吸血鬼は永遠に


 

序章

 ローラは今日もランニングマシンの上で走っていた。少しピンクがかった白い肌に明るい栗色の短髪。美人と言えない事も無いが美女と言うよりは美少年と言った方が相応しい中性的な魅力があった。黄緑に近いアップルグリーンの瞳が顔の印象を一層鮮やかにしている。引き締まった体がより性別を曖昧にしていた。唯一の例外はポッテリとした厚い下唇で、彼女に女性らしい官能的な雰囲気を与えていた。

 彼女のランニングは趣味では無かった。職務の一環である。ミラは捜査官なのだ。犯罪捜査は体力勝負である。日々の鍛練は欠かせないのだ。
「よう、ローラ。今日もトレーニングか? 精の出るこったな」
同僚のマックスがからかい半分に話しかける。マックスは筋肉質の爽やかな顔立ちの青年だ。ダークブラウンの短髪に濃いブルーの瞳がヤンチャそうに輝いていた。
「ええ。筋肉は裏切らないわ。それに、貴方達男性と違って、私は初めから肉体的にハンディがあるんだもの、トレーニングを頑張るのは当たり前でしょう?」
「まあな。ほら、新しいスポーツドリンク見つけたんだ。お前にやるよ。味の方は分からんけどな」
マックスは持ってきたペットボトルをローラへ向かって投げた。
「ありがとう。ふーん、グレープフルーツ味って書いてあるわ。それなら外れは無いんじゃない?」
ローラはタオルで汗を拭うと、キャップをくるくる回して開けた。先ずは一口、口に含んだ。爽やかなグレープフルーツの香りと風味が口の中一杯に広がる。
「中々美味しいわよ」
「そうか。なら良かったぜ」
「おーい、ローラ居るか?」
先輩格のマイクが入ってきた。
「何ですか?」
「課長が呼んでいたぞ。課長室へ来るようにって」
「分かりました。すぐ行きます」
ローラは更衣室へと向かった。
「呼び出しか? 何だ?」
マックスがマイクに訊ねる。
「うん。多分またお小言じゃないか?」
マックスはフーッと溜め息をついた。
「アイツも大変だな」

 着替えを済ませたローラは課長室のドアをノックした。中からくぐもった声が響く。
「入りたまえ」
「失礼します」
ローラは中へ入ると、入り口に向かって設置された机の前に立った。頭の禿げ上がった、老獪な目付きの男がじっとローラを見つめる。
「あの……」
「うむ。先日の報告書だがね。ちゃんと書式に従って書いてもらわなければ困る。前にも言ったと思うが、我々管理する立場の者にとっては、ただでさえ膨大な量の書類に目を通すのは骨が折れる作業なんだよ。その効率を少しでも上げるために書式と言うものがある……。それくらい分かるだろう?」
「はい……」
ローラは床を見つめた。
「とにかくだ。次からはきちんと書式に則った書類を提出するように。それから今日はこの後、マックスと、とある屋敷へ行ってもらう。貴族の舘だが、そこで働いているメイドの母親から、休暇になっても娘が戻って来ない、と訴えがあったのでな。行って調べてこい。詳しい事はこれを読め」
課長はファイルをローラに手渡した。
「以上だ。戻って良いぞ」
「分かりました」
ローラーは一礼すると部屋を後にした。

 ローラは自分のデスクに戻ると、先程課長からもらった資料を調べ始めた。

●オーガスト・グレイ伯爵。42歳。グレイ家の現当主。

●妻ヴァージニアを十二年前に亡くして以来独身。孤独を好み人付き合いは殆ど無し。

●一週間前より、当家に勤めていたメイド、マリアン・ヤングの母、アンナより、「休暇に入っても娘が帰って来ない。屋敷に連絡を入れると『娘は忙しいから帰れない』と返事が来たが、娘はいつも必ず休暇には帰省していたのにおかしい、調べて欲しい」と訴えがあった

「伯爵……」
ローラはファイルに貼り付けられた写真をまじまじと見つめた。証明写真だから、顔の詳細な雰囲気までは分からないが、厳めしさを感じさせる、だが端正な男性的な顔立ちだった。貴族など、今までお目にかかった事もない。そもそも住んでいる世界が違うのだ。恐らく向こうだってそう思っている事だろう。果たして捜査は上手くいくかしら? ミラの胸に不安が過った。

「貴族の屋敷へ捜査だって?」
マックスがファイルを覗き込む。
「そうよ。貴方と二人でやるのよ」
「ふーん、中々良い男じゃないか」
「そういう事は関係ないでしょう?」
「そうかな? 案外そのメイドとやらも、ご主人様の男振りに惚れ込んで、それで屋敷に居着いているのじゃないか?」
「そんな事あるわけないでしょう? 雇い主と使用人の立場よ」
「分からんぞ。世の中っていうのは、案外そんなものさ」
「とにかく、大体の状況は把握したわ。捜査に出るわよ」
「おう。行くか」
二人はオフィスを後にした。 

 

 郊外の広大な敷地に屋敷はあった。周辺の村も、麦畑も、皆この舘の主、グレイ伯の支配下にある。巨大な屋敷はノルマン様式の重厚な石造りで、周囲を深い森が囲んでいた。マックスは車を玄関前に乗り付けた。ミラは軽く身震いする。
「何だ、屋敷の迫力に気圧されたか? 俺達は仕事で来たんだ。招待客っていう訳じゃない。普段通りにやれば良いだけさ」
マックスはそう言うと車を降りた。屋敷の車番がすぐさま駆け寄る。
「お客様、失礼ですがお車のキーを……」
「いや、すまないが車はそのままにしておいてくれ」
マックスは警察手帳を見せた。
「……畏まりました」
老執事が玄関のドアの前で二人を出迎えた。

「どういった御用件で?」
黒いスーツに灰色の髪を後ろに撫で付けた、賢そうなヘイゼルの瞳をした執事は慇懃に訊ねた。
「我々は警察だ。この屋敷のメイドの件で、母親から捜査の依頼があったので来たんだ。先ずは簡単な質問をさせてくれ」
「……旦那様は現在就寝中でございます。いくら警察の方とは言え、事前に連絡も無しにやって来られては迷惑でございます。どうかお引き取りを」
執事は礼をすると、二人を追い返そうとした。
「ちょっと待ってくれ。こちらは正式な礼状もあるんだぞ。こんな風に誤魔化されたら、なおの事舘の主への嫌疑が深まるぞ。何でも無いなら入れてくれ」
執事はしばらく黙っていたが、諦めたように口を開いた。
「……分かりました。こちらへどうぞ」
執事は渋々二人をホールへ引き入れた。

 ホールへ入った二人は思わず溜め息をついた。白い円柱に尖塔ヴォールトが連結して、高い天井を支えている。ヴォールトと天井には美しい紋様が施され、空間を圧倒的な美で支配していた。中央に大きな階段が設えてあり、青い絨毯と共に二階へと続いている。壁際に巨大な花瓶が立っており、色とりどりの花が活けてあった。アフロディーテと思われる大理石の彫刻が、妖艶な裸体を曝している。
「想像していたより、凄いお屋敷ね」
「まあな。だが屋敷が素晴らしいからと言って、家主まで素晴らしいとは限らんぞ」
「……こちらへ」
執事に促されて二人は客間へと通された。こちらも素晴らしい部屋だった。淡いブルーの壁に美しい風景画が幾つも飾られている。ゴブラン織りの華やかなソファーが大理石のテーブルの回りに並んでいた。
「お茶をお持ち致しますから、しばらくここでお待ちくださいませ」
執事は礼をすると部屋を出ていった。

「こんな屋敷に住んでいるって、どんな気分かしら?」
ローラが絵画を眺めながら呟いた。
「そりゃあ、快適だろうさ。面倒な事は全部召使いがやってくれるんだしな」
「まるでお伽噺話の世界ね」
「だが、長い事こんな暮らしをしていれば、それが普通になって、感動も何も無くなるのかも知れないぜ」
「そうかしら?」
「昔から良くあるだろう。貴族ってのは、最盛を極めた後、堕落して悪に染まったりするものさ。貧困の結果犯罪に手を染めるのとは訳が違うんだからな」
「そうね……」
ローラは写真の伯爵の姿を思い出していた。確かに全き善人という風情では無かった。でも威厳があり、立派そうな面構えだったわ……。ローラがそう答えようとした時、執事が戻って来た。

「お待たせ致しました」
ティーポットとカップを乗せたワゴンを、執事は部屋の隅に停めた。非の打ち所の無い丁重な手つきで、紅茶をカップへ注いでいく。アールグレイの高雅な香りが、ただでさえ優雅な部屋を更に格調高く満たしていった。二人は大人しくソファーに座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人の前のテーブルに紅茶を入れたカップが置かれたが、二人は口を付けなかった。
「それで……改めてお訊き致しますが、どういった捜査で?」
執事は座らずに二人の向かいの壁の前に立った。その美しい立ち姿だけで、長年の執務に磨かれて来た有能な執事である事が窺えた。
「先刻も言いましたが、この屋敷にマリアン・ヤングというメイドが居ますね? 一週間ほど前の事です。彼女の母親から訴えがあったのです。つまり、いつも娘は休暇には実家へ帰って来るのに、今回は帰って来なかった、と。こちらにその旨連絡したら、忙しいから帰れない、と言われたと。母親はそれはおかしい、毎回休暇日には帰省していたのに何かあったのではないか? と疑っています」
マックスは嫌疑の詳細を淀みなく伝えた。
「左様で。確かにマリアンというメイドがおります。実は一週間前は当屋敷で集会がございまして」
「集会?」
「はい。旦那様の遠来の御一族やら、御友人やらがお泊まりになられて、晩餐会を催しました。その準備やお客様のお世話で、当屋敷はてんてこ舞いの忙しさだったのです。何しろ皆やんごとなき方々ですからな。抜かり無く歓迎の意を表すのに、旦那様からくれぐれもよろしく、と頼まれておりました。当然メイドも休みなく働いておりましたよ」
執事はにこやかに答えた。
「その集会というのは?」
「簡単に申せば御一族の懇談会です。普段はお互い中々お会いになれませぬ故、盛大に催すのです」
「そうですか……。そのメイド、マリアンに会ってみたいが」
「ええ。ではこちらに呼びましょう」
執事はそう告げると、呼び紐を引いた。 

 

メイド

 マリアンはすぐにやって来た。小柄ながらしっかりした骨格である事が、メイド服の上からでも分かった。ブルネットの髪を後ろでシニヨンにまとめた、薄茶色の可愛らしい瞳の持ち主だった。淡いソバカスが鼻から頬にかけて散らばっている。
「マリアン。こちらは警察の方だ。お前に訊きたい事があるそうだよ」
「警察?」
「いいから座りなさい」
執事に言われて、マリアンはぎこちなくソファーに座った。
「ミス・ヤング。実は貴方の母上より訴えがあったんです。休暇になっても娘が帰って来ないとね。一週間前はどうしていましたか?」
ローラは出来るだけ優しい声色で訊ねた。
「はい。一週間前は、お屋敷で旦那様のお客様のお世話をする仕事に追われていました。忙しかったので実家へ帰れなかったんです」
「そうですか……では、何か犯罪に繋がるような事がこの屋敷でありましたか?」
「いいえ。特にありません」
「そう。グレイ伯はどんな方かしら?」
「それは……私共は宿舎も階下ですし、仕事以外でお顔を拝見する機会もありませんから詳しくは知りません。でも、優しくて良い方だと思います」
「他に何か……」
ローラがそう言いかけた時である。客室のドアが勢い良く開いた。

「何の騒ぎだね?」
長身の、ガッチリした体型の男が入って来た。ダークスーツに身を包んだその姿には威厳があった。柔らかい金髪を後ろに撫で付けた顔は青白く、落ち窪んだ目の中で明るいブルーの瞳が狼の目の様な鋭い光を放っている――グレイ伯その人である。二人とマリアンは立ち上がろうとしたが、グレイ伯がそのままで、とゼスチャーをした。
「旦那様。こちらは警察の方でございます。メイドのマリアンの件でお見えになったのです」
「そうか。メイドの件というのは?」
「はい。先日御一族の集会がございましたね? その時は忙しかった故、マリアンも仕事に就いておりましたが、本来であれば休暇日だったのです。それで、マリアンの母親が、娘が帰らない、と不審に思い、警察へ訴えたのでございます」
「ほう……そんな事か。何故私に黙っていた? ドナルド?」
「はい、旦那様。使用人の采配については私とメイド頭に任されております事ですし、母親には電話で答えておりましたし、休暇は後日与える事になっておりましたから、まさかこの様な事になるとは……」
「そうか」
グレイ伯はフッと鼻から息を吐いた。
「それで、捜査の進展はどうかね? お二方?」
からかうような視線でグレイ伯はマックスを見た。
「え、ええ。滞りなく終わりましたよ。ミス・ヤング、もう良いよ」
「はい。失礼します」
マリアンは小さく答えると伯爵に膝を折ってから部屋を出ていった。

「それにしても――」
言いかけて、グレイ伯はローラの顔を見て固まった。無言でローラを見つめ、何か言葉を探している様だった。穴が開くほど見つめるとはこの事である。伯爵の強烈な視線に曝されて、ローラは居心地悪そうに体を揺すった。
「あの、何か――」
そう言うのを遮って、伯爵はミラの前に歩み寄ると跪いた。
「お嬢さん、お名前をうかがっても?」
「え、ローラ・バーンズです」
「ミス・バーンズ、貴方は美しい……私と結婚して頂けませんか?」
「は?」
「何を寝ぼけた事言ってやがる!」
マックスが叫ぶ。
「私は本気です」
「は、はあ……でも、お会いしたばかりでいきなりそんな事言われても」
ミラは頬が高揚するのを感じた。今言った通り、会ったばかりの男に告白されたからと言って、何故こんなに赤面しなければならないのか。赤面すべきは向こうである。ローラは何だか馬鹿にされている様な気がして、腹が立った。だが伯爵は顔色一つ変えずに続けた。
「よろしい。確かに、いきなりこの様な申し出を受けても貴女も混乱するだろう。しばらく良く考えて欲しい。私は本心から申しているし、例え貴女が私を愛してくれなくとも、私と結婚すればこの屋敷と広大な所領から得られる利益の半分が、貴女の物になるのだ。悪い取引きでは無いと思うが? 良く考えてくれ。それと……お近付きの印に、これを受け取って頂きたい」
グレイ伯はポケットから銀の鎖に三日月型のムーンストーンの付いたネックレスを取り出した。ソファーの後ろに回り、ローラの首にネックレスを掛ける。
「でも……」
「心配には及ばんよ。それほど高価な物でも無いのだ。まあ、御守りだね。貴女が不幸から身を護れる様に。記念に着けていてもらえると嬉しい」
マックスは呆気にとられて見ていたが、イライラした口調で
「O.K.捜査はこれで終わりだ。ローラ、帰るぞ。見送りは結構! 仕事で来たんだ」
と告げると荒っぽくドアを開けた。

「マックス!」
ミラが慌てて後を追う。二人は停めてあった車に乗り込んだ。マックスはエンジンをかけると、大急ぎで屋敷を後にした。こんな得体の知れない所にもう一秒だってローラを置いておく訳にはいかない。屋敷はみるみる遠ざかり、夕日が辺りを金色に染めていた。麦畑が風に揺れて、まるで金色の海の様である。ローラは後ろを振り返った。屋敷の姿はもう見えなかった。
 

 

密売組織

 その日の夜、ローラは久しぶりにバスタブに湯を張って浸かる事にした。何時もは忙しいため、シャワーで済ませる事が多かったのだが、今日は独り静かに、浴槽で物思いに耽りたい気分だった。バブルソープを入れて泡立ったバスタブにゆっくり体を横たえる。ふと、胸元のネックレスに目が行った。鈍く光る銀の鎖に白いムーンストーンが清純な光を放っている。
「お近付きの印に……」
グレイ伯の低い声が脳内に木霊した。全く、何という事かしら? ローラにだって今まで付き合った男は居たが、何れも結婚まではいかなかった。相手にそのつもりが無かった場合もあったし、ローラの方でも、仕事と結婚生活を両立出来るか不安でもあったのだ。そもそもプロポーズなど初めての事である。

 ローラは泡を腕に撫で付けると、伯爵の顔を思い浮かべた。渋くて良い男だと思う。かなり年齢が上だし、会うなり愛の告白とはイカれていると思うが、正直言えば嬉しかった。だが、相手はお貴族様である。男っ振りも良くて財力も申し分無いのだ、女など幾らでも好きに出来るだろうに、何故出会ったばかりの平民の私なのか? ローラは浴室に掛けてある鏡の曇りを拭くと覗き込んだ。整った顔立ちではあるが、凡そセクシーさとは無縁の少年の様である。外見の魅力に参ったとも思えなかった。
「考えたって分かる訳無いわね」
ローラはそう呟くと、体を洗い始めた。

 翌日からまた何時もの日々が始まった。オフィスに着くと、マックスが待ち侘びた様な様子で声をかける。
「それで、どうするつもりだ?」
「どうって……」
「昨日の伯爵の野郎の件だ!」
マックスは鼻息も荒くローラーに詰め寄った。
「分からないわ。しばらく考えたいの」
「そうか。俺はお薦めしないけどな」
「どうして?」
「先ず身分が違いすぎる! それにな、出会ったばかりで相手の事をろくに知りもしないのにプロポーズするなんざ、何か良からぬ事があるに違いないぞ」
「そうかもね」
「それだけか?」
「ええ。今の所はね。とにかく、今日も仕事よ」
マックスは納得いかない様子だったが、席に戻った。

 デスクで昨日の捜査結果についての書類を書き込んでいたローラは、落ち着かなかった。作業に集中しようとしても、伯爵の姿と声が頭にこびりついて離れないのである。美しい金髪と厳めしくライオンの様に精悍な顔。とりわけ、あの狼を思わせる青い冷たい瞳が、ローラを捕らえて離さなかった。今は自分はオフィスに居て、伯爵とは物理的に距離が離れているにも関わらず、常にあの瞳に監視されている様に感じた。そしてあのやや陰があるが堂々とした立ち姿を思い返す度に、自分がまるで蛇に睨まれたカエルにでもなったかの様な気分になるのだった。今までどんな人物に出会っても、偉ぶる課長の前でさえ、こんな風に感じた事は無い。やはり生まれながらの貴族というのは違うのか? ローラは自分の中に生まれた、この形容し難い想いを、どう扱って良いのか分かりかねていた。いっそ考えなければ気が楽だと思ったが、この不安とも畏怖とも言える気持ちは消え去る事は無かった。

 一週間後、ローラとマックスは突入部隊と共に、麻薬密売組織の出先機関の前に居た。出先機関と言っても、要は普通の雑居ビルである。今日はここにたむろしている連中を取り押さえて必要資料を押収し、メンバーを連行するのだ。
「連中の車のエンジンは破壊したか?」
マックスが停めてある車の中から無線で特殊部隊に連絡した。
「手筈通りです」
「よし、突入しろ!」
突入部隊が入り口のドアを爆破して中へ入った。何発か銃の音が鳴り響いたが、すぐに静かになる。
「制圧しました」
「よし、行くぞローラ!」
二人は粉塵の舞うビルの中へ入って行った。薄暗い部屋に三人の男が床にうつ伏せて後ろ手に手錠をかけられている。三人とも畜生とか今に見ていろなどと悪態をついていたが、こうなってはじっとしているしか無かった。
「三人を護送車へ連れていけ」
マックスは指示を出すと、机の引き出しを開けた。
「ミラ、収支記録が何処かにあるはずだ、探せ」
「ええ。でも、そういうデータはコンピューターに入っているのではなくて?」
「もちろんそうだろうが、セキュリティの関係上、より重要な記録は紙に録ってある筈だ」
ローラは脇の棚の引き出しを漁った。一番下の引き出しには鍵が掛かっていた。
「ここね」
ローラはナイフを取り出すと引き出しの隙間へ捩じ込み、鍵を破壊する。その時である。

「動くな!」
背後のバーカウンターの中から男が這い出て、銃をローラへ突きつけた。カウンターには細工がしてあり、人が中へ隠れられる様になっていたのだ。
「ローラ!」
マックスが叫ぶと同時に男は左手をローラの腰へ回して体を引き寄せ、彼女のこめかみに銃を当てた。
「よし、ナイフを捨てろ。おい、お前! 仲間の拘束を解いて連れ戻せ! さもないとコイツの命は無いぞ!」
「マックス! 駄目よ!」
「黙れ!」
男はローラの頭を銃床で殴った。ぐったりするローラ。
「わ、分かった」
マックスは無線を入れた。ゾロゾロと男の仲間が戻って来る。一人の男が部屋へ入り様、マックスを殴り付けた。
「ウッ……! 貴様ら、望みは何だ?」
「そうだな、空港に高跳び用の飛行機を用意してもらおうか。パイロットと移動用の車もな。コイツは人質として連れて行く。妙な真似したら……分かってるな?」
男は薄ら笑いを浮かべた。
「……分かった」
「よし、準備が整い次第、ここに電話をしろ。それまで、このビルに誰も近付けるな。お前はさっさと行け!」
「ローラ……」
マックスは切れた口の中で小さく呟くと外へ出た。 

 

救出

 外の街は既に夕暮れを迎えていた。ブラインドの隙間から、僅かに夕日のオレンジ色の光がローラ達の居るビルの部屋へ射し込んでいる。ローラは手を後ろ手に縛られて、椅子に座らされていた。

「飛行機の準備はまだなのか?」
一人の男がイライラした口調で訊いた。
「まあ、連中にとっても急な事だろうからな。先ずお偉いさんに相談して、議論して……とか何とか、そんなまだるっこしい事をやってるんだろうさ」
「まさか、このまま放置っていう事は無いよな?」
「心配するな。こっちは人質を取っているんだぞ。しかも奴等の仲間だ。見捨てる訳がねえよ」
「……そうだよな。しかし、こうして見ると中々良い女じゃないか。俺は堪らなくなって来たぜ」
男がローラに近付く。男の邪な笑みを見て、ローラは体を硬直させた。
「今はやめておけ。無事飛行機で国外へ脱出するまではな。何、アジトへ着けば好きにしたら良いさ」
リーダー格の男がたしなめる。ローラはホッと胸を撫で下ろした。それにしても、本当に飛行機を手配するだろうか? ローラが助かるにはそれしかないが、かと言って手配されてしまえば、こいつらはローラを連れて何処だか知れない国外のアジトとやらに逃亡してしまうのだ。そうなれば捜査はおろか、ローラの命も保証はされないだろう。

 男がさも残念そうにローラから離れた時である。壊れたビルの入り口の方から、割れたガラスを踏む音がした。四人の男達に緊張が走る。
「おい、今の音……」
「シッ。静かにしろ」
男達は一斉に銃を構えて部屋のドアに向けた。足音は段々部屋へ近付いてきて、ドアの向こうで止まった。一瞬静寂が訪れた。次の瞬間四人は先を争うようにドアに向かって銃弾を放つ。弾丸は木製のドアを貫通した。再び無音が空間に満ちた。

「殺ったのか?」
「……多分な。確認しよう」
リーダーの男はそう言うと、ドアの真横に立ち、片手でドアノブを回した。残りの三人もドアの脇の壁際へ立って、銃を構えている。リーダーは、思い切って勢い良くドアを開けると、銃を廊下へ向かって突き付けた。大柄の黒いコートを着た男が向かいの壁にもたれ掛かって立っている。ガックリと頭を垂れ、ピクリとも動かない。体に無数の銃痕があった。
「死んでるのか?」
「……分からん」
リーダーはそう言いながらコートの男に数発打ち込んだ。それでもコートの男は動かなかった。
「ハ……ハハハ。どうやら死んでいる様だな」
「何者なんだ?」
「俺が知るか。まあ、どのみち死んじまったんだ。何者かどうかなんて関係ねえよ」
リーダーは安堵の溜め息をつく。死体に背を向けて部屋へ入ろうとした時である。
「それで終わりか?」
背後から低い声がした。リーダーはビクッと体を震わせ、即座に振り向いた。コートの男が懐から銃を抜くのと同時だった。

ドンドンッ!

リーダーの額に銃弾がめり込む。そのままリーダーは後ろに倒れた。
「野郎!」
三人がコートの男に向かって引き金を引こうとしたが、コートの男の方が早かった。発砲音と共に三人の体に弾丸が突き刺さる。三人は呻いてその場に崩れ落ちた。コートの男はゆっくり三人に近付くと、空になった弾倉を新しい弾倉に入れ替え、床をのたうち回る三人の頭に止めを刺した。コートの男は乱れた金髪を左手で撫で付けると、部屋へ足を踏み入れた。

「伯爵!」
ローラが叫ぶ。そう、コートの男はグレイ伯だった。
「無事かね?」
「え、ええ……。でもどうしてここに? いえ、銃弾が当たったのに何故?」
「ああ、これか」
伯爵は銃痕を眺めると静かに目を閉じた。大きく息を吸いこんで止めると、身体中の筋肉に力を入れる。

コン!

伯爵の体から弾丸が押し出されて床に転がった。弾丸は次々に体から排出されていく。
「……貴方は一体何者なの?」
呆気にとられたローラが掠れる声で訊いた。
「その質問に答える前に、先ずはここから脱出すべきではないかね?」
伯爵はそう言うとローラの拘束を解いた。
「立てるか?」
「ええ。大丈夫よ」
ローラはヨロヨロと立ち上がった。
「では行こうか」
「えっ?」
伯爵はローラをフワリと抱き締める。驚いたローラが思わず体を硬直させた瞬間、二人の体は中に浮き、凄まじいスピードで部屋をすり抜けビルの外へ出た。

 外は既に日が落ちて、街には灯りが灯っていたが、そんな様子を確認する間も無く、二人は高速で空を飛んでゆく。他の人間には二人の姿は見えていない様であった。伯爵の腕の中で、ローラは一抹の安堵と共に、言い知れぬ恐怖に包まれていた。彼は明らかに人間では無い。では何なのか? あれこれ想像する事は出来るが、そのどれも現実感が無かった。もっとも、こんな風に空を飛んでいるという事自体がまるで夢の中の出来事の様だったが。街を越え、畑を越え、二人はみるみる伯爵の館へと近付いて行く。深い紺色の夜空に銀色の星が輝き、明るい満月が煌々と辺りに妖しい光を放っていた。