏に完全置換型人工心臓計画が始まった。
「ソ連科学アカデミーでは、強制収容所から心臓病の患者を集めて、心臓手術が行われてました。
米国の完全置換型人工心臓計画に対応するためのものです」
アレクサンドル・コロトコフKGB第一総局長から聞いた話と断ったうえで、核心部分を明かし始めた。
コロトコフは、心臓発作で死去する1961年までシュタージ付属のKGB連絡部代表を務めた人物だ。
「コロトコフは、よく私にこう話しかけてくれていたんです。
これからの時代は、宇宙開発が世界を制する。
極低温の宇宙空間で問題なく活動し、隕石や放射線の影響を受けない存在でなくては月面で生活できない。
その為には、生身の兵士ではなく、人体を鋼鉄の機械に改造したサイボーグ人間が必要だ。
米国の電子工学に勝つためには、それしかないと……」
シュタージにはKGBの連絡員と呼ばれる監視役が、多数いた。
ダウムは何かにつけて、ヴォルフらとともにKGBが主催する幹部会合に呼ばれたという。
「そこでソ連の科学者は、非炭素、早く言えば機械の肉体に人間の脳や内臓を埋め込む案を思いついたようです。
それがソ連のサイボーグ人間計画で、2メートルの強化外骨格の中に脳を埋め込む段階まで進んだらしいのです」
ダウムは言葉を切ると、フィリップ・モリス社のタバコ、マルボーロに火をつけた。
マルボーロのココアを混ぜたタバコ葉と燃焼補助剤の塗られた巻紙の匂いが、一面に広がる。
「サクロボスコ事件の前の話だから、今は終わった話だと思っていたが……」
鎧衣は、紫煙を扇ぐように手を振った。
彼はタバコ葉の匂いは好きだったが、燃焼補助剤の入った巻紙の匂いが嫌いだった。
だから紙巻きタバコを吸う時は、麻紙で巻き直すか、バラシてパイプに詰めることが多かった。
「脳髄と神経系統が、超々ジュラルミンとチタンの合金の体に収められていると考えてもらえばいい」
「そのサイボーグとは、早く言えば人間の脳を持ったロボットという感じかね」
「そうなりますな」
立て続けに、マルボーロの箱から新しい煙草を出して、火をつける。
ダウムは努めて冷静になるべく、紫煙を燻らせることにした。
「ソ連では、脳以外の機能を人工物に置き換える計画を進めていました。
ゼロ号計画、ナーリと呼んでいた物です」
ナーリとは、ロシア語の数字のゼロを指す言葉で、一般的にНольとして知られる単語である。
何故ゼロ計画なのかというと、人体由来ゼロ、炭素素材ゼロという改造人間を作る計画だったからだ。
「ただし、ソ連の技術では脳髄と神経系統を電子計算機に繋ぐ技術がありませんでした。
そこで、穂積という男に近づき、最新鋭の演算処理能力をもつ電子計算機を手に入れようとしているのです」
鎧衣は、その話を聞いていて思い当たる節があった。
霧山教授から聞いた、非炭素構造疑似生命体の話である。
霧山は、京都大学で非炭素構造疑似生命体の研究をしている人物だった。
ソ連での戦術機の損失を調査している内に、国連のオルタネイティヴ計画に関係していることに気が付いた。
BETAが戦術機を操縦する衛士に拒否反応を示すという、仮説を立てていた。
そこでBETAは炭素生命体に敵対するので、高性能の電子計算機を用いた人造人間の開発を進めるべきである。
そのように表明した学者であった。
「だからソ連科学アカデミーでは、ゼオライマーの秘密を欲しがっていたと」
ゼオライマーに積まれたスーパーコンピューターは、日本政府でも解析不能だった。
実は検査する際に、ゼオライマーの頭脳である高性能電子計算機が外されていた為である。
マサキが秘密の漏洩を畏れ、氷室美久がアンドロイドであることを隠していたからだ。
美久は人間の成人女性の姿をしているが、全身が成長記憶シリコンで覆われており、推論型AIが搭載されていた。
彼女こそ、ソ連科学アカデミーが求めていた物であり、霧山教授が言うところの非炭素構造疑似生命であった。
再び視点を、篁亭に招かれたマサキ達の元に戻してみよう。
篁の関心は、先ほどのハイネマンの一件ではなかった。
F‐14の秘密を知りたくて、ミラに会いに来たアイリスディーナの事だった。
ユルゲン・ベルンハルトの事は、男である自分が見ても白皙の美丈夫であることは一目瞭然だった。
白雪のような肌をした、こんな可憐で、清楚な妹がいたとはと、感心するばかりだった。
篁の何時にない不思議な顔色に、ミラは何とも言えない感情の波につつまれた。
きっと夫はこういう美人に気が引かれることがあるのだろうと、ちょっぴり嫉妬めいた気持ちを抱いた。
そういう事を知らないマサキは、茶菓子の羊羹を食べ終えると篁の妻が持って来た麦茶に口を付ける。
氷で冷えた麦茶を上手そうに飲み干すマサキを見て、アイリスディーナは変な質問をした。
「何で木原さんは砂糖やミルクを入れずに、おいしそうに飲むんですか」
マサキは変わったことを言う娘だと思って、最初相手にしなかった。
ミラが気を利かして、冷たい麦茶を用意したのだと。
ドイツ人のアイリスディーナにとって、大麦を煮出して作る麦茶は非常識な飲み物だった。
大麦の代用コーヒーは、ドイツで貧困の代名詞とされ、客に出すのは失礼なものだった。
薄い出がらしのコーヒーを出すのと同じ意味合いで、場合によっては喧嘩になることもあった。
アメリカ人の女学者とは、風変わりな人が多いのだろうか。
そのことに関して怒ることはなかったが、ミルクと砂糖がないことが気になったのだ。
彼女の理解では、マサキが飲んでいるのはブラックのアイスコーヒという認識だった。
その為、机の上に置いてあるスティックシュガーとコーヒーミルクを入れ始めた。
「アイリスディーナ、お前は何をしている?」
アイリスディーナは顔を起こし、マサキの方を見る。
困ったような表情だった。
「アイスコーヒーですよ?何か問題でも」
何かが吹っ切れたのか。
アイリスディーナは、砂糖とミルクを入れた麦茶で唇を濡らした。
「どう、感想は?」
困惑しきったアイリスディーナの表情を、ミラが見て満足そうに聞いた。
彼女にしてみれば、生半可に知ったかぶりをされても可愛げがない。
だがアイリスディーナのように正直に告白したり、表情に表してくれると、同じ外人女性ではありながら母性本能が刺激され、色々と導いてあげたくなる気持ちになるのだ。
「少しは、感想があると思うんだけど……」
返事をうながすと、アイリスディーナは感じ入ったように答えた。
「困りました。
何が何だか、さっぱりわからなくて……」
「確かにそうよね。初めて麦茶を目にした人は驚くわよね。
私もそうだったから……」
マサキはその言葉が引っ掛かった。
ミラはアイリスディーナの事を揶揄うために麦茶を出したようだった。
アイリスディーナの事をなめるように見る篁の視線が、気に入らなかったのだろう。
マサキは、それにしても女とは貪欲なものだと思った。
その貪欲さが、ミラの雰囲気にはふさわしくないだけに、動物的なものを感じ取っていた。
厚化粧をし、薄絹の服を着た、如何にも商売人という成りの女ならば、理解できる。
だがミラは、どう見ても淑やかさや清楚さを感じさせる深窓の令室である。
こと男女関係になると、男がたじろぐほど欲張りになるのだろうか。
そういう物は理解するのではなく、頭からそういうものだと割り切ることも必用なのだろう。
マサキは、自分自身が、人間関係に不勉強であることを恥じるのであった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
何か書いてほしい話があったら、リクエストください。
年末は変に忙しいので、下手したら来週も投稿が遅れるかもしれません。
大変身勝手な事ですが、その辺はご海容いただければ幸いです。
リクエストの例ですが、例えば東西陣営によるG元素争奪戦とか、BETA再侵攻などですね。
或いは、原作キャラですと、テオドール米国移住やユルゲンのハーレム展開などでしょうか。
冷戦期定番のソ連の北海道侵攻や日本の共産クーデターでもいいかもしれませんね。
一つ二つ、リクエストがあれば、採用するつもりです。
何かやってほしいことがあったら、気兼ねなくお書きください。
非会員からも受け付けておりますので、例にないものも、どうぞご自由にお書きください。
作者自身もこの先どうするかなッと、悩んでおりますので……
柵 その3
前書き
原作キャラの、くどい色恋描写も飽きるでしょう。
という事で、今回は視点を変えて、米ソの動きを追ってみることにしました。
米国に月面におけるソ連の報告が入ったのは、現地時間6月29日の深夜だった。
最初にその詳報を知ったのは、青森県三沢基地にある姉沼通信所の通信アンテナだった。
通称、象の檻と呼ばれるもので、通信設備を囲う様に円形上のアンテナが設置されていた。
また稚内分屯地にいた国家安全保障省分遣隊も、同様の通信を傍受していた。
東京から帰国した米大統領は、深夜3時という遅い時間にもかかわらず、国防長官から電話を受けた。
「大統領閣下、かかる夜分に申し訳ありません。
今しがた三沢からの秘密電報によれば、ソ連の月面攻略隊が失敗したそうです」
国防長官は、開口一番そう告げてきた。
「ソ連がどうしたって?」
大統領の頭は、まだ寝ぼけている様子だった。
国防長官は、男の状態など関係なしに続ける。
「どうやら核弾頭を使用した模様ですが、その際、BETAの反撃にあい、撤退した模様です」
「そうか……緊急閣議の準備をしたまえ」
一方のソ連政府も、事態の重大さに驚いていた。
虎の子の第7親衛空挺師団の大半を失い、貴重な宇宙空間の戦力を減らした結果だったからだ。
ウラジオストックの共産党本部で行われた秘密会議では、その責任の所在が問題となっていた。
「同志ウスチノフ、今回の責任はどうなさるおつもりか。
君の誇大妄想の為に、貴重な宇宙艦隊の戦力が3割も失われてしまった」
ソ連第二書記のミハイル・スースロフが、口を開いた。
彼は、ソ連政権の中で、スターリンに次ぐ長期政権を維持したブレジネフの懐刀だった。
「今や我が国に残された戦力は、太平洋艦隊と蒙古駐留軍のみだ」
スースロフは、言葉を切ると、口つきタバコに火をつけた。
「お待ちください、同志スースロフ。
本作戦を軍の反対を無視して推し進めたのは、貴方ではありませんか!」
ウスチノフは、スースロフの後釜的存在とクレムリン界隈では見られていた。
実際、史実ではスースロフの死去後、ウスチノフが政界のキングメーカー的役割を担っていた。
「私が今作戦の責任を認めるというのかね」
ソ連最高検事総長のルジェンコが、スースロフに書類の束を渡した。
それはスースロフを失脚させるべく、KGBと最高検察庁が書き上げた調書だった。
「同志スースロフ、単刀直入にも仕上げます。
今回の作戦の結末は、どういたしますか」
ルジェンコは、スースロフの進退をあえて問いただした。
彼はニュルンベルク裁判で、ソ連側の検察官を務め居ていた経歴の持ち主だった。
戦争中、ドイツ人がスモレンスク郊外のカティンの森で2万3000人のポーランド兵の遺体を発見する事件が起きた。
ドイツ軍や国際赤十字、カトリック教会などはソ連の犯行と推定していた。
だがルジェンコは、カティンの森事件はナチスドイツによるものであると告発した人物だった。
後に露見することになるが、カティンの森事件はソ連NKVDによる虐殺だった。
1940年3月5日にNKVD長官べリヤの提案で虐殺が建議され、スターリンを含む政治局全員が承認したものであった。
長らくこの秘密命令は隠されていたが、1980年代末に自体が動く。
国際的な批判の流れに沿って、ゴルバチョフはしぶしぶNKVDの犯行であることを認めた。
そしてソ連崩壊後の1992年に文書が公開され、NKVDの悪行が白日の下にさらされたのだ。
「この私が辞任すると思うのか。
もし、共産党第二書記長の私が辞任をすれば、ソ連という国家は崩壊する」
スースロフの言に、ルジェンコはたじろいだ。
脇で黙って聞いていた赤軍参謀総長も、困惑の色を浮かべる。
「……と言いますと」
検事総長は、第二書記に問うた。
スースロフは、紫煙を吐き出しながら答える。
「このスースロフが辞職に追い込まれ、政界を退いた場合、ソ連はどうなると思うのかね」
それまで黙っていた参謀総長が、口を開く。
「現在の若手党員らの提唱する世界融和が進むと思いますが」
「絵空事だ!」
スースロフは、途端に嚇怒の色を表した。
「起こるのは、有象無象の輩による新たな権力闘争だけだ」
その場が、まるで雪山のように冷え冷えとした空気に包まれる。
シーンとした静謐の中、スースロフは口を開いた。
「いいかね。
政界に限らず、社会のシステムという物は大きな権力があってこそ、はじめて機能する。
今の小童どもに、そこまでの権力を維持する力はない……」
スースロフは確信をもって、なお続けた。
自分の様なキングメーカーが、ソ連を密々に政治局会議を動かしているということをである。
検事総長は、顔色を変えだした。
「すなわち、このスースロフの失脚はソ連共産党そのものの混乱と瓦解を意味するのだ!」
スースロフは愛用する口つきバタコを取り出すと、火をつける。
およその時間を計りながら、2、3服煙草を吸って、次の話を進める機会をうかがっていた。
スースロフは吸いつけたその煙草を斜めに持って、参謀総長の方を向く。
「同志参謀総長!貴様がちょろちょろと動き回っているのをこの私が知らんと思うか」
そのとき、彼は語気つよく参謀総長へ言い放った。
小賢しい奴めと、腹のそこから怒ったとすら聞えるほどな語気だった。
「それほどまでに権力が欲しいか」
第二書記は、目の前に立つ男に、まず、訊ねた。
「い、いえ」
参謀総長は、濁りのない声で、言いきった。
「欲しいなら、くれてやってもいいぞ」
「エッ!」
「だがな、お前のような尻の青い小僧っ子に国家が動かせるか」
蒼白な顔の内に、スースロフは、抑えがたい怒りを燃やしていう。
「世界の現状を見ろ!
今からのソ連は、誰が書記長になっても、安穏としていられる情勢ではない」
BETA戦勝利のためとはいえ、ゼオライマーに肩入れする参謀総長。
味方とはいえ、ソ連の秩序を乱すものに対し、スースロフは必然な憤怒をおぼえるのだった。
「近い将来に戦争が終わった後、必ずや世界的な大不況にソ連も飲みこまれる」
じっと、参謀総長は、第二書記の顔色を見つめた。
「その中で、お前は何ができる!
ソ連という国家を、ロシア民族を存続させる明確な意思を持っているのか!
政権を握るものとして、強固な理念や自信があるか。
明確な意思表示ができるか」
スースロフは一旦言葉を切って、立ち上がる。
参謀総長の顔を蔑むごとく、恨むごとく、じっと見てから答えた。
「政権を、ただの甘い役職と思うんじゃない!」
そういって、スースロフは政治局会議の場を後にした。
第二書記がいなくなったのを見計らって、検事総長が言い放った。
「老醜か、見識か……」
「いずれにせよ、有象無象がどう戦うか、でしょう……」
参謀総長は、勤務服の内ポケットから愛用する口付きたばこの白海運河を取り出した。
「私たちの様な青二才の小僧も、あの老獪な第二書記に……」
そして言葉を切ると、タバコに火をつける。
混紡サージ生地製の、深緑色の夏季勤務服を着た顔から、香りのある煙がゆるく這った。
場面は変わって、米国バージニア州ラングレーにあるCIA本部。
一人の分析官が資料を携えて、長官室を尋ねていた。
「長官、見てください」
分析官は、さきほどNASAから届いた資料を長官に見せた。
「先日、NASAがバーナード星系方面から、太陽系への怪電波を観測しました。
詳しく解析したところ、ソ連の月面攻略作戦とほぼ同時刻でした」
長官は、話のあらましを聞いて、表情が変わった。
「なるほど、とても偶然とは思えんな」
彼は米国の首脳陣の中で、ゼオライマーがもたらしたひと時の平和に惑溺しない人物だった。
「バーナード星系は、たしか地球と似た環境の星が存在する惑星だ」
「地球と似た星?」
「そうだ。
地球から6光年先にあるヘビつかい座にあるバーナード星系からは、生物が発生する条件がそろっているという。
フォン・ブラウン博士が進めていた、例のバーナード星方面への移住計画で、そういった分析結果が出されている」
「まさか、6光年の距離を?」
当然そうだという口調で、長官は続けた。
「火星にいたBETAは、こともなげに2億3000万キロの距離を侵攻してきた。
彼等の恐るべき能力なら、バーナード星系が拠点と考えてもおかしくはないだろう」
長官の横にいる補佐官の推測は、鋭かった。
彼はハーバード大在籍中にCIAにリクルートされた人物だった。
「もしや、今回のバーナード星系からの奇妙な通信は……」
「増援部隊の要請かもしれない」
長官は言葉を切ると、セーラムの箱からタバコを取り出した。
紙巻煙草に火をつけると、薄荷の匂いが部屋中に広がる。
「数光年の距離を自在に移動してくるとなると、手ごわい相手になる」
長官は、そう言葉を結ぶ。
意外な話に、分析官はビックリしていた。
太陽系外、ましてや数光年先から生命体が飛来するなどとは信じられなかったからである。
後書き
21日の投稿が出来なかったので、22日にしました。
年末も忙しいので、投稿日時が前後するかもしれません。
返信が遅れるかもしれませんが、頂いたものは全て目を通しています。
ご意見、ご感想、リクエスト等、お待ちしております。
柵 その4
前書き
アイリスディーナに、19歳の乙女らしいことをさせました。
色恋に興味のある年齢なのに、そういう事が出来ない世界ってかわいそうだなと思って、こういう話を書きました。
ふたたびマサキたちがいる日本に視点を戻してみよう。
米ソの陰謀をよそに、極東の日本は静かだった。
ニューヨークとの時差が14時間ある京都では、6月29日の夕方を迎えつつあった
今回の篁家へのアイリスディーナの訪問は、各機関によって綿密に計画されたものだった。
マサキが異世界人であることに葛藤し、自分自身の中で折り合いがつかず、何時までも気になる女性に手を出さないことに業を煮やしての措置だった。
マサキ自身は、一度目の死亡時、壮年だったこともあって、秋津マサトの若い肉体に違和感を感じざるを得なかった。
気にしていたアイリスディーナやベアトリクスの事は、どうしても自分が老齢に達した人間である事を意識し、引け目に感じていた。
その他にも、外国人であることや文化的な差異、生まれてくる子供の立場等を考えて、遠慮しがちになっていた。
そこで、白羽の矢が立ったのが篁だった。
篁は米人であるミラを妻に迎えているので、マサキを遠回しに説得できると思い、御剣が密かにこの計画を進めていたのだ。
夕飯が出来上がるまでの間、アイリスディーナは篁夫妻と歓談を続けていた。
一緒に来ていたマサキは、自分中心の話が出来ないので、途中から転寝をするほどだった。
「どうして、ミラさんは将来が約束されていたグラナンの研究職を捨てたのですか?
あそこに残っていれば、今よりもずっと自由な暮らしが出来たでしょうに……」
とりとめのない雑談が2,30分続いた後に、アイリスディーナは、ミラの退職について問いただした。
アイリスディーナの関心は、ミラの仕事に関することではなかった。
大企業グラマンの設計師の一人である彼女が、なぜ結婚を機に引退したという事であった。
大学院卒でキャリアウーマンのミラが、いとも簡単に仕事を捨て、家庭に入ったのが受け入れられなかったのだ。
人不足の東ドイツでは、1960年代半ばから婦人の労働参加が積極的に進められていた。
1980年代末の統計では、婦人の9割近くが何かしらの労働についている状態だった。
大体の職業婦人は、既婚か、離婚歴のある場合が、一般的であった。
公務員も同じで、警察などの法執行機関や軍隊でない限り、女性は出産後も元の職場に残って働いていた。
東独政府は人口維持の観点から、出産を推奨しており、一時金を払う制度を設けていた。
そして企業などにも託児所や保育施設の設置を義務化しており、家庭に居なくても子供を育てられるようにはなっていた。
主婦はいることはいたが、大体が家庭内で内職をするような自由業者か、小規模な自営業者だった。
有閑マダムの様なものは、前近代の遺物とされ、ある種の偏見が生まれていたのだ。
ミラの表情は一瞬強張った。
その直後、笑い飛ばしながら、アイリスディーナの疑問に答えた。
「面白いことをいう子ね」
ミラは、あいまいな笑みを浮かべながら続ける。
「私が単純にタダマサと一緒になったのは、自分の将来を考えての事よ」
それに対してアイリスディーナは何も言わず、真剣に聞き入っている様子だった。
マサキは、その話を聞いて、ふと前の世界の事を思い出していた。
婦人解放運動で、本当に女性は幸せになったのであろうかと。
女性が充実したキャリアを持つには、高校は無論のこと、大学や大学院に進む必要がある。
大学を出た後、企業や公的機関に就職し、そこから結婚をして、子供を設ける。
それが日米を代表とするG7諸国の一般的なキャリアウーマンの道だ。
ただそれを行うとどんなに早くても、女性は24歳以上になってしまう。
就職して2,3年すれば、27、8歳だ。
そうすると今度は子供を持つのが必然的に遅くなる。
前の世界では30歳前後の出産が一般化したせいで、高齢出産の年齢が5歳引き上げられたほどであった。
30歳前後でも健康な子供は生めなくはないが、生める子供の数は限られてくる。
仮に就職から結婚の期間が短くても、育児資金をためるために妊娠の時期を遅らせることが考えられる。
そうすると、今度は子供より親の介護や自分自身の老後を考えるしかなくなってくる。
必然的に子供を持つ数が減ってくるという負のスパイラルに入ってくる。
先進国の宿痾ともいうべき問題だ。
アイリスディーナがその辺に疎いのは、ソ連東欧圏という早婚の文化の中に育ったためであった。
ロシア人などは、婚姻可能な18歳前後で結婚し、若いうちに子供を産んでおく文化が一般的だ。
ただ近年は社会の変化で少子化の傾向も出てきており、第一子と第二子の年齢が10歳ほど離れているのが一般的である。
そしてある程度の年齢になると結婚していないのを以上ととらえる習慣も大きいだろう。
その為、20歳前後で結婚し、二人ほど子供を持った後、離婚するのザラだった。
ソ連や東欧の結婚制度では、余計な裁判や手続きなしに簡単に離婚できたためであった。
そして婦人の社会進出が進んでいたので、現金収入の手段が西側より多かったのもあろう。
ただしソ連の場合は、都市部の話であって、僻地や寒村では19世紀の様な状態が続いているとも聞く。
マサキは、篁とミラの結婚年齢の事は気にならなかった。
30歳の夫と27歳の妻というのは、平均的な日本人の婚姻年齢であり、また米国人の婚姻年齢であったからだ。
ただそれは2020年代の感覚である。
1970年代では、アメリカ人男性の平均結婚年齢は24歳、女性は22歳が一般的だった。
篁はともかくとして、ミラが婚姻年齢を気にしていたのはそういう事情があったのだ。
また東独では最も新しい1987年の統計でも夫25歳、妻22歳であり、世界的に25歳前後で結婚するのが普通だった。
だからアイリスディーナは、ミラが2年ほど前に結婚したと聞いて、驚いていたのだ。
早婚の文化圏に生まれ育った彼女の感覚からすれば、篁もミラも遅い結婚だった。
マサキが子供のおままごとと言っていたユルゲンとベアトリクスの結婚はよくあるもので気にならなかったのだ。
むしろ、25を超えて独身だったマライ・ハイゼンベルクなどは、東独社会では異質だった。
20歳を過ぎた女性が独身でいると、いろんな意味で変人の扱いだった。
逆に西独では初婚年齢が遅れる傾向にあった。
1989年の統計によれば、夫28歳、妻26歳だった。
妙齢のココットなどがマサキに粉をかけてきたのにはそういう理由があったのである。
東独と違い、西独では専業主婦が一般的だったので、職業婦人といえば独身が基本だった。
その為、国家公務員のキャリアウーマンなどは独身が多く、シュタージのロメオ工作員の餌食になった。
人生の大半を自己実現に使ってきた彼女たちは、シュタージ工作員の手練手管に圧倒され、簡単に協力者になった。
中には結婚詐欺に近い状況や、スパイになった事を恥じて命を絶つという事態になることも多かった。
だが大多数は自己保身のため、事件化せずに、シュタージやKGBの暗躍を許してしまう事になった。
そういう時代だったので、BND対ソ部長を務める女性がシュタージ工作員であるという悲劇が起きる遠因となった。
自由社会であった英米もまた、婦人解放運動のあらしが吹き荒れた。
それまで既婚女性の雇用が禁止されていた公務員にも雇用が認められ、男女間の不当な格差は排除される傾向にあった。
婦人参政権は1920年代にすでに実現していたが、医師や弁護士、建築士や設計士などの知識層に門戸が開かれたのは遅かった。
1970年代にはいると雪崩を打って女性がそれらの仕事に就いたが、性差別や猥褻行為は無くならなかった。
だが時代が進むと男女平等が徹底され、それまで認められていた扶養控除や出産手当が性差別とみなされるようになった。
そして、欧米の行き過ぎた性解放運動は、プロ野球やサッカーのリーグまで及んでいる。
男性のみのプロサッカーチームはおかしいとか、プロ野球に女子選手がいないのは差別といった具合である。
この流れは、今日、世界中を荒らしまわっているポリティカル・コネクト運動へとつながっている。
白く化粧をした共産主義である婦人解放運動を何処かで止めねば、この世界の女性の多くは不幸になるだろう。
キブツという共産主義的な共同体での実験を行ったイスラエルでさえ、職業の性差は解消できなかった。
恐らく女性が家庭に入って、家族のサポートをするのは脳の本能であると、なぜ気が付かないのか。
マサキは深い憂慮の念とともに、ため息をついた。
一斉にテーブルに置いてあるグラスに、琥珀色の液体が注がれる。
篁とマサキのグラスはコニャックで、ミラとアイリスディーナのグラスはジンジャエールだった。
「それでは乾杯!」
乾杯をすると、一斉にワイングラスを傾ける。
コニャックをおいしそうに飲むマサキを見ながら、興味を示した。
「私も、ちょっと試しに飲んでもいいかな」
「アイリスディーナさん、19歳でしょ?
貴方には、まだ早いわ」
これはミラなりの配慮だった。
未成年者のアイリスディーナに酒を出してはいけないという、如何にも清教徒の米人らしい発想だった。
「私は19歳です。子供じゃありません」
アイリスディーナは、東独の法律ではすでに成人年齢である18歳だったので、この配慮に違和感を感じた。
ミラの言に対し、マサキが補足するようなことを口走る。
「東ドイツでは18歳が成人かもしれんが、日本では20歳、米国では21歳だ。
ローマではローマ人のなすようになせとの諺もある。
アイリスディーナ、素直に応じるべきだな」
マサキの表情は、いつになく真剣だった。
ユルゲンとアイリスディーナの父、ヨーゼフがアルコール中毒に因る不具廃疾になっていたからである。
ここできつく戒めておかねばならないという、老婆心からだった。
「若すぎる飲酒は、まず大脳皮質を委縮させ、知能の低下を生じさせる。
肝臓や膵臓といった様々な内臓を痛め、一生涯苦しむ遠因になる。
何より、内分泌機能に異常を生じさせやすくなる……
簡単に言えば、月経不順になりやすく、若年不妊や流産や早産の危険性を増大させる。
つまりは、欲しい時に、望んだときに子供が出来ない体になる可能性が高い……
お前のような優れた女が、子を持つことすらできないのは非常な損失だ。
社会にとっての、いや国家にとっての、俺にとっての損失だ」
アイリスディーナの頬は、見る見るうちにリンゴのように赤くなった。
きわどい話をしているのはマサキなのに、聞いているアイリスディーナの方が恥ずかしくなった。
「米国での43000人に実施した疫学調査では、若年期の飲酒はアルコール中毒になりやすいという結果が出ている。
そして多量の飲酒は、不適切な性行動を誘発しやすく、またそういった事例に巻き込まれやすい。
望まぬ相手に、操を奪われるような真似はしたくもなかろう」
脇で聞いていたミラは、酔ったように顔を赤くする。
他人がいるときにしていい話だろうかという気持ちに、ミラはおちいっていたのだ。
「つまり、未成年の不適切な飲酒の影響は、非常に大きい。
本人の心身の健康障害だけでなく、その家族や周囲の人にも関わる重要な問題なのだ。
判ってくれたかな、アイリスディーナ」
アイリスディーナは、目元まで赤く染めながらうなづく。
「はい。わかりました」
話し終えたマサキは、ミラとアイリスディーナの表情を見て驚いた。
科学者として不妊の危険性という一般的な事を言ったのに、どうやら性的な話と拡大解釈して照れたのだな。
事情を把握した後、マサキは苦笑いを浮かべるしかなかった。
暮れていく夕陽を見ながら、マサキは酒杯を傾けた。
銘柄は、マルセル・ダイスの白。
篁が用意してくれた77年物のアルザスワインで、輸入物であるが比較的廉価な商品だった。
――アイリスディーナと逢瀬をした後は、何かと事件に巻き込まれる。
そんな考えが、マサキの頭をよぎる。
最初の時はKGBによる美久の誘拐で、2度目は着陸ユニットの接近だった。
二度あることは三度あるのか、それとも三度目の正直か。
マサキは苦笑しながら、ワイングラスを置いた。
夕食は、ウナギのかば焼きだった。
関西風に腹開きではなく、関東風の背開きだった。
これは篁家の料理人が、武家である篁に配慮した結果だった。
しかし、今回の訪問でミラが用意したものは何もかもがメッセージのあるものだった。
ワインは独仏が権益を求めて争った係争地のアルザス・ロレーヌ地方のもの。
昼間に出された茶器は、ハンガリーのヘレンドの磁器だった。
ヘレンドは、ドイツのマイセンの模倣品を焼く窯から発展した国営の磁器工場である。
マイセンは、景徳鎮や有田の磁器の模倣品である。
いわば昼間のヘレンド茶器は、今風に言えば、ブランドコピーのスーパーコピー品なのだ。
しかも時期の説明をする際、厭味ったらしく、最近は量産傾向にあり質が若干落ちたとまで付け加えたのだ。
統一後のマイセンに比べれば、費用対効果を無視した高品質ではないかとマサキが言いかけるほどだった。
それにしても、今夜のウナギのかば焼きには何かしらの政治的メッセージがあるのだろうか?
他の副菜を持っている皿は、全て有田焼の柿右衛門だ。
まるでドイツ人のアイリスディーナへの当てつけの様だ……
貴方の国・東ドイツは贋作づくりの国なのよと……
「なあ、ミラ、ウナギのかば焼きなどだして、何か意味があるのか」
政治の世界では、ウナギのかば焼きは意味のあるものだった。
50年ほど前まで家庭用の換気扇がない時代は、玄関先や店先で魚を焼くのが一般的だった。
うなぎ屋の前を通った客は、白焼きのきつい香りやかば焼きの何とも言えない甘い香りがして、つい店の中に入る。
いくら待っていても、ウナギのかば焼きが出てこない。
あるいは、かば焼きが出てきても小ぶりなものしかない。
いくら待っても見のある結果がないことを指して、鰻香と称した。
歴史用語でも鰻香内閣という言葉があるほどだ。
同事件は、1914年(大正3年)の山本権兵衛内閣のシーメンス事件による総辞職後に、枢密院顧問官清浦奎吾が組閣の大命降下を受けながら辞退に追い込まれた騒動を指す言葉だった。
また、戦後の日ソ交渉でもその言葉が多用された。
ソ連はことあるごとに北方領土返還をにおわせ、援助やシベリア開発を名目に多額の資金を日本側からかすめ取った。
日本側は数十億円単位の金を持ち出されながら、領土交渉は進まなかった。
そのことを外務官僚が、ウナギのかば焼きと称したほどである。
ミラは暗にフェニックスミサイルの事は教えませんよと、自分にメッセージを送っているのだな。
マサキはそう理解すると、アルザスワインの香りを娯しんだ。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
柵 その5
前書き
今年でもう4年目ですね。
東ドイツ政府が、F‐14に使われている新素材の秘密を探っている。
米国情報筋の動きとハイネマンの訪問時の話から、ミラは事前に察知していた。
アイリスディーナは、ミラから情報を聞き出す事に関し、議長やシュトラハヴィッツから言い含められていた。
だが、経験のない彼女にとって、ミラの話術は難関だった。
かつてミラは、議会や軍での予算獲得のために、並みいる政治家たちを説き伏せ、場合によっては仲間に引き込んでいた経験の持ち主だった。
そんなミラの前では、アイリスディーナは小娘同然だった。
F‐14の新機能の話を聞いていたはずが、いつの間にかF‐14のデメリットの話になっていた。
これはミラの作戦で、F‐14のデメリットを知って、東独政府に諦めてもらう作戦だった。
どうしてこういう作戦を思いついたかというと、かつてロバート・マクナマラの失敗があったからだ。
マクナマラは、ケネディ、ジョンソン政権下で国防長官を務めた人物である。
前線を知らないマクナマラは、予算削減のために三軍統一の戦闘機を求めて、軍内部と予算折衝でもめた。
彼は、米国には国防に必要な予算を回す余力はあるが、その余力を理由に国防費を使い過ぎるは許さず、費用対効果を厳密に分析する必要があると信じていた。
その際、米海空軍で共用できる戦闘機として開発されたのがF-111である。
両方の組織の意見を聞き入れた結果、航空母艦での使用が不可能な大型機が残されることになった。
そういう経緯を知っていたので、あえてF‐14のデメリットを説明することにしたのだ。
「東ドイツに必要なのは前線飛行場でも離着陸が可能で整備性が良く、滑空爆弾等を運用可能な機体であって、こんな整備性の低い機体は必要じゃないでしょ。
稼働率悪化で、定数割れが関の山」
米海軍内部でF-14トムキャットは、高性能だが、整備性が劣悪で費用の懸かる金食い虫の戦闘機と呼ばれた。
「今、米国政府内では新しく作ったF‐14の生産コストが高くて、量産できないの問題に直面しているの……
だから、もっと安価で性能をうまく維持した機体を作ろうって、話になっていてね」
ミラに当たり前のようにさらりと言われ、アイリスディーナは驚きとともに不信感がもたげる。
「開発資金のない東ドイツは、どうすればいいですか……」
アイリスディーナの詰問に、ミラは、一瞬言葉を詰まらせた。
なぜならアイリスディーナのに、満足な答えがなかったからである。
しかし、低価格高性能の戦術機は、ジョン・ボイド少佐が率いる優れた研究チームによって行われていた。
その結果、BETA戦でもっとも重要であるのは、光線級の対空砲火からの高速での回避運動であることが判明した。
そして、光線級を撃滅するには、先進複合材を用いた軽量戦術機が必要であるという結論が出た。
しかし、開発に成功したF-16は、米政府の方針で輸出が禁止されていた。
「その後、ジェネラル・ダイナミクスが問い合わせたら、最新鋭機の場合はダメだという答えを貰ったの」
「じゃあ、東ドイツがF-16を購入することは無理だと……」
「外装やエンジン性能を落とした廉価版なら、国務省が許可するって話が出たの。
モンキーモデルって、言えばわかるかしら」
軍事用語に、「モンキーモデル」という言葉がある。
これは、生産される兵器に対して、意図的に性能を落とした派生モデルのことを指す言葉である。
一般的に使うようになったのは、1978年に英国に亡命したGRU(赤軍参謀本部情報総局)将校ヴィクトル・スヴォーロフの著書で用いられたのが嚆矢である。
スヴォーロフの著書により、諜報の世界から一般に知られ、主にソ連製の兵器に用いられた。
「正規モデルの輸出許可は出るでしょうが、いずれにせよ、時間はかかるわ。
それまではモンキーモデルで頑張ってもらうしかないわね」
軍事におけるモンキーモデルは、実は日本も無関係ではない。
日本政府は、第一次世界大戦前に、英国ヴィッカーズ社に金剛型戦艦を2隻発注した。
(1828年から1999年までヴィッカーズ。1999年から2005年までBAE システムズ。2005年以降はBAE システムズ・ランド・アンド・アーマメンツ)
その際、「金剛」と姉妹艦の「比叡」の製造方法が異なるという事態があった。
金剛は英国の工廠で、基準的にも優れた品質の鉄で作られた。
しかし比叡は、英国のデータを元に日本国内で建造された軍艦だった。
その為、船体に使われている鋼鉄の質が、従来の英国製に比して劣り、日本製の劣悪な工具で改造できるほどだった。
篁亭を後にしたフランク・ハイネマンはあてもなく京都市街をさまよっていた。
篁とミラが結婚したという話は知っていたが、すでにその間に子供がいた……
予想もしない事実にハイネマンの衝撃は大きかった。
本当にミラは、篁の妻になってしまったのだな。
結婚すればいずれは子供ができるという予想はしていたものの、その事実はやはりショックだった。
その時である。
ハイネマンの目の前に、車が止まる音がした。
彼は思考を打ち切って、近くにあるシトロエン・CXの方を見る。
運転席は暗くて見えないが、日本人の様だった。
「こんばんわ、ハイネマン博士」
開いた後部座席から声をかけてきたのは、穂積という男だった。
ハイネマンの認識では、彼の来日費用を立て替えてくれたビジネスマンだった。
「お見かけしたもので……
急ですが、私の家まで来ませんか」
ハイネマンは穂積を信用して、男の館に向かうことにした。
男が向かったのは、五摂家の一つである九條家の屋敷だった。
ハイネマンは、穂積に睡眠薬入りの酒を飲まされ、そこにある地下室に連れてこまれた。
気が付くと、ソ連赤軍の軍服を着た一団に囲まれていた。
ソ連兵は何を考えているのか。
剣呑な表情で、AKM突撃銃の銃口を向けてきた。
下手な事をすれば、自分の命は危ない。
そう考えたハイネマンは、ソ連軍の将校に訊ねた。
「要件を聞こう」
ソ連軍将校は両手を腰に置くと、不敵の笑みを浮かべた。
コンクリートが打ちっぱなしの室内を、軍靴を踏み鳴らしながら歩く。
「簡単な事。
F‐14に使われた新兵器、フェニックスミサイルの技術を、BETAで苦しむソ連に提供してほしい」
「バカな事を!そんな事をすれば……」
「あなた方は、GRUの連絡員に設計図面を渡せばいいだけです。
後の始末は私たちが……」
「無茶だ!断る」
「死にますよ。
ご友人の篁とその一家が……」
ソ連軍将校は、懐中からパーラメントのキングサイズを取ると、1本抜き出す。
煙草に火をつけ、吸いこんだ後、紫煙と共に口を開いた。
「GRUを、舐めんでほしい。
貴方の大事なご友人の傍には、GRUの潜入スパイがすでにいるのです。
電話一本で消せるのですよ……」
将校が黒電話の受話器を取ろうとしたとき、ハイネマンは飛び掛かった。
「止めろ!貴様ッ!」
将校は素早い動きでハイネマンを羽交い絞めにすると、その頬に平手打ちをくらわした。
「わ、私がF‐14のファイルを渡せば……
た、篁は、ミラは無事なんだろうな……」
GRUの将校は、大げさに肩をすくめた。
「それはあなたの出方次第」
四方より銃口を突き付けられたハイネマンは、押し黙るしかなかった。
天才技術者の無様な姿を見て、GRU将校は悪魔の哄笑を浮かべた。
後書き
ご感想お待ちしております。
国際諜報団
前書き
今回は短めです。
夜も更けた京都市内。
闇夜の中から、4ストロークのエンジン音を響かせたCB750Fが姿を現す。
バイクは篁亭の前に止まると、運転手の女が降り立った。
ライダースーツを着た運転手は突如として、2メートル近くある塀を飛び越えた。
女は、空中で奇麗なバク転を描き、音もなく庭に着地すると、屋敷の母屋に駆け寄った。
屋敷の主人である篁は、庭の向こうにかすかな気配を感じた。
篁が押っ取り刀で障子を開けるより早く、ライダースーツ姿の人物が入ってきた。
「どうした、美久!」
マサキの呼びかけが遅れていたら、美久は切りかけられている所だった。
篁の右手には、すでに抜身の真剣が握られていたからである。
「お迎えに上がりました。榊次官がお呼びです」
昭栄化工(1992年以降はshoei)s-12の黒いフルフェイスヘルメットを脱ぐなり、美久はそう言い放った。
「何だって!!」
マサキの怒りで真っ赤になった顔を、美久は平然と見ていた。
その表情があまりにも平坦なので、後ろで見ていたアイリスディーナは奇異に感じた。
篁に抜身の打刀を向けられているのに、まるで人形のように見えたからである。
普通なら顔をゆがめたり、悲しそうな表情になるのではないか。
それがまるでそんな気配はなく、当たり前だという表情をしていたからだ。
眠っているユウヤを抱きかかえていたミラは、拍子抜けした。
「とにかく時間がありません。
バイクで祥子さんのスナックに行きましょう」
いきなり話が飛躍したので、マサキは一瞬ポカーンとした。
すぐに、マサキの表情に狼狽の色が現れ、いっぺんに落ち着きを失った。
しばらくすると、何かが飲みこめたようだった。
マサキは、いかにも仕方がない感じで、美久の顔を見た。
「わかったよ。
だがアイリスディーナは……」
「私が帰ってくるまで面倒を見ますわ」
「ミラ……」
ミラの話ぶりには、人の良さと誠実さを感じた。
「博士、後のことはお任せください
何かあっても、僕と篁さんがいますから」
自信たっぷりな白銀のいいように、マサキは納得した。
この男は、鎧衣と共に3000名ものPLFPゲリラから生還した男である。
敵陣の中から、手負いのデルタフォースを無事に救出したのを知っている。
マサキは白銀にうなずくと、黙って美久の後についていった。
バイクは深夜の府道37号線を疾走した。
帝都城の目の前の幹線道路であるが、深夜なので通る車も人もほとんどいなかった。
ヘルメットをかぶったマサキは、強い力で美久の背後から抱き着いた。
バイクの2人乗りで走行中に抱きつくのは、実は危険なのは、マサキも知っていた。
運転手の重心が変わり、操作性に影響するからである。
だが、美久を慰撫する意味もあって、彼女の背中に抱き着いたのだ。
美久は自分が作った推論型AI搭載のアンドロイドである。
高度な学習システムで人間のような感情を持つのは知っていたが、秋津マサトに好意を抱ていたのは本当だったのだろうか。
マサキは自問自答していた。
もしマサトが最初から躊躇なく人を殺せる人間だったら、美久が人情を持つことは無かったのではないか。
人間の愛は、心を持たぬアンドロイドをも動かすことができる。
ならば、人間と機械の間の壁は、決して越えることは不可能ではない。
壁がある者同士が絆を結んでいくというアイリスディーナの考えも間違ってはいないのではないか。
共産圏の人物でありながら、アイリスディーナへの未練を断ち切ることのできない、愚かな人物という意見もあろう。
マサキは、理想と現実と、心と体の葛藤に一人悩まされていた。
スナックで待っていたのは、榊といつもの彼の取り巻きだった。
「こんな深夜になんだ」
言葉を切るとタバコに火をつけた。
「ハイネマン博士が何者かの車に乗って、失踪したとの匿名のタレコミがあった」
警保局長の瀧元は、簡単に事件のいきさつを述べた。
超高性能ミサイルを搭載可能な戦術機の設計技師の誘拐は、それ自体が国際問題である。
日本警察は、なにをしているのだろうか。
マサキはおもわず失笑した。
「これを見たまえ」
そういうなり、瀧本は上着の内ポケットから、封筒を取り出した。
黒髪に緑色の瞳をした壮年のスラブ人が写った数葉の写真を、机の上に並べる。
「ワシリー・アターエフ。
この男は、75年から続くモザンビーク内戦に参加しているGRU将校とされる。
今年に入ってから、イラクの共和国防衛隊の軍事顧問団に参加したと内務省では見ている」
写真には、それぞれカーキ色のイラク軍の軍服とモザンビーク解放戦線のトカゲ迷彩服が写っていた。
「この男は、ソ連戦略ロケット軍の少佐で、ヤンゲリ設計局の将校だったという話がある。
60年のネデリン事件の後、GRUにスカウトされて、工作員に転身した様だ。
今夕、アエロフロート機で伊丹国際空港に来たという情報を得た」
ネデリン事件とは、1960年10月24日にバイコヌール宇宙基地で発生したR-16ミサイルの自爆事故である。
ソ連の科学者サハロフによれば、ミサイル技術者が150名近く死に、ビデオカメラでその光景が録画されていたという。
「そろそろ京都市内に入って、GRU工作員と接触するとの情報を得た。
ハイネマン博士は、おそらく彼らに監禁されているのだろう」
マサキは、吸っていたホープをもみ消した。
「敵は外交官旅券を持つ連中だ。
日本国内に居るうちに処理になければ、我々も迂闊に手を出せない」
場面は変わって、京都市内にある九條家の館。
そこではソ連工作員とスパイたちが密議を凝らしていた。
「新型のフェニックス・ミサイルは、最大射程50キロという大したものです。
このミサイルの特徴は、49キロほどは一つのミサイルで飛び、標的の100メートル前で散弾する仕掛けになっております。
50キロ先の動く標的を、確実にしとめることができるのです」
穂積は顔をゆがめると、九條とGRU工作員の少佐の方を向いた。
「これをイラクの革命防衛隊に流せば、ペルシャのファシスト共は手も足も出まい。
ミサイルを解析して、対策を取れば、イラン空軍は秘密兵器を失うことになる」
帝政イランには、すでにフェニックスミサイルを搭載したF‐14の引き渡しが決まっていた。
イラン領空を侵犯するソ連偵察機を撃退する目的で、米国から購入したのであった。
「あるいはPLOに渡して、イスラエルや親米反ソの諸国を攻撃させる。
中東経由の石油が入って来なくなれば、国際的な石油価格は上がり、ソ連は経済的苦境から脱出できる。
まさに一石二鳥の作戦よ」
ソ連の経済は、資源価格に左右されたものだった。
史実の1980年代においてアンドロポフやゴルバチョフが冷戦を終結させたのは、石油価格の下落が一因だった。
湾岸諸国の石油増産によって、石油価格が下落し、ソ連は天然資源の売買による利益が低下した。
収入が立たれたことによって、ソ連は過大な軍拡競争に耐えられなくなったのだ。
「その気に乗じ、中東各国の石油コンビナートを爆破し、人工的な大気汚染や石油流出を作る。
環境汚染で苦しむ水鳥や動物の写真などを取って、西側諸国にばらまいて、大気汚染の深刻さを演出するのだ」
もう一人のソ連協力者である大野は、少佐の意見に相槌をうつ。
「それで、西ドイツのヒッピーに金を出して、緑の党を作ったのですな」
「ああ、西側諸国が偽物の環境汚染で足踏みしている間に、ソ連は行き場の失った最新技術を格安で導入する。
やがては、極東の工場群で作られた石油化学製品で、世界経済をリードする。
我ながら、素晴らしい作戦よ。フハハハハ」
後書き
今年から毎週日曜日の連載に変えさせていただきます。
執筆時間がなかなか取れないためです。
ご意見、ご感想お待ちしております。
国際諜報団 その2
前書き
今回も短めです
1970年代のソ連は、人口2億人弱だが、戦車341両と装甲兵員輸送戦闘車232両からなる戦車師団を50個ほどもつ強大な軍事国家だった。。
その他に巨大な航空戦力と海軍戦力と大量の核兵器を持ち、宇宙開発に莫大な資金を投下していた。
優秀な人材は、軍事関連か、KGBに採用されるのが常だった。
兵士の食費だけでも莫大、生産物は兵器や軍事関連優先だった。
経済体制も、採算性を無視し、予算も湯水のごとく使い放題だった。
ただし、この頃になると既に高度精密電子産業では、ソ連は西側に完全に水をあけられていた。
ICBMはおろか、通常戦で米国が率いるNATOと実際にぶつかっても勝てないと考えられていた。
その為、ソ連はKGBが主体となって、テロ作戦を実行していたことは以前話したとおりである。
GRUもまた、非正規戦闘に注目し、早い段階から超能力者の選別を行っていた。
ソ連政府は、早い段階から超能力者に目を付けていたが、KGBは彼らの存在に懐疑的だった。
KGBは、最高検察庁と共に超能力者を取り締まった。
特に検察は、機関紙である「法と証拠」の誌上で詐欺と認定し、精神病院に収容したり、実刑判決を出すほどだった。
だが、国連を通じた米国からの依頼で、超能力者を活用する計画が持ち出されたときには飛びついた。
国連よりオルタネイティヴ3計画の予算として、1968年から500万ドルの支援を受けていた。
これは当時の国連予算の20分の一であり、1967年のソ連の歳入の0.4パーセントにも匹敵するものだった。
(参考までに言えば、1967年のソ連の国家歳入は1102億ルーブル、国家歳出は1100億ルーブル。
1961年から1981年まで、1ルーブル=1ドルの固定ルートだった)
尚且つ、ソ連は継続戦争やコンゴ動乱を理由に分担金の支払いを止めている状態でのことだった。
巨額の開発資金の多くは、ソ連の諜報活動の資金に編入され、残った僅かな資金の身がESP発現体の開発に使われた。
その為、ESP兵士の多くはソ連各地から徴募した超能力者や霊能力者を結婚させて、生ませた子供が基本になっていた。
自然妊娠では、ESP能力の発現が悪いという事で、LSDやMDLAなどの向精神薬を用いる方法も多用されていた。
ソ連科学アカデミーでは、人工子宮の実用化には成功していたが、肝心の電子部品がなかった。
ソ連のエレクトロニクスは1960年代前半で止まっていたからである。
そこで彼らは諜報活動を通じて、防諜体制の弱い日本から電子部品を輸入することとしたのだ。
ここまでの話を見て、読者諸賢はソ連の宇宙開発に疑問が生じているであろう。
ソ連は何故、BETA戦争で国力を減退した状態であるのに宇宙開発を続けたのかと。
理由は実に明快である。
米国の覇権主義に対抗するには、覇権主義で応じるという態度を、ソ連が取っていたからだ。
ソ連は、1940年代前半に米国内で核爆弾の研究が開始すると同時にスパイを送り込んだ。
内部にいる工作員を通じて、技術提供を受けたソ連は、核技術の実験装置とノウハウを手に入れた。
結果として、ソ連は1948年に核分裂に成功し、1949年に核実験を完了した。
その際、ソ連は、核弾頭とその運搬手段である戦略爆撃機の数が米国に比して劣っていた。
重爆撃機の数とその質はソ連時代を通じて、終ぞ米国に追いつけなかった。
その為、フルシチョフ政権下のソ連は、大陸間弾道弾の開発を最優先課題とした。
ロケット学者であるセルゲイ・コロリョフに全権を渡して、新型ロケットの開発を進めた。
しかし、軍艦建造費や戦車等の軍事予算を削って、ロケット開発に入れ込むフルシチョフは1956年の第20回党大会で軍部の批判を浴びることとなった。
フルシチョフは、翌年に中央幹部会で罷免決議をされるも、そこからまき直し、反対派を一掃した。
足場を固めたフルシチョフは、改めてコロリョフに新型ロケットの開発を命じた。
そしてコロリョフは、最新鋭のR7ロケット開発を進めた。
だが、R7ロケットのノーズコーンの耐熱不足という技術的な問題で、ICBM開発で行き詰ってしまった。
もしこのロケットが成功しなければ、自分を推薦してくれたフルシチョフともども失脚しかねない。
そう考えたコロリョフは、R7ロケットをICBMではなく人工衛星打ち上げロケットとして発表した。
1957年当時、国際地球観測年に合わせて世界各国で様々な行事が行われた。
米国はこの機会に乗じて地球観測衛星を打ち上げる予定であったが、失敗する。
その年の10月4日に、ソ連は突如として人工衛星の打ち上げを発表した。
衛星の名前はスプートニク1号で、その事実は全世界に衝撃を与えた。
後の世に言うスプートニクショックとは、このソ連の人工衛星打ち上げの事であった。
ソ連当局はさほど大事件と考えていなかったが、西側の狼狽ぶりを見て、考えを改めた。
翌11月7日の革命記念日に、ライカと名付けたメス犬を載せ、宇宙に送り出した。
ライカは打ち上げの途中で高温に晒されて死亡してしまい、実験は失敗した。
だが生命体を宇宙に送り込むという実験は、全世界に衝撃を与え、その後の宇宙開発の方針を決めてしまう事となった。
このように、ソ連の宇宙開発は核ミサイルが未完成という事実をごまかすための弥縫策であった。
だが西側の反響を見て、ソフトパワーとして使えると認識したフルシチョフによって、宇宙開発は重要視されることとなったのだ。
ソ連は米国とは違い、宇宙開発専門の部局がなく、戦略ロケット軍の管轄下だった。
それは国際共産主義運動の連絡網構築と軍事支援を行っていた観点から、宇宙開発を軍事作戦と認識していた為であった。
人工衛星は高高度偵察機に代わるものであり、衛星による有人飛行は是非とも行わなければならないものだった。
そんな中行われた、1961年のガガーリンの有人飛行の影響力はすさまじかった。
西側のみならず、世界を震撼させたハンガリー動乱の負の記憶を払しょくさせた。
これらの結果は共産主義の優位であると喧伝し、ソ連は膨大な国費を弄しても宇宙開発を進めることとなったのだ。
KGB本部では、毎週定例の幹部会議が行われていた。
スースロフに辞任を迫った検事総長と参謀総長の行動を見て、新たな対外工作をする提案が幹部たちより出されていた。
「同志長官、我が国が月面で敗北したことは、おそらく数日のうちに露見しましょう。
その情報を伝え聞いた時、アメリカ野郎と、日本野郎がどう反応するかです。
木原が動くのは間違いありません。
問題は、木原の事件の調査を、どう妨害するかです」
KGB長官は、黙って幹部の発言を聞いていた。
顔には満足そうな笑みを浮かべ、静かに相槌を打つ横で、幹部たちが思い思いのことを言う。
「木原に、アルファ部隊の精鋭を差し向けましょう」
「いや、近しくしている者を攫って、木原にゼオライマーの秘密を明かすように脅すのです」
「日本野郎を動揺させるために、過激派を使嗾して、都市部で連続爆破事件を起こしたい」
「私は、モザンビーク政府に工作員を送り込み、南アフリカに軍事侵攻をさせ、米国の関心をそらすべきだと思う」
幹部たちの言葉を遮ったのは、モスクワの東洋学研究所の職員の男だった。
東洋学研究所は、その名前とは違って、アジア方面でのKGB工作員の養成所である。
全教員・職員がKGB将校で、生徒の75パーセントがKGB工作員という場所だった。
「フハハハハ」
男は大げさな笑いをして、周囲の関心を集める。
幹部たちは一斉に憤懣を湛え、その60がらみの男の方を向く。
「そんな事では、日本野郎の木原に勝つことは出来ぬわ!」
一斉に幹部たちは立ち上がり、腰に手をあてた。
「人の事を笑うのですから、何か良い考えがおありでしょうね」
「もちろん」
男は軽い笑みを浮かべながら、応じた。
「人間という物は、肉体的に厳しい状態に置かれるよりも、精神的に痛めつける方が答えるものよ」
幹部の一人が詰め寄ると、真剣な表情で尋ねた。
「早くお話しください、その戦略とやらを!」
東洋学研究所の男は鼻で笑った後、概要を語り始めた。
「まず訪日中のハイネマンを言葉巧みに誘惑し、ソ連の戦術機開発計画に参加させる。
人類のためなどと言って、我らの協力者に仕立て上げる。
ハイネマンは、日本貴族の篁とその妻、ミラ・ブリッジスと昵懇の仲だ……
そういう人物がソ連の工作員だった……その事実は木原に衝撃を与える」
東洋学研究所の男は、第二次大戦中から対日工作の現場で働いていた古参だった。
ウラジオストクの国立極東総合大学東洋学部の在学中にKGB第1総局にスカウトされ、モスクワの東洋学研究所の外部生になった。
「人間関係の弱い木原が、信頼する人物に裏切られてみろ!
その事でノイローゼになって、ろくにゼオライマーも動かせまい。
そうすれば、諜報機関も惰弱で、核戦力もない国の世論など簡単に動かせる」
KGB長官は、男の提案を受け入れた。
「その線で行きたまえ」
後書き
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国際諜報団 その3
前書き
今回も3000字弱。
ソ連がハイネマンの作ったF-14を欲しがったのにはいくつかの理由があった。
まず、新開発のフェニックスミサイルである。
精密誘導の可能なクラスター弾に関して、ソ連には魅力的に見えたのだ。
次に、F‐14に搭載されたAN/AWG-9レーダーである。
この全天候型火器管制レーダーは、F-111に搭載する目的で開発されたものであった。
レーダーの最大探知距離は200kmを優に超え、戦場で24の目標を自動追尾、補足し、6の目標を同時に攻撃できる他に類を見ない物であった。
だが、F-111Bの開発計画が頓挫した後、宙に浮いていた物であった。
それをフェニックスミサイルの運搬を主目的とするF‐14に転載したのであった。
このレーダー探知機は、米海軍の他に採用したイラン空軍で別な運用をされていた。
それは一種の早期警戒管制機としてである。
イランは、その国土の多くが高原に挟まれた地形であることが原因だった。
ペルシア高原と呼ばれる盆地状の高原が、東のイラン中部からアフガニスタン,パキスタンにまたがる。
北部はエルブールズ山脈、ヒンズークシ山脈、南西部にザグロス山脈が連なる。
これらの山脈の為、ソ連やアフガンからのソ連重爆撃機や偵察機の侵入を警戒するための固定式のレーダーサイトが設置しずらいという過酷な環境であった。
その為、早期警戒管制機の導入が急がれたが、BETA戦争での情勢悪化を理由に取りやめになってしまった経緯があったのだ。
以上の理由から、F‐14はイラン空軍で簡易早期警戒管制機として運用され、地上攻撃機としても使用され始めた。
ソ連のKGBの関心は、フェニックスミサイルではなく、F‐14に搭載された電子計算機であった。
この技術を盗んで、より優れたスーパーコンピューターを作ることが目的であった。
一方、GRUの目的は、F‐14に搭載されたAN/AWG-9レーダーであった。
このレーダーを改良し、ESP専用の特殊戦術機を量産化する事であった。
BETAの行動や目標検知追尾装置を兼ね備えた、無敵の超マシンを開発することが最終目的だったのだ。
場面は変わって、大阪府豊中市にあるソ連領事館。
そこの一室では、ある男が深夜にもかかわらず長電話をしていた。
「GRUが飼っている猿どもが、ハイネマンを拉っしたらしい。
で、……どうする」
電話の相手は、ウラジオストックのKGB第一総局だった。
第一総局長はタバコを吸うのをやめ、男の問いに答える。
「話は分かった。
GRUの奴らと手を組むことには異論はない。
だが……信用できるか」
ソ連人、いやロシア人は、決して見知らぬ人間を信用しないという意識が厳然として残ってた。
互いに同国人同士を信用せず、異国より支配者を招き入れ、戴ていたロシア社会の宿痾は、ソ連になっても解消できなかったのだ。
しかし、ひとたび身内となれば、ロシア社会では冠婚葬祭の互助はおろか、退職後の面倒まで見るのが一般的だった。
役所の部署は、自分の子飼いの部下や身内で固めて、上司の異動ごとに芋づる式に連れて歩くのが一般的である。
今日のロシア社会でもそういった慣習は引き継がれ、社会の腐敗や汚職の温床となってしまっている面がある。
「お互いに信用などしていない。
だが、同じ目的の為ならば、裏切りはしまい」
KGBには、イワン・セーロフを始めとしてGRUの人員が1953年以降、高級将校として採用された。
だが、KGBの前機関であるNKVDでは、GRUの名だたる幹部を粛正した歴史を持っていた。
またKGBは1918年以来、ソ連指導部の命により、ソ連赤軍を監視し、スパイ活動を行っていた。
そういう経緯があったので、GRUとKGBは相互不信の間柄でもあったのだ。
「俺たちは急がねばならん。
死に掛けの老人に、この国を潰されるような真似は……」
チェルネンコ議長の病気は、KGBでの公然の秘密だった。
病弱だったチェルネンコは、長年の不養生がたたり、慢性疾患である肺気腫に苦しめられていたのだ。
その時、第一総局長室のドアを叩く音がした。
男は受話器を置くと、カズベックの箱に手を伸ばす。
「同志局長!」
入って来た兵士を後目に、男は口付きタバコに火をつけた。
「本日の閣議は、同志議長のご不例より延期となりました」
「また、お倒れになられたか」
「はい!」
男は、壁にかかった歴代書記長の肖像の方を振り返る。
じっとチェルネンコのポートレートを睨みながら、つぶやいた。
「たしかに、急がねばならん!」
KGBに時間がなかったのと同様に、マサキ達にも時間はなかった。
仮にハイネマンが日本国外に連れ出されれば、司直の手が容易に伸ばせなくなる。
そしてソ連の誘拐を成功させてしまえば、日米関係の悪化を招く事にもなる。
そうすれば、マサキの思い描く、世界征服の夢もまた一歩遠くなる。
故に、マサキには時間がなかったのだ。
捜査官の話し声によって、マサキの意識は再び現実に引き戻された。
いつの間にか来てた御剣雷電に対して、捜査官がこのと経緯を説明している最中だった。
「そういう訳でして、警官が現場に着いた時、もぬけの殻でした。
ハイネマンを乗せたと思われる自動車は、宇治川の河川敷に乗り捨てられてました」
御剣は思案の末、瀧本を問いただした。
「瀧元君、警察出身の君はどう思う」
「ハイネマンの宿泊先や滞在日数をしていることから、内部の者が関係していると思われますが」
「その裏切り者は、誰か、直ぐにわかるんだろうな」
「いや、ハイネマンの護衛は警備部が行っていたが、その日は博士の指示で引き上げています。
とはいっても彼の訪日は週刊誌で報道されていて、周知の事実。
複数の尾行があれば、今回の襲撃は可能なのです」
瀧元の発言は、官僚らしい要領を得ない物だった。
マサキは苛立ちを隠すために、煙草に火をつけた。
「特定の人物を絞るには、かなりの時間が……」
御剣は、思わず苦虫を嚙み潰したよう顔をした。
マサキは驚きのあまり、吸っていたタバコをもみ消す。
普段は、決して表情を変えない男が……
目を白黒させて驚き見入るマサキの前で、御剣は満腔の怒りを露わにした。
「それにしても、こんなことは初めてだ。
将軍のおひざ元で、堂々と人攫いをするとは良い度胸だ!」
「失礼します」
その時、どこからか現れた鎧衣が、複数の写真を彼らの前に示した。
それはハイネマンが誘拐される屋敷の写真だった。
「これは情報省が、仕掛けた監視カメラで密かに捉えたものですが……」
写真には黒覆面に作業服姿の男たちが、銃で武装した姿が写っていた。
マサキは我慢が出来なくなって、脇から口をはさむ。
「AK47やSKS……
東側の軍隊用の武器……
日本の武家社会では、こういう物が出回っているのか?」
この異世界の日本では、刀剣類はおろか、拳銃の個人所有が免許制で認められていた。
事情を知らないマサキは、思わず口に出したのだ。
御剣は少し思案した後、口を開いた。
「ふむ。
言われてみれば、五摂家の私設軍隊である近衛軍以外に本格的に武装した組織は聞いたことがないな」
瀧元は鎧衣の方を向く。
「鎧衣君、君の意見は……」
「闇社会でも、こういった武器を手に入れれば、普通は噂になるはずです。
外国政府のスパイか、自分の軍隊を持つ五摂家なら別ですが……」
マサキが納得したかのように呟いた。
「正論だな」
後書き
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隠密作戦 その1
前書き
スパイ退治、その1
「福井県沖の排他的経済水域に、ソ連の船!」
マサキは、鎧衣が持って来た航空写真を見て、声を上げた。
それをマサキの肩越しに、美久がのぞき込む。
鎧衣の持ち込んだ資料の中には、米軍の偵察機でとらえた写真が複数あった。
そこには、日本近海を遊弋するソ連海軍の軍艦2隻が写っていた。
「船影から類推するに、キンダ型巡洋艦……」
鎧衣は写真の説明を続けた。
美久はうなずきながら、答えた。
「確か、ソ連太平洋艦隊所属の最新型ミサイル巡洋艦です」
鎧衣は、美久の言を補足した。
「恐らく、近くに潜水艦でもいるのだろう」
マサキは、瞬時に敵の狙いを理解した。
ハイネマンの事を潜水艦に乗せて、ソ連へ誘拐する。
スパイ事件とは言え、即座に海軍が動くとは考えにくい。
こう言う事件の場合は、普通は沿岸警備隊が先に動く。
しかも原子力潜水艦にミサイル巡洋艦では、日本政府も手出しできないだろう。
なぜなら短距離の核ミサイルなどを撃ち込まれたときには、もうお手上げだからだ。
この時代の日本の地対空ミサイルは、確かナイキミサイルだ。
湾岸戦争で活躍したパトリオットミサイルでさえ、40パーセント前後だ。
日本政府は、その事を考えて及び腰になるはず。
何としても、日本国内に居るうちに事件を解決させねばなるまい。
こうなったら、事件を引き起こした人物を徹底的に抹殺するしかない。
中途半端な結果では、連中は報復してくるのは見えている。
マサキは不安な気持ちを押し隠すように、タバコを取り出した。
その瞬間、何者かが火のついたダンヒルのライターをマサキの前に差し出す。
慌てて振り返ると、御剣雷電だった。
「み、御剣……」
「余計なことに構う事はない……
穂積を潰しなさい」
御剣の口からそうきいて聞いて、マサキは驚いた。
穂積は、九條の娘婿、つまり義理の息子だからである。
「だが、九條は五摂家だろう……」
「私には、五摂家よりも大事なものがある」
一瞬、誰の面も悽愴に変ったが、静かにただ見守り合う目であった。
御剣の言を聞いたときに、ここに居る全員もまた御剣と同じ覚悟になっていた。
御剣は、床から布で包まれた棒状のものを拾い上げると、テーブルの上に置いた。
濃紺の包みを取ると、朱塗りの鞘に納められた打刀が現れた。
それは御剣家に代々伝わる宝剣・皆琉神威であった。
「これから大津にある九條亭に乗り込む。
おそらくそこにハイネマンがいて、穂積もいる」
「作戦時間は……」
マサキはM16A1小銃の点検をしながら、御剣に訊ねた。
「90分以内」
御剣は机の上に置いた九條亭の見取り図を前に話す。
彼の目の前には、7人の人員がいた。
すなわち紅蓮醍三郎、神野志虞摩、鎧衣、彩峰、美久、マサキである。
「作戦遂行中は、敵に感づかれないために一切電灯の使用は控えろ。
だが万が一のために、米軍のL字型ライトを持っていけ」
「全員がですか」
神野が尋ねてくる。
「一応狙撃手だけは、米軍のマグライトを使う。
ただし、頭上に樹木のある場所だけだ。
他の要員は、腰のベルトにライトを固定させよう」
マグライトは、1979年に米国で発売されたばかりの新商品の懐中電灯だった。
アルミ削り出しのこのライトは、従来の懐中電灯より若干重かったが、非常に堅牢な為、米国の法執行機関で愛用された。
また早い時期から日本にも個人輸入され、1980年代初頭には5000円と高価であっても1ダース単位で売れたという。
後に日本は、マグライトが世界で2番目に公式販売された場所でもあった。
「了解しました」
短く返事があった。
腰の位置に光源を固定するのは、足元を照らすためである。
そして安全上の配慮として、少しでも発見を遅らせる為でもあった。
「屋敷に着いたら」
鎧衣が先をうながした。
「弓矢の人間が門番を倒す。
そのまま彼らが周囲の警戒を続ける」
「彼らに、ほかの武器は」
「米軍のM79擲弾発射機を使う。
建物の内部では使えないからな」
M79擲弾発射機は、高温多湿というベトナムの過酷な環境下でも確実に作動する実績を持っている。
M16小銃に装着するM203擲弾発射機が一般化するまで、米軍全般で広く愛用された。
「残る5名で、屋敷の中にいる人間を片っ端から斬るか、突け。
発砲が必要になったら、迷うことなく打つように」
美久を含めて、全員が何かしらの刀剣類を帯びていた。
刀が不得手なマサキは、M16小銃の先にM7銃剣を、美久はM1ガーランドにM1905銃剣を付けていた。
京都市内から大津市まで、車で25分ほどで着く距離だった。
2台のバイクを先頭にして、79年型の黒のセドリックが、深夜の県道143号線を爆走していく。
セドリックはこのモデルを最後に、フェンダーミラーを廃止する。
なので、製造から40年近くたった現在では300万円ほどで取引されるほど高騰してる車種となっている。
九条の屋敷が見える位置に来ると、車が停止した。
前後左右のドアが開き、4人が降り立つ。
2台のバイクも間もなく止まって、降り立った運転手はそれぞれ背負っていた小銃を構える。
音を立てないことを最優先に、ゆっくりと屋敷のほうへ向かった。
大津市にある九條の別邸では、3人の男が話し合っていた。
ソ連スパイの穂積と、貿易商の大野、GRU少佐のアターエフである。
なぜ彼らが五摂家の九條の別邸にいるかというと、穂積が九条の親族だったからである。
九條と側室の間に生まれた娘を、穂積が正妻として迎え入れていたからだ。
「おそらくハイネマンを連れ出した件は米国にも漏れるでしょう。
ですが手を打っておきました」
「ほう、どんな手だね」
「福井にある越前海岸の洋上45キロの地点にソ連の原子力潜水艦を待機させています。
小型の高速艇に乗せて、浮上した潜水艦にランデブーし、ハイネマンを引き渡します」
領海等に関する用語として、了解、接続水域、排他的経済水域、公海の言葉がある。
まず、領海は、低潮線から12海里(約22km)の線までの海域で、沿岸国の主権は、領海に及ぶ。
次に、接続海域は領海の外側にあって、24海里(約44km)の線までの海域である。
沿岸国が、自国の領土又は領海内における通関、財政、出入国管理又は防疫に関する法令の違反の防止及び処罰を行うことが認められた水域である。
3つ目に、排他的経済水域は、領海の基線からその外側200海里(約370km)の線までの海域並びにその海底及びその下の事を指す。
排他的経済水域においては、沿岸国に天然資源の探査、開発、保存、海洋の科学的調査に関する管轄権が認められている。
最後に公海は、全ての国家に開放されていて、あらゆる自由が享受されている場所である。
「それで」
「そのまま潜水艦で、ナホトカか、北鮮の清津港に入港するつもりです。
如何に米軍の人工衛星が上空から見張っていても、接続海域を超えれば、手出しは出来ますまい」
自信満々に話すアターエフに、穂積は一抹の不安を感じた。
日本国内には、安保条約に基づいて、大小さまざまな米軍基地があるからだ。
米軍基地の他に、国家安全保障省の通信傍受施設もある。
恐らく乱数表を用いた暗号電文も、解読されているだろう。
「米軍が黙って見ているかね……」
一方のアターエフは安心しきっていた。
在日米軍の中には、多くのKGBやGRUの協力者が潜り込んでいたからだ。
彼等からの通報で、米軍の動きは逐一察知で来ていたのだ。
だから今回の作戦も、米軍は行動を起こさないと予想で来ていた。
「接続水域の外側に、ミサイル巡洋艦を待機させてます。
手を出す馬鹿はいないでしょう」
「警備艇が接近したら……」
穂積はそう言うなり、表情を曇らせた。
だがアターエフは皮肉な微笑を浮かべて、穂積の懸念を軽く一蹴してしまう。
「万が一に備えて、北鮮の元山空軍基地から、mig-21を飛ばす予定です。
向こうの大首領の許可はとっております」
「後は木原だけですか」
深い憂慮を浮かべながら、穂積が漏らす。
それまで黙っていた大野が口を開いた。
「これだけの事をしても奴が動き出さんのは、五摂家の後ろ盾に怖気づいたんでしょう」
「そういう男だったら、苦労はないんですけどね……」
アターエフは言葉を切ると、口つきタバコの「カズベック」に火をつけた。
煙草嫌いで知られる大野は顔をゆがめて、いかにも臭そうに紫煙を手であおいだ。
その瞬間、部屋のドアが突如として開け放たれた。
「わ、若旦那、は、早く離れのほうへ」
「どうした」
慌てて入ってきた警備員の方を向くなり、穂積は尋ねた。
「門番が全員殺されて、監視カメラも全部壊されています」
続けて、別な警備員が穂積たちに注意を促す。
「まさかとは思いますが、とにかく離れの方に移ってください」
穂積の顔色は、その途端、驚愕の色を浮かべる。
御剣と彩峰が正面から乗り込んでいる最中、鎧衣とマサキ、美久は屋敷の中に潜り込んだ。
マサキは暗闇の中から、殺気を感じた。
「何だ、お前は!」
目の前には坊主頭をした小柄の男がいた。
でっぷりと太った腹に、細い手足は、まるで株に棒を指したような不格好な姿だった。
ここで騒がれては不味い。
そう考えたマサキは、板張りの廊下をすり足で距離を詰めていく。
大野はズボンの中から60センチほどの刃渡りの大脇差を取り出した。
やくざ映画に出てくる長ドスのように椋木の鞘で覆われていた。
刃先を向けて来る直前、マサキは切り合いは不利と見て、安全装置を解除した。
ほぼ同時にM16の槓杆を引き、引き金を絞る。
しかし、それを察知したのか、大野は近くにあった障子を盾に避けた。
――しまった、一発目を外したか――
マサキは内心焦った。
取り外した障子を盾にした大野は、一転して攻勢に出る。
長脇差が一閃し、鋭い音で空気を切る。
牽制の意味での攻撃だったが、十分だった。
マサキは距離を置きながら、冷静に大野の動きを見る。
脇差を右手だけで振るっているので、左側ががら空きだ。
ここで大野を揶揄って、冷静さを失わせよう。
上手いタイミングを見て、銃剣で左胸の心臓を突けばいい。
「おまえは大野だな」
「なんだ」
マサキは、不敵な意図のもとに、大野の顔が見える辺まで近づいた。
「お前のような奴は、宦官と呼ぶのがふさわしい」
大野は怪訝な顔をする。
「宦官?」
「ソ連の様な悪の帝国に媚びを売り、小遣い稼ぎをするような奴は、機能無しの男女だろ。
確固たる信念を持たぬ男である貴様は、目先の利益しか考えない宦官以外に考えられるか」
宦官とは、古代支那や中近東の王朝に見られた皇帝の身辺の世話をする後宮仕えの男である。
男女の過ちを防ぐため、男性機能を去勢させた男にあらざる男であった。
その代わり、国を傾ける様な富と権力を築くことに異常な執念を注いでいた存在であった。
大野は、たちどころに憤怒した。
彼は肥満が原因で、男性機能が十分に発揮できなくなっていた。
それ以来、被虐思考に走り、ソ連から提供されたESPに変質的な行為をして、自分を慰めていた男だった。
マサキの一言は、大野の尊厳を破壊したと言っても過言ではなかった。
「くそ、てめえ、ぶっ殺してやる」
大野は発狂したような声を上げた。
すっかり人相の変わり果てた顔が紅潮し、すさまじい表情になる。
「やはりお前は不能だったのか」
マサキは口元をゆがめ、凄味のある表情で大野を見る。
「畜生ッ……うう」
大野はどうにもならず、呻くばかり。
脇差を振って、大立ち回りをするも、銃剣を付けたM16小銃を持つマサキの前では、リーチの差から不利だった。
「気が変わった。
お前には生きて売国奴として、惨めな姿を晒して、死刑になってもらう方がいい」
そういうとマサキは、M16小銃を持ち換えて、銃の台尻を棍棒の様に足めがけて振り下ろした。
膝に当たると、鈍い音と共に何かが割れるような音がした。
大野は刀を取り落とすと同時に、絶叫が轟く。
さらにもうひと振りをして、片方の足に台尻を振り下ろす。
大野は、両足を砕かれた激痛で、気を失った。
マサキは、伸びきった男の事を細引きで柱に縛り付けた後、その場を後にした。
後書き
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隠密作戦 その2
前書き
戦闘シーンを書いていたら、思ったより時間がかかりました。
穂積たちは、長い渡り廊下を通って、離れに避難していた。
屋敷の主人である九條を護衛しながら、移動している最中である。
九条は、不意に立ち止まった。
心配した護衛は、九條に声をかけた。
「いかがなされましたか」
「よい」
庭の植え込みの方を向くと、暗闇に声をかけた。
「隠れていないで、出てまいれ。
遠慮はいらぬ」
護衛たちの目は、一斉に庭の方に向いた。
「臆したか。
姿は隠しても、素破の匂いは、すぐわかる」
草むらの中から、長い鍔の中折れ帽を被った男が立ち上がった。
一斉に護衛たちは腰にある刀やピストルに手をかける。
「フハハハハ」
不意に、季節外れであるトレンチコートを着た男は笑みを浮かべた。
手には、消音器付きのMAC10短機関銃。
「貴様!正気か」
「この九條家の屋敷に、一人で乗り込む馬鹿がどこにいる」
渡り廊下の上より男の方にピストルを向け、一斉に射撃を開始する。
いくつもの銃口から、赤い線が闇夜を切り裂く。
鎧衣は、MAC10を引き金を引く。
連射しながら、横に向かって飛んだ。
射線上から体を右方向に向かって体を移動しながら、何かを投げつけた。
ちょうどその時、護衛の多くはピストルの届く距離に接近しようとして階段を下りる最中だった。
MK3手投げ弾が、階段の所に飛び込む。
閃光が広がり、爆音が響くと同時に、周囲にいるものの鼓膜を痛めつける。
護衛の多くは、九條に覆いかぶさるようにして動かなかった。
一瞬の出来事のため、何が起きたか、理解できなかったようだ。
鎧衣は、続けてM26手榴弾を彼らの方に投げ込む。
手投げ弾は壁に当たると、跳ね返って九條たちの真後ろに落ちる。
息をのむ瞬間、爆発が生じる。
その場にいた護衛の3人ほどが、爆風で吹き飛ばされた。
細かいワイヤーが飛び散り、周囲で立っていた人物の体を切り裂く。
「だ、旦那様!」
手榴弾の破片は、九條の太ももを傷つけていた。
「心配ない、かすり傷だ」
一方の穂積は、急襲に対して信じられない様子だった。
がくがくと震えながら一人ごちる。
「なんだよ……ま、まさか……」
これが現実に起こったとは信じられない。
おぞましい悪夢を見ているかのようだった。
穂積は、手りゅう弾の破片で頬にかすり傷を負っていた。
痛みにすさまじい生汗を滲ませつつ、後悔した。
ああ、俺は何のために、国を売り、ここまで逃げてきたのか。
穂積は、胸をかきむしりたい思いだった。
ソ連人のアターエフは、GRUの工作員と共に一目散に逃げ去っていた。
警備兵の多くは、事態に混乱し、抵抗の意志をみせなかった。
「旦那様、ここは一旦引き下がりましょう」
護衛の言葉より先に、穂積は逃げていた。
だが、九條は護衛の提案を断った。
「先に行け」
階段に近づくと十数人の男たちが、血まみれになって重なっていた。
鎧衣が顔を向けると、探し求めていたソ連人の姿はない。
鎧衣が周囲を伺っていると、間もなく彩峰大尉が来た。
顔には疲労の色が見られたことから、何人か斬ってきたのだろう。
「どうした」
「ソ連人の姿が見えない」
「グズグズしていれば、逃げられる。
急ごう」
鎧衣は、素早くMAC10の弾倉を交換する。
彩峰も、愛用するブローニング・ハイパワーの弾倉に弾を込めた。
「待て、小童ども!」
九條は、朱塗りの柄のついた長巻きを持っていた。
ちょうど屋敷の奥に通じる渡り廊下の入り口で、通せんぼをする形で立っていた。
「私を斬ってからではないと、先には通さんぞ」
長巻きとは、室町時代以降に発展した長柄の刀剣である。
3尺の日本刀に、3尺の柄を付けた武器で、主に騎乗する武士が使った。
似たような形状の薙刀と違って、先反りが浅く、柄が短かった。
その為、間合いが短く、振り回すよりも勢いをつけて切る方が向いていた。
長巻きを持った九條が、いきなり斬りかかって来る。
暗がりに空を切る音がして、鎧衣と彩峰は引き下がった。
問題は九條の身分だった。
五摂家当主で、スパイ事件の首謀者の一人であるから、簡単には傷つけられない。
彩峰は素早くピストルをしまうと、右手に軍刀を構えた。
九條は、長巻きを煌かせながら、間合いを詰める。
「えぃ!」
次の瞬間、九條の持つ長巻きが白い流れとなって、襲い掛かってきた。
同時に、彩峰の軍刀も唸りを上げて、相手に向かった。
長さがすべてを制する。
長巻きが彩峰の軍刀に当たり、弾き飛ばされた。
九條は再び長巻きを振り上げようとして、上段の構えを取った。
その刹那、甲高い声が響き渡った。
「彩峰!」
やや後方から黒い影が押っ取り刀でやって来た。
無紋の白の着物に、黒の袴姿の御剣であった。
「待て」
立ち止まって打刀を、腰に閂差しにする。
まもなく、鎧衣と彩峰の方を向く。
「わしが、後は引き受けよう」
鎧衣と彩峰は、一瞬にして御剣の意図を理解した。
彼等は足早に、その場を後にした。
「どうしてお前が……」
御剣は九条に問いかけた。
問いかけながら、腰の刀を抜くタイミングを計っていた。
「何故だ……
日本を裏切れば、どうなるか解っているはず」
御剣の持つ打刀は、標準的な刃渡りだったので、70センチほどしかなかった。
一方の九條の長巻きは120センチ以上の刃渡りだった。
柄も含めれば、240センチを超える長巻きとの間合いは、難しかった。
下手に飛び込めば、長巻きによって、切り殺される恐れがあったからだ。
「私はソ連人と同じ夢を追いかけていたのだよ」
「夢?」
「そう……夢!
夢に殉じなければ、巨大な権力には立ち向かえない」
御剣は、腰にさした刀を素早く抜き出す。
九條は、だんだんと間合いを詰めてきた。
一瞬の出来事だった。
長巻きが振り下ろされるよりも早く、剣を握った御剣が懐に飛び込む。
賭けだった。
70センチの刃渡りのある打刀は、九條の肺腑をえぐった。
まもなく九條の動作が止まった。
脾腹に刺さった刀は、生命活動に必要な内臓をことごとく傷つけていた。
御剣は、九條を助け起こす。
九條は御剣の腕の中で、意識を失ないかけていた。
一目見ただけで、助からないことが分かるほどの出血量だった。
「御剣、心残りはな……」
九條は、一瞬意識を取り戻した
血で激しくせき込みながら続けた。
「末の息子の……立派な姿を見れんことだ……」
御剣は遺体を横たえると、血に染まった長巻きを九條の手から奪った。
計画を実現させるまで、彼は死ねなかった。
アターエフは、GRUの工作員と共に、裏庭にあるヘリポートに来ていた。
そこにはソ連製のKa-25艦載ヘリが、メインローターを回して待ち構えている。
「少佐!ここの安全は確保されております。
さあ駆逐艦へ、あちらで同志大佐がお待ちです」
GRU工作員たちは、カーゴドアからヘリに乗り込んだ。
まもなくヘリは、大津にある九條亭を後にした。
「同志少佐、災難でしたね」
GRU工作員の一人が、離陸したヘリの機内でわめいた。
「まさか木原に襲われるとはな……」
「待機していた部隊の半分がやられました」
「木原は例の作戦は知るまい」
アターエフは、部下に訊ねた。
「敵の注意を我らに向けておきましたからね。
今頃は、篁もさぞ泡を喰っていることでしょうよ」
「フハハハハ。
木原の奴も、気付いたときにはすべてが終わっているという訳か。
こいつは傑作だ」
アターエフは相好を崩し、部下から渡されたウイスキーを飲む。
「あの黄色猿め、ソ連を散々コケにしおって。
ざまあみろだ、どんな面をしてるのか、楽しみだわい」
アターエフは窓から機外を見る。
ヘリは不思議な事に、日本海側ではなく、福井市内に向かっていた。
ソ連の艦艇から段々と離れていくことに気が付いたアターエフは、慌てた。
「どこへ向かう!」
ヘリは強引に、福井城跡の公園に着陸した。
福井城跡の本丸部分には、福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが設置されている。
その他の大部分は、公園としても整備されている。
「何をしている、ヘリを飛ばせ!」
アターエフは、トカレフ拳銃をもって叫んだ。
ソ連赤軍の深緑の軍服を着た男が振り返る。
「お前たちにふさわしい場所に届けただけだ」
「誰だ、貴様。ソ連人ではないな」
件のソ連兵は、ヘルメットを外し、深緑の制服を脱ぎ捨てた。
出てきたのは、薄いカーキ色の日本軍の夏用制服を着た人物だった
「ソ連に恨みを持つ科学者さ」
男たちは、マサキの登場に度肝を抜かれた。
数名の者が、自動拳銃をマサキに向ける。
その刹那、飛行帽を被り、革のブルゾンを着た副操縦士も振り返り、MAC10を乱射した。
突然の銃撃に、アターエフたちは伏せる。
ヘリパイロットの正体は、変装した彩峰と鎧衣だった。
彩峰は元々衛士になる前は陸軍のヘリパイロット出身だったので、なんとかソ連製のヘリを動かせたのだ。
マサキは口元に凄味を浮かべ、GRU工作員たちを見やった。
「どうした、貴様ら!まるで幽霊でも見たような顔をしおって……
木原マサキは、この通り、ぴんぴんしておるぞ、フハハハハ」
ロシア人たちは、何か思うところがあったのか。
応対に出た警備の警官に、アターエフたち一行は観念し、あっさり武装解除されてしまった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
隠密作戦 その3
前書き
ESP発現体を出すことにしました。
誘拐されたハイネマンは、大津にある別邸ではなく、敦賀にあるソ連領事館にいた。
引っ越し業者のトラックに偽装した車で、滋賀から福井に伸びる国道161号線を移動して、連れ去らわれたのだった。
ハイネマンは目隠しと手錠をされたまま、薄暗い地下室に連れてこられた。
部屋に入るなり、目隠しと手錠を外され、床に放り出される。
周囲を見渡すと、白い壁しかない部屋の真ん中に、銀髪の美女が立っていた。
ギリシア彫刻を思い起こさせる様な整った顔に、ポニーテールでまとめられた長い銀髪。
透き通るような雪肌から浮かぶ、瑠璃の様に深みのある青い目。
東欧系のスラブ人にしては、胸の発育もよく、くびれた腰も扇情的だった。
すらりとした長い脚も、ハイネマンでは無ければ、目を奪われたであろう。
トルコ人の踊り子が身に着けているようなベリーダンスの衣装も、ハイネマンを困惑させた。
女はハイネマンの目の前で、いきなり腰にあるカフカス風の短剣を取り、鞘事、彼の目の前に差し出した。
「な、何をする」
驚くハイネマンを後目に、短剣を鞘から抜き出すと、妖しい踊りと共に剣を振り始めた。
ハイネマンは、恐怖のあまり、切っ先を必死に追いかけた。
「あなたはグラナンの技術者、フランク・ハイネマンですね」
女のアメリカ英語の発音は、CNNのニュースキャスターよりうまかった。
「はい」
ハイネマンは、女の振るう剣の煌きに心を奪われていた。
つまり催眠術にかかっていたのだ。
「いいですか。
あなたは人類の平和のために、ソ連へF‐14の最新技術の全てを提供するのです」
ハイネマンはうつろな目をして、女に答えた。
「はい」
女の正体は、赤軍参謀総長の秘書の一人で、GRU工作員である、ソフィア・ペロフスカヤ。
ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺を首謀した、人民主義者の女暗殺者の名前を用いるESP発現体だった。
彼女は、ESP発現体に一般的な超感覚的知覚による精神感応や、予知視能力を持っていなかった。
その代わりに優れた透視能力、観念動力、精神操作を行う事ができる数少ない超能力者だった。
F‐14のデータを得るために、GRUが直々に福井に潜入させていたのだ。
敦賀に、ソ連領事館があることに疑問を持つ読者も多いであろう。
ここで簡単に作者から、説明を許されたい。
かつてソ連領事館は、東京、大阪の他に、敦賀、横浜、小樽に存在した。
帝政時代のロシア領事館を引き継ぐ形で、敦賀のソ連領事館は、大正14年に開館した。
場所は福井県敦賀市本町2丁目で、今は日本原子力発電株式会社 敦賀事業本部の建物が立っている。
なぜ敦賀が選ばれたのか。
敦賀港は、日本海貿易の一大拠点で、古代から国際都市であった。
先史時代より海運が盛んで、朝鮮半島や支那大陸の玄関口でもあった。
江戸時代には北前船の発着点となり、畿内(関西方面)と蝦夷地(北海道方面)の交易になくてはならない交通の要衝であった。
近代以降は、鉄道網が整備され、鉄道と船での物資輸送の拠点として栄えた。
1899年以降は、国から開港場(国際港)の指定を受け、ウラジオストックからの直通便が来るようになった。
そして、人道の港と称される歴史もあった。
1920年代のソ連革命の際のポーランド孤児の上陸地点や、1940年のリトアニアにいたユダヤ人難民の中継地の一つなどである。
日本政府が関わったポーランド孤児の問題や、杉原千畝の命のビザの話は雑多になるので後日改めて話したい。
さて、ソ連が何故、総領事館をここに置いたか。
敦賀が、ウラジオストックやナホトカからほど近いという事情があったからだ。
大量の工作機材や人員を船で速やかに送り込むことができるためであった。
我々の世界では、昭和19年に対ソ情勢悪化を理由に閉鎖された。
冷戦中、ソ連は日本海側に総領事館の建設を望んでいた。
ソ連崩壊後の1991年に、新潟へ総領事館を置いている。
設置理由は、ロシア人の個人輸入業者や湾港労働者が新潟港に出入りする為だった。
多くのロシア人湾港労働者に紛れて、対日有害活動をしている拠点と今日では考えられている。
史実より再び、異界に目を転じてみよう。
領事館の地下にあるガラス張りの電算室を、外から覗く者たちがいた。
ソ連戦術機技術者のスホーニーと、GRU工作員の男だった。
「それにしても驚いたな。
天才戦術機設計技師として知られていたフランク・ハイネマン博士……
しかも、こんな形でお目にかかれるとは」
「蛇の道は蛇。
スホーイ博士だって国内では権威じゃないですか」
ハイネマンは一心不乱に図面データを電算機上に書いていた。
当時は三次元CAD・CATIAは存在したが、フランスの航空機メーカー・ダッソーの秘密特許だった。
1977年に実用化するも、市販される1981年まで一般には流通しなかった。
それゆえ、1960年代に出来たSketchpadでの製図が一般的だった。
「私は熟練の設計技師にしかすぎん。
彼の独創性とアイデアには遠く及ばない……」
ソ連では、青焼きの図面が一般的だった。
電子計算機の普及が遅れていたこともあるが、最新機器はロシア人の考えにはそぐわない面もあった。
過酷な環境で暮らすことを余儀なくされたロシア人は、用心深い性格だった。
最新の精密機器の故障は、氷点下20度を下回る環境では死に直結する。
そういう考えの元、開発から15年から20年以上たち問題点が洗い出された技術しか信用しなかったのだ。
「現に3人では1か月はかかろうという設計を1日で完成させようとしている。
凄すぎる」
ソ連のコンピューター開発は、開発者を管理するKGBの極秘体制が祟って、致命的な遅れが生じていた。
技術的処理をソ連の文献からよりも、西側の科学雑誌から盗作するほうが簡単だという傾向が支配的になっていた。
この傾向は、ソ連のみならず、衛星国の東独、ルーマニアでも一般的で、大々的なスパイ作戦が実施された。
中ソ対立にあった中共も同様で、早い段階からIBMや関連する企業の中に大規模なスパイ団を抱えていた。
それは次第に戦術機開発の面にも影響していた。
戦術機は、最新鋭の電算機技術が使われているからである。
GRU、あるいはソ連にとって、今回の作戦は起死回生の方策の一つであった。
2度目の月面攻略作戦を成功させるには、ESP専用機であるBETA精神探索マシーンが必要であると考えていた。
敵の思考を知ることが出来れば、彼らを超能力者を使って、催眠術で操作できる。
万策尽きかけようとしていたソ連は、その様なオカルト的な考えに走っていたのだ。
自慢の核飽和攻撃も、自走砲やロケットによる砲撃も、細かい粒子の舞う月面では効果を発揮しなかったからだ。
補給線も地球から遠い月面では厳しく、特攻隊を送るメリットも少なかったからだ。
故にハイネマンを誘拐して、F‐14のデータを入手し、新型機を作ることとしたのだ。
マサキたちが福井に向かっている頃、篁亭の周辺で動きがあった。
屋敷を見通せる場所に、黒い目出し帽に黒い服を着た十数名の男たちが集まっていた。
「あの屋敷を見てみな」
そういって隊長格の男は、双眼鏡を部下に差し出す。
「今回の仕事は、ある女を誘拐して、その女の持っている秘密を盗み出すことだ。
その女は、あの屋敷の主人の妻をしている」
男の一人が隊長に聞いた。
「その女を誘拐することが、そんなに大変なのか」
隊長の男は、顔を歪めて答えた。
「その女は、ミラ・ブリッジスといってな、F‐14の開発に携わっていた女だ。
米海軍関連の仕事をしてきた女だが、どういう風の吹き回しか、ゼオライマーの木原に近づいた」
「ゼオライマー?」
隊長は、大げさに肩をすくめてみせる。
「そうよ、あの憎むべき日本野郎の超マシンの強化に乗り出した。
それをみすみす逃すことはない。
それにミラ・ブリッジスの技術が木原に渡るとなると、同志議長がお困りだ。
世界平和の邪魔になる……」
ようやく事態の重大性に気付いた部下たちは、腕を組んで考え始めた。
「それをこっちに取り上げようというのだが……おや?」
篁亭の前に止まった車に、二人の人物が乗り込むのが見えた。
1人は腰まである長い金髪の若い女で、もう一人は小袖を頭からかぶっていた。
近代までの貴人女性は、家族以外の人間に顔を晒すことを嫌う慣習があった。
その為、虫の垂れ衣が付いた市女笠や、被衣と呼ばれる小袖を頭からかぶる習慣があった。
我々の世界では、明治以降急速に廃れたが、武家社会が残るこの異界では生きた習慣だった。
「こいつは面白いことになったぞ。
ドイツ野郎のベルンハルトの妹がいる」
隊長が笑いながら指示を出す。
「こうなったら、ベルンハルト諸共、ミラ・ブリッジスを誘拐しろ……」
全員が手に持ったVz 61短機関銃のボルトを引く。
「諒解!」
後書き
ご感想お待ちしております。
隠密作戦 その4
前書き
篁亭を出た車は一路、名神高速道路へむかって進んだ。
大阪伊丹にある関西国際空港に行くためである。
途中、鴨川にかかるの鳥羽大橋に差し掛かった時である。
目の前を走ってる幌付きのトラックとセダンが行先を遮るように停止していた。
事故なのだろうか、双方の運転手が車外に出て何か話し合っている様子だ。
アコードを運転する白銀はそう考えて、車を急停止した。
目の前で話していた男たちは、白銀たちの様子を伺うと一目散に走り去った。
その直後、闇夜を裂くように甲高い音と共に赤い線が通り抜ける。
銃弾は、全て車のタイヤに当たる。
これで奴らは、袋のネズミだ。
そう考えたGRUの特殊部隊の隊長は、指示を出す。
「全員、表に出ろ」
道路の左右の繁みの中から、スコーピオン機関銃を持った男たちが目の前に現れる。
全員が黒い目出し帽に黒服姿だった。
「フフフフ……
白銀、ベルンハルト。貴様らの負けだ。
早速だが、ミラ・ブリッジスを渡してもらおうか」
そう男が英語で話しかけた時、止まっていたセダンのドアが一斉に開く。
前の席から白銀とアイリスディーナ、後部座席から被衣で身をすっぽり包んだ人物が出てくる。
白銀の後ろに立つ女は、顔を隠すため頭からかぶった衣を投げ捨てる。
女の正体は、ミラ・ブリッジスではなく、着物姿をした美久だった。
「引っかかったな、ソ連人」
白銀の一言で騙されたことを知ったGRU工作員たちは、一斉に彼の方に顔を向ける。
「ど、どうして氷室、貴様がここに……」
九條亭に居た穂積から向こうの状況を逐一聞いていた隊長は驚きの声を上げる。
どうして、わずか15分足らずで、30キロ以上離れた大津から、京都市内まで来れようか。
男が混乱している最中、ブリヤート人の副官が声をかけた。
「遠くから、サイレンの音がします」
誰もパトカーのサイレンには気が付かなかった。
副官は、シベリアの原野で育った男だけあって、聴力も違うのだろう。
男がそう考えている内に、副官は続けた。
「台数は、2から3台です。どうしますか、隊長」
男の混乱するさまを見て、白銀は助手席に隠してあったM72グレネードランチャーを取り出す。
砲身を伸ばすと即座に方に構えて、黒い発射ボタンを操作する。
「伏せてください」
その言葉よりも早く、アイリスディーナは身をかがめる。
砲身からロケット弾が飛び出し、折りたたまれた金属の羽が伸びる。
弾頭は間もなく止まっているトラックのボンネットにに命中し、近くに止めてあったセダンを巻き込んだ。
爆風とともに強烈な爆音が上がり、セダンが宙を舞う。
まもなく燃料に引火し、炎を吹き出す。
ガソリンを浴びた工作員数名は、引火した体を消し止めようと必死に地面を転がった。
隊長の男は、火だるまになる部下をよそに、アイリスディーナの方に駆け寄る。
せめて彼女だけでも人質にと、考えての行動だった。
その瞬間、閃光が認められた。
アイリスディーナの放った.32ACP弾が、男の持つスコーピオン機関銃に当たる。
彼女はワルサーPPK/Sを握っていた。
それは東独製の違法生産品ではなく、米国のインターアームズ社でライセンス生産されたものだった。
もしものことを考え、篁がミラの誕生日に護身用にとプレゼントしたものを借りていたのだ。
(インターアームズ社とは、1998年まで存在した米国の拳銃メーカーである。
西独製のPPKが500ドルなのに対し、米国製のPPKは265ドルだった。
半値近かったが性能と仕上げは、西独製と遜色はなく、人気商品だった)
額からにじみ出る汗の為に濡れた目出し帽に触れた後、男はスチェッキン拳銃を取り出す。
アイリスディーナの方ににじり寄りながら、安全装置を半自動の位置に操作する。
小娘と思って、侮っていたのが間違いだった。
女とはいえ、相手は、一通りの軍事教練を受けた人物ではないか。
車を盾にするアイリスディーナに向け、9×18ミリPM弾を数度放つ。
アイリスディーナは乱脈に逃げまどいながらも、PPK/Sで応戦した。
男はアイリスディーナの方に気が向いていて、周囲の状況を見落としていた。
既に銃声を聞いた近隣住民により通報されたパトカーが来ていたことに、気が付かなかったのだ。
アイリスディーナは、PPK/Sの引き金を落とすが、弾が出なかった。
敵の襲撃に興奮しており、なおかつ反撃するのに夢中で、弾切れに気が付かなかった。
男は口元をゆがめ、恐怖でおののくアイリスディーナを見やった。
彼女は近くにあった小石を投げて、必死に男を牽制しようとする。
男は腰のベルトに横差しにしたカフカス風の短剣を抜き出した。
後ろで燃え盛る炎の光が反射して、闇夜の中に鈍い煌きが浮かび上がる。
「うへへ。さっきの威勢はどうした、お嬢ちゃん。
後は俺が可愛がってやるぜ」
アイリスディーナは、一閃の光を見た瞬間、血の気がスゥーと引いた。
「へへ、うへへ。貴様のようなドイツ人は危険だ。
やはりソ連がしっかりと教育せねばならんのだよ」
アイリスディーナは、おびえ切っている。
すっかり、元の気弱で優しげな少女に戻ってしまっている。
アイリスディーナに歩み寄る男の眼前を、小太刀が通り抜ける。
反射的に男が振り向く。
男は一瞬にして、振り下ろされる刃の輝きを身に受けた。
60センチの刀身は、男の左肩から胸を引き裂いた。
袈裟懸けに切られた男は、握っていたキンジャールを落とす。
ゆっくりとスローモーション撮影の様に、男は前のめりに崩れ落ちた。
白銀は、止めとして、倒れた男の両手足を持っている細引きで縛り上げた。
これは戦いの鉄則である。
長い実戦経験を持つ白銀はこれを忘れなかった。
遅れてきた警察に一部始終を話すと、生き残った工作員全員を引き渡す。
警察と消防の事情聴取が終わる事には、すでに夜が明けた後だった。
場面は変わって、ハイネマン救出作戦が行われている同時刻の京都。
五摂家の一つである斉御司の邸宅では、密議が凝らされていた。
薄暗い室内で、男たちは酒を酌み交わしながら、九條の件に関して話を進めていた。
「いかが、思われますか」
薄い茶色の軍服姿の男は、上座に居る単仕立ての小袖を着た男に問いかけた。
軍服姿の男は大伴中尉で、小袖姿の男は斉御司の当主だった。
「木原の事か」
大伴の言葉に、斉御司は失笑を漏らした。
斉御司は何か企み事があると、笑みを浮かべる癖がある。
大伴も、斉御司に倣い、わずかに笑みを浮かべた。
「先ほどの間者の報告からすると、このままではもはや勝負あったも同然……」
斉御司は、大伴の言葉に失笑を漏らす。
「いやいや、ソ連にも知恵者は多い。
まだまだ、国内は大揺れに揺れる」
斉御司は笑みを消して答えた。
大伴も彼に合わせて、真剣な表情になった。
「揺れなければ、どうしても揺らさねばなりません」
斉御司は言葉を切ると、タバコに火をつけた。
「その時こそ、将軍ご親政の好機でございます」
斉御司たちの狙いは、元帥府による将軍親政。
つまりは、現代日本に幕府体制を復活させることが狙いだった。
長い時間をかけて築き上げてきた議会制民主主義を壊し、一部の武家や公家による専制政治を望んでいたのだ。
そのためには、外国勢力の力を借りるのもやむなしというのが、斉御司の本心だった。
だから反米反ソの精神で、冷戦下の日本を独立させようとする御剣とは相いれなかったのだ。
「その時まで、我らは道化になりましょう。
ある時は米国に、ある時はソ連に……」
斉御司は顔を歪めて、不敵の笑みを浮かべた。
壁にかかった振り子時計の方を見ながら、こう続けた。
「あの時計の振り子のように、首を振りましょう」
斉御司は煙草をもみ消しながら、大伴の方を向く。
大伴は、自分の右側にある軍刀を握って、無言で立ち上がった。
勢いよく鞘から抜くと、虚空に向かって剣を一閃する。
部屋の中の灯りを求めて入ってきた蛾を、鈍い光が両断した。
「おのれ、木原め。
いずれや、血祭りにあげてやる」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
外交的解決
前書き
今ってウルトラCって使わないんですね……
まあ50年前の話だから、古い表現でも良いかな
九條亭から逃げた穂積は、京都の嵐山にある自宅に逃げ帰っていた。
そこには年下の妻が待っている。
穂積の新妻は、沙織と言い、九條と妾の間に出来た娘である。
日ソ貿易をする穂積を取り込むために、九條は妾腹の娘を差し出したのであった。
「誰か、おらんか」
鍵のかかってない玄関を開けると、穂積は誰何した。
家にいる家政婦は、いつも朝4時に起きて家事を行っているので不審には思わなかった。
穂積は、明日からのソ連への逃避行に夢中で、警戒心は薄れていたのかもしれない。
だが部屋に入るとか政府はおろか、妻の姿は消えていた。
部屋は荒らされていて、争った形跡がある。
ルイ・ヴィトンの旅行鞄がひっくり返り、持ち出すはずだった有価証券や宝石類が散らばっている。
その時、部屋にある黒電話が鳴った。
聞き覚えのある妙に平板な日本語が受話器から聞こえてきた。
「沙織さんはこちらで預かっている」
KGB大佐の男で、大阪総領事館の警備部長だった。
穂積は、焦りを感じると同時に最悪の事態は免れたことへ、すこしだけ安堵した。
指定された場所は、右京区嵯峨の大覚寺だった。
穂積は受話器を叩きつけて、部屋を飛び出した。
大覚寺は、今より1200年前の嵯峨天皇の御代、嵯峨の地に離宮を造営したのが始まりである。
弘法大師空海の勧めにより、五大明王像を安置し、その後、寺院になった場所である。
現存する伽藍や境内は、応仁の乱による荒廃の後、江戸幕府によって整備し直された。
平安期から残っているのは、敷地の中にある大沢池という人工池であった。
大沢池のほとりにいくと、屈強な二人の男が立っていた。
穂積の妻の沙織は、黒の留袖姿で、さるぐつわをされ、両手を縛られた状態で地面に転がされていた。
「穂積さん、まってましたよ」
「妻を返してもらおうか」
その瞬間、閃光が走った。
穂積の脇腹に、7.62x25ミリのトカレフ弾が撃ち込まれる。
「あなた方には、屈原になってもらいましょうか」
屈原とは、古代支那・春秋戦国時代末期の詩人で、楚の王族である。
「楚辞」に収録された「離騒」は、彼の代表作とされ、後世の憂国の士から愛された作品であった。
屈原が生きた春秋戦国時代後期、楚の国は西方の秦との外交関係に悩んでいた。
秦の宰相・張儀の危険性を察知した屈原は、張儀の危険性と楚の滅亡の危機を楚王や政治家に進言した。
だが、聞き入れられられず、中央の政界より遠ざけられた。
それから十数年も経ぬうちに楚の首都が秦によって占領されると、先を憂いて、汨羅に身を投げた伝承が残っている。
大男は穂積の妻を抱えると、一気に投げ入れた。
絹を引き裂くような鋭い悲鳴と共に、彼女は大沢池に沈んでいく。
「ソ、ソビエトに連れてってくれるんじゃ……」
この期に及んで、穂積はソ連への亡命を信じていた。
だが現実は非情だった。
「あなたに生きていられると、この先、困ることになる……」
KGB大佐は頭を横に振った。
「さようなら、穂積さん」
漆黒の闇の中、2発の轟音と共に赤い線が走った。
穂積の腹部を銃弾が貫く。
穂積は絶叫をとどろかせながら、大沢池の中に消えていった。
KGB大佐は、握っていたマカロフ拳銃を池に放り込む。
そして懐から一通の封筒を取り出すと、脱がせておいた穂積の靴の上に置いた。
それは偽造した穂積の遺書で、将来の日ソ関係を憂いて自殺したという内容のものだった。
大佐は紫煙を燻らせながら、不敵の笑みをたたえる。
日本人の多くは穂積が屈原に倣って自殺したと考えるであろう。
もしもの為に、妻沙織の遺書も偽造しておいた。
不妊症に悩んだ末の自殺という、いかにも人を喰った内容であった。
ロシア人は時折、暗殺や破壊工作をするとき、ケアレスミスをすることがある。
かつてエカチェリーナ2世が幽閉していたピョートル3世は突如死去した際、暗殺が疑われた。
ロシア政府は噂をかき消す為に、ピョートル3世の死因は痔の悪化と発表する。
世人はロシア政府の見え透いた嘘を聞いて、失笑を買ったことがあった。
またソ連も同様で、KGB機関では雑な自作自演は日常茶飯事であった。
レーニンの暗殺未遂事件を起こしたとされるファニヤ・カプラン。
社会革命党左派の過激派とされる人物だったが、銃撃事件当時ほぼ全盲に近い状態だった。
事件発生の3日後、形ばかりの裁判すらされず、銃殺刑に処された。
この事件を契機に社会革命党の一斉取り締まりが始まり、同党は壊滅した。
その頃、マサキ達は福井県警本部に居た。
マサキ達が逮捕したGRU工作員とKGB工作員の合同チームは福井県警本部に任意同行を求められた。
だが敦賀総領事館からきた男によって、彼らは連れ出そうとする。
男は、ハイネマン博士の営利誘拐目的で逮捕状が出されているアターエフの出頭要請を拒否した。
ウィーン条約に基づく外交特権に当たるとし、彼らの即時解放を求めたのだ。
県警本部前では、ソ連領事館職員とマサキ達によるにらみ合いが起きていた。
10人乗りデラックスタイプのトヨタ・ハイエース3台から、屈強な男たちが下りてくる。
男たちは作業服姿だったが、一目見ただけで、普通の船員や湾港労働者ではないことが鎧衣は判った。
ほぼ全員が拳銃を帯びていたことから、KGBやGRUの工作員であることは明確であった。
「なぜ、日本政府はなにもせんのだ!
俺に一声かければ、目障りなソ連のボロ船など一撃で沈めてやるものを!」
マサキは、白い煙を吐き出しながら言った。
彼は一向に進展しない状況に苛立ちを覚えており、それを抑えるためにタバコを燻らせていた。
「今下手に手を出せば、ソ連にいる我が国の外交官が危ない。
彼等が何もしないはずがないのは、君自身が良く知っているだろう」
鎧衣の話を聞いた時、マサキの意識は過去に戻っていた
前の世界でも、同様の事件があったな……
1970年代にあったソ連軍情報部のGRUが日本の陸上自衛隊に諜報活動を行ったコズロフ事件。
同事件では、工作員への捜査の報復としてソ連にいる日本側の外交官が毒入りのウォッカで害されたことがあった。
事件発覚時、元陸将補(陸軍少将)と現職の二等陸尉(陸軍中尉)、准陸尉(陸軍准尉)が逮捕された。
彼等は、GRUより乱数表を渡され、ソ連から暗号指令を受けていた。
(乱数表とは、0から9までの数字をランダムに並べた表である。
ソ連や共産圏において、広く見られる暗号通信の一つである。
乱数に偽装した短波放送を通じ、スパイが持参した暗号表と組み合わせて、指令の内容を把握した)
そして防衛庁内部から持ち差された資料への見返りに、高額の現金を授受していた一大スパイ事件である。
コズロフ陸軍大佐(おそらくは偽名である)は、外務省を通じて警視庁から出頭要請を受けるも、即日帰国し、事件はうやむやの内に終わってしまった。
ソ連は本事件への報復として、グルジア訪問中の防衛駐在官(他国で言うところの駐在武官)に近づき、毒入りのウォッカを飲ませるという行為を行った。
それから時間を置かずして、ソ連駐日大使は福井県庁にある福井県政記者クラブで会見を行った。
そこには誘拐されたはずのハイネマンが、総領事と同席していた。
新聞各社のカメラのフラッシュがたかれる中、総領事が口を開いた。
「ハイネマン博士は、非公式訪日中のスホーイ博士との会見を敦賀の総領事館で行っただけであります」
築地に本社がある大手新聞社の記者が問いただした。
その新聞社は、戦前からKGBとの関係が噂される会社だった。
「では、事件性はないとの認識ですか」
「はい。
潔白を証明するために、この場を用意しました」
総領事の言葉に、その場に同席した記者ならず、マサキ達でさえあきれ返った。
この期に及んで、潔白を言い張るとは……
「潔白の証明は……」
一ツ橋に移転したばかりの新聞社の記者が聞いた。
極左で知られる新聞社で、最近は経営難で苦しんでいることで有名だった。
「少し心苦しいのですが、今は亡き故人を傷つけることになります」
「こ、故人?」
「私の古い友人である九條雅也です。
ハイネマン博士、スホイ博士、双方の知人である九條氏の仲介でソ連領事館で会合が持たれました」
マサキは男の言葉に裏を書かれた気がした。
なぜなら日本政府は五摂家の関与を隠すために、この事件の首謀者を九條の娘婿である穂積に限定しようとしていたのだ。
九條が御剣の手で殺されたことが露見すれば、批判は日本政府に向かうかもしれない。
「ハイネマン博士、貴方の口から説明なさるのがよろしいでしょう」
「は、はい……」
そういうとハイネマンは立ち上がった。
ハイネマンの顔色が悪く、傍目に見て尋常ではなかった。
所々に意識の曇りが見られ、ちぐはぐで、なおかつ立ち上がる動作もゆっくりだった。
マサキは瞬間的に、酒あるいは何かしらの薬剤の影響を受けたかのような印象を覚えた。
おそらくヘロイン系の薬物でも投与されたのではないかと疑うほどだった。
ハイネマンは深く息を吸うと、表情を改めた。
かつての部下であるミラ・ブリッジスと、曙計画を通じて知り合った篁、そして二人の息子のユウヤ。
彼等を、ソ連の魔の手から救うために覚悟を決めての会見だった。
「スホイ博士との会見をしたのは事実です。
米ソの雪解けの為に、戦術機のあるべき姿を模索しようとしての話し合いを行ったことは否定しません」
支援を燻らせながら話を聞くマサキは、焦燥感を抱いた。
(「き、切り札を……
この件の最大のキーマンであるハイネマンを奪われた」)
場面は変わって、京都にある帝国陸軍参謀本部。
そこにある第二部長室では、軍事探偵たちの悲憤が響き渡っていた。
「畜生!
それじゃあ、俺たちが今までして来た事は、何だったのですか!
必死で裏付けを取った資料までも、全部無駄だったんですか」
若い背広姿の中尉は、分厚い捜査資料の乗った机をたたく。
「……彼が穂積の仕立てた車に乗ったのは事実だ。
だが、ハイネマン博士の証言が証拠として最優先になる」
「しかし、穂積はソ連の影響下にある人間でしょう。
裏でGRUからどういう指示を受けたか、わかりませんよ」
第二部長は、窓際から振り返って答える。
「その通りだ。
だが立証できなければ、ただの憶測にしかすぎん」
若い部員たちは一様にうなだれる。
「ソ連側が簡単にぼろを出すような工作をすると思うかね。
しかも、駐日大使閣下直々のお出ましだ」
男は象牙のパイプに、両切りのピースを差し込む。
「我々は、ソ連外交のウルトラCに負けたのだよ」
言葉を切ると、第二部長はタバコに火をつけた。
部屋にいる士官たちは滂沱の涙に暮れた。
福井県庁から出てくるソ連大使たちは意気揚々としていた。
正門の前に立つ記者たちを後目に公用車に乗り込もうとしたとき、大使の目にマサキの姿が目に入った。
「木原さん、アナタ詰めが甘かったようですね」
大使は片言交じりの日本語でマサキを揶揄した。
「その様だな」
「悔しいだろうが、これが国際政治の世界の力の差だよ」
マサキは不敵に笑った。
「九條という間者は消した。
次は貴様らの番だ、楽しみにしておれ」
マサキはそういうと、タバコに火をつける。
そして、小ばかにしたように右手を振って、その場を後にした。
大使の顔から余所行きの上辺の笑みが消える。
深い憎悪に身を震わして、マサキにこう忠告した。
「次はないですよ、木原さん」
マサキは一瞬、驚愕の色を顔に浮かべる。
「今度はこちらから攻めさせてもらいますよ」
不振、不安、怒り。
そうしたものを全て含んだ、言外の意図を含んだ言い方だった。
「アナタの秘密が何であるか。
このソ連が全力で調べさせてもらいますよ」
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
外交的解決 その2
前書き
今回は文字数が大分増えます。
昼過ぎ、御剣たち一行が京都に戻ってきた。
白銀はアイリスディーナの事を篁の元に預けた後、鎧衣の元に今後の事を相談に出向いた。
「博士は……」
「東ベルリン……」
鎧衣は、開口一番、驚くようなことを言った。
「経済官僚のアーベル・ブレーメに会いに……」
その頃、マサキは東ドイツに居た。
アーベルたちが住むヴァントリッツに向かう車中だった。
ヴァンドリッツは地図にない町で、東独幹部の為の秘密の別荘地である。
ベルリン郊外から約15分ほどの場所にある。
ベルリンは北海道の札幌よりも高い緯度にある。
その為、真夏の7月と言えども、日が昇っていない時間は風が肌寒いものがあった。
周囲は深い森に囲まれており、静かである。
朝夕を除くと鳥のさえずりさえも聞こえてこない。
耳を澄ましていると、シェーネフェルト空港に向かうジェット機の音がかなりはっきり入ってきた。
マサキは、早朝のヴァントリッツを歩きながら、東独の住宅事情を思い起こしていた。
東独では、40年の歴史の中で常に住宅が不足していた。
一応東独政府は、中核都市に4人から6人家族向けの部屋を備えた高層アパートを建設した。
歴史のあるドレスデンの街並みを壊して、ソ連様式の無機質なアパート群の建設を計画するほどだった。
それは実現しなかったが、モスクワの様に見渡す限りのコンクリートの波間を作る予定だった。
以上の経緯から、東独の津々浦々に、軒並み10階以上の高層住宅が誕生した。
だが、それにもかかわらず労働者はおろか、大学教授や知識人というインテリゲンチャさえも押しなべて住宅難に悩まされた。
党の高級官僚であるグレーテルの両親の様に、アパートの一室を割り当てられらた人間はまだましな方。
その多くは、社宅や共同住宅で、基本的に数年先まで入居待ちだった
ユルゲンの父の様に、戸建ての住宅を持てるというのはそれ自体が特別な地位を有する存在だ。
東独の住宅は、Plattenbauという安っぽいプレハブ工法のつくりの物である。
基本的に殺風景で暖房器具も劣悪だった。
そこに粗悪で面白みに欠ける家具を並べ、新婚生活をし、子供を育てるのが一般的だった。
そういう東独風住宅の殆どは、崩壊から30年が経った今、空き家となって放置された。
不良や犯罪組織の隠れ家、麻薬や武器の密造工場、失火の原因など、大きな社会問題となった。
むやみに壊すこともできないので、ドイツ当局の頭を悩ませている材料の一つだ。
「こんな菓子なんか持ってきて、どういう風の吹き回しかしら」
湯気の出るアップルティーで唇を濡らした後、ベアトリクス・ブレーメはそう呟きながらため息をつく。
「俺の買ってきた長崎のカステラが気に入らんか。
美久に頼んで、朝早くから店先に並ばせてまで、用意したものだぞ」
マサキは、ベアトリクスに会うために、長崎の老舗カステラ店の高級カステラを用意していた。
桐箱に入った3本入りの特選品を20箱以上持ってきて、ブレーメ家を訪問していたのだ。
「確かに柔らかくておいしいけど……それほど甘くはないし」
卵黄をふんだんに使い、蜂蜜の入った高級品なので、甘くないはずはなかった。
これはベアトリクス風の、マサキへの感謝の言葉だった。
「そうか。
確かに俺の甘さがあれば、甘すぎて食えなくなるからな!」
言外にマサキは、求めればいくらでも甘やかしてやるという意思表示だった。
それをベアトリクスは敏感にキャッチした。
「はあ?」
思いがけない言葉が、唐突にベアトリクスの口から飛び出した。
マサキの言葉を聞いたベアトリクスは、子ども扱いにされたような気分だった。
「あなたが、そこまで馬鹿だとは思わなかったわ」
そういって、ベアトリクスは大きなため息をついた。
マサキは、子供の戯言だと思い、特に気に止めずに聞き流す。
「お前は、本当に面白い女だよ」
マサキは、ベアトリクスの天衣無縫の、自然な反応を聞き出せたことに満足してた。
面白い女というのは、マサキの偽りのない本心から出た言葉だった。
「それで、要件は何?
率直に言って。
私も率直に応じるから……」
ベアトリクスはそれとなくマサキの表情を見ながら考えていた。
こんな男に、あの美しくて聡明なアイリスディーナが何故惚れたのだろうかと。
「アーベルに、こいつを渡してほしい」
マサキのストレートな要求に、ベアトリクスは一瞬口ごもった。
「父に……?」
何事でもそうであるが、依頼に対して、意見を聞くというのはある種の信頼関係がある証拠である。
ベアトリクスがアーベルに手渡すのを尋ねた際、マサキはこの依頼が成功する確信を抱いた。
「ソ連の資料だが、俺にはわからなくてな……」
マサキは、今シュタージとKGBに憎しみを抱いているユルゲンに味方することを考えながら、目の前の若くて美しい他人妻から多くの情報を得ようと心掛けた。
「ちょうど、ソ連のおじさまが来るから聞いてみるわ。
外交官だから、分かると思うの」
「おじさま?」
既に心を許しているのか。
ベアトリクスは、おっとりした口調でマサキの疑問に答える。
「父の古い友人で、なんでもコムソモールの同級生だったの。
ソ連亡命中に知り合ったそうよ」
マサキにはその話は初耳だった。
アーベル・ブレーメの所に遊びに来るソ連外務省の男。
だいぶ前にユルゲンから聞いた経済担当官だろうな。
ベアトリクスにソ連経済が危機的状況にあるという話をわざと盗み聞きさせた人物だ。
普通の木っ端役人ではあるまい。
おそらく手練れのスパイだ。
「出来れば、お前を巻き込みたくなかったが……」
マサキは、KGBを騙す為にベアトリクスを利用することに罪悪感を覚えた。
シュタージはKGBと同様に人民への無謬のテロをする弾圧機関。
乳飲み子を抱えた19歳の若妻を、この血塗られた組織に近づけることを恥じたのだ。
「かえって好都合よ。
日本人のあなたがそのまま父に渡したら、信じてもらえないだろうし」
警戒するでもない屈託のない表情なので、マサキの方がかえって驚いた。
「勘違いしないで、木原。
貴方にこうやって協力しているのは、すべて主人の為なの。
あの人の為なら、何でも差し出すわ」
このような答えは、彼女なりの信頼の証しなのかもしれない。
ユルゲンへの愛を照れくさそうに告げるベアトリクスを見て、マサキは思う。
あんまり可憐な受け答えなので、いじらしさよと、微笑していた。
マサキが帰った昼過ぎ、アーベル・ブレーメの元に一人の男が尋ねてきていた。
ソ連外務省の男で、元々は軍需産業省の高官を経て、国家計画委員会に行った男だった。
ソ連では経済担当官であっても外務省に行くことはあり得ないことではなかった。
1986年から1990年に駐仏ソ連大使を務めたヤコフ・ペトロヴィッチ・リャボフ(1928年~2018年)は、党中央委員会からゴスプランに移った後、ソ連邦副首相の一人を務めた人物だった。
元々はターボエンジンの専門家だったが、技術者から身を起こしてスヴェルドロフスク共産党委員会を経て、党中央委員会に転身した異色の経歴を持つ。
T-64戦車とT-72戦車の生産と採用を巡って軍部大臣であったウスチノフ元帥と対立し、党中央を追われた後、ゴスプランや対外経済協力省を渡り歩いた。
(スヴェルドロフスクとは、1924年から1991年までのエカテリンブルグの旧名。
ここにあるイパチェフ館で、ロマノフ朝の最後の皇帝、ニコライ2世とその家族が惨殺された。
10数人の処刑隊の中には、後のハンガリー首相のナジ・イムレが殺害に参加したとされる。
そして1977年にKGB長官のアンドロポフの命令でイパチェフ館の破壊命令が出されると、当時のスヴェルドロフスク州共産党委員会第一書記であるボリス・エリツィン(1931年~2007年)が即日破壊した。
このように、エカテリンブルグはロシア革命にとって重要な意味を持つ場所の一つである。
なお後にロシア大統領になったエリツィンは、1998年のロマノフ皇帝の国葬の際、恥ずかしげもなくその儀式に参加したことを付け加えておこう!)
アーベル・ブレーメの元に来ていた男は、純粋な経済官僚ではなく、KGB第6総局の現役予備将校だった。
現役予備将校とは、経済活動を行う団体や組織、企業に送り込まれる要員の総称である。
Officers Of The Active Reserveと呼ばれており、KGB将校が自分の真の所属を隠し、政府機関、メディア、研究所などに秘密裏に派遣されることを指す。
ベアトリクスに語ったソ連外務省経済担当官というのは、偽装用の肩書である。
実際の仕事は、ソ連の影響下にある衛星国の経済や産業の監督する立場だった。
第6総局が正式に設立されたのは、アンドロポフがKGB長官になって以降である。
だがチェーカーは、1918年の創設以来、国内経済の統制が主要任務に入っていた。
ソ連では長い戦時統制経済による行き詰まりを解消するために新経済政策が1921年3月21日に施行された。
この新経済政策、通称NEPによって、新富裕層のネップマンや富農が登場した。
1924年に後継省庁である国家合同政治総本部は、このネップマンやクラークの腐敗や汚職を対象とし、経済的反革命を取り締まることになった。
それが第6総局の源流である。
これは今日のロシア連邦でも維持され、FSBの部局に第4総局が経済防諜の部門として残っている。
時々、オルガリヒの関係者がFSBに逮捕されることがある。
経済事犯はソ連およびロシアでは一般警察の範疇ではなく、秘密警察の案件だからである。
ちょうど米国における大規模な収賄事件捜査が、FBIによって行われるのに似ていると考えてもらえばいいだろう。
(オルガリヒとは、旧ソ連の国有企業民営化で払い下げられた政府財産を元に成立した寡頭的な新興財閥の事である。
寡頭制を意味するギリシア語のoligarkhês(オリガーキー)を語源とし、日本語では新興寡占資本家とも評される)
シュタージもそうだったように、KGBは経済活動の取り締まりをする関係上、経済に明るい人材を育成していた。
KGBの幹部職員は、市場経済の仕組みに精通し、経済と法律の知識を持つことなどが推奨された。
そのため経済学者による研修、市場経済に関する勉強会や闇屋の実態を詳細に分析が盛んに行われていた。
KGBはほかの諜報機関と違って、情報将校であるばかりではなく民間分野の専門家であることも求められた。
その為、ソ連崩壊後、KGB出身者の多くがビジネスマンや学者、コンピューター技術者、政治家に転職した。
そういう意味で、KGBはビジネスマン養成所と言っても過言ではない。
シュタージが、経済や法曹の専門家を育てていた事例は、KGBの猿真似であった。
アーベルがKGBの男と交友関係を続けているのにはいくつかの理由があった。
一つは、アーベルの実父で、SEDの創設メンバーである老ブレーメがNKVDの協力者だったからだ。
ソ連ではスパいとその血縁者を「スパイの血」と称して、非常に大事にした。
他薦で厳しい選抜試験のあるGRUと違い、KGBでは血縁者の自推が一般的だった。
特別学校や関連機関に無試験で入学でき、海外勤務も優先して彼らに回っていた。
KGBから見れば、アーベルは、シュタージの対外部門、中央偵察総局長官のマルクス・ヴォルフと同様に身内の扱いだった。
東独とソ連が距離を取り始めていても、以前の付き合いを元にKGBは接触してきたのだ。
もう一つの理由は、KGBに老ブレーメの起こした事件を知られていることで脅迫を受けている点だった。
老ブレーメはコミンテルン時代に、エジョフシナに遭遇し、生き残るために多くの仲間をNKVDに売り渡した。
そして隠ぺいする事を条件に、NKVDにリクルートされたのであった。
アーベルが恐れていたのは、老父の事件が発覚することによって、自分やベアトリクスに害が及ぶことであった。
その為、昔なじみのチェキストを切れなかったのだ。
「この間、月で花火大会をやったそうじゃないか」
「ああ、あれは酷かった」
「よく議長の裁可が出たな」
「新設のESP研究班が提案してな。
とにかく頭に血の昇りやすい連中の集まっているとか……」
「アーベル、話は変わるが……
近頃どこもそうだが、規則やぶりが多くてな」
「君がここに来たという事は収賄がらみか」
アーベルは回りくどい事を言わずに話の核心に触れた。
なぜ第6総局長直々に東ドイツに赴いたのかと。
男の答えは実に明快だった。
「アクスマンという男の件で我々も迷惑をこうむっている。
あの男が贈収賄をした相手は、軍はおろか、KGBの指導員まで入るからな……」
当時の東ドイツには、ソ連からの指導員が各省庁に100人ほど配置されていた。
それはシュタージでも同じで、ミールケ長官でさえも、最下級のKGB中尉に頭が上がらないほどだった。
「この際、関心を東に移したらどうだ。
そうすれば、君にも捜査の手が及ぶまい……」
アーベルは目の前の男がアクスマンから接待を受けていることを知っていた。
商業調整局を通じて手に入れたグレンフィディック 30年物を100本ほどタダ同然の格安の値段でアクスマンは男に収めたことがあったのだ。
グレンフィディックとは、スコットランドの高級シングルモルトウイスキーである。
ちなみに30年の価格は、2020年現在の定価で58000円ほどである。
生産数が限定された商品のため、市場では高額がつけられ、20万円強で取引されている。
KGBはアンドロポフ長官時代以降、綱紀粛正が進められた。
将校は国内外問わず、不倫や離婚をすれば、昇進取りやめの上、左遷。
どのような形の接待であっても、刑罰の対象とされ、特に外国関係は厳しかった。
1983年に日ソの漁業交渉をしていた担当官が銃殺刑に処されたことがあった。
至極真面目で、スパイと接触するようなことはなかった人物だが、あることが問題視された。
漁業交渉をしていた相手先の日本の水産会社から中元や歳暮の付け届けがあった事である。
その為に彼はアンドロポフに目を付けられ、KGBに逮捕された。
裁判の結果、日本帝国主義のスパイの認定を受け、刑場の露に消えた事例がある。
アーベルは共産党体制の申し子というべき男である。
人の弱みを漬け込み、そこから自分の協力者に仕立て上げるのが彼の十八番だった。
KGB第6総局長の男が、ソ連共産党幹部に高級ウイスキーやワインを何処からか格安で仕入れてているのを知っていた。
いつか何かあった時の為に切り札としてその事実を隠していたのだ。
「あの男は商業調整局をたぶらかした後、国費を流用して、グレンフィディックを仕入れたことがあった。
私も一本無理やり収められたことがあったが、あれの処分には困った」
件のウイスキーは、アーベルは一口も飲まなかった。
女婿のユルゲンの手に渡り、彼は同輩たちと一献傾けたのだ。
とりとめのない話を続けた直後、アーベルは男に切り出した。
「実は、東京にいる連中を出し抜く資料を手に入れてね……」
「資料、どんな……」
アーベルは妙に平静な表情で言った。
「まあ、目を通してくれ」
それは、陸軍参謀本部2課で作成した捜査資料の写しだった。
マサキが秘密裏に入手し、全編日本語だった物をドイツ語に仮翻訳したものだった。
資料に目を通した男は、思わずつぶやいた。
そこには、GRUのアターエフ少佐が穂積と大野から贈収賄を受けていたと克明に描かれてある。
「なんってこった!」
顔面蒼白となった第6総局の男は立った。
全身が熱病にかかったように震えている。
「アーベル、この日本語原本の複写を貰えないか」
アーベルはどきりとしたが、平静を装い、熱いコーヒーで唇を濡らす。
内心はうまく行ったと喜んでいた。
これでKGBに貸しを作ることになり、尚且つアクスマンの行った悪行もどこかに行く。
自分の知らないうちに関わった贈収賄事件で逮捕されることもないだろうことに安堵していたのだ。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
外交的解決 その3
前書き
ソ連外務省の男は、早速マサキがアベール・ブレーメに渡した資料をKGB第6総局長に渡した。
アーベルは資料を渡す際、資料の入手先はマサキ経由ではなく、東ドイツで半導体製造の合弁事業を始めようとしている日系企業と答えた。
その会社は、ソ連でも活動しており、モスクワにあるダミー会社を通じて、工作機械を輸出していた。
KGBスパイも多くかかわっており、第6総局の工作員の遊び場と称される場所であった。
「驚いた。
ソビエトの貴重な国家財産を貸し出して、享楽のために用いていたとは……」
「ええ、信じられません。同志長官」
KGB長官は、深いため息をつくと、紙の束を机の上に放り投げた。
そこには、アターエフと彼の管理する日本人スパイによる贈賄の事実が仔細に記されていた。
アターエフは、日本人スパイたちから中元や歳暮として大量の図書券を授受していた。
それらを換金し、自分の活動費や交際費の元にしていたのである。
また穂積から20万円相当のビール券を、ESPの貸し出しの謝礼として受け取っていた。
これらはその当時の日本社会では、ごく普通の行為であり、大規模な公共事業や設備投資の発注の返礼として慣習化されたものであった。
穂積や大野は日本の役所の事業発注への返礼と同じ感覚で、ソ連スパイに対応したのであった。
1980年代の日本では収賄とされていなかったが、ソ連では別だった。
経済事犯を扱う第6総局では、事業の見返りとしての金券授受は立派な汚職である。
罪状は、「経済的破壊活動」、「経済的反革命行為」であった。
ましてや、外国人から何かしらの利益を得るのは、それ自体が「反革命行為」であり、「反ソ帝国主義への幇助」「外国のスパイ」であった。
「明日の政治局会議に、この事は報告する」
KGB長官は言葉を切ると、ステートエクスプレス555に火をつけた。
ヴァージニア葉のみを使った英国製の高級煙草の匂いが部屋中に充満する。
「了解しました!同志長官」
第6総局の男は一礼をして、部屋を後にする。
KGB長官は、火のついたタバコを咥えながら、資料を一瞥した。
「はした金を理由に、ESPに飯盛り女の真似事をさせていたのか」
これを上手く使えば、老獪なウスチノフや増長しきって居る赤軍参謀総長を抑えることができる。
そして何よりも反抗的な赤軍に、大々的な粛清のメスが入れられる。
男はそう考えると、不敵な笑みを浮かべた。
場面は変わって、ソ連極東の都市、ハバロフスク。
そこにある共産党臨時本部では、定例の会議が一段落したところだった。
チェルネンコ議長は、最高会議のメンバー、37人を見直す。
その多くはフルシチョフ及びブレジネフ時代の古参。
既に70歳を超えた人物も多く、メンバーの入れ替えは死亡や病気による引退を除けば、殆どない。
「対日関係で何らかの妥協点はないのか」
突如として、チェルネンコ議長からの問いかけで、日ソ間の懸案になっている事項の話し合いが始まった。
この異世界では、ソ連の対日参戦は起きておらず、また日本側も対ソ静謐という事で軍事行動は起きていなかった。
我々の世界の様に、北方領土の不法占領や国際法違反のシベリア強制抑留問題が発生していなかった。
その為、日本企業はシベリアや北樺太の資源開発事業に積極的に参加していた。
「実は、今回の事件に関して信頼できる筋から情報を得ていまして……」
信頼できる筋とは、KGBの用語で、KGBの影響下にある人物の事である。
露語でдоверенное лицоといい、英語ではTrusted Contactと呼ばれる。
彼らはKGBのアクチフとはことなり、偽名を与えられず、また協力への宣誓署名を免除された。
密会は、官憲の手の及ばない「安全な家」や隠れ家ではなく、信頼できる人物の希望する場所で行えた。
明確な犯罪以外は調書を作成せず、報告書は残されない存在である。
ユーリー・アンドロポフは信頼できる人物を重用し、彼らをこう評した。
「国家安全保障の観点から研究に値する人物や事実についてKGBに信号を送り、また個々の作戦任務も遂行するソ連の愛国者」
「つまり件のGRU将校は、日本野郎に騙されて、不必要な支払いをしていたという事か」
チェルネンコ議長は、説明を聞いて何度も頷く。
「その通りでございます。同志議長」
KGB長官は、いささか興奮気に告げた。
「猿どもに、一杯食わされたも同然ではないか!」
会議に参加していたウスチノフ国防相が、声を荒げた。
「要するに、日本野郎を化かすつもりが、化かされていたという事でありますな!」
検事総長はそのように察した。
「では、例のものを」
KGB長官は手を挙げて、数人の秘書官を呼んだ。
秘書官たちは、全員分の資料を一斉に机の上に置く。
「穂積の行っていたのは、ソ日間の輸出入事業です。
彼の会社である穂積交易は、大空寺物産の協力企業でした」
穂積交易は、大空寺財閥の子会社『大空寺物産』のモスクワにおけるダミー会社。
大空寺物産は、ココム規制に違反して大型工作機械を第三国のノルウェーを迂回させ、ソ連に不正輸出するために設立されたものだった。
しかしながらダミー会社なので能力に欠如しており、その実務の多くはKGBに代行させていた。
社員の大半はKGBのハニー・トラップに引っかかるか、多額の資金提供を受けているかのどちらかだった。
「穂積交易は、ナホトカに事務所を置いております。
従業員は、20名ほど日本人が運営しているとの事であります」
KGB長官は、すでに調べ上げた資料から、そう読み上げた。
その資料からは、KGBの痕跡は一切消して、GRUのアターエフ少佐の事だけ子細に記した。
「それで、アターエフはなんでこの案件に?」
グロムイコ外相は、KGB長官の方を向くと、そう訊ねた。
GRUがなぜKGBの関わっている経済スパイと知り合いなのか。
一抹の不安を抱いたのである。
「穂積の父親の会社は、強化外骨格の製造をしております。
その技術を応用して、死んだ人間や重度の障害を負った人間をサイボーグ化する計画を立てておりました。
そこには、GRUのアターエフが関わっていたそうです」
KGB長官は真顔で言った。
ウスチノフ国防相はあきれ果てた表情で、KGB長官を観た。
「祖国のために戦った人間を墓場から掘り起こして、馬車馬の如く働かせるだと!
それは人間のすることではない!」
判断をためらっていたチェルネンコ議長は、ようやく納得したようだった。
ウスチノフ国防相の一言が、大きく影響し、決断をする。
「このような人物は、今のソビエトには必要のない人材だ。
最高検察庁と組んで、全員を死刑にするよう手配しなさい!」
ソ連の司法は、いわゆるブルジョア的煩らしさから解放されていた。
私選の弁護士もなく、三権分立という込み入った制度もなかった。
1980年、サハロフ博士のゴーリキー(今日のニジニ・ノヴゴロド)への流刑をした時、根拠法はなく、最高会議の決定が基準となった。
また1961年に密輸品のジーンズを売った闇屋の青年二人が死刑になった時、それを取り締まる法律はなく、フルシチョフの命令が根拠となった。
この様に、ソ連では、最高権力機関が一度決定すれば、それが法律とされた。
刑事被疑者・被告人の法を超える勾留期間の延長も、最高会議によってしばしばなされた。
このような考え方は、今日のロシア社会でも支配的である。
「承知しました」
「裁判と刑の執行は、いつやるのだね……」
チェルネンコ議長が、尋ねた。
「早ければ、明日にでも行うつもりです」
KGB長官は、自信に満ちた表情で答えた。
襲撃事件の翌日。
アターエフたちGRU工作員の一行は、アエロフロート機により大阪伊丹空港を後にした。
マサキは「ペルソナ・ノン・グラータ」(好ましからざる人物)に認定され、出国する敦賀総領事をTV画面越しに黙って見ていた。
今回のハイネマンの誘拐事件。
何にしても、ソ連人たちは、焦っている。
何を焦っているかは知らないが、余りに急ぎ過ぎている。
マサキは不安を鎮めるかのように煙草を吹かすと、器用に煙の輪を吐いた。
総領事以下、外交団とGRUの工作隊はウラジオストック空港について間もなく、空港近くの倉庫に集められた。
訝しがる男たちの前に、剣と楯の紋章にラズベリー色の兵科職の階級章を付けた法務将校が立ちはだかった。
少し遅れて、青色の検察官の制服を着た男たちが一斉に現れる。
そして厳かな雰囲気で判決文を読み始めた。
「主文は理由を述べた後に言い渡します」
その言葉に、GRU工作員の男たちに動揺が走った。
主文後回しの場合は、最低でも懲役25年以上の判決を告げる合図だからだ。
法務大佐が朗々と文書を読み上げる。
「被告人、ワシリー・アターエフ。
同人は、ソビエト連邦赤軍軍人として、15年以上の勤続により……」
アターエフの経歴が滔々と告げられ、穂積や大野との交友関係が検察官から述べられる。
そして大野やシベリア開発に参加していた八楠から付け届けを受けていたことが、白日の下にさらされた。
この事実は、日本帝国主義に加担したものであると最後に検察官が付け加える。
アターエフの様子は哀れだった。
既に狼狽の色が現れて、右往左往し始める。
「被告人を死刑に処する」
法務大佐は、冷酷に告げる。
アターエフは自分が軍人であることを忘れて、必死に許しを乞うた。
「わ、私は知らないぞ!」
叫び声をあげるアターエフは、倉庫の端に引きずられていった。
「た、助けてくれー」
アターエフは、兵士たちに柱に鎖と針金で括り付けられる。
「うぁ!」
法務大佐の制服を着た男が、右手を上げる。
「撃て!」
一斉に銃を持った兵士が、SKSのボルトを操作する。
鋭い銃声が10秒ほど続いた後、全てが終わった。
後書き
アターエフは実在する姓で、アゼルバイジャンや北カフカスにいるテュルク系民族の姓です。
実在する格闘家のヴォルク・アターエフはクミク人というチュルク系少数民族の出身です。
ご意見、ご感想お待ちしております。
外交的解決 その4
前書き
水着回を書くことにしました。
穂積事件の衝撃は大きかった。
日ソを行き交うビジネスマンが、実は大空寺財閥のソ連でのダミー会社の社員で、しかもソ連の工作員。
最新技術がソ連に漏れ伝わっていた事実は、日本の政財界を揺るがすこととなった。
事件の翌日、二条城二の丸の敷地内にある城内省庁舎に大野は祖父と共に呼ばれていた。
先ごろのハイネマン誘拐事件に関しての事情聴取を受けるためである。
マサキに砕かれた両膝を庇う様にして平伏していると、斯衛軍の赤い服を着た男が三人ほど入ってきた。
外から見えるように手紙を胸元に挟んだ男は立ち止まると、大野達に手紙を見せつける。
「ご上意である」
大野の祖父は、男の意図を正確にわかった様子だった。
観念したかのように、改めて平伏した。
赤い服の男は封筒から中身を取り出すと刀の柄にかけ、手紙を広げた。
「衆議院議員、大野。
其の方、恐れ多くも首脳会議の日、ハイネマン博士誘拐未遂の段、誠に持って不届き至極。
よって、斯衛軍第19警備小隊お預けの上、切腹申し付けるものなり」
大野は驚愕の色を浮かべると、身を起こす。
「相分かったな。大野」
大野は、使者の足に縋り付いた。
「お待ちくださいませ!これには深い理由がございまして……」
大野の顔はみるみる青ざめ、声も涙っぽいものになっている。
「これは、木原の仕掛けた罠にございまする」
「見苦しいぞ。大野」
涙で顔の半分を濡らしながら、大野は哀れっぽい声を出した。
「今一度、お調べくださいませ」
「ご上意は下ったのだ!」
使者の男は、足に縋り付く大野を振り払おうとする。
「嫌でございまする」
大野は追いすがるように、使者に訴えた。
「ええい、放せ!」
負けじと、強い力で足にしがみつく。
「無礼者!」
二度ほど足を前後に振ると、大野がはじけ飛ばされた。
大の男が二条城の庭先に転がって、泣き叫ぶ。
大野は震えあがっていた。
この俺から妻ばかりではなく、命まで奪うのか。
木原の鬼畜生、ド外道め……
使者は既に去っていた。
それに気が付かないまま、大野はクドクドと切ない願いを虚空に向かって吐き続けていた。
夜半、大野は切腹の会場となる斯衛軍第19警備小隊の陣屋の中に居た。
浅葱色の装束に着替えさせられ、その時を待っていたのだ。
「お支度が整いました」
黒い斯衛軍の制服を着た若い少尉が、彼にそう伝える。
「いざ」
大野は、ものすごい形相になると悲鳴を上げた。
そして訳の分からないまま、引きずられていき、会場となる庭に出る。
そこには既に拳銃を帯びた10人以上の刑務官が並び、白い幕が張られてる。
刀を手に持った介錯人が立ち、介添人が近くで正座で待つ。
「いざ、切腹の場へ!」
切腹の準備を見た大野は、恐怖のあまり委縮し、その場で立ち止まった。
むりやり白布を張った畳の上に正座させられる。
彼の正面には、二人の検使が椅子に座って待っている。
間もなく徳利と盃を持った男が、大野の目の前に現れる。
「末期の水にござりまする」
大野は震えながら、盃を取った。
「今後、二口で飲むのが作法です」
震える手で水杯をとると、顔の位置にまで持ってくる。
だが大野は、恐怖のあまり、全ての水をぶちまけてしまった。
「見苦しいぞ!大野」
検使が声を荒げる。
そして少し置いた後、別な検使が声をかけた。
「遺言か、辞世の句を……」
大野は何か答えたが、彼等には聞こえなかった。
刑務官は、さっさと和紙で包まれた扇子を載せた三方を目の前に置く。
本来は和紙で包んだ脇差の刀身を用いるのだが、江戸中期以降、扇子で代替えするのが一般化した。
切腹の苦しみを味わなくて済み、尚且つ武士としての面目が保てる。
この事は扇子腹と呼ばれ、形の上では自主的に腹を切る体を指す言葉となった。
「お支度を」
掛け声と同時に、介錯人は太刀を振り上げる。
介添人は大野の衣服をはぎ取った。
大野は扇子を手に取ると、介錯人の方を振り向く。
絶叫するとともに、介錯人に飛び掛かって、太刀を奪い取ろうとする。
「取り押さえろ!」
刀を奪い取った大野は最期の力をもって、介錯人を撫で切りにする。
血まみれの裸身で振り返り、ピストルを抜いた刑務官たちの方を向く。
「いやだ、やだ、死にたくない!」
刑務官たちのもつ拳銃から、一斉に閃光が走る。
興奮状態にある大野は倒れず、太刀を振り上げながら突っ込んでいく。
乱闘となった際、照明のたいまつが倒され、火は消えてしまう。
周囲は漆黒の闇に包まれ、3名ほどの刑務官が斬られた。
事態を重く見た検使が、甲高い声を上げる。
「引けい」
誰も言葉を発しなかった。
凄惨な現場に遭遇して、そのまま立ち尽くしていた。
興奮状態の大野の後ろに、静かに黒い影が現れる。
鈍い閃光が上弦の月の光で浮かび上がる。
一瞬の煌きと共に、大野の首は飛び、血煙が周囲を舞った。
切ったのは、白銀であった。
白銀は血の付いた脇差を懐紙で拭くと、静かに鞘に納める。
驚く刑務官たちに一礼をすると、何食わぬ顔でその場を後にした。
アイリスディーナは残りの訪日日数を、九州で過ごした。
有田焼の見学に行く議長たちとは別行動をとり、篁家の人間に混ざって、多くの事を学んだ。
福岡や佐賀に出かけて、有名な日本の史跡や有名企業を訪問した。
とりわけ自由主義社会に関しては、有り余るほどの知識を体験で得た。
九州での最終日は7月上旬から海開きされている志賀島にマサキといた。
志賀島は海水浴場で名の通った場所であると同時に、島全体が史跡であった。
江戸時代に出土した「漢委奴国王」――後漢の頃、光武帝から地方豪族に送られた印綬――をはじめ、その名跡が万葉集にも歌われ、また元寇の激戦地の一つでもある。
マサキは、アイリスディーナの他に、美久や篁家の人間と共に水着をもって海水浴場に出かけた。
ホテルからほど近い海水浴場だったので、白銀や鎧衣は遠くから双眼鏡で眺めているだけだった。
平日の午前中という事もあり、海水浴場は空いていた。
水着姿で更衣室を出てきたアイリスディーナとミラを見たマサキは、驚きを隠せなかった。
アイリスディーナは、母親のメルツィデースや兄ユルゲンに似て背が高い。
服を着ているときは線も細く、非常にスリムに見えるのだが、水着を着ていると抜群のプロポーションだという事が分かる。
とりわけアイリスディーナの乳房の大きさには、19歳の少女とはいえ瞠目すべきものがあった。
ミラはIバック型の白のワンピース型の水着、アイリスディーナは濃紺のUバックをした競泳用水着。
少し遅れて、篁と美久がきた。
美久はバック・クロス・ストラップ型をした灰色のビキニ。
美久の水着は以前、イスラエルで地中海と死海を泳いだ時に現地で買ったものである。
マサキは、三者三様の姿を見て圧倒されるものがあった。
海岸に居た人々も、三人の華やかな姿に圧倒されている。
ミラの白い水着は、色の透けない米国製の新素材で作られたものであるが、双丘の隆起は隠せない。
初めて見た時から、吉祥天を具現化したような存在であった。
その輝きは、子供を産んでからも変わらない所か、ますます増したように思える。
29歳の他人妻とは、なんというものかと、内心、不思議なため息をついていた。
マサキは、嫌でも彼女たちの扇情的な体に視線を注いでしまう。
美久やアイリスディーナに内心を悟られまいと、必死に泳いだ。
篁は一足先に浜に上がっている妻のミラを探そうとした瞬間、アイリスディーナが濃紺の水着で目の前に現れた。
「篁中尉」
アイリスディーナを認めた瞬間、篁は目を瞬いた。
濃紺の水着は、競泳用のシンプルなワンピースだった。
篁は、水着に目を奪われたのではなかった。
それに包まれた19歳の少女に、目を見張ったのである。
完璧なまでに形作られようとしている肉体を平易な言葉で表現することさえ、憚られた。
アイリスディーナ・ベルンハルトを、冒涜するものでさえある。
篁はアイリスディーナから漂ってくる雰囲気にすっかりのまれ、ただ頷いた。
「楽しいかね」
慌てて、篁は言葉をつないだ。
日本人離れした流暢なドイツ語に耳を傾けながら、アイリスディーナは若干低い声で応じる。
「とても楽しいです。とっても……」
篁は、それ以上何も言えなかった。
アイリスディーナの泳ぎは、元水泳の強化選手だけあって、見事だった。
20分ほど、軽くクロールで流してから、海から上がってくる。
篁は、体に密着した水着の妖しくも美しい曲線に圧倒されたままだった。
アイリスディーナは、そんな視線もお構いなしに、マサキのいるビーチパラソルの方に向かっていった。
美しいカーブを描く後姿を見ながら、篁はため息をついた。
マサキは愛用のホープを片手に、白銀を前に熱弁を振るっている最中であった。
BETA戦争がひと段落をついたことで西ドイツの経済に陰りが見え始めた事、そして米国はニクソン以来の深刻なスタグフレーションが続いている。
このままいけば、米国はおろか、G7各国が日本への対米貿易黒字の削減と日本円への協調介入を提案してくるのではないか。
前世のプラザ合意の経験から得た知見を、熱心に説いていた。
「もうそろそろ、お昼ですね」
アイリスディーナは、マサキの前に座った。
「そうだな」
「食事の準備は……」
「美久に買いに行かせた」
食事の準備は、美久と鎧衣に任せっきりにしていた。
こういう時は裏方に回ってくれる彼らは、非常に助かる存在であるとマサキは思った。
「まあ、兄さんと違ってちゃんと準備しているんですね。
所で、木原さんは、義姉さんと私では、どっちのタイプが好きですか」
マサキは、いきなりの質問にドキマギした。
「どっちのタイプも、大歓迎さ!」
マサキは何も考えずに、軽く答えた。
アイリスディーナは笑っただけだった。
会話が途切れた。
その時、ジュースを持って来た美久が現れる。
「コーラは俺と白銀、ミラに、ビールは篁。メロンソーダはアイリスに渡せ」
マサキは美久の方を向くと、色々とこまごまとした指示を出している。
アイリスディーナは、マサキと対等に話できないことを悔やんでいた。
きっと私じゃ役不足なんだわ。
氷室さんの様に、あけすけに応対してほしい。
アイリスディーナは、何とも言えない苛立ちを覚えた。
マサキは、アイリスディーナにとって例外だった。
今まで知り合った男の中で、色々と親切にしてくれるし、家族ぐるみの付き合いもある。
それだけにアイリスディーナのマサキに対する感情は、特別だった。
いや、かえって軍隊という男社会に籍を置いたことで、マサキにこだわりを抱くようになったと言っても過言ではない。
アイリスディーナは体育すわりをしながら、あれこれ考えるうちに、いつの間にか転寝をし始めてしまった。
「早く食べないと冷めるぞ」
脇に座るマサキの声で、目が覚めた。
日本に来た疲れですっかり眠ってしまったらしい。
誰かが買って来たらしい焼きそばやフランクフルト、イカの姿焼きが並んでいる。
「いや、しかし市販のラーメンの方がうまいな。
海辺で食うという思い出以外、評価できることはない」
マサキはラーメンのどんぶりを持っていた。
「まあ、カップ麺でも買った方がいいですよね」
「お前もそう思うか」
マサキと白銀の思いがけない会話に、アイリスディーナは驚いていた。
カップ麺は東独はおろか、西独でも高級な保存食の扱いだったからだ。
自由経済の贅沢な暮らしに慣れていないアイリスディーナの目には、日本の生活全般が洗練されたものに映る。
東西冷戦の最前線の一つである日本の発展ぶりを目の当たりにし、今まで信じた価値観が崩れ落ちていく気がした。
アイリスディーナは海を見つめたまま、何も話そうとしない。
邪魔をしてはいけないという配慮から、誰も声をかけなかった。
ミラは、遠くからアイリスディーナの横顔を見ながら、その孤独感を感じ取っていた。
軍の花形である戦術機部隊のパイロットでありながら、こういう一面を持ち合わせていることを今知った。
アイリスディーナが日本で過ごした1週間はあっという間に終わった。
保安検査場の入口の入り口に立った五人の日本人に見送られながら、機中に向かった。
篁をはじめとする日本人たちは、皆和やかな表情でそれぞれ別れの言葉をアイリスディーナに投げかけてきた。
そこには企みもなかったし、憎しみもなかった。
保安検査の間、アイリスディーナは日本で体験したことが、やはり夢だと思った。
そうでなければ、淡々とわかれることができるはずもないと考えた。
やがてイリューシン62は伊丹国際空港を離陸し、ターミナルビルは見えなくなった。
夏の空を飾る綿雲を機窓から眺めながら、アイリスディーナは19歳の東独の少女という現実へ引き戻っていった。
後書き
サミット編は終わりです。
ご感想お待ちしております。
バーナード星爆破指令 その1
前書き
バーナード星系に行く話を始めました。
ソ連共産党本部には秘密裏に一人の人物が呼び出されていた。
その人物とは、ソ連水爆の父とされる、アンドレイ・サハロフ博士であった。
サハロフ博士は水爆実験成功後、社会主義英雄を三度受賞した人物であるが、反核運動の旗手の一人でもあった。
1968年、「進歩・平和共存および知的自由」を地下出版し、その名を広く西側に知られている人物でもある。
(「進歩・平和共存および知的自由」は、1969年に日本でも邦訳されている)
1975年にノーベル平和賞を受賞したこの人物は、何故、反核運動の旗手となったのか。
それは、ソ連各地の放射能汚染を目の当たりにし、核の被害に衝撃を受けたためである。
また米国沿岸に大型水爆であるツァーリボンバーを投下し、人口津波を発生させる計画を発案したことがあったが、海軍少将に非人道的ととがめられたことも関係しているのかもしれない。
ともかく核戦力の拡充を進めるソ連にとって、同博士は厄介ものであった。
サハロフ博士とKGBの関係は、最初から不仲ではなかった。
ソ連初の水爆実験成功の裏には、KGBの諜報活動が大いに関係しているからだ。
FDR政権のナンバー2、ハリー・ホプキンスは、ソ連に原爆開発キットというべき一連の材料と制作方程式を空輸していた。
この事は、ジョージ・レーシー・ジョーダン大佐が記した「ジョーダン少佐日記」に克明に記されている。
ジョーダン大佐は、世界大戦中、陸軍少佐としてソ連向けのレンドリースに関わっており、その中には米国からソ連へ運び込まれた放射性物質があった。
1940年代初頭の段階では、ソ連国内でウラニウムが未発見だったためである。
当時の米人の多くは、放射性物質の危険性を知らず、素手でウラニウムを触れていた。
その様子を見たソ連将校は大童となり、彼等を叱り飛ばしたという。
また日記には、大量のソ連軍人が米国内に出入りしていたことや、カウンターパートナーであるソ連軍少佐との交流が克明に描かれている。
(元防衛大学校教授の瀧澤一郎氏によれば、ジョーダン少佐の日記に出てくるソ連軍少佐、アナトリー・ニコラエビッチ・コチコフは、冬戦争への出征経験のある戦闘機パイロットで、おそらくGRUの工作員ではないかという)
ソ連では1920年代以降、核開発はKGBの独占化にあった。
なぜ赤軍の中の研究班に置かれなかったのかというと、核開発のイニシアチブを取ったのがべリヤだったからだ。
そういった関係もあり、べリヤの息子であるセルゴ・べリヤはロケット技術者として核開発に携わっていた。
()
ソ連赤軍は革命当初から党よりその存在を警戒され、とりわけ核の管理に関しても同様だった。
KGB第三総局、つまりは特別部が核の運搬や管理に人員を割いていた。
フルシチョフ失脚以降、核弾頭の物理的な管理は戦略ロケット軍や陸海軍が個別に行ったが、核関連施設の運営や計画は特別部が引き続き行った。
軍から独立した指揮系統で、核使用に対し、統制を聞かせていた面がある。
KGBはソ連の核科学者を早い段階から育成し、またそれに見合う報酬や社会的地位を与えていた。
だが、サハロフ博士のように自由を求める人物に関しては、徹底的に妨害した。
サハロフ博士のノーベル賞受賞以後、彼はアンドロポフ長官から徹底的にマークされ、最終的にゴーリキー市に無期限の流刑を命ぜられた。
恩赦が認めらえたのは、アンドロポフがなくなって2年後の事であった。
宇宙怪獣の侵略を受けた異界では、結果的にサハロフ博士は流刑を免れていた。
マサキによるブレジネフとアンドロポフの暗殺の為である。
知人を通して他国との交流を続けている核物理学者に、ソ連政府はg弾の実情を問いただすべく、呼び寄せたのであった。
「米国では、代替え案として、g元素爆弾の連続投下を行った後、バーナード星系に移住する計画があるとロスアラモスの知人から聞き及んでおります」
KGB長官の言を聞いて、ウスチノフ国防相がつないだ。
「確かに米国にはエドワード・テラーの様なハンガリー野郎がいるからな。
あやつのごとき、水爆気違いの似非学者が出てもおかしくはあるまい」
テラーは米国水爆の父だった。
赤化しつつあったロスアラモスと距離を置き、軍と共に水爆実験成功を導いた人物である。
またサハロフ博士とは違い、2003年に95歳で天寿を全うするまで、水爆の所有が相互確証破壊を維持させ、ソ連の核攻撃を防いだと公言してやまない人物だった。
赤軍参謀総長は、白海運河に火をつける。
GRUの報告から、すでに米国では約30発分のグレイイレブンと呼ばれるG元素爆弾の原材料が準備されているのを知っていた。
だが水爆よりも重量があるので、空輸は難しく、艦艇にも搭載できないことも聞き及んでいた。
そんな仕えぬ兵器よりも、ゼオライマーの秘密を知り、一刻も早くソ連で量産化を進めるべきではないかと考えていた。
一瞬にしてハバロフスクを蒸発させたメイオウ攻撃、500トンの巨体を自裁に移動させることのできる大出力の小型ブースター。
そして何よりも、無限の力を誇る次元連結システム。
マサキがこの異界に登場して2年という時間の中で、男はゼオライマーの存在に魅了された一人だった。
「同志サハロフ博士。
あなたはg元素爆弾をどう思いますか」
サハロフは愛用する古い型の丸眼鏡をはずして、男の方を向いた。
「科学アカデミーに届いたジョンストン島での実験結果をつぶさに見ましたが……
人類には手の余る兵器です」
サハロフの顔色が突然変わった。
血の気が失せ、何かに耐えている表情になり、そして無表情になった。
途方に暮れているといった様子だ。
「どういうことですか。仰る意味が分かりませんが……」
参謀総長は、不審に思って聞き返した。
周囲の者たちは、サハロフの豹変に唖然としている。
呆然とするサハロフに代わって、KGB長官が補足した。
「重大な重力異常を発生させ、島の植生に深刻な影響を与えたと聞き及んでおります」
突然の告白に、参謀総長は煙草を落とした。
もしソ連国内に向けて、そんなものが使われたら……
痩せて貧しいこのロシアの地が、さらに貧しくなる。
ただでさえ、年間の気温差が100度もあるシベリアの原野に首都を移して、その命脈を伸ばしているというのに……
友邦諸国もかつての飢饉のときの様に助けてはくれぬのだ。
ほかならぬ断行の原因を作ったのは、我が国にあると言われればそれまでだが、ジンギスカンの様に略奪をするにしても、その兵馬の数は十分ではない。
大祖国戦争の時のように、13歳の幼子に銃を持たせろというのか。
将来、母となるような小娘たちに、生涯苦しみ続ける様な悪夢を味わわせるのか。
健康な若者たちの手足をもいで、芋虫の様にのた打ち回って、苦しめさせるのか……
蒙古帝国は資源が乏しいがゆえに版図を拡げ、それがゆえに余計に確保すべき資源要件が厳しくなり、自滅したではないか。
我が国にそのような轍を踏ませてはならぬとしてきた、この俺の努力は何だったのか。
燃え燻る紙巻煙草を呆然と見ながら、男は30有余年前の悪夢の戦争を思い起こしていた。
「この際、偽情報を流して、バーナード星系そのものを破壊させてはどうでしょうか」
参謀総長は言葉を切ると、タバコに火をつけた。
これは彼が新しい話題に持っていくときの常套手段である。
「どうやって……」
「木原にです」
ウスチノフ国防相が怒鳴った。
「あの日本野郎にか!」
「そうです。
木星のガニメデと土星の衛星を跡形もなく破壊した、あの日本野郎なら、完璧に実行できるでしょう」
KGB長官が尋ねた。
「6光年もの距離がある場所ですぞ。どうやって送り込むのですか」
「14億キロメートルを瞬間移動できる存在です。
ゼオライマーならば、たやすいでしょう」
それまで黙って聞いていたチェルネンコ議長が口を開いた。
「して、方法は……」
「BNDの中にいる我らが協力者を用いて、ゲーレンにそのことを伝えるのです。
ゲーレンの事ですから、木原に相談するはずです。
彼の孫娘は、木原に惚れている節がありますから……」
チェルネンコは、男の答えに満足し、何度も頭を振った。
「流石だ、同志参謀総長!」
チェルネンコの鶴の一声で、大勢は決した。
最高幹部たちは一斉に挙手し、参道の意を示す。
「では、早速その線で行きたまえ」
参謀総長は直立不動の姿勢になる。
それは、帝政ロシア以来の室内敬礼の態度だった。
「了解しました、同志議長!」
クリステル・ココットは、ボン市内にある寂れた喫茶店に呼ばれていた。
彼女を招いたのは、ココットが卒業したアーヘン工科大学の先輩にあたる人物だった。
(アーヘン工科大学は、1870年創設の総合大学である。
戦前までは工科大学だったが、戦後は教養学部・人文学部・経営学部や医学部が追加されて、総合大学になった)
30代という若さで、BNDのソ連分析部の副部長に選ばれた才媛だった。
ココットは、生真面目で男っ気の一つもない彼女の事を、何処にでもいるオールドミスと思っていた。
何時ものように、チューリッヒやウイーンに行った土産話でもするものだと考えていた。
当時の西ドイツ社会では、この様な独身のキャリアウーマンが一般的だったからだ。
2人は食事をしながら、とりとめのない会話をしていた。
話すのはもっぱら副部長で、ココットが聞き役に回るといういつも通りの会合だった。
少し違っていたのは、「イズベスチヤ」に掲載されたソ連科学アカデミー総裁の記事をキンケル長官に持っていた時の話だった。
いつもは穏やかなキンケル長官に非常に驚いた顔をされて、困ったという。
ソ連科学アカデミー総裁が、イズベスチヤに記事を載せるなんて……
きっと、BETAがらみのことかしら。
ゲーレンに話してから、木原に知らせねば……
そう思ったココットは、副部長の話がひと段落した時を見計らって、公衆電話に駆け込んだ。
一刻も早く真偽を調べるためである。
電話を終えたココットは、副部長に別れを告げた。
「先輩、そろそろ両親が心配しておりますので帰りますね」
「もう、そんな時間」
時計は8時を回ったばっかりだった。
この時期のドイツは、9時まで陽が沈まない。
「何が起こるかわかりませんし……
それに、私もきれいな体でお嫁さんに行きたいですから」
そういう風にあけすけに話すココットに冷やかされても、副部長は上手くあしらった。
「あら、いい相手が見つかったの?
結婚式に呼んでもらえるかしら」
そう言い返して、軽く流せる心の余裕はあった。
ココットは知らなかったが、彼女は先ごろ知り合ったハンサムな青年実業家と密かな関係を持っていたからだ。
この事実を知ったのならば、ココットは即座にキンケル長官に連絡したであろう。
なぜならその青年実業家は、情報関係者から機密を抜き出すプロフェッショナルの教育を受けた人物だからだ。
シュタージ風に言えば、ロメオ工作員。
女性と恋愛関係をもって、その人物をコントロールするという、二重スパイの獲得手段だ。
色仕掛け工作は、古代より青史に記され、神話や創作の題材にもなった使い古された手段である。
だが現実の諜報作戦は、この男女の色恋こそスパイの真骨頂であるという陳腐なものだった。
後書き
ご意見、ご感想お待ちしております。
バーナード星爆破指令 その2
バーナード星とは、地球からおよそ6光年離れたへびつかい座にある恒星のことである。
1916年に米国の天文学者のエドワード・エマーソン・バーナードによって発見された。
2024年現在、4つの太陽系外惑星が確認されているが、人類が可住可能かは不明である。
なぜならば実際にロケットを飛ばして観測したわけでもなければ、惑星の地表面を探査したわけでもないからだ。
その為、一度はバーナード星は恒星のみで、惑星がないという説が主流となった。
2024年にスペインのカナリア天体物理学研究所(IAC)の研究チームが再発見するまで、忘れられた存在だった。
ココットから連絡を受けたマサキは、西ドイツのバイエルンに飛んだ。
日本での仕事が終わって向かったため、ドイツ時間は平日の昼間だったが、直ぐにココットが迎えに来てくれた。
シュタルンベルク湖畔の屋敷で、一通りの説明を受けた後、ゲーレンが手に入れた書類を渡された。
ダイダロス計画と書かれた機密資料に目を通しながら、かつての世界であったバーナード星系移住計画を振り返っていた。
1973年に英国惑星間協会が考案したものに、ダイダロス計画という物がある。
恒星間航行計画の一つとして、光速の10パーセントまで加速可能な核融合パルスエンジンを使う案である。
最も近い惑星が存在すると考えられたバーナード星系まで50年をかけて行き、宇宙探査をするという壮大な計画だ。
だが核パルスエンジンが未開発であることと、膨大な費用と広大な建造施設を要することから構想の域を出なかった。
1970年代半ばにバーナード星系には惑星が存在しないという説が出ると、一気に計画は尻すぼみになり、1978年を最後に立ち消えしてしまった。
マサキは、ホープの包み紙を開けながら、再び資料に目を落とした。
なるほど、この世界の技術ならば、あながち嘘とは言えないな。
たしかにこの世界には、前の世界と違って、核パルスエンジンの技術は確立されている。
1950年に米国とフランスを中心とする欧州宇宙機関が外宇宙探索の為に研究を開始した。
1961年には無人探査機という形で、衛星軌道から核パルスエンジン搭載のイカロス1号を宇宙に送り出している。
誰かが俺の気を引くために作った偽文書かもしれん。
KGBは、エイズウイルス人口兵器説を広めるために、インドで新聞社を作るほどだ。
シュタージお抱えの医者ヤコブ・ゼーガルに偽書を用意させ、西側にばらまいた。
あれは、KGB最後の第一局長エフゲニ・プリマコフが、KGBの最高傑作の偽情報工作と評した作戦だった。
(エフゲニー・プリマコフは偽名で、本名:キルシブラッドというユダヤ人である。
ソ連科学アカデミーの会員であり、KGBの現役予備将校であった。
ソ連崩壊後のボリス・エリツィン時代にKGB長官を務め、外相や首相を歴任。
2005年頃に政界を引退した後、2015年に死去した)
この様な回りくどいことをする連中が、何かしてこないはずはない。
マサキは、この問題を疑ってかかることにした。
「この資料はどこから手に入れた。
よもやKGBが俺を欺くために作った偽文書をつかまされた可能性は、本当にないのか」
言葉を切ると、マサキはタバコに火をつけた。
「木原博士、まずありえない話だ」
ゲーレンは、これ以上話を突っ込まれないよう、早口で答えた。
「情報の出場所については、後ほど説明しよう」
マサキは念を押して聞いた。
「偽情報じゃあるまいな」
ゲーレンはマサキの方を向く。
いつになく、それは冷たい声だった
「それは、確実に裏が取れた話なんだろうな!」
ゲーレンは、内心で汗をかきながら思った。
彼は一度だけ、ソ連の偽情報に騙されてしまった経験があったからだ。
若い頃武装親衛隊に居たハインツ・フェルフェという人物を、BNDの工作員としてリクルートしたことがあった。
フェルフェは戦後すぐにソ連にリクルートされたKGBスパイで、その正体を知らずに10年もの間重用し続けた。
彼のもたらす精巧な偽情報で、BNDが惑わされた苦い記憶が思い出される。
(フェルフェは、1969年にスパイ交換で東独に移住後、KGBによって厚遇を受けた。
ソ連当局から赤旗勲章と赤星勲章を授与され、2008年に死去する直前、FSBより卒寿の祝いを受けるほどだった)
天才科学者・木原マサキをして慎重にさせたのは、2パーセクという距離である。
(パーセクとは、今日天文学で用いられる3.26光年の距離を表す単位である)
天のゼオライマー、グレートゼオライマーの各機に搭載された次元連結システムを使えば、即座にワープは可能だが、万が一の事が頭をよぎったからだ。
それは、高速で動く物の中で起きる時間の遅れを恐れたからである。
光速度に近い速度で運動している系の時間の進み方は、静止している観測者に比べて遅くなる現象である。
一般にリップ・ヴァン・ウィンクル効果と呼ばれるもので、日本ではウラシマ効果とされる事象だ。
ゼオライマーは次元から異次元への異動が可能だから、高速移動による弊害は大丈夫であろう。
出されていた焼き菓子をほおばることで、マサキは興奮した気持ちを抑えることにした。
ゲーレンが立ち去った後、マサキは部屋に残って、資料をカメラに収めていた。
詳しい分析は鎧衣あたりに任せよう、ともかくあとは買えるだけだな。
そう考えていると、部屋に近づいてくる足音に気が付いた。
「木原……」
婦人用のスーツ姿のココットは、部屋へ入ってくるなり、マサキに抱き着いてくる。
マサキはそれを宥めて、机の上にある冷たいコーラをすすめた。
「光の速さで、6年もかかる場所でしょ……
無事戻ってきても12年」
最初のうち、マサキは大人しかった。
ほとんどココットの言いなりと言っても差し支えなかった。
「もしものことがあったら……どうするの?」
この時、マサキの心にわずかばかりの揺らぎが見られた。
そうだ、前の世界と違って、俺はクローン受精卵を用意していなかった。
万に一つもない事とはいえ、リスク管理をしていなかったことを悔やんだ。
マサキはわずかに顔を背け、表情の変化を隠した。
「バーナード星行きは、今生の別れになるかもしれないじゃない……」
マサキはコーラを飲み、ゆっくりとホープを吸った。
気持ちを落ち着かせるために、いつも以上に静かに煙を燻らせる。
「せめてもの思い出に、一夜をあげるわ」
マサキは驚いた顔をすると、ココットは少し困惑したような笑みを浮かべて、胸を押し付けてきた。
「冗談はよせ」
「本当よ。
アナタほどの男を逃せば、何時いい人に出会えるかわからないし」
ココットの目の輝きは増している。
とても冗談を言っているようには見えなかった。
「ココット……」
マサキは新しい煙草に火をつけた。
OLやキャリアウーマンという物は、出世や自己実現のために自身を犠牲にする節がある。
いい人に巡り合えないとか、いい出会いがなかったというのは、その手のオールドミスに良くある話だ。
おそらく誰かしらから吹き込まれたのかもしれないが、困ったものだ。
こと野放図な肉体関係に関しては、マサキ自身を危険にさらす場合もあるから迂闊に聞き流せない。
そこでマサキは、無理難題を言って断ることにした。
「まず、この2枚の紙だ」
二枚の書類は、日本語で書かれた白紙の婚姻届と離婚届だった。
アイリスディーナとの一件があってから、常にその一組の書類を肌身離さず持ち歩くようになっていた。
マサキは、胸ポケットからパイロットの万年筆を投げ渡す。
「そこに捺印し、お前の本名と本籍地を書け」
ココットは現役のスパイだ。
そうやすやすと情報を出すわけがあるまいと、睨んでの事だった。
「そして今日の内に、挙式が出来るなら考えてやってもいいぞ」
通常、日本と違って海外では役所で法律婚の手続きを取る際に挙式をあげる。
だが即日の挙式は役所の人員不足の関係で難しく、指定した日に挙げるのが一般的だった。
「え……」
ココットは絶句し、確認した。
「今日中に」
彼女はしばらく考え込んでいる。
「出来ないというのなら、この話は無しだ」
マサキは不敵の笑みを浮かべた。
これであきらめのついたことだろう。
知り合ってから数度しか出会ったことの男女が、いきなり結婚するなどというバカな話がこの世にあるものか。
現にココットは、真剣に悩んでるではないか!
そんな仕草を見て、マサキは勝ち誇ったかのように紫煙を燻らせた。
ココットは、このマサキの態度を見て、その真剣さに感銘を覚えていた。
一夜の契りだけといったのに、この東洋人の男は式を挙げると返してきたのだ。
戦後の西ドイツは、男性就業人口の大幅な減少という結果を受けて、婦人労働力の活用に舵を切った。
但し、女性の社会進出は認めても、価値観として結婚後の女性は家庭に入るというのが一般的だった。
子供を保育所や幼稚園に預けようにも、その数は西ドイツ地域では足りなかった。
国策として結婚後の女性を積極的に活用しようとした東ドイツでは、各地に幼稚園や保育所の拡充を進めた。
(因みに東独の保育所は全額無料だが、既婚が条件である。
その為、保育所の入所年齢児に結婚するパターンが1980年代以降増えた)
人口維持のため、出産奨励金を出し、1年間の産休を早いうちから設定していた。
この事だけを聞けば、東ドイツは女性にとって素晴らしい社会に聞こえるかもしれない。
だが女性たちが外に働き口を求めたのは、家族の看病や介護といった理由を除いて、働かない女性は罰せられる法律があったためである。
多くの女性はパートタイマーを希望したが、認められず、保育所に止む無く預けて働かざるを得なかったのが実情だ。
肝心の収入も低く、複数の子供を育てながら、家事をして、働きに出て、やっとの思いで集合住宅にある小さい部屋に帰る。
夫の多くといえば、秘密警察が闊歩する鬱屈した社会主義の環境で悶々とし、酒に逃避することがままあった。
統計によれば、彼等は子育ては手伝ったが、家事は女性任せが一般的だった。
それらは、70年間社会主義で運営されてきたロシアでも同じで、現在でもその構造は変化がない。
東独の育児支援ばかりがほめそやされ、女性にとって、過酷な実像が忘れ去られようとしている。
筆者はあえて、ここで東独の女性は、ある意味西独の女性より厳しい環境だったということを記しておきたいと思う。
1968年以降、西ドイツ人にとって、結婚は遠い存在になっていた。
それは世界的な婦人解放運動と、経口避妊薬ピルの登場である。
1968年の世界的な学生運動は、それまでの生活習慣や性道徳を破壊するものだった。
東側がプラハの春や文化大革命による価値観の崩壊で警戒を強めていた頃、西側は学生運動で大荒れだった。
フランスの五月革命から始まり、西ドイツ、米国に広がり、日本にまで波及した。
大学という大学が武装した新左翼の学生に荒らされ、ノンポリ学生までも過去を否定する行動に走らせた。
西ドイツではそれまで戦後復興を支えてきた戦前生まれや戦中派の世代を否定し、ナチスを相克する価値観を求める声が上がった。
その為、相次ぐ凄惨なテロや言語を絶する内ゲバ事件を目の当たりにし、赤軍派を過激な極左暴力集団と蔑視した日本と違い、西ドイツではその多くが同情的だった。
1968年の学生運動は、古い価値観を壊し、ドイツに本当の民主主義を導いたなどと、今でも大真面目に信じられている。
日本もマルクスレーニン主義者らが日夜諸外国によって作られた自虐史観を児童に刷り込んでいるが、ドイツでも同じなのだ。
いや日本以上に過激化したのは、1918年に君主を追放し、精神的な中心を失った国の悲劇なのかもしれない。
午後2時の閉庁間近、バイエルン市の戸籍役場に数名の男女が集まっていた。
これから、結婚式を行うためである。
ドイツに居住実体のないマサキは、本来ならばボンの戸籍役場まで行って予約をし、登録を行う必要がある。
だが、ゲーレンの政治力でなんとか滑り込む形で強引に行ったのだ。
本来ならば、半年はかかる審査や手続きを、わずか数時間でパスした形だ。
執行人の講話を聞きながら、マサキの気持ちは沈んでいた。
半ば冗談で言ったことを強引に行ったゲーレンに呆れ、己の失言に後悔していたのだ。
長袖の第2種夏服のマサキの傍に立つココットは、緊張で打ち震えていた。
冴えないライトグレーの婦人用サマースーツ姿の彼女は、これからいう誓いの言葉で悩んでいた。
間違った文句を言って、結婚出来なかったらどうしよう……
ココットの悩みは、杞憂だった。
はいという返事だと、指輪交換だけだったからだ。
儀式は15分程度で、婚姻届けに署名するという流れである。
花嫁、花婿付添人にも署名をしてもらい、終わりというあっけのないものだった。
マサキは、この期に及んで違う事を考えていた。
この世界の住人の倫理観というのは、元の世界とは違うらしい。
彼は、今更ながら後悔をするのだった。
後書き
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バーナード星爆破指令 その3
札幌より緯度の高いミュンヘンの朝は、4時15分ごろに日が明ける。
大分早い夏の夜明けであるが、マサキはすかっとした上機嫌で、美久にたいする語調まで快活だった。
「鎧衣や彩峰が電話をかけて来て、返事を待っているというのか。放っておけ、放っておけ」
一度、居間に姿を現したが、こう言ってまた部屋の奥へ隠れてしまった。
マサキは昨日の出来事が、まるで夢の中で起こったことに思えて仕方なかった。
だが、わずか半日の間に成り行きで法律婚をした事は、夢でも、幻でもなく、現実である。
ココットを見るまで、マサキはどんな態度で接すべきか考えていた。
彼女の元気な挨拶を聞くと、マサキは、何時もの不敵の笑みを浮かべて自然な態度で応じる。
「ココット、寂しかろう」
昨日の甘さを引きづっていたマサキは、ココットを抱き寄せる。
余りの堂々としたマサキの行動に、むしろココットの方がたじろいだ。
「どうしてですか」
言いようのない淋しさに襲われたココットは、マサキの手を握った。
BND諜報員の女が見せた真情のストレートな吐露に圧倒されながらも、マサキは弾ける様な喜びに包まれていた。
「お前と一緒に居たかったからさ」
予想もしなかったマサキの言葉だった。
ココットは、ちょっぴり頬を赤らめた。
「これから先、忙しくなる。
しばらく西独には来れんが……今にお前にも日本を見せてやる。
車に乗って、富士山へも連れて行ってやる。あるいは深川祭もよい」
マサキは自分のこれからの行動を説明しながら、さりげなく日本旅行の話をすすめた。
「いえ、ただもう……こうしているだけでも」
ココットの姿には、もう何ら暗い影もなく、ゼオライマーのパイロットの思い人になりきっていた。
「はっきり言うな……」
ココットのうきうきした様子を見ながら、マサキは急に決まった話に感じ入っていた。
それにしても、人間の運命の不思議さとは……
これは運命なのかもしれなかった。
午前4時のドイツから、マサキはゼオライマーが格納されている岐阜県の各務原市に飛んだ。
往復時間が緩和されているだけで、時差はそのままだったので、日本ではすでに12時を回っていた。
この時期のドイツは夏時間の為、一時間ほど時計の針を速く回しているので、マサキがミュンヘンを発った時には5時を過ぎていた。
美久の運転する車で岐阜基地(今日の航空自衛隊岐阜基地)に入った。
遠くから彩峰が早く来るように手を振っているのが、窓越しに見える。
後部座席にいるマサキは、タブロイド紙のビルトをマサキは、放り投げた。
そこには、近々行われる西独の総選挙の様子が子細に記されていた。
タバコに火を付けながら、ラインハルト・ゲーレンから聞いた昨日の話を思い出していた。
ゲーレンの説明によれば以下の通りだった。
米国はBETA戦争がうまく行かなかった場合、ユーラシア大陸に新型爆弾を連続投下する案を考えていた。
まずバビロン作戦という物である。
ユーラシア大陸に存在する全てのハイヴに対して新型爆弾を一斉投下し、その後に空挺部隊を送り込む。
ソ連のG元素確保を防ぐ目的とBETA殲滅が一緒になった案だ。
次にトライデント作戦である。
人類の繁栄の為に、バーナード星系――あるであろう地球と同じ惑星――へ向けて、少数の優良種を宇宙に脱出させる案だ。
計画では、優れた10万人を選別し、大型宇宙船に乗せて、その後、地球全土を新型爆弾の飽和攻撃で焼き払うものである。
どちらの計画も、陽動としてユーラシア各国にある軍の主力部隊をおとりに使い、隙を見て、飽和攻撃をするものだった。
味方を犠牲にしてまで、自国を守る計画を聞いて、マサキはかつての世界での西ドイツの核共有計画を思い起こしていた。
1950年代後半の西ドイツでは、米軍から貸与された核爆弾を航空機で投下する案が検討された。
超音速戦闘機、F-104スターファイターを用いて、進行するソ連軍および東独軍を核攻撃する作戦だった。
東西冷戦は、米国が持つ核開発技術がソ連に漏れたことにより、発生した平和であることは間違いなかった。
核保有をした超大国同士が、その威力を畏れ、核戦力の均衡により出現した
一時間もしないうちに、ゼオライマーとグレートゼオライマーの2機は、岐阜基地よりバーナード星系に向かって出撃した。
2パーセク先にある恒星へ、異次元を通じて転移する。
(1パーセク=31兆キロメートル=3.26光年)
四つある惑星の内、バーナード星bに突入する。
大気圏を超えて、地表10000メートルに近づくと猛烈なレーザー照射を浴びた。
光線級による激烈な攻撃を受けたマサキは、驚いていた。
木星や土星、その先にある冥王星の天体でも光線級が存在しなかったからである。
マサキ自身は、何かあるに違いないという確信を抱くに至った。
ゼオライマーに搭載された前方監視型赤外線装置(forward looking infra-red, FLIR)によれば、北半球のBETAの総数は、3億体。
イランやカザフスタンでもほとんど見なかった重光線級が10万単位で移動し、その周囲を突撃級が守っている。
数の上では、BETAが圧倒的に優位だ。
2機のゼオライマーのバリア体を破るのは、時間の問題かに見えた。
レーザーの一斉砲火で周囲の戦域空間ごと殲滅に掛かる。
だがゼオライマー全機は、瞬時に惑星軌道に転移し、地表面に向かってメイオウ攻撃を照射する。
戦闘開始から、360秒。
バーナード星b、c、dは、惑星ごと殲滅された。
同時刻、一発の轟音がバーナード星eの大気圏内にこだました。
ほぼ同時にハイヴを構成する岩盤が、轟々と1200メートルの深さを誇る主縦抗に幾つも落ちてきた。
その下にいた敵は、悲鳴すら上げる暇もなく、一瞬に圧し潰がれてしまう。
そしてたちまち、主縦抗の口は、累々たる大石によって封鎖されてしまった。
しかし、その程度はまだ小部分の変事でしかない。
ミサイルポッドから多数の火箭がほとばしり、無数の赤い曳痕が、頭上より降り注いだ。
四方から飛んできたミサイルは、いつのまにか、ハイヴを火の海となした。
グレートゼオライマーは指にある機銃を撃ちっ放しにしながら、速度を緩めず、火におわれて逃げまわるBETAの頭上を通過する。
指だけではなく、両足に搭載したミサイルコンテナから多数の火箭がほとばしり、BETAを打ち倒す。
ハイヴを管理する頭脳級の目には、迫りくる真っ赤な炎が、あたかも暴風雨のように仲間を飲みこんでいくように映った。
無数のビームと核ミサイルの雨を浴びたBETAの大半は、焼け死んだ。
事態をつかめず混乱する頭脳級の面前に、二体の巨人が現れた。
6光年先にある地球の前線基地を壊滅させた白い機体と、ほぼ同じ大きさの赤い機体だった。
見たことのない新型機に、一瞬、頭脳級は混乱が生じた。
該当する情報を解析しようとし始めた瞬間、いきなり頭上から鉄拳を投げつけられる。
巨人の手で薙ぎ払われ、ハイヴの底に倒れ伏してゆく。
頭脳級は触手を伸ばして出口を探したが、すでに彼方此方に火が回っていて、ふさがれていた。
その瞬間、白亜の巨人は両腕を胸の前に合わせる。
BETAの死骸から上がる火焔と黒煙の間を、眩すぎる死の閃光が貫いた。
今や、ゼオライマーに向けて、レーザーを浴びせたり、突撃してくるBETAは一体もいない。
機体の周囲には累々とした死体が横たわり、グレートゼオライマーは逃げ惑うBETAの頭上からビームの雨を浴びせているようだ。
一体たりとも生かして逃がすまいとしている。
マサキは、宇宙服を着こみ、機外に出た。
倒れたBETAの死体と、ハイヴの内部にある残留物の改めにかかっていた。
先に、自分たちを苦しめたBETAの意図を確認しようとしたが、地球に居たそれと変わりを見つけることが出来なかった。
分かったのは、地球上の生き物を連れ出して、何かしらの研究をしたという様子だけだった。
保管されていたのは、哺乳類や鳥類などの大量の恒温動物の脳とその胎児や有精卵が多数に上るという事だった。
詳しくは確認しなかったが、大量の脳の中には類人猿のそれとわかるものがあったので、恐らく人間も含まれているだろう。
――敵は本気で自分たちを亡ぼしにかかっている――
マサキは、BETAによって持ち出された地球上の生き物の遺骸の方を向くと、30秒ほど合掌した。
せめてもの手向けとして、グレートゼオライマーに搭載されたナパーム火炎放射機から火を放つ。
大量の遺骸を焼き払う側で、マサキは太平洋の地図を思い浮かべていた。
今はBETAとの戦争の結果、混乱状態のソ連が横たわっているが、バーク油田やシベリアでの石油採掘が再開されれば、復活するのは目に見えている。
いや、ソ連が復活する前に、米国が動き出さないとも限らない。
ソ連の弱体化を前にして、日米両国が盟邦として握手できればいい。
だがG元素を巡って、あの戦争――支那事変――の時のように互いの国益が真っ向から対立する事態になれば……
「日米同盟が、瓦解するかもしれんな」
極東で、新たな戦火が起こるのが脳裏に浮かんだ。
後書き
ご感想お待ちしております。
バーナード星爆破指令 その4
前書き
さる4月15日、日間ランキング9位となり、ほぼ一年ぶりに一桁以内になりました。
応援して下さる読者の皆様のおかげです。
バーナード星eのBETAを殲滅したマサキは、謎の脳髄が気になった。
研究をしているアトリエのような場所があるのかもしれない。
そう考えた彼は、ゼオライマーに搭載された次元連結システムを使い、生命反応を探知した。
もし自分がBETAなら、生け捕りにし、解剖や生態観察に使うはずだ。
この星のどこかに保存溶液に付けた状態で、人間が置かれいる可能性は否定できなかった。
害虫を駆除するためにその生態を研究するのは、一番初歩的で基本になる方法だからだ。
米国製宇宙服―船外活動ユニット―に搭載された酸素の量が、船外での活動限界である6時間に近づいて来たところ、不意に通信装置のブザーが鳴り響いた。
マサキは身を強張らせた。
美久が何かを発見した合図だ。
宇宙服の背にある有人操縦ユニットを操作し、120キロのスーツを動かす。
2つのハンドコントローラーを使用して操縦し、背面のタンクにある冷却高圧窒素ガスによって推進する仕組みだ。
この装置により、宇宙飛行士は宇宙船から離れた場所で船外活動を行うことができる様になった。
美久の報告は驚くべきものであった。
それは3000にも及ぶシリンダーの中に、人間の脳と脊髄が保存されているという話だった。
そのほとんどがすでに無反応だが、わずか20個ほどのシリンダーからは熱源が認められる。
培養液の中を次元連結システムを応用した装置で確認してみれば、かすかな生命反応が見られた。
マサキは、ここで躊躇した。
この脳髄だけとなった人間を、次元連結システムを応用した記憶複製装置を用いれば、どのような経緯でこうなったか、完全に解明できよう。
だが、自分が秋津マサトに対して記憶を植え付けたように、健康な予備の人間を用意するしかない欠陥が横たわっていた。
美久の様なアンドロイドを作って、そこに記憶を入れれば、機械の体であることに絶望を抱き、発狂して死ぬ可能性が高い。
もしかしたら数年、何十年もここに捕らえられている可能性がある。
皮膚や骨、内臓を除去され、脳と脊髄だけになって生かされ、幻覚を観させられているのかもしれない。
BETAの手による死の世界の中を、幾度となく輪廻転生し、その業に苦しめられているのだとしたら……
ならば、せめてものの慈悲として、その輪廻を断ち切り、苦界から脱出させてやるべきではないか。
マサキは、重重しい声で言った。
「消せ!」
美久の目は驚きを持った。
すでにBETAの残虐な血祭りを見てきたマサキは、ひどく昂った語調で彼女に命じた。
「この宇宙から、星系ごとバーナード星を消すのだ!」
それは、土星の衛星ガニメデ爆破のような生やさしい物ではない。
恒星であるバーナード星と、その周囲に存在するいくつかの衛星や攻勢を丸ごと消し去る命令だった。
「BETAという怪獣を作った異星人どもに、地球を分け与えてやるほど、俺の度量は広くない。
ここで跡形もなく消し去らねば、奴らは再び来る。抹殺せよ!」
美久は、瞳を澄ませた。
マサキがそこで大きく頷いたのをみる眼だった。
瞬間、ゼオライマーの黄色い目が耀いた。
次元連結システムが音も無く莫大なエネルギーを胸にある宝玉に集め始める。
ゼオライマーの最大の武器は、異次元のエネルギーを利用した次元連結システムがもたらす無限の動力源である。
次元連結砲を初めとする弾薬制限の無い各種兵装に、空間転移能力と高高度へ急上昇可能な推進装置。
そして、なんといっても、必殺技のメイオウ攻撃である。
それは1機ですら、惑星はおろか、星系一つを滅ぼすに足る。
「」
直後、爆発光がほとばしり、へびつかい座周辺の空が真紅に染まった。
砲声が操縦席を包み、480トンの機体が震えた。
この直前まで、闇と静寂に支配されていたへびつかい座方面は、炎と轟音が支配する戦場に代わっていく。
再び、ゼオライマー各機から第二射が放たれる。
闇の彼方に浮かぶS字状暗黒星雲に閃光が走り、砲声が雷鳴の様に轟く。
ゼオライマーとグレートゼオライマーの放ったメイオウ攻撃がへびつかい座を飲みこみ、主な天体全てを焼き尽くす。
モニター越しに移る視界全てが真紅に染まる中、マサキは満足感を覚え、微笑を浮かべるのだった。
地球に帰還した翌日、マサキは小牧にある名古屋飛行場に来ていた。
飛行場に隣接する様に、小牧陸軍飛行場(今日の航空自衛隊小牧基地)が、そして光菱重工業(現実の三菱重工)名古屋航空宇宙製作所小牧南工場がある。
そこで宇宙空間で運用したゼオライマーのデータをF-4ファントムにフィードバックする作業に立ち会ってた。
膨大なデータをIBM System/370に移しながら、胸ポケットにあるホープの箱を取り出す。
口にくわえた煙草に火を付けながら、一昨日の夜に行われたミュンヘンでの密会を思い起こしていた。
「博士、貸金庫に預けたはずの貴金属や宝飾品が消えていたら、どうなさる」
戸籍役場での式が終わった後、内々での宴席の際に、ゲーレンは深いしわが刻まれた顔を巡らせてそういった。
その場には、マサキを除けば、ココットの親族のみだけで、ゲーレンにとって最も信の置ける人物しかいなかった。
「内部犯の場合だったら、そのまま警察に持ち込むだけだ。
恐らく貴金属類は換金されている可能性があるからな」
結婚式という状況で、何故銀行の貸金庫にある貴金属の話をするのか。
マサキは、一瞬戸惑ったが、ゲーレンの事だから政治がらみの話と思って、こう尋ねることにした。
「西ドイツは、どれくらい外国に金を預けてるんだ?」
経済について、不勉強な事をマサキは隠さなかった。
これはマサキ自身が学者として、誠実であろうとする態度の一つだった。
「金保有量の6割強よ」
ココットがぶっきらぼうに答えた。
「この国が生き延びるためにはそうするしかなかったの……」
この時代の西ドイツは、常にソ連と東欧諸国の軍事侵攻を恐れていた。
かつてベルリン陥落で起きたプリアモスの財宝の強奪事件の再来を畏れ、外貨準備の6割強を米英仏の参加国に分散して保管することにした。
3400トンに及ぶ西ドイツの金塊の内、45パーセントにあたる1500トンが米国内にある。
細かく言えば、ニューヨーク連邦準備銀行の地下室とケンタッキー州にあるフォートノックス基地内の米連邦政府金庫に預けている。
そして、英国のイングランド銀行に13パーセントに当たる450トンを、仏の中央銀行に11パーセントに当たる374トンをそれぞれ分散して保管してある。
西ドイツ財務省主計局の審議官であるコッホ財務審議官が、能面の様な顔を歪ませていった。
彼は、シュミット内閣のハンス・アーペル蔵相の時に、対米交渉に参加した経験の持ち主だった。
外交上の配慮から、金の買い増しを断念した経緯を詳しく説明してくれた。
「実は西ドイツ政府も無策ではないのです。
もしものことに備えて、外貨準備高の一部をドル建てから金にかえようと、ひそかに金の買い増しに動いたことがありました。
その事を聞きつけた米国の財務次官が、ボンにまで乗り込んできたのです」
挙式後に知った事だが、クリステル・ココットという名前はBNDから貰った偽名で、クリストル・コッホというのが本名だ。
今話しているコッホ財務審議官は、ココットの父だった。
ドイツ人の姓は基本的に父方の姓を名乗るのが一般的なので、祖父とされるゲーレンと姓が違うのは何かあるのだろう。
マサキは金準備高の話が終わった後に聞こうと、疑問を後回しにした。
「それは今回の問題ではなく、注目しなければならないのはニューヨーク連銀に預けられた金の信用性なの」
ココットは小さい声で言った。
「タングステンの偽物でもすり替えられたら、分からんからな」
マサキのこの発言は、1971年のニクソンショックの時からある噂が元だった。
――ニューヨーク連銀の地下金庫にある金塊は、立入禁止を良い事にその全てがタングステンに金メッキをした贋物にすり替えられている――
実際、マンハッタン島にあるニューヨーク連銀の地下倉庫の7000トンの金は長年にわたり未調査である。
米国の民間団体、サウンドマネー防衛連盟によると、フォートノックス陸軍基地に保管されている金に対する包括的な監査は、1953年以降行われていないという。
(注:2017年に、当時のスティーヴン・マヌーチン財務長官が訪問して確認している。
1930年代の設置以来、3度目の外部監査で、43年ぶりの外部公開で、2度目の財務長官訪問であった。
作中の時間軸である1980年代は一切外部に公開されていないので、この様な表記にした)
「偽物かどうかの話は置いといて、ドイツの金保有量は3400トンなのは事実よ。
その気になれば、日本の様に米国債を売るような真似をしなくても、何時でも資金調達できるわ」
金の保有率が高まれば、米ドルに依存しない体制が構築できる。
この様な効果を狙って、現代でも露や中印などが金の大量購入を進めている。
「米国、ソ連に並ぶ超大国というわけね」
この時代のソ連は、2500トンの金を保有していた。
その他に東欧諸国から強制的に預かっていた金塊やスペイン内戦の混乱を通じて持ち出した500トンの金塊を保有していたとされる。
なお、ソ連崩壊後に確認したところ、1992年時点で250トンまで目減りしていた。
ロシア国民は急激な金の減少を、金でトイレットペーパーを買ったと噂するほどだった。
この時代の中国は貧しく、現在のように2000トン以上の金塊を保有することになるとは信じられていなかった。
「周辺諸国と世界から西ドイツが恐れられている理由が分かるでしょう」
マサキはふてぶてしく笑うと、吐き捨てるように言った。
「米国の経済植民地である、日本とは大違いだな」
「不愉快な事実ね」
マサキは、笑みを消して答えた。
「まあ所詮は、敗戦国だしな」
マサキは煙草をもみ消しながら思った。
ゲーレンが金準備高の話をしたという事は、米国に対して西ドイツはある程度独立を保つ政策を行うという暗示ではないだろうか。
翻って、今の日本はどうだろう。
この異世界の日本は、武家という中世のシステムを残しながら、経済的には米国の反植民地状態。
まず世界征服をするにしても、ゼオライマーを安全に整備する拠点が必要だ。
今の日本ではその点も怪しい。
やはり、現政権を打倒する為には、皇道派のような思想集団を作るしかないのか
マサキは、光菱重工業の若い整備士や陸軍航空隊の特務将校らを見ながら、思った。
そうか、俺はこの若い連中に、俺が若いころ味わったような苦い経験をさせるしかないのか……
木原マサキという男は、そういう星の元に生まれたのだろう。
自虐的な事を考えながら、マサキはその場を遠ざかっていく。
咥えたホープに火をつけて、マサキはつぶやいた。
「日本を獲らなきゃ……、世界は獲れない」
マサキは暮れていく小牧の街を、管制塔から眺めていた。
その黄昏は、何時もより長く感じられた。
後書き
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極東特別軍事演習 その1
マサキが地球に帰還したころ。
ソ連は、極東軍管区で30万人規模の特別軍事演習を始めていた。
軍用車は35000両、艦艇400隻、航空機125機が投入する、史上最大の規模だった。
9月からの実働演習に合わせて準備をしている時、ある異変が起きていた。
きっかけは食料の配膳ミスが原因だった。
戦術機要員に配られるはずの合成蛋白の食糧が、間違って一般部隊に配布される事件が起きた。
合成蛋白の食品の見た目の悪さと、粗末な味に憤りを覚えたのは、第20親衛ロケット旅団の一般兵士だった。
偽物の食品が配られたと大騒ぎし、旅団長の元へ集団で直訴する事態になった。
旅団長直々に部隊の糧食を調べたところ、そのほとんどが合成食品であり、バターさえもマーガリンにすり替えられているというありさまだった。
肉類はそのほとんどが、賞味期限をはるかに超えた缶詰類のみ。
パンに至っては、全粒ライ麦のパンどころか、ふすま入りのものさえ一切ない状態だった。
(食用ふすま入りのパンとは、主にドイツや東欧圏で、飢饉対策で、16世紀ごろに考案された食品である。
割高であり、栄養価は高いが味も劣るので、全粒粉パンが広く流通している現代日本では一般ではない食品である)
事態を重く見た第20親衛ロケット旅団の将兵は、極東軍管区の司令部に直訴するまで発展した。
300名あまりの人員が、20台以上の軍用トラックに乗り、司令部のあるコムソモリスク・ナ・アムーレに向かう。
兵士の多くは完全武装した状態で、多連装ロケット砲を3台随伴させる異様なものだった。
コムソモリスク・ナ・アムーレの北東8キロにあるジェムギ航空基地に一報が入ったのは、事件発生から50分後だった。
赤軍参謀本部より秘密指令を受けたヴォールク連隊の隊長は、大急ぎで隊員がいる食堂に乗り込んでいった。
「同志諸君、今すぐ出撃だ」
中隊長の言葉に、フィカーツィア・ラトロワは驚きの色を表した。
航空基地には、敵機来訪のアラームも、非常時を告げる命令書も来ていなかったからだ。
「隊長、急な出撃とはどういうことですか」
火のついたタバコを咥えたまま、カザフ人少尉が問いかける。
彼は今月初めに補充兵としてきたばかりの男だった。
隊長は、少尉の口から火のついたタバコを取り上げると、灰皿に放り投げた。
「第20親衛ロケット旅団の師団長が反乱を起こした。
コムソモリスク・ナ・アムーレの市庁舎を占拠したと、今しがた連絡があった」
隊長は既に強化装備に着替えていた。
だが隊員の殆どは、規則違反の縞柄のランニングシャツに短パン姿だった。
「治安出動ですか」
「ああ」
隊長の後ろに立つ副長は、持って来た強化装備の入った段ボール箱を放り投げる。
隊員の多くはラトロワたち婦人兵の視線を気にすることなく、赤裸になり、強化装備を付けた。
「KGBの屑どもが来る前に片づけるぞ。」
隊長の掛け声に対して、隊員一同が合わせて答える。
血を揺るがすような雄たけびを上げ、拳を振り上げ、彼らは戦術機へと走っていった。
一方、KGBのアルファ部隊にも出撃が命ぜられた。
極東軍管区司令による軍事叛乱と報告が届けられたからだ。
放置すれば日米両政府、或いはゼオライマーの介入を招く事態になる。
そういった懸念から虎の子の戦術機部隊が送り込まれることとなったのだ。
コムソモリスク・ナ・アムーレ市内にいる第20親衛ロケット旅団は、ヴォールク連隊により簡単に武装解除された。
ヴォールク連隊は食料遅配の件を知ると、反乱軍の直訴に同意する態度をとった為、簡単に説得に応じたのだ。
事件はそれで解決するかに思えた。
だがKGBのアルファ部隊が、匍匐飛行で市庁舎前のレーニン広場にやってくると、小競り合いが始まってしまった。
広場に居た多くの兵士が、KGBに帰還をうながすシュプレヒコールが起こると、KGBのmig23は突撃砲を向けた。
「只今の行為は、ソ連への反革命行為とみなす」
突如として、殷々とした砲声がレーニン広場に鳴り響いた。
オレンジ色の発射炎が閃き、青白い曳痕が飛ぶ。
20ミリ口径弾が停車する車両の列に殺到する。
一台が被弾したのか、ボンネットから火を噴き、続いて大爆発を起こして車ごと吹き飛ぶ。
周囲にいる兵士は飛散したガソリンを浴び、火だるまになりながら周囲を逃げまどう。
「くたばれ、チェキストども」
ヴォールク連隊のカザフ人少尉は顔を真っ赤に染め、把手を握りしめながら、引き金を引く。
ともすれば発射の反動で引きあがりそうな突撃砲の銃身を、戦術機の左手で抑えながら火を吐き続ける。
直後、射弾を浴びたアルファ部隊の機体が、腰の付け根にある跳躍ユニットの付け根から火を噴く。
機体は燃えながら、地面へと叩きつけられる。
ヴォールク連隊とアルファ部隊の衝突事件は、拡大するかに見えた。
だが事態を聞いて駆けつけていた赤軍参謀総長の説得に応じる形で、この衝突は事故として片づけられた。
アルファ部隊の隊員が射撃をし、破壊したトラックに墜落事故を起こした形を取ることとなり、ぶつかったトラックと銃撃された兵士は殉職扱いになった。
一方、ヴォールク連隊のカザフ人少尉は、KGB将校立ち合いの元、拳銃自殺を強要された。
最後まで彼は拒否していたが、参謀総長から家族の面倒を見るとの言質を得ると笑顔で自刃した。
糧食遅配事件は、最終的に業務隊の責任者が軍法会議に掛けられることで解決を見た。
中央の統制不足による輜重の遅れという真の原因は伏され、責任者の大佐の横領によるものとされた。
犯人とされた大佐は、検察官立ち合いの元、即日の簡易裁判で一方的に死刑を宣告された。
銃殺刑に処された後、コムソモリスク・ナ・アムーレの市内の黒板に罪状を書いた紙を張り付けることで、一件落着となった。
(注:ソ連では、犯罪者や道徳に違反した行為をした人間の個人情報を黒板という黒い掲示板に張り付ける文化があった。
政治的に正しいことをした人物や、人命救助や道徳的に素晴らしいことをした人間は赤板という赤い掲示板に個人情報を張り付けた。
ソ連崩壊後は廃れた習慣だが、ウクライナ戦争でロシアは占領地域でこの習慣を復活させた)
「その者を野放しにしておいてよいのか」
薄い灰色のサマースーツを着た男が、骸骨のような顔を巡らせていった。
ワイドラペルのダブルブレストのジャケットに、裾幅が11インチもあり、袴のように太いバギーパンツという時代遅れの格好。
場違いな服装は、1930年代に英米の上流階級の子弟の間で流行ったビスポークスーツの一般的なスタイルだった。
「野放しではありません。
24時間の完全監視体制にあります。
電話やファックスは完全に盗聴しております」
上質なサマーウールの勤務服。
首都を防衛するKGB第9局の警護隊や国境警備隊、ドイツ駐留軍にしか許されていない特別な生地の服だった。
「なぜ監禁しない。
大事の前だ、口を封じろ」
老人は、既に20年来の年金生活者だった。
だが目の前に立つ軍服姿の男は、さも大臣からの質問を受けたかのような態度で応じた。
「それは簡単ですが、友邦諸国の軍に顔の広い男でして……
あらぬ疑惑を抱かせぬためにも、今は動きを抑え込んだ方が……」
薄気味悪いほど、男の口は平たんだった。
老人は、潔く男の意見に従うことにした。
「出来るか」
男は、再びゆとりのある笑みを浮かべた。
「今すぐにでも」
「検察を動かしたのか」
「KGB、内務省、法務省の一部です」
ドアが荒々しくノックされた。
老人は一瞬、躊躇いの色を表す。
黒い車に乗ったNKVDが、深夜に家庭訪問をするときに良く使われた手法だった。
老人は、その頃の習慣が抜けないのだ。
かつて、妻が逮捕されたときもこうだったな……
背筋を激しく震わせた後、それにこたえる。
「入れ」
意外な事にドアをノックしたのは、若い警護兵だった。
呼びかけに応じないので、荒々しくノックしたのだった。
「お時間です。本部で同志議長が」
老人はいつの間にか、乾ききった唇を湿らせた。
「言うまでもないが、我が国の存亡にかかわる問題だ。
必用とあれば、最終手段を取れ」
軍服姿の男は口元を引きつらせながら、答えた。
「心得ました」
後書き
ご感想お待ちしております。