ノムさんの人生、その夢と現実


 

はじめに

 2020年2月に野村克也氏が亡くなられた。私の家族は皆野球好きで私もノムさんの監督としての功績をよくしっている。私は選手としてのノムさんは私自身が生まれる前の話なのでWikipediaや本を読んで知った程度ではあるが、それについて私がノムさんの人生について感じた事を述べたいと思う。 

 

少年時代のノムさん

 私は「私の履歴書」シリーズでノムさんが著された「無形の力」を読んだ時に、ノムさんの少年時代が過酷であるものだと感じた。(戦前生まれの人間は何かと辛酸を舐めた少年・少女時代を送っている人の方が多いとは思うが)
 ノムさんの出身地は丹後ちりめんの産地であり、裕福な家が多いはずではあるが、ノムさんの家は取り分け貧しかった。(これはwikipediaや「無形の力」にも記述がある。)何しろ、お父さんの要一さんが戦死(wikipediaには実はお供え物の柿を食べて亡くなったらしいという記述があるが、私には真偽は不明である)され、お母さんもそれで家事に仕事とやもめの身として一時癌で倒られれた事もあった為大変だったろう。克也さんはお母さんに楽させたいという気持ちが強かったろう。だから子供の頃からアルバイトに勤しんでいたと私は思う。また克也さんはその頃から将来の進路を模索していたのではないだろうか。美空ひばりさんに憧れて歌手を志して中学校進学時、コーラス部に入った。ところが高音が出ずに断念、コーラス部も退部してしまった。そして次には映画俳優になろうと思い、映画館を営む知り合いの人にタダで見せて貰った映画で俳優達の演技を必死に勉強して名台詞を言ってみた。だが、自身の顔が二枚目でないから向かないのかなと思ってこれも諦めてしまっている。
 その後、三角ベースを中心に大活躍。ここから将来はプロ野球選手になろうとノムさんは志したのだ。

 でも後になって私はノムさんが諦めた少年時代の夢が今でも生き続けていた事を知った。ノムさんは自身を王貞治さん、長嶋茂雄さんを「向日葵」と例えたのに対して自身を「月見草」と例えた。その名言からヤクルト監督時代にCD「俺の花だよ月見草」をリリースした。一時的とはいえ歌手デビューに成功したのだ。他にも2009年には「女房よ・・・」というCDをリリース。東日本大震災の復興応援ソング「花は咲く」についても東北にある楽天イーグルスの監督を務めた縁でボーカルの一人として参加した。
そして1970年代、南海監督時代に野球漫画のレジェンド・水島新司先生原作の「野球狂の詩」の映画版でも本人役で登場した。また、写真集「盲導犬クイールの一生」を原作とした映画「クイール」にも片岡智則役で出演している。野球とは殆ど関係のない作品でまさに「俳優」をこなしている。

 ノムさん本人は以上の事をどう思われたか不明ではあるか、ノムさんが子供の頃に目指し、諦めた夢は野球選手になって以降、叶える事ができたのではないだろうか。一見皮肉にも聞こえるかもしれないが私は当時のノムさんに「子供の頃の夢が叶って良かったですね」と伝えたい。 

 

三冠王になれたのに

 ノムさんが自身を「月見草」と例えられたが、その所以について掘り下げてみよう。

 ノムさんが南海ホークスに入団し、一年目で解雇になりかけたが、それでも乗り切り、当時珍しかったウエイトトレーニングを始め、攻守双方で己を鍛えまくった。その結果、ホークスの1959年から1960年代までの五度のリーグ優勝、および日本一の原動力の一人となった。1965年は戦後初、そしてメジャーリーグを含めても史上初の捕手の三冠王となる。

 ところが、この功績はあまりにも目立たないものだった。何しろマスコミが当時のプロ野球はセントラルリーグ、その中でもとりわけ巨人中心の記事ばかりであり、更にはノムさん三冠王になった年はジャイアンツのV9の幕開けに差し掛かっていたものだから。確かに戦前から存在し、幾度も優勝している歴史があるからこそ読売巨人軍は注目されやすい。ノムさん自身も野球少年の頃からラジオで巨人の試合中継を頻繁に聞いておられた関係で巨人のファンだった(しかし、藤尾茂という強肩・俊足・長打の捕手がおり、彼からレギュラーを奪うのは困難と見て巨人の入団テスト受験は見送っている)。
 とはいえ、巨人一辺倒というのはいくらなんでも他球団の選手やファンからしたら巨人びいきじゃないかと批判したくもなるだろう。ONと比較してノムさんは目立たない所で三冠王を達成したという事で王氏や長嶋氏を「向日葵」と例え、自身は「月見草」に例えたのだ。

 なお、選手兼任監督の頃、巨人が史上初のドンケツに終わった1975年のオフ、ジャイアンツはこの時、ホークス内での派閥抗争で孤立状態だったノムさんを引き抜いて巨人の選手兼任ヘッドコーチにさせる事を考え、ノムさんも快諾したものの、長嶋氏が許可しなかったとしてこの構想は実現しなかった。
 これはwikipediaを読んで知ったが、もし長嶋氏がノムさんを選手兼任ヘッドコーチに賛成していたらどうなっていただろうかと私は考えた。ノムさん自身が巨人のファンだった為に憧れの球団に入る事ができてノムさんは嬉しく思われたのか。そしてV9に次ぐ、あるいはそれ以上の巨人の黄金期が到来していたのだろうか。かといって巨人も当時派閥があった頃で長嶋氏も後にノムさんが南海監督を解任された1977年の三年後の1980年に巨人監督を解任されるかの如く辞任しているのだが・・・。話を戻し、孤立状態でその居場所が嫌になれば新天地を求めたくなる気持ちは誰にだってあるのだからノムさんもさっさと出て行きたかっただろうし、仮にも巨人に行った時にはきっとフロントや首脳陣、選手から歓迎された可能性がある。また、野村克也という名前もさらに知名度が向上していただろう。

 だが、実現しなかったこそ、ノムさんは「月見草」の自分で通せたのかもしれない。「野村克也」と「月見草」は切っても切れぬ縁だったのだ。 

 

監督、四番、捕手、3足の草鞋

 ノムさんは1970年に監督になった時はまだ現役であり、選手兼任だった。自身もプレイしながら采配を揮うのであるからさぞかし大変であったに違いない。だが、この時、ID野球を行っていたのではないだろうか。
 前年のホークスが最下位に終わった後からの巻き返しとなり、一年目はこの年優勝したロッテオリオンズに大差をつけられたとはいえ、2位にまで上り詰めた事は素晴らしい。ドン・ブレイザーをヘッドコーチに据えて、佐藤道郎氏、門田博光氏など新戦力の起用、後に広島カープの黄金期の名将となる古葉竹識の獲得などが功を奏したのだろう。勿論、監督であるノムさん自身も攻守の要としても引っ張った。
 1971年はBクラス、72年は3位に終わるも、杉浦忠氏の引退などて弱体化が懸念された投手陣の再整備に成功させ、また73年からパ・リーグに前後期制が導入された事もあって優勝に輝いた。しかし、この時は巨人のV9の真っ只中であり、日本シリーズでは巨人のV9の引き立て役となってしまった。なお、この頃から沙知代さんの球団への介入が球団内で問題になり始めたが、これについては次回触れさせていただく。
 V2を狙い、巨人へのリベンジを誓った74年は優勝争いに絡めずに終わり(前期4位、後期2位、総合3位)、75年も前期後期双方で優勝できず(前期5位、後期3位、総合5位)、大型トレードを敢行した(なお、この時阪神に放出された江本孟紀氏と中日に放出された西岡三四郎氏は沙知代夫人の行動に反発して排除の為に放出された説が強い)。76年は前期は2位、後期は首位に立って最後は阪急に取られたが、強い南海が甦った事をアピールした。77年も優勝を狙う勢いだったが、先程の沙知代夫人の介入問題やそれに対して批判した選手の他球団への追放を権力乱用と球団から咎められてしまって残り2試合を残し、解任された(前期2位、後期3位、総合2位)。
 南海時代のノムさんの評価は良かったり、悪かったりもするが、この采配での経験が後のヤクルト監督時代以降に活用されたのではないかと私は思う。だが、球団内の派閥抗争は激しく、ノムさんにとって最大の敵はパ・リーグの他の5球団以上に、ノムさん(正しくは沙知代夫人)に反発した選手達かもしれない。 

 

サッチーこそGM?

 ノムさんが沙知代さんと愛人関係になってから沙知代さんが球団の経営や選手の起用について口出しした事が問題になったが、なぜ沙知代さんが(ノムさんは否認していたが、仮に事実として)首を突っ込んだのかは私にも分からない。「影の監督」と言っていたが、もしこれが事実としたら、沙知代さんは非公認のゼネラルマネージャー(以後GMと略す)かもしれないと私は思った。
 正式に日本プロ野球界で初めてGMを名乗ったのは1995年の広岡達朗氏(ロッテマリーンズのGM)であるが、それ以前にも球団常務とか総監督とか今のGMに似た役割はそれ以前から存在していた。
 沙知代さんの選手起用の批判、監督室への出入り、コーチ会議への出席、「南海を優勝させる会」の立ち上げなど、これらの行為は勝手な行動とされ、球団に悪影響を及ぼす結果になったとはいえ、以上を考えると沙知代さんこそがプロ野球界史上初の女性GMではないだろうか。(なお沙知代夫人は克也さんがヤクルト監督に就任した後もそこで球団に対して好き勝手やっていた。)
 なお、私が2018年になんばパークス(大阪球場跡地)にある南海ホークスメモリアルギャラリーに訪れた時、そこにはノムさんの紹介が一切ない。年表の出来事にもその時の監督が誰だったのかを示しているのに、ノムさんが監督だった頃はノムさんの名前が表記されていない。これも沙知代さんの圧力とされている。

 ちなみに余談だが、ノムさんが解任後のホークスが20年連続Bクラスとなったのは沙知代夫人の呪いかもしれない。野村沙知代GM、恐るべし。 

 

南海を去った後

 さて、南海監督を解任されたノムさんに声がかかったのはロッテオリオンズだった。この時、ロッテは東京スタジアムを失ってから「ジプシー・ロッテ」と揶揄される程本拠地を転々とする状態を5年間続け、ようやく正式な本拠地として川崎球場に落ち着いた時なので、その目玉の一つとしてノムさんを獲りたかったのだろう。
 当時監督だった金田正一氏はノムさんの南海監督時代の実績を見て選手に指導を要請されたらしい。だが、ノムさんがいざ選手に教えたりすると逆にコーチ陣から煙たがられてしまい、今度は金田氏は「悪いが教えるのをやめてくれ」と言われてしまった。そのコーチとノムさんの確執が原因なのかは不明だが、阪急と共に優勝候補とされていたロッテは前期5位・後期3位・通算4位で終わってしまった。金田氏との関係は悪化していたのか、それとも良好関係を保っていたのかは不明だが、ロッテの重光武雄オーナーからロッテの次期監督を要請されたが、金田氏が誤解する事を考えてノムさんは固辞している。同時に自由契約となった。
 だが、金田氏も選手に教えて貰う為にノムさんを招聘したのならせめてものヘッドコーチ兼任での要請がよかったのではないだろうか?そうすればコーチ陣との確執もなく、ロッテは阪急と肩を並べられる程のライバルになりえたはずなのにどこか勿体ない感がある。オリオンズは大洋ホエールズのお古でオンボロの川崎球場(失礼)を使用していた為に、客入りが12球団一最低とされてしまい、さらには改修費をケチったのか、川崎市も改良工事をろくにしなかった(1991年シーズン前にスコアボード、グラウンド、座席などの大規模改修を施工したものの、選手のロッカールームやトイレは依然として劣悪環境のままだった)。その為、ロッテは限界を感じ、1992年以降は千葉へ移転してしまった。
 ノムさんをもしヘッドコーチ兼任で要請しておけば、球団内の団結力は上がったし、客入りも(たとえセ・リーグほどではなかったとしても)史実よりよかったのではないだろうか?(いずれにせよ、ロッテは史実通りに千葉へ移転していたかもしれないが)

 次のノムさんの居場所は西武ライオンズに移った。この時も丁度ライオンズが福岡から所沢へ移転した所だった為、当時監督だった根本陸夫氏は田淵幸一氏や松沼博久・雅之兄弟などと共に新生ライオンズの目玉の一環としたかったのだろう。控えが多かったが、南海監督時代の指導ぶりを発揮できたのはないかと思われる。理由はwikipediaのノムさんの項目の注釈に「このとき同僚になった松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。」とあった為である。また、パ・リーグの宝のような存在だったのか、オールスターでも西本幸雄氏の推薦により出場した。

 そんなノムさんも選手としては恒例になって来たのかとうとう引退を決意した。自身の打席で代打を出され、それが不満だったのか代打策の失敗を祈った。もちろん失敗し、「ざまあみろ」と思った。だが、ここでノムさんは顧みた。自分の気持ちがチームと逆の方向に向いてしまったと。それで引退を決意してしまった(采配に不満を持って途中帰宅した選手は実際にいるが、ノムさんはそれをしなかったのはまた凄い)。全く関係のない私情を挟んで申し訳ないのだが、今の気持ちが属する場所と違う方向に進んでいると感じた時、あるいは指摘されてた時はそこを抜け、新天地を求めるのも悪くはないだろう。

 選手として26年間、公私にわたり苦悩が多かったものの、充実した選手生活ではなかっただろうか。 

 

解説者、監督復帰まで

 ノムさんは引退後、TBSのテレビ・ラジオの野球解説者を務めていた。また、サンケイスポーツの野球評論家、そして後にテレビ朝日の解説者にもなった。この解説者時代には投手・打者の心理が素晴らしく、まさに捕手、四番打者そして監督を務めた実績が活かされていると私は感じた。この時も野球一筋で講演を行ったり、夫人がオーナーとなる(南海の球団経営や采配に口出しした事が原因で野球チームを経営したかったからか?)少年野球チームの監督を務めたりと公私共に活躍した。

 この間にもロッテや近鉄、南海改めダイエーから監督の要請・打診があったというが、全て実現せずに終わっている。山内一弘氏の後任としてロッテオリオンズから要請を受けた時はやはりロッテに在籍していた頃に金田氏からの願いで選手に指導を行った所、コーチ陣から煙たがられた事もあって、監督をやっても選手やコーチとの確執を生むと懸念したのではないだろうか。近鉄からは西本幸雄氏の後任として名が挙がっただけで正式な要請はなかった。

 ここで仮にノムさんが近鉄バファローズの監督になったらどうなっていただろうか。後のヤクルト監督時代のように今や幻に終わった近鉄の日本一を達成し、近鉄の球団史に黄金時代を築いたのだろうか。もしそうなら近鉄の優勝は史実より2~3度多かったかもしれない。

 また、南海はノムさんが解任された後、ノムさんを慕っていた選手が他球団へ次々と移籍してしまった影響で万年Bクラスの球団へと陥り、ダイエーに売却、本拠地を福岡へと移転した。その記念も兼ねて嘗て南海で監督を務めたノムさんに再招聘をお願いしたのかもしれない。しかし、やはり、鶴岡一人氏とのトラブルや沙知代夫人絡みの事で一度監督を解任された事もあったのだろう、拒否した。確かに一度自信を追い出した球団に監督をまたやってくれなどというのは都合が良すぎると思うし、ノムさんも流石にそこまでのプライドは捨てられなかっただろう。

 そして1989年、関根潤三氏の後任としてヤクルトスワローズの監督を要請された。だが、ノムさんは当初は渋っていた。やはり南海監督時代のような解任のされ方をするのだろうか、それとも、全く縁のないセントラル・リーグのチームだから受け入れられるか不安だったのだろうか。それは私の推測ではあるが、ノムさんは受け入れた。そして低迷していた燕のテコ入れを行うことになる。

 次回からは監督時代のノムさんについて記述したい。 

 

燕の黄金期

 1990年からノムさんはヤクルトスワローズの監督をされた。だが、チーム自身とはもちろん、セ・リーグのチームである事から非常に縁の薄い、いわば外様の監督となった。(強いてノムさんがセ・リーグと縁があるとすれば日本シリーズで戦った事がある巨人の王さんや長嶋さんと親交があったくらいか)。その為、部外者のイメージを持たれたという。また、当時のスワローズは万年Bクラスであり、優勝狙いというよりチーム内のアットホーム感を重視するチームだから負け癖がついてしまったとみられる。ノムさんはそんなのはぬるま湯と感じたのだろう。チームの改革にすぐさま着手した。
 古田敦也氏を正捕手抜擢、高津臣吾氏を抑えに固定、古田氏が加入前の正捕手候補だった秦信司氏、飯田哲也氏を外野にコンバートなどといった行為だった。確かに一年目は5位に終わったが、それらの行為は徐々に功を奏す結果となる。

 1991年、この年は阪神を除く5球団が必ず一度は首位に立つ乱戦だった。古田氏が首位打者獲得するなどしてさらにチームも軌道に乗ったのではないだろうか(順位は3位)。

 そして1992年のスワローズ、ノムさんはここで優勝宣言をした。この年は、大混戦。秋になっても、ジャイアンツ、タイガース、カープも優勝争いに加わるほどだった。そして、優勝を手にした。スワローズにとっては1978年以来、14年ぶりの優勝だった。しかし、日本シリーズでは西武ライオンズに敗れてしまった。

 そして1993年、開幕ダッシュに失敗し、首位から没落した時期もあったがこの年もリーグ優勝を決めた。この年も日本シリーズの相手は西武だった。しかし、今度は負けるわけにはいかなかった。最終戦にまでもつれてついに日本一を達成する事ができたのだ。南海監督時代でも成しえなかった日本一を。

 そしてマスコットキャラクター・つば九郎が登場し、帽子のマークの変更などのイメージチェンジも行った1994年、この年は6球団とも順位が激しく変動する混戦だったが、乱闘や負傷で退場・離脱者が続出してしまい、4位に終わり、しかも最後はあと一歩の所で最下位確定かという崖っぷちだった。

 1995年は前年優勝した巨人を打倒するという目的で優勝を目指す。その結果、巨人はAクラス争いがやっとという状態となり、スワローズは首位独走、広島に猛追されたりもしたが、2年ぶりの優勝を、しかも胴上げは打倒を目指していた巨人との試合で達成した。日本シリーズでは魔術のような采配が魅力的だった仰木彬氏率いるオリックス・ブルーウェーブとの対戦で、「IDvsマジック」という印象に残った人も多いのではないか。このシリーズでは、4勝1敗と2度目の日本一を達成する事ができた。

 1996年では、序盤はジャイアンツ、カープ、ドラゴンズと共に優勝候補に入り、吉井理人氏や辻発彦氏、トーマス・オマリー氏やヘンリー・ミューレン氏の活躍があった。しかし、故障者続出と巨人の快進撃に遭い、4位に終わってしまった。

 1997年は元カープの小早川毅彦氏を加入させ、風評は下位予想されていたが、ドウェイン・ホージー氏や古田氏、池山氏のの活躍もあり、快進撃を続けて行く。横浜ベイスターズに追いつかれるも、その横浜戦での石井一久のノーヒットノーランを決めて天王山を振り切り、4度目の優勝。日本シリーズでは4年ぶりの西武との対戦だった。ライオンズ有利のと言われたが、それでも獅子封じに成功し、4勝1敗で日本一を達成した。

 そして、1998年は二度目の連覇を狙うと意気込むも、親会社の取引失敗、プロ野球脱税事件と社会的事件の煽りを受けた事もあり、優勝争いに関わる事はなく、4位に終わった。そしてノムさんは勇退した。

 終わってみれば9年間指揮をしてきた中、Aクラス5度、4度の優勝、3度の日本一、それまで優勝もAクラスも少なかったスワローズの歴史の中では燕の名将と称された。後にも先にもここまでスワローズが強かった時期は他の時期とは比較できないだろう。