緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──


 

\NEW/プロデビュー・書籍化のお知らせ

 お久しぶりです、水無月彩椰です。もう一年ぶりになるのでしょうか……?

 タイトルの通りですが、このたび私、オリジナル作品の書籍化と、それに伴ったプロ作家デビューが決定しました。いきなりのお話、ご報告となりまして、驚かせたことと思います。

 以下、その作品の紹介とさせてください。二つの媒体(紙版書籍・電子書籍)があることを紹介、各情報提供のためURLも添付しますが、誓って購入を強制するものではございません。

 合同会社StudioN スタジオパブリッシング様より、『バーン・ホワイトウェイブ ─夏の終わりに消滅した、花のような彼女─』という作品を、今年の10月15日に発売します! 10月1日までの予約に限り、紙版書籍には、私のサインが限定でついてきます。Kindleの電子書籍版にはございません。



https://www.amazon.co.jp/dp/4600013093/ref=redir_mobile_desktop?_encoding=UTF8&qid=&ref_=tmm_pap_swatch_0&sr=



【あらすじ】
『「──大丈夫です。私、八月三十一日に、寿命で消滅しますから」

人付き合いが苦手な高校生、四宮夏月。彼が亡きAIエンジニアの祖父から引き取ったのは、ネットワーク上に存在するデジタルコンテンツのAIアバター、バーチャル・ヒューマノイドの"白波(しろは)"だった。

スマートコントラクトに記された改変不可能な契約により、一ヶ月後の八月三十一日に消滅する彼女は、「マスターの頼みをなんでも叶えます」と言い、夏月の初恋の相手を探すことに。

2036年。海面上昇により沈みゆく運命の島で、消滅を迎えるヒューマノイドとの、儚い夏の物語』


 去年の九月、『 NEW:水無月彩椰の近況』として、『小説家になりたい』という夢を告白しました。あれから一年が経ち、こうして結果を出せたことは本当に嬉しく思います! これで書籍化すると意気込んでいた、例の純文学作品が書籍化したわけではありませんが、あれを担当編集さんに読んでいただいたことで、新作の書き下ろしが決定したわけです。本当にありがたい限りです……夢が叶いました。

 私の創作の原点は、この『緋弾のアリア』であり、『落花流水の二重奏』でした。とても愛着のある作品で、だからこそ、いつかは完結させたいと思っています。ずっと読んでくださっている読者の皆様、応援してくださっている皆様のおかげで、プロデビューができました! ありがとうございます!

 どうか今後とも、変わらず応援、作品を楽しんでいただきたいです。

 以上、大事な大事な報告でした。重ね重ね、読者の皆様、ありがとうございます! 

 

『落花流水の二重奏』改稿の進捗について

皆様、お久しぶりです。『落花流水の二重奏』の作者、水無月彩椰と申します。つい昨日に学期末テストと模試とを終えたところでして、いささか疲弊している次第でございます。
まぁ、そんな堅苦しい挨拶もそこそこに、タイトルに則ったお話でも始めましょうか。

『本編章《誰が為の世界》全話改稿!』でも申し上げました通り、本作品は改稿作業を現在進行形で行っております。現段階である程度の描写をともなって生まれ変わりを果たしたのが、《誰が為の世界》です。この改稿作業に共通しているという点は、文章としての改稿もあれば、期せずして発見してしまった設定の齟齬──その埋め合わせをするために敢行を決意した、という面もあります。幸いにも《誰が為の世界》では、それほど設定の齟齬は見られませんでした。

しかし《緋神の巫女と魔剣》編は、《誰が為の世界》から引き継いで、次章に繋げるために必要な設定や伏線が多々あります。それらを最大限に活かしきるためには、《緋神の巫女と魔剣》編も、ある程度の改稿もやむを得ないのです……。現在は4分の1ほど進みました。それきりです。

この章は、改稿作業という観点から見ると、まだまだ先は長いです。それだけのお時間を要すること、自らの手腕の稚拙なことを、改めて皆様にお伝え申し上げるとともにお詫び申し上げます。けれども作業を中断することは無いだろうと思います。自分が納得できませんから……。

《緋神の巫女と魔剣》編の改稿が終わった時は、また一変した、新鮮な『落花流水の二重奏』という作品が読めるかと思います。そのような体験を皆様にさせられるように、努力致します。
改稿作業が終了するのはいつだか知れません。ただそれまでは申し訳ありませんが、既に投稿してあるお話を、改めてお読みいただけたらと思います。そうして頂けたら幸いです。

『落花流水の二重奏』は、まだ作中で公開していない設定も多々あります。今後の展開のために張り巡らせた伏線も、実は存在しています。このことを、この場で初めて公言します。
そうして既に改稿を終えた《誰が為の世界》編を、読み直してください。既読の方も未読の方も、お時間があればなにとぞ宜しくお願い申し上げます。水無月彩椰は、『落花流水の二重奏』というつまらない作品を創っている気は毛頭ございません。それは申し上げます。

そんなわけで、進捗報告でございました。ここまでお読みいただきまして誠にありがとうございます。読者の皆様をお待たせしてしまっていることを、改めてお詫び申し上げます。
期待を裏切るような作品には致しません。今後とも『落花流水の二重奏』と水無月彩椰を、なにとぞ、どうぞ宜しくお願い申し上げます。これにて擱筆させていただきます。 

 

水無月彩椰の近況

 皆様お久しぶりです。『落花流水の二重奏』作者の水無月彩椰です。ここしばらく改稿作業もできておらず、またこうしてお話することもせずにいたのは、少々申し訳なく思います。ですので、いまの私が何をしているのか、良い機会だから改めて話そうという結論に至り、徒然なるままに、日暮らし、ぱそこんに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていこうとしている次第です。普段の堅苦しい文章とまるで異なるのは、いまが深夜だからでしょうか。深夜テンション。楽しいです。

 さっそく本題に入りましょう。いまの私は、通信教育課程の芸術大学に在籍しております。そこで文芸創作の勉強をしているのですが、それを決意したのも今年の一月、共通テスト受験期直前でした。その時は立教大学や法政大学の文学部で、文芸に関して学ぼうかな……と思っていたのですが、突然にも気が変わり、一度は挫折した『小説家になる』という夢を、再び追いかけてみたい衝動に駆られたのです。

 物書きさんなら分かってくださるでしょうけど、必ず一度は、目指すんですよ。小説家になりたい、って。あるいは自分の本を売りたい、作りたい、形として手元に残したい、もあるかと思います。私も例に漏れず、そうでした。二次創作の執筆途中に一時創作も手掛けたのですが、書籍化への欲求にまんまと惹かれてしまい、実力もたいして無いようなひよっこが、健気にも、愚直にも、目指していたのです。けれどやはり、諦めました。当時の私に文章力も無ければ、読者を面白がらせる設定も構成も、何も作れなかったのです。オマージュ作品ばかりの自作と自分の愚かしさに辟易して、そこで諦めました。弱いですね。

 けれど私は、『自分の追い求める文章の在り方』を模索していたんです。いわゆる文体。私は、綺麗な文章が書きたいと思っていました。風景描写も心理描写も、耽美的で、けれど写実的な、そんな文章。私の師やライバルは、そういう文章が難なく(もちろんその裏面には、何年もの努力が滲んでいることでしょう)書けていて、自分の文章にはそんな華が無いから、せめて真似でもして、少しでも追いつきたかったんですよね。だから、真似しました。文体をそれっぽく真似して、辞書を引いて様々な語彙を覚えて、自分なりに頑張りましたよ。けれど感性だけは、真似しようがありませんでした。だって感性というのは、その人の心情とか経験とかからくるもので、十人十色なんです。文章には感性が色濃く出ます。感性は文章に特有の彩りを与えて、読む人を時に感嘆させるものなんです。そんなの、真似できませんよ。そりゃそうです。

 ただ強いて言うならば、私の文章に対する信条は、『リアリティと綺麗さ重視』ですから、いま思えばそれが功を奏したんでしょう。それだけを目指して、必死に表現を脳髄から絞り出したものは、まさに私の信条そのものでした。原石というには少し丸くて、宝石というにはいびつすぎる、まだ洗練されていないものでした。だからその文章は、書くのが酷く苦痛だったのです。いびつなものを咽喉から吐き出せと言われて、スムーズに吐き出せます? 最低限、整っていなければ難しいでしょう。そんなものです。

 だから私は、それを磨くことに決めました。それが改稿前の『落花流水の二重奏』なんですよ。あれだけ書けば、嫌でも文章力は伸びます。彩斗とアリアの恋路を描いたこの作品だからこそ、心理描写も、それを彩る風景描写も、こだわらなければいけなかったのです。そして私は、私の実力相応の形でこだわり続けました。回を追うごとに文章は洗練されて、最初の頃に粗が目立ち始めました。気になりますね。改稿作業をいきなり始めたのは、そういうわけなんですよ。前にも話しましたが。そして現在、それは『恋篝Ⅰ』まで進んでいます。同時に、ここで停滞してもいます。理由は次の通り。

 私、再び書籍化の夢を追いかけ始めたと言ったじゃないですか。書籍化を目指すには作品を書かないといけないわけで、そうなると、二次創作には構ってられなくなるんですよね。どれだけ書きたくても。だから仕方なしに、改稿作業を打ち切りました。そして、本気で書籍化を目指すいまの私が、本気で文章にこだわりぬいた、そんな作品を、現在進行形で執筆しています。芸術としての美しさを文章に見出す――純文学というジャンルがありますが、それを書いています。まさに文章の美しさを追い求める私にぴったりのジャンルでしょう? 物語の内容自体は、これは、ライト文芸ですけどね。

 『鏡鑑の夏と、曼殊沙華』というタイトルです。田舎の郷愁と夏の哀愁をテーマにしました。『自分の思い描く夏』『夏休みの過ごし方』を探しに帰郷した主人公が、そこで幼馴染と再会するところから物語が始まります。夏休みの田舎町で起こる、幼馴染とのノスタルジックな純愛作品です。キャッチフレーズは、「――あの夏の眩しさだけは、覚えていた。」誰か一人くらいは、聞いたことあるかな。まずはこの作品で書籍化を目指します。ここまで綺麗な描写をする作品は、そんなに見かけないでしょう。描写だけでなく物語にもこだわっているので、二重奏を読む代わりにこちらもどうぞ。


 『鏡鑑の夏と、曼殊沙華』
https://www.alphapolis.co.jp/novel/390403841/448597798


 まぁそんなわけで、現在の私はどんなことをしているのか、少し紹介できましたかね。ぶっちゃけ二次創作もしたいのが本音ですが、二次創作ってお金になりません。『落花流水の二重奏』とか同人誌化して、それを皆さんが買ってくださるなら本当にうれしいですけど、まだ完結もしていないし。一時創作のインセンティブを得るか、ココナラなどのスキル販売サイトで依頼を集めて、うまく副業にするしかないんですよねぇ。それもこれも、いまの私の技術だからこそできるのであって。それは素直に嬉しいし依頼が来るのもありがたいですけど、けどいちばんは、書籍化したい。そして一区切りつけて、二次創作も完結させるなどしたい。色々と忙しいです。数年なんてものじゃ、ぜんぜん足りません。

 本当に二重奏が読みたくなったら、感想欄や私のTwitter(https://twitter.com/aya_shogi)にて催促ください。需要があると分かればガチで書きますので。まぁ今日は、その需要を再確認したところですけどね。『落花流水の二重奏』、週間UA数が『緋弾のアリア』二次創作(のストーリー・世界観に準拠しているもの)のなかで最も多いです。累計PV・UA数でもトップなので、本当に嬉しかったです。ありがとうございます。余裕さえあれば少しくらいは書くかもしれません。いまは忙しいけど。

 そんなこんなで、水無月彩椰でした。色々とご迷惑おかけします。けど応援してくだされば嬉しいです。またいつかお会いしましょう。その時は果たしていつになるやら……。 

 

二重奏の前奏曲 Ⅰ

──こんな世界、と嘆く者。
──面白味の無い日常、と嘆く者。
──生きる理由など無い、と嘆く者。

そんな人間が、この日本のみならず、世界各地に居る。
この世界に絶望し、生きる理由さえも無いと嘆き、にも関わらず、否、それ故に、生に渇望する者が。
平安時代……否。日本史上最強の陰陽師と謳われる安倍晴明の血を引く少年、如月彩斗も、それを感じていた。
曰く、面白味の無い、無味乾燥とした日常だと。

だから彼は、なることを決めたのだ。平凡な日常を打破し、非日常に足を踏み入れるために。……その名も、武装探偵。通称『武偵』と呼ばれる国家公務員である。
彼ら彼女らは帯銃帯刀を認められ、民間からの依頼及び数々の事案を受け持つなど、警察に準ずる活動が出来るのだ。場合によっては、『何でも屋』と揶揄されることも少なくない。

武装探偵こそが、彼が望んでいた職業。日常から一線を画した、非日常へと通ずる世界観。それを叶える為に彼は、東京武偵校への入学試験へと足を運んでいるのだ──。



◇



「──そこまで」


無機質な声色を耳に入れた俺──如月彩斗──は、即座に俯せていた顔を上げる。それとほぼ同時に、教室内の筆記音が止んだ。
壇上から降りた教官が一歩ずつ床を踏む音が響き、個々人の答案用紙を回収していく。紙の翻る乾いた音もまた、それと相まって断続的に鼓膜を震わせていった。妙な緊迫感を孕んでいた。
そんな音の重奏を背後に、俺は小さく安堵の溜息を重ねる。窓硝子から射し込む陽線を、半身に受けながら。

つい直前までやっていた筆記試験は、東京武偵校の入試問題の1つだ。『武装探偵』という国家公務員を育成する高校だからこそ──校則で帯銃帯刀を認めているとはいえ──名目上は高等学校の筆記試験なのだ。とはいえ偏差値が45に満たないのは流石に国家公務員の育成機関として如何なものかとは思うが、自分自身が望んで選んだ道だ。今更、後悔はしていない。


「よし、それじゃ──」


教官は答案用紙を全て回収し、枚数を数え終えたらしい。指先で紙の四隅を整えると、教室内の面々を見渡してから口を開いた。


「この後は実戦試験を行う。徒手格闘(CQC)形態のバトルロワイヤル──と言えば分かりやすいか。
ルールは簡単だ。全部で20階層ある試験会場にお前らを配置するから、お前たちは適当に見付けたヤツを倒せば良い。背中が床につくか、もしくは自分で投了した時点で失格だ。
んで、徒手格闘、銃剣類を主として闘え。実弾は使用不可能だ。事前に非殺傷弾(ゴムスタン)を渡しておいたハズだから、それを使うように。いいな? ……うん、よし」


「じゃあ、さっさと移動しろ」と告げた教官を横目に、俺は事前に場所を教わっていた試験会場へと向けて歩を進める。件の場所はこの建物と繋がっており、俺も含めて移動にそれほど時間は要さない。実技試験の説明を改めてその場でするようだ。その後は、個々人が指定されていた階層に配置するとのことである。


──俺は確か、5階だったかな……。


などと思い出していると、足音がしなかったにも関わらず、背中に軽く衝撃が走る。何事かと振り返ってみれば、その主は神奈川武偵中学校(カナチュー)の同期親友、遠山キンジだった。
若々しく前髪を翻しながら、その合間に、強襲に成功したような──そんな一種の満足めいた笑みを浮かべている。


「……もう、驚かせないでよ」
「何でだよ。いいだろ、これくらい」
「いいけどさぁ……」


そう告げたキンジは、年相応の悪戯っ子のようだった。というよりも、どちらかと言えば、気心知れた親友と見る方が自然だ。
仕方なしに背中の感触を拭い払いながら、「立ち話していると遅れるから、歩きながら話そうか」と付け加えて先を促す。
窓枠の隙間から硝子越しに射し込む陽線が、少し眩しかった。揃って歩き出すところに、ふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。


「それで、キンジ。どうだったの? 筆記試験は」
「いや、それなりに難しかった……気がするぞ。ある程度は頑張ったけど、一部にやられて全部は解けなかったな。彩斗は?」
「うーん、予想より簡単だった。時間が残ったから2回くらい見直しはしたけども、色んな意味でちょっと心配かな」


自分としては安易な問題構成であり、反面、キンジからすれば手を焼かれるものでもあった。勿論、好成績の方が良いというのは世間的な考えだが、果たして武偵校ではどうなのだろうか。
とりわけ強襲科の受験ともなると、その真意のほどが気になってくる。何となく、実技を重要視されている気がしたから。
とはいえ武偵校もそこまで適当ではないだろう……と思いたい。


「……まぁ、たぶん実戦試験がメインだからな。武偵校の、特に強襲科の入試は。多少頭脳面に難があっても大丈夫だろ」
「俺も同じこと思ってた。だからキンジは実戦で頑張って。応援してるよ。もう引き返せない。何せ、ここまで来たんだからね」


言い、試験会場へと続く鉄製の扉を開く。外見もさることながら、その外見を裏切ることなく、確実に重厚感を孕んでいた。
そうして視界に飛び込んできたのは、弾痕も艶かしい建設途中とも思しき廃ビル。外見は普通の建物なのに、中がこの惨状とは──何かしらの意図があるんだろうね。類推するに、屋内戦を想定して造られたとか。 よくありそうなシチュエーションだ。


「へぇ……よく出来てるね。雰囲気がある」


感心しながら周囲を見渡していると、奥にもう1人の教官の姿が見えた。防弾制服のジャケットを整えながらそこに向かう。
M500(象殺し)と名高い世界最強のリボルバーをレッグホルスターに帯銃している彼女こそが、今回の教官らしい。果たしてそんな銃を、何処で撃つ機会があるのだろうか。
俺たちとは遅れて移動してきた面々も集まり、人数確認を終えたところで──彼女の口から再度、説明が行われた。


「説明をする前に、ウチの自己紹介をしとくわ。蘭豹っちゅうモンや。ここ、東京武偵校の強襲科の顧問をやっとる。場合によっちゃ、この中で面識を持つヤツもおるんやろな。……まぁ、そんなことはええ。再度、ルール確認を行う」


蘭豹の口から告げられた説明は、事前に聞いていた通りだ。それを不備がないか、頭の中で反芻していく。試験形態は、バトルロワイヤル。目で捕捉した全員を倒せば良い。
徒手格闘(CQC)及び銃剣類を主とする。実弾は使用不可能。背中が地面につくか投了の何れかで敗北。
この後は各々割り振られた階層に移動し、試験開始のブザーを合図として動け──とのことである。

というわけだから、下手すればこれがキンジとの最後の会話になるだろう。そんな憂いを胸の何処かに抱きながら、問いかけた。


「キンジは何階層に配置されたの?」
「あー……20階だ。最上階だな」
「ってことは……会う可能性は低いね。俺は5階だから。でもまぁ、頑張ってよ。キンジとはこういう場で闘ってみたい」
「……まぁ、出来る限りはやるさ」


親友と鉢合わせすることを願いながら──そんな意図を剥き出しに剥き出して、何が何でもという意志は見せつけられたろう。
最後は「またね」とも何とも言わないまま、手を振り、或いは振り返しただけで2人はその場を離れた。お互いに武器を確認しながら、目的の階層へと向かっていくのだろう。

取り敢えず俺は、備え付けのホルスターに緩みがないか、銃や刀は装着されているか、試験前の簡易確認だけを済ましておく。
ベレッタM93Rのセーフティは外してある。マニアゴナイフも内ポケットに仕舞っている。背に隠匿してある日本刀にも、手抜かりは無い──銘は『大刀契(だいとうけい)《緋想》』。


「……うん、大丈夫だね」


おまじないのように呟いた言葉は、不思議な作用のようで、高鳴っていた胸の鼓動を幾分か治めてくれた。この流れを逃しては負ける。そう思ったからには、勝ち続けなければならない。
自分の納得する結果で終わらせられることを、願っていた。


『それでは、CQC形態バトルロワイヤル──始めッ!!』


蘭豹の声が、ノイズ混じりの放送で一帯に響き渡った。

 
 

 
後書き
皆様、初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。彩椰と申します。

かなり長い(無断)休載期間を経て、ようやく私はこの地に戻って参りました。皆様どうもお久しぶりです。(2度目)

緋アリ前作と比べても分かる通り、格段に文章力は向上しております。まぁ、前作は素人(以前の私)が書いた処女作ですので。

紆余曲折を経て、こうして連載開始と相成ったワケですが──実は、今作。前作の如月彩斗くんを、このまま引き継いでいきました。 言うなれば、前作の改稿版です。

……いやもう、我が子が可愛い。アリアも可愛い。
そんな私の想いを、この《二重奏》という作品から読み取っていただければと思います。

是非とも、評価や感想をお待ちしております。気が向いた方はいれてくださいな。原動力になります。(笑)
それでは、次回をお楽しみに! 

 

二重奏の前奏曲 Ⅱ

さて──とベレッタを抜きながら、傍から見れば執拗なまでに──周辺を確認する。悲鳴や怒号が既に聞こえているあたり、噂に聞いてはいたが、やはり武偵校の受験志望者というのは真面な人間がいないようだ。血気盛ん、とでもいえばいいのか。かといって、こんな学校に進学したいという自分も自分だが……。

呆れを吐く暇もなく、右側から足音が響いてくる。コンクリート製の建物であるが故に、物音は反響しやすいのだ。ましてや足音となれば、これが実戦なら致命傷にさえ相当するだろう。
しかし、足音を消さずに来るとは余程の素人なのか。仮に武偵中学生としても、その基本くらいは教わってそうなものだが。


──訝しみ、視線を向ける。


ナイフ片手に駆けてくるのは、1人の男子生徒。見るからに自分よりも体格が良く、徒手格闘ではこちらが不利だろう。
牽制の意図を込めながら、俺はクイックドローしたベレッタの引き金を引いて9ミリ弾(ルガー)を彼の足元へ撃ち込む。
それは予測済みだったのか、彼は着弾する前に身体の軸の向きを変えて避けた。そうして、脚力を存分に発揮して──


「っ、はぁっ!!」


──俺の足元から、逆袈裟にサバイバルナイフを振りかぶる。動向を窺うに当たれば御の字、避けられても捨て身の連続攻撃、といったところか。こういった相手は非常に短絡的な印象がある。


「それで奇襲のつもりかい」


彼が狙っていたのは、銃を握る根本──手首だった。実に教科書にも載る、お手本通りといえばその通りだ。理由も、やはり教科書譲りの内容なのだろう。悪くはないけどね、と付け加える。
しかし、しかし──だ。狙いが一辺倒ならば、それ故に、付け入る隙が生まれる。その僅かな隙を突いた者が勝つのだ。

とある将棋棋士の言葉を、ふと思い出した。
『勝つのは1点差でいい。5点も10点も大差をつけて勝つ必要はない』『剣豪同士が斬り合っているとして、切っ先を見切るという言葉がある。相手の刃が近くても、達人から見れば1ミリでも躱していれば大丈夫なのだ』
実に実戦的な言葉だと、そう思った。

──振りかぶられたナイフを、足を半歩引いて避ける。
攻撃が通れば御の字だという予想はやはり、当たっていたのだろう。彼はそのまま流れるように、またその刃を向けてくる。幾度も器用に振りかぶられる手首の動きは、実に隙が生じていた。

躱される攻めに痺れを切らしたらしい彼は、これで決めると言わんばかりに脚力を溜め、大きく逆袈裟に踏み込んだ。
悪手は咎められなければ悪手ではない──持ち手を足場に、俺は渾身の月面宙返り(サマーソルト)を放ってやる。爪先に鈍い感触を感じるのも一瞬のことで、着地して体勢を整えた俺の眼前には、脳震盪を起こして気絶しかけている男子生徒がいた。

ものの見事に背中がついているので、試験官の言に従えば、これはどう言おうと失格だ。戦闘に私情が混じると宜しくないことも、知識が教科書通りなら教わっていたはずなのだけれど……。
軽くジャケットの襟を整えながら、俺はまた周囲を見渡す。同期親友に間見えることだけを願いながら、銃を構えた。



◇



9階層。俺は何とか、ここに来るまでの間に出会った面々を倒しきることが出来た。皆が皆、特筆して強いというわけではない。全員何かしらの弱点や隙があり、とはいえここまで来れたのはそれを上手く利用させてもらったおかげだ。 一部は階層を制覇した人間なのに、この程度の力量か──と疑問に思うほどには。

そんな疑問を頭の片隅に置きながら、俺は忍び足(スニーキング)で金属製の階段を上り、10階層への移動を試みる。
その入口付近まで来た時、マニアゴナイフを内ポケットから取り出した。武器というのもあるが──刀身を鏡にして周囲の状況を確認することが出来るこの武器は、非常に使い勝手が良い。

片手にはベレッタ。片手にはナイフ。ガン・エッジと呼称されるこの構えは、非常に攻撃的なことで知られている。
武偵中で培った知識を反芻しつつ、俺は背を壁に預けて刀身を鏡にし、息を潜めながらそっと先の様子を窺った。止めようにも止めることの出来ない拍動の音が、どうにも煩わしい。

そうして、瞳は他者の存在を視認した。刀身の澄んだ光の中にしっかりと視認出来た後ろ姿は、まさに巨漢と形容すべきか。最初の彼氏とは似もつかない、正真正銘の巨漢(おおおとこ)だ。
傍らには、男子生徒が苦悶の声を漏らしつつ横たわっている。その男子生徒も彼ほどではないが、かなり体格が良いはずなのだが──これは少しばかり、手強いかもしれないね。

咽喉の奥から声にも鳴らない声が、洩れた。息を呑んだ音なのか、僅かに物怖じしたその心情が、現れたのか。そんなことを自覚している間には、既に拍動は120ほどを打っていた。
逡巡しているその一刹那に巨漢は何か感じるものを感じ得たのか、身体をこちらに向け──足音を殺して歩いてくる。

咄嗟にナイフを引っ込めたが、これはもう9割ほどの確率で見られたと思っていいだろう。周囲は廃ビルの雰囲気を醸成させているほどの建築様相──日光の射し込む隙は、幾らでもある。
現に俺が立っている階段付近も、天窓として窓硝子がはめ込まれていた。それがナイフに反射しないはずが、ないのだ。

足音こそ聞こえないものの、その気配は一呼吸ごとに倍加されていく。全身から横溢する気を隠そうともしていない。
さながら獰猛な肉食獣のようで、扱いを間違えれば、それこそ一瞬で終わる。そんな相手だと思っておかなかれば、負ける。


「──いるんだろ。コソコソ隠れてないでさっさと出てこい」


一帯に響き渡ったのは、巨漢の声だった。獰猛性をその裡面に孕んでいて、やはり闘志を横溢させていた。音の反響から考えると、自分と彼との距離は相対して5メートルといったところか。


「……そう、簡単にはいかないか」


そう嘆息して、警戒は怠らないまま、ベレッタとマニアゴナイフを構えながら室内へと飛び出す。その隙に攻撃されうる可能性も予期しておいたが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
しかし、その別──彼を視界に入れた刹那に、喫緊としか表しようのない空気が、この一帯を覆っていく。
彼氏本人の持つ、闘志と裡面に孕んだ獰猛性。その巨躯が、否が応にも訴えかけてくる威圧感。それらに圧倒されかけていた。

ここで負けるわけにはいかないのだ、と自身を鼓舞する。眼光炯炯と彼を見据えた俺の姿は、彼の瞳にはどう映っているだろう。……それが虚勢に見えていようものなら、無論、彼の誤想だが。


「……ほう」


5メートルの距離を置いて、俺と彼とは対峙している。合間の虚空にはまだ、不可視の壁があるように思えた。
その間に何やら嘆息したような声色を漏らした彼の顔色を、その真意を推し量るために、凝視するともなく凝視してみる。
そうして、気が付いた。この男は、受験生ではないことに。

薄灰色の織り成す四面は、ここに射し込む陽線以外には、周囲を暗々とさせていた。そのせいで、彼の顔付きの詳細に気が付きにくかったのだ。むしろ、他方、あの巨躯に気を取られていた。
1度気が付いてしまうと、面白いほどに鮮明に分かる。頬あたりにある傷跡は、彼の肌の調子を悪しく見せていた。目元や口元に浮かぶ皺まで見澄ますと、あらかたの年齢が予想できる。


「……まさか、成人がここに混じってたとはね」


おおよそ30代後半と思しき巨漢は、その時点で武偵校への受験生ではない。 ともすれば、試験官の1人と考えるのが賢明だろう。陰から受験生の動向を窺っていて、実値にほど近しい評価の裁量を付けるための隠匿と推論すれば、荒唐無稽ではない。
その旨を端的に告げてみせれば、試験官の返答は実に抽象的だった。しかし中立的に見えて、それを僅かに肯定している。


「……言えることは、ただ1つ。『選別』ということだけだ」


やっぱりね──胸中でそう笑んだ一刹那の隙に、巨躯の彼は巨躯ならではの脚力でこちらの懐まで飛び込んでくる。焦燥する暇すら無かった。ただ視界に入ってきたその動きを見れば、そのまま俺の鳩尾に掌底を叩き込もうとしているのだけは、分かる。
しかし、理解(わか)るだけでは意味が無いことは、自分がいちばん知っていた。一瞬の奇襲に反応すら出来なかった俺は、それを直に喰らい──数メートル後ろの壁まで吹き飛ばされる。


「……っ、かはっ……!」


やられた。呼吸が、出来ない。いや、今は呼吸が云々よりも他のことだ。受け身すらとれずに壁に打ち付けられたのだから──。
こんな状況下だろうと即座に身の安全を確認する。骨折や内臓損傷は幸いにも無さそうだ。一時は止められた呼吸などは、その後の次第でどうにでも出来る。やるしかない。
身体は朦朧とする意識の中でよろめきながらも立ち上がり、そのままナイフを仕舞ってから、《緋想》を抜いた。

──刹那、知覚の全てが、さながら《緋想》の刀身の如く、明瞭に感じられた。研ぎ澄まされた、視覚、聴覚、嗅覚。一点の汚れすら存在しない、冷酷なほどに澄んだ、明瞭世界。
《緋想》によって創られたこの世界の名を、『明鏡止水』と呼ぶ。……否。《緋想》をトリガーとして、という方が正解か。


「よく立ったな。今までの奴等は、これでブッ倒れた」


言い終えるが速いか、彼はそのまま、僅か数歩の脚力のみで俺の懐へと潜り込む。《明鏡止水》の動体視力が捉えた巨躯は、中国武術の発勁(はっけい)の構えをとった。狙いはまた、鳩尾。今度こそ決める気でいるのだろう。だからこそ──、


──流石に、速い。


そう嘆息した瞬きの刹那、視界は明瞭なスーパースローの世界へと変わっていく。《明鏡止水》だから成し得る、俺だけの世界。止水とも、或いは緩りと流れゆく流水の如く、時は流れていく。

瞬時にベレッタを収めた俺は、逆手で《緋想》を薙ぎつつ、最初の彼のように巨躯のその手を踏み台にして、月面宙返りを叩き込む。しかし、それが反応出来ないワケじゃないだろう。
素性の詳細など分からないが、この男が腐っても武偵校の職員ともなれば、《《普段の》》俺なんかが余裕で勝てるような相手じゃないはずだ。それほどの能力を、彼は有している。


「ハッ、動きが遅せェなぁ。さっき立ったのはマグレか?」


彼は俺を嘲笑いながら、蹴り上げた足を片手で楽々と受け止める。横薙ぎに振るった《緋想》も、手の動きそのものを止められた。しかしその驚くべきは、刀身は彼の瞼の寸前を掠め切っていたことで、防御のタイミングを少しでも間違えれば、紅血に視界を染められていたことだろう。『──相手の刃が近くても、達人から見れば、1ミリでも躱していれば大丈夫なのだ』


「……凄ェのが来たと思ったが、この程度か。残念」


宙吊りの姿勢を余儀なくされた俺は、脳髄のあたりまで登ってきた血液の流れを感じていた。炯々と闘志だけを横溢させて、彼の瞳を睨み付けるふりをした──そうして勝ち誇ったように呟いた巨躯を目掛け、「それはどちらの台詞なんだろうね?」と笑む。

──刹那。轟音を伴って、周囲の塵埃が舞い上がる。それは持てるべく脚力を存分に発揮した成果であり、彼の者を屠るべき一撃であり、そして何より、《明鏡止水》の恩恵でもあった。
敢えて攻撃の手を弛めて宙吊りにされたのも、相手の油断を誘ったのも、この隙を咎めるための読みだったのだから。

視線は的のような巨漢の額を目掛け、幸便に踏みしめたコンクリート製の天井を踏み台に発勁(はっけい)を叩き込んだ。
いつの間に形勢が逆転したのか──その事実に驚愕に目を見開いた彼の顔が、面白くて堪らない。直後、その巨躯が後ろ向きに傾いた。緩んだ足の感触を振り払い、1回転して着地する。
鉄崩れや地響きとも紛うような余韻が、ただ響いていた。


「……やー、危なかった」


小声で呟き、さて一息吐こうと安堵する。そうした束の間に、3連バーストの銃撃音を《明鏡止水》の聴覚が捉えた。
恐らく横薙ぎに、俺の頭部を狙った射撃。容赦ないね ──と思いながら、クイックドローしたベレッタの銃弾とあちらの銃弾とを、持てるべく動体視力を駆使して相殺する。《明鏡止水》の今だからこそ成し得る芸当で、平生ならばやられていたろう。

1つにも聞こえそうな微細な金属音は、この四面のコンクリートと空気とに融けていった。あとは抉られたコンクリートの悲鳴が洩れたくらいで、塵芥と陽光とが周囲を覆っている。
そんな中に現れた来訪人の姿を、俺は視界に留めた。


「……ご親友のお出ましか。ご苦労さま」


◇


言葉の端々に隠し切れない笑みを浮かべながら、彩斗はキンジに告げた。まさか本当に、こうして再会するとは思っていなかったのだろう。愉楽の見え隠れするあたりが、いかにも彼らしいなとキンジは胸中で笑む。互いに銃口を向け会いながらも、少なからず、この可能性の低い再会を喜んでいた。


「まさか本当に彩斗と手合わせることになるとはな。ここまで来て言うことでもないが……出来ればやり合いたくない気分だ。《明鏡止水》の彩斗とは、特にな。気が乗らない」
「その言葉、そっくり返していい? 普段(・・)のキンジが最上階からここまで来れるとは考え難いんだ。そして、直前の頭部への正確な射撃。あれが出来る今の状態は──HSSに他ならないね。……どうやら思い返せば、筆記試験後に廊下で出会った時から、なっていたみたいだけれども」


お互いにお互いの明白な変化に気が付いていた。キンジは苦笑を、彩斗は微笑をたたえながら、やはり再会の愉楽というものを全面に横溢させている。2人の間に、闘志は殆ど見えなかった。

そうして、HSS──正式名称、ヒステリア・サヴァン・シンドローム。これこそがキンジが持つ特異体質で、遺伝系の精神疾患となる。性的興奮を引き金として発動され、それと同時に脳内のβエンドルフィンが過剰分泌されることにより、常人のおよそ30倍の身体能力を引き出すことが出来るのだ。

つまり、意図して行ったというわけではないにしても──キンジの身に《《そういうこと》》は起こってしまったこととなる。彼はそのことを今となっては感謝していた。

対して彩斗の《明鏡止水》は、《緋想》を抜刀した時のみに発動される。《緋想》は妖刀と呼ばれる中でも封印刀の一種であり、それが抜刀された時は、《明鏡止水》の解放と彩斗自身が持つ《《陰陽術》》の増強を意味していた。如月彩斗の始祖である平安時代の陰陽師──安倍晴明から代々と継がれてきた業(わざ)だ。

彩斗自身が元来持っている能力に、《明鏡止水》が付与される。キンジ自身が元来持っている能力に、HSSの加護が降る。
自分自身でその恩恵を理解しているからこそ、キンジは彩斗と交えたくはないのだ。相手の強さというものを知っているから。


「安心していいよ、キンジ。今なら合格は確実だ。だから存分に負けていい。それは認めるから。ね?」
「ちょっと待て、何で闘う前提で話を進めてるんだ」
「えー、やらないの?」
「……出来ればやりたくねぇって言ってるだろ」


軽口を叩く彩斗は、この状況を素直に楽しんでいるようにキンジには見えた。何度目かの遣り取りの後に、溜息を重ねる。
やれやれと天井を仰ぎ見た時、陽光を反射する何かが彼の視界の端で姿を見せた。果たして彩斗は気付いているだろうか。
あぁ──やっぱり、闘わなくちゃならないかもな。嫌でも。
気の進まないままに、キンジはそれを指差してみる。


「なぁ、彩斗。俺は今まで気が付いてなかったが、お前は気付いてるか? ……各所の監視カメラだ。恐らくだがあれで監視してるんだろうな。俺たちのことを。まぁ、レプリカかもしれないが」
「……ふぅん、本当だ。力量があっても、態度によっては不合格ってことも有り得るのかな。じゃあ──始めようかしら」


天井を見渡しながら、彩斗は軽率に告げた。そして間髪入れずにべレッタの引き金を引くと、キンジの頭部目掛けて発砲する。
キンジにとっては平生の致命傷でも、今となってはHSSの動体視力の加護がある。その軌道は、視えていた。
上体を反らすことで避けることは容易い、そうしたら起き上がった反動でフルオート射撃をお見舞いしてやろうと思ったのだが──ここまでは容易にはいかないらしいな、と眉を顰めた。

いつの間にかキンジの懐にまで肉薄し、背を屈めた彩斗は《緋想》を逆袈裟に振りかぶってくる。「身体を起こしたら、そのまま斬るぞ──」と言わんばかりに。
仕方なくそれを宙返りで避け、当たれば御の字と顎目掛けて蹴りを放つ。感触が感じられないことを確認しながら着地したキンジは、銃口を彩斗の防弾制服へと向けて引き金を引いた。

右螺旋状に回転する銃弾は、その軌道のために虚空を斬り裂いていく。彩斗はそれを易々と《緋想》で両断すると、また攻勢に回ってキンジへとその刀身を向けてきた。

銃弾を一瞬で真っ二つにするなんて──!
改めてキンジは《緋想》そのものの能力に嘆息させられた。このままでは彩斗に銃は効かない。そう判断すると即座にバタフライナイフを開き、せめてもと鍔迫り合いに持ち込む。散った火花がこの空虚に融けるまでが、やけに長く感じられた。


──フルオートで焚かれたマズルフラッシュは、ほんの一瞬で。


銃口から放たれていく銃弾は、全て彩斗の頭部を目掛けて飛来していく。キンジの方が、僅かの差で発砲するのが早かったのだ。
しかし、これは──どうやって対処する? 避けようがないぞ。
相手の動向を窺うしかない。そんな自分の思考力に嘆きながらも、キンジは意識を彩斗に傾注させている。

彩斗は視線を迫り来る銃弾に固定したまま、微動だにしない。その理由が陰陽術だと、キンジには分かってしまっていた。
視線の固定は、範囲の選択。それさえ済ませれば、あとは任意のタイミングで《境界》の展開が可能になる──。

紡錘形として展開されたそれは、銃口から放たれた銃弾をただひたすらに吸い込んでいく。時空間移動術の一種。この境界は時空を繋ぐ働きを持っているらしく、物体の移動手段として最適なのだと──以前に彩斗が言っていたことをキンジは思い出す。しかも、物体にかかったエネルギーは潰えることがないのだから、今回に至っては恨めしい。そんな悪態も、胸の内に吐いた。


「……こんなものかな」


小さく瞬き、何事かを呟いた彩斗はキンジと距離をとりながら片腕を掲げる。刹那、2人の間に存在していた境界が消え、彩斗自身の背後に扇状の境界として再度展開させた。そこから放たれていくのは、キンジが先程発砲した、数多の銃弾。

彩斗はそれを己が手駒にし、攻撃手段へと変えたのだ。敵の攻撃手段を無効化し、自分の攻撃手段として成り変わらせる──それこそ将棋の持ち駒にも似た、最も理想的な方法で。
キンジは耳元に何かが通過する音を聞いた。それが銃弾が飛来した音だと気が付いたのは、ほんの一刹那の後になる。


──試験終了を知らせるブザーの音が、一帯に鳴り響いた。



◇



・如月彩斗:強襲科入試試験、Sランク合格
・遠山キンジ:強襲科入試試験、Sランク合格
 
 

 
後書き
本作がお気に召されたのなら、是非とも評価等を宜しくお願い致します。m(_ _)m 

 

災厄の前兆

朝食を作っている最中の自分──如月彩斗──の耳に、聞き覚えのある慎ましやかなチャイムの音が届いた。壁掛け時計を一瞥すると、時刻は既に7時と少しを回っている。
それにしても、早々にわざわざ赴いてくるその来訪人とは、いったい誰だろうね──思案する中に思い当たる節は、そのチャイムの鳴らし方から類推するには、たった1人だけだった。


「はぁーい、少しお待ちを……」


その声が外まで届いているかは定かではない。ともかくはガスコンロの火を消してから、《境界》を開こうと虚空を凝視する。その刹那に開かれた紡錘形を経由して玄関前まで至った。
先程のチャイムの鳴らし方には、癖がある。来訪人の性格と癖とが上手く合致していて、かつ聞き覚えのある音であるからして、来訪人はやはり彼女だろうと俺は結論を出した。

握り締めたドアノブは、時期とは関係なしに少し柔らかな冷気を帯びていた。
扉を開けると、爛々と春陽が降りかかる。そうして、その春陽に元から降られていたらしい来訪人の少女は、自分と視線が合うなり慇懃に頭を下げた。


「あっ、あっくん。おはようございます。ところで、キンちゃんは……その……まだ寝てるのかな?」
「やっぱり白雪か。おはよう。キンジはそろそろ起こそうと思ってたところなんだけど……早々にどうしたの? 何かご入用?」


腰まで黒髪を伸ばしている、少女であり来訪人でもある星伽白雪は──自分の同居人、遠山キンジの幼馴染だ。キンジの親友である『あっくん』こと自分ともその縁で繋がりを持っている。
生家は青森の由緒ある神社で、何とも宜しいお家柄の長女だそうだ。今は武偵校の制服を羽織っているが、たまに見かける巫女装束の彼女は、そうした活動の一環を進行させているのだろう。


「えっと、ねぇ……お御飯、作ってきたの」
「お御飯、を?」


満面の笑みをほころばせて、白雪は快活に答えた。華奢な両手にしっかりと握り締めている風呂敷包みの中に、どうやらそのお御飯があるらしい。もしや、昨日あたりから準備していた……?


「最近、2人にお料理とかしてあげられなかったから。これから武偵校の始業式だし、年度の始めのお祝いにも良いかなぁっ? って思ったの。もしかして、迷惑だった……?」
「いやいや、むしろ感謝してる。本当にありがとうね。取り敢えずキンジを起こしてくるから、先に上がってて」
「あっ、はい! それじゃあ、お邪魔します」


風呂敷包みを大事そうに抱えつつ白雪はまた小さく頭を下げて、取り敢えずは玄関先から廊下にまで歩を進めた。自分やキンジよりも先にリビングに赴くのは失礼だと思ったのだろうか。
改めて白雪の育ちの良さに感心させられながら、玄関に最も近い部屋──キンジの寝室へと入り込む。窓硝子から射し込む春陽が、如何にも心地の良さそうな朝を演出していた。


「さて……」


心地の良さそうな朝に加えて、さぞ心地の良さそうな寝顔を見せている同居人は、一向に起床の気配を感じさせなかった。あと10秒して起きなかったら無理やり起こそうかな……などと考えているうちに、既に10秒は過ぎている。胸の内で軽く謝っておいてから、右脚を大きく振りかぶった。


「さっさと起きて。来てるよ、君の幼馴染」
「だから、って……それはない、だろ……!」


蹴り落とされた腹部を片手で押さえながら、どうやらキンジはこの疼痛に耐えかねているらしかった。眉を顰めているのが恨めしげな表情にも思えたが、単に睡魔と闘っているだけだろう。
……どちらにせよ武偵校で殴る蹴るは日常茶飯事だし、そもそも来訪人が来たのに、起床の気配すら見せないのが悪いのだ。


「十中八九、キンジ目当ての幼馴染が来たのにさぁ……。そうでなくても、来訪人が来た時点で起きなかったのが悪い。目的は俺かキンジかのどちらかなんだから、せめて起きようよ。これは致し方なしの制裁ってことにしておくから。ね? 分かったらさっさと起きてください。早く来てね。白雪が待ってるよ」


言いたいことは言うだけ言った──胸の内につっかえていた靄も、どうやら消え去ったみたいで安心したね。
キンジの寝室を抜けると、そこには白雪が所在なさげに呆然としていた。さては、事の終始を聞いていたのだろうか。……申し訳ないのは、どう考えてもこちら側なのだけれど。


「……悪いね。取り敢えずは上がっておくれ」



◇



「「いただきます」」
「お粗末なものだけど、良かったら召し上がって」


来訪人の白雪を招き入れ、キンジも素直に起きてきたところ──自分が途中まで作っていた朝食は、白雪のお御飯のせいと言おうかおかげと言おうか、余り物として保存されることとなった。
リビングのテーブルに所狭しと並べられた重箱の中身は、まさに豪華絢爛とも呼べるものだ。白雪が作ったとは分かるものの、まぁ流石に、ここまでくると朝食のレベルではない。

何で伊勢海老とタラバ蟹がメインで入ってるの。というか、その他も高級食材ばっかりじゃない。流石にこれを朝食として食べるのは惜しい気がする。せめてお夕食にしません……?
──という感情は、自分もキンジも同じらしかった。


「……いいのか、これ。本当に食べちゃって」
「勿論ですっ。そのために作ったんだよ?」
「悪いな、白雪。ありがとう」
「そんな……えへへー」


キンジと白雪は、やはり幼馴染なのだ。会話の遣り取りの端々に、本当に気心知れた、ある種のらしさが見え隠れしている。特にキンジは女子と関わることが少ない。そんな中で白雪と仲良くしているというのは、とても喜ばしいことだった。

2人の会話を聞きながら、或いは箸を進めながら、ふとテレビをつけてみる。ニュース番組の司会とコメンテーターが議題として発してきた内容は、先日に起きた『武偵殺し』に関してのものだった。現在進行形で、その説明が行われている。


『そもそも武偵殺しというのはですね、その名前からも分かる通り、武偵をターゲットにするんです。民間人を狙わず、武偵を。言わば、武偵に限られた無差別事件なんですね。手口も極めて悪質です。まずは所有している車両などに爆弾を仕掛けて自由を拘束した後に、次に短機関銃付きのラジコンヘリで追い回し、最終的には海に突き落とすというんです。どうです、悪質でしょう。……ね、そうでしょう。うんうん。といっても、まぁ、既に逮捕は行われたので──』


自称武偵庁の人間だというコメンテーターは、言葉の端々に畏怖と憤慨とを滲ませている。被害者に対する同情も見せていた。そして最後には──『動機も手口も悪辣で極めて許し難い。ともかくは法に則って処置を』と発言して、CMに移行する。

武偵庁の声明は、世に居る武偵の代表として考えて良い。武偵庁の怒りは、世の武偵の怒りにも、通ずるのだ。現に武偵校でも『武偵殺しの模倣犯には気を付けろ』との注意喚起が行われているのだから、見過ごせる内容ではない。
犯人が逮捕されてもなお、模倣犯を警戒しなければならなかった。先行きが不安だねぇ……と零したのを、2人が聞いていたかは分からない。ただ、朝食を終えて立ち上がった自分と、まだ箸を進めているキンジの両人へと、白雪は注意を投げかけてきた。


「あの……あっくんもキンちゃんも、気を付けてね。武偵殺しの模倣犯。何かあったら困るから、一応忠告はしておきます」
「うん、ありがとう。気を付けてはおくね」


自分とキンジを交互に見渡して、白雪は物憂げに告げた。とはいえ……彼女の方が心配だ。何しろ女子なのだし、武偵殺しの性別がどうであろうと狙われる可能性は十二分にある。
動機が無差別というのも意図が読めないけれども──どちらにせよそれを分かっていて、なお心配をしてくれるあたり、本当に星伽白雪という子の性格に敬服させられるね。


「白雪も気を付けて。……動機が無差別とはいえ、女子だから。何かあったら、すぐキンジに頼った方がいい」


それだけ言い終えると、リビングを出て自室に向かう。クローゼットから取り出した制服を羽織り、愛銃のベレッタM93Rと父の形見のデザートイーグルを、予備弾倉があるかも確認してから帯銃する。マニアゴナイフも内ポケットに仕舞った。そして、大刀契──《緋想》──を背に隠匿する。

そんなこんなで身なりを整えたり色々していたら、準備に数十分を要し、登校まで残り1分ほどという時間になった。そろそろかな……と緩慢に背伸びしていると、ふと扉の向こうから掛けられた控えめな声色が気になったので視線を向ける。


「じゃあ、先に学校に行ってるね。あっくんも気を付けてね」
「うん、ありがとう。行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」


適当に白雪を見送ってから、さて──と意気込んで立ち上がる。手提げ鞄を手にリビングまで向かうと、ちょうどキンジが制服のジャケットを羽織っていた。準備が済んだらしい。


「準備、終わった?」
「あぁ、バッチリだ。彩斗は?」
「うん、こっちも大丈夫」


軽く一言二言くらいを交わして、最後に身なりと持ち物を確認した。視線は流れるように腕時計の文字盤を見ながら告ぐ。


「そろそろ行くよ。バスの時間に間に合わなく──あれっ?」
「……どうした、彩斗」


腕時計を見ながらそう呟いた声は、自分が思っている以上に間抜けな声をしていたことだろう。文字盤が指し示していたのは、7時58分。バスの発車時刻より、1分遅れているのだ。
キンジもそれを察したのだろうか。壁掛け時計を一瞥し、そして、自分の着けている腕時計の文字盤を凝視した。


「……まさかこの一言二言でバスに遅れた、のか?」
「……らしいね。信じたくないけど」


そうして2人の間に、静寂か何かが漂い始めてきた気がした。途端に想起した煩わしさみたいな、そんな空気も、また。


「……まぁ、別にいいか。キンジだって長ったらしい始業式に参加したくないでしょ? だから、敢えて《境界》も使わないことにする。遅刻したらしたで、たまにはゆっくり行こうよ」
「それは……もういいや。そうするか」
「うん、決まりだね」


まさか初日から、のんびりゆったりスローライフ登校をすることになるとは、思っていなかったけれど。 
 

 
後書き
──運命の歯車は、廻り出す。

(宜しければ、お気に入りや評価等宜しくお願い致します。歓喜乱舞してタンスの角に小指をぶつけた後、モチベが上がります) 

 

最悪と災厄

久々の自転車通学は、ある種の青春感を胸の内に抱かせていた。半身に受ける春陽と頬を撫でる春風とが、実に心地よい。まさに始業式に相応しいのどかな朝だね──と併走して走るキンジに問いかけてみせると、快活な返答を受け取った。

居住区である第3男子寮から自転車を走らせ、近所のコンビニやレンタルビデオ屋の前を通っていく。更には台場のモノレール駅の下を潜り、その向こうに見えたのは東京湾と数々のビル群。
空には雲ひとつ浮かんでいなかった。ただ春らしい朧気が、群青と紫金の階調を覆い尽くしている。陽光はその朧気の中を掻い潜って、誰に振るともなく地表に降り立っていた。

その地表、自分たちの通っている東京武偵校は、レインボーブリッジの南に浮かぶ南北およそ2km、東西500mの人工浮島(メガフロート)の上にある。学園島と称されたこの人工浮島は、武装探偵──通称、『武偵』を育成する総合教育機関だ。

武偵とは凶悪化する犯罪に対抗して新設された国際資格で、武偵免許を持っている者ならば武装を許可され、逮捕権を有するなど、警察に準ずる活動が出来る。しかし警察と違うのは金で動き、武偵法の許す範囲内なら何をしてもいいということ。それこそ荒っぽい仕事でも、下らない仕事でも。言い方を変えるならば、『便利屋』と揶揄されることも少なくない。
 
そして、この東京武偵校には一般高校にある一般科目(ノルマーレ)に加え、武偵活動に関わる科目を履修できる。
専門科目にもいろいろあるけれど、今、横を通りすぎた建物が探偵科(インケスタ)棟だったかな。主に古式ゆかしい探偵術や推理学を学ぶ科目で、今のキンジが在籍している学科だ。
その向こうに通信科(コネクト)、鑑識科(レピア)、強襲科(アサルト)と続く。通称『明日無き学科』こそ、自分と去年までのキンジが在籍している、或いはしていた学科である。
 
そんな強襲科の学科棟が見えてきたところで、不意に後ろから声が聞こえてきた。キンジではない。聞き覚えの無い声だった。何なら、人間ではなさそうだ。抑揚の無い機械音声と形容すればいいのだろうか。所謂、流行りのボイスロイドというやつだろう。


『その チャリには 爆弾が 仕掛けて あり やがります』


爆弾とは、朝からこれまた面白い冗談だ。このご時世、ろくに爆弾なんて手に入れられるのは、武偵や警察くらいだしね。一般人でも作ろうと思えば作れるけど、そんな馬鹿なやつは居ない──そう嘲笑しながら、キンジと揃って後ろを振り返ってみた。


「ねぇキンジ。何だろ、これ」
「……セグウェイ、か? ついてきてるな」


キンジの言う通り、その声の発信源と思しき無人のセグウェイが、俺たちの後ろに追走してきていた。遠隔操作──通信系の類のようで、セグウェイにも周囲にも人影は見られない。
そしてよくよく観察してみると、ある異変に気が付いた。


「キンジ、あれ見て。銃」
「UZIか。……こりゃ面倒だな」


無人セグウェイの人が乗るべき場所には、何の目的かUZIが取付けられていた。傍らには小型スピーカーも見受けられる。つい先刻のボイスロイドの音声は、そこから出力されたのだろう。
そんな珍妙なセグウェイが、自分たちの自転車2台と全く同じ軌道で、2基とも追走してくる……さぞかし珍妙な光景だろう。


『チャリを 降りやがったり 減速 させやがると 爆発 しやがります』


文節ごとに区切ったような拙い音声をしていた。
にしても……音声だけの珍妙セグウェイなら、どれほど良かったことか。セグウェイだけならまだしも、そこにUZIを取付けるあたり──これにはもう、殺意しか感じられない。 UZIという短機関銃を選択したところにも、それが垣間見えていた。

そもそもUZIというのはイスラエルのIMI社の傑作品と言われている。秒間に10発もの銃弾を発射できる、かなり集弾性が高い、近距離特化型の短機関銃として名を馳せていた。武偵校の中にも愛用者は少なくない。それほどの能力があるのだ。

自分もキンジも、置かれたこの状況を理解しすぎるほどに理解していた。そうして、どれほど身動きの取りにくい、不利な状況下に置かれているか──というのも、また理解している。


「何の悪戯だよ、これッ!」
「怒鳴り散らしても無駄だよ。どうせ操縦者はこの辺りには居ないだろうから。仮に何処かで聞いていたとしても、この行為に愉悦感を与えるだけでしょう。キンジも武偵なら冷静に対処しなさい。探偵科に移動してその能力が鈍ったとは言わせないよ」
「冷静に、って……どうしろってんだ」


そこまで言うんなら対処方法はあるんだろうな──そう言いたげなキンジの視線を受けて、小さく頭を振る。「いいかい、まずは状況の分析だよ」と切り出した。


「──サドルの裏、触ってみて。……分かる? プラスチック製のケースだとは思うけれども、これが爆弾だろうね。ご丁寧なことに、ここにもキンジの自転車にも付けられてる。このセグウェイと爆弾とを結びつければ、武偵殺しの模倣犯と考えるのが賢明かな」


「まさか本当に、こうして間見えるとは思ってなかったけどね」そう言って零した笑みを自分で反芻してみると、磊落なそれにも、苦笑にも思えた。キンジは前者に捉えたのだろうか。「笑ってる場合じゃねぇだろ!」などと自分に向かって怒鳴りかけるくらいには、やはり焦燥していた。


「対処方法は考えてるから少し辛抱して。決して速度の増減をしないように。平静を保ってね。いいかい? ……よし」


キンジに向けたその忠告は、勿論、自分にも向けている。打開策を見付けたのにミスをして爆死なんて、御免蒙りたいからね。
幾つか思い付いた中から最も確実なものを選択し、ある程度のシミュレーションを試みている、途中──唐突にキンジが虚空を指差し、何事かを叫び出した。瞼を細めて凝視する。


「彩斗、あれ見ろ! あそこの──武偵校の女子寮の屋上だッ」
「んー……。女の子? 奇抜な風貌だけど、初見だね」


細まった視界に飛び込んできたのは、女子寮の屋上の縁に立つ1人の少女だった。ピンク色の髪をして、その髪をツインテールに束ねている。焦点が合ったのか遠目にもよく見えた。迷いなく屋上のその縁に足を掛けた彼女は、どうやらあの高さから飛び降りようとしているらしい。

何故──と訝しむ暇さえ与えず、少女は虚空に身を踊らせる。そのまま自由落下するかと思われた彼女の後を追尾するように、滞空準備させてあったらしいパラグライダーを空に広げていった。髪と制服とを靡かせ、彼女は果たして何処に向かうのか──という考えが脳裏に過ぎる。その滑空速度もまた、異様だった。


「まさか──」


あの速度と軌道は、間違いない。こちら側に接近してきている。その距離が、目測で僅か十数メートルほどになった。このままだと衝突の危険があると察したらしいキンジは、少女へと叫ぶ。
 

「危ないから来るな! この自転車には爆弾が──うわっ!」


少女は気流を上手く掴んでパラグライダーの方向転換を図ると、左右のレッグホルスターから2丁の大型拳銃を抜いた。眼光鋭くキンジを睨み付けたのも一瞬のこと、その不安定な虚空に晒されながらも、銃の照準を合わせることに意識を傾注させたらしい。
手にしているのは45口径、コルト・ガバメントだろうか。華奢な身軀の少女がそんな銃を扱うとは、到底思えなかった。


「ほら、そこのバカ共! さっさと頭を下げなさいよ!」


少女はそう叫ぶが早いか、問答無用で2基のセグウェイを銃撃していく。自分たちの頭の下げるのも、ろくに待たないで。45口径の轟音と少女の金切り声とが相まって、実に勝気な印象を彼女のその風貌から抱かされた。

その少女が悔しそうに眉を顰めたのを見て、反射的に後ろを振り返る。どうやら1基は破壊出来たようだが、もう1基はまだ追いかけてきていた。仕留め損ねたことを悔いていたのだろう。
……としても、拳銃の平均交戦距離は7mと言われている。だが、少女とセグウェイの距離はその倍以上あった。気流を上手く捉えているとはいえ、不安定なパラグライダーから、おまけに2丁拳銃の水平撃ち。 2丁拳銃は自分も出来るが、パラグライダーからの銃撃は予想してはいなかった。


「……上手い」


強襲科Sランクの自分から見ても、相当の射撃の腕だ。あんな子が、今まで武偵校に居たのか……?
その技量から強襲科の人間と予想したはいいものの、その記憶が正しければ自分は彼女を知らない。勿論、武偵校に居ればすぐにでも噂になりそうな子だから、それが無いということは……。
 
器用に2丁拳銃を回してホルスターに収めた少女は、今度こそ──依然として険しい顔付きのまま──こちらに向かって飛来してくる。そうして数瞬、自分とキンジを交互に見遣った。何やら思案げな、それでいて物憂げな色を見せている。端麗な容貌には、その表情が酷く似つかわしかった。

ただその面貌が故に、この少女が何をしようとしているのかが、あらかた類推できてしまったことは幸いだろう。その短躯で、どうやら自分たちのうちの1人の救助(セーブ)を試みているらしい。1度に2人も救助は出来ない──だからこそ、その目配せがここで意図を発揮したのだ。
そうであるならば──、


「君、こっちのことはいいから、もう1人を何とかして!」
「なっ……、彩斗はどうすんだよ!」
「自分で何とかする! ……ほら君、早く!」


キンジのことは取り敢えずこの少女に任せておくとしよう。せめて自分は自分の出来る限りのことをして、この勢力を分散しなければどうしようもない。このまま追い回され続ければ、体力面で分が悪い人間側の敗色が濃厚だ。短期決戦を仕掛けるしかない。
それを裡面に含ませて、俺は少女にキンジの命運を託したのだから──同時に、少女はそのツリ目がかった赤紫色(カメリア)の瞳で睨みつけてきた。小さく頷いて応じてやる。

自転車は既に武偵校のグラウンド内に差し掛かっており、キンジと渺たる一少女とはそこで離別することになった。ここまで来ればもう、あの2人を気にしている猶予など無いことは、自分がいちばん分かりきっている。背後に聞こえた爆発音と爆風を背で受けながら眼前を凝視した。

紡錘形の異形が結んだ先は、つい先刻のグラウンド内とは打って変わって、武偵校の校門付近だった。背後にあったはずのグラウンドが今は視界の端に掛かっている。大破炎上しているかつての自転車だったものが、黒煙を朦々と上げていた。

振り返って後ろを見ると、セグウェイは未だにUZIの銃口を向けたまま追走してきている。突き放せれば御の字だったが、そんなに上手く事は進まないものだね──と溜息を吐く。
しかし、自分だって今まで何の気なしにセグウェイを観察していたわけではない。そもそも、あの少女と一言二言を交わした時には、その対処方法は既に立案されていたのだから。

不意に、黒煙の臭いが鼻腔を擽った。軽風に靡く前髪が、滲んだ汗のせいで額に張り付いている。それに妙な心地悪さを覚えながら、ふと春の朧気に霞む群青を見上げていた。
然(さ)も有(あ)らば有(あ)れ──。


「……そろそろ頃合いかな」


呟き終えるか否か、自分は自転車をグラウンド入口に差し掛けたところで飛び降りた。そうして力の任せる限りに、ここから出来るだけのグラウンドの内部へと放り投げる。もうハッキリと、あの大破炎上している自転車の成れの果てが見てとれた。
それを真似るようにして、この自転車も揃いに爆破した。空中で、それも自分のすぐ付近で爆発したものだから、その爆風や残骸とが容赦なく降り注がれていく。それすらも──好都合。

あの珍妙セグウェイを観察しようと何度か振り返った時に分かったのだが、どうやらあのセグウェイは電波操作だけでなく──温度・物体移動センサーによっても、その補足対象の動きを把握しているらしい。UZIや小型スピーカーの他にも取り付けられていることを不思議に思ってはいたが、どうにも見覚えがある。何処かで見たような機械が搭載されていると思ったら、以前、装備科(アムド)で見せてもらったのを思い出せたのは僥倖だったね。

自転車が爆破されたことにより、その爆破された自転車の周辺は温度が急上昇する。あまつさえ、爆破の際に生じた破片も沢山飛び散っている、ときた。奥にはあの大破炎上の果てもある。
読み通りならセグウェイは台座ごと方向転換をし、銃口の向ける対象は自分ではなく、あの木っ端微塵になっている自転車へと向けられるわけだろう──この仮説が、果たして通るだろうか。


「──っ、」


その一刹那に、9mmパラベラム弾の轟音が周囲一帯に鳴り響いた。あの45口径にも匹敵するような、そんな轟音。狂ったように虚空へと銃弾を浴びせ続けるセグウェイは、珍妙と呼ぶよりやはり、狂気としか思えなかった。
UZIが1マガジンを撃ち切るかどうかのところで、ホルスターから44口径のデザートイーグルを取り出す。いつ握っても重厚感があって、グリップが手に馴染まない。

照準をセグウェイに定めるのは簡単なのだけれどね──そう思いながら、グリップを握る手、或いは腕を固定した。静かに引き金を引くと、その動作とは似つかわしくないほどの反動が手を通して全身に巡る。下手に構えると腕が外れそうだ。大口径銃に特有の──例えば44口径マグナム弾の鳴動が、鼓膜を震わせて余韻を生んでいく。それに浸る暇は、無かった。

中枢部分を破壊されたセグウェイは、無機質に佇んでいる。そうしてその背後や傍らから、何処ともなく現れた8台のセグウェイに銃口を向けられているのを理解するまでに、少々時間を要してしまった。しかもご丁寧に周囲一帯を円形に囲まれている。銃で1台ずつ倒していく余裕は……無い。厭な焦燥に駆られながら、大刀契──《緋想》──を抜刀した。

──刹那、知覚の全てが、さながら《緋想》の刀身の如く、明瞭に感じられた。研ぎ澄まされた、視覚、聴覚、嗅覚。一点の汚れすら存在しない、冷酷なほどに澄んだ、明瞭世界。《緋想》によって創られたこの世界の名を、『明鏡止水』と呼ぶ。……否。《緋想》を媒介として、という方が正解にはほど近しいだろうか。

《明鏡止水》は《緋想》によって創られたものだが、そもそも《緋想》は自分の始祖、歴代最高峰の陰陽師として名高い安倍晴明が打ったとされる刀──いわゆる妖刀だ。
清明の打つ妖刀は使用者の氣(き)を吸収し、それを能力として具現化させる。それが、《明鏡止水》として表れた。大刀契としての能力は始祖の引く直系子孫のみしか扱えず、それ以外の人間が使っても、ただの斬れ味の良い日本刀にすぎない。……それでも十分では、あるのだが。

視線だけを動かして周囲を見澄ます。8台のセグウェイは全て、頭部へと照準を定めていた。マズルフラッシュが、焚かれた。《明鏡止水》の加護があるとはいえ、それなりの速度で迫り来る銃弾を《緋想》で両断する。累乗された弾片は互いに跳弾し、地に落ち、或いは、床を抉っていった。

銃弾が自分に当たっていないことを確認したらしいセグウェイは、再度、弾幕の如く銃弾を浴びせてくる。俺を殺すまでこうしているのだろうか。実につまらない機械の一生涯(・・・)だ。
それら全てを拝んでやろうと廻転してみせる。同時にこの空虚に手を翳しながら、実体を生み出した。範囲を指定された《境界》は──耐えず射出された銃弾を飲み込んでいく。
全てを喰らい尽くした《境界》は気紛れにその姿を消すと、片腕を掲げるのを合図に、セグウェイの死角に開かれた。センサーの探知範囲外なのか、銃口が自分から逸れることはなかった。


──さぁ、銃弾のお返しだ。戴き物の返礼品だよ。
セグウェイを円形に囲み覆った《境界》は、またも現れてはその飲み込んだ銃弾をご丁寧に吐き出していく。無論、それらに反応することなどは、到底叶わないのだ──。


「……ふぅ」


今度こそ安堵の溜息を吐いてから、銃と大刀契とを収めた。眼前に散らばるセグウェイは、揃いに揃って佇んでいる。向こうに吹いていた黒煙も、風に乗って臭ってきた。
それらを一瞥してから、自分はケータイで武偵校の裏サイトにログインする。装備科、鑑識科、探偵科などの後処理をやってくれそうな学科に、匿名でその旨を送っておいた。始業式早々に申し訳ないね──と労いの言葉を末尾に置いて。そうして「それにしても──」と周囲を見渡す。


──例の女の子とキンジは、何処に行ったのだろうか。

 
 

 
後書き
今回もお読みいただきありがとうございました。宜しければ、お気に入りや評価等お待ちしております。( *¯ ꒳¯*) 

 

神崎・H・アリア

「んー……何処だろ」
 

さて、キンジと少女とは何処まで吹き飛ばされていったのだろうか──と周囲を見渡す。残骸だけが朦々と黒煙を立たせていて、肝心の搭乗者が見当たらないというのが面倒臭い。

開けている場所だから、何らかのヒントはありそうに思えるけれどもね──と思ったその矢先に、体育倉庫付近の木に少女が使ったと思しきパラシュートが引っ掛かっているのを視認した。
その軌道から類推するに、どうやらグラウンド内部で引き起こされた爆風の勢いを受けて、あの木のあたりを揉まれながら体育倉庫内へと吹っ飛ばされていったらしい。

《境界》でそのあたりまで移動し、倉庫内の様子をそっと窺う。見たところ、かなり物が散乱しているようだ。雑な物の置かれ方とはまた違った風に思える。やはり、2人は爆風に飛ばされた後、最終的にはここに行き着いたのだろう。


「あらららら……」


その途中に、何やらひしゃげたトタンとバラバラになったセグウェイを確認した。トタンは爆風の影響としても、このセグウェイは……キンジか少女のどちらかが対処したのかな。
空薬莢が散乱しているのも横目にして、仄暗い倉庫内へと歩を進めていく。天窓から陽が差し込んだ倉庫内には、小さな人影が見えた。どうやら1人だけらしい。キンジの姿はもう既になく、取り残されたように例の少女がいるらしいだけだった。
 
弾痕だらけの体育倉庫の床を、静かに進んでいく。その足音で自分の存在に初めて気が付いたらしい少女は、勝気な印象の持つ赤紫色の瞳で、眼光炯炯と睨み付けてきた。


「アンタ、あの強猥男の知り合い?」
「……初対面でそれは無いでしょう、君。確かに遠山キンジの親友だけれども。彼に何かされたの?」
「強制猥褻された。あとで起訴してやるわよ」

 
その少女──名札を見る限り、神崎・H・アリアというらしい──は、何やら不機嫌そうに呟きながら、手にしていたガバメントの弾倉(マガジン)を再装填(リロード)している。
それにしても、キンジに強制猥褻をされたと糾弾されるこの少女は、いったい何者なのだろうか。同年代にしては少し幼い風貌に見える。中学生か、インターンの小学生か……。後者の方が圧倒的にその確率が高そうだし、聞いてみようかしら……。

少女アリアと目線の合う位置まで頭を下げてから、問い掛ける。


「ところで君──アリア、ちゃん……って言うのかな。見ない顔だけれど、何処の出なの? もしかしてインターンの小学生?」
「……は?」


つい先刻から依然として険しい顔付きをしていたアリアの面持ちが、より一層、その度合いを増した。見間違いではない。即座に自分の発言を思い返してみる。アリアの逆鱗に触れたのだとしたら──これはもう、インターン発言しかないだろう。きっと、見た目より幼く見られたのが気に触ったのだ。そういう年頃の少女だと考えれば、何らおかしいことでもない。


「……あぁ、ごめんね。インターンで入ってきた小学生と誤解してた。なぁんだ、中等部の子なら、そう言ってくれれば──」


──良かったのに。そう告げる暇さえ与えてくれはしなかった。
アリアは再装填を済ませていた2丁拳銃のコルト・ガバメントを徐に構えると、一分の逡巡すら見せずにこちらの足元へ発砲する。
思わず身じろいだ。勝気な印象があるとはいえ、45口径の轟音を間近で聞かされてしまえば、それも仕方がない作用かもしれない。半歩だけ退いてしまった右足を、戻そうとしていた。


「アタシは……高2だっ!」


その叫喚が体育倉庫一帯に反響するのに、それほど時間は掛からなかった。とはいえ俄に信じ難いその言葉を理解するのには、数秒を要した。さて、どうしたものか──と諭すように告げる。


「……君。いくら大人っぽく見られたいからといっても、発砲で威嚇はないでしょう。不必要な発砲は控えておくれ」
「Wanna get killed?(殺されたいの?)」
「……流暢な英語だね。本当に申し訳なかった。ごめんね」


その風貌といい、この英語といい、アリアは恐らく純日本人ではないだろう。ハーフかクォーターか、そんな気がする。
ここで銃を抜き返すのが武偵校ではあるけれども、何より無駄な騒動は起こしたくはないね。ただでさえ、さっきのチャリジャックで教務科には連絡がいっているはずなんだ。これ以上は人間関係の面で面倒事を増やしたくない。


「だから、ね? その物騒な銃を仕舞っておくれ」
「……やだ。絶対に許さないから」


俺のことを許す気は毛頭無いらしいアリアは、手にしていた白銀と漆黒のガバメントの照準を──迷いなく、頭部に向けた。そうしてトリガーガードに掛けていた指を、引き金へとずらしていく。どうやらこの子は、本気で撃つつもりらしい。


「……自分の感情に身を流すというのは、あまり勧めないよ」


その言葉がアリアに聞こえていたかは定かではない。ただ、可愛らしく口の端を歪ませてから──引き金を引く刹那に、銃弾が頭部側面を通過するよう、その軌道を僅かに逸らしたのは見えた。


──倉庫内に、重厚な銃撃音が響く。


それでもなお、自分は防御の構えをとらなかった。……いや、とる必要がなかった、という方が正しいか。アリアの狙いは、銃弾の回避運動をする隙を目掛けて追撃することだろう。だから敢えて、その刹那に銃弾の軌道を逸らしたのだ。撃たれるだろうから避けねばならないという心理を逆手にとるために──。

突然の銃撃に自分が動じなかった場合の追撃も、アリアは準備していたのだろう。好都合とでも言うように、銃をレッグホルスターに収め、代わりに背中から小太刀の日本刀を抜いた。
逆手に握られ、振りかぶられた刀の刀身は、数秒もすれば防刃制服に達するだろう。流石にこれは防がざるを得ない。隠匿していた鞘から抜かれた《緋想》と日本刀とが、鍔迫り合いになった。しかしアリアは持久戦を嫌ったのか──即座にバックステップをして勢いを付けてから、大きく1歩踏み出して、刀身を突き出すようにしつつ──今度は腹部を狙ってきた。


「──やぁっ!!」


制服の繊維を削がれようと、貫通されなければどうということはない。右足を引いて直撃を防ぐと、突き出されたアリアの手を踏み場に脚力を溜めてから、月面宙返りを放つ。
振りかぶった足先に感触が無いということは、上体を反らして避けられたのだろう。少しの距離を置いて着地したところに、彼女もちょうど後方宙返りで間合いをはかっていた。
髪と制服とが隙間風を孕んで大きく靡いている。その華奢な足を床に付け──ようとして、アリアは大きく体勢を崩した。


「──うみゃっ!?」


何事かと思い、足元の床に視線を遣る。薄暗くてよく分かりにくかったものの、天窓の陽光がその存在を告げていた。入口付近で散乱していた空薬莢だ。それがこのあたりにも飛び散ってきていたのだろう。……気が付かなかった。下手をしたら、自分がその罠を喰っていたかもしれない。

しかしこれは、早々にこの場を抜ける絶好の機会だ。これ以上に面倒事を起こさないためにも、その根幹は教務科に目を付けられないためにも──まさか始業式からこんなことになるとは予想していなかったものだから、少々驚いたね。


「へぇ、空薬莢があったんだね。見えてなかった。ご愁傷様。……それじゃあね、アリア。今度はいつ会うか分からないけど」
「ちょっ、待ちなさいっ──わぉきゃっ!?」


何度も立ち上がろうと難儀しているのに、アリアの足元を掬うのはいつもこの空薬莢だった。それほどまでに冷静さを欠いているのだろう。漫画みたいな光景だね、とふと思った。
アリアに向けて手を振ると、すぐに踵を返して倉庫を後にする。背後に降る少女の声と正面に降る春陽とに挟まれながら、武偵校の校舎へ向かって歩を進めていった。

──空には春霞が掛かっていた。 

 

物騒な自己紹介

新クラスの割り振り詳細は、正面玄関に掲示されていた。その通りに向かった先は、2年A組。どうやらかの遠山キンジとも同じクラスらしく、少なくとも1年間はクラスの中で暇な学生生活を送ることはないようだ──と、誰にともなく安堵に胸を撫で下ろす。

教室の扉を目前に控えた自分は、小さく深呼吸をしてから制服や諸々の身なりを整えた。……始業日早々に遅刻してしまったのだ。別にそれを悔いているわけではないけれど、クラス担任によっては、入室したその瞬間に銃弾が飛んでくる可能性も大いにある。こういうのはなるべく目立たない方が良い。

最悪の状況を想定しつつ、静かに扉を開く。それでも何人かの生徒はその物音に気が付いたらしく、こちらに視線を寄越した。
そんな彼等彼女等に苦笑を返し、目立たないように小さく会釈してから教室内に入っていく。銃弾が飛んでくるか戦々恐々としていたけれども、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。


「あ、如月君おはようー。君はここの席ですよぉー」


壇上から呼び掛けてきたその声の主は、武偵高の良心こと高天原ゆとり先生だ。非常に暢気でマイペースな性格だから、強襲科の蘭豹やら尋問科の綴やらなんやらと変人の巣窟である武偵校の中では、数少ない真面な教師の1人に数えられている。

今年のクラス替えは大吉だったね──という期待と周囲からの視線を全身に受けつつ、先生に指定された席に座る。出席番号順で座るなどとは特に決められていないらしく、偶然にも、キンジが前の席だった。とても運が宜しい。けれど隣は空席だった。欠席なのかしら……。
自分が座ったのを確認した高天原先生は、「うんうん」と何やらご機嫌そうに頷いた。思えば、入室したその時からご機嫌そうな笑みを浮かばせていたように思う。どうしたのだろうか。


「ところで皆、何で先生がずっとニコニコしてるか分かる?」
「「「あ、そういうの良いです」」」
「そうかぁー……」


──問い掛けに口を揃えて返すクラスメートらの団結力。このクラスは団結力まで大吉だったのかな……。流石に先生もその返答は予想外だったようで、演技ぶったように悲しげに目を伏せてしまう。しかしそれも一瞬のことだった。


「実は、かっわいい転校生ちゃんを紹介しようと思ってたんですよー。……というワケで、これから自己紹介してもらっちゃいますねー? じゃあ、ほら、前に出てきて!」


先生は壇上から、その転校生ちゃんとやらに手招きしている。
果たしてどんな子なんだろうね──と思案していると、椅子を引く音がした。その場所を聞くに、教室でも後ろ端の方。
そのまま靴音を響かせて教卓の前に立ったその子は、自分とも面識があり──というか、先程まで顔をあわせていた少女だった。 一切の汚れの無い雪肌に、ピンク色のツインテール。下手すれば小学生にも見間違えてしまうほどに幼気な、その少女──。

 
「強襲科の神崎・H・アリアちゃんでーす!」


やっぱり、どうにも見ない顔だと思ったよ。転校生だと考えれば実に納得だね。インターンの小学生だと疑ってしまったのは本当に申し訳なかった……。この風貌で同級生なのね……。 
「そうかぁー……」と溜息を洩らしたのも束の間に、途端に鈍い物音がした。キンジが椅子から滑り落ちて頭を打ったらしい。


「ちょっ、どうしたの」
「……なんでもない」
「嘘ばっかり」
 

「絶対何かあったろう」と懐疑心を抱きながら──壇上に立っているアリアへと視線を向ける。そのアリアは、キンジを睥睨するように眼光炯炯と見据えていた。目の敵にしているようだ。
……そういえば、彼女はキンジに強猥されたと糾弾していたね。キンジの体質的なものからして俄に信じ難いけれども、彼の反応から見るに、その事実に近しいことはあったのかもしれない。


「それでも、まさかねぇ……」


呟いた声に気が付いたのか、それとも先程から向けていた視線に気が付いたのか──自分と目が合ったアリアは、キンジにも向けていたその赤紫色の瞳でこちらを睨み付けてきた。
そうして、その面持ちが自分の見間違いだったのかと錯覚してしまうほどの変貌ぶりを、彼女は見せてくれた。すぐさま端整な元の調子に戻すと、徐に高天原先生の方に顔を向ける。


「先生。アタシはあの男子の隣に座りたい。空席でしょ」

 
アリアがその華奢な指先で指し示したのは、事もあろうに、この如月彩斗だったらしい。クラス中の視線が集中するのを感じていた。穏和と鋭利とが入り交じった視線を全身に受けている。
「さっきまでドンパチやってた人間に言うことではないだろう」──と零そうものなら、余計に話が面倒臭くなるものだから、何とか胸の内に押し留めておこう。そう決意した。


「まぁ、先生は良いけど……神崎さん、問題は如月君が了承してくれるかだよ? 確かにあそこは空席だけど──まぁ、空席とはいっても今日はお休みの連絡が入ってて……」


先生がアリアに話しているにも関わらず、それを無視して誰かが興奮しているらしく椅子から立ち上がった。机に手を着いたのか、軽快な音がこの教室中に響き渡る。クラス中が注目する中、例によって自分もその聞き馴染みのある声の主を視界に入れた。


「よ、良かったな彩斗っ! ようやく春が来たみたいだぞ!!」
「……誤解もいいとこだね、武藤や」

 
屈託のない笑みを隠すこともせず浮かべている彼は、武藤剛気という。体格も良く、一見して強襲科の人間と思われそうだけれど──あぁ見えて車輌科の優等生Aランクであり、特技は乗り物と名の付くものなら何でも運転できること、だそうだ。自分を含めて強襲科の任務の際には、その能力を買って武藤にお世話になっている。ちゃっかり有望者だ。

そんな馬鹿騒ぎしている武藤を一瞥した後に、アリアはそのまま自分の方へと歩いてきた。どうやら本当に座りたいらしい。それにしても、何故……? 先刻の復讐でもするというのだろうか。
その途中、不意にキンジの席の前で立ち止まったアリアは、制服のスカートに通していたベルトを雑に解いた。流れるように彼の手元に投げ渡すと、突き放すように冷淡と告ぐ。

 
「……キンジ、これ。さっきのベルト」


それを受け取ったキンジは、さも決まりが悪そうに素早く着用した。その動作の早いこと早いこと──本当に君たちは何をしていたの? 自分が来る前の体育倉庫で。それが気になるね。

 
「あ、分かった! 理子分かっちゃった!! これ、フラグばっきばきに立ってるよ!」

 
陽気な声色と共に手を挙げて立ち上がったのは、ロリータ系の改造制服を身にまとっている金髪ツインテールの少女だった。その改造制服のデザインは、聞くところによると彼女の趣味らしい。
そんな彼女──探偵科の峰理子と言えば、校内の大抵の人間に伝わるだろう。名前を知らずとも、その奇抜な格好は誰もが1度は目にしているはずなのである。傍目に見れば、ただの馬鹿騒ぎしている馬鹿なのだが──その実、能力的には申し分ないのだ。といっても、この性格のせいで薄れてはいるけれど。


「キーくんベルトしてない! そしてそのベルトをツインテールさんが持ってた! これ、謎でしょ謎でしょ!? でも、理子には推理できた! できちゃった!」
 

理子はキーくんことキンジ、ツインテールさんことアリアを交互に指さすと、何やらお得意げに胸の前で手を握り締めた。しかし、理子のことだ。真面な推理の予感がしない。なにせ、性格は武偵校でも群を抜くほどのお調子者なのだから。とはいえ、気になるには気になるので耳を傾けてみる。
 

「キーくんは彼女の前で、ベルトを取るような何らかの行為をした! そして彼女のところにベルトを忘れていった! つまり──2人は、あつーいあつーい恋愛の真っ最中なんだよっ!」
「……理子はただの馬鹿かと思ってたけど、ちょっと見直した」
「おい、ちょっと待て彩斗。納得すんなっ!」


果たしてその事実は虚偽か真実か、それはキンジ本人から聞き出せばいいだけの話だけれど──今回の理子の推理は、妙に筋が通っている。少なくとも、馬鹿理論の継ぎ接ぎではなかった。
抗議の声を上げるキンジを無視して、理子は軽快に笑みを零す。


「でしょでしょ! だよねぇー。あっくんもそう思うかぁ」
「理子もいい加減にしろっ! 事実無根だ!」
「えー、でも皆そう思ってるよ? そうだよねっ!」


くるり──というような擬音が聞こえてきそうな動作だった。ロリータ風のスカートを靡かせて半回転した理子は、そのままクラスメイトの同意を煽っている。そうして面々は、揃って告げた。


「「「激しく同意」」」
「ほら、多数決でキーくんの負け! 日本は民主主義なので!」


そこに民主主義は関係があるのだか無いのだか、よく分からないけれど──ご機嫌そうに理子はキンジを指さした。流石にストレスで胃が痛くなってきたのか、少し顔付きを顰めている。
うーん……真偽のほどは後回しにするとして、流石に少し遊びすぎたかな。このままだとホームルームも収まらないし──などと考えを巡らせているところに、45口径の轟音が鳴り響いた。

至近距離だった。その発生源へとクラス中の視線が集まる。キンジも理子も武藤も、その他のクラスメイトも高天原先生も、総じて茫然とそれを見遣っていた。よもやよもや── 発砲したのが、まさかの転校生ちゃんであるアリアだったのだから。

彼女の手には2丁拳銃のコルト・ガバメントが握られており、そこから放たれた銃弾は、教室の壁に傷を付けるに至っている。小刻みに震える銃口が、今の彼女の胸の内を物語っていた。伏せているアリアの顔は、前髪に隠されて見えなかった。

流石に理子も早々に発砲されるとは思っていなかったのか、顔面蒼白といった感じで大人しく席へと座った。武藤も同様である。キンジは依然として顔を顰めているし、高天原先生と他のクラスメイトはもはや、存在を空気に移行させかけていた。

そんな中で、空薬莢が落ちる音のみが余計に静寂を際だたせた。呼吸音すらも耳を澄まさなければ聞こえない。文字通り、息を呑むという状況に直面してしまっているのだ。
しかし……まさかホームルームの、しかも自己紹介で発砲とは。初めて見たね。流石の我が担任も涙目だし。


「れ、恋愛なんて……くっだらない!」


その肩は小刻みに震え、頬は怒りのためか羞恥のためか紅潮していた。目元には薄らと涙が浮かんでいたように見える。
そうして、万人の恋愛観を真っ向から否定する言葉を言い放ったアリアは、何故かガバメントの銃口を自分と理子に向けて──、


「アンタら2人……いや、全員覚えておきなさいっ!今度からそういうこと言うヤツには──」


これが、かっわいい転校生ちゃんこと神崎・H・アリアがクラス全体へ向けて発した最初の言葉である。

 
「──風穴開けるわよ!」


物騒なことこの上ない。

 
 

 
後書き
──物騒なことこの上ない。(復唱)

……あ、お気に入りや評価等、お待ちしております。次回もお楽しみにっ。(*ˊ˘ˋ*) 

 

押しかけ武偵

今朝のホームルーム──転校生ちゃん発砲騒動から数時間が経った、昼下がり。既に昼食を終えていた自分とキンジは、屋上のフェンスに背を預けるようにして、互いに話していた。
件の体育倉庫周辺では、蒼天の下に探偵科と鑑識科が鑑定捜査を始めている。さながら刑事ドラマの一場面のようだ。

残骸の自転車やセグウェイが捜査の手掛かりになるかは疑問なのだが──まぁ、素人が口出しできる案件でもないね。そんな光景を横目にキンジへと問いかける。ただでさえ根暗そうな顔付きは、根暗そのものへと変化していた。今朝のこともあったし、色々と疲れたんだろう。
同情できないわけではない彼の胸中を慮りながら、「まぁ、お疲れ様だったね」──と告げてやる。それに次いで、ずっと気になっていた核心、その真偽を問いかけてみた。


「で、キンジ。君は本当にアリアとそういうこと(・・・・・・)はしてないんだね?」
「……断固として答える。俺はしてない」


依然として頑なに首を横に振り続けるキンジだが、そこにはどうにも矛盾がある。キンジとアリアがそういう行為をしていないのなら、何故、アリアはキンジに強制猥褻をされたと糾弾したのか──それだけが思考の端々に引っ掛かっているのだ。


「そんなはずはないだろう。現にアリアが糾弾してるんだ。……ほら、何があったか話してごらん。誰にも言わないから」
「……ったく。誰にも言うなよ? 特に──女子には」


──女子には。……あぁ、分かった。そうか。そういうことか。その一単語を聞くや否や、自分の脳は結論を導き出してしまった。キンジが女を避けている理由にも成り得る、それを。


「……ふふっ」


笑いが堪えきれていない。……いや、堪えられなかったのだろう。
キンジは怪訝な表情を自分へと向けながら、執拗に辺りを見渡す。そうして誰も居ないことを確認したらしく、その原因ともなる予想通りの結論を、口早に告げてきた。


「……その、あれだ。ヒステリアモードだ」
「まさか、アリアを見ただけでHSSになったわけ? それは流石に無いよね。だとしたら距離を置こうと思うんだけど」
「違ぇよ! ただ……爆風に吹っ飛ばされた結果、2人揃って跳び箱の隙間に収まっちまってな。んで、なんだ……下着が見えてたり、不可抗力で胸を押し付けられたりだな……」


──ヒステリア・サヴァン・シンドローム。頭文字を取って、HSS。キンジはヒステリアモードと呼んでいるそれは、どうやら精神疾患の1つらしい。『性的興奮』を引き金に脳内伝達物質であるβ-エンドルフィンを過剰分泌させることで、身体能力や思考能力やらが格段に跳ね上がるのだとかいう。

性的興奮が引き金になるのは、正直言ってハードルが高すぎる。
それでも、自在に使いこなせれば強いことには相違ないのだ。現にキンジはHSSの状態で武偵校の入試を受け、当時は強襲科Sランクとして認定されたほどなのだから。本人は期せずしてと語っていたけれど、それが逆に功を奏していたろう。


「……もうその話はいいだろ。終わりにしようぜ」
「あ、ちょっと待って。最後にあのベルトの弁明が聞きたい」
「あれは……爆風でスカートのチャックが壊れたって言ったから貸してやっただけだよ。それ以上でも以下でもない」
「なぁんだ、つまらない。でも少し安心した」
「はぁ……?」


ちょうど良い拍子に、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響いた。



◇



一般科目を終え、早々に帰路に着いた自分は──ただ暇に任せながらソファーの上に寝転がっていた。専修科目の強襲科に赴かないのは、取り敢えず進級できそうなだけの単位は既に揃えてしまっているからだ。去年の総合獲得単位は今年分を含めた進級単位にほど近しいらしく、それを聞かされた時は驚愕したね。

1年の時は、何がなしに依頼を受けていた記憶がある。それこそ本物の便利屋のように。しかし単位を1年でそこまで取っていて、しかも繰り越し制度もあるなんて──という感想しか抱けなかった。今なら現状を見て、取り敢えずは暇だという感想くらいは言える。
対してキンジは探偵科の授業を受けているから、まだ帰ってこないだろう。終わった頃合いとはいえ、徒歩での帰宅は少々時間がかかる。本当に暇だね……。

呆然と何かを考えていると、まるで行き先の決まっていた観念連合のように、話題は今朝のチャリジャックに行き着いた。誰が自分たちの自転車に爆弾を仕掛けたのか。そもそも自転車に乗ることを予知していたのか、本当に無差別だったのか。誰があのセグウェイを遠隔操作していたのか。武偵殺しは既に捕まったはずだ。なら、これは模倣犯の仕業なのか。

思考を重ねるほどに分からなくなっていく。泥沼に片足を突っ込んだみたいに、考えが上手く纏まらなくなるような感覚を抱いた。脳内を縦横無尽に単語が横切っていくものだから、落ち着かない。匿名で武偵校の裏サイトに通報をしたあの後、直々に探偵科と鑑識科には物品の鑑定依頼をしたけれど、その結果を待たないことには話は始まらないか……。

そこまで思考が行き着いた時、制服の内ポケットに仕舞っていたケータイが、バイブレーションでメールの着信を知らせた。宛先は──ホームルームで馬鹿騒ぎしていた、探偵科の峰理子だね。さしずめ、共同調査の中間報告といったところかな。


『To:あっくん
From:理子りん
本文:探偵科と鑑識科の共同捜査はちょうど今、終わりましたっ! 鑑識科にセグウェイの詳細鑑定を任せてるから、それが終わったら結果を教えるねっ♪』


『ありがとう。お疲れ様』とだけ返信しておいて、ケータイを二分に折り畳んだ。そのうちに理子が結果を教えてくれるだろうから、ゆるりと待てば良いことだろう──そうしてまた内ポケットに仕舞い直したところに、玄関の呼び鈴が来訪人を告げた。

突然にリビングに鳴り響いたチャイムの音に、緩慢と上体を起こす。窓硝子から差し込んだ斜陽が、嫌に眩しかった。まだ放課後すぐとはいえ、こんな時間に来客とは──しかも、自分の部屋に──果たしてどんなご用向きだろうか。


──ピンポーン……。


キンジは基本的にチャイムは鳴らさないし、白雪の慎ましやかな鳴らし方とも少しばかり違う。なら、理子とか……?
自分が早く応対しないことに苛立ちを覚えたのか、2度目のチャイムが鳴る。来客を待たせないためにも足早に玄関へと向かい、覗き穴で来客が誰かを確認しないまま、そのまま扉を開いた。
そうして、視界の中央に飛び込んできたのは──、


「……あれ、アリア?」


──ホームルーム騒動の発端である、神崎・H・アリアだった。

 
 

 
後書き
……アリアも理子も可愛い。(遺言その1)

……評価等もよろしくお願いいたします(*´︶`*)♥️(遺言その2)
 

 

奴隷宣告

「……アリア?」


思わず、口許から呟きが洩れてしまった──なにせ目の前に立っていたのが、件の騒動の発端者である彼女だったのだから。武偵校の女子制服を着て、ピンク色のツインテールを軽風に靡かせて、眦(まなじり)の上がったその目付きで、自分と彼女との身長差のぶんだけを見上げていた。片手に握り締めているトランプ柄のトランクは、果たして何の役目なのだろうか。


「お邪魔するわね。これ持ってて」
「えっ、ちょっと──」


茫然としている自分を横目に、アリアは出来ていた隙間を器用にくぐり抜けて、あっという間に玄関を越してしまった。そのすれ違いざまに、トランクの持ち手を俺に手渡しながら。
そうして振り向くと、それこそ年頃の少女のように羞恥心を全面に出しながら、「ねぇ、トイレって何処にあるの?」と問う。今朝に見た勝気な少女の風には、今は思えなかった。


「トイレならあそこの扉のとこ。……そんなことよりね、ねぇ、アリア。いったい何でここが──」


──分かったんだい。そう言い終える暇すらアリアは与えてくれず、トイレの扉を開けて素早く用を足しに行ってしまった。
玄関に1人だけ取り残される形になってしまっているのも何だか嫌なので、取り敢えず玄関の扉を閉めてから──《境界》を経由して、トランクも一緒にリビングに移動させる。


「……っ、重い」


トランクは見かけに反して重量感を孕んでいた。……何だこれ。何が入ってるんだろ。大型のアサルトライフルとか入ってるんじゃなかろうか。ちゃっかりケースの縁のところに『東京武偵校 神崎・H・アリア』と名前が書いてあるし。小学生かしら。


「……あー、そういうことか」


『東京武偵校』という文字で気が付けた。というのも、武偵の語源は武装探偵だと言われている。つまり、元々は探偵なのだ。だとしたら、アリアが何もなしにここまで来れたというのは、自分が尾行されてたということになる。「……気付かなかったね。気を抜きすぎてた」


独り言ちた後に、トイレの水洗音が聞こえる。「リビングまでおいで」と呼び掛けると、アリアが小走りに駆け寄ってきた。


「ねぇ、ここって1人部屋なの?」
「キンジと同棲してるからそれは違うよ。けども……うーん、5人部屋くらいかな。使ってない空き部屋がいくつかあるの」
「ふーん……」


小さく呟いたアリアは、そのままリビングの最奥へと立った。ベランダへと続く窓硝子の向こうには、東京湾に浮かんでいる落陽が望めた。その斜陽がここまで届いている。
彼女は暫く、その落陽に見蕩れているようだった。そうして徐に振り返ると、人差し指でこちらを指し示す。曲線を描いたツインテールは茜色に染まっていて、リビングの床に影を映していた。少女の形をしたその黒影は、傲岸に告ぐ。


「彩斗──アタシのドレイになりなさいっ!」


ここに生まれた静寂が一刹那だったのか、或いは十数秒だったのかは、この語感にやられてしまって覚えていない。けれどもその語感にあてられて、朦朧としているのだけは分かった。
──そんな感覚を期せずして打破したのは、彼だった。


「……何してるんだ、お前ら」


呆然と驚愕の入り混じったキンジの声色が、リビングの入口から聞こえてきた。慌てて振り返ると、何やら腫れ物に触ったような罪悪感に苛まれた顔をしている。目は勿論、笑っていなかった。


「あの、これはだね──」
「……悪い、これからお楽しみのところを邪魔したな。んじゃ、1時間後くらいにまた来ればいいか?」
「君は何を深読みしたんだ。そうじゃないって。しかも随分と生々しい時間設定にしてくれたねぇ」


とにかく──と付け加えて、アリアに視線を寄越す。


「……ちゃんと説明してもらうからね。どういう意味か」
「どういう意味、って……そのまんまの意味よ」
「それが理解できないって言ってるんだろう」


「……鈍いわねぇ」と呟いたアリアは、躊躇なくソファーに腰を下ろした。『話してあげるからこっちに来なさい』とでも言うように、その隣を手で軽く叩いている。そうして更に口を開いた。


「ねぇ、コーヒー飲みたい。エスプレッソ・ルンゴ・ドッピオ。砂糖はカンナが良いわ」
「……何それ。そんな名前のコーヒーは我が家には無いよ」
「いいから出しなさい。喉が乾いたの!」


エスプレッソ・ルンゴ・ドッピオ──エスプレッソは辛うじて分かるけど、その他は分からない。コーヒー豆の銘柄かしら。よく分からないし、アリアも取り敢えずコーヒを出せということなので、キンジにコーヒーを淹れてもらうように頼んだ。インスタントコーヒーでいいよね。
面倒臭そうな顔をしているキンジを横目に、アリアの隣に腰を掛ける。背後にお湯を沸かしている音を受けながら、その幼い容貌をした少女の、その赤紫色の瞳を見据えてやった。


「……で、ドレイってどういうこと。ちゃんと説明して」
「強襲科でアタシと一緒のパーティーに入りなさい。それで武偵活動をするの。難しい話じゃないでしょ?」
「そんなこと? 別にそれくらいならしてもいいよ」


自分にとっては、本当に何気ない一言だった。去年まで強襲科にキンジは居たけれど『気が変わった』と探偵科に移動してしまったこともあって、今は強襲科に対する関心が薄れてきている時期にあったのを、自分自身で自覚していたから。

だからこうして、アリアから強襲科での活動を誘いに来るというこの話は、これといって断る理由が見当たらない。それでもアリアにとってはこの一言が非常に重大で、その言葉自体が、彼女の一連の行動の意味を為しているようだった。何かがあると──何がなしにそう直感した。


「……ホントに? ホントにいいの?」
「逆に問うけど、どうして嘘をつく必要性があるの?」
「……そう、よね。確かに言われてみれば、そうだわ」
「でしょう?」


何やら興奮しているらしく、身をこちら側に寄せながら執拗に問いかけてくるアリアを宥めてから、2人で揃って苦笑する。年頃の少女らしい可愛らしい笑い顔をしていた。
今のところはまだ、自分がアリアと同じパーティーで武偵活動をすることの何が大切なのかは分からないけれど。まぁ、アリアとしては満足のいく結果に至ったらしいね。

話が一区切りついたところを見計らっていたのか、キンジが中身を淹れ終えたらしいコーヒーカップをアリアに手渡した。芳醇な香りと湯気が辺りに蔓延して、頭上を漂っていく。


「……インスタントコーヒーだがな。ありがたく飲めよ」
「いんすたんとこーひー? 何それ」
「お湯を注ぐだけで淹れられるコーヒーのことだ」
「コーヒーなんてみんな同じ淹れ方じゃない。馬鹿みたい」


2人は一言二言を交わすと、すぐに会話を打ち切ってしまった。キンジは不機嫌になったのか眉間に皺を寄せて、そのままリビングを抜けて行ってしまう。自室にでも籠るのだろうか。
さてはそれすら分かっていないであろうアリアは、その背後を一瞥してから受け取ったコーヒーを1口飲んだ。


「……何これ。変な味。ギリシャコーヒーにも似てるけど……んー、違うわね。ねぇ、これってどんな銘?」
「あいにく、ちゃんとした豆が無いんだよ。今のところは、仕方ないけど……インスタントで我慢してくれると嬉しいかな」
「……む。ドレイのくせに生意気な」


恨めしげに零すと、アリアは一気にコーヒーを飲み干した。カップをテーブルに置いてから手を組むまでの所作が、やけに優美に思えてしまう。こういうのを、『お似合い』というのだろうか。
窓硝子の外の落陽は字の通りに傾いていき、部屋の中も黄昏に染まっていく。訪れた静寂も一瞬に、アリアは口を開いた。


「ねぇ、何でアタシが彩斗をドレイにしたか分かる?」
「……申し訳ないけれど」
「本当に分からない?」


どうせなら、分かっておいて欲しかった──そんな意図をアリアはこの一言に含ませていた。仕方なしに頷くしかない。斜陽が生んだ逆光のせいか翳って見えるアリアの表情は、何処かに物悲しさを帯びているようにも思えた。


「実を言うと、ドレイ候補はもう1人居たの。誰だか分かる? さっきのキンジよ。遠山キンジ」
「キンジが?」
「そうね。でも、アタシは彩斗を選んだ。それには真っ当な理由があるわ。アタシだって無闇矢鱈には選ばないわよ」


──理由は3つあるわ。と端的に告げたアリアは、3本の指を立ててから、そのうちの1本を折る。指があと2本、残っていた。


「1つ、武偵ランクがSであること、或いは経験者。2つ、何かしらの特殊能力や二つ名を持っていること。3つ、アタシの勘」


条件としては極めて妥当性がある。アリア自らの目標を達成するのに必要なものがあるとすれば、それはなるべく価値のある方が使いやすいのは明々白々だ。それがこれら理由なのだろう。
しかし最初と最後を除いた理由──特殊能力や二つ名を持っていること、というのが気にかかった。《明鏡止水》のことが露呈しているのだろうか。それとも、あの二つ名が……?

次の言葉を身構えているのを、アリアは空気から察したのだろうか。さも愉快そうに口の端を歪めると、「……玲瓏(れいろう)」と、小さく諳んじた。「ねぇ、知ってるでしょ?」

いやはや、懐かしいな──と内心でアリアの情報収集の能力に嘆息する。ふっ、と笑みが零れるのを直に感じた。
勿論、知っている。神奈川武偵中学校の強襲科に居た時の二つ名だ。俺とキンジのパーティーの呼称でもあった。玲瓏──美しく澄み切ったさま。そこから非の付け所のないさま、という意味合いを込めて、玲瓏という二つ名で呼ばれていたのだ。


「……何処から調べ上げたの、そんなこと」
「さぁ、何処かしらね? 教えないわ。ふふっ」


悪戯をする子供のような笑みを、アリアは浮かべた。そのままソファーの背もたれに深く身体を預けると、精一杯に腕を伸ばしている。口元から洩れた吐息が、ほんの少しだけ色っぽかった。
アリアという少女の見せた、より少女らしい姿──感じが狂うのを自覚しながら、その意識を逸らすのを目的に、アリアが得た如月彩斗についての情報の根幹について辿ることにした。

──情報科の線が濃厚だろうか。生徒の個人情報は押さえてあるだろうし、そこには如月彩斗という少年の情報も勿論、あるに決まっている。氏名や生年月日や居住地といった基本情報があれば、依頼解決といった過去の経歴もあるだろう。その中に、学歴が含まれていてもおかしくはない。神奈川武偵校中学校に如月彩斗が在籍していたことが分かれば、捜索の幅は狭まる。

とはいえ……過去の二つ名が露呈しようと、特段どうということはない。それ以外に露呈してはならないことの方がある。それに辿り着きさえしなければ、傷にも何にもならないのだ。過去に黒い話を抱えていたとかいうのも、俺には無いからね。


「……ねぇ、お腹空いたぁ」


ある程度のところまで思考を至らせたところに、アリアの声が割り込んだ。間抜けのした、強請りの入った、そんな声。


「さっきコーヒー飲んだろう」
「でもお腹空いたの!」
「……まったく、もう。それじゃあコンビニ行く?」
「こんびに? ……あー、下にあった小さいスーパーマーケットのことね。じゃあそこに行きましょ」


コンビニも知らなかったのか──と呆れているのを他所に、アリアはその風貌の予想通りに身軽に立ち上がった。そうして、こちらの顔を下から覗き込むように見上げてくる。


「ねぇ、そこって松本屋のももまん売ってる? アタシ、食べたいな。ももまん」
「うん、売ってる。……ところで顔が近いよ」
「何よ、そのくらい。気にすることでもないじゃない」


そう言ってアリアは笑った。梔子のような匂いが、仄かにした。

 

 

思いと想い

アリアがももまんを買うついでに、自分とキンジの分の弁当を買った──そんなわけで、久々に賑やかな夕食時を過ごしている。
しかし件の騒動のせいか、アリアに苦手意識を持っているらしいキンジは、なかなか彼女と面と向かって話そうとはしないでいた。……大丈夫かな。あまり気に病まないで欲しいところ。

そんな心配も脳の片隅に取り敢えずは置いておく。そうして、口に含んでいた白米をおかずと一緒に飲み込んだ。
ふと、ももまんを頬張っているアリアが視界に入る。小動物のように食べる様は何やら擬音が聞こえてきそうで、それがやはり年頃の少女のようで、風貌と相まって少し愛らしく思えた。


「しかし、どれだけ買ったの……もはや買い占めじゃない」
「……在庫が残ってればいいけどな」
「そんなのはいいのよ、別に。買ったものは客の物だし」


そう言いながら、アリアはまたもご満説といった風に頬張った。瞳はこの電灯に反照したためか、爛々としている。目を細めているその姿が小動物に見えたのは、猫を連想したためだろう。


「ふふっ。まぁ、それはそうだけれどもね」


アリアはどうやら、このももまんという餡まんが大好物らしい。ももまんとは一昔前にブームになった、桃の形をしているだけの餡まん──とはいえ、そんなに美味しいものだったかしら。
まぁ、アリアが美味しい美味しいと食べているのなら、別に部外者が口を挟む場面でもないのだろうけど……。


「だからアタシは心置きなく食べるわ。在庫なんて気にしない」


その通りにアリアは、7個買ったうちの7個目まで既に平らげている。この華奢な体型に反して結構食べるんだなぁ。意外だね。さぞ7個も目の前で買われた店員も驚いたことだろうよ。
──といった俺やキンジの目を気にせず、アリアは残ったゴミを紙袋の中に突っ込み、それを器用にゴミ箱へと投げ捨てた。見事にホールインワンだった。意外とやるね……?

ちょうどそこに弁当を食べ終えたキンジも、さてはホールインワンなるか──と思っていたけれども、キンジは素直にゴミ箱にまで行って捨ててくれた。別にホールインワンしてもいいんだよ?
なんて冗談はともかくとしても、育ちの差なのかな。これは。


「彩斗、弁当代払ってもらって悪いな。ご馳走様」
「いんや、気にしないで」
「ん、サンキュー」


キンジはそう言い残すと、そそくさとリビングを出ていってしまった。本当にアリアが苦手らしい。アリア相手に……というよりはHSSになったことに、罪悪感を覚えてるのかもしれないね。
キンジがリビングを抜け出るのとほぼ同じタイミングで、アリアは部屋の端に置いておいたトランクの取手を手にした。
何をするのだろう──と目で追っていると、ふと視線が合う。


「ねぇ、お風呂借りていい?」
「……好きにしていいよ」
「ありがと」


どうやらあのトランクの中身は、生活用品入れだったらしい。そうしてご機嫌そうに入浴へと向かうアリアの後ろ姿を見届けてから、俺は席を立つついでにゴミを捨てておく。
そのままキンジの後を追うように彼の部屋の前まで移動する。軽くノックをすると、すぐに中から声が返ってきた。


「何だ?」
「俺だ。ちょっと邪魔するよ」
「あぁ」


そう言ってから、キンジの部屋へと足を踏み入れる。綺麗に整頓された部屋は、キンジのおおまかな性格を示唆していた。
ベッドの上に寝転がって漫画を読んでいるキンジの近くに腰を下ろしてから、前置きも早々に口を開く。


「ねぇ、今朝のことなんだけど」
「……なんだ。チャリジャックか?」
「それも重要だけど、違う。キンジの白雪への態度だよ」


少しばかり強めの荘厳な口調でそう告げてやると、キンジは手にしていた漫画をベッドの脇に置いた。『何だと……?』と言いたげな視線を寄越してくる。真剣な話だと予感したらしい。


「朝早くからご飯を持ってきてくれる──この事実の有難味をさ、分かっていないでしょ。そもそもキンジは白雪に好意を向けられていることさえ、知らないだろうに」
「どうした、いきなり」
「面倒臭いから端的に言うね。幼馴染とはいえ、好きでもない子に女子は手作り料理なんかを持ってこないよ」


そこまで聞いたキンジは、何やら唖然とした顔をしていた。どうやらこの意味が飲み込めていないようだ。……いやはや、ここまで鈍いとは思ってなかった。どうしてこんなに鈍いのだろうか。
小さく溜息を吐く。もう少し分かりやすい表現にしてみよう。


「もっと分かりやすく言おうか。白雪は、キンジのことが──好きだ。だからこその行動なんだよ。それがなんだ、女子に対するHSSやら性的興奮やらに怯えて……。傍観している俺の身にもなって。早くカップル成立してくれないかなって思ってるよ」
「……もしかしてお前、怒ってんのか?」
「ある意味、まぁ、怒ってるよ」


そこで、これ見て。そう付け加えた俺は、武偵校の帰りに書店で買ってきておいた1冊の本を、制服の内ポケットから取り出す。
それをキンジに手渡せば、彼の露骨に嫌そうな顔が見れた。それもそうだろう。なにせタイトルは──、


「『片思い女子の取扱説明書』……おい、ふざけんなッ」
「あいにく、本気なんだよねぇ。どうあっても遠山キンジには件の幼馴染とカップル成立してほしいわけだ」
「勝手にお前の意向を押し付けられても、俺としては困る」
「君はいつまで白雪の好意を無視するおつもりで?」
「それは……まぁ、悪りぃと思ったよ」
「じゃあ、そういうことだよ。お話はこれでお終い」


しっかりと読んどいてね──と言い残し、リビングへと戻る。
本当にキンジは自分のことに鈍感だ。見ている方がつまらない。それならいっそ、後押ししてくっついてもらった方が簡単だ。白雪はキンジを好いているし、キンジも白雪のことを悪しく思ってはいない。好条件だとは、思うけれどもね。


「……どうなるのやら」


何がなしに呟いた。それに呼応するかのように、内ポケットに入れておいたケータイが通話着信を知らせる。宛先は──非通知。
受けるべきか暫し悩んでから、その通話を開始した。


『如月彩斗くん──だね? 少しばかり君に頼みがあるのだが』
「……頼み?」


受話器から聞こえてきたのは、若々しい男声。若い男にしては大人びた、それでいて、何かしらの威圧感を内包している声色。
それを聞き留めてから、その男の素性と彼の『頼み』とやらの内容を模索する。実に奇っ怪な要件だ。


『神崎・H・アリアくんに関する話なのだが、聞いてくれるかい』
「それは内容次第だね」
『なぁに、簡単なことさ。君には彼女を守ってくれさえすればいい。何事からもね。そうだね──報酬は前払いで、100万』
「っ……」


それなりの額で俺に『アリアを守らせようと』する彼は──いったい、何者なんだ。アリアを守るのは容易だ。だが……何の為に? その真意は? それが分かりさえすれば良いのに……。
推論を組み立てても見えない彼の真意に、焦燥が募る。前髪を掻き上げていることに気がついたのは、痛覚のおかげだ。


「お前は……何がしたい?」
『彼女のことが気にかかっているだけさ。だからこそ、現段階で彼女にいちばん近い存在であると予知した君に……僕はこうしてまで、連絡を寄越したのだがね』
「この話、信用して──いいんだね?」
『あぁ、勿論だとも』
「なら──承諾しよう」


彼の声色の表層にも裡面にも、虚言らしきものは見えなかった。むしろ真実の、それも何かしらの好奇心が見え隠れしている。アリアに対する好奇心。それと彼とに何の関連があるのかは定かではないが、話の限り第三者の監督が必要なのだろうか。


『交渉成立だ。報酬は後日に君の口座に振り込んでおくよ。詳細を教えてくれたまえ。詐欺ではないから安心して欲しい。……ふむ、了解した。夜分に邪魔して申し訳なかったね。それでは、僕はそろそろお暇するとしようか──』
「……待て。お前は──誰だ?」


僅かな間が空いた。その静寂は、すぐに打ち破られたのだが。


『僕のことかい? そうだねぇ……《教授(プロフェシオン)》とでも覚えてもらおうか』

 
 

 
後書き
更新少し遅れてすみません。(白目) 

 

最初の大舞台 Ⅰ

「──ってもな、自習ってダルいわ」
「くっそ分かる。何していいか検討つかねぇもん」
「まだ銃撃ってる方がマシだべ?」
「それな」


あちらこちらから聞こえてくるそんな声を耳に入れながら、教室の机に顔を伏せていた。自習時間の今は、担任である高天原先生もおらず、我がクラスは騒然としている。
しかしその騒然の中に、何やら違和感を覚えた。というのも、今日は依頼の関係で不登校の生徒も少なくはない。普段よりも、その騒然の度合いが低くてもいいはずなのに……。そんなことを思いながら、伏せていた顔を上げて周囲を軽く見渡した。

この人数でもこれだけうるさいんだね──と半ば呆れながら、隣の席を一瞥する。本来ならアリアが座っているであろうその席には、何故か、本当に何故か──今朝から理子が座っているのだ。「どうしたの」と問い掛けたら「気分!」と返されたので、今朝ぎり相手はしていない。

そんな気紛れな少女と、目線が合ってしまった。小さく笑い返された。こちらも真似をして微笑を返してみると、少し驚いたような理子の顔が、最後に視界の端に掛かる。

……そういえば、アリアはどうしたのだろうか。昨夜は空いてる部屋に泊まらせて欲しいと要請をしてきて、自分はそれに背いた。そのまま泊まりきりかと思えば──今朝に部屋を覗いたら、荷物だけは残して勝手に居なくなっているという始末だ。というわけになるから、昨夜っきり会ってない。

キンジはというと、特にやることもないのか、こちらを茫然と見遣っている。ところで昨日に渡した本を一通り読んだらしいのだが、内容が理解し難いという有難い感想をいただいた。
キンジの課題は、かの幼馴染と一線を超えることだろうか。それまでには、果たしてどれだけの時間を要するんだろうね……?

なんて考えていると、ふと、ケータイが振動する。どうやらメール着信らしい。端末を開いて宛先を確認しようとすると、キンジと理子がそっと画面を覗き込んできた。
宛先は──あれ、アリアだ。おかしいなぁ、相互登録した覚えなんてないんだけれども……。寝ている時に、勝手に部屋に入られたのかな。ちょっと怒る気も失せてきてしまった。

しかしその感情も、次の1文で微塵も残らず、打破されてしまったのだが。


「『強襲科のC装備に着替えたあと、女子寮の屋上までくること。15分越したら風穴』……? 何これ、強襲科からの新手の脅迫メールみたいで嫌だなぁ……」


……いや、そんな軽口を叩いている場合ではない。嫌な予感がする。脳が警鐘を鳴らすとは在り来りな表現だけれども、本当に聴こえるような気になっているのだ。今も、そうだ。まるで、大きな事案が発生するかのような──それも勿論、良くない方の。


「あっくん、行くの?」
「嫌な予感がする。早めに行きたいところだね」
「……気を付けろよ」
「うん、ありがとう」


心配してくれる2人に笑いかけてから、強襲科棟へと向かって《境界》で移動する。周囲の驚いた調子を、視界の端に掛けながら。出来るだけ小事でありますようにと、祈りながら。


◇


奇しくも、今日は雨。活動するに適した気候でないことは定かだが、万全を期さねばならない。
そうして自身の装備を確認しつつ、女子寮の屋上へと降り立った。アリアが指示したのは、C装備──TNK製の防弾ベスト。強化プラスチックのフェイスガード付きゴーグル。無線のインカムに、フィンガーレスグローブ。ベルトには、拳銃のホルスターと、予備弾倉が4本。
特殊部隊を彷彿とさせるこの格好は、いわゆる『出入り』の際に着込む攻撃的な装備だ。

降りしきる水の粒を手の甲で拭い取り、周囲を見渡す。居るのは、2人。 何やらインカムにがなり立てているアリアと、鉄柵に腰掛けながら狙撃銃を抱えて体育座りしている少女がいた。
珍しいメンバーもいるモノだ──と思えば、それと同時にアリアの着眼点に感心させられた。
ふと、その少女と視線が合う。こうしたのは数ヶ月ぶりかな、と思い返しながら口を開いた。


「……レキもアリアに呼ばれたのかい」
「はい」


返ってきたのは、いつも通りの抑揚の無い声だ。相変わらずだけど、直せと言っても難しいか。
とはいえこの少女──レキは狙撃科の麒麟児と謳われる、こと狙撃に於いては武偵校内で右に出る者は居ないほどの天才だ。その無表情さとミステリアスさ故に『ロボット・レキ』などと呼ばれているが、一部の人間には、彼女のその容貌というものが好評らしい。
そんなレキが装着しているヘッドフォンを、指で軽く叩きながら問い掛けた。


「そのヘッドフォン。いつも何を聞いてるの?」
「風の音です」
「……風?」
「はい」


そうとだけ言うと、レキは抱えていたドラグノフ狙撃銃を肩にかけた。そうして、流れるような動作でアリアへと視線を向ける。ちょうど通話を終えたらしいアリアが、2人に目線を遣った。


「時間切れね……。残念だけど、これでやるしかないわ」
「……何のこと? 今の状況は?」
「バスジャックよ。今朝、男子寮に停まったはずのやつ」
「……面倒なことになったね」


いつも自分たちが乗っているバスだ。とはいっても、今日は《境界》を使って、ホームールーム開始時間のギリギリまで部屋にいたのだが。功を奏した……とは、言い難い。
アリアは小さく頷くと、何やら思案げに話を続けた。

「もう1人くらいSランクが欲しかった所だけど、他の事件で出払ってるみたい。3人パーティーで追跡するわよ。火力不足はアタシと彩斗が補う」
「その犯人は車内に居るの?」
「多分、居ないでしょうね。そのバスには、爆弾が仕掛けられてあるから」


爆弾──その観念連合で導き出されるのは、武偵殺し。
その単語を聞いて、先日の光景が鮮明に回想させられてしまった。大破した自転車と、見に受けた爆風。あれをまともに受けていたならば、生死は危うかっただろう。
自分の考えていることを何やら感じ取ったのか、アリアはこちらに流し目をしながら頷いた。


「そう、これは武偵殺しの仕業よ。恐らく先日と同一犯ね。最初の武偵は、バイクを乗っ取られたわ。次に車。その次が彩斗とキンジの自転車で、今回がバスよ。武偵殺しは毎回、減速すると爆発する爆弾を仕掛けて、遠隔操作でコントロールしているの。 でも、その操作に使う電波にパターンがあってね。彩斗たちの時も、今回も、その電波をキャッチしたわ」


そう説明してくれたアリアの語感には、気位が満ち満ちていた。そうして、その気位に負けないほどの凄まじい轟音が、頭上から存在感を放っている。車輌科のヘリコプターだった。


「──乗るわよ」


アリアの合図を最後に、パートナーになってから最初の事件解決が始まったのだ。
 

 

最初の大舞台 Ⅱ

インカムで通信科から聞いた話によると、武偵高のバスは、いすゞ・エルガミオ。突如として男子寮前からどこの停留所にも停まらずに、暴走を始めたらしい。そうして、定員オーバーの60人を乗せたバスは学園島を1周したあと、青海南橋を渡って台場に入ったのだという。
……いやはや、何とも面倒だね──と嘆息しつつ、窓から見える武偵校舎、果ては学園島の全域を見下ろした。上昇を続けていくヘリの轟音の中で、アリアとインカムを通じて話す。


「……それで、武偵局と警察はどうしてるの?」
『動いてるけど、相手は走るバスよ? それなりの準備が必要だわ。だからアタシたちが動いた方が早いの』
「ふぅん、こちらの一番乗りってわけだね」
『当然でしょ。電波を掴んで、通報より先に準備を始めたんだもの』


得意げにそう言いながら、アリアは愛用らしいコルト・ガバメントのチェックを行っていた。あの銃は既に諸々の特許が切れているから、結構自由に改造がきく。
カスタムガンとして目立つのは、グリップについているピンク貝のカメオで、そこに浮き彫りにされた女性の顔は、どことなくアリアに似ている美人だった。家族だろうか。少し離れた親族だろうか。それは知る由もないが、血縁関係に当ることだけは、直感的に分かる。


『──見えました』


ヘッドホン越しに聴こえたレキの声に反応して、防弾窓に顔を寄せた。右側の窓からお台場の建物と湾岸道路、りんかい線が見える。……しかし、バスなんて何処にあるんだろうか。
しばらく窓硝子の向こうを凝視していると、目を細めている姿をレキに見られたのか、補足するかのように『彩斗さん、あそこです』と指で示して教えてくれた。


「あぁ、あれかぁ。ホテル日航の前を右折してるバスね。とはいっても、豆粒みたいな大きさだけど。よく見えるね」
『はい。窓に武偵高の生徒が見えます』
『よ、よく分かるわね……。レキ、視力いくつよ』
『左右共に6.0です』
『えっ』
「あはは、まぁ、初見だと驚くよねぇ……」


そんな会話をしている間にも、凄まじいローター音と共に、先ほどレキが言ったあたりにヘリが降下していく。バスは依然として他の車を追い越しながら、テレビ局の前を走っていた。運転手は恐らく一般人だろう。ともすれば、長引かせるのも危険だね。
これは恐らく、ここに居る全員が薄々勘づいてはいることだろう。だから、ヘリは速度を更に加速させていた。漂う雰囲気が、段々と張り詰めてきていた。


『空中からバスの屋上に移るわよ。アタシは外側をチェックするから、彩斗は車内で状況を確認でき次第、アタシに連絡して。レキはそのままヘリで、バスを追跡しながら待機ね』


「アリア、待って。それなら──」事前の作戦立案に割り込んだことに、だろうか。それとも徐に呼び止められたからだろうか、どちらかは分からないけれど、アリアは怪訝そうな顔をしていた。「もう少し安全な策があるよ」とだけ前置きしてから、二の句を次ぐ。


「こちらの陰陽術……《境界》で移動した方が安全だと思う。あれなら一瞬で車内に入れるよ」
『陰陽術、《境界》って……要するに空間移動の超能力みたいなもの?』
「認識が早くて助かるよ。それで、やる?」
『……そうね、やりましょ』


言い終えたところで、アリアがヘリの操縦士に何やら指示を出していた。そうして、開きかけていたヘリのドアが、再び閉じる。それが承諾の意であることは明々白々だった。
前衛の方針は決定したのだから、残るは後衛だ。とはいえ、レキが後衛を担う以上は、何らの杞憂すらも抱かなくて済む。これが彼女の実力で、そこから生まれた、信頼なのだ。


「レキ、後方支援は頼んだよ」
『分かりました』


レキにしては珍しく、意思を垣間見れる返答だった。もう杞憂も何も無いね、と判断してから──アリアを一瞥して、今いる場所とバスの内部とを、《境界》で繋ぐ。アリアにそこを入るように促してから、自分も後を続いた。そこはもう、バスの社内なのだ。

バスジャックされたことで、生徒たちはただでさえ混乱しているのだ。そんななかで、突如として2人の応援が来たならば──それも、ある種の変則的な方法で──この混乱は、動乱を招くことになる。言葉が四方八方に交錯しているから、何を言っているのかが碌に聞き取れない。ただ、その中で、かろうじて聞き慣れた声がした。力強い声だった。


「彩斗!」


声の主は、車輌科の武藤だった。いつもの磊落で諧謔的な調子とは遠い、焦燥に塗れた様だ。


「ちょっと話を聞いてやってくれ。あれだ。あの子」


駆け寄ってきた武藤が指をさす。その先は、運転席の傍らに立つ眼鏡の少女だった。
……見覚えがあるね。武藤と居る時にほんの少しだけ話したことがある、中等部の後輩だったか。そんな彼女は、携帯電話を両手に握りしめたまま、声を震わせて助けを求めてきた。


「大丈夫、落ち着いて。……どうしたの?」
「いつの間にか私の携帯がすり替わってたんですっ。そ、それが喋りだして……!」


『──速度を 落とすと 爆発 しやがります』


携帯電話のスピーカーから発される音声──その声色を聞いて、内心で合点がいく。確かに、アリアの言う犯人像と一緒だね。武偵殺しの模倣犯、と見ても良いだろう。


「アリアの言った通りだよ。このバスは遠隔操作されてる」
「やっぱりね。思った通りだわ」


アリアは得意げに笑みを浮かべているが──まだ、安堵してる場合じゃないだろう。アリアの言に従えば、このバスには爆弾が仕掛けられているのだから。ここから視認する限りでは、車内にも、その周囲にも、爆弾らしきものは見当たらない。ともすれば、死角にあるはずだ。


「レキ。そこから車体の下を覗けるかい? 何かがあると思うんだ」
『……はい、ありました。C4らしきものです』
「容量は?」
『目測ですが、3500立方センチほどはあるかと』


──3500立法センチ。その量に、アリアと顔を見合わせて動揺しているしかない。
裏を返せば、予想以上のことを、この騒動の主犯者は仕出かしてくれたのだ。流石に異常すぎる。爆発すれば、電車やバスなんて簡単に吹っ飛んでしまうだろう。


「まずいね……」


この状態から車体に張り付いて剥がすのは、正直なところ、危険だね。何故なら──


「レキ、そこから解体しろとは言わない。……剥がせるかな。君の、狙撃で」
『……分かりました』
「うん、頼んだよ」


──真っ赤なスポーツカーが、運転席にUZIを載せて、バスの後ろに追走しているのだから。
そうして、咆哮にも似たエンジン音と共に、そのスポーツカー──ルノー・スポール・スパイダーはバスと並走するような形に移動する。 同時に、UZIの銃口がこちらに狙いを向けた。引き金は既に半分が引かれているように見える。今から全員を伏せさせるのは間に合わないだろう。
それならば、こちらの方が、早い。一刹那にそう確信し、即座に掌を向けて横凪ぎに翳した。


「皆、伏せて!」


叫ぶと同時に、無数の銃弾が、バスの窓を標的にUZIの銃口から放たれていく。しかしそれらは全て、つい今しがた展開させた《境界》によって、跡形もなく消え失せていた。
しかし安堵する暇はまだ無い。ベレッタを抜きざまに、別に展開させた《境界》の中へと撃ち込む。その直後に爆発音を伴って、目の前のUZIは銃口ごと破壊された。
それでもまだ、安堵する暇は無い──が、ここでの最善手が、レキなのだ。

徐にイヤホンから聞こえてくるのは、乾いた銃声だった。それと同時に、レキが乗っているヘリからマズルフラッシュが焚かれたのが分かる。よく目を凝らして見ると、どうやら彼女は片膝立ちの状態から発砲したらしかった。あの不安定な、風の影響を満遍なく受けながら。
しかしルノーは唐突にその並走を止めると、その場で回転してしまった。先程の狙撃で、レキがタイヤに穴を開けたのだろう。何回転かするうちにはガードレールに衝突していた。


「……流石は神童だね」


『──有明 コロシアム の前を 右折 しやがれ です』


例の女子生徒が持っている携帯から、ボイスロイドの声が聞こえてきた。 運転手はそれに従うようにして、ハンドルを回す。依然として速度を落とさず、正確な運転を保ちながら。
早急に爆弾を剥がしてもらいたいところだが、往来には車通りも少なくはない。ここで敢行するというのも、文字通りの『敢行』になってしまうだろう。どうしたものか……。



「アリア、この先に開けた場所はある?」
「えっと──1つだけ。今、通信科から連絡がきたんだけど、レインボーブリッジ付近は通行止めになってるみたい。警視庁が手を回したのね」
「……そこが勝負だね。レキを信じるしかない」


今、この状態で民間人に対する防護壁となるものは、何一つとして絶無だ。だから、確実に決められるのは──そこだけだ。こればかりは本当に、レキを信じる他には無いのだから。
バスはそのまま予定通り、レインボーブリッジへと走らせていく。そうして、最初で最後の、絶好の狙撃ポイントを迎えていた。車内に居る全員が祈るようにして待機している中に、突如、声が聞こえてくる。これもまた、聞き慣れた──あまりにも有名な言葉が。


『──私は、1発の銃弾』


これは、レキが狙撃する時の癖だと言われている。


『銃弾は人の心を持たない。故に、何も考えない──』


狙撃の精度を高めるルーティーンだとも、また。


『──ただ目的に向かって、飛ぶだけ』


そんな詩のようなものを呟き終えた、直後だった。聞こえた銃声の後に、一拍遅れて、車体への着弾の衝撃が伝わってくる。何かが落ちる音も聞こえた。これが爆弾なのだろう。
次いで、甲高い音もこの一帯に反響した。銃弾が爆弾の部品か何かを掠めたのだろうか──そうして飛び跳ねた爆弾は、レインボーブリッジの中央分離帯、その更に下へと落ちていく。
水中に沈みこんだそれは、辺りの水を押し上げるようにして、轟音を伴って爆ぜた。水飛沫がバスの車体に飛び散っていく。それを合図にバスはだんだんと減速していき、遂には、レインボーブリッジの中間あたりで止まった。止まったと自覚したのは、周囲の歓喜を聞いてからだった。


「──っ、良かったな彩斗! お前たちのおかげだっ!」


その車輌科には似合わないほどに太い腕を、武藤は首に回してきた。焦燥も何も無い。いつもの磊落な調子に戻っていた。彼にはこれがいちばんお似合いだ。
「うん、良かったね」と軽く苦笑しつつ、周囲の歓喜に揉まれているアリアに視線を向けた。アリアもそれに気が付いたようで、何とも言えないような苦笑を返してくれる。
自分の言いたいことは煩い車内ではどうせ聞こえないだろうから、読唇してもらおう。


──ありがとう。


アリアの反応を確認せずに、レキと話をしようとしたのは、ちょっとした羞恥心から逃れたかったためなのだろう。我ながら素っ気ないなと思ってしまいながらも、口は開いてしまっていた。


「レキ、本当にありがとうね。君のおかげで助かったよ。後始末は鑑識科や探偵科に任せるから、君たちはもう引き上げてもらって構わないから。負傷者が出なかったのは幸いしたね」
『……分かりました。では』


短く言い残して、レキは通信を切った。ヘリも航路を引き返している。
大事にはならなくて良かったね──と、今度こそ本当の安堵に浸っている中に、誰かに指先を引っ張られたように感じた。何だろうかと視線を寄越せば、どうやらアリアらしい。
彼女はおよそ普通の女子高生のような仕草で、羞恥心を押し留めたように、人差し指で口元を示している。読唇したところ「口のところ見てて」と告げてきた。


「あのね──、ありがとう」


気恥しそうに笑みを零している様が、子供のようで可愛らしかった。 
 

 
後書き
昨日更新できなくてごめんなさい。(白目) 

 

生半可な存在《モノ》じゃない

ソファーに寝転がりながら、天井を仰ぎ見る。視界の端に引っかかった時計の針が示している今の時刻は、12時47分だった。普段なら武偵校は授業やら昼休みやらの時間だけれど、先のバスジャックの解決者、或いは被害者は、こうして大人しく自宅謹慎という指示を出されたのだ。
そのため、キンジはまだ武偵校に居る。アリアは……何処に行ったんだろう。強襲科に装備を戻しに行ったまでは一緒だったけど、その後は別行動になったから後は知らないね。

小さく嘆息をしながら、額に手を当てた。疲弊した脳を癒すために──そうして同時に、その脳を酷使すべく──一連の騒動の主犯者を、どうにかして見つけ出すためにも。
それをある種の心理的抑圧(プレッシャー)として脳が認識したならば、これから行う推理には非常に都合が良く働いてくれることだろう。まずは始業式のチャリジャックに思考を向けた。

自分たちが狙われたチャリジャック。あれは、明らかに武偵殺しの模倣犯などという《《生易しい存在》》ではないと言えるだろう。数十台のセグウェイにUZI、ひいては高級車のルノー・スポール・スパイダーなど──手が込みすぎている。財力を、掛けすぎている。その時点で、模倣犯という線は、自分の中では消えていた。あれは確実に、如月彩斗や遠山キンジという、有力な武偵を殺すための計画だ、と。そう判断していた。

──平生と比較しても、思考の感覚がだいぶん明瞭になっているように思える。脳に届いてくる雑音も減った。まだ掛かりは甘いけれど、このまま続けていれば、大丈夫だろう。

有力な武偵を殺すとするならば、何の為に。何を目的として、武偵殺しは動いたのか。世間の注目を浴びたいだけの愉快犯か。或いは、それを身に浴びた上での、何かしらの要求だろうか。前者とするならば、こういった愉快犯の類には罪科愛好(ペックアティフィリア)の気質があることも少なくはない。後者であるならば……ある意味をして、聡明と言わざるを得ないね。
爆弾の扱いに長け、多大なる財力を有し、こうして武偵のみを狙う悪質な犯罪者。放っておけないのは事実ではあるが、その素性が分からないのもまた、事実なのだ。

──脳内の感覚が、途端に明瞭度を増した。周囲にあるはずの雑音も絶無だ。流動しているのが時間なのか、はたまた自分だけなのか、それを自覚するのも面倒だった。
ただ分かるのは、この状態が俗に言う『ゾーンに入る』ということだけである。正確には、心理学者のチクセントミハイが提唱した、忘我状態(フロー)。この状態では、脳内伝達物質のエンドルフィンが分泌されることで、ストレスの鎮痛を図れるのが恩恵だろう。そうして、恣意的に脳の回転数を上げることで、心理的時間としての感覚を長期的に持続させているのだ。

忘我状態の中で、出来る限り推論を続けていく。武偵殺しは、その表層的な素性の中にヒントをありありと浮かばしているように思えて、仕様がなかったのだ。先日のセグウェイもそうだ。鑑識科に鑑定を任せてはいる、と理子からは聞いたけれども、それは果たしてどうなったのだろうか。学校が終わったあたりに訊いてみようかしら……などと考えてみる。

すると徐に、玄関扉の開閉音と足音が聞こえてきた。歩幅の感覚も短いし、そこまで音も反響しないということは、身軽な女子だろうか。だとすればアリアか、或いは──、


「ちょりーっす、理子りんのお出ましだよーっ!」


リビングの扉を勢いよく開け放った『理子りん』こと峰理子は、何やらいつも通りの珍妙な格好で挨拶をしてから、小走りにこちらへと歩み寄ってきた。一体どんな御用向きだろうか。
取り敢えず上体を起こして、ソファーに理子が座れるだけのスペースを確保してやる。「どうぞ、まずは腰掛けて」と手招くと、空いたそのスペースに理子は迷いなく座った。
そうして、どこからか取り出した小型のタブレット端末を手にして、


「さて、ここだけの話をしようっ!」
「……何のこと、いきなり押し掛けてきて。そもそも君はまだ武偵校に居る時間だろうに。というか、そのタブレットはどうしたの。何か重要なことでもあるのかい」
「ちょっと伝えたいことがあるから抜け出してきた。タブレットは情報科に貰ったの」


伝えたいこと──? 何のことやらと首を傾げると、理子は『待ってましたっ!』と言うかのように、タブレットの画面を見せてくる。そこには、かのSランク武偵である神崎・H・アリアの顔写真が貼付されており、その下にはプロフィールと思しき文の羅列があった。


「理子が調べたんだー。知りたいでしょ? アリアのこと」


理子はそう問い掛けてきた。口角を僅かに上げさせた、どこだか悪戯をする子供のような、そんな容貌に見える。それは果たして深読みなのだろうか。まぁ、どちらにせよ……だろう。
しかし理子のことだ。仮にここで背いたとしても、無償でこの情報を提供するほど馬鹿ではないだろう。有益なものには、それ相応の対価がついて回る。武偵はそれを、痛感している。


「……何をすればいい?」


峰理子は──変わり者の多い武偵校の中でも、目立って変わった存在だ。良くも悪くも。しかし、こと情報収集に於いては、秀でた才能を見せてくれる。それこそ、盗聴。盗撮。ハッキング。ネットに関しての知識は人一倍だろう。だから、その情報1つに価値が生じる。


「でも、理子はお礼なんて何も要らないよ?」
「えっ?」


あまりにも予想外だった返答に、衷心から素っ頓狂な声を出してしまった。何故だか理子も不思議そうな顔をして、「うん?」と小首を傾げている。


「えっ、なんで? 理子が調べて得た情報でしょ?」
「うん、そうだけど」
「それなら尚更、価値があるでしょう」


おかしい、どうにもおかしい。対価がついて回る──のは、誰であろうと知っているはずなのに。そこを敢えて無償でこちらに提供しようとする、理子のその姿勢の真意が、分からない。
それでも理子は、気の抜けたような顔をしていた。「ううん、違うよ」と首を横に振っている。


「だって、あっくんはその情報を悪用するとかじゃないでしょ? 悪用するなら理子が調べたぶんの報酬は貰うけど、これは理子の勝手な善意だもん。あっくんがアリアのことを気にかけてるみたいだったから、どうせなら教えてあげようかなー、って。午前中もバスジャックの事件をアリアと解決したっぽいじゃん? もしかしたら今度も一緒に依頼とかやるかもだし」


理子の身勝手な善意──その言葉が、どうにも気になっていた。違和感にも似た、それでいて酷似しているまた別のもののような、そんな気がしていた。
しかし理子の口ぶりを見るに、自分とアリアとがパートナーとして武偵活動を始めることは、まだ知らないらしい。まぁ、それは公言せずとも時間の問題だろう。アリアと一緒に居る時間が増えれば、良かれ悪かれ、色々な噂は立つだろうから。その時はまたその時だ。


「それじゃあ、うん、有難く貰っておこうかな。……でもね」
「でも?」
「やっぱり、少しくらいは何かお礼させて。貰いっぱなしだと悪いから」
「うーん、どうしよっかなぁ……」


どうしようどうしよう、とひとしきり考えた結果、どうやら理子のなかで答えは出たらしい。およそ物を強請るような子供の表情をしながら、それでもご機嫌そうに笑いながら言った。


「キーくんと、星伽白雪……ゆきちゃん? がカップル成立するのを見ていたいなぁー、って。キーくんから、『彩斗に怒られた。やらなきゃな……』って今朝に言われたもん。面白そうだから見てていい? いいでしょ? たまにはちょっとアドバイスするかもだけど!」


こういうところが、如何にも峰理子らしいといえば、らしいのだが。

「じゃあ、それで交渉成立だね」
「おぉ、やったぁっ! いぇーいっ!! はいたーっち!」


理子に言われるままに手を重ねた。軽快な音が掌から弾けていく。張り詰めたようなちょっとした痛みと、少女らしい肌の滑らかさと温もりとを、いっぺんに感受した。
そうして、理子からタブレットを受け取り──その中身を、見る。文章としてかなりの情報量を含んでいるそれは、今の現状でいちばん、アリアのことを理解するに相応しいものだった。 

 

情報の真価

理子から受け取ったタブレットは、端末の重量とは別の重量を内包しているように思う。それは画面いっぱいに記された、神崎・H・アリアに関する情報のぶんだけの重みだった。これだけの情報を何処から集めてきたのかは定かではないけれど、今の自分には、必要なものだろう。単なるクラスメイトとは別になる、云わば『武偵活動のためのパートナー』としての。


「……へぇ、そうなんだ」


『身長142センチ、体重34キロ、誕生日は9月23日、血液型はO型。ピンクのツインテールに小学生のような体型で、赤紫色の瞳の美少女。好物は桃の形をした饅頭「ももまん」。雷と泳ぐことが苦手であり、直情的で子供らしい性格を持っている──』
文章を目で追っていく。今回は速読はせずに、一語一句をそのまま記憶として定着させたかった。何度も何度も心の中で読み返しては咀嚼して、また次を読み返していく。その中にあった1つに、また意識を向けた。直感的にここは重要だなと、何かしらを感じたから。
『専門科目は強襲科で、Sランク武偵。特技は銃剣術及び徒手格闘。バーリ・トゥードを主とする。数多くの優秀な実績から「双剣双銃(カドラ)のアリア」の二つ名を持っている』


二つ名は誰にでも付けられるわけではない。公式だろうと非公式だろうと、それ相応の実力と実績に伴って付けられるのだ。名が広まれば自ずと注目を浴び、二つ名というものは世界的に定着されていく。アリアという少女は、それほどの逸材なのだろう。英国──ロンドンでは。
続く1文で、背のあたりに震懾に、悪寒が走るのを感じていた。
『14歳からロンドン武偵局の武偵としてヨーロッパ各地で活躍し、狙った相手を99回連続、かつ武偵法の範囲内で全員捕まえ、その間1度も犯罪者を逃がしたことがない』


「いやいやいやいや……、有り得ないでしょう……」
「凄いでしょ? 理子も最初見た時はびっくりしたなぁ」
「……俄には信じ難いね。それじゃあ二つ名が付くわけだ」
「あっ、あとね。もう1つ面白い情報があるんだけど……」


そう言って、理子は画面をスクロールさせていった。
『──母親が日本人、父親が英国人とのハーフで、彼女自身はクォーター。祖母はDameの称号を持っている。父方は高貴な一族であり、H家と称している。また、腹違いの妹がいる』


「ねぇ、このDame(デイム)の称号っていうのは?」
「うーんとねぇ、英国貴族に与えられる称号かな」
「……っていうことは、なに。アリアは貴族の嫡流ってこと?」
「そうそう、そういうこと!」


「ヤバい子だよねー、アリアって」理子はそう苦笑しながら、何がなしに壁掛け時計に目線を遣っていた。そうして、そろそろ戻らなければならないと思ったのか、身軽な動作でソファーから立ち上がると、こちらに手を振りながら挨拶だけ残していく。


「じゃ、理子はここでバイバイなのですっ。また明日っ! そのタブレットはあげるね!」
「うん、ありがとう。道中は気を付けて」



◇


理子が去った後もそのままタブレットを眺めていると、そこにはアリアのプロフィールだけではなく、先日に鑑定を頼んだセグウェイに関しての結果も記してあった。市販のセグウェイには、スピーカー、流通品のUZI、遠隔操作の電波受信機、そうして当時の読み通り、あのセグウェイには諸々のセンサーも取り付けてあったらしい。温度感知センサーと、物体移動感知センサーの存在、その2つがこの鑑定で明らかになった。この情報は、大きいね。

すると、不意に扉の開閉音がした。画面から顔を上げてみると、どうやらアリアが帰宅したところらしい。「お疲れ様、何処に行ってたの?」と問い掛けると、「ちょっと捜し物をしにね」と返ってきた。少しだけ、はぐらかされたような気がする。捜し物とは何だろうか。


「それより、彩斗こそどうしたのよ。タブレットなんか見てて。……あれっ?」


俺がタブレットで何を見ているのか疑問に思ったらしいアリアは、ちょうど背後に回ってくるようにして、その画面の中を覗き込んでいた。そうして、気が付いたようだ。
「アタシのプロフとセグウェイの鑑定結果じゃない。誰かに貰ったの?」と問い掛けてきた。


「うん、探偵科の理子にね。タイミングもタイミングだし、ちょうど良かったよ」
「ふぅん……。勉強熱心ね」


アリアはそう呟くと、そのままソファーの背もたれを飛び越えて、自分の隣へと腰掛けた。小さく伸びをしている彼女の姿を一瞥してから、タブレットを机の上に置いた。同時に、いま隣に居る眇たる一少女が、天才と高貴とを兼ね備えた少女であることに、内心で戸惑っていた。


「ところで彩斗って、ご両親はどうしてるの?」


アリアは不意に、そう問い掛けてきた。その言葉の裡面に、何を潜ませているのか。そもそも何故、このタイミングでその問いをぶつけてきたのか。彼女が今しがた帰宅したことと、何かしら関係があるのではないか──暗に勘繰りながら、それを気取られないように答える。


「えっとね……2人とも死んだよ。父は警察庁の公安でね、そこで殉職した。14才の頃かな。母もその翌年に病死。どちらにしても、武偵中に入りたての頃だったと思う」
「あっ、えっと……そう、なのね。……なんか、ごめん」
「別に気にしなくていいよ。それに──訊きたいことがあるなら、直に訊けばいい」


アリアの顔色を観察していて分かった。表層的には驚いたように、きまりが悪いように見せているけれども──純粋な驚きとは掛け離れているように思えた。そうして、この話題はブラフだろう。本命を探るための外堀がこの話題だ。アリアの本命は、別にある。そう確信していた。
「じゃあ、訊くけど──」そこまで彼女は言い終えて、言い淀んでいる。それでも訊くための意を決したのか、その赤紫色の瞳でこちらを見据えてきた。「38代目、でしょ?」


「如月姓──父方は代々から国家公務員の家系らしいわね。お父様も、お祖父様も、曾祖父様も、みんな当時の国家公務員に就いてる。如月一族はエリート一家なのね。まぁ、それだけでも充分なんだけど、面白かったのはこっち。母方は──本家があの安倍大社で、氏は土御門を名乗ってらっしゃるでしょ。安倍大社は安倍晴明公を祭神にしているところで、土御門家は安倍晴明の嫡流。安倍晴明の直系で系譜を見た限りでは、如月彩斗はその38代目になるわ」


「どう、合ってるでしょ?」いつもは上がっている眦を、今ばかりは下げながら、アリアはそう詰問してきた。本人からすれば答え合わせのつもりなのだろうが、こちらからすると取調べに近しかった。むしろ、ここまで調べを付けていたとは、思ってもいなかったのだ。それと同時にやはり、この子の情報収集能力に感心させられてしまった。否、裏を返せば、ここで済んで良かった──と、そう区切りを付けるべきだろうか。「うん、正解」と答えるのが、関の山だった。


「ヘリの中で、陰陽術の話をしてくれたでしょ。それがヒントになったの」
「まぁ、せっかくパートナーになったのなら、隠しても意味は無いしね。それでも……本家のことに関しては、必要最低限の露呈しかしないつもりだよ。如月彩斗が38代目だというのも、現段階ではキンジと君しか知らないわけだから。内密にしておいてくれるかな」


本家、土御門家、安倍晴明公の嫡流──これらは全て同一視すべきものだ。そのなかで世俗に対して完全に隠匿すべきこと、というものは、少なからずある。必要最低限、受動的な露呈というのも、また。その反面、露呈しても構わないようなこともある。主には安倍大社のことだ。
そうして、自分が38代目安倍晴明だということは、必要最低限または受動的な露呈になる。この情報を悪用されると、本家の本質にさえ手が届きかけてしまうのだ。だから、人を、選ぶ。


「君に露呈させた時点で、もう君のことを信用していると言っても過言ではないからね。アリアが何のために自分をパートナーにしたかは知らないけれど、可能な限りは手伝うよ」
「ふふっ、ありがと。優しいのね」
「優しくないよ。普通のことをしているだけ」
「それじゃあ、ただのお人好しね。武偵としてもお人好しでしょ? ほら」


笑いながらアリアがポケットから取り出したのは、4等分に折られた1枚の紙だった。そこには自分が1年次に受けた依頼の総解決数と、学年順位が掲載されている。
『2-A 如月彩斗 専門科目:強襲科
1年時解決依頼及び事件:58件。(強盗・密輸・潜入等)
総解決数:58件。強襲科学年1位』
うん、まぁ……お人好しですよね、としか返す言葉が見当たらないかな。自分でも便利屋よろしく依頼を受けていたなぁと思うから、やっぱりお人好しな気質があるのかもしれない。

言い返す言葉も無いので苦笑していると、唐突にリビングの扉が開く。アリアと揃って視線を向けると、授業を終えたらしいキンジが帰宅したところだった。臙脂色の制服姿で、鞄を手に提げながら、さも面倒臭そうな顔をしている。「おかえりー」と挨拶してみると、「あー……あぁ、ただいま」と返ってきた。君は勉強してきただけなのに何が面倒臭いの。


「……ところで、神崎はいつまでここに居るつもりなんだ」
「ずっと居るつもりだけど」
「はぁ……?」


まぁ、確かに自分も気になってはいたことだけれども──何となくアリアがそう答えるだろうなぁ、というのは、予想がついていた。そもそも昨夜から今朝にかけて姿を見せずに、昼間になってから気侭にここに戻ってくるあたり、もう拠点にされているのは間違いないだろう。


「別に英国じゃ、パートナー同士が同棲することなんて普通よ?」
「パートナー、って……。誰とパートナーになったんだよ」
「ここに居る如月彩斗と、だけど。ねっ?」


そう言って、アリアは笑いかけてきた。色々と誤解を産むような言い方は止めてもらいたい。
けれどもまぁ、相手がキンジなら、別に問題は無いかな。今だって、よく分かっていなさそうな顔をしているし。アリアと武偵活動のパートナーになったことは、後で伝えておこう。 

 

標的は──?

『──預金金額を指定の後、お金を入れて下さい』
淡々とした機械音声を耳に入れながら、封筒の中にある札束を取り出した。およそ10万円と少しの額を指先で摘んでから、温風を吐き出しているATMの紙幣投入口に入れてやる。これらは先日のバスジャック解決者に給与されたもので──いわば、依頼の解決金。それが教務科から現金郵送されてきたのだ。恐らくはアリアやレキのみならず、車輌科や鑑識科も同様だろう。

そうして預金を済ませてから、通帳の明細を確認した。今しがた預金した10万円弱の他に、100万円が振り込まれている。何処から流れてきたのか──と訝しむのも、一瞬だった。
始業式の日に電話をしてきた、彼の者──教授と名乗っただけで、それ以外は知らない。自分に対してアリアを守って欲しい、と、そう要求してきたのみなのだ。依頼金に100万円を寄越して、如月彩斗という一武偵を利用している。何がしたいのやら……。

──まぁ、成すべきことを成すだけ、だろう。



◇



リビングの扉を後ろ手に閉める。ソファーに腰掛けながら、アリアは優雅に珈琲を飲んでいた。彼女の他には自分以外に誰も居ない。俺が帰宅したことに気が付いたらしいのか、彼女はすぐにティーカップから手を離した。「おかえりなさい。何処かに寄り道でもしてたの?」


「うん。先日の事件の解決金をね、ちょっと口座に振り込んできた」
「ふぅーん……。あっ、そういえば理子が来てるわよ。キンジと一緒に部屋で何かしてる」
「そっちの方が話するのに都合がいいかもね。特に、理子は」
「……なんで?」


「まぁ、まずは武偵殺しの件について話そうか」そう前置きをしてから、アリアの隣の席に腰掛ける。武偵殺しと聞いただけでも彼女は、いつもより強い関心を見せていた。
アリアが自分をパートナーにしたこと。そうして会話の端々から滲み出ている、武偵殺しへの追求。これら2つを重ねると、武偵殺しを逮捕するために如月彩斗をパートナーとして、戦力の増強を図っているのではないか──今の段階では、そう仮定している。


「……ところで、おかしいと思わないかい」
「何が?」
「武偵殺しが、俺やキンジの自転車に爆弾を仕掛けることができたという点、だね」
「でも、武偵殺しの犯行は無差別じゃない。偶然っていう可能性も──」
「勿論、あるだろうね。しかし、その説はいったん置いておこう」


武偵殺しが、恣意的に2人を狙ったとするならば。まずはこの仮説が重要になる。


「登校する際の俺とキンジの移動手段は、3つある。《境界》と、バスと、自転車だ。多用する順番に並べてみたよ。その3つの中で見事に自転車と判断できたのは……何故だろうね? 決してあの朝に奇襲をしなければいけないわけじゃないから、仮に《境界》で登校しようと、下校時に奇襲すればいいわけだ。俺は、下校時は徒歩で帰ることが多いからね。バスで登校するならば、先日の時みたくルノーにUZIでも載せればいい。そちらの方が武偵殺しらしいかな。自転車で登校するとなれば、それもまた、今回のように奇襲が掛けられる」


バスジャックの犯行がいちばん無差別的な武偵殺しらしい、とは言えど──それが自分とキンジを狙う理由にはなりはしないのだ。そもそも武偵殺しの標的は、自分たちではない(・・・・)。
そんな意図を言葉の裡面に潜ませながら、これらを総合して俯瞰するべく二の句を次いだ。


「しかし、どうであれ──武偵校まで《境界》で行くのか、バスで行くのか、自転車で行くのか。それらを把握するには、何かしらの工作を行わなければ不可能だよね。盗聴、ハッキングといった類がもっとも分かりやすいかな。……生憎、今はそれらの有無は分からないけど、仮定の1つとしてのキーワードを作り出せること、そこから実行犯を探し出せることには変わりないだろうね。重要なのは、武偵殺しの狙いだよ。この話の本質は、そこにあるの」
「……武偵殺しの、狙い? だってさっき、犯行は無差別の可能性もあるって言ったじゃない」
「うん、確かに言ったよ。ただ、武偵殺しが恣意的に2人を狙ったのか、或いは無差別に狙ったのか、どちらにせよ、武偵殺しの意を解することは出来る」


武偵殺しが動機の仮面に無差別という名を着けて、様々な武偵を狙ってはいるのは、恐らくは本質である彼女(・・)を狙うことを悟られないようにするためだろう。武偵殺しの標的は、武偵殺しそのものにとって撒き餌の餌でしかない。彼女(・・)を誘き出すための、餌でしか。


「これだけは分かっておいて。狙いは……アリアでしょうね」
「……えっ。アタシ?」


人差し指で自分自身を指さしながら、アリアは呆然とも唖然ともとれる表情を見せた。それもそうだろう。敵を追い続けているはずの自分が、まさか敵の撒き餌に食い付いて、その敵の残した幻影を追い続けているとは夢にも思うまい。だからこそ、今までが危険だったのだ。


「いちばん初めに武偵殺しが動いたのが……いつだったかな。まぁ、代表例としても──数ヶ月前の、アンベリール号だろうね。覚えてる? メディアにも大々的に報道されたやつだよ」


2008年12月、豪華客船アンベリール号が沈没したという報道が地上波を駆け巡った。沈没の原因は不明であり、救出された一部の乗客によって爆発があったことが、その後に明らかとなったとはいえ、それが人為的に起こされたものか、或いは船体そのものの異変によって引き起こされたかものなのかまでは、とうとう誰も分からなかったらしい。このアンベリール号沈没事件は、とある一人の武偵を除いては乗船していた全員が無事だったのだ。

そのとある一人の名を、遠山金一という。遠山キンジの兄だ。沈没事件から生還した者曰く、行方不明者となった彼は、乗客員が動乱に塗れるなかで自主的に避難誘導を行い、自らの危険を顧みずに次々と救助していったという。如何にもドキュメンタリー番組にありそうな展開だった。
しかし現実はそんな生易しい話ではなかった。生還者の証言があるにも関わらず、どこをどう間違えたのか、メディアは遠山金一に大々的な批難を押し付けたのだ。
『同じ船に乗り合わせていながら、事件を未然に防げなかった無能な武偵』と。その矛先は彼のみならず、遠山家にまで及ぶようになった。キンジも、その被害者だった。


「それ以降に姿を現さなかった武偵殺しが再度確認されたのが、始業式の日のチャリジャックになるね。セグウェイに、UZIに──あのセグウェイも、備品はただのセグウェイじゃなかったよ。模倣犯にしては手が込みすぎてるし、確実に殺す為の兵装を整えてた。チャリジャックの際にアリアが救出に来てからというもの、武偵殺しは活発化したね。バスジャックも早めの行動が功を奏したものの、車体に仕掛けられていたC4も、確実に人を殺すためのものだろう?」


ここから分かるのは──。そう切り出す。


「武偵殺しがアリアを誘き出し、罠に嵌めたということ。罠と形容するからには、君自身に何かがあるはずだよ。武偵殺しを逮捕しなければならないほどの、重大な事案がね」


実に武偵殺しは聡明な人間だろう。自らの動機を、糊付けした仮面で綺麗に隠せていたのだから。それでいて動機を遂行するために、誘き出すための絶好の餌を、自分自身で用意できていたのだから。それでも過去を辿ると、小さい綻びを生んでしまっていた。
そうして、自分の中で武偵殺しが誰だか、仮定ではあるものの予想が付いてしまっていた。だから、その名を厳粛に告げる。直感混じりの推理にしても、納得のいってしまうその名を。自分たちの身近な存在で、かつ、工作活動が得意な人間ともなれば──思い当たるのは、1人。

とはいっても、まだ曖昧なのだ。酷く曖昧で、不鮮明で、パズルのピースにも成り得ない。
それでも、仮定としては十分すぎるのだから──暫くは、泳がせてみるかな。


「武偵殺しは、探偵科の峰理子。あの子だと思うんだ」 

 

武の論立者

アリアに行った推論の論説から、その翌日を迎えていた。自分はキッチンに立って朝食を作りながら、アリアはいつものように珈琲を飲みながら、めいめいに朝を過ごしている。キンジはまだ寝ているらしく、起きてきてはいなかった。休日だからというのもあるだろう。
そんなところでアリアと自分とは、キンジに昨日の論説を伝えるべきか──或いは伏しておくべきか、その選択肢の狭間で煩悶していた。そうして前者を執るべきだと、決意してもいた。

自分も含めてキンジもまた、峰理子と面識がある。彼女を武偵殺しとして仮定した以上は、彼女の前で下手なことは出来ないのだ。それを防ぐためにも、理子との付き合いは考えなければならない。無論、彼女が武偵殺しでないと判明した時に、支障が出ない程度には。
取り敢えずキンジを待ちながら、片手間に朝食を盛り付けていった。それを殆ど終えたあたりになってようやく、リビングの扉が開かれる。寝間着を羽織ったまま、寝癖を手櫛で梳かしながら、人差し指で腹部を掻きながら「……おはよう」とだけ声を洩らしていた。


「うん、おはよう。随分とお寝坊さんなところで早々に悪いんだけれど、少し話があるんだ」
「……何だよ、朝っぱらから。重大事でも起きたのか」
「まぁね。取り敢えず、朝食の前に話しておこうと思って。ほら、座って」


そのままキンジをダイニングテーブルの椅子に誘導すると、向かいに座っていたアリアも佇まいを改めさせた。俺も準備の手を止めて、自然に話せる距離にまで足を進めておく。


「昨日、彩斗が武偵殺しに関しての独自の推論をしたの。それで……まだ、まだ仮なんだけど、真犯人っぽいのが誰か分かっちゃったわけ。今からそれを順序立てて伝えるわ。本当はキンジに伝えようか迷ってたんだけど、彩斗と話し合って決めた。だから、よく聞きなさい」


そう言って、アリアはその赤紫色の瞳をこちらに向けた。論説しろという魂胆だろう。


「……それじゃあ、説明するね。昨日アリアに説明したことと同じ流れでいくよ。まず、キンジと俺は武偵殺しの被害者になっちゃったわけだ。君は、自分が武偵殺しの被害者になったことをどういう風に捉える? 難しく考える必要は皆無だよ」
「そりゃあ、武偵殺しの犯行は無差別なんだろ? 運が悪かっただけだ」
「うん、そう考えるのが最も自然でしょうね。……けれど、そうであるならば何故、武偵殺しは──俺たちが当日に自転車登校をするということを見越せたのかな? それ以外の可能性がある中で、ピンポイントに武偵殺しは、自転車に爆弾を仕掛けていた」


「それだって、無差別じゃないのか」キンジは重ね重ねで言う。「じゃあ、自分たちの登校する時の手段を、多用する順番に並べてみよう」そう返した。アリアにもそうしたように。


「彩斗の陰陽術、バス、自転車……か?」
「正解。圧倒的に使用頻度は《境界》の方が多いよね。けれども武偵殺しは、自転車に
爆弾を取り付けていた。けれども、俺たちが自転車に乗らなければ、武偵殺しの計画は空振ることになる。それは彼の者の手順としては似つかわしくないよね。武偵殺しは奇襲的に行動を起こすんだから、計画そのものが空振りを迎えてしまっては、どうにもならない」
「それじゃ、武偵殺しは事前にそれが分かってたってことに──」
「なるんだよねぇ、この仮説だと。それと同時に、恣意的な犯行であることも、また」


「武偵殺しとしての体裁を維持するのなら」そう続ける。


「《境界》で登校をしても、下校時に例のセグウェイで奇襲を仕掛ければいい。下校は、ほら。だいたい徒歩でしょ? バスに乗ったとしても、先日のように……キンジは知ってるかな。スポーツカーにUZIを載せて、それをバスに併走させてたんだ。そうすればいい。むしろ、いま挙げた双方は、事前立案としても如何にも武偵殺しらしい手口になるよね」


言い、キンジの様子を窺う。彼は小さく頷いた。そうして、「それならどうして、武偵殺しは俺たちの行動パターンが読めたんだ? 盗聴してるわけでもあるまいし」
「そのまさか、かもよ。逆にどうして、盗聴されていないと思えるの?」キンジは文字通り閉口していた。推論に固定観念を織り込むことが如何に危険か、それを理解しただろう。


「今日の昼間、鑑識科をここに手配するつもりでいるよ。そこで盗聴器とかそういう類のものが出たら、武偵殺しが隠密行動を図っていたことの証左になるね。これが、仮定の1つとしてのキーワードになるんだ。隠密行動、工作活動が得意な人間──ということに」
「なるほど……。まずはそこの結果待ちか」
「そうだね。でも、また疑問が出てくる。何故、武偵殺しが俺たちを標的にしたのか。盗聴器を仮定の視野に入れた時点で、無差別的な犯行ではなくなってしまったね。恣意的な犯行になってしまっている。彼の者が、如月彩斗と遠山キンジを狙う理由があるのでしょう」


しかし、この理由に関してはアリアにも説明していない。否、説明していないのではなくて、分からなかったのだ。武偵殺しが自分たちを狙う理由というのが。それでも、何とかして答えを捻り出したところに、まさかアリアが関係しているだろうということは意外だった。
キンジから、その向かいに腰掛けている少女へと視線を移す。


「如月彩斗と神崎・H・アリアとは、武偵活動のパートナーになった──その候補の中に、如月彩斗の他に遠山キンジをも含めていた。このことは、少し前にキンジにも話したよね。ところで、 2人の情報を、既にアリアは始業式の前から収集していたろう? どうだい?」
「えっ……うん。教務科とか、強襲科とか、前のクラスの人にも聞いたりしてたけど」
「やっぱりね。それだよ。その動きが、武偵殺しに露呈していたんだ。それと同時に、武偵殺しが俺たちやアリアとを監視できる、身近な存在であると言えるね」


口端が緩むのを、自分自身で自覚している。同時にアリアは、その目付きを鋭敏にしていた。この論説の詳細を知っている2人だからこそ、こうして納得しているものの──現在進行形で説明されている当の本人は、「どうして神崎と俺たちと武偵殺しが関係あるんだ」と洩らしている。


「端的に言うと、武偵殺しの狙いはアリアだよ。俺たちは、それを誘き出すための絶好の撒き餌だったってわけだ。見る限り、アリアは何らかの理由で武偵殺しを追っている。そこに戦力増強のためのパートナーを求めていたんだろう。その候補が俺たち2人だったから、アリアにとっては影響の大きい人員だろうしね。それだけ餌としての質も高い。そうして同時に、武偵殺しも、アリアを誘き出すために活動をしていると類推できる。その発端は、2008年の12月」


その年月を口にしただけで、キンジの表情がはっきりと曇った。無理もないだろう。胸の内、奥底に仕舞ったはずの記憶が──つい今しがた、眼前にその全貌を突き付けられたのだから。それでも武偵殺しを語る以上は、この事件の話は避けて通れないのだ。


「『アンベリール号沈没事件』と題されたこの事件以来、武偵殺しは姿を秘していた。そうして本当の意味で活発化し始めたのが、始業式の日。アリアが転校してきた年度で、俺やキンジと接触する確率が多分に増加した日のことだね。事実、その通りになった。そうして、模倣犯ではないことも確信したわけだ。例のセグウェイも、鑑識科から出た鑑定結果を見れば、ところどころ高価な部品が使われていたし……ルノーといえば高級車だ。それに、確実に人を殺せるC4爆弾もそこには仕掛けられていたでしょう。財力的に模倣犯はここまで出来ない」


「ここまでをまとめてみると──」言い、4本指を掲げる。


「この一連の騒動は、武偵殺し本人によるものである。武偵殺しは、ある程度の財力を持っている。武偵殺しは、工作活動が得意である。武偵殺しは、身近な存在である。……ねぇ、誰だか思い当たる節は、無いわけではないよね。そうして君は、それを信じ切れないでいる」


キンジは大きな溜息を1つ吐きながら、額に手を添えた。そうして、頷いた。この論説によって生み出された煩悶と懊悩を、一挙に晴らそうと躍起になっているのだろうか。それでももう、この靄は、自分自身でさえ、なかなか晴らそうにも晴らすことが出来ないのだ。


「武偵殺しは──峰理子だろうと、仮定している」


休日の朝には似つかわしくない雰囲気が、この部屋一帯に広まっていた。 

 

本当にそれでいい?

朝食を終えてから間もなくして、アリアに引き留められた。何やら深刻そうな面持ちをして「話したいことがあるの。出かける準備して」と告げられた刹那に、あぁ、これが事実の告白なのだろう──と、そう直感した。アリアが武偵殺しを追う理由、それを明々白々にさせるための、その手立てとして、彼女はこうして外出を要請してきたわけなのだ。

そんなわけで、アリアと自分とはその1件のために。キンジにはまた別の──鑑識科の1件を相手してもらうために、それぞれ動いている。向かった先は、新宿だった。大東京のビル群に混じって聳え立つ、往来の喧騒と雑踏に塗れたその建物は、『警視庁新宿警察署』と冠していた。


「着いたわ。ここね」


先導してくれるように数歩前で歩いていたアリアは、その足を止めると、薄桃色のワンピースの裾を靡かせるようにして振り向いた。さながら西洋人形のような風貌をしていて、道行く人々が彼女に視線を固定させられてしまうほどには、アリアは可愛らしい容貌をもしている。
そういえば……といっても、当然のことではあるのだけれど、自分はアリアの私服姿をここで初めて見ている。いつもは制服か部屋着姿しか見ていないから、逆に新鮮に思えていた。


「アタシが武偵殺しを追いかけてる理由が、ここにあるの。入るわよ」


厳粛な面持ちで、アリアはそう告げた。こちらも小さく返してから先を促す。
自動ドアを通り抜けると、付近に立っている1人の警官がこちらを一瞥した。彼は特に業務に入っているわけでも、或いは手持ち無沙汰にしているわけでも全くない。ただアリアと自分とを交互に見遣ると、穏和な顔付きを浮かばせながら接近してきた。


「神崎・H・アリアさんですね。そちらの方は関係者でしょうか?」
「えぇ、そうよ」
「分かりました。それでは、案内します」


警官はそうして、アリアと自分とを警察署の奥へ奥へと誘導していった。果たして、面会室を目前に控えることになる。こうして行おうとしている面会の相手は、拘留されていると見ても差し支えないだろう。ともすれば、アリアはその者と面識があるはずだ。身内か、親族か、知人か……その詳細は不明だけれど、何らかの罪状で捕えられている。そうしてそれが、武偵殺しに関連しているのだろうことは、単純な推論だろうとも予測がついた。

警官は内ポケットから取り出した鍵を鍵穴に挿し込むと、慣れた手つきで施錠する。扉の取っ手に手を掛けると、右回しにして奥へと押し遣った。「私はここで待機しておりますので」
今しがた彼が開けた扉の向こうには、更に扉が控えていた。金属製の、分厚い、とても容易なことでは破壊も出来ないだろう扉が、面会室とこの場所とを境にする役割を果たしている。

アリアはそれを、逡巡すらせずに通り抜けた。軽快な金属音が一帯に響くと、面会室の全貌が視界に飛び込んでくる。一部屋をアクリル板で分割したような、普通の面会室だった。アクリル板の向こうには、1人の女性がパイプ椅子に腰掛けている。2人の監視官を控えながら。
それにしても、彼女の顔には見覚えがある。アリアの愛銃──コルト・ガバメントのグリップに埋め込んであるカメオには、この女性に酷似している人物が彫られていた。


「アリア、その方は? 彼氏さん?」
「別に、そういうのじゃ……ないっ。誤解しないで、ママ」
「そうかぁー……。アリアも遂に彼氏さんが出来たかぁ」
「コイツは……武偵校のクラスメイトだし、彼氏なんかじゃないわっ」


穏和で奔放な性格らしいこの女性は、どうやら彼女の母親らしかった。一言二言の遣り取りをしながら、アリアは椅子に腰掛ける。自分も横に控えるようにして立っていた。
アクリル板の向こうに居る母親は、アリアの弁明を適当に聞き流しているようにも思える。『思春期の子供の考えることなんてお見通しよ』とでも言う風に、嫣然としていた。母親ならではの余裕らしきものをここに垣間見てしまった気がして、どうにも仕様がない。


「でも──アタシのパートナー、って形容した方がいいかな」


その一言で母親は、アクリル板越しにも分かる慰安の気を振り撒き始めた。微笑していた顔色は、微笑ではなくて笑顔に変貌している。彼女たちにとってパートナーを得ることが、どれだけ重要なのか──ここに居るだけで、感じすぎるほどに感じていた。
そうしてアリアは、こちらに目配せしてくる。「ママに自己紹介してあげて。あのことも全部」と呟いた。「……それじゃあ、この機会に」そう切り出して、アクリル板越しに告ぐ。


「東京武偵校2年の如月彩斗と申します。専攻は強襲科で、現在はSランク。母方の系譜が安倍晴明公──土御門家の嫡流で、38代目安倍晴明の肩書きを先代から賜りました」


「どうぞお見知り置きを」そう言って、終いにする。アリアが「挨拶が堅苦しすぎるわよ……」などと苦笑していたけれど、君がこちらの親を相手にした時の挨拶が気になるね。
「武偵としての実績も、系譜も、パートナーにするには文句無しでしょ?」アリアはそう母親に問い掛けた。その問い掛けには、確かに得意の響きがあったように思う。母親も頷いていた。彼女はそうして、如月彩斗という名を何度か、口の中で転がしていた。


「如月彩斗さん、お初にお目にかかります。アリアの母親の神崎かなえと申します。娘が大変なお家柄の方にご厄介になっているようでして……ご迷惑はお掛けしていませんでしょうか」
「いえいえ、そんな……。至って良い子にしてますよ」
「それなら良いのですが……。この子は子供っぽい節がありますから……」


苦笑しつつ、改めてこの面会室の全貌を把握しようと試みる。面会室としての機構に問題は見られない。見られない、のだが──何故、1人で事足りるはずの監視官が、2人体制にして彼女を監視するまでに至っているのか。アリアの母親──かなえさんが凶悪な犯罪者、という風貌には直感からしては思えないが、はて、そこは外見では分からないものだねぇ。仮に犯罪者ではないとするならば、こうして彼女が拘留されている原因として考えられるのは、恐らく──、


「被害者、か……」


自分がそう洩らしたことを自覚したのは、その刹那に空気が一変したからだった。神崎母娘は僅かに瞠目し、監視官はこちらを一瞥してくる。穏和から剣呑に変貌したこの空気の只中に置かれながら、これがアリアの伝えるべくしたことだろう──と納得もしていた。


「アリアは『自分が武偵殺しを追っている理由』を説明するために、母親と面会を試みたわけだろう。この時点で武偵殺しと神崎かなえさんとに、何らかの関連性が生まれたことになる。アリアを動かすだけの動機なら、『自分の母親が武偵殺しの被害に遭った』と仮定するのが自然でしょうね。けれども、彼の者の行う奇襲的犯行という点での被害者に、神崎かなえさんが居るという情報は聞いたことがない。ならば、それ以外の被害といえば──冤罪くらいかな。そうすれば、警察署を介しているこの現状とも辻褄が合う。武偵殺しの共犯者という線も考えたけれども、どうにもそんな、犯罪者のような風貌には思えなかったからね。……どうだい?」


答え合わせの意味も込めて、アリアに問い掛ける。謹厳、厳粛な態度でもって彼女は頷くと、そのまま母親の方に顔を向け直した。核心を直に触れられたことに、めいめいが動揺したように。


「面会時間が短いから手短に話すけど、彩斗は武偵殺しの3人目の被害者のうちの1人なのよ。先日、登校時に自転車に爆弾を仕掛けられたの。更にもう1件、先日にバスジャックが起きてる。武偵殺しの行動は、アタシが来てから急激に活発になり始めてるの。ってことは、もうすぐシッポも出すはずだから。……この件だけでも無実を証明すれば、ママの懲役864年が、一気に742年まで減刑される。最高裁までの間に、他も絶対、全部なんとかするから」


アリアはその言葉の裡面に、武偵殺しを逮捕することを示唆させていた。それも、冤罪を掛けられた自分の母親の刑期を少しでも短縮させようと、その一心で。
とはいっても、やはり──この結果は海外で裁判をしたからではあろうが──懲役864年という数字は、異質そのものだった。死刑制度の無い国家では併科主義を採用しているため、刑罰を合算していけば数百年や数千年の懲役は有り得る。タイの約14万年が最高記録だ。

では、武偵殺しは単独でそこまでの犯罪を犯したのか──否。知る限り武偵殺しは、殺人すらも犯していない。表層的には、単なる愉快犯めいた、罪科愛好家の犯行にしか思えないのだ。
武偵殺しの存在を峰理子と仮定してしまった今、或いは武偵殺しがアリアを何らかの理由で誘き出しているとも仮定してしまった今では、そんなような犯行も、ただの茶番なのだが。
アリアも言った通り、122年ぶんが武偵殺しに科せられるべく刑期だ。残る742年ぶんは、武偵殺し以外の冤罪ということになる。アリアが追っているのは、武偵殺し単独ではない。

「ねぇ、横槍を出すみたいで申し訳ないんだけどさ……」と切り出して、その旨を告げる。そうしてアリアは、何度か頷きながら聞いてくれていた。「その推理で間違いないわね」とも。
「彩斗、このことは周りには言っちゃ駄目だからね。文字通り消される(・・・・)から。……武偵殺しが所属しているのは、《イ・ウー》っていう組織。アタシの最終目標」


消される──たった4文字だけで、この《イ・ウー》とかいう組織の表層を理解するのには、それでも充分だった。武偵殺しを逮捕すれば、自ずと《イ・ウー》にも近付ける。それは同時にアリアの母親、神崎かなえさんの冤罪を解く資料にもなり得るのだ。十二分の収穫だった。
厳粛を極めている少女に、そっと苦笑してみせる。「大丈夫、絶対に言わないよ」

娘とそのパートナーとの遣り取りを、母親は憂慮と同時に安堵を滲ませながら、傍観していたように思う。そうして徐に、自分に呼び掛けた。面会の時間は、もうそれほど残ってはいない。


「……《イ・ウー》に触れたら、もう後戻りは出来ません。その覚悟がお有りですか?」
「ふふっ、愚問も愚問です。そもそもアリアがパートナー契約をせがんできた時から、生半可な調子じゃどうにもならないとは──察していましたから。やるべきことは、決まってるので」
「……そうですか。それなら、娘のことはパートナーの貴方にお任せします」


《教授》と名乗った例の男──彼は自分に、アリアを守らせようとしている。それは勿論、何があろうと敢行するつもりだ。同時に、《イ・ウー》に手を伸ばす手立てとして、武偵殺しを利用しようともしている。自分の成すべきことは、今や明々白々になっていた。そうして勘づいていたとおり、やはり、生半可な調子ではどうにもならない、容易ならぬことであることも。

そんな時に監視官は、そろそろ時間だと告げた。彼女は小さく頷くと、アリアを見詰める。


「……《イ・ウー》とは、無理はしない程度に闘いなさい。その身が朽ち果ててしまったら、元も子もないでしょう。そのためのパートナーなのだから、お互いに信頼関係を築くこと──それが出来ないような2人なら、最初から、その仲ではなかったということなのだから」  

 

予行演習《プロローグ》

「キンジ、えっと……それは、本当なんだね?」


携帯電話の受話器から聴こえてきたのは、あまりにも聞き慣れた親友の声だった。そうして、その彼から告げられた事実に、狼狽を隠せないでいる。……否、それを可能性の1つとして仮定していたにも関わらず、現実を直視できない自分の不甲斐なさ──それだけを路傍で呪っていた。
如月彩斗という存在が、この大東京の喧騒と雑踏に呑まれてしまわぬように。朦朧、茫然とする厭な感覚には既に呑まれかけていることを自覚しながら、また受話器の向こうへと耳を傾けた。


『あぁ、信じたくないが……。下駄箱の隅とリビングの天井裏に仕掛けられてた。盗聴器にしては高性能なもので、リビング一帯と廊下くらいの広さなら余裕で集音できるらしい。指紋鑑定もしてもらったから間違いないとさ。先週に仕掛けられたものだろうと鑑識科は言ってる。……彩斗の言ってた推理と同じような流れになってるぞ、これだと。用意は出来てるのか?』
「……うん、ありがとう。こちらのことは任せてくれて構わない」


親友との通話を手短に終えると、傍らに控えていたアリアと視線が合った。赤紫色の瞳に憂慮を満ち満ちさせながら、こちらを見上げている。心做しかそれは、憂慮の他にも、紅涙で潤んでいるようにも思えた。この一報が、どれだけ重要なのか──それを理解しているのだろう。
だからこそ自分は、この事実を、目前の少女に伝えたくはない。母親を想うなりの彼女の優しさが、同時に私情となって、彼女自身を破滅の極地に叩き落とす可能性も読めたからだ。それでも逆に彼女を満足させるには、これを伝えなければならないことは、承知していた。


「……部屋から盗聴器が見つかったって。玄関の下駄箱と、リビングの天井裏に。仕掛けられた時期はだいたい、始業式の前あたりらしいね。それで、その盗聴器からは──」
「出たんでしょ。……理子の指紋が」


そう呟いたアリアの声は、震えている。往来の喧騒に融和してしまいそうな、路傍の折花にも似通った、そんな様をしていた。それがいつもの気位に満ちた少女だとは、思えなかった。
頷こうにも、頷けない。それは同時に、自分自身もまだ、あの磊落で諧謔的な峰理子という少女が、界隈を震撼させている犯罪者だと──そう認められていない証左にもなっていた。

反面、理子が武偵殺しなのだとしたら、どうして盗聴器に指紋を残すといった失態などを犯してしまったのだろうか──ともいう疑懼が、脳裏を駆け回ってもいる。理子こそが武偵殺しに利用されて……といった甘えすら見てしまうほどには、今の自分は、参っているのだろう。
しかし、これこそが本当の──武偵殺しの、アリアへ向けた最大級の罠なのだと思う。峰理子は、神崎・H・アリアと相対するつもりで、わざと失態に見せかけた罠を張っていたのだ。そうしてアリアは、それに気が付いている。明白な挑発に乗るか否かは、彼女次第だった。


「……馬鹿みたい。絶対に許さないから」


アリアはそう独り言ちたきり徐に、止めていた歩を進めていってしまう。すれ違いざまに香った梔子の匂いには、仄かに潮めいたものも混じっていた気がした。その背を歩きながら追った。
……アリアの往来に吐き捨てた言葉が、彼女の胸の内に燻った感情を明喩していたのには間違いはない。その感情は、自分にも理解できないわけではなかった。むしろ、十二分に同情できるものだった。他人に同情をするあたり、やはり自分はお人好しな人間なのだろう。そうして、母親を想う子供なりの感情──それに当てられてしまったことも、同情の要因になっていた。

自分の母親は、3年前に病死している。アリアの母親にも、経緯はどうであれ、それと同じ結末を迎えさせたくはないのだ。だからこそ、彼女の力になれるならば、最終的にそれが、母娘を助けることに繋がるならば──お人好しと呼ばれても、それだけは叶えてやりたいと思っている。彼女のパートナーになることは、単なる武偵のお遊びではないことを、知ってしまったから。

アリアが彷徨していると分かったのは、それから5分も掛からなかった。ただ人通りの少ない方へと歩いていく後ろ姿を見るうちに、彼女が涙を堪えているのだろうことが察せられたから。時折、その華奢な手を持ち上げて顔のあたりに持っていくごとに、推測は確信になっていった。靴音の間隔も、段々と短くなっている。そうして不意に、その靴音も、止んだ。

アリアが弱々しくしゃがみ込んだのは、この時だった。今まで堪えていた嗚咽が、堪えようにも堪えきれなくなったのだろう──それこそ本当の子供のように泣きじゃくっていた。手の甲で紅涙を拭い取りながら、不規則に肩を震わせて、隠せない嗚咽を吐き出している。
峰理子が武偵殺しであるという、紛れもない事実──それがアリアにとって如何に悲痛な事実であるかは、想像に難くない。この1週間、彼女と理子とは自分やキンジを通して面識があった。会話をしたのも始業式の日の1回や2回ではない。だからこそ、自分のクラスメイトに素性を欺瞞(だま)され続けてきたことが、彼女にとっては驚愕で、同時に悔恨でもあるのだ。


「……これ、使っていいよ。そのままだと手まで荒れちゃうから」
「……ありがと」


泣きじゃくる少女の肩を優しく叩いてから、自分もしゃがみ込んでハンカチを手渡した。勝ち気なアリアのことだから、泣き顔は人に見せたくないと言うだろう。今は別に、それでもいい。
それから、彼女の肩をそっと両手に抱え込みながら、背中を摩ってやった。「……あの子にずっと騙されてたのは、ショックだったよね。悔しいよね。うん、泣いていいんだよ」その言葉はやはり、アリアにとって図星だったのだろう。何度も頷きながら、その度にまた一層強い嗚咽を洩らしていた。自尊心の高いアリアだからこそ、平然とした理子の態度が気に食わなかったのだ。

何分くらい、こうしていたろうか。少なくとも10分ほどは、こうしてアリアを慰めていたように思う。その間、往来を行く人々が不思議そうに自分たちを見ていたのを、忘れてはいない。何事かと一瞥する者や、大丈夫かと訊いてくる者、恋人の痴話喧嘩だと囃し立てる者も居た。
その度に、そんな生半可なお遊び調子の分際で──と口走りかけたことも、覚えている。
兎にも角にも、十数分ほどして、アリアはようやく泣き止んでくれた。


「ほら、アリア。こっち向ける? ……あらら、こんなに泣き腫らして」


十数分ぶりにアリアと顔を見合わせる。目尻のあたりは赤く泣き腫らしていて、それを少しでも隠そうと、前髪を下ろしていた。後は決まりが悪そうに目を伏せていて、「……ごめん」と小さく呟くだけだった。「ふふっ、どうしてアリアが謝るの。謝らなくてもいいんだよ」そう苦笑する。まだ少しだけ潤んでいる生温い紅涙を、親指の腹で綺麗に拭い取ってやった。
そうして、徐にアリアの両手を包み込むようにして握る。握った彼女の手は華奢で、温柔で、肌理細かで、何より、温和だった。子供のような愛嬌のある手で、可愛らしかった。


「なっ、何よ……いきなりっ」


泣き腫らしている目尻と、羞恥のために紅潮した彼女の頬とは、色合いが似ていた。


「ねぇ、アリア。如月彩斗は君のパートナーとして、武偵殺しを逮捕するつもりなんだ。けれど、それが1人で出来るかは分からない。君1人でも同様だ。でも、2人なら──類推は確信になる。……パートナーとして、もう1週間近くを一緒に過ごしているでしょう。だからこそ、俺はアリアを信頼してる。だから、アリアも俺を信頼してほしい。言っていることは分かるね?」


この感情は、明らかに彼女への同情から芽生えた感情であるのだと、自覚していた。それと同時に、《教授》の名乗る例の男の意嚮(いこう)に合致していることも、承知していた。しかし形は同じでも、感情の芽生えた根本そのものが異なるのだということも、また理解していた。
どちらでも構わない。その根本が同情の気質だろうが、お人好しな自分の性格だろうが。こうした感情を抱けたことに、彼女に対するパートナーのしての掛り合いを、垣間見れたから。


「だからこそ──アリアを護りたいと、思ってるんだ」



◇


昨日を思い返しても、これほど急速に事態が進展したことは、1年続けてきた武偵校生活の中でもそうそう無かったように思われる。だからこそ、迅速な事前作戦立案が必要だった。同時に、それを敢行するための休息を摂ることも、また。自分たちはこの1日で双方を成し遂げたのだ。
週明けの月曜日──本来なら武偵校に行き、授業を受けて下校しているあたりだろう。しかし今日ばかりはキンジだけを向かわせて、自分とアリアとはまた別の行動をとっている。

羽田空港から離陸した旅客機であるANA600便──別名『空飛ぶリゾート』は、その到着先をロンドンのヒースロー空港へと定め、飛行中と相成っていた。1階の全域がバーに、2階は12個のスィートルームに分割した、超豪華旅客機。それがANA600便だった。
窓の向こうの地表と黄昏とを眺めながら、滋味豊かな珈琲で口腔内を潤す。あまりにも豪華なこの舞台袖も、これから始まるであろう舞台への下準備と考えれば、内心合点がいった。自分もアリアも、ソファーに隣り合って座りながら、何をするともなしに寛いでいる。


「……あっ、そういえば、アリア。この飛行機に乗る前、キンジから連絡があったんだけどね」
「連絡? そんなのあったの?」
「うん、落ち着いてから話そうと思って。彼には作戦通り、武偵校で別に待機してもらってるでしょ。その流れで、どうやら午前中から独自に動いてたらしいんだ。武偵殺しに関する資料を探すためにね。それで、警視庁から資料を借りたんだって。そうしたら、あることが判明した」


「あること、って?」そうアリアは問い掛けた。首を僅かに傾げながら。


「キンジは、武偵殺しの犯行を時系列順に見ていったらしい。当たり前だけどね。……初期の3件は──バイク、自動車、船だった。そうして君は、その事件は知っていても、武偵殺しの犯行だとされる3件目を知らないはずだ。3件目は、シージャック」
「えっ……、知らない。なによ、それ」
「やっぱりね。君の知っている武偵殺しの犯行というのは、全て電波を傍受している件のみでしょう。その点、この3件目は例外だった。裏を返せば、彼の者は電波を必要としなかった」


「何故なら3件目は、武偵殺しが直々に赴いたんだからね」そう付け加える。


「3件目は、通称『浦賀沖海難事故』と呼ばれてる。または『アンベリール号沈没事件』。……話したろう。キンジの兄、遠山金一が殉職した事件だ。それとこれとを関連させると、遠山金一は、武偵殺しに殺された──そう読み解くしか出来ないんだ。分かるね?」


「そうして、それだけじゃない」そうも付け加えた。


「武偵殺しの初期の対象が、バイク、自動車、船──現在の対象が、自転車、バス。段々と大きさが増しているでしょう。そうして昨日に判明した通り、彼の者は罠を残していた。武偵殺しが峰理子だと分かれば、きっとアリアはその通りに来る。その迎え撃つ場所を、何処にするのか。それが理子の魂胆だろうね。予定は初期3件目と同じくして、船だったかもしれない。寧ろ、それが船であったとするならば、理子は君を、本気で倒すつもりでいるのだと思うよ」


それでは何のために、今、自分たちは飛行機に居るのか──。これが彼女へのメッセージだ。
刹那──そうして、それに応えるかのようにして、機内に2発の銃声が鳴り響いた。同時に、それを聞き留めた乗客たちの狼狽の声色でさえも、あたりを層、一層の喧騒に陥れている。
逡巡する暇もなしに立ち上がりながら、銃を抜いてアリアへと目配せした。彼女も既に2丁拳銃のコルト・ガバメントを携えている。それを確認してから、部屋の扉を開いた。


「みんな個室に戻って! 廊下には出ないこと!」


廊下には数人の乗客員が居た。彼等彼女等を避難させながら、盾になるようにして立つ。
ベレッタM93Rの照準の先を見透かして、思わず咽喉が鳴るのを感じた。コックピットの扉から緩慢にその姿を現した彼女は、一見してただのキャビンアテンダントのように思える。それでも見覚えのある金眼に、その手に握っているワルサーP99──その銃口は迷いなく、自分たちへと向いていた。奥には何のためか、操縦士が項垂れているのが見える。

……嗚呼、間違いない。彼女が、自分の仕掛けた罠(・・・・・)に捕えられた張本人であり、アリアの母親に濡れ衣を着せた武偵殺しであり、そうして何より──、


「──峰理子、心境は如何だい? これが罠だと分かっていながらもなお、赴いたその心境は」
「……やっぱりかぁ、って感じだよ」
「ふふっ、それはどうもご苦労さまなことで」


何事かを独り言ちると、彼女は徐に首元に手を伸ばした。乾いた音と共に、その仮面を剥ぎ取っていく。およそ美麗で健康的な女子高生を思わせる雪肌に、虚空に靡く金髪のツインテール、照明に反射した金色の瞳は、しっかりと自分たちを見据えていた。紛れもなく、峰理子だった。

仕掛けた罠──こちらが使ったのは、超古典的手段。キンジのみを武偵校に向かわせ、理子に『彩斗とアリアが小さなことで喧嘩して、パートナー解消の話にまでなっている』とかいうことを、囁かせたのだ。これは勿論、嘘でしかない。しかし理子にそれを確かめる術も無いのだ。自分とアリアとで2人揃って欠席したのにも、そんな意図を裡面に込めさせていたからだ。

そうして放課後、キンジを1度だけ帰宅させた。そこからまた理子に電話を掛けさせる──今度は、『正式に2人のパートナー解消が決まった。アリアが夕方の海外便でロンドンに帰るらしい。せめて理子の方から考え直すように説得してやってくれ、それで無理なら諦める』と。
理子からすれば、アリアと直接対決する千載一遇の機会だろう。この時分では、アリアは理子のことを武偵殺しとして認識している。だから自分が介入すれば、飛行機での一騎討ち──遠山金一との一騎討ちを果たしたような、そんな具合になるだろう。それを逆手に取った。

こんな話は、理子としても見え見えの虚言だったろう。それでも、武偵殺しとしての信念のために、理子はアリアと接触するだろうことは、確信していた。同時に、武偵殺しの犯行の3件目──船と対になる飛行機、そこを舞台にした理由も、彼女に伝わっているだろうと思う。
敗北の対は勝利。武偵殺しの意図には乗らない。自分たちは、お前を、捕まえる──。


「さて、どうするんだい、武偵殺しさん。こうなった今、目的を完遂させる前に逃げるか、大人しく逮捕されるか──の2択に、君の選択肢は絞られたのだけれど」
「……それなら始めましょう、2人とも。この運命によって導かれた舞台は、既に幕を上げているのだから。オルメスとリュパン家の、因縁の舞台。オルメス4世と、リュパン4世の、ね」


──予行演習(プロローグ)は、これにてお終い。

 
 

 
後書き
将棋の羽生善治九段が前代未踏の地を踏まれました。いぇい。

追記:2019/06/14 に言い回しを追加しました。  

 

緋が奏でし二重奏 Ⅰ

「始めましょう、2人とも。この運命によって導かれた舞台は、既に幕を上げているのだから。……オルメス家とリュパン家の、因縁の舞台。オルメス4世(貴方)とリュパン4世(私)の、ね」


婉美な目許を綻ばせながら、理子は宣告のその裡面に驕傲をも秘めさせていた。彼女は靴音を立てて数歩ほど後進すると、徐に羽織っているキャビンアテンダントの仮装を脱ぎ捨てる。そうして、フリルをあしらった制服のスカートの裾を指先で摘みながら──慇懃にお辞儀をした。その振る舞いは読んで字の如く、理子の言う通り、戯曲か演戯の幕開けの様そのものだろう。


「アンタ、何処からそれを──いや、リュパン家、って……まさか……」


平生の態度とは豹変したクラスメイトの様子を、アリアは動揺をもって受け止めていた。茫然と立ち竦みながら、その赤紫色の瞳を瞠目させている。独り言ちてもいるようだった。
そうして、理子の言うリュパン4世──そこからの観念連合の行き着く先は、フランスの大怪盗と名高いアルセーヌ・リュパン。更に『怪盗』という語彙でまたしても想起させられた語彙がある。峰理子──彼女の持つ技術は、現代の情報怪盗(・・・・)そのものだ、ということを。

……なるほど。峰理子・リュパン4世というわけね。思えば、その始祖であるアルセーヌ・リュパンも曾孫である理子も、怪盗という言葉だけが独り歩きをしている。これは偶然ではなかろう。
また彼女は、自らをリュパンと称しながら、アリアをオルメスとも呼称した。対になるような語感のそこにこそ、理子がアリアを誘き出し続けてきた理由がある。そんな気がしていた。


「100年前、初代リュパンと初代オルメスとはフランスで闘った。結果は引き分け。それ以来、子から曾孫に至るまで、ずぅーっと両家の間には遺恨があるんだ。……でも、それも今日でお終い。あたしがオルメス4世を斃せば、その遺恨も消えるんだから」


「それに──」理子はそう呟く。


「オルメス一族には、パートナーを必要とする慣習がある。初代オルメスもそうだった。オルメス4世──アリアもその通りに動いて、無事に如月彩斗という優秀なパートナーを得られた。……ねぇ、あっくん。理子が善意で渡したアリアの資料、あったでしょ? 今更だけど、あれが工作だよ。オルメス4世と如月彩斗との繋がりを強固にさせるための、ねっ」


……理子があの時、勝手に資料を提供してくれたことには、確かに不信感を抱いていた。それでも自分は、それが峰理子という少女特有の性格だろうと思っていたから、どうにも不義を成されてしまったように思えて仕様がない。ある種の裏切り行為でもあった。小さく嘆息する。
そうして赤紫色の瞳を一瞥しつつ、彼女等の行く末がどうなるのか──はたまた自分はどう対処するべきかと、一瞬の交錯で、出来る限りに思考を巡らせていた。

理子は嘲笑を吐き出すと、手にしているワルサーP99の銃口を、自分とアリアとに交互に向けた。それは再度の宣戦布告に等しい。理子が倒すべくはオルメス4世──神崎・H・アリアだが、同時に彼女のパートナーを務めている自分さえも、その対象に含めてしまっているのだ。
そこまでして、理子はアリアを倒したい。しかしその熱情を思うに、それだけではないだろうことも、類推できていた。アリアを倒して、両家の遺恨を消す以外の、その理由とは──?


「御生憎様だけれど、アタシたちはアンタと4代越しの決闘をしに来たんじゃなくて、アンタを逮捕しに来たの。両家の遺恨とか何とか関係ないから。……何より《武偵殺し》としての悪行は看過できないし──ママに濡れ衣を着せたことは、絶対に赦さないわっ!」


アリアはそこで、銃のグリップを握る手に感情を込めていた。そうして、口端を哀傷に歪めている。トリガーガードから外されていた指先は、既に引き金を引きかけていた。
刹那──瞋恚(しんい)を纏う45口径が、轟音を伴って、その数を倍加させていく。理子の両側面を挟撃するような軌道で飛来してゆくそれらは、アリアの強い決意を表していた。絶対に逃がすまいとする威嚇とメッセージとを兼ねた射撃だろう。彼女らしいと言えば、らしかった。

威嚇射撃で全弾を撃ち切ったのか、素早くリロードを済ましてからアリアは踏み込んだ。身動きのとれない理子の懐に、その持ち前の小柄な身軀を更に屈ませながら。そうして、ガバメントの銃口を防弾制服の上から当てがっている。紛れもなく、近接拳銃戦(アル・カタ)の志向だ。
理子の持つワルサーP99の装弾数は16発。対してコルト・ガバメントは7発、チェンバーに篭めておくかエジェクションポートから追加するなら、8発。それが2丁でやっと互角になる。

16発に賭けて、短期決戦でいこうとするつもりだろうか。それとも直情的なアリアの性格が、特にこうした考えもなしに、事を進ませてしまったのだろうか。それは分からない。
とはいえ、ここまで接近した以上は退く隙を見せることすら危険だ。彼女もそれを分かっているのだろう──逡巡する素振りも見せずに引き金を引いた。その寸前に、理子が銃を手で弾いて射線を逸らしている。カウンター攻撃のようにP99を突き出すも、それもまた弾かれた。

常に防弾制服を羽織っている武偵と武偵の戦いでは、こうした近接拳銃戦は頻繁に起こる。それも射撃を目的としたものではなくて、刺突ないしは打撃的損傷を与えるための手段として。
だから銃口を如何にして自分から逸らすかが重要になる。手で弾くのか、身体ごと逸らすのか、相討ちを覚悟で防御をしないのか──今回の2人も、例に漏れずそれだった。

発砲するごとに攻守が入れ替わる。少しでも防御手段を誤れば、一気に敗勢に陥ってしまう。その点、アリアと理子とはお互いに譲歩しなかった。そうしてそのまま、同時に弾切れを起こす。
──加勢をするなら、ここが最善だろう。そう直感した後に、銃を仕舞ってから、背に隠匿していた《緋想》を抜刀する。その刹那に《明鏡止水》も発動されていた。

そのまま理子の側面をすり抜けて、背後を捉える。アリアとの挟撃体制を構築したことで、こちら側が有利になったろう。依然として一定の距離を保ちながら、機会を窺っていく。
彼女等2人は同時に銃を仕舞うと、アリアはそのまま格闘術の体勢に、理子がそれを受ける──かのように思われたが、《明鏡止水》の動体視力が異変を捉えていた。フリルのあしらったスカートの中を、何やら理子はまさぐっている。その正体を推察すると同時に叫んだ。


「──アリア、理子から離れて!」


理子の舌打ちが聴こえたように思う。そうしてアリアが彼女から距離を置くのと同時に、聞き覚えのある銃声が、また周囲一帯を震撼とさせていった。理子は両手にUZIを握っていたのだ。
その片方をアリアに向けて発砲しながら、もう片方の撃鉄を起こしている。近接拳銃戦の時にこれを使わなかったのは、P99しか武器を持っていないとアリアに油断させるためだろう。そうして、これは、アリアを狙った攻撃ではない。背後をとった自分に対する、徹底した抗戦──。

アリアが銃弾を全て避け切ったことを見越したのか、理子はその金髪とフリルとを靡かせながら、両手に構えたUZIをこちらに向けて発砲してきた。《明鏡止水》で捉えた数十発の銃弾は、いくら《明鏡止水》といえども、その速度が完全に静止して見えるわけでもない。それでも、対抗策を講じるのに充分すぎる猶予はあった。もう答えは、決まっていた。

──避けるのか、否。《緋想》で斬るのか、否。そのどちらでもない。


「……甘いね」


一刹那に呟いた声が、理子に届いているかは分からない。それでも、ただ茫然としているだけの自分を見て、訝しむくらいのことはしていた。アリアも、同様だった。
……そう、傍目には何もしていないように見えるだろう。それでも、《境界》の発動条件に則れば、それはごく自然のことでもあった。《境界》を展開させるには、その場所を指定しなければならない。そこに焦点を合わせることと、手を翳して指定することの2つだ。

自分は茫然としていたのではない。それを物語る証拠が、眼前にはあった。紡錘形の《境界》は、UZIが無駄に吐き出した数十発の銃弾を、全て呑み込んでしまっている。
《境界》を閉じた時、茫然としているのは、理子の方だった。それでも何か思うところがあるのか、その金眼を瞠目させながら、納得したような声遣いで呟いた。


「……陰陽術。そうか、お前が遠山金一の言っていた──38代目安倍晴明か」 

 

緋が奏でし二重奏 Ⅱ

「……どうして、それを」


咽喉から飛び出した声が掠れていたのは、自分がいちばん分かっていた。狼狽そのものであるということも、分かり切っていた。それでも呟かずにはいられなかったのだろう。
理子のたった一言で、如月彩斗という人間を狼狽させるには充分すぎた。遠山キンジの兄、今は亡き遠山金一と峰理子とが、何らかの接点を持っていたこと──そうして彼が、自分の素性を知っていること。この2つが新たな疑懼として、自分の脳髄に浸透していった。

如月彩斗が38代目安倍晴明だということ。これを自分の口から告白した相手は、遠山キンジと神崎・H・アリアを除けば絶無である。後者の可能性もまた、絶無だ。それならば、前者──キンジが兄にその情報を流したことになってしまう。それでは、何のために……? 口を滑らせたとかいう馬鹿馬鹿しい理由ならまだしも、それが意図的なら、関係の再考も必要になるだろう。

アリアでもキンジでもないとすれば──それこそ本当の謎になってしまう。遠山金一とこちらの本家とに、接点は無いはずだ。彼がアリアのように独自で調査したというのならまだ有り得る。しかしそれも、理由の説明がつかないのだ。彼が内容を理子に伝えたことも、また。
……しても、理子に知られてるとなれば、色々と面倒だ。峰理子は《イ・ウー》の一員だろう。遠山金一から理子に情報が流れたならば、そこから《イ・ウー》諸氏にも拡散している可能性も大いにある。自分とアリアが仮に理子を逮捕したらば、《イ・ウー》から敵対視されることは間違いない。自分たちにだけ向いていた矛が、本家にも及びかねないのだ──。


「……君を逮捕する理由が増えて何よりだ」
「くふふっ、気になるでしょっ。何で理子がそれを知ってるのか、キーくんのお兄さんと接点があるのか──っていうことかな? あっくんたちが勝ったら教えてあげる」
「おや、物分りがいいね。それなら心置きなく逮捕させてもらうよ」
「……それって、アリアのために?」


大東京の往来の真ん中で抱いたあの感情と、理子の問いの答えとは全くの同一だ。アリアの境遇を知ったことから芽生えた同情心、自分のお人好しな気質──それに相まって、自分と彼女との間にあるパートナー関係。それらが綯い交ぜになって想起されたのが、あの感情に過ぎない。その向く先が誰のためかというのは、勿論、彼女自身のために他ならないわけだ。
そんなことを思いながら、アリアを一瞥する。彼女もこちらに一瞥をくれていた。どう答えるのかが気になるのだろう。……無論、期待外れのことを言うつもりはないのだけれど。


「まぁ、そうだね。そこに利己心の介入の余地は無いよ」
「ふぅん……。ほんっとーにお人好しだね」
「ふふっ、お人好しで結構だよ」


そうして自分と理子とは2人して笑みを零す。その余韻のある程度が失せてから、何がなしに《緋想》を構えた。アリアも銃のリロードを済ませている。そのタイミングが一致していたのは、恐らくは無意識的に直感していたからだろう。ここからが本番なのだということを。
理子を挟んで向こう側──アリアに「君は後衛に回っておくれ」と視線を送る。彼女もそれに背くと、理子から僅かに距離をとった。理子の興味は自分に向いている。そこを利用するのだ。


「……今度はあっくんが相手?」
「アリアばかりにさせるわけにも、いかないからね」
「そっかぁー」


間延びしたような調子で理子は呟くと、彼女は手にしていたUZIを仕舞った。代わりに、タクティカルナイフをその華奢な両手に握らせている。「銃弾は通じないって分かったしね」
そう笑う理子の判断は、正しかった。《明鏡止水》の自分に、銃弾は効かない。ナイフなら、尚更──というわけでも、実はないのだ。《明鏡止水》は局所的なスローモーション化で成り立っている。自分の直感と意図とを引き金に発動させているのだ。常にそうした状態だと、体力的な面で身体に影響を及ぼす。《明鏡止水》自体も、長くて数時間ほどしか保たない能力だ。

とはいっても、ナイフと日本刀では小回りの利くナイフの方に分があるのは明々白々だろう。仕方なしに《緋想》を収め、取り出した2本のマニアゴナイフを逆手に握る。ナイフを実戦に運用するのは久しぶりな気がする、が──刀剣類に関しては、ある程度の自信を持っているからね。《明鏡止水》の恩恵を受けなくても、並の人間以上には戦えるはずだ。


「……さぁ、来るなら来なさいな」


言い終えるが早いか、理子は瞬時に肉薄してきた。小柄な身軀を屈めて間合いを詰めてくる。頬を狙った横薙ぎの刀身をマニアゴナイフで軽く受け流しながら、それがブラフであることを直感した。途端に床を蹴って彼女から距離をおく。刹那に鋭敏な風切り音が響いた。一瞥してみると、つい今まで自分の腹部があった虚空が、綺麗にそのまま穿たれていたのだ。

しかし避けたからといって安堵している暇はない。着地するタイミングを見計らって放たれたナイフは、目許のあたりを僅かに掠めていった。掠めた程度で済んで僥倖だったと言う他には無い。もしも切れていたら、流血で片目の視界を失っていたところだろう。……油断ならないね。

背のあたりが震懾させられた──それを気取られないようにしながら、嘆息する。そうして瞬時に体勢を整え直し、縮地法で理子に肉薄していく。現在の彼女の武装は単一のナイフだけだ。銃も隠匿しているとはいえ、《境界》で対処は出来る。戦力ならこちらに分があるだろう。
手首や目蓋を狙う刀身はことごとく防がれていく。それでも、反撃の余地を与えずに追随していった。照明が刀身に反射する度に、鈍色が視界の端を爛々と突っついていく。

咄嗟の足払いを後退して躱しながら、反撃を試みる彼女の挙止動作を観察していた。一瞬間の隙に手に握らせたのは──UZI。銃を手にする時間が欲しかったのだろう。
マニアゴナイフを2本とも理子の目許に向けて投擲しながら、その軌道にも傾注しつつ《緋想》とベレッタを抜く。片方は避けられたが、もう片方は掠めた程度だった。これでも充分だ。
そうして《明鏡止水》を発動させ、UZIとナイフを手に間合いを詰めてくる理子を迎え撃つ。距離は僅か数メートル。この距離なら──確実に当たる。そう確信した。

彼女がどんな動作で肉薄してくるのか、その予備動作、虚空に靡く微細な髪に至るまで、《明鏡止水》の眼は捉えている。理子が構えたUZIが、発砲の瞬間に固定されるその一刹那──それさえも手に取る以上に分かり切っていた。べレッタの照準越しにUZIを覗きながら、逡巡せず引き金を引く。それでも脈搏は、いつもよりも上をいっていただろう。

マズルフラッシュが焚かれると同時に、銃弾は右螺旋回転を維持して飛来していく。虚空を穿つように回転していくその軌道、果ては何処に行き当たるのか──それは自分にとって明々白々のことなのだ。バレルの周囲、この僅かな隙間だけを頼りにして、反撃をしただけのこと。
そうして狙い通り、銃弾は着弾した。漆黒のUZIに──照明を映射させた鈍色を、この一帯に振り撒きながら、華奢な理子の掌から弾き失せていく。金属音が、遅れて聴こえた。


「さぁて──本番の開幕だ」


憫笑し、腕を掲げて指を鳴らす。刹那の異変に茫然としていた理子が目を見張ったのは、その時だった。紡(ボウ)と彼女の四方を取り囲むようにしたのは、虚空に顕現された《境界》。
前方には如月彩斗が、後方には神崎・ H・アリアが、頭上四方を《境界》が包囲している。文字通りの四面楚歌の渦中に置かれてもなお、彼女は焦燥していた。同時に躍起になっていた。


「これだけの数、全てを対処しきれるかな?」


掲げた腕を振り下ろした一刹那に、四方の《境界》は銃弾を吐き出していく。この春時雨は雅懐を抱くには程遠いものの、卯の花腐しの役割を果たしてくれる程度にはなるだろう。


「──穿て」


掲げた腕を、振りかぶった。



◇



我ながら、零した声は冷淡であったように思う。それでも今だけは構わなかった。
端々に前髪の掛かる《明鏡止水》の眼で捉えた数十発の銃弾は、虚空に螺旋を描いている。それらが彼女の肉叢──四肢のみを穿つかと見えたところの一刹那の異変すらもまた、捉えていた。
理子が華奢な身軀から横溢させているのは、瑠色の光靄(ひかりもや)である。彼女を護持するかのように刻一刻と蓊鬱たり、同時に層一層の只中に、嘲謔を置いていた。

同時に、自分の咽喉が嗚咽を洩らすのが聴こえた。この感情は、紛れもなく畏怖だろう。何しろ彼女の髪が──幻視ではなく、その微細な毛先までも傀儡のようにして、虚空に浮き上がらせていたのだから。瑠色の光靄とその光景とが相まって、どうにも彼女が人間だとは思えなかった。その風采から、ギリシア神話に著名な怪物──メデューサを想起させられてしまうほどには。


「っ──」


《明鏡止水》の眼は、なおも捉えていた。理子の四肢を全方位から奇襲した銃弾を、彼女は傀儡にしたその髪で、いとも容易く軌道を変えさせてしまった──ということを。
冷や汗が頬のあたりに流れていったのを、手の甲で拭い取る。張り付いた髪を解き払うことも忘れたまま、今度はこちらが茫然とさせられてしまった。理子が髪を自在に操作した──超能力めいたその事実にも内心で驚愕こそすれ、武偵校でも超能力者は稀有ではない。問題は、単なる髪であるはずのそれが、銃弾の軌道を逸らしたことだった。現に彼女は、無傷なのだから。


「……その程度か? 陰陽師」


睥睨の眼差しを、理子は自分に向けている。悄然と仄かな歓喜を綯い交ぜにして。
「……ふふっ、まさかね」胸中を気取られないように、磊落に笑みを零す。


「だから──容赦はしないよ。自分は護りたいもののために、そうして、その者の目的を達成するために動いているんだからね。君は言うなれば通過点だ。……分かっているはずだけれど」
「お前たちにとっては通過点でも、あたしにとっては千載一遇の大舞台だ。だから妥協もしない。《イ・ウー》で研鑽したこの能力でもって、本気で倒しにかかる」


──二重奏を、あたしに奏でろ。 
 

 
後書き
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緋が奏でし二重奏 Ⅲ

二重奏──理子の告げたその意味を訝しみ、更には推し量ろうと眉を顰める。そこまでを彼女は予期していたのか、それは定かではない。ただ、自分の見せたほんの一刹那の隙に、理子は何かしらを掌に握り締めていて、気が付いた時には既に、それを自分とアリアとに投擲していた。
脚元で小さく鳴いたそれらは、発煙筒のように見える。煙を吐き出す寸前にはもう、2人して個室に戻らざるを得ない状況下に追い込まれてしまった。煙の流れ込む扉の隙間を遮断してから、アリアと顔を見合わせて、互いに異変が見られるかどうかの精査をする。

糜爛(びらん)剤であるマスタード、嘔吐剤のジフェニル、催涙剤のクロロアセトフェノン、発煙剤のトリクロロアルシン──様々な化学物質の名称が一挙に脳裏を過ぎ去っていく頃には、その憂慮も杞憂なのだと思い至った。「……しまった、まんまと欺瞞(だま)された」
顰め面をしているアリアも、小さく頷く。「ただの発煙筒だったとはね」と付け加えた。


「『悲観論で考え、楽観論で行動せよ』──こうなった以上、仕切り直しだよ。やるしかない。……けれど、理子は恐らくここには居ないでしょう。待ち伏せが本来なら有効だけれども、《境界》がある以上、背後を盗られかねないのでそれは愚策。だから……そうねぇ、まだそんなに時間は経ってないし、この近辺に隠れてるかな。いいかい、奇襲を警戒すること」


アリアが納得したのを見届けてから、慎重に《境界》を開く。その先は、つい数分前まで理子と言葉を交わしていたあの廊下だ。予期通り、彼女の姿は見えない。煙を全て吐き切った発煙筒だけが転がっていて、一帯に蔓延していた白煙は、何処かの排気口へと向かってしまったらしい。
それでは、理子は果たして何処に行ったのか──これだけが気がかりになっている。


「……ともすれば、僅かに視認性の悪い階段付近の潜伏、或いは1階全域のバーでの待ち伏せだろうね。不確定要素を残すのは嫌いだから、ちょっと危険だけど階段からバーまで行こう」


そう話しながら、《境界》越しにマニアゴナイフとタクティカルナイフを拾っておく。それらを仕舞ってからアリアを先導するべく、再度べレッタと《緋想》を構えた。
そのまま階段付近まで歩を進め、階下へと向かう段々の奥に目を凝らす。取り敢えず敵影は見えないことを察知した、アリアは控えて連なれといった指示──を出そうとした刹那に、背後からあの45口径の轟音が、途端に鼓膜を劈くようにして鳴り響いた。

条件反射的に振り返り、銃口をそちらへと向ける。《明鏡止水》で捉えたのは、この廊下の最奥──コクピットへと続く扉の付近に潜伏していたらしい理子が、まだ隠匿していたらしいタクティカルナイフをこちら側に向けて投擲したばかりの、その奇襲の様だった。それをアリアが銃弾で防ぐべく、十数発を一挙に面射撃としてばら撒いている。彼女がそれにいつ気が付いたのかは定かではない。恐らくは特有の直感力でもって、理子の気配を感受したのだろう。

タクティカルナイフの軌道は、明後日の方角を描いていった。理子が投擲する直前に威嚇射撃をすることで、その軌道を逸らさせる──というアリアの目論見だろう。現に理子は、こちらから射線の通らない位置に隠れている。これが好機だと見た彼女は、そのまま肉薄していった。
しかし──退路がコクピットのみでは、理子は防戦一方でお終いだ。だから、ここで必ず飛び出してくる。眼に映る僅かな異変でさえも、即座に察知するだけの能力を求められているのだ。

そうして目論見のその通り、理子はアリアを迎え撃った。両手には愛銃のワルサーP99を構え、虚空を這い回る蛇のような双髪に、またもやタクティカルナイフを握らせて──。
再びの銃撃こそが、まさに嚆矢濫觴(こうしらんしょう)だった。窮地を脱すべくアリアに向けられた銃撃から、またもや近接拳銃戦に発展していく。轟音にも似た銃声、空気に融ける硝煙、爛々と焚かれるマズルフラッシュ──2人はその渦中に置かれていた。

同時に自分もまた、その渦中の様に傾注していた。どんな折に加勢しようか、そもそも加勢するべきではないのか、そんなことを脳裏に廻らせているうちに、《明鏡止水》の眼は捉えた。
理子の足払いを回避しきれなかったアリアへ、更なる追撃を彼女は用意している。ここぞとばかりに身をうねらせた蛇は、その口にナイフの柄を咥えていた。それが虚空を斬り裂いていく様を直視するのと同時に、ベレッタから射出した銃弾もまた、虚空を斬り裂いていく。

右螺旋回転を維持したままの銃弾は、側頭部を狙うナイフへと直進していった。湾曲した幅広の刀身のみを的にして、無機物らしく、微塵の逡巡すら見せずに肉薄していく。その弾頭がやがて刀身に触れたところで、幾度か火花が散った。そのまま弾頭が変形した銃弾は跳弾を起こすと、とりわけ何もないだけの壁を抉っていく。しかしナイフだけは、虚空に弾き飛ばされていた。

ほんの一刹那だけ、理子は茫然としたような表情を見せる。ただそれも一刹那だけの話で、次にはもう、余してある片方のナイフを逆袈裟に振り上げた。体勢を整えたアリアは今度こそそれを避けると、弾倉にある残弾の限り、いつもの調子で無理やり近接拳銃戦に引き戻していく。
いつの間にかそのナイフも理子の髪から失せていて、銃のみの近接戦に変貌していた。
そうして、またしても、アリアと理子とはお互いに譲歩しない。弾切れのタイミングも、前回と同様──そうであるならば、ここがまた加勢のタイミングになるのだろう。そう予期する。


「──彩斗、弾切れ!」


アリアがそう叫んだ頃には、彼女との距離は格段に縮まっていた。戦闘が再開したコクピット入口付近と、いま居る廊下の中ごろの間の空間とは、この時を見据えて作らせた隙なのだろう。
彼女は今度こそ、理子を格闘術で圧倒するべく銃を仕舞った。お互いに組み合うような形になると、微塵も動かずに膠着している。アリアの作ったこの好機を、存分に利用させてもらおう。

彼女が言い終えるや否や、すぐさま理子の背部へと《境界を》繋ぐ。本来なら誰にも狙い得ないような場所──無警戒であるからこそ、そこは無防備なのだ。同時に、急所にもなる。
心做しか、口端が上がっているように思えた。笑みだとすれば、それはどんな笑みだろうか。憫笑とか、嘲謔とか、そんな感情が洩れてしまったのだとすれば、如何にも自分らしくない。

そんな憂慮も片隅に置きながら、理子の首筋に《緋想》の切っ先を突き付けた。僅かにでも動こうものなら、薄皮のその奥までを斬る覚悟でいる。この覚悟が、この笑みなのだろう。
今の自分の表情まで、理子が観察する余裕があるのかは知らない。けれども、寒慄したかのような表情を代わりに見せていた。「……へぇ」とだけ、誰にともなく零している。


「……だけど、ねぇ。彩斗。それだけで──勝ちを確信するのは、まだ早いと思うよ?」


理子の言葉の真意はおろか、その表層を訝しむ間すら、既に残されていなかった。気が付いた時にはもう、彼女の髪が《境界》を伝って、蛇のように手甲に噛み付いてきたのだから。
その強度は蛇よりも大きかった──思わず《緋想》の柄を握る手を離してしまうほどには。残ったものは手甲に切り刻まれた、一筋が幾重にもなった、その傷跡だけである。

そうして文字通り震懾した。理子の狙いは、今しがた手から離してしまった、この《緋想》であったことに気付かされてしまっただから──。背に悪寒が走るのと同時に、《明鏡止水》が解除される。《緋想》を握った理子の髪が、《境界》を這いずり去っていく。その刀身は、爛々と降る照明に照らされて、それこそまさに、冷酷なほどに、明鏡止水の様だった。


「──Mettons un terme à tout ça(終わりにしましょう)」


そう零した理子の声が、やけに遠方から降ってくるように聴こえた。 

 

緋が奏でし二重奏 Ⅳ

悲劇(トラジディ)の幕開けは、まさに禍殃(かおう)そのものだった。これほどなまでに静静としているものだと、それを感ずる余裕すらもまた持ち合わせていなかった。
瞳が捉えた光景は、既に《明鏡止水》のそれではない。そうであるのにも関わらず、これほど清澄なのは何故だろうか──それを模索する余裕だけは、何とか持ち合わせているらしい。

空疎な赤紫色の瞳は、瞳孔が僅かに開きかけている。少女さながらの華奢な身軀を震慴させていて、その震撼を追うように、口元から吐息と紅血とを洩らしていた。それらが雪肌を滾々(こんこん)と滴下していくたびに、一雫また一雫と床を鳴らして、小さな血溜まりを創成する。
制服の胸元は、悠々とその繊維を紅に染められていった。《緋想》の刀身と繊維とが段々と同色を帯びていく。どうやら自分の知らぬ間に、非常灯が紅く灯されていたらしい。それが何だか、彼女の先を暗示されているように思えて仕様がなかった。そうにしか、思えなかったのだ。

ただ茫然自失とするだけで、何が口を衝くわけでもない。視界が厭に清澄なだけで、本来ならば聴こえるはずの脈搏とか、吐息とか、果ては体温すらも感じなくなってきた。頭上から何かが降りてきて、茫然が更に茫然として初めて、血の気が引いていることだけを自覚した。自分の意識が、何処か遠方の果てに薄れかけているのを呼び戻したのが、理子の声だったのだ。


「……あーあ、心臓から逸れちゃった。つまんないなぁ。でも、よく避けたね」


磊落な調子を表層に帯びながら、その裡面に嘲謔を秘めた笑みを、彼女は零した。そのまま髪を操ると、アリアの胸元──心臓のあたり──に刺突した《緋想》を引き抜く。疼痛を堪える彼女の声が嗚咽のように洩れるたびに、哀傷が層、一層と胸臆に浮かび出てきてしまった。
紅血が幾つもの血珠になって、彼女とこの虚空とを緋色に彩っていく。心臓の位置とは僅かに逸れた傷口からは、未だ滔々(とうとう)と紅血が溢流(いつりゅう)していた。

どうする──ここは2択だ。負傷したアリアの身を優先して、《境界》で撤退を図るか。……いや、駄目だ。どちらにせよ自分が残らなければ、この飛行機の乗客員はどうになる? ここまで追い詰めた理子の手助けをするのは、やぶさかだ。これが最後の機会だと思っていいだろう。

では、アリアだけを《境界》で武偵病院へと搬送しようか──これが今の自分の執れる最善手だろう──などと懊悩(おうのう)していると、途端に赤紫色の瞳と視線が合った。傷口を掌で押さえながら、やっとのことで肩息をしている。いつにも増して眦が上がっていて、眼光炯々としていた。自分の思考などは全て、彼女のそれに見透かされているようだった。

どうすればいい──? 武偵として活動をしてきて、これほどなまでに執拗な狼狽を重ねに重ねたことは、未だかつてない。脳髄のすぐそこから天秤が伸びていて、それが二者択一を押し通す象徴だということは、分かりきっていた。どちらかを決断するだけの猶予を、いまは欲していた。乾燥しきってしまった脳髄に、栄養分としての水を与える時間が、どうしても欲しかった。

その苦慮の時間は、ほんの数秒だったろうと思う。さもあらばあれ──と覚悟を抱いた刹那に、ふと、また新しい感情が、胸臆から沸き立つのを感じていた。よくよく目を凝らすと、それらは憤懣(ふんまん)と悔恨であるように見える。そうして、自覚した。この懊悩の裡面には、あの少女が居たということ──護りたい者を護りきれなかった、自分への痛罵だということを。それらに対する鎮静剤は、自分自身が既に持っている。後はそれを投与するだけの意志が、自分にあるのか否か──たったそれだけだった。もうその針を、皮膚に突き刺していた。

そうして一刹那で、この胸臆は元の泰然を取り戻したらしい。代わりに──当然の帰結とはいえ──理子に対する瞋恚(しんい)だけが沸き起こってきて、先に決めた覚悟と意志とが撃鉄の役割をしてしまったみたいに、気が付いた時にはもう、《境界》のその先に居た。
背後からの襲撃に喫驚したらしい理子は、振り向きざまに《緋想》を横薙ぎにする。その刀身と手に握らせたナイフの刀身とを合わせながら、飛散した生温い血珠を頬に受けた。

理子の髪には《緋想》のみが握られている。両手に収めている銃はまだ再装填していない。その虚を突けば、《明鏡止水》が無くとも戦えるだろう。鍔迫り合いに膠着しているなかで、そんなことを巡らせながら、最速で事を済ませる方法をも模索していた。そうして、その一瞬間にアリアに目配せする。彼女もその意図を感受したのか、逡巡なく後方の個室に撤退していった。いくら峰理子を逮捕することが目的だといっても、アリア本人の身が保たなければどうしようもない。応急処置くらいのことはさせておかないと、こちらも悠々としてはいられないのだ。

……それにしても、理子のこの能力は──面倒極まりない。髪の一筋一筋が筋繊維に思えてしまうほどには、精神的なものとはまた別の、物理的な歪力を感じている。長引くと、負けるだろう。そう直感したために、銃を抜くと見せかけて咄嗟の足払いを繰り出す。意識は前者に向いていたのか、それがブラフだと予感して避けようとした時にはもう、彼女の脚先を捉えていた。

しかし理子も、それで斃(たお)れるようなら遥か前に斃れている。探偵科のAランクとはいえ、彼女の言う《イ・ウー》の存在は、やはり彼女のなかで大きいのだろう。そう感心する。
そうして理子は体勢を崩しながら、その軌道のままに宙返りをした。その隙に弾切れだったワルサーP99の再装填を済ませてしまうと、着地と同時に発砲してくる。再装填の時にそれは読んでいたため、あらかじめ《境界》を前方に用意しておくことでそれらを全て防いだ。

今度こそ銃を構え、着地時の硬直反応を起こしている理子の脚元を3点バーストで狙い撃つ。規則性のある銃声と反動、マズルフラッシュとを感じながら、幾度も照準を合わせ直した。
《明鏡止水》があるのと無いのとでは、銃の命中精度は大きく異なる。自分の銃の腕は並以上だと自負はしているものの、それでも能力に頼り切っている節は否定できないのだ。しかも今回は、能力を発動させたくとも発動できない──《緋想》が理子の手中にあるために。

途端にブローバックを起こしたベレッタが、弾切れだと告げてくる。そのまま手元にあるロングマガジンで再装填すると、今度はフルオート方式にして理子へと照準を合わせ直した。
一点集中の銃撃を警戒しているのか、理子は回避を続けるだけで一向に攻める気配を見せてこない。予備弾倉はあるものの、最悪にいけばこのままだと弾切れだ。しびれを切らして自分に攻めさせようとしているのだろうが、明らかに《緋想》を持つ彼女の方に分がある。

せめてあちら側に──と一方向に追い込むように攻め立てていく。理子の半身に圧力を与え続け、反対方向へと回避させる。そうしてそのまま、後方へ後方へと押し遣っていって──もともと自分たちの居た個室のあたりを理子は背後にすると、おもむろにその扉が開け放たれた。
同時に「彩斗だけに集中してて、熱心なことねぇ」と、皮肉めいて現れたアリアが握り締めている小太刀の刀身が、照明に爛々としながら、理子の双髪のその両方を一挙に両断してしまった。


「ッ、なんで──!」


アリアへと振り向きながら、理子は両断された髪の付け根のあたりを手でまさぐっている。ここで初めて、彼女は明々白々な狼狽というものを見せた。驚愕に目蓋を見開かせて、照明を映射しているその金眼は、右往左往と忙しなく泳いでいる。口は半開きにされたままで、そこから洩れた狼狽とか、色々と綯い交ぜになった感情がそのまま、彼女の顔に貼り付いていた。

《緋想》は理子の髪から離れると、床に落ちて安堵の溜息を吐いた──そんなように、自分には聴こえた。清澄な金属音が、如何にも《緋想》らしかったのだ。刀身もそうであった。紅色の非常灯に爛々としていて、やはり文字通りの《緋想》の柄を、《境界》越しに握り締める。
ここで理子は茫然から立ち返ったのか、眼光炯炯として自分とアリアとに銃口を向けた。以前と同様に挟撃体制を構築されているにも関わらず、やはり、彼女は断念をしない。そこが、強い。

《明鏡止水》の眼がワルサーP99から射出される銃弾を捉えるのと同時に、自分とアリアとの前方に《境界》が生まれた。たった2発の銃弾は紡錘のその中を目掛けて行くだけで、この先どうしようといった伝手も無い。理子がそれを自覚するのは、今から数秒後だろう。
次いで、アリアに目配せする。それは攻撃でも撤退でもない。ただ理子から距離を置けというだけの、朧気な要請だった。それだけにも関わらず、彼女は訝しみもせずに動いてくれる。自分も同様に、理子と距離を置いた。そうして、また──銃を仕舞ってから片腕を掲げるのだ。


「さぁて──そろそろ終幕にしましょうか。この二重奏の、ね」


憫笑し、軽快な調子で指を鳴らす。理子が目を見張ったのは、丁度この時だった。 紡と彼女の四方を取り囲むようにしたのは、またもや虚空に顕現された《境界》に他ならない。
掲げた腕を振り下ろした一刹那に、四方の《境界》は銃弾を吐き出していく。この春時雨も雅懐を抱くには程遠いものの、卯の花腐しの役割こそは果たしてくれる。そう確信していた。


「穿て──《一条戻橋》」



◇



「──これでもなお、続ける気はあるまいね?」


四方の《境界》が吐き出したのは、一連の戦闘で呑み込んだ銃弾──その全てだった。それらは理子の四肢を穿ち、幾重もの残痕を露わにさせている。一帯に散った紅血は血珠となって、壁紙や床のカーペットやらに染み付いていた。蘇芳(すおう)に滲みたようだった。噎(む)せ返るような独特の臭気に紛れて、硝煙の匂いもまた、この一帯に泡沫のように漂動している。

銃弾は総じて、彼女の身軀には触れていない。ただ皮膚を掠めただけで、その単一的な攻撃は致命傷にも成り得ないのだ。ただそれが、同一箇所に数十発ともなれば、武器を扱う上での致命傷になる──彼女の手首と脚元をあしらっていた制服のフリルは裂かれていて、その繊維には紅血が染み込んでいた。銃を狙うだけの力も、立つだけの力も無い。事実上の敗戦を示唆していた。

そうして理子は、寡黙を終始していた。手を床に突いて、脚を崩しながらもなお──眼光炯炯として、こちらを見上げるその金眼だけは、躍起だった。睨み付けるような目付きのその奥に、悔恨と憤懣とを感受する。目蓋のあたりには、それらの紅涙が幾度も幾度も見え隠れしていた。
自分が憤懣と悔恨を抱いたことと同様の理由で、理子もそれを抱いているのだろう。自らの矜恃の誇示のために、宿敵を斃す──曽祖父を越える──それを遂行できなかったことへの。


「……君の能力は並のものではないし、アリアとも肩を並べるほどの価値がある。それでも、結果はこう告げている──ねぇ、何が敗因だったと思う?」


理子にそう諭しながら、紅血に塗れた《緋想》の刀身を有り合わせの布物で拭う。そうして鞘に収めてから、茫然として小首を傾げている彼女を横目に、アリアの傍らまで歩み寄った。
そのまま──僅かに逡巡してから──華奢な肩先を穏和に抱き寄せる。息を呑む音色が間近に聞こえて、ひとたびは治まったはずの脈搏も、どうやらまた目を覚ましてしまったらしい。それを少女2人に気取られないようにしながら、いつものように泰然として笑いかけた。


「それは、たった1つだけ。……信頼(・・)に他ならないんだ」
「彩斗とアリアの、信頼……?」


理子の口元から衝いて出た疑懼(ぎく)に「そう、信頼」と穏和に返す。


「アリアが負傷して、個室に撤退したでしょう。応急処置をしているらしい時間を見計らって、自分は君の意識を引かせ続けていた。そうして、アリアの処置が終わったらしい頃合いに、非常に限定的な攻撃手段でもって、君の逃避経路を一方向に狭め続けたわけだ。……理子は、アリアがそのまま後衛で処置だけを済ますと思っていたでしょう。或いは、こういう舞台では背後からの急襲は絶無だと、そう盲信している節があるね。その盲信をこちらは突いたわけだ」


「同時に」と話を続ける。


「アリアの性格を、こちらは自分なりに解釈しているつもりだからね。後衛で事が済むまで大人しくしているような子じゃ、この子はないんだから。絶対に出てくる──そう確信していたよ。君もご存知だろう? 狙った獲物は逃さない、強襲成功率100%の子なんだから」


そこまで話し終えたところで、「そっかぁ……そうだよねぇ」と、理子は自嘲気味な笑みを洩らした。髪元を結っていた飾り物も全て解いて、肩から腰元、床に付くまで流していく。髪の一筋一筋を掌に載せて、幾度か指先で遊ばせながら、理子は独り言のように哀愁を呟いた。「……《イ・ウー》で磨いたこの能力まで使ったのに、なぁ。そっか、駄目だったか」


「……やっぱり、2人は強いね。理子は本気でアリアを斃すつもりだったから、あそこまでしたんだけど──それは、あっくんとしても予想外のはずだったよね。あっくんがアリアのことを大事に思ってるなら、そこで完全に戦意を削げたと思ってたのに、違った。むしろ増幅させてて、本当に2人は、パートナーなんだなぁ……って思ったよ。理子が負けた理由も、納得だもん」


そう言って理子は、両腕を掲げながら苦笑を零した。その意味を理解するのとアリアが視線を遣ってくるのとが同時で、小さく頷いてやると、彼女は内ポケットから手錠を取り出す。小柄な少女の手には少し大きめだけれど、アリアはそんなことは気にせずに理子の傍らに歩み寄った。


「殺人未遂の現行犯で、逮捕するわ」


アリアはしゃがみこむと、手にしている手錠を理子の手首に逡巡なく嵌める。彼女も微塵の抵抗すら見せずに、この一連の騒動は意外にも静静と終止符が打たれたのだ。
それでは、自分は取り敢えずここに残って、まずは《境界》でアリアと理子を武偵病院に搬送しよう──などと考えを巡らせているうちに、またもや胸臆に燻る靄に気が付いた。違和感とも見て取れる、何だか気持ちの悪い感覚を抱いている。直感がけたたましく警鐘を鳴らしていて、何かが起きるのだという確信だけを持ち合わせていた。理子にもう、打つ手は無い……はずだ。

否──それは、この場だけ(・・)の話でしかない。それを直感するのと同時に、視界の端に何かが掛かったのを、《明鏡止水》の眼は見逃していなかった。おもむろに付近の窓まで駆け寄り、硝子の向こうを凝視する。そうして、戦慄した。敵襲だと口を開かずにはいられなかった。
《明鏡止水》の自分の眼を信頼しきっていることを、ここまで恨んだことはない。今しがた目にしたのは、どれをどう見ても、海上から発射された対空ミサイルだったのだ。


「教授(プロフェシオン)、どうして……!?」


理子の一言で、燻っていた胸臆の靄は全て晴れた。あの警鐘は、この急襲だけを示唆していたのではないのだ。彼女が裡面で暗躍していた組織、《イ・ウー》──そうして、《教授》。彼の者は始業式の日に、自分に向けた一報で件の依頼を提示してきた人間に他ならない。《イ・ウー》と《教授》とには、何らかの関係性がある。そこまでを指していたのだ。あの警鐘は。


「今度は《イ・ウー》……、面倒だね」


その刹那──轟音が鼓膜を劈き、脳髄を振動させていく。機体の壁面を忙しなく反射していくようで、この機体の全域が、轟音の蠱毒になってしまったような気がした。同時に衝撃も、この全域を急襲してきた。地上ならば大地震かと紛うほどの振動で、壁に手を突いてしゃがみこんでいるのが関の山でしかない。幸いにも、それは一瞬間とその余韻だけで済んだ。その間にこの機体全域は、乗客員が引き起こした動乱──阿鼻叫喚の坩堝と化している。それを自覚した。

しかしこの急襲が《イ・ウー》によるとしたら、これほど面倒なことはない。理子の計画があちら側にも共有されているのかは定かではないが、もしそうだとしたら、それが成功したにしろ失敗したにしろ、追い討ちといった面では、《イ・ウー》側の正当的な理由付けになる。狙いはもちろん、自分たちだろう。まったくの一般人まで巻き込むのは、少々いただけないけれど──。
アリアと理子の無事を確認してから、そのまま視界に入った内線電話の受話器を手に取る。同時に武偵病院まで繋げた幅広の《境界》を顕現させながら、深呼吸もほどほどに口を開いた。


『──武偵の如月彩斗と申します。緊急事態を御連絡致します。当機は何者かによるミサイル攻撃を受けました。乗客及び乗組員の皆様、御手数をお掛けいたしますが、今すぐに避難準備のため、廊下へと御足労願います。現在はハイジャック事件解決のための交戦後、2人の人間が負傷しております。乗客員のなかに負傷者が居りません場合には、当2人を優先的に武偵病院へと搬送致します。乗客員のなかの負傷者はあらかじめお申し付けください。繰り返します──』 
 

 
後書き
評価やお気に入り登録もお待ちしております。次回もお楽しみに。( *¯ ꒳¯*) 

 

緋が奏でし二重奏 Ⅴ

幸いなことに、乗客員のなかに負傷者は存在しなかった。彼等彼女等はアリアと理子を優先的に武偵病院まで搬送することを快諾してくれたために、衷心から叩頭させられてしまうほどだった。そんなわけで少女2人──とりわけアリアに関しては、手術という運びになって胸部の処置を施している。理子も軽微な残痕を見せていて、その処置を終えてからはひとまず武偵校へ赴くように指示してある。乗客員も武偵病院で待機してもらっているために、機内には自分のみだ。

《境界》を閉じる余裕もなく、そのままコクピットへと歩を進める。武偵病院で事を済ませてからこちらに戻って体感したこと──あくまでも体感だけれど、それにしては、その機体はどうにも傾いているように思えてしまって仕様がない。試しに銃弾を床に静止させてみると、そのまま一方向に転がっていってしまった。先程のミサイル攻撃で、色々と貰ってしまったらしいね。

そんな悪態を吐いた刹那に、機体がひとたび静止した──と思いきや、途端に前のめりに傾斜する。急降下を始めたらしく、慣性力が一挙にこの身軀まで押し寄せてきた。踏みとどまることも手を突くこともできずに、そのままコクピットまで転倒し続けてしまう。何とかその勢いを落とせたのは、機長席の背もたれに背部を強打した時だった。酷い眩暈に襲われていた。

手近な窓硝子から機体の様子を見ると、先のミサイル攻撃で損傷を受けたのは、どうやら内側2基のエンジンらしい──黒煙が朦々と立ち込めていた。対称に外側の2基は無事なようで、その幸いの加護もあってか、辛うじて機体は持ちこたえていた。それでも急降下を続けている。
機長・副機長席に視線を遣ると、2人の男性が昏倒していた。恐らくは理子に睡眠剤でも投与されたのだろう。脈搏はあるし呼吸もしている。命に別状は無いようでひとまずは安堵した。

その2人を座席から下ろして、機長席からも目に付くあたりの壁に寝かせてから、《境界》で手にした個室備え付けの毛布を被せておく。本当ならば2人も武偵病院に搬送すべきなのだろうが、この状況下に於いてその猶予が無いことは、明々白々だ。そう自分に言い聞かせる。
入れ替わるように自分が機長席に腰を下ろし、すぐさまBluetoothスピーカーと機長持ち合わせの衛星電話とを繋ぐ。衛生電話はその名の通り、衛生を介して通信を行う通話システムで、どんな状況下だろうと通話が可能になる。飛行機とか船舶の関係者が保有していることが多い。

そうして握ったこともない操縦桿を握り締めて、徐々に引いていった。体感的に、機体が元の水平を取り戻しているような気がする。僅かの余裕が生まれたためか、ふと見澄ましたフロントガラスの向こうが黒洞洞を極めた太平洋で、思わず戦慄してしまった。
大きく深呼吸してから、雑多な計器のなかから無線機を探し当てる。その信号先をインカムからスピーカーに変更すると、ノイズ混じりのなかに男性の声が微かに聴こえた。それは緊急用周波数を合わせて応答しろ──という羽田管制塔の指令だった。マイクを入れて返答する。


「メーデー、羽田管制塔──東京武偵校の如月彩斗です。当機はハイジャックの後に何者かによるミサイル攻撃を受けたため、重篤状態にあります。羽田空港への緊急着陸を要請します」
『ANA600便の如月武偵、了解した。乗客員の安否はどうなっている?』
「乗客員は無事です。ただ、ハイジャック解決のために動いた武偵1人と実行犯が負傷しているので、全員まとめて武偵病院まで搬送しておきました。当機には自分だけです」
『把握した。ところで、飛行機から搬送……とは……?』
「自分は超能力者です。とにかく乗客員は無事です」


腑に落ちない返答なのだろうが、羽田管制塔も取り敢えずは現状を把握した。羽田空港への緊急着陸も承諾してくれるというので、ここからはその準備をせねばならない。
片手で衛生電話を操作し、遠山キンジへと繋げる。コール音が1回鳴ったかどうかのところで、通話は始まった。開口一番が怒号だったために、ボリュームを下げざるを得なかったが……。


『おい、どうなってるんだANA600便は! ハイジャックに次いで、ミサイル攻撃ッ──』
「はいはいキンジ、落ち着いて。ハイジャック事件は自分とアリアで解決したから。ただアリアと犯人とが負傷していて、今は武偵病院に搬送してる。処置を施しているところでしょう。ただ、何者かにミサイル攻撃されてしまってね……。危険だから乗客員も武偵病院に搬送だよ」
『ってことは、彩斗だけで飛行機に留まってるわけか? 操縦は?』
「何とかなってるよ。……ところで、いま君は武偵校に居るはずだよね? 武藤の姿は見える?」


電話口の向こうで何やらキンジは話しているらしい。喧騒に塗れた武偵校──ということは、少なくともこの現状は武偵校にも共有されているわけだ。そんなところで、通話が再開する。


『おう、武藤だ。お呼ばれしたから来たぞ』
「やぁ、お久しぶりだね。ところで電話口の向こうが騒がしいのだけれど」
『十数分前に武偵校に連絡が来た。ANA600便がハイジャックってな。そこで一気に大騒ぎになって、通信科が乗員名簿を確認したら、如月彩斗と神崎・H・アリアって名前を見付けたわけだ。そしたら余計に大騒ぎだぞ! 救護科が神崎さんが負傷したって言ったらもっとだ!』
「ふぅん、なるほどね。君も含めて、みんなアリアのことが大好きなわけだ」
『なっ──!?』


何故か言い淀んだらしい武藤に苦笑しながら、「ほら、本題に入るよ」と諭す。ANA600便のエンジン──内側2基のみがミサイル攻撃で損傷したこと、外側2基は無事なこと。一時は急降下で危うかったが、現在は自分の操縦で安静を保てていること、それらを伝えた。そうして付け加える。「計器を見てて気が付いたんだけど、1つだけ数値がどんどん減少していってるね」
そこで初めて、武藤が沈黙を発した。何かを思案しているのか、喧騒のみが電話口の向こうから聴こえる。数秒後の苛立たしげな舌打ちを皮切りに、また彼は口を開いた。


『……まさか、EICASか? 中央から少し上に付いてる四角い画面で、2行4列に並んだ丸いメーターの下にFUELと書いた3つのメモリがある。そこのTOTALってやつだ』
「わぁ、凄い。流石は車輌科のAランクだね。そう、そこの数値だよ」
『テメェ、そんな呑気にしてる場合か。そりゃあ、あれだ……燃料計だ。ANA600便の内エンジンは燃料系の門も兼ねてる。それが漏れてるってことは、長くは保たねェ』


「なるほどねぇ……」と呟いていると、ふと背後から足音が聞こえた。軽快で歩幅の短い、聞き慣れた──そもそも彼女がどうしてここに来たのか、そんな猜疑心を抱きながら振り返る。
そこには予期の通り、彼女──アリアが居た。武偵病院からここまで駆けてきたのか、息が荒い。ただ紅血に滲んでいた制服の胸元が綺麗になっていて、どうやら新調したらしく思える。


「……君は来なくてもよかったのに。安静にしてなさいな」
「何よ、その言い方。アタシの性格を分かってるんじゃなかったの?」
「だから言ったんじゃない。『来なくてもよかったのに』って。まぁ、来るとは思ってたけどね。……ところで傷は大丈夫なの? 見たところは既に、元のようだけれども」
「皮膚用ステイプラで簡単な手術はしてもらったから大丈夫。それに、わざわざ我儘を言ってまで飛び出してきたのよ? ちゃーんと鎮痛剤(モルヒネ)も打ってもらったしね」


アリアはそう言って、胸元を人差し指で軽くつついた。いつものような屈託のない笑みが、彼女の今しがた説明したそれを、如実に証明している。そうして副機長席に座ってから操縦桿を握り、傍らに寝かせておいた男性2人を一瞥した。「この人が機長と副機長さん? 寝てるの?」
自分もつられて一瞥してから、端的に返す。「うん、理子に昏倒させられたみたい。ただ本当に寝ているだけだから、安全面だけを考慮して目の届くところに休ませているだけだよ」

「それよりも──」と付け加える。


「この機体は先程ミサイル攻撃を受けたでしょう。見たところ、内側のエンジン2基が損傷を受けているらしい。そこで車輌科の武藤剛気が言うには、ANA600便のタイプのエンジンは燃料系の門も兼ねているらしくて、漏出が止まらない状態なんだ。今も……ほら、ここの数字」
「440、435……これであと何分くらいは燃料が保つの?」
「武藤、話は聞いてたね? この数値だとどれくらい飛行できる?」
『……10分、長くて15分だな』


武藤の低い声色は、いつにも増して低かった。咽喉の奥から絞り出したような色をしていて、事実、この機体が羽田空港まで到着するかどうか──それを思案しているように思える。アリアもその雰囲気を感受しているのか、謹厳な面持ちをしながら、静静としてそれを聞いていた。
自分が握り締めている操縦桿は、最初から羽田空港の方角を向いている。そもそも到着するのに十数分も要さない。そんな風を振り撒きながら、羽田管制塔に向けて最後の挨拶をしておく。



「羽田管制塔、緊急着陸の準備はどうなっています?」
『既に済ませてある』
「そうですか。それでは──3分後に到着しますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます」
『は……?』


今度こそ意味が分からない──といった羽田管制塔の呆れ声を最後にしながら、Bluetoothの通信を切断した。依然として武偵校と繋がっている衛生電話の向こうでは、武藤も苦笑している。アリアも同じようにその赤紫色の瞳を丸くさせて、可愛らしく小首を傾げていた。


『おい、彩斗。3分後に羽田って──正気か? 車輌科にそれはキツイなァ、いくら何でも。テレビに羽田空港の滑走路が見えてるが、飛行機なんかは微塵も見えねェぜ』
「ふふっ、如月彩斗にその言葉はないでしょう──そのまま刮目してなさい。じゃあね」


それだけ言い残すと、Bluetoothの通信に加えて衛生電話の通信をも切断する。コクピット内に聴こえるのは、機体の駆動音──それに綯い交ぜになった、自分とアリアとの吐息だけだった。
羽田管制塔、車輌科の武藤をも茫然とさせるその策は、自分でなければ成し得ないことだと自負している。燃料を無駄にせず、機体の安静を保ち、制限時間内に目的地にまで到着して、着陸するという、その策は。ただ気がかりなのは、自分に飛行機の操縦知識が無いことだけだった。


「ねぇ、《境界(・・)》で羽田空港まで移動するけど、君はジェット機の着陸はできる?」
「できない、けど……やる。無理って言ったら、本当に無理になっちゃうもん」


僅かに言い淀んだその裡面には、微細な困惑の色が浮かんでいた。それでも、下手にはぐらかされるよりは気分が清々とする。やるしかない──という開き直りが、そうさせるのだろう。
「あのね」とアリアは続けた。「無理、疲れた、面倒臭い──っていう言葉は、アタシは使わないようにしてる。自分がそう認めちゃったら、有るはずの可能性が全部、消えちゃうから」そう言って彼女は、気恥ずかしげに笑みを零した。「アリアらしいね。でも、大切なことだよ」

そのままフロントガラスの端を見澄まして、左翼から右翼までの全幅を目測で確認する。いつの間にか窓硝子の向こうは黄昏から宵闇になっていて、これは夜景が綺麗だね──と笑んだ。『悲観論で考え、楽観論で行動せよ』──少しの逆境くらいは楽しんでやるつもりの気概でいる。
そうして、指先をフロントガラスの端から端、そのもっと奥までを、線を引くように虚空をなぞらせていった。この《境界》は、かなり余裕を持たせた範囲設定になっているだろう。


「こんなに大きなものなのに、《境界》で出来るの……?」
「まぁ、出来ないこともないね。規模が規模だから、頻出はしないけど」


アリアはその声色のなかに、憂慮を多分に横溢させていた。それは日常的に顕現させる規模の《境界》でないことを、この1週間程度の同棲生活で理解しているからだ。これだけの範囲は、戦闘にも滅多にお目にかかれない。出来なくはないけれども、という感じだろうか。


「……ほら、見てて」


呟き、フロントガラスのその向こうへと視線を遣る。刹那──宵闇に顕現した紡錘が、この機体の全域を呑み込んだ。ほんの一瞬間の瞬きをした後には、既に羽田空港は目前にある。
滑走路灯が爛々と輝いていて、奥には展望ラウンジが鎮座していた。その奥には大東京のビル群が聳えていて、ほんの僅かな時間でさえ見蕩れてしまうほどには、綺麗な夜景をしている。


「ねぇ、このままキチンと着陸できると思う?」そう問いかけたアリアの声は、いつもの通りに軽快だった。「失敗したら、2人で心中になるね」つられて自分も、磊落な調子で笑い返す。
2人が握っている操縦桿は、動きが連動していた。機体は高度を下げ、滑走路にその足を着けようとしている。ひとしきり笑ってから、「でも」と付け加えて、彼女の顔を見据えた。


「でも──アリアと2人なら、何でも出来る気がするね」


一帯の雑多な灯りに、自分の顔もアリアの顔も、照らされていた。彼女の顔が明るかったのも、頬が紅潮しているように見えたのも、羞恥とかそんなものじゃ、本当はないのかもしれない。「こんな時に、冗談なんて……っ」そうとだけ呟いたアリアの声は、清澄に聴こえていた。
そうして機体の足は、とうとう滑走路に着いてしまう。自分たちの出来る限りの──それでも知識は皆無に等しかった。ただ感覚だけで操縦していて、楽観するだけ楽観していた。


「……今の言葉は、冗談じゃないよ」


アリアが瞠目するのと、自分が減速のためにブレーキを掛けるのは、同時だった。その刹那に着陸の衝撃が押し寄せてきて、滑走路に降り立ってからはもう、感覚任せで操縦をしている。アリアが操縦桿の操作をしながら、自分がブレーキ等の制御をしていた──それでも、止まるのだと確信している。アリアと心中とは言ったものの、流石に死にたくはない。彼女のためにすることはまだ残されているのだし、親友や身内も置いて、勝手に何処かに行くわけにもいかない。
そんな想いを雑多に巡らせているうちに、機体はいつの間にか、静止していた。……それでも、滑走路の直線からは少しだけズレてしまった、ちょっとだけ間の抜けたような格好をして。

それが今の自分には面白く思えてしまって仕様がなかった。アリアも同じなのか、2人して顔を見合わせて、笑みを堪えている。同時に堪えきれなくなって、十数秒くらいは馬鹿みたいに笑っていた。「彩斗と一緒になら、本当に何でもできそうに思えてきた」そんなことを言いながら。
ひとしきり笑い終えると、爛々とした赤紫色の瞳と視線が合った。 どうせなら、あの時──バスジャックの時に直接言えなかった言葉を、代わりにここで言おう。何がなしにそう思い至る。


「「──ねぇ」」


そのタイミングは、どうやらアリアと同じだったらしい。また零れてしまいそうな笑みを堪えながら、刹那の間を空けて、お互いの瞳を見据えて、2人して口を開いた。


「「──ありがとう」」 
 

 
後書き
緋が奏でし二重奏──終曲。

お気に入り登録や評価等、今すぐにでも、画面下の欄からポチリとしてね。待ってます。(*ˊ˘ˋ*)
宜しければ、次話も閲覧いただければ幸いです。お楽しみに。 

 

これにて、一件落着──?

『──超豪華旅客機《空飛ぶリゾート》ことANA600便は、昨日夕方にハイジャックを受けました。東京武偵校生2人の迅速な活躍により事件は解決しましたが、うち女子武偵1人が胸部損傷の重症、事件首謀者が軽傷を負っています。乗客員には負傷者は確認されておりません。首謀者の少女Aは残る男子武偵の指示により、武偵病院に搬送の後、東京武偵校に身柄を引き渡された模様です。現在は警視庁も含めた取り調べを行っています。次のニュースです──』


アリアのために用意された武偵病院の最上階の個室には、ニュースキャスターの声が聞こえていた。自分は傍らのソファーに腰掛けながら、それを静静と聞いている。アリアも病院着のガウンを羽織って、純白のベッドの上から、少し離れたテレビに意識を傾注させているらしかった。それが一段落したところで、手元のグラスに手を伸ばす。中身の飲料水が黄昏時の斜陽に爛々として、グラスを透過して瞳に映射するものだから、眩しくて仕様がなかった。残りを飲み干す。


「普通なら──こうなると理子はもう、武偵校には居られなくなりそうだけれども。少年法が上手く効いてるね。取り敢えず、彼女のことは有耶無耶にしておくんでしょう?」
「そうねぇ……。一般生徒に理子と武偵殺しとの関連性が勘づかれないようにしなきゃ、どうにもならないから。逮捕から裁判──司法取引までの時期を、どれだけ短くできるかよね」


「だよねぇ」と頷きながら、テレビの電源を切る。「やはり司法取引が鍵なわけだ」
司法取引という制度は、欧米諸国ではよく使われている。だから、この言葉そのものを知らない──という者は、そんなにいないだろう。ただ我が国に導入された司法取引は、欧米のそれとは性格が異なっている。罪の自白をして減刑を求める有罪答弁が欧米式なのに対して、日本版司法取引は──他者の犯罪を立証するための協力を被告人が検察側に行い、その対価として公訴権破棄や訴追罪状の軽減が与えられるという、捜査・公判協力型協議・合意制度というものになる。

峰理子に於いては、彼女自身が《武偵殺し》ということ、アリアの母親に濡れ衣を着せたこと──これらを自供した後に、《イ・ウー》の情報をこちら側に提供することを求められている。
日本版司法取引は、アリアにとってまさに都合の良い制度なのだ。だから彼女は、目前の武偵殺しを追い続けてきたことになる。彼女の母親の刑期864年が742年まで減刑される、この122年ぶんは、本来なら武偵殺しが負うべき刑期だったのだ。それを絶無にするには、アリアとしては、峰理子から《イ・ウー》に関しての情報を吐いてもらうしか方法はないことになる。

残る742年ぶんも、《イ・ウー》諸氏であることに間違いはないだろう。今回の司法取引でどれだけの成果が得られるかは定かではないが、そこは蓋を開けてみないと分からないものだ。
峰理子の裡面には、《イ・ウー》という組織が暗躍している。規模も目的も不明、国家公的機関や各国情報機関がその存在を認知しているのかさえ、まだ分かっていない。不明瞭なのだ。今は時間の流動に身を任せて、事態が進展していくのを見遣っているくらいしか出来ない。


「……今が束の間の休息、だろうね」


苦笑しながら、いつの間にか伏せていたらしい目線を上げる。窓硝子の向こうには紫金と茜とが綯い交ぜになっていて、それに染まりきってしまった千切れ雲が揺蕩っていた。東京湾の藍も不完全な藍で、あの斜陽たちは黄昏時の侵略者らしく思えてしまって、どうにも仕様がない。そうして緩慢に腰を上げて、ベッドの傍らに据え置かれている椅子の方に移動した。上体を起こして飲料水を飲んでいるアリアを横目にしながら、背もたれに深く腰かける。


「ところで、傷の調子はどう? まだ痛む?」


そう問いかけると、彼女は飲料水の入ったペットボトルを備え付けの小テーブルに置いた。そのまま上体を支えるように手を着いて、おもむろに胸元のあたりをそっと触れている。「まだちょっとだけ痛むけど、大丈夫。我慢できるわよ。子供じゃないもん」そう笑んでいた。
アリアの零したその笑みの裡面に、彼女自身の意地の悪さが無いことは分かりきっている。それでも、心臓の何処かが痛くて堪らない。微細な硝子片が一挙雑多に刺さってしまったようで、指で摘み取ろうにも、それが出来なかった。その原因も、自分には分かりきっていた。


「……ごめんね。アリアのこと、護(まも)れなくて」


そう伝えた言葉は、自覚してしまうほどには不格好で、途切れ途切れで、震えていた。彼女がどんな顔をしたのか、自分がどんな顔をしているかなどは、気にする余裕すらない。ただ自分の胸臆に秘めた想いだけを吐露することに躍起になっている──ただそれだけなのかもしれない。
そうして、その森閑がほんの一刹那のものだったのか、或いは数秒、十数秒のものだったのかを体感することすらも出来ていなかった。それでも、彼女だけを見詰めていた。

アリアがそうした自分の言葉を、どのように受け止めたのかは分からない。ただ、胸元に遣ったままの少女さながらの手を握り締めて、伏し目にさせた赤紫色の瞳を揺らがせている。それに靡いた髪も瞳に映射する斜陽にも、彼女は気にしないでいた。反面で茫然としているようだった。
「……なんで」そう呟いたアリアの声は、細細としていたように聴こえる。想いの吐露を一挙に告ぐかのようにして、彼女特有の勝気さは──そこには微塵も見えなかった。


「なんで、彩斗が謝るの? 本当なら謝るのは、アタシの方なのに……。パートナーになってくれたこと、アタシとママのために、一緒に頑張ってくれてること──ありがとうっていうのは言いきれないくらいだけど、同じくらいに、彩斗の先を狂わせちゃった気がして……。でも、ありがとうっていう気持ちに比べれば、こんなくらいの傷なんて──大したことじゃないから」


その刹那に、心臓を握り締められたかのような錯覚に襲われた。同時に、銃弾に撃ち抜かれたかのような錯覚にも襲われている。そうして滔々と迸る血潮と一緒に、今の今まで刺さっていた微細な硝子片は、何処かに抜け落ちていってしまったらしい。心臓も咽喉も、すべてが随喜と艱苦がごっちゃになったような──そんな感情の権化、圧力に押し潰されかけていた。

そうして、自分がどうしてアリアを護りたいと思ったのか──同情という感情の裡面に潜んでいた、その要因なるものもまた、分かってしまった。気位に満ち満ちた彼女がときおり見せる優しさだからこそ、自分はそれに惹かれてしまっていたのだろう。彼女のその感情こそを護りたくて──或いは、自分が無意識にその感情を受けたくて、必死に神崎・H・アリアという眇たる一少女、存在のそのものを護ろうとしたのかもしれない。それは恋情とも愚蒙とも呼べてしまった。


「だから、これだけはアタシの口から言わせて」


すぅ──と吸い込まれていく吸息の音色は、彼女の口元のあたりを彩っていく。更には彼女の口腔から咽喉、肺胞に至るまでの全てを満ち満ちさせていった。そんな充足の最高潮から僅かを挟んで、アリアは笑みとともに心情の吐露──告白とも言える本音を零したらしい。
「これからも、宜しくね。パートナーさん」
「……うん、こちらこそ」
──嗚呼(あぁ)。だから彼女に、恋情を抱いてしまったのだ。つられて零した自らの笑みの、その裡面に潜ませた愚蒙……換言するならば恋情を、この刹那に初めて、自覚したのだ。

そうして同時に、今の今まで幻視すらも適わなかった朧気な靄が、次第に濃度を増して眼前に浮かび現れてきたように感じている。この感情を前にして、彼女とどう接していけば良いのか──はたまたこの関係が何処まで続くのだろうか、そんな具合の想いが、胸臆に鎮座してきた。
それ以前に、不思議で仕様がないのだ。この現実を無為無聊だとして半ば強引に打破し、生家を後にして武偵となった過去がある。そうして、自分の思う非日常に足を踏み入れた。 一般の掲げる現実を俯瞰したために、恋情などという感情を抱くことはなかったのだろうか。

即ちそれは、平々凡々な現実世界に居る異性には恋愛感情を抱くことは不可能だ──と述べているのと同義ではないだろうか。アリアは非現実世界に居る武偵であるのだから──即ち、非日常に足を踏み入れた異性であるのだから──自分は彼女の存在にこうして惹かれ、恋愛感情すらをも抱いてしまったということなのだろうか。その論調の精度は、自分には分からない。
ただ自分は、現実・非現実世界の双方の住人の視点から見ても、恐らくそのような論調を掲げている時点で、変わっているのではないか──ということだけは、分かりきっていた。

こんな変わり者がパートナーで良ければ、どうぞ望むところだね──。
ただ口の中で転がしただけの言葉にしては、やけに彩られていた。


「それじゃあ、アタシのパートナー──如月彩斗は、J・H・ワトソンね」


おもむろにアリアは、友誼的な調子でそう零した。女子よろしく足を崩して座り直しながら、皺の出来たシーツのあたりを手で軽く伸ばしている。そのまま自分に赤紫色の瞳を向けてきた。
「だって、アタシの一族は理子の言う『オルメス(Holmes)家』だもん」
そういえば、理子はアリアのことをオルメス、或いはオルメス4世と呼称していた。綴り字は、頭文字のHから始まって──確かに理子の持つ情報がいつか言った通り、H家ともなる。
ただ、オルメスはその綴り字の読みとは異なる。本来ならばこれは──、


「ホームズ(Holmes)──アタシの真名は、神崎・ホームズ・アリア。シャーロック・ホームズは曽祖父様で、アタシはその曾孫。だから4世なの。ホームズ4世、ね」


そうして彼女は、さながら小動物のように笑んだ。 
 

 
後書き
(本当にこれで1章はお終いです。( ˙-˙ )) 

 

幼馴染の異変

件(くだん)の騒動から1週間ほどが経過した。その間にも引き起こされてきた騒乱や事件といったものは少なからずあれど、結局は誰かしらの手によって鎮圧・解決されていくものだ。
武偵殺し騒動はさしずめ、武偵界隈に於ける卯月一大騒動──といったところだろうか。とはいえそれ以降の現在は、物々しい話を耳に入れることも激減した。個々人の話は抜きにして、表層的には平穏無事を取り戻したらしい学園島──これに過ぎたことはないだろう。

自分の周辺にも、平穏の2文字が浮かび現れているように思える。アリアとキンジとの間にも遺恨めいたものは存在しないし、周辺との関係も良好だ。そうして何より、彼──遠山キンジと星伽白雪との関係性が、どうやら以前よりも好調に向かっている傾向の見られることが、つい今しがたの平穏2文字を助長させる要因に成り得ていることも、否定は出来ない。


「なるほど、キンちゃんの昼食はお肉類の確率が高い──っと」
「おい、武偵校でその呼び名と変なメモは止めろって言っただろッ! 恥ずかしいんだよ!」


昼下がり、喧騒の渦中にある武偵校の食堂の片隅で──自分とアリア、キンジと白雪とは昼食を摂っていた。白雪のマイブームは、どうやらキンジと食事メニューの傾向を押さえておくことらしい。今も小型のメモ帳とペンとを手にして、達筆に何事かを書き記していた。そうしてキンジが自らの愛称と彼女のその奇行とを咎めるまでが、お約束の光景になってしまっている。

微笑ましいやら何やら──などと笑みを零しながら、自分は適当なパスタを、アリアは当然ももまんを、キンジはやはり焼肉定食を、白雪はサバ味噌定食を、めいめいに楽しんでいた。最近はこの4人で行動することが増えている。というのも先日、白雪がまたしても手料理を我が家に持ってきてくれたところを、偶然にもアリアが出迎えたらしい。自分やキンジとの関連もあり、白雪と何度か話すうちにすっかり意気投合したようで、今ではこんな感じだ。


「えっ、でも──キンちゃんはキンちゃんだよ? だよね? 2人とも」
「……うん、まぁ。それもそうだね」
「アタシも彩斗に同意よ。恥ずかしがらなくていいのに」
「ほらキンちゃん、2人ともこう言ってるよ!」
「あー、はいはい。分かった分かった……」


本来ならば美味しいはずの焼肉定食を、ここまで不味そうに食べられる人間が何処に居ようか。
取り敢えずはまぁ、2人はどう見ても仲の良い幼馴染ではある。ある、けれども──やはり女嫌いとか根暗とか昼行灯とか、悪い方に噂されているキンジにとって異性の幼馴染は吊り合わない存在だ、と考える人間も少なからず存在するらしい。彼本人も自覚しているらしく、『ここ最近、男子共の俺に対する当たりが強い。相手するのが面倒だ』とのことである。因みにその男子たちの共通点が《星伽白雪ファンクラブ会員》だ、ということを小耳に挟んだのは今朝の話。


「そういえば、武偵校って男女問わず人気生徒のファンクラブ会員があるんだってね」
「へぇ、そうなの?」
「小耳に挟んだから、ちょっと気になって聞いてみたんだ。男子だと強襲科の不知火くんが人気があるみたいでね。女子は男子の比じゃないみたいで、それこそ君たち2人の他にも居るみたい。探偵科の理子とか、狙撃科のレキとか、装備科の文とか、色々とね」


苦笑しながら、空になった食器をテーブルの傍らに仕舞う。さりげなくアリアと白雪の名前を出したところには、2人の反応が気になった──という下心が無かったわけではない。
案の定、彼女たちは怪訝な顔をするなり、小首を傾げるなり、どうやら自覚の無さそうに疑問符を浮かべていた。そもそも、そんな愛好会の存在すら認知していなかったのだから、その反応も当然のことだろう──行き着く先が、同胞への嫌悪にならなければよいのだけれど。


「……まぁ、あまり実感は湧かないよね。むしろ気にしないくらいが良いと思うよ。下手に気にしちゃうと、そのファンクラブを好意的に思えるならまだしも、嫌悪してしまうと──ほら、関係の無い他の生徒までも、嫌悪してしまう恐れがあるからね。そこらへんは自己の裁量で」


そんな具合の釘打ちだけをしておいてから、食器でも戻しに行こうかな──と思いかけた矢先だった。この食堂一帯に、喧騒よりも甲高い校内放送のチャイム音が鳴り響いたのは。
『2年B組、S研の……あー、生徒会長の星伽白雪ぃ。今から教務科の綴まで早急に来るように。……繰り返すぞー。2年B組、S研の星伽白雪は、綴のところまで早急に来るように』
「白雪、お前……何かやらかしたのか?」放送終了を告げるノイズ音に被せるようにして、キンジは驚愕と危惧とを綯い交ぜにした声を、白雪へと投げかけた。


「ううん、何も……。キンちゃんたちは待ってて。取り敢えず行ってくるね」
「あぁ、行ってこい。食器は片付けといてやるから」
「うん、ありがとうっ」


キンジはそう告げると、小走りに去っていく白雪の背中を見送っていた。そうして自分と白雪の食器とを両手に持つと、そのまま食器返却口まで歩を進めていく。ふとアリアの方を見ると、それなりの数があったももまんも、いつの間にか全て無くなっていた。


「何となく、キンジと白雪の関係は、以前よりも親密になった気がするんだよねぇ」
「そうなの? ……でもまぁ、アタシと話す時とは違うなぁって思うけど」
「それでも、初日から見れば改善したでしょう」


磊落に笑みを零しながら、不意に腕時計の文字盤を見る。昼休みが終わるのには、まだ数十分ほどの猶予があった。「そうだ。……どうせなら、白雪に何があったか見に行ってみない?」
食器を戻してきたキンジと、傍らに座っているアリアとに声を掛けてみる。その2人が一拍の間を置いて、「……はぁ?」と仲良く声を揃えながら訝しんだのは──言うまでもない。 

 

幼馴染との契約

ここ東京武偵校には、3大危険区域と呼ばれている場所がある。しかもそれは辺鄙(へんぴ)だとかそんな話ではなくて、実にこの武偵校の中枢にもなる場所であることに相違なかった。
とはいえ、関係者を除けば好んで近寄る者は少ない。『どう見ても危険でしょ』めいた雰囲気を醸成させているのは勿論のこと、直にその空気を肌に受けようものならば……。
東京武偵校生の彼等彼女等は、一様に口を揃えてこう告ぐ。「『強襲科(アサルト)』、『地下倉庫(ジャンクション)』、『教務科(マスターズ)』には干渉しない方が良い」──と。

強襲科は、東京武偵校の専門科目のうちの1つだ。卒業時の生存率は97.1%──そこから生まれた異名が、『明日無き学科』。訓練も依頼も他科と比較すると過激なもので、それはそれは好んで近寄る者も少ないことだろう。かくいう自分は、強襲科所属だけれども……。

地下倉庫は学園島の地下に存在する。倉庫とはいっても、それは体外用の穏和な表記に過ぎない。保管されているものは、銃弾に始まり対戦車擲弾まで──文字通り火薬庫といえるだろう。

教務科は、単なる職員室だ。職員室、なのだけれど……それは一般的な学校の話。何の戦闘力も無い、平々凡々な人間教師の集まり──そこが職員室。けれど武偵校の教職員は、だいたい普通ではない。職員室ではなく『者狂いの詰め箱』と表現すれば、分かりやすいのだろうか。
例えば、強襲科顧問の蘭豹は香港マフィアの愛娘だ。我がクラス担任の高天原先生は、『武偵校の良心』と呼ばれながら元傭兵という噂もある。校長でさえも不穏な話があるのだ。

──そんな教務科のダクト内に今、自分たちは潜入している。


「……どうしてお前の好奇心ごときで、こんな所に来なきゃいけないんだよッ」
「しっ、少し静かにしなよ。本当に見つかるかもしれないじゃない」
「『好奇心猫を殺す(Curiosity killed the cat)』とは言うけれど……。キンジは猫じゃなくて、さしずめ猫に捕まって食べられる鼠ね。最後までチュウチュウ鳴き声がうるさいのよ」


──アリアが意外に辛辣だった。
そんなこんなで教務科のダクト内を、自分・キンジ・アリアの3人1列で匍匐前進と相成っている。自分とアリアは現役の強襲科生、キンジは元強襲科生のため、訓練を積んだ3人での匍匐前進での移動は割と潤滑に進んでいた。とはいえ視界は薄暗く、幅もそんなに広くはない。ましてや天井裏の手入れなどは論外だから、埃臭いとかカビ臭いとかいうのは我慢するしかなかった。

しばらく匍匐前進を続けていくと、頬のあたりを生温い空気が撫でていったように感じた。ダクトはまだ直進している。薄闇の中で目を凝らしてみると、どうやら通気口からその空気はやって来ているらしい。同時に洩れ出た室内の明かりと話し声とが、終着点を示唆していた。
後方のキンジとアリアとに向かって、振り返りながら『静かに』と視線を遣る。そうして傍らの通気口を指さして、『着いたよ』とも伝えてやった。話し声が、より明瞭に聞こえてきた。

後方の2人とも内容が気になるのか、それを聞こうと身体を前へ前へと持ってくる。側面をキンジとアリアとに挟まれながら──同時に痛覚をなるべく無視しながら──金属製の通気口、その向こうへと視線を遣った。そこでは予期通り、あの両者が言葉を交わしている最中だった。


「んで、だ。……あー、お前を呼び出したのは他でもない」
「……何の理由でしょうか? 綴先生」


椅子に深く腰掛け、薄い黒革の手袋をはめた手で葉巻を摘んだ女教諭──綴梅子は、いつものように物憂げな声をして白雪を出迎えていた。その葉巻にライターで炎を灯し、喫煙などとは教育上宜しくないのも厭わず、当たり前のように紫煙を燻らせる。こちらにも立ち上ってきた。


「ところでお前、実感してるだろ? 最近の自分の成績が、妙に下がってるってことをさぁ」
「……はい。重々、承知しています」


「まぁ、そんなことはどうでもいいんだけど──」綴はそう言い放つと、「本題は別にあるのさ」と黒のロングコートを正し、椅子の脇に手もたれながら脚を組んだ。
彼女の切り揃えた黒髪のあたりに、焦点の合っていないような瞳がある。口に咥えている葉巻も、市販の煙草だとは到底思えもしない。そうして気怠げな雰囲気を、常日頃から醸成させている──色々と要注意人物ではあるが、実はある1つにおいて非常に有能な武偵だ。

尋問科顧問の綴、武偵校では彼女はそう通っている。その肩書きで既にお察しではあるが、綴はどうやら国内有数の尋問官らしい。尋問で何をされるかは不明だが、尋問された者は総じて綴を女王だとか神だとか崇め讃えるというので──その真偽は問わないとしても、現に言われているこのカルトめいた奇譚が、彼女の天才と異質を物語る話の一片にはなるのではないだろうか。


「──単刀直入に言う。お前、誰かにマークされてんじゃねぇの? その不安とか恐怖とかいう重圧が一気に押しかかって、碌々として、星伽白雪は成績が下がった。ウチらとしてはこういう話になってんだ。これしか考えられねぇ、ってさ。……んで、どうなんだよ」


葉巻の先で白雪を指し示しながら、綴は先を促した。白雪も間髪入れずに返答する。


「魔剣(デュランダル)……ですか」
「ほらぁ、ビンゴ」


溜息混じりの綴の声色が、この一件の危篤性を大いに示唆しているように思える。それに重なって、アリアが険しい顔をして息を呑んだのも、自分は聴き逃していなかった。
魔剣とはいわゆる、ある種の都市伝説的な存在として、この武偵界隈を震懾させている。周知メールでの注意勧告だけはされているが、それも相俟ってまた、都市伝説とは思い難いのだ。
魔剣は誘拐魔と言われている。超能力を扱う武偵──武偵用語では超偵──のみを誘拐し、自らの手駒に成り代わそうと暗躍しているらしい。しかし存在は未だ確認されておらず、だからこそ都市伝説という説も大多数に蔓延している。これが現状だと言わざるを得ないだろう。

しかし自分には到底、それが都市伝説めいた話だとは思えないのだ。アリアも恐らくはそうだろう。というのも、魔剣の存在が方々から聞こえてきたのが、数週間前──峰理子によるハイジャック事件を解決した、その後になる。理子の背後には《イ・ウー》が暗躍しており、更には武偵殺しと入れ違うようにして武偵界隈を震懾させた、魔剣といった新たなる噂話……。果たしてその可能性も無きにしも非ず、といった具合に受け止めていれば良いのだろうか。

白雪は先程よりも僅かに語調を強めて告げる。「ですが、先生。魔剣の存在はデマに等しいのでしょう? それに、いくら超偵を狙うとしても……です。私よりも優秀な超偵は、居ますから」
自分自身もまた、超偵であるのだ──と彼女は示唆した。S研所属ということからも明々白々ながら、少し奥を辿ると、彼女の家系は代々で青森にある星伽神社の巫女を務めている。

しかし星伽の巫女は、従来の巫女と比較して異質だった。何処の神社でも、神主や巫女は多かれ少なかれ御神体を守るものだが、星伽神社は2000年ほどある長い歴史の中で何をどう間違えたのか、御神体を武装して守っているのだ。武具を用いた武装はもとより、『鬼道術』と呼ばれる能力をも駆使しているのだとか。それが、一族が伝統と共に継いできた能力でもある。キンジから聞くところによれば、白雪が頭に装着している白帯が、その制御装置足り得るのだとか。


「星伽ぃ、あまり自分を過小評価するんじゃないよ。お前が思う以上に、星伽白雪っていう人間は優秀な武偵であって、超偵なんだ。だから、前から何回も言ってるけど──ボディーガードを配備しろ。……この警告は3回目だぞー。仏の顔も三度まで、ってな。意味は分かるな?」
「……はい。重々、存じ上げております」
「まぁ、分かったならいいや。因みに、ウチら教務科も、こういう警告は何人かにしたことがある。けれど実際問題、最悪の事態には殆ど誰も遭遇していない。けれど、『殆ど』なんだよ。いいか? 前例のある以上、過保護な大人の都合には従ってもらわないとなぁー」


綴はそう言いながら、葉巻の先を灰皿の底に押し付ける。口元から洩らした紫煙には厭わず、気だるげに両腕を回していた。「んじゃあ、そういうわけだ。となると、お前のボディーガードを誰にするかが問題になるねぇ……」そんなようなことを呟きながら、彼女は首の骨を鳴らす。
──そのまま伸びをして、綴は視線を天井のあたりに向けたように見えた。そうして、どうやらそれは錯覚ではなかったらしい。小さく笑みを零したのは、こちらを視認したためだろう。

綴に自分たちの存在が露呈したのなら、こうして潜伏している必要もない。そう自らで結論づけると、通気口の金網を外してから室内に降り立った。少し焦燥したようなキンジとアリアとを控えて、驚嘆に目を見開いた白雪を一瞥する。どうやらすぐに言葉が出ないようだった。
数秒ほど要して、ようやく状況が把握できたらしい。「えっ、みんな……何でここに居るの?」
「彩斗の興味本位から出た話よ。白雪が呼び出された理由が気になったんだってさ」アリアは呆れたように零すと、「変なところでズレてるんだから……」とも付け加えた。


「彩斗──あぁ、君が如月彩斗くんかぁ。先のハイジャック事件で名前は知ってるよ。今年度早々に、随分と大きな事件を手がけてくれて何よりだ。ってことは、そこのピンクの女の子は神崎・H・アリアか。君もお疲れ様だったねぇ。んで、遠山キンジくんだろ? ……何の因果か、成績優秀者ばかりが集まってるけどさ。君たち、現役のSランクと元Sランクだったっけ?」


綴はそう言うと、咽喉を鳴らして笑んだ。


「如月くんは確か、神奈川武偵中の出身だろ? そこの遠山くんとも強襲科でパーティーを組んでて、付いた二つ名が《玲瓏》。……はっ、何で知ってるのか──ってか? あー、ウチらの中にもカブチュー関係の人間が居たのさ。それだけ聞けば納得じゃねぇの? ま、そういうことさ。
でもって、君は非常に穏和で泰然としている性格だ。交友関係は一部のみ良好、その他は可もなく不可もなく──強襲科顧問の蘭豹は、銃と刀剣類の扱いに長けていると評価してるな。
んで、両親とも京都に実家があって、4年前に父親が公務員で殉職……次いで母親が病死か。そんな中で、京都から神奈川、東京まで来たわけか。ご苦労様なこった」


綴の自分に対する知識、情報収集能力に、思わず驚懼した。生徒個々人のことを、どこまで把握しているのか──彼女の気になる人間のみなのか、或いは全生徒なのかは知れない。ただ今の解説を聞く限りは、その正確性と深度に、目を見開かされてしまうばかりでしかなかった。
嘆息する自分を横目に、綴はアリアへと視線を遣る。椅子に腰掛けている綴の目線と、立って視線を返しているアリアの目線との差異は、それほど大したものではなかった。


「ロンドン武偵局では随分と優秀な実績を残してたようだけどさぁ、日本に来てからはどうした? 今年は大した活躍もしないで……あ、武偵殺しに関してはキチンとやってたか。とはいえ4月から如月彩斗とカップルごっこ。ま、やってることは花の女子高生でいいんだけどさぁ……」
「……かっ、カップルじゃないっ! 彩斗はパートナーだから! 断じてカップルとかじゃないから! これホント! ホントのホントよっ! 訂正しなさい! 今すぐ!!」
「あー、はいはい、パートナーねぇ。訂正してやるから騒ぐんじゃねぇよ。喧しくするな」


「んで──」綴はそう呟くと、キンジの瞳を凝然と見詰めた。そのまま彼の胸元のあたりに流し目をしている──彼女はキンジの愛銃であるベレッタM92FSについて苦言を呈すべくしているのだろうことは、この場にいる自分たちも彼自身も、大いに首肯できることだった。


「遠山キンジくんさぁ……違法改造のベレッタ(チャカ)を持ってるってことは、自覚してるよなぁ? 確か装備科の平賀文が改造した『キンジモデル』だったっけ?」
「あ、あのですね。これはッ──」
「まぁ、いいんだけどさ。世の中は結果論だし。だから、今後の君の結果が出ることに希望を抱いて……ってことにしとくか。今回ばかりは没収しないでおいてやる。ただし今後、違法改造の銃の所持が発覚したら、君と改造者の双方に処罰を下すから、そのつもりでなぁー」


どうやら綴はキンジを少なからず期待しているらしい。それもそうだろう。現在はAランクとはいえ、元はSランク武偵だったのだ。彼に実力はあると彼女は判断している。だからこそ零した一株の希望とともに紫煙を燻らせながら、彼女は何かを思い付いたかのように指を鳴らした。
「あぁ、そうだ。こうするか」自分たちを一瞥してから、白雪に向き直って問い掛ける。


「如月、神崎、遠山──全員Sランク経験者だ。ボディーガードはこの中から1人選べ。何処の誰だか分からねぇやつに頼むより、星伽もその方が安心だろ?」
「確かに、そうですね……。分かりました」


白雪は納得したように頷くと、自分たち3人を見回して口元に手を遣った。


「なら、俺がやる。構わないな? 白雪」
「えっ……?」


徐に名乗りを上げたのは、キンジだった。それはアリアは勿論、彼の性格を熟慮している自分すらも驚愕させるに相応しいもので、この一瞬間にキンジの性格を思い返したからこそ「まさか、自発的に志願するとはね……」と零さずにはいられなかった。アリアも軽く頷いた。
綴も頬杖を突きながら「へぇー、自己申告制かぁ」と微笑を浮かべている。「そういえば君ら、幼馴染なんだっけ? ふぅん、そりゃそうかぁ……。ま、良いんじゃねぇの?」そう賛同した。


「キンちゃん……が、私のボディーガードを? 本当にいいの?」
「何でお前に嘘を吐く必要があるんだよ。やるったらやる──」


白雪の真剣きった詰問に気圧されたのだろうか、キンジは視線を逸らしながらも肯定する。
それが彼女にはよほど嬉しかったのだろうか──自分やアリア、綴などは蚊帳の外といったように、彼の身軀に抱き着いてしまった。やはり幼馴染に特有の強固な信頼感があるからこそ、最も頼みにできる存在がキンジなのだろう。相手が都市伝説めいた存在であろうと、最大限に信頼のおける幼馴染が隣に居るというのは、白雪にとっては十二分に安堵するものらしい。

そうであるならば、自己申告をしたキンジにとっても白雪にとっても、最良の選択になるだろう。胸の内でこう結論づけると、傍らに居るアリアへと視線を遣った。
アリアはどうやら、色恋沙汰に初心らしい──キンジに抱きついている白雪を見て、気恥しそうに頬を紅潮させていた。2人から視線を逸らして、組んだ手を揉みながら、『こんなところで抱きつくんじゃないわよ……』とでも言いたそうな雰囲気で見守っている。

始業式の日に彼女が言ったあの言葉が、不意に脳裏をよぎっていった。 

 

幼馴染との同棲

「武藤くん、本当にタダでいいの? え、悪いよっ、こんなに荷物持ってきてもらったのに……」
「いや、ホントにいいんで! 車輌科の人間なら誰でもこのくらい朝飯前っスから!」
「うーん、でも……ガソリン代くらいは……」


要求の空回り、平行線の談論──白雪も武藤も、お互いに『らしい』と言ってしまえばそれだけだろう。そんな交渉を5分ほど前から聞き流しながら、自分とキンジは男子寮駐車場に停められた軽トラックの荷台の傍らに立って、白雪のための引越し作業をこなしていた。
彼女がキンジをボディーガードにしたならば、その効率を鑑みても、2人を近くに置いた方が良い──というような結論は容易に生まれることだ。何よりも、白雪を招き入れるだけの空き部屋が存在したことが幸いしたろう。そうでなければ、キンジを女子寮に送っていただろうから。

そうなったら、キンジは嫌がっただろうねぇ──と苦笑しながら、荷台の上から荷物を降ろす。それを幅広の《境界》に経由させて、アリアに手渡した。彼女は彼女で、家具の簡易的な配置と荷物の整理を行ってくれている。現時点で布団と茶卓、座椅子、桐箪笥といったものが《境界》の向こうには見えていた。選択の好みもまた、白雪らしいと言えばそうだった。
「随分と和風テイストねぇ。フローリングなのが勿体ないくらいじゃない?」そう笑みを零しながら、アリアは問いかけてきた。「確かにねぇ」と返しながら、言葉を次ぐ。


「それにしても、まさかアリアも手伝ってくれるなんてね。今日は少しばかり暑いから、てっきり気が乗らないだろうと勝手に思っていたけれど……。そうでもなかったかぁ」
「だって、『手伝って』って彩斗やキンジに言われるってのが目に見えてるもん。いっそのこと手伝ってあげた方が、好感度も──あ、嘘! 今の無しっ! 何でもない!」
「ふふっ、随分と可愛らしい理由だね。大丈夫、好感度は上がったよ」


少し拗ねたような顔をしているのは、それが照れ隠しだからだろうか。『書籍』と付箋の貼られたダンボール箱を「ちょっと重いから気を付けてね」と彼女に手渡しながら、そう類推する。


「うん……。わっ、意外に重いわね……」
「落とさないように気を付けろよ。白雪のものなんだからな、最悪は弁償してもらうぞ」
「馬鹿キンジは黙ってなさいっ! 口を動かす暇があるなら手を動かすこと!」
「はいはい、いつも通り生意気なことで」
「『はい』は1回!」


2人の軽口の応酬を聞く度に、打ち解けてはいるのかな──と思う。始業式の日に起きた邂逅はまさに最悪そのものだろうし、アリアもキンジもそのことを少なからず気にしていた。けれど時間が解決してくれるとはこのことで、2人の共通の人間が自分であることからも、そういった点ではあの溝はだんだんと埋められているらしい。こちらとしては取り敢えず安心した。白雪が同居人として加わったならば、恐らくはそこまで大きな騒ぎも起こらないだろうと思われる。


「んじゃあ、星伽さんがそこまで言うってんなら……。無下にするのも悪ぃってことで」
「あっ、ありがとうございますっ! それじゃあ、これ……。せめてものガソリン代……」


そんな声が聞こえてきたのは、荷物を全て運び終えた直後だった。


「よし、向こうも終わったみたいだから撤収といこうか。ありがとうね、アリア。助かった」
「ううん、このくらいなら別に構わないもん。何かあったらまた手伝ってあげる」
「そう。楽しみにしておくね」
「じゃあ、アタシもう戻るわね。暑いし、喉が乾いちゃって……」
「うん、ありがとう。ソファーの上に寝転がっててもいいから」


アリアは気だるげに頷くと、「あっつーい……」と呟きながら手扇を扇いでいた。よく見ると額には薄膜が張ってあって、そこに前髪が幾らか貼り付いている。そのままリビングの方へと戻る彼女の後ろ姿を見送りながら、自分も額に滲んでいた汗を、伸ばした指先で拭いとった。


「最近、彩斗とアリアは仲良くなったよな。先月よりもずっと」
「それ、君が言えることじゃないと思うよ。キンジと白雪の方が、よほど仲良く見えるもの」
「そうか?」
「うん、そう見える。2人の関係とか君の心境の変化とか、何かあったの?」


そう問いかけると、キンジは僅かに沈黙した。何かを言いあぐねているような風には見えなくて、原因を探っているように見える。どうやらそこに関しては、本当に無自覚らしい。
「彩斗から貰った本は、暇な時間に読んでるが……」彼はそう零した。あれは始業式の日に自分がキンジに渡した、恋愛系の書籍だったろうか。未だに読んでいたことにも少し驚いたね。


「じゃあ、その影響でしょう。無意識的に内容を記憶していて、無意識的に行動している──まぁ、君たちは幼馴染なんだから、少しは仲の良さそうにした方がいいんじゃない?」


そう返答すると、キンジは「まぁ、それもそうか」と苦笑した。
それから白雪と武藤の会話が落ち着いた頃合いを見て、彼女に向かって手招く。


「おい。お前の荷物は全部運んでおいたから、早く中に入るぞ。この日差しだ。暑いだろ?」
「うんっ。ありがとう、キンちゃん」
「その呼び方で──まぁ、いいや。もう面倒だ。さっさと行こうぜ。俺も暑いから」


白雪は大きく頷くと、武藤に向かって慇懃にお辞儀をした。そうしてキンジの方に駆け寄ると、目の前にある《境界》に少々たじろきながらも彼に連れられて部屋に入っていく。
思うに、白雪に陰陽術の存在を知らせたことは──未だかつて無かったように感じる。白雪に会ったのは去年だ。単独で会うことなどは殆どしないし、大抵はキンジも一緒に居る。とはいえ1度も陰陽術を使用する機会が無かったというのも、これまた面白い話だ。キンジが彼女に教えているならば、話はまた別なのだけれど……。説明の機会を設けた方がこれからには良いだろう。

そんなことを考えながら、軽トラックの傍らで財布の整理をしているらしい武藤に歩み寄る。


「ありがとうね、助かったよ。どうやらキンジが君に話を持ちかけたらしいけれども」
「おう、何かあったらまた気分次第で手伝ってやるよ。……とはいえキンジも馬鹿だよなぁ。俺じゃなくてお前に頼めばよかったろうが。あの変な超能力、物を移動できんだろ?」


武藤は苦笑すると、自分の背後にある《境界》を指さした。恐らく彼は、車での運搬をするよりも《境界》を経由させた方が格段に早かった──と言いたいのだろう。確かにそれはそうだ。


「あはは、まぁね……。でも荷物の運搬は、車輌科の君に──っていう観念があったことは間違いないでしょう? 信頼されているだろうから、それは喜んでもいいんじゃないかな。出来る限り、前向きに物事は考えた方がいいよ。そっちの方が逆よりもだいぶん幸せでしょう」
「ははっ、それはそれで悪くないな。感謝するぞ、人生カウンセラーさんよ。んじゃな」
「うん、バイバイ」


武藤は軽トラックの運転席に座ると、ご機嫌な様子で車を走らせていった。排煙の立ち込める臭いを手で振り払いながら、不意に今日の日付を思い出す。そうして考えてみると、既に2年生の折り返し地点に入りかけてるのではないか。アリアと出逢い、キンジと共に居ながらこうして生活してきて──数ヶ月。そして今日、キンジの主導する依頼のために白雪が新たに加わった。

その依頼の内容を見ても、いつまで平穏が続くだろうか──と熟考してしまうのに変わりはない。都市伝説的な存在である《魔剣》を始めとして、《武偵殺し》こと峰理子、果ては《教授》と名乗った件の男性に至るまで、これらは全て、裏で繋がっていると考えても良いだろう。
峰理子と《教授》に緊密な関係があることは、既に証明されている。それならば、《武偵殺し》騒動の入れ替わりのように現れた《魔剣》にも、その可能性が見て取れるのだから……。

だとすれば、必然的に事は動き出す。その猶予は思うほど長くはないだろう。白雪をこうしてキンジが護衛するというのも、教務科の過保護などでは到底なくて、最善手なのかもしれない。その周囲に自分とアリアが控えているのも、ある意味をして僥倖と言えるのかもしれない。
裡面に暗躍する《イ・ウー》の断片を、この白昼の最中に垣間見た気がした。



◇



扉の1枚を挟んだだけで、今の今まで感じていた炎天下の煩わしさも一挙に解消してしまった。取手を後ろ手に閉めながらリビングを一瞥すると、どうやらエアコンがこの時期から忙しなく冷気を吐きに吐き出しているらしい。その風圧を頬に受けながら、ソファーの上に寝転がっているアリアに視線を遣った。キンジと白雪は、揃った動作で自分と彼女とを見回して苦笑している。

誰がエアコンを効かせたのかは、それだけですぐに分かってしまった。自分もつられて苦笑しながら、暑い暑いと悪態を吐くアリアの傍ら──せめてもと残されているソファーの端に腰を掛ける。そのまま空調のリモコンを手に取って見ると、冷房24度の設定でハイパワーにされている。なるほど、あの唸るような冷気と風圧はアリアの仕掛けたこの設定の仕業だったらしい。


「アリア、冷房を効かせすぎ。こんなにしちゃ身体に悪いよ。冷えちゃうでしょう」


「理想は28度ね。空気が循環するようにスイング設定で……、後は自動調節」そんなことを傍らの彼女に諭すように独り言ちながら、リモコンで設定を変えていく。
不意に部屋中が森閑として、それはそれで何だか気味が悪かった。「暑いものは暑いんだもん……。イギリスはこんなに暑くなかったわよぉ……」と、アリアの口元から洩れた悪態に少しだけ救われてしまったような気がして、どうにも仕様がなく思っている。


「……日本の気候が馬鹿なんでしょ。なによ、まだ5月なのに30度超えって」


手扇で顔を扇ぎながら、アリアは日本の5月への不快感を隠そうともなく露わにしていた。


「じゃあ、イギリスだと5月は何度くらいなの?」
「15度くらい」
「なんかごめん」


ここまでアリアが暑がるのも妙に納得してしまう。


「まぁ、今日は特別だから……。明日からはまた普通の気温に戻るよ」
「でも、8月になったら30度超えるんでしょ」
「そりゃあねぇ。夏だもの」
「えぇー……。嫌だぁ……」


アリアは拗ねたように寝返りを打つと、そのまま自分に背を向けて向こうを向いてしまった。気位に満ち満ちたいつもの彼女の面影は何処にも見えなくて、ご自慢のツインテールですら気怠げに悄然としてしまっているように感じる。このままいくと、夏バテならぬ春バテ気味だろうか。

どうしたものかな──と一考しながら、《境界》を経て冷凍庫の中に手を探る。自分たち4人ぶんのアイスを適当に手に取ってから、そのまま引き出した。手軽なパピコで良いだろう。
「ねぇ、アイス食べようよ。パピコだけど」リビングにそう投げかける。すぐさま跳ね起きたのはアリアだった。先程までの悄然とした顔はもう見えなくて、今はもうご機嫌になっている。まずは彼女に手渡してやってから、そのままキンジと白雪にそれぞれ渡してやった。

めいめいの「ありがとう」という声を耳に入れながら、自分もその袋を開く。中身を口に含むとそこは、ほろ苦い珈琲の味と清涼なシャーベット状の食感のみに満たされていった。
そんな一段落が付いたところで、自分はおもむろに口を開く。それは白雪に対してだった。


「ところで──白雪と初めて会ったのは、いつ頃だっけ?」
「えっ? えっと……武偵校の入学式で、だよね。あっくんはキンちゃんと一緒に話してた」
「あぁ、そっか。その時だったんだ。キンジに中学時代から『幼馴染にこういう子が居る』って白雪の話は聞かされていたんだけれどね、実際に会ったのはこの時が初めてか……。ふぅん……」


ご機嫌そうにパピコを食べているアリア以外の2人──白雪とキンジは、「やにわに何を言い出すのだろうか」とでも言いたげな顔付きをしていた。見合わせている2人に向けて微笑する。


「思い返してみれば不思議なことに、白雪の前では1度も陰陽術を使ったことがないんだ。特に意図して避けているというわけでもないんだけどね。ちょうど良い折だから、白雪にはここである程度を説明しようと思うんだ。先を見据えれば、必要になってくる知識だとは思うしね」


白雪だけに説明しないのも不公平だと感じるし、《魔剣》から彼女を保護するという依頼を、キンジが教務科から直々に受けた今だからこそ──自分やアリアがその取り巻きだとしても、戦況を覆すほどの切り札があるのならば、一部なりともそれは伝えておかないわけにはいかない。


「キンジは、如月彩斗について云々──と何か説明した? 白雪に対して」
「いや、何も。中学時代の強襲科の親友だってことを話したくらいだな」
「じゃあ、そうだね……。陰陽術と本家のことについて、少しだけ説明しようか」


そう言うと、白雪は静かに頷いた。


「自分の両親はね、2人とも本家が京都府にあるんだ。同一の高名な一族だよ。その系譜に固有の能力があって、その例がさっきの時空間移動術式である《境界》だね。他にも《五行陰陽》という妖術や、銘のある大刀契という妖刀も、この一族に固有のものになっているわけだ。本家とおおよそ6つの分家で成り立っていて、自分はその本家の人間。最低限の陰陽術を扱えるのも、その系譜のおかげだよ。……そろそろお気付きかな? この一族が、どんな名の一族なのかを」


彼女は沈黙していた。──否、黙考しているのだろう。


「土御門一族、その始祖を安倍晴明という。自分はその、38代目だよ」 

 

想いは紅涙と共に

先の事実の吐露が原因なのは分かりきっている──夕食後の皆揃いを前に、白雪から小半時間ほどの詰問を受けてしまった。それほど自分の系譜、言いもてゆけば自分が、いわゆる彼女と同胞の超偵であることを意想外に思われていたのだろう。その詰問の根幹が、新たな同胞を前にした親近感から出たものなのか、単なる彼女の興味から出たものなのかは定かではないけれど……。

自室のベッドの上で、自分はそれを反芻しながら寝返りをうった。公言しても当たり障りのないところだけを話したとはいえ、キンジやアリアも初耳と思われる情報まで話してしまったのは、彼と彼女にとっての新たな収穫だろう。それだけ白雪の勢いは、爛々とした光を見せていた。
同時に白雪もまた、自分の知り得ない情報を──S研ならではの知識でもって教えてくれた。これぞ同様に自分にとっての新たな収穫で、そこは衷心から感謝を込めてお礼を伝えておいた。

しかし白雪にとっては、一族の系譜などは二の次だったらしい。その理由を問い掛けてみると、「だって、武偵校には『ご先祖さまが有名人』って人は何人か居るでしょ? あんまり珍しくはないし……。それよりも、陰陽術の方が気になりますっ。詳しく説明してください」と食い気味にまたもや詰問を受けてしまったので、仕方なしに説明した次第ではあるのだけれど……。

《境界》や《五行陰陽》といった基軸となる陰陽術は安倍晴明が開発して、以後は子々孫々と本家の人間が研鑽を重ねてきたこと。まずはそれを告げると、白雪はこう質問してきた。
「陰陽術を発動する時の媒体は何なの?」
「氣だね。肉体的、精神的な体力の感覚はみんな持ち合わせているけど、自分はまた別に、氣の残存量……というのかな。感覚は同じだけどね。そういうのを感じるなぁ」

氣とは、肉体的な体力とも精神的な体力とも同一視が出来ない、何やら特有のものらしい。体力のように抽象的な概念で、敢えて具体化するならば桶に汲まれた水の量──だろうか。陰陽術を使う度にその水が桶から抜けていって、空になった刹那に発動が不可能になってしまう。
魔力とか霊力とかAPとか、言葉は違えど示唆する内容は同一のものだろうと思っている。

それを聞いた白雪は、やにわに告げた。「あっくんは、Ⅰ種超能力者だね。私と同じ」
聞くところ、どうやら超能力の発動媒体によって、超能力者はジャンル分けされているらしい。Ⅰ種は糖分やアルコール、更には魔力や氣など、未知なるものを媒体にする超能力者だとか。

「大刀契っていう妖刀もあったよね? それはどういう刀なの?」
「元々は安倍晴明が当時の天皇に献上したもので、本来は護り刀なんだ。それとは別に彼が打ったのが、これ──《緋想》という銘だけどね。一族の護り刀として本家に継承されてるよ。この《緋想》が妖刀というのは、実は持ち主の氣を吸収するという点にあるんだ」
そう言った時の訝しげな白雪の表情を、脳裏に思い返してみる。

「持ち主が本家の人間なら誰でも、それぞれの持つ固有の氣を把握して、どうやら《緋想》はそれぞれに固有の能力を与えてくれるようでね。自分の場合は《明鏡止水》というんだ。五感が鮮明になって、時間の流れが非常に緩やかになって見える。大刀契とは氣を媒体にする妖刀だよ」
そんな具合の説明を続けたところで、白雪はある程度の納得が出来たらしかった。「興味深いお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」と慇懃に叩頭されてしまったから。

それにしても、ここまで白雪が興味を持つとは思わなかった。こちらもこちらで話す内容の選別に苦労したし、何より相手はキンジやアリアとは違って、星伽一族の巫女なのだから──。
そこまで考えを巡らせていると、不意に扉のあたりから声が聞こえた。「ねぇ、彩斗、今って入っていい?」それは感情を押しとどめたように静静とした、アリアの声だった。少しだけ開いた扉の合間から顔を覗かせながら、その赤紫色の瞳はこちらの様子を窺い見ているらしい。


「いいよ。何か用でもあるの?」
「うん」


アリアは力強く頷いた。そうして扉を閉めるが早いか、いつもより軽い足取りで、そのまま一直線に自分の居るベッドの上へと駆け寄ってくる。彼女は両膝をそこに立てながら、寝具についた華奢な腕を支えにして、上気したような頬と前髪に隠れた赤紫色の瞳で、自分を見つめてきた。
入浴を済ませてきたのだろう──額や頬のあたりにはまだ水滴が残っているし、下ろした髪からは洗髪剤の芳香も鼻腔を香ってくる。彼女特有の梔子らしい香りもまた、それに混じっていた。


「──っ、何の……つもり?」


平生の彼女の行動とは似つかない、その艶やかな雰囲気に呑まれかけているのを感じていた。何のせいか締まりきった咽喉を震わせながら、泰然を繕う様を気取られぬように努力もしていた。
アリアはそれに一瞥もくれないまま、「あのね」と呟く。泡沫のような声遣にさえ、今の彼女の胸の内がありありと浮かみ現れていた。泡沫のように消え入りそうで、そして弾けた声だった。


「司法取引のおかげで、ママの最高裁での刑期が大幅に減刑されるだろうって! 裁判で理子が証言するのはまだ先だけど、《武偵殺し》の122年ぶんは確実──って弁護士先生が電話でさっき話してくれたの。それでね、まだあるのよ? 理子が言ったらしいんだけど、『自分の今後の武偵活動の復活を条件に』っていうことで、《イ・ウー》についての情報まで話したみたい!」


アリアの吐き出す言葉は、全てが色彩に満ち満ちていた。胸の内から吹き零れるような喜悦を隠そうともしないままに、彼女は何度も何度も前かがみに自分の顔を覗き込みながら、その眦の上がった目を細めていた。降り掛かる水滴を指の腹で拭いながら、自分も内心で驚嘆する。
それが思わず声に洩れていたのだろうか──アリアは小さく頷くと、指折々と数えだした。


「理子が話せるところだけなんだけど、《イ・ウー》の内部と、《魔剣》のことも言ってた。やっぱりメンバーなんだって。それで、《魔剣》が動き出した目的まで教えてくれたらしいの。ママへの濡れ衣を着せた──って証言するだけが、本当なら理子の役目のはずなのに……」


アリアは語調を下げながら、訝しむようにして目を伏せた。余計な仕事を働いた理子の魂胆を、必死に模索しているのだろう。武偵活動の復活を条件に──という、妥当ながらも裏がありそうな話を聞いてしまっては、自分もアリアも考慮を重ねる以外の方法はなかった。
しかし彼女の経緯や魂胆はどうであれ──目前の利を見れば、それは落胆すべきことでもない。理子のその行きさつは気になるところだけれど、今すぐに自分たちがどうこう出来ることでもないだろう。時期が来たら話をすればいい。今は自分たちが、出来ることをするだけの時間だ。


「……でも、良かったね。これで君の母親に、少し近付けた」


アリアは自分の告げたその言葉に、醒めたようにして顔を上げる。そうして何度か大きく頷いてから、赤紫色の瞳を瞬かせた。その瞬きも2度が限界だったのだろう、前髪の奥にある目尻のあたりに紅涙を満ちさせながら、何とか唇を閉じて嗚咽を噛み殺している。唇の隙間から漏れる嗚咽も次第次第に大きくなっていって、遂にはあの時のように、子供らしく泣き腫らしていた。

彼女は必死に目尻のあたりを拭いながら、赤くなった目元を隠そうと前髪を下ろす。そうして、気恥ずかしそうに「……ごめん」と、吐息のようにして呟いた。あの時とは、違っていた。
「なんでアリアが謝るの。謝らなくてもいいんだよ」そう苦笑する。おもむろに手を伸ばしてから、まだ拭い切れていない生温い紅涙を、親指の腹で綺麗に拭い取った。 彼女はまた大きく頷くと、「……ありがとう」と零す。そのまま手を胸のあたりに握らせて、涙声を吐き出した。


「なんだか胸のあたりがギューってなって、会えないママのこととか、彩斗がパートナーになってくれたこととか、寂しいとか嬉しいとかがグチャグチャになっちゃって……、それで……。それでね、自分でもよく分からないんだけど、勝手に涙が出てきて、止まらなくなっちゃって……」


いつもの勝気な少女の面影は、そこには微塵も見えなかった。いつもは気丈に振る舞っているのを間近で見知っているからこそ、時折こうして見せる彼女の──子供めいた弱気な態度に、安堵してしまっている自分の一面もある。同時にそれは、自分がいかに彼女に信頼されているかという度合いの証左でもあった。他の誰でもなく、如月彩斗にだけ零した少女の本音が──。


「寂しくなって甘えたくなったら、誰かに甘えればいい。弱音を吐きたくなったら、誰かに言えばいい。泣きたくなったら泣けばいいだけの話だよ。抱え込んでしまうのが、君自身にとって最悪なんだからね。その相手がいない君じゃないでしょう。気位の高い君のことだから、弱気は見せたくないって言うでしょうけれども……。隣に身を置ける相手がいることも必要だよ。別にそれが如月彩斗でなくても構わないし、他にそういう人がいるのなら、その人は大事にしてね」


アリアは泣き腫らした目元を拭い拭い、赤紫色の瞳を瞬かせながら頷いた。それは勝気な少女が自らの弱気を認めた一刹那であると同時に、彼女以外の人間にも甘えを見せた一刹那だった。
彼女の隣に居れるのが自分でありたいとは、微塵も思っていない。ただ万が一にも隣に居てくれるというのならば、それだけの努力はするつもりだ。或いは、彼女と交流のある人間のなかで、自分の隣を彼女にとって最も居心地が良くできるように──という努力も、惜しんではいない。

アリアのため、と思いながら行動してしまう節が無いわけではない。むしろ多分にある。その行動の源泉は何処にあるのだろうと思うたびに、いつも自分の答えはだいたい似ていた。それは自分自身のお人好しな気質と、彼女に対する清廉無垢な感情から来ているのだ。その2つだけだ。
恐らくこの源泉は、増えることはあれど減ることはないだろう。何故だかそう確信できる。

「……だったら」おもむろにアリアは呟いた。細々とした声だった。
「甘えたくなったら、彩斗に甘える。たぶん弱音だって吐くし、泣いちゃうこともあるかもしれないけど、絶対に抱え込まない。……アタシなんかのことを分かってくれてる、たった1人のパートナーだから。だから、大事にする。何かあっていちばん頼れる人が、彩斗しか居ないもん」

彼女は話の途中で、幾度かその赤紫色の瞳を自分から逸らしていた。頬が紅潮しているのは、きっとお風呂上がりで上気しているからではないのだろう。泣き腫らした目元と同じくらいの色をしていることを自覚しているらしい彼女は、「でも」と語調を強めて話を続ける。


「……彩斗ばっかりに、そういうのはさせたくない。自分だけがやるのは、なんか嫌。だから、彩斗も同じことをアタシにしていいよ。甘えたくなったらアタシに甘えて、弱音を吐きたくなったらアタシに言って、泣きたくなったら泣いていいよ。慰めてあげるから。……ね?」


──こんな彼女がときおり見せる優しさだからこそ、やはり、自分は彼女に惹かれているのだ。
その優しさには、微笑を浮かべ返すくらいが、関の山だった。 

 

かごのとり

遠山キンジは会議室の壁際に背を預けながら、窓硝子のその向こうを呆然と見遣っていた。武偵校の敷地と空とが二分されていて、その群青の帆布には入道雲が立ち昇っていた。梅雨が来るにはまだ早い。夏が来るのなら、尚更だ。けれども今日は、時期尚早な夏を肌で直に感じていた。

制服の裾を少しだけ捲りながら、彼は部屋の中央に視線を戻す。そこには『アドシアード準備委員会』の名を冠した集いが居て、キンジはその内容を聞くともなしに聞いていた。中央に向かい合う面々から外れた彼の存在は、一見して目立ちそうではあるものの、そこは彼らしくあった。

キンジは委員会活動とはほとんど無縁と言っていい。それなのに、どうして委員会などに出席しているのだろうか──それは、星伽白雪のボディーガードを担っているからに他ならなかった。
そうして事実、彼は答えたのだ。白雪を除いたこの委員会の面々に、怪訝な顔をされながら。無関係の集いを遠巻きに見ているとしても、彼としては一刻でも早く立ち去りたい心持ちでいる。


「星伽さんには是非、閉会式のアル=カタには出ていただきたいわ。生徒会長でもありますし、武偵校を代表して。清楚な印象ですから、メディアにも好印象でしょう」
「そうですねぇ、星伽先輩は美人ですし」
「そんなところで、枠も1名分空けてありますし……どうですか?」


白雪の両隣に座る女子たちが、何やら快活に話を交わしている。どうやら彼女を閉会式のイベントに出場させたいらしく、そんなわけで白雪の意向を窺っているところだった。
彼女は女子生徒たちの話に頷いて応じながらも、軽く苦笑を零す。申し訳なさそうに手を振る仕草は、彼女の性格から見ても妥当だった。何よりそれは、昔から変わっていないままだった。


「皆さんのご好意は嬉しいのですが、その……私は裏方で貢献させてください」


白雪がそう告げると、女子生徒たちを筆頭に残念がるような声が上がってくる。女子生徒たち以外からも同調の声が上がっているあたり、それだけ彼女が適任と思われているのだろう。
白雪もその意見は自覚しているのか、溜息混じりの苦笑を更に零しながら続ける。


「ですが、ですが……のお話ですよ? 教務科からも、我が校の印象改善についてのお話は、もちろん下りてきています。アドシアードは武偵校の特色を外部にアピールできる絶好の機会ですから、ここをどう活かせるかが重要になります。可能性の1つとして、検討はしておきますね」


方向の修正が白雪は上手だ。結果的に誰の不平も無さそうな話に収められている。本当に彼女が出場するかどうかは関係ないとして、やはり生徒会長を担うだけはあるなとキンジは感心した。
説明に納得する面々を見渡しながら、そのままキンジにも白雪は視線を遣る。彼には彼なりの、彼女には彼女なりの意向があるとはいえ、いま最重要視すべきなのは《魔剣》のことだ。

『目立ったことはするなよ』とアイコンタクトを送りながら、キンジは控えているアドシアードの危険性についてを脳裏に反芻させていた。白雪が表舞台に立つのは、どうにも都合が悪い。
彼の者が白雪を狙っているのならば、アドシアードは絶好の機会だ。出場生徒は東京武偵校の人間だけではなく、各地の武偵校からもやってくる。そういった中に《魔剣》が変装でもして、隠密行動を採っているとすれば……? ましてや、その中でも目立つ場所なら尚更のことだった。

キンジのその懸念を見透かしたかのように、白雪は小さく頷く。そのまま一同に顔を向けた。


「さて、上手い具合にお話もまとまったので、今日の委員会はここまでということになります。次回はまた必要な時に連絡しますね。このアドシアード、絶対に成功させましょうっ」


胸の前で小さく手を掲げながら、彼女は満面の笑顔を振り撒いた。活気のある面々の声が一挙にこの部屋を覆い尽くして、果たして委員会はこれで終了──という運びに収まる。その後は各々が談笑なりしていて、専門科目に行こうとか、遊んでから帰ろうとか、そんな声がしていた。
その声の中をキンジと白雪とは一緒に通り抜けて、そのまま昇降口へと向かっていく。

昇降口を出ると、すぐさま斜陽が目に射さった。それは東京湾に腰を掛け始めていて、地上に爛々と茜を降り注いでいる。目を細めながら2人は武偵校の校門を抜けた。
付近にはもう半袖制服が点在していて、見計らったかのようにキンジの額には汗が滲んでくる。まだ春過ぎの時期という割にはやはり、今日は時期尚早の夏が訪れているようだった。

帰路につきながら、2人は歩調を合わせて歩いていく。夕食のメニューはどうしようとか、そんな他愛のない話をしているうちに、不意に白雪は後ろを振り返った。キンジもつられて振り返ってみると、少し向こうの通りの方で武偵校の生徒たちが集まって遊んでいるらしかった。
それがいったい何だというのだろう、と彼は訝しむ。その答えはすぐに白雪が告げた。


「早くお家に帰った方が安全なのにね。何でみんな、遅くまで遊ぶんだろ……?」
「そりゃあ、遊びたいから遊ぶんだろうが。たまには白雪も遊んでみたらどうなんだ。遊びたいとか、そういうのを全く思わないっていう年頃でもないだろ、お前の年齢は」
「お店を回ったりするくらいなら、少しは、思うけど……。それでも──」


──星伽の巫女は、護り巫女。


詩歌の一節を淡々と諳んじるかのような、そんな泡沫のようなものを内包している声だった。そうして、その事実も声色も、キンジが聞いたのは初めてのことではなかった。むしろ何回も何回も聞いていて、彼女はその言葉を諳んじるたびに、実家の掟をも口にすることを知っていた。星伽の人間は、生まれてから死ぬまで身も心も生家を離れてはいけないのだ──ということを。


「だから、神社と学校以外は許可なく外出しちゃいけないんだよ」


哀傷を吐きながら、白雪はキンジを横目で見詰め返した。凝(じ)っと据えられたその瞳の最奥に、彼女が零した哀傷よりも更に深いものがある──そう感じずにはいられなかった。
少なくとも彼女は、生家にあるこの慣習が平々凡々なものだとは微塵も思っていないだろう。だからこそ、彼女なりの懊悩や煩悶といったものを──その平和の象徴の鳩のような、いじらしい胸の内に多くを秘めているのだということは、分かりすぎる以上に分かりきっていた。

その瞳の色を、とうの昔から彼は知っている。その記憶を、懐古するともなく懐古してみた。
彼と彼女とは幼馴染である──幅を広げて言えば、遠山家と星伽家の間には関係があるらしい。そんな縁故から、キンジは星伽の総本山である星伽神社に赴くことも度々あった。男子禁制の神社のはずなのに、遠山家だけは出入りが許可されていたのだ。そうして、そこには白雪が居た。

少女たちのうちの1人に、白雪が居た。キンジが「神社の外で遊ぼう」と言った時の、その少女の瞳の色は、彼女がいま見せているその色とまったくの同色だと断言できる。子供ながらに、この神社は何か異様なのだ──と感じずにはいられなくて、思わず亡き兄に零してしまっていた。
そうして兄もまた、該神社は尋常一様ではないというような意味を零したのを覚えている。


「彼女たちはさしずめ、かごのとり──だろう」


それに哀憐の意味が込められていると気が付いたのは、昔のことではない。
永遠に星伽神社の境内というかご(・・)に囚われた、巫女というとり(・・)だ。

──一族ゆえの、制約という名の手枷。
──逃れられぬ運命と、藻掻いても変えられぬ運命。
──虚弱な小鳥は、籠の中。悠久の刻を、身を滅ぼすまで。

今も昔も変わらず、その現状に彼は、酷く憐情と瞋恚(しんい)とを覚えた。
そうして、胸の中で小さくその言葉を転がすのだ。何度も何度も、かごのとり──と。 

 

想いの吐露と現実と

装備科棟の一室を、自分とアリアとは目前に控えていた。扉の傍らにある壁には『平賀文』と可愛らしく装飾されたプレートが備え付けられていて、それを一瞥しながら扉を開ける。
すぐさま視界に飛び込んできたのは、部品を収納しているらしいボックスや工具箱の集積だった。それらが積み重なって幾つかの山を形成していて、あまつさえ、その山から零れ落ちてしまったらしい部品などが床に散乱している。絶句しているアリアを引き連れながら奥へ進んだ。

平凡な金具が落ちていることもあれば、高価に見える回路のようなものが落ちていることもあった。更には、何処から伸びて何処へ向かっているのか分からないケーブル──それらを踏まないように慎重に足を踏み出しながら、ようやく見えてきた数畳ほどの空間に安堵する。
壁際の作業テーブルに自らの座る椅子を備え付けて、少女──平賀文は自分たちを待っていたらしい。床に着かない足を遊ばせながら、あどけない顔付きと瞳とをこちらに向けていた。


「久しぶりだね。最後にこうして会ったのは、昨年度の暮れだっけ?」
「たぶん、その頃だと思うのだ。あれから少し空いたけど……今日の用事は何ですのだ?」


文はそう言いながら小首を傾げて、切り揃えてある茶髪を揺らした。不意に「あっ!」と呟いたかと思うと、「もしかして、カップル成立のお知らせですのだ?」と無邪気に訊いてくる。
いち早く返事を返したのは、アリアだった。それは言葉ではなくて、銃なのだけれど──彼女は撃鉄を起こした白銀のガバメントを握り締めながら、その銃口を真っ直ぐと文に向けていた。


「ばっ、馬鹿なこと言わないで! アタシと彩斗はそういうのじゃない!」


色恋沙汰に関する彼女の激昂は、彼女自身の羞恥を隠すためのもの──裏腹な頬の紅潮が、暗にその事実を示唆していた。そうして、自分がその大半を確信したのは、最近のことだった。
どうやらアリアは『色恋沙汰に疎い』自分とはまた異なった感じで、根本的に『色恋沙汰を象徴すること』を見聞きするのがどうにも恥ずかしいらしい。類推ながら、そう感じていた。

もちろん恋愛ドラマなど見れたものではないし──見れたとしても、それは告白シーンだとかキスシーンだとか、そんな大仰な演出のされていないような箇所に限られている。何をそんなに恥ずかしがるのかしら──と思うことも間々あるけれど、単にアリアの性格が初心なだけだろう。
そうして、そんな初心な彼女は、激昂から並べ立てる言葉の裡面に羞恥を秘めていた。


「彼氏彼女とかそういうのじゃなくて、ただの武偵活動のパートナーなだけ! アタシは恋愛なんてどうでもいいし、したいとも思わない! 次にそんなこと言ったら、風穴開けるわよ!」


本気の激昂ではなくて、羞恥を隠すための激昂──というのが可愛らしいところだ。事実、彼女はガバメントの安全装置を解除していなくて、単なる脅しだというのが誰にも見え透いている。
「まぁまぁ、そんなに怒らないの」と、いつも以上に眦を上げているアリアをなだめながら、文に向けられている銃口を逸らしてやる。「女の子は怒るより笑ってた方がいいでしょう」


「そーいえば、2人がパートナーっていうお話は聞いたことがあるのだ。ところで、神崎さんが如月くんと一緒の部屋に住んでるっていう噂は本当なのだ? 色々と言われてるけど……」
「本当だよ。……ただ、なるべく内密にしてくれていた方が助かるね。男子寮に女子生徒が寝泊まりしている事実は、教師から見たら不健全だろうから。生徒たちにも言及されちゃうし」


それこそ自分とアリアが同棲している──と公言してしまうと、客観的なお互いの関係に波風が立つことになる。言及も増えるだろうし、そうなれば追々と面倒臭くなるのだ。それが自分だけならまだしも、彼女にまで迷惑をかけてしまうのは悪いと思っているし、黙っているしかない。
そうして文は、その頼みを子供さながらの無邪気な笑みで快諾してくれた。「あややと2人だけの秘密、ってことにするのだ!」と、友誼的な言葉を、その口の中に転がしながら。

「うん、ありがとう。恩に着るよ」そう微笑してから、「ところで、本題なんだけどさ──」と続ける。今日ここに赴いたのは、その目的を達成するために他ならなかったのだ。
『ちょっと寄り道をするね』といった説明だけで自分に着いてきたアリアは、その理由を知らない。銃を仕舞ったらしいその手を組みながら、眦と赤紫色の特徴的な目で一瞥をくれた。


「昨年度の初めに、君に銃の改造をしてもらったろう。それで帰り際に、『また1年したら定期整備をするのだ! 忘れずに来てくださいですのだ!』って。だから約束通りに来たよ」
「あー……。そんなこともあったですのだ。あややと如月くんが初めて会った時なのだ!」


確かに、そう言われてみれば──そんなことを思い返しながら、文に促されるまま2人で椅子に腰掛ける。文に向ける目線は自分の目線よりも少し下で、そこと平行な位置にアリアが居た。
それにしても──と口元に手を遣りながら、彼女と果たした邂逅の所以を思い返してみる。当時は入学して間もない頃で、優秀な生徒の名前が噂に噂を重ねてあちこちに散見された。その中に恐らく、文がいたのだろう。確か『装備科の俊才ロリ』と呼ばれていたような気がする。

そんな噂が立つほどなのだから、彼女の技量は相当なものなのだろう──と期待して、単なる興味本位で依頼をお願いしたことを思い出した。それが銃の改造だったのだ。カスタムパーツといったものの取り寄せに始まって、反動除去機構の構築、デザートイーグルのバースト化、そういったものを文は請負ってくれた。そうしてそれは、自分の期待通りの結果に収束してくれた。

彼女の装備科生としての能力は、現在はおろか当時から見ても非常に高い。その技量を見込まれて教務科からはAランクの肩書きを受けているし、彼女を頼る生徒も多く居るのだと聞く。
とはいえ、その上で彼女に些かの問題があることは、 自分たち周囲も承知していた。文の実力はSランクにも届くだろうと言われているのに、彼女がAランクの理由がそこにあるのだ。

それこそが、様々な問題行動──例えば、キンジの愛銃であるベレッタM92FSが身近な例だろうか。この銃に元来、バースト機能は存在しない。それを彼女特有の技力でもって違法の改造を施してしまうところだとか、相場を無視した料金の支払いを提示するだとか、そんな問題行動を教務科も知っているからこそ、叱責の意を多分に込めてランクを落としているのだろう。

それも含めて更には、とうとう──当然の帰結かもしれないけれど──平賀文は、その苗字から推して、かの平賀源内の子孫ではないかと未だに噂されているのだ。平賀源内は江戸時代の名工として知られている。彼女のその技量は、まさに彼を思わせるに相応しいものに相違なかった。問題こそあれど、その実力は申し分ない。これこそ自分たちが彼女に抱く共通認識だろう。


「君はずっと変わらないね。未だに自分の中では、ぼったくりの俊才技師だよ。だってさぁ、初めて依頼した時、請求書の額を見たら驚いたもの。当時は入学して間もないし、ある程度の資金しか持ち合わせてなかったからね。しかも、切り崩したくない資金だよ? 結果してこれが如月彩斗の最初の借金、ってことになったんだ。最初で最後なら万々歳だけれどもね。ふふっ」


壁際の作業テーブルに肘を掛けながら、自分は口元から穏和の2文字を吐いた。
「借金して、その後はどうしたの?」隣から興味ありげにアリアが訊いてくる。


「依頼を解決して、そのお金で支払ったよ。資金には微塵も手を付けずにね。その後も、成績向上と資金増加を目標にして、自分なりに昨年度を過ごしてきたつもりではいるかな。前者も結果として見事に表れてくれたし、後者の資金も今のところは不自由が無いね。気楽に生きれるよ」


両手を組んで磊落に笑みを零しながら、自分はそうアリアに返事した。彼女も面白そうに「へぇ、そうだったんだ」と頷いてくれる。「強襲科の総依頼解決数が1位の背景、これなのね」
事実の裡面──ある種の秘密を垣間見たことが、アリアにとって何かしら面白かったのだろう。納得したように笑いかけてくる眦は、赤紫色を隣にして、いつもにも増して下がっていた。


「それに比べて、今年度はどうなるのかしら。先月の《武偵殺し》の件で、バスジャックとハイジャックは解決済みって認可されたでしょ? 1ヶ月で2件の調子じゃ、まだ追い付けないけど」
「昨年度が異常だった、って思ってくれた方が嬉しいな……。今は記録とかに固執してないし、それに、1つの事件に懸けるものが前者と後者では違いすぎるからね。しばらくは安穏にさ」


苦笑を零しながら、自分は今しがた告げた言葉の意味を反芻する。1つの事件に懸けるもの──それが何なのかは、本質を見澄まさなくとも分かりきっていた。根幹にあるものが自利的行動から利他的行動に変貌した、たったそれだけのことなのだ。金銭とか記録を意識していた去年までの生半可な気概では、パートナーである一少女の命運を背負いきれない。それを自覚したからこそ、自分は彼女に対する事案だけに傾注して請け負う──という断案を下したわけになる。

そこまでを、この一言二言からアリアが感受したかは定かではない。自分のことを茶化したつもりが、意想外のところから返事が飛んできたので、どうやら呆然としているようだった。
そんな彼女を横目に見ながら、遣り取りを黙視していた文に本題の言葉をかける。「最近は事件の関係で銃を使わせられたから、ちょっと状態が心配だね」とだけ、前置きをした。

「というわけで、文、宜しく頼むよ」そう笑いかけながら、愛銃のベレッタM93Rと父親譲りのデザートイーグルを取り出した。作業テーブルの上に置いた2丁を見たその刹那に、わけも分からず気の作用が少しだけ変わったのか、どうせだから《緋想》も文に点検してもらおうかしら──と思い至って、隠匿していた背から手伝いに「ついでに、これも頼むね」と彼女に渡す。

彼女はそれを見るや否や、どこからか取り出した白手袋を嵌めた。それから手伝いに《緋想》を受け取って、白手袋と同時に取り出したらしい白布を、敷いたテーブルの上に静止させる。
その手際の良さに感嘆させられてしまった。《緋想》を視認してから、並大抵の日本刀でないことを即座に察知したのだろう。その上で、これだけ大仰かつ適切な対応をしてくれたわけだ。
文は切り揃えてある茶髪を揺らしながら、自分の方に問いかけてくる。


「如月くん、この刀は何ですのだ……?」
「母方の本家一族に伝承されてきた日本刀だよ。これも点検してほしいんだ」
「なるほどー、了解ですのだ! じゃあ、銃は完全分解までしてパーツの点検、刀は研磨と手入れっていうことで──うーん、たぶん今日中に終わるかどうか分からないけど……」
「無理して終わらせなくてもいいよ。明日にだって取りに行けるもの」


その間、主要な武器を手放してしまうのは惜しいけれど──不備があるかもしれない武器を、その可能性とともに使用するよりかは惜しくない。急かした結果に事故でも起こす方が駄目だ。
そんな意味合いを込めて、文にはこの依頼を改めてお願いした。「頑張れば、もしかしたら夜に終わるかもしれないけど、それはそれで大丈夫なのだ?」と彼女はこちらを見上げてくる。


「うん、構わないよ。遅くなるなら身内に連絡はするしね。陽も延びたし、食堂とか購買も空いてるかな……? まぁ、アリアが好きな……ほら、あのお饅頭……ももまん程度は買えるでしょう」
「神崎さん、ももまんが好きなのだ? それなら購買に売れ残りがあったと思うから、今からでもたぶん売ってるのだ。いくつ残ってたかは忘れちゃったけど、善は急げでレッツゴーなのだ!」


片腕を可愛らしく掲げた文を見て、アリアは「本当?」と嬉しそうに零した。なるほど、どうせなら買ってしまえばいいのだ。彼女にとっては、どちらに転んでも損はしないだろう。
「じゃあ、はい、これ。あげる。お釣りはいらないから」そう言って、自分は財布から取り出した1000円札をアリアに手渡した。1000円ならば、あるだけは買えるだろうと思う。


「えっ、でも……。悪いからいいよ」
「ほら、早く行っておいで。この間に売り切れちゃったら本末転倒でしょう?」
「うん、じゃあ……ありがと。ちょっと行ってくる」


気恥ずかしそうに笑いながら、アリアは自分たちに小さく手を振って部屋を後にした。彼女の軽快な足取りと揺れる髪、小さな背姿を見送ってから、一息ついた自分はまた文の方に向き直る。
話が一段落したところで、彼女はちょうどベレッタの整備を始めるところらしかった。点検に使うような工具もろもろを引き出しから取り出して、傍らに据え置いてある照明を点けている。

まずは弾倉を抜いて手元に置くと、文は安全装置を解除してから撃鉄を起こした。そのままスライドを外すと、銃の内部機構がありありと見て取れる。ここから分解していくのだろう。
そうして「……実際のところだけど」と、横目でこちらを一瞥しながら呟く。「如月くんは神崎さんのこと、どう思ってるのだ? あややにはパートナー以上で恋人未満っていう風に見えたのだ」そう告げる彼女の声色は、先程の無邪気な調子とは少しだけ違って、大人びていた。

そんな一様の悠然とした調子と紺碧の瞳とを見聞きしているうちに、次第次第に自分の脈搏が段階的に速度を上げていくように思われてくる。泰然としていたはずの心臓が突発的に早鐘を打ち始めて、その理由が彼女の言葉と自分の意識に由来していることだけは、とうに分かっていた。
詰まった咽喉を無理やり震わせながら、「そうねぇ……」と切り出して照れ笑いを零す。


「あの子を庇護してやれるのは自分のみだろう、と思ってるよ。生家のことを語らない、両親の居ないアリアにとって、他に頼れる人なんて限られているだろうからね。気位に満ち満ちた彼女の性格からしても、あの子は1人で抱え込んでしまうタイプじゃないのかな。そうなった時に彼女を介抱してやれるのは、彼女のことを少なからず分かっている人じゃないと駄目でしょう」


いじらしい彼女の零した本音を、他の誰でもない自分だけは、既に耳にしている。『甘えたくなったら、彩斗に甘える。たぶん弱音だって吐くし、泣いちゃうこともあるかもしれないけど、絶対に抱え込まない。……アタシなんかのことを分かってくれてる、たった1人のパートナーだから。だから、大事にする。何かあっていちばん頼れる人が、彩斗しか居ないもん』


「その上で、彼女の悲運めいた境遇に同情しているんだ。あの子を支えてやれるのは自分しか居ない、パートナーになってやれるのも自分しか居ない──単なる同情とお人好しから出た感情だけれどもね。少なくとも、その悲運から逃がしてやろうという気ではいるよ。そうでなければ、あの子が何のために自分をパートナーにしたのか、分からなくなっちゃうでしょうからね」


自分の世界は、1度ならず2度までも変貌した──胸の内で、そう零す。
そもそも自分が生家を離れて武偵になったのは、単なる我儘な子供の我儘でしかなかったのだ。日常に蔓延っていた無味乾燥を一掃するための、そうして同時に現実逃避を果たすための、押し切りに押し切って、突き放すように手から零した由縁と過去──それでしかなかったのだ。

そうして自分は武偵になった。生家とも世俗とも異なった感じを実感して、4年の歳月をそこに費やすまでに至った。独特な環境の中で感受した知識とか能力とか、構成した人間関係とかを思えば、対価にしたこの4年も無駄にはなっていないのだろうと思える。むしろ尾ひれを引いた結果、この現状に至っているのだ。始業式の日に、またもや世界が変貌したのだから──。


「……実は神崎さんは、転校したての頃は悪く言われてたのだ。銃剣技の天才なのが裏目して、誰も彼女に動きを合わせられなかった。直情的な神崎さんも神崎さんで、パートナー役の子に食いかかっちゃうことも多かったから、周囲からは短気で我儘って思われてたみたいなのだ。周りから浮いてることもあったし、あまりお友達って呼べる子は居なかったみたいに思うのだ」


文はまた自分を横目で一瞥しながら、淡々とした中に悄然とも取れる色を滲ませていた。
「でも、」と彼女は続ける。それは弾けた泡沫のような声に聞こえた。「神崎さん、如月くんにはそんな素振りは微塵も見せないし、むしろ如月くんに会ってから、性格が少しだけ穏やかになった気がするのだ。……たぶん、如月くんなら理由は分かってるかもしれないけど」

自分は文の告白を聞く今の今まで、神崎・H・アリアという眇たる一少女の過去を知らなかった。そうして同時に、その告白と彼女の態度とを鑑みると、文の言う理由とやらも分かる気がしてくる。それは実に単純明快な見え透いたもので、人間の心理作用の代名詞とも呼べるものなのだ。
──彼女自身に納得がいくパートナーを上手く見付けられずに、焦燥していたのだろう。迫る不可視の刻限を何処かで感受しながら、この現実を見て焦燥に焦燥を重ねていたのだろうと思う。

けれど、そこに如月彩斗という武偵が現れた──彼女に納得のいくパートナーこそが──ために、アリアは些か強情な手段でもって自分にその話を持ち掛けたのだ。そうして自分はそれを快諾して、そこから彼女とともに生活をするようになった。その後の彼女しか、自分は知らなかったのだ。気位に満ち満ちていて、他人には少し当たりが強くて、可愛らしく愛嬌のある、ときおり見せてくれる優しさに惹かれてしまうほど──そんな彼女だけしか、知らなかったのだ。


「だから、少し前と今の神崎さんを見比べて驚いている人も居たのだ。如月くんの穏和な性格が移ったのかなっていうお話もされたり、パートナーでお似合いだっていう声もやっぱり多いのだ。それに何より、如月くんの能力が神崎さんと同じくらいのレベルだから、お互いに息が合ってるみたい。みんな、神崎さんの本当の強さが分かったんじゃないのかなって思うのだ」


「それに、結局は」と文は続ける。


「神崎さんのことをいちばん分かってあげられているのは、やっぱりパートナーの如月くんだと思う。まだ良くも悪くも彼女の噂はあるけど……何より、同棲していちばん近くに居る如月くんから愚痴の1つも出てこないことが、凄いなぁって思うのだ。それって神崎さんの性格とか、そういったことを分かってあげられているからでしょ? むしろ、護ってあげたいとか──」


文はそこまで言ってから、やにわに作業の手を止めてしまった。そうして生起した森閑という名の空白の中に、彼女はほんの数秒の息継ぎを込める。凝(じ)っと見据えられた紺碧の瞳を前にして、その紺碧は何ともなしに爛々としているように見えた。玲瓏な瞳は自分の胸臆を見澄ましているように思えてしまって、どうにも仕様がない。そんなことばかりをこの刹那に一考した。


「如月くんは、神崎さんのこと……好き、なのだ?」


気恥ずかしそうに零した無邪気な笑みの裡面に、彼女はいつにも増して真剣な面持ちを秘めていた。同時に1度は泰然を取り戻したはずの脈博が120以上を打ち始めて、心臓のあたりが何とも形容のできない、息苦しいだけの締め付けられるような閉塞感に襲われてしまっている。そうして文字通り、文から投げかけられた問いの意想外なことに、肩が跳ねたのを感じていた。

肺胞に染み渡るまでに息を吸い吸い、長い溜息を吐きながら、どうにも落ち着かないこの感情を何とか落ち着かせようと躍起になりつつ、組んでいた手元の指先を遊ばせている。
何でもいいから言葉を返したいのに、口元からは吐息が洩れるだけだった。それがただ煩わしくて、目前の彼女から見た自分の姿は、動揺にあてられて緘黙しているのだろうとさえ思った。

忍ぶれど色にでりけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで──。

つい近頃に自覚した神崎・H・アリアという眇たる一少女への恋情は、他言もせず自分の胸臆だけに秘めていたはずなのに、こうして久々に会った他人に見澄まされてしまうほどには、どうやら自分のこの恋情というものは、何かしらの色を帯びて滔々と横溢してしまっているらしい。


「……アリアに対して、恋情を抱いているのは事実だよ。彼女の優しさとか、そういう面に惹かれてしまっているのも、ね。けれど『好き』という言葉が、あの子を親友として好きなのか、パートナーとして好きなのか、異性として好きなのか──その区別が、あまりよく分からない。さっきも言ったけど、この感情の根幹はアリアを護りたいというだけ。それが文の中で『好き』という言葉に置き換えられるのなら、たぶん、そうなんじゃないかな。この感情も、きっとね」


言い切るだけ言い切ってから、自分の顔がはにかんでいるのを自覚した。ここに彼女が居なくて良かったと、そんなことを思ってしまうくらいには、どうやら今の自分は参っているらしい。
アリアの前でこんな表情を見せたら、あの子は物珍しがって茶化すだろうか。それとも内容にあてられて、逆に羞恥に気圧されてしまうだろうか。そんな考えが、ふと脳裏を過ぎていった。

作業をしている文の手元を見ると、銃はいつの間にか完全分解がされている。その部品を紛失しないように静止させながら、1つずつ目視での点検を始めていった。致命傷の有無とかを確認しているのだろう。それを済ませたら銃器用潤滑油に湿らせた布で、洗浄と手入れを兼ねている。


「神崎さんが如月くんのことをどう思ってるかは分からないけど、あややの見る限り、悪く思われてはいないのだ。校内で一緒に居る姿もよく見かけるけど、いつも仲が良さそうにしてるし……少なくとも、お互いにパートナー程度の関係っていう風に感じるのだ。同棲してるって言ってたけど、お家での神崎さんってどんな感じなのだ? 個人的にちょっと気になるのだ」


楽しそうに笑いながら、彼女はそう告げた。この話題に意識を傾注させているようで、少なくとも関心は持ってくれているらしい。その事実を表層から感受して、誰にともなく安堵した。


「家でのアリア……と言っても、そんなに変わらないかな。学校よりも家に居る方が気楽なのはあるでしょうけど、女の子らしいと言えば女の子らしいかも。『この服、可愛いなぁ……』って呟きながらファッション雑誌を読んでたり、あとは動物系のテレビ番組が好きだね。自分も一緒に見るんだけど、本当に動物が好きなのか、ちょっとテンションが上がってる。ふふっ」


口元から零れた笑みを手で隠しながら、細まった視界越しに文を見る。紺碧の瞳と視線が合って、彼女の眦も自分と同じように下がっていた。お互いにアリアの姿を想像しているのだろう。
ひとしきり笑い終えてから、文は「2人とも、だいぶん仲が良さそうで安心したのだ。このまま是非とも、武偵活動のパートナーとして頑張ってもらいたいところなのだ!」と告げてくれる。

「それと、密かに如月くんのアプローチにも期待してるのだ!」真鍮製のブラシを自分に向けて突き付けながら、無邪気と悪戯心の綯い交ぜになった笑みで目前の少女は鷹揚に宣言した。
「あややは恋愛とかはしたことないけど、他の人の恋バナとかを聞いたり進展を見たりするのは大好きなのだ。自分も感情移入して、同じような気分になれるから……。あはは……」


どうやら文がこの話に乗り気だったのは、こうした性格が影響していたのかもしれない。そうして気恥ずかしさを隠すためだろうか、苦笑しながら作業の手を着々と進めていった。
同時に彼女の性格──無邪気で奔放で磊落な様を想起させられて、思わず訊いてみたいような感覚に苛まれた。前々から気になっていたことをようやく訊けることに、内心で満足しながら。


「……ところで、文って落ち込むことはあるの? いつも可愛らしく笑っているところだけを見てて、それ以外の表情は見たことがないもの。笑顔でいるのも別段、悪いことじゃないけどね」


彼女はそうした自分の問いを聞いて、一考するように「うーん……」と唸った。愛嬌のある大きな瞳を何度か瞬かせながら、おもむろに作業の手を止めていく。それから呟くように零した。


「落ち込むことは、まぁ、ある……のだ。さっき、あややは色恋沙汰の経験は無いって言ったけど、それでも何もしてないわけじゃないのだ。これは恋愛じゃなくて片想いの話になっちゃうけど、あややの気になってる人とかが依頼に行ったりすると、しばらく会えないって落ち込むし……でも帰ってきて、あややに武器の整備を頼んでくれた時とかは、すっごく嬉しいのだ!」


文の咲き誇った花のような笑顔に、雲間から陽光が射す様を幻視した。一喜一憂する年頃の女子高生らしい恋愛事情の告白を聞いて、一抹の慰安と安堵とが胸の内を覆っていく。いくら純真無邪気を極めた彼女でも落ち込むことはあるのだと知って、人間の心理作用というものを悟った。
「君の片想いが、どうか成就しますように──。ふふっ、応援してるよ。頑張ってね」胸の高さに小さく手を握りながら、その握った手に声援を込める。文はそれに大きく頷いてくれた。

そうして話の区切りがついた丁度の具合に、例の集積の山々を隔てた向こうから、扉の開閉音と不規則な足音が聞こえてくる。やはり散乱している部品等を踏まないように、慎重に歩いているのだろう。彼女の軽快な足音のなかには、紙袋の立てる独特の乾いた音色が混じっていた。

それらが段々と近付いてくると、すぐに彼女──アリアの姿が視認できた。紙袋を両腕に抱き抱えるようにしながら、足元に意識を傾注させて爪先立ちのように歩いている。ようやく山の麓から抜けると、アリアはそのまま勢いをつけて、もと座っていた椅子へと一気に腰を下ろした。
文に負けず劣らずの無邪気な笑顔を振り撒きながら、彼女は「ただいま」と挨拶する。


「おかえり。何だかご機嫌だけど、良いことでもあった?」
「あのね、ももまんが在庫処分セールだったの。 賞味期限切れの1日前で半額だったから、おやつ用と夕食用で……15個ね。ふふっ、かなり得しちゃった。購買の人も『ありがとう』って」
「また随分と買ったね……。まぁ、君が嬉しいのならいいや」


そうして2人で顔を見合わせて軽快に笑う。こうしている時の彼女は、一般校に居るような女子高生のようで可愛らしい。そんな思いを思考の端に覗かせながら、ひとしきり笑い終えた。
「そういえば」とアリアが思い出したように切り出す。「2人とも、何を話してたの?」
赤紫色の瞳で自分と文との顔を交互に見遣りながら、彼女は興味ありげにそう訊いてくる。


「えっと、如月くんは神崎さんのことを、どう思っているのか──っていうお話を……あっ」


そこまで言い切ったところで、文はこの返答がいかに如月彩斗にとって都合の悪いものか──ということを察し得たらしい。目を泳がせながら、慌てたように口を両手で押さえている。
同時にこの話題を露呈させられると思っていなかった、或いは彼女にこの話題を知らせたくなかった自分の緊張が、一気に最高潮に達しているのを感じていた。苦笑するのが関の山だった。

アリアはそうした文の返事を聞いて、少しだけ面食らったようにしている。そうして返事の内容を咀嚼したのか、羞恥したような拗ねたような面持ちで、決まりが悪そうに目を伏せた。
けれども、そうした平生とは異なる彼女の態度も、ほんの一刹那のことだった。やにわに「ねぇ、今って何時?」とアリアは自分に問いかけてくる。腕時計の文字盤は5時付近にあった。


「じゃあ……その、先に帰って夕食を作っておいてくれる? アタシも平賀さんに色々とお願いしたいことがあって、このままだと夕食が遅れちゃうかもしれないから……。なるべく早く帰れるようにするけど、少し時間が掛かるようなら電話するから。キンジたちにも言っておいて」


彼女は口早にそう告げると、「なんか、我儘で悪いわね」と苦笑した。そうしたアリアの仕草が平生と似つかわしくないことを理解しながらも、「別に構わないよ」と快活に背いて席を立つ。その表情の裡面に、彼女に対する緊張を隠していることが判明しないようにしながら……。
これで何度目だろう──忙しなく拍動する心臓を、煩わしく思うのは。どうかその音が彼女に聞こえていませんように、と泰然を気取りながら、自分は少女2人に笑いかけた。


「それじゃあ、そういうことだから先に帰ってるね。バイバイ」


手を振り返してくれた彼女たちの表情が、何だか印象的だった。 

 

秘めた想いと現実と

神崎・H・アリアは、つい今しがた目前を去った如月彩斗のことを思い返しながら、小さく溜息を吐く。そうして胸臆で「ごめんね」と謝りながら、向かいに座る少女──文を見据えた。
彼女が零した返事が迂闊のものだったことを、アリアは内心で確信している。彩斗が自分のことをどう思っているのか、という話に微塵の興味が無いわけではない。むしろ前々から気になっていた。不意に現れたその答えを前にして、彼女は虚構の平然を装うだけで精一杯だった。

彩斗が自分のことをどう思っているのか──その内容を推し量るには、推し量りきれない。彼がいつも自分に告げる言葉と彼の真意とが、別であったならば……。そうでなくても、釐毫の否定を耳にしただけで、アリアは自分の精神が衰弱してしまいそうな、そんな予感を抱いていた。
それ以前に、その答えの是非を聞いた自分自身の態度を、彩斗には見せたくない──そんな考えから、彼に対して見え透いた演戯をはたらいてしまったことを、何より悔いていた。

けれども、今はもうここに彼は居ない。その事実をもう1度だけ反芻してから、膝の上に置いている紙袋を、抱き抱えるともなく抱き抱えた。そうして目前に座っている少女に問いかける。
「……それで、どういうことなの」好奇と鬼胎とが綯い交ぜになったアリアの声は、平生の気位に満ち満ちたそれとは遥かに掛け離れていて、対峙した鬼胎を前にして震えていた。

文はそんなアリアの態度を見て、作業の手すらも止めてしまっている。それが黙考しているだろうことは、誰の目にも明々白々だった。アリアはそうした文の態度を黙視しながら、彼女がいつ口を開くのか、そうして何を吐露するのか、ということだけを脳裏に巡らせるきりだった。


「……質問に質問で返すのも悪いと思うけど、これだけは訊かせてほしいのだ。神崎さんは、如月くんのこと、どういう風に思ってるのだ? まずはそこからお話を始めたいのだ」


文はいつになく毅然とした表現で、アリアに告げた。平生とは変わらない口調の裡面には、無邪気で穏和な文の性格とは少し離れたものがある。そんな調子を感受したアリアの胸臆に、ちょっとした躊躇と焦燥とが沸き起こってきて、今の今まで平然としていた脈搏が段々と早鐘を打ち始めたことまで人知れず感受してしまったのは、彼女にとっては是非のない次第だろう。

「そっ、それは……」そう言い淀みながら、アリアは自分の頬が紅潮しているのを自覚した。
如月彩斗は自分のパートナーであれば、同棲するいわば身内でも、気心が知れた親友でもある。だからこそ彼に向ける感情も、それ相応であることには相違なかった。ただ、その感情もまだ成熟しきっていない、不明瞭で泡沫のように曖昧模糊な、そんな概念として存在していた。


「彩斗、は……印象だけ言うなら、いつも穏やかで落ち着いてる。たとえ何かが起きても、アタシみたいに感覚じゃなくて、自分の論理を軸にして動いてる気がするの。それに、ずっと一緒に居て分かったけど、彩斗の交友関係ってそんなに広くなかった。その中での付き合いとかを見てると、数年来の親友の遠山キンジと、パートナーのアタシに対する接し方は、他の子との態度とは違って見えるの。特に優しいみたい。勝手にそう思ってる。……本当に優しいんだもん」


最後に零した言葉が自分の衷心であることは、彼女自身がいちばん分かりきっている。


「普段から優しいっていうのは、その通りなんだけど──彩斗の優しさって多分、そういう普段からのじゃなくて、また別のところで本当の優しさが分かる気がする。……アタシが彩斗の前で泣いちゃった時も、絶対に指で涙を拭ってくれるの。泣いてる理由も彩斗は分かってるし、慰めてくれる。アタシの性格とか考えとかが分かってるから、絶対にそれを否定しないでくれるの」


降り始めの雨みたく、アリアの口調は細々と、或いは淡々としていた。けれども奥には、少なからず秘めている感情がある。想起した彼の優しさというものを、そっと傍らに添えながら──。
背中を撫でてくれた手や、或いは目元の紅涙を拭ってくれた指の感触を、アリアはまだ覚えている。そうして彩斗の零した自分に対する深慮、換言すれば優しさに彼女は惹かれていた。


「……彩斗みたいな人のことを、お人好しって言うんだと思う。普段から優しい上に、パートナーのアタシのことを第一に考えてるような、そんな感じの人。アタシが頼りにできる人が居れば、それが自分じゃなくても構わないって平気で言える人。全部、アタシのことばっかり。……だから、不思議だなぁって思うのよね。どうしてこんなに優しくしてくれるのか、って」


「でもね」とアリアは照れ隠しの微笑を浮かべながら告げる。


「寝る前に考えると寝付けなくなっちゃうし、授業中に考えると上の空になっちゃうし、なんだか答えが出ないままアタシだけ1人で悩んでるのも馬鹿みたいで、なんかなぁ……って。けど、普段から一緒に隣でいると、どうしても、その……優しくされたら、意識って、しちゃうから」


彼女はそこまで零してから、今の自分の体温が、ちょうど入浴を済ませた後の上気した時と同じくらいであることを察知した。頬の紅潮がこれほどであることを、改めて自覚させられていた。
そうして細めた目から赤紫色の瞳を覗かせながら、視線を何処に落とせばいいのか彷徨する。ある種の想いの吐露から出た羞恥に当てられて、伝えた当の本人を見つめることは出来なかった。

逃げるような心持ちで脚元に視線を落としてから、そのままアリアは両腕に抱えている紙袋に顔を埋める。紙袋に独特の乾いた音色がこの部屋の一帯に響き渡って、古紙のような匂いが彼女の鼻腔の奥の奥にまで漂流してきた。この羞恥と脈搏を静められるなら、何でも構わなかった。ただ、いつにも増して死に急ぐような脈搏の吐息だけを、一心に聞き入っているのみだった。

何畳かも分からないこの部屋の一帯に聞こえるのは、少女2人の脈搏と吐息とで、他にはただ、通風口を吹き抜ける外気の音とか、換気扇の回る音とか、たったそれぎりだった。
けれどその音の中に、アリアはまた違ったものを耳にしたらしく、おもむろに伏せていた顔を上げた。つい先刻までの感情も忘れて、怪訝そうな面持ちをしながら文に問いかける。


「なんで、笑ってるのよ」


アリアの目から見た文は、歳頃の少女らしくたいそう楽しそうに笑っていた。口角の上がったそれを手で隠しながら、なんとか声を出さないように噛み殺しているらしい。けれども堪えきれなかった一部が彼女の咽喉のあたりを鳴らしていて、アリアが聞いたのはそれのようだった。
「あははっ、神崎さんもやっぱり女の子なんだなぁ──って思っただけですのだ」文は奔放に笑いながら、赤紫色の瞳を見つめ返す。「『恋愛なんて』って言いながら恋バナは反則なのだ!」

咽喉が鳴るほどに息を詰まらせたアリアは、明らかに唖然としていた。そうして何かを口の中で言い淀みながら、吐きたくても吐き出せない、ぶつけられた正論(・・)に対する返事を留めていた。組んだ両手を揉むことが羞恥の示唆だという事実を、自覚する以上に自覚しながら……。
またしても戻り起こった森閑の音色を耳で聴きながら、彼女は羞恥に黙然させられていた。

その最中に、 「如月くんは」と文はやにわに話を切り出す。作業の手はとっくの前に止めていて、お互いに訊きたいことを真剣きって聞くだけの恋愛談義──要するに恋バナに、歳相応ながらに夢中になっていた。「神崎さんのことを護りたい──って、そういう風に言ってたのだ」


「『両親の居ないアリアにとって、他に頼れる人なんて限られているだろうから』、『気位に満ち満ちた彼女の性格からしても、あの子は1人で抱え込んでしまうタイプじゃないのかな』──って。『そうなった時に介抱してやれるのは、彼女のことを少なからず分かっている人じゃないと駄目でしょう』って言ってたのだ。ちょっと恥ずかしそうにしてたから……本音だと思う」


そうした彼の零した本音は、アリアにとって多分に納得のいくものだった。なにより数日前、あの時あの部屋で自分が紅涙を絞った時の、彼の口から洩れた安慰の権化に酷似していた。
『──抱え込んでしまうのが、君自身にとって最悪なんだからね。その相手がいない君じゃないでしょう。気位の高い君のことだから、弱気は見せたくないって言うでしょうけれども……。隣に身を置ける相手がいることも必要だよ。別にそれが如月彩斗でなくても構わないし、他にそういう人がいるのなら、その人は大事にしてね』その言葉が、幻聴みたく張り付いてくる。


「それに、如月くんはこうも言ってた。『彼女を支えてやれるのは自分しか居ない』、『パートナーになってやれるのも自分しか居ない』って。だから『彼女の悲運めいた境遇に同情している』、『その悲運から逃がしてやろうという気ではいるよ』って言ったことは、如月くんの本心で、神崎さんに対する想いじゃないのかなって。その後に、『そうでなければ、あの子が何のために自分をパートナーにしたのか、分からなくなっちゃうでしょうからね』って言ってたから、如月くんの神崎さんに対する想いっていうのは、生半可なものじゃなくて、本気なのかな……」


文はそう言ったきり、言い淀むようにしてから口を噤んだ。如月彩斗について何かを続けようとしたものの、すんでのところで押し留めたような、そんな感覚をアリアは刹那に感受する。
彼女が噤んだそれこそが彩斗の真意であるのだと、そう考慮を行き着かせるまでに時間は要しなかった。むしろ文がそれを秘したということは、彼に対する体裁とか、そういうものを少なからず保守しようとしたことの示唆なのではないか。自分に向けられた想いに、名があるならば。

アリアはその想いとやらに、思い当たるだけの仮初の名前を与えてみた。けれど、たった2つ3つぎりの言葉でしか、その仮初は形を持たなかった。その仮初もしょせん仮初に過ぎなくて、仮初という字面のごとく曖昧模糊な存在であることを、彼女は悟る。隣に居続けても、結局は他人──そんな彼の胸臆を見澄ますことなぞは容易ならないことを、頭の隅で理解し始めていた。近すぎて見えないものならば、いっそ離れてしまおうか──それだけは、絶対に、したくない。

アリアにとって、異性を意識するとか異性に惹かれるとかいうことは、今までの経験の中から見ても、そんなに多くはない。そういった点、文に零した独白というのは例外的だった。
何故だか如月彩斗という人間は、既にパートナーという名の掛かり合いが出来てしまったからか、愛おしく思えてしまって、どうにも嫌うことは適わない。やはり、優しさに惹かれていた。

これほどなまでに意識し、惹かれた異性に対する感情──自分が如月彩斗に向けている『意識』の裡面に秘された、その想いとやらに、思い当たるだけの仮初の名前を与えてみた。それは、たった1つきりの言葉でしか、その仮初は形を持たなかった。こともあろうに、その想いは受動的なものではなくて、自分から意識した能動的なものに相違なかった。だからこそ、誤魔化しが効かない。彼に向けている想い──感情に付ける名前というものを、頭の隅で理解し始めていた。

たった2文字。言葉にすれば5文字。けれども羞恥が咽喉を締め付けている。幸か不幸か、胸の内でそれを勘繰るだけの余裕は、まだ蕩け始めた脳髄にも残されていた。お互いに出逢って1ヶ月と少しだ。対峙した名前をこれだと独り決めするのには、あまりにも時期尚早だろう。
それでも、彼に対する接し方というのに、アリアは改めて疑惧の念を抱かずにはいられなかった。どんな風に彼の隣に居て、話をして、パートナーの片翼を担えばいいのだろうか──。

綯い交ぜになった胸臆の感情が、黒煙のようにして眼前を覆っていく様を幻視した。
──『 』は盲目。
たとえ盲目になろうとも、彼の深慮に抱かれてしまえば、それはそれで、良いのだろうか。 

 

予期せぬ事態

言い知れぬ焦燥が胸臆に燻っているのを感じながら、自分は斜陽を望むこともなく《境界》で手早く帰宅した。そうして白雪と協力しながら夕食の支度をし、アリアが不意に現れたのはそんな具合の時だった。先の出来事もあるから、どう言葉を交わせば良いのかが分からない──そんな雰囲気のまま夕食を仕舞って、めいめいに入浴などをしていると、すぐに宵は暮れてしまった。

白雪はアドシアードの件で作業をするらしく、誰よりも早い入浴の後に、自室にずっと篭もりきっている。現在はいちばん最後に入浴することになったキンジを除いて、このリビングには自分とアリアの2人しか居ない。互いにこの雰囲気を自覚しながら、それでも何かしら会話を交わすのに躊躇して、歯切れの悪い辿々しい話だけを、ときおり挟んでいた。テレビの音声を、ある意味をして森閑としたリビングに鳴り響かせながら、隣り合ってソファーに腰掛けつつ……。

まだカーテンを閉めていない窓硝子の向こうには、大東京の夜景を眼下にして、既に下りた夜の帳に、海月が嫣然と腰を掛けている。その海月が薄月に変貌する刹那を見届けながら、この森閑が何に起因するのかという予想を、粗方ではあるがつけていた。自分がアリアに向けている印象──彼女の居ないところで展開させていた話題を、彼女に露呈させてしまったこと。そうして恐らく、アリアはその詳細を、文に訊ね聞いたこと。ともすれば、どこまで文が話したのかは定かではないけれど、自分自身のエゴともとれる愚蒙を、間接的にアリアに伝えてしまったのだ。

彼女に向けた感情のほんの些細な断片でも、アリアが感受してしまったならば──その帰結が、こうして彼女が採っている態度に表れているとしたら、自分は、どうしたら良いのだろう。
この雰囲気に気圧されてしまって、そんなことを考える余裕なぞは、今の自分には無かった。ただ自分の愚蒙、換言すればエゴに起因した結末だろうことを、悲観するのみでしかいられない。

そんなことを幾度も幾度も巡らせながら、隣に座るアリアを一瞥した。
数十分ほど前に入浴を済ませ、ヘアドライヤーである程度だけ乾かした髪の毛を下ろしている。まだ残った微細な水滴が照明を爛々と反射させていて、洗髪剤の芳香は梔子と混じっていた。
いつもみたく眦の上がった彼女の目は、赤紫色の瞳を真正面に向けている。ただ、それもテレビの内容に見入っているようには思えなくて、どこか茫然としているように思うのが自然だった。

そんな風采の彼女を一瞥した刹那に、自分は途端に、この森閑に耐えきれないだろうことを自覚してきた。端的に言えば、居心地の悪い気まずさに耐えかねて、こうして黙然としているのだ。
それでも、アリアに声を掛けるのはそれほど苦ではなかった。どうして、もう少し早くこの森閑を打破しなかったのだろう──と拍子抜けさせられてしまうほどには、あっけらかんと。

「ねぇ」と呼びかけると、アリアは夢見心地から醒めたかのように瞠目した。そのまま切れ長の目つきに覗かせた赤紫色の瞳を自分に向けると、少し間を置いて「……なに?」と返事する。
こうした彼女の口調からは、平生と比較して何らの差異の切片をも抱くことはなかった。


「……帰ってきてから、あまり喋らないね。どこか具合でも悪い?」
「別に、どこも悪くない」
「それじゃあ、何か嫌なことでもあった?」
「……何も無いけど。なんで?」


そう返事したアリアの声色は、本当に不思議がっているようだった。


「帰ってきてからずっと、物思いに耽けっているみたいだったから」


その答えが図星だったのだろうか、彼女はほんの少しだけ唖然としたような面持ちになった。それから体裁が悪いと言うかのように自分から視線を逸らすと、苦笑しながら「ごめん」と告ぐ。
「何について考えてたの?」そう問いかけた。やにわにアリアは「えっと……」と言い淀むと、そのまま再度、黙考の深海に沈んでいくらしい。「言い難いことだったら、言わなくても──」


「……彩斗はさ」


アリアは言葉の端を遮って、そう零した。同時にその態度が、いかに平生と比較して彼女にとって似つかわしくないかを自分自身で首肯するのにも、大した時間は要らなかった。
頑なで気位が高い──それがアリアという少女の性格であっても、こうした場面に於いては、人の話を最後まで聞かないような子ではない、と自分は思っている。だからこそ対峙した、物珍しい一種の例外に耳を傾けるべく、細細とした調子とは真逆の赤紫色の瞳を凝視すべくした。


「……どうしてアタシなんかを、こんなに優しくしてくれるの? 彩斗は『そんなこと』って思うかもしれないけど、アタシには分からなくって、だから、それだけをずーっと考えてたんだよ」


詰まった咽喉の奥からようやく洩れたような、そんな声をアリアはしていた。
物思いに耽ける少女が零した問い──らしい問いに、自分は胸の内のどこかで安堵したように思う。それが、彼女のしてくれた告白に起因するのだろうことは、何となく分かっていた。


「大事に思っていない子に対して、とりわけ優しくしたりはしないでしょ。そういうことだよ。自分にとって君はパートナーだし、身内だから。それに、思うように母親に会えないというのが、どれだけ辛いか──だから、せめて自分といる間は、出来るだけ苦の少ないようにしてやりたいんだ。それが、君の言う優しさなんだろうね。……大事に思っていれば、そうもなるよ」


照れ隠しの笑みに濁しながら、最後の言葉を自分は零した。けれども、今更の言葉ではない。自然に口を衝いて出た、自分でも意図していなかった言葉の集積、衷心に他ならなかったのだ。
「……そっか。ありがと」アリアはそう呟きながら、目元を綻ばせて静穏に笑う。
そんな彼女の態度を見た刹那に、自分の胸臆に秘めている想いを今、この場所で赤裸々にしたくなった。告げた言葉の裡面にある想いは、それでもまだ伏せておかなければならないのだ。

この愚蒙を平然と宣うことができる時期ではない。今は、それよりも優先すべきことがある。
だからこそ、たとえ愚蒙と呼んだ想いであろうとも、それを彼女に面と向かって伝えることができる時期を迎えたのなら──その時は何が何でも、どうなろうとも、そうするつもりだ。それが、抱いたこの感情に区切りを付ける時か、或いは、この感情を成就させる時になるか──。

彼女の零した笑みにそんなことを思いながら、自分は小さく頷いた。その直後に、穏和の2文字が浮かぶリビングの外から、その穏和とは見事に掛け離れた雑多な物音が聞こえてくる。
2人揃って廊下の方に目線を向けるものの、扉の向こうで何が起きているのかは分からない。けれど、その物音がどうやら白雪の足音らしく判断したのは、お互いの共通認識からだった。


「──キンちゃん! どうしたの!?」


扉を隔てた廊下からは、白雪の悲鳴めいた叫び声が聞こえてくる。何かしら有事を迎えたのだろうか、それにしても──。しばし逡巡しながら、取り敢えずは、と紡錘形の《境界》を開く。
眼前を覆うように展開されたその向こうには、リビングへと入る扉の付近が見えた。照明に照らされた廊下に異変は無い。けれども洗面所を隠すカーテンが、何故か無造作に開かれていた。

その向こうに視線を遣ると、着替え途中だったらしい半裸のキンジと、何かしらの用事で赴いた結果にそれを目撃したらしい白雪が、互いに硬直して見つめ合っている。珍妙な光景だった。
「……君たち、何やってるの」その言葉で初めて、2人は自分たちの存在を認識したようだった。唖然とした態度を残しつつも、我に返ったようにして、決まりが悪そうにしている。


「それで、白雪はどうして叫んでたわけ? 取り敢えずこっち来なさい。話なら聞くから。……キンジも、いつまで裸でボケっとしてるのよ。早く着替えてアンタも来るの。何かあったの?」


アリアは呆れたようにして、茫然としている2人に機敏な態度を促した。彼女に手招かれた白雪は、《境界》を経由してこちら側に小走りで駆け寄ってくる。その背後でカーテンを閉めたキンジを確認してから、「えっとね、あのねっ」と狼狽する彼女を横目に《境界》を閉じた。
「いいから、まずは座りなさい」アリアはそう言って白雪をたしなめる。彼女は慇懃に「失礼します」と挨拶してからソファーに座ると、何度か深呼吸して気を落ち着かせているらしかった。


「……ずっと部屋で作業をしてたんだけど、急に電話が掛かってきたの。こんな時間に電話を掛けてくるのは身内くらいだし、同じ家に居るんだから、お話なら部屋に来てすればいいのに──って思いながら出たんです。するとね、『風呂場に居るんだが、ちょっと来てくれるか。今すぐだ』って言われたの。そうしたら、ご覧の有り様です。何だったんだろ……。おかしいね」


すっかり面食らって消沈してしまったらしい白雪は、最後には細細とした口調になっていた。
「おかしいも何も、」有り合わせのタオルで髪の毛を乱雑に拭きながら、着替えを済ませてきたキンジはぶっきらぼうに告げる。「どう考えてもイタズラ電話だろ。俺は電話なんて掛けてないし、そもそも風呂場で電話なんて怖くて使えない。俺の電話は防水じゃないんだからな」


「あっ、そっかぁ……。そうだよねぇ……」と白雪は納得したように頷いていたが、それにしても──といった疑懼の2文字が、この意識の上に堂々と浮上してくる。自分もアリアも、白雪もキンジも、内心では単なるイタズラ電話だと1度は納得しただろう。けれど、その納得を取り払ってみると、そんな単純なものには思えなかった。むしろ右に倣えの納得というものが──、


「楽観主義の得た、免罪符……かぁ」


「免罪符、って?」そう零した白雪の声で、自分の意識は引き戻された。いつの間にか伏せていたらしい顔を上げながら、同時にこの奇怪事の裏を仮定する。そうして伝えるべく口を開いた。
神妙な面持ちをしているのは、自分を除けばアリアしかいない。恐らくアリアも、気が付いたのだろう。彼女特有の天才的な直感力でもって、今のこの奇怪事と、件の騒動との関連性を。


「免罪符っていうのは、もともとキリスト教用語なんだ。罪に対する罰を免除してくれる証書で、一般的には口実と似た意味合いで使われているかな。もっとも今、自分が言いたいのは──この奇怪事の裡面を見澄まさないことへの、ちょっとした警鐘を鳴らすということでね」


「……回りくどい言い方は面倒臭い。簡単に説明しろ」キンジはそう言い放つと、1人用のソファーに腰掛けた。「要するに、平和ボケしたような俺たちの態度が気に食わないわけだろ? 」
「ふふっ。まぁ、1つずつ説明していこうか。これはあくまでも仮定の話だけどね」それでも、考えられない話ではない──そんな意図を込めながら、自分は2人に解説を始めた。


「まず楽観主義とは、物事を自分にとって都合が良いように解釈することだよ。悲観論で物事を見澄ますべき武偵の思想には、かけ離れている。……そうして、免罪符。これはある種の口実のようなもので、ここではその口実が、『イタズラ電話』という形で現れてしまったわけだ」


キンジも白雪も、まだ釈然としないような表情を浮かべている。


「キンジ。主に君が白雪を護衛しているのは、彼女を《魔剣》から守るためでしょう。そんな最中に、キンジを名乗る者から白雪に向けて、虚偽の電話が掛けられた──おかしいと思わない? イタズラ電話にしては、少し手が込んでいるよね。何も《魔剣》との接触は、互いに対峙し合うことだけじゃないんだよ。彼の者との接触が最も危惧されているのは、アドシアードの当日だけど、必ずしも当日に接触してくるとは限らない。今回が、それだと仮定するならば──?」


そこまで告げたところで、ようやく2人は、事実として起きた予期せぬ事態──ここまでの話を前提に裏を返せば、自分の提起した仮定の1つという可能性──を目の当たりにしたようだった。同時にそれは、この状況と時期を鑑みれば、多分に説得力を孕んでいるものに相違なかった。だからこそ、キンジも白雪も顔を見合わせて、寒慄したような面持ちで押し黙っている。

不意に「これが、《魔剣》の隠密接触なら──」とアリアが重い口を開いた。「今まで以上に用心しないと、やられるかも。たぶん、アタシたちの行動を事前に偵察してるんじゃない?」
そう言いながら、アリアはこちらに流し目をする。その意図を汲んだ自分は《境界》越しに手を伸ばして、まだ閉めていなかったリビングの窓硝子──それをカーテンで素早く覆った。

「ところで」と前置きをしてから、白雪に問いかける。「君が電話で聴いたキンジの声は、いつも通りの声をしてた? そもそも、掛かってきた番号とか覚えてる? キンジのはずはないよね」
その問いかけに、彼女はいささか悩ましいような顔付きで、十数秒ほど考え込んでいた。それから、手元に仕舞っていたらしい携帯電話を取り出すと、着信履歴を見てから小さく呟く。


「あれ、非通知だ……。てっきり皆のうちの誰かだと思ってたんだけど、全く違うね。でも声はキンちゃんに似てたよ? 声が響いてたから、本当にお風呂に入ってるんだって思ったもん」
「偽物のキンジが、白雪に、本物のキンジのところへ行け──と要請すること自体、そもそも意図が掴めないよね。声を反響させる環境まで用意しているあたり、割と周到だけれども」


「どちらにしろ、単なるイタズラ電話には思えないよね」そう続ける。「やっぱり、《魔剣》が接触してきたと考える方が間違いないと思うんだ。何より厄介なのは、《魔剣》はもう、自分たちのすぐ近くにいるだろう──と読めてしまうこと。少なくとも、今の動向は把握されてる。ご丁寧にキンジが入浴した折を狙っているんだから、これを偶然とは捉えられないでしょう?」

そうであるならば、《魔剣》は何によって自分たちを偵察しているのだろうか──真っ先に思い付くのは、盗聴器だった。けれど、その予想も、一瞬間の後には自分自身が否定してしまう。
盗聴器は《武偵殺し》が工作活動に用いた一手段に他ならなかった。だからこそ観念連合として呼び起こされたのだろうし、事実、非常に有力な手段ではある。ある、のだけれど……。


「粗方の必然性をもって、この奇怪事は構成されていると見た方が良いね」


《武偵殺し》がアリアを誘い出すための手立てとして、盗聴器は一種の足跡の役割を、恣意的に果たさざるを得なかった。そうした意図のかかった工作活動と、今しがた仮定した単なる工作活動というのは、性質がまったく異なりすぎている。その双方が自分の推論を邪魔していた。

話によれば、《武偵殺し》も《魔剣》も、ともに《イ・ウー》の人員らしい。内部の詳細こそ不明なものの、恐らく身内とされる2人の間柄を考えれば──それが標的を誘き出すための罠とはいえ──《武偵殺し》が採った結果に敗れた作戦を、《魔剣》が同じくして採用するとは考えにくい。むしろ既出の作戦にこちらが警戒していることまで、読まれているかもしれないのだ。


「だから2人は、なるべくお互いから離れないようにして。今となってはもう、意味が違う」


毅然とした口調で、自分は告げた。何のためか星伽白雪を狙う《魔剣》が、既に自分たちの付近にいることを自覚しながら──そうして、その裡面に暗躍する《イ・ウー》が、間接的ではあるものの、自分とアリアに急接近しつつあることもまた、自覚しすぎる以上に自覚しながら……。
その段階に入ってしまうと、こちらも警戒度を層、一層と上げていかなければならなくなる。


「……意味が違うって、どういうことだよ。やるべきことは変わらないのにか?」


そう問いかけてくるキンジは、《魔剣》との距離感を把握しきっていないように思えた。そんな彼に呆れたようにして、アリアが「その小さな脳でよーく考えなさい」と補足を入れる。
「さっきのイタズラ電話は、ほぼ間違いなく《魔剣》による電話なの。彩斗も言ったけど、電話の内容とタイミングが上手く一致してたでしょ? こんな偶然はそうそう有り得ないの。じゃあ、どうして《魔剣》はキンジがお風呂に入ってることが分かったの? そこが1つ目のポイント」


アリアはそう告げて、人差し指を立てた。


「盗聴とかハッキングとかが思い付くけど……たぶん違う。実は《魔剣》と《武偵殺し》は繋がりがあるらしいけど、その《武偵殺し》の工作活動に盗聴器があったじゃない? 今回の隠密接触で仮に自分が《魔剣》だとバレた時、アタシたちがどうやって《魔剣》に動向を確認されてたのかを疑うのは当然でしょ? それで真っ先に盗聴器が思い付くはずなの。だからアタシたちがこうして警戒することを見越して、敢えて手掛かりになるような証拠は残さないようにしてるはず」


「だから、」と付け加えて、アリアは人差し指の次に中指を立てた。 「2つ目のポイントね」


「消去法で考えれば、手掛かりの残りにくい方法──古典的手段を採っているはずなの。尾行とか、覗きとか、《魔剣》の装備次第では狙撃銃で鷹の目とかね。何処からアタシたちを偵察してるのかは分からないけど、こういう手段に絞られてくるの。少なくとも、すぐ近くには居る。何より《魔剣》の素性は知られてないから、尻尾を出さない限りアタシたちは気付けないのよ」


そうして、アリアは薬指を立てた。赤紫色の瞳で、キンジを見据えながら。


「これは極論だけど、《魔剣》は、いつでも白雪を狙えるの。でも、アタシたちはいつ《魔剣》に接近されるかが分からない。……『なるべくお互いから離れないようにして』っていう意味、もう分かったでしょ? 最低でも白雪の護衛は1人必要なんだから、隙を見せちゃいけないの。3人揃って護衛できる時はするけど、もしかしたら用事でバラバラになる日もあるだろうから」


彼女の言いたいことは、もう分かった。それは当の本人であるキンジも、はたまた護衛される立場の白雪も、大いに察し得ることだろうと思う。目前に迫った脅威に臆することなく、或いはそうなれども──彼にとって決して守るべき約束と、護るべき者のためには、最善の解答だった。


「アンタも男なら──自分の幼馴染くらい、命懸けで護りなさい」


遠山キンジがそれに背くのには、大した時間は要らなかった。 

 

準備期間

平賀文に依頼した装備の点検は、まだ済んでいない──それを知ったのは、昨夜の騒動から一晩を越した今朝のことだった。そうしたことばかりに思考を取られてしまって、最も大事な装備というものを、あたかも手放しにしていないような錯覚に陥ってしまっていたのだ。アリアはその件について昨夕の帰宅から何も触れなかったし──自分もそれどころではない心持ちでいたのだから──何より例の騒動を目の当たりにしてしまっては、もはや蚊帳の外だった。

予備として別に購入しておいたノンカスタムのベレッタM93R、マニアゴナイフ、その2つきりが今の自分の装備だ。《緋想》も無ければデザートイーグルも無い。ろくに点検せずに事故を起こす方が駄目だ──とは言ったものの、いざこうすると、ちょっとした不安感はある。
背やジャケットに隠匿していたぶんの重量感が抜けていることに、言い知れぬ違和感というものを覚えながら、自分はアリアとともに教務科棟へと向かう廊下を談笑しながら歩いていた。

「ホームルームの後に連絡しないで、わざわざ校内放送で呼び出すってことはさ」そう言って、横に並ぶアリアの顔を見る。「話す用事を決めたのは、先程ってことになるのかな」
呼び出されたのは、わずか数分前だった。いつもの4人で少し早い昼食を摂り終える頃、甲高いチャイムとノイズとを響かせながら、自分たちの名前がそこに並べられてしまったのである。兎にも角にも白雪の護衛をキンジに頼みながら、こうして目的地へと向かっていた。


「そうなるわね。……何を言われるのかは分からないけど」
「怒られる、ってことはないよね?」
「別にアタシたち、怒られるようなことなんてしてないじゃない」


軽快に笑いながら、アリアはそう告げた。「それもそうだね」と返事しながら、自分も笑う。
そうこうしているうちに、教務科の入口は目前だった。2回ほど軽く扉を叩いてから、謹厳な態度でもって教務科の中に歩を踏み入れていく。目的の相手は、探さなくてもすぐに確認できた。「こっちや、はよ来んかい」酒焼けた声を掛けてきたのは、強襲科顧問の蘭豹だった。

椅子の背もたれに体を預けながら、彼女は自分たちを手招いている。そのまま酒か何かの入っているらしい瓢箪を豪快にあおると、満足そうな笑みを浮かべていた。少なくとも機嫌は悪くなさそうで、これなら怒られるようなことも無いだろう。そう安堵してから歩を踏み出す。

「あれって、お酒なのかな……」と耳打ちしてくるアリアに「多分ね」と返しながら、2人は揃って蘭豹のもとへと歩み寄る。意外に整頓されていたデスクの端には、彼女が愛銃としているM500が無造作に置かれていた。足元には2メートル近い斬馬刀が転がっている。一瞥したデスクから視線を蘭豹に戻した自分とアリアは、ひとまず彼女に向けて軽く会釈をした。

強襲科顧問の蘭豹、武偵校では彼女はそう通っている。香港マフィア・貴蘭曾(グランフィ)というところの会長の愛娘らしく、聞くところによれば、香港では無敗の武偵として恐れられていたようだ。しかし気性の荒い性格を咎められ、遂には香港を出禁になったらしく、各地の武偵校で問題を起こしては転勤を繰り返しているのだとか。今はここに落ち着いている。


「取り敢えず、これ見いや」


彼女は手短に告げると、手元に置いてあったファイルから2枚の用紙を取り出した。それを自分たち2人に手渡しながら、「まぁ、話だけでも聞いてくれれば構へんで」と苦笑する。
その用紙の表題には、『強襲科:アドシアード出場推薦生徒 ガンシューティング部門』と書かれていた。その下に長ったらしく書き並べてある内容も、おおかた表題の通りになっている。


「《魔剣》の件で、遠山キンジが星伽白雪の護衛をすることになったんやってな。綴梅子から教務科に話は回っとる。遠山といつも一緒に居るんやから、どうせお前たちもやっとるんやろ? ……まぁ、そりゃそうか。教務科の過保護っちゅうのが現状やけど、星伽に悪影響が出てる以上は、護衛が無いよりかはマシやろ。引き続き宜しく頼むわ。改めて教務科からのお願いや」


「んで」と彼女は続ける。用紙を人差し指で指差しながら、内容の説明を始めた。「アドシアード出場者の一部には、顧問や校長から生徒に直々の推薦があるんや。高ランクの成績優秀者は勿論、それ以外でも、独自に才能を見込まれた生徒なんかも多い。お前たちはウチの推薦と校長の推薦とで対象になったんやが、これは大いに名誉なことや。本来ならば出場すべきやけど……」


蘭豹はそこまで言うと、分かりやすく語調を下げる。


「星伽の護衛がある以上、アドシアード出場は危険やろ。3人で護衛するにしても、うち2人が抜けるっちゅうのは、遠山にしても負担がかかるもんなぁ……。だから今まで黙っといたんやが、取り敢えず訊くだけ訊くわ。お前たち2人はアドシアードに出場するんか? しないんか?」


彼女が自分たちを呼び出した挙句に、『話だけでも聞いてくれれば構へんで』と言ったのには、どうやらこうした意図があったかららしい。既に答えを決めていた2人の意向と蘭豹の予想とに、そこには微塵の差異こそ無いものの、それでも拒否を伝えるというのは些かはばかられた。
僅かの決意を間に置いて、「この状況を鑑みると──」と切り出した矢庭に、鼻腔には葉巻らしき独特の臭いが漂流してくる。自分たち2人の首元に回された腕からは、黒革の匂いもした。


「まぁ、出るわけないよなぁー。……だろ?」


指に摘んでいる葉巻から朦朦と立つ紫煙なぞは厭わず、声の主──尋問科の綴梅子は、咽喉を鳴らしながら自分たち2人を見て笑った。彼女こそ白雪の護衛をキンジに依頼した張本人だ。
「まぁ、そうなりますねぇ」と自分も苦笑を返してから、「申し訳ないですが」と付け加える。
「この状況で出場するってのも、それはそれで頭のネジが吹っ飛んでて面白ぇけど」冗談めいたことを言いつつ、綴は蘭豹の隣のデスクに座って足を組んだ。見えた銃がこちらを覗いている。


「本来ならば出場できたはずのアドシアードに出られない、っていうのも酷な話だよなぁ……。2人は遠山と一緒に星伽の護衛をしてるんだろ? アドシアードのお祭り騒ぎに乗じて《魔剣》が狙うのはそこだろうから、そこで堂々と隙を見せる馬鹿も居ない……。はぁー、面倒なこった」


片方は紫煙を朦朦と立ち昇らせながら、もう片方はそれを手で払いながら、綴と蘭豹とは自分たちの出場を見送るにしても、わりあい双方にとって都合の良い結果を模索しているようだった。
「あっ、そうだ。これでいいじゃん」さも名案だと言うかのような、平生とは異なった綴の口調に意識が引かれる。「星伽の護衛を、お前たち2人にも教務科から正式に依頼すんだよ。そうすれば解決金が入るだろ? んで、アドシアード出場ぶんの単位も余分にくれてやるからさぁー」

その話に自分は「なるほど……」とだけ相槌を打ちながら、先を促すように沈黙した。綴は葉巻の灰を灰皿に軽く落とすと、隣の蘭豹にも「これでいいんじゃねぇの?」と訊いている。
「まぁ、それが穏便やな」と彼女も1度は納得したが、やにわに首を横に振った。「……いや、やっぱり駄目や。如月と神崎は進級できる単位をとっくに揃えとる。繰り越し制度があるっちゅうても、流石に要らんやろ。どうせなら金の方がえぇ。そっちの方が実用的やしな。どや?」

単位と金、どちらが欲しいのか──2人は自分たちに、そう問いかけているように感じた。確かに蘭豹の言う通り、自分もアリアも進級できるだけの単位は既に揃えてある。ということを考えると、単位よりも多用途に融通が効く金銭を得た方が良いのは明々白々だった。アリアも同じ心持ちのようで、優遇されているようで気恥ずかしいのか、控えめに笑みを浮かべながら頷く。


「うん、蘭豹先生の案に賛成です。金銭の方が、取り回しが良いので」
「そうね。アタシも彩斗に同意かも」
「よっしゃ、これで決まりやな。そうなると書類を準備せにゃあかんか……」


蘭豹は肩の荷が降りたような笑みを零してから、一転して慌ただしそうに席を外していった。その背中を目で追いながら、はて、残されてしまったもののどうすれば良いのか──と思案する。
取り敢えず彼女が戻るまで待機していようと決断した刹那に、何やらアリアが言い淀むように、綴に対して質問した。「……ねぇ。どうして、アタシたちをここまで優遇してくれるわけ?」

自分と同じに蘭豹の動向を追っていたらしい綴は、そうしたアリアの質問に耳を傾けた。短くなった葉巻のフィルターあたりまでを一気に吸うと、溜めた煙をそのまま吐き出す。そうして灰皿に筒先を押し付けるようにして鎮火させながら、「あー……?」といつもの声色で返事をした。


「神崎、お前……ごっこ遊びで馬鹿にでもなったかぁー? 実績がある優秀な生徒を、アタシら教務科が見捨てるわけねぇだろうが。星伽だってそうだ。お前たち2人が自己評価をどう付けているのかは知らねぇけど、少なくともSランクだって自覚は持て。校長が推薦してくれる生徒なんて、たかが知れてるんだからさぁ、この意味が分からないほど馬鹿じゃないだろ? えぇ?」


口調こそ説教に近いものの、その裡面には自分たちへの一定の評価と信頼があった。能力を買ってSランクにしたのだから、Sランク武偵としての自覚を持て──そうして、その肩書きに恥じない活躍を求められている。武偵校の最高権力者である校長にも、認められるくらいには。
Sランク武偵などは、いわゆる武偵校の華なのだ。その花弁が茎ごと萎えて、地面の泥に塗れてしまうようでは意味が無い。綴が暗に伝えたかったことは、恐らくこのことなのだろうと思う。


「ふぅん……、随分と期待してくれてるのね」


アリアは後ろ手を組んで、そう呟いた。それから眦の上がった目で自分の方を一瞥すると、「じゃあ、せめて期待に応えられるようにはしようかしら」と、満更でもなさそうに笑みを零す。
綴も小さく頷いてから、「その饒舌な口だけじゃなくて結果で示せ」と軽口の応酬に火種を付けた。「そんなことは分かってるわ。出来ないことを出来ると宣言するほど馬鹿じゃないもの」
「……お前は本当に生意気な女だよなぁー。少しでも成績下げたら根性焼き入れてやるよ」


新たに取り出した葉巻に火を付けながら、綴は冗談とも聞こえない口調で口元を歪ませた。


「ま、それが嫌なら頑張れってこった。……もうアタシからは何も言うことねぇし、蘭も書類を探すのに手間取ってるみてぇだし、昼休みも半分過ぎたから戻りたきゃ戻っていいぞぉー」


その言葉が本心なのか、話をするのが面倒になったのか、はたまた両方なのか──彼女のことだから可能性は全て否めないが、兎にも角にも、こうして認可が下りたのは有難いことだろう。
背もたれに寄りかかりながら「遅っせぇなぁー……」と悪態を吐く綴を横目にして、自分はアリアに視線を遣った。彼女が頷いたのを確認してから、「それでは──」と幸便に切り出す。


「お騒がせしました。アドシアードの件に関しては、どうぞ宜しくお願い申し上げます。取り敢えずは星伽白雪の護衛を行っていく所存ですので、その旨をご承知ください。失礼致します」


アリアと合わせてお辞儀をしてから、「あー、はいはい」と適当に挨拶をした綴の前を後にする。そのまま入室した時と同じ謹厳な態度で教務科から退室すると、何故だか不意に笑みが口元から溢れてきた。どうやらアリアも同じようで、2人して顔を見合わせながら何がなしに笑う。
そうして歩を踏み出した。意外に蘭豹と綴が優しかっただとか、期待されてるのも重荷だとか──そんな他愛のない話をしながら、もともと歩いてきた廊下を逆再生するように進んでいく。

「あっ、そうだ」矢庭にそう切り出した自分の声を聞いて、「どうしたの?」と彼女が訊いた。
「いやね、装備科に行こうと思って。文のところだよ。確か昼休みも工房にいたはず」
「平賀さんのところ? そんなに急ぎの用事なんてあったっけ……」アリアは考えるようにして、可愛らしく人差し指を口元に当てる。歳頃の子供のような愛嬌が爛々と振り撒かれていた。


「ほら、昨日の放課後に文のところに行ったでしょ? そこで装備の点検を──」


そこまで言ったところで、アリアは不意に立ち止まった。何か気になるものでもあったのだろうか、と彼女の目線の先を追うものの、そこには単なる廊下が続くだけで2人以外に誰も居ない。
「アリア、どうしたの?」茫然としているらしい彼女の顔を覗き込みながら、そう問いかける。
「……彩斗、ごめん」消え入りそうな声で、アリアは呟いた。決まりが悪そうに自分から目を逸らして、彼女には似つかわしくない、一種の罪責感にでも苛まれたような面持ちをしている。


「彩斗の装備、本当なら銃くらいは点検が済んでたはずなの。でも、アタシが平賀さんとお話しちゃってたから、まったく点検が進まなくて……。帰ったら伝えようと思ったんだけど、色々と考え事してたし、ちょっと騒ぎもあって、それどころじゃなくなっちゃって……。ごめんね」


両の手を胸元で握りながら、降り始めの雨のようにしてアリアは零す。細細とした口調のなかに聞こえた『ごめんね』という4文字だけは、際立って明瞭としていた。真っ直ぐと自分を見据えた赤紫色の瞳には、衷心の色が滲んでいて、そこに彼女の性格の一部分が垣間見えたような気がする。アリアが悄然としている様は、やはり平生と比較しても似つかわしくない。けれど、それが何だかおかしく見えてきてしまって、不意に笑みを零してしまったのは、自分の失態だった。


「……ふふっ。アリアは悪くないよ。確かに依頼をしたけど、それを昨日中に済ませてくれと頼んだわけじゃないでしょう。その時点で日を跨ぐ可能性は考えてた。それに、そう依頼した以上は──仕事は文の領分なんだ。君が文と何を話していたかは知らないけど、むしろ君の話に傾注してくれていたんでしょう? どうだい、文に『お願いしたいこと』はきちんとお願いできた?」


今の今まで悄然としていた彼女の面持ちが、途端に晴れていくように感じた。雲間から射した陽光を幻視した、或いは本当に自分の身に陽光が射しているような──目を瞑れば微睡んでしまいそうな、そんな温和な光をアリアから感受する。綻んだ目元が、やはり彼女にお似合いだった。


「ふふっ、それは内緒」


端々にどこか悪戯心の見え隠れするような笑みに、アリアは人差し指を唇に当てて蓋をした。その隠し事をする姿が、彼女の風貌と相まって、無邪気な子供のようで愛らしくて──これならば、歳頃の少女が見せてくれた隠し事の1つや2つ、どうだっていいだろうと思えてしまった。
「女の子には、言えない秘密の1つや2つ、あるんだから。アタシだって女の子だもん」

「そっか」と彼女の悪戯めいた笑みにつられて自分も笑う。「じゃあ、詮索はしないよ」
アリアは満足そうに頷くと、やにわに自分の右半身背後に回った。そうして右手首を、その華奢な手で掴んでくる。彼女の手は温柔で、肌理細かで、自分から握った時と変わっていなかった。
「男の子にしては、ちょっと細いのね」からかうように目を細めながら、アリアはそのまま右腕を上げる。それに連動して、自分の右腕も持ち上がった。虚空に手をかざすような形で──。


「……そっか、なるほど」
「気が付くの、ちょっと遅くない?」


ここで初めて自分は理解できた。傍らで頬を膨らませている彼女が見せた、ある種の遊び心を。
「パートナーなら、アタシのこと分かっててくれると思ったのに。ちょっと残念かもね?」
悪戯的な口調に眦を下げながら、アリアは赤紫色の瞳を上目にして見つめてくる。とてもご機嫌そうで、『アリアは悪くないよ』と言ったのが、それだけ嬉しかったのだろうと類推した。


「あはは……。流石にパートナーでも、突飛なことをされたら分からないよ」


そう苦笑してから、眼前の虚空と相対する。アリアが握ってくれた手首から掌へと力を込めて、大気を撫でるように軽くかざした。それに呼応するようにして現れた《境界》は、この空間の一部だけを鋭利な刃物で切り取って、別の風景を糊付けして貼り付けたようにしか見えない。例えば装備科棟にある文の工房、そこへと続く紡錘が、この廊下に突如として現れたというように。


「行こう」
「うん」


顔を見合わせながら、たったそれぎりの会話を済ませた。御機嫌とも御満悦とも見てとれるアリアの面持ちを隣にして、この子は諧謔めいたこともするんだな──と内心で新鮮味を覚える。彼女にとっては諧謔というよりも、歳頃に相応な、馴れ合いみたいなものかもしれないけれど。
そう微笑ましく思いながら、自分の口元が緩んでいるのを自覚した。それをアリアに気取られないようにしつつ、掲げた右腕を下ろす。そのまま彼女の手を取って、雑多な工房に足をつけた。


「えっ、なんで、手……」


アリアは自分の手を取り返すと、羞恥に頬を紅潮させて、その困惑を控えめに訴えてくる。彼女がそこで羞恥を覚える理由が、自分には分からなかった。何しろ文の工房は文字通りの雑多なのだ。床にはいつも部品が散らばっているし、それを踏んだ挙句に転んでしまったら大変だろう。
「転んで怪我しないようにだよ。恥ずかしがる理由が分からないけど」そう苦笑する。


「それは、その……ありがと──きゃっ!?」
「わっ」


可愛らしくはにかんではいたものの、少なからず動揺していたのか、アリアは後ろのめりに体勢を崩してしまった──その一瞬間の間に、彼女のぶんだけ預けられた体重が、一気に自分の腕に伝わってくる。どうやら、雑多な床に散乱していた部品のうちのどれかを踏んでしまったらしい。このままでは後頭部を床に打ち付けてしまうおそれが容易に想像できたから、すかさず握っていた手を引いて彼女を抱き寄せた。その華奢な身躯を裏切らず、アリアはやはり身軽だった。


「大丈夫? 腕、痛くなかった?」


綺麗に自分の両腕のなかに収まった彼女の、その身躯の華奢なことに、このまま抱きしめていたら、いつか彼女の身体が音を上げて瓦解してしまうのではないだろうか──ということを不意に思った。愛玩動物か何かのように縮こまりながら上目に自分を見ると、アリアは小さく頷く。
背中に回した腕からは、この一瞬間の吃驚に120ほどを打つ彼女の脈搏が伝わっていた。
「……そう、良かった」安堵の溜息を吐いた直後に、自分はこの状況を俯瞰するともなくする。

それを把握しきった時には、既にもう遅かった。自分たちの話し声に気が付いたらしく、様子を見に来てくれた文と視線が合ってしまう。恥ずかしいのか間が悪そうに手で顔を覆ったものの、それでも怖いもの見たさと言おうか、そんな雰囲気で彼女は指の隙間から自分たちを覗いた。
抱きしめていたアリアから腕を解いたのちに、即座に勘違いだけは避けてもらうべく説明する。


「あの、勘違いしないでね……? アリアが転んじゃったから支えただけで、自分から下心があって抱きしめたとか、そういうことではないから。するとしても、こういう場所ではしない」


本当にそれだけの理由で、それ以上でも以下でもないのだ。下手な勘違いがいちばん怖い。自分は冗談こそ言えどもこうした場面で嘘は言わないし、何しろ1年近くを過ごした友人なら、こうした性格をある程度は首肯してくれるだろう──という生易しい観念が無いでもなかった。
けれども文は、そんな自分の自信とは正反対を進んでいるように思えてしまっている。羞恥のなかに呆然の入り混じった、何やら生温く粘っこいような視線でこちらを凝視するべくしていた。


「……ごめん。神崎さんの手を繋ぎながら言われても、あまり説得力はないのだ」
「──っ!?」


予想もしていなかった文の言葉に、離していたはずのアリアの手をまた離さざるを得なかった。反射的に引いた自分の手が視界に入るものの、それがたった今まで彼女の手を握っていたとは到底、思えもしない。純粋な羞恥とはまた異なる感情が横溢しているのを感じながら、隣に立つアリアに問いかける。「……手、ずっと握ってた?」自分でも分かるほどに、声は震えていた。

そうした自分の問いに、彼女は一言も洩らさないまま頷いた。ただ羞恥に当てられたように俯いていて、伏し目にした赤紫色の瞳を足元に彷徨させている。アリアがこうした態度を取るまで、自分のしていたらしい行為を把握できていなかったほどには、どうやら殆ど無意識的に──それがどんな感情から由来したものであるかは置いておいて──彼女の手を繋いでいたようだった。
──何をやっているんだか。胸の内でそう呟くくらいしか、この言葉の処理場は存在しない。

文はそうした自分とアリアの様子を、呆れたように黙視していた。不意に彼女らしからぬ溜息を小さく吐くと、「……取り敢えず、如月くんに依頼されてたものは終わったのだ。お昼休みも残り半分だし、いつも通り、整備に関しての説明とかしたいから……」と苦笑で済ましてくれた。
文なりの場の繕い方が分からない自分とアリアではない。彼女が案内してくれた工房の奥、そこに据え置かれている椅子に揃って腰掛けながら、平静を気取りつつ作業テーブルに視線を遣る。

小綺麗なテーブルの上に置かれていたのは、確かに自分が依頼したものだった。ベレッタM93R、デザートイーグル、《緋想》──とりわけ《緋想》は白布の上に静止させてあった。やはり彼女は、装備科の生徒として相当な知識を持っている。昨日に見せてくれたあの対応も、文の知識の顕著なことを物語っていた。改めて感嘆させられながら、口を開いた彼女の説明を聞く。


「ベレッタM93Rとデザートイーグル、これらは両方とも異常なしだったのだ。重要な反動除去機構も正常に作動してるし、デザートイーグルのバースト機構にも損傷は見られなかったから、今後も長く使ってあげてほしいのだ。あややがパーツを1つずつ丁寧に手入れしたから、使い勝手は少しだけ良くなってるかも、ですのだ! ということで、こちらの銃はお返しして……」


そう得意気に宣言してから、文は銃を手渡してくれた。それを受け取る前に、既にホルスターに入れてあるノンカスタムのベレッタを《境界》で自室に戻してから、改めて整備をしてもらったベレッタとデザートイーグルとを仕舞う。やはり自分には、慣れたこの重量が落ち着くものだ。
胸の内で人知れず安堵しながら、いざ本題に入ろうとしている文に向けて、無言で先を促す。


「あややが気になってたのは、この日本刀なんだけど……。如月くんは、御先祖様が代々と伝えてきた刀だって言ってたのだ。たぶん、如月くんの御先祖様、かなり偉い人だと思うのだ」
「へぇ……、どうしてそう思ったの? 見ただけで分かるものなんだね」
「知識がある人なら誰でも分かっちゃうのだ! 少なくとも如月くんの御先祖様っていうのは、今で言うところの……うーん、政府の高官レベルはあるのだ。当時で言えば、蔵人頭とか?」


文は人差し指を口元に当てて考える仕草をしながらも、的確な答えを示してきた。確かに安倍晴明は、現在で言うところの政府高官に相応する地位にいた。左京権太夫という、つまりは行政機関の長官をした経歴もある。しかしそれが、どうして刀を見ただけで分かるのだろうか──。
彼女はそうした自分の考えを見澄ましているかのように微笑すると、説明を続けてくれる。


「実は、刀の持ち主の地位っていうのは、鞘を見れば分かるのだ。如月くんの刀の鞘は、ほら──黒塗りの漆に、上から銀粉が綺麗に撒かれてるでしょ? 沃懸地(いかけじ)っていう手法なんだけど、こういう鞘を持てるのは、当時で言う従四位……えっと、政府高官レベルの貴族だけって決まってるのだ! だから、如月くんの御先祖様は貴族だったってことになるのだ!」


思わず感嘆してしまった。ただの装飾だと思っていた鞘に、そんな意味合いがあったとは。
アリアも「凄いわね……」と言葉を洩らしながら、銀沃懸地の鞘を覗き込んでいる。改めて見てみると、確かに綺麗は綺麗だ。初見の感想もそんなもので、まさかこうした装飾に、格式を意味するような工作があるとは、微塵も思っていなかったのだ。御先祖様は知っていたのだろうか。


「よく分かるねぇ……流石は装備科の俊才さんだ。もしかすると、この刀の持ち主だった御先祖様が誰だったかとか、そういうのも分かっちゃうの? 流石にそこまでは難しいのかな」
「……如月くん、もしかして、あややのことを試してるのだ?」
「ふふっ、ごめんね。まぁ、試してないと言ったら、嘘になるけどさ……」


「むー……」とわざとらしく頬を膨らませてから、文は快活に笑った。


「あははっ、まぁ、分からないわけじゃないのだ。刀の成分分析をさせてもらったんだけど、その含有量から見る限り、平安中期の刀ですのだ。玉鋼の原料になる鉄や砂鉄が主成分で、たたら製鉄の技術が確立された頃かな……? 何度も打ち直されてるっぽいけど、基盤は同じなのだ。保存状態もかなり良いし、現役でも使えるくらいだから、キチンと丁寧に研いでおいたのだ!」


「……本当なら、国宝級の代物だけど」と、彼女は苦笑する。「そんなに凄いものを平然と使ってるのね……」と呟くアリアに、自分もつられて苦笑した。確かに、それもそうだろう。
《緋想》が妖刀であり、ある種の護り刀である以上は、こうして先祖代々と継承されてきたのも、そんなに不思議な話ではないかもしれない。それでもやはり、国宝級ではあるのだが。


「ただ、これだけだと、持ち主が平安時代の貴族だっていうことしか分からないのだ……。この刀の銘とかが分かるだけで、かなり違ってくるんだけど──如月くん、知ってるのだ?」
「うん、元々の性質は大刀契っていうものだよ。銘は《緋想》って言うけどね」


彼女はそうした自分の返答を聞くと、大刀契という言葉を、何度か口の中で転がしていた。


「歴代天皇に代々と伝わるもので、確か元来の大刀契が火事で焼けてしまったことがあるのだ。これは護り刀で霊的なものだからっていう理由で、陰陽師の安倍晴明が復元を依頼されてたはず。無事に祭祀も終わって、大刀契は当時の天皇に献上されたのだ。でも、南北朝時代には紛失しちゃって……。もしこれが、安倍晴明が打たせたもう一振りの大刀契で、護り刀として自分の子供に譲ったっていうのなら、合点はいくのだ。そういう資料は、殆ど見当たらないけど……」


神妙な面持ちをして、文は上目気味に自分を見つめる。その事実を認めにくいのだろうか、或いは、自分自身で提唱した説が間違っているのかを、確認し直しているかのようでもあった。
そのうち文は、意を決したように口を開く。「如月くんが、土御門家の嫡流、なのだ……?」
いやはや──と嘆息するしかない。感心から出た溜息を吐きながら、自分は小さく頷いた。


「うん、母方の系譜が土御門家の嫡流なんだ。自分は始祖から数えて38代目だね」
「やっぱり、ですのだ! 安倍晴明が御先祖様なのは凄いのだ!」
「ふふっ、どうもありがとう」


照れ隠しの笑みを零しながら、不意に思った。確かに自分は安倍晴明の嫡流だけれど、隣に座っているアリアもまた、かのシャーロック・ホームズの4代目だ。理子もアルセーヌ・リュパンの嫡流だし、キンジも遠山金四郎の嫡流になるし、目前の文だって、平賀源内の子孫だと言われている。よくよく考えると、この武偵校の2学年というのは、血統としては中々に由緒の正しいお家柄の面々が多いように思えた。こんな偶然があるのだろうか──と、勘繰ってしまうほどには。

今更ながらに、武偵校は末恐ろしいところだね──と胸の内に零す。自分を除いて列挙した子たちは総じて能力が高いし、それはランクと評判が物語っている。何かしらの天才を抱いて生まれてきたであろうことは、容易に首肯できるところだ。しかし同時に、そうした血筋とは無関係の面々が、これまたある種の天才なのか、はたまた努力なのかは分からないが──高ランクの天才と呼ばれていることも、少なくはない。そうした意味でも、武偵校は末恐ろしい場所なのだ。

工房の壁に掛かっている時計に視線を遣ると、もう昼休みは終わりかけていた。5時間目に自分とアリアは専門科目に出る予定は無いから、ここは文のスケジュールを優先すべきだろう。
「……それじゃあ、自分たちは、この辺りでそろそろ失礼しようかな。昼休みも終わっちゃうしね」そう言いながら、アリアを控えて立ち上がる。文はそれに頷くと、「あややも研究があるから、ここはお互い様ってことで!」と、満面の笑みを浮かばせながら、快活に背いてくれた。

受け取った《緋想》を背に隠匿してから、「またね」と、アリアと揃って文に手を振る。彼女も可愛らしい手つきで振り返してくれた。それを見届けてから、工房の入口となる扉まで慎重に歩いていった。何度も来ても未だに、部品が散乱しているこの周辺だけは慣れることができない。安堵の溜息を吐くことができたのは、工房を抜けた、装備科棟の廊下に行き着いた時だった。


「……平賀さん、あの部品とかは片付けないのかな」
「天才は往々にして変わり者だからねぇ……。むしろ片付けちゃったせいで、何が何処にあるのか、それが分からなくなっちゃったりするかもしれない。まぁ、憶測だけどね。ふふっ」
「まぁ、平賀さんなら、有り得ない話じゃないかも」


そんな他愛のない話だけをしながら、いつものように帰路につく。2人で歩幅を合わせているのが、いつから意識していたのか、或いは無意識に合わせていたのか、それは分からない。けれど、1人だけが先に進むのも、或いは遅れをとるのも、それはそれで良い気分はしないのだ。それならば、いっそ、このまま──同じくらいの歩調で進んで行ける方が、幸せなのだろう。 

 

情の変遷

自分とアリアが帰宅したのは、ちょうど専門科目を履修する面々にとっての、5限目の半ばあたりの時刻だった。例年の5月にしては猛暑ともいえる今日の異常は、既にリビングのテレビから気象予報士が告げている。その天気予報を聞くともなく聴きながら、自分とアリアはソファーに深く腰掛けて、淹れたばかりのアイスティーが芳香する、滋味豊かな香りに落ち着いていた。

ベランダへと続く窓硝子は開放されていて、先に見える東京湾の潮風を部屋いっぱいに送り込んでいる。現代的な大都会に屹立するビル群を押しのけて、我先に我先にと立ち昇っていくのは、あまりにも時期尚早な入道雲だった。けれども今はまだ、紛い物の夏でしかない。真個の夏は、遥かに壮大で、婉美で、果敢ない一刹那の泡沫なのだ。そこに哀愁だとか懐郷という感情を当てはめて、かつての文学人は、そうした一刹那を幻想耽美に傾倒させて、描写してきたのだ。

そんなことを茫然と考えやりながら、隣に座っているアリアの名を呼ぶ。彼女はソファーの背もたれに身体を預けきっていて、その長い睫毛を、閉じた目蓋から、前髪の間に覗かせていた。緩慢として開いた目蓋の向こうには、彼女特有の赤紫色の瞳が爛々としている。しばらく虚ろな瞳で自分を見詰めていたアリアは、「……なに?」とだけ洩らすと、そのまま目蓋を瞬かせた。

容赦のない陽光に照らされながら帰宅したのは、つい数十分ほどの話になる。その余韻が未だに残っているのか、アリアの額のあたりには、髪の毛が汗のために張り付いていた。そこに蠱惑的な彼女の魅力を感受してしまうと同時に、少し目を背けたいような下心をも感受してしまう。しかし多分に横溢させているそれを、目前に座る少女アリアは、微塵も自覚していないらしい。それならば、それで──と、心持ちを平常に近付けながら、自分は要件を端的に告げてみせる。


「どうやら明日、ウォルトランドで花火大会があるらしいね。知ってた?」
「そういえば……たぶん、クラスの子が言ってたかも。それで、どうしたの?」


どうやらアリアは、こうした自分の話に興味を持ってくれたらしい。ソファーの背もたれに寝かせていた身体を起こすと、両の手を可愛らしく膝頭にあてがいながら、こちらを見上げてくる。そんな彼女の態度に、気圧されてしまった──とでも言おうか、今の今まで平然としていたはずの心持ちが、幾分か動揺してきたようで、結局は誘いの話を1つ伝えるだけでも、言い淀むような形になってしまった。少し失敗したなと胸臆で反省をしながら、それでも中身は伝えきる。


「うん。君さえ良ければ、だけど──一緒に行こうかなぁ、って」


彼女は自分の返事に、少々面食らっているように見えた。赤紫色の瞳を目蓋の向こうに見え隠れさせながら、落ち着きのなさそうにして、指先で髪の毛を遊ばせている。視線は彷徨しているのだろうか、やや伏せがちになっていた。そのうちにアリアは顔を上げると、こう訊いてくる。


「ふた、2人だけ、で……」
「もしかして、嫌だった?」
「そういうわけじゃなくて! 少しだけ、驚いたっていうか……」


声を張り上げた彼女の肌理細かな頬には、段々と紅潮の色が差し込まれていったように見える。それでも終いには語調を落とすと、同時に視線も床に落として、呟くように返事を零した。膝頭に握った手を乗せて、その上がった眦に睫毛を覗かせながら、赤紫色の瞳を爛々として──。


「……でも、行ってみたい」


どこまで可愛らしいんだ、と思った。空一面を覆い尽くすあの群青のように果てがなくて、揺蕩う入道のように奔放で、それでいて、時折見せるこの常花のような仕草に──1度きりじゃない。何度も惹かれている。少しでも多く彼女のこうした姿を見ていたい、換言すれば、少しでも長く彼女の傍に居たい、と思う独占欲めいた感情は恐らく、名前など幾らでも思い付くだろう。それは病室で自覚したあの時から、釐毫の差異すらも見せずに、ただ鎮座しているきりだった。


「──じゃあ、行こう。2人で」
「……うん」


泡沫のように細細としたアリアの声だけが、羞恥の色を帯びて融けていった。



◇



夏はまだ、自分たちよりも遥か向こうに立っていて、往々として歩み続ける自分たちを、なおも待ち続けている──。まだ夏とはいえない時期にも関わらず、陽線は遠慮なく照りつけてきた。それに一種の不快感を覚えた遠山キンジは、顔を顰めたのを陽射しが眩しいせいにしつつ、武偵校の校門前で2人きり、星伽白雪と立ち話をしている。周囲には、生徒の姿はまばらだった。

そんな中で、キンジは先程から執拗に辺りを見回している。校門付近、グラウンド周辺、校舎──無論、探し人が居る為に、2人はこうしてわざわざ、暇を潰していたのであった。


「それにしても昼休みっきり、彩斗とアリアは何処に行ったんだ……」
「もう帰っちゃったのかな。あの2人は単位が揃ってるから、専門科目を受ける必要もないとか、聞いたことあるし。護衛に関しても、キンちゃんに信頼を於いてるんじゃない?」
「護衛は多い方が良い。っていうか、お前こそ俺だけでいいのか? 《魔剣》が心配だろ」


白雪は彼の問いに小さく笑みを零すと、言を俟たないとでもいうように爽爽と告げる。


「ううん、全然心配してないよ。だって、キンちゃんは元Sランクだもん。今はAランクだけど。これで心配しろって言われても……。並大抵のことは、ね。ふふっ」
「……ったく。過大評価も過ぎるだろ」


とは言ったものの、キンジは内心で雀躍(じゃくやく)していた。幼馴染に信頼されているというのは、彼の胸臆に大きな満足の種を蒔いたのと同じであった。ましてやそれが異性の幼馴染であれば、少なからずこの関係は良好なのだろう──と読みを入れつつ、反面、その幼馴染が告げた『元Sランク』という肩書きを憂いていた。そのことを、彼女に気取られないようにしつつ。

武偵校を入学した当初は、強襲科の新入生として、同時に如月彩斗と並んでのSランクとして、注目の的だったことは言うまでもない。問題は、それがどこまで、いつまで持続できるかだった。ということを思うと、入試の際、彼は自らの自己体質に救われてしまったことを、後悔するしか他に仕様がなかったのである。Sランクという肩書きはHSSの加護によるものであり、自分自身の地力ではないことを自覚しては、人知れずといおうか──何度も翼を捥がれていた。

それでも、努力はしたのだと自負している。それがあったからこそ、かろうじてAランクなのだ。専門科目で培った知識は出来る限りを吸収し、技力はHSSにこそ劣りはするものの、地力との差は微弱なりとも埋まってきていた。強襲科の有力主であることには、今も去年も変わりない。しかし、やはり如月彩斗の方が上なのだ、と思い知らされる時がある。《明鏡止水》を付与された時の技力こそ、HSSの自分には劣らないが、それよりも格段的に異なるもの──。

それは、卓越した洞察力と論理的思考、大局観だった。これだけは、自分を上回っていたのである。大局観は一朝一夕で身に付くものではない。ともすれば、彼はいつからそんなことをしていたのかと、キンジは気に掛かっていた。それでも、訊けなかった。訊きたくなかった。置いていかれそうな気がしていたから、ずっと訊くことはしなかったのだ。それでも、いつかは──。

彼は改めてそう決意すると、やにわに歩を進めた。
「……帰るぞ」
「え? あっ、うん」

歩調を合わせて2人は歩く。何を話すともなく無言のまま、自然の織り成す即行交響楽に耳を済ませているきりで、他には青天井を眺めるとか、それきりのことしか、してはいなかった。立ち昇りはじめた入道雲、燦燦と降り注ぐ陽線、やけに似合わない五月風──そこに時期尚早の夏を感受しながら、キンジは隣で歩いている白雪を一瞥する。雪肌には、薄膜を張るように汗が滲み出ていた。髪が汗で貼り付くのを嫌っているのか、指を手櫛にして細かく位置を整えている。

「そういや」と彼は口を開く。五月風で連想した。5月といえば、あれがあるのだ。


「そろそろゴールデンウィークか」
「あぁ……、そうだね。キンちゃんは何処か行くの?」
「俺は、別に。白雪はどうするんだ」


暗に『連れてってやることも出来るが』とキンジは告げた。彼女はその問いに沈黙を喫すると、小さく小首を傾げて、作り笑いのような苦笑を浮かべる。いつもの白雪らしくないな──と訝しむのと、その意味を理解するのとは、ほとんど前後しないままに、同時だったように思えた。
哀傷を吐いた彼女の瞳の色をやはり、彼は知っている。永久に籠に囚われた、星伽という名の小鳥。かごのとり。哀憐の意を込めてそう告げたのは、自分自身の、今は亡き兄であった。

白雪の境遇だとか、胸の内だとかは、自分の知らないはずはない。それを自覚していたからこそキンジは、敢えてそれらに顧慮することをせずに、淡々と話題を続けていく。
「明日、ウォルトランドで花火大会がやるんだとさ。タイミング的にも丁度いいし、行ってみるのも手だろ。俺もついていってやる。……でも、人が多い場所は苦手か。なら、葛西臨海公園でどうだ?人も少ないし、景色がよく見える。外出のトレーニングだと思って行ってみろ」

そうした彼なりの顧慮というものを、白雪も分かりすぎる以上に分かりきっていると思う。だからこそ言葉を呑んで、何とも言いきれないままに、手を握りしめていた。眉を曇らせているのは、恐らく未だに、星伽の総本山──実家の制約を気にしているからだろう。境内から出て、ほんの少しでも外の世界を見せてやりたい──それだけがキンジの、彼女に対する想いであった。


「……言ったろ、お前1人じゃない。俺も護衛役でついてってやる」


その想いというのは、時にして劇薬にもなるらしい。


「……うん。宜しくお願いします」


彼の見たことのない色をしている瞳は、やけに爛々としていて、彼女は笑顔で頷いたのだった。
 

 

恋篝 Ⅰ

「……トントン拍子にしては、出来すぎてるじゃない」


アリアはそう呟きながら、窓硝子の向こうに揺らぐ東京湾を眺めていた。宵に差し掛かった黄昏時の海面に的皪(てきれき)としているのは、茜を横溢させている落陽が降り零した輝石であるらしい。さながら藍色のインクに銀粉が振り撒かれているような、大自然の織り成す芸術みたようだった。
赤紫色の瞳をふいと真正面に向けた彼女は、アンティーク調に仕立てられた椅子の背もたれに身体を預けている。軋んだ音に反応して小首を傾げる姿が、小動物のようで愛らしく思えた。


「あはは、まぁねぇ……。時期的にホテルの予約をとるのは難しいかと思ってたけど、幸いだったかな。アリアが人気があるって教えてくれたところだし、きちんと来られて良かった」
「ふふっ。ウォルトランドの花火大会に行くだけに、本当はここまでするつもりはなかったのにね。でも言い出しっぺはアタシだし、彩斗も行きたいって言ったし、お互い様ってところ?」
「こちらが花火大会に誘って、じゃあホテルで見ようと言ったのは君で、それで乗り気になったんだから──まぁ、そうだね。どっちもどっち、お互い様ってところに落ち着くのかな」


──そんなわけで、自分と彼女とはホテルの一室にあるテーブルを間に挟みながら、椅子に座って向かい合っている。他所行きをしたアリアの洒落着がやけに新鮮なのは、いつも制服と部屋着姿ばかりを見ているから、余計にそう思うのだろう。こうして取り留めのないことを考えているうちにも、窓辺に括り付けてあった天鵞絨(ビロード)のカーテンが、よくよく視界の端に掛かっていた。

「ところでの話だけど、アリアはてっきり、《境界》で移動しようって言うと思ってたんだ。遂に言わなかったものだから、少し残念」含み笑いを浮かべながら、自分は軽く頬杖を突く。
「そんなに意外?」そう洩らす彼女の面持ちは、やや不満げな色をしていた。「せっかくのお出かけなんだから、道中も楽しむのは当然でしょ。彩斗は旅行とか《境界》で行くの?」
「まさか。遊びに行くなら使わないよ。……依頼とかなら、使うかもだけど」
「ねっ、そういうこと。アタシの言いたいこと、これで分かってくれたでしょ」

『綺麗に反論できたでしょ?』とでも言いたげな、そんな得意の笑みをアリアは零す。お嬢様の仰せの通りだね──なんて軽口を交わしながら、2人揃って窓硝子の外を見詰めていた。あの東京湾を浮かぶテーマパークがウォルトランドで、色鮮やかな照明が爛々と明滅している。あそこで花火を見るのも悪くはなかったのだけれど、どうせなら閑静な場所で雰囲気を楽しむのも味があるだろう──というのが、どうやらお互い、口に出さずとも暗々裏に伝わっていたらしい。

ところで自分たちの他に、キンジと白雪はと言えば──最後に見たのは自室を出る前だったろうか──不慣れな彼に浴衣を着付けてやっている幼馴染とで、たいそう仲良くしていたように記憶している。どうやら2人もウォルトランドの花火を見るらしく、白雪の性格を勘案して、人気の少ない葛西臨海公園で観察してみるという話だった。彼女が外出するのは珍しいね──とキンジに訊ねると、『俺が誘ってみた』という返事なのだから、少々面食らわされてしまったけれど。

自分とアリア、キンジと白雪でそれぞれ外出することに相成ったまでは良いものの、やはり《魔剣》の接触というものは危惧されていた。護衛が離散するこの機会を、果たして彼の者が如何様に捉えるのか──好機と見るか、まだ鳴りを潜めているか。前者であるとしても、瞬間的に現地へと《境界》で奇襲的援護を行えるこちらの利は大きい。そもそも今まで彼等2人きりの状況があったにも関わらず接触されなかったのは、まだ《魔剣》に不都合があるのだろう。しかし後者としても、油断はできないところだ。アドシアード開催日に接触される可能性が高いというだけで、その他には何も、根拠らしい根拠など、殆どと言っても良いくらい存在し得ないのだから。


「……なんだか、この1ヶ月で、色々と変わったね」


そう零し零し、覗いていた窓硝子から、視線をふいと例の赤紫色の瞳へと流し目する。アリアはそれに小さく頷くと、今度は伏せがちにして「きっと、アタシがいるからでしょ」と呟いた。
「アタシが彩斗のパートナーで、同居人で、友達だから。危ないことに首を突っ込ませちゃってたり、でも同じ部屋で家族みたいに過ごしたり、一緒に学校に行ったりしてる。こんな変な関係って、きっとアタシたちだけかもしれないけど。……ふふっ、良くも悪くもアタシのせい」
そう微笑しながら目を細めている彼女の面持ちは、どこか楽しそうで、物悲しそうだった。


「でも、これからが──」


そこまで言いかけて、自分は口を噤んだ。彼女との(・・)これから、或いは彼女の(・)これから──似て非なる字面にふと思い至って、思わず羞恥に閉口させられてしまったのだ。単なる親友として見たアリアとのこれから、というのは、例の感情に照らしてみると、行き着く先はやはり、そういう関係なのだろうか。とかいう陳腐な思いごとをしては、勝手に黙りこくっていた。


「──ううん。やっぱり、なんでもない」


反面、パートナーとして見たアリアとのこれから、というのは、そんな恋愛みたく生易しい話で済ませられるようなことでは到底ありはしない。《武偵殺し》こと峰理子による一連の騒動は、表面的にこそ解決はしたものの、裡面ではまだ司法取引というこれ以上にない重大事が残されている。それに次いで《魔剣》なる者が巷で噂されているのは偶然ではなく、やはり理子と同様に《イ・ウー》に属しているのだと、そう供述したのもやはり、他ならぬ彼女自身だった。


「それより、理子の司法取引はどんな具合なの?」
「……えっと、前にも言ったけど、供述は有望すぎるくらい十二分の収穫ね。書類とか手続きも一通り作成が済んだから、もう明日には釈放されるみたい。普段の生活に戻るって」
「なるほどね。その書類はこっちに送られてくるのかな」
「そうね、そろそろ届く頃だと思う。明日には読めるんじゃない?」


明日、なら──恰(あたか)も好(よ)し。これを利用しない手は無いだろう。そう思い思い、「そっか」と返事する。すると次第に、話題性に影響されていた心境もやや落ち着いてきたらしい。余裕のある態度で壁掛け時計を一瞥してみると、話しているうちに時刻は6時も半ばに差し掛かっていた。アリアもそれに気が付いたらしく、「あっ」と声を上げるなり、矢庭に椅子から立ち上がる。微細な髪の毛の一筋一筋までを靡かせながら、同時に、あの梔子のような香りも芳香させていた。


「ねぇ、そろそろ温泉でも入らない? アタシ、久々の温泉だから楽しみにしてたんだ」
「うん、行こう。ちょうど言おうかと思ってたところでさ」
「ふふっ、やった。じゃあ早く──もう、立つのが遅い!」
「……まったく。はしゃぎすぎだよ、君」


服の裾を掴んでまで立たせようとしてくる彼女の態度に、自分は思わず苦笑した。──けれども、その無邪気な調子と快活な態度、或いは屈託のない笑みに、やはり安堵している。子供さながらに悪戯心の見え隠れしているような笑顔が、アリアには似合いすぎる以上に似合っていた。

「別に長風呂でも構わないからね。楽しむだけ楽しんでおいて」そんなような話をしながら、自分たち二人は部屋から持ち出した浴衣を抱えつつ、大浴場に向かっていく。駆け足で女湯の脱衣場に入っていったアリアのご機嫌な後ろ姿を見送ってから、こちらも足早に男湯の方へと進んでいった。そうして、かれこれ30分と少しは温泉にくつろいでいたろうか。頃合いを見て入浴を済ますと、彼女を待たすのは不躾だろうと思い思い、手早く浴衣に袖を通してから帯を締めた。

アリアがお風呂から出てくるのは、あと10分後ほどかしら──などと考えながら、自分はもと着ていた衣服を手に男湯と書かれた暖簾をくぐる。けれど、そこによく見知った少女の姿があるなどということは、あまり予想もしていなかった。思わず「あれっ」と頓狂な声が洩れる。彼女は寄りかかっていた壁から離れると、自分と視線が合うなり小さく手を振って笑みを零した。


「アリア、出てくるの早いね。もっとゆっくりしてても良かったのに」
「まぁ、ね。待たせちゃ悪いかなぁって思っただけ」
「別に、そんな……。どれだけ待った?」
「5分くらいかな。浴衣を着るのに時間かかっちゃったから、そんなに待ってないけどね」


はにかむ彼女の返事に「へぇ」と相槌を打ってから、「もしかして帯が締められなかったの?」と訊ねてみる。どうやら図星だったらしく、アリアは「うん。おばあちゃんが手伝ってくれたのよ」と笑った。「ほら、これ。……どう? 可愛いでしょ? リボン結びにしてくれたんだ」
そう言って彼女は嬉しそうに目を細めながら、綺麗に結ばれた帯を自慢げに見せてくれた。


「本当だ、よく似合ってる。可愛いね」
「えへへ、そうでしょ? 着付けもバッチリできたし、次はディナーねっ」
「うん、それなら早く行こう。お腹が空いちゃって」
「そうね、アタシもちょっと食べたい気分」


もと着ていた2人ぶんの衣服を《境界》で部屋に置いてから、裾を踏まないように慎重に歩くアリアと歩調を合わせつつ、自分と彼女とは、やや混雑し始めてきたバイキング形式のレストランへと向かっていった。始めはお互いに好きなメニューを皿に乗せていたのだけれども、アリアは大好物のももまんを見つけるや否や、一気に10個ほど我が物顔で取り始める──それが何だか愛らしくて、思わず笑ってしまったのは失態だったらしい。「何よ」と訝しげにこちらを見上げながら零した彼女に、自分は微笑しいしい無言で首を振る。


「……気になる。別に言ってくれたっていいじゃない」
「だって君、素直に理由を言ったら怒るでしょう」
「じゃあ、怒らないから言ってみてよ。ほら、なんで?」


煌々とする照明に降られながら、アリアは赤紫色の瞳を見開いてそう訊ねた。食事用のテーブルを挟んで向かいの席にいる彼女を一瞥しいしい、用意の済ませた食器を卓上に置いて、自分は腰を下ろす。アリアも合わせて座ったものの、やはり視線は凝然として、こちらを見詰めていた。彼女の食器には、やはり文字通りに山積みにされたももまんが、ひときわ異彩を放っている。


「別に大したことじゃないよ」
「それなら言ったって構わないじゃない」
「嫌だよ、恥ずかしいもん」
「むぅ……気になる。なによ、怒るとか恥ずかしいとか」


わざとらしく不貞腐れるアリアを前にして、自分は今一度だけ微笑した。それから「いただきます」と手を合わせて、箸を持つ。彼女も渋々──というか食欲には抗えないらしく、真っ先にももまんに手を伸ばしては口に運んでいった。少し見ていると、1個なんてすぐに食べ終わってしまう。この小さな身体のどこに、あれだけ収まるのかしら……と最初の頃は唖然としていたけれど、日を経るごとに改めて見てみると、やはり動作が小動物めいた感じで、どこか可愛らしい。そんなことを考えながら箸を進めていたら、2人ともあっという間に食べ終えてしまった。


「あー、美味しかったっ。ふふ、たまには良いわね。こういうのも」


そう声を弾ませながら、アリアは椅子の背もたれに寄りかかる。彼女の下がった眦が、いつにも増して嬉しそうな、そんな気がした。「なかなか外には行かないもんね」と自分も話を続ける。


「……そういえばアタシたち、そんなに外食とかしないのね。休みの日にショッピングとかは行くけど、結局はほら、ご飯って彩斗か白雪が作ってくれるじゃない。だから新鮮なのかも」
「ふぅん。それなら月に1回くらいは外食にでも行こうか。2人きりでも、皆とでもさ」
「そうね、楽しみにしてるっ。今はちょっと忙しいけど、それが終われば行きたいわね」
「うん。……アリアのおすすめとか、行ってみたいなぁ。どういう雰囲気なんだろうね」


そんな他愛のない、いつも通りの会話だけを快活に交わしながら、花火が見えるという例の午後8時が近付いてくるまで、自分と彼女とはレストランの照明の下に爛々として降られていた。それから部屋に戻ったのは、花火が打ち上がるらしい丁度5分前で、無邪気な子供みたく奔放にはしゃいでいるアリアを見ていると、何だかこちらまで童心に帰ったような心持ちになってくる。


「ほら、もう時間になるでしょっ! 早く早くっ」
「はいはい、そんなに焦らなくてもいいよ」


部屋の扉を開けるが早いか履き物を適当に脱いでしまったアリアは、その乱れた履き物とやらを整理している自分の心境もつゆ知らず、やはり我儘な子供らしく背中に要求を投げかけてくる。それからいよいよ彼女の方に向き直ると、とうにアリアは最初の時みたく窓辺の椅子に腰掛けていて、「ほら、彩斗も座るの」とでも言うかのように、無言で対面の椅子を指さしていた。「仰せのままに」──と従順気取りで座ってみると、やや満足気な様子でアリアは頷いている。


「あのね、女の子は雰囲気が大事なロマンティストなの。ドラマとか映画でもあるでしょ? 別にBGMを流せとは言わないけど、ほら、こういう──雰囲気、とか、ね? ……あるでしょ?」
「自分から言い出しておいて、いざ恥ずかしがるなんて変なものだね。お得意の弁舌に万丈の気を吐き始めたと思ったら、どうして歯切れが悪くなるんだい。言いたいことは分かったけど」


組んだ両の手を揉みながら、アリアはやや俯き気味にして黙りこくっていた。照明に燦々と照らされた彼女の面持ちがよく見える。ほとんど乾ききった艶やかな髪の毛とか、羞色を帯びて紅潮した頬とか、彷徨する赤紫色の瞳とか、指先で天鵞絨のカーテンを摘む仕草だとか──彼女が見せている態度の全てが、これ以上ないほどにいじらしくて愛らしい、とても直視してはいられないほどに、可憐なものに思えた。そうしてその通り、窓硝子の向こうをふいと見たくなった。

煌煌としたイルミネーションが、ウォルトランドのあちらこちらに散りばめられている。幻想的──と言えば、幻想的なのかもしれない。黒洞洞たる東京湾も、どこか浮ついたような淡みを帯びていた。そんな大東京の夜景を眼下にして、既に下りた夜の帳に、海月が嫣然と腰を掛けている。そうして藍染の天穹に見えるはずの綺羅星は、みんな掻き消されてしまっているらしい。星が綺麗だね──なんて言えそうにもなくて、それが何だか、彼女との行く末を暗示しているような気がして、どこか物悲しい、同時に目も背けてしまいたくなるような、そんな心地がした。

だからかもしれない──意地でも星を見付けたくなったのは。別にそれが絢爛な一等星でなくとも、今に消え入りそうな六等星でも、なんとか手をあるたけ伸ばしきって、掌に収めて、その存在をどうしても肯定したいのだ。届かないからこそ綺麗だとか、そんな陳腐な言い訳はしたくなかった。──彼女の瞳を彩る赤紫色が綺麗なのは、あぁ、これはいったい、どちらなのだろう。
「……あっ」思わず洩らしたその一言に、アリアがふいと伏せがちにしていた顔を上げる。「ねぇ。あそこ、見て」自分はそれだけ告げて、影が反照している窓硝子の向こうを指さした。


「──ほら、端白星(はじろぼし)。綺麗だね」


煌煌たる電飾灯にも、或いは皓皓(こうこう)とした海月にも、その端白星は掻き消されてはいなかった。漆黒に限りなく近い濃藍に、ただ悠然と明滅しながら──同時に、ただそこにだけ、確かに存在している。アリアはしばらく、凝然と据えた赤紫色の瞳でもって、その端白星を見詰めていた。いつもらしく眦の上がった鋭敏な目付きで、涼し気な目元をして──そんな端麗な様が、やはり似合っている。それから、やがて長い瞬きをひとつしたかと思うと、おもむろに口を開いた。


「……そうね。月も」


確証は無いけれど、そう聞こえた気がする。窓硝子の向こうで爆ぜた散華の余韻を耳に入れながら、自分は濃藍に描かれた菊文様を呆然と網膜に映していた。自分にとって、あの端白星が綺麗なら、彼女の言った、あそこに浮かぶ海月も、やはり綺麗だろう。けれど、いちばん綺麗なのは──その全てを映した、自分が焦がれている片恋の相手の、あの赤紫色の瞳だと、そう思った。 

 

恋篝 Ⅱ

「……なんで、キンちゃんは私を誘ってくれたの?」


葛西臨海公園──海岸沿いの散歩道を歩きながら、キンジは、徐に口を開いた白雪を一瞥する。懐疑心の見え隠れするような声色だったと分析すれば、本気で疑問に思っているのだろう、と結論付けた。

水平線の彼方へ身体を預けゆく夕陽は、眩い陽光を放っている。
漆黒のカンバスに紺碧のインクを零したような少女の瞳は、およそ飴細工の如き婉美さと、反照する朱の淡さとを兼ね備えていた。


「なんで、って……。理由を言わなけりゃ駄目なのかよ」
「出来れば、明確な理由をキンちゃんから聞きたいな、って」


通販で購入したお揃いの浴衣は、自分よりも似合っていると、ふと思った。それは宛ら、大和撫子のような──いや、違う。今、目の前にいるのは、正真正銘の大和撫子だ。


「まぁ、なんて言うんだろな──」


そして、すぐさま問われた問題の答えを模索しようと、脳内で文章を組み立てていく。それは実に容易なことだった。
あの日、2人で下校した道中の話を、キンジは忘れていない。『かごのとり』の所以(ゆえん)を。或いはそうであるからこそ、今回のこの行動に至ったのだということも。


「──お前に世界を経験してもらいたいからだ。枷を嵌められた小鳥を見捨てるなんてことは、俺には出来ないしな。だからと言って、ただ闇雲に籠の外に出すワケじゃない。段階を踏むんだよ、段階を。これはその一種だ」


その答えに、白雪は小首を傾げて呟く。切り揃えられた黒髪が、曲線を描いて揺れた。


「星伽の制約を、破れってこと……?」
「口が悪いようだが、星伽の制約はおかしいと思うぞ。お前も、その……なんだ。生き難さとか、感じたことないのか」
「それは、まぁ……無いワケじゃ、ないけどっ。でも……」
「だったら尚更だ。時には殻を破って生きてくことも大事だろ。ましてや武偵なら、な。武偵憲章9条、世界に雄飛せよ──だ」


白雪が生きているのは、限りなく狭小範囲の、箱庭だ。だから、そこでしか知識や経験が得られない。そこでしか、見えていない。その枠でしか、考えられない。そう、キンジは一考する。

対して自分たちは、それとは比にならないほどの世界を見ているのだ──と自覚してはいるが、それですら極一部であったりするのだから、世界は酷いくらいに残酷なのだ。

麒麟が見る世界と、人間が見る世界と、蟻が見る世界。
極論化すればこうであって、白雪はまさに蟻であるのだと。だからこそ成長させて、せめて並の人間らしく(・・・)してやろうと、キンジは前々から思っていたのだが。

あくまでもそれは表面的な理由に過ぎない、と彼は脳内で大きく頭を振って否定した。そうして、また(・・)胸中で渦を巻くこの感情に付ける名前は、いったい何だろうと自問自答する。

いつからか意識し始めた、幼馴染の存在。それを想えば、言い知れぬ感情の暴力に心臓を穿たれるような、そんな感覚。傍に居て、少なからず安堵の息を吐ける。そんな感覚。
過去の如月彩斗の言を借りれば、これが『好き』という感情なのだろうか、と何度も何度も長考した。

それに踏ん切りがつかないまま、それでも、安堵の息を吐き続けていたいという面倒な欲望を満たすために──こうして先述の理由を免罪符にして、訳の分からない戯言を行動に起こそうとしている。

嗚呼、そうだ。結局はそうでありたいのだ。ただ、露呈して拒絶されるのが怖いだけ──。


「……馬鹿馬鹿しい」


誰にともなく、歩を止めることなく、ただ虚空に霧散させることが目的かのように、キンジは零した。
白雪は彼を一瞥するが、また視線を前に向けて、何事も無かったかのように歩を進めていく。

キンジは胸中で渦巻く感情を押し留めながら、せめて上辺だけの目的は果たしてやろう──と意気込んだ。
視界の端には、首都高湾岸線。東京湾を隔てた向こうには、煌びやかな装飾のウォルトランドが見えた。

立ち止まって、白雪が指さす。


「あっ、ほら、キンちゃん。あそこ! ウォルトランドだっ」
「あぁ。思った以上に人も少ないし、ここは穴場だな」
「そうだねっ。それにしても……花火はこれから、なのかな?」
「さぁ、どうだか。音は聞こえてなかったけどな」


下手したら……もう、終わってたりするんじゃないか。
なんて、キンジは一考する。ともすれば、かなりバツが悪い。
自分から誘っておいて、少なからず期待させてしまったその思いを反故にしてしまうのは、男として最低だ──。

白雪は藍のキャンパスを見上げ、揺蕩(たゆた)う千切れ雲を緩慢と目で追いながら、淋しそうに呟いた。


「……終わっちゃった、のかな。多分、私の足が遅かったり、駅で切符を買うのに手間取っちゃったからいけなかったんだよ」
「少なくともお前のせいではないから、安心しろ。もしかしたら、休憩時間かもしれないしな」
「……うん。ありがとう」


自虐史観的な性格は、昔から変わってないな──とキンジは思った。他人の非さえも自分の非にしてしまうのは、時に良くも悪くも、自分に働きかける。相変わらず悪い癖だな、と苦笑した。


「ところで、キンちゃん。昔の──星伽を抜け出して、初めて花火を見に行った時のこと、覚えてる?」
「あぁ……あれか。忘れるワケないだろ」
「あは、良かった。今回も、それと同じだね。キンちゃんが私を、学園島から出してくれた。籠から、ね」


過ぎた日々を懐古するように。今この瞬間も、1秒後にはもう過去だ。その刹那でさえも、彼女は意識を傾注させている。


「あの花火の景色を覚えてるから、私は大丈夫。今夜の花火も楽しみだったけど、あの時の花火の方が、ずっと綺麗だった」


そう言って、彼女は海岸沿いへ駆け寄った。
そのまま、藍に散りばめられた輝石を背景に、振り返る。
浴衣の袂が靡いて、黒髪が艶美に曲線を描いた。


「それでも、花火よりも──傍にキンちゃんが居ればいいの」


心臓を穿たれたような、形容し難い感覚。そうして迸る血潮の如く、溢れ出たこの感情は、その名を明白に告げた。
先程まで胸中に掛かっていた靄(もや)は霧散し、既に過去の遺物へと想起してしまっている。

あぁ、これが──恋心、というモノなのか。
思えば如月彩斗は、いつだったか自分にこう告げたことがある。『白雪は、お前のことが好きだ』と。

当時は一蹴こそしていたが、日々を過ごす度に、名もなき感情の靄が一段と濃くなっていくのを感じていた。
それが、今。その感情に名前を付け、あまつさえ、濃霧も嘘のように晴れている。点が線になるのを感じている。

白雪がここまで自分を想ってくれているのなら──俺のやるべきことは、少しでも応えてやることだ、とキンジは決意する。
フッ、と笑みを零して、呟いた。


「ありがとう。……ちょっと待ってろ」
「えっ、キンちゃん、何処に行くの?」


白雪は振り返り様にキンジへと駆け寄ると、見上げるようにして問い掛けた。純粋な興味の篭った声色と瞳だ。


「売店に花火セットを買いに行くだけだ。心配しなくていい」


キンジは、地を蹴って駅の方へと駆け出した。後ろで白雪が何かを言っているが、風が頬を撫でる音で聞き取れない。
あくまでも彼女の護衛が役目だが、ものの数分だ。大丈夫だろう──。


◇


白雪は、徐に駆け出したキンジの背中を茫然と見詰めていた。

──売店に花火セットを買いに行くと言ってたけど、私はキンちゃんと一緒に居れればそれでいいのに。
でも、花火を買ってきてくれるのは、少し嬉しいかも。

胸中を巡るのは、幼馴染への恋心。内に秘めていた想いを、今日やっと伝えられたのだと思うと、妙に心臓が早鐘を打った。
気のせいか、頬も火照ってきた気もする。きっと自分は今、誰にも見せられないような顔をしているのだろう。

白雪は、浮ついた足取りで遊歩道沿いのベンチに腰かけた。
手に提げていた巾着から携帯電話を取り出し、ディスプレイに目を見遣る。時刻は8時を優に越していた。

それと同時に、1件の不在着信が入っていることも、彼女は理解した。非通知着信だ。誰だろう、と小首を傾げる。
不審に思いながらも、白雪は通話ボタンを押し、受話器を耳へと軽く当てた。電子音が数コール響き、鼓膜に反響する。

僅かなノイズ音の後、その主は声を発した。時代がかったような、それでいて、威圧感のある女性の口調だ。


『──星伽白雪だな。こうして(・・・・)話すのは初めてだろう』


白雪は辺りを見渡し、誰もいないことを確認して声を潜める。


「……あなたは、誰?」
『勘が鈍いな。まぁ、教えるまでもないだろう。既に貴様は、私のことを知っているのだからな』


わざわざこうして接触を図ってくる人物。
しかし生身の現実ではなく、通話という愚像を用いるとは──自分の詳細を明かしたくないから、だろう。
ともすれば、白雪にとって思い当たる節は、1つ。


「……何が目的なの、《魔剣(デュランダル)》」
『既に分かりきっている(・・・・・・・・)ことを、貴様は問うのか。……笑わせるなよ、時間稼ぎをしようとしても無駄だ。私としても、暇ではない。今から、貴様に交渉を持ち掛ける。
それを呑まねば、そうだな……。最愛の者を、殺めても構わんのだろう? 交渉とは即ちこれであり、森羅万象には対価が付いて回る。それを自覚しろ、星伽よ』


実に交渉が上手い相手だ、と白雪は思った。
呑めなくはない条件を餌にしつつも、対価の価値は異様に高い。断れない構図を、自らの言葉で作り上げている。
しかし、白雪としても保身に走る意味はない。


「なら、早くその条件を言いなさい。私も暇ではありません」
『ふむ、いいだろう。……己が身(・)を差し出せ。それがこちらの条件だ。時間の猶予は無い。今ここで返事をしろ』
「いいでしょう。その代わり、周りの者に手出しするのは許しません。その時は、私が許さない」
『貴様が反故にせずに来れば、の話だがな』


白雪は逡巡する素振りすら見せず、即答した。
それは暗に、彼女の最愛の者を想う気持ちの強大さを示唆していた。それでありながら、正義心というモノも、また。


「《魔剣》、私が約束を破るとでも思っているのですか」
『フッ、貴様がそんな人間でないことは把握済みだ』


《魔剣》は愉悦そうに笑みを零す。そうして、告げた。


『場所は『■■■■』、時間は『■日』の『■■時』だ。口外は許さん。抜け出してこい、周囲に勘づかれるなよ──』



◇



キンジは買ってきた花火と小型ライターを袋に提げ、小走りで駆けながら、白雪のもとへと進んでいく。
心地良い夜風が、髪の間を通り過ぎていった。地を蹴る音と、木々の葉が擦れる音と──誰かが話す声が、聞こえる。

まさか──。

足音を消しつつ、木の影から様子を見る。暗くて見えにくいが、ベンチに座っている白雪は、電話を片手に誰かと話していた。
普段なら絶対に見せないような、険しい顔付きだった。
……その相手は、誰だ。キンジには粗方の予想は付いている。


「──《魔剣》、私が約束を破るとでも思っているのですか」


刹那、心臓が早鐘を打った。否、早鐘などといった生温い表現では、些か足らない。これは警鐘だ。
白雪は、《魔剣》と接触している。あまつさえ、何らかの交渉も結んでいることは明らかだ。

キンジは、如月彩斗に連絡をすべきか逡巡する。
《魔剣》が白雪に連絡をとれたのなら、恐らく、自分たちの連絡網も割れているだろう。それは危険だ。
下手をすれば、『約束』の対価に抵触する可能性がある。そうなれば、白雪やその周囲の身が危ういことは、容易に見える。

どうすればいいんだ──!

ギリ、と歯が軋み、悲鳴を上げる。掌に喰い込んだ爪が皮膚を引き裂き、深紅色の薔薇が花弁を散らした。
ポタタッ、と朽葉が音を立てて鳴く。
痛覚が自我に干渉する。そこで初めて、キンジは焦燥に身を任せて自傷していたのだと気が付いた。

この件は、下手に口外できない。かと言って白雪を問い詰めても、口を割ることはないだろう。
つまりは、《魔剣》に干渉されていると勘付かれずに、行動を起こすことが必要だ──とキンジは思い至った。

白雪は既に通話を終え、神妙な面持ちでベンチに腰かけている。電話はいつの間にか、仕舞われたらしい。
タイミングを見計らってからキンジは、さも今戻ってきたかのような演技をしつつ、彼女の名を呼んだ。


「っ、……なんだ。キンちゃんかぁ。おかえりなさい」
「なんでその程度で驚くんだよ。怖いことでもあったのか?」
「う、ううん。何にも無いよ。大丈夫」


白雪は両手を大仰に振って否定する。普段のキンジなら何も思わずして流すだろうが、今だけは、その言葉が苛立たしかった。


「……んで、花火。これしか売ってなかったんだけど」


申し訳なさそうにキンジが呟き、袋の中身を取り出す。たった数本の手持ち花火だ。


「花火セットは売り切れてた。これしか残ってなくてな。悪い」
「キンちゃんが謝ることないよ。買ってきてくれてありがとう」
「もう少し早めに来てたら、たぶん売ってたんだろうけどな。ちょっとばかし残念だ。……さて、やるぞ」


キンジはそう言って白雪の隣に腰掛ける。それぞれが1本ずつ花火を持ったのを確認してから、ライターで着火した。

小さな炎が灯る。それは瞬く間に朱の球になり、そうして、我先にと散りゆき、霧散した。
色とりどりの輝石が、虚空を灯している。陽炎が揺らぎ、その姿を虚偽へと変貌させる。

それでもここには──2人だけが、真に誠の存在だった。
白雪は軌道の読めない散る華を見て、小さく悲鳴を上げる。にも関わらず、その儚げな瞳は、真っ直ぐとそれを見据えていた。

白雪は花火から視線を外すと、キンジに問い掛けた。


「……キンちゃんはさ、火って、嫌い?」
「いきなり何を突拍子もないことを言い出すんだ、お前は……」
「嫌い? 嫌いじゃない?」


真理を探るような声色で──。


「人は本能的に火は苦手だと思うぞ。特に日本人は、恐怖を感じる遺伝子が多いらしいからな。俺は苦手じゃないが」
「そっか、良かった。……あっ、消えちゃったね」
「まだあるから……、あ。こっちも消えたな」


花火とは、つくづく酷い造形物だと思う。
日本人の深層心理に訴えかけ、否が応でも『儚い』という感性を想起させてしまうから──キンジも白雪も、胸中に生まれたこの感情に、心を寄せずにはいられない。

それでも、その花火だった(・・・)残骸を放り捨てて、またその愚行を何度も何度も繰り返す。その度にこの感情はどんどん湧き出て、それをいつか終えるとき、まるで──激しく火花を散らし、果ては散りゆく花火のように、霧散するのだ。


「……さて、これで最後だな。線香花火だ。白雪、お前がやれ」


キンジは残骸の後処理をしながら、最後に残った線香花火の1本を、白雪に手渡した。
白雪はそれを受け取ると、ただそれを呆然と眺めている。何かを脳裏に焼き付けるような、そんな眼差しで。


「ねぇ、キンちゃん。これ……残しておいてもいい?」
「別に構わんが、何でだ」
「今日の、キンちゃんとの思い出にしたいから」


あぁ──、実に白雪らしい答えだ。とキンジは思った。
断る理由など無いのだ。それが彼女らしいとあらば、それが彼女の性格そのものなのだろう。
一点の穢れすら見えないような純白を、染めたくはなかった。

自分の都合で『花火は燃やすモノだろ』とか、そんな話じゃなくて。その《物》が白雪にとって《確かな記憶》になるのなら、キンジはそれでもいいと思った。
だから──そんな彼女を守りたいのだ。


「……あと。あと、1つだけ。お願いしても、いいですか?」


そう問い掛けた彼女の声は、嫌に震えていて。


「……これまでも、だけど、これからも──」


──私だけを、見ていてください。


夜闇に融けてしまいそうなか細い声は、キンジの耳にしっかりと届いていた。ただ、その意味を理解するのが気恥ずかしくて。
そんな2人を嘲笑うような大輪の菊の華が、夏を先取りした。

 

 

最高に最低な──救われなかった少女 Ⅰ

ソファーの背もたれに寄り掛かりながら、俺は壁掛け時計を一瞥した。ベランダへと続く窓からは、昼下がりの陽光が仄かな淡みを帯びて、床を照らしている。それが反射して、瞳に映された。

硝子細工(がらすざいく)が魅せるような輝きに、一種の艶美さを覚えるが──眩しさに耐えかねて、薬指で前髪を弄る。
そうしてテーブルの上に置かれているグラスを手に取ってから、一気に中身を飲み干した。


「……そろそろ、かねぇ」


呟いた声は、思いの外、このリビングに反響した。

誰もいない、自分だけが存在する空間は──昼下がりにも関わらず酷く不気味で、出来ることなら、約束(・・)すら反故にして、このまま外に逃げ出したいほどだ。
嗚呼(あぁ)、きっと自分は、『独り』が嫌なのだろう。

思い返せば、2年に入ってからは実に騒がしい日々だった──否、騒がしい日々を過ごしている。
これが僅か一時の空白だとしても、こうして妙な孤独さを感じるのは、やはり身内である彼らの存在感が大きいのだ。


「……それにしても、面倒だね。《武偵殺し》も、《魔剣》も」


誰もいないからこそ、こうして独りごちる。
面と向かっては言い難い、紛うことなき本音だ。
その根幹にある原因も、分かっている。分かっているからこそ、やらなければならないのだ。

これから行う《武偵殺し》──所謂、理子との対談は、上手くいけば、《魔剣》の有力な情報を引き出すことが出来る。
この機会を生かすも殺すも、自分次第。 彼女が釈放された今、知りたいことはいつでも聞ける……、のだが。

《魔剣》との接触が可能性として残っている数日後を見据えれば、『いつでも聞ける情報』の価値が幾倍にも跳ね上がるのは、誰の目から見ても、明らかだろう。


「……目的は、何だろうね」


《魔剣》に関する一連の行動の意味は全て、白雪の護衛という一箇所に集約されている。それに間違いはない。
先日に起きた脱衣場での騒動も、あの電話の主を《魔剣》と仮定するならば──白雪が接触されたという確固たる証拠になる。
逆にただのイタズラ電話と仮定するとしても、そこには齟齬が生じる。手の込みすぎている仕掛け、それ故に。

……ならば何故、《魔剣》が白雪を狙うのか。

聞くところによれば《魔剣》は、超能力を扱う武偵──通称、超偵のみを狙っているとか。白雪もまた、超偵に他ならない。
《魔剣》の背後には、かの組織──《イ・ウー》が関与していることは明確だ。ともすれば、《イ・ウー》は超能力者を欲しているのだろうか。

……詳細は分からないが、それもきっと、この後の対談で判明してくれることだろう。この対談は、大いなる意味がある。

そうして、小さく溜息を吐いた。余韻に混じるようにして、玄関の扉の開閉音と、誰かの足音が聞こえる。
時間を見るに、来たのは理子だろうね。いよいよだ──。



◇



「──さて、まずはともかく、久方ぶりだ」
「んと……、ハイジャックぶりだね。あっくんは元気してた?」
「なんとか、ね」


隣に腰掛けている理子を一瞥しながら、俺は今さっき受け取った大判の封筒──司法取引での資料だ──の中身を取り出した。
右上がホチキスで留められている。内容を脳内に叩き込むためにも、 速読でざっと目を通しておこう。見出しの数々は、知的興味心を抱かせるのには事欠かない。

理子は今日も今日とて、武偵校の改造制服を身にまとっている。
そうして、床に足が付かないのだろうか。やり場がなさそうに、ブラブラと虚空に浮かせていた。
表情に緊迫感は感じられず、およそ親友の家に遊びに来たような、和やかな雰囲気を漂わせている。

彼女はおもむろに脚の動きを止めると、俺の肩を小さく叩いた。


「ところで、あっくんの彼女(アリア)はどったの? もしかして別れちゃった?」
「いきなり何を言い出すんだ……」
「理子、実は気になってたんだよねー。それで、どうなの?」


別れるなんて、まさかねぇ──、と苦笑した。
大まかな内容を反芻し終えた資料は、テーブルの上に投げ置く。誰に言われずとも、口の端が緩んでいるのを感じた。
それだけに、この資料の中身は──自分たちにとって有益そのものなのだと、再確認させられるのだ。


「今日ばかりは、アリア以外にも総じて出払わせてるよ。対談は、最初から2人きりでするつもりだったからね」
「となると、何をしても邪魔が入らないんだぁ。ふっふーん、これは良きことを思いついてしまいましたなぁー?」
「……余程のことがなければ。それより、何をするつもりだい」
「うん? 2人きりでえっちぃこと!」


理子は満面の笑みでそう言い放つと、アリアが居ないのを良いことに、見境なく俺の腕に抱きついてくる。
アリアが居れば間違いなく、銃を使った室内戦に発展するだろうね。やはり出払わせといて正解だった。

しても、どうして理子は嬉嬉としてこういうことを言えるのだろうか。色々と軽々しいと思うね。誰にでも愛想を振り撒いているのなら、いったいどれが本心なのだろうか。


「……理子は誰にでも、こんなことをしてるのかな?」
「んー。んーとね、理子の好きな人にだけだよ?」
「……はぁ?」


これが本心、なワケないだろう。……そう、ブラフだ。こんなのはブラフにすぎない。そもそも理子は俺がアリアに好意を寄せていることを知っているのだから、俺を狙う意味が掴めない。


「だから、あっくんだけだよっ。くふふっ」


挑発的な笑みにも見て取れる、それ。ただ、語感からすれば……何故か、虚弁を述べているような気はしなかった。
小さく溜息を吐き、隣に座っている理子を一瞥する。本当にこの子は、不思議だ。時折見せてくれる差異が、面白いのだから。


「ほら、そういう冗談はいいから、腕から離れておくれ。それよりも──今回の目的を、忘れたワケじゃあるまい?」
「ちぇっ、理子は本気なのになぁー。据え膳食わぬは男の恥、だよ? ぷんぷんがおー、ってやっちゃうぞ! がおー!」


理子はそう言うと、もう片方の空いている手の人差し指で、ツノ(・・)を作った。人差し指をツノに見立てた『ぷんぷんがおー』とやらは、理子のお家芸なのだろうか。


「ふふっ、いいから、ほら。始めるよ」
「あ、笑った挙句に無視したね!? ……ふーんだ、もう理子は離してあげないんだからっ! ぎゅーっ!!」
「痛い痛い痛い、離さなくていいからちょっと緩めて……!」


その小柄な身体のどこから、およそ暴力の権化のような握力が生み出されたのか。甚だ疑問だね。普通に痛いから困る。

……しても、色々と軽々しい、と思ったのは気の所為ではないらしい。このフレンドリーさも、全く変わってないね。
まぁ、下手に変わっても、こちらが気まずかったりするだけなのだが。その点、理子と一緒に居るのは心地が良いかな。


「それより、理子とこんなことしてていいの? 聞きたいことがあるんじゃない? 《イ・ウー》とかぁー、《魔剣》とかぁ」
「分かってるなら早く本題に入ろうよ……」
「うっうー、了解! なのですっ!」


敬礼するような珍妙なポーズで、理子は応えた。
『そんなことは資料に書いてあるよ?』と言わないあたり、この子はこちらの意図を分かっているのだろう。
何にせよ、再確認(・・・)の時間は、必要だからね。

理子は自由なもう1つの片腕をおもむろに動かすと、その華奢な手を顎に当てて、数瞬だけ考え込んだ。眉間に皺が寄る。
どう説明しようか決めあぐねているらしく、時折、小指で前髪を弄る仕草を見せている。
その度に、女子特有の甘い匂いが鼻腔を刺激した。アリアが持つクチナシの芳香とはまた違う、バニラエッセンスのような。


「……んー、理子からは差し障りのない部分だけを話すことにする。話しすぎると、ちょっと危ない(・・・)から」
「危ない?」
「《イ・ウー》は簡単に言えば、学校。能力と才能のある人たちだけが集まって、お互いに吸収したり、高めあったり。いずれは神の領域まで到達するような、そういう組織なんだよ? だから、一口に『犯罪組織』というのは違うかなぁ」


なるほど、それが《イ・ウー》の教育方針か。
個々の能力を高める、他人の良点を吸収する、そうして、達するところまで達するように、ただひたすらに、学ぶ──。
良いコンセプトじゃないか、と俺は内心で嘆息した。

ただ、理子はその感想を見透かしていたのかもしれない。
彼女が「だけど」と前置きするのと、『ちょっと危ない』の意味を俺が理解するのとが、ほぼ同時だった。


「《イ・ウー》には規律がないの。都合の悪いことを身内に話されれば、その人を狙う。そのせいか、遵法意識の欠片すら無いような人も居るから、注意しないといけないんだよねー」


そう言うと、理子は親指と人差し指で『銃』を真似た形を作る。
それが何を意味しているのか、もう、分かってしまった。


「いーい? あっくんとアリアは《イ・ウー》に目を付けられてるんだよ? 理子が仮にも逮捕されたことで、少なからず警戒はしてる。まだ手出しはされないだろうけど、気をつけてね? 後ろから、バーン、ってされちゃうかもだから。くふふっ」


そう言うと彼女は、お手製の銃の引き金を引いて、発砲音を真似てみせた。動作は可愛らしいが、その内容は物々しい。
これは自分でも予期していなかった。《イ・ウー》に反感を買われていることは少なからず読めていたが、まさか、ここまでとは。下手すればいつ殺されるかも分からない、ってことだね。

これは──かなり重要な忠告だ。有難く受け取っておこう。これを知っているかどうかで、後の展開を読む精度が、上がる。
例えば、《魔剣》がどうであるかを知ることにも、ね。


「勿論、気を付けるよ。ご忠告ありがとう。……ところで、ひとくちに《イ・ウー》といっても、派閥があるんだろう?」
「そそ、《研鑽派(ダイオ)》と《主戦派(ノマド)》だね。前者が個々の能力を高めるだけの穏健派、後者は《イ・ウー》の権力を利用する過激派で──世界を支配しようとしてるの」
「ふむ、常識的に考えても、その過激派から狙われているワケだ。まぁ、色々と武偵は柵(しがらみ)があるからねぇ……」


武偵法9条と、3倍刑。鬱陶しいのはこの2つだ。
殺人を許容するワケじゃないが、下手をすれば正当防衛が通用しないことすら有り得る。そうすれば一巻の終わりだね。
武偵法の改正は考えてほしいモノだけれど、難しいかねぇ……。


「ところで《魔剣》は、理子と同じ《研鑽派》だったかな?」
「うん、そうだよ。《魔剣》の話に移る?」
「……いや、まだ」


……まだ、僅かに早い。《イ・ウー》の問いを、あと1つだけ。


「理子は《教授》を知っているだろう? 実は始業式の日に、その男と連絡を取ったことがある。そこで依頼をされたんだ。報酬込みで、『如何なる事象からもアリアを護れ』って」
「あの方が……? 何がしたいんだろ……」


理子が目を見開く。予想外の問い掛けだったようだ。


「その理由が分かれば良かったんだけどねぇ。ま、難しい──」


苦笑する俺の語尾を遮るようにして、理子が口を開いた。


「……たぶん、あれだと思う。《イ・ウー》の中でたまに話題になるんだけど、緋緋色金に関する『緋色の研究』かも」
「それとアリアに、繋がりがあるの?」
「んーん、分かんない。ただ、聞いたことがあるから……。でも《教授》が珍重にしてるってことで、その線はあるかなぁ」


理子が小さく首を横に振ると、ツーサイドアップの金髪がしゃらんと揺れた。虚空のキャンバスに、大小様々と弧を描いてゆく。
……しても、緋緋色金、ねぇ。《大刀契》ならまだしも、アリアに関係があるのか、という話なのだが。


「……こればかりは、本当に分からないか」


呟き、零す。僅かな音響だけが鼓膜を震わせて、一瞬の静寂が訪れた。彼女も口を閉ざしている。下手に話せはしないのだろう。
ともすれば、話題を戻そうか──《魔剣》のことに、ね。


「それじゃ、今度こそ《魔剣》の話。話題を変えて悪かったね」
「あっくんが謝ることないよ。それで、何が知りたいの?」
「《魔剣》の目的は《イ・ウー》の目的か、ってことさね」


資料によれば、《魔剣》が白雪を狙う理由は──


「『希少価値の極めて高い、金剛石の素を手に入れたい』。《魔剣》はそう、理子に話したようだね。合ってるかい?」
「そうだよ。その『金剛石の素』は間違いなく……、あっくんたちが護衛してる、星伽白雪のこと。正確には、その能力だけど」
「能力、って……どういうことだ」


「んーとね、」と理子は前置きした。


「鬼道術──って聞いたことある? 妖術の一種なんだけど、《魔剣》はそれを狙ってるの。……あ、ごめん。ちょっと語弊があったね。正確には、星伽白雪の持つ、刀術かなぁ」


それを聞き留めると同時に、資料の一節が、鮮明な画像のように浮かび上がってきた。それはまさに、点が線になった証左だ。
『《魔剣》は秘密組織イ・ウーの研鑽派に所属しており、己の能力を高めるための活動を行っている。また、高貴な一族の末裔であり、騎士として振る舞っている。主武装は刀剣類が主で──』


「……そうかぁ。そういう、ことか」


刀術は流派こそ異なれど、扱う武具は『刀剣』だ。
あまつさえ《魔剣》は、騎士である。《研鑽派》であることも考慮すれば、その理由は単純明快だ。
そして、《イ・ウー》は星伽白雪を欲している。それは《研鑽派》にも《主戦派》にも同じことが言えるのだ。

《研鑽派》に白雪を招けば、相対的に己の能力の向上を図ることが可能になる。《主戦派》に白雪を招けば、1人の戦力として、野望を達成する近道にも成り得る。
つまるところ、《イ・ウー》にとって白雪とは──どちらに転んでも分が良い、いわゆる掘り出し物なのだ。
《魔剣》が『金剛石の素』と暗喩したのも頷けるね。


「……だからといって、身内を易々(やすやす)と引き渡すワケには、いかないんだよねぇ。そうだろう、理子」
「あは、あっくんならそう言うと思ってた。だから……、理子が教えてあげる。ぜんぶ、ぜーんぶ、ねっ」


言い、目配せする。気付け。早く、気が付け。
これはお前を試す(・・)為の、言葉なのだから──。


「……ただ、その代わりに──」


少女はそこで、一呼吸おいた。
いつもの饒舌な声色は、今ばかりは震えている。それが何故なのか、もう既に分かっていた。……否、分かってしまった。
腕の感触が一段と増す。
少女の身体は、間違いなく悲哀の一色に満たされている。それが何を求めているのかも、また。


「──理子のことを、好きになってくれますか?」

 

 

最高に最低な──救われなかった少女 Ⅱ

 
前書き
少し短くなってしまった。 

 
「理子のことを──好きになってくれますか?」


その想いの吐露は、締め付けられた声帯を無理にでも震わせるような、それほどなまでに、確固たる断案の意が込められていた。
そう、それでいいのだ。聞きたかったのは、その言葉だ──。


「……理子。君は、本当に──」


そうして伸ばした腕を、彼女の頭に乗せる。肩が僅かに跳ね、嗚咽ともつかない喘声が漏れ出た。水晶体に浮かぶ湖の湖面は、揺れる水面そのものだ。その縁から水滴が一筋、ツゥ、と零れ落ち、音を立てて滴下した。


「──強がりさん、だね」


小さく笑み、親指の腹で、その涙を拭いとってやる。
これはまさに、峰理子という人間が零した、衷心そのものなのだ。大部分が悲哀に満ち満ちた、今という今まで、誰にも告げることが出来なかった──少女の、弱さの根幹だ。


「……どういう、こと?」


そう言って小首を傾げる理子は、どうやらこの発言の真意を、理解出来ていないらしい。本心か、はたまたこの後に及んでお得意の演技なのか、は分からないけれど……。
いやはや、面白いね。自分からソレ(・・)を欲してきたにも関わらず、この発言の裏が読めていないのだから。


「だから、字の如くだよ。いつまでそんなに強がってるんだい? もうそろそろ、楽になってもいいんだよ。隠し通す必要なんてない。……そうだろう?」


全て知っているからね──。そんな意図を込めながら、先程の言葉は、一語一句に想いを乗せて告げた。
理子という少女の何を知っているのか。その答えは実に簡単だ。ただしそれは、《物語》と冠した今までの《日々》が無ければ、まったく気がつけなかったことになる。

あの日。ハイジャックの日から──理子の言に従えば、二重奏を奏でたあの日から──その伏線は幾つか張られていたのだろう。
今になって思えば、理子が《イ・ウー》の一員であることも、初代リュパンを越えようとしたことも、司法取引で有意な情報を提示してくれたことも、今に至る想いの吐露の、伏線だったのだ。

そして、それが結び付ける先は、たった1つだけ──。



◇



嗚咽ともとれぬ声が、リビングに響き渡る。悲哀と孤独が形骸化したような、今の今まで秘めていた、峰理子という少女の弱さそのもの──それが身を知る雨となって、零れ落ちた。

自分は何をしているのだろう。……そんなことは分かりきっている。駄々を捏ねた子供のように、如月彩斗の腕に抱きついて、あまつさえそれに抱かれたまま、泣き腫らしているのだ。
もはや自分自身に投げつける、呪詛にも近い言葉だった。


「……辛かったろう。いいんだよ、泣いても。恐らく今、君をいちばん分かってやれるのは、俺だけだろうからね。ようやく気付けた。少しばかり遅れてしまって、悪かったね」


蠱惑にも近い、甘美な声。腕に抱かれながら頭を撫でられている感覚に心地良さを覚える暇すらなく、理子は嗚咽を吐き続ける。

どうしてそんなに、如月彩斗は自分のような劣等種を見捨てずに、手を差し伸べてくれるのだろうか。
いや、劣等種であるからこそ──それが見るに耐えなくて、拾い上げてくれたのだろうか。そんな憶測が理子の脳裏を過ぎる。


「っぐ、なんでぇっ……なんで、理子なんかっ……」


とめどなく溢れ出てゆく涙を抑えようと、必死に目頭を拭うのに──いわば蛇口を締めたにも関わらず──それは漏れ出てくる。

もう、自分も彼も、分かっているのだ。どれほど自分が我慢(・・)をしていたのか。自分を変えるために、努力をしてきたのか。そして、認めてもらいたかったことを。居場所が欲しかったことを言えないまま過ごしてきた、幻想に塗れたあの日々を。


「……なんで? ふふっ、愚問だね」
「ぐも、ん……?」


そう、愚問。そう彼は言った。


「理子のことを、認めているからだよ。努力家で、一途で、自分が苦しいことを誰にも話せなくて、それでもなお、自分を変えようとする君のことを──見捨ててはおけないから」


紛うことなき本音だよ、とでも言うようだった。

つい数分前まで、ふざけて如月彩斗の腕に抱きついていた自分が、今は抱きしめてもらう側に回っている。暖かな温もりは、果たして幾年ぶりに感じただろうか、と理子は一考した。

羞恥心なんて感情は既にかなぐり捨てている。この身体を満たしているのは、言い知れぬ感情の暴力だ。彼から告げられる一語一句に込められた意思が、余すことなく彼女の心臓を穿ってゆく。
そして、治癒されていくのだ。元通り──否、それ以上に。


「……目標は、時として重荷にすらなる。覚えておいてね。諦めろとは言わないけれど、休息も必要だよ。もっと言えば、今がその時じゃないのかな。一時の空白に何が起きるかで、その先にある運命は変えられる。そこに賭けてみようとは、思わない?」


言い、彼は理子の顔を覗き込んだ。


「賭け、る……?」


そう、賭け。その優しい笑みが、酷く印象的で。


「だから、乗ろうが乗るまいが、理子の自由だよ」


目尻に溜まった涙を指で拭いながら、理子は問い掛けた。
あれだけ泣き腫らしていたにも関わらず、溢れ出てゆく感情の渦を止めることが出来なかったにも関わらず、その『賭け』という言葉だけで──あたかも魔術に魅せられてしまったかのように、ピタリと止んでしまった。

実に厭(いや)らしい人間だろう。都合の良い時だけに他人に頼りきって、都合の良いことだけに興味を示して。

それでも自分は、変わりたいのだ。
居場所が欲しいのだ。
認めて欲しいのだ。
誰に──?
そんなのは誰にだっていい。
ただ、今は。今だけは、こう言いたい。
貴方にだけ、認めてもらえればいいんだ。


「居場所が無ければ、造ればいいだけ。簡単な事だよ。自分で無理なら、他人が。俺が、造ってあげるからさ。……そうだろう? なんたって君は──最高に最低な、救われなかった(・・・・)存在なんだから」


嗚呼、だから自分は──彼のことが、好きなのだ。

 

 

緋神の巫女と銀氷の魔女《デュランダル》 Ⅰ

キンジは薄暗い自室の中で、1枚のメモ紙に筆を走らせていた。
『──用事があるので早めに出る。』と。
カーテンに閉ざされた窓から差し込む朝の陽光は、仄かに彼の背中を照らしてくれる。臙脂のジャケットは、武偵校の制服だ。

その下に忍ばせた備え付けのショルダーホルスターには、愛銃のベレッタM92Fと予備弾倉が収められている。
兄から貰ったバタフライナイフも、勿論、忘れることはない。
最低限でありながら、彼にとって最大限の武装だ。

手早く書き終えた言伝をキャビネットの上に残しておくと、キンジは壁に貼られたカレンダーに視線を移した。
薄暗い中でもハッキリと見える、赤ペンで『X'day』と記された、今日の日付。それはアドシアード当日とも補足されている。

その手記は、見事に的中した。キンジは今さっき、隣にある白雪の部屋から物音がしたのを聴き逃していなかったのだ。
睡眠中だったとはいえ、昨夜から常に気を張りつめていた──それが功を奏したのだろう。

……不眠が祟らないといいが。と胸の中で呟いた。

時刻は午前5時を回ろうとしている。運良く異変に気が付けたことにキンジは感謝しながら、こうして用意を進めているのだ。
睡魔はいつの間にか消え去っている。それよりも、この先に起こる出来事への憂虞を拭いとることを、彼は望んでいた。

白雪はまだ部屋から出ていないらしいが、もうすぐだろう。
先日の葛西臨海公園で盗み聞いた話によれば、彼女と《魔剣》が接触することは確実だ。

それはいつだろう──そう、今日だ。

現在進行形で起こっている不自然な白雪の行動と、今日までの雰囲気から察するに、彼女は《魔剣》と会おうとしている。

つまるところ、星伽白雪という人間の身を差し出すということになる。彼女がキンジたちに相談の気色を見せなかったということは、《魔剣》に他言を禁じられているということだろう。

しかし何故、白雪を狙うのか。『超偵』という枠組みに彼女がいることは知っているが、キンジはそれを疑問に思っていた。

超偵とはすなわち、超能力者である武偵のことだ。ともすれば《魔剣》は、その力を欲しているのだろうか──。
そこまで考えた時、微かな金属音がキンジの鼓膜を響かせた。扉だ。扉の開閉音だ。それは、白雪が部屋を抜け出たことの証左に他ならない。数秒遅れて、玄関扉の開閉音もする。


「……ふぅー」


これ以上ないほどに張り詰めた空気。焦燥感。忙しない拍動。それを抱きながら、キンジは部屋と玄関とを無音で抜け出した。
茜に染まった空と雲が、五月晴れのキャンバスを描いている。そっと階下にある駐車場を見下ろすと、足早に歩いていく白雪の後ろ姿が視界に留まった。武偵校の制服を身にまとっている。

それにしても、こんな早い時間に抜け出すのか──。
胸の内でそう呟きながら、キンジは足早に白雪の後を追っていく。抜き足(スニーキング)で階段を降り、一定の距離を保ちながら、朝風に靡く彼女の黒髪を見つめていた。

駐車場を抜け、路地に出る。そのまま白雪はペースを落とすことなく、歩を進めていった。キンジも同様に尾行する。
まるで目的地が明確に決まっているかのようだ。行き先は分からないが、《魔剣》と予め決めていたのだろう、と類推した。

もう朝陽は昇りかけている。日の出の前に起こされた行動は、言ってしまえば《魔剣》の傀儡そのものだ。白雪がそれに抗えないということは、何かしらの枷が課されていると見ていいだろう。
先程の仮定に基づけば──他言をしなければ、白雪の身辺に危害を与えない、だろうか。彼女の性格を読み解けば納得できる。

そんな推理をしながら、依然としてキンジは、白雪の後ろ姿を追っていく。時には物陰に隠れながら、動向をうかがっていた。
彼女は片時も脇見をしていない。何か言い知れぬ焦りの感情に駆られているかのような、そんなモノを気配から感じた。

そうして、歩き始めてから数十分。
ようやくキンジは、白雪の行き先を当てを付けることが可能になった──東京武偵校。その、地下であることを。



◇



武偵校の地下は船のデッキのような多層構造になっており、地下2階からが水面下に位置する。その主たる移動はエレベーターなのだが──何かがおかしいとキンジはこれで確信した。


「……チッ」


電子盤に数桁の数字を入力し、金属製の扉に手を掛けた。だが、それは微塵も動く気配を見せず、鎮座して異変を告げている。
意図しない舌打ちが鼓膜を揺るがせ、胸中にあるキンジの焦燥感を更に苛んでいった。あそこで逡巡(・・)さえしなければ──。

更に下の立入禁止区画に侵入するためには、このエレベーターが必要不可欠だ。緊急用のパスワードを打ち込むことで、それは正常に動作をする。パスワードさえ知っていれば、だが。
それなのに微塵も動く気配さえないということは、何者かによって工作を受けたと考えるのが妥当だろう。


──《魔剣》は、居る。この近くに。


恐らくは白雪がこのエレベーターを使用した直後に、システムが遮断されたのだろう。つまるところ、外部の介入を必要最大限に避けたということだ。嫌がった、とも言える。
早朝という時の利を利用し、地下という地の利も得られた。これほど都合の良い状況というのは、なかなかに存在しない。

……いや、造りだすように仕向けられたのだ。

眼前にある金属扉を睨みながら、キンジは数分前の行動を思い返していた。ここ武偵校の地下へと移動する路の途中で、ほんの一瞬だけ恐怖心を抱き、歩調を止めてしまったことを。

いつもは如月彩斗もいる。そのパートナーのアリアもいる。幼馴染の白雪もいる。武偵校の友人もいる。
その彼等彼女等も ──今は全員、居ない。
進んではいけない境界線の淵で逡巡していた。死の淵を覗き込んだかのような悪寒と、突き放されていく恐怖。

酷く長たらしい時間に感じた。恐らく、たった数秒だったのだろう。しかし現に今、この数秒が命取りになってしまっている。
白雪の姿を見失い、真の意味での孤独を体感しているのだ。誰が何処に居るとも分からない、ある種の闇の中枢だ。


「……それでも、か」


キンジはおもむろに呟くと、傍らにある変圧室に侵入した。更にその片隅、床に設置されている非常入口から保護ピンを抜く。
マンホールのような形状をしているこれは、浸水時の隔壁も兼ねているらしい。三重の金属板で構成された保護壁を破るのは、ある意味一苦労でもあった。


それでも──。


パスワード認証、カードキー、非接触IC、それらを駆使して幾つもの扉を開け、階下へと梯子を下ろしていく。
降り立ったボイラー室でも同様に、地下3階、4階、5階。
焦燥に駆られた生身の人間の皮膚は、擦り減っていた。


それでも──。


痛覚などは、かなぐり捨てる。
白雪がここに居る可能性も、《魔剣》が居る可能性も、高い。
ましてや幼馴染なら。1度でもあの感情を抱いてしまったのなら、起こるであろうそれを見殺しにすることは、出来やしない。


「……よし」


呟き、ようやく降り立った先は、地下7階。別名を地下倉庫(ジャンクション)。武偵校の最深部であり、強襲科・教務科と並んで最も危険とされている場所でもある。
間違いない。彼女はここに居るのだ。直感がそう告げている。

赤く灯っている非常灯は、どこか物寂しさを助長させた。
それらが照らすのは、左右に陳列されている弾薬棚。その先は大広間のような空間になっていることを思い出してから、キンジは眉を顰(ひそ)めた。

……地下倉庫の中でも危険な弾薬が集約されている、大倉庫と呼ばれる場所がこの先にある。大口径の銃弾は勿論のこと、投擲弾、対戦車擲弾。強襲科の知識が無い者ですら戦慄を覚えるような、そんな場所なのだ。3大危険区域。その理由はそこにある。

つまるところ、銃は使えない。ここは地下倉庫であり火薬庫だ。
跳弾が当たりでもして爆発が幾重にも誘発されたとしたら……、比喩表現では飽き足らない。武偵校が、学園島が、吹き飛ぶ。

見たところ、丁重に管理されている様子は微塵もない。だからこそ危険性が増すのであって、それが起きないという保証をすることは、キンジには到底不可能だった。

小さく溜息を吐き、ホルスターに伸ばしかけていた手を引き込める。そうして取り出したのは、バタフライナイフだ。
無音で開かれたその刀身は、非常灯の赤を歪んで映している。
このナイフは構造上、音が出やすい。潜入に使うのには不向きなことを理解していながら、キンジはそれを用いるつもりだ。

音が出るといっても、不用意に振り回したり、振動させなければいいだけの話ということを、彼は理解していた。
かつての兄と、刀剣の腕に定評があると強襲科内でも有望の、如月彩斗の知識。2人の享受は無駄になっていない。

慣れた手つきでナイフを構える。息を潜めながら、弾薬棚のその向こうを見るために、刀身を即席の鏡にした。
……あいにく、光の加減で見えにくい。それでも、しっかりと目視できた光景を把握したキンジは、小さく息を呑んだ。


「──ッ」


視線の数十メートル先だろうか。彼女を取り囲む非常灯は、さながらスポットライトのようだった。妖しくもあり、艶しくもある──そんな艶美さを醸し出しながら、星伽白雪は立っていた。

その向こうに、キンジはまた1人の気配を感じた。白雪が見据えている視線の先。そこに居る者こそが──、


「来ましたよ、《魔剣》。居るのでしょう。姿を見せて」
「……どうやら怖気付くことはなかったらしいな、星伽よ。ただ、その要求に応えることは些か不可能だ」
「何故ですか。あなたの要求は私でしょう? ……来るなら来なさい、韜晦(とうかい)ばかりの卑怯者!」


非常灯の灯らぬ一層の暗闇に向かって、白雪は一喝した。
そうして僅かな沈黙の後に、その暗闇の内から響き渡る冷淡な声は、底知れぬ深淵の淵を覗き込んだかのような──近しく喩えるならば、夕冷えにも似たあの感覚だ。


「貴様は、あの晩に交わした口約束を覚えているな?」
「それがどうしたと言うのですか」
「恍(とぼ)けるつもりか? 笑わせるなよ、星伽」
「何を──っ、」


《魔剣》の嘲るような笑みが反響する。白雪が訝り、周囲を見回したのもほんの一瞬だった。
異変に気付いたのは、それと同時か。唸りにも似た風切り音が、彼女の頬を刈り取ってゆく。

しかし、《魔剣》の狙いは白雪ではなかった。異形の鎌は刹那にして、弾薬庫の隅で様子をうかがっていたキンジの頬をも掠めてゆく。紅の鮮血は金属を染め、痛覚はとめどなく襲い掛かる。


「……ッ!」


いつから露呈(バレ)ていた?
そんな懐疑心が、キンジの胸中を痛覚と共に駆け巡る。


「キンちゃん、居るなら逃げて!」


悲痛な叫びが木霊した。
白雪の瞳にキンジは映っているのだろうか。それは彼からは分からなかったが、薄々と感じ取られていたのだろう。


「武偵は超偵に勝てない!」


──嗚呼(あぁ)、自分は。彼女を守れなくなるのだろうか。

 

 

緋神の巫女と魔剣《デュランダル》 Ⅱ

とめどなく頬という一点に集中する痛覚の波と、揺らぐ視界と、薄明とした意識に苛まれながら──キンジは1人の少女の告げた悲痛な叫びと思いの吐露とを、反芻していた。

逃げろ、と。武偵は超偵に勝てない、と。

しかし。しかし、だ。ここで逃げたら、星伽白雪はどうになる? 脳内でこの現実に悪態を吐きながら、彼は自分の身の内を呪った。背後でカランと床が鳴く。
どうやらそれが今しがた、自分の首筋にその刃を擡(もた)げていた死神の鎌であったことに、キンジはようやく気が付いた。

首だけを僅かに振り返って見ると、無機質な色をした弾薬庫や壁が視界に入る。その中に、非常灯に照らされた紅みを帯びた刀身があることもまた、認知できた。
レイピアだろうか。強襲科の副読本で見たような、いかにも刺突に特化した長身の剣。それが床に転がっている。そして、その効力は──今回に於いては、刺突ではなかった。


「……ッ、」


何かがおかしい。そうキンジは感じた。傷口が痛覚を支配していたにも関わらず、今度は痺れが走ってくる。身体の平衡感覚が保てない。視界と意識は荒波に揉まれる船の如くだ。

とてもじゃないが、立つことすらままならない。キンジは痺れの蔓延した掌からナイフすら手放すと、その場に座り込んだ。
弾薬庫に手を付いて、何とか意識を保てている。そんな状況下に、自分は今、置かれているのだ。

毒……、か?

呼吸のリズムすら狂っているように感じる。感覚の全てが何者かに掻き乱されているようで、このままでは五感が機能不全に陥りそうだ。どうする、どうする、と言えど──何も出来ない。

視覚は次第に失われていっている。水晶体に張られた暗幕は、遠山キンジという1人の武偵に、一時の敗北を示唆していた。
その愚かしい現実と痛苦にキンジは顔を伏せる。そんな彼を、《魔剣》は深淵の向こうで嘲笑(わら)った。


「あまり私を馬鹿にしない方がいい、遠山。それとも、武偵如きが私に勝てると勝算を持った上での愚行か? ……笑止だろう」


「せいぜい毒に侵されるがよい。死にはしないが、苦痛の対価として自分の無力さを知ることができる」《魔剣》は付け加えた。
そうして、キンジが既に行動を起こすことは不可能だと判断したのだろうか。冷酷や冷淡とも聴こえる靴音を響かせて、今まで身を隠していた暗闇の中から、初めて姿を現した。

彼の目には、それが何なのか、誰なのかすら見えていなかった。あるのはただ、星伽白雪に危害を加えるであろうという懐疑心と、自分が何とかしなければいけないという焦燥感だった。
悩乱に塗れた視線の先には、守るべき存在が居る──。



白雪もまた、キンジと同等に毒に侵されていた。五感を掻き乱され、全てが狂っている──そんな感覚の中にある。
それでもなお、白雪は立っていた。《魔剣》が自分に迫ってきているのだと理解すると、背に隠匿していたらしい鞘から、日本刀を取り出した。抜き身の刀身は非常灯で紅く照らされている。

白雪の前に立った《魔剣》はケープマントを深く羽織っていた。顔を覆うフードの、その僅かな隙間から見えるのは、蒼玉色(サファイア)の切れ長の瞳と銀髪である。
風貌と声色も相まって、白雪はより一層、《魔剣》には冷酷という言葉が相応しいと思った。


「……私を、どうするつもりなの」


白雪は紅に染まった白銀を《魔剣》に突き付ける。フードの向こうに覗く蒼玉色の瞳が瞬き、薄らと細んだ。
笑っているのか──、彼女はそう直感的に類推する。


「ふふっ、実に面白い。遠山と同等な状況で、貴様はまだそんなことが言えるのか。だが、それはお楽しみ(・・・・)だ」
「……お楽しみ?」


柄を握る手に力が込められた。白雪は訝しみ、眉を顰める。
そんな彼女を嘲るようにして 《魔剣》は冷笑を零すと、右腕を大仰に掲げ、こう告げた。


「Follow me(私に着いてこい)。話は然るべき場所でしよう──《イ・ウー》でな。金剛石の素を見殺しにするには些か惜しい。その為、今は遠山が邪魔なのだ」


そして、傍らのキンジを一瞥する。冷酷な瞳と、今なお躍起な瞳とが向き合った。《魔剣》は自分を殺そうとしている。
キンジはそれに気が付いたのだ。彼の胸中で渦巻くのは、愚かしく一途な生への渇望。そして、そうでありながらも幼馴染を護るという渇求の念。その2つが相反していた。


「貴様はあの夜の口約束を破った。それが何を意味しているのか、分からぬとは言わせないが? あの愚かな男の独断にしても、こちらにとっては些か都合が悪い」
「だからといって……!」
「殺めることはなかろう──と? 何故?」


《魔剣》はさも当然かのように笑みを零す。
掲げていた右腕の手はゆっくりと滑らせるように、或いは撫でるように白雪の頬に沿われてゆき、最終的には下顎を捕らえた。
そのまま彼女の瞳を覗き込む。凍てつくような、どこまでも冷酷な瞳で、まっすぐと。


「禁忌を犯したからだ。それすらも分からぬのか、星伽よ」


銷魂したかのように、《魔剣》はまた、嘲笑する。
「馬鹿げたことを言う口は、貴様には必要ない」そう呟くと、白雪の口元に自らの唇を寄せた。
──何をするつもりだ。キンジは朦朧とした意識の中で、類推にもならぬ考察を幾度となく重ねていく。

ただ分かるのは、それが警鐘を鳴らすべき事態であることと、自分自身がこの状況を打破せねばならないということだけだ。
《魔剣》が遠山キンジという存在を蚊帳の外に置いているからこそ、この方法は策として価値を持つ。


──白雪に手を出すのは、誰であろうと許さない。


キンジは胸中で悪態を吐く。重厚な拍動が胸を打った。
刹那、自分自身でも驚くほどに、そして馬鹿馬鹿しいほどに、先程まで蔓延し身体を蝕んでいった痛苦が、緩和されていく。
何故だ、と訝しみ、逡巡する──間もない。

キンジは先程までとは一変した俊敏な動作で、床に放り投げられたナイフを手中に収める。
非常灯に照らされた紅は、鮮血か瞋恚の権化か、はたまた別の何かなのか。憎たらしいほどに澄んだ紅に見えた。
意識はこの一瞬で、纒わり付く汚泥を全て払った。身体も、神経も、総じてキンジに利を譲るかのように、味方している。

出せるべく最大限の脚力を以て、彼は《魔剣》へと肉薄した。


「……小癪な」


《魔剣》が異変に感づき、視線を白雪からキンジへと逸らす。
そして白雪を一瞥した──毒で弱体化しているとはいえ、眼前に日本刀を持った敵がいる。遠山の処理もしなければならない。
だが《魔剣》は逡巡すらせず、白雪を無理矢理、自分の前に立つように引き寄せる。 即ち、生身の人間を盾としたのだ。

キンジは突如として現れた生身の盾に、僅かにその俊敏であり鋭敏でもある動作を阻害された。
幸か不幸か、紅光りしたナイフの刀身はまだ2人のうちどちらかの薄皮を穿ち抉るには至っていない。


「白雪、そのまま動くなッ!」


助走時間がそのまま考慮時間だ──と言わんばかりに、キンジはただ一点に狙いを定めて、そこを正確無比に射抜こうとする。
肘を軽く引いて、柄を握る手を捻るように打突した。微量の空気が繊細な渦を巻き、唸りにも似た風切り音を立てる。

刀身は白雪の頬を掠めるか否かのところで紅銀に映射し、それが《魔剣》の頬を薄ら仄かに照らした。
避けるか──と考慮する暇すら与えず、キンジは《魔剣》の顔を覆い隠しているフードの中に迷いなく刀身を突き付ける。


「──ッ!」


皮膚の裂ける艶かしい感触と、鮮血の吹出する感触。その2つから意識を白雪へと即座に移した。切り返し動作で彼女を抱き抱えるようにし、バックステップで数十歩ほどの距離をとる。
この奇襲策が形としては成功した。が、正確に受けられていたら自分の身が危うかったかもしれない。

僥倖だ、と胸中で苦笑してから、キンジは白雪を床に座らせた。


「大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫だよ。ただ……毒が、少しだけ」
「……そりゃ厄介だな。少し休んでろ」


キンジは警戒心を保ちながら、《魔剣》へと向き直る。浅く顔を覆うフードの中に見える蒼玉色の冷酷な瞳が彼を見据えていた。
白雪に負けず劣らずの雪肌からは、鮮血が一筋、滴下している。《魔剣》はそれを手の甲で拭いとると、驚嘆と恐れの入り交じった声色を零した。


「……何故、貴様だけが動ける?」
「さぁな。そんなことは俺にだって分からん」


ただ1つだけ分かるのは──。キンジは続ける。


「護りたい存在(モノ)の為に、ってところだろうな」


訝しむ《魔剣》とその言葉に秘められた真意を理解した白雪を他所に、キンジはその原因を類推していた。
一連の動作を振り返れば、明らかに身体能力は普段より底上げされている。ましてやそれは、HSSに酷似しているのだ。

ただ何か違和感を覚えるとすれば、それは従来のHSSよりも身体能力が僅かに向上しているということと、複雑化された論理的思考力が極微量ながら低下しているということだろうか。
これは単なる違和感に過ぎないのか。何度も自問自答する。


「……解せないな、遠山。そんなに星伽が貴様にとって大事なのか? そのいつ形骸化するかも分からない愚想で、本気で護れるとでも思っているのか? 答えを私に聞かせてみろ」
「あぁ、本気で思ってるさ。形骸化もクソもない、愚想なら愚想だと笑え。ただ言えるのは、俺は本気だってことだけだ」
「…………愚かな」


《魔剣》は小さく吐き捨てると──背に隠匿していたのだろう──西洋大剣(クレイモア)を慣れた手つきで取り出した。
蒼玉と輝石の散りばめられた幅広の大剣を、《魔剣》は片手で難なく容易に扱ってみせる。


「どちらにせよ邪魔者は消すだけだ。貴様は私に、勝てない」
「なんとでも言え。この世の中は結果論だ」


キンジと《魔剣》が対峙する。西洋大剣とナイフが牙を剥く。
場の空気が一瞬にして凍てつき、いつ戦闘になってもおかしくない──そんな時だった。間の抜けた声が、場を打破したのは。


「いやぁー、理子は無理だと思うなぁ。流石に諦めたら? 今のジャンヌ(・・・・)じゃキーくんに勝ち目はないよ。ね、あっくん、アリア!」


 
 

 
後書き
皆様、新年明けましておめでとうございます。(遅い) さて、令和二年となりました。今年はどんな年にしたいですか? 私は彩ちゃんとアリアをなんとしてでもカップルにしたいです。

あとはですね、二重奏の今後の構想が薄らぼんやりと決まってきましたので、これを更新した後にでもぼちぼち書いていこうと思います。そんなこんなで緋弾研究室のみんな、執筆キャスを開いた時には気が向いたらでいいから顔を出しておくれ。

それではまた次回。水無月彩椰でした。 

 

緋神の巫女と魔剣《デュランダル》 Ⅲ

「いやぁー、理子は無理だと思うなぁ。流石に諦めたら? 今のジャンヌじゃキーくんに勝ち目はないよ。ね、あっくん、アリア!」


もう飽きるほどに聞き慣れた、ある者にとっては愛しい、ある者にとっては目障りな──何者にもなりうる、その少女。
最高に最低な、救われなかった少女。
そんな少女の間の抜けた声で、この緊迫と冷徹は打破された。


「──っ、お前が何故ここに!?」
「どうしてだと思う? 仮にも《イ・ウー》内で策士と呼ばれてるんなら、少しはその脳で考えてみたらぁ? くふふっ」


キンジと白雪の背後から降りかかる声に、2人は視線を向けた。
理子は紡錘形の異形から降り立つと、身にまとっている改造制服の裾を翻しながら、嘲笑うように口端を歪める。
金髪のツインテールが点々と紅華を咲かせながら、この地下倉庫の無機質を背後に、揺れて靡いていた。

そうして続くように、彩斗とアリアもそこから現れる。呆然としたような、しかし僅かな緊張感を含んだ面持ちで、だ。


「──ふむ、早朝から熱心なことだ。先手(・・)を打っておかなかったら、少しばかり危うかったね。アリアは早々にキンジと白雪を介抱しておくれ。特に彼女は危険だ」
「分かった。……でも、すぐに戻るわ。それまで待ってて」
「うん、勿論」


《境界》は音も無く閉ざされる。そのまま彩斗はキンジと白雪を視界に入れると、「おはよう」と手を振って笑みを浮かべた。

左手は一見して自然体のように腰に添えているが、いつでも銃刀類は装備できるように、ということだろう。
彩斗は介抱のためにキンジと白雪の元へ駆け寄ったアリアを見送ると、そのまま《魔剣》を警戒しながら理子の横に立った。
何やら耳元で言葉を交わしている。

《魔剣》はその一挙手一投足に気を配るように視線を巡らせながら、しかし何の行動も起こすことなく、感情を警戒の一色に染めながら2人を見つめていた。多勢に無勢だ──それを理解して。

その一言二言は彩斗からの指令にも近しいモノだったのか。理子はアリアの後を追うようにして、2人の方へ駆け寄った。
即ち、身内による介抱である。後方支援に彩斗は人を割いたのだ。裏を返せば、それほど危惧すべき局面ともいえる。
そして、前方はひとまず自分だけで対処する──そんな意思が、この行動に示唆されていた。


「アリア、理子、どうしてここが……!」


キンジは駆け寄ってくるアリアと理子を見るやいなや、驚愕に目を見開く。白雪も苦痛に歪められた顔ながら、その一部分は同じ色で染まっていた。理子の存在が、大きすぎるのだ。


アリアはともかく、理子は関係ないハズだ──。


「詳しい説明はあとよ。今はアンタたちの介抱が先でしょっ」
「介抱なら白雪を先に──」
「そんなことは知ってるわよ。ほら、理子。手伝いなさい」
「うーっ、らじゃーっ!」


理子は珍妙な両手式敬礼のようなポーズで返答すると、真っ先に白雪の側へと駆け寄った。慣れた手つきで彼女の腕を自分の首元に回すと、言葉を交わす。


「えっと、白雪ちゃん……だっけ? これから武偵病院に行くよっ。大丈夫? 立てる?」
「うん、何とか。……ありがとうございます」
「あっくんに頼まれたんだー。お礼ならあっくんに、だよ」


言い、理子は白雪を介抱しつつ立ち上がる。
そうして、彩斗に胸中で感謝するのだ。自分の居場所を作ってくれたことと、彼なりの優しさという感情の権化に。
頬が綻ぶのを感じながら、理子は彩斗に向かって叫んだ。


「あっくん、武偵病院まで繋いで!」
「……白雪のことは任せたよ。こっちのことは心配しないで」
「そっちこそね! 《魔剣》は、任せたから」


互いに笑みを交わし、彩斗は物憂げに《境界》を開く。理子は自信に満ちた顔付きで、白雪と共に《境界》の奥へと。
アリアはその間にキンジへと向き直り、再三再四、幾らか問い質している。「毒のダメージはどうなの?」「闘えるの?」と。

それが結論を出したようで、アリアは彩斗の方へと向き直った。


「──じゃ、そういうことね」



◇



「──じゃ、そういうことね」


アリアは自信と悦楽に満ちた声色で、俺に告げた。
それはつまり、俺とアリアは勿論のこと、キンジも戦力として扱うに等しいということを示唆しているのだ。


「キンジ。本当に……大丈夫なんだね? いいの?」
「白雪を守れなかった当事者が逃げてどうすんだよ。個人的に、《魔剣》には恨みがある。是非とも晴らしたいところでな」
「ふふっ、元気でよろしい」


思わず、旧友の一途なまでの感情に笑みが零れる。
そうして──この無機質に囲まれた地下倉庫を舞台に、パートナーたるアリアとキンジを控えて、俺は《魔剣》へ告げるのだ。
開戦の合図を。その、一言の前段階を。


「というわけだ、《魔剣》。俺は仲間を傷付けた君を許さないし、キンジもそれは同じだろう。アリアに至っては母親の冤罪を晴らす、大きなキーマンにもなっているのだからね。仮にここで降伏すれば、悪くはしないが?」


今後一切の手出しをしないのならば、これ以上待遇を悪化させることはしない──そんな意を露わにしながら、俺は目を細めて《魔剣》を見据える。冷酷で冷淡な瞳が、見つめ返した。


「……戯言を」


《魔剣》は小さく溜息を吐く。それはさながら、氷華を紡ぐ下露のようだった。あたりの空気は緊迫し、否が応にも心臓に早鐘を打たせる。自分に叱責の言葉を投げかけながら、俺たちは口を噤んだままでいた。


「戯言だろうがなんだろうが構わない。とどのつまり、俺は君に選択の余地を与えているのだけれど。これが最後の質問だよ?」
「……ならば、開戦の前に」


《魔剣》は一拍置いて、告げた。


「教えてもらおう。何故、貴様たちがこの場所を把握できたのか。理子が介入してきたのか。その理由を」
「お易い御用、だね。知りたければ教えてあげるよ」


ただし──。


「この騒動に、終止符を打ってからの話だがね」
「どうあっても、この場で教えるつもりは毛頭ないということか。私も舐められたものだが……、ふむ。いいだろう」
「どちらに転んでも教えてあげるようにはしてあげているのだから、そのところ、感謝してほしいね」


──さぁ、それでは前奏曲(プロローグ)を始めようか。


そう嘯くように、俺は《緋想》の柄に手を伸ばす。無音で抜刀されたそれは、非常灯の紅に光射して床を照らした。
刹那、感じている全てが、まるで《緋想》の刀身の如く明瞭に感じられた。研ぎ澄まされた、視覚、聴覚、嗅覚。一点の汚れもない、酷すぎるほどに澄んだ世界。
これは《明鏡止水》が発動されたことの証左に他ならない。

背後では、アリアが二丁拳銃のガバメントを抜き様に構えた。
キンジは予備弾倉とのリロードを済ませ、残弾に余裕を持たせる。両者とも毛頭、《魔剣》を逃がす気はないのだ。
視覚的に把握したわけではないが、聴覚的に分かる。


「……ふむ」


俺たちの動向を確認するかのように、《魔剣》は呟いた。
そうしてそのまま、顔全体を覆うフードを外し、ケープマントを無造作に脱ぎ捨てる。

露わになるのは非常灯に照らされた雪肌と、蒼玉色の瞳と、銀髪の長髪と、背に西洋大剣(クレイモア)を携え、甲冑に包まれた、その身軀。
端正な顔付きを見れば、純日本人でないことは明らかなのだ。西洋人。そして俺は、《魔剣》の出で立ちを知っている。
何で知ったのか──無論、司法取引での例の資料だ。


「1対3というのはどうにも私に分が悪い、のだが……あらかじめ忠告しておこう。ただの武偵は、私に勝てない。私が誰であるのか、何であるのか、知らないとは言わせないが」
「あぁ、勿論知っているとも。だから俺たちは、君を逮捕しにきた。穴は埋めてある」
「やはり、如月彩斗。貴様が──」


《魔剣》が言わんとしていることは、既にこの場にいる誰の目にも明らかだ。目には目を、歯には歯を──超能力者には超偵を。
超偵とはいったい誰なのか。……自分自身だ。
超能力を扱う武偵。以前、白雪に教えてもらった、彼女等が定めた虚構の枠組みに大別すれば、俺は超偵に他ならない。

ただ惜しいのは、同じくして超偵である白雪を後方に回してしまったことだ。十分に《魔剣》に対応できるだけの即戦力として考えるならば、欠員は1人でも惜しいのだ。

まぁ、それでも──。


「俺以外にも、アリアとキンジがいる。穴を埋めるのみならず、盛り上げるには十二分だろう?」
「超偵を『1』とするならば、武偵はその半分にすら満たない。十二分と睥睨するのは、些か早計だと思うが」
「なんとでも言っておくれ。生半可な意思では来ていないから」


その言葉を聞き留めた《魔剣》は、甲冑に身を包んだその身軀を、外見的な質量に反するかの如く、機敏な動作で操った。
そうして、ずっと背に携えていた西洋大剣を抜刀する。多彩な輝石が埋め込まれ、紋様が彫刻されたそれは、素人目に見ても一級品だと答えざるを得ない。最早、そんな芸術品だった。


「私は《魔剣(デュランダル)》と呼称されるのは些か虫唾が走る。他人が好んで呼ぶ名を、私は好まないのでな」


《魔剣》──いや、今しがた彼女が告げた言に従えば、その真名はジャンヌ・ダルク30世。
史実によれば、ジャンヌ・ダルクは火刑に処されて死亡したとされている。だからこそ、30世などと名乗るのは通常では違和感を覚えるところだが……。まぁ、それはさておき。


「ただ、この剣に関してだけは、皆その名を口にせねばならない。……聖剣デュランダル。良き銘だろう?」
「銘が良くても、実力が伴わなければ意味がないんじゃない? いくらアンタが《イ・ウー》の策士だとしても、ね」


文字通り、アリアは背後から《魔剣》ことジャンヌ・ダルクを睥睨する。あからさまな安い挑発だ。
こんなことが彼女に通用するのか否か、いちばん分かっているのはアリア自身のはずだけれども。
それとも、そこまで虚勢を張らねばならないほどに──裏を返せば、挑発して戦いを起こそうとするほどに──この状況下を、吉と見ているのかもしれない。


「ホームズ家の劣等種に言われるほど私も落ちぶれたか? 笑止にも程があるぞ、神崎アリア。最後に泣くのは貴様らだ」
「……最後に笑うのはアタシたちよ!」
「ふん、良いだろう。そこまで言うのならば──」

 

 

緋神の巫女と魔剣《デュランダル》 IV

「ふん、良いだろう。そこまで言うのならば──」


──始めるとしようか?
機械的で冷徹な声色が、この無機質たる地下倉庫に反響する。
それに相反するのは、嫌に陽気な、笑みを含めた俺の声。
一閃するように挟まれたその声に、双方構わず訝しむ。


「まだ始めるのは、早いんじゃない?」


訝しむ、というより呆れに近しい顔でジャンヌは問い掛ける。


「……気に迷いが生じたか? 如月彩斗」
「いや、そういうわけじゃないんだ」


言い、俺は小規模の《境界》を展開させ、その中から茶封筒を取り出す。それは数日前、理子との司法取引で得たもの──今の俺たちにとっては、命以外では何にも変え難いものだ。
敢えて、ジャンヌに見えるように掲げてみせる。


「彩斗、これって……」
「……茶封筒、か?」


背後から近付いてきたアリアが、覗き込んで小さく零した。キンジも興味本位で見に来たのだろう。何やら分からなそうな顔をしているが、それが普通。キンジは《イ・ウー》に関連がない。本当なら、この闘いにも巻き込みたくは、なかったのだけれどね。


「そう、理子との司法取引の書類だよ。君たちを出払わせただろう? あの日だ。あの日、これを理子から受け取ったんだ」


大事な資料だからね、戻しておこう──そう告げて、《境界》を閉じる。ジャンヌはその一連の動作を注意深く見つめていた。
依然として静謐という名の語彙を被ったような鉄面皮は、まるで剥がれることを知らぬ樹幹のようだ。
だけれど、どこまでそんな平静を保っていられるかな?


「一般に《魔剣》と武偵界隈では呼ばれているけれど、ここでは君の言に従おうか。……ジャンヌ・ダルク30世」
「…………」
「気になったからね。色々と調べてきたんだ」


成程。この程度では動じない、ってことだね。
……じゃあ、予習の復習を、始めようか。
そう胸中でほくそ笑み、脳内に蓄積させた記憶の引き出しから、確実な情報を列挙していく。


「1431年5月30日、初代ジャンヌ・ダルクは火刑台で亡くなられた。俗に言われる『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』だ」
「だったら、なんで《魔剣》が30世を名乗ってるのよ。死んだのなら子孫はいないはずでしょ」
「そこなんだよ、アリア。ただ、答えは実に単純明快だ」


──ジャンヌ・ダルクは死んでいない。たったそれだけ。


「ジャンヌ・ダルクは死んでいない。ともすれば、あの日、火刑台で処された彼女は何者なのか──影武者だ。そうだろう? 30世さん。この情報に間違いはあるかな?」
「……理子が口を割ったか。裏切り者が」
「あぁ、十分すぎるほどに頂いたよ。情報をね」


だから──俺はこんなことも知っている。


「『極めて希少価値の高い金剛石の素』と、君は星伽白雪を評価したね。どうして白雪を狙うのか不思議だったんだけど、少し考えてみれば、君たちにしてみるとどちらに転んでも嬉しい出来事だね。敢えて詳細は伏せておくよ。……キンジもいるから」


キンジを一瞥し、「ごめんね」と呟く。
もしこのままジャンヌを逮捕してしまったら、この場にいた俺とアリアは元よりとして、キンジの身が危うくなる。
部外者を《イ・ウー》に触れさせることは、実に危険なのだ。
なんせ理子の忠告に則れば、そういうこと(・・・・・・)なのだからね。


「まぁ、それはさておき。……君たち一族は、『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』がもとで、焔(ほのお)に恐怖心を抱くことになったのも、実は知っているんだ」


この一言で、ジャンヌが眉を顰めたのがハッキリと見て取れた。目に見えて分かる、最も大きな動揺。
ここまで察しがついているとは思わなかったのだろう。情報戦では、こちらが1本とることが出来た。


「このあたりまで説明したところで、本当にジャンヌに伝えたかったことを伝えておくよ。なんだと思う? ……いや、聞く間があるなら、すぐにでも始めた方が吉か」


呟き、俺は天井を──その更に上を、指さした。つられるようにして、ジャンヌも。事情を知らないキンジも、真上を見上げる。


「この案件、教務科には既にケースDとして報告済みだよ。ここに来る直前、D7に訂正したけどね」
「……本気で、私を捕らえようとするわけか」
「そういうことだねぇ」


ケースD。これ単体で、アドシアード開催中の、武偵校内での事件発生を意味する符丁になる。
それに番号の7が付与すると、事件であるか否かは問わず、アドシアードを予定通り実行。事件であった際は秘密裏に解決する、ということを意味するわけで。

事件発生地がこの場所であることは教務科に通報済みだし、武偵病院に白雪を搬送した時点で既に緊急事態だ。
ともすれば頃合を見て、強襲科やらの有望手が総動員されることだろうね。相手は都市伝説に近しい《魔剣》。
そして、報告者は──如月彩斗、神崎・H・アリア。信用には事欠かないはずだ。

ふぅ、と小さく溜息を吐く。説明は既に終えた。
これから行うのは──武偵なりの義に則った、執行。


「……アリアとキンジは、後方支援を宜しくね」


控えている2人の返事は待たない。意識と視界の中に居るのは、無論、ジャンヌ・ダルク30世だ。俺はアリアとキンジから距離を置き、彼女と少しでも間合いを縮めるように歩を進める。

甲冑に包まれた身軀は既に西洋大剣を携え、脚を半歩引いて、既に攻撃態勢を整えていた。
刹那──彼女は予備動作を見抜く暇すら与えず、地を蹴った。銀髪は逆風に靡き、蒼玉の瞳は氷華の如く凍てついている。

先程の動揺など嘘のようで、その瞳は感情を押し殺したような色をしていた。……だけど、それは簡単には拭えないはずだ。

ものの数歩で肉薄してきたジャンヌは、およそ鈍器のような重量を誇るそれを下袈裟型に振るう。初動の様子見、当たれば御の字というところだろうか。当たるつもりも、毛頭ないのだが。

無慈悲で冷徹な、虚空を斬り裂く音色が聞こえた。喉元に薙がれた西洋大剣の切っ先を、右脚を半歩引いて避ける。
彼女もそれは予想済みだろう。そのまま大剣の重心を活かし、流動的な足取りで、片手で柄を握りながら右回りに回転した。
軌道は──《明鏡止水》のおかげで視える。頸動脈を一閃。

《緋想》で鍔迫り合いに持ち込んでも、そもそも武器の選択で作戦負け。幅広の大剣と細身の日本刀ではこちらが不利。
そんな時の為に、あの2人に後方支援を任せたのだ。


「さっ、頼むよ」


笑み、片腕を掲げる。ジャンヌが訝しむのも束の間、背後からは硝煙と銃撃が立ち込めた。発砲音で類推するに、アリアの二丁拳銃が2発。キンジのベレッタが3点バーストだろう。
そして、その類推は確信へと変貌する。


「……煩わしい奴らだ」


キンジの放った9mmパラベラム弾は、単なる意識逸らしのブラフに過ぎない。本命こそが、アリアの .45ACP弾だ。
2発は的確にジャンヌの腕を狙っている。動いている極小の的を射るのは大道芸じみた技術だけれども、アリアなら可能だ。
……ただ、当たるか当たらないかが問題なだけで。

虚空を裂く2弾は右螺旋回転を維持しながら、柄を握るジャンヌの両手から両腕までを射程視野に入れている。
その全てを防ぐには、この肉薄した2人の距離間では困難だ。だから彼女は、即座にバックステップで間合いを取って──、


「斬り落としてしまえば問題なかろう?」


──地に脚を着ける前に、大剣を横凪ぎに振るった。
それは直前まで、ジャンヌ・ダルク30世という人間が存在していた空間。今となっては虚実であり空虚である、其処(そこ)。見事に両断された.45ACP弾は累乗数的に分散し、そのまま壁を抉り廻ってゆく。


「「斬った!?」」


背後でアリアとキンジが狼狽する声が聞こえた。
そう、それこそが最善手なのだ。とはいえ非常に高度な技量を要する芸当である以上は、それなりの実力者とみれる。
早期にこの闘いを終わらせられれば彼女としては僥倖といったところだろうが、そうは問屋が卸さないってところかな。


「アリア、キンジ。そんなことで驚いてちゃ、この先に対応できないよ。キンジはまだしも、アリアは……ね?」


身を半身だけ翻し、諭すように2人に告げる。
そしてまた、ジャンヌの方を向き直って、


「様子見だけの前戯は、これで良いだろう? 戯れもここまでだ。正直言って、俺たちは君に構っている余裕はないからね」


本心と挑発を僅かに織り交ぜたその言葉とともに、小さく溜息を吐く。眼前のジャンヌを一瞥すると、柄を握る手に青筋が浮かんでいた。アリアの挑発の時よりも、恐らく強い感情。
無駄にプライドが高いのだろう。今回だけは仇になりそうだ。
私情を入れた方が不利になる。自分はそう、思っているから。

《緋想》を手首で回しながら構え直す。
《明鏡止水》は今も継続中だ。ともすれば同時に、陰陽術の能力上昇も意味している。決めるならここしかないのだ。
今までは短期決戦で済んでいたが……恐らくジャンヌは、《魔剣》は、手強い。そう考えていいだろう。


「……そんな矮小な刀で、貴様に何ができると? ただの斬れ味の良い日本刀では、この聖剣デュランダルには敵わん。情報は確かに有力だが、最後に生きるのは、力ではあるまい?」


挑発を挑発で返したジャンヌの一言で──何かが瓦解していく音が聞こえた。何の音だろう、と意識を聴覚の一点に傾注させる。


「……大刀契の何を知って、君にそんなことが言えるの?」


外界から聞こえているのか。……否。それでは何処から?
自分の中からだ。脳内で、何かが崩れ落ちてゆく音色が。


「そもそもの話、恐らく君は──俺を過小評価しすぎている」
「……?」


本心と言わんばかりの疑惧の念を露わにして、ジャンヌは訝しんだ。自分の《策》に不都合が生じている。そう、類推しているはずだ。そしてその類推は、間違っていない。


「君は俺のこと、何処まで知っているのかな?」


脳内で不気味に響くその音色は、飽きを知らないほどに存在感を増してゆく。何が瓦解しているのか。もう、自分の中でそれに見切りは付いた。
だから、たまには、その感情に身を委ねても良いかもしれない。私情を持ち込むのも、突発的な感情に身を委ねるのも駄目だって、アリアに始業式のあの日の朝に、告げたんだけどね。

けれど、大刀契を揶揄されることだけは聞き捨てならないかな。


「如月彩斗という個人にとって、大刀契は決して遠縁にはなれない。何故なら元来は護り刀であり、一族の系譜を継いだ唯一の宝具であり、そして何より──」


言い、背後に控えているアリアを一瞥する。


「──この刀で、本当に護るべき存在を。……傷付けて護ってしまったようなものだから」


《緋想》の柄を握る手に、力を込める。
……恐らく、これ(・・)は長くは保たないし、そもそも発動するのは数年ぶりだ。この空白期間は致命的ですらある。
だけど、ジャンヌ・ダルクという名の策士を、策に溺れさせてやることくらいは出来るはずだ。


「だから、今回はキチンと護ってあげないとね」


大切な人を護れなかったあの時の、やり場のない感情をもう生み出すことがないように。そう願いながら、俺は諳んじる。
それは祝詞でもあり、呪詛でもある。使いようによっては他人を生かし、或いは殺めることも可能な代物。
始祖から代々と継いできた系譜であり、一族の集大成だ。


「消え惑ひ、振らむとするは浅緋(あさあけ)の──
──水紋の如きに、舞い廻る袂(きわ)」


 
 

 
後書き
この歌は単に直訳しただけでは、意味は分かりません。ただひとつ解読のヒントを列挙するならば──恋の歌ってことだね。

……そんなこんなで、今回も読んでくれてありがとう。評価や感想、お待ちしています。次回もお楽しみに! 

 

緋神の巫女と魔剣《デュランダル》 Ⅴ

 
前書き
※浅緋色とは朱色の仲間です。黄色がかった朱色を表します。

更新が遅れ、大変申し訳ございませんでした。私は生きてます。 

 
言葉は時にして祝詞でもあり、呪詛でもある。『言霊』とはよく言われたものだが、生殺与奪の権を手中に収めているのは、ある意味を以て、その発声者に他ならない。
それが何を意味するのか──詩であろうが、それが示唆するものは誰しも、朧気ながら察しがつくはずだ。


「ッ……!」
「……言ったろう、ジャンヌ。君は俺を過小評価している、と」


地下倉庫内の気が、秒針を噛む度に熱を帯びてゆく。
それは、たった一振りの日本刀に。焔を身に纏った、華奢な身軀であるというのに。そして、最も荘厳でもあるのだ──。
浅緋色の焔は時にして朱を纏い、時にして淡く揺らめく。


────《浅緋(あさあけ)の蛇蝎(だかつ)》


「陰陽術は、《境界》だけじゃない。我らが始祖、安倍晴明がどうして陰陽師たりえるのか──その理由が、《五行陰陽》だ。この焔はそのうちの1つ。君に渡そうと思っていた、切り札だよ」
「それを私に手渡すためだけに、わざわざ隠し持っていた……と。なんともご苦労なことだ。礼を言おう」
「ふふっ、どういたしまして」


ジャンヌには僅かな動揺が見られたようだが、これはこちら側にとっての大いなる好機。策士が読めなかった、ある種の奇策だ。
しても、挑発を軽く受け流してくれるくらいには、適応力の高い能力者とも言える。楽観論で済む相手ではなさそうだね。


「……ふむ」


《緋想》を構え、焼灼する焔の手応えを確認する。件の空白期間で少々衰えがあるかとも思ったけど……幸いにも、今は目に見えるほどではないね。これなら戦力としては十二分だろう。
アリアには勿論、キンジにも滅多に見せていない陰陽術──《五行陰陽》が、ここで日の目を浴びたということだ。

普段の生活や戦闘なら《境界》で事足りる。しかし、陰陽術がこのレベルまで達するのは、正直言って、異常だ。
……まぁ、相手は《イ・ウー》なのだ。理子は例外だけれど、本来ならこれがあるべき片腕なのかもしれないね。


「……油断、出来ないねぇ」


滾り、焼灼する浅緋のその奥を見据える。
──数多の謂われの残る、聖剣デュランダルを。それを統べる聖女、ジャンヌ・ダルクを。
そして、彼女の周囲を舞い纏う、氷霞を──。

チラリ、と後方を見やる。銃を携えている、アリアとキンジが視界の端に映った。自分の唯一の後方戦力。
……そして、どうあろうと護るべき存在でもある。ジャンヌが危惧しているのは、この2人なのだが。


「まぁ、些細なことか」


さて、


「これで終わらせようか。アドシアードは無事に開始させたいのでね。早朝からこうして相手してあげているんだ。それなりの対価は、俺たちが貰うからね」
「私は、貴様のその態度が気に食わないのだ。一杯噛ませたといって、果たしてそれが大いなるアドバンテージになるか? ……それはこれから、身をもって証明してくれるだろうが」


ふむ、そこまで言うなら、証明してあげようじゃないか。


「──さぁて、本番の開幕だ」


小さく深呼吸する。酸素が肺胞で融和して、血に乗って全身を駆け巡るその感覚が、嫌に明瞭に感じ取れた。
そんな奇怪な感覚を拭い取るために、片腕を掲げた──明らかに今までとは規模の比較しようもない《境界》が、ジャンヌの四方を包み込んだ。それらは、尚も累乗数的に展開されてゆく。


「……本気か、陰陽師」
「ふふっ、勿論だよ。──これだけの数、全てを消せるかな?」


指で鳴らした小気味良い音色が、この地下倉庫に木霊した。
虚空を切り裂いた《境界》は、その時空の歪みから仄かな朱を生んでゆく。初夏に散る陽炎のように揺らぎながら、残像とともにただ一点を目掛けて飛来していった。

刹那、轟音とともに視界が煙に包まれる──さて、どうなったものかと刀の切っ先を見据えた。
そして、僅かに気の緩みが見えたその隙に、微かな冷気とともに何かが頬を伝った。拭う手の甲には、水滴が付着している。
髪と頬に張り付くように、それらは滴下してきた。


「雨……?」


……いや、違う。これはスプリンクラーだ。
先程の弾幕は明らかな熱量を有していた。陽炎の立つほどだ。ともすれば、それによってスプリンクラーが誤作動を起こしたということになるが──はてさて、ではこの異常なまでの地下倉庫の室温(・・)の低さは、どう証明すればよいのだろうか。


「──迂闊に雨を降らせると、莫迦(ばか)を見るぞ」
「……なるほど、そういうことかぁ」


ふむ、合点がいったね──と内心で嘆息してから、俺は後方支援の2人へと指示を出す。「短期決戦で決めるよ」
そうして、2人は背いた。この現状をよく理解している。ジャンヌの『してやったり』というような言動からも明らかに、この攻撃は恣意的にさせられた(・・・・・)ことになるのだ。

ジャンヌが纏っていた氷霞を見れば明白なことだ。彼女は氷を操る。それは、間接的に冷気を操ることにも直結する。
こちらが放った弾幕は、恐らくあの氷霞を幾重にも結合させて造った防御結界ででも防いだのだろう。四方を囲まれて身動きが取れないはずなのだから、それ以外の方法は有り得ない。

彼女の狙いは、まさにそこだったのだ。熱量と陽炎、爆散したその熱気を利用して、つまりは地下倉庫内に設置されているスプリンクラーを利用して、広範囲に雨を降らせた。
一時的ではあるがスプリンクラーは作動し続ける。その間に素早く氷霞を煙に紛らせて拡散させれば、伝導性を持つ金属の壁や床は、瞬く間に冷却させられるわけだ。

直接的に地下倉庫全体を冷却させて室温を下げたことで、こちら側の体温調節機能を低下させ、運動能力も諸共に──ということだろう。あの一瞬で、彼女はここまで読みを入れていたのだ。

床を一瞥する。微かな霜が立っていた。
躊躇している暇はない。対抗策を練っている間にも、冷気はますます強まっていく一方だ。長期戦になれば、負ける。
この局面、どちらに耐性という名の分があるかは一目瞭然だ。だから、ここで決めに行く。質と数でなら、勝てるはずだから。

──煙は、いつの間にか晴れかけていた。剣を手にしたまま微動だにしないジャンヌの周囲には、輝石のように銀氷(ダイヤモンドダスト)が塵撒いている。その顔は、笑んでいた。
こちらに一杯やり返したことに対しての愉悦だろうか。……いや、何なのかは差し当たり分かることでもない。特に気に留めることでもない。やることはただ、1つだけ。

そんなところで、軽快なアリアの声が響く。


「寒いから早く終わらせましょ。季節外れもいいとこだわ」
「……うるさすぎってのが難点だがな、アリアは」


2人は何ともなしに、こちらに歩を進めてくる。
後方支援を頼んでおいたのに、何だかんだで我慢できずに来ちゃうんだね──と言いかけた口は、噤んでおいた。
アリアも《魔剣》ことジャンヌ・ダルクには私怨があるだろうし、ましてや幼馴染を傷付けられたキンジも尚更だ。この2人には、共通して思うところがある、ということなのだろう。

なるほどねぇ、と呟いてから、2人に警告する。


「それなら、アリアもキンジも。……今までは力を抑えてたっぽいから黙ってたけど、今からは銃は使わないでね」
「……ごめん」「……悪かった。忘れてた」
「まったく……。地下倉庫は名ばかりの火薬庫だよ」


「学園島の人間の生命がここに凝縮されていると言っても過言ではないよ。絶対に外さない自信があるならいいけどね」
付け加え、ホルスターに収めようとする2人に笑いかけた。
少なからず、俺は2人を信頼している。それに、本当なら銃を使ってもらった方が都合がいい。策は1つじゃないからね。


「それじゃあ、先攻」
「──ッ!」


縮地で間合いを詰めたと同時に、《緋想》を薙ぐ。ジャンヌから何か感情の凝縮されたような吐息が、洩れた気がした。
やはり焔に対しては意志を決めきれないのか、僅かに後退しつつも──その強靭な《魔剣》で跳ね返してくる。僅かな火花が散るに合わせて、空気中の氷霞が融けていった。

その威力を利用して1歩脚を引き、身体を低く構えて下段から斬り上げる。即座にバックステップしたジャンヌが逃げ切ったと見えたが、焔がさながら毒蛇のように牙を剥いて噛み付いた。
勢いそのまま、背後から軽快な38口径と重厚な45口径の銃撃音が鳴り響く。これこそが好期だ──というかのように、《明鏡止水》は視界そのものを明瞭に変貌させていく。

虚空を切り裂いて螺旋状に進む、2発の銃弾。それらは既にジャンヌの胴甲冑に狙いを定め、脇腹を穿つ寸前だった。
武偵法9条。武偵は致命傷を負わせることがどれほど危険か理解している。だからこそ、四肢や胴を目的として発砲するのだ。
その点、2人の銃技はやはり精度が優れている。ここで発砲したのは、どうにも自分に自信を持っていることの表れだ。

笑み、銃弾に焦点を合わせながら、策の名を口にする。


────《浜千鳥》


刹那、 銃弾の表面を幾重にも枝分かれしたような霹靂が覆い尽くす。虚空を千鳥のように鳴いて切り裂く様は、さながら一筋の迅雷のようだ。それが描いた軌跡でさえも、いまは見える。
ジャンヌは眉を顰めて訝しみ、なおも瞬時に氷霞を結合させ──前面に展開させた。

一面の防御壁で銃弾を避けるというだけでは、稚拙な解釈だろう。幸か不幸か、氷は絶縁体だ。これに尽きる。
銃弾は壁を穿つかと思われたが、その判断こそが稚拙だった。よくよく考えてみれば、焔の弾幕ですら無効化したのだ。銃弾ならば尚のことだろう、と思い至る。


「如何にも幼稚としか……。そうだろう、陰陽師」


結合した氷霞から2発の銃弾が虚空を伝って落下する。金属の床に触れると、澄んだ音を立てて鳴いた。
……恐らくジャンヌは、銃弾に対する対処法をある程度持っている。結合させた氷霞で壁を作り、更に冷気を流し込むことで瞬間冷却させてゆく──その僅かなタイミングを、見逃すことなく。


「やはり、強いね」


洩れ出た嘆息を諸共に掻き消す程の勢いで、ジャンヌはそれを具現化させて見せ付ける。先程よりも僅かに増した冷気の中で、氷霞は礫に変貌し、視認する暇すら与えずに頬を掠めてゆく。
──が、そんな擦り傷などはどうでもいい。決める時に決められない人間なら、何をやろうとしても、どうせ。
そんなことを思いながら、柄を握る手に力を込めた。浅緋色の焔は、息吹いたかのようにその首を擡げる。


「──《鳳仙花蔓(ホウセンカズラ)》」


緩慢と楕円を描く一振りは、ジャンヌには到底届いていない。
ただ虚空を撫でただけの浅緋は、さながら泡沫のように霧散するかと思われた。炎舞にもならぬそれは、そっと火の粉を散らしながら、はらりと揺蕩う──。
怪訝な雰囲気が立ち込めた刹那、ジャンヌの周辺を囲繞するかのように、文字通りの灼熱が覆い尽くした。

顕現された幾つもの鳳仙花は天井から棚引き、総じて焔を纏っている。妖艶な風を漂わせて、花弁を落としては靡かせていた。
蔓もまた意志を持つかのように緩慢と靡き、冷気の中で焔に浮かぶ陽炎の向こうを見据えている。

ジャンヌが息を呑む音が、はっきりと聞き取れた。
《浅緋の蛇蝎》にしろ《鳳仙花蔓》にしろ、やはり彼女についての情報を件の司法取引で得ることが出来た功績は大きい。そう胸中で理子に感謝しながら、意識をジャンヌに戻す。

それを合図に、顕現した《鳳仙花蔓》は炎舞となる。蔓は華奢な身軀を灰燼とすべく、或いは、鳳仙花は炎塵を降らすべく。
陽炎が虚空を創り出し、蔓は其処と実体とを穿つ。花弁は虚空に歪みながらも妖艶に靡き、或いは爆ぜた。
ジャンヌは聖剣で蔓を斬り、氷霞で炎塵を防いでゆく。《鳳仙花蔓》は留まることを知らず、防戦一方に追い込みさえする。

その動乱の中で、《境界》はジャンヌを捉えた。焼灼する《緋想》を彼女の首筋に突き付け、そっと背後に立つ。
前方は《鳳仙花蔓》のみではない。アリアとキンジも居る。そして後方を俺に挟撃されているこの状況は、どう見てもジャンヌの敗勢だ。それでも彼女は、闘志を横溢させていた。

それもそうだろう。ましてやジャンヌら一族は──源流は『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』から──焔への対抗策として、これら魔法を研究してきたのだから。どうあろうと、見聞に関してはこちらが不利だ。だから楽観論で適う相手ではないと、ずっと意識している。相対的にそれが、ジャンヌの闘志になるのだ。


「それで私を追い詰めたつもりか?」


何も変わらない、睥睨にも近しい声色で、彼女は冷嘲する。


「聖剣デュランダルに、斬れぬものなどない──!」


自らの矜持を、ジャンヌは確立させている。だからこそ強い。どんな状況下であろうと、矜持だけを松葉杖にして躍起するのだ。
そこに、かつてのオルレアンの聖女と呼ばれていた始祖の面影が、白昼夢のように揺らめいた気がした。

聖剣を彩る幾多の輝石は、焔の浅緋を映射している。やたら清澄に瞳に映っていて、それが自分に向けて振り上げられた刀身だと気が付く頃には、既に身を引いて躱そうとしても遅かった。


「──ッ」


紅血が舞い、声を上げて地に落ちる。ポタタッという乾いた鳴き声だけが、この地下倉庫の一帯に反響した。
首筋の皮膚を裂く艶かしい感触と、鮮血の吹出する感触とが、痛覚という一点に於いて綯い交ぜになって襲いかかってくる。

アリアの叫喚が距離よりも遠く聞こえた。靄が掛かったような脳髄を自分で無理矢理に晴らしながら、やはり漠然とした意識の中で、《境界》諸共にジャンヌから距離を置く。
この傷そのものは致命傷ではない。が──僅かにでも意識が《五行陰陽》の絡繰りから逸れてしまったことは、致命傷だ。


「……一筋縄じゃ、いかないね」


手の甲で血を拭いながら、枯れた《鳳仙花蔓》と、息絶えた《浅緋の蛇蝎》の残骸に向けて悔恨を吐く。
その隙を、防戦一方に置かれていたジャンヌが見逃すはずがなかった。彼女にとっては千載一遇の好機に該当るのだから。

甲冑を身にまとっているにも関わらず、初動は早い。氷霞とはまた異なる風を見せている銀氷が、彼女の周囲を取り囲んでいた。
それらは聖剣に煌く珠玉よりも珠玉めいた、秀麗な金剛石そのものに見える。金剛石の欠片が、舞踊っていた。

──また。まただ。つい先刻に揺らめいた白昼夢が、尚も執拗い蛇蝎のように纏わりついてくる。何故か意識が呆然としてきたのは、やはりそのせいなのだろうか。何かがおかしい。頭痛と、眩暈と、嘔気がする。平衡感覚が、狂っているみたいだ──。


「彩斗、馬鹿! 避けろ!」


キンジの狼狽の声に重なって、45口径の発砲音が聞こえた。それがジャンヌに向けて発砲された、云わば足止めにもならぬ足止めであったことに、今しがたようやく気付くことになる。そしてもう、《緋想》を構え直しても遅いだろうことにも、また。
彼女は既に、その聖剣の間合いに入っていたのだから。


「……莫迦が」


刹那、周囲の空気が急冷されていく。今までとは比にならない、氷点下ではないのかと紛うほどの、それ。
そうして、銀氷が勁烈に舞い始めた。氷霞のような可愛らしいものではなく、吹雪のように──全てを虚無に滅却させると暗に告げている気がして、寒冷か或いは憂惧のためか、身震いした。


「《オルレアンの氷華(Fleur de glace d' Olreans)》──貴様が枯らせた華は、私が新たに咲かせてやろう。それが貴様の死花だ。ここで銀氷となって、妖艶に散れ!」


袈裟状に振り上げられた聖剣デュランダルは、銀氷の吹雪の中で蒼玉を纏っていた。鋭敏なその切っ先は、先程と同じ、首筋を狙っている。これを避けられなければ、死ぬ。そう直感した──。

眩暈と嘔気で朦朧とする意識の中で、文字通り最後の力を振り絞って、《緋想》を握り締めた。
流動的だった時の流れが、次第に緩慢になる。視界と意識とが清澄に思えるこの感覚は、明らかな《明鏡止水》のそれだった。スローモーションになった世界を見渡して、安堵の溜息を吐く。

そうして目に付いたのは、まさに僥倖とも言える僅かな隙だった。ジャンヌ・ダルクという策士が策を遂行しかけた刹那に見せた、ほんの微細な、油断とも呼べないような隙。下腹部を覆う甲冑の噛み合わせから覗く白絹の下地が、銀氷に映射して見えた。

──次第に《明鏡止水》が解けてゆくその感覚を感じながら、限界を超えているであろう身体を酷使して、《緋想》の切っ先をその隙間へと滑らせる。下地の裂ける感触と確かな皮膚の感触とを指に伝わせてから、首筋に向けられた冷気を振り切った。

暗転する意識の中に見えたのは、天井に咲く、氷華だった。銀氷と蒼玉とを纏った、酷く清澄で妖艶な、死花に見える。
何故だか銀氷に混じって炎塵までもが舞っていて、浅緋と蒼玉の煌く様は、やはり本物の輝石のようだった──。 

 

緋神の巫女と魔剣《デュランダル》 Ⅵ

遠山キンジは、虚空に舞う奔流と、天井に咲いた氷華とを呆然と見つめていた。銀氷と蒼玉を花弁に纏った、酷く清澄で妖艶な──ジャンヌ・ダルクの言に従えば──親友、如月彩斗の死花。しかしキンジの目には、それが死花とは到底、映らなかった。


「有り得ない……」


目の前の光景を見て、感嘆を漏らさざるを得ない。
というのも、彩斗の首筋に向けて振り上げられた聖剣デュランダルは、彼の髪をはらりと舞わせただけの空振りに終わった。彩斗はそれを避けただけではない。奇跡としか思えないような芸当で──走りながら針の穴に糸を通すとしか形容できないような芸当で──ジャンヌの身に纏っている甲冑に生まれたほんの僅かな隙間に、《緋想》の切っ先を抉らせていた。


──だが、何かがおかしい。


その一刹那に彼の容態が異常だと察知したのもまた、キンジだった。ほぼ同時に異常に気が付いたアリアと顔を見合わせながら、何を言うともなく、2人で息を合わせて駆け出す。
《緋想》の柄を握る彩斗の手に、力は篭っていない。やがてそれすらも手から離すと、明鏡止水の様で鳴いた。

彼はつい先刻から態度が急変している。その原因が病がかったものなのか、それとも何か別の超能力じみたものなのか──真意を推量る暇もないまま、キンジはジャンヌに相対し銃を向けた。

その傍らでは、脱力に身を任せて昏倒しかける彩斗をアリアがすんでのところで抱き留め、前線から撤退させている。悲痛に塗れた叫喚が地下倉庫に響き渡ってゆく。抱えあげたその時の重量は、やはり、見掛けよりも重く感じてしまった。
瞼の裏が熱くなりかけている。弱気なんか見せちゃダメだ。そう自分に言い聞かせながら、素早くジャンヌと距離を置く。


──あと少し、あともう少しだけ時間が欲しい。


今の自分に出来ることは、如月彩斗を救うための時間を確保することだ。2人はそれを念頭に置きながら、教務科から来るべく増援を心待ちにしている──キンジは仇敵を眼光炯炯と見据えながら。アリアは愛し人の無事を祈りながら。

ジャンヌは片手で傷口を押さえつつ、痛苦に歪んだ表情ながらもなお、敵対するキンジを睨み付ける。身に纏っている甲冑の下腹部あたりから、紅血がとめどなく溢れ出てゆく。……まるで留まることを知らぬ感情が、顕現したかのように。


「ただの武偵如きが、小癪な……!」
「……ハッ、せいぜい痛罵してろ。そうして睥睨してればいい。ただの武偵と言うのなら、今すぐ俺を殺せばいい話だろうが」


だがな──とキンジは続ける。照準をジャンヌの首筋へ合わせると、引き金にそっと指を掛けた。指が、否。銃を持つ手そのものから、震えているのが分かる。手の付け根を押さえないといけないくらいには、身に現れていた。


……お前は何に脅えているんだ。私怨を晴らさなければならない、そもそもお前が白雪の後を追った理由は何だ──?


そう自分に言い聞かせながら、胸の内に、とぐろを巻く蛇のように渦巻く感情を感じていた。冷酷な、或いは獰猛な、自分でも整理が容易にはつきそうもない、そんな感情を。


「俺の仲間に負わせただけの痛みは、そのまま返してやる」


引いた人差し指は、やけに重厚感を孕んでいた。地下倉庫に響鳴する38口径の発砲音。いつも聞き慣れている音のはずなのに、どうしてこんなにも鬼胎の念を抱かねばならないのだろう。
背後で応急処置をしていたアリアが、突然の銃声に振り返る。
その瞳には僅かほどの焦燥が見えた。こんなことは予定にない、幾ら増援が来るまでの時間稼ぎにしてもやりすぎではないか──と、訝しげにキンジを見つめる。

しかし今のキンジには、そんな人目を気にする余裕など持ち合わせていなかった。最中に脳裏に響くのは、ジャンヌの疼痛が漏れた声。それを無理やり無視しながら、胸の内の感情に付ける名前を、何とか見つけている。ポタリ、と何かが滴下する音さえも、今では煩わしい以上に煩わしかった。


──あぁ、そういうことか。俺のこの行動は報復だ。ならばこの感情は、私怨か? 否、そんな生易しい感情ではないはずだ。
──怨嗟。強い怨みと怒りとが合わさった感情、か。


その語感が馬鹿馬鹿しいほどに脳髄に浸透していく。靄がかかっていたはずの胸の内も、もう晴れてしまった。


──あぁ、どうにも納得がいった。それならもう、ジャンヌを放っておく必要はないな。彩斗の処置もあるし、何より……。


そこまで考えを巡らせてから、キンジは片腕を掲げる。

彼の視界に映っているジャンヌに、もはや戦意やら闘志というようなものは残っていない。頽れる様に浮かぶのは、ただ自らの未熟さと悲運を嘆く感情ばかりで、そして何より、遠山キンジというただの武偵に追い討ちをかけられたその事実こそが、辛抱いかなかった。滔々と流れ出る紅血を、呆然と見遣っている。

──刹那、キンジとジャンヌとの間に煙幕が張られた。背後で隠密待機していたらしい何十もの人間の気配が、一気に増えてゆく。心待ちにしていた教務科の増援が来たのだ。
煙幕はすぐに晴れた。最前線に居るキンジが率いているのは、蘭豹や高天原ゆとり、綴梅子や南郷──少なからず見識のある教務科の面々を始め、強襲科の少数精鋭。待望の救護科も居る。

ようやく見えた勝ち筋に安堵の息を吐きながら、キンジは幾重もの感情を整理させていく。僅か数歩の距離を歩み寄ると、懐から手錠を取り出した。その手はもう、震えていなかった。
そうしてジャンヌと目線を合わせ、簡潔かつ冷淡に告げる。


「──お前の負けだ、《魔剣》」

 
 

 
後書き
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幽香、前梅雨に香る

白雪は触れるベッドシーツの感触を心の何処かで楽しみながら、見舞いに来た幼馴染の顔を見上げて嫋(たお)やかに笑んだ。その幼馴染──キンジも微笑して傍らの椅子に腰掛ける。
時計の短針は7を指していた。換気のためか開かれた窓硝子からは、前梅雨の暖かな朝方の空気が流れ込んできている。東京湾の潮風も、仄かに香っていた。


「調子はどんな感じだ」
「あの後、すぐに救護科の人たちが解毒剤とか打ってくれて……。とっても行動が早かった。もう大丈夫です。致死性のものじゃなくて、一時的に五感に異常をきたすものだって」


そこまで言い終えると、白雪は言葉を次いだ。


「ねぇ。なんでキンちゃんは今、平気なの?」
「……分からない」


白雪の告げた言葉の中に含まれた意図を察しながら、キンジは仕方なく頭を振る。嘘ではなかった。本当に分からないのだ。
確かに毒を受け、一時は敗北やら死やらをも覚悟した。ただ今は、救護科や衛生科の有望者はおろか、医者でさえ首を捻る様を目の当たりにして、キンジは自分の身に起きた異変が、どれほど異変足り得るのかを改めて自覚したわけでもある。

とはいえやはり、あの時の感覚──単なる拍動とはまた別の、あの妙な脈打った感覚に、何かしらの違和感を覚えてはいた。体感的にはあのあたりからHSSが発動された、と類推している。βエンドルフィンのおかげで鎮痛作用が成されたのかもしれない。だが、その巡り巡ったはずの毒が殆ど無毒化されていたその理屈については、誰も分からなかった。

しかしキンジにとって疑問なのは、その引き金を介していないにも関わらずHSSが発動された、その事実だった。身体能力はいつもより増加していた。それは分かる。反面、思考力が僅かに低下しているようにも思えていた。何故……?

HSSに派生系があるというようなことを、キンジは生前の兄から聞いていた。もしかしたら、それなのかもしれない。兄亡き今、果たして誰に聞くことが出来ようか。実家の祖父に聞くしかないのだろうか。巡り巡る考えを纏めながら、溜息を吐く。


「まぁ、白雪さえ無事なら俺はいい」


その言葉の裏で、一概に無事とも言えないな──とキンジは目を伏せた。何しろ、自分は白雪を護るために赴いたのだから。
『せいぜい毒に侵されるがよい。死にはしないが、苦痛の対価として自分の無力さを知ることができる』
そう告げたジャンヌの声が、脳裏に張り付いていた。

自分は無力、なのか……? 相手が《魔剣》だから、武偵は超偵に勝てないから、無力ではない。そんな理屈を罷り通すようなことはしたくない。免罪符に縋って生きる人間なんて、結局はこの世俗の最下層、寄生虫のような人間ではないのか。俺は寄生虫にはなりたくない。自分が弱かったから、護れなかった……。


「キンちゃん、どうしたの? ……そんなに怖い顔しないで」


わざわざ上体を起こしてまでして、白雪はキンジの顔を窺った。瞳に映るその事実がとても情けなくて、浅ましい。
とはいえこのまま、白雪を護れなかったという事実からも目を逸らして生きたくはない、ともキンジは思った。だから──と決意し、ベッドの上で足を崩している幼馴染の瞳を見据える。


「お前に、謝らなきゃいけないことがある」
「……謝らなきゃいけないこと?」


白雪はさも不思議そうに小首を傾げた。婉美な黒艶の髪の毛が、虚空を掻き分けて撫でてゆく。描いた稜線が彼女の胸中を暗に告げていた。示唆されたそれに、キンジは見向きもしない。
ただ、自分の思いの内をどうにか伝えようとすることだけに躍起になっていて、その他はどうでもよかったのかもしれない。


「勝手な俺の独断でついて行った上に、あの時、《魔剣》からお前を助けてやることすら出来なかった。本当に申し訳ないと思ってる。……俺が弱かったから、白雪を護れなかったんだ」


途切れ途切れだけれど、思いの文句と一語一句違わずに、確実に、伝える。そうして、白雪の反応がどうであろうと、伝えることは出来た──この充足感を抱いた途端、締め付けられていた胸の苦しみが、少しだけ和らいだような気がした。
白雪はそれを聞くなり、キンジにも分かるか否かのところで、そっと目を伏せる。前髪に隠れた瞳がどんな感情を含んでいたのか、果たしてキンジに分かったろうか。そうして、いつもの風体とは異なった──凛とした目付きになると、諭すように告ぐ。


「キンちゃん、そんなこと言っちゃダメ」
「……?」


おっとりした声は普段と変わらない。ただその中には、キンジの何かしらを案じるような、或いは何かしらを正すような意図──慈愛にも似たような色が、混じっていた。


「完璧な人間なんてこの世に存在しないはずだよ。ちょっとした取っ掛りで人の心を傷付けちゃうことは誰にだってあるよ。それと同じ。何であっても絶対に失敗しない人なんて、いません。
キンちゃんはキンちゃんでいいんだよ。遠山キンジでいいの。別に完璧じゃなくたっていいし、最強じゃなくたっていいの。別に背伸びする必要なんてないんだよ。失敗を悔やんでるだけじゃ、きっと、どうにもならないから……。……完璧な人よりも、最強の人よりも、本当に価値のある人はね、失敗してもそれを糧に立ち直れる人だと私は思うんです。それが出来ないキンちゃんじゃないもん。失敗の1つや2つ、気にしないでいいんだよ」


一語一句を噛み締めながら、キンジの瞳をじっと見据えて、白雪は思いの丈を全て吐き出した。気恥しそうな笑みを零しながら、
「私なんかがこんなこと言っちゃって、ごめんなさい」
と慇懃に頭を下げた。前髪に隠れる寸前の白雪の目は、心做しか笑っているように、キンジには思えた。


「そう、か……」


今まで胸の内に燻っていた靄は、同じものだったのかもしれない──そうキンジは思い至った。《魔剣》と相対していた時に見付けたあの怨嗟という感情が、靄の原因だったのだろう。
白雪を傷付けたことに関する、怒り怨み。果たしてそれが彼女だけに向けられたものであるのかと自問すると、自分にも向けられたものに相違ないと自答した。

そうして、白雪の言葉を反芻した。それが不思議なくらいに自分の荒んだ胸の内に浸透していって、見る間に治癒していく。
これは愛情とはまた違った、慈愛めいたもの。自分にも存在価値があるんだということを、真っ向から肯定してくれたもの。
この言葉は、星伽白雪しか言い得ない。まさに唯一無二だ。そう自覚した途端に、何故だか笑みが込み上げてくる。


「何だか説法で救われた気分だ」
「説法だなんて、そんな……畏れ多い……。うふふ……」


照れ隠しに手を振って否定する素振りを見せながら、白雪もつられて笑みを零した。自分のちっぽけな言葉でさえ人を救えるのなら本望だ──ましてやそれが恋慕している幼馴染なら──と思いながら、2人で顔を見合わせていた。


「本当は、かなり気に病んでた。でもお前がこう言ってくれて少し安心した。ありがとな。もうこの事は気にしない。事件も一段落着いたことだし、反省するところは反省して前を向く。それでいいんだろ? 俺にとっても、白雪にとっても」
「うん……、うんっ。そうだねっ!」


ご機嫌そうに何度も頷く白雪を見ながら、これで良かったんだな──とキンジは安堵した。憂慮があるとすれば親友の安否だが、彩斗なら大丈夫だろう、と即座に結論を下す。キンジが小耳に挟んだ限り、どうやらアリアがずっと付きっきりのようで、改めてあの2人の関係の深さを思い知らされた。

……ふと、葛西臨海公園で花火をした日のことを思い出した。
『……あと。あと、1つだけ。お願いしても、いいですか?』
この時の幼馴染の声は、震えていたように記憶している。
『……これからも──私だけを、見ていてください』
あの時は、これが意味するものは1つだけだと思っていた。いま思えばそれは、迫り来る《魔剣》の恐怖に耐えかねた、星伽白雪という小鳥が零した本音でもあったのかもしれない。

《魔剣》無き今は、果たして自分に何が出来るだろうか。それでも、白雪のあの言葉に応えてやることくらいは出来るはずだ。
気恥しさを堪えながら、目の前に座る彼女を見遣る。


「だから、これからは──お前のことだけ見ててやる」


前梅雨とも潮風とも違う幽香が、頬を擽っていった。 
 

 
後書き
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梔子とぺトリコール、紅涙

 
前書き
午後7時に更新するはずだったのに忘れたバカは私です。誠に申し訳ございません。() 

 
次に目を覚ました時に見えたのは、見慣れない天井だった──と表現するのは些か愚直だろうけれども、今の朧気な自分の頭では、それくらいしか思い浮かばなかった。
指先を這わせて、その伝ってくる感触を思うに、どうやらベッドに横たわっているらしい。視界の端には、キャビネットやらテーブルソファやらが見える。

自分やアリアの部屋でないことは確かだった。少しだけ開かれている窓の隙間からは斜陽が差していて、この目線からは、紫金に染まった千切れ雲が揺蕩っていた。黄昏時のぺトリコールが、東京湾の潮風に乗って鼻腔を擽ってゆく。
傍らではアリアが椅子に腰掛けながら、何やら物憂げな風にこちらを覗き込んでいた。赤紫色の瞳に浮かんでいるのは……?

その瞼に浮かぶものが何なのかを察する暇も無いまま、不意に、ぎゅっと胸が──上半身が締め付けられる感覚がする。ぺトリコールに混じった梔子のような香りも、嗅覚を蕩かせていった。
空を舞ったアリアの髪が頬を擽っていく。首に回された華奢な腕は、心做しか震えているように思えた。顔は胸元に埋められていて見えない。ただ、泣いていることだけは直感的に分かった。


「……らしくないね」


苦笑しながら、乱れている髪を手櫛で整えてやる。『アタシは絶対に泣いてない』とでも言うかのように──アリアは僅かに、かつ、珍しく弱気な風に頭を振った。
……あとはただ、何かしら感情の凝縮された嗚咽を堪える声だけが洩れていて、そうして、この空気に融けていくだけだった。

首筋の温もりに身を預けてしまっている。夢見心地の中で、何分くらいこうしていたろうか。射し込んでいた斜陽の大半がここに留まるのを退屈に思うくらいには、時間が経ってしまったようだ。影が紡ぐ黄昏時の集塊に、こうして2人で呑まれている。


「…………良かった」


咽喉の奥に纏わりついていた嗚咽はもう、聞こえない。絞り出されたアリアの声は、今にも手折られてしまいそうな路傍の花のような儚さと──一点の穢れもない胸の内だけを、内包していた。
そこに改めて、如月彩斗と神崎・H・アリアという少年少女の掛り合いの強固さを思い知らされる。不器用な子供が結んだ糸のような、解きたくても容易には解けないような、そんな関係。

「……心配かけて、ごめんね」そう言おうとしたけれども、吐息が洩れるだけで、思うように声が出せそうにない。伝えたい言葉は咽喉にまで来ているからこそ、もどかしいのだ。
──そっと、アリアの肩を抱き返す。歳相応の少女の華奢な身軀は、力加減さえ間違えれば瓦解してしまいそうだった。内には、あの温もりと同じものを秘めている。そして、その確かな温もりが、衣服を隔てたすぐそこには存在していた。

アリアが抱きしめられた時の、動揺と羞恥が入り交じった、身振るいめいた──肩が跳ねたあの余韻が、まだ残っている。鼓膜を震わす蠱惑的な吐息だけが、虚空に霧散していった。
その中に、自分の心臓が早鐘を打っているのが聞こえた。自分に聞こえているのだから、この鼓動は、きっと──アリアにも、きっと、聞こえているのだろう。今の自分の脈搏は、忙しなく100以上を打っているに違いない。そう確信した。


「……ねぇ、アタシの脈搏(プルス)って聞こえてる?」


徐にアリアは顔を上げた。暮れた斜陽を背に浴びながら、赤紫色の瞳を、逆光の中で返照させている。吐息が直に伝わってくる。
こうして見詰め合うのは、果たしていつぶりだろうか。アリアの顔を見るのも、なんだか久しく思えた。悪戯的な笑みのその内に、羞恥を押し込めたような色をしていた。


「聞こえてる。キチンと」
「……アタシも、聞こえてるから」



この一言二言で、問いの真意を推量ることは、出来た。こと彼女にしては、どちらかと言うと抽象的な気もする。
要するにアリアは、脈搏を通して自分の感情を伝えたいのだ。一種のローマンチックめいた、在り来りな方法で。

密着な衣服を隔てた間近に、周期的に身体を震わす拍動が、今も聞こえている。やはり100以上を打っていた。
そうして、なかなか翳りを見せない歳相応の少年少女の恋情のような──何故だかそんな風に、思えてしまった。

とはいえ、とりわけアリアが自分にそんな感情を抱いている……とは分からない。好意的に思われていることは間違いないけれど、どの段階での好意的なのか──友人か、親友か、パートナーか、異性か。そんなことすら気にしていないかもしれない。それなら単なる『羞恥心』として区切りを付けた方が簡単だろう。


「ねぇ、今こうして抱き締めあってるけれども──」
「……分かってる。恥ずかしいよ」


「でも」と次ぐ最中に、息を呑む音が聞こえた。


「──でも、嬉しかったから」


刹那に抱いた感情は、もう名前を知っている。そうして、この子は何処まで可愛らしいんだとさえ思ってしまった。
窓硝子から見える、この黄昏時の五月空のように果てがなくて、あの揺蕩う千切れ雲のように奔放で、時折見せる常花のような仕草に──やはり何度も、惹かれているから。

だからこそ、彼女の運命が昏れ往く黄昏のように、或いは霧散する千切れ雲のように見えて仕様がないとも、思ってしまっている。路傍の折花にも似通ったそれが、アリアの背に乗っかっていて、いずれ自分が手を伸ばそうとも伸ばし切れないままに、泡沫を掴んでしまう──それがどれほど怖いことなのか、分かろうとする以上に分かりすぎていた。夕冷えにも似た感覚が、震懾に、背のあたりを這いずり廻らせていた。


「アリアの前を、自分から去るようなことはしない。絶対に」


黄昏時の集塊に爛々と浮かぶ、赤紫色の瞳を見据えながら──今の自分は、どうやらこの夕冷えをあの温もりで消そうと躍起になっているらしいことを、ようやく自覚した。
アリアとも自分のものとも分からない温かな体温が綯い交ぜになっていて、熱情的とも温和的ともつかない感覚を、感受した。


「約束は最後まで守るつもりだからね」


言い、自分の顔が穏和に笑んでいることだけを願いながら──或いは、その言葉の裡面に渦巻く感情をなるべく悟らせないようにすべく──磊落な調子で二の句を次いだ。


「もう少しこうしていたいところだけれど、本筋に行こうか」



◇



病室の白色灯に降られながら、緩慢とした動作でテーブルソファの一角に腰掛ける。病院着のガウンが小さく衣擦れていた。
テーブルを挟んで向かいに座っているアリアからは、まだ、何かしらの憂慮の念は拭えていないようだった。


「調子はどうなの?」
「大丈夫、もう普通だよ。……まぁ、疲労感はあるけどね」
「……ここぞとばかりに見栄張って、無茶するからよ」


呆れたように呟いたアリアは、小さく溜息を吐いた。その動作に呼応するように、髪先がしゃらりと遊んでいる。


「まぁ、空白期間だけの副作用は覚悟していたけれど……」


「この機会だから改めて説明した方がいいね」と苦笑する。「でもその前に、ちょっとお水が欲しいかな」
アリアは小さく「あ、そっか」と呟くと、キャビネットの隣に備え置かれていた小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
受け取ろうと持ち上げた腕が心做しか重い。それでも何とか手に握りしめると、キャップを回して咽喉へ運ぶ。

それにしても普通の病室に冷蔵庫などはあったろうか。病院にはさほど世話になったことがないから分からない。ただ、広さにゆとりのある個室という点を見れば、少々優遇されているのかな、と思った。アリアが手回しでもしてくれたのだろうか。


「ありがと。なんか喉が乾いてたみたいだね」
「今朝から夕方まで寝っぱなしだからよ。原因は、先生(ドクター)は疲労だろうって言ってたわ。陰陽術のことは言わなかったから、それが原因なのかアタシには分からないけど……」
「うん、それで正解ってところかなぁ」
「何よそれ。あまり褒められた気がしないわね」


不満そうにツインテールの先を指で遊ばせながら頬を膨らませて、アリアはわざとらしく拗ねてみせた。さながら歳相応の子供のようで、それがとても愛らしく見えてくる。
そんな風をおくびにも見せず、言葉を次いだ。


「いつだったか白雪も言ってたけど、超能力者には能力の発動媒体でジャンル分けがされてるんだ。俺は、簡単に言えば体内の『氣』を媒体にしてる。もっと分かりやすくすると、霊力みたいなもの。ゲームとか漫画の設定だとMPって呼ばれるのかな?」
「MPが切れたら魔法が使えない……みたいな? でも彩斗は今までずっと陰陽術を使ってたじゃない。それが切れた時に今回みたいな疲労感とかは無かったの?」


さも興味ありげな様子でアリアは身体を乗り出した。恐らくは自分なりに考えようとしているのだろう。人差し指を口元に当てがいながら、何やら思案げにしている。
しかしアリアの言う通り、確かに自分は今まで《境界》や《明鏡止水》を使っていた。しかし今回は、《五行陰陽》さえも発動している。そこが普段と今回の違いだね──と頭を振った。


「如月彩斗という人間が持っている氣の量なら、《境界》や《明鏡止水》程度は大した影響は無いというだけの話だったわけだね、今までは。ただ、今回は違った。それらに加えて《五行陰陽》を酷使するということは、それだけ氣──MPを消費してしまったということだ。全てを使い切ってしまうほどにね」


分かりやすく例えてみせれば、


「言うなら、全速力で数キロ走ったあとは疲れるでしょう?」
「……そうね。呼吸も整わないし、苦しいもの。酷い時には酸欠で倒れちゃう人なんかもたまに見掛けることがあるかしら」
「その状態が『MPを使い果たした』状態だね。そして、『酸欠で倒れちゃう』ことが今回の結果を示しているわけだ」


だから、と一拍置く。


「この結果が『空白期間だけの副作用』であり、昏睡してしまった原因なんだよ。副作用と言ったけど、要は自業自得」
「その副作用っていうのは治らないの?」
「……いや、そんなことはないかな」


副作用は初見では対処しきれないこともある。が、自業自得という語を敢えて選んだからには、改善していく方法も勿論ある。


「筋トレと一緒だよ。氣の量は個々人でほぼ一定だと考えていい。何の鍛錬も積まずにその中の8割を消費するのと、ある程度の慣れを会得してから8割を消費するのとではまったく感覚が異なるのは分かるね? だから、これから必要なのは、いわゆるリハビリだ。感覚を取り戻さなければいけないわけ」


そうして自分は、それを怠っていたのだ。無味乾燥な日々に何が起こるとも思わずに、知らず知らずのうちに、誰の目にもつかないような奥底に仕舞っておいてしまったのだ。
武偵高生という肩書きを得てから、どうやら自分は本来の地位を忘れてしまっていたらしい。在るべき本家の由縁を。

言い、苦笑する。「どうしようかはまだ決まっていないけれど、まぁ、ある程度の伝手はあるからね」
小さく瞬いてから、窓硝子の外に流し目をする。茜と紫金に染まっていた東京湾も、今はすっかり藍に暮れていた。屋形船らしき灯りが、惘々と浮かんでいるのが見えている。窓硝子に映写している赤紫色の瞳は、やはり、爛々としていた。


「ところで、《魔剣》──ジャンヌ・ダルク30世の以後は?」
「後処理も任せて尋問科の綴先生に引き渡したわ。『こりゃ尋問しがいがあるなァ』って笑ってて……。ふふっ、割と怖かった」


アリアは人差し指で口の端を上げてみせた。「こんな感じで笑ってたのよ、怖いでしょ?」と楽しそうに告げる。確かに怖そうだ。さぞかし尋問科にお似合いな猟奇的な笑みだったのだろう。
しかし尋問科の綴と言えば尋問の天才だ。その点に於いては彼女に任せるのが最善手だろう。あとは結果を待つだけだ。司法取引の素材としても充分な価値はあるね。


「……あ、そうだ。白雪の容態はどう? 毒が心配だったけれど」
「理屈としては簡易な毒で、解毒薬を準備するにはそんな時間掛かってなかったみたいよ。今はまだ静養中。でもキンジが様子見に行ったらしいから、もう大丈夫じゃないかしら?」
「そう、特に大事にはならなくて良かった」


一連の騒動で、改めて、星伽白雪という少女の存在の、如何に《イ・ウー》にとって都合が良いかを再確認させられた。研鑽派と主戦派の両派閥、どちらに転んでもそれ相応の益があるというのは──やはり『金剛石の素』と暗喩せざるを得ない。
そうしてそれは、同時に、理子の助力があったからこそ得ることが出来た。如何に希少価値の高い情報であったかは明白だ。

ともすれば次に行うことは決まっている。新たな素材を得た今、自分にもアリアにも、どちらにしても益をもたらす結果へと繋ぐただ1つの過程が、《イ・ウー》へ近付く最短距離だ。
同時に、理子はその道を歩くにあたって忠告もしていた。『まだ手出しはされないだろうけど、気を付けてね?』と。

あれは、理子が形式上とはいえ逮捕された時の話だ。今とは全く状況が異なる。理子に次いでジャンヌまで捕らえられた、あまつ司法取引を行うことは明白だ──そんな《イ・ウー》の心境を察すれば、本当に殺されかねない。彼等彼女等の道を阻むことで。

これからは動向にも慎重さを見せた方がいいね──と、ある程度の結論を出してから、ペットボトルの中身で咽喉を潤す。あれこれと考えていた脳内も、心做しか澄んだ気がした。
「じゃあ、最後の問いね」と切り出していく。


「アドシアードは無事に終わったかい?」
「生徒会長の白雪は急病で出席不可、って扱いになったわ。その代わりに副生徒会長が上手く回してくれたから大丈夫よ」


「まぁ、困ってたのは白雪を目当てにリポートに来てた取材陣と一部の一般人くらいかしら?」そうアリアは続けた。
不満気に「美人な子が好きなのは分かるけど……」とも洩らす。苦笑しながら東京湾を見つめているその瞳が、どうにも彼女には不似合いでしょうがなかった。どんな感情を抱いているのかという予想を、あらかた付けてしまっているからこそだろう。


「……君が何を思っているのかは分かりかねるけれども──ほら、百人百様、千差満別。人それぞれ良いところはあるからね。それが同じこともあれば違うこともある。白雪が持ってないものをアリアが持ってるかもしれない。逆もまた然り。あんまり気にする必要なんてないよ。そのままで十分に魅力的だから」


『これは慰めでもなんでもなくて、本心だからね』と、そんな意図を裡面に秘めながら告ぐ。つい先程まで藍に暮れていた赤紫色の瞳が、今は白色灯に照らされて爛々としていた。


「……そっか。ありがと」


やっぱり、この子にはこれがお似合いなのだろうとつくづく思う。五月晴のような磊落な笑みと、気位に満ちたような声色と、他にも──1つでも欠けていたら、何か物足りない気がした。


「ともかく彩斗が無事で良かった。これに懲りたら、もう格好付けて見栄を張らないこと。いい?」
「だから、見栄張ってないって……」
「ゴチャゴチャ言わないの。でもまぁ、彩斗も見るところ、明日にはもう帰れるでしょうし──」


すぅっ、と1拍の間を置く声が、アリアの咽喉の奥から漏れ出た。それはさながら、いつもの磊落な彼女のようで、か弱い少女のようでもある。そんな中途半端な風だった。


「──それならアタシが先に帰って、待っててあげるから」


何故だか落ち着きのない感じで口早に言い残すと、アリアは小走りに病室の扉へと向かっていった。 忙しそうに取手に手を掛ける姿が、どうにも愛らしく思えてしまってしょうがない。
忙しない自分が何かを言い残したことに気が付いたのか、彼女は扉を閉める直前に、その隙間から苦笑混じりに笑いかけた。


「それじゃ、ちゃんと安静にしてるのよ」
「ありがとう。アリアも家路は気を付けて」
「うん。バイバイ」


お互いに扉を挟んで手を振って、振り返した。

もう1度、窓硝子のその向こうへと目を遣る。藍に暮れた五月空には、人知れず端白星が瞬いていた。そうして東京湾は、その藍より深い藍色だった。深淵を覗き込んでいるような、そんな錯覚に襲われる。泡沫のように浮かぶ屋形船の朱灯篭だけが、唯一の救いだった。あとは、全面に零れた藍のインクのせいだろうか。あの泡沫が、どうしても赤紫色に見えてしまっていた──。 
 

 
後書き
待たせましたね。(白目) 

 

最高に最低な──救われなかった少女 Ⅲ

「あの……えっと、如月彩斗に面会するのって大丈夫ですか?」


武偵病院の受付カウンターは、峰理子の身長にしては少し高めだった。爪先立ちで喋ると、喉が何故だか締まってしまう。……いや、もしかしたら、柄にもなく緊張しているのかもしれない。
そんなことを気にしいしい、片手に握ったミニブーケを落とさないことに意識を傾注させながら、受付員の返答を待っていた。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「理子。峰理子です」
「はい、峰理子さまでございますね……」


受付員は理子の名前を復唱すると、何やら手元の名簿を確認しながら何処かに電話を繋げている。彩斗の管轄医だろうか。
理子が俄に聞いたところでは、今朝の騒動後──アリアらが彩斗を武偵病院に搬送した後も、そうして処置を施した後も、彼は依然として意識を取り戻していないらしかった。
そこまでの動向までしか、理子は知らない。


──うぅん、大丈夫かな……。断られたりしないかな……。


こうして待っている間も、気が気でない。この感情を紛らわせるかのように、制服の裾やフリルに指を触れさせていた。
片手に握っているミニブーケの包装紙は、恐らく持ち手の部分だけがしわくちゃになっていることだろう。
今の脈搏は100以上を打っているはずだ。
そんな取り留めもないことばかりを幾度も幾度も思い付いてしまうくらいには、今の理子は平静ではなかった。

実を言えば、こうして面会を申し入れることさえ躊躇していた。
勢いに任せてフラワーショップで彩斗を見舞うための花を買ったはいいものの、いざ赴いた彼女の頭の中は、彼との面会の可否を予想するだけで満杯だったと言ってもおかしくない。

何度も決意を固めたつもりが実は未だに固まりきっていなくて、凝固しかけた液体のような曖昧な意志が、ある種のタイミングによる気まずさとなって理子の決意を幾度も瓦解させていた。
そんなわけだから、ロビーの椅子でかれこれ30分はミニブーケを片手に悶々と考え込んでいたのである。


──まぁ、面会が出来るか出来ないかなんてどっちでもいっか。あっくんともう会えなくなるわけじゃないんだし……。


そこまで考えを至らせてしまうと、たかが30分とはいえ、予想ごときに時間を費やした自分の軽躁さを呪いたくなってきた。
人の気を引かない程度に、理子は溜息を吐く。この姿を彩斗に見られたら、彩斗は『らしくないね』と苦笑するだろうか。『君は君らしく振る舞ってなきゃ、つまらないでしょう』とも。
我ながら、如何にも彼が言いそうな言葉だなぁと思う。自分で創作した妄言なのに、何故だか救われてしまった気がした。


「──お待たせしました。面会は大丈夫とのことです」
「あ、はいっ。ありがとうございます」


いつしか通話を終えていたらしい受付員の言葉に、理子は慌てて我に返る。彩斗のことを考えていたら、ほんの少しの待ち時間ですら上の空だ。何をやっているのだろうか、と自分自身に問答した自分ですら呆れ返ってしまうほどの馬鹿さ加減だった。頬はおろか、耳まで火照っているように感じてしまう。

ホント、なんでこうなっちゃうかなぁ……と呟きながら、理子は逃げるようにロビーから去る。そのままエレベーターホールまで足早に向かうと、意味もなく上りの矢印を連打した。
『──ドアが開きます』
ほどなくして開いた扉に、歩を進める。乗降者は自分以外に居ない。入院病棟のある最上階を行先に指定すると、あとは勝手に連れていってくれた。身体が浮くような、独特な感覚がした。

備え付けられている鏡越しの自分と、ふと視線が合う。艶美な金髪が気流に靡いて揺れ、或いは幾重にも弧を描いていた。
そうして知らず知らずのうちに、自分の顔がほころんでいたことに気が付く。誰かに『楽しそうだね』と言われてしまいそうな、実に平和的で穏和な自分の笑みを、理子は見詰めていた。

人差し指で口の端を上げてみる。そこに居るのは、いつもの自分だった。無邪気で軽快に笑う、誰もが知っている、自分。
「えへへっ」なんて、子供のような笑みが零れた。……そうだ、これでいいんだ。溜息なんて吐かなくても。これが理子だから。理子は理子らしく振る舞ってないと、つまらないもんね。


「それじゃあ、行ってくるねっ」


鏡越しの自分に、手を振りながら笑いかけた。



◇



エレベーターホールから彩斗の病室まではすぐだった。表札には如月彩斗と書かれている。ここで間違いない。
理子はミニブーケを大事に抱えながら、小さく深呼吸する。扉の向こうから話し声はしないように聞こえる。前髪を簡易的に指先で整えると、「よしっ」と小声で呟きながらノックした。


「はぁい、どちら様?」


聞こえてきたのは、いつもの彩斗の声だった。暢気で、どこか間の抜けたように聞こえてしまう。それでも聞き慣れた、この声。
どうやら意識は取り戻したらしい。その事実に安堵しただけでもまた、口元が緩むのを理子は感じていた。せめて間抜けな顔だけはしていませんようにと願いながら、そっと扉を開く。

病室に備え付けてあるらしいソファーに、彼は背を預けていた。病院着として羽織っているガウンがお似合いに見えてしまったのは、それが絶妙にゆとりのある大きさだったからだろう。和服を着たら似合いそうかも、なんて考えも理子の脳内に過ぎる。
来訪人の姿を視界に留めたらしい彩斗は、意外に面食らったような顔をした。それでもどこか嬉しそうに、笑いながら問う。


「あれ、理子じゃない。どうしたの」
「えへへ、お見舞いっ。お花も持ってきたんだよー!」
「ふふっ、わざわざ……。そうかぁー」


ミニブーケを彩斗に見やすいように掲げる。やっぱり買っておいて良かったなぁ、と理子は心の奥で安堵した。
そうして「まぁ、取り敢えず腰掛けて」と勧められるままに、彩斗の向かいにあるソファーに背を預ける。ミニブーケを手渡すと、「どうもありがとう」と笑みを零してくれた。


「白百合に、薔薇に……。んー、これって何の花?」
「アンスリウムっていうの」
「アンスリウム。へぇ……」


理子が手渡したミニブーケには、どうやら彩斗の見慣れない花が入っていたらしい。それは真っ赤なアンスリウムだった。アンスリウムを基調に、濃紅色の薔薇と白百合との色合いが絢爛な紅と白の対比になっている。たった1本のアンスリウムと、7輪の薔薇、それを囲む白百合。「理子らしいね」と彩斗は呟いた。


「この花は全部、理子が選んでくれたの?」
「うんっ、フラワーショップの中を回って見てたの。あと、なんかこう、アンスリウムだけは凄く印象的だったんだよねぇー」
「直感は大事にした方がいいよ。そう思ったってことは、思ったなりの理由があるんだろうから。まぁ、困った時は従うのも間違いではないだろうけどね。たとえそれが、自分の説明出来ないようなことでも。……なんてね。なんか占いみたいだ。ふふっ」


そう言って、彩斗は冗談めかして笑う。病み上がりの病人とは思えないような、それこそいつもの如月彩斗の笑みだった。目尻の垂れた、えくぼの浮かんだ、口角の少しばかり上がった微笑。口元を手で隠すようにする、上品さすら感じさせる仕草。
立ち居振る舞いが、理子にはとうてい同年代の男子とは思えなかった。その印象は初対面の頃から今に至るまで続いている。大人よりも大人びている──そんな気がして仕様がなかった。

一刹那の微笑の後に、彩斗は緩慢に腰を上げた。そうしてキャビネットの上に据え置かれていた花瓶を持ってくると、テーブルの上の飲みかけの飲料水を、音を立てながら中に注いでいく。


「せっかく戴いたものだし、飾らなきゃ可哀想だから。光源氏の『くちをしの花の契りや──』ではないけれどもね。……見向きもされぬ路傍に在る名も無き花こそ、哀れな宿命だけれども。それを拾い上げて生かしてやるのか、見捨てて殺すのか」


ミニブーケの包装を解くと、青々とした茎の裸体が露わになった。それを彩斗は優しく手に掴んで、花瓶の中に生ける。
理子にはそれが途端に瑞々しさを増したように見えた。朝露に濡れたような淑やかさを一気に醸成していって、見る見る間に表情が変貌していくようにも、また思えていく。
「でもね──」指先で幾度か花弁の向きを整えてやってから、彩斗は満足気に頷いた。そうして、理子の瞳を見据える。


「この子たちは、理子に選んでもらえて幸せだと思うよ」
「そっかぁ……。えへへっ、良かったぁー」


そう言われると、自分の行動のひとつひとつが無意味だとは、理子には思えなかった。むしろ自分に対して、或いは他の何かに対してすらにも意味を与えている──と解釈する方が自然だった。
気恥ずかしげに背もたれに深く寄りかかりながら、膝に手を当てて、やり場のない脚をブラブラと浮かせている。緩んでいる口元は、敢えて隠すことはしなかった。


「ところでさ、あっくん。ちょっと話があるんだけど」


いつもの磊落な調子で、理子は話題を振る。
しかし彩斗には、何故だかそれが虚勢に見えて仕様がなかった。むしろ、これが本命でここに赴いたとも見て取れるような、妙な緊迫感すらを裡面に孕んでいる。
ともかくは「うん、どうしたの?」と優しく先を促した。


「ほら、その……。あの日(・・・)のこと……」


そこまで言い終えて、自分にしては少し歯切れが悪かったなぁ、と理子は後悔する。それが端々に、気疎さと羞恥とが入り混じる、出来れば思い出したくない記憶だったからだろうか。
見舞いという建前の裡面にある本命には、そんな意図は無いのに、その記憶だけが脳裏に過ぎって離れなくなってしまった。

言葉を続けようとすると、咽喉が締まってしまう。それでも構わなかった。ただ、この言葉を如月彩斗に伝えるまでは、ここに来た意味が無い。あっくんに想いを伝えきるまでは、何が何でも帰らない。そんな意地だけが、理子を突き動かしていた。いつもの磊落で饒舌な声は、そこには見えなかった。
彩斗がどんな顔をしているのか、自分がどんな顔をしているのかも、今の理子に考える余裕など無かった。ただ、自らの内に秘めていた想いの吐露を続けることだけに躍起になっていて、その他のことはどうでもよかったのかもしれない。


「……本当はね、あっくんに伝えたいことがあって来たんだ。理子の居場所を、作ってくれて、ありがとう──って。そうじゃなかったらきっと、理子の本当の居場所って、無かったと思う」


伝えた言葉は、不格好なまでに途切れ途切れだった。継ぎ接ぎの録音テープみたいな不出来さだった。それでも理子は構わない。
彩斗がどう思おうとも、まずは自らの想いを伝えることが出来たのだ。その事実が、充足感になって胸中を満たしていく。途端に、抱いていた気疎さと羞恥が少しだけ失せたような気がした。


「あっくんの言った『くちをしの花』って、きっと理子も、そうだったんだよね。でも、あっくんが拾い上げて生かしてくれた。……おかげで理子、今がね、すっごく幸せなんだぁー」


それが妄言だとは、彩斗には到底思えなかった。向かいに座っている自分の友人──無邪気で可憐な一少女が、この場でお得意の演戯と虚言とを披露してくれるとの推理も、有り得なかった。
ソファーに深く腰掛けて、色白な手を華奢な膝に当てて、艶美な金髪を靡かせながら、気恥ずかしげに「えへへっ」と笑っている──その屈託のない笑顔が、どうにも本心から洩れ出たものであると、信じる以上に信じきるしか、それしか仕様がなかった。


「……ねぇ。あの日さ、あっくんに『理子のことを好きになってくれますか?』って言ったよね。で、あっくんは理子のことを強がりさんだって言った。……気付いてたと思うけど、その時は全然ね、自分が強がってるなんて思ってなかった。ただ、思ったことがポンって口から出ちゃって、だから止められなかったの」


今もそうだ。何を考えて喋っているわけでもないのに、言葉が咽喉の奥から溢れ出してくる。止めようと思っても止められない。
形になった言葉が、とめどなく吐き出されていた。角張った字もあれば、丸みを帯びている字もあった。その全てが咽喉の粘膜を引剥いで、肉叢を削いで、形骸化した屍肉と成り果てていく。例え僅かにでも抵抗しようとして、咽喉を締めようとするものならば──眼前に散らばったそれを、幻視してしまうだろう。


「でも、あっくんは分かってた。理子が自覚してなかったことまで、全部お見通しだったよね。『理子のことを好きになってくれますか?』って言った、その意味もさ。……やっぱり理子は、強がってたんだよ。ずっと、自分の居場所が欲しかったから。居場所が欲しいなら欲しいって言えばいいのに、可愛くないよね」


そう言って、理子は自嘲気味に笑みを零した。
咽喉が、痛い。口腔に溜まった屍肉を吐き出したい。──けれどそれは、実体を持っていなかった。仮初めの屍肉だった。


「結局ね、理子は自分を変えたいだけだったんだ。そうすれば、居場所がいつか出来るって、ずっと思ってた。そんなの幻想(ゆめものがたり)かもしれないけど、ずぅーっと思ってた。理子に大した才能なんて無いってことも分かってた。あっくんとアリアが羨ましかった。理子はお母様から譲り受けた可愛さだけでチヤホヤされてるくらいで、それ以外に才能なんて、無いもん」


自分で吐き捨てた言葉が、そのまま自分のもとに帰ってくる。
心臓が、痛い。硝子片か何かが刺さったみたいで、抜こうと思っても全然抜けやしない。そもそも、指で摘めない。
心臓が、苦しい。何かに握り潰されているみたいで、解こうと藻掻いても全然治りやしない。痛い。苦しい。……悲しい。


「だから、せめて曽祖父様(初代リュパン)を越えようって思ってた。だから、《イ・ウー》に入ったの。《武偵殺し》になって騒動を起こしたのも、完全な状態でアリアを誘き出すため。それで勝てれば、曽祖父様を越えられるって勝手に舞い上がってた。……でも、結局さ、強固な信頼性に勝るものなんて無かったね。また2人がさ、羨ましくなっちゃったもん」


ANA600便でのハイジャック──その騒動の記憶が、理子の脳髄に、或いは彩斗の脳髄にも同時に、映し出された。
彩斗がアリアの肩を抱き寄せて告げたあの言葉も生々しく、幻聴のように、理子の耳元で何度も何度も囁かれている。
『何が敗因だったと思う? 理子。それは、たった一つだけ。 信頼に他ならない。それこそが、武器足り得たのさ』


「司法取引に応じたのも、2人の中で理子がどれだけの価値を持ってるか──ってキチンと理解出来てたからだよ。でも、怖くなっちゃったの。司法取引が終わったら、理子は2人にとって要らない物になっちゃうんじゃないかって。それが凄く怖かった。理子は、理子自身の存在意義だけを、ずっと欲しがってたから」


その決死の想いの吐露は、締められた声帯を無理にでも震わせるような、そんな色をしていた。嗚咽ともつかない喘声が口元から漏れていくのを、自分自身で感じている。水晶体に浮かぶ湖面は、揺れる水面そのものだと──その淵から水滴が滴下して、泡沫のように弾け、霧散する音でさえ、聞こえていた。


「アルセーヌ・リュパン・4世。血統として見ればそれまでだけど、理子はお母様が名付けてくれた『理子』って名前がいちばん好きなんだよ。オルメス4世に勝っても、どうせリュパン4世として認められるだけで、どうせ理子としては認めてくれなかったから……。そう思えたから、2人には負けちゃったけど、何にも恨んでないよ。……でも、今は少しだけ休息しとく。

……ね。だからね、結局みんな、理子の独りよがりだったんだよ。リュパン4世じゃなくて、理子として存在を認めて欲しかった。贅沢言うとね、自分の存在価値を発揮する居場所も欲しかった。武偵校なんて結局は仮初めだったけど、それでも何処かに、居場所を探してたんだと思う。天然ぶってお馬鹿さんみたいにしてたのも、きっと、そういう本心の現れだったんだと思うな」


今度は自分の指の腹で、その紅涙を拭い取った。そうしてやはり、この告白は峰理子という自分自身が零した、衷心なのだと──大部分を悲哀に満ち満ちさせた、如月彩斗にもそれを露見させてしまったほどに哀れな、自分の弱さの根幹だったのだ。
あの時は彼に拭ってもらったものを、今は自分で拭い取っている。指先の温い水溜まりとその感触が、差異を教えてくれた。


「でも、もういいんだ。理子は昔より変われたし、居場所はあっくんに貰えたし、何より、理子として認めてくれたから。……ねぇ、本当はね、貴方にだけ認めてもらえれば良かったんだよ。あの日にそう思ったの。我儘は言わないから、せめて1人だけでも──って。それが如月彩斗で、本当に良かったなぁ」


そうして理子は、屈託の無い笑みを零した。心の奥底から洩れ出た、あの月影にも似通って爛然としている様だった。
その動作に靡いた前髪の隙間から、理子はこの話を切り出してから初めて、彩斗の姿を直視できたように思う。自分の告白を頷きながら聞いてくれていた姿だけが印象的で、その時の顔は今の今まで分からなかった──否、分かりたくなかったから。


「……ふふっ。なんで、あっくんが泣いてるの」
「別に泣いてないよ。……目が潤んだだけだもの」
「ほらぁー、泣いてるじゃん。それを泣いてるって言うの!」
「理子がそう思うなら、それでいいよ」


彩斗は指の腹で目尻のあたりを拭いながら苦笑した。よほど自分が泣くことが想定外だったのか、それとも自分自身が気が付いていなかっただけで、頑固なところがあったのかもしれない。
しかし彼が零した涙を思うと、理子は理子自身の生き様がどれほどなものだったのかを再確認させられた。あの涙には、同情の色が表層から滲み出ている。他人のことにさえ同情してくれる余裕のそこに、彼のその人格の良さを垣間見た気がした。


「あっくんって、意外と頑固なところあるよね」
「……アリアにも言われたよ。見栄張ったからこうなったんだ、って怒られちゃった。ふふっ。まぁ、そうは思わないけどね」
「でも、理子はあっくんのそういうところ、嫌いじゃないよ」


そう告げると、彩斗は何やら茫然としたような顔付きを理子に見せた。「仮に如月彩斗という人間が強情だとして、普通の人間はその強情さを嫌うものじゃないの?」そう問いかけてくる。
ほら、『仮に』ってのがもう強情じゃん。そんな言葉が喉のそこから飛び出しかかったのを、何とか堪えてみせた。


「そこは確かに分かれるかもしれないけど、でも理子は嫌いじゃないよ。だって、自分で信じたことをずぅーっと突き進めるんでしょ? それって、強情って言い方を変えればただの一途じゃない? 恋でも夢でも、物語みたいな生き方だから理子はそういうの好きだよ」


「それにさぁ、」と友誼的な調子で付け加える。


「あっくんはアリアのこと、護ってあげたいんでしょ? あの飛行機の中で言ったじゃん。アリアは大切な人と同類だから、って。そのためなら何でもできる、ってさ。それなら、その一途な想いで護ってあげなよ。《教授(プロフェシオン)》の意向と同じとか考えないでさ。如月彩斗は如月彩斗だよ。他の誰でもないもん。一途なら一途らしく生きようよ」
「……そっか。そうだね」
「ねっ? それでいいんだよ」


そう言い終えて、理子は彼に向かって笑いかけた。照れ隠しのためか、ガウンの裾を弄るなり手を組んで揉むなりしている彩斗の様が、理子にとっては新鮮に思える。恋情を自覚した年端もいかないような、そんな初々しい少年少女の風貌をしていた。

──如月彩斗は、大人以上に大人びている。それが彼への印象だ。平生は泰然としていて、所作の端々に家柄と性格の良さを横溢させている。周囲に流されることが見られなくて、自決したことをそのまま一貫する強情──裏を返せば一途を秘めている。
しかし理子の見る限り、アリアに関することだけは、それが適っていないのだ。理子が《緋想》でアリアを負傷させた時もそう。目に見えて焦燥と嗔恚とが現れていた。今回もそう。とはいえこれは、単なる恋情隠しの紛いごとに過ぎないのだけれども──。

手もたれに頬杖をつきながら、理子は呆れたように呟いた。


「あっくんさぁ、本当にアリアのことになると弱いよねぇ」
「仕方がないでしょう。こういうの、初めてなんだから。異性に恋情を自覚したのは、これが初めてなんだよ。どうすればいいか自分でもよく分かってない。それ故に、でしょう」


「まぁ、自分のことだから自分で終幕は決めるよ。どちらに転んでもね」そう彩斗は零した。理子に届くか否かの調子で、独り言ちたように──夢見心地の中に彼は浮遊しているようだった。

そうしてやはり、如月彩斗は一途だと理子は感じていた。他人の干渉を嫌うその様は、自分で自分自身に抱いたこの感情に、どうであれ踏ん切りをつけようということだろう。そうであるならば、理子は自分が出しゃばる立場でもないか、と胸の内で結論を出した。傍観しているしかないのだ。むしろこの2人の行く先を傍観できるのは、理子にとっても面白いことだろう。


「理子は2人のこと、応援してるよ。……悔しいけど、本当にお似合いなんだもん」
「……ありがとう」


これで何度目か──背もたれに深く寄りかかりながら、その華奢な膝の上に色白の手を乗せて、やり場のない脚を虚空に浮かせている。艶美な金髪を時折、靡かせながら。
妄言ではなかった。お得意の演戯でも虚言でもない。それらは咽喉の奥から突いて出で来た、形のある言葉でしかない。今回は全て、丸みを帯びていた。最高純度の衷心だった。


「ところで、君はこれからどうするの?」不意に彩斗が問い掛けた。「司法取引も終わりました、君の居場所は出来ました──今まで通りの生活に戻るのかな?」


何が言いたいのだろうか、と理子は彼の胸中を覗き見ようとした。けれどもその真意が自分には推し量れない。単なる表層的な意味合いで捉えていいのか、裡面に何か埋まってはしないか、そんなことを気にしいしい、取り敢えずの結論を零してみる。


「前と変わらずにやってこうと思う。たぶん、それがいちばん、理子らしいから」


理子がそう零すと、彩斗は満足気に「そっか」と呟く。そうして、言葉を次いだ。


「でも、君は君のやりたいように生きた方がいい。自分に正直になってね。もう強がらなくていいんだよ。君が思っているより、君の居場所はそんなに狭くはないから。峰理子を認めているのは、きっと、如月彩斗だけでは──ないはずだからね」
「……うん。ありがと。頑張る」


そうして、その如月彩斗は徐に──いつものように緩慢と腰を上げた。理子を見据えたその瞳の中に、あらゆる感情の凝縮がされていたのを、理子は見逃していない。
彼はあの時のように蠱惑的な、甘美な声色で、一語一句を紡いでいた。やはり最高純度の衷心が、その言葉の裡面に見え隠れしている。恐らく彼が話の最後に伝えたかったことは、この言葉だったのだろう。そんな風を思わせる行動を、彩斗はとっていた。


「……申し訳ないけれど、そろそろ席を外させてもらうね。恐らく俺の容態の安定したことを、担当医はまだ知らないだろうから。受付に行って伝えてくる」
「分かった。気を付けてね?」
「ふふっ、大丈夫だよ。ありがとう。明日には退院したいところだね」


「それに──待ってくれてる人も、居るから」そう彩斗は付け加えた。
刹那に、彼が見せた気恥しそうな、それでいて穏和な笑みで、理子はその人が誰であるかをもう察している。だからこそやはり、この2人はお似合いなのだとも、そうも思った。


「じゃあ、その待ってくれてる人のためにも、早く退院しなきゃね」
「うん。きっと」


そうして、如月彩斗と峰理子とはここで離散した。彼は部屋の扉を通り抜けると、その扉を閉める一刹那に何か思い至ったのか、微笑をたたえながら小さく理子に向けて手を振る。


「もう暗くなってきたから、早く家路に着くこと。気を付けて帰ってね」
「分かった。バイバイ」
「うん、さようなら」


お互いに扉を挟んで手を振って、振り返した。

そうして理子は、窓硝子のその向こうへと目を遣った。宵に暮れた五月空には、端白星が瞬いていた。そうして東京湾は、その宵より深い宵の色だった。深淵を覗き込んでいるような、そんな錯覚に襲われる。泡沫のように浮かぶあの輝石だけが、唯一の救いだった──。 

 

こゝろ

厚いカーテンの隙間から、陽光が僅かばかり漏れていた。目を覚ましたのは恐らく、そのせいだろうか。寝起きに朦朧とする脳を叱責しながら、秒を刻む壁掛け時計に視線を遣った。
だいたい8時30分。この時刻なら、女子高生が食パンを口に咥えながら通学路を全力疾走しているところだ──そうして曲がり角で誰かにぶつかるまでがお約束。

流石に例えが古いかな……などと苦笑しながら上体を起こして、軽く腕と上半身の伸びをする。昨日に目覚めた時と比較しても、身体の調子が格段に良くなっているように思えた。アリアや理子と話をしたそれだけのことでも、調子を戻す要因になったことだろう。

《境界》越しにカーテンを開くと、途端に朝が肉薄してきた。東京湾に溶けていたあの藍色は、もう群青に変貌している。どんな魔法でも再現のしきれない原風景が、そこにはあった。

それと同時に、歯車の動き出す音が聞こえた。この世俗を廻り廻らせてゆくための歯車が、鈍重な音を立てながら、或いは軽快な音を響かせながら、また今朝のために動き出していく。そうして、それに覆い被さったのは、この部屋の扉を叩く音だった。


「──失礼するよ」


扉の隙間から身を滑らせた来訪人は、初老紳士を思わせる風貌をしていた。多少に皺のある白衣を、微塵の違和感もなく着こなしている。黒髪の僅かばかりが残る白髪頭を隠すこともなく、彼はこちら側──ベッドの傍までやって来た後に、慇懃に会釈した。

歳は70あるくらいだろうか。銀縁の眼鏡の向こうに穏和な垂れ目を映していて、彫りの深い顔の皺を幾重にも畳ませている。さては腕利きの医師だね──と類推するのに時間は掛からなかった。こちらも会釈を軽く返してから、彼の告げるであろう次の言葉を、腹の中で暗に待ち受けていた。


「如月彩斗くんだね。話は昨夜、受付の者から聞かせてもらったよ。僕が君の担当医だ」
「あぁ、貴方が……。今回はどうも厄介になりまして……」
「君がそう遜(へりくだ)る必要が、何故あるんだ。患者を治すのが僕の仕事なんだから、君が叩頭する必要は無いと思うんだけどもね。遠山くんも星伽さんも、みんな無事で良かった」


老医はそうやって嗄(しゃが)れた、少し高い声を洩らしながら、磊落に笑った。


「ところで如月くんね、もう退院したいという意嚮(いこう)かい」
「えぇ、今にでも」
「ははっ、そりゃあ元気が宜しいが、ちっとばかし難しいね。でもまぁ、昼くらいまでには出来るように準備はしといてくれるかな。ただ、君のご友人の、他の2人だけれどもね……」


老医はそこで言葉を区切ると、白衣のポケットの中から折り畳んであるメモ用紙を取り出した。カルテのように患者の詳細の何事かを記載しているらしく、ズレた眼鏡の鼻当ての位置を中指で直しながら、彼は「申し訳ないけれどもね」と前置きをする。


「遠山くんと星伽さんはね、毒にやられちゃったでしょ。解毒剤は投与したんだけれどもね、その経過観察ってことで、あと1日だけ様子を見さしてくれるかい」
「素人が何も言えやしませんから、医師の意嚮に従いますよ」
「うん、ありがとう。因みに2人とも至って普通だよ。健康そのものだから心配は無用だ。……しかしね、ちょっとだけ、僕は気になることがあるんだ」


「あー……、遠山キンジくんだがね」老医は声の調子を落としながら、そう付け加えた。


「君たちは地下倉庫で敵と交戦した。その時に遠山くんと星伽さんは毒をもらった。星伽さんは、峰さんという女の子に連れられて来たわけだろう。どうして同じに毒をもらった遠山くんも連れてこなかったんだい。彼自身の口から、はっきりと、大丈夫だと言われたからかい?」
「……えぇ、そうですが」


聞くところ、どうやら老医は白雪と共にキンジを搬送しなかったことを、疑問に思っているらしい。しかしその口ぶりは、『本人が大丈夫だと言っているから、別段、搬送しなくても良いというわけではない』といったような内容の説教でないことは、何となく察しがついていた。それとはまた別を話すのだろうということにのみ、察しをつけていた。


「ふぅむ……、本人からも話は聞いたがね。最初は毒で危うかったが、どうやら交戦の最中に、毒の効果を全く感じなくなったと言ってるんだけどもね。結果的に何ともないから良かったけども、僕らの方でも念のため、解毒薬の投与とその経過観察を本人に課したわけだ。この遠山くんの身に起きた不可思議な現象がどんなわけか、君はご存知かね?」
「……いいえ、何も」


老医のその言葉には、もはや首を振るしかなかった。

……確かに俺たちは《境界》で地下倉庫まで赴いた。しかしそれには、割り入るための絶妙な機会が必要だったのだ。魔剣ことジャンヌ・ダルクが、毒に侵されたキンジと白雪を本気で殺めようとした時──その隙を狙って、奇襲を仕掛けるはずだった。
けれど、読みと現実は違った。その読みがキンジによって外されたのだ。毒に倒れたという事実を錯覚だと思ってしまうほどには、彼は平生よろしく──むしろ平生以上に立ち回っていた。

そうしてキンジは、毒の有るはずのその身体で闘えると言ったのだ。思い出せば思い出すほど、摩訶不思議な現象だろう。キンジ本人がどう類推しているのかは定かではないけれども、否、そうであるが故に、こちらとしては摩訶不思議としか言い様がない。

ましてやこの老医も、自らの師事された医学を真っ向から否定されたようなものなのだから、さぞ不可思議な事案だと思っていることだろう。この問いの裡面には、それが見える。
白衣のポケットに両手を突っ込みながら、老医は言った。


「……世の中には不思議なこともあるもんだ。武偵病院に僕は散々居るけどもね、こんなことは初めてだよ。人体の奇跡としか僕には言えない。何か科学では説明のつかないものが、遠山くんの中にあるんかもしれないね。超能力者とか、何かあるんでしょ? 世界にも、君の学校にも。……だから、そういうんかも知れないね。僕たち医学を師事された人間の領域じゃない、その一回り上のレベル。僕には理屈が分からないけども、遠山くんは本当は分かってるのかもしれないよ。もしも真実を言っても、僕らには通用しないだろうからってね」


老医はそうやって、口惜しそうに前髪を掻き上げる。鈍色に染まった白髪の、その指の合間からすり抜けていくような虚脱感が、老医の心情そのものを表してしまっているように思えて、どうにも仕様がない。医学では太刀打ちできない現象を目の当たりにして、それが医師として口惜しいと思わないはずがないのだ。どうにかして解明したいと、そう思っているのだろう。


「七十にして心の欲する所に従って矩をこえず──先生は『論語』をご存知でしょう」


突拍子のない話をこの子はしてきたな……とでも言いたげな、或いは、その話が今の話とどう関係があるのか……とも言いたそうな怪訝な顔を、老医は見せた。そうして、頷いた。
『論語』の一節にあるこの詩句は、あまりにも有名すぎる。とはいえ、意味までを把握しているのかは、また、別の話になってしまうのだけれど。


「欲望のままに行動しても、人道から外れることはない、という意味ですよ。是非とも医学で理解のつかないところまで、学びを深めていってほしいように思います。医師だから医学第一主義というのが強制されるわけではありません。ましてや武偵を診る先生ですから、今後そういった摩訶不思議な患者が現れることもあるでしょう。その時までに、新たな学を志してみては?」


そう言い終えるまでに、老医は何度も頷いていた。医学第一主義といった単語を出したあたりから、彼の皺の出来た目蓋が持ち上げられたように思う。意外も意外だったのかもしれない。
「なぁるほどねぇ……」と嘆息したような声を洩らす後に、老医はこちらに視線を遣った。


「しても君はだいぶん、教養のありそうな口ぶりをしているね」
「ふふっ、お褒めにあずかり光栄です」


2人で軽く微笑を交わす。そうして既に、この老医になら担当医としての任を任せられると、そう確信していた。この年齢になろうともなお、上の更に上を目指す意欲を、いま見せたのだ。誰にでもできることではない。仮に次があったとするならば、彼を呼ぼう、と。

どうせなら自分も、老いた末はこのようになりたいとも思った。老子のように大層ではなくても、自分なりに納得のいくような末を迎えたいと、そう、何がなしに至った。


「……あぁ、そうだ。個人的にもう1つ気になったことがあったんだ」老医は一通り笑い終えると、不意に何かを思い出したように、目を見開いた。


「ハーフらしい、随分と背の小さい女の子が居たでしょう。お名前は、確か……」
「神崎・H・アリアでしょう」
「うん、そうだそうだ。その神崎さんについて、君は彼女から何か言われたかい」


アリアについて、彼女の口から、何かを言われた……? キンジの次はアリアのことに関しての問いをぶつけてきたか、と暗に心の内で身構える。特段、何を言われた覚えもない。
重ね重ねの考慮も埒が明かないので、端的に返す。「いいえ、何も聞いてはいませんけれど」
「……そうかい。あの子はそういうことを、進んで言う子じゃないのかもしれないね」誰にともなくそう呟いた老医は、その穏和な顔を、更に穏和にさせていた。


「神崎さんはね、君を搬送する時からずーっと、君に付きっきりだったんだよ。僕らが君の処置をしている様子も彼女は遠目に見ていたし、『彩斗は大丈夫ですか?』って涙目で何度も何度も訊いてくるんだ。君が昏睡している間も、このベッドの傍らの椅子に座って、君の起きるのを待っていてね。朝から夕まで、片時もそこを離れずにだ。お手洗にも出ていない。何も食べていなかったように思うよ。ずーっと、この部屋から出ずにいたんだ。ただ、君の目の覚めるのだけを待っていてね。『彩斗の目が覚めた時に、アタシが居なきゃ』って、そう言ってたよ──」


瞬きをするのは2度が限界だった。無性に震えてしまう手で額を押さえて、やっとの思いで目元を隠しながら、老医の告白を聞いていた──それこそ彼女が目前に居たならば、すぐにでも逃避衝動に駆られていたことだろう。誰にも気取られずにいることは不可能だろうと、我ながらそう思ってしまうほどには、この泡沫は止め処の無いままに、玻璃として肉流を彩った。目蓋が荒れて、果ては滲みてしまうだろうことなどは、思いも付かなかった。

そうして咽喉も、震えていた。老医に碌な挨拶さえも出来ないままに、この虚室を満たしましょうと言うばかりに、誰も人が居ないのを良いことにして、そのまま泡沫の内に見える随喜に暮れていた。咽喉の声帯を無理矢理にでも震わせたならば、こうして押し留めている感情が、嗚咽と混じり混じって、1度に吐き出されてしまいそうな気がしたから──。


◇


それから数時間ほどして、ようやく湖面は平穏を取り戻せたように思う。けれども、その湖面の奥底──湖底では、未だに感情の権化が浦波となって揺れ動いていた。
そのことを誰にも気取られないようにしながら、この武偵病院の敷地から足を外す。身を置いたのは、たかだか1日と数時間だけだった。とはいえ、その1日と数時間だけでも、こうして過ごしてしまった過去は──どうにも濃密そのものではあったのだけれど。

理子に貰った花束は《境界》に仕舞ってある。病室も適当に片付けておいた。キンジと白雪にも挨拶をして、老医には次があったら宜しくと伝えてきた。アリアにこれから帰ることを言伝る以外には、忘れ物とも言える忘れ物は無い。そこまで反芻して、安堵する。

後はいつも通り武偵校の制服を羽織って、帯銃と帯刀をして、いつも通り部屋に戻るだけ。ここ最近に勃発した騒動にも、既に終止符は打ったのだ。またしばらくは平穏だろう。

そんなことを幾らか考えながら、この五月空に降られている。威厳づけるわけでもなく、ただただ温和な陽気を浴びていたいだけに、今の自分の歩調は50ほどのBPMを刻んでいた。

五月空の温和な陽気も、東京湾の潮風も、今日だけは──今日だけは何故だか、当たりが強いような気がした。その理由は自分が、分かりすぎるほどに分かり切っていた。そうして、老医のあの一語一句を思い出せば思い出すだけ、湖底の感情が込み上げてくるのを感じていた。

アリアはそんな素振りを微塵も見せていなかった、というと、言い訳がましく聞こえてしまうだろう。こればかりは……そう、気が付けなかった自分が悪いのだ。表情、口調、挙止動作といった細部に至るまでの観察が行き届いていなかったこと──病み上がりの鈍さが関係しているのかは分からないけれども、少なくともあの時分では、その事実に気が付けていなかった。

本当は疲弊に疲弊を重ねていたはずだと思う。食事も排泄もしていない、なんて。ずっと、あの病室から、出ずにいた──自分の目の覚めるのだけを、待っていた、なんて。
そもそも、自分の怠惰に自分が対面していたならば、こんなことにはならなかったろう。アリアにここまでをさせることも、その原因の殪(たお)れたことも、無かった。

アリアを護れだの、或いは護りたいだの言っておきながら、結局は──ハイジャックの時みたく傷害と同様に、艱苦をも与えてしまっているのだろう。そうして原因はいつも、自分だ。
自分の不出来が齎(もたら)した結末は、いつも彼女に艱苦を与えている。自分が、自分の能力の無さを自覚して、自分に辟易して、果たして変わろうとすれば変われるのだろうか。

無味乾燥な日々に何が起こるとも思わずに、知らず知らずのうちに、誰の目にもつかないような奥底に仕舞っておいてしまったのだ。在るべき本家の由縁を。1度は手放したそれを、再び拾い上げるだけの覚悟が、果たして自分にあるのだろうか──。


「覚悟──」


変われるのだろうか、ではなくて、変えなければならない、のだ。


「──覚悟なら、無いこともない」


往来から見れば、この言葉はただの独り言のように聞こえただろう。けれども、独り言ではあるけれども、夢の中の言葉でないことは、自分がいちばん分かり切っている。
彼がこの言葉で自殺の意志を抱いたのと同様に、自分もまた、別の意志を抱いたのだから。自分が、拾い上げて、変わらなくてはならない。護るべき者のために──。

そうして同時に、いま下した断案が、実にこの胸臆の靄を晴らすのに都合が良かったか。今朝から執拗なまでに渦巻いていた、単なる随喜と艱苦がごっちゃになった、堪らないほどに粘っこいのを、吐いても吐いても吐き切れぬ胸の悪さ──それが妙技に当てられたかのように、途端に馬鹿馬鹿しいほど何でもない、果ては清々しいものに変貌してしまった。

……ふと視線を他方に向けると、武偵校の校門が見えてくる。そういえばこの辺りで、セグウェイを追い払ったんだったか。あのグラウンドの方は、キンジの自転車が大破した辺りだろう。更に見遣ると、女子寮も分かった。その屋上から、アリアはパラグライダーで滑空してきたのだ。

強襲科、鑑識科、通信科、探偵科──各専門科の棟を横目に歩きながら、更にはお台場のモノレール駅の下を潜り抜けて、レンタルビデオ屋、コンビニの前を通っていく。そうしてようやく、自分たちの居住区であり本拠点、第3男子寮にまで行き着いた。

エントランスからエレベーターホールまでを一直線に向かう。指先で触れるように上りの矢印を押すと、大した間も無く扉は開かれた。最初から待機していたような素早さだった。
周囲に人が居ないのを確認してから、部屋のある階を行き先に指定する。《境界》で移動をこなしてしまうことも少なくはない中で、こうして勝手にエレベーターに連れられていくのは、何だか新鮮な心地がした。独特の浮遊感を、全身に感じていた。

『──ドアが開きます。──ドアが閉まります』
そんな見送りの機械音を背に受けながら、廊下を踏んだ歩を進めていく。いつもの光景を見ただけで、どうしてこんなに安堵してしまうのだろうか。これが一種の懐郷病(ホームシックネス)めいたものだとしたならば、やはり自分は、1人が嫌なのだろう。

色々と思いを巡らせているうちに、既に目の前には見慣れた扉があった。小さく深呼吸してから、人差し指と中指で軽く前髪を整えてみる。掴んだ扉の取手は、何故だか温かかった──、


「わっ!」


途端に聞こえたのは彼女の声だった。いつもよりも少し高めの、溜めに溜めて吐き出した、快哉と悪戯心が綯い交ぜになったような、可愛らしい声色。それが余韻を帯びる頃には、眼前の扉はとうに開き切っていた。そこから身を滑り出してきた彼女は、微塵の逡巡すら見せもせずに、その赤紫色の瞳をこちらに向けている。そうして一刹那の後に、徐に上半身が苦しくなった。


「ふふっ、どう? 驚いたでしょ?」


梔子のような幽香が、あの今朝のように肉薄していた。そうして、彼女が上目で自分を見遣っていることに気が付いてから、ようやく、アリアに抱き締められていることを自覚した。

悪戯をする子供のように無邪気な、屈託のない笑みは、やはり彼女にお似合いなのだろう。それに当てられてしまっただけで、また例の感情が隆起してくることも、自覚していたから。
泰然を気取りながら、「まったくもう、心臓に悪いでしょう」と返すのが、精一杯だったのだ。


「だって、嬉しかったんだもん」


あの時と同じように、あの時と同じ声色で、アリアは零した。だから、そうであるからこそ、いま自分が抱いた感情も、あの時と同様だと微塵も疑わないのだ──『刹那に抱いた感情は、もう名前を知っている。そうして、この子は何処まで可愛らしいんだとさえ思ってしまった。窓硝子から見える、この黄昏時の五月空のように果てがなくて、あの揺蕩う千切れ雲のように奔放で、時折見せる常花のような仕草に──やはり何度も、惹かれているから。』



「ねぇ、そんなことより──アタシ、彩斗のこと、待っててあげたよ」


この文章に対する模範解答は、恐らく自分だけが知っていることだろう。あの黄昏時に交わした、軽躁な口約束が見え見えの伏線になっただけの、そんなものではあるのだけれど。
たった4文字の答えに、超過しすぎた字余りの想いを乗せに乗せながら、抱いている感情と覚悟とを改めて反芻させている。この口約束を交わしたのは、自分とアリアだけなのだから。


「……うん、ありがとう。ただいま(・・・・)」
「えへへ、おかえりなさいっ」 
 

 
後書き
水無月彩椰です。さて、緋神の巫女と、魔剣編はこれにて終了となります。ここまでお読みくださっている読者の皆様方には、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとう。

本章では、原作とはまた別の遠山キンジが見られたことでしょう。白雪に対する積極的な姿勢とか、そういったものが顕著に現れていました──特に『幽香、前梅雨に香る』では。この回の最後の描写、明記こそしていませんが、そういうことです。想像は皆さんの自由です。

翻って、神崎・H・アリアはどうだったでしょう。如月彩斗に対する行動──『秘めた想いと現実と』のあたりから、大っぴらはことはしていないにしろ、心理的な部分では変化があったろうと思います。それは勿論、如月彩斗も同じ。……彩斗の方が、少し積極的になったかな? この2人の行く末も、『落花流水の二重奏』では婉美に描写していくつもりです。

しかし、本章の隠れた主人公は、実は峰理子だったりします。キンジと白雪、彩斗とアリア──彼等彼女等が話を展開させていく裏で、理子もまた、彼女の生き様そのものを展開させていた。そこに如月彩斗がひょいと覗きかけたようなもので、裏を返せば彩斗がそうしたからこそ、理子は隠れた主人公になれたのだと思います。『最高に最低な──救われなかった少女』という言葉の『なかった』というのは、お分かりの通り、過去形として解釈してあげてください。

少々後書きの幅が過ぎましたが、まぁ、楽しんでくださっているのなら幸いです。そして、次章を書くまでには少し時間を要しますことを、ここに記しておきます。改稿や詳細設定の構築など、やることが出来てしまいました。それだけ次章は『落花流水の二重奏』の中でも重要な話になります。お楽しみに。それでは、また。 

 

気まぐれと指先

「──さて、アタシたちもそろそろ出る?」

「そうしようか。意外にみんな帰るのが早いからね」


SHLが終わってから十分近く経った頃、今夜の夕食のメニューを相談し終えた俺とアリアは、周囲のクラスメイトが退室し始めた折になってようやく椅子から腰を上げた。

「デミグラスハンバーグ、楽しみねっ」とご機嫌そうに俺の顔を見上げる彼女にひとつ頷きながら、「でもその前に」と補足を入れる。「教務科にだけ寄らせてくれないかな」


「えっ、なんで?」

「なんでって、用事があるからに決まってるでしょう」

「誰かに呼ばれたの?」

「ううん。高天原先生に少しお話があってね」


「まぁ、取りも敢えず──行かなきゃ始まらないからね」
そう告げて、アリアと一緒に教務科へと向かう。今年に入ってからはこれで二回目だ。前回はアドシアードの推薦の話だったが──これも結局、自分の中ではないもの同然になってしまった。なにせ武偵病院で昏睡していたのだから。


「でも、彩斗が自発的に教務科に行くのって珍しいわね。わざわざ行く用もないと思ってたのに。……違和感ある」

「我ながら珍しいことだとは思ってるよ。先に言ってしまうと、これは俺にもアリアにも関係のあることだけれど」

「えっ、アタシにも……? そういうことって先に相談とかしておくべきものじゃないの? 実質的に隠し事じゃないっ」


なんとか背伸びをして俺と目線を合わせようとしている彼女のことを可愛らしいねと思い思い、確かに突発的な行動になってしまったことを心の中で謝罪する。しかしこれを決意したのは、アリアと病室で話したつい一昨日のことだ。満足に説明する時間がなかった──という、言い訳だが。

ねぇねぇ教えなさいよと腕を引っ張る彼女を軽くあしらいつつ、書類をしまってあるファイルを鞄から取り出しながら「君はここで待っててね」と教務科前の廊下に待機させる。不服そうな顔も悪くはないと思いつつ、入口の扉を叩いた。


「失礼します。強襲科二年の如月彩斗です──」


入口からさほど離れていない位置に、目的の高天原先生のデスクはあった。書類仕事の片手間に割り込んで申し訳ないな──と胸臆で謝りながら、「先生」と声をかけつつ歩み寄る。彼女は開口一番、「珍しい人が来たね」と笑った。


「あはは、まぁ……。提出したい書類がありまして。これを」

「これ……明日からの欠席届だね。しかも長期の……あれ、神崎さんのぶんまで用意してある。随分と急なお話だなぁ」

「すみません、急遽決めたことでして。アリアには訳あってまだ話せていないんですが、たぶん了承してくれます」

「……何をするつもりなのかな?」


先生のその声に、憂慮の色が濃く滲み出ているのは分かりきっていた。俺とアリアが武偵活動上のパートナーを組んでいるのは、もちろん彼女も知っている。だからこそ理由が気になったのだろう。アリアを連れていく、その理由が。


「期間は未定ですが、京都の生家に帰ります。アリアのことを紹介したい、という意味も含めての話になりますね」


当たり障りのないところまで伝えるとしたら、これが限界だった。自分が生家、いわゆる本家に戻るということは、あの日に決意した覚悟でもある。一度は手放した本家との由縁を再び手繰り寄せるための、その覚悟だ。それは護りたい人を護れなかった自分に対しての、ある種の叱責でもあった。

結局のところ、俺は武偵校で過ごすうちに、少なからず平和ボケしていたのかもしれない。だから、本来なら護れたはずの少女を、傷付けさせてしまった。自分が非力なせいで、倒れてしまった。このままぬるま湯に浸かったままでいては、この先どうすることもできない──《イ・ウー》相手には。


「なるほど。大事だもんね、親御さんへの紹介は。……そういうことなら、これは先生が責任もって預かっておきます」

「ありがとうございます。迷惑かけてすみません」


俺の真意を知ってか知らずか、先生は深く詮索することなく話を切り上げてくれた。「頑張ってね」と優しく笑んだそれに小さく頷き返す。そのまま挨拶をして教務科を後にすると、髪の毛を絡ませて遊んでいるアリアと視線が合った。


「ごめん、ちょっと待たせちゃったね」

「ちっ、違う! 髪が絡まってたからほどいてただけっ!」

「そんなに綺麗な髪が絡まるわけないでしょう」

「う……卑怯よ、そういう言い方。ずるい」


ずるいかなぁ、と笑いながら昇降口まで《境界》を繋ぐ。もう専門科目の授業が始まっているから人はまばらだった。……さっきの話を伝えるなら、ちょうど頃合いだろうか。靴を取ろうと背伸びしているアリアを横目に、そう思う。


「ねぇアリア、少し大切な話があるんだけど、いい?」

「大切って、こんなところで?」

「うん、なるべく早めに伝えたかったんだ」


そう告げた時の彼女の顔が、斜陽にあてられてよく見えた。手提げ鞄を片腕に抱き抱えて、爪先立ちをしいしい、少し高い位置にある下駄箱の口に手を入れて、エナメル製の靴を取っている。赤紫色の瞳は少しだけ見開かれていた。


「っ、いや、別にお互い学生だしロマンチックで良いとは思うけど、アタシ的にはもう少しムードのある場所が嬉しいっていうか……! ここだと誰が聞いてるか分からないし……」

「いや、その……」


なぜに告白と勘違いしたのか分からないけれど、アリアは露骨に顔を赤くさせて慌てながら前髪を整え始める。履き替える途中だったからローファーと上靴が交互になっていて珍妙だ……なんてことを言うと怒られるから、黙っておくけど。

とにかく変に前置きすると話がややこしくなる。端的に伝えよう、と思案する俺に、彼女は後ろ手を組みながら落ち着かなそうな素振りでこちらを見ていた。昇降口から入ってくる風が少しぬるくて、そのツインテールを揺らしていく。


「えっと、その……何? アタシに話、って……」

「うん、急なタイミングになって悪かったね。本当は先日あたりに言い出せれば良かったんだけど……忙しかったから」

「あぁ、まぁ……ねっ! 病院にいたり退院したりでバタバタしてたし、二人だけのタイミング、あまりなかったし……」

「だよね。端的に伝えるから、ちょっと考えてほしい」

「……うん、何? アタシの答えられる範囲内の話にしてね」


これが告白と誤認されているのは不本意だが、露骨に照れているアリアの顔を眺めるのは悪いものではなかった。身長差があるぶんだけ上目になるのが可愛らしい。むしろ本番に際する良いシミュレーションになったかもしれないね──。

そう考えるとなぜかこちらまで緊張してきて、たった一言を言えばいいはずなのに、咽喉が締まるような気がした。それを無理くり震わせながら、赤紫色の瞳を見据えて告げる。


「明日から少し生家に戻る。アリアに着いてきてほしい」

「──っ、生家……!? ご挨拶っ……!?」

「色々あるけど、どちらにせよ君はいないと駄目だね」

「えっあっ、アタシが……必要、ってこと……?」


「既にアリアのぶんも欠席届は出してあるんだけど」と付け加えると、彼女は無言のまま固い動作で首を縦に振った。確かにご挨拶ではあるのだけれど、そんなに緊張しないでほしい……。好きだなんだと告白したわけではないのにね。

手汗をスカートで拭いながら、傍から見ても暑そうなほどに頬を紅潮させたアリアへと笑いかける。「それならこの話はもうおしまい。詳しいことは……明日の道中にでも言うよ」


「じゃっ、じゃあ……今日は、出立の準備、するのね?」

「生活必需品くらいはまとめたほうがいいかもね。あとは装備も。無くなって困るものはみんな持っていかなきゃ」


しばらく生家で寝泊まりするとはいえ、いつなんどき不測の事態が起こるかは分からない。むしろこの期を狙って、俺やアリアに奇襲を仕掛けてくる存在がいるかもしれない──そんな懸念を抱きつつ、下駄箱から靴を取って履き替える。

……武偵校にはしばらく来れないかもしれないね。そう考えると、どこか物寂しい心持ちになった。別に卒業するわけでもないのに、二度と帰れなくなるわけでもないのに。だからだろうか、強襲科に行きたいと、ふと思いついたのは。


「もう一つお願いなんだけど、強襲科に行こう。一緒に」

「えっ、あさ……強襲科? 」

「うん。しばらく離れると思うと、行きたくなっちゃった」


「それに、アリアと強襲科で一緒になったことってないでしょう」と付け加える。「一回くらい一緒に顔を見せよう」


「……随分と気紛れなのね、本当に。いいけど」

「ありがとう。我ながら同感だよ。」


そんな気紛れでも、アリアにとっては喜ばしいことだったらしい。分かりやすく弾んでいる足取りとか、声の調子とか、見聞きしているだけでもこちらが楽しくなってしまうほどだ。これこそが彼女の愛嬌で、俺はそこに惹かれている。

『アリアと強襲科に寄るから今日は遅れる』と白雪に一報を入れ、目の前にそびえる強襲科の射撃練習場に向かった。


「アリアはどのくらいここに来るの?」

「不定期かな……。時間があれば軽く寄るくらいね」

「二ヶ月も来てなかった俺に比べれば優等生だ」

「射撃訓練だけ? 格闘技とかはやらないの?」

「付け焼き刃程度だよ、格闘技なんて。君には負ける」

「ふふん、やってみる? 手加減してあげよっか」

「本気でやってもらいたいけど、怖いからいいよ」

「えーっ、なによそれ。変なの……」


話すうちに練習場へと続く重厚な防弾扉の前に立つ。取っ手に手を掛けると、弾痕や凹凸の懐かしい感触が伝わってきた。場内の様子をそっと伺えば、鼻に硝煙の臭いが届く。


「そうそう、こんな感じだった。変わってないね」

「たった二ヶ月でOB面するの早いわよ」

「ふふっ、そうだね。……知った顔はいないかなぁ」


めいめいに練習をしたり談笑をしている生徒たちを眺めながら、アリアとともに見覚えのある顔を探す。なにやら話し込んでいるグループの一つに金髪の好青年がいて、もしやと思って近付いてみると、向こうも気が付いたようで視線が合った。「久しぶりだね」と小さく手を掲げてみせる。


「あれっ、如月くんじゃないか。久しぶりだね。神崎さんも一緒にどうしたの? 二人揃ってなんてかなり珍しい」

「ご無沙汰してるね、不知火くん。ちょっと遊びに来たよ」


声を掛けてきた男子生徒──不知火亮は、少しだけ目を見開きながら形式ばった挨拶をした。依頼で何回かペアを組んでいる程度の仲なのだが、人当たりが良く助かっている。


「如月くんと神崎さん、パートナーになったんだってね。強襲科は離れたかと思ったのに、また来てくれるなんて」

「別に離れてないよ。ちょっと忙しかったから」

「それ、暗にアタシのせいって言ってない……?」

「アリアと一緒になってから忙しくなったのは事実だよ」

「……たまに部屋でゴロゴロしてるくせに」

「おっと──。今のは聞かなかったことにしておくれ」


苦笑しいしい、悪戯っぽい笑みを浮かべているアリアを一瞥する。そうこうしているうちに話が回ったのか、後輩らしい数名が不知火くんの背後から俺たちを見ていた。自分には覚えのない顔だから、きっと彼らが新入生なのだろう。


「新しいメンツが入ってきたんだね」

「うん。僕たちさっき、偶然にも如月くんの話をしててね。神崎さんとペアを組んでるとか、去年は凄かったとか、そんな話。でもまったく来ないから半分は伝説になってるよ」

「来ないメンバーを伝説って……。学校にはいるでしょう」

「学校にいても実際に銃剣技の腕前を見せてくれるわけじゃないからなぁ。一緒に依頼を受けるとか、強襲科に練習に来てくれない限りは、ね。だから今日は助かったよ!」

「……もしかして、これ、やる流れかな」

「そりゃあもちろん、可愛い後輩のためだと思って」

「アタシもちょっと見てみたいっ。実戦と訓練は違うし」

「……まぁ、アリアが言うなら」


こっそり聞き耳を立てられていたのか、不知火くんだけでなく周囲の面々が一斉に騒ぎ始めた。こういうところの団結力がいかにも強襲科らしいというかなんというか……と思っているうちに、俺たちは新入生と同期に囲まれてしまった。


「あれ、如月じゃん。二ヶ月も来ないから依頼にでも出て死んだのかと思ってたわ。もしかして幽霊だったりする?」

「うん、幽霊。よく校舎内とか徘徊してるよ。それはそれとして、君が卒業までに死なないことを祈っておこうか」

「わー、彩斗くん! ハイジャック事件で殉職したんじゃなかったの!? 生徒たちを守って名誉を死を遂げたとか!」

「ふふっ、面白い冗談だね。残念ながらアリア共々に健在だよ。君こそ訓練や依頼で殉職しないようにしておくれ」

「如月先輩は神崎先輩と同棲しているという噂がありますけど、いかがでしょうか? ファクトチェックだけ……!!」

「武偵同士のパートナーではある、ということだけ伝えておくね。あまり変なことを言うとアリアを困らせちゃう」


向こうはどうなっているかな──と聞き耳を立てると、同じく彼女もも囲み取材の対応に苦心させられているらしい。


「で、アリアちゃんは如月くんと同棲してるの?」

「言うわけないでしょ、そんなのっ!」

「神崎さん、パートナーに対する感想をいただけるかしら? 強襲科の広報で記事として触れたいのですけれど……」

「まぁ……穏和で優しい人、かしら。能力も対等よ」

「神崎、さっきあいつがお前のこと『愛嬌あるね』って言ってたぞ! 何か一言くらい返事でも返してやれって!」

「……あり、がとう」


──どうしていつも恋愛系の話題に収束してしまうのだろう。こうなるともはや、お互いがお互いの波風を立たせないような返答をすることにリソースを割いている気がする。やはり他人から見れば、”そういう関係”に見えるのだろうか。

やれやれとアリアのほうを見る。さっきから珍しく参ったような視線を向けられているし、「早く助けてよぉ……」と言うかのような困惑した顔が、可愛らしいのだけれど可哀想に見えてきた。囲み取材もこのあたりが頃合いだろう。


「はいはい、そろそろおしまいにしようか。あと……あんまりアリアを困らせちゃ駄目だよ。この子、色恋沙汰の話題にはすこぶる弱いんだから。からかって可愛がるのも終わり」


済ました顔で紅潮した頬を扇いでいる彼女に苦笑しながら、「さて、そろそろ俺も練習を始めようかな」と続ける。「気になる人は見てていいよ。質問があればなんでもどうぞ」

ベレッタM93Rを握りつつ、周囲の歓声とともに射撃レーンへと歩みを進める。アリアは俺の傍らに控えるようにして、他の生徒たちはそれぞれ見やすい位置に移動していた。

いま対面しているのは屋外戦を想定した形の射撃レーンだ。草木といったオブジェクトがところどころに設置されていて、その陰や見晴らしの良い場所などに可動式ターゲットもある。もちろんそれらは十二分にM93Rの射程圏内だ。


「アリア、ターゲットを撃つ順番を五つ決めてくれるかな」

「……じゃあ、まず三メートル先の人体手首。次に五メートル先の可動式ターゲットの頭部、さらに足首。最高に八メートル先の人体頭部と手首。ざっとこんなものでいい?」

「ふふっ、さらっと面倒な要求してくるね」

「アタシだって見てみたいもん」


重荷だなぁ、と呟きながらロングマガジンに入れ替え、三点バーストにセレクターを入れる。射撃力の求められるシチュエーションだが、平時の自分の能力ならば弾数で補うしかない。《明鏡止水》の時ならば造作もない話ではあるのだが。

照準越しに何度かターゲットを追う。執拗なイメージトレーニングで敢えて脳の回転数を上げ、気息を整えているうちに周囲の雑音は掻き消されていった。いつだったか行った、簡易的なフロー状態に移行させるためのものだ。ここまで集中力を高められればある程度は大丈夫だろう、と予感する。


「さて……」


グリップを握り直し、再び照準を合わせ──トリガーを引く。リコイルとともに三点バーストの定則的な発砲音が鳴り響いた。銃弾の軌道が今ならなんとなく見える気がして、だからこそ、少し失敗したなと苦笑しつつ腕を下ろす。そんな俺の胸中に反して、嘆息するような息遣いが聞こえた。


「……連続射撃で外さないのね。一部は掠ってるけど」

「本当は当てたかったんだけど、失敗しちゃった」

「え、あれで失敗なんすか……? 当てといて?」

「個人的には失敗。あれで取り逃したら致命傷だもの」


思わず声を出した後輩に向けて、肩をすくめながらおどけてみせる。「練習くらいは命中率百パーセントでいきたいけど、やっぱり素が少し鈍っちゃってるかもしれないね」


「彩斗は今までどういう訓練してきたの?」

「トライアンドエラーの反復練習だよ。あとは銃の特性を知ること。アリアこそどうやってきたのか気になるけど」

「アタシだって似たようなものだけど……」


言い、今度は彼女が射撃レーンに立つ。コルト・ガバメントの二丁拳銃。ターゲットは──さっきと同じだろうか。軽く呼吸を整えると、照準を合わせると同時にセミで発砲した。

──掠ることなく全弾命中。どよめきの声が上がる。生まれたわずかな嫉妬も、やはり天才だという感心に呑まれた。


「それだけ小さい身体なのに、よく四十五口径を制御できるよね。しかも二丁拳銃で。アリアのほうが凄いよ」

「まっ、まぁね……。慣れってやつよ」

「人が褒めてるんだから素直になったらいいのに。もう少し嬉しそうに笑ってくれてるほうが可愛いよ、君は」

「ん……。ありがと。これでいいの?」


語気を強めて言い放ちながら、しかし口元の緩みは隠せないままに銃をホルスターにしまう。人前だから体裁を保っているのだろうか。普段なら手放しで喜ぶはずなのに。腕を組んでこちらを見上げるアリアの姿に、そんなことを思った。

その後も一言二言と言葉を交わしていると、不知火くんがふと近付いてくる。満足そうな笑みをたたえていた。


「如月くんも神崎さんもありがとう。正直あまり参考にはならないけど……二人とも凄いということだけは分かったよ。やっぱり天才同士のパートナーだ、とびきりお似合いだね」

「こちらこそ褒めてくれてありがとう。ただ──アリアと違って、俺は天才と呼ばれるくらいの人間じゃないよ。褒めるなら努力の過程を褒めてくれると嬉しいなぁ、なんて」

「……強襲科のSランクで、二つ名もあるのにかい?」

「ふふっ、それは相対評価でしょう。誰もが最初から天才じゃないよ。センスの優劣じゃなくて、大事なのは努力の量。適切な方向の努力さえすれば、秀才にはなれるよ、きっと」


もちろん、中には地頭やセンスだけで秀才になってしまう者もいるけれどもね、と付け加える。それを天才と呼ぶのだろう。だから自分は、天才ではなくて、秀才なのだ。

結果論が盲目的に評価されることのほうが多い。けれども本当に価値のあるものは、結果よりも過程でしか有り得ないのだ。優劣を付けるだけなら、ジャンケンだけで事は済む。

何もせず天性の才能で光を浴びた者と、努力を重ねても未だ影に同化する者──自分なら後者を評価するだろうことは、分かりきっていた。なぜなら、自分がそうであったから。影ながら努力した者と同時に、過去の自分をも褒めてやりたいような気分に、この話を語るたびになってしまうのだ。


「──なんて、こんな曖昧な話じゃみんな納得してくれないだろうから。少しだけマンツーマン指導でもしようかな」


「どうせだからアリアも手伝ってくれる?」と話を振ると、仕方ないわね、とでも言いたそうに苦笑いで返してくれた。


「じゃ、そういうことだ。志望者はこっちにおいで!」


◇


「──何気に人に教えるのって疲れるのね。楽しいけどっ」

「一人一人を分析して適切なアドバイスをするのが難しいんだ。ましてや顔も特性も知らない新入生を相手にはね」


強襲科棟を後にして帰路を辿りながら、俺とアリアは横並びになって武偵校の敷地内を歩く。肉体的・精神的な疲労は感じているはずなのに、心なしか足取りは軽かった。それはアリアも同じようで、屈託のない笑みが斜陽に眩しい。


「でも、良かった。新入生に彩斗のことを知ってもらえて」

「そうだね。流石に出不精の先輩だと思われてたら──」

「ううん、違う。そういうことじゃなくて」


俺よりも数歩先までトトトっと彼女は駆けると、茜色の日射しに照らされながら身体ごと振り返る。ローファーの靴音が鳴って、スカートの裾がなびいた。髪が、柔らかく揺れた。小さな指先が、真っ直ぐこちらに向けられていた。


「──アタシの自慢のパートナーがどれだけ凄いかって、みんなに知ってもらえて、嬉しかったから。本当に」


いつもみたいな照れ隠しの笑みすらなくて、ただひたすらに純粋な、感情の吐露。こちらが恥ずかしくなってしまうほどに澄んでいて、柔らかくて、温かかった。満たされている、と素直に感じた。やはり、自分はこの少女の隣にいたい。


「あっ……」


差し出された人差し指に、俺の人差し指を合わせる。やはり柔らかくて、温かい。指先の微かな脈拍も、伝わってきた。


「──だったら、なおさら君の期待に応えなきゃね」


笑いかけて、見つめ返す。赤紫色の瞳が少しだけ逸れた。小さく身じろぎしているアリアの姿がいじらしくて、やはり自分は彼女のことを護りたいのだと、改めてそう実感する。


「……うん。期待してる。色々と」


はにかむ少女の面持ちが、斜陽にあてられて儚く見えた。