東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!


 

序章

 呪禁(じゅごん)
 道教に端を発する呪術の一種。
 存思、禹歩、営目、掌訣、手印という五つの技術を駆使して悪鬼を祓い、病気や災厄を防ぎ除去すると言われるが、その詳しい内容は不明である。
 呪禁の中でも特に禁呪や持禁(じきん)と呼ばれるものは、気を禁じることであらゆる事象の原因そのものを封じる(傷を禁じればたちどころに傷は癒え、人を禁じればその者は消滅する)ことができる、きわめて強力な呪術だったという。
 その使い手は律令制時代の日本において典薬寮に属し、呪禁師と呼ばれた。
 韓国連(からくにのむらじ)広足(ひろたり)などはその名人であったと伝えられる。
 のちに陰陽師や仏教の台頭によってその地位を追われ、本邦の呪術史から姿を消したと言われるが、 その真偽のほどは不明である――。





 鬼の手にした巨大な金棒が振り落ろされる。

「あぶないっ!?」

 秋芳の頭がグチャグチャに粉砕される様が脳裏に浮かび、思わず駆け寄ろうとする笑狸(えみり)

「来るなっ、問題ない、さがってろ」

 半身に反って避けつつ、そう口にするだけの余裕が秋芳にはあった。
 巷の陰陽師たちとちがい、体術には自信がある。
 武術はもっとも実践的な魔術のひとつ。そのような考えのもと、幼い頃から鍛錬を重ねてきたのだ。
 もっとも戦っている相手は二メートルを軽く超える巨躯の鬼。肉弾戦のみで倒すのは骨が折れる。

「禁武器則不能殺傷、疾く!」
 
 武器を禁ずればすなわち傷つけ殺めることあたわず。
 秋芳から放たれた気が鬼の手にした金棒にまといつく。

「GUGAAAAッッッ!!」
 ふたたび鬼の攻撃。横薙ぎに振るわれた金棒が秋芳の体にめり込む。
 骨も内臓もグチャグチャになるかと思われたその一撃はしかし、秋芳の体になんの傷も負わせなかっ た。真綿を押し当てられた程度にしか感じられない。

「Fuu?」
 
 困惑する鬼。
 その隙を見逃す手はない。
 素早く導引を結び、口決を唱え、矢継ぎ早に術を行使する。

「禁手則不能持、疾く!」

 手を禁ずれば、すなわち持つことあたわず。
 鬼の手から金棒が落ちる。

「禁足則不能立歩、疾く!」

 足を禁ずれば、すなわち立ち歩くことあたわず。
 足元からくずれ落ちるように倒れ伏す鬼。

「GA、GAGAGAGAッ!?」
 
 牙を剥き出し、狼狽する鬼。抵抗する力を奪ったことを確認し、最後の仕上げにかかろうとした、その時。

「GA、GAGAッ!、餓牙ッ、牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙阿阿阿阿阿阿
阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨ッ」

 哭いた。
 まさに鬼哭。鬼の口から耳をつんざく大音声がほとばしる。
 呪力のこもった鬼の鳴き声。抵抗力のない並の人間なら、聞いた瞬間に精神を侵され、卒倒。運が悪ければ命を失いかねない音波攻撃。
 全身に気を廻らし、不快な邪気を跳ね除け、意識を集中する。

「うるせぇっ! 禁口則不能話、疾く!」

 口を禁ずればすなわち話すことあたわず。
 術が発動するや、あたりを震撼させていた鬼哭はピタリと鳴き止む。
 声を発することを禁じられた鬼の口からは、ただただ息が漏れるのみ。
 次で決める。

「我咆哮金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」

 我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
 虎吼掌波。
 虎の口を模して重ねられた掌から気がほとばしり衝撃と化す、それを受けた鬼の体はバラバラに吹き飛んだ。

「いやー、終わったねぇ。一瞬ヒヤッとしたよぉ」

 残心を怠らず周囲に注意をはらう秋芳に駆け寄る笑狸。
 短めに切りそろえた明るい色の茶髪にデニムの短パンから延びる白い脚。一見、少年のようだがよく見ると快活な少女――。否、やはり少年。に見えてやはり少女のような……。
 そんな、むじなのごとく外見のさだかでないこの少女(?)その正体はオスの化け狸である。
 秋芳が幼い頃に折伏してから、おのれの式神にして行動をともにしているのだ。

「あんな大ぶりの攻撃あたらないし、脳筋野郎の妖術なんて効くかよ。それより自分の身の心配をし
ろ。おまえは平気か? 邪気にあてられなかったか?」

 笑狸の身を案じる秋芳のほうはというと、僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年だ。

「ボクは平気だよ。ちょっとうるさかったけどね」
「そうか。だが油断するなよ、あたりにまだ妖気が残っている」
「妖気? クンクン……。ほんとだー、わる~い感じの臭いがプンプンするよ」
「動的霊災は今ので終いのはずなんだがな……」

 周囲には秋芳が退治した動的霊災――霊災によって実体化した瘴気――らの骸が散乱している。
霊災。
 霊的災害。戦中に現代の陰陽術の礎を築いた稀代の大天才にして伝説の陰陽師、土御門夜光が執り行った大儀式の失敗により、東京を中心に頻発するようになった異常現象のこと。
 自然界に満ちる『霊気』のバランスが崩れて『瘴気』へ転じ、これが自然界が持つ自浄作用の限界を超えることで発生する。
 規模と驚異度に応じた段階が定められており。
 フェーズ1は自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。
 フェーズ2は霊気の偏向が強まり周囲へ物理的被害を与える状態。
 フェーズ3は鵺や野槌、牛鬼といった実体化した移動型・動的霊災の発生。
 フェーズ4は一つの巨大な霊災を中心として、無数の霊災が連続的に発生する状態、いわゆる百鬼夜行。
「……一説ではさらにその先の、世界に受け入れられ霊災が遍在化する、フェーズ5(ファイナルフェーズ)が存在するとされる……。くわしくは富士見ファンタジア文庫より絶賛発売中の『東京レイヴンズ』を読んでね♪」
「おい笑狸。おまえどこ見て、誰になんの説明をしてるんだ?」
「あはは、気にしない、気にしない」

 ここは東京新宿、花園神社。
 本来ならば聖域として存在し、大道芸や露店でにぎわう人々の憩いの場は異界化し、周辺地域に霊災をおよぼしている。
 フェーズ3の霊的災害。その原因をつきとめ、祓うよう、陰陽庁からの依頼を受けておもむいたのだ。

「笑狸、羅盤を」
「うん、ちょっと待って――」
 
 ボストンバッグから漢字がビッシリと書かれたビッグサイズの方位磁石のような物を取り出し、秋芳に手渡す。
 風水羅盤。
 土地の龍脈を調べ、吉凶を占う道具だ。

「我、世の理(ことわり)を知り、鬼を見、妖を聞き、万怪を照らす。疾く!」

 印を結び口訣を唱えると、中央の針がクルクルと回り、一点を示し止まる。

「向こうだ、行くぞ」
「うん。でも、あっちってボクたちが来たほうだよね」
「そうだな。まぁ、行けばわかるさ」
あたりに満ちる瘴気は濃いが、動く妖の気配はない。二人は周りに注意しつつ自分らが来た道を引き返して行く。
「はは~ん、なるほど。原因はアレだな」
花園神社入り口。鳥居の額に書かれた「花園神社」の『花』の字。そのくさかんむりの部分がかすれて、ほとんど消えかかっている。
「花の園が化け園になってやがる。言霊によってこの場の気が変生しちまったくちだな。神魔の境は紙一重。おかげで化け物の園になって、動的霊災どもがわんさか湧きやがった」
「これってば誰かが故意に字をもみ消したのかな?」
「いくら言霊の理を利用して(しゅ)をかけたとしても、人の身で神社という聖域をこうも変えるだなんて、ちょっと難易度が高いな。そうとうの呪力がないと無理だ」
「秋芳でも無理なの?」
「俺ならできるが」
 
 さらりと言ってのける。
 気負いも見栄もない、あたりまえのことをそのまま口にしたようであった。

「とにかくあれをどうにかしなくちゃな。とりあえず一筆書いて、鎮めておくか。笑狸、ペンかなにか書く物を」
「はいは~い」

 ボストンバッグから取り出した毛筆ペンを秋芳に手渡す。

「……つーか、手がとどかねぇ。笑狸、なんかでかい奴に化けろ。おまえが書け。くさかんむりを書くだけでいい」
「ん、いいよ。え~と、どうしようかなぁ……」

 しばし考えた後、変化の術を行使する。
 ぐにゃり。
 一瞬、笑狸の全身が飴が溶けたかのように歪んだかと思うと、次の瞬間そこには二本の角に剥き出し の鋭い牙、赤銅色の巨躯に虎皮を身につけた大きな鬼の姿があった。

「さっきの奴だな、そっくりじゃないか」
「しっかり視てたからね。化け狸たる者、つねに観察眼を養ってなくちゃ」

 見た目もいかつい大鬼の口から、少女のような柔らかな声――秋芳いわく「ねこじゃらしのような」声――が出されるのはかなり違和感がある。
 鬼に化けた笑狸の手でくさかんむりが書かれ『化』が『花』の字になると、あたりに満ちていた瘴気がほとんど消え去った。

「あとは改めて新しい額を用意させれば完璧だな。よし、俺たちの仕事はここまでだ。宗家に連絡して帰るとしよう」
「うん。じゃあ、なんか食べて帰ろうよ」
「そうだな、まだ日が高いが仕事の後だ。一杯やって帰るか」
「お蕎麦がいいなぁ、たぬき蕎麦!」
「たぬきか・・・。そうだな、鬼退治した後だし、俺もたぬき蕎麦って気分だ」
「あれ、珍しい。いつも山かけやおろし蕎麦なのに。なんで鬼退治したからたぬきな気分なわけ?」
「京の狸(たぬき)谷山(たにさん)の叱怒(たぬ)鬼(き)不動明王を思い出したのさ」

 京都にある狸谷山(たぬきたにさん)不動院は平安時代に桓武天皇が京の鬼門の守護にと、鬼を叱り退ける力を持つ咜怒鬼不動明王を安置し、名に「たぬき」が入ることから狸そのものもまた霊獣として扱われているパワースポットである。

「あ、な~るほど。ボクの親戚筋かぁ」

 西新宿五丁目某所。
 蕎麦屋で遅い昼食。早い晩酌をとる二人の姿があった。
 板わさと焼き味噌をつまみに日本酒をちびちび飲む秋芳。
 対して笑狸はというと、鴨焼き、玉子焼き、天ぷら、もつ煮といったサイドメニューをあらかたたいらげた後に、たぬき蕎麦とうどんの合盛りを腹に収め、デザートのみつまめを賞味しているところだ。
 あいかわらずよく食べる。やはり妖の胃袋は人とはちがうな。
 そんなことを考え、四合目の銚子に手を伸ばした秋芳の視界に一羽の折り鶴が飛び込んできた。 
 賀茂家がよく使う伝令用の式だ。

(まったく。電話もメールもあるってのに、無駄に格式ばって益体もない。そんなんだから土御門や倉持に良いとこ持っていかれちまうんだよ)

 もともと煩雑だった陰陽術を土御門夜光が改良をくわえ、あつかいやすく、かつ実戦的にしたものが帝式陰陽術。
 そこからさらに危険な要素を排し安全性を高めたものが、こんにち一般的に使われてい汎式陰陽術である。
 これらの陰陽術はインターネットや電子機器との親和性もあり、術や式神をデジタルデータ化してもちいることで、より安全・安易に万人が陰陽術を行使することが理論上は可能で、ウィッチクラフトという会社など、その開発に余念がない。
 あいにくと賀茂家はそちらの方面にうとく、一歩も二歩も差をつけられていると言わざるをえない。
忌々しげに開封の呪文を唱え、伝言を聞く。

「………………」
「どうしたの? 悪い報せ?」
「土御門夜光の転生者と思われる者が陰陽塾の生徒にいるそうだ。俺たちは講師と生徒として塾に潜入し、そいつを見つけ出し、狂信的な夜光信者らに害されないよう、賀茂の手で身柄を確保。保護し、お連れしろ。だ、そうだ」
「えー、それって誘拐じゃない。さらった後はどうするつもりなの?」
「さあな、そこまでは言ってない。宗家の年寄りどもに大胆な真似ができるとも思えないし、あんがい言葉通りに保護してやって、土御門に恩を売る算段だったりな」

 自分だったらどうだ?
 どうする?
 もし土御門夜光の転生者を見つけたら?

(喰霊の儀式呪術をもって夜光の持つ力と知識だけちょうだいする。あるいは転生者を傀儡にして夜光の力を我が物にする……)

 いずれにせよ容易ではない。下手をすれば我が身と魂を失うことになりかねない。

「まぁ、いいさ。問題は俺らが陰陽塾に潜入する段取りの部分だ」
「どこが問題なの?」
「宗家は俺とおまえを講師と塾生という役でそれぞれ潜らせようと考えているようだが、おまえがただの陰陽師志望の人間でないことなんて一発でわかるだろうな。その正体も、誰かの式神ってこともな」
「ああ、うん。そうだね。天下の陰陽塾だもの。そこらへんのセキュリティは万全だよね」
「そうだ。照魔鏡(しょうまきょう)の類で調べられたら一発でアウトだ。だからおもえも同行するとしたら最初から俺の使役式として紹介しておくべきだろう」
「ふんふん」
「それとなんで俺が講師役なんだ? 一塾生でいいじゃないか」
「え? そりゃあ一般生徒よりも先生のほうがなにかと活動範囲が広いし、秋芳の年齢的に――」
「俺はいくつに見える?」
「二十五歳」
「いや、それはおまえが俺の実年齢を知ってるからそう思うんだろ。パッと見で、俺はいくつに見える?」
「……二十歳」
「いやいや、もうちょい若く見えるだろ。十七歳とか、高校生で通用するレベルにさ」
「えー、高校生はさすがに無理が――」
「ない。俺は今だに店で酒を買う時に身分証の提示を求められることがよくあるんだ。若い証拠だぜ」
それは誰が相手でも年齢確認するという店の決まりなのでは。と思ったが口にはしない笑狸。
「俺は誰かにものを教える、先生なんてガラじゃあない。俺もおまえも一般生徒として陰陽塾に入るべきだ。……ガキの時分から修行修行でまともな学校生活ってやつにゃ無縁だったからな。いっぺん学生ってやつを体験してみたかったんだ。いい機会だぜ」

 賀茂秋芳、二十五歳。たった今、本人が言った通り幼少の頃より厳しい修行に明け暮れた日々を過ごしてきた反動か、成人してからは酒をはじめ諸々の娯楽をたしなむ、享楽的な性格になっていた。

「……秋芳と一緒に学校生活かぁ。うん、いいかも。面白そう」
「だろう? 修学旅行で枕投げや肝試し。うれし恥ずかし告白タイムだの、楽しそうじゃねぇか」
「あと体育祭とか文化祭も楽しそう!」
「そうだな。祭りそのものもいいが、準備も面白くてずっとしてたいって言うしな」
「それとバレンタインデーにチョコレート渡しっこしたり、クリスマスにプレゼント交換したり」
「おお! いかにも青春て感じだよな」
「プロムパーティーで豚の血をぶち撒けられる!」
「『キャリー』かよ! 俺はいじめるのも、いじめられるのもごめんだぜ」
「それで卒業式に伝説の樹の下で告白タイム!」、
「伝説の樹ってなんだよ?」

 人間界の娯楽については妖怪である笑狸のほうが一日の長があった。なにせ十年以上前に秋芳に折伏されてからというもの、人の身に姿を変え、アニメや漫画。ゲームやライトノベルといった若者文化を堪能してきたのだ。
 昔流行った恋愛シミュレーションゲームについて軽く説明する。

「ん、まぁ、とにかく。潜入するなら講師としてではなく学生としてだ。これを機に正式に甲種呪術の資格も取りたいしな。自分で言うのもなんだが、そろそろ有名になってきてもおかしくない頃合いだろ」
「ずっとモグリでやってきたからね~」

 数多の零災を鎮めてきた秋芳だが、それはあくまで影働き。表向きはすべて賀茂宗家の人間の手柄になっている。
 土御門・倉橋の定めた帝式・汎式の陰陽術。いわゆる甲種呪術に拒否感をしめす賀茂家の陰陽師のほとんどは、乙種呪術。
 甲種呪術以外の呪術全般をもちいている。
 しかしそれでできることには限度があるし、権限も限られている。
 いざという時に無資格であることを理由に陰陽庁から横槍を入れられぬよう、やはり正式な免状が欲しい所である。
「……て、ちょっと待てよ」
「なに?」
「そうだよ。俺は正式な『陰陽師の資格』なんて持ってないんだぞ。講師として潜入なんて最初から不可能だわ」
「あ、そうだね。言われてみれば」
「じじいども、本格的にボケやがったか……。まぁいい。宗家のやつらに直接かけあってやる。なぁに、俺からの頼みをイヤとは言わせないさ」

 賀茂家にはじゅうぶん貢献してきた。それに幼少の頃から畏怖の念をいだかれている自分の発言力には自信がある。
 韓国連(からくにのむらじ)広(ひろ)足(たり)の再来とも呼ばれ、こんにちまで絶えていた呪禁の術を現代に蘇らせた。そんな自分の言を、無視できるはずがない、と――。



 約一か月後。
 渋谷区代々木公園。朝も早くからカラスたちの鳴き声があたりに響きわたり、静謐な空気を切り裂いている。都心に巣くうカラスの数は一万匹とも二万匹とも言われ、その多くはこの代々木公園を寝床にしているのだから無理はない。
 前日の遅くまで降っていた雨のため、舗装されていない道はぬかるみ、雨よけのない場所は濡れている。
 そんな場所を避けて一人ストレッチする秋芳の姿があった。

(遠足前日の子どもってのは、こういう気分なのかね)

 明日から陰陽塾に通うことになり、下見ついでに朝の運動をしているのだ。
 どうにもじっとしていられない。
 肉体のあちこちをほぐし、のばす。
 股割りの格好で上体を地面にのばし、くっつけた後、腕立て伏せに移行する。
 ただの腕立てではない。拳立てだ。拳を握り、一指と二指の拳頭部分を地にあてて腕立て伏せをする。
 それを五十回ほどおこなった後、五十一回目からは拳頭ではなく十本の指で体重をささえる。指立て伏せだ。
 それを十回すませると、左右の小指が上がった。八本の指でまた十回。
 十回ごとに小指から順に指の数が減ってゆく。
 最後の十回は親指だけ。
 全部で一〇〇回。
 それを一セットとして、二セットおこなった。

(最近は仕事仕事でこの手の鍛錬をおこたってたが、思ったよりなまってないな)

 さすがに汗ばんでいる。が、息は乱れていない。
 呼吸の乱れは気を散らし、術の完成を妨げる。ただしい呼吸法は呪禁師にとって基礎の基礎といえる。
 そのまま起き上がると、両手で円を描きつつ、片足を上げ、前に出し、下す。
 もう片方の足を上げ、前に出し、下す。また片方の足を上げ、前に出し、下す・・・・・・。
 それらの動作を極めてゆっくりと、だが寸分たがわぬ精確さでくり返す。
 太極拳の套路(とうろ)や道教の禹歩(うほ)に似ている。だがあきらかに異なる独特の動きだ。
額に汗がにじむ。
 見た目こそ地味だが先ほどの腕立て伏せよりも激しく全身の筋肉を酷使しているからだ。
 俗に筋骨を鍛えて身体を外面から強くして剛力を用いる武術を外家拳と呼び、太極拳のように呼吸や 内面を鍛えて柔軟な力を用いる武術を内家拳と呼ぶ。
 最初の腕立て伏せのような筋力トレーニングが外家拳の修行なら、これはまさに内家拳の修行になる。
 武術はもっとも実践的な魔術であり、五行拳や形意拳、八卦掌など。その起源に魔術的なものがある流派は多い。
 秋芳のもちいる呪禁の術もそれらに近い。
 全身に気が廻るのを確認した後、型に移行する。
 算数の九九や歴史の年号を丸暗記する「だけ」の勉強が役に立たないのと一緒で、型の修行はただ形をなぞるだけでは無意味だ。
 つねに実戦を想定して動かなければならない。
 型には意味がある。
 型の動きというのは身体の運用理論であり、実戦に対応するための動きを作り上げるために必要なものなのだ。
 武道の型にはすり足をもちいた独特の重心移動や軸の固定など、日常的な動きから離れた身体運用を要求してくる部分が多い。
 これらの動きを身につけるのはとても困難ではあるが、型の要求通りに正しく動くことができれば動きの質が変化する。
 肉体ではなく神経レベルで〝戦える身体〟になるのだ。
 常人がその動きに反応するのはむずかしい。
 もちろん表面の動きだけを似せるだけではだめだ。そのような形骸化した型稽古にはなんの意味もない。
 型稽古というのは型の動きをおぼえるのではなく、型を通して戦いの動きをおぼえることに真の意味があるのだ。
 ただ型をなぞるような練習はせず、その動きを自分のものにすることが目的なのだ。

 秋芳の脳裏にひと月前に戦った鬼の姿が浮かぶ。

(術なしで戦うとしたら、どうするかな・・・・・・)
 
 鬼や鵺やといった形を持った霊災の中には、通常の弾丸や刀剣を弾くほどの頑強な皮膚を持った種も存在する。
 そのような個体にも気を乗せた攻撃。発剄と呼ばれるような攻撃方法なら、素手でも致命傷を与えることが可能だ。
 さらに人型の動的霊災は比較的倒しやすい。人体の構造や弱点が人間のそれと同じ場合が多く、急所をつきやすいからだ。
 地閃龍尾で金的や膝関節を攻めて姿勢を崩す。上体が下がったら飛燕連環腿を水月にぶち込み、とどめは顔面に虎吼掌破だ。もし背中を丸めて水月が隠れてるようなら角を引っつかんで穿腿提膝で顔面を潰す……。
 実戦を想定しつつ、ひととおりの型を演じ終え、ひと息つく。

「べつに演武を披露しているわけじゃないだけどな」

 先ほどから視線を感じていた物陰にむかって声をかける。

「え!? あ! ご、ごめんなさい。べつに盗み見するつもりはなかったんだけど……」

 Tシャツにランニングスカート姿の少女が姿をあらわす。

(うお、乳でけぇ。スイカっつうかメロンっつうか、とにかくでけぇ)

 長い巻き毛と大きな胸が特徴的な、まだ十代の少女だ。
 くっきりとして整った目鼻立ちにくわえてスタイルもいい。女性誌のモデルや男性誌のグラビアを飾ってもおかしくないようなルックスにもかかわらず、下品な派手さやキャバい印象を感じさせない。

「いや、べつに責めてるわけじゃないんだ。そっちも朝練かなにかかな? ずいぶんと走り込んだみたいだね。陸上部?」

 少女の泥だらけの運動靴を見ながら――あえて胸には視線をむけずに――話しかける。

「ううん、部活動はしてないわ。ちょっとムシャクシャしたことがあって、身体でも動かしてスッキリしようと思ったの」
「そりゃあいい、実に健康的だ。沈んだり倦んだりした時は運動して汗でもかくとスッキリ発散できるからな」

 言いつつペットボトルの水を頭からかぶり、かいた汗を流す。暦の上では秋とはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。水をかぶって風邪をひく心配もない。
 剃りあげた頭を流れ落ちる水を見ながら少女が聞く。

「あの、あなたお坊さん? 今のって少林寺拳法かなにか?」

 髪形のせいでよく僧侶にまちがえられることの多い秋芳にとって、これはよくある質問だ。
正直うんざりしてる。

「俺は坊さんじゃない、この頭はただのファッション。それと今の技は少林拳でも少林寺拳法のものでもない」
「え? えっと、少林寺拳法と少林拳てちがうの?」
「ちがう」
 
 キッパリと言い放つ。
 少林拳とは中国河南省。嵩山少林寺で生まれた生粋の中国武術であり、少林寺拳法は日本人の宗道臣が数多の中国拳法を基盤に創設した日本発祥の武術だ。
おそらく日本人の多くは少林拳と少林寺拳法を混同し、別のものとして認識してない。
 けれどもこのふたつはまったく別の存在だ。
 それらのことをザックリと簡単に、けしてオタクっぽくならないように説明する。

「へぇ、そうだったの。ぜんぜん知らなかった。ええと、じゃあ太極拳?」
「太極拳じゃないけど、まぁ似たようなものかな。ちなみに太極拳にも色々な流派があって、有名どころだけでも五つの流派があるんだよ」
「そんなに! これから習おうって人は大変ね。どれにするか迷っちゃうじゃない」

 少女の顔を見て話しつつ、視線はしっかりとその豊かな胸のふくらみをとらえていた。
 少林拳をはじめ、中国武術には八方目(はっぽうもく)。という言葉がある。
 これは目を動かさず、一点を見つめたままで視界全体にあるすべてを視ることができる技であり、極めれば文字通り左右や背後。四方八方にいる者の動きすら見抜けるという。
 この男はそれを視姦目的に使っているのだ。
 賀茂秋芳。そういう男である。

(やっぱりでかい胸は最高だな。男は筋肉、女はおっぱい。この世には貧乳好きなんてのがいるそうだが、そんな奴らの気が知れないね)

「武術っていっぱいあるわよね。なんか魔術に似てるわ。そういうのって他の流派の良い所だけあつめて一つにしようとかしないの? 陰陽術みたいに」

 こんにちに伝わる陰陽術。帝国式・汎式陰陽術といった甲種呪術は土御門夜光が戦前に軍部からの要請を受けて作り上げた呪術体系であり、本来の陰陽道だけでなく、修験道や密教系、神道系――。
 その他、日本に存在するありとあらゆる呪術が一つに統合されたものであり、それを成した土御門夜光その人が陰陽師であったため、魔術や呪術の類といえば陰陽術。
 というのが現代日本では常識だ。

「あるよ、そういう流派。総合格闘技とか呼ばれてるやつ。でもその総合格闘技を掲げる団体自体がこれまたいっぱいあるんだよね」
「あらら」
「まぁ、たくさんのものを一つにまとめるのは大変だし、誰もが夜光さんみたいなカリスマと能力持ってるわけじゃないからね。それに強さっていうのは結局、武術の種類や流派なんかじゃなく、個人に宿るものだから」

 武術と魔術は似ている。なかなか鋭い発言をする少女だ。そう思い、あらためて少女を観察する。

「陰陽術って、君ひょっとして陰陽塾に通ってたりする? ここの近くだよね。陰陽塾」
「ええそうよ! あたし倉橋京子。陰陽塾の生徒です」
誇らしげに胸をはり、自己紹介する少女――倉橋京子。
「それは奇遇だな! 実は俺も明日からそこに通うことになってるんだ。俺の名は――」
「あなたも入塾正なのっ!?」

 突然声を荒げ、苦虫を噛み潰したような顔になる京子を見て。

(ふむ、美人てのは歪んだ顔も綺麗なもんだ)

 などと思いつつ。

「あー、いきなりどうしたの、そんな顔をして? あなた『も』って、どういう意味?」
「……この時期に入塾なんておかしくないですか?」
秋芳の問いには答えず、ジト目で逆に問いかけてくる。
入塾する時期におかしいおかしくないなんてのがあるのだろうか? 『季節はずれの転校生』なんてフレーズがあるが、ちょうどそんな時期に重なったのか?
自分もあんがい世事にうとい。だが陰陽塾への入塾は正規の手続きをして完了しているのだ。やましいことはない。

「ええと、なんだ。俺は……」

 秋芳は周りの空気の変化を敏感に察した。
 おかしい。
 なにかが変わった。
 気づかないうちに、なにかが変わった。

「なんですか「俺は」なんですか?」
「なぁ、陰陽塾のお嬢さん。気づかないか?」
「はぁ? なにをです。ごまかさないで――」
「カラスの鳴き声がしない」
「え? あ!」

 けたたましく鳴いていたカラスたちの鳴き声がまったくしない。
 いや、そればかりか人の気配、喧噪、騒音。そういった人いきれすらもまったく感じられない。
 いくら朝早とはいえ、これはおかしい。
 さらに空気の流れ、それ自体すら止まったかのよう。
 そうだ。空気が流れていない。
 ドロリとした蒸し暑い大気があたりを支配している。
 広い公園の中だというのに、まるで密閉された空間の中に閉じ込められているような、息苦しい感 覚。
 霊的な抵抗力のない普通の人間なら、ただそこにいるだけで疲労してしまう。そんな類のいやな気が充満している。

「こ、これって、異界化してる!? 霊的災害。フェーズ2?」
(たしかに異界化してるな。それもなんの前兆もなく、急にだ。これはちと厄介かもな)
「ねぇ、外に出てみましょう。……出られたら、だけど」
「そうだな試しに行ってみるか」
 とりあえず最寄りの出口。原宿駅側に行ってみる。
 舗装された道を二人して進む。が、歩けど歩けど距離が縮まない。
 遠くに見える景色がいっこうに近づいてこない。

「まいったわね。あたしたち、完全に捕われちゃってる。ねぇ、やみくもに動きまわるのはよしましょう。あたし風水についてもそれなりに勉強してるつもりだから、なんとか結界の格か、ほころびを見つけ出してみるわ」

 周囲の気の流れから空間や時間の法則を読み取り、干渉する。
 それが風水だ。
 結界を構成する核となる物を排除することができれば、結界自体が消滅するし、外界との『穴を』見つけることができれば、そこから外に出られる。

「羅盤や魯班尺もなしにできるのか?」
「ダメもとでやってみるわ。あたし気を『詠む』の得意だから」
「そうか。じゃあ頼む」
「ええ、頼まれてあげるわ」

 天下の陰陽塾塾生。その実力はどの程度のものか、お手並み拝見といこう。
 そう決めて京子の所作に注目する。
 雨に濡れていない地面に拾った小枝で円を描き、その中央に立ち、静かに瞑想を始める。

(ほう、地面に描いた円陣を羅盤。自らをその針に見立てて即席の風水羅盤を作るなんて、やるじゃないか。風水だけでなく厭魅の才もあると見た)

 厭魅や厭勝と呼ばれる呪術がある。
 類似したものはお互いに影響しあい、一つのものに起こったものは、似たもう一つにも起こる。
 同じものから分離したものは、性質を共用する。
 そのような法則を持った呪術だ。
 ただ真似をすればいいというものではない。
 なにかとなにかを見立てる発想力。
 それによりなにができるかを正確にイメージする想像力。
 そしてそれを実行する呪力。
 それらが合わさって始めて効果を発揮するのだ。

(まだ若いのに大したものだ。胸もでかいしな。うん、たいした巨乳だ。実にけしからん)

 キッ! 

 よこしまな想いを抱いた瞬間、京子が鋭い視線で秋芳を睨みつける。

「たった今、あなたから邪気を感じたんですけど」
「いやぁ、気のせいだろう。続けて続けて」
「まったく、本当かしら……」

 ブツブツ言いつつ、瞳を閉じ、ふたたび集中を始める京子。涼しい顔でそれを見つめる秋芳。

(どうも入塾云々のところから妙に態度がキツくなったな。それにしても感の良い娘だ。こっちのスケベ心をすぐに見抜きやがった。陰陽塾の生徒はみんな切れ者なのか、彼女が特別優秀なのか。……ん? まてよ、倉橋京子。倉橋……)

 陰陽道の名家にして現在最も権勢を誇っているのが倉橋家だ。陰陽塾塾長の倉橋美代も、陰陽庁長官兼祓魔局局長であり、当代最高とされる陰陽師、倉橋源司もまた名門倉橋家の人間である。
 ひょっとしたらこの娘はそんな倉橋家のご令嬢では?
 そんなことを考えつつ、あらためて探りの術に集中する京子の姿を観察する。

「ん、もうちょっと……、見えてきたわ。あと少しでハッキリわかりそう……」

 と、その時。どこからともなく声が聞こえてきた。

「お~い、君たち」
「え、ええ?」
「お~い、ちょ、ちょっと」
遠くから息も絶え絶えに駆けつけて来たのはヨレヨレのスーツを着た、サラリーマンふうの中年男だった。
「ハァハァ、や、やっと人に会えた。さっきから変なんだよ、この公園。外に出ようと思っても出られないんだ。本当だよ!」

 惑乱するサラリーマンふうの中年男――名を佐藤といって、昨夜は飲みすぎて公園のベンチを寝床に一晩明かしたらしい――が言うには、公園から出られない。
 道を進めば行けども行けども道が続き、林をつっきろうとしても途中で見えない壁のようなものが進路を塞ぎ、外に出られないらしい。

「嘘じゃあないよ! 本当だよ。嘘だと思うなら君たちも一緒に来てくれよ、このおかしな現象をその目で見て確かめてくれ」
「落ち着いてください。あたしたちは別に疑ってなんかいません。佐藤さんでしたっけ、一緒に出口を探しましょう」
「ああ! そうしてくれると助かるよ。こんなおかしな場所で一人きりとか、心細くてね」
「佐藤さん。公園から出られないこと以外でなにかおかしなことはありませんでしたか? 見なれない物。生き物とかを目にしたとか」
「う~ん、そういえばあっちにヘンテコな看板があったよ。漢字なのかなんなのか、よくわからない文字がビッシリと書かれてたね」

 佐藤が自分の来た方向を指差す。

「そっちは……。間違いないわ。まだ途中だったけど、あたしが感じたのも向こうからだったわ」
「よし、じゃあ行ってみるか」

 暑く澱んだ空気の中、ぬかるみに足を取られながら、三人で進むことにした。

「へぇ、じゃあ君たちは陰陽塾の塾生さんかい! 良かった。ならこんな霊災? 結界? 異界化? とにかくなんでもいい。こんなの早く解決してくれるよね?」
「ええ、まかせてください。陰陽塾の名誉にかけて、かならずやこの怪異を鎮めてみせます」

 背筋を伸ばしてそう宣言する京子の姿は実に優等生然としていた。
 元来この手の「いい子ちゃん」タイプは好きになれない秋芳であったが、不思議と嫌悪感は湧いてこない。

「もうすぐだ。この広場を抜けたところで見たんだ」

 三つの噴水が涼を演出し、夜になればライトアップされる中央広場。

ふだんならば都会の喧騒を忘れさせてくれる、のんびりとした園内だが、今は不気味な静寂と異様な熱気に支配されている。

「……ふぅ」
「だいじょうぶか? さっきの術でかなり消耗してるんじゃないか?」
「平気よ、あのくらい。でもここ歩きにくいったらないわ。もう足が泥だらけよ。て、あなたはあんまり汚れてないわね」
「汚れないように歩いてるからね」

 中国武術に軽功という言葉がある。
 軽身功とも呼ばれるこの技術を身につければ身体を軽くし、素早く動けるようになり、達人ともなれば木の枝や草葉を足がかりに空高く跳躍したり、水面を走ることすらできるという。

 ぬかるみの中、靴を汚さずに歩く程度の心得が秋芳にはあった。

「二人でなにを話してるんだい?」
「いやぁ、泥に足を取られて歩きにくいって話しをしてたんです。佐藤さんは革靴で歩きにくくないですか?」
「もう慣れっこだよ。ぼくみたいなサラリーマンにとっちゃあね。……おかしいな、たしかこのあたりで見かけたんだけど」

 キョロキョロとあたりを見まわす佐藤。

「ごめんよ、ちょっと道をまちがえたみたいだ。ええと、向こうだったかな? こんどこそちゃんと案内するからついて来てくれ」
 来た方向とは別の道に進む。
 歩き続ける佐藤の後ろ姿を見ながら京子が小声で問いかける。

(……ねぇ、あなた気づいた?)
(ああ、奴さんの靴。きれいなもんだ)

 靴もソックスも泥で汚れている京子とミッドソール部分に汚れが目立つ秋芳に対して、佐藤の革靴には泥がまったくついていなかった。
 それだけではない。
 佐藤の歩いた場所には足跡がまったくついていないのだ。

(彼、浮いてない? 浮いてるわよね)
(そうだな。浮遊してるな)

 よくよく見れば歩き方もおかしい。普通の人間が普通に歩けば、どうしても頭が上下するはずだが、それもない。ただたんに両足を交互前後に動かしているだけのように見える。
 それでいて前に進んでいる。
(人じゃ、ない……?)
「おや? また二人してコソコソ内緒話かい?」
「ええ、あなたの足がまったく汚れていない。宙に浮いてる。て話しをしてたんです。佐藤さん、あなた人ですか妖怪ですか? 俺たちに仇なす存在だったりします?」
「ちょ、ちょっとあなた!?」

 臆面もない秋芳の態度に思わず狼狽する京子。

「な~んだ、もう気づいちゃったのかい? もうちょっと歩きまわって疲れさせてよろうと思ってたのに」
 
 佐藤と名乗ったモノの姿がみるみる変わっていく。
 口が耳まで裂け、とがった牙が剥き出しになり、ナイフのように長く鋭い鉤爪が両手に伸びそろう。
 腰から下は青白い炎につつまれ、燃えている。

「そんな!? 動的霊災、フェーズ3!」
「見習いとはいえ陰陽師。その血肉、美味しくいただかせてもらうよ。男の方は骨と筋ばっかで不味そうだけど、女のほうは肉づきが良くてほんとうに美味しそうだ」

 顔全体をひと舐めできるほどの長くとがった舌でじゅるりと舌なめずりし、ゆっくりと近づいてくる。

「下がってて! こいつはあたしが鎮めるわ。式神召喚! 喼急如(オー)律令(ダー)!」
 
 言うと同時にどこから取り出したか、二枚の札。式符を放つ。
 いったい軽装のスポーツウェアのどこに札をしまっていたのか?
 符術をたしなむ者には覚られずに大量の札を持ち歩くことが求められる。現代の陰陽師には隠匿のスキルもまた必須なのだ。
 京子を護るように二体の式神が姿を現す。
 ロボットを彷彿とさせるメカメカしいデザインの鎧武者で、濃い桜色の方が太刀を、黒色の方が薙刀を手にしている。
 いずれも市販されている人造式「モデルG2・夜叉」に京子が独自の改良を加えた護法式であり、名をそれぞれ白(はく)桜(おう)、黒楓(こくふう)と言う。

「おお怖い! ならこれならどうだい?」

 下半身の炎がひときわ大きく燃え盛り爆ぜたかと思うと、そこにはゆうに二十体を超える佐藤の姿があった。

「「「どうだい、こちらも数を増やしたよ」」」
「「「人数はこっちの方が上だよ」」」
「「「さぁ、八つ裂きにしてあげよう」」」

 半円状に囲んで襲いかかる佐藤の群れに対し、薙刀を持った黒楓を前面に出し、リーチの長さをいかしたなぎ払い攻撃で応戦。かたわらに配置した白桜はもっぱら術者である京子の守護を担当し、黒楓の攻撃をかいくぐり、接近してきた佐藤を斬り伏せている。

(上手いな)

 言われた通り下がって観戦していた秋芳は、京子の使役ぶりに素直に感心する。
 簡易式とちがい、護法式というのは姿を維持させるだけでも、術者はそれなりの呪力を消費するというのに、この倉橋京子という娘はそれを二体同時に出現させ、たくみに操作しているのだ。
 そう、実にたくみだ。
 もっぱら攻めるのを黒楓。守るのを白桜が担当しているが、敵の布陣に隙が生じれば両方とも積極的に攻め、逆に敵の攻撃が激しさを増す時は両方とも守備に徹する攻防一体のコンビネーション。
 切り替えが上手いのだ。
 見事としか言いようのない式神の使役ぶりだが、敵の数はいっこうに減らない。
数体を仕留め、数が減ってきたと思ったら、またいつの間にか増えているのだ。

(これはあれだな「本物を倒さなければ分身がいつまでも増え続ける」てパターンだな。だとすると他とちがい汚れてたり、傷があったり、影のあるやつが本物ってのが定番なんだが……)

 目を凝らし佐藤の群れを観察する。
いた。
 一体だけ群れの後ろで動きまわるだけで前に出ず、数が減っては炎を震わし、増殖をくり返しているが、そいつだけが他とちがい地面に影を落としている。

(お約束だな)

 思わず苦笑を浮かべる。
 しかし京子はそのことに気づいているのか?
 真剣な面立ちで式をあやつるその表情からはうかがい知れない。
 少し言葉を交わしただけだが、プライドの高い娘だということはわかる。へたに手を出して不興を買うのもいやだ。
 美人には好かれたいものである。
 シュボボッ!
 佐藤本体の炎が大きく震えたかと思うと、数個の火球が出現し、京子を狙い飛んでゆく。

「五行の理を以て、清涼なる水気、不浄な火気を祓いたまえ! 水剋火! 喼急如律令!」

 だがそれらはみな京子の放った水行符により雲散霧消する。

(お見事! 式を操りながら自身も術を行使する。陰陽塾の生徒のレベルは俺の予想以上らしい。さて、お次は場に満ちた水気を利用して水生木。蔦で絡め取るか、木の枝で刺し貫くか?)

 秋芳がそんなことを考えていると、白桜・黒楓が突然式符にもどった。
 よろめき倒れそうになる京子。
 いそいで駆けつけ抱きとめる。呼吸が荒く、全身から滝のように汗を流している。

「おまえ、こんなに消耗してたのか? 無理しやがって」

 表情ひとつ変えずに式神を使役していたので気づかなかったが、かなり無茶をしていたらしい。だが考えてみれば当然か。並の人間なら居るだけで体力を奪われるような陰気あふれる蒸し暑い結界内で、歩き続け、術の行使を続けていたのだ。

「守らないと……、あたしは、倉橋の、人間だもの……」
「守ったさ、もうじゅうぶんに。守られてたおかげで俺は相手の特徴を知ることができた。助かったよ、だから少しお休み」

 優しく声をかけ、両手で抱き上げ、即座に駆け出す。
 
人を一人抱きかかえているとは思えない速さで駆ける秋芳の後ろ姿を一瞬あっけにとられて見ていた佐藤たちだが。

「「「逃がすか!」」」」
「「「追え!」」」

 すぐに追走を始める。

(これ一度やってみたかったんだよね。女の子の半魚人持ち) 
 俗にお姫様抱っこと呼ばれる抱き上げ方を、秋芳はそう呼んでいる。

 『大アマゾンの半魚人』という古い怪奇映画の中で、半魚人がヒロインをそのように横抱きにするシーンがあるからだ。
 中央広場まで戻り、ベンチにそっと京子を寝かすと、その上に一枚の札を置き、おもむろに呪文を唱え始めた。

「我祈願、北斗神君。神兵利器不侵入」

 我は北斗の神に祈り願う。いかなる凶器も傷つけることができぬよう。

「我祈願、五路神。万怪塞入」

 我は五路神に祈り願う。あやかしが入らぬことを。
 人の生死を司る北斗の神。それと道の神にそれぞれ祈願し、京子の身に危害がおよばぬよう二重の防衛術を張る。
 長くはもたないが、しばらくは外部からの攻撃は防ぐことができる。

「「「逃がさぬ」」」
「「「追いついたぁ」」」
「「「あきらめろぉぉぉ」」」

 術の完成を待っていたかのようなタイミングで佐藤の群れが追いつき、秋芳を取り囲む。
 その数はさらに増え、さっきの倍はいる。

「目をつけた獲物を歩きまわして弱らせようとしたり、数で翻弄し、ことさら人を嬲る足のない幽鬼。おまえ纐纈鬼だろう」

 纐纈鬼。
 生前に人の生き血を搾り、啜り、貪るようなあこぎな商売をして、恨まれて死んだ者が
 この妖怪になるという。なぜ足がないかというと生前お金に貪欲だった罰として「お足」を閻魔大王に取られたからだという。
 熊本県八代市の松井文庫が所蔵する江戸時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にそのような記述がある。
 ちなみに「お足」とは「お銭」を意味する江戸時代の俗語で、纐纈鬼とは江戸時代の言葉遊びから生まれた典型的な創作妖怪だ。霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
 こんな妖怪がいるんじゃないか?
 あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
 このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。

「このクソ暑いのにそろいもそろってメラメラ燃えてんじゃねえよ。我祈願、顕聖二郎真君。求借三尖刀!」

 素早く導引を結びながら口訣を唱えると、秋芳の手に切っ先が三つに分かれた槍。三尖刀が現れる。
 数で勝る分をリーチの長さでうめて対抗する。先ほどの京子の戦法と同じだ。
 ただちがうのは秋芳が三尖刀を一振りするたびに数体の佐藤がまとめて消滅すること。
 増殖する数よりも消滅する数の方が上なのだ。

(水・克・火!)

 脳内であふれる水が火をかき消す様をイメージして武器を振るう。
 水神である顕聖二郎真君から借りたこの三尖刀には水行の力が込められている。
 陰火をまとった纐纈鬼佐藤には効果てきめんだ。
 最後に残った本体にとどめの一撃。
 あまりに急な展開に断末魔の叫びをあげることすらなく、驚きの表情を浮かべたまま消滅した。
 涼しげな風が流れだす。結界が解けたのだ。
 特に核のような物がなければ術者を倒せば結界も解ける。
 残心をおこたわず周囲の様子を見るが、もうあやかしの気配は感じられない。

「さて、どうしたものか……」

 ベンチに横たわる京子。
 疲れているのだから自然に目が覚めるまでそっとしておきたい。しかし起きるまでずっとそばに居るというのも照れくさいし、会ったばかりの男に寝顔を見続けられた。と後で知れば乙女としては良い気がしないのではないか?
 かといってこのまま放置というのは論外だ。
 家人に迎えに来てもらうよう、携帯電話かなにか身元のわかる物でもあるか・・・。
 いやいや、意識のない人の服に手を入れている現場を他人に見られたらどうする?
 瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を正さずという言葉があるではないか・・・

「ええい、なにも難しく考えるこたぁないか。ここから陰陽塾まですぐ近くじゃないか。おぶって行こう」
とはいえ人の目がある。男に抱きかかえられている様を人に見られるのは嫌だろう。
「人を一人かかえて穏形するのは始めてだが、ま、なんとかなるだろう」

 隠形。
 物理的に姿を隠すのみならず、気配を絶ち、その場に居ながらにして他者にその存在を感知させない術だ。
 秋芳の学んだ呪禁の術では、これを禁感功と呼ぶ。





「……で、その倉橋のお嬢さんを無事に送って行ったわけ?」
「ああ、さすがは天下の陰陽塾だ。入り口に二体の機甲式が配置されててな、贅沢なこった」

 横浜港に数ある倉庫のいっかく。秋芳たちが寝床にしている場所だ。
 明日からは陰陽塾男子寮に移るので荷物の類はダンボール箱にまとめられ、ずいぶんと殺風景な中、 秋芳と笑狸。二人して大皿に盛ったナポリタンをつついている。
 意外に知られていないがナポリタン発祥の地は横浜だ。
 今夜が横浜最後の夜ということで、別れを惜しみ、こうして横浜名物を賞味している。

「壁や天井。地下にいたるまで大小無数の防御結界がほどこされていてな、あれをくぐるのはちょいと難儀だろうな」
「秋芳の壁抜けでも?」

 禁壁則不能遮。
 壁を禁ずれば、すなわち遮ることあたわず。
 そのようなものが呪禁の術にはあるのだ。

「う~ん、壁抜け自体はできても気づかれるだろうな。穏形しながらあの結界を抜けるのはできないな」
「じゃあ遅刻厳禁だね。きちんと正門から入らなくちゃ」
「そうだな。さすがに時を禁じる。てのは今の俺には無理だ」
「ところでその倉橋の京子お嬢さんだけど、秋芳とのフラグ。立っちゃった?」
「おお、立っちゃったんじゃねえの? なんせ半魚人持ちしたわけだしな。俺の人生で始めてだぜ、あれをしたのは」
「秋芳ひどい! ボクにもお姫様抱っこしたの忘れたの?」
「お姫様抱っこ言うな。半魚人持ちだ。……だいたいあの時おまえ狸だったじゃねぇか。獣を抱きかかえるのと、人を抱きかかえるのじゃ全然ちがう」
「それじゃあ今から抱いてよ。ボク、秋芳にお姫様抱っこされたいな~♪」
「嫌だ。男を抱きかかえて喜ぶ趣味は俺にはない」

キッパリと、そう断言する。

「じゃあ秋芳の好みの女の子に化けてあげる」
「なにに化けようがおまえはおまえだろうが。やめろ」
「誰がいい? イリーナ・シェイク? ジゼル・ブンチェン? シェリル・コール? 佐倉綾音?」
「最後の一人だけジャンルちがくねぇか? つうか化けるな」
「ちがくないよ、みんなおっぱい大きいじゃない」
「おお、そうだな。ひょっとしたら日本人の佐倉が一番でかい乳してるのかもな」
「秋芳おっぱい大好きだもんね。 そうだ、おっぱい三つのあやねるになってあげる」
「なにそれ『トータル・リコール』のミュータント娼婦? ますますいらんわ」
「じゃあ、いくよ~。変――」
「禁術則不能発、疾く!」
「ぶはっ!?」

 術を禁ずれば、すなわち発することあたわず。
 発動しようとした変化の術が強制的に禁じられる。
 その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。

「明日からは朝型の生活だからな、もう寝るぞ。今夜は酒もなしだ」
「ふぁ~い」

 自分には一生涯縁がないと思っていた学園生活が始まる。
 楽しみだ。
 ほんとうに、楽しみだ――。
 

 

入塾

 白亜の塔。
 そんな言葉がよく似合う、大きなビルが目の前にそびえ立っている。

「でっか! 他の建物が小さく見えるよ」
「そうだな。陰陽塾とかいうからどんな古色蒼然とした学舎かと思ったら、こんなでかいハイカラな建物だとは思わなかったぜ」

 東京渋谷区某所。陰陽塾を前にしてそんな言葉を交わすのは秋芳(あきよし)と笑狸(えみり)の二人だ。
 僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年、賀茂秋芳。先祖代々呪禁師を生業にしていた連(むらじ)家の者だが、その類まれな呪力を買われ、賀茂家の養子となり、賀茂のために働いている。
 少年のように凛々しい顔に少女のような愛嬌のある笑みを浮かべている笑狸。男の子のような女の子のような。曖昧な、むじなのごとき容姿をしている。
 秋芳の使役式であり、その正体は化け狸だ。

「ここって去年できたばかりの新塾舎で、中身も最新設備がたくさんあるって案内書に書いてあったよね」
「屋上の祭壇に地下の呪練場。他にも設備が充実していて、いたれりつくせりの学び舎みたいだな」

 土御門夜光の転生者と思われる土御門夏目。彼を監視し、場合によっては身柄を確保するため、夏目の通うこの陰陽塾に今日から通うことになった。
 そのついでに入塾期間中に甲種呪術の資格も取り、無資格の陰陽師稼業ともおさらばする予定だ。
 玄関で二体の狛犬の出迎えを受ける。

「あ、これが昨日言ってた機甲式の…」
『さよう』
『我らは高等人造式、アルファとオメガ』
『開塾以来その番を司っておる』
『己が名を名乗るがよい』
「賀茂秋芳」
「笑狸!」
『賀茂秋芳とその使役式、笑狸。…よろしい。声紋と霊気を確認・登録した』
『賀茂秋芳。昨日は我が陰陽塾の生徒が世話になった。礼を言う』
『我らは汝らを歓迎する』
『学友と切磋琢磨し、良き陰陽師となるべく精進するがよい』
『まずは最上階。塾長室へ向かうがよい』

 狛犬たちの間を通り抜け、進むと、広々としたホールに出る。
 正面にある鉄骨造りの大時計が威容を誇り、所々に植えられた竹が清冽な雰囲気を醸し出している。
 竹は古来より縁起の良い植物とされ、そのまっすぐに伸びる姿から高潔さや清浄。人生の学びや成長の象徴とされた。学び舎にはピッタリの植物といえる。

「……ぷぷぷ、アルファとオメガだってさ。狛犬なのに、和風なのに。素直に阿吽とか名乗ればいいのに」
「まぁ『急急如律令』を『order』なんて読ませる、汎式陰陽術全盛の世の中だからな」
 言葉に宿る霊的な力を言霊(言魂)という。
 発した言葉どおりの結果を、現実に現す力があるとされた。
 言葉そのものに意味があり、言葉を(しゅ)として用い、その霊的な力を利用し言葉で対象を縛るのもまた陰陽術の一つだ。
 良い意味の言葉を発すれば良い事が起こり、悪い意味の言葉を発すると悪い事が起こるとされている。
 急急如律令。
 「急々に律令の如く行なえ」という意味を持つ陰陽師の呪文の結び言葉が「order」という英語なのはいかにもそぐわない。ふさわしくないよう思える。
 しかし言葉に意味を結びつけたのが人間なら、それを解き。また新たに結ぶのもまた人間だ。
 土御門夜光はそれをおこなった。
 過去の陰陽道だけでなく、修験道や密教系、神道系。ありとあらゆる呪術が統合され作られた帝式陰陽術だが、さらには東洋魔術と西洋魔術の融合も視野に入れていたのではないか? orderという語をもちいるのはその布石ではないか?
 そんなことを考えながらエレベーターで最上階まで上がり、長い廊下を歩いているうちに塾長室の前まで来た。
 扉を叩こうとする秋芳に笑狸が小声で問いかける。

「秋芳、何回ノックするつもり?」
「四回だ。二回だとトイレ、三回だと親しい相手宅への訪問になっちまうからな」
「ちぇ、知ってたのか」
ドアをノックする回数にもプロトコールマナーと呼ばれる国際標準マナーがあり、回数が正式に定められている。
このような規則・決まりも、また呪)の一つといえよう。
「開いてますよ」
 
 !?
 
 突然足元から声がかかる。おどろいて下を見ると一匹の三毛猫と目が合う。

「お入りなさいな」
 
 猫が人の言葉をしゃべっている。
 いつからそこに?
 あわてて周囲に気をくばる。
 犬や猫がしゃべったかのように見せて、実は物陰からこっそり人が声をあてていた。
 魔術・呪術にはそのような〝虚の術〟も存在するからだ。

「遠慮せずにどうぞ」
 たしかに猫の口から人の言葉が発せられている。

「……失礼します」

 賀茂秋芳たる者が猫の存在に気づけなかったことに内心舌打ちしつつ、扉を開けて中に入る。

(しかたないよ、秋芳。猫って生まれついての穏形術の達人みたいなものだもの。ましてやこの猫、普通の猫なんかじゃないっぽいし)
(油断してた。俺もまだまだ修行がたりないな)

 陰陽塾塾長室。
 象牙色の壁と天井。琥珀色をした木目調の床には臙脂色の絨毯が敷かれている。大きな本棚が壁を占め、大量の書物が収められ、まるで書庫のようだ。
 アンティーク調の趣味の良い調度品の数々が目に優しい。
 殺風景だった外の廊下とは雰囲気がかなり違う。
 部屋はその人を映す鏡だ。たとえ公的な仕事部屋であっても、そこを使う人の性格というものが現れる。
 このゆったりとして落ちついた空気が、この部屋の主の人となりをものがたっているようだ。
 部屋の奥。大きな机の向こう側の椅子に小柄な老女が座っている。

「ようこそ、お待ちしてましたよ。はじめまして、塾長の倉橋美代です」
 
 ニャー。
 秋芳の脇をトトト……、とすり抜け、美代の膝の上に乗る三毛猫。

(あれは猫だが猫ではない。はて、使役式か人造式のどちらだろう?)

 みごとな穏形であざむいてくれた猫の正体を知りたい欲求を抑えつつ、塾長・倉橋美代に軽く会釈をする。

「はじめまして、賀茂秋芳です」
「こんにちは、秋芳の伙伴(パートナー)の笑狸です」

 軽く挨拶をしたあと、入塾についての事務的な会話をする。

「ところで、きのうは孫を助けてくれたそうですね。ありがとう」

 やはりあの京子は倉橋の京子だったか。

「助けたというほどでは…。少し気分が悪そうでしたのでここまで送っただけです」
「そんなふうに謙遜なさらずよいのですよ、あの子。とても感謝してました。…あなた、あの子にどんな印象を受けました?」

 おっぱいが大きかったですね。

 そんなことを口にできるわけがない。

「とても聡明そうだと思いました。あと――」

 おっぱいが大きかったですね。

「責任感が強く、仲間思い。少し話をしただけですが、言葉の端々からそんな思いが伝わってきましたね。それと――」

 おっぱいが大きかったですね。

「ここに通ってると教えてくれたので陰陽術についての話をしたのですが、たいへん物知りでおどろきました。学校の成績も優秀な、いわゆる優等生。委員長タイプの人かと」

 なによりおっぱいが大きいですね。

「ああ、それと声。声に力があって綺麗で、心の底から美声だと思いましたね」

 これは本当だ。
 もちろんたった今、口に出して言った数々の言葉も、嘘偽りない京子に対する評価だが、巨乳と美声の持ち主。というのが秋芳の京子に対する第一印象だ。

「フフフ、ありがとう。そんなふうに孫を褒められて嬉しくならない祖母はいませんよ」

 良い歳の取り方をしている人だ。コロコロと笑うその表情を見ていると、そんな思いが浮かぶ。

「お二人とも、あの子と仲良くしてくださいね」

 二人とも。美代はたしかにそう口にした。使役式である笑狸を一人の存在として認めているのだ。
 陰陽師の中にはたとえ鬼神や霊獣のような出自の使役式でさえ、ただの道具としてしか見ない者もいるが、彼女はそのようなタイプではないらしい。

「ここは一般の学校とは違って、能力のあるものは勝ち残り、劣っているものは去っていく。優勝劣敗の世界です」

 それはそうだろう。内裏にこもって卜占や暦を作っていた昔とは違う。
 現代の陰陽師は東京を中心に多発する霊災を鎮めるのが主な仕事。つねに死と隣り合わせの危険な職業であり、ここはそんな職に就く者を養成する、実力主義の学び舎だ。

「それが陰陽塾の方針です。けれども、陰陽塾はただの陰陽師を養成するだけの機関ではないの」

 倉橋美代の瞳が秋芳をまっすぐに見すえる。
「お二人は天海僧正が江戸に施した呪についてどう思います?」

 南光坊天海。徳川家康の参謀として江戸の街を京の都に匹敵する風水都市に造り上げた高僧。陰陽道や風水、密教といった呪術の達人だ。
 風水において土地が繁栄するためには四神相応の地であることが求められる。
 東に青龍の宿る流水。
 西に白虎の宿る大道。
 南に朱雀の宿る湖沼。
 北に玄武の宿る丘陵。
 中国の長安、洛陽。日本の平安京などはこれらがそろった理想的な土地といえる。
 では江戸はというと――。

「……凄い。のひと言ですね。言霊の呪による見立てをもちいて、あそこまで堅固な結界を築くだなんて」
「え~と、京都の地相を江戸に再現しちゃったんだっけ?」

 江戸は本来なら四神相応の地ではない。
 むしろ風水的には下に属する。
 北には山と呼ばれるほどの丘陵はなかった。それを天海は麹町台地から望む富士山を「北」に見立てることにより、日本最高の霊山を北の玄武に仕上げた。
 さらに新たに造られた寛永寺に東叡寺という山号をつけることで「東の比叡山」として鬼門封じの寺社に仕上げたり、不忍池を琵琶湖に見立てるため、竹生島になぞらえた中之島をつくり、弁財天を勧請して祀るなど、京の地相を江戸という未開の地に再現してしまったのだ。
 その他にも大小無数の呪的防御陣を敷くことにより、江戸は強大な魔法陣都市として二百六十年の長きにわたって栄えさせた――。
 これらのことは現代に生きる陰陽師たちにとって常識だ。

「では天海がそうまでして護ろうとしたものは、いったいなんだと思います? 徳川の家かしら? それとも江戸の町?」
「え?」

 この質問は秋芳にとって盲点だった。
 はて、改めてそう問われると、どちらだろう?
 会津に生まれ、比叡山延暦寺などで修行をつんだという南光坊天海。
 三河の国の領主だった徳川家康。
 どちらも江戸の地に縁もゆかりもない。ことさら江戸の地に愛着はないはずだ。ならば…。

「それはやはり、徳川家では?」
「ボクは江戸の町だと思うなぁ」

 二人同時に別々の答えが出る。

「そうですね。彼があらゆる呪を使ってこの地に敷いた方陣はすべて徳川の権威と繁栄を護るためのもの。ですが結果的には長い時代に渡って、江戸、東京。さらには、この日本という国を護ることになったのも、また事実です。ひょっとしたら、そこまで計算していたのかも」

 この人はなにを言いたいのだろう? 黙って続きを聞く。

「風水など無意味。という考えの人もいます。そういう人が言うには『風水に本当に力があるのなら、最初にそれをもちいた王朝が今も滅びずに残ってなければおかしい』なんですって」

 なるほど、たしかにそうだ。一理ある。

「風水をもちいた中国の歴代の王朝。高い文化を誇った唐も、強大な力を持った漢もたしかに滅びました。けれども中国は滅んではいません。日本もそう。京都は応仁の乱や戊辰戦争で、江戸・東京は明暦の大火、関東大震災、東京大空襲でなんども焼け野原になりました。けれどもそのたびに蘇り、こんにちの繁栄を築いています」

 ひとつの国家、ひとつの王朝の存続よりも、さらに広く長い視野で見たらそう見える。

「それが、風水の持つ真の力のおかげだと?」
「さぁ、それはどうでしょう? そうかも知れないわね。けれども私は風水に力があるのではなく、風水を信じる人の力がそうさせるのでは? と思ってるわ」

 なんとなく、この人の言わんとしていることが伝わってきた。

「陰陽師と陰陽術もそう。どんなに強い力や優れた技でも、そこに人の想いがなければなんの意味もないわ。ここに通う生徒のみんなには、なによりも人であって欲しいの」

 陰陽術は霊災を鎮めるだけの技術ではない。
 質量保存の法則を無視して無から有を生み出し、離れた場所に居る相手を害することもでき、鬼神や精霊を意のままにあやつることもできる、強力な力だ。
 呪術になじみのない一般の人々にとって、それは脅威であり恐怖だ。
 そして陰陽塾に入った全員がプロの陰陽師になれるわけだはない。
 むしろ途中で退塾する者のほうが多い。
 そんなプロになれなかった「落ちこぼれ」たちの使う陰陽術でさえ、力を持たない普通の人たちからすれば、前述のとおり脅威であり恐怖である異能の力だ。
 中途半端に力のみを身につけた輩が巷にあふれたらどうなるか?
 呪術による犯罪は後を絶たず、世間の陰陽師に対する偏見は悪くなる一方だろう。
 そのようなことがないように陰陽塾では精神修養も大事にしたい。塾長はそう言いたいのだと、秋芳は解釈した。

「はい、わかります。しかし……、まるで優れた陰陽師は人ではなくなる、みたいな言いかたですね」
「それ、かなり鋭いわね秋芳さん。たとえ本人にそのつもりがなくても、人ならざる存在に祭り上げようとする人たちが大勢いれば、そういうふうに『成って』しまうことだってありえるわ」
「ああ…、土御門夜光と、夜光信者のことですね」
 土御門夜光。
 太平洋戦争の狂乱のさなかに現れた稀代の天才呪術師は軍部からの要請に応え、現代陰陽術の基となる帝国式陰陽術を産み出した。
 しかしその功績の一方で敗戦直前に軍に命じられた呪術儀式に失敗。その影響で東京は日本でも一、二を争う霊災多発地帯となってしまった。

「ええ、そう。彼だって私たちと同じ、笑いもすれば泣きもする、人格を持った普通の人間だったんですよ。…まだ私がほんの子どもの頃ですけど、よく将棋を指しました」
「へぇ、彼は強かったんですか、将棋?」
「いいえ、下手でした。それなのに何度も何度も勝負を挑んで、負けたら拗ねるんですよ。困った人でしたよ」

 遠い目というのはこういう目なのか、当時を懐かしむ美代の瞳は秋芳らの知らない世界を映していた。

「……彼だって、夜光だって人間だった。でもそれがわからない人たちが盲目的に祭りあげ、自分たちにとって都合のいい存在にしようとしてる」
「迷惑な話ですね」
「ええ、ほんとうに――。イメージというのは一種の呪術。『呪』なの。噂だって同じ。心に作用し人を惑わす。いわば理論も効果も不確かな乙種呪術に入る呪。けれど強力な呪術というものはおしなべて乙種に分類されるもの。……賀茂家の方にはいまさらな講釈だったかしら?」
「いえ、勉強になります」
「ふふ、ありがとう。お二人はもう知ってますね? うちの夏目さんが夜光その人の生まれ変わりだという噂を」

 土御門夏目。
 土御門本家の次期当主にして天才と称えられ、その豊かな才能と見識は陰陽塾に通う塾生の中でもトップクラスの少年。
 それもそのはず。彼こそが土御門夜光の生まれ変わりだからだ。
 呪術界に身を置く者、関心のある者で、その噂を知らない者はいないだろう。
 いたとしたらそれはよほど世事に疎いことになる。

(つーか、そいつをどうこうするのが、俺らの主な仕事なんだよな)
(秋芳ぜったい忘れそう。てか忘れてたでしょ?)
「夏目さんは塾内でも特別な関心を持たれているわ。けど変な色眼鏡で見ないであげてね」
「はい。お孫さんとも夏目さんとも、他の人とも。仲良く楽しく競っていきます」
「そうしてくれると嬉しいわ」

コンコン。

「塾長ー? 失礼しますー」

 ノックの音の後に続いて妙なイントネーションの声が外からかかる。

「いい加減時間押してますけどー」

 そう言って入ってきたのは背の高い、痩せぎすの男だった。

「あら、大友先生。ごめんなさい。今終わりましたよ」
「そら丁度よかった」

 ハハハ、と笑うその姿を、失礼にならないよう得意の八方目――目を動かさず、一点を見つめたままで視界内を見わたす技――で顔を見ながら上から下まで観察する。
 長く伸びてくしゃくしゃに乱れた髪。安っぽい眼鏡。ヨレヨレの背広。右膝から下が義足――それも海 賊映画に出てくるような古めかしい木製の棒――で杖をついている。

(こいつ、狼みたいだな)

 飄々とした雰囲気の内に、こわい気を隠している。見た目はいかにも昼行燈のボンクラだが、なかなかどうして油断のできない相手だ。

「あ、すごい。その足、機関銃でも仕込んでるの?」

 そんな思いを抱いた秋芳とは対照的に無邪気に声をかける笑狸。

「おおッ! アッハッハ、きみ鋭いなー。僕も陰陽師の端くれやさかいな。そらまぁ、いろいろと仕込んでるで。でもそこらへんは企業秘密や」
右足を上げてキャッキャとはしゃぐその姿はまるで小学生のようだ。
「こちら大友陣先生。あなたたちの担任です。こう見えて優秀な先生なのよ」
「ちょ、塾長『こう見えて』はないでしょー。まぁ、ええわ。とにかくそういうわけや、二人ともよろしゅうな。ほな、教室に案内するで」





 教室。

「いやー、お待たせお待たせ。お待ちかねの転入生連れてきたで~! は~い♪ 二人ともあいさつあいさつ」
こういうのは最初が肝心だ。奇をてらわず伝えたいことを簡潔に述べる。
「賀茂秋芳。十七歳です」

 ざわ… ざわ… ざわ…

「なんだよ~、また男かよ」「謎の美少女転入生とか期待してたのに・・・」「なんで野郎ばっか入塾してくんだよ」「しかもハゲじゃん」「今どきハゲキャラとかないわ~」「ハゲでキャラづけとか安易よねー」

(いやいや、ハゲじゃないからね、これ。剃ってるから。きちんと毎日剃りあげてるから。この青々とした剃り跡が見えないのかな? スクリーントーンとかじゃないよ)

 ここ最近男子の転入生づいてるのか? 自分のあずかり知らない部分で最初の印象を落とされてはたまらない。

「秋芳の使役式やってる笑狸といいます。みなさん今後ともよろしく」

 ざわ… ざわ… ざわ…

「うわ、むちゃくちゃカワイイじゃん!」「女の子、だよな…?」「え、男子でしょ? でもほんと凄いかわいい…」「やば、あれなら男だとしてもいけるわ」「あれか? 今はやりの男の娘ってやつか!?」「もうどっちでもいいじゃない。かわいいは正義☆」

 ざわ… ざわ… ざわわ… ざわ…ざ‥ざわ……ざわ… ざわ… ざわ…

 先ほどのざわめきとはあきらかに違う種類のざわめきが場を支配する。
 ふふん。
 勝ち誇った顔で横目に見てくる笑狸。

(おまえ、こっそり魅了の術とか使ってないだろうな?)
(使ってないよ。わかってるくせに。これがボクの素の魅力なの)
(どうだか。狐狸精は無意識に人を惑わすからな)

 化け狸である笑狸は変化や幻術、魅了の術に長ける。
 人を悪戯に化かすのは本能のようなものだ。

「笑狸ちゃん彼氏いるの?」「笑狸ちゃん彼女いるの?」「えっと、笑狸さんの趣味は何ですか?」「笑狸くんてどこから来たの?」「使役式ってマジ?」「罵ってください!」

「彼氏も彼女もいません。趣味はアニメ見たり漫画読んだりゲームしたり、オタク系かな。秋芳と一緒に神奈川県の横浜から来ました。マジです。このブタ野郎!」

 次々と問いかけられる質問に答えていく笑狸。

「使役式と言いましたがズバリ正体は?」「笑狸ちゃんの好みのタイプ教えて!」「好きな食べ物は?」

「由緒正しい化け狸です。なにかに打ち込んでる人って素敵だと思います。アボガドのチーズ焼き!」

 笑狸への狸質問タイムが終わる気配はない。

(まったく、こっちはガン無視かよ…)

 手持ち無沙汰にクラス内を見まわす。
 機能的な階段教室だ。席についてる生徒達はさすがにみな良家の子女といった感じだが、どこか毛色の異なる連中もいる。

(あの金茶髪は茨城のヤンキー。その隣の長髪ヘアバンド男は渋谷のチーマーだな。あのお団子巻き毛はなんて髪型だ? 六本木のキャバ嬢みたいな女だな……て、あいつ倉橋京子か!? なんかずいぶん印象が違うな)

 きのうの少女が無表情にこちらを見つめている。
 そう、こちらをだ。クラスのほとんどが笑狸に注目する中で彼女が、京子だけが秋芳を注視している。

「先生、ちょっといいですか」

 よく通る声が場の喧騒を一瞬にして静める。
 京子だ。
 挙手して立ち上がり、同じ言葉で大友に問いかける。

「先生、ちょっといいですか?」
「おおっとッ、京子クン恒例の『転入生にイチャモンつけたあげくに式神勝負に持ち込む』コーナーかい!?」
「ちがいます! そんなのがいつから恒例になったんですか! そんなコーナーありません! まったく、デタラメ言わないでください」
「ならナニ?」
「……転入生に学園内の案内をしてあげたいんです」
「そりゃええな。うちの校舎はえらい広いから、不馴れなうちは迷うで。昼休みにでもみんなで仲よう案内してやって――」
「今じゃだめでしょうか? 今日の午前の講義は誰かさんのための復習で、あたしには必要ないですし」
「んん~、いや京子クンはそうでもこの転入生の二人には必要なんちゃうかな? なんせ半年分の遅れがあるし。うちのカリキュラム無駄がない分、普段おさらいとかせぇへんからな。いい機会やで」
「入塾試験は合格してるんですよね? 当然、ちゃんと半年遅れで入塾することを前提に組まれた内容のものを。なら特に問題はないんじゃありませんか?」
「な、なんかおれの時とずいぶんあつかいが違くないか?」

 金茶髪ヤンキーがそのようなことをつぶやく。

「京子クンは言い出したら聞かへんなぁ…。秋芳クン、キミはどうしたい?」
「お言葉に甘えて案内されたいですね。授業についてはこいつが出ますので、後でどんなものか内容を訊いておきます。なにせこいつとは『つながって』ますので、正確に伝わりますよ」

 笑狸の頭をポンと叩く。

「ああ、さよか。ほなええで」

 あっさりと大友先生の承認がおりる。

「ありがとうございます。――賀茂秋芳くん。ついて来て。案内するわ」





 屋上。

「いきなり屋上か。まぁ、上から下って行ったほうが楽は楽だが。ん? まだ上があるみたいだな」
「ええ、一番上には祭壇があるの。普段は立ち入り禁止で、一般生徒が入っていいのはここまでよ」

 眼下に広がる渋谷の街並。ここからだと動く人々の姿が蟻のように見える。
 金王坂、道玄坂、八幡坂、宮益坂、オルガン坂にスペイン坂――。
 渋谷は坂の街だ。
 風水においてほどよい起伏。岡や坂は平地の中の龍脈と考えられ、これらの多い土地は活気に満ち、栄えるとされる。
 渋谷はそのような街であり、陰陽塾はそんな場所にある。
 吹きつける風が気持ちいい。
 亜麻色をした京子の巻き毛が風におどる。

(こいつ、今日は化粧してるんだな。なんかケバい。きのうみたいなスッピンのほうがかわいいのに)
「あー、その髪型、きのうよりも凝ってるね。たしかハーフアップ――」
「最初に、お礼を言わせてちょうだい」
 
 秋芳の言葉をさえぎり、まっすぐに見つめて話しかけてくる京子。
 話しかたも仕草もまるでちがうのだが、その姿に先ほどの塾長の姿が不思議と重なって見えた。
(似てるなぁ、やっぱり家族だ。…ん?)

 星だ。
 紫がかった京子の瞳の中に星が輝き、瞬いている。
 比喩ではない。ほんとうに星が視えたのだ。
 夜空に点々と散らばり数多の光を放つ星。目の前にいる少女の目の中で、それらが煌々と光り輝いているではないか!
 星は京子の周りに広がり星雲を形作る。その光の渦に吸い込まれそうになる感覚が秋芳の全身に広がる――。

「きのうはどうもありがとう。あなたは命の恩人よ。……て、あなた。ちゃんと聞いてる? 人が真面目にお礼してるのに、なにボーッとしてるのよ!」

 荒げた声に我に返る。
 京子の瞳に、星はもうない。

(今のは、呪術による幻視じゃあない。託宣、ディビネーションか? いったいどこの神が俺にそんなものを視せやがる。これにはなんの意味が!?)
「ねぇ、ちょ、ちょっと。あなたほんとうにだいじょうぶ?」
「あ、ああ、平気だ……。いや、きのうはこっちも助かったよ。最初に君が戦ってくれたからこそ相手の正体や属性がわかったからね」
「うそ」
「え? いや、うそじゃないって。あの二体の式神が時間を稼いでくれたおかげで、俺は本体を見抜けたんだし」
「でも、あたしが手を出さなくても、あなたなら楽勝だったんじゃない?」
「それは、そうだな」

 一般人や見習いクラスの陰陽師にとっては脅威でも、秋芳から見れば纐纈鬼はたいして強い妖怪ではない。
 きのうのように自分の『巣』に獲物を誘い込み、消耗させ、弱ったところを襲いかかる。
 生来の陰湿な性もあるが、そうでもしないと安全に人を狩れないのだ。
 たとえ京子の参戦がなくても、自分ならすぐに本体を見抜いて仕留めていただろう。

「ハッキリ言ってくれるじゃない。でも、やっぱり、ね」

 腕を組み、探るような目つきで問いかける。

「ねぇ、賀茂くん。あなた、何者?」
(こいつ、かわいいじゃねぇか。でかい乳を腕組みでさらに強調しやがって、狙ってやってるのか? けしからん!)
「あたしを寝かせて護る時に使った術も、あいつと戦う時に武器を呼び出した術も、あたしの知っている陰陽術にはないわ。いったいあれはなんなの?」
「あれは道教の神様の力を貸してもらったんだ」
「ああ、あの呪文て中国語だったのね。どうりで、そんな感じの響きだったもの」

 道教。
 老子の名で有名な太上老君が始祖とされる、中国古来から伝わる呪術色の濃い民間信仰。
 風水などの地相占術や、不老不死の仙薬を作ることを目的とした練丹術など、様々な魔術が内包されている。
 祀られている神々の中では『三国志演義』に登場する関羽が神格化された関帝聖君や『西遊記』の孫悟空こと斉天大聖などが有名だ。
 纐纈鬼との戦いで秋芳が召喚した水行属性の武器。三尖刀は顕聖二郎真君という武と水を司る神から一時的に貸してもらったのである。
 この顕聖二郎真君という神様は『封神演義』という作品に楊戩(ようせん)という名の道士として登場する、これまた有名どころの神様だ。

「たしか帝式や汎式陰陽術の中にも道教から取り入れた術がいくつかあったわね。でもあたしの知ってるのは、あんなのじゃなかったわよ」
「そうだろうな。俺のがよりオリジナルに近い。それでいてなおかつ我が家流にアレンジされてるからな」
「我が家って、そういえばあなたの『賀茂』って名字だけど。ひょっとしてあの『賀茂』だったりするの?」
「ああ、その賀茂だよ」

 こんにちもっとも権勢を誇る倉橋。夜光の件があるにもかかわらずなお影響力のある土御門。その両家以前に陰陽道の宗家として君臨していたのが賀茂家だ。
 修験道の祖とされる役小角も、この賀茂家に連なる人物だという説もある。
 なにもコソコソと隠す必要はない。
 秋芳は呪禁や賀茂の養子のことなど、自分の出自を包み隠さずに京子に打ち明けた。
 年齢と裏稼業。夏目に関する事柄以外は。

「――というわけでだな、実際に効果があるとはいえ乙種は乙種。公の場で仕事をするにはどうしても陰陽Ⅱ種、Ⅰ種の資格が必要であると判断し、田舎に引きこもったままじゃいかん! 賀茂の次代を担う若者は陰陽塾で学び、甲種呪術のご免状をもらって来いと、そういう流れで入塾した次第さ」
「そうだったの、……正直、賀茂家ってとっくの昔に、その、あの……」
「無くなってたと思った?」
「ええ、ごめんなさい」
「あやまることじゃないさ。この数世紀の間、うちはろくに実績をあげてないからね。陰陽道の大家としての賀茂家は、実際無いに等しいもんだよ」
「…ええと、あ、じゃああなたも夏目君と同じ、お家の次代当主ってわけよね?」
「ん? それはないだろうね。俺はあくまで養子。賀茂の家は賀茂の血に連なる者が継ぐだろうね」
「そんなに力があるのに? おかしいわ」
「賀茂家は俺の力だけが欲しいのさ。知ってるかい? 田舎じゃ他所からの養子は本家の連中と同じ席で食事ができないんだ。しきたりでね、連中が座敷で食事するのに、こっちは台所で飯を食うのさ。別に不幸自慢、差別自慢するわけじゃないが、大人になってから驚いたよ。なんて封建的な家に住んでたんだろう、てさ」
「なにそれ、ひどい!」

 今でもそうだ。
 もっとも秋芳が望めば、普通の席どころか、上座を占める老人を押しのけ、いつでもそこに座ることができるだろう。それだけの実力があり、それだけの貢献をしてきたのだ。
 だが秋芳はそれをしない。
 しようとも思わない。
 しきたりを重んじ、賀茂本家の人間を尊重する殊勝な心がけ。というわけではない。屋敷の隅にいる自分に家中の誰もが畏れて遠慮する様が面白いからそうしている。
 我ながら悪趣味だとは思うが、やめられない。

「名門名家なんて言っても、そんな前時代的な考えじゃ没落するのも当然ね! …て、あ、ごめんなさい。べつにあなたの、賀茂の家を否定してるわけじゃないのよ」
「いいから、いいから。気にしないよ」
「陰陽塾も倉橋家も百パーセント実力主義! 家格も血筋も関係ないわ。そう、たとえば人間を式神にするような、古い、時代錯誤なハナシなんてナンセンスなのよ! 実に旧態依然としたアナクロだわ、ロートルなのよ!」

 なにかのスイッチが入ったのか、急に意気が上がり強い口調でまくし立てる京子。
「あー、人間を式神にする? なんの話?」
「夏目君と、土御門春虎のことよ」

 分家の者は本家の者の式神になる。土御門家にはそのような決まりがあり、土御門本家の者である夏目の式神になった分家の春虎は主である夏目の近くにいるよう、最近入塾してきたことを説明する。

「なるほど。その彼も転入生だったのか」

 教室で自己紹介した時の「また男」「野郎ばっか入塾」というヤジの意味は、つまりそういうことかと納得する。

「しかし人を式神するだなんて、変わった表現するもんだな。ようはたんなる主従関係。雇用主と従業員みたいなものなんだろ? 今の説明だと」
「ええ、そう。帝式陰陽術の中には魂と魂をつないで意識や感覚を共有するくらい深くリンクさせる式神使役の方があるみたいだけど、そういうのじゃないわ。あ、そういうえばさっきあなた、笑狸ちゃんだっけ? あの子と『つながってる』とか言ってたけど、まさか…」
「いや、その手の術は使ってないよ。普段はね」
「ふ~ん、普段は、ね…」

 屋上特有の強い風が吹きつけ、残暑の日差しに火照った体を冷やしてくれる。

「なぁ、そろそろ中に入らないか? まだなにか聞きたいことがあれば歩きながら話すが」
「ええ、そうしましょう」





 食堂。

「おお、ここが大学や高等学校などの学校構内に設けられた、学生に飲食物を提供する食堂。通称学食か!」
「そうだけど、なにそんなに興奮してるのよ? うちの学食、味も値段も普通よ、普通」
「その普通ってやつを堪能したいのさ。やっぱあれか、昼食の時はたがいの手作り弁当のおかずを交換して味勝負とかしてたりしてるのか?」
「あたしはしないわね。そういうことをしてる人も知らないわ。あなたって料理できるの?」
「簡単なつまみ程度ならね。それとカクテルならよく作るが」
「ちょっと! あなた未成年でしょ? ほどほどにしときなさいよ」





 図書室。

「見てのとおり図書室よ。呪術関係の蔵書に関しては、それなりの量と質を保証するわ」
「そうか、ちょっと見させてくれ」

 汎式陰陽術概論。
 陰陽Ⅲ種、陰陽Ⅱ種、陰陽Ⅰ種の各種解説書。
 現代式神理論。
 再説陰陽史話。
 金烏玉兎集。
 占事略決。
 周易。
 五行大義。
 新選陰陽書。
 黄帝金匱経。
 神枢霊轄経。
 などなど……。

「実用書から古典まで、見事に基本が網羅されてるじゃないか。う~ん、でも実用的なマニュアル一点張りでいささか面白みに欠けるなぁ。息抜き用に創作ものでもあればいいのに」
「なによ、まさか漫画でも置けっての?」
「漫画でも小説でも映画でもいいが、とにかく創作作品をね。絵空事とはいえフィクションもバカにできないよ。無から有を生み出すってのがまず凄い。次にその生み出されたモノが人々の心に影響を与える。これはもう呪の一つだな」
「まぁ、ものは言いようよね。なにかお薦めの作品でもあるの?」
「映画なら『ノッティングヒルの恋人』が好きだね。ジュリア・ロバーツが主演のやつ」
「それって恋愛映画よね? なんか意外。あなたみたいな人がそういうの好きだなんて」
「俺はジャンルを問わず良作は良作と思える感性の持ち主でね。しかし恋愛感情もまた呪といえるな。人の、人や物に対する感情が本来「中庸」であり、それが正常にもかかわらず、好き嫌いを持つことで偏りが生じ、異常なことになる。特に恋愛感情は、その強さや不合理さからして逸脱の程度が大きく、人を鬼にも仏にもする。これはまさに呪だ」
「なんか大友先生みたいね、あなた」





 廊下。
 校内を巡る二人は一体の式神とすれ違う。
 子どものように小さく、棒を組み合わせたようなほっそりとした手足と胴体で、頭上には円錐状の編み笠のようなものを被っている。
 とてもシンプルな造形が特徴的だ。

「今のは、たしか汎用式の…」
「ええ、そう。陰陽庁制の、旧型の汎用式『モデルM1・舎人』よ。清掃用に大量に入荷したの」
「だから手に箒とちり取りを持ってたのか。しかし清掃用に式神とか、ずいぶんと贅沢だな」
「ここは陰陽塾よ。そのくらい普通よ」
「放課後に生徒みんなで掃除したりはしないのか?」
「しないわよ、小中学校じゃあるまいし。夜の間に今の舎人たちが全部やってくれるわ」
「いかんなぁ。掃除は掃き清める、魔や穢れを祓うことにつながるから、俺たちみたく霊災を修祓する任務に就く者にとっちゃ修行のひとつだろうに」

 それを聞いて思わず吹き出す京子。

「フフッ、こんどは藤原先生と同じこと言ってる。あ、藤原先生っていうのは三年の担当をしている講師の方で、元祓魔官なの」
「祓魔官か…」

 陰陽庁に属する内部部局に「霊災修祓室」という部署があり、そこに属する陰陽師は祓魔官と呼ばれている。
 彼らはおもに霊災の修祓任務にあたるが、その様子はマスメディアに取り上げられることも多く、社会的な露出が多い。
 そのため世間の陰陽師に対するイメージは祓魔官のイメージが特に強い。
 そんな祓魔官らと霊災の現場で「すれ違った」ことなら今まで何度もあるが、誰にも顔は見られてないはずだ。

「その先生はなかなか良いことを言うな。暮らしの中に修行あり。なにごとも鍛錬だ」
「…あなたって、なんか生徒じゃなくて先生っぽいわね。講師の方がむいてるんじゃない?」





 一階ホール。

「屋内に本物の緑があると安らぐな。ここは実に良い気が流れている」
青々とした竹を見ていると、それだけで心が洗われるような気がする。
「…ねぇ、さっきの話の続き。あなたの呪禁について聞きたいんだけど、いいかしら?」
「ああ、いいよ。答えられる範囲でならね」
今は魔術・呪術が秘中の秘とされていた時代ではない。誰もが呪術を学ぶことができ、呪術の才のない者にもあつかえる式神が市販される時代だ。
ことさら己の術を秘密にする必要性は低い。まして秋芳の使う呪禁は、他人がその術理を理解したところで模倣も対処もできないだろう。
天賦の才にくわえ、長年の修練があって始めて行使できる呪術なのだ。
「正直、呪禁道なんて呪術が存在するんだなんて初耳よ。道教系の呪術みたいだけど、あたし達の陰陽術と、どう違うの?」
「ええと、まず正確には呪禁『道』じゃなくてただの呪禁。道はつかないんだ」
「え、どうして?」
「柔道、剣道、神道、修験道に陰陽道。武術にしろ魔術にしろ、誰もが学べ、最低限の技術を得ることができるような体系を作ることができて始めて『道』と呼ばれる。でも呪禁はその域まで到達できなかったんだよ」
「でもあなたの家。賀茂じゃなくて連の方ではずっと呪禁を伝えていて、あなたはそれを実際に使えるんでしょう?」
「知識としては伝わっていた。だがそれをすべて実践できたのは、どうも韓国連(からくにのむらじ)広足(ひろたり)という奈良時代の人以降は俺が始めてらしい」
「またずいぶんと間が開いたわね。そんなにむずかしいものなの?」
「たんなる加持祈祷や、きのう見せた道術程度ならそうでもないんだがな――」

 道教では世界の根元となり因果の流れを司る法則を大道と呼んでいる。
 その大道に干渉し、ものの在り方そのものを歪めて、あらゆるものを「禁ずる」術。
 これこそが呪禁最大の特徴である「禁呪」や「持禁」と呼ばれる術だ。
 それぞれの存在の意義を見極める。
 そして存在に対して「禁じる」という意思を送りつけて、その意義を無意味にしてしまう。
 禁じようとしているのが、その存在のささいな属性であるのなら、それは簡単に禁じられる。
 しかし、その存在の本質的な存在意義や存在そのものを失わせようとすると、術を働かせるのは困難になる。

「…なんか、抽象的でいまいちわかりにくいわね」
「具体的な例を言うと、たとえばここに一振りの刀があるとする。刀の存在意義。つまりなんのためにあるかというと、第一義はものを斬ることだろう。だから刀を禁ずればすなわち斬ることができなくなる。見た目は変わらないのに刃がなまくらになってしまうわけだ。だが刃が斬れなくなっても刀が使えないわけじゃない。棍棒として殴りつけることはできる。突けば刺さるだろう。刀のより本質的な意義はなにか? 攻撃すること、破壊すること、傷つけ殺すこと。より高度な持禁を使えば、刀で斬ろうが刺そうが殴ろうが、まったく損傷を与えなくすることもできる。もっと厳重に禁じてしまえば刀そのものを消滅させることだってできる。これが刀ではなく包丁なら切ることが第一義。料理することが本質になる。人を傷つけるのは、それらに劣る存在意義だから、包丁で人を傷つけることを禁ずるのは簡単だが、切ること、料理することを禁ずる方がむずかしくなる」
「凄い! ずいぶん便利で応用が利きそうな術じゃない」
「ああ、だがしょせんは現実を歪める力技だ。使うには大量の呪力を必要とする。そのうえ術をしくじったり、相手に抵抗された時にはどこかでその反動が生じる。さっきの刀の例で言えば、斬ることを禁ずるのに失敗した場合、それとは別のどこかにある刀がなまくらになったり、刃物でケガをする人が出てくる。みたいに反動のあらわれかたってのは様々だ」
「良いことばかりじゃないのね。ま、もっともそういう反動や副作用みたいなのは呪術全般に言えることだけど」
「そうだ。人を呪わば穴二つ。なんて言葉があるが、これは誰が入るハメになるのかわからない穴を世界中にランダムに開けることになるからな、責任重大。神経を使うんだよ」





 地下呪練場。
「ほー、これはこれは…」
「どう? なかなかのものでしょ」

 陰陽塾の地下に広がる大きな体育館。
 中央の格技場を見下ろすように階段式の座席が三方に広がり、一方に大きな祭壇が設けられている。
「あの祭壇は神仏を祀っているんじゃないな。純粋に呪力を操作するタイプみたいだが」
「そうよ。あれで色々と環境設定ができるの。呪術防壁も万全だから、けっこう派手にやり合っても平気なの」
「やり合うって、まさかここで呪術をもちいた模擬戦でもするのか?」
「あたりまえじゃない。ここをどこだと思ってるのよ、陰陽塾よ。他にも式神だけで試合するとか、捕縛式に見つからないよう穏形する授業とか、実技も充実してるから楽しみにしててね」
「座学だけかと思ってたが、実技とはね。思ってたよりずっと本格的なんだなぁ」

 塾舎内をひと通り見て廻り、教室に戻る。

「――以上がボクたち狐狸精に伝わる化け学の概要です。姿形を様々に変えたり、幻を作り出して騙す。おもに変化と幻術の二つに重点がおかれています。変化術というのは身体を形作る五行を、陰陽の気を使い、自在に組み替えることによって術者の肉体を変貌させるのですが、この術を極めれば本人だけじゃなく、自分以外の生き物や物体も、変形、変質、縮小拡大が自由自在になります」

「マジかよ」「すげーな」「おっぱいも大きくできるの?」

「はじめのうちは腕をのばすとか身体をひとまわり大きくするとか、ちょっとしたことしかできませんが、上達すれば完全に姿を変え、そのモノの持っている特性も発揮できるようになります。たとえば泳げない人でも魚に化ければ水の中をスイスイ泳げて呼吸もできますし、鳥に化ければ空も飛べます。」

「マジかよ」「すげーな」「す、鈴鹿たんにも成れるかな?」

「次に幻術ですが、陰陽の気を操って、本来その場にないものを感覚させる術です。これもはじめはもともと存在する物を別の物に見せる。木の葉をお札に見せたりとか、錯覚させることしかできませんが、上級者になると視覚だけではなく聴覚、嗅覚、味覚、触覚。さらには見鬼の力まで騙すことができるようになります。極めれば『世界』そのものを騙せるようになり、実体がないのにあるようにかん違いさせて、幻の火で物を焼いたり、分身の術で相手をやっつけることだって可能なんです」

「マジかよ」「すげーな」「す、鈴鹿たんも作れるの?」

「中国の妲己、インドの華陽婦人、日本の玉藻前なんかの有名どころはみんな狐の化身だと言われてますが、狸と狐では狸の方が一枚上手なんです『狐七化け、狸八化け』なんて言葉や、佐渡ヶ島の団三郎狸の逸話がそれを証明してますよね」

 長々と講釈しているのは大友先生でもなければ、それ以外の塾の講師でもない。
 笑狸だ。
 笑狸が壇上で講師よろしく熱弁をふるっている。

「……なにをしているんだおまえは」
「なにって、化け狸について知りたいってみんなが言うから教えてあげてるんだよ」
「あのなぁ…、ええと、大友先生。いいんですか? 陰陽術の講義をしなくて、あいつにこんな妖術についての話なんてさせて」
「うん、ええよ。ほんまの化け狸の口からこんな話が聞けるなんて、めったにないええ機会や」
「それはまぁそうでしょうけど…」
「狸は能力だけでなく人格面でも狐より優れてて、義理と人情に篤い種族なんです。知ってますか? 日清・日露戦争の時に讃岐の国は屋島の化け狸たちが大陸に出征して、日本軍に加勢して戦ったんですよ」
(いや味方してくれるのは素直にありがたいが、人間同士の争いに妖怪が首つっこむのは、あんま良いことじゃないんだけどなぁ。古今東西、戦争なんかに絶対の正義も悪もない。どちらが勝とうが負けようが、苦しむのは常に俺らみたいな名もなき庶民だ。それにもし相手側にも妖怪が加勢したらどうなるか。それこそ『封神演義』のように争いが争いを生む。悲惨な展開になっちまう。…ん?)

 生徒達の中に気の乱れを感じる。片目をつぶり見鬼を凝らして見まわすと、先ほどの金茶髪ヤンキー男子の周囲があきらかにおかしい。

「そもそも狐は人を誘惑したり騙したりと、悪さ目的に化け学を使うのに対してボクたち狸は純粋に化け学が好きですからね。そこらへんで腕前に差が出てくるんです」
「ええい、黙って聞いておれば無礼千万! そこな野狸。ベラベラとデタラメばかり吹聴する舌、切り取って黙らせてくれようッ!」
 金茶髪ヤンキー男子のすぐ近くの空気が溶けた飴のようにぐにゃりと歪むと、次の瞬間少女が、いや少女と呼ぶにもまだ早い。せいぜい小学生になるかならないかくらいの幼女が姿を現し、笑狸に向かって突進する。
 古めかしい水干に指貫袴。頭には犬や猫のような、俗に言うケモノ耳が、お尻からはフサフサとした木の葉形の尻尾まで生えている。
 なんとも奇妙ないでたち。十中八九人外の存在だろう。場所が場所だけに誰かの式神だろうか? 外部から入り込んだ動的霊災。いわゆる妖怪の類とは思えない。
 手に抜き身の小刀を持っているのを確認した秋芳は、笑狸の前に割り込み、幼女の突撃を食い止める。

「あ~、お嬢ちゃん。なにを怒ってるか知らないが、いきなり刃物を振り回すような真似はやめてくれ」
「ええい、放せッ、放さんか下郎! 気安く触れるでない! これが憤らずにおられようか、嘘八百をならべ、狸を持ち上げ狐を下げる。断じて許さぬ!」
「ウソじゃないよ、ホントのことだもの。キミら狐は狸に劣るからボクたち狸に負けて、佐渡ヶ島や四国から追い出されたでしょ」
近い種族だからか、ひと目で相手の正体を見抜く笑狸。もっとも目の前の幼女のその姿形を見れば誰もが「狐っ娘」という印象を抱くだろうが。
「われら狐霊の数は日の本に数知れず。悪狐もおれば善狐もおり、強さ弱さもまたしかり!  過去たまたま化かし合いに勝ったからと、それが全てではないわ!」

 ジタバタと秋芳の腕の中でもがく幼女。なんか犯罪者みたいだな・・・。と、小刀だけ取って放そうとすると声がかかる。

「おい、コン。やめろって」

 一人の生徒が駆け寄る。例の金茶髪ヤンキー少年だ。

「それはいかに春虎様の言葉とはいえ承服しかねまする! コンのみならず全ての狐霊を貶める、へ、へ、へいとすぴぃち。黙って見過ごせと言うのでございますか、春虎様!?」
「ヘイトスピーチって、おまえ、どこでそんな言葉を…。ああ悪い。こいつはコン。おれ、土御門春虎の護法式なんだけど、見てのとおり子どもでさ。許してくれ」

 主である春虎に抱きかかえられ、さすがにおとなしくなる幼女――コン――。

(ほう、こいつが土御門春虎か、これは『奇貨居くべし』てやつだな。土御門夏目。立場が立場だけに、言い寄ってくる連中が多く、他者に対してガードが堅いという事は想像にかたくない。そんな夏目にいきなり接近するよりも、そいつに近い者を通して近づいた方が警戒されないだろう)

 瞬時に考えを巡らし、春虎に言葉を返す。

「いやいや、こちらこそ。うちの式神が言いたい放題で、そっちの式神を怒らせちまったようですまない。それに授業まで潰してみんなに迷惑かけたみたいだし、ここはひとつ、みんなへの謝罪として、ここに居る全員に昼飯を奢らせてくれ」

 教室内にどよめきが広がる。

「おいおい、いいのか?」
「なぁに、引っ越し蕎麦みたいなものさ。春虎さんも遠慮なんかしないでくれ」
「春虎でいいよ。えっと、こっちも秋芳て呼び捨てでいいかな?」
「ああ、好きに呼んでくれ」

 事態が収束しかけたその時。

「あれ? もう終わりなん? 僕はてっきりこのまま春虎クンのコンクン、秋芳クンの笑狸クンがたがいの意地と矜持をかけて、文字通りの式神勝負をする。恒例の流れになると思っとったんやけど」
「いつから式神勝負が恒例行事みたいになったんですかっ。煽らないでください」
「いやいや京子クン、こういうのはうやむやにしたらかえって後に残るで。他の誰でもない、当人同士がケリをつけなあかんのや」
「おお、たまには良いことを言うではないか。春虎様、どうかコンめに決闘の許可を!」
「そっちがその気なら受けて立つよ。いいでしょ? 秋芳」
たがいの主にうかがいを立てる式神達
「落ち着けってコン。大友先生、なにを言い出すんですか!」
「おまえがその気なら好きにしろ。言っておくが俺はいっさい手を出さないからな」
「お、秋芳クンのほうはええみたいやな。春虎クン、これも授業の一環やで~。使役式同士のフリーバトルなんてプロの現場にでも行かんとなかなか目にするもんやない。それが今できるんや。実技のお手本だと思うてみんなに見せたってや」

「いいぞいいぞ!」「また式神バトルか!」「コンちゃんも笑狸ちゃんも頑張れ!」


 どうにも場の流れは式神勝負の方向へ向かっている。

「はぁ……、わかりました。おいコン。あんまり無茶するなよ?」
「ははっ、ご承知していただきありがとうございます。ありがたき幸せ!」
「よっしゃ、ほな呪練場にレッツらゴーや!」





 夕刻。
 渋谷区道玄坂にあるワインBAR。
 二人の青年が卓をはさんで食事をしている。
 卓上にはアクアパッツァ、鴨のコンフェ、エスカルゴと牡蠣のブルギニョン、海老のフリッターなどなどの料理が所狭しと並べられ、湯気を立てている。

「そら、いい加減に機嫌を直せ。せっかくの酒と飯が不味くなるぞ」

 僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年がそう言いながらグラスに注がれた赤ワインを口にする。

「べつに、もう怒ってないってば」

 坊主頭の相手とは対照的に長髪の青年がそう返す。
 秋芳と笑狸だ。
 笑狸はいつもの少女のような姿ではなく、二十歳そこそこの成人男性の姿をしている。
 外で酒をたしなむ時は大人の姿形に化ける笑狸だが、好んで女性の姿になる普段とは違い、男のなりをしているのは、不機嫌のあらわれ。
 十五年も行動を共にしている秋芳にはそのことが良くわかった。
 むっつりとした表情で牡蠣をつまみ、口に入れる笑狸。
 ちなみに二人とも洋食でも箸で食べる派だ。

「あ、これ美味しい!」
「バジルの香味が効いてるな」

 相好をくずして、目の前の料理を頬張り始めたその姿に、さっきまでの不機嫌さは面影もない。

(こいつ、ほんと単純だなぁ…)

 グラスをかたむけ、しみじみとそう思う。
 あの後――。
 地下呪練場で土御門春虎の護法式コンと試合をした笑狸だが、結局のところ勝負は引き分けに終わった。
 たがいに決定打となるものが不足していたからだ。
 試合の始め、笑狸は大型犬に変化し、コンに襲いかかった。
 狐狸精という種族は犬を苦手とする者が多い。
 それなりの妖力霊力をもった個体でもこれを克服することができず、ただの犬相手に恐慌状態におちいり正体を見破られたり、深手を負わされることがある。
 すでに犬恐怖症を克服していた笑狸はこれを狙ったのだ。
 だが生憎とコンは生来、犬など苦手にしていない。
 物怖じもせずに小刀で迎撃し、牙と刃、刃と鉤爪と、丁々発止のせめぎ合いをしたかと思えば、両者距離をとり狐火や狸火の撃ち合い。虎に変化した笑狸が再度組み合いにもっていき、また離れて狐火と狸火の撃ち合い。大熊猫(パンダ)に変化した笑狸が組み合いにもっていき、また離れて……。
 ただの一般人相手になら致命的な猛獣の一撃だが、穏形や霊体化したコンには躱され透かされ、あたらない。
 またコンのほうの刀や狐火も、笑狸にあたりはするが傷一つつけられない。化け狸である笑狸の体は見た目以上に頑丈にできている。
 午前中に始まり、みんなが昼食をとっている間も戦い続け、午後の授業も観戦についやし、放課後になってもまだ決着がつかず――。
 結局、講師である大友先生の放つ捕縛式からいかに長く逃げ切れるか。というサドンデス方式で勝敗を決することになったのだが、ものの見事に両者とも同分同秒で捕まってしまった。

(こいつとコン。俺と春虎。主と式神。たがいの顔を立てるため、あれはわざと同じタイミングで捕まえたんだろうな。大友陣。自分から式神勝負をけしかけておいて、なんとも食えない男だ)

 秋芳から見ればノーダメージとはいえ実際に攻撃を受け続けた笑狸のほうが負けという判決だが、あえてそれを口にすることはしなかった。
 引き分けという不本意な結末にヘソを曲げた笑狸のご機嫌取りに、こうして前から気になっていた店に食事をしに来たわけである。

「あ、ワインも美味しい。軽すぎず重すぎずコクがあってサッパリしてるね」
「そっちはポルトガル産のだったな。俺のチリ産のはスパイシーな風味があって後に残るぞ」
「ひとくち味見」
「ああ」

 たがいのグラスを交換して味見する。

「美味いな。肉でも魚でもどんな料理にも合いそうだ」
「んん~、野趣あふれる芳醇な味がするよ~」

 その時だった、秋芳の全身を貫くような悪寒が走る。
 氷の舌をもつ無数の毒蛇に、体中を舐められているかのような感覚――。

「……ねぇ、秋芳。感じる?」
「ああ……。この感じ、邪視だな」

 邪視とは悪意や害意をもって対象をにらみつけることで呪詛する呪術だ。
 イービルアイ、邪眼、魔眼などとも呼ばれ、世界中に似たようなものが伝わる。

「餓えたイボイノシシの涎がキ●タマにしたたり落ちたような、気持ちの悪さだね」
「なんだよそのたとえッ! わけわからねぇよ!」

 ツッコミつつ周囲を見まわし、視線の主を探し出す。もちろんキョロキョロと顔を動かしたりはしない。
 得意の八方目で手にしたグラスを見つめつつ、周囲を探る。
いた。
 二人の女性が炯々たる眼光を発し、こちらを凝視している。今にも涎を垂らしそうな、餓えた獣のような相貌をして、ささやき合っている。

(ううむ、恐ろしい。獣の生成りか? なにを話しているのやら……)

 あいにくと読唇術の心得はない。気づかれぬようそっと導引を結び、口訣を唱える。

「五行の理を以て、清冽なる水気、眠りし耳を研ぎ澄まし、雑たる音を遮らん。疾く!」

 五行思想において耳は水行に属する器官であり、水気をもってこれを強化することが可能だ。
 今回はさらに雑音を排する指向性聴覚の機能も付与した。

『いいわぁ、男子の回し飲み。ああいう何気ない行為にぐっときちゃう!』
『あの二人、やっぱりつき合ってるのかしら? 仲良さそうだし、絶対そうよね』
『あの長髪の子から小悪魔受けのオーラをひしひしと感じるわ』
『あたしも! う~ん、これは間違いなくリアルファンタジーね』
『~~~~!』『~~~~!』

 獣の表情から一転、ニヨニヨしながらこちらを見つめ、腐談義に花を咲かせている。

「……どうやら、邪視じゃなく腐視線だったみたいだな」
「ボクたちを腐ィルターごしに見てたんだね」

 笑狸のほうは特に術を使わずとも彼女たちの会話を聞き取ったらしい。獣系の使役式は総じて五感に優れている。

「ねぇ、秋芳。あの人ってばこの前の寮母さんじゃない?」
「なぬ?」
 
 二人の貴腐人。茶色いロングヘアーのほうには見覚えがないが、黒髪ボブカットにセルフレームの眼鏡をかけたほうには見覚えがある。
 陰陽塾男子寮・寮母の富士野真子だ。
 寮に入る手続きをしたさい、軽くあいさつを交わしたはずだ。

『あら? あの子って…』
『ん? どうしたの?』
『こんどうちの寮に入る子じゃないかしら。ほら前に言った、かわいい男の子を連れて来た子よ』
『ああ、あの男の子連れの!』
『思い出した。賀茂秋芳君だわ。…前に連れてた男の子とは別の子とあんなに仲良さそうにして、とんだプレイボーイね!』
『彼の基本属性って受けかしら? 攻めかしら?』
『そうねぇ――』

 妄想するのは勝手だが、誤解はこまる。

「おまえのこと、ちゃんと紹介しとくか」

 席を立ち、富士野らのもとへ行き声をかける。

「寮母の富士野さんですよね? 賀茂秋芳です。迷惑じゃなければ一緒に飲みませんか?」
「あ、あらあら! 奇遇ね賀茂君。ちょうど今あなたのお話してたのよ、…あの子だぁれ? 恋人さんかしら?」
「はじめまして賀茂秋芳君。女子寮寮母の木府亜子です。男子寮のほうは転入が続いてにぎやかそうね~。それであの子ってやっぱ恋人なの?」
「いま、紹介しますよ」

 …… …… …… …… ……。

「――というわけでしてね、彼は俺の式神で、その正体は化け狸なんです。未成年のナリで外で酒を飲むのも問題なんで、こうして大人の姿になってもらってるわけなんです。別に男をとっかえひっかえ漁ってるわけじゃないんで」
「じ、自分の式神を!? 春虎君もそうだったけど、最近じゃそういうのあたり前になってるのかしら……」
「しかもケモノっ! ケモナーっ! 獣姦っ! こっちも春虎君と同じだわ。お姉さん、若い子の性癖にはちょっとついていけないかも」
「でもロリコンの春虎君と違ってケモナーショタの秋芳君のほうがまだ健全よね」
「え~と、俺の話を聞いてましたか? つか、春虎ってばロリコンなんですか?」
「お姉さんたちってナマモノ好きの貴腐人なんですか?」
「二次もナマモノも乾物も好きよ!」
「ボク、最近の『男の子いっぱいアニメ』て最初からやおい臭出しまくりで萌えないんですよね」
「あら、どうして?」
「いかにも『このキャラでやってくれ』的な設定とか、鼻につきませんか」
「でもそのほうが見てて楽しいわよ」
「気軽に楽しめるわよね」
「二人ともなにを言ってるんです! 男同士の真の友情だからこそ、それをイタズラする面白みや楽しみがあるんじゃないですか!」
「「はっ!」」

 やおい漫画も昔と変わってきた。
 昔は――。

 主人公が男に惚れられる。
 ↓
「俺は同性愛者じゃない」と反論。
 ↓
「男が好きだとかじゃなく、たまたま好きになった人が男だった」とか言われる。
 ↓
 葛藤。
 ↓
 合体。

「――ポイントは葛藤の部分で、相手が男なのに惹かれていく自分に、主人公が延々と悩む。部分です。ここに文学性や物語としての深みが生まれるんです」
「ちょっと理屈っぽいけど、たしかにそうね」
「それが近年、ボーイズラブが市民権を得た影響でお手軽にヤっちゃう作品が増えたんです。理屈無しでいきなりお尻にぶっこまれてアンアンしちゃうだなんて、もう男向けのエロ本と一緒ですよ」
「そうね、男は安易にアナルを許すべきじゃないわ!」
アルコールがまわり、ずいぶんと話しが弾む。
「……あのー、そろそろ帰らないとまずいんじゃないですかね。夕食の準備とかいいんですか?」
「だいじょうぶ、らいじょうぶ。お肉も野菜も食材は買ってあるから後は作るだけよ」
若干ろれつが回らなくなっているのが実に心配だ。この状態で調理などできるのだろうか?
「レコーダーから来た映像をテレビが受けるんだから、レコーダー×テレビよね」
「そうそう!」
「フォークは鬼畜攻め、スプーンは総受け、ナイフは基本攻めなんだけど、フォークに依存してるから実質受けじゃない? 異論は認めるわ」
「わかるわ~」
「愛と恋は?」
「恋×愛」
「空と大地は?」
「空×大地」
「昨日と今日は?」
「昨日×今日」
「生と死は?」
「死×生」
「朝食と夕食は?」
「夕食×朝食」
「箸と茶碗は?」
「箸×茶碗」

 鉛筆×消しゴム、台風×日本列島、ワサビは総受け、七味唐辛子はリバーシブル――。
 ひとしきり無生物の攻め受け話に花を咲かせた後。
 富士野真子、木府亜子。二人の寮母は飲み潰れた。

「うふ~ん、アス×キラ~、新庄×加賀~」
「あは~ん、ハスまひ~、よいまひ~」

 意識はある。話しかければ答える。だが、すっかり正体を失くしてしまっている。

「場の空気のせいかな、二人ともできあがるの早かったねー」
「軽く飲み交わす程度のつもりだったんだが、こんなにもピッチが早いとは…。まるで俺たちが飲み潰したみたいじゃないか。これは送っていくしかないな」
「送ってあげても、これじゃあ仕事どころじゃないよ。夕飯どうするの?」
「たしかに、そうだな」
「秋芳の術でアルコール飛ばしちゃえば?」

 禁酒則不能酔。
 酒を禁ずれば、すなわち酔うことあたわず。
 体内の酒気を一瞬にして消して、酩酊状態の者をしらふに戻すことが可能だ。

「酒飲みとしてはその術は使いたくない」

 そうキッパリと断言する。
 いにしえの中国では酒に酔うことで精神が解き放たれ、高度な理性と鋭敏な感性を得られると信じられていた。
 李白や杜甫や白楽天といった詩人らの多くもこれを強く信じていて、酒を手放すことは無かったという。
 孔子は強い酒の危険を指摘しているが、それでも。

「惟だ酒は量無し、乱におよばず」
 と、これは乱れなければ飲んでも良しとしている。
 人類は五千年前も酒を飲んでいたし、五千年後もきっと酒を飲んでいるだろう。

「酒は人類の友だ、友を切り捨てるような真似ができるか」
「じゃあどうするのさ? 入寮初日から寮母さんを酔い潰して、みんなにひもじい思いをさせるつもり?」
「俺たちで作ろう」
「え?」
「昼の引っ越し振る舞いの続きだ。彼女たちをこっそり送った後に俺たちが厨房に立つ。俺が男子寮、おまえが女子寮担当だ」
「まぁ、ボクなら彼女に変化できるけど、料理のほうは自信ないよ」
保食(うけもち)を使え。持ってるだろ」

 市販されている料理用人造式「保食」この日本神話に登場する食物を司る神の名を冠した式は、その名の通り調理用に作られている。
 長年行動をともにした結果、霊災修祓や呪術戦といった実戦向きの呪具は秋芳が、それ以外の呪物は笑狸が身につけるようになっているのだ。

「あ、あれいっぺん使ってみたかったんだよね。買ったはいいけど、それっきりだったし」
「買って手元に置いて、いつでも使えると思うと、それだけで満足になりがちだよな。それじゃあ頼んだぞ」
「うん」





 陰陽塾男子寮厨房。
『寮母の富士野さんは持病の三巳が暴れたため、儀狄と杜康の力で休んでもらっている。ついては昼の引っ越し蕎麦の延長で自分に夕食を作らせてもらいたい』
 と、寮生たちをけむに巻いた後、さっそく食事の準備にとりかかる。
 野菜や肉を手早く切り刻み、大鍋に入れる。

「聞いたぜ。富士野さんを酔い潰したんだってな」
「入塾早々とんだ不良陰陽師もいたもんだ」
そう言いながら入ってきたのは土御門春虎と阿刀冬児の二人だ。
「いやいや、悪い気を祓うため、ディオニュソス様のもとでひと休みしてもらっただけだよ」

 悪びれもせずそう返す。
 儀狄も杜康もディオニュソスも、これらはみな酒の神だ。

「おいおい、よく言うぜ。…で、なに作ってんの?」
「チャプスイだ」
「チャプスイ? 聞いたことないけど、冬児は知ってる?」
「ああ、たしか野菜や肉のごった煮かなんかじゃなかったか?」
「まぁ、だいたい合ってる」
 チャプスイ。
 漢字では雜碎と書く。
 八宝菜によく似たこの料理の生まれにはちょっとした逸話がある。
 清の時代の中国。李鴻章という重臣が外交のためアメリカへ渡った時のこと。
 異国の高官をもてなすためアメリカ当局は贅沢なフランス料理を用意したのだが、高齢の李鴻章は食べなれない西洋料理には食指を動かさなかった。
 そこでチャイナタウンにいる華僑の料理人を呼んできて中国料理を作らせたのだが、本場の中国で山海の珍味に食べなれている人の舌にはとうてい合わない。
 だからといってなにも食べないわけにもいかないため、出てきた料理をすべて大鍋にあけ、ごった煮を作らせると、これが非常に美味しかったらしく「好吃、好吃(おいしい、おいしい)」と満足したという。
 この話が評判になり、それ以降アメリカの中華料理屋では菜譜(メニュー)に李鴻章雜碎と称するごった煮を載せるようになったとか――。

「――現在では宴会用にいったん作られた物を材料にこしらえたごった煮をのことを、特に李鴻章雜碎と呼ぶそうな」
「へー、贅沢だな」
「ん? こっちの圧力鍋ではなに作ってんだ?」
「スープ用に細かく刻んだ野菜を入れて煮てる。ほぐれたらペースト状にして、白湯と混ぜれば片栗粉なしで羹・・・、とろみスープができあがる」
「なんか手伝おうと思ったけど、その必要はないみたいだな」
「ああ、だったらそのとろみスープ作りをお願いしよう。もう少しで煮あがるから、それをそこのフードプロセッサーにかけてくれ」
「わかった」
「へへ、じゃあ俺は自分の腹ごしらえをしとくぜ」

 勝手知ったるなんとやら。どこからか探り出したパックの中身をコップに注ぐ冬児。
 ツンと鼻を突く香気。日本酒だ。

「あ、こら」
「せっかく寮母さんがお休みなんだ、たまにはいいだろ」

 そう言って中身を美味そうに口にふくむ。

「酒が、好きみたいだな。二人ともいける口か?」
「ま、ほどほどにたしなむ程度かな」

 と、これは春虎。

「俺も」

 と、これは冬児だが、すかさず。

「うそつけ、飲兵衛」

 と春虎のつっこみが入る。

「……呪術に関わる生活をしていると、めったに飲めない酒を口にする機会がある。それだけでも陰陽師を目指す価値はあるだろうなぁ」
「おいおい、いくらなんでもそりゃないだろ。てか、今までになんかそういう呪術がらみの珍しい酒でも飲んだことあるのか?」
「そうだな……、いつぞやの重陽の節句に貴船山で飲んだ菊酒は実に美味かった」

 重陽の節句。
 陰陽思想では奇数は縁起の良い陽数。偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日を節句と称した。
 しかし五行相剋相乗。相剋も度が過ぎれば良くないように、おめでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いもしていた。
 中でも一番大きな陽数である九が重なる九月九日を、陽が重なる重陽の節句と定め。
 この日は強い香りで邪気を祓い、長寿をもたらすとされる菊の花を飾ったり、湯船に菊を浮かべた菊湯に入ったり、菊を詰めた菊枕で眠ったりといった、菊をもちいたまじないをさかんにおこなった。
 こんにちでいう乙種呪術である。

「乙種は乙種だが、なかなかどうしてあなどれないものもある」
「へー、知らなかった。て、九月九日ってこの前じゃん。あー。なんもしなかったな」
「おいおい春虎。重陽の節句については乙種呪術の授業で習っただろ、忘れたのか?」
「……そうだっけか?」
「まったく、そんな調子だとまた夏目にどやされるぞ」
「夏目は関係ないだろ~、夏目は」
(土御門夏目か……。どんなやつか、ちょいと聞いてみるか)
「そういうえば彼もここの寮住まいだったな。昼間あいさつしたは時はずいぶんとつっけんどんな感じだったが、いつもああなのか?」
「あー、あいつ人見知りで友だち作るのとか苦手なんだよ。悪気はないんだ、まぁ、無愛想な猫みたいなもんだと思って接してくれよ」
「猫か、たしかにそういう雰囲気だな。あの艶やかな黒髪といい、さしずめ黒猫ってとこか。あ、そこの胡椒とってくれ」

 近くにある料理胡椒を手渡す春虎。

「黒猫か、あいつにぴったりかも。……あのさ、もっとぶっちゃけて言うと、あいつのあれって土御門の次期当主とか、他にもいろいろあって、自分を守るために無意識にそうしてると思うんだ。だから仲間だと思えば途端に明け透けになる。根はけっこうガキだし、その分単純なところもあるんだよ。ほんとは面白い、良いやつなんだ。だからあんま誤解しないでくれな。……て、あー、おれなに言ってんだ! なんか言葉がまとまらねぇ」

 伝えたいことを上手く言葉にできず頭をかく春虎。

(こいつ、良いやつだな)

 素直にそう感じた。

「ああ、わかった。まぁ、名門名家の御曹司なら損得勘定や、よからぬ企みを抱いて近づいてくる輩も多いだろうし、少々人見知りなくらいでちょうどいいさ」
「それだけじゃ、ないんだけどな……」
「うん?」
「例の噂さ。知ってるだろ」
「おまえとできてるって話か」
「ちげえよッ! なんなんだよそれは!?」
「いや、富士野さんたちがそんなことを……」
「忘れろっ、そんな根も葉もない噂はすぐ忘れるんだっ! 噂ってのはあれだよ、夏目が夜光の生まれ変わりってやつ――」

 土御門夜光の生まれ変わり。
 そう信じる者たちが夏目の身を目あてに、たびたび接触してくる。
 狂信的な者など、強引に拉致しようとして呪術のやりとりにまでなることもあった。
 つい最近も陰陽塾内に出入りしていた呪捜官の一人が夏目を狙い、それを春虎たちが食い止めるとう騒動が起きた。
 まさか本当にそこまでのことが起きていたとは――。
 春虎の話を聞いて呆れるとともに、怒りが込み上げてきた。
 連中が北辰王と呼び、崇め奉る土御門夜光。
 戦時中の偉人を現代に連れて来たとして、いったい彼になにをさせようというのか?
 北辰王が覚醒すれば、それだけで今の陰陽師の地位が向上するとでも?
 やっかいな霊災を鎮めることができるのは陰陽師だけだが、そもそも日本を霊災多発国にしたのはその陰陽師・土御門夜光その人だ。
 そんな人物を持ち出してきて霊災関係のすべてを解決させたとしても、マッチポンプ以外のなんでもない。
 そう簡単に一般の人々の賛同など得られるものか。
 北辰王に陰陽術をもっと高みに導いてほしい?
 自分自身の意志と力で努力も修練もせずに上達したいなどと、ふざけるにもほどがある。
 陰陽師としての矜持はないのか。
 北辰王を純粋に思慕しているから?
 それならばなおのこと軽挙妄動を慎み、切磋琢磨し。尊敬する北辰王に軽蔑されないようなおこないをするべきで、子どもに手を出すなど言語道断だろう。
 そうだ。だいたいどんな理由があろうと、いい歳をした大人が未成年に危害をくわえていいわけがない。
 
「……同じ釜の飯を食う仲間をつけ狙うやつは、ゆるせないな」
「だよな。へへへ。あんたとは気が合いそうだ」
「なぁ、飯まだ?」
「冬児、おまえ飲んでばっかいないで少しは手伝え」
「なんか手伝うことなんかあるのか?」
「いや、ない。もう少しでできあがるから口さみしいならこれでもつまむといい」
 
 そう言って冬児に差し出した小皿には、細かく千切りにされたきゅうりとにんじん、鶏肉の入ったもやし炒めが盛られてある。

「醤油とゴマ油で軽く火を通しただけだが美味いぞ。酒のつまみにも飯のおかずにも合う」
「なるほど、たしかに美味そうだ。こりゃあ酒が進むねぇ」
「あんまり飲みすぎんなよ」
「わーてるって」
「……さっきの呪術がらみの酒の話に戻るが、世の中にはたくさんの神秘の酒がある。節句の菊酒や屠蘇くらいなら自分でもこしらえることができるが、もっとレア物。アムリタ、ソーマ、ネクタル、天甜酒(あまのたむざけ)八塩折之酒(やしおりのさけ)といったの霊酒の類はいまだに飲んだことがない。中でも一番飲んでみたいのが……」
「飲んでみたいのが?」
「神便鬼毒酒」

 ブフーッ!

「わ、きたねーな。なにやってんだよ」 
口にふくんだ酒を盛大に吹き出してむせかえる冬児。
「ケホッ、ケホッ。……い、いや、ちょっと変なとこに入っただけだ。わりぃな」
「そういえばこのチャプスイにも呪術じみた逸話があったな。いわば真の李鴻章雜碎とでも呼ぶべきか――」

 食事というのはたんなる栄養摂取の一過程ではない。
 動植物を殺し、命を奪い、その魂を吸収する一種の儀式。呪術の面を持つ。
 料理の素材である動物や植物に細胞レベルで残留した魂と、調理する人間から発散されて食べ物にうつる気が消化器官を通じて食事する人間の魂に吸収される。
 同様の現象は逆方向にも起こる。
 美味しそうな食べ物が目の前に並ぶ。それを見てうまそう、食べたい、などと思う。
 そう食欲をもよおした人間の気は欲望とともに対象物に投影される。
 その余韻が残留するからこそ、残り物料理には独特の味が生まれる――。

「――そのように実際の食卓に上がり、人の目や箸にさらされた食べ物には人間の五味とは異なる味わいが生まれるそうだ。これこそ李鴻章が実際に口にした宴会料理の残り物で作ったチャプスイで、稀代の食通たちの中にはこの魂の味つけがわかる者がいるとか。この真・李鴻章雜碎の作り方は犬神作成といった巫蠱の術理にも通じるものがあるから、陰陽師としてはとても興味深いものが、……どうしたんだ春虎、なんか顔が死んでるぞ」

 憮然とした表情で固まっている春虎。

「あー、ダメダメ。こいつ呪術とかそっち方面は素人同然だから」
「そうなのか?」
「あ、ああ。おれつい最近まで普通の学生してたんだよ――」

 あれこれと長話をするうちにできあがったチャプスイは寮生たちにはおおむね好評で、残るようなことはなかった。




 
 夜。
 陰陽塾男子寮の一室。
 急ごしらえで部屋の隅に作った祭壇の前で札に文字をしたためる秋芳と、ベッドの上で携帯ゲーム機をいじる笑狸の姿があった。他の寮生との相部屋になることも考えていたが、部屋の数に余裕があるらしく、こうして二人で一部屋がもらえたのだ。
 女子寮担当の笑狸のほうは笑狸のほうで首尾よくことを収めたらしい。
 秋芳はなにをしているのか?
 紙銭(しせん)を作っている。
 紙銭とは道教でもちいる供物で、神仙に祈願したり護符を作る時に燃やす「あの世」で使えるお金で。この紙銭は燃やすことで天界や冥界に送金され、受け取ったむこうの神々がいろいろと便宜を図ってくれるという仕組みだ。
 これをおこたるといざという時に力を貸してくれない。具体的には道教ベースの術が発動しなくなるなどのこまったことが起こるので、非常に大事である。
 紙銭には金紙、銀紙、冥銭など様々な種類があるが、秋芳が作成しているのは、そのいずれでもない。
 一文字一文字に自身の呪力を込めて綴った、特製の紙銭。例えるなら宝石のようなものだ。
 できた紙銭を両手で捧げ持ち、玉皇大帝以下、天界の神々へ奉献する祭文を唱える。
 すると紙銭は音もなく燃え上がり、灰も残さず消滅した。
 これで儀式は完了だ。
 秋芳のこのおこないは現代の陰陽術の観点で見たらかなり奇異。異質に見えるだろう。現代の呪術と夜光以前の呪術の大きな違い。それは呪術という技術から宗教色を極力排除したことだ。
 呪術の前提条件から信仰心の類を切り捨てたからこそ、元来曖昧模糊としていた呪術の因果性を明確化することができた。これはその後の呪術の技術的発展という面において実に画期的なことだった。
 これにより術式の簡易化や普遍化。呪術を万人が学べ、あつかうことのできる技術になったといっても間違いではない。
 もっともそれにより呪術の主たる目的だった、ある系統のスキルや方法論を、その体系の中から除外することになってしまったのだが……。
 賀茂に伝わる陰陽術や連の呪禁術にはまだそれらが残り、伝わっている。
 紙銭を供え終えた後も、符を持ち出し、なにやら別の作業にかかる秋芳。

「あれ? まだ寝ないの?」
「ああ、土御門夏目の監視や警護用に式神を作ろうと思ってな」
「ふ~ん、警護ねぇ。真面目にやる気になったんだ」
「なにを言う。俺は最初から真面目だ」

 春虎から聞いた夜光信者の襲撃。そのようなことが実際にあった以上、手をこまねいているわけにはいかない。
 とりあえずなにかあった時のために、離れた場所からでも夏目の居場所や状態がわかるようにしておきたい。

(こういう場合、小さな虫の式神をコッソリ忍ばせるのがセオリーなんだが、相手はあの土御門夏目。周りに異質な気があればすぐに気づかれるだろう。なまなかな穏形ではダメだ。あいつ自身の髪の毛や爪でもあればより巧妙な偽装ができるのだが……)

 髪や爪はなにかと厭魅に利用されがちなので、その処分に細心の注意をはらう陰陽師は多い。部屋の床やゴミ箱をあさって見つかる可能性は低いだろう。
 思案する秋芳をよそにひと通り楽しんだ笑狸がゲーム機を置いてTVを点ける。
 陰陽庁の広報番組はいくつかあり、ゴールデンタイムなどによく絵になる霊災修祓の様子や、見映えの良い若年の陰陽師などにスポットをあてた内容の番組を放送している
 特に最近は大連寺鈴鹿という史上最年少で陰陽一種を取得し、十二神将の一員となった少女が『神童』などと呼ばれ、もてはやされている。
 今流れているのはそのような類のものではなく、霊災の発生状況についての情報番組だ。○時○分ごろ、××でフェーズいくらの霊災が発生。○時○分ごろに修祓完了。
 霊災発生地点の予測。最近の霊災の傾向と対策などの事柄が事務的なアナウンスされる。
霊災ニュース番組を確認して一日を終えることを日課にしている陰陽師は多い。

「……おかしいな」
「おかしかったら笑ったら」
「ハッハッハって、違う! ……どうも妙だと言っているんだ」

 ここ最近発生した霊災の種類に偏りがある。

「あきらかに黄泉還り系の霊災が多い」
 以津真天、餓鬼、狂骨、舟幽霊、骨鯨、目競……、先月秋芳が倒した以外の纐纈鬼の出現報告まである。
「言われてみれば、タイプ・スペクターが多いけど、て。フェーズ3の霊災多すぎ! そっちのほうが驚きだよ」

 タイプ・スペクター。俗に言うところのアンデッド・モンスターだ。いずれも伝承にある「死んでからよみがえった」怪物に類似する特徴をもった動的霊災。あるいはそれらの生成りをこのように分類している。
 ちなみに現在の汎式陰陽術では『幽霊』的存在を通常とは霊相の異なる特殊な霊災として定義している。
 あまりに霊力の強い人間や様々な呪的条件がそろった場合、人は死後、その残留霊体が特殊な霊災の核となるのだ。

「ああ、たしかに、それもあるな」

 とかく隠蔽、秘密主義をやり玉にあげられがちな陰陽庁だが、ここ最近は開かれた組織であることをさかんにアピールし、国民に理解され親しまれるよういそしんでいる。大連時鈴鹿のアイドルじみた活動もその一環だ。
 公表された数字に嘘偽りがないと信じているが、それならそれでこの霊災数は少し異常かも知れない。地震や台風の多い「あたり年」だと思えばそれまでだが、やはり気になる。

(気になるといえば昼に視た星々の幻視も気になる。倉橋京子。あの娘はいったい……)

 どうにも気もそぞろだ。今日はもう寝ることにする。
 自分のベッドに横になる
 すると当然のように笑狸が横に寝そべり話しかけてくる。

「クラスの子や女子寮の子をざっと見た感じだと、あの京子ちゃんよりもおっぱいの大きい娘はいないみたいだね」
「そうか。暑苦しいぞ、自分のベッドで休め」
「もっとよく観察して、こんど京子ちゃんに化けてあげるよ」
「いや、そういうのほんといいから」
「足のきれいな子もチェックしてみるよ。秋芳ってば美脚の女の子好きだからね~。あ、じゃあ今夜は脚のきれいな子に化けて添い寝してあげる」
「今夜『は』てなんだ『は』て。まるでいつもそういうことをさせてるみたいだろうが。暑いんだから向こうへ行け」
「誰がいい? キャンディス・スワンポール? テイラー・モムセン? コン・イエンソン? 戸松遥?」
「最後の一人だけジャンルちがくねぇか? つうか化けるな」
「ちがくないよ、きれいな脚でしょ」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ脚が三本ある戸松遥に化けてあげる」
「どこの都市伝説に出てくる妖怪だよ! 多けりゃ良いってもんじゃないから!」
「それじゃ化けるよ、変――」
「禁術則不能発、疾く!」
「ぶはっ!?」

 術を禁ずれば、すなわち発することあたわず。
 発動しようとした変化の術が強制的に禁じられる。
 その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、結局同じベッドで就寝する二人であった。 

 

たわむれ

 陰陽塾。
 誰もいない早朝の教室内。
 窓ガラスに映った自分の制服姿をじっと見つめる秋芳の姿があった。
 狩衣を模した陰陽塾の制服。色は男子が黒で女子が白。
 祓魔官が漆黒の装束を身に纏うことから、闇鴉(レイヴン)の異名をもつ、こんにちの陰陽師たちだが、この制服姿も見ようによってはカラスを彷彿とさせる。

(はたから見るぶんにはたいして感慨もわかなかったが、いざ自分で袖を通してみると、この制服もいいもんだな。レイヴン、か……)

 人を上まわる雑食性の生き物で残飯や死骸を漁るカラスの姿はいかにも不潔で不吉な印象がある。だが反面で伝説や神話上のカラスは神の使いとして描かれることが多い。
 北欧神話では主神オーディンの斥候として、ギリシャ神話ではアポロンに仕え、日本神話では八咫烏などが有名だ。
 黒と白、陰と陽。光と影……。陰陽師をカラスになぞらえるのは、たしかに合っているのかもしれない。
 なにより養子の身といはいえ賀茂の性を持つ自分には縁がある。
 賀茂氏の祖である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身こそ、すなわち八咫烏だとされるからだ。

「あれ? ずいぶん早いんだね秋芳君」

 そんなことを考えている秋芳に声をかけてきたのは眼鏡をかけた、いかにも育ちの良さそうな男子生徒だ。見覚えがある。

(こいつはたしか百枝――)
「ああ、おはよう。君はたしか百枝……天馬(ペガサス)くんだっけ?」
天馬(てんま)だよ! ペガサスって、それどこの聖クロニカ学園理事長!?」

さすが眼鏡キャラ。つっこみにキレがある。

「おっと、すまん。人の顔と名前をおぼえるのはどうも苦手でね、まだあやふやなんだ」
「もう一週間経つんだから、いいかげん覚えてよ。ていうか絶対わざとでしょ、今の」

 秋芳たちが入塾してから一週間が経過した。
 ひと通りの授業を受けたが、座学に関しては特に問題はない。秋芳にとって、すでに知識として知っていることのおさらいにすぎなかったからだ。
 ただ意外にも一部の実技には手を焼いた。
 符の作成と簡易式の操作だ。元来、呪符による安定や増強に頼らず、自前の呪力で術を行使することを好む秋芳にとって、木行符だの火行符だのと一枚一枚書くのは性に合わない。さらに筆画を上手く正確に書けたかも採点の対象になるので、基本もそこそこに自己流で通してきた身にはこれまたむずかしい。書道教室に通うような気分で美しい字を書くよう努めている。
 簡易式とは陰陽師が使役する式神の中でも、もっとも初歩的な種類の式神だ。
 形代と呼ばれる核に術者が呪力を注入して作り出すものだが、その簡易式を変化はなしで、ただそのまま動かすというのが存外めんどうだ。
 汎式陰陽術と賀茂に代々伝わってきた陰陽術の式神使役法の差が如実にあらわれた。ひと言でいえばレスポンスが異なるのだ。
 市販の人造式なら呪力を注ぎ込むだけで動くし、凝った式神を作りたいのなら、これまた自己流で作り上げるのだが『正式な作法』にもとづいて単純に動かすことが、これほど神経を使うものとは思わなかった。
 もちろん慣れればどうということはないのだろうが――。

「一人でなにしてたの?」
「自分の制服姿に見とれてた」
「あはは、なにそれ」
「ん~、いや、陰陽塾(うち)の制服ってちょっと変わったデザインだろ? だから自分が実際に着るのはどうかな~、て思ってたんだが、思ってたより着心地が良くてな」
「そんなに変かな? まぁ、女子の制服はけっこう目立つみたいだけど」
「見た目はともかく、色々と凝ってるよな。わずかながら呪的防御が施されてて、見た目より丈夫だし、あちこちにポケットがあって呪具の類を持ち歩くのに便利だ」
「そうそう! 呪符とかいっぱい持てるから、これに馴れちゃうと普段着の時とか落ち着かないんだよね」
「笑狸のやつも着たがってたよ」
 秋芳の使役式である化け狸の笑狸。彼(彼女)の立場はあくまで式神。塾内での行動は自由だが、厳密には塾生ではないため、制服は支給されていない。
「あ、そういえば笑狸ちゃんももう来てるの?」
「いや、寝てる。昼過ぎには来るんじゃないかな」
「そう……」
「残念そうだな」
「え、いや、あ、う、うん。まぁ、そうかな」
 
 赤面して言葉をつまらせる天馬の様に思わず苦笑する。
 この一週間で秋芳以上にクラスメイトと打ち解けた笑狸は、男子からも女子からも人気がある。もしここが陰陽塾という『お堅い』学び舎でなく一般の学園だったなら、今ごろ告白されまくっていることだろう。
 いや、ひょっとしたらすでに何人か想いを伝えているのかも知れない。
 狐狸精は天然の誘惑者なのだ。

「あいつに制服を貸してやったら喜ぶぞ」
「ふ、服の交換!? そ、それはなんていうか、倒錯的なプレイだね!」
「は?」
「おたがいの匂いとか、ぬくもりとか、なんかそういうのが、こうグッと来るよね!」
「え~と、天馬くん。君そんなキャラだったっけ?」
 どうも色々と想像を駆け巡らせ、あらぬ方向に向かって妄想が進んでいるようだ。
「……な~に朝っぱらからイカガワシイ会話してるのよ、アンタ達」

 いつの間に教室に来たのか、一人の女子生徒が会話に割り込んできた。
 亜麻色の髪をハーフアップにし、下品にならない程度に薄く施した化粧が健康的な肌に良く似合っている。 
 倉橋京子だ。優等生である彼女も登校は早い。

「あ、おはよう倉橋さん」
「『あ、おはよう』じゃないわよ。朝から男二人だけでスケベな話なんかして、キモいわよ」
「き、キモいってそんな……」
「いや、スケベな話じゃなくて恋の話だよ」
「女の子の服の匂いを嗅ぐのが恋バナ? そんなのただの変態じゃない」
「信濃なる、千曲の川のさざれ石(し)も、君し踏みてば玉と拾はむ」
「え?」
「……たしか万葉集だったかしら。その歌がどうしたのよ」
「わ、すごい倉橋さん知ってるんだ」
「河原に転がっているただの小石でも、愛しいあなたがじかに踏んだと思えば大事な大事な宝物。宝石として私は拾いますよ。好きな人の触れた物、接した物すら大事にしたいと思う恋愛心理だよ」
「人の服の匂い嗅いでハァハァするのと、それは次元がちがうでしょ」
「いやいや、恋愛と匂いは密接な関係にあるんだ。そうちがうとも言い切れないぞ。たとえば夏目が自分の着ていた上着を寒いからとかけてくれて、その瞬間彼の匂いがほのかに香ったら、なんとも言えない心地になるだろう?」
「そ、それは……。そうね。て、なんでそこで夏目くんの名が出てくるのよ!」
「そりゃあ、なぁ」
「そりゃあねぇ」

 目を見合わせる秋芳と天馬。
 倉橋京子が土御門夏目に好意をよせていることは、はたから見れば一目瞭然だ。

「もう、この話はおしまいっ」 

 そう言ってきびすを返し、自分の席に向かった京子がクルリと振り返り秋芳に問いかける。

「ところであなた、今日も放課後は自主練?」
「ああ、そのつもりだ」
 日々の学習や鍛練なくして上達などありえない。
 生まれつきの能力差というものは確かに存在する。だがどんなに優れた天稟の持ち主でも、いっさいの努力や修練もなしに高みに昇ることなぞできるわけがないのだ。
 歌でも運動でも芝居でもなんでも、その道のプロと呼ばれる人たちは普通の人が遊んだり寝てたりしている時間を練習に費やしているからこそ、プロの座にいられるにちがいない。

「実技室を使わせてもらって簡易式の操作練習をする予定だよ」

 授業時間外であっても講師の許可があれば塾内の学習施設は最終下刻時間まで利用可能だ。もっとも一人一人の生徒がいちいち講師にうかがいを立てていては煩雑なため、この決まりはほとんど有名無実化していて、黙って居残り勉強をしていても特に注意されるようなことはない。

「あたしもつき合ってあげるわ」
「それはまた、どういう風の吹き回しだい?」
「べつに、ただの気分よ。こ~んな可愛い子が勉強見てあげるんだから、感謝なさい」
「ああ、嬉しいよ。放課後を楽しみにしてる」
 
 放課後の実技室。
 実技室といっても地下の呪練場ほど凝った造りはしていない。
 室内の呪力・霊力が外に漏れることがないよう、扉や窓の上部に注連縄や御幣で結界が張られている以外は一般の教室と同じような造りになっている。
 机の上に人の形をした紙片が二枚ひょこひょこと動いている。太い十字架の上部だけを三角形にしたような切り抜き。人形(ひとがた)と呼ばれる種類の形代。簡易式だ。
これを核に様々な形状に変化させることができるのだが、今はそのままの姿で動いている。
 動かしているのは秋芳と京子だ。二人とも印を結び呪力を送っている。

「あらなによ、あなた普通に動かせるじゃない」
「連日練習してるからね、だが普通じゃダメなんだ。俺は賀茂の人間だからな」
「……たしかにそうね、わかるわ」

 名門としての矜持。陰陽道の大家である倉橋の家に生まれ、その家名に恥じないよう教育を受けた京子にはその気持ちがよくわかった。
 そんな京子の思いを察した秋芳がつけ加える。

「いやまぁ、そんなたいそうなものじゃないけどな。ただ伸び代のあるうちはがんばりたいだけさ」

 ふと、なにかを思いついた秋芳がさらに呪力を送る。ひたいに向け剣指(人差し指と中指を立て、薬指と小指を曲げて、その指先を親指で押さえる)を立て、集中し念を凝らす。

(……点滴穿石、とく心を細くせよ。水滴のみが石に穴を穿つ――)

 糸のように細く、錐のように鋭く研ぎ澄まされた水滴が巌を刺し貫く。
 そのような情景を思い浮かべて、より細部まで呪力をめぐらせる。
 すると簡易式の動きに躍動感が生まれ、節に合わせて踊っているかのような動きをしだした。

「……なにこれ、銃で撃たれてのたうち回る人?」

 がっくし。
 肩を落とす秋芳。どうも自分のイメージ通りの動きにはならなかったようだ。

「『フラッシュ・ダンス』の踊りのつもりだったんだがな。ホワット・ア・フィーリンっ♪ てダンスのシーン」
「昔の映画? あいにくと知らないわね。面白いの?」
「お話は良く言えば王道、悪く言えば陳腐なサクセスストーリー。けどダンスシーンのカメラワークと音楽は評判良いよ。新宿の映画館でリバイバル上映しているから、時間に余裕があるようなら観に行くのを薦めるよ」
「そうねぇ、映画なんてまともに観たのずっと前だし、たまにはいいかも」
 倉橋家の令嬢として茶道や華道や書道、さらに日本舞踊まで習わされていた京子だが、陰陽塾に入塾してからは呪術の習得に集中するという名目で、ようやく習い事の時間を減らしてもらうことができた。
 そういう意味で今は『時間に余裕がある』と言える。
 ふいに京子の中に茶目っ気がわきあがる。

「えい」
 京子のあやつる簡易式が秋芳の簡易式の足を払い、ころばせる。

「む」
 すぐに起き上がらせ、お返しとばかりに背後に回り、机から落とそうと押しやる。

「甘いわよ」

 机際まで寄ったところで今度は京子の式が身を入れ替えようとするのを、秋芳の式がそうはさせじと妨害する。

「――――っ!」
「――――っ!」

 二人の式はまるで動きの巧みな紙相撲のような様を見せている。
 しばらく押し合い圧し合い、いなしいなされの攻防が続き、同時に床に落ちた。
「あははっ、面白かった。式神でこんなふうに遊んだのなんて始めてよ」
「俺もだ。なんか子どもの遊びみたいだな」

 !?

 懐かしさがこみ上げてくると同時に、胸を針でつつかれたような感覚。続いて違和感がわき上がってきた。

(なつかしい……。ずっと昔、幼い頃にもこんなふうに誰かと遊んだ気がする。だが誰かって誰だ? 俺はあいつに、笑狸に会うまではずっと一人だったんだぞ? そんなことはありえない!)

 大和葛城を本拠とする賀茂の里は連家に生を受けた秋芳は義務教育もそこそこに、もの心ついた時から修行修行の毎日をおくった。
 一年の多くを山に籠もり。木々を飛び、林を駆け、精神を練り、己の霊力を高め、それを呪力に変える(すべ)を覚えた。
 年端もいかない子どもの体に分不相応な高い霊力。山野にあふれる魑魅魍魎らにとっては好餌(こうじ)に見える。同い年の子どもたちが安全な家や学校で遊んでる時期、秋芳はすでに霊災を相手に命がけで戦っていた。
 同い年の子どもらが家族みんなで遊園地や旅行を楽しんでいる時、秋芳はつねに滑落の危険と隣わせの山中で滝打ち、火渡り、あらゆる忍苦の行を耐えていた。
 餓えた熊や野犬の群れと遭遇した時、ヒダル神に憑かれた時、その他あらゆる自然や霊災の猛威にさらされてきた……。
 死を覚悟したことも一度や二度ではない。
 本人の意志以上に、才能の有無が実力を決める。というのが呪術界の定説らしいが、冗談じゃない。あまたの死線をくぐり抜けて修得したこの力。才能なんてチンケな言葉でかたづけてくれるな! と秋芳は言いたい。
 そして長い山籠もりを終え、里に帰った後に待っていたのは畏怖と嫉妬に満ちた人々の視線だった。
 優れた力も度が過ぎれば驚異や恐怖以外のなんでもない。
 父親からも怪物を見るような目で見られた。母親は早くに亡くし、顔も知らない。
 さしもの秋芳も人肌が恋しい。笑狸に出会ったのはそんなおりだ――。

「あー、ほんとうに楽しかったわ。それだけ動かせるようならもう練習の必要ないでしょ。あ……、ねぇ。あなた射覆(せきふ)はできる?」

 部屋のすみに置かれた射覆用の箱を指差して、京子はそう訊いてきた。
射覆とは箱や袋の中に入れた物がなんなのかをあてる陰陽術で、賀茂忠行という平安時代の陰陽師がこれの名人だったと伝えられる。
 また安倍晴明を彩る説話の一つに、このような話がある。

 蘆屋道満という播磨の国の法師が晴明と術くらべをするため京に現れ、二人は天皇の御前で勝負することになったのだが、その内容というのが箱の中に隠されたものを言いあてるという射覆だった。
 しかし道満はあらかじめ朝廷の役人を買収し、箱の中身はミカンが十六個だと知っていたという。
 勝負のさいに道満はミカン十六個と答え。それに対して晴明はネズミ十六匹と答えた。
 内情を知っていた役人たちは晴明の不正解・負けを告げ、箱を開けず。道満が自信満々で開けて見ると、あら不思議。
 箱の中から十六匹のネズミが飛び出して来たそうな。
 この後、負けを認めた道満は晴明の弟子になったという――。

「ああ。できることはできるが、そんなに得意じゃないな」
「ちょっとやって見せて」
「よし、じゃあむこうをむいて目をつぶっているから、なにか入れてくれ。先に言っておくが俺にバレないように入れるんだぞ。射覆の術はやると決まった時から始まっているんだ」
「のぞき見するのも術のうち、でしょ。わかってるわ」

 陰陽術の教本に載ってある射覆の項にはそういう一文がある。京子はそのことを言っているのだ。
 後ろをむいた秋芳だが、言葉通りに目を閉じることはしなかった。八方目を使い顔を動かさずに窓ガラスに映る京子の姿を観察する。
 ズルだ。
 だがこれもまた一つの呪術。乙種呪術である。
 部屋の棚の中には射覆用に使う小道具がいくつか置いてある。京子はそれらをしばらく物色してから、ある物を箱に入れフタをした。

「さ、あててみて」
「うむ」

 京子が箱に入れたのは、「さるぼぼ人形」だ。なんでそんな物がこんな場所に、と一瞬思った秋芳だったが、あれも魔除け厄除けの呪具といえなくもないので、陰陽塾にあっても確かにおかしくはない。

「真っ赤なさるぼぼ人形」
「はい、ハズレ♪」

 京子がフタを取って横に置く。箱の中には白いハンカチが一枚あるのみ。

「なぬ!?」
「ふふ、あなた窓ガラスごしに見てたでしょ。それがわかったからひっかけたの。大成功ね」
 赤くて目立つさるぼぼ人形を見つけた瞬間に思いついた。式符を人形に変化させて入れる時に、こっそりハンカチを忍ばせる。フタをした後で式符の変化を解除してフタの裏側に貼りつかせ、あたかも最初からハンカチが入っていたかのように見せたのだ。
 ちょっと調べればすぐにわかるトリックだが、言いあてにハズレたのは事実だ。

「ねぇ、真面目な話。こういうのじゃなくて、正真正銘。ほんものの射覆ってのはどういうものなの? 透視するわけ?」
「あれは透視ではなく見鬼の一種なんだ。対象の気を感じ見て、それがなにかをあてる。どんなに距離が離れ、物で塞がれていようが、対象が生物だろうが無生物だろうが、すぐれた見鬼はそれを知ることができる」
「そんなことが……」
「できるんだ。理屈の上じゃね。これに関しては俺なんかより倉橋塾長に訊いたほうが良い。彼女はそっち方面のプロだから」
「前に訊いたわ。でもまだ早い。こういうのは段階を踏んでおぼえていくもの。って教えてくれなかったの」
「そういや射覆の授業は二年からだな」
「でも一年でやるのは基礎的なことだけだし、正直退屈なのよね。どうせならすぐにでも、もっと専門的なことを学びたいの」

 春虎あたりが聞いたら卒倒しそうな科白だ。なんとも優等生らしい。

「射覆に関してはひたすら見鬼の力を磨け。としか言えないな。小手先の技術どうこうでどうにかできる類の術じゃないし」
「そう…、まぁいいわ。ちょっとあたしもやってみるから箱になにか入れてちょうだい」
 それから何度か射覆に挑戦する京子。秋芳の方もふざけずにつき合う。わかりやすいよう、色が濃かったり形に特徴のある物を入れてあてさせる。達人は紙に書かれた文字まで読み解くとされるが、さすがに初心者レベルでそれは無理だ。

「賀茂の口伝に『年毎に咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを』という歌がある。実体のある物ではなく、対象の〝気〟そのものを感じるんだ」
「…なかなか含蓄のある歌ね。わかったわ」

 京子の正解率は悪くなかった。さすがは倉橋の、星詠みの塾長の孫だと改めて実感する秋芳。気を視る力以上に勘の鋭さを感じさせる。

「ふぅ……、さすがに疲れたわ。て、もうこんな時間じゃない! そろそろ帰りましょう。なんだかあなたにつき合うつもりが、途中からあたしの方につき合わせちゃったみたいね、ごめんなさい」
「いや、そんな謝らなくてもべつにいいよ。楽しかったから気にしないでくれ」
「そう言ってくれると助かるわ」

 夕暮れに染まる塾舎。黄昏が赤い影が落し、独特の陰影が廊下を彩る。
 昼でも夜でもない狭間の時。陰と陽が入れ替わるわずかな刻。
 逢魔が時。陰陽師ならば警戒し忌避すべきこの魔性の時間帯が、秋芳はきらいではない。

「さっきの映画の話なんだけど」
「うん?」
「明日の祝日に観に行くわ」
「それは良い。思い立ったが吉日だ」
「でね、思い出したんだけど、あたしって他の塾生よりもあなたに一日早く出会ってるでしょ」
「ああ、そうだな」
 忘れもしない。秋芳が京子と出会ったのは入塾前日の代々木公園でだ。
「でも、あたしあの時にあなたの名前を聞きそびれてるの」
「そういえば、そうだったかもな」
「みんなより一日早く会ってるのに、名前を知ったのはみんなと同じ。な~んか納得できないわ」
「まぁ、わかる気がする」
「一日ぶんの遅れを取り戻してバランスとりたいの。あなたも明日つき合って」

 その理屈はいまいちわからない。だが、予定もないのに女の子からの誘いをむげにする理由もない。まして相手は倉橋家の才媛。こんなお嬢様と同じ時を過ごせるだなんて実に幸運なことである。

「喜んでつき合うよ。……デートだと思っていいのかな?」
「ええ、そう思ってもかまわないわよ。あ、でも笑狸ちゃんも一緒に行きたいて言ったら置いてきちゃダメだからね。そんなのかわいそうじゃない」
「十中八九ついてくるぞ、あいつ」
「かまわないわ。三人でデートしましょ♪」
 それはデートといえるのだろうか? つうか夏目を誘わなくていいのか?
 そんな疑問を抱かずにはいられない秋芳であったが、同級生と一緒に休日を過ごすというのは今まで経験がない。純粋に楽しみだ。細かいことは考えないようにした。





 夜。
 陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。

「ボクも行くよ」

 案の定、笑狸はそう言った。

「俺が倉橋のお嬢様と二人きりの時を過ごす邪魔をするつもりか」
「邪魔するつもりなんてないよ。ただ一緒にいるだけ」

 人、それをデートの邪魔という。
 だが、秋芳は笑狸の同行をあっさりと認めた。

(あの感じだとむこうも『恋愛感情ありの二人きりのデート』を求めてるわけじゃなさそうだし、まぁいいか)

「わかった。好きにしろ」
「は~い。……それじゃあ、さ」
「うん?」
「秋芳、オ○ニーしちゃう★」
「『オ○ニーしちゃう★』じゃねえよっ! なに藪から棒にとんでもないこと言い出すんだおまえは!」
「『ナニ藪から棒』て、なんか卑猥な言葉だね」
「卑猥なのはおまえだよ!」
「だってデートの前は抜いとけって、キャメロン・ディアスの映画であったじゃない」
「あー、あったな『メリーに首ったけ』だっけ? あのシーンは笑えたわ」
「だからボクが久しぶりに秋芳が抜くのお手伝いしてあげる♪」
「いらんわ。つうか『久しぶり』てなんだ『久しぶり』て。久しいもなにもおまえとそんな行為したことなんか過去に一度もない! 誤解を招くような言いかたはよせ」
「誰に化けてして欲しい? ヴァネッサ・パン? エリン・ハザートン? ケイト・アプトン? それとも……、ボクとこのままでしちゃう?」
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令(オーダー)!」
「むにゃっ!?」

 教科書に載ってあった誘眠の術。今まで使ったことのない汎式陰陽術だが、ものの試し。笑狸を黙らせるついでに使ってみた。
 目の前に呪符をかざされ、たちまち昏倒する笑狸。

「まったく、とんだ色狸だ『東京レイヴンズ』は健全なライトノベルだぞ。エロ・下品な話がしたいなら〇〇や××の世界にでも行け」
「う~ん、むにゃむにゃ。……ダメでしょイッセー、お●んぽこんなにエレクトさせて来たら、あらあらうふふ、イッセーくんのおペ●ス逞しすぎて、お姉さん壊れちゃう」
「いや『ハイスクールD×D』だってそこまで露骨な表現してないからね! つかおまえ起きてるだろ、俺の術に抵抗しただろ!」
「……えへへ、狸だけに狸寝入り?」
「上手いこと言ってんじゃねぇよ!?」

 その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。
 

 

憑獣街 1

 新宿御苑の一角。

「うん、悪くなかったわ。あなたの言うとおり音楽とダンスのシーンが素敵だったわね」

 映画館から出た後。人、人、人。人のごった返す雑踏を抜け、都内でも屈指の大庭園で息抜きをする秋芳、笑狸、京子の姿があった。

「そうか、退屈しないですんだのなら良かったよ」
「主役の子、アレックスてば凄いわよね。昼は工場で、夜はバーで働きながらプロを目指してるなんて、バイタリティあり過ぎ。あたしも負けてられないわ」
「でもあの子ってエロっ子だよね~。レストランのシーンのアレとかさ」
「もう、笑狸ちゃんてば、どこに注目してるのよ」
「秋芳はああいうの好き?」
「俺は服を着たままブラを外すシーンにグッと来たな」
「変態!」
「変態!」

 芝の広がるイギリス風景式庭園。バラの花壇とプラナタス並木を中心とするフランス式整形庭園。和の気品あふれる日本庭園――。
 水と緑のあふれる庭園を三人でぶらぶらとそぞろ歩く。
 そう、三人で。

笑狸(こいつ)以外の誰かとこうして話しながら歩くのはひょっとすると始めてなのかもな。なんだか不思議な気分だ)
「……ねぇ、あたし新宿御苑て始めて来たんだけど、ここってとっても良い気が満ちてるのね。すごく綺麗」
 陰陽師の見る世界は常人が見ることのできる世界とは異なる様相をもつ。
 見鬼の力を持つ京子には、あたりに満ちる気が清らかで澄んだものとして「視」えた。

「さもありなん。なにせここは四神相応の地に通じる造りをしているからな」
「え? そうなの?」
 
 東に川(青竜)
 西に大きな道(白虎)
 南に大きな池や溝(朱雀)
 北に山(玄武)
 御苑の中央休憩所から見た場合、東には川ではないが上ノ池。西には御苑で唯一の駐車場。北にはツツジ山とモミジ山。南には京都の朱雀門を想起させる旧新宿門衛所がある。
 かならずしも場所や地形が一致するわけではないが、見立てや連想といった〝呪〟をもちいればそう見える。
 また北東・鬼門に位置する菊栽培所は立ち入り禁止区域になっており、裏鬼門・南西には玉藻池という、有名な妖怪を連想させる池が広がるのも、なにやら意味深で面白い。

「どうりで気持ちが良いわけね。ここになら一日中いてもいいくらい」
「いるだけで身心が清められるような気がするしな」

 しばらく散策し、軽く食事をした後、帰る途中の街中。

「あれ? 夏目君!? キャー、どうしたの、こんなところで?」
 
 声を上げる京子。
 見ればそこには夏目に春虎、冬児、天馬。それともう一人、秋芳の見知らぬ少女の姿があった。
 なぜか額に札を貼られ、冬児に背負われている天馬。なにかの罰ゲームだろうか?

「倉橋っ?」
「冬児? 天馬もなにしてるのよ? あ、そういえばメール来てたっけ。返信するの忘れてたわ」

 あっけらかんとみんなの顔を見まわすと、少女に声をかける。

「あら珍しい、木ノ下先輩? またそんな格好して……。まさか夏目君にちょっかいだそうって言うんじゃないでしょうね? ダメですよ。夏目君は純粋なんだから、いつものノリで惑わしちゃ!」

 木ノ下先輩と呼ばれた少女。肩のあたりでそろえられた柔らかな質感の茶髪に、派手にならず、それでいてしっかりとメイクされた目元。シンプルなデザインの白いコートと黒いレギンスが清潔そうな雰囲気を出している。

(笑狸に似てるな)

 笑狸がいつも化けている定番の姿。秋芳はそれに似た印象を受けた。

「きょ、京子ちゃん!?」

 びくぅ!

 漫画のように身を震わせ、不思議なほどの動揺を見せる木ノ下。

「おまえら知り合いなのか?」 

 と、驚きの声をあげたのは冬児だ。

「先輩? まあね。化粧品の相談とか乗ってあげてるの。だからほら、すっごく可愛いでしょ? 男とは思えなくない?」
(なんだ、男だったのか。しかし確かに可愛いな。綺麗・美人というよりは可愛い・可憐。そんなタイプだ。これで巨乳の女だったら良かったのに)
(秋芳はおっぱいが大きければそれだけでいいんでしょ)
(人の心を勝手に読むんじゃない)

 そんなやり取りをする二人をよそに、春虎、冬児、夏目らが呆然としてた表情で声をもらす。

「「「は……?」」」

 場に妙な空気が流れ、一瞬の沈黙が走る。

「な、なによ」

 それを破ったのは少女。否、木ノ下先輩と呼ばれた少年だ。

「なによ、なによ、なによっ!? なによ! 悪い!? いまや『男の娘』は、社会権を得てるんだからね! 誰かのことを好きになったっていいじゃない。非難されるいわれなんかないんだから!」

 木ノ下少年が唾を飛ばして主張する中、茫然自失とする春虎。虚脱状態の夏目。放心した冬児が背負ってい天馬を落とし、いつの間にか穏形を解いたコンが主と同じような表情を浮かべ、立ち尽くしている。
 どうも京子はこの場で言ってはならないことを口にしてしまったようだ。

「あ……、あら~」
 
 そうと気づいて思わず自らの口元を押さえる。

「……なによ……なによ!? いいじゃない、男でも! こんだけカワイけりゃ文句なんかないでしょ!? そうよね、そうよね! 春虎君!? ねぇっ!」

 木ノ下少年が春虎に詰め寄るも、まだ衝撃から覚めず、ただの屍のようになっている。
 ふたたび沈黙が支配する。

(ふぅむ、これはあの少年が女子と偽り春虎と良い仲になろうとしていたところ、京子が真実を告げてしまったクチか)
(人間は不便だよね~、ボクみたいに完璧かつ自由に男女に変化できなくて。……て、あれ? あれれ?)
(どうした?)
(夏目っちの匂いが、前とちがうような……。これって……)

 動物系使役式の嗅覚は鋭い。においで様々な情報を得ることができる。

「木ノ下先輩。いままで……すみませんでした」

 その夏目が潤んだ瞳で木の下に語りかける。

「……わかります。とてもよくわかります。ぼく、先輩のこと誤解してました。まさか先輩も『同じ』だったなんて……。木ノ下先輩。ぼく、感動しました! まさか先輩にもそんな事情があったなんて! いままでのことは謝ります。先輩の友達にしてください!」
「は? は、はぁっ!? 冗談じゃないわ! 私は、私よりも綺麗な子なんかと仲良くしたくないの!」
「そんなこと言わずに!」
「いやよ、いやったらいや! 春虎君、助けて!」
「え、え~っと」

 いまいち事態をのみ込めない京子が人差し指を軽くおとがいにあてて冬児に問いかける。

「どうしたの、これ?」
「帰る」

 天馬を担ぎ直した冬児の口からは、ただひと言。それだけだった。





 木ノ下純は怒っていた。涙が出るくらい、怒っていた。
 なによ悪い! いまや男の娘は、社会権を得てるんだからね!
 男の娘が男の子を好きになったっていいじゃない!
 誰かに非難されるいわれなんかないんだから!
 木ノ下純は悲しかった。涙が止まらないくらい、悲しかった。
 最初はあんなに嬉しそうだったのに、男だとわかったら態度が変わるのはなんで?
 男の娘だと好きになってくれないの?
 なんで男の娘だとダメなの?
 木ノ下純は怒り、悲しんだ。
 ちがう。
 そうじゃない。
 わかってる。
 私が男の娘じゃなくても春虎君は――でも女の子だったら――土御門夏目――私より綺麗で可愛い男子――私が本物の女の子だったら――夏目君――土御門の天才――私だって――私が――だったら――春虎君だって――私が――だったら――が――……。
 変わりたい。
 なりたい。
 なんで私は――じゃないの?

(なら変えてやろう)

「え?」

 声が、聞こえた。

(変えてやろう)
 
 ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー

 生臭い、獣の息遣いがただよう。
 路地裏の奥から、ふたたび声が響く。

(変えてやろう)

 ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー

 路地裏? なんで私、こんな所に……。いつ来たの?
 あの後、春虎君たちと……。
 そう。そうだ。春虎君「ごめん」て言った。ごめん、て……。
 私じゃあ……、今の私じゃあダメだなんだ……

(変えてやろう――)

 ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー

 声が、響いた。
 頭の中で。
 木ノ下純の頭の中に、なにかが入った瞬間だった。

 ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー

 獣の気配が、あたりに満ちた――。





 薄暗い部屋の中。
 あきらかに屋内にもかかわらず土がむき出しになっている。
 その地面から首が生えてた。
 人の首ではない。獣の、犬の首だ。
 体を土中に埋められているのだ。

 ぜーぜー、ひゅーひゅー、ぜーぜー、ひゅーひゅー。

 目を血走らせ、荒々しくも弱々しい呼吸を凝り返す。
 弱っているのだ。
 何日も食事を与えられず、死が迫っている。
 一人の男が歩いてきた。齢は三十前後。背広姿の、どこにでもいる企業勤めのサラリーマン。といったいでたちだが、服からのぞく顔と手にある生々しい火傷の痕が痛々しい。「ちょうどいい塩梅だな」
 衰弱しきった犬の姿を見て、火傷だらけの顔に満足そうな笑みを浮かべる。
 男は一度部屋から出ると、すぐに戻ってきた。手には血のしたたる生肉とノコギリが握られていた。
 生肉を犬の前に置く。

 ぜーぜー! ひゅー! ぜーぜー! ひゅー!
 
 犬の首が大きく動く。目の前の肉塊に食らいつこうと何度も歯を噛み合わせる。
 最後の力を振り絞り、飢えを満たそうとする犬の首に男がノコギリの刃をあて――。
 引いた。

 ぜー! ぜー!

 引いた。

 ぜー! ひゅー! ぜー!

 引いた。

 ぜー ぜー ぜー ひゅー

 男は無言でノコギリの柄を握り、引き続ける。
 刃が肉を裂き、血が飛沫をあげる。その一回一回ごとに犬の声が弱くなる。
 やがて犬の声も聞こえなくなり、ノコギリを引く手が止まる。その瞬間、犬の首が生肉目がけて飛んだ。
 切断面からはおびただしい量の血が、否。黒い霧のようなものが、瘴気が吹き出ている。
 恐ろしい形相で肉に食らいつき、息絶えた犬の首からあふれる瘴気。
 霊災だ。その段階はすでにフェーズ2の域まで達している。
 男はみずからの手で霊災を作り上げたのだ。

「……準備はできた。陰陽師どもめ、次はおまえらの首を刈ってやる」

 ニヤリと、男がふたたび笑みを浮かべた。口が、耳元まで裂け、異様に発達した犬歯がのぞく。
「かつては国家の存亡をも操ったというわが犬神筋の力。それを〝外法〟呼ばわりし、排した愚かさを悔やむがいい。そしてわが犬神筋の復興に役立てることに、感謝するがいい」

 男はそう言いながら瘴気をまき散らす犬の、犬だったモノを両手でつかみ、強く抱きしめた。

「まずは陰陽塾。忌々しい陰陽師どもの卵から、たいらげよう――」





 陰陽塾。
 テストの終了を告げるチャイムが鳴ると、塾生たちのため息がいっせいにもれ、張りつめていた教室内の空気がたちまち弛緩する。
 笑いと私語。喧騒に包まれる中で、机に突っ伏して燃え尽きる生徒が一人。土御門春虎だ。

「抜き打ちテストとか、聞いてねーぞ……」
「そりゃあ事前に知らせたら抜き打ちじゃなくなるじゃないか」
そう答えたのは隣の席のもう一人の土御門。艶やかで美しい黒髪と白皙の美貌があいまって、まるで美少女のような美少年。土御門夏目だ。
「春虎、今のテスト――」
「言うな、聞くな、見るな!」
「どこのお猿さんだよ、もう……。ねぇ、どこがわからなかったの?」
「だから聞くなって」
「じゃあ、いくつわからなかったの?」
「ぜ、ぜんぶ……」
「は、春虎~」

 春虎の情けない返事に、夏目まで情けない声を出す。

「いいかい春虎、テストの問題なんてのは授業で教えた範囲内からしか出さないものなんだよ。きちんと授業を聞いて要点さえ記憶していれば、あとはそれを応用するだけ。テストなんて要領さえ良ければ、いくらでも得点できるんだからね!?」
「ぐはぁっ」
「とどめのひと言だな、優等生」

 はたから二人のやり取りを見て、そう苦笑するのは阿刀冬児。こちらはテストの結果にはそれなりに自信がありそうだ。
 そして夏目と双璧をなすもう一人の優等生、倉橋京子が賀茂秋芳に声をかける。

「……バカ虎はあいかわらずね。あなたはどう? 陰陽塾(うち)のテストは始めてでしょ、どうだったかしら?」
「ああ、話には聞いていたが、問題文というのは本当に偉そうな文章なんだな」

 塵も積もれば山となる。一文字一文字のインク代もバカにはできない。
 『~を解け』『~を解いてください』『~を解いていただけませんでしょうか、よろしくお願いします』では全然ちがう。

「だから環境やコストのことを考えれば、ああいう文章になるのはしかたがないとはいえ、いい気はしないな」
「……それで内容のほうはどうだったのよ?」
「ん~、まぁ、だいたい合ってると思うよ」
「ふぅん、じゃあ軽く答え合わせしてみましょう。あたしも少し不安なところがあるから」
「ああ、つき合おう」
「卜占の問〇〇、式盤をもちいた六壬神課の手順を次の番号の中から正しい順番通りに選び、並べよ」
「順に5、7、2、6、9、4。関係ないものが四つも混ざってて、まぎらわしかったが、まず時刻の十二支から天地盤を、続いて四課を出し、天地盤と四課から三伝――、てのをおぼえときゃ、間違わないはずだ」
「あたしも同じね、あと厭魅の問〇〇――」
「それぞれ人形を矢で射抜く仙法(そまほう)、鈍器で叩く天神法、針や釘で刺す針法」
「巫蠱の問〇〇――」
「ええと、金蚕蠱(きんさんこ)
「風水の問〇〇――」
「んー、演禽風水?」
「え? 河洛風水じゃ……」
「む、どっちだ? 俺も不安になってきた」
「じゃあ最後の陰陽道について自由に書けってやつ、なに書いたの?」
「風水的見地から見た新宿の地相について」
「奇遇ね。あたしは渋谷について似たようなの書いたわ」
「おい! そこの! 二人! イヤミかこのヤローッ!」
「なによ、うるさいわねバカ虎。自分が勉強不足で赤点確実だからって『できる人』たちにあたらないでくれる」
「ぐぬぬ…」
「あはは、春虎君おちついて、おちついて」

 割って入ったのは眼鏡の好男子、天馬だ。

「今日の午後の授業は実技だけだし、そこで汚名返上しようよ。ね?」
「お、おう。そうだな天馬」

 秋芳が入塾して一週間と少し。土御門夏目、春虎、阿刀冬児、百枝天馬。そして倉橋京子。これらのメンツとはすっかりなじみとなった。
 彼ら以外のクラスメイトとはあまり接点がないが、そのへんの溝は笑狸が埋めてくれている。なんだかんだで頼りになる伙伴(パートナー)なのだ。





 地下呪練場。
 スタジアムを彷彿とさせる造りで、中央の競技場を囲むように観覧席が並んでいる。奥に設置されてある祭壇には様々な呪的機能があるという。
 競技場内で蒼いツバメのような外見をした式神が大量に飛び交っている。
 『モデルWAI・スワローウィップ』ウィッチクラフト社製の捕縛式だ。
 捕縛式といっても今はその機能はOFFにされて、ただ中空を漂うのみ。これらに呪符をあてるというのが授業内容だ。

「みんな午前中の抜き打ちテストで疲れたやろ? 午後の授業は息抜きや。レクリエーションだと思って、きばるなり休むなり、好きにしたらええで~」

 という講師の言葉に甘んじて、観覧席で見学に徹している生徒の姿も多い。
 飛び回る的に矢継ぎ早に呪符を投げ打つ春虎。全弾命中。とまではいかないが、三回に二回はあてている。なにより、符を打つのが速い。

「お、速いじゃないか。どこでおぼえたんだ、そんな芸当」
「へへへ~、自己流さ。でも様になってるだろ?」
「ああ、確かに様に――おおッ!?」
「ん、どうした秋芳?」
「見てみろ、天馬の打ち方。なんだ、あの角度は、かっこいいじゃないか」
「え? あ、ほんとだ……。なにあの後ろ向きからの呪符打ち。スタイリッシュ!」
「スタイリッシュ!」
「よし、俺もちょっと試しにジョン・ウー映画っぽい感じで打ってみるか……」

 秋芳、両手に呪符を持ち、交互に投擲するのだが……。

「う~ん、イマイチだな」
「なにかが足りないよな」
「白い鳩……、いや違う。横っ跳びだ!」
「横っ跳び?」
「そうだ春虎。俺と同時に横っ跳びして呪符を打ってくれ」
「お、おう」
 秋芳と春虎。二丁拳銃ならぬ二丁呪符をかまえて横っ跳びに呪符を打つ。
「お、今のは良い感じゃないか?」
「イテテ…、でもこれだと地面に横腹から落ちていてぇよ」
「ちゃんと受け身をとればいい」
「この体勢じゃできねぇよ! つかなんでアンタはそんな簡単に着地できるんだよ!」
「いや、俺はちゃんと体術の修行もしてるから。だがたしかに万人向けじゃないな」
「もっと普通にかっこよく打とうぜ」
「あっ」
「ん?」
「今ふと思いついたんだが『男たちの挽歌3 アゲイン/明日への誓い』のあのシーンみたく、ジャンプしつつ足に隠し持った呪符を抜いて打つってのはどうだ?」
「いや、あのシーンて言われても。おれその映画知らないし……。でもそれかっこよさそうだな」
「ええとだな、こう呪符を足んとこに仕込んで……」
「こらぁッ! バカ虎」

 突如割って入って来たのは京子だ。

「あんたなに秋芳君にバカなことさせてるのよ!」
「え、おれっ!? おれのせいなのっ!? なんでおれが秋芳にやらせてるように見えてたのっ!? おかしいよね?」

 春虎の言葉を無視して競技場のすみにまで秋芳を引きずって行く。

「まったく、あいつのペースに合わせてバカやることなんてないのよ」
「いや、今のはむしろ俺のほうがバカなことにつき合わせていたと思うが…」
「じゃあ今度はあたしに真面目につき合ってちょうだい。呪符の打ち方について教えて」
「そうだな……」

 呪符の多くは紙で作られており、これは物理的に投げても飛距離が限られる。呪力をもちいて飛ばす、いわば呪力射撃とでもいうべきスキルが必要だ。
 呪術の使用では結果をイメージする力が重要とされるが、現実ではボールもまっすぐに投げられないような者が、ただ想像力だけで補うには限度がある。実際の投擲術を身につけ。
 『こういうふうに投げれば上手く飛ぶ』『普通に投げても命中する。まして呪力を込めたのだから百発百中』
 そのような考えを頭になじませる。これが呪術射撃の第一歩だ。

「――というのが賀茂の教えにあり、まず最初に印字打ちを習ったものだが、陰陽塾ではそういう教えはないみたいだな『呪力を込めて投げる』純粋にそれだけだ。実に無駄がない」
「でも、そっちの教え方にも一理あるわよね」
「一理だけね。アレをする前にコレをおぼえとくと良い。アレを学ぶならコレも必須だ。そういう前提条件なんて言い出せばきりがないし、前に大友先生の言っていた『無駄のないカリキュラム』には必要ないんだろうな」

 秋芳が陰陽塾に通い始めて一週間と少し、ここの教え。土御門夜光の創ったこんにちの陰陽術は実に洗練されていると実感している。

 俗にてっとり早くケンカで強くなるにはボクシングが一番とされる。
 手技ひとつを集中して学ぶため、蹴り技、関節技や投げ技など。おぼえることの多い総合格闘技や、型稽古にも時間を割く空手などにくらべ格段に上達が早いからだ。
 ケンカなんて相手の顔面をぶん殴ればそれだけでけりがつく。顔は鍛えようがないし、普通の人間は鼻が潰されたり歯を折られれば、それだけで戦意を失くす。
 人の上手な殴り方を一つおぼえれば、百の技など修得する必要はないのだ。
 そういう意味ではボクシングというのは実に洗練されたケンカ技術といえる。
 悪い例え方かも知れないし、見当違いな考えなのかも知れないが、陰陽塾の教えには、そのような理屈に通じるものがあると思う秋芳だ。

閑話休題。

「じゃあ呪力を込めて投げて、的に上手くあてるコツは?」
「集中あるのみ。いまさら君に教えることなんてないよ、じゅうぶん上手に投げてるじゃないか」

 京子は幼い頃から塾長を始め、プロの陰陽師たちから日常的に呪術の手ほどきを受けて育った、いわば陰陽師のサラブレッドなのだ。

「そう…。ねぇ、じゃあどっちが多くあてられるか、勝負しましょう。制限時間は五分ね」

 そう言って壁にある時計を指さす。

「よし、わかった」

 おたがいに手持ちの符を構えて周囲を見渡すと、秋芳の視界に夏目の姿が映る。

(そういえば笑狸が気になることを言っていたな)

 きのうのデートの帰りの時だ。夏目の体から女の子の匂いがする、と――。
 化け狸の嗅覚は鋭い。その鋭敏な鼻をして、夏目は男のにおいの時と女のにおいの時がある。そう言っていたのだ。
 不思議なことにそう言われると夏目という人物が女子に思えるようになった。
 いや、女の子にしか見えない。
 華奢な身体に艶やかな黒髪と桜色の唇。白皙の美貌やどこか高く柔らかな声といい、あれで男子というのは無理がある。
 あまりにも無理がある。
 なぜ今まで疑問に感じなかったのか?

(奇妙な話だ。どれ、少々強めに見鬼()て、気を探ってみるか)

 男性は陽の、女性は陰の気をおびている。見鬼により男女を見分けることが可能だ。
 京子との呪符投げ勝負を続けつつ、片目をつむり見鬼を凝らす。ちなみに呪禁術においては目をもちいる呪を総称して営目と呼ぶ。
 見ることは見られること。
 視線を感じる。という言葉があるが、それはまさに相手を意識して見ることで、こちらの気も視線を通じて向こうに伝わってしまっているのだ。
 呪術になじみのない一般人でもそのような経験はあるはずだ。まして呪術の心得のある者の気を気づかれず探るというのは、なかなか難しい。
 穏形して視る。あるいは今のような場の喧騒にまぎれて視れば気づかれにくいと判断し、改めて見鬼たわけだが――。

(陰の、それもずいぶんと大きな気に包まれているが……、竜か! 竜の護法式とは、さすが土御門。豪勢だなぁ。…う~ん、こうして見ると夏目自身も陰の気を帯びた女にしか見えないのだが、奇妙なことだ)
 
 どこか釈然としない。
 ついでに周りも見渡して見る。

(京子の近くに気配が二つ。これは白桜と黒楓だな)
(春虎のやつ、霊力だけはアホみたいにあふれてるなぁ。ダダ漏れじゃないか、もったいない。こんど制御する方法を教えてやるか)
(冬児は身の内になにか潜ませているな。憑依型の式神か? あいつもなかなかどうして、秘密があるみたいだな)
(あ、眼鏡が浮いている……。天馬か)

 生徒たちにくらべて講師たちはさすがに高い霊力を持っている。だがその中でひときわ異彩をはなつ人物が一人。

(……大友陣。あるかなしかのわずかな霊気しか感じないが、故意に、それでいて自然体で隠してやがるな。素でこうなら穏形したらまさに闇夜にカラス、雪にサギ。見つけるのは困難だ)

 講師の大友陣。聞けばもと呪捜官だったそうだが、それにしても気を隠すのが上手い。秋芳が現場で「すれ違った」ことのある祓魔官や呪捜官にも、ここまで巧みな者はいなかった。

 そうこうしているうちに手持ちの符が尽きた。と同時に周りから拍手が起こる。

「二人とも凄いコンビネーション!」
「まるでペアダンスみたいだった!」
「あっという間に射ち落としちゃっじゃない!」

 二人で競っていた呪符投げだが、どうも外野には連携して呪符を投げていたように見えたらしい。
たしかに京子が射ち損じたのを、秋芳がすかさず討ち、その逆のパターンもあったので、はたから見たら、そう見えなくもない。

「…なんか、今の動き、良い感じだったわ。なにかがつかめそう」

 京子は京子で感じ入るところがあるようだ。
「おー、秋芳クンも京子クンも巧みやないの。よっしゃ、ほなせっかく捕縛式を用意したんやし、お次は穏形の実技でもしてみよか? みんな上手く隠れるんやで~」

 こうして大友の提案で時間いっぱいまで穏形の訓練がなされ、その日の授業は幕を閉じた。





 倉橋家は陰陽道の名門、土御門家の分家であり、主家である土御門家が没落してからは土御門家に代わり呪術界を牽引する役割を担ってきた。
 前当主は多数の陰陽師を世に輩出し続けている陰陽塾の塾長、倉橋美代。
 現当主は陰陽庁の長官と祓魔局の局長を兼任している倉橋源司。
 倉橋家の存在は極めて大きく、こんにちの日本呪術界を代表する一門だ。
 そう、倉橋京子は名門のご令嬢、貴婦人、姫、公主――。
 つまりはお嬢様なのである。
 そんな京子が供もつけずに夜の街を早足に歩いていた。
 時刻は八時前。こんな時間に一人で出歩くことなど珍しい。
 夜間にふらふら出歩くような子ではない京子には、最初から門限などいうものはない。そんなものをわざわざ作る必要などないのだ。
 ちなみに京子は毎朝祖母と共に車で陰陽塾へ通い、帰りも家の車で帰宅し、習い事など外出のさいにもほとんど車で移動する。
 京子としては電車で移動するほうが気軽なのだが、その立場上、防犯面の理由で車による移動がどうしても多い。
 ではなぜ今夜に限ってこうして夜歩きしているかというと、愛読している少女向けコミックがゲーム化し、それが発売されたからだ。
 普段はゲームなどさして興味のない京子だが、原作者自らの手によるイラストとシナリオ。それの画集つき限定版とあっては話は別。
 人に頼むのも気が引けたため自身の手で購入し、帰路についているところだ。
 ちなみにこの少女向けコミック。京子の祖母もお気に入りで、読んで『年甲斐もなくちょっとドギマギしてしまった』そうだ。

「おい、ケンカだケンカ」

 周りからそんな声が耳に入る。

(やーね、酔っ払いかしら)

 どうせすぐに警察がきて取り押さえられる。無視して歩を進めようとした京子だが、妙な気配が彼女の後ろ髪を引いた。
 ふり返ると路地裏へ抜ける道の前に人だかりが、野次馬の群れが見える。
妙な気配はその路地裏。乱闘現場から漂ってくる
 京子の第六感が、この気配は呪術がらみだと告げている。

「すみません、ちょっと通して」

 遠巻きにしている野次馬の間を抜けて路地裏に入る。意外に広い。
 見ると一人の女性を五人の男たちが取り囲んでいる。新宿や渋谷にならどこにでもいそうなストリートファッションの若者たちだが、驚いたことにさらに五人の男らが地面に横たわっていた。あの女性が倒したのだろうか?

「木ノ下先輩!?」

 女性の姿を見た京子の口から思わず言葉がもれた。
 木ノ下純。ついきのう春虎のデート騒動で会ったばかりだ。
 彼女、いや彼はなにかの包みのような物を大事そうにかかえている。

「京子ちゃん!?」

 向こうも京子の姿に気づく。
「あなたたち、なにしてるの! すぐに警察が来るわよ!」

 京子が声を上げるが、男たちはまったくの無反応で純に襲いかかる。
「ちょっと! ああ、もうっ。邪魔っ」

 どうしよう?
 こんな連中蹴散らすのは簡単だが、街中で陰陽術を軽々しく使うわけにはいかない。
 現代呪術の代名詞である『汎式陰陽術』の使用はプロの陰陽師にしかゆるされない。
 陰陽塾の塾生はこの点が免除されているのだが、だからといって無条件で使うわけにはいかないのだ。
 まして白桜や黒楓といった式神を一般人相手に使用するなどもってのほかだ。
 京子が逡巡していると、純の口から呪文が漏れる。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前」

 九星九宮の早九字を唱え、刀印を結んだ指先が宙を切る。
 縦に四回、 横に五回。直線で九字を切る、ドーマンと呼ばれる陰陽術だ。
 籠の目状の光が男たちの間を走ると、彼らはまるで電気に打たれたかのように体をびくりと震わせ、次々と地に倒れる。
 京子はまず純が陰陽塾を使ったことに驚き、次に早九字で男たちが昏倒したことに疑問をおぼえた。あれは邪を退け、魔を祓う。霊災修祓の術であり、生身の人間にはなんの効果もないはずだ。そう、生身の人間には……。

「京子ちゃん。お願い、来ないで!」

 そう叫び、脱兎のごとく走り去る純。
 なんだなんだと言う野次馬たちの喧騒の中には、純の使った呪術に言及する声は聞こえない。彼らにはなにが起こったか理解できないのだろう。
 見鬼の力を持たない者には、ドーマンを行使した時の光も見えてないはずだ。

「もうっ、ほうっておけるわけないじゃない……」

 もとより世話好きのお姉さん気質だ。
 京子は純の後を追いかけた。
 その直後。地面に横たわる十人の体から、立ち上る瘴気に気づくことのできた人間は、この場にいなかった――。





 路地裏のさらに奥の奥。
 京子はようやく純に追いつけた。
 これでも運動神経や体力は同世代の女子にくらべて高いほうであり、走るのも自信がある。倉橋の家に生まれたからには、文武両道をたしなまなければいけないからだ。

「京子ちゃん……」
「もう、なにがあったんです? あいつらいったい……、木ノ下先輩……。だいじょうぶですか?」

 落ちくぼんだ目、げっそりとした頬、荒い息。あきらかに憔悴している。
 化粧も落ちたその顔はしかし、精悍で普段のガーリーな装いとは別のワイルドな魅力が感じられた。

(やだ、木ノ下先輩って、かっこよかったんだ…)

 こんな状況にもかかわらず、思わずそんな考えが頭に浮かぶ京子だった。

「京子ちゃんを巻き込むわけにはいかないわ。ほうっておいて」
「もうじゅうぶん巻き込まれてます」
「でも、これ以上はもう私に関わらないほうがいいわ」

 そう告げる純の姿は、まるで追いつめられた獣のように見えた。
 怯えや不安の色がありありと見え、発言とは裏腹に助けを求める気配が濃厚だ。
 もうちょっとで説得できる。

「わけありの塾生を見捨てることなんかできません。……それ、呪術がらみですよね?」

 純のかかえる包みを指差す。

「う…」

 純が胸にしっかりと抱きかかえている包み。
 そこからはなにか得体の知れない、怪しげな気配。まさに妖気がひしひしと伝わってくる。

「それを狙われてるんですか?」
「…………」
「木ノ下先輩!」

 グルルルルルル――
 
 !?

 グルルルルルル――
 キィーッ キイキィキィーッ
 カァーカァーッ カァーッ
 ナァァァァー ナァァァァー


 突然あたりから響く、獣の鳴き声。漂う獣臭。

「な、なに?」
「そんな、ちゃんと祓えなかったの?」

 風を切って何かが二人の横を飛び抜けた。思わずそちらに目がむかう。
 首だ。
 人ではない。犬の首が空を飛んでいる。不自然に発達し、顎が閉じられないくらい肥大化した牙の間からひゅーひゅーと生臭い息が漏れている。
 一つ、二つ、三つ……。十体ほどの獣の首が周りを飛び交い、瘴気をまき散らす。
 犬だけではなく、巨大な嘴をもった鳥や、ナイフのような牙を生やした猫の首まであった。
 実体化した瘴気。フェーズ3の動的霊災の群れだ。

「やだ……、なによ、なんなのよ。これ」
 あまりにも異様な光景に血の気が引いて蒼白になった顔の京子が思わず後ずさろうとして固まった。
囲まれているのだ。逃げ場などない。

「動かないで京子ちゃん。私が、なんとかするから…」

 そう言う純の声も恐怖に震えている。
 ごうっ。
 飛び交う首の一体が牙を剥き、二人に襲いかかる。
 思わず目をつぶる京子。九字を切ろうと身がまえる純。だが――。
 間に合わない。
 獣の牙が京子の白い喉を食い破ろうと迫る。
 

 

憑獣街 2

 獣の牙が京子の白い喉に迫る。

「禁顎則不能噛、疾く!」

 顎を禁ずれば、すなわち噛むことあたわず。
 肉を裂こうとした牙はしかし、噛み合うことなく空振りし、二人の横を首が素通りする。
 今の術は!
 京子の顔に喜色が浮かび、声の主を探す。

「身命泰安、辟邪破魔。急急如律令!」

 と、さらに呪文が唱えられ、それと共になにかが周囲にパラパラとばら撒かれる。もち米だ。神聖な気が満ち、それに触れた獣首の群れは、爆ぜたように吹き飛んだ。
 それに恐れをなしたのか、他の首らも火を恐れて逃げ出す獣のように退散する。

「おお! さすが触媒を使った術はすこぶる強力だな」  

 僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年が姿を見せる。京子が予想したとおり、賀茂秋芳だった。

「秋芳君! ありがとう、助かったわ。……でも、どうしたの、こんな所で?」 
「ちょいと呪具の買い足しついでに笑狸のパシリにされてね」

 笑狸。秋芳の式神の化け狸だ。

「笑狸ちゃんのお使い? やだ、もう。どっちが式神なのよ」

 そういえば秋芳が手にしている青いビニール袋には見覚えがある。あれはついさっき京子も利用した店のものと同じでは――。

「まぁそんなことよりも『こんな所で?』はこっちの科白だ。なんでこんな場所であんなモノに襲われてたんだ?」
「ええと…」
「あなた、たしかきのう京子ちゃんと一緒にいた人よね?」
「うん? 君は……、ひょっとして……、木ノ下先輩?」
 
 一瞬。いや、数瞬ほど、誰だかわからず返答に間が開いた。

(きのうはいかにも可愛い系だったが、あれは化粧のせいか。すっぴんだとハンサム系美人な貌じゃないか。ううむ化粧ひとつでこんなに変わるとは、まさに化生。化粧とは乙種呪術だな)
「よしてよ『先輩』だなんて。だってあなた私より年上でしょ?」
「え、そうなの? 秋芳君、たしか十七歳て言ってたわよね?」 
「お、おう。いかにも、じゅうななさいだ」

 田村ゆかりよりも十三コ下の、井上喜久子さんよりも××コ下の十七歳だ。
 秋芳の物言いがおかしかったのか、張りつめていた純の表情が緩む。
 その瞬間――。

 ぐぅぅぅ~。

 空腹をうったえる音が、純のお腹から鳴り響く。

「…………」
「…………」

 純の顔が見る見る赤くなる。

「……なにか、食べるか?」
 純はコクリとうなずいた。

 焼き肉屋に入った純は猛烈な食欲を見せた。
 きのう、あれからなにも食べてないというのだから無理はない。
 最初はそう思った秋芳と京子だったが、カルビ、タン、ハラミ、ホルモン、ハツ、シビレ、ミノ……。
 肉、肉、肉。ひたすら肉だけを平らげる純の姿に声を失った。

「き、木ノ下先輩。それ、まだ生ですよ?」
「うん」

 大皿から直に口に運ぶ純の姿に京子は呆然とし、秋芳は食事中の笑狸の姿を思い出す。
 人ならざる化生の身だけあって、その胃袋は底なし。食べようと思えばいくらでも食べられるのではいかという健啖ぶりだが、それを彷彿とさせる。
 ビールでのどを潤いつつ、ふと思いついた秋芳が見鬼を凝らし、上から下から、中まで純を凝視すると――。
 半透明のケモノ耳と尻尾が生えている。

「先輩、耳と尻尾が出てますよ」
「わんっ!?」

 飛びあがり己の頭とお尻を押さえる純。

「獣の生成りになってますね。憑かれたのはあの後ですか?」

 生成り。
 霊的存在を憑依させた状態のことで、いわゆる憑き物のことだ。
 霊的存在をその身に宿すという性質上、生成りは霊災の火種。あるいは霊災そのものと見られ、生成りになった者は陰陽医の元に隔離されたり、陰陽庁の監視下に置かれた上で封印術が施され、宿した存在を押さえこむことが求められる。
 特殊な施設への隔離。監禁というやつだ。
 世間的な風あたりも悪く、もし憑依体を制御できなくなった場合は生成り自身が霊的存在へと変質や融合し、最終的にはフェーズ3以上の大規模霊災を引き起こす。
 だが封印の一部を自ら解放して宿した霊的存在の持つ力を自身のものとして使役・利用することも可能であり、強大な能力といえなくもない。
 だが自身を人ならざる存在に近づける行為であり、それゆえ人間性の喪失や自我消滅、暴走の危険も孕んでいる。

「そうよ。あれからあいつの蠱毒に、犬神に憑かれたの」

 蠱毒。
 蠱毒とは虫や動物を使う呪術の一種で、皿に盛ったり壺の中に入れたたくさんの毒虫を殺し合いさせ、最後に生き残った最も強く、そして他の虫たちの恨みの念が凝縮された個体を使って行われる呪詛だ。
 多くの生物を生け贄にし、それを形代にした式神の一種。
 こんにちの汎式陰陽術では呪詛式と呼ばれる式神にあたるが、これを陰陽庁の許可なく、作成・使役することは陰陽法で固く禁じられている。
 たとえ実際に効果が認められない民間伝承やまじないといった、乙種にふくまれるものであってもだ。
 陰陽塾の生徒にはことさら説明するまでもない。

「不覚を取ったけど私だって陰陽塾の二年生よ。意識を完全に乗っ取られる寸前に逆にこっちが犬神を取り込んでやったの」
 
 純のこの言葉に嘘はない。今さっきの見鬼で、他者の支配を受けているような気配は感じられなかったからだ。

「まぁ、完全に制御できてるとは言えないけど……。で、その時に火怒呂(ほどろ)の考えてることが頭に流れてきたのよ」
「ほどろ?」
「ええ、火怒呂六三(ほどろろくぞう)。それが蠱毒をまき散らしてる術者の名前よ」

 蛇の道は蛇。長い間もぐりの陰陽師をしていた秋芳は、その名に聞き覚えがあった。

(たしか獣の霊を使役する術を心得た憑依師だったはずだが、妙だな。少し前に呪捜部の連中に『処理』されたと聞くが……)
「しかし、犬神とはね……」

 餓えた犬の首を切り落とし、それを道に埋めて人々が頭上を往来することで怨念の増した犬の霊を式神として使う方法。
 あるいは犬の頭部のみを出して生き埋めにしたり、壁や柱につないで、その前に食物を見せて置き、餓死直前に首を切ると、切られた頭が飛んで食物に食いつき、これを焼いて骨にした物を呪具にしたりもする。
 犬に限らず獰猛な数匹の獣を戦わせて、勝ち残った一匹を生け贄にしたりと、時代や土地によって様々なバリエーションが存在する。
 だがいずれも触媒となる生き物を徹底的に苦しませた末に殺し、その怨念を利用するという方法は変わらない。
 忌まわしい外道外法の邪術だ。

「犬神という式神に憑かれると無気力。あるいはその逆に粗暴な性格になり、犬神使い。犬神筋や憑き物筋と呼ばれる術者に操られると聞くが」
「そうよ。さらに憑依した人間の目を通して犬神使いはものを見ることもできるの」
「ずいぶん便利ね。あ、じゃあさっきの連中って」
「ええ、そう。でも彼らは一時的に憑依されたくちだから祓魔の術で呪詛を、犬神を散らせるわ。けれどもあんまり長い時間憑依され続けると、本人の魂と融合して、それもむずかしくなる…」
「そんな、大変じゃないですか! もし街中にあんなのがあふれたら…」
「だから犬神を、すべての犬神を送り返すの」
 
 呪詛返し。
 相手がかけてきた術を破り、その術を術者本人に送り返すことを言う。
 呪詛とは怒りや悲しみ、恨みや憎しみといった他人の負の霊力を呪力に変換したものであり、呪力の制御を破れば、解き放たれた呪力はみずからを利用した術者に向かい、その力をむける。
 生き物の怨念を使った蠱毒などは、この呪詛返しがもっとも効果的に働くとされる。

「送り返すと言うが、どうやって? 憑き物を完全に落とすにはそれなりの手順が必要だし、あれだけの数の……。その包み。ひょっとして中身は」
「ええ、蠱毒の本体。四つに分けられた犬の頭蓋骨の一部よ」

 思わず息をのむ京子。
 まさかそんなおぞましい物を抱えていたとは……。

「あいつはこれと同じ物を陰陽塾の周りに埋めることで犬神の数を増やすと同時に、陰陽塾そのものを呪詛するつもりなの」
「陰陽塾を呪詛するですって? そんなの無理に決まってるわ! 陰陽塾の結界は完璧よ。知る人の限られた古いタイプの結界から最新の結界まで、二重三重に守られてるし、プロの陰陽師だって何人も控えてる。こと呪術面に関してはうちよりも安全な場所なんて都内に、ううん。日本中にだって数えるくらいしかないはずよ」
「そうね。たしかに陰陽塾そのものに個人レベルで呪をかけたって、たかが知れてる。でも陰陽塾に外から通う生徒はちがう。……あたしみたいに憑かれる子だって出てくる可能性があるわ」
「完璧なのは結界だけじゃないわ。アルファとオメガの霊気チェックだってあるんだし、そんな子がいてもすぐにわかるはずよ」

 アルファとオメガとは塾舎ビルの正面入り口に鎮座する二体の狛犬の姿をした式神だ。
 鋼の実体を形代とした機甲式と呼ばれる頑強なタイプの式神で、陰陽塾の番人といえる。
 彼らが常に目を光らせ、塾内に出入りする人間の声紋や霊気の確認をしているおかげで陰陽塾の安全は守られている。

「登校中に憑かれて、そのまま街中で暴れられる可能性もある。もし陰陽塾の生徒が他所で陰陽術を使って問題を起こしたとなれば陰陽師に対する風当たりはさらに強くなるだろうなぁ…」
「そういう懸念なら、そんな物が街中にある時点で大問題よ。巻き込まれるのが一般人だろうが塾生だろうが、呪術がらみの事件が起きたら『また陰陽術か!』て、マスコミの連中がうるさく騒ぎ立てるわ。……て、もう一般の人たちが巻き込まれるじゃないですか! さっきの人たち!」

 今さらながら、事の重大さに気づく。

「早く呪捜官に知らせないと…」

 呪捜官。
 呪術犯罪捜査部。通称・呪捜部。
 陰陽庁に属する内部部局の一つで、この部署に属する陰陽師は呪捜官と呼ばれる。
 主に呪術絡みの犯罪捜査に従事し、職務の性質上対人呪術戦が多いのが特徴だ。
 また、呪捜官には警察官のように拳銃の携帯が許可されている。

「まって京子ちゃん!」
「木ノ下先輩?」
「……お願い、それだけはやめて」

 陰陽塾の二年生ともあろう者が、街中でもぐりの陰陽師。いや陰陽師と呼ぶのもはばかられるような左道の呪術者の手で動物霊を憑依させられ、呪捜部のやっかいになった。
 これは不祥事だ。
そんなことが明るみになればどうなるか?
 陰陽塾に通う塾生の多くは旧家や名門の出。それも今まで数多くの陰陽師を輩出しているような、呪術と縁の深い家の者が多い。
 そのような家の人間がいかにもいやがる類の不祥事だ。
 周りからは後ろ指を指され、いろいろと不愉快な思いをすることになるだろう。
 木ノ下純はことを公にせず、自分の手で始末をつけたい。
言葉に出さずとも、純のその考えは秋芳と京子に伝わってきた。

「……それだけじゃないわ」
「え?」
「私の、私たちの暮らす街で呪術をこんなふうに使うやつはゆるせないの。呪術はそういうふうに使うものなんかじゃない。私たちの街は、私たちの手で守りたい……」
「先輩……」
「あと一つ。あと一つだけ回収すればまとめて祓うことができるの。そうすれば呪詛は返されて、あいつは破滅よ」
「埋められた場所は?」
「代々木公園」

 奇しくも秋芳と京子が最初に出会った場所だ。
 この蠱毒は人通りの多い所に埋め、人々に踏まれることで怨念を増し、よりいっそう強い力を放つようになる特徴を持つ。
 観光地でありデートスポットでもある代々木公園はうってつけの場所といえる。

「よし、すぐに行こう」
「秋芳君!?」
「一般人に被害が出ている以上、事は一刻を争う。呪捜部に通報したとして、連中が犯人逮捕の準備を整える間にも犬神の数は増える一方だ。ここは俺たちだけで一気にケリをつけたほうが早い」
「…そうね、わかったわ。それに正直あたし呪捜官の人たちって、いまいち信用できないのよね。あの人らに任せるより、あたしたちが動いたほうが確実よ」

 京子は呪捜部部長。呪捜官の長を務める天海大善(あまみたいぜん)と面識がある。
 京子の祖母、美代と大善は古いつき合いで、その関係で交流があるのだ。
 そういう意味では呪捜官自体に悪い印象は持ってないのだが、最近起こった呪捜官による土御門夏目襲撃事件などで心証を害しているのも事実だ。

「あー、君は家の人に迎えに来てもらったほうがいい。もう遅いし、塾ちょ…。お祖母様が心配しているぞ」
「ここまで来てあたしだけのけ者? そんなの納得できない! この街を守りたいって想いは、あたしだって同じよ!」
「火怒呂ってのが最後の蠱毒を守ろうと網を張って待ち構えてる可能性が極めて高い。人間相手の呪術戦になるかも知れないんだぞ?」
「あたしは陰陽塾に、ううん。倉橋の家に生まれた時からそういうことは覚悟してるわ。白桜も黒楓もいるし、足手まといにだけはならないって約束する。それに『事は一刻を争う』んでしょ? ここであたしと口論してるヒマなんてある?」
「…しょうがないな、言っておくが自分の身は自分で守れよ。二人とも念のためこれを」

 そう言って呪符の束を京子と純に手渡す。
 授業で作成・使用している陰陽制の符とちがい、ずしりと重く厚みがある。

「これは?」
「桃園霊符。桃の木を削って作った呪符で、呪詛系の相手には効果てきめんだ」
「陰陽庁制じゃ、ないわね…」
「まぁ、賀茂のコネでいろいろ手に入るとでも思っててくれ。効果は保障する」
「賀茂? じゃあ、あなたが賀茂秋芳?」
「ああ、そうだけど、それがなにか?」
「あなた、二年の間じゃけっこう話題になってるの。残念なほうの土御門とちがって、今度来た賀茂は優秀だ。て」
「あら、凄いじゃない! 先輩たちの間で有名になれるだなんて、光栄なことよ」
「おお、そりゃたしかに光栄だ。うれしいね」

 陰陽塾に入り正式な資格を取る段になったからには裏働きをする機会もなくなるだろう。
 顔や名が知られても問題はない。むしろ賀茂の名を世に広く知らしめたいと思っている本家の連中にとっては好都合だ。

「じゃあさっそく出発しましょう。タクシー呼んだほうがいいわよね? 歩くより早いし、あいつらにも見つかりにくいでしょ」
「いや、どこに犬神憑きがいるかわからない以上、公共の移動手段は使わないほうがいいだろう。可能な限り人に見つからず、歩いて行こう。二人とも穏形しながら移動はできるか?」
「そんなには早く歩けないけど、なんとか」

 さすがは二年生の純だ。

「……やってみるわ」

 正直、今の京子の実力では穏形しながら歩くのはむずかしい。
 だがついて行くと言った以上、後には引けない。ここで『できない』と口にできるはずがない。やるしかないのだ。

(ふむ、良い返事だ)

 京子のその思いを察せない秋芳ではない。
 むずかしい課題をつき出され『できない』と考えたり答えるのは、もっともしてはいけないことだ。
 できないなんて思うことは自分で自分の可能性を閉ざしている。
 『できない』という呪をかけているに他ならない。
 かと言ってできもしないのに『できます』と答えるのはあまりにも無責任だ。
 『やってみます』この答えが一番良い。

 話がまとまったので会計をすまして代々木公園へ向う。

「京子、抵抗するなよ」
「え?」
「禁気則不能感、疾く!」

 気を禁ずれば、すなわち感じられることあたわず。
 たちまち京子の気配が断たれ穏形状態になる。

(なにこれ? これが、賀茂の陰陽術なの?)

 始めて目にする術に目を丸くする純。

(いや、これは賀茂の術じゃあない。我が家に伝わる呪禁の術さ)

 ざっくりと自らの生い立ち。賀茂と連、呪禁のことを純に説明する。

(それよりも穏形状態で街中を歩くさいは歩く人や走る車に気をつけるんだぞ)
(うん、むこうからはあたしたちの姿は見えないからね)

 正確には見えないのではなく、認識できない状態だ。
 陰陽術による穏形というのは、物理的に透明になっているわけではない(もちろんそういう術も別個に存在する)目はそこに術者がいることを見ているのだが、心がそれを認識しないのだ。
 まるで道にある雑草や小石のように、誰にも気にとめられることがなくなる。
 達人ともなると小規模の人払いの結界のようなものができ、雑踏の中にいても周りの人は無意識に目をそらし、避けて通るようになるという。





 街中を注意して進む三人。

(しかしあれだな。こうして歩いてると、乗って高速移動できるタイプの式神が欲しくなるな)
(そういえば笑狸ちゃん以外に式神っていないの? あなたの呪力なら十体でも二十体でも、簡単に使役できるでしょ?)
(大量の式神は使わない主義でね。あいつが一人いればじゅうぶんだ)
(あら、愛されてるのね笑狸ちゃん。一途なご主人様でうらやましいわ)
(んー、そういうわけでもないんだがなぁ。……昔、ちょっとあってね)
(なに? なにがあったの?)
(笑狸に会うずっと前、祓った動的霊災をかたっぱしから自分の式にしていた頃があって)
(……あたしたちのレベルとは全然ちがう話ね)
(その時に葛城山の神に因縁ふっかけられたんだ)
(神様に!?)
(ああ、山の中を歩いていたら、向こうから俺とまったく同じ姿の人が歩いて来た。これは怪異の類と思い話しかけたら、自分は葛城山の神だから道を開けろと言うのだ。当時の俺は調子に乗ってたガキで、それを拒んで戦闘になったんだが、やっこさん、こちらの所持している式神をまんま使ってきやがった)
(さすが神様ね)
(こちらが召喚してないものまで使うわ、倒してもまた出てくるわで、めんどうになり、その場は逃げた。で、あれはこちらの式神をコピーする能力を持っているに違いないと思い、後日すべての式神を無に帰してから再戦しに行ったんだ。すると案の定むこうも一人だけ。サシの勝負なら楽勝だ。はっ倒して負けを認めさせてやった。それ以降やたらと式を持つのをやめたんだ)
(正直、信じられない話だけど、あなたが言うなら事実なんでしょうね……)

 横で聞いている純もこの話には仰天し、あやうく穏形が解けるところだった。





 代々木公園。
 隣接した明治神宮と一体化した緑の園。
 陽の光の高い時間帯はサイクリングに興じる者あり、家族で遠足に来るものあり、愛をささやくカップルあり――。
 そんな都会のオアシスに蠱毒が埋められているのだ。
 人々に踏まれることで怨念を増し、いっそう強い念を出すことになる。

「あそこよ! まちがいないわ」

 観光地でありデートスポットでもある場所だけに、昼夜を問わず人通りは多い。
 すでに相当強力な呪力を放っている。
 蠱毒の埋まっている場所へ駆けて行き、掘り出そうとする純。
 それとほぼ同時にあたりを異様な気配がつつむ。
 スーツ姿のサラリーマンやOLふうの男女、作業着を着た労働者、学生ふうの若者、ストリートファッション姿の若者、浮浪者……。
 人、人、人、人、人、人――。人の群れだ。
 犬神にとり憑かれた群衆があたりを囲んでいた。

「一気に祓うぞ。京子は右を」
「わかったわ! …臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!」

 刀印を結び、九字を切る京子。籠の目状の霊気がほとばしり、それに触れた犬神憑きたちはたちまち地面に倒れ伏す。

「我祈願、南斗星君。百邪斬断、万精駆滅、星威震動便驚人――。活剄!」

 我は祈り願う。人の命を司りし南斗の神よ、邪気を斬り捨て、あらゆる霊を祓え。星々の威光が地を制す。
 秋芳の退魔の術も効果を発し、次々と倒れる憑依者たち。
 だがそれだけでは終わらない。
 倒れ伏した人々から瘴気が立ち上る。憑依を解くことができても、修祓しきれなかった犬神たちが実体化して襲ってきた。

「今日の呪符打ち授業を思い出すんだ。符の弾幕で押し潰すぞ」
「ええ、賀茂と倉橋。両家の力を見せてあげるわ!」

 背中合わせになり間髪を入れず呪符を投げ打つ秋芳と京子。
 ひたすら打つ、打つ、打つ。打ちまくる。 
 迂回して純を狙おうとした犬神も何体かいたが、二人の投げた符にあたり一体残らず消滅した。
 符を放つにも霊力が必要だ。
 授業の時のように、ただ打ってあてるだけならともかく、きちんと術としての効果をもたせて呪符を投げるという行為はそれなりに消耗する。
 ましてこのように間断なく投擲するにはかなりの霊力がないとできない芸当で、普段の京子なら厳しかったかも知れない。
 だが今はちがう。
 背中越しに伝わってくる秋芳の熱く強い気に影響されてか、京子の身体の中から力が、霊力が滾々と湧き出てくる。

(力が、あふれてくる…。体が軽い。こんな気持ちで陰陽術を使うなんて始めて)

 その時の精神状態によって霊力の強弱や多寡は若干変動するというが、今夜の京子は絶好調だった。

「魔を見通すは八咫の眼」

 京子の口から自然に言葉が漏れる。

「魔を祓うは八尺瓊の(かいな)、魔を退けるは叢雲の息吹」

 思わずつられて秋芳の口からも言葉が出る

「魔を絶ち斬るは草薙ぎし剣」

「「黄泉路を照らす星々の光よ、狭蝿なす(よろず)(わざわい)を滅し、我が道を照らせ。星流霊符陣!」」

 京子の目が気を読み標的を捉え、秋芳の渾身の気が乗せられた呪符がそれらを打つ。
 空を舞い飛ぶ呪符は流星群と化し、犬神らを一体残らず殲滅した。

「やった! やったわ!」
「気を抜くな、術者が近くにいるかも知れない」

 その時、一筋の光が京子の体を貫くのが秋芳に『視えた』
 殺気だ。
 殺気が線になって見えた。

 合気道の開祖に植芝盛平という人がいる。
 数多くの武勇伝がある人物だが、その中の一つに、銃弾が飛んでくる前に光のツブテが見え、それを避けることで弾から逃れた。というエピソードがある。
 他にも相手の攻撃の前に白い光が見え、その光を避けることによって相手の攻撃をかわした。
 屋内に居ながら訪ねてきた人の存在や、その服装がわかった。
 などの逸話がある。
 これは一種の見鬼。気を読むことができたのではないだろうか? このようなはっきりとした形で殺気を感じ見た経験など秋芳にはない。
 ないが、直感でそれが殺気というものだと悟り。その瞬間、自然に体が動いた。
 突き飛ばすいきおいで京子を抱いて跳び伏す。左半身に衝撃が走る。

「ちょっと! いきなりなに――ッ!?」

 急に押し倒されたと思った広義の声をあげようとして絶句する。
 秋芳の左上腕部がごっそりと食いちぎられ、皮一枚だけでかろうじて下の腕とつながっていた。
 くちゃ、くちゃ、くちゃ……。
 なにかを咀嚼する音が聞こえる。
 見れば仔牛ほどのサイズをした黒い大型犬が(あぎと)を地に染め、なにかを食べている。
 食べているのは彼の腕だ。
 あれに襲われたのを彼が身を挺してかばってくれたのだ。
 自分のミスで彼が大ケガを負ったのだ。
 そう京子の頭が理解すると同時に、激しい自責の念とともに涙があふれ出た。

「ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」

 負傷箇所から白い骨が露出して見える。それをおおう赤い肉。内圧で筋繊維が押し出されると同時に鮮血が吹き出し京子の身が真っ赤に染まる。

「…やれやれ『足手まといにだけはならない』じゃなかったのか? 油断して不意を突かれるなんて、なってないぞ」

 出血と同時に激痛が走る。
 流血と共に力も抜けていく感覚。意識が遠のくが、激しい痛みがそれをゆるさない。
 苦痛をこらえ、ゆっくりと立ち上がる。

「これは大きな貸しだぜ、倉橋京子。そのでかい胸を揉みくちゃにするだけじゃ返しきれん。髪の先から足のつま先まで、身体で払ってもらおう」

 ついついエロ魔人の本性が出てしまう秋芳だった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! なんでもするから、ゆるして、死なないで、お願い……」

 軽いパニック状態になり涙ながらに謝罪の言葉をくり返す京子の姿に、秋芳の庇護欲と
 嗜虐心が刺激される。
 と同時に胸に込み上げてくるものがあった。
 なつかしさだ。
 先日の放課後。京子と簡易式を使って戯れていた時にも感じた違和感をともなう、もの
 なつかしさ。
 ずっと昔。こんなふうに泣きじゃくる京子の姿を見たおぼえが――。

(――あるわけがない。まったく、こんな時に、なんなんだ。ええい!)

 雑念をふり払い、傷口を確認して口訣を唱える。

「禁傷則不能害」

 傷を禁ずればすなわち害することあたわず。
 たちまち傷が癒え、出血も止まる。
 いや、最初からケガなどしていなかったかのように、破れた服の布地はそのまま。筋肉質の腕だけがそこにあった。

「え? な、なに。それ……」
「俺はこのとおりだいじょうぶだ。押し倒して悪かったな、立てるか?」
「う、うん。あたしは平気」

 右手で京子を抱き起す。左腕は、使えない。
 傷をふさいでも失った血液と体力まではすぐには回復できない。しばらく左の腕は萎えたままだろう。

「こいつは驚いた。カタギじゃないとはふんではいたが、妙な術を使いやがる。…おまえら陰陽師か?」

 声とともに闇の中から背広姿の男が姿をあらわす。
 見るも無残に焼けただれた相貌と全身から立ち上る灼熱の鬼気もおぞましい。
 犬神使い、火怒呂六三(ほどろろくぞう)だ。

「小癪にもわが犬神を退けるとは、これで計画に遅れがでたぞ、くそっ」
「なにが計画よ、くだらない。あんたのしていることは立派な霊災テロよ。これ以上被害は出させない。今ここであたしたちが引導を渡してやるわ!」
「犬神計画! 四つの蠱毒が生み出す大量の犬神によって渋谷はわが物になる。その次は新宿、恵比寿、池袋、秋葉原…。やがては東京を、日本という国そのものを手に入れる。犬神筋がふたたび国家を総べる存在となるのだ。それを陰陽師ぃ~、きさまらは一度ならず二度までもわが邪魔をするとは…」
「なによ、こいつ。全然聞いちゃいないじゃない」
「自分に酔ってるんだろ、それより長口上は好都合だ。俺の片腕はもう少しの間使えないし、木ノ下先輩が蠱毒を掘り起こすまで時間稼ぎしよう」

 視界のすみに蠱毒を懸命に掘り起こしている純の姿が見える。

「わかったわ。…ちょっとあんた! まずは名乗りなさいよ」
「冥途の土産に教えてやろう。と言いたいところだが、あいにくと冥途の土産はすでにお渡しずみだ」

 芝居がかった仕草で指をパチリと鳴らす。

「GURURURUUUU……」

 秋芳の肉を食べ終えた黒い犬が威嚇の声をあげ、近づいてくる。
 正面に火怒呂、背後に黒犬獣。二人はちょうど挟まれる形になってしまった。

「白桜、黒楓!」

 京子の呼びかけに応えて、二体の護法式が顕現し、黒犬の前に立ちはだかる。
 成人男性ほどの背丈と、アスリートのような絞り込まれた体型。
 片方は白く片方は黒い。白いほうは日本刀、黒いほうは薙刀を構えている。
 二体とも西洋の騎士や日本の武者鎧を彷彿とさせるデザインの甲冑で全身を覆い、どこかロボットじみた外観をしていた。

「モデルG2・夜叉か!? 忌々しい、陰陽庁制の木偶人形め!」
「さっきからなによ、あんた。陰陽師になんか恨みでもあるわけ? あ、ちなみにあたしと彼。陰陽塾の生徒なの。だから陰陽師への批判や侮辱はゆるさないわよ」

 これは蠱毒を堀り出している純に火怒呂の注意がむかないようにとの考えでの発言だ。

「勝手に作り上げた陰陽法で、先祖代々から伝わるわが一族の秘術を破棄せんとし、それに異を唱えれば命を奪う。これを恨まずなにを恨む」
「あんたみたいなのが好き勝手に呪術を使って人に迷惑かけるから陰陽法はできたのよ。恨むなら自分を恨みなさいよ。だいたいなに? 今どき蠱毒だなんて邪法、信じらんない。あんな動物愛護の精神に反した、他人の怨念に頼った呪術。取り締まられて当然よ」
「実に独善的だな。そうやって今まで民間からいくつの呪術を奪い、闇に葬ってきた?」

 京子が火怒呂と応酬をしている間、秋芳の腕に力が戻りつつあった。

(気から察するにあの犬はやつの護法。それも使役式だな。タイプ・ビースト……、ガルムかヘルハウンドか? 舶来ものかよ。いや、ちがうな。あの身にまとう火気の強さ、あれは…、禍斗か!)

 禍斗(かと)
 中国の地理書・山海経に記された妖獣。
 炎を食べ、炎をまき散らすとされる魔犬だ。

「もぐりの憑依師にしちゃ、ずいぶんと贅沢な式神を持ってるんだな」
「憑依師ではない、犬神筋と呼べ」
「それ、禍斗だろ? どこで見つけてきたんだ」
「ほう、こいつの正体がわかるか。さっきの術といい、なかなか優秀だな。……そうだ、おまえを犬神にしてやろう。人で試したことはないが、良い蠱毒ができそうだ」
「な…、人を蠱毒にですって!? あんた、どこまで腐ってるのよ!」
「威勢のいい女だ。おまえも犬神になりたいか? くっくっく、土に埋められて飲まず食わずでどこまでそんな口がきけるかな? 三日か? 五日か?」
「火怒呂という獣憑きを生業とする一族の話を聞いたことがある」
「…いかにも、わが一族のことだ。だが獣憑きではない、犬神筋と呼べ」
「火怒呂六三。たしかそんな名の呪術師がいた」
「われのことだ」
「だが、妙だ。その呪術師は一年ほど前に死んでいるはずだ。さんざん呪捜部の連中を手こずらせたあげくに、陰陽法にもとづき特別動的霊災として処理された」
「人を霊災として!?」
「そうだ。陰陽庁の連中よっぽど頭にきてたんだろうな、呪捜官が束になって八陣結界で拘束し、その上で修祓処理されたと聞く」

 八陣結界。
 それは祓魔官がフェーズ3以上の霊災に対して使用する遁甲術の大技で、対象を囲むように8人の術者を配置した後。
 呪文を詠唱し術式を発動させることで術者同士を光の線が結び、内部のものを閉じ込める。

「修祓したのがまた十二神将の一人ときたもんだ。国家一級陰陽術師まで出張らせるとは、どんだけやんちゃしたんだって話だよ」

 十二神将。
 国家資格である『陰陽1種』取得者の通称だが、その呼び名の通り十二人いるわけではなく、国内に十数人存在する。
 陰陽師としての腕は超一流であり、現場に出ているものから研究者まで、その活躍の場は様々とされる。

「…………」
「ええと、十二神将の、誰だっけ? 鬼喰らいのなんとかって人」
「鏡だ。鏡伶路(かがみれいじ)……。そいつが、殺したんだ。この、われを。犬神筋の、このわれを!」

 火怒呂の身から殺気が颶風のごとくあふれ出す。
 それだけではない。陰気が、おき火のごとく全身を包む。
 それはもはや生者のまとう種の気ではない。

「殺したって…、なによ? こいつなに言ってるの? なんなのよ、こいつ…」
「怯えるな。こいつはただの死にぞこないだ。呪詛を返せば灰燼に帰す」
「く、くくくっ。呪詛だと? きさまらの目論見通り、ここに蠱毒は埋めてある。だが、蠱毒に近いほどわれの力も増すのだッ!」

 陰気が場を駆け抜ける。

「あああッ!?」

 地面を掘っていた木ノ下純が悲鳴をあげてのけぞる。

「先輩!?」

 純の口から牙が、手から鉤爪が、全身から獣毛が生えてくる。
 押さえられていた犬神が猛威を振るい、純の身を蝕んでいるのだ。
 このままでは身体を乗っ取られてしまう。

「京子、一分でいい。あのでかい犬を、禍斗を頼む。俺は火怒呂を倒す。やつを倒せばすべて終わりだ」

 厄介な式神を相手にする時は、先に術者をどうにかする。対人呪術戦のセオリーだ。

「え、わ、わかったわ」
「やつは火気を帯びている。水行符はあるか?」
「ええ、五行符はいつも多めに持ち歩いてるから」
「よし。時間を稼ぐだけでいい、倒そうなんて考えるな。……行くぞっ!」

 そう言って火怒呂目がけていっきに駆ける。
 ほぼ同時に京子も白桜と黒楓を禍斗に向かわす。
 戦いが、始まった。 

 

憑獣街 3

 秋芳が狙うのは首。
 まず首を潰して呪文を唱えられなくするつもりだ。
 火怒呂の首に貫手を入れる。相撲でいう喉輪だが、完全に喉を潰すいきおいで突く。
 命中。続けざまに股間を蹴り上げ、前のめりになる火怒呂に対し容赦なく打撃をあびせかける。殴る、殴る、殴る、ひたすら、殴る。
 両手で頭と顔を守るようしてうずくまったので、頭部目がけて膝蹴りを叩きこむ。のけ反ってがら空きになった胴に突きと蹴りの応酬。
 とかく呪術師というものは、相手も呪術師だと呪術戦になると思いがちだ。
 だが競技ではないのだから、呪術師同士が向かい合って、よ~いドンで呪文詠唱開始。などという決まりなどない。
 呪文の詠唱や集中するいとまをあたえず、肉弾戦に持ちこむ。
 これが秋芳流の対人呪術戦だ。
 武術とは、もっとも実践的な魔術の一つなのだ。
 このやり方で今まで何人ものはぐれ陰陽師を血祭りにあげてきた。
 相手の接近を防ぐため式神を守りにつけるのがセオリーだが、プロならともかく護法式をはべらすもぐりの陰陽師などめったにいない。
 今回の場合、火怒呂は一体しかいない自分の護法式を自分の身の近くから離しすぎた。
 秋芳たちを挟み撃ちにすることが裏目に出たのだ。
 一方的。あまりにも一方的な秋芳の攻勢だったが、しかし――。

「!?」

 異様な殺気を感じて跳びすさる秋芳。
 わき腹に痛みが走る。まるで獣にで咬み千切られたかのように肉がえぐられていた。
 内臓までは達していない。致命傷ではないものの、血が流れ出し地面に染みを作る。

「やれやれ、乱暴な陰陽師だ。死んでいなかったら死んでたかもなぁ」

 火怒呂の体から声が響く。
 喉は完全に潰したはず。ではどこから?

「これがわれの新しい力。二つ目の冥途の土産だ」

 火怒呂の肩に牙を剥いた犬の頭が生えている。その犬がしゃべっているのだ。

「くっくっく、蠱道に使役されし三十六の禽獣よ、わがもとへ集え。咬み、啄み、啜れ!」
 火怒呂の全身から次々と獣の頭が生える。
 膝からも肩からも犬や猫。鳥の頭が生えてくる。指は蛇に、つま先は蝦蟇に、背中からも得体の知れないなにかが生えて不気味に蠢いているのがわかる。
 だが服はどこも破れていない。肉体そのもが変化しているわけではないようだ。
 一つの巨大な霊災を中心として無数の霊災が連鎖的に発生し、無数の霊的存在が実体化して暴れ回る 状態をフェーズ4。百鬼夜行と呼ぶが、今の火怒呂の醜悪かつ邪悪な姿と、身にまとう妖気の量は、まさに歩くフェーズ4状態だ。

「おいおい、一人百鬼夜行かよ。ワンマンアーミーなんて言葉はあるが、ワンマン……そういや百鬼夜行を英語にするとなんて言うんだ? パンデモニウム? う~ん、ちょとちがうような……」

 軽口を叩きつつ、異形と化した火怒呂の姿をしっかりと視る。
 五行の偏向は見られない。しいて言えば呪詛の塊だ。
 下手に接近すれば獣たちの牙の餌食になる。となれば――。

「我咆哮、金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」
 我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
 虎の口を模して重ねられた掌から気がほとばしる。
 純然たる気の衝撃、虎吼掌波だ。
 鬼の体をバラバラに吹き飛ばしたこともあるその苛烈な一撃は、はずれることなく火怒呂を撃つ。

「ぐっ、やるな。今のは発剄か?」

 衝撃を受けて数歩後ずさる。その時ジャミングされた映像のように火怒呂の輪郭がぶれ、明滅した。
 これはrag。
 ラグと呼ばれる現象だ。
 式神や霊災のような霊的存在は物理的影響力を持つ立体映像のようなもので、そこにあるように見えても実際にそこに物質があるわけではない。
 そのため物理的・霊的に強い干渉を受けると構成が乱れてラグが出る
 火怒呂六三。もはや人ではない証左だ。
 しかし与えたダメージは低い。
 シャァァァッ!
 火怒呂の背中から鞭のようなものがしなり、秋芳の首を狙う。同時に指の毒蛇が胴を、つま先の蝦蟇が長い舌を足に絡ませようとのばす。
 残りの桃園霊符に気を廻らせて鞭を断ち斬りつつ、軽功を駆使して攻撃を避ける。
 避ける、避ける、避ける。

「ええいっ、ちょこまかと!」

 毒蛇の牙も蝦蟇の舌も、秋芳の身にかすりもしない。
 地面に落ちた鞭らしきものが、しゅうしゅうと音を立てて消滅する。
 それは巨大な蠍の尻尾だった。

(ひー、おっかねぇ。どんな毒があるか知れたもんじゃない)
 
 とんっ。
 ふと背中になにかがあたり、そこから温かい気を感じる。
 京子だ。
 京子の背中だ。

「もう一分は経ってると思うけど、手こずってる?」
「少しね。あいつ変身しやがった」
「…ヤバイ気がびんびん伝わってくる。あんなの一瞬でも見たくないわ、早く倒して」 
「おう」

 ほんのわずかな背中合わせの会話。 
 こんな時だというのに、それが妙に楽しい。秋芳の顔に自然に笑みが浮かぶ。


 


 京子の戦いは禍斗の先制攻撃から幕を開けた。

「GAFOLAAAッ」
 漆黒の魔犬の口から炎の息が吹き出す。

急急如律令(オーダー)!」

 即座に水行符を発動させる。水剋火。水は火を消し止める。
 灼熱の息吹は京子になんの影響も与えなかった。
『倒そうなんて考えるな』
 彼はそう言った。けれども目の前の動的霊災は時間稼ぎを念頭においた戦い方でしのげる相手ではない。
 現に白桜と黒楓の連携攻撃を軽やかに避けつつ鉤爪や牙で反撃し、少ないながら、こちらの式に手傷を負わせている。
 その巨体に似合わぬ俊敏さだ。
 全力で倒すつもりで戦って、やっと時間稼ぎになる。
 手持ちの呪符は五行符がそれぞれ数枚。それと桃園霊符がまだ一枚残っている。
 自分の使える術には限りがある。どうする? どうすれば、勝てる?

(さっきの火。相剋相性だったにしても簡単に打ち消せた。この犬、呪力はたいして強く無いんじゃない?)

 ふとある考えが脳裏に浮かぶ。

「GAUUUッ!」
 黒楓の薙刀が禍斗の前脚を掃う。
 転倒こそしないもののバランスがくずれ、隙が生じた。

(今よ!)

 一瞬だけ意識を白桜・黒楓の制御から離し、自前の呪力を練り上げるのに集中。
 転法輪印を結印し、続いて呪縛印に。

「緤(す)べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの大誓願なり! オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
 
 不動金縛りの術。
 目に見えない呪力の縄が禍斗の身を縛る。
 成功だ。

「今よ! 白桜、黒楓!」

 反撃の心配はない。二体の式神に守りを捨てた全力攻撃を命じる。
 刀を何度も打ち据える白桜。
 渾身の力で薙刀を叩きこむ黒楓。
 禍斗の体にラグが走る。
 効いている。
 確実にダメージを与えている。
 だが。

「GUGAGAAAッ!」

 京子の呪縛を力任せに引きちぎり、突進。
 二体の式神が大きく吹き飛び、こんどはこちらがラグる。

「きゃあっ」

 術を返された衝撃に、つい悲鳴があがる。

(こいつ、なんてタフなの!?)

 思わず後退し、相手と距離を取る京子。

(こわがっちゃダメ。戦うのよ…)

 とんっ。
 ふと背中になにかがあたり、そこから温かい気を感じる。
 彼だ。
 秋芳の背中だ。
 怖じ気が消え、自然に安堵の息が漏れる。

「もう一分は経ってると思うけど、手こずってる?」
「少しね。あいつ変身しやがった」

 たしかに。最初の比ではない邪気が向こうからひしひしと伝わってくる。正直それにくらべれば、あの漆黒の魔犬。禍斗なんてかわいいものだ。

「……ヤバイ気がびんびん伝わってくる。あんなの一瞬でも見たくないわ、早く倒して」 
「おう」
 
 ほんのわずかな背中合わせの会話。
 たったそれだけのことで京子は体力も霊力も全快したような気分になった。
 彼と一緒に戦っている。負けるわけがない。
 彼の背中を守っている。負けるわけにはいかない。
 勝つ。
 絶対に、勝つ。

「白桜、黒楓!」

 京子の右前方に白桜が、左前方に黒楓が移動する。
 だがかなり離れた配置だ。この布陣では京子の前がガラ空きだ。

「GUUUU……」

 獣の瞳に思案の色が見える。
 突進して引き裂く前に先ほどの術で動きを止められ、左右から攻撃されるのはいやだ……。
 はたしてそのように考えたのか不明だが、誘いに乗るような真似はしなかった。
 禍斗の口が大きく開く。
 そこにはおき火のように赤々と燃える炎が見える。
 距離があるのをいいことに、ふたたび火の息での攻撃を試みたのだ。
 ごうっ。
 自分に目がけて一直線に伸びる炎に対し、京子は二枚の符を投じた。
 一枚は桃園霊符。
 もう一枚は水行符――ではない。土行符だった。

「霊気よ、つどいて盾となれ。急急如律令(オーダー)!」

 桃園霊符で防壁を張る。
 だが火を防ぐのにもっとも効果的な水行符ほどには軽減できない。火はせき止められたが火傷するほどの熱気が伝わってくる。
 熱い。
 髪の毛の焼けるような、いやな臭いがただよう。
 それでも、なんとか防ぎきった。

「灰燼より真土あらわる、急急如律令(オーダー)!」

 同時に投げた土行符は火の息を吸収し、ひときわ強い気を放ち、巨大な土塊と化した。
 五行相生、火生土。

「土精を食みて金剛と化せ、急急如律令(オーダー)!」

 間髪入れずに金行符を、続いて水行符を打つ。

「金鉄に発露し恵水となれ、急急如律令(オーダー)!」

 土塊は鉄塊と化し、その表面を大気中の水分が凝縮されたかのような大量の水滴が覆い尽くす。
 そしてそれは一筋の水流と化し、禍斗にむけ激しく噴射、直撃。
 土生金。金生水。
 相生効果により増幅された水気は極めて強力で、火気をまとう禍斗はひとたまりもない。
 断末魔すらあげることもできず、いっそう激しくラグを起こし消滅した。
 勝った。
 京子は勝ったのだ。
 五行相生を駆使するため、連続して符術を使うのは一つの賭けだった。
 符を投じるタイミング、術式の展開と制御。それらに寸分で狂いがあれば、失敗していただろう。
 幼い頃からの呪術の手ほどき、座学で習った五行相生。
 そして実技授業で秋芳と呪符打ちをしてコツをつかんでいたから、それを犬神の群れに対し実践していたからこそできたのだ。
 日々の訓練、研鑚はけして無駄にはならない。
 そう。日々の欠かさぬ努力があって、始めて強くなり、勝つことができるのだ。





 接近戦では全身に生えた獣たちの牙の餌食になる。
 ある程度距離をとって戦うか…。
 そう考える秋芳だったが――。

「まずはその蝿のように小うるさい動きを封じてやる。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ――」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」

 火怒呂の全身に生えた獣たちの口から一斉に詠唱の言葉が漏れる。

「「「「「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ、オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ。縦横縛陣!」」」」」

 無数の唱和が呪力と一体となって響き合う。
 それは先ほど京子が禍斗にかけた不動金縛りと同種の術だが、数がちがう。
 ちがいすぎる。
 十重二重、三重の呪縛が秋芳に放たれた。

(おいおい、口の数だけ術が使えますってか? そんなのありかよ!)

 全身に気を廻らして襲い来る術に身がまえる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……。
 相手の術を弾くたびに呪力と霊力の摩擦が生じ、まばゆい光が閃く。
 すべて、耐えきった。
 
「そんなバカな!? きさまはバケモノか?」

 化け物はそっちだろ。
 内心で苦笑しつつ、距離をつめる。
 獣の牙も厄介だが、連続呪術はそれ以上に脅威だ。接近して戦うしかない。

「斬妖除魔、降魔霊剣。急急如律令!」

 剣指にした人指し指と中指の間にはさんだ桃園霊符から一メートル近い光り輝く尖形状の刀身が生成される。
 桃園霊符に宿る破魔の力を剣の形にしたものだ。
 間合いをつめ斬りかかる。
 鋭い斬撃が火怒呂の体に生えた犬の首を断ち、刺突が猫の目を潰す。
 攻撃があたるたびに火怒呂にラグが生じるが、負けずに反撃してくる。
 鋭い歯や嘴が肉を切り裂き貫こうと、毒のしたたる牙や針が身を侵そうと、長い舌が足を絡め取ろうと襲い来る。
 大きく開けた口から蛾や蜂の群れが吐き出され、それを霊剣を風車のように回して掻き散らす。
 手数が、ちがいすぎた。
 こちらの一度の攻撃に対し、むこうからは十を超える反撃がある。
 蛇の牙や蠍の針など、いかにも危険そうな攻撃を優先的に防御するが、すべては防ぎきれない。犬や猫の牙が秋芳の身に無数の傷をつける。
 先ほど負傷したわき腹からは今も血が流れ、足元に血だまりを作っている。

「ハハハ! どうしたどうした、動きが鈍っているぞ。血を流しすぎたんじゃないか? あまり動きまわらないほうがいいぞ」

 一カ所に止まっていては相手の的になる。目まぐるしく位置を変え、攻撃を繰り返していた秋芳だが、戦闘開始時にくらべ、その動きは鈍って見えた。

(貪狼…) 

 犬の牙が頬をかすめる。

(巨門…)

 猫の牙が上着を裂く。

(禄存…)

 鳥の嘴が肩をかすめる。

(文曲…)

 毒蛇の牙を斬り払う。

(廉貞…)

 蝦蟇の舌を突き通す。

(武曲…)

 目を狙った蠍の毒針を寸前で断ち斬る。

(破軍)

 動きを止める秋芳。
 服は破れ、血がにじみしたたり落ちる。満身創痍だ。

「観念したか? だが、われをこの姿にさせるとは大したものだ。これは鏡伶路を屠る時までとっておくつもりだったのだからな。言ったとおり犬神にしてやろう。次に目を覚ました時は土の中だ」

 そう言って蠍の尾をもたげる。

「動くなよ、手元が狂う。……ふふふ、いいことを思いついたぞ。おまえに出す『仕上げ』の食事はあの女の肉で作ってやる。胸腺のフォン・ ド・ボーがいいか? それとも肝臓のパテがいいか?」

 火怒呂は気づかない。
 さんざん動きまわったにもかかわらず、秋芳の息にまったく乱れがないことを。
 火怒呂は気づかない。
 秋芳は血こそ流しているが、汗ひとつかいてないことを。

「その前にたんと恨んでもらうぞ、強い怨念は最高の蠱毒になるからな。あの女、実に嬲りがいがありそうだ。おまえの目の前でかわがってやろう」

 火怒呂は気づかない。
 自分が結界に捕われていることを。

「貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍。我、紫微に立ち七星に命ず、天コウ北斗七星霊陣!」

 突如、周囲七カ所から収斂された霊気が吹き出し、火怒呂の体を刺し貫いた。

「ぐはぁっ!? な、なんだこれはっ? か、体が、体がっ、うぐぅがぁぁぁッ!? や、やめろ。やめてくれぇっ!」

 七本の刀槍で全身を刺し貫かれ、激しく揺さぶられているようなものだ。
 全身に激しくラグを生じ、苦痛にのたうち回ることもできず、ただただ絶叫する火怒呂。
 秋芳は闇雲に動きまわっていたわけではない。
 地面に自らの血を落とすことでそれを印とし、結界を結んでいたのだ。
 洋の東西を問わず、血液というものは呪術の触媒に使われやすい。
 血は生命力や霊気といったエネルギーの象徴といえる。

「あんた、呪捜官の八陣結界に捕われて焼き殺されたんだろ。……結界に捕われて死んだ人間が、また結界に捕われる。学習しないのかって話だよな」
「あぐグギギャ! 痛いひぃぎぃっ。崩れるッ。体がッ。やめてくれっ、術を、術を解いてくれ。頼むっ」
「もののついでだ、今度も炎で葬ってやろう。魂さえ焼き尽くす、とっておきの火でな」

 結界に捕われた火怒呂に攻撃される恐れはない。
 じゅうぶんに気息を整え、内力を練り、導引を結び口訣を唱える。

「玉帝有勅、三昧真火神勅、形状精光、上列九星。急急如律令!」

 掲げた両手の間に拳大の火球が生じ、赤、青、白と熱が上がるごとにその色を変え、サイズも大きくなっていく。
 そしてふたたび、赤。
 完全なる赤。純然たる火。三昧真火だ。
 斉天大聖・孫悟空すら退けた、かたち持たぬ神霊さえも焼き尽くす三昧真火。
 溶岩の温度は一千度前後、太陽の表面は六千度、核融合炉の温度は一億度を超えるという。では三昧真火は?
 無限。
 火球に直接触れずとも、発する熱だけであたり一面蒸発してしまうだろうそれだが、呪力で巧みに抑えているため、まわりに被害は出ない。
 ゆっくりと近づく火球。絶対の死を前にして、もはや言葉すら出ない火怒呂。

「燃烧吧(燃えちまいな)!」

 火怒呂六三は三昧真火に飲み込まれ、消滅した。





 秋芳が京子のほうを見ると、禍斗が水流に飲まれ消滅するところだった。

「やったな。フェーズ3の霊災を祓うなんて、プロ並じゃないか。ケガはないか?」
「ええ、平気。とっても心強い味方がいてくれたから。……それよりも木ノ下先輩は!?」

 犬神にさいなまれていた木ノ下純。火怒呂を倒してその犬神はどうなったのか?

「キャンキャンキャンキャンキャンッ!」

 四つん這いになり、後ろ足で蠱毒が埋まっているであろう地面を掘っていた。
 頭からはケモノ耳、お尻からはモフッとした尻尾が、手足には肉球ができ鉤爪が生えている。

「き、木ノ下先輩!?」
「悪い気は感じないが、なんか変な具合に生成りが進んだようだ」
「落ち着いてないで、早く蠱毒を修祓しましょう。そうすれば先輩も――て、あなた酷いケガじゃない!」
「すぐ治す。問題ない」
 掘り出した蠱毒の本体。四つに分かれた犬の頭蓋骨の欠片に、純の持っていた残りの骨を合わせたとたん、それはさらさらと崩れていった。
 もはや瘴気など発してはいない。
 術者が死んでなお強い呪力を発する呪具も存在するが、これはそのようなタイプではなかったようだ。

「京子、悪い。少し眠る」
「え? ちょ、ちょっとなに――!?」





 目覚めるとベンチに横たわっていた。

「あら、もう目が覚めたの? 早いわね」

 京子が見下ろしている。彼女に膝枕されているのだ。

(なんか、最初に会った時と逆だな…)
「ハンカチは木ノ下先輩に使ってるから、こうしてあげてるの。感謝してよね」

 隣のベンチを見ると純が横になっていた。
 その頭の下には京子の物と思われるハンカチが一枚敷かれている。きちんと調べなければわからないが、純の体の中に犬神はおそらくもういない。

「感謝する。俺は、どのくらい寝ていた?」
「五分……。ううん、三分も経ってないわ」
「そうか――」

 さすがに消耗した。
 傷を禁じる術は制御がむずかしく、呪力の消費も大きい。
 なにより三味の真火を使ったのがこたえた。
 火怒呂が結界の中で削り殺されるのを待っていてもよかったのだが、やはりあの数々の言動が頭にきていたようだ。
 すぐ起き上がろうとするが、やめた。気持ちが良いからだ。

「もうちょっと休んでたほうがいいわ。あなた、ボロボロじゃない」
「そうかな」
「そうよ」

 こうして膝枕されていると、京子の顔がよく見えない。
胸が、大きいからだ。

 京子自身の豊かな胸が邪魔をして、下からだと顔が見えないのだ。

「おっぱい、でかいな」

 不覚。つい口に出してしまった。
「――っ!」

 京子が顔を真っ赤にして睨みつける。

「……スケベ」
「男はみんなスケベなんだよ」
「エロ」
「男はみんなエロいんだよ」
「えっち」
「男はみんな、えっちなんだよ。……なぁ、さっきの言葉。おぼえてるか? なんでもしてくれるんだよな?」

 こくん。 
 これ以上はないくらい顔を真っ赤に染め、瞳を潤ませながらうなずく。
と同時に拳を振り上げる。

「でも、変なこと言ったらぶつわよ」
「ぶたないよ」
「ぶつわよ」
「ぶたない。君はケガ人をどつくような暴力ヒロインなんかじゃない」
「ぶつわ」
「おまえと――」
「ぶつ!」
「まだなにも言ってないだろ」

 下からのアングルがなんともいえない。

(あのでか乳をひん剥いてアクリル板に押しつけ、色々な形に変形する様を観賞するプレイとか、いいな)

 コツン。

「痛いじゃないか、なぜぶつんだ」
「痛くない! 今すんごいエロいこと考えたでしょ! わかるんだから!」
その時、軽快な着信音が鳴り響いた。京子のケイタイからだ。
「……お祖母様からだわ」
「ああ、心配してかけてきたのか」
「ううん、メール。…ここに来るって」
「なに?」

 思わず起き上がる。

「ここに? 塾長に連絡したのか?」
「してないわ。卦でも見たのかしら」
「星読みってそんなピンポイントで誰かの場所までわかるのか? つか、そこまでわかるなら今回の騒動を事前に読めなかったのかって話だが…」
「陰陽師の中にも誤解してる人がたくさんいるけど、星読みの力はなんでもわかる万能なものなんかじゃない。天啓みたいなものだってお祖母様が言ってたわ。知りたいことを常に知ることはできない。急になにかが降りてきて、知りたくもないことを知らされる時だってあるって」
「なるほど、そう考えると星読みも大変だな。……さて、どう説明しようか。木ノ下先輩のことは黙っててあげたいが、それも知っているかもしれないし……」

 ふたたび着信音。同じく京子の祖母、倉橋美代からのメールだ。

「ええと、木ノ下先輩のこともふくめて、事後処理はこちらでします。ですって」
「ばあさん今夜は妙に冴えてるな!」
「あと、あなたにもお礼がしたいから少し待ってて。ですって」
「俺のことまでわかってるのかよ『召喚教師リアルバウトハイスクール』の澁澤右京ばりの星読みっぷりだな、おい!」
「まだ続きがあるわ……て――ッ!?」
「どうした?」
「な、なんでもないわ!」

 赤面してケイタイをしまう京子。
 ほどなくして一匹の三毛猫が京子の名を呼びながら駆け寄ってきた。
 秋芳は塾長のお迎えに応じて倉橋邸にお邪魔することにした。





 倉橋邸。
 さすがに広い。
 京や大和にある賀茂の屋敷も大きいことは大きかったが、どこか生気にとぼしかった。
 暗い部屋の中、障子ごしに差し込む光に映され、ただよっている埃。
 そのような、どこか病んだ印象があった。
 ここはちがう。
 この家は清浄な気と生気に満ちている。
 畳ばりの大きな部屋に木ノ下純が寝かされ、その周りに秋芳、京子、美代の姿があった。
 犬神騒動についてひと通りの説明を終え、念のため純の気を検めたところ――。

「犬神は完全に取り除かれてます。けれども、まだ獣の気がありますね」

 美代はそう言って純の身を調べた照魔鏡をかたわらに置く。

「え、ちょっと待ってお祖母様。それってば『完全には取り除かれていない』てことじゃないんですか?」

 陰陽塾内では塾長と生徒。実の祖母に対してもかしこまった言葉を使う京子だが、場所が自宅ということもあり、少々くだけた口調になっていた。

「犬神の気ではないの。まったく別の獣の気が彼女…、じゃなくて彼、木ノ下さんの中にあるわ。それもとても深いところに」
「もともと生成りだった。ということですか?」
「彼自身が生成り。憑依されていたわけではないでしょう。……おそらくは先祖に動物の生成りがいて、その因子が一族の血肉や魂に脈々と受け継がれ、今回の件で覚醒してしまったんじゃないかしら」
(まるで『妖狐×僕SS』の先祖返りみたいね)
(なるほど『幽☆遊☆白書』の魔族大隔世遺伝みたいなものか)
「あら、二人ともずいぶん素直に納得しましたね。こんな稀有な例、すぐには信じられないかと思ってましたのに」
「え、ええ。お祖母様の診たてですもの」
「あー、隔世遺伝や間歇遺伝と呼ばれる現象自体は実際ありますからね。そういうことがあっても、そう不思議ではないかと」

 前に読んだ漫画のネタで使われてたんで、しっくりきました。とは言いづらい。

「とはいえ世間一般で言う生成り状態であることには変わりはないですし、正式に封印術を施す必要がありますね」
「……陰陽医のお世話になるってことですか?」

 生成りだと認められた者は陰陽医の元に隔離されたり、陰陽庁の監視下に置かれた上で封印術が施され、宿した存在を押さえこむよう、陰陽法に定められている。
 陰陽庁内の隔離施設に軟禁され、自由を奪われた純の姿がつい脳裏に浮かび、つい不安げな声が出る。

「安心して、京子さん。どんなことがあろうと陰陽塾の生徒を無碍になんかしません。私の知り合いにとても腕のいい陰陽医がいるの。彼に一度診てもらいましょう。木ノ下さんのご家族には私からきちんと説明するわ」

 ことの発端を察知できず、街中で塾生を危険な目に遭わせた。
 その罪滅ぼしというわけではないが、倉橋美代は純への助力を惜しまないつもりだ。

「そう…、わかりました、お祖母様。お願いします」

 京子の声から安堵とともに憔悴した気配も伝わってくる。
 無理もない。今夜だけでかなりの霊力を消費したのだ。
 本来なら行使できないくらいの。

「塾長、そろそろ京こ――、お孫さんを休ませては? もう遅いですし、私もそろそろ失礼します」
「そうですね。京子さん、もうお休みなさい。あ、秋芳さん。ちょっとだけ確認したいことがあるので、もう少しつき合ってちょうだい」
「……はい、わかりました。秋芳君。今日はありがとう。また、明日ね」
「ああ、おやすみ」

 京子が離席してしばらく、沈黙の帳が降りる。それを破ったのは美代だ。

「あの子を助けてくれたのは、これで二度目ですね。ありがとう。ほんとうに感謝するわ」
「いやいや、ピンチの女の子を助けるのは男の子にとっても気持ちのいいことですから。京子さんくらいかわいいと助けがいがありますよ」
「うふふ、あ、でも恩を着せてエロいことを強要するのはよしてちょうだいね。アクリル板でどうとか」
「さっきから星読みビンビンに冴えわたってますね! 読心ですか!? マインドリーディングですか!?」
「あの子が愛読している少女漫画にも過激なプレイが出てきましたけど、そういうのはきちんと段階を踏んでいたしてくださいね」
「どんな少女漫画ですかそれ! て、あれ? ひょっとして公認してくれるんですか? そういうの?」

 それはそれでどうだろう。

「とにかくエロスはほどほどにしてちょうだい。……真面目な話になりますが、ついさっきあの子に新たな力が芽生えたようです。私と同じ星読み。あるいはそれ以上のなにかが」
「やはりそうでしたか。霊力の質と量が変わったのでおかしいと思いました」
「宿星や宿命を変えることはできません。けれども運命は変えることはできる。これからもあの子を、京子のことを守ってください」
「はい、よろこんで」

 この人がそう言うからにはさぞかし前途多難な卦が京子に出たのだろう。
 守らねば。
 あいつの笑顔を守りたい。
 あいつを泣かしていいのは俺だけだ。
 そう思い、力強くうなづく秋芳だった。





 美代との話もすみ、倉橋邸から退出するさい。
 秋芳がふと中庭に目をやった瞬間、強烈な既視感。デジャブに襲われた。

 寒い寒い冬の日。
 白い雪が降っていた。
 男が、語りかけてくる。
 いいか――、雪というのは人の想いのようなものだ。
 白いがゆえに汚れやすく、はかないがゆえに壊れやすい。
 それは純粋であるがための自然の摂理。
 人の想いも雪のように降り積もっては消えてゆく。
 幾日も幾月も幾歳も。
 だが記憶は決して消え去ることはない。
 忘れるな――。ここで見た、この風景を。
 忘れるな――。おまえの心に宿る、その輝きを。
 おまえは倉橋に連綿と受け継がれてきた血と想い。
 そして新たなる可能性を秘めているのだ。
 わかったか――。

 っ!?
 われに返る。
 目の前には黒々とした夜の庭園が広がっている。
 雪なぞとうぜん降ってはいない。

「……いつぞやの屋上の時といい、どうも倉橋には奇縁があるようだな」





 京子の部屋。
 熱いシャワーを浴びて疲労がやわらいだのか、さっきまでの眠気は感じない。

「ゲームを買いに行っただけで色々あったわね」

 そう。愛読している少女向けコミックがゲーム化し、それを買いに出かけて京子は犬神騒動に巻き込まれたのだ。
 幼なじみの優しい美少年とは正反対の野性的な魅力にあふれた転校生。さらに知的クールな担任教師や、謎に満ちた妖しい後輩――。
 そんなキャラクターたちと共に過ごす学園もの作品。
 すぐに寝てしまおうかと思ったが、パッケージだけでも見てみようと、購入したゲームの入った青いビニール袋の封を解く。

「……これ、成人向けじゃない」

 京子が購入したものは一般向けだったはずだ。
 あの店は成人指定作品を買うさい、かならず年齢確認をする。まちがいようがない。
「そういえば、秋芳君も同じ袋持ってたわよね。笑狸ちゃんに頼まれた買い物って、ひょっとして……」
 
 どうしよう?
 好奇心がムラムラと湧いてきた。
 気づけば手にしたゲームをPCにインストールしている京子だった。
 
 

 
後書き
 天コウ北斗七星霊陣の「コウ」は、止の上に四の字がつく特殊文字です。 

 

残照 1

 丸太のように太い胴をした巨大なムカデ。
 フェーズ3の動的霊災。タイプ・ワームだ。
 そのナイフのように大きな牙が秋芳の身にせまる。

(秋芳君!)
 思わず声をあげる京子。
 軽やかに身をかわすと同時に、金光一閃。
 手にした霊符から延びる光刃が大ムカデの胴を半ばほど断ち斬った。

 シャァァァッッッ! 

 痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。

(石化の呪!? 逃げて秋芳君!)

 どういうわけか京子にはその煙に石化の呪詛が込められているとわかった。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
 両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
 害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
 さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生 じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。

 ピギャァァァッ!?

 たまらず退散する大ムカデ。

「禁足則不能歩、疾く!」
 足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
 どどうっ。
 無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。

「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」

 孔雀明王の陀羅尼だ。
 破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。

(やっぱり強いわね、秋芳君。あたしが心配することなんてなかったわ)

 そこで、目が覚めた。

「…………」

 見なれない天井が目に映る。
 季節はずれの蝉の鳴き声が聞こえる。
 畳の匂いが鼻をくすぐる。
 障子を通して光が柔らかく差し込んでくる――。
 ゆっくりと身を起こし、寝起きの頭で今がどういう状況なのか整理する。

(ここ、どこ? なんであたしここにいるんだっけ? ええと……)
「あ、目が覚めた? おはよー、京子ちゃん。もうお昼だよ」
どこか猫じゃらしを連想させる柔らかな声質の声がかかる。秋芳の使役式、笑狸だ。
「陰陽医さんのとこには秋芳と純ちゃんだけで行ったよ、予約の時間だったからね。京子ちゃん、気持ちよさそうに眠ってたから……。なんかいい夢でも見た?」
「え?」

 言えない。
 秋芳君が夢に出てきたなんて恥ずかしくて言えない。

「あ、真っ赤になっちゃって。エッチな夢でも見たとか?」
「そんなの見てない!」

 そうだ。
 獣の生成りになった木ノ下純の具合を診てもらうため、腕のいい陰陽医のいる奥多摩の田舎まで秋芳、笑狸、京子、純の四人で来たのだ。

「一人じゃ心細いの。京子ちゃんたちも一緒に来てくれない?」

 そう純に頼まれた時、秋芳も京子も「ご両親はつき添ってくれないの?」という言葉が喉まで出かかった。
 家族との間に、いろいろとあるのだろう。
 もし秋芳が今の純の立場で実父が生きていたとして、医者のもとまでつき添ってくれるのだろうか? 賀茂の一族の誰かが一緒に来てくれるのだろうか?
 生成りを祓う立場になる者が生成りになることを不名誉に思う陰陽師はたくさんいる。自分のミスでなったのだから、最後まで自分でなんとかしろ。
 そんなふうに突き放されたのでは?
 京子にしても祖母と母との関係は良好だが、父親とは疎遠だ。
 陰陽塾に通う生徒は名門・旧家の者が多く、そういう家は複雑な家庭環境を抱えている場合が多々ある。
 秋芳と京子はあえて質問せず、純の頼みを快諾した。
 どうせなら小旅行を楽しもう。
 気の塞いだ純を元気づけるため、連休を利用して日帰りのところを旅館に一泊することになった。

「きのうの夜のこと覚えてる? 京子ちゃん、ずいぶん飲んでたよ」
そうだ。

 旅館の夕餉にアルコールが出たのだが、旅先の解放感からか、かなり飲んだ記憶がある。

「京子ちゃんて脱ぎ上戸だったんだね」
「ええっ!?」
「あははっ、やっぱり覚えてないんだ」

 最初は秋芳と笑狸しか飲んでなかったのだが『憂いを晴らすには酒が一番』と、純に酒を勧め、その 飲みっぷりに感化されて京子も飲みだしたのだが、すぐにでき上がってしまった。

「あ~、なんか暑い」
 
 などと言って着ている服を脱ぎはじめ、下着姿になる寸前に純があわてて制止しなかったら、男三人の前で乙女の柔肌を余すところなく披露していただろう。
 そう、男三人の前で。
 男の娘を自称する木ノ下純や少女の姿に好んで化ける笑狸が同行しているため意識しなかったが、この面子で女子は京子ただ一人なのだ。

「京子ちゃん無防備すぎるよ~、薄い本だったら完全にやっちゃったり、やられちゃうパターンだったね、あれは」
「薄い本てなに!?」

 だがたしかに昨夜は羽目を外しすぎた。
 自分で言うのもなんなが、倉橋京子は優等生だ。
 陰陽道の名門にして、現代呪術界の大家、倉橋家の娘。
 陰陽塾での成績も優秀で、講師たちの信望も厚い。
 クラスではたいていの場合、中心的なポジションにいる。
 今まで築いてきた『倉橋京子』という優等生のイメージがボロボロとくずれていくイメージが浮かんだ。
 けれどもこういう『生きかた』も悪くない。

「秋芳、遅くなるようならメール入れるってさ。それまでは街中でも見物して周ったら? お祭りの準備とかしてて面白そうだよ」
「お祭り?」
「うん。ここの仲居さんが言ってたけど、ええと、なんとかってお祭りが……」
「金矢祭りです」
 白い襦袢姿の少女が二人の会話に割って入る。旅館の仲居だ。
「お客様たち、きのうはずいぶんお楽しみだったみたいですね。遅くまでずいぶんにぎやかでしたよ」
「あ、ごめんなさい。騒がしかったわよね。ひょっとして他のお客さんから苦情とかありましたか?」
「ぜんぜん! だって宿泊されてるお客様は賀茂様たちだけですから」
「え? お祭りがあるのに? 普通そういう時っていっぱいお客さんが来るんじゃないの?」
「こ~んな辺鄙な田舎町のマイナーなお祭りを目あてに来る人なんていないですよ。あ、でも今日、早朝チェックインのお客様がいたから、あれがそうなのかな?」

 ずいぶんとあけっぴろげな仲居さんのようだ。だがイヤミな感じはしない。
 これが彼女の素なのだろう。
 齢は京子と同じくらいで、まだまだ遊びたい年頃に見える。

「お昼ごはん、どうしますか? 簡単なのでいいなら用意できますよ?」
「……そうね、お願いするわ」

「この漬け物美味しい! 白いご飯によく合う」
「お魚も美味しいわ。これ、鮎よね? 川魚ってあんまり食べたことないけど、こんなに美味しかったのね」
「近くの川で獲れたの。旬はすぎちゃったけど、じゅうぶんいけるでしょ?」
「うん、いけるいける」
 
「金矢祭りでしたっけ。どういう謂れがあるお祭りなんですか?」

 京子と笑狸は仲居――ここの旅館の娘で家業の手伝いをしている。浅田かなえという名だ――の用意してくれた昼食を堪能した後、お茶を飲み、ひと息入れながら会話に興じる三人。
 かなえは同年代の話し相手があまりいないそうで、嬉々として話に応じてくれた。

「えっとね、昔、俵藤太って人がこのあたりを荒らしまわる大ムカデを退治したって話なんだけど」
「ムカデ!?」
「うん、ムカデ。倉橋さんムカデきらい? て、あんなキモい生き物、普通はきらいだよね。好きな人なんているわけないか」
「ムカデ、わりと美味しいよ」
「え~、笑狸さんてゲテモノ好きなの!? 以外! そんなかわいい顔してるのに……」
「…………」

 夢の中で秋芳が戦っていたのもムカデだ。
 あれはひょっとしてなにかのお告げなのでは? 京子の心に一抹の不安がよぎる。

「でね、その大ムカデってのが山に何重も巻きつくほど大きい、怪獣みたいなやつだったらしくて、そいつが田畑を荒らすわ人を食べるわの大暴れ。みんな大迷惑してたんだけど、そこに俵藤太て強いお侍さんが通りかかって、そいつをやっつけてめでたしめでたし。その時のお話がもとになってるの」
「俵藤太って、藤原秀郷のことだよね? 平将門を討ちとった」

 俵藤太。
 またの名を藤原秀郷。
 関東で乱を起こした平将門を討った武将として有名だが、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、亡くなった年さえも不明という、いささか謎の多い人物だ。
 伝承の中では近江の国の大ムカデ退治。下野の国の悪鬼・百目鬼退治で名が知られる。

「そう。その藤原秀郷さん」
「でも、金矢祭りの『金矢』ってのはどういう意味なの?」
「そのムカデ、すっごい硬かったらしくて、刀も矢も弾いちゃったんだけど、最後に残った一本の矢に唾をぺっ、てつけて射ったら、なぜかそれが効いて倒せたんだって。不思議よね~」
「そういえば唾には魔除けの効果があるって言うわね」

 唾に魔除けの効果があるという話は世界中にある。
 また沖縄には落し物を探すさい、唾を手の平にのせて呪文を唱えると失せ物が見つかる。などという『まじない』があるという。
 これらは乙種呪術といえよう。

「その最後の矢を祀ってる神社がこの街にあって、その名も金矢神社。だから金矢祭り。なんかもう、そのまんまよね」

 浅田かなえはケラケラ笑いながら話を続ける。

「あたしはその大ムカデって、今でいう霊災なんじゃないかなと思うのよ。倉橋さんたち東京から来たんでしょ。やっぱ東京って多いの、霊災? あと陰陽師に会ったことある?」
「それは…」

 京子が言いよどむ。
 自分たちは陰陽塾に通う見習いの陰陽師であり、プロの陰陽師の教えを毎日受けている。
 そのことを正直に言っていいものか?
 世間での陰陽師の評判はすこぶる悪い。
 霊災の修祓などでその活躍を一時的に感謝される瞬間はあるが、それ以上に発生した損害の責任を問われる、批判の声のほうがはるかに多い。
 たしかに東京に霊災が多発する原因を作ったのは陰陽師・土御門夜光が執り行った儀式の失敗によるものなので、それはしかたがないのだが、時にはそれとは関係ない、理不尽な差別や非難を受けることもある。
 笑狸が京子の表情をうかがう。どうする? 言うの? そんな心の声が聞こえるような気がした。

「浅田さん。あたしたち、陰陽塾の生徒なんです」

 隠す必要はない。
 意を決し、京子は正直にそう答える
 その返事にかなえが目を丸くする。

「凄い! あたし陰陽師の、木暮禅次朗さんのファンなの!」
「え!?」

 この反応は京子の予想外だった。
「木暮さんてかっこいいわよね。この前の霊災修祓の時とか、直径が二メートルくらいありそうな木の霊災をズバッと斬り倒して、ほんとマンガみたいだった! ええと、なんだっけ『五行の理を以って、鋭なる金気、沌せし木気を滅さん。金剋木、魔瘴退散』だったわよね、たしか」

 呪文詠唱まで正確にそらんじてみせるかなえ。

「いいなぁ、陰陽師。あたしも陰陽師になりたい……」
「え、ええっと……」

 京子は困惑した。
 てっきりネガティブな応えが返ってくると思ったからだ。

「ねぇ、陰陽塾って、どうしたら入れるの?」
「それは、まず見鬼ができないとダメね」

 見鬼。
 霊気を感じ取る、いわゆる霊感というものだが、陰陽師になるにはこの才の有無が第一条件だ。
 この能力の強さは個々の才能に大きく左右され、高位の見鬼は一般のそれらには見通せない術理や法理。天地に満ちる気の流れそのものまで見極めることができるという。

「あー、あたし、そういうのない……。ね、見鬼だっけ? それってどうしたらできるようになるの? なにか特別な練習とかあるわけ?」
「う~ん、生まれつきのものだから、訓練や練習で見につけられるものじゃないの」 

 そして見鬼とは天与の才能であり、後天的な訓練で能力をのばすことはできても、元からの素質がないものにはあつかえない。
 なんらかの呪術により見鬼が付与されることはできるが、才のない者が自前で修得するのは不可能。
 というのがこんにちの呪術界の定説になっている。

「そっか、残念……」
 気まずい沈黙。
「あ、倉橋さんたち。もしヒマなら街の中を案内するわよ。なにもないところだけど、鮎の獲れた綺麗な川はけっこう自慢だったりするの」
「いいんですか? 旅館のお仕事は…」
「いいの、いいの! もうずっと閑古鳥が鳴いてて、やることなんてないんだもん。ちゃんとお母さ…。女将さんの許可もらっとくから気にしないで」
「あ、いいね~、川。ちょっと暑いし涼みに行こうよ」
「それじゃあ、お願いします、浅田さん」
「かなえでいいわよ。…こっちも、京子ちゃんでいい?」
「ええ、よろしくね。かなえちゃん」

 夕方からの祭りの準備に騒がしい街中を抜けて、街のはずれを流れる川にたどり着く。
 清らかな流れが涼しい風を運んでくる。
「ひゃ~、綺麗だねぇ。ボク、ちょっと入ってくる」
「ちょ、笑狸ちゃん!?」 

 言うが早いか服を着たままジャバジャバと清流に分け入る笑狸。化け狸だけあって、このへんは実にエネルギッシュだ。

「もう、笑狸ちゃんたら、着替えどうするのよ……。でも、ほんとうに綺麗な川ね」
「でしょ? この川くらいなものよ、この街のいいとこなんて」

 そう言って小石を拾い水面に投げるかなえ。

「金矢祭りだってあるじゃない。なんか思っていたよりずっと本格的みたい。みんなすっごい楽しそうに準備してたわよね」
「…こういう田舎って、地域の共同体みたいな意識が強いの。行事を手伝うのは当然の義務だって、なんかうっとうしいのよね、そういうのって」
「そうかしら? みんな率先して手伝って、ああいうのって貴重だと思うわ」
 
 京子もかなえにならい小石を拾い水面に投げつける。
 しばらく二人で石を投げ続ける。

「素敵よね…。時間がゆっくり流れてる、て感じ」
「……よくTVとかで都会のマンションは隣に誰が住んでるかわからない。病める現代社会の典型。みたいな感じでやってるでしょ? でも、それはそれでいいと思うのよね。ここみたいなのって最悪。ほんとにうっとうしいもの、せまいせまい共同体。監視し合って干渉し合って、相手の生活にずかずかと踏み込んでくる。デリカシーなんてなくて、だから若い人はみんなここを出て行っちゃう……」
「かなえちゃん……」
「陰陽塾って渋谷にあるのよね。京子ちゃんは渋谷、好き?」

 渋谷。
 道玄坂、宮益坂、公園通り……。
 とにかく坂が多い。
 坂の下がりついた場所に渋谷駅が存在しているのだが、そこに、谷間の真ん中に引き寄せられるように大衆が集まる。
 まるで蟻地獄にはまった人間たちが、その底辺で蠢いてるような印象がある。
 上流から下流に流れていく水のように、渋谷には様々な気が流れ込んで来るのだろう。
 陽と陰。
 二つの気が。
 そんな場所にあるのが陰陽塾なのだ。

「ゴチャゴチャしてて空気はよどんでて、朝は生ごみの臭いがして、道端でケンカしてる人もいっぱいいる……。ここみたいに綺麗な川もない。でも好き」
「どうして?」
「いやなところもあるけど、いいところもあるわ。それに――」
「それに?」
「陰陽塾があるから、そこがあたしの場所だから」
「そっか……」
 
 小石を水面に投げる。

「いいよね、そういう場所がある人は」

 小石を投げる。

「……あたし、ここがきらいなわけじゃない。このなんにもない街の一部みたいな自分がきらい。毎日あたりまえのように過ごしている自分がきらい。ここにいたら、あたしずっとこのまま、きらいなあたしのままでしかない」
「かなえちゃん、だれでも今の自分が百パーセント『いい』だなんて思ってないわ。だれでも自分のいやな部分を知っている。でも、そういうのもふくめて自分だと思うの」
「それは、ほんとうに『いやな』ところのない人の、才能のある人の科白だよ」
 
 小石を投げる

「見鬼かぁ…。あたしもそういう才能が欲しかったなぁ」
 投げる。

「石、それじゃ跳ばないよ」
「え?」

 いつの間に川から上がったのか、全身から水をしたたらせている笑狸の姿があった。

「水切りの石。もっと平らな石じゃなきゃ水は切れないよ」

 そう言って手近な石を拾い、水面に投げつけた。
 一つ、二つ、三つ、四つ……。
 石は水面にいくつもの輪を作って遠くまで跳んだ。

「石を変えれば結果が変わることもある。でも、投げるのは自分でしょ。世界の中心は自分。逆じゃない。世界の裏側や果てに行っても、京子ちゃんは陰陽師を目指してると思う。それが京子ちゃんの真ん中の部分、つまり自分だから。『才能』なんていう環境に左右されるような情けない真ん中じゃ、次の場所で悩んだ時に、また同じように見失うよ」
「笑狸ちゃん…」

 いつも軽薄な笑狸がそのようなことを口にするのは正直意外だった。

「かなえちゃんが欲しいのって才能ならなんでもいいの? それとも見鬼が欲しいの? もし見鬼の才が欲しいなら秋芳に見てもらうといいよ。いい訓練を教えてくれるかも」
「え、でもそれって後から身につけることができないじゃ…」
「秋芳がよく『努力に勝る天才なし』て言ってるよ。どんな天賦の才能を持っていても、努力し続ける人にはどんな天才も勝つことはできないってさ。血筋や出自を重視する、今の呪術界のやり方に疑問や不満があるみたい。だから見鬼の習得や霊力の底上げに関する   独自の鍛練法を考案してるみたいだから、ひょっとしたら教えてくれるかも。…あ、でも下手したら気脈が断たれて廃人になったり、最悪死んじゃうから、そのつもりでね」
「え、遠慮しとくわ。あたし、まだそこまでの覚悟はないから」
「まだ、ね…。でも本気で陰陽師になるつもりなら、東京まで訪ねてきてよ」
「あ、べつに陰陽師を目指すとかじゃなくて、今度渋谷に出て来るときは連絡して。一緒にいろんなところを案内するわ。あたし、この街にもまた来るから」
「うん、わかった…。二人とも、ありがとう」

 遠くから喧騒が聞こえてくる。

「あれ? お祭り始まったの?」
「そんなことないわ。だってお祭りは夕方からだもの」

 人の怒声、泣き声、悲鳴――。
 祭りの賑わいとはあきらかに異なる剣呑な響き。
 黒い噴煙まで上がっている。

(噴煙! まさか……)
「京子ちゃん!?」

 駆けだす京子。

「かなえちゃんはここにいて! 笑狸ちゃん、かなえちゃんを頼んだわよ」

 返事も待たずに騒動のもっとも激しい場所を目指して進む。
 街中は、巨大なムカデの群れにあふれていた。
 大きいもので電信柱ほど、小さいものでも大人の腕くらいの太さをしたムカデたちが人々を襲っている。
 一匹や二匹ではない。
 十匹、二十匹、三十匹……。
 数えきれないほどの大ムカデたちが跳梁している。
 角のような触覚をいやらしく蠢かせ、人々を追いつめ、捕え、食べている。
 首から上をねじ切られ、血しぶきの上がる死体の横で頭をかじるムカデの姿がある。
 切断された胴から灰色をした腸をぶちまけ、のたうつ老人に無数のムカデが群がるのが見えた。
 半被を着た肉の塊。あれはついさっき通りがかる時に言葉を交わした少年――。
 大ムカデの放つ異臭と人々の流した血の臭いが鼻をつく。
 人が、目の前で死んでいる。
 食い殺されている。

「うぐぅっ」

 うずくまり胃の中の物を吐きだす。

(なんなの!? いったいなにが起きてるのっ?)

 助けなければ。
 戦わなければ。
 自分は陰陽塾の生徒だ。無力な人々を霊災から守らなくては――。
 しかし――。

「いやっ、もういや! だれか助けて!」

 涙が止まらない。
 腰から下に力が入らず、へたりこむ。
 自分を支える力が砕け散った。勇気など湧いてこない。完全に戦意を喪失した。
 自分では敵わない。
 自分ではどうしようもない。
 自分はもう、負けてしまったのだ。

「助けて、秋芳君……」

 一匹の大ムカデが鎌首をもたげ、京子に迫る。
 自分に迫る牙をただ見つめ返すだけの京子。

「秋芳君……、お願い、助けて」

(自分は『負けてしまったのだ』だの、自分には『できない』だのと思い込み、決めつけることは、自分で自分に可能性を閉ざす呪をかけているに他ならない。目を覚ませ! 倉橋京子!)

 !!っ

 声が聞こえた。
 賀茂秋芳の声が、聞こえたような気がした。

(呪術者同士の戦いや霊災の修祓に『絶対』だの『百パーセント』だのなんてないんだよ。相手の使う術。瘴気の種類や強さなんてわからないのが普通。まして動的霊災ともなれば見た目も能力も千差万別、千変万化だ)

(ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になる。一見した霊力や瘴気の総量が多い少ないなんて気休めにもならない)

(生きるか死ぬか、勝ち負けなんてサドンデスがあたりまえ。それが呪術戦だ)

(だが、それでも『絶対』に勝つ気で挑む! 霊力や手数の多寡で勝敗が決まるのではなく『勝つ』という気概をより強く持った方が勝つんだ)

(俺の好きな映画の一つにアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『コナン・ザ・グレート』てのがあるんだが、それにグッとくる科白があってだな『俺たちは二人だけで邪教の者と戦う。命を捨てて立ち向かう。この俺の勇気をほめてくれるならば、力を貸してくれ。もし守ってくれなければ二度と拝まんぞ!』てんだ。逆境にあってなお卑屈にならず堂々としているその姿、実にかっこいい!)

 放課後の教室や休み時間に、授業中に穏形しつつ、こっそり語った秋芳の言葉の数々が聞こえてくる。
 京子の身から消えかけていた意志が、人々を守りたいと思う気持ちがよみがえる。

(わかった。わかったわ、秋芳君。あたしはあなたに『助けて』なんて言わない。そのかわり『あたしは戦う、だから助けて』お願い!)

 背筋を伸ばし、迫りくる大ムカデに対し刀印を切る。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ!」
 




 暗転。





 丸太のように太い胴をした巨大なムカデ。
 フェーズ3の動的霊災。タイプ・ワームだ。
 そのナイフのように大きな牙が秋芳の身にせまる。

(え? 秋芳君?)
 一瞬、秋芳が助けに来てくれたのだと思った。
 だが、ちがう。
 ここは先ほどまで京子がいた街中ではない。
 どこか廃墟めいた荒れ地。

(これって、今朝の夢?)
 秋芳は大ムカデの攻撃を軽やかにかわすと同時に手をひるがえす。
 金光一閃。
 手にした霊符から延びる光刃が大ムカデの胴を半ばほど断ち斬った。

 シャァァァッッッ!

 痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。

(同じだわ……。いったいどうなってるの? これは、なに?)
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」

 秋芳が両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
 害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
 さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。

 ピギャァァァッ!?

 たまらず退散する大ムカデ。
「禁足則不能歩、疾く!」
 足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
 どどうっ。
 無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。

「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」

 孔雀明王の陀羅尼だ。
 破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。

(街は、かなえちゃんはどうなったのよ!?)

 そこで、目が覚めた。

「…………」
 見なれない天井が目に映る。
 季節はずれの蝉の鳴き声が聞こえる。
 畳の匂いが鼻をくすぐる。
 障子を通して光が柔らかく差し込んでくる――。

「あ、目が覚めた? おはよー、京子ちゃん。もうお昼だよ」
 

 

残照 2

 純の診断はすぐに終わった。
 不自然な憑依状態というわけではないので改めて治療を施す必要などなかったからだ。
 生成りではなく先祖返りということで、身に宿る獣の魂を強引に抑えつけたり、祓うのではなく、制御する方法をいくつか伝授されたのみ。
 身に異形の力を宿し、行使する。
 これは呪術師にとって大きな強みになると同時に一種の箔がつく。
 現役の十二神将の中にも、降した鬼の持つ力を自身のものとして使役・利用することで強大な戦闘力を得ている者がいるが、畏怖の対象になっている。

「わざわざこんな遠くまで来たのに、たったこれだけで帰らせたら悪い。せめて治療の真似事をさせてくれ」

 そう言って陰陽医が用意してくれたのは桃の実入りの風呂だった。
 桃は昔から邪気を祓う神聖な植物とされていて、軽度の霊障ならばこれだけで治せると言われている。

 沐浴した後、縁側で身を涼めている純。そして隣にはつき添いの秋芳。

(しかし木ノ下先輩。こうして見るとずいぶんと色っぽいな。春虎が惑わされたのもうなづける)

 風呂上りの火照った身体を薄手の湯帷子で包み、風にあたる純の姿は女にしか見えない。
 始めて見た時は化粧のせいもあり『美人』よりは『かわいい』タイプに思えたが、こうしてすっぴんだと、その印象は逆転する。

(こっちのほうがいいな)

 失恋や霊災が重なったせいで、明るい仕草や表情も鳴りを潜めているが、その伏し目がちな所作が逆に艶っぽく、色気がある。

 正直、そそられる。

(身にまとう気はたしかに男のものだが、なんとも艶めかしい。まるで歌舞伎の女形のようだ)

 たとえ呪術師でなくても、なんらかの分野で『一流』の域に達した者は非凡な気をまとう。
 身も心も異性になりきっている役者のまとう気など、プロの陰陽師でも男女の見分けをまちがえるかもしれない。

「よかった」
「うん?」
「京子ちゃんたちがいてくれて、秋芳君がここまで一緒に来てくれて。ここまで来て、また春虎君の名前が出てくるんだもん。一人だったら耐えられなかったかも」

 倉橋塾長の紹介してくれた名うての陰陽医の名は土御門鷹寛(つちみかどたかひろ)
 春虎の父親だったのだ。

「ああ、同じ土御門の一族でも、まさか父親だとは思わなかったな」
「縁があるのか、ないのか、わからないものね」

 力のない苦笑を浮かべる純。
 春虎にはつい先日フラれたばかりなのだ。

「他にいい人を見つけるといい。…ああいうのがタイプなのか?」
「うん。楽しそうに笑える人が好き。陰陽塾(うち)って、そういうタイプの人あんまりいないから」
「まぁ、基本的にみんな奥ゆかしいからな。大口開けて笑うようなタイプはたしかに少ないかもしれん。つーかルックス的にもあいつはうちの異端児だな。最初見た時は茨城のヤンキーかと思ったよ」
「あっははは! なにそれ。でもそれってば春虎君にぴったりのキャッチコピーかも」

 純の顔に笑顔がもどる。

「春虎がどうかしたのかい?」

 声の主は噂の主の父親。土御門鷹寛だ。
 がっしりとした体格で身長も高く、レスラーと言っても通用する大男だが、そのわりには威圧感を感じさせない。

「彼が陰陽塾の個性派だって話してたところです」
「ほう、だがおれから見たら君らふたりもじゅうぶん個性的だよ。最初はどこのAKBだかKGBだかのアイドルかと思ったほどのべっぴんさんに、賀茂氏の御曹司だからな」
「アイドルってそんな…、それほどでも、ありますか?」
「御曹司といっても俺はただの養子ですから。それに賀茂といっても今は没落した旧家の一つにすぎませんよ」
「それなら土御門も同じようなものさ。……秋芳君は春虎のクラスメイトなんだろ? 今、茶を淹れるから、塾での春虎のこと、聞かせてくれないか?」

 冷たい緑茶。それと焼き菓子が用意される。
 小麦粉を卵と砂糖で練って焼き上げた生地でホワイトチョコを包んだ焼き菓子は香ばしく甘かった。

「――で、春虎はどうだ? クラスにはちゃんと馴染めてる? 勉強はできてるかい?」
「ツッチーなんて呼ばれて馴染んでますよ。なんでも入塾早々みんなのハートをガッツリつかむような行動したそうで。…勉強は、正直できません。そのせいで、いつも主の夏目君からお小言を喰らってます」
「はははっ、優秀な夏目君から見たら、うちのバカ息子のバカっぷりには腹が立つんだろうな」
「優秀…、たしかに夏目君は優秀ですね。ですが――」
「うん?」
「夏目君と春虎君。上司にするなら春虎君ですね」
「ほほう、そりゃまたどうしてだい?」
「夏目君は優秀な人間にありがちな『自分ができるから他人もできて当然』な考えが強いように思えます。こういう人はたいてい教え下手で、下につくと苦労します。対して春虎君は『自分もできないから一緒にがんばろう』『自分にはできないからお前を頼りにしている』と、こちらのやる気をうながしてくれそうです」
「ふむ…」
「それと人を惹きつける徳のようなものが備わっているような気がしますね。人々の輪に自然と入れる。気づけば場の中心にいる。たとえるなら『三国志演義』の劉備や『水滸伝』の宋江みたいな人でしょうか」
「そいつは褒めすぎだろ! 親の前だからって持ち上げなくてもいいだぜ」
「いやいや、正直な感想ですよ。土御門の次期当主は夏目君だそうですが、トップに立つなら春虎君のほうがお似合いじゃないですかね」

 そのひと言に鷹寛の目に鋭い光が走る。

(おっと、さすがに人の家のことについては言いすぎたか)

 だがそれも一瞬。すぐにもとの穏やかな目つきにもどった。

「たとえお世辞でもそこまで言ってもらうと嬉しいね。どうだい、今日はゆっくりしていって、うちで夕飯でも食べていったら」
「いや、麓の街に連れがいるので、もう帰ります」
「あ、それに夕方からのお祭りも見たいですし」
「麓? 祭り?」
 鷹寛は秋芳と純の言葉に怪訝そうな表情を浮かべる。
「麓というのは、どっち方面だい?」
「〇〇側ですが…。なんでも金矢祭りがあるという街で名は――」
「そんなバカな! ありえない! あの街はもう……」
秋芳の応えに鷹寛は思わず驚きの声を上げた。
「なにが、ありえないんです?」
「む、それは……」

 言いよどむ鷹寛。

「教えてください。街には大事な連れがいるんです。あの街がどうかしたんですか?」

 大事な連れ。
 その一言に純の心がかすかに震える。

(あ、やっぱり京子ちゃんのこと好きなんだ。ちょっと残念、かな…)
「わかった。他ならぬ倉橋塾長の紹介で来た、同じ陰陽の道を歩む君たちだ。口止めされているのだが――」

 今から一か月ほど前に生じた霊災により、街は壊滅し、住人は全滅。
 フェーズ4にまで達した霊災は無数のタイプ・ワーム。ムカデ型の動的霊災を生み出し、祓魔官たちが到着した時には、すでに生存者はいなかったという。
 霊災の進行速度があまりにも早かったこと。
 東京から離れていたため、発見や修祓が遅れたこと。
 それらの不幸な要因が重なり、街一つが霊災により地図から消えるなどという、あってはならない規模の被害を生んだ。
 そう、あってはならないほどの。

「そんな大規模の霊災が起こったなんて話、聞いたことないわ!」
「……隠したんですね、陰陽庁が」
「ああ、ことはあまりにも大きすぎる。公にすべきではないと箝口令が敷かれた。このことを知っているのは陰陽庁のお偉方と、当時現場にいた祓魔官。それに近場に住んでた陰陽師。つまりおれたちの家族くらいだろう」
「ニュースにもならず新聞にも載らない。都会から離れた田舎町で、住んでた人たちも『全滅』したからこそできた隠蔽ですね」
「組織的な隠蔽だなんて、そんな……。そんなことが許されるんですか!?」
「隠蔽云々なら俺たちも人のことは言えないけどな」

 これは呪捜部に連絡せずに自分たちだけで解決しようとした、先日の犬神騒動のことを言っている。
 自分らが禁忌を破るのは良くて、他人がそれをしたら糾弾するというのは、いささか手前勝手。虫のいい話だ。

「でも、それとこれとじゃレベルがちがいすぎるわよ」
「たしかに。だが今はそんなことより京子たちの身が心配だ。木ノ下先輩はここにいてください。鷹寛さん、彼をお願いします」

 そう言うや返事も待たずに駆け出し、街へと急ぐ。
 疾走しつつ笑狸との『つながり』を強化し、呼びかけるも反応はなし。
 道を使わずに山林を突っ切り走りに走る。
 軽功を駆使して木々を飛び、林を駆けるのはお手のものだ。伊達に山籠もりの修行を積んだわけではない。





 街に、街だった場所に着いた。
まるで竜巻や津波に飲み込まれた後のように崩壊した街。瓦解した建物が広がり、人の気配もしない。

(どういうことだ? 昨夜はここで一晩明かしたんだぞ。旅館の風呂に入って飯も食ったし酒も飲んだ)

 まずはその旅館があるであろう場所に行ってみた。たしかに見覚えのある建物がそこにはあったが、破損がひどい。雨露をしのぐことはできても、これではとても旅館としては使えないだろう。

(狐や狸に化かされて、泥水を酒と思いこまされ、畑や林の中で一人で宴会していた。なんて話を聞くが、これは幻覚や幻術の類ではない)

(まずこの俺がまったく気づかずに術にかかるわけがない。次に見鬼持ちが四人もいるんだぞ。そのうち一人は幻術を得意とする化け狸だ。それを完全にだますなんて不可能だ)

(もしや霊災。フェーズ5による、完全なる異界に迷い込んだのか!?)

 霊災。
 自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。災害へと発展する直前の段階をフェーズ1。
 これがさらに進行することでフェーズ2へと移行し、強まった瘴気が周囲へ物理的な被害を与えるほどになる。この段階を超えると大量の瘴気は実体化し、鬼や天狗。鵺といった異形の存在。移動型・動的霊災と呼ばれるようになり、これがフェーズ3。
 フェーズ4へと進行すると一つの巨大な霊災を中心として無数の霊災が連鎖的に発生し、無数の霊的存在が実体化して暴れ回る百鬼夜行となる。
 そしてさらに、進行した霊災が世界に受け入れられ遍在化する状態をフェーズ5。ファイナルフェーズが存在すると、一部の研究者たちの間で時々口にのぼる。
 偏向ではなく偏在。
 世界に受け入れられ遍在化した霊災とはなにか?
 一説では『神』になるとされる。
 神話や伝説などに登場する神や悪魔と呼ばれる霊的存在は霊災の一種。という考えだが、同様の考えで天国や地獄。魔界や黄泉といった想像上の異界もまた、霊災が極まったさいの形の一つではないかという説だ。
 世界各地に伝わる隠れ里や桃源郷伝説などはこれで説明がつく。
 神隠しなどは『異界』という名の霊災に巻き込まれたくちだ。
 呪術によって世界の一部を一時的に異界化することは可能だ。結界に閉ざされた状態の空間も一種の異界といえる。
 だが永続的に存在する『世界』を人の身で創れたという話はいまだ聞かない。
それはまさに自然現象を、地震や台風を人工的に起こせるかというレベルの話になる。

(む?)

 かすかな霊気の乱れを感じ、その方向にむかう。

(これは、社の跡か?)

 鳥居の残骸だろうか、朱色の木片が散らばっている。
 そしてその向こうには――。
 瘴気。
 地面から瘴気が間欠泉のように湧き出し、竜巻のように回転しながら空へと舞いあがっていた。

(なんなんだこれは? フェーズ3にいつ移行してもおかしくない規模の霊相だが……、このあるかなしかのわずかな瘴気はなんだ?)

 ガラス越しに人と会話している時のような『聞き取りにくい』感じ。
 目の前にあるにもかかわらず、どこかぼんやりとしている。
 慎重に瘴気へと近づき、様子をうかがう。
 すると――。
 竜巻状の瘴気は一瞬にして巨大なムカデへと姿を変え、襲いかかってきた。

「斬妖除魔、降魔霊剣。急急如律令!」

 ふところから素早く霊符を抜き、即座に口決を唱えると、符から光り輝く刃が伸びる。
 牙による攻撃を避けると同時に腕を振るい、ムカデの胴を斬り裂いた。

 シャァァァッッッ!

 痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。

「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」

 両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
 害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
 さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。

 ピギャァァァッ!?

 たまらず退散する大ムカデ。

「禁足則不能歩、疾く!」
 
 足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
 どどうっ。
 無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。

「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」

 孔雀明王の陀羅尼。
 破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。
 だが、瘴気は依然として地面から湧き出している。

(これはまさか、門か?)

 異界へのゲート。
 そのようなものが本当に存在するのだろうか?
 ふところから一枚の式符を取り出す。
 霊力を練り、呪力に変えて式符に注ぎ込みながら放つ。秋芳の呪力を受けた式符は折り鶴の形になり瘴気の中へと入る。
 視覚を共有してある偵察用の簡易式だ。
 秋芳が意識を集中するに従って〝目〟は奥へと進んでいくのだが――。

(ダメだ。たしかにどこかにつながっている感じはするが、気の流れに乗ることができない。俺自身が帝式の兎歩を使えばあるいは……)

 道教に伝わる兎歩は魔除けの歩法だが、帝国式陰陽術における兎歩とは仙術とされる縮地の術と組み合わせ、霊脈に入り移動する呪術のことをを指す。
 禁呪にふくまれない帝式の中では屈指の難易度を誇る超高等呪術であり、夜光以降に作られた新しい呪術だ。
 賀茂にも連にもこの呪術は伝わっていない。
 秋芳もつい最近にこの呪術の存在を知り、陰陽塾の図書室で専門書をあさり、独学で身につけたところだ。
 と、その時。

「そこの怪しいやつ、ここでなにをしているの!」

 突然の誰何。
 声の主はと見れば、小柄な中年女性が肩を怒らせて立っている。
 たしかに中年のようだが溌剌として若々しい。おばさんではなくお姉さんでも通用するルックスだ。額にしてあるヘアバンドといい、元気のいいスポーツ少女がそのまま年齢を重ねたかのような印象がある。

「家のほうから天狗かマシラみたいな勢いで駆けてく影が見えたから来てみれば、瘴気の渦なんてこしらえて、あんたなにしでかそうっての? 返答次第じゃ痛い目見るからね」

 誤解だ。

「待て、俺は怪しい者じゃない」
「怪しいやつはたいていそう言うのよ!」
「待て、俺は怪しい者だ」
「怪しいやつめ、おとなしくお縄につきなさい!」

 女性はそう言うや、なにかを放った。
 蒼いツバメ『モデルWAI・スワローウィップ』だ。
 スワロー・ウィップは人造式の中でも捕縛式と呼ばれる特殊な式神で、その主な用途は呪術犯罪者の捕縛。呪捜官のために作られたような人造式である。
 とっさに折り鶴の式を呼び戻し、飛来してくるスワローウィップに割り込ませて動きを止める。

「ええい、どう答えろと言うのだ! だいたいそっちこそ何者だ。堅気の人間は捕縛式なんて持ち歩かないぞ」
「あんたも呪術になじみのある人間なら『アキバのラムちゃん』て言えば、聞いたことぐらいあるでしょ?」
「はぁ? なんだそりゃ。知らん」
「むむ、じゃあ『祓魔局の天神小町』か『閃光のレディ・サンダー』は?」
「一度も聞いたことがない」
「そう…。なら、これから忘れないように胸に刻み込ませてあげるわ。 急急如律令(オーダー)!」

 女性の手にした木行符がひらめくや、閃光が奔り、轟音とともに雷がほとばしる。

「くわばら!」
しかし秋芳が一喝すると、彼にむかって放たれた霊撃は軌道がずれ、あらぬ方向に飛んでいった。
「……ずいぶん器用な言霊の使い方するじゃない」

 雷除けのまじないに「くわばら」と唱える乙種呪術がる。
 秋芳はそれに呪力をくわえることで『本物』の呪に仕立て上げたのだ。
 たんなる力づくの甲種言霊ではなく、細密に練られた呪力が乗せられた、人間相手のみならず、呪術にも効果がある、きわめて玄妙な言霊術といえる。

「どうやらただの左道使いってわけじゃなさそうね。本気でいかせてもらうわ!」
 女性が印を切り、真言を唱える。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ!」
 激しい雷鳴が轟き、瀑布のような勢いで雷流があふれ、押しよせる。
 自然には決して起こらない規模の雷の嵐が場を駆ける。
 女性が切った印は帝釈天印。
 帝釈天とはインドの神話に登場する軍神インドラのことで、天空の支配者。雷鳴や稲妻を自在にあやつる存在だ。
 彼の武器であるヴァジュラは密教法具である金剛杵のもとになったといわれる。

「雷鳴に祝福されし羅刹の王子。百の剣を振るい、千の矢を降らす魔術の長。我が敵は汝が敵なり。偉大なるइन्द्रजितよ、その力をここに!」

 それに対して秋芳はインドラを倒したという羅刹メーガナーダの尊称『インドラジット』を梵字で唱えることで、その力を源とする呪術を行使し、対抗。
 五行の術に相生や相剋があるように、呪術には相性というものがある。
 たとえば火界咒と不動金縛りはともに不動明王系統の呪術で、ぶつけても相殺せず片方に吸収されることが多い。
 この場合、インドラとインドラジットでは勝利した後者の力が大きく、帝釈天の力を源とする雷の嵐はたちまち沈静化してしまった。

「ぐぬぬ、またしても器用な真似を!」
「ケンカっ早いわ、電気ビリビリだわ。ラムちゃんどころか御坂美琴さんか、あんたは」
「え? あらあら美琴ちゃんだなんて、私ってばそんなに若く見えるのかしら。うふふ、ああでも私の電撃じゃコインは飛ばせないから」
「そりゃまぁ、レールもないのにレールガンは撃てないだろうしな」
「黒こげになっただけよ」
「試したのかよ!」
「さぁ、次は本気も本気。一〇〇パーセント中の一〇〇パーセントでいくわよ!」
「まだ続ける気か…」

 さすがにうんざりする秋芳。
 いささか強引だが、気を禁じて眠ってもらうか……。
 そんなことを考えていると――。

「そこまでだ、かあさん」
「あら、あなた? と、そっちの綺麗な子は?」

 いつの間に来たのか、鷹寛と純の姿があった。

「うちのお客さんだよ。今おまえが相手してる人もな」
「え? ええっ!? どういうことよ」

 鷹寛がことの次第を説明する。

「あらまぁ、そういうこと…。おほほ、ごめんなさいねぇ。場所が場所だけにてっきりよからぬ輩がよからぬことをしてるんじゃないかと、かん違いしちゃったわ」
 
 かん違いで黒こげにされてはたまらない。
 まぁ、むこうもこちらの実力を読んだ上で相応の呪術をもちいてきたのだろうが……。

(秋芳君!)

 !?

(秋芳君、聞こえる? 秋芳君!)

 京子の声が瘴気の中から響いた。
 




 街の離れにある製粉工場。
 大ムカデたちに追われ、着の身着のままで逃げだした人々が集まっている。
 いったい何回同じ日をくり返したのだろう?
 京子は数えてなどいない。
 京子の頭にあるのは、人々を救い、霊災を祓い、また秋芳に逢う。
 そのことだけだ。
 最初からただの夢だとは思わなかった。なんらかの啓示だと判断し、人々に避難を呼びかけた。霊災が、ムカデが現れてからでは遅い。
 だが、どうやって?
 本職の祓魔官でも呪捜官でもない、未成年の少女の言葉で簡単に人々は動かなかった。
 そうこうしているうちに大ムカデたちが現れ、街は惨状にまみれた。
 白桜と黒楓を暴れさせ、強引に避難させようとしたが、それも失敗に終わった。
 大ムカデが人々を襲う前に先んじて祓う方法も試みた。
 出現場所自体はすぐに判明した。連中は常に街中に忽然と現れる。
 つまり『外』から来たのではない。『内』から現れるのだ。
 街の中央付近にある金矢神社。そここそが霊災の発生場所であり、京子がどんなにいそいで駆けつけても、発見時はすでにフェーズ3寸前。まともに修祓するいとまもなく実体化した大ムカデになんども敗れた。
 仮にもっと時間に余裕があったとしても、持てる霊災修祓用の呪術に限りがある京子に祓えた可能性は低い。
 霊災修祓の手順は時と場合にもよるが、基本的な流れが変わらない。
 まず霊災を結界で隔離して周囲への被害を抑制する。その上で霊気の偏向を分析して是正をうながすか、より強力な呪力をぶつけて、偏った瘴気を強引に散らすかだ。
 フェーズ1でさえ本職の祓魔官がバックアップ込みで二、三人で行うのが普通。それを非凡な霊力を持つとはいえ、まだ見習いの京子が一人でおこなっても無理というものだ。

「なんでよ、なんであたしは強くないのよ――」
「秋芳君みたく、どんなやつだって一発で倒せる強い力が欲しい」
「なんであたしは強くないの!?」

 それでも、京子はあらがった。
 なんども、なんども、なんどもあらがった。
 白桜と黒楓では見た目のインパクトが弱い。そこで半信半疑どころか一信九疑の笑狸をなんとか説得し、本物の大ムカデが現れる前に醜悪な大ムカデの幻を街中に作り、動かして人々を驚かせ、避難させる方法を試みた。
 もし笑狸が生来の悪戯好きな化け狸ではない真面目な性格だったら、首を縦に振ることはなかっただろう。
 そしてこの方法はなんとか成功し、今にいたる。
 
「どういうことだ!?」
「知るかよ、おれだってわからねぇよ!」
「もうダメだ!」
「こんなとこにいられるか!」
「ちくしょう! ちくしょう!」
「みんなあのバケモノに殺されちまうよ…」
「こんな小さな街、そっくりなくなっちまうんだ」

 工場の中は怒号で満ちていた。

「みなさん、落ち着いてください! あたしは陰陽塾の生徒です。あたしがなんとかします!」
「どうやって? あんな怪物の群れをどうやって倒すんだい?」
「それは……」
 最低限の被害で人々を逃し、街で一番頑丈な建物である工場に籠城することはできた。
 次はどうするか。
 一応、笑狸には本物の大ムカデが出現した時は、秋芳に助けを求めるよう言ってある。
 だが秋芳はいつ助けに来るのか?

(ダメ。秋芳君を頼りにしてはいけない。あたしの、あたしの力でなんとかしなくちゃ。けどあたしの霊力や持てる術じゃあいつらを倒せない。他の方法を、なにか他の方法は……)

「こ、こんな所にいられるか!」

 興奮状態の男が一人、外へ出ようとした。

「お、おいっ、今外へ出るんじゃない! ゲートを開けるなっ」
「うるさい! 死ぬ時は家の畳の上で死ぬ!」
「おい、ケンカしてる場合じゃないだろ!」

 今にも殴り合いが始まりそうだ。
 人々を避難させることはできたが、このままでは――。

「やめて!」

 かなえだ。
「みんな、くやしくないの!? 年に一度のお祭りを台無しにされて、街を好き勝手されて、くやしくないの?」
「そ、そりゃ、くやしいさ! でもよ…」
「京子ちゃん、みんなために戦ってくれた。あたし見たよ。ここに来る前、あんたがムカデに追いつかれそうになった時に凄い量の水をブシャーって出して、追っ払ってくれたでしょ?」
「あ、ああ…」
「ここに入る時に時間稼ぎしてくれたのは誰? 京子ちゃんだよ。自分だってボロボロなのに、式神使って食い止めてくれた。他所から来た人が一生懸命戦ってくれてるのに、みんなはただ騒ぐだけなの? あたしたちが戦わないでどうするの? ここ、あたしたちの街だよ。好きなんでしょ。この前の寄合でみんな言ってたでしょ。みんながどんどん出て行っても、残って立派な街にしようって。あたし好きだよ。川が好き、空が好き、山が好き。金矢祭りも大好き。なにもない所だけど、あたしはこの街が好きなのっ! だから……」

 シンと静まりかえる。
 そして――。

「……女や子ども。年寄りを奥へ移せ」
「おうっ、男はみんな武器を取れ」
「なにか武器になりそうな物は…」
「やってやる!」
「おれらがやんねぇでどうするっ!」

 場の空気が変わった。 

「みんな……」
「かなえちゃん、ありがとう」
「ううん、お礼を言うのはこっち」
「あー、こっちは、京子ちゃんたちは無事みたいだね」

 全身を真っ白な粉につつまれた笑狸が、一人の男に肩を貸して歩いて来た

「笑狸ちゃん!? どこから入って来たの? 秋芳君は? その人は? なんなの、その格好?」

 矢継ぎ早の質問。

「ええと、ボクが入って来たのは廃棄物を排出するダクトから。秋芳にはなぜかつながらないし、街の外にも出られない。結界かな? この人はここに来る時にムカデに襲われてたから助けてあげたの。この格好はここに来るのに工場内のシャッターとか扉とか開ける時にまちがえて変なスイッチ押しちゃったみたいで、小麦粉を浴びちゃったわけ」

 街から出られない。
 やはり自分たちでなんとかしなくてはならないのだ。

「あれ? 今朝のお客様、ですよね。よかった。無事だったんですね。おケガはしていませんか?」
かなえが男に声をかける。
「バケモノが……、バケモノがいっぱい……」

 男の顔は血の気が失せ、すっかり蒼白になっていた。目を見開き、紫色に変色した唇からはうわ言が漏れるのみ。
 無理もない。一般人が霊災に直面したのだから、この反応は普通だ。意識があるだけまだましなほうだろう。瘴気にあたり、意識を失ったり命を落とす人だっているのだ。

「お客様、もうだいじょうぶですよ。この人たちは東京の陰陽師さんなんです。あんなのすぐ祓ってくれます」
「お、陰陽師!?」

 男がつかみかからんばかりの勢いで京子にうったえる。

「矢を返しに行ってくれ! あいつらが湧いて出たのは矢がなくなったから、きっとあれで封印を解いちまったからだ! あんたらならそういうのできるだろ!?」
「……なんのことか、くわしく説明してください」
 
 男の名は山中といった。
 陰陽庁によって確かな効果があると認められた呪術は甲種呪術と呼ばれ、原則として国家資格である陰陽2種、陰陽1種の取得者のみに行使が許されている。
 そしてそれ以外の雑多な呪術全般を称して乙種呪術と呼ぶ。
 このような分類は呪術のみならず呪具にも適用される。
 甲種呪具などは厳しく管理され、所持するにも陰陽庁の許可が必要なのだが、乙種呪具となるとそうではない。
 各地の寺社仏閣に納められている御神体や神器の中にも甲種呪具はある。その場合は陰陽庁の監視の下、厳重に保護されているのが普通だ。
 場合によっては回収し、陰陽庁庁舎などに保管されることになる。
 だが乙種呪具となると話は別だ。
 たんなるお守りや市販されている破魔矢なども広義では乙種呪具に認定されるのだが、それらをいちいち管理などできようはずがない。
 また古くから伝わってはいるものの、特に呪術的な力のない御神体や神器という物も数多く存在する。
 山中はそのような呪具を集めるコレクターだという。
 日頃は施錠された蔵の奥にしまわれている金矢だが、祭りの時は表に出される。周りに人がいなくなった一瞬の隙をついて、盗んだと言うのだ。

「なんて罰当たりな……」

 絶句するかなえ。

「山中さん。その金矢は今どこにあるんです?」

 糾弾しているヒマはない。京子は金矢のありかを問いただすが、旅館の部屋に置いてあるとのこと。

「どうする京子ちゃん? 外から見た感じ、ムカデたちはこの工場に集まってるみたいだから、ボク一人なら抜け出して取ってこられるかもしれないけど、元の場所に戻すだけでいいのかなぁ…」
「そうね……」

 考えを巡らす京子。

「笑狸ちゃんは笑狸ちゃんで矢を返しに行って。あたしはここで試したいことがあるの」



 正面口シャッターが上がると同時に工場内に大ムカデが大挙して押し寄せた。
 暗い。
 照明が切れているのではない。明かりをさえぎるほどの大量の粉が飛び散っているからだ。
 その様相にムカデたちは一瞬、とまどうように動きを止める。

「悪いわね。慣れない機械をいじったせいで小麦粉が飛び散っちゃったのよ」
 
 シャアァァァッ!

 声のした方へと殺到する。
 一人の少女が立っていた。
 京子だ。

(動的霊災の中には殴ったり切ったりといった通常の手段でもキズを負わせることができる個体もいる。そういうタイプが相手なら、最初から呪術一辺倒で修祓するんじゃなくて、ある程度ダメージを与えてから呪術で祓ったほうが少ない消耗ですむこともある)

(場合によっちゃあ物理攻撃だけでやっつけることも可能だ。ほら、昔の武士が刀一本で鬼とか大蛇とかを退治したって話があるだろ。あれとかそうだよな)

(呪術にこだわる必要はない。対人だろうが対霊災だろうが、周りにあるすべてのものが武器になる)

 秋芳の言葉が脳裏に浮かぶ。

「俵藤太の時代にはなかった現代の常識、知識ってのを教えてあげる。可燃性を持つ粉塵が大量に飛散して、酸素との接触面積がいちじるしく増大している時は、わずかな火種をもとに連鎖的な燃焼が発生して爆発を起こすの。粉塵爆発て言ってね、石炭の発掘現場でよく起こったそうよ。小麦粉は炭素、水素でできてて、ここには酸素がある。つまり――」

 ムカデたちの包囲が狭まる。
 京子が火行符を取り出す。

「――つまり、燃えるのよ。急急如律令(オーダー)!」

 呪符が燃え上がり、炎が渦を巻いたかと思った瞬間、轟音と衝撃が工場内を支配した。
 大爆発。
 それに巻き込まれ、ムカデたちと京子は――京子の姿をした簡易式は――跡形もなく吹き飛んだ。





 大音響が工場の地下に潜んだ京子たちの耳をつんざく。

(成功した……)

 簡易式との感覚の共有を切るタイミングが少しでも遅かったら、爆発の衝撃や熱の『痛み』が伝わり、ショック死していただろう。
 簡易式。
 正確には人造簡易式という。汎式における式神使役術の基本で、特徴としては必要な機能を満たす式神を迅速に作成できるという点があげられる。
 また一般の人造式よりも安易に作成・改良もしやすいという自由度の高さも利点で、術者の呪力のみで動くため、長時間の活動にはむかないが、それでも事前の準備次第で対応可能だ。
 術者の発想や力量次第で多様な用途にもちいることのできる式神なのだ。

(後は笑狸ちゃんのほうだけど――っ!?)

 不意に意識が遠くなる。

(そんな、倒したのに?)

 ふたたび秋芳が大ムカデと戦う『夢』を観る。今までなんども観た夢。
 今までのループのパターンでは京子自身が倒れるか、時間が経過すると意識を失い、同じ日を繰り返すのだが、ムカデを倒してもこの呪縛を抜けられないらしい。
 一瞬。
 ほんの一瞬だけ京子の心に絶望が広がった。
 だがすぐにそれを払拭する。
 自分は負けない。
 自分は必ずここの人たちを救い。また彼に、賀茂秋芳に逢うのだ。
 絶望なんかに打ちひしがれてるヒマなんてない。
 それに一筋の光明を見出したではないか。
 あの金矢。
 あの金矢を元の場所に戻すのだ。
 そうすれば新たな道が開ける。確信めいたものが京子の頭に浮かんだ。
 

 

残照 3

(秋芳君、聞こえる? 秋芳君!)

 京子の声が瘴気の中から響いてくる。

「聞こえる! 俺はここだ。ここにいる!」

 秋芳が瘴気の中に足を進めようとした、その時。金色の光に包まれた京子が目の前に姿を現した。
 その手には一本の矢が握られている。

(これを、この金矢で大ムカデにとどめを刺して!)

 矢に手を伸ばす秋芳。
 指と指がかすかに触れ合った、その瞬間。秋芳の頭に京子の今までの記憶が流れ込む。

(――――ッ!?)

 川原でのかなえとの会話。大ムカデの襲撃。いくども繰り返される悪夢。工場での戦い。
目が覚めると同時に山中のもとへと押しかけ、糾弾し、盗んだ金矢を取り返して社へ急行。
 瘴気が渦巻く中、秋芳の姿を『視た』のだ。
 ここではない場所にいる秋芳の姿を。そして『わかった』のだ。
 こちらとあちら。二つの世界に存在する大ムカデは同時に倒さねば、修祓できないことを。

「やるぞ」
「ええ」

 気づけば周りの風景が変わり、鷹寛たちの姿がない。
 灰色の空、延々と続く野原、目の前には小山がそびえる。
 こちらとあちらの交わる場所。秋芳と京子はそう直感した。
 と、小山からひときわ巨大なムカデが二人の前に姿を見せる。
 大きい。
 そして、長い。
 小山を何重にも巻いて、なおあまった胴を持ち上げ威嚇のうなり声をあげる。 
 俵藤太の伝説に倣い、矢じりを舐めて唾をつける秋芳。
 すると、秋芳の舐めた跡をなぞるように京子も舌を這わせた。

「お、おい」
「ん、ちゅ……ぱっ。ふふ、ちょっと下品だったかしら? でも、こうしたほうがもっと効きそうでしょ。あたしとあなた。二人分の力よ」
「まったく、とんだ破廉恥お嬢様だ」

 シャアァァァッ!

 牙をむき、襲い来る大ムカデの眉間に金矢を突き刺す。

「「南無八幡大菩薩!」」

 街を滅ぼした大ムカデは消滅した。

 すると――。

「ありがとう、京子ちゃん」

 かなえだ。

「助かったよ」
「ああ、あんたらのおかげでやっと解放される……」
「これでやっと静かに眠れるよ」
「あんな化け物を退治しちまうだなんて、陰陽師ってのは凄いね!」
かなえだけではない、街の人々が姿を現し、感謝の言葉を言っては一人一人消えていく。
「かなえちゃん……、川。楽しかったわ。あとご飯もとっても美味しかった」
京子は薄々感づいていた。あそこは、あの街とそこに暮らす人たちが、すでにこの世の存在ではないということを。
「京子ちゃんのおかげで悪い夢の繰り返しがやっと終わったわ。これで街は元通り。お祭りも始められる」
「お祭り、あたしたちも参加できる?」
「う~ん、今はちょっと無理みたい。もう時間がないから――」
「かなえちゃん!」
「ありがとう京子ちゃん、さようなら――」
「……うん、またね。かなえちゃん」





「え? な、なんなの? 今のなに!? ねぇ、あなた。あなたも『視た』わよね?」

 ヘアバンドの女性――鷹寛の妻である土御門千鶴――が狼狽し、夫に声をかえる。

「ああ、まるで白昼夢だったな……。巨大なムカデに街の人々。この土地の記憶が見せた幻か……」

 改めて一か月前に起きた霊災により街が壊滅してしまったことの説明をする鷹寛。

「土地というのはたんなる場所じゃない。そこで起こった強烈な出来事が記録された記憶装置としての力もあるという。君たちはその記憶に、残留思念に取り込まれたのだろう。だが、君たちは記憶を書きかえた。彼らを救ってくれたんだ。街には私の知り合いがたくさんいた。私からも礼を言わせてくれ。ありがとう京子さん。ありがとう秋芳くん」
「……いや、鷹寛さん。どうやらまだ終わってはいないようですよ」

 秋芳はそう言って空の一点を指さす。
 空に、亀裂ができていた。
 まるでガラスに入ったヒビのようだ。

「うわっ、シュールな光景ね。まるでなんかの絵画みたい」

 千鶴が素っ頓狂な声をあげる。
 ヒビは徐々に広がり、そして割れた。
 空が割れたのだ。
 そこから強風とともに凄まじい気が流れ込んで来る。
 気だけではない。
 なにかが、とてつもなく強大ななにかの気配がする。
 そしてそれがこちらに迫っている。

「あ、秋芳~」
「お、笑狸か。おまえも無事だったんだな」
「それどこじゃないよ。なんなの、あの空! なんなのこのとんでもない妖気!」
「街の人々が土地の記憶に囚われ、惨劇を繰り返していたのはたんなる自然現象なんかじゃない。おそらくこのバカでかい妖気の主がそう仕込んだんだ」
「なんのために?」
「苦痛や恐怖をなんども味あわせて楽しむため。人の魂を飴玉見たくしゃぶり尽くすのが好きなんだろう」
「そんな、ひどい…。ひどすぎるわ」

 みずからの両肩を抱き、うなだれる京子。
 その時ひときわ強い風が吹きつけ、空の穴からなにかが這い出てきた。

「お気に入りのオモチャを台無しにされてご立腹らしい。自分の巣から出てきやがった」 

 イソギンチャクを思わせるミミズのような体。全身から無数の触手が生え、大小いくつもの眼球のような器官もついている。
 ヒューヒューと笛の音のような鳴き声を発し、明滅するかのように体が見え隠れを繰り返している。

「ぬ、半体半霊か。あれでは物理攻撃は効果が薄いな」
「それと木気に偏りがあるわね」

 土御門夫婦は即座に相手の大まかな属性を見抜いた。

「それにしても凄まじい妖気だな。まさに移動型霊的災害。生きた台風がいるとしたら、こんな感じか」

 ピヒィィィイン――!

 鷹寛の台風という言葉に反応したわけではないだろうが、異形の動的霊災がこわれた笛のような甲高い叫びをあげると大旋風が巻き起こる。
急急如律令(オーダー)
 鷹寛が落ち着いて一枚の符を投じる。
 金行符。
 風は木気と金気のいずれかにかに属するが、木気を帯びた怪物の放つ風ゆえ金気で対抗するべきと判断したからだ。
 金剋木。
 五行相剋の理にもとづき、暴風は金気の楯にふさがれた。
 金気と木気の相剋に大気が激しく鳴動する。
 風は防いだ。
 だが、そこに込められた瘴気までは防げなかった。
 高濃度の瘴気があたりを吹き抜ける。
 体中の細胞と神経が、汚水で流され満たされるような悪寒。魂が凍りつき、恐怖と絶望が思考を停止させようと心を蝕む。
 並の人間ならばそれだけで死んでしまってもおかしくはない。

「オン、コロコロ、センダリ、マトウギ、ソワカ!」

 秋芳はあらゆる疾病を癒す薬師如来の小咒をとっさに唱え、瘴気を無効化する。

「ほう、やるな。さすが賀茂の御曹司」

 そもそも呪禁師は宮中に医師として仕えた存在。ケガや病気の治癒といった状態異常の回復が専門なのだ。

「だがやつはなんだ? あんなタイプの霊災は見たことも聞いたこともない」
「さしずめタイプ・インディファイナブルとかネームレスだとかじゃないですかね。あの名状しがたい空飛ぶポリプは」

 ポリプというのは、クラゲやイソギンチャクのような刺胞動物の体の構造のことだ。

「ふ~む、しかしあの目の数……。ひょっとしてあれが噂の百目鬼ではないか?」
「……俵藤太が退治したといわれる下野の国の百目鬼。ははぁ、なるほど。ムカデつながりですか」
「鬼でもムカデでもいいけど、木気だと私の得意な電撃と同属性だからやりにくいわねぇ、もう」
「ちょ、ちょっとお三方! なに呑気に会話してるの! あんな怪獣みたいな霊災を修祓するつもりなんですか!?」

 怯えの色を隠せない純の問いに対し。

「「そうだ」」「そうよ」

 三者、異口同音の答えが返る。

「そ、そうって……、本気?」
「木ノ下先輩。ケンカで大事なのは技でも力でもない。胆です。気圧されたらそこで負けなんです。霊災修祓だって同じですよ」
「うむ。どの道この距離じゃまともに逃れられん。やるしかないしな」
「私たち夫婦にまかせなさい。最悪あなたたちだけでも逃がしてあげるから」

 その時。突然、あたりの霊相に変化が生じた。
 空飛ぶポリプ――百目鬼――の放つ気と同等。いやそれ以上の莫大な気が秋芳たちの立つ場所を中心に湧き上がる。
 京子だ。
 京子の体から膨大な気が、たとえ見鬼でなくても視認できるほどの霊気があふれ出ている。
 否。
 京子の体を通して大地の、天の気が集まっているのだ。
 天地に満ちる霊気が一点に凝縮される。
 道教に伝わる仙術や方術の中に法天象地という天地の気を集めて練り上げ、自分自身の体を巨大化させる術があるが、これはその比ではない。

(バカな! これほどの気。人の身で耐えられるわけが――!?)
「――せない」
「京子?」
「ゆるせない……。かなえちゃん、街のみんなを苦しめ、もてあそんだなんて、ゆるさない。絶対にゆるさない!」

 うなだれていた京子がすっくと立ち上がり、百目鬼をにらみつける。
 京子の紫がかった瞳の奥に、秋芳は星を視た。
 入塾初日の屋上で京子と語った時に『視た』あの光景。
 星々の衣をまとい、光輝を放つ京子の姿。
 それが今、現実のものになった。

「し、信じられん。あれは仏眼仏母の相。あの少女は……如来眼の持ち主だというのか?」
 鷹寛が絶句する。
 如来眼。
 豎眼(じゅがん)や菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは、仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、変える力があるとされ、その時代の覇者を導くという。
 世の中が乱れるとそれを鎮めるために如来眼の持ち主が現れるともいわれ、またその逆に手中に収めんとする時の権力者らに狙われることで、治世を乱す火種になるともいわれる。
 本来ならば星読みとは星を読むことはできても、星を動かすことはできないもの。
 星々の流れを変えることも、その輝きをあやつることも。
 星読みにできることはただ見守ること。そして、その言葉の持つ力を信じて助言し続けることだけなのだが――。
 京子に宿る力は、そうではない。
 星読みの中の星読み。
 人の定めのみならず、龍脈の流れ。星々の流れ。すなわち森羅万象を意のままにあやつることができる――。
 今、京子は龍脈の力を手にしている。
 ヒューヒューと笛のような鳴き声を発し、百目鬼が退く。
 京子に怯えているのだ。
 空の穴に逃げ込もうとする百目鬼。だが――。

「逃がさないわ――」

 京子が無造作に刀印を結び、切りつけるように腕を振るった。
 純粋な霊気の刃が百目鬼の巨体を両断する。
 もう一撃。
 四つに裂けた百目鬼の体は陽炎のようにかき消える。
 なんの呪文詠唱も集中もない、単純に気を放っただけで霊災を祓ってしまった。

「うっ、クッ、あ、ああああアアアア――ッ!?」

 光に包まれたまま空高く舞い上がる京子。

「いかん! 龍脈の力に飲み込まれ、暴走している!」

 京子は苦しそうに身悶えしながら、西へと飛翔する。
「笑狸!」
「うん!」
 
 笑狸は即座に大鷲へと変化し、秋芳をつかみ京子を追って空を駆ける。
 西へ、西へ、そして南へ。目に映る雲は瞬く間に背後に遠ざかる。
 かなりのスピードだ。

(龍脈にそって飛んでいる……。この方向は富士山か? あんな気をまとったままで日本最大の霊峰に突っ込んだらなにが起こるかわからん。最悪噴火するぞ!)

 京子の飛翔速度にあと一息で追いつけない。

「笑狸、俺を離せ」
「秋芳!?」
「かまわない。短時間なら飛べる術がある」
「う、うん、わかったよ。気をつけてね。無茶しないでね!」

 秋芳の身を放す。
「乗虚御空、飛霊八方、廻転舞天。疾く!」

 空を飛ぶ乗矯術を発動させ、京子に近づき、横に並ぶ。
 黄金の気をたえずに放出し、光の粒子をまき散らしている。
 放出しているのは瘴気ではないが、その姿はフェーズ3だった。
 動的霊災。だからこそ制御できずに、暴れている、暴走している。
 人間の身体を核に霊災が実体化する事例はある。
 それらはタイプ・オーガに分類され、俗にいう『鬼』と呼ばれる存在になる。

(だがこれはタイプ・オーガどころかタイプ・ドラゴンだ。このままでは九頭竜や燭陰にでも成りかねん!)
「秋芳君!? 助けて! 力が、力がどんどんあふれてくるの! 霊気が止まらないの! なんとかしてっ! あたしもう壊れちゃう!」
「落ち着け京子。おまえなら龍脈の力を制御できる。呼吸の仕方を忘れるか? 『普通』にしていればいい」
「わからない! どうやって!? 死んじゃう! 霊気が、なくなっちゃう! もうダメ……」

 完全にパニック状態におちいっている。
 京子の感覚的には全身から大量の血が流れ出しているようなものだろう。
 だが京子が命の危険を感じるのも正しのかもしれない。
 輸血されているからといっても、それと同じ量の血を流し続けて無事でいられるわけではない。血が なじむには時間が必要だし、今の京子の場合、駆け巡る膨大な量の気に身心が押し潰されないだけでも不思議なのだ。

(心を鎮める術ならいくつかある。だが今の京子にそれらを使っても、このバカでかい気に弾かれてしいまうだろう……。ええい、甲種がダメなら乙種呪術だ!)

 秋芳は賭けに出た。
 空中で勢いよく京子に抱きつく。
 秋芳の身に激痛が走る。制御できずに荒れ狂う気が全身をさいなんでいるのだ。

「京子。俺はおまえが好きだ!」

 そう叫び京子の唇に自分の唇を重ねた。
 温かく、柔らかい。鼻腔をくすぐる花のような香り。
 強く抱きしめたその体もまたマシュマロのように柔らかく、そして華奢だ。

 男の子ってなにでできてる? かえるにかたつむり、子犬のしっぽ、そんなものでできている。
 女の子ってなにでできてる? お砂糖にスパイス。素敵なものいっぱい。そんなものでできている

 マザーグースの一説が秋芳の頭にふと浮かぶ。
 なるほど、たしかに京子の体は砂糖やスパイスで作られた甘いお菓子のようだ。
 独り占めして食べてしまいたい。 

「京子。おれはおまえが好きだ。つき合ってくれ」

 キスをした後、告白。
 きょとんとした顔でこちらを見つめる京子。

「返事は?」
「……え? ええっ! あ!? は、はい。うん……。あ、あたしも、あなたのことが、秋芳君のことが好き。おつき合い、しましょう」 

 それで、
 京子の気が静まった。
 激情をおさめるには別の激情をぶつければいい。
 テンパっている時に嫌いな相手にいきなりキスされ、愛の告白をされたら。
 あるいは逆にそれが好意を抱いていた相手からだったら。
 とりあえず。
 とりあえずは落ち着くものだ。
 秋芳の賭けはあたった。
 そしてまた両者にとって幸いなことに、今回は後者。相思相愛だった。





 東京へ向かう電車の中。
 あれから京子の状態を診るため鷹寛の家に一泊し、帰路についているところだ。
 いろいろなことがあった。
 疲れているのだろう。座席に座る笑狸と純は寝入っている。
 その向かいの席に座る京子もまた、隣にいる秋芳の肩に頭をあずけて寝息を立てていた。
 刻々と傾く陽射しに、京子の整った横顔が赤く染まる。

「……ん、……うん」

 ふいに京子がくすぐったそうな甘い声をもらして、顔を上げる。

「……あたし、寝ちゃってたんだ」
「疲れてるだろう。もう少し寝ていればいい」
「いいの、今はあなたとお話したい気分だから」
「そうか」

 それからとりとめのない会話をしばらく交わした後――。

「秋芳君。あたし陰陽師になる」

 覚悟を込めてそう言葉にした。

「前から呪捜部とか、ちょっと後ろ暗い所だと思ってたけど、それは祓魔局だって同じだった。街が一つ消えたことを隠すような組織を正したいの」

 秋芳は京子の考えをすぐに理解した。

「なるほど、中から正すつもりか」
「ええ、そう。そのためには『最高』の陰陽師になる必要があるわ」

 隠蔽を指示したのは陰陽庁のトップの判断だろう。そして陰陽庁のトップとは京子の父親、当代最高の陰陽師と称される倉橋源治その人だ。
 京子は父のやり方を正すつもりだ。だからこそ父に代わり『最高』の陰陽師になると言うのだ。
 組織の長になることで、組織全体を改革する。

「それと、お願いがあるんだけど、あたしに呪術を教えて欲しいの」

 これは百目鬼に囚われた異界の中。霊災修祓用の呪術に乏しく、はがゆい思いをしたからだという。
 陰陽塾一年生の授業内容はほとんどが座学。それも呪術についての基本的な知識や、歴史についてがメインで、対人呪術戦や霊災修祓といった本格的な『呪術』の習得は二年からだ。
 しかし、独学。あるいは塾生同士での教え合いを禁止する決まりはない。
 秋芳は京子の頼みを快諾した。

「それと、霊力を制御する方法も。またあんなふうに暴走したら怖いわ」
「そしたらまたキスして止めてあげるよ」
「もうっ、そういう冗談じゃなくて……」
「霊力の制御に関しては気の持ちようだよ。それだけの技術を君はもうすでに持っている。毎朝禊をしているんだろう? あれがじゅうぶん霊力の底上げ。制御する訓練になっているんだよ。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。同じ修行を欠かさずに続けることが重要なんだ。君は自分の〈力〉を怖がらなくてもいい」
「……うん、わかったわ」
「俺の知っている呪術を教えるかわりに、そっちの知ってる呪術も教えてくれ」
「それはいいけど…、あたしが知ってて秋芳君の知らない呪術なんて、たぶんないわよ」
「ある」
「そうかしら?」
「たとえば、恋愛」
 
 二人は少しの間見つめ合った後、どちらからともなくキスをした。





 陰陽庁長官室。
 重厚な印象の部屋だ。
 床には絨毯が敷かれ、奥の壁にある大きな窓からは秋葉原のビル群が見える。
 その窓の前に一人の人物が立っていた。
 袍に袴と石帯。束帯姿をしている。陰陽師の正装だ。
 厳格な、ただそこに居るだけで周囲の人たちに緊張を強いる雰囲気を持った、そしてまた内に秘めた強大な霊気をも、ひしひしと感じさせる巌のような壮年男性。
 倉橋源司。
 名門倉橋家の現当主にして陰陽庁の長官。
 『天将』の二つ名を持つ十二神将の筆頭。当代最高と謳われる国家一級陰陽師。
 陰陽塾塾長、倉橋美代の息子であり、京子の実の父親。
 現代の呪術界の頂点に立つ男だ。

「目覚めたか。思ったより早かったな」
「世が乱れれば如来眼の娘が生まれる。私の呼んだ者たちは役に立ったでしょう」
「うむ」

 源司は誰かと話しをしている。だが誰と? 声の主の姿はまったく見えない。

「しかし少々やりすぎだ。はぐれ陰陽師の一人や二人や有象無象の霊災ならまだしも、街一つ壊滅させるような怪物まで呼ぶとは」
「あの被害者の方々には便宜をはかるよう、閻魔大王にお願いしておきます」

 閻魔大王とはいったいなんの戯言か?
 だが声の主の口調に冗談を言っているような響きはなく。また、それを聞いた源司も冗談を聞いたふうには見えない。

「如来眼の他にも、こんな興味深いものを見つけました」

 デスクの上にハラリと一枚の紙が落ちる。
 それは答案用紙の写しだった。
 源治はそれを手に取って目を通す。

「陰陽塾のテストか……、いささか字は汚いが、なかなか優秀な生徒だな」
「最後に書かれた文章に注目。それは貴方の望みをかなえる手助けになるのでは?」
「……新宿の地相を利用した霊力発電か」

 新宿は水と縁が深い土地。
 江戸時代。人口増加により飲料水が乏しくなったため、幕府は多摩川から水を引くための配水施設を建造し、明治時代には淀橋浄水場が造られた。
 現代の新宿中央公園には東京人の生命を司る『場の力』に満ちている。
塔という建造物は風水学上の分類では木行の性質を持っている。
 水生木。木は土中の水分を吸い上げて成長するのが理。
 大地を流れる水。そこに込められた霊気を吸い上げて成長・発展する風水機関としての塔。
 さらに二つの塔をもちいることで強力な霊的音叉効果を生じさせ、吸収した霊気をより増幅させ――。

「たしかに興味深いな。だがいかんせん現実味が乏しい。これを動かすには前提として龍脈の流れを……」
 
 途中で口を閉ざす。
 これを動かすには龍脈の流れを読み、あやつる術が必要なのだが。
 それがつい先ほど見つかったではないか。
 如来眼の娘が。

「なんというタイミングの良さ……、偶然とは思えぬ。まさに天の配剤か」
「使うつもりですか? それに如来眼の娘を」
「……その少女に働いてもらうにしても、それはまだ当分先の話だ。その前にまず陰陽法の改正をする必要がある。だがこの霊力発電の発想は気になるな。一度これを書いた者に会って見たいものだ」
 倉橋源司に興味を持たれる人間はそうはいない。
 それだけこのアイデアは魅力的だったのだ。
 現代の陰陽師は祓魔官の霊災修祓をのぞけば世間から顧みられることのない職業だ。
 その祓魔官にしても人員不足は年々深刻化し、現場の労働状況は悪化の一途をたどっている。
 もとより狭い業界である呪術界だが、近年ではさらに閉塞し、疲弊しつつある。
 だが夜光の作った現代陰陽術は奥深く多様性に富むものなのだ。
 幅広い分野での転用が可能だし、霊災の修祓にしても今よりもはるかに効率の良い運用ができるはずなのだ。
 陰陽術はこんなところで停滞し、衰退していいものではない。
 陰陽師の名門である倉橋家主導による、陰陽道の社会的地位の向上。
 それこそが、それこそが『倉橋』に生まれた自分の使命なのだ。
呪術による電力発電。
 実に魅力的だ。新しい陰陽道が築く、新世界にふさわしい技術ではないか。

「――なによりもまずは如来眼の娘の身の確保が先決だ」
「その必要はないでしょう」
「どういう意味だ?」
「如来眼の力に目覚めたのは、貴方の娘。倉橋京子さんだからです」
「!?」
「もしその霊力発電のための二つの塔……。ふむ、二匹の龍の如く、高くそびえる二対の塔とは絵になりますね。仮に双龍塔とでも言いましょうか。それの運用に如来眼の娘である京子さんを使うとしたら、彼女には人としての生はあきらめてもらうことになります。他ならない貴方のご息女の人生を」
「……仮に、仮にそうなったとしても、あれも倉橋の人間だ。倉橋の決定には従ってもらう」
「そうですか。……それと、そのテストの回答者。双龍塔の発案者の青年なのですが」

 一拍の間。

「かつて神隠しに遭い消息を絶った、貴方の息子です」





 唇を離した後、京子が口を開く。

「秋芳君。あたしに惚れた?」
「ああ、惚れた」
「あたしのこと好き?」
「好きだ」
「あたしのこと愛してる?」
「愛してる」
「あたしもよ。もう秋芳君に『大好き』て呪をかけちゃったんだから。この呪は絶対に解けないわよ」

 ふたりの恋人は肩を寄せ合い、たがいの重さと体温の心地良さに耽溺した。
 

 

骨喰

 永禄八年(1565年)
 京都。二条御所。
 十数本の刀が畳の上に突き刺さっていた。
 そのいずれもが天下に名高い名刀利剣であり、一振りで城が買えるほどの値がつく大業物ばかり。
 刀の林の中、一人の男が立っている。
 三十路前後の精悍な顔をした、いかにも名のある武将といった風格。

「豊後はおるか!」
「は、ここに!」

 男の呼びかけに応じ、一人の若武者が姿を見せる。

「これを使え」

 そう言い、突き刺さっていた刀の中から一本を抜き、豊後と呼ばれた若武者に手渡す。

「こ、これは藤四郎吉光! よろしいので?」
「うむ、それで三好の手勢を斬って斬って斬りまくれ!」
「ははっ!」

 男は残りの刀の列をゆっくりと見わたした。
 童子切安綱。
 鬼丸国綱。
 三日月宗近。
 大典太光世。                                  
 世に天下五剣と呼ばれる名高い名刀のうち、四本までもがそこにあった。

「細川隆是様お討ち死に!」

 味方の戦死を知らせる声に混ざって鉄砲を撃つ音や剣戟の音が徐々に近づいてくる。

「御首級、頂戴!」

 庭から数人の兵士がなだれ込んできた。
 男は目の前にある名刀の列から一本。無造作に抜き取るや、襲いかかってきた先頭の兵を袈裟懸けに斬り伏せ、返す刀で二人目の胴を斬り上げる。 
 三人目の兵が刀を上段に振りかぶるも、それが振り下ろされる前にその両腕を横薙ぎに断ち斬り、そのまま首を刎ねる。
 槍を構えて突進してきた相手もいた。
 まず槍の穂先を斬り飛ばし、その勢いに怯んだ隙に距離を詰め、突き殺す。
 唐竹割りに額を断ち斬り、胴を袈裟斬りにし、右に薙ぎ、左に振るい、股間を逆風に斬り上げる……。
 男の技は凄まじく、刀の切れ味は鋭かった。
 粗末な胴鎧程度しか身につけぬ雑兵たちに男の斬撃を防ぐ術はない。
 敵兵たちはたちまちその数を減らし、退散した。
 だがすぐに第二、第三の敵勢が押し寄せてくる。
 いかに天下の名刀とはいえ、何十人も斬っていては刃が欠け、血脂で切れ味が鈍る。
 男は使い物にならなくなった刀はすぐに捨て、新たな刀に差し替えて応戦を繰り返す。
 斬って、斬って、斬って。
 ひたすら斬って斬って斬って斬って、斬りまくった。

「豊後、いるか?」
「こちらに…」

 全身を返り血で朱に染めた若武者が応える。

「書を書く。しばし奥へ行くゆえ、ここをまかす」

 もはやこれまで。辞世の句をしたためようと言うのだ。

「はっ、おまかせください」

 男は血刀を手にしたまま奥の間に入る。

 五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

 朗々とした声が奥から響く。
 それが剣豪将軍として世に名高い、室町幕府十三代将軍。足利義輝の、最期に詠んだ歌だった。





 現代。
 秋葉原にほど近い、陰陽庁庁舎。

「しっかしとんでもない建物だな、ここは」

 そう口にしたのは僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年。賀茂秋芳だ。

「わかる? ここって奥のほうはほとんど迷宮みたいなものよ」

 秋芳とならんで歩く少女がそう答える。
 ハーフアップにした亜麻色の髪。長いまつ毛に紫がかった瞳、快活でかわいらしい顔立ちをしていて、制服姿でも長い手足やスタイルの良さがうかがえた。
 倉橋京子だ。

「噂には聞いていたが、ウェンチェスター館や二笑亭も真っ青の、とんだ魔窟だ」

 陰陽庁庁舎は戦後間もない頃に建てられた古い建造物で、幾度となく増改築を繰り返しているが、残された部分や引き継がれた個所も多い。
 というのも霊的、呪的な理由で手を入れることが困難な構造や機能があり、実際の施行に合わせて変更することができないからだ。
 さらに増改築のさいに勤めてる陰陽師たちが特殊かつ細かい指示を出しているため、工事のたびに特異な構造が増える一方だ。
 庁舎内で普通に働いているぶんには問題ないが、少し奥まった場所には結界や封印があたりまえのように敷かれており、壁一枚へだてた隣の部屋は異空間につながっている場合さえあるという。

「さらにお役所特有の殺風景ときたもんだ。もっと陰陽塾(うち)みたく絵画や調度品を置いて、緑を増やしたらいいのにな。うちのホールにある竹を見ていると爽やかな気分になる」
「あれはお祖母様の趣味なの。竹は縁起が良くて、人生の学びと高潔さをあらわすから、学び舎にはぴったりだって言うのよ」
「それは良い。実に良いセンスだ」
「……ところで、ねぇ。お父様とはどんなお話をしてきたの?」
 
 京子の言うお父様とは陰陽庁長官兼祓魔局局長。当代最高の陰陽師と称される十二神将筆頭『天将』の倉橋源司のことだ。
 秋芳は京子の祖母、源司の母である陰陽塾塾長。倉橋美代を通して源司の呼び出しを受けたのだ。
 呼び出しの理由は秋芳の書いたレポートの内容について、興味を惹かれたので直接会って話がしたいとのこと。
 その話を聞いてまっさきに思ったのは、今までしてきた裏稼業のことがついに当局にばれて、逮捕のための偽の呼び出しではないか? だった。
 のこのこ出向いたところを呪捜官が総出でお出迎え。お縄にするという段取りだ。
 だがすぐにこの考えは払拭した。
 尻尾を捕まえられるようなヘマをしたおぼえはない。隠密には自信がある。
 ならば塾長の言葉通り、本当に興味があるから話がしたいのだろう。
 しかしそれなら向こうから来るべきだ。
 陰陽庁のトップだろうが、十二神将の長だろうが、名門倉橋の当主だろうが『用があるならおまえが来い』と言いたい。
 人を呼びつけるとは何様だ。
 そう反骨心が刺激され、最初はことわるつもりだったのだが京子からもお願いされたので、おとなしく召喚に応じることにした。
 かわいい恋人の願いを無下になどできない。
 そう、恋人だ。
 つい先日のこと。
 如来眼の力に覚醒するも、その力を制御できず霊気の暴走を起こした京子。そのドサクサにまぎれての告白に成功し、晴れて恋人同士となったのだ。

「レポートのこと以外にも、いろいろと話したよ。今後の陰陽師のありかたとか聞かれたから、仕事の細分化について意見した」

 現代の陰陽師。祓魔官の仕事は大きく二つ、霊災修祓と、その霊災を発見するための霊視にわかれている。
 この二つに分類されている作業をさらに細分化することで現場の負担を軽減させる。今のやり方は警察官だからと、その全員に交番勤務も刑事も鑑識も、警察の仕事のすべてやらせているようなもので、激務以外のなんでもない。
 陰陽塾を途中退塾するようなレベルの学生でも、霊視という作業内の、さらに一つの作業だけに専念するのならばできるはずだ。
 現場の仕事を続けることで熟練し、学生の時にはできなかった他のこともできるようになる可能性だってある。
 資格制度がきちんとしていて手当がつくなら、自主的にステップアップする者も多いはずだ。
 祓魔局だけでない。呪捜部にも似たような施行をする。
 また現状、陰陽塾に入るには見鬼が必須だが、霊力さえ規定以上にあるのなら、式神や呪具の製造にまわってもらうのもいい。
 『統合呪術者としての陰陽師』にこだわることなどないのだ。
 さらに陰陽塾での授業を単位として認め、一般の学校へ編入させるなどの配慮をし、完全に呪術から離れるような者用にも進学・就職先を斡旋する。
 呪術界の裾野を広げ、敷居を低くすることで応募者の数が増えれば、それだけ多くの人材が集まる。
 慢性的な人手不足の解決になることだろう。

「うん、良い考えだと思う。あなたって色々と考えているのね。……ていうか凄いわ」
「なんせこれから『最高』の陰陽師になろうって子の隣を歩くわけだからね。色々と考えるわけさ」
「そうよ。これから秋芳君はずーっとあたしのそばにいてもらうんだから」
「そのつもりだよ。ところで良かったのか? せっかくここまで来たんだから、久しぶりに父親に会って話でもしてきたら…」
「…父はいそがしいから、たぶん会ってくれないわよ。それにもともとあたしは秋芳君のつき添いで来てるの。逃げ出さないようにね」
「逃げないって。笑狸のやつは逃げたけどな、さすがに陰陽庁は居心地が悪いらしい」
「そうね。ここって霊的な存在を問答無用で弾いちゃう結界も多いし、笑狸ちゃんは来たくないでしょうね」

 長い廊下が続く。
 何人かの職員とすれ違うが、霊気からしていずれも陰陽師ではない。
 陰陽庁に勤める者のすべてが陰陽師というわけではないのだ。
 むしろ資格を持たない一般人のほうが割合としては多い。

(こういうお堅い場所で穏形しながらエロいことしたら燃えるんだろうな。京子をコピー機の上に乗せて、おっぱいやお尻の印刷プレイとか…)
「えいっ」 

 秋芳の頭に京子のチョップが入る。

「痛いじゃないか」
「あなたがエッチなこと考えるからよ」
「そんなことまでわかるのか! 凄いな、星読みの力は」
「星読みじゃなくてもわかるわ。…あたし、あなたがどんな人か、かなりわかってきたから」

 あきれ顔をした京子だったが、不意に表情を改め、後ろを振り返る。

「どうした?」
「今、すれ違った人…。顔に鬼相が出てたわ」

 この場合の鬼相とは風水のそれではなく、恐怖、憎悪、悲しみといった負の感情が入り混じった悪相が顔に現れているという意味だ。

「…ここは多くの人がいて、たくさんの思惑や感情が渦巻く場所だからな。中にはそういう人も居るだろう」
「大人の世界は複雑怪奇、ですものね…」
「ああ。天下の陰陽庁も、一皮むけば万魔殿さ」
 
 陰陽庁。
 現代の陰陽師たちを管理・統括している国家機関。その前身は太平洋戦争末期に旧日本軍によって復活させられた陰陽寮だ。
 陰陽術関連の各種資格の認定。霊災の修祓や呪術絡みの事件捜査など、この国の呪術に関わる行政を一手に担っている。
 そして十二神将をはじめとする多くの優秀な術師を抱え、その組織としての力は非常に強大だ。

「――そんな場所でワイセツな行為をするんだ。想像しただけでグッとこないか? 気づいたんだが、ここって物理的な死角があちこちにあるんだ。ちょっと試しに――て、京子。足が速いぞ。おい待てって、そんなに怒るなよ」





 秋芳たちが陰陽庁に出向く数日前。
 暦の上ではとっくに秋だが、妙に暑い日があったと思えば、急に冷え込んだりする季節の変わり目。
 重く湿った夜空から冷たい雨が降り出した。
 一色辰夫(いっしきたつお)は舌打ちして駅へと歩く足を速める。
 不機嫌なのは雨のせいだけではない。

(上司のご機嫌取りも出世のため、将来のためだ……)

 下げたくもない頭を下げ、言いたくもないおべんちゃらを口にする。
 陰陽庁に勤める辰夫はそういう毎日を過ごしていた。
 陰陽庁勤務といっても辰夫自身は陰陽師ではない。見鬼の才もない。
 結婚した妻が陰陽師の家系で、そのコネで陰陽庁に就職することができたのだ。
 これからの日本で出世するには陰陽師との関係をおろそかにはできない。そういう算段で陰陽師の家に婿入りを決めた。
 雨はますます激しくなる。

(どこか雨宿りできる場所は…)

 裏路地にある一軒の店から明かりが洩れている。
 これ幸いとその店に近づくと、扉の横には『つくも屋』と書かれた看板が置いてあった。
 中に入ると小さな店内に壺や掛け軸、絵画や彫刻品などが所狭しと並べてある。
(ここは骨董屋か、どれどれ…)
 妻が死んで家に代々伝わる財産が手に入ったし、陰陽庁の職員として安定した給料をもらっている辰夫は骨董品の収集を趣味にしていた。

(ふん、どれも大した物じゃないな。……おや?) 

 なにげなくショウケースに目をやった辰夫は思わず息をのんだ。
 そこには一振りの日本刀が置かれているのだが、その刀の造形には見覚えがあるのだ。

(この刃紋は、粟田口吉光じゃないか!)

 粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)
 鎌倉時代中期の刀鍛冶で、特に短刀作りの名手として知られる。
 現存する吉光の刀はいずれも脇差し、小刀だが、一本だけ薙刀を直して作ったという刀が存在するという話がある。
 俗に骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)と呼ばれている刀だ。
 『骨喰』という異名は、この刀を持って戯れに人に斬る真似をしただけで実際に相手の骨が砕けた。という伝説からきている。
 目の前の刀。これはまさに……。

「お気に召しましたか?」

 いつの間に居たのか、店の人間らしき青年が辰夫に声をかける。

「あ、ああ……、失礼。この刀をいただきたいのですが」

 なんとも不思議な夜だった。
 住民票の確認もなしに、住所氏名を書くだけで買い取りができ、今や骨喰は辰夫のもとにある。
 しかし請求書は送られてこない。
 さすがに気になったので、あれから一度店に行ってみたのだが、どうしても店を見つけることができなかった。
 まるで最初から『つくも屋』という骨董屋など、なかったかのようだ……。
 もやもやする気分を晴らすため、仕事の後に一軒のバーに入り、空いていたのでテーブル席に座り、一人でグラスを傾ける。

(なかなか良い店じゃないか)

 次期事務部長の候補に選ばれた自分にふさわしい。辰夫がそんなことを考えていると扉が開き、二人連れの客が入ってきた。

「邪魔するよ、マスター」
「おや、逢坂さん、いらっしゃいませ。今夜は宮田さんもご一緒ですか」
「ああ、久しぶりに飲みたくなってね」
 二人の男は辰夫の同僚で、今度の事務部長選挙で味方になってくれるはずの人物だった。
 逢坂と宮田はすぐにカウンター席に座り、酒を交えてマスターと楽しげに話しだした。
 挨拶する機会を失ってしまったが、もとより個人的に仲が良い関係ではない。
 逢坂も宮田も元は祓魔官だ。
 職務中に霊障を負ってから事務員に鞍替えしたくちなのだが、そのためか畑違いの辰夫とはあまり馬が合わない。
 今回の選挙で応援してくれるのも、辰夫の能力や人柄を認めているからではなく、利害関係でつながっているからにすぎない。
 無言で手を上げおかわりを注文する。居心地は悪いが知らぬふりをすることにした。
 聞くとはなしに二人の会話が耳に入る。

「――あいつは事務部長なんて器じゃありませんよ」
「――嫁のコネで就職できたようなものだ」
「――やり口が好かん。上には媚びへつらい、下には威張り散らす。小役人の典型だよ」
「――あることないこと、悪い噂をまき散らしているそうだ」
「――あの卑しい目つき。あいつは陰陽師でもなければ公僕でもない、政治屋のそれだよ。しかも三流のな」
「――知ってるか? 今回の選挙では倉橋長官にもおべっか使って色々と画策してるみたいだが、逆効果だろうよ。あの人は実力主義者だ」
「今までの所業を調べられるぞ。後ろ盾を得るどころか、やぶ蛇になるとも知らずバカなやつだ」

 辰夫は激しい動揺を感じた。
 たしかに倉橋長官には根回しをしている。
 そしてそれに対して色よい返事はもらえていない。

「マスター、お勘定」

 辰夫の声に逢坂と宮田が驚いて振り返る。
「お二人さん。良いお話を聞かせてもらえましたよ」
「一色くんか…」

 陰口を聞かれたにもかかわらず、逢坂と宮田の表情には狼狽の色がない。

「少々きついことを言ったかもしれないが、これが我々の正直な本心だよ」
「これを機におべんちゃらやコネを使わずに、実力で勝負してみたらどうだい?」
「…………」

 三人の険悪な雰囲気にマスターが割って入る直前、辰夫は代金を払うと、つり銭も受け取らず店を後にした。





「くそっ」

 携帯電話を取り出し倉橋長官と連絡を取ろうとした。
 すぐに確認したかったのだ。
 自分は見捨てられてなどいないということを。
 なんども呼び出し音が鳴るが、いっこうに電話には出ない。
 その後、自宅に帰った後も家電からも倉橋長官との連絡を試みたが、つながらなかった。
 焦りと不安をまぎらわせるために買ってきた刀でも磨こうと、骨喰の置いてある部屋へ足を運ぶ。
 照明の光を浴びて骨喰藤四郎の刀身が銀色に輝く。
 丹念に刀を磨いているうちに心が静まってくる。と同時にどす黒い怒りが込み上げてきた。
それはやがて自分をコケにした逢坂と宮田に対する殺意にまでふくれ上がっていった。
 殺意とともに妙な自信も湧き起こる。どんな敵もこの刀で斬り伏せてやる――。
 この刀は自分に力を与えてくれる――。

「なにをしているのっ!?」

 部屋に入って来た娘の麗香が驚きの声をあげる。
 軽くウェーブした長めの黒髪、瓜実型の小顔。父親のひいき目を抜きにしても美人だと辰夫はつねづね思っている。

「ん…、ちょっと刀を磨いてただけさ。それより遅かったじゃないか」
「自主練してたから遅くなったの。で、送ってもらったんだけどお茶でも飲んでいってもらおうと思って…」
「父さんの知ってる子かい?」
「天馬君よ」
「ああ、百枝さんちの。あの眼鏡の子か…」

 百枝天馬。
 一色家と同じ旧家の出のためか、麗香とは幼い頃から仲良くしている。

「父さんが顔を出すと煙たいだろうし、挨拶はやめておくよ。あまり遅くまで引き止めるんじゃないぞ」
「うん、わかった」

 そう言って部屋から出て行く麗香の心に一抹の不安が生じる。
 数年前に亡くなった母親の血を色濃く受け継いだ麗香には見鬼の力がある。
 その麗香は一瞬だけ『視た』のだ。
 父の手にした刀が霊気に包まれていたのを。
 ほんの一瞬。
 ほんの一瞬だ。だからただの見まちがい。麗香はそう思うことにした。
 娘が出て行った後、辰夫は無言で骨喰を正眼に構え、振り上げ、振り下ろした。
 数メートル先の花瓶が断ち斬られ、水が流れる。
 辰夫は凄まじい形相で前をにらみつける。
 その顔には、鬼相が浮かんでいた……。





「こんな遅くまですみません逢坂さん。そろそろおいとまさせてもらいます」

 宮田は手にしたブランデーグラスを卓に置いて、恐縮して頭を下げる。

「なになに、今夜は女房もいないし、遠慮せずもっと飲んでいってくれ」

 バーを後にした逢坂と宮田は、場所を逢坂家に移してまだ飲んでいた。

「にしてもさっきの一色の顔。大の大人が泣きそうな目をして、面白いったらなかったな」
「ははは、あれは滑稽でしたね」
「他の事務員同様、分相応に真面目に働いていればいいものを、よりにもよって倉橋長官に近づこうなどと、身の程知らずにもほどがある」
「まったくです。陰陽庁で生粋の陰陽師でもない者が出しゃばるとは、図々しい」
「おっと酒が切れたな。持って来よう」
「いやいや、もう時間ですし…」
「帰ったらダメですよ! そんなことしたら一生恨みますからね」

 ふらふらとした足取りで酒を取りに部屋から出て行く逢坂。
 残された宮田はおとなしく待つことにした。
 するとどさりとなにかが倒れたような音を聞く。

(酔って倒れたのかな? やれやれしょうがない。見に行くか…)

 廊下に出る。部屋の一つから明かりが洩れているので、そちらに向かう。
 近づくにつれ、いやな臭いがしてきた。祓魔官として過ごしていた時代に幾度となく嗅いだことのある、むせかえるような金臭さ…。
 血だ。
 血の臭いがする。

「逢坂さん!?」

 いそいで部屋に入ると、うつぶせに倒れている逢坂の姿があった。
 抱き起そうとしたが、途中で動きを止める。
 首が、ない
 切断された頸部からは勢いよく血が吹き出し、血溜まりを広げている。

「うげぇっ」

 現役の祓魔官時代にだってここまで凄惨な死体は見たことがない。

「け、警察を…」

 携帯電話を取り出そうとした宮田の背後からみしり、と床が鳴る。
 今夜は自分たち以外はいないはず。
 みしり、と音がまた一歩近づいた。
だとすると逢坂を殺害した犯人がまだいる

(落ち着け。私は陰陽師だ。不意さえ突かれなければ、ただの一般人に遅れはとらない)

 気を静め、脳内に術式を組みながらゆっくりと振り返る。
 侍がいた。
 時代劇に出て来るような月代を剃った若武者が、抜き身の刀を手にして立っていた。
 その体は青白い霊気に包まれている。

(れ、霊災!? フェーズ3? いや式神か!?)

 霊気は安定し瘴気へと変容してはいないので、正確には『霊災』でないのかも知れない。
 だがなんにせよ目の前には『霊的な脅威』が存在していることに変わりはないのだ。
 若武者は刀を八双に構え、間合いをつめてくる。

「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」

 不動金縛りの術。
 しかし若武者の振るう刀によってその術は斬り落とされてしまった。
 あわてて次の術を行使しようとする宮田。
 だが、遅い。
 ヒュンッ。
 鋭い風切り音を聞いたと思った瞬間、視界に床が映っていた。

(な、なんで寝てるんだ!?)

 ばしゃばしゃと大量の液体が顔にかかる。とっさに腕で拭こうとするも、首から下の感覚がない。
 目だけを動かして周りを見る。
 切断された頸動脈から大量の血飛沫をあげている自分の体。
 それが宮田の最期に見た光景だった。





 陰陽庁職員が惨殺された事件は、少なからず世間を騒がせた。
 庁内選挙も近いこともあり、一色辰夫は殺人とは関係ないところで騒がれることとなった。
 ライバルに濡れ衣を着せて失脚させた。陰陽庁とつながりのある企業から賄賂を受け取った。
 そんなことがゴシップ誌に取り沙汰されている。

「ほんと、いやになっちゃう……」

 麗香がため息をつく。
 スキャンダル記事を目にするたびに辰夫は怒っていたが、だからといって娘から『これって本当のこと?』などと確かめるわけにはいかない。
 ただ近ごろ辰夫が庁内選挙のために奔走しているのは事実で、今日も倉橋長官に用があるからと早くから家を空けている。

「気にしないほうがいいよ。人の噂も七十五日って言うでしょ?」
「なにそれ? 天馬君てずいぶん古い言い回しとか知ってるのね」
「え、そうかな?」
 旧家の百枝家で祖父母に育てられた天馬には、同世代から見てどこか大人なところがあった。
「でもね、たしかに気になることがあるの。父さん日本刀を集めてるし、剣道もしてたから…」
「ありえないよ。なんならちゃんと調べてみたら?」
「刀を?」
「うん」
「……あのね、見まちがいだったかもだけど、父さんの持ってた刀から霊気が出てたかもしれないの」
 
 その時インターホンが鳴った。
 麗香が玄関にむかい、訪問者にどなたですかと尋ねる。

「呪捜部の者です。逢坂氏が殺害された件でうかがいたいことがあるのですが、一色辰夫さんはご在宅ですか?」
「今、ちょっと出てますけど、父になにかご用ですか?」
「大したことではないのですけどね。そうですか、お留守ですか。もうしわけありませんが中で少し待たせてもらってもいいですか?」

 呪捜官の口調は丁寧ではあったが、その態度はあつかましく、いやな自信にあふれていた。
 とりあえずダイニングに通し、お茶を出してから、麗香は天馬のいる部屋に駆け込む。

「どうしよう、呪捜官の人が来ちゃった。父さんに聞きたいことがあるって。父さんまさか…」
「落ち着いて。落ち着いて麗香ちゃん。たんに話を聞きに来ただけでしょ? 捜査令とかは見せなかったんでしょ?」
「うん、うん…」
「麗香ちゃんさっき刀に霊気があるとか言いかけてたよね? お父さんを疑うわけじゃないけど、やっぱり刀を調べてみようよ。それとも刀の置いてある部屋に呪捜官を入れちゃったとか?」
「ううん、それはないわ。あたしも不安だったから」
「よし、行こう」

 麗香の手をとり部屋から出る天馬。
 百枝天馬。以外にも押しの強いところがある。
 後に十二神将の一人から。
 『あいつ意外と強引って言うか、押し強いよね。地味な癖してさ』(原作小説『東京レイヴンズ』八巻。五十八ページより)
 などと言われるのは伊達じゃない。
 刀の置いてある部屋に天馬を案内した麗香は少し青ざめた顔で飾ってある骨喰を手にとった。
ずしりと重く、そして大きい。
 時代劇などで目にする役者が振るう刀は撮影用の模造品なので、サイズも小さめに作られているが、本物の日本刀には鉄の質量と『武器』の迫力がある。

「これがそう。なんでも骨喰藤四郎ていう珍しい刀なんだって」
「へぇ…」

 今のところ霊気も瘴気も感じられない。だが刀剣タイプの呪具の中には鞘をかぶせることで霊気を隠し、穏形するタイプの物も存在することを天馬は知っている。
 このあたりは両親の仕事の影響だろう。今は亡き天馬の両親は、陰陽庁以外で式符の販売で成功した唯一の会社。ウィッチクラフト社で技術者として働いていたのだ。
 呪具や人造式についての知識にはそれなりの自信がある。
 麗香から刀を受け取った天馬は、恐る恐る鞘から引き抜こうとするが。
 なかなか抜けない。
 刀という物は鯉口を切って、柄を前に、鞘を後ろに引いて抜くもの。
 慣れない者には、ただ抜くことすらむずかしいのだ。
 それでもなんとか抜刀し、刀身があらわになる。
 切っ先から鍔元までの刀身はどす黒く変色した血糊が付着し、禍々しい霊気――妖気――があふれていた。

「そんな、父さんが、父さんが人を、人殺しだったなんて……」
「と、とりあえずどこかに隠そう」

 あわてて鞘に納めようとするが、抜いた時と同様、なかなか納刀できない。
 パチン。
 やっと刀を鞘に納めたその時。

「すみません、お手洗いはどこですかね? おや、なにをしているんです?」

 呪捜官だ。

「おお、日本刀ですか。少し見せてもらえますか」

 麗香が息の飲む。
 天馬は穏やかな顔をして対応する。

「お断りします。捜査令状は持ってるんですか?」
「電話一つですぐに用意できますよ」

 自信に満ちた表情でそう断言すると、二人のもとに歩みより、刀の鞘に手をかけた。

「これはわれわれ呪捜部と、一色さんとの問題だ。部外者は口出ししないでもらおう」
「たしかに僕はこの家の者ではありません。ですが家長がいないのに勝手な真似をするのを見過ごすわけにはいけません」
「て、天馬君…」

 天馬と呪捜官のやり取りをはらはらしながら見守る麗香。
 業を煮やした呪捜官は急に横暴な口調になると、力づくで刀を取り上げる。

「渡せと言っているんだ、公務執行妨害でしょっぴくぞ! おまえが邪魔をすればそれだけ一色辰夫の立場は悪くなる。わかってるのか!」

 呪捜官は天馬から奪った刀を鞘から引き抜く。
 麗香は思わず目を背け、天馬は歯噛みする。

「ほう……」

 感嘆したような呪捜官の声。
 震えがくるほど神々しく、寒気がするほど禍々しい日本刀。

「これは見事な刀ですなぁ、たしかにこんな物を持っていたら、妙な気になるのかもしれない」
 銀色に輝く刀身には一点の曇りもなく、霊気や妖気の類も発していない。
(じゃあさっきのはなんだったの? 血だってついてたのに…)

 驚いているのは麗香も同じで、目をしばたたき、呪捜官の手にした刀を見つめている。

「ははは、君らがあまり依怙地だったから、なにかやましいことでもあるのかと思ってね、失礼失礼」
「笑い事じゃありませんよ。あなたのことは後で正式に抗議させてもらいます。…名前を教えてもらえますか?」
「いや、本当に申し訳ない。今日はもう失礼させてもらいます」

 呪捜官は挨拶もそこそこに、逃げるように立ち去った。
 残った天馬と麗香はおたがいの顔を見つめ、大きく息をつく。

「天馬君。あたし混乱してきた。さっき見た時はたしかに血がついてたし、霊気だって……」
「うん、それにあの呪捜官だって『視た』はずなのに、なんにも言わなかった」

 試しにもう一度抜いて見たが、やはり異常はない。ただの刀だ。

「僕たちよりもっと見鬼の上手い人に視てもらおう」
「え? でも呪捜官でもわからなかったのよ。そんな人、いるの?」
「うん。いるじゃない、僕たちと同じクラスに」

 賀茂の姓を持った転校生の姿を思い浮かべ、天馬はそう答えた。





 遠くからかすかに聞こえる街の喧騒。誰もいない廊下。

(曜日がちがうだけでこうも雰囲気が変わるとは、学校ってのは不思議な所だ)

 京子の自主練習につき合うため、日曜の陰陽塾に来た秋芳は、いつもと趣のちがう校内をぶらついていた。
 早めに家から出たため、約束の時間にはまだ余裕がある。
 なんとなく自分のクラスに足をむけると、そこで思いがけない人物と出会った。

「お、おはよ」
「春虎じゃないか。日曜なのにどうしたんだ?」
「個人補習」
「ああ……」

 大陰陽師、安倍晴明の末裔。かつての陰陽道宗家、土御門の分家に生まれるも、生まれつき見鬼の才のなかった春虎はこの夏まで呪術とは無縁の生活をしてきた。そのため陰陽塾の授業について来られず、赤点補習の常連だ。
 春虎の成績がお粗末なのは、今に始まったことではない。

「夏目はどうした? いつもみたく『式神の勉強を見るのも主の役目だ』て、一緒じゃないのか?」
「いや、そりゃあ、おれはあいつの式神だけどさ。だからって四六時中いつも一緒ってわけでもないよ。そう言うそっちの式神は一緒じゃないのか?」

 秋芳の式神。化け狸の笑狸のことだ。

「今日は天気が良いから部屋でゲームやって、漫画読んで、アニメ見てるってよ」
「くっ、なんてうらやましい三千院ナギ生活だ」
「あんな怠惰な生活をうらやましがっちゃいかん」
「つうか、日曜なのにどうしたんだよ。まさかおれと同じ補習ってわけじゃないだろ?」
「ああ、これからちょいと人の自主練につき合うんだ」
「わざわざ日曜なのに物好きだなぁ」
「まぁ、半分逢い引きみたいなものだからな」
「え? 今なんて言ったの?」
「いや、なんでもない。それよりもまだ時間があるから、わからないところがあったら教えるぞ」
「そうだな……、全部。かな……」
「またそれか」
「だってほんとにわからねぇんだよ! これでもどこがわからないのかが、わかるようになったんだぜ」
「夏目が聞いたらあきれるだろうが、俺はその進歩を評価してやろう。ゼロとマイナスじゃ、全然ちがうからな。で、わからない個所を適当に言ってみろ」
「五行の術がわからん! 相生と相剋だっけ? あれの順番がいまいちわかりにくい」
「文章を丸暗記するんじゃなくてイメージしながらおぼえるんだ。木は燃えて火を生み、火が燃え尽きると灰。土を生む。土の名からは金属が出現し、金属の表面には結露。水が浮かぶ。水をまかれて木が生える…。といった具合で、これで五行がぐるりと一周。木火土金水。これが五行相生」
「なるほど…」
「また木は土を吸い取り、土は水をせき止め、水は火を消し、火は金属を溶かして、金属は木を切り倒し、それぞれ消滅させることができる。木土水火金。これが五行相剋。この原理に従って術の駆け引きが行われる」
「う~ん、なんとなくわかってきたような」
「口や文章で説明するより、実践したほうが遥かにわかりやすいんだがな」
「あー、おれ実技のほうがぜってー性に合ってるよ」

 陰陽塾の一年は講義の多くが座学で、実技はあまりない。
 そのため二年への進級試験は技術よりは呪術者としての素質を見ることに重点が置かれているらしく、またその試験内容も毎年変更されているという。

「……おれも自主練しようかな。呪力のあつかいや呪術に早く馴れるには、やっぱ実戦形式で訓練したほうが良いよな?」
 
 春虎は入塾早々、夏目をつけ狙う夜光信者と戦っている。
 夏目に関する噂。
 現代陰陽術の祖にして東京に空前の霊的災害を起こした張本人。土御門夜光の生まれ変わりだという噂だ。
 そのため夏目は夜光を盲信する一部の過激な者たちから、つねにつけ狙われている。
分家のしきたりで本家の夏目に式神として仕えている春虎は、主たる夏目を守るため、強くなる必要があるのだ。
 そして秋芳もまた、夏目が狂信的な夜光信者らに害されないよう警戒し、場合によっては身柄を確保。保護するように賀茂家から言われている。

「そういうのは基本的な知識を身につけてからな。それと霊力の呪力への変換も、まともにできるようになってからだ」
「それは錫杖があればなんとか…」
「四六時中あれを持ち歩いてるわけにはいかんだろう。霊力の呪力への変換もイメージが大切だが、その前にそのダダ漏れの霊力を制御しないとな」
「それ大友先生にも言われたけど。これ、自分じゃどうしようもないって言うか、正直霊力が漏れてるって自覚ないんだよなー」
「うたた寝するたびに夢精する精力絶倫中学生みたいだな」
「下ネタ!?」
「ああ、下ネタだぜ。やはり男子生徒たる者、同じ男子とそういう会話をしないとな。それがスクールライフってもんだ。で、冬児に聞いたんだが、おまえの趣味はどノーマルらしいな」
「そうだよ、普通だよ! 幼女趣味とかホモとかじゃないからな! かんちがいすんなよっ!」
「俺は女スパイやくノ一が好きだな。もちろん巨乳のな」
「聞いてねえよ! …つか、そうなんだ」
「ああ、網タイツとか全身スーツにグッとくるんだ」
「そ、そうか」
「あと妹よりも姉が好きだ。世間じゃ今だに妹ものが幅を利かせているが、実に嘆かわしいね。もっと姉ものが流行るべきだ。巨乳の」
「ほんとおっぱい好きだな! まぁおれも好きだけど。んー、まぁ妹ってやっぱかわいいし、一定の需要ってのがあるんじゃね?」
「ああ、俺だってべつに妹が嫌いなわけじゃない。だが、あれだ。さんざん兄妹て引っぱっておきながら『実は血のつながりはありません』とか萎えるな」
「なんでだよ、晴れて恋人同士になれるから良いじゃん。ハッピーエンドじゃん」
「良くない。血の繋がった実の兄妹姉妹の背徳的な恋愛が楽しめないじゃないか。だから『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』にも『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』にもがっかりだよ。BDを買わせておいてラストでいきなり実妹じゃありませんでした。て、これはもう詐欺だね。妹詐欺だよ」
「そんな詐欺ねえよ!」
「『ジュエルペットサンシャイン』は、花音と御影がくっつくべきだったんだよ」
「おれ、そのアニメ知らねえし!」
「俺は弟を溺愛してる巨乳くノ一の姉がメインヒロインの作品とか希望するね」
「あー、はいはい」
「忍びの家に生まれた主人公は最初から最強でラッキースケベ。すごいブラコンで巨乳の姉と妹がいて、実の姉兄妹であると同時に二人とも主人公に仕える任務を帯びたくノ一で、主人公の言うことならなんでも聞いちゃう。なにかとつっかかってくる高貴な育ちのツンデレお嬢様。器量よしで良妻賢母になりそうな家事の得意な幼なじみ。見た目は幼女なんだけど実年齢はアレな担任教師。お色気ムンムンで胸の谷間あけっぴろげ白衣の保険女医。ラッキースケベ要員としてグラドル体型した巨乳で美人な日欧ハーフの先輩。主人公の力の解説要員で二次元最高三次死ねなヲタメガネ腐れ縁の同級生。ただしかわいい男の娘。これらのキャラにくわえて、学園内での模擬戦で主人公無双。謎の敵の襲撃に正規の部隊が撃破されて主人公の真の力が覚醒。みたいな要素を入れた作品は売れる」
「それもう自分で書いちゃえよ! つうか秋芳おまえ、そんな妄想してたのか……」
「妄想もバカにはできないからな。脳ってのは使うことで研ぎ澄まされる器官だ。思考を自分に課す者は、それだけ脳の機能が先鋭化している。そいつがどんなに馬鹿に見えても、思考を好む人間の脳は、どこかしら必ず発達している。使い方をまちがわなければ、それは大きな力になり得るんだ。だからな春虎、考えるのを止めるな。勉強でも人生でも思考停止は楽だが、それに安住すると脳の成長はそこでおしまい。論理、計算、想像、妄想……、なんでもいいから考えろ。脳を使って特化しろ。思考すれば必ず脳は応える。脳はそのための器官だからだ」
「お、おう……」
「霊力も同じだよ」
「え?」
「春虎、ちょっと手を合わせてみろ」
 
 秋芳はそう言い、掌を前に出す。
 春虎は怪訝そうな顔をしつつ、それに応じて同じように掌を出して、タッチするように重ねた。

「うお!?」

 強風に煽られたかのように体が後ろに飛ばされそうになる感覚。だが手と手はピッタリと重なったまま離れそうにない。

「これはな春虎。腕力を使わず気で、霊力だけでおまえのことを押しているんだ」
「て、手が離れないのはなんでだ?」
「おまえが無意識に霊力で抵抗しているからだ。押された瞬間にふんばってるようなものだな。おっと力を抜くなよ。今、この状態は周囲に無駄に拡散しまくりなおまえの霊力が掌という一点に集まっている『無駄のない』状態なんだ」
「…………」
「この状態に慣れたら掌の一点を全身に広げる。そうすれば霊力は漏れずに安定する」

 春虎は土御門の血筋ゆえか、呪力のもととなる霊力は並の人間よりずっと強い。
 しかし霊力を呪力としてあやつる力が大ざっぱで、馬力はあっても空回りしてしまい術にならない。
 それにくわえて呪術の知識もあまりなく、理論面に対する理解が乏しいのも壊滅的だ。
 経絡や丹田。サハスラーラといった内功用語を使うと混乱するだけだろうと考え、こうして体に直接覚えさせることにした。
 しばらくそうした後で掌を離す。

「今の感覚を忘れないように」
「ああ、なんかつかめそうだぜ。ありがとな秋芳」
「どういたしまして。またなにかあれば俺の知っていることを教えるよ。…あ、そういえばちょっと聞きたいんだが」
「え? なに?」
「夏目ってあれ、女の子だよな? なんで男のなりなんかしてるんだ」
「――ッ!!」

 鳩が豆鉄砲を、はぐれメタルが急所にどくばりを喰らったような顔になる。

「ち、な、に、お、いっ、ちがうだろ! なに言ってんだよおい。たしかにあいつは小柄で線も細くて髪も長いし、昔っから女の子にまちがわれやすくて、でもほらあれだ。ちゃんと陽の気出てんだろ? 男だよ男! 完全に男。なっ?」

 汗をかきかき、しどろもどろになる春虎。すでにその態度が質問の答えを如実にあらわしていた。

(嘘のつけないやつだな。しかし思った通り、こりゃあクロだ。しかも春虎は夏目が女だということを知っている。だがなんでそんなことをするんだ? なにかのまじないだろうか……)
「――だから、夏目に言ったら怒るぞ。あいつ自分が女の子に見えること気にしてるからさ」
「……ああ、肝に銘じておこう。それじゃあ、そろそろ約束の時間だから俺は行くよ」

 土御門春虎は呪捜官にはむいてないな。そんなことを考えながら秋芳は教室を後にした。





 陰陽塾の屋上は食堂のある最上階から階段で上がることができる。
 特別な祭壇があるため、普段は生徒の立ち入りは禁止されているが、その一つ手前。食堂のある建物側の『屋上』ならば、その限りではない。
 そちら側の屋上に通じる扉には『秘密の特訓中。開けちゃダメ! のぞきを禁ず』と書かれた紙が貼ってあった。
 その扉の向こう側で今、呪術の応酬が繰り広げられていた。

「似蛇、等牙剥。疾く!」
 
 蛇に似る、等しく牙を剥きたり。
 秋芳が口訣とともに簡易式をばら撒くと、それらは空中で蛇と化し、京子の身に群がる。

「ひがしやまつぼみがはらのさわらびのおもいをしらぬかわすれたか――」

 京子は落ち着いて集中し、呪文を唱える。
 京子を中心に呪力の波動が走り、空中を進んでいた蛇たちは一斉に動きを止め、地に落ちると、苦しそうに痙攣を始めた。
 さらに京子の呪文が続く。

「地より生まれし呪い、主の元に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ!」

 すると地面でのたうつ蛇たちが、今度は秋芳に牙を剥いて襲いかかる。

「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」

 蛇たちにラグが走り、褐色の煙を出すと、元の符の形に戻った。

「今のも蛇除けの呪?」
「そう。術の効果は今さっき君に教えた蛇除けとまったく同じだ。蛇と同じ長虫、ムカデにも効果がある。…それにしても一回教えただけでちゃんと発動させ、さらに返しの術を使うとは、見事だ」

 先日交わした約束通り、秋芳は京子に術の手ほどきをしている。ムカデの動的霊災に苦戦したと言うので、まずは蛇・長虫除けの呪を伝授したのだ。

「君には縁のないことかも知れないが、陰陽師の仕事の中にはお偉いさんに呼ばれて術を披露したり、別の術者と術くらべを強要されることがある。伝説にある安倍晴明と蘆屋道満や知徳法師の話みたいにね。そういう時に術のレパートリーが多いと喜ばれ、逆に少ないと芸が乏しくてつまらん。などと不興を買う」
「失礼な話ね。陰陽術は見世物なんかじゃないのに」
「その通り。それと人でも霊災でも、対象を確実に『祓う』術さえ持てば、それ以外の小技はまったく無用。自分の得意技を徹底的に磨き上げて絶対の必殺技にまで昇華させれば良い。なんて意見もあるが、これはこれで偏った考えで、いざという時に手詰まりになる危険がある。だから『最高』の陰陽師を目指す君には広く浅くではなく、広く深く術を学んでもらう」
「最初からそのつもり。望むところだわ」
「だが根を詰めるのも良くない。今日はこのくらいにしておこう」
「もう終わりなの? あたしはまだまだ平気よ。…ねぇ、霊災修祓用の呪術を教えて」
「しょうがないな……。それじゃあ祓魔官がもちいるもっとも標準的な対霊災用修祓呪術と、百鬼を退ける基本中の基本のやつを教えるよ」

 祓魔官むけの専門書に記された帝式の術を、小一時間かけてじっくりと伝える。

「霊災相手に実際に使ってみたいわ」
「霊災は忘れた頃にやってくる。こっちが身構えてる時に限って霊災なんて身近に起こらないものだ。そのうち使う機会がるだろう」
「ねぇねぇ、あなたなら霊気を歪ませて瘴気を作れるでしょ。フェーズ1でいいから霊災を起こせない?」
「猫なで声でなんつー危険なことおねだりしちゃってるのかな、このお嬢さんは。街中でガソリンぶち撒いて火ぃつけるようなもんだからね、それ。できるけどしないよ。無理。無茶言うな」
「結界を作ってその中だけで…」
「火傷するかもしれない危険な火遊びはさせられないね」
「ラーメンとアバンチュールに火傷はつきものでしょ。痛みを恐れてたら、自分の殻を打ち破れないわ」
「どこのケメコ先生の言葉だよ! そんなにアバンチュールがお望みなら――」
 素早く京子の背後にまわり、後ろから抱きしめ、首筋に口づけをする。

「キャッ!?」

 秋芳はそのまま自分の体が下になるようにして後ろ向きに倒れる。地面に落ちたままの簡易式を花に模したクッションに変化させ、その上に倒れたので痛くはない。
 首筋に唇を這わせつつ、両手で京子の体をまさぐる。

「俺の霊災はもう百鬼夜行寸前のフェーズエレクトだ。さぁ、京子。修祓してくれ……」
「あっはははは、バカ! バカじゃないの、もう。このエロおやじ! アホ芳!」
「いてててて、つねるなつねるな」
「あなたとはアバンチュールじゃなくて真面目な恋をするつもりよ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
「だったら変なことしないで」
「わかったよ。でも、このまま普通に抱きしめるくらいはいいだろ?」
「……そうね、そのくらいなら、いいわ。でもエッチなことしたら、またつねっちゃうんだから」
 
 それからあたりに散らばる簡易式をあやつり、即興で人形劇を楽しんだ。
 二人だけのエチュード。
 あきれるほど楽しい。
 最初は白雪姫だったのだが、マッチ売りの少女や人魚姫を助けたりしているうちに海賊の頭領になるという支離滅裂なストーリー。
 アカペラで『彼こそが海賊』を唄って、ジャック・スパロウの物真似を披露する秋芳の姿に京子が笑い転げる――。
 この楽しい時が永遠に続けばいい。
 二人がそんなふうに思っていた矢先、秋芳の携帯電話に着信が入る。
 二人とも水を差されたと怒ったりはしない。
 ほんとうに幸せな者は、そのような些末なことで気分を害したりしないものだ。

「天馬からだ」
「あら」
「俺だよ、俺。オレオレ詐欺だよ。……いや、飲んでないよ。酔ってはいるけどね。なににって? 恋という名の美酒にさ――」

 ひと通り話をして電話を切る。

「どうしたの?」
「天馬に助けを乞われた。ちょっと行ってくる」





「捜査令状も持たずに勝手に家に入っただと!? どういう了見なんだ。今度こんなことをしてみろ、ただではすまんぞ!」

 辰夫は呪捜官を怒鳴りつけたその足で倉橋長官と面会した。

「君と話すことはなにもない」

 直立不動の鋼。あるいは話す巌。その場にいるだけで周囲の人間に緊張を強いる生きた刃はそう言って辰夫を切り捨てた。

「も、もう一度考え直してください。私が次の事務部長となったあかつきには、倉橋先生にもじゅうぶんな恩返しをさせていただきます」
「そういう問題ではない」
「私にいたらぬ点があれば改めるよう努めます。ですから――」
「君に関する悪い噂は調べさせてもらった。そしてそれらのすべてが根も葉もない噂ではないと判断した。陰陽庁に汚れた『政治家』はいらない」
「お、お言葉ですが長官!」

 ここで退いてはすべてが台無しだ。辰夫は食い下がった。

「クリーンだが無能な政治家より、ダーティでも有能な政治家も陰陽庁には必要では!?」
「ダーティだと周囲に知られる、ダーティだとばれた時点で失脚する。その程度の無能な存在は、陰陽庁には必要ない。今の地位に居られるだけで満足したまえ。これ以上私の時間を潰すな」

 それで、すべてが終わった。
 




 ゆるせない。
 一色辰夫の心をつなぎ止めていた楔が弾けた。
 気づけば家で骨喰いを、藤四郎吉光を磨いている辰夫の姿があった。
 ゆるせない。
 骨喰を手にした自分が倉橋を斬り伏せる姿を想像して悦に浸る。
 陰陽師が、なんだというのだ。
 自分にはこの刀がある。この力がある。
 自分に刃向う者など、斬り殺してやる……。
 
 



 天馬の家は護国寺にある。
 一色麗香の家はその近所だ。
 普通なら渋谷からは池袋か永田町に出て載りかえるが、天馬は普段は副都心線に乗って雑司ヶ谷で降りて徒歩で通っている。
 秋芳たちは護国寺駅で天馬と待ち合わせて、一色宅へと向かう。

「京子ちゃんも来てくれるなんておどろいたよ」
「今日は彼に呪術について色々と教えてもらってたの」
「……すごいね、春虎君ともよく放課後に模擬戦してるけど、休日まで勉強してるんだ」
「陰陽塾の生徒ならそのくらい当然よ。それよりそのナントカって刀のことなんだけど…」
「粟田口吉光・作。骨喰藤四郎だな――」

 九州地方の大名として名高い大友氏。その初代当主、大友能直が源頼朝より拝領したという太刀。
 足利尊氏が九州に下ったさいに大友氏から尊氏に、深く忠誠を尽くすことの証として献上され、尊氏はこの刀を得てから運を盛り返して天下を得たという。
 そのため将軍家は代々この刀を重宝していたが、十三代将軍義輝の時。近習の多賀豊後守という人物に与えられた。
 三好三人衆、松永久秀による謀反の時に多賀豊後守も義輝のそばでこの刀を持って戦い、討ち死にした。
 その後この刀は松永久秀が所持し、それ以降は主家である三好家以上の権勢を得た。
 松永久秀はこれを秘蔵していたのだが、時の大友家当主、大友宗麟がそのことを知り、それはもともと大友家の物なので返して欲しいと大量の金銀を久秀に献じた上で要求した。
 久秀はこれに応じて大友家に骨喰を返した
 ところがこの骨喰藤四郎、その後に大友家から豊臣秀吉に献上され、そのさいに多くの者が『これで大友家は衰微するのではないか』と噂したという……。
 骨喰藤四郎は大阪夏の陣の後、落城した大阪城の中から発見されたが、その刀身には傷が一つもついていなかったとか――。

「――で、この『骨喰』て異名の由来だが、刀を持って人を斬る真似をしただけで相手の骨が砕けた。て逸話からきているそうだ」
「骨が砕けたの? 切れたんじゃなくて」
「そうだよね。刀なら、切れそうだよね。砕けるんじゃなくて」
「ま、あくまで伝説の話だ。それにそのケガしたやつも鎖帷子でも着込んでいたのかもしれないしな」
「それだけいわくつきの刀ならいつ霊災化してもおかしくないわね。…ていうかもうすでに霊災に成ってるんじゃない?」
「ありえるな。霊的存在が実体化する場合、より実体化しやすくなるために核となる物質を取り込むことがある。物に宿るパターンだ」
「タイプ・マテリアル……」
「そう、物の生成り。タイプ・マテリアルだ。昔風に言えば付喪神と呼ばれる存在に成る。構造的には形代を核にして実体化する式神と一緒だな。この場合は霊災の進行度が遅くなる代わりに安定度が増してしまう。そして安定度が増した状態が長引くと核となる形代を失ってもそのまま安定して存在し続けることが可能だ」
「形代がなくても存在し続ける、てすごいね……」
「さすがに行動は制限されるだろうがな。それと付喪神はその『物』という性質上、穏形に長ける種が多い。刺激を与えなければ尻尾を出さないかも――ッ!」

 強い霊気の動きを感じた。

「秋芳君!」
「ああ、どうやら勝手に尻尾を出したらしい」
「え? え? 二人ともどうしたの?」
「近くで大きな霊災が発生したようだ。いそげ」





 倉橋源司を斬る。
 肉に喰い込む刃の感触と、血飛沫の生暖かさを想像して辰夫は身震いした。

「やってやる……」

 この刀があれば陰陽師などに後れは取らない。
 辰夫は骨喰を鞘に納めると、ゴルフクラブケースの中にしまいこんで部屋から出た。
 そこに娘の麗香が立っていた。
 娘の、麗香の視線はゴルフケースをさしている。

「……どこに行くつもり?」
「ん、ああ。たまにはゴルフの打ちっぱなしに行こうと思ってね」

 麗香は黙って指をさす。その方向には骨喰が飾られてあるはずだが、今は当然ない。

「そんなの持って、まさか誰かを殺しに行くつもりじゃ……」
「バカなことを! どうして父さんがそんなことするんだ」
「とぼけないで。あたし見たのよ、父さんの刀が血で汚れてたの」

 感情が高ぶり、今にも泣き出しそうに麗香の瞳には涙があふれている。それを目にした辰夫は哀しみではなく激しい怒りを感じた。
 死んだ妻にそっくりだ。陰陽師だった、妻に。
 陰陽師に。

「ねぇ、落ち着いてよく聞いて。父さん、その刀に憑かれてるわ」
「!?」

 憑かれている。霊災。瘴気。見鬼。式神。生成り、呪術……。陰陽師。
 得体の知れない呪術界。出世のためと陰陽庁に勤めているが、もうたくさんだ。
 陰陽師なんて、もうたくさんだ――。

「父さん、その刀を置いて。それと、お医者さんに診てもらいましょう」
「……倉橋は」
「え?」
「倉橋はな、このおれを見捨てるつもりなんだ。ずっと頭を下げて、汚いこともして、屈辱にも耐えてきたというのに、それなのにあいつはおれを見捨てるつもりなんだ……」

「く、倉橋長官を!? やめて! 父さんはあたしを人殺しの娘にするつもり?」
「なんだとッ!」

 怒りで目の前が真っ赤に染まる。
 こいつは、この女はおれのことなど少しも心配していない。
 自分が殺人者の娘呼ばわりされるのが嫌なだけなのだ。

「麗香っ、おもえという娘は!」

 辰夫は刀を抜き放つと、麗香目がけて一閃させた。
 悲鳴をあげて床にたおれる麗香。なんとか体を起こしてなにかうったえようとするが、力を失いくずれ落ちてしまう。
 骨喰が妖しい光を放つ。まるで新たな血を吸って歓喜したかのように。
 自分がなにをしたのか、もはや辰夫にはわからない。虚ろな目をして赤く濡れた骨喰を手に、ゆっくりと歩き出す。
 その時、玄関の扉が荒々しく開けられ、三人の若者が飛び込んできた。

「辰夫さん、あなたなんてことを!」

 天馬はあわてて麗香に駆け寄り、治癒符を発動させる。

「百枝……、天馬……、娘を、たぶらかす気か? おまえも死ね!」

 麗香を介抱する天馬に斬りかかろうと刀を振り上げる辰夫。
 切っ先が天井板をガリガリと削るが、辰夫の動きに微塵も遅れは出ない。
 憑依されることで筋力も上がっているのだろう。

「禁気則不能起、疾く!」

 気を禁ずれば、すなわち起きることあたわず。
 辰夫は気を絶たれ、文字通り気絶してしまい、糸の切れた人形のようにその場に倒れた。

「禁傷則不能害、疾く!」

 傷を禁ずれば、すなわち害することあたわず。
 続けて放った秋芳の術が麗香の受けた傷を癒す。

「これで傷も残らない。とりあえず横にさせてあげよう。天馬、足のほうを持て。京子は肩を。俺はおっさんを運ぶ」
「はいっ」
「う、うん!」

 応接室のソファに二人を寝かせてから、骨喰を回収しようと部屋から出た秋芳の前に抜き身の刀を、骨喰を手にした若武者が立ちふさがる。

「我が名は藤四郎吉光。字名は骨喰。主、一色辰夫どのの敵は生かしておけぬ」
「……あんたに人を殺せと、一色辰夫はそう命令したのか?」
「すべて拙者の一存でしたことだ。主の手を煩わせるまでもない。わが主に仇なす輩は、すべて拙者が葬り去る。それが武士の務めだ」

 陰々と響く声でそう告げると、手にした刀を八双に構えた。
 強烈な剣気がほとばしり、室内を駆けた。
 目に見えない氷の刃を突き立てられたかのような悪寒が走る。

「て、天馬!? どうしたのよ? しっかりして!」
 背後から京子の声が響く。
 どうやら天馬は骨喰の放った剣気にあてられ、意識を失ってしまったらしい。

「みずからの敵意や殺気を相手にぶつけることで『恐怖』を与え、身体の自由や意識を奪う術だ。人は本能的に刃物を恐れるからな、刀剣を出自とするあやかしのそれは特に相性が悪い」

 松山主水という江戸時代初期の剣客は、この手の技とも妖術ともいえない秘技を会得していたといわれ、それらの術は『心の一方』『すくみの術』と呼ばれた。

「つうか京子。君は平気なのか?」
「平気よ。ちょっと寒気がしただけ」
「よしよし、上出来だ」
 
 気による攻撃を弾くのは身に備わった霊力が強い証。京子は確実に強くなっている。

「骨喰藤四郎吉光。あんたが主と仰ぐ一色辰夫という人物がどういう人となりか知っているのか? 小細工を弄して自分の地位を上げようと画策する、あまり褒められたような人じゃないと思うぜ。そんな人に忠誠を尽くすのか?」
「それがどうだと言うのだ。ひとたび主と仰いだからには、この命ある限り主のために戦い続ける。それが武士というものよ」
(やれやれ、まるでどっかの霊狐みたいな頑固さだ。この強迫観念じみた思い込み。こいつ、ひょっとして付喪神。タイプ・マテリアルとして『目覚めた』ばかりか?)

 霊気が安定し自我に目覚めたばかりの存在には本当の意味での自我が乏しく、出自の特性に囚われていることが多い。
 この場合、武器としての冷酷さ、侍の愚直さが顕著に出ている。

(つい最近まで覚醒と睡眠を交互に繰り返してたのなら、見鬼に引っかからなかったのもうなづける。呪捜官が視た時は本当に寝ていて、霊気など発していなかったんだろう。ただでさえ物の霊気は生物のそれにくらべ、感じにくいからな)
「この命ある限り、武士は主のために戦わなければならぬ……」

 刀を構え直して間合いをつめてくる。

「待て。ここは狭いから戦うのなら表へ出よう」
「……良かろう」
「京子はここで天馬たちを頼む」
「え!? ちょ、ま、待ってよ。あたしも――」

 京子の返事を聞かず中庭へ出て対峙する。
 秋芳は若武者を、骨喰の姿を視た。
 五行は金気に偏り、霊気自体もかなりあるが、自分ほどではない。
 これならば力技で一気に禁じてしまえそうだ。
 禁妖則不能変。
 あやかしを禁ずれば、すなわち変わることあたわず。
 器物や動植物を出自とする霊的存在を強引に元の姿へと戻す術で若武者の姿を消し去り無力化するか。
 禁刀則不能傷。
 刀を禁ずれば、すなわち傷つけることあたわず。
 いっさいの攻撃を無効化してから祓うのもいい。
 秋芳がそんな考えを巡らしていると、若武者は手にした刀の刀身を返し、自らに刃を向けた構えをした。

「霊剣は決断をあらわしたまう。至剛無欲にかたどりて、内に私欲奸侫の心敵を滅し、外に邪悪暴逆の賊徒を誅す。破ァァァッッッ!」

 若武者の霊的防御力が爆発的に膨れ上がった。

(今のは新当流の冤剣(おんけん)か!)
 
 新当流。
 戦国時代の剣豪、塚原卜伝が鹿島神宮の祭神タケミカヅチより神託を受け、授かったという剣術流派。卜伝は各地を回り、足利義輝、北畠具教、武田信玄、山本勘助といった武将らに、その教えを説いたと伝わる。
 その新当流に冤剣という所作がある。
 構えた状態から刀を胸の前に立て、右手首を返して刃を自分の方に向ける動作をすることで、自己の内にある穢れを斬るという、一種の瞑想法。
 これもまた呪術である。
 武術とはもっとも実践的な魔術なのだ。

「これでおぬしが使う妖術は効かんぞ」
「それはどうかな? 我祈願、哪吒太子元帥。求借火尖槍。急急如律令!」
 素早く導引を結び、口訣を唱える。秋芳の手に穂先が炎につつまれた槍。火尖槍が現れた。
 どんなに抵抗力を上げたところで術そのものは無効化はできない。確実にダメージを入れる方法で戦うことにした。

「槍の間合いならば刀に勝てると思ったか? 笑止!」

 骨喰が一閃する。
 だが遠い。
 一歩踏み込めば攻撃可能な距離を一足一刀と言うが、それに五歩近く足りない間合い。
 にもかかわらず骨喰は攻撃し、秋芳は避けた。
 後ろにあった石燈籠が断ち斬られる。
 斬撃を飛ばしたのではない。斬撃を延ばしたのだ。
 秋芳の見鬼には、はっきりと霊気の刃の軌跡が映った。
 骨喰はもともと薙刀を焼き直した異色の刀。その間合いも薙刀に等しい。

(昔のジャンプにこんな武器使う奴がいたよな。幻想虎徹だっけ?)

 こんな時でも秋芳にはそのようなことを考える余裕があった。
 秋芳は相手が強ければ強いほど、危機的状況であればそうであるほど、心に余裕を持つようつとめている。
 余裕がなければ焦りが生じ、かえって判断を誤るからだ。
 実戦で判断を誤れば、死ぬ。
 死にたくないからこそ楽にかまえる。力を抜く。余裕を持つ。
 心につねに余裕を。秋芳流の生き残り術だ。

「白桜! 黒楓!」

 式神を召喚する鋭い声とともに、京子が割って入る。

「天馬なら目が覚めたわ。秋芳君、ここはあたしに祓わせて!」
「……よし、やってみろ」
「まかせて!」

 京子はやる気だ。言っても無駄と判断した秋芳は骨喰の相手を京子にゆずる。
 無論、なにかあれば即座に割り込み、京子を守るつもりだ。火尖槍を油断なく構えて両者の距離をはかり、絶妙の間合いで立ち止まる。

「おなごとはいえ妖術使い。手心はくわえぬ」

 骨喰は京子に向き合い八双に構える。
 対する京子は白桜、黒楓。二体の式神を前に出し、自らは後方に下がる。
 前衛の式神が攻撃と防御を担当し、後衛の術者が呪術を行使する。単純にして強力なパーティ編成。
人間相手でも霊災相手でも、これは理想的な戦列だ。
 このような布陣をとられると秋芳が得意とする術者への肉弾戦も式神に防がれてしまって、できない。にもかかわらず現役の祓魔官でもこのような配置をもちいる者はまれだ。
 なぜか?
 式神の操作と呪術の使用を同時におこなうのが困難だからだ。
 式神をもちいるのならば式神で、そうでないなら術者の呪術で祓う。
 それが普通だ。
 普通ではない、京子の非凡な霊力がこの配置を可能としている。

「参る」

 骨喰が先に動く。
 身を沈め、京子目がけて一気に駆ける。速い。
 二体の式神の間を突破するかに見えたが、白桜も黒楓の動きも並ではない。即座に反応し術者を守る。と、二体の式神にラグが生じた。
 虎乱と呼ばれる技がある。疾走しながら、あるいは疾走直後に一刀をあびせる技だ。
 骨喰は最初から京子ではなく式神を狙い、これを使ったのだ。
 無理に術者を狙わず、前衛から切り崩す正攻法で攻めてくる。

「旺なる火箭よ、貫け。急急如律令(オーダー)!」

 動きを止めた骨喰に向けて京子の火行符が飛ぶ。
 骨喰は刀。その身にまとう霊気は金気。五行相剋の火剋金。

「小賢しい!」

 刀を振るって飛んできた火を斬り払う。
 本来の相性が悪くとも、先ほどの冤剣の効果で霊的防御力の上がった骨喰には効果が薄い。
ならば――。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク。五行連環、急急如律令(オーダー)!」

 木火土金水。すべての五行符を放ち、呪文を唱える。
 呪符はただちに光を発し、たがいに光で連結し合って空中に輝く五芒星。セーマンを描き出した。
 堅固な呪的防御壁が京子を覆う。そして京子はさらに呪文を唱える。

「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令(オーダー)!」

 ついさっき秋芳に教えてもらった帝式の陰陽術。本来は百鬼夜行を避ける、霊災の接近を防ぐ呪術だが、その構造は霊的存在に対する積極的な防壁。結界だ。
 京子はこれを、周囲に展開した。
 守りに守りを重ねる。京子は自身の防御を優先して式神による白兵戦で骨喰を祓うつもりなのか?
 否。
 さらに呪文詠唱が続く。
 こうして矢継ぎ早に術を行使している最中にも京子は骨喰の動きを把握し、白桜と黒楓を自在にあやつっている。
 骨喰の霊気の動きから、その挙動を事前に読み取る。そしてその動きのすべてに対応し、攻めと守りを繰り返す。
 二体の式神をフル稼働させつつ、みずからも呪術をもちいる。驚くべきは京子の霊力と集中力。式神使役の技術力だ。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク。五行連環、急急如律令(オーダー)! 東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令(オーダー)!」

 同じ呪術を発動させると同時に白桜と黒楓を還す。刹那、骨喰が前方に吹っ飛んだ。

「ぐおぉぉぉッ!?」

 二発目の結界を骨喰の真後ろで発動。それも爆発するような速さで防御結界を展開させ、逃げる間をあたえず、先に作った京子の結界に衝突させ、挟み込む。

「ぐ、ぐぬぅぅ……」 

結界と結界。二つの圧力に押し潰され、骨喰の身にラグが走りまくる。みしみしという骨の、いや刀身のきしむ音が響く。

「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギンナン・ウンタラタ・カンマン!」

 金剛手最勝根本大陀羅尼。
 秋芳に教えてもらった二つ目の呪術。不動明王の火界咒が身動きのできない骨喰の身を浄化の炎で焼き払い、完全に修祓した――。

「……終わった、のよね?」

 京子はあたりを見まわし、あやしい気配がないかを探る。

「ああ、修祓完了だ。残心も忘れないとは、偉いぞ。京子」

 最初にいた位置から離れた場所にいた秋芳が近づき、声をかける。

「あ、秋芳君。…そっか、あたしの結界の範囲内にいたんだっけ」
「て、俺のことは失念してあんな戦い方をしたのか?」
「てへっ☆ ごめんなさい。でもあなたなら避けるなり防ぐなりできたでしょ。実際そうしてるし」
「まあな。次は人払いの結界も自分でかけてくれよ。少々派手にやりすぎだ」

 一色宅の中庭は火事と台風が一緒に来た後のような惨状となっていた。

「そうか、それもあったのね」
「次からは周りにも気をくばって修祓しよう。現場にいるのが戦える陰陽師ばかりとは限らないからな」
「気をつけるわ」

 秋芳は地面から黒焦げの刀を見つけて拾い上げる。
 変わり果てた姿の藤四郎吉光。骨喰だ。

「人を二人も殺したとはいえ、こいつもかわいそうな奴なんだ。目覚めるタイミングが悪かったとしか言えない。次はもっとちゃんとした主人に使われるよう、しかるべき場所で休ませてやろうと思う」
「本来なら呪捜部の手にゆだねるべきだけど、あなたがそうしたいのなら、まかせるわ」
「未来の陰陽庁長官のお墨つきだ、ありがたく証拠隠滅させてもらおう」
「もう、茶化さないの!」
「……真面目な話」
「え?」
「偉い人の権限は決まりを守らせるためにあるのであって、破らせるためにあるんじゃない。だからといって杓子定規に法だ秩序だ規則だ決まりだのと言っていたら、窮屈でかなわんよな」
「……法は人と人とが合意の上でたがいの幸福のために定めたものよ。だからこそ守る価値があるの。だれかが自分一人のために定めた規則や、だれも幸せにならないような決まりなんて法の名に値しないわ。法に定められたことは正義なんかじゃなくて正義を探すための道具にすぎないの。だから、あたしが偉くなったら法のための法じゃなくて、人のための法を敷くわ」
「素晴らしい。今すぐ君の式神になってこき使われたい気分だ」
「人を式神にする風習は倉橋家にないわよ。秋芳君は秋芳君のまま、あたしのこと助けてちょうだい」





 後日。
 週刊誌がこぞって書き立てた辰夫に関するスキャンダルは、他のほとんどがそうであるように時が経つにつれて人々から忘れ去られていった。
 それでも辰夫の社会的信用が失墜したのは変わらないのだが、事件後、まるで人が変わったかのように出世欲を失くし、淡々と仕事をする姿に関係者たちは驚き、感心した。
 憑依された時に、骨喰がわずかながら武士の魂を吹き込んだのかもしれない。
 麗香は父親に斬られたというショッキングな体験をしたにもかかわらず、天馬の支えも合って、それまでと同じ生活を続けている。





 陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。

「それが骨喰? なんかボロボロだけど、それも秋芳のコレクションにくわえるの?」

 骨喰を刀袋に丁寧に入れて、箱に納める秋芳の姿を見て笑狸が声をかける。

「いや、こいつはふさわしい持ち主が見つかるまで、安全な場所で休ませてやるつもりだ」
「その安全な場所はここで、ふさわしい持ち主は自分だってオチ?」
「おまえねぇ、どうしてそういう斜め角度から見る見方をするんだ。これはいずこかの闇寺にでも納めるつもりだよ」
「めずらしい。秋芳のことだから着服するかと思ったのに」
「俺はレア物の呪具を『救い出す』ことはあっても、盗んだりしない」

 変わり種の呪具の収集はたしかに秋芳の趣味だ。ここに来てまだ一か月だというのに、部屋の中は呪具であふれている。
 遮光器土偶に武者鎧、カレー鍋やファラオの胸像、ダーツボード、戦隊ポスター……。これら雑多なインテリアのほとんどが、なにかしらの力を秘めた呪具なのだ。

「ふ~ん、ところで、さぁ……」

 身体をよせてくる笑狸。妙に甘い匂いが秋芳の鼻腔をくすぐる。
 部屋に焚かれた香の匂いとは別の匂い。
 笑狸の体からメープルシロップやミルクにも似た芳香が漂う。

「京子ちゃんとエッチした?」
「してない」
「させてくれないの? 恋人同士なのに」
「俺たちは真面目な交際をしてるんだ。そういうのはナシだ」
「じゃあ秋芳たまってるでしょ? ボクが気持ち良くしてあげるよ」
「いらん」
「またまた~、がまんしなくてもいいんだよ」
「……あのなぁ、笑狸」

 秋芳が笑狸の頭を優しくなでる。くしゃり、と柔らかな茶髪が掌をくすぐる。

「おまえの言うとおり、俺だってたぎる時があるんだ。そりゃあもう、メチャクチャにしてやりたいと思ったりする。おまえ『友達』にそんなふうにされたいか? もうちょっと自分を大切にしろ」
「秋芳なら大切にメチャクチャしてくれそう」
「俺を浮気者にするつもりか?」
「男同士でも浮気になるの?」
「うん? ……ならない、か」
「仮に京子ちゃんが夏目ちゃんと百合百合したとして、嫉妬する? それって浮気?」

 この二人は夏目のことを完全に女だと認識していた。

「う~ん、嫉妬はしないかなぁ。あと浮気でもないような…」
「でしょ? ならボクとイチャイチャしても問題ないよ。ラーメンとアバンチュールに火傷はつきもの。変化を恐れていたら自分の殻を打ち破れないよ!」
「そのフレーズ流行ってんの!?」
「話しは聞かせてもらったわ!」
「ちょ、木ノ下先輩!? ここは男子寮ですよ!」

 いきおいよく扉を開けて唐突に現れたのは二年の木ノ下純だ。以前はふんわりとした茶髪にカワイイ系のメイクをしていたが、最近はイメージチェンジしたとかで髪を黒くし、メイクも薄い。大和撫子をテーマにしているという。

「男の娘が男子寮にいちゃまずい?」
「いや、男の子が男子寮にいるのは普通です」
「なら問題ないわね」

 そう言って部屋の中に入り込む純。

「笑狸ちゃんだけに火遊びはさせられないわ。私だって男の娘なんだから、浮気にはならないでしょ。チョロインだと思って、抱いてちょうだい!」
「自分でチョロインとか言っちゃダメでしょ! つか木ノ下先輩、キャラ変わってませんか?」
「そうだね。純ちゃんもああ言ってるし、三人で合体しちゃおう!」
「男だけの三身合体とかしたくねぇよ!」
「うふふ、マーラ様とミシャグジ様とヤリーロでナニができあがるのかしら?」

 その後、三人でしばらくたわいのないやり取りをして一日を終えた。





 陰陽庁長官室。
 窓から秋葉原の夜景を見つめる倉橋源司の後ろ、デスクの上に置かれた六壬式盤が音を立てる。

「貴方の身に振りかかろうとした凶刃は無くなりました。それもご息女の力で」
「そうか」
「……ご子息のほうはどうでしたか?」
「惜しい」
「惜しい、とは?」
「あれはすでに『倉橋』の人間ではない。それが惜しい」
「貴方にそう言わせるとは、やはり優秀な方でしたか。ならば改めて倉橋に迎え入れては?」
「…………」

 源治が黙って振り返る。声の主は、いない。声はするが、その姿形はまったく見えないのだ。

「……彼は陰陽師の今後のあり方についてもよく考えていた。かならずしも私の考えと一致するわけではないがな」
 一枚のプリント用紙に目を落とす。そこには秋芳が掲げた陰陽師の基本理念が書かれていた。

『陰陽師は国家の枠組みを越えて地域の平和と民間人の安全を守り、支えることを第一の目的とする』
『陰陽師は民間人の生命・権利が不当に脅かされようとしていた場合、これを保護する義務と責務を持つ』

 陰陽法の改正による呪術や陰陽師に関する規制緩和にともない、その責務を増やし、自覚すべし。
 そう述べているのだ。
 カチリ。式盤がまた音を立てる。

「卦が出ました。……沢火革。古きを改めて新しきに進む」
「言われるまでもない。陰陽の道は途絶えることなく、未来へと進むのだ」

 倉橋源司に、いっさいの迷いは存在しなかった。 

 

幼女伝

 京子のあやつる二体の式神。白桜と黒楓の連携攻撃が秋芳の身に迫る。
 この二体はセットで動かすことを前提で調整してあるため、その同時攻撃は息をつくひまもないほどの速さと巧みさを持つ。
 白桜の太刀が虎狼さながらに地を走り、黒楓の薙刀が飛燕の如く宙を切る。
 峰打ちではない。仮に峰打ちだったとしても、あたればただではすまない本気の勢いの攻撃だ。
 しかし秋芳はそのことごとくを避け、あるいは受け流す。

「緤べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの
 大誓願なり。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
 京子は転法輪印を結印し、続けて呪縛印を組みながら呪文を唱え、じゅうぶんに練られた不動金縛りの呪を秋芳に放つ。
 京子の呪縛が秋芳の身を拘束しようとした瞬間、秋芳が消えた。

!?

 物理的に穏形する。透明になる術でも使ったのかと見鬼を凝らす京子。
 後ろに気配を感じた、その時。首筋に軽く手刀があてられる。

「……負けたわ。ひょっとして今のが禹歩?」
 
 禹歩とは霊脈に入り瞬間移動する、帝国式陰陽術の一つだ。

「いやちがう。今のはただの体術だ」
「でも消えたわ。その後であたしの後ろにいた」
「消えたように見えただけだよ。仙術や魔法の類ではない。武術としての縮地の術。軽功の一つだな」

 仙術の縮地とは地脈を縮め長距離をわずかな時間で移動する術だ。では武術としての縮地とは?
瞬時に相手との間合いをつめたり、相手の死角に入り込む体さばきを縮地と呼ぶ。
 『手足をもって動かずに動く』
 手先や足先で動くのではなく、身体全体を駆使して動く。
 身体の全体が連動しており、特定の部位が目標に向かっているわけではないので相手はその動きを認識できず、目には消えたように映る特殊な動作のことをさす。
 日本の武術にも『無足之法』という似たような技術が存在する。

「だがこうも上手く決まるとは思わなかった。君の自主練につき合うことは俺自身の訓練にもなっている。ありがたいね」
 
 休日や放課後は陰陽塾の屋上でもっぱら京子に呪術の手ほどきをしている。
 笑狸などは『夏目ちゃんの監視と護衛はどうしたの?』とたびたび指摘してくるが『そっちはおまえに任せた』と、京子につきっきりだ。
 ここ最近はこのような模擬戦もするようになった。

「ならいいんだけど、にしても全然勝てる気がしないわ。やっぱ春虎とは大ちがいね」

 ここで秋芳と模擬戦をする前、京子は春虎に乞われて地下の呪練場でも模擬戦まがいのことをしていたのだ。
 春虎は入塾早々夏目をつけ狙う夜光信者と戦って以来、定期的に京子の式神と実戦に即した訓練をおこない、呪力の使い方や呪術戦そのものに慣れるよういそしんでいる。
 夏目には昔からある噂がついて回っている。それは現代陰陽術の祖にして東京に空前の霊的災害。霊災を起こした張本人である土御門夜光の生まれ変わりだという噂だ。
 そのため夏目は夜光を盲信する一部の過激な思想の者達からつけ狙われているのだ。
 そして春虎は土御門家に伝わるしきたりで、夏目に式神として仕えている。だからこそ主たる夏目を守るため、鍛錬をおこなっている。

「おいおい、きのう今日こっちの世界に入ったやつとくらべてくれるなよ」

 これにはさすがに苦笑する。春虎は霊力こそ常人離れした大きさを持つが、最近まで陰陽師と縁のない普通の人として暮らしてきた。呪術の知識も技術もからっきしなのだ。
 対して秋芳は幼少の頃から山野を駆け、寺に篭もり、修行修行の毎日をすごしてきた。
 京子にしても似たようなもので、日常的に呪術の手ほどきを受けて育っている。

「今、あいつに必要なのは呪術に関する最低限の知識。そして霊力を呪力に変換する技術であって、経
験は二の次三の次なんだがなぁ」
「そうよねぇ、この前の小テストも散々だったし」
「ああ、また夏目にどやされてたな」

 顔を見合わせてため息をつく。

「話しは変わるが、今日はこれからどうするんだ? ヒマなら映画でも観に行くか?」

 言いながら軽く抱きしめ、耳朶を噛むようにキスをする。

「ンっ! ん…、ごめんなさい。今夜は家の用事が、お祖母様との約束があるの」
「そうか、わかった。じゃあせめて下まで一緒させてくれ」

 京子は陰陽塾の塾長である倉橋美代と共に車で登下校している。

「ええ、下まで一緒ね」

「ところで秋芳君、あの噂知ってる」

 一階ホールでわかれる時、京子が唐突に聞いてきた。
 幼い少女の幽霊が、渋谷の街をさまよい歩いている。
 最近そのような噂が流れているというのだ。
 いわく、両親が離婚して父親のもとで暮らしていたのだが、母親が恋しくなり、独り母に会いに行く途中で事故に遭い、死んでしまった。
 そして自分が死んでしまったことに気づかず、今も母のいる家を探して街をさまよい歩いているのだが、迷子の少女だと思って下手に声をかけた者は、その少女と共に永遠に街をさまようことになるのだという――。

「ね? なんか、いかにもそれっぽいでしょ?」
「さまよう少女の霊、か……」
「あら、なにか心あたりでもあるの?」
「いや、そうじゃない。ただ前にそういう感じの動的霊災を降したことがあってな」
「どんな霊災?」
「碓氷峠の撞木娘(しゅもくむすめ)

 碓氷峠の撞木娘。
 江戸時代の妖怪カルタなどに描かれる遊女の妖怪。
 撞木というのは寺の鐘を叩くT字型をした仏具で、かつて京都にはT字路をした造りの撞木町という色町があり、そこの遊女は撞木娘と呼ばれ、江戸庶民の間でも撞木娘と言えば遊女をさすようになった。
 江戸時代に重要だった五街道のうちの一つが中仙道で、途中には宿場町がある。宿場町には飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる仲居が働いているのだが、その多くは非公式の遊女だ。
 貧困のために無理やり売られてきた少女が多く、その過酷な環境から逃げ出しても家には帰れない。売られた金額分の客をとらずに逃げ帰ったりすれば、女衒の雇ったヤクザ者たちから酷い仕打ちを受けるからだ。
 進むも地獄、退くも地獄。行く場所もなくさまよった末に力尽きた遊女達の骸は碓氷峠に捨てられ、野ざらしにされたという。
 その怨念が妖怪・撞木娘と成ったのだ。
 秋芳はそのような霊災を過去に降したことを京子に話した。

「あの娘はそういうタイプ・スペクターの霊災だったな」

 タイプ・スペクター。俗に言うところのアンデッド・モンスターで、いずれも伝承にある『死んでからよみがえった』怪物に類似する特徴をもった動的霊災。あるいはそれらの生成りをこのように分類している。
 ちなみに現在の汎式陰陽術ではいわゆる『幽霊』と呼ばれるような存在を通常とは霊相の異なる特殊な霊災として定義しており、これらタイプ・スペクターには分類されない。あくまでも『亡者のような』外見・特徴を持った霊災に対してタイプ・スペクターと呼称しているのだ。
 あまりに霊力の強い人間や様々な呪的条件がそろった場合、人は死後、その残留霊体が特殊な霊災の核となることがある。この『本物』の幽霊はおもにタイプ・オーガに分類される傾向にある。
 
「……遊女の霊だなんて、ひどい話ね」
「ああ。…そのさまよう幼い少女の幽霊の話だが、俺の知るかぎりそんな痛ましい事件が渋谷で起きたなんて記憶にない。たんなる噂だと良いな」
「そうよね。そんなかわいそうな子、いないほうが良いわ」

 わかれのキスをしようとしたが、周りに人の気配があったので普通にさよならをして、きびすを返す。呪練場にまだ春虎がいるかも知れないので、様子を見に行くつもりだ。すると――。

「シクシクシクシク……」

 秋芳の耳に奇妙な泣き声が聞こえてくる。

「かわいそう…、撞木娘ちゃんかわいそう…」

 屋内に植えられた竹の陰で一人の少女が悲しげにしていた。
 周りに感じた気配はこの少女のものだろう。
 見覚えのない顔をしている。ショートヘアでずいぶん小柄だ。サイズが合っていないのか制服の袖があまっている。
 なかなか整った顔立ちをしているのだが、妙に存在感が希薄で、なんともいえない透明感があった。
 そんな少女が無表情でシクシクと声をあげて涙も流さずに泣いている。
 不気味だ。

(そっとしておこう)

 黙って横を通り過ぎようとした秋芳の袖をひしっ、とつかむ。
 まるで幼子が父親にすがるような様だ。
 秋芳は一瞬、そう思った。

「…………」
「あなた。今、私のことを幼い少女だと思わなかった?」
「……ああ」
「私が小さくてかわいい幼女だからね」
「いや、小さくてかわいくて幼く見えるけど、幼女ではないでしょう、幼女では」
「ふふ、正直ね。でも幼女に見えないなんて残念。私のこといくつに見える?」
「十二歳」
「ああッ! 微妙! なんて絶妙な年齢を提示するのかしら。幼女というには少し大人でビターな味わいの少女の頃。あなたって、いけずね」
「あー、悪いけど俺ちょっといそいでるんで」
「待ちなさい。撞木娘ちゃんの話をくわしく聞かせて。先輩命令よ」
「ご先輩でしたか」
「そうよ。私は二年、あなたは一年。陰陽塾では奴隷の一年、鬼の二年、閻魔の三年という絶対的な封建主義が敷かれているから、先輩の命令は絶対よ」
「そんな男塾みたいなカースト制度ねぇよ! いや、くわしくもなにも、今さっき話したとおりの話ですよ。その様子だと聞いていたんでしょう?」
「ええ、聞いていたわ。あなたが撞木娘ちゃんを無慈悲に祓ったって」
「祓ってません。降したんです」
「え?」
「折伏して安全な寺にあずけました。今ごろフリーの式神してますよ。もっとも陰陽庁から見れば霊災あつかいでしょうが」

 霊災か式神かどうかは合法(資格を持つ術者の制御下にある。陰陽庁の許可を得ている等)かどうかで判断される。
 古来より存在する神霊の類でも、陰陽庁によって『霊災』あつかいされることもあるのだ。

「良かった、撞木娘ちゃんは無事なのね。でもせっかく降したのにどうして自分の式神にしなかったの? 幼女だったんじゃないの?」
「いや、幼女て…。俺はむやみやたらと式神を持たない主義なんです」
「もったいない。私なら式神にする」
「そうですか」
「幼女の式神を何十人も集めて身の回りのお世話をしてもらうの。食事の給仕から着替えの手伝い、お風呂では背中を流してもらったり、かわいい幼女になにからなにまで……。ああっ、天国! ヘヴン!」
「ずいぶんと幼い女子がお好きなんですね」
「当然よ。成長しきってない細い肩、強く握ったら折れてしまいそうな儚げな四肢、ふくらむ前の小さな胸。至高の芸術と言っても過言はないわ。私は幼女を愛でるという高雅な趣味。ロリータ道の求道者。ロリータ道とは陰陽道から分派独立した精神修養の道で――」    

(そっとしておこう)

 自分の世界に浸る謎の先輩を放置して、秋芳はその場を後にした。





 秋も近づき、日の落ちる時間も早くなった。そんな夕暮れに染まった陰陽塾の校舎を見上げていると、どうにも心が騒ぐ。

(やっぱ黄昏時ってのは妙にワクワクするな)

 霊災の発生がもっとも多いのは夕方から深夜。
 いわゆる逢魔が時から丑三つ時にまでの時間帯で、現役の祓魔官から見たら油断のできない一日の始まりだが、秋芳はこの時間帯が、朱に染まる夕方の学校や公園が好きだ。
 どこか怖い、けれども心惹かれる時間と空間。

「なにたそがれてるの、早く帰ろうよ」

 デニムの短パンから延びた白い脚もまぶしい快活な印象の少年。笑狸がせかす。

「別にいそぐ理由もないだろう。……ん?」

 陸橋の上に立ち、同じように陰陽塾を見上げる一人の少女の姿が目に映った。
 まだ小学生だろうか? 遠目にも胸元にレースをあしらっただけの白いワンピース姿が妙に浮いている。夏場の避暑地あたりにいれば絵になる格好なのだが、どこか違和感を感じる。

「あの少女、人じゃないな」

 秋芳の見鬼が少女のまとう人ならざる気を察知した。

「え? あ! ほんとだ。ていうか穏形してない? あの子。言われるまで気づかなかったよ」
「ほんとね。あれなら普通の人には見えないわ」
「わっ、誰この人? いつの間にいたの?」
「……今日は隠形の名人によく会う日だな」
 
 突然声をかけてきたのは先ほど秋芳が出会った二年の先輩だ。

「この子だぁれ? うちの生徒じゃないみたいだけど」
「一応俺の使役式ってことになってる化け狸の笑狸だ」
「笑狸です。秋芳の伙伴(パートナー)やってます」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は――」
「賀茂秋芳くんでしょ。知ってるわ。わりと有名だから。私の名はすずよ」

 『すず』と名乗った先輩は笑狸の全身を上から下まで、ゆっくりと視線を這わせ、一言。

「おしい」
「「なにが?」」

 思わずハモる秋芳と笑狸。

「だって男の子なんですもの。外見年齢も、もう少し若ければ……」
「幼女の式神を連れ歩く趣味はないんでね」
「ショタなの?」
「俺はノーマルだ。そんなことよりここでなにしてるんですか、すず先輩。まさか俺を待っていたわけじゃないでしょう?」
「当然でしょ。なんで私がむさ苦しい野郎なんて待ってなくちゃいけないの。自分が幼女にでもなったつもり? 自惚れないでちょうだい」
「ねぇ秋芳、この人……」
「言うな笑狸。この人は少しだけユニークなだけだ」
「私は彼女を待ってたのよ」

 そう言い目線を陸橋上のワンピース少女に向ける。

「私は街をさまよう悲しい幽霊少女を救済する使命を帯びてるの」
「なるほど。あの子をあなたの式神ハーレムの一員にするつもりですか」
「ちょ、あなた、なに言って、そんなわけないじゃない」
「術者の力量にもよりますが、動的霊災を降ろし。一度自分の式にしてしまえば、外見はわりと自由に変えられますからね。幼女タイプの狐狸精や猫又なんて、いかにもいそうですし。そもそも性別のない付喪神なら外見も人格も自由に設定できるので、身の回りの物を幼女だらけに変えることだって――」
「じゅるり……、その発想はなかったわ。ナイスアイデアね」

 そんなやり取りをしている間にワンピース少女が降りて来た。こちらには注意を向けず、なにがそんなに気になるのか、しきりに陰陽塾を見つめている。
 長いまつ毛に整った鼻梁とすっきりとした頬。細いおとがいから首筋への滑らかなライン。日陰に咲いた花を彷彿とさせる、影のある美少女だ。
 まだ小学校も出ていないような年齢だが、あと数年もすればまわりの大人がほうってはくれないだろう。
 彼女が成長することのできる存在ならばの話だが……。
風もないのにかすかに揺れる長い黒髪。いかにも幽霊っぽい雰囲気をかもし出しつつ近づいて来る。

「来たわ。あなた達はここで見てなさい。私があの子を救ってあげる」
「……せいぜい気をつけろよ」
「迷い牛の怪異を祓った誰かさんみたくがんばってねー」
 
 秋芳は止めても無駄と、笑狸は無責任に声をかける。
 歩を進める少女の前に立ちふさがるすず先輩。

「待って。私はすず。あなたのことを助けてあげるわ」
「はあっ!? ヤバっ、穏形がぬる過ぎたか……。チッ」

 隠形中に声をかけられれば驚くのは普通だが、清楚で可憐な外見に似合わない、くだけた口調が少女の口から飛び出した。

「あなたのことは知ってるわ。お母さんに逢いたいのね。いいわ、私がママよ」
「説得になってねぇ!」
「わけわからないんですけど」
「私はあなたのママ。そして姉であり妹、すなわちシスター。家族なの。さぁ、おいで。もうだいじょうぶよ、あなたは一人なんかじゃない。だって私達はもう、家族なんだから……」
「お、後半の科白だけならそれっぽいな」

 すず先輩は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ両手を広げ、少女に歩み寄る。

「さぁ、ママのおっぱいを吸わせてあげる。その代り……、私にもあなたのおっぱい頬ずりさせて、お尻をなでさせて、髪の匂いを嗅がせてちょうだい!」
「それじゃ変態だよ!」
「キモいんだよ変質者っ!」

 抱きしめようと両手を広げていたためガラ空きになっていたすず先輩の腹部に、肝臓部分に少女のパンチが炸裂した。

「げふぅっ」

 たまらずよろめき、地面につっぷする。

「う…、うげぇぇっぇ! お、おっおおっうぇっぷ、うげぇぇぇぇ。つ、強い。幼女強い……」

 口からお花畑(自主規制)を吐き出し、悶絶するすず先輩の姿を見て、さすがに少女も顔色を変えた。

「ちょ、ちょっと。大げさすぎ! あたしそんなに強くぶってないんですけど」
「今のは肝臓にクリーンヒットしたからな、あたり所が悪かった。しばらく呼吸困難で地獄の苦しみだろうよ」
「そ、そっちが先に変なことしてきたんだし! あたし悪くないし!」

 少女はそう言い、きまり悪げにその場を立ち去る。

「うう、ま、待っ、うぐぇ~」
「無理しちゃダメですよ、すず先輩。今は安静にしててください」
「よ、幼女。幼女が行っちゃう。ダメよすず、早乙女涼。こんなことでくじけちゃダメ。この前のことを思い出して。八歳くらいの美しい幼女を見かけて一日中尾行したでしょ。家に帰った彼女の様子を撮ろうと一生懸命庭の木に登ったら、天窓からシャワーを浴びてる幼女の姿が見えたじゃない。なんという喜び、なんという幸せ。努力すれば、あきらめなければ幼女の神様はかならず報いてくれるの。立って! 立つのよ、すず!」
(完全に犯罪者じゃないか)
(おかしな人だとは思ったけど、ここまで変だとは思わなかったよ。どうする秋芳?)
「負けない。幼女のためにも拙者は負けるわけにはいかないでござる」
「急になにその口調!? 拙者とかござるってなんだよ!」

 すず先輩の体から霊気が立ち上る。

「おお、これは精神が肉体を凌駕しようとしている!」
「う、うげぇぇぇっぷ。く、苦しい。し、死にそう……」

 ダメだった。

「しかたない。笑狸、ちょっとホールまで連れてってソファーに寝かしてやれ。それとこれで水でも飲ませてやれ」

 笑狸に硬貨を渡して少女の後を追おうとする秋芳。

「うん、わかった。ねぇ、秋芳。あの子って霊災なのかな?」
「それを確かめるのさ」

 間近に視て少女の気がおかしいことに気づいた。
人にあらず妖にあらず。生者とも死者ともいえない奇妙な霊気をまとっている。
 気になる。
 少女は秋芳が後を追ってくると気づいたらしく、ワンピースをひるがえし、駆け出した。
 かなり速い。
 少なくとも一般的な小学生女児の走る速さは超えている。さらに少女は雑踏の中を人も避けずに走っているのだ。
 人にあたってもすり抜けている。

(幽体か? だがさっきはすず先輩に物理的な一撃をくわえていた。やはりあの子はただの幽霊なんかじゃないな)

 対して秋芳は生身の人間だ。人ごみの中をつっきるわけにはいかない。これでは距離が遠のくばかり。と思えたが、華麗な足さばきで雑踏の中、人を避けて走り続ける。
 プロのサッカー選手は周囲の選手の動きを俯瞰して観て、その動きに対処するという。
 秋芳もそのようにして群衆の動きを読み、プロボクサーばりの流麗なフットワーク&ステップを駆使して少女との距離をつめる、八方目と軽功のなせる技だ。
 大通りに出たところで走りながら話しかける。

「まて、話がある」
「変質者と話すことなんかないし」
「俺をあの女と一緒にするな。その身体のことについて聞きたいんだ」
「ハァ!? あたしの身体って…。あんたロリペド? キモッ! マジでキモいキショいウザいゲスいんですけど」
「ちがうわ! その幽体のことについて興味があるんだよ」
「……」
「優秀な陰陽師とお見受けする。その霊妙な術について、ぜひお聞きしたい」
「やだ。なんで見ず知らずのあんたなんかに、あたしの術をタダでご教授しなきゃいけないわけ?」
「酒くらいおごるぞ」
「あたし未成年なんですけど」
「ならお茶をおごろう」
「は! なにそれ、結局ナンパじゃん」
「少し話すだけだよ。美味いお茶の飲める店を知ってる。三段トレイに乗ったケーキやスコーン。サンドイッチをつまみながら口にする紅茶は格別だぞ」
「……」
「苺とラズベリーのケーキにキャラメルカスタード、生クリームのシブースト……」
「……」
「日本茶が好みか? 本物の和三盆を使ったあんみつを出す店を知ってるし、コーヒーなら――」
「だ、だ、だ、黙れぇ! あたしは食べ物につられるようなガキなんかじゃねぇっ!」
 
 そう叫ぶと少女はどこからともなく一冊の本を取り出す。単行本サイズのハードカバー。血のように赤い装丁をした聖書だった。

「式神作成! 急急如律令(オーダー)!」

 掲げ持った聖書が光を放ち、風を受けたかのようにページがめくれ、ちぎれ飛び、あたり一面を乱舞する。
 空を舞う聖書のページは折れ曲がり、張りつき、重なり合い、次々と形を成していく。現れたのはカラスの姿をした数十体におよぶ式神たちだ。

「隠形しているとはいえ街中で甲種呪術とは大胆だな!」
 
 そう。少女も秋芳も穏形したまま走っていたのだ。これは並の芸当ではない。

「かかれ!」

 主の命令を受けて式神たちは秋芳に群がる。だが攻撃するのが目的ではない。目くらましの煙幕がわりだ。

「禁群則不能集、疾く!」

 群れを禁ずれば、すなわち集うことあたわず。
 秋芳が口訣を唱えると、式カラスたちはてんで散り散りに飛び去り、一羽だけ突っ込んできたカラスは刀印を結び、切り伏せた。

「なに? 今のって持禁!? あんた呪禁師なの?」
「お、よく知ってるな。我ながらマイナーだと思うのに」
「呪禁……、道教をもとにした呪術で、呪文や杖刀をもちいて邪気や害獣を退ける。中でも持禁と呼ばれるものは気を禁じて物事の性質を禁じ、特定の行為を封じたり存在自体を消滅させたりする。律令制時代。典薬寮に医者として仕えていたが、陰陽道や仏教の台頭により衰微していった……」
 書物に記された呪禁についての内容をそらんじる少女。やはりただ者ではない。

「そうだ。もしなんならそちらの術について教えてくれるかわりに、こちらの呪禁について教えるが…」
「興味ないし」
「なら、陰陽塾について話そう」
「――っ!」
「陰陽塾に興味があるんだろう? この制服を見てのとおり俺は陰陽塾の塾生だ。知っていることなら教えるぞ」

 少女の顔に逡巡の表情がよぎる。
 と、その時――。

『そこの二人。甲種呪術の現行犯で逮捕する。止まりなさい!』

 スピーカー越しの声。背後から黒い車体に陰陽庁のマークの入った車が、呪捜部の巡回車がこちらに向かって走ってくる。

「あ~、うっざ。めんどいのに見つかっちゃった」
「まったく、必要な時には現れず、邪魔な時にかぎって現れる。警察と一緒だな」
「それ、言えてる」

 二人は制止の声に従うどころか、駆ける速度を速めた。

『おい。手間をかけさせるな』

 妙に不敵な呪捜官の声。エンジンをうならせ、二人を追跡する。

「自分で言うのもなんだけど、あたしの穏形はバッチリだし、あんたの穏形も……、まぁイケてるわ。それを見つけるなんて、あの呪捜官かなりできるんじゃない?」
「そこそこ見鬼に長けているのは事実だな」

 二人は巡回車をまくため、角を曲がり細めの道に入った。

『だから、余計な手間をかけさせるな!』

 なんと巡回車は片輪を浮かして狭い路地に入り、追いかけてきた。

「なにあいつ、しつこい!」
「モタモタするな」
「してないし!」

 繁華街から住宅街。そしてまた繁華街へ。二人は渋滞した道路を横切り、商店街へと跳躍。
 わずかな滞空、見事な着地、ふたたび疾走。
 肩を並べて大通りを駆ける。背後から鳴るクラクションによる猛抗議……。
 前方にフェンスが見えた。高さはニメートルを超えていて、よじ登るには少々時間がかかりそうだ。

「先に行って手を貸してやる」
「え?」

 少女の返事を聞かずに秋芳は猛然とダッシュし、フェンスの手前で横に跳び、壁を足がかりにもう一段ジャンプした。三角跳びだ。高々と跳躍してフェンスのてっぺんに飛びつくと、下にいる少女に手をさしのべる。少女はその手をがっちりと握りしめ――。

「「せーのっ」」

 少女の跳躍にタイミングを合わせ、秋芳が引っ張りあげる。フェンスの向こう側へと転がるように移る。

「よし、あの呪捜官も、まさかフェンスを突き破ってまで追っては来ないだろう」
「……つーか、あたしこのくらいの網。すり抜けられるんですけど」
「……そういえば、そうだったな」
「でも、ま。手を貸してくれたお礼は……。て、しないっての! そもそもあんたが追いかけてくるから術使ったんじゃん。あいつに見つかったんじゃん。あんたのせいじゃん!」
「術を使っても使わなくても、あいつにその姿を見られたら誰何されてたんじゃないか? それ、帝式の術だろ。それも魂をあつかう」
「へぇ……。あんたくわしいじゃん」
「最初は生き霊の類かと思ったが、どうもちがう。入神の法や離魂術と呼ばれる類の幽体離脱の術を使っているな。それって禁呪指定されてないか?」 

 帝式。正式名称は帝国式陰陽術。
 この系統に属する呪術はいずれも実戦的で強力な力を持ち、禁呪指定されているものも少なくない。特に魂に関連する呪術はだいたい帝式にふくまれる

「それに対して俺は現役の陰陽塾生だからな、街中で普通の術を使っても傷害や物損でも起こさないかぎり、まぁ平気っちゃ平気だ」

 今の時代。陰陽庁の定めた陰陽法により、甲種呪術の使用は有資格者にのみ許されていて、その使用に関しても厳密には細かい規定が設けられている。
 だが陰陽塾は陰陽庁は公式に認可している陰陽師育成機関であり、この塾生は『陰陽Ⅲ種』の資格者。いわゆる準陰陽師に近い権利特別に与えられており、陰陽塾塾長の責任下において甲種呪術の使用が認められている。
 もちろん、だからといって街中で無分別に使っていいわけではないが、術を使っただけでは犯罪にはあたらず、それを理由に逮捕はできない。

「……あんた、なにが言いたいわけ?」
「とばっちりを受けたのはこっちのほうだ」
「はぁ!? 別に一緒に逃げてくれとか頼んでないし、それって言いがかり――」
「賀茂秋芳」
「え?」
「俺の名前は賀茂秋芳。よろしくな」

 そう言って手をさしだす。
 握手はもともと武器を持ってないことを示す行為だ。あまり欧米の風習を好まない秋芳だが、こういう時は握手にかぎる。
 不承不承ながら握手に応じる少女。

「……あたしは大連じ――」
 
ハッと言葉を飲み込む少女。

「大連寺?」
「だ、だ、ダイレンジャー好き?」
「は?」
「『五星戦隊ダイレンジャー』が好きかって聞いてんだよ!」
「あー、あの昔の戦隊ものね。三国志の登場人物をモチーフにしたキャラクターとか、中国武術とか出てきて、面白かったな。つか、それがどうしたんだ?」
「べつに。あ~、あたしの名は春鹿。季節の春に動物の鹿で春鹿」
「鹿は秋の季語だが、春の鹿というのも趣があって良い名だな」
「ふん、褒めてもなにも出ないし」
「で、さっきの話の続きだが陰陽塾に興味があるなら色々と――」
『逃げられると思ったか? これ以上手をわずらわせるようなら、公務執行妨害も追加する』

 呪捜官の巡回車が回り込んで追ってきた。

「ああもう、しゃらくさいやつ!」
「次こそまくぞ」

 ふたたび始まる逃走劇。
 目前にT字路が迫る。

「春鹿。おまえは右へ行け」
「OK。あんたは左に逃げるって寸法ね」
「いや、ちがう。こうするんだ」

 春鹿が右へ曲がった後、秋芳は回れ右。180度反転して巡回車に向かって突進した。

『チキンレースのつもりか? フッ、甘いな。呪捜官をなめるなよ』

 巡回車はスピードを落とすどころか急加速して秋芳に迫る。もはや捕縛どころか轢き殺すことも辞さない勢いだ。
 衝突する瞬間、秋芳の姿がのっぺりとした人形(ひとがた)の影法師と化し、ボンネットに乗り上げ、フロントガラスを覆う。

『なに!?』

 これでは前が見えない。
 巡回車は右へ左へ蛇行し、そのままT字路へと突進。壁を突き破って停止した。
 ラジエーターから激しく蒸気が立ち上がる。
 もはや走行不能だ。

「くそっ」

 エアバッグを押しのけ、シートベルトをはずして車から降りた若い呪捜官が毒づく。

「簡易式を囮にしての変わり身。基本中の基本のフェイクにひっかかるとは…。だが、いつ変わったんだ……?」

 見鬼の力には自信がある。それゆえこうも鮮やかにたぶらかされるとは夢にも思わなかった。認識不足だ。自分自身の甘さが憎い。

「だが式符を現場に残るような使いかたをしたのは素人の浅はかさ。式符に残る術式を調べれば、そこから足がつくぞ」

 呪捜官がフロントガラスに貼りつく札を改めようと手をのばす。
 式符が一枚。それに重なってもう一枚の呪符がある。火行符だ。

「な! しまっ――!」

 火行符から火の手があがり『証拠』の式符もろとも灰と化した。
 証拠隠滅。

「くっ……」

 若い呪捜官が苦々しく歯噛みする。
 失態だ。
 こうした失態は己の若さと絶対的な経験不足の証だろう。自分はなまじ優れた能力を持つがゆえに『能力的に困難な局面』に直面すること自体が少ないのだ。これは自惚れではなく単なる事実である。実際『窮地を切り抜けた経験値』が少ないことは軽視できない問題だ。
 くやしい。
 だがこのくやしさと屈辱を糧に自分はさらに成長してやる。若き呪捜官はそう心に誓った。





「あっははは! あんたやるじゃん」

 路地裏でけたたましく笑い転げるワンピース少女、春鹿。
 秋芳は自分の気を乗せた簡易式を発動すると同時に火行符を仕込み、それを巡回車に向け突進させて、自身は縮地の術で春鹿のほうへと移動して共に離脱したのだ。
 もちろんこの間も穏形を、禁感功を駆使しているため、呪捜官の注意は『気』の濃い簡易式のほうへと向かったのだ。

「穏形して街中を全力疾走。なかなか気持ちの良いもんだ。さて、と…。二度も邪魔が入ったがこれで落ち着いて話せるな。陰陽塾に興味があるんだろ? 俺の知ってることは教える。だから――」
「あー、わかったわよ。あたしの術も教えてやるから、その前にこっちの聞きたいことに答えてくれる?」
「ああ、いいぞ。答えられることならな」
「土御門夏目。の式神のことなんだけどさぁ、なんか分家の人間を式にしてるそうじゃん。今どきそんなしきたり古すぎてチョーうけるでしょ。だ、だから気になっただけ。それだけなんだけど……」

 どうも春鹿は陰陽塾そのものより土御門春虎について知りたいらしい。秋芳はプライバシーに深く関わらない範囲で春虎のことを教えた。
 夏休み明けに入塾してきたが、それまでは呪術と無縁の生活だったらしい。
 特技は呪符の早打ち。
 今まで十二回も車に轢かれかけたことがある。
 うどんが好き。
 虎柄のスカジャンを愛用。
 実技はそこそこ、座学は最低。
 普段どんなことを話しているか、そんなあたりさわりのない内容だった。

「ふ~ん…。なんか普通。つまらないんですけど」
「もっとつっこんだことが聞きたいなら本人にでも訊ねればいいさ」
「じゃ、一応約束だしあたしのコレについても教えてあげる。あんたの読み通り出神の法をアレンジした、あたしのオリジナルだけど」

 出神の法。
 仙道にある幽体離脱の術。
 世界は陰と陽。二つの気からなり、さらに木火土金水の五気に分類される。人の魂もまた同じであり、魂と(はく)二つの霊体からなる。魂は精神を支える気にして陽に属し、魄は肉体を支える気にして陰に属す。二つ合せて魂魄と呼び、これこそがいわゆる魂だ。
 陽神のみを飛ばす幽体離脱では意識はあっても肉体がないため物をつかんだり人に触れることはできず、陰神のみでは疑似的な肉体こそあるものの本人の意識がなく、ただの肉人形に等しい。
 世界各地に伝わるドッペルゲンガー現象などは、これらの幽体離脱が原因ではないかといわれる。
 陰と陽。魂と魄を合わせて体外に出すことで、半体半霊の『分身』を作り出すことができるのだ。
 アストラル、エーテル、コザール、煉精化気、煉気化神、煉神還虚、還虚合同、小周天、順成人、逆成仙、星幽体投射――。
 専門用語をまじえた春鹿の説明は思ったよりも長い話になった。
 最初は気乗りしなかった春鹿だが、説明しているうちに熱が入ったらしく、秋芳が節々にもらす感想にも解説を入れる。
 話しは思った以上に盛り上がり、部分的、局所的だが、たがいに気心が通じたような気になった。

「あー、なんかあたしのほうが一方的に情報提供してない? 割に合わないんですけど」
「ああ、ドンペリでもルイ十三世でもいい。高い酒でもおごるからそれで帳尻を合わせてくれ。どうせその体ならいくら飲んでも二日酔いにはならないんだろ?」
「だからあたし未成年だって。お酒は飲んじゃダメなの。まぁ、お茶ならいいけど……。けど最低百万回はおごれ。そのくらいの価値はあったでしょ。今のあたしの話」
「ああ、おまえの話は実に面白かった。いいさ。じゃあさっそく――!」

 ぞわり。
 周りの空気が変わった。まるで気温が一気に十度は低下したかのような感覚。この気配は、瘴気だ。
 後方を振り返る。薄暗い路地の向こうから、なにかが近づいて来る。
 秋芳の反応に遅れるかたちで春鹿もピクリと反応をしめす。秋芳が見つめている方向に顔を向けて、目を細ませる。

「……霊災。かなり大きい。これってもうフェーズ3?」

 霊気が歪に偏向し、瘴気と化した存在が姿を現す。
 それは幼い少女の姿をしていた。春鹿と同じか、それよりももっと幼い。

「ママのおうちに行きたいの。お兄ちゃんたち知らない?」

 透き通るような蒼白い肌をした黒髪の少女は心細げに訴えかけてくる。その姿は見る者の保護欲をかき立て、すず先輩でなくても抱きしめてしまいそうになるだろう。

「ねぇ、一緒にママのおうちを探してくれる?」

 今にも泣き出しそうな表情で懇願してくる。

「ねぇ、どうするのさこいつ。祓っちゃう?」

 秋芳はじっと少女を見つめる。瘴気のかたまり、移動型・動的な霊災。五気の偏向は見られない。いわゆる『幽霊』の類ではないだろう。

「街の噂が霊災を起こしたのか、この霊災が街の噂のもとなのか、いずれにせよこの世をさまよう死者の霊なんかじゃないのは幸いだ。さすがにそういうのを力づくで祓うのは気が引けるからな」
「噂って、あんた人の想いが霊災を生み出すって説を信じてるタイプ?」

 霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
 こんな妖怪がいるんじゃないか?
 あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
 このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う幽霊や妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。
 霊災に接し、呪術を生業とする者たちはそのような考えを古くから信じており、秋芳もまた、そう信じている。

「おまえは否定派なのか?」
「ん、今のところ否定も肯定もしない。答えを出すのはきちんと実験して結果を出してから。同じ条件で同じ実験を繰り返して、誰がやっても同じ結果になって始めてあたしは判断する。霊災に関しちゃ謎が多すぎだから、今はなんとも言えないわけ」
「なにやら『研究者』みたいな口ぶりだな」
「……勘の良い男ってキライ」
「ん? なんか言ったか?」
「べつに~。それよかどうすんのさ、この霊災。あんたの考えだとタイプ・レジェンドに分類されるわけだけど」

 タイプ・レジェンド。昔からの伝承や神話や伝説に登場する神魔でななく、口裂け女や人面犬、テケテケやカシマレイコ、マッドガッサーといった都市伝説に出てくる怪異に類似した動的霊災をこう呼ぶ。

「もしくはタイプ・スペクターか、最近あのタイプがやたらと多いんだよな」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって、おまえ霊災関連のニュース見てないのかよ?」
「うっさい。やることが多くてそういうのチェックしてるヒマとかないし。……つか多いの? タイプ・スペクター?」
「ああ、九月あたりからやたらとな。どっかのアホが不完全な泰山府君祭でもやらかして、冥界の道でも開けちまったんじゃないか?」
「――ッ!」

 秋芳の思いつきの軽口を聞いて春鹿が顔をこわばらせる。

「ママのおうち、探してくれないの?」

 少女の姿をした霊災はほろほろと涙をこぼした。

「もういい、お兄ちゃんたちも死んじゃえ」

 少女の下半身が爆ぜ、無数の大蛇が襲いくる。

「げっ、なにコイツ。いきなり変生するとか生意気なんですけど!」
「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」

 春鹿はとっさに霊体化することで攻撃を透かし、秋芳は蛇除けの呪を唱えることで防御した。

急急如律令(オーダー)!」

 春鹿が呪符を投じた。火行符だ。
 膨れ上がった火球が急速に収斂し、青白く輝く光の矢と化し、異形と化した少女に急迫する。命中するかに思われたそれは突如として出現した水の壁にはばまれた。
 少女の下半身から無数に生えた大蛇が水を吐き出している。

「その姿は……、九嬰か!」
「は? なにそれ?」
「『淮南子』という書に記されている妖怪で、中国北部の凶水という沼沢地に棲み、上半身は美しい娘だが下半身からは九匹の蛇が生えている。水から上半身だけだして旅人を誘惑し、水の中におびき寄せ、むさぼり食うという。またその口からは火や水を吐くともいわれる」
「タイプ・スペクターでもレジェンドでもなくて、タイプ・キマイラだったってわけ? つかなんでそんなのが渋谷に出てくるのよ」
「さあな。……まぁ、渋谷の地下には大きな水脈があるし、水に属する霊災が生まれやすい環境ではある」

 九匹の大蛇が鎌首をもたげ、大きく口を開く。
 くる。

「俺は火を防ぐ、春鹿は水を」
「OK。て、テメェがしきんなよ!」

 九匹の大蛇はてんでバラバラに火と水とを吐き散らす。

「禁火則不能燃、疾く!」
「邪なる水気をせき止めよ! 土剋水、急急如律令(オーダー)!」

 秋芳の術が火を、春鹿の術が水を無効化する。

「火と水とか、相剋関係の術を同時に使うとか、マジありえなくない!?」
「吐いたそばから水剋火で相殺したら面白いんだけどな。ま、うまいことできてんだろうよ」

 二人とも余裕だ。
 対する九嬰はというと大蛇による物理攻撃も、水と火によるブレスも効果なしとあって退き気味になっている。

「ハッ! 逃がすかっての」

 春鹿は聖書を広げ、無数の式を打とうとする。

「春鹿、こいつの弱点はおそらく『矢』だ。式を矢の形にリライトできるか?」

 伝承によれば九嬰は羿という弓の名手に射られて退治された。矢による攻撃に弱い可能性がきわめて高い。

「まー、できるけど。あんたそれフカシじゃないでしょうね?」
「やればわかるさ」

 そう言って秋芳も一枚の簡易式符を取り出して矢に象らす。

「式神作成! 急急如律令(オーダー)!」
「羿、養由基、李広、呂布。この矢はずさせたもうな。哈っ!」

 秋芳はなにも呪文を唱えたわけではない。平家物語の那須与一が八幡神ら神仏に矢が命中するよう祈ったのと同様に、いにしえの弓の名手達に必中祈願したのだ。いわば乙種のおまじないに近い。
 勁を蓄えることは弓を引くかの如し。勁を発することは矢を放つかの如し。
 発剄による気を乗せた秋芳の矢は九嬰を貫き、春鹿の矢を象った数多の簡易人造式は九嬰の全身に突き刺さった。
 断末魔の叫びすらあげることなく、九嬰は消滅した。
 修祓完了。

「あ~あ、とんだタダ働きだった。特別手当でも出せっての」
「……おい、おまえ体が透けてきてるぞ。だいじょうぶなのか?」

 秋芳の指摘どおり春鹿の体はみるみる色を失い、消えかけている。

「ゲ、ヤバっ。ちょっと力を使いすぎた。つかもう時間切れだっての? ああもう――あのさ、今日はなんていうか悪くないっていうか、その、え~っと――」

 あわててなにか言おうとする春鹿だったが、あっという間に消えてしまった。
 完全に消え去る前の一瞬。ほんの一瞬だけ春鹿の姿が別の誰かに、プラチナブロンドのツインテールにゴスロリ風の服を着た少女の姿になった。
 今のが本来の姿だろうか?

「……本体に戻ったか。ま、あの調子なら無事に戻ってるだろうな」

 幼女好きの先輩はどうしてるだろう。
 秋芳も陰陽塾に戻ることにした。





 都内某所。
 陰陽庁の職員のために用意された宿舎で一人の少女が目を覚ます。
 とたんに肌を刺すような刺激を感じる。多くの陰陽師が利用するこの宿舎には建物全体に結界が張られているのだ。一定以上の呪力に対して自動的に負荷をかけて中和させる、安全対策の結界が。
 特に少女のいる部屋は特別仕様で、より強固な結界にくわえて、彼女を監視する術式までくわわっていた。
 許可なく外出することはもちろん、室内で呪術を行使することも基本的に禁止されている。いわば軟禁状態だ。

「陰陽塾……、あいつ以外にも。なんか面白い奴いるじゃん」

 少女の口元が自然にゆるむ。
 また明日にでも『抜け出して』行ってみよう。
 そう考える少女だったが、それができなくのは翌朝のことだ。
 誰にも気づかれることなく抜け出していると思っていたが、それはまちがいだった。
 朝一で宿舎を訪れた陰陽庁長官、倉橋源司の口から出神の法の使用禁止を命じられ、その手により呪力を大幅に制限される封印をされてしまったからだ。
 少女が陰陽塾に行くのは、もう少し先になる――。





 陸橋の上。秋芳はなんとなくきのうの少女がいるような気がしたので来たが、どうもあてが外れたらしい。
 その手に一枚の呪符がある。カラスの式符を叩き落としたさいに、ちゃっかり拝借した、少女の式符だ。
「こいつを使えば気をたどって会いに行くこともできるが、それじゃストーカーだしな」

 お茶をおごる約束は守るつもりだ。
 だがそれは、もう少し先のことになりそうだった――。 

 

闇寺

 机の上に置かれた双六盤を前にして、京子は思案の表情を浮かべていた。
よく見れば双六盤には様々な図形や数字、漢字が書きこまれていて、その中央にはルーレットのようなものが、遁甲盤がはめ込まれていた。

 奇問遁甲。
 古代中国で発明された方位術。その起源は古く、伝説上の皇帝である黄帝が発明したとも、漢の高祖である劉邦に仕えた軍師、張良が神仙より授けられたとも言われる。
 本来は兵学や地政学であり、行方をくらましたり、敵を罠に誘い込むのに利用された。伝説では『三国志演義』の諸葛亮がこれをよくもちいたとされ、夷陵の戦いで追撃してくる陸遜の兵をこの術で退けたと伝わる。
 だが京子が取り組んでいるのは、甲種呪術としての奇門遁甲だ。
 陰陽二気の動きに応じて姿を隠したり災難を避ける呪術で、天の九星と地の八卦の助けを借りて、八門遁甲とも言われる門の吉凶を読み解く。
 この八門遁甲とは、生門、開門、景門、杜門、死門、傷門、驚門、休門。文字通り八つの門を持った陣で、その内側は巨石や石柱が並ぶ迷路になっている。
このうち無事に外へ出られるのは休門、生門、開門の三つで、それら以外の門をくぐると侵入者になんらかの害をもたらす。
 八陣結界に迷い込んだ者はこのうちの一つを選び陣の外に出るか、あるいは永遠に陣の迷路を彷徨うしかない。この八門はその名にちなんだ影響をくぐる者にもたらし、死門をくぐった者には死を、驚門をくぐったものには狂気をあたえる。
 奇門遁甲とは、そのような恐ろしい呪術なのだ。

 京子の前にあるのはそれらを元にしたミニチュアで、盤図に組み込まれた術式を読み解くことで駒を進め、ゴールにたどりつくことを目的とした双六そのものになっている。

「土日は私用で出かける所があって訓練にはつきあえない。そのかわりこいつで遊んでてくれ。術式を読んで解除する練習、勉強になるし、ゴールしたらプレゼントもある」

 そう言って秋芳は封印の施された小箱と自作の遁甲双六を京子に渡した。
 京子の駒がゴールしたら小箱の封印が解け、中の物が手に入るという仕組みだ。

「男の子って、こういう遊び好きよね。よくこんな難しいの自分で作れたものだわ」

 そう。この遁甲双六は秋芳自作の呪具なのだ。

「でもプレゼントってなにかしら? まさか結婚指輪とか? キャー! もう、やだ気が早すぎ!」

 桃色の妄想に身をよじり足をバタつかせる京子。

「と、いけないいけない。秋芳君が帰ってくるまでにクリアして、びっくりさせてやるんだから」

 気を取り直して遁甲盤にむき合う京子。
 さて、その秋芳はいったいどこへ出かけたのかというと――。





 葷酒山門に入るを許さず。
 厳しい禅寺にはそのような戒めがあるが、この寺はその限りではない。
 食事も一汁一菜が基本だが、それも厳密には守られてはいない。
 まして多額の布施をした『客』が望めば、それ相応の歓待をしてくれる。
 北辰山星宿寺とは、そのような場所だ。
 秋芳は傷ついた藤四郎吉光。骨喰を預ける場所に、ここ星宿寺という闇寺を選んだのだ。
 
 闇寺。
 陰陽庁の定める法からはずれた呪術者らが身を寄せ合う場所で、日本各地に存在する。
 陰陽庁を辞去した者。呪術の才はあるが宮仕えのできない性分の者。見鬼や生成りゆえに化物あつかいされた者などなど……。
 様々な事情で表の社会にいられなくなった呪術師たちの受け皿となっている。

 宿坊の大広間でひらかれた酒宴は大いに盛り上がっていた。
 山で獲れた猪や鹿、雉といった鳥獣の肉と山菜をふんだんに入れた鍋や川魚を使った料理の数々。それにくわえて大量のアルコール類。日本酒や焼酎だけでなく、洋酒のビンまでもが数多くころがっている。
 肉を喰らい酒を飲む。もはや薬食いだの般若湯だのといった隠語を使うのもバカバカしい。

「さあどうぞ、こいつはハワイ産のラム酒でね。日本じゃめったに飲めない上物ですよ」
「ははっ、こりゃどうも」
「本物の洋河大曲だ。このコクと匂いがたまらんでしょう?」
「ううむ、こりゃ強い!」
「黒龍、獺祭、醴泉、鳳凰美田。どれも銘酒ぞろいだ」
「ほほほ、ありがたく頂戴しよう」 

 宴会当初は客として上座に座っていた秋芳だが、宴が進むと自分の持ってきた酒を方々に振る舞い廻る。
 もぐりの陰陽師として活動していた時から、この寺にはなじみがあり、顔見知りも多い。
 骨喰を預かってもらうことに対して『感謝の気持ちを形にして施し供え』た秋芳は、そのついでに宴会を開くことを願い出て許しを得た。
 それだけの布施をしたのだ。
 参加は自由。無礼講とあって、寺の住人達は入れ代わり立ち代わりに饗宴を楽しんでいる。ちなみに用意された料理の食材と酒類。その半分は秋芳が持ち込んだ物で、調理のほうも秋芳自前の料理用人造式『保食(うけもち)』が担当し、寺の者の手をわずらわせてはいない。
 はぐれ者たちとよしみを通じるのも目的のひとつだ。

「大盤振る舞いですなぁ、賀茂の御曹司」

 スーツをラフに着崩した一人の男が酒を注ぎに来た。賢行という、この寺の阿闍梨だ。僧侶だが剃髪はしていない。寺の外で働くにはそのほうが都合が良いと言う。

「なぁに、星宿寺にはなにかと良くしてもらってますからね」

 注がれた酒を飲み乾して杯を返す。

「ところで……、賀茂様はえらく可愛らしい従者を連れておりますな」

 そう言って部屋の一角で猩々の生成り相手にテキーラの飲みくらべをしている少年を見つめる。秋芳の式神の笑狸だ。肩まである明るい色合いのにこ毛、華奢な身体と白い肌は一見少女にしか見えない。
 賢行はそれを好色な目で見つめている。

「賢行法師は稚児を愛でる趣味がおありで?」

 この場合の稚児とは性の対象としての少年のことをさす。

「いやなに、愚僧はなによりも女人が好きですが、あれほど可憐なら男でも。という気になりますな」

 この男は女好きの破戒僧として有名だ。

「口説いてみますか?」
「よろしいので?」
「ええ。ただしあれは狐狸の精です。精気を根こそぎ奪われることのないように気をつけてください」
「そ、それは……。はは、やめておきましょう」

 賢行はそう聞くと毒気を抜かれ、そそくさと離れていく。
 それと入れ替わるように一人の僧が酒を注ぎに来た。どことなく土佐犬に似た顔の太った男で、賢行とはちがい、きちんとした法衣姿をしている。
 忠範という名の、元祓魔官の僧侶だ。

「このたびは酒席をもうけていただき、ありがとうございます。このような機会がなければ宴など開けませぬからな、みな感謝しておりますぞ」

 とても喜んでいるようには見えない顔つきで感謝の言葉をのべる。
 寺の住人の中には生真面目な者もいる。そのような者は奥に篭もり、乱痴気騒ぎをよそに日々の務めを果たしていることだろう。この忠範という僧侶もそのくちで、義理を立てに来ただけだろうか? そう思いつつ返盃する。

「ときに賀茂様は陰陽塾に通われているとか、ご学友についての例の噂ですが――」

 土御門の次期当主とされる夏目こそ、かの夜光の生まれ変わり。どこに行っても耳にする定番の噂。それはここ星宿寺でも同様だった。
 級友の身についてまわる噂に内心げんなりしつつも、噂の真偽はさだかではないこと、夏目自身の優秀さや、その式神をしている分家の者の人柄の良さなどを始め、陰陽塾という学び舎について丁寧に説明する。
 忠範が去った後も幾人かと献杯と返杯を繰り返す。
 広間の中には酔い潰れて寝転ぶ者も何人かでてきた。そんな中をしっかりとした足取りで進んで来る者がいた。
 学者のような風体の阿闍梨。星宿寺の有力な幹部の一人で、名を理妟という。

「挨拶が遅れてすまない。ちょっと用事があってね」

 およそ僧侶には思えない気取らない口調だったが、どこか白々しい。軽薄な気配を感じた。

「さぁさぁ、もっと飲んでくれ。ここいらじゃ一番の地酒だよ。ところで――」

 秋芳が杯を空にするたびに酒を注いでは、あれこれと質問してくる。
 昨今なにかと取り沙汰される陰陽法改正の話、陰陽塾の授業内容、霊災の発生状況、双角会の動向、ウィッチクラフト社の式神について、賀茂家のこれから――。
 どうもこの男、外の世界への憧れ、関心がすこぶる強い。
 好奇心からあれこれ聞いてくるのはまだかまわないのだが、しきりに寺内の保守派を悪しざまに言い、改革派の主張を褒めそやしては同意を求めてくるのが厄介だ。

(こいつ自身が改革派のようだが、内輪の話に部外者を巻き込まないで欲しいものだ。俺を酔わせてあらぬ言質でもとらせようって腹か……)

 言にして信ならざれば、何を以ってか言と為さん。人の(ことば)と書いて『信じる』と読む。たとえ酒の席での口約束でも立派な約束、契約だ。めったなことは口にできない。

「……ところで理妟法師」
「ん? なにかな?」

 秋芳が天井を指さす。

「少し前から俺の杯に呪詛毒を垂らそうとしているやつがいるんですが」
「なに!?」

 理妟が思わず目を見張り見鬼を凝らすと、秋芳の膳や、その周りに盛り塩のように盛られた瘴気が蠢いていた。表面を微小な眼球がびっしりと覆い、不気味なことこのうえない。

「こ、これは蠱毒!?」

 本来蠱毒とは食事などに入れてもちいるもの。秋芳は幾人もの酔客を相手する間にも、この毒を避け続けていたのだ。

「たちの悪いいたずらだ。まぁ、死ぬような毒ではないようですが、まさかあなたの指示じゃないでしょうね、理妟法師?」
「ちがう! 断じてちがう!」

 理妟が狼狽して天井を見上げると、そこにあった気配が消えた。

「あ、あの狼藉者はかならず見つけ出して処分します」
「仏の慈悲を忘れず、お手柔らかに」

 秋芳はそう言って軽く呪を唱え、呪詛毒を祓う。
 闇寺ではよくあること。血気にはやった者が、こちらの実力を試そうとしているのだ。
 気を取り直してガブリと雉の丸焼きにかぶりつき、その肉を喰らう。
 美味い。
 あっさりとした脂身と滋味が口内を満たす。
 すると――。

「賀茂の若様は呪術のみならず武術にも長けているとか、文武両道とは流石ですね。一手ご教授お願いします」

 頭にターバンを巻いた青年が不敵な表情で声をかけてきた。その隣には竹杖を手にした黒髪の女性がいて、こちらも似たような表情を浮かべている。どちらも見ない顔だ。最近寺に来た者だろう。
「おまえたち、お客様に失礼な真似をするんじゃない!」

 秋芳は賀茂家の上客。下手なことをして気分を害されてはこまる。

「オレは猿渡幸兵。こっちは葉月静香って言います」

 だが理妟の叱責もどこ吹く風。若者はそう自己紹介しつつ杯を差し出す。かすかに湯気が上がっていた。熱燗だ。

「俺はかまわんが、呪術の使用はナシでいいのか?」
「はい。オレ、呪術って苦手なんで」

 ずいぶん素直だな。
 熱い杯を受け取り、そのようなことを考えながら腰を上げた瞬間、ぶちかましが飛んできた。
 ぶちかまし。体当たりのことだ。

「おっと」

 料理の乗った膳が吹き飛ぶ中、酒の満たされた杯だけはこぼさぬよう手に持ちつつ、攻撃をかわす。

「どすこい!」

 幸兵の張り手が秋芳の顔面に向け突き出される。が、それも紙一重で避ける。

「どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どどすこーいっ!」

 張り手のみならず、蹴りや肘打ちもまじえた怒涛の攻撃を右に左にいなす。
 くるり、と。秋芳が身をひるがえしたと思った瞬間、幸兵の体が吹き飛んだ。襖を突き破り、隣室まで転がって行く。
 秋芳が放ったのは転身脚。ただの後ろ回し蹴りだ。
 ただの、と言うが後ろ回し蹴りというのは相手に対して一瞬だが後ろを見せる。そんな意表をついた動きがあるため、慣れてない者は避けにくい。ケンカしてる相手がいきなり背中を見せたら、対応に戸惑うものだ。

「イテテてて……、まいりました」
 
 そう言う幸兵の身にはラグが走っていた。なにかが憑いている。生成りだ。
 秋芳の見鬼が正体を見抜く。

「おまえさん河童の生成りだろう? さすがは相撲。格闘上手だな」

 すると今度は女性が、竹杖を持った静香が前に出る。

「次は私の相手を、呪術戦の指導をお願いします」

 そう言って竹杖を構えると、秋芳の返事も待たずに。
(くだ)よ走れ、急急如律令(オーダー)!」

 竹杖が中ほどから二つにわかれた。中は空洞になっており、そこから無数の狐が飛び出てきた。

「上だな」

 秋芳は畳の上を走る狐の群れを無視して、天井に向かって刀印を切った。

「ケンッ」

 鳴き声とともにラグが生じ、ひときわ大きな狐がぼとりと落ちる。

「似犬、等牙剥。疾く!」

 犬に似る、等しく牙を剥きたり。
 秋芳が口訣とともに簡易式を打つと、それは一匹の犬と化して落ちてきた狐に噛みつく。狐妖の多くは犬を天敵とし、その牙に弱い。激しくラグを起こす狐。

「わっ、降参、降参! その子は私の分身なの。離してちょうだい!」
「おまえさんは飯綱の生成りか。術が甘いな」 

 最初の狐の群れは注意を向けさせるための幻覚。穏形した狐。飯綱で攻撃してくると判断し、その読みはあたった。

「俺に負けたおまえらは罰杯だぞ。酒を飲むんだ。ま、勝った俺も飲むけどな」

 そう言って手に持った杯の中身を飲み乾す。酒はまだ熱かった。
 それからも酔った呪術者達が戯れに勝負を挑んできたりと、宴は長く続き、やがて終焉を迎えた――。





 膳や瓶子が散乱し、酔い潰れた者らがあちこちで寝息を立てている。
 宴の終わり。その余韻を味わいつつ、最後に残った酒をちびちびと飲む。

「秋芳~、飲んでる~?」

 笑狸がしなだれかかってきた。酒臭い。

「飲んでる。おまえも相当飲んだみたいだな」
「飲んだよ~、やっぱ猩々やうわばみの生成りってザルだね~。いくらでも入るみたい」
「酔ってるな」
「酔ってるよ~。でもまだ飲めるよ~」

 笑狸は柔らかなにこ毛を秋芳の胸にコシコシとなすりつけつつ、秋芳が手にした杯に口をつけ中身を飲む。

「行儀が悪いぞ」
「もうこの場所自体が行儀悪いよ」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「ねぇ、秋芳」
「うん?」
「さびしいね」
「さびしいな」

 宴や祭りの終わりというのは、どうしてこうさびしいのか? 笑狸はそう言っている。

「こういうのを『もののあはれ』と言うのだろうなぁ」
「う~ん、そうかな? うん、そうかもね」
しばらくそのようなやり取りをしていた秋芳だが、急に立ち上がり外へと出ようとする。
「どこに行くの?」
「酔いさましにそこらを歩いてくる」
「ふ~ん、行ってらっしゃい」





 山は季節の訪れが麓よりずっと早い。
 鮮やかな紅葉を目にして少女はため息をついた。
 その美しさに感じ入ったのか、あるいは秋特有の感傷的な気分になったのか――。

「お腹すいたなぁ」

 ちがった。

「宴会。一晩中やってた。…美味しい食べ物がいっぱい出たんだろうなぁ」

 サイズの合ってない大きめの眼鏡におさげ髪。まだ中学に上がるか上がらないかくらいの年齢の少女はそうひとりごちる。
 少女の名は秋乃。星宿寺に身を置く者の中でもっとも年若く、もっとも弱い立場にいる存在だ。
 だれしも自由に飲み食いしてもよい宴会が開かれたと聞いてはいたが、とてもではないが顔を出せる勇気はない。意地の悪い先輩連中になにを言われることやら……。

「いいもん、お芋食べるもん」

 庫裏と呼ばれる寺の台所からこっそりと竈の熾火とサツマイモを持ち出し、境内の奥にある朽ちたお堂のそばに行く。
 地面に浅く穴を掘り、そこに芋を置く。その上に落ち葉をかけて、熾火と灰をかぶせ、火をつけようと――。

「あ、ない!」

 マッチやライター。点火する物を用意するのを忘れていたことに気づく。

「あ~ん、バカバカ。わたしのバカ。んも~」

 どうしよう?
 しかたがない。取りに戻ろうとした秋乃だったが、その時。

「火が必要か?」
「ひにゃっ!?」

 急に声をかけられて仰天し、思わず変な声が出てしまった。その瞬間、秋乃の髪の輪郭がぶれ、頭のすぐ上のなにもない空間が乱れた。ラグだ。
 実体化を解いて隠していたものが出てしまう。ぴょこんと伸びた二本の長い耳。白い毛に覆われたウサギの耳が。

「あ、あ、うえっ!?」
 
 動転してしまい耳をしまえない。ぴょこぴょこと右に傾き、左に傾き。秋乃のその様をじっと見つめる坊主頭の青年。
 見られたこんな人いたかしら阿闍梨かしら見られたまだ若いお客さん新しい人どうしよう見られたいじめられるかも良い人悪い人どうしよう見られた――。
 混乱した頭で目まぐるしく思考をめぐらせた末、秋乃は――。
 逃げた。
 速い。脱兎のごとく駆けて、その場を離れる。
 木々をぬって疾走する秋乃。足の速さだけは自信がある。

「なぜ逃げる?」
「きゃーっ!」

 それゆえすぐ後ろから声を、走っている自分に追いついて声をかけてくる人がいるとは思いもしなかった。

「おい、なぜ逃げるんだ?」
「あ、あなたが追いかけてくるからです!」
「なにを言う。おまえが逃げたから追いかけてるんだ」
「え? あ、そうかも」
「わかったら止まれ。そんなに走るとあぶないぞ」
「わ、わかりました」

 少女は素直に足を止め、後ろを振り返る。
 坊主頭の、僧侶のように頭を剃りあげた青年が立っていた。
 秋乃のことをじっと見つめている。

「え、えっと……」

 初対面の相手だ。緊張のため秋乃のウサミミはあたふたと右に左に向きを変えて内心の同様をあらわす。

「さっきは、すまない。おどろかせたみたいだな」
「い、いえ。こちらこそきなり逃げてごめんなさい」
「その耳から察するに、君はウサギの生成りか。宴会には来なかったようだが、ああいう騒がしいのはきらいなのか?」
「あ、はい。わたし、あんまりうるさいのは苦手なんです。あの…、あなたは外から来た『お客さん』ですか? 宴会を開いた」

 おどおどと探るような上目づかいで訊ねる。

「……ああ、そういうことになるな。俺の名は賀茂秋芳だ」
「あ、えっと……。わたしは秋乃っていいます」

 寺では名前しか使わない。たしか名字があったはずだが、秋乃はそれを思い出せず、名前のみを名乗った。秋芳のほうも特に名字を聞こうとはしない。
 この寺に居る者、来る者は様々な事情をかかえている。俗世の縁を捨てて闇寺に入る者も大勢いる。あえて姓を捨てることもあるだろう。
 過去をたずねるのは闇寺ではタブーだ。

「さっき芋を焼こうとしていただろう? 腹が減っているようだが」
「は、はい。薬食……、夕ご飯まで時間があるから、いつもお腹がすくんです……」

 寺では夕食のことを薬食と呼ぶ。これは寺の食事は朝昼二食だからで、夕食は食事ではなく薬という考えからきている。

「残り物しかないが、今から来るか?」
「え? ええっ!? わたしなんかがそんな、めっそうもないです!」
「…………」

 黙って秋乃の顔を見つめる秋芳。
 あ、しまった。気を悪くしてしまっただろうか。言ってから秋乃はお客さんの誘いを断ってしまったことを後悔した。
 だが秋芳は全然別のことを考えていた。

(ううむ、けしからん! なんだこいつのまとう『いじめてオーラ』は、実にけしからん! いじめてやりたくなるじゃないか。だが、だからといって安易にいじめるのも兆発にのったみたいで癪だ。平常心、平常心……)
「あ、あの。すみません、ごめんなさい。ほんとうは行きたいんですけど、わたしみたいな下っ端がお座席に上がるのはいけないと思うから、だから、その……」
「……よし、じゃあなにか適当にみつくろって持って来よう」
「え? い、いいんですか?」
「ああ。でも大した物は残ってないぞ」
「お膳に乗った物ならなんでもいいです! ごちそうです!」
「好き嫌いは?」
「ありません!」
「そうか。しかしウサギの生成りってことはやっぱ――」
「あ、ニンジンですか?」
「……ウサギって自分のうんこ食べるよな?」
「食べません! いや、ウサギはたしかに自分のうんこ食べますけど、わたしは自分のうんこなんて食べませんから! て、うんこって言っちゃったじゃないですか! 三回も!」
「女の子はあまりうんことか言わないほうがいいな」
「あなたが言わせたんです!」
「そういうしゃべりかたもできるんだな」
「え?」
「いや、あんまりおどおどしてたからさ。いじめて欲しくて誘ってたんじゃないかと思うくらいに」
「そ、そうでしたか?」
「ああ。でも、うんこうんこ連呼してた時は活き活きとしてたな」
「そんなに連呼してませんし、そんなので活き活きとするなんていやです!」
「だいぶ打ち解けてきたな」
「そうかも知れませんけど、そうかも知れませんけど!」
「じゃあさっきのお堂の所で待っててくれ。ちゃんとした物を持って行くから」
「え? あ、はい。わかりました。お願いしま――」

 その時。二人の足元が、地面が音を立てて崩れ落ちた。

「きゃッ!?」

 秋芳は片手で秋乃を抱きしめ、もう片方の手で岩壁から生えている木の枝をつかんだ。
 ぶんっ、と枝がしなり落下速度が落ちる。
 少し落ちると、また生えている枝をつかむ。
 ざんっ、と葉が鳴り枝がしなり、落下速度が落ちる。
 宙に体が浮き、次に落ちる。それらを繰り返して落下速度を殺しつつ落ちていく。
 着地。

「地盤が、ゆるんでいたみたいだな。ケガはないか?」
「はわわわわ……」
「離すぞ。立てるか?」
「はわわわわ……」
「その様子じゃ無理だな」

 気絶しなかっただけマシだろう。片手に秋乃を抱いたまま周囲を見まわす。
 すり鉢状に沈下したらしく、まわりを急な斜面にかこまれている。すり鉢というよりはシャンパン・グラスに近い。その底辺に自分たちはいるようだ。

(山中で極端に低い場所に長居は無用。有毒なガスが溜まる危険があるからな。乗矯術でひとっ飛びに……、うん?)

 岩壁にぼっかりと空いた洞穴を発見した。
 秋芳の胸中に子どもじみた好奇心と冒険心が湧いてくる。

「あ、あの……」
「うん?」
「もう平気です。だから、あの、その……、離して、ください」

 真っ赤になり今にも消え去りそうな声で懇願してくる様子は秋芳のS心をくすぐったが、今はそれよりも気になることがある。

「おお、すまん。なぁ、あの中どうなってると思う?」
「え? 洞穴?」
「ちょっと入ってみよう」
「ふぇ? ええーッ!?」

 有無を言わさず洞穴の中へと入っていく秋芳。

(どど、どうしよう? あんな真っ暗なところ、怖くて入りたくないけど、けど……)

 一人になるのも怖い。秋乃はあわてて後を追い、洞穴に入る。
 外からの光が奥までとどいているようで、中は意外と明るかった。それに広い。

「妙だな、どうも人の手が入ってるっぽいぞ」

 階段のような段差が続いている。自然にできたとは考えにくい。 

「……あ! あ、あの。わたし思い出しちゃいました」
「なにをだ?」
「このあたりに昔の、すごい大昔の王様のお墓があるってお話。千じいちゃんから聞いたことがあるんです。あ、千じいちゃんていうのは寺男。お寺の雑役をしている人で、すっごいおじいちゃんで、物知りなんです」
「ほほう? くわしく聞かせてくれ」
「え? ええと、その……、ごめんなさい。それしか知らないです。ごめんなさい」
「埋葬された王様の名前とか、造られた時代とかもわからないのか?」
「……はい、すみません……」
「そんなに気にするなって。さっきのうんこ食ってた元気はどうした」
「うんこなんて食べてません! ああッ!!? またうんこって言っちゃった! 二回も!」
「そうそう、その調子その調子」

 洞穴を降るにつれ、さすがに外の光もとどかず、暗くなってきた。
 秋芳は簡易式符と火行符を取り出し、口訣を唱える。

「以火行為光明。急急如律令」

 火行を以って明かりとなす。熱を生じない光の球が現れ、あたりを照らす。

「わ、すごい。それ、動くんですか?」

 星宿寺は夜ともなるとあちこちの石灯籠などに呪術の火が灯る。それ以外にも日常的に呪術を使用しているが、あいにくと秋乃はそっち方面はさっぱりだ。 

「ああ、こうやって先に飛ばして足元を照らすこともできる」

 そう言うと光球を自在にあやつり、天井から床まで照らしていく。

「わ、これなら暗いとこでも安心ですね」
「怪物が潜んでいたら一発で気づかれるけどな」
「ひゃっ! かか、怪物ですか?」
「こういう遺跡には守護者たるガーゴイルやゴーレム的なモノがつきものじゃないか」
「それはゲームとかの話じゃ……」
「しかし遺跡探索かぁ、いいよなぁ。男の浪漫だよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうさ。男はみんなトレジャーハンターに憧れるもんさ」
「あ、それはわかります。宝探しって、なんかワクワクドキドキしますよね」
「だろう? 10フィート棒でつつきながらのダンジョン探索とか、最高だよな」

「……すみません。あなたがなにを言ってるのか、ちょっとわからないです」
 
 そんなやり取りをしながら先へと進んでいると開けた場所に出た。
 ドーム状の大きな石室で、天井や壁面になにかが描かれている。
 尾が蛇になっている亀、龍、鳥、白い虎。太陽や月。星座と思われる天文図――。

「これは…、四神だな。高松塚古墳やキトラ古墳にも同じようなものが描かれていたと聞くが」

 四神。東西南北を守護する聖獣で、北は玄武。南は朱雀。西は白虎。南は朱雀がそれぞれ守っている。
 秋芳たちから見て正面の壁に玄武。入ってきた側の壁に朱雀が描かれていた。

「羅盤がないから断定はできないが、おそらく東西南北の方角に描かれているんだろうな。俺たちは南から入って来たんだ」
「ふぇぇ……、なんかすごい荘厳な感じがします」

 上を見上げてふらふらと歩き出そうとした秋乃だったが、秋芳はその腕をつかんで止める。

「不用意に動かないほうがいい。あれを見ろ」

 石室の中央は数段ほど低くなっているのだが、そこには人の背丈ほどの石柱がいくつもあり、上から見るとちょっとした迷路のように見えた。

「見鬼はできるよな? 注意して『視て』みろ」
「え? あ、はい……。あの、見ないでください」
「は?」
「その、あたし耳で、ウサギの耳で霊気とか、気配を感じとるんです。だから、その視る時は耳がでちゃうんです。だから恥ずかしくて……」
「恥ずかしくなんかない」
「え?」
「持って生まれた力を、姿を恥ずかしがるな。恥ずかしいと思う、その考えを恥じろ」
「そ、そんなこと言われても恥ずかしいものは恥ずかしいもん……。それにウサギなんてかっこ悪いです。みんなにもバカにされるし」
「ウサギは日本の神話や昔話では知恵者として描かれ、道教では玉兎。金烏と対をなす霊獣として見られる。他にもネイティブ・アメリカンの中にはウサギを最高神として崇める部族があるし、エジプトにはウサギの顔をした女神ウェネトや、ウンと呼ばれる神様がいる。ウサギはその俊敏さと鋭敏な感覚から、昔から人々に一目置かれてきたんだ。胸をはれ、胸を」
「う、う~」

 秋芳の擁護にも意固地な表情を見せる。

「だいいち可愛いじゃないか、そのウサミミ。それに綺麗だし」
「う、う~」

 秋芳の表情は変わらない。だがその頭の上のウサギの耳はぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねていた。
 褒められて悪い気はしないのだ。

「ウサギは高レベルのサムライやニンジャの首を一撃で刎ねる強さも持ってるし」
「すみません。あなたがまたなにを言ってるのか、ちょっとわからないです」
「とにかくそれはいいものだと思う」
「……もぅ、わかりました。そんなに言うなら、見ててもいいですよ」

 そう言うと秋乃は眼鏡をかけ直し、自分の額を見るような上目づかいになった。ウサミミは小刻みに震え、霊気を感じとる。

「あ、なんかあそこの石の柱の周り。変な気が渦巻いてます」
「あれは石兵八陣と言って、まぁ、一種の結界だ。足を踏み入れた者は迷路のように入り組んだ結界内に閉じこめられ、出口を見つけられない限り永遠に中をさまようことになる」
「迷うって、あんな狭い場所なのにですか?」
「現実の空間ではない、呪術による異界化空間に飛ばされるんだ」
「ふぇぇ」
「だが妙だな」
「え? なにがですか?」
「なんで大昔の古墳内に『本物の』呪術をもちいた陣図が敷かれているんだ? 土御門夜光が生まれる前は呪術なんて……、いや確かに実際に効果を発揮する呪術自体はレアなケースだが実在してたし、これもその例か。いやしかし……、つうか、そもそもこの古墳はいつの時代の誰を埋葬したものなんだ? 奇門遁甲術が日本に持ちこまれたのは推古天皇の御世とされるが、だとすると――」
「あ、あの~」
「うん?」
「もうここで行き止まりみたいだし、外に出ませんか? あんなおっかない結界のそばに、いたくありません」
「そのおっかない結界を抜ければ、たぶんまだ先があるぞ。ちょっとここで待ってろ。陣を破ってくる」
「ええ! そんな危険ですよ!」

 秋乃の声を背に、石陣へと入る秋芳。
 ぐにゃり、と周りの景色が飴を溶かしたかのように歪んだ次の瞬間、星々が皓々と輝く夜空の下にいた。
 見わたす限り野原が広がり、イギリスのストーンヘンジを思わせる、八つの石門が周囲に点在していた。

「正しい門をくぐりなさい、か……。ここは一つ、神仏の加護に頼ってみるとするか」

 八陣図の破り方は正しい方位と陣を知ることで開門、生門、休門などをくぐることだが、門に見立てられた魔力の源となっている呪物を破壊することでも強引に突破できる。
 秋芳の視たかぎり、この陣図にはさほど強固な呪は施されていない。いざとなればそうするつもりだ。
 星宿寺の山号は北辰山。本尊は鎮宅霊符神、妙見菩薩。妙見菩薩とは北極星を神格化した存在だと言われる。それならば北極星を足がかりに進もう。北極星はつねに北の空にあって動かない。見つけるのは簡単だ。
 空を見上げると季節はずれの春の星座が広がっていた。まずはおおぐま座を探す。すぐに見つかった。おおぐま座の中にひときわ明るい七つの星があり、これが北斗七星だ。
 北斗七星の柄杓の先、貪狼と巨門を結ぶ線を約五倍にのばした先にある二等星。これこそが北極星だ。
 石門の正面に立った時、門の中心に北極星が見えるものを選んで、くぐる。
 無事に抜ける。似たような風景が広がっているが、石門と星座の配置は異なっていた。夏の星座だ。だが北斗七星の位置はけっして変わることはない。やることは同じだ。
 春、夏、秋、冬…。季節を一巡し終えて門をくぐると、陣に入った時と同じように周りの景色が歪み、陣の外へと抜け出た。

「わわっ、早い。もう出られたんですか?」
「ああ、たいした作りじゃなかったからな。なにか動きがあるはずだぞ」

 そう言い終わらないうちに玄武の描かれた壁が音を立てて左右に割れた。陣を突破したことで仕掛けが動いたらしい。

「よし、先に進もう」
「うう、こわいよう……」
「だいじょうぶだ、安心しろ。お兄ちゃんがついてる」
「ちがいます。あなたはわたしのお兄ちゃんじゃありません」
「…お兄様?」
「お兄様でもありません!」
「お兄ちゃま?」
「お兄ちゃまでも、あにぃでも、おにいたまでも、兄上様でも、にいさまでも、アニキでも、兄くんでも、兄君さまでも、兄チャマでも、兄やでも、あんちゃんでもないです!」
「中国語だと『兄』は哥哥(グーグー)、『妹』は妹妹(メイメイ)て言うんだ」
「そんなこと聞いてませんよ!」
「普段は『兄さん』て呼んでるけど、切羽つまった時とかに『お兄ちゃん』てなっちゃうクールビューティーな妹キャラって、好きだな」
「あなたの趣味嗜好とかも聞いてないですから!」
「怖じ気は消えたか?」
「え?」

(そうだ。さっきのうんこの時といい、この人はわたしの恐怖心をなくすために、わざとおどけているんだ。やだ、かっこいい。ほんとうのお兄ちゃんみたい)

「て、なに勝手に人のモノローグっぽくしゃべってるんですかッ! やめてください、そういうの! ほんとに! わたしもう、うんことか言いませんからっ! …ああっ!? また言っちゃった!」

 そんなやり取りをしつつ、道を進むうちに、石造りの道から板張りの道へと、装いがあきらかに新しい時代の建築物へと変わっていった。天井から裸電球がぶら下がり、細々とした光を放ち、闇を照らしている。

「どうも古墳から出たみたいだな」
「そうですね。…あれ? なんかここって、うち。星宿寺みたいな気が……」

 道が二つにわかれていた。左側のつきあたりにある扉から、強い光が漏れていたので入ってみる。小さめの体育館ほどの広さの部屋だ。甘い香りが漂い、理科室にあるような機材や器具がそこかしこに置いてあり、稼働している。

「これは……、蒸留器か。こっちは冷却器に、この蔦みたいな物は……、甘葛?」

 甘葛(アマヅラ)ブドウ科のツル性植物で、砂糖のなかった時代には甘味料として使われていた。
 清少納言の随筆『枕草子』の中に「あてなるもの。削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる」と、かき氷についての記述があるが、このかき氷にかけた『あまずら』がそうだ。

「ふぁ~、この甘い匂い。なんだか良い気持ちになってきました…」
「まさか、これは密造――」 

 ふと気配を察して後ろを振り向く秋芳。そこには能に使う童子面をかぶった背の低い男が立っていた。小柄な体に不釣り合いなほどの櫃を背負い、腰には雅楽で使う(しょう)を差している。

「……シンニュウシャ、タオス!」

 男は面をつけていることをさしひいても妙にくぐもった、異様な声色をあげる。すると背にした櫃から四体の人形が飛び出した。
 人形はそれぞれ剣を手にした天狗、杖を持った翁、腕の巨大な獅子口、きらびやかな衣装の小面(こおもて)の面をつけている。
 童子面の男が笙を演奏すると、それに合わせて人形が激しく動く。小面がゆらゆらと舞い、天狗と翁が左右から、獅子口が正面から秋芳に迫る。
 人形たちはどれも大人の背丈の半分ほどの大きさをしている。せいぜいが小柄な娘程度だが、その動きは生きている人間とまったく同じに見えた。
 そして驚くべきことに呪力の類をまったく帯びていないのだ。
 これらの人形は式神の類ではない。
 そして呪術で操作しているわけでもない。

「はわわわっ!?」
「さがってろ。秋乃……。傀儡子か? 面白い技を使う。それは天岩戸の神話を模しているのかな? 天狗は猿田彦、翁は八意思兼神、獅子口は天手力男、女は天鈿女命だよな」

 童子面の奏でる笙の音色がひときわ強くなる。
 天鈿女命が眩惑するかのように激しく踊り、三体の男神らがいっせいに秋芳に跳びかかる。
 攻撃をかいくぐると同時に蹴りをはなつ。鋭い打突音がして人形の頭が割れ、胴が歪む。それでも人形の動きは止まらない。作りものだから当然だ。
 天手力男の腕が棍棒のように振られ、思兼神の杖と猿田彦の剣が手足を狙う。
 転がって避けつつ足を一閃。空手のあびせ蹴りや、カポエイラの蹴り技を彷彿とさせる足技だったが、狙ったのは人形ではない。
 笙を奏でる童子面と、男性神三体の人形たちの中間の場所を薙いだのだ。
 呪術をもちいない傀儡の技と見て、そこに細い糸があると予測し、それを断とうとしたのだが、しかし――。
 手ごたえがない。

「なんと」

 三体の人形がくるりと秋芳のほうをふり返り、残る一体。天鈿女命も舞いながら移動する。もし童子面が人形たちを糸で操っていたのなら、その三体と一体を操る糸は交差し、もつれてしまう。そんな位置関係にある。
 まさか呪術を使わず笛の音色『だけ』で人形を操るあやしの技なのか?
 ならば笙を禁じるか、それとも男を倒すか。
 どうする?
 考えをめぐらせ秋芳が見鬼を凝らす間にも三体の人形が襲いくる。
 それらを躱して童子面のほうに駆ける。人形遣い本人を直接倒す。そう決めたからだ。
 童子面の笙が怯えたように乱れると、それに合わせて人形たちの動きが早くなる。人には真似できない奇怪な動きと速度で秋芳の前に回り込み、童子面を守ろうとする。しかし秋芳はその人形たちを攻撃することも避けることもなく、ふたたび虚空にむけて蹴り一閃する。

「あっ!」
 
 笙がやみ、うめき声がした。だがそれは男の口から洩れた声ではない。小面の、天鈿女命が声をあげたのだ。
 それは女の、少女の声をしていた。
 笙を奏でていた男が、人形たちがカタカタと硬い音を立ててくずれ落ちる。笙の男もまた人形だったのだ。そしてそれらを操っていたのは人形と見えた天鈿女命。

「真上から糸で吊り、操るのではなく。斜め方向から糸をのばし人形を操る。だから人形の頭上や背後に手をかざしても糸には触れない。誰も人形を操ってないように思える。さらに笙の音色で操っているように見せて、糸の存在を相手の意識からなくす。そもそも操ってるように見える人形遣いの存在自体がフェイクだ。いやはや巧みな乙種呪術だったよ。そしてそのようなことを可能にする人形遣いの技術も凄い。ここでずいぶんと面白い技を学んだな。後はおまえ自身の穏形を上達すれば言うことなしだな。ゆかり」
「ちっ、あいかわらず余裕ぶっこいてスカしたやつ。あ~あ、つまんない。あんたがその笙の人形に攻撃してたら面白いことになったのにさ」
「火薬でも仕込んでいたのか?」
「ないしょ~、次に戦る時に自分でくらって知りな」
「あいかわらず好戦的な女だな」
「降ろしたからって従順になると思うなよ。あたしはチョロインじゃないんだ」
少女はそう毒づいて小面とかつらをはずすと、ツインテールがふわりとたなびいた。彼女の名はゆかり。かつて秋芳が折伏した動的霊災。碓氷峠の撞木娘だった。
「ところで俺らはここに迷い込んだクチなんだが、おまえがいるってことは、ここって星宿寺なんだよな?」
「決まってるじゃん。誰があたしを『名づけ』て、ここに縛りつけたと思ってるのさ。あんただよ、あんた。ボケたの?」

 降ろした霊的存在に名を与えることで、よりいっそう支配を強める。ゆかりにはそのような呪がかけられていた。
 無縁の存在だった撞木娘に縁を意味する『ゆかり』と名づけたのは秋芳なりの心づかいだった。

「そうか。で、これってやっぱ密造酒だよな」
「それについては愚僧が説明します。賀茂様」

 入り口に僧が立っていた。
 黒い法衣に袈裟を着た初老の阿闍梨だ。だが初老といっても老いの気配はまったく感じられない。さほど大柄ではないのに、常人離れした霊圧を放っている。

「げぇ、じじい!」
「じょっ、常玄法師!」

 秋乃とゆかりの口から同時に声が漏れた。





 帰りの電車内。
「お寺の小遣い稼ぎに密造酒の販売だなんて、さすが闇寺。やることがちがうねー」
「だな。で、あそこは星宿寺の、まぁ、秘密の場所でな。そういう酒造りやら、外への抜け道やらがあるんだと」
「ふ~ん、そこに迷い込んじゃったわけね」
「たまたまできた洞穴から侵入しちまったが、別に出入り口があるみたいだな。昔からある古墳や陣図を利用した抜け道だなんて、さすが星宿寺だ」 
「それでそのウサギの生成り。秋乃ちゃんはどうなったの?」
「ちゃんと飯を食わせて帰したさ。もちろん寺の秘密を知ったからと妙な術をかけてくれるなと、常玄法師には言いふくめずみだ。いつもたんと寄進してるからな、俺からの頼み。無下にはできないさ。……にしても」
「うん?」
「あのウサギ娘、お持ち帰りしたかったなぁ。京子にも見せて、触らせてやりたかった」
「いやいや、秋芳。そんな、物とかじゃないんだから…」





「できた!」

 京子が喜びの声をあげる。陣図をすべて読み解き、ゴールしたのだ。
「ふぅ、けっこう難しかったわね。でも、あたし完璧! あ、プレゼントってなにかしら?」

 小箱の封印は解かれていた。中に入っていたのは花束だった。青、黄色、白、ピンク、紫、などの小ぶりの花がつらなって咲いている。

「あら、可愛い。でもお花だなんてわりと普通ね。でも嬉しいわ。これは……、スターチスかしら? たしか花言葉は――」
 
 京子の部屋に花が増えた。
 新たに増えたその花の花言葉は、京子をしあわせな気分に酔わせて、眠りにつかせてくれた。 

 

奇門遁甲(乙種)

烏羽色をしたジャージを着た一団が草深い小道を上がっている。
陰陽塾の男子生徒達だ。手に手に呪符を持ち、いつでも打てるよう、周りを警戒して進んでいるのだが、そのうちの一人。先頭を歩いていた生徒がいきなり転んで悲鳴をあげた。

「おい、どうした!?」
「くそっ、穴だ!」

 三十センチほどの深さの小さな落とし穴に足をはめられ、転倒してしまったのだ。どうも雑草で巧妙に隠されていたらしい。

「ふんっ、こんな小さな穴、子どもだましだな。おれはこう見えてもサバゲー経験者だぜ」
「経験者なら見抜けよな」
「うるさい……、て、抜けねぇ!」

 穴の中にはゲル状の粘液が満たされ、それが固まり、彼の足をつなぎ止めているのだ。

「接着剤かよ、くそっ」
「トラップがあるってことは、秋芳はこの先にいるはずだ」
「よし、行くぞ! 昼飯一か月おごらせてやるんだ」
「お、おい待てよ。おれを置いてく気か?」
「秋芳を捕まえた後で助けてやるから、おとなしく――うわッ!?」

先行しようとした一人が、まったく同じ落とし穴にはまる。

「ま、ひとつだけとは限らないよな」
「ちょ、この道ヤバイって、迂回しようぜ」
「そうだな。悪い、二人とも後で助けに来るから、ちょっと待っててな」
 
 そう言い、薄情にも動けない友人に背を向けて、そこから離れ茂みの中に入る。と、その瞬間、足が細い縄を引っかけた。真横から丸太が振り子のように迫る。

「ひぃぃっ」
「どぅわっ」
「うわっ」

 一人がそれになぎ倒され、もう一人は木の幹に挟み込まれる。丸太には落とし穴に入っていた謎の粘液が塗りたくられ、それが緩衝剤の役目を果たしているようで、あたった生徒にケガはない。が、丸太の直撃を受けたという、その精神的なショックはかなりのものだった。

「ランボーかよ、おい!」
「助けてくれっ」
「おいおい、ここまでやるか? ちょっと洒落にならないぞ」
「助けてくれよっ」
「土御門チームに連絡だ。秋芳はこの山の上にいる。あいつらならきっと、きっとなんとかしてくれる」
「お、おう」
「動けねぇ~」
「夏目ならきっとなんとかしてくれる。それに倉橋もいるし……」
「助けて、助けて、助けて!」
「落ち着け! 今その助けを呼ぶから……、あ、もしもし。春虎か!? 決して走らず急いで歩いてきて、そして早くおれらを助けてくれ!」
「ボスケテ~」

 罠にはまった生徒達は混乱状態で泣きわめいていた。





 数日前。

「飛び級、ですか?」
「ええ、飛び級よ。秋芳さん」

 陰陽塾の塾長室。
 塾長である倉橋美代と、その孫娘の京子。それと賀茂秋芳がともにテーブルを囲み昼食をとっている。

「あら、秋芳さんのこれ美味しい。蕎麦粉かしら?」
「ええ、蕎麦粉のクレープで味噌をつつみました」
「京子さんの玉子焼きも美味しいわ」
「でしょう? 今日のは自信作だったんですよ」

 秋芳が以前から憧れていた『仲の良いクラスメイトと弁当の中身で料理勝負』を、最近は京子としているのだ。

「……で、飛び級の話ですが、はっきり言ってあなたの実力はプロ並です。今の呪術界はどこもかしこも人手不足でしょ? すぐにでも現場で使える人材が必要なの。そしてそれはここ陰陽塾でも同じ。講師の数が足りないのよ」
「陰陽庁の人材不足の件は前々から聞いてましたが、講師の数も足りないんですか?」
「ええ、そう。うちに巫女学科てあるでしょ。あそこは専属の講師がいないから、手すきの講師が代わる代わる教鞭をとってる状態よ」
「担任不在ってのはよくないですね」
「そうでしょ? で、秋芳さん。とっとと卒業してうちの講師になってくれないかしら?」
「いやいや、そんな簡単に講師になんて――」
「今すぐ講師になれば、京子さんと教師×生徒という禁断のプレイも楽しめますよ」
「ちょっ、お祖母様!? いきなりなにを言い出すんですか!」
「あら、京子さん。あなたの愛読している少女漫画にもそういうお話があったでしょ」
「ありましたけど、なんでそれを今ここで再現しようとするんです!」
「俺は自分が教師という立場より、相手の女性が教師というプレイのほうがグッときますね。女教師のきらいな男子なんていませんよ」
「て、こらーっ! なに言ってるの秋芳君!」
「あらあら、それって私を誘ってるのかしら? でも残念ねぇ、私があと三十歳若ければ……」
「お祖母様も乗っからないでください!」
「話しを戻しますが、あなたがたの二期上の四十五期生にも二年間で卒業した人がいて、その人は今プロの現場で働いてるわ」
「そりゃまたずいぶん優秀な人ですね」
「ええ、でもあなたも同じくらい優秀よ、秋芳さん。早期卒業。その後にうちで働くこと、今すぐ決めなくてもいいから、そういうことも考えておいてくださいね」





「俺が講師か……、正直、人に教えるってガラじゃないんだがな」
「あら? あなたはあたしの立派な『先生』じゃない。あたし秋芳君て教えかた上手だと思うわよ」

 昼食をすませて塾長室を後にし、廊下を歩く二人。

「それは生徒が優秀なんだ。一を聞いて十を知る。こっちがくどくど説明しなくても、すぐに理解して、実践しちまう。この前教えた雷法もすぐに身につけたしな」
「まだ初歩の初歩じゃない」
「でも凄い。難易度の高い雷の術を、ああも早くおぼえるとは流石だよ」
「だって、秋芳君。あたしに雷の術を使えて欲しいんでしょ?」
「まあな」

 雷の呪術は制御がむずかしく消耗も激しい。また他の呪術と異なり、使用した直後に結果が出る。やり直しや調整のきかない一発勝負であり、実戦で使用するには相応の覚悟が必要だ。如来眼に覚醒し、強力な霊力を得た今だからこそ、そのようにあえて危険な力を身に着けることで、つねに『強者の責務』を自覚することが必要だと判断し、雷法を伝授したのだ。

 さらにもうひとつ――。

「電撃でツッコミ入れろとか、あたしには理解できないわ…」
「恋人からビリビリ電撃喰らって『ダーリン、浮気はダメだっちゃ』て言われるのは男の夢なんだよ。いや、俺は浮気なんかしないから、なんかバカなことした時にそうしてくれ」
「う~ん、ダメ。やっぱりわけがわからない…」





 それから数日後。
 関東某所にある野外演習場に向かうバスに揺られる京子の姿があった。
 いつもの制服姿ではない。塾指定の白いジャージを着ている。
 隣に座っている天馬は黒いジャージ姿。ジャージの色も制服と同じく、男子は黒、女子は白に統一されていた。
 他のクラスメイトもジャージ姿で、にぎやかに雑談していた。バスは陰陽塾の貸し切り。クラス全員で移動している最中なのだ。二人を除いて。
 賀茂秋芳とその使役式である笑狸の姿が、そこにはなかった。

「秋芳君から連絡あった?」

 隣の天馬がそう聞いてくる。

「ええ、さっきメールがきたわ『塾長に頼まれたことがあるので先に行ってる』ですって。いったいなんのことなのかしら?」

 今日は普段のカリキュラムにはない野外実習。陰陽塾では一年の間は座学が中心で実技・甲種呪術の講義数は少なく、内容もごく基本的なものだ。中にはそれに飽きがきている生徒もいて、今回のような外での講義は良い気分転換になる。

「今日はみんな肩肘はらんと楽にしたらええで~、季節は秋。暑ぅない寒ぅない、良い陽気や。行楽や思うて、みんな楽しもう。あ、でも運動のできる、汚れてもええ格好でな」

 担任の講師である大友陣でさえこの調子なので、塾生たちも気を楽にしている。
 たしかに塾舎ビル以外の場所で講義というのは新鮮だし、クラスメイトたちとバスで遠出というのも楽しい。しかし妙な胸騒ぎというか、悪い予感のする京子だった。





 陽光がそそぐ緑豊かな草原。その名も戦場ヶ原。
 ところどころに丘陵があり起伏は激しく、どこか田舎のハイキングコースを思わせる。近くにキャンプ場があり、そこの林の中に開けた楕円形の広場に塾生たちは集まっていた。

「は~い、みんな注目。今日はこれから特別講師の賀茂秋芳クンに講義を一席もうけてもらうで。ほな秋芳クン、バトンタッチや」
「はい、大友先生。それではみなさん、さっさくですが授業を始めます。今日は陰陽道の歴史と、乙種実技について学んでみましょう。野外活動ということで開放的な気分になりがちですが、陰陽塾塾生としての自覚を忘れず、気持ちを引き締め、節度ある行動を守ってくださいね」
「ちょっと待ったーっ!」
「はい京子君、質問は挙手してから」

 律儀に手をあげ直してから、前に出て大友と秋芳に食ってかかる京子。

「これはどういうことですか? なんで秋芳君が講師の真似事なんか…」
「うん? 塾長や秋芳クンから聞いてないん?」
「聞いてませんっ」
「んー、ほならみんなも聞いてや。知ってのとおり秋芳クンは成績優秀、学年では夏目クンと双璧を成して。いや、京子クンも入れての三羽烏やな。でもって卒業したらうちの講師として働かんか、ちゅう話が出とるんや」

「マジかよ」
「すげーな」
「でも合ってるかも」

「今日の野外実習の話も彼の発案なんやで」
「そうなの?」
「ああ、みんな本来なら義務教育を受けてたり、高校や大学に通っている年齢。肉体的にはまだまだ成長途中なのに、引きこもって勉強ばかりというのは健康に悪い。学問にはフィールドワークも必要だし、こういう野外実習の必要を塾長に説いたんだ」
「へぇ……」
「で、その野外実習を実験的にしてみよう。言いだしっぺで講師候補の彼に教鞭をとらせてみようっちゅう話や。実験ついでの実験やな」
「そうだったの……、でもちょっと意外ね。あなたこういうの嫌そうだったから」
「それについては塾長と裏取引があってな」
「え?」
「この『仕事』を引き受ける代わりに、あるものを報酬にもらったんだ」
「あら、なによそれ?」
 
 京子の耳元に口を寄せ、そっとつぶやく。

「君の時間。次の休日は塾長の華道につき合わされるってぼやいてただろ? だからその日の君の時間を報酬にもらったんだ」

「……ッ!」

 嬉しいやら恥ずかしいやら、京子は思わず赤面してしまい、黙って生徒達の列に後ずさる。

「はい、他に質問がなければ授業を続けます。今でこそ霊災修祓などの仕事を主としている陰陽師ですが、悪鬼調伏や怨霊の鎮魂などの宗教関係の仕事は元来、神祇官のものでした。歴史の本に『天神を祀り地祇を祠る官』と、ちゃんと書いてあります。陰陽師の仕事は天文道と暦道です。これらが陰陽道と呼ばれるのですが、陰陽道というのは古代に『周易』から発展形成された遁甲を原型としている占術流派でもあります。はい、冬児くん。遁甲とはなんですか?」
「あー、道教の中の呪術的要素の強い占術の一つで。天文現象から吉凶を判断して人の目をあざむいたり、身を隠す術。ですよね」

 突然の質問に動揺することなくヘアバンドをした生徒、阿刀冬児はそう答えた。
 隣にいる春虎が感心し、それを夏目が『当然だろ』とたしなめる、いつもの光景。

「はい、そうです。それが甲種遁甲術ですね。今日は乙種の遁甲がどのようなものだったか、みなさんに知ってもらおうかと思います」
「乙種?」

 誰かがそんな疑問を口にする。

「そうです。遁甲とは本来は兵法。つまり軍事技術のことなんです」
「え、うそ、本当?」
「本当です。山地の行軍、陣地の構築、水源の確保、敵陣の偵察、情報の分析、作戦の立案、兵糧補給。さらに傷病兵の治療や薬草の採取や処方。くわえて戦死者の埋葬と供養などなど、すべてひっくるめて遁甲です。日本は中国にくらべて戦乱が少なかったので、これら遁甲、兵法系の陰陽道はあまり発達しませんでしたが、応仁の乱あたりから急速に発展します。戦国武将が陰陽師を抱えたのは予言や調伏ではなく、実戦的な軍事的情報処理技術を求めていたからです。兵法系の陰陽道は情報分析と作戦立案が術の根幹をなしていて、まさしく軍師の意味合いそのもの。ちなみに本邦における軍師の嚆矢は奈良時代に遣唐使として中国に渡り、技術や知識、陰陽道の秘伝書である『金烏玉兎集』を日本に持ち帰った吉備真備と言われます。彼は藤原仲麻呂の叛乱のさいに、その軍略。中国仕込みの兵法三十六計をもってこれを鎮定しました。兵法三十六計とは――」

 青空の下、講義は続く。

「さて、みなさんが今いる場所。ここ戦場ヶ原はその名のとおりかつて幾度も合戦があった場所です。蟹の怪異にとり憑かれた少女とはなんの関係もありません。戦国時代、このあたりは岡見氏という豪族が支配していました。岡見氏は佐竹・多賀谷といった近隣の大名からたび重なる侵略を受けていましたが、それらをことごとく撃退します。なぜならば岡見氏には『関東の孔明』と呼ばれた智将、栗林義長が仕えていたからです」

「誰?」
「そんな武将知ってるか?」
「関東の孔明とか、盛りすぎだろ」

「栗林義長の活躍は『東國鬪戰見聞私記』という軍記によく書かれています。授業と関係ないですが、俺は『信長の野望』シリーズをプレイする時。栗林義長、南条隆信、水野勝成の三人をかならず新武将で作ったり、能力をいじって高くしてます。あと自分の名前をつけた能力値オールMAXの新武将を作る人。先生、きらいじゃないですよ」
「ほんとに関係ねぇよ!」
「この栗林義長には母方の祖先は霊狐という面白い伝説があります。まるで安倍晴明のようですね。さてその義長が兵法を駆使し、佐竹・多賀谷の大軍を寡兵でもって迎え撃ったのがここ戦場ヶ原。と、言うことで、みなさんには本来の、乙種の遁甲を身をもって知ってもらいます。具体的には俺を捕まえてごらんなさい」

………… ………… ………… …………。

「「「「は?」」」」

「この広大な野原の中を逃げ回る俺をみんなで捕縛するのが今日の授業の課題です」
「あ、あの~」
「はい、天馬くん」
「捕まえると言っても、秋芳君に本気で穏形されたり逃げられたり抵抗されたら、どうしようもないと思うんだけど…」
「今回は俺もみなさんも基本、甲種呪術を使ってはいけません。それがルールです。隠形術についてはみなさんの見鬼をあざむく程度におさえます。逆にみなさんは全力で穏形してもらっても結構です。とにかく俺は逃げ回りますので捕まえに来てください。と言っても――」

 秋芳はかたわらに置いてあるダンボール箱の中からなにかを取り出す。呪符だ。

「なんの訓練も受けていない人に、人を一人いきなり捕まえろと言ってもむずかしいでしょう。なので捕縛用の呪符を用意したので、これを使って俺をとっ捕まえてください。スワローウィップを模した簡易式になってますが、本物ほどの追尾性はありませんので、よく狙って打つように」
「秋芳センセー」
「はい、冬児くん」
「秋芳センセイを捕まえるのに、甲種以外の呪術は使用してもいいんですか? たとえばこいつとか」

 そう言って拳をかざして見せる阿刀冬児。

「はい。甲種呪術さえ使用しなければ、なんでもありありです」
「よっしゃ、やってやるか」
「今日の授業の要旨は『いにしえの遁甲術を知る』と『術を制限された状態でいかに動くか』の二点です。あ、それと首尾よく俺を捕虜にできた人には昼飯を一か月間おごるくらいの特典はつきますので、がんばってください」

「一か月タダ飯か!」
「おもしろそうだな」
「なんか鬼ごっこみたいね」

「制限時間は正午までとします。他に質問がなければもう始めますよ? …………。ないみたいですね。それでは……、忍ッ!」
なにかを地面に放ると、そこから白い煙がもうもうと立ち昇る。
「うわっ」
「けむっ」
「え、煙幕!?」 

 煙はタコの墨のように広がり、野外で風通しが良いにもかかわらず、イカの墨のように長時間持続した。煙がなくなった後、そこに秋芳の姿はなかった。
 余談だが、イカの吐く墨にはムコ多糖類という粘液物質がふくまれているため、吐き出した墨は拡散せずに不定形のかたまりになる。イカはこの墨を自分のダミーとして吐き出し、敵の目がそちらに向かっているすきに逃げる。変わり身の術だ。
 この粘液物質には制ガンや抗菌、メラニン色素の他、うまみ成分のアミノ酸も含まれているので美味しい。
 タコの墨にはそれら粘液物質が少なくサラサラとしているので、煙幕のように散らばり敵の目をくらます働きがある。めくらましの術だ。
 イカ墨パスタはあってもタコ墨パスタがないのはこのためである。

「ハハッ! こらおもろい。煙玉やないの、まるで忍者やね。賀茂は修験道と縁の深い一族や。そんでもって修験道は忍者と密接に関係しとる。みんな今日は秋芳クン相手にあんじょう気張るんやで~」
かくして大自然にかこまれてのかくれんぼが始まった。





「え?! なんだよ? 聞こえないって!」
「だか……、しかけ……、トラップ…………、んとかしてくれ!」
「くっ、わかった、もういい。戻って来い」

 春虎は歯がみして雑音混じりの電話を切った。
 本陣と化した広場では総大将よろしく悠然とたたずむ土御門夏目の横で、伝令役の春虎や天馬が斥候部隊の連中と叫ぶようにやり取りを交わしていた。
 地には埋ずめ火(地雷)川には浮き橋(乗ると沈む足場)空を舞う天灯(小型熱気球)に気を取られて落とし穴にはまる……。
 罠やらなにやらで行動不能になった班はすでに六つ。一クラス四十人のうち五人一組からなる班を組んだため、残るのは自分たちをふくめた二班のみだ。そのもう一つの班が秋芳を追跡中なのだが――。
 春虎に電話がかかる。

「春虎っ、秋芳を見つけたぞ!」

 鼻息を荒げてそう報告してきた電話の主は中島。かつて春虎に『護法式がなんなのかも知らないようなのが、高等式なんか侍らせてるんだぜ? これだから名門様はよぉ』などとケチをつけ、そのためコンに手打ちにされかけたことがある塾生だ。
 彼の班は陰陽塾にしては珍しく、運動神経に自信のある体育会系の連中がそろっているので期待ができる。

「よし! それじゃあとっとと捕まえてくれ」
「OK! 急急如律令(オーダー)!」

 ザザザザッ!

 電話に雑音が入り、少し遅れて遠くから。

 ドドオォォォンッ!!

 まるで雷が落ちたかのような爆音がとどろき、空気を震わせ、広場にいる春虎たちにもそれがとどく。
 近くに見える小山。その中腹から無数の鳥たちが飛び立ち、白い煙がもうもうと上がる。

「ちょ、爆発でかすぎ! おい、中島。平気か? 返事をしろ!」
「ハメられた……、欺歩だ。熊や狐が巣穴に帰る時に狩人に追跡されないようにわざとちがう方向に進んで相手をあざむく……」
「おい! 中島、中島ッ!」
「自分が進んで来た足跡の上を同じように踏んで引き返す。そうすることで新たな足跡を残さずに戻って、途中でどこかの岩肌にでも飛び移ったんだ……」
「あ、なんかすごい説明科白だし、命に別状はないっぽいな」
「なぁ、春虎。オレ、最初の時に陰陽師のくせに木刀なんか振るってダサいだの、名門様がどうのこうのと、おまえにイチャモンつけただろ?」
「……ああ」
「ごめんな」
「お、おい! 中島、あんまり死亡フラグ立てるなよ」
「オレ、おまえが、うらやましかったんだ……、ぐふっ」
「中島っ」

 電話が切れた。

「くっ、中島……。バカ野郎……」
「春虎、どうやらぼくたちが出陣しなくちゃいけないみたいだね」
「夏目…」
「今の爆発で彼の居場所がわかった。残る戦力をすべてぶつける! 安倍と賀茂。土御門と勘解由小路……。かつては同じ陰陽の道を歩んだ同志だった。けれども今、ぼくたちは賀茂秋芳を討たなければならない!」
「お、おう」
「いや待て、夏目。おまえは総大将だ。最後の最後までここを動くんじゃない。悠然と構えてろ」
「冬児? …うん、わかった」
「秋芳を捕えるのは俺と春虎。それと、天馬は来るか?」
「う、ううん。僕が行っても足手まといにしかならないだろうし、ここで連絡係してるよ」
「そうか。じゃあ倉橋は?」
「…………」
「おい、倉橋?」
(秋芳君てば、あたしのためにお祖母様から時間を取ってくるだなんて、嬉しいことしてくれるじゃない。せっかく空けてくれたんだし、やっぱデートよね、デート。この前みたく映画を観て買い物がいいかしら? それとも次は遊園地とか? 秋芳君となら美術館巡りも良さそうね。クラシックコンサートも。歌舞伎や能も渋くて良いわ。あ、意表をついて動物園や水族館も良いかも――)

 聞いてない。
 京子はふふふとわずかににやけ顔を作り、デートプランを練っていた。

「……倉橋も居残りだな。よし、春虎。行くぞ」
「ああ、二人のほうが身軽っちゃ身軽だしな。冬児とならなんとかなりそうな気がするぜ」
「へっ、嬉しいこと言ってくれるぜ」

 春虎と冬児、ともに出陣。
 残ったのは夏目、天馬、京子の三人。
「んー、なんや佳境になっとるなぁ。お、さすが名産だけあってココの落花生はごっつ美味いやないの。麦系の炭酸飲料によう合うわ」

 ポリポリポリポリ。

「名産と言えば、きのうの夜は秋芳とあんこう鍋食べたよ」

 ポリポリポリポリ。

「豪勢やなー」
「一日がかりでトラップしかけまくったから、ご褒美だよ、ご褒美」

 緊張感もなく後ろで落花生をほうばるのは大友陣と笑狸の二人。

「大友先生……、今日の特別講義の内容ですが、さすがに危険なのではないですか? いきなりこんな形での野外実習だなんて、それに今の爆発を見ましたよね? あぶない、危険すぎます!」

 夏目が抗議の色を込めて意見する。

「ん、その通りや夏目クン。でもな、この『危険』もふくめて秋芳クン先生の教えたいことみたいなんや」
「は? どういう意味です?」
「一年とはいえ座学一辺倒の授業じゃあかん。実技にも重きをなす。ここまではええな?」
「はい」
「その次に危機感や。いざという時に自分自身の身に迫るリアルな『死』や『暴力』に対して耐久をつけさせたい言うてたわ」
「…………」
「ようは常日頃からおっかない目に遭うてりゃ、胆がつくってことや。これから先、なにがあるかわからん。ある日、突然に陰陽塾にごっつい敵が強襲かけてくる可能性だってある。そういう時に慌てず騒がず冷静に対処するには、普段からこわい思いしときゃええ。そうすりゃ度胸がついて、どえらい事になっても落ち着いて対応できる。そういうことや」
「……彼は、そんな類の実戦を想定した課題を僕らにぶつけてきたということですか?」
「そや」
「馬鹿げている。と言いたいところですが、確かにそれも一理ありますね……。でも――」

 一拍おいて口にする。
「やっぱり、今日のこれは馬鹿げていると思います」





「なぁ、秋芳。これってなんとかならないのか?」
 中島は全身にこびりついた粘液を気持ち悪そうに見下ろして、そう言った。携帯電話を耳にあてたままの姿勢で木の幹に接着されている。他のメンバーも似たような状態だった。
 無理にはがそうとすれば確実に着ている服をダメにしてしまうし、生身の肌だったら皮をもっていかれ、痛い思いをすることになる。

「時間がたてば自然に朽ちるし、水をそそげば離れる」
「じゃあ、そうしてくれ」
「あと十分もすれば離れるさ、水がもったいない」
「ちぇ、ケチ。……つか、この接着剤? なにでできてんだ?」
「主な材料は膠だな」
「ふ~ん、じゃあ、今の爆発。火薬はどうしたんだ?」
「硝石と硫黄に木炭、それとその他もろもろ。基本ホームセンターにある材料で火薬が作れるんだから、おっかない時代になったもんだ」
「ほんとだよな」
「だがきちんと安全面を考慮して作ったんだぞ。その証拠に音と煙しか出なかっただろ」
「たしかにそうだな」
「で、この授業の話に入るが」
「おいおい、こんなの授業って言い張るのかよ」
「立派な授業だよ。日頃から慣れ親しんでる呪術が使えないとどれだけ不便か、呪術を使わない相手でも地の利や道具、これは罠のことな。を活かせば苦戦するって体で理解しただろ? で、さっきの講義で俺は孫子の兵法の話をしたが、そこで『半進半退者、誘也』半ば進み半ば退くは誘いなり。て言ったよな?」
「あー、たしかにそんなこと言ってた」
「これ見よがしに姿を見せて、わざわざ足跡をつけて山中に潜んだんだ。次からはもっと警戒しなければいけない」
「おいおい『次』なんてあるのかよ…」
「こういう経験は大事だぞ。俺の好きな映画に『300〈スリーハンドレッド〉』というのがあるが、作中で『訓練で汗を流せば、戦場で血は流れない』という科白があるんだ。名言だよ、あれは」

 そう言って秋芳は木々の中へと消えていった。





 秋芳がいるであろう小山を目指す春虎と冬児。

「帰ってきたみんなの話だと、どの罠もケガをするような類のものじゃない。でもって罠にかかったら退場。なんて決まりもない。てことは罠にかかっても気にせず進めばいいんだよ」
「猪突猛進だな、春虎。だがたしかに言えてるぜ。ここはひたすら前進あるのみだ」
「おう! 都会の坊ちゃん嬢ちゃんにはない、田舎育ちのガッツを見せてやる」
「おいおい俺は東京生まれの東京育ちだぜ、都会っ子だ」
「よく言うぜ。ま、元武闘派ヤンキーの根性には期待してるからな」

 緑にあふれた草原、川のせせらぎ、涼しい風。遠くには筑波山をはじめとした山々が軒を連ねている。大友先生の言葉ではないが、これはたしかに授業というより行楽のようだ。少々汚れるかもしれないが、それはそれで子どもの頃に戻って野遊びをするようで楽しい。春虎がそんなふうに考えていると。

「……不思議だ。俺はずっと前にもこうして野原を、この坂東の地を駆けたことがあるような気がする」
「ん?」
「なんかテンション上がってきたぜ、いくぞ春虎!」
「お、おう!」

 二人は目前にそびえる小山にむかい突進をはじめた。
 険しい坂を駆け登る。
 細縄に足首を取られ吊り上げられる、どこからともなく丸太が飛んでくる、落とし穴にはまる、頭上から泥の塊や網が落ちてくる……。





「ごめん、無理だった」
 ボロボロになったジャージの裂け目から肌をのぞかせた春虎が夏目につげる。

「面目ない」
 
 冬児など裸に近い、着ていたジャージはほとんど腰布のようになっていた。
 例の接着剤つきトラップを強引に突破し続けた結果、衣類をもっていかれ『クイーンズブレイド』ばりのサービスシーン状態になってしまったのだ。

「さすがにこの格好じゃなぁ」
「いや、俺はマッパでもいけるんだが、春虎のやつがな…」
「おいおいさすがに全裸はヤバイだろ、全裸は」
「わ、わかったから早く着替えて。みみみ、みっともないぞ二人とも!」

 赤面した夏目がそう言うも。

「いや、でも着替えとか持ってきてないし」
「俺たちゃ裸がユニフォームってことで」
「『ことで』じゃない!」

 わーきゃー騒ぐ夏目らをよそに、一人が席を立った。京子だ。

「……ジャージ代、秋芳君にちゃんと請求しといたほうがいいわよ」
「倉橋さん?」
「京子?」
「倉橋?」
「京子ちゃん?」
「まだ時間はあるわ。あたし、ちょっと行って秋芳君を捕まえてくる」





 罠はあらかた発動ずみ。
 今の今まで、別に狙って待機していたわけではないが、京子の行く手を阻むような障害はなに一つ残ってなかった。
 件の小山の山頂にたどり着く。こちらの見鬼をあざむく程度に穏形すると言っただけに、気配だけはかろうじて感じる。
 いる。
 すぐ近くでこちらの様子をうかがっているのがわかる。

(問題はどこにいるか、よね。闇雲に符を打ってもあたらないでしょうし、……ちょ~っとお下品だけど、兵法三十六計のうち、第三十一の計を使わせてもらうわ)
 京子はジャージのチャックを襟まで完全に上げてから、前かがみになると、勢いよく上体を反らした。
 
 チャックボーン!

 その巨乳の圧力によってジャージのチャックが弾け飛んだ。

 ざわ……。

 わずかだが秋芳の穏形に破綻が生じ、気配が濃くなる。

(左後方の茂みの中ね……)

 京子はそちらに向くと、ゆっくり。ゆっくりと、ゆっくりとジャージの上と下を脱ぎ出した。現れたのはTシャツと短パンにスパッツという運動着姿だ。

 ざわ……、ざわざわ……。

 さらに秋芳の気配が濃くなった。
 丁寧にたたんで置いた後、草むらに座り脚を広げてストレッチを始める。
 ぷるん、ぷるん、ぷるん、と豊かな胸が揺れる。
 さらにキャットストレッチ。四つん這いになって身体を前後させる屈伸運動に入る。通常のそれと異なり、胸とお尻を意識して動かしてみせる。
 そう。動かして、魅せるのだ。

 ぷるん、ぷるん、ぷるん! ぶるん、ぶるん、ぶるん!

 ざわ、ざわわ、ざわざわ、ざわざわ……!

「はぁ、はぁ、はぁっ、ふぅ。はっ、はぁっ、はぁはぁはぁ……、んっ!」

 京子の息づかいが荒くなり、汗ばんできた。

 身につけたフレグランス。爽やかなラグーナ ノマッドの香りにくわえて、京子自身の体から漏れ出す甘い匂いがあたりをただよう……。

「ふぬぅおおーッ! けしからん! なんというけしからん真似をしてくれる、このエロティカ娘。俺を誘っているのかっ!?」

 ルパンダイブの如き勢いで京子に跳びかかる秋芳。その額に「えいっ」と京子が呪符を貼りつけた。

急急如律令(オーダー)

 呪符から何条もの縄が鞭のように伸び、秋芳の体に巻きついた。
 スワローウィップを模したというだけあって、その効果も似ている。微弱な不動金縛りの術が設定されているのまでそっくりだった。

「……みごとな美人計だったぞ、京子」

 美人計。
 兵法三十六計の第三十一計にあたる戦術。色仕掛けで相手の戦意をとろかせたり、判断を誤らせる計略。

「秋芳君、やりすぎ」
「そうかな」
「そうよ」
「そうか」
「ええ、そう。……こういう時のためにアレを教えてくれたのよね?」
「アレ?」
「アレよ」
「アレってなんだ?」
「雷法」
「……え? なにそれこわい。なんでそれがここで出てくるわけ?」
「秋芳君、言ってたわよね『なんかバカなことした時にそうしてくれ』て。今がまさにバカなことした時でしょ。……じゃあツッコミ入れるわよ~」
「いやいやいや! たしかに言ってたけど、言ってたけどさ!」
「我、雷公旡雷母以威声、五行六甲的兵成、百邪斬断、万精駆逐――」
 
 呪文を詠唱する京子の体に微細な電流が走り、呪力が練りあがり、霊圧が上昇する。
 そしてまっすぐに腕をのばして、指で空を指し示す。すると呪力が天空まで飛翔し――。

「ダーリンのバカっアホっ、急急如律令(オーダー)!」

 ドドオォォォンッ!!

 先ほどの爆発と同じか、それ以上の音を響かせて雷鳴が轟き、秋芳の身に落雷が突き刺さった。





「倉橋京子さんが見事に俺を捕まえましたので、土御門チームには明日から一か月、昼食をおごることをここに誓います」

 塾生らの冷たい視線の中。黒こげになり、頭からぷすぷすと煙をあげつつも、動じることなく講師役を続ける秋芳。

「また今日は今日でこちらで昼食を用意しましたので、遠慮なくどうぞ」

 芋がら、干し飯、五平餅、高野豆腐、切り干し大根……。
 今日の課題に則して、いにしえの陣中食を再現したものに近くの川で獲れたアユやマス。ウナギなどが配膳された。
 微妙な味だったが、それでも塾生達は完食した。体を動かした後だけに空腹という調味料の働きがあったからだ。
 それに青空の下で学友達と食事するという状況は、実に楽しい。
 内容はともかく野外実習そのものは成功したのではないだろうか――。
 

 

まぼろしの城 1

 治承・寿永の乱。
 平安時代末期の治承四年(1180年)から元暦二年(1185年)にかけて起きた、俗に源平合戦と呼ばれるこの内乱は、壇ノ浦で終焉する。

 平知盛をはじめ、平氏のおもだった武将らは海へと身を投じ。安徳天皇もまた三種の神器とともに入水した。

「もののあわれよのう」
 その合戦の一部始終を高台から見ていた者がいる。
 伸び放題の白い髪に伸び放題の白いひげ。ぼろぼろの水干を身にまとい、血のように赤い紗の眼罩(ヴェール)で顔を覆った老人だ。
 水島の戦いの勝利で一時は勢力を盛り返した平氏だったが、結局は敗れた。

「陰陽寮も、立場が悪くなろう」

 平氏の擁立する安徳天皇に従った陰陽寮。陰陽師たちは、その天文の知識でもって日食が起こるのを予測し、それを平氏に伝え、平氏はこれを合戦に役立てた。
 日食の起こる時期、その原因を知らない源氏の兵らは、戦の最中に起きた突然の暗闇。日食に恐怖し、逃走した。これが水島の戦いでの平氏の勝因の一つとされる。
 それでも、大局は変えられなかった。
 陰陽師は、戦いに負けたのだ。

「貴族の世は終わり、これからは武士の世となろう。京の都もどうなることやら、……晴明よ、おぬしなら今の世を、これから迎える新たな世をどう思うのであろうな……」

 先ほどから独りごちる老人の声は妙に高く、若々しい。

「そこでなにをしている!」

 太刀を佩いだ武士の一団が老人を誰何し、取り囲む。
 返り血なのか自身の血なのか、みな全身を赤く染め、殺気立っている。

「こたえよ」
「なに、平氏の世の終わりを憐れんでおったのよ」
「おのれは平氏にくみする者か?」
「くみせぬ」
「源氏にくみする者か?」
「くみせぬ」
「ならば去ね、邪魔じゃ」
「いやじゃ」
「なに!?」
「儂はいま少しここにおる。ぬしらが去ったら波の下に消えた者ら、弔ってやらねば」
「おのれは僧か?」
「いいや」
「神官か?」
「いいや」
「では何者か?」
「陰陽師」
「うぬ、やはりおのれは平氏方の者か!」

 武士たちが太刀を抜き老人に襲いかかろうとする。と、老人がなにごとか口の中で呪を唱える。
 すると武士たちと老人との間に出現したものがあった。
 それは右手に槍を、左手に宝塔を持ち、戦装束に身を包んだ毘沙門天であった。
 その身の丈は九尺。およそ二メートル七十センチ。
 武士たちは驚きの声をあげて後方に跳びすさる。一瞬ひるんだがしかし。

「毘沙門天がかような陰陽師のために姿を現すはずなどあるか」
「陰陽師のまやかしぞ」
「仏神をもてあそぶとはゆるさぬ」

 かえって武士たちの怒りを焚きつけてしまったようで、いきりたった一人が老人の脳天目がけて太刀を振り下ろした。
 鈍い音がして、老人の顔の中ほどまで太刀が喰い込む。

「どこを狙っておる。儂はここぞ」

 クツクツという老人の笑い声が隣から聞こえる。
 たしかに斬ったはずの老人がすぐ近くに無傷で立っていた。

「おのれ、あやしの術を!」

 武士たちはめいめいに太刀を振るい、老人をめった切りにするのだが、そのたびに老人は消え、また別の場所に姿を現す。それをまた武士が斬り、老人が消えては現れる……。

「きぇーっ!」
「とりゃーっ!」

 武士の一人が渾身の気合いとともに打ちつけた太刀が老人の首を刎ねた瞬間、みずからの身にも鈍い衝撃が走る。

「あ!?」

 次の瞬間、目の前には首を失った仲間の武士の姿があった。その者の手にした太刀がおのれの身を貫いていた。周りには仲間の死骸がころがっている。
 そう、武士たちはたがいにたがいのことを老人と思い、同士討ちをしていたのだ。
 幻術である。
 いつの間にか老人の幻術にとらわれてしまったのだ。
 最後に残った武士も、声にならぬうめき声をあげてこと切れる。

「よく殺す者はよく殺される。武士とは因果なものよ」

 真新しい血臭があたりをただよう中で、老人は自分の心境の変化に気づく。
 先ほどまで感じていた寂寥感がなくなっていた。どうやら呪術を行使したことで憂いが晴れたようだ。
「……ふむ、やはり儂にはもうこれしか、呪術しか残ってはおらぬ。多くのことにはとうに飽いた故、胸躍ることも少のうなったが、これだけは。術だけは、良い。たとえ幾瀬、幾歳経とうが、どのような姿になり、どのような名で呼ばれることになっても、我が魂は変わらぬ。これこそが、儂なのじゃ――」
 
 老人はそう独語し、クツクツと笑った。
 嬉しいような、寂しいような、楽しいような、悲しいような――。そんな笑いかただった。





 現代。
 日曜日の百枝家、天馬の部屋。

「できた……。ついに、完成した……」

 部屋の中央に広げた折り畳み式の座卓の前で、天馬はそうつぶやいた。
 声が、震えている。
 感動しているからだ。
 座卓の上には一抱えではきかない大きさの、巨大な城の模型が置かれている。たった今、自分の手で完成させた。そのことに感動しているのだ。

「最初は無理だと思ってたけど、やればできるんだなぁ……」

 亡くなった父親の趣味が模型作りだったこともあり、その影響で天馬はこの手の作りものが好きで、中学まではプラモデルなどよく作っていた。
 さすがに陰陽塾に入ってからは勉学にいそがしく、空いた時間にプラモデルを作ることはなくなったのだが、少し前。突然祖父が友人からゆずってもらったと言って、この城の模型を持ち帰ってきたのだ。
 その友人は模型を買ったはいいが、説明書を読んだだけで難易度に挫折し、置きっ放しだったのだが、その話を聞いた祖父が天馬の模型好きを思い出して譲り受けたという。
 祖父から模型を渡された時は正直、複雑だった。祖父の友人が匙を投げただけあって、かなり手間ひまのかかる作りだったからだ。
 しかし孫のためにゆずってもらい、わざわざ重くかさ張る物を持ってきてくれた祖父の気持ちを思うと、無下にもできない。
 さらにこの模型。その完成度とともに値段の高さでも有名なメーカーの作品で、それを前にして純粋に『作りたい』という欲求もあった。
 空いた時間。勉強の合間などに気分転換を兼ねてコツコツと作業し、やっと落成させたのだ。

「う~ん、改めて見てみると我ながら会心の出来栄えだよね。やっぱりウェザリングもやって良かった。お城の模型は始めてだったけど、このほうがリアルっていうか雰囲気が出るよね。あ、でも石垣はやっぱり難しいな。もうちょっと……、いやいや、これ以上は汚くなるだけだ。瓦屋根とのバランスを考えると、これくらいにしとくのが正解だよね。うんうん……」

 真剣な表情でみずからの作品を再確認しながら独りごちる。
 城の模型は天守閣だけでなく本丸御殿や櫓、内堀など、城全体が再現されていて、もともとはなかった庭の砂や木々までつけ足されているため、ちょっとしたジオラマに見える。
 建築物は内部まで作りこまれ、屋根や壁の一部は取り外しができ、中が見られるようになっているのだが、そうした境目は見てわからないように念入りに塗装してある。
 これも天馬の成せる技だ。

「こうなると人間も配置してみたいなぁ、でもこのスケールの人形なんてあったっけ? どうせなら侍がいいし、そうなると馬も欲しい……。あ、石垣の目立たない所に忍者を置くのもいいかもしれない! よし、ちょっと探してみよう」

 物作りというのは楽しい。
 おそらく死んだ父も同じ楽しさを知っていたのだろう。もし父が生きていたら、自分の作った模型を見てなんと言うだろうか? それに父の模型作りを苦笑しながら眺めていた母は――。
 見てもらいたかったなぁ。
 誰かに見てもらいたいなぁ。
 見て欲しい。

「あ、そうだ」

 いつだったか、天馬は自分が模型を作っていると友人たちに話したことがあった。春虎など、完成したらぜひ見せて欲しいと言っていた。
 そのことを思い出したのだ。
 さっそく携帯電話のカメラで完成した城を撮り、メールに添付して送ろうとする。どうせなら春虎以外にも見せたいし知らせたい。冬児や夏目。京子や秋芳にも。
 文章を考え、書いて、唐突なメールを謝った上で、一斉送信。

「ふぅ……」

 天馬は満足げに息をついた。





 街ゆく人々が同じ方向に視線をむける。
 亜麻色の髪をハーフアップにした、アイドルのような美貌とモデルのようなスタイルをした少女の美しさに、みなが注目している。
 だが誰一人として声をかけようとはしない。少女のまとうオーラが、まわりに人を寄せつけないのだ。まるで結界でも張られているかのように、ぶつかったりすれ違いそうになる人も自然に道を開けてしまう。
 もとより非凡な霊力と容姿を誇る才媛だったが、如来眼の力に目覚め。数多の呪術をおぼえるうちに自然と身についた自信が、人々にそうさせるのだ。
 倉橋京子。
 それが少女の名前だ。

「楽しかったし美味しかったけど、歌舞伎見て柳川鍋食べて、て。十代のデートにしてはかなり渋いわよね」
 
 京子が隣を歩く青年にそう声をかける。
 短身痩躯で僧侶のような剃髪頭をした青年の名は賀茂秋芳。京子とは好い仲だ。

「まぁ、渋いっちゃ渋いかな。うちの塾生ら、旧家だ名門だといってもみんなまだ若いもんな。ああいうのを楽しめるようになるには年相応の知識と教養が必要だろうし、そのてん俺たちには素養がある」
「あら、だれかさんと違ってあたしは正真正銘の十六歳よ。ま、素養があるのは認めるけど。能や歌舞伎の観劇にはお祖母様のお供でたまに行くし」
「俺だってじゅうななさいだ」
「まだ言ってる」

 クスリと笑う。たったそれだけで大輪の花が咲いたかのような雰囲気になる。ローズピンクのリップのみという薄化粧が、美貌をいっそう輝かせていた。

「ねぇ、今日の演目の『鳴神』だけど。こないだのあなたにそっくりだったわ」
「ああ……、言われると思ったよ」

 歌舞伎の『鳴神』とは。
 朝廷に恨みを持つ鳴神上人という呪術師がいるのだが、この呪術師が竜神を滝壷に封じ込めてしまい、日照りが続く。こまった朝廷は雲の絶間姫という美姫を使わして上人を色仕掛けで落とし、竜神を解き放って雨を降らせる。
 だいたいそのようなお話だ。
 先日の野外実習のさい、秋芳は京子の美人計に見事にはまり後れを取った。京子はそのことを言っているのだ。

「……ところで、なんであなたさっきから軽く穏形してるの?」
「鋭いな。目立たなくなる程度の薄い穏形で、なおかつずっとそばにいて。よく気の変化に気づいたものだ」
「見くびらないで。始めて会った時のあたしじゃないんだから、そのくらいわかるわよ『士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし』て言うでしょ。ましてやあなたと毎日訓練してるんだから、見鬼だって上達するわ。で、なんで穏形してるのよ?」
「目立つのもやっかみの目で見られるのも苦手なんでね」

 そう言って軽く周りを指さす。

「あら、別にいいじゃない『どうだ、俺の彼女はこんなにも美人なんだぞ』て、自慢しなさいよ」
「いい、ガラじゃない。性分なんだよ、俺はずっと影働きしてたからな。注目をあびるのには慣れてない」
「ふーん……、それじゃあ、ねぇ。この後は二人っきりになれる場所に行かない?」
「お! いつになく大胆かつ積極的だな。ついに婚前交渉する気になったのか?」
「もう、ちがうわよバカ。そうじゃなくていつもの訓練よ」
「好きだな、訓練」
「あなたに逢って呪術の奥深さを実感したのよ。自分が学ぶことはたくさんあるって」

 これまでの京子の十六年。もうすぐ十七年間、倉橋家の娘としての自覚を持ち、日々鍛錬し、勉強してきたつもりだ。
 けれどもここ最近ほど本気で勉強したことも、したいと思ったことはなかった。そして本気で学べば学ぶほど、自分がどれだけ『より学ばねばならない』かを痛感していた。
 それは秋芳と出会ってからだ。彼と出会ったのち、いくつかの霊災に遭遇し、相手にするたびに力量不足を実感してきた。
 ついには如来眼の力に覚醒し、霊力こそ大幅に上昇したが、強大な力を手にしたからこそ、その〈力〉を制御するための力。知識や技術が必要だと真摯に思う。
 学習することはほんとうに、あきれるほどたくさん、いくらでもあった。
 呪術は奥深く、広大だ。京子はそのことをようやく実感でき始めている。

「――だからあなたのせいなの。最後まで責任持ってつき合ってちょうだい」
「なにが『だから』なのかは理解できないが、君とならなんでも、どこまでもつき合うつもりだよ。じゃあこれから陰陽塾に行くか?」
「ううん、別の場所」
「ほう? そりゃ気分転換になっていいな。同じ場所ばっかりじゃ、さすがに飽きる。で、どこに行くんだ?」
「旧陰陽塾の塾舎よ」

 陰陽塾そのものは半年近い歴史があるが、現在京子たちが通っている塾舎は去年建てられた新しい塾舎だ。それ以前は同じく渋谷にあった塾舎が利用されていた。そのことを言っている。

「ほう! 旧塾舎か、旧校舎みたいでなんかいいな。俺は旧校舎って響きが好きなんだ。なんかこうノスタルジックというか郷愁を誘うよな。あと地下に不思議空間が延々と広がってて、レアなお宝とか落ちてそうだし」
「あら残念ね、正確には旧塾舎跡に隣接する甲種呪術の訓練場のことなの。旧塾舎自体はもう取り壊されてて、別の建物が建ってるの」
「そうか……」
「でもその訓練場は閉鎖されたまま残ってるから、それを使わせてもらうわ」
「うん、面白そうだ」
「でしょ? で、秋芳君。鍵を開ける術とか知らない?」
「おい、不法侵入するつもりか? そういうのはちゃんと許可を得てからだなぁ」
「関係者以外立ち入り禁止になってるけど、あたしたち塾生は関係者だから問題ないわ」
「施錠されてるのを無許可で開けたらいかんだろ」
「もう、変なところで堅いのね」
「俺はもともと真面目だからな」
「二人だけの秘密の場所、秘密基地が欲しくない?」
「…………」

 二人だけの秘密の場所。秘密基地。なかなか魅力的な響きだ。

「ねぇ、いいでしょ? 入りましょうよぉ、お願い……」

 京子の甘い猫なで声が秋芳の脳を痺れさせる。それは甲種言霊以上の呪力を発揮し、心を揺さぶった。
「うんそうだな……。うん、そういうおイタができるのも、学生のうちだけだし、入ってみるか」
「やったー☆ で、鍵開けの術ってあるの?」
「ある。俺の場合は鍵を禁じて開錠させることができるし、扉や鍵を一種の結界に見立てることで、結界を破る術を応用して開けさせることが可能だ。器用なやつなら鍵穴に入れると形を自在に変化させる鍵を簡易式で作り出すことなんかもできる」
「へー、今さらだけど呪術って便利よね」
「あればあったで便利だが、なくてもなんとかなる。しょせんはその程度だけどな」
「それって陰陽師にあるまじき科白じゃない?」
「陰陽師だからこそだよ。呪術師というのは術を使うのであって、術に使われてはいけない。ましてや術に『憑かれる』なんてことは絶対にあってはいけない」
「甲種呪術にこだわらず視野を広く持って物事に柔軟に対応すべし。でしょ?」
「そう。呪術なんてのは人類の生み出した技術の一つ、道具の一つ、問題を解決する手段の一つにすぎない。それにばかりこだわる必要なんてまったくない」
「……呪術師が目的のためにもちいるのなら、それがなんであっても『呪』……」
「お、なかなか含蓄のある言葉じゃないか。教科書に載せてもいいくらいだ」
「あたしが陰陽庁のトップになったら載せとくわ」
「ぜひそうしてくれ。呪術師だからこそ、呪術にこだわってはいけない。てね」

 そんなやり取りをしているうちに件の訓練場に着いた。
 公民館や体育館を思わせる外観で、内部は現在の陰陽塾にある地下呪練場と似たような造りをしていた。
 廊下を抜けた置くにはバスケットコート三面分ほどの広さのアリーナあり、高い位置にある窓から外の光が差し込むので以外に明るい。だが、さすがに埃が目立つ。今すぐここで激しい運動をするのは体によろしくないだろう。

「空気の入れ替えと清掃が必要だな」
「そうね、とりあえず今日はお掃除だけしときましょうか」
「だな」

 陰陽塾では掃除を始め、雑用全般用に『モデルM1・舎人』という汎用式を多く使用しているが、あいにくとそれらの持ち合わせはないので、手持ちの簡易式を使い清掃にあたらせた。人の形をした影法師たちがせっせとあたりを掃除しだす。

「……さて京子。ここで質問だ」
「え?」
「孫子の兵法に『拙速は巧遅に勝る』という言葉があるが、呪術の場合はどうだと思う?」

 秋芳はそう言いながら、口訣も導引も結ばず不動金縛りをみずからの簡易式に放つ。
 影法師は数秒ほど動きを止め、また動き出した。
 今のは術式をまともに組まない雑な呪だった。しかし詠唱や集中がないぶん素早く発動できる。
 早くて雑な術と、遅くて丁寧な術とどちらが良いか――。

「……ずばり両方ね! 時と場合によって使い分けるのが正解よ」
「両方ってずるい答えだなぁ」
「あら、ちがうの?」
「いや、たしかに臨機応変に使いわけるで合ってる。だが強いてどちらか選ぶというなら遅くて丁寧な術だ」
「あら、ちょっと意外ね。あなたのことだから『いくら正確に術を発動させても相手がそれに対して万全な構えをしたら効果は薄い。それよりは反応される前に攻めて攻めて攻めまくればいい。相手が対処できないなら拙速でもじゅうぶん効果を得られる』とか言いそうなのに」
「あー、たしかにそんなこと言いそうだわ、俺……」
「でしょ? ちがうの?」

 甲種呪術は制御を誤れば暴走し、術者どころか周囲にまで被害をもたらす可能性がある。そのため一つの呪術を習得するさいは完全に制御できるようになるまで習うし、実際に使用するさいも丁寧に細心の注意をはらって行使するのが常だ。
 だが時には危険を承知で雑だが早い方法で攻撃してくる者もいる。先ほど秋芳が使ったような不完全だが高速で発動できる金縛りなども、牽制。本命の攻撃につなげるジャブのような使い方をすればバカにはできない。
 手数の多さと速さに対して、安全かつ丁寧で正確な術を用意していては間に合わない。

「それでも術が暴走した時の反動や、相手に返された時の危険性を考えれば『きちんと呪文を選んでから呪力を練り、正確に発動させる』べきだ。白兵戦じゃあるまい、呪術戦で考えるより前に体を動かせ。なんてのはまちがってる。考えることを放棄してはいけない」
「でも実際にそういう雑で危険なやり方で呪術を使ってくるのが相手だと、押し負けちゃったりはしないの?」
「そのための訓練だよ。思考する時間を限りなくゼロに近づけ、安全で素早く、かつ正確で丁寧な呪術を行使する。日頃から呼吸するように無意識に呪力を練ることを心がける。そのためには鍛錬あるのみ」
「つまりあたしの日頃のおこないはまちがってないってわけね」
「そう。奇策はしょせん奇策。地力の成ってる相手にはそんな搦め手は通用しない」
「今のお話であたしの修行欲が燃えてきたわ! ねぇ、秋芳君。やっぱり少し――」
 その時京子の携帯電話がメールの受信を知らせる軽快な音を鳴らした。
「……天馬からだわ、珍しいわね」
「む、俺にも天馬からだ」
 
 メールの内容を確認するにつれ京子の眉間にゆっくり、ゆっくりと皺がよっていく。

「……なによ、これ」

 長い文面に続いて何枚かの写真が添付されている。様々な角度から撮られた城の模型。それらを一応すべて目を通し――。

「……ふ~ん……」

 と、気のないつぶやきをもらす。
 どんな返事をするか正直迷ったが、とりあえず『すごいわね』と送信しておいた。

「そういや天馬って、子どものころはプラモデルとか作ってたっけ。秋芳君のも同じメール?」
「ああ。そうなんだが……、むぅ……。まず、ちょっとジェラシー」
「はい?」
「君は子どもの頃の天馬を知っているんだな」
「ん、まぁ天馬の家も陰陽道の旧家だし、その関係で少しわね」
「天馬も子どもの頃の君を知っている」
「まぁ、あたしがむこうを知ってる程度には、むこうもこっちを知ってるんじゃないかしら」
「俺の知らない君を知ってる人がいることに少し嫉妬」
「あら! うっふふふ、やぁ~ねぇ。そんな子どもみたいヤキモチ焼かないの。あなたとの思い出はこれからいっぱい、い~っぱい作ってあげるわ。未来のあたしを、この倉橋京子を独り占めできるのよ? だからそんな些末なこと気にしちゃダメよ、秋芳君」
「未来だけでなく過去も独り占めしたい」
「贅沢ねぇ、タイムスリップする呪術でもあるわけ?」
「う~ん、どうだろう? ま、必要があるのになければ作るのみだが」
「…ねぇ、もし時間を遡ることができたら、いつの時代に行ってみたい?」
「そうだな、古代エジプトの赤ビールやボヘミアンたちが飲んだ本物のアブサンを飲みに行きたいな。あと張飛の作った保寧圧酒もどんなものか味見してみたい」
「お酒ばっかりじゃない! 少しは陰陽師らしく安倍晴明や土御門夜光と会ってみたいとかないの?」
「ん、あとは実際の安土城を……、て、そうだ! 城だよ城! 天馬のやつ、凄いものを作ったなぁ。この模型、相当手が込んでるぞ」

 メールに添付された画像をまじまじと見て感心する秋芳。

「この造りと天守閣の鯱から察するに、これは名古屋城だな」
「へぇ、わかるんだ」
「惚れ惚れするなぁ……、こういうのを作れる、創造できるのは本当に凄いよ。ある種の神の御業だよ」
「いくらなんでも言いすぎじゃない?」
「いいや、そんなことはない。想像し創造する。これは呪どころか奇跡だよ」
「そ、そう?」
「ああ、そうさ。絵画でも模型でも文章でもなんでも。無や、それに等しい状態から有を生み出す。これこそ人の持つ『真の』呪の力じゃないか」
「…………」
「なぁ、京子。これから天馬の家に行ってもいいかな?」
「ええっ!? あたしとの訓練は?」
「君との時間は未来に大きく広がっているんだし、ちょっとくらいいいだろ?」
「ん、もう……。しかたないわねぇ、じゃあ、あたしも行くわ。この模型がそんなに凄いのか、自分の目で見て確かめてみたいし」
 こうして二人は天馬の家に行くこととなった。





 護国寺にある百枝家。
 天馬には自宅に行くと連絡を入れて了承を得たが、まがりなりにも陰陽道の旧家を訪ねるのだ。手ぶらというわけにはいかない。
 いや、旧知の間柄である京子ならそれでもかまわないのかも知れないが、始めて天馬の家を訪れる秋芳はそういうわけにもいかない。賀茂の看板を背負いし者が土産もなしにぶらりと立ち寄るのはいかがなものか。と、秋芳が菓子折りを手に天馬の祖父母に挨拶したのだが、これまた妙な流れとなった。

「賀茂家の方にわざわざご足労いただきまして、誠に恐縮です。聞けば秋芳さんは飛び級で卒業してそのまま陰陽塾の講師になられるとか」
「え? いや、確かにそういう話は出てますが、まだ現実のものでは……」
「秋芳先生。どうかうちの天馬を一人前にしてやってください」
「いやまだ先生ではなく一塾生でして……」
「天馬。今のうちに先生から多くのことを学ぶんだぞ」
「う、うん」
「どうかよしなに、よしなにお願いします!」
「わ、わかりました。おりを見て陰陽の術を教授します」

 そのようなやりとりの後、件の模型を見せてもらった。

 名古屋城。
 またの金鯱城。東海道の押さえとして慶長十五年(1610年)に徳川家康によって築かれた。大きな堀と天守閣が特徴で、特に鯱の頭部が異様に大きく、これは遠くから眺めた時に均整がとれて立派に見えるように配慮されているためだ。
 平城であり、実際の攻城戦の想定よりも徳川の威信を示すための造り。壮大で優美な造形をしている。

「う~ん、凄い!」
「でしょ!」
「写真で見たよりデカいな。迫力がある」
「でしょ!」
「たんに組み立てるのだって難しいのに、この汚し塗装とか自分でしたのか? これは良いセンスしてるよ天馬」
「でしょでしょ!」
「これって名古屋城以外の模型もあるのか?」 
「うん、けっこう有名なメーカーだからね。僕は名古屋城しか持ってないけど、たくさん出てるよ」
 天馬はPCを起動させて模型製造メーカーのホームページを見せる。
「これは……」
「多いでしょ、ほとんどのお城が模型化されてるんじゃないかな?」
「竹田城があるな」
 
 竹田城跡。山城遺跡であり、虎が臥せているように見えることから虎臥城とも呼ばれる。
 秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、この雲海に包まれた幻想的な姿から、天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれるようになった。

「雲海を現す綿までついてるのか、凝ってるな」
「欲しいけど高いんだよね」
「讃岐の高松城だ。俺、この城好きなんだよな」
 
 高松城。
 城の北側が海に面していて、残りの三方の堀には海水を引き入れた堀が広がる、日本三大水城の一つ。堀には真鯛などの海の魚が泳ぎ、天然の牡蠣も生息しているという。

「これは、モデリング・ウォーターの使いどころだな。て、本物の水も入れられるって書いてあるぞ!」
「それも欲しいけど高いんだよね」
「幻の城シリーズなんてのもあるぞ。これ、安土城はともかく帰雲城(かえりくもじょう)なんて完全に想像で作ってるんじゃないか?」

 帰雲城。
 岐阜県の白川村にあったとされる城だが、大きな地震による山崩れで埋没。これによって城主の内ヶ島一族はすべて死に絶えてしまい、内ヶ島氏は滅亡してしまった。そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることでも有名だが、城のあった正確な位置は現在でも特定されていない。

「幻の城シリーズは特に高いんだよね」
「……天馬」
「なに?」
「他の城も、作りたいか?」
「もちろん! でも高いから今は無理かなぁ。もっとお小遣いためてから――」
「天馬の誕生日っていつだ?」
「え? 〇月〇日だけど」

 少し先だ。

「よし! 少々早いが俺からの誕生日プレゼントだ。好きな城を選んでくれ」
「ええ!? そんないきなり……」
「さぁ、どれがいい? 安土城か? 大阪城か? それとも岐阜城?」
「そんな、悪いよ」
「いやいや、半分は俺が見たいだけだから遠慮するな」

(男の子ってこういうのほんとうに好きねぇ……)

 男子二人が盛り上がっているのをよそに、話に交ざれない京子が手持ち無沙汰にTVのリモコンを押す。

 『あなたの、TVに、時価ネットたなか~。み・ん・な・の、欲の友♪ ハァ~イ、こちら時価ネット。時価ネットたなかでございます。生放送でお届けする噂のショッピング番組時価ネットたなか。良い物をつねに適正価格でお届け、う~ん、目が離せない。さぁ~て本日紹介する商品はこちら! アイアンバニー、ハイレグアーマー、アームブリッジ、ダンシングヒールが一つになった【魅惑の淑女セット】でございます。こちらにさらに高級フレグランスのイティズドリームもおまけにつけちゃいます。さらにさらに! 今回時価ネットからお申し込みいただいた方だけへのサプライズ。〇〇社制オリジナル幻の城シリーズ・聚楽第の模型をプレゼント! 先着一名様まで限定でございます。さてこの商品、気になるお値段は――。ぜひお早めにご注文ください。ご注文はインターネットとお電話で、ごらんのアドレスと電話番号から時価ネットに連絡してください――』

「……なんなの、この通販番組。いかがわしい変な服に香水と模型の組み合わせってカオスすぎるわ……」
「あ、もしもし時価ネットさんですか? 魅惑の淑女セット一つお願いします」
「あ、秋芳君!?」
「いいんだ天馬、俺の好きにさせてくれ。あの聚楽第をおまえに贈らせてくれ」
「で、でも魅惑の淑女セットと香水なんてどうするのさ」
「京子が着るよな?」
「着ないわよ!」
「着ないの?」
「着ない! 香水はともかく、あんな服いらないわ。ていうか秋芳君、衝動買いするタイプだったのね……」

 これは将来、お財布のひもはこちらできっちり締めなければならない。そう心に決める京子だった。





 それから一週間と少し。
 陰陽塾。

「もうすぐ完成するよ」

 朝一番、喜びの笑みを浮かべて聚楽第の落成一歩手前だということを秋芳に告げる天馬。「おお、早かったな」

「うん、あの名古屋城ほど難しくなかったからね。それでどう? もし良ければ次の日曜日にでも完成する所を見に来ない?」
「それは良い。ぜひ見に行かせてくれ」

 放課後。春虎達にも声をかけたのだが。

「悪い、おれ個人補習」
「ぼくはそのつき添いだ。まったく、今度という今度はしっかり学んでもらうぞ、春虎!」
「俺も補習につき合う。春虎とちがって強制じゃないが、なんせ途中転入ってハンデがあるからな、色々と知っておきたいんだ」
「……模型もいいけど、あたしとの約束も忘れないでよね。当日は先に訓練場に行ってるわ」

 春虎、夏目、冬児、京子はパス。秋芳は一人、百枝家へ向かうことにした。





 旧陰陽塾訓練場。
 埃っぽかったアリーナは清掃され、見ちがえるほど綺麗になっていた。床面などわざわざワックスがけしたので、光沢を放っている。
 秘密基地という言葉に触発された秋芳は、訓練場にかなり手をくわえてしまった。元々施錠されていた扉を無効化し、新たに呪術的な施錠をし、呪的結界も敷いてある。いつの間に持ちこんだのか、控え室にはいくつかの酒類まで置いてあった。

(自分で言い出しておいてなんだけど、まるで不良のたまり場ね。ふふっ、あたしもすっかり不良娘になっちゃったものだわ)

 アリーナの一角。座卓の上に置かれた式盤を前にして京子はそんなことを考えていたが、すぐに雑念を捨てて集中し、みずからの意識をはるかな宇宙へと同調させようと誘導する。
 これは星読みとしての訓練だ。
 本来ならば星読みとは星を読むことはできても、星を動かすことも星々の流れを変えることも、その輝きをあやつることもできない。
 星読みにできることはただ対象を見守り、助言し続けることだけなのだが、京子はちがった。
 星読みの中の星読み。如来眼の力がある。
 如来眼。
 豎眼(じゅがん)とも菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは、仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、変える力があるとされ、その時代の覇者を導くという。
人の定めのみならず、龍脈の流れ。星々の流れ。すなわち森羅万象を意のままにあやつることができる力――。
 最近はこの手の鍛練をしている。京子としてはもっともっと霊災修祓や対人呪術戦の訓練をしたいところなのだが、すでにプロの祓魔官レベルの技量を身につけたと判断した秋芳はもっぱら『自分にしかない力』を延ばすよう勧めているからだ。
 集中するにつれ、身体から魂が離れて浮上するような不思議な感覚をおぼえる。唸るような風の音を聞きながら、重力を始めとしたあらゆる足場から逃れ、現実に重なる宇宙のような異なる空の世界にゆっくりと浮遊する。
 無数の光が、数多の星々が視える。この光の一つ一つが人だ。人の運命だ。
 深淵の彼方、時間や空間の概念すら異なるすべての要素が偏在化している宇宙。その宇宙に京子の観念が反映され、遠くにある現実の影を目の前に顕現させる。あるいは現実世界のすべてを凝縮し、縮図のように映し出す。千里眼のような感覚で宇宙を見渡していくと――。
 星の一つに陰りが見えた。おぼろな闇が星を覆い、取り込もうとしている。それは京子の知っている星だった。
 その星は、百枝天馬のもの。

(――え? なに? 天馬!?)
 星の輝きを完全に覆い尽くしてなおあまりある巨大な闇。それは古の禍々しき闇。
 天馬が、あぶない。
 天馬の身に危険が迫っている。
 助けなければ――。 
 

 
後書き
 このお話。ハーメルンに掲載時は別の題名でしたが、よく考えたら微妙にネタバレしていたので別の題名に変更しました。 

 

まぼろしの城 2

 聚楽第。
 安土桃山時代に平安京の大内裏跡に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅。当時の文献には単に聚楽。まれに聚楽城とも書かれている。
 ヨーロッパの城塞都市を参考に造られた城であり、周囲には堀の他にも防御用の外壁が張りめぐらされていたという。
 天守閣があり外壁は白。高さは四十五メートルで大阪城よりも高かったという。
 当時の技術で作れる白い漆喰は水に弱く脆かったため、城などの外壁に使用されることはなく、姫路城に代表される白い城は徳川家康の江戸城からと言われていたが、最近の研究では聚楽第がその嚆矢ではないかと言われているが、さだかではない。
 落成からわずか八年で破壊されたため資料の乏しい幻の城だからだ。
 その聚楽第の模型が、あと一つのパーツを組むことで完成する。

「あいかわらず精密な作りだなぁ、大宮通りや一条通り。庭園まで再現されてジオラマみたいだ」
「作ってる時は豊臣秀吉になった気分だったよ」
「そういうのって、あるよな。自分の中で物語とか作ってさ」
「そうそう! だからこのサイズに合う人形を置いて、物語を再現したいんだよね」
「人形かぁ、でも武士とか公家の人形なんて……。む、いっそ簡易式で作るか」
「え、でもこのサイズに合うまで小さく作るのって、難しいよ」
「それも修行のうちさ。趣味と実益をかねて、いい鍛錬になる」
「なるほどね。あ、それじゃあ、はめるよ」
「おお、やってくれ」
 
 最後のパーツを組み込むことで天守閣が完成。聚楽第が落成した。
 金色に輝く天守閣の金箔瓦、汚れ一つない真っ白な外壁、二階建ての御殿――。絢爛豪華な安土桃山時代の歴史の一ページがそこに再現されていた。

「……できた。ついに、完成したよ」
「ああ……、やったな。天馬」
「うん……、うん?」
「ん、どうした?」
「なにかの、見まちがいかな……、そこに人が。小さな人が動いてるみたいなんだけど……」
「なぬ!?」

 秋芳が目を凝らすと敷地内の庭園。そこに一人の老人が歩いているではないか。人形だとするなら精巧な、実に精巧な作りをしている。
 小さすぎて顔はよく見えないが、白髪頭に黒い着物姿だということは判別できる。

「…………」
「…………」

 老人は秋芳らを見上げると、ちょいちょいと手を振り出した。

「……ええと、秋芳君。これって、君がこっそり幻術か式神かなんか使って遊んでたりしてるの?」
「いいや、使っていない。科学的なホログラムってわけでもなさそうだし、この模型。呪具の類かもな」
「僕の見鬼じゃわからないけど、秋芳君は呪力を感じるたりするの?」
「いや、しない。だが、極めて巧妙な隠蔽が施された呪具なら俺でも感知はできない」
「そ、そんな凄い物があるんだ」

 ちょいちょい、ちょいちょい。老人は変わらず手を振りかざしている。

「これ、手招きしてるのかな?」

(秋芳~、天馬~)

 小さな老人が呼びかけてきた。

「ええっ!? 僕らのことを呼んだの?」
「よせ! 反応するな!」

 遅かった。
 老人の問いかけに応えた天馬は人形のように小さくなり、聚楽第の中へと吸い込まれてしまった。
 世の中には呼ばれて返事をする。あるいはそれに対してなんらかの反応をしめすことがトリガーとなる呪が存在する。
 『西遊記』には返事をすると吸い込まれる紫金紅葫蘆(しきんこうころ)羊脂玉浄瓶(ようしぎょくじょうびん)という宝貝。呪具が出てくる。
 怪異からの呼びかけに対して『返事をしてはいけない』系の都市伝説や怪談の類など、枚挙にいとまがない。
 天馬はそれに引っかかってしまったようだ。
 その時、秋芳の携帯電話が振動して着信を告げる。落ち着いてディスプレイを見ると京子からだった。

「もしもし……。ああ、ひと足遅かったな。ちょっと厄介なことが起きた――」





 目を半眼にして模型を流れる気に探りを入れる京子。

「……ん、これって前に秋芳君が作った遁甲双六と似たような作りをしてると思う。あれよりかなり本格的だけど」
「時空間を入れ替えて、この模型内に別世界をこしらえたわけか。古に伝承にある『壺中天』だな」
 
 壺中天。壺中の天地という言葉がある。
 後漢の時代。汝南の町に壺公という薬売りがいて、仕事が終わると、いつも持っている薬壺の中に入っていったという。それを見た町の者が一緒に入れてもらったところ、そこには立派な建物があり、酒と肴があったので共に飲んで出てきた。という話がある。
 空間そのものを縮小し、壺の中に移すという方術の一種だ。

「あの爺さん、天馬をさらってから姿を見せやしない。携帯電話もつながらないし、こっちから出向く必要がある」
「あたしも一緒に行くわ」
「いや、もしもの時のためにここで様子を見ていてくれ。帰ってこなかったら呪捜部に連絡を頼む」
「それは笑狸ちゃんの仕事でしょ。こういう時のための式神じゃない。ねぇ、秋芳君。あたしけっこう強くなったでしょ? 犬神の時みたいなヘマはしないから、一緒に行かせて」
「わかった。じゃあ一緒に行くぞ」
「ええ、行きましょう!」
「まぁ、あせるな。いろいろと準備がある」

 幸か不幸か天馬の家族。祖父母は共に遠出しており留守で、遅くまで帰ってこないそうだ。時間には余裕があった。





 香炉の中で炭が赤く熾っている。秋芳はそこに抹香を落として煙を焚き、呪を唱える。

「天道清明、地道安寧、人道虚静――」

 炉の中から立ち昇った煙が部屋中に満ちる。秋芳は呪を唱え続け、抹香をつまんでは炭の上にはらはらと落とす。

「三才一所、混合乾坤、百神帰命――」

 つまんでは落とし、つまんでは落とし、つまんでは落とす――。

「万将隨行、永退魔星、凶悪断却――」

 やがて部屋中に満ちた煙は一カ所にかたまり、そこから一筋の煙がひものように模型の中へとのびてゆく――。

「不祥祓除、万魔拱服――。よし、これで道ができた。この煙に入れば模型内にある異界へ行ける」
「……ええ」
「どうした?」
「え? ううん、なんでもない」
「いや、なにか言いたそうな顔をしてるぞ」
「あー、あのね。あたしのカン違いかもしれないし、気のせいだと思うから気を悪くしないで聞いて。なんかね、今みたいな方法じゃなくても、あたしがもうちょい気をいじれば模型の中に入れる〝扉〟をもっと早く作れたような感じがしたの」
「ああ、なるほど。龍脈を始め森羅万象の気を見て動かす如来眼の力があれば確かにできるかもな。次の訓練じゃ、ちょっとそこらへんの力の使いかたも試してみよう」
「ええ、お願いするわ」

 秋芳と京子は手と手を結んで煙の中へと姿を消した。

 この世のなかにあって、この世のものならぬ世界。陰態、とでも呼ぶべき場所を二人、手と手とをしっかりと結んで歩く。べつに手をつなぐ必要はないのだが、自然にこうなってしまうのだ。
 京子は秋芳の手の冷たさに心強さを、秋芳は京子の手の温かさに安寧を感じた。
煙の道を抜ける。
 黒い空、異様に大きく明るい月が地上に冴え冴えとした光を放ち、桜が舞い散る中。金色に輝く黄金瓦と白い壁の建物が遠目に見えた。
 月の光というスポットライトに照らされた巨城。聚楽第だ。

「うわぁ、すてき……。まるでライトアップされてるみたい」
「こりゃまたずいぶんと華美に飾ったものだな。模型よりもかなり豪華だぞ、これは」
「お城って、こうして見ると綺麗なのね~」
「この城は綺麗に盛りすぎだけどな。さて、今いる場所は……、出水通りだな。とりあえず一番近い門から入ろう。ここからだと南門か西門だな」
「ここって、かなり広そうね」
「聚楽第はディ●ニーシーと同じくらいの広さがあるというからな」
「そんなに! 豊臣秀吉ってずいぶん贅沢な所に住んでいたのね」
「まぁ、天下人だからな。それに聚楽第はたんなる私邸じゃなく政務を取りあつかう場所でもあったから、ことさら豊臣の威信をしめすよう、でかくする必要もあったんだろう」
「そういえばあたし、豊臣秀吉について教科書に載ってる程度のことしか知らないわ。ねぇ、秀吉ってどんな人だったの?」
「んー、好きな食べ物はひき割り粥だったとか、食事はわりと質素だったみたいだな。と言っても当時の食事なんて公家や大名クラスでもそのくらいで、江戸時代の庶民のほうがよっぽどバリエーションに富んだ、良いものを食べてるよ」

 上杉謙信は梅干しを、織田信長は焼き味噌が好物だったと伝わる。食うや食わずの戦国の世では美食なぞ夢のまた夢。こと食事に関しては贅沢したくてもできなかったことだろう。今では普通に食べられるものも、昔は高級食材だったりもする。たとえば鮭だ。
 こんな逸話がある。
 毛利元就の四男にして長門長府藩の初代藩主に毛利秀元という武将がいるのだが、その秀元が江戸時代。江戸城に出仕したさいの弁当に鮭が入っていた。この時代、鮭は高級魚であり、まわりの諸大名から「結構なる菜なり、珍し」とうらやましがられ、分け与えるうちに自分の食べる分がなくなってしまったとか。

「その逆にウナギなんて平安時代は大衆魚で安かったが、今じゃ高級魚だしな」
「へぇ、そんな頃からウナギなんて食べてたんだ」
「ああ、万葉集にウナギを詠んだ歌があるぞ『石麻呂にわれ物申す夏痩せに良しといふ物ぞウナギとり食せ』」
「ええと……『夏痩せにはウナギが良いらしいからとって食べなさいと石麻呂さんに言った』」
「――で『痩す痩すも生けらばあらむをはたやはたウナギをとると川に流るな』と続く」
「う~ん……『どんなに痩せてても生きてればマシなんだから、ウナギを獲ろうとして川に流されないようにね』……なんかずいぶん大らかでのん気な歌ね」
「俺はこの歌を思い出すたびにウナギが食べたくなるんだ。あ~、また食べたくなった! 白焼きにして味噌つけたやつを肴に酒が飲みたい! もうこれは呪だな、呪の込められた呪歌だな」
「たんにあなたが食いしん坊の飲み助なだけでしょ」
「で、秀吉の話にもどるが、豪姫って聞いたことないか?」
「あ、なんか聞き覚えがあるわ」
「加賀百万石で有名な前田利家の娘で、養女として秀吉に引き取られるんだが、この豪姫が大きくなって宇喜多秀家という武将のもとに嫁ぐ。しかしそれ以降やけに病気がちになってしまい、これは狐の仕業だと吹きこまれた秀吉は怒って伏見稲荷大社に『日本で俺を軽んじるものはいない。まして畜生風情がなめるなよ。早く豪姫から手を引け。さもなくば伏見稲荷大社をぶっ壊して、日本中の狐を狩って根絶やしにするぞ』という内容の文を出すんだ」
「うわぁ……、強気すぎ。てか傲慢ね」
「その恫喝が効いたのかどうか、その後豪姫は病に伏せることはなかったそうな。傲慢っちゃ傲慢だが、押す時に押すのも駆け引きだしな」

 出水通りから知恵光院通りへ。模型の作り通りなら、右へ行けば正門へと通じる馬場が、左に行けば豊臣秀次邸と、その先をぐるりと曲がって西門があるはずだ。

「さて、天馬はどこに連れ去られたんだか。建物を虱潰しに調べていくしかないか」
「……このあたりにはいないと思うわ」
「わかるのか?」
「ええ、それとあちこちから変な気を感じるから気をつけて。この感じは式神ね……。それとたぶん呪的な罠もあると思う」
「わかった。……なぁ、どのくらいの距離まで見鬼できるようになったんだ?」

 見鬼。
 霊気の流れや霊的存在を視覚でとらえたり、感じ取る力のこと。いわゆる霊感能力であり『見鬼』というが、かならずしも目で視る必要はない。
 高位の見鬼は通常では見通せないような術理や法理まで見極め、範囲内にあるモノの位置や形状を気で感じ取ることができる。
 見鬼できる範囲や精度など、この能力の強さは個々の才能に大きく左右されるというのが定説になっている。

「んー、半径五〇メートルってとこかしらね」
「なん……だと……、俺の十倍じゃないか!」
「あ、でも秋芳君のほうが細かく視られると思うわよ。あたしのは範囲が広いだけ」
「それでも凄い。現役の霊視官でもそこまで見通せるやつはそうそういないぞ」

 正門から入ることにした秋芳らは馬場を通る。

「あ、かわいい。ポニーがいるわ、子馬かしら?」

馬場にある厩舎の中で何匹かの小さな馬が草を食んでいる姿が見られた。もちろん本物の馬ではない、式神と思われる。

「馬場に馬か、凝ってるな。でもあれ、たぶん子馬じゃなくて成馬だぞ」
「あ、そういえば昔の日本の馬って小さかったのよね」

 時代物の大河ドラマなどに出てくる馬は、大型で格好の良いサラブレッド種が使われているが、時代考証的にはまちがいだ。アラブ系のサラブレッド種は明治時代になって始めて輸入されたもので、それ以前の日本には胴や足が太く、背も低い馬しかいなかった。
 走る速さも遅く、長い距離は走れなかった。日本の馬は平地を駆けるのではなく坂道を登り降りするのが得意だったという。
 源平合戦の一の谷の戦いで、源義経は少ない騎兵で山を越えて平家の陣の背後に回り込み、崖の上からの奇襲に成功したが、あれがサラブレッドだったら足の骨を折ってしまったことだろう。日本の馬だからこそできた作戦だったのだ。
 また、日本の馬は制御しやすいサラブレッドとちがい気性が荒く、オス同士を近寄らせると興奮してケンカを始めるので、あつかいが難しかったという。
 去勢すればおとなしくなるのだが、馬を去勢するという発想も、明治になって西洋から伝わってきたものだ。

「馬で思い出した。これも一応秀吉に関係する話だが、敵の軍にたくさんのメス馬を放つ奇襲作戦なんてのがあってな――」

 秀吉が播磨の別所長治を攻めた時のこと。秀吉の弟の秀長が別動隊数千を率いて別所がたの支城を攻撃した。相手の城にはわずかな兵しかなく、秀長軍は一気に攻め落とそうと押し寄せたのだが、そこへ城内からメス馬数十頭が放たれた。
 当時の軍馬はオス馬ばかりだったため、秀長の軍馬たちは発情し、色めきだってメス馬を追いまわし、制御できず混乱状態になったところを突かれ撃退されたという。

「西洋みたく馬を去勢してたら、こんな作戦もとれなかっただろうな」
「……対人呪術戦の参考になりそうな話ね」
「うん?」
「術のレベルも重要だけど、あつかいかたに注目して、自分の手持ちのカードを組み合わせて戦術を考えるのも大事でしょ?」

 呪術戦は手の内の読み合い探り合い。霊力と霊力の、単純な力のぶつけ合いではない。知っている術の種類に限りがあり、あつかう技術も未熟だったとしても、そういった手札の数やレベル以上に大切なのは手持ちのカードをいかに組み立てるか、呪術戦における『戦術』の重要性のことを京子は言っている。

「そうだな。だが陰陽庁のトップに立とうって人間なら、目先の勝ち負けを左右する戦術よりも、そんなきわどい状況を作らない戦略と政治を重要視する考えをしたほうが良い。小競り合いの処理なんてはこっちに任せとけ」
「あたしは戦術も一流、政戦両略も一流の人間を目指すわ――あ、秋芳君、気をつけて」

 ふと、足を止めて注意をうながす京子。

「あの門のあたり、気がおかしいわ。木気が妙にかたよってる」
「木気か。いつでも金行術を使えるようにして通ろう」
 門をくぐらなければ中には入れない。注意して近づく二人の前でそれは起きた。
 つる草がするすると伸びて緑のカーテンを形作ったかと思ったら、たちまち瓢箪が実った。一つ、二つ、三つ……、何十個もの金色をした黄金の瓢箪が大量にぶら下がり眩い光があたりを照らす。そして銀色の花を咲かし、そこから蜜が漏れだす。甘く馥郁たる芳香があたりをただよう。なんとも幻想的で豪奢な光景だった。
 なにかある。そう警戒していたにもかかわらず、思わず見とれてしまうほどの光景が目の前に広がる。
 その隙を狙ったかのようにつる草がうねり、巻きついてきた

「きゃっ」

つる草は京子の手足に絡まり、そのまま全身を縛り上げようとうごめく。

「白桜、黒楓!」

 呪符が取り出せないので護法式を召喚し、その刃でつる草を切断しようと試みたが、思うように刃が通らない。花からあふれた蜜が潤滑油の効果を発揮して刃を滑らしてしまうからだ。

「むぐぅっ!?」

 つる草が猿ぐつわのように口をふさぎ、言葉を封じる。植物特有の青臭さに混じって妙に甘い匂いが鼻腔を満たす。蜜の匂いだ。すると脳に靄がかかったように意識が混濁し始め、睡魔にも似た心地の良い痺れが全身に広がり――。

「禁毒則不能害、疾く」
「!?」

 目の前に秋芳の顔があった。自分が片腕で抱きかかえられていると気づいた京子はすぐには離れず、秋芳の胸に頭をもたげる。

「……あたし、どうしちゃったの?」
「あの瓢箪の毒気にあてられて、わずかな間だが意識を失ってたんだ。しかし巧妙なトラップだったなぁ。木行符によるつる草の罠に、幻術も重ねてあったんだよ」
「どれが幻だったの?」
「あの金ぴかの瓢箪は幻術。いきなり木行トラップが発動するんじゃなくて、まず最初にあれで注意を引きつけてつる草で縛り上げる仕組みだったみたいだな」
「不覚……、もう! くやしいっ! 絶対に足手まといなんかにはならないつもりだったのにっ。またあなたに助けられちゃったわ」
「でも、良かったぞ」
「なにがよ?」
「エロかった」
「!?」
「触手みたいなぬるぬるのつるに絡まれて、頬を上気させ朦朧としてる君の姿はそりゃあもうエロかったよ。いやぁ『ハイスクールD×D』のサービスシーンみたいだった」
「な、な、な……」
「あ、でもすぐに助けたからな『もう少し様子を見よう』なんてことはしなかったぞ」
「あ、あたりまえでしょ! 恋人がそんな目に遭ってるのに傍観してるなんて最低よ! もし秋芳君がそんな人だったら末代まで祟る…、ううん。末代ができない体にしてやるわ」
「それは、怖いな……」





 門をくぐり、いよいよ聚楽第の中へと入る。
 湖といっても通用するくらい大きな池を中心に、周りに園路が巡り。池中に設けた小島や橋、築山や名石などで各地の景勝などを再現していると思われる造りだ。園路の所々には野点用の茶席が置かれ、能舞台まであった。
 それが聚楽第の庭園だった。その規模、その見事さに思わずため息がもれる。

「ほんっと凄いわね……、桂離宮や浜離宮にも行ったことあるけど、ここまで壮観じゃなかったわよ」
「池泉回遊式庭園ってやつか。やれやれ、俺達はすっかり呪にかけられてしまったみたいだな」
「そうね、魅了という乙種呪術にかかっちゃったみたい」
「模型内に別世界を作り出すだけでも尋常じゃない術なのに、それにくわえてこの造形センス、あるいは再現力だ。あの小人の爺さん。いや、爺さんじゃないのかも知れないが、ここの主はとんでもない術者だぞ。それこそ十二神将と同じか、あるいは以上だったとしても不思議じゃない」
「いったい何者なのかしらね。あなたならそういう実力者に心あたりとかあるんじゃないの」
「う~ん、ここまでの使い手となると流石に思いつかん。ひょっとするとこの模型が霊災そのものだったりしてな」
「付喪神……」

 はらり、はらり――。
 はらはらと紅い木の葉が落ちてくる。紅葉だ。

「さっきは桜で今度は紅葉って、綺麗は綺麗だけど季節感ゼロね」
「そうだな。四季折々の美しさ、楽しさってのがある。どんなに綺麗でもただ並べ立てればいいってもんじゃない。ここらへんは侘び数寄とは程遠い華美贅沢好みだった秀吉の好みを現してるのかな」

 池に紅葉が落ちると、それは魚となって水面を跳ねた。
 鯉だ。木の葉が池に落ちると、それは赤、青、白、黒、緑、黄色、金色――。様々な色をした錦鯉と変じて池の中を泳ぐ。

「こ、これって幻術!? 視てもわからないわ」
「この感じは式神だな。それより気をつけろ、こうして注意をそらしてなんかしかけてくるパターンかもしれない」
「ふん、もうあんな手になんてかからないんだから!」
 
 一〇秒、三〇秒、一分、二分、三分。なにも起こらない。

「なによ、たんなる演出?」
「みたいだな。先に行こう」
「ちょっと、この鯉って式神なんでしょ? このままにしておくのってあぶなくない?」
「んー、だからといってなにもしてこない池の鯉に手を出すのも無粋だしなぁ」
「せめて、動きを封じておきましょうよ」

 京子はなにか思いついたのか、水行符を手に池に近づく。

「水気は清冽にして――」

『テケリ・リ、テケリ・リ』

 京子がなにかしらの術を行使しようとした時、奇妙な音を発し池の水が盛り上がり押し寄せた。
 否、水ではない。半透明をした寒天のような生物。それが京子の体にまとわりついた。

「ちょっと、また変なのじゃない!?」

『テケリ・リ、テケリ・リ』

 それは奇妙な鳴き声を出して京子の身体をおおった。生暖かくぬめりをおびた粘性の感触に不快感をおぼえたが、それがゆるやかに蠕動を始め出すと、その感想は吹き飛んだ。
 気持ち良い。

「ひゃンっ! アッ、ぃやだ、ん、……ンン!?」

 胸を揉みしだかれ、腰をまさぐられ、尻を撫でられ、首筋と脚をさすられる。全身をくまなくマッサージされているかのような甘く優しい刺激に、思わず悩ましげな声が出てしまう。

(やだ! なんて声出してるのよ、あたし!)

 顔から火が出るくらい赤面し、目に涙を浮かべ、羞恥にさいなまれて身悶えする京子の耳に、どこか怒気をおびた口訣が響く。

「禁妖則不能在、疾くッ!」

 あやかしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。
 京子にまとわりついていた妖物はたちまち消し飛んだ。その存在自体を禁じられ、消滅してしまったのだ。

「う~~~~ッ」

 その場にうずくまった京子は怒りと恥ずかしさで顔も上げられない。

「以土行為石槍、貫。疾く!」

 土行を以て石の槍と為す、貫け。
 秋芳が術を行使すると無数の石筍が池の中から盛り上がる。そのうち何本かには不定形の粘性妖物。 先ほど京子にまとわりついたあやかしと同じ種のものが串刺しにされているのが見てとれた。先ほど池の鯉の手を出すのは無粋と言った秋芳だが、その行為には容赦がなかった。

(あれ? 秋芳君、怒ってる?)

 京子が見上げれば、確かに秋芳の表情には怒色が浮かんでいる。

「……あの無数の式神は池に潜む妖怪の気配をごまかすために撒いたんだろうな。しかし女好きの秀吉に倣ってエロトラップを用意したのか知らんが、悪戯が過ぎる」
「……ねぇ、秋芳君。怒ってる?」
「ああ」
「なんで?」
「好きな子がエロい目に遭ってんのを見て平気なやつなんているか!」
「え、え~と、あなたってそういうの好きなんじゃないの? さっきも喜んでたみたいだし……」
「あのくらいなら偶発的なラッキースケベだが、今のは完全にやる気だったろ。俺は自分が好きな子の裸を見たり、好きな子にエロいことするのは大好きだが、他のやつがそれをするのは断じて許さん! ましてそれにあっはんうっふん反応するのを見て喜ぶわけがない!」
「あ、あたしだって好きで変な声あげたわけじゃないんだからっ!」
「わかってる。だがこの先も似たような罠があると思うから君は帰ったほうがいい」
「いやよ! こうまでされてすごすごと引き下がるだなんて絶対にいや。こんなふざけた真似をしたやつ、とっちめてやるわ!」
「その格好でか?」
「え? きゃっ!? なな、な。なによこれ!」

 いつの間にか服の一部が消えて、下着姿をさらしているではないか。下に穿いていたズボンの布地は腿のあたりまでなくなり、上着はほぼ布きれ状態だった。

「今の粘性生物の仕業だろうな。肌を傷つけず衣類だけ溶かすとか、どこのエロスライムだっつうの」
「なによ、服くらい簡易式で作るわよ!」
「さっきも言ったがこれから先も『TO LOVEる -とらぶる-』や『ハイスクールD×D』みたいな罠があって、ひっかかるたびに『健全ロボ ダイミダラー』の日笠みたいに恥ずかしい声をあげることになるかもしれないぞ」
「『TO LOVEる -とらぶる-』や『ハイスクールD×D』や『クイーンズブレイド』みたいな罠にはもう引っかからないわ! だから恥ずかしい声もあげない!」
「……わかったよ、じゃあ俺の服を着ろ。簡易式で作る服よりは丈夫だ」

 そう言って上着を脱ぎ、京子に着せる。
 Tシャツ一枚になった秋芳の姿からは、痩せてはいるが全身これ筋肉。という印象がただよう。無駄な肉がいっさいないのだ。

「あ、ありがとう」

 恋人が着ている服を脱いで自分に着せてくれる。それが妙に気恥ずかしい。
 ふと秋芳の露出した腕や胸元に目がいく。意外と綺麗な肌をしている。そんなふうに思って見ていると、突然おびただしい量の傷跡が『視えた』。大小無数の傷跡が広がり、左上腕部など肉が大きくえぐれていて痛々しい。

「あ、秋芳君、その傷跡は……」
「傷跡?」

 次の瞬間、傷跡は消えていた。

「今、見えたのよ。秋芳君の身体中にいっぱい傷がついてるのが。やだ怖い……。これって予見かなにかかしら……」
「その傷ってのは真新しい傷だったか?」
「ううん、古傷って感じ。それがいっぱいあったの」
「……たぶんそれは予見じゃなくて過去視だな」
「過去視って…、秋芳君が今までケガをした所が見えちゃったってこと? あ! あの腕のキズ。前にあたしをかばってくれた時の……」

 犬神を使うはぐれ陰陽師との戦いで、秋芳は京子をかばい左の腕に大ケガを負ったことがある。

「昔の修行や戦いで受けた傷が偶然『視え』ちまったんだろうな。さすが如来眼だ、傷を禁じて跡を消しても、そういうのがわかるとは」
「百戦錬磨ってのは伊達じゃないのね」
「……ああッ!」
「ど、どうしたの?」
「本当はここで『京子、それはちがう。この傷は修行中に自ら負ったもので、敵につけられた傷など一つもない』とか、『幽遊白書』仙水みたく言いたいのに、言ってみたかったのに! 戦闘で負傷したこともあるから言えない! 無念!」
「……変なとこでくやしがるのね、傷は男の勲章。なんじゃないの?」
「勲章と同時に弱さの証でもある。本当に強いやつは傷なんてこしらえないからな。みっともいいもんじゃないよ」
「ふ~ん」

そんなやりとりをしつつ、秋芳の上着に袖を通した京子はその服に込められた呪力に気がついた。

「……これ、けっこう高い呪が込められてるわね。防瘴戎衣みたい」

 防瘴戎衣とは祓魔官が着用している黒いユニフォームで、呪的防御が施された防具だ。かの土御門夜光が愛用していた黒マント、鴉羽織をモデルに作られたという。

「あらゆる傷害から身を守る呪が込められてある。鴉羽織や紫綬仙衣ほどではないが、並の防瘴戎衣よりも上等だろうな」
(秋芳君の匂いがする、それに温かい。なんだか彼に抱かれてるみたい……。て、いけない、いけない!)

 ぬくもりと匂いが伝わってきて、さっきとは別の意味で赤面しそうになった京子はあわてて気を引き締める。




 
 天馬を探して建物の中へと入る。いくつかの御殿や遠侍(警護の武士の詰所)をまわり、大小いくつかの罠があったものの、もはやそれにかかるようなことはなかった。

「穴の上に幻の床を作って落とそうとするとか、タチが悪いな」
「そうね。でもあたし達の見鬼にかかれば、どうってことないわ」
「広間から宴の騒ぎを聞かせ、踊ってる人の影まで障子に浮かせて開けたら誰もいない。とか、どこのお化け屋敷だよ」
「あれはちょっとゾクっときたわ。あたしひとりだったら怖かったもの」
「たしかにおっかないシチュエーションだよな」
「でもその後が最悪。変な音楽が流れてきて、それを聞くと服を脱ぎたくなるとか、まったくしょうもない……」
「あの曲は『タブー』ていうラテンミュージックだよ。官能的な響きだったろ?」

 そして天守閣のある御殿。御座の間で、二人はついに天馬を見つけたのだが――。

「余は正二位、右大臣。豊臣秀頼である」

 朱金色の豪華な衣冠束帯に身を包んだ天馬は、開口一番、そう口にした。 

 

まぼろしの城 3

 眼鏡をかけた童顔の少年。百枝天馬は豊臣秀頼と名乗った。

「……なぜに秀頼? 天馬よ、どうせなりきりするなら秀吉か秀次にしろよ、ここは聚楽第なんだし」
「こらぁ、天馬! 人が助けに来たってのに、なにコスプレなんかして遊んでるのよ。帰るわよ」
「なにを言ってるの、僕……。余は右大臣、豊臣秀頼だよ」
「いや、今『僕』って言ったよな『僕』って。それに口調も普段通りだぞ。なりきるならなりきれよ」
「あはは、演技ってむずかしいね。……僕は秀吉にはなれないよ。彼みたいな天才じゃないからね、僕に
はせいぜい秀頼が関の山なんだ」

 どこかうつろな表情で、天馬はそう自嘲する。

「いやいや、堀尾吉晴あたりなら合うんじゃないか?」
「……秋芳君は凄いよね、僕とちがって霊力も知識もけた外れ。京子ちゃんも、倉橋家の跡取りに、『天将』倉橋長官の娘にふさわしい実力者だよ」
「…………」
「ちょっと、いきなりなに言い出すわけ?」
「夏目君は土御門の次期当主としてもうしぶんない天才だし、その土御門の血筋だけあって春虎君は霊力だけならけた違いだし、冬児君も。あの二人って転入してくるまで呪術と無関係の生活してて、見鬼だって後から使えるようになったそうだけど、信じられない。だってプロの呪捜官や鬼をやっつけちゃうんだよ」
これは秋芳が入塾する前に起きた、夜光信者による夏目拉致事件のことを言っている。
「ねぇ秋芳君。この一週間、お祖父ちゃんに頼まれたから何度か僕の勉強を見てくれたよね。どうだった? 僕はプロの陰陽師になれそう?」
「まだ一年の二学期だぞ、そんなこと今からわかるものか。二年以降の実技の成績や、今後の霊力の成長度合いにもよるだろう。だが今の調子で学習し、積み重ねていけば、なれないことはない」
「……呪術って、陰陽術ってやっぱり持って生まれた才能がすべてなのかな? 努力じゃどうにもならない資質ってあるの?」
「ない」

 はっきりと、秋芳はそう断言した。
 呪術は当人の資質と血筋がものを言う分野とされている。呪術の世界が閉鎖的なのはその象徴であり、呪術者に古くからその道に関わってきた旧家出身の者が多いのも事実だ。
 素質、才能、血、遺伝。だがなによりも大事なのは――。

「努力に勝る天才なし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。一に鍛錬、二に鍛錬。三四がなくて五に休養。武にせよ呪にせよ、その道の高みへの近道なんてない。ひたすら修行あるのみだ。さっき俺や京子が凄いとか言ったが、俺達は座して今の実力を身につけたわけじゃないぞ。特に京子は努力っ娘だ」

 京子の朝は早い。早朝から禊と呪術の鍛練を日課とし、身だしなみにしても名門倉橋家の娘として恥ずかしくないよう、同年代の女子の倍近く時間をかけている。
 身だしなみはある種の乙種呪術。というのが倉橋家の考えなのだ。服装はもちろん、言葉つかいから作法まで、相対する人間に与える心的影響のことごとくを意識するよう、ひいてはそのように意識することによって己を律することの重要さを、幼少の頃より叩き込まれているのだ。

「でもさ、同じ時間、同じ量の訓練をしても人によって差が出てくるでしょ。持って生まれた才能って、やっぱあるよ。そんなの不公平だと思わない?」
「まぁ、目指す場所は同じでも、だれもが同じスタートラインから出発。てわけにはいかないってのも事実だわな」
「でしょ? 秋芳君がうらやましいよ、古い呪術の血筋に生まれて、名門の賀茂家の養子になれたなんて、生まれも育ちも僕とは大ちがいだ」
「……ちょっと天馬、いい加減に――」
「俺はおまえがうらやましいけどな」
「え? なんでさ、なんで秋芳君が僕をうらやましがるの?」
「天馬には両親の思い出があるだろ? 俺にはそれがない。まったくない。母親は俺を生んですぐに死んじまったし、もの心ついた頃には賀茂の家に養子に出されて父親との交流なんてほとんどなく、その父も早くに死んだ。賀茂家で育ったと言うが、ガキの時分から山にこもって修行修行の毎日だったからな。いわゆる『家庭』の記憶なんてないんだ。同じ年頃の子が家族と一緒に食事したり遊園地に行ったりしてるのを後から知って、そういう生活に憧れたもんだ。天馬はどうだ? そういう家族の交流ってあったか?」
「うん……、父さんも母さんもいそがしかったから家族旅行とかはなかったけど、たまに仕事場に遊びに行ったりしてたっけ……」

 天馬の脳裏に幼い頃の記憶がよみがえる。母にお願いして試作段階の式神を使わせてもらったことがあった。あの蜘蛛の形の式神はなんという名だったか――。

「あと遊んだ記憶もないな。滝に打たれ、山々を駆け、真言や祝詞をおぼえ、唱える毎日……。友達といっしょに遊んだり、アニメ見たりゲームしたりしてる同い年の連中がうらやましかったよ」

 ふたたび天馬の脳裏に記憶がよみがえる。誕生日にもらった携帯用ゲーム機。当時流行ったゲームソフトもついてきた。
「俺は生まれてから十余年を修行に費やし、ありとあらゆる娯楽を犠牲にして今の力を手に入れたんだ。これってそんなに不公平か?」
「…………」
「俺にないものを天馬は持ってるし、天馬にないものを俺は持ってる。みんなそうだろ?特別なものなんてなにもないってことに関してはだれもがほとんど同じなんだ。 だれもが一長一短のある個人に過ぎない。生まれついての稀有な才能だの秀でた能力だのなんて、香辛料みたいなものさ。あれば料理の味が引き立つが、それだけで料理全体の出来を左右したりはしない。今できることだけをすればいい」
「そうよ天馬。不平や愚痴を言うヒマがあったら努力するのが大切よ。……ま、今のあなたの言葉って本心からのものじゃないんでしょうけど。だって天馬はそんなウジウジするタイプじゃないものね」
「京子ちゃん……」
「天馬が小さい時からちゃんとがんばってるの、あたし知ってるんだから」
「あ、そうだ! それだ、それもあった」
「「それって?」」
「京子との思い出だ。おたがいの小さい頃のこと知ってるんだろ? くそっ、うらやましいぜ」
期せずしてハモった京子と天馬の問いかけにも、わずかに眉をしかめてそう述べる秋芳。
「また蒸し返してる……」
「ああ、もっと早く京子に出逢いたかった! そして俺は小一の時にプロポーズして、そのネタで小学校の六年間京子に『あいつあたしにプロポーズしたのよ、うふふ』てバカにされ、 中学校でも三年馬鹿にされ、高校でも三年馬鹿にされ、そして今だに夕食の時に馬鹿にされる……。そんな新婚生活がしたい!」
「んも~、そんなこと大声で言わないの!」
「ハハッ、本当に仲が良いね。二人とも」

 天馬の顔からうつろな色が消え、いつもの明るい表情がもどる。と、その時――。

 クツクツクツ――。

 秋芳のものでも、京子のものでも、天馬のものでもない、不気味な笑い声が響いた。
 もはや秋芳も京子も『だれ?』とは口にしない。即座に見鬼を凝らして気配を探る。
 妖しい気配は壁から、壁にかかった掛け軸から発せられていた。
 掛け軸には川を流れる舟の姿が描かれている。その舟の上に一人の老人が、例の小さな老人が乗っていた。笑い声はその老人のものだ。
 絵の中の舟が動き、見る見る大きくなる。こちらに、絵の外側へと迫ってきているのだ。本紙いっぱいまで迫ると、舟から老人が降り、『現れ』た。人が、絵の名から抜け出てきたのだ。

「また幻術? もう驚かないわよ」
「クツクツ……、飽きるにはちと早いのではないかな?」

 老人とは思えない、若々しく豊かな情感を感じさせる声。

「ほれ、これはどうじゃ」

 老人の声が京子のすぐ隣から聞こえた。
 いつの間に移動したのか、秋芳がいるはずの場所に老人が立っているではないか。思わず身構える京子の前で、老人の口から耳慣れた口訣が唱えられた。

「禁幻則不能惑、疾く」

 幻ヲ禁ズレバ、スナワチ惑ウコトアタワズ。
 すると老人の姿はかき消え、そこには秋芳の姿があった。

「幻術は二種類ある。その場にないものをホログラムのように作り出すのと、対象の精神に働きかけて、そいつにしか見たり聞こえたりできない幻を知覚させる。今のは後者だ」
「……出会いがしらに人の頭をいじるとか、ここのいやらしい罠とか、もう、ね。趣味悪すぎ。急急如律令(オーダー)!」

 京子の打った木行符はつる草と化して老人を捕らえようと展開し、それを見た老人は金行符を取り出し、金剋木で打ち消そうとする。
 だがその直前。京子は呪力を投与してつる草と化した木行符の術式を組みかえた。
 バチリッ。
 紫電がほとばしり、つる草から一変、雷の鞭と化した木行符が老人の体を打った。
 かに見えたのだが、雷は老人の手にした針に吸い込まれていた。金行符を針に模して、文字通り避雷針にしたのだ。

「雷とて木気は木気。金気で剋するのが道理よ。あわてて下手を打たなければ造作もない。しかしその齢で雷法をあつかえるとは珍しいのう、これは愉快。なかなか楽しめそうじゃ」

 老人はそう楽しげに言ったが、その口ぶりが楽しげなのに反して表情はまったく変化しない。機械的に唇が動き言葉を口にしているだけ、まるで口だけが機械仕掛けで動く能面のようだった。

「それ、返すぞ。風っ」

 手にした針を大きく振るうと、墨を溶いたかのような重たい風が強烈に吹きつけた。漆黒の颶風が御座の間を吹きすさぶ。

急急如律令(オーダー)

 激風の中、一枚の呪符が舞った。金行符。
 風は木気と金気のいずれかに属する。これ見よがしに針を振るう動作で金行符を打ったかのように見せて、実際は木気の風術をもちいたのを、京子は瞬時に見抜いていた。
 金剋木。五行相剋の理にもとづき、漆黒の風は相殺される。

「あわてて下手を打たなければ造作もない。だったわね。そんなせこい手は通用しないわよ」
「ほっ! 目ざといのう、お嬢ちゃん。クツクツクツ……」

 秋芳は不気味に笑う老人の姿をあらためて見る。杖を手にしているが足腰が悪そうには思えない。  まっすぐに伸びた白い髪に白い髭は鶴のような印象を感じさせる。まるで闇夜を切り取ったかのような漆黒の小袖と羽織。なにより不気味なのは老人のかけている血のように赤いレンズの入った眼鏡だった。眼鏡といっても現代の眼鏡ではなく、時代劇に出てくるような紐つきの鼻眼鏡だ。
 霊力はほとんど感じない。もちろん無いのではなく、隠しているのだ。これほどの隠形の使い手は秋芳が今まで直接会った中では担任講師の大友陣くらいだろう。

(いや、それ以上かもな……)

 内に秘めた巨大な霊力がひしひしと伝わってくる。見鬼で感じているのではない、これは本能が知らせているのだ。
 こいつは、強いと。
 さらに――。

(霊相が微妙にずれている?)

 どうも身におびた霊気の形や流れが妙だ。どこがどう妙かと説明はできないが、おかしい。人の気ではない。
 この老人、人にあらず。

「ご老人のその眼鏡、ずいぶんと古そうですが、鼈甲ですか?」
「む? おう、いかにも。これは天文の頃より愛用しておる玳瑁(たいまい)作りの年代物よ。宣教師よりちょうだいした、本物の舶来品じゃ」
「ハイカラですね」
「あの当時はの。義隆や義晴よりも先に眼鏡をかけたのは、なにを隠そうこの儂じゃよ」

 日本へ眼鏡が伝わったのは1551年。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが周防の大名、大内義隆に献上したのが最初とされている。また室町幕府十二代将軍の足利義晴が所持していたという眼鏡は現存しており、これが日本最古の眼鏡ということになる。

 この老人は室町時代から生きていると、そう言っているのだ。

「わたくし、賀茂秋芳。陰陽の先輩に挨拶もうしあげます。さて? 先輩のことはなんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「ちょ、ちょっとちょっと、秋芳君。なんでそんなにかしこまってるのよ!?」
「相手は一応お年寄りだからな、とりあえずは礼をつくすさ。俺は敬老の精神を持ち合わせているんだ」
「ふぅむ、儂の名か……。さてさて、なんと名乗ろうかのう? 加納随天か天竺徳兵衛か仁木弾正か、多くの者が多くの名で呼ぶゆえ、名乗りにこまるのう」
「では……、果心居士とでもお呼びしましょうか?」
「ほ! これはまた懐かしい名じゃ、たしかにそのように呼ばれ、名乗っていた時もあったわ」
「果心居士って、まさか本物……?」

 果心居士とは七宝行者とも呼ばれる室町時代後期の呪術師で、特に幻術に長けていたという人物だ。今の世の人ではない。

「その果心居士がなぜ私の友人をかどわかすような真似をするのです?」
「なに、ほんの座興よ。あちらこちらを歩いておると、呪の道を歩まんとする雛を、おぬしらを見つけたのでな、ついついからかいたくなってしもうたのじゃ」
「人が悪い。さらうだけならともかく、頭の中をいじるのは感心しませんね」
「いじってはおらぬ。少々なでた程度じゃ」
「――ッ!」

 老人、果心居士に食ってかかろうとする京子だったが、秋芳に目で制される。

「座興はこれにておしまい。私たちは帰りますので」
「まぁ、待て。せっかくじゃ、もう少し遊びにつき合ってもらおう」
「いい加減にしてください」
「術くらべなど、どうじゃ? 先ほどのおぬしの持禁といい、嬢ちゃんの反応といい、そこの『秀頼様』とは大ちがい。雛だと思いきや、たいした成鳥よ。これは久々に楽しめそうじゃ」

 秋芳は無言で京子と天馬をうながし、二人を先にしてその背をかばうように退出しようとする。

「行かせぬよ――」

 目の前の戸が消え、壁になった。

「幻術!?」
「いや、これは本物の壁だな。部屋を、この空間を直にいじったんだ」
「なんでもありね、もうっ」
「ごめんね秋芳君、ごめんね京子ちゃん。僕が捕まっちゃったからこんな目に、僕のせいで、ごめんね……」
「天馬があやまることはないわ。悪いのは百パーセントあのジジイなんだから」
「そうだぞ天馬、おまえにはなんの落ち度もない」
「クツクツ、行かせぬよ。さような無礼、断じて許さぬ」
「……無礼はどっちだコラ。人様をかどわかし、くだらん座興につき合わせようとする。そっちこそ無礼千万だろうが」

 無礼に無礼で返すのは、畜生の所業。という言葉があるが、礼を欠く者に礼は要らん。という言葉もある。かしこまった口調を改め、怒気もあらわに果心居士をねめつける秋芳。

「存外つまらぬことを言うの。儂らの世界において『礼』とはすなわち『技』を指す。『技』とはなにか? 古くは神と人、のちには人と人とのつながりによってずる力。それを良くもちいるための技、作法、式こそ『礼』じゃ。おぬしの言うところの道徳だの礼儀作法だのも、もとを正せばこれにあたるがの。あいにく儂らの世界では『礼』はより原始の姿でもちいられる。技のともなわぬ形だけの『礼』など、たんなる懇願。いっそ無礼じゃ。儂はここでそのような『礼』をつくす気はない」
「破落戸の屁理屈ね」
「ああ、まったくだ。今の屁理屈を孔子様にむかって言ったらどんな言葉が返ってくるだろうな」
「なんとでも言うがよい。そちらにその気がないのなら、その気にさせるまで――。秀頼様、いやさ百枝天馬よ!」
「ええッ!? ぼ、僕?」
「――すべての中心がおのれであれば、おのれを活かせば世界も生き、おのれを壊せば世界も滅びるが道理。ならばおのれの思うがままに生きれば、それこそが世界を支配することに他ならない。誰にも負けることはない。勝つ。負ける。それは心のありよう。欲しいものを手に入れ、不要なものを壊す。おのれが世界の中心なのだ。手に入らぬものはいらぬもの、壊せぬものは必要なもの――」
「天馬! こいつの言葉なんて聞いちゃダメ!」

「おのれの思うがままに生きる力。欲しくはないか? 欲しければくれてやろう。目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ。力よ、目覚めよ……」

 果心居士の言葉。その一言一言が呪詛となって天馬の心を侵し、脳を蝕む。
 ふたたび虚ろな表情を浮かべ、うなだれる。

「……ごめん、秋芳君。僕はやっぱり君がうらやましい。君の力がうらやましい。僕は君みたいな力が欲しいんだ。ごめん、ごめん、ごめん、ごめんごめんごめんごめんごめんごめん――――」

 謝罪の言葉を連呼する天馬の身体に妖気が満ち、みるみる巨大化していく。身につけた朱金色の衣冠束帯にラグが走ったかと思うと、それは豪華な衣装から一転、武士の甲冑へと変わった。
 やせていた少年の身体は三メートル近い巨躯へと変貌した。

「どうじゃ? 頭の中をいじるとは、このようなことを言う」
「うそ、でしょ……?」
「……人の心には誰しも陽と陰がある。風の流れや川のせせらぎなど、この世界を形造る森羅万象にも同じように陽と陰がある。その陰に見入られた者は外道に堕ちると言われている。人ならざる、異形の存在へ。その法は外法と呼ばれ、人の世に今もなお密やかに受け継げられている。果心居士はそれを使ったんだ」
「もとに、戻せるの?」
「戻すさ、絶対にな」
『凄い力だ……!』

 なんともいびつで不自然なことに、巨漢と化した肩の上。そこには依然と変わらぬ天馬の童顔があった。その口から野太い声が響く。

『こんな凄い力があればなんだってできる気がする。……ねぇ、秋芳君。僕と、戦って』
「天馬!?」
「悪い京子、少し下がっていてくれ。天馬のことは俺にまかせろ」
「でも……」
「頼む」
「……わかったわ」
「さて、天馬……。つうかまたえらい格好になっちまったな。秀頼っていうか『戦国BASARA』の秀吉だぞ、そのガタイは」
『最初に会った時から僕はずっと秋芳君に憧れてたんだ。僕にはない力を持った秋芳君に。僕は今、凄い力がある。秋芳君と戦いたいんだ』

 憧れの感情。
 それは秋芳にとって縁のないものだった。今までその霊力のため恐れられたことはあっても、憧れの目で見られたことはない。

「俺と戦いたいって言ったが、ダメだ。術くらべもいい、組み手もいい。だがこんな形での戦いなんてまっぴらだ。そんなかりそめの力で戦っても嬉しくないだろ? つまらないだろ?」
『なんであれ力は力だよ、いやだと言っても僕はやめないからねっ!』

 巌のようになった拳を握り、高く掲げて威嚇する。

「そんな手で殴られたらぶっ潰されちまうかもな。天馬、おまえはそんな無意味で理不尽な暴力を振るうようなやつじゃない」 
『うるさい、うるさい、うるさい!』

 言うやいなや天馬は拳をふるい、秋芳の胴に重たい一撃を喰らわせた。
 壁際まで大きく吹き飛ばされ、床にころがる秋芳。

「え、うそ……、なんで、なんで避けないのさ?」
「……天馬なら殴らないからだ。おまえは、そんなことはしないって」

 金臭い。口の中を切ったようだ。

「そんなこと、そんなことないよ。そんなこと……」
「俺は戦わないよ、天馬。こんなこと、もうよそう。俺はおまえに、俺を殺させたくない」

 肉がひしゃげ、骨がきしむ。人を殴った嫌な感触の残るみずからの拳を見下ろす天馬。
 そう、自分は友達を殴ってしまったのだ。
 その事実を認識するとともに、酩酊していたような高揚感は消え去り、後悔の念が胸に満ちる。
 全身から力が抜け落ち、妖気も霧消していく。甲冑にラグが走り消え失せ、部屋にいた時に着ていた服の姿になった。
 糸の切れた操り人形のようにくずれ落ちそうになるのを駆け寄って抱きとめる秋芳。

「京子、ちょっと天馬を頼む。俺はこのじいさんと話をつける」
「口から血が出てるじゃない。あたしが代わりに…」
「いや、俺がやる。君はこんな妖怪じじいと因縁を生じさせる必要はない。それよりも気をつけろ。俺が相手をしている間にも、妙なちょっかいを出してきそうだ」
「……ん、わかった。天馬のことはあたしにまかせて」
「それと、とびきり頑丈な結界を張っておくんだ。大技を使う」
「そんなに手強い相手なの?」
「ああ、強い」

 御座の間の中央。果心居士と対峙する秋芳。

「ようやっとその気になったようじゃの。良し良し! しかし実にあっけない。あの小僧め、おぬしと一戦するかと思いきや、儂の与えた力をろくに振るいもせずに退くとは……」
「天馬はあんたが思ってるほど馬鹿じゃないってこった」
「ふむ、ところで今さっき小僧に殴られたおり、おぬしはなにか術を使ったはずじゃ。そうでなければあの勢いで殴られて無事ではすむまい。いったいどのような術をもちいたのじゃ?」

 硬功夫。あるいは鉄布衫功と呼ばれる気功術。体内の気を張り廻らせて肉体を鉄のように硬化させる術。長続きするものではないが、上手く呼吸を合わせれば小口径の銃弾くらいは防ぐことが可能だ。
 思わずそのようなことを口にしようとして、とどまった。
 なぜそんなことを今から戦う相手に教えなければならないのか?

「あー、なんもしてないね。あのシチュエーションでこっそり防御するとか、かっこ悪いだろ? そんなことしないって。黙って普通に素直に殴られたからね、俺は。……つうか今の甲種言霊か。つくづく人の頭をいじるのが好きなじじいだな」
「ふむ、さすがに効かぬか」
「あたり前だ」

 秋芳はふと思う、能力バトルもの作品に登場するキャラクターの中には、戦いの最中にもかかわらず、自分の能力についてベラベラと説明する者がいるが、どうしてそんな種明かしをするのだろう? 
 勝ってもいない相手に手の内をさらすなど愚の骨頂ではないか。
 視聴者や読者に能力について説明したければ、ナレーションを入れるか、心中のモノローグで言わせればいいのに、と。

「では、ゆくぞ。――近ごろはこう言うのだったな、急急如律令(オーダー)
 果心居士が手にした杖を無造作に放り出した。杖は中空で大きな音を立てて砕け散り。その木片が無数の杭となって襲いくる。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
 臨む兵、闘う者、皆陣を列べて前を行く。秋芳は神仙系の早九字を高速で結印し、格子状をした呪力の防壁が出現。飛来する杭をすべて防いだ。

「まだじゃ」

 食い止められた杭が蛇に変化し、呪壁を食い破ろうとうごめく。

「花淵善兵衛通りゃんせ!」

 岩手県の民間伝承に伝わる蛇除けのまじない言葉。秋芳はそれに呪力をくわえることで本物の『呪』に仕立て上げた。以前にもちいた雷除けの『くわばら』同様、たんなる力づくの甲種言霊ではない精巧にして玄妙な言霊術。
 蛇たちはいっせいに動きを止め、床に落ち、煙を上げて木片に戻った

「まだじゃまだじゃ」

 果心居士が結印し念を凝らすと、木片が一つにかたまり一匹の竜と化して牙を剥く。だが秋芳はそれには目をくれず地面に向けて刀印を切る。

「PIGYAAAッ!」

 いつの間にそこにいたのか、奇怪な声を上げて卒倒したのは双頭のねずみだった。
 竜は目くらましの幻術。地を走るねずみの姿をした呪詛式こそ本身の攻撃と察し、それを祓ったのだ。

「珍しき蛇除けの呪。そして幻術に惑わされぬその眼力。良し良し! さぁ、次はおぬしからくるがよい」
「そうさせてもらおう。京子」
「なに?」
「俺の上着に入ってる五行符。全部打ち出せ」

 もはや理由は訊かない。京子は言われた通りに自分の着ている、秋芳の上着に入っていた木火土金水の五行符をすべて打ち放った。
 桜吹雪のごとく呪符が舞い散る。

「東方太歳星君、南方荧惑星君、西方太白星君、北方辰星君、中央鎮星君。陰陽五行の太極に位置する陽中の陰と陰中の陽の星々、つどいて散り、散りてつどえ。急急如律令!」

 木気は火気を生み、火気は土気を生み、金気は水気を生み、水気は木気を生む――。
 陰陽道の根柢を成す五行思想にもとづいた相生相克を利用した呪術。
 相生を重ねるごとに威力を倍加させた呪力が純然たる破壊の力を生じて荒れ狂い、御座の間を吹き飛ばす。

「やりおるわ! オン・マリシ・エイ・ソワカ」

 果心居士は摩利支天の真言を唱え、結界を展開。怒涛の勢いでせまりくる呪力の波を防ぐのではなくすり抜けた。陽炎を神格化した天尊である摩利支天は穏形を司る象徴だ。
 たわめた人差し指を親指で弾く弾指を三度おこない、さらに摩利支天の真言を唱える。

「サラティ・サラティ・ソワカ――オン・マリシ・エイ・ソワカ」

 調伏相手を打擲する摩利支天の神鞭法。呪力の鞭がうなりを上げて秋芳を打つ。

「苦哉大聖尊、入真加太速、諸天猶決定、天人追感得、痛哉天中天、入真如加滅。急急如律令」
 あらゆる厄災から身を守る道教の呪文。呪力による堅固な盾が生じ神鞭を防ぐが、その衝撃までは消せなかった。衝撃が貫通し秋芳の全身の霊気を、霊体を打ち据える。痺れをともなう痛みが身体中に走る。
 やはり、強い。
 秋芳はあらためてそう思う。先ほどの五行方陣の術式に隙がったとは思えない。それを摩利支天の隠形法をもちいたとはいえ回避するのは、この果心居士と称する怪老がそれだけの実力をそなえているからに他ならない。

(だが摩利支天の穏形術。そうそう連発できるものでも持続できる術ではないはずだ。仮にできたとしても、貫く!)
 あえて一枚ずつ残した五行符に気を凝らし、素早く結印する。

「東に少陽青龍、南に老陽朱雀、西に少陰白虎、北に老陰玄武、中央に太極黄龍。陰陽五行の印もって相応の地の理を示さん。急急如律令!」

 さきほど使用した五行方陣に匹敵する威力を持つも術式の異なる呪術が炸裂。四神を象った呪力が生じて荒れ狂い、呪術の嵐がふたたび吹き荒れる。





 秋芳と果心居士の戦い、術くらべは終わる気配を見せない。

「凄い……、これが、呪術。これが対人呪術戦……」
 秋芳との訓練でそれなりに力と知識を得たと自負していた京子だが、それは思い上がりだったと痛感した。
 不動金縛り、符術、セーマンドーマンの呪壁、甲種言霊、幻術、火界咒、兎歩、雷法、厭魅、蠱毒、持禁――。
 千変万化の呪。古今に知られた数多ある練達の技。ありとあらゆる呪術の応酬。
 その中には京子がいまだ見たこともない呪術もあった。霊気が渦巻き呪力が交差する。秋芳と果心居士、二種の力が激しく入り交じり、熱気とも冷気とも知れない霊風が吹きすさぶ。
 まるで戦う二人を中心に、竜巻が荒れ狂っているかのように。
 激しい、あまりにも激しい呪術戦の余波を受け、御座の間は天守閣のある御殿ごと崩壊した。それでもなお周囲にあるかがり火と月明かりの光の下で、なお両者は術をくり出し続ける。
 京子があらかじめ堅固な結界を展開していなければ霊圧にさらされ、こちらの身もただではすまなかっただろう。それでもなお身体が、霊体が焙られているようだ。

「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
 秋芳が不動金縛りとともに苦無を象った簡易式を打つ。だがそのどちらも狙いは微妙にはずれ、果心居士にはとどかない。

「クツクツ、手元が狂ったかの? そろそろ疲れが――ッ!?」

 困惑の表情を浮かべ身を固める。

「こ、これはどうしたものか? なにゆえ身体が動かぬ!? 今のぬしの金縛りは不発に終わったはず……、はっ!」

 視線を落としてそれを見た瞬間、その表情は困惑から驚愕に変わった。
 金色の月光に照らされて落とすおのれの影に苦無が刺さっている。

「こ、これは影縫い! ううむ、さしもの儂もこのような忍びの術は門外漢よ、返しかたは知らぬ」
「そうか、なら詰みだな。今の状態では印も結べず、ほとんどの術は使用できないだろ。負けを認めてもらおうか」
「なんのまだまだ、無粋を承知で力業にいかせてもらおう!」
「はぁ?」
「喝―ッ!」

 叫びとともに怪老の矮躯から途方もない霊力が爆発的にあふれ出た。
 完全に『かかった』術を力づくで解除する。圧倒的な霊力呪力があるからこそ可能な力業。影に刺さった苦無は地面から押し出されるように抜け落ち、そのまま影に飲み込まれた。
 秋芳の影縫いは高い完成度で発動したが、果心居士の霊力呪力にくらべると、それでもまだ差があった。技術ではなく総量の差。圧倒的なパワーの差だ。

「おぬしの呪、倍にして返すぞ!」

 影が大きく伸び、うねり、漆黒の竜と化す。その咢には秋芳の苦無が牙となってならんでいた。
 影の竜が猛烈な勢いで秋芳を喰らわんと迫る。それはまるで黒い瀑布のよう。

「オン・ロホウニュタ・ソワカ」

 一千もの光明を発することによって天下を照らし、その光により諸苦の根源たる無明の闇や悪鬼邪気を滅尽するという日光菩薩の真言。
 眩い閃光が奔り、影の竜はあっけなく消滅した。秋芳の簡易式符のみがたゆたう。

「なんと、光か」
「そうだ、光だ」

 秋芳は自分の簡易式符を回収しつつ、うんざりした顔で応える。

「なるほど、まんべんなく光をあてれば影は消える。その手があったか」

 あと真っ暗闇にして影そのものを消すことでも影縫いから逃れられるけどな。そう胸中で思うもけっして口にはしない秋芳。

「愉快、愉快、ぬしとの術くらべ。まことに面白し。さぁ、続きじゃ」
「……いや、勝負あっただろ」
「なにを言う。儂はこのとおり健在ぞ」
「完全にかかった術を術理にもとづき解くのではなく、力づくでどうこうした時点で、この術くらべ。呪術勝負はあんたの反則負けだろ、じいさん」
「否。力業もまた技なり。呪術者が目的のためにもちいるのなら、それがなんであっても呪ぞ」

 ビキリ。

 これがコミックだったらこめかみに怒筋マークでも浮かんでいたことだろう。さんざん術くらべ術くらべとごねたから、しぶしぶ『術』限定で相手をしてやって、なおこのようなもの言いをする。
 年寄りだろうと人ならざる存在だろうと、もはや加減はいらぬ。秋芳はそう決めた。

「……そうかい、なら俺のこれも呪だな」

 すっ、と歩を進める。次の瞬間、果心居士は両腕をつかまれていた。

「ぬっ?」
「ふんっ」

 投げた。
 相手の両腕を肘が下になるよう逆に交差させて極め、そのまま背負い投げたのだ。受身を封じるどころか投げた瞬間に両肘の関節を破壊し、脳天から地面に叩き落す。実にえげつない殺し技だ。
 いやな音を立てて地面に激突、その体にさらにストンピングのかかと落としを放つ。顔面が眼鏡ともども打ち砕かれ、血に染まる。
 白髪をむんずとつかみ、持ち上げたあと、思いきり下に引き落としながら右膝を蹴り上げる。鼻の軟骨が内側に陥没する感触。さらに――。
 蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る、殴る、蹴る、蹴る、殴る、殴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、殴る、蹴る。
 さらに、蹴る。
 そして、殴る。
 また、蹴る。
 一方的に振るわれる暴力の前になすすべもなく、老人の矮躯はボロ雑巾のようにわやくちゃにされ、地面をころがる。

「うっ」

 その光景に思わず目を背ける京子。こんな暴力を目のあたりにしたのは、始めてだ。
 霊災が人を襲い、喰らう。酸鼻極まる場面は以前にいやというほど見たことがある。だがその種の暴力と今の暴力では質がちがう。
 生身の人間が、生身の人間を容赦なく痛めつける。それも痛めつけているのは他ならない自分の恋人なのだ。
 それが怖かった、悲しかった、自然に涙があふれてきた。

「もう、やめて、やめて。もうやめてあげて! 秋芳君、お願い。その人死んじゃうわ……」

 ひっ、えぐっ、としゃくり上がる嗚咽をこらえて。そう懇願する京子の声を耳にして、ピタリと動きを止める秋芳。

「……安心しろ、京子。こいつは最初から生きてはいない」
「どういうこと……?」
「ひゅひゅひゅ、やはり気づいておったか。しかしこの仕打ちは惨い!」

 首があらぬ方を向き破壊された喉からすき間風のような声が漏れ出す。
四肢は不自然にねじ曲がっている。顔はまるでザクロのように裂け、もはや容貌の判別ができないほどだ。
 だがそれでも、それでも一滴の血も流れ出ていない。
 そこにあったのは死体。老人の骸だ。ろくに流血がないということは、心臓が停止してからそれなりの時間が経っているはず。
 骸がつつつ、と起き上がる。まるで頭頂部に糸のついた人形が上から引っぱられて立ち上がるような、不自然な起きかた。人の身体はそのような動きはしない。しないはずだ。
 もとより異様な老人だったが、さらに異様だ。
 京子は見鬼を凝らし、視た。
 老人からにじみ出る霊気は、ほとんど減退していない。満身創痍の身体から――いや、身体があるあたりの空間から霊気がわき出ている。
 身体が霊気をおびているのではない。
 霊気が体に宿っている。
 霊気が主であり、人の身が従。従たる人が死んでいるにもかかわらず、主たる霊気はいまだ健在なのだ。

「動的霊災……」
「ぬしらの基準で言うと、そうなるのかの」
「タイプ・スペクター……、いや、タイプ・オーガ。尸解仙か?」

 尸解仙。
 道教における仙人になる方法の一つ。晋の葛洪が記した抱朴子という方術書には現世の肉体のまま仙境に至り天へと昇るのを天仙。天へ昇ることなく地にいて名山に遊ぶのを地仙。いったん死んだ後で蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが尸解仙とし、尸解仙を下位としている。
 だが、不老不死を達成するために本来の肉体をいったん死なせ、黄泉還るのは並の術者にできる芸当ではない。死を超越した呪術師。それが尸解仙なのだ。

「ふむ。まぁ、あたらずとも遠からず。といったとこか。外法の賜物という点では似たようなものよ。しかしよう傷めつけてくれたものよ。この身体、もはや使い物にならぬわ」
「自業自得だろ、自分から粉を吹っかけたんだ。悪く思うな」
「頭で納得できても心が許さぬこともある」
「難儀なじいさんだな~、まだやろうってのか?」
「然り。ただもう術からべなどとは言わぬ」
「ほう? じゃあなんだブチ切れたから全力でケンカでもしようってか?」
「さような散文的な言いようは好かぬ。存分に死合おうぞ!」
「死合うって、中二かよ!」

 果心居士の両腕が、折れたはずの腕が流れるように空中に呪印を描く。幾重にも幾重にも――。

「積層型呪印とは大仰な…。京子!」
「は、はい!」
「動かなくていいから、ちょいと力を貸してくれ。その場から援護を頼む。やり方はおまかせだ」
「わかったわ、まかせてちょうだい!」

 彼と一緒に戦える。彼の手伝いができる。彼の背中を守れる……。喜びが胸の奥から生じ、さきほどの怖さ、悲しさはいっぺんに吹き飛んだ。
 積層型立体呪印。禍々しい紋様をしたそれが脈動し、そのたびに大きく膨らむ。そして、爆ぜた。
黒い奔流がほとばしる、それらはたがいに絡まり密集し、異形の姿を形作る。
 一体、二体、三体……。たくさん。

「かの鵺殺しの源頼政とて、平氏の大軍の前には敗れた。さぁ、おぬしはこの数にどう対抗する?」

 累々たる物の怪が、式神とも動的霊災ともわからぬ化け物どもが現れた。
 ひとつ目の大入道、脚が一本しかない犬、ふたつ首の女、足のある蛇、手足の生えた琵琶、角ひとつあるもの、角ふたつあるもの、牛ほどもある蝦蟇、馬の首をしたもの、這うもの、踊るもの、顔のないもの。
 口だけのもの、後ろに顔のあるもの、首だけで宙を飛ぶもの、ぬるぬるとしたもの、長きもの、短きもの、翼あるもの、足で歩く壺、絵より抜け出した薄き女、足なくして這う狼、腕四本あるもの。
目玉手に持ちながらゆくもの、身体中に乳房ぶらさげたる女、数知れぬ蟲、手足のある目玉、髪の毛だけのもの、腐りしもの、骨だけのもの、肉だけのもの、得体の知れぬものども……。
 同じ形状のものは一体としていないが、全体としての印象は似通っている。それらは現代の霊災ではなく、はるか昔の平安の夜をうごめき、跳梁跋扈していた妖怪変化の群れ。百鬼夜行を彷彿とさせる。いや、百鬼夜行そのものだった。
 まぼろしの城を照らす蒼い月光の下、百鬼夜行が牙を剥く――。





「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令(オーダー)!」

 京子の打った五行符が光を放ち、呪符同士を結びつけ、光の呪印セーマンが煌めいた。その燦然たる破魔の霊気に照らされ、式神たちが絶叫しながら目を覆い、退散する。中にはそのまま消滅してしまうものさえいた。
 汎式ではない、夜光の作り上げた帝国式陰陽術にある百鬼夜行を避けるとされる秘術。

「なんと! 非凡な霊力と思うていたが、これほどとは!」

 望めば望むだけ霊力があふれてくる。これが京子の持つ如来眼の力だ。
 大海から押しよせる海嘯のごとき霊力が式神らを駆逐し、果心居士の動きすら止める。
 秋芳はその隙に金色をした最上級の紙幣。冥銭を取り出し剣指にはさむと、念を凝らし口訣を唱える。

「玉帝有勅、三昧真火神勅、形状精光、上列九星。急急如律令!」

 冥銭が燃えて火球と化し。赤、青、白と熱が上がるごとにその色を変え、巨大化する。完全なる赤色をした純然たる火。三昧真火が完成すると、それを果心居士目がけて投げつける。

「三昧真火!? それは反則じゃ!」

 水剋火。それを防がんとありったけの水行符を投げ打つ。吹雪さながらに宙を乱舞する呪符。そのどれもに並々ならぬ呪力が込められているも、そのことごとくを三昧真火は焼き払う。

「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」

 龍索印を結印し、仏教の護法神である天部の諸尊。十二天のひとつ水天の真言を詠唱。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ!」

 錐のような水滴が、銃弾のような雨が、大砲のような水流が火の勢いを消そうと渦巻き、霧の壁が、水の楯が、氷の砦が火を防ごうと展開するも、そのすべてが焼き払われる。高熱の水蒸気が吹き荒れ、まるで灼熱地獄がこの世に顕現したかのような有様。
 いまだ勢いの衰えぬ三昧真火。あたってはたまらぬと、無数の式神とそれを吐き出し続ける呪印ごと楯にしてぶつける。強大な呪力と呪力とが正面衝突し、轟音がとどろき空間が震える。それでやっと三昧真火を相殺することができた。

「動きが止まってがら空きだ。京子、合体呪文で修祓するぞ、気を合わせろ」
「了解!」

「「――奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ、宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず、奇一奇一たちまち感通――天御中主神の威を以って、これなる邪気、瘴気を一掃せん」」

 秋芳と京子の打った呪符が光り輝き、列をなして宙を舞う。
 秋芳からは黒曜石のような、京子からは真珠のような色をした呪力の軌跡が伸び、果心居士を囲む美しい環を成す。
 虹色の霊気が京子を彩り、その美しさをいっそう際立たせる。亜麻色の髪が宙にたゆたい、手にした呪符が一枚、また一枚と蝶のように羽ばたいて果心居士を囲む光の環にくわわる。そして最後の一枚がくわわり――。

急急如律令(オーダー)!」
「疾く!」

 刀印を結び、振り下ろす。
 修祓呪術、太一真君の呪法が発動。白と黒、光と闇、剛と柔、男と女、陰陽双つの気に満ちた呪符の光環がたわめ、内側に向かい収斂。巨大なプリズムの万華鏡をのぞいたかのような光の洪水が奔り、清冽清浄な霊気があふれ、果心居士という名の動的霊災を祓い清めた。
 妖しき怪老は、消滅した。

「終わった、のよね……」
「ああ、じじいの企んだくだらん茶番はおしまいさ」

 激しい戦いのあおりを受けて、周りはメチャクチャだ。もはや聚楽第は瓦礫の山と化していた。

「これ、だいじょうぶなのかしら? 外に出たら模型が壊れてたりして……」
「んー、出てみなきゃわからん。あー、疲れた! 眠い! 眠る!」
「キャッ!?」

 秋芳は京子に倒れ込むように抱きしめ、その豊かな胸に顔をうずめ、頬ずりをした。

「あ~、ふかふかだ。すべすべむちむちのマシュマロボディ。天使の褥ってのはこういうのを言うんだろう、な……?」

 京子の身体が緊張してるかのように強張っている。ふと見上げれば、その顔に怯えの色が浮かんでいるではないか。
 この子は俺に怯えている。秋芳は京子から離れようとするが、そのことに気づいた京子はハッとなって秋芳が離れぬよう抱きしめる。

「ごめんなさい、あたしそんなつもりじゃ……」
「さっきのことか」
「ええ、あなたのあんな姿、始めて見たから、その、怖くって……」
「いいんだよ、女の子はそれで。女性ってのはリアル暴力にはドン引きするもんさ。血を見て嬉々となるほうがおかしい」
「よくないわよ。あたし、少しは強くなった気でいたけど、全然だったわ。まだまだね、こんなんじゃ陰陽庁のトップになんかなれない。ああいうのにも慣れなくちゃ」
「いいよ、そんなのに慣れるな」
「だめよ」
「殴るのも殴られるのもまっぴらだ。手に残る感触、骨の折れる音、金臭い血の臭い、不快極まりない。……なぁ、京子。呪捜官は銃を使うし、祓魔官の中には刀を使う人もいるよな」
「ええ、神通剣の木暮さんとかがそうよね」
「あのじじいの言葉にも一理ある、陰陽師がもちいるものはなんであれ呪と言えなくもない。刀で斬られるのは殴られるよりも痛いし、銃で撃たれるのはもっと痛い。それは暴力だ。呪術は、暴力だ」

 そうだ、暴力だ。あたしはいままでそうと知らずに呪術を使っていた。こくりと無言でうなずく京子。

「暴力によって生じる傷の痛みには、それを越える覚悟と気迫で耐えればいい。武の道、呪の道を歩む者ならそれがあたりまえだ。だけどそれに『慣れ』てしまうと、他の人にまでその痛みを当然と強いるようになってしまう。人々の上に立つ人間がこれじゃあだめだ。慣れるのではなく、耐えれるようになってくれ」
「……ねぇ」

 秋芳君は人を殺したことがあるの?

 口まで出かかったその言葉を寸前で飲み込む。あたしはなんてことを訊こうとするのだろう!?

「なんだ?」
「……ねぇ、秋芳君。あたしあなたのことが好き」
「俺もだ」

 どちらともなくそっと唇を交わす。今日の口づけはいつもよりも少し情熱的だった。





 天馬を自室のベッドに寝かそうと横にしたさい、その目がうっすらと開いた。

「お、目が覚めたか」
「秋芳君? 僕、寝ちゃってたの?」
「ああ、そうだ」
「……なんだろう、すごく変な夢を見ていたような気がするけど……、思い出せないや」
「夢を無理に思い出そうとするのは心に悪いぞ」
「……ちがう、あれは夢なんかじゃない。あれは――」
「先に言っておくぞ天馬。あやまるな落ち込むな気にしても気に病むな」

 三人は落ち着いてひと息入れてから模型内で起きたことについて、あれやこれと話をする。煌びやかな造りに幻術を多用した罠。めったにできる経験ではない。過ぎてしまえば良い思い出だ。
 誰ともなく座卓の上の聚楽第をまじまじと見る。もはや妖しい気配はしない。異界における果心居士との戦いで模型も破損しているかと思ったが、そのようなこともないようだ。

「あー、でも今日はほんとうに疲れたわね」
「そうだな。て、まだこれしか経ってないのか」
「え? うそ! あれだけいたのに一時間も経ってないの?」

 ベッドの近くに置いてある目覚まし時計の針は、いまだ正午を指していた。
 他の方法で時間を確かめようとTVをつける。すると――。

『あなたの、TVに、時価ネットたなか~。み・ん・な・の、欲の友♪ ハァ~イ、こちら時価ネット。時価ネットたなかでございます。生放送でお届けする噂のショッピング番組時価ネットたなか。良い物をつねに適正価格でお届け、う~ん、目が離せない。さぁ~て本日紹介する商品はこちら! マジカルビキニ、ドルフィンスイムウェア、レインボーパレオら【渚の女神】セットでございます。こちらにさらに鞍馬山にある千年の霊木を削って作った木刀までおまけにつけちゃいます。さらにさらに! 今回時価ネットからお申し込みいただいた方だけへのサプライズ。ご好評にお応えして〇〇社制オリジナル幻の城シリーズ・城之崎城の模型をプレゼントします! かの徳川家康が駿河を手に入れる為に築城したものの、先に武田信玄に駿河を取られてしまい、逆に攻められ易いので浜松城に居城を変えてしまって、遠江の主城になり損ねたどころか完成さえしなかった残念なお城です。こちらの模型、先着十名様まで限定でございます。さてこの商品、気になるお値段は――。ぜひお早めにご注文ください。ご注文はインターネットとお電話で、ごらんのアドレスと電話番号から時価ネットに連絡してください――』

「またこの番組……、もう秋なのに水着って、てゆうか木刀? 模型? ほんとありえない……」
「――あ、もしもし時価ネットさんですか? 【渚の女神】セット一つお願いします」
「もう、いい加減にしなさい!」

 バシッ、と京子の呪符ハリセンが秋芳の顔面に炸裂。

「え、え~と。ここは『もう模型はこりごりだよ~』て締めなくちゃだめなのかな?」
「そんなお約束の締めかたしなくていい! ていうかいつの時代のアニメのオチよ、それ」





 闇よりも暗い気配を漂わすマンションの一室。座椅子に深く腰掛けていた老人の身体がビクリと震えた。
 羽毛のような白髪を後ろになでつけ、首から下は漆黒の着物。そして血のように赤いサングラスをした、異様な風体の老人。姿形に若干の差異があるものの。それはさきほど秋芳らが修祓した果心居士に似た特徴をそなえていた。

「やだ、ジャーキング? 幼女のは可愛いけど、じじいのはキモい」

 床に座り、なにやら難しげば書を読んでいた小柄な少女がそれを見て辛辣な言葉をつぶやく。

「……儂の〝影〟が修祓された」
「あ、そう」
「応仁の頃より使いし影。いささか『くどい』ところがあれど、あそこまで強力な影は他になし。自由に泳がせておったそれが祓われたのよ」

 作業に、読書に没頭する少女になんの反応もない。老人の言葉になぞ無関心。馬耳東風のようだ。

「たしか秋芳、と言うたな。あの鬼一法眼や司仙院興仙に勝るとも劣らぬ験力を、呪と武の力を兼ね備えし者。今の世に珍しき逸材。儂に術くらべで勝った褒美をくれてやらねばな……」

 クツクツクツ、老人は心底嬉しそうに笑い、思案をめぐらせていた。
 なにを与えればあの若者は喜ぶのだろう、と――。 

 

巫女学科

 
前書き
 『東京レイヴンズ RED AND WHITE』に登場するキャラクターを出してみました。  

 
 青い空、白い雲、燦々と輝く太陽に紺碧の水面。押しては引く波からただよう潮の香り。
 海だ。
 浜辺だ。
 ビーチだ。
 紺色のスクール水着、赤いホルターネックビキニ、白のワンピース、黒の競泳水着、バンドゥ、タンキニ……。多種多様、色とりどりのスイムウェアを着た乙女たちが若く美しい肢体をさらし、自由奔放に戯れている。
 その様はさながらギリシャ神話に出てくる妖精(ニンフ)のよう。
 砂浜から彼女たちの姿をまぶしそうに見つめていた秋芳がぽつりとつぶやく。

「若いって、いいなぁ……」
「やめてよ秋芳、聞いてるこっちが年寄り臭くなりそう」

 隣にいるのは秋芳の使役式である笑狸。さらしのようなチューブトップビキニにデニムのショートパ
ンツ姿で、どう見ても女の子にしか見えないが、その正体はオスの化け狸である。

「しかし水に浸かるだけでよくあんなテンションが高くなるもんだ。どうせなら温泉が良いな、温泉」
「温泉も良いけど本物の海に行きたい。こんなプールじゃなくてさ」

 そう、ここは実際の海ではない。渋谷にある区営プールだ。空も海も砂浜も潮の香りも、笑狸の幻術によるまやかしにすぎない。

「そうだな、来年の夏にでも伊豆七島あたりの島にでも行ってみるか」
「お待たせ!」

 快活な声に振り向くと、あざやかなブルーのビキニ。ビーチバレーの選手が着るようなスポーティーなタイプの水着を着た少女が立っていた。
 倉橋京子だ。

「お、今日はいつもの髪型じゃなくてポニーテールか」
「ええ、この水着に合わせてみたの。どう? スポーツ少女って感じが出てるでしょ」
「ああ、すごく似合ってるよ。う~ん、綺麗だ! ビキニのトップスとボトムスの間にはペガサスのような清純と幻想が潜んでいるってのは、このことだな」
「ごめんなさい。後半の意味がさっぱりわからないわ」
「その水着ってこないだの時価ネットのやつか?」
「そうよ、ドルフィンスイムウェア。せっかくもらったんだし、良い機会だから着てみたの」

 結局あの時渚の女神セットを購入した秋芳だった。

「これ、なかなか着心地が良いわよ。たしかにイルカさんにでもなった気分で速く泳げそう」
「そうなのか。でもこうして見ると胸とか、かなり窮屈そうに見えるんだが……」
「それがそうでもないのよ。この水着、伸縮性がすっごく良いの。て、どこ見てるのよ、エッチ。んもうっ。ほんっと好きなんだから」
「男はみんなおっぱいが好きなんだよ。まして好きな子のそれならなおさらさ」
「あたしのならいくら見ても良いけど、他の女の子のじろじろ見たりしちゃダメよ? あ、あそこのかわいい男の子が例の子?」
「ああ、そうだ。彼が梅桃桃矢(ゆすらとうや)。うらやまけしからんことに、巫女クラスにいる唯一の男子生徒だよ」
「あ~あ、女子たちにもみくちゃにされちゃって、まぁ。ハーレム状態じゃない」




 
 話は、少し前にさかのぼる――。
 大正時代のミルクホールを思わせる、上品で落ち着いた模様のレトロな部屋。かすかにただよう香りは白檀だろうか、部屋の様相とあいまって心がやすらぐ。
 ここは陰陽塾の最上階にある塾長室。マホガニー製の机をはさんで着物姿をした年配の女性と烏羽色をした狩衣のような学生服を着た青年が話をしている。
 陰陽塾塾長の倉橋美代と、賀茂秋芳だ。

「巫女クラスで講師をしろと?」
「ええ、そう。あなたのこの間の野外実習。あれがなかなか評判でね、賀茂秋芳になら講師役をまかせても問題ないと判断したの」
「生徒のみなさんには不評だったようですが……」
「大友先生の報告を聞いた講師のみなさんには理解してもらえたわよ、少々奇抜だけれども、実に理にかなった修練だ。て」
 大友先生はいったいどんな具合に報告したのやら。そして講師たちはどんな思惑で理解したのやら。自分達の仕事量を減らして楽するために、そういう流れにもっていってるのではないだろうか? ついつい邪推してしまう。

「そこで今度は巫女クラスを担当してもらいたいのよ、なにも丸一日講師役をしろとは言わないわ。あなたもまだ一応は塾生なんだし。そうね、とりあえず明日からは大友先生の授業にだけは出席してもらって、それ以外の時間は巫女クラスを受け持ってちょうだい」
「なんで大友先生の授業だけは受けるんです? 担任だからですか」
「だってあなた大友先生以外の授業では、穏形して京子さんといちゃついているのでしょう?」

 大友陣。
 陰陽塾の講師で秋芳や京子たちの担任。右足が義足で杖をついている妙な西国言葉を話す男性で、飄々とした言動で周囲をかき回すこともしばしば。
 だがその実力は一流。あなどれぬと見た秋芳は彼の講義の時には京子とおしゃべりせず、黙って授業を受けている。
 秋芳は机の上に置かれた白磁のカップに手を伸ばし、その中身をゆっくりと嚥下してひと息つく。

「……このお茶、美味しいですね。馥郁たる香りに豊潤な味わい、まるで本場の龍井茶のようだ」
「京子さんといちゃいちゃしてるのでしょう?」
「茶の香気が薄くなる時期に沸き立った湯を入れたら茶の香気も吹き飛びますよね。香気のない茶は美味しくない。だから熱さの加減には気を使います」
「京子さんとイチャイチャしてるのでしょう? あら、イチャイチャてカタカナ表記だと、なんだか濡れてるみたいでいやらしい……」
「ちょっと下ネタとかやめてくれます? 年配の女性が口にする下ネタとか、ほんと反応にこまるんですけど!」
「あの子とイチャイチャパラダイスしてるんでしょ?」
「してるけどしてませんー、させてくれないんですー。普通に仲良くしてるだけです、淫行とかしてませんからね。穏形して痴漢的なプレイとかまったく、全然ナッシング。皆無です。普通にお話してるだけですよ、ていうかなんで知ってるんですか?」
「うふふ、この塾舎は私の〝城〟みたいなものですからね、知っていますとも。……呪術においておのれの心の持ちようというのは、とても重要なポインです。そのてん恋愛というものは人の心に抗いがたい影響をあたえるもの。呪術を学ぶ者ならば、きちんと知っておかないといけないわ。あなたと京子さんのちんちんかもかもな仲、応援しますよ」

 ちんちんかもかも。
 男女が仲睦まじくしているさま。

「だからこそ将来のことも考えなくちゃ、私は自由恋愛に賛成の立場なの。だから孫娘のお相手の家柄とか収入とかは特に気にしませんけど、やっぱりちゃんと定職に就いてるかたのほうが安心するわ。秋芳さんは加茂家のかたですし、家柄に関しては問題ないにしても、高等遊民はちょっと、ねぇ……」
「ええ、それはそうでしょうね。俺も『働かざる者、死ね』をモットーにしていますから」
「秋芳さんは家業を継ぐつもりですか? それとも陰陽庁に勤めるつもり? 特に決まっていないのなら、このままここに就職しちゃいなさいな」
「んー、まあぁ、それはいいのですが」
「いいのですが?」
「きっちりみっちり三年間は学生として通いたいですね」
 
 遅れてやってきたモラトリアム。失われた青春を謳歌したい秋芳だ、飛び級などでその貴重な時間を消されたくはない。

「まぁ、たまには予行練習がてら講師の真似事をしてもかまいませんが」
「引き受けてくれるのね、ありがとう。じゃあこれ巫女クラスの名簿。目を通しておいてくださいね」

 三年間は通学したいと言ったが、なにやらこのままなし崩しに講師にされてしまう。そのような予感に襲われつつ部屋を出る秋芳を満足げに見送った美代の手が無意識のうちに机に置かれた六壬式盤にのびた。
 自由恋愛に賛成という美代の言葉に嘘はない。
 呪術界きっての有力な一族、名門に生まれた京子だ。その立場上、将来的な政略結婚の話や、すでに許嫁がいてもおかしくはない。だがそのような類に縁がないのは祖母である美代。希代の星読みとして政財界にも名が通り、陰陽塾を開講当初から支えてきた呪術界の重鎮である彼女の意思によるところが大きい。
 そんな孫娘が見初めた始めての恋人。その相性や仲をついつい占なってみたくなったのだが――。

「あら、いけない」

 のばした手をあわてて引っ込める。
 卜占には守るべきことがいくつかある。そのうち一つが『男子に(しょう)を語らず、女子に(しき)を語らず』と言われるもので、寿命や異性関係などを読みとってもむやみに語ってはいけな
い。そもそも頼まれてもいないのに、自分の好奇心からそのような占いをしてはいけないというものだ。
 恋する若者の姿を見ていると、こちらまで気が若くなる。年がいもなく、ついつい少女の心に戻って恋占いをしようとした自分の未熟さに恥じる美代だった。





 渋谷区道玄坂――夕刻。
 異能がもてはやされるのはつねにアンリアルな世界だけ、現実ではそうはいかない。人ならざる〈力〉が、能力が他人に知られたらどうなるか……。だから梅桃桃矢は自然と心を殺し、ふたをしていた。
 そのふたをはずし、殺していた心に息を吹き返さしてくれたのは巫女クラスのみんな。ひいては陰陽塾と、そこに紹介してくれた講師の大友先生だ。
 だがそれでも、いや、感情を取り戻したからこそ生じる悩みがあった。
 ショーウィンドウに映った自分の姿が目に入ってしまい、思わずため息がもれる。
 千早、襦袢、白衣が一つになったような上着と、緋袴のようなキュロットスカート。神道の巫女装束を模してデザインされた、陰陽塾巫女クラスの制服。それに身をつつんだ華奢で小柄な体躯。やわらかく艶のある黒髪に白い肌、濃いめの桜色をした唇、丸みをおびた優しげな顔立ち。
どこからどう見ても少女にしか見えない。それも美少女と言っていいレベルの。
 だが梅桃桃矢はれっきとした男性だ。生まれついての体質か、いくら食べていくら運動しても太らないかわりに、筋肉もつかない身体だった。
 この脆弱な体型がいやになり、一時期はボクシングを習ったこともあったが成果は上がらず、肉体にも目覚ましい変化はなく、それどころか新たな禍根を残すことになってしまった。
 その禍根とは――。

「あれ~、桃子ちゃんじゃない」

 B系やストリート系のファッションをした数人の少年に取り囲まれる。

「こんな場所でオレらに合うなんてラッキーだねぇ」

 ニヤニヤ笑いながら髪を茶に染めた少年が近づき、軽めのボディブローを放つ。他の少年たちの体に隠れ、周囲には殴ったところを見られぬように計算して。

「うぐっ」
「これがボクサーの挨拶だよ挨拶、桃子ちゃんも経験者ならわかるよね?」

 ボクシングにこんな挨拶あるものか……、痛みと悔しさで目に涙がにじむ。
 彼らは桃矢が以前に通っていたボクシングジムの練習生たちだ。なにかというと桃矢の女の子のような容姿を嘲笑い『桃子』などと呼び、スパーリングと称していじめを繰り返してきた連中。
 無意識のうちに周りに助けを求めるよう、逃げようと身じろぎした桃矢の肩を、金髪の少年が力いっぱいにつかみ、押さえた。

「逃げるなよ、桃子」

 痛みに顔を歪ませ、おびえる小動物のように目を潤ませて金髪を見上げる。
 獣だ。
 そこには人の皮をかぶった獣がいた。自分たちより力が弱い、脆弱な者を狙い、集団で虐げる少年たちは、餓えた肉食獣の群れのようだ。

「マジで巫女クラスとやらに入ったんだな。なんだよその制服は、風俗かよ!」
「あー、なんかアキバ系っての? オタがよろこびそうだよな『モエー』とか言って」
「ほんと女にしか見えねぇ。それでおやじ引っかけられるぜ」
「なぁ……」
「ああ」

 少年たちはたがいに目配せを交わし、桃矢を囲んだまま移動する。その輪から抜け出すこともできず路地裏に連れ込まれてしまった桃矢の目の前にカメラつきの携帯端末を突き出された。

「え?」
「ちょっと脱いでみてよ」
「……そんなこと、できるわけ――」

 言いかけた桃矢の腹部に激痛が走った。
「うぐぅッ……!?」

 先ほどのボディブローよりもはるかに力のくわえられたパンチにより、後方に吹き飛ばされ、背中を壁に叩きつけられ、倒れそうになるのを必死で耐えた。苦痛のうめきをあげながら顔を上げると、少年たちはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた。

「女の子のストリップと思いきや、ざんね~ん。男でした~、て画が撮りたいんだよ」
「そうそう、桃子ちゃんカワイイからみんなだまされちゃうよ、きっと」
「早く脱いでよ」
「D・V・D! D・V・D!」

 もはや桃矢は込み上げてくる涙をおさえることができなかった。

(こんな時に僕の持っている力なんて全然役に立たない。あんなの邪魔なだけだ……)

「オラ、とっとと脱げよ。それとも脱がされてぇのか」

 服を強引に脱がそうと、金髪の手が迫る。

「……こいつほんと女みてぇ。これならマジでやれるわ」
「やっちゃう?」
「やっちゃおうか?」 

桃矢の衿に金髪の手が強引に侵入してきた、その時――。

「はいそれまでー。警察に通報されたくなかったら、狼藉者のみなさんはとっとと退散しちゃってくださーい」

 救いの手がさしのべられた。





 塾舎近くにある中華料理屋で小腹を満たした秋芳と笑狸が渋谷の街を歩いている。

「あー、美味しかった。でもちょっと物足りないかな」
「……ああ」

 不機嫌を音にしたらこのような声になるのだろう。そんな声の調子だ。

「あれあれ? 秋芳ってばご機嫌斜め?」
「あたりまえだ。三パーセントの増税なのに一律五〇円も便乗値上げするとか、ふざけるにもほどがある。個人でやってる店ならともかく、チェーン店ならもう少し頑張れよと言いたい」
「ああ、それで怒ってるんだ。んー、でも一番ふざけてるのは、国民に増税を強いておいて、自分らはちゃっかり給料上げてる国会議員の連中だよね」
「ああ、そうだ。そうだとも! まったく日本人は明治維新と敗戦後の復興に民族的なエネルギーを費い果たして、権力者に対して暴力によって異議をとなえるエネルギーを枯渇しちまったのかね、水滸伝でも読んで少しは暴れて欲しいものだよ、まったく」
「そういえば水滸伝の美少女化ものってまだないよね」
「そうだな、日本の戦国武将や三国志の英傑が美少女キャラになったやつならやたらとあるが、水滸伝はまだないんじゃないか? いや、俺らが知らないだけで断言はできないが、すでにあったとしてもメジャーじゃないよな」
「なんでだろうね?」
「う~ん、やっぱ百八人も美少女キャラ化するのが大変だからじゃないか? ヴィジュアルとか考えたりするのが」
「李逵は色黒のバカロリキャラだよね」
「うん、わかる」
「呼延灼はボンデージファッションで鞭を手にした女王様」
「安直だが妥当な線だな」
「阮三兄弟あらため三姉妹はスク水着用」
「ああ、それは絶対そうだわ。少なくとも一人はスク水着てるな」
ふと、笑狸の足が止まる。
「どうした?」
「ねぇ、あれってうちの、巫女クラスの制服じゃない?」
 
 笑狸が指さす方向。にぎやかな通りの中にあって人々が避けて通る一角がある。紅白の目立つ制服を着た一人を五人の若者が取り囲んでいた。

「なにやら良からぬ風体の連中にからまれているようだな」

 剣呑な空気を察して遠目に観察していると、若者の一人が巫女の腹部に拳をめり込ませたではないか。それを秋芳の動体視力は見逃さなかった。

「義を見てせざるは勇無きなり。同じ学び舎に通う朋友の危機は見過ごせん」
 秋芳は路地裏に駆け、笑狸もそれに続く。





「はいそれまでー。警察に通報されたくなかったら、狼藉者のみなさんはとっとと退散しちゃってくださーい」

 秋芳はそう言って携帯電話を水戸黄門の印籠よろしく少年たちにつきつけた。ディスプレイには『110』の数字が出され、発信ボタンを押すようなそぶりを見せつける。

「暴行と強制わいせつの現行犯だ。悪いことは言わないから――」

 いきなり茶髪が殴りかかる。
 桃矢は助けに入った青年が殴られる様を想像して思わず目をつぶった。が、彼が危惧したことは現実には起きなかった。秋芳は茶髪の拳を受けも逃げもせず、首を動かしただけでそれを避けたからだ。
 次の瞬間、秋芳の脛が茶髪のそけい部にめり込んでいた。

「~~~~ッ!?」

 あわれ、急所を蹴りを潰された茶髪は声もあげずに口から泡を吹いて倒れ伏す。

「乱暴だな。しょっ引かれたいのか?」

 そう口にする秋芳だったが、言葉とは裏腹に携帯電話をしまい込んだ。
もとより警察に通報する気はなかった。
 通報というやつが実にめんどくさいからだ。現場でわかりやすい場所に立って待っていろと命令されるし、住所氏名を言わされる。匿名で用件だけ伝えて切っても、警察には強制的にこちらの電話番号がわかる。こちらから電話を切っても警察のほうで回線をつかんでいて回線は切れてない。技術的にそのようになっていて通報側には拒否権なし。第一通報者があやしいと後から家に来る場合もあり、任意ではあるが指紋まで採取されたりもする。痛くもない腹を探られるのは不愉快だ。あちらもあやしむのが仕事だろうが、警察や公安。呪捜部の連中とはお近づきにはなりたくない。
秋芳はつねづねそう思っている。

「っけんなコラ!」

 金髪がいきりたって攻撃してきた。茶髪のものよりも鋭く速いパンチ。右ストレートが顔面を狙ってくり出される。
 身体を横へ流しつつ右の掌でそれを受け、つかむ。と同時に左手がその肘を捕らえ、右掌に力を入れる。
 パキン。
 枯れ枝を折るような乾いた音が響いた。金髪の右手の手首が外側に折れ曲がっている。
 手の甲が腕にぴったりと平行に重なっていた。人の手首はここまで曲がらない。腕と手のつなぎ目、手首の骨を折ったのだ。
 金髪が目を丸くしてそれを見る。グロテスクで異様な光景。そして襲ってくる痛み。

「ひいぃぃぃ」

 と、甲高い叫びをあげた。あげ続ける。肺の中の空気が無くなるまであげ続け、その場にへたりこんだ。

「女みたいな声を出すんだな」
 低い位置に下がった金髪の顔面目がけて膝蹴りを放つ。鼻骨が砕けるいやな音と感触が伝わってくる。

「おい、友だちがケガをしたぞ。血が出てる。病院につれて行ってやったらどうだ?」

 五人のうち二人をのした。これで戦意を喪失してくれただろうか?
 しなかった。残った三人のうち二人が、左右にわかれてパンチを続けざまに打ってくる。
 両腕を前にして防御の構え。ひたすらガードに徹しているように見えたがしかし、苦痛の声をあげ出したのは攻撃しているほうだった。秋芳は相手のパンチに対して拳や手刀で鋭い払い受けを繰り返し、的確に肘受けをしていた。肘の骨は拳の数倍硬い。そしてボクサーというのは空手家とちがって拳そのものを鍛えたりはしない。カウンター気味の肘受けは彼らの手を傷ませていた。
 攻撃の手がゆるむ。そのすきを見逃したりはしない。左脚が一閃し片方のわき腹を、肝臓の部分をえぐる。空手でいう三日月蹴りだ。
 命中。口からよだれを流し、悶絶する。そしてもう一人に対しては縦拳を放つ。ガードを試みるが痛みで動きが鈍くなっていたため、やすやすと甘いガードをかいくぐり、あごにヒット。大きくのけ反ったところで鳩尾、みぞおちに前蹴り。つま先からくるぶしまでが腹部にめり込んだ。激しい痛みと呼吸困難に血反吐を吐いてのたうち回る。こちらも戦闘不能だ。

「クソが! 死ねよオラァ!」

 最後に残った一人が折り畳み式ナイフを取り出して突進してくる。
秋芳の脚が下から上へと跳ね上がり、膝から先がナイフを持った手と顔にほぼ同時に炸裂。同じ足での連続した蹴り、空手でいう二枚蹴りが決まった。蹴りを受けた手からはナイフが、顔からは白い石のような物があらぬ方向へ飛んでく。
 白い石のような物、歯だ。あごの骨を砕かれ、数本の歯が吹き飛んだのだ。その衝撃に脳震盪を起こしてその場にくずれ落ちる。痛みを感じる前に意識を失ったのは幸運だったのかも知れない。
これでもう、まともに動ける狼藉者はいなくなった。

「ねぇ、君。だいじょうぶ? ケガはない?」

 予想だにしない展開に呆然としている桃矢に笑狸がやさしく声をかけた。

「とりあえず逃げよう。普通にゆっくり素早く、ここから離れるんだ」

 街でのケンカは五秒で終わらせ五秒で逃げ切るのが理想だ。そうしないと警察に見つかり、身にふりかかる火の粉をはらっただけなのに捕まりかねない。
 警察とヤクザに関わるのはごめんである。秋芳たちはいそいでその場を後にした。





 陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。

「いや~、災難だったな。あとできちんと通報しといたほうがいいぞ。ただし俺のことは内緒でな」
「……ありがとうございます」

 桃矢は差し出されたお茶をひと口すする。甘い。だが砂糖やシロップの甘味ともちがう、不思議な味だった。

「それ、羅漢花茶だよ。日本じゃあまんまり見かけないよね、美味しいのに」
「うむ、中国南部に住むミャオ族の人たちはそれを不老長寿の健康茶として重宝しているんだ。よく味わって飲むように」
「は、はい。すごく美味しいです」

 ほっと一息ついた、その時。
 ポロリと涙が落ちた。

「え?」

 とめどなく涙があふれてくる。止まらない。

「ひっく、な、なんで……。う、うぇぇっ、なんで? なんで泣いちゃうの?」
「緊張の糸が切れたんだろう」
「う、ぐすっ。こ、こんなの情けな、ひっく、僕、男なのにっ……」
「なぁに、男でも女でも泣きたい時は泣けばいいのさ。俺だって『男たちの挽歌』を観たり『Kanon』をプレイした時は、ぐっとなって泣いちゃうからな」
「うぐぅ、それジャンルちがいすぎですよ。ぐすっ、スンスン……」

 しばらくの間、桃矢のおえつが部屋の中に響く。
 ようやく落ち着きを取り戻した桃矢は部屋の中をぐるりと見わたす。けして広くない部屋中に遮光器土偶だのカレー鍋だのファラオの胸像だのが置かれている混沌とした様相。それでいてどこか整然としている。
 この部屋の主は、自分を助けたこの人はいったいどのような人物なのだろう?

「あの、助けてくれてありがとうございます。僕は巫女クラスの梅桃桃矢といいます。……性別は、男です」
「ああ、男の帯びる陽の気をまとっているのが見える。俺の名は賀茂秋芳で、こっちは笑狸だ。さっきは偉かったぞ、あそこまで追いつめられても呪術を行使しないなんて。若い呪術師は一般人相手にもキレて、平気で殺傷するような術を使うのが多いからな」

 ちがう。
 自分は呪術を使わなかったのではない、使えなかったのだ。
 恐怖にかられ、身がすくんで動けなかっただけだ。

「平気で殺傷するような技を使った呪術師なら、ここに一人いるけどね~」
「こっちは一人、むこうは五人。それも格闘技の、たぶんボクシング経験者みたいだったようだし、正当防衛以外のなんでもないさ」
「へぇ、街でボクサー五人に因縁つけられるだなんて、桃矢くんついてないね」
「……はい、彼らとはたしかに『因縁』があります……」

 かつてボクシングを習っていたこと。彼らはそこにいた素行の悪い練習生だったことを桃矢は説明した。

「身体を鍛えるためにボクシングか。悪い選択じゃないが、そういう不良連中がいるようなジムなら、やめて正解だよ。それに巫女がボクシングって、ユニークすぎるだろ」
「あはは、たしかにそうですね」

 桃矢の顔がほころぶ、可憐で清楚な花が咲いたかのようなひかえめな笑顔。そこには京子のように覇気と自信に満ちた輝かしい笑顔とはまた趣の異なる魅力があった。
 熟練の陰陽師。見鬼の使い手は肉眼で見ると同時に霊的に『視る』。陽の気をまとう桃矢を男だと認識していてなお、惹かれるものがあった。

(もっともこいつが女だとしても俺には京子がいるから妙な気は起きないがな。それにしても笑狸といい木ノ下先輩といい、この桃矢といい。最近の日本は男の娘が増えているのか?)

「あの、どうかしましたか?」
「ああ、近いうちに巫女クラスにお邪魔するからよろしくな」
「え? ……あ! あなたが賀茂先生ですか?」
「なんだ、もう話がいってるのか」
「はい、この前、大友先生から聞きました。賀茂家の優秀な生徒が臨時で講師をするって」
「なら話は早い。いかにも俺がその賀茂だが、せっかくだ。巫女クラスについて色々と聞かせてくれ」
「僕にわかることなら……」

 陰陽師とは異なるアプローチで呪術にかかわる、異端ともいえる巫女クラス。
 彼女らは緋組と白組の2クラス制。各定員三十九名の七十八人で構成。その中で三人組(スリーマンセル)の『隊』を作って行動する決まりがある。授業のみならず私生活にもおよび、一蓮托生の共同生活で協調性を養うのだ。
 授業のほかに、巫女のタマゴが請け負う様々な案件が課題としてあり、神楽を舞ったり祈祷したり、お年寄りの湯飲み話につき合ったり、社の掃除をしたり、失せ物を探したり、恋の相談をしたり、その内容は多種多様だ。
 また神敵と対峙すれば自らを刃へと変え対峙することすらある。これにはいわゆる霊災の修祓もふくまれている。
 そして梅桃桃矢。彼は異例中の異例である四人目の隊員にして緋組の四十人目。七十九番目の巫女クラスの生徒だ。

「君が異例というわけだが――」
「はい、それは――」

 同調性共鳴症(シンクロニシティ)。能力者を媒体におたがいの霊力を同調させて共有する、一種の特異体質。
 桃矢の場合、おたがいの気持ちが昂ぶった状態で唇が触れると霊力が同調し、一人の体に二人分の霊力が共有され、場合よっては共鳴効果により増幅することもあるという。

「聞いたことのない力だな……」
「はい、大友先生もそうおっしゃってました」

 その異能の力ゆえ誰にも相談できず、その筋の蔵書が多い図書館や書店を巡り、文献を調べているうちに大友陣に見出された。
 不明な部分の多い能力。呪術を心得ない者たちに下手に保護されたら事故もありうる。桃矢個人の学校生活を保ちつつ、この能力と向き合うには陰陽塾巫女クラスが一番と判断され、直々の推薦を受けた。そういう話だ。

「クラスのみんなは僕の監視役兼護衛役、だそうです」
「そいつは凄いな。喜べ、超VIP待遇だ。なんせ見習いとはいえ陰陽じ――じゃなくて巫女さんが、呪術者が総出で護衛だなんて、そうそうないぞ」
「女の子に守ってもらうなんて、複雑です……」
「役得だと考えろ。ハーレムアニメの主人公状態じゃないか。だいたいどうしてわざわざ巫女クラスに男の君を……。そうか、神憑りか!」
「あ、大友先生もそんなこと言ってたような」

 人の心。すなわち魂に働きかける術はきわめて危険だ。少しでもあつかいを誤れば術者のみならず対象の精神を壊しかねない。霊的な同調効果のある呪術が存在したのなら、まちがいなく帝式に組み込まれ、禁呪指定されてもおかしくはないだろう。
 そのような能力を持った者をあえて巫女クラスに編入した理由。それは彼女たち巫女が神憑り。神霊の類をおのれの身に降ろす素養を持ち、普段からその訓練をしているため、魂に一種の耐性があるからでは。秋芳はそう読んだ。

「その力、ちょっとここで試してみないか?」
「ええっ!? ダメですよ、大友先生から能力の使用は禁止されてるんです」
「ほう、それは意外だな。あの人の事だから『持って生まれた力を忌避したらあかんで。力を抑えるのではなく制御する方向で修練をしたらええ』とか言いそうなのに」
「ああ、たしかにそんなこと言ってましたけど、まだ時期尚早とか……」
「判断を人に任せていいのか? そんな悠長なこと言ってたら、いつまで経っても問題が解決しないかも知れないぞ。古人曰く『奇跡を待つより捨て身の努力よ』だ」
「でも、もし他の人に知られたら……」
「この部屋の呪的防御が施されている。ちょっとやちょっとの術で、いや派手にドンパチやったとしても周りにはそうそう気づかれないさ」
「わ、わかりました。それじゃあどこにキ、キ、キ……」
「樹木希林?」
「ちがいますよ! なんでここで老け役があたり役だった女優さんの名前が出てくるんですか! どこにキスしたらいいか聞いてるんです」
「どこがいい、笑狸?」
「え? ボクが決めていいの?」
「いいよ、おまえがキスされるんだからな」
「なにそれ! ボクを実験台にするつもり?」
「実験台とは人聞きが悪い。なんかあった場合、俺なら対処できるがおまえにはそういうスキルないだろう。だからさ」
「んもー、しょうがないなぁ……。じゃあ、おでこにしてくれる?」

 もとより好奇心旺盛な性質な笑狸はあっさりと承諾し、手で前髪を上げてひたいをつき出した。

「それじゃあ、い、いきますからね」

 桃矢の桜色をした唇がかすかに笑狸の肌にかすかに触れる、小鳥がついばむような軽い口づけ。

(あー、富士野さんや木府さんが見たら喜ぶだろうなぁ)

 男子寮の寮母、富士野真子と女子寮の寮母、木府亜子は男性同士の恋愛に心ときめく趣味の持ち主で、よく寮生たちで妄想して楽しんでいる。
 と、その時。光が満ち、笑狸と桃矢。二人が一人になった。
 光に包まれ、それが消え去った時、『笑狸』のまわりを三体の影が飛び交っていた。半透明の影たちは『桃矢』を中心として、渦巻くように高速で飛んでいる。まるで嵐の中だ。音も光もさえぎられ、部屋の様子もわからない。
 桃矢はとまどっていた。いったいなにごとが起きたのか、こんなのは始めてだ。理解できない。
 笑狸は飛び交う影になつかしさと心強さを感じた。
 あれこそは、あの影こそは偉大なる隠神刑部。八百八狸を統率する大剛の大将。
 あの影こそは義気義侠に満ちた団三郎狸。弱きを助け強きをくじく佐渡の豪傑。
 あの影こそは屋島の太三郎狸。はるか昔、とある狸が矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられ、その恩義から平家の守護を誓うもかなわなかった。だが、その代わりに後世においてその子孫が日の本の存亡を賭けた戦争で活躍した。その一族の長。
 大いなる祖霊の力が流れ込んでくる――。

「……笑狸、か?」

 秋芳の眼前に長髪の若者が姿を現した。その身にまとう気はたしかに笑狸のもの。だがその容貌は大きく異なる。
 漆黒の長髪、金色に輝く瞳、白い牙、銀色の爪、赤い舌、とがった耳と太い尾……。
 妖美なる化生がそこにいた。

「賀茂秋芳……。おまえを、食う」

 そのあやかしは美しい声色で物騒なことを告げ、秋芳に襲いかかった。 
 

 
後書き
 これ書いてた頃にちょうど消費税が上がったんですよね。 

 

巫之御子 1

「う~ん、あなたのために歌うことが、こんなにもつらいことだなんて……」
「わけのわからん寝言を言ってないで起きろ!」
「ああっ! だめだよ秋芳……。ボクたちは姉弟なんだから……、そんなことしちゃいけないんだ」
「いったいどんなシチュエーションの夢なんだよ!?」
「歯磨きプレイなら、いいよ。それが兄弟姉妹の超えてはならない最後の一線……」
「うるせぇよ!」
「……て、ボクどうしちゃったの? たしか桃矢君にキスされて同調ナントカして――わ! 肩、どうしたのさ?」
 
 笑狸をゆさぶる秋芳の肩の部分。そこの布地は破れ、まわりに血がついていた。

「おまえが噛みついたんだよ。おぼえてないのか?」
「……うん」
「同調性共鳴症と言ったな。能力者を媒介にたがいの霊力を同調させる、て言うから、てっきり片方に二人分の意識と霊力が集中し、もう片方は意識を失うとでも思ったが、肉体が完全に融合するとは、予想外だったわ」
「す、すみません。まさかこんな結果になるだなんて、いつもはちがうんです」

 かたわらで呆然としていた桃矢があわてて声をあげる。

「なぬ?」
「今、秋芳さんが言ったとおり、普段はシンクロするだけなんです。相手の身体に僕の意識と霊力が移って、僕のほうは抜け殻になる、みたいな」
「そうか……。うん、やっぱり積極的に使って制御する方向で修練したほうがいい。自分の中にわけのわからない力があるのはいやだろう?」
「……はい」
「よし、じゃあ明日からよろしくな」
「あ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします」





 道玄坂の路地裏。
 秋芳にのされた男たちがころがっている。 
 ぞぶりぞぶり、ごつんごつん、ぬちゃぬちゃ 、こつりこつり、ごぶりごぶり――。
 そこに水気をはらんだ異様な音が響いていた。
 男の一人が目をさます。一番最初に秋芳に殴りかかり、そけい部を強打されて気絶した茶髪男だ。
 起き上がろうとするが、できない。なにかが、なにかが身体の上におおいかぶさっている。
 よく飼い猫が寝ている人の上に乗ることがあるが、そのような感じでなにかが乗っているようだ。首から上だけを動かして、茶髪はそれを、自分に乗っているものを見た。
 最初、それは裸の子どものように見えた。小さかったからだ。だが子どもではない、子どもはこんな姿をしてはいない。
 骨と皮だけに痩せ細っているにもかかわらず、腹部だけが妊婦のようにふくらんでいた。猿のような顔をしている。
 茶髪が餓鬼草子や地獄草子を見たことがあったなら、そこに描かれている『餓鬼』というものに似ていると思ったことだろう。
 猿のような顔をしたそいつは、しきりになにかを口にしている。
 赤黒い、肉のようなものを口にはこび、ぞぶりぞぶりと咀嚼していた。
 やめろ。オレの体の上でなにをしている。なにを食べているんだ!?
 大声でそう叫んだはずだったが、空気が漏れただけ。恐怖のため声が出なかった。
 左右に首を動かして助けを求める。仲間は、他のみんなはどこにいる? 助けてくれ!
 いた。
 そこには自分と同様に横たわる金髪の姿があった。
 食われている。
 猿のような顔をした異形が群がり、金髪の全身をむさぼり食っていた。
 のど笛を喰い裂かれ、そこからぞぶりぞぶりと血をすすられている。
 頭に噛りつき、ごつんごつんと頭骨を噛み砕かれている。
 膝を割り、こつりこつりと軟骨を咀嚼されている。
 悪夢のような光景に目をそむけると、腹の上にいたそいつと目が合った。
 細長い、腸のようなものをぬちゅぬちゅと頬張っている。
 ちがう。
 腸のようなものではない。あれは腸だ。腸そのものだ。オレはこいつに食われている。
 手足をバタつかせ、全力で飛び起きようとしたが、できなかった。肩口から先の両腕が、ない。足の感覚も、ない。おそらく食われたのだ、こいつらに。
 これは夢だ。
 自分は悪い夢を見ているにちがいない。
 早くさめてくれ。
 茶髪はそう願いながら両目を閉じて眠ろうとした。夢の中で寝る。そうすることで夢からさめると信じて――。
 腹を食われ、頭を食われ、髪も爪も歯も食われ、地面に流れた血の一滴残らず舐めとられ、男たちはこの世から姿を消した。

「ああ、食った食った」
「ああ、食った食った」
「たらふく食べた」
「たらふく食べた」
「だが、腹が減ったな」
「ああ、腹が減ったな」
「たりぬ」
「たりぬ」
「ひもじいのう」
「ひもじいのう」
「いかん。食うのに夢中で桃の童を見つけたこと、忘れていたわ」
「腹が減っていたのだ、しょうがない」
「桃の童を追って食うか?」
「桃の童を見つけたことを知らせるか?」
「どうする?」
「どうする?」

 異形の群れはしばらく話し合った後、ふた手にわかれてその場から去った。





 巫女クラス専用の宿舎は女子寮の敷地内にある。
 男子寮からさほど遠く離れてはいないが、先ほどチンピラにからまれた件があったので秋芳はそこまで桃矢を送ることにした。

「まわりが全員女子だと肩身がせまくないか? つうか逆にモテモテか?」
「モテモテって感じはないです。最初はやっぱり警戒されてたというか、奇異の目で見られたというか……、でも今はもうおたがいに慣れてきたので、拘束されることもなくなりました」
「拘束?」
「ええ……、乙女の園に男がいるなんて危険! て、首輪につながれたり、女子の着替え中は目隠しされたり、女子が使った後のトイレは一時間入室禁止だったりで、さすがにきつかったです」
「どんなプレイだよ、それ。M男にはたまらんだろうな」
「でも最近はわりと自由にさせてくれるようになったんですよ。僕がふしだらなことをする男子じゃないってわかったみたいで」
「それはそれで、複雑な気もするが……」

 秋芳はあらためて桃矢の顔をながめる。
 夕暮れ時の薄明かりに照らされた桃矢の容貌はどこからどう見ても少女にしか見えなかった。見た目がこうなると、性別は男でも気にならないものなのかも知れない。
 風が吹いた。
 秋らしい、涼しげな風だ。

「あー、涼しい。気持ちの良い風ですね」
「……桃矢、おまえ見鬼は不得意みたいだな」
「え? それ、どういう意味です?」
見鬼。霊気の流れや霊的存在を視認したり、感じ取る力。いわゆる霊感能力のこと。
「この風。わずかだが血の臭いと、瘴気がふくまれている」
「な!? それって――」
「問題だ。一日のうち霊災がもっとも多く発生する時間帯は?」
「え、ええと……。夕方から深夜にかけてです」
「正解。逢魔が時から丑三つ時にかけてが多く、日の出とともに減少する。そして今は逢魔が時、霊災多発時間の始まりだ」
「こ、この近くで霊災が起きてるんですか?」
「そうだ。修祓するぞ」
「そんな、急に言われても――」

 ぞわり。
 身の毛がよだつとはこのような感覚なのか、桃矢の全身が震えだす。
 こわい。
 恐ろしく、怖い。恐怖。陰の気を、闇の気を、邪なる気を感じ、体の震えが止まらない。周囲に満ちる瘴気を、見鬼によって察知したのだ。

「こわいか?」
「こ、こ、こっ、こわいですッ!」
「こわくない。俺がついてる」

 賀茂秋芳。この人は、強い。いざとなったら自分を守ってくれるだろう。そう頭で理解していても、こわいものはこわいのだ。
 ガタガタと脚が震え、腰がすくみ、萎えかけた腕で秋芳の服の裾をひっしとつかむ。

「こわくない。俺が、ここにいる」

 秋芳はその手をやさしく握り返し、ゆっくりと離した。

「わかりました。霊災を、修祓しましょう」
「よく言った」

 桃矢が覚悟を決めるのを待っていたかのタイミングで周りに黒い影が生じ、ぐるりと取り囲まれた

「見ぃつけた」
「見ぃつけた」

 影の中から声が響く。地獄の底から鳴り響くような、陰々滅々とした声が。

「桃の童じゃ」
「桃の童じゃ」
「憎き怨敵ぞ」
「憎き怨敵ぞ」
「陰陽師がおる」
「陰陽師がおるな」
「ひとりじゃ」
「陰陽師は一人じゃ」
「ともにとりて食らおう」
「おう、ともにとりて食らおう」

 影がゆっくりと迫ると、その中に潜むあやかしの姿があらわになる。
 土気色の肌をした小柄な体躯に枯れ枝のように痩せ細った四肢、ざんばら髪の下には猿のような顔がある。なにより異様なのはその腹だ。ガリガリに痩せているのに腹部だけは妊婦のように膨れている。

「が、餓鬼? フェーズ3の動的霊災が、こんなにたくさん!?」

 桃矢が驚くのも無理はない。自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向、災害へと発展する直前の フェーズ1から始まり、これが進行し、強まった瘴気が周囲へ物理的な被害をあたえるフェーズ2と段階をへて、実体化した瘴気が鬼や鵺といった異形の存在となり周囲に瘴気をまき散らす移動型・動的な霊災。フェーズ3へとうつるのだ。
 本来ならフェーズ3レベルの霊災など、そうそうあるものではない。

「……いや、ちがうな。見た目は動的霊災だが、実際の障気の強さや霊相から察するにフェーズ2。こいつらは〝群れ〟の一部だ」
「群れ?」
「妖怪。動的霊災の中には自分の分身のような存在を大量に召喚できる能力を持ったものもいる。鳥山石燕の画図百鬼夜行に火を吹く子蜘蛛たちをあやつる絡新婦(じょろうぐも)の姿が描かれているが、その子蜘蛛らみたいのが〝群れ〟だ。平安時代の阿闍梨、頼豪が鉄鼠と化して大量のネズミを放って延暦寺の経典を食い破ったり、藤原実方の入内雀が農作物を食い荒らしたという話を聞いたことはないか? このネズミやスズメも群れだな。実際の動物とは異なる、妖力や呪術で作られ、召喚された魔の眷属だ」

 説明しつつ無造作に刀印を切る。牙を剥いてにじり寄ってきた餓鬼の一体はそれだけで消滅してしまった。

「群れの一体一体はこのとおり、たいして強くはない。よし、せっかくだ。ここで少し講義をおこなおう。課外授業だ。――御幣立つるここも高天の原なれば、集まりたまえや助けたまえや四方の神々――」

 祝詞を唱え柏手を打つと、あたりが神聖な気につつまれた。秋芳が珍しく神道系の呪術を使ったのは、桃矢が巫女クラスの生徒ということを意識してのことかもしれない。

「うぬ、消えたぞ?」
「どこへ隠れた?」
「さがせさがせ――」

 すぐ目の前にいるにもかかわらず、こちらの姿を見失ったかのように餓鬼の群れがきょろきょろとあたりを見まわし始める。
 しかも不思議なことに近づいてきた餓鬼は接触直前でなぜか向きを変えてあらぬ方向へと向かって探りを入れている。

「これは……、隠形ですか?」
「いいや、こいつら自身を結界で捕らえたんだ。動いてもしゃべってもいいが念のため俺から離れるなよ。さて、桃矢。穢れとはなんだ?」
「え? あ、あの、よ、汚れてることですよね?」
「うん、まぁそれもそうだが、神道。呪術における穢れとは時間や空間、物体、行為などの万象が理想ではない。通常ではない状態や性質になっていることを指す。また穢れは『気枯れ』すなわち気が枯れた状態のことでもある。これは生命力や霊力の枯渇した状態で、そのような時に人は過ちを犯しやすいといわれる。心の平静をたもてなくするような事象。すなわち『気枯れ』だ」
「あ、それって、つまり霊災ってことですか?」
「そうだ。自然界に満ちる霊気のバランスが崩れて瘴気へと転じ、これが自然界が持つ自浄作用の限界を超えることで発生する霊的災害。ここまでがテストに出てくる範囲だな。……だがなにが正常でなにが異常かなてのは、その時その時。個々人によって異なるもんだ。あんがいこいつら霊災からして見りゃ、俺たちのほうが『瘴気』や『霊災』なのかもな」

 この理屈は桃矢にも理解できた。立場を変えて見れば良いことも悪いことに、悪いことが良いことにもなりうる。だが、だからといって襲ってくる霊災、この餓鬼たちに食べられてしまうのは絶対にいやだ。

「霊災修祓の手順は知ってるな?」
「はい。まず霊災を結界で隔離して周囲への被害を抑制。そのうえで霊気の偏向を分析して是正するか、強力な呪力をぶつけてかたよった霊気を強引に散らす……」
「正解。実に教科書とおりの模範解答だ、中途編入にしてはよく知ってるなぁ、春虎も見習って欲しいよ」

 いまだに小テストで赤点を連発するクラスメイトの顔を脳裏に浮かべつつ話を続ける。

「こいつらはすでに結界に封じてある。少々の呪力をぶつけたところで破れはしないから、一体でもいい、修祓してみろ」
「ううう、わかりました……」

 桃矢は意を決して餓鬼の姿を『視る』。五気が偏在しているが、強いていえば土気が強い。
それにしてもひどい瘴気だ。まるで見えないキャンプファイヤーが燃え盛っているかのようで、秋芳の結界が隔てているにもかかわらず体が焙られているかのような錯覚がした。霊災に慣れていない身にはこたえる。
 それに醜い。見るからに不潔なざんばら髪を振り乱し、よだれを垂らしながら人とも獣ともつかない奇怪な動きで徘徊する、絵草子に描かれた餓鬼そのものの姿。ホラー映画などに出てくる作り物のクリーチャーすら苦手で、グロテスクなものに耐性がない桃矢は注視していた餓鬼からつい目をそむけてしまった。

「汚いもの、醜いものから目をそむけてはいけない。それらを祓い清め、鎮めるのが巫女だ。目を閉じていたら修祓はできないぞ」
「は、はい!」

 桃矢はくじけそうになるのを懸命にこらえて、祝詞を唱える。

「神火清明、神水清明、神風清明。祓いたまえ浄めたまえ……」

 神道式の九字を切り、刀印が走るたびに浄化の光が餓鬼を打つ。

「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「おまえもか」

 桃矢の霊力では一度に修祓はできない。だから同じ相手を狙って何度も九字を切っているのだが、いかんせん相手は多数でつねに動いている。移動する目標に命中させるほどの技量がないため、毎回ちがう餓鬼にあててしまう。
 しだいに霊力も尽き――。

「はぁはぁはぁはぁ――」

 ひたいに玉のような汗を浮かべ、息も荒くなる。

(さすがにもう限界だな。まぁ一般の塾生レベルならこんなものか)

 京子のような秀才や夏目のような天才、霊力だけならえらくタフな春虎、筆記も実技もそつなくこなす冬児。眼鏡の天馬。
 身近にそういう逸材がそろっていると、ついつい錯覚しがちになるが、霊災の修祓というのは見習いレベルでできるほど簡単なことではない。本職の祓魔官ですらフェーズ1の霊災に対し二、三人であたる。

「よし、それまで。よくやった、今の感覚を忘れるな」
「も、もうダメ。倒れそう……」
「すぐに終わらすから、倒れるなら寮にもどってからにしろ」

 相手は土気が強いので木気の術で一掃しようか、一体一体禁じようかと考えたが、ふと過去の出来事が脳裏をよぎる。

(そういうえば以前ヒダル神に憑かれたことがあったが、あの時の飢えと渇きは地獄の苦しみだった。こいつらも同じ苦しみにさいなまれているとしたら実に哀れだ。楽にしてやろう)

 弾指を打ちつつ呪文を唱える。

「ノウマクサラバ・タタギャタバロキテイ・オン・サンバラ・サンバラ・ウン――」

 施餓鬼会でもちいられる無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼。
 掌に指で『米』の字を書き、それを食べる真似をすると、秋芳の身体から暖かい光があふれ、餓鬼たちをつつみこんだ。

「おお、なんと心地よい」
「腹がくちる」
「満腹じゃ」
「満足じゃ」

 その光りにふれた餓鬼たちはおだやかな笑みを浮かべて一体残らず霞のようにかき消えてしまった。

「今のはいったい……」
「捨身飼虎。お釈迦様は餓えた虎の親子に我が身をさし出したが、俺は餓鬼どもに自分の霊力を食べさせてやったんだ。満腹になって成仏したのさ」
「こういう修祓のしかたもあるんですね……」
「本来はきちんと供物を用意して儀式をとりおこなう。今みたいに自分の霊力を食わせるやり方は割に合わないからオススメはできないがな」

 脅威は去ったがずいぶんと時間がかかってしまった。桃矢をうながし女子寮へといそぐことにした。





「おそいぞ桃矢! どこで道草してたんだっ! すぐ帰ってくると思ってみんなご飯を食べないで待っていたんだぞ!」

 ぱっつん前髪の姫カット、長い黒髪を後ろで一つに結んでポニーテールにした気の強そうな女子が帰宅した桃矢に食ってかかる。
 二之宮紅葉。桃矢の所属する緋組拾参番隊のまとめ役。リーダー的存在の女子だ。

「ええっと、それはその……」

 不良にからまれたところを助けられ、その助けた人というのが明日から講師として来る予定の賀茂秋芳。男子寮にある彼の部屋でお茶を飲ませてもらい、ここまで送ってもらったのだが、途中で霊災に遭遇。修祓した――。ちょっと一言では説明できない。どのように言葉にするか逡巡する桃矢に助け舟が出された。

「あらあら紅葉さん。そんなふうに言わないで、もっとこう、幼なじみが照れ隠しに怒ってる感じで言わないと、桃矢さん萎縮しちゃいますよ」

 三亥珊瑚。腰までのびるゆるやかに波うった長髪と眼鏡が印象的な、いかにも優しい感じのする女子が、そう紅葉をたしなめる。

「もみもみ~、お小言は後にして夕ご飯食べようよ~。もうお腹ぺっこぺこだよ~」
「もみもみ言うな! それと変なとこさわるな!」 

 アニメのようなアホ毛をのばした茶髪ショートの少女が背後から紅葉にすがりつき、鼻にかかった声で懇願する。この娘の名は一の瀬朱音。
 この三人の少女たちが桃矢のルームメイト。緋組拾参番隊の構成員だ。

「くっ、しょうながないな。よし、とりあえず食事だ。道草の言いわけはその後で聞こう」
「わ~い、ごっはん~ごっはん~♪」

 こうして桃矢たちは遅めの夕餉をとることにした。





「――ということがあったんです」
 
 女子寮の食堂。
 五穀米に味噌汁、焼き魚と旬野菜のサラダ、デザートは果物。主食と主菜、副菜。栄養バランスをきちんと考慮した寮母さんお手製の食事をすませ。ひと息ついた桃矢は今日のできごとを紅葉たちに話した。

「……そうか。まだ私たちと同じ学生が講師をするというから、少々不安だったが、その様子だと呪術者としての実力はたしかみたいだな。それに腕っぷしも強いというのも気に入った。そうでなければ武道の実技もある巫女クラスの講師は務まらないからな」

 麦茶をすすり最後まで桃矢の話を聞いた紅葉はそのような感想をのべた。ちなみに食堂では朝昼は緑茶、夜は麦茶が置かれている。これはカフェインを摂ると夜寝つけなくなるからという配慮からだ。寮母さんはつねに学生の体を気づかっている。

「そうですわね。でも今のお話に出てくる賀茂秋芳さんて方、想像していたルックスとちょっとちがいますわ。賀茂氏の末裔というから、もっとこう貴公子って感じの方かと思っていたのですが、坊主頭だなんて……」
「いいじゃないか、お坊さんみたいで功徳がありそうだ」
「ふぁぁぁ……。ねぇ、ご飯食べたら眠くなってきちゃった。もう戻ろ」
「あ、そうですね。僕も今日は色々あって疲れちゃいました。早めに眠りたいです」
「なにを言ってるんだ、そろそろ刀会が近いんだぞ。惰眠をむさぼるいとまがあるなら鍛錬するんだ。

 特に桃矢、おまえはチンピラ相手に怯むとはなにごとだ、修行がたりん! 今夜ちょっとつきあえ」

「ええ~、そんなぁ。僕、さっき霊災を修祓してクタクタなんですよ」
「最終的に修祓したのは賀茂先生だろ。問答無用、来い!」
「あらあら、うふふ。お二人とも無理せずほどほどにしてくださいね」
「がんばってねぇ、おやすみ~」

 刀会とは竹刀やなぎなたをもちいて試合をおこなう、武道実技を兼ねたクラス対抗の紅白戦で、巫女クラスの中でも派手で盛り上がる人気講義の一つだ。
 争いを好まない桃矢にとって苦手な講義になる。

「男子なんだろう、ぐずぐずするんじゃない。胸のエンジンに火をつけるんだ!」
「うう、今日はついてない。不幸だぁ……」




 
 紅葉は竹製の薙刀を八双に構え、そこから袈裟と逆袈裟の二連撃を絶えずくり出す。受けにまわった桃矢は防戦一方で、反撃するいとまもない。

「せいっ」

 パシーンッ!
 乾いた音を立てて桃矢の手から薙刀が落ちる。と同時に紅葉は薙刀を反転させ、石突きの部分で桃矢の鳩尾を突く。

「あうっ」

 もちろん手加減してあるとはいえ急所に攻撃を受けてはたまらない。思わずつっぷして、呼吸もままならない地獄の苦しみに耐える。いやな汗が流れ、地面に数滴の染みを作った。

「ハァ、ハァ、ハァハァハァハァハァ……、はぁ、はぁ、はっ!」

 ようやく息がととのい、おもてを上げると、巫女装束に身をつつんだポニーテールの少女が月光の下で薙刀を構えている。その姿は凛としていて実に絵になっていた。桃矢は疲労や痛みも忘れてその姿に一瞬見とれてしまった。

「なんだ桃矢? はぁはぁして、いやらしいぞ」
「い、いきが、息が上がってるんです! も、もう少し手加減してください」
「手加減したら桃矢の訓練にならないだろう? でも……、今日の桃矢。よくがんばったぞ」
「え?」
「いつもならとっくに音を上げてるはずなのに、打ちかかってきた。えらいぞ、よくがんばった」
「そ、そうですか?」
「ああ、そうだ。……なんか気持ちの変化でもあったのか?」
「気持ちの変化……」

 あった。
 今日、男たちに襲われた時。まるで映画やドラマのように颯爽とあらわれ、自分を救い、介抱してくれた人がいた。それだけにとどまらず、霊災までもこともなげに修祓したその姿は桃矢の脳裏に焼きついていた。
 かっこいい。自分もあんなふうになりたい、と――。
 普段ならへこたれてしまうところを、憧れの心が支えている、のかもしれない。

「む、その顔は心あたりがあるな」
「え、ええ……」
「そうか、わかったぞ!」
「え?」
「さっきの話。桃矢は賀茂先生の式神とキ、キ、キ……」
「樹木希林?」
「ちがう! なんでここでジュリーのポスターに愛を叫ぶ婆さんの名前が出てくるんだ!」
「す、すみません。つい」
「賀茂先生の式神とキスしたと言ったな。ひょっとしてそれが原因じゃないのか?」
「う~ん、たしかに今までしたことのない変な同調をしましたけど、別にそれは関係ないと思います」
「私たち緋組拾参番隊のメンバーを差し置いて他の子とキスするとは、この浮気者っ!」
「浮気って……、相手は僕と同じ男の子ですよ」
「なに? そうなのか……。て、それでもキスはキス。浮気は浮気だ。けしからん!」
「そんなこと言われても……」
「桃矢、さっきの新しい同調というのを、私で試してみろ」

 紅葉はそう言い、手の甲を上にして桃矢の眼前にさし出す。ここに口づけしろというのだ。

「さぁ、早く」

 怒ったように急かす。こうなった紅葉に『いや』とは言えない。桃矢は覚悟を決めた。

「わかりました、でもどうなっても知りませんよ」

 手の甲にそっと唇を落とす。触れるか触れないかの絶妙な間隔――。
 脳内に光が奔り、桃矢の中に紅葉が流れ込んできた。勝ちたいという純粋な想い。けれども他のメンバーにそれを押しつけることの戸惑い、逡巡、焦り、葛藤、誇り、矜持、自身、不安……。
 次の瞬間、二人は一人になっていた。

「な、なんだれは? 今までの同調とはちがうぞ」

 身の内からあふれ出さんばかりの霊気が湧き出し、全身に力がみなぎる。背中からは緑色の光沢をした鳥のような翼まで生えていた。
 身体が軽い。ひょっとしたら飛べるのでは?
 紅葉がそう思うと翼が広がり、ふわりと宙に浮いた。実際の鳥類のような羽ばたきによって発生する揚力によるものではない、呪力による飛翔。

「す、すごい。すごいぞ桃矢! 霊力が上がるだけじゃなくて、空まで飛べるようになんるなんて……」
(なんだか、キスする人によってちがう能力が発現する……。そんな気がします)
「どのくらい飛べるのか、ちょっと試してみるか!」
(だ、ダメです! 危険です! いつ同調が、融合が解けるか、まだちょっとわからないんですよ)
「む、なんだそうなのか……。飛んでる時に解けでもしたらおしまいだな。でも桃矢、この力、すごく面白いぞ! もっと色々調べて、試してみよう!」
(ははは、そうですね……)

 自分に重くのしかかっていた忌まわしい異能の力。それがこんなふうに変化し、受け入れられるだなんて……。
 今日は本当に色々なことがあった――。





 翌日。
「――島根県にある美保神社の氏子は修行中の間、鶏の肉と卵を食べてはいけないという決まりがある。これは美保神社に祭られている事代主という神様が大の鶏きらいだからだ。なんでそんなに鶏がきらいかというと、この神様は夜遊びが好きでな。それで夜な夜な出かけていたんだが、夜明け前には家に帰らなければいけないという決まりがあった。事代主に朝を告げる役目を一匹の雄鶏がになっていたが、ある朝、雄鶏は鳴くのを忘れてしまう。日が出てから大いそぎで家に帰る途中、事代主はあわてていたためケガをこしらえてしまったそうだ。それ以降というもの事代主はその雄鶏どころか鶏そのものがきらいになったとか」
「「「へー」」」
「「「へー」」」
「「「へー」」」
「なんか日本昔話にありそう」
「これは神話の時代のできごとが、精神が今の時代にもしっかりと伝わり、息づいているということの証左だな。土御門夜光が呪術というものを再編成してからは、とかく技術が重視されがちだが、みんなは巫女としてこのような精神を大事にしなければならない」

 言い終えたその時、ちょうど授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

「はい、おしまい。午後の授業は武道実技だから、昼食を食べすぎないように注意すること。それじゃあまた後で」

 秋芳は退室する前にあらためて教壇から教室内を見まわした。機能的な階段教室という造りは陰陽師クラスのそれと同じだが、広さは二倍以上ある。八〇人近い巫女たちに見下ろされて講義するというのも、なかなかできる経験ではない。

「賀茂先生」
「ああ、桃矢――。て、どうしたんだ、その全身の生傷は!? さてはきのうの連中に仕返しでもされたのか?」
「あ、いえ、ちがいます。これは刀会の練習をして作った傷で……」
「そうなのか。それにしてもまたずいぶん派手にこしらえたもんだな」
「あはは、相手の人が熱心でしたからね」
「賀茂先生」

 その『相手の人』が秋芳に声をかけた。

「緋組拾参番隊の二之宮紅葉といいます。きのうはうちの桃矢がお世話になったようで、ありがとうございます」
「同じく一の瀬朱音です。えへへ、先生の授業すっごく面白かったですよ。賀茂先生てあだ名とかあるんですか? 出身地てやっぱり京都か奈良なんですか? 血液型は? 好きな食べ物は? 趣味は? 好みのタイプの女性は? あ、恋人っています?」
「あらあら、うふふ。朱音さんてば、そんな急に質問攻めしたら賀茂先生がこまっちゃいますよ。あ、私の名前は三亥珊瑚。緋組拾参番隊の者です。これからよろしくお願いしますね、賀茂先生」

 おお……。
 内心感動に震える秋芳。この反応、この質問攻め。まるで転校生に対するそれではないか。入塾初日はすっかり笑狸に持っていかれたが、自分はこういうのを期待していたのだ。

「はじめまして紅葉君」

 この左手でエレキベースを弾いたり、テレアポセンターで働く勇者みたいな凛とした声の子が二之宮紅葉だな。

「俺にあだ名はないよ、生まれは奈良葛城、血液型は知らない、好きな食べ物は日本蕎麦、趣味は映画観賞、好みのタイプはクリスマスとハロウィンに『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を独りで見るような女の子、恋人はいる」

 この十万三千冊の魔道書を記憶してたり、白ワイン一滴で酔っぱらう男装の執事みたいな鼻にかかった声の子が一の瀬朱音、と。

「こちらこそよろしく。『あらあら、うふふ』て、なんかサザエさんみたいだな」

 このつねに専用の机と椅子を用意しているお嬢様みたいな声の子は三亥珊瑚。
 よし、おぼえた。三人娘の顔と名前と声が秋芳の脳に刻み込まれる。

「桃矢、紅葉、朱音、珊瑚。緋組拾参番隊か……。今後ともよろしく」
「はい! よろしくお願いします、賀茂先生」
「こちらも自己紹介してもいいですか、賀茂先生?」

 そこに別の声が割って入る。

「私は白組壱番隊の四王天琥珀。よろしくね、先生」
「白組壱番隊、七穂氏白亜」
「同じく白組壱番隊の十字眞白です。よろしくお願いします」
(ええと……、変身(トランス)能力を持った、えっちぃのは嫌いな殺し屋の女の子のような声をしているのが四王天琥珀。つねにモデルガンを持ち歩きモフモフしたうさぎのいる喫茶店でバイトしてる女の子のような声をしているのが七穂氏白亜。水系統の魔法が得意で香水の二つ名を持ってる女の子のような声をしているのが十字眞白……)

 次々と少女が出てきては自己紹介をして、これではまる萌えアニメの一話目や、ギャルゲーの序盤ではないか。
 少女たちのかしましい喧騒につつまれる中、巫女クラスの講師を続けてみるのも悪くはないのでは――。
 そのようなことを考え始める秋芳だった。





 職員室。
 早々に昼食をすませて巫女クラスに依頼された案件を確認しようとする秋芳の姿があった。

(しっかし他所のPCてのはなんでこんなに使いにくいんだ。レスポンスがちがうというかなんというか……)

 映画などで潜入した先にあるPCを操作してミサイルの発射を止めたりなんとかするシーンがあるが、よくあんな芸当ができるものである。
 もとより機械の操作は苦手な秋芳が不慣れな手つきで依頼の数々を見てまわる。
 お祓いや呪いの解呪といった高度なものから、占い全般に個人的なお悩み相談。引越しの手伝い、コスプレ撮影会、農作業の手伝い、野球や囲碁の練習相手に失せ物探し、清掃やビラ配りなどなど――。

(本当にいろんな依頼があるんだな……。妹になってくださいとか、姉になってください。てなんなんだよ、ここはイメクラじゃないんだぞ)
 
 たしかに宗教上の儀式としてセックスをする巫女は存在した。古代メソポタミアなど、神殿に寄進した者に神の力を与えるために性行をする神聖娼婦と呼ばれる巫女がいたし、日本にも歩き巫女や渡り巫女という、特定の神社に属さずに全国を巡って祈祷や託宣のほかに芸者や遊女の仕事もする者たちがいて、そのような者は特に巫娼とも呼ばれた。
 小柴垣草紙という平安時代の末に描かれた絵巻物では、やんごとない巫女である斎王がアレやコレする話が描かれている。
 巫女に萌えたり、エロいことさせてハァハァするのは日本人のDNAに刻み込まれた性癖なのかも知れない……。

(そういうのは駒王学園オカルト研究部のみなさんにお願いしなさいってんだ)
「あら、ちょっと意外。きちんと仕事してるのね」
「いつも言ってるだろ、俺は真面目なんだ」

 背後から京子が声をかけ、身を乗り出して秋芳の頭越しにPCをのぞき込む。

「これが巫女クラスへの依頼? ……ふ~ん、いろいろあるのねぇ」

 むにゅ。

 あたたかく柔らかで、それでいて適度な弾力を持ったふくらみが双つ、背中にあたるではないか。

(おお、これは……)

 たわわに実った果実、豊かな双丘、くずれることのないプリン、男を惑わす魔性の魅力と男を癒す神聖な気に満ちた神秘の至宝。
 
 おっぱい。
 
 京子のおっぱいが背中に押しつけられている。

(今の京子には悪戯をしているという、あえて胸を押しつけているという認識はない。つまり無自覚のエロス! これは良い……)
 全神経を背中に集中。日だまりにまどろむ猫のような表情を浮かべて、京子の乳圧をしばし堪能する。

「……ねぇ、このプール清掃の案件なんだけど――」
「――うん、それは良いな。やってみよう」

 京子の出した提案には心惹かれるものがあった。双乳の感触で夢見心地にな中、秋芳はふたつ返事でそれを承諾した。
 

 

巫之御子 2

 陰陽塾地下呪練場。
 読んで字のごとく呪術の訓練をする場所であり、中央のアリーナに降りるすべての門の両脇には榊の枝が飾られ、呪力が込められた注連縄が張られている。壁面のあちこちに呪文や紋様が書かれており、これらはアリーナ内でおこなわれた呪術の影響を外へ漏らさないための処置だ。
 バスケットコート四面分はあろうアリーナで巫女クラスの生徒たちが二列にならんでむかい合っている。
 いずれも顔面部が透明になった強化プラスチック製のヘッドギアをかぶり、手には竹薙刀を持っていた。

「はじめっ!」

 女性講師のかけ声と共に薙刀同士があたる打突音や気合の声があたりに響き、格闘特有の熱気が満ちる。

「やめっ!」

 おたがいに礼をして右に一人ずれる。一番右端の者は左の端に移動して列にくわわる。
「はじめっ!」

 同じことの繰り返し。
 乱取り、地稽古、自由組み手。そのような類の実技授業をしているのだ。

「これは、思った以上に激しいな……」

 女性講師の隣で秋芳が思わずそう口にする。

「そうでしょう? 神主の補佐をして祓い清めるだけが巫女の務めではないわ。多くのものを救い、永く護り紡ぐため。神敵に対峙したさい、みずからを刃にかえて戦う。これがこんにちの巫女。陰陽塾が育成する現代巫女の姿なのよ」

 女性講師――名を若宮という――が誇らしげに語った。

「面の他にも籠手や脛あてを着用させたほうがいいのでは? かなり激しい打ち合いですし、あれじゃあ全身打ち身だらけになりますよ」
「実際の試合だと呪術の使用もありなの。だから籠手はつけないわ」
 たしかに籠手をつけていては呪符の取り出しに邪魔だし、印など結べなくなるだろう。

「どりゃぁぁぁっ!」
「どすこーいっ!」
「どっせい!」
「ちぇすとーっ!」
「チェリオ!」
「デュクシ!」
「ウラー!」

 女子とは思えぬ迫力である。

(ううむ、さながら巴御前か坂額か。巫女クラスは女傑ぞろいだな。桃矢のやつ、だいじょうぶか?) 
 視線をめぐらせて頼りない少年の姿を探す。
いた。
 案の定一方的に攻められている。めった打ちの袋叩きの、こてんこてんのこてんぱんにやられて、ボッコボッコのフルボッコ状態だった。

「もうおしまいなの? だらしないわね」
「梅桃ってば弱すぎ!」
「もうへばっちゃった? あんた早すぎ」
「男のくせにだらしがないわね」
「ちょっと、立ちなさいよ!」
「なによ、役立たず」
「もう少し我慢できないの?」

「七十人を超える女子に打たれて言葉責めされている……、だと……? M男なら即効昇天まちがいなしの天国だな……」

 打ち合いの後は小休止をはさみ、型稽古に移ったのだが、こちらのほうはなかなか様になっており、他の巫女たちに劣らない。いやそれ以上の美しい演武を見せた。
 容姿が容姿だけに、まるで歌舞伎の女形の演技を観ているかのような気になる。

「若宮先生。ちょっと梅桃桃矢に個人指導したいのですが、よろしいですか?」
「ええ、いいわ。どうせ残りの時間いっぱい自由練習だし、男同士気がねなく教えてあげて」

 秋芳は桃矢を呪練場のすみに呼んで稽古をつけることにした。

「さっきの演武、綺麗だったぞ」
「あ、ありがとうございます。打ち合いは苦手なんですけど、型にはちょっと自信があるんですよ」
「その打ち合いなんだが、演武の時と同様にすり足もできてるし、軸もまっすぐで安定していて動きは悪くない。なにか武道でもやってたのか?」
「あ~、はい。その、刀道を少しだけ」
「ほう、剣道じゃなくて刀道か。本格的だな」
「でも、それもすぐ辞めちゃいました」
「やっぱボクシングの時みたいに不逞の輩がいたのか?」
「そういうわけではないんですが、指導員の方がちょっと……」
 このようなことがあったと、桃矢は語った。

 足しげく道場に通ってもいっこうに稽古らしい稽古をつけてくれない。
 そのことを伝えると――。

「ウ~ン……、今まで当たり前のことだと思ってたから、説明が難しいなぁ……。例えばね、ウチの道場では入門して最低でも半年は技を教えないの。最初に足運びと素振りを教えるだけ。それも一回やって見せるだけで、後はひたすら素振りの繰り返しを見ているだけ。そして、まともに刀を振れるようになった人から技を教えていくの」
「……それじゃあ、いつまで経っても上達しないお弟子さんも出てくるのでは……?」
「いるね~、そういうの。そして、そういうヤツに限って自分の努力不足を棚に上げたがるんだな。まず、刀を振るって動作に身体が慣れないと、どんな技を教わっても身につくはずが無いんだけどね」
「…………」
「そしてそのためには自分が刀を振るしかないんだよ。やり方は見て覚える。周りに一杯お手本が居るんだから。教えてくれるのを待っているようじゃ論外。最初から教えてもらおうって考え方も甘え過ぎ。師範も師範代も現役の修行者なんだよ? あの人たちにも自分自身の修行があるの。教えられたことを吸収できないやつが教えてくれなんて寝言こくなっての」
 というやり取りがあったそうな。

「……あきれたな、そいつに指導者の資格はない」

 師範や師範代が何のためにいるか、わかっていない。後進の育成だって武道家の務め、先輩にもらったものは後輩に返していく。連綿と受け継がれていく技。それが道、それが武道というものだろうに。
まともに教えてもいないのに『教えられたことを吸収できないやつ』などと馬鹿にするとはどういう了見だ。
 最初から教えてもらおうという考えが甘いだって? ではなんのための道場なのか、月謝を返せと言いたい。
 たしかに見取り稽古という言葉はあるが、本当にただ見ただけのやり方を真似するなど危険極まりない。生兵法は大ケガのもとだ。
 だいたい『見ておぼえろ』などと言う者に限って、人に教える能力が無いのではと思う。
 嘉納治五郎の講道館柔道がそれまであった無数の柔術流派よりも普及したのは警察に採用されたというだけでなく、体重移動やくずし方と言った、他の道場ではやってくらっておぼえろという部分を論理立てて体系化し、教えるようにしたというところが大きいのだが、それの否定でもある。

「よくもまぁ、そんな殿様商売で道場が維持できるもんだな」
「けっこう有名で、今でも人気があるみたいですけどね」
「まぁ、いい。それよりも今は薙刀だ。さっきも言ったが動きは悪くないのにどうして打ち返さない? 女子が相手だから遠慮してるのか?」
「いえ、女子とか関係なく攻撃が苦手……。ううん、いやなんです。素手で殴られるのだって痛いのに、まして武器なんか使ったらもっと痛い。そう考えると、とてもじゃないですけど攻撃なんてできません」
 
 これは極めてまともな考えだ。普通の人間は人間を攻撃することをためらう。長年格闘技をやっている者でも、ケンカで相手を本気で殴ることはむずかしい。無意識に力をセーブしがちだ。
 秋芳は『ならなんでボクシングなんて習おうとしたんだ?』などというツッコはしなかった。桃矢は純粋に強くなりたかったのだろう。華奢ではかなげな外見、その容姿にコンプレックスをいだいていることは想像にかたくない。桃矢は単純に強くなりたかっただけだ。
 暴力はいや。これは桃矢の持つ同調能力。精神を共有することで人の気持ちに触れてきた桃矢だからこそ持つ、優しさなのだ。
 優しいことは悪いことではない。

(そういえば『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない』なんて言葉もあったな。はて、だれの科白だったか?)
「あの……、賀茂先生?」
「おお、すまん。ちょっと考え事をしていた。よし、ならばせめて攻撃されない。守りの技を教えよう」
「薙刀の技を知っているんですか?」
「いや、教えるのは薙刀じゃない、反閇(へんばい)の禹歩だ」
「禹歩!? 霊脈をもぐって長距離を移動する帝国式陰陽術の超高等呪術じゃないですかっ!」
「いや、そんな説明口調で驚からなくても」
「いきなり禹歩とか、驚きますよ。ていうか無理です。僕に禹歩を使いこなす霊力はありません」
「霊力がないなら作ればいい。というか今から教える禹歩はその禹歩ではなく、本来の禹歩に近い禹歩だ」
「本来の禹歩?」
「そう。いきなり帝式の禹歩をおぼえろとは言わん。夏王朝の創始者である禹王がもちいたとされる歩行術としての禹歩を教える」
「歩行術、ですか……」
「反閇というのは魔除けや清めの効果の他、山中の移動や仙薬作り、兵を避け悪霊を退ける、鬼神の召喚、病の治療、長寿の祈願などなど、様々な局面で使用される、非常に汎用性の高い呪術なんだ。用途や併用する術によって様々な種類が存在する。その中でも兵馬刀槍を避ける禹歩をこれから教える」
 そう言って数枚の簡易式を投げると、それらは地面に落ちて複数の足跡を描いた。足跡には左1、右2、左3……。というように漢字と番号が書かれている。
「まずは基本の足運びから。ゆっくりでもいいから確実にその順番通り、左右の足をまちがえないように踏んで進むんだ」
「わかりました」

 桃矢はまず左足を踏み出し、次に右足を前に出し、左足を右足にそろえて立つ。右足を先に出し、左足を踏み出し、右足を左足にそろえる。そしてまた左足から先に踏み出していくという、同じ歩き方をくり返して進む。
 進むにつれ単調な動きはやがて少しずつ変化のある動きに変わっていく。左右の足を交差させたり、横にずれる動きもあった。
 歩き終わると足跡は自動に反転し、番号が変わる。端から端へ同じ行為の繰り返し。

「よく『日本に伝わった禹歩が反閇と名を変えた』なんて言われるが、禹歩は反閇を構成する呪術の一つで、反閇はそれ以外の呪術もふくんだ一連の儀式のことだからな。テストに出るかも知れないからおぼえておくように」

 言いながら桃矢の動きを見る。素人が慣れない動きをすれば軸がぶれ、上半身が揺れて安定しないのだが、そのようなこともなく綺麗な姿勢で移動をしていた。

(うん、やはり基本はできている。ボクシングとか刀道とか習おうとするくらいだし、この子にはそっち方面の術を教えて、自信をつけさせよう)

 武術はもっとも実践的な魔術の一つ。京子には自分の知る〝呪〟を教えた、桃矢には〝武〟を教えてみたい。いつしか秋芳はそのような気になっていた。

「桃矢、いつかは帝式の禹歩も使えるようになりたいだろう? それには高い霊力が必要だ。立禅という身心を鍛える修練法があるから――」

 秋芳は時間いっぱいまで桃矢に指導し、今日の授業は終わりをむかえた。





 夕刻。渋谷区某所にある区営プール。
 水の抜かれたプール内は黒ずんだカビやコケ、藻のようなもので汚れ、ぬかるんでいる。
そんな汚れた床をデッキブラシでこすり洗いする巫女たちの姿があった。

「あーっ、なんで神に仕える神聖な巫女が区営プールの掃除をせにゃならんのだ! 巫女は便利屋さんじゃないんだぞ! もうっ!」
「あらあら、うふふ。紅葉さんてば、これも人々のために神に代わって尽くす、巫女のお務めですわ」
「……そういう珊瑚、あなたなんちゅう破廉恥な格好をしてるんだ!」

 ブラとスカートに分かれたベリーダンスの衣装のようなツーピースの水着なのだが、スパンコールやビーズが多用されておりキラキラと輝いている。そのため露出自体は少ないのだが、妙にいかがわしい。

「うふふ、せっかくのプールですし気分だけでもと思いまして」
「あはははっ、もみもみだって水着持ってきてるくせに~」
「な!? そ、それはその……。掃除が終わった後にちょっとだけ水に入ろうかなぁと……」
「あらあら、みんな考えることは同じですわね」
「それじゃあさっさと終わらせようよ!」
「よし! では四人で清掃範囲をきっちり決めて効率よく進めよう。0コースから4コースまでを私が、5コースからは朱音が、珊瑚と桃矢はそのままプールサイドを分担して掃除して……、桃矢。聞いてるのか? 桃矢っ」

 プールサイドで一心不乱にブラシ拭きをしている桃矢は先ほどの授業中、秋芳から言われた言葉を脳内で反芻していた。

 曰く。
 ミット打ちや組み手といった、だれでもできる訓練でも人によって大きな差が出る。なぜか? 技術が上がっていく人はどんな練習も漫然と流れ作業的におこなうのではなく、様々な試行錯誤をして考えながら練習しているからだ。
 一日じゅう起きている間のほとんどが鍛錬も兼ねていると思え。食事の姿勢や椅子の座り方。服を着る、脱ぐ。などなど……。これらの動きの一つ一つを意識し、どうすればより効率的に身体を動かせるか。そういうことを考える人間と考えない人間には、小さいが決定的な差が生じるものだ。
たとえば窓拭きも手先の動きだけでやるとすぐに疲れてしまうが、腰や膝などの下半身も動かして上半身の動きと連動させると疲れにくく、全身の力が拭いている手に集中するからしっかりと拭くことができる。
 これは全身を連動して力を一点に集中するという武術の技にも共通することだ。
 前から何人も連れ立って歩いて来た時に隙間を見つけてギリギリのところですり抜けるのは体捌きに通じる。
 某アニメーターは動体視力を鍛えると称して、オートバイでトラックやバスの隙間をすり抜けることをしていたそうだ。
 暮らしの中に修行あり。
 『ベスト・キッド』の修行はちゃんと意味があるんだよ! ワックスかける、ワックスとる。服を脱ぐ、服をかける、服を着る。あれも立派な修行なんだよ!

 最後のほうはなんかちがう気がしたが、おおむね理解できた。

(暮らしの中に修行あり……、ポイントなのは体重。重心の移動と手足の動きを連動させることで末端の手足に重みをつけさせること……)
「桃矢―っ!」
「わっ!? な、なんですか?」
「『なんですか?』じゃない! なにをボーッとしてるんだ」
「すっ、すみません。お掃除に夢中で聞こえませんでした」
「あらあら、桃矢さん。一意専心もいいですけど、周りにもきちんと気をくばってくださいね。……この水着、そんなに気にならないですか?」
「え?」
「これでも、けっこう自信あるつもりなんですよ」
右手で胸を、左手でへその下をなぞるように押さえる。サンドロ・ボッティチェリの描いた『ヴィーナスの誕生』のポーズだ。
「私、男の子の前でこんな大胆な水着姿になるの、始めてなんですよ」
「え、ええっと……」

 三亥珊瑚。ゆるいウェーブのかかった栗色の長髪に、ととのった顔立ち。どことなく緩んだ表情が愛嬌を感じさせる。
 そして、ほのかな色気も。
 普段はおっとりとした雰囲気の彼女だが、こうして水着姿になると、やはり年相応の、いやそれどころか同年代の少女の平均にくらべれば、それ以上の艶っぽさが出てくる。それでいて清楚さを失っていないというのも特筆すべきだろう。
 こういうのは苦手だ。
 いったいどう反応したらよいのだろう?
 などと逡巡している間にも無意識のうちに視線が珊瑚の胸と脚のつけ根の間をなんども往復し、カラダのほうが反応してしまい……。

「あらあら、桃矢さん。どうしたんです? そんな急に前かがみになって」
「こ、これはその、なんと言うか……。熱膨張と言いますか……」

 女子は残酷だ。
 午後の授業のような肉体的な責めもきついが、こういう精神的な責めもつらい。

「こらぁ! 珊瑚、なにビッチってるんだ、桃矢が困惑してるだろうが。からかうんじゃない!」
「ひどい! ビッチじゃないですぅっ。だって私まだ生娘なんですよ」
「生娘ビッチめ!」
「紅葉さん、ひど~い!」
「……ねぇねぇ、思い出したんだけど」
「ん? なんだ朱音?」
「この案件て、二隊で掃除するって掲示板に書いてあったけど、もう一隊の人たち、汚いよね?」
「む、そう言えば来てないな」
「来てませんわね」

「来てるわよ」

 !?

 緋組拾参番隊一同が声のほうへ目をむける。
 巫女クラスの制服を着た女子が三人。
 ふたつ結びのおさげ髪を胸の前にたらした四王天琥珀、長い黒髪に狐面のアクセサリーが映える七穂氏白亜、大正時代の女学生のようなロングヘアーに大きなリボンの十時眞白。
 そこにいたのは白組壱番隊だった。

「さっきから、ずーっといたんだけど気づかなかったみたいね。あんたたち、ちょっと鈍いんじゃない? もう少し見鬼を磨いたらどう」
「こそこそと穏形して様子をうかがうとは、心にやましいことがある証拠だな」

 紅葉と琥珀。両者の視線が中空でぶつかり、見えない火花を散らす。

「あの、珊瑚さん。あの二人ってなんかあったんですか?」
「ええ、ちょっとした因縁が……。琥珀さんたちとは入学当初のある事件をきっかけに、いがみ合うようになってしまいまして……」
「でもそんないがみ合いも、もうおしまいだよ! だって拾参番隊は桃矢ちゃんが入って四人組にパワーアップしてるんだから! ガンガン成績上げてだれにも文句言わせないもん!」

 彼の名が出たことで桃矢に視線をむける琥珀。

「その桃矢くんだけど、なにか隠してるでしょ? 私の目にはわかるわ。あなたの奥底に眠る不祥な霊圧になにか変化があったことが」
「……おい、琥珀。無駄話してないでさっさと片づけよう」
「白亜ちゃんの言うとおり、早々にすましてしまいましょう」
「ん、そうね」
「おやおや、ずいぶん簡単に言ってくれるじゃないか壱番隊のみなさん。プール掃除とはいえども案件は案件、これも神託のうちだ。社を守る巫女として掃除は基本中の基本。おざなりではこまるぞ」
「そう言う拾参番隊は『おざなり』どころか『なおざり』じゃない? ずいぶん汚れが残ってるけど」
「そ、それは今さっき始めたばかりだからだ。仕方ないだろ」
「せっかくだからどちらがより汚れを払えるか勝負しましょうか?」
「いいだろう、望むところだ!」
「ふふ、言ったわね」

 琥珀は袖口から数枚の呪符――簡易式符――を取り出す。

「それじゃあ呪術はお掃除にも使えるというところを見せてあげるわ。――急急如律令(オーダー)

 あらかじめ術式を組み込んでいたのだろう、式符の一枚一枚が琥珀自身の姿を象り、プール内に顕現した。その手にはご丁寧にもデッキブラシが握られている。

「さぁ、式たちよ、主命である。陰なる穢れを祓えっ、散!」
 0コースから10コースまでを一気に拭き上げ――ようとするも、その動きはまるでスローモーションのように緩慢で遅い。

「ぜぇぜぇはぁはぁ……。さ、さすがに十体同時に操るのは骨が折れるわね……」
「琥珀、そんなにいっぱい呼び出すからだ……」
「そうですよ、こういうのは精度も大事なんですから」

 言うと白亜と眞白も自身の姿をした簡易式を呼び出し、清掃に入る。

「負けませんわ」
「そっちがそうくるならこっちだって!」

 壱番隊に倣い、拾参番隊の面々も簡易式を打って清掃に入った。

「ええっと、僕は普通にお掃除しよう……」
呪術を交えたお掃除合戦を横目に、重心を意識してのモップ拭き作業に入る桃矢だった。




 
 およそ三十分後。

「え~い、なぜ落ちない!」
「ほんとしつこい汚れ……」

 総勢七人で呪術まで使い、競うように掃除しただけあり、清掃はあらかた終わった。だがプール内の一カ所。緑色の喪が生い茂り、そこだけ濁った水たまりのようになっている所があるのだが、この汚れが頑固でなかなか落ちないのだ。

「これ、いくらなんでもおかしいですわ……」

 ふと、きのうの餓鬼のことを思い出した桃矢は見鬼を凝らしてその汚れを『視て』みた。
 かすかだが霊気のバランスがくずれ、瘴気を発している。

「みなさん、よく見てください。この汚れ、霊災です!」
「なんですって!?」 

 女子たちも見鬼を意識して汚れを視る。

「たしかに、瘴気が出てる。うかつだったわ、巫女クラス一の呪術姫であるこの四王天琥珀が目の前の霊災に気づかないなんて……」

 もっとも正確には自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向、災害へと発展する直前の段階であるフェーズ1であり、霊的災害ではなく、その前段階だ。

「普通に洗った程度じゃ落ちないわけだ。よし、修祓してやる!」
「そうだね! こっちは七人もいるんだし、八陣結界とかできるかも」
「……拾参番隊のお猿さんは計算もできないの? 七人でどうやって八陣を組むのよ」

 八陣結界。対象を囲むように八人の術者を配置し、詠唱し術式を発動させることで術者同士を霊気が結び、内部のものを閉じ込め浄化する。遁甲術に属する修祓呪術。

「う~ん、一人くらい欠けても、みんなで力を合わせてなんとかならない?」
「「「ならない」」」

 これには緋組と白組、双方の面々から否の言葉があがった。呪術とはそのようなものではないのだ。

「七人か……、そうだ! 北斗七星陣を試そう」
「ええと、紅葉さん。授業で習ってない術を生徒だけで試すのはちょっと危険ですわ……」
「乳眼鏡の言うとおり。ここは基本に忠実に霊災を隔離する結界を張ってから、霊気の偏向を正しましょう。じゃあ私たち壱番隊が結界を張るから、拾参番隊は修祓のほうをお願いね」
「こら琥珀、なんでおまえが仕切るんだ!」
「ち、乳眼鏡って……」
「霊災は霊気に慣れ親しむ者ほどより敏感に影響を受けるのよ。あなたたちに瘴気を受けつつ冷静沈着に結界を維持することができるかしら? 長丁場になるかも知れないのに」
「それは……」

 自分と珊瑚はともかく、朱音と桃矢にはむずかしい。

「紅葉さん、ここは琥珀さんの言うとおりだと思います」
「く、わかった。その段取りでいいだろう」
「決まりね、それじゃあ……、修祓開始!」





「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や――」
「布留部、由良由良止、布留部――」
「神火清明、神水清明、神風清明。祓いたまえ浄めたまえ――」

 巫女たちがそれぞれ得意の呪をもちいて霊災修祓に立ち向う。

「ううっ、気持ち悪いよぅ……、おえっぷ」

 彼女たちの呪に反応して緑色をした水たまりが沸騰するかのように泡立ち、瘴気をともなう異臭を放っていた。粘性の高い気泡が弾けるたびに空気中に毒の胞子がまき散らされている。その毒々しい様を見ていると、いやでもそのような想像が浮かび上がってくる。

「朱音、無理するな。下がれ。深呼吸、はかえって吸い込んでしまうのか? とにかく息をととのえるんだ」
「これが霊災の修祓……、なかなかハードね」
「く、とっとと浄められなさいよ、もう」

 座学でなんども習った霊災修祓だが、いざ実践となると勝手がちがう。
炎天下の激しい日差しが肌を刺すように、熱気にあぶられるように、周囲に満ちた瘴気が身心を蝕む。

「フェーズ1程度でもこんなに厳しいなんて……。桃矢、平気か?」

 緋組拾参番隊のリーダーを自負する紅葉が朱音の次に桃矢の身を案じてそちらに目を向ける。

「天、地、元、妙、行、神、變、通、力――」

 一心不乱に神呪を唱え、九字を切っていた。他の巫女たちが瘴気の影響を少なからず受けて苦しみ。グロテスクな姿を見せる霊災から目を背けるなかで、桃矢だけが霊災をまっすぐに見つめ、毅然としている。

(も、桃矢? あいつ、こんなに頼もしかったか? な、なんだかかっこいいぞ……)

 霊災らしい霊災に遭遇したことはほとんどないという意味では桃矢も他の巫女と変わらない。だがつい昨夜、餓鬼に相対した桃矢には一日の長があった。
 あの時の餓鬼の群れにくらべれば大したことはない。そう自分に言い聞かせている。
汚いもの、醜いものから目をそむけてはいけない。それらを祓い清め、鎮めるのが巫女だ。目を閉じていたら修祓はできない――。
 昨夜の餓鬼修祓のさいに秋芳から言われた言葉。それを脳裏に浮かべてひたすら修祓に専念。
だが見ることは見られること。
桃矢は霊災の、瘴気の渦にひそむ存在と目があってしまった。
 
 !?

 次の瞬間、霊災からのびた真っ赤な触手が桃矢の腰に巻きつき、ものすごい怪力で緑色の水たまりへと引きずり込む。

「と、桃矢っ!?」

 とっさに床の縁にしがみつこうとするが、それもかなわなかった。
 紅葉たち他の巫女たちが見ている前で、桃矢は瘴気の渦へと飲み込まれてしまった。 

 

巫之御子 3

 ゴボゴボ、ゴボ、ごぼごぼごぼごぼ……。
 水泡の生じる音が耳に鳴り響く。さっきまで水の引かれたプール内で霊災を修祓していた桃矢だが、今は生ぬるい水の中にいた。霊災からのびた触手にからめ捕られ、引きずり込まれてしまったのだ。
 どちらが上か下かもわからない。混乱し、もがくのだが腰に巻きついた触手が容赦なく桃矢の身を締めつけ、ぐんぐんと引っ張る。
 思わず目を開けると、周囲はうす暗く、以外にも水は澄んでいるのがわかった。少なくとも外から見たような、毒々しい緑色をした水ではない。
 数メートル前方にぼんやりと光る楕円形が見えた泡はそちらにむかって上がっているので、そちらが『上』なのだろうか?
 桃矢はふと、あの楕円形が先ほど修祓していた霊災であり、あの光はプールの天井照明ではと思った。
 ほのかに光る楕円形は見る見る遠ざかり、深淵へと沈むにつれ、桃矢の意識も薄くなってゆく……。





 ごと、ごと、ごと――。
 しゃら、しゃら、しゃら――。
 耳慣れない稼働音に水の弾ける音が重なる。
 桃矢の目がゆっくりと開く。
 雲ひとつない青い空が目の前に広がっていた。

「え?」

 おどろいて身を起こし、あたりを見まわす。
 青空の下には緑の海が、青々とした水田が地平線の彼方まで続いている。
 ゆるやかな起伏のある場所には段々畑が作られ、耕された田畑にはカボチャや大根など多くの作物が実っていた。
 金色の菜の花、白い蕎麦の花、赤く実った鬼灯――。
 豊かな色彩が目を楽しませてくれる。
 日本人が田園風景と聞いて思い浮かべる世界そのもの。そんな場所に桃矢はいた。

「……どこ?」

 ごと、ごと、ごと――。
 しゃら、しゃら、しゃら――。
 桃矢の独りごちに応える者はいない。水車が回り、水受け板に汲まれた水が落ちる音のみが響く。
 東京都は渋谷区にあるプールの清掃をしていたら霊気の偏向。瘴気を確認し、巫女クラスの仲間とともに修祓をこころみた。だがその霊災の中からのびてきた触手に捕われ、この美しくのどかな世界に放り込まれてしまった。

「これって夢じゃないよね、現実なんだよね……」

 あまりの展開にしばらく呆然と立ち尽くす桃矢だったが、出口を求め歩き始める。
 水車小屋の中に引きこもり、おとなしく救助を持つことも考えたのだが、どうにも心細い。もっと大きな建物はないか、もとの世界に帰れる道はないか、探してみることにした。
 水田にそって続く道を進む。不思議なことに、なにかが鳴く声も、なにかが動く気配も、まったく感じられなかった。自然豊かな場所にもかかわらず、このあたりには虫や小動物すらいない。
 物音と言えば川のせせらぎくらいだ。
 静かだ。あまりにも静かすぎる。そして作り物のように不自然な、自然――。
 けれどもどこか神聖な感じもする。なにもしていないにもかかわらず、桃矢は自分がひどく不作法なことをしている気がして軽い罪の意識にかられた。

 神聖不可侵な領域に侵入し、静寂をかき乱しているかのような……。
「僕はだれかに無理やり連れてこられたんだ……、べつに好き好んでこんな場所に来たんじゃない……」 

 異様な静寂がもたらす緊張に耐えられず、そう口にした時、それは密やかに、水音ひとつ立てずに現れた。
 桃矢の目の前にあった水門の上にぬうっと黒いものが浮上したかと思うと、ゆっくりと空中にせり上がっていった。
 爪のある手と毛深い顔を持ち、黒雲に覆われた獣のような姿。身を覆う濡れた暗褐色の毛から水滴をぽたぽたと滴らせている。
 大きい。
 全体像は不明だが、ひと口で人など飲み込んでしまえるだろう。
それが首をめぐらせ、桃矢を真正面から見つめる。イヌ科の動物のような顔をしているが、その目には知性の光が宿っていた。
 桃矢は身動きができなかった。不動金縛りの術なのか、驚きのあまり動けないのか、桃矢自身にもわからなかった。それほどまでにそれの姿が異様だったからだ。
 昨夜のフェーズ3もどきの餓鬼たちとはちがう、正真正銘のフェーズ3。動的霊災。それもすでに霊的安定を得て久しい、年経たあやかし――。

「目ガ覚メタカ、花嫁ヨ」

 あやかしの口が大きく開き、真っ赤な舌がうごめいて、たどたどしい人語を発した。

「ぼ……、僕は花嫁じゃないです」

 桃矢はかろうじて言葉をしぼり出す。緊張のあまり、ひどくかすれている。

「オマエハ儂ガ見初メタ花嫁ダ。オマエノ儂ヲ見スエル眼。他ノ巫女タチノ誰ヨリモ真ッ直グデ、澄ンダ良イ目ヲシテイタ。気ニ入ッタゾ」

 たしかにプールでの修祓のさい、桃矢は他のだれよりも瘴気を凝視していた。

「だいたい僕は男です! 花嫁になんかなれません!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 しばしの沈思黙考。

「……コノサイ、男カ女カナド、些細ナコトダ。儂ノ妻ニナレ」
「些細なことじゃないっ!」
「衆道モ、マタ良シ」
「良くなーいっ! だいたいどうして霊災が花嫁なんて欲しがるんですか!?」
「サビシイカラダ」
「えっ?」

 その意外な応えに桃矢は絶句した。霊災が、こんな怪物が『さびしい』などと言うだなんて、想像もしていなかったからだ。

「儂ハサビシイ、長イコト独リデイスギタ。遠イ昔、人々ガ大地ヲ育ミ太陽ヤ空気、水ノ流レト共ニ生キテイタ頃ハヨク人ト交エタモノダ。日照リニ苦シム人々ヲ助ケ、感謝サレタコトモアル。ダガ最近デハ儂ノ姿ヲ見ルナリ、恐ロシイ呪術ヤ火ヲ吹ク棒デ傷ツケヨウトシテクル」
「……」
「モウ孤独ニハ耐エラレヌ。嫁ガ欲シイ、ツネニソバニイテ数百年ノ孤独ヲ癒シテクレル、儂ヲ愛シ、理解シ、話シ相手ニナッテクレル優シイ嫁ニナレ」

 桃矢の心に苦い思い出がよみがえる。
気持ちの高ぶっている状態で唇がふれると霊力が同調する同調性共鳴症はいっさいの恋愛を禁じる枷だ。
 陰陽塾に来る前、つきあっていた恋人が何人かいたが、そのいずれも長くはもたなかった。『つき合ってもう半年なのに、なんでキスしてくれないの?』
 そう訊いてくる彼女たちに能力について話せば、気味悪がって離れてゆく……。
 自分はこれから恋人も友達もできずに、だれからも愛されずに孤独な人生を送らなければならないんだ……。
 陰陽塾に来る前は、そんなことをずっと考えていた。
 唐突に湧き上がってきた悲しみが頭の芯を痺れさす。不覚にも涙があふれてくる。
桃矢の持つ強い感受性が、目の前の怪物が抱く孤独の念を読みとったからだ。

「オマエニモワカルカ?」
「……はい」
「儂ノタメニ泣イテクレルノカ?」
「はい」
「オマエモ孤独ナノカ?」
「は――」

 はい。思わずそう言いかけて口をとざす。ちがう。今の自分は独りなんかじゃない、この能力に理解をしめして陰陽塾への道を作ってくれた大友陣。忌避することなく普通に接してくれる塾生たち。危機を救い、教えをしめす賀茂秋芳。
 自分の周りには多くの人がいるではないか。
 一人ではない。そう言おうとする前に怪物が口を開く。

「オマエモ孤独ナノダナ。ヨシ、デハトモニ愛シ合オウ。ワシハオマエノ孤独ヲ癒ス、ダカラオマエモ儂ノ孤独ヲ癒シテクレ。サァ、ヒトツニナロウゾ……」
 桃矢が不穏な気配と身の危険を感じた瞬間、その足もとをなにかが巻きついた。さっきの赤い触手だ。

「ひゃっ!?」

 ものすごい力で引きずられ、転倒しそうになる桃矢の右腕と左腕を別の触手が巻きつく。両腕を左右に押し広げた、Yの字の格好で怪物の前に持ち上げられる。
 水中に隠れて見えなかったが、この触手は怪物の身体から生えているようだ。
 ぬちゃあぁあぁぁぁ――。
 大きく開いた口から赤い舌がのび、桃矢の胸からお腹、脚にかけていやらしく這いまわる。肌の感触や温もりを確認するかのようにうごめく。
 その動きのいやらしさ、なまめかしさに身の毛がよだった。

「あっ!」

 赤い舌の先端が緋袴の奥。桃矢の股間をまさぐる。

「ヌゥ、コレハ……。タシカニオノコデアッタカ……」
「そ、そうだよ。だから言ったでしょ、僕は男の子なんだよ! だから離してっ!」
「ソレデモ、カマワヌ」
「え? ええっ!? ほんとに? わっ!?」

 両腕に続いて両足も左右に開かれ、Y字型からX字型にされる。新たに二本の触手がのびてきて、桃矢のお尻と胸を愛撫しだした。

「あっ、ちょ、やめ……。くっ、くすぐったい! て、あ、あ、ああ、アアッ!?」

 感じる。

「や、やめてっ! アアッ! い、いやっ! いやぁ~!」

 桃矢は全力で身をよじるが、触手の動きは止まらず、全身をくまなく撫でまわされる。
 桃矢の身体に本格的な快感が走る。

「はぁはぁはぁ……、だ、だめ……。そんなにしたら……。あ、あうっ!?」

 乱暴ではあるが、痛くないよう傷つけぬように肌を這い回る触手の感触はひたすら優しく、情愛がこめられていた。

「ん、んんん……。ンッ、くっ、うふぅ……ん、んんっ、ら、らめぇぇぇ~!」

 あまりの気持ち良さに口から男とは思えないほどの色っぽい喘ぎ声が漏れ始める。
それに反応してか、お尻を撫でていた触手の動きが激しさを増し、不穏な動きを見せ始めた。

 その動きに消えかけていた桃矢の理性が悲鳴をあげた。
(こ、このままだと女の子にされちゃう!? そんなのはいやだっ!)

 必死になって抵抗する。

「やだやだやだ! こんな始めて絶対にやだ! いやだーッ!」

 桃矢のその思いが天に通じたのか、一条の光が奔り触手を切断した。

「グギャッ!?」

 切断面から体液をまき散らす代わりに激しいラグが生じ、怪物は苦痛の叫びをあげてのたうちまわる。
 触手を断ち斬った光の正体は鋭利な霊気につつまれた一羽の折り鶴だった。それは桃矢の肩に止まると「桃矢、禹歩」と、秋芳の声を発した。

「え?」
「禹歩、穏形、身固め。早く!」
「あわわわ、はい!」

 千鳥足のようなおぼつかない足どりで、それでもしっかりと禹歩を踏み、呪を完成させる桃矢。
 桃矢は兵馬刀槍といった物理的な攻撃を避ける禹歩の他に、あやかしから隠れる類の禹歩もついでに教えてもらっていた。
 きのうの今日ならぬ、さっきの今だ。そのやり方はしっかりと記憶している。

「グヌヌ、ドコヘ消エタ?」

 怪物の目から遁れることに成功したようだ。昨夜の餓鬼のように目の前にいるにもかかわらず、こちらの姿を見失い、触手を使いあたりを探し回るが、触れる直前になぜか向こうのほうから避けてしまう。
 あの安倍晴明の幼い頃。師である賀茂忠行の供をしていた時、百鬼夜行に遭遇したことがある。晴明は急いで寝ていた忠行を起こして知らせて、忠行が素早く身を隠す術を使ったため百鬼夜行から無事に逃れることができた。というお話が『今昔物語』の中にある。
 一説にはこの時に忠行がもちいた術こそ、隠形の反閇だと言われる。
 桃矢はそれを使ったのだ。

「もとは方位神の眷属だけあって、この手の術が良く効く」
「……こ、こいつって神様なんですか?」
「神様っちゃあ神様だが……、そんなありがたい存在じゃない。陰陽道における八柱の方位神。八将神のうち太歳神に仕える赤舌神(しゃくぜつしん)が妖怪に零落した姿。赤舌だ」
「あ、そんな妖怪いましたね」
「赤舌の赤は(あか)。船底にたまる水を意味し、舌は下心。心の内にひそむ邪な感情を意味する。ことわざの『舌は禍の根』にも通じることから、赤舌とは災いをあらわす、一種の凶神だといわれる」
「へぇー」
「この田園世界はこいつの作った隠れ里だな。場所が場所だし、汚れたプールはうつし世との『門』にしやすかったんだろう」

 たまった水に下心。たしかにここはそのような要素のある場所といえる。

「ところで秋芳先生、ですよね? その姿は……」
「俺の簡易式だ。様子を見に来たらみんな霊災を囲んで途方に暮れてて、聞けばおまえがさらわれたって言うじゃないか。だからこうして探りに入ったんだ」
「あ、これも簡易式……」

 桃矢の中で簡易式といえば、先ほどのお掃除合戦でみんなが使ったような人形のものしか思い浮かばなかったので、折り鶴の形は意外だった。

「正確には簡易人造式。汎式における式神使役術の基本中の基本だな。一般の人造式よりも安易かつ迅速に作成できて、カスタマイズしやすい自由度の高さがメリットな一方、術者の呪力のみで動くため長時間の活動にはむかないというデメリットがある。それでも使い手の発想や力量次第で様々な用途に使用できる便利な式だ」
「そういえば授業で習ったような気がします」
「まぁ、巫女クラスじゃ式神について陰陽師クラスほど専門的に教えてないようだからな。失念するのも無理はない。ところで――」
「はい、なんですか?」
「あの赤舌だ、人をさらって触手プレイするようなエロ妖怪を放置するわけにもいかないし、修祓するか」
「しょしょしょっ、触手プレイってそんな!? そ、そうみたいでしたけど……」

 さっきの感触を思い出し、桃矢の白い顔が羞恥に朱く染まる。

「言っておくがおまえを見つけて、すぐに助けに入ったからな。アニメ『ドルアーガの塔』のファティナのあれのシーンみたく、しばらく放置しようとか思わなかったぞ」
「あ、あたりまえですよ! あんなふうに傍観するような人は最低です!」
「だけどおまえもちょっとゆるすぎだぞ。押し倒されてすぐに『あぁんらめぇぇぇ』てなるような安いやられキャラよりも『くっそテメェあとでぶっ殺す……っ!!』て、デレも蕩けもせず。ムードもなく、最後までずっと悪態ついてるようなやられキャラのほうが絶対受けるって」
「いったいなんの話ですか!? わけがわかりませんよ!」
「まぁ、とにかくこいつを祓おう。俺がやれば簡単だが、せっかくだし外に引きずり出して他の巫女たちみんなで修祓するか。そのほうが勉強になる」
「あの、そのことなんですけど……」
「うん?」

 桃矢はこの怪物――赤舌――の境遇について説明した。

「――そういうわけで、一方的に修祓するのはちょっとかわいそうな気がするんです。なんとかなりませんか?」
「そうか『大アマゾンの半魚人』みたいなやつだったのか。それはかわいそうだなぁ。まぁ、見たところ霊的に安定しているし、瘴気ダダ漏れって感じでもないし、折伏できるのならそれにこしたことはないな。よし、ちょっと話してみよう」
「はい」

 桃矢は禹歩を止め、赤舌にむかい合った。

「オオ、ソコニイタカ」
「赤舌さん。あなたがさびしいのはわかりました。でもこんなやりかたは良くないです」
「ナニガ良クナイ?」
「強引にさらって、相手の意思を無視して、その……、え、エッチなことをするのは良くないです、ダメです」
「エッチナコト。トハ、ナンノコトダ」
「それは、そのぅ、ええと……」
「婦女子をかどわかし、手籠めにするなと言っている」
「あの、僕は婦女子じゃないんですけど……」
「グヌヌ……」

 冴え冴えとした霊気を放つ折り鶴からの言葉に赤舌が目に見えてたじろぐ。

「オマエハ陰陽師ノ式神カ……?」
「そうだ、陰陽師だ。未成年者略取と強制猥褻の現行犯で修祓する。と言いたいところだが、なにやら事情がありそうなので、ゆるしてやらなくもない。おとなしく式になれ」
「……ソノヨウナコトヲ言ッテ、式ニ降ロシタ後サンザンニ、コキ使ウ気デハナイダロウナ?」
「しないしない、ちゃんと労働法は守る。十日間飲まず食わずでこき使ったうえ駄賃を踏み倒したり、たぶらかして馬糞を食わせたり、風呂といつわり肥溜めに入れたり、肉をそぎ酒菜にしたりとか、そういうのはしない」
「なんでそんなに具体例がすらすら出てくるんですか!?」
「なに、昔そういう陰陽師がいたんだよ」
「イヤダ、働キタクナイ。儂ハココデ嫁と二人。静カニ暮ラシタイ」
「働きもせず引きこもってダラダラと暮らしてるだけで嫁がもらえると思うなよ。外に出ればそのぶん出会いがあるし、良い働きをして社会に認められれば、女のほうから嫁にしてくれと言ってくるぞ」
「ソウイウモノカ?」
「そういうものだ」
「ウウム……」
「さらに召喚されて働いている間は給料も出してやろう。人間界で過ごすにはなにかと入用だしな」
「人界ニモ金銭ニモアマリ興味ハナイノダガ……」
「今の世を直に見て周ったこともあるのか? こういう自然だってまだ残っているうえ、映画やゲームといった娯楽だってあふれている。楽しいぞ。そして人海で楽しむにはそれなりに先立つものが必要だ」

 実際都内にはおよそ二百九十五ヘクタールの水田が存在し、七十五の農業用水路も流れている。世田谷の等々力渓谷など、都心にありながらまるで別世界のような自然にあふれ、今でも修験者が修行におとずれているという。

「……ワカッタ、デハオ主ノ式ニナロウ」
「かんちがいするな、使役するのはこいつだ」
「え? なに言ってるんです、僕に使役式を持てるだけの霊力なんてありませんよ」
「今は無理でも修行して身につければいい。今日のところは仮契約だ」
「そんなことしなくても、秋芳先生が式にすれば……」
「俺は笑狸以外の式神は持たない」
「そんな~」
「こいつを修祓せず助けたいと言ったのはおまえだろ、最後まで責任をもって面倒を見るんだ」
「コノサイ修祓サレヌノナラバドチラノ式デモカマワヌ」
「念のため確認するが、今までも婦女子を手籠めにしたことはあったか?」
「ナイ。ソノヨウナコトハ断ジテナイ」
「では今後もそのような狼藉を働くこと、これを禁ずる。破った場合はたちどころに落命すると思え」

 秋芳の言葉には呪がこめられていた。呪術師相手に言葉で交わした約束を違えればどうなるか、説明するまでもない。
 その他にも桃矢を交えてちょっとした儀式のようなことをして、式神契約(仮)は無事終了した。

「儂ハ赤舌。イツノ日カヨロシク……」





 ちょぽんっ
 軽快な水音をあげて桃矢の身体がうつし世に現れる。と同時に異臭をまき散らしていた瘴気の塊。霊災がかき消えた。

「あ、戻ってきたよ!」
「桃矢さん!」
「無事か!?」
「まったく世話かけて……」

 緋組拾参番隊と白組壱番隊。紅白の巫女たちが桃矢の身を案じて駆け寄り、無事をたしかめた。

「みんな心配かけてごめん。秋芳先生に助けてもらったから、僕は平気だよ」
「そ、そうだ。賀茂先生すみませんでした。私たちだけで修祓しようとして、こんなことになってしまって……」

 一同を代表するかのように紅葉が頭を下げる。

「……陰陽法第二十四条。霊災を発見した者は遅滞なくこれを陰陽庁祓魔局。または市町村長の指定した場所に通報しなければならない。またすべての人は前項の通報が最も迅速に到達するように協力しなければならない。通報義務に違反した場合、同法第四十四条にしたがって、三十万円以下の罰金。または拘留に処せられる……。と堅苦しい弁はさておき、みんなはまだ正式な巫女でも陰陽師でもないのだから、無茶、無理なことはしないように」

 さんざんもぐりで霊災修祓してきた自分が他人に法を説くとはね――。秋芳は内心で苦笑しつつ、そう教え子たちに諭した。

「とにかくこれで霊災は消えた。清掃のほうも終わってるか?」
「はい、終了しました」
「なら案件も無事完了だな。みんな憑かれたろう、もう帰ってもいいぞ」
「あのう、そのことなんですけど……」
「却下」
「まだなにも言っていませんわ!?」
「三亥珊瑚くん、君の格好を見ればわかる。もののついでにここで水遊びしたいとか言うんだろう?」
「は、はい。せっかくですしちゃんと綺麗になってるか確かめないとですわ」
「このサイズのプールに水を張るとなると、相当な量になる。水道代もバカにはできないし、消毒用の塩素だって必要だ。そんな許可は取ってないから無理だ」
「ま、まぁそうですけど……」
「たしかに言われてみれば、水道代とか塩素のこととか、考えてなかったな」
「え~、そこをなんとかならに? お願い先生」
「見苦しいわね緋組拾参番隊。先生の手をわずらわせたあげく、そんなわがまま言ってみっともない」
「あら、そう言う琥珀ちゃんだって水着用意しててのに」
「な!? 余計なことを言うんじゃない眞白っ」
「夏場は泳げなかったから、少し期待してたんだが残念だ」
「こら、白亜まで!」

 わーきゃーわーきゃー、実にかしましい。女っ気というものに縁のなかった秋芳にとって、この空気は新鮮で、わずらわしくもあり楽しげに感じた。

「まぁ、みんな最後まで聞け。実は俺もみんなと同じことを考えていた」
「「「え!?」」」
「実際の水を使うのは無理だから、呪術で出した水でプールを満たす。ついでに消毒も呪術でする。店側の出費はゼロ、関係者もいない。どうせ今日は営業してない俺らの貸し切り状態だし、黙っていればわからない」
「呪術の水って水行符を使うんですか?」
「でも私そんなに持ってない」
「巫女クラス一の呪術姫であるこの四王天琥珀を甘く見ないで。一枚で満たしてあげる」
「ふん、十体の簡易式もろくにあつかえないくせに大口を叩くな」
「なんですって!?」
「そもそも水行符……、呪術で出したお水は長くは持たないのでは?」
「ねぇねぇ、消毒用の呪術ってなに?」
「ええと、なんでしょう? 火行術でしょうか?」

 わーきゃーわーきゃー。やっぱりかしましい。こういうのを女子高のノリとでも言うのだろうか? このような喧騒も悪くない。そんなことを思いつつ、秋芳は自分の考えを実行に移すため、みんなをプールサイドに上げさせた。

「こうするんだ。――オン・シュリマリ・ママリマリ・シュシュリ・ソワカ!」

 この世の一切の汚れを焼き尽くし、有形なる物の不浄を浄化する烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の真言を詠唱。
 清浄の力に満ちた聖なる炎が建物の中を洗い清め、プール内の目に見えない雑菌を滅却。さらに続いて――。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ!」

 龍索印を結印し、十二天のひとつ水天の真言を詠唱すると、護法の呪力はH2Oの化学式で表される水素と酸素の化合物。すなわち水へと変わり、モン・サン=ミシェルの潮流のごとく激しくプールに流れこんでいっぱいに満たした。
 無から有を生み出す、恐るべき呪術の御業。
 正確には術者の精神力や呪力が代償になっているので無から有というわけではないのだが、それでもすさまじきものである。

「さっきだれかが指摘していたが、実体化した式神と同様に呪術によって生じた物質というものは現実的には曖昧な状態なんだ。五行術で呼び出した木や火や土、金属や水なんかみんなそうだな。水行術の場合は『呪力が一時的に現実の水と同じ形状・性質になっているだけ』で時間が経過すると消滅する。そうしなくするためには通常の術式に手をくわえ、より多くの呪力を消費することで限りなく現実の物質に近づけることができる。この水はそのようにして作られた水だから、泳いでるさいちゅうに消えたりはしない。どのくらい現実の水に近いかと言うと――」
「「「…………」」」
「――ま、こまかい話は授業でしよう。さぁ、これで準備はととのった。あとはみんな水着に着替えて自由に」
「「「は~い♪」」」 
そして今回のお話の冒頭のシーンへとつながる。





 笑狸の幻術によって生み出された青い空に白い雲。燦々と輝く太陽に紺碧の水面。押しては引く波の音に、ただよう潮の香り。
 視覚のみならず聴覚、嗅覚にも幻術の効果はあらわれている。
 大海原に広いビーチが広がっているように見えるが、実際は室内にあるプールだ。そのため壁などの障害物に衝突しないよう、念のため緩衝用の結界も張られている。
 紺色のスクール水着を着た朱音が、赤いホルターネックビキニの紅葉が、白のワンピースの眞白が、黒の競泳水着の白亜が、バンドゥビキニの珊瑚が、、タンキニ水着の琥珀が――。多種多様、色とりどりのスイムウェアを着た乙女たちが若く美しい肢体をさらして自由奔放に戯れていた。

「ねぇ、秋芳君。どの娘が好みなの?」
「京子」
「そうじゃなくて、あの中じゃあだれが一番好きなの?」
「あの中でもどの中でも京子が一番好きだって」
「んも~、うふふっ。正直者なんだからぁ」
「……あのさー、二人とものろけてないで泳いできたら? せっかくのプールなんだし」
「賀茂先生たちも入りなよ、気持ち良いよー」
『ギップリャ』と叫びたくなるのを、ぐっとこらえた表情で笑狸がそう口にすると、それに合わせたかのようなタイミングで巫女たちもプールにいざなってきた。
「そうだな、水にはいるのも久しぶりだし泳いでみるか。京子、俺は脱いだらすごいんだぞ。もう首から下は『Free!』のキャラみたいだからな。松岡江がうっとりするくらいの筋肉だぞ。うなるような嵐の上腕筋、燃えるような炎の後背筋、しなやかな疾風の大腿筋、叫びをあげる雷の三角筋……」
「うん、見たことあるから知ってる。……て、なに言わすのよ、もう。変な意味にとられちゃうじゃない」
「あー、はいはい。お二人さん仲が良いのはわかったから、仲良く競泳でもしてきたらどう?」
「あら、いいわね。秋芳君、どっちが早いか競走…、じゃなくて競泳しましょう」
「いいぞ。だがその胸で速く泳げるかな?」
「胸は関係ないでしょ、胸は!」

 京子は一つにまとめたポニーテールを前のほうにもっていき、後ろからおおうようにキャップをかぶった。準備完了。

「なぁ、俺が勝ったらおっぱい揉ませてくれ」
「……いいわよ。じゃあ、あたしが勝ったらあなたはなにをしてくれるの?」
「その時は敗者として、恥を忍んで君のお尻にキスをしよう」
「……お尻にキスするんじゃなくて、足の裏を舐めなさい!」
「いいよ」
「え?」
「俺が負けたら京子の足の裏を舐める。わかった、その条件飲んだ」
「ちょ、ちょっと待って! やっぱ今のはなし。なしよなし! こら、待ちなさいってばっ」

 足の裏をくすぐるように舌で舐めたら、京子はどんな反応をするのだろうか?
 これは実に試しがいがある。
 秋芳は相好をくずしながら水面にむかって駆け出した。





 薄暗い屋内。
 鉄骨の突き出た、剥き出しのコンクリートの床と壁。だが天井からは紫水晶の豪奢なシャンデリアがぶら下がり、天鵞絨(ビロード)の壁掛けや絨毯。スウェーデン製の高名な家具工芸家の紋章が入ったテーブルにはコニャックやジョニー・ウォーカーといった洋酒の瓶がならべられ、淡い照明に銀色の反射を見せている。
 豪勢なのかそうでないのか、ちぐはぐな。あまりにもちぐはぐな装いをした部屋だった。
女の体臭と香水の匂いが入り交じった、頽廃的な香気がただよっている。妙にけだるく、それでいて興奮を誘う妖しい香り……。
 部屋の奥にある天蓋つきの寝台の上。上等な絹の褥にくるまれて、四人の女性が絡まりあっていた。
 おたがいの肌を、唇を、髪を、全身を舐めるように愛撫し合っている。
喘ぎ声とも嬌声ともつかない、淫糜な声が吐息とともに漏れる。

「なぁ、美卯」

 赤銅色の髪に褐色の肌。左目に革製の眼帯をした女が組み伏せた少女に問いかける。

「なんですの?」
「このサクランボはだれのものだい? 美卯のものかい? 彼氏のものかい? それともあたいのものかい?」
 女はそう言うと、髪をツインテールにした少女、美卯の乳首を舌先で激しく舐め回した。

「こ、この乳首は温羅様のものですわっ! あ、ああっ!? アーッ!」

 その様子を見た別の少女が温羅(うら)と呼ばれた女の背中に猫のように頬ずりし、懇願する。

「やだぁ、美卯ばっかりずる~い。ねぇ温羅さまぁ、ここにも温羅さまのサクランボがありますよぉ。舐めて舐めて~」

 ショートヘアにしたくせっ毛が温羅の背中をくすぐる。

「かっかっか、いいぞ寅子。じゃあこっちのサクランボには、お辰のミルクをかけてから、いただこうかね……」
「あっは~ん、温羅様のお望みなら喜んで、この辰巳、お乳を搾っちゃいますぅ」

 二十代半ばだろうか、四人の中では一番年かさで、上品な黒髪を肩まで伸ばした女性だが、その声は妙にハイトーンで幼女のようだった。
 辰巳がその豊かな双丘に自分の手をよせ、揉みしだき始めた。まさか本当にお乳を出すのだろうか? と、その時だった。

「お館様!」

 室内に男の声が響き、女たちの醸し出していた淫蕩な空気に水を差す。

「なんだいジョルジュ。でかい声出して邪魔するんじゃないよ、あたいが子猫ちゃんたちと楽しんでいるのが見えないのかい?」

 ジョルジュと呼ばれた男が平伏するかのような低姿勢で部屋に入って来た。
 土気色の肌に灰色のスーツが陰気臭い、痩せぎすの小男。だがその腹部だけは異様に膨らんでいる。
 中年太りにしても大きい。大きすぎるほどに膨らんでいた。
 まるで餓鬼のように。

「はっ、おそれながら申し上げます。わたくしの眷属たちが桃の童を発見いたしましたので、急ぎ報告に参りました」
「あ、そう」
「な、ちょ、『あ、そう』て、そんな……。温羅さまの祖先に仇なした仇敵。ひいては鬼族の宿敵を見つけたのですぞ!」
「だからなんだい、祖先は祖先。あたいはあたいだよ。……それよりもジョルジュ、あんた人を、人間を喰ったね」
「は!? い、いや、いやその食したのは人というか路上にころがる不浄の物でして……」
「不浄でも清浄でも、とにかく生きた人間を食べたんだろう? おまえの霊気から血肉の臭いがするよ」
「は、はい。ですがしかし直接口にしたのは我が眷属どもでして、わたくしが食べたというわけでは……」
「おなじことだよ。ジョルジュ、あたいたち鬼子党(グゥイヅゥダン)は金持ちや権力者しか相手にせず、庶民に非道な真似をしないのをモットーに掲げる義賊なんだ。盗みはいいけど殺しはご法度だよ」
「は、ごもっとも!」
「ジョルジュ。あんたはそれを、破った」
「…は、ごもっとも」
「あたいにはねぇ、どうにも我慢できないことが三つあるんだ。一つ! あたいになめた口を利くこと。二つ! あたいを甘く見ること。三つ! あたいを馬鹿にすること。そして……、あたいの決めたことを守らないことだよッ!」
「え? いや、そ、それは全部で四つあるのでは……」
「黙りな! 禁口則不能話、疾く!」

 口を禁ずればすなわち話すことあたわず。
 発言を封じられ、陸に引き上げられた魚のように口をパクパクとさせるジョルジュ。

「そして! あたいの揚げ足を取ることだよ!」

 温羅は枕元に置いたあった銃器を手に取ってジョルジュに銃口を向け、引き金を引いた。
 FMG-9。折り畳み式のサブマシンガンが火を吹いた。
 激しい銃声が鳴り響き、ジョルジュの全身がラグにつつまれる。
 連続して銃弾を撃ちこまれ衝撃に翻弄される様は、まるでダンスでも踊っているかのようだった。

(ひ、ひどい~)

 あわれ全身に風穴を穿たれ蜂の巣状態になったジョルジュは、口を禁じられたため悲鳴をあげることすらできず、意識を失った。
「まったく、すっかり興が冷めちまったよ……」

 落ち着いたところで先ほどの言葉を思い出す。祖先の『温羅』を退治した桃の童が現世に現れたという話……。

「……気が向いたらいっぺん会って見ようかねぇ、桃太郎」

 左目の眼帯をさすりながら、温羅という名の女はそう口にした。 
 

 
後書き
 ラストに出てくる温羅。
 桃矢メインのお話を続けるなら出そうと思った桃太郎伝説や干支にいなんだボスキャラですけど、今のところ再登場の予定はありません。 

 

巫之御子 余談

 秋芳たちが去ってしばらくしたのち。扉を開け、あたりをうかがうようにしてプールサイドに入って来た一人の少年がいた

「よし、もうだれもいないな……。いいぜ、夏目」

 黄色と黒の虎柄をした海パン一丁の春虎が手招きすると、飾り気のない白いワンピース水着を着た夏目が姿をあらわした。

「お……」

 春虎の視線が思わず一点に集中してしまった。
 夏目が着ているのはたしかに飾り気のない、白ワンピだ。だが春虎が思っていたよりも三角ラインが鋭角。つまりハイレグ度が高かったのだ。
 それにくわえて少々布地が薄く、心もとない。
 端的に言ってしまえば極薄超ハイレグの競泳水着だったのだ。

「あ、へ、変かな、この水着……?」

 春虎の視線に気づいた夏目が両手で身体を隠すようにして、恥じらう。

「へ、変じゃないって! なんて言うか、その、あ、アイドルみたい? 思ってたよりずっとかわいいって言うか似合ってるて言うか……」
「かわいい!? ほ、ほんとう?」
「おお! すっげぇ、かわいいよ! マジで!」

 年齢制限のある雑誌に載っているグラビアアイドルみたいにエロい。などとは口が裂けても言えない。

「ふふ、良かった。これ、ちょっと地味かなぁと思ったんだけど、春虎が気に入ってくれたんなら正解だね」

 そんな極薄超ハイレグ水着のどこが地味なんだ! デザインか? デザインが地味なのか? たしかにデザイン『だけ』なら地味かも知れないけどよ!

「こほん」

 わざとらしい咳払いとともに二人の近くに紺色のスクール水着(旧型)を着た幼女が現れた。
 尖った耳にケモノの尻尾。アイロンプリントには『コン』と書かれている。
 春虎の護法式であるコンだ。コンだけに紺の旧スクを着用しているのは偶然か。

「春虎様、夏目殿とておなごでございますぞ。そのような劣情に満ちた不躾な視線で舐めまわすように視姦するのはどうかと……」
「し、ししし、視姦!? 春虎君、そんな目で私を――ッ」
「ちょ、おまっ、ななな、なに言ってんだよ! そんなんじゃないって!」
「そうでござりますか……?」

 おのれの式神から飛んでくる、ジト目の視線が痛い。

「そうだよ、もういいから準備運動始めるぞ!」
 土御門夏目。陰陽師の名門である土御門家に生を受け、呪術の才にあふれた天才少女。
 その土御門家には様々なしきたりが存在した。
 そのうち一つ『跡取りは対外的には男子として振る舞わなければならない』ことにより、中学入学以降は男装し、男子として過ごしている。
 そのため公の場で水着になる、水に浸かることなどまったくなかった。水泳の授業も受けず、スイミングスクールに通うこともなかった。それゆえ、泳げない。
 つまり、土御門夏目はカナヅチだった。
 そのことを知った春虎は、それならばと自分が教えようという気になったのである。
 その機会はすぐにやってきた。案件とやらでプール清掃をすることになった秋芳に頼んで、掃除が終わった後のプールを二人だけで貸し切りにしてもらったのだ。
 もっとも秋芳には夏目のことは言ってはいない。

「実はコンのやつ、カナヅチなんだ。だから今度おれが泳ぎを教えてやろうと思ってたんだけど、なかなか場所が見つからなくて……。ほら、護法式とか、公共の場であんま見せて歩くのもあれだろ? それにコンも人目があるといやだって言うから……」

 そのような苦しい言いわけをして、使わせてもらうことに成功した次第だった。

「コンめは水練もできまする。それを夏目殿のダシに使うとは不本意です」

 そうぶうたれるコンをなだめすかすのには大変だった。そして今でもご機嫌斜めの様子だ。

「コンもほら、準備運動、準備運動!」

 水に入る前にしっかりと身体をほぐし、温めるのは大事だ。
 硬くなっている筋肉をほぐすことはケガの予防になるだけでなく、足がつるのも防ぐ効果がある。
しかし――。
 極薄超ハイレグというきわどい水着に身をつつんで脚を開いたり曲げたり屈んだり反ったり跳んだりしている様は、なんというか、かなり危ない絵面だった。
 夏目は華奢な体型で、同年代の女子とくらべると胸のあたりなどひかえめなほうなのだが、それでも身体のラインがはっきりと表れる競泳水着を着ていると、やはり男子とはちがう。丸みをおびた、柔らかそうな身体つきをしているのがハッキリとわかる。
 アニメ『東京レイヴンズ』第九話を思い出して欲しい。
 バイクの後ろに乗った春虎が前の夏目の胸をつかんだシーンで、はっきりくっきりと盛り上がるほどのサイズの乳があったではないか。
 胸にある二つのふくらみが『ほらほら、どう? あたしたち女子は男子とは身体の作りがちがうんだから。興味ある? 来て見て触ってみる?』(CV:花澤香菜)などと自己主張している幻影が春虎の脳裏に浮かんだ。
 これは男子ならばだれもが脳内に持つ妄想器官の働きによるものだ。
 エマージェンシー! エマージェンシー! ただちに暴れん棒を冷却せよ!

「お、おっし! 準備体操はこれまでっ」
「えっ? もういいの?」
「おう! 早く水に浸かって身体を冷やそうぜ!」

 言うやいなやどぼんと飛沫をあげてプールに飛び込む。

「きゃっ!? もう春虎君てば危ないっ」
「ハハッ、夏目もコンも早く来いよ。冷たくて気持ち良いぜ」
「もう、子どもなんだから……」
「では、お言葉に甘えてコンめも入水(にゅうすい)いたしまする」

 豪快にダイブした春虎とちがい、足から水に浸けてゆっくりと入水する夏目とコン。これがプールの正しい入りかただ。

「ひゃっ、冷た」
「おおぅ……、これはこれは、なかなか心地よい」

 チャプチャプと水音を立てて器用に背泳ぎをするコン。尻尾が舵の役を果たしているのか、かなり安定した泳ぎを見せている。

「じゃあ夏目はまず水に慣れるとこからだな。顔を水につけてみようか」
「もうっ、そのくらいはできます! もぐれます! 泳ぎを教えてください!」
「あはは、そうか。じゃあ――ッ!!」
 ふたたび春虎の視線が夏目の身体の一部を凝視してしまった。
 なぜなら――。
 
 透けて見えていたからだ――。

「春虎君?」 

 怪訝そうな表情で小首をかしげ、のぞきこむように春虎をうかがう夏目。
 小動物のようなかわいらしい仕草だが、春虎にはその愛おしい姿を見る余裕はなかった。
 なぜなら――。

 透けて見えていたからだ――。

 どこが透けて見えていたか?
 夏目は白い水着。それもどこで購入したのか、極めて薄い布地のものを着ているのだ。
 つまり――。

 「春虎君? ねぇ、どうしたのさ?」

 春虎の中の『虎』が目覚めようとしていた……。
 

 

京子のお見合い

「お見合いぃ~ッ!?」

 陰陽塾への通学途中の車内に京子のすっとんきょうな声が響いた。

「まぁ、なんですか京子さん。そんなはしたない声なんか出して」
「いきなりお見合いなんて言われたら、こんな声も出ます! いきなりなんなんですか、お見合いって!?」
「お見合い。結婚を希望する男性と女性が第三者の仲介によって対面すること。ですよ」
「そんな辞書に載っているような説明じゃなくてっ!」

 ひと息入れて呼吸を落ちつかす。

「……お祖母様。あたしと秋芳君のこと、認めてくれてたんじゃなかったんですか?」
「ええ、認めていますとも」
「なら、どうして――」
「ただ先方がどうしても言ってきていましてね。たとえその場で断ってもいいから、せめて一度会うだけは会って欲しい。お見合いの席をもうけてくれって、しつこいのよ。だからするだけしちゃって、ちゃちゃっと断ってしまってけっこうよ」
「ええ、そうしますとも。ええ、もちろん!」





「――ていう話なのよ」

 京子は秋芳に見合いの話を打ち明けた。

「そうか、名家のお嬢様となると色々と大変だな」
「なに人ごとみたいに……、あたしがお見合いするのに、あなた平気なの?」
「だって実際に結婚するつもりはないんだろう?」
「もちろんそうよ。……そうだけど、こういう時はもっと動揺して『お見合いぶち壊し作戦』とか、考えたりしないの?」
「あー、なんかそれ、昔の漫画とかにありそうだな……。なぁ、逆に俺に縁談の話があって、見合いをするだけするとして、京子。君は心配か?」
「ぜんぜん、だってあなたが心変わりするはずないもの。あなたの好きな人はあたしよ。未来永劫ね」
「ああ、俺だってそうだ。千年前から好きだったし、千年後も好きでいる。何度生まれ変わっても、この想いは変わらない。だからそれと一緒さ」

「……ん、そうね」

 それでも少しくらい動揺してくれると嬉しいんだけどな。
 これも乙女心の一種なのか、微妙な気持ちになる京子だった。





 夜。
 京子は自分の部屋でお見合い相手の身上書を読んでいた。

「龍鳳院宮寺光輝(りゅうほういんぐうじ ひかり)って……、なによ。この冗談みたいな名前、ふざけてるの?」

 祖父の代で財を成し、父の代で呪術とも縁のある名家と結婚し、孫である光輝の代でそれら富と名声をさらに盤石のものにすべく、現在もっとも権勢を誇っている倉橋家との婚姻を望んでいる。
つまりは政略結婚。それ以外のなんでもないように京子には思えた。

「趣味はクレー射撃に乗馬にフェンシングって、なんだか昔の漫画に出てくるお金持ちキャラみたいね。齢は二十五歳……。ふ~ん、この人も一応呪術師みたいだけど、腕のほうはどうなのかしら」

 写真に写る相手の容姿は凡庸で、いかにも名家のお坊ちゃんという感じしかしない。育ちの良さだけは伝わってくるのだが、秋芳の存在を差し引いても異性としての魅力を感じることはできなかった。

「これならまだうちの生徒のほうがカッコいいわ。夏目君とか」

 秋芳に出逢う以前、京子は夏目に恋慕の情を抱いていた。
 ずば抜けてととのった容姿、女性のような長い黒髪、統制され、裡に秘められていながらなお気高さと峻厳さをかもし出す霊気。
 そんな夏目が好きだった。
 好きになったきっかけは幼い頃にあったある出来事。だがそれはもう過去の話。今の京子の想い人は一人しかいない。

「秋芳君と夏目君、二人とも全然タイプがちがうわよね。我ながら極端から極端に走ったものだわ。……もし今夏目君から告白されたらどうしよう? 秋芳君がいるから恋人にはなれないけど『今よりもっと親密な』お友達になるくらいなら平気よね……。ふふっ、あんまし仲良くすると秋芳君が嫉妬しちゃうかも」

 ガラにもなく漫画じみた恋愛妄想に耽る京子。やっかいなお見合いを前にしての、ささやかな現実逃避だった。

「あ~あ、ほんっとめんどくさいわねぇ、せっかくの休日がお見合いなんかで潰れちゃうだなんて……」
 しばらく妄想に耽ったあと、身上書を投げ出してベッドにつっぷする。憂鬱な日曜が一秒ごとに迫っていた。





 東京エターナルランド。
 世界でもトップクラスのサービスと人気を誇るテーマパーク。
頭に『東京』とついてはいるが、東京都の地図を見ても載ってはいない。それもそのはず、この巨大なテーマパークは東京湾の東岸。千葉県の西端部に存在しているからだ。
 なぜ千葉なのに東京なのかというと、このエターナルランド。親会社はアメリカにあるのだが、アメリカ本国に限らず世界各地のマーケット展開を想定してオープンしている。そのため日本で開園したさい、国際的に知名度の高い『東京』の名を冠したわけだ。
 日本の次にフランスで造られた『エターナルランドパリ』も、パリと名がつくにもかかわらず、住所としてはパリには存在しない。
 そんな東京エターナルランドの目と鼻の先にヴィクトリア朝様式の壮大かつ豪華な雰囲気のホテルが建っている。
 その名も東京エターナルランドホテル。
 客室からはエターナルランドの眺望を楽しむことができ『夢と魔法の王国』で楽しんだすてきな余韻にひたりながらくつろぎのひとときをお過ごしいただけます。
というのが宣伝文句のひとつになっている。
 そのような夢と魔法のホテルの一室で京子はお見合い相手である龍鳳院宮寺光輝と対面した。
イタリア製のソファに腰を下ろし、英国製のスーツに身をかため、スイス製の腕時計を見につけた光輝は京子をひと目見るなり。

「tres bien!」

 とフランス語で称賛の声をあげた。

「bellissima!」

 続いてイタリア語でも称賛する。

(日本製なのはこの人の身体だけね)

 もとより零度まで冷えていた自身の感情が、さらに氷点下まで冷めてゆくのを自覚する京子だった。

「brilliant! 京子。君をダイヤにたとえるなら価格のつけられない『ザ・グレート・スター・オブ・アフリカ』や『ザ・インコンパラブル』や『ザ・ゴールデン・ジュビリー』だね」

 世界最大級のダイヤモンンドを三つも引き合いに出して京子の容貌を褒め称えたこの男性こそ龍鳳院宮寺光輝その人だった。





「な~にがトレビアンだ、ベリッシマだ。日本人なら日本語を使え、日本語を!」
「ど、うしたんですか!? いきなり……」
「気にするな、ただの独り言だ。今日は独り言が多い日になるだろうから、そのつもりで」
「は、はぁ…」

 ここは陰陽塾男子寮の中庭。
 刀会がせまっている。
 そのため休日を利用し、秋芳が桃矢に禹歩や立禅にくわえて武術の稽古もつけているところだった。
 武術はもっとも実践的な呪術魔術の一つ。
 形意拳、八卦掌、太極拳。特に呪術と関連性の高い内家三拳のうちの一つ、形意拳を教えていた。
 後ろ足にやや体重を乗せた構えを基本とし、前方へ踏み込んで技を発した際に後ろ足を前足のかかと側に引きつけて歩を進める、禹歩とはまた異なる独特の歩法。
 桃矢は金行劈拳、水行鑚拳、木行崩拳、火行炮拳、土行横拳といった陰陽五行説にちなんだ初歩の套路(型)。その名も五行拳をくり返し練習していた。

「あの~、秋芳先生。刀会では薙刀で試合するのに、なんで素手の型を練習するんですか?」
「純粋に薙刀を使う技術なら俺よりも桃矢、おまえのほうが上だ。巻き落としの型とか上手だったしな、俺が薙刀を教えることはできない。だから俺の知る無手の技を教える。武器という物は素手の延長だ。徒手空拳の技に慣れることは薙刀術の上昇にもつながる」
「う~ん、そういうものでしょうか……」
「そういうものさ」





「実はね京子、今日はぼくの龍鳳院宮寺グループがシンデレラ・マジックを使ってエターナルランドを借り切ることになっているんだ」

 通称シンデレラ・マジック。正式名称はマジカル・シンデレラ・パーティー。
 閉園後の午後八時から十二時までの四時間、エターナルランド全体を貸し切りにできる特別なプログラム。名称の由来はもちろんシンデレラにかけられた魔法が深夜十二時に解けてしまうことからきている。
 利用条件は七千名以上の団体であること、閉園時間が二十時以前の通常営業であること、午後二時以降に来園であること――。
 本来は企業や団体などを対象としたプログラムで、記念行事や福利厚生の企画イベント等で開催するものなのだが、今日という日のために龍鳳院宮寺に属する人員を使ってエターナルランドを借り切りにしたというのだ。
 たった四時間とはいえこの巨大な夢の国を独占するために必要な金額はどのくらいになるのか、京子には想像がつかなかった。

「それはすごいですね。基本料金のほかに追加料金とか入れたらどのくらいになるのかしら……」
「なに、一億でおつりがくるくらいさ。それまではアトラクションはなしでパーク内を散策でもして、庶民の気分を味わおうか? 映画館もあるし、そこでなにか観るのもいいね」
(ま、庶民ときましたか、このお坊ちゃん!)

 ここまで用意周到にされて、来た、見た、帰る。というわけにもいかないだろう。さすがにそれは先方に失礼だ。倉橋の名に泥を塗ることになりかねない。
 とりあえずはエスコートされることにした。
 ふわふわとした綿のような衣装をまとった粉雪姫、顔の左右にヒレがつき全身の鱗をきらきらと光らせたボディタイツの魚人姫、長い髪のラプンツンデレに、食いしん坊でいつもお腹をぐーぐー鳴らしているくまのグーさん――。
 エターナルランド自慢のキャラクターに扮した人々が多く、パーク内は華やかな色彩と歓声にあふれていた。それらに交ざってドラキュラや魔女といったお化けの装いをしている人の姿が目立つことに京子は気づく。

「あら? キャストだけじゃなくゲストでも仮装してる人が多いのね。それもエターナルランドに関係ない」
「今日はハロウィンだからね、特別に仮装姿で入園できるんだよ。そうだ! ぼくたちもキャラクターの衣装に着がえよう。うん、それが良い」

 エターナルランドホテル内にはフェアリーチェストというビューティサロンがあり、そこで様々なキャラクターに変身できる衣装を提供してくれるという。
 本来ならばエターナルキャラクター限定なのだが、今ならハロウィン専用の衣装が用意されている。
 京子はそこで『眠れぬ森の美女』のアヴローラ姫や『美女と野獣』のベルといったお姫様系ヒロインの衣装を勧められたのだが、いまいち気が乗らず魔女の衣装を選んだ。

(ま、おんなじ呪術師だしね)

 魔女の衣装といっても数種類ある。いくつかの組み合わせを試着室で試していた時、ふと妙な感覚をおぼえた。
 見鬼を凝らして周囲の気配を探ってみる。

(……ふ~ん、そういうことね)

 わずかな笑みが口角に浮かぶ。そういうことなら念入りにお洒落して魅せてあげる。
 俄然やる気になって衣装を選び始めた。
 
 そして――。

 頭に黒いミニ三角帽子をかぶり、黒地のコート姿という典型的な魔女ルック。
 だがかなり短めのミニスカートや、黒と白のストライプ模様のハイタイツ、ヒランヤつきチョーカーといった、魔女というより魔女っ娘。それもかなりGOTHい魔女っ娘の姿へと変身した。

「wonderfulッ! 京子。君はまるで生身の人間ではなくオーバーテクノロジーによって世の男性諸氏の願望が具現化した立体映像だと言われても信じられるほどに美しい! 生身の人間であることを忘れさせる神秘的な美貌は、世界レベルのアイドルやトップモデルクラスだ。ミス・インターナショナルだってかすんで見え、ミス・ワールドはシャッポを脱いで、ミス・ユニバースだって裸足で逃げ出すほどにbellezaだ!」
「ははは、そうですか……」
「試着中に他のお客さんたちが人垣を作って、店内がファッションショーと化していたよ!」
「いや、それはないでしょ」





「……神秘的な美貌とかのたまう割にアイドルだのトップモデルだのと、妙に俗なたとえをするやつだなぁ。そりゃたしかに京子は顔もスタイルも良いし、声もかわいくておっぱいでかいけど、アイドルやモデルとか各分野で求められる美しさはちがうんだから、いくらなんでもそれを全部内包しているわけないだろう。京子はタイプ・キマイラか! ……にしても褒める内容が外見ばかりだな。そもそも彼女は、京子は生きているからこそ美しいんだ。造形的な美しさなんて、彼女の魅力のごく一部のことでしかない。彼女の美しさは内面の強さ、生命の輝きがもたらしているものなんだ。そんなこともわからないとはね、これがお坊ちゃまの限界ってやつかな」

 さっきからぶつくさと独りごちる秋芳をよそに黙々と型の反復をおこなう桃矢が恐る恐る口を開いた。

「あのぅ、秋芳先生」
「ん? なんだ?」
「今、僕が教えてもらってる技って、攻撃の技ですよね?」
「攻撃だけではなく防御もふくまれている。受けては突き避けては打つ、攻防一体の拳法だ。郭雲深という形意拳の達人は、わずか半歩進んで崩拳の一撃を出すだけでいかなる敵も沈んだとか。一見すると動きは地味で型も簡素だが、恐ろしい破壊力を秘めている。それがこの五行拳だ」
「……防御だけの技って、ないんですか?」
「……桃矢。おまえの気持ちはわかる。たとえ自分の身を守るためとはいえ、相手を傷つけたくはないんだろう?」
「……はい」
「目的は暴力、極意は殺生。武術のことをそんなふうに言う者もいるが、武術自体はたんなる技術にすぎない。人を傷つける暴力になるか、自分もふくめた人々を守る武力になるかは使う人間次第だ。桃矢。おまえが自分を失わなければいいだけだ」
「それはそうなんですけど、それでもやっぱり暴力に暴力で対抗するのはどうかと思うんです。殴られて殴り返したら、相手と同じレベルまで落ちちゃうっていうか……」
「なぁに、権力や暴力を駆使して卑劣なまねをする輩には同じレベルで報復してもいいのさ。でなきゃやられっぱなしだろ? 一方的に卑劣なことや残忍なことをやられても自己満足して耐えるだなんて、そんなのたんなる変態だ」

 『ケンカは絶対にいけません』『話せばわかる』
 このように戦後の厭戦教育は暴力を絶対悪と教えているが、幼い頃からそのように言い聞かされて育った人間は不条理で突発的な暴力に対抗できないだろう。暴力への耐性がないからだ。
 向こうからケンカをしかけてくるやつ、話の通じないやつだって存在する。街中にも学校内にも家庭内にも、不条理で不快な暴力は世の中にあふれている。
 暴力を全否定する。そのような暴力の排除が新たな暴力を生むのだ。牙を抜かれた獣は他の獣に狩られて死ぬだけなのである。

「力愛不二という言葉がある」
「りきあいふに?」
「そう。力の無い愛は無力であり、愛のない力は暴力である。愛と力は別個に存在するのではなく一つに調和し、これを行動の規範とすべきである。という意味の言葉だ。他にも高名な空手家が『正義なき力は無能なり。力なき正義も無能なり』という言葉を残している。正義のない力は暴力にすぎない、かといって正義を守り抜く力がなければ意味がない。そういう意味だ」
「正義なき力は無能……、力なき正義も無能……」

 その言葉は新鮮な響きをもって桃矢の心に刻み込まれた。

「紀元前の中国に墨子という思想家がいる。この人は『自分を愛するように他人を愛せば争いは起きない』というキリストのような博愛主義を説いているんだが、『強い国が弱い国を侵略するのは悪で、弱い国がその侵略に抵抗するのは正義である』というような言葉も遺している。この国の部分を個人に置き換えてもじゅうぶん通用するだろう」

 なにやら話がずれてきたがこれは秋芳の癖のようなものだ。授業でもよく脱線してわき道にそれる。つい先日も伯家神道の話をしていたのにいつの間にかギザの大ピラミッドの話題になっていたものだ。

「墨子は非攻兼愛を唱える一方で平和を達成するために軍事研究して実践するという人でな、攻める利得が完全になくなれば戦争はなくなるだろう。と、彼と彼の弟子たちは各地の弱小国の城を守ってまわる傭兵みたいな集団になったとんでもない連中なんだ。 墨守という言葉がこんにちまで残っているのは、彼ら墨家の防衛術が非常に堅固なものだったからで――」

 それでも桃矢はあきれることなく黙って秋芳の言に耳をかたむけつつ、真面目に型をくり返し続けた。秋芳の語る内容に興味があったからだ。





 秋の日はつるべ落とし。
 夜というにはまだ早い時刻だが、日が落ちて暗くなった園内はハロウィン仕様のイルミネーションが煌めき、いっそう華やかさを増していた。

「でね、うちの会社ってば、こないだ上場しちゃったんだけど…、あっ、うちの会社ってのは龍鳳院宮寺グループじゃなくてぼく個人の会社のほうね。それで売り上げが絶好調だから株式公開したら株主がどんどん増えちゃってさ――」

 光輝は訊ねもしないのに自分の会社の業務成績やら、どこと取り引きをしているとか、連携がどんな利益をもたらすかという展棒などをべらべらと自慢げに話し、ときおり思い出したかのように。

「君は稀有な美少女で、その場にいるだけで注目を集めずにはいられない天性のアイドル、というよりもスターだよ!」

 などと京子の容姿を褒め称えた。
 京子は「へぇ、そうですか」「それはすごいですね」「ありがとうございます」と適当に相槌を打っていたが、彼の言葉は頭にはまったく入ってこなかった。
 龍鳳院宮寺光輝という人は自分が興味のある話題はかならず他人も興味があると思うタイプの人のようで、ついつい語りたがる。
 そういう意味では秋芳も似たような種類なのだが、少なくとも秋芳には空気を読んで相手の好きそうな話題を選ぶ器量がある。呪術以外にも、文化や芸術方面などで京子と共通する趣味を持っていて話もはずんだし、新たな発見も多かった。
 作中すべての科白がミュージカル調の『シェルブールの雨傘』やスラップスティックの名作『地下鉄のザジ』に精巧なマペット劇『ダーククリスタル』……。
 リバイバル上映やレンタルで観た、秋芳お薦めの映画。いずれも古い作品ながら今観てもじゅうぶん面白く、楽しい時を過ごせた。

(もうっ、陰陽師ならせめて少しは呪術の話くらいしなさいよ!)

 たまりかねて京子のほうから「エターナルランドって乙種呪術に満ちた空間ですよね。現実的な経済効果や人々の意識に与える影響。それも乙種呪術だって自覚した場合でもその効果が継続するとか、陰陽師としてとても興味深いと思いませんか?」などと呪術の話題をふっても「いやぁ、ぼくは呪術のほうはちょっと……」という返事が返ってきたのみだった。
 どうも呪術に関しては食指が動かない様子だ。
 見鬼の才があるのは本当のようだが、どうもこの龍鳳院宮寺光輝という人物。きちんと実力で陰陽二種の資格を取ったのかどうか疑わしい。

(よくもまぁこれであたしと、倉橋家の長女とお見合いしようって気になったものね。あ~あ、秋芳君と来たかったなぁ。彼ならどんなふうに答えるのかしら……)

 アトラクションに触れずともエターナルランド内を歩くだけで楽しい気分になってくるのは確かだ。恋人である秋芳、あるいは天馬や夏目といった友人たちで遊びに来たのだったら、さぞかし楽しかっただろう。
 東京エターナルランド。この広大なテーマパークはいくつかのエリアにわかれている。
 おとぎ話や童話の世界をモチーフにしたメルヘンランド。アメリカ開拓時代の西部の町なみを再現したフロンティアランド。未来と科学技術が主題のサイエンンスファンタジーランド。怪奇と幻想をテーマにしたホラーランドといった具合だ。
 ちょうどホラーランドにさしかかると、ホーンティングハウスの前は人影もまばらだった。
 ホーンティングハウスというのは世界各国のエターナルランド内にあるライド型お化け屋敷のアトラクションで、混雑時には長蛇の列を作り二時間も待たされるという大人気のコーナーだ。
 それが今はすかすかに空いているのだ。
 借り切り時間にはまだ少し早いが、閉園時間が迫り一般のゲストが引けてきたのであろう。せっかくなので入ってみることにした。
 徐々に年老いていく肖像画といった怪奇趣味全開のプレショーを見て雰囲気を出したあと、三人乗りの黒い椅子型ライドで暗闇の回廊を巡る。オーディオアニマトロニクスによって複雑に動きまわるお化けたちの姿に、ゲストの間から悲鳴や笑い声が響き渡る。
 さすがに面白い。日本的なお化け屋敷とは異なる趣に一時的に退屈さを忘れ、人並みにそれらの仕掛けを楽しんでいた京子だが、すぐに異変を察知した。
 自分たちの乗るライドだけがコースをはずれているのだ。
 しばらく進み、うす暗い闇の中でかすかに揺れて急停止する。

「龍鳳院宮寺光輝だな。おとなしく降りるんだ」

 粗にして野にして卑でもある、そんな下品で脅しつける響きのある男の声がした。
 一、二、三……。半ダースほどの人影がうす闇の中にうごめいているのを、暗闇に慣れてきた京子の視力はしっかりと捉えた。
 もっとも肉眼で見る以前に見鬼でも正確に視ているのだが。

「龍鳳院宮寺さん、どうやらあなたに用があるみたいですよ」

 戸惑いの色もあらわに逡巡する光輝に京子が落ち着いてささやきかける。

「おい、さっさと降りろやボンボン! 女とのお楽しみの時間はおしまいなんだよ」
「無礼な! 下品な口の利きかたはやめたまえ!」
「ハッ! あいにくそちらとちがって育ちが悪うございましてね」

 いまだ腰を上げない光輝を数人の男たちがライドから強引に引きずりおろした。

「ええい、汚い手で触るのはよしたまえ! ぼくはこう見えても柔道初段、かるた四段、珠算五段。合わせて十段のツワモノなんだよ」
「おっと、銃が狙ってるぜ。暴れるんじゃない」
「フン! 見え透いたこけおどしを口にするのはやめたまえたまえっ!」
(たまえたまえ?)
「銃砲刀剣類所持等取締法のある日本で銃なんか易々と手に入るものか。柔道初段、ビリヤード四段、パンシェルジュ五段。合せて十段のツワモノであるぼくが本気に――」

 口上をさえぎって銃声が低くこだまし、光輝の足もとでコンクリートのかけらが跳ね散った、エアーコンプレッサーがついて頭でっかちになった改造エアガンの銃口が光輝にむけられる。

「さぁ、これでも動けるか? なんとか十段のツワモノお坊ちゃんよ」 
「まああぁーあ!」
 関根勤のような奇声をあげて、のけ反り倒れる龍鳳院宮寺光輝。

「え?」
「え?」×6

 男たちと京子の口から奇しくも同じ疑問符が漏れた。
 光輝はどうも銃をつきつけられた恐怖で失神してしまったらしい。

「……まぁ、いい。これだけの人数がいれば人を一人運ぶのくらいわけはないさ。さて、そこのお嬢さんには悪いがちょいとオレたちにつき合ってもらおうか。人を呼ばれたり騒がれでもしたらこまるんでね。安心しろ、べつに拉致監禁して輪姦そうってんじゃない」

 男たちの間に下卑た笑いの空気が生まれる。
 京子は落ち着いてライドから降りると同時に、素早く印を結び真言を唱えた。

「――オン・マリシ・エイ・ソワカ」

 京子の全身が霞がかったかのようにぼやける。その場にいるにもかかわらず、いないかのように存在感が希薄になり、ともすれば見失いそうなほどだ。
 実体のない陽炎が神格化した諸天。摩利支天の加護による穏形法。だが京子は隠れるためにこの術を使ったわけではない。

「この女、呪術師か!?」
「くそっ、ボディーガードだったのか!」

 動転した男たちが四肢を狙って次々と発砲するも、弾丸は京子の身体をすり抜け、床にあたって弾け跳ぶばかりだった。

「わっ!? あぶない、よせ、やめろ。跳弾にあたるなんてチョーダンじゃないぞ!」

 いくら呪術に長けていても生身で銃に撃たれてはひとたまりもない。
 そのため京子は物理的な攻撃を無効化する呪術をまず最初にもちいたのだ。

「なら、これはどうだ。とり憑け、狂え。急急如律令(オーダー)!」

 男の一人が銃をしまい、かわりに取り出した呪符をぐしゃりと手の中で潰す。すると、にぎった指の隙間から赤い靄が噴出し、一つに固まり異形の姿を現した。
 血のような色の婆娑羅髪を振り乱す、眼孔の失われた巨大な頭部。ずらりとならぶ暗い歯を剥き出して、かん高い哄笑をあげる。
 たんに見た目が恐ろしいだけでなく、その笑い声には人の精神を蝕む、凶悪で禍々しい邪気がふくまれていた。
 呪詛式。
 霊的な抵抗力の低い人間が目の当たりにすれば昏倒し、場合によっては深刻な霊障を負いかねない。
 京子の全身に鳥肌が立ち、身震いした。だが、それだけだった。秋芳とともに危機をくぐり抜け、修練を重ねた今の京子の霊力、胆力は並の塾生を軽く凌駕していた。この程度、どうということもない。

「地より生まれし呪い、主の元に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ」

 くるり、と頭を返した大首が男たちにむけて呪のこもった凶笑を放つ。

「ふわっ、おわぁ、うわ、うああー」
「ひぃっ、うへぁ、あああ、いぎゃああぁ」
「なっ、ぼあっ、ぶあちいぶがぼかばぁ、ぶがぁーっ」

 耳を押さえて地面をころげ回る者、狂ったように身体をかきむしる者、壁に何度も何度も頭を打ちつける者――。
 大首の凶笑にこめられた恐怖(フィアー)の妖気に精神を侵された男たちが奇行に走り、自滅するのに、三分もかからなかった。
 龍鳳院宮寺光輝と、彼をかどわかそうとしたならず者A、B、C、D、E、F。あわせて七人の男が恐怖のため失神し、地面に横たわっている。

「さて、と。どうしたものかしらね、この連中……」

 腰に手をあててあたりを見下ろす。かわいらしい魔女の装いをしている京子だったが、そうしている様には妙に貫禄があり、さながら魔女王の風格がただよっていた。 

 

万聖節前夜祭 1

「対物理用の摩利支天呪法か。本来なら呪術にしか効果を発揮しない回避の術を、術式を組み替えて応用を利かすとは……。うん、実に見事な手腕だった。さすがは京子だ、俺のメインヒロインだ」

 秋芳はあいかわらず独り言を漏らしつつ、簀子縁に寝そべった桃矢の全身に指を這わせていた。
 桃矢は午前中から夕方までずっと稽古していたので、上は頭頂の神庭穴から下は足裏の湧泉穴まで、疲労回復に効果のある点穴を施してやっているのだ。

「!?」

 恍惚の表情を浮かべて秋芳の指技を受ける桃矢だったが、急に身震いすると怯えたような面差しになった。

「……あのう、秋芳先生」
「なんだ」
「なんだか、ものすごい邪悪な視線を感じるんですけど……」

 桃矢の言う視線の主とは誰あろう陰陽塾男子寮の寮母、富士野真子だろう。
 今日、桃矢が来てからひんぱんに、こちらにむけ邪な眼差しを投射してきているのは秋芳も感知している。

「気にするな。あれは男子寮に巣くう鬼だ」
「お、鬼ですか!?」
「そう、腐った鬼だ。だが実害はないから、安心しろ」
「は、は、はい……」
「秋芳~、餅乾(クッキー)ができたよ~」

 笑狸が盆の上に大量の焼き菓子を盛って来た。

「おう、では食べるか」

 男子寮の庭はかなり空いている。なので秋芳は寮母である富士野眞子に了承を得たうえで薬草。ハーブの類を植えて育て、それらを入れた菓子や茶をこしらえ、たしなんでいた。
 オリーブ、オレガノ、キャラウェイ、クミン、シナモン、バーベナ、バジル、ミント……。
 それら薬草のふくまれた焼き菓子は滋味に富み、運動後の小腹を満たすにはちょうど良いあんばいだ。桃矢は出された甘味をじゅうぶんに堪能し、満ち足りた気分で帰路についた。
 かなり長いこと、腐った視線を肌に感じながら……。





「はい、お水」
「あ、ありがとう京子」
「どういたしまして、龍鳳院宮寺さん」
「いやはや、さっきは恥ずかしいところを見せてしまったね」
 東京エターナルランド内にあるいくつかの休憩所。通りに面したそこのベンチに光輝を休ませているところだ。

「足を滑らせて転倒さえしなければ、あのような破落戸の一人や二人。柔道初段、チェス四段、オセロ五段、合わせて十段のツワモノであるぼくの華麗な格闘術で黙らせてやったものを……」
「でも、相手は六人で銃も持っていましたよ」
「なに、銃弾なんてあたらなければどうということはないのさ。フェンシングでつちかったぼくの反射神経をもってすれば、射線上から避けるのは造作もない」
「そうですか」
「そうだとも。もし次に同じことがあったら――」

 あんな暗闇で乱闘して、あたしにあたったらどうするのよ? そうは思ったが口には出さない京子だった。
 その六人の破落戸だが、ことを表沙汰にするのはエターナルランドにとって良くないだろうと、龍鳳院宮寺のSPを通じて呪捜部に引き渡しされることにした。
 そう、警察ではなく呪捜部だ。彼らの一人は呪術を行使した。それも禁呪指定されている呪詛を使った。重い罰が下されることだろう。
 だれかに恨まれ、狙われる心あたりはありますか? などという野暮な質疑応答はしない。大企業の御曹司ともなれば、なにもしなくてもやっかまれるだろうし、身代金目あての誘拐だってある。
 京子はなにげなく周囲を見まわした。
 ハロウィンの仮装をしているゲストに混ざって、アヒルやネズミをモチーフにしたエターナルランドのキャラクターたちの着ぐるみ姿も目立つ。

(こうしてあらためて見ると、なんていうか、むこうの人のセンスって特殊よね)

 動物の擬人化、あるいは逆に人間の擬動物化はエターナルランドに代表されるアメリカ文化の気持ちの悪い一面だ。動物に服を着せて後肢だけで立たせて喜ぶという心理は理解できない。キャラクターとしてデフォルメされてはいるが、それもセンスが良いとはいえない。人間と動物、双方の醜悪なカリカチュアのようだ。

(なんでかしら? コンちゃんみたいなのはかわいいのに)

 それにくらべたら日本生まれの動物キャラクターたちのなんとkawaiiことだろう。目からビームを出す猫娘を見よ、黄色い電気ネズミを見よ、青い猫型ロボットを見よ。みんなみんなかわいい。萌えるではないか。
 動物どころか器物にまで魂が宿り、人も自然の一部。ある意味ですべて平等の存在と考えるアニミズム文化の民族と、そうでない民族との想像力の差異がキャラクターデザインに現れているのかもしれない。
 人間の繁栄のために動物や植物を利用することは神から与えられた正当な権利であり、動植物にとっては人間の役に立つことが神から与えられた役目。
 などという考えのもと、生き物を殺して食べるさい、その生き物にではなく神様に感謝して食事をする人種の考えることはわからない。
 戦勝国であるアメリカは日本の呪術を徹底的に研究し、その技術を我がものにしようとしたらしいが、結局彼らの中に〝日本の陰陽師のような〟甲種呪術をあつかえる者は出てこなかったそうだ。
 呪術を使えるかどうかの才能には、魂の奥底に流れる思想や宗教観のちがいも関与していたりもするのだろうか……。
 などということをボンヤリと考え、隣にいる龍鳳院宮寺の話も馬耳東風だった京子だったが、周囲の気配の変化に気づいて、ふとわれに返る。
 首筋のあたりがちくちくする。悪意や害意といった負の想念が周りの群衆の中からこちらにむけて放たれている。
 京子の霊感がそう告げていた。

「龍鳳院宮寺さん、また狙われてますよ」
「な、なんだって!?」
「SPの人たちを呼んで、今日はもうお開きにしたら……」
「シンデレラ・マジックは始まったばかりだというのに、それはないよ京子。今度こそぼくの華麗な技で悪漢どもを追い払ってみせるから、安心していたまえ」
「はぁ、そうですか」

 片手がフックのような義手になったつけ髭の海賊や、ハロウィンらしく巨大なカボチャ頭をつけた者、ピエロの扮装をしたりスクリームマスクをかぶった連中が二人のいるベンチの周りを囲んで輪を作っている。

「来ましたよ、こいつらです」
「う、うむ。京子、君はさがっていてくれたまえ」

 さがれと言われてもさがる場所はない。不穏な空気をただよわせた仮装集団は、いよいよその包囲の輪をちぢめてくる。

「龍鳳院宮寺光輝とそのボディガードだな。先ほどは仲間が世話になったようだ、ちょいと用があるからついて来てもらおうか」
「君たちの相手をしているヒマはない。とっとと帰りたまえ! さもないと柔道初段、ゴセロ四段、木工ボンド道五段。合せて十段のツワモノであるぼくの拳が振るわれることになるぞ!」
「そうかいそうかい。だが、ここには数えきれないほどの入園客がいるんだぜ。なんの罪もない老若男女を巻き込んだりしたら、おたくらの良心は痛まないのかい?」
「ぐぬぬ、卑怯な……」
「さぁ、とっととついて来い」
「と、とりあえず彼らについて行こうか、京子? 無関係の人たちを巻き込むのはよくないよね? ね? ね?」
「ははは、そう思うのが普通だろうよ。さぁ、とっとと一緒に――」
「あいにくとぜんぜん、これっぽっちも思わないわね」
「なに?」
「きょきょきょ、キョっ、京子っ!?」
「巻き込むのはあなたたちであってあたしたちじゃないわ。暴虐で卑劣で恥知らずなのはあなたたちであって、断じてあたしたちじゃない。何千何万人が巻き込まれようが、それはすべてあなたたちの責任であってあたしたちの知ったことじゃないわ。さ、龍鳳院宮寺さん、行きましょう。あたしチュロスが食べたくなっちゃった」

 言い終えると輪の中央を突っ切って歩み始める京子。
 もちろんこれは心優しい京子の本心などではない。ここで狼狽するそぶりを見せれば、それが効果的とわかり逆に無関係の人々が巻き込まれる可能性が高くなる。
 だからこそバッサリと切り捨てるような、ブラフをかましたのだ。

「ま、待て!」

 狼狽したふうのカボチャ頭の声が響く。

「ここにいる一万人近い人がどうなってもいいのか?」
「ご自分にお聞きなさいよ。あたしが答えてあげる筋合いはないわ」

 言い放ってから京子は短剣に毒を塗る魔女のような笑みを浮かべた。

「もっともここで迷惑行為におよぼうとしたら、その前にあんたたちを再起不能にしてやるけどね。なにをしようと勝手だけど、責任だけはとってもらうわ」

 言葉使いこそ普通だが、京子の声には『こわい』気が込められていた。

(いいか、京子。相手を脅すのに大声をあげたり物騒な言葉を使う必要なんてないんだ。無遠慮になるだけでいい。無遠慮ってのは相手に気を使わない話し方のことで、相手のことを本当に考えなくなると自然に殺し合い同然の威圧が声にこもる。それだけでじゅうぶん恫喝になるんだ)

 乙種呪術のやり取りについて秋芳と話していた時にそのように言われたのを思い出し、それを実行してみたのだ。
 効果はあった。カボチャ頭はたじろぎ、光輝は身震いして小声で『まあーああぁ』とうなる。
 相手に責任転嫁しようとする破落戸の愚劣な詭弁は京子の剛毅さによってあっけなく粉砕されてしまった。他人の悪辣さや卑劣さを自分の罪として背負いこむ必要なぞないのだ。悪党の犯した罪は悪党自身がつぐなうべきである。

「くそっ、後悔するなよ。ケガ人が出た後で悔やんでも遅いぞ」

 気圧されたカボチャ男のかわりにピエロが前に進み出た。手には黒い棒が握られている。サップ。あるいはブラックジャックと呼ばれる、革袋の中に砂を詰めた殴打用の凶器だ。
 
「なんだなんだ、新しいアトラクションかショーか?」
「それにしちゃ洗練されてないな」
「でもすごい迫力。本当に殴ってるみたい!」

 群衆の間からそんな声が上がり、やがてそれは驚きの歓声へと変わった。
 京子が二体の護法式を召喚したからだ。
 白桜に投げ飛ばされてカボチャ頭が空を飛び、物見高い観衆たちの頭上を飛び越えて十メートルほど離れたゴミ箱に頭から突っ込む。
 続いてピエロも黒楓に投げ飛ばされ、盛大な水しぶきをあげて噴水の中に落とされる。

「――オン・バヤベイ ・ソワカ!」

 風天の力で巻き起こったつむじ風に巻かれた海賊は回転木馬の屋根まで飛ばさた。

「まあーああぁ、まあああーあぁ!?」

 呪術混じりの乱闘を目のあたりにした光輝がショックで白目をむいて倒れる。
 白桜の太刀にナイフを叩き落とされ、黒楓の薙刀に足を払われたスクリームマスクは派手に転倒した。

「おさわがせしました。今宵シンデレラの魔法が解けるまで、どうぞみなさん、お楽しみください」

 京子は群衆にむかってスカートのすそをつまみ上げて、うやうやしくも優雅な一礼をすると、白桜と黒楓にスクリームマスクと光輝をかつがせ、その場を颯爽と後にした。
 一日約七万人のゲストがおとずれ、一度に最大で十万人までは入場できるといわれるエターナルランドだが、現在のゲストは龍鳳院宮寺グループの関係者七千人しかいない。キャストを合わせても一万人程度だろう。
 人影のない場所もそこかしこに出てくる。大通りを離れた雑木林じみた緑の中、スクリームマスクを地面に放り投げた。
 まだ余力があったようで、受け身をとってはね起き、ふところから呪符を取り出したのだが、すかさず白桜の手刀が一閃。腕はいやな音をたてて外側に九十度の角度で折れ曲がった。
 スクリームマスクはたまらずうめき声をあげて、うずくまる。黒楓の手がマスクにのびた。
 マスクの下にあったのは貧相な中年男の顔だった。汗をうかべ、苦痛にあえいでいる。

「おとなしくしなさい。あんたたちは何者なの? 目的はなに?」

 京子はごく普通に問いかけた。

「さぁ、なんだろうな?」

 この期におよんでハードボイルドふうに決めようと、そんな科白を言おうとした中年男だったが、口から出たのはちがう言葉だった。
 おのれの意志とは裏腹にペラペラと自分たちの氏素性と目的を自白し出す。
 自分たちは普段から呪術を使って犯罪行為をおこなっており、普段は個々に活動しているのだが、今回は龍鳳院宮寺光輝という大企業の要人を身代金目的に誘拐するという大仕事だったので徒党を組んだこと。集まったメンバーの中には、民間の拝み屋もいれば陰陽塾をドロップアウトした類の連中もいること。などなど……。
 中年男は驚愕に目を見開き、口を閉ざそうとするも、それもできない。見えない無数の糸に全身を絡み取られたように自由が利かなくっている。
 甲種言霊。
 帝式に分類される呪術で、相手の精神に呪を注入する、強制力のある言葉のことだ。
 甲種言霊には『侵入』の意思が帯びた強烈な呪力が練り込まれており、このような呪の込められた音声を聞かされた側は瞬間的に本能で『防御』しようとする。
 それと意識せずとも霊気が防壁を築こうと働くのだ。
 こうした反応は日常的に呪術をあつかう陰陽師には特に顕著で、甲種言霊を成功させるには、この防壁を突破する必要があった。
 甲種言霊をあつかえる術者はめったにいないが、逆にこれを防御することは呪術師ならばさしてむずかしくはない。
 甲種言霊を実践するには相手の防御を強引にねじ伏せることのできる強力な呪力を瞬間的に発揮し、なるべく相手の意表を突く。心の隙を狙う必要があるのだ。
 京子はいっさいのからめ手をもちいることなく、純然たる呪力で男の精神を屈服させた。

「……わかった。もういいわ、眠りなさい」

 中年男の全身から力が抜け落ち、昏倒した。
 どうやらもう仲間はいないようだ。これでようやく落ち着けるはずなのだが――。





 二度にわたる誘拐未遂。および対人呪術戦を目のあたりにしたことは、生来より繊細な性質である龍鳳院宮寺光輝には耐えられなかったようで、SPに守られて帰宅することとなった。

「呪術ってのは、恐ろしいものだね……」

 蒼白な顔をしてそうつぶやいた光輝もまた見鬼の才を持ち、陰陽二種の資格を持った陰陽師のはずなのだが、いよいよもって財力にものを言わせて獲得した感はいなめない。
 昔の剣術道場には実力のある者を認めて段位を授ける以外にも、たとえ技量がなくても貴人や主筋など道場主より上の位の人に出す義理許し、裕福な商人が金銭で段位を買う金許しという習慣があったそうだが、こんにちの呪術界にそのような悪習があってはならないことだ。京子はこんど父や祖母にそのことを問い質そうと心に決めた。
 遠くから人々の歓声が聞こえる。
 メインストリートでは。電球や光ファイバーや発光ダイオーなどをもちいて装飾したフロートに乗ったゲストたちが踊りやパフォーマンスをおこないながら進む、Eパレードが催され、大いに盛り上がっていることだろう。
 VIPである龍鳳院宮寺光輝は早々に引き揚げたが、だからといって借り切りをレンタルするわけにはいかない。残された龍鳳院宮寺グループの関係者たちは役得とばかりに夢の国のハロウィンパーティを楽しんでいた。
 いま京子がいるのは北欧の森をテーマに造られた緑にあふれた庭園で、ライトアップされた樹々が幻想的な光景を作っていた。

「そこにいるんでしょ、秋芳君。出てきなさいよ」

 きれいに剪定され、ブロッコリーのようになったイチイの木にむかって京子が声をかけた。
 数拍の間があって、木の上の空間が陽炎のようにゆらいだかと思ったら、そこに一つの風船が浮かんでいた。アヒルをモチーフにしたエターナルランドのキャラの顔がイラストされている。ドレインダックだ。
 名前の由来は大の酒好きで、いつも飲んでいるか吐いているからdrainだそうだ。およそ子どもむきではないキャラクターである。

「……いつから気づいてた?」

 風船に描かれたドレインダックが口を開く。その声はたしかに秋芳のものだ。

「今朝からあるかなしかの妙な気配は感じてたけど、確信が持てたのはブティックで着替えた時ね。あの時にかすかな気配が完全に消えたの。ううん、『消えた』んじゃなくて外に『出て行った』わ。それで逆にだれかがいる。『視てた』
て確信したわけ」
「なるほど、鋭いなぁ。でもどうして俺だと?」
「あなたくらいしか思いつかなかったからよ。今日という日にこっそり後をつけてまわる、隠形の達人だなんてね。……でも感心したわ、あたしが着替える時にそのままのぞこうとしないで、ちゃんと外に出るだなんて。紳士的ね」
「あたりまえだ、恋人の着替えをこっそりのぞき見して喜ぶような趣味はない!」
「あたしのこと、やっぱり気になってたのよね? 気にしてないようなそぶりなんかして~、もう、素直じゃないんだからぁ~。ツンデレ?」
「いやツンデレとか、そういう属性ないから、いたって普通。ノーマルだからね、俺は」
「平然としているようで、やっぱりあたしのことが気になってたのよね?」
「…………」
「もしあたしがあいつに惹かれるようなそぶりを見せたら、お見合いをめちゃめちゃにしようとか考えてたんでしょ?」
「……まさか、分別ある大の大人が、この賀茂秋芳がそんな無体な真似をするわけがないだろう」
「もしあたしがあいつに惚れちゃったりしたら、怒る? 悲しい? 泣いちゃう? 呪っちゃう?」

 魔女のコスプレをしていているせいだろうか、京子は意地の悪い質問を連発した。ふだんは秋芳に翻弄される側なので、これはこれで気持ち良い。

「……君がだれかを好きになったら、俺は鬼になるかもな」
「あなたならさぞかしすごい鬼になっちゃうでしょうね。十二神将がいっぺんにかかっても修祓できないほどに強力な鬼に」
「そういうことだ。世の中の平和は君の双乳……、じゃなくて双肩にかかっていると言ってもいい。世のため人のため。なにより俺のために俺を見捨てないでくれ」
「それならあなただって同じよ。もし浮気したり他の人を好きになったりしたら、あたしは蛇になってあなたに巻きついて焼き殺しちゃうんだからっ☆」
「清姫かよ……」
「おたがい鬼や大蛇にならないようにしましょ」
「そうだな、霊災を修祓する陰陽師が動的霊災になるなんて、冗談じゃない」
「ところでその姿…」
「うん?」
「簡易式……、じゃないわよね?」
「ああ、色々と手をくわえて穏形と変化能力を向上させた、隠密機能特化型のオリジナル人造式だ」
「秋芳君本人がこっちに来られない?」
「あー、それはちょっと無理かな。禹歩を使うにしても距離がありすぎる。霊脈を乗り継ぎするにしてもちょいと時間がかかりそうだ」
「そう、残念。じゃあせめて式神越しでもいいからデートしましょう」
「ああ、そうしようか」
「でも風船の形じゃ雰囲気が出ないわ。等身大の姿になれないの?」
「今のところなれない。隠密用に作ってあるから、ミニマムサイズがデフォなんだ。……だけどそうだな、魔女っ娘のコスに合わせて……」

 言うと風船の姿はぼやけ、次の瞬間、耳の長い白いフェレットを思わせる小動物の姿に変化した。

「やぁ京子。僕と契約して魔法少女になっ…ムギュッ!?」
 
 顔面をわしづかみされ、言わんとした科白が途中で途絶えた。

「ごめん、秋芳君。あたしその妖獣、大ッ嫌いなの」
「そ、そうか……。ならば――」
 
 再度変化すると、今度はカラスの姿になった。

「どうだ? いかにも魔女の使い魔って感じだろ?」
「レイヴン、ね……。ま、陰陽師らしくもあるし、良いんじゃない。でも足は三本じゃないのね」
「それだと、ちょっとあからさまだしな」
 
 大和葛城を本拠とする賀茂氏は建角身命(たけつのみのみこと)。すなわち八咫烏を祖とする一族とされる。
 そして八咫烏とは足が三本ある霊烏なのだ。




 
 ふたりは木々がアーチ状になった緑の小路をゆっくりと散策する。

「すてきねぇ、森の中なのに、なんだか海の中を歩いているみたい……」
「ウクライナの愛のトンネルみたいだな」

 京子の肩にとまったカラス――秋芳――がそう述べた。

「あ! そういえばそっくり。前に画像で見た愛のトンネルそのものだわ」

 ウクライナの愛のトンネル。
 ウクライナ西部のリウネ州、クレヴァン村にある鉄道の線路上にあり、緑の木々に囲まれたトンネル。その美しい景観からウクライナでも人気の観光スポットになっており、恋人と手をつないでこのトンネルを歩くと、おたがいの願いがかなうという、なんともロマンチックな言い伝えがある。

「知ってるか? ウクライナの結婚式では新婦の履いていた靴に酒杯を入れて、それを新郎が飲み干すという儀式があるらしい」
「へぇ、どんな意味があるの?」
「昔の兵隊たちの間で好きな女性の靴に酒を入れて飲むのが流行った時期があり、それがもとになっているとされる。ことさら宗教的、呪術的な意味はないが、強いて言うならフェティシズムが源にあるのかな。呪物崇拝と性的倒錯が同じ言葉で表されるというのはおもしろい」
「ふ~ん、でもそれって不衛生よねぇ」
「俺は京子の履いた靴に注がれた酒なら、喜んで美味しく飲み干すことができるぞ」
「変態みたいなこと言わないでよ」
「俺にはあの坊ちゃんみたく美辞麗句で飾りつけた巧言令色を吐き出すことはできないんでね、こういう言い方でしか愛を表現できないのさ」
「あっ、まぁ~だ彼のこと意識してるぅ」
「…………」
「そんなに心配しなくても、あなたのことはあたしがだれよりも一番好きよ」
京子はそう言って肩にいる秋芳の嘴の下を指の背中で優しくなでた。
「お……、これは、なんとも心地が良いな」

 思わずゴロゴロゴロ……、と喉が鳴る。

「なぁに、その音? 今のあなたはカラスでしょ。猫さんじゃないんだから」
「猫にもなれるから、こういう機能もついてるんだよ。気持ちが良くてつい鳴っちまった」
「猫にも? なって、なって!」
「いいとも」

 要望にお応えして黒猫の姿へと変わる。

「きゃー、本物みたい。とりあえず猫さんモフモフ、モフモフ……」
「うみゃみゃ、ナァーゴォ……」

 それからウサギ、リス、カエル、狐、狸、川獺、タツノオトシゴ、ラッコ、ゴマフアザラシ、ファラベラなどなど……。京子からのリクエストに応じ、様々な変化をしたあと、最初のカラスの姿にもどった。

「――このように生物の姿だけでも大量のパターンが組み込まれている。穏形に関してはさっきの通りだ。たとえ素人が操作してもそれなりに穏形できるから、呪捜部にでも持って行ったら高値で売れるだろうな」
「つくづく便利よねぇ呪術って」
「ああ、便利だ。こんな便利な代物、霊災修祓だけに使えだなんてもったいないよな」

 陰陽法によって様々な制約が敷かれており、例外は多々あるが、基本的に霊災の修祓でのみ呪術は使用してもよいとされている。もっともこれに不満をおぼえる陰陽師は多い。そのため現在の陰陽庁は陰陽法の改正。規制緩和を強く進めている。
 その急先鋒が京子の父である倉橋源司その人だった。

「あなたも陰陽法の改革に賛成派なのよね」
「現行法の改正にはね、今の呪術を縛る法律はあまりにも窮屈だ。ただ改正にともなって陰陽庁の権威までもが拡大してしまうのは防ぎたい」

 呪術師の中には自分の特殊な才に溺れ、選民思想に取り憑かれる者も少なくない。官に属する陰陽師には特にそういった気質の者が多いように思える。
 秋芳は彼らの増長を懸念しているのだ。

「呪術の社会的な地位を向上させる方法は、やっぱりその便利さや面白さを人々にアピールする。てのが良いと思うんだよな。たとえば東京エターナルランドならぬ東京レイヴンズランドとか作って――」

 祓魔官は漆黒の装束を身にまとうことから、闇鴉(レイヴン)の異名でも呼ばれている。

「――呪術を使ったアトラクションとか、かわいい式神のマスコットキャラとか用意するんだ。ジェットコースターの代わりに竜に乗り、木馬ではなく雪風で空を駆ける。本物の百鬼夜行がいるお化け屋敷なんてスリル満点だろう。呪具をもちいれば一般人でも呪術の真似事ができるから、呪術の体験コーナーなんてのも面白そうだ」

 雪風とは土御門家に代々仕える白馬の式神のことだ。その蹄は大地ではなく天を駆ける。陰陽師で知らない者はいない。

「たしかに楽しそうね。あ、そうだ!」
「うん?」
「あのね、お祖母様って昔からクリスマスが大好きで、毎年陰陽塾でクリスマス・パーティーするんだけど、けっこう気合の入ったクリスマス・カラーを演出するのよ。簡易式でサンタさんやトナカイを作って空を飛ばしたり、水行符で雪を降らせてホワイトクリスマスを演出したりとか」
「ほほう! それは楽しそうだ」
「今年は塾舎を開放して、外部の人たちも招いてみるよう提案してみる。呪術でこんな面白いことができますよ。てアピールになると思うわ」
「それは良い考えだ。それにしてもクリスマス・パーティーか……」
「あ、やっぱり賀茂家じゃそういうのなかった?」
「なかったな。今日のハロウィンなんかもそうだが、欧米伝来のイベントは総じてスルーだった。俺がクリスマスに触れたのは大人になってからだ。笑狸と二人でターキーやブッシュ・ド・ノエルを食べ、『素晴らしき哉、人生!』を観て、プレゼント交換したものだ……」
「それ、なんだか仲睦まじくて幸せなのか、さびしいのか微妙なところね……」
「だが今の案を聞いて今年のクリスマスが待ち遠しくなった。あと二ヶ月か……」
「二ヶ月くらいくらいあっという間よ。その前に今夜のハロウィンを楽しみましょう」
「そうするか。じゃあ俺たちもパレードでも――」

 その時、激しい振動が起きた。
 一瞬地震かと思った二人だが、すぐに揺れているのが大地ではないと察した。
 地震ではない、大気が揺れている。
 否、大気でもない。霊気が、霊脈が震えているのだ。
 目の前の空間に亀裂が走る。地震で地面に亀裂が乗じるように、空気以外はなにもないであろう広がりに、ヒビができたのだ。
 そこから異質な気が流れてくる。秋芳と京子は幾度となくこのような気に接してきた。瘴気だ。

「霊災!?」

 揺れがおさまる。それと同時に、ヒビが割れた。
 ぽっかりと空いた黒い穴。むこうにあるはずの路地は、そこからは見えない。穴のむこうに見えるのは夜よりも暗い、濃密な闇だ。

『Trick or Treat!』

 ハロウィン定番の科白が闇の中から聞こえてくる。

『Trick or Treat!』
『Trick or Treat!』
『Trick or Treat!』

 闇の穴から奇妙なものたちが踊り出る。
 最初に現れたのはランタンを手にした光る衣装姿のカボチャ頭。続いて箒を手に持ち黒いローブをまとった老女、夜会服にマントを羽織った紳士、毛むくじゃらの獣人、首からボルトを突き出したツギハギだらけの大男、全身に包帯を巻いたミイラ、道化師、半魚人、腐った死体、牛ほどの大きさの黒い犬、チェーンソーを持ったホッケーマスクの巨漢、鉄の爪をはめた赤緑の横縞セーター男、黒装束のニンジャ、トマホークを持ったネイティブ・アメリカンの木像、案山子男、顔全体が口になっているバレリーナ、血まみれのウェディングドレスを着た新婦、燃え盛るフライパンや三つ又の槍を手にした悪魔、豚の顔をした小男、二メートル以上はある真っ赤なトマト――。
 ハロウィンにありがちな衣装をしているもの、なにかの映画に出てきたようなもの、それ以外のなにかなもの、だがいずれも人ではない。
 実体化した霊的存在であることが見鬼でわかった。
 そのようなものたちが黒い穴から次から次へと現れ、列を組んで行進しだしたのだ。

『Trick or Treat!』

 お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ!
 異形の群れたちは手足を振り上げ、踊るような足どりで進みながら、口々にその言葉を発する。

「なんなのよ、こいつら……」

 さしもの京子も異様な集団に圧倒され、たじろぐ。

「ううむ、これはなんというか……、百鬼夜行そのものだな」

 秋芳の声にも驚愕の色は隠せない。
 万聖節前夜。
 ハロウィンの始まりだった。
 

 

万聖節前夜祭 2

 十一月一日。万聖節、あるいは諸聖人の日。
 カトリック教会の祝日の一つで、すべての聖人と殉教者を祝う日。
 この日の前日はハロウ・イブと呼ばれる、キリスト教伝来以前からの神々や精霊たちを祭る、アイルランドやケルトの人々の祝祭日でもあった。
 そして十月三十一日は古代のアイルランドやケルト人にとっての年末であり、この日は秋の収穫を祝い。先祖の霊が帰ってくる、日本のお盆のような日なのだが、それと共に人に害をなす悪霊や魔物もおとずれるため、そのような魔物に魂を奪われぬように人々は同じ魔物の格好をして彼らの目をあざむき、難を逃れたという。
 こんにちのハロウィンの原型である。
 これは一種の穏形であり、呪術的な行事といえた。
 骨格標本のような骸骨人間が自分の頭蓋骨をはずして空高く放り投げる。

『Trick or Treat!』

 空中でガチガチと歯を鳴らしてお決まりのフレーズを口にする。

「ああいうふうに子どもたちが家々を周って菓子をねだるのは、祭り用の食料をもらって歩いた農民の姿を真似たもので、中世の名残なんだってな」
 黒い三角帽子とコート、ミニスカートからは黒と白のストライプ模様のハイタイツの脚がのび、ヒランヤつきチョーカーを身につけたGOTHい魔女っ娘の肩にとまったカラスがそんなうんちくを披露する。

「へぇ、そうなんだ。…て、そんなこと言ってる場合じゃない! あたしたち百鬼夜行に巻き込まれちゃったのよっ、これからどうするのよ!」

 魔女っ娘が怒鳴る。

「さて、どうしたものか……」

 魔女っ娘は京子、その肩にとまるカラスは秋芳の式神だ。





 あの後――。
 ウクライナの愛のトンネルを模した緑の小路内に出現し、異形の群れを吐き出した黒い穴はいつの間にかなくなり、かわりに反対側に新しい黒い穴が出現した。
 新たに開いた黒い穴に異形の群れは吸い込まれるように殺到し、中へと入っていったのだが、場所が悪かった。いかんせん狭い一本道である。通勤ラッシュさながらの群等に押し合いへし合いされて、京子と秋芳も異形の群れと一緒に黒い穴に吸い込まれてしまったのだ。
 動的霊災ならば幾度となく見てきた京子たちだったが、このような奇怪な現象は今まで見たことも聞いたこともない。
 思わず圧倒され、なんらかの呪術を使って押しとどめることも避けることもできずに飲み込まれてしまったのだ。
 あたりは不思議な闇につつまれていた。
 闇といっても真っ暗ではない。いったいどこに光源があるのか、ほのかに明るい。この世ともあの世ともつかない異界。暑くもなく寒くもない、摩訶不思議な空間。
 そのような場所で数十体の魔物に囲まれ、歩を進めているのだ。

「……なぁ、京子。たしか十月末日は夜行日だったよな?」
 夜行日とは陰陽道の忌み日で、正月の他に。二月の子の日、三月四月の午の日、五月六月の巳の日、七月八月の戌の日、九月十月の未日、十一月十二月の辰の日。これらの日は百鬼夜行が出現する夜行日であり、昔は物忌みの日として人々が夜に出歩くことを戒めていた。

「ええ、たしかそうだったわね。でも霊災対策の鬼気祓えは陰陽庁がきちんとしてわよ」
「そうだが、万霊節。ハロウィンに対する鬼気祓えはしてないよな」
「そりゃそうよ。だってハロウィンは西洋の行事だし」

 日本の年中行事には陰陽道の思想の影響が見られる。
 元旦の屠蘇、正月七日の七草、二月節分の豆まき、桃の節句のひな祭り、端午の節句、夏越しの祓え、七夕、八月朔日、重陽の節句、大晦日の追儺。などなど……。
 これらはただの伝統行事というだけでなく、土御門夜光の執り行った大儀式の失敗により、こんにちの日本で猛威をふるう霊災への備え。霊気の偏向を正す儀式でもあった。
 そのため陰陽庁は季節の節句などで鬼気祓を実施している。

「ハロウィンという習慣が日本に定着したことにより、霊的呪的なパワーを得てフェーズ4の霊災と化したんじゃないかな?」

 ハロウィンはもともと呪術的な意味のある祭事。それが東京という日本有数の霊災多発地帯の霊脈に感化され、霊災化する可能性は否定できない。

「……もしそうなら、来年からは夜行日と節句の鬼気祓えの他に万霊節の鬼気祓いをする必要があるわね」
「仕事が増える一方だな」

 その時、変化がおとずれた。
 周りの魔物たちの歩きが急に速くなった。それだけではなく、彼らの間にざわついた期待感のような空気が流れていた。これからちょっとしたイベントがあるぞ。そのようなわくわくした感じが伝わってくる。
 流れる気の速度も早まる。前方に小さな光が見えたが、そこからこことは異なる気が感じられた。

「お、外の気だ。たぶんうつし世に出られるぞ」
「じゃあ一気に抜け出しちゃいましょ」

 場所もさだかでない異空間で下手に動きまわるのは危険と判断し、まわりの魔物を刺激せず、百鬼夜行に交ざり歩いていたが、脱出の好機はすぐにおとずれたようだ。
 かすかな光は見る見る大きくなり、近づいて来る。いや光が大きくなっているのではなく、こちらがあの光にむかって押し流されているような感覚だ。
 強い風圧にも似た力が百鬼夜行全体にかかり、光へと押し出される。
 もとの世界に出られる。京子たちはそう確信した。





 原宿表参道は日本で始めてハロウィンパレードが実施されたことで有名だ。
 そのためこの界隈でのハロウィンイベントは他とは一味ちがう。仮装した多くの人が原宿表参道を約一キロメートルに渡って行進し、周辺の店舗ではハロウィンメニューの提供や子どもたちへのお菓子のプレゼントをおこなっている。
 そんな表参道に近いホテルのパーティー会場でも贅沢なハロウィンイベントが催されていた。
 なにせ一人の男性に対して数十人の女性コンパニオンがはべっているのだ。これが贅沢でなくてなんであろう。

「ユミちゃんのお菓子はどこかな? ここかな?」

 裏地が赤い黒マントに夜会服というドラキュラの姿に仮装した龍鳳院宮寺光輝がコンパニオンたちを目隠しをして追いかけまわしている。
 特筆すべきは女性たちの装いだ。ビキニタイプの水着や下着姿のような露出の高い衣装なのだが、それらにキャンディーやチョコレート、スポンジやグミといった菓子類が飾られているのだ。
 声優オタク諸氏はたかはし智秋が写真集やDVDで披露したキャンディー水着を思い出して欲しい。あれをさらにエロく、どぎつくした感じだ。

「お菓子をおくれ。でないといたずらしちゃうぞ~」
「いや~ん、光輝さんのエッチ~」
「ハッハッハ、おとなしくぼくに捕まりたまえ。今夜はチュパリコさ!」

 エターナルランドの事件で意気消沈した彼は当初おとなしく帰宅しようとしたのだが、どうにも気分がくさくさしてしょうがない。
自 宅に帰るのをやめて憂さ晴らしに、このような遊びを思いついたのだ。

「や~ん、そんなに舐めたらエミコのキャンディが全部溶けて見えちゃう!」
「ハッハッハ、よいではないか、よいではないか!」
「あ~れ~」
「ハッハッハ、よいではないか、よいではないか!」

 その時、会場の壁に黒い点が浮かんだ。
 点はまたたく間に広がり、壁をおおうと、そこから異形の群れがあふれ出した。

『Trick or Treat!』
「ヒ、キャアアアァァァァァァ――ッッッ!!!!」

 甲高い悲鳴が会場内に響きわたった。

「ハッハッハ、みんなも興がのってきたみたいだね。遠慮なく楽しみたまえ」

 どこかのパーティー会場だろうか。かなり広い部屋で、いくつかのテーブルの上にクッキーやチョコレート、キャンディーやマシュマロといったお菓子や。モンブランやショートケーキやガトーショコラ、シュークリームやエクレアなどのケーキ。プティングやサンデー、パフェなどの甘味類。さらに瑞々しいフルーツが盛りだくさんに置かれ、アルコールの瓶もたくさん置いてある。

『Trick or Treat!』

 そこへ魔物たちが乱入し、彼らの巻き起こす乱痴気騒ぎで広間はたちまち騒乱の巷と化した。
 フルーツポンチに顔ごとつっこみ中身を吸い上げるもの。
 マチャアキよろしくテーブルクロス引きに挑戦し、見事に失敗して卓上物をすべて床にぶちまけるもの。
 チョコレートファウンテンの頂上に立ち、ふらちにも小便をするもの。その小便をチョコと思い飲んでいるうっかりもの。
 もう、めちゃめちゃだ。

『Trick or Treat!』
「え、これ? お菓子が欲しいの? あげる、あげるわ。あげるからアッチ行って!」

 身につけた菓子の一部を魔物に与えたコンパニオンはその場を逃げ出すことに成功したが、そうでない者はたちの悪いいたずらの洗練を受けることになった。

「ギャー、なにこの頭!? いつの間にアフロになってるの!」
「あんたなんてまだマシよ、あたしなんてモヒカンよ!」
「やだぁ、うんこみたいな髪型になってる…」
「臭ッ!? あんたそれ、ほんとうのうんこよっ! うんこがのせられてるわ!」
「巻きクソよ!」
「エンガチョ!」
「ぐぎゃーっ!!」

 金持ちに媚びへつらい、寵愛を得ようと着飾った女たちは、いとあはれ。たちまち無惨な姿へと変貌を遂げた。
 阿鼻叫喚である。

「ハッハッハ、みんな楽しんでるね。けっこうけっこう……、おっ! つかまえたよ。君はだれかな?」

 みずから目隠しを取った光輝の目の前にいたのは、顔のすべてが吸盤状の口になったバレリーナ・デンタータだった。ヤツメウナギのような円口にびっしりと牙が生えている。

「まあぁああーまあぁーああーあ!」

 関根勤のような奇声をあげてのけぞり、卒倒した。
 二度あることは三度ある。あわれ光輝はこの日三度目の気絶をすることになった。

「うわぁ……。酷いありさまね、これ」
「なんかジョー・ダンテ監督の『グレムリン』のワンシーンみたいだな。……お! これモロゾフのチョコじゃないか。ゴディバもあるぞ」
「せっかくだからいただいちゃったら」
「そうしたいのは山々なんだが、あいにくとこの式神には賞味・消化機能はまだつけてないんだよ。しかし一口数百円のチョコをこんなに用意するだなんて、どこのブルジョワだよ、まったく」

 京子の目が床にのびる光輝を発見し、続いて魔物たちにいたずらされて逃げまどうコンパニオンたちの姿を捉える。

「こいつ、なにやってんだか……」
「ん? なんだ、あの成金じゃないか」
「お見合いしたそのすぐ後で女遊びなんて普通する? 信じらんない!」
「いたずらしてやれ」
「ええ、そうさせてもらうわ」

 京子はおもむろに取り出したマジックペンで光輝のひたいに『肉』の一字を書いた。

「マジックなんて持ってたんだ」
「え?」

 言われてみれば、と心底意外そうな顔で手にしたペンを見下ろす。

「そういえば、なんであたしこんな物を……」
「どっから出した?」
「……気がついたら手の中にあったわ」
「そいつの顔にペンで落書きしようとしたら、出てきたのか?」
「そうなの、かしら……」

 周りを見まわすと逃げ遅れたコンパニオンの顔や身体に『メス豚』『bitch』『Fuck』などの落書きをしている魔物たちの姿があった。彼らの手にもどこから調達したのか、ペンが握られていた。

「なぁ、ほかにどんないたずらがしたい?」
「えっと、こういうパーティー会場だし、やっぱパイ投げとか?」

 すぐ横のテーブルの上にホイップクリームがふんだんに盛られた円形のパイ皿が置いてあることに気づく。

「これ、さっきからあったか?」
「……さぁ」
「ほかになにかいたずらしたいことは?」
「え~っと、タライ落とし!」

 バイ~ン! 天井から金タライが降ってきて、近くではしゃいでいた小鬼の頭を直撃した。

「…………」
「…………」
「やだ、なにこれ。なんか怖い」
「そうだな、ちょっとどこかに行こうか」

 狂騒する魔物たちを祓うのも忘れ、この場を去ろうとした二人だったが――それができなかった。
 目に見えないやわらかい壁が京子の前に立ちふさがったのだ。

「なによこれ!」

 両手を広げてなにもない空間を押してみると、ゴムのような抵抗を感じた。
 あわてて見鬼を凝らして視る。
 部屋全体が不可視の天幕におおわれているように、結界が施されているように感じられた。

「まさか、祓魔官が!?」
「え? やだ! 修祓に巻き込まれるだなんて、まっぴらよ!」

 百鬼夜行を修祓せんと、祓魔官が結界を敷いた。一瞬そのように思ったが、どうもそういうわけでもないようだった。
 そうこうしているうちに出てきた穴とは別の穴が開く。そこにむかって魔物の群れが、百鬼夜行が押し込まれる。京子たちもまた強風に煽られるがごとく穴にむかって吸い寄せられた。

「な――!?」

 異界から出る穴と戻る穴。その間に一本の道があり、そこから一歩も出られない。
 いつでも下船が可能だった船から急に橋げたをはずされて降りられなくなったような気分。このままどこに運ばれるか皆目見当もつかない。そのような危惧を感じた。





 ふたたび異界、闇の中。あの世ともこの世ともつかぬ、暑くもなく寒くもない空間で百体近い動的霊災がひしめいていた。
 まわりは夜のように暗いのに、なぜか姿はよく見える。
 吸い込まれた時とちがい、気の流れはゆるやかになってはいたが、完全には止まっておらず、そよ風のように流れている。
 気の流れのせいなのか、足を動かさなくても自然に身体が押し出される。まるでムービングウォーク。歩く歩道に乗っているようだった。

「ねぇ、なんかこいつら増えてない?」
「ああ、増えてるな。さっきの倍くらいいる」
「増殖でもしたのかしら?」

 さきほどのパーティー会場での騒乱はどこへやら、ハロウィン霊災たちはすっかり落ち着いて、そぞろ歩きの雰囲気をかもし出していた。
 隣同士でぺちゃくちゃとおしゃべりをし、けたたましく笑ったり、急に踊り出すものたちもいた。まるでこの摩訶不思議な空間をみなで漂い流れること自体を楽しんでいるかのようだった。

「なぁ、京子」
「なぁに」
「なんだか俺たちも楽しくなってこないか?」
「……うん、そうかも」
「楽しいよな」
「楽しいわね」
「こいつらの、ハロウィンの毒気にでもあてられたのかなぁ」
「そうかも。次はどこに出るのかしら」
「金持ちや権力者の家が良いな。ウィキペディアや他人の文章を丸写しにした報告書を国に提出したり、都議会で品のないヤジを飛ばすような恥知らずの議員の家とか」
「いいわね、それ。いたずらのしがいがあるわ」

 二人の要望に応えたかのようなタイミングで前方に光の穴が現れ、気の流れが早くなる。またうつし世に出るのだ。
 ふたたび風圧に似た圧力がかかり、魔物たちの間にふたたび期待と興奮が広がる。たちまち百鬼夜行は異界からうつし世へと押し出される。





 他民党の東京都議会議員である浩木一郎は妻と三人の子どもをニュージーランドへのスキー旅行へ送り出したあと、青山学院の女子大生を家にひっぱりこんで、寝室でせわしなく身体を動かしていた。

『Trick or Treat!』

 そこへ突如として魔物の一群が乱入してきたからたまらない。女子大生は金切り声をあげて卒倒し、魔物たちは室内を荒らしまくる。惑乱した浩木は大声を張り上げた。

「おい、妖怪ども。わかっているのか! 私はおまえらバケモノとは身分がちがうんだぞ。東京を、ひいては日本を支配するパワー・エリート様だぞ。こんなことをして無事にすむと思うなよ!」

 そのようにわめいて警備会社に直通するセキュリティ・システムのスイッチを入れようとしたが、顔面に生卵をぶつけられてキングサイズのベッドの上から転げ落ちた。
 醜い中年男性の身体にどこからか毛布がかぶせられる。

「パンツくらいおはきなさい、この好色おやじ」

 マスカレードでつけるようなマスクで顔の上半分を隠した魔女が侮蔑の色もあらわに吐き捨てた。

「見覚えのある顔だぞ。まさか本当にセクハラヤジ議員のお宅に出るとはね、これはちょっと偶然とは思えないな」
 魔女の肩にとまったカラスが浩木の顔をのぞきこんでそう言った。
 少し前、東京都議会で質問していた女性議員に対して『早く結婚しろ』『産めないのか』などのヤジを飛ばした者がいて、海外のニュースでも取り上げられた。
 当初は否定していたものの、騒ぎが大きくなってから発言を認め、しぶしぶ謝罪したのがこの浩木一郎という男だ。
 セクハラ、ヤジという単語に浩木が反応する。

「わ、私は愛国者だ。国を愛しているからこそ少子高齢化を憂い、産めよ増やせよとあのようなことを言ったのだ。国を思っての発言のなにが悪い!」
「顔が悪い」
「頭が悪い」

 魔女とカラスの声が重なる。

「ぐ、ぐぬぬ……」

 乱入者たちの非礼さに浩木は恐れも忘れて憤然としたが、すっ裸に毛布だけという格好では怒ったところで迫力もありはしない。

「産めよ増やせよ。ですって? 女は鶏舎で卵を産ませる養鶏なんかじゃないのよ」
「……しかし愛国者ってのはよほどもうかる商売らしいな」

 寝室に飾られている絵画や陶磁器の類がどれもそこそこ値の張る代物であることを見抜いた。もっとも今やそのほとんどは魔物たちの手によって見るも無残な姿に変えられていたのだが……。

「たしか議員サマは報酬にくわえて期末手当やら政務活動費やら込みで年収二千万以上にもなるそうだったな」
「そ、そうだが、そこから税金が引かれるし秘書の人件費やら活動費がかさむやらで手元にはほとんど残らないだぞ」
「ぬかせ。さらに費用弁償と称して出勤のたびに一万円も小遣いをもらっているだろうが、この金食い虫め。……これは高いお菓子が期待できそうだな」
「お菓子!?」
「そうだ。俺たちはハロウィンのお化けだからな、お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」
「も、もうじゅぶんしているじゃないかっ!」
「まだまだこんなもんじゃないぞ。おい、そこのでかいの」
「ふがっ?」
「そう、おまえだ。いいか――」

 カラスは首にボルトの刺さったツギハギだらけの大男の肩にとまると、なにか小声で命じた。

「ふがっ」 

 大男は寝室から出て行くと、すぐに荷物を抱えて戻ってきた。
 浩木の目が驚愕に飛び出る。大男の持ってきたのは鋼鉄製の耐火金庫で、二トンはある。人力で動かせるような物ではない。
 大男は金庫を無造作に床に置くと、金庫の扉を思いきり引っ張り、ロック・キーを弾き飛ばして強引に開けてしまった。
 この異様な集団が人ならざる者だとあらためて痛感した浩木は腰を抜かし、反抗の気力を失った。意気消沈する浩木の前で金庫の中身が床に積み上げられてゆく。
 百万円の札束が五十もある。日本やアメリカの国債、株券、預金通帳、不動産の権利書、宝石類や貴金属などなど……。

「『ダークナイト』て映画を観たことはあるか?」
「な、なんだそれは? 知らん」
「ふん、議員サマともなると映画などという庶民の娯楽はたしなみません、というわけか」
「たしかヒース・レジャーがジョーカーの役を演じていた映画よね?」
「そうだ、俺はこの映画の中でも特に好きなシーンが二つある。ジョーカーが鉛筆を消すマジックを披露するところと、同じくジョーカーが札束の山を燃やす場面だ。ここにこんなに火種がある、ちょっとばかし豪勢なたき火でもしてみようか?」
「なにをする気だ、やめろ!」
「やめて欲しいならお菓子をよこすんだな。きょ…、マイ・ソルシエール。なにかご所望の甘味はあるか?」

 ソルシエールとはフランス語で魔女を意味する言葉だ。魔女――京子はそれが自分を指す言葉だとすぐに理解した。

「ラスクとエクレア。あとミルクティー」
「さぁ、出せ」
「急に言われても無理だ」
「なら買って来い」
「わ、わかったから服を着させてくれ」
「いいぞ、だが早くしたほうが良い。さもないと現金、国債、株券、預金通帳の順序で焼いてくからな」
「不動産の権利書もあるわよ」
「じゃあ現金の次にそれをほうりこもう」
「ひ、ひ~っ!?」

 パンツ一枚で必死になって走り、一番近いコンビニから希望の品を入手して部屋に帰った浩木が目にしたのは、開いた扉口を上にして置かれた金庫の中で灰と化した全財産だった

「ひ、ひどい。あんまりだ……」

 浩木の顔は真っ白に変色し、舌を出して狗のようにあえいで気絶した。





 東京湾。
 竹芝埠頭から東京湾を周遊する大型レストラン船の船上でくすんだ金髪の中年女性――駐日アメリカ合衆国大使――によるハロウィンパーティーを兼ねたレセプションが開かれていた。

「――ですのでクジラはホエールウォッチングの対象として見るものであり、いまや食べるものではありません。戦後の食料不足の時代ならともかく飽食の日本でわざわざクジラやイルカを虐殺して食べなくてもいいのです。世界中が反対しているにもかかわらず捕鯨を続けることは日本の立場を悪くすることでしょう。国際社会から後ろ指を指されるような行為に無垢な子どもたちが知らないうちに加担するようなことがあってはなりません。日本政府は世界の人々の環境保護への願いを真摯に受け止めるべきです。クジラの生態調査は殺さなくてもできます。彼らのように知能の高い生物を殺すことは残酷なおこないだと、どうか日本の人々に気づいて欲しいのです」

 食料自給率が四〇パーセントで、食糧不足の危機はつねにある国を飽食と言ったり、捕鯨に反対しているのは食料供給のために水産資源に依存する必要性が低い欧米諸国が中心であることを失念していたり、どうもこの駐日大使は日本と世界についてよく知らないようだった。 

 わー、パチパチパチパチ。

 それでも中年女性によるスピーチが終わると周りから拍手が起きた。
 一人の男がひときわ感激して話しかける。

「素晴らしい演説でした。日本人が捕鯨・食鯨という野蛮人の風習を捨てられないどころか、それが日本の食文化だなどと言って開き直る人がいるだなんて、同じ日本人として恥ずかしい!」
「あなたのように過ちに気づく人を増やすのが私の役割です。日本人の精神はいまだに鎖国していると言えるでしょう、こうしてハロウィンという欧米の文化に接する機会をもっともっと作って、欧米の、人類普遍の真理に目覚めるように啓蒙していきましょう」
「ははーっ、よろこんで!」

 男が平伏せんばかりに頭を下げた時、激しい揺れが船を襲った。

「な、なにごとですか!?」

 ふたたび衝撃が船体をつらぬく。一度や二度ではない、短い間隔で断続的に衝撃が走り、船体がきしみをあげる。

「津波? 地震? 原発事故!? まったくこれだから極西の島国は……」

 船上に設置してあるサーチライトが一方を照射すると、巨大な魚影が見えた。
 飛沫をあげて船体に体当たりを繰り返す大きなクジラの姿が確認された

「なんですかアレは!? なんで東京湾にクジラがいるの!?」
「迷いクジラでしょうか?」

 SPの一人が律儀に応える。

「射殺なさい! このままでは船が破壊されてしまいます」
「え? で、ですがこの船には銛も機銃もありません。それにクジラを傷つけるのは野蛮な行為かと」
「野蛮というのはアメリカ人に対してアメリカ人以外が暴力をふるう行為を指すのです。そしてあなたも私もアメリカ人です。このような蛮行はけっしてゆるされません。この現状を見なさい、あのクジラそのものが大量破壊兵器のような脅威をもって私たちを脅かしています。殺してもかまいません」
「いや、ですから殺傷する装備はこの船にはないのです」
「それでもアメリカ男子ですか、情けない!」
「素手で立ち向かえと?」
「素手とは言いません。消防手斧があるでしょう」
「手斧でクジラに立ち向かえと?」
「そうです、エイハブ船長を見習いなさい。そもそも私たちアメリカ人はやつらを狩る側の人間であり、刈られる側ではないのです」

 開拓時代に産業らしい産業のなかったアメリカは東岸近海に大量にいたセミクジラやマッコウクジラなどを獲って、油を売ることが重要な産業の一つだった。
 石油が発見され、その精製技術が向上するまではロウソクを作るのに植物油も利用されていたが、クジラの油を使ったロウソクは炎が美しいうえに本体が真っ白に仕上がったので非常に人気があったそうだ。
 獲りすぎて近海にクジラがいなくなると、もっと遠くに行き。それでもいなくなると、さらに遠くの海まで行って、とうとう鎖国していた日本にまでたどり着いたというわけだ。
 アメリカが日本との国交を欲したのは日本近海の海域にマッコウクジラの大群が発見されたため、日本本土に捕鯨船のための母港が必要だったからだ。
 他国に迷惑かけず鎖国していた平和な日本を武力で脅し、強引に開国させたというわけである。
 それだけ当時のアメリカにとってはクジラの油は重要な外貨獲得手段であり、その外貨は近代産業勃興の起爆剤となった。
 アメリカの捕鯨最盛期には七百隻もの捕鯨船があったそうだ。
 それだけ乱獲すればクジラも減るわけである。
 アメリカは綿花栽培での黒人奴隷の酷使と、クジラの大量殺戮によって貯め込んだ資本を元手に世界一の工業大国になったといえる。
 クジラを殺すだけ殺したアメリカ人だが、その肉を口にすることはほとんどしなかった。
 基本的に欧米人は自然のことを人間が征服すべき対象としか考えていないので、クジラの体重の一割しかない油を採ったあとに肉を捨てても、命を粗末にする。などという考え方はしなかったようだ。
 縄文時代からクジラを獲り、肉も油も皮も骨も髭も、なにもかも無駄にすることなく使わせてもらい、慰霊碑まで建てる日本とはおおちがいだ。



 閑話休題。



 我々に暴虎馮河の勇をふるえというのか!
 SPがそういう意味の言葉を心中で叫んだ時、現実世界でも別の叫び声がした。

『Trick~or~Treat~!』

 海面が丘のように盛り上がると同時に、えらくまのびした声がとどろいた。
 クジラだ。
 クジラが甲板に乗りだし、その大きな口からお菓子をおくれと言っているのだ。

「Oh my goodness……!」

 それだけではない、口の中から異形のものたちが次々と踊り出て、唖然呆然とする人たちをさらにおどろかせた。

「こ、これは霊災じゃないか!?」
「陰陽庁に連絡を!」
「祓魔官を呼べ!」

 船上を逃げまどう紳士淑女たち。パーティー会場をめちゃくちゃにした先ほどの騒ぎがここでも繰り広げられた。ある男など鹿の足と山羊のひづめを持った毛深い獣人ウリシュクに追われ海へと落ち、落ちた先でさらに魚の尾に藻のたてがみをはやした半馬半魚ケルピーに小突き回される始末だ。

「派手に騒ぐのはいいが死人が出たら寝覚めが悪い。あまりハメをはずさず、海に落ちたやつは助けてやろう」
「そうよね。ちょっとそこのギルマン! ご婦人へのちょっかいはそのくらいになさい。そこで泣いてるミノタウロスとオーク、ステーキやミートローフを見て泣いちゃう気持ちはわかるけど、暴れちゃダメよ?」

 クラスのまとめ役であり、鬼神を使役する陰陽師でもあるからか、京子はごく自然にこの異形の群れを仕切るようになっていた。
 ひと通り見て周り、魔物たちの手綱を締めたあと、まだ無事な姿をとどめているテーブルに近づいて料理を物色する。

「ターキーのクランベリーソースがけがあるわ。前に食べたことあるけど、しみじみと不味かったわね」
「唐揚げにレモン汁じゃあるまい、肉に果物の甘いソースなんて普通に合わないよな」

 秋芳と京子。二人とも酢豚にパイナップルは不要派であった。

「トマトをゆでて食べたり、ポテトサラダにリンゴを入れたり、欧米人の味覚はよくわからん」
「料理はともかく夜景は素敵よ。ナイトクルーズだなんてお洒落よねぇ」
「海か……、船も良いかもな。鄭和みたく長い船旅を満喫するのも悪くない」
「テイワって?」
「明の永楽帝に仕えた宦官で、遠くまでアフリカ航海して貿易ルートを築いた人物だ。一説によるとその艦隊の一部はアメリカやオーストラリアまでたどり着いたとか」

 鄭和の前後七回、三十年間にわたる南海遠征は有名だ。東南アジアからインド洋、アラビア半島、アフリカ東海岸にまでいたった。アフリカの東海岸にある港などの遺跡を発掘すると、当時の中国のお金や陶磁器などの遺物が出てくるという。
 鄭和の率いた船団は百隻近い大船に兵士や官吏、さらに通訳、医者、学者など合わせて二万数千人の大所帯で、海賊退治や王位継承争いなどの現地の政治にも介入したが、ヨーロッパ諸国のように遠征した先で略奪だの奴隷狩りだの植民地化だのをおこない、現地の富を搾取するような真似はいっさいしなかった。
 もっともこれは鄭和や永楽帝が平和主義だからというわけではなく、海の向こうに植民地を作ろうという発想自体が中国にはなかっただけで、かわりに朝貢を迫ったわけだが。

「それってヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスよりも前の話?」
「前の話」
「すごいわねぇ、中国史どころか世界史レベルの偉人じゃない」
「他にも中国には王玄策という国をまたにかけて活躍した人物が――」