ラジェンドラ戦記~シンドゥラの横着者、パルスを救わんとす


 

第一話 決闘敗者

 
前書き
初投稿です。よろしくお願いします。 

 
ろくに受け身も取れないまま、俺は背中から闘技場の地面に叩き付けられた。

「ぐはっ!」

一瞬息が詰まった。叩き付けられた痛みが全身に広がり、気力を根こそぎ奪われるが、このまま寝ていては敗北必至だ。すかさず立ち上がり、手放してしまった剣を探そうとするが、

「残念だったな、我が弟ラジェンドラよ。これで勝負ありだ!」

鼻先に突きつけられたのは俺の剣だった。憎らしいほど穏やかな微笑を浮かべながら俺を見下ろすガーデーヴィの姿には一分の隙もなく、敗北を認めざるを得なかった。

「俺の…負けだ…」

数瞬静まり返った見物席が、爆発するかのような歓声と怒号に包まれる中、

「ガーデーヴィの勝ちじゃ。シヴァ、インドラ、アグニ、ヴァルナ…、あらゆる神々も照覧あれ。次のシンドゥラ国王は、ガーデーヴィにさだまった!」

父カリカーラ王の、原作通りで、名前のみが違う宣言が場内に響き渡り、一層歓声が高まる。「ガーデーヴィ、新しき国王!」などと言う叫びも起こった。

そんな中、

「ラジェンドラ様!」との悲痛な叫び声が聞こえた。
見物席を見上げると乳兄妹のラクシュが俺に駆け寄ろうとしてるのを、母親のカルナが必死に押し留めているのが見えた。その横には、バハードゥル、ジャスワント、フィトナ、レイラ、パリザード、ギーヴ、皆沈痛な表情を浮かべている。…いや、ジャスワントの口元には微かに笑みが見えるな。あんちくしょう、やっぱり心情的には向こう側かよ!くたばりやがれ!まあ、あいつの事は置いておくとして…。

皆、済まないな。俺の人生に強引に巻き込んで、味方になってもらったって言うのに、肝心の俺が勝手に神前決闘なんかに挑んで、こんな有り様になっちまって。弁解のしようもねえや。


シンドゥラ暦321年、パルス暦では320年の、十月一日。ほぼ半月後に行われるアトロパトネの戦いを待たずして、言い替えるなら、原作の開始を待たずして、俺は兄ガーデーヴィとの神前決闘に敗れ、原作におけるシンドゥラ編部分を完全に崩壊させた…。








 
 

 
後書き
どうにもラジェンドラには名のある味方が当初存在しないので捏造せざるを得ませんでした。 

 

第二話 寝台沈思

尤も、原作の崩壊はおれが前世の記憶を取り戻した時から始まっていたのかもしれない。

「…さま!ラジェンドラ様!」

そんな声に目を覚ますと、俺の顔をインドの民族衣装サリーに身を包んだひどく可愛らしい、褐色の肌の幼女がのぞき込んでいた。

褐色?サリー?何でだ?俺は日本生まれの日本育ち。余り外国人など見かけない地域で生きてきたはず。ましてやインド人なんてテレビでしか見たことがなかったのに。

俺の名は佐伯…、下の名は何故か思い出せないが、とにかく苗字は佐伯。銀英伝好きの兄のいる大学四年生。就職もそこそこのところに決まり、卒論も一応でっち上げ終わり、去年までに粗方単位も取っておいた事もあり、消化試合のように残り少ない学生生活を送っている。

はずだったのに何なんだこれは?ふと両手を見ると成人男性とは思えないほどに小さい手がある。しかも黒い。

じっと手を見ていると、ふと「転生」の二文字が頭に浮かんだ。転生?そうか転生か!日本の大学生だったおれは何かが起きて死に、転生し、そして何らかのショックで前世の記憶を思い出したと。

だとしたら、いまの俺は何者?いや、さっきこの幼女に名前を呼ばれていたはず。確かラジェンドラと。ラジェンドラ。そんな名前の持ち主には前世では1人しか心当たりがない。『アルスラーン戦記』の舞台、パルスの隣国シンドゥラの王子で主人公たちの力を借りて国王の座を得た。だが信頼も信用も出来ない曲者そのものの性格で、確か、異名は「シンドゥラの横着者」…。おいおい、よりによってそんなのに転生?何の罰ゲームだ、それは…。

ブツブツと独り言を言いながら頭を抱える俺の姿は相当に異様だったのだろう。すぐそばに居る幼女はどう言葉をかけようか迷っているように見えた。

…いや、幼女じゃないな。思い出してきた。彼女はサリーマだ。俺、ラジェンドラにとってはのちの兄嫁。だがその後の紆余曲折の上、彼女は…。

「何だ、気がついてるんじゃないか!だったら早くこっち来いよ。メンツが足りないんだぞ!」

声をかけてきたのは8才ぐらいの男の幼児だ。ひどく眉間にシワが寄ってる神経質そうな子供…、そうだ、これがラジェンドラの兄、ガーデーヴィ王子だ。小説を読んでるだけでは余り容姿は想像できなかったが、確かにこれがそうだと確信できる気がする。

「おお、これはこれは兄上。どうやらご心配をおかけしてしまったようですな?」

「ふん、別に心配などしておらんわ。全くちょっと足を引っ掛けたぐらいでゴロゴロ転がって目を回しおって」

そうだ、思い出した。兄や同年代の貴族の子弟と玉蹴り遊びをしていたんだ。とは言えそれはサッカーとか蹴鞠とか言うものでもない。一つの球に全員で群がって追いかけ回し奪い合い駆けずり回る、ルールなんてあるんだかないんだか解らないスポーツとも呼べないただの遊びだ。球だって布切れを縫い合わせて丸くしただけのボールとも呼べない代物だし。ただそんなのでもやってると結構夢中になるもんなんだわ。そして熱くなりすぎて、つい足を出したり出されたりして現在の状況に至ったと。

「申し訳ないですが一応医者に診てもらおうかと思います。兄上とは違い卑しい奴隷女が母親とは言え、王族の端くれですし。今日はこれでお開きと言う事にしてはどうかと」

「ふん、大げさな!…だが一理あるか。おい、間違っても俺がやったなどと人に言うなよ!皆、今日はこれでおしまいだ。撤収だ、撤収しろ!」

そうやって帰って行く兄を見送った後、俺はサリーマに医者を呼んでもらって診察(とは言っても気休め程度のものだったけどね)を受け、乳母のカルナと乳兄妹のラクシュに迎えに来てもらった上で自分の屋敷に帰った。


その夜、寝台の上で考えた。俺が今回こうしてラジェンドラに転生したことにどんな意味があるだろうかと。

正直言えば、何でパルスに転生させて貰えなかったんだろうとの不満もある。主人公たちとの接点が少なくなってしまうではないか。確かにパルスの興亡に巻き込まれずに天寿を全うすることが出来るかもしれないけど、良くも悪くも事件の少ない平和な一生を自分だけ送ってどうすると言うのだ。

いや、別に俺が本来のラジェンドラの人生をなぞる必要も無いだろう。それでは良しとしない神様が俺をこうして転生させたのだろうから、その熱い期待に俺は応えるべきだろうし。

俺の兄は銀河英雄伝説を小説、コミック、アニメ、ゲームと全メディア制覇するほどハマってたし、田中芳樹先生の他の作品もかなり読み込んでいた。その影響を俺も多大に受けて、少なくともアルスラーン戦記の第一部は貪る程に読み込んだ。

そんな中で常々思っていたのが、
シンドゥラ遠征のあの3ヶ月が無ければなあって事だった。

その分のタイムロスが無ければ、もっと迅速に王都を奪還出来ていた。その圧倒的な武勲を背景にアンドラゴラス王やヒルメスを黙らせることが出来たかもしれないし、ルシタニア軍の駆逐はアンドラゴラス王やヒルメスに任せて、アルスラーン達はザッハーク一党の根絶に専念してもよかったはず。

それが出来なかったが為に第二部に大いなる禍根を残してしまったと言わざるを得ない。

だけど、俺が今ここに居る事で、様々な事が変わってくる。

俺が原作開始前に兄ガーデーヴィを打倒し、三年間の和平を申し出れば、信用してもらえるなら、3ヶ月のタイムロスは無くなる。

ガーデーヴィ打倒の際に戦象部隊を損ねないように温存しておけば、トゥラーンに「同盟国パルスに侵攻するならシンドゥラにとっても敵。戦象部隊をぶつけてやろうと思うがいいのか?」と脅してパルス侵攻を止める事も出来る。

ザッハーク一党との戦いに必要な芸香の産地は我がシンドゥラ。故に大量に提供することで迅速な打倒が可能なはず。であれば第二部で起こる多くの悲劇の発生を未然に防げる。

などと考えると、俺がラジェンドラとしてここにいる意味は意外に大きいようにも思える。

ならば、原作通りの流れに身を任せるよりも、いろいろと動くべきだろう。差し当たっては信頼できる人材を集めることだ。それなりに心当たりもある。

原作では語られていないことだが、実はラジェンドラの母親はシンドゥラにおける諜報活動に従事する一族の一人なのだ。情報収集のみならず、王族や政府要人の護衛、破壊工作、拷問など、何でもござれで、しかも『地行術』などの魔道の技さえ使えると言う。そんなオールマイティーな地下組織なら『闇の梟』だとか、さぞかし厨二病魂が震えるようなかっこいい名前があるのかと思いきや、単に「諜者」としか名乗っていないらしい。がっかりだ。

とにかく、表向きは女奴隷だが諜者の一員として国王の護衛の任に就いていた母親が国王に見初められ、それで生まれたのがラジェンドラと言う訳だ。だが、原作のラジェンドラはそれを決して公にはしていない。陽気さを好むラジェンドラとしては、諜者など辛気臭い存在としか見ておらず、余り関わり合いになりたくなかったのではないか、と言うのが俺自身の見解だ。尤も、この世界の俺は前世の記憶を思い出す前から本来とは正反対に興味津々で、いろいろ話を聞きまくっていたようだが。きっと前世から受け継いだ厨二病魂が騒いでいたのだろう。

国家に仕える組織だけに、全てを俺の意のままに使える訳でもないだろうが、それでも現在の諜者の首領は俺の乳母のカルナだし、彼女にお願いしていろいろと動いてもらうことは不可能ではないはずだ。

なので、翌朝俺はカルナに最初のお願いをした。

バハードゥルと言う名の子供を探してほしいと。
 

 

第三話 無双勇者

バハードゥル。鮫と同じ様に痛みを感じる事が無く、故にどれ程の傷を受けても倒れずに戦い続け、相手を殺そうとする怪物そのものの男。

原作でのダリューンの好敵手の中で五指、いや三指に入るのが、このバハードゥルだろう。アルスラーンをして、「もしダリューンがあの怪物に殺されでもしたら…」とまで言わしめた唯一の存在だったのだから。あのヒルメスでさえ、アルスラーンにダリューンが負けるかもしれないと思わせた事は無いと言うのに、だ。

ただ、あれ程の強さを持ちながら神前決闘でしか戦う事が無かったのは、人語すら解しているのか疑わしい程の知性を感じさせない振るまい故であったろう。戦場に立たせた場合には、敵味方の区別が全く付かず、自分以外の全てを殺し尽くしかねない。そんなものは怖くて神前決闘以外では使える筈がない。

だから、あの原作そのままのバハードゥルなら、俺は欲しいとは思わない。だが、もしもそれなりの知性と人間らしさを保ったままのバハードゥルを手に入れる事が出来るなら、俺は千金を費やしても惜しくはないと思う。

それも不可能ではないはずだ。と言うのも、おれはバハードゥルのあの有り様が、生来のものでは決してないはずだと思うからだ。

前世でいろいろなバトル漫画を読んでいて、痛みを感じないと言うキャラが時折出てきたりしていたので、気になって調べてみた事があるのだが、それで知ったのはその様な体質の彼らが無敵の存在どころか、むしろ脆弱極まりない存在だと言う事だ。痛みを感じる事が無いと言うのは、ブレーキが無いと言うのと等しい。目をこする、指をポキポキ鳴らす、等と言う何気ない仕草ですら、痛みと言うブレーキが無い状態で行うならば、やりすぎて網膜に傷がつく、指の骨が折れまくると言った惨事になりかねない。骨折などの怪我を負ったとして、痛みを感じて庇う事もしないなら、回復どころか悪化する一方だろう。先天的にその様な体質で生まれたならば、無事に成長するように周囲はかなり注意深く育てねばならないらしい。

だが、原作を読む限り、バハードゥルに対してその様な配慮は全く感じられなかった。そんな態度で育てたならば、決してあそこまで無事に成長する筈がないのにも関わらずだ。だとするなら、バハードゥルはある程度の年齢になるまでは普通に成長し、後天的に何かのきっかけであの様な状態になったのではないか。ならば、そのきっかけとなった事態さえ回避することが出来たなら、原作とは違った状態のバハードゥルであり続ける事が出来るのではないか。俺はそう思うのだ。

◇◇

まったく、面妖な事を言い出すものですね、あの王子様は。
ラジェンドラ王子の乳母であり叔母であり、諜者の首領でもある私、カルナは思わずため息をついた。

「ビシュヌ神が昨夜夢枕に立ってな。この国にいずれ『バハードゥル』と言う名の無双の勇者が現れる。だが、彼はシヴァ神の呪いにより破壊の化身となってしまう危険性がある。そうならぬよう、お前が保護してやるがいいと」

そんなお告げを受けたそうな。乳母の私から見ても、あの王子様は決して信心深くは見えない。なのに、そんなあの子に神様がお告げを?失笑しそうになり、慌てて堪えたが、彼は珍しくも真面目な顔をしていた。

「俺もただの夢だとは思う。だが、国にとって有為な人材がむざむざ失われるかもしれないのを座して見ているのが正しいあり方か?俺はそうは思わない。お前の力の及ぶ限りにおいてで構わないから探してくれ。手間をかけるがよろしく頼む」

そう頭を下げた彼の姿には、確かに歴代の王の血を感じさせる何ものかがあった。子供の戯言と笑い飛ばす事など到底出来よう筈がなく、

「確かこの都の東の下町にそんな名前の歩兵の子が居た筈です。しがない歩兵の子に大層な名前をつけるものだと思って記憶に残っていましたが、もしかするとその子の事かもしれません。調べてみましょう」

と受けあってしまっていた。

今、私は記憶を頼りに下町を歩いている。確かこの角を曲がれば…。

…何やら辺りが騒がしいような。路上で医者らしき風体の男にみすぼらしい姿の中年女がすがりついているようです。これは一体…?


◇◇

やれやれ、危ないところだった。もう少し遅れていれば、取り返しのつかない事になっていたかもしれない。

つい先日の事だが、都の近隣のとある村が山から下りてきた熊に襲われたと言う訴えが王宮に届き、それを受けて軍は都の歩兵の一部を連れて山狩りを行ったのだと言う。何とかその熊を殺す事は出来たものの死傷者が多く出て、バハードゥルも仲間を庇って深手を負ったと言う。何とか自力で家までは帰って来れたものの、家の扉を開けたところでバハードゥルは昏倒し、以来二日高熱が出て目を覚まさない状態だったと言う。歩兵だった夫を早くに亡くし、ガタイはいいものの食費の嵩む息子を抱え、母一人子一人で生きていた彼の母には高価な薬代など払える筈もなく、それでも何とか息子を救ってほしいと医者にすがりついて懇願しているところをカルナが目撃したと言う事だった。

事情を知ったカルナは「ラジェンドラ王子の名において彼の治療に必要な全ての費用を用立てましょう」と宣言し、知らせを受けた俺も王宮に出向き、今回の山狩りで傷を負った兵たちや遺族により厚く報いてやるべきだとの進言を行った。親爺は快諾してくれたものの、側近どもは「生まれの卑しい王子は、やはり卑しい者たちの事が気になるようですな」との陰口を叩いていたようだ。まあ、知った事ではないけどな。

高価な解熱剤を投与され、手厚い看護を受けたバハードゥルの熱は翌朝ようやく下がった。高熱が三日続くと脳に障害が残る場合があると言うから、彼の場合には今回の高熱によって脳にダメージを負い、痛覚が麻痺してしまう事に本来はなっていたのだろう。若干の障害は残ったものの、バハードゥルは痛覚を失うことなく、一週間後にはようやく歩けるようになった。

そして今、俺の前には跪くバハードゥル親子の姿がある。

しかしまあデカい図体だな。バハードゥルを初めて見て思ったのはまずそれだった。前世の単位で言うなら身長は2メートルを越し、体重も100キロは優に超えているだろう。プロレスラーの、それも大巨人とまで言われた往年の名プロレスラーを、さらに分厚い筋肉で覆ったかのような見事な肉体だった。聞いたところによると今、バハードゥルは一五歳なのだそうだ。未だに成長期って事?これが更に成長したら、一体どうなるって言うんや!

「ら、ラジェンドラざま、ご、ごの度はまごどにお世話にな、なりまぢだ」
頭を下げたままのバハードゥルから呂律の怪しいしゃがれ声が聞こえる。

幸いにして痛覚を失う事は無かったものの、やはり彼は無事では済まなかった。言語野に障害が残ったらしく、この様なやたらと濁音が混じるような喋り方しか出来なくなったのだ。いや、それでも原作の知性の欠片も感じられない、獣そのものの有様よりは遥かに上等だとは思うが。

「表を上げよ。…済まぬな、もう少し早くちゃんとした手当が出来ていれば、お前の喋り方もまともなままだったかもしれんのにな」

「いいえ、いいえ、そんな事は…。元々、この子はひどく頭が悪いですし、元よりロクな事は言えませんので」

「…があぢゃん、ざずがにぞれはあんまりにもヒドイ…」

「ええい、おだまりなさい!殿下の御前ですよ!」

「ふぁい…」

さすがのバハードゥルも母親には頭が上がらない様だ。まあ、人間味があっていいけどさ。

「それはともかく殿下、私共はこの度の御恩にどの様に報いればいいのでしょう。ご迷惑で無ければ、息子共々殿下にお仕えさせて頂ければと思いますが、それでもまだまだ足りぬかと…」

「いやいや、俺のもとで出来ることを出来る限り懸命にやってくれ。それで十分さ。…でもそうだな、バハードゥル、俺はお前に一つだけ望むものがある。バハードゥル、お前、自分の名前が何を意味するか、知っているよな?」

「ふぁ、ふぁい、殿下。確か『勇者』っで意味だど…」

「その通りだ。バハードゥル、お前は『勇者』たれ!その名前に恥じぬ存在となれ!俺がお前に望むのはそれだけだ。励めよ!」

「あぢがどうごばいばす…、あぢがどうごばいばす…」

バハードゥルは滂沱の涙を流しながら、何度も頭を下げた。

バハードゥル、期待してるぜ。力を蓄え、技を磨き、仲間を守り、国を守り、全てを守れる男になれ!そして、俺も助けてくれよな!


こうして俺は無双の勇者を配下に加え、その後はほとんど大過なく、日々を過ごしていたのだが、十四歳のとき大事件が起きてしまった。

兄のガーデーヴィが妙にマトモになっちまったんだ! 

 

第四話 長兄豹変

俺、ラジェンドラが、平成時代の日本で佐伯某として生きていた記憶を取り戻し、怪我による深手と高熱から痛覚を失う瀬戸際だったバハードゥルを救って以降は割と平穏に日々が過ぎた。

特筆すべき事としては、シンドゥラ暦307年、パルス暦で言うところの306年、俺が10歳の年の9月、パルスの王都エクバターナにてアルスラーン誕生と時を同じくして銀の腕輪と共に神殿に捨てられていた3人の女の赤ん坊を諜者に命じて拾ってこさせ、諜者の一族の子として育てさせる事にした位だろうか。

元々、諜者の一族は孤児を引き取ってはそれぞれの適性に応じて様々な技芸を覚え込ませ、新たな諜者として育てるって事を昔からやっていたのだが、中でもこの3人、パリザード、レイラ、フィトナは皆出来が良かったらしく、長じて皆違った才能を発揮して頭角を現し、首領であるカルナを驚かせる事になるのだが、それはまだまだ先のお話。

15歳になったら、王家の一員として、王宮に俺も住む事になると定められていたが、それまでは母に与えられた屋敷で伸び伸びと暮らすように親爺から言い渡されていたのを、だったら別に何をやってもお咎め無しだろうって事だよなと勝手に考え、俺は好き放題に過ごしていた。

諜者の訓練の座学的なものに、密かに潜り込んではつまみ出されたり、

どんな強者の剣にも最低でも十合は耐えられる様にとバハードゥルと剣を交え、力加減を誤ったバハードゥルに半死半生の目に合わされたり、

前世で食べていた現代日本の食事を再現しようとして失敗し、ゲロマズ料理を作って犠牲者を量産したり、

ここなら医者も近くてすぐ来てくれるし、警備も厳重で安全だし、料理もお菓子もうまいからと、世襲宰相マヘーンドラの屋敷に入り浸って、サリーマに嫌な顔をされたり、

中でも、いけ好かない親爺の側近どもの密かな悪事を暴いて失脚させたり、特に悪事を働いていない場合には言葉巧みに嘘の儲け話を持ちかけては、有り金を巻き上げたりってのが最高にクールで楽しかったなあ。まるで自称越後のちりめん問屋の隠居や某詐欺師専門の詐欺師にでもなったかのようだった。

ただ、困ったことに、そういう輩って大抵の場合、兄ガーデーヴィの派閥に属していたり、心情的には近しかったりするんだよな。由緒正しい家柄だの、伝統と格式だの、そんなものばかりが大好きな連中だけに、気が合うんだろう。そいつらに泣きつかれたり、文句を言われ続けたりでもしたのか、次第に兄の俺を見る目つきは険悪なものになっていった。

そして、ある日マヘーンドラの屋敷に先に来ていた兄に「遊ぼうぜ」と声をかけたら、いきなり罵詈雑言の数々を浴びせかけられたよ。

「愛想笑いを浮かべながら、相手の喉を掻き切るのがお前の本性なんだろう」とかと言う、原作でもあったような悪態までもね。

そして、「もうお前とは遊ばん。ここにもお前は来るな」とまで言われちまった。沸点の低いこの兄をからかっては、手を出してきた兄の攻撃をことごとく華麗に避けまくると言うひどく楽しい遊びが出来なくなるってのは、実に残念だったなあ。まあ、乳兄妹のラクシュにそれを言ったら、「王子、本当に性格悪いですね。ガーデーヴィ様の心中を察するに余りあるって感じっすよ」と呆れられちまったけどな。

兄が豹変するきっかけとなった事件は、考えてみると、そんな流れの中で起こったのかもしれない。

◇◇

全く、王家の長子と言うのも楽なものではない。面倒事ばかり起こす愚弟がいる場合には尚更だ。

あいつのせいで、私の支持基盤である父上の側近たちや、国都周辺の豪族たちは阿鼻叫喚の地獄絵図になっている。

汚職が明るみになり、公職から追放された者、

連座させられるのから逃げようとする者と、逃すものか道連れにしてやると叫ぶ者、

資産のことごとくを奪われ、最早首をくくるしかないと嘆く者、

それ程までに王権が大切か!我々が力を蓄えるのがそんなに目障りかと私に食ってかかる者、

世襲宰相殿、味方面をしておきながら貴方も我々の敵だったのですな。とぼけないで頂こう、王子たちが屋敷に入り浸っているのは知っておりますぞとマヘーンドラを詰る者、

知らん、私は何も知らんのだ!それに臣下の身で殿下たちを出入り禁止などに出来ようものか!と苦り切った顔で訴えるマヘーンドラ。

結局、我々の派閥は疑心暗鬼となって内部分裂し、内外に敵を増やす事になった。

敵の多さでは弟の側も変わりはないものの、公平で平民思いの王子様との声価が高まり、汚職を憎む清廉派官僚の間には密かに支持が広がりつつあるようだった。

おのれ、愚弟め、卑しい生まれの犬ころめが。こうなるのを見越しての行動か、何と油断も隙もない奴だ!

派手に悪罵を浴びせ、無関係であると強調したつもりだったが、周囲にはどこまで正しく意図が伝わったものか…。


矢面に曝されている事では私と同じだと思っていた父上は、「あれは息子どもが勝手にやっている事じゃ。儂を詰るのは筋違いじゃの」と言い放っているらしい。

ちょっと待て!何で私が弟と結託してやっている事になってるんですか!

抗議しに行こうとしていると、折悪しく、父上の正妻である王妃が亡くなったとの知らせが入った。服喪期間だ、国葬だと慌ただしい中でいつの間にか有耶無耶に。

それでも喪が明けてから父上の元へ伺うと、そこにあったのは、林立する酒杯と、山と積まれた怪しげな強精剤の数々。聞こえてくるのは…、女どもの嬌声?

父上め、いや、この糞親爺、面倒事から目を背けて、酒と女に逃げやがった!

そんな事をしている場合ですか、靴を蹴立てて国都に背を向けた豪族たちの中には、

「王室が臣下を蔑ろにするのなら、我らも従順な臣下ではいられませんな。次は戦場でお会いしましょう!」と叛意を隠さず言い捨て、領地に籠もって着々と軍備を整えている者もいるのですぞ!

どうすればいい。どうすればこの愚行を止められる。くっ、この愚弟め、何を冷笑してやがる。確かに無様な姿だが、こんな状況を作ったのはお前なんだぞ!

そうだ、いいことを思い付いた!ここにある全ての酒と強精剤を無くしてしまえばいい!

私はそこにあった大量の酒を次々と飲み干し、強精剤を片っ端から酒と一緒に流し込み、全てを平らげ、哄笑と共に言い放つ。

「さあ、酒も強精剤も全てなくなりましたぞ、父上!そろそろ政務に戻られてはいかがか?」

父上も、女どもも、弟も、そこに居合わせた全ての者が私を呆気にとられた顔で見ていた。ふふ、何だ弟よ、その間抜けな顔は?久々に溜飲が下がった…ぞ?

突然頭の中で血管がブチ切れた様な音がしたと思ったら目の前が真っ赤に染まり、世界がくるくると回った。私は倒れたらしい。

その後、朦朧とした意識の中で、横たわる私の手を握り締めて泣きながら何度も私の名前を呼ぶ父上に、
「父上、もうこれ以上酒と女に逃げるのはおやめください。この国を守れるのは父上だけなのですから」と何とか口にした。つもりだったが、果たして口が回っていたかどうか…。何度も泣きながらうなづく父上の姿が見えたのを最後に、私の意識は闇に飲み込まれた…。


◇◇

兄が意識を取り戻したとの知らせを受け王宮に駆けつけると、見たこともないくらい穏やかな表情の兄に迎えられた。さすがにまだ完全に床からは離れられないようだが、顔色もそれ程悪くも無い。だが、俺を見る目が、口元の笑みが、佇まいまでもが違う。何だ、これは。目の前にいるのは本当に我が兄ガーデーヴィなのか?

「…兄上、何だか変わられたか?もしかして前世の事でも思い出されたか?」

「ふふ、何だお前はいきなり妙なことを言って。何か悪いものでも食べたのか?」

いや、それはあんたの方だろうよ…。ってか今の口調も何だ?イライラ成分が含まれてないこの兄の言葉を聞くのなんていつ以来だ?

「生死の境を彷徨ったのだ。さすがに思うところはいろいろある。人が変わったように見えもするだろうさ。それより、南方の諸豪族に反乱の兆しがあるんだったな。プラケーシン将軍辺りに戦の準備をさせておけ。父上には私の方から口添えしておく。それと、バハードゥルにも戦に出てもらうぞ。あれ程の勇士、遊ばせておくのは勿体ないからな」

「あ、ああ判ったよ、兄上…」

本当に一体どうしたんだよ、まともになりすぎだろ、この兄。


やがて起こった反乱は瞬く間に鎮圧され、バハードゥルもかなりの戦功を上げた。

反乱があっさり鎮圧されると、今まで好き勝手に国政を左右し私服を肥やしていた腐った側近どもや豪族たちは力を失い、変わって清廉派の官僚たちが台頭し、国家の車輪を円滑に回し始めた。

兄はいつかの「もうお前とは遊ばん!ここにもお前は来るな!」との言葉を詫びながら撤回し、俺もそれを受け入れた。以前の様に俺を「卑しい生まれの癖に」と罵ることも、絶えず漂わせていたギスギスイライラなオーラもなくなり、気安く付き合えるようになった。

十五歳の誕生日を迎えて以降は俺も王宮で暮らすようになったが、兄と俺は連れ立って時折王宮をこっそり抜け出しては、街に繰り出すようになった。一緒に大道芸人の踊りを見物したり、商人と景気の話をしたり、酒場で庶民たちに混じって酔って騒いだり、気前よく酒を振る舞ったりした。

その癖、王宮を抜け出した俺たちを衛兵が探しに来るといつの間にか兄は姿を消していて、俺だけが見つかり衛兵に雷を落とされる。

「いや、たった今まで兄も一緒に居たんだ!そうだよな、皆!」

と周りに言っても既に口止めが済んでるのか、

「いやあ、そんな事はありませんでしたよ」

「ここに居たのはラジェンドラ王子だけだったじゃないですか」

とか言われる。

それで余計にくどくど言われ、王宮に無理やり引っ張って行かれると、いつの間にか王宮に戻っていて湯浴みでもしてさっぱり酔いを消したとおぼしき兄が、

「何だ、またお前は街に繰り出して酔って騒いでたのか?少しは落ち着いたらどうだ?」
なんて言ってくるのだ。

…殺したい、この兄貴!要領がいいのは俺の専売特許だったはずなのに、どうしてこんな事に!

その上に、更に腹の立つばかりが続くようになる。

「お前の立場を考えて手を抜いていたが、それではかえってお前のためにならんと判ったのでな」と学問でも武術でも圧倒的な差をつけられるようになり、

「ガーデーヴィの献策はどれも理にかなった見事なものばかりじゃ。未だ余喘を保っていた不平豪族どもを隣国と共にパルスに攻め込ませ、パルス軍に一掃させると言う策も図に当たったしの。それに比べてお前のはな…」と親爺にまで言われる様になり、

そして、シンドゥラ暦317年に入ると兄ガーデーヴィ王子の立太子が正式に決まる事となった。同時に、体調が優れず、無理が効かない父上に代わって摂政として政を動かす事も。

…ちょっと待て!思い切り歴史かわってるやん!原作始まってもずっと決まらないままの筈だったやろ!クッソ、どうしてこうなった?

ちくしょう、だったら俺だって思いっ切り歴史を変えてやる!

本来兄嫁になる筈のサリーマを、俺の嫁にしてやんよ!



 

 

第五話 求婚成否

残念ながら、サリーマの反応は芳しくなかった。

「私はね、生まれたときに『この子は王妃になるべき運命の下に生まれてきた』と国一番の占い師に言われたんですって。その言葉を現実のものとする為に、私は懸命に努力してきたわ。頭脳を磨き、心を磨き、美しさにも磨きをかけてきた。そんな私を王太子に選ばれなかった貴方がどうやって王妃に出来ると言うの?」

そんな彼女の言葉にもかなり食い下がったんだけどな。

「結論として、貴方にそれが出来ると私には到底思えない。残念でしょうけど、諦めて下さらない?」

冷たくあしらわれて、彼女の部屋から締め出された。

呆然と立ち尽くしていると、屋敷の使用人が俺の脇を足早に通り抜け、部屋の扉を叩いた。

「お嬢様、今度は王太子殿下がお見えです。こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」

「まあ、殿下が!勿論よ、すぐにお通しして。くれぐれも失礼の無いようにね」

「かしこまりましてございます。ただちに」

使用人はマッハでその場を立ち去り、すぐに兄ガーデーヴィを連れてきた。

兄はまず俺がここに居ることに驚いた表情をし、次に俺の表情を見て事情を察したようで納得の表情を浮かべ、更に傷心の俺を労るような眼差しを向けた。

もうやめて!そんな目で俺を見ないで!俺のライフはもうとっくにゼロよ!

そして、稚気を含んだ笑みを顔に貼り付け、

「うむ、丁度いい。お前には立会人になってもらおう!一緒に来い!」

俺は強引に腕を掴まれ、部屋に引っ張り込まれた。

そして、二人だけの世界が繰り広げられ、俺は兄の求婚シーンを目の当たりにする事になった。

サリーマは兄の求婚の言葉に頬を薔薇色に染めて頷いた。マヘーンドラも滂沱の涙を流しながら、ウンウンと頷いていた。

…いや、おっさん、あんた一体いつの間にここに居るんだよ…

◇◇

悄然と肩を落としたまま立ち去るラジェンドラ王子と、笑み崩れながら足取りも軽く王宮へ戻っていく父上(仕事を放り出したままなのだそうだ。…と言うかいつの間にここに居たのかしらね?)の姿を見送って、私は部屋の扉を締め、辺りに人の気配が無い事を確認して、部屋に残ったままの王太子殿下に軽く頷いてみせた。

「で、弟はどんな事を口走っていた?」

「『俺には未来が判る。パルスは4年後にルシタニアとの戦争に敗れ、王太子アルスラーンがペシャワールに逃げ延びてくる。彼の陣営は後方を安定させる為、俺を王位につけようとこの国に攻め込み、戦象部隊をも撃破した上で国都まで迫り、神前決闘を経て俺が王位を継ぐ事になる』ですって」

そんな訳の判らない事を、彼はしきりに言っていた。本当にどうかしていると思う。殿下もこめかみを押さえている。

「…万に一つも起こりえない事ばかりだな。ルシタニアなどはるか西方の貧乏国だろう?それがパルスを倒す?逃げ延びてくるのは王太子だけ?あのアンドラゴラス王が討たれるとでも?それにあの弟がパルス人にそんなに信用されると言うのか?」

「私もその辺りの事は指摘しましたわ。でも、彼は『必ずそうなる。俺は判ると言うより、そうなると知っているのだ。何故ならこの世界はアルスラーン戦記と言う物語の世界だからだ』と…」

「…シンドゥラ王家は200年以上、狂人を身内から出してない事が自慢だったんだがな。あいつ、もうどこかの寺院にでも幽閉した方がいいかもしれん」

「諜者の一族が彼を素直に渡すとは思えませんわ。しばらく機会を伺うしかないのではないでしょうか?」

「くっ、頭が痛い。頭が痛いぞ、私は」

殿下は頭を抱えながらフラフラとし、寝台に倒れ込んだ。そして、こちらをチラリと見る。

「なあ、癒やしてもらえるか、いつものように」

ええ、癒やし合いましょうか、寝台の上で、一糸まとわぬ姿になって。


そして、事が終わった後、私は気になっていた事を訊いてみる事にした。

「そう言えば、さっき仰っていたのは本当ですの?本当に王家からは200年以上狂人が出ていないと?」

「ああ、あれはとある人の有名な言葉の真似なのだよ。本当に出ていないかは確かめないとならないな」

「まあ、そうだったのですね。それでどこのどなたの?」

「ここから遥か遠くにあるフェザーンと言う国の、ボリス・コーネフと言う男のね」

◇◇

「で、ガーデーヴィ兄、俺に頼みたい事って何だよ?」

こんなぞんざいな言葉遣いが出来るのも、謁見の間ではなく、人払い済みの摂政執務室に呼び出されているからだ。どうも内密の要件であるらしい。

「お前にはパルスへ行って欲しいのだ。そして、次の代の私の治世からはシンドゥラはパルスと友好関係を結びたいと伝えて欲しい。まあ、今のところは打診のみで構わないがな」

ああ、確かに去年、シンドゥラはトゥラーンやチュルクと共にパルスに攻め込んだばかりだからな。一応、あの戦の直後には弁明の使者を出したが反応は芳しくなかったし、一朝一夕に友好関係は難しいかもしれない。だが、代替わりを控えた今攻め込まれても困るし、打診と共に時間稼ぎをしたいと言う事か。

そう言えば、そろそろあの出来事が起こる頃合いだったっけ。それが起こるのを防いでしまえば、また大きく歴史が変わる。アルスラーンの翼将の数が変わってしまうかもしれない為、以前はどうすべきか迷っていたが、最近肚が決まった。例え歴史が変わったとしても、幾人もの人間の運命を捻じ曲げたあの出来事を必然などと俺は呼びたくはない。俺の力が及ぶならば、防ぐ為に行動すべきだと思う。万事狙い通りに事が運べば、あの恐ろしい敵の一味に楔を打ち込む事も出来るかもしれないしな。あと、現時点では所在不明のあの男にも出来れば巡り会いたいけれど、それはどうだろうか、難しいだろうか。

「兄上、その仕事を済ませた後、少しばかり寄り道してみたいんだが構わないか?」

「別に構わんが、何処へ行きたいんだ?」

「フゼスターンのミスラ寺院に」

十八歳のピチピチギャル時代のファランギースに会いに行きます。
 

 

第六話 烈剣黒豹

「って事があってなあ。笑えるだろう、なあ、アルスラーン王子!」
馬をゆっくり走らせながらも、俺の話は止まらない。いやあ、嬉しいねえ。いつもよりも多く舌が回っちまうわ。
「は、ははは、そうですね、ラジェンドラ王子…」
ちょっと苦笑交じりか。後のアルスラーン王子はグラーゼやギーヴの与太話も楽しく聞いていたようだが、9歳の今はこの位の反応でいっぱいいっぱいかな。

まあ、王子の左右で相槌すら打たずに、「つまらん話を殿下に聞かせるな、殿下の耳が汚れる」と言わんばかりに眉間にシワを寄せてるダリューンや、この男、一体何を企んでいるんだ?と俺に不審そうな視線を向けっぱなしのナルサス、俺の右横で「シンドゥラ国の汚点ですな、この御方は」と言いたげにため息をついてるジャスワント、左横で何も考えていないのか動くウドの大木と化してるバハードゥルよりは遥かにマシな反応だが。

更に、俺たちの遥か後ろの女性陣たち、乳母のカルナに、乳兄妹のラクシュの母娘と、パリザード、レイラ、フィトナの三人娘に、盛んに話しかけてるのはこの旅の途中で出会った旅の楽士ギーヴだ。尤も、楽しそうに笑っているのは愛嬌の塊と言うかほとんどそれしか取り柄のないラクシュと、髪が短いせいだけじゃなく振る舞いまで漢っぽいパリザード位だけで、他の面々はクールにスルーしているけどな。こらこら、ガハハ笑いなんてするんじゃないといつも言ってるだろう、パリザード。せめてアハハぐらいにしておいてくれ。

俺たちは今、フゼスターンのミスラ寺院を目指している途中だ。勿論、俺たちだけじゃなく、護衛の兵たちが数十人と、身の回りの世話をする為の奴隷たち十名ほど(エラムとその両親を含む)も居る。

時はパルス暦316年。原作開始時点より四年も前だと言うのに、何故アルスラーンとその翼将たち五人が一堂に会しているのか。その事情を説明するには、一ヶ月ほど前にまで時を遡らせねばならない。


パルスへ向かう日の朝、俺は王宮の摂政執務室に出発の挨拶に赴いたが、そこで意外な提案を受けた。

「弟よ、随員を確認したが、女子供が多くて危険だろう。もう一名頼りになる護衛を付ける故、連れていくがいい。…マヘーンドラ、あの者を連れてきてくれ」

脇に控えていたマヘーンドラが一礼して隣室に引っ込んでから、一人の若者を連れて戻ってきた。長身痩躯、黒豹の様な身ごなし。そこから繰り出される剣戟はこの国の太陽の如くに激烈だという。こいつはおそらくあの男だな。そんな風に考えながら、俺はそいつが跪くのを見ていた。

「ジャスワントと申します。マヘーンドラ様の一族の端に連なるものです。どうか私をお連れ下さい」

やはりジャスワントか。いずれ俺の前に現れるとは思ってはいたが、こんな形になるとはな。しかし、護衛ではなく、内実は俺の監視役と言ったところだろう。マヘーンドラにとっては、心利きたる者かもしれんが、俺にとっては獅子身中の虫。…そうだな、原作でのあれはどうかと思ってみたし、ここは一つごねてみるか。

「はっ、嫌だね。何でこんな怪しい奴を!」

「な、何を仰るのです!私は―」

おお、取り乱してる取り乱してる。が、皆までは言わせん。畳み掛けてやる。

「お前、本当に宰相殿の縁者か?屋敷に何度も出入りしていた俺だから宰相殿の親戚は粗方知っているが、お前なんぞ知らんぞ?」

「お、王子。ご存じないかもしれませんが、この者は遠縁のチャンドラの子息で―」

「それも嘘だな!」

「なっ!?」

口を挟んできたマヘーンドラの言葉をバッサリと斬って捨てる。

「記録上、そうなっているのは知っているさ。だが、諜者に調べさせたところ、あの家で男子が生まれ育ったと言う形跡は全く無いと判明している。マヘーンドラ、俺を、諜者の一族を甘く見るなよ?」

「くっ…」

「なあ、マヘーンドラ。これは非公式とは言え、外交使節団なのだ。身元の不確かな者を連れて行く訳にはいかんのだよ。正直に答えてくれないか?こいつは誰の子なんだ?お前なら、よーく知ってるはずだろ?なあ?」

「…は、恥ずかしながら、私の隠し子でございます。この子の母親は我が親戚の家で働いていた女奴隷のインディラと申します…」

「!マヘーンドラ様…それは真の事なのですか!本当に貴方様が…」

「ああ、お前は私の息子じゃ、ジャスワント。妻の手前、隠さざるを得なかったのだ。済まぬ。本当に済まぬな」

「いいえ、その様な事は。私は、私は、嬉しいのです。ずっと貴方様が私の父であったらと思っておりました」

「ジャスワント…」


感動の親子名乗りを邪魔しないよう、俺は小声で兄に、ジャスワントの随行を認める事と、出発を午後からにする旨を伝え、ひっそりと執務室を後にした。ふっ、いい事をした後は気持ちがいいぜ!

とにかくこれで、十六翼将の一人、ジャスワントが仲間に加わった!

◇◇

私、ジャスワントは父親の顔どころか名前すらも知らなかった。その為、幼い頃は父無し子とバカにされ、泣きながら家に帰った事もあった。

「ねえお母さん、ボクにはどうしてお父さんが居ないの?」

そう尋ねると、母は困ったような顔で微笑んだ。

「ごめんね、ジャスワント。本当の事は言えないの。あの方に迷惑がかかるから。だけど、貴方のお父さんは本当に立派な方だったわ。あの方に出会えた事も、貴方が生まれてきてくれた事も、私の人生の大切な宝物なの。だから貴方も、胸を張って生きるのよ。いいわね?」

私は母が父を想い出しているときの幸せそうな顔が本当に大好きだった。


マヘーンドラ様が私を訪ねてきてくれたのは、母が死んだ後何も手につかず、何も食べる気が起きずに、母の事を想い出しては泣き暮らしていた頃の事だった。

「君がインディラのお子さんだね?私は君のお母さんが働いていた屋敷の主人の親戚、つまりはお母さんの知り合いだよ。…む、イカンな。痩せ過ぎているではないか。ちゃんと食事を取っているのかね?」

「いいの…。このまま何も食べないで死ぬ…。そうすればお母さんにまた会える…」

「馬鹿な!そんな事でお母さんが喜ぶとでも思うのか!…いや、怒鳴ってしまって悪かったね。ねえ君、人間はね、死後の世界で親に会ったら、たくさんたくさんおみやげ話をしてあげなきゃいけないんだよ?」

「おみやげ…ばなし?」

「そう、おみやげ話だ。悲しい事や辛い事もあったけど、我慢して乗り越えてちゃんと幸せになれたよって。誰かの役に立てて、誰かに喜んでもらう事が出来たよって。嬉しかった事や、楽しかった事、誇らしかった事がたくさんあったよって、そう言う事を親に伝えなければならないんだよ。それが出来るようになる前に死ぬなんて親不孝もいいところだ。君はお母さんよりももっともっと長生きして、たくさんのおみやげ話が出来るようにならないといけないよ。その為にも君は私の所に来るべきだ。私は君を幸せには出来ないかもしれないけど、幸せになる手助けはしてあげられるはずだからね」

そうして私はマヘーンドラ様のお屋敷に引き取られ、下働きをするようになった。一緒に働く人達は皆優しかったし、マヘーンドラ様も私の事を何かと気にかけて下さった。そんなマヘーンドラ様のお役に立ちたくて、私は諜者の様な仕事もするようになった。そんな危ない事をしなくてもいいと心配されもしたけど、よくやってくれた、助かる、ありがとうとも言って下さるようになった。嬉しかったし、誇らしかった。

マヘーンドラ様はいつも、「この国に暮らす人が少しでもより幸せに生き延びる事が出来るようにしたい」と仰っていた。そんなマヘーンドラ様の為に働ける事が何より幸せだった。マヘーンドラ様はもしかしたら自分の父親なのではないか、そう考える事もあった。でも、そうであったら嬉しいけど、別にそうでなくても構わないとも思っていた。例えそうでないとしても私はマヘーンドラ様に充分に幸せにして頂きましたから。


ラジェンドラ殿下のお蔭で私はマヘーンドラ様が自分の父親だと知る事が出来た。しかし、殿下は一体どう言う人なのだろう。それまではガーデーヴィ様が王太子に決まっても次の王様になる望みを捨てようとしない、未練がましい人。平地に乱を起こしかねない危険人物。そう思っていたのだけど、本当は違うのだろうか。

もしかしたら殿下は諜者を使う事で、人より多くの事を知り、人より多くの事を考え、人より多くの事に心を配っている。そんな人なのではないか。と言う気もしてきた。

そんなような事を取り留めなく考えたまま、馬をゆっくりと走らせながら、私はラジェンドラ殿下を凝視し続けていたらしい。

「んん?何だ?俺の顔に何か珍しいものでも付いているのか、ジャスワント?」

「いえ…、まあ愛嬌だけは有り余っているかと…」
そんな風にかろうじて誤魔化すと、何馬身も離れていたはずの殿下の乳兄妹のラクシュ殿が聞きつけて近づいてきた。

「愛嬌!そう愛嬌だけが殿下とラクシュの取り柄なのだー!」

「それしか取り柄が無いのはお前だけだろ、ラクシュ」

「ぶーぶー、私は弓だって得意だもん!」

「はいはい、そうだな、それだけはな!いいからお前は後ろにいろ、邪魔だからな」

「へーい、判りましたー」

そう言えば噂を聞いた事がある。ラクシュと言う諜者は弓の神だか悪魔だかに愛されていると。よく判らない表現だが、相当の腕前なのだろう。

後ろを向いてラクシュ殿が定位置に戻ったのを見届けた殿下は深い深い溜め息をついた。

「全く、困った家族だぜ」
そう小さくつぶやくのが聞こえた気がする。

そう言えば噂を聞いた事がある。ラクシュと言う諜者から愛嬌と弓を取ったら骨も残らないと。きっと殿下にとってラクシュ殿は目の離せない困った家族なのだろう。

突然、殿下が吹き出し、腹を抱えて笑いだした。

「?な、何かありましたか?」

「い、いや、家族つながりでさっきの宰相のセリフを思い出したんだけどな。『お前は私の息子じゃ、ジャスワント』って『じゃ』が二回も続いててちょっと笑えるよなってさ。くっくっく、いやあ、実はさっきも本当は思わず吹き出しそうになったのを慌てて堪えてたんだよ。くっくっく、はーっはっはっ」

こ、この御方は(怒)!前言撤回!この御方はただの頭のおかしな危険人物だ!今後も決して気を許さず、監視し続けなくては!
 
 

 
後書き
くっ、ジャスワントの話だけしか出来なかった!次は多分ギーヴの話になるかと。 

 

第七話 放浪楽士

国都ウライユールから陸路で二日ほどで、シンドゥラ随一の港町マラバールに到着、そこから海路でパルス南部の港町ギランを目指した。海賊でも出るんじゃないかと思ったが、特に何事もなくギランに辿り着けてしまった。まあ、マストにシンドゥラ国旗を立てた船団に手を出せる筈もないが。

とは言え、ギランで情報収集を行うと、やはり海賊の被害があると言う。先を急ぐので特に海賊退治に勤しみはしなかったが、ギラン総督府と豪商数人の屋敷に、「海賊の黒幕はシャガード」との怪文書を矢文で投げ込ませておいた。くっくっくっ、せいぜい周囲から疑われるがいいさ、シャガード。ついでに立ち回りをしくじって自滅してくれれば更に良し、俺としてはどう転んだとしても少しも良心は痛まないね。

それから、諜者の一部を先行させて、エクバターナでとある流言を流させておこう。フゼスターンでは出来ればアルスラーンの力も借りたいし、ついでにダリューンやナルサスも引っ張り出したいところだからな。

諜者に矢継ぎ早に指示を出していると、ラクシュから「またこの殿下は悪巧みばっかりして」と言いたげな呆れ顔を向けられた。ふん、いいだろ、別に。『はかりごと多ければ勝つ』って言葉もある訳だし、打てる布石は出来るだけ打っておく主義なんだよ、俺は。いいからお前は狩りにでも行ってこい。今まで海路続きで魚料理ばっかりだったからな。そろそろ肉とか食わせてくれってんだ。

◇◇
フッフッフッ、フフフのフ、ようやく私、ラクシュの出番だねー。

いやあ、今まで全然出番なかったもんねー。前回ちょろっとセリフがあったくらいで。

どうもあの殿下は私をあんまり使いたがらないんだよね。それである時、

「どうして?やっぱり可愛い乳兄妹の手を汚すのは忍びないから?」と訊いたら、

「いや、あんまりお前を動かすと世界観が壊れるからな。頼むから、大人しくしててくれ。あと、息も吸うな」とか言うんだよ?ヒドくない?

そりゃあまあ確かに尋常でない特技を持っていると認めるのも吝かではないけどさ。でも活躍しないことにはメインヒロインの座は手に入らないじゃないのさ。

ちなみに、乳兄妹ってことになってるけど、本当は殿下より私の方が三歳年上なんだよ?当たり前だよね、私が先に生まれてるんじゃなければお母さんお乳出ないし、乳母にだってなれない訳だから。なのに殿下ったら「お前に姉成分を感じたことは一切ない。お前なんか妹で十分だ」だってさ。本当にヒドい。ツンデレが過ぎるわ、マジで。ツンデレとか何とか、いろいろおかしな言葉を私だけに口走る程に心を許してるはずなのにね。


使節団から一人離れて、気配を殺しながら草原に向けて馬を走らせる。うーん、獲物獲物、何処かに居ないかなー。

すると、折よく近くの茂みがガサガサして、ウサギが私の目の前に飛び出してきた。

私の存在に気付いて怯えて棒立ちになるウサギを、私は「大丈夫、怖がらなくていいんだよ」的なオーラを振りまいて安心させ、

瞬時に取り出した弓でウサギの喉元を撃ち抜いた。

「…な、何だ?今の…」

不意に誰かの声が聞こえた。男性の、高くも低くもないがどことなく楽器的な響きを持つ美声だ。諜者の仲間や使節団の誰かの声じゃあないね。場所は私の斜め後ろ、20ガズ(20m)程のところだ。

も、勿論、気付いてましたよ?気付いてたってば。特に私に対して殺気を向けてくる感じじゃなかったからスルーしてただけさ(震え声)。これでも諜者の端くれ。他人がそんな距離に居て、気づかないはずなんて無いじゃあないですか、あはははは。

そこに居たのは甲冑を身に付けた兵士、などではなく、弓を携えた旅人と言った感じの若い男だった。二十歳までは行ってないな、十八歳ぐらい?ちょっといい感じの刺繍の入った帽子と、同じような刺繍が入った上着が目を引く。背中に楽器みたいなものを背負ってる。あれは…、琵琶かな?赤紫色の髪と紺色の瞳をしていて、繊細な顔立ちのかなりのイケメンだ。私も殿下が居なければコロッと参っていたかも。

何だか、お化けでもみたかのような表情をしている。ぷん、失礼な!こんな美少女をつかまえて!

「い、今あんた、弓を構えてすらいなかったろ?それが一瞬で弓を取り出して撃った?狙いもつけずに?それが喉元に命中するなんて偶然か?」

ああ、それにビックリしてたのね。自分じゃフツーのことだからどうとも思わないんだけど。

「勿論狙って撃ったよ?私、早撃ちが得意なのさー」

「は、早撃ちって、そんな次元の話じゃねえだろ?まるで妖術だ」

「うん、よく言われるー。あと、弓の神に愛されてるとか、いや、あれだとむしろ悪魔の方だろとか。ところでおにーさん、何者?」

「あ、ああ、悪いな、急に声なんてかけちまって。俺はギーヴ、旅の楽士だ。…あんた、その肌の色、シンドゥラ人か?何でこんな所に?」

!ギーヴ?それって殿下が探してる弓も剣も人並み以上に使えるっていう放浪の楽士じゃん!そう言えば殿下から聞いてた人相風体とも一致するような!ラッキー!是非とも殿下の所にお連れしなきゃ!

「実はワケありでシンドゥラからエクバターナへの旅の途中なのさー。ねえねえギーヴさん、今おヒマ?」

「ん?まあ宛もない旅の途中だし、暇と言やあ暇だが?」

「護衛は一応居るんだけど、ちょっと頼りなくってねー。一緒に来てくれると心強いんだけど、どう?」

しかし、ギーヴさんは浮かない顔だ。平穏より波乱を好みそうなこの人の性には合わないかな?

「んー、護衛かあ。退屈そうな仕事だな。この平和なパルスじゃあ賊とか滅多に出ないし、悪いんだが…」

「私はともかく、女性陣は美人が多くてねー。みんな不安がってるんさー。そこを何とか―」

「や、それは大変だな!よし、引き受けた!」

食い気味にギーヴさんが答えた。うん、話に聞いてた通りの美女好きみたいだね。やったあ!ギーヴさん、ゲットだぜ!

◇◇

こうして、ラクシュに連れられてやってきたギーヴが使節団の護衛に加わった。ジャスワントなんかはブツブツ文句言ってたけどな。

「私の事を怪しいとか仰っていたくせに、百倍怪しそうなこんな男を護衛に加えるとは!」とか何とか。

「あれは何処ぞの隠し子を認知しようともせず、秘密を墓まで持って行きそうな奴の口を割らせる為に言ったまでだ」と言ったら黙ったが。

ギーヴが加わったその夜は、ラクシュが獲ってきた獣肉を肴に大いに呑み、大いに盛り上がった。
王子って割には気さくで気が合いますな、お主もよく喋るなあ他人とは思えんと、俺もギーヴも意気投合し、ギーヴの琵琶に合わせて俺も歌った。
「…殿下の歌はまるで水牛のいびきのようですな」とギーヴには呆れられちまったけどな。

ギーヴは女性陣の中でもカルナとフィトナがお気に入りのようで盛んに話しかけていた。カルナは巨乳な上にラクシュの姉に見えるくらいに若々しいし、フィトナは三人娘の他の面子と同じく十歳だけど三人共大人びていて十代半ばぐらいに見えるしな。ファランギースにご執心だった様に、キレイ系の美女がお好みなんだろうな。まあ、二人共相手にしない上に、うるさく思ったのか巧みに次々と酒坏に酒を注いで早々に酔い潰して撃退していたが。翌朝ひどい二日酔いに苦しみながらも相変わらず話しかけまくっていたギーヴの辞書にはきっと「懲りる」という言葉が載っていないのだろう。

ギランから更に数日馬に揺られ、俺たち一行はようやくエクバターナにたどり着いた。よし、王宮で陰険漫才を繰り広げるとしようか! 
 

 
後書き
…変な言葉覚えすぎだよ、ラクシュさん! 

 

第八話 陰険漫才

「噂には聞いていたが、実に見事なものだな」

俺はエクバターナの城壁を見やりながら、独りごちた。

エクバターナの城壁は東西方向に1.6ファルサング(約8km)、南北方向に1.2ファルサング(約6km)に及び、高さは12ガズ(12m)と現代人には大したことが無いように思えるが、その厚みは最も薄いであろう上部で7ガズ(7m)もあると言う。確か日本銀行の地下金庫の扉の厚みが約90cm、扉自体の重さが15トンだったはずで、それすら途方もない質量だと思えたのに、重さはともかく、その少なくとも7倍以上に分厚い城壁でこれだけの面積を囲むなんてね。重機もない時代によくもまあやってのけたものだ。城壁に設けられた九箇所の城門は二重の鉄扉で守られており、外敵の侵入を決して許さない。現に三年前にミスル王国軍がこぞってエクバターナまで攻め上がってきて包囲したにも関わらず、小揺るぎもしなかった程だ。正面からどうにかするにはそれこそ巨人でも連れてくるしかないんじゃないかと思えるほどだ。

エクバターナの繁栄ぶりについて耳にする度、シンドゥラの国都ウライユールで生まれ育った俺なんかは、
「ふ、ふん、ウライユールだって負けてないもんね!」と負け惜しみしたものだったが、実際に目にしてみると全くもって次元が違った。

そもそもシンドゥラの国都ウライユールはカーヴェリー河とそこから網の目のように広がる運河の結節点であるものの、大陸公路には接しておらず、ただ一国の都にしか過ぎない。だが、エクバターナは大陸公路に面しているどころか、最も重要な中継点とまで言われており、東西の人・モノ・カネが入り乱れ、あふれかえる世界有数の国際都市であった。前世の日本で言うなら、首都東京とどこかの地方都市を比較するくらいに次元の違う話であっただろう。

まあ、それでも原作では地下水路からの侵入を許し、陥落してしまった訳だけれどね。城壁内には、貴族のお屋敷が集中している一角がある一方で、痩せこけた孤児や戦争で手足を失った軍人があちこちで散見される貧民街もあり、貧富の差はかなり大きいようだ。また、街中を見渡すと奴隷の数が非常に多い。奴隷の多さは豊かさの証だなんて言われ方もするようだけど、彼らには一様に、肌には鞭の跡が、手足には枷が目立つものの、どの顔にも少しも笑顔を見て取ることは出来ない。つまり、膨大な数の不満分子を潜在的に抱え込んでいる訳だ。なのに、もし貧民や奴隷が一斉に蜂起でもした日には、なんて誰も想像したことがないんだろうね。今の繁栄が実は危ういバランスの上で辛うじて成り立っているに過ぎないことを判っているんだろうかね、アンドラゴラス君は。


その、どうやらちっとも判っていないっぽいこの国の絶対的支配者、アンドラゴラス三世が今、俺の眼の前に居る。謁見の間で玉座に斜めに座り、肘掛けに肘を付き、顎を拳の上に載せているが、さっきから傲然とこちらを見下ろすばかりでこちらの話に対して相槌一つ打ちやがらない。まさか、今夜は王妃相手にどんなプレイをしようかなどと考えてるんじゃあないだろうな?くそ、いい加減これ以上一方的に話し続けるのに嫌気が差してきた。そろそろ話を畳みにかかろう。

「…という訳で、我が兄ガーデーヴィ王太子は、現在は摂政の身であるが故に仕方なく従前通りに貴国に対する敵視政策を維持しておりますが、先の三カ国同盟によるパルス侵攻に公然と反対の立場を取っていたことからも明白な通りに、心はパルスとの和平にあります。復権を図る豪族諸侯の暴走を完全には抑えられなかったばかりに、不幸な行き違いが両国の間に発生しましたが、即位の後は友好条約を結びたいと考えております。今後は手を携えて大陸公路の安寧に力を尽くしていきたい所存ですので、どうかご理解賜りたく思います」

これだけでも相当な長ゼリフだったと言うのに、アンドラゴラスは話し終えた俺に拍手するどころか、鼻で笑いやがった。

「ふん、ぬけぬけと言いおるわ。パルス侵攻が失敗したから豪族諸侯に罪をなすりつけているだけで、真実は王国首脳部が豪族諸侯を追い詰め焚き付けたのであろうにの」

へえ、根拠もなくそんな事を言っちゃうの?それだったら俺にだって言いたいことがあるんだけどね。尤も、こっちは根拠あるからね。言ったのは原作のあんた自身だし。

「おやおや、根拠のない憶測は頂けませぬな。我が国とても貴国の先々代ゴタルゼス二世の死因が何者かが弑した故だなどとは決して口にしませんのに」

「貴様、誰がやったと言いたいのだ!」

「まあ、脇道にそれた話はここまでに致しましょう。とにかく、此度は我が兄が即位後に和平を結びたく思っていること、それだけをご承知おき頂ければそれで十分でございます。では、此度のこのお話はここまで。後は兄の即位後に―」

その時、勢いよく謁見の間の扉が開けられ、何者かが入ってきた。いや、何者かはすぐに判った。

「父上、お話があります。聞いて頂けませんでしょうか?」

アンドラゴラスを父と呼ぶ者は唯一人、アルスラーン王太子のみだ。五歳で王太子となり、半年間だけ王宮で暮らしたものの、その後は乳母夫婦の下で養育されているが、居場所はうまく隠されており、諜者にすらも掴みきれなかった。故に流言を流させて釣り上げようとしたのだが、まんまと図に当たったようだな。

「呼びもせぬのに何しに来たのか。話ならまさに今このよそ者としておる途中だ。お前などの出る幕ではない。とっととひっこんでおれ」

うわあ、原作冒頭とほとんど同じ言い回しだ。いや、違うな。いつもアルスラーンが何か言うたびにこんな風に言ってたんだろう。ちょっ、それ虐待じゃね?アルスラーンはよくグレなかったもんだ。

◇◇

私、アルスラーンは失敗した、と思わずにはいられなかった。陛下は謁見の間にいらっしゃいますが今は誰も通すなとの仰せでしたと、それしか廷臣たちは言わないものだからこの場に踏み込んでしまったけど、外国の使者が相手だなんて思いもしなかった。父が怒るのも尤もだ。恥ずかしい真似をしてしまった。今回はお詫びして立ち去るしか…、え、引き止められた?この人は一体?肌の色からして、シンドゥラの方みたいだけど…。

「アルスラーン殿下、出ていく必要はございませんぞ。もう当方の用件は終ったも同然ゆえ。それにアンドラゴラス陛下、その様に頭ごなしなのは教育上よろしくありませんな。とある国には『因果応報』という言葉もございます。親子の間でまた悪しき因果が巡らぬよう、感情を廃して冷静に話を聞いてはいかがか?」

その言葉は更に父を怒らせたようだけど、父は数字を十まで数えて何とか怒りを堪えたようだ。大人でも、父上でもこういう事をしたりするのか…。

無言だけど手振りで促されたので、私は、用件を話すことにした。

私が生まれた際に私の名で建立費が寄進されて建てられたミスラ寺院で、もうすぐ王都に送る若い神官三名が選ばれる時期なのだという。だが、もうここ何年も貴族出身の者ばかりが選ばれている。もしも不正がそこにある為なのだとしたら、王太子殿下の名を辱めるようなものだと都中で噂になっている。そのような事が無いように、今回は私も寺院に出向き、選定を見届けたいと。

父は今回も反対のようだったけれど、そこに居合わせたそのシンドゥラの方(後でラジェンドラ王子だと知った)が言葉巧みに言いくるめてくれた。しかも、護衛として去年の戦でトゥラーンの王弟を討ち取った勇者ダリューン、お目付け役として三カ国同盟を内部崩壊に導く計略を立てた智者ナルサスをつけ、シンドゥラ使節団も同行してくれる事になった。何でそこまでしれくれるのか判らないけれど、感謝しても感謝しきれない思いでいっぱいだ。

◇◇

こうして俺たち一行は、パルスの面々を加え、フゼスターンのミスラ寺院を訪れたのだった。

が、そこで俺が見たのは原作とはかけ離れた姿のファランギースだった。

え?何これ、マジ?マジでこれ、ファランギース本人なの? 

 

第九話 女神官乙

ファランギースの美貌は原作では、「銀色の月のような」と表現される事が多い。絶世の美女を言い換えたものではあるのだろうが、意地悪く言うなら、
孤高の美、人間離れした作り物めいた美しさ、太陽程には鮮烈でもない、とも言い換えられるかもしれない。

だが、今俺の目の前で、神殿中庭の陽当たりの良いテラスに佇む十八歳のファランギースはまるで別物だった。その若々しく溌剌とした姿は真夏の太陽を思わせる程に眩しく、こぼれる笑みは花のように愛らしく、俺たちの手放しの賛辞に照れる様は初々しく、恋人の姿を見付け瞳をキラキラさせ頬を染めてパタパタと駆け寄る様は微笑ましく、……それがどうしてああなっちまうんですかね?

駆け寄るファランギースに愛おしげに微笑む背の高い優男がイグリーラスだ。自由民出身らしき幾人もの取り巻きと一緒だ。彼は見るからに爽やかな好青年で、自信と才気に満ちあふれていると言った風情だ。彼自身からは悲劇の予兆の片鱗すら感じられない。

もう一人、細身の大型犬を思わせる長身だか痩せぎすなシャープな顔つきの男が、飼い主を見つけた犬のように嬉しげにすり寄って行くのが見えた。あれがイグリーラスの弟、グルガーンか。蛇王ザッハークを礼讃するような議論を頻りに兄にふっかけてはバッサリと論破されるのを喜ぶと言う歪んだ性癖の持ち主だ。

あ、また恒例のそれを始めて、呆れ顔の兄に諄々と諭されてる。まあ、一種のかまってちゃんで、兄の弁舌の鮮やかさを周りにアピールしてるつもりみたいだな。しかし、周りに自分たちがどう見えてるかまるで気付いてないっぽいよなあ。

ほらほら、取り巻きの冷たい視線はグルガーンだけでなく、イグリーラスにまで向いてんぞ?端っこに固まってる貴族出身者らしき微妙に身なりが良さげな数人のグループもイグリーラスたちを見ながら何やらヒソヒソ言い合ってるし。それに遠巻きに見ている神殿のお偉方たちも感心しないって顔で見てるんだが。本来は聡いはずのファランギースも恋は盲目なのか周りが見えてないっぽいしな。

原作でのイグリーラスの一件を、たった一度の不運にいじけてしまった彼の心の弱さだけのせいにする訳にはいかないと俺は思う。まず背景として、カイ・ホスロー王朝が長年放置してきた身分差別が王都のみならず、果ては地方の神殿にまで及んでいたこともあったし、息子の名前で寄進した神殿までもが腐敗することは王朝の権威を弱めるものでもあろうにそれに気付かずじまいであったアンドラゴラスの暗愚さもあった。

しかし、身分差別が無くとも、何やら不穏当な発言ばかりしているグルガーンの存在もかなりマイナスに響いたのではないだろうか。敬虔な信徒ばかりの居る神殿では蛇王の名前など口にするだけで神罰が下ると言われる程であったろうに、それどころか聖賢王ジャムシードや神々を冒涜し、蛇王を礼賛しているようですらあった。何故、イグリーラスは弟を黙らせることをしないのか。管理不行き届きだし、目下への指導力が欠けているのではないか。或いは、どんだけ議論をふっかけられても論破出来る俺スゲーと自分に酔っているのではないか。いや、むしろ自分の有能さをアピールするために弟にわざとやらせているのではないか。いやいや、実はイグリーラス自身も何処かで聖賢王や神々を軽んじているのであろう。などと悪意ある者なら幾らでも悪く考える事は出来ただろう。

イグリーラスの一件に責任を感じ、神殿を辞したいと訴えたファランギースを優しく諭した女神官長は立派な人であったろうし、それと同格であった神官長も決してそれに劣らない人ではあっただろう。身分差別にも否定的で公正な人柄であったかもしれない。だが、周囲からそこまで悪し様に言われているイグリーラスを、周囲の反対を押し切ってまで推す事は出来なかったのだろう。

それにファランギースがこのまま女神官を続けるのか、それともイグリーラスの嫁になるのか、どっちつかずでいた事も結果的には災いした。モテる上に女神官としても優秀な彼女を自分が独占するには立身出世するしか無いとイグリーラスは思っていたことだろう。が、立身出世の望みが絶たれたとき、ファランギースは彼にとって永遠に手に入らない存在になってしまった。それがますます彼を絶望させた事であろう。

だが、もし足を引っ張るグルガーンを穏便に排除し、なおかつ平和利用できたら。そして、ファランギースが豆腐メンタルなイグリーラスと添い遂げる覚悟を固めて、彼を精神的にガッチリ支えていれば。そう、俺はそのたらればを現実のものにするためにここに来たのだ。

神殿にある面談室に、俺たちはファランギースを呼び出した。時間通りにやってきたファランギースは不審そうな表情だった。そりゃあそうだ。アルスラーン王太子殿下に呼び出されたはずなのに、お目付役のナルサスはともかくとして、明らかに異国人と判る俺までがここに待ち受けていたんだからな。それでも、アルスラーンが「こちらはシンドゥラの王族の方で、私に王族としての心掛けなどを教えてくれている、まるで本当の兄のように思えるお方だ」と紹介してくれた事で、ようやく納得したようだった。尤も、ナルサスは終始渋い顔だが。こんな男は兄に相応しくないとでも思っているのだろう。知った事ではないけどな。さて、まずはファランギースとOHANASHIを始めようか。それが終わったら、次はグルガーンだ。

◇◇
その翌日、私、ファランギースは、昨日王太子殿下たちからお話を伺った面談室でイグリーラスとグルガーンと話す事にした。何故こんなところでと不審がる二人じゃったが、内密かつ緊急の件だと押し通した。

「既に女神官長にはお話しご了承は頂いておるが、私は還俗する事にした。女神官のままではイグリーラス、お主の妻にはなれぬからのう」

「おお、ようやく決心してくれたか!有り難い!実に嬉しいよ、ファランギース!」

驚きながらも彼は喜んでくれた。しかし、グルガーンは複雑そうな顔をしている。

「おや、喜んではくれぬのか、グルガーン?」

少し冗談めかして私が尋ねると、グルガーンは困ったような顔を私に向けた。

「勿論うれしいさ。だが良いのか、ファランギース。貴女なら優秀な女神官になれたはずだ。それだけの才能はあると女神官長を始め、上の方たちからも期待されていただろうに…」

「ふふ、良いのじゃグルガーン。確かに迷ってはいたがの。一人の男を愛し支えて共に生き、子を産み育て、命の系統樹を大きく長く作って行くこと。それは神の御心にも適う道。決して一身の幸せの為に神に背を向けるものだと考えてはならぬと、とある方に諭されての。女神官長もそのとおりだと仰っていた。信仰に一生を捧げるのはそれしか出来ぬ者が進む道。他の道も選べる者に入って来られては迷惑じゃともな」

「はは、少し笑えるな。だが、その通りか。義姉上、と今後は呼ばせてもらうが、貴女のような方が兄の伴侶となってくれる事に心からの感謝を。貴女が兄のそばに居てくれるなら安心だ」

…そして、それが私が聞いたグルガーンの最後の言葉じゃった。その後、彼とは終生会うことは無かった。

◇◇

グルガーンは書き置きを残し姿を消した。そこには、「自分は兄の永年の説得により、ようやく目が覚めた思いだ。ザッハークこそ諸悪の根源。それを討つため自分は旅に出ることにした」と言うような事が書かれていた。…半分本当で、半分嘘だけどな。

グルガーンにはお前の蛇王礼賛トークが兄の立場を悪化させてると正直に告げた。良かれと思ってしたことでも、逆効果になることなんて世の中には幾らでもある。中でもこれは最悪な部類だとも。さすがに落ち込んでいたが、このまま姿を消して、人知れず命を絶ちたいとまで言い出したからさすがに止めて、もっと有益な命の使い道を教えてやった。
「蛇王を崇拝する魔道士の一味がいる。そいつらの中に潜入して俺やアルスラーン王子に情報を流してくれ。成功したらお前の事を後世まで語り継いでやる」と。

連絡の付け方など細々した事を詰めた後、グルガーンは勇躍デマヴァント山へ向かった。そこできっとあの暗灰色の衣の尊師に会うことになるんだろう。無事に潜入できるかなんて心配はしていない。あいつの蛇王礼賛トークは年季入ってるからな。奴らでもコロッと騙されること請け合いだ。

その後、ファランギースの還俗と、イグリーラスとの婚約が発表され、それを受けてか、更に選定に時間がかけられ、滞在から七日目でようやく選定が終わった。選ばれたのは、イグリーラスとその他貴族二人だ。名前は聞いたはずだが忘れた。どうでもいいしな。

後から聞いた話だと、やはり神官長は元々イグリーラスを推していたらしい。貴族寄りの大神官数名がいろいろ理由をつけて反対していたらしいが、悪影響が懸念されていたグルガーンが離れたこと、ファランギースとの結婚でイグリーラスが精神的に落ち着くとだろうと思われること、アルスラーンからも身分にとらわれずに世のために役立つ人材をとの申し入れがあったこと、申し入れを無下にすると、ダリューンから物理的に、ナルサスから政治的に抹殺されるのでは無いかとの危機感を感じたこと、などから満場一致でその様に決まったのだという。

還俗し、結婚することで、多分ファランギースは今後十六翼将として活躍することはなくなるのだろう。そもそもファランギースはイグリーラスの一件の後で、神官として大きく成長したらしいから、それがないこの世界のファランギースには原作ほどの力量は無いはずだし、何らかの紆余曲折を経て参戦することとなっても、原作ほどに活躍できるとは限らないしな。と言うか、俺としてはこのままピュアなファランギースでいてほしい気がする。原作みたいな晩年は決して過ごしてほしくない。

さて、俺たちはシンドゥラに帰るか。今後は特に俺たちには事件が起こることもあるまい。兄が王太子に既になっていることなど幾つかの差異はあるものの、多分このまま原作にたどり着くことが出来る気がする。

…気がしただけだった。とある女性の来訪を機に、俺は兄に神前決闘を挑むことになるのだ。
 

 

第十話 再見波斯

結果的に、ファランギースは女神官を結婚退職する事になり、グルガーンはザッハーク一党にスパイとして潜入することになった。アンドラゴラス王との陰険漫才も終了したし、このままシンドゥラに帰っても構わないんだが、ダリューンやナルサスも一緒にいるんだし、ここは一つ彼らとも話をしてみるか。あの愚王との以上の嫌味の応酬になるかもしれないが。

◇◇
シンドゥラ国のラジェンドラ王子が俺、ナルサスとダリューンに少し話さないかと誘ってきた。丁度いい、こちらにもこの御仁には問いただしたいことが幾つもある。油断のならぬ曲者ゆえ正直に答えるかは判らぬが、手掛かりぐらいは掴ませてもらおう。

「まあ、まずはそうだな。お主らの俺への態度について物申させてもらおうか。他国のとは言え、仮にも俺は一国の王子なのだ。もう少し敬意を払ってもらってもバチは当たらんと思うのだがなあ。それにお主らは内なる思いがダダ漏れすぎる。いくら財宝の番をする毒蛇でもそんな態度をされてはへそを曲げかねんぞ?」

!確かに俺は「あの王子は殿下に対し、馴れ馴れし過ぎるし、信頼も信用も出来ない」と吐き捨てるダリューンに対し、「態度はどうあれあの御仁はアルスラーン殿下に対し、有益な事も話している。毒蛇でも財宝の番として役立ってくれることもあるさ」と諭したことがあったが、それを聞かれていたのか?いや、聞いていたのは諜者かもしれんが、この男には筒抜けだと言うことか。ただでさえ油断ならぬ曲者だと言うのに、その上鋭い耳目まで持ち合わせているというのか。背中を嫌な汗が流れた。

「ああ、それは申し訳ありませんでした。今後は気をつけるとしましょう。ところで、此度の神殿訪問に何故私とナルサスを指名されたので?神殿に圧力を掛けるだけであれば、別の者でも構わなかったはずですが?」

うむ、よく聞いてくれたぞ、ダリューン。俺もそれが気になっていた。この男、何を企んでいるのか?

「ああ、それはお主らが先の三カ国同盟との大戦で最も手柄を立て、最もアンドラゴラス王から疎まれていて、ろくな仕事も与えられずに暇を持て余していそうだからさ」

「…何故私たちが疎まれているなどと?」

「何、アンドラゴラスのアルスラーンへの態度を見ているだけでも判る。奴は他者に対しひどく嫉妬深い。自分が出来ないことが出来るもの、自分を差し置いて功績を上げたもの、全てが嫉妬の対象だ。そして、それを押し殺してうまく使うということも出来ん。あそこまで来ると病気だな。まあ、パルス人は総じて腹芸が下手だが。民族的に何かあるのかな、ダリューン殿?」

「さあ。ですが、腹芸ばかりうまい民族などろくなものではありますまい。常に裏切りを恐れねばならぬような国に私は仕えたくはありませんな」

「で、あろうな。しかも我が兄など俺の更に上をいく名人だ。シンドゥラはご両人にはさぞ暮らしにくかろうよ。わはははは」

これよりろくでもない腹芸使いがシンドゥラには居るのか?俺たちは思わずゲンナリした。

「しかし、陛下が王太子殿下に何を嫉妬すると?殿下はまだ十歳でいらっしゃるのに」

「ふふ、実はな、カイ・ホスロー王朝は代々の国王が即位直後にデマヴァント山へ赴き、宝剣ルクナバードに即位を追認してもらう儀式を行っていた。パルスの宰相や大将軍の他、周辺諸国の王も名代を出すなどして、それに立ち会っていたのだ。が、先々代ゴダルゼス二世の時を最後に他国の者は呼ばれなくなった。かの王は多くの者の前でルクナバードの追認を受け損なうと言う失態を晒したからな。そして、そこから三代続けてパルスの王はルクナバードに認められずにきた」

「…ば、馬鹿な、そんな事が…」

他国の者は呼ばれなくなっても成り行きを注視し、極秘裏に情報を掴んでいたということか。特にバダフシャーン公国滅亡後、パルスと国境を接することになったシンドゥラは他国よりはるかに必死に情報を集めようとしたことだろう。

「そして、アルスラーン殿は五歳にして王太子として冊立されたが、それはその歳にしてルクナバードに未来の王にふさわしいと認められたからだ。アルスラーン殿はパルス王家にとって、失ってはならない存在となった。だが、アンドラゴラス王にとっては面白くはあるまい。自分は認められなかったのに、何故あやつが認められるのだと。かくして、王はなるべく王子を視界に入れまいとするようになった」

だから、殿下を王宮の外で乳母夫婦に育てさせることとしたというのか。

「まあ、アンドラゴラス王の態度には他にも理由はあるが、まだお主らが知るべきでは無いことだ。だが、ここまで知ってしまえばアンドラゴラス王に心からの忠誠は誓えまい。そして腹芸の下手なお主らのこと、言動の端々にそれが現れ、更に疎まれる事になろうな。ふふ、離間策、ここに完成、と言ったところだな」

「なっ!?」

馬鹿な、俺たちは嵌められたと言うのか!

俺たちの表情を見て、くつくつとラジェンドラ王子は嗤った。俺はその背中に悪魔の尻尾を幻視したような気がした。

「だが、あれだな。これでお前たちが不幸のズンドコに落ちたりしたら目覚めが悪いな。よし、俺が得意のシンドゥラ占星術で、お前たちの人生の指針を占ってやろう。まずはダリューン、お主はヒルメス殿下と同年の293年、○月×日生まれだったな」

「…ああ、その通りだが」

何故そこでヒルメス殿下を引き合いに出す…

「お主はここ数年は誰かに害される事はあるまい。お主は人界における最強の勇者だしな。だが、人外の者に対してはいささか分が悪い。そのような者と対峙した場合は他人の手を借りるか任せるかした方がいいだろう。なお、お主の運命の女性は遥か遠方の国にいる。一度手を離してしまえば再会の目はまず無いので、決して離さぬように。いいかね、ダリューン殿」

「…理解はした」

「次にナルサス殿、お主はダリューンの一歳年下で294年、△月▽日生まれだったな」

「…ああ」

よく知っているものだ。これも諜者に調べさせたのか…。

「お主は少し危ういな。横死の相がある。身の危険を感じたらすぐに逃げてしまうのが吉だ。なお、お主は年の離れた女性と縁がある。成長を待ってやるのはともかく、下手な先延ばしは悪手だ。横死の相がある事をくれぐれも忘れぬようにな」

「…判った」

…成長を待ってやるって、年下ってことなのか?俺はむしろ…、いやまあいい。それより、横死の相か。悔いの無いよう一瞬一瞬を生きねばな。一刻も早く俗事から離れて、絵を描くことに専念しよう。そんな事を考えていると、ダリューンが何やら身震いした。

「ナルサス、何かはた迷惑なことを考えていないか?」

何を言っているのだ、失礼な奴め。

◇◇

占いと称して二人に若干のネタばらしをした後は、特に話すような事もなくなったので、お開きにした。そして、翌朝早く俺たちはシンドゥラへの帰途に就いた。

あばよ、パルス。また会う日まで。

 

 

第十一話 美女駆込

俺たちがパルスへの使節を務めてから三年以上が経過した。

使節から帰ってきた俺は、早々に王宮から出てまた母の屋敷に住む事にした。王宮にいては、兄夫婦がハートマークを乱舞させてる様を目の当たりにせざるを得ない。しかも、ちょくちょく些細なケンカをしては仲裁役を俺に頼んだりしてくるのだ。ええい、付き合っていられるか!俺は実家に帰らせてもらう!そう決意するまでに半月も掛からなかったわ。

エクバターナまでの護衛のはずだったギーヴは、何故かそれ以降も俺たちについてきて、シンドゥラに居着いてしまった。シンドゥラの風土は彼には合わないだろうから、いずれはいなくなるんじゃないかと思っていたが、全くその兆しもない。考えてみれば、現代日本での前世を思い出してしまった俺は食事も香辛料控えめにしているし、羊肉もほとんど食べなくなった。虫が嫌いな俺は前世の記憶を頼りに蚊帳を作らせ常用しそれを周囲にも配りまくったし、何種類かの野草を使った天然の虫除けも使っている。となると、食べ物にも問題なく、虫に悩まされることも無いなら、彼にとってシンドゥラは住みにくい場所でも無いのかもしれない。ときにはふらっと出掛けたり、戻ってきてはカルナや三人娘にちょっかいかけては邪険にされたりと、なかなか楽しくやっているようだ。

パルス暦318年(シンドゥラ暦では319年)、トゥラーンと言う国家が地図上から姿を消した。先の戦での三カ国同盟はナルサスの策略により疑心暗鬼に陥り、チュルク軍がシンドゥラ軍を襲い、トゥラーン軍はチュルク軍を襲撃したのだったが、その際、トゥラーン軍の一部は誤ってシンドゥラにも攻撃を加えてしまったらしく、軍勢が去った後シンドゥラ陣内に残された死体の中には吹き矢により命を奪われたと思しき死体が多数あった(実は諜者がそう見えるように工作しただけだったが)。吹き矢と言えば、トゥラーン軍のジムサ将軍の得意武器であり、シンドゥラ軍の諸将はこの襲撃をトゥラーン軍によるものと断定し、憤激。トゥラーン軍がダリューンに王弟を討たれて混乱し為す術もなく交代する中、更にシンドゥラ軍までがトゥラーン軍に猛然と襲いかかり、乱戦の中で幾人もの将が矢に倒れた。タルハーン、ディザブロス、イルテリシュ、ボイラ、バシュミル、カルルックと有力な将のほとんどが失われたのだ。まあ、実際にはそいつら全部ラクシュが殺ったんだけどな。時のトゥラーン国王は余りの人的被害の大きさに顔色を失い、首都サマンガーンに戻った後は酒に逃げるようになったという。

有力な将をほとんど失い、トゥラーンの戦力は著しく低下したが、そんな中でも、いや、そんな状況だからこそか、野心を抑えきれない者がいた。原作の第五巻『征馬孤影』ではトゥラーン国王として登場するトクトミシュだ。彼は力づくで王位を我が手に掴もうと暴れまわって、ただでさえ敗戦で揺らいだ祖国の屋台骨を更に脆く壊れやすいものとしてしまい、隙を伺っていたアンドラゴラス王率いるパルス軍に一気に滅ぼされる結果を招いたのだ。阿呆だな。

トゥラーンは自治区としてパルスに併合され、幾人かの古老による合議制での自治を認められるようにはなったが、壮丁のほとんどを失い、反抗する力のカケラすらも残らなかった。アルスラーンがペシャワールから進軍する隙にパルスに侵攻するどころか、原作が終わって更に数十年が経過する辺りまでトゥラーンの復興は望めないだろう。まあ、いい気味だな。略奪で成り立つ国家なんて、周辺諸国にとっては迷惑以外の何物でもないものな。

ラクシュにはあえてジムサを殺させないようにしていたが、パルスがトゥラーンに侵攻した際、クバードに生け捕りにされ、戦後はエクバターナで地下牢に入れられているらしい。一応まだ生きてはいるようだが、これじゃあ翼将になれるのかどうかも怪しいな。ジムサ以外はトクトミシュもブルハーンも死んだ。そして、イルテリシュを含め、トゥラーンの諸将の死体は諜者秘伝の溶解液で溶かされ、最早骨すら残っていない。これでザッハーク一党に悪用される事もあるまいさ。

シンドゥラ国内はほとんど平和と言っていい状況が続いている。親爺であるカリカーラ王はどうも原作よりも心身の衰えが目立つようだ。酒も女も原作ほどにはやらなかったと言うのになあ。原作では酒と女で身体を壊しつつも、息子たちの不甲斐なさから気を張っていたんだろうが、この世界での俺たちは原作より遥かにしっかりしていて、気を張る必要を感じなかったんだろうか。医者の見立てでは、まずシンドゥラ暦322年を迎えることは出来ないだろうと言う話だ。つまり、原作より死期が早まる可能性が高いと言うことだ。

兄の摂政としての能力には特に不足もなく、兄嫁サリーマとの夫婦仲も良好なようで、昨年嫡男が誕生し無事に成長している。王としても、この国の歴代の王の大半よりもまともな部類に入るくらいの力量はあるだろう。だったら、俺が王になる必要があるだろうか。

実のところ、今年に入る頃辺りから、俺は王になるという野心を捨てている。正式に兄に恭順を誓った訳でもないが、おそらく兄の方でも察してくれているだろう。このまま行けば、親爺はアトロパテネの戦い前後に崩御し、兄は無事即位、俺は兄の名代としてパルスの押しかけ援軍を率いる、ということになるだろう。

あの出来事が起こるまではそう信じて疑いもしていなかった。

とある新月の夜の深い闇の中を、俺の住む屋敷に突然駆け込んで来た者があった。薄絹のローブを纏った優美なシルエットが灯火の下で小刻みに震えている。ラクシュミー女神の生まれ変わりとさえ呼ばれる美貌は青ざめていてもなお、いや、尚更のこと美しい。それは我が兄嫁、サリーマだった。

「助けて、ラジェンドラ王子!私はあの人が恐ろしいの!もうあの人の側には居られない、ううん、居たくないの!」

涙ながらにしがみつかれたものの、俺にとっては寝耳に水。まさにポカーンと言う感じだった。は?誰が何だって?兄上か?兄上のことかー?いやいや、そんなバカな。あれからあんなにまともになったやん?んな訳があるはずが…って思いはどうやらダダ漏れだったらしい。俺は兄嫁にキッと睨まれた。

「あの人は、ガーデーヴィ王子は、変わってなんかいないわ!傲慢で独善的な考え方は昔のままよ。ただそれをうまく隠すことが出来るようになっただけ。その証拠に、これを見て!」

ローブを取り去った下にあったのは、おお!何と素晴らしいプロポーション!ではなくて、サリーに隠れていない部分だけでも夥しい数の青あざや生傷!馬鹿な、まさかこれを?

「そうよ、あの人よ!あの人はね、夜な夜な私に暴力を振るいながら恐ろしい事ばかり話すの!『即位したら、まずあの愚弟を生きながら賽の目に切り刻んで殺し、犬の餌にしてやろう。それから愚弟の指図にしか従わぬ諜者の女どもは手足の腱を切った上で奴隷どもに投げ与えて存分に嬲らせた後、最下級の売春窟に沈めてやる。そして、愚弟の支持者どもは―』」

「おい!」

俺は思わずサリーマの言葉を遮っていた。ふざけるな、ふざけるなよ、あいつ!

「あいつらに、諜者たちに何の咎がある。あいつらは俺のために働く事がこの国のためにもなると信じてくれていただけだ。確かに俺は卑しい生まれでムカつく事ばかりしてたかもしれんが、何故あいつらを巻き込む必要がある?…ちょっと待て、今あいつらどこだ?」

最近、兄上が自分にも諜者を使わせて欲しいと言い出して、何人かは王宮に詰めるようになってはいたが…。

「カルナ殿や女の子たちは私を逃がそうと身を挺して…。何とか脱出するつもりとは言っていたけど…」

おい、ふざけるなよ、兄貴!俺はあんたと仲良くやれてると思ってたんだ。この先もずっとこのままうまくやれると思ってた。なのに、あんたは裏切ったな?俺の気持ちを裏切ったんだ!

深呼吸を二度三度と繰り返し、何とかサリーマのために優しい声色を作った。

「サリーマ殿はこの屋敷に居てくれ。俺はこれから王宮に向かう!」

「ラジェンドラ王子?一体何を?」

知れたことだろ?あいつに、兄貴に神前決闘を申込み、あいつを王太子の座から引きずり下ろす! 

 

第十二話 兄弟相剋

「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなよ、兄貴!」

先程から似たような言葉ばかりが口をつくが、ブチ切れているときなどそんなものだろう。

俺は王宮の中を兄の姿を求めて探し回った。執務室、謁見の間、資料室、宝物庫、武器庫、それから…、くそ、いない。何処に居るんだ?あと、心当たりと言えば…親爺の病室!


親爺の病室には、寝台に体を起こした親爺と、傍らの椅子に座り、何やら親爺と話していた様子の兄貴がいた。

「おおラジェンドラよ、よく来―」

「そこにいたかよ、クソ兄貴!」

何だかひどくお花畑な様子で俺に話しかけてきた親爺の言葉を遮り、俺は兄貴に食って掛かった。

「おい、兄貴!ラクシュやカルナは、諜者たちは何処に居る!」

一瞬の間、そして怪訝そうな表情。何でいきなりそんな事を聞かれるのか理解できない。そんな表情にも見えるが、しらばっくれているようでもある。

「何だお前は藪から棒に。お前、勘違いしていないか?諜者たちはこのシンドゥラと言う国に仕えるものであって、お前の私兵ではないのだぞ?それをお前は―」

「そんな事を聞いてるんじゃねえよ!あいつらは何処だって言ってんだよ!訊いたことにちゃんと答えろよ!」

「…諜者たちなら今は出払っている。彼らには重要な仕事を頼んでいてな。少々込み入った事情もあるので、片付くには時間が必要になりそうなんだ」

「嘘を言うなよ。あんた、あいつらを捕まえてるんだろ?いいからあいつらを出せよ!出せっつってんだろ!」

「お前こそ何をバカなことを言ってるんだ。別に捕まえてなどいない。何を根拠にそんな事を―」

「サリーマが俺のところに逃げ込んできたんだ。あんたに暴力振るわれてるって、逃げようとして捕まりそうなところを諜者が庇ったって、そう言って泣いてたんだよ!」

ポカンとした顔を兄貴はした。こいつ何いってんだ?と言う副音声が画面下に字幕で表示されそうな感じだった。そして、わざとらしい程深い溜め息をつき、首を振った。

「お前、それを信じたのか?それは確かにまたサリーマとはケンカはしたがな。しかし、今回はお前にまで泣きついたのか?…あいつには弟まで巻き込むのはよしてやれと何度も言ったんだが…。本当にやりすぎだな、今回ばかりは」

「とぼけんなよ、サリーマには体中あちこちを怪我してた。古傷だってあった。昨日今日に出来た傷じゃあ無いはずだ。あんたがやったんじゃなかったら、誰がやったっていうんだよ!」

「…怪我だと?馬鹿なことを言うな。確かにケンカは度々するが、私はあいつに手を上げたことなど一度もないわ。…多分、あれだな、手のこんだイタズラだ。お前、あいつに担がれているんだ。そうに違いないぞ?」

イタズラ?担がれてる?彼女のあの怪我は偽装だと?そしてあれは嘘泣き?空涙?いや、そうは見えなかった。断じてそうは見えなかった!

「彼女はあんなに泣いて、震えてたんだぞ?それをあんたは嘘だと、イタズラだっていうのか?」

「お前だって王宮にいた頃は何度も巻き込まれて担がれただろう。今回だってそれだ。犬も食わない夫婦喧嘩だ。落ち着いたら帰ると言い出すだろうから、そっとしといてやってくれないか。そしてお前はもう帰れ、いい加減相手にしてられんぞ?」

そうなのか?俺は担がれてるのか?でも、証拠は…、そうだ証拠、いや証人は居る!はずだ!

「だったら、諜者を連れてこいよ。カルナでもラクシュでもあの三人でもいい。話をきかせろよ、そうしたら信じてやるよ」

「…お前は人の話を聞いてたのか?みんな出払ってると言っただろう?パルスで戦争が始まりそうなんだ。情勢の確認のため、みんなパルスのあちこちに散っているし、呼び戻せる状況にもない。それくらいは理解できるだろう?」

「一人ぐらいは呼び戻せるだろ?」

「だから無理だと言っている!それじゃあ何か、お前は一人の女のために、国が一度命じた任務を撤回して帰還させろと言うのか。お前の恣意のために?お前、自分が王族だって自覚あるのか?」

「あんたこそ何だよ!てめえの女一人幸せに出来ない最低ヤローが王になろうだって?はん、ちゃんちゃらおかしいってんだよ!」

「…その言い回しはよく判らんが、馬鹿にしているのはだけはよく判った。貴様、覚悟は出来てるんだろうな!」

「はん、何だよ?たかが口喧嘩で人を罪に問えるとでも?いや、違うな、罪があるのはあんたの方だ。あんたなんぞ、王になんて相応しくない。神前決闘で、神々の前でそれを証明してやる!」

「ほう?弟よ、吐いた唾は飲めないと判っていような?」

「飲むつもりなんざねえよ!もう一度言ってやる!俺はあんたに神前決闘を申し込む!あんたが王にふさわしくないことを神々の前で、公衆の面前で証明してやるさ!」

◇◇

儂、カリカーラ王は寝台から身を起こし、傍らに佇むガーデーヴィと政に関しての話をしていた。もうそれほど長くは無いであろう儂じゃが、今日は実に体調が良い。この機会を逃さぬようにとガーデーヴィめを呼び出し、経済、外交、治水、開発、様々な施策につき、現状と見通しを聞き取っているが、どれについても打てば響くように即座に答えが返ってくる。そしてその内容は実に申し分なく、此奴の統治者としての資質には舌を巻く思いじゃ。此奴はきっと儂なんぞよりも、よほど優れた君主となるじゃろうなあ。

ただ唯一食い足りぬ部分は、パルスに対しての外交方針が、避戦一辺倒だと言うことかのう。『王室など旗印として仰ぐ存在がある限り、パルスの武勇の根が失われることはまずありませぬ。徒に対立して兵力を損耗することは避けるべきでございます』という事じゃが、戦象部隊をうまく使えば、我らにも十分勝機はあるはず。そこまで恐れる必要もないと思うのじゃがな。まあ、そう思いつつ幾度もパルスに戦いを挑んでは、再三に渡って巧みに戦象部隊を封じられて痛い目に遭わされた儂が言えた義理ではないか。

あれはもう二十年以上前のことになるのかのう。側室が懐妊したという知らせを受けた直後に、表向きは女奴隷として儂の側近く仕えていた諜者の娘も儂の子を孕んでいると知らされたときには、「やべえ、やっちまった!」と思ったものじゃった。これでは二人の子供が相次いで誕生することになる。王位継承争いの元となりかねないと懸念したものじゃった。しかし、この生まれ月がたった一月しか違わぬ兄弟は少年時代までは大層仲が悪かったものの、成長するにつれて実に兄弟仲が良くなり、近頃では確固とした協力体制も築いていると聞く。儂の懸念はどうやら杞憂だったようじゃ。これなら安心して死出の旅に旅立てるのう。

む、ラジェンドラめがやってきおったな。丁度いい、また此奴に異世界の話を聞かせてもらおうかのう。辛気臭い坊主共に死後の世界とか来世について説かれても楽しくも何ともないが、此奴が話してくれる、剣と魔法とケモノ耳とハーレム(ここ大事!)に満ちた幻想世界や、科学技術とやらが発達し実に便利で快適だという未来文明社会、どちらも実に刺激的で興味深い。儂ももうすぐその様な、今のこことは全く違った世界に生まれ変われるのだとするならば、死というのもそう悪くはないとすら思える。いや、むしろオラ、ワクワクすっぞ~!…いかんいかん、またラジェンドラに教わった妙な言葉がダダ漏れになってしもうた。この間もガーデーヴィと話している時に思わず口走ってしまい、ゴミを見るような目で見られたばかりじゃった。自重じゃ、自重しないとのう。

うん、何じゃ?ラジェンドラのやつ、ものすごい剣幕でガーデーヴィに詰め寄りよって。ガーデーヴィは割と冷静に受け流しているが…、いかんな、その様子が尚更ラジェンドラを苛立たせているようじゃ。余計に語気が荒く…、ああ、馬鹿なお主何てことを口走るのじゃ、これではどちらも引くに引けなくなるではないか…。

おいおい、仲の良い兄弟ではなかったのか?弟はよく兄を立て、兄はそんな弟の事を尊重する。そういう安心してみていられる理想の兄弟だと思っていたのに、それはただの幻想だったと言うのか?嘘じゃろ、誰か嘘じゃと言ってくれ!

うう…いかん、動悸と息切れ、そしてめまいが!

儂は思わず胸を抑え寝具に突っ伏したが、言い争う二人にはどうやらそれも目に入らぬようじゃ…。

おいやめろ、やめてください、死んでしまいます…

儂はこの後ムチャクチャ失神した…

◇◇
 
 

 
後書き
妙な言葉を覚えてしまった人がここにも。他にもいるかも知れませんね…。 

 

第十三話 神前決闘

あの後、ふと横を見ると親爺が寝具に突っ伏して失神してたので泡を食って介抱した。そしたら

兄弟で戦うなんてやめてくれ。もっと話し合え。どうしても戦うと言うなら代理人を立てるのじゃ、などと親爺が泣きついてきた。

既に話は決裂していて、相手の性根を叩き直すためにも自分の手で痛い眼をみせるしか無いこと、それに兄弟の争いに他人を巻き込むとか筋違いでしょうと諄々と諭すが全然納得してくれない。

結局、殺し合いではなく、戦意喪失か、武器を失うなどして戦闘不可能となったら決着とし、敗者は死刑などにはせず、国外退去処分とすることなどが決まりかけたが、ここで兄貴が待ったをかけた。暗器の使用を認めてほしいと言い出したのだ。

「俺の得意の獲物は槍だからな。それを奪われて即終了などという事態は避けたい。が、これ見よがしな武器を携えたり、他にはこれこれの武器を使うなどと明言したり、もしたくない。簡単に手の内をさらすのはバカのする事だ」

ちっ、もしかすると、こっちこそ手の内がバレてんのかもな。俺は以前からバハードゥル相手に剣を交え、どんな相手にも十合は持ちこたえられるよう、修練を積んできた。それだけ持ちこたえていられれば、味方の助けが間に合うだろうからな。そして、それと合わせて武器破壊技の習得にも取り組んで来た。敵の本陣に斬り込んでおいて武器を失えば、無手の人間に待っているのはなます斬りにされる末路だけだ。見逃してやるから立ち去れと告げる事も降伏させる事も出来るだろう。しかし、それがジャスワント辺りから漏れたかもな。

暗器、隠し武器というと、ナイフとかか?まあ、そんな程度しか隠し持てはしないだろう。おれは剣を使うつもりだし、間合いの点でも負ける恐れはないか。

「いいぜ、使いたきゃ使えばいい」

だが、挑発して使わない気にさせてもいいな。

「しかし、王になろうって人間が暗器ねえ。上に立つものはキレイである必要はなくとも、キレイにみせる必要はあると思うんだがなあ。まして今回は公衆の面前でもあるんだ。俺なら恥ずかしくて使う気にはなれんがなあ!」

「見解の違いだな。王は負けてはならんのだよ、どんな手を使ってもな。その覚悟を示すためにも、私は使わせてもらうぞ!」

ちっ、挑発には乗らないか。

「ああ、勝手にするがいいさ。民に失望されても知らんがな」

それでも一応チクリと刺しておく。これでいざ使おうって時に手が止まれば儲けものだしな。

◇◇

私、ガーデーヴィの槍は柄の半分ほどを残して、ラジェンドラの剣により斬り落とされた。地に落ちた穂先はすぐにラジェンドラに蹴り飛ばされ、闘技場の壁際まで転がってしまった。もはや、拾いに行くことは出来ないだろう。私の手に残ったのは、1ガズ(1m)にも満たないほどの長さ。くっ、短すぎる、これでは棒術の棒として使うことも出来ぬな。私は手元に残った柄を背後へと放り投げた。

神前決闘が始まって最初の内は私が押していたのだ。ラジェンドラの武器は剣だが、私は得意の槍。間合いではこちらの方が勝るからな。だが、何度めかの突きをあいつは紙一重で躱し、脇に私の槍の柄を挟んで固定し、気合一閃斬り落としたという訳だ。

距離を取り、半身に構えた私をラジェンドラが油断なく見据える。手首、足首、懐と、目線が私の体の各所に向けられるのが判る。私の暗器が何処にあるのかを探しているのだろう。しかし、見当たらないと見たのか、ニンマリと口の端を上げた。

「兄上、暗器を使うということだったが、どうやらハッタリだったようですな。もう何も持ってはおられぬようだ。潔く負けを認めては如何ですかな?」

口調には冷笑の響きがある。最早自分の勝利は動かないと確信したか。

「何を言っているのだ、お前は。暗器ならあるさ。ほら、ここにな!」

私は帯を勢いよく腰から抜き放った。そして、その帯の先端はふわりと地に落ちたりせずに、じゃらりと音を立てた。信じられないものを見たかのように硬直している弟の前で、私は殊更ゆっくりと帯に仕込んであった2ガズ(2m)ほどの長さの鎖(先端に分銅付き)を取り出した。

「鉄の鎖…。ナバタイ国の鉄鎖術か!馬鹿な、そんなのを習得してたなんて、諜者からも聞いたことが無いぞ!」

「馬鹿か、お前は。諜者が全てをお前に報告していると思っていたのか?お前は何度言っても判っていないのだな。諜者はお前ではなく、この国に仕えているのだ。当然お前には取捨選択された上で伝えられる事になる。これなどはその最たるものだな」

勿論、それがすべて真実と言うわけではない。確かに頭領のカルナを始め大半の諜者はラジェンドラではなく国に忠誠を誓っている。だが、弟が命じて拾ってこられたと言うパリザード、レイラ、フィトナの三人の娘、それとごく少数などは、自分たちは王とラジェンドラ殿下のみに従う。まだ即位していない貴方に従ういわれは無いと明言し、弟の乳兄妹のラクシュに至っては「私はラジェンドラ殿下だけの為の弓。他の誰かが私を使うなんて真っ平御免さー!」と言い放ち、母親のカルナに頭を抱えさせたものだった。だが、そんな真実は教えてはやらん。少なくとも今この瞬間にはな。

ナバタイ国の鉄鎖術は手枷をはめられ鎖で繋がれた黒人奴隷が、主人の虐待に耐えかね抵抗するために生み出したと言われている。故に元々分銅なんてものはついていなかった。だが、それだと鎖は何処まで行っても鎖。しょせんはありあわせの武器でしか無く、他のどの武器よりも取り回しに劣るのだ。どれだけ練習しても上達しないことに業を煮やした私はある日、「そうだ、先端に重りをつければ鞭の様な感覚で使えるのではないか!」と思いついたのだ。すると、それまで打撃にしか使えなかった鎖が、実に多彩な武器に変身したのだ。以来、私はずっと分銅をつけた鎖を使っている。私に鉄鎖術を教えてくれた黒人奴隷は「コンナノ本当ノ鉄鎖術デハアリマセーン!」と嘆いたものだったがな。

その分銅を先端にして、それを頭上で水平にひゅんひゅんと音をさせながら振り回す。そしてすり足で少しずつ間合いを詰めていくと、弟は気圧されたように少しずつジリジリと後退していく。だが、突然その後退が止まり、弟はニヤリと嗤った。

「ははは、確かに驚いたよ。驚かされたよ。そいつは認めるさ。でもな、鉄鎖術は恐ろしいが無双の武術じゃあない。集中してりゃあ避けられないものでもない。それだけが切り札なんて、今ひとつでしたな、兄上!」

「くっ!」

見透かされたか。私は図星を指されてうろたえた

フリをした。


「ラジェンドラ殿下ー!!」

その時、いきなりその様な叫び声が上がった。弟は雷に打たれたように声のした方向を振り向く。弟の目に映ったのは乳兄妹のラクシュが、観客席と舞台を仕切る金網まで駆け寄ろうとしていたところだった。弟は、何故ここに?捕らえられていたんじゃなかったのか?などと考え、一瞬混乱したことだろう。

そして、それがつけ目だった。

即座に距離を詰め、弟の剣を鎖で絡め取り、一気に鎖を引っ張って両腕から剣をはたき落とした。失態に気づき、剣を拾おうと伸ばした腕に、更にまた鎖を放って巻き付け、自分の方へ引き寄せる。引き寄せられ、弟の体が前方へつんのめった。その弟の腕を両腕で抱えて引っ張り、腰で背負い、投げを放った。

「ぐはっ!」

弟は突然の投げ技に反応できなかったのか、受け身も取れずにまともに背中から地面に叩きつけられたようだ。痛みが全身を駆け抜けたらしく動きが一瞬完全に止まった。

その隙に私は弟が手放してしまった剣を先に拾い上げ、それから鎖もきっちりと拾い、立ち上がろうとした弟の鼻先に剣を突き付けて、

「残念だったな、我が弟ラジェンドラよ。これで勝負ありだ!」

殊更余裕有りげな微笑みを無理やり作って、弟を見下していると、程なく、敗北を認める言葉が弟の口から紡がれた。

ふう、何とか勝ったか。実際のところ、バハードゥル相手に修練を積んだというラジェンドラは実に厄介な相手だった。序盤は私が攻勢だったものの、攻撃は全てかわすか受け流すかされていた。かすりはしても、まともに当たった攻撃などおそらく一つもあるまい。そして、槍の穂先を斬り落とす動きも実に手慣れたものだった。斬り落とされる前に慌てて槍をひこうとしたが、ガッチリ掴まれていて全然動かなかったしな。槍を失っても戦い抜けるようにと鉄鎖を用意はしていたが、本当に使うことになるとは思ってもみなかった。そして、ラクシュも使わずに済むなら済ませたかったんだがな。

鉄鎖を出さざるを得なくなって、それでも戦闘が膠着した場合には、捕らえていたラクシュたちを「ラジェンドラが劣勢だ。死んでしまうかもしれない」と煽った上で解き放てと命じてあったのだ。

実際、私程度の鉄鎖術ではまともにやったら弟に勝てる気はしなかった。だから、その膠着した瞬間に解き放って声を掛けさせる。それで集中を奪い、一気に倒したというわけだ。

言っただろう。王は負けてはならないと。そのためならどんな手でも使うとな。

悪く思うな、これは私とお前の戦争だったのだからな。

◇◇


 
 

 
後書き
やっと第一話に繋がりました…。 

 

第十四話 同時告白

「不敬罪」

その罪の名のもとに俺は牢屋に入れられていた。父の病室に居た兄に怒鳴り込んだ直後から神前決闘の直前まで、そして神前決闘が終わった今もだ。牢屋からの直行直帰と言ったところか。こんな嬉しくない直行直帰は前世ですら無かった気がする。

尤も、待遇はそう悪くない。牢内の設備は簡素だが清潔で、食事も並みの宿屋程度でそう不味くもない。ただ、今に至るまで諜者とは全く接触出来ていない。確か、かつてカルナは「諜者に入り込めない場所など存在しません」と静かな自負を漏らしたものだったが。この場所がその例外だったというのか、或いは入り込むつもりがないのか。

不意に格子の外に人の気配を感じた。やっと来たのか、待っていたぞと思ってそちらを見ると、

「やあ、愛する弟よ!ご機嫌如何かな?」

全く待ってもいない人間がそこにいた。たった今最悪に不機嫌になったところです、兄上。

そして、その傍にはもう一人人影があった。兄はごくごく自然にその人の肩を抱いており、その人物も少しも拒まずにそれを受け入れているかのように見えた。つまり、これは、兄上と言うより、兄夫婦と呼ぶべきだった。

「義姉上まで、どうしてここに?」

「ふふふ、貴方には謝らなくちゃと思って。実はね、見ての通りなの!」

見ての通りって…、夫婦だからってくっつきすぎじゃね?豊かな双丘が兄の腕に当たってるのか当ててるのか、実にうらやまけしからんですな。身にまとっているサリーはあの夜のよりだいぶ露出部分が多いような…。いや、実に眼福ですね。…じゃなくて、

「怪我が、古傷が一つも見当たらない!?そんな!何で?」

見間違えだった?いや、そんなはずはない。

「ゴメンねえ、貴方をたばかっちゃった。あれはカルナ渾身の偽装工作だったの!あの日の言葉も全て嘘!本当にごめんなさいねぇ!」

は?偽装?あの体中にあった傷が全部?泣いて震えてたのも?口にした言葉も全て?何から何まで全部嘘だったと?思わず俺は膝から崩れ落ちた。

「はああ、良かった!ヒドいことされてるとかじゃなくて!」

余りの安堵感に、俺はしゃがみこんでガッツポーズらしき仕草まで思わずしていた。それを見て兄嫁はドン引きしてたみたいだが。

「え?ちょ、ちょっと、ねえ、そこ…怒るところなんじゃないの?」

は?何で?「よくもだましたアアアア!!」とか絶叫すべきだとでも?

「いや、だって俺嫌なんだよ。女が痛めつけられたり、可哀想な目にあうってのがなあ」

何でだろうかな。前世で何かあったのか。それとも幼いころ死んだ母があんまり幸せそうに見えなかったせいなのか。とにかく、それに比べりゃ女に騙されるなんてどうってことはない。「女の嘘は許すのが男だ」って言うしな。

「でもまあ良心が咎めるってんなら教えてもらおうか!俺を嵌めた理由をな!」

◇◇

「納得いかないさー!何で、何でラジェンドラ殿下がこの国から出て行かなきゃならないのさー?」

ラクシュ姉の疑問は尤もだった。あたし、パリザードもそうだし、きっと三人娘として一括りにされることの多いほかの二人、レイラやフィトナも同じ思いだろう。

あとで知った事だけど、丁度同じ話をほぼ同時刻に、あたしたちは王宮内の諜者の詰め所でカルナ様から、ラジェンドラ殿下は牢屋でガーデーヴィ殿下から聞いたそうだ。

カルナ様は、ラクシュ姉につかみかかられていると言うのに常日頃の怜悧な表情を少しも崩さない。

「では貴方たち、この先ラジェンドラ殿下がこのままこの国に居続けたら、どんな事が起きると思いますか?」

「んー?何言ってるんさ、お母さん。ガーデーヴィ殿下が間もなく即位し、ラジェンドラ殿下は実に頼もしい王弟として新王を支えるでしょう。めでたしめでたし、パチパチパチじゃんさー?」と何を決まりきったことをと言いたげなラクシュ姉。

「或いはラジェンドラ殿下は援軍を率いて、パルスとルシタニアの戦争に介入するおつもりかもしれませんね。パルスは兵力的には劣勢。そこに助力を申し出て、ルシタニアの駆逐に貢献すれば功績は大。恩賞としてアンドラゴラス王から娘を嫁に貰えるかもしれません。まあ、娘と言っても私たちの事ではなく、重臣の娘を養女に迎えてでしょうが。年回り的には万騎長マヌーチュルフの令嬢、ナスリーン辺りでしょうか」とレイラ。

あたしたちが、って話には決してならない。あたしたちはアンドラゴラス王の娘じゃないって、ラジェンドラ殿下から聞いてるからね。まあ、あたしにとっちゃ殿下は年の離れた兄さん的存在だし、ラクシュ姉の恋路を邪魔する気はないし、あたしにはちょっと狙ってる殿方が他に居るしね。他の二人はどうか知らないけどさ。

「世襲宰相家は跡継ぎの男子の存在が公的には認められていないため、マヘーンドラ様の後はラジェンドラ殿下が宰相の任を引き継ぐ事もありえるわね。そこから世襲するかどうかは判らないけれど」とフィトナ。

マヘーンドラ様は確かにご自分がジャスワントさんの父親だと認めはしたものの、後継ぎとして公的には届け出ていない。反対するであろう正妻は既に亡くなっているって点では問題ないけど、ジャスワントさん個人の資質は武に偏りすぎてるのだ。残念ながら学問に関してはラクシュ姉、バハードゥルさんと同じくらいに出来ないらしいから、宰相どころか文官の適性は皆無だろう。大丈夫、あたしもあんまり出来ないけど困ってないし。

あたしだけ意見言ってないけど、まあみんなとほぼ同意見だ。盛んにコクコクと頷いておいた。

「そうですね、他国の戦争に介入するか、宰相になるかはともかく、順調に功績を重ねるでしょう。そうなると何が起こるでしょうね?」

え?あたしも他の三人もそこまでしか考えてなかった。でも、その先に何かが起こるって何が?

「…国王と声望を二分するようになる?或いはガーデーヴィ様が体を悪くでもされたら、嫡男を差し置いて、次の王はラジェンドラ殿下をと言う声が出るようになる?」フィトナが考え考え口にした。

「待ってよ、ガーデーヴィ様はラジェンドラ殿下と同い年だよ?そんな事ありえる?」

ラクシュ姉が首を捻っている。あのご兄弟は一ヶ月しか誕生日が離れていない。確かに本来は考えられない。

「そう言えば、ガーデーヴィ様ああ見えて白髪が割とありますわね、染めて隠してらっしゃるけど。若くして摂政として激務をこなされてるし、昔はラジェンドラ殿下に相当心労を掛けられたようですし」

そんなレイラの言葉にあたしも思い当たる節をはたと思い出した。

「ああ、あとガーデーヴィ様、夜とか頑張り過ぎだよなあ。幾らキレイな奥さんだからって、あれはヤりすぎて早死を疑う域だわ!」

…あれ、何だよ、みんなその目は?「はしたないさ…」「見すぎ…」「表現が…」「育て方を間違えた…」と言外の言葉を感じる。…ご、ごめんなさい。

「…コホン!ともかく、骨相学や占星学の視点からもガーデーヴィ様の在世はカリカーラ王よりも短く見積もられています。ですが、もしその為にラジェンドラ殿下に譲位してしまえば、ラジェンドラ様の血統に王統は移り、二度とガーデーヴィ様の血統には戻らないでしょう。また、パルスや他の国がラジェンドラ殿下に婚姻政策で自国の血を入れ、影響力を増そうとする事も考えられます。要するに、ラジェンドラ殿下の存在はこの国にとって、不安定要因なのです。端的に言えば、邪魔、という事です」

余りにも、余りにも情の無い言葉だ。確かにそれはそうかもしれないけど、乳母としての情をカケラも感じない。そんなあたしの思いは、言葉にせずともカルナ様にはお見通しだったのだろう。

「当然でしょう。私は殿下の乳母である以前に、この国に仕える、王直属の諜者の頭領なのです。情を差し挟むことなど許されません。それから、今後ラジェンドラ殿下についていくことはこの私が許しません。いいですね?」

「そんな!そんなのってないよ!殿下は頑張ってたじゃないのさ?ガーデーヴィ様とも仲良くされてて、信頼しあってたんじゃないの?なのに、邪魔だなんてヒドいさ、ヒドすぎるさー!」

ラクシュ姉が泣き崩れた。あたしたちもみな同じ思いだ。何で?何でこうなるの?どうしてうまくいかないんだろう?

 

 

第十五話 征馬多影

運河に沿って、馬を南に向けて歩かせる。まず、向かうのはシンドゥラ随一の海都マラバールだ。そこからパルスの海都ギランに渡り、常日頃から個人貿易で稼ぎ、プールしてあった資金を使い、傭兵を集める。原作でアルスラーンがギランで集めた傭兵の数は三万弱と言うことだったから、おそらく俺も同じぐらい集められるだろう。

だが、問題なのは、核となる将がいないと言うことだ。結局、諜者は全て兄に取り上げられたし、バハードゥルも軍に取られたしな。バハードゥルは一万ほどを率いる将として重用されはじめたようだし、いつまでも俺の私兵としてはおけないからと、既に屋敷から出して、ここしばらくは顔も合わせてはいない。ジャスワントは闘技場で見かけた時の笑みからしても、結局俺の仲間のつもりは無かったって事なんだろう。これ幸いと父親であるマヘーンドラのところに戻り、国王の親衛隊辺りを任される事にでもなりそうな気がする。原作でのシンドゥラ屈指の勇士二人を横死の運命から救えたんだ。ちゃんと俺という存在はシンドゥラに爪痕を残せたんだと思って、諦めるとしよう。金で動くだけに粘りに欠ける傭兵を俺が直接統率しなきゃならないってのは骨が折れそうだが、原作の俺はこれと言った将のいない一軍を率いて夜間に渡河するだけの力量を見せたんだ。豪族の反乱平定でそこそこ指揮の経験を積んだことだし、この世界の俺でも何とかやれるだろう、そう思いたい。

しかし、諜者を取り上げられたのは痛いよなあ。俺は原作でのアルスラーン陣営が二部であれだけ追い詰められたのは、諜報能力の欠如だと思っている。それがもう少しでもあれば、少なくともヒルメスの奇襲でナルサスが討たれるなんて事は無かっただろう。それにラクシュの弓の腕、あれは今後十六翼将クラスの敵が万が一敵に回った場合にも、あいつ一人で射殺までは出来なくとも、深手を与えて優位に戦いを進めるくらいには出来たろうになあ。でも、あいつ母親のカルナが大好きだからな。カルナが兄上に従う以上、あいつも母親と共に働く事になるんだろう。

「殿下ったら、何をそんなにシケた面でぼーっとしてんのさー?」

などと言う風に呼び掛けられる事ももうないんだろうな。ため息とともに肩を落とし、俯いたまま馬を進ませる。

「おーい、殿下。聞こえてないのー?その耳は飾りなんかーい?」

おかしいな、聞こえるはずのない声が聞こえる。幻聴か、これは。

「はっ、気付いてない?むしろこれはチャンス?よし、この隙にその唇を奪って―」

「おい、何者だ、やめろ、近づくな!」

急接近してきた人馬を腕を振って払いのけようとしたところ、「ふに」と何かが手に当たった。こ、この物足りない感触はもしかして!

顔をあげるとそこにいたのは、母親に似ず、残念なサイズの胸部装甲しか持ち合わせていない、旅装をして騎乗している俺の乳兄妹だった。

「ラクシュ!どうしてここに?」

「殿下、いきなり何か失礼なこと考えてないかなー?それはともかく、ギーヴさんから聞いたよー。サリーマさんに騙されてたのに、『ひどい目にあってたんじゃなくて良かったー!』とか喜んだんだってー?馬鹿なんじゃないのー?」

そして、馬に乗った人影が次々と近づいてきた。

「ラクシュ姉の言う通りだよ。そんな事だとその内悪い女に引っかかって、ケツの毛まで全部ムシられますよ、殿下?」とパリザード。

「そんな危なっかしいお人を放って置くのが忍びなくなりましたので」とレイラ。

「これだけ綺麗どころが周りにいれば、不埒な女など近づけないでしょうしね」とフィトナ。

「おで、殿下に一生ががっでも返しぎれない恩ある。だがら殿下にづいていぐ」とバハードゥル。

「この国をお暇しようと牢屋に挨拶をしにいったら、立ち聞きしちまいましてね。ついみんなに話したところ、こんな事になりまして。まあ、俺もご一緒させてもらいましょう。綺麗どころと一緒の旅は楽しいですし、殿下といれば面白いことがたくさんありそうですしな」とギーヴ。

「全く、貴方というお人はまるで理解不能ですな。貴方が一体何者なのか、これから一生かけてでも見極めたいと思います。言われたことだけは極力こなしますので、随行をお許し下さい」とジャスワント。

…全くみんなツンデレだよなあ。素直に、俺が大好きだから一生側に居たいんですと言ってくれりゃあいいのになあ。まあ、俺のモットーは

デレぬなら、デレるまで待とう、ほととぎす

だからな。これから一生かかってでもデレさせてみせるさ。そして、やるぞ!この心強い仲間たちと、パルスを、全てを救ってみせる!

「行くぜ、みんな!俺たちの戦いはまだ始まったばかりだ!」

「何を打ち切りマンガみたいな事言ってるんですかー、殿下!」

◇◇

ちょうど弟が、その股肱の臣たちと合流したであろう時刻に、父、カリカーラ王が息を引き取った。これから国葬を行い、即位式を経た上で、私、ガーデーヴィはこのシンドゥラの新たな国王となることだろう。

思えばあれから十年か。現代日本で生まれ育ち、高学歴ワーキングプアとしてその日暮らしを続けてきたアラフォー独身男性の私、前世の名前は覚えていない、がいきなり王子様に転生していて、前世の記憶を思い出すなんてな。王子様ってマジ?やったあ勝ち組確定だぜ!と思ったのもつかの間、私は自分がアルスラーン戦記の登場人物、ガーデーヴィ王子に転生していた事に気付いて茫然となった。原作によれば、あと十年先には自分が弟と争い敗れ死ぬ運命なんだものな。どうすればいい、どうすれば、死亡フラグを回避できる?と寝台に体を起こし、必死に考えていたところに現れたのが、この世界での私の弟、ラジェンドラだった。これからの事を思うと気が気ではなく、辛うじてぎこちなく笑顔を繕った私を見て、開口一番あいつはこういった。

「…兄上、何だか変わられたか?もしかして前世の事でも思い出されたか?」

その一言で、ピンときてしまった。こいつも転生者かと。大体、原作とガーデーヴィの記憶には余りにも齟齬がありすぎた。何でバハードゥルがまともな知能を持った人間として、ラジェンドラに仕えてるんだ?原作開始よりもまだ十年も前なのに、ガーデーヴィの立場悪くなりすぎだろ?それに原作そのままのラジェンドラなら、その自分をも騙せるほどの演技力を駆使して、酒と女に溺れた父親に対して取るべき態度、親身になって心配し必死に諌める姿勢を選べたはず。余りに原作通りの姿に滑稽さを感じて冷笑などしないはずだ。そして、その間違った態度が、ガーデーヴィに突飛な行動を取らせ、前世の記憶を取り戻すきっかけになったのだ。だから、これはお前の自業自得だぞ、ラジェンドラに転生した誰かさんよ。

そんな不用意過ぎる転生者という悪いお手本がすぐ目の前にあったのだ。それを反面教師として、私は徹底的に自分が転生者であることを隠すことにした。幸い、ラジェンドラはいろんなところでやらかしていたから、自分がついおかしな事をしてしまったときには「弟のが伝染った」と言い訳すればそれで通ってしまった。ある時、サリーマにうっかりボリス・コーネフの事を漏らしてしまったときにも、「弟から聞いた。俺自身はフェザーンが何処にあるのか知らない」で済んでしまったしな。

自分が転生者であるというのを隠すのはあくまでも前提条件。私の至上命題は、原作通りに死を迎えるのを回避する事だ。原作でのガーデーヴィの欠点は、選民意識に染まりきっていること、目下に対する思いやりの無さ、自分の感情を抑える自制心の欠如などが挙げられるだろう。それらが彼自身の身を滅ぼしたとさえ言える。だから私はそれらを克服することに努めた。ラジェンドラが王宮から抜け出す際は必ず同行し、ラジェンドラがそうしていたように民衆の前では気前よく気さくに振る舞った。目下の者の労苦に常にねぎらいの言葉を掛け、感謝を口にした。豪族との付き合いも大切にしたが、それのみに終始しないよう気を配った。学問や武芸についてもよく学んだ。幸い、この体は本来頭も運動神経も悪くないらしい。弟に振り回され、集中を欠いたりしなければ本来はもっと高いパフォーマンスを発揮できたのだろう。

そして、前世の記憶を元により良い王族、為政者となれるよう試行錯誤を繰り返した。前世では某国営放送の大河ドラマを毎年欠かさず見ていたし、吉川三国志を読んだことで中国の歴史に興味を抱き、洋の東西を問わず様々な歴史小説を読破していた。田中芳樹先生の作品もファンタジー色が強すぎないものならほとんど読んでいたはずだし、ネットの二次小説にすら手を出していた。その中で思い描くようになった理想の君主の姿―闊達で国政に真摯に取り組み、私情に流されず、酒食に溺れず、それでいて気さくで親しみやすい面も持つ―を実践しようと心がけた。

とにかく原作みたいに死にたくない、生きながらえたい、そういう自己保身と防衛本能のみでこの十年を生きてきた。だが、弟に対してだけは過剰に防衛本能が働きすぎたかもしれない。キレイな奥さんをもらい、早々に可愛い息子も出来た事で欲が出たのかもしれない。確実にこの子に王位を継がせたい。それには弟が邪魔だ。弟をこの国から追い出し、自分の覇権を確実にしてしまえば、原作のシンドゥラ編につながるフラグは完全に折れるはずと考えるようになった。

本来、サリーマにあそこまでさせるつもりは無かった。ジャスワントに偽の密告をさせればそれで済むはずだった。だが、サリーマがやらせてくれと言ったのだ。それだけ私を愛し、私に賭けてくれたのだろう。頭が下がる。全く私には過ぎた女房だ。余りにも愛しすぎて、つい夜更かししすぎてしまうのも無理はないだろう。それくらいは大目に見て欲しいものだ。

弟に対する負い目が、彼の股肱の臣たちが彼についていこうとするのを決して止めるなと言う命令を私が下してしまうことにつながったのだろう。幸い、あの六人以外は義理と人情に絡め取られて、ここに残ることを選択した。更に俺がその事に対し、大仰に感謝の念を示したことで、より一層その意志が固くなった事だろう。

弟には二度とこの国に足を踏み入れないという誓約書を書かせはしたが、もう一つ保険を掛けておくか。あの王家はもしかしたら、弟を欲しがるかもしれない。対抗馬になるであろうあの人物の真の姿を克明に記載して、文を送ろう。それで翻意して弟を取り込もうと思ってくれたら重畳。何の反応もせずにあの王家が消滅するのだとしても、それも歴史の必然。こちらが心を痛める筋合いもない。

弟よ、この国のことは私が任された。お前にはパルスとあともう一国の運命も背負ってもらおうか!
 
 

 
後書き
これにて第一部は完結です。次話より第二部に突入いたします。 

 

第十六話 狂猴退場

パルス暦320年10月16日、俺たち一行はパルスの海都ギランに到着した。準備に手間取ったり、海が荒れてたりしたせいでこの日にまでずれ込んでしまったのだ。まさか、アトロパテネの戦いと同じ日の到着になるなんて、思ってもみなかった。これも必然なのか、運命のイタズラなのか。

さて、俺たちはここで、まずは兵を集めるとしようか。以前も言ったとおり、アルスラーンはギランで三万弱の兵力をここで集めている。俺たちもそれと同程度は集めたい。以前からここにプールしていた資金と、足りなければギラン総督ペラギウスの財産を没収するとしようか。以前、俺たちがギランに来た時あちこちにバラ撒いた怪文書が元で、既にシャガードは海賊の黒幕だったことが明るみに出て失脚している。捕らえられ、王都へ護送される途中、海賊の残党と思しき連中の襲撃に会い、シャガードも流れ矢で死んだそうだ。果たして本当に海賊の残党の仕業だったのかは詳らかではない。ただ、ペラギウスがその事件以降更に羽振りがよくなったのは確かなようだ。ならばそろそろ貯め込んだものを吐き出してもらっても一向に構わないよな。

十一月下旬まで待って、それでも兵数が三万に満たなければ、ギランを発ってペシャワールに向かうとしよう。アルスラーン一行がペシャワールにたどり着く十二月中旬には俺らもそこでアルスラーンを出迎えたいことだしな。

ただ、それより先にいろいろとやってもらいたいことがある。俺はギーヴとラクシュを呼び、仕事を頼んだ。まずは王都エクバターナへ潜入してもらいたいと。ラクシュは俺と離れたくないとか言って大層グズったんだが、大切な仕事で、ギーヴ一人では荷が重いだろうからお前にもお願いしてるんだと噛んで含めるように説明してもゴネにゴネまくる。しまいには、やってくれたらお前のお願いを何でも一つ聞いてやると約束してようやく首を縦に振ってくれた。全く世話のやける奴だ。

アルスラーンは人を殺すことを極端なまでに避けた。だが、最初に一人殺さなかったばかりにそれ以降は、前にも殺さなかったんだから今回も殺すべきではないとなっていったような気が俺にはするのだ。それはこの世界でも同じかもしれない。だから、俺はアルスラーンに他人の生殺与奪の権を委ねない。その前に俺が片っ端から殺すべきやつは殺す。まず手始めにあいつからだ。何度もうまうまと逃げ延びやがったあいつを俺たちの手で殺すには今この機会しか無いからな。

◇◇

パルス暦320年10月25日、ようやくパルスの王都エクバターナへとたどり着き、包囲を開始した我々ルシタニア軍だったが、想像以上に堅固な城壁を前に立ちすくまざるを得なかった。

「何と言う見事な城壁、エクバターナとはこれ程のものであったのか…」

俺、モンフェラートは神の使徒たるルシタニア騎士にあるまじきことながら、異教徒であるパルス人への畏怖を改めて感じざるを得なかった。我らが神イアルダボート神の恩寵を受けぬ身でありながら、これ程のものを作り上げるとは。パルス軍にはアトロパテネの戦いにおいても人の域を超えた強さを見せつけられた。もし、あの霧が無ければ、銀仮面卿の協力が無ければ、あの戦いに勝つことも、ここエクバターナに至る事も無かったであろう。何と恐ろしい敵であることか。

城壁の余りの威容に諸将が気圧されていると、我らの傍らをすり抜けて、一台の屋根のない馬車が進んでいった。それを守らんとしてか、十騎ほどの騎兵が共に陣頭へと向かっていく。

「おい、モンフェラート、今の馬車、あのジャン・ボダンめが乗っていたぞ?あやつ、何をするつもりだと思う?」

隣にいたボードワンが訝しげな表情をしていたが、俺にも心当たりがない。「さあな」と答えるしか無かった。ただ、どうせろくなことではあるまい。それだけは確かだった。

俺の予想は当たった。大司教にして異端審問官を務めるボダンは、俺たちが苦労して捕らえたパルスの勇将、万騎長シャプールを、見せしめのためになぶり殺しにするつもりのようだ。いつからそんな事までが、大司教の仕事になったというのだ?全く、マルヤムでもアトロパテネでも、坊主のくせに、抵抗する力を失った者を殺しまくる事にばかり精を出しおって、この

「罰当たりめ!」

おっと、声に出てしまったか。ボダンは周りを見回すが、俺が言ったとは判らないようだ。おい、ボードワン、頻りに頷いたりしてるなよ、バレるだろうが!ふふん、ボダンの奴め、更にいきり立って喚き散らしてやがる。図星を指されて内心うろたえてるんだろう。

おお、あのパルスの男、ボダンに物申しているのか?ふふ、小気味いい言いようだ。何故あの男が敵で、ボダンなんぞが味方なのであろうな。あの様な男と同じ旗のもとで共に戦いたかったわ。イアルダボート神よ、何故貴方はかようにこの世を理不尽にお作りになったのか?

「エクバターナの人々よ、どうか頼む。俺のことを思ってくれるなら俺を矢で射ち殺してくれ。俺はどうせもう助からぬのだ。こいつらに殺されるくらいなら、味方の矢で死ぬほうが本望だ!」

あの男はそう叫ぶが、いや、そう言ってもな。城壁からでもここまでどれだけの距離があると思う?さすがにそれは無理―

その時、唸りを上げてこちらに飛び来たったものがあった。一つ、いや二つか。その場に居合わせた全ての者がそれを見た。城壁の上から放たれた一矢がシャプールという男の眉間に突き立ち、そしてもう一本の矢が、

「ぐがっ!!」

大司教ジャン・ボダンの口から入り、首の後ろを射抜いたのだ。

二つの体がどうと倒れた。対照的な表情を表情を浮かべて。一方は満足げな笑みとともに、もう一方は神の無情を呪うかの様な形相で。どちらがそうかなど言うまでもあるまい。

「あ、ありえん…、一体どれだけの距離があると言うのだ」

ボードワンの呻きはそれを目撃した全ての者の思いを代弁したものであったろう。

驚愕から立ち直ったルシタニア兵たちが幾本もの矢を城壁の上の先程の矢を放ったと思しき者たちへと放つ。が、当たらない。命中するどころではない。城壁上にすら届かない。

間もなく、城壁上の二つの人影はいずこかへ消え去った。我らはそれを見ていることだけしか出来なかった。

◇◇

「…ったく、女の細腕でよくあそこまで届くものだぜ」

いつも俺、ギーヴはこのラクシュの弓の腕に驚かされている。俺ですらしんどいこの距離を、この娘はまたいつものようにろくに狙いも定めず瞬時に射た。それであのギャンギャン吠えて動き回ってた狂い猿みたいな奴を射倒すとはな。

「フッフッフッフー、私のこの体は弓を引くためだけにあるのさー。その分他のことは及第点がやっとでねー。お母さんには頭領の娘がそんな事でどうするのかと嘆かれたもんさー」

後半はひどくほろ苦い口調だった。しゃがみこんで、地面にのの字を書きまくっている。…大丈夫、きっといい事あるさ。

少しの間そうしていると二人の官吏が足早に近づいてきて、俺たちの前にひざまずいた。

「王妃様のお召しでございます。弓の妙技を見せた者たちに、相応の恩賞にて報いたいとの仰せです」

「おやおや……パルスの法律書には殺人罪が載っていなかっただろうかな?」

まあ、裁かれるより恩賞を貰えるほうがずっといい。俺たちはそいつらについていくことにした。

◇◇

ジャン・ボダン。こいつは異端者や異教徒の弾圧に狂奔する姿から狂い猿と呼ばれることが多かったが、俺は兎の様でもあると思う。危険察知能力が異常に高いのだ。

こいつはタハミーネ王妃の処遇を巡ってイノケンティス王と対立するや否やマルヤムから聖堂騎士団を呼び寄せ、その武力を背景に王権と対立した。それでも勝てないと見るや、即座にエクバターナを離れ、ザーブル城に籠もった。ザーブル城が落ちると命冥加にも脱出し、マルヤムへ逃げ延びた。本当にこいつには神の加護とやらがあるのかと疑いたくなる程だ。

そんなボダンが唯一無防備な姿を晒したのが、エクバターナ城壁前でシャプールを見せしめのため嬲り殺しにしようとしたときだ。常人では到底届かぬ間合いであったろうが、無論、ギーヴもラクシュも常人ではない。

弓に特化されたラクシュの肉体は、弓だけに限って言えば十六翼将の上位陣と同等の力を発揮する。早撃ちだけが得意な訳ではなく、遠矢も凄腕。弓勢こそダリューンやクバードには及ばぬだろうが、ギーヴとはほぼ同等。そのラクシュの弓に狙われて命を拾えた奴を俺は知らないからな。

早過ぎる退場ではあるが、ここまででも夥しい数の人間が異教徒だの異端者だのと罵られ拷問された上でヤツに虐殺されている。罪状は既に十分だ。あの世でイアルダボート神とやらに裁いてもらうがいい。

そんな事を考えながら、俺たちはギラン郊外の平原でようやく集まり始めた傭兵の調練を行っていたのだが、不意にジャスワントが近寄ってきて耳打ちした。どうやらこの軍勢に加わりたいと訪ねてきた旅人がいるそうだ。その名を聞いて、俺は思わず耳を疑った。

「嘘だろ?何で今あいつがここに居るんだ?」 
 

 
後書き
彼は後に教皇と名乗るようになりましたが、狂い猿とか呼ばれてもいました。猿猴と言う二文字のどちらもが「さる」と言う意味だったことから、教皇と同じ読みの狂猴と言う造語を作ってみました。 

 

第十七話 公主帯同

ギラン郊外の平原で傭兵の調練を行っていた俺たちを訪ねてきた男。
何とそいつは「トゥラーンのジムサ」と名乗ったのだ。

何でこいつが今ここに居るんだか皆目見当がつかなかったが、事情を聞いてようやく疑問が氷解した。

パルスとトゥラーンの戦いで捕虜になったジムサはもう何年もエクバターナの地下牢に幽閉され続けていた。そこにシャプールと言う万騎長が訪ねてきてこう言ったのだ。「明日、アンドラゴラス王がルシタニアとの戦いの出陣式にてお主を血祭りに上げる。明日までここにいれば確実にそうなる」と。それは言外に今の内に逃げろと言ってるのと同じだった。その通りに脱走はしたものの、故国はすでに滅んでおり、行く宛はなかった。思案の末、そう言えば今まで生きてきて海と言うものを見たことが無かったので、南のギランへ向かうことにした。そして、ここで何者かが兵を募っていると聞き、ここに来た。そう言うことだった。

…全くアンドラゴラスも血祭りが好きだな。ルシタニア人よりよっぽど野蛮人だと思えるわ。そして、まあ、義侠心に富んだシャプールらしい行動だよな。

しかしなぁ、いいのかよジムサ?三カ国連合での戦いでトゥラーンの勇将の数多くを討ち取ったのはシンドゥラ(更に言うならラクシュ)なんだぜ?そのシンドゥラ人の俺が率いる軍で戦うことに忸怩たるものは無いのか?

そう訊いてみたんだが、帰って来た答えは「別に」だった。戦の上の事であり、恨み言を言う気などない。家族とは折り合いが悪く、仲間には吹き矢を使うなど卑怯と蔑まれていた。そんなヤツらも既にことごとくこの世を去っているし、最早何の義理もない。この上は、自分の腕を高く買ってくれる者に仕えたいと思うのみだと。

なので、俺は望み通りに高く買ってやる事にした。バハードゥル、ジャスワントに続く三人目の将として迎え入れたのだ。その上で現在集まった騎兵の約半数、五千騎をヤツに率いさせることにした。奇襲に、遊撃に、追撃に、と存分に働いてくれることだろう。

さてと、ラクシュとギーヴはどうしてるかな。タハミーネに恩賞をもらった後は、宰相フスラブから面倒な頼まれごとをされない内に王都から脱出しておけと言っておいたが、ちゃんとその通りにしてくれただろうか。

◇◇
おっ!愛しの殿下から、私、ラクシュに愛の電波が!

「勿論その通りにしましたですともさ、殿下!」

私が急に立ち上がり、虚空を見やりながら、何事かを叫ぶ様子に傍らに横になっていたギーヴさんは思わず、後ずさっていたみたいだった。

「おい、ラクシュ?何をいきなり脈絡のない独り言なんか言ってんだ?」

「ふふん、ギーヴさん。愛し合う殿下と私との魂の交流にケチを付けるなんてダメダメなのさー!」

「…愛し合ってたっけか?まあいい。好きにしてくれ」

「無論そうするともさー!」

「……」

タハミーネ王妃に恩賞を頂いた後、私とギーヴさんは早々にエクバターナを脱出した。地下水路の最短ルートは既に調べてあったしね。そして、王都近くのルシタニア兵によって滅んだ村落の一棟に身を潜め、カーラーン将軍の軍勢の動向を見守っているところなのだった。

カーラーン将軍は消息をくらましたアルスラーン一行を捕捉するため、村を焼いてみせしめにするであろう。アルスラーン一行はそれを止めようとするだろうから、カーラーン将軍の後をつければ、自然とアルスラーン一行と合流することが可能なはず。合流したら一緒にペシャワールを目指してくれ、俺たちとはペシャワールで落ち合おう。と言う事になっていたのだ。

とは言っても、二ヶ月も殿下の側を離れるなんて生まれて初めての事だ。そんなの嫌だと私は盛んにゴネたんだけど、聞き入れてもらえなかった。仕方ないから、戻ったらなにか一つ私のお願いを聞いてもらうことで手を打ったけどさ。戻ったら何をしてもらおうかな?にゅふふふふ…

その時、村落に面した街道に騎馬の一群が走ってくるような物音がした。ギーヴさんと私は即座に窓の側に身を寄せ、外の様子を伺った。すると、正確には騎馬の一群と言うより、どうやら先行する一騎をルシタニア兵十騎ほどが追いかけていると言う状況のようだった。追いかけられている騎手は異国の甲冑を纏った女の人のようだ。長い黒髪が兜にはまるで収まらずに、腰の辺りまでに流れ揺れている。でも顔は見えない。その女性は何と後ろ向きに馬に乗って疾走しているのだ。ここいら辺一帯が平地だからこそ可能な芸当だろうけど、まともな神経で出来る事ではない。そんな後ろ向きで馬を走らせて何をしているのかと言えば、弓で追手を射ているのだ。

彼女は続けざまに二本矢を放ち、二人の追跡者が永遠に追撃を中止した。だが、残りの者たちは怒声を上げながらなおも追いすがる。更に女騎士は弓をつがえようとするが、背負った弓筒にある矢は残り数本。全員を倒すには足りない。

「加勢しよ、ギーヴさん!」

「うむ、俺はいつでも美女の味方だからな!」

後ろ向きで顔も見えないのに、美女認定するのかい、ギーヴさん!

私たちは建物から飛び出して近くにつないでおいた馬に跨がり、追跡者たち目掛けて疾走を始めた。そして、女騎士とすれ違いざま、

「加勢するよ、おねーさん!」

「助太刀致しましょう、絶世の美女殿!」と

一声かけた上で矢を放った。ちょっ、今度は絶世の美女認定?私の方こそ好きにしてくれと言いたくなってくるよ…。

瞬く間に全ての騎士が射落とされ、逆乗りだったはずの騎手はいつの間にか普通に乗り直して私たちに近づいてきた。彼女が被っていた兜を脱ぐと、夜の闇を溶かしたかのような見事な黒髪が広がった。そこには周辺諸国の民族とは違った雰囲気を持つ凛然たる美貌の女性の姿が現れた。「おお」とギーヴさんがその美貌に感嘆の声を上げている。ちょっと、鼻の下伸び過ぎ!

「ご助勢痛み入る。パルスのお方!…と…そちらの女性はシンドゥラの方か?」

「うん、そうだよー。私はラクシュで、こっちの女たらしはギーヴ。ところでおねーさんはどちらのお人?」

ギーヴさんが横で「おい、人聞きの悪い!」とか言ってるけど、無視無視。

「私は絹の国の産で、シンリァンと申す。そしてこれが…」

そう言って、シンリァンさんは胸甲と胸の隙間から何ものかを取り出した。布の塊?…いや、違う!赤ん坊だ!ちょっと、赤ん坊連れで戦ってたの!?
産着を着せられた一歳ぐらいの赤ん坊は嬉しげに母に両手を伸ばしていて、その母が愛おしげに子をあやしながら言う。

「私と万騎長ダリューンの子、シャーヤールじゃ。パルスはどうやら戦に負けたようじゃが、我が良人は殺しても死なぬ男ゆえ、生き残ってペシャワールにでも身を寄せ、再度戦いを挑むじゃろう。その際には妾も轡を並べて戦おうと思うてな。それでエクバターナを抜け出して来たのじゃが、奴らに見つかって難儀しておった。お蔭で助かったぞ」

「へえ、ダリューンさんの奥さんなんだー。前に私たちも会ったことあるよー。強くてかっこいいよねー、あの人」

「まあ朴念仁ではあるが、無双の勇者じゃの。ところで、お主らはこんなところで一体何を?」

そこでアルスラーン一行と合流しようとしてることを話すと、シンリァンさんはすぐに同行を申し出てくれた。やった!頼もしい味方、ゲットだぜ!
ほらほら、ギーヴさん、「何だ、子持ちかあ。くそお、ダリューンの奴、うまいことやりやがって…」とか言ってないでよ、みっともないなあ。

◇◇

考えてみると、アルスラーン戦記って、やたらと妻帯者の少ない物語だよなあ。原作の十六翼将の中で明らかに結婚していたのは、キシュワードとトゥースぐらいのものだったろう。事実婚の状態にあった奴ならあと数人はいたかもしれないが、それにしても少数派でありすぎる。そもそも主君が結婚しないんだから、主君を差し置いて臣下がおいそれと結婚できる訳もないけどな。

そう言えば、フゼスターンでダリューンやナルサスと別れる前に、占いと称して奴らの未来のネタばらしをしてみたが、あれを奴らはちゃん信じてくれたんだろうか。特にダリューンは星涼公主をものに出来たんだろうか。何しろ、彼女は外伝の『東方巡歴』でしか登場しない上に、あの外伝自体が導入部分のみで終わっていて未完だから、何をどうすればうまくいくかも判らないし、特に気の利いたアドバイスは出来なかったけど、どうだろうか。

…やっぱり、難しいか。あれでも彼女は絹の国の皇族だものなあ。余程のことがない限り、遠国の一介の武人が結婚を望んだとしても叶うものではあるまい。何らかの策を弄することもダリューンには難しいだろうしなあ。

そんなことを考えながら今日も今日とて傭兵たちの調練を行っていたのだが、それを終えて陣幕へ戻ろうとしていたところに、三人娘の一人に大事な話があると言われた。何かと思って話を聞くと、何と結婚を考えている相手がいると言うのだ。しかもその相手は…。ちょっと待て、お前、本気か!?本気であいつでいいのか?
 

 

第十八話 一行合流

傭兵たちの調練に明け暮れていた俺だったが、ある日三人娘の一人、パリザードに打ち明けられたのだ。バハードゥルと男と女の関係になった。結婚の約束も交わしたので、吉日を選んで結婚式を挙げたいと。

ちょっと待て、パリザードお前年齢幾つだ?いや、アルスラーンと同じだから十四歳か。この時代だと女性の多くは十五から一八歳程で結婚する。多少早いが三人娘はみんな発育がいいし、十分に子供を産める体にはなってはいるだろう。

だが俺より五歳年長のバハードゥルは今二十九歳だ。倍も年齢が離れているし、現代日本に置き換えたら、アラサー男性とJCだぞ?いささか犯罪臭くないか?この作品のレーティング上大丈夫なのか?それにあいつは今では大巨人と謳われた往年の名プロレスラーよりも更にデカくゴツくなっちまってる。ちょっと人間やめてるだろ?って域に入りつつあるんだが、それでもいいのか?大丈夫なのか?

「大丈夫、問題ない。それに誘ったのあたしからだし」などとパリザードは言うのだ。そういや、原作では登場時既にザンデの情婦だったし、ザンデが死んでマルヤムからミスルに使者に来ていたオラベリアが拾い、彼がギスカールに献上しようなどと考えてる間にパラフーダとデキちまったりもした。こいつの貞操観念は一体どうなってるんだと前世では思ったものだったが、この世界でもその片鱗が…。乙女としての嗜みと恥じらいを弁えるよう育ててくれとカルナには頼んだんだが、無理な相談だったのか…。

だが、パリザードの好みは強く逞しい男性、それのみで、顔の美醜など一顧だにしない。その上、パリザードの体つきは大柄で骨太、豊満で生命力にはち切れんばかりですらある。生半可な女ではバハードゥルに夜な夜な求められたら壊れてしまいそうだが、パリザードならその心配は無さそうだ。元々、バハードゥルには然るべきところの令嬢を娶せようとはしていたのだが、豪族どもには打診する端から断られて来たという経緯もあった。よく考えてみると、パリザード以外にはバハードゥルに嫁の来てなんてないんだよな、確かに。

パリザードが一人で談判しに行ったと知り、血相変えて駆け込んできたバハードゥルも一緒になって頻りに頭を下げてくるので、俺は仕方なく二人の結婚を認めたよ。二週間後の出陣式に先駆けて…、いや出陣式と一緒に派手にド派手に祝うことにしよう。

さて、ラクシュとギーヴはどうなった?そろそろアルスラーン一行と合流できた頃合いだろうか?

◇◇

カーラーンの部隊がパルス北方の森林と山岳が錯綜する地帯に誘い込まれて進んでいく。それを尻目に私、シンリァンとラクシュ殿、ギーヴ殿の三人はアルスラーン一行と合流せんと森の中を進んだ。森の中としては不思議と開けた場所に差し掛かると懐の我が息子シャーヤールが急にはしゃぎ声を上げだした。それに気付いてか木陰で息を殺していたらしき者が姿を現し、声を発した。

「そ、その声、まさかシャーヤールか!」

声の主は森の闇から抜け出してきたかのような黒づくめの甲冑に身を包んでいた。それを私が他の誰かと見間違えることなど決してない。

「ようやく会えたのう、我が良人ダリューンよ。ちなみにシャーヤールはここじゃぞ、ほれ!」

私は懐からシャーヤールを取り出し、夫に渡してやった。夫はいつものようにオロオロしながら受け取るが、大丈夫じゃぞ、そんなに慌てなくとも。この子は物に動じぬからどんな抱き取り方をしてもむずがらぬ。その上、先程のように父親の気配にも誰より早く気づく。実に聡い良い子じゃ。この男の血が半分流れているとは思えぬほどにな。

「お主、どうしてここに…。大人しく夫の帰りを待つようなしおらしい女とは元より思ってはいなかったが、まさかこんなところで会うとは…」

「ご挨拶じゃのう。お主なら戦に負けても必ず生き残って再戦を誓うじゃろうからな、そんな夫に力を貸そうと都から抜けてきたのだが、迷惑だったか?」

「いや、正直助かるが…、それでお主一人なのか?」

茂みが揺れ、他にも人影が現れた。髪の長い、貴族的な優美な顔立ちの男と、後ろには少年二人。少年の片方はもう一方の少年を守るかのようでもある。

「ダリューン、どうした?誰か来たのか?その女性は?ん、他にも居るのか?」

「やっほー、ダリューンさん、ナルサスさん、エラムくんとアルスラーン殿下!ラジェンドラ殿下の忠実なる部下ラクシュ、只今参上なのさー!」

ラクシュ殿が隠形を解いて現れ、全員の名前を言ってくれたか。有り難いのう。

「おい、俺も居るって言ってくれよな!おお、ダリューン卿、お主うまくやったな、こんな美女と結婚してるなんて!」

そう言えばこの男、ギーヴ殿もいたな。女たらしとラクシュ殿には言われているが、シャーヤールをあやしてもくれるし、それだけの男では無さそうじゃがな。

「ナルサス、前にも話したがこれが俺の妻シンリァンと息子のシャーヤールだ。…しかし、ラクシュ殿やギーヴ卿まで何故ここに?」

「カーラーンの部隊に追われて難儀してるであろうアルスラーン殿下御一行をお助けするようにって、うちの殿下に言われたのさー。殿下は軍勢を率いてペシャワールに向かうから、そこで会おうってさー」

その言葉にナルサス殿の表情が強張り、我が夫が顔をしかめる。おや、ラクシュ殿のところの殿下は好かれておらぬのか?だが、アルスラーンは目を輝かせておられるな?

「おお、ラジェンドラ殿が遣わしてくれたのか!あの御方は本当に私などをよく気にかけて下さる!それこそ、本当に我が兄であるかのように!」

更に二人の表情がひどいことに…。エラム殿まで…。



…まさか折れ曲がった槍がカーラーンに致命傷を与えるとは…。夫が抱え起こし、何やら聞いているが、もう駄目だな。私やナルサス殿やラクシュ殿も駆け寄りつつあるが、もはや手当は間に合わぬ。

「アンドラゴラスはまだ生きておる……。だが既に王位はヤツのものではない。正統の王が……」

言葉の途中で血の塊を吐き、一瞬激しく痙攣したかと思うと次の瞬間にはもう事切れていた。しかし、その言葉の投げかけた波紋は大きいようじゃ。

「正統の王だと……?」

我が夫とちょうど駆けつけたナルサス殿が顔を見合わせている。そして、ラクシュ殿がそこに更なる爆弾を投げ込む。

「ああ、それってヒルメス王子のことだねー」

「な、何だと!…それは先王オスロエスの嫡子のか?」

「うん、多分それ。マルヤムからずっとヒルメス王子はルシタニアに手を貸してるんだよー。シュミの悪い仮面被って正体隠してるけどねー。諜者仲間が何人も確かに見たって言ってたー」

「何と…」

ナルサス卿が絶句しているし、夫も二の句を継げないようじゃ。しかし、まあパルスの王室にもいろいろあるものじゃな。闇と血で彩られているのは我が故国の歴史のみではないということか。

◇◇

さて、ラクシュにはナルサスたちに少しずつ情報を流せとは言ってあるが、うまくやっているだろうか。あくまでも段階的に小出しにと言ってはあるんだが。

それはともかく、パルス暦320年11月25日の俺たちの率いる傭兵たちの宿営地ではとある問題が発生していた。

…あいつら本当にいい加減にしろよな!
 

 

第十九話 焚書未遂

一部の傭兵から、うるさくて眠れないとの苦情が入った。何かと思えば、バハードゥルとパリザードの夜の営みが余りにも激しくてうるさ過ぎるのだという。ちょっと待て、まだ結婚式を挙げてないってのに、もうお励みになっているというのか!

二人を呼びつけて叱りつけたものの、パリザードの方は一向に悪びれない。バハードゥルの方は頻りに頭を下げては来るんだけどな。

「既に結婚についてはお許し頂けたはずだけど、何処に問題が?結婚式はキレイな体で?ってもう既にキレイじゃありませんが?もう少し声を控えろ?無理無理。何らかの形で何処かに逃さないとどうかなりそうだから、声に出すことで逃してるんですが?回数を減らせ?お断りします」などというのだ。全くにべもない。

だったらせめて屋外の遠く離れた場所でやるようにしてやれ。傭兵たちの安眠を奪うなと言っておいた。

その翌日以降、わざわざ二人の濡れ場を見に行って、バハードゥルの体の一部の大きさを目の当たりにしてしまい、心神喪失状態になる奴が現れるようになったが、自業自得だ。もうどうでもいいから放っておこう。

今日はパルス暦320年11月26日か。原作では王都エクバターナで焚書の儀式が行われ、王立図書館の一千万冊以上の蔵書が一冊残らず焼却されてしまうという事件が起こるはずの日だ。だが、原作でこの儀式を主導したボダンが、この世界ではもう死んでいるんだよな。となると、果たして原作通りにこの儀式が行われるんだろうか。

あと、ダリューンとナルサスが国王夫妻の安否確認のため王都に潜入してて、この儀式を目撃するはずなんだが、どうだろう。潜入しないってことはないよな?ラクシュにはエクバターナを脱出して以降の夫妻の状況は知らないと言うように言い含めておいたから、多分潜入して現在の動向を探ろうとするはずなんだが。まあ、なるようにしかならないか。

◇◇

ヒルメス殿下が生きておいでで、正体を隠してルシタニアの手先になっている!?

その話をラクシュ殿から聞かされ、俺、ナルサスは正直その真偽を疑った。だが、言われてみれば、確かにそれもあり得ることなのかもしれない。

ヒルメス殿下は火事で焼死したと言われているが、誰も死体を確認していない。もし生きていたとしたら、アンドラゴラス王を、偽りの王を推戴するパルスを激しく憎んだことだろう。そして、他国を引き入れ滅ぼさんとするかもしれない。気持ちは判る。しかし、決して共感は出来ない。

アトロパテネの戦いでは従軍した二十万人強の将兵が戦場に倒れ、その多くが生きて帰ることがなかった。王都にも七万弱の将兵がいたはずだが、陥落したことでそれも失われたことだろう。王都に暮らす人々も何万人が犠牲になったか計り知れない。つまり、少なくとも数十万人以上が彼の復讐心を満たすためだけに犠牲になったのだ。そんな事が許されていいのだろうか。いや、いいはずがない。

ルシタニア人は勿論だが、ヒルメス殿下も必ず俺たちの手で叩き潰す。だが、まずは国王夫妻の安否を知ることだ。それが判らなくては取るべき選択肢が限られてしまう。驚くべき情報をもたらしたラクシュ殿も、自分たちが王都を離れて以降のことは知らないという。何となれば、ラジェンドラ殿下は王太子である兄に戦いを挑んで敗れ、国を逐われた身の上であり、その際にほとんど全ての諜者を没収され、残ったのはラクシュ殿を含めて四人の女諜者と武将二人のみだという。最早情報を湯水のように得る手段はない訳だ。ならば、俺とダリューンで王都に潜入するしかない。聞けばヒルメス殿下の剣腕はダリューンに匹敵するという。余人に任せては危険すぎるからな。


王都に潜入したその日、南門前の広場で、焚書の儀式が盛大に執り行われようとしていた。だが、それに真っ向から異を唱えたものがいた。口ひげは黒々としているものの、後頭部に僅かに残った頭髪は白い、どちらかと言えば学究肌の線の細い六十歳前後の男だ。それが口角泡を飛ばして大司教らしき男に詰め寄っている。

「確かにこれらは異教の書物であろう。だが、これ程貴重な書物の数々をろくに研究もせぬまま渦中に投じようとは何事だ!十分な時間を掛けてその価値を判断してからでも遅くはあるまい!」

「い、いや、貴重だとしても聖典と同じことが書かれているなら聖典さえあればいいので必要ないし、聖典にないことが書かれているならそれは涜神の書だ。焼き捨てても構わぬはずだ!そうであろう?」

どうにも大司教とやらは押され気味だ。そう言えば、先日ジャン・ボダンとかいう名の先代の大司教がラクシュ殿の弓にかかって死んだばかりで、今ここに居る大司教はその地位を引き継いだばかりなのだろう。そして人選にも成功したとも言い難いようだ。貫禄がない。迫力もない。

「知っておるか!パルスには麻酔という技術がある。そのまま手術しては痛みで死んでしまいかねない患者を眠らせ、安全に手術を執り行うというものじゃ。それがあればどれだけの負傷兵が命を落とさずに済んだと思う?そんな有用な技術をただ聖典に書いてないことだからと闇に葬るつもりか!それが神の御心に適うことだと思うのか!」

「そ…それは…」

口ごもる大司教の前に悠然と進み出た者がいた。「王弟ギスカール様だ」との囁きが周囲のルシタニア兵から聞こえる。

「もう良い、控えよ!…大司教!バルカシオンの申すとおりだ。何ら確認も行わずに全てを焼くことは私が許さん!」

「…で、ですが王弟殿下…」

「何だ!私の命令に従えないというのか!祈るか異教徒を責め殺すしか能のないお主ら聖職者が、軍を編成し、指揮し、自ら戦ってきた我らより尊いとでもいうつもりか!増長するのも大概にしてもらおう!お前たち、撤収だ。本は全て元に戻し、この場を掃き清めて立ち去るのだ!良いな!」

「ははっ!!」

うなだれる大司教を尻目に周りのルシタニア人たちが慌ただしく動き出した。多くのものは広場に無造作に積み上げられた本をまとめて図書館に戻しに行き始め、大司教は聖職者たちに促され、いずこかへ戻っていく。また、バルカシオンと呼ばれた老人に小柄な騎士装束を纏った者―騎士見習いだろうか?―が嬉しげに駆け寄っていくのも見えた。

「ナルサス、良かったではないか?本が焼かれずに済んで」

「いいや、そうでもないぞダリューン。これはな、政治的な見世物さ。聖職者の長を公衆の面前で論破し、更に王権に従わさせることで、教会権力の失墜を印象づけたのだ。更にルシタニア人全てが野蛮で傲慢な征服者ではなく、異なる文化に敬意を払う理性的な強者だと見せようとしたのだ。多分、あの王弟とやらが仕組んだのだろう。全く、ルシタニアにも食えない奴が居る…」

その時、居合わせた人々の耳を鋭い羽音が叩いた。一人の男の胸にいずこからか飛来した矢が突き立ち、ゆっくりと前のめりに倒れた。

「伯爵様!バルカシオン様!」

騎士見習いと思しき者が必死に呼びかけるも、何一つ言葉を返さぬまま息を引き取った。

「ナルサス、あそこだ!」

ダリューンが指差す方向、広場の北にある家の屋根に弓を携えた人影が見えた。ラクシュ殿か?いいや、違う。彼女はアルスラーン殿下や他の者達と一緒に郊外の無人となった集落に潜んでいる。それとは別の何か良からぬことを企む者の仕業だろう。

「追うぞ、ダリューン!」

俺たちは弓を持ったまま逃げ去ろうとしている人影を追いかけ、駆け出した。

◇◇

バルカシオン伯爵はいつも私の事をエトワールと呼んだ。何度も「私の名前はエステルです。エトワールなどという名は捨てました!」と訴えても、その場は詫びるものの、次に顔を合わすとやはり私をエトワールと呼ぶのだ。古い友人だったという祖父から託された私をまるで本当の孫娘のように思ってくれていたのかもしれない。女の子なのだから、戦いの悲惨さなどとは無縁でいるべきだと本当は言いたかったのかもしれない。でも、もう何も言ってくれない。答えてさえくれない。一本の矢がこの方の命を奪っていってしまったから。

「おのれ、誰だ!誰が殺した!誰がこの矢を打ち込んだのだ!」

伯爵様のご遺体を抱きかかえたまま、周りを見回す。するとおずおずと答える者があった。

「どこから飛んできたものかは判りませんが、だとするとこれは『弓の悪魔』の仕業かもしれません」

「『弓の悪魔』だと?何なのだそれは!」

「先日、ジャン・ボダン大司教を遠矢にて殺した者です。この方の死因も弓。だとすれば、おそらくは…」

おのれ、弓の悪魔め!必ず復讐してやる!伯爵様の仇を絶対に取ってやるからな!

◇◇

ちょうどその時、ラクシュは超盛大にくしゃみをしたらしい。

「嫌だなー、殿下以外の人からの電波なんて受信したくないのにさー」などとぼやきながら。
 

 

第二十話 騎士見習

ラクシュが俺は諜者のほとんどを取り上げられており、ラクシュと三人娘しか残っていないとアルスラーン一行に話していたのは、半分は事実で、半分は嘘だ。確かに、一時的にはあの四人のみになっていたが、ギランに到着した直後に、ラクシュの父親でパルス国内の諜者統括の任にある男が、配下の半分二十人をラクシュの為に送ってきてくれたのだ。あの男は娘にダダ甘だからな。

だが、いくら頭領の娘でも、弓以外は及第点ギリギリのラクシュに統括させるなんて無理な話。そこはカルナから密かに後継者と目されてすらいたフィトナに任せることにした。原作でフィトナは支配者不在となったミスル王国で女王として君臨し、一軍を率いてパルスに侵攻を図ったりしていた。それだけに統率力とカリスマには折り紙付きだ。二十人の諜者はフィトナを前にして、その威に打たれたかのように平伏し、絶対服従を誓ったという。そして、その指示に従い、すぐさまパルス各地に散った。…こいつ、俺より支配者に向いてるんじゃね?まあ、いいや。任せられる仕事は任せてしまおう。

◇◇

おとーさんから譲ってもらった諜者の一人から、私、ラクシュに連絡が入った。

『ザッハーク一党に潜伏中のグルガーンより、尊師の弟子がルシタニアの要人暗殺に動き出したとの知らせあり、注意されたし』だそうだ。

あちゃー、もうナルサスさんたち王都に行っちゃったよ。タイミング悪いなあ、もう。

まあいいか。あの二人なら何にも知らなくても何とかなるなる。私はこのままこの廃村で待機しつつ、殿下への愛のポエムをしたためていようっと。

◇◇

弓を携え逃げる男を、俺、ナルサスとダリューンが追う。だが、男は家々の屋根を飛びつたい、俺たちは地上を走っている。くそ、このままでは振り切られる!そう思った刹那、ダリューンが逃げる男に対して短剣を放った。

「ぐおっ!」

しめた!背中に短剣が刺さって奴が屋根から落ちた。すかさず、俺たちは路上に落ちて横たわり、背に刺さった短剣を抜かんとしていた男に追いつき、剣を突きつけた。

「何者だ、貴様!何の目的があってあのルシタニア人を殺した!」

その問いに、暗灰色の衣に身を包んだその男は含み笑いと共にきしむ様な声で答える。

「くくく、我が名はビード。蛇王ザッハーク様に仕える下僕の一人よ。ザッハーク様復活の為には更なる流血が必要でな。あの様な良識派に賢しらに振る舞われてそれを妨げられては困るゆえ始末したまでのことよ!」

「何、ザッハークを復活させるだと!?」

「その様なことは許せぬな。ビードとやら、お主にはここで死んでもらおう」

「くくく、出来るかな?お前たちごときに!」

くっ、こいつ、その言葉とともに、刺さっていたナイフを俺に投げてよこしやがった。それを躱すも、ビードに距離を取られた。斬りかからんとするダリューンだが、

「ぬっ、こいつ何かを!」

ビードの右手がすばやくひらめくと何かがそこから飛来し、ダリューンはそれをのけぞって躱した。何だ、今のは?

「くくく、操空蛇術の一種でな。魔力で空気を瘴気に染め、蛇の形にして放つ魔道の技よ。しかも我ほどになれば、幾らでも瞬時に放つことが出来る」

「なるほど、先程の矢もそれを用いて遠くへ飛ばしたということか」

「おお、その通りよ。そして、死ぬのはうぬらの方だ!そらそらそら!」

ビードは瘴気の蛇を次々と放ってくる。その為、剣の間合いまで近づくことも叶わない。躱すので精一杯だ。

「おい、ナルサス!どうにかならないのか!」

「こうひっきり無しに飛んでくるのではな!せめて奴の動きを一瞬でも止められれば…」

「ほう、ならばいい手があるぞ?」

ダリューンが人の悪い笑みを浮かべる。こいつがこんな表情をする場合、ろくなことではないんだが…。

「おい、ビード!これを見ろ!」

ダリューンが懐から何ものかを取り出して掲げ、ビードに見せつける。何だ、あれは?光の加減で、俺の位置からはよく見えんが…。

「…な、何なのだ、それは…」

む、ビードがおよそ理解の及ばぬ何かを見たと言わんばかりに硬直している?よし、今だ!俺は一瞬で間合いを詰め、奴の首をはねた。路上に転がった奴の首はそれでもまだ表情を凍りつかせたままだった。

「ナルサス、見事だ!」

ダリューンが先程ビードに見せつけたものを片手にこちらに駆け寄ってくる。んん?何だかそれにはひどく見覚えが…。思い出した!それは

「おい、ダリューン。それはお主が絹の国に赴く際にお守り代わりに心を込めて俺が書いてやった色紙じゃあないのか?」

色紙と言っても、邪魔にならないよう手のひら大程度の大きさだ。そこに俺はダリューンの雄姿を克明に描いたはずなのだが。

「いや、怨念を込めた描いたこの世ならざる者の姿絵だろう?まあ、絹の国でも今ここでも魔除けとして最大限の効果を発揮してくれたがな」

ニヤニヤと嗤うダリューン。常日頃の重厚さなど何処に捨ててきたのかと言う感じである。

「ダリューン、お前!お前なあ…」

俺は二の句を継げずに口を虚しく数回開閉させた。こいつ、人の絵を何に使っているんだ!どうやらこいつには芸術の何たるかをこんこんと説いて聞かせてやる必要がありそうだな!まず、何から言うべきか…

と、思っていると、路地の奥から足音が聞こえてきた。

「何だあ、人がせっかく気持ちよく飲んでたってのに、やかましくしやがってよ…、げっ、ダリューン!?」

酒瓶を片手にフラフラとこちらに歩いてきて悪態をついていた男が、相手がダリューンに気づき、踵を返そうとした。おや、この男パルス兵だ。そして、おそらくカーラーンの一党に属してルシタニアの走狗となっている者だろう。俺たちは目線で合図しあい、奴を追いかけ袋小路に追い込んだ。

「さてと、話してもらおうか!国王夫妻の居所をな!」

◇◇

「待て、待つのだ!伯爵様の、バルカシオン様の仇め!この騎士見習いエトワールがこの手で葬ってやる!」

そう叫び、やたらと剣を振り回してくる小柄な騎士見習いに私、ラクシュは追いかけられている。街中で見つかり、何とか乗ってきた馬のところまで逃げ延び、王都から脱出して安心したのもつかの間、この子単騎でどこまでも追いかけてくるんさー。ああもう、どうしてこんなことになるのさー。


「母上がルシタニア国王に結婚を迫られている!?…そんな、そんな事を許す訳にはいかない…。一刻も早く母上をお助けしないと…」

王都から戻ってきたナルサスさんたちからもたらされたバッドニュースにアルスラーン殿下は一瞬呆然とした後、そう呟き、すがるような目を私たちに向けてきた。いや、そんな顔をされてもねー。正直無理だよー。ここに居る人数だけで、王宮からタハミーネ王妃を助け出そうなんてさー。

あ、シンリァンさんが、まだあわてるような時間じゃないとアルスラーン殿下に語りかけてる。ナルサスさんやダリューンさんもそれに同調してる。そうだよねー、そもそもそんなの他のルシタニアの人たちがやすやすと認めるはずがないしさー。

「確かにみんなの言うとおりだ。今は私の感情より、この国を救うことを考えるべきなのだろう。だけれど、母上は敵中にたった一人で、さぞ心細い思いをされているだろう…。何とか母上の気持ちを安んじて差し上げることだけでも出来ないだろうか」

うーん、けなげだね、アルスラーン殿下は。あんな、冷たい自己チュー女をそこまで気遣うなんてねー。ここはこのラクシュおねーさんが一肌脱いであげるとしようか。よし、いつもよりほんの少しだけ丁寧な口調をこころがけて、と。

「アルスラーン殿下、私はそのお優しい気持ちに大変感銘を受けました。ならば私が王宮に矢文を打ち込み、殿下のご無事をお知らせ参らせましょう」

「おいおい、ラクシュ、王都にはヒルメス王子だって居るんだろう?お前じゃあ見つかったらひとたまりもないぞ?」

ギーヴさん、止めてくれるな。それに私は大丈夫さー。

「ふふん、ギーヴさん、心配ご無用なのさー。実はねー、ヒルメス王子は火が弱点なのだよ。昔焼け死に掛けたからねー。それさえ知ってれば何とか逃げるくらいは出来るさー」


ってな訳で、王都に忍び込んで首尾よく王宮の王妃様がいる辺りに矢文を打ち込めたまでは良かったんだけどねー。何処かでこの子に見られてたみたいなんだよねー。何だかずっと追ってくるんだよー。

騎士見習いエトワールってことは、あのエステル・デ・ラ・ファーノだね、きっと。うちの殿下に聞いたことがあるわー。真面目一辺倒なアルスラーンが唯一心惹かれるかもしれない女の子。真っ直ぐで一生懸命で、庶民として育っていた時期はともかく、王宮で育てられるようになってからは決して出会うことがなかったタイプであるらしい。見つけたら決して殺さずに、アルスラーンの所に連れて行くようにと、うちの殿下からは言い含められていた。

なのに、それがどうして私をこんなにしつこく執念深く追いかけてくるのー。冗談じゃないよー。

「ちょっと待ってよー。伯爵とか、バルカシオンとか、そんな人知らないよー。人違いだってばー」

「しらばっくれるな、弓の悪魔!ジャン・ボダン大司教だけでは飽き足らず、バルカシオン伯爵まで射殺しおって!伯爵は私の恩人だったんだぞ!それをよくも!」

あー、そういうことねー。街の噂で私が「弓の悪魔」って言われてるってのは聞いてはいたよ。至高の聖職者を手に掛けた悪魔のような異教徒、人間離れした弓の使い手、それで「弓の悪魔」ね。何かこう、ひねりが足りないよね。もっと厨二病魂が震えるようなナイスなネーミングはなかったんかーい!それはともかく、その伯爵って人は何者かに弓で殺された。そして、さっきも王宮目掛けて矢を放ってた怪しい人物がいた。それは全て弓の悪魔と思しき私の仕業だろうってことなのねー。よく判ったよ。判りたくないけど。

「ええい、ちょろちょろと逃げよって!いい加減我が刃にかかるのじゃ!」

「うわわっ!」

おっと、今の一閃、首筋をかすめたよ!これ、騎士見習いの太刀筋じゃないでしょー。何でこの腕で見習いなんてやってんのさー。これはちょっと私の腕じゃ殺さずに連れて帰るなんて無理だよー、殿下。それにしつこいし。さっきからどんだけ振り切ろうとしても、全然駄目だしさー。

おっ、そうだ!閃いた。このまま追いかけさせて、アルスラーン一行のところまで逃げ続けよう。そこにはダリューンさんもナルサスさんもシンリァンさんも、あとギーヴさんとかもいる。彼らが束になってかかれば、生け捕りだって難しくはないはずさー。

ざん

そんなことを考えながら向かい風に向かって突き進む中、頭のすぐ後ろでそんな音が聞こえた。

あれ、今なにか斬れた?あれ、髪が?髪がー!ポニーテール美少女と名高い私の髪の馬の尻尾部分がー!ちょっ、マジでヤバい、この子本当に強いって!生きて帰れるの、私ー?

◇◇

パルス暦320年、アトロパテネでの敗戦の後、国王アンドラゴラスの消息は途絶え、王都エクバターナはルシタニア軍により陥落せしめられた。このときをもってパルス王国は滅びた。周辺諸国の史書にはそう記載されることとなるだろう。それをただのカイ・ホスロー王朝の終焉のみでとどめられるかは、今後の俺たち次第であった。
 
 

 
後書き
序章 王都炎上 はこれにて終了です。次回から 第二章 王子三人 に突入します。 

 

第二十一話 小恋旋律

パルス暦320年11月末、俺たちは傭兵三万弱を率いてギランを発ち、ペシャワールを目指すことにした。ニームルーズ山脈とギランとの間を南北に流れるオクサス河にそって北上し、その後はニームルーズ山脈を迂回した上でペシャワールに向かうことになる。

もしもペシャワールでアルスラーン王子と合流した上でヒルメス王子とも顔を合わすことになるならば、「王子二人」ではなく、「王子三人」になる訳だな。まあ、俺は他所の国の王子だが。何にせよ、その日が非常に楽しみだ。どんな言葉をヤツに投げかけてやろうか。

◇◇

私たちがいる廃村までラクシュ殿を追いかけて来た騎士見習いエトワールはみんなの手で生け捕りにされ、今ギーヴによって縄で再び縛り上げ直されたところだった。

「さてと、こんな感じの縛り方でいいですかね、アルスラーン殿下?」

うん、さっきの縛り方よりは普通で、大分いい。さっきのは随分とその…いろんなところに食い込んだり、胸の形が強調されてたりして…、何というか目の毒だった。

ダリューンなんかは

「ギーヴ殿、お主、何というものを殿下にお見せしているのだ!」

と剣を抜かんばかりの剣幕でギーヴに詰め寄るし、エトワールはエトワールで

「何というものとはどういうことだ!私がそんなにみっともないとでもいうのか!」と縛られたまま怒って暴れて、やたら体の一部が揺れまくるし…

…まあいい、忘れよう。

篝火の元、私たちはこの騎士見習いとの話し合いを始めることにした。

「…それで君は恩人のバルカシオン伯爵?を彼女が殺したと思ってるんだね?」

「その通りだ。後ろ暗いことが無ければあんなに逃げるはずがない!こいつだ、こいつがやったに違いない!」

その調子では無実でも逃げたくなる気がするけれど…

「でも、彼女は今日の昼間はずっとここに居たんだよ?私だけでなく、ここに居るエラム、ギーヴ、シンリァンもそれを見ている。夜が更けてからは確かに私がお願いして、王都に行ってもらっていたけれどね」

「なんだと?それは本当のことなのか?」

「真のことじゃぞ、ルシタニア兵。この目を見よ。正義と真実の光に溢れていようが!」

「おい、またそれを言っているのかお主は!そんなものこの夜の闇の中では見えぬだろうが?」

またダリューン夫婦が漫才を始めた。本当に仲が良いなあ。いつか私もこんな風に…。いや、それは今はいい。

「ではあんな夜更けに何の目的があったというのだ!大方ろくでもないことなのであろう?」

語気を荒げる彼女に私はどう答えるべきか迷った。身分を明かしたらよそよそしい態度を取られてしまうかもしれない。出来るだけ、私の身分はぼやかしておこう。

「王宮に私の母が囚われているのだ。母が心細くならないよう、矢文で私の無事を知らせようとしたのだ」

「そ、そうだったのか!済まぬ、疑ったりして!」

私の声音に何かを感じ取ってくれたのだろうか。素直に詫びてくれた。ここまで素直だというのも新鮮だな。どうにも高貴な方とか大人の人は素直に自分の非を認めてくれないものだから。

「バルカシオン伯爵とやらを暗殺した者なら俺とナルサスとで倒したぞ?蛇王ザッハークの下僕を自称していた魔道士だった」

「?蛇王ザッハーク?何なのだ、それは?」

「何百年か前までこの国を支配してた魔王みたいなものさー。両肩にニョロニョロと蛇が生えてて、その蛇が人間の脳みそをムシャムシャ食べるのが好きだったんだってさー」

ああ、確かにパルス人以外にはあまり知られていないのかも。とはいっても今説明してくれたのは、シンドゥラ人のラクシュ殿だが。そう言えばラジェンドラ殿もよくご存知だったな。

「そのザッハークを復活させるにはもっとたくさんの血が流れる必要がある。それを妨げるような良識派の存在は邪魔だと言っていたな」

「馬鹿な!伯爵はただ単に図書館長だったからその立場上ああ言っただけの事だ!流血を止めるとか止めないとかそんな立場の人ではない!」

「…となると何だ?伯爵とやらは見込み違いで殺されたと?」

「そうなるな、ギーヴ殿。多分、あの場であのように口論するよう仕向けたのは王弟ギスカール公だろうが、そのせいで巻き込まれてしまったとも言える」

「いいや、ギスカール公を責めるのは筋違いというものだ。全てそのザッハークの下僕とやらが…、おい、そのザッハークの下僕とやらはそいつだけか?それともまだあと何人もいたりするのか?」

いや、さすがに私たちはそこまでは…。

「居るよー?今回倒したのはビードだっけ?だとすると、指導者の尊師とかいう人を含めて後七人だねー」

「!ラクシュ殿、どうしてそれを!」

本当に、どうしてそこまで知ってるのだろう?

「ラジェンドラ殿下がグルガーンさんに頼んでザッハーク一味に潜入してもらって、情報も送ってもらってるのさー。尤も不審がられないようにだから、連絡頻度はそんなに高くないんだけどねー」

グルガーンというと、フゼスターン地方のミスラ寺院で会ったファランギースの恋人の兄弟だという人か。そう言えばその人は置き手紙を残して急にいなくなったそうだったけど、そんな事情があったのか。

「そうか、ならば、ザッハークの一味とやらは私にとっても恩人の仇、憎むべき敵だ。お主らがルシタニアと戦うなら全く協力は出来ないが、相手がザッハーク一味なら別だ。頼む、私も戦うゆえ、一緒に行動させてくれ!」

「そーだねー。それがいいよー。ザッハーク一味が流血を加速しようとするならそれを阻止せんとする私たちの前に必ず現れるはず。迂遠に見えて、共に行動することがザッハーク一味と雌雄を決する一番の近道だよー」

うん、私もそれがいいと思う。この子はいささか無鉄砲過ぎる。弓の悪魔と恐れられるラクシュを単身追いかけるなんて、恐れを知らないのだろうか。こんなことではすぐに死んでしまいかねない。そばに置いて、目を離さないようにしないと。

それに何だか目が離せない。ほっそりとしているのに男の私とはまるで違う体の曲線を何だか不思議と目で追ってしまう。ころころと変わる表情でいつも気持ちを偽らずに伝えてくれるのもうれしい。いつも元気で見ていて何だか微笑ましい。ずっと近くで見ていたいと思ってしまうのだ。何だろうな、この気持は。一体、何と呼ぶべきものなのだろう。

◇◇

エステル・デ・ラ・ファーノ。俺は彼女こそが人間アルスラーンをこの世界につなぎとめる楔だったと思っている。原作で彼女が死んだ時、俺はその時初めてこの世界の崩壊の序曲を聞いた気がするのだ。彼女がいなくなったがために、アルスラーンは一人の人間であることではなく、王者として在ることに専心するようになった。そして、ザッハークと対峙し、相打ちになることを厭わなかった。臣下を残して死ぬ主君があるか!お前は無責任だ!と何度叱りつけたいと思ったことか。

原作で彼女が出てくるのは第四巻汗血公路のことだったな。聖マヌエル城の攻防戦で初めて登場するのだった。とするとまだまだ先のことになるのか。ならばまだ彼女のことをそんなに考えることはないか。今はペシャワールについてからの自分の立ち回りについて、一つ一つおさらいをしておかなくてはな。

そんな風に考えていた俺は、後日諜者から、既にエステルがアルスラーン一党と行動を共にしているとの報告に、馬から転げ落ちそうになった。

ちょっと待て、あの逃避行にエステルが同行してるだと?危ないだろうが!特に途中で一人又は数人に分断される部分がマジでヤバい。大体、この世界ではアルスラーン一行の人数が変わってしまってるんだから、あのシャッフルの結果がどうなるか見当もつかない。

くそお、こうなったら一刻も早くペシャワールに着かなくては!そして、そこから速攻でアルスラーン一行を迎えに行くのだ!
 
 

 
後書き
今回のサブタイトルは 小さな恋のメロディ のつもりです。 

 

第二十二話 一行離散

エステルが既にアルスラーン一行と行動を共にしていると耳にした直後には、一刻も早く一行と合流してエステルを守らなくては、と思ったものだった。

だが、そうしてしまうとナルサスとアルフリードが出会う機会がなくなってしまう。実際のところ、アルフリードは貴重なのだ。その神算鬼謀ゆえにナルサスは味方からも恐れられることが多かったはずだ。弟子のエラムでさえも、ナルサスがヒルメス王子が何度挑戦してきてもその度叩き潰すとうそぶいたときには戦慄したものだった。画才のなさとそれでいて画家として認められることを熱望するという可笑しみが無ければ、無欲で何を楽しみに生きているか判らぬ得体の知れない策謀家とただただ恐れられた事だろう。貴族諸侯としても彼を娘婿にするのは躊躇したのではないだろうか。そんなナルサスを、強くてしかも頭もいいということだけで好きになってくれたアルフリードは稀有の存在だ。出会わぬようにしてしまうのは勿体無い。

故に俺たちはニームルーズ山脈にもその間近にあるカシャーン城塞にも近寄らず、ただただ一路ペシャワールに急いだ。アドハーナの橋、まずあれをザンデに落とされないようにしなくては。

ちなみにカシャーン城塞で、城主ホディールに娘を差し出されそうになったアルスラーンは、傍らにいたエステルを抱き寄せ、

「有り難い申し出だが、私はこの娘に夢中なのだ。他の女に構っている暇などないな」と一言のもとにはねのけたのだそうだ。直後に怒ったエステルに太ももをつねられたそうだが。

実にいい兆候だ。このままエステルにはアルスラーンと共にあり続けて、彼を王ではなく人間の側につなぎとめておく楔となって欲しいものだな。

◇◇
我ら九人(赤子のシャーヤールも一応数に含めておる)が三組に分かれてペシャワールでの再会を期して夜道を東、南、北の三方向へと走り出した後、私、シンリァンの隣で馬を走らせていたのは、我が良人ダリューンじゃった。これ、露骨に当てが外れたような顔をするでない。私としても、殿下や少年少女たち、それと弓以外は不得手というラクシュ殿を守るつもりだったのじゃから。

私たちを待ち受ける包囲網の中には、万騎長カーラーンの子、ザンデと名乗る者がいた。なかなかの豪勇の持ち主のようじゃ。私も馬を一頭やられたしの。それにしても見上げた闘志じゃ。それなりに傷を負っているはずはずなのに、動きが一向に衰えぬ。十合、二十合、三十合…なかなか埒が明かぬの。本人の動きが衰えぬなら、馬の方をどうにかしようか。先程の返礼にもなるしの。

私の射た矢は狙い過たず、ザンデの乗馬の右目に命中した。が、そこからがまずかった。精々動きが鈍る程度かと思いきや、矢が脳にまで達したのか急激によろめき横転するとは。

ザンデの巨体が剣を手にしたまま勢いよく地面に投げ出された。受け身を取る間も無かったのであろう。したたかに背中を打ち、うめき声を洩らしている。

馬が目を射抜かれ、棹立ちになっている隙に、ザンデが馬上から斬って落される。そうなると思っていたのに、思った以上に馬があっさりと倒れすぎた。我が夫は無双の勇者だが、落馬した敵を、立ち直る隙も与えずに斬殺するのは好まぬだろう。そのような甘さは人として好ましいとは思うが、今はま―

私がとどめを刺そうと駆け寄ろうとする間もなく、我が夫の剣が兜を両断してザンデの頭蓋ごと叩き割っていた。そのすさまじい光景を目の当たりにした手下の兵は算を乱して逃げ散っていく。後には彼らの死体のみが残された。

「…意外じゃったのう。お主ならあのザンデとやらが馬に落ちたとき、剣を振り下ろすのをためらうと思ったのじゃが…」

「ああ、俺が独り身ならそうだったろうな。あいつ程度ならいずれ討ち取れる。後日また正々堂々と雌雄を決すればいい。そう考えただろうな」

「だったら何故じゃ?」

「さっきお主が馬を斬られたとき、肝が冷えた。お主を失うかと思った。あいつを生かしておいては今度はお主が本当に斬られるかもしれない。そう思ったからな。寸毫も迷わなかった」

…そうか、そういうことか。だとしたら私はお主を変えられたのじゃな。あの時別れずにいて本当に良かった。

「ほほう、それは嬉しいことを言ってくれる。わざわざパルスくんだりまでついて来た甲斐があったというものじゃ」

「い、いや、そういうことではない!ただ、お主が死んだらシャーヤールの子守は誰がするのだと思っただけだ!」

そうか、これがラクシュ殿が言っていた「つんでれ」とかいうものか。ふふふ、殿方のそれは確かにかわいいものじゃの。

怒ったかのように無言で先を急ごうとする夫の背中を、私はこみ上げる笑いを堪えながら追いかけた。

◇◇

俺、ナルサスはエラムと共に、南の尾根を越えんとする山道に馬を駆けさせていた。夜明け前までに、幾つかの包囲を抜け、追跡を振り切り、どうにか落ち着いたように思えた。

それにしてもうまくいった、と俺は思う。自分はエラムを伴い、殿下は驍勇のダリューンに委ね、もう一組はエトワール、ラクシュと言った今ひとつ強さに不安がある者たちをシンリァンやギーヴが守る、そういう形が一番自然だと思っていたが、まさにその通りになった。さすが俺だと思わざるを得ない。

が、エラムにそれを話したら、この道に限ってはそうかもしれませんが、他の道を進んだ組み合わせもそうとは限らないのでは?と冷水をぶっかけられた。そ、そうだな、その可能性もあるな。まずい、失敗したかもしれん。いずれにしても早く先に進んで合流しなくては。

しかし、計算違いというものは重なるものであるらしい。ゾット族がヒルメス一党と戦っていたこと、ゾット族の娘と行動を共にすることになってしまったこと、そして、何故だかそのゾット族の娘、アルフリードに気に入られてしまったこと。

「お主は年の離れた女性と縁がある」と何年か前に、シンドゥラのラジェンドラ王子に言われたことがあった。そのときは何を馬鹿なことをと内心思ったのだったが、ことダリューンに限ってはラジェンドラ王子の言葉は的中していた。確かに、遥か遠方の国にいた運命の女性を、手を離すこと無く連れて帰ってきた。

だとすれば、俺の運命の赤い糸はこの俺とはちょうど十歳違いのこの少女の小指につながっているのだろうか。それにしても年下か、俺はむしろ…。いや、何も言うまい。

正直、ダリューンが結婚したというのは衝撃だった。何という絶世の美女と思ったが、それもそのはず実は絹の国の公女殿下なのだという。事あるごとにのろけられるというのがこれ程辛いものだとは思ってもみなかった。俺もこの戦が片付いたら、と思わないでもなかった。

それにラクシュ殿にも言われたのだ。

「多分、ダリューンさんは親子二代に渡ってアルスラーン殿下に仕えるつもりだろうに、ナルサスさんは自分一代限りにするつもりなの?不忠者だねー」と。

いや、エラムがいるではないか。あれはよく出来た子だ。十分俺の後釜が務まるとは言ったのだが、

「でもあの子と一緒なのはここ数年だけなんでしょ?生まれたときからじゃないと、親の背中を見ながら育つんじゃじゃないと伝わらないものってあるんじゃない?まだ若いんだからちゃんと相手見つけなよー!」というのだ。

確かにその通りかもしれないとは思う。それに軍師なんて因果な商売だ。謀を帷幄の中に運らし勝つことを千里の外に決す、などと言うが、逆に言えば、戦場から千里離れても心は戦場から決して離れることはないのだ。常在戦場なんてうそぶく戦闘狂と大差ない、度し難い生き物なのだ。そんな俺を好いてくれる女性など果たして他に現れるのやら。

そうだな、あと二年待とう。他に俺を好きになってくれる妙齢の女性が現れるかもしれないし、アルフリードが俺の想像を超えるほど素敵な女性に成長するかもしれないし、アルフリードが別の男性に心惹かれることもあるかもしれないし。そのときを待って結論を出そう。俺はそう決めたのだ。だからエラム、そんなに俺を睨むな。青い果実にうつつを抜かす見下げ果てた最低野郎めが!と言わんばかりの視線を向けるのは頼むからやめてくれ。

◇◇

パルス暦320年12月12日、急ぎに急いだ俺たちはようやくペシャワール城塞に到着した。したのだが…。

ちょっと待て!何で完全武装、臨戦態勢で待ち構えているんだ?ちゃんと先触れだって出しただろう?

は?何だよ、ジャスワント。何をクスクス嗤ってるんだよ?

「自分の胸に手を当てて考えてみてはどうですか?」ってどういうことだよ? 

 

第二十三話 城塞集結

ペシャワール城塞に辿り着いた三万弱の傭兵を率いる俺たちを待ち受けていたのは、完全武装、臨戦態勢の数万の兵だった。

一人の武将が陣頭からただ一騎こちらに進み出てきた。白頭白髭で厳めしい顔つきの老将だ。双刀も携えていないし、するとこれはキシュワードと共にこの城塞を守るもう一人の万騎長バフマンか。この時期のこの男はヴァフリーズの密書の件で鬱屈し、無気力振りが際立っていたはずなんだが、全然そうは見えないな。その老将が声を張り上げた。

「シンドゥラの横着者!呼ばれもせぬのに何をしにここまで参った?」

おいおい、ご挨拶だな。事前に先触れは送っといただろうに。

「俺はアルスラーン王子とは義兄弟の契りを交わした仲故な、貴国の窮状を見捨てるに忍びなく、馳せ参じたまでのこと!ご理解頂けたら開門と入城の許可を頂きたい!」

「ふん、その様な見え透いた口上、信じると思うてか!ここ数年は途絶えていたが、ガーデーヴィ派の使いがお主に気を許さぬようにと盛んに言ってきおったぞ!愛想笑いをしながら、相手ののどを掻き斬るのがお主のやり方なのであろうが!」

「ちなみにここにそれを伝えに行っていたのはこのジャスワントでございます」

いやあ、いい仕事をしたなあ!と言わんばかりの満面の笑みが憎たらしい。

「おま、お前なあ!ふざけんなよ、ジャスワント~!……まあいい、お前は自分の職務に忠実だっただけだ」

そして、こう言っておけば罪悪感を感じるだろう、真面目だからな。ほら、顔色が変わった。チョロいヤツめ。

「確かに身に覚えはあるが、弱い立場の者を虐げたことは誓って一度もない。敗戦国を更に鞭打つ様な真似などはせんよ!」

「なっ、我が国を敗戦国と謗るか!」

さすがにバフマンが気色ばむ。

「その通りだろうが!アトロパテネで敗れ、王都は陥落し、国王は行方不明。この上王位継承権を持つ者が死に絶えれば名実ともにそうなる。それを防ぐために俺が来てやったって言ってんだろうが!早く中に入れさせろ!そんで早く俺をアルスラーンを助けに行かせろってんだろうが!」

「ふん、つまりはそれが狙いか!どちらも出来んし、その必要もない!既にキシュワードが王太子殿下を迎えに出向いておる。すぐ傍まで来ているはずというお主の知らせが確かなら、程なく連れて帰ってくるじゃろうよ!」

なる程、最初からこの老将の狙いはここでの足止めか!

「そう言う事ならここでこのまま待たせて貰うが、アドハーナの橋は無事なんだろうな?あれが落とされてでもいたら程なくって訳にはいかないのではないか?」

確かあの橋が落とされると、代わりに架橋出来る場所はその周辺三ファルサング(約十五キロメートル)ほどにはなかったはず。もし落とされていれば、大変な遠回りになるはずだ。

「ふん、要らぬ心配よ!あの橋は昨年、石の橋に架け替えられておる。フゼスターンのミスラ神殿の新しい神官長、イグリーラス殿からの提案で、神殿とペシャワール城塞とで資金と人手を折半してな!」

イグリーラス?それってファランギースの婚約者の?いや、もう四年もたってるんだ。既に結婚して子供がいたっておかしくないか。それにしてもこっちに戻って、神官長になっているとは!

「イグリーラス殿なら面識があるぞ!彼は、それとその奥方はお元気なのか?」

「お、おお、あのご夫妻は架橋作業の立ち合いに何度か来られてな。奥方は双子のお子たちを抱いておられた。夫婦仲睦まじく皆お元気であったな」

自分の知り合いを俺が知っている。その事実を前に老将の口調が軟化し始めた。この男、そんなにこの国に知己が多いというのか?だとすると、アルスラーン殿下と義兄弟の契りを交わしているというのもあながち嘘ではないのか?いや、ガーデーヴィ派からの評価を忘れてはなるまい。しかし、本当にそうなのか… そんな副音声が聞こえてくるかのようだ。パルス人、本当に腹芸苦手だよな。

よし、ここは前世での知識を総動員して、パルス人との知り合いエピソードを捏造しまくろう!大丈夫、マヌーチュルフとかシャプールとか、既に故人になってるヤツとの話にすれば、ネタが割れる心配はない!

そうしていつもより心持ち舌の回転率を上げて、矢継ぎ早にいろんな思い出話をその場ででっち上げつつ話していると、足早に駆け込んできた者があった。どうやら伝令兵らしい。片膝をつき、バフマンに向き直り報告を始めた。

「申し上げます。先ほどキシュワード様麾下の一隊が王太子殿下御一行を発見。すぐさま全軍で、御一行に襲いかかっていた不逞の輩を追い払いました。間もなく王太子殿下御一行を伴い、キシュワード様がお戻りになられます!」

おお、そうか、四年ぶりに、アルスラーンやナルサス、ダリューンたちに会えるな。ラクシュとかとは2ヶ月ぶりか、それは別にいいが、エステルや、外伝でしか知ることが出来なかったシンリァンを目の当たりに出来るというのは素直に嬉しく思える。だが、その後のやり取りを聞き、俺は…

「それで、王太子殿下は、その御一行の方々はご無事か?怪我などはしておらぬのだろうな?」

「それが……エトワールと呼ばれていたお方が、銀仮面の男に斬られました!」

俺は一気にどん底へと突き落とされた。

◇◇

全くもう、あのアルスラーンという少年は本当にしょうがないやつだ、と私、エトワールは思わざるを得ない。

大して年齢は変わらないように見えるのに、初めて会ったときからやたらと年上ぶるのだ。それで少し癇に障って年齢を聞いてみたら、何とたった二ヶ月とは言え私の方が年上ではないか!なのに、こいつは勝手に人を妹扱いしていたのだ!憤然とくってかかる私に、だって怖いもの知らずだし、頑固で思い込んだら一直線だし、子供っぽいと思われても仕方ないだろう?などと言うのだ。

それを言うなら、自分がパルスの王太子だと一向に教えず、身分を聞いてもなかなかはっきり答えず、余りにも回りくどい表現をするこいつこそ何だというのだ。そんなのいずれバレるのに、何で隠そうとする?まるで自分の粗相を隠そうとする小児の様ではないか!私がそう責めると、こいつはうなだれながら、それを知られたら君に距離を取られるかもしれない。よそよそしい態度を取られるかもしれない。それが怖かったなどという。

何を言っているのだと私は言ってやった。私はルシタニアの騎士だ。正確にはまだ騎士見習いだが、私が頭を垂れるのはイアルダボート神とルシタニア王室のみだ。お主なんかを敬ってなどやらない。態度など変える訳がないと。

そしたらこいつは妙に喜んでなあ。だったらこれからは私のことをアルスラーンと呼び捨てで呼んでくれ、私も君をエトワールと呼ぶから!などと言ってきたが、鄭重にお断りさせてもらった。

だってなあ、こいつを呼び捨てになんかしてみろ。あの黒衣の騎士が物凄い形相で睨んでくるぞ?こいつは私を怖いもの知らずだなんて言うけど、私にだって恐ろしいものぐらいはある。その最たるものが、アトロパテネで数多の名のある騎士を手に掛けたあの黒衣の騎士だ。その次に怖いのは船だな。そもそもあんな馬鹿でかくて重いものが何故浮くんだ?ありえないだろう?マルヤムからパルスへは少しだけ船に乗らされたんだが、乗っている間中生きた心地がしなかったんだぞ?そう言ったらこいつ笑い転げやがったんだ!こら、何故笑う?失礼だぞ!

…笑ってる顔を見てるとつくづく思うが、しかし、こいつ可愛らしい顔をしてるよな。父親はえらくゴツいらしいし、母親は冷たい感じの美女らしいのに、こいつはどちらにも似てない気がする。「大人になったら角や尻尾が生えてくるのかも」などと言って笑っていたが、こいつにはそんな風にはなってもらいなくないなあ。今みたいな感じで大人になってくれた方がずっといい。特にあの、晴れ渡った夜空みたいな瞳が好きだ。どれだけ見ていても飽きないものな。

そんな可愛らしい顔なのに、ごく稀にではあるが、ひどく凛々しく感じられて体温が上がりそうになることもある。

カシャーン城塞でホディール卿とやらに娘を差し出されそうになって、私を抱き寄せながら、
「有り難い申し出だが、私はこの娘に夢中なのだ。他の女に構っている暇などないな」
と言い放った時(あのときは何だかムカついて思わず太ももをつねってしまったけど)、

追っ手の矢で馬を失ってしまった私を守ろうと馬首を翻して駆け戻って来てくれたとき(あの後、ギーヴ殿は「面白味のないお坊ちゃまと思ってたんだが、やりますなあ!」と、ラクシュ殿は「アルスラーン殿下、グッジョブ!」とそれぞれの言葉で絶賛してたなあ)、

あのときは確かに嬉しかったが、でも本当はダメだよな。あの二人はこいつの臣下じゃないからあんなことが言えるんだ。主君ともあろうものが、自らを犠牲にしようなどとするものではない。そんなことをして、お前が死んでしまったら、お前の臣下はどうすればいいんだ?それまでの献身も労苦も全て無駄になってしまうではないか!

そんなことがあったからなのかな?ザンデとかいう家臣を失ったせいか、怒りに我を忘れた銀仮面の男がこいつに猛然と斬りかかってきたとき、私はごく自然に、身を挺して庇っていた。躱すことも、防ぐこともできないなら、もうそれしかないものな。見ててくれたか?これは臣下の、そして、騎士の仕事だ。私はまだ騎士見習いだけれどな。決して主君がやるようなことじゃ、ないんだからな!

潮が引いていくかのように、銀仮面の軍勢が退いていく。ペシャワール城塞から兵が駆けつけてくれたのか。良かった、私とこいつが折り重なるように屍を晒すなんてことにならずに済んだ。私はこいつを守れたんだな。

何だよ、そんな顔はやめて欲しいなあ。私は満足なんだぞ?騎士の本懐ってやつを遂げられたんだ。水を差さないで欲しいのになあ。

だったら、一つわがままを言っていいだろうか?私の名前は本当はエステルと言うんだ。最後に、そう呼んでもらってもいいだろうか?…ありがとう。もうこれで本当に思い残すことは無―
















◇◇

「大丈夫です。これで峠を越えました」

レイラの手が、依然目を覚まさないままだが大分血色のよくなったエステルの頬を優しくさする。「ん…」と少し小さくエステルが声を漏らす。弱々しくはあるものの、それでも生きている証拠だ。

「そうか、相変わらず見事な腕だな、レイラ」

「いえ、その様なことは。半分以上は殿下から教えて頂いたことがあってこそですし」

「いや、だとしてもな…」


三人娘にはそれぞれ得意分野があり、それぞれの分野で才能を開花させた。

統率力とカリスマに恵まれたフィトナは支配者としての才能を、

腕力と闘争心に富んだパリザードは戦士としての才能を、

知恵と探究心に秀でたレイラは医者としての才能を、

そして今回エステルを救ったのはレイラだった。
麻酔をかけ、傷口を縫い、輸血と点滴を施したのだ。
俺が昔、チョロっと漏らしたことを荒削りとは言え全て形にしているとはな。

とにかく、これでエステルは大丈夫だろう。しばらくペシャワールで静養してもらうことにはなるとしてもな。

さて、それじゃあ今度は、この世界を一気にバッドエンドに落とし込みかけやがったヒルメスに、落とし前をつけてもらわないとな!
 

 

第二十四話 密書発見

原作でルシタニアの王弟ギスカール公は、ジャン・ボダンに対する対抗手段としてヒルメスを用いることが多かった。ザーブル城に立て籠もったボダンと聖堂騎士団をヒルメス一党に攻めさせたことがまず第一に思い浮かぶし、王都にヒルメスが滞在している間もボダンについて相談を持ちかけることが多々あったし、ペシャワールを目指すアルスラーン一行をヒルメス一党が追跡している途中に、ボダンや聖堂騎士団に対抗するためヒルメスを呼び戻したことさえあった。しかし、その時ヒルメスが王都に戻ってみると既にボダンや聖堂騎士団は王都を離れた後であり、ヒルメスとしては無駄足(サームが帰順したことが唯一の収穫ではあった)であり、ギスカールに対する反感がムダに高まっただけだったけどな。

だが、この世界ではボダンが早々に退場している。とすると、ギスカールのヒルメスに対する扱いはかなり違うものになっていたのではないだろうか。ラクシュの話だと、ペシャワールにたどり着く直前、ヒルメスはアルスラーン一行に対し、それまでに増して猛烈な追撃をかけてきたと言うが、その背景にはもしかしたらその影響もあったかもしれない。

しかし、もはやそんなことはどうでもいい。あいつはエステルを殺しかけた。それだけのことでこの世界を終わらせかけた。最初からあいつは俺の心の中の絶対殺すリストに入っていたが、今回の件で、あいつはその最上位に躍り出た。もはやこれ以上あいつをこの世界に生き長らえさせる気はない。かねてからの計画通り、このペシャワールをヒルメス終焉の地にしてやる。それにはまずはあの密書を発見するため、小芝居を打たないとな。

◇◇

何なのだ!本当に何なのだ、あやつらは!ヴァフリーズ殿亡き今はパルス王国最古参の宿将であるこのバフマンに対し、礼を欠くにも程がある!確かにあの密書の件で最近はいささか精彩を欠いていたかもしれないが、だからといってあそこまで虚仮にされる筋合いなどない。

特にあのラジェンドラ王子!アルスラーン王太子のとりなしでようやく入城を認められたに過ぎない立場であるにも関わらず、軍議にまで参加しようとし、ましてや軍議のために儂の居室に足を踏み入れた途端、

「臭い!この部屋臭いぞ!加齢臭が、老人のにおいがする!こんな臭い部屋に王太子を招くとは正気とは思えんな。キシュワード殿、軍議はお主の部屋でやらないか?いや、そうするべきだ。そうしよう!」

と主張し、強引に軍議の場所をキシュワード殿の居室に変更してしまったのだ。

そうして始まった軍議は、いや、あんなものは到底軍議と呼べるものではない。途中からは完全に儂に対する吊し上げと追及の場と化していた。意図的に儂を怒らせ、儂がひた隠す真実を暴露させようと、あのナルサス辺りが企んだのだろう。馬鹿めが、その手になど乗るものか!そうはさせじと靴を蹴立ててあの場を去ったが、城外にまでキシュワードが追いかけてきおった。

キシュワードもキシュワードだ!ヒルメス王子を追いかけようとするのを止めた儂をそんな疑惑に満ちた目で見おって。儂のしたことが間違ってるとでもいいたいのか!だが、アルスラーン王太子が本当はアンドラゴラス王の実子でない以上、ヒルメス王子こそが唯一パルス王家の血を引いておられる方なのだぞ?何も知らない若造どもが、かさにかかって儂ばかりを責めおって。お前らに儂の苦悩が判ってたまるか!

む?何?もう一度軍議の場に戻れ?あの部屋で大変なものが見つかった故、儂から詳しい話を聞きたいだと!馬鹿な!あの密書が見つけられてしまったと言うのか!?

◇◇

私、ナルサスが見るところ、どうもラジェンドラ王子は上の空のようだ。頻りに何か首を傾げている。バフマン殿が出ていってからずっとそんな調子だ。

「ねーねー、殿下どうしたの?何かいつもにも増して変だけどー?」

「いや、何だかカサカサ音がしないか?多分、あの窓のところの帳からだと思うんだが、ちょっと見てきてくれないか?あとラクシュ、お前、後で殴るからな!」

「うひいい、すぐに見てくるから許してー!」

相変わらずこの二人のやり取りは珍妙だな。四年前と少しも変わらない。脱兎のごとくラクシュ殿が窓に駆け寄り、帳を上から下へと表裏を検めているが、む?何かを見つけた?

「殿下ー、ここ、何かあるよー?何か、太い糸で束ねられた紙束?手紙…なのかな?糊か何かで貼り付けられてるみたい…」

「おやおや、キシュワード殿。もしかして恋文をあんなところに?隅に置けませんなあ、全く」

ギーヴ殿が傍らのキシュワード殿を盛んに肘でつついているが、

「…い、いや、私はあんなところに隠した覚えなどありませんが…」

おや、どうやら違うようだ。では、一体何処に?まあ、そんなことはどうでもいい。一体何なのだ、あれは?ラクシュ殿が帳から紙束を剥がして裏表を見回している。

「宛名は…バフマンさん宛だねー。でー、差出人は…ヴァフリーズ?…ちょっと殿下、もしかしてこれ!?」

「ちょうど今話していたヴァフリーズ老からの手紙かもしれんな。こっちに持ってこい。…いや、バフマン殿を呼び戻して、立ち会いの下で中身を検めよう。キシュワード殿、バフマン殿はどちらに?」

「う、うむ、私が探してこよう、待っていてくれ!」

…何やら妙なことになったな…。しかし、これは偶然なのか?いや、ここで軍議をすることになったのは、ラジェンドラ王子が何やら言い出したからだった。もしかしたら、何から何までこの王子が仕組んだことなのではないのか!その様な思いにとらわれ、俺は全身の肌という肌がざわざわと泡立つのを抑えられなかった…。


半刻ほどして、キシュワード殿が顔面蒼白になったバフマン殿を伴って戻ってきた。バフマン殿の体は小刻みに震えてすらいる。これ程の宿将がそれ程動揺するようなことが、この手紙には書いてあるというのか?

「お揃いのようだな。では中身を改めようか。じゃあラクシュ、お前が読み上げろ!」

「いいの殿下ー?私のアニメ声じゃあ緊迫感無くなるかと思うんだけどー?」

「いいや、かえって深刻さが紛れるだろうさ。いいから読め」

「へーい」

そうして、彼女は読み上げ始めた。…あにめ声というのが何のことかは判らないが、確かに気の抜けるような声色だな…。

その手紙の恐るべき内容はこのようなものだった。

第一に、過去十年ほど、エクバターナ周辺の大陸公路には戦乱が絶えず、商人たちの間からアンドラゴラス王の大陸公路の守護者としての力量を危ぶむ声が上がっているということ。

第二に、アンドラゴラス王は登極に先立って、先王オスロエスを弑した可能性が高く、その即位は無効と思われるとの風説が存在すること(ただし、ヴァフリーズ自身はその風説を信じていないそうだ)。

第三に、その風説を受けて王国要人の中にはアンドラゴラス王を玉座から引きずり降ろすことを画策する者が現れたということ。

第四に、彼らはアンドラゴラス王の代わりにヒルメス王子を正統の王として擁立しようとしているらしいこと。

第五に、アルスラーン王子は王家の血を引いておらず、生まれこそ中程度の騎士の子に過ぎないが、心映え素晴らしく、何より御年五歳の時既に宝剣ルクナバードに次代の王と認められてもいるということ。

最後に、バフマン殿はヒルメス王子の剣と弓の師であったことから、心情的にはヒルメス王子に近いのかもしれない。その血筋をこそ尊しと考えるかもしれない。だが、宝剣ルクナバードに認められ、王太子として冊立されたアルスラーンをこそ、次代の王と認め、忠節を尽くして欲しい。伏してお願い致す。と、そうまとめられていた。

…なるほど、つまりバフマン殿はアルスラーン殿下が王太子でありながら王家の血を引いていないことを知り、忠誠を向ける先を見失ってしまった、ということなのか。そして、ダリューンはヴァフリーズ老にアトロパテネの戦いの直前にアルスラーン殿下個人への忠誠を誓わせられている。自分の甥までもが忠誠の対象を見失ってしまわぬようにということか。

しかし、ヒルメス王子が王家の血を引いているのに対し、アルスラーン殿下は王家の血を引いておらず、その正統性の裏付けは宝剣ルクナバードの信認のみか、心映えなどと言ってもそれを知らしめる機会に今まで恵まれてきたとも言えないしな。現時点ではアルスラーン殿下に分が悪いかもしれない。

「それでは私は、私は…」

殿下の瞳が力なく揺れている。まずいぞ、王家の血を引いていないことは殿下にとって大いなる引け目だろうが、だからといって退くべきではない。ここは何とか―

「おっと、アルスラーン殿、それ以上はいけない。今はまだ口を開くべきじゃあないぞ?まずはこのラジェンドラの話を聞いてもらおうか!」

「ら、ラジェンドラ殿?」

む、ラジェンドラ王子、一体何を言うつもりだ?

「血筋ねえ、はっきり言うが、そんなものはクソだな!王の資格なんてものは、今まで何をしてきたか、そしてこれから何をなそうとしているか、それのみで問われるべきものじゃあないのか?」

「ば、馬鹿な!何ということを言い出すのだ!それでは―」

バフマンが気色ばんで口を出そうとするが、それもラジェンドラ王子に阻まれる。

「あー、あんたも今は黙っとけ!そもそも何故血筋というのが尊重されるのかと言えば、それはその王朝が積み上げてきた実績が評価されてのことだろう。カイ・ホスロー王朝はまず開祖が蛇王ザッハークを打倒した。それは何にも勝る実績だ。世界に誇れると言ってもいいだろう。そして、そこそこの善政を布いて、大陸公路の守護者の任を大過なく果たしてきたとも言えるだろう。その血を引いているのだからヒルメスは善政を布くことが出来るだろう、そう推定されるから、ヒルメスこそが玉座を継ぐべきだというそういう主張は判らなくもない。だが、ヒルメス個人に大きな瑕疵があると俺は思わざるを得ないね」

「ヒルメス王子に?一体何があるというのだ?」

「そう、まさにそれなんだが、あの王子はアンドラゴラスを倒すために、他国であるルシタニアを引き入れた。ご丁寧にも銀の仮面をかぶって自分の正体まで隠してな。そうやって、ルシタニアの侵略に加担し、軍民合わせて百万人以上を犠牲にした訳さ。偽りの王を奉じた民に生きる価値などないと言わんばかりにな。そしていずれ時機を見計らってルシタニアに反旗を翻し、パルス国民の前に仮面を外して罷り出て、救世主でございとのたまうつもりだぜ?呆れたもんだな、それが正統な王族の所業かと小一時間問い詰めたくなるね」

「そ、そんな…。だ、だが…」

「で、そんなことをしでかしたやつでも、復讐の狂熱が醒めれば案外まともな為政者になると期待する向きもあるかもしれないがね、俺はそれも違うと思う。短期的には国民に多大な痛みを伴う改革を行う場合に、多くの国民が反対したら、こういう為政者がどうすると思う?人間なんてのは、窮したときには、それまでやってきたのと同じことをしてしまうものでな、正しい政策を理解出来ない愚かな民に生きる価値などないと反対するものを弾圧しまくるだろうよ。それこそ何の疑問も抱かずにな」

「……」

「さて、ここでアルスラーン、お主に聞こうか!お主がやってきたこと、やろうとしていることがヒルメスに劣るものだと思うか?お主の掲げる理想を引っ込めてでも、ヒルメスが行おうとしている政を認めてやろうと思うか?どうなんだ?」

ここでそれを聞くのか!だが、大丈夫だ。殿下の瞳に力が戻っている。しっかりと自分の言葉で語ることが出来るはずだ。

「いいや、ヒルメス王子に劣るとは決して思わない。私はこれまで王太子として、将来良き為政者となるために努力を重ねてきたつもりだし、これからもそうしたいと思っている。アンドラゴラス王は強い王だったとは思うが、国内政治における不公正さを放置し、他国と友好関係を築くことを怠り、次々と戦いが起こることを許してきた。私はそれを反面教師とし、奴隷を解放して社会的不公正を是正し、他国と友好関係を築けるよう努力し、それが難しいとしてもこちらから対話の窓口を閉ざしてしまうことはしないでいたいと思う。短期的には国民に多大な痛みを伴う改革を行う場合に、多くの国民が反対したなら、粘り強く説得を続け、理解を得られるよう努力をしたいと思う。私はヒルメス王子がやってきたこと、やろうとするであろうことを決して認める訳にはいかない。決してヒルメス王子に王位を渡すわけにはいかない!次の王には私がなる!」

その言葉が終わるとともに、そこに居合わせたラジェンドラ王子の臣下以外の全ての者がアルスラーン殿下に対し、跪いていた。いや、バフマン殿だけが…、今遅れてようやく跪いた。

◇◇

こうして、二人の万騎長がアルスラーンに忠誠を誓った。よし、これでようやくあの話が出来るな。ヒルメス王子をここペシャワールで捕殺するための打ち合わせが。
 

 

第二十五話 師弟二人

全ての手筈を整え、俺とアルスラーンは東の城壁を目指して廊下を歩き出した。ダリューンやシンリァンの護衛を頭を振って断るフリをして。

城壁の上に着くとアルスラーンは大きく伸びをした。無理もない。この幼さで短い間とは言え逃亡生活を余儀なくされていたんだからな。だが、それも今日で終わる。追跡者は今夜ここで息絶えることになるのだからな。ほら、おいでなさった!

◇◇

俺、ヒルメスはようやく神々が俺に向かって微笑んだのだと思わざるを得なかった。昼間は小娘の邪魔が入って仕留め損ねたアンドラゴラスの小せがれが、すぐそこにいるのだ。生憎と一人ではなく、シンドゥラ人らしき男と一緒だが、絹服を纏ったその優男は武人らしくはなく、二人とも帯剣すらしていない。つまり、俺の敵ではないということだ。しかも、勇猛な部下も連れていない。馬鹿めが、味方の城に逃げ込んだことで油断したか。

俺にはここ最近、神が俺を見放したのかと思うようなことばかりが続いていた。命を助け、俺に服従させようとしていたサームは自ら死を望んだ。自分は豊かで強かったパルスに殉じて死にたかった。生き長らえてこの上王族の骨肉の争いを見せられるなど御免こうむる。せめてその手で自分を楽にして欲しいと。どれだけ言葉を重ねても奴を翻意させることは叶わず、心ならずも奴をこの手にかけることになった。奴の死に顔が安らかなものであったことに尚のこと腹が立つ。

その上、カーラーンに続いて、ザンデまでもがダリューンに討ち取られた。一騎打ちの最中に女に馬を矢で射倒され、落馬したところをダリューンに兜を両断されたのだという。戦士の中の戦士とまで謳われる男が何と卑怯な!いや、むしろあのダリューンにそこまでさせたザンデをこそ誇るべきなのか。

いずれにしろ、俺に仕えていた者、仕えさせようとしていた者、そのことごとくが俺の手の平からこぼれ落ちていった。不公平ではないか!あの未熟なアルスラーン如きにダリューンやナルサスなどの人材が集っているというのに。

更に近頃、王弟ギスカールの俺を見る目に奇妙な色がちらつくようにも思える。奴とはアンドラゴラスの処遇を巡って意見が合わず、奴にとって目の上の瘤であった教会権力もボダンの横死によって力を失った。奴は俺の利用価値に疑問を感じるようになったのかもしれない。この上は油断ならないこの俺よりむしろ幼いアルスラーンと手を結んだ方が御しやすいとでも考えている節すらある。

そんなことを許せるものか!アルスラーンだ。奴さえ殺せばギスカールは俺を協力者にし続けることを選ぶしかなくなるだろう。そして、隙を見てギスカールをも倒し、ルシタニアをパルスから駆逐し、俺がパルスの覇権を握るのだ。その為にも何としてもアルスラーンを殺さなくてはならない。

昼間はあともう少しだった。小せがれの無防備な背中が我が刃の届くところにあったのだ。そこに小娘が割って入らなければ、ペシャワールからキシュワードの軍勢があの場にたどり着かなければ!

だが、今ならば!今度こそこの俺をパルスの神々が嘉したもうたのだ。今日この日をもって、貴様アルスラーンと、この俺ヒルメスの、呪われた因縁に終止符を打ってやる!


むしろ俺の方から甲冑を鳴らして相手に自分の存在を教えた。弾かれたように二人がこちらを振り向き、そしてアルスラーンは緊張に顔をこわばらせ、シンドゥラの優男は口元を緩ませ言い放った。

「おやおや、そちらにおわすはアルスラーンの叔父御のヒルメス王子か!俺はシンドゥラの王子ラジェンドラ!こんな辺塞に三人の王子が一堂に会するとは、実に奇遇ですなあ!」

この男、俺を知っている?シンドゥラの王子だと?いや、その前にこの男、何と言った?この俺をこの男は…

「…貴様、今この俺を何と呼んだ?」

「ん?叔父御だよ?お主の父親はオスロエス王ではなく、真はゴダルゼス大王だからな。『ゴダルゼス大王の子の代でパルスは滅びる』そんな予言を受けたからと言って、息子に嫁を差し出させる方も、嫌々ながらでもそれに従う方も、全くどうかしているよなぁ」

「ば、馬鹿な…、貴様は何を言っている…。何故、そんなことを知っている…?」

「そりゃあアンドラゴラスに教えてもらったからな。前例から言って、オスロエスの後にはアンドラゴラスが続く、自分にもう一人子供がいれば、その子まで、つごうあと三代パルスは滅びずに続く、か。ゴダルゼス大王もよく考えたものだが、そんな老人のたわごとに付き合わされる方はたまったもんじゃない。付き合いきれないとばかりにオスロエスとアンドラゴラスが大王を弑したのも無理も無い話だよなあ」

「…ら、ラジェンドラ殿、そんな話をいつ父から…?」

アルスラーンの今の言葉、その調子だとこいつもこの話は初耳だというのか!?

「さあて、いつだったかな。あんまり昔のことなんで、いつだったかなんて覚えてないな。ついでに言うと、アンドラゴラスはオスロエス王を弑してはいない。オスロエスは病死でな、で、いまわの際に弟のアンドラゴラスに頼んだのだそうだ。『ヒルメスを、あのゴダルゼス大王の呪われた息子を殺してくれ!』とな。つまり、お主らの、アンドラゴラス王は先王オスロエスを弑したからその即位は無効との主張は間違い、と言うことだ。アンドラゴラス王は適法に即位し、そして王統は王太子アルスラーンに受け継がれる。ゴダルゼス大王の末子たるお主のしゃしゃり出る余地は何処にもない、ということさ!」

「…う、嘘だ…。そのようなこと、真実である訳がない!」

自分の声がまるで自分のものでないかのように響いた。俺の声はこんなに力なく、ひび割れたものだっただろうか?

「いいや、真実さ。それに、この話を知っているのは俺だけじゃあない。他にも大勢いる。今ここで知っているのはこの俺一人だがな」

そ、そんな!だとすると、真実だというのか…。だが…

「ど、どうして、そのようなことを俺に教えた…?、何故なのだ!」

「それは、多くの民を己が復讐心のために犠牲にし、この世界から最も大切な存在を消し去ろうとした大罪人であるお主を裁くためさ。お主、まさかここから生きて帰れるなんて、思っていやしないだろうな!」

その言葉が合図だったのか、時を同じくして俺の両足首を激痛が襲った。何だ?斬られた?背後を振り向くと地面から頭とナイフを持った腕だけを出した女が地面を泳ぐかのように遠ざかっていくのが見えた。あの術、まさか奴らが!?

「あれは地行術!?ぐおっ!」

それに気を取られている隙に利き腕の手首を矢で射抜かれ、手から剣が零れ落ちた。拾おうとしたが、両足に力が入らずに崩折れ、両膝をついてしまった。

更にその隙に、あちこちの階段から松明を片手に多くの兵士が駆けつけ、俺と二人の王子の周囲を遠巻きに囲んだ。その上、その人垣を縫うかのように一際強い気配を放つ強者たちが現れ、俺の周りに白刃の壁を築いた。ダリューン、キシュワード、バフマン…、他の者の名前は判らぬが、いずれ劣らぬ強者ばかりであろう。しかし、その中にバフマンまでがいるとは…。

◇◇

万騎長二人と、ほぼそれに匹敵する剣腕を持つ者たちがヒルメスを囲むのを待って、地行術で地面を泳ぐように移動していた人影が俺の傍らに浮かび上がった。三人娘の一人、医者としても天賦の才を持つレイラだ。こいつはエステルの背中に、女性の身には余りにもむごいほどの傷跡が残ったことに心を痛めていたからな。諜者として習い覚えた魔道の技でヒルメスを不意打ちすることに何の躊躇いもなかったようだ。

そして、ヒルメスの右手首を撃ち抜いたのはラクシュの放った矢であった。

「ヒルメスさん辺りだと余程大きな隙でも出来ない限り察知されて矢を斬り落とされるだけだよー」と言っていたが、レイラの不意打ちはそれに余りある隙を作れたようだ。ヒルメスは暗灰色の衣の奴ら以外に地行術を使える奴がいるとは思っていなかっただろうからな。一瞬は奴らが裏切ったかとまで疑っただろう。それがつけ目だった。

とにかくこれでヒルメスは、原作のように襲い来る剣環から身を守ることも、城壁から飛び降りて濠へと逃れることも叶わなくなった訳だ。そんな剣環の中から、一人の男が半歩進み出た。見事な白髯を持つ現存する最古参の万騎長、バフマンだ。

「儂はこの男の元師匠なのでな。ここは儂に任せてもらおうか。何、逃しはせんよ。ただ、我が手で引導を渡したいだけじゃ」

「ば、バフマン…」

その言葉にヒルメスが喘ぐかのような声で旧師の名を呼ぶ。バフマンの顔に僅かに痛ましげな色が浮かんだ。

「ヒルメス、この場ではあえて呼び捨てにさせてもらおう。ヒルメス、お主は何故ルシタニアの侵略に手を貸した?何故ルシタニア兵がパルスの軍民を虐げるのを黙ってみていた?答えよ!」

「そ、それは…」

それまでであれば、パルスの民が正統ならざる王を奉じていたからだと抗弁することが出来たであろう。だが、俺の言葉が真実かもしれないと考えてしまった時点でその様に舌は動かない。縫い留められたかのように動きを止められてしまっていた。

「儂には先程のあの王子の話が真実なのかどうかは判らん。儂に判るのは、お主が守り慈しむべき民を、救うこともせず苦しめたということだけだ。しかし、その一事だけでも、お主には為政者の資格がない。お主は己の罪を償うため、今ここで死ぬべきだ、ヒルメス!」

抜き身の剣を手に、バフマンがゆっくり一歩、また一歩とヒルメスに近づく。ヒルメスは気圧されるように下がろうとするが、傷口の痛みに顔をしかめ、動きを止めてしまう。逃げられない、と悟った時、ヒルメスの中で何かが壊れた。もはや彼はダリューンと互角の剣士ではなくなっていた。

「うわあああ、来るな、来るなあ!」

叫ぶというよりも、子供のように泣き喚いた。子供に戻ってしまったかのように、頻りにイヤイヤをするように首を振る。それでも何一つ現実が変わらないことを悟ると、何か頼れるものがないかと傷を負っていない左手で手元を探り始めた。その手に何かが触れた。取り落としてしまっていた剣だった。それを覚束ない手付きで逆手に握ると、

「やめろおおお!」と一薙ぎした。その瞬間だけは剣士の魂が蘇ったのかもしれない。その一撃は過たずバフマンの胴を薙いだ。傷口から血がしぶき、内臓がこぼれた。しかし、それでもバフマンは止まらない。表情すら動かない。何事もなかったかのようにヒルメスに近づき、肩に手を回して抱きとめるかのように動きを止めさせ、ヒルメスの背中を自分ごと剣で貫いた。

「ぐはっ!」

バフマンが血の塊を吐き出し、それがヒルメスの顔を直撃した。その不意打ちにヒルメスが自分を取り戻した。そして、自分と旧師がどんな状態になっているかを悟った。

「ば、バフマン…、何故お前まで…?」

「弟子の不始末は師匠の責任ですからな。儂も一緒に頭を下げると…致しましょう…」

「…済まぬ、済まぬバフマン!俺を…俺を許してくれ!」

ヒルメスは泣きじゃくってバフマンの体にしがみついた。そんなヒルメスをバフマンは優しく抱きしめる。

「ふふ、謝るべきは儂に対してではございませぬぞ?ですが、儂は貴方を許すと致しましょう。ヒルメス殿下、今まで苦しかったでしょうな。寂しかったでしょうな。一緒に居てやれなんだ儂をお許しくだされ。…アルスラーン殿下…お別れでございます、良き国王にお成り下され…」

そうして程なく、二人の師弟は息絶えた。遺体は城外の戦没者の墓地に二人一緒に葬られ、後ほど諜者秘伝の薬液で骨も残らぬよう溶かされた。非道いとか言わないでもらいたいね。これもザッハーク一味に遺体を利用されるのを防ぐためなのだから。


さてと、これでこの辺塞にいる王子は俺ラジェンドラとアルスラーンのみになった訳だ。だが、これで始められるよな、ルシタニアに対する反攻を!

俺たちの戦いはまだまだ終わらない。
 
 

 
後書き
第二章はこれにて終了です。次回より新章突入です。 

 

第二十六話 夫妻愛憎

ヒルメスがようやく死んだか。原作だとその旌旗をあちこちに流転させながらも、最終巻終盤近くまで生き長らえたこいつをここで殺せて本当に良かった。いや、現代日本人的には「殺せて良かった」なんて好ましくない表現なのは判るけどな。

だが、こいつは長い時間をかけてようやく結ばれたばかりのあの二人を殺したし、ダリューンがあんなことになったのはその前日にこいつが悪あがきして散々手こずらせてくれたせいで本調子ではなかったせいだとさえ思えるし。物語的にはこの二つだけでも十分にギルティだろうよ。

いずれにしろ、今までこいつがせき止めていた流れが、こいつの死によって堰を切るかのように流れだすのは必定だろう。ギスカールはあのカードをようやく切れるようになる訳だしな。

いろいろと小細工もしといたし、多分見事に踊ってくれそうだよな、あいつ。

◇◇

「何、銀仮面卿が死んだだと!」

私、ギスカールの前に平伏するこの男、元は万騎長カーラーンの部下で、カーラーンの死後はザンデに、ザンデ亡き後はヒルメスに仕えていたようだか、この度また主君を失ったようだ。

「はい、我が主、銀仮面卿はアルスラーンを討ち取るため単身ペシャワール城塞に潜入したのですが、その後アルスラーンが配下とともに城塞から姿を現し、『銀仮面卿は万騎長バフマンと相討ちになり、命を落とした。遺体はこちらでバフマンと共に鄭重に弔う故、遺品の仮面と剣を持ち帰るように』にと」

それが、今この男が携えている仮面と剣だと言うのか?しかし、遺体がないなら死んだとは限らないのでは…、…いや、それはないな。あの誰よりパルス王室に憎悪を燃やしていた男が、あれ程の強剛さを誇った男が、生きて敵にこれらの品を委ねるとは思えん。やはり討たれたと言うことか。万騎長を一人道連れに出来ただけマシと言うべきか。

「ところでお主、そのときアルスラーン王子を見たのだろう?どのような様子だった?」

その様子如何によってはこちらの対応が変わってくるからな。

「それでごさいますが、両者が息絶えるところを目の当たりにしたようでしてな。顔面は蒼白、体はおこりのように震え、声も上擦り、ひどく取り乱した様子でした。先程の口上も全て傍らに控えたナルサスと言う男が発したものでございました」

嘘だろう?あのアンドラゴラス王の息子がそこまでの醜態を晒すとは。

「俄には信じられぬな。芝居ではないのか?三ヶ国同盟軍を口先一つで追い返したナルサスと、黒衣の騎士ダリューンが付き従っているのだ。それなりの器量は持ち合わせているはずだがな」

「いえいえ、ただ奴らは自分たちがまだ戦い足りないが為にあの王子を担ぎ出したに過ぎないのでしょう。奴らが王子にかける言葉も浴びせる視線もひどく苛立ち混じりのものでしてな。飾りすら務まらぬ愚か者と内心では見放しておりましょう。元々あの王子はアンドラゴラス王に叱責ばかりされておりましてな。私どもも将来が思いやられると頻りに噂していたものでございました。おまけに、アトロパテネの戦い、その後のペシャワール城塞への逃避行では相当怖い目を見たのでしょう。もはやあの王子は腑抜けも同然。恐れるにたりないでしょう」

「なるほど、よく判った。下がるが良い」

「ははあっ」

俺はこの男を下がらせると、長椅子に体を投げ出した。自然と笑みが漏れる。

「フッ、フフフフフ、そうか、王太子は腑抜けか。それは好都合だ。ナルサスとやらがいようと王太子が使いこなせないのでは意味はあるまい。黒衣の騎士がいようと所詮は匹夫の勇、戦場全体までは左右できまい。そして、もはや銀仮面卿もいない。アンドラゴラス王を殺す障害はもはや存在しない。聖職者どもが多少騒ぐかもしれんが、ボタン亡き後の聖職者どもなど、どうにでもなる。もはや脅威ではありえない。アンドラゴラス王を殺せばもはやパルスは満足な抵抗など出来まい。この機に一気にパルス全土を手中に収めるとするか!」

そのとき、ちょうど扉がノックされ、兄が私を呼んでいるとの連絡が入った。どうやら兄も、銀仮面卿が死んだとの情報を何処かから掴んだようだ。

「フフフ、タハミーネめ、我らを混乱させるため、アンドラゴラス王を首を要求していたが、実際に目の前に本当にその首級が置かれたらどのような顔をするであろうな?今から楽しみだて。ふははははは!はーっははははははは!」

私は久し振りにイアルダボート神に感謝の祈りを捧げつつ、兄の部屋へ急いだ。

◇◇

ヒルメスの死から一夜明けたパルス暦320年12月13日昼間。再びキシュワードの部屋にて軍議が開かれた。アルスラーンの両脇に控えるダリューンとナルサスはひどく不機嫌な表情だ。昨夜、ヒルメスの配下に、ヒルメスの遺品を引き渡したときの、アルスラーンの余りの醜態に腹を立てているのだろう。

昨夜のあのアルスラーンは、実は本人ではない。諜者特有の幻術でアルスラーンに化けたフィトナだった。俺の演技指導に従って、あのような醜態をまさに演じたのだが、どうやらこの二人にはお気に召さなかったようだ。昨夜は終始苦虫を噛み潰したような表情でアルスラーンを演じるフィトナを睨んでいたからなあ。お陰で向こうにはきっと演技を越えた真実として違う意味に伝わったことだろう。好都合だったな、わはははは。おっと、内心がダダ漏れだったか、ダリューンに睨まれた。自重しよう。

「で、ラジェンドラ王子。お主が陛下から聞いたと言う話は他にも何かおありなのでしょうかな?その内容如何によっては今後の我々の取るべき選択肢も変わってくる。是非ともお教え頂きたいのですが?」

そう問うてくるナルサスの眉間にも相変わらずしわが寄っている。悪い悪い、そろそろ真面目な表情に戻すので許してくれ。

「そうだな、まずはアンドラゴラスが王妃タハミーネにした説明から話そうか。タハミーネが産んだ子は女の子だった。パルスでは王女に王位継承権がないからな。だからアンドラゴラス王は生まれた娘を何処かへと捨てた。意外にも母親としての情愛厚いタハミーネとしては、アンドラゴラスのことをさぞや恨んだことであろうな。そして更にアンドラゴラスは何処かから連れてきた男の赤ん坊をタハミーネが産んだ子として育てさせた。それがアルスラーンと言う訳だ。タハミーネとしてはアルスラーンを可愛がる気になんてなれなかったろうさ」

「…それで母上は私のことを…。ラジェンドラ殿、それでその女の子は一体何処へ?」

「その行方についてはアンドラゴラスは口を閉ざしている。しかし、子供が産まれたのと同時期に各地の寺院に三人の女の赤子が銀の腕輪と共に捨てられていた。その腕輪が、そこの三人娘が身に付けているものだ」

その場に居合わせた全ての者の視線が三人娘の腕輪に集中する。その視線は更に彼女たちの顔に移り、そして得心したかのような空気が漂い出した。まあ、当の三人娘は既に真実を知っているから、どこ吹く風、といった風情だが。

「な、なるほど、確かにパリザード殿は全体的に陛下と似た雰囲気がある。レイラ殿の目鼻は陛下と似ていて、輪郭は王妃様に似ている。そして、フィトナ殿はどことなく王妃様に似ておられるような。と言うことは、この三人のいずれかが国王夫妻の娘御なのか、?或いはまさか三人ともがか?」

キシュワードは名門武家の生まれだと言うからな。ミスル国境やペシャワールに赴任する前にはアンドラゴラスの側に仕えていたこともあるのだろう。それで国王夫妻の顔立ちを鮮明に記憶している、と言うことがあるのかもしれない。

「と、思うのも無理は無いがね。しかし、この三人は三人ともが、国王夫妻の血を引いてはいない。そのことは確かに確認されている」

「馬鹿な、そんなことが何故判る!どうやってそんなことを確かめるというのだ?」

そんなキシュワードの言葉に答えるかのようにレイラがごく控えめに挙手をした。

「それについては医者である私からお話しましょう。余り知られていないことですが、人の体内を流れる血には幾つかの種類があります。怪我などで大量に血を失った場合、同じ種類の血で補うことが出来ますが、違う種類の血で補おうとすると逆に命取りとなります。…ここまではよろしいでしょうか?」

「…ああ、初耳ではあるがそういうものかもしれないな」

「おや、お主でも知らぬことなどがあるのだな、ナルサス?」

「…ダリューン、お主は俺を何だと思っているのだ?俺とて人の子だからな。人並みよりは知っていたとしても、決してそれ以上ではないさ」

尤もそこの御仁はどうか判らぬが。と言いたげな視線を向けてきたが、俺はそれを華麗にスルーした。

「コホン、話を続けましょう。そのような血の種類は親から子へと引き継がれますが、両親の組み合わせによっては決してなり得ない種類というのもあるのです。そしてその観点から国王夫妻と私たち三人とを比べた場合…」

「国王夫妻からは決して生まれるはずのない種類の血だったという訳だ」

と俺が結論を引き取った。だが何人かは納得してそうにない顔をしている。

「でも殿下ー、それじゃあどうしてこの三人こんなに御夫妻に似てる訳ー?幾らなんでも似すぎでしょー?」

その何人かが仰る通りとばかりに頷く。それを見てラクシュはいいことを言ったとばかりに得意顔だ。

「そりゃあ、赤ん坊をたくさん一度に集めた上で、宮廷画家だかに顔を見せてこの顔つきなら似た感じになるだろうと判定させたんだろうさ。頭が沸いてるんじゃ無い限り、適当に連れてきた子供で誤魔化せるなんて思わんだろうしな」

さいとうちほ作の『花冠のマドンナ』と言う少女まんがで、レオナルドダヴィンチがヒロインが赤ん坊だった頃の顔を元に成人女性にまで成長した姿を描き、ヒロインが後にその絵を見て驚くというくだりがあった。ダヴィンチだから出来たことかもしれないが、宮廷画家辺りならその真似事ぐらいは出来たのではないだろうか。まあ、ナルサスには無理な芸当だろうけど。と言いたげな視線を先程のお返しにナルサスに向けてやった。お、ムッとしてる。

「ではこの三人が御夫妻の血を引いていないと言うなら娘御は一体何処へ?」

「さっきは口を閉ざしていると言ったけどな。正確には言うべき言葉を持っていなかったのさ。実際に産まれたのは女の子じゃなくて男の子で、しかも死産だったからな」

「死産…」

絶句したように誰かがそう呟いた。

「でも、何故陛下は王妃にそれを言わなかったのだ?死産だったとしても代わりの子を用意すれば王妃の政治的立場はそれで守れただろうに?」

キシュワード…、こいつも朴念仁だな。ナスリーンが可哀想に思えてくるわ。

「いや、判る気がする。もう子供が産めない身体になった上、死産だなんて判った日には母親としては死にたくなるやもしれぬ。アンドラゴラス王はそれを防ぎたかったのじゃな?」

この中で唯一の出産経験者、シンリァンの言葉だけに重みがあるな。

「ああ、そう言うことだな。アンドラゴラスは何が何でもタハミーネを失いたくなかったんだ。娘を奪われたという憎しみを糧にしてならば、タハミーネはきっと生き続けてくれると考えた。憎まれてでも、生きて、欲しかったんだ」

アンドラゴラスの気持ちは判るが、でもそれってタハミーネの気持ちを無視してるよな。そして、一体どれだけの人間を不幸にしたのか…。


 

 

第二十七話 豪王末路

原作で王弟ギスカールは囚えておいたアンドラゴラスに逆に人質にされるという醜態を晒した。しかしあれは、兄イノケンティス王を銀仮面卿に殺させるという妙案を思いついて有頂天になったり、早速実行させようとしたら銀仮面卿が不在で肩透かしを食らってがっかりしたり、それでもアンドラゴラスにはいろいろ使いみちがあるはずだと思い直したり、などと気持ちが不安定なまま不用意にアンドラゴラスに会いに行ったが為に起こったことだった、と俺は思っている。本来の彼らしく、アンドラゴラスを殺すと想い定めて、二重三重に保険を掛けるやり方をしていれば、問題なくやってのけられたはずだ。そう俺は信じてるし、信じたいんだがな。俺のこの熱い期待に応えてくれよな、ギスカール公。

◇◇

なるほど、銀仮面卿もただパルス王室憎さにアンドラゴラスを拷問し続けていたわけではないらしい、と私、ギスカールは思わざるを得なかった。銀仮面卿が死んだことを告げると、拷問吏の長は「これは銀仮面卿の指示で記録を取っていたものです」と数十枚に及ぶ紙束を渡してきた。そこには、アンドラゴラスに対しどのような拷問が効果があったか、食事に毒物等を混ぜた場合、どの毒物なら看破され、どの毒物なら気付かずに口にしたか、口にした毒物の効果はどの程度で、その後回復するのにどのくらいの時間を要したか、などが克明に記されていた。

これこそ今最も必要としていたものだと絶賛した上で私は拷問吏の長を退出させた。実際のところ、アトロパテネではパルス兵のありえない程の精強さに手を焼かされたものだった。倍以上の兵力を揃え、万全の態勢で当たったにも関わらず、こちらが受けた損害は想像を絶するほどだった。もはやパルス人を同じ人類とは考えない方がいいのではないか。あれはきっと人類によく似た全く違う何かだ、とまで私は思うようになっていた。ましてやアンドラゴラスはそのパルス人の頂点として君臨した絶対的支配者だ。奴に対しては更に警戒度を上方修正するべきだと考えていた私にとって、それはまさしく喉から手が出るほど欲していた情報だった。

その記録によると、アンドラゴラスは常人であれば即死するであろう多くの拷問に全く顔色を変えること無く耐えたのだという。拷問吏の長は今まで拷問吏として培ってきた常識が全く通用しない相手に頭を抱え、頭をかきむしり過ぎてそれまで辛うじて残っていた頭髪を全て失う羽目になったそうだ。そして、膨大な時間をかけてようやくアンドラゴラスに苦痛を与える方法を見出したときには小躍りしたとまで書かれていた。

更にアンドラゴラスは食べ物に混ぜた既存の毒物を、例え無味無臭のものであっても確実に見破り、口にするのを拒んだという。あるときなどは、かなり工夫して作り出した毒物を含んだ食事を疑うこと無く平らげ、その後拷問に対する反応も弱くなっていたため効果絶大だったと思っていたところ、いきなり鉄鎖を引きちぎられかけ、すぐさまより強力な新しい鎖に交換することになった。それで不審に思って周囲をよくよく調べてみると、実はそのときの食事を口にしてはおらず全て排水溝に捨てていた事が判明した、ということすらあったという。業を煮やした拷問吏たちは、毒性が強すぎて調合作業にすら危険が伴う毒物を何人もの奴隷を犠牲にしてようやく作り上げたのだが、それが唯一見破られることなくアンドラゴラスが摂取し、功を奏したものとなったという。

なるほど、よく判った。では手筈を整えるとしようか。

◇◇

どうやら奴らは本気で予、アンドラゴラス三世を殺しにかかってきたらしい。先日からの拷問は今までに増して熾烈を極めた。それまでの拷問は激しいながらもこれで殺す訳にはいかないとの配慮が見え隠れしていた。手当は行き届いたものでは無かったが命にかかわる傷は最低限の処置を施されてはいたし、硬い石床の上ではあっても睡眠はそれなりに取れていたし、王者として酒食をほしいままにしていた身には甚だ物足りないながらも食事の栄養は充分だった。しかし、先日からは全く手当がなされず、眠りはしばしば妨げられ、食事は質も量も最悪を極めた。

いや、たった今最悪が更新された。待て、何だその血の色より更に赤い、香辛料だらけのスープは。痛い、臭いだけで鼻が痛い!いや、鼻だけではない、喉が、目が、全ての粘膜が猛烈に痛い。嘘だろう?それを喰えというのか?断る!断固拒否する!くっ、こいつら拷問吏総出で押さえ付けに来おった。鼻までもが塞がれた、呼吸が出来ぬ。そう思って口を開けた瞬間に一気に流し込まれた。顎までもが固定され、口を閉じることすら許されぬ。たちまち舌が、口全体が、喉が、肺が、胃の腑が焼けた。全身から汗が吹き出し、体中が熱くて堪らぬ。衝撃が鼻を、目を、脳までを突き抜けていた。

悶絶し、転げ回っていると、目の前にコップが差し出された。中身は白湯のようだ。何だ、気が利くではないか。予は一気にそれを飲み干した。物足りないとすら思ったくらいだった。が、たちまちにして己の失敗を悟った。

先程のスープは罠であり、ただの前座だったのだ。おそらく味覚と嗅覚を破壊し、警戒心すら奪うための、準備段階に過ぎなかった。その後の白湯こそが本命の猛毒だったのだ。それを予は無警戒に飲み干してしまった。いや、飲み干さざるを得なくされた。奴らが余りにも巧妙で、狡猾だったのだ。

爛れた。舌も、喉も、肺も、胃の腑も。焼けたと思ったものが、今度は爛れた。血痰が、力なく開いたままの口の端からこぼれ出た。胃の内容物を全て吐き出そうとして、喉に灼熱感を覚え、反射的に堪えてしまう。先程あれだけ辛さに苦しみ、ようやく喉元を過ぎたというのに、あの苦しみをまた味わいたいはずがなかった。だが、今度は震えが起きた。寒い。たった今まであんなに熱かったはずが、今は寒すぎる。背筋が、いや、体全体が冷えていた。それどころか、全身に力が入らぬ。自分の意思とはまるで関係なしに、手足が痙攣する。それを全く抑えられない。

それを待っていたかのように拷問吏たちが刃物を手に動いた。予をうつ伏せにして四肢を押さえ付け、そしてまるで示し合わせたかのように同時に両手両足の腱を切断した。もはや、声すら出せない。更に残りの拷問吏が何かを持ってきた。布?袋?いや、死体袋だ。それに予を入れるつもりか?やめろ、まだ予は死んでおらぬ!しかし、既に身じろぎすら出来ぬ。頭から死体袋を被せられ、そのまま拷問吏数人に担がれ、何処かへと運ばれた。

そして、いきなり地面に投げ落とされた。何処だ、ここは?いや、見覚えがある。王宮内の屋外広場だ。式典などに使われていた場所だ。見回すとそこには、完全武装のルシタニア騎士数十名と、聖職者たち数名、それと豪奢な絹服を纏った王族らしき者たちが見えた。視界の全てに鉄格子が見える。どうやら、広場の一角に置かれた檻の中の床面に死体袋を逆さにして落とされたようだ。

「ようやく来おったな!汚らわしい邪教の王めが!今から地上における正しき神の代理者たる我らの王がお主に引導を渡してくれるわ!だが、お前は我らの王が立ち合うにふさわしき勇気の持ち主であることを証さなくてはならない。この檻の中の獅子を倒してそれを証明してから、我が王の前に立つが良い!」

そう喚いておるのは、ルシタニアの聖職者か。だが、迫力も貫禄もない。声に張りはあるが、何処か響きが軽い。そうか、聖職者の主催する、予を殺すための儀式が今から行われようとしている訳か。ルシタニアの国王は惰弱と聞く。そのような王にでも予を殺せるよう、拷問で痛めつけ、毒を使い、四肢の腱を切断し、獅子の檻に入れたか。この状態で獅子と戦って無事に済むはずがない。万が一勝てたとしても充分に弱りきった予を、国王自らの手で殺させるという算段か。なかなか考えたものだな。絵を書いたのは王弟のギスカール公辺りだろう。ろくでもないことを思いついてくれたものだ。

檻の中央部分にあった仕切りが外され、のそりのそりと獅子が予に近づいてくる。予は縛られてこそいないが、体に力が入らず床に仰向けに横たわったまま、首だけを迫り来る獅子に向けている。辺りにはこれでは何の抵抗もなく喰われるだけだろうと、予を嘲笑うような空気が流れていた。

馬鹿めが!予が最初に獅子を倒したのは、十三歳のことだった。十一歳で倒したヒルメスには負けるが、あのダリューンよりも早いのだぞ?この状態でも獅子一頭ぐらい倒すなど造作も無いことよ!

もはや何も出来ぬとたかを括ったのか、獅子が無警戒で近づき、予の首に牙を立てんとしてきた。そうだ、それを待っていた!予はバネじかけであったかのように一瞬にして身を起こし、獅子の喉首に逆に噛み付いてやった。全身の力を全て咬筋力に集中させ、喉首を一気に食い千切る。獅子は狼狽するような弱々しい吠え声を漏らしながら横倒しに倒れた。ははは、ざまあ見よ!さて、次はお主の番じゃぞ、ルシタニア王!首を洗って待っておれ!

と、その時、左足に激痛が弾けた。見ると、獅子が予の左足のふくらはぎに噛み付いていた。馬鹿な!獅子は倒したはずであろう!が、更に右肩を他の獅子が噛み付いてきおった。そのときようやく悟った。獅子は一頭ではなかったのだ。先ほど倒した獅子なら相変わらずそのまま横たわっていたが、今二匹の獅子が予の体に噛みつき咀嚼しており、更にもう二匹が何処から喰おうかと予の周りをゆっくりと回っていた。そう言えば、先程の聖職者も獅子が一匹だけだとは一言も言っていなかった。最初に獅子を一匹だけ放ち、時間差で残りをまとめて解き放ったのだろう。そうして、一匹倒して安堵している予を襲わせるつもりだったのだ。全くろくでもないことを考えつく!希望を見せておいて、即座に絶望の底に叩き込むとはな!

ふん、豪毅の国王と呼ばれた予もどうやらこれで最期か。タハミーネ、我が王妃よ。そなたにもう一度会いたかったぞ。結局そなたは予に心を開くことはなかった。赤子が死産と判ったときは、まだ失いたくないと、もう少し時間をかければきっとと思っていたが、時間の無駄でしかなかったか。だが、予にはそなただけであった。そなただけしか欲しくはなかった。本来ならば幾人もの側室を抱き、孕ませ、子を成すことが国王としての責務であったろうが、予はそれをしなかった。そうしないことが、そなたに見せられる愛の証だと思っていたが、やはり通じるはずもなかったな。予にはそうさせることが出来ずじまいであったが、そなたが自分の子と思える者をその手に抱ける日がいつか来ると良いな。

「さらばだ、タハ―」

◇◇

パルス暦320年12月20日、ペシャワール城塞に諜者からの知らせが届いた。

先日、アンドラゴラス三世の処刑が行われたと。

そして、明くる年321年1月1日に、ルシタニア皇帝インノケンティウス七世と前パルス王国王妃タハミーネとの華燭の典が執り行われると。 

 

第二十八話 傾城愛娘

 
前書き
サブタイトルには 傾城の美女の愛娘 と言うのと、 傾城の美女は娘を愛しむ の二つの意味を込めました。 

 
諜者の話では、タハミーネはいきなりアンドラゴラスの首級を見せられて号泣したらしい。

「私…私……判らなくなってしまった…」

と呟いたらしいが、ルシタニアの奴らには正確な意図が伝わっていない可能性が高い。自分はもうどうしていいか判らないと、途方に暮れているとでも考えたことだろう。正確には「私の娘の行方がもう二度と判らなくなってしまった」なんだろうけどな。

何故だか、タハミーネはアンドラゴラスが娘の行方を知っていると考えていた節がある。三人娘を用意するという偽装工作がうまく行ったからなのか、それとも知っているが教えられないとアンドラゴラス自身が言ったのか。まあ、暗灰色の衣の老人、尊師すら三人娘のどれかがアンドラゴラスの娘と考えていたらしく、「自分を殺せば居場所が判らなくなるぞ!」なんて言ってたけどさ。

何にせよ、ギスカールは原作でイリーナに割り振った役どころをタハミーネに押し付けるつもりでいるのだろう。それもいいかもしれないな。これ以上生きているのは辛いと思う人間には死に場所を与えてやればいいのだ。それが本人のためでもあるし、資源の節約でもあるだろうさ。

おや、アルスラーンがやって来たな。何の用だろうか?

◇◇

ラジェンドラ殿は私のことをいつものように、「おう、わが心の兄弟よ!今日はどの様なご用向きかな?」と明るく迎えてくれた。この方はいつも本当の兄弟であるかのように、私のことをいつも暖かく迎えてくれ、親身になってくれる。そんな大切な方のお顔を曇らせてしまうかもしれないのは非常に心苦しいが、それでも私は言わずにはいられない。懇願せずにいられないのだ。

「母上をお助けしては頂けないだろうか?」と。

案の定、ラジェンドラ殿は渋い表情をされた。

「アルスラーン殿、お主はナルサス卿から今後事態がどの様に推移するかの予測を聞かされているはずではないのか?」

その通りだった。確かに聞いてはいる。母上は父上を殺したイノケンティス王を憎んでいる。多分、寝所に刃物を持ち込み、殺害を図るだろう。そして、王弟ギスカール公はそれをあえて見逃し、実行させる。そして母上を処断し、自らは決して手を汚すことなく至尊の座を手に入れるつもりだろう。それをナルサスたちは止めるつもりがない。むしろ敵が一本化されて好都合だと考えている。母上についても、おかわいそうな方ではあるが、もはや生き長らえることを望んでいまい。死に場所を与えてやるべきだ。それよりもこちらは『ルシタニア追討令』と『奴隷制度廃止令』を急いで作成し、布告しなければならないのだから、母上のことはこの際、考えないべきだ、とも聞かされている。

「確かに聞いている。判ってもいる。だが、母と呼んだ人がこれから死のうとしているのを、子の立場にあったものが座して見ているのが人として正しいことだろうか?」

「…確かに正しくはないかもしれんがね。しかし、本人に生きる気がないんだ。勝手にさせてやるべきだろうさ」

「私が死なせたくないのだ!だって、このまま死んでは、母上は『おみやげ話』が出来ないではないか!」

ジャスワントに聞かせてもらったのだ。自分にとって大切なお方から話して頂いたことだと。
人間は死後の世界で親に会ったら、たくさんのおみやげ話をしてあげなければならない。悲しい事や辛い事もあったけど、我慢して乗り越えてちゃんと幸せになれたと。誰かの役に立てて、誰かに喜んでもらう事が出来たと。嬉しかった事や、楽しかった事、誇らしかった事がたくさんあったと、そういった事を親に伝えなければならない。それが出来るようになる前に死んでしまうのは親不孝だと。

このままでは母上はそのご両親に死後の世界で会ったときに、自分は幸せにはなれなかったと伝えなければならなくなる。そんな話はする方もされる方も悲しいだろう。そんなことにはなって欲しくないのだ。

ラジェンドラ殿はしばらく呆気にとられたような表情で私を見ていた。そして、深い溜め息をつき、頭をガリガリと掻いた。

「全くジャスワントの奴め…。なあアルスラーン、大人の中にはなあ、おみやげ話をつくるのも見つけるのも壊滅的に下手なまま大人になっちまった奴だっているんだぞ?タハミーネ殿なんてその最たるものだろうさ。あのお方ではこれ以上生き長らえても難しいだけだと思うぜ?」

「そうかもしれないとは思う。でも、誰かが歩き出す前に、何処にも辿り着けないからやめてしまえなどと私は言いたくないのだ!」

そう、歩き始めなければ、何処にも辿り着くことは出来ないのだから。

「ああもう、判った、判ったよ。やってやるさ。何から何までこのラジェンドラお兄さんに任せるがいいさ!その代りなあ、俺はお主に言いたいことが山ほどある!この際だから全部聞いてもらうからな!」

何だろう?私は何を聞かされることになるというのだろう?

◇◇

気付くと私、タハミーネはあばら家の中の粗末な寝台の上に横たえられていた。何故、こんなところに?それにいつの間に夜が開けているのだろう?
私は確か、ルシタニア皇帝と名乗るイノケンティスに皇妃とやらにされて、長くつまらないだけの式典のあと寝所に連れて行かれて、事が終わった後、疲れ果てて眠った皇帝の首筋を、隠し持っていたのに何故か見つかることのなかった刃物で切り裂いて、血しぶきが辺り一帯を濡らして…そこから先を覚えていない。一体何が…。

そのとき、突然部屋の扉が開いた。一瞬だけ覗いた顔を見て私は息を呑んだ。

「おおっ、気が付いた!ねーねー、みんなー、殿下ー、早く来て来てー!」

!今の声は!?声の主は部屋の外を歩き回り、やがて四人の男女を連れて部屋に入ってきた。

「ああ、気が付いたんだね。良かった良かった。ああ、あたしはパリザード、ラジェンドラ王子麾下の傭兵団第二軍の副将をやってるよ。よろしくね!」

随分と筋肉質で豪快な雰囲気の女の子だった。この間まで連れ添っていた夫を思い出し、少し私は後ずさってしまった。

「失礼、脈を拝見します。…大丈夫そうですね。私はラジェンドラ王子の配下で医者として働いています、レイラと申します。よしなに」

意志の強そうな目鼻立ちをした、理知的な顔立ちの少女だ。脈を取る手付きも手慣れていて、宮廷医よりも信頼が置けそうに思える。

「昨夜、王宮からお救い申し上げ、今は王都近郊の廃村に潜んでおります。王妃様が落ち着かれたら出立する予定でございます。…申し遅れました。私はラジェンドラ王子の下で諜者の取り纏めをしております、フィトナでございます。よろしくお願い致します」

冷徹な印象を持つ、支配者然とした風格と圧力を感じさせる女だった。彼女が誰かの下風に立つなど容易には想像し難い。

「この三人が諜者の中で三人娘と言われてるんさー。で、私がその姉貴分でラジェンドラ殿下の忠実なる下僕のラクシュ。最近、世間では『弓の悪魔』なんて冴えないニックネームで呼ばれててガッカリさー」

弓の悪魔!ルシタニアの大司教ジャン・ボダンを射抜いたという!あの時王宮に呼んでもやって来たのは楽士だけで、堅苦しいのは苦手と彼女は来ませんでしたが、ここでようやく会えましたね。

「俺はシンドゥラのラジェンドラ王子。故あって祖国を追放され、やることがないんで傭兵団を率いて、心の兄弟のアルスラーン殿を手助けしてる。今回もアルスラーン殿に是非にと頼まれて貴方をお救いすることにした。だから感謝するんならまずはアルスラーン殿に言って欲しいね」

ラジェンドラ王子、シンドゥラの横着者と言う異名を聞いた事がある。およそ信用できるような人柄ではないという風評だが、アルスラーンを随分と気にかけているように思える。ではすべてはこの王子の、ひいてはアルスラーンのお陰なのですね。ああ、アルスラーン、あの子にはひどく冷たく接してきてしまった。今度会ったら謝らなければ。

ですが、今はそれよりも、いえ、何よりも、やっと会えた私の娘を思い切り抱きしめなくては。

「ああ、会いたかったわ、我が娘よ。私のかわいい―」

◇◇

「私のかわいいラクシュ。ああ、どうか私を母と、母と私を呼んでおくれ!」

「ええええええええ!?な、何で?何で私があなたの娘なんさー!?やっ、ちょっ、ギブギブ!ギブだってばー!」

潤んだ瞳で見つめ、上気した頬を擦り寄せ、タハミーネはきつくきつく己が娘ラクシュを抱きしめた。…いや、ちょいキツすぎ。もうちょい緩めてやって!

いやいやいや、人違いだから!三人娘は確かに孤児だけど、ラクシュにはちゃんとカルナという母親がいるから!それに年齢だって合わないから!こいつこう見えて何と驚きの二十六歳だから!俺も指折り数えて計算して、毎度その事実に驚くんだけどさ。

いいえ、間違いありません。ひと目で判りましたと、それでもタハミーネは言い張るのだ。ちょっとその目、腐ってるんじゃないかと思うんだが。原作だとレイラを自分の娘と信じて疑わなかったって言うのに、一体全体どうなっているんだ。

そもそも、ラクシュは生粋のシンドゥラ人で、肌だってちゃんと褐色で、透けるような白い肌のタハミーネとは似ても似つかないとも言ったんだが、

「私はシンドゥラの隣国、バダフシャーン公国の生まれですので、シンドゥラ人の血も多少は流れているのかもしれません。きっとラクシュにはシンドゥラの血が強く出てこの様な肌なのでしょう。おそらくアンドラゴラスはこの肌の色がパルス人らしくないと思って捨てたのでしょう。そうに違いありません!」

と変に理論武装し、全くこちらの話に聞く耳を持ってくれないのだ。あ、そう言えばカルナは赤ん坊の時分に国境となっているカーヴェリー河のシンドゥラ側の岸でカゴに入れられプカプカ浮いてるところを拾われたらしいと言ってたような。と、すると元はバダフシャーン生まれで、シンドゥラの血が余りに強く出過ぎたことで、シンドゥラ側に捨てられたって可能性もあるのか?そして、本来カルナはタハミーネの姉だったりする可能性があったり?それで血がつながってるように思えると?…いや、どうかね…。

でも、この調子ではどれだけ言葉を尽くして説明しても、違うと納得してくれそうにない。いや、むしろ好都合だろう。娘と信じて疑わない存在と過ごすことで、彼女はこの先幾らでも親に誇れるおみやげ話を作っていくことが出来るだろう。それで本人が幸せだというのなら、それはそれで構わないではないか。そうだよな。だから、ラクシュ、思う存分、『母親』に甘えてやってくれ!もとい、『母親』を甘えさせてやってくれ!

「一体何でこうなるんさー!?」
 
 

 
後書き
今回の展開には賛否両論ありそうだとは思ったんですけどね。ただ、自分としては自分がここまで書いてきた三人娘をタハミーネの娘とする事には嘘臭さを感じてしまって、どうしてもその様には書けませんでした。で、何故かこうなりました。 

 

第二十九話 王妃冊立

魔道の秘術の中に人操傀儡という術がある。死体や失神状態にある他人の体に精神だけ乗り移り、意のままに動かすというもので、原作では名前こそ明かされていないものの、イルテリシュの身体に尊師が使っていたりした。他人の体に乗り移った状態でも問題なく他の魔道の技を使うことが出来るというのがポイントだ。

地行術と壁抜けを使って王宮に潜入し、イノケンティスを殺害した直後のタハミーネに当て身を食らわせ失神させる。そして、タハミーネの体に乗り移って、自分の体を物陰か何処かに隠した上で、まずはタハミーネの体で脱出。更に、別の諜者の体に乗り移った状態で再度王宮へ行き、自分の体に戻って、別の諜者と共に脱出。というやり方で、タハミーネの救出に成功した訳だった。

さてと、連絡役の諜者を一人先行させた上で、俺たちはゆっくりとペシャワールに戻るとするか。タハミーネを伴っている以上そんなに急ぐことは出来ないし、先月28日に既にあの布告がなされた今、俺たちにすべきことはそんなにはない。

さて、アルスラーンはどうしているだろう。まあ、ああなった以上、心配などは不要かもしれんがな。

◇◇

パルス暦320年12月21日。私、アルスラーンは先程、一週間後の布告の発令を控え文案作成に追われるナルサスに、とある件について相談し、

「私としては余り賛成できる話ではありませんが、殿下がそこまで仰るのであれば、私は反対する言葉を持ちません」

と消極的な賛成を得たところだった。諸手を挙げて賛成とはいかないか。まあ、仕方ない。とにかく、後は本人を説得しなくては。私はエステルの病室へと向かった。

エステルの立ち位置の危うさを指摘してくれたラジェンドラ殿の好意に応えるためにも、何としても色よい返事を貰わなくては。


昨日、ラジェンドラ殿はこんな風に話してくれた。

「なあ、アルスラーン殿、お主たちは俺がルシタニアとの戦いに協力するために此処にいるのだと思っているだろうが、実は違うのだ。俺はむしろ、こんな戦いを早く終わらせて、ザッハーク一味との戦いを始めたいと思っているのだ」

「ザッハーク一味、ですか?」

本当にこの方は異国人であるにも関わらず、蛇王ザッハークについて実に詳しい。そして、その問題意識の強さはむしろパルス人以上なのではないかとすら思える。

「ああ、ナルサス殿がペシャワールに着くまでに二度ザッハーク復活をもくろむ魔道士と戦っているがな、それが奴らだ。奴らが盛んに蠢き始めた理由、そんなものはただ一つしかあり得ない。ザッハークは復活しつつあるのだ」

「まさか!」

そんなはずはない。ザッハークは今も宝剣ルクナバードの霊力によってデマヴァント山直下の地下洞窟に封印されているはずだ。封印が解けたとしても、二十枚の厚い岩板が彼が地上に戻るのを阻んでいるはずだ。

「お主も知っていよう。パルス暦20年にデマヴァント山のカイ・ホスロー王の墓に宝剣ルクナバードを収めた際、『一枚を十五年、二十枚を三百年』とのザッハークらしき声が聞こえたという話を。今年はパルス暦320年。ちょうどそれから三百年だ!」

「!」

「尤も、すぐにという訳でもないらしい。ルクナバードのお陰もあってあと数年は平気かもしれん。だがな、ザッハーク一味、奴らは危険だ。尊師という指導者を含めあと六人のはずだが、どいつも魔道の使い手だ。正攻法で太刀打ちできる相手ではない。諜者たちでも一対一では苦しいだろうさ」

「そ、そうなのですか?」

ラクシュ殿や三人娘さんたちなどはかなりの強者のように思えるのだけれど。

「諜者は別に魔道を専門に学んだ訳ではないからな。それに比べ奴らは魔道に特化し、しかも蛇王を信仰することで特殊な力を与えられているかもしれんし、力の差が計れんのだ。グルガーンを潜入させて調べさせてはいるが、未だ全貌を掴んだとは言えない。警戒するに越したことはないさ。で、そいつらと、そして特にザッハーク本人と戦う場合に関し、くれぐれも言っておきたいことがあってな。いいか、よく聞けよ!」

「は、はい」

何だろう?絶対に聞き逃すなと言わんばかりの気迫を感じる。

「いいか、絶対に、相討ちでもいいだなんて考えるな!自分だけでは相討ちが精一杯だと思うなら、必ず他の奴の力も借りろ!どだいあの連中は普通の人間じゃないんだ。元々力の差があるんだ。一対一じゃなくても、それは決して恥でも、卑怯でもないんだからな!これは他の奴らにも徹底させろ!絶対に一人だけで戦わせるな!他の奴らにだっていずれは家族が出来るんだ。家族を泣かすなとな!」

「…でもザッハークさえ、奴さえ倒せれば、私なんてどうなったって構いません!それにラジェンドラ殿、貴方にだったら安心して後を託せます!」

それで平和になるのなら、その為だったら、私は命ぐらい幾らだって賭けられる。それに貴方ならきっと私の志を引き継いでくれる。ならば何の心残りもない。

「ふん、お主ならそんなことを言いそうだと思っていたさ。だがな、エステルはどうする?」

「はい?エステルですか?」

ここで何故、エステルの話になるのだろう?

「エステルは騎士の家に一人っ子として生まれた。従軍して武勲を立てて家格を高め、それなりの騎士を婿に取って、それで家を存続させる。そんな心づもりだったろうけどな。お主を庇ったことで余りに酷い傷が残ってしまった。そんな娘のところにそれなりの騎士なんて婿に来てくれると思うか?」

「そ、それは…」

「そうと知ったらエステルの実家は躊躇なく養子でも取って、エステルをお払い箱にするだろうさ。哀れエステルは何処にも行き場が無くなる訳だ、誰かさんのせいでな。なのにお主は知らん顔であの世にとんずらか?実に無責任だな!」

「……」

ぐうの音も出ないとはこのことだろう。確かに私は自分が死んだ後彼女がどうなるかなど全く考えたことがなかった。

「それにな、間もなくこのペシャワールにはルシタニア追討令に応えて国中の将兵が参集することになる。そんな将兵にとって、ルシタニア人のエステルはどう見えると思う?仲間だなんて言われても信じられん。隙あらば排除してやろう、と思うことだろうさ。このままでは危険だぞ?奴らが不満に思おうとどうにも出来ない立場を、エステルに与えてやるべきじゃあないか?」

「どうにも出来ない立場と言うと?」

「国王の正妻、王妃と言ったところだろう。『ルシタニアを駆逐し、国内が安定した暁には彼女を王妃として迎え入れる。異論があるのなら、武勲によって翻意させてみるといい』とでも言ってみるんだな!」

「お、王妃?ちょっとそれは…」

飛躍し過ぎではないだろうか、私はまだ彼女と何もないというのに。何とかしたい気持ちは確かにあるけれど。

「お主、自分の掲げる奴隷解放令がお主だけの代で根付くと思ってるのか?そんなのは無理だぞ?当然のように子や孫の代まで継続しなければ根付くものではないわ。そして、政策の継続性を裏付けするためにも、次代に当然に受け継がれると周囲に思わせなくてはならんのだ。つまり、政治的にもお主は配偶者を持つ必要があるのだ。で、ちょうど波長が合いそうな女性がすぐそこにいて、彼女も自分の命を張ってもいいぐらいには思ってくれてる。お主は彼女に命を救ってもらった借りもある。ここまで条件が揃って、他を探す必要が何処にある?」

「うう…ラジェンドラ殿、少し考えさせてくれないだろうか?」

ここまで畳み込まれると思わず頷いてしまいそうだ。ちょっと考えさせてもらおう。

「ああ、どうぞどうぞ。だが、『エステルを絶対に死なせないでくれ』とレイラにすがりついたお主の姿を思い出すとなあ。もう結論は出ているような気がするんだけどなあ」

足早にその場を立ち去ろうとする私に、追い打ちがかけられた。ああ、もう本当に勘弁してください、ラジェンドラ殿…。

◇◇

基本、私、レイラは余程のことがない限り、患者を面会謝絶なんて状態にはしない。重傷の人間や重病人は、一人でいると得てして暗いことばかり考えてしまいがちなので、逆に出入り自由にして、滅多に一人にならないようにすらしている。なので、エステルさんの病室にも次から次へと誰かがやってくる。

「全くもう、せっかく無傷で連れてきてあげたのにさー、お気軽に大怪我なんてしないでよねー、エステルちゃん!」

「め、面目ない…」

そうやってエステルさんを責めるのはラクシュ姉だ。…ちょっと、他の話題にしてもらえないだろうか。

「あんまり怪我ばっかりしてると、アルスラーン殿下が愛でるのを躊躇しちゃうかもだよ?本当に気をつけてよね!」

「めめっめめめ愛でる?何だそれは?どういう事だ?それに何故アルスラーンが出てくる?」

どうやらエステルさんはこういう話免疫がないみたいですね。私たちと同い年のはずなのに、何だか微笑ましいです。

「えー、それは勿論、揉んだり撫でたり噛んだり舐めたりだよ。エステルちゃん、アルスラーン殿下にだったら望むところだったりするでしょー?」

「ななななな……」

あ、これはエステルさん熱が上がりそうですね。ここはドクターストップに―
と思っていると、廊下を足早に近づいてくる音がし、扉が音高く開けられた。

「エステル!私だ!話があるんだが、今構わないだろうか?」

「なっ、何だお主!まっままままさか私を噛んだり舐めたりしに来たのか!」

あ、アルスラーン殿下…。今来るのは余りにも…。はい?席を外して欲しい?私にも?構いませんが、余り患者を興奮させないように…。

しばらく扉の外に控えていた私でしたが、漏れ聞こえてくるのは、エステルさんが思い切り声を荒げ、罵り、怒り、驚き、呆れると言った様子。…これは本当にドクターストップが必要ですね。意を決して突入しようかとしていると、急に扉が開き、アルスラーン殿下が済まなそうな顔で出てきた。

「れ、レイラ殿、話は無事ついたんだが、ちょっとエステルが熱を出してしまって…。済まぬが診てはもらえないだろうか?」

本当に何をやっているんです!後でお説教ですよ、アルスラーン殿下!

◇◇

パルス暦320年12月28日。ペシャワール城よりパルス全土にアルスラーン王太子の名で三つの、歴史的に重大な布告が発せられた。

一つ目は「ルシタニア追討令」。

二つ目は「奴隷制度廃止令」。

三つ目は「新王朝開闢の詔」であり、ルシタニア軍を駆逐し、国内に安定が取り戻された時点で新王朝の開闢を宣言し、ルシタニア人女性、エステル・デ・ラ・ファーノを王妃として冊立するとの宣言であった。 

 

第三十話 新朝始歌

原作でアルスラーンが行った布告は「ルシタニア追討令」と「奴隷制度廃止令」の二つのみだった。しかし、この世界ではもう一つの布告「新王朝開闢の詔」までもが行われている。

このもう一つの布告では、前王朝であるカイ・ホスロー王朝が、最後の三人の王については宝剣ルクナバードの追認を受けることが出来ていない王だったこと、ゴダルゼス二世が偽りの予言を真に受けて王朝延命の為にヒルメスという不義の子を儲けたこと、そのヒルメスがルシタニアを引き入れ侵略に加担したことなどを明言し、前王朝が暴走を繰り返し、命数を使い果たしたと断定している。そして、アルスラーンは前王朝の血統を受け継いではいないものの、宝剣ルクナバードの信認を受けている上に、前王朝の最後の国王アンドラゴラス三世より立太子もされており、適法に前王朝を引き継いだ存在であるとして自らの正統性を主張。パルス全土の諸侯と全将兵を率いる盟主として、侵略者であるルシタニアと戦い、前王朝の政治的不公正の是正、近隣諸国との友好関係を樹立して大陸公路の平和を保全することを誓っている。そして最後に、ルシタニア人を駆逐し、国内に安定が取り戻された時点で新王朝の開闢を宣言し、ルシタニア人女性、エステル・デ・ラ・ファーノを王妃として迎えることまでを言明している。まるでこの布告は新たな王朝の開闢を高らかに歌う始まりの歌のようであった。

いや、原作を知る転生者の自分としては、この時点でよくここまで明言してしまったものだなあ、と驚嘆するしかない。原作ではアルスラーンが前王朝の血をひいていない事実を公表したのはルシタニアを駆逐してからのことだった。なのに、それをルシタニアと戦う前から明かしてしまうなんてな。諸侯が味方にならないどころか敵に回る可能性を考えなかったのか?その恐怖を感じなかった訳ではないだろうに!などとも思うんだがな。

が、ナルサスはそれはないと読んだのだろう。諸侯としては、ルシタニア軍と戦うための盟主にアルスラーン王太子を仰ぐ以外に選択肢などない。王家以外で盟主として立てる実力を持つものなど存在しないのだから、ルシタニア軍に各個撃破されるのを避けたいのなら王太子の元に参集するしかないのだ。

また、エステルを王妃に迎えることを宣言したことにも俺としては不安を感じずにいられなかったが、それも奴隷制度廃止令と同じく、諸侯が勲功を上げて団結して撤回を要求すれば覆せると、諸侯が勝手に解釈する余地を残したということなのだろう。

まったく、ナルサスときたら、呆れるほどに悪辣なペテン師だよな。俺なんて奴の足元にも及ばないわ。…多分向こうもこっちのことをそう考えていそうな気がするがな。

◇◇

「サンジェ、サンジェはどうした?おらぬのか?」

我らがザッハーク一党の頭、尊師が弟子の一人の名を呼んでおられる。奴め、まだ戻っておらんのか。私、グルガーンは尊師に近づき、耳打ちをした。

「尊師、サンジェはヴァフリーズの密書を奪ってくると言ってペシャワールへ赴き、まだ戻っておりません。私も止めたのですが、尊師のお役に立ちたいのだと」

「やれやれ、気持ちは有り難いが儂に無断で動くとは困った奴じゃの。まあよい、グンディー、グンディーはおるか!」

「はい、お側に!」

闇が揺らめいたと思ったら、その次の瞬間にはグンディーがすぐそこに現れ、頭を垂れていた。

「グンディー、汝の誇りとするは、確か瞬間移動の術であったの?」

「はい、長距離は無理ですが、数ガズ(≒メートル)の距離ならば瞬時に移動を繰り返すことが出来、戦闘にも使用できます」

「よし、汝に命ずる。ラジェンドラ王子の一党がタハミーネを王宮から救い出しおったが、まだ遠くへは行っておらぬじゃろう。かの王子の羽翼を一つ二つもいで参れ!パルスの太陽はいつまでも奴らの上に輝かぬと教えてやるのじゃ!」

「ははっ!!」と一礼するとグンディーは姿を消した。

なるほど、瞬間移動の術であれば、気配を悟られずに接近でき、どのような手練れでも造作なく屠れるということか。まずいな、王子たちに連絡を。いや、無理か。このグルガーン、皮肉にも尊師に信頼を得過ぎ、弟子たちの筆頭として常に尊師の側にあるよう命ぜられてしまっている。お陰で連絡を取る隙すら作れぬ。申し訳ないが、王子たちには自力で何とかしてもらうしかない。どうかご無事で。

◇◇

その男が、馬に乗って近づいてきたのは、俺たちが大陸公路の脇で夜営をし、焚き火のもとで食事をしていたときだった。焚き火に照らされたその男の顔立ちは秀麗と言ってよいほどのものだったが、眉間に刻まれた皺と不自然な曲線を描いた口元が剣呑な印象を与えていた。三人娘などは思わず傍らの武器を引き寄せようとしたほどだ。

「大丈夫」

と骨付き肉にしゃぶりついたままのラクシュが告げたことで、三人娘は警戒を解いた。ラクシュは殺気をもって近づく人間を決して見逃さないし、三人娘はその意味ではラクシュを信用している。あくまでもその意味では、だが。

「馬上から失礼。妹を探している。アルフリードと言って、年は十六歳。頭に水色の布を巻いていて、馬と弓を得意としている勝ち気な娘だ。心当たりはないか?」

顔つきといかにも盗賊然とした装束で察しがついていたが、今の言葉で確信した。こいつ、アルフリードの兄でゾット族の一員、メルレインだ。妹を見つけぬことには故郷に帰れぬと、あちこちを探し回っていて、原作ではダイラム地方に最初に姿を現したが、パルス暦321年1月4日の今この時には、王都から東へ二十ファルサング(百キロメートル)ほどのこの辺りにいたということか。

「アルフリードなら俺の知り合いのところに身を寄せているから知っているぞ。俺はアルスラーン王子の知り合いでラジェンドラと言う。こいつらは俺の配下と、その関係者?だ。ところでお主は何者だ?」

「何、知っているのか!や、失敬、俺はメルレイン。ゾット族の族長、ヘイルターシュの息子だ」

馬から下りて頭を下げ、話を詳しく聞かせて欲しいと言うので、俺は三人娘にメルレインの分の飯を用意してやるように言い、ラクシュの右隣に座らせてやることにした。さっきまでそこに座っていたタハミーネは少し機嫌を損ねたようだったが、ではラクシュの正面に座ればいいではないかと言うとむしろかえって喜んだ。メルレインはそんなタハミーネを一瞬見やりはしたものの、すぐにこちらに視線を戻し、話を促すように俺に無言で語りかけてきた。ひ弱すぎるほどおしとやかな女性が好みなはずのメルレインだが、今は妹のことでそれどころではないのか。或いは三十六歳のタハミーネは年齢的に対象外なのか。おっと、タハミーネが怖い目でこっちを見た。内心がダダ漏れだったか。とにかく事情を話してやることにした。

◇◇

俺、メルレインは妹のアルフリードが、親父の死後、アルスラーン王子のところに身を寄せていると聞き、顔をしかめずにいられなかった。独立不羈のゾット族の誇りをあいつは忘れたのかと問い詰めたい気分になった程だ。だが、正確にはアルスラーン王子と行動を共にしているというより、王子の部下のナルサスという男に惚れてついていってるらしい。ナルサスとはどんな男かと聞くと宮廷画家を志していると言う。そんななまっ白そうな男なんかに惚れたのかと思いながらもよくよく話を聞くと、剣を取っても強く、謀略にかけては三カ国連合軍を口先一つで追い返す?何だそれは?訳が判らん!妹の様子も気になるし、ここは俺もペシャワールに―

俺のすぐ隣のラクシュ殿の手にいきなり弓が出現していた。いや、弓弦が震えているところからすると弓を射た後なのか?いや、射る瞬間など俺は見ていないのだが、それとも見えなかった?

「ぐうっ!!」

ラクシュ殿の斜向かいに座っていた女性、確か、名前はフィトナと言うのだったか、の後ろに突然黒い影が現れ、その人影が左胸に矢を生やして胸を抑えていた。

即座に他の二人とともにフィトナが剣を抜いて首をはね、更に体をめった切りにした。更に死体には芸香の粉末をふりかけ、更には焚き火の火を移して燃やし始めた。

火に煽られて飛んできたその男が纏っていた衣の一部をラジェンドラ殿が手に取り、小さく嗤う。

「暗灰色の衣…。ザッハーク一味か」

「ざ、ザッハークだと!?」

あの蛇王ザッハークのことか!?

「メルレイン殿、俺やアルスラーン王子の周りにはこういう怪しい連中もつきまとっておってな。出来ればお主にも力を貸して欲しいのだ。お願いできるだろうか?」

「あ、ああ、判った。俺もあんたたちと一緒にペシャワールに行こう」

妹の事も心配だし、ナルサスとか言う男も俺自身の目で見極めたいしな。

◇◇

全く、ザッハーク一味め、一体いつの間に俺たちの直ぐ側まで近づいていたのやら。もしかしてあれかな?原作では尊師がアンドラゴラスの剣を瞬間移動で躱していたりしたけど、そんな感じの術で移動してきたのかもしれない。だが、ラクシュの並外れた殺気察知能力と早撃ちの前では意味が無かったな。これでザッハーク一味は尊師を含め残り五名か。あと一人で折り返しだな。更に今回俺たちはメルレインという頼もしい仲間も得た。タハミーネも無事救出出来たし、タハミーネは自分の娘と信じて疑わない存在を見出したわけだし、この旅は万事うまく行ったと言う感じだな。さあ、ペシャワールに戻ろうか。

時は今、パルス暦321年1月1月4日。原作よりほぼ三ヶ月前倒しで進むこの戦いがどのような結末を迎えることになるのか、今はまだ誰も知らない。 
 

 
後書き
次回より 汗血公路 的な 新章に突入します。 

 

第三十一話 内海避客

パルス暦4月13日。俺たちはようやくペシャワール城塞に戻ってきた。ちょうどそのときが、各地の諸侯や領主たちが兵を集めてアルスラーンの元へ馳せ参じ、ルーシャン、ザラーヴァント、トゥースと言った面々が名乗りを挙げているところだった。うーん、原作の名場面の一つを目の当たりに出来るなんて、読者冥利に尽きるねえ。

一緒にペシャワールにたどり着いたメルレインはさっそくアルフリードに会いに行き、彼女が族長を継ぐ気が少なくとも今は全く無いのを知り、ナルサスが信頼できる人物であるのを見て取ると、すぐにペシャワールを出て、里に戻っていった。しばらくは彼が族長代理としてゾット族を率いることになるらしい。今後、傭兵としてのゾット族の力を借りることがあるかもしれないのでと、一応里の場所も教えてもらった。報酬額が適正ならば請け負う。お友達価格?そんなものはない!とも言われた。

留守番のジャスワントに不在時に何があったかを聞くと、俺の留守を見計らったかのようにシンドゥラの新国王ガーデーヴィの名代としてマヘーンドラがやって来て、パルスと三年間の不可侵条約を結んで帰っていったと言う。その際、ジャスワントはマヘーンドラに「王子はともかく、お主はいつでも帰ってきてくれて構わない。何なら孫も連れて帰ってきてくれ」などと言われたそうだ。そんな訳で帰っていいですかなどと言い出すので、まず子供をこさえてからにしろと言っておいた。

それと、ザッハーク一味の一人がヴァフリーズ老の密書を盗みに忍び込んできた件について文句を言われた。そう言えば、ジャスワントがアルスラーンにおみやげ話のことを話したせいでタハミーネを救出しに行く羽目になった意趣返しに、ヴァフリーズ老の密書を託すから何処かに隠しておくようにと命じたのだった。これは勿論原作におけるエラムの役回りをジャスワントに押し付けたものだ。原作通りに偽手紙に騙されてジャスワントが隠し場所を確認しに行くところを追跡され、密書はザッハーク一味のサンジェの手に落ちた。

が、実はこの密書は油紙で二重三重に厳重に包装されており、開封すると芸香が辺りにバラ撒かれると言う仕掛けを施しておいたのだ。斯くしてサンジェは城壁の上で中身を確認しようとして芸香をまともにかぶってしまい、悶絶しているところを追跡してきたジャスワントとギーヴに討ち取られたそうだ。ちなみにこの密書は勿論偽物で、中身は「残念、はずれ。プークスクス」と俺が顔文字付きで書いておいたものだった。なので、それを知ったジャスワントには、非道いだの、嘘つきだの、腹黒だのと罵られ、折角信用してもらえたと思って張り切ったのにバカを見たとか、いつか貴方を手ひどく裏切ってやるとの決意を新たにしたとかと散々言われた。

何にせよこれでザッハーク一味は尊師も入れて残り四名、折返しに入った訳だ。ここから先は簡単には行くまい。今以上に細心の注意を払わなくてはな。

とは言えすぐには奴らの襲撃もなく、仕事に追われるナルサスやアルスラーンを尻目に、特にやることもなく、呑気に過ごしていたのだが、そんなある日ジャスワントに告げられたのだ。

マルヤムの内親王が一万五千の兵を率いて、アクレイアの城を脱出し、ダルバント内海を渡ってやって来た。そして、ラジェンドラ王子にお目通りしたいと願っていると。

◇◇

マルヤム王宮の女官長たる私、ジョバンナが、内親王の最後の肉親が息を引き取った旨をお伝えすると、この内親王が初めて涙を流すのを私は見た。一年半以上に渡る厳しい籠城戦の最中でも決して弱音を吐かず、皆を励まし続けたこの御方がこの様な表情をされるとは。

しかし、それも僅かな間のことだった。内親王はこのアクレイア城を放棄し、周辺からありったけの船を徴発した上でダルバント内海を渡ってパルスに赴くことを決断された。詭計を用いてルシタニア軍の一部を退けたとは言え、増援のないこちらはこのまま籠城を続けてもいずれはジリ貧になるだけ。ならばまだ士気が保たれている今のうちに兵を損じぬよう内海を渡り、パルスで味方を得て、その上で故国の回復を目指そうとこの方は言うのだ。

「では、パルスでどなたをお頼りになられるおつもりでしょうか?」との私の問いに、内親王はかの王子の名前を告げた。感心しないと言った表情が思わず出てしまった私に苦笑しながら、他に誰を頼るのかと強い眼差しを私に向け、莞爾として笑ったのだった。

その笑みを見たとき私は決めたのだ。内親王がかの王子に賭けるように、私どももこの内親王に全てを賭けようと。

◇◇

マルヤムのイリーナ内親王か。前世ではともかく、王族として生まれ育った今の俺にとって、最も嫌いなキャラクターが彼女だ。

国王と王妃がボダンや聖堂騎士団に殺され、姉のミリッツァ内親王がアクレイア城の落城の際に命を落とした以上、彼女こそがマルヤム王室最後の生き残りだった。だが、一体彼女が故国のために何をしたというのだろうか。ギスカールにあれだけ周到にお膳立てしてもらったにも関わらず、仇敵のイノケンティス王すら殺せなかったではないか。いかに盲目とは言え、王族なのだからな。自決の方法ぐらいは教わっていただろうよ。それを応用して首筋を狙えば盲目で非力な彼女であっても、惰弱なイノケンティスの一人や二人は殺せたはずだ。実際この世界のタハミーネですらイノケンティス王を殺せたんだからな。

そして、イノケンティス王の殺害に失敗して以降、彼女は故国回復のためには一切何もしていない。せいぜい、姉のミリッツァ内親王に申し訳ないと口で言うだけのことだった。トゥルクに夫婦で亡命し、三年間何もしないでヒルメスとイチャコラして過ごし、出産に際して母子ともに命を落としただけだった。しかも夫のヒルメスは実はマルヤム侵略に加担すらしてたんだぜ。そんなのの子を産もうとしてそれで命を落とすだなんて、彼女に故国回復の願いを託して死んでいった多くのマルヤム国民はどう思っただろうかね。彼女に裏切られたマルヤムの英霊たちが彼女に祟って、それで彼女が死んだというのが真実でも不思議はないと思えるくらいだ。

そんな内親王殿下が俺に会いたいだって?ああ、会ってやろうじゃないか!そしてはっきりと言ってやるさ。ヒルメスなら俺が殺してやったと。だから心置きなく、この世界のあんたは故国回復に専念するべきだと。そう言ってやろうじゃあないか!


と思っていたんだけどな…。

あれ?おかしいな。この内親王、目がちゃんと開いてるぜ?明き盲って訳じゃあ無かったよな?それにメルレインが思わず心惹かれてしまうほどに、ひ弱すぎるぐらいにおしとやかだったはずなのに、この内親王、やたらと背が高くてガッチリしてるぜ?へその見えるドレスを着てるんだが、どう見ても腹筋が割れているように見えるぞ?それにこの内親王、今、俺を見て微笑ったぞ。しかも、あえて擬音にするなら、「ニコリ」じゃあない。「ニヤリ」としか言いようがない、太い笑みを浮かべて、だ。

「おお、会いたかったぞ、ラジェンドラ王子。薄情にもイリーナのことを忘れて、ルシタニアのマルヤム侵略に加担すらしたヒルメス王子なんかよりもずっとな!」

…今、何か耳を疑うようなことを言われた気がする。

「ヒルメス王子のこと…知ってたのか?」

「ああ、そりゃあ知ってるさ。最初の頃あの男は仮面なんか付けてなかったんだ。それでいてあの火傷だろ?多くの人間があれはヒルメスだと知っていたさ。イリーナなんかは心痛の余り寝込んでな。アクレイア城に籠もってからもメソメソメソメソ泣き暮らしてな。ペシャワールでヒルメスが死んだって噂を聞いて、後を追うかのように息を引き取ってしまったよ、残念なことにな」

息を引き取った?イリーナが?だとしたら一体…

「誰だよ?お主、イリーナ内親王じゃあないんだな?だとしたら、お主は一体誰なんだよ?」

「決まっているだろう?イリーナ内親王の姉、ミリッツァ内親王だ。周辺諸国で年回りが近くて独身なのはお主だけだったからな。結婚するならお主だとずっと思っていた。会えて嬉しいぞ、ラジェンドラ殿!」

「…生きていたのか、お主?それに一体どうやって城から脱出出来たんだ…」」

いや、彼女は二年に及ぶ籠城戦の果てに命を落とすはずだったから、原作でもこの時点ではまだ生存しているはずではある。だが難攻不落の要害に籠もりきりで、船を連ねて脱出出来る余裕などなかったはずなのだ。

「内通者を使って城内を混乱させた上で開門させるなどという姑息な手を使おうとしていると判ったのでな。それを利用して城内に誘い込み、罠と伏兵で一網打尽にしたのさ。始末できなかった兵には逃げられたが、奴らが援軍を伴って戻ってくる前に一気に脱出してきた訳さ」

「なるほどな…」

つまり原作通り敵は内通者を使おうとしたが、仕掛けるのが早過ぎて逆に嵌められた訳か。だとしても、一年半以上も援軍の来ない籠城戦を続けられるわ、策を逆手に取って嵌めるわ、そこら辺の男より遥かに強そうな気配を醸し出してるわ、こいつ何かの間違いで王家なんかに生まれたクチだな。さぞや、お前みたいな王族がいてたまるか!とか言われてきたことだろうよ。俺もだが。

「建国以来の祖法でな、内親王は王位を継げないことになっているのだ。お主、私と結婚してマルヤムの王となってくれないか?」

待て、本気なのかこいつ。

「俺でいいのか?年は多少離れていても適性の有りそうな奴は他にいるんじゃないか?」

「ああ、十年ほど前にはギスカールに声をかけたんだがな。兄が心配だからと断られた。存外に兄思いでな、あいつ」

それにギスカールが他国に行ったら、その他国にルシタニアが滅ぼされそうだもんな。あのイノケンティスじゃひとたまりもないだろうし。ルシタニアがギスカールを手放す訳もないわな。

「で、どうだ?貧しい国ではあるがな。ここまでぶっ壊れてしまったんだ。この際好きなように作り変えて構わんが、どうだ?」

「そうだな、今から言う条件を呑んでくれるのならいいぞ?」

そして、俺はその条件を口にした。ミリッツァの反応は芳しいとは言い難かった。

「…お主なあ、それを私に言うとはどういう神経してるんだ?とてもまともじゃないぞ?」

「昔から決めていたことなんだ。俺が俺と交わした誓約だな。もし俺が王になれるのなら必ずこれを実現しようと。それが実現できないなら王になんてならないとな」

「ああ、もう、判った、判ったよ。それでいいさ。私としても、あんなものがそこらで野放しになってるなんてゾッとするからな。お主がどうかしてくれるんならその方がいいさ」

よし、それなら心置きなく王になれるな。さて、その前に片付けるべきものを片付けるとするか。 
 

 
後書き
二年も籠城続けられるなんて、ありがちなお姫様じゃあ無理だろ。きっとタフでマッチョな女だったに違いない!ってことでこうなりました…。 

 

第三十二話 要害攻略

原作ではペシャワール城塞に、十一万の兵が集まった。中書令のルーシャンが一万五千の兵と共に留守を任され、九万五千が王都を目指した。この世界では更に俺ラジェンドラ王子が率いる三万弱、マルヤムのミリッツァ内親王率いる一万五千が加わり、留守居の兵を若干減らし、十四万での出兵となった。原作とはちょうど三ヶ月前倒しの2月10日にペシャワールを進発し、対外的には十万と呼号している。

原作でギスカール公はアルスラーンの兵力を四万と見積もっているが、これは余りに過少に見積もり過ぎだと思う。ペシャワール城塞には元々八万の兵力が駐屯していたのだし、この半数でも既に四万なのだ。更に領主や諸侯が参集したことを考えれば更に増えることぐらいは判るだろうに。

などと言うことを鑑みるに、ギスカールにはまともな情報収集能力を持った配下がいないのだろう。特に敵の兵数を全く把握できていないというのが致命的だ。アトロパテネでパルス軍の実数を正確に把握できていたのはカーラーンがルシタニアに内通していたせいだろう。また、カーラーンの息子、ザンデが情報収集に長けていたのを思うと、きっとそれがカーラーン家のお家芸だったのだろうな。だが、アトロパテネ以後はカーラーン配下はすべてヒルメスが率いることになった。自前の配下のみで情報収集を行うことになって、よりギスカールの勝ち目は薄くなったことだろう。

ペシャワールから王都エクバターナまで二百ファルサング(約一千キロ)。その間にある要害としてはチャスーム城、聖マヌエル城が原作では挙げられるだろう。だが、チャスーム城は原作でアルスラーンたちがシンドゥラへ遠征していた間に急造されていたものであり、この世界ではアルスラーンの布告を受けて集結途中のトゥース率いる軍勢が建築途中であるのを見かけて、行きがけの駄賃として攻撃し、破壊してしまっている。

さすがトゥース、機を見るに敏だ。原作で功を争って先行し敵にしてやられた頭足りない系のザラーヴァントやイスファーンとは訳が違うな。伊達に奥さんを三人も貰ってない。いや、今の時点では貰っていない訳だが。

もう一つの要害である聖マヌエル城は、元々放置され荒廃していたパルスの砦をルシタニア軍が改築したものだ。こちらについては既に砦としての原型があり、攻めるのが容易では無かったためトゥースも手を出してはいない。つまり、パルス軍としてはこの城が最初の攻略対象となる訳だ。

原作ではシャフリスターンの野での遭遇戦からなりゆき任せで攻城戦になだれ込んだのだが、そうでなければたった一日で落ちるような城ではなかっただろう。しかも、原作ではチャスーム城を守っていたクレマンス将軍がこの世界ではこの城を守っている。頭足りない系のザラーヴァントとイスファーンを翻弄しただけに、それなりに手強い敵と言えるだろう。さて、どうするか。よし、原作知識を応用しよう。

◇◇

「何?戦いに備えて鹿や野牛をシャフリスターンの野に狩りに行きたいだと?」

「はい、糧食の備蓄は大丈夫かと兵たちから不安の声も上がっていますし、城に籠もりきりでは士気も下がってしまいます。ここは一部の兵だけでも狩りのために外に出して狩りをさせ、不安の解消を図るべきだと愚考します」

部下の進言に儂、クレマンス将軍はしばし考え込んだ。確かに一理あるかもしれないが、しかし時機の問題もある。

「しかし、敵の王太子の軍勢が接近しつつあるとの知らせも入ってきている。今この時期にそれをするのは危険ではないか?」

「確かにそれはありますが、斥候の意味でもやってみた方が良いのではないでしょうか?それになるべく大陸公路を迂回し、敵に発見されないよう努めますので」

そこまで言われては反論の余地もない。とりあえずやらせてみることにしたのだが、まさか狩りから帰還する味方を追いかけて敵までもが城になだれ込んでくるとは。

「いかん、門を閉めろ!早く閉めるのだ!」

そう命令したのだが、門兵は突如として地面から頭と両腕を突き出した人影に足を切られ、苦悶の余りしゃがみ込んだところを今度は喉を突かれ絶命した。何人もの兵が門を閉めようと門に駆けつける度に同じ光景が繰り返され、ひるんでる隙に敵が突入してきた。

城壁から急いで駆け下り、馬を引かせて戦闘に参加した。が、そこに周囲の人馬を薙ぎ倒しながら猛然と襲いかかってきた者があった。人馬ともに黒一色。いや、翻るマントの裏地だけが血の色で染められたかのように赤い。

こ、これは、アトロパテネでルシタニア軍の数多の名のある騎士を馬上から斬って落としたという黒衣の騎士!遮ろうと立ちはだかった味方も血煙を上げて次々と倒れていく。儂は自分が恐怖の叫びをあげるのを止められぬまま、太陽の光を浴びて輝くパルス騎士の長剣が自分に落ち掛かるのを見た。そしてそれが儂の人生最後の記憶となった。

◇◇

諜者を使って兵士の間に糧食の備蓄が不安だとの噂を流し、シャフリスターンで一狩りすればいいんじゃね?というアイディアを自ら思いつくよう士官を誘導する。その上で原作と同じ流れで城に突入させ、門を閉じるのを阻む。文弱で優柔不断なバルカシオン伯と違い、クレマンス将軍ならすぐに閉門しようとするだろうが、そこもまた地行術を使える諜者に邪魔させる。

何か独創的な策を考えようかとも思ったが、原作というお手本があるんだし、それを活かそうかと思ってな。それに、この挙兵の序盤ではザラーヴァントやイスファーンなどの新参の将に功績を挙げさせようとナルサスは考えていたはずなのに、それが意外とおざなりになったままなのも気になっていたからな。こういう頭を空っぽにして戦える戦場で思いっきり戦わせた方が奴らは勲功を稼ぎやすそうだし。

城主のクレマンスこそダリューンに譲ったものの、ザラーヴァントは城へ一番乗りを果たし、イスファーンはそれなりの将の首級を挙げたそうで、奴らにはテキトーに賛辞を送っといた。まあ、これで多少は満足して独断専行を慎んでくれりゃいいんだけどな。

◇◇

私、エステルは、ラジェンドラ王子に渡された台本を確認しながらただただ冷や汗が流れるのを止められなかった。

「なあ、ラジェンドラ王子。私が、これをルシタニア軍に向かって喋るのか?」

出来れば冗談だと言って欲しいのだが。

「ああ、勿論大声でな。まあ、諜者が魔道で声を増幅するから声量に関してはそれほど心配は要らん。とにかく胸を張って一片のやましさをも感じていないと言った風情でな!」

「こんな神学的には突っ込みどころ満載な内容をか!後世の歴史家がきっと指を指して笑うぞ!」

「もっと未来ではいろんな掲示板でネタにされるだろうな。だが、お主は出来るだけルシタニア兵を殺したくはないんだろう?だったらこれを喋るのだな。何もせずに、望みが叶うなんて虫のいい話はどんな世界でも存在しないんだからな!」

「わ、判った…」

掲示板とは何のことだかよく判らないが、アルスラーンの嫁になった時点でもう私は引き返しようがないところまで来てしまっているのだからな。毒をくらわば皿までだ。もうどうにでもなれだ!…しかし、気が重い。

◇◇

いずれにしろ、これで王都エクバターナまでこちらの軍勢を阻む要害はなくなった訳だ。この後は、王都近辺で野戦対決だろう。そして、そこではエステルの弁舌が火を噴くはずだ。ああ、楽しみだなあ。
 

 

第三十三話 敵将心攻

パルス暦321年2月下旬、王太子アルスラーン率いる公称十万と、皇帝ギスカールが親卒するルシタニア軍二十五万は王都エクバターナの東方で正面から相まみえることとなる。

アトロパテネの会戦以来、それは四ヶ月ぶりのこととなる。原作でアンドラゴラスの率いる軍勢がルシタニア軍相手にアトロパテネ以後最初に対峙したのは七月末のことだったから、原作より五ヶ月前倒しになったことになる。シンドゥラ遠征が無かったことで三ヶ月、この世界でのトゥラーンが原作以前に既にアンドラゴラスにより滅ぼされており侵攻する力など欠片もなくなっていたことで更に二ヶ月短縮されたのだ。

ルシタニア軍の前衛八万がかなりの速度で東進し、2月28日の時点で、エクバターナの東方二十ファルサング(約百キロ)にまで進んだ。公路を西進してきたパルス軍の陣営と二ファルサング(約十キロ)の距離をおいて夜営した。この前衛部隊を率いるのはボードワン将軍で、兵力は騎兵一万五千、歩兵六万五千と諜者より報告が上がっている。

ボードワン将軍か。皇帝ギスカールの誇る二枚看板の良将がこのボードワンとモンフェラートで、その内の信心深くやや思慮深いのがモンフェラート、やや脳筋なのがボードワン、といった印象だな。もしこの両者がいなくなれば、勇敢な騎士は他にもいるとしても、大軍を指揮統率するだけの力量のある将軍は、ルシタニア軍には存在しなくなる、とまで原作では言われていた。実際、パルスを叩き出され、その後にボダンを倒してマルヤムを統一したギスカールだったが、何度もモンフェラートとボードワンがいればと嘆いていたものだった。

原作ではこの夜、アンドラゴラスが「今宵は風が強いな。明日はさぞや風塵が舞うことであろう」と第六巻のサブタイトルを暗に示唆していたが、この世界では季節が違うためか、特に今夜は風が強いということはない。むしろ月も出ておらず、絶好の夜襲日和だろう。原作ではさっきの一言を言うがためにアンドラゴラスは大人しく過ごしていたようだが、別に俺たちがそれをなぞる必要もない。

◇◇

「ボードワン将軍、敵の夜襲は無事撃退しました!こちらの損害は軽微、その代り敵の見切りも早く、こちらから向こうへもそれほど痛手を与えることは出来なかったようです」

「うむ、ご苦労!」

ふん、こんな夜なのだ。夜襲があり得るかもしれないことは承知していたわ。ギスカール陛下の両翼である、このボードワンを舐めるではない!しかし、奴らめ、妙にあっさりと退いたな。ということはそれほど士気が高くないということか。そう言えば、陛下はアルスラーンを腑抜けと仰っていたな。領主や諸侯を糾合するところまではうまくやったが、その後はそれらの手綱をうまく握れておらず、この夜襲も単なる思いつきで、命令に従った将兵もそれほど本腰では無かったということだろう。

その後も厳重に警戒することを部下に言い渡してから、儂は眠りについた。しかし、何処かに油断があったのだろう。翌朝起きてすぐ、陣幕に従者が転がり込んできて、それを悟った。

「大変です。高名な騎士の何人かが起きてこられません!昨夜の内に何者かの手にかかったようです!」

オルガノ、ジャコモ、ロレンソ侯爵、バラカードと更に何名か、儂の命令を受け、兵たちを直接動かす指揮官たちの命が失われた。しまった、これではまともに兵を動かせぬ。くっ、昨夜のこれ見よがしな夜襲、あれはその後の密かな夜襲の意図を隠すためだったか。儂はそれにまんまと引っかかったというのか!

「閣下、更にパルス軍が朝駆けをかけてきました!」

「くっ、慌てるな!落ち着いて対応しろ!」

しかし、味方の動きが鈍い。指揮官不在で兵が右往左往しておる。眼の前の敵にばかり注意がいって、周囲と連携が取れておらぬ。各個に分断され、撃破されるばかりだ。しかも、本陣にまで敵兵がなだれ込んで来おった。率いているのは両手に剣を携え、見事な美髯を蓄えた男だ。

「ルシタニアの主将だな!俺は双刀将軍キシュワード!お主らルシタニア人がアトロパテネで盗んだ勝利を、取り返しにやって来た!お主らが盗賊ではないと言いたいなら勇気によってそれを証明するがいい!」

ここまで言われては引き下がるわけにもいかない。儂は真新しい戦斧に持ち替え、馬腹を蹴って奴に斬りかかった。だが、奴の双剣が目まぐるしく繰り出され、攻めあぐねるどころか防戦一方に追い詰められていく。やがて奴の左の剣が儂の戦斧を持った手ごと斬り飛ばし、右の剣が儂の首筋を貫いた。

「も、申し訳ありません。陛下…」

儂とモンフェラートは貴方に取り立てて頂いた。貴方を陛下と呼ぶのが、我らの夢だった。先帝が異教徒の女に殺されたせいだったとしても、貴方が即位された時は本当に誇らしかった。貴方が歴史に不滅の名前を刻むのを傍で見届けたかった。こんなに早くお別れすることになるとは…。

◇◇

こうして最初の大規模な野戦はパルス側の勝利に終わり、ルシタニア軍は二万五千の兵を失った。敗残兵たちはギスカールの元へ向かったことだろうが、ボードワンを討ち取れたのが大きい。その他の指揮官もわざと稚拙な夜襲をかけ失敗した後、諜者たちに闇討ちさせたしな。夜襲の後で油断しきって寝こけている者が大半だったので簡単な仕事でしたとフィトナが笑っていたわ。

ボードワンとの戦いではエステルは温存した。まだルシタニアの兵力はパルス軍よりも多いし、ここで多少なりとも削っておくのが先決だろうからな。出来ればエステルの話はルシタニアの多くの将兵に聞かせたい。雪崩を起こすなら、雪が少ない場所よりもたくさん積もった場所の方が効果は高いはずだしな。

さて、更にギスカールの神経を逆撫でし、落ち着かないようにしてやろう。ここは一つ、ジムサとミリッツァにお願いしようか。

◇◇

敵の夜襲は撃退した。私、皇帝ギスカールは怪しい魔道士に拉致されかかったり、敵将に本陣まで斬り込んで来られたりもしたがな。奴らめ、どれだけ夜襲が好きなんだと思わず笑いそうになった。が、その笑いも周囲を見回してあることに気付き、戦慄に変わった。この敵、一体何だったというのだ…。

「陛下、お怪我はございませんでしょうか?」

大声をあげてこちらに駆けつけてきたのはモンフェラートだった。ボードワン亡き後、こいつの存在価値は重い。何としても失ってはならない。

「大丈夫だ。それよりもモンフェラート、これを見るがいい!」

「こ、これは!」

本陣まで斬りかかって来て、死んだ敵兵の死体。それが纏っていたのはマルヤムの軍装だった。そして、兜の下にあったのもマルヤム人の顔だった。つまり、今夜夜襲をかけてきたのはマルヤム軍だったということに他ならない。

「そんな馬鹿な!マルヤム軍が何故ここに!?奴らは既に滅んだはず…」

「そのはずであったがな。ここにいると言うことはそうではないのだろう。一人二人がマルヤム人であったと言う訳でもないようだしな。マルヤムで何かがあったか、最悪マルヤムはマルヤム軍に奪い返されているかもしれん」

「そんな…、しかし…」

私もそうではないと思いたいが、マルヤム方面からの連絡が最近途絶えているのは事実だ。そして、確かめる余裕もない。

「督戦隊を作る。この上マルヤム軍までもが敵に回るとなれば、怖気づく兵士どもも出てきかねん。もしも逃げ出すならば督戦隊に命じて斬り殺させる。味方に殺されるのが嫌ならば、兵士どもは死に物狂いで敵と戦うしかあるまいからな!」

「そ、そんな!陛下、お考え直し下さい!」

「ならん!今はお主の意見を聞いているのではない!今必要なのはお主の意見ではなく、お主の服従だ。ただちに督戦隊を編成するのだ。人数は五千人で良かろう。指揮する者については心当たりがある故、お主は人数を揃えよ!やってくれるだろうな!」

「は、はい、畏まりました…」

負ける訳にはいかない。いや、負けるかもしれないが、それでも再起の可能性を失う訳にはいかない。そして、その為にも今このモンフェラートを失う訳にもいかない。兵なら幾らでも得られるだろうが、これほど忠実で役立つ部下は一度失ってしまえば、この先決して得られないであろうから。たとえ、生き長らえる為に自分の足を食らったという伝説の大ダコのようだと言われようともな…。

◇◇

ジムサ隊の騎馬をマルヤム兵に貸し出させ、ジムサにマルヤム兵を率いさせてルシタニア軍に夜襲をかけさせた。原作ではここでイスファーンが夜襲を行っていたが、ジムサに任せたのは奴の出番が余りにも少なくなりそうだったからだ。その上、馬まで貸せなんて言ったら奴がへそを曲げそうだったし。

城を攻めるは下策、心を攻めるは上策と言うしな。原作通りに今回プーラードがギスカールを誘拐しようとしていて、それもギスカールに恐怖を抱かせただろうし、いるはずのないマルヤム兵の存在もギスカールの心に不安を煽っただろう。原作でも督戦隊を編成しようと思うほど取り乱していた時期だ、効果はテキメンだろうさ。

さて、これだと次はサハルード平原の会戦ということになりそうだな。アトロパテネまで行くことはない。ここをルシタニア軍の墓所としてやろう。
 

 

第三十四話 断罪聖女

パルス暦321年3月6日、両陣営は王都エクバターナの東、サハルード平原にて対峙した。この戦いに参加した兵力はパルス陣営が約十四万、ルシタニア軍が約二十一万であった。エクバターナを発ったときにはルシタニア軍の総勢は二十五万であったが、2月末にボードワン将軍を含む二万五千を失い、更に逃亡者や脱落者も出たことで、その兵力は当初より減少していたのだった。

残念ながらこの期に及んでもルシタニア軍はパルス陣営の実数を正確には把握していない。ボードワン将軍の率いた兵より多数だったと思われることで約十万と考えられていた。だが、そこにはマルヤムからの援軍を加味してはいない。マルヤム軍の実数については全く把握されておらず、五万から十万と言う声もある一方、「いや、あれは何らかの詭計によってそう見せかけたもので、実はマルヤム兵など一兵もいない」と言う声すらあった。

いずれにしろ、両軍合わせて三十五万もの兵が対峙する中、ただ一騎、パルス陣営の中からルシタニア軍の前に馬を進めてきたものがあった。ひときわ輝く黄金の甲冑を纏った元騎士見習い、エステルであった。


ペシャワールを出立した2月10日以前には、何度か対ルシタニア戦略について話し合いが持たれた。その中でエステルが繰り返し主張したのは、ルシタニア人を余り殺してほしくないと言うことだった。

「確かに我々ルシタニア人こそが侵略者なのだろう。だが、一般の兵士たちはただ上から出征を命じられただけなのだ。同じ神を奉じながら異教徒と馴れ合う背教者のマルヤム王国を滅ぼすことが神の教えに適うことなのだと、パルスこそが神が信徒たちに与えると約束した世界で最も美しく豊かな土地なのだと、そう言われたのだ。それらの言葉に対して一介の兵士たちがどうして疑問を差し挟むことができようか?お主らには残酷で無慈悲な征服者と思えるルシタニア兵とて同じ人間だ。故国に帰れば親も子もいる普通の人間なのだ。なるべく彼らを殺さずに故国に帰してやってはくれないだろうか」

そうエステルは主張した。

「そう言われてもな。戦なのだから戦えばある程度の犠牲が出ることは避けられない。皇帝ギスカールとしても兵の損耗が深刻なものにならない限りはパルスから兵を退くことは考えないでしょう」

余りのエステルの頑なさに頭を抑えながらナルサスは言い、エステルはなおも食い下がる。

「ナルサス卿、お主は約五十万の三カ国連合軍を口先一つで追い返したと聞く。そのときお主は二十万も三十万も敵兵を殺したわけではあるまい。疑心暗鬼に陥れ、これ以上戦えないと思わせたのだろう?そのようなやり方が今回もできないだろうか?」

「そうは言ってもルシタニア軍は三カ国連合軍とは違って、単一の国の軍ですからな。その様な同質性の高い集団を内部分裂に持ち込むなど…」

「いや、いい手があるぞ、ナルサス殿。ルシタニア軍はイアルダボート教という一神教を信じ、己を神の尖兵と自認している。それこそが奴らが自分自身を支える柱な訳だが、それを叩き壊してしまえばいい。そうすればもう奴らは戦うことなど出来なくなる。…そうだな、ではエステル殿、お主にも少し働いてもらおう。お主の望みを叶える為なのだ。まさか、嫌なんて言わないよな?」

「ら、ラジェンドラ殿?お主、一体私に何をさせるつもりなのだ…」

俺はそれから一冊の台本を書き上げ、エステルに渡した。これを戦場でルシタニア軍に向けて話すようにと。一読したエステルは荒唐無稽で支離滅裂だ、こんな話を聞かされて一体誰が信じるのだと頭を抱えたが、諜者たちが説得力が増すような演出を加え、力の誇示も同時に行うから大丈夫だと繰り返し説得し、渋々承諾した。そして、いよいよエステルの出番がやって来たのだ。

「聞け、ルシタニア軍よ!私はイアルダボート神より選ばれし者。神の言葉をルシタニアの人間たちに伝えるよう言付かった者である。我が後ろには常にイアルダボート神がある。これが証拠だ!」

エステルの声は魔道により増幅され、ルシタニア軍全てにあまねく響き渡った。そして、その言葉とともに、エステルの背後に神々しく峻厳な佇まいを持つ巨大な人影が現れた。偶像崇拝を禁ずるイアルダボート教ゆえに、神の絵姿として伝えられるものは存在しないが、聖典の中の記述からこんな感じではないかというものを絵のうまい諜者に描かせたのだ。ちなみにナルサスも描きたいと言うので一応描かせてはみたが、お話にもならなかったのでボツにした。それを魔道を用いてOHPの要領で投影し、エステルの背後に諜者が魔道で塵を舞い上げ、それをスクリーンとしているのだ。

「おお、あれは、あれこそはイアルダボート神!」

と叫び、何人かのルシタニア兵が下馬し、跪いた。実はこの男たちはルシタニア軍中に潜入した諜者でサクラなのだが、勿論そんなこととは周囲の者は全く気付かず、皆それに倣うように次々と馬から降り、跪いていった。

「これよりイアルダボート神の言葉を汝らに伝える!ルシタニア軍よ、私は汝らに失望した。いつ私がマルヤムの民の信仰を誤ったものだと言った。いつ私が他国を侵し、攻め取ることを汝らに命じた。あまつさえ汝らは悪魔の手を借り、平原に霧を呼び、書物を焼くことを止めたものを邪悪な術で始末さえした。もはや汝らは神の子ではない。私、イアルダボート神は西方教会とその教えを利用し、罪なき民たちを虐げる政を行う者どもを破門する!」

「そ、そんな…」

「私たちはただ、聖職者たちの言葉を信じただけでございます!」

「上の命令に従っただけなのに、あんまりだ!」

「私たちはどうすれば許されるのですか?」

ざわめきがルシタニア軍の中に広がるが、それを物ともせずにエステルの声が響き渡る。

「汝らが許されることを望むのならば、即刻この地より立ち去れ。ここは汝らの約束の地に非ず。汝らの約束の地は汝らの祖国だ。そこを汝ら自身のたゆまぬ努力により世界で最も美しく豊かな土地とすること。それこそが私の意思に適うものと知れ!」

腰を浮かしかけた者を押し止めるかのように更にエステルの言葉が続く。

「まだ私の言葉は終わりではない。最後まで聞くが良い。汝らは私を唯一絶対の神と考えたようだが、それは正しくはない。私はこの世界に最後に生まれ、残った神だと言うだけのことだ。先に生まれた神々は私より先に一つ上の世界に旅立たれた。私はその後を任された神であるに過ぎない。故に、他の神々を否定し、それらを信じる者たちを虐げることは私の意思に適わぬ誤った行いだと知れ。私の望みは全ての神の存在を受け入れ、それらを信じるものを排撃するのではなく、相手を尊重し、手を取り合うことである」

「騙されるな!こんなものは偽りだ!あの女は嘘を言っている!グッ…」

「そうだ!我々は忠実なる神々の使徒だ!神の栄光の為に祖国を離れ、万里の道を遠征してきたのだ。我々は神の前に恥じることなど一切ない!ガフッ…」

口々にエステルの言葉を否定した者たちが即座に何処からともなく飛来した矢によって永遠に黙らされた。いや、本当は魔道で姿を隠したラクシュが撃ってるだけなんだがな。

「何、これは弓の悪魔!?」

「何故、弓の悪魔がここに?」

弓の悪魔は異教徒の味方のはず。そんな思いをエステルの言葉が打ち消す。

「静まれ!汝らが勝手に弓の悪魔と呼んでいる者は悪魔の使いに非ず。私が地上に遣わした神の使いだ。名を『破邪聖弓』と言う。我が意を曲解し、他者を虐げたジャン・ボダンは私が破邪聖弓に命じて滅ぼさせた。今、我が意を信じず異を唱えたものも同じだ。私はこの地を、私の前で、全ての神への信仰を認め、開かれた国を創ると誓ったアルスラーンに委ね、私の代弁者たるこの娘をその伴侶として与えることを決めた。この地は汝らではなく、アルスラーンとこの娘が治めるものとする。汝らは祖国に帰り、そこを約束の地とするがいい。以上だ。さあ、私が伝えるべき言葉は全て伝えた。汝らは疾くこのパルスの地から離れるがいい。ここに残る者は全て破邪聖弓か、アルスラーンの兵に討たれることになる!」

エステルの言葉が終わるとともにイアルダボート神の姿が消えた。そしてラクシュの矢が何人ものルシタニア騎士を次々と射抜き、更にアルスラーンの「全軍突撃!」の号令が響いた。パルス陣営の全軍が棒立ちのままのルシタニア軍に襲いかかっていく。

「逃げろ!このままここにいても神の意に背くものとして殺されるだけだ!ルシタニアまで帰るんだ!」

そんな声が不自然に辺りに響くと、それを合図としたかのようにルシタニア軍の兵たちが雪崩を打って逃げ始めた。踏みとどまるようにと叫んだ者はたちどころにしてラクシュの矢に倒された。

ルシタニア軍はここに崩壊した。 

 

第三十五話 皇帝葬送

ルシタニア軍がこの朝の時点で二十一万もの将兵を擁しているとは言え、その中に職業軍人は三分の一程しか存在しない。つまりそれ以外の三分の二程はエステルの言うところの、「故国に帰れば親も子もいる普通の人間」な訳だ。

そんな普通の人間たちの士気なんてものは最初からそう高くはない。偉い人から命令されたんで来たんでさ。パルスまで来てたくさん稼げたし、たまげるくらい美味い酒と料理とかを味わったし、もうそろそろ帰らせちゃあくれないですかね?神様のご意志に沿うように悪魔のような異教徒ならもう何人も殺したし、信徒としての義務はもう果たしたんじゃあないですかね?程度にしか思っていないことだろうさ。

そんな奴らが、信じていた神様に、自分たちがやってきたことを否定され、自分たちが信じてきた上の立場の方たちが破門されたとしたら、もはや何を信じるべきか。目の前に現れた神様らしき姿の言葉を信じるしか無いだろう。

「疾くこのパルスの地から離れるがいい。ここに残る者は全て破邪聖弓か、アルスラーンの兵に討たれることになる!」

この言葉の前に、職業軍人以外のほとんどの者が雪崩をうってその場から離れ始めた。指揮官たちの制止などまるで耳に入らない。その指揮官たちもラクシュやギーヴの矢によって次々と倒れていった。指揮官を失い、秩序だった動きを取れなくなった職業軍人たちも、パルス陣営の猛攻を前に次第に力尽きていった。もはやルシタニア軍の崩壊を止められる者は何処にもいなかった。

◇◇
モンフェラートが死んだ。何処からともなく飛来した矢から私、ルシタニア皇帝ギスカールを身を挺して庇ったために。命を落としたのはモンフェラートだけではない。ボノリオ公爵、ゴンザガ男爵、フォーラ、スフォルツァ、ブラマンテ、督戦隊の指揮者エルマンゴー、その他数多の名のある騎士がこのサハルードの露と消えた。

もう…駄目だ。そう思わずにはいられなかった。ルシタニア・マルヤム・パルス、三カ国にまたがる大帝国を築き上げるために鍛えてきた指揮官と精鋭たちだった。それが為す術もなくパルス軍の前に泥人形のように崩れ去っていく。かつて自分たちの前にろくに抗戦も出来ぬまま滅び去ったマルヤムの無様さを嘲笑ったものだったが、今度は自分たちが嘲笑われる番が来たようだ。

しかし、それでも私さえ生きていれば。マルヤムにはまだ聖堂騎士団などの戦力が残っている。主に聖職者寄りの戦力ばかりだから私に大人しく従いはしないかもしれないが、それでも聖職者どもは一枚岩ではない。特に欲深い聖堂騎士団長ヒルディゴ辺りを籠絡すれば、そこを起点に私が主導権を握る目も出てくるだろう。そして、ルシタニア・マルヤム両国の力を結集して、いつかまたパルスに侵攻するのだ。その為にも今は私だけでも逃げ延びなければ。

そう思い定め、本陣を単身離れた瞬間、ルシタニア軍中に幾つかの声が響き渡った。

「ルシタニア皇帝ギスカールが逃げたぞ!」

「財宝だけ抱えて逃げ出したぞ。我々を見捨てたんだ!」

「ルシタニアの軍旗は泥にまみれた。もはや取り返しがつかぬ!」

「やめたやめた、これ以上誰のために戦うというのだ!」

「臣下を捨てて逃げ出すような主君に捧げる生命などないわ!」

まるで何処かで聞いたかのような声と共に兜が地面に叩きつけられる音がし、それを皮切りに幾つもの兜が次々と地面に叩きつけられ、多くの騎士たちが力なくうなだれてその場に座り込んでしまった。ルシタニア軍は崩れ去った。昨年秋に、アトロパテネでパルス軍が敗滅したときとそっくりそのままの状況であった。

そして、そのときを見計らっていたかのように叱声が上がった。

「今だ!マルヤム軍突撃!目指すは皇帝ギスカールただ一人!戦意のない者などには目もくれるな!」

本陣に斬り込んできたその一団は、あっという間に俺を取り囲んだ。そしてその中から一人の女騎士が進み出た。兜を脱ぐと豪奢な金髪が広がった。

「久しぶりだな、王弟、いや今は皇帝陛下か、ギスカール殿。まさか私をお忘れではあるまいな?」

その覇気に満ちた艶やかな声。十年ほど前に勅使としてルシタニアを訪れ、私を婿に欲しいなどとほざいた、マルヤム王室の長女のものに間違いなかった。

「み、ミリッツァ内親王!?馬鹿な、お主生きていたのか!」

「何故か最近会う人会う人そう言うな。この通り生きているとも。全く、お主が大人しくマルヤムに婿に来てくれれば良かったものを。兄の傍を離れる訳にはいかないとか言って断るものだから、こんな仕儀になってしまったではないか!」

「当たり前だろう。あの兄を放置して婿になど行けるものか!兄だけに任せておいては私の祖国ルシタニアが滅んでしまうわ!」

「だからお主がマルヤムに入婿してルシタニアを併呑すれば良かったのだ。労せずして二つの国が手に入ったというのに、変なところで兄思いだから立ち回りを間違えるのだ、お主は!」

「な…」

それは思いつかなかった。私の思考はあくまでも自分がルシタニアの至尊の座につくことのみで占められていた。…今となってはあんな貧乏国、パルスと比べれば惜しくも何ともないがな。

「にもかかわらずお主は自分の血塗られた道を迷うことなく進み、マルヤム・パルスを血泥に沈め、そして今度はお主自身もそこに沈むことになった訳だ。ではギスカール殿、大人しく縛についてもらおうか。お主の首を欲しがっているのはマルヤムの遺児のみではないのでな!」

周りを見回せば、もはや味方は逃げ散ったか、骸となって倒れ伏したか、抗戦する気力もなくして座り込んでいるかしかなかった。私は降伏を選ばざるを得なかった。

◇◇

パルス陣営の本陣に引き据えられたギスカールはそこではもはや縛られることはなかった。もちろん武器は全て取り上げられているし、周りは錚々たる武将たちに取り囲まれている訳だし、逃げることも誰かに襲いかかることも出来ようはずはないからな。

その傍らから進み出て、ギスカールに水の入った杯を差し出した者があった。憔悴していたギスカールは思わず飲み干し、杯を返して眼の前の人物を不審げにしばし見つめ、やがてその正体に気付いたようだった。

「お主は戦の前に姿を見せた神の代弁者!何故ここにいるのだ!」

「…あの時も言ったであろう。私はパルスの王太子の嫁になったのだ」

「馬鹿な!お主はルシタニア人であろう!祖国を裏切ったのか!」

「私が裏切ったのではない!お主ら為政者が神を、民を裏切ったのだ!私は人は神の前ではすべて平等だと教わった。なのにお主らは何をした。何をさせた。同じ神を信じるマルヤムを、ただ信じ方が異なるということだけで虐げた。また、エクバターナを攻略する際、奴隷たちを解放すると約束しておいて裏切った。そうするよう民にも命じた。それが神を奉じるものの所業か!私はパルスやシンドゥラやマルヤムの者たちといささか縁が出来てしまった。もはや彼らと袂を分かつことは考えられぬ。お主らルシタニアの為政者が他国の者を虐げることしかしないなら、私はもうそれには付き合いきれぬ故、祖国を捨てるしかない。残念だがもはや住む世界が違ってしまったのだ!」

「何だと…」

エステルの言葉に絶句するギスカールの前に今度は俺が進み出た。これ以上弟の嫁を矢面に立たせるのも悪いからな。

「ギスカール殿、これまでのパルスは奴隷制を認め、汚職の横行する不正義な国家だった。ルシタニアがそれを是正するためにパルスの王族を担ぎ上げたんだったら別にそれで構わなかっただろうさ。だが、お主らは不正義に不正義で返した。ただパルスを蹂躙し、欲望のままに貪っただけだった。そしてお主らはそれを神の名のもとに正当化した。だがな、そんなものまともな神経をしてたら付き合える訳がなかろう。不正義を働きたいなら一人でやれ。他人まで巻き込むな。あまつさえ、それで裁かれることになったら今度は裏切ったなだって?どの口がそれを言えるってんだよ!」

「まあ、元々他者を羨ましがって、それを大義名分を掲げて奪うことしか考えぬ御仁だからな。ラジェンドラ殿、お主がギスカール殿の立場だったらどうした?惰弱な兄を支え続けたか?」

「俺がそんなに殊勝な心がけの持ち主だと思うのか、ミリッツァ殿?俺なら国のためにならんのなら即座に退位して頂くことにしただろうさ。例え自分が主君殺し、兄殺しの汚名を背負うことになってもな。まともな政がなされることの方が国民にとっては余程幸福なことだろうからな」

「うむ、それでこそ、私の見込んだ男だ。覚悟の定まらぬ小悪党より、覚悟を決めた大悪党の方が遥かに好ましい」

「何だか褒められている気がしないのだが…」

「…他人の前でノロケ話などしないで貰いたいものだな。それでどうするつもりだ?やはり私を殺すのか?」

おっと、ギスカールをそっちのけにして話を弾ませすぎたな。少し黙るか。俺とミリッツァは互いを見ながら、口の前で人差し指を立てた。

「どうするつもりも何もな。いちいち聞かねば判らぬとは、物分かりの悪い御仁だ」

ナルサスがため息混じりにそうこぼした。それを聞いて、やはり自分は死ぬのかとギスカールは肩を落とした。

「ラジェンドラ殿、以前貴方は笑えるお話だと言って優しい王様の話をして下さったことがあった。私はそれからずっと考えていたことがあるのだ」

ああ、優しい王様のお話ね。確か、その話をアルスラーンにしたのはフゼスターンのミスラ神殿に行く途中のことだった。

とある豊かな国に優しい王様がいました。その国は余りにも豊かだったので、お金やお宝を奪おうと周りの全ての国が狙っていました。ですが、その王様には優秀な家来がたくさんいたので、周りの国は何度戦争を仕掛けても敵わず、王様は余りにもお優しいので、「もうこんなことをしてはいけないよ」と敵の王様を諭すばかりで決して殺そうとはしませんでした。自分一人ではどうしても敵わないと気付いた他所の国の王様は、豊かな国を狙う他の何カ国かと手を結びました。それでは優秀な家来がたくさんいてもどうしようもありません。優秀な家来は一人倒れ二人倒れ、遂には数人だけになり、国も荒れ果ててしまいました。混乱に乗じて更に多くの国が攻め込んできたので、目も当てられない有様になりました。これ以上大切な家来を死なせる訳にはいかないと優しい王様はある時家来を庇って死んでしまいました。王様はまだ独身だったので、王様がいなくなった国をたてなおせる人は誰もいなくて、豊かだったその国はとうとう滅んでしまいました。後世の人達は王様が優しくても、結局誰も幸せにならなかったねと笑いましたとさ。めでたくなし、めでたくなし。

まあ、何処かで聞いたような話だよな。蛇王こそ出ないものの原作ってのは大体そんな感じの話だった気がする。

「為政者とは、王とは、自分だけが気分がいいと思えることをしてはならないのだ。誰かの悪事を優しく許せば、自分はいい気分になれるかもしれないが、相手が反省しなければまた悪事を働き、誰かを傷つけることになる。国や民や家臣が傷つくことになるのだ。私人としては寛容であっていいと思う。だが、公人として、王としては、侵略に対し寛大である訳にはいかない。お主の行った侵略行為は悪だ。百万人もの民が犠牲になったこの悪行を私、アルスラーンは王として許す訳にはいかぬ。ギスカール殿、お主には死んでもらう!」

毅然とアルスラーンは言い放った。いい顔だ。俺が出した宿題をずっと考えていてくれていたんだな。うむ、それでこそ、俺が見込んだ心の兄弟だ。

「侵略者とは言え、皇帝なのだ。残酷な殺し方は好ましくない。毒酒で安らかに逝ってもらおう。ギスカール殿、多分お主は王弟に生まれたことでとても苦しんだのだろうな。兄を見ていて不甲斐なく、情けなく、もどかしかったのだろうな。そして、努力もしたのだろう。我々パルス人にとってありがたくない努力だったが、それでも勤勉さには敬服する。だが、もうお主は頑張らなくてよいのだ。これ以上苦しまなくても良いのだ。今度生まれ変わったときには、長男に生まれて、思う存分自分の能力を活かせると良いな。さらばだ、ギスカール殿」

その処刑方法が、最後にかけたその言葉が、アルスラーンにとってのせめてもの優しさだったのだろう。そして、それが幾分かは通じたのだろうか。ギスカールは従容として死刑を受け入れ、死に顔は意外に穏やかなものであったという。

「アルスラーン、お主がどのような国を創るのか、あの世から見ていることにする。私が生まれ変わって、力を尽くしたいと思える国にしてみせるがいい」

それがギスカールの最期の言葉だったそうだ。

さて、ルシタニア人をパルスからもマルヤムからも駆逐したら、今度こそザッハーク討伐開始だ! 

 

第三十六話 隻眼獅子

パルス暦321年3月7日、サハルード平原の会戦の翌日、王都エクバターナは奪還された。前日のエステルの神託を聞いた上でなおもサハルード平原からエクバターナに逃げ込もうと考えたルシタニア兵はほとんどいなかったし、留守居の兵もほとんどいなかったからな。どうもギスカールはサハルード平原の会戦の後、わざとエクバターナの守りを薄くしてパルス陣営に王都を奪還させ、王都にかかずらってる内に再起を図る時間を稼ぐつもりだったらしい。まあ、こちらは元より再起なんて図らせるつもりは無かったから無駄に終わったがな。

それはともかく、パルス軍と違ってマルヤム軍としてはルシタニア軍がマルヤム方面へ逃げるのはともかくとして、マルヤム国内に留まられては困るのだ。きっちり更に北西のルシタニアまで帰ってもらわないとな。なので、マルヤム軍一万四千と俺の率いる傭兵部隊二万六千、イスファーンとザラーヴァント率いる四万がマルヤム方面へのルシタニア軍掃討の任についた訳だ。

トゥースはバニパールと言う名の年長の戦友が戦いで重傷を負い、故郷に帰るのを送っていくため申し訳ないがご一緒できないと頻りに申し訳なさそうにしていたが、俺やアルスラーンは気持ちよく送り出してやった。俺はトゥースが後年迎える三人の妻がバニパールの娘と知っていたので、バニパールのお子さんにお土産を用意してやるようにと入れ知恵もしてやった。これで娘たちのトゥースに対する好感度は更に上がることだろう。

キシュワードは今月いっぱい王都に滞在し、来月になったら兵三万を連れてペシャワールに帰り、入れ替わりでルーシャンが王都に来ることになるらしい。キシュワードにナスリーンのことを聞いてみたら、婚約者なのだが戦乱で行方が判らなくなっているからこれから探すのだそうだ。諜者にも調べさせると約束すると「くれぐれもよろしく頼む」とすがりつかれた。確かナスリーンの祖母はマルヤム人だったらしいから、マルヤム寄りの地方に身を寄せてるかもしれないし、その辺を重点的に探させよう。

そんな訳で俺たち八万の兵は大陸公路を北西方向へ進んだ。諜者や斥候を盛んに放ち、敗残兵がパルス国内に潜んでないか探し、見つけて村を襲ったりしてるようなら即刻駆除、戦意も悪意もないようなら早くパルスから出るように促し、村落に居着いて村娘と恋仲になっているような奴はそっとしておいてやった。

そんな中、大陸公路にほど近い山間部に完全に盗賊と化した十数人の敗残兵どもが巣食ってると沿道の住民から噂を聞いた。けしからん事だとその山間部を目指したが、そこに近づくにつれて噂が変化した。俺たちの接近を知った敗残兵どもはそこを放棄し、空城になっているザーブル城へ向かったというのだ。ザーブル城といえば原作でボダンと聖堂騎士団が籠城した要害。そんなところに逃げ込まれては一大事と俺たちは行軍を早めたのだが、ザーブル城に近い辺りで噂は更に変化した。敗残兵どもは無人と思われていたザーブル城に住み着いていた集団の一人の男にことごとく斬殺されてしまったという。

「一人の男にか!どんな男だ?」

話してくれた農民の男によると、年齢は三十前後、長身で筋骨たくましく、左目が潰れていると言う。病人を抱えているのでこの場所から離れられないとも言っていたそうだ。

ちょっと待て、その特徴、心当たりがあり過ぎるんだが。そう言えば、原作でヒルメスがザーブル城攻略に向かったのって、今ぐらいの時期だったような。そして、ザーブル城からそう遠くない場所にいたその男をサームが見つけたのだった。

ちょっと会いに行ってみるか、医者のレイラをつれて。

◇◇
俺、クバードはその男を俺の部屋に誘った。

「むさ苦しいところですまんが、その辺にでもかけてくれ」

「別に気にせんよ。お邪魔させて頂こう」

妙な男だ。シンドゥラの王子様らしいが余りそうは見えん。身に付けている衣服も安物でこそないが、その身分に見合ったものとは思えない。まあ、何にせよ、医者を連れてきてくれた恩人だからな。話を聞きたいと言うなら、幾らでも聞かせてやるべきだろう。俺は秘蔵の酒を出してやり、この男、ラジェンドラに注いでやった。飲み干したこの男は「いい酒だ、実に沁みる」と笑った。気持ちのいい笑顔だった。

「で、お主は何故あの病人たちと一緒なんだ?お主、アトロパテネの戦いに参加した軍人だったんだろ?」

「おお、俺の名はクバード。人呼んで『隻眼の獅子』だ。あの戦いの後、俺の元には百騎ほどの部下が残ってな。その辺の村々を回ってはルシタニアの盗人どもを退治しては報酬を貰うという事を繰り返していたんだが、ある村であの病人とその家族を拾ってな。聞けばマヌーチュルフの奥方で、娘はキシュワードの婚約者ということだったんで護衛を買って出てここまで来たんだが、体調を崩されて、ここで静養してもらっていたところだ」

「なるほど、それでサハルード平原の会戦に間に合わなかった訳か」

「いや、そうでなくても行くつもりは無かった。俺はもうパルスへの義理は果たした。病人たちと部下を誰かに任せられるなら、パルスを出ようかと思ってたところでな」

「ああ、『逃げ出した君主に忠誠など誓えるものか』ってことか。だが、アンドラゴラスなら死んだぞ?それにアルスラーンならもっとマシな政をするはずだしな」

おや、その言葉伝わってるのか?人の口には戸を立てられないってことか。何処で誰が聞いてるか判らぬな。

「いや、俺はそもそもパルスにはいい思い出がないのでな。聞いたことがないか?俺は平民の子でな。猟師だった親父の腕と力を見込んだ百騎長が娘と結婚させて生まれたのが俺なのさ」

「ああ、それは聞いた事があるが…。余り幸せな結婚ではなかったのか?」

「ああ、母は親に言われて仕方なくで、父は恩人に乞われてやむを得ず、でな。祖父の前では取り繕っていたものの、冷え切った家庭だった。おまけにお貴族どもは俺の生まれが気に食わぬらしくて頻りに絡んでくるわ、王も俺を持て余しているわ、でな。パルスは俺にとって窮屈な国だった。アルスラーン殿下はよく知らんが、真面目そうでどうもな。友もいたが別にいつもベッタリ一緒にいる必要もあるまい。俺は何処か他所でのんびり暮らしたいのさ」

「なるほど。ではクバード。お主、マルヤムに来ないか?俺はこの通り片親は賤民でお高く止まるのは苦手だし、妻は豪快な武人でな。マルヤムはこれから取り戻すところだが、俺らには窮屈な国なんて創ろうったって創れんだろう。お主がのんびりと怠けてられる国にしてやるさ」

む、なかなか心惹かれる言葉を並べてくれる御仁だな。しかし、あの病人たちをどうするべきか。そんな思いは思い切り顔に出ていたのだろう。心配するなとこの男は笑ってくれた。

「マヌーチュルフのご家族に関してはキシュワードに任せればいい。あいつ、ナスリーン殿のことをひどく心配してたからな。連絡したら血相変えて飛んでくるぞ、あいつ。義理堅いキシュワードのことだ。お主のことを、一生恩に着てくれるだろうさ」

そうか、ならば心配は要らぬか。では心置きなく、

「かたじけない。そういうことであれば、世話になろう。出来ることだけはさせて頂く」

「おう、出来る範囲でやってくれ。まあ、まずはルシタニア兵の駆逐。その後は蛇王ザッハーク討伐を手伝ってくれ」

ザッハーク、その名を聞くだけで、全身が粟立つ。

「ざ、ザッハークをか?しかし、あやつは封印されているはず…」

「封印されてからもう三百年だしな。復活を目指して怪しい輩も動いているようだ。そろそろ起きてくるかもしれんが、地獄へ叩き返してやろう。そうでないとこっちが安眠できんからな。あ、それより前から気になっていたことがあるんだが、一つ聞いてもいいか?」

「ああ、別に構わぬが…」

ザッハークより気になることがあると?

「お主、自分で自分を『隻眼の獅子』とか言ってて、恥ずかしくないのか?」

ニヤニヤと冷やかすような表情だ。こ、この御方は!

「い、いや、いいではないか!自分では格好いいと思うのだ。それを言うならキシュワードだって、『双刀将軍と呼べ』とか自分で言ってるではないか!あやつこそ、持ってるのは両方とも刀ではなく剣なのに、それで何故双刀なのだと誰もが思ってるのに!」

この御方、ザッハークの名を聞いて顔を強張らせた俺の心を和らげようと、そう思ってくれたのだな、きっと。面白い、実に面白い御方だ。この御方に対してならば、臣下たる者の責務って奴を全う出来そうだぞ、シャプール。 

 

第三十七話 王妃懐妊

パルス暦321年4月20日、ようやく俺たちはルシタニア兵をルシタニア国内まで押し戻すことに成功し、一旦マルヤムの首都イラクリオンでミリッツァと別れ、傭兵団二万四千、パルス兵三万六千と共にエクバターナへ帰還した。

約一ヶ月ぶりの王都はかなり落ち着きを取り戻していた。破壊されていた家々や人血で汚れていた路地などは奇麗に片付けられ、混乱の痕跡はもうほとんど見当たらなくなっていた。既に奴隷解放令も施行されており、町中で見かける労働者には以前と違い奴隷の首輪はなく、表情も心なしか幾分か明るいようだ。それどころか何となく浮ついてると言うか、いや、むしろ祝賀モードっぽい。

何かと思って通行人に聞いてみたら、五日前に王妃エステルの懐妊が発表されたのだそうだ。それには元々エステルの王妃冊立は概ね好意的に受け取られていたと言う背景もある。異教徒ではあるが、イアルダボート神の代弁者としてルシタニア王室と西方教会を破門し、袂を分かっていることで、邪悪なルシタニア兵とは違う、信頼に足りる御方だと庶民からの人気は高かった。その上、イアルダボート神の代弁者としてルシタニア軍の士気を大いに砕いたことは最大級の武勲だと誰もが評価せざるを得なかった為、領主や諸侯から王妃冊立への異論が出されることはなかった。また、前国王アンドラゴラスと違い、アルスラーンが側室を迎えることを否定しなかった点も領主や諸侯を安心させたのであろう。領主や諸侯はこれまで以上の忠勤を誓い、是非とも側室に我が娘をねじ込んでみせると皆息巻いていたそうだ。

エステルは既に妊娠三ヶ月だそうだ。とすると、逆算すると…。いやいや、そういう野暮なことはよそう。何にしろ、王妃に冊立することは決めても、なかなか実質的に夫婦になろうとしない二人を説教した甲斐があったというものだ。最初の内は「どうして契っていないと判るのだ!」「実際に見ていたのでもない限り判るはずありませんが」と抗弁していた二人だが、「そんなの見れば判る。全てさらけ出しあった夫婦が、お互いの手や肩をそんな遠慮がちに触るはずがあるか!お前らはそんな姿をこれからも公の前でさらして、臣民を心配させ続けるつもりか!」と詰ったことでようやく観念した。やり方がよく判らないというので、バハードゥルとパリザードの営みを見せたことは良かったのか悪かったのか。とにかくそれ以降の二人の様子は見ていて口から砂を吐きそうな程の仲睦まじさで、パルス陣営内には「おれ、この戦いが終わったら結婚するんだ」と死亡フラグを立てまくる奴が大量発生したものだった。ただ、それも決して悪いことではあるまい。国が復興に向かう中で結婚や出産が増加するというのはむしろ却って好都合だろうから。

◇◇

だから、その襲撃は半ば以上予想されていたものだった。私、エステルを殺すことで、王妃とアルスラーン王朝の子孫の両方ともを殺害できる。そうすることで新王アルスラーンの心をも弑することが出来る。これぞまさに一石三鳥だと思う者は確実にいるはずだと。

ラジェンドラ王子があと三日で戻ってくるとの知らせがあったその夜、悪阻で苦しみ横たわる私の目の前で、暗灰色の衣の人影が床から滲み出るように現れたのを目撃したときにも、「ああ、やっぱり来た」という感じだった。

「くくく、王妃よ、はじめましてだな。俺はガズダハム。尊師に仕える忠実なる弟子の一人だ」

うう、頭が痛いし、気持ちも悪い。全く、こんな最悪な体調のときに襲撃を受けるとは。

「…ああ、蛇王ザッハークを復活させようと目論む一味の一人だな。私は今それどころではないのでお引取り願えないだろうか?」

「ふははは、何を馬鹿なことを。今ならば、ラジェンドラ王子のあの化け物じみた配下どもも王都にはいない。騎士見習いとは思えないほどの手練と言われるお主がこの様な無様をさらしている今、この今を逃す馬鹿がどこにいるというのだ。さあ、観念してもらおうか!」

ガズダハムがゆっくりとこちらに近づいてくる。まずい、寝台の上には武器も何もない。いや、この寝室に武器自体が何処にもないのだが。それでも寝台横の小さなテーブル、その引き出しの中には投げるものくらいはあったはずだ。確かその中にはラジェンドラ王子から頂いた物もあった。ただ、何か仰っていたな。「一番最初には投げるな。他に投げる物が無くなってから投げるように」と。…意味が判らないが、その通りにしよう。無抵抗なまま殺される訳にはいかないからな。出来る限り、抗ってやる。私は這うようにテーブルに手を伸ばし、引き出しを開け、その中身一つ一つをまるで片っ端から吟味もせずに投げつけてるかのように投げ続けた。

「ふははは、何だ王妃よ。そんなものがこの私に効くと思うのか?いいぞ、どんどん投げてくるといい!」

畜生、奴め、全く避けようともしない。インク壺、硯、文鎮、その他を次々と投げつけるが、一向に奴は動じない。まだか、もう少し、よし、今だ!ラジェンドラ王子から頂いた小箱!それを極力何気ない風を装って投げた。

「ふふふふふ、はははははははは、は?ぐっ、何だ!何なのだ!これは?」

やった、奴がひるんだ!よし、この隙に!私は胸元のペンダントを弄り、そこに付いていた笛を思い切り吹いた。たちまちものすごい音が鳴り、それを聞きつけて護衛が大挙駆けつけてきた。同時に床と天井から合わせて四つの護衛役の諜者の黒い影が滲み出し、奴の両手、両足首を斬りつけた。そして、身動きも取れないまま奴は護衛の一人に首を刎ねられ、更に切り刻まれて、物言わぬ骸とされた上で運び出された。さすがにそんな部屋で大人しく寝てはいられないので、私は部屋を移ることにしたが。

◇◇

俺がエステルに渡しておいた小箱、それは投げて何かに当たると芸香が辺りに撒き散らされる仕掛けがしてあった。ペシャワールにヴァフリーズ老の密書を奪いに来たサンジェが引っかかったのと同じような仕組みだ。ただ、これの場合は当たらなければ意味がない。それを当てる前に当たっても何にもならないような無害なものを幾つも投げろと伝えておいたからな。無駄な抵抗だと笑って避けずに受け止めるならばもうこっちのもの。まともに喰らって身動きも出来ないままなますの様に切り刻まれるがいいさ。

これで暗灰色の衣の魔道士は尊師とグルガーンの二人のみ、グルガーンはこちらの内通者だから実質あと一人になった訳だ。尊師の次の動きはおそらく宝剣ルクナバードを奪いに来るというものになるはずだ。俺たちという主役も戻り、役者は揃った。さあ、デマヴァント山へ向かおうか!

◇◇

「ガズダハムが死んだようです。我ら弟子は元々七人おりましたのに、とうとう私一人になってしまいました」

私、グルガーンは内心のざまあみろとの思いを必死に押し隠して、沈痛な表情を作った。が、尊師はそれを見てさえいなかった。そういう御方なのだ。実のところ私たち弟子の生き死になど意に介しもしないのだ。

「ふん、どいつもこいつも未熟者ばかりじゃ。口ほどにもないのう」

「ザッハーク様の依代とする予定だったアンドラゴラスの遺体もラジェンドラ王子の配下に奪われ、跡形もなく溶かされてしまいました。この上我々はどうすればよいのでしょう。もう、打つ手などないのではないでしょうか?」

こう言えば、この御方はかえってムキになることだろう。

「まだだ!まだ終わりではない!そうじゃ、ルクナバードじゃ!あれさえ、奴らの手から奪い取って破壊してしまえば、奴らこそ打つ手が無くなるであろう!」

「おお、さすがは尊師!ではこの私が参りましょう!」

「いや、お主が行く必要はない。お主は儂に万が一のことがあった場合に、儂の復活の手筈を整えてもらわねばならぬ。今から言うものを用意するのじゃ。それが揃ったのを確認次第、儂はデマヴァント山へ向かうとしよう!」

そうですね、揃えはしますよ。使いはしませんがね。 

 

第三十八話 宝剣降臨

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

俺たちがエクバターナからデマヴァント山へ出発しようとしているところにようやくジャスワントがシンドゥラから戻ってきた。

「まったく、何で私が戻るのを待たずに出発しようとしてるんですか!」

「ああ、つい、何となく」

「何となくじゃありませんよ!これらが無ければ困るのでは無かったのですか?」

ジャスワントは俺、バハードゥル、ジムサにシンドゥラ王家の宝物庫から借りてきたそれらを投げ渡した。

「おいやめろ、投げるな。投げていいもんじゃないだろ、これもそれも」

「落としはしないだろうと思ったまでです。このまま出掛けるんですね?でしたら、私は馬車で休ませて貰いますんで!」

ジャスワントは足早に馬車に乗り込んでしまった。マイペースな奴め。まあ、これらの品を借り受けるのは国外追放になってる俺や、俺と共に出奔してしまった形になってる諜者たちには無理だからな。宰相の息子で、宰相から「いつ帰ってきてもいい」とお許しを頂いているジャスワントで無ければ無理な仕事だった。それを成し遂げてくれたジャスワントには頭が下がる。が、見えるところで下げるつもりはない。多分、伝わっているはずだから。

今回のデマヴァント山行きに同行しているのは、アルスラーン、ダリューン、ナルサス、シンリァン、エラム、アルフリード、ギーヴ、ジャスワント、ジムサ、クバード、バハードゥル、ラクシュ、パリザード、レイラ、フィトナの十五人だ。原作でのこの旅に居る顔、居ない顔、原作では居ても陣営を異にしている者と様々だ。その他騎兵三千が先行し、デマヴァント山周辺を封鎖している。

道中にはアルスラーンにルシタニアの現状について話した。

「そんな訳でルシタニア本国には御年八歳の傍系の王族男児が残って居てな。それをドン・リカルドと言う騎士を中心に何人かの大人が補佐する形で政が行われることになった。ドン・リカルドはエステルに感謝していたな。『お陰で多くの者が生きてルシタニアの地を再び踏むことが出来たと。今後は他国に出ることなく、この地を世界で最も美しく豊かな土地とすることに専念する。エステルにくれぐれもよろしく』だそうだ」

「そうか、何とか落ち着きつつあるのだな。それは良かった」

心根のまっすぐなドン・リカルドが生き残ってて良かった。オラベリアが生き残っていたんだとしたら、彼の場合は復讐心の方を強く持っただろうからな。

しかし、デマヴァント山の山中に入ると話をしているどころではなくなった。半刻ごとに天候が変わり、激烈な横風、滝のような雨に苛まれるに至っては岩棚に身を隠して休息を取るしか出来なくなった。そんな過酷な二日間の果てにようやくデマヴァント山北辺の英雄王カイ・ホスローの陵墓に着いた。

「いやいや、こんな過酷な道のりを、昔は王が即位する度に大将軍や諸国の王は乗り越えてここに辿り着いていたのかねぇ、実にご苦労なことだ」

ギーヴが呆れたように漏らす。

「だから、何代かたつと諸国は名代を出すだけで王自身は行かなくなったそうだぞ?オスロエス王の代から儀式が行われなくなって、むしろ快哉を叫んだ王の方が多いかもしれん。さて、アルスラーン殿、口上は何でもいい。とにかく、誠意を込めてルクナバードを呼んでくれ」

「了解しました、ラジェンドラ殿。皆は少し下がっていてくれ」

「よし、俺もつきあうぞ、アルスラーン殿」

「ラジェンドラ殿?」

「ルクナバードには俺にも言いたいことや言うべきことがあるからな。口を噤んでは居られなくてな」

「判りました。兄とも思える貴方が一緒で心強いです、ラジェンドラ殿」

「俺も弟の様に大切に思って居るさ。行こう、アルスラーン殿」

俺たちは陵墓の前に立ち、ルクナバードに語りかけた。

◇◇

「ルクナバード、宝剣ルクナバードよ・・・・・・!」

滝のような雨の中、私アルスラーンは目に映らぬ存在に呼びかけた。

「お主の身に、英雄王カイ・ホスローの御霊が本当に宿っているなら。そして、私の為そうとしていることが、英雄王の御心に適うのなら、私の手に来てくれ!」

「俺からも、戴冠式はまだだがやがてマルヤム王となる俺、ラジェンドラからも頼む。この弟のように思える少年に御身を委ねていただけないだろうか?」

その答は、更に猛烈な風雨だった。思わずよろめくが、ラジェンドラ殿が私を支えてくれた。怯むわけにはいかない。

「非才非力のこの身にはパルスの玉座も宝剣たる御身も重過ぎるのかもしれない。だが、私は誓ったのだ。この国を、全ての神への信仰を認め、開かれた国にすると。奴隷を解放し、社会的不公正を解消することを。近隣諸国と友好関係を結び、争いが避けられるよう誠意を尽くして語り合うことを。臣民に、そして、愛する者にそれを誓った。だから、重過ぎる荷だと投げ出すことは決してない!」

「そのような国を、平和な世界を作るのはこの少年だけでは難しいとお主は思うのかもしれない。だが、この少年は一人ではない。運命を共にすると誓った伴侶が、忠誠を誓う臣下が、この少年を慕う多くの民がいる。俺も、俺の臣下たちも微力ながら協力する。力の限り支える。間違ったときには殴ってでも止める。それを俺の魂に賭けて誓う」

雷霆が私たちの足下すぐ近くを穿った。だが、私たちは揺らがぬ、退かぬ、諦めぬ。

「私は蛇王ザッハークを倒し、人ならざる存在が、人の尊厳を奪い、その命を塵芥のごとく踏みにじる残酷な世界を終わらせたい。そして、人が自分の力で立ち、滅ぶも栄えるも自らの意志で選び取れる世界を作りたい。その為、最後に今回だけ、宝剣ルクナバード、お主の力を借りたい。身勝手と思うかもしれない。それをするにはまだ人は未熟だと思うかもしれない。だが、いつまでも未熟なままで甘んじている訳にはいかないのだ。人を信じ、未来を託してもらえないだろうか?」

「ルクナバード、俺をこの世界に呼んだのはお主なのだろう?俺は、ここまで来たぞ。大切なものが掌から零れぬように、ここまで守り繋いで来たぞ。そしてこれからもこの少年を、その理想を俺が守る。ザッハークと相討ちになんて絶対にさせない。この少年が望んだ世界を決して壊させずに守り通す。だから、安心してここに来てくれ。一緒にザッハークを倒そう。そして、こいつらが笑顔で幸せに暮らす様を一緒に見届けようぜ?」

風が逆巻いた。雨滴が無数の銀鎖となって私たちの身にまとわりつき、呼吸が苦しくなった。だが、それでも私たちは懸命に目を開けて風雨のただ中に立ち続けた。

足下の大地から白金色の輝きが満ちてきていた。そしてそれと共に風雨の勢いは衰えていった。私が何かに誘われるかのように手を伸ばすと、それに答えるかのように私の手に収まり、心強い重みを伝えてくるものが現れた。宝剣ルクナバードが、私の手の中に握られていた。

雨が私たちの体を叩くのをやめてどれほどの時間が経過したのか判らない。気づくと、周囲には私の配下たちが跪いていた。泥で、雨水で、服が汚れ、濡れることをも厭わずに。

「我らが国王よ」

ダリューンの声が震えていた。ナルサスが言葉に詰まったまま、ルクナバードを納めるための鞘を両手で差し出した。鞘を受け取り、ルクナバードを納めたその瞬間、それは起こった。

◇◇

やった。ルクナバードが鞘に納められた。抜き身であれば太刀打ち出来ぬが、そうでなければどうということもない。弟子たちに尊師と呼ばれたザッハーク様の忠実なしもべである儂は、長さ四ガズ(約四メートル)の巨大な蛇の姿に変じ、ルクナバードに躍り掛かり、上半身でこの宝剣に巻き付いた。アルスラーンの手はルクナバードから離れた。

何者かが儂の前に立ちはだかった。怜悧な顔立ちを緊張にこわばらせた女、確かラジェンドラ王子の臣下の諜者で、名をフィトナと言ったか。命知らずめが、まずお主から血祭りにあげてくれよう!儂はこの女の首に巻き付いた。

「ぐうう・・・」

女の顔が苦悶に歪む。その頭髪がみるみる内に黒から灰色へと変わっていく。他の三人の諜者の女がそれを見て息をのむ。見たか、儂はザッハーク様の恩寵によって、触れたものの生命力を奪い、自らの魔力と変えることが出来るのだ。

儂の中に急速に流れ込んでくるものがあった。この女の生命力だ。…そのはずであったが、何かがおかしい。むしろ儂の力が奪われていくような、何なのだ、これは。

「幻術ですわ、尊師。それは芸香の束でございます」

その言葉と同時に鋼の刃が儂の背中を深く切り裂いた。馬鹿な!儂のこの体は人の世の剣では傷一つ付けられないはず!

振り向いた儂の目に入ったのは、尋常でない輝きを放つ四振りの剣を携えた異国人どもだった。中でも一際ただならぬ気配を放つ長剣を正眼に構えたラジェンドラ王子が不敵に嗤う。

「なあ、尊師。人の世ならざる剣がルクナバードのみだと、どうして思ったんだ?」

幾度も刃が振り翳され、儂の体を断ち、穿ち、切り裂いた。いつの間にか儂はルクナバードを手離していた。

そして、儂はアルスラーンがルクナバードを鞘から抜き放ち、儂の頭上に振り下ろすのを見ー。
◇◇

シンドゥラ王室の宝物庫には幾振りもの伝説の剣が眠っている。ルクナバードの様な生ける伝説ではなく、もはや終わった伝説だ。倒すべきものは全て倒し、役割を果たし終え、今はただ事績を伝えるのみの遺物でしかない。ただ、それでも秘められた力は人の世を逸脱しており、尊師のちっぽけな自負を切り裂くに余りあった訳だ。

さて、あとはラスボスの蛇王ザッハークを倒すのみか。

そのとき、大地が大きく揺れた。最初は上下に、次いで左右に。そして、地面が大きく裂け、何かが勢いよく飛び上がってきた。泥のような色合いの男性の人影の様に見えた。ただその両肩には蛇が生えていた。

「ざ、ザッハーク!?」

その声が自分の声なのか、他の誰かの声なのかすら、直ちには判らなかった。だが、次の瞬間更に呆気に取られた。その人影が一瞬にして崩れ落ち、崩れた泥の塊に変わったのだ。そして、間髪入れずに陵墓の土が跳ね上がり、何かの金属片が舞い上がって落ちた。いや、金属片ではない。棺桶の蓋だ。それが地響きを立てて地面に落ちるのと同時に、俺たちの前に舞い降りた者がいた。黄金色の壮麗な甲冑を纏ったその男には両肩から蛇が鎌首を上げていた。

「ふははははは、遂に入ることが出来たぞ!この体、ずっと狙っていたのだ。ルクナバードと体に死後も残った魂がそれを阻んでいたが、魂がルクナバードと一体化したことで空になったこの体にようやく入ることが出来たわ!カイ・ホスローの体にこのザッハークの魂、これでもはや予に死角は無い!」

あれ?原作だとアンドラゴラスの体にザッハークの魂だったのに、更にろくでもなくなってないか?

 

 

第三十九話 伝説終焉

カイ・ホスロー武勲詩抄には、カイ・ホスローの旗が戦場に翻ったのを見ただけで、蛇王ザッハークの軍勢は逃げ惑ったとある。ザッハーク軍が弱すぎるのかもしれないが、そうでないとすると恐ろしいまでの武威を誇ったとも考えられる。恐らくその実力はアンドラゴラス以上、最低でもアンドラゴラスと同等だろう。

それに、黄金色に輝くあの甲冑も、携えている副葬品の一つであったらしき白銀の剣も、伝説には残らずとも相当の業物のはず。

とにかく、奴をフリーハンドで戦わせてはならない。まずは、ヒルメスに使ったと同じ手で、自由を奪う。アイコンタクトで三人娘とラクシュに合図を送った。全員に意図が正しく伝わり、三人娘が地面に潜った。そして、レイラがこれ見よがしに正面から、フィトナとパリザードが背後に回り、それぞれ片足の腱を狙って襲いかかる。

が、

「痴れ者が!その手に乗るか!」

「不味い!三人とも避けろ!」

「!!」

ザッハークが地面に剣を向け、三百六十度回転して振り回した。間一髪三人娘は躱したものの、恐ろしいまでの剣風が彼女たちの前髪を薙いでいた。これでは近づくことすら出来ない。背中を嫌な汗が伝うのが判った。

「魔道の技を使わせるか。どうやら恥というものを知らぬらしいな。小僧ども!」

おやおや、ザッハークにかかっては俺らは小僧扱いかよ。それじゃあこちらは御老体とでも呼ぼうかね。いや、面倒だ。お主でいいか。

「ふん、お主こそ、仇敵の体なんかに入りやがって。誇りは地下洞窟に置き去りにでもしたのかよ?」

「敵ではあるが、認めておったのだ。家畜としか思っていなかった人間の中にも、知恵と勇気を備え、信念と意志を持ったものがいるとな。こやつなら歴史に不滅の名を残すであろうと、予を恐れる民の心がこやつを神格化しご丁寧に遺体を保存してくれるだろうとな。ふははは、まさに思い通りになったわ!その為に無様に逃げ回ってみせた甲斐があったというものだて」

なるほど、武勲詩抄にあるあの醜態は半ばは演出されたものだったってことか。そして、ザッハークが執着していたのは、カイ・ホスローであって、その子孫ではないということか?

「…てっきりお主はパルス王家の子孫を自分が復活した時に宿る器にしようとしていると思ったんだがな。魔道士たちもそのつもりで動いていたようだったしな」

「ふん、知っておるぞ、地下から見ておったわ。ホスローの子は兄弟で争い、挙げ句父をも殺したのだったろう。兄殺し、父殺しをやってのけた愚物の子孫を器にだと?そんなものはこちらから願い下げだ。アンドラゴラス辺りなら器にしてやらんでもなかったがな。魔道士どもなど、勝手に予を崇め、予を復活させるだなんだと騒いでいたただの道化に過ぎん。笑わせては貰ったが、それだけのことだ」

こいつ、自分が地下に封じられたあとの事も知っている?口振りからすると魔道士たちとは無関係のようなのにどうして?

「地下から見ていた、だと?お主は何なのだ?ただの怪物ではないのか?」

原作では聖賢王ジャムシードの御代の狂った医者が作った魔法生物的なものだったはずだが、違うというのか?

「ただの怪物とはご挨拶だな。無知とは罪なものよ。予は神であったジャムシードが次の千年を託すために創り出した神だ。奴は予を失敗作呼ばわりし処分しようとした故、逆に奴を殺してやったがな。お主ら、予を殺そうとするのは神を殺そうとするのと同義であるぞ?天の怒りを畏れぬのか?」

「ふん、天がお主を封じられて怒ったのならば、パルスは三百年も栄えてはおらぬさ。つまり天はお主など何とも思っておらんと言うことだ!」

「ラジェンドラ殿の言う通りだ。お主が神だろうと、怪物だろうと、いずれにしろお主は人を害するだけの存在だ。もはや地上にはその様な存在は必要ない。今ここでお主を倒す。そして、これからは人が自らの力で歴史を作っていくのだ!」

「ふん、言うではないか。確かお主、アルスラーンとか言う名だったな。そのルクナバードが飾りでないと言うつもりなら、お主がカイ・ホスローの天命を継ぐものだとほざくつもりなら、早くかかってくるといい。それとも怖気づいたか?」

「何だと?いいだろう、そこを動くな。お主の伝説を今ここに終わらせてやる!」

馬鹿、行くなよ、アルスラーン、見え透いた挑発だ!う、ダリューンまで主君を侮られたと頭に血が登って前に出ようとしてやがる。

「アルスラーン、ダリューン、二人とも動くな。特にダリューン、お主は駄目だ!前も言っただろう!お主は人外には分が悪いと!」

「何故だ、ラジェンドラ殿!何ゆえにそのようなことを言う?」

「お主は、対人戦闘に特化し過ぎているのだ!お主は多くの戦闘経験から相手の力量、速度、間合い、太刀筋などを見抜いて、無意識に相手に対しての最適な動きが出来るのだろう。だが、それが人外相手ではかえって弱みになる。予想外の動きに対して過剰に反応し大きな隙を作りかねないのだ。ここはまず俺たちに任せろ!俺たちが何とか隙を作ってみせる。お主の出番はそれからだ!」

とは言うものの、策なんてまるで思い浮かばない。対峙したままジリジリと時間だけが過ぎるばかりだ。

「ラジェンドラ王子、要は隙を作れればいいのだろう?だったら俺にいい手がある!」

「おい、ダリューン、お前またアレをやるつもりか!やめろ、やめてくれ!俺のほうがどうにかなる!」

何だ、ダリューンは何をやろうとしてる?その不敵な、いやむしろ悪童めいたと言っていいようなその嗤いは何だ?それにナルサスのあの反応は一体?

「おい、ザッハーク、これを見ろ!お主が神だと言うならこれを見ても痛痒を感じないと証明してみせろ!」

ダリューンは懐から何かを取り出し、ザッハークに向けて突き出した。何だあれは?いや、見てはマズい。直感だがそんな気がする。

「な、な、何だ、何だそれは!」

「あ、あう、何それ!おで、ごわい!」

あ、バハードゥルの馬鹿が!見てしまったんだな!この馬鹿、こんなところで何やってんだ!…!マズい、ラクシュは平気か?バカさ加減で言えば、バハードゥルと大差ないのがラクシュなんだが…。

しかし、それは杞憂だったようだ。同時に撃ってるのだとしか思えないほどに一斉にラクシュから何本もの矢が放たれた。良かった、隙が出来たなら自分の出番だと理解してたんだな!…或いは立ち位置的に見ようとしても見えない場所に居ただけかもしれないが。

ラクシュから放たれた矢は鏃が蒼い炎を纏っていた。何だかいつもと違うような。それらは両眼、両肩の蛇の口、蛇の付け根の両肩、両手首をほぼ同時に射抜いた。そして、両肩の蛇が蒼い炎で瞬時に燃え尽きた。肩の付け根で蒼い炎がなおもくすぶり続け、それが再生をも阻んでいるようだ。もしかして、浄化の炎なのか?

「な、何だよラクシュ今の。いつもの矢じゃないのか?」

「あれれ~、この弓と矢筒、殿下がくれたんじゃないのー?今朝起きたら私のすぐ傍に置いてあったんさー。恋人がサンタクロースって本当だねって思ったのにー」

いや、今はまだ四月だ。こんな季節外れのサンタはいないし、そもそも俺はお前の恋人でもない。と言うかそれ、シンドゥラの伝説に出てくる黄金の弓『ブラマダッタ』と、炎の矢を際限なく取り出せるという『無限の矢筒』じゃないのか?かなり昔にカルナに探すように頼んだものの、何の手掛かりも得られなかったって聞いてたんだが、見つけたのか?そして、わざわざここまで持ってきて、ラクシュに託したのか?いくら最近タハミーネにラクシュの母親ポジションを奪われつつあるからと言って、まさかそこまでするとは!

「いや、その話は後だ!それより今だ!総攻撃だ!…ってバハードゥルもいつまでも怯えてんじゃねえ!行くぞ!」

「ふぁ、ふぁい、王子!」

勝機であった。奴は剣を取り落としている。両眼から刺さっていた矢を抜いたが、鏃に眼球が刺さったままだ。そして、眼窩には蒼い炎がくすぶり続け、こちらも肩と同様に再生を阻んでいる。武器はなく、目も見えず、厄介な両肩の蛇も焼滅して再生もしない。これなら勝てないはずがない!

「ぬううっ、舐めるな、糞どもが!」

ザッハークが拳を振り回す。とんでもない風圧を感じる。スピードだけならヘヴィ級ボクサー並みだろう。だが、両手首を矢で射抜かれ、拳に力が入っていない。ジャブとすら言えない代物だ。そして、剣を相手にするにはリーチが足りなすぎる。たちまち、両腕両足を切り刻まれ、腕すら上がらなくなる。もはや奴は棒立ち、このまま押し切れる。そう思った瞬間だった。

「控えよ、我が下僕ども!汝らが神にいつまで剣を向けておる!!」

「!!!」

ザッハークの雷喝に、パルス人たちの動きが一斉に止まる。確かに天地が震えるほどの迫力を帯びた声ではあった。だが、嘘だろ?戦士の中の戦士、ダリューンが武器を取り落とすだと?他のパルス人諸将も膝をつく者、おこりのように震えて立ち尽くす者と様々だが、皆一様に戦う気力を奪われていた。パルス人ではない他の者達も、息を荒げ、落ち着くために必死に自分を宥めねばならなかった。

「ザッハーク!これがお前の切り札か!この支配力で、カイ・ホスローに殺されるのを防いだと言うのか!」

俺の声までが震えていた。俺は奴の下僕ではないはずだが、それでも気圧されずにはいられなかった。

「言ったであろう、予は神だとな!予はジャムシードの時代までのパルス人を全て殺し、家畜として美味なる脳味噌を持つ新たなパルス人を創り上げた。予に従順で、予の恐怖を魂の底にまで刻み込んだ下僕としてな。だが、良かったではないか。予が創り直したお陰で大陸公路周辺諸国で最強を誇ることが出来たのだ。その代り、腹芸も出来ぬ不器用さをも併せ持つことになったとしてもな!」

なるほど、パルス人の精強さは、ザッハークが創り変えた賜物だということか。確かに、他国人とは別格と思える部分があったよな。そう言えば、共に他国人を伴侶としたダリューンとアルスラーンだが、両方ともあり得ないほど子供が出来るのが早くなかったか?まさかそれもパルス人が持つ特性なのか!

「では、予はここでお暇させてもらうとしようか!腐ってもカイ・ホスローの体なのでな。諸侯や領主は喜んで予の前に膝を折ってくれるだろうよ。その前にお主らはここで死んでもらおう。…目が再生出来ぬ。見えぬので手心も加えられん。さぞや醜い死体になるだろうが許せよ?」

満身創痍のザッハークだが、全身に負った傷の内、通常の武器で付けられた傷が少しずつ回復していっている。奴が緩慢な動きで剣を拾った。盛んに手の平を結んだり、開いたりしているが、表情が険しい。両手首のラクシュの弓で撃たれた傷は回復せず、本来の力は出せないのだろう。だが、それでも剣を握ることぐらいは出来るようだ。剣を携え、奴がゆっくりと近づいてくる。まずい、このままではやられる!

だが、両足は縫い留められたかのように動こうとしなかった。動けぬ。奴の放つ殺気が、威が、身じろぎすら阻んでいた。馬鹿な、ここまで来て、何も出来ずにこいつに殺されるだけだというのか!

「いいや、死ぬのはお主だ、ザッハーク!」

凛とした、覇気を孕んだ声が辺りに響き渡った。この声はアルスラーン?お主、大丈夫なのか?

「ば、馬鹿な!アルスラーン、貴様何故動ける!貴様、予の意に従えぬというのか!」

「ああ、お主などに従うつもりはない。お主、カイ・ホスローの魂がルクナバードと一体化した理由を考えなかったのか?カイ・ホスローの魂は、没後の三百年で無数のパルス人と大陸周辺諸国の者の尊崇を集めたことで神格を得た。パルス人としてのお主の軛を抜けたのだ。そして、そのカイ・ホスローと一体となったルクナバードが今私に加護を与えてくれている。お主の支配など、もはや私に届きなどしない!」

「な、何…」

「皆よ、全土のパルス人たちよ!英雄王の志を継ぎしアルスラーンが今告げる。今こそ、ザッハークの軛から解き放たれよ。お主らはもはや自由だ。何者にも支配されることなく、己自身として生きていけ。お主らになら、それが出来るはずだ!」

その瞬間、世界中のガラスが同時に砕け散るかのような音が響き渡った。大陸全土に、いや、この星全てに届いたかもしれない。今、確かに世界の理が書き換えられたのだ。

そして、

「う、動く、動ける!皆、大丈夫だ。もう動けるぞ!」

「おお、本当だ!」

パルス人たちはまだ本調子の動きではないが、パルス人ではない俺たちはもう何の問題も無く動ける。ザッハークと相討ちになんかさせないと誓ったんだ。このまま立ち止まってなんかいられるものかよ!

「おおおおおおおおおお!!」

俺は自分自身を鼓舞するように叫びながら、ザッハークに突進した。ザッハークは声を頼りにこちらに向き直るが、もう遅い!俺の一閃はザッハークの剣を構えた右腕を斬り払い、返す刀で左腕を斬り飛ばした。

「今だ!アルスラーン!」

「終わりだ、ザッハーク!!!」

宝剣ルクナバードがザッハークの脳天から腰にかけてを存分に切り裂いた。未だに蒼い炎がくすぶり続ける眼窩で天を仰いだザッハークは一歩、二歩とよろめき、そして轟くような響きを上げて倒れ伏した。

蛇王ザッハークの伝説が終焉し、解放王アルスラーンの伝説が今ここに始まったのだ。
 

 

第四十話(最終話) 狩猟大祭

俺たちがデマヴァント山に赴いてから、王都エクバターナに帰り着くまで、往復で十日間を要した。その間にエクバターナの情勢は激変していた。

…などということは勿論なかった。宰相ルーシャンは国王アルスラーンの留守中を大過なく治め、奴隷制度廃止に批判的だった旧勢力にもつけ入る隙をまるで与えなかった。原作でのルーシャンにはアルスラーンの顔を見ると結婚結婚と口にする悪癖があったが、この世界ではそれもなくなることだろう。むしろ、側室選びに頭を痛めることになるかもしれない。

俺たちが王都エクバターナの城門を潜ると、待っていたのは市民たちの万雷の拍手と歓声だった。王都の市民には数千樽のぶどう酒が振る舞われ、広場には数多の松明が灯され、笛や琵琶が陽気な音楽を奏で、歌や踊りが披露された。その全てを宰相ルーシャンが手配したらしい。通常業務だけでも多忙であったろうに、そこまでの手配をもこなすとは、想像以上の辣腕ぶりと言うべきであった。こんな人材を埋もれさせておくなんて、アンドラゴラスも馬鹿なことをしたものだ。

市民たちと酒を酌み交わしていると、頻りにありがとうありがとう、よくやってくれました、と声を掛けられた。また、市民たちの話を聞くともなしに聞いてると、カイ・ホスローは英雄王とも呼ばれるけど、ではアルスラーン陛下はどう呼ぶべきだろうかという話になっていた。

よし、お主の出番だぞ、ギーヴ!と思っていたが、頻りに横に座った女性に話しかけてるだけで、解放王の三文字を彼が口に出しそうな気配はない。周りからは、「自由王!」、「いや、公正王!」、「快賊王なんて駄目だろうか…」などの意見も出てるがどうにも、解放王という意見が出そうにない。何故だかそれを敢えて避けてでもいるかのように。だから、業を煮やした俺はとうとう言っちまったんだよ。「解放王なんてどうだ?」と。

そしたら、何かやたらと拍手喝采されたんだよな。やめろ、やめてくれ、原作をパクっただけなんだ。そんなキラキラした目で皆俺を見るな!そう思いながら、周りを見回すと、宴もたけなわな中、知った顔が二人きりで何処かへしけこむ姿をチラホラと見かけた。…あれはギーヴとフィトナか。まあ、ギーヴは美女好きだからな。カルナもファランギースも所帯持ちだし、フリーな美女なんてフィトナぐらいしかいなかったもんなあ。原作ではギーヴがフィトナを殺したような記憶があったが、まあ、フィトナは原作ではナバタイ国を経て、ミスル王国に現れるなど、ありえないぐらいの流転ぶりだったからな。それがないならばこういう縁の出来方もおかしくはないかもな。

意外なところではグルガーンとレイラってカップルがいつの間にか成立していた。グルガーンは暗灰色の衣の魔道士の一人として、魔道を修めた訳だが、その知識の中には薬学や錬金術的な部分もあったらしく、医者であるレイラがいろいろ質問し、グルガーンがそれに答えてってことを繰り返してる間に何となく出来てしまったらしい。レイラはつい最近までジャスワントと付き合っていたはずなんだがな。ただ、機会があったらシンドゥラに帰りたいジャスワントと、何があっても恩人の俺に付いていくつもりのレイラの間で、今後についての話し合いはずっと平行線だったらしい。で、ジャスワントがシンドゥラに聖剣四振りを借り受けに行って離れている内に、グルガーンに決定打を撃たれてしまったらしい。ははははは、残念だったな、ジャスワント!

おっと、ジャスワントが寄ってきやがった。こいつ、随分と出来上がってんな。レイラにフラレていい気味だと思ってるんでしょうが、貴方の命令でシンドゥラまで行ったせいでこうなったんでしょうが。ああ、本当は道中何度もこんな仕事投げ出して、父のところに戻ろうかなとも思ったんですよ。そうしたら、殿下はどんな顔をするんだろう。ざまあだよなとも思いながらも、アルスラーン殿が困ると思うとそれも出来なかったんですよ。それで仕方なく使命を果たしてきたってのに、報われないこと夥しいですな。とか、くどくど言いやがる。こいつ、絡み上戸だったんだな。

その内ウザくなってきたんでな。何を言ってるんだ、俺が最も信頼してるのはジャスワントお前だ。何だかんだ言いながらも仕事はきっちり仕上げてくれるし、いつもお前が見えないところで俺の尻拭いをやっていてくれてたことだってちゃんと判ってる。ただなあ、俺はどうしても面と向かってしまうとお前には憎まれ口を叩いちまうんだよ。本当はいつも感謝してるんだぜ。シラフじゃあ言えないから今言っておくぞ。いつもありがとうな、ジャスワント。

そんな風に適当に言ったら、こいつ、泣き出しちまいやがってな。積年の苦労がようやく報われた思いです。これからもずっとお供致します。里帰りなんて極たまにすればいいだけのことです。とかと、ワンワンとな。こいつ、泣き上戸でもあったのかよ。マジでウンザリしてきたんで、トイレだと行って走って逃げてきた。大丈夫だよな、ジャスワントの奴、追ってきてないよな?

ん?今、城壁への階段を登っていこうとしてるのは、ラクシュじゃないか?丁度いい、あいつには話しておくことがあったんだ。

◇◇

一人でボーッと城壁の上から街を見下ろしてると、殿下に見つかった。「よう、何してるんだ?」と相変わらずの調子だ。参ったな、本当は見つかりたくなかったのに。

「んー、これからどうしようかなって考えててさ。いっそ、お母さんのところに戻るかなあって」

結局、あの弓と矢筒を届けてくれたのはお母さんみたいだしね。どうやらくれるつもりらしいけど、そんな訳にはいかないもんね。返しに行かなきゃ。

「はあ、何でだ?お前これからもずっと付いて来てくれるんじゃないのか?」

「だって、殿下はミリッツァ様のお婿さんになっちゃうんでしょ?殿下が誰かのものになっちゃうの、見たくないんだ。そんなの嫌なんだもん」

「そりゃあ、ミリッツァとも結婚するけどな。あいつだけのものになる訳じゃないぞ?側室も迎えることにしたしな!」

「はあ、何それ!結婚してすぐに側室ってそんなの許されると思ってるの?殿下はアホの子なの?」

「お前にアホの子とか言われるとは嫌な世の中だな。いいんだよ、ミリッツァにはもう許可とってあるし。じゃないと王様になんてなってやらないって駄々こねたからな!」

「何なのそれ、そんないい女なの?どこの何て女よ!」

いいなあその娘、羨ましすぎるよ。

「そこのお前」

「はあっ!?」

「だからお前だよ。諜者の頭領カルナの娘のラクシュ!俺は昔、俺自身に誓ったんだ。家族同然の乳兄妹と、いつか本当の家族になると。もし俺が王になれるなら必ずそうするとな。それとも嫌か?」

「い、嫌じゃないともさ!ありがとう殿下。きっと大切にされるさー」

「おう、大切にしてやるともさ」

こうして私たちは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

……あれ?まだ終わりじゃないの?

◇◇

パルス暦324年10月15日、この日シャフリスターンの野においてシンドゥラ、チュルク、マルヤム、ミスラの四カ国の王を招いて、私、アルスラーンの即位後三度目となる狩猟大祭が行われた。

狩猟祭自体は三代前のパルス国王ゴダルゼス大王の時代までは行われていたものらしい。その時には六カ国の王が招待され、パルスの繁栄と大陸公路の平和とを祝い、相互の友好を誓いあったものであったそうだ。それを復活させ、今後は「狩猟大祭」と呼ぶようにしようと言い出したのは、我が心の兄にしてマルヤム国王ラジェンドラ殿だった。最初の年に参加したのはパルスの他はマルヤムとシンドゥラで、翌年には婚姻政策によってパルスとの心理的距離の縮まったチュルクが参加し、今年になってようやくミスラが参加することになった。

「おう、これは婿殿。我が娘エミーネは息災か?」

いきなりそんな挨拶をしてきたのはチュルクのカルハナ王だ。私は昨年チュルクの第二王女エミーネを側室とし、今年の初めに子供が生まれたばかりだった。

「はい、舅殿。母子ともに大変元気です。娘のナーズィは心なしか舅殿に似ておられるようですよ」

「そうかそうか、それは嬉しいのう。これからもよろしく頼む。また困ったことがあったら言うがいい。相談に乗ろうぞ?」

そう言い残してカルハナ王は離れていった。宰相に何やら呼ばれているらしい。それにしても、カルハナ王と言えば、『陰険で猜疑心の塊のような男』とナルサスなどは言っていたが、実際に話してみれば子煩悩で意外に面倒見の良い人物であるように感じられる。人というのは付き合ってみないと判らないものだと常々思う。

「おう、我が弟よ、久しぶりだな。皆元気か?」

「これは、ラジェンドラ兄様、ご無沙汰しております!皆ですか、勿論元気です。あ、そうそう、ナルサスがとうとう観念してアルフリードと結婚しました!」

「おう、それは実にめでたい!」

そう、アルフリードが十九歳の誕生日を迎える直前にナルサスはアルフリードと結婚式を挙げたのだ。ナルサスとしてはもっと年回りの近い相手を望んでいたようだったけど、蛇王ザッハークをも戦慄させた恐るべき画才の持ち主という評判が広まって(広めたのはダリューンらしい)他の花嫁候補が一向に現れず、アルフリードの心映えに魅せられたナルサスがとうとう降参したらしい。

ナルサスが言うところの悪友ダリューンは、シンリァン殿との間に長女が生まれ、今度はランファと言う絹の国風の名前を付けたそうだ。長男のシャーヤールはと言えば、去年エステルとの間に生まれた私の長女ナハールをひと目見て、「陛下、僕、この子をお嫁さんに欲しい!」と言い放ち、ダリューンを卒倒させるという前人未到の武勲をあげたものだった。他の子は母親似なのに、ナハールだけは私によく似ていて、私と同じ様な晴れ渡った夜空のような目をしている。私の目もそんな表現をされているようだけれど、この娘の目を見てようやく腑に落ちた。鏡で見てもそんな風には見えないのだけどね。

それからダリューンは大将軍になった。キシュワードは「戦士の中の戦士を差し置いて自分が大将軍になどなれんよ!」と言ってさっさと任地のペシャワールに帰ってしまったし、存命の万騎長で一番年長のクバード殿はマルヤムに仕えることにしてしまったしね。あと、ラジェンドラ兄に「大将軍になってしまえば、やりたい仕事だけをやり、やりたくない仕事は他人に押し付けるってことが出来るようになるぞ?」と言われたのも大きいらしい。それでもやはり忙しいらしく、「あの横着王に騙された!」と頻りにこぼしているそうだけれど。

エラムは王宮勤めのアイーシャという娘が気になっているらしい。失敗してばかりで呆れ返ると言っているが、そう言いながらも目が笑っているのだ。そろそろじれったくなってきたので、国王命令で結婚させてしまおうかと思っている。きっとまたエラムにはそんな横紙破りはやめてくださいとか口うるさく言われてしまいそうだけど。

「トゥースは一度に三人の妻を迎えましたよ?」

「ああ、あいつやっぱりか!」

「や、やっぱり?」

「あ、いや、そんな星回りを、あいつはしているのだ。シンドゥラ占星術ではそうなのだ」

そう言えば、ラジェンドラ兄はシンドゥラ占星術が得意なのだっけ。ナルサスやダリューンも占ってもらったことがあるらしい。今度私も占ってもらおう。

「おや、楽しそうじゃな。仲間に入れて欲しいものだが、縁を結んでいない我が国が出しゃばるのはお邪魔だろうかの?」

「おお、これはホサイン殿!」

ミスル王国の国王ホサイン三世殿、頭髪が少し心許なくなっているのと痩せにくい体質を、どうやら気に病んでいるらしい。仲間はずれのままではいつ数カ国連合軍がミスルに攻め込んでくるか判ったものではない。そうなる前に狩猟大祭に参加することにしよう、ということで今回から参加されることになった。別に攻め込んだりするつもりはないのだけれど、内政に高い手腕を発揮されてきたこの方としては戦争で国力が落ちたりするのは何より恐ろしいことなのかもしれない。

「いやいや、ホサイン殿、年回りの近い姫がいないのなら、重臣の娘をお主の養女にして、アルスラーンと縁付けると言う手もありますぞ?」

「おお、そんな手が?」

ラジェンドラ兄、あまり妙な入れ知恵をされては困るのですが?

「ただし、容姿も中身もそれなりのご器量でないと恥をかきますので。その辺にはご留意したほうがよろしいかと思われますな」

「なるほど、良い話を聞いた。さっそく検討しよう。これからは貴国とも仲良くしたいものですな!」

まあ、友好につながるならば構わないか。それよりまた側室が増えるのだろうか。うう、また胃が痛くなってきた。帰ったらまた宮廷医に胃薬を処方してもらおう。

◇◇

「ラジェンドラ兄のところはお変わりはありませんか?」

この数年間でだいぶ王様らしい貫禄の出てきた心の兄弟が聞いてくる。向こうで実の兄が呼んではいるが、うるさい黙れ今はそれどころではない。

「ああ、相変わらずみんな元気さ。ミリッツァが長男を出産したんでな。そろそろラクシュと子作りを始めようとしてるところだ」

ルシタニアの侵略の爪痕はまだマルヤムに深く残っているし、俺は異国人だし、決して統治は楽ではない。だが、昔とちっとも変わらないラクシュの笑顔を見ていると、もうひと頑張りしてみるかと言う気が湧いてくる。

蛇王ザッハークを倒した後もアルスラーン戦記のこの世界は終わること無く続いていく。その歴史が少しでも平和で幸せに満ちたものになるよう、俺たちはこれからも力を尽くしていこう。そして、あの世に行ったら親父にこう言ってやるのだ。「聞いてくれよ、山のようにみやげ話があるんだ。まずどれから聞きたい?」と。

《完》
 
 

 
後書き
1ヶ月と少しという短い間でしたがお付き合い頂き誠に有り難うございました。

最初の内は不定期でしたが、アクセス解析を見て思った以上に多くの方に読んで頂けていることを実感すると、休むのが申し訳なくなって、途中から毎日更新に切り替えさせて頂きました。そのせいで読むのも大変だったかもですね。

幸い自由の利く仕事だったのでそれ程無理はしなくて済みましたが、作成中の文章が何度も消えたりとか、更新時刻の20分前にようやく書き上がったりとか、落とす恐怖を度々味わいました。

それでも大好きな『アルスラーン戦記』のことばかり考えたり、原作を何度も読み返したりしながら過ごせたこの日々は私にとって人生の宝物になりました。

今後は本編を補完するような外伝や、年表、登場人物列伝などを不定期に書いたり、感想欄で指摘のあったオタク的ネタ言動部分を中心とした改稿も行っていきたいと考えておりますので、忘れた頃にまた読み返して頂けると幸いです。

本当に有り難うございました。 

 

その後のラジェンドラ戦記 マルヤム編

 
前書き
高屋奈月先生の『幻影夢想』というマンガには、最終巻末尾に『その後の幻影夢想』という項目があり、登場人物が物語終了後どの様な人生を送ったかが綴られていました。そういうのってあると結構嬉しいものだし、筆者自身もいろいろその後について妄想したりもするので、まとめて書いてみることにしました。

あと、『アルスラーン戦記読本(角川文庫)』には登場人物の人名事典があり、そこには「作者のつぶやき」という各登場人物についての作者のコメントがあったので、それも真似してみることにしました。

それでは行ってみましょう! 

 
ラジェンドラ…ザッハーク打倒後はマルヤムに渡り、ラジェンドラ一世として、新生マルヤム王国の初代国王となる。王妃ミリッツァとの間に二男一女、側室ラクシュの間に一女を儲ける。ラジェンドラ愛妻王と自称することが多かったと言う。
※筆者のつぶやき こいつ、もうちょっと苦労するべきだよなとの筆者の思いから玉座を追われた悲劇の主人公。と言う感じにはちっとも見えない。むしろ国家の紐付きでなくなったが故に結構自由に立ち回れて好都合だったんじゃないかと思ったりもする。ラジェンドラの語り部分は気を抜くと筆者の地が出てしまいそうになるので、その都度戒めながら書いてました。

ラクシュ…ザッハーク打倒後はマルヤムに渡り、ラジェンドラ唯一の側室となった。王妃ミリッツァへの遠慮から子作りを開始したのが遅かったため、当時としてはかなりの高齢出産となり難産であったようだ。狩猟大祭に時折参加しては弓の神業を披露し、晩年まで弓の腕前は衰えることはなかったという。ただ、残念ながら弓の腕前は子孫には遺伝しなかった。
筆者のつぶやき 当初、ネットのインド人名事典的なサイトから名前をつけようとしたものの、何かしっくりこないので、インド風の名前として最も馴染みのある『天空戦記シュラト』のラクシュから命名。乳兄妹というポジションは決まれど、当初は人物像を全く考えていませんでした。途中から、乳兄妹だけにラジェンドラから多大な影響を受けてるだろうからと愛嬌美人に、今後の展開からファランギースがいなくなりそうなので、代替の弓の名手にすることに。弓の腕前に関しては、定金伸治による歴史小説『ジハード』に登場するロビン・ロクスリーがモデルですね。ただモデルの方は狙いの無造作さ(なのに当たる)が特徴だったのですが、ラクシュは早撃ちという面が強調されたという違いがあります。沖縄人っぽい語尾「~さー」は自然発生的に生まれました。ラクシュの語り部分は、最もNGワードが少なく、実に書きやすかったなあ。作中でアニメ声と描写されていますが、筆者は花澤香菜さんの声をイメージしていました。

ジャスワント…ザッハーク打倒後はマルヤムに渡り、筆頭の将軍としてラジェンドラを支えた。そのクソ真面目さ加減からなかなか結婚できず周囲から心配されていたが、実父マヘーンドラが出入りの商人の娘(シンドゥラ人女性)を紹介し、ようやくカップル成立。ちょっとバカップル寄りのおしどり夫婦になったらしい。
筆者のつぶやき 主人公リスペクトな登場人物ばかりじゃつまらないので、一人ぐらいは主人公を否定的にみる人物を置きたいと思っていました。で、当初敵側のスパイとして登場する彼ならその役回りがこなせそうだと白羽の矢が立ちました。ただ、真面目でチョロい面のある彼には大変な生き方だったかも。それでもまあ、原作よりは幸せな一生だったのでは…。

三人娘…パリザードはバハードゥルとの間に野球チームが結成できるほどの数の子供を産み落とした。ただ、子供の中には意外にも長じて文官になる者もいたらしい。レイラはグルガーンの協力を得てペニシリンなどの抗生物質を作り出したり、産婦人科・小児科の医療技術を向上させたりした。反面、成人男性の診察は適当で冷淡だった。傭兵団時代、美人女医の彼女に診てほしいからと軽傷の患者が殺到してウンザリしたためらしい。フィトナはマルヤムにおける諜者組織の確立に心血を注いだが、過労気味だったらしく、それ程長生きでは無かった。だが、本来浮気性だったはずの夫が自分一筋であったことに感謝しながら息を引き取ったという。
筆者のつぶやき 三人娘をセットで登場させたのは、ハーメルンで連載されていた『ロスタム戦記』の影響ですね。ただ、主人公のことを自分を拾って育ててくれた恩人とは思いこそすれ、恋愛感情は持たせないようにしました。筆者は基本ハーレム主人公は好きではないので。レイラは当初、教師にする予定だったのですが、後にエステルがストーリー展開上大怪我を負うことになり、エステルを助けるため急遽レイラを医者にしました。そんな風に人物像がブレブレだったため、原作通りにタハミーネの娘ポジションに置くことには違和感しか感じず、その為、娘ポジションには人物像が確立されすぎていたラクシュが割り振られることになりました。

ギーヴ…マルヤムに渡った当初は自分のなすべき役割に悩み、各地を放浪することが多かった。旅先でフィトナが過労で倒れたと聞いて駆けつけ、その後は後進の諜者の育成に力を注いだという。
筆者のつぶやき ファランギースがイグリーラスとくっついてしまったために割りを食ってしまったキャラですね。その上、弓の腕的にラクシュの引き立て役にされたり、エステルを変なふうに縛ったり、キシュワードを冷やかしたりと、らしくはあるもののあんまりいい役回りを与えてあげられなかったかなと反省しきりです。彼の原作での蚊に刺されての病死なんてバッドエンドを絶対に回避させたくて、虫除けや蚊帳をラジェンドラに作らせてしまいました。

ミリッツァ…同時代の人物たちの中では最も長生きし、次の世代に平和と安定が引き継がれるのを見届けた上で亡くなった。「筋肉は己を裏切らない」が持論で、子や孫にも筋トレを習慣づけさせたため、新生マルヤムの歴代の王族はほとんどの者がマッチョだったらしい。
筆者のつぶやき 荒川弘版では実に典型的な王族女性って感じでしたが、王族の生き残りがあとたった二人になる中もっとタフじゃなきゃ駄目だろう?いや、二年も籠城したぐらいだからきっとタフだ。そしてマッチョだったんでは?とイメージするようになり、えらく型破りな人物造形になりました。筆者は茅田砂胡先生の二十年来のファンでもあるので、『スカーレット・ウィザード』等に登場する女傑ジャスミン・クーアのイメージも投影されています、って言うかそのもの!?

クバード…ラジェンドラと共にマルヤムに渡った後は北部国境の砦を任された。北方異民族の血を引く娘と彼が結婚したこともあり、異民族からの信頼も勝ち得、彼が存命の間、異民族の侵攻は一切なかったという。彼を脅威に感じた宮廷貴族などからは『北部辺境の王』と揶揄され、彼の権限を剥奪するべきではとの論調が貴族の間で再三高まったものの、ラジェンドラは『クバードは獅子だ。裏切りなどという薄汚い真似をするはずがない』と言い放ち、一切取り合わず信認し続けた。ラジェンドラの言葉を耳にしたクバードはますますの忠誠を誓ったが、決して禁酒までは誓わなかったそうな。
筆者のつぶやき クバードをいつどこで登場させるかについてはかなり悩みました。ジャン・ボダンが早々に退場したことでザーブル城攻めもなくなってしまったし、サームも死んでしまうしで、どんどん出番が先送りされ、結局最終盤での登場となってしまいました。ちなみに第三十三話でギスカールがマルヤム方面との連絡が途絶えていると言っていたのは、クバードがザーブル城近辺にルシタニア兵が近づく度に鏖殺していたせいでした。「宮仕えには不向きな常在戦場タイプの武人」というのが筆者のイメージで、彼を王都で飼い殺ししておくなんて、全くアンドラゴラスも人を見る目がないと思ってました。むしろ国境とかを任せてしまうべきだと思うのですが、意外と器の小さいアンドラゴラスはそこまでクバードを信頼できなかったのでしょう。 
 

 
後書き
その後のラジェンドラ戦記 パルス編は その内に…。