カラミティ・ハーツ 心の魔物


 

プロローグ 心の魔物

 
前書き
 新しいシリーズ。一体何本書くのかって? さあねぇ。
 この話は、去年の八月ごろに書いていた駄作を、設定がもったいなかったので大幅リメイクしたものです。キャラとか良かったんですけれど、文章の構成力が足りなくて挫折。でももう一度書きたかったので今に至ります。
 全体的に暗い話が多いです。 

 
――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。
 それでも、だからこそ。
 この厳しい世界で、手を取り合って笑い合いながら、
――生きていくんだ。

  ◆

「魔導士部隊、位置に着け!」
高らかに響くラッパの音。リュクシオン・エルフェゴールは隣を見た。
「ついに来ましたね、この時が」
「ついに来たな、総力戦が」
 彼の隣に立っているのは、この国の王。王は難しい顔をして、リュクシオンに言った。
「リューク、いけるな?」
「はい、あと少しで準備ができます。しばしお待ち下さい」
「頼りにしてる」
 戦が始まった。国を懸けた戦いが、始まった。逃れられない戦いが、大切なものを守るための防衛戦が、始まった。始まってしまった。一方的に。防衛側のことなんて露ほども考えられずに。――侵略する側というのはそういうものだ。
 この国、ウィンチェバル王国は小さい割には資源が豊富である。そのためこれまで多くの国々から狙われ、侵略されてきた。それをすべて退けられたのは、ひとえにこの国の魔導士部隊のおかげである。それなりの侵略ならこれまで何度かあったが、今回のは規模が違う。攻めてきたのはローヴァンディア、ウィンチェバル王国の西に位置する大帝国で、その武力は世界の中でも随一を誇る。
 リュクシオン・エルフェゴールは目を細める。自軍は四千、敵軍は一万。あまりにも圧倒的すぎる戦力差に、思わず膝を屈したくなる。それでも彼はぐっとこらえ、己の中で、三日三晩不眠不休で練り上げてきた魔力の蓮度をさらに高める。敵が来るのはわかっていた。だから彼は、この日のために――。
風が吹き、彼の茶色の髪を揺らす。その下で、空色の瞳が、疲れたような色を見せながらも力強く輝いた。彼の髪を揺らした風は、彼の羽織った薄青の外套によって、服の中への侵入を阻まれる。空から雪がはらりと落ちて、彼の茶の革靴の上に落ちて融け消えた。今は冬、寒い季節だ。彼の細いその首には、藍色のマフラーが巻かれていた。
 彼ことリュクシオン・エルフェゴールは召喚師だ。この世とは違う世界に呼び掛けて、その世界の存在を言葉によって縛りつけ、使役する。それが召喚師の御業。召喚師というのは才能で、生まれつき「違う世界」を認識できる者の中でもごく一握り、「縛りの言葉」を感覚によって体得し、呼び出した対象によって臨機応変に「言葉」を使い分けられる者だけが召喚師になれる。それなりの魔力を持っていることも召喚師であることの必須条件である。召喚師は魔力を消費して「違う世界」に呼び掛けるのだ。彼らはこの国ウィンチェバル王国にはほとんどいないが、最も召喚師の排出率が高いとされる国でもその割合は全人口の零点一パーセント程度と、絶対数は非常に少ない。
 リュクシオン・エルフェゴールは、そんな召喚師の一員だ。しかし彼の場合は生まれつき召喚師ではなかった非常に稀有な例である。彼の召喚の才能は後天的だ。後天的召喚師なんて、歴史書に二人しか見つからない。彼はそれほど希少な存在だった。
昔、無力だった彼は「力を」と願った。状況すべてを打破する力が欲しいと。彼は弱すぎる魔法の才能しか持っていなくて、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。当時王国は内乱によって疲弊し、一刻も早くそれを収める優秀な人間が必要だった。彼は強い愛国心の持ち主で、何の役にも立たない我が身が大嫌いだった。その思いは日増しに強くなり、内側から彼を苛み続けた。
 そしてその願いは、ある時叶った。理由はわからない。ただ、その時から急に、彼は召喚術が使えるようになったのだ。消えたのはちっぽけな魔法の才。それと引き換えに彼は、これまで己の知覚できなかった「別の世界」をはじめて知覚することができるようになり、それを自覚すると同時に、彼の頭の中に沢山の「縛りの言葉」が浮かんできたのだ。ここに新しい召喚師は誕生した。その後の彼は召喚師として一気に成長して目覚ましい功績を上げるようになり、自分のコンプレックスとなっていた劣等感から解放された。彼は国のために役に立てるという喜びを、全身で味わうようになった。それは彼が最も理想とする未来。そんな未来への切符をその日、彼は手にしたのだった。そして彼は国のために粉骨砕身し、自分のことをまるで省みないようになった。
 リュクシオンは神を信じない。信じても無駄、助けは来ない、そんな世界に生きてきた。しかし彼に起きた奇跡は、何もできなかった彼が急に「力」を手に入れた理由は。神の御業であるとしか、彼は考えられなかった。歴史書の二人も「奇跡によって」「神によって」、後天的な召喚師の力を手にしたという発言があった、との記録がある。神はいない、いるとしても童話の中だけだ、そう信じられている世界だけれども、彼の全てが変わったあの日、彼は明らかにこの世のものではない不思議な声を聞いたのだ。
 リュクシオン・エルフェゴールはその力を使って、今まさに彼の愛する国を奪おうとしている侵略者たちから国を守ろうとしている最中だ。そのためにずっと魔力を練って、「ある存在」を召還した際に、「それ」がこの世界へ来るときの道を作っているのだ。道がなくては応じたくても応じられない。彼が呼び出すのは相当に強い力の存在だから、その分道を大きく強くしなければならず、だから三日三晩も寝ずに作業をしているのである。
 そして今、彼はここにいる。その力を見初められ、王の側近として、ここにいる。力がなければ、決して昇りえぬ地位に。望んでこそいなかったが、決して悪くは無い地位に。
 リュクシオンは、疲れた顔の上に不敵な笑みを浮かべた。
――だから、利用させてもらうよ。
 この状況を打破できる、唯一無二の召喚術。国を守るために過去の文献をあさり、そして見つけた、とある天使の召喚呪文。リュクシオンしか見つけられず、リュクシオンにしか「縛りの言葉」がわからなかった。それの発動には、長い長い準備が要った。やがてリュクシオンが寝る間も惜しんで準備し続けた術の完成が、迫る。リュクシオンは強く思った。
――国を守りたい。思いはただ、それだけなんだ。
 そして。
 太陽が、月に食われた。
 日食だ。しかも皆既日食だ。昼の雪原はあっという間に闇に閉ざされ、凍える寒さが人々を打つ。不安げな声がざわめきとなって雪原を揺らしていく。
「――今だ!」
 リュクシオンは声を上げた。突き出した手に、集まる魔力。皆の視線が、彼に集中する。
「光の彼方、天空の向こう、万物に公平なる平等の母! ここに我、リュクシオン・エルフェゴールはあなたを呼ぶ。我に力を貸し給(たま)え。現れよ――日食の熾天使、ヴヴェルテューレ!」
 神の域にさえ達したとされる究極の天使が今、リュクシオンの「仕掛け」に導かれ、彼の敵を滅ぼすため、外へと飛び出す。
 が。

 崩壊は、一瞬だった。

「あれ……嘘だろ……?」
 白い、白い光が視界を埋め尽くした。天使はこの世に顕現した。そこまでは構わない。だとしても。
 光が晴れたとき、リュクシオンは天使のもたらした結果に身も心も凍りついた。
 辺りに転がるは死屍累々。光に貫かれて焼き焦がされて。死んでいるのは敵ばかりではなくて、リュクシオンのよく知った顔も紛れている。見知った顔。あれは魔道師のアミーだ。あっちは同僚であり、友人であるルーク。そして彼は、さらに驚くべき人物の死体を見る。その人物とは、
――さっきまで隣にいた、リュクシオンの王様。
 敵味方の区別なく、みんなみんな死んでいた。リュクシオン以外皆殺しだった。死んだその目には恐怖の色があった。恐怖を感じる暇はあったということだ。
 リュクシオンは、動かない、動けない。ただただ呆然として、己のもたらした惨状を眺めていた。彼の全ての思考が停止した。先程まで一万四千もの人間が戦っていた戦場で、立っているのはリュクシオンだけだった。
 中に浮かぶ日食の熾天使が、これで良かったのだろうとリュクシオンに笑いかける。
「……違うよ、ヴヴェルテューレ」
 リュクシオンは、放心したままで呟いた。
「僕が望んだのは、僕があなたに願ったのは、こんな、こんな結末じゃないッ!」
 国が、滅んだ。守ろうと、彼があれほど力を尽くした国が。リュクシオンの王国が。守りたかった全てが。王様が、友人が、死んだ。滅び、壊れ、崩れ落ちた。
 リュクシオンの、積み重ねてきたすべてが。
 存在意義が。
「……あ……嗚呼……ぁぁぁぁ嗚呼ああ嗚呼あ!」
 リュクシオンは地にくずおれ、獣のように咆哮を上げる。
 天使は、破壊神だった。
 確かに相手も全滅したが、彼が望んだのはこんなことじゃない。こんなことなんかじゃ、ない。
 平和を。愛する国に平和を。そう、彼は心から思っていた。だからこそ、力を望んだ。愛するものを、国を、守る力を。力があれば、大切なものが傷付くさまを見ないで済むからと。
――コンナコトジャナカッタ。
 絶望に染まる召喚師の頬を、涙が伝った。赤い、紅い、赫(あか)い。血の色をした、絶望の涙が。暗い、昏(くら)い、冥(くら)い、原初の無よりもなお深い色の絶望が、彼の胸の内を吹き荒れる。
「ア……アア……ァァァアアアアアアアアアア!」
 壊れた機械のような声とともに、彼の世界は崩壊した。
「ァ……ァぁ……ァぁァぁァぁァぁァぁァ…………」
 その身体が、闇色の光とともに、変化していく。
「ァ……ぁ……」
 背は、こぶのように盛り上がり、体中から毛を生やしたそれは、もはや人間ではなかった。
「……ァ……」
 幽鬼のようにのっそりと動き出したそれは、魔物そのものだった。
 その瞳に、意思は無い。理性も無い、何も無い。人間らしさなんてたった一欠片も無い。
 その虚ろな姿は、大召喚師と呼ばれた男ののなれの果て……。

――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。

 王も貴族も召喚師も。なんびとたりとも例外は無い。
 ひとたび心が闇に落ちれば、一瞬にして、魔の手は伸びる。
 そして魔物となった者は、己の死以外ではその状態を解除できない。
 これまでもそんな悲劇はたくさんあった。魔物となった大切な人を、自ら手に掛ける人たちの物語が。
 悲劇でしかない、ただ悲劇でしかない、この世界の絶対法則。それを端的に人はこう言い表す。
 いわく、

――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。
 

 

Ep2 大召喚師の遺した少女

〈Ep2 大召喚師の遺した少女〉

 
――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。

「……いったい何で、こんなこと」
 リクシアはぽつりとつぶやいた。白の髪が不安げに揺れる。赤の瞳は混乱を湛え、小さなその全身は震えていた。その顔にはどこか、あの大召喚師リュクシオンの面影がある。彼女はリュクシオンの妹だった。彼女は戦争が始まった際に「危険だから」と国外に逃がされた。故に破滅を免れた。
 リュクシオン・エルフェゴールは召喚した天使を制御しきれずに暴走させ、あれほど大切に思っていたウィンチェバル王国を破滅させたという。直接その目で見たわけではないけれど。人々から話を聞いて、リクシアはその情報を知った。
 リクシアはそれを聞いて、運命のあまりの理不尽さに嘆く。
「おかしいよ……。何で、何で、こうなるの……? 兄さんは、ただ国のためを思って……! こんなの理不尽だよ……!」
 リクシア・エルフェゴール。彼女は、あのリュクシオンの妹。 あの日、あの時。ウィンチェバル王国内にいた人々は皆、死に絶えた。リュクシオンの呼びだした天使によって、敵味方の区別なく皆殺しにされた。
国を守るために、神に願って得た力。しかし彼はその力で、国を滅ぼしてしまった。そして、絶望のあまり、心を闇に食われて、魔物と化してしまったのだ。
「こんなの、おかしいよ……」
 リクシアの口から言葉が漏れる。
「兄さんは、兄さんはただ、国を守れればそれでよかったのよ! こんなこと誰が望んだの? 誰も望んではいない結末に、最悪の結末にどうしてなるのッ!」
 リクシアの両の瞳から流れだしたのは熱い雫。
 彼女は思う。理不尽だ、兄に起こったことは、あまりにも理不尽だと。だから、探そうと思った。魔物と化した大切な兄を、元に戻す方法を。
 魔物と化した人間は元に戻らない、それがこの世界の法則だ。過去の文献を漁れば元に戻った人間の話もあることにはあるが、それは童話や物語のようになって語られていて、真偽は確かではない。そして歴史書や正確性の高い文献に、そんな話は一切出てこない。魔物と化した人間の話は出てくるにもかかわらず。
 リクシアは呟いた。
「魔物は二度と戻らない? そんな法則……なら、私が変えてみせるわ」
 心が闇に食われたら魔物になるのならば。心を光で満たしたら、人間に戻れるのだろうか。
「……生き残ったのは私だけじゃないはず。だから、探すわ。探して兄さんの前に連れてきて、言うんだから」
 あなたはすべてを滅ぼしたわけじゃない。見てみて、ほら。私たちは、生きているよ――と。
 そのためにはまず、情報をもっと集めなければならないなとリクシアは思った。
 と。
 リクシアの耳は悲鳴を捉える。
「わぁぁああああ! 魔物だ、魔物が来た!」
 突如上がった悲鳴に、リクシアははっとなった。光と風の魔導士である彼女は、懐に忍ばせた杖を握りしめる。彼女に召喚師の才こそないが、代わりに彼女はそこそこ優秀な魔導士だった。
 やがて彼女は見つけた。街の真ん中で、狂ったように暴れだしている人ならぬ異形を。
「本当は、魔物すべてを元に戻せればいいんだけどっ!」
 しかしそもそも方法がないし、もしもそんな方法があったとしても、そこまでの慈愛は持ち合わせがない。彼女は兄を救うだけで精一杯なのだ。魔物化した人間なんて、この世界には限りなくいる。それだけ、人を狂わせる原因は各地に広がっているのだ。この世界はそんな世界だ。
 逃げ惑う人々の波をかき分け、リクシアは見た。腕に意識を失った白い少年を抱き、座り込んだまま迫りくる魔物を迎え撃たんとする、鋭い目をした黒い少年を。
 全てを救おうなんてリクシアは思わない。それでも、目の前にいる人くらいは救いたいと思った。そのための力だ、そのための魔法だ。
「光よ来たれ、敵を撃て!」
 とっさに叫び、放たれる呪文。それは魔物の目を灼いた。
 目のくらんだ魔物は怒りの咆哮を上げ、魔法の来た方向にその体の向きを変えて闇雲に突進しようとする。そんな魔物に対して、挑発するようにリクシアは叫んだ。
「あなたの相手はこの私よ! 馳せ来たれ、心の底なる、風の狼!」
 続いて唱えられた呪文。どこからともなく、風でできた半透明の狼が現れ、魔物に勢いよくぶつかって押し倒した。
 悲鳴。視力を奪われた魔物は必死に抵抗するが。その身体を魔物の爪で牙で裂かれても、風の狼は魔物を攻撃し続けた。そもそも風に実体なんてない。風の狼を倒すには、相手も魔法を使わなければならない。
「彼方を駆けよ!」
 叫べば、狼の力が強くなる。
「さぁ、とどめよ! あなたは元は人間だった、それはわかっているけれど……仕方がないでしょ、魔物になっちゃったんだから!」
 風が魔物の喉を切り裂き、そして魔物は息絶えた。すると、魔物の遺体は男の遺体に変化する。。
 魔物になっても、心が消えても。死んだら元の、人間になる。魔物は最初から魔物だったわけではない。彼らは心を闇に喰われただけで、そうなる前は人間だったのだ。
 だから、リクシアは魔物になった人間を殺すことを辛く思う。殺したら、人間だった元の姿が現れる。それを見るとリクシアは、自分が人殺しをしたような、何とも言えない重い罪の意識を感じるのだ。
 リクシアは遺体から目を上げた。結果として助けることになった先ほどの少年たちに近づいていく。彼女は優しく声を掛けた。
「大丈夫? どこか、怪我とかない?」
 近寄ってみると、黒い少年が足に怪我をしていることがわかった。心配げな彼女に彼は冷静に返す。その声は低めだ。彼は漆黒の髪と赤い目をしていた。歳はリクシアよりも上だろうか。
「……大事ない、この程度。フィオを守るために、動けなかっただけだ」
 言って、彼は腕に抱いた白い少年のことを意味ありげに見つめた。フィオというのは、彼が腕に抱いた白い少年のことらしい。
「とりあえず、助かった。オレだけじゃ、フィオを守りながらだと正直きつかったかもな。あんたは魔導士か?」
 黒い少年の問いに、ええ、とリクシアは返す。
「はじめまして、私はリクシア・エルフェゴール。光と風の魔法を使うわ。あなたは?」
「アーヴェイ。こっちはフィオルだ。ん? エルフェゴール? 聞いた名前だな……」
 リクシアはうなずいた。
「大召喚師、リュクシオン・エルフェゴールのこと、聞いたことある? 私は彼の妹よ。国外にいたから、災厄から逃れられた。国外に逃がされたから、私は今生きていられるの」
 アーヴェイと名乗った少年は皮肉げにその口元を歪めた。
「……あの元英雄の妹か」
 その口調は、リュクシオンを知っているようだった。
 リクシアは訊ねる。
「兄さんをご存知なの?」
「ああ」
 アーヴェイと名乗った黒い少年は頷いた。
「オレはウィンチェバルの者ではないが……。ウィンチェバルをふらりと旅した折、一度だけ、力を得る前の奴に会ったことがある。とにかく必死でちっぽけな魔法の才を磨こうとしていて、少しでも国のために、国のためにって……そこには狂気じみた盲信のようなものを感じたが、人となりや印象は悪くなかった」
「そっか……」
 それを聞いて、リクシアは複雑な気持ちを抱いた。
 リュクシオンはリクシアにとって、優しく格好良いお兄ちゃんだった。リクシアが泣きだせば優しくその頭を撫でてくれ、リクシアが不機嫌な時は根気強くその理由を聞いて原因を解決しようとしてくれた。しかし彼は「国のために」を掲げてそれにひたすら突き進み、滅多に家に帰ってくることはなかった。だからリクシアは兄が好きだけれど、同時に滅多に帰ってこない兄に対して、寂しさのようなものを感じていたのだ。リクシアにとっては国のことなんて正直言ってどうでもよかった。彼女はただ、家族で平和な日々を送りたかっただけなのだ。
 そんな彼も、全て報われずに魔物になった。
「アーヴェイ、さん」
「アーヴェイでいい。何だ」
 リクシアは、一つ訊いてみた。
「……魔物になった人って、元に戻るって思ってる?」
 途端、アーヴェイの表情が一気に暗くなる。リクシアは、彼の触れてはならないものに触れてしまったと知った。
 アーヴェイの赤い瞳が地獄を宿して、静かに言う。
「……戻したい人がいる。戻るわけがなくとも、諦められない人がいる」
「…………!」
 それは半ば、彼にも魔物となった大切な人がいる、と言ったも同然だった。
 魔物になった大切な人がいる。そのつらさ、その悲しさは、魔物となった兄を持つリクシアにはよくわかる。
 これはデリケートな話題だった。それと気づかずに、リクシアは土足で踏み込んだ。
 この世の中だ、いつ、何があるかはわからない。ほんの些細な理由から、人は魔物になってしまう可能性を秘めている。偶然助けた見知らぬ人間が、魔物になった知り合いや大切な人がいないとは言い切れない。これはリクシアの失言だった。
「ご、ごめんなさい……。あのね、私ね、兄さんをどうしても元に戻したくって」
「戻せるわけがないだろう。今更下らん夢物語をオレに語るな」
 その言葉に、リクシアはカチンときた。アーヴェイの全てを切って捨てるような言葉は、彼女にとって、兄が魔物になってからの自分を全否定されたような気がしたからだ。自分の決意を、自分の思いを、自分の挑戦を、何もかも無かったことにされたような気がしたからだ。
「あのさ! 夢物語、夢物語ってさぁ、自分から何もしようとしないで最初から全否定しないでよッ!」
 返されたのは、冷静な、あまりに冷静な、言葉。
「ならば聞くが、人間は道具や魔法の助けなしで、空を飛ぶことができるのか? できないだろう。魔物を元に戻せないというのは、人間が空を飛べないのと同じくらい当たり前のこと。そんな下らんことにムキになるなんて人生無駄だぜ。そりゃあ全否定もするだろう」
 その声は、どこか彼女を嘲笑うような調子を帯びていた。
「馬鹿にしないでよッ!」
 怒ったリクシアの周囲で風が吹く。
「私のこの思いは、決意は、怒りは、全てすべて本物なんだから。だから私はこの世界の法則を変えてみせるわ、それがどんなに傲岸不遜な思い上がりだとしても。だから黙って見ていなさいよね!」
 リクシアは、燃える赤の瞳でアーヴェイを睨みつけた。
 アーヴェイは呆れた顔をした。その顔の奥には、面白いものでも見るような光がひらめいている。
「何だ、その傲岸不遜な言い方は? 大召喚師の妹だからって、自分が何様だと思っているんだ? その名称も、大召喚師なしでは得られなかったものだろうに。……だがな、面白いじゃないか、大召喚師の妹。オレはあんたの向かう先を見てみたくなった」
 アーヴェイは、笑った。おかしそうに、笑った。
「ハ、ハハ、ハハハ! いいじゃないか、やってみろよ、やってみせろよ。変えられるというのならば、法則を変えて見せろ。それができた暁には、ハーティも元に戻るかもしれないしな……」
 呟きの中に込められたのは、面白がる調子と一つの願い。
 小さく彼はうなずいた。
「オレはやることがなくて暇だった。だからなんだ、折角だから、あんたの夢物語にも付き合ってやろうか、と提案するが、どうだ。その先であんたがもしも魔物を人間に戻すなんて物語を夢ではなく現実にすることができたのならば、それが万人に通用する方法ならば、オレたちの大切な人もきっと元に戻れる。そんな身勝手な理由からだが、オレはあんたの旅について行きたくなった」
 リクシアの表情は複雑だ。
「私のすべてを否定した、いけすかない奴って思っているんだけれど……正直、一人きりの旅では不安なことも多いの。私、まるっきりの素人だから」
「それで旅に出ようとしていたのか?」
 アーヴェイは本当に呆れてしまったようだった。
「全く、見てられないな。そんなので世界に挑むなんて無謀にもほどがある。そんなわけで同行することになったアーヴェイだ。こっちはフィオル」
 アーヴェイは、目を覚まさないフィオルを心配げに見詰めながらもその手を差し出した。
「これからよろしくな」
 運命は、回り始める。



 

 

Ep3 天使と悪魔

〈Ep3 天使と悪魔〉


「とりあえず、このままもなんだし、どこかに行って話そう?」
 リクシアはそうアーヴェイに提案した。アーヴェイはうなずき、まだ目を覚まさないフィオルを背負い、立ち上がる。が。
「……ッ!」
 彼の怪我をした足に痛みが走り、激しくよろめいた。
「だ、大丈夫?」
 駆け寄るリクシアを、何でもないと手で追い払う。
「宿くらいはある。そこで手当てするさ」
 アーヴェイは放浪者だが、この町には何度か訪れたことがあり、それなりに土地勘がある。
 アーヴェイの案内に従って、リクシアは宿を目指した。

「やぁ、アーヴィーさん。……って、フィオルさん!? というかアーヴィーさん、その怪我どうしたんすか」
「アーヴィーじゃない、アーヴェイだ。何回言えばわかるんだ全く……。ところで部屋は空いているか?」
 アーヴェイは呆れた顔をして訂正する。対する相手は飄々(ひょうひょう)と澄ました顔だ。
「空いてまっせー。そこのお譲ちゃんはお仲間で?」
「そうだ」
「なら、二部屋空いてるんで、鍵渡すからそちらにどうぞー」
「助かる」
 顔見知りらしい宿の主と簡単な会話をすると、アーヴェイは階段を慎重に上って行った。リクシアがそのあとをついていく。
「さて」
 あてがわれた部屋には机と椅子があった。アーヴェイはそこにリクシアを招く。
「とりあえず、当分はここにいる。フィオが良くならなきゃ話にならん」
 言いながら、彼は足の傷の手当てをする。リクシアは訊いてみた。
「あのー。フィオルさんはどこか悪いの?」
「生まれつき病弱なんだよ。でも今回は違うぜ。あの魔物にぶんなぐられた」
 その答えを聞いて、リクシアの顔が心配に曇った。
「大丈夫なのかな」
 さあな、とアーヴェイは首をかしげる。
「オレが間に割って入ったから、そこまでひどくはないだろうが……。前にも、こういうことがあった」
「そうなの……」
 と、ベッドに寝かせていたフィオルが、身じろぎをした。それに反応し、アーヴェイがフィオルのベッドに駆け寄る。
「フィオル、無事かッ!」
「大丈夫だよ、兄さん……。いつも冷静なのに、僕のことになると心配しすぎ……」
 彼はだるそうにしながらも、そんな言葉をアーヴェイに返した。
 その言葉に、リクシアは固まった。フィオルとアーヴェイを見比べる。
 真白な髪に青い瞳のフィオルに、漆黒の髪に赤い瞳のアーヴェイ。天使みたいなフィオルに、悪魔みたいなアーヴェイ。
 全然似ていない。
「……あの、あなたたちは、本当に兄弟……?」
 リクシアが訊ねてしまうのも、むべなるかなである。兄弟、つまり同じ遺伝子を持つ者同士ならば、外見のどこかに似ている部分があって当然だろう。しかしこの二人の顔には、全くと言っていいほど共通点が見つからなかった。
 フィオルはベッドから身を起こし、リクシアを見ていぶかしそうにする。彼は首をかしげてアーヴェイを見た。
「アーヴェイ。この人、誰?」
 ああ、とアーヴェイは答える。
「彼女はリクシア。命の恩人だ」
「命の恩人? 珍しいね、アーヴェイが後れを取るなんて」
「お前を守りながらだったんだ、仕方ないだろう。その時、お前は気絶していた。……リクシア、オレたちは義兄弟だ。普通にアーヴェイと呼べばいいものを、こいつは時々兄さんと呼ぶ。義兄弟の契りを交わしたって、呼び名まで変える必要はなかろうに」
 なるほど、そういうことかとリクシアは理解した。
 義兄弟ならば外見が似る必要はない。この二人の過去に何があったのかはわからないが、そういうわけで時々フィオルはアーヴェイを「兄さん」と呼ぶらしい。
 アーヴェイは身を起こしたフィオルを支えてやりながらも、紹介した。フィオルは心配しすぎるアーヴェイの手を鬱陶しそうに振り払った。
「こいつは大召喚師リュクシオンの妹。オレたちと同じ、大切な人が魔物化した人間だ。大切な人、つまり兄のリュクシオンを元に戻すために旅をしているそうだ。オレたちと同じだよ。――運命の被害者」
「……運命の被害者、ね」
 何か思うところがあるのだろう。フィオルはふっと黙り込んでしまった。
 リクシアは考えていた。
――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。
 理不尽な、あまりにも理不尽な、理不尽すぎる絶対法則。その法則のおかげで、全てを失った兄は魔物化し、世界を揺るがす災厄の一つになり果てた。なぜ、なぜ、何のために。こんな法則が存在するのか。こんな、害悪にしかならない、悲しみを振りまくだけの法則が。
(旅をすれば、いつかわかるかな)
 魔物化した大切な人を、泣く泣く手に掛けたたくさんの人々。魔物化が解けて人間に戻った物言わぬ遺体を見て、空も裂かんとばかりに上がる悲痛な慟哭(どうこく)の声。兄に守られる平和な日々の中でも、リクシアはそれを何度も目にしたことがある。人は簡単に魔物になるのだ。そして魔物に殺された人の遺族が、深い悲しみにとらわれて魔物化する。こうして悲しみは連鎖する。
 戦があれば、魔物は増える。増えた魔物によって絶望を味わった人が、さらに魔物になり、その大切な人もまた絶望し、魔物になる。魔物になった大切な人を見た人もまた、魔物になる。一家全体が魔物になった例も数多くある。それは、終わりなき負の連鎖。
 リクシアが兄を戻したいのはもちろんだし、それが非常に難しいことも分かっているけれど。
「それじゃあ、根本的な解決にならない……」
 神様なんていない。けれど、神様ならなんとかできるだろうか? そんな夢物語にだって、縋りたくなる時がリクシアにはある。それを言うならばこの旅は、魔物となった兄を元に戻すための旅は、夢物語を追いかけるようなものだけれど。それでもリクシアは信じたかった。今から自分がやろうとしていることは、ただの夢物語ではないと。
(私は英雄じゃないけれど。変えたいの、この世の摂理を)
 それぞれ物思いにふける三人の間を、心地よい沈黙が流れて行った。
 

 

Ep4 古城に立つ影

〈Ep4 古城に立つ影〉

「リュクシオン=モンスター……」
 すべて滅びた国の廃墟に、立つ影が一つ。銀色の、月の光を宿したかのような美しい髪とどこまでも凍りついた、冴えわたる青の瞳。彼は青いマントを羽織り、腰には銀色の剣を差していた。漆黒のブーツが大地を踏み、土の大地はわずかに音を立てた。
 その冷たい瞳が見据えるは、異形となったかつての大召喚師。魔物となった、かつての英雄。
見る影もなくなった国に、見る影もなくなった英雄の姿。ウィンチェバル王国の千年の栄光も、たった一回の召喚ミスで完全に滅び、なくなってしまった。
「諸行無常、か……」
 呟く声は、闇に吸いこまれていった。
永遠なんて存在しない。いくら栄えている国でも、どんなに素晴らしい王様の統治する国でも、いつかは必ず滅びるものだ。滅びないものなんてない、終わらぬ存在なんて、終わらぬ事象なんて、ない。それは彼にもわかりきっていたことだけれど、いざその廃墟の前に立つと、彼にも色々と思うところがある。彼はその国の中でも、国の中枢にかかわる特殊な立場の人間だったから。
 その国も、今やない。
 彼はしばらくそこに佇んでいたが、やがて静かにその歩を進める。
「今の僕では奴を狩れないな。駄目だ、力量の差が……」
 月夜に光るつるぎを抱き、決意を秘めて、踵(きびす)を返す。
 彼はそれを何としてでも狩らなければならなかった。彼は、何に代えてもその使命だけは守らなければならなかった。
「それを、復讐としたいんだ。だから」
 強く強く、剣を抱く。
「力が、欲しい。あの魔物を狩れるだけの力が。そうしてこそ初めて、僕は奴らを見返せる」
 かつて、闇の魔力を持っていたというだけで、自分を捨てた国に。弱かったという理由だけで、自分を嘲り、蔑んだ故郷に。
 彼は復讐をしたかった。見返してやりたかった。
 今はもう、何もないけれど。何もかもが滅びてしまったけれど。彼にはそうするだけの理由があった。
「けじめを、つけよう。弱かっただけの自分なんて、もうお別れだ」
 歩き去っていくその胸元には、王族の証たる紋章があった。

   ◆

「次は、どうするの?」
 フィオルとアーヴェイとの出会いから一日。思ったよりもフィオルの回復が早かったので、リクシアたちは町を出ることにした。
 それにはフィオルが答える。
「……一回だけ、実例があるんだ。魔物を元に戻したという、正真正銘真実の、実例が。そこに行けば、何かわかるかもしれない。ほとんど知られてない話だから、詳細は現地に行かないとわからない」
 フィオルの言葉をアーヴェイが引き継ぐ。
「でも、遠い。果てしなく遠い。オレたちはハーティに元に戻ってもらいたいとは思っているが、そこに行って何か得られる可能性は限りなく低いだろう。なにぶん相当に昔の話だから、失われた部分も多い」
「実例……ある……」
 リクシアはその話を聞き、呆けたように呟いた。彼女は思う。その方法について詳しく知れば、いつか兄は戻るのだろうかと。それを世界に広めれば、悲しみは減るのだろうかと。
 何もわからない、何一つわからない。けれど、あやふやな物語でも「実例がある」のならば、リクシアは希望を抱かずにはいられない。
リクシアは、赤の瞳に炎を宿してアーヴェイを見た。
「私、どんなに厳しい道行きでも頑張るから。私はこの理不尽が許せない。だから」
アーヴェイは笑う。
「その意気だ。それくらいの闘志がないと面白くない」
 リクシアは、思いを固める。
 夢物語かもしれないけれど、立ち上がるから、立ち向かうから。
――待っていてね、お兄ちゃん。
 

 

Ep5 醜いままで、悪魔のままで

〈Ep5 醜いままで、悪魔のままで〉

  ◆

「リュクシオン=モンスターッ! 貴様の命をこの僕が頂くッ!」
 閃(はし)る、銀色の剣光。月を宿した銀の髪、凍てつき澄みわたる青の瞳。
 「彼」はまだ力を手に入れてはいなかったけれど。大召喚師のなれの果て、リュクシオン=モンスターに見つかって攻撃を仕掛けられた。ならば受けるしかないだろうと銀色の彼は思い、これまでの想いを全て力に変えて剣を振る。月の光に照らされる大地の中、彼の銀の髪は美しく照り映えた。その中で冴えわたる剣の腕。
「僕は、僕は、僕はッ!」
 一撃ごとに溢れ返る感情。それは彼の全身から闇として滲みだして、彼にさらなる力を与える。彼はかつて、王国で一番の剣の腕を持つと言われていた。夜を切り裂く剣光は苛烈で、その素早さたるや、まるで何本もの銀の光が躍っているかのようでもあった。
 しかしリュクシオン=モンスターも、当然ながらただやられるに任せているわけではない。
 咆哮。至近距離で放たれた音の衝撃波は銀色の彼の聴力を奪い、彼の頭に殴られたような衝撃を与えた。
「く……ッ!?」
 呻く銀色。生まれる致命的な隙。その隙に魔物は迫り、その腕が銀色の彼の脇腹を貫いた。飛び散る赤い液体。それは大地に広がっていき、触れるものを赤に染め上げた。銀色の彼はくずおれる。
「……リュクシオン=モンスター……ッ!」
 脇腹を貫かれた痛みに顔をゆがめながらも、彼は憎悪に満ちた目で魔物を睨む。魔物はしばらくそんな彼を見つめていたが、やがて何も手出しをせずにその場を去った。銀色の彼は呻きながらもその背に声を投げる。
「殺せよ、化け物。僕を、殺せよ……!」
 こんな惨めな生を送るくらいならば、殺された方がましだと彼は叫んだ。しかしその声は魔物には届かない。彼は自らの流した血の海に倒れながらも、怨嗟の言葉を吐き続けた。
 そんな彼を嘲笑うように、月に影がかかっていった。

「あなたをたすけてあげる」
 甘いささやきが、彼の心を満たす。
「ほら、わたしがほしいでしょう? 大丈夫、すぐにあげるからね」
 どうしてだろう、と彼は思った。どうして自分はこんなところにいるのだろう。
 強くなりたいと思った彼は、大召喚師のなれの果てに弱いままで戦って敗北して、それで。
 大怪我を負い、助けられて。今は女性の胸に抱かれている。
 女性の濡れて上気した肌が、蟲惑的な香りを放つ。その甘ったるい香りが彼の思考力を奪う。これまでの目的も、何もかも。
「あなたのなまえはなんて言うの? だいじょうぶ、こわくないから」
「……******・*******」
 彼は問われるがままに、名を答えた。言ってはならなかったはずなのに。言ったらお終いって、わかっていたはずなのに。
 彼は逆らえなかった。催眠に掛けられたような心地が、彼の心を支配した。
 彼女は彼を抱き、言うのだ。
「なら、すべてわすれてしまいなさい。つらいことがあったのでしょう。わたしがなまえをあげるから」
 彼女は彼の唇を優しくついばみ、甘い声で言う。
「あなたの名はゼロよ。そして、わたし以外の人を知らない」
 催眠術にかかったように、彼はうなずいて。
 そして、全てを失った。
――僕は、だれ? 名前は、ゼロ。あの人は、だれ? お母さん。
 忘れちゃいけないことがあった。なのに。
 わずかに残った記憶が彼に訊ねる。
 お母さん、お母さん。
――リュクシオン=モンスターって、一体なに……?
  
  ◆

「花の都フロイラインという町が、ずっとずっと北にある。そこに例の話が眠っているんだ」
 翌日。回復したフィオルが、リクシアにそう説明した。
「僕は文献でしか読んだことがないし、花の都の正確な位置もわからない。ただ、北へ。そんな曖昧な情報しかないけれど、それでも行くの? 花の都そのものだって、そもそも夢物語みたいな存在なんだ」
「ちなみにそれでも正真正銘の実例と言えるのは、そこに行って帰ってきた旅人の証言があるからだ。その旅人はたくさんの手記を残していて、そこには旅してまわった各地の話が書かれている。その話のどれもが非常に正確だったから、花の都についての情報も信憑性があると言える」
 フィオルの言葉をアーヴェイが補足した。
 当然よとリクシアは頷く。
「言ったでしょ、夢物語でも構わないって。夢物語上等よ。ならば私が直接その町を訪れて、夢じゃないって証明してやるんだから。私は決めたの。もう下がらない、退かないわ」
 そんなわけで、一同は北へ向かうことになった。

 花の都フロイラインに向かって、旅を始めて一週間。リクシアが新しい仲間に慣れ、旅のノウハウを少しずつ吸収してきた頃、それは起きた。
 一行がちょうど、両側が崖になった道を通っている時のことだった。
「いたぞ! あの娘だ!」
 声がして、崖から人が降ってきた。
「殺さず捕らえよ! 他の者の生死は知らず。あの娘のみを捕らえよ!」
 アーヴェイは軽く舌打ちした。すかさず魔法の用意を始めたリクシアに、叫ぶ。
「貴様は逃げろ! フィオルもだ!」
「!」
 その言葉に、両者が反論する。
「私だって戦える!」
「……アーヴェイ。もしもアレをやるつもりなら……もう、やめてほしい。一緒にいる」
「……アレって?」
 リクシアの疑問は、剣を抜く音によって相殺される。
 アーヴェイが、剣を抜いていた。
 二本。禍々しい装飾の、赤と黒の剣。
 それが、敵にではなく、リクシアとフィオルに突き付けられていた。
「アーヴェイ!」
 リクシアが驚いて叫ぶと、アーヴェイは鋭い口調で返してきた。
「魔物よりも、生きている人間のほうが厄介なことがある。リクシア、貴様はこの狭い道で、味方に当てず敵のみに魔法を当てられるのかッ! あとフィオル! 気遣いは無用、オレはこれでやってきた!」
 その、有無を言わさぬ空気に。
「……わかったわ。でも、必ず後で合流するから!」
「無理しないでね」
 何を言っても無駄だと悟り、二人は来た道を引き返す。
 二人は願わずにはいられない。
――どうか、無事でいて――!

「……ほう、仲間を逃がすか。美しいものだな」
 それを見つつも、額に禍々しい烙印のある少年が、前の道からやってきた。
 アーヴェイは無言で双剣を薙ぐ。少年はひらりとよけると、言った。
「戦闘開始だ」
 途端、アーヴェイの中で力が膨れ上がり、心の中で声がする。
 『ぎゃははははは! やっとのお呼び!』
 『今夜は挽肉パーティーだ!』
 アーヴェイの双剣、『アバ=ドン』には、人格があった。快楽的で、享楽的な、狂ったような双子の人格が。普段、アーヴェイはその剣を抜かない。なぜなら。
――抜いたその時点で双子が目覚め、身体を乗っ取られることだって少なくはないからだ――。
 今、アーヴェイは戦っている。襲い来る人と双子の意思に。
 彼の身に宿した悪魔の血が、血の匂いに狂喜する。
 狂いそうな思考の中、意思を保つのは至難の業で。彼の身体は今、悪魔のような異形と化していた。
 アーヴェイは、人と悪魔のハーフなのだ。

 アバ=ドンが血を求める。悪魔の血脈が彼の思考力を奪う。
 彼はこうなるとわかってはいた。けれど、こうでもしないと守れないのだ。
――フィオルとリクシアが戦うには、この敵は強すぎる。
 だから。異形と呼ばれたって、化け物と呼ばれたって。
 彼には守るべきものがあったから。弟みたいなフィオルと、偶然出会ったリクシア。
 アーヴェイは、呟く。

「――オレは、これで、いい」

 それを聞いて、烙印の少年は嘲笑を浮かべる。
「悪魔だ! 悪魔が本性を見せた!」
 その言葉になんて一切構わず、アーヴェイは烙印の少年に斬りかかる!
 悪魔のままで、怪物のままで、醜いままで、異形のままで。
 魔物と化した大切な人。悪魔になれば、助けられたのに。
 嫌われるのを恐れ、何もできなかった。結局彼の大切な人は、魔物となって人々を襲う。
 でも、今は違うから。

「――オレはッ! これでッ! いいッッッ!!」
 
 思いを込めて、振り上げた刃。双の剣がブゥンとうなる。
 しかしその刃は、少年の命には届かなかった。
「私のゼロに、なんてことしてくれるの」
 彼は熱い感触を腹に感じた。死角から突きだされた剣が、彼の腹を貫いていた。
「貴……様……」
 くずおれるアーヴェイ。
 美しい女性が烙印の少年を抱き、アーヴェイを貫いた剣を引き戻す。剣に内蔵が掻き回されて、アーヴィは苦悶の声を上げる。
「ぐ……ああ……あ……!」
 そんな彼を、汚いものでも見るかのような顔で、女が顔をゆがめていた。
「醜いこと。悪魔のくせして私のゼロを傷つけようとするなんて」
 アーヴェイの視界がゆがむ。その身体が崩れ落ちる。
「これはもらっていくわね」
 女の、声。奪われた『アバ=ドン』。アーヴェイは悔しさにその身を震わせた。
 またしても勝てなかった。守ろうとして傷ついて、奪われて。
「さようなら」
 烙印の少年を伴い、去っていく女性。
 暗転する視界。
 旅はまだ始まったばかりなのに。
――フィオル、済まない――。
 零れていく血液が、大地を赤く赤く染め上げる。
 彼は意識を手放した。
 

 

Ep6 悔恨の白い羽根

〈Ep6 悔恨の白い羽根〉

「……帰ってこない」
 フィオルがそっと、つぶやいた。
 あれからもう、三時間が過ぎている。あまりに、遅い。
「気遣いは無用、とか言っておいて……」
フィオルの顔に、心配げな影が宿る。青の瞳に、不安の影がちらついた。
「見に行こうか」
 リクシアが問えば、「一緒に行く」とフィオルが返す。
 戦闘は終わったはずなのに、帰ってこないアーヴェイ。
 あんな、あんな強そうな人が帰ってこないなんておかしいとリクシアは思う。出会ってからまだあまり時は経っていないけれど、リクシアは彼の姿に、態度に、歴戦の戦士のような何かを感じていたのだった。
 そんな彼が、三時間も帰ってこない。三時間もあれば戦闘なんて決着がつくだろう。戦闘というのはそこまで時間がかからない。つまり、何かあったに違いない。
「……無事で、いて。お願い」
 リクシアもフィオルも祈るように呟き、元来た道を走りだす。

   ◆

 彼は切り立った道に仰向けに倒れていた。
 彼の腹からはどす黒い血が流れ、
 その身体は、異形と化していた。
「兄さん!」
 駆け寄ったフィオル。アーヴェイの胸は弱々しいながらも上下している。大丈夫だ、まだ生きているとリクシアは安堵の息をついた、
 が。
 彼女は横たわるアーヴェイを見て、凍りついたように固まった。そんな彼女を、フィオルの緊迫した声が叩く。
「リクシア、至急町に行って薬を持ってきて。血止めの強力なやつ! 早く!」
 しかしリクシアは、動けなかった。
 横たわるのは、異形の悪魔。アーヴェイじゃない。そうは見えない。なのにフィオルはそれを「兄さん」と呼ぶ。
 リクシアはわからなかった。

――この人は、だれ?

 そんなリクシアにフィオルが叫ぶ。
「リクシア! 何呆けてんのさ! アーヴェイが死んじゃう! 早く助けて!」
 アーヴェイ。悪魔。目の前に倒れて。血を流して。
「……そっか」
 リクシアの中でつながる物語。
「……そっか、アーヴェイは悪魔だったんだ」
 どこか悪魔っぽい見た目だったけど、本当に悪魔だったんだ――。
 それを知られたくないから、私たちを逃がしたんだ。フィオルの言った「アレ」とは、これのことだったのか。
 真実を知って、リクシアは呆然と固まったまま動けなくなった。
 悪魔。この世界にいる異形の一族。悪魔は黒い身体に赤い目を持ち、その心は悪意と嗜虐心と衝動に満ちているという。その背には蝙蝠(こうもり)のような漆黒の翼が生え、禍々しい尻尾を持つという。
 悪魔とは、魔物と同じように人を害する邪悪な存在。ゆえに忌み嫌われ、遠ざけられるべき定めの一族。誰が最初に彼らを迫害したのかはわからないけれど。悪魔とは、悪魔というのは、そんな一族なのだ。悪魔に対する差別意識は、この世界のどこに行っても同じだ。
 アーヴェイが、悪魔。リクシアが助け、興味から旅への同行を申し出たアーヴェイが、悪魔。忌み嫌われる禍々しい邪悪、悪意の塊で優しさなんて欠片も存在しない。
――アーヴェイが、悪魔。
 リクシアは動けなかった。そうこうしている内に、アーヴェイの身体からはどんどん血が失われていく。それでもリクシアは動けなかった。仲間だと思っていたのに、裏切られたような気がして。リクシアは凍りつくことしかできなかった。
 フィオルが悲鳴を上げる。
「リクシア――!」

「無駄だ。こいつは仲間じゃない」

 と、不意に、そんな冷たい声がした。
 倒れた悪魔――アーヴェイが、冷たい目で彼女を見ていた。先程までリクシアに見せていた、興味に満ちた、どこか面白がるような目ではなくて、まるで物でも見るかのような、どこまでも冷たく凍てついた瞳。
 地獄の底のように冷え切った声が、その喉から発せられる。
「人間はみんなそうだ……。悪魔だと分かった時点で、助けることを放棄する……」
 リクシアは、呆然と呟く。
「……違う」
 するとアーヴェイの目に、冷え切り凍えきった赤の瞳に、嘲るような色が浮かんだ。
「どこが違う? 貴様は……倒れたオレを、見ても……薬一つ、取りに行こう、とは、しなかった……。それを、貴様、が……悪魔に対し、て、含みが……あると、言って……おかしい、か……?」
「違う!」
 リクシアは、全力でそれを否定しようとした。しかし心の奥底には、悪魔を恐れ、蔑む気持ちもあるにはあった。アーヴェイのその言葉を否定しきれない自分がいるということに、染みついた、悪魔への差別意識があるということにリクシアは気づいた。――気づいてしまった。
 リクシアは死に瀕した仲間を前にして動けなかったのだ。仲間が悪魔だと分かった瞬間に、子追い付いたように動けなくなった。助けなければならないのに、動くことすらできなかった。相手が悪魔だとわかったから!
 助けなければならないのに、助けられなかった。助けたかったのに、心のどこかがそれを拒否した。その結果「仲間じゃない」と言われるのは当然のことだろう。当然のこと、これは当然のことだ。わかっているのにどうしてだろう、リクシアの目から涙があふれた。
――アーヴェイは、仲間なのに。
 悪魔だというだけで、動きが止まった。
「それが貴様の答えだ……」
 悪魔のような、否、悪魔の緋(あか)い、地獄の瞳で睨みつけてきた漆黒の邪悪。
 喉が、乾く。眩暈が、する。たまらずリクシアは思わず大地に膝をつく。
 そんな彼女に一切構わず、凍えきった声が真実を暴く。
「だからお前は……」
リクシアは耳を塞いで、違う違うとひたすらに首を振った。駄目、言わないで。聞きたくないの。そんなこと、そんな台詞。聞きたくないの! リクシアの心は叫んだけれど。
 耳を塞いで目を閉じても、心に届いた低い声。

「――最初から、仲間じゃなかった」

「嫌ぁぁぁぁあああああああッッッ!」
リクシアの中で、感情が爆発した。
 信じてた、信じてたのに。仲間だと、大切な仲間だと! 初めて出逢った昨日から。やっと仲間ができた、そう思った彼女は嬉しかった。そう、思っていたのに。蓋を開けてみれば、正体が悪魔だったというだけで動けなかった自分がいた。仲間を見捨てた自分がいた。
 だから捨てられるんだ、とリクシアは理解した。ほんとうの、仲間じゃないから……。
 リクシアの心を絶望が支配する。彼女は、叫んだ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ――!」
 絶望に打ちひしがれ、リクシアの心に魔物が生まれる。人は心を闇に食われたら、魔物になる。その原因は、いたるところに転がっている。リクシアの心を急激に冒していく絶望。それは次第に大きく――。
――ならなかった。

 なる寸前で、声がした。
 今は魔物になり果てた兄の、リュクシオン・エルフェゴールの、
「自分を見失わないで」そんな、声が。
 それは彼の口癖だった。

 光が、はじけた。
 数瞬後には、リクシアは元のリクシアになっていた。
 そして、己の犯した過ちを知った。残酷なほどに明確に、意識した。
 彼女が「助けない」選択をしてしまったことで、仲間になってくれると申し出てくれた人を傷つけたという事実は消えない。立場に惑い、仲間を救おうともしなかった事実は、消えない。
 だから。
「……わかったわ」
 リクシアは小さく呟いた。
「私はまだ甘い。だから、あなたたちとは一緒にいないほうがいいかもしれない」
 そして精一杯、頭を下げた。
「――ごめんなさい」
 その謝罪を聞いて、フィオルが柔らかく微笑んだ。
「謝罪は受け取っておく。でもこの事実は、消えないから。リクシア、あなたは会ったばかりの人の誠意を、粉々にしたんだよ」
リクシアは涙を流しながらも頷いた。
「わかっているわ。だからもう、別れることにする」
 最善の選択なんて、わからない。それでもこうなってしまった以上、もう一緒にはいられないのだろうとリクシアは思った。
 それは決定的な、断絶。
 自分の過ちを素直に認めたリクシアに、フィオルは一つ、問い掛ける。
「本当に短い間だけれど、僕たちと出会えてよかったって、思ってる?」
そんなフィオルに、泣き笑いのような表情を浮かべながらもリクシアは返した。
「あなたたちとの出会いは、一生の宝物よ」
 そっか、とフィオルは頷いた。
「なら、別れもいい別れにしよう。僕らはフロイラインを目指す。でも、君は進路を変えてね」
「ええ」
 その答えを聞いたフィオルの背から、純白の翼が生えた。リクシアは驚きの声を上げる。
「え? ……ええっ!?」
 真白な髪に青い瞳、背中から生えた純白の翼。
 フィオルは天使だった。
 悪魔とは違って人々から崇められ、神の使いともてはやされる、悪魔とは対極に位置する聖なる一族。天から来た、神の使い、救いの使徒、天使。
 フィオルは、天使だったのだ。
「こんな姿にならないと、もうアーヴェイは治せないからね……。餞別に、あげるよ、リクシア」
 言ってフィオルはその背から、純白の羽根を一枚抜き取りリクシアに渡す。
「ここで僕らの道は分かれるけれど、お幸せに、リクシア。大召喚師の妹さん。僕らはもうその先を見ない。あなたが夢物語を現実にできるのかはわからないけれど、まぁそんな人がいたということだけは、記憶の片隅に留めておくよ」
 それは別れの言葉だった。
 リクシアは羽根を受けとり、しかと前を見据えて言った。
「……さようなら。楽しかったわ」
 リクシアは、来た道をまた、戻っていく。彼女は振り返らなかった。
 その手には、悔恨の白い羽。
「フィオル……アーヴェイ……」
 いくら後悔したところで、失われた絆は戻らない。
「ありがとう……」
 重い気持ちを抱えながらも、リクシアは宿へと戻る。 

 

Ep7 ひとりのみちゆき

〈Ep7 ひとりのみちゆき〉

 ひとりに、なった。
 あれから一週間。リクシアはずっと「魔物を元に戻す方法」を模索しているが、いまだに何の手がかりもない。当然だ、彼女はアーヴェイたちの言う「花の都フロイライン」以外、何も知らないのだから。北へ行くとしても、どこへ行けばいいというのだろう。世界は広い。「北へ」だけではあまりに漠然としすぎている。
 そして今、フロイラインに行くという選択肢も潰えた。案内してくれるはずの二人と、訣別のような別れ方をしてしまったから。
 リクシアの心に無力感が忍び寄る。
――もぅ、どうでもいいかぁ。
 あれだけリクシアを駆り立てた炎も、いつの間にか消えていた。そんなに弱い決意だったのだろうか。「夢物語なんかじゃない。この思いは、この怒りは、すべて本物だったんだから」二人に対してそんな啖呵を切ったのに、初めての仲間と訣別しただけでこんなになるなんて、とリクシアの心はさらに沈んでいき、無力感を加速させる。
 リクシアはフィオルのくれた白い羽根を、見るともなしに眺めた。悔恨の白い羽根、フィオルのくれた、二人のいた証。それをリクシアはぽいと投げ捨てた。羽根はひらりひらりと宙を舞い、リクシアの抱えた膝の上に音も無く着地する。
「どーでもいい……」
 憂鬱に日々が過ぎていった。

 リクシアはとりあえず歩くことにした。先に何があるのかわからないけれど、何もせずに無気力に時を過ごすよりはよいと思って。花の都なんて名前と方角しかわからない。だから彼女はぼんやりと、北を目指すことにした。
 そして気が付いたら彼女は、あの、消え去ったウィンチェバル王国の廃墟に立っていた。
 それに気がつき、彼女は自分に呆れたような声を出した。
「……私ったら」
 もう二度と復活しない国だ。それなのにまだ、忘れられないのだろうか。
「…………」
 リクシアは唇を噛んで首を振る。こんな幻想にとらわれていてはいけないと、自分を叱咤し歩き出す。
 ひとりきりのみちゆきは、まだ始まったばかりだ。
 リクシアはその地を後にした。

  ◆

「フェロンが……生きてる……!?」
 いつぞやの宿に買ってきたリクシアは、情報を一つ入手した。
 それは、彼女の幼馴染フェロンの、生存の噂。リクシアとリュクシオンとフェロン、三人でよく一緒に遊んでいた日々が、彼女の頭の中に去来する。それはとても懐かしく、遠く、もう二度と戻らない眩しい記憶。
 リクシアとフェロンは生きていても。
 リュクシオンは魔物になってしまったから。
 宿の主は言う。
「確か、片手剣使ってたみたいッスよー。茶色の髪で、緑の瞳で……。とても印象的な顔立ちの剣士さんだったって。あ、その反応、もしかしたら知りあいだったりします?」
 例の店主の問いに、リクシアは強くうなずいた。思わず身を乗り出して質問する。
「幼馴染なんです! 彼は今、どこに?」
 さぁねぇ、と主は首をかしげた。
「こっちはまた聞きしただけなんで……。よかったら、その情報仕入れてきた商人にまた訊くっすけど、どうすか?」
「お願いします!」
 リクシアの心は大いに高鳴った。
 フェロンに会えれば、フェロンに会えれば!
――ようやく、一人じゃなくなる。

  ◆

「リアがいるって聞いたけど……どこかな」
 その日、町を訪れる人影があった。
「まったく。今までどこ行ってたんだよ。さんざん探したんだからな。ここで見つからなかったらいい加減怒るぞ?」
 彼の外見は茶髪に緑の瞳、右の腰には片手剣。左利きのようだ。茶色の上着に緑のシャツ、足には灰色のズボンと茶色のブーツ。
 しかしその端正な顔の半分は、醜い傷跡で覆われていた。
「あの子なら、兄さんを戻すとか無謀なこと、言いそうだしなぁ……」
 歩くその身体は、今にも倒れそうなくらいボロボロだった。彼は数歩歩くと痛みに顔をゆがめ、呼吸を少し乱れさせた。
「……ッ! ……まずは休息を取らなきゃ、死ぬな」
 そして、とある宿を訪れる。
 そこには彼のよく見知った、懐かしい顔があった。 
 

 

Ep8 戦いの傷跡

〈Ep8 戦いの傷跡〉

 宿の扉が音を立てて軋んだ。リクシアは何となくそちらに目をやって、驚きのあまり固まってしまった。
「……泊めてくれない?」
 入ってきたのは、茶髪に緑の瞳をもった、片手剣を右に差した少年。少年はリクシアを見て、驚いたような声を上げた。
「この頃戦闘続きでボロボロだよ……って、あれ!?  リ、ア……?」
「――フェロン!」
 リクシアの中で喜びと懐かしさが吹き荒れる。
 リクシアは彼に飛びつくようにしてしがみついた。しかし彼の身体は、リクシアを支えきれずに倒れ込む。
 リクシアは不思議そうな顔をした。
「……フェロン?」
彼は勘弁してくれ、と苦笑いを返す。その顔には深い疲労の色。
「魔物、魔物、魔物……。さんざん襲撃に遭ってくたくたなんだ」
 彼の顔の左半分には、前にはなかった醜い傷跡があった。本来ならば目があったであろう場所にはぽっかりと空いた虚ろな空間があるだけで、彼の左目の視力は完全に失われていることを示している。傷跡はその左目の辺りを中心として、顔の左半分全体に広がっていた。見るからに痛々しい傷跡である。
 リクシアは思わず声を漏らした。
「その傷……」
「あぁ、これか? 敵が多すぎたんだよ。おかげで左目の視力は無くなったが、戦闘に支障はないさ。……隻眼にも、慣れた」
 久しぶりに再会した幼馴染は、ボロボロで、つらそうで、苦しそうで。
 自分だけが幸せだったのかと、リクシアは思い知らされた。
 そんな彼女をぼんやりと眺めていたフェロンが、口を開く。
「あのさ、リア」
「何?」
 フェロンは苦い顔をする。
「……そこ、どいてくれる?」
「あ! ごめん!」
 フェロンの上に乗ったままだと気付いたリクシアは赤面し、あわててその上からどいた。
 リクシアが覚えているのは猫のように俊敏だったフェロン。しかし今の彼の起き上がる動作はひどく緩慢で、身体の至る所に傷があることを感じさせた。
「せっかく再会したことだし、情報交換、といきたいけど……。悪い、リア。手、引っ張ってくれるか?」
 フェロンが少し辛そうに、リクシアにそんなことを頼んだ。リクシアはその手を引っ張り、なんとかフェロンを立たせる。彼のその身体がふらついている。リクシアの顔に深い心配が浮かんだ。
「フェロン、私、薬持ってくる!」
 どう見ても普通の身体ではない。
「え、これくらい平気……って、ちょっと待て!」
 フェロンの制止も聞かず、リクシアは走り出した。
 大切な人を、今度こそ守るために。

「いい幼馴染じゃないっすかー。うらやましいっすねー」
 走り出したリクシアを呆れた目で見送っているフェロンに、宿の主の声が掛けられる。フェロンは何の用不だと目で問うた。すると宿の主はフェロンの近くに寄ってきて、
「あとお客さん、無理はいけないっすよー。その身体でよく立っていられますねぇ。やせ我慢しても何にもなりませんし、ここで倒れられても困るんですよ。空いてる部屋があるんで、そこで休みません?」
 一目で、フェロンの体調を看破してのけた。
 実際、そうである。
 繰り返される魔物の襲撃。腕に自信のある彼だって、繰り返し戦えば疲弊する。リュクシオンが暴走して魔物化してから半年。国外に逃がされた人々は己の国の滅亡を知って魔物化し、それを知った彼らの親しい人々が魔物化し、魔物に襲われて大切な人を失った人たちが魔物化し……負の連鎖は、ずっと続いている。
 その中でフェロンは戦って、闘って、ただ勝って。勝つので精一杯になって。国が滅んだあと、何をするともなしに放浪し、意味もなく生きていた。そんな日々を送っていたなら、ボロボロでないはずがない。
「自分にも兄さんがいてね、戦いの果てに死んじまったんすけどー。お客さん見てると思いだしまっさー」
 しみじみと、宿の主が言った。そんな彼に、フェロンは問う。
「あなたの……名前は」
その問いに、宿の主は明るく答えた。
「自分? 自分っすか? ルードってぇ言います。これからもどうぞごひいきにー」
「フェロンだ。改めてよろしく」
「フェロンさん、りょーかいっすー。なーんか、アーヴィーさんといい、フィオルさんといい、フェロンさんにリクシアさんといい……。ウチは普通じゃないお客さんばっかりが集まるみたいで……。まぁ、面白い話が聞けるし、金さえくれりゃ、ウチとして文句はありませんがねー」
 ルードはそんなことを言った。のんきに見える彼にも、何か思うところはあるのだろう。
 アーヴィーやフィオルなんて人は知らないけれど、魔物が何か関係する人物なのかなとフェロンは思った。

 しばらくして、リクシアが戻ってきた。
「フェロン、ハイこれ!」
 山ほどの薬草の束を背負って。フェロンはそれを見て呆れた声を出す。
「……いったいどこから持ってきたの」
その問いに、リクシアは元気よく答えた。
「町の人が分けてくれたのー! だからもう、大丈夫!」
「……ありがとう」
 フェロンはそっと動き出す。大丈夫、まだ動ける。――まだ、戦える。
「じゃぁ、部屋に行こう。治療しなくちゃ」
 一歩一歩。確かめるようにフェロンは歩く。
 リクシアは言う。
「色々あったの、いろいろ、ね。あとで聞いてくれる?」
 フィオルとアーヴェイとの出会い。そしてその別れの物語を。
 大好きな幼馴染に、知ってほしいから。
――時間は、動いた。
 悔恨の白い羽根。首から下げたそれを、リクシアはそっと握りしめる。そして
 今はどこかでまた生きているあろうかつての友に向かって、祈りをささげた。
――私は平気。だから、そっちも。
 無事に目的を果たせるように、いつか大切な人を救えるように。旅に幸あれと、彼女は祈った。

  ◆

「ここにあのコがいるみたい……。ねぇ、ゼロ。今はあのコは宿の中。守らなきゃいけない人もいるわ。だから……行ってくれる?」
「はい、お母さん」
 どこかわからぬ暗い部屋の中でそんな会話が交わされる。部屋の中には妖艶な美女と、銀髪の少年がいた。
 何かが、起ころうとしていた。
 

 

Ep9 フェロウズ・リリース

〈Ep9 フェロウズ・リリース〉

 その次の日の昼。
「リクシアとフェロン、という人はいるか?」
 ルードの宿に、一人の少年が現れた。
 銀色の髪に藍色の瞳。
 ゼロだった。

 コンコン。ドアがノックされる。
「はぁい、ただいま」
 誰だろうと思ったリクシアが不用心に扉を開ける、と。
「――開けるなァッ!」
 びゅんッ! 勢いよく飛んだ片手剣が、今まさにリクシアに振り下ろされようとした剣を防いだ。
「え? ……ええっ!?」
 リクシアが戸口を見ると、そこに無表情のゼロが立っていた。
「リア! こいつは!」
 フェロンの、緊迫した調子の声。
 リクシアはへたりこんだ。
「うそ……。嘘だぁ……。こいつ、ゼロだよぅ……」
 アーヴェイを傷つけて、リクシアたちが訣別する原因を作った相手。
 リクシアが、最も会いたくない相手。
「フェロン、この人は敵、敵! 私の仲間を傷つけた敵だよぅ!」
 リクシアは叫びを上げる。そんな彼女にゼロは、表情のない声で言うのだ。
「選べ。自分の自由か、仲間の命か」
 言って、彼は銀色の剣を構えた。月の光を宿したような、神聖な輝き満ちる銀色の髪、夜になる直前の空のような、暗く青い藍色の瞳。最初、彼に対峙した時は綺麗だなとリクシアは思っただけだったけれど、
 気づいた。
――その姿に、思い当たるものがある。
 リクシアは思い出した。この人は、「ゼロ」なんかじゃないと。
 彼女は一回だけ、見たことがある。リュクシオンに呼ばれて王宮に来た日に、寂しそうに佇んでいた一人の王子を。
「この子はできそこないだ」父王に言われ、殴られ蹴られていた王子を。その髪と瞳を、綺麗な色だと思ったことを。
 彼は傷だらけの顔に、憎しみを浮かべていた――。
 リクシアははっとなり、叫んだ。
「ゼロ!」
 「ゼロ」が表情のない顔でそちらを向いた。リクシアは叫ぶ。
「あなたは『ゼロ』なんかじゃない! 辛いことかもしれないわ! でも思い出して! あなたの本当の名前を!」
 リクシアの言葉に、「ゼロ」は虚ろな瞳を向けて返す。
「……僕は、ゼロ。それ以外の、何者でもない」
「違う!」
 思い出した、思い出せたから。リクシアはその名前を、口にする。

「エルヴァイン・ウィンチェバル! 目を覚ましてッ!」

「……エルヴァイン・ウィンチェバル?」
 虚ろな声が、問いかけるような響きを宿す。その瞳が一瞬、揺れた。何かを思い出そうとするように、彼は何度も目を瞬かせる。しかし、
それはすぐに消えてしまった。「ゼロ」は感情のない声で言う。
「惑わしは無効。任務を遂行する」
 言って、彼はその剣を振り上げた。

 ベッドに横たわる、フェロンのほうに。

「――――ッッッ!」
 リクシアは瞠目した。
(まずい、このままじゃフェロンがやられる!)
 フェロンのあの片手剣はリクシアを守るために投げられ、もう手が届かない場所にある。
 リクシアは獣のように唸り、叫んだ。
「私は決めたんだよッ! だれも死なせないってッ!」
 その紅い瞳が、決意を宿す。
「だから――私の大切な人に近づくなバカヤローッ!」
 威厳も格好良さもへったくれもなく。ただ純粋に、幼馴染のためを思って、
 リクシアはフェロンと「ゼロ」の間に、割って入った。
「リア!?」
 フェロンの驚いたような声。
 リクシアの身体が切り裂かれる。血しぶきが飛ぶ。焼けるような痛みが彼女を襲い、リクシアは慣れぬ激痛に涙をこぼした。
 それでも、リクシアにはさがれない理由があった。
(――でもッ! あたしの後ろには友がいる! 守らなきゃならない人がいるッ!)
 理由はそれだけで、十分だった。後ろにフェロンを庇い、一歩も引けなくなった状況下、リクシアは己の中に新たな力が芽生えたのを感じた。その力は莫大だった。そしてそれは緊急時にしか使えない類のものだった。これまでのリクシアは緊急事態とは程遠かったけれど、今こうして「ゼロ」と対峙し、フェロンを後ろに庇ったことによって彼女の新たな力が目覚めたのだ。
 リクシアはニヤリと笑い、唱える。
 大召喚師の妹たる、その名を賭けて、一つの、呪文を。
 彼女の声が朗朗と響き渡る。驚いた「ゼロ」は警戒したまま動かない。リクシアにとっては好都合である。
「天の彼方なる不死鳥よ、我呼ぶもとへ、舞い来たれ! 互いの尾を噛む円環の蛇、続く輪廻を解き放て! 我に仇なす究極の敵! 我は呼ばん、我は呼ばん!」
 あふれかえる力が渦を巻き、やがて天空に大きな魔法陣が描かれる。
「すべて巻き込み千切り裂け! 次元の彼方へ放り出せ!」
 風もないのに揺れる髪、炎を宿したその瞳。

「――フェロウズ・リリース!」

 途端、天上より光が降ってきて、「ゼロ」に勢いよく突き刺さった。
「ぐあッ……!」
 うめく「ゼロ」に、もう一撃。
 漆黒の衝撃波が、彼を弾き飛ばし、反対の壁に衝突させた。
「あぐぅッ……!」
 そして目に見えぬ風が、その肌を幾重にも切り裂いた。
 リクシアは唸るように叫ぶ。
「仲間を傷つける者は、許さないッ!」
 動かなくなった「ゼロ」の身体が、現れる闇に飲み込まれた。
 気が付いたら、「ゼロ」の姿はどこにもなかった。当然だ、リクシアがまったく別の所に放逐したのだから。仲間を傷つけたとはいえ、彼は最初から「ゼロ」であったわけではない。リクシアにとって、殺す理由は存在しなかった。あんな状況にあったのに、なぜかリクシアの心は理性を保てていた。
 後ろに守るべき人がいるから。
 リクシアは知っている。「ゼロ」になる前の、エルヴァイン・ウィンチェバルを、暗い目をした少年を。自分よりも年上だった彼をあの日、哀れに思ったことを覚えている。そんな彼はリュクシオンの引き起こした「大災厄」を生き延びたみたいだが、どういうわけか心を失っているみたいである。そんな彼を、殺すことなんてできようはずも無い。それもまた、リクシアの嫌う「理不尽」なことだから。
 リクシアはフェロンを見た。大丈夫だ、新しい怪我はない、と確認すると、彼女は安堵の息をついた。
 その身体が、ゆっくりと倒れていく。
「リア!」
 フェロンの緊迫した声。
 リクシアの斬られた傷口から血が流れ、辺りを赤黒く染めていく。それでもリクシアはうっすらと微笑み、安心させるようにフェロンに言った。
「大丈夫だよ……フェロン。私は……これくらい」
 リクシアはひどく疲弊していた。あんな大きな魔法を使うのは初めてだ。
 フェロンの声がボリュームを増す。
「リア! リア! 誰か、医者を! ルードさん、来て!」
 その声をぼんやりと聞きながらも、リクシアは小さくつぶやいた。
「私……大丈夫だから……」
 そして意識を手放した。
 

 

Ep10 英雄がいなくても……

〈Ep⒑ 英雄がいなくても……〉

「……まだ目を覚まさないのか」
 フェロンがリクシアのベッドを覗き込んだ。
 あれから一週間。力を使い果たしたリクシアは、いまだに目を覚まさない。
フェロンは思う。
「高名な魔導士に頼めば、もしかして――?」
 目覚めるかもしれない。しかしそれには金がいる。そして町を転々と旅するだけの彼に、そんな金があるはずもない。それに、傷の癒えきっていない彼に、長い旅ができるはずもない。
 しかし、このまま彼女が目覚めない可能性だってある。ある、のに――フェロンは何もできない自分をもどかしく感じた。
「詰んだ、ね」
 完全に手詰まりだ、どうしようもない。フェロンは考える。リクシアを助けるために、ひたすら。
「古い知り合いでも訪ねてみようかな……」
 叶わぬ夢だ。どこにいるかもわからないのに。それに皆、リュクシオン=モンスターにやられて死んでしまっている可能性が高い。
フェロンはリクシアに呼び掛ける。
「……ねぇ、リア」
 起きて。目覚めて。
 大切な人のためになりたいのなら。眠ってないで、起きてきてほしい。
フェロンは願うように呟いた。
「君のことを、みんな、必要としているぞ……」

  ◆

 時は、待ってはくれない。
「またですかぁ!?」
 ルードのすっとんきょうな声が響いた。
「お客さん、お客さん! また来ました! 魔物です!」
 隠れていろと、フェロンは叫ぶ。彼はゆらりと立ち上がった。
「……フェロン、さん?」
 ルードの声に、心配が混じる。
「フェロンさんはまだ完調じゃないんですから、やめたほうがいいですよ!」
「……でも、行かなきゃ」
 言って、腰の片手剣に触れる。手を開き、閉じ、足を動かし、感覚を確かめる。
 大丈夫だ、戦える。
 今は、こんなことには真っ先に飛んでいく、元気で明るい英雄はいない。正義感の塊みたいな少女はいない。 英雄は、眠ったままだから。でも、英雄が不在でも、英雄が必要なときだってある。
 だから、彼は立ち上がる。
 英雄がいなくても。その目を覚まさなくても。
「……君がくれた命だろう?」
 あのとき。彼女が割って入らなかったら、彼は絶対に死んでいた。
「僕は、行くよ、ルード」
 「フェロンさん!」その目に決意を込めてフェロンが店を出ようとすると、その背に声が追いすがる。彼はその声を無視して、しっかりと言葉を紡いだ。
「英雄がいないなら、僕がその代わりをすればいいんだ」
 彼女がいるなら、絶対にそうする。正義感の塊みたいな子だから。
(それを、恩返しとしたいんだ)
 彼は広場にその足を踏み出した。

  ◆

「いやぁ! やめてぇっ!」
 現れた魔物は全部で三体。そのうちの一体が、幼い女の子を襲おうとしていた。フェロンはその場へ駆け出し、稲妻のような速さで抜刀する。
 大丈夫、戦える。傷はそれなりに癒えた。
「きゃぁぁぁああああああっ!」
 悲鳴を上げる女の子を背にかばい、その片手剣は魔物を一閃した。

「……何とかなったみたいだ」
 魔物を一体、斬り捨てると、驚く女の子はそのままに、フェロンは同い年くらいの少年に襲いかかっていた魔物へと走る。
 大丈夫だ、戦える。この程度でへたるような体力じゃない。
「わおっ! お前……!」
「そこをどけッ!」
 紫電一閃。斬りかかった刃は確実に、怪物の喉元をしかととらえた。
 英雄がいないなら。英雄がいないなら。力を尽くして代わりとなろう。
 フェロンは剣の露を払う。
「……二体目」

 三体目の魔物は、なんとルードの宿の前にいた。
「……馴染みの宿だ、やらせるか」
 フェロンはそう吐き捨てながらも、自分の心を叱咤した。
大丈夫、戦える。まだまだ剣は鈍っちゃいない。
「フェロンさんー!」
 泣きつくルードに優しく笑いかけ、彼は英雄の代わりに剣を振るった。それはあっさり魔物を斬った。くずおれた魔物は人に戻る。魔物は美しい、美しい、娘だった。それを見、泣き伏す家族たち。フェロンは知っている。これが摂理だ。
「…………」
フェロンは振り向かずに、宿に戻った。

  ◆ 

 宿の部屋で、フェロンは膝をつく。剣を支えにして何とか倒れずにしている。
――彼は、限界だった。
 ちっとも余裕じゃなかった。大きな傷がないのが不思議なくらいだ。
「……三体も相手にすればぁね」
 荒い息をつき、呼吸を鎮める。
「……リア」
 フェロンはそっと呼びかけた。
「君は、いつまで目覚めないわけ?」
 あんな大きなことがあったのに、英雄はいまだ眠ったままで。
「……目覚めろよ」
 呼びかけても、何一つ反応はないままだ。
 英雄はいない、英雄はいない。英雄の代役ももう戦えない。
「誰がみんなを守るのさ……」
 リクシアは、目覚めない。

 

 

Ep11 取り戻した絆


〈Ep⒒ 取り戻した絆〉
 
 リクシアは、夢を見ていた。
「お兄ちゃん」
 遠い昔。兄が魔物になる前の日々を。
「お兄ちゃん、あそぼ」
 幼いころの思い出を。
 今はない、今はあり得ない。心のどこかで解っているけど。
「お兄ちゃん、だぁいすき」
 認めたくない、そういった思いが。彼女を夢へと縛り付けた。

  ◆

「兄さん、何でまた……」
「仕方ないだろう、落盤事故だ。遠回りせざるを得ない」
「じゃあ、何でこの町を通るのさ」
「ルードさんとは懇意だからな」
「懇意の店主ならほかにもいるでしょ?」
「ここが一番近いんだ」
「あんなにひどいことされて言われて、兄さんはお人よしだねぇ」
「もう過ぎたことだろう」
「……心配とか、言わないんだね?」
「オレは素直じゃないからな」
「自分で言う!?」

 天使と、悪魔。真逆の見た目に見える一対が、再びこの町を訪れていた。

  ◆

 リクシアは、目覚めない。
「……疲労はとうに、回復してるはずなんだけどなぁ……」
 彼女は夢を見ているようだった。その顔は穏やかで、幸せそうだった。
「――起きてって、言ってんの」
 軽く小突いてみても何も反応がない。
 フェロンはため息をついた。
「外部からだれか来ないかなぁ……」

  ◆

「いらっしゃーせー……って、フィオルさんにアーヴィーさん!? どうしたんすか!」
 ルードが素っ頓狂な声を上げた。それに応えるは純白のフィオル。
「やぁ、どうも。落盤事故で遠回りだよ」
「だからアーヴィーじゃないって言っているだろう……」
 例の宿にて。天使と悪魔――フィオルとアーヴェイは、ルードに再会していた。
 しかしルードはどこかソワソワしていて、落ち着きがなかった。
「……ルード。何かあったな?」
 アーヴェイがつとその目を細める。
 胸の奥に感じる胸騒ぎ。何か、あった。
 ルードはうなずき、いきなり土下座した。
「フィオルさんッ! アーヴェイさんッ! どうか、どうか客の眠り姫を、起こして下さぃぃぃぃいいいいいッ!」
「……ちょっと待て。今、こいつ『アーヴェイ』って言ったな? しっかり発音したな?」
「兄さん、突っ込みどころ違う……」
 突っ込んでくれたフィオルは無視し。
「具体的に説明してくれ。だれが眠り姫だって?」
「だから、あなたたちが連れてきた――」
 リクシアさんですよ」

  ◆

 ルードの案内でフェロンに会った。彼は状況をしっかり説明した。アーヴェイは頷き、確認のための一言を放る。
「要は、何かの夢にとらわれて、自ら目覚めないと?」
「おそらく……。そういった認識で合っている」
「でも、オレたちで目覚めさせられるかだな……」
「誰でもいい。リアにかかわった人なら」
「理解した。まぁ、やってみるか」
 フェロンの案内でベッドに近づく。そこに、やせ細った少女の姿があった。当然だ。一週間も眠っていればそんなになる。
 その頬を、アーヴェイは思い切り張った。
「兄さ……っ!」
「おい!?」
 驚くフィオルとフェロンは無視して。

「――貴様、いつまで眠っているッ!」

 悪魔の瞳が、カッと見開かれていた。
 彼は、叫んだ。
「かつて貴様は、オレを仲間だと言ったな? だがな、それは違う! 貴様はオレたちを裏切った! だから、オレは貴様にもう一度言おう!」
 その一言を言われ、傷ついたリクシアは、危うく魔物になりかけた。
 その言葉が、再び。彼の口から発せられる。

「――お前なんて、最初から、仲間じゃなかった」

「違う!」
 リクシアは跳ね起きて、叫んでいた。
「あなたは仲間だった! 私が最初に出会ったあの時から! 別れた日は、混乱していただけで!  
 最初から――仲間だったんだッ!」
「……起きたじゃないか」
 アーヴェイが、にやりと笑った。
「アーヴェイ、すごい……」
「見直した」
 フィオルとフェロンが、呆然とした顔でつぶやいた。
 リクシアは、はっとなる。
「わ……わた……わた……し……」
 叶わぬ夢にとらわれて。現実を見ようとしなかった。
 力は回復したのに。待ってくれる人がいるのに。
 夢に、おぼれて。悲しみに、おぼれて、現実を、見ようともしなかった。
「ごめん……ごめんな……さい……!」
 なんて愚かだったのだろう。また、フィオルとアーヴェイに笑われる。
――フィオルと、アーヴェイ……?
 リクシアは何度も瞬きした。あれれ? おかしい。フィオルとアーヴェイとは、決別したはずだ。なのになぜ、ここにいるの?
「……目、おかしくなっちゃったのかな……」
「おかしくはないぜ」
 言葉を声が否定した。
「アー……ヴェイ……」
「落盤事故があって道が通れなくてな。引き返すついでにここに寄った」
 そんなアーヴェイに、呆れた顔でフィオルが突っ込みを入れる。
「兄さん素直じゃない……」
「素直だが?」
「今度は否定するわけね……」
 そのやり取りを、微笑んで聞きながらリクシアは呟いた。
「戻って……くれたんだ……」
「ああ。フェロンから話は聞いた。少しは成長したと思ったが、その様子じゃまだまだだな」
「……わかってるもん」
 フィオルに会い、アーヴェイに会い。フェロンと再開し、「ゼロ」と戦って。そのたびに、己の甘さを突き付けられて。
「……わかってる……わかってる……けど……」
 今なら受け入れてくれる。そんな甘い考えは捨てたけど。
 リクシアはこの人たちが好きだから。仲間として、友人として。好き、だから。
「お願い……私と……また、仲間になって……!」
「前置きせずにそう言え」
 アーヴェイが、微笑んでいた。
「いいだろう。武器を奪われて、戦力が不足していたところなんだ。お前を仲間として、受け入れる」
「僕も忘れないでね」
「了解だ、フェロン」
 ただし、と彼は、いたずらっぽく笑った。
「足手まといにだけは、なるなよ」
「――――はいっ!」
 リクシアは、強くうなずいた。
 また、彼らと一緒に旅ができることが心から嬉しかった。わだかまりもなく、話せることが。
 あの日。あの、別れの日以来。心にくすぶっていた黒い後悔。それが今、溶けだして。春の清流となって心を下っていく。
――よかった。
 ほっとして微笑めば、落ちてきた瞼。
「リア!? 」
 驚いたようなフェロンの声。今度はそれに、しっかりと返す。
「疲れたの。今度はちゃんと、起きるから、さ……。あとでご飯、持ってきて?」
 今はちょっと眠たいだけ。大丈夫、すぐに起きるからと彼女は安心させるように言った。
「……つくづく、兄さんもお人よしだよねぇ」
「困っている人をほっとけないだけだ」
「それをお人よしというんだよ!?」
 コントみたいな掛け合いを聞きながらも、リクシアは微笑みながら眠りに落ちる。
 

 

Ep12 迫る再会の時

〈Ep⒓ 迫る再会の時〉

「じゃ、また、フロイラインに行くの?」
 目覚めてから一週間。ようやく身体の機能を取り戻したリクシアは、戻ってくれた仲間たちにそう訊いた。今回はフィオルとアーヴェイだけでなくフェロンもいる。
 その問いに、フィオルがうなずいた。
「うん。落盤事故があったから遠回りして目指すんだけど、その前に」
 アーヴェイが言葉を引き継ぐ。

「――リュクシオン=モンスターが、出たぞ」

「えぇっ!?」
リクシアは思わず驚愕の声をあげた。
「……ッ!」
 そんな彼女の隣では、フェロンもまた、盛大に驚いていた。
 己の犯した過ちにより、魔物と化した、リクシアの兄。取り戻そうとして、リクシアはその方法を、探していた。
――そのリュクシオンが、魔物と化した大召喚師が、現れた。
リクシアは息せき切ってアーヴェイに問う。
「ど、どこにっ!」
答えたのはフィオル。
「この近辺らしいよ。ウィンチェバルの王宮魔道師の徽章をつけてたって。狂ったようにローヴァンディアを攻めていたのに、不意に戻ってきたらしい」
 ローヴァンディア。それは、あの戦いの日にウィンチェバルに攻め入っていた国の名前。かつてリュクシオンはそこにいた。そこを狂ったように攻めていた。彼の中にわずかに残った残留思念が、「ローヴァンディアは敵」と思い込ませ、そんな行動をとらせる。
――なのに。
「……その兄さんが、この近辺に現れた!? 回復そこそこに何なのよもう!」
 ただでさえ、「ゼロ」との問題があるのにこの事態。リクシアは頭が痛くなってきた。
「兄さんには会いたいけど……まだ、何の準備も整ってないよ!」
 魔物を元に戻す手掛かりすらないのに。こんな状況で再会したって、何ができるというのだろう。
そんな彼女に、フィオルが冷めた口調で問い掛ける。
「殺しちゃいけないんだよね?」
「おい、フィオル、それは当然だろ――」
「いいから。……殺しちゃいけないんだよね?」
 アーヴェイの言葉をさえぎって。天使の瞳がリクシアを射抜く。
 リクシアはその視線をしかと受け止めて、うなずいた。
「殺さないで。兄さんなの」
「わかった」
 フィオルは首肯する。
「じゃ、今回は兄さんは下がってて」
「……フィオ?」
アーヴェイは首をかしげてフィオルを見た。フィオルは淡々と答え、
「兄さんばっかりが傷つく必要なんてないんだ。僕だって戦える。それに――」
 現実を、突き付けた。
「『アバ=ドン』のないままで戦うなら、兄さんは悪魔になるしかない。でも、悪魔になったとして。相手を殺さずに戦えるかな?」
アーヴェイの赤い瞳に理解の色が浮かぶ。
「……そういうことか。承知した」
 あと、フェロンさんも駄目だから、とフィオルは言う。フェロンは心外だという顔をした。
「……なんで僕まで」
「あなたは剣士だ。剣士は完調でないときに強敵と戦うべきではないよ。それじゃあ命取りだって、解ってる?」
フェロンは口を尖らせて反論した。
「じゃあそっちはどうなんだ」
「僕? 僕は完調だよ。それに僕だって近接武器は扱えるさ。遠方攻撃はシア、近場は僕。リュクシオン=モンスターがこの町を襲わないようにかつ殺さないように、ギリギリで撃退する」
 言って彼は、どこからか三つ又の銀色の槍を取り出した。
「これが僕の武器。聖槍『シャングリ=ラ』だよ」
 楽園を意味する名をもつそれは、確かに天使によく似合っていた。
――ということは。
 リクシアははっとなる。
「兄さんと戦うの、私とフィオルしか、いないの……?」
「不満?」
「いえ、そうじゃなくって……」
 災厄と化した兄さんに、たった二人で挑むのかとリクシアは思う。そんな彼女を、透徹した青の視線が射抜いた。
「不安なの?」
 フィオルの言葉に、リクシアはうなずいた。
 そんなこと、と彼は苦笑いして、優しく言った。
「自分を信じれば、済む話じゃないか」
 

 

Ep13 なカナいデほしいから

〈Ep⒔ なカナいデほしいから〉

 この町を北に少し行ったところに、小さな丘がある。
 そこに、「それ」がいた。
 リュクシオン=モンスター。大召喚師のなれの果て。
 胸元にあるボロボロの徽章は、確かに彼のものだった。
「……お兄ちゃん」
 リクシアが呟いてみても、何も言わない。怪物はただ、その場にたたずんでいるだけだった。
「追い払う。でもね、シア」
 フィオルが真剣なまなざしで彼女を見た。
「追い払う、のはいいけど……。元は君の兄さんだったとしても、こいつは怪物なんだ。そのままにしたらまた誰かが死に、怪物がどんどん増えて行くんだよ」
 君は一人だけのために、多くの命を犠牲にしてる、と、彼は現実を突き付ける。
「まぁ、僕らだって人のことは言えないんだけど、さ……。殺さず生かすということは、他の誰かを殺すこと。僕らは変わり果てたあの人を撃退するたびに、そのことを胸に刻んでる。それに……彼は魔物だから。君じゃない他の人に倒される可能性だって、あるんだ」
 魔物になったら、元に戻せないのが当たり前。それをゆがめようとしているリクシアは、他の人の思いを踏みつけにしてまで自分の思いに忠実な、リクシアは。
「知ってる……。咎人、なんだ」
 それを意識し、リクシアは前を見据えた。
 変わり果てた彼女の兄は、悲しげに突っ立っていた。

 と。

 突然、リュクシオン=モンスターは咆哮を上げた。狂ったように、こっちに向かってくる。フィオルが鋭く警告の声を発する。
「来る!」
「わかってる!」
 リクシアは呪文を早口に唱える。フィオルが「シャングリ=ラ」を取り出し、リクシアを守るように前に立つ。
リクシアは、叫んだ。
「出てって、お兄ちゃん! ここは私の居場所なの! 壊そうとしないで!」
 風が、辺りに巻き起こる。リクシアの白い髪がざわざわと揺れた。
「彼方吹きゆく空の風! 今舞い降りよ。彼の烈風!」
――傷つけ、たくはなかったのに。
「仇なすものを斬り断ちて、めぐりめぐれよ、渦を巻け!」
 すさまじい勢いで振りかぶられた爪を、
「くうッ……!」
 フィオルの細い身体が受け止める。
 途端、巻きあがった烈風は、
「テアー・ウィンド!」
 叫ぶ魔物に襲いかかり、その皮膚を幾重にも切り裂いた。
 魔物の目が、リクシアをとらえる。怒っている。自分を傷つけた相手に対して。
 意思もない、理性もない、何もない。暗くよどんだ青の瞳が、怒りを宿してリクシアを見る。
リクシアはそんな魔物に対して叫ぶ。声の限りに叫びをあげる。思いのたけを叫びに変える。
「出て行って! 出て行きなさい、お兄ちゃん! 出て――」
そんな、時。
「シア、危ない!」
「グァァアァルルルルル!」
「――えっ?」
 リクシアは、包まれていた。温かく、がさがさした、腕に。
 魔物の、腕に。
「うぐぅッ!」
 フィオルの苦しそうな声。何があったかはわからない。
 声が、した。
「あらいやだ。魔物のくせして。他の誰かを守るなんて、ねぇ」
 それは、「ゼロ」を飼っていた、妖艶な女の声。
「出して!」
 魔物に叫べば。腕はあっさりとリクシアを開放していた。
 そして見たのは、
 脇腹から血を流し、うずくまるフィオルと、
 二本の剣を、リュクシオン=モンスターとフィオル、両方に向けていた女の姿だった。
「フィオル!」
 リクシアは叫んで近寄ろうとするが、リュクシオン=モンスターが引き戻す。
「放して、放してえっ! お兄ちゃん、フィオルが死んじゃう! 放してようっ!」
 魔物となり果てた兄は女を睨み、暴れる妹を抱いたまま、動かない。女を警戒しているようだ。
 それを見、女はつぶやいた。
「両方とも、ひと思いに殺してやろうと思ったのに。天使は反応素早すぎるし、魔導士ちゃんは魔物が守るし……。魔物には、意思なんてないって思っていたのに……。見当違いかしら、ねぇ」
 薄く笑って、
「じゃぁ天使ちゃん。これ、貰って行くわねぇ」
 投げ出された「シャングリ=ラ」を拾おうと手を伸ばした。
「やめ……ろ……!」
 フィオルの苦しそうな声。
「やめてぇぇっ!」
 リクシアの叫び。
 すると。
「ガァァァアアアアアッッッ!」
 リクシアを放り出した怪物の腕が、女を一直線に薙いだ。
「お兄……ちゃん……?」
 意思も、理性も、何もかも。無くなったはずなのに。
 壊れたような、声が言うのだ。

「いモウとの……タいセツなモの……キずツケさセなイ……!」

「お兄ちゃん!」 
「ダかラ……なカナいデ……おクレよ……!」
 召喚、された。もう大召喚師ではなくなったリュクシオンから。
 天使が、精霊が。たくさんの妖精たちが。
 どうして、とリクシアは疑問に思う。魔物になり果てて、意思も想いも、なくしたはずなのに。
 わずかに残された残留思念が、奇跡を起こした。
「魔物の……くせにッ!」
 叫ぶ女。人外に追われ、あわてて逃げだす。
 リクシアはそのさまを、呆然と見ていた。
「お兄……ちゃん」
 リュクシオン=モンスターは、首をかしげて妹を見て。
「サヨうナら」
 それだけ言い残し、女を追って、歩き出した。
 腕。あのとき、守ってくれた、腕。
 リュクシオン=モンスターは、怪我をしていた。その大きな腕に。
 リクシアを、守ったから。守って代わりに、怪我をした。
(どうして……?)
 もしも兄さんに意思が残されているのなら、純粋な敵として、戦えないじゃないか。
 守ってくれた、腕。
 魔物になっても。
 兄さんは兄さんだったのだと、知って。
(私は……どう、すれば……?)
リクシアは混乱するばかり。
 その時、フィオルの姿が目に入った。
「フィオル!」
 あわてて駆け寄ると、少年は苦い笑みを見せた。
「油断した……」
「そんなのどうでもいいから! 傷は!? 大丈夫? 歩ける!?」
 白い天使は脇腹を押えながらも、片手だけで「シャングリ=ラ」をつかみ、それを支えに立ち上がる。
 リクシアは衣を引き裂いて、即席の包帯にして、そっと傷に巻きつけた。
「私じゃこれくらいしか……」
「……構わない。ありがとう。……肩、貸してくれる?」
「ええ、もちろん」
 言ってリクシアは、フィオルの怪我をしてない側の肩を支えた。フィオルが手をさっと振ると、「シャングリ=ラ」は、一枚の白い羽根となって、その手に収まった。
「……便利」
 思わずつぶやくと。少年は、優しくほほ笑んだのだった。

 さあ、帰ろう。
 

 

Ep14 天魔物語

〈Ep⒕ 天魔物語〉

「フィオル!? 無事かッ!」
「兄さんも過保護だねぇ……」
 帰ってきたら、開口一番、アーヴェイの声が飛んできた。

「……というわけなの」
 とリクシアは締めくくった。
 フィオルの応急手当も終わり、今、皆は宿のある部屋に集まっている。
「参考までに聞きたいのだけれど。フィオル、アーヴェイ。あなたたちの大切な人は、兄さんみたいになったことある?」
 リクシアの疑問に、アーヴェイは首を振る。
「ハーティはそうはなら……いや、こっちの話だ」
「ハーティ? その人が、あなたたちの……」
「義理の母なんだ」
 少し昔の話をしようか、と彼は言った。

  ◆

 ずっと昔、二人は捨て子だったという。はじめにフィオル、次にアーヴェイ。その順に、とある女性に見つかった。
 女性の名はハーティ。茶髪に明るいオレンジの眼の、心やさしい女性だったらしい。彼女は捨てられた二人を良く育て、具合が悪くなったら医者に見せ、欲しいものがあったなら、よく吟味して買ってやった。教育にも熱心で、家事も非常にうまかった。彼女のもとで、フィオルもアーヴェイもまるで兄弟のようにして育ち、「当たり前」を謳歌した。

 しかし、平穏は長く続かない。それはある日のことだった。
「……嘘」
 ある手紙を読んで、彼女はくずおれるようにして泣き伏した。
「義母(かあ)さん!?」
 ハーティには遠く離れた恋人がいた。その人は彼女の幼馴染で、フィオルもアーヴェイも、一度はその人に会ったことがあった。彼はクールで格好良くて、とても頼もしい印象を受けたと二人は語る。
 その日、届いたのは。その手紙は、
――その人の訃報。
 それを見るなり、ハーティは獣のような声をあげて咆哮した。それは魔物になる予兆。
「ハーティッ!」
アーヴェイは叫んだ。
 あの日、あの時。彼が悪魔の力を解放すれば、止められたかもしれないのに。
 駆け寄ったフィオルとアーヴェイは、振り上げた手に殴り飛ばされた。
「義母さんッ!」
 魔物になっていく、育ての親。止めたいのに、止められなくて。
「ウォォォォオオオオオオオオオオ!」
 狼のように遠吠えを一つ。
 そしてハーティはいなくなった。

  ◆

「……簡単にまとめれば、こうなる」
 アーヴェイがそう締めくくった。
「あれから何回か、ハーティ=モンスターに会った。一回はフィオルが死にそうになったことさえある。でも、彼女はリュクシオン=モンスターみたいにはならなかった。思うに……」
「リアはリュクシオンにとっての一番だったが、あんたたちはハーティにとっての一番じゃなかった。ハーティにとっての一番は、その恋人だったから……ということだろう。あんたたちにとって、ハーティが一番ではないように。あんたたちにとっての一番は……互いの存在だろうから」
 割り込むようにし、フェロンが言葉を引き継いだ。
 つまりは。
「魔物になった人があんな行動をとるのは、対象がその人の一番だったって場合だけ……?」
「そうみたいだな。よって僕の場合、リュークに会って生き残れるかはわからない」
「そうなんだ……」

 語られたのは、一つの物語。
 天使と悪魔が、花の都を目指した理由。

「……魔物、か」
 呟いて、リクシアは、今はいない兄に思いを馳せるのだった。
 

 

Ep15 覚醒せよ、銀色の「無」


〈Ep15 覚醒せよ、銀色の「無」〉

「リュクシオン=モンスター……」
 去りゆく怪物を、見据える影があった。
 「ゼロ」だ。今日はあの女と一緒ではなかった。
 だから彼は、本来はここにいないはずだった。
 彼女はあえて、彼を連れていかなかった。
 その理由は――
 オモイダサセタクナカッタカラ。
「――ッ! 頭が……」
「ゼロ」は頭を押さえた。
その怪物を見た途端、はじけだそうとする記憶。思い出したいのに、執拗な頭痛がそれをさせない。
「ぐ……ああっ!」
 脳裏に走った激痛。焼けつくように、突き刺すように。
 「ゼロ」はうめき、大地をのたうち、転げ回った。
 それでも――これは。
 魔物を。見た瞬間、はじけそうになった記憶は、大切なものだから。
 苦しくても――苦しくても。思い出さなきゃならない、「ゼロ」はそんな気がした。
(リュクシオン=モンスター)
 唯一残った記憶が言うのだ。
(あれは、リュクシオン=モンスターだ)
 そして。
「ゼロ」
 彼の「母さん」の声。
(違う、あれは、母さんじゃない)
「ゼロ! 何してるの!」
(違う。僕の名は「ゼロ」じゃない)
 言っていたじゃないか、と彼は思い出す。あの日、戦った一人の少女が。
 思い出せ、思い出せ。あの少女の言った言葉を。
 頭痛はますますひどくなり、考えるのすら億劫になる。
 歯を食いしばり、痛みに耐え、「ゼロ」はあの日の記憶を呼び戻す。
「ゼロ!」
「ゼロじゃないッ!」
 あの少女の、言葉。
『******・*******! 目を覚ましてッ!』
「――思い出した」
 彼の頭痛は、消えていた。
「あなたは……母さんじゃ……なかった……」
「何を言っているの? 私はあなたの母さんでしょう」
「違うッ!」
 思い出した。思い出せた。あの遠い日の暮らし。父にいじめられ、兄にいじめられ。それでも、どんな時でも。母だけは味方でいてくれた。
「母さんの名はエリクシア! そして、僕の名は――!」
 あの子が教えてくれた、彼の本当の名前。
「……僕は、ある国の王子だった」
 唯一生き残った、王族。
 ゆえに、名乗ろう。思いを込めて。その名は――

「エルヴァイン・ウィンチェバルッッッ!」

 叫び、彼は「母」に剣を向けた。
「……運のない子」
 「母」は小さくつぶやいて、自らも剣を抜いた。
「ならば殺して差し上げるわ、私の可愛い『ゼロ』――いいえ、ウィンチェバル王国第三王子ッ! エルヴァイン・ウィンチェバルッ!」
「望むところだ! 人の記憶を勝手に操って……。この屈辱は、今、晴らす!」
 二本のつるぎが交わった。

 

 

EP16 亡国の王女

〈Ep⒗ 亡国の王女〉

――力量が、違った。

「ぐうッ!」
 身体を貫いた剣を、彼は呆然と見ていた。
「運のない子。忘れたままなら、こうはならなかったのに」
 剣を引き抜き、露を払い。そのまま歩き去ろうとする背に。
「待……て……!」
 かけた声は無視されて。
 エルヴァインは、くずおれるようにして膝をつく。
 視界がゆがむ。何もかもが真っ赤に染まる。
「こんな……ところで……!」
 彼には果たさなければならない使命があった。謝らなければならない人がいた。やりたいこと、やるべきこと。まだまだたくさんあったのに。
 貫く痛みに意識を失いかけ、なんとか再び覚醒する。
 生きたいと、死にたくないと。彼の心が全身が。魂の叫びをあげていた。
「僕は……まだ……!」
 死ぬわけには、行かないのに――。

 あの日。あの女に誘惑された。それが崩壊の始まりで。
 記憶をなくし、意思もなくし。操り人形のように生きていた。
 そして、今。記憶も意思も取り戻した彼は、また何かをなくそうとしている。
――それは、命だ。
「嫌だッ!」
 叫んでももがいても、必死に足掻いても、何かが変わることはなかった。何かが起きることもなかった。
 当然だ。神様なんて、いないのだから。彼は4跡なんかに期待しない。
 でも、生きたい、から。
 どうすれば、生きられるのだろう――?
 絶え絶えの息の中、エルヴァインは生を願った。

  ◆

 丘の上に、銀色の少年が倒れていた。 腹から血を流し、青ざめた顔で。
 でも彼は、辛うじて、生きていた。
「……仕方ない、か」
 一人の少女が、その身体を抱きかかえた。少女の髪は鴉の濡れ羽色で背中の半ばまで真っすぐ伸び、その瞳はぬばたまの黒。漆黒のロリータドレスを身に纏い、頭には黒薔薇のコサージュをつけている。全身黒づくめで、その肌は蝋人形のように白く唇は血のように赤い。
「まったく。こんなところで倒れないでほしいものだわ」
 淡々とした声は、しかし、どこか心配げだった。
「あなたはいっつも無茶をして……。あの女の正体をわかっていたの? 知らなかったんでしょう。知っていたなら、問答無用で逃げていた」
 少女はぶつぶつと呟きながらも、少年をどこかに連れていく。

  ◆

「じゃぁ、再び目指そう、花の都、フロイラインを」
 フィオルも少し、回復してきた頃。リクシアがそう、提案した。
「でも、今回はフェロンも一緒だもーん。みんなで行こうよ? そこに行って、何かを見つけないと……話は全然進まないもの」
 だな、とアーヴェイもうなずいた。
 すると、そこへ。
 コンコン。ドアのノックされる音。これまでいろいろなことがあったから、リクシアは思わず身構える。他の皆も油断なく武器を構え、誰何した。
「何者っ!」
リクシアの声に、淡々とした静かな声が応える。
「グラエキア・アリアンロッド。本名を名乗るとあまりに長すぎるから省くわ。エルヴァイン・ウィンチェバルと深い関わりをもつ者、といったらわかるかしら?」
その言葉を聞いて、リクシアはこくりと頷いた。
「……入って」
 エルヴァイン・ウィンチェバル。それは、あの「ゼロ」のことだ。リクシアにとって、他人ごとではない。
 家の中で。グラエキアと名乗った漆黒の少女が口を開いた。
「単刀直入に聞くわ。リュクシオン=モンスターは、どんな戦い方をしていたの?」
そんな彼女に、フェロンが警戒の声をあげる。
「それ以前に、貴様は誰だッ!」
「身分で言うのならば」
 静かな声が、告げる。

「今は亡き、ウィンチェバル王の姪よ」

 新たなる波乱が巻き起ころうとしていた。