東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
序章
呪禁。
道教に端を発する呪術の一種。
存思、禹歩、営目、掌訣、手印という五つの技術を駆使して悪鬼を祓い、病気や災厄を防ぎ除去すると言われるが、その詳しい内容は不明である。
呪禁の中でも特に禁呪や持禁と呼ばれるものは、気を禁じることであらゆる事象の原因そのものを封じる(傷を禁じればたちどころに傷は癒え、人を禁じればその者は消滅する)ことができる、きわめて強力な呪術だったという。
その使い手は律令制時代の日本において典薬寮に属し、呪禁師と呼ばれた。
韓国連広足などはその名人であったと伝えられる。
のちに陰陽師や仏教の台頭によってその地位を追われ、本邦の呪術史から姿を消したと言われるが、 その真偽のほどは不明である――。
鬼の手にした巨大な金棒が振り落ろされる。
「あぶないっ!?」
秋芳の頭がグチャグチャに粉砕される様が脳裏に浮かび、思わず駆け寄ろうとする笑狸。
「来るなっ、問題ない、さがってろ」
半身に反って避けつつ、そう口にするだけの余裕が秋芳にはあった。
巷の陰陽師たちとちがい、体術には自信がある。
武術はもっとも実践的な魔術のひとつ。そのような考えのもと、幼い頃から鍛錬を重ねてきたのだ。
もっとも戦っている相手は二メートルを軽く超える巨躯の鬼。肉弾戦のみで倒すのは骨が折れる。
「禁武器則不能殺傷、疾く!」
武器を禁ずればすなわち傷つけ殺めることあたわず。
秋芳から放たれた気が鬼の手にした金棒にまといつく。
「GUGAAAAッッッ!!」
ふたたび鬼の攻撃。横薙ぎに振るわれた金棒が秋芳の体にめり込む。
骨も内臓もグチャグチャになるかと思われたその一撃はしかし、秋芳の体になんの傷も負わせなかっ た。真綿を押し当てられた程度にしか感じられない。
「Fuu?」
困惑する鬼。
その隙を見逃す手はない。
素早く導引を結び、口決を唱え、矢継ぎ早に術を行使する。
「禁手則不能持、疾く!」
手を禁ずれば、すなわち持つことあたわず。
鬼の手から金棒が落ちる。
「禁足則不能立歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち立ち歩くことあたわず。
足元からくずれ落ちるように倒れ伏す鬼。
「GA、GAGAGAGAッ!?」
牙を剥き出し、狼狽する鬼。抵抗する力を奪ったことを確認し、最後の仕上げにかかろうとした、その時。
「GA、GAGAッ!、餓牙ッ、牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙阿阿阿阿阿阿
阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨ッ」
哭いた。
まさに鬼哭。鬼の口から耳をつんざく大音声がほとばしる。
呪力のこもった鬼の鳴き声。抵抗力のない並の人間なら、聞いた瞬間に精神を侵され、卒倒。運が悪ければ命を失いかねない音波攻撃。
全身に気を廻らし、不快な邪気を跳ね除け、意識を集中する。
「うるせぇっ! 禁口則不能話、疾く!」
口を禁ずればすなわち話すことあたわず。
術が発動するや、あたりを震撼させていた鬼哭はピタリと鳴き止む。
声を発することを禁じられた鬼の口からは、ただただ息が漏れるのみ。
次で決める。
「我咆哮金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」
我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
虎吼掌波。
虎の口を模して重ねられた掌から気がほとばしり衝撃と化す、それを受けた鬼の体はバラバラに吹き飛んだ。
「いやー、終わったねぇ。一瞬ヒヤッとしたよぉ」
残心を怠らず周囲に注意をはらう秋芳に駆け寄る笑狸。
短めに切りそろえた明るい色の茶髪にデニムの短パンから延びる白い脚。一見、少年のようだがよく見ると快活な少女――。否、やはり少年。に見えてやはり少女のような……。
そんな、むじなのごとく外見のさだかでないこの少女(?)その正体はオスの化け狸である。
秋芳が幼い頃に折伏してから、おのれの式神にして行動をともにしているのだ。
「あんな大ぶりの攻撃あたらないし、脳筋野郎の妖術なんて効くかよ。それより自分の身の心配をし
ろ。おまえは平気か? 邪気にあてられなかったか?」
笑狸の身を案じる秋芳のほうはというと、僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年だ。
「ボクは平気だよ。ちょっとうるさかったけどね」
「そうか。だが油断するなよ、あたりにまだ妖気が残っている」
「妖気? クンクン……。ほんとだー、わる~い感じの臭いがプンプンするよ」
「動的霊災は今ので終いのはずなんだがな……」
周囲には秋芳が退治した動的霊災――霊災によって実体化した瘴気――らの骸が散乱している。
霊災。
霊的災害。戦中に現代の陰陽術の礎を築いた稀代の大天才にして伝説の陰陽師、土御門夜光が執り行った大儀式の失敗により、東京を中心に頻発するようになった異常現象のこと。
自然界に満ちる『霊気』のバランスが崩れて『瘴気』へ転じ、これが自然界が持つ自浄作用の限界を超えることで発生する。
規模と驚異度に応じた段階が定められており。
フェーズ1は自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。
フェーズ2は霊気の偏向が強まり周囲へ物理的被害を与える状態。
フェーズ3は鵺や野槌、牛鬼といった実体化した移動型・動的霊災の発生。
フェーズ4は一つの巨大な霊災を中心として、無数の霊災が連続的に発生する状態、いわゆる百鬼夜行。
「……一説ではさらにその先の、世界に受け入れられ霊災が遍在化する、フェーズ5(ファイナルフェーズ)が存在するとされる……。くわしくは富士見ファンタジア文庫より絶賛発売中の『東京レイヴンズ』を読んでね♪」
「おい笑狸。おまえどこ見て、誰になんの説明をしてるんだ?」
「あはは、気にしない、気にしない」
ここは東京新宿、花園神社。
本来ならば聖域として存在し、大道芸や露店でにぎわう人々の憩いの場は異界化し、周辺地域に霊災をおよぼしている。
フェーズ3の霊的災害。その原因をつきとめ、祓うよう、陰陽庁からの依頼を受けておもむいたのだ。
「笑狸、羅盤を」
「うん、ちょっと待って――」
ボストンバッグから漢字がビッシリと書かれたビッグサイズの方位磁石のような物を取り出し、秋芳に手渡す。
風水羅盤。
土地の龍脈を調べ、吉凶を占う道具だ。
「我、世の理(ことわり)を知り、鬼を見、妖を聞き、万怪を照らす。疾く!」
印を結び口訣を唱えると、中央の針がクルクルと回り、一点を示し止まる。
「向こうだ、行くぞ」
「うん。でも、あっちってボクたちが来たほうだよね」
「そうだな。まぁ、行けばわかるさ」
あたりに満ちる瘴気は濃いが、動く妖の気配はない。二人は周りに注意しつつ自分らが来た道を引き返して行く。
「はは~ん、なるほど。原因はアレだな」
花園神社入り口。鳥居の額に書かれた「花園神社」の『花』の字。そのくさかんむりの部分がかすれて、ほとんど消えかかっている。
「花の園が化け園になってやがる。言霊によってこの場の気が変生しちまったくちだな。神魔の境は紙一重。おかげで化け物の園になって、動的霊災どもがわんさか湧きやがった」
「これってば誰かが故意に字をもみ消したのかな?」
「いくら言霊の理を利用して呪をかけたとしても、人の身で神社という聖域をこうも変えるだなんて、ちょっと難易度が高いな。そうとうの呪力がないと無理だ」
「秋芳でも無理なの?」
「俺ならできるが」
さらりと言ってのける。
気負いも見栄もない、あたりまえのことをそのまま口にしたようであった。
「とにかくあれをどうにかしなくちゃな。とりあえず一筆書いて、鎮めておくか。笑狸、ペンかなにか書く物を」
「はいは~い」
ボストンバッグから取り出した毛筆ペンを秋芳に手渡す。
「……つーか、手がとどかねぇ。笑狸、なんかでかい奴に化けろ。おまえが書け。くさかんむりを書くだけでいい」
「ん、いいよ。え~と、どうしようかなぁ……」
しばし考えた後、変化の術を行使する。
ぐにゃり。
一瞬、笑狸の全身が飴が溶けたかのように歪んだかと思うと、次の瞬間そこには二本の角に剥き出し の鋭い牙、赤銅色の巨躯に虎皮を身につけた大きな鬼の姿があった。
「さっきの奴だな、そっくりじゃないか」
「しっかり視てたからね。化け狸たる者、つねに観察眼を養ってなくちゃ」
見た目もいかつい大鬼の口から、少女のような柔らかな声――秋芳いわく「ねこじゃらしのような」声――が出されるのはかなり違和感がある。
鬼に化けた笑狸の手でくさかんむりが書かれ『化』が『花』の字になると、あたりに満ちていた瘴気がほとんど消え去った。
「あとは改めて新しい額を用意させれば完璧だな。よし、俺たちの仕事はここまでだ。宗家に連絡して帰るとしよう」
「うん。じゃあ、なんか食べて帰ろうよ」
「そうだな、まだ日が高いが仕事の後だ。一杯やって帰るか」
「お蕎麦がいいなぁ、たぬき蕎麦!」
「たぬきか・・・。そうだな、鬼退治した後だし、俺もたぬき蕎麦って気分だ」
「あれ、珍しい。いつも山かけやおろし蕎麦なのに。なんで鬼退治したからたぬきな気分なわけ?」
「京の狸(たぬき)谷山(たにさん)の叱怒(たぬ)鬼(き)不動明王を思い出したのさ」
京都にある狸谷山不動院は平安時代に桓武天皇が京の鬼門の守護にと、鬼を叱り退ける力を持つ咜怒鬼不動明王を安置し、名に「たぬき」が入ることから狸そのものもまた霊獣として扱われているパワースポットである。
「あ、な~るほど。ボクの親戚筋かぁ」
西新宿五丁目某所。
蕎麦屋で遅い昼食。早い晩酌をとる二人の姿があった。
板わさと焼き味噌をつまみに日本酒をちびちび飲む秋芳。
対して笑狸はというと、鴨焼き、玉子焼き、天ぷら、もつ煮といったサイドメニューをあらかたたいらげた後に、たぬき蕎麦とうどんの合盛りを腹に収め、デザートのみつまめを賞味しているところだ。
あいかわらずよく食べる。やはり妖の胃袋は人とはちがうな。
そんなことを考え、四合目の銚子に手を伸ばした秋芳の視界に一羽の折り鶴が飛び込んできた。
賀茂家がよく使う伝令用の式だ。
(まったく。電話もメールもあるってのに、無駄に格式ばって益体もない。そんなんだから土御門や倉持に良いとこ持っていかれちまうんだよ)
もともと煩雑だった陰陽術を土御門夜光が改良をくわえ、あつかいやすく、かつ実戦的にしたものが帝式陰陽術。
そこからさらに危険な要素を排し安全性を高めたものが、こんにち一般的に使われてい汎式陰陽術である。
これらの陰陽術はインターネットや電子機器との親和性もあり、術や式神をデジタルデータ化してもちいることで、より安全・安易に万人が陰陽術を行使することが理論上は可能で、ウィッチクラフトという会社など、その開発に余念がない。
あいにくと賀茂家はそちらの方面にうとく、一歩も二歩も差をつけられていると言わざるをえない。
忌々しげに開封の呪文を唱え、伝言を聞く。
「………………」
「どうしたの? 悪い報せ?」
「土御門夜光の転生者と思われる者が陰陽塾の生徒にいるそうだ。俺たちは講師と生徒として塾に潜入し、そいつを見つけ出し、狂信的な夜光信者らに害されないよう、賀茂の手で身柄を確保。保護し、お連れしろ。だ、そうだ」
「えー、それって誘拐じゃない。さらった後はどうするつもりなの?」
「さあな、そこまでは言ってない。宗家の年寄りどもに大胆な真似ができるとも思えないし、あんがい言葉通りに保護してやって、土御門に恩を売る算段だったりな」
自分だったらどうだ?
どうする?
もし土御門夜光の転生者を見つけたら?
(喰霊の儀式呪術をもって夜光の持つ力と知識だけちょうだいする。あるいは転生者を傀儡にして夜光の力を我が物にする……)
いずれにせよ容易ではない。下手をすれば我が身と魂を失うことになりかねない。
「まぁ、いいさ。問題は俺らが陰陽塾に潜入する段取りの部分だ」
「どこが問題なの?」
「宗家は俺とおまえを講師と塾生という役でそれぞれ潜らせようと考えているようだが、おまえがただの陰陽師志望の人間でないことなんて一発でわかるだろうな。その正体も、誰かの式神ってこともな」
「ああ、うん。そうだね。天下の陰陽塾だもの。そこらへんのセキュリティは万全だよね」
「そうだ。照魔鏡の類で調べられたら一発でアウトだ。だからおもえも同行するとしたら最初から俺の使役式として紹介しておくべきだろう」
「ふんふん」
「それとなんで俺が講師役なんだ? 一塾生でいいじゃないか」
「え? そりゃあ一般生徒よりも先生のほうがなにかと活動範囲が広いし、秋芳の年齢的に――」
「俺はいくつに見える?」
「二十五歳」
「いや、それはおまえが俺の実年齢を知ってるからそう思うんだろ。パッと見で、俺はいくつに見える?」
「……二十歳」
「いやいや、もうちょい若く見えるだろ。十七歳とか、高校生で通用するレベルにさ」
「えー、高校生はさすがに無理が――」
「ない。俺は今だに店で酒を買う時に身分証の提示を求められることがよくあるんだ。若い証拠だぜ」
それは誰が相手でも年齢確認するという店の決まりなのでは。と思ったが口にはしない笑狸。
「俺は誰かにものを教える、先生なんてガラじゃあない。俺もおまえも一般生徒として陰陽塾に入るべきだ。……ガキの時分から修行修行でまともな学校生活ってやつにゃ無縁だったからな。いっぺん学生ってやつを体験してみたかったんだ。いい機会だぜ」
賀茂秋芳、二十五歳。たった今、本人が言った通り幼少の頃より厳しい修行に明け暮れた日々を過ごしてきた反動か、成人してからは酒をはじめ諸々の娯楽をたしなむ、享楽的な性格になっていた。
「……秋芳と一緒に学校生活かぁ。うん、いいかも。面白そう」
「だろう? 修学旅行で枕投げや肝試し。うれし恥ずかし告白タイムだの、楽しそうじゃねぇか」
「あと体育祭とか文化祭も楽しそう!」
「そうだな。祭りそのものもいいが、準備も面白くてずっとしてたいって言うしな」
「それとバレンタインデーにチョコレート渡しっこしたり、クリスマスにプレゼント交換したり」
「おお! いかにも青春て感じだよな」
「プロムパーティーで豚の血をぶち撒けられる!」
「『キャリー』かよ! 俺はいじめるのも、いじめられるのもごめんだぜ」
「それで卒業式に伝説の樹の下で告白タイム!」、
「伝説の樹ってなんだよ?」
人間界の娯楽については妖怪である笑狸のほうが一日の長があった。なにせ十年以上前に秋芳に折伏されてからというもの、人の身に姿を変え、アニメや漫画。ゲームやライトノベルといった若者文化を堪能してきたのだ。
昔流行った恋愛シミュレーションゲームについて軽く説明する。
「ん、まぁ、とにかく。潜入するなら講師としてではなく学生としてだ。これを機に正式に甲種呪術の資格も取りたいしな。自分で言うのもなんだが、そろそろ有名になってきてもおかしくない頃合いだろ」
「ずっとモグリでやってきたからね~」
数多の零災を鎮めてきた秋芳だが、それはあくまで影働き。表向きはすべて賀茂宗家の人間の手柄になっている。
土御門・倉橋の定めた帝式・汎式の陰陽術。いわゆる甲種呪術に拒否感をしめす賀茂家の陰陽師のほとんどは、乙種呪術。
甲種呪術以外の呪術全般をもちいている。
しかしそれでできることには限度があるし、権限も限られている。
いざという時に無資格であることを理由に陰陽庁から横槍を入れられぬよう、やはり正式な免状が欲しい所である。
「……て、ちょっと待てよ」
「なに?」
「そうだよ。俺は正式な『陰陽師の資格』なんて持ってないんだぞ。講師として潜入なんて最初から不可能だわ」
「あ、そうだね。言われてみれば」
「じじいども、本格的にボケやがったか……。まぁいい。宗家のやつらに直接かけあってやる。なぁに、俺からの頼みをイヤとは言わせないさ」
賀茂家にはじゅうぶん貢献してきた。それに幼少の頃から畏怖の念をいだかれている自分の発言力には自信がある。
韓国連(からくにのむらじ)広(ひろ)足(たり)の再来とも呼ばれ、こんにちまで絶えていた呪禁の術を現代に蘇らせた。そんな自分の言を、無視できるはずがない、と――。
約一か月後。
渋谷区代々木公園。朝も早くからカラスたちの鳴き声があたりに響きわたり、静謐な空気を切り裂いている。都心に巣くうカラスの数は一万匹とも二万匹とも言われ、その多くはこの代々木公園を寝床にしているのだから無理はない。
前日の遅くまで降っていた雨のため、舗装されていない道はぬかるみ、雨よけのない場所は濡れている。
そんな場所を避けて一人ストレッチする秋芳の姿があった。
(遠足前日の子どもってのは、こういう気分なのかね)
明日から陰陽塾に通うことになり、下見ついでに朝の運動をしているのだ。
どうにもじっとしていられない。
肉体のあちこちをほぐし、のばす。
股割りの格好で上体を地面にのばし、くっつけた後、腕立て伏せに移行する。
ただの腕立てではない。拳立てだ。拳を握り、一指と二指の拳頭部分を地にあてて腕立て伏せをする。
それを五十回ほどおこなった後、五十一回目からは拳頭ではなく十本の指で体重をささえる。指立て伏せだ。
それを十回すませると、左右の小指が上がった。八本の指でまた十回。
十回ごとに小指から順に指の数が減ってゆく。
最後の十回は親指だけ。
全部で一〇〇回。
それを一セットとして、二セットおこなった。
(最近は仕事仕事でこの手の鍛錬をおこたってたが、思ったよりなまってないな)
さすがに汗ばんでいる。が、息は乱れていない。
呼吸の乱れは気を散らし、術の完成を妨げる。ただしい呼吸法は呪禁師にとって基礎の基礎といえる。
そのまま起き上がると、両手で円を描きつつ、片足を上げ、前に出し、下す。
もう片方の足を上げ、前に出し、下す。また片方の足を上げ、前に出し、下す・・・・・・。
それらの動作を極めてゆっくりと、だが寸分たがわぬ精確さでくり返す。
太極拳の套路や道教の禹歩に似ている。だがあきらかに異なる独特の動きだ。
額に汗がにじむ。
見た目こそ地味だが先ほどの腕立て伏せよりも激しく全身の筋肉を酷使しているからだ。
俗に筋骨を鍛えて身体を外面から強くして剛力を用いる武術を外家拳と呼び、太極拳のように呼吸や 内面を鍛えて柔軟な力を用いる武術を内家拳と呼ぶ。
最初の腕立て伏せのような筋力トレーニングが外家拳の修行なら、これはまさに内家拳の修行になる。
武術はもっとも実践的な魔術であり、五行拳や形意拳、八卦掌など。その起源に魔術的なものがある流派は多い。
秋芳のもちいる呪禁の術もそれらに近い。
全身に気が廻るのを確認した後、型に移行する。
算数の九九や歴史の年号を丸暗記する「だけ」の勉強が役に立たないのと一緒で、型の修行はただ形をなぞるだけでは無意味だ。
つねに実戦を想定して動かなければならない。
型には意味がある。
型の動きというのは身体の運用理論であり、実戦に対応するための動きを作り上げるために必要なものなのだ。
武道の型にはすり足をもちいた独特の重心移動や軸の固定など、日常的な動きから離れた身体運用を要求してくる部分が多い。
これらの動きを身につけるのはとても困難ではあるが、型の要求通りに正しく動くことができれば動きの質が変化する。
肉体ではなく神経レベルで〝戦える身体〟になるのだ。
常人がその動きに反応するのはむずかしい。
もちろん表面の動きだけを似せるだけではだめだ。そのような形骸化した型稽古にはなんの意味もない。
型稽古というのは型の動きをおぼえるのではなく、型を通して戦いの動きをおぼえることに真の意味があるのだ。
ただ型をなぞるような練習はせず、その動きを自分のものにすることが目的なのだ。
秋芳の脳裏にひと月前に戦った鬼の姿が浮かぶ。
(術なしで戦うとしたら、どうするかな・・・・・・)
鬼や鵺やといった形を持った霊災の中には、通常の弾丸や刀剣を弾くほどの頑強な皮膚を持った種も存在する。
そのような個体にも気を乗せた攻撃。発剄と呼ばれるような攻撃方法なら、素手でも致命傷を与えることが可能だ。
さらに人型の動的霊災は比較的倒しやすい。人体の構造や弱点が人間のそれと同じ場合が多く、急所をつきやすいからだ。
地閃龍尾で金的や膝関節を攻めて姿勢を崩す。上体が下がったら飛燕連環腿を水月にぶち込み、とどめは顔面に虎吼掌破だ。もし背中を丸めて水月が隠れてるようなら角を引っつかんで穿腿提膝で顔面を潰す……。
実戦を想定しつつ、ひととおりの型を演じ終え、ひと息つく。
「べつに演武を披露しているわけじゃないだけどな」
先ほどから視線を感じていた物陰にむかって声をかける。
「え!? あ! ご、ごめんなさい。べつに盗み見するつもりはなかったんだけど……」
Tシャツにランニングスカート姿の少女が姿をあらわす。
(うお、乳でけぇ。スイカっつうかメロンっつうか、とにかくでけぇ)
長い巻き毛と大きな胸が特徴的な、まだ十代の少女だ。
くっきりとして整った目鼻立ちにくわえてスタイルもいい。女性誌のモデルや男性誌のグラビアを飾ってもおかしくないようなルックスにもかかわらず、下品な派手さやキャバい印象を感じさせない。
「いや、べつに責めてるわけじゃないんだ。そっちも朝練かなにかかな? ずいぶんと走り込んだみたいだね。陸上部?」
少女の泥だらけの運動靴を見ながら――あえて胸には視線をむけずに――話しかける。
「ううん、部活動はしてないわ。ちょっとムシャクシャしたことがあって、身体でも動かしてスッキリしようと思ったの」
「そりゃあいい、実に健康的だ。沈んだり倦んだりした時は運動して汗でもかくとスッキリ発散できるからな」
言いつつペットボトルの水を頭からかぶり、かいた汗を流す。暦の上では秋とはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。水をかぶって風邪をひく心配もない。
剃りあげた頭を流れ落ちる水を見ながら少女が聞く。
「あの、あなたお坊さん? 今のって少林寺拳法かなにか?」
髪形のせいでよく僧侶にまちがえられることの多い秋芳にとって、これはよくある質問だ。
正直うんざりしてる。
「俺は坊さんじゃない、この頭はただのファッション。それと今の技は少林拳でも少林寺拳法のものでもない」
「え? えっと、少林寺拳法と少林拳てちがうの?」
「ちがう」
キッパリと言い放つ。
少林拳とは中国河南省。嵩山少林寺で生まれた生粋の中国武術であり、少林寺拳法は日本人の宗道臣が数多の中国拳法を基盤に創設した日本発祥の武術だ。
おそらく日本人の多くは少林拳と少林寺拳法を混同し、別のものとして認識してない。
けれどもこのふたつはまったく別の存在だ。
それらのことをザックリと簡単に、けしてオタクっぽくならないように説明する。
「へぇ、そうだったの。ぜんぜん知らなかった。ええと、じゃあ太極拳?」
「太極拳じゃないけど、まぁ似たようなものかな。ちなみに太極拳にも色々な流派があって、有名どころだけでも五つの流派があるんだよ」
「そんなに! これから習おうって人は大変ね。どれにするか迷っちゃうじゃない」
少女の顔を見て話しつつ、視線はしっかりとその豊かな胸のふくらみをとらえていた。
少林拳をはじめ、中国武術には八方目(はっぽうもく)。という言葉がある。
これは目を動かさず、一点を見つめたままで視界全体にあるすべてを視ることができる技であり、極めれば文字通り左右や背後。四方八方にいる者の動きすら見抜けるという。
この男はそれを視姦目的に使っているのだ。
賀茂秋芳。そういう男である。
(やっぱりでかい胸は最高だな。男は筋肉、女はおっぱい。この世には貧乳好きなんてのがいるそうだが、そんな奴らの気が知れないね)
「武術っていっぱいあるわよね。なんか魔術に似てるわ。そういうのって他の流派の良い所だけあつめて一つにしようとかしないの? 陰陽術みたいに」
こんにちに伝わる陰陽術。帝国式・汎式陰陽術といった甲種呪術は土御門夜光が戦前に軍部からの要請を受けて作り上げた呪術体系であり、本来の陰陽道だけでなく、修験道や密教系、神道系――。
その他、日本に存在するありとあらゆる呪術が一つに統合されたものであり、それを成した土御門夜光その人が陰陽師であったため、魔術や呪術の類といえば陰陽術。
というのが現代日本では常識だ。
「あるよ、そういう流派。総合格闘技とか呼ばれてるやつ。でもその総合格闘技を掲げる団体自体がこれまたいっぱいあるんだよね」
「あらら」
「まぁ、たくさんのものを一つにまとめるのは大変だし、誰もが夜光さんみたいなカリスマと能力持ってるわけじゃないからね。それに強さっていうのは結局、武術の種類や流派なんかじゃなく、個人に宿るものだから」
武術と魔術は似ている。なかなか鋭い発言をする少女だ。そう思い、あらためて少女を観察する。
「陰陽術って、君ひょっとして陰陽塾に通ってたりする? ここの近くだよね。陰陽塾」
「ええそうよ! あたし倉橋京子。陰陽塾の生徒です」
誇らしげに胸をはり、自己紹介する少女――倉橋京子。
「それは奇遇だな! 実は俺も明日からそこに通うことになってるんだ。俺の名は――」
「あなたも入塾正なのっ!?」
突然声を荒げ、苦虫を噛み潰したような顔になる京子を見て。
(ふむ、美人てのは歪んだ顔も綺麗なもんだ)
などと思いつつ。
「あー、いきなりどうしたの、そんな顔をして? あなた『も』って、どういう意味?」
「……この時期に入塾なんておかしくないですか?」
秋芳の問いには答えず、ジト目で逆に問いかけてくる。
入塾する時期におかしいおかしくないなんてのがあるのだろうか? 『季節はずれの転校生』なんてフレーズがあるが、ちょうどそんな時期に重なったのか?
自分もあんがい世事にうとい。だが陰陽塾への入塾は正規の手続きをして完了しているのだ。やましいことはない。
「ええと、なんだ。俺は……」
秋芳は周りの空気の変化を敏感に察した。
おかしい。
なにかが変わった。
気づかないうちに、なにかが変わった。
「なんですか「俺は」なんですか?」
「なぁ、陰陽塾のお嬢さん。気づかないか?」
「はぁ? なにをです。ごまかさないで――」
「カラスの鳴き声がしない」
「え? あ!」
けたたましく鳴いていたカラスたちの鳴き声がまったくしない。
いや、そればかりか人の気配、喧噪、騒音。そういった人いきれすらもまったく感じられない。
いくら朝早とはいえ、これはおかしい。
さらに空気の流れ、それ自体すら止まったかのよう。
そうだ。空気が流れていない。
ドロリとした蒸し暑い大気があたりを支配している。
広い公園の中だというのに、まるで密閉された空間の中に閉じ込められているような、息苦しい感 覚。
霊的な抵抗力のない普通の人間なら、ただそこにいるだけで疲労してしまう。そんな類のいやな気が充満している。
「こ、これって、異界化してる!? 霊的災害。フェーズ2?」
(たしかに異界化してるな。それもなんの前兆もなく、急にだ。これはちと厄介かもな)
「ねぇ、外に出てみましょう。……出られたら、だけど」
「そうだな試しに行ってみるか」
とりあえず最寄りの出口。原宿駅側に行ってみる。
舗装された道を二人して進む。が、歩けど歩けど距離が縮まない。
遠くに見える景色がいっこうに近づいてこない。
「まいったわね。あたしたち、完全に捕われちゃってる。ねぇ、やみくもに動きまわるのはよしましょう。あたし風水についてもそれなりに勉強してるつもりだから、なんとか結界の格か、ほころびを見つけ出してみるわ」
周囲の気の流れから空間や時間の法則を読み取り、干渉する。
それが風水だ。
結界を構成する核となる物を排除することができれば、結界自体が消滅するし、外界との『穴を』見つけることができれば、そこから外に出られる。
「羅盤や魯班尺もなしにできるのか?」
「ダメもとでやってみるわ。あたし気を『詠む』の得意だから」
「そうか。じゃあ頼む」
「ええ、頼まれてあげるわ」
天下の陰陽塾塾生。その実力はどの程度のものか、お手並み拝見といこう。
そう決めて京子の所作に注目する。
雨に濡れていない地面に拾った小枝で円を描き、その中央に立ち、静かに瞑想を始める。
(ほう、地面に描いた円陣を羅盤。自らをその針に見立てて即席の風水羅盤を作るなんて、やるじゃないか。風水だけでなく厭魅の才もあると見た)
厭魅や厭勝と呼ばれる呪術がある。
類似したものはお互いに影響しあい、一つのものに起こったものは、似たもう一つにも起こる。
同じものから分離したものは、性質を共用する。
そのような法則を持った呪術だ。
ただ真似をすればいいというものではない。
なにかとなにかを見立てる発想力。
それによりなにができるかを正確にイメージする想像力。
そしてそれを実行する呪力。
それらが合わさって始めて効果を発揮するのだ。
(まだ若いのに大したものだ。胸もでかいしな。うん、たいした巨乳だ。実にけしからん)
キッ!
よこしまな想いを抱いた瞬間、京子が鋭い視線で秋芳を睨みつける。
「たった今、あなたから邪気を感じたんですけど」
「いやぁ、気のせいだろう。続けて続けて」
「まったく、本当かしら……」
ブツブツ言いつつ、瞳を閉じ、ふたたび集中を始める京子。涼しい顔でそれを見つめる秋芳。
(どうも入塾云々のところから妙に態度がキツくなったな。それにしても感の良い娘だ。こっちのスケベ心をすぐに見抜きやがった。陰陽塾の生徒はみんな切れ者なのか、彼女が特別優秀なのか。……ん? まてよ、倉橋京子。倉橋……)
陰陽道の名家にして現在最も権勢を誇っているのが倉橋家だ。陰陽塾塾長の倉橋美代も、陰陽庁長官兼祓魔局局長であり、当代最高とされる陰陽師、倉橋源司もまた名門倉橋家の人間である。
ひょっとしたらこの娘はそんな倉橋家のご令嬢では?
そんなことを考えつつ、あらためて探りの術に集中する京子の姿を観察する。
「ん、もうちょっと……、見えてきたわ。あと少しでハッキリわかりそう……」
と、その時。どこからともなく声が聞こえてきた。
「お~い、君たち」
「え、ええ?」
「お~い、ちょ、ちょっと」
遠くから息も絶え絶えに駆けつけて来たのはヨレヨレのスーツを着た、サラリーマンふうの中年男だった。
「ハァハァ、や、やっと人に会えた。さっきから変なんだよ、この公園。外に出ようと思っても出られないんだ。本当だよ!」
惑乱するサラリーマンふうの中年男――名を佐藤といって、昨夜は飲みすぎて公園のベンチを寝床に一晩明かしたらしい――が言うには、公園から出られない。
道を進めば行けども行けども道が続き、林をつっきろうとしても途中で見えない壁のようなものが進路を塞ぎ、外に出られないらしい。
「嘘じゃあないよ! 本当だよ。嘘だと思うなら君たちも一緒に来てくれよ、このおかしな現象をその目で見て確かめてくれ」
「落ち着いてください。あたしたちは別に疑ってなんかいません。佐藤さんでしたっけ、一緒に出口を探しましょう」
「ああ! そうしてくれると助かるよ。こんなおかしな場所で一人きりとか、心細くてね」
「佐藤さん。公園から出られないこと以外でなにかおかしなことはありませんでしたか? 見なれない物。生き物とかを目にしたとか」
「う~ん、そういえばあっちにヘンテコな看板があったよ。漢字なのかなんなのか、よくわからない文字がビッシリと書かれてたね」
佐藤が自分の来た方向を指差す。
「そっちは……。間違いないわ。まだ途中だったけど、あたしが感じたのも向こうからだったわ」
「よし、じゃあ行ってみるか」
暑く澱んだ空気の中、ぬかるみに足を取られながら、三人で進むことにした。
「へぇ、じゃあ君たちは陰陽塾の塾生さんかい! 良かった。ならこんな霊災? 結界? 異界化? とにかくなんでもいい。こんなの早く解決してくれるよね?」
「ええ、まかせてください。陰陽塾の名誉にかけて、かならずやこの怪異を鎮めてみせます」
背筋を伸ばしてそう宣言する京子の姿は実に優等生然としていた。
元来この手の「いい子ちゃん」タイプは好きになれない秋芳であったが、不思議と嫌悪感は湧いてこない。
「もうすぐだ。この広場を抜けたところで見たんだ」
三つの噴水が涼を演出し、夜になればライトアップされる中央広場。
ふだんならば都会の喧騒を忘れさせてくれる、のんびりとした園内だが、今は不気味な静寂と異様な熱気に支配されている。
「……ふぅ」
「だいじょうぶか? さっきの術でかなり消耗してるんじゃないか?」
「平気よ、あのくらい。でもここ歩きにくいったらないわ。もう足が泥だらけよ。て、あなたはあんまり汚れてないわね」
「汚れないように歩いてるからね」
中国武術に軽功という言葉がある。
軽身功とも呼ばれるこの技術を身につければ身体を軽くし、素早く動けるようになり、達人ともなれば木の枝や草葉を足がかりに空高く跳躍したり、水面を走ることすらできるという。
ぬかるみの中、靴を汚さずに歩く程度の心得が秋芳にはあった。
「二人でなにを話してるんだい?」
「いやぁ、泥に足を取られて歩きにくいって話しをしてたんです。佐藤さんは革靴で歩きにくくないですか?」
「もう慣れっこだよ。ぼくみたいなサラリーマンにとっちゃあね。……おかしいな、たしかこのあたりで見かけたんだけど」
キョロキョロとあたりを見まわす佐藤。
「ごめんよ、ちょっと道をまちがえたみたいだ。ええと、向こうだったかな? こんどこそちゃんと案内するからついて来てくれ」
来た方向とは別の道に進む。
歩き続ける佐藤の後ろ姿を見ながら京子が小声で問いかける。
(……ねぇ、あなた気づいた?)
(ああ、奴さんの靴。きれいなもんだ)
靴もソックスも泥で汚れている京子とミッドソール部分に汚れが目立つ秋芳に対して、佐藤の革靴には泥がまったくついていなかった。
それだけではない。
佐藤の歩いた場所には足跡がまったくついていないのだ。
(彼、浮いてない? 浮いてるわよね)
(そうだな。浮遊してるな)
よくよく見れば歩き方もおかしい。普通の人間が普通に歩けば、どうしても頭が上下するはずだが、それもない。ただたんに両足を交互前後に動かしているだけのように見える。
それでいて前に進んでいる。
(人じゃ、ない……?)
「おや? また二人してコソコソ内緒話かい?」
「ええ、あなたの足がまったく汚れていない。宙に浮いてる。て話しをしてたんです。佐藤さん、あなた人ですか妖怪ですか? 俺たちに仇なす存在だったりします?」
「ちょ、ちょっとあなた!?」
臆面もない秋芳の態度に思わず狼狽する京子。
「な~んだ、もう気づいちゃったのかい? もうちょっと歩きまわって疲れさせてよろうと思ってたのに」
佐藤と名乗ったモノの姿がみるみる変わっていく。
口が耳まで裂け、とがった牙が剥き出しになり、ナイフのように長く鋭い鉤爪が両手に伸びそろう。
腰から下は青白い炎につつまれ、燃えている。
「そんな!? 動的霊災、フェーズ3!」
「見習いとはいえ陰陽師。その血肉、美味しくいただかせてもらうよ。男の方は骨と筋ばっかで不味そうだけど、女のほうは肉づきが良くてほんとうに美味しそうだ」
顔全体をひと舐めできるほどの長くとがった舌でじゅるりと舌なめずりし、ゆっくりと近づいてくる。
「下がってて! こいつはあたしが鎮めるわ。式神召喚! 喼急如(オー)律令(ダー)!」
言うと同時にどこから取り出したか、二枚の札。式符を放つ。
いったい軽装のスポーツウェアのどこに札をしまっていたのか?
符術をたしなむ者には覚られずに大量の札を持ち歩くことが求められる。現代の陰陽師には隠匿のスキルもまた必須なのだ。
京子を護るように二体の式神が姿を現す。
ロボットを彷彿とさせるメカメカしいデザインの鎧武者で、濃い桜色の方が太刀を、黒色の方が薙刀を手にしている。
いずれも市販されている人造式「モデルG2・夜叉」に京子が独自の改良を加えた護法式であり、名をそれぞれ白(はく)桜(おう)、黒楓(こくふう)と言う。
「おお怖い! ならこれならどうだい?」
下半身の炎がひときわ大きく燃え盛り爆ぜたかと思うと、そこにはゆうに二十体を超える佐藤の姿があった。
「「「どうだい、こちらも数を増やしたよ」」」
「「「人数はこっちの方が上だよ」」」
「「「さぁ、八つ裂きにしてあげよう」」」
半円状に囲んで襲いかかる佐藤の群れに対し、薙刀を持った黒楓を前面に出し、リーチの長さをいかしたなぎ払い攻撃で応戦。かたわらに配置した白桜はもっぱら術者である京子の守護を担当し、黒楓の攻撃をかいくぐり、接近してきた佐藤を斬り伏せている。
(上手いな)
言われた通り下がって観戦していた秋芳は、京子の使役ぶりに素直に感心する。
簡易式とちがい、護法式というのは姿を維持させるだけでも、術者はそれなりの呪力を消費するというのに、この倉橋京子という娘はそれを二体同時に出現させ、たくみに操作しているのだ。
そう、実にたくみだ。
もっぱら攻めるのを黒楓。守るのを白桜が担当しているが、敵の布陣に隙が生じれば両方とも積極的に攻め、逆に敵の攻撃が激しさを増す時は両方とも守備に徹する攻防一体のコンビネーション。
切り替えが上手いのだ。
見事としか言いようのない式神の使役ぶりだが、敵の数はいっこうに減らない。
数体を仕留め、数が減ってきたと思ったら、またいつの間にか増えているのだ。
(これはあれだな「本物を倒さなければ分身がいつまでも増え続ける」てパターンだな。だとすると他とちがい汚れてたり、傷があったり、影のあるやつが本物ってのが定番なんだが……)
目を凝らし佐藤の群れを観察する。
いた。
一体だけ群れの後ろで動きまわるだけで前に出ず、数が減っては炎を震わし、増殖をくり返しているが、そいつだけが他とちがい地面に影を落としている。
(お約束だな)
思わず苦笑を浮かべる。
しかし京子はそのことに気づいているのか?
真剣な面立ちで式をあやつるその表情からはうかがい知れない。
少し言葉を交わしただけだが、プライドの高い娘だということはわかる。へたに手を出して不興を買うのもいやだ。
美人には好かれたいものである。
シュボボッ!
佐藤本体の炎が大きく震えたかと思うと、数個の火球が出現し、京子を狙い飛んでゆく。
「五行の理を以て、清涼なる水気、不浄な火気を祓いたまえ! 水剋火! 喼急如律令!」
だがそれらはみな京子の放った水行符により雲散霧消する。
(お見事! 式を操りながら自身も術を行使する。陰陽塾の生徒のレベルは俺の予想以上らしい。さて、お次は場に満ちた水気を利用して水生木。蔦で絡め取るか、木の枝で刺し貫くか?)
秋芳がそんなことを考えていると、白桜・黒楓が突然式符にもどった。
よろめき倒れそうになる京子。
いそいで駆けつけ抱きとめる。呼吸が荒く、全身から滝のように汗を流している。
「おまえ、こんなに消耗してたのか? 無理しやがって」
表情ひとつ変えずに式神を使役していたので気づかなかったが、かなり無茶をしていたらしい。だが考えてみれば当然か。並の人間なら居るだけで体力を奪われるような陰気あふれる蒸し暑い結界内で、歩き続け、術の行使を続けていたのだ。
「守らないと……、あたしは、倉橋の、人間だもの……」
「守ったさ、もうじゅうぶんに。守られてたおかげで俺は相手の特徴を知ることができた。助かったよ、だから少しお休み」
優しく声をかけ、両手で抱き上げ、即座に駆け出す。
人を一人抱きかかえているとは思えない速さで駆ける秋芳の後ろ姿を一瞬あっけにとられて見ていた佐藤たちだが。
「「「逃がすか!」」」」
「「「追え!」」」
すぐに追走を始める。
(これ一度やってみたかったんだよね。女の子の半魚人持ち)
俗にお姫様抱っこと呼ばれる抱き上げ方を、秋芳はそう呼んでいる。
『大アマゾンの半魚人』という古い怪奇映画の中で、半魚人がヒロインをそのように横抱きにするシーンがあるからだ。
中央広場まで戻り、ベンチにそっと京子を寝かすと、その上に一枚の札を置き、おもむろに呪文を唱え始めた。
「我祈願、北斗神君。神兵利器不侵入」
我は北斗の神に祈り願う。いかなる凶器も傷つけることができぬよう。
「我祈願、五路神。万怪塞入」
我は五路神に祈り願う。あやかしが入らぬことを。
人の生死を司る北斗の神。それと道の神にそれぞれ祈願し、京子の身に危害がおよばぬよう二重の防衛術を張る。
長くはもたないが、しばらくは外部からの攻撃は防ぐことができる。
「「「逃がさぬ」」」
「「「追いついたぁ」」」
「「「あきらめろぉぉぉ」」」
術の完成を待っていたかのようなタイミングで佐藤の群れが追いつき、秋芳を取り囲む。
その数はさらに増え、さっきの倍はいる。
「目をつけた獲物を歩きまわして弱らせようとしたり、数で翻弄し、ことさら人を嬲る足のない幽鬼。おまえ纐纈鬼だろう」
纐纈鬼。
生前に人の生き血を搾り、啜り、貪るようなあこぎな商売をして、恨まれて死んだ者が
この妖怪になるという。なぜ足がないかというと生前お金に貪欲だった罰として「お足」を閻魔大王に取られたからだという。
熊本県八代市の松井文庫が所蔵する江戸時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にそのような記述がある。
ちなみに「お足」とは「お銭」を意味する江戸時代の俗語で、纐纈鬼とは江戸時代の言葉遊びから生まれた典型的な創作妖怪だ。霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
こんな妖怪がいるんじゃないか?
あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。
「このクソ暑いのにそろいもそろってメラメラ燃えてんじゃねえよ。我祈願、顕聖二郎真君。求借三尖刀!」
素早く導引を結びながら口訣を唱えると、秋芳の手に切っ先が三つに分かれた槍。三尖刀が現れる。
数で勝る分をリーチの長さでうめて対抗する。先ほどの京子の戦法と同じだ。
ただちがうのは秋芳が三尖刀を一振りするたびに数体の佐藤がまとめて消滅すること。
増殖する数よりも消滅する数の方が上なのだ。
(水・克・火!)
脳内であふれる水が火をかき消す様をイメージして武器を振るう。
水神である顕聖二郎真君から借りたこの三尖刀には水行の力が込められている。
陰火をまとった纐纈鬼佐藤には効果てきめんだ。
最後に残った本体にとどめの一撃。
あまりに急な展開に断末魔の叫びをあげることすらなく、驚きの表情を浮かべたまま消滅した。
涼しげな風が流れだす。結界が解けたのだ。
特に核のような物がなければ術者を倒せば結界も解ける。
残心をおこたわず周囲の様子を見るが、もうあやかしの気配は感じられない。
「さて、どうしたものか……」
ベンチに横たわる京子。
疲れているのだから自然に目が覚めるまでそっとしておきたい。しかし起きるまでずっとそばに居るというのも照れくさいし、会ったばかりの男に寝顔を見続けられた。と後で知れば乙女としては良い気がしないのではないか?
かといってこのまま放置というのは論外だ。
家人に迎えに来てもらうよう、携帯電話かなにか身元のわかる物でもあるか・・・。
いやいや、意識のない人の服に手を入れている現場を他人に見られたらどうする?
瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を正さずという言葉があるではないか・・・
「ええい、なにも難しく考えるこたぁないか。ここから陰陽塾まですぐ近くじゃないか。おぶって行こう」
とはいえ人の目がある。男に抱きかかえられている様を人に見られるのは嫌だろう。
「人を一人かかえて穏形するのは始めてだが、ま、なんとかなるだろう」
隠形。
物理的に姿を隠すのみならず、気配を絶ち、その場に居ながらにして他者にその存在を感知させない術だ。
秋芳の学んだ呪禁の術では、これを禁感功と呼ぶ。
「……で、その倉橋のお嬢さんを無事に送って行ったわけ?」
「ああ、さすがは天下の陰陽塾だ。入り口に二体の機甲式が配置されててな、贅沢なこった」
横浜港に数ある倉庫のいっかく。秋芳たちが寝床にしている場所だ。
明日からは陰陽塾男子寮に移るので荷物の類はダンボール箱にまとめられ、ずいぶんと殺風景な中、 秋芳と笑狸。二人して大皿に盛ったナポリタンをつついている。
意外に知られていないがナポリタン発祥の地は横浜だ。
今夜が横浜最後の夜ということで、別れを惜しみ、こうして横浜名物を賞味している。
「壁や天井。地下にいたるまで大小無数の防御結界がほどこされていてな、あれをくぐるのはちょいと難儀だろうな」
「秋芳の壁抜けでも?」
禁壁則不能遮。
壁を禁ずれば、すなわち遮ることあたわず。
そのようなものが呪禁の術にはあるのだ。
「う~ん、壁抜け自体はできても気づかれるだろうな。穏形しながらあの結界を抜けるのはできないな」
「じゃあ遅刻厳禁だね。きちんと正門から入らなくちゃ」
「そうだな。さすがに時を禁じる。てのは今の俺には無理だ」
「ところでその倉橋の京子お嬢さんだけど、秋芳とのフラグ。立っちゃった?」
「おお、立っちゃったんじゃねえの? なんせ半魚人持ちしたわけだしな。俺の人生で始めてだぜ、あれをしたのは」
「秋芳ひどい! ボクにもお姫様抱っこしたの忘れたの?」
「お姫様抱っこ言うな。半魚人持ちだ。……だいたいあの時おまえ狸だったじゃねぇか。獣を抱きかかえるのと、人を抱きかかえるのじゃ全然ちがう」
「それじゃあ今から抱いてよ。ボク、秋芳にお姫様抱っこされたいな~♪」
「嫌だ。男を抱きかかえて喜ぶ趣味は俺にはない」
キッパリと、そう断言する。
「じゃあ秋芳の好みの女の子に化けてあげる」
「なにに化けようがおまえはおまえだろうが。やめろ」
「誰がいい? イリーナ・シェイク? ジゼル・ブンチェン? シェリル・コール? 佐倉綾音?」
「最後の一人だけジャンルちがくねぇか? つうか化けるな」
「ちがくないよ、みんなおっぱい大きいじゃない」
「おお、そうだな。ひょっとしたら日本人の佐倉が一番でかい乳してるのかもな」
「秋芳おっぱい大好きだもんね。 そうだ、おっぱい三つのあやねるになってあげる」
「なにそれ『トータル・リコール』のミュータント娼婦? ますますいらんわ」
「じゃあ、いくよ~。変――」
「禁術則不能発、疾く!」
「ぶはっ!?」
術を禁ずれば、すなわち発することあたわず。
発動しようとした変化の術が強制的に禁じられる。
その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。
「明日からは朝型の生活だからな、もう寝るぞ。今夜は酒もなしだ」
「ふぁ~い」
自分には一生涯縁がないと思っていた学園生活が始まる。
楽しみだ。
ほんとうに、楽しみだ――。
入塾
白亜の塔。
そんな言葉がよく似合う、大きなビルが目の前にそびえ立っている。
「でっか! 他の建物が小さく見えるよ」
「そうだな。陰陽塾とかいうからどんな古色蒼然とした学舎かと思ったら、こんなでかいハイカラな建物だとは思わなかったぜ」
東京渋谷区某所。陰陽塾を前にしてそんな言葉を交わすのは秋芳(あきよし)と笑狸の二人だ。
僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年、賀茂秋芳。先祖代々呪禁師を生業にしていた連(むらじ)家の者だが、その類まれな呪力を買われ、賀茂家の養子となり、賀茂のために働いている。
少年のように凛々しい顔に少女のような愛嬌のある笑みを浮かべている笑狸。男の子のような女の子のような。曖昧な、むじなのごとき容姿をしている。
秋芳の使役式であり、その正体は化け狸だ。
「ここって去年できたばかりの新塾舎で、中身も最新設備がたくさんあるって案内書に書いてあったよね」
「屋上の祭壇に地下の呪練場。他にも設備が充実していて、いたれりつくせりの学び舎みたいだな」
土御門夜光の転生者と思われる土御門夏目。彼を監視し、場合によっては身柄を確保するため、夏目の通うこの陰陽塾に今日から通うことになった。
そのついでに入塾期間中に甲種呪術の資格も取り、無資格の陰陽師稼業ともおさらばする予定だ。
玄関で二体の狛犬の出迎えを受ける。
「あ、これが昨日言ってた機甲式の…」
『さよう』
『我らは高等人造式、アルファとオメガ』
『開塾以来その番を司っておる』
『己が名を名乗るがよい』
「賀茂秋芳」
「笑狸!」
『賀茂秋芳とその使役式、笑狸。…よろしい。声紋と霊気を確認・登録した』
『賀茂秋芳。昨日は我が陰陽塾の生徒が世話になった。礼を言う』
『我らは汝らを歓迎する』
『学友と切磋琢磨し、良き陰陽師となるべく精進するがよい』
『まずは最上階。塾長室へ向かうがよい』
狛犬たちの間を通り抜け、進むと、広々としたホールに出る。
正面にある鉄骨造りの大時計が威容を誇り、所々に植えられた竹が清冽な雰囲気を醸し出している。
竹は古来より縁起の良い植物とされ、そのまっすぐに伸びる姿から高潔さや清浄。人生の学びや成長の象徴とされた。学び舎にはピッタリの植物といえる。
「……ぷぷぷ、アルファとオメガだってさ。狛犬なのに、和風なのに。素直に阿吽とか名乗ればいいのに」
「まぁ『急急如律令』を『order』なんて読ませる、汎式陰陽術全盛の世の中だからな」
言葉に宿る霊的な力を言霊(言魂)という。
発した言葉どおりの結果を、現実に現す力があるとされた。
言葉そのものに意味があり、言葉を呪として用い、その霊的な力を利用し言葉で対象を縛るのもまた陰陽術の一つだ。
良い意味の言葉を発すれば良い事が起こり、悪い意味の言葉を発すると悪い事が起こるとされている。
急急如律令。
「急々に律令の如く行なえ」という意味を持つ陰陽師の呪文の結び言葉が「order」という英語なのはいかにもそぐわない。ふさわしくないよう思える。
しかし言葉に意味を結びつけたのが人間なら、それを解き。また新たに結ぶのもまた人間だ。
土御門夜光はそれをおこなった。
過去の陰陽道だけでなく、修験道や密教系、神道系。ありとあらゆる呪術が統合され作られた帝式陰陽術だが、さらには東洋魔術と西洋魔術の融合も視野に入れていたのではないか? orderという語をもちいるのはその布石ではないか?
そんなことを考えながらエレベーターで最上階まで上がり、長い廊下を歩いているうちに塾長室の前まで来た。
扉を叩こうとする秋芳に笑狸が小声で問いかける。
「秋芳、何回ノックするつもり?」
「四回だ。二回だとトイレ、三回だと親しい相手宅への訪問になっちまうからな」
「ちぇ、知ってたのか」
ドアをノックする回数にもプロトコールマナーと呼ばれる国際標準マナーがあり、回数が正式に定められている。
このような規則・決まりも、また呪)の一つといえよう。
「開いてますよ」
!?
突然足元から声がかかる。おどろいて下を見ると一匹の三毛猫と目が合う。
「お入りなさいな」
猫が人の言葉をしゃべっている。
いつからそこに?
あわてて周囲に気をくばる。
犬や猫がしゃべったかのように見せて、実は物陰からこっそり人が声をあてていた。
魔術・呪術にはそのような〝虚の術〟も存在するからだ。
「遠慮せずにどうぞ」
たしかに猫の口から人の言葉が発せられている。
「……失礼します」
賀茂秋芳たる者が猫の存在に気づけなかったことに内心舌打ちしつつ、扉を開けて中に入る。
(しかたないよ、秋芳。猫って生まれついての穏形術の達人みたいなものだもの。ましてやこの猫、普通の猫なんかじゃないっぽいし)
(油断してた。俺もまだまだ修行がたりないな)
陰陽塾塾長室。
象牙色の壁と天井。琥珀色をした木目調の床には臙脂色の絨毯が敷かれている。大きな本棚が壁を占め、大量の書物が収められ、まるで書庫のようだ。
アンティーク調の趣味の良い調度品の数々が目に優しい。
殺風景だった外の廊下とは雰囲気がかなり違う。
部屋はその人を映す鏡だ。たとえ公的な仕事部屋であっても、そこを使う人の性格というものが現れる。
このゆったりとして落ちついた空気が、この部屋の主の人となりをものがたっているようだ。
部屋の奥。大きな机の向こう側の椅子に小柄な老女が座っている。
「ようこそ、お待ちしてましたよ。はじめまして、塾長の倉橋美代です」
ニャー。
秋芳の脇をトトト……、とすり抜け、美代の膝の上に乗る三毛猫。
(あれは猫だが猫ではない。はて、使役式か人造式のどちらだろう?)
みごとな穏形であざむいてくれた猫の正体を知りたい欲求を抑えつつ、塾長・倉橋美代に軽く会釈をする。
「はじめまして、賀茂秋芳です」
「こんにちは、秋芳の伙伴の笑狸です」
軽く挨拶をしたあと、入塾についての事務的な会話をする。
「ところで、きのうは孫を助けてくれたそうですね。ありがとう」
やはりあの京子は倉橋の京子だったか。
「助けたというほどでは…。少し気分が悪そうでしたのでここまで送っただけです」
「そんなふうに謙遜なさらずよいのですよ、あの子。とても感謝してました。…あなた、あの子にどんな印象を受けました?」
おっぱいが大きかったですね。
そんなことを口にできるわけがない。
「とても聡明そうだと思いました。あと――」
おっぱいが大きかったですね。
「責任感が強く、仲間思い。少し話をしただけですが、言葉の端々からそんな思いが伝わってきましたね。それと――」
おっぱいが大きかったですね。
「ここに通ってると教えてくれたので陰陽術についての話をしたのですが、たいへん物知りでおどろきました。学校の成績も優秀な、いわゆる優等生。委員長タイプの人かと」
なによりおっぱいが大きいですね。
「ああ、それと声。声に力があって綺麗で、心の底から美声だと思いましたね」
これは本当だ。
もちろんたった今、口に出して言った数々の言葉も、嘘偽りない京子に対する評価だが、巨乳と美声の持ち主。というのが秋芳の京子に対する第一印象だ。
「フフフ、ありがとう。そんなふうに孫を褒められて嬉しくならない祖母はいませんよ」
良い歳の取り方をしている人だ。コロコロと笑うその表情を見ていると、そんな思いが浮かぶ。
「お二人とも、あの子と仲良くしてくださいね」
二人とも。美代はたしかにそう口にした。使役式である笑狸を一人の存在として認めているのだ。
陰陽師の中にはたとえ鬼神や霊獣のような出自の使役式でさえ、ただの道具としてしか見ない者もいるが、彼女はそのようなタイプではないらしい。
「ここは一般の学校とは違って、能力のあるものは勝ち残り、劣っているものは去っていく。優勝劣敗の世界です」
それはそうだろう。内裏にこもって卜占や暦を作っていた昔とは違う。
現代の陰陽師は東京を中心に多発する霊災を鎮めるのが主な仕事。つねに死と隣り合わせの危険な職業であり、ここはそんな職に就く者を養成する、実力主義の学び舎だ。
「それが陰陽塾の方針です。けれども、陰陽塾はただの陰陽師を養成するだけの機関ではないの」
倉橋美代の瞳が秋芳をまっすぐに見すえる。
「お二人は天海僧正が江戸に施した呪についてどう思います?」
南光坊天海。徳川家康の参謀として江戸の街を京の都に匹敵する風水都市に造り上げた高僧。陰陽道や風水、密教といった呪術の達人だ。
風水において土地が繁栄するためには四神相応の地であることが求められる。
東に青龍の宿る流水。
西に白虎の宿る大道。
南に朱雀の宿る湖沼。
北に玄武の宿る丘陵。
中国の長安、洛陽。日本の平安京などはこれらがそろった理想的な土地といえる。
では江戸はというと――。
「……凄い。のひと言ですね。言霊の呪による見立てをもちいて、あそこまで堅固な結界を築くだなんて」
「え~と、京都の地相を江戸に再現しちゃったんだっけ?」
江戸は本来なら四神相応の地ではない。
むしろ風水的には下に属する。
北には山と呼ばれるほどの丘陵はなかった。それを天海は麹町台地から望む富士山を「北」に見立てることにより、日本最高の霊山を北の玄武に仕上げた。
さらに新たに造られた寛永寺に東叡寺という山号をつけることで「東の比叡山」として鬼門封じの寺社に仕上げたり、不忍池を琵琶湖に見立てるため、竹生島になぞらえた中之島をつくり、弁財天を勧請して祀るなど、京の地相を江戸という未開の地に再現してしまったのだ。
その他にも大小無数の呪的防御陣を敷くことにより、江戸は強大な魔法陣都市として二百六十年の長きにわたって栄えさせた――。
これらのことは現代に生きる陰陽師たちにとって常識だ。
「では天海がそうまでして護ろうとしたものは、いったいなんだと思います? 徳川の家かしら? それとも江戸の町?」
「え?」
この質問は秋芳にとって盲点だった。
はて、改めてそう問われると、どちらだろう?
会津に生まれ、比叡山延暦寺などで修行をつんだという南光坊天海。
三河の国の領主だった徳川家康。
どちらも江戸の地に縁もゆかりもない。ことさら江戸の地に愛着はないはずだ。ならば…。
「それはやはり、徳川家では?」
「ボクは江戸の町だと思うなぁ」
二人同時に別々の答えが出る。
「そうですね。彼があらゆる呪を使ってこの地に敷いた方陣はすべて徳川の権威と繁栄を護るためのもの。ですが結果的には長い時代に渡って、江戸、東京。さらには、この日本という国を護ることになったのも、また事実です。ひょっとしたら、そこまで計算していたのかも」
この人はなにを言いたいのだろう? 黙って続きを聞く。
「風水など無意味。という考えの人もいます。そういう人が言うには『風水に本当に力があるのなら、最初にそれをもちいた王朝が今も滅びずに残ってなければおかしい』なんですって」
なるほど、たしかにそうだ。一理ある。
「風水をもちいた中国の歴代の王朝。高い文化を誇った唐も、強大な力を持った漢もたしかに滅びました。けれども中国は滅んではいません。日本もそう。京都は応仁の乱や戊辰戦争で、江戸・東京は明暦の大火、関東大震災、東京大空襲でなんども焼け野原になりました。けれどもそのたびに蘇り、こんにちの繁栄を築いています」
ひとつの国家、ひとつの王朝の存続よりも、さらに広く長い視野で見たらそう見える。
「それが、風水の持つ真の力のおかげだと?」
「さぁ、それはどうでしょう? そうかも知れないわね。けれども私は風水に力があるのではなく、風水を信じる人の力がそうさせるのでは? と思ってるわ」
なんとなく、この人の言わんとしていることが伝わってきた。
「陰陽師と陰陽術もそう。どんなに強い力や優れた技でも、そこに人の想いがなければなんの意味もないわ。ここに通う生徒のみんなには、なによりも人であって欲しいの」
陰陽術は霊災を鎮めるだけの技術ではない。
質量保存の法則を無視して無から有を生み出し、離れた場所に居る相手を害することもでき、鬼神や精霊を意のままにあやつることもできる、強力な力だ。
呪術になじみのない一般の人々にとって、それは脅威であり恐怖だ。
そして陰陽塾に入った全員がプロの陰陽師になれるわけだはない。
むしろ途中で退塾する者のほうが多い。
そんなプロになれなかった「落ちこぼれ」たちの使う陰陽術でさえ、力を持たない普通の人たちからすれば、前述のとおり脅威であり恐怖である異能の力だ。
中途半端に力のみを身につけた輩が巷にあふれたらどうなるか?
呪術による犯罪は後を絶たず、世間の陰陽師に対する偏見は悪くなる一方だろう。
そのようなことがないように陰陽塾では精神修養も大事にしたい。塾長はそう言いたいのだと、秋芳は解釈した。
「はい、わかります。しかし……、まるで優れた陰陽師は人ではなくなる、みたいな言いかたですね」
「それ、かなり鋭いわね秋芳さん。たとえ本人にそのつもりがなくても、人ならざる存在に祭り上げようとする人たちが大勢いれば、そういうふうに『成って』しまうことだってありえるわ」
「ああ…、土御門夜光と、夜光信者のことですね」
土御門夜光。
太平洋戦争の狂乱のさなかに現れた稀代の天才呪術師は軍部からの要請に応え、現代陰陽術の基となる帝国式陰陽術を産み出した。
しかしその功績の一方で敗戦直前に軍に命じられた呪術儀式に失敗。その影響で東京は日本でも一、二を争う霊災多発地帯となってしまった。
「ええ、そう。彼だって私たちと同じ、笑いもすれば泣きもする、人格を持った普通の人間だったんですよ。…まだ私がほんの子どもの頃ですけど、よく将棋を指しました」
「へぇ、彼は強かったんですか、将棋?」
「いいえ、下手でした。それなのに何度も何度も勝負を挑んで、負けたら拗ねるんですよ。困った人でしたよ」
遠い目というのはこういう目なのか、当時を懐かしむ美代の瞳は秋芳らの知らない世界を映していた。
「……彼だって、夜光だって人間だった。でもそれがわからない人たちが盲目的に祭りあげ、自分たちにとって都合のいい存在にしようとしてる」
「迷惑な話ですね」
「ええ、ほんとうに――。イメージというのは一種の呪術。『呪』なの。噂だって同じ。心に作用し人を惑わす。いわば理論も効果も不確かな乙種呪術に入る呪。けれど強力な呪術というものはおしなべて乙種に分類されるもの。……賀茂家の方にはいまさらな講釈だったかしら?」
「いえ、勉強になります」
「ふふ、ありがとう。お二人はもう知ってますね? うちの夏目さんが夜光その人の生まれ変わりだという噂を」
土御門夏目。
土御門本家の次期当主にして天才と称えられ、その豊かな才能と見識は陰陽塾に通う塾生の中でもトップクラスの少年。
それもそのはず。彼こそが土御門夜光の生まれ変わりだからだ。
呪術界に身を置く者、関心のある者で、その噂を知らない者はいないだろう。
いたとしたらそれはよほど世事に疎いことになる。
(つーか、そいつをどうこうするのが、俺らの主な仕事なんだよな)
(秋芳ぜったい忘れそう。てか忘れてたでしょ?)
「夏目さんは塾内でも特別な関心を持たれているわ。けど変な色眼鏡で見ないであげてね」
「はい。お孫さんとも夏目さんとも、他の人とも。仲良く楽しく競っていきます」
「そうしてくれると嬉しいわ」
コンコン。
「塾長ー? 失礼しますー」
ノックの音の後に続いて妙なイントネーションの声が外からかかる。
「いい加減時間押してますけどー」
そう言って入ってきたのは背の高い、痩せぎすの男だった。
「あら、大友先生。ごめんなさい。今終わりましたよ」
「そら丁度よかった」
ハハハ、と笑うその姿を、失礼にならないよう得意の八方目――目を動かさず、一点を見つめたままで視界内を見わたす技――で顔を見ながら上から下まで観察する。
長く伸びてくしゃくしゃに乱れた髪。安っぽい眼鏡。ヨレヨレの背広。右膝から下が義足――それも海 賊映画に出てくるような古めかしい木製の棒――で杖をついている。
(こいつ、狼みたいだな)
飄々とした雰囲気の内に、こわい気を隠している。見た目はいかにも昼行燈のボンクラだが、なかなかどうして油断のできない相手だ。
「あ、すごい。その足、機関銃でも仕込んでるの?」
そんな思いを抱いた秋芳とは対照的に無邪気に声をかける笑狸。
「おおッ! アッハッハ、きみ鋭いなー。僕も陰陽師の端くれやさかいな。そらまぁ、いろいろと仕込んでるで。でもそこらへんは企業秘密や」
右足を上げてキャッキャとはしゃぐその姿はまるで小学生のようだ。
「こちら大友陣先生。あなたたちの担任です。こう見えて優秀な先生なのよ」
「ちょ、塾長『こう見えて』はないでしょー。まぁ、ええわ。とにかくそういうわけや、二人ともよろしゅうな。ほな、教室に案内するで」
教室。
「いやー、お待たせお待たせ。お待ちかねの転入生連れてきたで~! は~い♪ 二人ともあいさつあいさつ」
こういうのは最初が肝心だ。奇をてらわず伝えたいことを簡潔に述べる。
「賀茂秋芳。十七歳です」
ざわ… ざわ… ざわ…
「なんだよ~、また男かよ」「謎の美少女転入生とか期待してたのに・・・」「なんで野郎ばっか入塾してくんだよ」「しかもハゲじゃん」「今どきハゲキャラとかないわ~」「ハゲでキャラづけとか安易よねー」
(いやいや、ハゲじゃないからね、これ。剃ってるから。きちんと毎日剃りあげてるから。この青々とした剃り跡が見えないのかな? スクリーントーンとかじゃないよ)
ここ最近男子の転入生づいてるのか? 自分のあずかり知らない部分で最初の印象を落とされてはたまらない。
「秋芳の使役式やってる笑狸といいます。みなさん今後ともよろしく」
ざわ… ざわ… ざわ…
「うわ、むちゃくちゃカワイイじゃん!」「女の子、だよな…?」「え、男子でしょ? でもほんと凄いかわいい…」「やば、あれなら男だとしてもいけるわ」「あれか? 今はやりの男の娘ってやつか!?」「もうどっちでもいいじゃない。かわいいは正義☆」
ざわ… ざわ… ざわわ… ざわ…ざ‥ざわ……ざわ… ざわ… ざわ…
先ほどのざわめきとはあきらかに違う種類のざわめきが場を支配する。
ふふん。
勝ち誇った顔で横目に見てくる笑狸。
(おまえ、こっそり魅了の術とか使ってないだろうな?)
(使ってないよ。わかってるくせに。これがボクの素の魅力なの)
(どうだか。狐狸精は無意識に人を惑わすからな)
化け狸である笑狸は変化や幻術、魅了の術に長ける。
人を悪戯に化かすのは本能のようなものだ。
「笑狸ちゃん彼氏いるの?」「笑狸ちゃん彼女いるの?」「えっと、笑狸さんの趣味は何ですか?」「笑狸くんてどこから来たの?」「使役式ってマジ?」「罵ってください!」
「彼氏も彼女もいません。趣味はアニメ見たり漫画読んだりゲームしたり、オタク系かな。秋芳と一緒に神奈川県の横浜から来ました。マジです。このブタ野郎!」
次々と問いかけられる質問に答えていく笑狸。
「使役式と言いましたがズバリ正体は?」「笑狸ちゃんの好みのタイプ教えて!」「好きな食べ物は?」
「由緒正しい化け狸です。なにかに打ち込んでる人って素敵だと思います。アボガドのチーズ焼き!」
笑狸への狸質問タイムが終わる気配はない。
(まったく、こっちはガン無視かよ…)
手持ち無沙汰にクラス内を見まわす。
機能的な階段教室だ。席についてる生徒達はさすがにみな良家の子女といった感じだが、どこか毛色の異なる連中もいる。
(あの金茶髪は茨城のヤンキー。その隣の長髪ヘアバンド男は渋谷のチーマーだな。あのお団子巻き毛はなんて髪型だ? 六本木のキャバ嬢みたいな女だな……て、あいつ倉橋京子か!? なんかずいぶん印象が違うな)
きのうの少女が無表情にこちらを見つめている。
そう、こちらをだ。クラスのほとんどが笑狸に注目する中で彼女が、京子だけが秋芳を注視している。
「先生、ちょっといいですか」
よく通る声が場の喧騒を一瞬にして静める。
京子だ。
挙手して立ち上がり、同じ言葉で大友に問いかける。
「先生、ちょっといいですか?」
「おおっとッ、京子クン恒例の『転入生にイチャモンつけたあげくに式神勝負に持ち込む』コーナーかい!?」
「ちがいます! そんなのがいつから恒例になったんですか! そんなコーナーありません! まったく、デタラメ言わないでください」
「ならナニ?」
「……転入生に学園内の案内をしてあげたいんです」
「そりゃええな。うちの校舎はえらい広いから、不馴れなうちは迷うで。昼休みにでもみんなで仲よう案内してやって――」
「今じゃだめでしょうか? 今日の午前の講義は誰かさんのための復習で、あたしには必要ないですし」
「んん~、いや京子クンはそうでもこの転入生の二人には必要なんちゃうかな? なんせ半年分の遅れがあるし。うちのカリキュラム無駄がない分、普段おさらいとかせぇへんからな。いい機会やで」
「入塾試験は合格してるんですよね? 当然、ちゃんと半年遅れで入塾することを前提に組まれた内容のものを。なら特に問題はないんじゃありませんか?」
「な、なんかおれの時とずいぶんあつかいが違くないか?」
金茶髪ヤンキーがそのようなことをつぶやく。
「京子クンは言い出したら聞かへんなぁ…。秋芳クン、キミはどうしたい?」
「お言葉に甘えて案内されたいですね。授業についてはこいつが出ますので、後でどんなものか内容を訊いておきます。なにせこいつとは『つながって』ますので、正確に伝わりますよ」
笑狸の頭をポンと叩く。
「ああ、さよか。ほなええで」
あっさりと大友先生の承認がおりる。
「ありがとうございます。――賀茂秋芳くん。ついて来て。案内するわ」
屋上。
「いきなり屋上か。まぁ、上から下って行ったほうが楽は楽だが。ん? まだ上があるみたいだな」
「ええ、一番上には祭壇があるの。普段は立ち入り禁止で、一般生徒が入っていいのはここまでよ」
眼下に広がる渋谷の街並。ここからだと動く人々の姿が蟻のように見える。
金王坂、道玄坂、八幡坂、宮益坂、オルガン坂にスペイン坂――。
渋谷は坂の街だ。
風水においてほどよい起伏。岡や坂は平地の中の龍脈と考えられ、これらの多い土地は活気に満ち、栄えるとされる。
渋谷はそのような街であり、陰陽塾はそんな場所にある。
吹きつける風が気持ちいい。
亜麻色をした京子の巻き毛が風におどる。
(こいつ、今日は化粧してるんだな。なんかケバい。きのうみたいなスッピンのほうがかわいいのに)
「あー、その髪型、きのうよりも凝ってるね。たしかハーフアップ――」
「最初に、お礼を言わせてちょうだい」
秋芳の言葉をさえぎり、まっすぐに見つめて話しかけてくる京子。
話しかたも仕草もまるでちがうのだが、その姿に先ほどの塾長の姿が不思議と重なって見えた。
(似てるなぁ、やっぱり家族だ。…ん?)
星だ。
紫がかった京子の瞳の中に星が輝き、瞬いている。
比喩ではない。ほんとうに星が視えたのだ。
夜空に点々と散らばり数多の光を放つ星。目の前にいる少女の目の中で、それらが煌々と光り輝いているではないか!
星は京子の周りに広がり星雲を形作る。その光の渦に吸い込まれそうになる感覚が秋芳の全身に広がる――。
「きのうはどうもありがとう。あなたは命の恩人よ。……て、あなた。ちゃんと聞いてる? 人が真面目にお礼してるのに、なにボーッとしてるのよ!」
荒げた声に我に返る。
京子の瞳に、星はもうない。
(今のは、呪術による幻視じゃあない。託宣、ディビネーションか? いったいどこの神が俺にそんなものを視せやがる。これにはなんの意味が!?)
「ねぇ、ちょ、ちょっと。あなたほんとうにだいじょうぶ?」
「あ、ああ、平気だ……。いや、きのうはこっちも助かったよ。最初に君が戦ってくれたからこそ相手の正体や属性がわかったからね」
「うそ」
「え? いや、うそじゃないって。あの二体の式神が時間を稼いでくれたおかげで、俺は本体を見抜けたんだし」
「でも、あたしが手を出さなくても、あなたなら楽勝だったんじゃない?」
「それは、そうだな」
一般人や見習いクラスの陰陽師にとっては脅威でも、秋芳から見れば纐纈鬼はたいして強い妖怪ではない。
きのうのように自分の『巣』に獲物を誘い込み、消耗させ、弱ったところを襲いかかる。
生来の陰湿な性もあるが、そうでもしないと安全に人を狩れないのだ。
たとえ京子の参戦がなくても、自分ならすぐに本体を見抜いて仕留めていただろう。
「ハッキリ言ってくれるじゃない。でも、やっぱり、ね」
腕を組み、探るような目つきで問いかける。
「ねぇ、賀茂くん。あなた、何者?」
(こいつ、かわいいじゃねぇか。でかい乳を腕組みでさらに強調しやがって、狙ってやってるのか? けしからん!)
「あたしを寝かせて護る時に使った術も、あいつと戦う時に武器を呼び出した術も、あたしの知っている陰陽術にはないわ。いったいあれはなんなの?」
「あれは道教の神様の力を貸してもらったんだ」
「ああ、あの呪文て中国語だったのね。どうりで、そんな感じの響きだったもの」
道教。
老子の名で有名な太上老君が始祖とされる、中国古来から伝わる呪術色の濃い民間信仰。
風水などの地相占術や、不老不死の仙薬を作ることを目的とした練丹術など、様々な魔術が内包されている。
祀られている神々の中では『三国志演義』に登場する関羽が神格化された関帝聖君や『西遊記』の孫悟空こと斉天大聖などが有名だ。
纐纈鬼との戦いで秋芳が召喚した水行属性の武器。三尖刀は顕聖二郎真君という武と水を司る神から一時的に貸してもらったのである。
この顕聖二郎真君という神様は『封神演義』という作品に楊戩(ようせん)という名の道士として登場する、これまた有名どころの神様だ。
「たしか帝式や汎式陰陽術の中にも道教から取り入れた術がいくつかあったわね。でもあたしの知ってるのは、あんなのじゃなかったわよ」
「そうだろうな。俺のがよりオリジナルに近い。それでいてなおかつ我が家流にアレンジされてるからな」
「我が家って、そういえばあなたの『賀茂』って名字だけど。ひょっとしてあの『賀茂』だったりするの?」
「ああ、その賀茂だよ」
こんにちもっとも権勢を誇る倉橋。夜光の件があるにもかかわらずなお影響力のある土御門。その両家以前に陰陽道の宗家として君臨していたのが賀茂家だ。
修験道の祖とされる役小角も、この賀茂家に連なる人物だという説もある。
なにもコソコソと隠す必要はない。
秋芳は呪禁や賀茂の養子のことなど、自分の出自を包み隠さずに京子に打ち明けた。
年齢と裏稼業。夏目に関する事柄以外は。
「――というわけでだな、実際に効果があるとはいえ乙種は乙種。公の場で仕事をするにはどうしても陰陽Ⅱ種、Ⅰ種の資格が必要であると判断し、田舎に引きこもったままじゃいかん! 賀茂の次代を担う若者は陰陽塾で学び、甲種呪術のご免状をもらって来いと、そういう流れで入塾した次第さ」
「そうだったの、……正直、賀茂家ってとっくの昔に、その、あの……」
「無くなってたと思った?」
「ええ、ごめんなさい」
「あやまることじゃないさ。この数世紀の間、うちはろくに実績をあげてないからね。陰陽道の大家としての賀茂家は、実際無いに等しいもんだよ」
「…ええと、あ、じゃああなたも夏目君と同じ、お家の次代当主ってわけよね?」
「ん? それはないだろうね。俺はあくまで養子。賀茂の家は賀茂の血に連なる者が継ぐだろうね」
「そんなに力があるのに? おかしいわ」
「賀茂家は俺の力だけが欲しいのさ。知ってるかい? 田舎じゃ他所からの養子は本家の連中と同じ席で食事ができないんだ。しきたりでね、連中が座敷で食事するのに、こっちは台所で飯を食うのさ。別に不幸自慢、差別自慢するわけじゃないが、大人になってから驚いたよ。なんて封建的な家に住んでたんだろう、てさ」
「なにそれ、ひどい!」
今でもそうだ。
もっとも秋芳が望めば、普通の席どころか、上座を占める老人を押しのけ、いつでもそこに座ることができるだろう。それだけの実力があり、それだけの貢献をしてきたのだ。
だが秋芳はそれをしない。
しようとも思わない。
しきたりを重んじ、賀茂本家の人間を尊重する殊勝な心がけ。というわけではない。屋敷の隅にいる自分に家中の誰もが畏れて遠慮する様が面白いからそうしている。
我ながら悪趣味だとは思うが、やめられない。
「名門名家なんて言っても、そんな前時代的な考えじゃ没落するのも当然ね! …て、あ、ごめんなさい。べつにあなたの、賀茂の家を否定してるわけじゃないのよ」
「いいから、いいから。気にしないよ」
「陰陽塾も倉橋家も百パーセント実力主義! 家格も血筋も関係ないわ。そう、たとえば人間を式神にするような、古い、時代錯誤なハナシなんてナンセンスなのよ! 実に旧態依然としたアナクロだわ、ロートルなのよ!」
なにかのスイッチが入ったのか、急に意気が上がり強い口調でまくし立てる京子。
「あー、人間を式神にする? なんの話?」
「夏目君と、土御門春虎のことよ」
分家の者は本家の者の式神になる。土御門家にはそのような決まりがあり、土御門本家の者である夏目の式神になった分家の春虎は主である夏目の近くにいるよう、最近入塾してきたことを説明する。
「なるほど。その彼も転入生だったのか」
教室で自己紹介した時の「また男」「野郎ばっか入塾」というヤジの意味は、つまりそういうことかと納得する。
「しかし人を式神するだなんて、変わった表現するもんだな。ようはたんなる主従関係。雇用主と従業員みたいなものなんだろ? 今の説明だと」
「ええ、そう。帝式陰陽術の中には魂と魂をつないで意識や感覚を共有するくらい深くリンクさせる式神使役の方があるみたいだけど、そういうのじゃないわ。あ、そういうえばさっきあなた、笑狸ちゃんだっけ? あの子と『つながってる』とか言ってたけど、まさか…」
「いや、その手の術は使ってないよ。普段はね」
「ふ~ん、普段は、ね…」
屋上特有の強い風が吹きつけ、残暑の日差しに火照った体を冷やしてくれる。
「なぁ、そろそろ中に入らないか? まだなにか聞きたいことがあれば歩きながら話すが」
「ええ、そうしましょう」
食堂。
「おお、ここが大学や高等学校などの学校構内に設けられた、学生に飲食物を提供する食堂。通称学食か!」
「そうだけど、なにそんなに興奮してるのよ? うちの学食、味も値段も普通よ、普通」
「その普通ってやつを堪能したいのさ。やっぱあれか、昼食の時はたがいの手作り弁当のおかずを交換して味勝負とかしてたりしてるのか?」
「あたしはしないわね。そういうことをしてる人も知らないわ。あなたって料理できるの?」
「簡単なつまみ程度ならね。それとカクテルならよく作るが」
「ちょっと! あなた未成年でしょ? ほどほどにしときなさいよ」
図書室。
「見てのとおり図書室よ。呪術関係の蔵書に関しては、それなりの量と質を保証するわ」
「そうか、ちょっと見させてくれ」
汎式陰陽術概論。
陰陽Ⅲ種、陰陽Ⅱ種、陰陽Ⅰ種の各種解説書。
現代式神理論。
再説陰陽史話。
金烏玉兎集。
占事略決。
周易。
五行大義。
新選陰陽書。
黄帝金匱経。
神枢霊轄経。
などなど……。
「実用書から古典まで、見事に基本が網羅されてるじゃないか。う~ん、でも実用的なマニュアル一点張りでいささか面白みに欠けるなぁ。息抜き用に創作ものでもあればいいのに」
「なによ、まさか漫画でも置けっての?」
「漫画でも小説でも映画でもいいが、とにかく創作作品をね。絵空事とはいえフィクションもバカにできないよ。無から有を生み出すってのがまず凄い。次にその生み出されたモノが人々の心に影響を与える。これはもう呪の一つだな」
「まぁ、ものは言いようよね。なにかお薦めの作品でもあるの?」
「映画なら『ノッティングヒルの恋人』が好きだね。ジュリア・ロバーツが主演のやつ」
「それって恋愛映画よね? なんか意外。あなたみたいな人がそういうの好きだなんて」
「俺はジャンルを問わず良作は良作と思える感性の持ち主でね。しかし恋愛感情もまた呪といえるな。人の、人や物に対する感情が本来「中庸」であり、それが正常にもかかわらず、好き嫌いを持つことで偏りが生じ、異常なことになる。特に恋愛感情は、その強さや不合理さからして逸脱の程度が大きく、人を鬼にも仏にもする。これはまさに呪だ」
「なんか大友先生みたいね、あなた」
廊下。
校内を巡る二人は一体の式神とすれ違う。
子どものように小さく、棒を組み合わせたようなほっそりとした手足と胴体で、頭上には円錐状の編み笠のようなものを被っている。
とてもシンプルな造形が特徴的だ。
「今のは、たしか汎用式の…」
「ええ、そう。陰陽庁制の、旧型の汎用式『モデルM1・舎人』よ。清掃用に大量に入荷したの」
「だから手に箒とちり取りを持ってたのか。しかし清掃用に式神とか、ずいぶんと贅沢だな」
「ここは陰陽塾よ。そのくらい普通よ」
「放課後に生徒みんなで掃除したりはしないのか?」
「しないわよ、小中学校じゃあるまいし。夜の間に今の舎人たちが全部やってくれるわ」
「いかんなぁ。掃除は掃き清める、魔や穢れを祓うことにつながるから、俺たちみたく霊災を修祓する任務に就く者にとっちゃ修行のひとつだろうに」
それを聞いて思わず吹き出す京子。
「フフッ、こんどは藤原先生と同じこと言ってる。あ、藤原先生っていうのは三年の担当をしている講師の方で、元祓魔官なの」
「祓魔官か…」
陰陽庁に属する内部部局に「霊災修祓室」という部署があり、そこに属する陰陽師は祓魔官と呼ばれている。
彼らはおもに霊災の修祓任務にあたるが、その様子はマスメディアに取り上げられることも多く、社会的な露出が多い。
そのため世間の陰陽師に対するイメージは祓魔官のイメージが特に強い。
そんな祓魔官らと霊災の現場で「すれ違った」ことなら今まで何度もあるが、誰にも顔は見られてないはずだ。
「その先生はなかなか良いことを言うな。暮らしの中に修行あり。なにごとも鍛錬だ」
「…あなたって、なんか生徒じゃなくて先生っぽいわね。講師の方がむいてるんじゃない?」
一階ホール。
「屋内に本物の緑があると安らぐな。ここは実に良い気が流れている」
青々とした竹を見ていると、それだけで心が洗われるような気がする。
「…ねぇ、さっきの話の続き。あなたの呪禁について聞きたいんだけど、いいかしら?」
「ああ、いいよ。答えられる範囲でならね」
今は魔術・呪術が秘中の秘とされていた時代ではない。誰もが呪術を学ぶことができ、呪術の才のない者にもあつかえる式神が市販される時代だ。
ことさら己の術を秘密にする必要性は低い。まして秋芳の使う呪禁は、他人がその術理を理解したところで模倣も対処もできないだろう。
天賦の才にくわえ、長年の修練があって始めて行使できる呪術なのだ。
「正直、呪禁道なんて呪術が存在するんだなんて初耳よ。道教系の呪術みたいだけど、あたし達の陰陽術と、どう違うの?」
「ええと、まず正確には呪禁『道』じゃなくてただの呪禁。道はつかないんだ」
「え、どうして?」
「柔道、剣道、神道、修験道に陰陽道。武術にしろ魔術にしろ、誰もが学べ、最低限の技術を得ることができるような体系を作ることができて始めて『道』と呼ばれる。でも呪禁はその域まで到達できなかったんだよ」
「でもあなたの家。賀茂じゃなくて連の方ではずっと呪禁を伝えていて、あなたはそれを実際に使えるんでしょう?」
「知識としては伝わっていた。だがそれをすべて実践できたのは、どうも韓国連(からくにのむらじ)広足(ひろたり)という奈良時代の人以降は俺が始めてらしい」
「またずいぶんと間が開いたわね。そんなにむずかしいものなの?」
「たんなる加持祈祷や、きのう見せた道術程度ならそうでもないんだがな――」
道教では世界の根元となり因果の流れを司る法則を大道と呼んでいる。
その大道に干渉し、ものの在り方そのものを歪めて、あらゆるものを「禁ずる」術。
これこそが呪禁最大の特徴である「禁呪」や「持禁」と呼ばれる術だ。
それぞれの存在の意義を見極める。
そして存在に対して「禁じる」という意思を送りつけて、その意義を無意味にしてしまう。
禁じようとしているのが、その存在のささいな属性であるのなら、それは簡単に禁じられる。
しかし、その存在の本質的な存在意義や存在そのものを失わせようとすると、術を働かせるのは困難になる。
「…なんか、抽象的でいまいちわかりにくいわね」
「具体的な例を言うと、たとえばここに一振りの刀があるとする。刀の存在意義。つまりなんのためにあるかというと、第一義はものを斬ることだろう。だから刀を禁ずればすなわち斬ることができなくなる。見た目は変わらないのに刃がなまくらになってしまうわけだ。だが刃が斬れなくなっても刀が使えないわけじゃない。棍棒として殴りつけることはできる。突けば刺さるだろう。刀のより本質的な意義はなにか? 攻撃すること、破壊すること、傷つけ殺すこと。より高度な持禁を使えば、刀で斬ろうが刺そうが殴ろうが、まったく損傷を与えなくすることもできる。もっと厳重に禁じてしまえば刀そのものを消滅させることだってできる。これが刀ではなく包丁なら切ることが第一義。料理することが本質になる。人を傷つけるのは、それらに劣る存在意義だから、包丁で人を傷つけることを禁ずるのは簡単だが、切ること、料理することを禁ずる方がむずかしくなる」
「凄い! ずいぶん便利で応用が利きそうな術じゃない」
「ああ、だがしょせんは現実を歪める力技だ。使うには大量の呪力を必要とする。そのうえ術をしくじったり、相手に抵抗された時にはどこかでその反動が生じる。さっきの刀の例で言えば、斬ることを禁ずるのに失敗した場合、それとは別のどこかにある刀がなまくらになったり、刃物でケガをする人が出てくる。みたいに反動のあらわれかたってのは様々だ」
「良いことばかりじゃないのね。ま、もっともそういう反動や副作用みたいなのは呪術全般に言えることだけど」
「そうだ。人を呪わば穴二つ。なんて言葉があるが、これは誰が入るハメになるのかわからない穴を世界中にランダムに開けることになるからな、責任重大。神経を使うんだよ」
地下呪練場。
「ほー、これはこれは…」
「どう? なかなかのものでしょ」
陰陽塾の地下に広がる大きな体育館。
中央の格技場を見下ろすように階段式の座席が三方に広がり、一方に大きな祭壇が設けられている。
「あの祭壇は神仏を祀っているんじゃないな。純粋に呪力を操作するタイプみたいだが」
「そうよ。あれで色々と環境設定ができるの。呪術防壁も万全だから、けっこう派手にやり合っても平気なの」
「やり合うって、まさかここで呪術をもちいた模擬戦でもするのか?」
「あたりまえじゃない。ここをどこだと思ってるのよ、陰陽塾よ。他にも式神だけで試合するとか、捕縛式に見つからないよう穏形する授業とか、実技も充実してるから楽しみにしててね」
「座学だけかと思ってたが、実技とはね。思ってたよりずっと本格的なんだなぁ」
塾舎内をひと通り見て廻り、教室に戻る。
「――以上がボクたち狐狸精に伝わる化け学の概要です。姿形を様々に変えたり、幻を作り出して騙す。おもに変化と幻術の二つに重点がおかれています。変化術というのは身体を形作る五行を、陰陽の気を使い、自在に組み替えることによって術者の肉体を変貌させるのですが、この術を極めれば本人だけじゃなく、自分以外の生き物や物体も、変形、変質、縮小拡大が自由自在になります」
「マジかよ」「すげーな」「おっぱいも大きくできるの?」
「はじめのうちは腕をのばすとか身体をひとまわり大きくするとか、ちょっとしたことしかできませんが、上達すれば完全に姿を変え、そのモノの持っている特性も発揮できるようになります。たとえば泳げない人でも魚に化ければ水の中をスイスイ泳げて呼吸もできますし、鳥に化ければ空も飛べます。」
「マジかよ」「すげーな」「す、鈴鹿たんにも成れるかな?」
「次に幻術ですが、陰陽の気を操って、本来その場にないものを感覚させる術です。これもはじめはもともと存在する物を別の物に見せる。木の葉をお札に見せたりとか、錯覚させることしかできませんが、上級者になると視覚だけではなく聴覚、嗅覚、味覚、触覚。さらには見鬼の力まで騙すことができるようになります。極めれば『世界』そのものを騙せるようになり、実体がないのにあるようにかん違いさせて、幻の火で物を焼いたり、分身の術で相手をやっつけることだって可能なんです」
「マジかよ」「すげーな」「す、鈴鹿たんも作れるの?」
「中国の妲己、インドの華陽婦人、日本の玉藻前なんかの有名どころはみんな狐の化身だと言われてますが、狸と狐では狸の方が一枚上手なんです『狐七化け、狸八化け』なんて言葉や、佐渡ヶ島の団三郎狸の逸話がそれを証明してますよね」
長々と講釈しているのは大友先生でもなければ、それ以外の塾の講師でもない。
笑狸だ。
笑狸が壇上で講師よろしく熱弁をふるっている。
「……なにをしているんだおまえは」
「なにって、化け狸について知りたいってみんなが言うから教えてあげてるんだよ」
「あのなぁ…、ええと、大友先生。いいんですか? 陰陽術の講義をしなくて、あいつにこんな妖術についての話なんてさせて」
「うん、ええよ。ほんまの化け狸の口からこんな話が聞けるなんて、めったにないええ機会や」
「それはまぁそうでしょうけど…」
「狸は能力だけでなく人格面でも狐より優れてて、義理と人情に篤い種族なんです。知ってますか? 日清・日露戦争の時に讃岐の国は屋島の化け狸たちが大陸に出征して、日本軍に加勢して戦ったんですよ」
(いや味方してくれるのは素直にありがたいが、人間同士の争いに妖怪が首つっこむのは、あんま良いことじゃないんだけどなぁ。古今東西、戦争なんかに絶対の正義も悪もない。どちらが勝とうが負けようが、苦しむのは常に俺らみたいな名もなき庶民だ。それにもし相手側にも妖怪が加勢したらどうなるか。それこそ『封神演義』のように争いが争いを生む。悲惨な展開になっちまう。…ん?)
生徒達の中に気の乱れを感じる。片目をつぶり見鬼を凝らして見まわすと、先ほどの金茶髪ヤンキー男子の周囲があきらかにおかしい。
「そもそも狐は人を誘惑したり騙したりと、悪さ目的に化け学を使うのに対してボクたち狸は純粋に化け学が好きですからね。そこらへんで腕前に差が出てくるんです」
「ええい、黙って聞いておれば無礼千万! そこな野狸。ベラベラとデタラメばかり吹聴する舌、切り取って黙らせてくれようッ!」
金茶髪ヤンキー男子のすぐ近くの空気が溶けた飴のようにぐにゃりと歪むと、次の瞬間少女が、いや少女と呼ぶにもまだ早い。せいぜい小学生になるかならないかくらいの幼女が姿を現し、笑狸に向かって突進する。
古めかしい水干に指貫袴。頭には犬や猫のような、俗に言うケモノ耳が、お尻からはフサフサとした木の葉形の尻尾まで生えている。
なんとも奇妙ないでたち。十中八九人外の存在だろう。場所が場所だけに誰かの式神だろうか? 外部から入り込んだ動的霊災。いわゆる妖怪の類とは思えない。
手に抜き身の小刀を持っているのを確認した秋芳は、笑狸の前に割り込み、幼女の突撃を食い止める。
「あ~、お嬢ちゃん。なにを怒ってるか知らないが、いきなり刃物を振り回すような真似はやめてくれ」
「ええい、放せッ、放さんか下郎! 気安く触れるでない! これが憤らずにおられようか、嘘八百をならべ、狸を持ち上げ狐を下げる。断じて許さぬ!」
「ウソじゃないよ、ホントのことだもの。キミら狐は狸に劣るからボクたち狸に負けて、佐渡ヶ島や四国から追い出されたでしょ」
近い種族だからか、ひと目で相手の正体を見抜く笑狸。もっとも目の前の幼女のその姿形を見れば誰もが「狐っ娘」という印象を抱くだろうが。
「われら狐霊の数は日の本に数知れず。悪狐もおれば善狐もおり、強さ弱さもまたしかり! 過去たまたま化かし合いに勝ったからと、それが全てではないわ!」
ジタバタと秋芳の腕の中でもがく幼女。なんか犯罪者みたいだな・・・。と、小刀だけ取って放そうとすると声がかかる。
「おい、コン。やめろって」
一人の生徒が駆け寄る。例の金茶髪ヤンキー少年だ。
「それはいかに春虎様の言葉とはいえ承服しかねまする! コンのみならず全ての狐霊を貶める、へ、へ、へいとすぴぃち。黙って見過ごせと言うのでございますか、春虎様!?」
「ヘイトスピーチって、おまえ、どこでそんな言葉を…。ああ悪い。こいつはコン。おれ、土御門春虎の護法式なんだけど、見てのとおり子どもでさ。許してくれ」
主である春虎に抱きかかえられ、さすがにおとなしくなる幼女――コン――。
(ほう、こいつが土御門春虎か、これは『奇貨居くべし』てやつだな。土御門夏目。立場が立場だけに、言い寄ってくる連中が多く、他者に対してガードが堅いという事は想像にかたくない。そんな夏目にいきなり接近するよりも、そいつに近い者を通して近づいた方が警戒されないだろう)
瞬時に考えを巡らし、春虎に言葉を返す。
「いやいや、こちらこそ。うちの式神が言いたい放題で、そっちの式神を怒らせちまったようですまない。それに授業まで潰してみんなに迷惑かけたみたいだし、ここはひとつ、みんなへの謝罪として、ここに居る全員に昼飯を奢らせてくれ」
教室内にどよめきが広がる。
「おいおい、いいのか?」
「なぁに、引っ越し蕎麦みたいなものさ。春虎さんも遠慮なんかしないでくれ」
「春虎でいいよ。えっと、こっちも秋芳て呼び捨てでいいかな?」
「ああ、好きに呼んでくれ」
事態が収束しかけたその時。
「あれ? もう終わりなん? 僕はてっきりこのまま春虎クンのコンクン、秋芳クンの笑狸クンがたがいの意地と矜持をかけて、文字通りの式神勝負をする。恒例の流れになると思っとったんやけど」
「いつから式神勝負が恒例行事みたいになったんですかっ。煽らないでください」
「いやいや京子クン、こういうのはうやむやにしたらかえって後に残るで。他の誰でもない、当人同士がケリをつけなあかんのや」
「おお、たまには良いことを言うではないか。春虎様、どうかコンめに決闘の許可を!」
「そっちがその気なら受けて立つよ。いいでしょ? 秋芳」
たがいの主にうかがいを立てる式神達
「落ち着けってコン。大友先生、なにを言い出すんですか!」
「おまえがその気なら好きにしろ。言っておくが俺はいっさい手を出さないからな」
「お、秋芳クンのほうはええみたいやな。春虎クン、これも授業の一環やで~。使役式同士のフリーバトルなんてプロの現場にでも行かんとなかなか目にするもんやない。それが今できるんや。実技のお手本だと思うてみんなに見せたってや」
「いいぞいいぞ!」「また式神バトルか!」「コンちゃんも笑狸ちゃんも頑張れ!」
どうにも場の流れは式神勝負の方向へ向かっている。
「はぁ……、わかりました。おいコン。あんまり無茶するなよ?」
「ははっ、ご承知していただきありがとうございます。ありがたき幸せ!」
「よっしゃ、ほな呪練場にレッツらゴーや!」
夕刻。
渋谷区道玄坂にあるワインBAR。
二人の青年が卓をはさんで食事をしている。
卓上にはアクアパッツァ、鴨のコンフェ、エスカルゴと牡蠣のブルギニョン、海老のフリッターなどなどの料理が所狭しと並べられ、湯気を立てている。
「そら、いい加減に機嫌を直せ。せっかくの酒と飯が不味くなるぞ」
僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年がそう言いながらグラスに注がれた赤ワインを口にする。
「べつに、もう怒ってないってば」
坊主頭の相手とは対照的に長髪の青年がそう返す。
秋芳と笑狸だ。
笑狸はいつもの少女のような姿ではなく、二十歳そこそこの成人男性の姿をしている。
外で酒をたしなむ時は大人の姿形に化ける笑狸だが、好んで女性の姿になる普段とは違い、男のなりをしているのは、不機嫌のあらわれ。
十五年も行動を共にしている秋芳にはそのことが良くわかった。
むっつりとした表情で牡蠣をつまみ、口に入れる笑狸。
ちなみに二人とも洋食でも箸で食べる派だ。
「あ、これ美味しい!」
「バジルの香味が効いてるな」
相好をくずして、目の前の料理を頬張り始めたその姿に、さっきまでの不機嫌さは面影もない。
(こいつ、ほんと単純だなぁ…)
グラスをかたむけ、しみじみとそう思う。
あの後――。
地下呪練場で土御門春虎の護法式コンと試合をした笑狸だが、結局のところ勝負は引き分けに終わった。
たがいに決定打となるものが不足していたからだ。
試合の始め、笑狸は大型犬に変化し、コンに襲いかかった。
狐狸精という種族は犬を苦手とする者が多い。
それなりの妖力霊力をもった個体でもこれを克服することができず、ただの犬相手に恐慌状態におちいり正体を見破られたり、深手を負わされることがある。
すでに犬恐怖症を克服していた笑狸はこれを狙ったのだ。
だが生憎とコンは生来、犬など苦手にしていない。
物怖じもせずに小刀で迎撃し、牙と刃、刃と鉤爪と、丁々発止のせめぎ合いをしたかと思えば、両者距離をとり狐火や狸火の撃ち合い。虎に変化した笑狸が再度組み合いにもっていき、また離れて狐火と狸火の撃ち合い。大熊猫に変化した笑狸が組み合いにもっていき、また離れて……。
ただの一般人相手になら致命的な猛獣の一撃だが、穏形や霊体化したコンには躱され透かされ、あたらない。
またコンのほうの刀や狐火も、笑狸にあたりはするが傷一つつけられない。化け狸である笑狸の体は見た目以上に頑丈にできている。
午前中に始まり、みんなが昼食をとっている間も戦い続け、午後の授業も観戦についやし、放課後になってもまだ決着がつかず――。
結局、講師である大友先生の放つ捕縛式からいかに長く逃げ切れるか。というサドンデス方式で勝敗を決することになったのだが、ものの見事に両者とも同分同秒で捕まってしまった。
(こいつとコン。俺と春虎。主と式神。たがいの顔を立てるため、あれはわざと同じタイミングで捕まえたんだろうな。大友陣。自分から式神勝負をけしかけておいて、なんとも食えない男だ)
秋芳から見ればノーダメージとはいえ実際に攻撃を受け続けた笑狸のほうが負けという判決だが、あえてそれを口にすることはしなかった。
引き分けという不本意な結末にヘソを曲げた笑狸のご機嫌取りに、こうして前から気になっていた店に食事をしに来たわけである。
「あ、ワインも美味しい。軽すぎず重すぎずコクがあってサッパリしてるね」
「そっちはポルトガル産のだったな。俺のチリ産のはスパイシーな風味があって後に残るぞ」
「ひとくち味見」
「ああ」
たがいのグラスを交換して味見する。
「美味いな。肉でも魚でもどんな料理にも合いそうだ」
「んん~、野趣あふれる芳醇な味がするよ~」
その時だった、秋芳の全身を貫くような悪寒が走る。
氷の舌をもつ無数の毒蛇に、体中を舐められているかのような感覚――。
「……ねぇ、秋芳。感じる?」
「ああ……。この感じ、邪視だな」
邪視とは悪意や害意をもって対象をにらみつけることで呪詛する呪術だ。
イービルアイ、邪眼、魔眼などとも呼ばれ、世界中に似たようなものが伝わる。
「餓えたイボイノシシの涎がキ●タマにしたたり落ちたような、気持ちの悪さだね」
「なんだよそのたとえッ! わけわからねぇよ!」
ツッコミつつ周囲を見まわし、視線の主を探し出す。もちろんキョロキョロと顔を動かしたりはしない。
得意の八方目で手にしたグラスを見つめつつ、周囲を探る。
いた。
二人の女性が炯々たる眼光を発し、こちらを凝視している。今にも涎を垂らしそうな、餓えた獣のような相貌をして、ささやき合っている。
(ううむ、恐ろしい。獣の生成りか? なにを話しているのやら……)
あいにくと読唇術の心得はない。気づかれぬようそっと導引を結び、口訣を唱える。
「五行の理を以て、清冽なる水気、眠りし耳を研ぎ澄まし、雑たる音を遮らん。疾く!」
五行思想において耳は水行に属する器官であり、水気をもってこれを強化することが可能だ。
今回はさらに雑音を排する指向性聴覚の機能も付与した。
『いいわぁ、男子の回し飲み。ああいう何気ない行為にぐっときちゃう!』
『あの二人、やっぱりつき合ってるのかしら? 仲良さそうだし、絶対そうよね』
『あの長髪の子から小悪魔受けのオーラをひしひしと感じるわ』
『あたしも! う~ん、これは間違いなくリアルファンタジーね』
『~~~~!』『~~~~!』
獣の表情から一転、ニヨニヨしながらこちらを見つめ、腐談義に花を咲かせている。
「……どうやら、邪視じゃなく腐視線だったみたいだな」
「ボクたちを腐ィルターごしに見てたんだね」
笑狸のほうは特に術を使わずとも彼女たちの会話を聞き取ったらしい。獣系の使役式は総じて五感に優れている。
「ねぇ、秋芳。あの人ってばこの前の寮母さんじゃない?」
「なぬ?」
二人の貴腐人。茶色いロングヘアーのほうには見覚えがないが、黒髪ボブカットにセルフレームの眼鏡をかけたほうには見覚えがある。
陰陽塾男子寮・寮母の富士野真子だ。
寮に入る手続きをしたさい、軽くあいさつを交わしたはずだ。
『あら? あの子って…』
『ん? どうしたの?』
『こんどうちの寮に入る子じゃないかしら。ほら前に言った、かわいい男の子を連れて来た子よ』
『ああ、あの男の子連れの!』
『思い出した。賀茂秋芳君だわ。…前に連れてた男の子とは別の子とあんなに仲良さそうにして、とんだプレイボーイね!』
『彼の基本属性って受けかしら? 攻めかしら?』
『そうねぇ――』
妄想するのは勝手だが、誤解はこまる。
「おまえのこと、ちゃんと紹介しとくか」
席を立ち、富士野らのもとへ行き声をかける。
「寮母の富士野さんですよね? 賀茂秋芳です。迷惑じゃなければ一緒に飲みませんか?」
「あ、あらあら! 奇遇ね賀茂君。ちょうど今あなたのお話してたのよ、…あの子だぁれ? 恋人さんかしら?」
「はじめまして賀茂秋芳君。女子寮寮母の木府亜子です。男子寮のほうは転入が続いてにぎやかそうね~。それであの子ってやっぱ恋人なの?」
「いま、紹介しますよ」
…… …… …… …… ……。
「――というわけでしてね、彼は俺の式神で、その正体は化け狸なんです。未成年のナリで外で酒を飲むのも問題なんで、こうして大人の姿になってもらってるわけなんです。別に男をとっかえひっかえ漁ってるわけじゃないんで」
「じ、自分の式神を!? 春虎君もそうだったけど、最近じゃそういうのあたり前になってるのかしら……」
「しかもケモノっ! ケモナーっ! 獣姦っ! こっちも春虎君と同じだわ。お姉さん、若い子の性癖にはちょっとついていけないかも」
「でもロリコンの春虎君と違ってケモナーショタの秋芳君のほうがまだ健全よね」
「え~と、俺の話を聞いてましたか? つか、春虎ってばロリコンなんですか?」
「お姉さんたちってナマモノ好きの貴腐人なんですか?」
「二次もナマモノも乾物も好きよ!」
「ボク、最近の『男の子いっぱいアニメ』て最初からやおい臭出しまくりで萌えないんですよね」
「あら、どうして?」
「いかにも『このキャラでやってくれ』的な設定とか、鼻につきませんか」
「でもそのほうが見てて楽しいわよ」
「気軽に楽しめるわよね」
「二人ともなにを言ってるんです! 男同士の真の友情だからこそ、それをイタズラする面白みや楽しみがあるんじゃないですか!」
「「はっ!」」
やおい漫画も昔と変わってきた。
昔は――。
主人公が男に惚れられる。
↓
「俺は同性愛者じゃない」と反論。
↓
「男が好きだとかじゃなく、たまたま好きになった人が男だった」とか言われる。
↓
葛藤。
↓
合体。
「――ポイントは葛藤の部分で、相手が男なのに惹かれていく自分に、主人公が延々と悩む。部分です。ここに文学性や物語としての深みが生まれるんです」
「ちょっと理屈っぽいけど、たしかにそうね」
「それが近年、ボーイズラブが市民権を得た影響でお手軽にヤっちゃう作品が増えたんです。理屈無しでいきなりお尻にぶっこまれてアンアンしちゃうだなんて、もう男向けのエロ本と一緒ですよ」
「そうね、男は安易にアナルを許すべきじゃないわ!」
アルコールがまわり、ずいぶんと話しが弾む。
「……あのー、そろそろ帰らないとまずいんじゃないですかね。夕食の準備とかいいんですか?」
「だいじょうぶ、らいじょうぶ。お肉も野菜も食材は買ってあるから後は作るだけよ」
若干ろれつが回らなくなっているのが実に心配だ。この状態で調理などできるのだろうか?
「レコーダーから来た映像をテレビが受けるんだから、レコーダー×テレビよね」
「そうそう!」
「フォークは鬼畜攻め、スプーンは総受け、ナイフは基本攻めなんだけど、フォークに依存してるから実質受けじゃない? 異論は認めるわ」
「わかるわ~」
「愛と恋は?」
「恋×愛」
「空と大地は?」
「空×大地」
「昨日と今日は?」
「昨日×今日」
「生と死は?」
「死×生」
「朝食と夕食は?」
「夕食×朝食」
「箸と茶碗は?」
「箸×茶碗」
鉛筆×消しゴム、台風×日本列島、ワサビは総受け、七味唐辛子はリバーシブル――。
ひとしきり無生物の攻め受け話に花を咲かせた後。
富士野真子、木府亜子。二人の寮母は飲み潰れた。
「うふ~ん、アス×キラ~、新庄×加賀~」
「あは~ん、ハスまひ~、よいまひ~」
意識はある。話しかければ答える。だが、すっかり正体を失くしてしまっている。
「場の空気のせいかな、二人ともできあがるの早かったねー」
「軽く飲み交わす程度のつもりだったんだが、こんなにもピッチが早いとは…。まるで俺たちが飲み潰したみたいじゃないか。これは送っていくしかないな」
「送ってあげても、これじゃあ仕事どころじゃないよ。夕飯どうするの?」
「たしかに、そうだな」
「秋芳の術でアルコール飛ばしちゃえば?」
禁酒則不能酔。
酒を禁ずれば、すなわち酔うことあたわず。
体内の酒気を一瞬にして消して、酩酊状態の者をしらふに戻すことが可能だ。
「酒飲みとしてはその術は使いたくない」
そうキッパリと断言する。
いにしえの中国では酒に酔うことで精神が解き放たれ、高度な理性と鋭敏な感性を得られると信じられていた。
李白や杜甫や白楽天といった詩人らの多くもこれを強く信じていて、酒を手放すことは無かったという。
孔子は強い酒の危険を指摘しているが、それでも。
「惟だ酒は量無し、乱におよばず」
と、これは乱れなければ飲んでも良しとしている。
人類は五千年前も酒を飲んでいたし、五千年後もきっと酒を飲んでいるだろう。
「酒は人類の友だ、友を切り捨てるような真似ができるか」
「じゃあどうするのさ? 入寮初日から寮母さんを酔い潰して、みんなにひもじい思いをさせるつもり?」
「俺たちで作ろう」
「え?」
「昼の引っ越し振る舞いの続きだ。彼女たちをこっそり送った後に俺たちが厨房に立つ。俺が男子寮、おまえが女子寮担当だ」
「まぁ、ボクなら彼女に変化できるけど、料理のほうは自信ないよ」
「保食を使え。持ってるだろ」
市販されている料理用人造式「保食」この日本神話に登場する食物を司る神の名を冠した式は、その名の通り調理用に作られている。
長年行動をともにした結果、霊災修祓や呪術戦といった実戦向きの呪具は秋芳が、それ以外の呪物は笑狸が身につけるようになっているのだ。
「あ、あれいっぺん使ってみたかったんだよね。買ったはいいけど、それっきりだったし」
「買って手元に置いて、いつでも使えると思うと、それだけで満足になりがちだよな。それじゃあ頼んだぞ」
「うん」
陰陽塾男子寮厨房。
『寮母の富士野さんは持病の三巳が暴れたため、儀狄と杜康の力で休んでもらっている。ついては昼の引っ越し蕎麦の延長で自分に夕食を作らせてもらいたい』
と、寮生たちをけむに巻いた後、さっそく食事の準備にとりかかる。
野菜や肉を手早く切り刻み、大鍋に入れる。
「聞いたぜ。富士野さんを酔い潰したんだってな」
「入塾早々とんだ不良陰陽師もいたもんだ」
そう言いながら入ってきたのは土御門春虎と阿刀冬児の二人だ。
「いやいや、悪い気を祓うため、ディオニュソス様のもとでひと休みしてもらっただけだよ」
悪びれもせずそう返す。
儀狄も杜康もディオニュソスも、これらはみな酒の神だ。
「おいおい、よく言うぜ。…で、なに作ってんの?」
「チャプスイだ」
「チャプスイ? 聞いたことないけど、冬児は知ってる?」
「ああ、たしか野菜や肉のごった煮かなんかじゃなかったか?」
「まぁ、だいたい合ってる」
チャプスイ。
漢字では雜碎と書く。
八宝菜によく似たこの料理の生まれにはちょっとした逸話がある。
清の時代の中国。李鴻章という重臣が外交のためアメリカへ渡った時のこと。
異国の高官をもてなすためアメリカ当局は贅沢なフランス料理を用意したのだが、高齢の李鴻章は食べなれない西洋料理には食指を動かさなかった。
そこでチャイナタウンにいる華僑の料理人を呼んできて中国料理を作らせたのだが、本場の中国で山海の珍味に食べなれている人の舌にはとうてい合わない。
だからといってなにも食べないわけにもいかないため、出てきた料理をすべて大鍋にあけ、ごった煮を作らせると、これが非常に美味しかったらしく「好吃、好吃(おいしい、おいしい)」と満足したという。
この話が評判になり、それ以降アメリカの中華料理屋では菜譜に李鴻章雜碎と称するごった煮を載せるようになったとか――。
「――現在では宴会用にいったん作られた物を材料にこしらえたごった煮をのことを、特に李鴻章雜碎と呼ぶそうな」
「へー、贅沢だな」
「ん? こっちの圧力鍋ではなに作ってんだ?」
「スープ用に細かく刻んだ野菜を入れて煮てる。ほぐれたらペースト状にして、白湯と混ぜれば片栗粉なしで羹・・・、とろみスープができあがる」
「なんか手伝おうと思ったけど、その必要はないみたいだな」
「ああ、だったらそのとろみスープ作りをお願いしよう。もう少しで煮あがるから、それをそこのフードプロセッサーにかけてくれ」
「わかった」
「へへ、じゃあ俺は自分の腹ごしらえをしとくぜ」
勝手知ったるなんとやら。どこからか探り出したパックの中身をコップに注ぐ冬児。
ツンと鼻を突く香気。日本酒だ。
「あ、こら」
「せっかく寮母さんがお休みなんだ、たまにはいいだろ」
そう言って中身を美味そうに口にふくむ。
「酒が、好きみたいだな。二人ともいける口か?」
「ま、ほどほどにたしなむ程度かな」
と、これは春虎。
「俺も」
と、これは冬児だが、すかさず。
「うそつけ、飲兵衛」
と春虎のつっこみが入る。
「……呪術に関わる生活をしていると、めったに飲めない酒を口にする機会がある。それだけでも陰陽師を目指す価値はあるだろうなぁ」
「おいおい、いくらなんでもそりゃないだろ。てか、今までになんかそういう呪術がらみの珍しい酒でも飲んだことあるのか?」
「そうだな……、いつぞやの重陽の節句に貴船山で飲んだ菊酒は実に美味かった」
重陽の節句。
陰陽思想では奇数は縁起の良い陽数。偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日を節句と称した。
しかし五行相剋相乗。相剋も度が過ぎれば良くないように、おめでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いもしていた。
中でも一番大きな陽数である九が重なる九月九日を、陽が重なる重陽の節句と定め。
この日は強い香りで邪気を祓い、長寿をもたらすとされる菊の花を飾ったり、湯船に菊を浮かべた菊湯に入ったり、菊を詰めた菊枕で眠ったりといった、菊をもちいたまじないをさかんにおこなった。
こんにちでいう乙種呪術である。
「乙種は乙種だが、なかなかどうしてあなどれないものもある」
「へー、知らなかった。て、九月九日ってこの前じゃん。あー。なんもしなかったな」
「おいおい春虎。重陽の節句については乙種呪術の授業で習っただろ、忘れたのか?」
「……そうだっけか?」
「まったく、そんな調子だとまた夏目にどやされるぞ」
「夏目は関係ないだろ~、夏目は」
(土御門夏目か……。どんなやつか、ちょいと聞いてみるか)
「そういうえば彼もここの寮住まいだったな。昼間あいさつしたは時はずいぶんとつっけんどんな感じだったが、いつもああなのか?」
「あー、あいつ人見知りで友だち作るのとか苦手なんだよ。悪気はないんだ、まぁ、無愛想な猫みたいなもんだと思って接してくれよ」
「猫か、たしかにそういう雰囲気だな。あの艶やかな黒髪といい、さしずめ黒猫ってとこか。あ、そこの胡椒とってくれ」
近くにある料理胡椒を手渡す春虎。
「黒猫か、あいつにぴったりかも。……あのさ、もっとぶっちゃけて言うと、あいつのあれって土御門の次期当主とか、他にもいろいろあって、自分を守るために無意識にそうしてると思うんだ。だから仲間だと思えば途端に明け透けになる。根はけっこうガキだし、その分単純なところもあるんだよ。ほんとは面白い、良いやつなんだ。だからあんま誤解しないでくれな。……て、あー、おれなに言ってんだ! なんか言葉がまとまらねぇ」
伝えたいことを上手く言葉にできず頭をかく春虎。
(こいつ、良いやつだな)
素直にそう感じた。
「ああ、わかった。まぁ、名門名家の御曹司なら損得勘定や、よからぬ企みを抱いて近づいてくる輩も多いだろうし、少々人見知りなくらいでちょうどいいさ」
「それだけじゃ、ないんだけどな……」
「うん?」
「例の噂さ。知ってるだろ」
「おまえとできてるって話か」
「ちげえよッ! なんなんだよそれは!?」
「いや、富士野さんたちがそんなことを……」
「忘れろっ、そんな根も葉もない噂はすぐ忘れるんだっ! 噂ってのはあれだよ、夏目が夜光の生まれ変わりってやつ――」
土御門夜光の生まれ変わり。
そう信じる者たちが夏目の身を目あてに、たびたび接触してくる。
狂信的な者など、強引に拉致しようとして呪術のやりとりにまでなることもあった。
つい最近も陰陽塾内に出入りしていた呪捜官の一人が夏目を狙い、それを春虎たちが食い止めるとう騒動が起きた。
まさか本当にそこまでのことが起きていたとは――。
春虎の話を聞いて呆れるとともに、怒りが込み上げてきた。
連中が北辰王と呼び、崇め奉る土御門夜光。
戦時中の偉人を現代に連れて来たとして、いったい彼になにをさせようというのか?
北辰王が覚醒すれば、それだけで今の陰陽師の地位が向上するとでも?
やっかいな霊災を鎮めることができるのは陰陽師だけだが、そもそも日本を霊災多発国にしたのはその陰陽師・土御門夜光その人だ。
そんな人物を持ち出してきて霊災関係のすべてを解決させたとしても、マッチポンプ以外のなんでもない。
そう簡単に一般の人々の賛同など得られるものか。
北辰王に陰陽術をもっと高みに導いてほしい?
自分自身の意志と力で努力も修練もせずに上達したいなどと、ふざけるにもほどがある。
陰陽師としての矜持はないのか。
北辰王を純粋に思慕しているから?
それならばなおのこと軽挙妄動を慎み、切磋琢磨し。尊敬する北辰王に軽蔑されないようなおこないをするべきで、子どもに手を出すなど言語道断だろう。
そうだ。だいたいどんな理由があろうと、いい歳をした大人が未成年に危害をくわえていいわけがない。
「……同じ釜の飯を食う仲間をつけ狙うやつは、ゆるせないな」
「だよな。へへへ。あんたとは気が合いそうだ」
「なぁ、飯まだ?」
「冬児、おまえ飲んでばっかいないで少しは手伝え」
「なんか手伝うことなんかあるのか?」
「いや、ない。もう少しでできあがるから口さみしいならこれでもつまむといい」
そう言って冬児に差し出した小皿には、細かく千切りにされたきゅうりとにんじん、鶏肉の入ったもやし炒めが盛られてある。
「醤油とゴマ油で軽く火を通しただけだが美味いぞ。酒のつまみにも飯のおかずにも合う」
「なるほど、たしかに美味そうだ。こりゃあ酒が進むねぇ」
「あんまり飲みすぎんなよ」
「わーてるって」
「……さっきの呪術がらみの酒の話に戻るが、世の中にはたくさんの神秘の酒がある。節句の菊酒や屠蘇くらいなら自分でもこしらえることができるが、もっとレア物。アムリタ、ソーマ、ネクタル、天甜酒に八塩折之酒といったの霊酒の類はいまだに飲んだことがない。中でも一番飲んでみたいのが……」
「飲んでみたいのが?」
「神便鬼毒酒」
ブフーッ!
「わ、きたねーな。なにやってんだよ」
口にふくんだ酒を盛大に吹き出してむせかえる冬児。
「ケホッ、ケホッ。……い、いや、ちょっと変なとこに入っただけだ。わりぃな」
「そういえばこのチャプスイにも呪術じみた逸話があったな。いわば真の李鴻章雜碎とでも呼ぶべきか――」
食事というのはたんなる栄養摂取の一過程ではない。
動植物を殺し、命を奪い、その魂を吸収する一種の儀式。呪術の面を持つ。
料理の素材である動物や植物に細胞レベルで残留した魂と、調理する人間から発散されて食べ物にうつる気が消化器官を通じて食事する人間の魂に吸収される。
同様の現象は逆方向にも起こる。
美味しそうな食べ物が目の前に並ぶ。それを見てうまそう、食べたい、などと思う。
そう食欲をもよおした人間の気は欲望とともに対象物に投影される。
その余韻が残留するからこそ、残り物料理には独特の味が生まれる――。
「――そのように実際の食卓に上がり、人の目や箸にさらされた食べ物には人間の五味とは異なる味わいが生まれるそうだ。これこそ李鴻章が実際に口にした宴会料理の残り物で作ったチャプスイで、稀代の食通たちの中にはこの魂の味つけがわかる者がいるとか。この真・李鴻章雜碎の作り方は犬神作成といった巫蠱の術理にも通じるものがあるから、陰陽師としてはとても興味深いものが、……どうしたんだ春虎、なんか顔が死んでるぞ」
憮然とした表情で固まっている春虎。
「あー、ダメダメ。こいつ呪術とかそっち方面は素人同然だから」
「そうなのか?」
「あ、ああ。おれつい最近まで普通の学生してたんだよ――」
あれこれと長話をするうちにできあがったチャプスイは寮生たちにはおおむね好評で、残るようなことはなかった。
夜。
陰陽塾男子寮の一室。
急ごしらえで部屋の隅に作った祭壇の前で札に文字をしたためる秋芳と、ベッドの上で携帯ゲーム機をいじる笑狸の姿があった。他の寮生との相部屋になることも考えていたが、部屋の数に余裕があるらしく、こうして二人で一部屋がもらえたのだ。
女子寮担当の笑狸のほうは笑狸のほうで首尾よくことを収めたらしい。
秋芳はなにをしているのか?
紙銭を作っている。
紙銭とは道教でもちいる供物で、神仙に祈願したり護符を作る時に燃やす「あの世」で使えるお金で。この紙銭は燃やすことで天界や冥界に送金され、受け取ったむこうの神々がいろいろと便宜を図ってくれるという仕組みだ。
これをおこたるといざという時に力を貸してくれない。具体的には道教ベースの術が発動しなくなるなどのこまったことが起こるので、非常に大事である。
紙銭には金紙、銀紙、冥銭など様々な種類があるが、秋芳が作成しているのは、そのいずれでもない。
一文字一文字に自身の呪力を込めて綴った、特製の紙銭。例えるなら宝石のようなものだ。
できた紙銭を両手で捧げ持ち、玉皇大帝以下、天界の神々へ奉献する祭文を唱える。
すると紙銭は音もなく燃え上がり、灰も残さず消滅した。
これで儀式は完了だ。
秋芳のこのおこないは現代の陰陽術の観点で見たらかなり奇異。異質に見えるだろう。現代の呪術と夜光以前の呪術の大きな違い。それは呪術という技術から宗教色を極力排除したことだ。
呪術の前提条件から信仰心の類を切り捨てたからこそ、元来曖昧模糊としていた呪術の因果性を明確化することができた。これはその後の呪術の技術的発展という面において実に画期的なことだった。
これにより術式の簡易化や普遍化。呪術を万人が学べ、あつかうことのできる技術になったといっても間違いではない。
もっともそれにより呪術の主たる目的だった、ある系統のスキルや方法論を、その体系の中から除外することになってしまったのだが……。
賀茂に伝わる陰陽術や連の呪禁術にはまだそれらが残り、伝わっている。
紙銭を供え終えた後も、符を持ち出し、なにやら別の作業にかかる秋芳。
「あれ? まだ寝ないの?」
「ああ、土御門夏目の監視や警護用に式神を作ろうと思ってな」
「ふ~ん、警護ねぇ。真面目にやる気になったんだ」
「なにを言う。俺は最初から真面目だ」
春虎から聞いた夜光信者の襲撃。そのようなことが実際にあった以上、手をこまねいているわけにはいかない。
とりあえずなにかあった時のために、離れた場所からでも夏目の居場所や状態がわかるようにしておきたい。
(こういう場合、小さな虫の式神をコッソリ忍ばせるのがセオリーなんだが、相手はあの土御門夏目。周りに異質な気があればすぐに気づかれるだろう。なまなかな穏形ではダメだ。あいつ自身の髪の毛や爪でもあればより巧妙な偽装ができるのだが……)
髪や爪はなにかと厭魅に利用されがちなので、その処分に細心の注意をはらう陰陽師は多い。部屋の床やゴミ箱をあさって見つかる可能性は低いだろう。
思案する秋芳をよそにひと通り楽しんだ笑狸がゲーム機を置いてTVを点ける。
陰陽庁の広報番組はいくつかあり、ゴールデンタイムなどによく絵になる霊災修祓の様子や、見映えの良い若年の陰陽師などにスポットをあてた内容の番組を放送している
特に最近は大連寺鈴鹿という史上最年少で陰陽一種を取得し、十二神将の一員となった少女が『神童』などと呼ばれ、もてはやされている。
今流れているのはそのような類のものではなく、霊災の発生状況についての情報番組だ。○時○分ごろ、××でフェーズいくらの霊災が発生。○時○分ごろに修祓完了。
霊災発生地点の予測。最近の霊災の傾向と対策などの事柄が事務的なアナウンスされる。
霊災ニュース番組を確認して一日を終えることを日課にしている陰陽師は多い。
「……おかしいな」
「おかしかったら笑ったら」
「ハッハッハって、違う! ……どうも妙だと言っているんだ」
ここ最近発生した霊災の種類に偏りがある。
「あきらかに黄泉還り系の霊災が多い」
以津真天、餓鬼、狂骨、舟幽霊、骨鯨、目競……、先月秋芳が倒した以外の纐纈鬼の出現報告まである。
「言われてみれば、タイプ・スペクターが多いけど、て。フェーズ3の霊災多すぎ! そっちのほうが驚きだよ」
タイプ・スペクター。俗に言うところのアンデッド・モンスターだ。いずれも伝承にある「死んでからよみがえった」怪物に類似する特徴をもった動的霊災。あるいはそれらの生成りをこのように分類している。
ちなみに現在の汎式陰陽術では『幽霊』的存在を通常とは霊相の異なる特殊な霊災として定義している。
あまりに霊力の強い人間や様々な呪的条件がそろった場合、人は死後、その残留霊体が特殊な霊災の核となるのだ。
「ああ、たしかに、それもあるな」
とかく隠蔽、秘密主義をやり玉にあげられがちな陰陽庁だが、ここ最近は開かれた組織であることをさかんにアピールし、国民に理解され親しまれるよういそしんでいる。大連時鈴鹿のアイドルじみた活動もその一環だ。
公表された数字に嘘偽りがないと信じているが、それならそれでこの霊災数は少し異常かも知れない。地震や台風の多い「あたり年」だと思えばそれまでだが、やはり気になる。
(気になるといえば昼に視た星々の幻視も気になる。倉橋京子。あの娘はいったい……)
どうにも気もそぞろだ。今日はもう寝ることにする。
自分のベッドに横になる
すると当然のように笑狸が横に寝そべり話しかけてくる。
「クラスの子や女子寮の子をざっと見た感じだと、あの京子ちゃんよりもおっぱいの大きい娘はいないみたいだね」
「そうか。暑苦しいぞ、自分のベッドで休め」
「もっとよく観察して、こんど京子ちゃんに化けてあげるよ」
「いや、そういうのほんといいから」
「足のきれいな子もチェックしてみるよ。秋芳ってば美脚の女の子好きだからね~。あ、じゃあ今夜は脚のきれいな子に化けて添い寝してあげる」
「今夜『は』てなんだ『は』て。まるでいつもそういうことをさせてるみたいだろうが。暑いんだから向こうへ行け」
「誰がいい? キャンディス・スワンポール? テイラー・モムセン? コン・イエンソン? 戸松遥?」
「最後の一人だけジャンルちがくねぇか? つうか化けるな」
「ちがくないよ、きれいな脚でしょ」
「まぁ、そうだな」
「じゃあ脚が三本ある戸松遥に化けてあげる」
「どこの都市伝説に出てくる妖怪だよ! 多けりゃ良いってもんじゃないから!」
「それじゃ化けるよ、変――」
「禁術則不能発、疾く!」
「ぶはっ!?」
術を禁ずれば、すなわち発することあたわず。
発動しようとした変化の術が強制的に禁じられる。
その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、結局同じベッドで就寝する二人であった。
たわむれ
陰陽塾。
誰もいない早朝の教室内。
窓ガラスに映った自分の制服姿をじっと見つめる秋芳の姿があった。
狩衣を模した陰陽塾の制服。色は男子が黒で女子が白。
祓魔官が漆黒の装束を身に纏うことから、闇鴉の異名をもつ、こんにちの陰陽師たちだが、この制服姿も見ようによってはカラスを彷彿とさせる。
(はたから見るぶんにはたいして感慨もわかなかったが、いざ自分で袖を通してみると、この制服もいいもんだな。レイヴン、か……)
人を上まわる雑食性の生き物で残飯や死骸を漁るカラスの姿はいかにも不潔で不吉な印象がある。だが反面で伝説や神話上のカラスは神の使いとして描かれることが多い。
北欧神話では主神オーディンの斥候として、ギリシャ神話ではアポロンに仕え、日本神話では八咫烏などが有名だ。
黒と白、陰と陽。光と影……。陰陽師をカラスになぞらえるのは、たしかに合っているのかもしれない。
なにより養子の身といはいえ賀茂の性を持つ自分には縁がある。
賀茂氏の祖である賀茂建角身命の化身こそ、すなわち八咫烏だとされるからだ。
「あれ? ずいぶん早いんだね秋芳君」
そんなことを考えている秋芳に声をかけてきたのは眼鏡をかけた、いかにも育ちの良さそうな男子生徒だ。見覚えがある。
(こいつはたしか百枝――)
「ああ、おはよう。君はたしか百枝……天馬くんだっけ?」
「天馬だよ! ペガサスって、それどこの聖クロニカ学園理事長!?」
さすが眼鏡キャラ。つっこみにキレがある。
「おっと、すまん。人の顔と名前をおぼえるのはどうも苦手でね、まだあやふやなんだ」
「もう一週間経つんだから、いいかげん覚えてよ。ていうか絶対わざとでしょ、今の」
秋芳たちが入塾してから一週間が経過した。
ひと通りの授業を受けたが、座学に関しては特に問題はない。秋芳にとって、すでに知識として知っていることのおさらいにすぎなかったからだ。
ただ意外にも一部の実技には手を焼いた。
符の作成と簡易式の操作だ。元来、呪符による安定や増強に頼らず、自前の呪力で術を行使することを好む秋芳にとって、木行符だの火行符だのと一枚一枚書くのは性に合わない。さらに筆画を上手く正確に書けたかも採点の対象になるので、基本もそこそこに自己流で通してきた身にはこれまたむずかしい。書道教室に通うような気分で美しい字を書くよう努めている。
簡易式とは陰陽師が使役する式神の中でも、もっとも初歩的な種類の式神だ。
形代と呼ばれる核に術者が呪力を注入して作り出すものだが、その簡易式を変化はなしで、ただそのまま動かすというのが存外めんどうだ。
汎式陰陽術と賀茂に代々伝わってきた陰陽術の式神使役法の差が如実にあらわれた。ひと言でいえばレスポンスが異なるのだ。
市販の人造式なら呪力を注ぎ込むだけで動くし、凝った式神を作りたいのなら、これまた自己流で作り上げるのだが『正式な作法』にもとづいて単純に動かすことが、これほど神経を使うものとは思わなかった。
もちろん慣れればどうということはないのだろうが――。
「一人でなにしてたの?」
「自分の制服姿に見とれてた」
「あはは、なにそれ」
「ん~、いや、陰陽塾の制服ってちょっと変わったデザインだろ? だから自分が実際に着るのはどうかな~、て思ってたんだが、思ってたより着心地が良くてな」
「そんなに変かな? まぁ、女子の制服はけっこう目立つみたいだけど」
「見た目はともかく、色々と凝ってるよな。わずかながら呪的防御が施されてて、見た目より丈夫だし、あちこちにポケットがあって呪具の類を持ち歩くのに便利だ」
「そうそう! 呪符とかいっぱい持てるから、これに馴れちゃうと普段着の時とか落ち着かないんだよね」
「笑狸のやつも着たがってたよ」
秋芳の使役式である化け狸の笑狸。彼(彼女)の立場はあくまで式神。塾内での行動は自由だが、厳密には塾生ではないため、制服は支給されていない。
「あ、そういえば笑狸ちゃんももう来てるの?」
「いや、寝てる。昼過ぎには来るんじゃないかな」
「そう……」
「残念そうだな」
「え、いや、あ、う、うん。まぁ、そうかな」
赤面して言葉をつまらせる天馬の様に思わず苦笑する。
この一週間で秋芳以上にクラスメイトと打ち解けた笑狸は、男子からも女子からも人気がある。もしここが陰陽塾という『お堅い』学び舎でなく一般の学園だったなら、今ごろ告白されまくっていることだろう。
いや、ひょっとしたらすでに何人か想いを伝えているのかも知れない。
狐狸精は天然の誘惑者なのだ。
「あいつに制服を貸してやったら喜ぶぞ」
「ふ、服の交換!? そ、それはなんていうか、倒錯的なプレイだね!」
「は?」
「おたがいの匂いとか、ぬくもりとか、なんかそういうのが、こうグッと来るよね!」
「え~と、天馬くん。君そんなキャラだったっけ?」
どうも色々と想像を駆け巡らせ、あらぬ方向に向かって妄想が進んでいるようだ。
「……な~に朝っぱらからイカガワシイ会話してるのよ、アンタ達」
いつの間に教室に来たのか、一人の女子生徒が会話に割り込んできた。
亜麻色の髪をハーフアップにし、下品にならない程度に薄く施した化粧が健康的な肌に良く似合っている。
倉橋京子だ。優等生である彼女も登校は早い。
「あ、おはよう倉橋さん」
「『あ、おはよう』じゃないわよ。朝から男二人だけでスケベな話なんかして、キモいわよ」
「き、キモいってそんな……」
「いや、スケベな話じゃなくて恋の話だよ」
「女の子の服の匂いを嗅ぐのが恋バナ? そんなのただの変態じゃない」
「信濃なる、千曲の川のさざれ石(し)も、君し踏みてば玉と拾はむ」
「え?」
「……たしか万葉集だったかしら。その歌がどうしたのよ」
「わ、すごい倉橋さん知ってるんだ」
「河原に転がっているただの小石でも、愛しいあなたがじかに踏んだと思えば大事な大事な宝物。宝石として私は拾いますよ。好きな人の触れた物、接した物すら大事にしたいと思う恋愛心理だよ」
「人の服の匂い嗅いでハァハァするのと、それは次元がちがうでしょ」
「いやいや、恋愛と匂いは密接な関係にあるんだ。そうちがうとも言い切れないぞ。たとえば夏目が自分の着ていた上着を寒いからとかけてくれて、その瞬間彼の匂いがほのかに香ったら、なんとも言えない心地になるだろう?」
「そ、それは……。そうね。て、なんでそこで夏目くんの名が出てくるのよ!」
「そりゃあ、なぁ」
「そりゃあねぇ」
目を見合わせる秋芳と天馬。
倉橋京子が土御門夏目に好意をよせていることは、はたから見れば一目瞭然だ。
「もう、この話はおしまいっ」
そう言ってきびすを返し、自分の席に向かった京子がクルリと振り返り秋芳に問いかける。
「ところであなた、今日も放課後は自主練?」
「ああ、そのつもりだ」
日々の学習や鍛練なくして上達などありえない。
生まれつきの能力差というものは確かに存在する。だがどんなに優れた天稟の持ち主でも、いっさいの努力や修練もなしに高みに昇ることなぞできるわけがないのだ。
歌でも運動でも芝居でもなんでも、その道のプロと呼ばれる人たちは普通の人が遊んだり寝てたりしている時間を練習に費やしているからこそ、プロの座にいられるにちがいない。
「実技室を使わせてもらって簡易式の操作練習をする予定だよ」
授業時間外であっても講師の許可があれば塾内の学習施設は最終下刻時間まで利用可能だ。もっとも一人一人の生徒がいちいち講師にうかがいを立てていては煩雑なため、この決まりはほとんど有名無実化していて、黙って居残り勉強をしていても特に注意されるようなことはない。
「あたしもつき合ってあげるわ」
「それはまた、どういう風の吹き回しだい?」
「べつに、ただの気分よ。こ~んな可愛い子が勉強見てあげるんだから、感謝なさい」
「ああ、嬉しいよ。放課後を楽しみにしてる」
放課後の実技室。
実技室といっても地下の呪練場ほど凝った造りはしていない。
室内の呪力・霊力が外に漏れることがないよう、扉や窓の上部に注連縄や御幣で結界が張られている以外は一般の教室と同じような造りになっている。
机の上に人の形をした紙片が二枚ひょこひょこと動いている。太い十字架の上部だけを三角形にしたような切り抜き。人形と呼ばれる種類の形代。簡易式だ。
これを核に様々な形状に変化させることができるのだが、今はそのままの姿で動いている。
動かしているのは秋芳と京子だ。二人とも印を結び呪力を送っている。
「あらなによ、あなた普通に動かせるじゃない」
「連日練習してるからね、だが普通じゃダメなんだ。俺は賀茂の人間だからな」
「……たしかにそうね、わかるわ」
名門としての矜持。陰陽道の大家である倉橋の家に生まれ、その家名に恥じないよう教育を受けた京子にはその気持ちがよくわかった。
そんな京子の思いを察した秋芳がつけ加える。
「いやまぁ、そんなたいそうなものじゃないけどな。ただ伸び代のあるうちはがんばりたいだけさ」
ふと、なにかを思いついた秋芳がさらに呪力を送る。ひたいに向け剣指(人差し指と中指を立て、薬指と小指を曲げて、その指先を親指で押さえる)を立て、集中し念を凝らす。
(……点滴穿石、とく心を細くせよ。水滴のみが石に穴を穿つ――)
糸のように細く、錐のように鋭く研ぎ澄まされた水滴が巌を刺し貫く。
そのような情景を思い浮かべて、より細部まで呪力をめぐらせる。
すると簡易式の動きに躍動感が生まれ、節に合わせて踊っているかのような動きをしだした。
「……なにこれ、銃で撃たれてのたうち回る人?」
がっくし。
肩を落とす秋芳。どうも自分のイメージ通りの動きにはならなかったようだ。
「『フラッシュ・ダンス』の踊りのつもりだったんだがな。ホワット・ア・フィーリンっ♪ てダンスのシーン」
「昔の映画? あいにくと知らないわね。面白いの?」
「お話は良く言えば王道、悪く言えば陳腐なサクセスストーリー。けどダンスシーンのカメラワークと音楽は評判良いよ。新宿の映画館でリバイバル上映しているから、時間に余裕があるようなら観に行くのを薦めるよ」
「そうねぇ、映画なんてまともに観たのずっと前だし、たまにはいいかも」
倉橋家の令嬢として茶道や華道や書道、さらに日本舞踊まで習わされていた京子だが、陰陽塾に入塾してからは呪術の習得に集中するという名目で、ようやく習い事の時間を減らしてもらうことができた。
そういう意味で今は『時間に余裕がある』と言える。
ふいに京子の中に茶目っ気がわきあがる。
「えい」
京子のあやつる簡易式が秋芳の簡易式の足を払い、ころばせる。
「む」
すぐに起き上がらせ、お返しとばかりに背後に回り、机から落とそうと押しやる。
「甘いわよ」
机際まで寄ったところで今度は京子の式が身を入れ替えようとするのを、秋芳の式がそうはさせじと妨害する。
「――――っ!」
「――――っ!」
二人の式はまるで動きの巧みな紙相撲のような様を見せている。
しばらく押し合い圧し合い、いなしいなされの攻防が続き、同時に床に落ちた。
「あははっ、面白かった。式神でこんなふうに遊んだのなんて始めてよ」
「俺もだ。なんか子どもの遊びみたいだな」
!?
懐かしさがこみ上げてくると同時に、胸を針でつつかれたような感覚。続いて違和感がわき上がってきた。
(なつかしい……。ずっと昔、幼い頃にもこんなふうに誰かと遊んだ気がする。だが誰かって誰だ? 俺はあいつに、笑狸に会うまではずっと一人だったんだぞ? そんなことはありえない!)
大和葛城を本拠とする賀茂の里は連家に生を受けた秋芳は義務教育もそこそこに、もの心ついた時から修行修行の毎日をおくった。
一年の多くを山に籠もり。木々を飛び、林を駆け、精神を練り、己の霊力を高め、それを呪力に変える術を覚えた。
年端もいかない子どもの体に分不相応な高い霊力。山野にあふれる魑魅魍魎らにとっては好餌に見える。同い年の子どもたちが安全な家や学校で遊んでる時期、秋芳はすでに霊災を相手に命がけで戦っていた。
同い年の子どもらが家族みんなで遊園地や旅行を楽しんでいる時、秋芳はつねに滑落の危険と隣わせの山中で滝打ち、火渡り、あらゆる忍苦の行を耐えていた。
餓えた熊や野犬の群れと遭遇した時、ヒダル神に憑かれた時、その他あらゆる自然や霊災の猛威にさらされてきた……。
死を覚悟したことも一度や二度ではない。
本人の意志以上に、才能の有無が実力を決める。というのが呪術界の定説らしいが、冗談じゃない。あまたの死線をくぐり抜けて修得したこの力。才能なんてチンケな言葉でかたづけてくれるな! と秋芳は言いたい。
そして長い山籠もりを終え、里に帰った後に待っていたのは畏怖と嫉妬に満ちた人々の視線だった。
優れた力も度が過ぎれば驚異や恐怖以外のなんでもない。
父親からも怪物を見るような目で見られた。母親は早くに亡くし、顔も知らない。
さしもの秋芳も人肌が恋しい。笑狸に出会ったのはそんなおりだ――。
「あー、ほんとうに楽しかったわ。それだけ動かせるようならもう練習の必要ないでしょ。あ……、ねぇ。あなた射覆はできる?」
部屋のすみに置かれた射覆用の箱を指差して、京子はそう訊いてきた。
射覆とは箱や袋の中に入れた物がなんなのかをあてる陰陽術で、賀茂忠行という平安時代の陰陽師がこれの名人だったと伝えられる。
また安倍晴明を彩る説話の一つに、このような話がある。
蘆屋道満という播磨の国の法師が晴明と術くらべをするため京に現れ、二人は天皇の御前で勝負することになったのだが、その内容というのが箱の中に隠されたものを言いあてるという射覆だった。
しかし道満はあらかじめ朝廷の役人を買収し、箱の中身はミカンが十六個だと知っていたという。
勝負のさいに道満はミカン十六個と答え。それに対して晴明はネズミ十六匹と答えた。
内情を知っていた役人たちは晴明の不正解・負けを告げ、箱を開けず。道満が自信満々で開けて見ると、あら不思議。
箱の中から十六匹のネズミが飛び出して来たそうな。
この後、負けを認めた道満は晴明の弟子になったという――。
「ああ。できることはできるが、そんなに得意じゃないな」
「ちょっとやって見せて」
「よし、じゃあむこうをむいて目をつぶっているから、なにか入れてくれ。先に言っておくが俺にバレないように入れるんだぞ。射覆の術はやると決まった時から始まっているんだ」
「のぞき見するのも術のうち、でしょ。わかってるわ」
陰陽術の教本に載ってある射覆の項にはそういう一文がある。京子はそのことを言っているのだ。
後ろをむいた秋芳だが、言葉通りに目を閉じることはしなかった。八方目を使い顔を動かさずに窓ガラスに映る京子の姿を観察する。
ズルだ。
だがこれもまた一つの呪術。乙種呪術である。
部屋の棚の中には射覆用に使う小道具がいくつか置いてある。京子はそれらをしばらく物色してから、ある物を箱に入れフタをした。
「さ、あててみて」
「うむ」
京子が箱に入れたのは、「さるぼぼ人形」だ。なんでそんな物がこんな場所に、と一瞬思った秋芳だったが、あれも魔除け厄除けの呪具といえなくもないので、陰陽塾にあっても確かにおかしくはない。
「真っ赤なさるぼぼ人形」
「はい、ハズレ♪」
京子がフタを取って横に置く。箱の中には白いハンカチが一枚あるのみ。
「なぬ!?」
「ふふ、あなた窓ガラスごしに見てたでしょ。それがわかったからひっかけたの。大成功ね」
赤くて目立つさるぼぼ人形を見つけた瞬間に思いついた。式符を人形に変化させて入れる時に、こっそりハンカチを忍ばせる。フタをした後で式符の変化を解除してフタの裏側に貼りつかせ、あたかも最初からハンカチが入っていたかのように見せたのだ。
ちょっと調べればすぐにわかるトリックだが、言いあてにハズレたのは事実だ。
「ねぇ、真面目な話。こういうのじゃなくて、正真正銘。ほんものの射覆ってのはどういうものなの? 透視するわけ?」
「あれは透視ではなく見鬼の一種なんだ。対象の気を感じ見て、それがなにかをあてる。どんなに距離が離れ、物で塞がれていようが、対象が生物だろうが無生物だろうが、すぐれた見鬼はそれを知ることができる」
「そんなことが……」
「できるんだ。理屈の上じゃね。これに関しては俺なんかより倉橋塾長に訊いたほうが良い。彼女はそっち方面のプロだから」
「前に訊いたわ。でもまだ早い。こういうのは段階を踏んでおぼえていくもの。って教えてくれなかったの」
「そういや射覆の授業は二年からだな」
「でも一年でやるのは基礎的なことだけだし、正直退屈なのよね。どうせならすぐにでも、もっと専門的なことを学びたいの」
春虎あたりが聞いたら卒倒しそうな科白だ。なんとも優等生らしい。
「射覆に関してはひたすら見鬼の力を磨け。としか言えないな。小手先の技術どうこうでどうにかできる類の術じゃないし」
「そう…、まぁいいわ。ちょっとあたしもやってみるから箱になにか入れてちょうだい」
それから何度か射覆に挑戦する京子。秋芳の方もふざけずにつき合う。わかりやすいよう、色が濃かったり形に特徴のある物を入れてあてさせる。達人は紙に書かれた文字まで読み解くとされるが、さすがに初心者レベルでそれは無理だ。
「賀茂の口伝に『年毎に咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを』という歌がある。実体のある物ではなく、対象の〝気〟そのものを感じるんだ」
「…なかなか含蓄のある歌ね。わかったわ」
京子の正解率は悪くなかった。さすがは倉橋の、星詠みの塾長の孫だと改めて実感する秋芳。気を視る力以上に勘の鋭さを感じさせる。
「ふぅ……、さすがに疲れたわ。て、もうこんな時間じゃない! そろそろ帰りましょう。なんだかあなたにつき合うつもりが、途中からあたしの方につき合わせちゃったみたいね、ごめんなさい」
「いや、そんな謝らなくてもべつにいいよ。楽しかったから気にしないでくれ」
「そう言ってくれると助かるわ」
夕暮れに染まる塾舎。黄昏が赤い影が落し、独特の陰影が廊下を彩る。
昼でも夜でもない狭間の時。陰と陽が入れ替わるわずかな刻。
逢魔が時。陰陽師ならば警戒し忌避すべきこの魔性の時間帯が、秋芳はきらいではない。
「さっきの映画の話なんだけど」
「うん?」
「明日の祝日に観に行くわ」
「それは良い。思い立ったが吉日だ」
「でね、思い出したんだけど、あたしって他の塾生よりもあなたに一日早く出会ってるでしょ」
「ああ、そうだな」
忘れもしない。秋芳が京子と出会ったのは入塾前日の代々木公園でだ。
「でも、あたしあの時にあなたの名前を聞きそびれてるの」
「そういえば、そうだったかもな」
「みんなより一日早く会ってるのに、名前を知ったのはみんなと同じ。な~んか納得できないわ」
「まぁ、わかる気がする」
「一日ぶんの遅れを取り戻してバランスとりたいの。あなたも明日つき合って」
その理屈はいまいちわからない。だが、予定もないのに女の子からの誘いをむげにする理由もない。まして相手は倉橋家の才媛。こんなお嬢様と同じ時を過ごせるだなんて実に幸運なことである。
「喜んでつき合うよ。……デートだと思っていいのかな?」
「ええ、そう思ってもかまわないわよ。あ、でも笑狸ちゃんも一緒に行きたいて言ったら置いてきちゃダメだからね。そんなのかわいそうじゃない」
「十中八九ついてくるぞ、あいつ」
「かまわないわ。三人でデートしましょ♪」
それはデートといえるのだろうか? つうか夏目を誘わなくていいのか?
そんな疑問を抱かずにはいられない秋芳であったが、同級生と一緒に休日を過ごすというのは今まで経験がない。純粋に楽しみだ。細かいことは考えないようにした。
夜。
陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。
「ボクも行くよ」
案の定、笑狸はそう言った。
「俺が倉橋のお嬢様と二人きりの時を過ごす邪魔をするつもりか」
「邪魔するつもりなんてないよ。ただ一緒にいるだけ」
人、それをデートの邪魔という。
だが、秋芳は笑狸の同行をあっさりと認めた。
(あの感じだとむこうも『恋愛感情ありの二人きりのデート』を求めてるわけじゃなさそうだし、まぁいいか)
「わかった。好きにしろ」
「は~い。……それじゃあ、さ」
「うん?」
「秋芳、オ○ニーしちゃう★」
「『オ○ニーしちゃう★』じゃねえよっ! なに藪から棒にとんでもないこと言い出すんだおまえは!」
「『ナニ藪から棒』て、なんか卑猥な言葉だね」
「卑猥なのはおまえだよ!」
「だってデートの前は抜いとけって、キャメロン・ディアスの映画であったじゃない」
「あー、あったな『メリーに首ったけ』だっけ? あのシーンは笑えたわ」
「だからボクが久しぶりに秋芳が抜くのお手伝いしてあげる♪」
「いらんわ。つうか『久しぶり』てなんだ『久しぶり』て。久しいもなにもおまえとそんな行為したことなんか過去に一度もない! 誤解を招くような言いかたはよせ」
「誰に化けてして欲しい? ヴァネッサ・パン? エリン・ハザートン? ケイト・アプトン? それとも……、ボクとこのままでしちゃう?」
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令!」
「むにゃっ!?」
教科書に載ってあった誘眠の術。今まで使ったことのない汎式陰陽術だが、ものの試し。笑狸を黙らせるついでに使ってみた。
目の前に呪符をかざされ、たちまち昏倒する笑狸。
「まったく、とんだ色狸だ『東京レイヴンズ』は健全なライトノベルだぞ。エロ・下品な話がしたいなら〇〇や××の世界にでも行け」
「う~ん、むにゃむにゃ。……ダメでしょイッセー、お●んぽこんなにエレクトさせて来たら、あらあらうふふ、イッセーくんのおペ●ス逞しすぎて、お姉さん壊れちゃう」
「いや『ハイスクールD×D』だってそこまで露骨な表現してないからね! つかおまえ起きてるだろ、俺の術に抵抗しただろ!」
「……えへへ、狸だけに狸寝入り?」
「上手いこと言ってんじゃねぇよ!?」
その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。
憑獣街 1
新宿御苑の一角。
「うん、悪くなかったわ。あなたの言うとおり音楽とダンスのシーンが素敵だったわね」
映画館から出た後。人、人、人。人のごった返す雑踏を抜け、都内でも屈指の大庭園で息抜きをする秋芳、笑狸、京子の姿があった。
「そうか、退屈しないですんだのなら良かったよ」
「主役の子、アレックスてば凄いわよね。昼は工場で、夜はバーで働きながらプロを目指してるなんて、バイタリティあり過ぎ。あたしも負けてられないわ」
「でもあの子ってエロっ子だよね~。レストランのシーンのアレとかさ」
「もう、笑狸ちゃんてば、どこに注目してるのよ」
「秋芳はああいうの好き?」
「俺は服を着たままブラを外すシーンにグッと来たな」
「変態!」
「変態!」
芝の広がるイギリス風景式庭園。バラの花壇とプラナタス並木を中心とするフランス式整形庭園。和の気品あふれる日本庭園――。
水と緑のあふれる庭園を三人でぶらぶらとそぞろ歩く。
そう、三人で。
(笑狸以外の誰かとこうして話しながら歩くのはひょっとすると始めてなのかもな。なんだか不思議な気分だ)
「……ねぇ、あたし新宿御苑て始めて来たんだけど、ここってとっても良い気が満ちてるのね。すごく綺麗」
陰陽師の見る世界は常人が見ることのできる世界とは異なる様相をもつ。
見鬼の力を持つ京子には、あたりに満ちる気が清らかで澄んだものとして「視」えた。
「さもありなん。なにせここは四神相応の地に通じる造りをしているからな」
「え? そうなの?」
東に川(青竜)
西に大きな道(白虎)
南に大きな池や溝(朱雀)
北に山(玄武)
御苑の中央休憩所から見た場合、東には川ではないが上ノ池。西には御苑で唯一の駐車場。北にはツツジ山とモミジ山。南には京都の朱雀門を想起させる旧新宿門衛所がある。
かならずしも場所や地形が一致するわけではないが、見立てや連想といった〝呪〟をもちいればそう見える。
また北東・鬼門に位置する菊栽培所は立ち入り禁止区域になっており、裏鬼門・南西には玉藻池という、有名な妖怪を連想させる池が広がるのも、なにやら意味深で面白い。
「どうりで気持ちが良いわけね。ここになら一日中いてもいいくらい」
「いるだけで身心が清められるような気がするしな」
しばらく散策し、軽く食事をした後、帰る途中の街中。
「あれ? 夏目君!? キャー、どうしたの、こんなところで?」
声を上げる京子。
見ればそこには夏目に春虎、冬児、天馬。それともう一人、秋芳の見知らぬ少女の姿があった。
なぜか額に札を貼られ、冬児に背負われている天馬。なにかの罰ゲームだろうか?
「倉橋っ?」
「冬児? 天馬もなにしてるのよ? あ、そういえばメール来てたっけ。返信するの忘れてたわ」
あっけらかんとみんなの顔を見まわすと、少女に声をかける。
「あら珍しい、木ノ下先輩? またそんな格好して……。まさか夏目君にちょっかいだそうって言うんじゃないでしょうね? ダメですよ。夏目君は純粋なんだから、いつものノリで惑わしちゃ!」
木ノ下先輩と呼ばれた少女。肩のあたりでそろえられた柔らかな質感の茶髪に、派手にならず、それでいてしっかりとメイクされた目元。シンプルなデザインの白いコートと黒いレギンスが清潔そうな雰囲気を出している。
(笑狸に似てるな)
笑狸がいつも化けている定番の姿。秋芳はそれに似た印象を受けた。
「きょ、京子ちゃん!?」
びくぅ!
漫画のように身を震わせ、不思議なほどの動揺を見せる木ノ下。
「おまえら知り合いなのか?」
と、驚きの声をあげたのは冬児だ。
「先輩? まあね。化粧品の相談とか乗ってあげてるの。だからほら、すっごく可愛いでしょ? 男とは思えなくない?」
(なんだ、男だったのか。しかし確かに可愛いな。綺麗・美人というよりは可愛い・可憐。そんなタイプだ。これで巨乳の女だったら良かったのに)
(秋芳はおっぱいが大きければそれだけでいいんでしょ)
(人の心を勝手に読むんじゃない)
そんなやり取りをする二人をよそに、春虎、冬児、夏目らが呆然としてた表情で声をもらす。
「「「は……?」」」
場に妙な空気が流れ、一瞬の沈黙が走る。
「な、なによ」
それを破ったのは少女。否、木ノ下先輩と呼ばれた少年だ。
「なによ、なによ、なによっ!? なによ! 悪い!? いまや『男の娘』は、社会権を得てるんだからね! 誰かのことを好きになったっていいじゃない。非難されるいわれなんかないんだから!」
木ノ下少年が唾を飛ばして主張する中、茫然自失とする春虎。虚脱状態の夏目。放心した冬児が背負ってい天馬を落とし、いつの間にか穏形を解いたコンが主と同じような表情を浮かべ、立ち尽くしている。
どうも京子はこの場で言ってはならないことを口にしてしまったようだ。
「あ……、あら~」
そうと気づいて思わず自らの口元を押さえる。
「……なによ……なによ!? いいじゃない、男でも! こんだけカワイけりゃ文句なんかないでしょ!? そうよね、そうよね! 春虎君!? ねぇっ!」
木ノ下少年が春虎に詰め寄るも、まだ衝撃から覚めず、ただの屍のようになっている。
ふたたび沈黙が支配する。
(ふぅむ、これはあの少年が女子と偽り春虎と良い仲になろうとしていたところ、京子が真実を告げてしまったクチか)
(人間は不便だよね~、ボクみたいに完璧かつ自由に男女に変化できなくて。……て、あれ? あれれ?)
(どうした?)
(夏目っちの匂いが、前とちがうような……。これって……)
動物系使役式の嗅覚は鋭い。においで様々な情報を得ることができる。
「木ノ下先輩。いままで……すみませんでした」
その夏目が潤んだ瞳で木の下に語りかける。
「……わかります。とてもよくわかります。ぼく、先輩のこと誤解してました。まさか先輩も『同じ』だったなんて……。木ノ下先輩。ぼく、感動しました! まさか先輩にもそんな事情があったなんて! いままでのことは謝ります。先輩の友達にしてください!」
「は? は、はぁっ!? 冗談じゃないわ! 私は、私よりも綺麗な子なんかと仲良くしたくないの!」
「そんなこと言わずに!」
「いやよ、いやったらいや! 春虎君、助けて!」
「え、え~っと」
いまいち事態をのみ込めない京子が人差し指を軽くおとがいにあてて冬児に問いかける。
「どうしたの、これ?」
「帰る」
天馬を担ぎ直した冬児の口からは、ただひと言。それだけだった。
木ノ下純は怒っていた。涙が出るくらい、怒っていた。
なによ悪い! いまや男の娘は、社会権を得てるんだからね!
男の娘が男の子を好きになったっていいじゃない!
誰かに非難されるいわれなんかないんだから!
木ノ下純は悲しかった。涙が止まらないくらい、悲しかった。
最初はあんなに嬉しそうだったのに、男だとわかったら態度が変わるのはなんで?
男の娘だと好きになってくれないの?
なんで男の娘だとダメなの?
木ノ下純は怒り、悲しんだ。
ちがう。
そうじゃない。
わかってる。
私が男の娘じゃなくても春虎君は――でも女の子だったら――土御門夏目――私より綺麗で可愛い男子――私が本物の女の子だったら――夏目君――土御門の天才――私だって――私が――だったら――春虎君だって――私が――だったら――が――……。
変わりたい。
なりたい。
なんで私は――じゃないの?
(なら変えてやろう)
「え?」
声が、聞こえた。
(変えてやろう)
ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー
生臭い、獣の息遣いがただよう。
路地裏の奥から、ふたたび声が響く。
(変えてやろう)
ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー
路地裏? なんで私、こんな所に……。いつ来たの?
あの後、春虎君たちと……。
そう。そうだ。春虎君「ごめん」て言った。ごめん、て……。
私じゃあ……、今の私じゃあダメだなんだ……
(変えてやろう――)
ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー
声が、響いた。
頭の中で。
木ノ下純の頭の中に、なにかが入った瞬間だった。
ぜー ぜー ひゅー ぜー ぜー ひゅー
獣の気配が、あたりに満ちた――。
薄暗い部屋の中。
あきらかに屋内にもかかわらず土がむき出しになっている。
その地面から首が生えてた。
人の首ではない。獣の、犬の首だ。
体を土中に埋められているのだ。
ぜーぜー、ひゅーひゅー、ぜーぜー、ひゅーひゅー。
目を血走らせ、荒々しくも弱々しい呼吸を凝り返す。
弱っているのだ。
何日も食事を与えられず、死が迫っている。
一人の男が歩いてきた。齢は三十前後。背広姿の、どこにでもいる企業勤めのサラリーマン。といったいでたちだが、服からのぞく顔と手にある生々しい火傷の痕が痛々しい。「ちょうどいい塩梅だな」
衰弱しきった犬の姿を見て、火傷だらけの顔に満足そうな笑みを浮かべる。
男は一度部屋から出ると、すぐに戻ってきた。手には血のしたたる生肉とノコギリが握られていた。
生肉を犬の前に置く。
ぜーぜー! ひゅー! ぜーぜー! ひゅー!
犬の首が大きく動く。目の前の肉塊に食らいつこうと何度も歯を噛み合わせる。
最後の力を振り絞り、飢えを満たそうとする犬の首に男がノコギリの刃をあて――。
引いた。
ぜー! ぜー!
引いた。
ぜー! ひゅー! ぜー!
引いた。
ぜー ぜー ぜー ひゅー
男は無言でノコギリの柄を握り、引き続ける。
刃が肉を裂き、血が飛沫をあげる。その一回一回ごとに犬の声が弱くなる。
やがて犬の声も聞こえなくなり、ノコギリを引く手が止まる。その瞬間、犬の首が生肉目がけて飛んだ。
切断面からはおびただしい量の血が、否。黒い霧のようなものが、瘴気が吹き出ている。
恐ろしい形相で肉に食らいつき、息絶えた犬の首からあふれる瘴気。
霊災だ。その段階はすでにフェーズ2の域まで達している。
男はみずからの手で霊災を作り上げたのだ。
「……準備はできた。陰陽師どもめ、次はおまえらの首を刈ってやる」
ニヤリと、男がふたたび笑みを浮かべた。口が、耳元まで裂け、異様に発達した犬歯がのぞく。
「かつては国家の存亡をも操ったというわが犬神筋の力。それを〝外法〟呼ばわりし、排した愚かさを悔やむがいい。そしてわが犬神筋の復興に役立てることに、感謝するがいい」
男はそう言いながら瘴気をまき散らす犬の、犬だったモノを両手でつかみ、強く抱きしめた。
「まずは陰陽塾。忌々しい陰陽師どもの卵から、たいらげよう――」
陰陽塾。
テストの終了を告げるチャイムが鳴ると、塾生たちのため息がいっせいにもれ、張りつめていた教室内の空気がたちまち弛緩する。
笑いと私語。喧騒に包まれる中で、机に突っ伏して燃え尽きる生徒が一人。土御門春虎だ。
「抜き打ちテストとか、聞いてねーぞ……」
「そりゃあ事前に知らせたら抜き打ちじゃなくなるじゃないか」
そう答えたのは隣の席のもう一人の土御門。艶やかで美しい黒髪と白皙の美貌があいまって、まるで美少女のような美少年。土御門夏目だ。
「春虎、今のテスト――」
「言うな、聞くな、見るな!」
「どこのお猿さんだよ、もう……。ねぇ、どこがわからなかったの?」
「だから聞くなって」
「じゃあ、いくつわからなかったの?」
「ぜ、ぜんぶ……」
「は、春虎~」
春虎の情けない返事に、夏目まで情けない声を出す。
「いいかい春虎、テストの問題なんてのは授業で教えた範囲内からしか出さないものなんだよ。きちんと授業を聞いて要点さえ記憶していれば、あとはそれを応用するだけ。テストなんて要領さえ良ければ、いくらでも得点できるんだからね!?」
「ぐはぁっ」
「とどめのひと言だな、優等生」
はたから二人のやり取りを見て、そう苦笑するのは阿刀冬児。こちらはテストの結果にはそれなりに自信がありそうだ。
そして夏目と双璧をなすもう一人の優等生、倉橋京子が賀茂秋芳に声をかける。
「……バカ虎はあいかわらずね。あなたはどう? 陰陽塾のテストは始めてでしょ、どうだったかしら?」
「ああ、話には聞いていたが、問題文というのは本当に偉そうな文章なんだな」
塵も積もれば山となる。一文字一文字のインク代もバカにはできない。
『~を解け』『~を解いてください』『~を解いていただけませんでしょうか、よろしくお願いします』では全然ちがう。
「だから環境やコストのことを考えれば、ああいう文章になるのはしかたがないとはいえ、いい気はしないな」
「……それで内容のほうはどうだったのよ?」
「ん~、まぁ、だいたい合ってると思うよ」
「ふぅん、じゃあ軽く答え合わせしてみましょう。あたしも少し不安なところがあるから」
「ああ、つき合おう」
「卜占の問〇〇、式盤をもちいた六壬神課の手順を次の番号の中から正しい順番通りに選び、並べよ」
「順に5、7、2、6、9、4。関係ないものが四つも混ざってて、まぎらわしかったが、まず時刻の十二支から天地盤を、続いて四課を出し、天地盤と四課から三伝――、てのをおぼえときゃ、間違わないはずだ」
「あたしも同じね、あと厭魅の問〇〇――」
「それぞれ人形を矢で射抜く仙法、鈍器で叩く天神法、針や釘で刺す針法」
「巫蠱の問〇〇――」
「ええと、金蚕蠱」
「風水の問〇〇――」
「んー、演禽風水?」
「え? 河洛風水じゃ……」
「む、どっちだ? 俺も不安になってきた」
「じゃあ最後の陰陽道について自由に書けってやつ、なに書いたの?」
「風水的見地から見た新宿の地相について」
「奇遇ね。あたしは渋谷について似たようなの書いたわ」
「おい! そこの! 二人! イヤミかこのヤローッ!」
「なによ、うるさいわねバカ虎。自分が勉強不足で赤点確実だからって『できる人』たちにあたらないでくれる」
「ぐぬぬ…」
「あはは、春虎君おちついて、おちついて」
割って入ったのは眼鏡の好男子、天馬だ。
「今日の午後の授業は実技だけだし、そこで汚名返上しようよ。ね?」
「お、おう。そうだな天馬」
秋芳が入塾して一週間と少し。土御門夏目、春虎、阿刀冬児、百枝天馬。そして倉橋京子。これらのメンツとはすっかりなじみとなった。
彼ら以外のクラスメイトとはあまり接点がないが、そのへんの溝は笑狸が埋めてくれている。なんだかんだで頼りになる伙伴なのだ。
地下呪練場。
スタジアムを彷彿とさせる造りで、中央の競技場を囲むように観覧席が並んでいる。奥に設置されてある祭壇には様々な呪的機能があるという。
競技場内で蒼いツバメのような外見をした式神が大量に飛び交っている。
『モデルWAI・スワローウィップ』ウィッチクラフト社製の捕縛式だ。
捕縛式といっても今はその機能はOFFにされて、ただ中空を漂うのみ。これらに呪符をあてるというのが授業内容だ。
「みんな午前中の抜き打ちテストで疲れたやろ? 午後の授業は息抜きや。レクリエーションだと思って、きばるなり休むなり、好きにしたらええで~」
という講師の言葉に甘んじて、観覧席で見学に徹している生徒の姿も多い。
飛び回る的に矢継ぎ早に呪符を投げ打つ春虎。全弾命中。とまではいかないが、三回に二回はあてている。なにより、符を打つのが速い。
「お、速いじゃないか。どこでおぼえたんだ、そんな芸当」
「へへへ~、自己流さ。でも様になってるだろ?」
「ああ、確かに様に――おおッ!?」
「ん、どうした秋芳?」
「見てみろ、天馬の打ち方。なんだ、あの角度は、かっこいいじゃないか」
「え? あ、ほんとだ……。なにあの後ろ向きからの呪符打ち。スタイリッシュ!」
「スタイリッシュ!」
「よし、俺もちょっと試しにジョン・ウー映画っぽい感じで打ってみるか……」
秋芳、両手に呪符を持ち、交互に投擲するのだが……。
「う~ん、イマイチだな」
「なにかが足りないよな」
「白い鳩……、いや違う。横っ跳びだ!」
「横っ跳び?」
「そうだ春虎。俺と同時に横っ跳びして呪符を打ってくれ」
「お、おう」
秋芳と春虎。二丁拳銃ならぬ二丁呪符をかまえて横っ跳びに呪符を打つ。
「お、今のは良い感じゃないか?」
「イテテ…、でもこれだと地面に横腹から落ちていてぇよ」
「ちゃんと受け身をとればいい」
「この体勢じゃできねぇよ! つかなんでアンタはそんな簡単に着地できるんだよ!」
「いや、俺はちゃんと体術の修行もしてるから。だがたしかに万人向けじゃないな」
「もっと普通にかっこよく打とうぜ」
「あっ」
「ん?」
「今ふと思いついたんだが『男たちの挽歌3 アゲイン/明日への誓い』のあのシーンみたく、ジャンプしつつ足に隠し持った呪符を抜いて打つってのはどうだ?」
「いや、あのシーンて言われても。おれその映画知らないし……。でもそれかっこよさそうだな」
「ええとだな、こう呪符を足んとこに仕込んで……」
「こらぁッ! バカ虎」
突如割って入って来たのは京子だ。
「あんたなに秋芳君にバカなことさせてるのよ!」
「え、おれっ!? おれのせいなのっ!? なんでおれが秋芳にやらせてるように見えてたのっ!? おかしいよね?」
春虎の言葉を無視して競技場のすみにまで秋芳を引きずって行く。
「まったく、あいつのペースに合わせてバカやることなんてないのよ」
「いや、今のはむしろ俺のほうがバカなことにつき合わせていたと思うが…」
「じゃあ今度はあたしに真面目につき合ってちょうだい。呪符の打ち方について教えて」
「そうだな……」
呪符の多くは紙で作られており、これは物理的に投げても飛距離が限られる。呪力をもちいて飛ばす、いわば呪力射撃とでもいうべきスキルが必要だ。
呪術の使用では結果をイメージする力が重要とされるが、現実ではボールもまっすぐに投げられないような者が、ただ想像力だけで補うには限度がある。実際の投擲術を身につけ。
『こういうふうに投げれば上手く飛ぶ』『普通に投げても命中する。まして呪力を込めたのだから百発百中』
そのような考えを頭になじませる。これが呪術射撃の第一歩だ。
「――というのが賀茂の教えにあり、まず最初に印字打ちを習ったものだが、陰陽塾ではそういう教えはないみたいだな『呪力を込めて投げる』純粋にそれだけだ。実に無駄がない」
「でも、そっちの教え方にも一理あるわよね」
「一理だけね。アレをする前にコレをおぼえとくと良い。アレを学ぶならコレも必須だ。そういう前提条件なんて言い出せばきりがないし、前に大友先生の言っていた『無駄のないカリキュラム』には必要ないんだろうな」
秋芳が陰陽塾に通い始めて一週間と少し、ここの教え。土御門夜光の創ったこんにちの陰陽術は実に洗練されていると実感している。
俗にてっとり早くケンカで強くなるにはボクシングが一番とされる。
手技ひとつを集中して学ぶため、蹴り技、関節技や投げ技など。おぼえることの多い総合格闘技や、型稽古にも時間を割く空手などにくらべ格段に上達が早いからだ。
ケンカなんて相手の顔面をぶん殴ればそれだけでけりがつく。顔は鍛えようがないし、普通の人間は鼻が潰されたり歯を折られれば、それだけで戦意を失くす。
人の上手な殴り方を一つおぼえれば、百の技など修得する必要はないのだ。
そういう意味ではボクシングというのは実に洗練されたケンカ技術といえる。
悪い例え方かも知れないし、見当違いな考えなのかも知れないが、陰陽塾の教えには、そのような理屈に通じるものがあると思う秋芳だ。
閑話休題。
「じゃあ呪力を込めて投げて、的に上手くあてるコツは?」
「集中あるのみ。いまさら君に教えることなんてないよ、じゅうぶん上手に投げてるじゃないか」
京子は幼い頃から塾長を始め、プロの陰陽師たちから日常的に呪術の手ほどきを受けて育った、いわば陰陽師のサラブレッドなのだ。
「そう…。ねぇ、じゃあどっちが多くあてられるか、勝負しましょう。制限時間は五分ね」
そう言って壁にある時計を指さす。
「よし、わかった」
おたがいに手持ちの符を構えて周囲を見渡すと、秋芳の視界に夏目の姿が映る。
(そういえば笑狸が気になることを言っていたな)
きのうのデートの帰りの時だ。夏目の体から女の子の匂いがする、と――。
化け狸の嗅覚は鋭い。その鋭敏な鼻をして、夏目は男のにおいの時と女のにおいの時がある。そう言っていたのだ。
不思議なことにそう言われると夏目という人物が女子に思えるようになった。
いや、女の子にしか見えない。
華奢な身体に艶やかな黒髪と桜色の唇。白皙の美貌やどこか高く柔らかな声といい、あれで男子というのは無理がある。
あまりにも無理がある。
なぜ今まで疑問に感じなかったのか?
(奇妙な話だ。どれ、少々強めに見鬼て、気を探ってみるか)
男性は陽の、女性は陰の気をおびている。見鬼により男女を見分けることが可能だ。
京子との呪符投げ勝負を続けつつ、片目をつむり見鬼を凝らす。ちなみに呪禁術においては目をもちいる呪を総称して営目と呼ぶ。
見ることは見られること。
視線を感じる。という言葉があるが、それはまさに相手を意識して見ることで、こちらの気も視線を通じて向こうに伝わってしまっているのだ。
呪術になじみのない一般人でもそのような経験はあるはずだ。まして呪術の心得のある者の気を気づかれず探るというのは、なかなか難しい。
穏形して視る。あるいは今のような場の喧騒にまぎれて視れば気づかれにくいと判断し、改めて見鬼たわけだが――。
(陰の、それもずいぶんと大きな気に包まれているが……、竜か! 竜の護法式とは、さすが土御門。豪勢だなぁ。…う~ん、こうして見ると夏目自身も陰の気を帯びた女にしか見えないのだが、奇妙なことだ)
どこか釈然としない。
ついでに周りも見渡して見る。
(京子の近くに気配が二つ。これは白桜と黒楓だな)
(春虎のやつ、霊力だけはアホみたいにあふれてるなぁ。ダダ漏れじゃないか、もったいない。こんど制御する方法を教えてやるか)
(冬児は身の内になにか潜ませているな。憑依型の式神か? あいつもなかなかどうして、秘密があるみたいだな)
(あ、眼鏡が浮いている……。天馬か)
生徒たちにくらべて講師たちはさすがに高い霊力を持っている。だがその中でひときわ異彩をはなつ人物が一人。
(……大友陣。あるかなしかのわずかな霊気しか感じないが、故意に、それでいて自然体で隠してやがるな。素でこうなら穏形したらまさに闇夜にカラス、雪にサギ。見つけるのは困難だ)
講師の大友陣。聞けばもと呪捜官だったそうだが、それにしても気を隠すのが上手い。秋芳が現場で「すれ違った」ことのある祓魔官や呪捜官にも、ここまで巧みな者はいなかった。
そうこうしているうちに手持ちの符が尽きた。と同時に周りから拍手が起こる。
「二人とも凄いコンビネーション!」
「まるでペアダンスみたいだった!」
「あっという間に射ち落としちゃっじゃない!」
二人で競っていた呪符投げだが、どうも外野には連携して呪符を投げていたように見えたらしい。
たしかに京子が射ち損じたのを、秋芳がすかさず討ち、その逆のパターンもあったので、はたから見たら、そう見えなくもない。
「…なんか、今の動き、良い感じだったわ。なにかがつかめそう」
京子は京子で感じ入るところがあるようだ。
「おー、秋芳クンも京子クンも巧みやないの。よっしゃ、ほなせっかく捕縛式を用意したんやし、お次は穏形の実技でもしてみよか? みんな上手く隠れるんやで~」
こうして大友の提案で時間いっぱいまで穏形の訓練がなされ、その日の授業は幕を閉じた。
倉橋家は陰陽道の名門、土御門家の分家であり、主家である土御門家が没落してからは土御門家に代わり呪術界を牽引する役割を担ってきた。
前当主は多数の陰陽師を世に輩出し続けている陰陽塾の塾長、倉橋美代。
現当主は陰陽庁の長官と祓魔局の局長を兼任している倉橋源司。
倉橋家の存在は極めて大きく、こんにちの日本呪術界を代表する一門だ。
そう、倉橋京子は名門のご令嬢、貴婦人、姫、公主――。
つまりはお嬢様なのである。
そんな京子が供もつけずに夜の街を早足に歩いていた。
時刻は八時前。こんな時間に一人で出歩くことなど珍しい。
夜間にふらふら出歩くような子ではない京子には、最初から門限などいうものはない。そんなものをわざわざ作る必要などないのだ。
ちなみに京子は毎朝祖母と共に車で陰陽塾へ通い、帰りも家の車で帰宅し、習い事など外出のさいにもほとんど車で移動する。
京子としては電車で移動するほうが気軽なのだが、その立場上、防犯面の理由で車による移動がどうしても多い。
ではなぜ今夜に限ってこうして夜歩きしているかというと、愛読している少女向けコミックがゲーム化し、それが発売されたからだ。
普段はゲームなどさして興味のない京子だが、原作者自らの手によるイラストとシナリオ。それの画集つき限定版とあっては話は別。
人に頼むのも気が引けたため自身の手で購入し、帰路についているところだ。
ちなみにこの少女向けコミック。京子の祖母もお気に入りで、読んで『年甲斐もなくちょっとドギマギしてしまった』そうだ。
「おい、ケンカだケンカ」
周りからそんな声が耳に入る。
(やーね、酔っ払いかしら)
どうせすぐに警察がきて取り押さえられる。無視して歩を進めようとした京子だが、妙な気配が彼女の後ろ髪を引いた。
ふり返ると路地裏へ抜ける道の前に人だかりが、野次馬の群れが見える。
妙な気配はその路地裏。乱闘現場から漂ってくる
京子の第六感が、この気配は呪術がらみだと告げている。
「すみません、ちょっと通して」
遠巻きにしている野次馬の間を抜けて路地裏に入る。意外に広い。
見ると一人の女性を五人の男たちが取り囲んでいる。新宿や渋谷にならどこにでもいそうなストリートファッションの若者たちだが、驚いたことにさらに五人の男らが地面に横たわっていた。あの女性が倒したのだろうか?
「木ノ下先輩!?」
女性の姿を見た京子の口から思わず言葉がもれた。
木ノ下純。ついきのう春虎のデート騒動で会ったばかりだ。
彼女、いや彼はなにかの包みのような物を大事そうにかかえている。
「京子ちゃん!?」
向こうも京子の姿に気づく。
「あなたたち、なにしてるの! すぐに警察が来るわよ!」
京子が声を上げるが、男たちはまったくの無反応で純に襲いかかる。
「ちょっと! ああ、もうっ。邪魔っ」
どうしよう?
こんな連中蹴散らすのは簡単だが、街中で陰陽術を軽々しく使うわけにはいかない。
現代呪術の代名詞である『汎式陰陽術』の使用はプロの陰陽師にしかゆるされない。
陰陽塾の塾生はこの点が免除されているのだが、だからといって無条件で使うわけにはいかないのだ。
まして白桜や黒楓といった式神を一般人相手に使用するなどもってのほかだ。
京子が逡巡していると、純の口から呪文が漏れる。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前」
九星九宮の早九字を唱え、刀印を結んだ指先が宙を切る。
縦に四回、 横に五回。直線で九字を切る、ドーマンと呼ばれる陰陽術だ。
籠の目状の光が男たちの間を走ると、彼らはまるで電気に打たれたかのように体をびくりと震わせ、次々と地に倒れる。
京子はまず純が陰陽塾を使ったことに驚き、次に早九字で男たちが昏倒したことに疑問をおぼえた。あれは邪を退け、魔を祓う。霊災修祓の術であり、生身の人間にはなんの効果もないはずだ。そう、生身の人間には……。
「京子ちゃん。お願い、来ないで!」
そう叫び、脱兎のごとく走り去る純。
なんだなんだと言う野次馬たちの喧騒の中には、純の使った呪術に言及する声は聞こえない。彼らにはなにが起こったか理解できないのだろう。
見鬼の力を持たない者には、ドーマンを行使した時の光も見えてないはずだ。
「もうっ、ほうっておけるわけないじゃない……」
もとより世話好きのお姉さん気質だ。
京子は純の後を追いかけた。
その直後。地面に横たわる十人の体から、立ち上る瘴気に気づくことのできた人間は、この場にいなかった――。
路地裏のさらに奥の奥。
京子はようやく純に追いつけた。
これでも運動神経や体力は同世代の女子にくらべて高いほうであり、走るのも自信がある。倉橋の家に生まれたからには、文武両道をたしなまなければいけないからだ。
「京子ちゃん……」
「もう、なにがあったんです? あいつらいったい……、木ノ下先輩……。だいじょうぶですか?」
落ちくぼんだ目、げっそりとした頬、荒い息。あきらかに憔悴している。
化粧も落ちたその顔はしかし、精悍で普段のガーリーな装いとは別のワイルドな魅力が感じられた。
(やだ、木ノ下先輩って、かっこよかったんだ…)
こんな状況にもかかわらず、思わずそんな考えが頭に浮かぶ京子だった。
「京子ちゃんを巻き込むわけにはいかないわ。ほうっておいて」
「もうじゅうぶん巻き込まれてます」
「でも、これ以上はもう私に関わらないほうがいいわ」
そう告げる純の姿は、まるで追いつめられた獣のように見えた。
怯えや不安の色がありありと見え、発言とは裏腹に助けを求める気配が濃厚だ。
もうちょっとで説得できる。
「わけありの塾生を見捨てることなんかできません。……それ、呪術がらみですよね?」
純のかかえる包みを指差す。
「う…」
純が胸にしっかりと抱きかかえている包み。
そこからはなにか得体の知れない、怪しげな気配。まさに妖気がひしひしと伝わってくる。
「それを狙われてるんですか?」
「…………」
「木ノ下先輩!」
グルルルルルル――
!?
グルルルルルル――
キィーッ キイキィキィーッ
カァーカァーッ カァーッ
ナァァァァー ナァァァァー
突然あたりから響く、獣の鳴き声。漂う獣臭。
「な、なに?」
「そんな、ちゃんと祓えなかったの?」
風を切って何かが二人の横を飛び抜けた。思わずそちらに目がむかう。
首だ。
人ではない。犬の首が空を飛んでいる。不自然に発達し、顎が閉じられないくらい肥大化した牙の間からひゅーひゅーと生臭い息が漏れている。
一つ、二つ、三つ……。十体ほどの獣の首が周りを飛び交い、瘴気をまき散らす。
犬だけではなく、巨大な嘴をもった鳥や、ナイフのような牙を生やした猫の首まであった。
実体化した瘴気。フェーズ3の動的霊災の群れだ。
「やだ……、なによ、なんなのよ。これ」
あまりにも異様な光景に血の気が引いて蒼白になった顔の京子が思わず後ずさろうとして固まった。
囲まれているのだ。逃げ場などない。
「動かないで京子ちゃん。私が、なんとかするから…」
そう言う純の声も恐怖に震えている。
ごうっ。
飛び交う首の一体が牙を剥き、二人に襲いかかる。
思わず目をつぶる京子。九字を切ろうと身がまえる純。だが――。
間に合わない。
獣の牙が京子の白い喉を食い破ろうと迫る。
憑獣街 2
獣の牙が京子の白い喉に迫る。
「禁顎則不能噛、疾く!」
顎を禁ずれば、すなわち噛むことあたわず。
肉を裂こうとした牙はしかし、噛み合うことなく空振りし、二人の横を首が素通りする。
今の術は!
京子の顔に喜色が浮かび、声の主を探す。
「身命泰安、辟邪破魔。急急如律令!」
と、さらに呪文が唱えられ、それと共になにかが周囲にパラパラとばら撒かれる。もち米だ。神聖な気が満ち、それに触れた獣首の群れは、爆ぜたように吹き飛んだ。
それに恐れをなしたのか、他の首らも火を恐れて逃げ出す獣のように退散する。
「おお! さすが触媒を使った術はすこぶる強力だな」
僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年が姿を見せる。京子が予想したとおり、賀茂秋芳だった。
「秋芳君! ありがとう、助かったわ。……でも、どうしたの、こんな所で?」
「ちょいと呪具の買い足しついでに笑狸のパシリにされてね」
笑狸。秋芳の式神の化け狸だ。
「笑狸ちゃんのお使い? やだ、もう。どっちが式神なのよ」
そういえば秋芳が手にしている青いビニール袋には見覚えがある。あれはついさっき京子も利用した店のものと同じでは――。
「まぁそんなことよりも『こんな所で?』はこっちの科白だ。なんでこんな場所であんなモノに襲われてたんだ?」
「ええと…」
「あなた、たしかきのう京子ちゃんと一緒にいた人よね?」
「うん? 君は……、ひょっとして……、木ノ下先輩?」
一瞬。いや、数瞬ほど、誰だかわからず返答に間が開いた。
(きのうはいかにも可愛い系だったが、あれは化粧のせいか。すっぴんだとハンサム系美人な貌じゃないか。ううむ化粧ひとつでこんなに変わるとは、まさに化生。化粧とは乙種呪術だな)
「よしてよ『先輩』だなんて。だってあなた私より年上でしょ?」
「え、そうなの? 秋芳君、たしか十七歳て言ってたわよね?」
「お、おう。いかにも、じゅうななさいだ」
田村ゆかりよりも十三コ下の、井上喜久子さんよりも××コ下の十七歳だ。
秋芳の物言いがおかしかったのか、張りつめていた純の表情が緩む。
その瞬間――。
ぐぅぅぅ~。
空腹をうったえる音が、純のお腹から鳴り響く。
「…………」
「…………」
純の顔が見る見る赤くなる。
「……なにか、食べるか?」
純はコクリとうなずいた。
焼き肉屋に入った純は猛烈な食欲を見せた。
きのう、あれからなにも食べてないというのだから無理はない。
最初はそう思った秋芳と京子だったが、カルビ、タン、ハラミ、ホルモン、ハツ、シビレ、ミノ……。
肉、肉、肉。ひたすら肉だけを平らげる純の姿に声を失った。
「き、木ノ下先輩。それ、まだ生ですよ?」
「うん」
大皿から直に口に運ぶ純の姿に京子は呆然とし、秋芳は食事中の笑狸の姿を思い出す。
人ならざる化生の身だけあって、その胃袋は底なし。食べようと思えばいくらでも食べられるのではいかという健啖ぶりだが、それを彷彿とさせる。
ビールでのどを潤いつつ、ふと思いついた秋芳が見鬼を凝らし、上から下から、中まで純を凝視すると――。
半透明のケモノ耳と尻尾が生えている。
「先輩、耳と尻尾が出てますよ」
「わんっ!?」
飛びあがり己の頭とお尻を押さえる純。
「獣の生成りになってますね。憑かれたのはあの後ですか?」
生成り。
霊的存在を憑依させた状態のことで、いわゆる憑き物のことだ。
霊的存在をその身に宿すという性質上、生成りは霊災の火種。あるいは霊災そのものと見られ、生成りになった者は陰陽医の元に隔離されたり、陰陽庁の監視下に置かれた上で封印術が施され、宿した存在を押さえこむことが求められる。
特殊な施設への隔離。監禁というやつだ。
世間的な風あたりも悪く、もし憑依体を制御できなくなった場合は生成り自身が霊的存在へと変質や融合し、最終的にはフェーズ3以上の大規模霊災を引き起こす。
だが封印の一部を自ら解放して宿した霊的存在の持つ力を自身のものとして使役・利用することも可能であり、強大な能力といえなくもない。
だが自身を人ならざる存在に近づける行為であり、それゆえ人間性の喪失や自我消滅、暴走の危険も孕んでいる。
「そうよ。あれからあいつの蠱毒に、犬神に憑かれたの」
蠱毒。
蠱毒とは虫や動物を使う呪術の一種で、皿に盛ったり壺の中に入れたたくさんの毒虫を殺し合いさせ、最後に生き残った最も強く、そして他の虫たちの恨みの念が凝縮された個体を使って行われる呪詛だ。
多くの生物を生け贄にし、それを形代にした式神の一種。
こんにちの汎式陰陽術では呪詛式と呼ばれる式神にあたるが、これを陰陽庁の許可なく、作成・使役することは陰陽法で固く禁じられている。
たとえ実際に効果が認められない民間伝承やまじないといった、乙種にふくまれるものであってもだ。
陰陽塾の生徒にはことさら説明するまでもない。
「不覚を取ったけど私だって陰陽塾の二年生よ。意識を完全に乗っ取られる寸前に逆にこっちが犬神を取り込んでやったの」
純のこの言葉に嘘はない。今さっきの見鬼で、他者の支配を受けているような気配は感じられなかったからだ。
「まぁ、完全に制御できてるとは言えないけど……。で、その時に火怒呂の考えてることが頭に流れてきたのよ」
「ほどろ?」
「ええ、火怒呂六三。それが蠱毒をまき散らしてる術者の名前よ」
蛇の道は蛇。長い間もぐりの陰陽師をしていた秋芳は、その名に聞き覚えがあった。
(たしか獣の霊を使役する術を心得た憑依師だったはずだが、妙だな。少し前に呪捜部の連中に『処理』されたと聞くが……)
「しかし、犬神とはね……」
餓えた犬の首を切り落とし、それを道に埋めて人々が頭上を往来することで怨念の増した犬の霊を式神として使う方法。
あるいは犬の頭部のみを出して生き埋めにしたり、壁や柱につないで、その前に食物を見せて置き、餓死直前に首を切ると、切られた頭が飛んで食物に食いつき、これを焼いて骨にした物を呪具にしたりもする。
犬に限らず獰猛な数匹の獣を戦わせて、勝ち残った一匹を生け贄にしたりと、時代や土地によって様々なバリエーションが存在する。
だがいずれも触媒となる生き物を徹底的に苦しませた末に殺し、その怨念を利用するという方法は変わらない。
忌まわしい外道外法の邪術だ。
「犬神という式神に憑かれると無気力。あるいはその逆に粗暴な性格になり、犬神使い。犬神筋や憑き物筋と呼ばれる術者に操られると聞くが」
「そうよ。さらに憑依した人間の目を通して犬神使いはものを見ることもできるの」
「ずいぶん便利ね。あ、じゃあさっきの連中って」
「ええ、そう。でも彼らは一時的に憑依されたくちだから祓魔の術で呪詛を、犬神を散らせるわ。けれどもあんまり長い時間憑依され続けると、本人の魂と融合して、それもむずかしくなる…」
「そんな、大変じゃないですか! もし街中にあんなのがあふれたら…」
「だから犬神を、すべての犬神を送り返すの」
呪詛返し。
相手がかけてきた術を破り、その術を術者本人に送り返すことを言う。
呪詛とは怒りや悲しみ、恨みや憎しみといった他人の負の霊力を呪力に変換したものであり、呪力の制御を破れば、解き放たれた呪力はみずからを利用した術者に向かい、その力をむける。
生き物の怨念を使った蠱毒などは、この呪詛返しがもっとも効果的に働くとされる。
「送り返すと言うが、どうやって? 憑き物を完全に落とすにはそれなりの手順が必要だし、あれだけの数の……。その包み。ひょっとして中身は」
「ええ、蠱毒の本体。四つに分けられた犬の頭蓋骨の一部よ」
思わず息をのむ京子。
まさかそんなおぞましい物を抱えていたとは……。
「あいつはこれと同じ物を陰陽塾の周りに埋めることで犬神の数を増やすと同時に、陰陽塾そのものを呪詛するつもりなの」
「陰陽塾を呪詛するですって? そんなの無理に決まってるわ! 陰陽塾の結界は完璧よ。知る人の限られた古いタイプの結界から最新の結界まで、二重三重に守られてるし、プロの陰陽師だって何人も控えてる。こと呪術面に関してはうちよりも安全な場所なんて都内に、ううん。日本中にだって数えるくらいしかないはずよ」
「そうね。たしかに陰陽塾そのものに個人レベルで呪をかけたって、たかが知れてる。でも陰陽塾に外から通う生徒はちがう。……あたしみたいに憑かれる子だって出てくる可能性があるわ」
「完璧なのは結界だけじゃないわ。アルファとオメガの霊気チェックだってあるんだし、そんな子がいてもすぐにわかるはずよ」
アルファとオメガとは塾舎ビルの正面入り口に鎮座する二体の狛犬の姿をした式神だ。
鋼の実体を形代とした機甲式と呼ばれる頑強なタイプの式神で、陰陽塾の番人といえる。
彼らが常に目を光らせ、塾内に出入りする人間の声紋や霊気の確認をしているおかげで陰陽塾の安全は守られている。
「登校中に憑かれて、そのまま街中で暴れられる可能性もある。もし陰陽塾の生徒が他所で陰陽術を使って問題を起こしたとなれば陰陽師に対する風当たりはさらに強くなるだろうなぁ…」
「そういう懸念なら、そんな物が街中にある時点で大問題よ。巻き込まれるのが一般人だろうが塾生だろうが、呪術がらみの事件が起きたら『また陰陽術か!』て、マスコミの連中がうるさく騒ぎ立てるわ。……て、もう一般の人たちが巻き込まれるじゃないですか! さっきの人たち!」
今さらながら、事の重大さに気づく。
「早く呪捜官に知らせないと…」
呪捜官。
呪術犯罪捜査部。通称・呪捜部。
陰陽庁に属する内部部局の一つで、この部署に属する陰陽師は呪捜官と呼ばれる。
主に呪術絡みの犯罪捜査に従事し、職務の性質上対人呪術戦が多いのが特徴だ。
また、呪捜官には警察官のように拳銃の携帯が許可されている。
「まって京子ちゃん!」
「木ノ下先輩?」
「……お願い、それだけはやめて」
陰陽塾の二年生ともあろう者が、街中でもぐりの陰陽師。いや陰陽師と呼ぶのもはばかられるような左道の呪術者の手で動物霊を憑依させられ、呪捜部のやっかいになった。
これは不祥事だ。
そんなことが明るみになればどうなるか?
陰陽塾に通う塾生の多くは旧家や名門の出。それも今まで数多くの陰陽師を輩出しているような、呪術と縁の深い家の者が多い。
そのような家の人間がいかにもいやがる類の不祥事だ。
周りからは後ろ指を指され、いろいろと不愉快な思いをすることになるだろう。
木ノ下純はことを公にせず、自分の手で始末をつけたい。
言葉に出さずとも、純のその考えは秋芳と京子に伝わってきた。
「……それだけじゃないわ」
「え?」
「私の、私たちの暮らす街で呪術をこんなふうに使うやつはゆるせないの。呪術はそういうふうに使うものなんかじゃない。私たちの街は、私たちの手で守りたい……」
「先輩……」
「あと一つ。あと一つだけ回収すればまとめて祓うことができるの。そうすれば呪詛は返されて、あいつは破滅よ」
「埋められた場所は?」
「代々木公園」
奇しくも秋芳と京子が最初に出会った場所だ。
この蠱毒は人通りの多い所に埋め、人々に踏まれることで怨念を増し、よりいっそう強い力を放つようになる特徴を持つ。
観光地でありデートスポットでもある代々木公園はうってつけの場所といえる。
「よし、すぐに行こう」
「秋芳君!?」
「一般人に被害が出ている以上、事は一刻を争う。呪捜部に通報したとして、連中が犯人逮捕の準備を整える間にも犬神の数は増える一方だ。ここは俺たちだけで一気にケリをつけたほうが早い」
「…そうね、わかったわ。それに正直あたし呪捜官の人たちって、いまいち信用できないのよね。あの人らに任せるより、あたしたちが動いたほうが確実よ」
京子は呪捜部部長。呪捜官の長を務める天海大善と面識がある。
京子の祖母、美代と大善は古いつき合いで、その関係で交流があるのだ。
そういう意味では呪捜官自体に悪い印象は持ってないのだが、最近起こった呪捜官による土御門夏目襲撃事件などで心証を害しているのも事実だ。
「あー、君は家の人に迎えに来てもらったほうがいい。もう遅いし、塾ちょ…。お祖母様が心配しているぞ」
「ここまで来てあたしだけのけ者? そんなの納得できない! この街を守りたいって想いは、あたしだって同じよ!」
「火怒呂ってのが最後の蠱毒を守ろうと網を張って待ち構えてる可能性が極めて高い。人間相手の呪術戦になるかも知れないんだぞ?」
「あたしは陰陽塾に、ううん。倉橋の家に生まれた時からそういうことは覚悟してるわ。白桜も黒楓もいるし、足手まといにだけはならないって約束する。それに『事は一刻を争う』んでしょ? ここであたしと口論してるヒマなんてある?」
「…しょうがないな、言っておくが自分の身は自分で守れよ。二人とも念のためこれを」
そう言って呪符の束を京子と純に手渡す。
授業で作成・使用している陰陽制の符とちがい、ずしりと重く厚みがある。
「これは?」
「桃園霊符。桃の木を削って作った呪符で、呪詛系の相手には効果てきめんだ」
「陰陽庁制じゃ、ないわね…」
「まぁ、賀茂のコネでいろいろ手に入るとでも思っててくれ。効果は保障する」
「賀茂? じゃあ、あなたが賀茂秋芳?」
「ああ、そうだけど、それがなにか?」
「あなた、二年の間じゃけっこう話題になってるの。残念なほうの土御門とちがって、今度来た賀茂は優秀だ。て」
「あら、凄いじゃない! 先輩たちの間で有名になれるだなんて、光栄なことよ」
「おお、そりゃたしかに光栄だ。うれしいね」
陰陽塾に入り正式な資格を取る段になったからには裏働きをする機会もなくなるだろう。
顔や名が知られても問題はない。むしろ賀茂の名を世に広く知らしめたいと思っている本家の連中にとっては好都合だ。
「じゃあさっそく出発しましょう。タクシー呼んだほうがいいわよね? 歩くより早いし、あいつらにも見つかりにくいでしょ」
「いや、どこに犬神憑きがいるかわからない以上、公共の移動手段は使わないほうがいいだろう。可能な限り人に見つからず、歩いて行こう。二人とも穏形しながら移動はできるか?」
「そんなには早く歩けないけど、なんとか」
さすがは二年生の純だ。
「……やってみるわ」
正直、今の京子の実力では穏形しながら歩くのはむずかしい。
だがついて行くと言った以上、後には引けない。ここで『できない』と口にできるはずがない。やるしかないのだ。
(ふむ、良い返事だ)
京子のその思いを察せない秋芳ではない。
むずかしい課題をつき出され『できない』と考えたり答えるのは、もっともしてはいけないことだ。
できないなんて思うことは自分で自分の可能性を閉ざしている。
『できない』という呪をかけているに他ならない。
かと言ってできもしないのに『できます』と答えるのはあまりにも無責任だ。
『やってみます』この答えが一番良い。
話がまとまったので会計をすまして代々木公園へ向う。
「京子、抵抗するなよ」
「え?」
「禁気則不能感、疾く!」
気を禁ずれば、すなわち感じられることあたわず。
たちまち京子の気配が断たれ穏形状態になる。
(なにこれ? これが、賀茂の陰陽術なの?)
始めて目にする術に目を丸くする純。
(いや、これは賀茂の術じゃあない。我が家に伝わる呪禁の術さ)
ざっくりと自らの生い立ち。賀茂と連、呪禁のことを純に説明する。
(それよりも穏形状態で街中を歩くさいは歩く人や走る車に気をつけるんだぞ)
(うん、むこうからはあたしたちの姿は見えないからね)
正確には見えないのではなく、認識できない状態だ。
陰陽術による穏形というのは、物理的に透明になっているわけではない(もちろんそういう術も別個に存在する)目はそこに術者がいることを見ているのだが、心がそれを認識しないのだ。
まるで道にある雑草や小石のように、誰にも気にとめられることがなくなる。
達人ともなると小規模の人払いの結界のようなものができ、雑踏の中にいても周りの人は無意識に目をそらし、避けて通るようになるという。
街中を注意して進む三人。
(しかしあれだな。こうして歩いてると、乗って高速移動できるタイプの式神が欲しくなるな)
(そういえば笑狸ちゃん以外に式神っていないの? あなたの呪力なら十体でも二十体でも、簡単に使役できるでしょ?)
(大量の式神は使わない主義でね。あいつが一人いればじゅうぶんだ)
(あら、愛されてるのね笑狸ちゃん。一途なご主人様でうらやましいわ)
(んー、そういうわけでもないんだがなぁ。……昔、ちょっとあってね)
(なに? なにがあったの?)
(笑狸に会うずっと前、祓った動的霊災をかたっぱしから自分の式にしていた頃があって)
(……あたしたちのレベルとは全然ちがう話ね)
(その時に葛城山の神に因縁ふっかけられたんだ)
(神様に!?)
(ああ、山の中を歩いていたら、向こうから俺とまったく同じ姿の人が歩いて来た。これは怪異の類と思い話しかけたら、自分は葛城山の神だから道を開けろと言うのだ。当時の俺は調子に乗ってたガキで、それを拒んで戦闘になったんだが、やっこさん、こちらの所持している式神をまんま使ってきやがった)
(さすが神様ね)
(こちらが召喚してないものまで使うわ、倒してもまた出てくるわで、めんどうになり、その場は逃げた。で、あれはこちらの式神をコピーする能力を持っているに違いないと思い、後日すべての式神を無に帰してから再戦しに行ったんだ。すると案の定むこうも一人だけ。サシの勝負なら楽勝だ。はっ倒して負けを認めさせてやった。それ以降やたらと式を持つのをやめたんだ)
(正直、信じられない話だけど、あなたが言うなら事実なんでしょうね……)
横で聞いている純もこの話には仰天し、あやうく穏形が解けるところだった。
代々木公園。
隣接した明治神宮と一体化した緑の園。
陽の光の高い時間帯はサイクリングに興じる者あり、家族で遠足に来るものあり、愛をささやくカップルあり――。
そんな都会のオアシスに蠱毒が埋められているのだ。
人々に踏まれることで怨念を増し、いっそう強い念を出すことになる。
「あそこよ! まちがいないわ」
観光地でありデートスポットでもある場所だけに、昼夜を問わず人通りは多い。
すでに相当強力な呪力を放っている。
蠱毒の埋まっている場所へ駆けて行き、掘り出そうとする純。
それとほぼ同時にあたりを異様な気配がつつむ。
スーツ姿のサラリーマンやOLふうの男女、作業着を着た労働者、学生ふうの若者、ストリートファッション姿の若者、浮浪者……。
人、人、人、人、人、人――。人の群れだ。
犬神にとり憑かれた群衆があたりを囲んでいた。
「一気に祓うぞ。京子は右を」
「わかったわ! …臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!」
刀印を結び、九字を切る京子。籠の目状の霊気がほとばしり、それに触れた犬神憑きたちはたちまち地面に倒れ伏す。
「我祈願、南斗星君。百邪斬断、万精駆滅、星威震動便驚人――。活剄!」
我は祈り願う。人の命を司りし南斗の神よ、邪気を斬り捨て、あらゆる霊を祓え。星々の威光が地を制す。
秋芳の退魔の術も効果を発し、次々と倒れる憑依者たち。
だがそれだけでは終わらない。
倒れ伏した人々から瘴気が立ち上る。憑依を解くことができても、修祓しきれなかった犬神たちが実体化して襲ってきた。
「今日の呪符打ち授業を思い出すんだ。符の弾幕で押し潰すぞ」
「ええ、賀茂と倉橋。両家の力を見せてあげるわ!」
背中合わせになり間髪を入れず呪符を投げ打つ秋芳と京子。
ひたすら打つ、打つ、打つ。打ちまくる。
迂回して純を狙おうとした犬神も何体かいたが、二人の投げた符にあたり一体残らず消滅した。
符を放つにも霊力が必要だ。
授業の時のように、ただ打ってあてるだけならともかく、きちんと術としての効果をもたせて呪符を投げるという行為はそれなりに消耗する。
ましてこのように間断なく投擲するにはかなりの霊力がないとできない芸当で、普段の京子なら厳しかったかも知れない。
だが今はちがう。
背中越しに伝わってくる秋芳の熱く強い気に影響されてか、京子の身体の中から力が、霊力が滾々と湧き出てくる。
(力が、あふれてくる…。体が軽い。こんな気持ちで陰陽術を使うなんて始めて)
その時の精神状態によって霊力の強弱や多寡は若干変動するというが、今夜の京子は絶好調だった。
「魔を見通すは八咫の眼」
京子の口から自然に言葉が漏れる。
「魔を祓うは八尺瓊の腕、魔を退けるは叢雲の息吹」
思わずつられて秋芳の口からも言葉が出る
「魔を絶ち斬るは草薙ぎし剣」
「「黄泉路を照らす星々の光よ、狭蝿なす万の妖を滅し、我が道を照らせ。星流霊符陣!」」
京子の目が気を読み標的を捉え、秋芳の渾身の気が乗せられた呪符がそれらを打つ。
空を舞い飛ぶ呪符は流星群と化し、犬神らを一体残らず殲滅した。
「やった! やったわ!」
「気を抜くな、術者が近くにいるかも知れない」
その時、一筋の光が京子の体を貫くのが秋芳に『視えた』
殺気だ。
殺気が線になって見えた。
合気道の開祖に植芝盛平という人がいる。
数多くの武勇伝がある人物だが、その中の一つに、銃弾が飛んでくる前に光のツブテが見え、それを避けることで弾から逃れた。というエピソードがある。
他にも相手の攻撃の前に白い光が見え、その光を避けることによって相手の攻撃をかわした。
屋内に居ながら訪ねてきた人の存在や、その服装がわかった。
などの逸話がある。
これは一種の見鬼。気を読むことができたのではないだろうか? このようなはっきりとした形で殺気を感じ見た経験など秋芳にはない。
ないが、直感でそれが殺気というものだと悟り。その瞬間、自然に体が動いた。
突き飛ばすいきおいで京子を抱いて跳び伏す。左半身に衝撃が走る。
「ちょっと! いきなりなに――ッ!?」
急に押し倒されたと思った広義の声をあげようとして絶句する。
秋芳の左上腕部がごっそりと食いちぎられ、皮一枚だけでかろうじて下の腕とつながっていた。
くちゃ、くちゃ、くちゃ……。
なにかを咀嚼する音が聞こえる。
見れば仔牛ほどのサイズをした黒い大型犬が咢を地に染め、なにかを食べている。
食べているのは彼の腕だ。
あれに襲われたのを彼が身を挺してかばってくれたのだ。
自分のミスで彼が大ケガを負ったのだ。
そう京子の頭が理解すると同時に、激しい自責の念とともに涙があふれ出た。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
負傷箇所から白い骨が露出して見える。それをおおう赤い肉。内圧で筋繊維が押し出されると同時に鮮血が吹き出し京子の身が真っ赤に染まる。
「…やれやれ『足手まといにだけはならない』じゃなかったのか? 油断して不意を突かれるなんて、なってないぞ」
出血と同時に激痛が走る。
流血と共に力も抜けていく感覚。意識が遠のくが、激しい痛みがそれをゆるさない。
苦痛をこらえ、ゆっくりと立ち上がる。
「これは大きな貸しだぜ、倉橋京子。そのでかい胸を揉みくちゃにするだけじゃ返しきれん。髪の先から足のつま先まで、身体で払ってもらおう」
ついついエロ魔人の本性が出てしまう秋芳だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! なんでもするから、ゆるして、死なないで、お願い……」
軽いパニック状態になり涙ながらに謝罪の言葉をくり返す京子の姿に、秋芳の庇護欲と
嗜虐心が刺激される。
と同時に胸に込み上げてくるものがあった。
なつかしさだ。
先日の放課後。京子と簡易式を使って戯れていた時にも感じた違和感をともなう、もの
なつかしさ。
ずっと昔。こんなふうに泣きじゃくる京子の姿を見たおぼえが――。
(――あるわけがない。まったく、こんな時に、なんなんだ。ええい!)
雑念をふり払い、傷口を確認して口訣を唱える。
「禁傷則不能害」
傷を禁ずればすなわち害することあたわず。
たちまち傷が癒え、出血も止まる。
いや、最初からケガなどしていなかったかのように、破れた服の布地はそのまま。筋肉質の腕だけがそこにあった。
「え? な、なに。それ……」
「俺はこのとおりだいじょうぶだ。押し倒して悪かったな、立てるか?」
「う、うん。あたしは平気」
右手で京子を抱き起す。左腕は、使えない。
傷をふさいでも失った血液と体力まではすぐには回復できない。しばらく左の腕は萎えたままだろう。
「こいつは驚いた。カタギじゃないとはふんではいたが、妙な術を使いやがる。…おまえら陰陽師か?」
声とともに闇の中から背広姿の男が姿をあらわす。
見るも無残に焼けただれた相貌と全身から立ち上る灼熱の鬼気もおぞましい。
犬神使い、火怒呂六三だ。
「小癪にもわが犬神を退けるとは、これで計画に遅れがでたぞ、くそっ」
「なにが計画よ、くだらない。あんたのしていることは立派な霊災テロよ。これ以上被害は出させない。今ここであたしたちが引導を渡してやるわ!」
「犬神計画! 四つの蠱毒が生み出す大量の犬神によって渋谷はわが物になる。その次は新宿、恵比寿、池袋、秋葉原…。やがては東京を、日本という国そのものを手に入れる。犬神筋がふたたび国家を総べる存在となるのだ。それを陰陽師ぃ~、きさまらは一度ならず二度までもわが邪魔をするとは…」
「なによ、こいつ。全然聞いちゃいないじゃない」
「自分に酔ってるんだろ、それより長口上は好都合だ。俺の片腕はもう少しの間使えないし、木ノ下先輩が蠱毒を掘り起こすまで時間稼ぎしよう」
視界のすみに蠱毒を懸命に掘り起こしている純の姿が見える。
「わかったわ。…ちょっとあんた! まずは名乗りなさいよ」
「冥途の土産に教えてやろう。と言いたいところだが、あいにくと冥途の土産はすでにお渡しずみだ」
芝居がかった仕草で指をパチリと鳴らす。
「GURURURUUUU……」
秋芳の肉を食べ終えた黒い犬が威嚇の声をあげ、近づいてくる。
正面に火怒呂、背後に黒犬獣。二人はちょうど挟まれる形になってしまった。
「白桜、黒楓!」
京子の呼びかけに応えて、二体の護法式が顕現し、黒犬の前に立ちはだかる。
成人男性ほどの背丈と、アスリートのような絞り込まれた体型。
片方は白く片方は黒い。白いほうは日本刀、黒いほうは薙刀を構えている。
二体とも西洋の騎士や日本の武者鎧を彷彿とさせるデザインの甲冑で全身を覆い、どこかロボットじみた外観をしていた。
「モデルG2・夜叉か!? 忌々しい、陰陽庁制の木偶人形め!」
「さっきからなによ、あんた。陰陽師になんか恨みでもあるわけ? あ、ちなみにあたしと彼。陰陽塾の生徒なの。だから陰陽師への批判や侮辱はゆるさないわよ」
これは蠱毒を堀り出している純に火怒呂の注意がむかないようにとの考えでの発言だ。
「勝手に作り上げた陰陽法で、先祖代々から伝わるわが一族の秘術を破棄せんとし、それに異を唱えれば命を奪う。これを恨まずなにを恨む」
「あんたみたいなのが好き勝手に呪術を使って人に迷惑かけるから陰陽法はできたのよ。恨むなら自分を恨みなさいよ。だいたいなに? 今どき蠱毒だなんて邪法、信じらんない。あんな動物愛護の精神に反した、他人の怨念に頼った呪術。取り締まられて当然よ」
「実に独善的だな。そうやって今まで民間からいくつの呪術を奪い、闇に葬ってきた?」
京子が火怒呂と応酬をしている間、秋芳の腕に力が戻りつつあった。
(気から察するにあの犬はやつの護法。それも使役式だな。タイプ・ビースト……、ガルムかヘルハウンドか? 舶来ものかよ。いや、ちがうな。あの身にまとう火気の強さ、あれは…、禍斗か!)
禍斗
中国の地理書・山海経に記された妖獣。
炎を食べ、炎をまき散らすとされる魔犬だ。
「もぐりの憑依師にしちゃ、ずいぶんと贅沢な式神を持ってるんだな」
「憑依師ではない、犬神筋と呼べ」
「それ、禍斗だろ? どこで見つけてきたんだ」
「ほう、こいつの正体がわかるか。さっきの術といい、なかなか優秀だな。……そうだ、おまえを犬神にしてやろう。人で試したことはないが、良い蠱毒ができそうだ」
「な…、人を蠱毒にですって!? あんた、どこまで腐ってるのよ!」
「威勢のいい女だ。おまえも犬神になりたいか? くっくっく、土に埋められて飲まず食わずでどこまでそんな口がきけるかな? 三日か? 五日か?」
「火怒呂という獣憑きを生業とする一族の話を聞いたことがある」
「…いかにも、わが一族のことだ。だが獣憑きではない、犬神筋と呼べ」
「火怒呂六三。たしかそんな名の呪術師がいた」
「われのことだ」
「だが、妙だ。その呪術師は一年ほど前に死んでいるはずだ。さんざん呪捜部の連中を手こずらせたあげくに、陰陽法にもとづき特別動的霊災として処理された」
「人を霊災として!?」
「そうだ。陰陽庁の連中よっぽど頭にきてたんだろうな、呪捜官が束になって八陣結界で拘束し、その上で修祓処理されたと聞く」
八陣結界。
それは祓魔官がフェーズ3以上の霊災に対して使用する遁甲術の大技で、対象を囲むように8人の術者を配置した後。
呪文を詠唱し術式を発動させることで術者同士を光の線が結び、内部のものを閉じ込める。
「修祓したのがまた十二神将の一人ときたもんだ。国家一級陰陽術師まで出張らせるとは、どんだけやんちゃしたんだって話だよ」
十二神将。
国家資格である『陰陽1種』取得者の通称だが、その呼び名の通り十二人いるわけではなく、国内に十数人存在する。
陰陽師としての腕は超一流であり、現場に出ているものから研究者まで、その活躍の場は様々とされる。
「…………」
「ええと、十二神将の、誰だっけ? 鬼喰らいのなんとかって人」
「鏡だ。鏡伶路……。そいつが、殺したんだ。この、われを。犬神筋の、このわれを!」
火怒呂の身から殺気が颶風のごとくあふれ出す。
それだけではない。陰気が、おき火のごとく全身を包む。
それはもはや生者のまとう種の気ではない。
「殺したって…、なによ? こいつなに言ってるの? なんなのよ、こいつ…」
「怯えるな。こいつはただの死にぞこないだ。呪詛を返せば灰燼に帰す」
「く、くくくっ。呪詛だと? きさまらの目論見通り、ここに蠱毒は埋めてある。だが、蠱毒に近いほどわれの力も増すのだッ!」
陰気が場を駆け抜ける。
「あああッ!?」
地面を掘っていた木ノ下純が悲鳴をあげてのけぞる。
「先輩!?」
純の口から牙が、手から鉤爪が、全身から獣毛が生えてくる。
押さえられていた犬神が猛威を振るい、純の身を蝕んでいるのだ。
このままでは身体を乗っ取られてしまう。
「京子、一分でいい。あのでかい犬を、禍斗を頼む。俺は火怒呂を倒す。やつを倒せばすべて終わりだ」
厄介な式神を相手にする時は、先に術者をどうにかする。対人呪術戦のセオリーだ。
「え、わ、わかったわ」
「やつは火気を帯びている。水行符はあるか?」
「ええ、五行符はいつも多めに持ち歩いてるから」
「よし。時間を稼ぐだけでいい、倒そうなんて考えるな。……行くぞっ!」
そう言って火怒呂目がけていっきに駆ける。
ほぼ同時に京子も白桜と黒楓を禍斗に向かわす。
戦いが、始まった。
憑獣街 3
秋芳が狙うのは首。
まず首を潰して呪文を唱えられなくするつもりだ。
火怒呂の首に貫手を入れる。相撲でいう喉輪だが、完全に喉を潰すいきおいで突く。
命中。続けざまに股間を蹴り上げ、前のめりになる火怒呂に対し容赦なく打撃をあびせかける。殴る、殴る、殴る、ひたすら、殴る。
両手で頭と顔を守るようしてうずくまったので、頭部目がけて膝蹴りを叩きこむ。のけ反ってがら空きになった胴に突きと蹴りの応酬。
とかく呪術師というものは、相手も呪術師だと呪術戦になると思いがちだ。
だが競技ではないのだから、呪術師同士が向かい合って、よ~いドンで呪文詠唱開始。などという決まりなどない。
呪文の詠唱や集中するいとまをあたえず、肉弾戦に持ちこむ。
これが秋芳流の対人呪術戦だ。
武術とは、もっとも実践的な魔術の一つなのだ。
このやり方で今まで何人ものはぐれ陰陽師を血祭りにあげてきた。
相手の接近を防ぐため式神を守りにつけるのがセオリーだが、プロならともかく護法式をはべらすもぐりの陰陽師などめったにいない。
今回の場合、火怒呂は一体しかいない自分の護法式を自分の身の近くから離しすぎた。
秋芳たちを挟み撃ちにすることが裏目に出たのだ。
一方的。あまりにも一方的な秋芳の攻勢だったが、しかし――。
「!?」
異様な殺気を感じて跳びすさる秋芳。
わき腹に痛みが走る。まるで獣にで咬み千切られたかのように肉がえぐられていた。
内臓までは達していない。致命傷ではないものの、血が流れ出し地面に染みを作る。
「やれやれ、乱暴な陰陽師だ。死んでいなかったら死んでたかもなぁ」
火怒呂の体から声が響く。
喉は完全に潰したはず。ではどこから?
「これがわれの新しい力。二つ目の冥途の土産だ」
火怒呂の肩に牙を剥いた犬の頭が生えている。その犬がしゃべっているのだ。
「くっくっく、蠱道に使役されし三十六の禽獣よ、わがもとへ集え。咬み、啄み、啜れ!」
火怒呂の全身から次々と獣の頭が生える。
膝からも肩からも犬や猫。鳥の頭が生えてくる。指は蛇に、つま先は蝦蟇に、背中からも得体の知れないなにかが生えて不気味に蠢いているのがわかる。
だが服はどこも破れていない。肉体そのもが変化しているわけではないようだ。
一つの巨大な霊災を中心として無数の霊災が連鎖的に発生し、無数の霊的存在が実体化して暴れ回る 状態をフェーズ4。百鬼夜行と呼ぶが、今の火怒呂の醜悪かつ邪悪な姿と、身にまとう妖気の量は、まさに歩くフェーズ4状態だ。
「おいおい、一人百鬼夜行かよ。ワンマンアーミーなんて言葉はあるが、ワンマン……そういや百鬼夜行を英語にするとなんて言うんだ? パンデモニウム? う~ん、ちょとちがうような……」
軽口を叩きつつ、異形と化した火怒呂の姿をしっかりと視る。
五行の偏向は見られない。しいて言えば呪詛の塊だ。
下手に接近すれば獣たちの牙の餌食になる。となれば――。
「我咆哮、金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」
我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
虎の口を模して重ねられた掌から気がほとばしる。
純然たる気の衝撃、虎吼掌波だ。
鬼の体をバラバラに吹き飛ばしたこともあるその苛烈な一撃は、はずれることなく火怒呂を撃つ。
「ぐっ、やるな。今のは発剄か?」
衝撃を受けて数歩後ずさる。その時ジャミングされた映像のように火怒呂の輪郭がぶれ、明滅した。
これはrag。
ラグと呼ばれる現象だ。
式神や霊災のような霊的存在は物理的影響力を持つ立体映像のようなもので、そこにあるように見えても実際にそこに物質があるわけではない。
そのため物理的・霊的に強い干渉を受けると構成が乱れてラグが出る
火怒呂六三。もはや人ではない証左だ。
しかし与えたダメージは低い。
シャァァァッ!
火怒呂の背中から鞭のようなものがしなり、秋芳の首を狙う。同時に指の毒蛇が胴を、つま先の蝦蟇が長い舌を足に絡ませようとのばす。
残りの桃園霊符に気を廻らせて鞭を断ち斬りつつ、軽功を駆使して攻撃を避ける。
避ける、避ける、避ける。
「ええいっ、ちょこまかと!」
毒蛇の牙も蝦蟇の舌も、秋芳の身にかすりもしない。
地面に落ちた鞭らしきものが、しゅうしゅうと音を立てて消滅する。
それは巨大な蠍の尻尾だった。
(ひー、おっかねぇ。どんな毒があるか知れたもんじゃない)
とんっ。
ふと背中になにかがあたり、そこから温かい気を感じる。
京子だ。
京子の背中だ。
「もう一分は経ってると思うけど、手こずってる?」
「少しね。あいつ変身しやがった」
「…ヤバイ気がびんびん伝わってくる。あんなの一瞬でも見たくないわ、早く倒して」
「おう」
ほんのわずかな背中合わせの会話。
こんな時だというのに、それが妙に楽しい。秋芳の顔に自然に笑みが浮かぶ。
京子の戦いは禍斗の先制攻撃から幕を開けた。
「GAFOLAAAッ」
漆黒の魔犬の口から炎の息が吹き出す。
「急急如律令!」
即座に水行符を発動させる。水剋火。水は火を消し止める。
灼熱の息吹は京子になんの影響も与えなかった。
『倒そうなんて考えるな』
彼はそう言った。けれども目の前の動的霊災は時間稼ぎを念頭においた戦い方でしのげる相手ではない。
現に白桜と黒楓の連携攻撃を軽やかに避けつつ鉤爪や牙で反撃し、少ないながら、こちらの式に手傷を負わせている。
その巨体に似合わぬ俊敏さだ。
全力で倒すつもりで戦って、やっと時間稼ぎになる。
手持ちの呪符は五行符がそれぞれ数枚。それと桃園霊符がまだ一枚残っている。
自分の使える術には限りがある。どうする? どうすれば、勝てる?
(さっきの火。相剋相性だったにしても簡単に打ち消せた。この犬、呪力はたいして強く無いんじゃない?)
ふとある考えが脳裏に浮かぶ。
「GAUUUッ!」
黒楓の薙刀が禍斗の前脚を掃う。
転倒こそしないもののバランスがくずれ、隙が生じた。
(今よ!)
一瞬だけ意識を白桜・黒楓の制御から離し、自前の呪力を練り上げるのに集中。
転法輪印を結印し、続いて呪縛印に。
「緤(す)べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの大誓願なり! オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
不動金縛りの術。
目に見えない呪力の縄が禍斗の身を縛る。
成功だ。
「今よ! 白桜、黒楓!」
反撃の心配はない。二体の式神に守りを捨てた全力攻撃を命じる。
刀を何度も打ち据える白桜。
渾身の力で薙刀を叩きこむ黒楓。
禍斗の体にラグが走る。
効いている。
確実にダメージを与えている。
だが。
「GUGAGAAAッ!」
京子の呪縛を力任せに引きちぎり、突進。
二体の式神が大きく吹き飛び、こんどはこちらがラグる。
「きゃあっ」
術を返された衝撃に、つい悲鳴があがる。
(こいつ、なんてタフなの!?)
思わず後退し、相手と距離を取る京子。
(こわがっちゃダメ。戦うのよ…)
とんっ。
ふと背中になにかがあたり、そこから温かい気を感じる。
彼だ。
秋芳の背中だ。
怖じ気が消え、自然に安堵の息が漏れる。
「もう一分は経ってると思うけど、手こずってる?」
「少しね。あいつ変身しやがった」
たしかに。最初の比ではない邪気が向こうからひしひしと伝わってくる。正直それにくらべれば、あの漆黒の魔犬。禍斗なんてかわいいものだ。
「……ヤバイ気がびんびん伝わってくる。あんなの一瞬でも見たくないわ、早く倒して」
「おう」
ほんのわずかな背中合わせの会話。
たったそれだけのことで京子は体力も霊力も全快したような気分になった。
彼と一緒に戦っている。負けるわけがない。
彼の背中を守っている。負けるわけにはいかない。
勝つ。
絶対に、勝つ。
「白桜、黒楓!」
京子の右前方に白桜が、左前方に黒楓が移動する。
だがかなり離れた配置だ。この布陣では京子の前がガラ空きだ。
「GUUUU……」
獣の瞳に思案の色が見える。
突進して引き裂く前に先ほどの術で動きを止められ、左右から攻撃されるのはいやだ……。
はたしてそのように考えたのか不明だが、誘いに乗るような真似はしなかった。
禍斗の口が大きく開く。
そこにはおき火のように赤々と燃える炎が見える。
距離があるのをいいことに、ふたたび火の息での攻撃を試みたのだ。
ごうっ。
自分に目がけて一直線に伸びる炎に対し、京子は二枚の符を投じた。
一枚は桃園霊符。
もう一枚は水行符――ではない。土行符だった。
「霊気よ、つどいて盾となれ。急急如律令!」
桃園霊符で防壁を張る。
だが火を防ぐのにもっとも効果的な水行符ほどには軽減できない。火はせき止められたが火傷するほどの熱気が伝わってくる。
熱い。
髪の毛の焼けるような、いやな臭いがただよう。
それでも、なんとか防ぎきった。
「灰燼より真土あらわる、急急如律令!」
同時に投げた土行符は火の息を吸収し、ひときわ強い気を放ち、巨大な土塊と化した。
五行相生、火生土。
「土精を食みて金剛と化せ、急急如律令!」
間髪入れずに金行符を、続いて水行符を打つ。
「金鉄に発露し恵水となれ、急急如律令!」
土塊は鉄塊と化し、その表面を大気中の水分が凝縮されたかのような大量の水滴が覆い尽くす。
そしてそれは一筋の水流と化し、禍斗にむけ激しく噴射、直撃。
土生金。金生水。
相生効果により増幅された水気は極めて強力で、火気をまとう禍斗はひとたまりもない。
断末魔すらあげることもできず、いっそう激しくラグを起こし消滅した。
勝った。
京子は勝ったのだ。
五行相生を駆使するため、連続して符術を使うのは一つの賭けだった。
符を投じるタイミング、術式の展開と制御。それらに寸分で狂いがあれば、失敗していただろう。
幼い頃からの呪術の手ほどき、座学で習った五行相生。
そして実技授業で秋芳と呪符打ちをしてコツをつかんでいたから、それを犬神の群れに対し実践していたからこそできたのだ。
日々の訓練、研鑚はけして無駄にはならない。
そう。日々の欠かさぬ努力があって、始めて強くなり、勝つことができるのだ。
接近戦では全身に生えた獣たちの牙の餌食になる。
ある程度距離をとって戦うか…。
そう考える秋芳だったが――。
「まずはその蝿のように小うるさい動きを封じてやる。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ――」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
火怒呂の全身に生えた獣たちの口から一斉に詠唱の言葉が漏れる。
「「「「「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ、オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ。縦横縛陣!」」」」」
無数の唱和が呪力と一体となって響き合う。
それは先ほど京子が禍斗にかけた不動金縛りと同種の術だが、数がちがう。
ちがいすぎる。
十重二重、三重の呪縛が秋芳に放たれた。
(おいおい、口の数だけ術が使えますってか? そんなのありかよ!)
全身に気を廻らして襲い来る術に身がまえる。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
相手の術を弾くたびに呪力と霊力の摩擦が生じ、まばゆい光が閃く。
すべて、耐えきった。
「そんなバカな!? きさまはバケモノか?」
化け物はそっちだろ。
内心で苦笑しつつ、距離をつめる。
獣の牙も厄介だが、連続呪術はそれ以上に脅威だ。接近して戦うしかない。
「斬妖除魔、降魔霊剣。急急如律令!」
剣指にした人指し指と中指の間にはさんだ桃園霊符から一メートル近い光り輝く尖形状の刀身が生成される。
桃園霊符に宿る破魔の力を剣の形にしたものだ。
間合いをつめ斬りかかる。
鋭い斬撃が火怒呂の体に生えた犬の首を断ち、刺突が猫の目を潰す。
攻撃があたるたびに火怒呂にラグが生じるが、負けずに反撃してくる。
鋭い歯や嘴が肉を切り裂き貫こうと、毒のしたたる牙や針が身を侵そうと、長い舌が足を絡め取ろうと襲い来る。
大きく開けた口から蛾や蜂の群れが吐き出され、それを霊剣を風車のように回して掻き散らす。
手数が、ちがいすぎた。
こちらの一度の攻撃に対し、むこうからは十を超える反撃がある。
蛇の牙や蠍の針など、いかにも危険そうな攻撃を優先的に防御するが、すべては防ぎきれない。犬や猫の牙が秋芳の身に無数の傷をつける。
先ほど負傷したわき腹からは今も血が流れ、足元に血だまりを作っている。
「ハハハ! どうしたどうした、動きが鈍っているぞ。血を流しすぎたんじゃないか? あまり動きまわらないほうがいいぞ」
一カ所に止まっていては相手の的になる。目まぐるしく位置を変え、攻撃を繰り返していた秋芳だが、戦闘開始時にくらべ、その動きは鈍って見えた。
(貪狼…)
犬の牙が頬をかすめる。
(巨門…)
猫の牙が上着を裂く。
(禄存…)
鳥の嘴が肩をかすめる。
(文曲…)
毒蛇の牙を斬り払う。
(廉貞…)
蝦蟇の舌を突き通す。
(武曲…)
目を狙った蠍の毒針を寸前で断ち斬る。
(破軍)
動きを止める秋芳。
服は破れ、血がにじみしたたり落ちる。満身創痍だ。
「観念したか? だが、われをこの姿にさせるとは大したものだ。これは鏡伶路を屠る時までとっておくつもりだったのだからな。言ったとおり犬神にしてやろう。次に目を覚ました時は土の中だ」
そう言って蠍の尾をもたげる。
「動くなよ、手元が狂う。……ふふふ、いいことを思いついたぞ。おまえに出す『仕上げ』の食事はあの女の肉で作ってやる。胸腺のフォン・ ド・ボーがいいか? それとも肝臓のパテがいいか?」
火怒呂は気づかない。
さんざん動きまわったにもかかわらず、秋芳の息にまったく乱れがないことを。
火怒呂は気づかない。
秋芳は血こそ流しているが、汗ひとつかいてないことを。
「その前にたんと恨んでもらうぞ、強い怨念は最高の蠱毒になるからな。あの女、実に嬲りがいがありそうだ。おまえの目の前でかわがってやろう」
火怒呂は気づかない。
自分が結界に捕われていることを。
「貪狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍。我、紫微に立ち七星に命ず、天コウ北斗七星霊陣!」
突如、周囲七カ所から収斂された霊気が吹き出し、火怒呂の体を刺し貫いた。
「ぐはぁっ!? な、なんだこれはっ? か、体が、体がっ、うぐぅがぁぁぁッ!? や、やめろ。やめてくれぇっ!」
七本の刀槍で全身を刺し貫かれ、激しく揺さぶられているようなものだ。
全身に激しくラグを生じ、苦痛にのたうち回ることもできず、ただただ絶叫する火怒呂。
秋芳は闇雲に動きまわっていたわけではない。
地面に自らの血を落とすことでそれを印とし、結界を結んでいたのだ。
洋の東西を問わず、血液というものは呪術の触媒に使われやすい。
血は生命力や霊気といったエネルギーの象徴といえる。
「あんた、呪捜官の八陣結界に捕われて焼き殺されたんだろ。……結界に捕われて死んだ人間が、また結界に捕われる。学習しないのかって話だよな」
「あぐグギギャ! 痛いひぃぎぃっ。崩れるッ。体がッ。やめてくれっ、術を、術を解いてくれ。頼むっ」
「もののついでだ、今度も炎で葬ってやろう。魂さえ焼き尽くす、とっておきの火でな」
結界に捕われた火怒呂に攻撃される恐れはない。
じゅうぶんに気息を整え、内力を練り、導引を結び口訣を唱える。
「玉帝有勅、三昧真火神勅、形状精光、上列九星。急急如律令!」
掲げた両手の間に拳大の火球が生じ、赤、青、白と熱が上がるごとにその色を変え、サイズも大きくなっていく。
そしてふたたび、赤。
完全なる赤。純然たる火。三昧真火だ。
斉天大聖・孫悟空すら退けた、かたち持たぬ神霊さえも焼き尽くす三昧真火。
溶岩の温度は一千度前後、太陽の表面は六千度、核融合炉の温度は一億度を超えるという。では三昧真火は?
無限。
火球に直接触れずとも、発する熱だけであたり一面蒸発してしまうだろうそれだが、呪力で巧みに抑えているため、まわりに被害は出ない。
ゆっくりと近づく火球。絶対の死を前にして、もはや言葉すら出ない火怒呂。
「燃烧吧(燃えちまいな)!」
火怒呂六三は三昧真火に飲み込まれ、消滅した。
秋芳が京子のほうを見ると、禍斗が水流に飲まれ消滅するところだった。
「やったな。フェーズ3の霊災を祓うなんて、プロ並じゃないか。ケガはないか?」
「ええ、平気。とっても心強い味方がいてくれたから。……それよりも木ノ下先輩は!?」
犬神にさいなまれていた木ノ下純。火怒呂を倒してその犬神はどうなったのか?
「キャンキャンキャンキャンキャンッ!」
四つん這いになり、後ろ足で蠱毒が埋まっているであろう地面を掘っていた。
頭からはケモノ耳、お尻からはモフッとした尻尾が、手足には肉球ができ鉤爪が生えている。
「き、木ノ下先輩!?」
「悪い気は感じないが、なんか変な具合に生成りが進んだようだ」
「落ち着いてないで、早く蠱毒を修祓しましょう。そうすれば先輩も――て、あなた酷いケガじゃない!」
「すぐ治す。問題ない」
掘り出した蠱毒の本体。四つに分かれた犬の頭蓋骨の欠片に、純の持っていた残りの骨を合わせたとたん、それはさらさらと崩れていった。
もはや瘴気など発してはいない。
術者が死んでなお強い呪力を発する呪具も存在するが、これはそのようなタイプではなかったようだ。
「京子、悪い。少し眠る」
「え? ちょ、ちょっとなに――!?」
目覚めるとベンチに横たわっていた。
「あら、もう目が覚めたの? 早いわね」
京子が見下ろしている。彼女に膝枕されているのだ。
(なんか、最初に会った時と逆だな…)
「ハンカチは木ノ下先輩に使ってるから、こうしてあげてるの。感謝してよね」
隣のベンチを見ると純が横になっていた。
その頭の下には京子の物と思われるハンカチが一枚敷かれている。きちんと調べなければわからないが、純の体の中に犬神はおそらくもういない。
「感謝する。俺は、どのくらい寝ていた?」
「五分……。ううん、三分も経ってないわ」
「そうか――」
さすがに消耗した。
傷を禁じる術は制御がむずかしく、呪力の消費も大きい。
なにより三味の真火を使ったのがこたえた。
火怒呂が結界の中で削り殺されるのを待っていてもよかったのだが、やはりあの数々の言動が頭にきていたようだ。
すぐ起き上がろうとするが、やめた。気持ちが良いからだ。
「もうちょっと休んでたほうがいいわ。あなた、ボロボロじゃない」
「そうかな」
「そうよ」
こうして膝枕されていると、京子の顔がよく見えない。
胸が、大きいからだ。
京子自身の豊かな胸が邪魔をして、下からだと顔が見えないのだ。
「おっぱい、でかいな」
不覚。つい口に出してしまった。
「――っ!」
京子が顔を真っ赤にして睨みつける。
「……スケベ」
「男はみんなスケベなんだよ」
「エロ」
「男はみんなエロいんだよ」
「えっち」
「男はみんな、えっちなんだよ。……なぁ、さっきの言葉。おぼえてるか? なんでもしてくれるんだよな?」
こくん。
これ以上はないくらい顔を真っ赤に染め、瞳を潤ませながらうなずく。
と同時に拳を振り上げる。
「でも、変なこと言ったらぶつわよ」
「ぶたないよ」
「ぶつわよ」
「ぶたない。君はケガ人をどつくような暴力ヒロインなんかじゃない」
「ぶつわ」
「おまえと――」
「ぶつ!」
「まだなにも言ってないだろ」
下からのアングルがなんともいえない。
(あのでか乳をひん剥いてアクリル板に押しつけ、色々な形に変形する様を観賞するプレイとか、いいな)
コツン。
「痛いじゃないか、なぜぶつんだ」
「痛くない! 今すんごいエロいこと考えたでしょ! わかるんだから!」
その時、軽快な着信音が鳴り響いた。京子のケイタイからだ。
「……お祖母様からだわ」
「ああ、心配してかけてきたのか」
「ううん、メール。…ここに来るって」
「なに?」
思わず起き上がる。
「ここに? 塾長に連絡したのか?」
「してないわ。卦でも見たのかしら」
「星読みってそんなピンポイントで誰かの場所までわかるのか? つか、そこまでわかるなら今回の騒動を事前に読めなかったのかって話だが…」
「陰陽師の中にも誤解してる人がたくさんいるけど、星読みの力はなんでもわかる万能なものなんかじゃない。天啓みたいなものだってお祖母様が言ってたわ。知りたいことを常に知ることはできない。急になにかが降りてきて、知りたくもないことを知らされる時だってあるって」
「なるほど、そう考えると星読みも大変だな。……さて、どう説明しようか。木ノ下先輩のことは黙っててあげたいが、それも知っているかもしれないし……」
ふたたび着信音。同じく京子の祖母、倉橋美代からのメールだ。
「ええと、木ノ下先輩のこともふくめて、事後処理はこちらでします。ですって」
「ばあさん今夜は妙に冴えてるな!」
「あと、あなたにもお礼がしたいから少し待ってて。ですって」
「俺のことまでわかってるのかよ『召喚教師リアルバウトハイスクール』の澁澤右京ばりの星読みっぷりだな、おい!」
「まだ続きがあるわ……て――ッ!?」
「どうした?」
「な、なんでもないわ!」
赤面してケイタイをしまう京子。
ほどなくして一匹の三毛猫が京子の名を呼びながら駆け寄ってきた。
秋芳は塾長のお迎えに応じて倉橋邸にお邪魔することにした。
倉橋邸。
さすがに広い。
京や大和にある賀茂の屋敷も大きいことは大きかったが、どこか生気にとぼしかった。
暗い部屋の中、障子ごしに差し込む光に映され、ただよっている埃。
そのような、どこか病んだ印象があった。
ここはちがう。
この家は清浄な気と生気に満ちている。
畳ばりの大きな部屋に木ノ下純が寝かされ、その周りに秋芳、京子、美代の姿があった。
犬神騒動についてひと通りの説明を終え、念のため純の気を検めたところ――。
「犬神は完全に取り除かれてます。けれども、まだ獣の気がありますね」
美代はそう言って純の身を調べた照魔鏡をかたわらに置く。
「え、ちょっと待ってお祖母様。それってば『完全には取り除かれていない』てことじゃないんですか?」
陰陽塾内では塾長と生徒。実の祖母に対してもかしこまった言葉を使う京子だが、場所が自宅ということもあり、少々くだけた口調になっていた。
「犬神の気ではないの。まったく別の獣の気が彼女…、じゃなくて彼、木ノ下さんの中にあるわ。それもとても深いところに」
「もともと生成りだった。ということですか?」
「彼自身が生成り。憑依されていたわけではないでしょう。……おそらくは先祖に動物の生成りがいて、その因子が一族の血肉や魂に脈々と受け継がれ、今回の件で覚醒してしまったんじゃないかしら」
(まるで『妖狐×僕SS』の先祖返りみたいね)
(なるほど『幽☆遊☆白書』の魔族大隔世遺伝みたいなものか)
「あら、二人ともずいぶん素直に納得しましたね。こんな稀有な例、すぐには信じられないかと思ってましたのに」
「え、ええ。お祖母様の診たてですもの」
「あー、隔世遺伝や間歇遺伝と呼ばれる現象自体は実際ありますからね。そういうことがあっても、そう不思議ではないかと」
前に読んだ漫画のネタで使われてたんで、しっくりきました。とは言いづらい。
「とはいえ世間一般で言う生成り状態であることには変わりはないですし、正式に封印術を施す必要がありますね」
「……陰陽医のお世話になるってことですか?」
生成りだと認められた者は陰陽医の元に隔離されたり、陰陽庁の監視下に置かれた上で封印術が施され、宿した存在を押さえこむよう、陰陽法に定められている。
陰陽庁内の隔離施設に軟禁され、自由を奪われた純の姿がつい脳裏に浮かび、つい不安げな声が出る。
「安心して、京子さん。どんなことがあろうと陰陽塾の生徒を無碍になんかしません。私の知り合いにとても腕のいい陰陽医がいるの。彼に一度診てもらいましょう。木ノ下さんのご家族には私からきちんと説明するわ」
ことの発端を察知できず、街中で塾生を危険な目に遭わせた。
その罪滅ぼしというわけではないが、倉橋美代は純への助力を惜しまないつもりだ。
「そう…、わかりました、お祖母様。お願いします」
京子の声から安堵とともに憔悴した気配も伝わってくる。
無理もない。今夜だけでかなりの霊力を消費したのだ。
本来なら行使できないくらいの。
「塾長、そろそろ京こ――、お孫さんを休ませては? もう遅いですし、私もそろそろ失礼します」
「そうですね。京子さん、もうお休みなさい。あ、秋芳さん。ちょっとだけ確認したいことがあるので、もう少しつき合ってちょうだい」
「……はい、わかりました。秋芳君。今日はありがとう。また、明日ね」
「ああ、おやすみ」
京子が離席してしばらく、沈黙の帳が降りる。それを破ったのは美代だ。
「あの子を助けてくれたのは、これで二度目ですね。ありがとう。ほんとうに感謝するわ」
「いやいや、ピンチの女の子を助けるのは男の子にとっても気持ちのいいことですから。京子さんくらいかわいいと助けがいがありますよ」
「うふふ、あ、でも恩を着せてエロいことを強要するのはよしてちょうだいね。アクリル板でどうとか」
「さっきから星読みビンビンに冴えわたってますね! 読心ですか!? マインドリーディングですか!?」
「あの子が愛読している少女漫画にも過激なプレイが出てきましたけど、そういうのはきちんと段階を踏んでいたしてくださいね」
「どんな少女漫画ですかそれ! て、あれ? ひょっとして公認してくれるんですか? そういうの?」
それはそれでどうだろう。
「とにかくエロスはほどほどにしてちょうだい。……真面目な話になりますが、ついさっきあの子に新たな力が芽生えたようです。私と同じ星読み。あるいはそれ以上のなにかが」
「やはりそうでしたか。霊力の質と量が変わったのでおかしいと思いました」
「宿星や宿命を変えることはできません。けれども運命は変えることはできる。これからもあの子を、京子のことを守ってください」
「はい、よろこんで」
この人がそう言うからにはさぞかし前途多難な卦が京子に出たのだろう。
守らねば。
あいつの笑顔を守りたい。
あいつを泣かしていいのは俺だけだ。
そう思い、力強くうなづく秋芳だった。
美代との話もすみ、倉橋邸から退出するさい。
秋芳がふと中庭に目をやった瞬間、強烈な既視感。デジャブに襲われた。
寒い寒い冬の日。
白い雪が降っていた。
男が、語りかけてくる。
いいか――、雪というのは人の想いのようなものだ。
白いがゆえに汚れやすく、はかないがゆえに壊れやすい。
それは純粋であるがための自然の摂理。
人の想いも雪のように降り積もっては消えてゆく。
幾日も幾月も幾歳も。
だが記憶は決して消え去ることはない。
忘れるな――。ここで見た、この風景を。
忘れるな――。おまえの心に宿る、その輝きを。
おまえは倉橋に連綿と受け継がれてきた血と想い。
そして新たなる可能性を秘めているのだ。
わかったか――。
っ!?
われに返る。
目の前には黒々とした夜の庭園が広がっている。
雪なぞとうぜん降ってはいない。
「……いつぞやの屋上の時といい、どうも倉橋には奇縁があるようだな」
京子の部屋。
熱いシャワーを浴びて疲労がやわらいだのか、さっきまでの眠気は感じない。
「ゲームを買いに行っただけで色々あったわね」
そう。愛読している少女向けコミックがゲーム化し、それを買いに出かけて京子は犬神騒動に巻き込まれたのだ。
幼なじみの優しい美少年とは正反対の野性的な魅力にあふれた転校生。さらに知的クールな担任教師や、謎に満ちた妖しい後輩――。
そんなキャラクターたちと共に過ごす学園もの作品。
すぐに寝てしまおうかと思ったが、パッケージだけでも見てみようと、購入したゲームの入った青いビニール袋の封を解く。
「……これ、成人向けじゃない」
京子が購入したものは一般向けだったはずだ。
あの店は成人指定作品を買うさい、かならず年齢確認をする。まちがいようがない。
「そういえば、秋芳君も同じ袋持ってたわよね。笑狸ちゃんに頼まれた買い物って、ひょっとして……」
どうしよう?
好奇心がムラムラと湧いてきた。
気づけば手にしたゲームをPCにインストールしている京子だった。
後書き
天コウ北斗七星霊陣の「コウ」は、止の上に四の字がつく特殊文字です。
残照 1
丸太のように太い胴をした巨大なムカデ。
フェーズ3の動的霊災。タイプ・ワームだ。
そのナイフのように大きな牙が秋芳の身にせまる。
(秋芳君!)
思わず声をあげる京子。
軽やかに身をかわすと同時に、金光一閃。
手にした霊符から延びる光刃が大ムカデの胴を半ばほど断ち斬った。
シャァァァッッッ!
痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。
(石化の呪!? 逃げて秋芳君!)
どういうわけか京子にはその煙に石化の呪詛が込められているとわかった。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生 じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。
ピギャァァァッ!?
たまらず退散する大ムカデ。
「禁足則不能歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
どどうっ。
無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。
「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」
孔雀明王の陀羅尼だ。
破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。
(やっぱり強いわね、秋芳君。あたしが心配することなんてなかったわ)
そこで、目が覚めた。
「…………」
見なれない天井が目に映る。
季節はずれの蝉の鳴き声が聞こえる。
畳の匂いが鼻をくすぐる。
障子を通して光が柔らかく差し込んでくる――。
ゆっくりと身を起こし、寝起きの頭で今がどういう状況なのか整理する。
(ここ、どこ? なんであたしここにいるんだっけ? ええと……)
「あ、目が覚めた? おはよー、京子ちゃん。もうお昼だよ」
どこか猫じゃらしを連想させる柔らかな声質の声がかかる。秋芳の使役式、笑狸だ。
「陰陽医さんのとこには秋芳と純ちゃんだけで行ったよ、予約の時間だったからね。京子ちゃん、気持ちよさそうに眠ってたから……。なんかいい夢でも見た?」
「え?」
言えない。
秋芳君が夢に出てきたなんて恥ずかしくて言えない。
「あ、真っ赤になっちゃって。エッチな夢でも見たとか?」
「そんなの見てない!」
そうだ。
獣の生成りになった木ノ下純の具合を診てもらうため、腕のいい陰陽医のいる奥多摩の田舎まで秋芳、笑狸、京子、純の四人で来たのだ。
「一人じゃ心細いの。京子ちゃんたちも一緒に来てくれない?」
そう純に頼まれた時、秋芳も京子も「ご両親はつき添ってくれないの?」という言葉が喉まで出かかった。
家族との間に、いろいろとあるのだろう。
もし秋芳が今の純の立場で実父が生きていたとして、医者のもとまでつき添ってくれるのだろうか? 賀茂の一族の誰かが一緒に来てくれるのだろうか?
生成りを祓う立場になる者が生成りになることを不名誉に思う陰陽師はたくさんいる。自分のミスでなったのだから、最後まで自分でなんとかしろ。
そんなふうに突き放されたのでは?
京子にしても祖母と母との関係は良好だが、父親とは疎遠だ。
陰陽塾に通う生徒は名門・旧家の者が多く、そういう家は複雑な家庭環境を抱えている場合が多々ある。
秋芳と京子はあえて質問せず、純の頼みを快諾した。
どうせなら小旅行を楽しもう。
気の塞いだ純を元気づけるため、連休を利用して日帰りのところを旅館に一泊することになった。
「きのうの夜のこと覚えてる? 京子ちゃん、ずいぶん飲んでたよ」
そうだ。
旅館の夕餉にアルコールが出たのだが、旅先の解放感からか、かなり飲んだ記憶がある。
「京子ちゃんて脱ぎ上戸だったんだね」
「ええっ!?」
「あははっ、やっぱり覚えてないんだ」
最初は秋芳と笑狸しか飲んでなかったのだが『憂いを晴らすには酒が一番』と、純に酒を勧め、その 飲みっぷりに感化されて京子も飲みだしたのだが、すぐにでき上がってしまった。
「あ~、なんか暑い」
などと言って着ている服を脱ぎはじめ、下着姿になる寸前に純があわてて制止しなかったら、男三人の前で乙女の柔肌を余すところなく披露していただろう。
そう、男三人の前で。
男の娘を自称する木ノ下純や少女の姿に好んで化ける笑狸が同行しているため意識しなかったが、この面子で女子は京子ただ一人なのだ。
「京子ちゃん無防備すぎるよ~、薄い本だったら完全にやっちゃったり、やられちゃうパターンだったね、あれは」
「薄い本てなに!?」
だがたしかに昨夜は羽目を外しすぎた。
自分で言うのもなんなが、倉橋京子は優等生だ。
陰陽道の名門にして、現代呪術界の大家、倉橋家の娘。
陰陽塾での成績も優秀で、講師たちの信望も厚い。
クラスではたいていの場合、中心的なポジションにいる。
今まで築いてきた『倉橋京子』という優等生のイメージがボロボロとくずれていくイメージが浮かんだ。
けれどもこういう『生きかた』も悪くない。
「秋芳、遅くなるようならメール入れるってさ。それまでは街中でも見物して周ったら? お祭りの準備とかしてて面白そうだよ」
「お祭り?」
「うん。ここの仲居さんが言ってたけど、ええと、なんとかってお祭りが……」
「金矢祭りです」
白い襦袢姿の少女が二人の会話に割って入る。旅館の仲居だ。
「お客様たち、きのうはずいぶんお楽しみだったみたいですね。遅くまでずいぶんにぎやかでしたよ」
「あ、ごめんなさい。騒がしかったわよね。ひょっとして他のお客さんから苦情とかありましたか?」
「ぜんぜん! だって宿泊されてるお客様は賀茂様たちだけですから」
「え? お祭りがあるのに? 普通そういう時っていっぱいお客さんが来るんじゃないの?」
「こ~んな辺鄙な田舎町のマイナーなお祭りを目あてに来る人なんていないですよ。あ、でも今日、早朝チェックインのお客様がいたから、あれがそうなのかな?」
ずいぶんとあけっぴろげな仲居さんのようだ。だがイヤミな感じはしない。
これが彼女の素なのだろう。
齢は京子と同じくらいで、まだまだ遊びたい年頃に見える。
「お昼ごはん、どうしますか? 簡単なのでいいなら用意できますよ?」
「……そうね、お願いするわ」
「この漬け物美味しい! 白いご飯によく合う」
「お魚も美味しいわ。これ、鮎よね? 川魚ってあんまり食べたことないけど、こんなに美味しかったのね」
「近くの川で獲れたの。旬はすぎちゃったけど、じゅうぶんいけるでしょ?」
「うん、いけるいける」
「金矢祭りでしたっけ。どういう謂れがあるお祭りなんですか?」
京子と笑狸は仲居――ここの旅館の娘で家業の手伝いをしている。浅田かなえという名だ――の用意してくれた昼食を堪能した後、お茶を飲み、ひと息入れながら会話に興じる三人。
かなえは同年代の話し相手があまりいないそうで、嬉々として話に応じてくれた。
「えっとね、昔、俵藤太って人がこのあたりを荒らしまわる大ムカデを退治したって話なんだけど」
「ムカデ!?」
「うん、ムカデ。倉橋さんムカデきらい? て、あんなキモい生き物、普通はきらいだよね。好きな人なんているわけないか」
「ムカデ、わりと美味しいよ」
「え~、笑狸さんてゲテモノ好きなの!? 以外! そんなかわいい顔してるのに……」
「…………」
夢の中で秋芳が戦っていたのもムカデだ。
あれはひょっとしてなにかのお告げなのでは? 京子の心に一抹の不安がよぎる。
「でね、その大ムカデってのが山に何重も巻きつくほど大きい、怪獣みたいなやつだったらしくて、そいつが田畑を荒らすわ人を食べるわの大暴れ。みんな大迷惑してたんだけど、そこに俵藤太て強いお侍さんが通りかかって、そいつをやっつけてめでたしめでたし。その時のお話がもとになってるの」
「俵藤太って、藤原秀郷のことだよね? 平将門を討ちとった」
俵藤太。
またの名を藤原秀郷。
関東で乱を起こした平将門を討った武将として有名だが、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、亡くなった年さえも不明という、いささか謎の多い人物だ。
伝承の中では近江の国の大ムカデ退治。下野の国の悪鬼・百目鬼退治で名が知られる。
「そう。その藤原秀郷さん」
「でも、金矢祭りの『金矢』ってのはどういう意味なの?」
「そのムカデ、すっごい硬かったらしくて、刀も矢も弾いちゃったんだけど、最後に残った一本の矢に唾をぺっ、てつけて射ったら、なぜかそれが効いて倒せたんだって。不思議よね~」
「そういえば唾には魔除けの効果があるって言うわね」
唾に魔除けの効果があるという話は世界中にある。
また沖縄には落し物を探すさい、唾を手の平にのせて呪文を唱えると失せ物が見つかる。などという『まじない』があるという。
これらは乙種呪術といえよう。
「その最後の矢を祀ってる神社がこの街にあって、その名も金矢神社。だから金矢祭り。なんかもう、そのまんまよね」
浅田かなえはケラケラ笑いながら話を続ける。
「あたしはその大ムカデって、今でいう霊災なんじゃないかなと思うのよ。倉橋さんたち東京から来たんでしょ。やっぱ東京って多いの、霊災? あと陰陽師に会ったことある?」
「それは…」
京子が言いよどむ。
自分たちは陰陽塾に通う見習いの陰陽師であり、プロの陰陽師の教えを毎日受けている。
そのことを正直に言っていいものか?
世間での陰陽師の評判はすこぶる悪い。
霊災の修祓などでその活躍を一時的に感謝される瞬間はあるが、それ以上に発生した損害の責任を問われる、批判の声のほうがはるかに多い。
たしかに東京に霊災が多発する原因を作ったのは陰陽師・土御門夜光が執り行った儀式の失敗によるものなので、それはしかたがないのだが、時にはそれとは関係ない、理不尽な差別や非難を受けることもある。
笑狸が京子の表情をうかがう。どうする? 言うの? そんな心の声が聞こえるような気がした。
「浅田さん。あたしたち、陰陽塾の生徒なんです」
隠す必要はない。
意を決し、京子は正直にそう答える
その返事にかなえが目を丸くする。
「凄い! あたし陰陽師の、木暮禅次朗さんのファンなの!」
「え!?」
この反応は京子の予想外だった。
「木暮さんてかっこいいわよね。この前の霊災修祓の時とか、直径が二メートルくらいありそうな木の霊災をズバッと斬り倒して、ほんとマンガみたいだった! ええと、なんだっけ『五行の理を以って、鋭なる金気、沌せし木気を滅さん。金剋木、魔瘴退散』だったわよね、たしか」
呪文詠唱まで正確にそらんじてみせるかなえ。
「いいなぁ、陰陽師。あたしも陰陽師になりたい……」
「え、ええっと……」
京子は困惑した。
てっきりネガティブな応えが返ってくると思ったからだ。
「ねぇ、陰陽塾って、どうしたら入れるの?」
「それは、まず見鬼ができないとダメね」
見鬼。
霊気を感じ取る、いわゆる霊感というものだが、陰陽師になるにはこの才の有無が第一条件だ。
この能力の強さは個々の才能に大きく左右され、高位の見鬼は一般のそれらには見通せない術理や法理。天地に満ちる気の流れそのものまで見極めることができるという。
「あー、あたし、そういうのない……。ね、見鬼だっけ? それってどうしたらできるようになるの? なにか特別な練習とかあるわけ?」
「う~ん、生まれつきのものだから、訓練や練習で見につけられるものじゃないの」
そして見鬼とは天与の才能であり、後天的な訓練で能力をのばすことはできても、元からの素質がないものにはあつかえない。
なんらかの呪術により見鬼が付与されることはできるが、才のない者が自前で修得するのは不可能。
というのがこんにちの呪術界の定説になっている。
「そっか、残念……」
気まずい沈黙。
「あ、倉橋さんたち。もしヒマなら街の中を案内するわよ。なにもないところだけど、鮎の獲れた綺麗な川はけっこう自慢だったりするの」
「いいんですか? 旅館のお仕事は…」
「いいの、いいの! もうずっと閑古鳥が鳴いてて、やることなんてないんだもん。ちゃんとお母さ…。女将さんの許可もらっとくから気にしないで」
「あ、いいね~、川。ちょっと暑いし涼みに行こうよ」
「それじゃあ、お願いします、浅田さん」
「かなえでいいわよ。…こっちも、京子ちゃんでいい?」
「ええ、よろしくね。かなえちゃん」
夕方からの祭りの準備に騒がしい街中を抜けて、街のはずれを流れる川にたどり着く。
清らかな流れが涼しい風を運んでくる。
「ひゃ~、綺麗だねぇ。ボク、ちょっと入ってくる」
「ちょ、笑狸ちゃん!?」
言うが早いか服を着たままジャバジャバと清流に分け入る笑狸。化け狸だけあって、このへんは実にエネルギッシュだ。
「もう、笑狸ちゃんたら、着替えどうするのよ……。でも、ほんとうに綺麗な川ね」
「でしょ? この川くらいなものよ、この街のいいとこなんて」
そう言って小石を拾い水面に投げるかなえ。
「金矢祭りだってあるじゃない。なんか思っていたよりずっと本格的みたい。みんなすっごい楽しそうに準備してたわよね」
「…こういう田舎って、地域の共同体みたいな意識が強いの。行事を手伝うのは当然の義務だって、なんかうっとうしいのよね、そういうのって」
「そうかしら? みんな率先して手伝って、ああいうのって貴重だと思うわ」
京子もかなえにならい小石を拾い水面に投げつける。
しばらく二人で石を投げ続ける。
「素敵よね…。時間がゆっくり流れてる、て感じ」
「……よくTVとかで都会のマンションは隣に誰が住んでるかわからない。病める現代社会の典型。みたいな感じでやってるでしょ? でも、それはそれでいいと思うのよね。ここみたいなのって最悪。ほんとにうっとうしいもの、せまいせまい共同体。監視し合って干渉し合って、相手の生活にずかずかと踏み込んでくる。デリカシーなんてなくて、だから若い人はみんなここを出て行っちゃう……」
「かなえちゃん……」
「陰陽塾って渋谷にあるのよね。京子ちゃんは渋谷、好き?」
渋谷。
道玄坂、宮益坂、公園通り……。
とにかく坂が多い。
坂の下がりついた場所に渋谷駅が存在しているのだが、そこに、谷間の真ん中に引き寄せられるように大衆が集まる。
まるで蟻地獄にはまった人間たちが、その底辺で蠢いてるような印象がある。
上流から下流に流れていく水のように、渋谷には様々な気が流れ込んで来るのだろう。
陽と陰。
二つの気が。
そんな場所にあるのが陰陽塾なのだ。
「ゴチャゴチャしてて空気はよどんでて、朝は生ごみの臭いがして、道端でケンカしてる人もいっぱいいる……。ここみたいに綺麗な川もない。でも好き」
「どうして?」
「いやなところもあるけど、いいところもあるわ。それに――」
「それに?」
「陰陽塾があるから、そこがあたしの場所だから」
「そっか……」
小石を水面に投げる。
「いいよね、そういう場所がある人は」
小石を投げる。
「……あたし、ここがきらいなわけじゃない。このなんにもない街の一部みたいな自分がきらい。毎日あたりまえのように過ごしている自分がきらい。ここにいたら、あたしずっとこのまま、きらいなあたしのままでしかない」
「かなえちゃん、だれでも今の自分が百パーセント『いい』だなんて思ってないわ。だれでも自分のいやな部分を知っている。でも、そういうのもふくめて自分だと思うの」
「それは、ほんとうに『いやな』ところのない人の、才能のある人の科白だよ」
小石を投げる
「見鬼かぁ…。あたしもそういう才能が欲しかったなぁ」
投げる。
「石、それじゃ跳ばないよ」
「え?」
いつの間に川から上がったのか、全身から水をしたたらせている笑狸の姿があった。
「水切りの石。もっと平らな石じゃなきゃ水は切れないよ」
そう言って手近な石を拾い、水面に投げつけた。
一つ、二つ、三つ、四つ……。
石は水面にいくつもの輪を作って遠くまで跳んだ。
「石を変えれば結果が変わることもある。でも、投げるのは自分でしょ。世界の中心は自分。逆じゃない。世界の裏側や果てに行っても、京子ちゃんは陰陽師を目指してると思う。それが京子ちゃんの真ん中の部分、つまり自分だから。『才能』なんていう環境に左右されるような情けない真ん中じゃ、次の場所で悩んだ時に、また同じように見失うよ」
「笑狸ちゃん…」
いつも軽薄な笑狸がそのようなことを口にするのは正直意外だった。
「かなえちゃんが欲しいのって才能ならなんでもいいの? それとも見鬼が欲しいの? もし見鬼の才が欲しいなら秋芳に見てもらうといいよ。いい訓練を教えてくれるかも」
「え、でもそれって後から身につけることができないじゃ…」
「秋芳がよく『努力に勝る天才なし』て言ってるよ。どんな天賦の才能を持っていても、努力し続ける人にはどんな天才も勝つことはできないってさ。血筋や出自を重視する、今の呪術界のやり方に疑問や不満があるみたい。だから見鬼の習得や霊力の底上げに関する 独自の鍛練法を考案してるみたいだから、ひょっとしたら教えてくれるかも。…あ、でも下手したら気脈が断たれて廃人になったり、最悪死んじゃうから、そのつもりでね」
「え、遠慮しとくわ。あたし、まだそこまでの覚悟はないから」
「まだ、ね…。でも本気で陰陽師になるつもりなら、東京まで訪ねてきてよ」
「あ、べつに陰陽師を目指すとかじゃなくて、今度渋谷に出て来るときは連絡して。一緒にいろんなところを案内するわ。あたし、この街にもまた来るから」
「うん、わかった…。二人とも、ありがとう」
遠くから喧騒が聞こえてくる。
「あれ? お祭り始まったの?」
「そんなことないわ。だってお祭りは夕方からだもの」
人の怒声、泣き声、悲鳴――。
祭りの賑わいとはあきらかに異なる剣呑な響き。
黒い噴煙まで上がっている。
(噴煙! まさか……)
「京子ちゃん!?」
駆けだす京子。
「かなえちゃんはここにいて! 笑狸ちゃん、かなえちゃんを頼んだわよ」
返事も待たずに騒動のもっとも激しい場所を目指して進む。
街中は、巨大なムカデの群れにあふれていた。
大きいもので電信柱ほど、小さいものでも大人の腕くらいの太さをしたムカデたちが人々を襲っている。
一匹や二匹ではない。
十匹、二十匹、三十匹……。
数えきれないほどの大ムカデたちが跳梁している。
角のような触覚をいやらしく蠢かせ、人々を追いつめ、捕え、食べている。
首から上をねじ切られ、血しぶきの上がる死体の横で頭をかじるムカデの姿がある。
切断された胴から灰色をした腸をぶちまけ、のたうつ老人に無数のムカデが群がるのが見えた。
半被を着た肉の塊。あれはついさっき通りがかる時に言葉を交わした少年――。
大ムカデの放つ異臭と人々の流した血の臭いが鼻をつく。
人が、目の前で死んでいる。
食い殺されている。
「うぐぅっ」
うずくまり胃の中の物を吐きだす。
(なんなの!? いったいなにが起きてるのっ?)
助けなければ。
戦わなければ。
自分は陰陽塾の生徒だ。無力な人々を霊災から守らなくては――。
しかし――。
「いやっ、もういや! だれか助けて!」
涙が止まらない。
腰から下に力が入らず、へたりこむ。
自分を支える力が砕け散った。勇気など湧いてこない。完全に戦意を喪失した。
自分では敵わない。
自分ではどうしようもない。
自分はもう、負けてしまったのだ。
「助けて、秋芳君……」
一匹の大ムカデが鎌首をもたげ、京子に迫る。
自分に迫る牙をただ見つめ返すだけの京子。
「秋芳君……、お願い、助けて」
(自分は『負けてしまったのだ』だの、自分には『できない』だのと思い込み、決めつけることは、自分で自分に可能性を閉ざす呪をかけているに他ならない。目を覚ませ! 倉橋京子!)
!!っ
声が聞こえた。
賀茂秋芳の声が、聞こえたような気がした。
(呪術者同士の戦いや霊災の修祓に『絶対』だの『百パーセント』だのなんてないんだよ。相手の使う術。瘴気の種類や強さなんてわからないのが普通。まして動的霊災ともなれば見た目も能力も千差万別、千変万化だ)
(ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になる。一見した霊力や瘴気の総量が多い少ないなんて気休めにもならない)
(生きるか死ぬか、勝ち負けなんてサドンデスがあたりまえ。それが呪術戦だ)
(だが、それでも『絶対』に勝つ気で挑む! 霊力や手数の多寡で勝敗が決まるのではなく『勝つ』という気概をより強く持った方が勝つんだ)
(俺の好きな映画の一つにアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『コナン・ザ・グレート』てのがあるんだが、それにグッとくる科白があってだな『俺たちは二人だけで邪教の者と戦う。命を捨てて立ち向かう。この俺の勇気をほめてくれるならば、力を貸してくれ。もし守ってくれなければ二度と拝まんぞ!』てんだ。逆境にあってなお卑屈にならず堂々としているその姿、実にかっこいい!)
放課後の教室や休み時間に、授業中に穏形しつつ、こっそり語った秋芳の言葉の数々が聞こえてくる。
京子の身から消えかけていた意志が、人々を守りたいと思う気持ちがよみがえる。
(わかった。わかったわ、秋芳君。あたしはあなたに『助けて』なんて言わない。そのかわり『あたしは戦う、だから助けて』お願い!)
背筋を伸ばし、迫りくる大ムカデに対し刀印を切る。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ!」
暗転。
丸太のように太い胴をした巨大なムカデ。
フェーズ3の動的霊災。タイプ・ワームだ。
そのナイフのように大きな牙が秋芳の身にせまる。
(え? 秋芳君?)
一瞬、秋芳が助けに来てくれたのだと思った。
だが、ちがう。
ここは先ほどまで京子がいた街中ではない。
どこか廃墟めいた荒れ地。
(これって、今朝の夢?)
秋芳は大ムカデの攻撃を軽やかにかわすと同時に手をひるがえす。
金光一閃。
手にした霊符から延びる光刃が大ムカデの胴を半ばほど断ち斬った。
シャァァァッッッ!
痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。
(同じだわ……。いったいどうなってるの? これは、なに?)
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
秋芳が両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。
ピギャァァァッ!?
たまらず退散する大ムカデ。
「禁足則不能歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
どどうっ。
無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。
「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」
孔雀明王の陀羅尼だ。
破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。
(街は、かなえちゃんはどうなったのよ!?)
そこで、目が覚めた。
「…………」
見なれない天井が目に映る。
季節はずれの蝉の鳴き声が聞こえる。
畳の匂いが鼻をくすぐる。
障子を通して光が柔らかく差し込んでくる――。
「あ、目が覚めた? おはよー、京子ちゃん。もうお昼だよ」
残照 2
純の診断はすぐに終わった。
不自然な憑依状態というわけではないので改めて治療を施す必要などなかったからだ。
生成りではなく先祖返りということで、身に宿る獣の魂を強引に抑えつけたり、祓うのではなく、制御する方法をいくつか伝授されたのみ。
身に異形の力を宿し、行使する。
これは呪術師にとって大きな強みになると同時に一種の箔がつく。
現役の十二神将の中にも、降した鬼の持つ力を自身のものとして使役・利用することで強大な戦闘力を得ている者がいるが、畏怖の対象になっている。
「わざわざこんな遠くまで来たのに、たったこれだけで帰らせたら悪い。せめて治療の真似事をさせてくれ」
そう言って陰陽医が用意してくれたのは桃の実入りの風呂だった。
桃は昔から邪気を祓う神聖な植物とされていて、軽度の霊障ならばこれだけで治せると言われている。
沐浴した後、縁側で身を涼めている純。そして隣にはつき添いの秋芳。
(しかし木ノ下先輩。こうして見るとずいぶんと色っぽいな。春虎が惑わされたのもうなづける)
風呂上りの火照った身体を薄手の湯帷子で包み、風にあたる純の姿は女にしか見えない。
始めて見た時は化粧のせいもあり『美人』よりは『かわいい』タイプに思えたが、こうしてすっぴんだと、その印象は逆転する。
(こっちのほうがいいな)
失恋や霊災が重なったせいで、明るい仕草や表情も鳴りを潜めているが、その伏し目がちな所作が逆に艶っぽく、色気がある。
正直、そそられる。
(身にまとう気はたしかに男のものだが、なんとも艶めかしい。まるで歌舞伎の女形のようだ)
たとえ呪術師でなくても、なんらかの分野で『一流』の域に達した者は非凡な気をまとう。
身も心も異性になりきっている役者のまとう気など、プロの陰陽師でも男女の見分けをまちがえるかもしれない。
「よかった」
「うん?」
「京子ちゃんたちがいてくれて、秋芳君がここまで一緒に来てくれて。ここまで来て、また春虎君の名前が出てくるんだもん。一人だったら耐えられなかったかも」
倉橋塾長の紹介してくれた名うての陰陽医の名は土御門鷹寛。
春虎の父親だったのだ。
「ああ、同じ土御門の一族でも、まさか父親だとは思わなかったな」
「縁があるのか、ないのか、わからないものね」
力のない苦笑を浮かべる純。
春虎にはつい先日フラれたばかりなのだ。
「他にいい人を見つけるといい。…ああいうのがタイプなのか?」
「うん。楽しそうに笑える人が好き。陰陽塾って、そういうタイプの人あんまりいないから」
「まぁ、基本的にみんな奥ゆかしいからな。大口開けて笑うようなタイプはたしかに少ないかもしれん。つーかルックス的にもあいつはうちの異端児だな。最初見た時は茨城のヤンキーかと思ったよ」
「あっははは! なにそれ。でもそれってば春虎君にぴったりのキャッチコピーかも」
純の顔に笑顔がもどる。
「春虎がどうかしたのかい?」
声の主は噂の主の父親。土御門鷹寛だ。
がっしりとした体格で身長も高く、レスラーと言っても通用する大男だが、そのわりには威圧感を感じさせない。
「彼が陰陽塾の個性派だって話してたところです」
「ほう、だがおれから見たら君らふたりもじゅうぶん個性的だよ。最初はどこのAKBだかKGBだかのアイドルかと思ったほどのべっぴんさんに、賀茂氏の御曹司だからな」
「アイドルってそんな…、それほどでも、ありますか?」
「御曹司といっても俺はただの養子ですから。それに賀茂といっても今は没落した旧家の一つにすぎませんよ」
「それなら土御門も同じようなものさ。……秋芳君は春虎のクラスメイトなんだろ? 今、茶を淹れるから、塾での春虎のこと、聞かせてくれないか?」
冷たい緑茶。それと焼き菓子が用意される。
小麦粉を卵と砂糖で練って焼き上げた生地でホワイトチョコを包んだ焼き菓子は香ばしく甘かった。
「――で、春虎はどうだ? クラスにはちゃんと馴染めてる? 勉強はできてるかい?」
「ツッチーなんて呼ばれて馴染んでますよ。なんでも入塾早々みんなのハートをガッツリつかむような行動したそうで。…勉強は、正直できません。そのせいで、いつも主の夏目君からお小言を喰らってます」
「はははっ、優秀な夏目君から見たら、うちのバカ息子のバカっぷりには腹が立つんだろうな」
「優秀…、たしかに夏目君は優秀ですね。ですが――」
「うん?」
「夏目君と春虎君。上司にするなら春虎君ですね」
「ほほう、そりゃまたどうしてだい?」
「夏目君は優秀な人間にありがちな『自分ができるから他人もできて当然』な考えが強いように思えます。こういう人はたいてい教え下手で、下につくと苦労します。対して春虎君は『自分もできないから一緒にがんばろう』『自分にはできないからお前を頼りにしている』と、こちらのやる気をうながしてくれそうです」
「ふむ…」
「それと人を惹きつける徳のようなものが備わっているような気がしますね。人々の輪に自然と入れる。気づけば場の中心にいる。たとえるなら『三国志演義』の劉備や『水滸伝』の宋江みたいな人でしょうか」
「そいつは褒めすぎだろ! 親の前だからって持ち上げなくてもいいだぜ」
「いやいや、正直な感想ですよ。土御門の次期当主は夏目君だそうですが、トップに立つなら春虎君のほうがお似合いじゃないですかね」
そのひと言に鷹寛の目に鋭い光が走る。
(おっと、さすがに人の家のことについては言いすぎたか)
だがそれも一瞬。すぐにもとの穏やかな目つきにもどった。
「たとえお世辞でもそこまで言ってもらうと嬉しいね。どうだい、今日はゆっくりしていって、うちで夕飯でも食べていったら」
「いや、麓の街に連れがいるので、もう帰ります」
「あ、それに夕方からのお祭りも見たいですし」
「麓? 祭り?」
鷹寛は秋芳と純の言葉に怪訝そうな表情を浮かべる。
「麓というのは、どっち方面だい?」
「〇〇側ですが…。なんでも金矢祭りがあるという街で名は――」
「そんなバカな! ありえない! あの街はもう……」
秋芳の応えに鷹寛は思わず驚きの声を上げた。
「なにが、ありえないんです?」
「む、それは……」
言いよどむ鷹寛。
「教えてください。街には大事な連れがいるんです。あの街がどうかしたんですか?」
大事な連れ。
その一言に純の心がかすかに震える。
(あ、やっぱり京子ちゃんのこと好きなんだ。ちょっと残念、かな…)
「わかった。他ならぬ倉橋塾長の紹介で来た、同じ陰陽の道を歩む君たちだ。口止めされているのだが――」
今から一か月ほど前に生じた霊災により、街は壊滅し、住人は全滅。
フェーズ4にまで達した霊災は無数のタイプ・ワーム。ムカデ型の動的霊災を生み出し、祓魔官たちが到着した時には、すでに生存者はいなかったという。
霊災の進行速度があまりにも早かったこと。
東京から離れていたため、発見や修祓が遅れたこと。
それらの不幸な要因が重なり、街一つが霊災により地図から消えるなどという、あってはならない規模の被害を生んだ。
そう、あってはならないほどの。
「そんな大規模の霊災が起こったなんて話、聞いたことないわ!」
「……隠したんですね、陰陽庁が」
「ああ、ことはあまりにも大きすぎる。公にすべきではないと箝口令が敷かれた。このことを知っているのは陰陽庁のお偉方と、当時現場にいた祓魔官。それに近場に住んでた陰陽師。つまりおれたちの家族くらいだろう」
「ニュースにもならず新聞にも載らない。都会から離れた田舎町で、住んでた人たちも『全滅』したからこそできた隠蔽ですね」
「組織的な隠蔽だなんて、そんな……。そんなことが許されるんですか!?」
「隠蔽云々なら俺たちも人のことは言えないけどな」
これは呪捜部に連絡せずに自分たちだけで解決しようとした、先日の犬神騒動のことを言っている。
自分らが禁忌を破るのは良くて、他人がそれをしたら糾弾するというのは、いささか手前勝手。虫のいい話だ。
「でも、それとこれとじゃレベルがちがいすぎるわよ」
「たしかに。だが今はそんなことより京子たちの身が心配だ。木ノ下先輩はここにいてください。鷹寛さん、彼をお願いします」
そう言うや返事も待たずに駆け出し、街へと急ぐ。
疾走しつつ笑狸との『つながり』を強化し、呼びかけるも反応はなし。
道を使わずに山林を突っ切り走りに走る。
軽功を駆使して木々を飛び、林を駆けるのはお手のものだ。伊達に山籠もりの修行を積んだわけではない。
街に、街だった場所に着いた。
まるで竜巻や津波に飲み込まれた後のように崩壊した街。瓦解した建物が広がり、人の気配もしない。
(どういうことだ? 昨夜はここで一晩明かしたんだぞ。旅館の風呂に入って飯も食ったし酒も飲んだ)
まずはその旅館があるであろう場所に行ってみた。たしかに見覚えのある建物がそこにはあったが、破損がひどい。雨露をしのぐことはできても、これではとても旅館としては使えないだろう。
(狐や狸に化かされて、泥水を酒と思いこまされ、畑や林の中で一人で宴会していた。なんて話を聞くが、これは幻覚や幻術の類ではない)
(まずこの俺がまったく気づかずに術にかかるわけがない。次に見鬼持ちが四人もいるんだぞ。そのうち一人は幻術を得意とする化け狸だ。それを完全にだますなんて不可能だ)
(もしや霊災。フェーズ5による、完全なる異界に迷い込んだのか!?)
霊災。
自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。災害へと発展する直前の段階をフェーズ1。
これがさらに進行することでフェーズ2へと移行し、強まった瘴気が周囲へ物理的な被害を与えるほどになる。この段階を超えると大量の瘴気は実体化し、鬼や天狗。鵺といった異形の存在。移動型・動的霊災と呼ばれるようになり、これがフェーズ3。
フェーズ4へと進行すると一つの巨大な霊災を中心として無数の霊災が連鎖的に発生し、無数の霊的存在が実体化して暴れ回る百鬼夜行となる。
そしてさらに、進行した霊災が世界に受け入れられ遍在化する状態をフェーズ5。ファイナルフェーズが存在すると、一部の研究者たちの間で時々口にのぼる。
偏向ではなく偏在。
世界に受け入れられ遍在化した霊災とはなにか?
一説では『神』になるとされる。
神話や伝説などに登場する神や悪魔と呼ばれる霊的存在は霊災の一種。という考えだが、同様の考えで天国や地獄。魔界や黄泉といった想像上の異界もまた、霊災が極まったさいの形の一つではないかという説だ。
世界各地に伝わる隠れ里や桃源郷伝説などはこれで説明がつく。
神隠しなどは『異界』という名の霊災に巻き込まれたくちだ。
呪術によって世界の一部を一時的に異界化することは可能だ。結界に閉ざされた状態の空間も一種の異界といえる。
だが永続的に存在する『世界』を人の身で創れたという話はいまだ聞かない。
それはまさに自然現象を、地震や台風を人工的に起こせるかというレベルの話になる。
(む?)
かすかな霊気の乱れを感じ、その方向にむかう。
(これは、社の跡か?)
鳥居の残骸だろうか、朱色の木片が散らばっている。
そしてその向こうには――。
瘴気。
地面から瘴気が間欠泉のように湧き出し、竜巻のように回転しながら空へと舞いあがっていた。
(なんなんだこれは? フェーズ3にいつ移行してもおかしくない規模の霊相だが……、このあるかなしかのわずかな瘴気はなんだ?)
ガラス越しに人と会話している時のような『聞き取りにくい』感じ。
目の前にあるにもかかわらず、どこかぼんやりとしている。
慎重に瘴気へと近づき、様子をうかがう。
すると――。
竜巻状の瘴気は一瞬にして巨大なムカデへと姿を変え、襲いかかってきた。
「斬妖除魔、降魔霊剣。急急如律令!」
ふところから素早く霊符を抜き、即座に口決を唱えると、符から光り輝く刃が伸びる。
牙による攻撃を避けると同時に腕を振るい、ムカデの胴を斬り裂いた。
シャァァァッッッ!
痛みと怒りに震える大ムカデの口から黒い噴煙が吐き出される。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
両掌で孔雀明王印を結び、真言を唱えると、まばゆい光が後光のように射す。
害虫や毒蛇を駆逐する孔雀明王の力が噴煙を退ける。
さらにその聖なる光気は大ムカデの体にもダメージを与え、全身を覆う硬質の殻に無数の裂け目が生じ、そこから毒々しい色をした体液が漏れる。
ピギャァァァッ!?
たまらず退散する大ムカデ。
「禁足則不能歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
どどうっ。
無数の脚をせわしなく動かして逃げようとした大ムカデだが、その足の動きすべてを禁じられて地に転がる。
「ノウモタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソラキャ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウガレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジヤヤビジヤヤ・トソトソ・ローロ・ヒイラメヤ・チリメラ・イリミタリ・チリミタリ・イズチリミタリ・ダメ・ソダメ・トソテイ・クラベイヤ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリリチリ・ビチリ・ノウモソトハボタナン・ソクリキシ・クドキヤウカ・ノウモタラカタン・ゴラダラ・バラシヤトニバ・サンマテイノウ・ナシヤソニシヤソ・ノウマクハタナン・ソワカ」
孔雀明王の陀羅尼。
破邪の光が雨のように降りそそぎ、ムカデの形をした動的霊災はたちまち修祓された。
だが、瘴気は依然として地面から湧き出している。
(これはまさか、門か?)
異界へのゲート。
そのようなものが本当に存在するのだろうか?
ふところから一枚の式符を取り出す。
霊力を練り、呪力に変えて式符に注ぎ込みながら放つ。秋芳の呪力を受けた式符は折り鶴の形になり瘴気の中へと入る。
視覚を共有してある偵察用の簡易式だ。
秋芳が意識を集中するに従って〝目〟は奥へと進んでいくのだが――。
(ダメだ。たしかにどこかにつながっている感じはするが、気の流れに乗ることができない。俺自身が帝式の兎歩を使えばあるいは……)
道教に伝わる兎歩は魔除けの歩法だが、帝国式陰陽術における兎歩とは仙術とされる縮地の術と組み合わせ、霊脈に入り移動する呪術のことをを指す。
禁呪にふくまれない帝式の中では屈指の難易度を誇る超高等呪術であり、夜光以降に作られた新しい呪術だ。
賀茂にも連にもこの呪術は伝わっていない。
秋芳もつい最近にこの呪術の存在を知り、陰陽塾の図書室で専門書をあさり、独学で身につけたところだ。
と、その時。
「そこの怪しいやつ、ここでなにをしているの!」
突然の誰何。
声の主はと見れば、小柄な中年女性が肩を怒らせて立っている。
たしかに中年のようだが溌剌として若々しい。おばさんではなくお姉さんでも通用するルックスだ。額にしてあるヘアバンドといい、元気のいいスポーツ少女がそのまま年齢を重ねたかのような印象がある。
「家のほうから天狗かマシラみたいな勢いで駆けてく影が見えたから来てみれば、瘴気の渦なんてこしらえて、あんたなにしでかそうっての? 返答次第じゃ痛い目見るからね」
誤解だ。
「待て、俺は怪しい者じゃない」
「怪しいやつはたいていそう言うのよ!」
「待て、俺は怪しい者だ」
「怪しいやつめ、おとなしくお縄につきなさい!」
女性はそう言うや、なにかを放った。
蒼いツバメ『モデルWAI・スワローウィップ』だ。
スワロー・ウィップは人造式の中でも捕縛式と呼ばれる特殊な式神で、その主な用途は呪術犯罪者の捕縛。呪捜官のために作られたような人造式である。
とっさに折り鶴の式を呼び戻し、飛来してくるスワローウィップに割り込ませて動きを止める。
「ええい、どう答えろと言うのだ! だいたいそっちこそ何者だ。堅気の人間は捕縛式なんて持ち歩かないぞ」
「あんたも呪術になじみのある人間なら『アキバのラムちゃん』て言えば、聞いたことぐらいあるでしょ?」
「はぁ? なんだそりゃ。知らん」
「むむ、じゃあ『祓魔局の天神小町』か『閃光のレディ・サンダー』は?」
「一度も聞いたことがない」
「そう…。なら、これから忘れないように胸に刻み込ませてあげるわ。 急急如律令!」
女性の手にした木行符がひらめくや、閃光が奔り、轟音とともに雷がほとばしる。
「くわばら!」
しかし秋芳が一喝すると、彼にむかって放たれた霊撃は軌道がずれ、あらぬ方向に飛んでいった。
「……ずいぶん器用な言霊の使い方するじゃない」
雷除けのまじないに「くわばら」と唱える乙種呪術がる。
秋芳はそれに呪力をくわえることで『本物』の呪に仕立て上げたのだ。
たんなる力づくの甲種言霊ではなく、細密に練られた呪力が乗せられた、人間相手のみならず、呪術にも効果がある、きわめて玄妙な言霊術といえる。
「どうやらただの左道使いってわけじゃなさそうね。本気でいかせてもらうわ!」
女性が印を切り、真言を唱える。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ!」
激しい雷鳴が轟き、瀑布のような勢いで雷流があふれ、押しよせる。
自然には決して起こらない規模の雷の嵐が場を駆ける。
女性が切った印は帝釈天印。
帝釈天とはインドの神話に登場する軍神インドラのことで、天空の支配者。雷鳴や稲妻を自在にあやつる存在だ。
彼の武器であるヴァジュラは密教法具である金剛杵のもとになったといわれる。
「雷鳴に祝福されし羅刹の王子。百の剣を振るい、千の矢を降らす魔術の長。我が敵は汝が敵なり。偉大なるइन्द्रजितよ、その力をここに!」
それに対して秋芳はインドラを倒したという羅刹メーガナーダの尊称『インドラジット』を梵字で唱えることで、その力を源とする呪術を行使し、対抗。
五行の術に相生や相剋があるように、呪術には相性というものがある。
たとえば火界咒と不動金縛りはともに不動明王系統の呪術で、ぶつけても相殺せず片方に吸収されることが多い。
この場合、インドラとインドラジットでは勝利した後者の力が大きく、帝釈天の力を源とする雷の嵐はたちまち沈静化してしまった。
「ぐぬぬ、またしても器用な真似を!」
「ケンカっ早いわ、電気ビリビリだわ。ラムちゃんどころか御坂美琴さんか、あんたは」
「え? あらあら美琴ちゃんだなんて、私ってばそんなに若く見えるのかしら。うふふ、ああでも私の電撃じゃコインは飛ばせないから」
「そりゃまぁ、レールもないのにレールガンは撃てないだろうしな」
「黒こげになっただけよ」
「試したのかよ!」
「さぁ、次は本気も本気。一〇〇パーセント中の一〇〇パーセントでいくわよ!」
「まだ続ける気か…」
さすがにうんざりする秋芳。
いささか強引だが、気を禁じて眠ってもらうか……。
そんなことを考えていると――。
「そこまでだ、かあさん」
「あら、あなた? と、そっちの綺麗な子は?」
いつの間に来たのか、鷹寛と純の姿があった。
「うちのお客さんだよ。今おまえが相手してる人もな」
「え? ええっ!? どういうことよ」
鷹寛がことの次第を説明する。
「あらまぁ、そういうこと…。おほほ、ごめんなさいねぇ。場所が場所だけにてっきりよからぬ輩がよからぬことをしてるんじゃないかと、かん違いしちゃったわ」
かん違いで黒こげにされてはたまらない。
まぁ、むこうもこちらの実力を読んだ上で相応の呪術をもちいてきたのだろうが……。
(秋芳君!)
!?
(秋芳君、聞こえる? 秋芳君!)
京子の声が瘴気の中から響いた。
街の離れにある製粉工場。
大ムカデたちに追われ、着の身着のままで逃げだした人々が集まっている。
いったい何回同じ日をくり返したのだろう?
京子は数えてなどいない。
京子の頭にあるのは、人々を救い、霊災を祓い、また秋芳に逢う。
そのことだけだ。
最初からただの夢だとは思わなかった。なんらかの啓示だと判断し、人々に避難を呼びかけた。霊災が、ムカデが現れてからでは遅い。
だが、どうやって?
本職の祓魔官でも呪捜官でもない、未成年の少女の言葉で簡単に人々は動かなかった。
そうこうしているうちに大ムカデたちが現れ、街は惨状にまみれた。
白桜と黒楓を暴れさせ、強引に避難させようとしたが、それも失敗に終わった。
大ムカデが人々を襲う前に先んじて祓う方法も試みた。
出現場所自体はすぐに判明した。連中は常に街中に忽然と現れる。
つまり『外』から来たのではない。『内』から現れるのだ。
街の中央付近にある金矢神社。そここそが霊災の発生場所であり、京子がどんなにいそいで駆けつけても、発見時はすでにフェーズ3寸前。まともに修祓するいとまもなく実体化した大ムカデになんども敗れた。
仮にもっと時間に余裕があったとしても、持てる霊災修祓用の呪術に限りがある京子に祓えた可能性は低い。
霊災修祓の手順は時と場合にもよるが、基本的な流れが変わらない。
まず霊災を結界で隔離して周囲への被害を抑制する。その上で霊気の偏向を分析して是正をうながすか、より強力な呪力をぶつけて、偏った瘴気を強引に散らすかだ。
フェーズ1でさえ本職の祓魔官がバックアップ込みで二、三人で行うのが普通。それを非凡な霊力を持つとはいえ、まだ見習いの京子が一人でおこなっても無理というものだ。
「なんでよ、なんであたしは強くないのよ――」
「秋芳君みたく、どんなやつだって一発で倒せる強い力が欲しい」
「なんであたしは強くないの!?」
それでも、京子はあらがった。
なんども、なんども、なんどもあらがった。
白桜と黒楓では見た目のインパクトが弱い。そこで半信半疑どころか一信九疑の笑狸をなんとか説得し、本物の大ムカデが現れる前に醜悪な大ムカデの幻を街中に作り、動かして人々を驚かせ、避難させる方法を試みた。
もし笑狸が生来の悪戯好きな化け狸ではない真面目な性格だったら、首を縦に振ることはなかっただろう。
そしてこの方法はなんとか成功し、今にいたる。
「どういうことだ!?」
「知るかよ、おれだってわからねぇよ!」
「もうダメだ!」
「こんなとこにいられるか!」
「ちくしょう! ちくしょう!」
「みんなあのバケモノに殺されちまうよ…」
「こんな小さな街、そっくりなくなっちまうんだ」
工場の中は怒号で満ちていた。
「みなさん、落ち着いてください! あたしは陰陽塾の生徒です。あたしがなんとかします!」
「どうやって? あんな怪物の群れをどうやって倒すんだい?」
「それは……」
最低限の被害で人々を逃し、街で一番頑丈な建物である工場に籠城することはできた。
次はどうするか。
一応、笑狸には本物の大ムカデが出現した時は、秋芳に助けを求めるよう言ってある。
だが秋芳はいつ助けに来るのか?
(ダメ。秋芳君を頼りにしてはいけない。あたしの、あたしの力でなんとかしなくちゃ。けどあたしの霊力や持てる術じゃあいつらを倒せない。他の方法を、なにか他の方法は……)
「こ、こんな所にいられるか!」
興奮状態の男が一人、外へ出ようとした。
「お、おいっ、今外へ出るんじゃない! ゲートを開けるなっ」
「うるさい! 死ぬ時は家の畳の上で死ぬ!」
「おい、ケンカしてる場合じゃないだろ!」
今にも殴り合いが始まりそうだ。
人々を避難させることはできたが、このままでは――。
「やめて!」
かなえだ。
「みんな、くやしくないの!? 年に一度のお祭りを台無しにされて、街を好き勝手されて、くやしくないの?」
「そ、そりゃ、くやしいさ! でもよ…」
「京子ちゃん、みんなために戦ってくれた。あたし見たよ。ここに来る前、あんたがムカデに追いつかれそうになった時に凄い量の水をブシャーって出して、追っ払ってくれたでしょ?」
「あ、ああ…」
「ここに入る時に時間稼ぎしてくれたのは誰? 京子ちゃんだよ。自分だってボロボロなのに、式神使って食い止めてくれた。他所から来た人が一生懸命戦ってくれてるのに、みんなはただ騒ぐだけなの? あたしたちが戦わないでどうするの? ここ、あたしたちの街だよ。好きなんでしょ。この前の寄合でみんな言ってたでしょ。みんながどんどん出て行っても、残って立派な街にしようって。あたし好きだよ。川が好き、空が好き、山が好き。金矢祭りも大好き。なにもない所だけど、あたしはこの街が好きなのっ! だから……」
シンと静まりかえる。
そして――。
「……女や子ども。年寄りを奥へ移せ」
「おうっ、男はみんな武器を取れ」
「なにか武器になりそうな物は…」
「やってやる!」
「おれらがやんねぇでどうするっ!」
場の空気が変わった。
「みんな……」
「かなえちゃん、ありがとう」
「ううん、お礼を言うのはこっち」
「あー、こっちは、京子ちゃんたちは無事みたいだね」
全身を真っ白な粉につつまれた笑狸が、一人の男に肩を貸して歩いて来た
「笑狸ちゃん!? どこから入って来たの? 秋芳君は? その人は? なんなの、その格好?」
矢継ぎ早の質問。
「ええと、ボクが入って来たのは廃棄物を排出するダクトから。秋芳にはなぜかつながらないし、街の外にも出られない。結界かな? この人はここに来る時にムカデに襲われてたから助けてあげたの。この格好はここに来るのに工場内のシャッターとか扉とか開ける時にまちがえて変なスイッチ押しちゃったみたいで、小麦粉を浴びちゃったわけ」
街から出られない。
やはり自分たちでなんとかしなくてはならないのだ。
「あれ? 今朝のお客様、ですよね。よかった。無事だったんですね。おケガはしていませんか?」
かなえが男に声をかける。
「バケモノが……、バケモノがいっぱい……」
男の顔は血の気が失せ、すっかり蒼白になっていた。目を見開き、紫色に変色した唇からはうわ言が漏れるのみ。
無理もない。一般人が霊災に直面したのだから、この反応は普通だ。意識があるだけまだましなほうだろう。瘴気にあたり、意識を失ったり命を落とす人だっているのだ。
「お客様、もうだいじょうぶですよ。この人たちは東京の陰陽師さんなんです。あんなのすぐ祓ってくれます」
「お、陰陽師!?」
男がつかみかからんばかりの勢いで京子にうったえる。
「矢を返しに行ってくれ! あいつらが湧いて出たのは矢がなくなったから、きっとあれで封印を解いちまったからだ! あんたらならそういうのできるだろ!?」
「……なんのことか、くわしく説明してください」
男の名は山中といった。
陰陽庁によって確かな効果があると認められた呪術は甲種呪術と呼ばれ、原則として国家資格である陰陽2種、陰陽1種の取得者のみに行使が許されている。
そしてそれ以外の雑多な呪術全般を称して乙種呪術と呼ぶ。
このような分類は呪術のみならず呪具にも適用される。
甲種呪具などは厳しく管理され、所持するにも陰陽庁の許可が必要なのだが、乙種呪具となるとそうではない。
各地の寺社仏閣に納められている御神体や神器の中にも甲種呪具はある。その場合は陰陽庁の監視の下、厳重に保護されているのが普通だ。
場合によっては回収し、陰陽庁庁舎などに保管されることになる。
だが乙種呪具となると話は別だ。
たんなるお守りや市販されている破魔矢なども広義では乙種呪具に認定されるのだが、それらをいちいち管理などできようはずがない。
また古くから伝わってはいるものの、特に呪術的な力のない御神体や神器という物も数多く存在する。
山中はそのような呪具を集めるコレクターだという。
日頃は施錠された蔵の奥にしまわれている金矢だが、祭りの時は表に出される。周りに人がいなくなった一瞬の隙をついて、盗んだと言うのだ。
「なんて罰当たりな……」
絶句するかなえ。
「山中さん。その金矢は今どこにあるんです?」
糾弾しているヒマはない。京子は金矢のありかを問いただすが、旅館の部屋に置いてあるとのこと。
「どうする京子ちゃん? 外から見た感じ、ムカデたちはこの工場に集まってるみたいだから、ボク一人なら抜け出して取ってこられるかもしれないけど、元の場所に戻すだけでいいのかなぁ…」
「そうね……」
考えを巡らす京子。
「笑狸ちゃんは笑狸ちゃんで矢を返しに行って。あたしはここで試したいことがあるの」
正面口シャッターが上がると同時に工場内に大ムカデが大挙して押し寄せた。
暗い。
照明が切れているのではない。明かりをさえぎるほどの大量の粉が飛び散っているからだ。
その様相にムカデたちは一瞬、とまどうように動きを止める。
「悪いわね。慣れない機械をいじったせいで小麦粉が飛び散っちゃったのよ」
シャアァァァッ!
声のした方へと殺到する。
一人の少女が立っていた。
京子だ。
(動的霊災の中には殴ったり切ったりといった通常の手段でもキズを負わせることができる個体もいる。そういうタイプが相手なら、最初から呪術一辺倒で修祓するんじゃなくて、ある程度ダメージを与えてから呪術で祓ったほうが少ない消耗ですむこともある)
(場合によっちゃあ物理攻撃だけでやっつけることも可能だ。ほら、昔の武士が刀一本で鬼とか大蛇とかを退治したって話があるだろ。あれとかそうだよな)
(呪術にこだわる必要はない。対人だろうが対霊災だろうが、周りにあるすべてのものが武器になる)
秋芳の言葉が脳裏に浮かぶ。
「俵藤太の時代にはなかった現代の常識、知識ってのを教えてあげる。可燃性を持つ粉塵が大量に飛散して、酸素との接触面積がいちじるしく増大している時は、わずかな火種をもとに連鎖的な燃焼が発生して爆発を起こすの。粉塵爆発て言ってね、石炭の発掘現場でよく起こったそうよ。小麦粉は炭素、水素でできてて、ここには酸素がある。つまり――」
ムカデたちの包囲が狭まる。
京子が火行符を取り出す。
「――つまり、燃えるのよ。急急如律令!」
呪符が燃え上がり、炎が渦を巻いたかと思った瞬間、轟音と衝撃が工場内を支配した。
大爆発。
それに巻き込まれ、ムカデたちと京子は――京子の姿をした簡易式は――跡形もなく吹き飛んだ。
大音響が工場の地下に潜んだ京子たちの耳をつんざく。
(成功した……)
簡易式との感覚の共有を切るタイミングが少しでも遅かったら、爆発の衝撃や熱の『痛み』が伝わり、ショック死していただろう。
簡易式。
正確には人造簡易式という。汎式における式神使役術の基本で、特徴としては必要な機能を満たす式神を迅速に作成できるという点があげられる。
また一般の人造式よりも安易に作成・改良もしやすいという自由度の高さも利点で、術者の呪力のみで動くため、長時間の活動にはむかないが、それでも事前の準備次第で対応可能だ。
術者の発想や力量次第で多様な用途にもちいることのできる式神なのだ。
(後は笑狸ちゃんのほうだけど――っ!?)
不意に意識が遠くなる。
(そんな、倒したのに?)
ふたたび秋芳が大ムカデと戦う『夢』を観る。今までなんども観た夢。
今までのループのパターンでは京子自身が倒れるか、時間が経過すると意識を失い、同じ日を繰り返すのだが、ムカデを倒してもこの呪縛を抜けられないらしい。
一瞬。
ほんの一瞬だけ京子の心に絶望が広がった。
だがすぐにそれを払拭する。
自分は負けない。
自分は必ずここの人たちを救い。また彼に、賀茂秋芳に逢うのだ。
絶望なんかに打ちひしがれてるヒマなんてない。
それに一筋の光明を見出したではないか。
あの金矢。
あの金矢を元の場所に戻すのだ。
そうすれば新たな道が開ける。確信めいたものが京子の頭に浮かんだ。
残照 3
(秋芳君、聞こえる? 秋芳君!)
京子の声が瘴気の中から響いてくる。
「聞こえる! 俺はここだ。ここにいる!」
秋芳が瘴気の中に足を進めようとした、その時。金色の光に包まれた京子が目の前に姿を現した。
その手には一本の矢が握られている。
(これを、この金矢で大ムカデにとどめを刺して!)
矢に手を伸ばす秋芳。
指と指がかすかに触れ合った、その瞬間。秋芳の頭に京子の今までの記憶が流れ込む。
(――――ッ!?)
川原でのかなえとの会話。大ムカデの襲撃。いくども繰り返される悪夢。工場での戦い。
目が覚めると同時に山中のもとへと押しかけ、糾弾し、盗んだ金矢を取り返して社へ急行。
瘴気が渦巻く中、秋芳の姿を『視た』のだ。
ここではない場所にいる秋芳の姿を。そして『わかった』のだ。
こちらとあちら。二つの世界に存在する大ムカデは同時に倒さねば、修祓できないことを。
「やるぞ」
「ええ」
気づけば周りの風景が変わり、鷹寛たちの姿がない。
灰色の空、延々と続く野原、目の前には小山がそびえる。
こちらとあちらの交わる場所。秋芳と京子はそう直感した。
と、小山からひときわ巨大なムカデが二人の前に姿を見せる。
大きい。
そして、長い。
小山を何重にも巻いて、なおあまった胴を持ち上げ威嚇のうなり声をあげる。
俵藤太の伝説に倣い、矢じりを舐めて唾をつける秋芳。
すると、秋芳の舐めた跡をなぞるように京子も舌を這わせた。
「お、おい」
「ん、ちゅ……ぱっ。ふふ、ちょっと下品だったかしら? でも、こうしたほうがもっと効きそうでしょ。あたしとあなた。二人分の力よ」
「まったく、とんだ破廉恥お嬢様だ」
シャアァァァッ!
牙をむき、襲い来る大ムカデの眉間に金矢を突き刺す。
「「南無八幡大菩薩!」」
街を滅ぼした大ムカデは消滅した。
すると――。
「ありがとう、京子ちゃん」
かなえだ。
「助かったよ」
「ああ、あんたらのおかげでやっと解放される……」
「これでやっと静かに眠れるよ」
「あんな化け物を退治しちまうだなんて、陰陽師ってのは凄いね!」
かなえだけではない、街の人々が姿を現し、感謝の言葉を言っては一人一人消えていく。
「かなえちゃん……、川。楽しかったわ。あとご飯もとっても美味しかった」
京子は薄々感づいていた。あそこは、あの街とそこに暮らす人たちが、すでにこの世の存在ではないということを。
「京子ちゃんのおかげで悪い夢の繰り返しがやっと終わったわ。これで街は元通り。お祭りも始められる」
「お祭り、あたしたちも参加できる?」
「う~ん、今はちょっと無理みたい。もう時間がないから――」
「かなえちゃん!」
「ありがとう京子ちゃん、さようなら――」
「……うん、またね。かなえちゃん」
「え? な、なんなの? 今のなに!? ねぇ、あなた。あなたも『視た』わよね?」
ヘアバンドの女性――鷹寛の妻である土御門千鶴――が狼狽し、夫に声をかえる。
「ああ、まるで白昼夢だったな……。巨大なムカデに街の人々。この土地の記憶が見せた幻か……」
改めて一か月前に起きた霊災により街が壊滅してしまったことの説明をする鷹寛。
「土地というのはたんなる場所じゃない。そこで起こった強烈な出来事が記録された記憶装置としての力もあるという。君たちはその記憶に、残留思念に取り込まれたのだろう。だが、君たちは記憶を書きかえた。彼らを救ってくれたんだ。街には私の知り合いがたくさんいた。私からも礼を言わせてくれ。ありがとう京子さん。ありがとう秋芳くん」
「……いや、鷹寛さん。どうやらまだ終わってはいないようですよ」
秋芳はそう言って空の一点を指さす。
空に、亀裂ができていた。
まるでガラスに入ったヒビのようだ。
「うわっ、シュールな光景ね。まるでなんかの絵画みたい」
千鶴が素っ頓狂な声をあげる。
ヒビは徐々に広がり、そして割れた。
空が割れたのだ。
そこから強風とともに凄まじい気が流れ込んで来る。
気だけではない。
なにかが、とてつもなく強大ななにかの気配がする。
そしてそれがこちらに迫っている。
「あ、秋芳~」
「お、笑狸か。おまえも無事だったんだな」
「それどこじゃないよ。なんなの、あの空! なんなのこのとんでもない妖気!」
「街の人々が土地の記憶に囚われ、惨劇を繰り返していたのはたんなる自然現象なんかじゃない。おそらくこのバカでかい妖気の主がそう仕込んだんだ」
「なんのために?」
「苦痛や恐怖をなんども味あわせて楽しむため。人の魂を飴玉見たくしゃぶり尽くすのが好きなんだろう」
「そんな、ひどい…。ひどすぎるわ」
みずからの両肩を抱き、うなだれる京子。
その時ひときわ強い風が吹きつけ、空の穴からなにかが這い出てきた。
「お気に入りのオモチャを台無しにされてご立腹らしい。自分の巣から出てきやがった」
イソギンチャクを思わせるミミズのような体。全身から無数の触手が生え、大小いくつもの眼球のような器官もついている。
ヒューヒューと笛の音のような鳴き声を発し、明滅するかのように体が見え隠れを繰り返している。
「ぬ、半体半霊か。あれでは物理攻撃は効果が薄いな」
「それと木気に偏りがあるわね」
土御門夫婦は即座に相手の大まかな属性を見抜いた。
「それにしても凄まじい妖気だな。まさに移動型霊的災害。生きた台風がいるとしたら、こんな感じか」
ピヒィィィイン――!
鷹寛の台風という言葉に反応したわけではないだろうが、異形の動的霊災がこわれた笛のような甲高い叫びをあげると大旋風が巻き起こる。
「急急如律令」
鷹寛が落ち着いて一枚の符を投じる。
金行符。
風は木気と金気のいずれかにかに属するが、木気を帯びた怪物の放つ風ゆえ金気で対抗するべきと判断したからだ。
金剋木。
五行相剋の理にもとづき、暴風は金気の楯にふさがれた。
金気と木気の相剋に大気が激しく鳴動する。
風は防いだ。
だが、そこに込められた瘴気までは防げなかった。
高濃度の瘴気があたりを吹き抜ける。
体中の細胞と神経が、汚水で流され満たされるような悪寒。魂が凍りつき、恐怖と絶望が思考を停止させようと心を蝕む。
並の人間ならばそれだけで死んでしまってもおかしくはない。
「オン、コロコロ、センダリ、マトウギ、ソワカ!」
秋芳はあらゆる疾病を癒す薬師如来の小咒をとっさに唱え、瘴気を無効化する。
「ほう、やるな。さすが賀茂の御曹司」
そもそも呪禁師は宮中に医師として仕えた存在。ケガや病気の治癒といった状態異常の回復が専門なのだ。
「だがやつはなんだ? あんなタイプの霊災は見たことも聞いたこともない」
「さしずめタイプ・インディファイナブルとかネームレスだとかじゃないですかね。あの名状しがたい空飛ぶポリプは」
ポリプというのは、クラゲやイソギンチャクのような刺胞動物の体の構造のことだ。
「ふ~む、しかしあの目の数……。ひょっとしてあれが噂の百目鬼ではないか?」
「……俵藤太が退治したといわれる下野の国の百目鬼。ははぁ、なるほど。ムカデつながりですか」
「鬼でもムカデでもいいけど、木気だと私の得意な電撃と同属性だからやりにくいわねぇ、もう」
「ちょ、ちょっとお三方! なに呑気に会話してるの! あんな怪獣みたいな霊災を修祓するつもりなんですか!?」
怯えの色を隠せない純の問いに対し。
「「そうだ」」「そうよ」
三者、異口同音の答えが返る。
「そ、そうって……、本気?」
「木ノ下先輩。ケンカで大事なのは技でも力でもない。胆です。気圧されたらそこで負けなんです。霊災修祓だって同じですよ」
「うむ。どの道この距離じゃまともに逃れられん。やるしかないしな」
「私たち夫婦にまかせなさい。最悪あなたたちだけでも逃がしてあげるから」
その時。突然、あたりの霊相に変化が生じた。
空飛ぶポリプ――百目鬼――の放つ気と同等。いやそれ以上の莫大な気が秋芳たちの立つ場所を中心に湧き上がる。
京子だ。
京子の体から膨大な気が、たとえ見鬼でなくても視認できるほどの霊気があふれ出ている。
否。
京子の体を通して大地の、天の気が集まっているのだ。
天地に満ちる霊気が一点に凝縮される。
道教に伝わる仙術や方術の中に法天象地という天地の気を集めて練り上げ、自分自身の体を巨大化させる術があるが、これはその比ではない。
(バカな! これほどの気。人の身で耐えられるわけが――!?)
「――せない」
「京子?」
「ゆるせない……。かなえちゃん、街のみんなを苦しめ、もてあそんだなんて、ゆるさない。絶対にゆるさない!」
うなだれていた京子がすっくと立ち上がり、百目鬼をにらみつける。
京子の紫がかった瞳の奥に、秋芳は星を視た。
入塾初日の屋上で京子と語った時に『視た』あの光景。
星々の衣をまとい、光輝を放つ京子の姿。
それが今、現実のものになった。
「し、信じられん。あれは仏眼仏母の相。あの少女は……如来眼の持ち主だというのか?」
鷹寛が絶句する。
如来眼。
豎眼や菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは、仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、変える力があるとされ、その時代の覇者を導くという。
世の中が乱れるとそれを鎮めるために如来眼の持ち主が現れるともいわれ、またその逆に手中に収めんとする時の権力者らに狙われることで、治世を乱す火種になるともいわれる。
本来ならば星読みとは星を読むことはできても、星を動かすことはできないもの。
星々の流れを変えることも、その輝きをあやつることも。
星読みにできることはただ見守ること。そして、その言葉の持つ力を信じて助言し続けることだけなのだが――。
京子に宿る力は、そうではない。
星読みの中の星読み。
人の定めのみならず、龍脈の流れ。星々の流れ。すなわち森羅万象を意のままにあやつることができる――。
今、京子は龍脈の力を手にしている。
ヒューヒューと笛のような鳴き声を発し、百目鬼が退く。
京子に怯えているのだ。
空の穴に逃げ込もうとする百目鬼。だが――。
「逃がさないわ――」
京子が無造作に刀印を結び、切りつけるように腕を振るった。
純粋な霊気の刃が百目鬼の巨体を両断する。
もう一撃。
四つに裂けた百目鬼の体は陽炎のようにかき消える。
なんの呪文詠唱も集中もない、単純に気を放っただけで霊災を祓ってしまった。
「うっ、クッ、あ、ああああアアアア――ッ!?」
光に包まれたまま空高く舞い上がる京子。
「いかん! 龍脈の力に飲み込まれ、暴走している!」
京子は苦しそうに身悶えしながら、西へと飛翔する。
「笑狸!」
「うん!」
笑狸は即座に大鷲へと変化し、秋芳をつかみ京子を追って空を駆ける。
西へ、西へ、そして南へ。目に映る雲は瞬く間に背後に遠ざかる。
かなりのスピードだ。
(龍脈にそって飛んでいる……。この方向は富士山か? あんな気をまとったままで日本最大の霊峰に突っ込んだらなにが起こるかわからん。最悪噴火するぞ!)
京子の飛翔速度にあと一息で追いつけない。
「笑狸、俺を離せ」
「秋芳!?」
「かまわない。短時間なら飛べる術がある」
「う、うん、わかったよ。気をつけてね。無茶しないでね!」
秋芳の身を放す。
「乗虚御空、飛霊八方、廻転舞天。疾く!」
空を飛ぶ乗矯術を発動させ、京子に近づき、横に並ぶ。
黄金の気をたえずに放出し、光の粒子をまき散らしている。
放出しているのは瘴気ではないが、その姿はフェーズ3だった。
動的霊災。だからこそ制御できずに、暴れている、暴走している。
人間の身体を核に霊災が実体化する事例はある。
それらはタイプ・オーガに分類され、俗にいう『鬼』と呼ばれる存在になる。
(だがこれはタイプ・オーガどころかタイプ・ドラゴンだ。このままでは九頭竜や燭陰にでも成りかねん!)
「秋芳君!? 助けて! 力が、力がどんどんあふれてくるの! 霊気が止まらないの! なんとかしてっ! あたしもう壊れちゃう!」
「落ち着け京子。おまえなら龍脈の力を制御できる。呼吸の仕方を忘れるか? 『普通』にしていればいい」
「わからない! どうやって!? 死んじゃう! 霊気が、なくなっちゃう! もうダメ……」
完全にパニック状態におちいっている。
京子の感覚的には全身から大量の血が流れ出しているようなものだろう。
だが京子が命の危険を感じるのも正しのかもしれない。
輸血されているからといっても、それと同じ量の血を流し続けて無事でいられるわけではない。血が なじむには時間が必要だし、今の京子の場合、駆け巡る膨大な量の気に身心が押し潰されないだけでも不思議なのだ。
(心を鎮める術ならいくつかある。だが今の京子にそれらを使っても、このバカでかい気に弾かれてしいまうだろう……。ええい、甲種がダメなら乙種呪術だ!)
秋芳は賭けに出た。
空中で勢いよく京子に抱きつく。
秋芳の身に激痛が走る。制御できずに荒れ狂う気が全身をさいなんでいるのだ。
「京子。俺はおまえが好きだ!」
そう叫び京子の唇に自分の唇を重ねた。
温かく、柔らかい。鼻腔をくすぐる花のような香り。
強く抱きしめたその体もまたマシュマロのように柔らかく、そして華奢だ。
男の子ってなにでできてる? かえるにかたつむり、子犬のしっぽ、そんなものでできている。
女の子ってなにでできてる? お砂糖にスパイス。素敵なものいっぱい。そんなものでできている
マザーグースの一説が秋芳の頭にふと浮かぶ。
なるほど、たしかに京子の体は砂糖やスパイスで作られた甘いお菓子のようだ。
独り占めして食べてしまいたい。
「京子。おれはおまえが好きだ。つき合ってくれ」
キスをした後、告白。
きょとんとした顔でこちらを見つめる京子。
「返事は?」
「……え? ええっ! あ!? は、はい。うん……。あ、あたしも、あなたのことが、秋芳君のことが好き。おつき合い、しましょう」
それで、
京子の気が静まった。
激情をおさめるには別の激情をぶつければいい。
テンパっている時に嫌いな相手にいきなりキスされ、愛の告白をされたら。
あるいは逆にそれが好意を抱いていた相手からだったら。
とりあえず。
とりあえずは落ち着くものだ。
秋芳の賭けはあたった。
そしてまた両者にとって幸いなことに、今回は後者。相思相愛だった。
東京へ向かう電車の中。
あれから京子の状態を診るため鷹寛の家に一泊し、帰路についているところだ。
いろいろなことがあった。
疲れているのだろう。座席に座る笑狸と純は寝入っている。
その向かいの席に座る京子もまた、隣にいる秋芳の肩に頭をあずけて寝息を立てていた。
刻々と傾く陽射しに、京子の整った横顔が赤く染まる。
「……ん、……うん」
ふいに京子がくすぐったそうな甘い声をもらして、顔を上げる。
「……あたし、寝ちゃってたんだ」
「疲れてるだろう。もう少し寝ていればいい」
「いいの、今はあなたとお話したい気分だから」
「そうか」
それからとりとめのない会話をしばらく交わした後――。
「秋芳君。あたし陰陽師になる」
覚悟を込めてそう言葉にした。
「前から呪捜部とか、ちょっと後ろ暗い所だと思ってたけど、それは祓魔局だって同じだった。街が一つ消えたことを隠すような組織を正したいの」
秋芳は京子の考えをすぐに理解した。
「なるほど、中から正すつもりか」
「ええ、そう。そのためには『最高』の陰陽師になる必要があるわ」
隠蔽を指示したのは陰陽庁のトップの判断だろう。そして陰陽庁のトップとは京子の父親、当代最高の陰陽師と称される倉橋源治その人だ。
京子は父のやり方を正すつもりだ。だからこそ父に代わり『最高』の陰陽師になると言うのだ。
組織の長になることで、組織全体を改革する。
「それと、お願いがあるんだけど、あたしに呪術を教えて欲しいの」
これは百目鬼に囚われた異界の中。霊災修祓用の呪術に乏しく、はがゆい思いをしたからだという。
陰陽塾一年生の授業内容はほとんどが座学。それも呪術についての基本的な知識や、歴史についてがメインで、対人呪術戦や霊災修祓といった本格的な『呪術』の習得は二年からだ。
しかし、独学。あるいは塾生同士での教え合いを禁止する決まりはない。
秋芳は京子の頼みを快諾した。
「それと、霊力を制御する方法も。またあんなふうに暴走したら怖いわ」
「そしたらまたキスして止めてあげるよ」
「もうっ、そういう冗談じゃなくて……」
「霊力の制御に関しては気の持ちようだよ。それだけの技術を君はもうすでに持っている。毎朝禊をしているんだろう? あれがじゅうぶん霊力の底上げ。制御する訓練になっているんだよ。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。同じ修行を欠かさずに続けることが重要なんだ。君は自分の〈力〉を怖がらなくてもいい」
「……うん、わかったわ」
「俺の知っている呪術を教えるかわりに、そっちの知ってる呪術も教えてくれ」
「それはいいけど…、あたしが知ってて秋芳君の知らない呪術なんて、たぶんないわよ」
「ある」
「そうかしら?」
「たとえば、恋愛」
二人は少しの間見つめ合った後、どちらからともなくキスをした。
陰陽庁長官室。
重厚な印象の部屋だ。
床には絨毯が敷かれ、奥の壁にある大きな窓からは秋葉原のビル群が見える。
その窓の前に一人の人物が立っていた。
袍に袴と石帯。束帯姿をしている。陰陽師の正装だ。
厳格な、ただそこに居るだけで周囲の人たちに緊張を強いる雰囲気を持った、そしてまた内に秘めた強大な霊気をも、ひしひしと感じさせる巌のような壮年男性。
倉橋源司。
名門倉橋家の現当主にして陰陽庁の長官。
『天将』の二つ名を持つ十二神将の筆頭。当代最高と謳われる国家一級陰陽師。
陰陽塾塾長、倉橋美代の息子であり、京子の実の父親。
現代の呪術界の頂点に立つ男だ。
「目覚めたか。思ったより早かったな」
「世が乱れれば如来眼の娘が生まれる。私の呼んだ者たちは役に立ったでしょう」
「うむ」
源司は誰かと話しをしている。だが誰と? 声の主の姿はまったく見えない。
「しかし少々やりすぎだ。はぐれ陰陽師の一人や二人や有象無象の霊災ならまだしも、街一つ壊滅させるような怪物まで呼ぶとは」
「あの被害者の方々には便宜をはかるよう、閻魔大王にお願いしておきます」
閻魔大王とはいったいなんの戯言か?
だが声の主の口調に冗談を言っているような響きはなく。また、それを聞いた源司も冗談を聞いたふうには見えない。
「如来眼の他にも、こんな興味深いものを見つけました」
デスクの上にハラリと一枚の紙が落ちる。
それは答案用紙の写しだった。
源治はそれを手に取って目を通す。
「陰陽塾のテストか……、いささか字は汚いが、なかなか優秀な生徒だな」
「最後に書かれた文章に注目。それは貴方の望みをかなえる手助けになるのでは?」
「……新宿の地相を利用した霊力発電か」
新宿は水と縁が深い土地。
江戸時代。人口増加により飲料水が乏しくなったため、幕府は多摩川から水を引くための配水施設を建造し、明治時代には淀橋浄水場が造られた。
現代の新宿中央公園には東京人の生命を司る『場の力』に満ちている。
塔という建造物は風水学上の分類では木行の性質を持っている。
水生木。木は土中の水分を吸い上げて成長するのが理。
大地を流れる水。そこに込められた霊気を吸い上げて成長・発展する風水機関としての塔。
さらに二つの塔をもちいることで強力な霊的音叉効果を生じさせ、吸収した霊気をより増幅させ――。
「たしかに興味深いな。だがいかんせん現実味が乏しい。これを動かすには前提として龍脈の流れを……」
途中で口を閉ざす。
これを動かすには龍脈の流れを読み、あやつる術が必要なのだが。
それがつい先ほど見つかったではないか。
如来眼の娘が。
「なんというタイミングの良さ……、偶然とは思えぬ。まさに天の配剤か」
「使うつもりですか? それに如来眼の娘を」
「……その少女に働いてもらうにしても、それはまだ当分先の話だ。その前にまず陰陽法の改正をする必要がある。だがこの霊力発電の発想は気になるな。一度これを書いた者に会って見たいものだ」
倉橋源司に興味を持たれる人間はそうはいない。
それだけこのアイデアは魅力的だったのだ。
現代の陰陽師は祓魔官の霊災修祓をのぞけば世間から顧みられることのない職業だ。
その祓魔官にしても人員不足は年々深刻化し、現場の労働状況は悪化の一途をたどっている。
もとより狭い業界である呪術界だが、近年ではさらに閉塞し、疲弊しつつある。
だが夜光の作った現代陰陽術は奥深く多様性に富むものなのだ。
幅広い分野での転用が可能だし、霊災の修祓にしても今よりもはるかに効率の良い運用ができるはずなのだ。
陰陽術はこんなところで停滞し、衰退していいものではない。
陰陽師の名門である倉橋家主導による、陰陽道の社会的地位の向上。
それこそが、それこそが『倉橋』に生まれた自分の使命なのだ。
呪術による電力発電。
実に魅力的だ。新しい陰陽道が築く、新世界にふさわしい技術ではないか。
「――なによりもまずは如来眼の娘の身の確保が先決だ」
「その必要はないでしょう」
「どういう意味だ?」
「如来眼の力に目覚めたのは、貴方の娘。倉橋京子さんだからです」
「!?」
「もしその霊力発電のための二つの塔……。ふむ、二匹の龍の如く、高くそびえる二対の塔とは絵になりますね。仮に双龍塔とでも言いましょうか。それの運用に如来眼の娘である京子さんを使うとしたら、彼女には人としての生はあきらめてもらうことになります。他ならない貴方のご息女の人生を」
「……仮に、仮にそうなったとしても、あれも倉橋の人間だ。倉橋の決定には従ってもらう」
「そうですか。……それと、そのテストの回答者。双龍塔の発案者の青年なのですが」
一拍の間。
「かつて神隠しに遭い消息を絶った、貴方の息子です」
唇を離した後、京子が口を開く。
「秋芳君。あたしに惚れた?」
「ああ、惚れた」
「あたしのこと好き?」
「好きだ」
「あたしのこと愛してる?」
「愛してる」
「あたしもよ。もう秋芳君に『大好き』て呪をかけちゃったんだから。この呪は絶対に解けないわよ」
ふたりの恋人は肩を寄せ合い、たがいの重さと体温の心地良さに耽溺した。
骨喰
永禄八年(1565年)
京都。二条御所。
十数本の刀が畳の上に突き刺さっていた。
そのいずれもが天下に名高い名刀利剣であり、一振りで城が買えるほどの値がつく大業物ばかり。
刀の林の中、一人の男が立っている。
三十路前後の精悍な顔をした、いかにも名のある武将といった風格。
「豊後はおるか!」
「は、ここに!」
男の呼びかけに応じ、一人の若武者が姿を見せる。
「これを使え」
そう言い、突き刺さっていた刀の中から一本を抜き、豊後と呼ばれた若武者に手渡す。
「こ、これは藤四郎吉光! よろしいので?」
「うむ、それで三好の手勢を斬って斬って斬りまくれ!」
「ははっ!」
男は残りの刀の列をゆっくりと見わたした。
童子切安綱。
鬼丸国綱。
三日月宗近。
大典太光世。
世に天下五剣と呼ばれる名高い名刀のうち、四本までもがそこにあった。
「細川隆是様お討ち死に!」
味方の戦死を知らせる声に混ざって鉄砲を撃つ音や剣戟の音が徐々に近づいてくる。
「御首級、頂戴!」
庭から数人の兵士がなだれ込んできた。
男は目の前にある名刀の列から一本。無造作に抜き取るや、襲いかかってきた先頭の兵を袈裟懸けに斬り伏せ、返す刀で二人目の胴を斬り上げる。
三人目の兵が刀を上段に振りかぶるも、それが振り下ろされる前にその両腕を横薙ぎに断ち斬り、そのまま首を刎ねる。
槍を構えて突進してきた相手もいた。
まず槍の穂先を斬り飛ばし、その勢いに怯んだ隙に距離を詰め、突き殺す。
唐竹割りに額を断ち斬り、胴を袈裟斬りにし、右に薙ぎ、左に振るい、股間を逆風に斬り上げる……。
男の技は凄まじく、刀の切れ味は鋭かった。
粗末な胴鎧程度しか身につけぬ雑兵たちに男の斬撃を防ぐ術はない。
敵兵たちはたちまちその数を減らし、退散した。
だがすぐに第二、第三の敵勢が押し寄せてくる。
いかに天下の名刀とはいえ、何十人も斬っていては刃が欠け、血脂で切れ味が鈍る。
男は使い物にならなくなった刀はすぐに捨て、新たな刀に差し替えて応戦を繰り返す。
斬って、斬って、斬って。
ひたすら斬って斬って斬って斬って、斬りまくった。
「豊後、いるか?」
「こちらに…」
全身を返り血で朱に染めた若武者が応える。
「書を書く。しばし奥へ行くゆえ、ここをまかす」
もはやこれまで。辞世の句をしたためようと言うのだ。
「はっ、おまかせください」
男は血刀を手にしたまま奥の間に入る。
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで
朗々とした声が奥から響く。
それが剣豪将軍として世に名高い、室町幕府十三代将軍。足利義輝の、最期に詠んだ歌だった。
現代。
秋葉原にほど近い、陰陽庁庁舎。
「しっかしとんでもない建物だな、ここは」
そう口にしたのは僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年。賀茂秋芳だ。
「わかる? ここって奥のほうはほとんど迷宮みたいなものよ」
秋芳とならんで歩く少女がそう答える。
ハーフアップにした亜麻色の髪。長いまつ毛に紫がかった瞳、快活でかわいらしい顔立ちをしていて、制服姿でも長い手足やスタイルの良さがうかがえた。
倉橋京子だ。
「噂には聞いていたが、ウェンチェスター館や二笑亭も真っ青の、とんだ魔窟だ」
陰陽庁庁舎は戦後間もない頃に建てられた古い建造物で、幾度となく増改築を繰り返しているが、残された部分や引き継がれた個所も多い。
というのも霊的、呪的な理由で手を入れることが困難な構造や機能があり、実際の施行に合わせて変更することができないからだ。
さらに増改築のさいに勤めてる陰陽師たちが特殊かつ細かい指示を出しているため、工事のたびに特異な構造が増える一方だ。
庁舎内で普通に働いているぶんには問題ないが、少し奥まった場所には結界や封印があたりまえのように敷かれており、壁一枚へだてた隣の部屋は異空間につながっている場合さえあるという。
「さらにお役所特有の殺風景ときたもんだ。もっと陰陽塾みたく絵画や調度品を置いて、緑を増やしたらいいのにな。うちのホールにある竹を見ていると爽やかな気分になる」
「あれはお祖母様の趣味なの。竹は縁起が良くて、人生の学びと高潔さをあらわすから、学び舎にはぴったりだって言うのよ」
「それは良い。実に良いセンスだ」
「……ところで、ねぇ。お父様とはどんなお話をしてきたの?」
京子の言うお父様とは陰陽庁長官兼祓魔局局長。当代最高の陰陽師と称される十二神将筆頭『天将』の倉橋源司のことだ。
秋芳は京子の祖母、源司の母である陰陽塾塾長。倉橋美代を通して源司の呼び出しを受けたのだ。
呼び出しの理由は秋芳の書いたレポートの内容について、興味を惹かれたので直接会って話がしたいとのこと。
その話を聞いてまっさきに思ったのは、今までしてきた裏稼業のことがついに当局にばれて、逮捕のための偽の呼び出しではないか? だった。
のこのこ出向いたところを呪捜官が総出でお出迎え。お縄にするという段取りだ。
だがすぐにこの考えは払拭した。
尻尾を捕まえられるようなヘマをしたおぼえはない。隠密には自信がある。
ならば塾長の言葉通り、本当に興味があるから話がしたいのだろう。
しかしそれなら向こうから来るべきだ。
陰陽庁のトップだろうが、十二神将の長だろうが、名門倉橋の当主だろうが『用があるならおまえが来い』と言いたい。
人を呼びつけるとは何様だ。
そう反骨心が刺激され、最初はことわるつもりだったのだが京子からもお願いされたので、おとなしく召喚に応じることにした。
かわいい恋人の願いを無下になどできない。
そう、恋人だ。
つい先日のこと。
如来眼の力に覚醒するも、その力を制御できず霊気の暴走を起こした京子。そのドサクサにまぎれての告白に成功し、晴れて恋人同士となったのだ。
「レポートのこと以外にも、いろいろと話したよ。今後の陰陽師のありかたとか聞かれたから、仕事の細分化について意見した」
現代の陰陽師。祓魔官の仕事は大きく二つ、霊災修祓と、その霊災を発見するための霊視にわかれている。
この二つに分類されている作業をさらに細分化することで現場の負担を軽減させる。今のやり方は警察官だからと、その全員に交番勤務も刑事も鑑識も、警察の仕事のすべてやらせているようなもので、激務以外のなんでもない。
陰陽塾を途中退塾するようなレベルの学生でも、霊視という作業内の、さらに一つの作業だけに専念するのならばできるはずだ。
現場の仕事を続けることで熟練し、学生の時にはできなかった他のこともできるようになる可能性だってある。
資格制度がきちんとしていて手当がつくなら、自主的にステップアップする者も多いはずだ。
祓魔局だけでない。呪捜部にも似たような施行をする。
また現状、陰陽塾に入るには見鬼が必須だが、霊力さえ規定以上にあるのなら、式神や呪具の製造にまわってもらうのもいい。
『統合呪術者としての陰陽師』にこだわることなどないのだ。
さらに陰陽塾での授業を単位として認め、一般の学校へ編入させるなどの配慮をし、完全に呪術から離れるような者用にも進学・就職先を斡旋する。
呪術界の裾野を広げ、敷居を低くすることで応募者の数が増えれば、それだけ多くの人材が集まる。
慢性的な人手不足の解決になることだろう。
「うん、良い考えだと思う。あなたって色々と考えているのね。……ていうか凄いわ」
「なんせこれから『最高』の陰陽師になろうって子の隣を歩くわけだからね。色々と考えるわけさ」
「そうよ。これから秋芳君はずーっとあたしのそばにいてもらうんだから」
「そのつもりだよ。ところで良かったのか? せっかくここまで来たんだから、久しぶりに父親に会って話でもしてきたら…」
「…父はいそがしいから、たぶん会ってくれないわよ。それにもともとあたしは秋芳君のつき添いで来てるの。逃げ出さないようにね」
「逃げないって。笑狸のやつは逃げたけどな、さすがに陰陽庁は居心地が悪いらしい」
「そうね。ここって霊的な存在を問答無用で弾いちゃう結界も多いし、笑狸ちゃんは来たくないでしょうね」
長い廊下が続く。
何人かの職員とすれ違うが、霊気からしていずれも陰陽師ではない。
陰陽庁に勤める者のすべてが陰陽師というわけではないのだ。
むしろ資格を持たない一般人のほうが割合としては多い。
(こういうお堅い場所で穏形しながらエロいことしたら燃えるんだろうな。京子をコピー機の上に乗せて、おっぱいやお尻の印刷プレイとか…)
「えいっ」
秋芳の頭に京子のチョップが入る。
「痛いじゃないか」
「あなたがエッチなこと考えるからよ」
「そんなことまでわかるのか! 凄いな、星読みの力は」
「星読みじゃなくてもわかるわ。…あたし、あなたがどんな人か、かなりわかってきたから」
あきれ顔をした京子だったが、不意に表情を改め、後ろを振り返る。
「どうした?」
「今、すれ違った人…。顔に鬼相が出てたわ」
この場合の鬼相とは風水のそれではなく、恐怖、憎悪、悲しみといった負の感情が入り混じった悪相が顔に現れているという意味だ。
「…ここは多くの人がいて、たくさんの思惑や感情が渦巻く場所だからな。中にはそういう人も居るだろう」
「大人の世界は複雑怪奇、ですものね…」
「ああ。天下の陰陽庁も、一皮むけば万魔殿さ」
陰陽庁。
現代の陰陽師たちを管理・統括している国家機関。その前身は太平洋戦争末期に旧日本軍によって復活させられた陰陽寮だ。
陰陽術関連の各種資格の認定。霊災の修祓や呪術絡みの事件捜査など、この国の呪術に関わる行政を一手に担っている。
そして十二神将をはじめとする多くの優秀な術師を抱え、その組織としての力は非常に強大だ。
「――そんな場所でワイセツな行為をするんだ。想像しただけでグッとこないか? 気づいたんだが、ここって物理的な死角があちこちにあるんだ。ちょっと試しに――て、京子。足が速いぞ。おい待てって、そんなに怒るなよ」
秋芳たちが陰陽庁に出向く数日前。
暦の上ではとっくに秋だが、妙に暑い日があったと思えば、急に冷え込んだりする季節の変わり目。
重く湿った夜空から冷たい雨が降り出した。
一色辰夫は舌打ちして駅へと歩く足を速める。
不機嫌なのは雨のせいだけではない。
(上司のご機嫌取りも出世のため、将来のためだ……)
下げたくもない頭を下げ、言いたくもないおべんちゃらを口にする。
陰陽庁に勤める辰夫はそういう毎日を過ごしていた。
陰陽庁勤務といっても辰夫自身は陰陽師ではない。見鬼の才もない。
結婚した妻が陰陽師の家系で、そのコネで陰陽庁に就職することができたのだ。
これからの日本で出世するには陰陽師との関係をおろそかにはできない。そういう算段で陰陽師の家に婿入りを決めた。
雨はますます激しくなる。
(どこか雨宿りできる場所は…)
裏路地にある一軒の店から明かりが洩れている。
これ幸いとその店に近づくと、扉の横には『つくも屋』と書かれた看板が置いてあった。
中に入ると小さな店内に壺や掛け軸、絵画や彫刻品などが所狭しと並べてある。
(ここは骨董屋か、どれどれ…)
妻が死んで家に代々伝わる財産が手に入ったし、陰陽庁の職員として安定した給料をもらっている辰夫は骨董品の収集を趣味にしていた。
(ふん、どれも大した物じゃないな。……おや?)
なにげなくショウケースに目をやった辰夫は思わず息をのんだ。
そこには一振りの日本刀が置かれているのだが、その刀の造形には見覚えがあるのだ。
(この刃紋は、粟田口吉光じゃないか!)
粟田口吉光
鎌倉時代中期の刀鍛冶で、特に短刀作りの名手として知られる。
現存する吉光の刀はいずれも脇差し、小刀だが、一本だけ薙刀を直して作ったという刀が存在するという話がある。
俗に骨喰藤四郎と呼ばれている刀だ。
『骨喰』という異名は、この刀を持って戯れに人に斬る真似をしただけで実際に相手の骨が砕けた。という伝説からきている。
目の前の刀。これはまさに……。
「お気に召しましたか?」
いつの間に居たのか、店の人間らしき青年が辰夫に声をかける。
「あ、ああ……、失礼。この刀をいただきたいのですが」
なんとも不思議な夜だった。
住民票の確認もなしに、住所氏名を書くだけで買い取りができ、今や骨喰は辰夫のもとにある。
しかし請求書は送られてこない。
さすがに気になったので、あれから一度店に行ってみたのだが、どうしても店を見つけることができなかった。
まるで最初から『つくも屋』という骨董屋など、なかったかのようだ……。
もやもやする気分を晴らすため、仕事の後に一軒のバーに入り、空いていたのでテーブル席に座り、一人でグラスを傾ける。
(なかなか良い店じゃないか)
次期事務部長の候補に選ばれた自分にふさわしい。辰夫がそんなことを考えていると扉が開き、二人連れの客が入ってきた。
「邪魔するよ、マスター」
「おや、逢坂さん、いらっしゃいませ。今夜は宮田さんもご一緒ですか」
「ああ、久しぶりに飲みたくなってね」
二人の男は辰夫の同僚で、今度の事務部長選挙で味方になってくれるはずの人物だった。
逢坂と宮田はすぐにカウンター席に座り、酒を交えてマスターと楽しげに話しだした。
挨拶する機会を失ってしまったが、もとより個人的に仲が良い関係ではない。
逢坂も宮田も元は祓魔官だ。
職務中に霊障を負ってから事務員に鞍替えしたくちなのだが、そのためか畑違いの辰夫とはあまり馬が合わない。
今回の選挙で応援してくれるのも、辰夫の能力や人柄を認めているからではなく、利害関係でつながっているからにすぎない。
無言で手を上げおかわりを注文する。居心地は悪いが知らぬふりをすることにした。
聞くとはなしに二人の会話が耳に入る。
「――あいつは事務部長なんて器じゃありませんよ」
「――嫁のコネで就職できたようなものだ」
「――やり口が好かん。上には媚びへつらい、下には威張り散らす。小役人の典型だよ」
「――あることないこと、悪い噂をまき散らしているそうだ」
「――あの卑しい目つき。あいつは陰陽師でもなければ公僕でもない、政治屋のそれだよ。しかも三流のな」
「――知ってるか? 今回の選挙では倉橋長官にもおべっか使って色々と画策してるみたいだが、逆効果だろうよ。あの人は実力主義者だ」
「今までの所業を調べられるぞ。後ろ盾を得るどころか、やぶ蛇になるとも知らずバカなやつだ」
辰夫は激しい動揺を感じた。
たしかに倉橋長官には根回しをしている。
そしてそれに対して色よい返事はもらえていない。
「マスター、お勘定」
辰夫の声に逢坂と宮田が驚いて振り返る。
「お二人さん。良いお話を聞かせてもらえましたよ」
「一色くんか…」
陰口を聞かれたにもかかわらず、逢坂と宮田の表情には狼狽の色がない。
「少々きついことを言ったかもしれないが、これが我々の正直な本心だよ」
「これを機におべんちゃらやコネを使わずに、実力で勝負してみたらどうだい?」
「…………」
三人の険悪な雰囲気にマスターが割って入る直前、辰夫は代金を払うと、つり銭も受け取らず店を後にした。
「くそっ」
携帯電話を取り出し倉橋長官と連絡を取ろうとした。
すぐに確認したかったのだ。
自分は見捨てられてなどいないということを。
なんども呼び出し音が鳴るが、いっこうに電話には出ない。
その後、自宅に帰った後も家電からも倉橋長官との連絡を試みたが、つながらなかった。
焦りと不安をまぎらわせるために買ってきた刀でも磨こうと、骨喰の置いてある部屋へ足を運ぶ。
照明の光を浴びて骨喰藤四郎の刀身が銀色に輝く。
丹念に刀を磨いているうちに心が静まってくる。と同時にどす黒い怒りが込み上げてきた。
それはやがて自分をコケにした逢坂と宮田に対する殺意にまでふくれ上がっていった。
殺意とともに妙な自信も湧き起こる。どんな敵もこの刀で斬り伏せてやる――。
この刀は自分に力を与えてくれる――。
「なにをしているのっ!?」
部屋に入って来た娘の麗香が驚きの声をあげる。
軽くウェーブした長めの黒髪、瓜実型の小顔。父親のひいき目を抜きにしても美人だと辰夫はつねづね思っている。
「ん…、ちょっと刀を磨いてただけさ。それより遅かったじゃないか」
「自主練してたから遅くなったの。で、送ってもらったんだけどお茶でも飲んでいってもらおうと思って…」
「父さんの知ってる子かい?」
「天馬君よ」
「ああ、百枝さんちの。あの眼鏡の子か…」
百枝天馬。
一色家と同じ旧家の出のためか、麗香とは幼い頃から仲良くしている。
「父さんが顔を出すと煙たいだろうし、挨拶はやめておくよ。あまり遅くまで引き止めるんじゃないぞ」
「うん、わかった」
そう言って部屋から出て行く麗香の心に一抹の不安が生じる。
数年前に亡くなった母親の血を色濃く受け継いだ麗香には見鬼の力がある。
その麗香は一瞬だけ『視た』のだ。
父の手にした刀が霊気に包まれていたのを。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だ。だからただの見まちがい。麗香はそう思うことにした。
娘が出て行った後、辰夫は無言で骨喰を正眼に構え、振り上げ、振り下ろした。
数メートル先の花瓶が断ち斬られ、水が流れる。
辰夫は凄まじい形相で前をにらみつける。
その顔には、鬼相が浮かんでいた……。
「こんな遅くまですみません逢坂さん。そろそろおいとまさせてもらいます」
宮田は手にしたブランデーグラスを卓に置いて、恐縮して頭を下げる。
「なになに、今夜は女房もいないし、遠慮せずもっと飲んでいってくれ」
バーを後にした逢坂と宮田は、場所を逢坂家に移してまだ飲んでいた。
「にしてもさっきの一色の顔。大の大人が泣きそうな目をして、面白いったらなかったな」
「ははは、あれは滑稽でしたね」
「他の事務員同様、分相応に真面目に働いていればいいものを、よりにもよって倉橋長官に近づこうなどと、身の程知らずにもほどがある」
「まったくです。陰陽庁で生粋の陰陽師でもない者が出しゃばるとは、図々しい」
「おっと酒が切れたな。持って来よう」
「いやいや、もう時間ですし…」
「帰ったらダメですよ! そんなことしたら一生恨みますからね」
ふらふらとした足取りで酒を取りに部屋から出て行く逢坂。
残された宮田はおとなしく待つことにした。
するとどさりとなにかが倒れたような音を聞く。
(酔って倒れたのかな? やれやれしょうがない。見に行くか…)
廊下に出る。部屋の一つから明かりが洩れているので、そちらに向かう。
近づくにつれ、いやな臭いがしてきた。祓魔官として過ごしていた時代に幾度となく嗅いだことのある、むせかえるような金臭さ…。
血だ。
血の臭いがする。
「逢坂さん!?」
いそいで部屋に入ると、うつぶせに倒れている逢坂の姿があった。
抱き起そうとしたが、途中で動きを止める。
首が、ない
切断された頸部からは勢いよく血が吹き出し、血溜まりを広げている。
「うげぇっ」
現役の祓魔官時代にだってここまで凄惨な死体は見たことがない。
「け、警察を…」
携帯電話を取り出そうとした宮田の背後からみしり、と床が鳴る。
今夜は自分たち以外はいないはず。
みしり、と音がまた一歩近づいた。
だとすると逢坂を殺害した犯人がまだいる
(落ち着け。私は陰陽師だ。不意さえ突かれなければ、ただの一般人に遅れはとらない)
気を静め、脳内に術式を組みながらゆっくりと振り返る。
侍がいた。
時代劇に出て来るような月代を剃った若武者が、抜き身の刀を手にして立っていた。
その体は青白い霊気に包まれている。
(れ、霊災!? フェーズ3? いや式神か!?)
霊気は安定し瘴気へと変容してはいないので、正確には『霊災』でないのかも知れない。
だがなんにせよ目の前には『霊的な脅威』が存在していることに変わりはないのだ。
若武者は刀を八双に構え、間合いをつめてくる。
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
不動金縛りの術。
しかし若武者の振るう刀によってその術は斬り落とされてしまった。
あわてて次の術を行使しようとする宮田。
だが、遅い。
ヒュンッ。
鋭い風切り音を聞いたと思った瞬間、視界に床が映っていた。
(な、なんで寝てるんだ!?)
ばしゃばしゃと大量の液体が顔にかかる。とっさに腕で拭こうとするも、首から下の感覚がない。
目だけを動かして周りを見る。
切断された頸動脈から大量の血飛沫をあげている自分の体。
それが宮田の最期に見た光景だった。
陰陽庁職員が惨殺された事件は、少なからず世間を騒がせた。
庁内選挙も近いこともあり、一色辰夫は殺人とは関係ないところで騒がれることとなった。
ライバルに濡れ衣を着せて失脚させた。陰陽庁とつながりのある企業から賄賂を受け取った。
そんなことがゴシップ誌に取り沙汰されている。
「ほんと、いやになっちゃう……」
麗香がため息をつく。
スキャンダル記事を目にするたびに辰夫は怒っていたが、だからといって娘から『これって本当のこと?』などと確かめるわけにはいかない。
ただ近ごろ辰夫が庁内選挙のために奔走しているのは事実で、今日も倉橋長官に用があるからと早くから家を空けている。
「気にしないほうがいいよ。人の噂も七十五日って言うでしょ?」
「なにそれ? 天馬君てずいぶん古い言い回しとか知ってるのね」
「え、そうかな?」
旧家の百枝家で祖父母に育てられた天馬には、同世代から見てどこか大人なところがあった。
「でもね、たしかに気になることがあるの。父さん日本刀を集めてるし、剣道もしてたから…」
「ありえないよ。なんならちゃんと調べてみたら?」
「刀を?」
「うん」
「……あのね、見まちがいだったかもだけど、父さんの持ってた刀から霊気が出てたかもしれないの」
その時インターホンが鳴った。
麗香が玄関にむかい、訪問者にどなたですかと尋ねる。
「呪捜部の者です。逢坂氏が殺害された件でうかがいたいことがあるのですが、一色辰夫さんはご在宅ですか?」
「今、ちょっと出てますけど、父になにかご用ですか?」
「大したことではないのですけどね。そうですか、お留守ですか。もうしわけありませんが中で少し待たせてもらってもいいですか?」
呪捜官の口調は丁寧ではあったが、その態度はあつかましく、いやな自信にあふれていた。
とりあえずダイニングに通し、お茶を出してから、麗香は天馬のいる部屋に駆け込む。
「どうしよう、呪捜官の人が来ちゃった。父さんに聞きたいことがあるって。父さんまさか…」
「落ち着いて。落ち着いて麗香ちゃん。たんに話を聞きに来ただけでしょ? 捜査令とかは見せなかったんでしょ?」
「うん、うん…」
「麗香ちゃんさっき刀に霊気があるとか言いかけてたよね? お父さんを疑うわけじゃないけど、やっぱり刀を調べてみようよ。それとも刀の置いてある部屋に呪捜官を入れちゃったとか?」
「ううん、それはないわ。あたしも不安だったから」
「よし、行こう」
麗香の手をとり部屋から出る天馬。
百枝天馬。以外にも押しの強いところがある。
後に十二神将の一人から。
『あいつ意外と強引って言うか、押し強いよね。地味な癖してさ』(原作小説『東京レイヴンズ』八巻。五十八ページより)
などと言われるのは伊達じゃない。
刀の置いてある部屋に天馬を案内した麗香は少し青ざめた顔で飾ってある骨喰を手にとった。
ずしりと重く、そして大きい。
時代劇などで目にする役者が振るう刀は撮影用の模造品なので、サイズも小さめに作られているが、本物の日本刀には鉄の質量と『武器』の迫力がある。
「これがそう。なんでも骨喰藤四郎ていう珍しい刀なんだって」
「へぇ…」
今のところ霊気も瘴気も感じられない。だが刀剣タイプの呪具の中には鞘をかぶせることで霊気を隠し、穏形するタイプの物も存在することを天馬は知っている。
このあたりは両親の仕事の影響だろう。今は亡き天馬の両親は、陰陽庁以外で式符の販売で成功した唯一の会社。ウィッチクラフト社で技術者として働いていたのだ。
呪具や人造式についての知識にはそれなりの自信がある。
麗香から刀を受け取った天馬は、恐る恐る鞘から引き抜こうとするが。
なかなか抜けない。
刀という物は鯉口を切って、柄を前に、鞘を後ろに引いて抜くもの。
慣れない者には、ただ抜くことすらむずかしいのだ。
それでもなんとか抜刀し、刀身があらわになる。
切っ先から鍔元までの刀身はどす黒く変色した血糊が付着し、禍々しい霊気――妖気――があふれていた。
「そんな、父さんが、父さんが人を、人殺しだったなんて……」
「と、とりあえずどこかに隠そう」
あわてて鞘に納めようとするが、抜いた時と同様、なかなか納刀できない。
パチン。
やっと刀を鞘に納めたその時。
「すみません、お手洗いはどこですかね? おや、なにをしているんです?」
呪捜官だ。
「おお、日本刀ですか。少し見せてもらえますか」
麗香が息の飲む。
天馬は穏やかな顔をして対応する。
「お断りします。捜査令状は持ってるんですか?」
「電話一つですぐに用意できますよ」
自信に満ちた表情でそう断言すると、二人のもとに歩みより、刀の鞘に手をかけた。
「これはわれわれ呪捜部と、一色さんとの問題だ。部外者は口出ししないでもらおう」
「たしかに僕はこの家の者ではありません。ですが家長がいないのに勝手な真似をするのを見過ごすわけにはいけません」
「て、天馬君…」
天馬と呪捜官のやり取りをはらはらしながら見守る麗香。
業を煮やした呪捜官は急に横暴な口調になると、力づくで刀を取り上げる。
「渡せと言っているんだ、公務執行妨害でしょっぴくぞ! おまえが邪魔をすればそれだけ一色辰夫の立場は悪くなる。わかってるのか!」
呪捜官は天馬から奪った刀を鞘から引き抜く。
麗香は思わず目を背け、天馬は歯噛みする。
「ほう……」
感嘆したような呪捜官の声。
震えがくるほど神々しく、寒気がするほど禍々しい日本刀。
「これは見事な刀ですなぁ、たしかにこんな物を持っていたら、妙な気になるのかもしれない」
銀色に輝く刀身には一点の曇りもなく、霊気や妖気の類も発していない。
(じゃあさっきのはなんだったの? 血だってついてたのに…)
驚いているのは麗香も同じで、目をしばたたき、呪捜官の手にした刀を見つめている。
「ははは、君らがあまり依怙地だったから、なにかやましいことでもあるのかと思ってね、失礼失礼」
「笑い事じゃありませんよ。あなたのことは後で正式に抗議させてもらいます。…名前を教えてもらえますか?」
「いや、本当に申し訳ない。今日はもう失礼させてもらいます」
呪捜官は挨拶もそこそこに、逃げるように立ち去った。
残った天馬と麗香はおたがいの顔を見つめ、大きく息をつく。
「天馬君。あたし混乱してきた。さっき見た時はたしかに血がついてたし、霊気だって……」
「うん、それにあの呪捜官だって『視た』はずなのに、なんにも言わなかった」
試しにもう一度抜いて見たが、やはり異常はない。ただの刀だ。
「僕たちよりもっと見鬼の上手い人に視てもらおう」
「え? でも呪捜官でもわからなかったのよ。そんな人、いるの?」
「うん。いるじゃない、僕たちと同じクラスに」
賀茂の姓を持った転校生の姿を思い浮かべ、天馬はそう答えた。
遠くからかすかに聞こえる街の喧騒。誰もいない廊下。
(曜日がちがうだけでこうも雰囲気が変わるとは、学校ってのは不思議な所だ)
京子の自主練習につき合うため、日曜の陰陽塾に来た秋芳は、いつもと趣のちがう校内をぶらついていた。
早めに家から出たため、約束の時間にはまだ余裕がある。
なんとなく自分のクラスに足をむけると、そこで思いがけない人物と出会った。
「お、おはよ」
「春虎じゃないか。日曜なのにどうしたんだ?」
「個人補習」
「ああ……」
大陰陽師、安倍晴明の末裔。かつての陰陽道宗家、土御門の分家に生まれるも、生まれつき見鬼の才のなかった春虎はこの夏まで呪術とは無縁の生活をしてきた。そのため陰陽塾の授業について来られず、赤点補習の常連だ。
春虎の成績がお粗末なのは、今に始まったことではない。
「夏目はどうした? いつもみたく『式神の勉強を見るのも主の役目だ』て、一緒じゃないのか?」
「いや、そりゃあ、おれはあいつの式神だけどさ。だからって四六時中いつも一緒ってわけでもないよ。そう言うそっちの式神は一緒じゃないのか?」
秋芳の式神。化け狸の笑狸のことだ。
「今日は天気が良いから部屋でゲームやって、漫画読んで、アニメ見てるってよ」
「くっ、なんてうらやましい三千院ナギ生活だ」
「あんな怠惰な生活をうらやましがっちゃいかん」
「つうか、日曜なのにどうしたんだよ。まさかおれと同じ補習ってわけじゃないだろ?」
「ああ、これからちょいと人の自主練につき合うんだ」
「わざわざ日曜なのに物好きだなぁ」
「まぁ、半分逢い引きみたいなものだからな」
「え? 今なんて言ったの?」
「いや、なんでもない。それよりもまだ時間があるから、わからないところがあったら教えるぞ」
「そうだな……、全部。かな……」
「またそれか」
「だってほんとにわからねぇんだよ! これでもどこがわからないのかが、わかるようになったんだぜ」
「夏目が聞いたらあきれるだろうが、俺はその進歩を評価してやろう。ゼロとマイナスじゃ、全然ちがうからな。で、わからない個所を適当に言ってみろ」
「五行の術がわからん! 相生と相剋だっけ? あれの順番がいまいちわかりにくい」
「文章を丸暗記するんじゃなくてイメージしながらおぼえるんだ。木は燃えて火を生み、火が燃え尽きると灰。土を生む。土の名からは金属が出現し、金属の表面には結露。水が浮かぶ。水をまかれて木が生える…。といった具合で、これで五行がぐるりと一周。木火土金水。これが五行相生」
「なるほど…」
「また木は土を吸い取り、土は水をせき止め、水は火を消し、火は金属を溶かして、金属は木を切り倒し、それぞれ消滅させることができる。木土水火金。これが五行相剋。この原理に従って術の駆け引きが行われる」
「う~ん、なんとなくわかってきたような」
「口や文章で説明するより、実践したほうが遥かにわかりやすいんだがな」
「あー、おれ実技のほうがぜってー性に合ってるよ」
陰陽塾の一年は講義の多くが座学で、実技はあまりない。
そのため二年への進級試験は技術よりは呪術者としての素質を見ることに重点が置かれているらしく、またその試験内容も毎年変更されているという。
「……おれも自主練しようかな。呪力のあつかいや呪術に早く馴れるには、やっぱ実戦形式で訓練したほうが良いよな?」
春虎は入塾早々、夏目をつけ狙う夜光信者と戦っている。
夏目に関する噂。
現代陰陽術の祖にして東京に空前の霊的災害を起こした張本人。土御門夜光の生まれ変わりだという噂だ。
そのため夏目は夜光を盲信する一部の過激な者たちから、つねにつけ狙われている。
分家のしきたりで本家の夏目に式神として仕えている春虎は、主たる夏目を守るため、強くなる必要があるのだ。
そして秋芳もまた、夏目が狂信的な夜光信者らに害されないよう警戒し、場合によっては身柄を確保。保護するように賀茂家から言われている。
「そういうのは基本的な知識を身につけてからな。それと霊力の呪力への変換も、まともにできるようになってからだ」
「それは錫杖があればなんとか…」
「四六時中あれを持ち歩いてるわけにはいかんだろう。霊力の呪力への変換もイメージが大切だが、その前にそのダダ漏れの霊力を制御しないとな」
「それ大友先生にも言われたけど。これ、自分じゃどうしようもないって言うか、正直霊力が漏れてるって自覚ないんだよなー」
「うたた寝するたびに夢精する精力絶倫中学生みたいだな」
「下ネタ!?」
「ああ、下ネタだぜ。やはり男子生徒たる者、同じ男子とそういう会話をしないとな。それがスクールライフってもんだ。で、冬児に聞いたんだが、おまえの趣味はどノーマルらしいな」
「そうだよ、普通だよ! 幼女趣味とかホモとかじゃないからな! かんちがいすんなよっ!」
「俺は女スパイやくノ一が好きだな。もちろん巨乳のな」
「聞いてねえよ! …つか、そうなんだ」
「ああ、網タイツとか全身スーツにグッとくるんだ」
「そ、そうか」
「あと妹よりも姉が好きだ。世間じゃ今だに妹ものが幅を利かせているが、実に嘆かわしいね。もっと姉ものが流行るべきだ。巨乳の」
「ほんとおっぱい好きだな! まぁおれも好きだけど。んー、まぁ妹ってやっぱかわいいし、一定の需要ってのがあるんじゃね?」
「ああ、俺だってべつに妹が嫌いなわけじゃない。だが、あれだ。さんざん兄妹て引っぱっておきながら『実は血のつながりはありません』とか萎えるな」
「なんでだよ、晴れて恋人同士になれるから良いじゃん。ハッピーエンドじゃん」
「良くない。血の繋がった実の兄妹姉妹の背徳的な恋愛が楽しめないじゃないか。だから『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』にも『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』にもがっかりだよ。BDを買わせておいてラストでいきなり実妹じゃありませんでした。て、これはもう詐欺だね。妹詐欺だよ」
「そんな詐欺ねえよ!」
「『ジュエルペットサンシャイン』は、花音と御影がくっつくべきだったんだよ」
「おれ、そのアニメ知らねえし!」
「俺は弟を溺愛してる巨乳くノ一の姉がメインヒロインの作品とか希望するね」
「あー、はいはい」
「忍びの家に生まれた主人公は最初から最強でラッキースケベ。すごいブラコンで巨乳の姉と妹がいて、実の姉兄妹であると同時に二人とも主人公に仕える任務を帯びたくノ一で、主人公の言うことならなんでも聞いちゃう。なにかとつっかかってくる高貴な育ちのツンデレお嬢様。器量よしで良妻賢母になりそうな家事の得意な幼なじみ。見た目は幼女なんだけど実年齢はアレな担任教師。お色気ムンムンで胸の谷間あけっぴろげ白衣の保険女医。ラッキースケベ要員としてグラドル体型した巨乳で美人な日欧ハーフの先輩。主人公の力の解説要員で二次元最高三次死ねなヲタメガネ腐れ縁の同級生。ただしかわいい男の娘。これらのキャラにくわえて、学園内での模擬戦で主人公無双。謎の敵の襲撃に正規の部隊が撃破されて主人公の真の力が覚醒。みたいな要素を入れた作品は売れる」
「それもう自分で書いちゃえよ! つうか秋芳おまえ、そんな妄想してたのか……」
「妄想もバカにはできないからな。脳ってのは使うことで研ぎ澄まされる器官だ。思考を自分に課す者は、それだけ脳の機能が先鋭化している。そいつがどんなに馬鹿に見えても、思考を好む人間の脳は、どこかしら必ず発達している。使い方をまちがわなければ、それは大きな力になり得るんだ。だからな春虎、考えるのを止めるな。勉強でも人生でも思考停止は楽だが、それに安住すると脳の成長はそこでおしまい。論理、計算、想像、妄想……、なんでもいいから考えろ。脳を使って特化しろ。思考すれば必ず脳は応える。脳はそのための器官だからだ」
「お、おう……」
「霊力も同じだよ」
「え?」
「春虎、ちょっと手を合わせてみろ」
秋芳はそう言い、掌を前に出す。
春虎は怪訝そうな顔をしつつ、それに応じて同じように掌を出して、タッチするように重ねた。
「うお!?」
強風に煽られたかのように体が後ろに飛ばされそうになる感覚。だが手と手はピッタリと重なったまま離れそうにない。
「これはな春虎。腕力を使わず気で、霊力だけでおまえのことを押しているんだ」
「て、手が離れないのはなんでだ?」
「おまえが無意識に霊力で抵抗しているからだ。押された瞬間にふんばってるようなものだな。おっと力を抜くなよ。今、この状態は周囲に無駄に拡散しまくりなおまえの霊力が掌という一点に集まっている『無駄のない』状態なんだ」
「…………」
「この状態に慣れたら掌の一点を全身に広げる。そうすれば霊力は漏れずに安定する」
春虎は土御門の血筋ゆえか、呪力のもととなる霊力は並の人間よりずっと強い。
しかし霊力を呪力としてあやつる力が大ざっぱで、馬力はあっても空回りしてしまい術にならない。
それにくわえて呪術の知識もあまりなく、理論面に対する理解が乏しいのも壊滅的だ。
経絡や丹田。サハスラーラといった内功用語を使うと混乱するだけだろうと考え、こうして体に直接覚えさせることにした。
しばらくそうした後で掌を離す。
「今の感覚を忘れないように」
「ああ、なんかつかめそうだぜ。ありがとな秋芳」
「どういたしまして。またなにかあれば俺の知っていることを教えるよ。…あ、そういえばちょっと聞きたいんだが」
「え? なに?」
「夏目ってあれ、女の子だよな? なんで男のなりなんかしてるんだ」
「――ッ!!」
鳩が豆鉄砲を、はぐれメタルが急所にどくばりを喰らったような顔になる。
「ち、な、に、お、いっ、ちがうだろ! なに言ってんだよおい。たしかにあいつは小柄で線も細くて髪も長いし、昔っから女の子にまちがわれやすくて、でもほらあれだ。ちゃんと陽の気出てんだろ? 男だよ男! 完全に男。なっ?」
汗をかきかき、しどろもどろになる春虎。すでにその態度が質問の答えを如実にあらわしていた。
(嘘のつけないやつだな。しかし思った通り、こりゃあクロだ。しかも春虎は夏目が女だということを知っている。だがなんでそんなことをするんだ? なにかのまじないだろうか……)
「――だから、夏目に言ったら怒るぞ。あいつ自分が女の子に見えること気にしてるからさ」
「……ああ、肝に銘じておこう。それじゃあ、そろそろ約束の時間だから俺は行くよ」
土御門春虎は呪捜官にはむいてないな。そんなことを考えながら秋芳は教室を後にした。
陰陽塾の屋上は食堂のある最上階から階段で上がることができる。
特別な祭壇があるため、普段は生徒の立ち入りは禁止されているが、その一つ手前。食堂のある建物側の『屋上』ならば、その限りではない。
そちら側の屋上に通じる扉には『秘密の特訓中。開けちゃダメ! のぞきを禁ず』と書かれた紙が貼ってあった。
その扉の向こう側で今、呪術の応酬が繰り広げられていた。
「似蛇、等牙剥。疾く!」
蛇に似る、等しく牙を剥きたり。
秋芳が口訣とともに簡易式をばら撒くと、それらは空中で蛇と化し、京子の身に群がる。
「ひがしやまつぼみがはらのさわらびのおもいをしらぬかわすれたか――」
京子は落ち着いて集中し、呪文を唱える。
京子を中心に呪力の波動が走り、空中を進んでいた蛇たちは一斉に動きを止め、地に落ちると、苦しそうに痙攣を始めた。
さらに京子の呪文が続く。
「地より生まれし呪い、主の元に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ!」
すると地面でのたうつ蛇たちが、今度は秋芳に牙を剥いて襲いかかる。
「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」
蛇たちにラグが走り、褐色の煙を出すと、元の符の形に戻った。
「今のも蛇除けの呪?」
「そう。術の効果は今さっき君に教えた蛇除けとまったく同じだ。蛇と同じ長虫、ムカデにも効果がある。…それにしても一回教えただけでちゃんと発動させ、さらに返しの術を使うとは、見事だ」
先日交わした約束通り、秋芳は京子に術の手ほどきをしている。ムカデの動的霊災に苦戦したと言うので、まずは蛇・長虫除けの呪を伝授したのだ。
「君には縁のないことかも知れないが、陰陽師の仕事の中にはお偉いさんに呼ばれて術を披露したり、別の術者と術くらべを強要されることがある。伝説にある安倍晴明と蘆屋道満や知徳法師の話みたいにね。そういう時に術のレパートリーが多いと喜ばれ、逆に少ないと芸が乏しくてつまらん。などと不興を買う」
「失礼な話ね。陰陽術は見世物なんかじゃないのに」
「その通り。それと人でも霊災でも、対象を確実に『祓う』術さえ持てば、それ以外の小技はまったく無用。自分の得意技を徹底的に磨き上げて絶対の必殺技にまで昇華させれば良い。なんて意見もあるが、これはこれで偏った考えで、いざという時に手詰まりになる危険がある。だから『最高』の陰陽師を目指す君には広く浅くではなく、広く深く術を学んでもらう」
「最初からそのつもり。望むところだわ」
「だが根を詰めるのも良くない。今日はこのくらいにしておこう」
「もう終わりなの? あたしはまだまだ平気よ。…ねぇ、霊災修祓用の呪術を教えて」
「しょうがないな……。それじゃあ祓魔官がもちいるもっとも標準的な対霊災用修祓呪術と、百鬼を退ける基本中の基本のやつを教えるよ」
祓魔官むけの専門書に記された帝式の術を、小一時間かけてじっくりと伝える。
「霊災相手に実際に使ってみたいわ」
「霊災は忘れた頃にやってくる。こっちが身構えてる時に限って霊災なんて身近に起こらないものだ。そのうち使う機会がるだろう」
「ねぇねぇ、あなたなら霊気を歪ませて瘴気を作れるでしょ。フェーズ1でいいから霊災を起こせない?」
「猫なで声でなんつー危険なことおねだりしちゃってるのかな、このお嬢さんは。街中でガソリンぶち撒いて火ぃつけるようなもんだからね、それ。できるけどしないよ。無理。無茶言うな」
「結界を作ってその中だけで…」
「火傷するかもしれない危険な火遊びはさせられないね」
「ラーメンとアバンチュールに火傷はつきものでしょ。痛みを恐れてたら、自分の殻を打ち破れないわ」
「どこのケメコ先生の言葉だよ! そんなにアバンチュールがお望みなら――」
素早く京子の背後にまわり、後ろから抱きしめ、首筋に口づけをする。
「キャッ!?」
秋芳はそのまま自分の体が下になるようにして後ろ向きに倒れる。地面に落ちたままの簡易式を花に模したクッションに変化させ、その上に倒れたので痛くはない。
首筋に唇を這わせつつ、両手で京子の体をまさぐる。
「俺の霊災はもう百鬼夜行寸前のフェーズエレクトだ。さぁ、京子。修祓してくれ……」
「あっはははは、バカ! バカじゃないの、もう。このエロおやじ! アホ芳!」
「いてててて、つねるなつねるな」
「あなたとはアバンチュールじゃなくて真面目な恋をするつもりよ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
「だったら変なことしないで」
「わかったよ。でも、このまま普通に抱きしめるくらいはいいだろ?」
「……そうね、そのくらいなら、いいわ。でもエッチなことしたら、またつねっちゃうんだから」
それからあたりに散らばる簡易式をあやつり、即興で人形劇を楽しんだ。
二人だけのエチュード。
あきれるほど楽しい。
最初は白雪姫だったのだが、マッチ売りの少女や人魚姫を助けたりしているうちに海賊の頭領になるという支離滅裂なストーリー。
アカペラで『彼こそが海賊』を唄って、ジャック・スパロウの物真似を披露する秋芳の姿に京子が笑い転げる――。
この楽しい時が永遠に続けばいい。
二人がそんなふうに思っていた矢先、秋芳の携帯電話に着信が入る。
二人とも水を差されたと怒ったりはしない。
ほんとうに幸せな者は、そのような些末なことで気分を害したりしないものだ。
「天馬からだ」
「あら」
「俺だよ、俺。オレオレ詐欺だよ。……いや、飲んでないよ。酔ってはいるけどね。なににって? 恋という名の美酒にさ――」
ひと通り話をして電話を切る。
「どうしたの?」
「天馬に助けを乞われた。ちょっと行ってくる」
「捜査令状も持たずに勝手に家に入っただと!? どういう了見なんだ。今度こんなことをしてみろ、ただではすまんぞ!」
辰夫は呪捜官を怒鳴りつけたその足で倉橋長官と面会した。
「君と話すことはなにもない」
直立不動の鋼。あるいは話す巌。その場にいるだけで周囲の人間に緊張を強いる生きた刃はそう言って辰夫を切り捨てた。
「も、もう一度考え直してください。私が次の事務部長となったあかつきには、倉橋先生にもじゅうぶんな恩返しをさせていただきます」
「そういう問題ではない」
「私にいたらぬ点があれば改めるよう努めます。ですから――」
「君に関する悪い噂は調べさせてもらった。そしてそれらのすべてが根も葉もない噂ではないと判断した。陰陽庁に汚れた『政治家』はいらない」
「お、お言葉ですが長官!」
ここで退いてはすべてが台無しだ。辰夫は食い下がった。
「クリーンだが無能な政治家より、ダーティでも有能な政治家も陰陽庁には必要では!?」
「ダーティだと周囲に知られる、ダーティだとばれた時点で失脚する。その程度の無能な存在は、陰陽庁には必要ない。今の地位に居られるだけで満足したまえ。これ以上私の時間を潰すな」
それで、すべてが終わった。
ゆるせない。
一色辰夫の心をつなぎ止めていた楔が弾けた。
気づけば家で骨喰いを、藤四郎吉光を磨いている辰夫の姿があった。
ゆるせない。
骨喰を手にした自分が倉橋を斬り伏せる姿を想像して悦に浸る。
陰陽師が、なんだというのだ。
自分にはこの刀がある。この力がある。
自分に刃向う者など、斬り殺してやる……。
天馬の家は護国寺にある。
一色麗香の家はその近所だ。
普通なら渋谷からは池袋か永田町に出て載りかえるが、天馬は普段は副都心線に乗って雑司ヶ谷で降りて徒歩で通っている。
秋芳たちは護国寺駅で天馬と待ち合わせて、一色宅へと向かう。
「京子ちゃんも来てくれるなんておどろいたよ」
「今日は彼に呪術について色々と教えてもらってたの」
「……すごいね、春虎君ともよく放課後に模擬戦してるけど、休日まで勉強してるんだ」
「陰陽塾の生徒ならそのくらい当然よ。それよりそのナントカって刀のことなんだけど…」
「粟田口吉光・作。骨喰藤四郎だな――」
九州地方の大名として名高い大友氏。その初代当主、大友能直が源頼朝より拝領したという太刀。
足利尊氏が九州に下ったさいに大友氏から尊氏に、深く忠誠を尽くすことの証として献上され、尊氏はこの刀を得てから運を盛り返して天下を得たという。
そのため将軍家は代々この刀を重宝していたが、十三代将軍義輝の時。近習の多賀豊後守という人物に与えられた。
三好三人衆、松永久秀による謀反の時に多賀豊後守も義輝のそばでこの刀を持って戦い、討ち死にした。
その後この刀は松永久秀が所持し、それ以降は主家である三好家以上の権勢を得た。
松永久秀はこれを秘蔵していたのだが、時の大友家当主、大友宗麟がそのことを知り、それはもともと大友家の物なので返して欲しいと大量の金銀を久秀に献じた上で要求した。
久秀はこれに応じて大友家に骨喰を返した
ところがこの骨喰藤四郎、その後に大友家から豊臣秀吉に献上され、そのさいに多くの者が『これで大友家は衰微するのではないか』と噂したという……。
骨喰藤四郎は大阪夏の陣の後、落城した大阪城の中から発見されたが、その刀身には傷が一つもついていなかったとか――。
「――で、この『骨喰』て異名の由来だが、刀を持って人を斬る真似をしただけで相手の骨が砕けた。て逸話からきているそうだ」
「骨が砕けたの? 切れたんじゃなくて」
「そうだよね。刀なら、切れそうだよね。砕けるんじゃなくて」
「ま、あくまで伝説の話だ。それにそのケガしたやつも鎖帷子でも着込んでいたのかもしれないしな」
「それだけいわくつきの刀ならいつ霊災化してもおかしくないわね。…ていうかもうすでに霊災に成ってるんじゃない?」
「ありえるな。霊的存在が実体化する場合、より実体化しやすくなるために核となる物質を取り込むことがある。物に宿るパターンだ」
「タイプ・マテリアル……」
「そう、物の生成り。タイプ・マテリアルだ。昔風に言えば付喪神と呼ばれる存在に成る。構造的には形代を核にして実体化する式神と一緒だな。この場合は霊災の進行度が遅くなる代わりに安定度が増してしまう。そして安定度が増した状態が長引くと核となる形代を失ってもそのまま安定して存在し続けることが可能だ」
「形代がなくても存在し続ける、てすごいね……」
「さすがに行動は制限されるだろうがな。それと付喪神はその『物』という性質上、穏形に長ける種が多い。刺激を与えなければ尻尾を出さないかも――ッ!」
強い霊気の動きを感じた。
「秋芳君!」
「ああ、どうやら勝手に尻尾を出したらしい」
「え? え? 二人ともどうしたの?」
「近くで大きな霊災が発生したようだ。いそげ」
倉橋源司を斬る。
肉に喰い込む刃の感触と、血飛沫の生暖かさを想像して辰夫は身震いした。
「やってやる……」
この刀があれば陰陽師などに後れは取らない。
辰夫は骨喰を鞘に納めると、ゴルフクラブケースの中にしまいこんで部屋から出た。
そこに娘の麗香が立っていた。
娘の、麗香の視線はゴルフケースをさしている。
「……どこに行くつもり?」
「ん、ああ。たまにはゴルフの打ちっぱなしに行こうと思ってね」
麗香は黙って指をさす。その方向には骨喰が飾られてあるはずだが、今は当然ない。
「そんなの持って、まさか誰かを殺しに行くつもりじゃ……」
「バカなことを! どうして父さんがそんなことするんだ」
「とぼけないで。あたし見たのよ、父さんの刀が血で汚れてたの」
感情が高ぶり、今にも泣き出しそうに麗香の瞳には涙があふれている。それを目にした辰夫は哀しみではなく激しい怒りを感じた。
死んだ妻にそっくりだ。陰陽師だった、妻に。
陰陽師に。
「ねぇ、落ち着いてよく聞いて。父さん、その刀に憑かれてるわ」
「!?」
憑かれている。霊災。瘴気。見鬼。式神。生成り、呪術……。陰陽師。
得体の知れない呪術界。出世のためと陰陽庁に勤めているが、もうたくさんだ。
陰陽師なんて、もうたくさんだ――。
「父さん、その刀を置いて。それと、お医者さんに診てもらいましょう」
「……倉橋は」
「え?」
「倉橋はな、このおれを見捨てるつもりなんだ。ずっと頭を下げて、汚いこともして、屈辱にも耐えてきたというのに、それなのにあいつはおれを見捨てるつもりなんだ……」
「く、倉橋長官を!? やめて! 父さんはあたしを人殺しの娘にするつもり?」
「なんだとッ!」
怒りで目の前が真っ赤に染まる。
こいつは、この女はおれのことなど少しも心配していない。
自分が殺人者の娘呼ばわりされるのが嫌なだけなのだ。
「麗香っ、おもえという娘は!」
辰夫は刀を抜き放つと、麗香目がけて一閃させた。
悲鳴をあげて床にたおれる麗香。なんとか体を起こしてなにかうったえようとするが、力を失いくずれ落ちてしまう。
骨喰が妖しい光を放つ。まるで新たな血を吸って歓喜したかのように。
自分がなにをしたのか、もはや辰夫にはわからない。虚ろな目をして赤く濡れた骨喰を手に、ゆっくりと歩き出す。
その時、玄関の扉が荒々しく開けられ、三人の若者が飛び込んできた。
「辰夫さん、あなたなんてことを!」
天馬はあわてて麗香に駆け寄り、治癒符を発動させる。
「百枝……、天馬……、娘を、たぶらかす気か? おまえも死ね!」
麗香を介抱する天馬に斬りかかろうと刀を振り上げる辰夫。
切っ先が天井板をガリガリと削るが、辰夫の動きに微塵も遅れは出ない。
憑依されることで筋力も上がっているのだろう。
「禁気則不能起、疾く!」
気を禁ずれば、すなわち起きることあたわず。
辰夫は気を絶たれ、文字通り気絶してしまい、糸の切れた人形のようにその場に倒れた。
「禁傷則不能害、疾く!」
傷を禁ずれば、すなわち害することあたわず。
続けて放った秋芳の術が麗香の受けた傷を癒す。
「これで傷も残らない。とりあえず横にさせてあげよう。天馬、足のほうを持て。京子は肩を。俺はおっさんを運ぶ」
「はいっ」
「う、うん!」
応接室のソファに二人を寝かせてから、骨喰を回収しようと部屋から出た秋芳の前に抜き身の刀を、骨喰を手にした若武者が立ちふさがる。
「我が名は藤四郎吉光。字名は骨喰。主、一色辰夫どのの敵は生かしておけぬ」
「……あんたに人を殺せと、一色辰夫はそう命令したのか?」
「すべて拙者の一存でしたことだ。主の手を煩わせるまでもない。わが主に仇なす輩は、すべて拙者が葬り去る。それが武士の務めだ」
陰々と響く声でそう告げると、手にした刀を八双に構えた。
強烈な剣気がほとばしり、室内を駆けた。
目に見えない氷の刃を突き立てられたかのような悪寒が走る。
「て、天馬!? どうしたのよ? しっかりして!」
背後から京子の声が響く。
どうやら天馬は骨喰の放った剣気にあてられ、意識を失ってしまったらしい。
「みずからの敵意や殺気を相手にぶつけることで『恐怖』を与え、身体の自由や意識を奪う術だ。人は本能的に刃物を恐れるからな、刀剣を出自とするあやかしのそれは特に相性が悪い」
松山主水という江戸時代初期の剣客は、この手の技とも妖術ともいえない秘技を会得していたといわれ、それらの術は『心の一方』『すくみの術』と呼ばれた。
「つうか京子。君は平気なのか?」
「平気よ。ちょっと寒気がしただけ」
「よしよし、上出来だ」
気による攻撃を弾くのは身に備わった霊力が強い証。京子は確実に強くなっている。
「骨喰藤四郎吉光。あんたが主と仰ぐ一色辰夫という人物がどういう人となりか知っているのか? 小細工を弄して自分の地位を上げようと画策する、あまり褒められたような人じゃないと思うぜ。そんな人に忠誠を尽くすのか?」
「それがどうだと言うのだ。ひとたび主と仰いだからには、この命ある限り主のために戦い続ける。それが武士というものよ」
(やれやれ、まるでどっかの霊狐みたいな頑固さだ。この強迫観念じみた思い込み。こいつ、ひょっとして付喪神。タイプ・マテリアルとして『目覚めた』ばかりか?)
霊気が安定し自我に目覚めたばかりの存在には本当の意味での自我が乏しく、出自の特性に囚われていることが多い。
この場合、武器としての冷酷さ、侍の愚直さが顕著に出ている。
(つい最近まで覚醒と睡眠を交互に繰り返してたのなら、見鬼に引っかからなかったのもうなづける。呪捜官が視た時は本当に寝ていて、霊気など発していなかったんだろう。ただでさえ物の霊気は生物のそれにくらべ、感じにくいからな)
「この命ある限り、武士は主のために戦わなければならぬ……」
刀を構え直して間合いをつめてくる。
「待て。ここは狭いから戦うのなら表へ出よう」
「……良かろう」
「京子はここで天馬たちを頼む」
「え!? ちょ、ま、待ってよ。あたしも――」
京子の返事を聞かず中庭へ出て対峙する。
秋芳は若武者を、骨喰の姿を視た。
五行は金気に偏り、霊気自体もかなりあるが、自分ほどではない。
これならば力技で一気に禁じてしまえそうだ。
禁妖則不能変。
あやかしを禁ずれば、すなわち変わることあたわず。
器物や動植物を出自とする霊的存在を強引に元の姿へと戻す術で若武者の姿を消し去り無力化するか。
禁刀則不能傷。
刀を禁ずれば、すなわち傷つけることあたわず。
いっさいの攻撃を無効化してから祓うのもいい。
秋芳がそんな考えを巡らしていると、若武者は手にした刀の刀身を返し、自らに刃を向けた構えをした。
「霊剣は決断をあらわしたまう。至剛無欲にかたどりて、内に私欲奸侫の心敵を滅し、外に邪悪暴逆の賊徒を誅す。破ァァァッッッ!」
若武者の霊的防御力が爆発的に膨れ上がった。
(今のは新当流の冤剣か!)
新当流。
戦国時代の剣豪、塚原卜伝が鹿島神宮の祭神タケミカヅチより神託を受け、授かったという剣術流派。卜伝は各地を回り、足利義輝、北畠具教、武田信玄、山本勘助といった武将らに、その教えを説いたと伝わる。
その新当流に冤剣という所作がある。
構えた状態から刀を胸の前に立て、右手首を返して刃を自分の方に向ける動作をすることで、自己の内にある穢れを斬るという、一種の瞑想法。
これもまた呪術である。
武術とはもっとも実践的な魔術なのだ。
「これでおぬしが使う妖術は効かんぞ」
「それはどうかな? 我祈願、哪吒太子元帥。求借火尖槍。急急如律令!」
素早く導引を結び、口訣を唱える。秋芳の手に穂先が炎につつまれた槍。火尖槍が現れた。
どんなに抵抗力を上げたところで術そのものは無効化はできない。確実にダメージを入れる方法で戦うことにした。
「槍の間合いならば刀に勝てると思ったか? 笑止!」
骨喰が一閃する。
だが遠い。
一歩踏み込めば攻撃可能な距離を一足一刀と言うが、それに五歩近く足りない間合い。
にもかかわらず骨喰は攻撃し、秋芳は避けた。
後ろにあった石燈籠が断ち斬られる。
斬撃を飛ばしたのではない。斬撃を延ばしたのだ。
秋芳の見鬼には、はっきりと霊気の刃の軌跡が映った。
骨喰はもともと薙刀を焼き直した異色の刀。その間合いも薙刀に等しい。
(昔のジャンプにこんな武器使う奴がいたよな。幻想虎徹だっけ?)
こんな時でも秋芳にはそのようなことを考える余裕があった。
秋芳は相手が強ければ強いほど、危機的状況であればそうであるほど、心に余裕を持つようつとめている。
余裕がなければ焦りが生じ、かえって判断を誤るからだ。
実戦で判断を誤れば、死ぬ。
死にたくないからこそ楽にかまえる。力を抜く。余裕を持つ。
心につねに余裕を。秋芳流の生き残り術だ。
「白桜! 黒楓!」
式神を召喚する鋭い声とともに、京子が割って入る。
「天馬なら目が覚めたわ。秋芳君、ここはあたしに祓わせて!」
「……よし、やってみろ」
「まかせて!」
京子はやる気だ。言っても無駄と判断した秋芳は骨喰の相手を京子にゆずる。
無論、なにかあれば即座に割り込み、京子を守るつもりだ。火尖槍を油断なく構えて両者の距離をはかり、絶妙の間合いで立ち止まる。
「おなごとはいえ妖術使い。手心はくわえぬ」
骨喰は京子に向き合い八双に構える。
対する京子は白桜、黒楓。二体の式神を前に出し、自らは後方に下がる。
前衛の式神が攻撃と防御を担当し、後衛の術者が呪術を行使する。単純にして強力なパーティ編成。
人間相手でも霊災相手でも、これは理想的な戦列だ。
このような布陣をとられると秋芳が得意とする術者への肉弾戦も式神に防がれてしまって、できない。にもかかわらず現役の祓魔官でもこのような配置をもちいる者はまれだ。
なぜか?
式神の操作と呪術の使用を同時におこなうのが困難だからだ。
式神をもちいるのならば式神で、そうでないなら術者の呪術で祓う。
それが普通だ。
普通ではない、京子の非凡な霊力がこの配置を可能としている。
「参る」
骨喰が先に動く。
身を沈め、京子目がけて一気に駆ける。速い。
二体の式神の間を突破するかに見えたが、白桜も黒楓の動きも並ではない。即座に反応し術者を守る。と、二体の式神にラグが生じた。
虎乱と呼ばれる技がある。疾走しながら、あるいは疾走直後に一刀をあびせる技だ。
骨喰は最初から京子ではなく式神を狙い、これを使ったのだ。
無理に術者を狙わず、前衛から切り崩す正攻法で攻めてくる。
「旺なる火箭よ、貫け。急急如律令!」
動きを止めた骨喰に向けて京子の火行符が飛ぶ。
骨喰は刀。その身にまとう霊気は金気。五行相剋の火剋金。
「小賢しい!」
刀を振るって飛んできた火を斬り払う。
本来の相性が悪くとも、先ほどの冤剣の効果で霊的防御力の上がった骨喰には効果が薄い。
ならば――。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク。五行連環、急急如律令!」
木火土金水。すべての五行符を放ち、呪文を唱える。
呪符はただちに光を発し、たがいに光で連結し合って空中に輝く五芒星。セーマンを描き出した。
堅固な呪的防御壁が京子を覆う。そして京子はさらに呪文を唱える。
「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令!」
ついさっき秋芳に教えてもらった帝式の陰陽術。本来は百鬼夜行を避ける、霊災の接近を防ぐ呪術だが、その構造は霊的存在に対する積極的な防壁。結界だ。
京子はこれを、周囲に展開した。
守りに守りを重ねる。京子は自身の防御を優先して式神による白兵戦で骨喰を祓うつもりなのか?
否。
さらに呪文詠唱が続く。
こうして矢継ぎ早に術を行使している最中にも京子は骨喰の動きを把握し、白桜と黒楓を自在にあやつっている。
骨喰の霊気の動きから、その挙動を事前に読み取る。そしてその動きのすべてに対応し、攻めと守りを繰り返す。
二体の式神をフル稼働させつつ、みずからも呪術をもちいる。驚くべきは京子の霊力と集中力。式神使役の技術力だ。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク。五行連環、急急如律令! 東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令!」
同じ呪術を発動させると同時に白桜と黒楓を還す。刹那、骨喰が前方に吹っ飛んだ。
「ぐおぉぉぉッ!?」
二発目の結界を骨喰の真後ろで発動。それも爆発するような速さで防御結界を展開させ、逃げる間をあたえず、先に作った京子の結界に衝突させ、挟み込む。
「ぐ、ぐぬぅぅ……」
結界と結界。二つの圧力に押し潰され、骨喰の身にラグが走りまくる。みしみしという骨の、いや刀身のきしむ音が響く。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギンナン・ウンタラタ・カンマン!」
金剛手最勝根本大陀羅尼。
秋芳に教えてもらった二つ目の呪術。不動明王の火界咒が身動きのできない骨喰の身を浄化の炎で焼き払い、完全に修祓した――。
「……終わった、のよね?」
京子はあたりを見まわし、あやしい気配がないかを探る。
「ああ、修祓完了だ。残心も忘れないとは、偉いぞ。京子」
最初にいた位置から離れた場所にいた秋芳が近づき、声をかける。
「あ、秋芳君。…そっか、あたしの結界の範囲内にいたんだっけ」
「て、俺のことは失念してあんな戦い方をしたのか?」
「てへっ☆ ごめんなさい。でもあなたなら避けるなり防ぐなりできたでしょ。実際そうしてるし」
「まあな。次は人払いの結界も自分でかけてくれよ。少々派手にやりすぎだ」
一色宅の中庭は火事と台風が一緒に来た後のような惨状となっていた。
「そうか、それもあったのね」
「次からは周りにも気をくばって修祓しよう。現場にいるのが戦える陰陽師ばかりとは限らないからな」
「気をつけるわ」
秋芳は地面から黒焦げの刀を見つけて拾い上げる。
変わり果てた姿の藤四郎吉光。骨喰だ。
「人を二人も殺したとはいえ、こいつもかわいそうな奴なんだ。目覚めるタイミングが悪かったとしか言えない。次はもっとちゃんとした主人に使われるよう、しかるべき場所で休ませてやろうと思う」
「本来なら呪捜部の手にゆだねるべきだけど、あなたがそうしたいのなら、まかせるわ」
「未来の陰陽庁長官のお墨つきだ、ありがたく証拠隠滅させてもらおう」
「もう、茶化さないの!」
「……真面目な話」
「え?」
「偉い人の権限は決まりを守らせるためにあるのであって、破らせるためにあるんじゃない。だからといって杓子定規に法だ秩序だ規則だ決まりだのと言っていたら、窮屈でかなわんよな」
「……法は人と人とが合意の上でたがいの幸福のために定めたものよ。だからこそ守る価値があるの。だれかが自分一人のために定めた規則や、だれも幸せにならないような決まりなんて法の名に値しないわ。法に定められたことは正義なんかじゃなくて正義を探すための道具にすぎないの。だから、あたしが偉くなったら法のための法じゃなくて、人のための法を敷くわ」
「素晴らしい。今すぐ君の式神になってこき使われたい気分だ」
「人を式神にする風習は倉橋家にないわよ。秋芳君は秋芳君のまま、あたしのこと助けてちょうだい」
後日。
週刊誌がこぞって書き立てた辰夫に関するスキャンダルは、他のほとんどがそうであるように時が経つにつれて人々から忘れ去られていった。
それでも辰夫の社会的信用が失墜したのは変わらないのだが、事件後、まるで人が変わったかのように出世欲を失くし、淡々と仕事をする姿に関係者たちは驚き、感心した。
憑依された時に、骨喰がわずかながら武士の魂を吹き込んだのかもしれない。
麗香は父親に斬られたというショッキングな体験をしたにもかかわらず、天馬の支えも合って、それまでと同じ生活を続けている。
陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。
「それが骨喰? なんかボロボロだけど、それも秋芳のコレクションにくわえるの?」
骨喰を刀袋に丁寧に入れて、箱に納める秋芳の姿を見て笑狸が声をかける。
「いや、こいつはふさわしい持ち主が見つかるまで、安全な場所で休ませてやるつもりだ」
「その安全な場所はここで、ふさわしい持ち主は自分だってオチ?」
「おまえねぇ、どうしてそういう斜め角度から見る見方をするんだ。これはいずこかの闇寺にでも納めるつもりだよ」
「めずらしい。秋芳のことだから着服するかと思ったのに」
「俺はレア物の呪具を『救い出す』ことはあっても、盗んだりしない」
変わり種の呪具の収集はたしかに秋芳の趣味だ。ここに来てまだ一か月だというのに、部屋の中は呪具であふれている。
遮光器土偶に武者鎧、カレー鍋やファラオの胸像、ダーツボード、戦隊ポスター……。これら雑多なインテリアのほとんどが、なにかしらの力を秘めた呪具なのだ。
「ふ~ん、ところで、さぁ……」
身体をよせてくる笑狸。妙に甘い匂いが秋芳の鼻腔をくすぐる。
部屋に焚かれた香の匂いとは別の匂い。
笑狸の体からメープルシロップやミルクにも似た芳香が漂う。
「京子ちゃんとエッチした?」
「してない」
「させてくれないの? 恋人同士なのに」
「俺たちは真面目な交際をしてるんだ。そういうのはナシだ」
「じゃあ秋芳たまってるでしょ? ボクが気持ち良くしてあげるよ」
「いらん」
「またまた~、がまんしなくてもいいんだよ」
「……あのなぁ、笑狸」
秋芳が笑狸の頭を優しくなでる。くしゃり、と柔らかな茶髪が掌をくすぐる。
「おまえの言うとおり、俺だってたぎる時があるんだ。そりゃあもう、メチャクチャにしてやりたいと思ったりする。おまえ『友達』にそんなふうにされたいか? もうちょっと自分を大切にしろ」
「秋芳なら大切にメチャクチャしてくれそう」
「俺を浮気者にするつもりか?」
「男同士でも浮気になるの?」
「うん? ……ならない、か」
「仮に京子ちゃんが夏目ちゃんと百合百合したとして、嫉妬する? それって浮気?」
この二人は夏目のことを完全に女だと認識していた。
「う~ん、嫉妬はしないかなぁ。あと浮気でもないような…」
「でしょ? ならボクとイチャイチャしても問題ないよ。ラーメンとアバンチュールに火傷はつきもの。変化を恐れていたら自分の殻を打ち破れないよ!」
「そのフレーズ流行ってんの!?」
「話しは聞かせてもらったわ!」
「ちょ、木ノ下先輩!? ここは男子寮ですよ!」
いきおいよく扉を開けて唐突に現れたのは二年の木ノ下純だ。以前はふんわりとした茶髪にカワイイ系のメイクをしていたが、最近はイメージチェンジしたとかで髪を黒くし、メイクも薄い。大和撫子をテーマにしているという。
「男の娘が男子寮にいちゃまずい?」
「いや、男の子が男子寮にいるのは普通です」
「なら問題ないわね」
そう言って部屋の中に入り込む純。
「笑狸ちゃんだけに火遊びはさせられないわ。私だって男の娘なんだから、浮気にはならないでしょ。チョロインだと思って、抱いてちょうだい!」
「自分でチョロインとか言っちゃダメでしょ! つか木ノ下先輩、キャラ変わってませんか?」
「そうだね。純ちゃんもああ言ってるし、三人で合体しちゃおう!」
「男だけの三身合体とかしたくねぇよ!」
「うふふ、マーラ様とミシャグジ様とヤリーロでナニができあがるのかしら?」
その後、三人でしばらくたわいのないやり取りをして一日を終えた。
陰陽庁長官室。
窓から秋葉原の夜景を見つめる倉橋源司の後ろ、デスクの上に置かれた六壬式盤が音を立てる。
「貴方の身に振りかかろうとした凶刃は無くなりました。それもご息女の力で」
「そうか」
「……ご子息のほうはどうでしたか?」
「惜しい」
「惜しい、とは?」
「あれはすでに『倉橋』の人間ではない。それが惜しい」
「貴方にそう言わせるとは、やはり優秀な方でしたか。ならば改めて倉橋に迎え入れては?」
「…………」
源治が黙って振り返る。声の主は、いない。声はするが、その姿形はまったく見えないのだ。
「……彼は陰陽師の今後のあり方についてもよく考えていた。かならずしも私の考えと一致するわけではないがな」
一枚のプリント用紙に目を落とす。そこには秋芳が掲げた陰陽師の基本理念が書かれていた。
『陰陽師は国家の枠組みを越えて地域の平和と民間人の安全を守り、支えることを第一の目的とする』
『陰陽師は民間人の生命・権利が不当に脅かされようとしていた場合、これを保護する義務と責務を持つ』
陰陽法の改正による呪術や陰陽師に関する規制緩和にともない、その責務を増やし、自覚すべし。
そう述べているのだ。
カチリ。式盤がまた音を立てる。
「卦が出ました。……沢火革。古きを改めて新しきに進む」
「言われるまでもない。陰陽の道は途絶えることなく、未来へと進むのだ」
倉橋源司に、いっさいの迷いは存在しなかった。
幼女伝
京子のあやつる二体の式神。白桜と黒楓の連携攻撃が秋芳の身に迫る。
この二体はセットで動かすことを前提で調整してあるため、その同時攻撃は息をつくひまもないほどの速さと巧みさを持つ。
白桜の太刀が虎狼さながらに地を走り、黒楓の薙刀が飛燕の如く宙を切る。
峰打ちではない。仮に峰打ちだったとしても、あたればただではすまない本気の勢いの攻撃だ。
しかし秋芳はそのことごとくを避け、あるいは受け流す。
「緤べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの
大誓願なり。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
京子は転法輪印を結印し、続けて呪縛印を組みながら呪文を唱え、じゅうぶんに練られた不動金縛りの呪を秋芳に放つ。
京子の呪縛が秋芳の身を拘束しようとした瞬間、秋芳が消えた。
!?
物理的に穏形する。透明になる術でも使ったのかと見鬼を凝らす京子。
後ろに気配を感じた、その時。首筋に軽く手刀があてられる。
「……負けたわ。ひょっとして今のが禹歩?」
禹歩とは霊脈に入り瞬間移動する、帝国式陰陽術の一つだ。
「いやちがう。今のはただの体術だ」
「でも消えたわ。その後であたしの後ろにいた」
「消えたように見えただけだよ。仙術や魔法の類ではない。武術としての縮地の術。軽功の一つだな」
仙術の縮地とは地脈を縮め長距離をわずかな時間で移動する術だ。では武術としての縮地とは?
瞬時に相手との間合いをつめたり、相手の死角に入り込む体さばきを縮地と呼ぶ。
『手足をもって動かずに動く』
手先や足先で動くのではなく、身体全体を駆使して動く。
身体の全体が連動しており、特定の部位が目標に向かっているわけではないので相手はその動きを認識できず、目には消えたように映る特殊な動作のことをさす。
日本の武術にも『無足之法』という似たような技術が存在する。
「だがこうも上手く決まるとは思わなかった。君の自主練につき合うことは俺自身の訓練にもなっている。ありがたいね」
休日や放課後は陰陽塾の屋上でもっぱら京子に呪術の手ほどきをしている。
笑狸などは『夏目ちゃんの監視と護衛はどうしたの?』とたびたび指摘してくるが『そっちはおまえに任せた』と、京子につきっきりだ。
ここ最近はこのような模擬戦もするようになった。
「ならいいんだけど、にしても全然勝てる気がしないわ。やっぱ春虎とは大ちがいね」
ここで秋芳と模擬戦をする前、京子は春虎に乞われて地下の呪練場でも模擬戦まがいのことをしていたのだ。
春虎は入塾早々夏目をつけ狙う夜光信者と戦って以来、定期的に京子の式神と実戦に即した訓練をおこない、呪力の使い方や呪術戦そのものに慣れるよういそしんでいる。
夏目には昔からある噂がついて回っている。それは現代陰陽術の祖にして東京に空前の霊的災害。霊災を起こした張本人である土御門夜光の生まれ変わりだという噂だ。
そのため夏目は夜光を盲信する一部の過激な思想の者達からつけ狙われているのだ。
そして春虎は土御門家に伝わるしきたりで、夏目に式神として仕えている。だからこそ主たる夏目を守るため、鍛錬をおこなっている。
「おいおい、きのう今日こっちの世界に入ったやつとくらべてくれるなよ」
これにはさすがに苦笑する。春虎は霊力こそ常人離れした大きさを持つが、最近まで陰陽師と縁のない普通の人として暮らしてきた。呪術の知識も技術もからっきしなのだ。
対して秋芳は幼少の頃から山野を駆け、寺に篭もり、修行修行の毎日をすごしてきた。
京子にしても似たようなもので、日常的に呪術の手ほどきを受けて育っている。
「今、あいつに必要なのは呪術に関する最低限の知識。そして霊力を呪力に変換する技術であって、経
験は二の次三の次なんだがなぁ」
「そうよねぇ、この前の小テストも散々だったし」
「ああ、また夏目にどやされてたな」
顔を見合わせてため息をつく。
「話しは変わるが、今日はこれからどうするんだ? ヒマなら映画でも観に行くか?」
言いながら軽く抱きしめ、耳朶を噛むようにキスをする。
「ンっ! ん…、ごめんなさい。今夜は家の用事が、お祖母様との約束があるの」
「そうか、わかった。じゃあせめて下まで一緒させてくれ」
京子は陰陽塾の塾長である倉橋美代と共に車で登下校している。
「ええ、下まで一緒ね」
「ところで秋芳君、あの噂知ってる」
一階ホールでわかれる時、京子が唐突に聞いてきた。
幼い少女の幽霊が、渋谷の街をさまよい歩いている。
最近そのような噂が流れているというのだ。
いわく、両親が離婚して父親のもとで暮らしていたのだが、母親が恋しくなり、独り母に会いに行く途中で事故に遭い、死んでしまった。
そして自分が死んでしまったことに気づかず、今も母のいる家を探して街をさまよい歩いているのだが、迷子の少女だと思って下手に声をかけた者は、その少女と共に永遠に街をさまようことになるのだという――。
「ね? なんか、いかにもそれっぽいでしょ?」
「さまよう少女の霊、か……」
「あら、なにか心あたりでもあるの?」
「いや、そうじゃない。ただ前にそういう感じの動的霊災を降したことがあってな」
「どんな霊災?」
「碓氷峠の撞木娘」
碓氷峠の撞木娘。
江戸時代の妖怪カルタなどに描かれる遊女の妖怪。
撞木というのは寺の鐘を叩くT字型をした仏具で、かつて京都にはT字路をした造りの撞木町という色町があり、そこの遊女は撞木娘と呼ばれ、江戸庶民の間でも撞木娘と言えば遊女をさすようになった。
江戸時代に重要だった五街道のうちの一つが中仙道で、途中には宿場町がある。宿場町には飯盛女と呼ばれる仲居が働いているのだが、その多くは非公式の遊女だ。
貧困のために無理やり売られてきた少女が多く、その過酷な環境から逃げ出しても家には帰れない。売られた金額分の客をとらずに逃げ帰ったりすれば、女衒の雇ったヤクザ者たちから酷い仕打ちを受けるからだ。
進むも地獄、退くも地獄。行く場所もなくさまよった末に力尽きた遊女達の骸は碓氷峠に捨てられ、野ざらしにされたという。
その怨念が妖怪・撞木娘と成ったのだ。
秋芳はそのような霊災を過去に降したことを京子に話した。
「あの娘はそういうタイプ・スペクターの霊災だったな」
タイプ・スペクター。俗に言うところのアンデッド・モンスターで、いずれも伝承にある『死んでからよみがえった』怪物に類似する特徴をもった動的霊災。あるいはそれらの生成りをこのように分類している。
ちなみに現在の汎式陰陽術ではいわゆる『幽霊』と呼ばれるような存在を通常とは霊相の異なる特殊な霊災として定義しており、これらタイプ・スペクターには分類されない。あくまでも『亡者のような』外見・特徴を持った霊災に対してタイプ・スペクターと呼称しているのだ。
あまりに霊力の強い人間や様々な呪的条件がそろった場合、人は死後、その残留霊体が特殊な霊災の核となることがある。この『本物』の幽霊はおもにタイプ・オーガに分類される傾向にある。
「……遊女の霊だなんて、ひどい話ね」
「ああ。…そのさまよう幼い少女の幽霊の話だが、俺の知るかぎりそんな痛ましい事件が渋谷で起きたなんて記憶にない。たんなる噂だと良いな」
「そうよね。そんなかわいそうな子、いないほうが良いわ」
わかれのキスをしようとしたが、周りに人の気配があったので普通にさよならをして、きびすを返す。呪練場にまだ春虎がいるかも知れないので、様子を見に行くつもりだ。すると――。
「シクシクシクシク……」
秋芳の耳に奇妙な泣き声が聞こえてくる。
「かわいそう…、撞木娘ちゃんかわいそう…」
屋内に植えられた竹の陰で一人の少女が悲しげにしていた。
周りに感じた気配はこの少女のものだろう。
見覚えのない顔をしている。ショートヘアでずいぶん小柄だ。サイズが合っていないのか制服の袖があまっている。
なかなか整った顔立ちをしているのだが、妙に存在感が希薄で、なんともいえない透明感があった。
そんな少女が無表情でシクシクと声をあげて涙も流さずに泣いている。
不気味だ。
(そっとしておこう)
黙って横を通り過ぎようとした秋芳の袖をひしっ、とつかむ。
まるで幼子が父親にすがるような様だ。
秋芳は一瞬、そう思った。
「…………」
「あなた。今、私のことを幼い少女だと思わなかった?」
「……ああ」
「私が小さくてかわいい幼女だからね」
「いや、小さくてかわいくて幼く見えるけど、幼女ではないでしょう、幼女では」
「ふふ、正直ね。でも幼女に見えないなんて残念。私のこといくつに見える?」
「十二歳」
「ああッ! 微妙! なんて絶妙な年齢を提示するのかしら。幼女というには少し大人でビターな味わいの少女の頃。あなたって、いけずね」
「あー、悪いけど俺ちょっといそいでるんで」
「待ちなさい。撞木娘ちゃんの話をくわしく聞かせて。先輩命令よ」
「ご先輩でしたか」
「そうよ。私は二年、あなたは一年。陰陽塾では奴隷の一年、鬼の二年、閻魔の三年という絶対的な封建主義が敷かれているから、先輩の命令は絶対よ」
「そんな男塾みたいなカースト制度ねぇよ! いや、くわしくもなにも、今さっき話したとおりの話ですよ。その様子だと聞いていたんでしょう?」
「ええ、聞いていたわ。あなたが撞木娘ちゃんを無慈悲に祓ったって」
「祓ってません。降したんです」
「え?」
「折伏して安全な寺にあずけました。今ごろフリーの式神してますよ。もっとも陰陽庁から見れば霊災あつかいでしょうが」
霊災か式神かどうかは合法(資格を持つ術者の制御下にある。陰陽庁の許可を得ている等)かどうかで判断される。
古来より存在する神霊の類でも、陰陽庁によって『霊災』あつかいされることもあるのだ。
「良かった、撞木娘ちゃんは無事なのね。でもせっかく降したのにどうして自分の式神にしなかったの? 幼女だったんじゃないの?」
「いや、幼女て…。俺はむやみやたらと式神を持たない主義なんです」
「もったいない。私なら式神にする」
「そうですか」
「幼女の式神を何十人も集めて身の回りのお世話をしてもらうの。食事の給仕から着替えの手伝い、お風呂では背中を流してもらったり、かわいい幼女になにからなにまで……。ああっ、天国! ヘヴン!」
「ずいぶんと幼い女子がお好きなんですね」
「当然よ。成長しきってない細い肩、強く握ったら折れてしまいそうな儚げな四肢、ふくらむ前の小さな胸。至高の芸術と言っても過言はないわ。私は幼女を愛でるという高雅な趣味。ロリータ道の求道者。ロリータ道とは陰陽道から分派独立した精神修養の道で――」
(そっとしておこう)
自分の世界に浸る謎の先輩を放置して、秋芳はその場を後にした。
秋も近づき、日の落ちる時間も早くなった。そんな夕暮れに染まった陰陽塾の校舎を見上げていると、どうにも心が騒ぐ。
(やっぱ黄昏時ってのは妙にワクワクするな)
霊災の発生がもっとも多いのは夕方から深夜。
いわゆる逢魔が時から丑三つ時にまでの時間帯で、現役の祓魔官から見たら油断のできない一日の始まりだが、秋芳はこの時間帯が、朱に染まる夕方の学校や公園が好きだ。
どこか怖い、けれども心惹かれる時間と空間。
「なにたそがれてるの、早く帰ろうよ」
デニムの短パンから延びた白い脚もまぶしい快活な印象の少年。笑狸がせかす。
「別にいそぐ理由もないだろう。……ん?」
陸橋の上に立ち、同じように陰陽塾を見上げる一人の少女の姿が目に映った。
まだ小学生だろうか? 遠目にも胸元にレースをあしらっただけの白いワンピース姿が妙に浮いている。夏場の避暑地あたりにいれば絵になる格好なのだが、どこか違和感を感じる。
「あの少女、人じゃないな」
秋芳の見鬼が少女のまとう人ならざる気を察知した。
「え? あ! ほんとだ。ていうか穏形してない? あの子。言われるまで気づかなかったよ」
「ほんとね。あれなら普通の人には見えないわ」
「わっ、誰この人? いつの間にいたの?」
「……今日は隠形の名人によく会う日だな」
突然声をかけてきたのは先ほど秋芳が出会った二年の先輩だ。
「この子だぁれ? うちの生徒じゃないみたいだけど」
「一応俺の使役式ってことになってる化け狸の笑狸だ」
「笑狸です。秋芳の伙伴やってます」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は――」
「賀茂秋芳くんでしょ。知ってるわ。わりと有名だから。私の名はすずよ」
『すず』と名乗った先輩は笑狸の全身を上から下まで、ゆっくりと視線を這わせ、一言。
「おしい」
「「なにが?」」
思わずハモる秋芳と笑狸。
「だって男の子なんですもの。外見年齢も、もう少し若ければ……」
「幼女の式神を連れ歩く趣味はないんでね」
「ショタなの?」
「俺はノーマルだ。そんなことよりここでなにしてるんですか、すず先輩。まさか俺を待っていたわけじゃないでしょう?」
「当然でしょ。なんで私がむさ苦しい野郎なんて待ってなくちゃいけないの。自分が幼女にでもなったつもり? 自惚れないでちょうだい」
「ねぇ秋芳、この人……」
「言うな笑狸。この人は少しだけユニークなだけだ」
「私は彼女を待ってたのよ」
そう言い目線を陸橋上のワンピース少女に向ける。
「私は街をさまよう悲しい幽霊少女を救済する使命を帯びてるの」
「なるほど。あの子をあなたの式神ハーレムの一員にするつもりですか」
「ちょ、あなた、なに言って、そんなわけないじゃない」
「術者の力量にもよりますが、動的霊災を降ろし。一度自分の式にしてしまえば、外見はわりと自由に変えられますからね。幼女タイプの狐狸精や猫又なんて、いかにもいそうですし。そもそも性別のない付喪神なら外見も人格も自由に設定できるので、身の回りの物を幼女だらけに変えることだって――」
「じゅるり……、その発想はなかったわ。ナイスアイデアね」
そんなやり取りをしている間にワンピース少女が降りて来た。こちらには注意を向けず、なにがそんなに気になるのか、しきりに陰陽塾を見つめている。
長いまつ毛に整った鼻梁とすっきりとした頬。細いおとがいから首筋への滑らかなライン。日陰に咲いた花を彷彿とさせる、影のある美少女だ。
まだ小学校も出ていないような年齢だが、あと数年もすればまわりの大人がほうってはくれないだろう。
彼女が成長することのできる存在ならばの話だが……。
風もないのにかすかに揺れる長い黒髪。いかにも幽霊っぽい雰囲気をかもし出しつつ近づいて来る。
「来たわ。あなた達はここで見てなさい。私があの子を救ってあげる」
「……せいぜい気をつけろよ」
「迷い牛の怪異を祓った誰かさんみたくがんばってねー」
秋芳は止めても無駄と、笑狸は無責任に声をかける。
歩を進める少女の前に立ちふさがるすず先輩。
「待って。私はすず。あなたのことを助けてあげるわ」
「はあっ!? ヤバっ、穏形がぬる過ぎたか……。チッ」
隠形中に声をかけられれば驚くのは普通だが、清楚で可憐な外見に似合わない、くだけた口調が少女の口から飛び出した。
「あなたのことは知ってるわ。お母さんに逢いたいのね。いいわ、私がママよ」
「説得になってねぇ!」
「わけわからないんですけど」
「私はあなたのママ。そして姉であり妹、すなわちシスター。家族なの。さぁ、おいで。もうだいじょうぶよ、あなたは一人なんかじゃない。だって私達はもう、家族なんだから……」
「お、後半の科白だけならそれっぽいな」
すず先輩は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ両手を広げ、少女に歩み寄る。
「さぁ、ママのおっぱいを吸わせてあげる。その代り……、私にもあなたのおっぱい頬ずりさせて、お尻をなでさせて、髪の匂いを嗅がせてちょうだい!」
「それじゃ変態だよ!」
「キモいんだよ変質者っ!」
抱きしめようと両手を広げていたためガラ空きになっていたすず先輩の腹部に、肝臓部分に少女のパンチが炸裂した。
「げふぅっ」
たまらずよろめき、地面につっぷする。
「う…、うげぇぇっぇ! お、おっおおっうぇっぷ、うげぇぇぇぇ。つ、強い。幼女強い……」
口からお花畑(自主規制)を吐き出し、悶絶するすず先輩の姿を見て、さすがに少女も顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと。大げさすぎ! あたしそんなに強くぶってないんですけど」
「今のは肝臓にクリーンヒットしたからな、あたり所が悪かった。しばらく呼吸困難で地獄の苦しみだろうよ」
「そ、そっちが先に変なことしてきたんだし! あたし悪くないし!」
少女はそう言い、きまり悪げにその場を立ち去る。
「うう、ま、待っ、うぐぇ~」
「無理しちゃダメですよ、すず先輩。今は安静にしててください」
「よ、幼女。幼女が行っちゃう。ダメよすず、早乙女涼。こんなことでくじけちゃダメ。この前のことを思い出して。八歳くらいの美しい幼女を見かけて一日中尾行したでしょ。家に帰った彼女の様子を撮ろうと一生懸命庭の木に登ったら、天窓からシャワーを浴びてる幼女の姿が見えたじゃない。なんという喜び、なんという幸せ。努力すれば、あきらめなければ幼女の神様はかならず報いてくれるの。立って! 立つのよ、すず!」
(完全に犯罪者じゃないか)
(おかしな人だとは思ったけど、ここまで変だとは思わなかったよ。どうする秋芳?)
「負けない。幼女のためにも拙者は負けるわけにはいかないでござる」
「急になにその口調!? 拙者とかござるってなんだよ!」
すず先輩の体から霊気が立ち上る。
「おお、これは精神が肉体を凌駕しようとしている!」
「う、うげぇぇぇっぷ。く、苦しい。し、死にそう……」
ダメだった。
「しかたない。笑狸、ちょっとホールまで連れてってソファーに寝かしてやれ。それとこれで水でも飲ませてやれ」
笑狸に硬貨を渡して少女の後を追おうとする秋芳。
「うん、わかった。ねぇ、秋芳。あの子って霊災なのかな?」
「それを確かめるのさ」
間近に視て少女の気がおかしいことに気づいた。
人にあらず妖にあらず。生者とも死者ともいえない奇妙な霊気をまとっている。
気になる。
少女は秋芳が後を追ってくると気づいたらしく、ワンピースをひるがえし、駆け出した。
かなり速い。
少なくとも一般的な小学生女児の走る速さは超えている。さらに少女は雑踏の中を人も避けずに走っているのだ。
人にあたってもすり抜けている。
(幽体か? だがさっきはすず先輩に物理的な一撃をくわえていた。やはりあの子はただの幽霊なんかじゃないな)
対して秋芳は生身の人間だ。人ごみの中をつっきるわけにはいかない。これでは距離が遠のくばかり。と思えたが、華麗な足さばきで雑踏の中、人を避けて走り続ける。
プロのサッカー選手は周囲の選手の動きを俯瞰して観て、その動きに対処するという。
秋芳もそのようにして群衆の動きを読み、プロボクサーばりの流麗なフットワーク&ステップを駆使して少女との距離をつめる、八方目と軽功のなせる技だ。
大通りに出たところで走りながら話しかける。
「まて、話がある」
「変質者と話すことなんかないし」
「俺をあの女と一緒にするな。その身体のことについて聞きたいんだ」
「ハァ!? あたしの身体って…。あんたロリペド? キモッ! マジでキモいキショいウザいゲスいんですけど」
「ちがうわ! その幽体のことについて興味があるんだよ」
「……」
「優秀な陰陽師とお見受けする。その霊妙な術について、ぜひお聞きしたい」
「やだ。なんで見ず知らずのあんたなんかに、あたしの術をタダでご教授しなきゃいけないわけ?」
「酒くらいおごるぞ」
「あたし未成年なんですけど」
「ならお茶をおごろう」
「は! なにそれ、結局ナンパじゃん」
「少し話すだけだよ。美味いお茶の飲める店を知ってる。三段トレイに乗ったケーキやスコーン。サンドイッチをつまみながら口にする紅茶は格別だぞ」
「……」
「苺とラズベリーのケーキにキャラメルカスタード、生クリームのシブースト……」
「……」
「日本茶が好みか? 本物の和三盆を使ったあんみつを出す店を知ってるし、コーヒーなら――」
「だ、だ、だ、黙れぇ! あたしは食べ物につられるようなガキなんかじゃねぇっ!」
そう叫ぶと少女はどこからともなく一冊の本を取り出す。単行本サイズのハードカバー。血のように赤い装丁をした聖書だった。
「式神作成! 急急如律令!」
掲げ持った聖書が光を放ち、風を受けたかのようにページがめくれ、ちぎれ飛び、あたり一面を乱舞する。
空を舞う聖書のページは折れ曲がり、張りつき、重なり合い、次々と形を成していく。現れたのはカラスの姿をした数十体におよぶ式神たちだ。
「隠形しているとはいえ街中で甲種呪術とは大胆だな!」
そう。少女も秋芳も穏形したまま走っていたのだ。これは並の芸当ではない。
「かかれ!」
主の命令を受けて式神たちは秋芳に群がる。だが攻撃するのが目的ではない。目くらましの煙幕がわりだ。
「禁群則不能集、疾く!」
群れを禁ずれば、すなわち集うことあたわず。
秋芳が口訣を唱えると、式カラスたちはてんで散り散りに飛び去り、一羽だけ突っ込んできたカラスは刀印を結び、切り伏せた。
「なに? 今のって持禁!? あんた呪禁師なの?」
「お、よく知ってるな。我ながらマイナーだと思うのに」
「呪禁……、道教をもとにした呪術で、呪文や杖刀をもちいて邪気や害獣を退ける。中でも持禁と呼ばれるものは気を禁じて物事の性質を禁じ、特定の行為を封じたり存在自体を消滅させたりする。律令制時代。典薬寮に医者として仕えていたが、陰陽道や仏教の台頭により衰微していった……」
書物に記された呪禁についての内容をそらんじる少女。やはりただ者ではない。
「そうだ。もしなんならそちらの術について教えてくれるかわりに、こちらの呪禁について教えるが…」
「興味ないし」
「なら、陰陽塾について話そう」
「――っ!」
「陰陽塾に興味があるんだろう? この制服を見てのとおり俺は陰陽塾の塾生だ。知っていることなら教えるぞ」
少女の顔に逡巡の表情がよぎる。
と、その時――。
『そこの二人。甲種呪術の現行犯で逮捕する。止まりなさい!』
スピーカー越しの声。背後から黒い車体に陰陽庁のマークの入った車が、呪捜部の巡回車がこちらに向かって走ってくる。
「あ~、うっざ。めんどいのに見つかっちゃった」
「まったく、必要な時には現れず、邪魔な時にかぎって現れる。警察と一緒だな」
「それ、言えてる」
二人は制止の声に従うどころか、駆ける速度を速めた。
『おい。手間をかけさせるな』
妙に不敵な呪捜官の声。エンジンをうならせ、二人を追跡する。
「自分で言うのもなんだけど、あたしの穏形はバッチリだし、あんたの穏形も……、まぁイケてるわ。それを見つけるなんて、あの呪捜官かなりできるんじゃない?」
「そこそこ見鬼に長けているのは事実だな」
二人は巡回車をまくため、角を曲がり細めの道に入った。
『だから、余計な手間をかけさせるな!』
なんと巡回車は片輪を浮かして狭い路地に入り、追いかけてきた。
「なにあいつ、しつこい!」
「モタモタするな」
「してないし!」
繁華街から住宅街。そしてまた繁華街へ。二人は渋滞した道路を横切り、商店街へと跳躍。
わずかな滞空、見事な着地、ふたたび疾走。
肩を並べて大通りを駆ける。背後から鳴るクラクションによる猛抗議……。
前方にフェンスが見えた。高さはニメートルを超えていて、よじ登るには少々時間がかかりそうだ。
「先に行って手を貸してやる」
「え?」
少女の返事を聞かずに秋芳は猛然とダッシュし、フェンスの手前で横に跳び、壁を足がかりにもう一段ジャンプした。三角跳びだ。高々と跳躍してフェンスのてっぺんに飛びつくと、下にいる少女に手をさしのべる。少女はその手をがっちりと握りしめ――。
「「せーのっ」」
少女の跳躍にタイミングを合わせ、秋芳が引っ張りあげる。フェンスの向こう側へと転がるように移る。
「よし、あの呪捜官も、まさかフェンスを突き破ってまで追っては来ないだろう」
「……つーか、あたしこのくらいの網。すり抜けられるんですけど」
「……そういえば、そうだったな」
「でも、ま。手を貸してくれたお礼は……。て、しないっての! そもそもあんたが追いかけてくるから術使ったんじゃん。あいつに見つかったんじゃん。あんたのせいじゃん!」
「術を使っても使わなくても、あいつにその姿を見られたら誰何されてたんじゃないか? それ、帝式の術だろ。それも魂をあつかう」
「へぇ……。あんたくわしいじゃん」
「最初は生き霊の類かと思ったが、どうもちがう。入神の法や離魂術と呼ばれる類の幽体離脱の術を使っているな。それって禁呪指定されてないか?」
帝式。正式名称は帝国式陰陽術。
この系統に属する呪術はいずれも実戦的で強力な力を持ち、禁呪指定されているものも少なくない。特に魂に関連する呪術はだいたい帝式にふくまれる
「それに対して俺は現役の陰陽塾生だからな、街中で普通の術を使っても傷害や物損でも起こさないかぎり、まぁ平気っちゃ平気だ」
今の時代。陰陽庁の定めた陰陽法により、甲種呪術の使用は有資格者にのみ許されていて、その使用に関しても厳密には細かい規定が設けられている。
だが陰陽塾は陰陽庁は公式に認可している陰陽師育成機関であり、この塾生は『陰陽Ⅲ種』の資格者。いわゆる準陰陽師に近い権利特別に与えられており、陰陽塾塾長の責任下において甲種呪術の使用が認められている。
もちろん、だからといって街中で無分別に使っていいわけではないが、術を使っただけでは犯罪にはあたらず、それを理由に逮捕はできない。
「……あんた、なにが言いたいわけ?」
「とばっちりを受けたのはこっちのほうだ」
「はぁ!? 別に一緒に逃げてくれとか頼んでないし、それって言いがかり――」
「賀茂秋芳」
「え?」
「俺の名前は賀茂秋芳。よろしくな」
そう言って手をさしだす。
握手はもともと武器を持ってないことを示す行為だ。あまり欧米の風習を好まない秋芳だが、こういう時は握手にかぎる。
不承不承ながら握手に応じる少女。
「……あたしは大連じ――」
ハッと言葉を飲み込む少女。
「大連寺?」
「だ、だ、ダイレンジャー好き?」
「は?」
「『五星戦隊ダイレンジャー』が好きかって聞いてんだよ!」
「あー、あの昔の戦隊ものね。三国志の登場人物をモチーフにしたキャラクターとか、中国武術とか出てきて、面白かったな。つか、それがどうしたんだ?」
「べつに。あ~、あたしの名は春鹿。季節の春に動物の鹿で春鹿」
「鹿は秋の季語だが、春の鹿というのも趣があって良い名だな」
「ふん、褒めてもなにも出ないし」
「で、さっきの話の続きだが陰陽塾に興味があるなら色々と――」
『逃げられると思ったか? これ以上手をわずらわせるようなら、公務執行妨害も追加する』
呪捜官の巡回車が回り込んで追ってきた。
「ああもう、しゃらくさいやつ!」
「次こそまくぞ」
ふたたび始まる逃走劇。
目前にT字路が迫る。
「春鹿。おまえは右へ行け」
「OK。あんたは左に逃げるって寸法ね」
「いや、ちがう。こうするんだ」
春鹿が右へ曲がった後、秋芳は回れ右。180度反転して巡回車に向かって突進した。
『チキンレースのつもりか? フッ、甘いな。呪捜官をなめるなよ』
巡回車はスピードを落とすどころか急加速して秋芳に迫る。もはや捕縛どころか轢き殺すことも辞さない勢いだ。
衝突する瞬間、秋芳の姿がのっぺりとした人形の影法師と化し、ボンネットに乗り上げ、フロントガラスを覆う。
『なに!?』
これでは前が見えない。
巡回車は右へ左へ蛇行し、そのままT字路へと突進。壁を突き破って停止した。
ラジエーターから激しく蒸気が立ち上がる。
もはや走行不能だ。
「くそっ」
エアバッグを押しのけ、シートベルトをはずして車から降りた若い呪捜官が毒づく。
「簡易式を囮にしての変わり身。基本中の基本のフェイクにひっかかるとは…。だが、いつ変わったんだ……?」
見鬼の力には自信がある。それゆえこうも鮮やかにたぶらかされるとは夢にも思わなかった。認識不足だ。自分自身の甘さが憎い。
「だが式符を現場に残るような使いかたをしたのは素人の浅はかさ。式符に残る術式を調べれば、そこから足がつくぞ」
呪捜官がフロントガラスに貼りつく札を改めようと手をのばす。
式符が一枚。それに重なってもう一枚の呪符がある。火行符だ。
「な! しまっ――!」
火行符から火の手があがり『証拠』の式符もろとも灰と化した。
証拠隠滅。
「くっ……」
若い呪捜官が苦々しく歯噛みする。
失態だ。
こうした失態は己の若さと絶対的な経験不足の証だろう。自分はなまじ優れた能力を持つがゆえに『能力的に困難な局面』に直面すること自体が少ないのだ。これは自惚れではなく単なる事実である。実際『窮地を切り抜けた経験値』が少ないことは軽視できない問題だ。
くやしい。
だがこのくやしさと屈辱を糧に自分はさらに成長してやる。若き呪捜官はそう心に誓った。
「あっははは! あんたやるじゃん」
路地裏でけたたましく笑い転げるワンピース少女、春鹿。
秋芳は自分の気を乗せた簡易式を発動すると同時に火行符を仕込み、それを巡回車に向け突進させて、自身は縮地の術で春鹿のほうへと移動して共に離脱したのだ。
もちろんこの間も穏形を、禁感功を駆使しているため、呪捜官の注意は『気』の濃い簡易式のほうへと向かったのだ。
「穏形して街中を全力疾走。なかなか気持ちの良いもんだ。さて、と…。二度も邪魔が入ったがこれで落ち着いて話せるな。陰陽塾に興味があるんだろ? 俺の知ってることは教える。だから――」
「あー、わかったわよ。あたしの術も教えてやるから、その前にこっちの聞きたいことに答えてくれる?」
「ああ、いいぞ。答えられることならな」
「土御門夏目。の式神のことなんだけどさぁ、なんか分家の人間を式にしてるそうじゃん。今どきそんなしきたり古すぎてチョーうけるでしょ。だ、だから気になっただけ。それだけなんだけど……」
どうも春鹿は陰陽塾そのものより土御門春虎について知りたいらしい。秋芳はプライバシーに深く関わらない範囲で春虎のことを教えた。
夏休み明けに入塾してきたが、それまでは呪術と無縁の生活だったらしい。
特技は呪符の早打ち。
今まで十二回も車に轢かれかけたことがある。
うどんが好き。
虎柄のスカジャンを愛用。
実技はそこそこ、座学は最低。
普段どんなことを話しているか、そんなあたりさわりのない内容だった。
「ふ~ん…。なんか普通。つまらないんですけど」
「もっとつっこんだことが聞きたいなら本人にでも訊ねればいいさ」
「じゃ、一応約束だしあたしのコレについても教えてあげる。あんたの読み通り出神の法をアレンジした、あたしのオリジナルだけど」
出神の法。
仙道にある幽体離脱の術。
世界は陰と陽。二つの気からなり、さらに木火土金水の五気に分類される。人の魂もまた同じであり、魂と魄二つの霊体からなる。魂は精神を支える気にして陽に属し、魄は肉体を支える気にして陰に属す。二つ合せて魂魄と呼び、これこそがいわゆる魂だ。
陽神のみを飛ばす幽体離脱では意識はあっても肉体がないため物をつかんだり人に触れることはできず、陰神のみでは疑似的な肉体こそあるものの本人の意識がなく、ただの肉人形に等しい。
世界各地に伝わるドッペルゲンガー現象などは、これらの幽体離脱が原因ではないかといわれる。
陰と陽。魂と魄を合わせて体外に出すことで、半体半霊の『分身』を作り出すことができるのだ。
アストラル、エーテル、コザール、煉精化気、煉気化神、煉神還虚、還虚合同、小周天、順成人、逆成仙、星幽体投射――。
専門用語をまじえた春鹿の説明は思ったよりも長い話になった。
最初は気乗りしなかった春鹿だが、説明しているうちに熱が入ったらしく、秋芳が節々にもらす感想にも解説を入れる。
話しは思った以上に盛り上がり、部分的、局所的だが、たがいに気心が通じたような気になった。
「あー、なんかあたしのほうが一方的に情報提供してない? 割に合わないんですけど」
「ああ、ドンペリでもルイ十三世でもいい。高い酒でもおごるからそれで帳尻を合わせてくれ。どうせその体ならいくら飲んでも二日酔いにはならないんだろ?」
「だからあたし未成年だって。お酒は飲んじゃダメなの。まぁ、お茶ならいいけど……。けど最低百万回はおごれ。そのくらいの価値はあったでしょ。今のあたしの話」
「ああ、おまえの話は実に面白かった。いいさ。じゃあさっそく――!」
ぞわり。
周りの空気が変わった。まるで気温が一気に十度は低下したかのような感覚。この気配は、瘴気だ。
後方を振り返る。薄暗い路地の向こうから、なにかが近づいて来る。
秋芳の反応に遅れるかたちで春鹿もピクリと反応をしめす。秋芳が見つめている方向に顔を向けて、目を細ませる。
「……霊災。かなり大きい。これってもうフェーズ3?」
霊気が歪に偏向し、瘴気と化した存在が姿を現す。
それは幼い少女の姿をしていた。春鹿と同じか、それよりももっと幼い。
「ママのおうちに行きたいの。お兄ちゃんたち知らない?」
透き通るような蒼白い肌をした黒髪の少女は心細げに訴えかけてくる。その姿は見る者の保護欲をかき立て、すず先輩でなくても抱きしめてしまいそうになるだろう。
「ねぇ、一緒にママのおうちを探してくれる?」
今にも泣き出しそうな表情で懇願してくる。
「ねぇ、どうするのさこいつ。祓っちゃう?」
秋芳はじっと少女を見つめる。瘴気のかたまり、移動型・動的な霊災。五気の偏向は見られない。いわゆる『幽霊』の類ではないだろう。
「街の噂が霊災を起こしたのか、この霊災が街の噂のもとなのか、いずれにせよこの世をさまよう死者の霊なんかじゃないのは幸いだ。さすがにそういうのを力づくで祓うのは気が引けるからな」
「噂って、あんた人の想いが霊災を生み出すって説を信じてるタイプ?」
霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
こんな妖怪がいるんじゃないか?
あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う幽霊や妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。
霊災に接し、呪術を生業とする者たちはそのような考えを古くから信じており、秋芳もまた、そう信じている。
「おまえは否定派なのか?」
「ん、今のところ否定も肯定もしない。答えを出すのはきちんと実験して結果を出してから。同じ条件で同じ実験を繰り返して、誰がやっても同じ結果になって始めてあたしは判断する。霊災に関しちゃ謎が多すぎだから、今はなんとも言えないわけ」
「なにやら『研究者』みたいな口ぶりだな」
「……勘の良い男ってキライ」
「ん? なんか言ったか?」
「べつに~。それよかどうすんのさ、この霊災。あんたの考えだとタイプ・レジェンドに分類されるわけだけど」
タイプ・レジェンド。昔からの伝承や神話や伝説に登場する神魔でななく、口裂け女や人面犬、テケテケやカシマレイコ、マッドガッサーといった都市伝説に出てくる怪異に類似した動的霊災をこう呼ぶ。
「もしくはタイプ・スペクターか、最近あのタイプがやたらと多いんだよな」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって、おまえ霊災関連のニュース見てないのかよ?」
「うっさい。やることが多くてそういうのチェックしてるヒマとかないし。……つか多いの? タイプ・スペクター?」
「ああ、九月あたりからやたらとな。どっかのアホが不完全な泰山府君祭でもやらかして、冥界の道でも開けちまったんじゃないか?」
「――ッ!」
秋芳の思いつきの軽口を聞いて春鹿が顔をこわばらせる。
「ママのおうち、探してくれないの?」
少女の姿をした霊災はほろほろと涙をこぼした。
「もういい、お兄ちゃんたちも死んじゃえ」
少女の下半身が爆ぜ、無数の大蛇が襲いくる。
「げっ、なにコイツ。いきなり変生するとか生意気なんですけど!」
「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」
春鹿はとっさに霊体化することで攻撃を透かし、秋芳は蛇除けの呪を唱えることで防御した。
「急急如律令!」
春鹿が呪符を投じた。火行符だ。
膨れ上がった火球が急速に収斂し、青白く輝く光の矢と化し、異形と化した少女に急迫する。命中するかに思われたそれは突如として出現した水の壁にはばまれた。
少女の下半身から無数に生えた大蛇が水を吐き出している。
「その姿は……、九嬰か!」
「は? なにそれ?」
「『淮南子』という書に記されている妖怪で、中国北部の凶水という沼沢地に棲み、上半身は美しい娘だが下半身からは九匹の蛇が生えている。水から上半身だけだして旅人を誘惑し、水の中におびき寄せ、むさぼり食うという。またその口からは火や水を吐くともいわれる」
「タイプ・スペクターでもレジェンドでもなくて、タイプ・キマイラだったってわけ? つかなんでそんなのが渋谷に出てくるのよ」
「さあな。……まぁ、渋谷の地下には大きな水脈があるし、水に属する霊災が生まれやすい環境ではある」
九匹の大蛇が鎌首をもたげ、大きく口を開く。
くる。
「俺は火を防ぐ、春鹿は水を」
「OK。て、テメェがしきんなよ!」
九匹の大蛇はてんでバラバラに火と水とを吐き散らす。
「禁火則不能燃、疾く!」
「邪なる水気をせき止めよ! 土剋水、急急如律令!」
秋芳の術が火を、春鹿の術が水を無効化する。
「火と水とか、相剋関係の術を同時に使うとか、マジありえなくない!?」
「吐いたそばから水剋火で相殺したら面白いんだけどな。ま、うまいことできてんだろうよ」
二人とも余裕だ。
対する九嬰はというと大蛇による物理攻撃も、水と火によるブレスも効果なしとあって退き気味になっている。
「ハッ! 逃がすかっての」
春鹿は聖書を広げ、無数の式を打とうとする。
「春鹿、こいつの弱点はおそらく『矢』だ。式を矢の形にリライトできるか?」
伝承によれば九嬰は羿という弓の名手に射られて退治された。矢による攻撃に弱い可能性がきわめて高い。
「まー、できるけど。あんたそれフカシじゃないでしょうね?」
「やればわかるさ」
そう言って秋芳も一枚の簡易式符を取り出して矢に象らす。
「式神作成! 急急如律令!」
「羿、養由基、李広、呂布。この矢はずさせたもうな。哈っ!」
秋芳はなにも呪文を唱えたわけではない。平家物語の那須与一が八幡神ら神仏に矢が命中するよう祈ったのと同様に、いにしえの弓の名手達に必中祈願したのだ。いわば乙種のおまじないに近い。
勁を蓄えることは弓を引くかの如し。勁を発することは矢を放つかの如し。
発剄による気を乗せた秋芳の矢は九嬰を貫き、春鹿の矢を象った数多の簡易人造式は九嬰の全身に突き刺さった。
断末魔の叫びすらあげることなく、九嬰は消滅した。
修祓完了。
「あ~あ、とんだタダ働きだった。特別手当でも出せっての」
「……おい、おまえ体が透けてきてるぞ。だいじょうぶなのか?」
秋芳の指摘どおり春鹿の体はみるみる色を失い、消えかけている。
「ゲ、ヤバっ。ちょっと力を使いすぎた。つかもう時間切れだっての? ああもう――あのさ、今日はなんていうか悪くないっていうか、その、え~っと――」
あわててなにか言おうとする春鹿だったが、あっという間に消えてしまった。
完全に消え去る前の一瞬。ほんの一瞬だけ春鹿の姿が別の誰かに、プラチナブロンドのツインテールにゴスロリ風の服を着た少女の姿になった。
今のが本来の姿だろうか?
「……本体に戻ったか。ま、あの調子なら無事に戻ってるだろうな」
幼女好きの先輩はどうしてるだろう。
秋芳も陰陽塾に戻ることにした。
都内某所。
陰陽庁の職員のために用意された宿舎で一人の少女が目を覚ます。
とたんに肌を刺すような刺激を感じる。多くの陰陽師が利用するこの宿舎には建物全体に結界が張られているのだ。一定以上の呪力に対して自動的に負荷をかけて中和させる、安全対策の結界が。
特に少女のいる部屋は特別仕様で、より強固な結界にくわえて、彼女を監視する術式までくわわっていた。
許可なく外出することはもちろん、室内で呪術を行使することも基本的に禁止されている。いわば軟禁状態だ。
「陰陽塾……、あいつ以外にも。なんか面白い奴いるじゃん」
少女の口元が自然にゆるむ。
また明日にでも『抜け出して』行ってみよう。
そう考える少女だったが、それができなくのは翌朝のことだ。
誰にも気づかれることなく抜け出していると思っていたが、それはまちがいだった。
朝一で宿舎を訪れた陰陽庁長官、倉橋源司の口から出神の法の使用禁止を命じられ、その手により呪力を大幅に制限される封印をされてしまったからだ。
少女が陰陽塾に行くのは、もう少し先になる――。
陸橋の上。秋芳はなんとなくきのうの少女がいるような気がしたので来たが、どうもあてが外れたらしい。
その手に一枚の呪符がある。カラスの式符を叩き落としたさいに、ちゃっかり拝借した、少女の式符だ。
「こいつを使えば気をたどって会いに行くこともできるが、それじゃストーカーだしな」
お茶をおごる約束は守るつもりだ。
だがそれは、もう少し先のことになりそうだった――。
闇寺
机の上に置かれた双六盤を前にして、京子は思案の表情を浮かべていた。
よく見れば双六盤には様々な図形や数字、漢字が書きこまれていて、その中央にはルーレットのようなものが、遁甲盤がはめ込まれていた。
奇問遁甲。
古代中国で発明された方位術。その起源は古く、伝説上の皇帝である黄帝が発明したとも、漢の高祖である劉邦に仕えた軍師、張良が神仙より授けられたとも言われる。
本来は兵学や地政学であり、行方をくらましたり、敵を罠に誘い込むのに利用された。伝説では『三国志演義』の諸葛亮がこれをよくもちいたとされ、夷陵の戦いで追撃してくる陸遜の兵をこの術で退けたと伝わる。
だが京子が取り組んでいるのは、甲種呪術としての奇門遁甲だ。
陰陽二気の動きに応じて姿を隠したり災難を避ける呪術で、天の九星と地の八卦の助けを借りて、八門遁甲とも言われる門の吉凶を読み解く。
この八門遁甲とは、生門、開門、景門、杜門、死門、傷門、驚門、休門。文字通り八つの門を持った陣で、その内側は巨石や石柱が並ぶ迷路になっている。
このうち無事に外へ出られるのは休門、生門、開門の三つで、それら以外の門をくぐると侵入者になんらかの害をもたらす。
八陣結界に迷い込んだ者はこのうちの一つを選び陣の外に出るか、あるいは永遠に陣の迷路を彷徨うしかない。この八門はその名にちなんだ影響をくぐる者にもたらし、死門をくぐった者には死を、驚門をくぐったものには狂気をあたえる。
奇門遁甲とは、そのような恐ろしい呪術なのだ。
京子の前にあるのはそれらを元にしたミニチュアで、盤図に組み込まれた術式を読み解くことで駒を進め、ゴールにたどりつくことを目的とした双六そのものになっている。
「土日は私用で出かける所があって訓練にはつきあえない。そのかわりこいつで遊んでてくれ。術式を読んで解除する練習、勉強になるし、ゴールしたらプレゼントもある」
そう言って秋芳は封印の施された小箱と自作の遁甲双六を京子に渡した。
京子の駒がゴールしたら小箱の封印が解け、中の物が手に入るという仕組みだ。
「男の子って、こういう遊び好きよね。よくこんな難しいの自分で作れたものだわ」
そう。この遁甲双六は秋芳自作の呪具なのだ。
「でもプレゼントってなにかしら? まさか結婚指輪とか? キャー! もう、やだ気が早すぎ!」
桃色の妄想に身をよじり足をバタつかせる京子。
「と、いけないいけない。秋芳君が帰ってくるまでにクリアして、びっくりさせてやるんだから」
気を取り直して遁甲盤にむき合う京子。
さて、その秋芳はいったいどこへ出かけたのかというと――。
葷酒山門に入るを許さず。
厳しい禅寺にはそのような戒めがあるが、この寺はその限りではない。
食事も一汁一菜が基本だが、それも厳密には守られてはいない。
まして多額の布施をした『客』が望めば、それ相応の歓待をしてくれる。
北辰山星宿寺とは、そのような場所だ。
秋芳は傷ついた藤四郎吉光。骨喰を預ける場所に、ここ星宿寺という闇寺を選んだのだ。
闇寺。
陰陽庁の定める法からはずれた呪術者らが身を寄せ合う場所で、日本各地に存在する。
陰陽庁を辞去した者。呪術の才はあるが宮仕えのできない性分の者。見鬼や生成りゆえに化物あつかいされた者などなど……。
様々な事情で表の社会にいられなくなった呪術師たちの受け皿となっている。
宿坊の大広間でひらかれた酒宴は大いに盛り上がっていた。
山で獲れた猪や鹿、雉といった鳥獣の肉と山菜をふんだんに入れた鍋や川魚を使った料理の数々。それにくわえて大量のアルコール類。日本酒や焼酎だけでなく、洋酒のビンまでもが数多くころがっている。
肉を喰らい酒を飲む。もはや薬食いだの般若湯だのといった隠語を使うのもバカバカしい。
「さあどうぞ、こいつはハワイ産のラム酒でね。日本じゃめったに飲めない上物ですよ」
「ははっ、こりゃどうも」
「本物の洋河大曲だ。このコクと匂いがたまらんでしょう?」
「ううむ、こりゃ強い!」
「黒龍、獺祭、醴泉、鳳凰美田。どれも銘酒ぞろいだ」
「ほほほ、ありがたく頂戴しよう」
宴会当初は客として上座に座っていた秋芳だが、宴が進むと自分の持ってきた酒を方々に振る舞い廻る。
もぐりの陰陽師として活動していた時から、この寺にはなじみがあり、顔見知りも多い。
骨喰を預かってもらうことに対して『感謝の気持ちを形にして施し供え』た秋芳は、そのついでに宴会を開くことを願い出て許しを得た。
それだけの布施をしたのだ。
参加は自由。無礼講とあって、寺の住人達は入れ代わり立ち代わりに饗宴を楽しんでいる。ちなみに用意された料理の食材と酒類。その半分は秋芳が持ち込んだ物で、調理のほうも秋芳自前の料理用人造式『保食』が担当し、寺の者の手をわずらわせてはいない。
はぐれ者たちとよしみを通じるのも目的のひとつだ。
「大盤振る舞いですなぁ、賀茂の御曹司」
スーツをラフに着崩した一人の男が酒を注ぎに来た。賢行という、この寺の阿闍梨だ。僧侶だが剃髪はしていない。寺の外で働くにはそのほうが都合が良いと言う。
「なぁに、星宿寺にはなにかと良くしてもらってますからね」
注がれた酒を飲み乾して杯を返す。
「ところで……、賀茂様はえらく可愛らしい従者を連れておりますな」
そう言って部屋の一角で猩々の生成り相手にテキーラの飲みくらべをしている少年を見つめる。秋芳の式神の笑狸だ。肩まである明るい色合いのにこ毛、華奢な身体と白い肌は一見少女にしか見えない。
賢行はそれを好色な目で見つめている。
「賢行法師は稚児を愛でる趣味がおありで?」
この場合の稚児とは性の対象としての少年のことをさす。
「いやなに、愚僧はなによりも女人が好きですが、あれほど可憐なら男でも。という気になりますな」
この男は女好きの破戒僧として有名だ。
「口説いてみますか?」
「よろしいので?」
「ええ。ただしあれは狐狸の精です。精気を根こそぎ奪われることのないように気をつけてください」
「そ、それは……。はは、やめておきましょう」
賢行はそう聞くと毒気を抜かれ、そそくさと離れていく。
それと入れ替わるように一人の僧が酒を注ぎに来た。どことなく土佐犬に似た顔の太った男で、賢行とはちがい、きちんとした法衣姿をしている。
忠範という名の、元祓魔官の僧侶だ。
「このたびは酒席をもうけていただき、ありがとうございます。このような機会がなければ宴など開けませぬからな、みな感謝しておりますぞ」
とても喜んでいるようには見えない顔つきで感謝の言葉をのべる。
寺の住人の中には生真面目な者もいる。そのような者は奥に篭もり、乱痴気騒ぎをよそに日々の務めを果たしていることだろう。この忠範という僧侶もそのくちで、義理を立てに来ただけだろうか? そう思いつつ返盃する。
「ときに賀茂様は陰陽塾に通われているとか、ご学友についての例の噂ですが――」
土御門の次期当主とされる夏目こそ、かの夜光の生まれ変わり。どこに行っても耳にする定番の噂。それはここ星宿寺でも同様だった。
級友の身についてまわる噂に内心げんなりしつつも、噂の真偽はさだかではないこと、夏目自身の優秀さや、その式神をしている分家の者の人柄の良さなどを始め、陰陽塾という学び舎について丁寧に説明する。
忠範が去った後も幾人かと献杯と返杯を繰り返す。
広間の中には酔い潰れて寝転ぶ者も何人かでてきた。そんな中をしっかりとした足取りで進んで来る者がいた。
学者のような風体の阿闍梨。星宿寺の有力な幹部の一人で、名を理妟という。
「挨拶が遅れてすまない。ちょっと用事があってね」
およそ僧侶には思えない気取らない口調だったが、どこか白々しい。軽薄な気配を感じた。
「さぁさぁ、もっと飲んでくれ。ここいらじゃ一番の地酒だよ。ところで――」
秋芳が杯を空にするたびに酒を注いでは、あれこれと質問してくる。
昨今なにかと取り沙汰される陰陽法改正の話、陰陽塾の授業内容、霊災の発生状況、双角会の動向、ウィッチクラフト社の式神について、賀茂家のこれから――。
どうもこの男、外の世界への憧れ、関心がすこぶる強い。
好奇心からあれこれ聞いてくるのはまだかまわないのだが、しきりに寺内の保守派を悪しざまに言い、改革派の主張を褒めそやしては同意を求めてくるのが厄介だ。
(こいつ自身が改革派のようだが、内輪の話に部外者を巻き込まないで欲しいものだ。俺を酔わせてあらぬ言質でもとらせようって腹か……)
言にして信ならざれば、何を以ってか言と為さん。人の言と書いて『信じる』と読む。たとえ酒の席での口約束でも立派な約束、契約だ。めったなことは口にできない。
「……ところで理妟法師」
「ん? なにかな?」
秋芳が天井を指さす。
「少し前から俺の杯に呪詛毒を垂らそうとしているやつがいるんですが」
「なに!?」
理妟が思わず目を見張り見鬼を凝らすと、秋芳の膳や、その周りに盛り塩のように盛られた瘴気が蠢いていた。表面を微小な眼球がびっしりと覆い、不気味なことこのうえない。
「こ、これは蠱毒!?」
本来蠱毒とは食事などに入れてもちいるもの。秋芳は幾人もの酔客を相手する間にも、この毒を避け続けていたのだ。
「たちの悪いいたずらだ。まぁ、死ぬような毒ではないようですが、まさかあなたの指示じゃないでしょうね、理妟法師?」
「ちがう! 断じてちがう!」
理妟が狼狽して天井を見上げると、そこにあった気配が消えた。
「あ、あの狼藉者はかならず見つけ出して処分します」
「仏の慈悲を忘れず、お手柔らかに」
秋芳はそう言って軽く呪を唱え、呪詛毒を祓う。
闇寺ではよくあること。血気にはやった者が、こちらの実力を試そうとしているのだ。
気を取り直してガブリと雉の丸焼きにかぶりつき、その肉を喰らう。
美味い。
あっさりとした脂身と滋味が口内を満たす。
すると――。
「賀茂の若様は呪術のみならず武術にも長けているとか、文武両道とは流石ですね。一手ご教授お願いします」
頭にターバンを巻いた青年が不敵な表情で声をかけてきた。その隣には竹杖を手にした黒髪の女性がいて、こちらも似たような表情を浮かべている。どちらも見ない顔だ。最近寺に来た者だろう。
「おまえたち、お客様に失礼な真似をするんじゃない!」
秋芳は賀茂家の上客。下手なことをして気分を害されてはこまる。
「オレは猿渡幸兵。こっちは葉月静香って言います」
だが理妟の叱責もどこ吹く風。若者はそう自己紹介しつつ杯を差し出す。かすかに湯気が上がっていた。熱燗だ。
「俺はかまわんが、呪術の使用はナシでいいのか?」
「はい。オレ、呪術って苦手なんで」
ずいぶん素直だな。
熱い杯を受け取り、そのようなことを考えながら腰を上げた瞬間、ぶちかましが飛んできた。
ぶちかまし。体当たりのことだ。
「おっと」
料理の乗った膳が吹き飛ぶ中、酒の満たされた杯だけはこぼさぬよう手に持ちつつ、攻撃をかわす。
「どすこい!」
幸兵の張り手が秋芳の顔面に向け突き出される。が、それも紙一重で避ける。
「どすこい! どすこい! どすこい! どすこい! どどすこーいっ!」
張り手のみならず、蹴りや肘打ちもまじえた怒涛の攻撃を右に左にいなす。
くるり、と。秋芳が身をひるがえしたと思った瞬間、幸兵の体が吹き飛んだ。襖を突き破り、隣室まで転がって行く。
秋芳が放ったのは転身脚。ただの後ろ回し蹴りだ。
ただの、と言うが後ろ回し蹴りというのは相手に対して一瞬だが後ろを見せる。そんな意表をついた動きがあるため、慣れてない者は避けにくい。ケンカしてる相手がいきなり背中を見せたら、対応に戸惑うものだ。
「イテテてて……、まいりました」
そう言う幸兵の身にはラグが走っていた。なにかが憑いている。生成りだ。
秋芳の見鬼が正体を見抜く。
「おまえさん河童の生成りだろう? さすがは相撲。格闘上手だな」
すると今度は女性が、竹杖を持った静香が前に出る。
「次は私の相手を、呪術戦の指導をお願いします」
そう言って竹杖を構えると、秋芳の返事も待たずに。
「管よ走れ、急急如律令!」
竹杖が中ほどから二つにわかれた。中は空洞になっており、そこから無数の狐が飛び出てきた。
「上だな」
秋芳は畳の上を走る狐の群れを無視して、天井に向かって刀印を切った。
「ケンッ」
鳴き声とともにラグが生じ、ひときわ大きな狐がぼとりと落ちる。
「似犬、等牙剥。疾く!」
犬に似る、等しく牙を剥きたり。
秋芳が口訣とともに簡易式を打つと、それは一匹の犬と化して落ちてきた狐に噛みつく。狐妖の多くは犬を天敵とし、その牙に弱い。激しくラグを起こす狐。
「わっ、降参、降参! その子は私の分身なの。離してちょうだい!」
「おまえさんは飯綱の生成りか。術が甘いな」
最初の狐の群れは注意を向けさせるための幻覚。穏形した狐。飯綱で攻撃してくると判断し、その読みはあたった。
「俺に負けたおまえらは罰杯だぞ。酒を飲むんだ。ま、勝った俺も飲むけどな」
そう言って手に持った杯の中身を飲み乾す。酒はまだ熱かった。
それからも酔った呪術者達が戯れに勝負を挑んできたりと、宴は長く続き、やがて終焉を迎えた――。
膳や瓶子が散乱し、酔い潰れた者らがあちこちで寝息を立てている。
宴の終わり。その余韻を味わいつつ、最後に残った酒をちびちびと飲む。
「秋芳~、飲んでる~?」
笑狸がしなだれかかってきた。酒臭い。
「飲んでる。おまえも相当飲んだみたいだな」
「飲んだよ~、やっぱ猩々やうわばみの生成りってザルだね~。いくらでも入るみたい」
「酔ってるな」
「酔ってるよ~。でもまだ飲めるよ~」
笑狸は柔らかなにこ毛を秋芳の胸にコシコシとなすりつけつつ、秋芳が手にした杯に口をつけ中身を飲む。
「行儀が悪いぞ」
「もうこの場所自体が行儀悪いよ」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「ねぇ、秋芳」
「うん?」
「さびしいね」
「さびしいな」
宴や祭りの終わりというのは、どうしてこうさびしいのか? 笑狸はそう言っている。
「こういうのを『もののあはれ』と言うのだろうなぁ」
「う~ん、そうかな? うん、そうかもね」
しばらくそのようなやり取りをしていた秋芳だが、急に立ち上がり外へと出ようとする。
「どこに行くの?」
「酔いさましにそこらを歩いてくる」
「ふ~ん、行ってらっしゃい」
山は季節の訪れが麓よりずっと早い。
鮮やかな紅葉を目にして少女はため息をついた。
その美しさに感じ入ったのか、あるいは秋特有の感傷的な気分になったのか――。
「お腹すいたなぁ」
ちがった。
「宴会。一晩中やってた。…美味しい食べ物がいっぱい出たんだろうなぁ」
サイズの合ってない大きめの眼鏡におさげ髪。まだ中学に上がるか上がらないかくらいの年齢の少女はそうひとりごちる。
少女の名は秋乃。星宿寺に身を置く者の中でもっとも年若く、もっとも弱い立場にいる存在だ。
だれしも自由に飲み食いしてもよい宴会が開かれたと聞いてはいたが、とてもではないが顔を出せる勇気はない。意地の悪い先輩連中になにを言われることやら……。
「いいもん、お芋食べるもん」
庫裏と呼ばれる寺の台所からこっそりと竈の熾火とサツマイモを持ち出し、境内の奥にある朽ちたお堂のそばに行く。
地面に浅く穴を掘り、そこに芋を置く。その上に落ち葉をかけて、熾火と灰をかぶせ、火をつけようと――。
「あ、ない!」
マッチやライター。点火する物を用意するのを忘れていたことに気づく。
「あ~ん、バカバカ。わたしのバカ。んも~」
どうしよう?
しかたがない。取りに戻ろうとした秋乃だったが、その時。
「火が必要か?」
「ひにゃっ!?」
急に声をかけられて仰天し、思わず変な声が出てしまった。その瞬間、秋乃の髪の輪郭がぶれ、頭のすぐ上のなにもない空間が乱れた。ラグだ。
実体化を解いて隠していたものが出てしまう。ぴょこんと伸びた二本の長い耳。白い毛に覆われたウサギの耳が。
「あ、あ、うえっ!?」
動転してしまい耳をしまえない。ぴょこぴょこと右に傾き、左に傾き。秋乃のその様をじっと見つめる坊主頭の青年。
見られたこんな人いたかしら阿闍梨かしら見られたまだ若いお客さん新しい人どうしよう見られたいじめられるかも良い人悪い人どうしよう見られた――。
混乱した頭で目まぐるしく思考をめぐらせた末、秋乃は――。
逃げた。
速い。脱兎のごとく駆けて、その場を離れる。
木々をぬって疾走する秋乃。足の速さだけは自信がある。
「なぜ逃げる?」
「きゃーっ!」
それゆえすぐ後ろから声を、走っている自分に追いついて声をかけてくる人がいるとは思いもしなかった。
「おい、なぜ逃げるんだ?」
「あ、あなたが追いかけてくるからです!」
「なにを言う。おまえが逃げたから追いかけてるんだ」
「え? あ、そうかも」
「わかったら止まれ。そんなに走るとあぶないぞ」
「わ、わかりました」
少女は素直に足を止め、後ろを振り返る。
坊主頭の、僧侶のように頭を剃りあげた青年が立っていた。
秋乃のことをじっと見つめている。
「え、えっと……」
初対面の相手だ。緊張のため秋乃のウサミミはあたふたと右に左に向きを変えて内心の同様をあらわす。
「さっきは、すまない。おどろかせたみたいだな」
「い、いえ。こちらこそきなり逃げてごめんなさい」
「その耳から察するに、君はウサギの生成りか。宴会には来なかったようだが、ああいう騒がしいのはきらいなのか?」
「あ、はい。わたし、あんまりうるさいのは苦手なんです。あの…、あなたは外から来た『お客さん』ですか? 宴会を開いた」
おどおどと探るような上目づかいで訊ねる。
「……ああ、そういうことになるな。俺の名は賀茂秋芳だ」
「あ、えっと……。わたしは秋乃っていいます」
寺では名前しか使わない。たしか名字があったはずだが、秋乃はそれを思い出せず、名前のみを名乗った。秋芳のほうも特に名字を聞こうとはしない。
この寺に居る者、来る者は様々な事情をかかえている。俗世の縁を捨てて闇寺に入る者も大勢いる。あえて姓を捨てることもあるだろう。
過去をたずねるのは闇寺ではタブーだ。
「さっき芋を焼こうとしていただろう? 腹が減っているようだが」
「は、はい。薬食……、夕ご飯まで時間があるから、いつもお腹がすくんです……」
寺では夕食のことを薬食と呼ぶ。これは寺の食事は朝昼二食だからで、夕食は食事ではなく薬という考えからきている。
「残り物しかないが、今から来るか?」
「え? ええっ!? わたしなんかがそんな、めっそうもないです!」
「…………」
黙って秋乃の顔を見つめる秋芳。
あ、しまった。気を悪くしてしまっただろうか。言ってから秋乃はお客さんの誘いを断ってしまったことを後悔した。
だが秋芳は全然別のことを考えていた。
(ううむ、けしからん! なんだこいつのまとう『いじめてオーラ』は、実にけしからん! いじめてやりたくなるじゃないか。だが、だからといって安易にいじめるのも兆発にのったみたいで癪だ。平常心、平常心……)
「あ、あの。すみません、ごめんなさい。ほんとうは行きたいんですけど、わたしみたいな下っ端がお座席に上がるのはいけないと思うから、だから、その……」
「……よし、じゃあなにか適当にみつくろって持って来よう」
「え? い、いいんですか?」
「ああ。でも大した物は残ってないぞ」
「お膳に乗った物ならなんでもいいです! ごちそうです!」
「好き嫌いは?」
「ありません!」
「そうか。しかしウサギの生成りってことはやっぱ――」
「あ、ニンジンですか?」
「……ウサギって自分のうんこ食べるよな?」
「食べません! いや、ウサギはたしかに自分のうんこ食べますけど、わたしは自分のうんこなんて食べませんから! て、うんこって言っちゃったじゃないですか! 三回も!」
「女の子はあまりうんことか言わないほうがいいな」
「あなたが言わせたんです!」
「そういうしゃべりかたもできるんだな」
「え?」
「いや、あんまりおどおどしてたからさ。いじめて欲しくて誘ってたんじゃないかと思うくらいに」
「そ、そうでしたか?」
「ああ。でも、うんこうんこ連呼してた時は活き活きとしてたな」
「そんなに連呼してませんし、そんなので活き活きとするなんていやです!」
「だいぶ打ち解けてきたな」
「そうかも知れませんけど、そうかも知れませんけど!」
「じゃあさっきのお堂の所で待っててくれ。ちゃんとした物を持って行くから」
「え? あ、はい。わかりました。お願いしま――」
その時。二人の足元が、地面が音を立てて崩れ落ちた。
「きゃッ!?」
秋芳は片手で秋乃を抱きしめ、もう片方の手で岩壁から生えている木の枝をつかんだ。
ぶんっ、と枝がしなり落下速度が落ちる。
少し落ちると、また生えている枝をつかむ。
ざんっ、と葉が鳴り枝がしなり、落下速度が落ちる。
宙に体が浮き、次に落ちる。それらを繰り返して落下速度を殺しつつ落ちていく。
着地。
「地盤が、ゆるんでいたみたいだな。ケガはないか?」
「はわわわわ……」
「離すぞ。立てるか?」
「はわわわわ……」
「その様子じゃ無理だな」
気絶しなかっただけマシだろう。片手に秋乃を抱いたまま周囲を見まわす。
すり鉢状に沈下したらしく、まわりを急な斜面にかこまれている。すり鉢というよりはシャンパン・グラスに近い。その底辺に自分たちはいるようだ。
(山中で極端に低い場所に長居は無用。有毒なガスが溜まる危険があるからな。乗矯術でひとっ飛びに……、うん?)
岩壁にぼっかりと空いた洞穴を発見した。
秋芳の胸中に子どもじみた好奇心と冒険心が湧いてくる。
「あ、あの……」
「うん?」
「もう平気です。だから、あの、その……、離して、ください」
真っ赤になり今にも消え去りそうな声で懇願してくる様子は秋芳のS心をくすぐったが、今はそれよりも気になることがある。
「おお、すまん。なぁ、あの中どうなってると思う?」
「え? 洞穴?」
「ちょっと入ってみよう」
「ふぇ? ええーッ!?」
有無を言わさず洞穴の中へと入っていく秋芳。
(どど、どうしよう? あんな真っ暗なところ、怖くて入りたくないけど、けど……)
一人になるのも怖い。秋乃はあわてて後を追い、洞穴に入る。
外からの光が奥までとどいているようで、中は意外と明るかった。それに広い。
「妙だな、どうも人の手が入ってるっぽいぞ」
階段のような段差が続いている。自然にできたとは考えにくい。
「……あ! あ、あの。わたし思い出しちゃいました」
「なにをだ?」
「このあたりに昔の、すごい大昔の王様のお墓があるってお話。千じいちゃんから聞いたことがあるんです。あ、千じいちゃんていうのは寺男。お寺の雑役をしている人で、すっごいおじいちゃんで、物知りなんです」
「ほほう? くわしく聞かせてくれ」
「え? ええと、その……、ごめんなさい。それしか知らないです。ごめんなさい」
「埋葬された王様の名前とか、造られた時代とかもわからないのか?」
「……はい、すみません……」
「そんなに気にするなって。さっきのうんこ食ってた元気はどうした」
「うんこなんて食べてません! ああッ!!? またうんこって言っちゃった! 二回も!」
「そうそう、その調子その調子」
洞穴を降るにつれ、さすがに外の光もとどかず、暗くなってきた。
秋芳は簡易式符と火行符を取り出し、口訣を唱える。
「以火行為光明。急急如律令」
火行を以って明かりとなす。熱を生じない光の球が現れ、あたりを照らす。
「わ、すごい。それ、動くんですか?」
星宿寺は夜ともなるとあちこちの石灯籠などに呪術の火が灯る。それ以外にも日常的に呪術を使用しているが、あいにくと秋乃はそっち方面はさっぱりだ。
「ああ、こうやって先に飛ばして足元を照らすこともできる」
そう言うと光球を自在にあやつり、天井から床まで照らしていく。
「わ、これなら暗いとこでも安心ですね」
「怪物が潜んでいたら一発で気づかれるけどな」
「ひゃっ! かか、怪物ですか?」
「こういう遺跡には守護者たるガーゴイルやゴーレム的なモノがつきものじゃないか」
「それはゲームとかの話じゃ……」
「しかし遺跡探索かぁ、いいよなぁ。男の浪漫だよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうさ。男はみんなトレジャーハンターに憧れるもんさ」
「あ、それはわかります。宝探しって、なんかワクワクドキドキしますよね」
「だろう? 10フィート棒でつつきながらのダンジョン探索とか、最高だよな」
「……すみません。あなたがなにを言ってるのか、ちょっとわからないです」
そんなやり取りをしながら先へと進んでいると開けた場所に出た。
ドーム状の大きな石室で、天井や壁面になにかが描かれている。
尾が蛇になっている亀、龍、鳥、白い虎。太陽や月。星座と思われる天文図――。
「これは…、四神だな。高松塚古墳やキトラ古墳にも同じようなものが描かれていたと聞くが」
四神。東西南北を守護する聖獣で、北は玄武。南は朱雀。西は白虎。南は朱雀がそれぞれ守っている。
秋芳たちから見て正面の壁に玄武。入ってきた側の壁に朱雀が描かれていた。
「羅盤がないから断定はできないが、おそらく東西南北の方角に描かれているんだろうな。俺たちは南から入って来たんだ」
「ふぇぇ……、なんかすごい荘厳な感じがします」
上を見上げてふらふらと歩き出そうとした秋乃だったが、秋芳はその腕をつかんで止める。
「不用意に動かないほうがいい。あれを見ろ」
石室の中央は数段ほど低くなっているのだが、そこには人の背丈ほどの石柱がいくつもあり、上から見るとちょっとした迷路のように見えた。
「見鬼はできるよな? 注意して『視て』みろ」
「え? あ、はい……。あの、見ないでください」
「は?」
「その、あたし耳で、ウサギの耳で霊気とか、気配を感じとるんです。だから、その視る時は耳がでちゃうんです。だから恥ずかしくて……」
「恥ずかしくなんかない」
「え?」
「持って生まれた力を、姿を恥ずかしがるな。恥ずかしいと思う、その考えを恥じろ」
「そ、そんなこと言われても恥ずかしいものは恥ずかしいもん……。それにウサギなんてかっこ悪いです。みんなにもバカにされるし」
「ウサギは日本の神話や昔話では知恵者として描かれ、道教では玉兎。金烏と対をなす霊獣として見られる。他にもネイティブ・アメリカンの中にはウサギを最高神として崇める部族があるし、エジプトにはウサギの顔をした女神ウェネトや、ウンと呼ばれる神様がいる。ウサギはその俊敏さと鋭敏な感覚から、昔から人々に一目置かれてきたんだ。胸をはれ、胸を」
「う、う~」
秋芳の擁護にも意固地な表情を見せる。
「だいいち可愛いじゃないか、そのウサミミ。それに綺麗だし」
「う、う~」
秋芳の表情は変わらない。だがその頭の上のウサギの耳はぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねていた。
褒められて悪い気はしないのだ。
「ウサギは高レベルのサムライやニンジャの首を一撃で刎ねる強さも持ってるし」
「すみません。あなたがまたなにを言ってるのか、ちょっとわからないです」
「とにかくそれはいいものだと思う」
「……もぅ、わかりました。そんなに言うなら、見ててもいいですよ」
そう言うと秋乃は眼鏡をかけ直し、自分の額を見るような上目づかいになった。ウサミミは小刻みに震え、霊気を感じとる。
「あ、なんかあそこの石の柱の周り。変な気が渦巻いてます」
「あれは石兵八陣と言って、まぁ、一種の結界だ。足を踏み入れた者は迷路のように入り組んだ結界内に閉じこめられ、出口を見つけられない限り永遠に中をさまようことになる」
「迷うって、あんな狭い場所なのにですか?」
「現実の空間ではない、呪術による異界化空間に飛ばされるんだ」
「ふぇぇ」
「だが妙だな」
「え? なにがですか?」
「なんで大昔の古墳内に『本物の』呪術をもちいた陣図が敷かれているんだ? 土御門夜光が生まれる前は呪術なんて……、いや確かに実際に効果を発揮する呪術自体はレアなケースだが実在してたし、これもその例か。いやしかし……、つうか、そもそもこの古墳はいつの時代の誰を埋葬したものなんだ? 奇門遁甲術が日本に持ちこまれたのは推古天皇の御世とされるが、だとすると――」
「あ、あの~」
「うん?」
「もうここで行き止まりみたいだし、外に出ませんか? あんなおっかない結界のそばに、いたくありません」
「そのおっかない結界を抜ければ、たぶんまだ先があるぞ。ちょっとここで待ってろ。陣を破ってくる」
「ええ! そんな危険ですよ!」
秋乃の声を背に、石陣へと入る秋芳。
ぐにゃり、と周りの景色が飴を溶かしたかのように歪んだ次の瞬間、星々が皓々と輝く夜空の下にいた。
見わたす限り野原が広がり、イギリスのストーンヘンジを思わせる、八つの石門が周囲に点在していた。
「正しい門をくぐりなさい、か……。ここは一つ、神仏の加護に頼ってみるとするか」
八陣図の破り方は正しい方位と陣を知ることで開門、生門、休門などをくぐることだが、門に見立てられた魔力の源となっている呪物を破壊することでも強引に突破できる。
秋芳の視たかぎり、この陣図にはさほど強固な呪は施されていない。いざとなればそうするつもりだ。
星宿寺の山号は北辰山。本尊は鎮宅霊符神、妙見菩薩。妙見菩薩とは北極星を神格化した存在だと言われる。それならば北極星を足がかりに進もう。北極星はつねに北の空にあって動かない。見つけるのは簡単だ。
空を見上げると季節はずれの春の星座が広がっていた。まずはおおぐま座を探す。すぐに見つかった。おおぐま座の中にひときわ明るい七つの星があり、これが北斗七星だ。
北斗七星の柄杓の先、貪狼と巨門を結ぶ線を約五倍にのばした先にある二等星。これこそが北極星だ。
石門の正面に立った時、門の中心に北極星が見えるものを選んで、くぐる。
無事に抜ける。似たような風景が広がっているが、石門と星座の配置は異なっていた。夏の星座だ。だが北斗七星の位置はけっして変わることはない。やることは同じだ。
春、夏、秋、冬…。季節を一巡し終えて門をくぐると、陣に入った時と同じように周りの景色が歪み、陣の外へと抜け出た。
「わわっ、早い。もう出られたんですか?」
「ああ、たいした作りじゃなかったからな。なにか動きがあるはずだぞ」
そう言い終わらないうちに玄武の描かれた壁が音を立てて左右に割れた。陣を突破したことで仕掛けが動いたらしい。
「よし、先に進もう」
「うう、こわいよう……」
「だいじょうぶだ、安心しろ。お兄ちゃんがついてる」
「ちがいます。あなたはわたしのお兄ちゃんじゃありません」
「…お兄様?」
「お兄様でもありません!」
「お兄ちゃま?」
「お兄ちゃまでも、あにぃでも、おにいたまでも、兄上様でも、にいさまでも、アニキでも、兄くんでも、兄君さまでも、兄チャマでも、兄やでも、あんちゃんでもないです!」
「中国語だと『兄』は哥哥、『妹』は妹妹て言うんだ」
「そんなこと聞いてませんよ!」
「普段は『兄さん』て呼んでるけど、切羽つまった時とかに『お兄ちゃん』てなっちゃうクールビューティーな妹キャラって、好きだな」
「あなたの趣味嗜好とかも聞いてないですから!」
「怖じ気は消えたか?」
「え?」
(そうだ。さっきのうんこの時といい、この人はわたしの恐怖心をなくすために、わざとおどけているんだ。やだ、かっこいい。ほんとうのお兄ちゃんみたい)
「て、なに勝手に人のモノローグっぽくしゃべってるんですかッ! やめてください、そういうの! ほんとに! わたしもう、うんことか言いませんからっ! …ああっ!? また言っちゃった!」
そんなやり取りをしつつ、道を進むうちに、石造りの道から板張りの道へと、装いがあきらかに新しい時代の建築物へと変わっていった。天井から裸電球がぶら下がり、細々とした光を放ち、闇を照らしている。
「どうも古墳から出たみたいだな」
「そうですね。…あれ? なんかここって、うち。星宿寺みたいな気が……」
道が二つにわかれていた。左側のつきあたりにある扉から、強い光が漏れていたので入ってみる。小さめの体育館ほどの広さの部屋だ。甘い香りが漂い、理科室にあるような機材や器具がそこかしこに置いてあり、稼働している。
「これは……、蒸留器か。こっちは冷却器に、この蔦みたいな物は……、甘葛?」
甘葛ブドウ科のツル性植物で、砂糖のなかった時代には甘味料として使われていた。
清少納言の随筆『枕草子』の中に「あてなるもの。削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる」と、かき氷についての記述があるが、このかき氷にかけた『あまずら』がそうだ。
「ふぁ~、この甘い匂い。なんだか良い気持ちになってきました…」
「まさか、これは密造――」
ふと気配を察して後ろを振り向く秋芳。そこには能に使う童子面をかぶった背の低い男が立っていた。小柄な体に不釣り合いなほどの櫃を背負い、腰には雅楽で使う笙を差している。
「……シンニュウシャ、タオス!」
男は面をつけていることをさしひいても妙にくぐもった、異様な声色をあげる。すると背にした櫃から四体の人形が飛び出した。
人形はそれぞれ剣を手にした天狗、杖を持った翁、腕の巨大な獅子口、きらびやかな衣装の小面の面をつけている。
童子面の男が笙を演奏すると、それに合わせて人形が激しく動く。小面がゆらゆらと舞い、天狗と翁が左右から、獅子口が正面から秋芳に迫る。
人形たちはどれも大人の背丈の半分ほどの大きさをしている。せいぜいが小柄な娘程度だが、その動きは生きている人間とまったく同じに見えた。
そして驚くべきことに呪力の類をまったく帯びていないのだ。
これらの人形は式神の類ではない。
そして呪術で操作しているわけでもない。
「はわわわっ!?」
「さがってろ。秋乃……。傀儡子か? 面白い技を使う。それは天岩戸の神話を模しているのかな? 天狗は猿田彦、翁は八意思兼神、獅子口は天手力男、女は天鈿女命だよな」
童子面の奏でる笙の音色がひときわ強くなる。
天鈿女命が眩惑するかのように激しく踊り、三体の男神らがいっせいに秋芳に跳びかかる。
攻撃をかいくぐると同時に蹴りをはなつ。鋭い打突音がして人形の頭が割れ、胴が歪む。それでも人形の動きは止まらない。作りものだから当然だ。
天手力男の腕が棍棒のように振られ、思兼神の杖と猿田彦の剣が手足を狙う。
転がって避けつつ足を一閃。空手のあびせ蹴りや、カポエイラの蹴り技を彷彿とさせる足技だったが、狙ったのは人形ではない。
笙を奏でる童子面と、男性神三体の人形たちの中間の場所を薙いだのだ。
呪術をもちいない傀儡の技と見て、そこに細い糸があると予測し、それを断とうとしたのだが、しかし――。
手ごたえがない。
「なんと」
三体の人形がくるりと秋芳のほうをふり返り、残る一体。天鈿女命も舞いながら移動する。もし童子面が人形たちを糸で操っていたのなら、その三体と一体を操る糸は交差し、もつれてしまう。そんな位置関係にある。
まさか呪術を使わず笛の音色『だけ』で人形を操るあやしの技なのか?
ならば笙を禁じるか、それとも男を倒すか。
どうする?
考えをめぐらせ秋芳が見鬼を凝らす間にも三体の人形が襲いくる。
それらを躱して童子面のほうに駆ける。人形遣い本人を直接倒す。そう決めたからだ。
童子面の笙が怯えたように乱れると、それに合わせて人形たちの動きが早くなる。人には真似できない奇怪な動きと速度で秋芳の前に回り込み、童子面を守ろうとする。しかし秋芳はその人形たちを攻撃することも避けることもなく、ふたたび虚空にむけて蹴り一閃する。
「あっ!」
笙がやみ、うめき声がした。だがそれは男の口から洩れた声ではない。小面の、天鈿女命が声をあげたのだ。
それは女の、少女の声をしていた。
笙を奏でていた男が、人形たちがカタカタと硬い音を立ててくずれ落ちる。笙の男もまた人形だったのだ。そしてそれらを操っていたのは人形と見えた天鈿女命。
「真上から糸で吊り、操るのではなく。斜め方向から糸をのばし人形を操る。だから人形の頭上や背後に手をかざしても糸には触れない。誰も人形を操ってないように思える。さらに笙の音色で操っているように見せて、糸の存在を相手の意識からなくす。そもそも操ってるように見える人形遣いの存在自体がフェイクだ。いやはや巧みな乙種呪術だったよ。そしてそのようなことを可能にする人形遣いの技術も凄い。ここでずいぶんと面白い技を学んだな。後はおまえ自身の穏形を上達すれば言うことなしだな。ゆかり」
「ちっ、あいかわらず余裕ぶっこいてスカしたやつ。あ~あ、つまんない。あんたがその笙の人形に攻撃してたら面白いことになったのにさ」
「火薬でも仕込んでいたのか?」
「ないしょ~、次に戦る時に自分でくらって知りな」
「あいかわらず好戦的な女だな」
「降ろしたからって従順になると思うなよ。あたしはチョロインじゃないんだ」
少女はそう毒づいて小面とかつらをはずすと、ツインテールがふわりとたなびいた。彼女の名はゆかり。かつて秋芳が折伏した動的霊災。碓氷峠の撞木娘だった。
「ところで俺らはここに迷い込んだクチなんだが、おまえがいるってことは、ここって星宿寺なんだよな?」
「決まってるじゃん。誰があたしを『名づけ』て、ここに縛りつけたと思ってるのさ。あんただよ、あんた。ボケたの?」
降ろした霊的存在に名を与えることで、よりいっそう支配を強める。ゆかりにはそのような呪がかけられていた。
無縁の存在だった撞木娘に縁を意味する『ゆかり』と名づけたのは秋芳なりの心づかいだった。
「そうか。で、これってやっぱ密造酒だよな」
「それについては愚僧が説明します。賀茂様」
入り口に僧が立っていた。
黒い法衣に袈裟を着た初老の阿闍梨だ。だが初老といっても老いの気配はまったく感じられない。さほど大柄ではないのに、常人離れした霊圧を放っている。
「げぇ、じじい!」
「じょっ、常玄法師!」
秋乃とゆかりの口から同時に声が漏れた。
帰りの電車内。
「お寺の小遣い稼ぎに密造酒の販売だなんて、さすが闇寺。やることがちがうねー」
「だな。で、あそこは星宿寺の、まぁ、秘密の場所でな。そういう酒造りやら、外への抜け道やらがあるんだと」
「ふ~ん、そこに迷い込んじゃったわけね」
「たまたまできた洞穴から侵入しちまったが、別に出入り口があるみたいだな。昔からある古墳や陣図を利用した抜け道だなんて、さすが星宿寺だ」
「それでそのウサギの生成り。秋乃ちゃんはどうなったの?」
「ちゃんと飯を食わせて帰したさ。もちろん寺の秘密を知ったからと妙な術をかけてくれるなと、常玄法師には言いふくめずみだ。いつもたんと寄進してるからな、俺からの頼み。無下にはできないさ。……にしても」
「うん?」
「あのウサギ娘、お持ち帰りしたかったなぁ。京子にも見せて、触らせてやりたかった」
「いやいや、秋芳。そんな、物とかじゃないんだから…」
「できた!」
京子が喜びの声をあげる。陣図をすべて読み解き、ゴールしたのだ。
「ふぅ、けっこう難しかったわね。でも、あたし完璧! あ、プレゼントってなにかしら?」
小箱の封印は解かれていた。中に入っていたのは花束だった。青、黄色、白、ピンク、紫、などの小ぶりの花がつらなって咲いている。
「あら、可愛い。でもお花だなんてわりと普通ね。でも嬉しいわ。これは……、スターチスかしら? たしか花言葉は――」
京子の部屋に花が増えた。
新たに増えたその花の花言葉は、京子をしあわせな気分に酔わせて、眠りにつかせてくれた。
奇門遁甲(乙種)
烏羽色をしたジャージを着た一団が草深い小道を上がっている。
陰陽塾の男子生徒達だ。手に手に呪符を持ち、いつでも打てるよう、周りを警戒して進んでいるのだが、そのうちの一人。先頭を歩いていた生徒がいきなり転んで悲鳴をあげた。
「おい、どうした!?」
「くそっ、穴だ!」
三十センチほどの深さの小さな落とし穴に足をはめられ、転倒してしまったのだ。どうも雑草で巧妙に隠されていたらしい。
「ふんっ、こんな小さな穴、子どもだましだな。おれはこう見えてもサバゲー経験者だぜ」
「経験者なら見抜けよな」
「うるさい……、て、抜けねぇ!」
穴の中にはゲル状の粘液が満たされ、それが固まり、彼の足をつなぎ止めているのだ。
「接着剤かよ、くそっ」
「トラップがあるってことは、秋芳はこの先にいるはずだ」
「よし、行くぞ! 昼飯一か月おごらせてやるんだ」
「お、おい待てよ。おれを置いてく気か?」
「秋芳を捕まえた後で助けてやるから、おとなしく――うわッ!?」
先行しようとした一人が、まったく同じ落とし穴にはまる。
「ま、ひとつだけとは限らないよな」
「ちょ、この道ヤバイって、迂回しようぜ」
「そうだな。悪い、二人とも後で助けに来るから、ちょっと待っててな」
そう言い、薄情にも動けない友人に背を向けて、そこから離れ茂みの中に入る。と、その瞬間、足が細い縄を引っかけた。真横から丸太が振り子のように迫る。
「ひぃぃっ」
「どぅわっ」
「うわっ」
一人がそれになぎ倒され、もう一人は木の幹に挟み込まれる。丸太には落とし穴に入っていた謎の粘液が塗りたくられ、それが緩衝剤の役目を果たしているようで、あたった生徒にケガはない。が、丸太の直撃を受けたという、その精神的なショックはかなりのものだった。
「ランボーかよ、おい!」
「助けてくれっ」
「おいおい、ここまでやるか? ちょっと洒落にならないぞ」
「助けてくれよっ」
「土御門チームに連絡だ。秋芳はこの山の上にいる。あいつらならきっと、きっとなんとかしてくれる」
「お、おう」
「動けねぇ~」
「夏目ならきっとなんとかしてくれる。それに倉橋もいるし……」
「助けて、助けて、助けて!」
「落ち着け! 今その助けを呼ぶから……、あ、もしもし。春虎か!? 決して走らず急いで歩いてきて、そして早くおれらを助けてくれ!」
「ボスケテ~」
罠にはまった生徒達は混乱状態で泣きわめいていた。
数日前。
「飛び級、ですか?」
「ええ、飛び級よ。秋芳さん」
陰陽塾の塾長室。
塾長である倉橋美代と、その孫娘の京子。それと賀茂秋芳がともにテーブルを囲み昼食をとっている。
「あら、秋芳さんのこれ美味しい。蕎麦粉かしら?」
「ええ、蕎麦粉のクレープで味噌をつつみました」
「京子さんの玉子焼きも美味しいわ」
「でしょう? 今日のは自信作だったんですよ」
秋芳が以前から憧れていた『仲の良いクラスメイトと弁当の中身で料理勝負』を、最近は京子としているのだ。
「……で、飛び級の話ですが、はっきり言ってあなたの実力はプロ並です。今の呪術界はどこもかしこも人手不足でしょ? すぐにでも現場で使える人材が必要なの。そしてそれはここ陰陽塾でも同じ。講師の数が足りないのよ」
「陰陽庁の人材不足の件は前々から聞いてましたが、講師の数も足りないんですか?」
「ええ、そう。うちに巫女学科てあるでしょ。あそこは専属の講師がいないから、手すきの講師が代わる代わる教鞭をとってる状態よ」
「担任不在ってのはよくないですね」
「そうでしょ? で、秋芳さん。とっとと卒業してうちの講師になってくれないかしら?」
「いやいや、そんな簡単に講師になんて――」
「今すぐ講師になれば、京子さんと教師×生徒という禁断のプレイも楽しめますよ」
「ちょっ、お祖母様!? いきなりなにを言い出すんですか!」
「あら、京子さん。あなたの愛読している少女漫画にもそういうお話があったでしょ」
「ありましたけど、なんでそれを今ここで再現しようとするんです!」
「俺は自分が教師という立場より、相手の女性が教師というプレイのほうがグッときますね。女教師のきらいな男子なんていませんよ」
「て、こらーっ! なに言ってるの秋芳君!」
「あらあら、それって私を誘ってるのかしら? でも残念ねぇ、私があと三十歳若ければ……」
「お祖母様も乗っからないでください!」
「話しを戻しますが、あなたがたの二期上の四十五期生にも二年間で卒業した人がいて、その人は今プロの現場で働いてるわ」
「そりゃまたずいぶん優秀な人ですね」
「ええ、でもあなたも同じくらい優秀よ、秋芳さん。早期卒業。その後にうちで働くこと、今すぐ決めなくてもいいから、そういうことも考えておいてくださいね」
「俺が講師か……、正直、人に教えるってガラじゃないんだがな」
「あら? あなたはあたしの立派な『先生』じゃない。あたし秋芳君て教えかた上手だと思うわよ」
昼食をすませて塾長室を後にし、廊下を歩く二人。
「それは生徒が優秀なんだ。一を聞いて十を知る。こっちがくどくど説明しなくても、すぐに理解して、実践しちまう。この前教えた雷法もすぐに身につけたしな」
「まだ初歩の初歩じゃない」
「でも凄い。難易度の高い雷の術を、ああも早くおぼえるとは流石だよ」
「だって、秋芳君。あたしに雷の術を使えて欲しいんでしょ?」
「まあな」
雷の呪術は制御がむずかしく消耗も激しい。また他の呪術と異なり、使用した直後に結果が出る。やり直しや調整のきかない一発勝負であり、実戦で使用するには相応の覚悟が必要だ。如来眼に覚醒し、強力な霊力を得た今だからこそ、そのようにあえて危険な力を身に着けることで、つねに『強者の責務』を自覚することが必要だと判断し、雷法を伝授したのだ。
さらにもうひとつ――。
「電撃でツッコミ入れろとか、あたしには理解できないわ…」
「恋人からビリビリ電撃喰らって『ダーリン、浮気はダメだっちゃ』て言われるのは男の夢なんだよ。いや、俺は浮気なんかしないから、なんかバカなことした時にそうしてくれ」
「う~ん、ダメ。やっぱりわけがわからない…」
それから数日後。
関東某所にある野外演習場に向かうバスに揺られる京子の姿があった。
いつもの制服姿ではない。塾指定の白いジャージを着ている。
隣に座っている天馬は黒いジャージ姿。ジャージの色も制服と同じく、男子は黒、女子は白に統一されていた。
他のクラスメイトもジャージ姿で、にぎやかに雑談していた。バスは陰陽塾の貸し切り。クラス全員で移動している最中なのだ。二人を除いて。
賀茂秋芳とその使役式である笑狸の姿が、そこにはなかった。
「秋芳君から連絡あった?」
隣の天馬がそう聞いてくる。
「ええ、さっきメールがきたわ『塾長に頼まれたことがあるので先に行ってる』ですって。いったいなんのことなのかしら?」
今日は普段のカリキュラムにはない野外実習。陰陽塾では一年の間は座学が中心で実技・甲種呪術の講義数は少なく、内容もごく基本的なものだ。中にはそれに飽きがきている生徒もいて、今回のような外での講義は良い気分転換になる。
「今日はみんな肩肘はらんと楽にしたらええで~、季節は秋。暑ぅない寒ぅない、良い陽気や。行楽や思うて、みんな楽しもう。あ、でも運動のできる、汚れてもええ格好でな」
担任の講師である大友陣でさえこの調子なので、塾生たちも気を楽にしている。
たしかに塾舎ビル以外の場所で講義というのは新鮮だし、クラスメイトたちとバスで遠出というのも楽しい。しかし妙な胸騒ぎというか、悪い予感のする京子だった。
陽光がそそぐ緑豊かな草原。その名も戦場ヶ原。
ところどころに丘陵があり起伏は激しく、どこか田舎のハイキングコースを思わせる。近くにキャンプ場があり、そこの林の中に開けた楕円形の広場に塾生たちは集まっていた。
「は~い、みんな注目。今日はこれから特別講師の賀茂秋芳クンに講義を一席もうけてもらうで。ほな秋芳クン、バトンタッチや」
「はい、大友先生。それではみなさん、さっさくですが授業を始めます。今日は陰陽道の歴史と、乙種実技について学んでみましょう。野外活動ということで開放的な気分になりがちですが、陰陽塾塾生としての自覚を忘れず、気持ちを引き締め、節度ある行動を守ってくださいね」
「ちょっと待ったーっ!」
「はい京子君、質問は挙手してから」
律儀に手をあげ直してから、前に出て大友と秋芳に食ってかかる京子。
「これはどういうことですか? なんで秋芳君が講師の真似事なんか…」
「うん? 塾長や秋芳クンから聞いてないん?」
「聞いてませんっ」
「んー、ほならみんなも聞いてや。知ってのとおり秋芳クンは成績優秀、学年では夏目クンと双璧を成して。いや、京子クンも入れての三羽烏やな。でもって卒業したらうちの講師として働かんか、ちゅう話が出とるんや」
「マジかよ」
「すげーな」
「でも合ってるかも」
「今日の野外実習の話も彼の発案なんやで」
「そうなの?」
「ああ、みんな本来なら義務教育を受けてたり、高校や大学に通っている年齢。肉体的にはまだまだ成長途中なのに、引きこもって勉強ばかりというのは健康に悪い。学問にはフィールドワークも必要だし、こういう野外実習の必要を塾長に説いたんだ」
「へぇ……」
「で、その野外実習を実験的にしてみよう。言いだしっぺで講師候補の彼に教鞭をとらせてみようっちゅう話や。実験ついでの実験やな」
「そうだったの……、でもちょっと意外ね。あなたこういうの嫌そうだったから」
「それについては塾長と裏取引があってな」
「え?」
「この『仕事』を引き受ける代わりに、あるものを報酬にもらったんだ」
「あら、なによそれ?」
京子の耳元に口を寄せ、そっとつぶやく。
「君の時間。次の休日は塾長の華道につき合わされるってぼやいてただろ? だからその日の君の時間を報酬にもらったんだ」
「……ッ!」
嬉しいやら恥ずかしいやら、京子は思わず赤面してしまい、黙って生徒達の列に後ずさる。
「はい、他に質問がなければ授業を続けます。今でこそ霊災修祓などの仕事を主としている陰陽師ですが、悪鬼調伏や怨霊の鎮魂などの宗教関係の仕事は元来、神祇官のものでした。歴史の本に『天神を祀り地祇を祠る官』と、ちゃんと書いてあります。陰陽師の仕事は天文道と暦道です。これらが陰陽道と呼ばれるのですが、陰陽道というのは古代に『周易』から発展形成された遁甲を原型としている占術流派でもあります。はい、冬児くん。遁甲とはなんですか?」
「あー、道教の中の呪術的要素の強い占術の一つで。天文現象から吉凶を判断して人の目をあざむいたり、身を隠す術。ですよね」
突然の質問に動揺することなくヘアバンドをした生徒、阿刀冬児はそう答えた。
隣にいる春虎が感心し、それを夏目が『当然だろ』とたしなめる、いつもの光景。
「はい、そうです。それが甲種遁甲術ですね。今日は乙種の遁甲がどのようなものだったか、みなさんに知ってもらおうかと思います」
「乙種?」
誰かがそんな疑問を口にする。
「そうです。遁甲とは本来は兵法。つまり軍事技術のことなんです」
「え、うそ、本当?」
「本当です。山地の行軍、陣地の構築、水源の確保、敵陣の偵察、情報の分析、作戦の立案、兵糧補給。さらに傷病兵の治療や薬草の採取や処方。くわえて戦死者の埋葬と供養などなど、すべてひっくるめて遁甲です。日本は中国にくらべて戦乱が少なかったので、これら遁甲、兵法系の陰陽道はあまり発達しませんでしたが、応仁の乱あたりから急速に発展します。戦国武将が陰陽師を抱えたのは予言や調伏ではなく、実戦的な軍事的情報処理技術を求めていたからです。兵法系の陰陽道は情報分析と作戦立案が術の根幹をなしていて、まさしく軍師の意味合いそのもの。ちなみに本邦における軍師の嚆矢は奈良時代に遣唐使として中国に渡り、技術や知識、陰陽道の秘伝書である『金烏玉兎集』を日本に持ち帰った吉備真備と言われます。彼は藤原仲麻呂の叛乱のさいに、その軍略。中国仕込みの兵法三十六計をもってこれを鎮定しました。兵法三十六計とは――」
青空の下、講義は続く。
「さて、みなさんが今いる場所。ここ戦場ヶ原はその名のとおりかつて幾度も合戦があった場所です。蟹の怪異にとり憑かれた少女とはなんの関係もありません。戦国時代、このあたりは岡見氏という豪族が支配していました。岡見氏は佐竹・多賀谷といった近隣の大名からたび重なる侵略を受けていましたが、それらをことごとく撃退します。なぜならば岡見氏には『関東の孔明』と呼ばれた智将、栗林義長が仕えていたからです」
「誰?」
「そんな武将知ってるか?」
「関東の孔明とか、盛りすぎだろ」
「栗林義長の活躍は『東國鬪戰見聞私記』という軍記によく書かれています。授業と関係ないですが、俺は『信長の野望』シリーズをプレイする時。栗林義長、南条隆信、水野勝成の三人をかならず新武将で作ったり、能力をいじって高くしてます。あと自分の名前をつけた能力値オールMAXの新武将を作る人。先生、きらいじゃないですよ」
「ほんとに関係ねぇよ!」
「この栗林義長には母方の祖先は霊狐という面白い伝説があります。まるで安倍晴明のようですね。さてその義長が兵法を駆使し、佐竹・多賀谷の大軍を寡兵でもって迎え撃ったのがここ戦場ヶ原。と、言うことで、みなさんには本来の、乙種の遁甲を身をもって知ってもらいます。具体的には俺を捕まえてごらんなさい」
………… ………… ………… …………。
「「「「は?」」」」
「この広大な野原の中を逃げ回る俺をみんなで捕縛するのが今日の授業の課題です」
「あ、あの~」
「はい、天馬くん」
「捕まえると言っても、秋芳君に本気で穏形されたり逃げられたり抵抗されたら、どうしようもないと思うんだけど…」
「今回は俺もみなさんも基本、甲種呪術を使ってはいけません。それがルールです。隠形術についてはみなさんの見鬼をあざむく程度におさえます。逆にみなさんは全力で穏形してもらっても結構です。とにかく俺は逃げ回りますので捕まえに来てください。と言っても――」
秋芳はかたわらに置いてあるダンボール箱の中からなにかを取り出す。呪符だ。
「なんの訓練も受けていない人に、人を一人いきなり捕まえろと言ってもむずかしいでしょう。なので捕縛用の呪符を用意したので、これを使って俺をとっ捕まえてください。スワローウィップを模した簡易式になってますが、本物ほどの追尾性はありませんので、よく狙って打つように」
「秋芳センセー」
「はい、冬児くん」
「秋芳センセイを捕まえるのに、甲種以外の呪術は使用してもいいんですか? たとえばこいつとか」
そう言って拳をかざして見せる阿刀冬児。
「はい。甲種呪術さえ使用しなければ、なんでもありありです」
「よっしゃ、やってやるか」
「今日の授業の要旨は『いにしえの遁甲術を知る』と『術を制限された状態でいかに動くか』の二点です。あ、それと首尾よく俺を捕虜にできた人には昼飯を一か月間おごるくらいの特典はつきますので、がんばってください」
「一か月タダ飯か!」
「おもしろそうだな」
「なんか鬼ごっこみたいね」
「制限時間は正午までとします。他に質問がなければもう始めますよ? …………。ないみたいですね。それでは……、忍ッ!」
なにかを地面に放ると、そこから白い煙がもうもうと立ち昇る。
「うわっ」
「けむっ」
「え、煙幕!?」
煙はタコの墨のように広がり、野外で風通しが良いにもかかわらず、イカの墨のように長時間持続した。煙がなくなった後、そこに秋芳の姿はなかった。
余談だが、イカの吐く墨にはムコ多糖類という粘液物質がふくまれているため、吐き出した墨は拡散せずに不定形のかたまりになる。イカはこの墨を自分のダミーとして吐き出し、敵の目がそちらに向かっているすきに逃げる。変わり身の術だ。
この粘液物質には制ガンや抗菌、メラニン色素の他、うまみ成分のアミノ酸も含まれているので美味しい。
タコの墨にはそれら粘液物質が少なくサラサラとしているので、煙幕のように散らばり敵の目をくらます働きがある。めくらましの術だ。
イカ墨パスタはあってもタコ墨パスタがないのはこのためである。
「ハハッ! こらおもろい。煙玉やないの、まるで忍者やね。賀茂は修験道と縁の深い一族や。そんでもって修験道は忍者と密接に関係しとる。みんな今日は秋芳クン相手にあんじょう気張るんやで~」
かくして大自然にかこまれてのかくれんぼが始まった。
「え?! なんだよ? 聞こえないって!」
「だか……、しかけ……、トラップ…………、んとかしてくれ!」
「くっ、わかった、もういい。戻って来い」
春虎は歯がみして雑音混じりの電話を切った。
本陣と化した広場では総大将よろしく悠然とたたずむ土御門夏目の横で、伝令役の春虎や天馬が斥候部隊の連中と叫ぶようにやり取りを交わしていた。
地には埋ずめ火(地雷)川には浮き橋(乗ると沈む足場)空を舞う天灯(小型熱気球)に気を取られて落とし穴にはまる……。
罠やらなにやらで行動不能になった班はすでに六つ。一クラス四十人のうち五人一組からなる班を組んだため、残るのは自分たちをふくめた二班のみだ。そのもう一つの班が秋芳を追跡中なのだが――。
春虎に電話がかかる。
「春虎っ、秋芳を見つけたぞ!」
鼻息を荒げてそう報告してきた電話の主は中島。かつて春虎に『護法式がなんなのかも知らないようなのが、高等式なんか侍らせてるんだぜ? これだから名門様はよぉ』などとケチをつけ、そのためコンに手打ちにされかけたことがある塾生だ。
彼の班は陰陽塾にしては珍しく、運動神経に自信のある体育会系の連中がそろっているので期待ができる。
「よし! それじゃあとっとと捕まえてくれ」
「OK! 急急如律令!」
ザザザザッ!
電話に雑音が入り、少し遅れて遠くから。
ドドオォォォンッ!!
まるで雷が落ちたかのような爆音がとどろき、空気を震わせ、広場にいる春虎たちにもそれがとどく。
近くに見える小山。その中腹から無数の鳥たちが飛び立ち、白い煙がもうもうと上がる。
「ちょ、爆発でかすぎ! おい、中島。平気か? 返事をしろ!」
「ハメられた……、欺歩だ。熊や狐が巣穴に帰る時に狩人に追跡されないようにわざとちがう方向に進んで相手をあざむく……」
「おい! 中島、中島ッ!」
「自分が進んで来た足跡の上を同じように踏んで引き返す。そうすることで新たな足跡を残さずに戻って、途中でどこかの岩肌にでも飛び移ったんだ……」
「あ、なんかすごい説明科白だし、命に別状はないっぽいな」
「なぁ、春虎。オレ、最初の時に陰陽師のくせに木刀なんか振るってダサいだの、名門様がどうのこうのと、おまえにイチャモンつけただろ?」
「……ああ」
「ごめんな」
「お、おい! 中島、あんまり死亡フラグ立てるなよ」
「オレ、おまえが、うらやましかったんだ……、ぐふっ」
「中島っ」
電話が切れた。
「くっ、中島……。バカ野郎……」
「春虎、どうやらぼくたちが出陣しなくちゃいけないみたいだね」
「夏目…」
「今の爆発で彼の居場所がわかった。残る戦力をすべてぶつける! 安倍と賀茂。土御門と勘解由小路……。かつては同じ陰陽の道を歩んだ同志だった。けれども今、ぼくたちは賀茂秋芳を討たなければならない!」
「お、おう」
「いや待て、夏目。おまえは総大将だ。最後の最後までここを動くんじゃない。悠然と構えてろ」
「冬児? …うん、わかった」
「秋芳を捕えるのは俺と春虎。それと、天馬は来るか?」
「う、ううん。僕が行っても足手まといにしかならないだろうし、ここで連絡係してるよ」
「そうか。じゃあ倉橋は?」
「…………」
「おい、倉橋?」
(秋芳君てば、あたしのためにお祖母様から時間を取ってくるだなんて、嬉しいことしてくれるじゃない。せっかく空けてくれたんだし、やっぱデートよね、デート。この前みたく映画を観て買い物がいいかしら? それとも次は遊園地とか? 秋芳君となら美術館巡りも良さそうね。クラシックコンサートも。歌舞伎や能も渋くて良いわ。あ、意表をついて動物園や水族館も良いかも――)
聞いてない。
京子はふふふとわずかににやけ顔を作り、デートプランを練っていた。
「……倉橋も居残りだな。よし、春虎。行くぞ」
「ああ、二人のほうが身軽っちゃ身軽だしな。冬児とならなんとかなりそうな気がするぜ」
「へっ、嬉しいこと言ってくれるぜ」
春虎と冬児、ともに出陣。
残ったのは夏目、天馬、京子の三人。
「んー、なんや佳境になっとるなぁ。お、さすが名産だけあってココの落花生はごっつ美味いやないの。麦系の炭酸飲料によう合うわ」
ポリポリポリポリ。
「名産と言えば、きのうの夜は秋芳とあんこう鍋食べたよ」
ポリポリポリポリ。
「豪勢やなー」
「一日がかりでトラップしかけまくったから、ご褒美だよ、ご褒美」
緊張感もなく後ろで落花生をほうばるのは大友陣と笑狸の二人。
「大友先生……、今日の特別講義の内容ですが、さすがに危険なのではないですか? いきなりこんな形での野外実習だなんて、それに今の爆発を見ましたよね? あぶない、危険すぎます!」
夏目が抗議の色を込めて意見する。
「ん、その通りや夏目クン。でもな、この『危険』もふくめて秋芳クン先生の教えたいことみたいなんや」
「は? どういう意味です?」
「一年とはいえ座学一辺倒の授業じゃあかん。実技にも重きをなす。ここまではええな?」
「はい」
「その次に危機感や。いざという時に自分自身の身に迫るリアルな『死』や『暴力』に対して耐久をつけさせたい言うてたわ」
「…………」
「ようは常日頃からおっかない目に遭うてりゃ、胆がつくってことや。これから先、なにがあるかわからん。ある日、突然に陰陽塾にごっつい敵が強襲かけてくる可能性だってある。そういう時に慌てず騒がず冷静に対処するには、普段からこわい思いしときゃええ。そうすりゃ度胸がついて、どえらい事になっても落ち着いて対応できる。そういうことや」
「……彼は、そんな類の実戦を想定した課題を僕らにぶつけてきたということですか?」
「そや」
「馬鹿げている。と言いたいところですが、確かにそれも一理ありますね……。でも――」
一拍おいて口にする。
「やっぱり、今日のこれは馬鹿げていると思います」
「なぁ、秋芳。これってなんとかならないのか?」
中島は全身にこびりついた粘液を気持ち悪そうに見下ろして、そう言った。携帯電話を耳にあてたままの姿勢で木の幹に接着されている。他のメンバーも似たような状態だった。
無理にはがそうとすれば確実に着ている服をダメにしてしまうし、生身の肌だったら皮をもっていかれ、痛い思いをすることになる。
「時間がたてば自然に朽ちるし、水をそそげば離れる」
「じゃあ、そうしてくれ」
「あと十分もすれば離れるさ、水がもったいない」
「ちぇ、ケチ。……つか、この接着剤? なにでできてんだ?」
「主な材料は膠だな」
「ふ~ん、じゃあ、今の爆発。火薬はどうしたんだ?」
「硝石と硫黄に木炭、それとその他もろもろ。基本ホームセンターにある材料で火薬が作れるんだから、おっかない時代になったもんだ」
「ほんとだよな」
「だがきちんと安全面を考慮して作ったんだぞ。その証拠に音と煙しか出なかっただろ」
「たしかにそうだな」
「で、この授業の話に入るが」
「おいおい、こんなの授業って言い張るのかよ」
「立派な授業だよ。日頃から慣れ親しんでる呪術が使えないとどれだけ不便か、呪術を使わない相手でも地の利や道具、これは罠のことな。を活かせば苦戦するって体で理解しただろ? で、さっきの講義で俺は孫子の兵法の話をしたが、そこで『半進半退者、誘也』半ば進み半ば退くは誘いなり。て言ったよな?」
「あー、たしかにそんなこと言ってた」
「これ見よがしに姿を見せて、わざわざ足跡をつけて山中に潜んだんだ。次からはもっと警戒しなければいけない」
「おいおい『次』なんてあるのかよ…」
「こういう経験は大事だぞ。俺の好きな映画に『300〈スリーハンドレッド〉』というのがあるが、作中で『訓練で汗を流せば、戦場で血は流れない』という科白があるんだ。名言だよ、あれは」
そう言って秋芳は木々の中へと消えていった。
秋芳がいるであろう小山を目指す春虎と冬児。
「帰ってきたみんなの話だと、どの罠もケガをするような類のものじゃない。でもって罠にかかったら退場。なんて決まりもない。てことは罠にかかっても気にせず進めばいいんだよ」
「猪突猛進だな、春虎。だがたしかに言えてるぜ。ここはひたすら前進あるのみだ」
「おう! 都会の坊ちゃん嬢ちゃんにはない、田舎育ちのガッツを見せてやる」
「おいおい俺は東京生まれの東京育ちだぜ、都会っ子だ」
「よく言うぜ。ま、元武闘派ヤンキーの根性には期待してるからな」
緑にあふれた草原、川のせせらぎ、涼しい風。遠くには筑波山をはじめとした山々が軒を連ねている。大友先生の言葉ではないが、これはたしかに授業というより行楽のようだ。少々汚れるかもしれないが、それはそれで子どもの頃に戻って野遊びをするようで楽しい。春虎がそんなふうに考えていると。
「……不思議だ。俺はずっと前にもこうして野原を、この坂東の地を駆けたことがあるような気がする」
「ん?」
「なんかテンション上がってきたぜ、いくぞ春虎!」
「お、おう!」
二人は目前にそびえる小山にむかい突進をはじめた。
険しい坂を駆け登る。
細縄に足首を取られ吊り上げられる、どこからともなく丸太が飛んでくる、落とし穴にはまる、頭上から泥の塊や網が落ちてくる……。
「ごめん、無理だった」
ボロボロになったジャージの裂け目から肌をのぞかせた春虎が夏目につげる。
「面目ない」
冬児など裸に近い、着ていたジャージはほとんど腰布のようになっていた。
例の接着剤つきトラップを強引に突破し続けた結果、衣類をもっていかれ『クイーンズブレイド』ばりのサービスシーン状態になってしまったのだ。
「さすがにこの格好じゃなぁ」
「いや、俺はマッパでもいけるんだが、春虎のやつがな…」
「おいおいさすがに全裸はヤバイだろ、全裸は」
「わ、わかったから早く着替えて。みみみ、みっともないぞ二人とも!」
赤面した夏目がそう言うも。
「いや、でも着替えとか持ってきてないし」
「俺たちゃ裸がユニフォームってことで」
「『ことで』じゃない!」
わーきゃー騒ぐ夏目らをよそに、一人が席を立った。京子だ。
「……ジャージ代、秋芳君にちゃんと請求しといたほうがいいわよ」
「倉橋さん?」
「京子?」
「倉橋?」
「京子ちゃん?」
「まだ時間はあるわ。あたし、ちょっと行って秋芳君を捕まえてくる」
罠はあらかた発動ずみ。
今の今まで、別に狙って待機していたわけではないが、京子の行く手を阻むような障害はなに一つ残ってなかった。
件の小山の山頂にたどり着く。こちらの見鬼をあざむく程度に穏形すると言っただけに、気配だけはかろうじて感じる。
いる。
すぐ近くでこちらの様子をうかがっているのがわかる。
(問題はどこにいるか、よね。闇雲に符を打ってもあたらないでしょうし、……ちょ~っとお下品だけど、兵法三十六計のうち、第三十一の計を使わせてもらうわ)
京子はジャージのチャックを襟まで完全に上げてから、前かがみになると、勢いよく上体を反らした。
チャックボーン!
その巨乳の圧力によってジャージのチャックが弾け飛んだ。
ざわ……。
わずかだが秋芳の穏形に破綻が生じ、気配が濃くなる。
(左後方の茂みの中ね……)
京子はそちらに向くと、ゆっくり。ゆっくりと、ゆっくりとジャージの上と下を脱ぎ出した。現れたのはTシャツと短パンにスパッツという運動着姿だ。
ざわ……、ざわざわ……。
さらに秋芳の気配が濃くなった。
丁寧にたたんで置いた後、草むらに座り脚を広げてストレッチを始める。
ぷるん、ぷるん、ぷるん、と豊かな胸が揺れる。
さらにキャットストレッチ。四つん這いになって身体を前後させる屈伸運動に入る。通常のそれと異なり、胸とお尻を意識して動かしてみせる。
そう。動かして、魅せるのだ。
ぷるん、ぷるん、ぷるん! ぶるん、ぶるん、ぶるん!
ざわ、ざわわ、ざわざわ、ざわざわ……!
「はぁ、はぁ、はぁっ、ふぅ。はっ、はぁっ、はぁはぁはぁ……、んっ!」
京子の息づかいが荒くなり、汗ばんできた。
身につけたフレグランス。爽やかなラグーナ ノマッドの香りにくわえて、京子自身の体から漏れ出す甘い匂いがあたりをただよう……。
「ふぬぅおおーッ! けしからん! なんというけしからん真似をしてくれる、このエロティカ娘。俺を誘っているのかっ!?」
ルパンダイブの如き勢いで京子に跳びかかる秋芳。その額に「えいっ」と京子が呪符を貼りつけた。
「急急如律令」
呪符から何条もの縄が鞭のように伸び、秋芳の体に巻きついた。
スワローウィップを模したというだけあって、その効果も似ている。微弱な不動金縛りの術が設定されているのまでそっくりだった。
「……みごとな美人計だったぞ、京子」
美人計。
兵法三十六計の第三十一計にあたる戦術。色仕掛けで相手の戦意をとろかせたり、判断を誤らせる計略。
「秋芳君、やりすぎ」
「そうかな」
「そうよ」
「そうか」
「ええ、そう。……こういう時のためにアレを教えてくれたのよね?」
「アレ?」
「アレよ」
「アレってなんだ?」
「雷法」
「……え? なにそれこわい。なんでそれがここで出てくるわけ?」
「秋芳君、言ってたわよね『なんかバカなことした時にそうしてくれ』て。今がまさにバカなことした時でしょ。……じゃあツッコミ入れるわよ~」
「いやいやいや! たしかに言ってたけど、言ってたけどさ!」
「我、雷公旡雷母以威声、五行六甲的兵成、百邪斬断、万精駆逐――」
呪文を詠唱する京子の体に微細な電流が走り、呪力が練りあがり、霊圧が上昇する。
そしてまっすぐに腕をのばして、指で空を指し示す。すると呪力が天空まで飛翔し――。
「ダーリンのバカっアホっ、急急如律令!」
ドドオォォォンッ!!
先ほどの爆発と同じか、それ以上の音を響かせて雷鳴が轟き、秋芳の身に落雷が突き刺さった。
「倉橋京子さんが見事に俺を捕まえましたので、土御門チームには明日から一か月、昼食をおごることをここに誓います」
塾生らの冷たい視線の中。黒こげになり、頭からぷすぷすと煙をあげつつも、動じることなく講師役を続ける秋芳。
「また今日は今日でこちらで昼食を用意しましたので、遠慮なくどうぞ」
芋がら、干し飯、五平餅、高野豆腐、切り干し大根……。
今日の課題に則して、いにしえの陣中食を再現したものに近くの川で獲れたアユやマス。ウナギなどが配膳された。
微妙な味だったが、それでも塾生達は完食した。体を動かした後だけに空腹という調味料の働きがあったからだ。
それに青空の下で学友達と食事するという状況は、実に楽しい。
内容はともかく野外実習そのものは成功したのではないだろうか――。
まぼろしの城 1
治承・寿永の乱。
平安時代末期の治承四年(1180年)から元暦二年(1185年)にかけて起きた、俗に源平合戦と呼ばれるこの内乱は、壇ノ浦で終焉する。
平知盛をはじめ、平氏のおもだった武将らは海へと身を投じ。安徳天皇もまた三種の神器とともに入水した。
「もののあわれよのう」
その合戦の一部始終を高台から見ていた者がいる。
伸び放題の白い髪に伸び放題の白いひげ。ぼろぼろの水干を身にまとい、血のように赤い紗の眼罩で顔を覆った老人だ。
水島の戦いの勝利で一時は勢力を盛り返した平氏だったが、結局は敗れた。
「陰陽寮も、立場が悪くなろう」
平氏の擁立する安徳天皇に従った陰陽寮。陰陽師たちは、その天文の知識でもって日食が起こるのを予測し、それを平氏に伝え、平氏はこれを合戦に役立てた。
日食の起こる時期、その原因を知らない源氏の兵らは、戦の最中に起きた突然の暗闇。日食に恐怖し、逃走した。これが水島の戦いでの平氏の勝因の一つとされる。
それでも、大局は変えられなかった。
陰陽師は、戦いに負けたのだ。
「貴族の世は終わり、これからは武士の世となろう。京の都もどうなることやら、……晴明よ、おぬしなら今の世を、これから迎える新たな世をどう思うのであろうな……」
先ほどから独りごちる老人の声は妙に高く、若々しい。
「そこでなにをしている!」
太刀を佩いだ武士の一団が老人を誰何し、取り囲む。
返り血なのか自身の血なのか、みな全身を赤く染め、殺気立っている。
「こたえよ」
「なに、平氏の世の終わりを憐れんでおったのよ」
「おのれは平氏にくみする者か?」
「くみせぬ」
「源氏にくみする者か?」
「くみせぬ」
「ならば去ね、邪魔じゃ」
「いやじゃ」
「なに!?」
「儂はいま少しここにおる。ぬしらが去ったら波の下に消えた者ら、弔ってやらねば」
「おのれは僧か?」
「いいや」
「神官か?」
「いいや」
「では何者か?」
「陰陽師」
「うぬ、やはりおのれは平氏方の者か!」
武士たちが太刀を抜き老人に襲いかかろうとする。と、老人がなにごとか口の中で呪を唱える。
すると武士たちと老人との間に出現したものがあった。
それは右手に槍を、左手に宝塔を持ち、戦装束に身を包んだ毘沙門天であった。
その身の丈は九尺。およそ二メートル七十センチ。
武士たちは驚きの声をあげて後方に跳びすさる。一瞬ひるんだがしかし。
「毘沙門天がかような陰陽師のために姿を現すはずなどあるか」
「陰陽師のまやかしぞ」
「仏神をもてあそぶとはゆるさぬ」
かえって武士たちの怒りを焚きつけてしまったようで、いきりたった一人が老人の脳天目がけて太刀を振り下ろした。
鈍い音がして、老人の顔の中ほどまで太刀が喰い込む。
「どこを狙っておる。儂はここぞ」
クツクツという老人の笑い声が隣から聞こえる。
たしかに斬ったはずの老人がすぐ近くに無傷で立っていた。
「おのれ、あやしの術を!」
武士たちはめいめいに太刀を振るい、老人をめった切りにするのだが、そのたびに老人は消え、また別の場所に姿を現す。それをまた武士が斬り、老人が消えては現れる……。
「きぇーっ!」
「とりゃーっ!」
武士の一人が渾身の気合いとともに打ちつけた太刀が老人の首を刎ねた瞬間、みずからの身にも鈍い衝撃が走る。
「あ!?」
次の瞬間、目の前には首を失った仲間の武士の姿があった。その者の手にした太刀がおのれの身を貫いていた。周りには仲間の死骸がころがっている。
そう、武士たちはたがいにたがいのことを老人と思い、同士討ちをしていたのだ。
幻術である。
いつの間にか老人の幻術にとらわれてしまったのだ。
最後に残った武士も、声にならぬうめき声をあげてこと切れる。
「よく殺す者はよく殺される。武士とは因果なものよ」
真新しい血臭があたりをただよう中で、老人は自分の心境の変化に気づく。
先ほどまで感じていた寂寥感がなくなっていた。どうやら呪術を行使したことで憂いが晴れたようだ。
「……ふむ、やはり儂にはもうこれしか、呪術しか残ってはおらぬ。多くのことにはとうに飽いた故、胸躍ることも少のうなったが、これだけは。術だけは、良い。たとえ幾瀬、幾歳経とうが、どのような姿になり、どのような名で呼ばれることになっても、我が魂は変わらぬ。これこそが、儂なのじゃ――」
老人はそう独語し、クツクツと笑った。
嬉しいような、寂しいような、楽しいような、悲しいような――。そんな笑いかただった。
現代。
日曜日の百枝家、天馬の部屋。
「できた……。ついに、完成した……」
部屋の中央に広げた折り畳み式の座卓の前で、天馬はそうつぶやいた。
声が、震えている。
感動しているからだ。
座卓の上には一抱えではきかない大きさの、巨大な城の模型が置かれている。たった今、自分の手で完成させた。そのことに感動しているのだ。
「最初は無理だと思ってたけど、やればできるんだなぁ……」
亡くなった父親の趣味が模型作りだったこともあり、その影響で天馬はこの手の作りものが好きで、中学まではプラモデルなどよく作っていた。
さすがに陰陽塾に入ってからは勉学にいそがしく、空いた時間にプラモデルを作ることはなくなったのだが、少し前。突然祖父が友人からゆずってもらったと言って、この城の模型を持ち帰ってきたのだ。
その友人は模型を買ったはいいが、説明書を読んだだけで難易度に挫折し、置きっ放しだったのだが、その話を聞いた祖父が天馬の模型好きを思い出して譲り受けたという。
祖父から模型を渡された時は正直、複雑だった。祖父の友人が匙を投げただけあって、かなり手間ひまのかかる作りだったからだ。
しかし孫のためにゆずってもらい、わざわざ重くかさ張る物を持ってきてくれた祖父の気持ちを思うと、無下にもできない。
さらにこの模型。その完成度とともに値段の高さでも有名なメーカーの作品で、それを前にして純粋に『作りたい』という欲求もあった。
空いた時間。勉強の合間などに気分転換を兼ねてコツコツと作業し、やっと落成させたのだ。
「う~ん、改めて見てみると我ながら会心の出来栄えだよね。やっぱりウェザリングもやって良かった。お城の模型は始めてだったけど、このほうがリアルっていうか雰囲気が出るよね。あ、でも石垣はやっぱり難しいな。もうちょっと……、いやいや、これ以上は汚くなるだけだ。瓦屋根とのバランスを考えると、これくらいにしとくのが正解だよね。うんうん……」
真剣な表情でみずからの作品を再確認しながら独りごちる。
城の模型は天守閣だけでなく本丸御殿や櫓、内堀など、城全体が再現されていて、もともとはなかった庭の砂や木々までつけ足されているため、ちょっとしたジオラマに見える。
建築物は内部まで作りこまれ、屋根や壁の一部は取り外しができ、中が見られるようになっているのだが、そうした境目は見てわからないように念入りに塗装してある。
これも天馬の成せる技だ。
「こうなると人間も配置してみたいなぁ、でもこのスケールの人形なんてあったっけ? どうせなら侍がいいし、そうなると馬も欲しい……。あ、石垣の目立たない所に忍者を置くのもいいかもしれない! よし、ちょっと探してみよう」
物作りというのは楽しい。
おそらく死んだ父も同じ楽しさを知っていたのだろう。もし父が生きていたら、自分の作った模型を見てなんと言うだろうか? それに父の模型作りを苦笑しながら眺めていた母は――。
見てもらいたかったなぁ。
誰かに見てもらいたいなぁ。
見て欲しい。
「あ、そうだ」
いつだったか、天馬は自分が模型を作っていると友人たちに話したことがあった。春虎など、完成したらぜひ見せて欲しいと言っていた。
そのことを思い出したのだ。
さっそく携帯電話のカメラで完成した城を撮り、メールに添付して送ろうとする。どうせなら春虎以外にも見せたいし知らせたい。冬児や夏目。京子や秋芳にも。
文章を考え、書いて、唐突なメールを謝った上で、一斉送信。
「ふぅ……」
天馬は満足げに息をついた。
街ゆく人々が同じ方向に視線をむける。
亜麻色の髪をハーフアップにした、アイドルのような美貌とモデルのようなスタイルをした少女の美しさに、みなが注目している。
だが誰一人として声をかけようとはしない。少女のまとうオーラが、まわりに人を寄せつけないのだ。まるで結界でも張られているかのように、ぶつかったりすれ違いそうになる人も自然に道を開けてしまう。
もとより非凡な霊力と容姿を誇る才媛だったが、如来眼の力に目覚め。数多の呪術をおぼえるうちに自然と身についた自信が、人々にそうさせるのだ。
倉橋京子。
それが少女の名前だ。
「楽しかったし美味しかったけど、歌舞伎見て柳川鍋食べて、て。十代のデートにしてはかなり渋いわよね」
京子が隣を歩く青年にそう声をかける。
短身痩躯で僧侶のような剃髪頭をした青年の名は賀茂秋芳。京子とは好い仲だ。
「まぁ、渋いっちゃ渋いかな。うちの塾生ら、旧家だ名門だといってもみんなまだ若いもんな。ああいうのを楽しめるようになるには年相応の知識と教養が必要だろうし、そのてん俺たちには素養がある」
「あら、だれかさんと違ってあたしは正真正銘の十六歳よ。ま、素養があるのは認めるけど。能や歌舞伎の観劇にはお祖母様のお供でたまに行くし」
「俺だってじゅうななさいだ」
「まだ言ってる」
クスリと笑う。たったそれだけで大輪の花が咲いたかのような雰囲気になる。ローズピンクのリップのみという薄化粧が、美貌をいっそう輝かせていた。
「ねぇ、今日の演目の『鳴神』だけど。こないだのあなたにそっくりだったわ」
「ああ……、言われると思ったよ」
歌舞伎の『鳴神』とは。
朝廷に恨みを持つ鳴神上人という呪術師がいるのだが、この呪術師が竜神を滝壷に封じ込めてしまい、日照りが続く。こまった朝廷は雲の絶間姫という美姫を使わして上人を色仕掛けで落とし、竜神を解き放って雨を降らせる。
だいたいそのようなお話だ。
先日の野外実習のさい、秋芳は京子の美人計に見事にはまり後れを取った。京子はそのことを言っているのだ。
「……ところで、なんであなたさっきから軽く穏形してるの?」
「鋭いな。目立たなくなる程度の薄い穏形で、なおかつずっとそばにいて。よく気の変化に気づいたものだ」
「見くびらないで。始めて会った時のあたしじゃないんだから、そのくらいわかるわよ『士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし』て言うでしょ。ましてやあなたと毎日訓練してるんだから、見鬼だって上達するわ。で、なんで穏形してるのよ?」
「目立つのもやっかみの目で見られるのも苦手なんでね」
そう言って軽く周りを指さす。
「あら、別にいいじゃない『どうだ、俺の彼女はこんなにも美人なんだぞ』て、自慢しなさいよ」
「いい、ガラじゃない。性分なんだよ、俺はずっと影働きしてたからな。注目をあびるのには慣れてない」
「ふーん……、それじゃあ、ねぇ。この後は二人っきりになれる場所に行かない?」
「お! いつになく大胆かつ積極的だな。ついに婚前交渉する気になったのか?」
「もう、ちがうわよバカ。そうじゃなくていつもの訓練よ」
「好きだな、訓練」
「あなたに逢って呪術の奥深さを実感したのよ。自分が学ぶことはたくさんあるって」
これまでの京子の十六年。もうすぐ十七年間、倉橋家の娘としての自覚を持ち、日々鍛錬し、勉強してきたつもりだ。
けれどもここ最近ほど本気で勉強したことも、したいと思ったことはなかった。そして本気で学べば学ぶほど、自分がどれだけ『より学ばねばならない』かを痛感していた。
それは秋芳と出会ってからだ。彼と出会ったのち、いくつかの霊災に遭遇し、相手にするたびに力量不足を実感してきた。
ついには如来眼の力に覚醒し、霊力こそ大幅に上昇したが、強大な力を手にしたからこそ、その〈力〉を制御するための力。知識や技術が必要だと真摯に思う。
学習することはほんとうに、あきれるほどたくさん、いくらでもあった。
呪術は奥深く、広大だ。京子はそのことをようやく実感でき始めている。
「――だからあなたのせいなの。最後まで責任持ってつき合ってちょうだい」
「なにが『だから』なのかは理解できないが、君とならなんでも、どこまでもつき合うつもりだよ。じゃあこれから陰陽塾に行くか?」
「ううん、別の場所」
「ほう? そりゃ気分転換になっていいな。同じ場所ばっかりじゃ、さすがに飽きる。で、どこに行くんだ?」
「旧陰陽塾の塾舎よ」
陰陽塾そのものは半年近い歴史があるが、現在京子たちが通っている塾舎は去年建てられた新しい塾舎だ。それ以前は同じく渋谷にあった塾舎が利用されていた。そのことを言っている。
「ほう! 旧塾舎か、旧校舎みたいでなんかいいな。俺は旧校舎って響きが好きなんだ。なんかこうノスタルジックというか郷愁を誘うよな。あと地下に不思議空間が延々と広がってて、レアなお宝とか落ちてそうだし」
「あら残念ね、正確には旧塾舎跡に隣接する甲種呪術の訓練場のことなの。旧塾舎自体はもう取り壊されてて、別の建物が建ってるの」
「そうか……」
「でもその訓練場は閉鎖されたまま残ってるから、それを使わせてもらうわ」
「うん、面白そうだ」
「でしょ? で、秋芳君。鍵を開ける術とか知らない?」
「おい、不法侵入するつもりか? そういうのはちゃんと許可を得てからだなぁ」
「関係者以外立ち入り禁止になってるけど、あたしたち塾生は関係者だから問題ないわ」
「施錠されてるのを無許可で開けたらいかんだろ」
「もう、変なところで堅いのね」
「俺はもともと真面目だからな」
「二人だけの秘密の場所、秘密基地が欲しくない?」
「…………」
二人だけの秘密の場所。秘密基地。なかなか魅力的な響きだ。
「ねぇ、いいでしょ? 入りましょうよぉ、お願い……」
京子の甘い猫なで声が秋芳の脳を痺れさせる。それは甲種言霊以上の呪力を発揮し、心を揺さぶった。
「うんそうだな……。うん、そういうおイタができるのも、学生のうちだけだし、入ってみるか」
「やったー☆ で、鍵開けの術ってあるの?」
「ある。俺の場合は鍵を禁じて開錠させることができるし、扉や鍵を一種の結界に見立てることで、結界を破る術を応用して開けさせることが可能だ。器用なやつなら鍵穴に入れると形を自在に変化させる鍵を簡易式で作り出すことなんかもできる」
「へー、今さらだけど呪術って便利よね」
「あればあったで便利だが、なくてもなんとかなる。しょせんはその程度だけどな」
「それって陰陽師にあるまじき科白じゃない?」
「陰陽師だからこそだよ。呪術師というのは術を使うのであって、術に使われてはいけない。ましてや術に『憑かれる』なんてことは絶対にあってはいけない」
「甲種呪術にこだわらず視野を広く持って物事に柔軟に対応すべし。でしょ?」
「そう。呪術なんてのは人類の生み出した技術の一つ、道具の一つ、問題を解決する手段の一つにすぎない。それにばかりこだわる必要なんてまったくない」
「……呪術師が目的のためにもちいるのなら、それがなんであっても『呪』……」
「お、なかなか含蓄のある言葉じゃないか。教科書に載せてもいいくらいだ」
「あたしが陰陽庁のトップになったら載せとくわ」
「ぜひそうしてくれ。呪術師だからこそ、呪術にこだわってはいけない。てね」
そんなやり取りをしているうちに件の訓練場に着いた。
公民館や体育館を思わせる外観で、内部は現在の陰陽塾にある地下呪練場と似たような造りをしていた。
廊下を抜けた置くにはバスケットコート三面分ほどの広さのアリーナあり、高い位置にある窓から外の光が差し込むので以外に明るい。だが、さすがに埃が目立つ。今すぐここで激しい運動をするのは体によろしくないだろう。
「空気の入れ替えと清掃が必要だな」
「そうね、とりあえず今日はお掃除だけしときましょうか」
「だな」
陰陽塾では掃除を始め、雑用全般用に『モデルM1・舎人』という汎用式を多く使用しているが、あいにくとそれらの持ち合わせはないので、手持ちの簡易式を使い清掃にあたらせた。人の形をした影法師たちがせっせとあたりを掃除しだす。
「……さて京子。ここで質問だ」
「え?」
「孫子の兵法に『拙速は巧遅に勝る』という言葉があるが、呪術の場合はどうだと思う?」
秋芳はそう言いながら、口訣も導引も結ばず不動金縛りをみずからの簡易式に放つ。
影法師は数秒ほど動きを止め、また動き出した。
今のは術式をまともに組まない雑な呪だった。しかし詠唱や集中がないぶん素早く発動できる。
早くて雑な術と、遅くて丁寧な術とどちらが良いか――。
「……ずばり両方ね! 時と場合によって使い分けるのが正解よ」
「両方ってずるい答えだなぁ」
「あら、ちがうの?」
「いや、たしかに臨機応変に使いわけるで合ってる。だが強いてどちらか選ぶというなら遅くて丁寧な術だ」
「あら、ちょっと意外ね。あなたのことだから『いくら正確に術を発動させても相手がそれに対して万全な構えをしたら効果は薄い。それよりは反応される前に攻めて攻めて攻めまくればいい。相手が対処できないなら拙速でもじゅうぶん効果を得られる』とか言いそうなのに」
「あー、たしかにそんなこと言いそうだわ、俺……」
「でしょ? ちがうの?」
甲種呪術は制御を誤れば暴走し、術者どころか周囲にまで被害をもたらす可能性がある。そのため一つの呪術を習得するさいは完全に制御できるようになるまで習うし、実際に使用するさいも丁寧に細心の注意をはらって行使するのが常だ。
だが時には危険を承知で雑だが早い方法で攻撃してくる者もいる。先ほど秋芳が使ったような不完全だが高速で発動できる金縛りなども、牽制。本命の攻撃につなげるジャブのような使い方をすればバカにはできない。
手数の多さと速さに対して、安全かつ丁寧で正確な術を用意していては間に合わない。
「それでも術が暴走した時の反動や、相手に返された時の危険性を考えれば『きちんと呪文を選んでから呪力を練り、正確に発動させる』べきだ。白兵戦じゃあるまい、呪術戦で考えるより前に体を動かせ。なんてのはまちがってる。考えることを放棄してはいけない」
「でも実際にそういう雑で危険なやり方で呪術を使ってくるのが相手だと、押し負けちゃったりはしないの?」
「そのための訓練だよ。思考する時間を限りなくゼロに近づけ、安全で素早く、かつ正確で丁寧な呪術を行使する。日頃から呼吸するように無意識に呪力を練ることを心がける。そのためには鍛錬あるのみ」
「つまりあたしの日頃のおこないはまちがってないってわけね」
「そう。奇策はしょせん奇策。地力の成ってる相手にはそんな搦め手は通用しない」
「今のお話であたしの修行欲が燃えてきたわ! ねぇ、秋芳君。やっぱり少し――」
その時京子の携帯電話がメールの受信を知らせる軽快な音を鳴らした。
「……天馬からだわ、珍しいわね」
「む、俺にも天馬からだ」
メールの内容を確認するにつれ京子の眉間にゆっくり、ゆっくりと皺がよっていく。
「……なによ、これ」
長い文面に続いて何枚かの写真が添付されている。様々な角度から撮られた城の模型。それらを一応すべて目を通し――。
「……ふ~ん……」
と、気のないつぶやきをもらす。
どんな返事をするか正直迷ったが、とりあえず『すごいわね』と送信しておいた。
「そういや天馬って、子どものころはプラモデルとか作ってたっけ。秋芳君のも同じメール?」
「ああ。そうなんだが……、むぅ……。まず、ちょっとジェラシー」
「はい?」
「君は子どもの頃の天馬を知っているんだな」
「ん、まぁ天馬の家も陰陽道の旧家だし、その関係で少しわね」
「天馬も子どもの頃の君を知っている」
「まぁ、あたしがむこうを知ってる程度には、むこうもこっちを知ってるんじゃないかしら」
「俺の知らない君を知ってる人がいることに少し嫉妬」
「あら! うっふふふ、やぁ~ねぇ。そんな子どもみたいヤキモチ焼かないの。あなたとの思い出はこれからいっぱい、い~っぱい作ってあげるわ。未来のあたしを、この倉橋京子を独り占めできるのよ? だからそんな些末なこと気にしちゃダメよ、秋芳君」
「未来だけでなく過去も独り占めしたい」
「贅沢ねぇ、タイムスリップする呪術でもあるわけ?」
「う~ん、どうだろう? ま、必要があるのになければ作るのみだが」
「…ねぇ、もし時間を遡ることができたら、いつの時代に行ってみたい?」
「そうだな、古代エジプトの赤ビールやボヘミアンたちが飲んだ本物のアブサンを飲みに行きたいな。あと張飛の作った保寧圧酒もどんなものか味見してみたい」
「お酒ばっかりじゃない! 少しは陰陽師らしく安倍晴明や土御門夜光と会ってみたいとかないの?」
「ん、あとは実際の安土城を……、て、そうだ! 城だよ城! 天馬のやつ、凄いものを作ったなぁ。この模型、相当手が込んでるぞ」
メールに添付された画像をまじまじと見て感心する秋芳。
「この造りと天守閣の鯱から察するに、これは名古屋城だな」
「へぇ、わかるんだ」
「惚れ惚れするなぁ……、こういうのを作れる、創造できるのは本当に凄いよ。ある種の神の御業だよ」
「いくらなんでも言いすぎじゃない?」
「いいや、そんなことはない。想像し創造する。これは呪どころか奇跡だよ」
「そ、そう?」
「ああ、そうさ。絵画でも模型でも文章でもなんでも。無や、それに等しい状態から有を生み出す。これこそ人の持つ『真の』呪の力じゃないか」
「…………」
「なぁ、京子。これから天馬の家に行ってもいいかな?」
「ええっ!? あたしとの訓練は?」
「君との時間は未来に大きく広がっているんだし、ちょっとくらいいいだろ?」
「ん、もう……。しかたないわねぇ、じゃあ、あたしも行くわ。この模型がそんなに凄いのか、自分の目で見て確かめてみたいし」
こうして二人は天馬の家に行くこととなった。
護国寺にある百枝家。
天馬には自宅に行くと連絡を入れて了承を得たが、まがりなりにも陰陽道の旧家を訪ねるのだ。手ぶらというわけにはいかない。
いや、旧知の間柄である京子ならそれでもかまわないのかも知れないが、始めて天馬の家を訪れる秋芳はそういうわけにもいかない。賀茂の看板を背負いし者が土産もなしにぶらりと立ち寄るのはいかがなものか。と、秋芳が菓子折りを手に天馬の祖父母に挨拶したのだが、これまた妙な流れとなった。
「賀茂家の方にわざわざご足労いただきまして、誠に恐縮です。聞けば秋芳さんは飛び級で卒業してそのまま陰陽塾の講師になられるとか」
「え? いや、確かにそういう話は出てますが、まだ現実のものでは……」
「秋芳先生。どうかうちの天馬を一人前にしてやってください」
「いやまだ先生ではなく一塾生でして……」
「天馬。今のうちに先生から多くのことを学ぶんだぞ」
「う、うん」
「どうかよしなに、よしなにお願いします!」
「わ、わかりました。おりを見て陰陽の術を教授します」
そのようなやりとりの後、件の模型を見せてもらった。
名古屋城。
またの金鯱城。東海道の押さえとして慶長十五年(1610年)に徳川家康によって築かれた。大きな堀と天守閣が特徴で、特に鯱の頭部が異様に大きく、これは遠くから眺めた時に均整がとれて立派に見えるように配慮されているためだ。
平城であり、実際の攻城戦の想定よりも徳川の威信を示すための造り。壮大で優美な造形をしている。
「う~ん、凄い!」
「でしょ!」
「写真で見たよりデカいな。迫力がある」
「でしょ!」
「たんに組み立てるのだって難しいのに、この汚し塗装とか自分でしたのか? これは良いセンスしてるよ天馬」
「でしょでしょ!」
「これって名古屋城以外の模型もあるのか?」
「うん、けっこう有名なメーカーだからね。僕は名古屋城しか持ってないけど、たくさん出てるよ」
天馬はPCを起動させて模型製造メーカーのホームページを見せる。
「これは……」
「多いでしょ、ほとんどのお城が模型化されてるんじゃないかな?」
「竹田城があるな」
竹田城跡。山城遺跡であり、虎が臥せているように見えることから虎臥城とも呼ばれる。
秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、この雲海に包まれた幻想的な姿から、天空の城や日本のマチュピチュとも呼ばれるようになった。
「雲海を現す綿までついてるのか、凝ってるな」
「欲しいけど高いんだよね」
「讃岐の高松城だ。俺、この城好きなんだよな」
高松城。
城の北側が海に面していて、残りの三方の堀には海水を引き入れた堀が広がる、日本三大水城の一つ。堀には真鯛などの海の魚が泳ぎ、天然の牡蠣も生息しているという。
「これは、モデリング・ウォーターの使いどころだな。て、本物の水も入れられるって書いてあるぞ!」
「それも欲しいけど高いんだよね」
「幻の城シリーズなんてのもあるぞ。これ、安土城はともかく帰雲城なんて完全に想像で作ってるんじゃないか?」
帰雲城。
岐阜県の白川村にあったとされる城だが、大きな地震による山崩れで埋没。これによって城主の内ヶ島一族はすべて死に絶えてしまい、内ヶ島氏は滅亡してしまった。そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることでも有名だが、城のあった正確な位置は現在でも特定されていない。
「幻の城シリーズは特に高いんだよね」
「……天馬」
「なに?」
「他の城も、作りたいか?」
「もちろん! でも高いから今は無理かなぁ。もっとお小遣いためてから――」
「天馬の誕生日っていつだ?」
「え? 〇月〇日だけど」
少し先だ。
「よし! 少々早いが俺からの誕生日プレゼントだ。好きな城を選んでくれ」
「ええ!? そんないきなり……」
「さぁ、どれがいい? 安土城か? 大阪城か? それとも岐阜城?」
「そんな、悪いよ」
「いやいや、半分は俺が見たいだけだから遠慮するな」
(男の子ってこういうのほんとうに好きねぇ……)
男子二人が盛り上がっているのをよそに、話に交ざれない京子が手持ち無沙汰にTVのリモコンを押す。
『あなたの、TVに、時価ネットたなか~。み・ん・な・の、欲の友♪ ハァ~イ、こちら時価ネット。時価ネットたなかでございます。生放送でお届けする噂のショッピング番組時価ネットたなか。良い物をつねに適正価格でお届け、う~ん、目が離せない。さぁ~て本日紹介する商品はこちら! アイアンバニー、ハイレグアーマー、アームブリッジ、ダンシングヒールが一つになった【魅惑の淑女セット】でございます。こちらにさらに高級フレグランスのイティズドリームもおまけにつけちゃいます。さらにさらに! 今回時価ネットからお申し込みいただいた方だけへのサプライズ。〇〇社制オリジナル幻の城シリーズ・聚楽第の模型をプレゼント! 先着一名様まで限定でございます。さてこの商品、気になるお値段は――。ぜひお早めにご注文ください。ご注文はインターネットとお電話で、ごらんのアドレスと電話番号から時価ネットに連絡してください――』
「……なんなの、この通販番組。いかがわしい変な服に香水と模型の組み合わせってカオスすぎるわ……」
「あ、もしもし時価ネットさんですか? 魅惑の淑女セット一つお願いします」
「あ、秋芳君!?」
「いいんだ天馬、俺の好きにさせてくれ。あの聚楽第をおまえに贈らせてくれ」
「で、でも魅惑の淑女セットと香水なんてどうするのさ」
「京子が着るよな?」
「着ないわよ!」
「着ないの?」
「着ない! 香水はともかく、あんな服いらないわ。ていうか秋芳君、衝動買いするタイプだったのね……」
これは将来、お財布のひもはこちらできっちり締めなければならない。そう心に決める京子だった。
それから一週間と少し。
陰陽塾。
「もうすぐ完成するよ」
朝一番、喜びの笑みを浮かべて聚楽第の落成一歩手前だということを秋芳に告げる天馬。「おお、早かったな」
「うん、あの名古屋城ほど難しくなかったからね。それでどう? もし良ければ次の日曜日にでも完成する所を見に来ない?」
「それは良い。ぜひ見に行かせてくれ」
放課後。春虎達にも声をかけたのだが。
「悪い、おれ個人補習」
「ぼくはそのつき添いだ。まったく、今度という今度はしっかり学んでもらうぞ、春虎!」
「俺も補習につき合う。春虎とちがって強制じゃないが、なんせ途中転入ってハンデがあるからな、色々と知っておきたいんだ」
「……模型もいいけど、あたしとの約束も忘れないでよね。当日は先に訓練場に行ってるわ」
春虎、夏目、冬児、京子はパス。秋芳は一人、百枝家へ向かうことにした。
旧陰陽塾訓練場。
埃っぽかったアリーナは清掃され、見ちがえるほど綺麗になっていた。床面などわざわざワックスがけしたので、光沢を放っている。
秘密基地という言葉に触発された秋芳は、訓練場にかなり手をくわえてしまった。元々施錠されていた扉を無効化し、新たに呪術的な施錠をし、呪的結界も敷いてある。いつの間に持ちこんだのか、控え室にはいくつかの酒類まで置いてあった。
(自分で言い出しておいてなんだけど、まるで不良のたまり場ね。ふふっ、あたしもすっかり不良娘になっちゃったものだわ)
アリーナの一角。座卓の上に置かれた式盤を前にして京子はそんなことを考えていたが、すぐに雑念を捨てて集中し、みずからの意識をはるかな宇宙へと同調させようと誘導する。
これは星読みとしての訓練だ。
本来ならば星読みとは星を読むことはできても、星を動かすことも星々の流れを変えることも、その輝きをあやつることもできない。
星読みにできることはただ対象を見守り、助言し続けることだけなのだが、京子はちがった。
星読みの中の星読み。如来眼の力がある。
如来眼。
豎眼とも菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは、仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、変える力があるとされ、その時代の覇者を導くという。
人の定めのみならず、龍脈の流れ。星々の流れ。すなわち森羅万象を意のままにあやつることができる力――。
最近はこの手の鍛練をしている。京子としてはもっともっと霊災修祓や対人呪術戦の訓練をしたいところなのだが、すでにプロの祓魔官レベルの技量を身につけたと判断した秋芳はもっぱら『自分にしかない力』を延ばすよう勧めているからだ。
集中するにつれ、身体から魂が離れて浮上するような不思議な感覚をおぼえる。唸るような風の音を聞きながら、重力を始めとしたあらゆる足場から逃れ、現実に重なる宇宙のような異なる空の世界にゆっくりと浮遊する。
無数の光が、数多の星々が視える。この光の一つ一つが人だ。人の運命だ。
深淵の彼方、時間や空間の概念すら異なるすべての要素が偏在化している宇宙。その宇宙に京子の観念が反映され、遠くにある現実の影を目の前に顕現させる。あるいは現実世界のすべてを凝縮し、縮図のように映し出す。千里眼のような感覚で宇宙を見渡していくと――。
星の一つに陰りが見えた。おぼろな闇が星を覆い、取り込もうとしている。それは京子の知っている星だった。
その星は、百枝天馬のもの。
(――え? なに? 天馬!?)
星の輝きを完全に覆い尽くしてなおあまりある巨大な闇。それは古の禍々しき闇。
天馬が、あぶない。
天馬の身に危険が迫っている。
助けなければ――。
後書き
このお話。ハーメルンに掲載時は別の題名でしたが、よく考えたら微妙にネタバレしていたので別の題名に変更しました。
まぼろしの城 2
聚楽第。
安土桃山時代に平安京の大内裏跡に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅。当時の文献には単に聚楽。まれに聚楽城とも書かれている。
ヨーロッパの城塞都市を参考に造られた城であり、周囲には堀の他にも防御用の外壁が張りめぐらされていたという。
天守閣があり外壁は白。高さは四十五メートルで大阪城よりも高かったという。
当時の技術で作れる白い漆喰は水に弱く脆かったため、城などの外壁に使用されることはなく、姫路城に代表される白い城は徳川家康の江戸城からと言われていたが、最近の研究では聚楽第がその嚆矢ではないかと言われているが、さだかではない。
落成からわずか八年で破壊されたため資料の乏しい幻の城だからだ。
その聚楽第の模型が、あと一つのパーツを組むことで完成する。
「あいかわらず精密な作りだなぁ、大宮通りや一条通り。庭園まで再現されてジオラマみたいだ」
「作ってる時は豊臣秀吉になった気分だったよ」
「そういうのって、あるよな。自分の中で物語とか作ってさ」
「そうそう! だからこのサイズに合う人形を置いて、物語を再現したいんだよね」
「人形かぁ、でも武士とか公家の人形なんて……。む、いっそ簡易式で作るか」
「え、でもこのサイズに合うまで小さく作るのって、難しいよ」
「それも修行のうちさ。趣味と実益をかねて、いい鍛錬になる」
「なるほどね。あ、それじゃあ、はめるよ」
「おお、やってくれ」
最後のパーツを組み込むことで天守閣が完成。聚楽第が落成した。
金色に輝く天守閣の金箔瓦、汚れ一つない真っ白な外壁、二階建ての御殿――。絢爛豪華な安土桃山時代の歴史の一ページがそこに再現されていた。
「……できた。ついに、完成したよ」
「ああ……、やったな。天馬」
「うん……、うん?」
「ん、どうした?」
「なにかの、見まちがいかな……、そこに人が。小さな人が動いてるみたいなんだけど……」
「なぬ!?」
秋芳が目を凝らすと敷地内の庭園。そこに一人の老人が歩いているではないか。人形だとするなら精巧な、実に精巧な作りをしている。
小さすぎて顔はよく見えないが、白髪頭に黒い着物姿だということは判別できる。
「…………」
「…………」
老人は秋芳らを見上げると、ちょいちょいと手を振り出した。
「……ええと、秋芳君。これって、君がこっそり幻術か式神かなんか使って遊んでたりしてるの?」
「いいや、使っていない。科学的なホログラムってわけでもなさそうだし、この模型。呪具の類かもな」
「僕の見鬼じゃわからないけど、秋芳君は呪力を感じるたりするの?」
「いや、しない。だが、極めて巧妙な隠蔽が施された呪具なら俺でも感知はできない」
「そ、そんな凄い物があるんだ」
ちょいちょい、ちょいちょい。老人は変わらず手を振りかざしている。
「これ、手招きしてるのかな?」
(秋芳~、天馬~)
小さな老人が呼びかけてきた。
「ええっ!? 僕らのことを呼んだの?」
「よせ! 反応するな!」
遅かった。
老人の問いかけに応えた天馬は人形のように小さくなり、聚楽第の中へと吸い込まれてしまった。
世の中には呼ばれて返事をする。あるいはそれに対してなんらかの反応をしめすことがトリガーとなる呪が存在する。
『西遊記』には返事をすると吸い込まれる紫金紅葫蘆と羊脂玉浄瓶という宝貝。呪具が出てくる。
怪異からの呼びかけに対して『返事をしてはいけない』系の都市伝説や怪談の類など、枚挙にいとまがない。
天馬はそれに引っかかってしまったようだ。
その時、秋芳の携帯電話が振動して着信を告げる。落ち着いてディスプレイを見ると京子からだった。
「もしもし……。ああ、ひと足遅かったな。ちょっと厄介なことが起きた――」
目を半眼にして模型を流れる気に探りを入れる京子。
「……ん、これって前に秋芳君が作った遁甲双六と似たような作りをしてると思う。あれよりかなり本格的だけど」
「時空間を入れ替えて、この模型内に別世界をこしらえたわけか。古に伝承にある『壺中天』だな」
壺中天。壺中の天地という言葉がある。
後漢の時代。汝南の町に壺公という薬売りがいて、仕事が終わると、いつも持っている薬壺の中に入っていったという。それを見た町の者が一緒に入れてもらったところ、そこには立派な建物があり、酒と肴があったので共に飲んで出てきた。という話がある。
空間そのものを縮小し、壺の中に移すという方術の一種だ。
「あの爺さん、天馬をさらってから姿を見せやしない。携帯電話もつながらないし、こっちから出向く必要がある」
「あたしも一緒に行くわ」
「いや、もしもの時のためにここで様子を見ていてくれ。帰ってこなかったら呪捜部に連絡を頼む」
「それは笑狸ちゃんの仕事でしょ。こういう時のための式神じゃない。ねぇ、秋芳君。あたしけっこう強くなったでしょ? 犬神の時みたいなヘマはしないから、一緒に行かせて」
「わかった。じゃあ一緒に行くぞ」
「ええ、行きましょう!」
「まぁ、あせるな。いろいろと準備がある」
幸か不幸か天馬の家族。祖父母は共に遠出しており留守で、遅くまで帰ってこないそうだ。時間には余裕があった。
香炉の中で炭が赤く熾っている。秋芳はそこに抹香を落として煙を焚き、呪を唱える。
「天道清明、地道安寧、人道虚静――」
炉の中から立ち昇った煙が部屋中に満ちる。秋芳は呪を唱え続け、抹香をつまんでは炭の上にはらはらと落とす。
「三才一所、混合乾坤、百神帰命――」
つまんでは落とし、つまんでは落とし、つまんでは落とす――。
「万将隨行、永退魔星、凶悪断却――」
やがて部屋中に満ちた煙は一カ所にかたまり、そこから一筋の煙がひものように模型の中へとのびてゆく――。
「不祥祓除、万魔拱服――。よし、これで道ができた。この煙に入れば模型内にある異界へ行ける」
「……ええ」
「どうした?」
「え? ううん、なんでもない」
「いや、なにか言いたそうな顔をしてるぞ」
「あー、あのね。あたしのカン違いかもしれないし、気のせいだと思うから気を悪くしないで聞いて。なんかね、今みたいな方法じゃなくても、あたしがもうちょい気をいじれば模型の中に入れる〝扉〟をもっと早く作れたような感じがしたの」
「ああ、なるほど。龍脈を始め森羅万象の気を見て動かす如来眼の力があれば確かにできるかもな。次の訓練じゃ、ちょっとそこらへんの力の使いかたも試してみよう」
「ええ、お願いするわ」
秋芳と京子は手と手を結んで煙の中へと姿を消した。
この世のなかにあって、この世のものならぬ世界。陰態、とでも呼ぶべき場所を二人、手と手とをしっかりと結んで歩く。べつに手をつなぐ必要はないのだが、自然にこうなってしまうのだ。
京子は秋芳の手の冷たさに心強さを、秋芳は京子の手の温かさに安寧を感じた。
煙の道を抜ける。
黒い空、異様に大きく明るい月が地上に冴え冴えとした光を放ち、桜が舞い散る中。金色に輝く黄金瓦と白い壁の建物が遠目に見えた。
月の光というスポットライトに照らされた巨城。聚楽第だ。
「うわぁ、すてき……。まるでライトアップされてるみたい」
「こりゃまたずいぶんと華美に飾ったものだな。模型よりもかなり豪華だぞ、これは」
「お城って、こうして見ると綺麗なのね~」
「この城は綺麗に盛りすぎだけどな。さて、今いる場所は……、出水通りだな。とりあえず一番近い門から入ろう。ここからだと南門か西門だな」
「ここって、かなり広そうね」
「聚楽第はディ●ニーシーと同じくらいの広さがあるというからな」
「そんなに! 豊臣秀吉ってずいぶん贅沢な所に住んでいたのね」
「まぁ、天下人だからな。それに聚楽第はたんなる私邸じゃなく政務を取りあつかう場所でもあったから、ことさら豊臣の威信をしめすよう、でかくする必要もあったんだろう」
「そういえばあたし、豊臣秀吉について教科書に載ってる程度のことしか知らないわ。ねぇ、秀吉ってどんな人だったの?」
「んー、好きな食べ物はひき割り粥だったとか、食事はわりと質素だったみたいだな。と言っても当時の食事なんて公家や大名クラスでもそのくらいで、江戸時代の庶民のほうがよっぽどバリエーションに富んだ、良いものを食べてるよ」
上杉謙信は梅干しを、織田信長は焼き味噌が好物だったと伝わる。食うや食わずの戦国の世では美食なぞ夢のまた夢。こと食事に関しては贅沢したくてもできなかったことだろう。今では普通に食べられるものも、昔は高級食材だったりもする。たとえば鮭だ。
こんな逸話がある。
毛利元就の四男にして長門長府藩の初代藩主に毛利秀元という武将がいるのだが、その秀元が江戸時代。江戸城に出仕したさいの弁当に鮭が入っていた。この時代、鮭は高級魚であり、まわりの諸大名から「結構なる菜なり、珍し」とうらやましがられ、分け与えるうちに自分の食べる分がなくなってしまったとか。
「その逆にウナギなんて平安時代は大衆魚で安かったが、今じゃ高級魚だしな」
「へぇ、そんな頃からウナギなんて食べてたんだ」
「ああ、万葉集にウナギを詠んだ歌があるぞ『石麻呂にわれ物申す夏痩せに良しといふ物ぞウナギとり食せ』」
「ええと……『夏痩せにはウナギが良いらしいからとって食べなさいと石麻呂さんに言った』」
「――で『痩す痩すも生けらばあらむをはたやはたウナギをとると川に流るな』と続く」
「う~ん……『どんなに痩せてても生きてればマシなんだから、ウナギを獲ろうとして川に流されないようにね』……なんかずいぶん大らかでのん気な歌ね」
「俺はこの歌を思い出すたびにウナギが食べたくなるんだ。あ~、また食べたくなった! 白焼きにして味噌つけたやつを肴に酒が飲みたい! もうこれは呪だな、呪の込められた呪歌だな」
「たんにあなたが食いしん坊の飲み助なだけでしょ」
「で、秀吉の話にもどるが、豪姫って聞いたことないか?」
「あ、なんか聞き覚えがあるわ」
「加賀百万石で有名な前田利家の娘で、養女として秀吉に引き取られるんだが、この豪姫が大きくなって宇喜多秀家という武将のもとに嫁ぐ。しかしそれ以降やけに病気がちになってしまい、これは狐の仕業だと吹きこまれた秀吉は怒って伏見稲荷大社に『日本で俺を軽んじるものはいない。まして畜生風情がなめるなよ。早く豪姫から手を引け。さもなくば伏見稲荷大社をぶっ壊して、日本中の狐を狩って根絶やしにするぞ』という内容の文を出すんだ」
「うわぁ……、強気すぎ。てか傲慢ね」
「その恫喝が効いたのかどうか、その後豪姫は病に伏せることはなかったそうな。傲慢っちゃ傲慢だが、押す時に押すのも駆け引きだしな」
出水通りから知恵光院通りへ。模型の作り通りなら、右へ行けば正門へと通じる馬場が、左に行けば豊臣秀次邸と、その先をぐるりと曲がって西門があるはずだ。
「さて、天馬はどこに連れ去られたんだか。建物を虱潰しに調べていくしかないか」
「……このあたりにはいないと思うわ」
「わかるのか?」
「ええ、それとあちこちから変な気を感じるから気をつけて。この感じは式神ね……。それとたぶん呪的な罠もあると思う」
「わかった。……なぁ、どのくらいの距離まで見鬼できるようになったんだ?」
見鬼。
霊気の流れや霊的存在を視覚でとらえたり、感じ取る力のこと。いわゆる霊感能力であり『見鬼』というが、かならずしも目で視る必要はない。
高位の見鬼は通常では見通せないような術理や法理まで見極め、範囲内にあるモノの位置や形状を気で感じ取ることができる。
見鬼できる範囲や精度など、この能力の強さは個々の才能に大きく左右されるというのが定説になっている。
「んー、半径五〇メートルってとこかしらね」
「なん……だと……、俺の十倍じゃないか!」
「あ、でも秋芳君のほうが細かく視られると思うわよ。あたしのは範囲が広いだけ」
「それでも凄い。現役の霊視官でもそこまで見通せるやつはそうそういないぞ」
正門から入ることにした秋芳らは馬場を通る。
「あ、かわいい。ポニーがいるわ、子馬かしら?」
馬場にある厩舎の中で何匹かの小さな馬が草を食んでいる姿が見られた。もちろん本物の馬ではない、式神と思われる。
「馬場に馬か、凝ってるな。でもあれ、たぶん子馬じゃなくて成馬だぞ」
「あ、そういえば昔の日本の馬って小さかったのよね」
時代物の大河ドラマなどに出てくる馬は、大型で格好の良いサラブレッド種が使われているが、時代考証的にはまちがいだ。アラブ系のサラブレッド種は明治時代になって始めて輸入されたもので、それ以前の日本には胴や足が太く、背も低い馬しかいなかった。
走る速さも遅く、長い距離は走れなかった。日本の馬は平地を駆けるのではなく坂道を登り降りするのが得意だったという。
源平合戦の一の谷の戦いで、源義経は少ない騎兵で山を越えて平家の陣の背後に回り込み、崖の上からの奇襲に成功したが、あれがサラブレッドだったら足の骨を折ってしまったことだろう。日本の馬だからこそできた作戦だったのだ。
また、日本の馬は制御しやすいサラブレッドとちがい気性が荒く、オス同士を近寄らせると興奮してケンカを始めるので、あつかいが難しかったという。
去勢すればおとなしくなるのだが、馬を去勢するという発想も、明治になって西洋から伝わってきたものだ。
「馬で思い出した。これも一応秀吉に関係する話だが、敵の軍にたくさんのメス馬を放つ奇襲作戦なんてのがあってな――」
秀吉が播磨の別所長治を攻めた時のこと。秀吉の弟の秀長が別動隊数千を率いて別所がたの支城を攻撃した。相手の城にはわずかな兵しかなく、秀長軍は一気に攻め落とそうと押し寄せたのだが、そこへ城内からメス馬数十頭が放たれた。
当時の軍馬はオス馬ばかりだったため、秀長の軍馬たちは発情し、色めきだってメス馬を追いまわし、制御できず混乱状態になったところを突かれ撃退されたという。
「西洋みたく馬を去勢してたら、こんな作戦もとれなかっただろうな」
「……対人呪術戦の参考になりそうな話ね」
「うん?」
「術のレベルも重要だけど、あつかいかたに注目して、自分の手持ちのカードを組み合わせて戦術を考えるのも大事でしょ?」
呪術戦は手の内の読み合い探り合い。霊力と霊力の、単純な力のぶつけ合いではない。知っている術の種類に限りがあり、あつかう技術も未熟だったとしても、そういった手札の数やレベル以上に大切なのは手持ちのカードをいかに組み立てるか、呪術戦における『戦術』の重要性のことを京子は言っている。
「そうだな。だが陰陽庁のトップに立とうって人間なら、目先の勝ち負けを左右する戦術よりも、そんなきわどい状況を作らない戦略と政治を重要視する考えをしたほうが良い。小競り合いの処理なんてはこっちに任せとけ」
「あたしは戦術も一流、政戦両略も一流の人間を目指すわ――あ、秋芳君、気をつけて」
ふと、足を止めて注意をうながす京子。
「あの門のあたり、気がおかしいわ。木気が妙にかたよってる」
「木気か。いつでも金行術を使えるようにして通ろう」
門をくぐらなければ中には入れない。注意して近づく二人の前でそれは起きた。
つる草がするすると伸びて緑のカーテンを形作ったかと思ったら、たちまち瓢箪が実った。一つ、二つ、三つ……、何十個もの金色をした黄金の瓢箪が大量にぶら下がり眩い光があたりを照らす。そして銀色の花を咲かし、そこから蜜が漏れだす。甘く馥郁たる芳香があたりをただよう。なんとも幻想的で豪奢な光景だった。
なにかある。そう警戒していたにもかかわらず、思わず見とれてしまうほどの光景が目の前に広がる。
その隙を狙ったかのようにつる草がうねり、巻きついてきた
「きゃっ」
つる草は京子の手足に絡まり、そのまま全身を縛り上げようとうごめく。
「白桜、黒楓!」
呪符が取り出せないので護法式を召喚し、その刃でつる草を切断しようと試みたが、思うように刃が通らない。花からあふれた蜜が潤滑油の効果を発揮して刃を滑らしてしまうからだ。
「むぐぅっ!?」
つる草が猿ぐつわのように口をふさぎ、言葉を封じる。植物特有の青臭さに混じって妙に甘い匂いが鼻腔を満たす。蜜の匂いだ。すると脳に靄がかかったように意識が混濁し始め、睡魔にも似た心地の良い痺れが全身に広がり――。
「禁毒則不能害、疾く」
「!?」
目の前に秋芳の顔があった。自分が片腕で抱きかかえられていると気づいた京子はすぐには離れず、秋芳の胸に頭をもたげる。
「……あたし、どうしちゃったの?」
「あの瓢箪の毒気にあてられて、わずかな間だが意識を失ってたんだ。しかし巧妙なトラップだったなぁ。木行符によるつる草の罠に、幻術も重ねてあったんだよ」
「どれが幻だったの?」
「あの金ぴかの瓢箪は幻術。いきなり木行トラップが発動するんじゃなくて、まず最初にあれで注意を引きつけてつる草で縛り上げる仕組みだったみたいだな」
「不覚……、もう! くやしいっ! 絶対に足手まといなんかにはならないつもりだったのにっ。またあなたに助けられちゃったわ」
「でも、良かったぞ」
「なにがよ?」
「エロかった」
「!?」
「触手みたいなぬるぬるのつるに絡まれて、頬を上気させ朦朧としてる君の姿はそりゃあもうエロかったよ。いやぁ『ハイスクールD×D』のサービスシーンみたいだった」
「な、な、な……」
「あ、でもすぐに助けたからな『もう少し様子を見よう』なんてことはしなかったぞ」
「あ、あたりまえでしょ! 恋人がそんな目に遭ってるのに傍観してるなんて最低よ! もし秋芳君がそんな人だったら末代まで祟る…、ううん。末代ができない体にしてやるわ」
「それは、怖いな……」
門をくぐり、いよいよ聚楽第の中へと入る。
湖といっても通用するくらい大きな池を中心に、周りに園路が巡り。池中に設けた小島や橋、築山や名石などで各地の景勝などを再現していると思われる造りだ。園路の所々には野点用の茶席が置かれ、能舞台まであった。
それが聚楽第の庭園だった。その規模、その見事さに思わずため息がもれる。
「ほんっと凄いわね……、桂離宮や浜離宮にも行ったことあるけど、ここまで壮観じゃなかったわよ」
「池泉回遊式庭園ってやつか。やれやれ、俺達はすっかり呪にかけられてしまったみたいだな」
「そうね、魅了という乙種呪術にかかっちゃったみたい」
「模型内に別世界を作り出すだけでも尋常じゃない術なのに、それにくわえてこの造形センス、あるいは再現力だ。あの小人の爺さん。いや、爺さんじゃないのかも知れないが、ここの主はとんでもない術者だぞ。それこそ十二神将と同じか、あるいは以上だったとしても不思議じゃない」
「いったい何者なのかしらね。あなたならそういう実力者に心あたりとかあるんじゃないの」
「う~ん、ここまでの使い手となると流石に思いつかん。ひょっとするとこの模型が霊災そのものだったりしてな」
「付喪神……」
はらり、はらり――。
はらはらと紅い木の葉が落ちてくる。紅葉だ。
「さっきは桜で今度は紅葉って、綺麗は綺麗だけど季節感ゼロね」
「そうだな。四季折々の美しさ、楽しさってのがある。どんなに綺麗でもただ並べ立てればいいってもんじゃない。ここらへんは侘び数寄とは程遠い華美贅沢好みだった秀吉の好みを現してるのかな」
池に紅葉が落ちると、それは魚となって水面を跳ねた。
鯉だ。木の葉が池に落ちると、それは赤、青、白、黒、緑、黄色、金色――。様々な色をした錦鯉と変じて池の中を泳ぐ。
「こ、これって幻術!? 視てもわからないわ」
「この感じは式神だな。それより気をつけろ、こうして注意をそらしてなんかしかけてくるパターンかもしれない」
「ふん、もうあんな手になんてかからないんだから!」
一〇秒、三〇秒、一分、二分、三分。なにも起こらない。
「なによ、たんなる演出?」
「みたいだな。先に行こう」
「ちょっと、この鯉って式神なんでしょ? このままにしておくのってあぶなくない?」
「んー、だからといってなにもしてこない池の鯉に手を出すのも無粋だしなぁ」
「せめて、動きを封じておきましょうよ」
京子はなにか思いついたのか、水行符を手に池に近づく。
「水気は清冽にして――」
『テケリ・リ、テケリ・リ』
京子がなにかしらの術を行使しようとした時、奇妙な音を発し池の水が盛り上がり押し寄せた。
否、水ではない。半透明をした寒天のような生物。それが京子の体にまとわりついた。
「ちょっと、また変なのじゃない!?」
『テケリ・リ、テケリ・リ』
それは奇妙な鳴き声を出して京子の身体をおおった。生暖かくぬめりをおびた粘性の感触に不快感をおぼえたが、それがゆるやかに蠕動を始め出すと、その感想は吹き飛んだ。
気持ち良い。
「ひゃンっ! アッ、ぃやだ、ん、……ンン!?」
胸を揉みしだかれ、腰をまさぐられ、尻を撫でられ、首筋と脚をさすられる。全身をくまなくマッサージされているかのような甘く優しい刺激に、思わず悩ましげな声が出てしまう。
(やだ! なんて声出してるのよ、あたし!)
顔から火が出るくらい赤面し、目に涙を浮かべ、羞恥にさいなまれて身悶えする京子の耳に、どこか怒気をおびた口訣が響く。
「禁妖則不能在、疾くッ!」
あやかしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。
京子にまとわりついていた妖物はたちまち消し飛んだ。その存在自体を禁じられ、消滅してしまったのだ。
「う~~~~ッ」
その場にうずくまった京子は怒りと恥ずかしさで顔も上げられない。
「以土行為石槍、貫。疾く!」
土行を以て石の槍と為す、貫け。
秋芳が術を行使すると無数の石筍が池の中から盛り上がる。そのうち何本かには不定形の粘性妖物。 先ほど京子にまとわりついたあやかしと同じ種のものが串刺しにされているのが見てとれた。先ほど池の鯉の手を出すのは無粋と言った秋芳だが、その行為には容赦がなかった。
(あれ? 秋芳君、怒ってる?)
京子が見上げれば、確かに秋芳の表情には怒色が浮かんでいる。
「……あの無数の式神は池に潜む妖怪の気配をごまかすために撒いたんだろうな。しかし女好きの秀吉に倣ってエロトラップを用意したのか知らんが、悪戯が過ぎる」
「……ねぇ、秋芳君。怒ってる?」
「ああ」
「なんで?」
「好きな子がエロい目に遭ってんのを見て平気なやつなんているか!」
「え、え~と、あなたってそういうの好きなんじゃないの? さっきも喜んでたみたいだし……」
「あのくらいなら偶発的なラッキースケベだが、今のは完全にやる気だったろ。俺は自分が好きな子の裸を見たり、好きな子にエロいことするのは大好きだが、他のやつがそれをするのは断じて許さん! ましてそれにあっはんうっふん反応するのを見て喜ぶわけがない!」
「あ、あたしだって好きで変な声あげたわけじゃないんだからっ!」
「わかってる。だがこの先も似たような罠があると思うから君は帰ったほうがいい」
「いやよ! こうまでされてすごすごと引き下がるだなんて絶対にいや。こんなふざけた真似をしたやつ、とっちめてやるわ!」
「その格好でか?」
「え? きゃっ!? なな、な。なによこれ!」
いつの間にか服の一部が消えて、下着姿をさらしているではないか。下に穿いていたズボンの布地は腿のあたりまでなくなり、上着はほぼ布きれ状態だった。
「今の粘性生物の仕業だろうな。肌を傷つけず衣類だけ溶かすとか、どこのエロスライムだっつうの」
「なによ、服くらい簡易式で作るわよ!」
「さっきも言ったがこれから先も『TO LOVEる -とらぶる-』や『ハイスクールD×D』みたいな罠があって、ひっかかるたびに『健全ロボ ダイミダラー』の日笠みたいに恥ずかしい声をあげることになるかもしれないぞ」
「『TO LOVEる -とらぶる-』や『ハイスクールD×D』や『クイーンズブレイド』みたいな罠にはもう引っかからないわ! だから恥ずかしい声もあげない!」
「……わかったよ、じゃあ俺の服を着ろ。簡易式で作る服よりは丈夫だ」
そう言って上着を脱ぎ、京子に着せる。
Tシャツ一枚になった秋芳の姿からは、痩せてはいるが全身これ筋肉。という印象がただよう。無駄な肉がいっさいないのだ。
「あ、ありがとう」
恋人が着ている服を脱いで自分に着せてくれる。それが妙に気恥ずかしい。
ふと秋芳の露出した腕や胸元に目がいく。意外と綺麗な肌をしている。そんなふうに思って見ていると、突然おびただしい量の傷跡が『視えた』。大小無数の傷跡が広がり、左上腕部など肉が大きくえぐれていて痛々しい。
「あ、秋芳君、その傷跡は……」
「傷跡?」
次の瞬間、傷跡は消えていた。
「今、見えたのよ。秋芳君の身体中にいっぱい傷がついてるのが。やだ怖い……。これって予見かなにかかしら……」
「その傷ってのは真新しい傷だったか?」
「ううん、古傷って感じ。それがいっぱいあったの」
「……たぶんそれは予見じゃなくて過去視だな」
「過去視って…、秋芳君が今までケガをした所が見えちゃったってこと? あ! あの腕のキズ。前にあたしをかばってくれた時の……」
犬神を使うはぐれ陰陽師との戦いで、秋芳は京子をかばい左の腕に大ケガを負ったことがある。
「昔の修行や戦いで受けた傷が偶然『視え』ちまったんだろうな。さすが如来眼だ、傷を禁じて跡を消しても、そういうのがわかるとは」
「百戦錬磨ってのは伊達じゃないのね」
「……ああッ!」
「ど、どうしたの?」
「本当はここで『京子、それはちがう。この傷は修行中に自ら負ったもので、敵につけられた傷など一つもない』とか、『幽遊白書』仙水みたく言いたいのに、言ってみたかったのに! 戦闘で負傷したこともあるから言えない! 無念!」
「……変なとこでくやしがるのね、傷は男の勲章。なんじゃないの?」
「勲章と同時に弱さの証でもある。本当に強いやつは傷なんてこしらえないからな。みっともいいもんじゃないよ」
「ふ~ん」
そんなやりとりをしつつ、秋芳の上着に袖を通した京子はその服に込められた呪力に気がついた。
「……これ、けっこう高い呪が込められてるわね。防瘴戎衣みたい」
防瘴戎衣とは祓魔官が着用している黒いユニフォームで、呪的防御が施された防具だ。かの土御門夜光が愛用していた黒マント、鴉羽織をモデルに作られたという。
「あらゆる傷害から身を守る呪が込められてある。鴉羽織や紫綬仙衣ほどではないが、並の防瘴戎衣よりも上等だろうな」
(秋芳君の匂いがする、それに温かい。なんだか彼に抱かれてるみたい……。て、いけない、いけない!)
ぬくもりと匂いが伝わってきて、さっきとは別の意味で赤面しそうになった京子はあわてて気を引き締める。
天馬を探して建物の中へと入る。いくつかの御殿や遠侍(警護の武士の詰所)をまわり、大小いくつかの罠があったものの、もはやそれにかかるようなことはなかった。
「穴の上に幻の床を作って落とそうとするとか、タチが悪いな」
「そうね。でもあたし達の見鬼にかかれば、どうってことないわ」
「広間から宴の騒ぎを聞かせ、踊ってる人の影まで障子に浮かせて開けたら誰もいない。とか、どこのお化け屋敷だよ」
「あれはちょっとゾクっときたわ。あたしひとりだったら怖かったもの」
「たしかにおっかないシチュエーションだよな」
「でもその後が最悪。変な音楽が流れてきて、それを聞くと服を脱ぎたくなるとか、まったくしょうもない……」
「あの曲は『タブー』ていうラテンミュージックだよ。官能的な響きだったろ?」
そして天守閣のある御殿。御座の間で、二人はついに天馬を見つけたのだが――。
「余は正二位、右大臣。豊臣秀頼である」
朱金色の豪華な衣冠束帯に身を包んだ天馬は、開口一番、そう口にした。
まぼろしの城 3
眼鏡をかけた童顔の少年。百枝天馬は豊臣秀頼と名乗った。
「……なぜに秀頼? 天馬よ、どうせなりきりするなら秀吉か秀次にしろよ、ここは聚楽第なんだし」
「こらぁ、天馬! 人が助けに来たってのに、なにコスプレなんかして遊んでるのよ。帰るわよ」
「なにを言ってるの、僕……。余は右大臣、豊臣秀頼だよ」
「いや、今『僕』って言ったよな『僕』って。それに口調も普段通りだぞ。なりきるならなりきれよ」
「あはは、演技ってむずかしいね。……僕は秀吉にはなれないよ。彼みたいな天才じゃないからね、僕に
はせいぜい秀頼が関の山なんだ」
どこかうつろな表情で、天馬はそう自嘲する。
「いやいや、堀尾吉晴あたりなら合うんじゃないか?」
「……秋芳君は凄いよね、僕とちがって霊力も知識もけた外れ。京子ちゃんも、倉橋家の跡取りに、『天将』倉橋長官の娘にふさわしい実力者だよ」
「…………」
「ちょっと、いきなりなに言い出すわけ?」
「夏目君は土御門の次期当主としてもうしぶんない天才だし、その土御門の血筋だけあって春虎君は霊力だけならけた違いだし、冬児君も。あの二人って転入してくるまで呪術と無関係の生活してて、見鬼だって後から使えるようになったそうだけど、信じられない。だってプロの呪捜官や鬼をやっつけちゃうんだよ」
これは秋芳が入塾する前に起きた、夜光信者による夏目拉致事件のことを言っている。
「ねぇ秋芳君。この一週間、お祖父ちゃんに頼まれたから何度か僕の勉強を見てくれたよね。どうだった? 僕はプロの陰陽師になれそう?」
「まだ一年の二学期だぞ、そんなこと今からわかるものか。二年以降の実技の成績や、今後の霊力の成長度合いにもよるだろう。だが今の調子で学習し、積み重ねていけば、なれないことはない」
「……呪術って、陰陽術ってやっぱり持って生まれた才能がすべてなのかな? 努力じゃどうにもならない資質ってあるの?」
「ない」
はっきりと、秋芳はそう断言した。
呪術は当人の資質と血筋がものを言う分野とされている。呪術の世界が閉鎖的なのはその象徴であり、呪術者に古くからその道に関わってきた旧家出身の者が多いのも事実だ。
素質、才能、血、遺伝。だがなによりも大事なのは――。
「努力に勝る天才なし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。一に鍛錬、二に鍛錬。三四がなくて五に休養。武にせよ呪にせよ、その道の高みへの近道なんてない。ひたすら修行あるのみだ。さっき俺や京子が凄いとか言ったが、俺達は座して今の実力を身につけたわけじゃないぞ。特に京子は努力っ娘だ」
京子の朝は早い。早朝から禊と呪術の鍛練を日課とし、身だしなみにしても名門倉橋家の娘として恥ずかしくないよう、同年代の女子の倍近く時間をかけている。
身だしなみはある種の乙種呪術。というのが倉橋家の考えなのだ。服装はもちろん、言葉つかいから作法まで、相対する人間に与える心的影響のことごとくを意識するよう、ひいてはそのように意識することによって己を律することの重要さを、幼少の頃より叩き込まれているのだ。
「でもさ、同じ時間、同じ量の訓練をしても人によって差が出てくるでしょ。持って生まれた才能って、やっぱあるよ。そんなの不公平だと思わない?」
「まぁ、目指す場所は同じでも、だれもが同じスタートラインから出発。てわけにはいかないってのも事実だわな」
「でしょ? 秋芳君がうらやましいよ、古い呪術の血筋に生まれて、名門の賀茂家の養子になれたなんて、生まれも育ちも僕とは大ちがいだ」
「……ちょっと天馬、いい加減に――」
「俺はおまえがうらやましいけどな」
「え? なんでさ、なんで秋芳君が僕をうらやましがるの?」
「天馬には両親の思い出があるだろ? 俺にはそれがない。まったくない。母親は俺を生んですぐに死んじまったし、もの心ついた頃には賀茂の家に養子に出されて父親との交流なんてほとんどなく、その父も早くに死んだ。賀茂家で育ったと言うが、ガキの時分から山にこもって修行修行の毎日だったからな。いわゆる『家庭』の記憶なんてないんだ。同じ年頃の子が家族と一緒に食事したり遊園地に行ったりしてるのを後から知って、そういう生活に憧れたもんだ。天馬はどうだ? そういう家族の交流ってあったか?」
「うん……、父さんも母さんもいそがしかったから家族旅行とかはなかったけど、たまに仕事場に遊びに行ったりしてたっけ……」
天馬の脳裏に幼い頃の記憶がよみがえる。母にお願いして試作段階の式神を使わせてもらったことがあった。あの蜘蛛の形の式神はなんという名だったか――。
「あと遊んだ記憶もないな。滝に打たれ、山々を駆け、真言や祝詞をおぼえ、唱える毎日……。友達といっしょに遊んだり、アニメ見たりゲームしたりしてる同い年の連中がうらやましかったよ」
ふたたび天馬の脳裏に記憶がよみがえる。誕生日にもらった携帯用ゲーム機。当時流行ったゲームソフトもついてきた。
「俺は生まれてから十余年を修行に費やし、ありとあらゆる娯楽を犠牲にして今の力を手に入れたんだ。これってそんなに不公平か?」
「…………」
「俺にないものを天馬は持ってるし、天馬にないものを俺は持ってる。みんなそうだろ?特別なものなんてなにもないってことに関してはだれもがほとんど同じなんだ。 だれもが一長一短のある個人に過ぎない。生まれついての稀有な才能だの秀でた能力だのなんて、香辛料みたいなものさ。あれば料理の味が引き立つが、それだけで料理全体の出来を左右したりはしない。今できることだけをすればいい」
「そうよ天馬。不平や愚痴を言うヒマがあったら努力するのが大切よ。……ま、今のあなたの言葉って本心からのものじゃないんでしょうけど。だって天馬はそんなウジウジするタイプじゃないものね」
「京子ちゃん……」
「天馬が小さい時からちゃんとがんばってるの、あたし知ってるんだから」
「あ、そうだ! それだ、それもあった」
「「それって?」」
「京子との思い出だ。おたがいの小さい頃のこと知ってるんだろ? くそっ、うらやましいぜ」
期せずしてハモった京子と天馬の問いかけにも、わずかに眉をしかめてそう述べる秋芳。
「また蒸し返してる……」
「ああ、もっと早く京子に出逢いたかった! そして俺は小一の時にプロポーズして、そのネタで小学校の六年間京子に『あいつあたしにプロポーズしたのよ、うふふ』てバカにされ、 中学校でも三年馬鹿にされ、高校でも三年馬鹿にされ、そして今だに夕食の時に馬鹿にされる……。そんな新婚生活がしたい!」
「んも~、そんなこと大声で言わないの!」
「ハハッ、本当に仲が良いね。二人とも」
天馬の顔からうつろな色が消え、いつもの明るい表情がもどる。と、その時――。
クツクツクツ――。
秋芳のものでも、京子のものでも、天馬のものでもない、不気味な笑い声が響いた。
もはや秋芳も京子も『だれ?』とは口にしない。即座に見鬼を凝らして気配を探る。
妖しい気配は壁から、壁にかかった掛け軸から発せられていた。
掛け軸には川を流れる舟の姿が描かれている。その舟の上に一人の老人が、例の小さな老人が乗っていた。笑い声はその老人のものだ。
絵の中の舟が動き、見る見る大きくなる。こちらに、絵の外側へと迫ってきているのだ。本紙いっぱいまで迫ると、舟から老人が降り、『現れ』た。人が、絵の名から抜け出てきたのだ。
「また幻術? もう驚かないわよ」
「クツクツ……、飽きるにはちと早いのではないかな?」
老人とは思えない、若々しく豊かな情感を感じさせる声。
「ほれ、これはどうじゃ」
老人の声が京子のすぐ隣から聞こえた。
いつの間に移動したのか、秋芳がいるはずの場所に老人が立っているではないか。思わず身構える京子の前で、老人の口から耳慣れた口訣が唱えられた。
「禁幻則不能惑、疾く」
幻ヲ禁ズレバ、スナワチ惑ウコトアタワズ。
すると老人の姿はかき消え、そこには秋芳の姿があった。
「幻術は二種類ある。その場にないものをホログラムのように作り出すのと、対象の精神に働きかけて、そいつにしか見たり聞こえたりできない幻を知覚させる。今のは後者だ」
「……出会いがしらに人の頭をいじるとか、ここのいやらしい罠とか、もう、ね。趣味悪すぎ。急急如律令!」
京子の打った木行符はつる草と化して老人を捕らえようと展開し、それを見た老人は金行符を取り出し、金剋木で打ち消そうとする。
だがその直前。京子は呪力を投与してつる草と化した木行符の術式を組みかえた。
バチリッ。
紫電がほとばしり、つる草から一変、雷の鞭と化した木行符が老人の体を打った。
かに見えたのだが、雷は老人の手にした針に吸い込まれていた。金行符を針に模して、文字通り避雷針にしたのだ。
「雷とて木気は木気。金気で剋するのが道理よ。あわてて下手を打たなければ造作もない。しかしその齢で雷法をあつかえるとは珍しいのう、これは愉快。なかなか楽しめそうじゃ」
老人はそう楽しげに言ったが、その口ぶりが楽しげなのに反して表情はまったく変化しない。機械的に唇が動き言葉を口にしているだけ、まるで口だけが機械仕掛けで動く能面のようだった。
「それ、返すぞ。風っ」
手にした針を大きく振るうと、墨を溶いたかのような重たい風が強烈に吹きつけた。漆黒の颶風が御座の間を吹きすさぶ。
「急急如律令」
激風の中、一枚の呪符が舞った。金行符。
風は木気と金気のいずれかに属する。これ見よがしに針を振るう動作で金行符を打ったかのように見せて、実際は木気の風術をもちいたのを、京子は瞬時に見抜いていた。
金剋木。五行相剋の理にもとづき、漆黒の風は相殺される。
「あわてて下手を打たなければ造作もない。だったわね。そんなせこい手は通用しないわよ」
「ほっ! 目ざといのう、お嬢ちゃん。クツクツクツ……」
秋芳は不気味に笑う老人の姿をあらためて見る。杖を手にしているが足腰が悪そうには思えない。 まっすぐに伸びた白い髪に白い髭は鶴のような印象を感じさせる。まるで闇夜を切り取ったかのような漆黒の小袖と羽織。なにより不気味なのは老人のかけている血のように赤いレンズの入った眼鏡だった。眼鏡といっても現代の眼鏡ではなく、時代劇に出てくるような紐つきの鼻眼鏡だ。
霊力はほとんど感じない。もちろん無いのではなく、隠しているのだ。これほどの隠形の使い手は秋芳が今まで直接会った中では担任講師の大友陣くらいだろう。
(いや、それ以上かもな……)
内に秘めた巨大な霊力がひしひしと伝わってくる。見鬼で感じているのではない、これは本能が知らせているのだ。
こいつは、強いと。
さらに――。
(霊相が微妙にずれている?)
どうも身におびた霊気の形や流れが妙だ。どこがどう妙かと説明はできないが、おかしい。人の気ではない。
この老人、人にあらず。
「ご老人のその眼鏡、ずいぶんと古そうですが、鼈甲ですか?」
「む? おう、いかにも。これは天文の頃より愛用しておる玳瑁作りの年代物よ。宣教師よりちょうだいした、本物の舶来品じゃ」
「ハイカラですね」
「あの当時はの。義隆や義晴よりも先に眼鏡をかけたのは、なにを隠そうこの儂じゃよ」
日本へ眼鏡が伝わったのは1551年。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが周防の大名、大内義隆に献上したのが最初とされている。また室町幕府十二代将軍の足利義晴が所持していたという眼鏡は現存しており、これが日本最古の眼鏡ということになる。
この老人は室町時代から生きていると、そう言っているのだ。
「わたくし、賀茂秋芳。陰陽の先輩に挨拶もうしあげます。さて? 先輩のことはなんとお呼びすればよろしいでしょうか?」
「ちょ、ちょっとちょっと、秋芳君。なんでそんなにかしこまってるのよ!?」
「相手は一応お年寄りだからな、とりあえずは礼をつくすさ。俺は敬老の精神を持ち合わせているんだ」
「ふぅむ、儂の名か……。さてさて、なんと名乗ろうかのう? 加納随天か天竺徳兵衛か仁木弾正か、多くの者が多くの名で呼ぶゆえ、名乗りにこまるのう」
「では……、果心居士とでもお呼びしましょうか?」
「ほ! これはまた懐かしい名じゃ、たしかにそのように呼ばれ、名乗っていた時もあったわ」
「果心居士って、まさか本物……?」
果心居士とは七宝行者とも呼ばれる室町時代後期の呪術師で、特に幻術に長けていたという人物だ。今の世の人ではない。
「その果心居士がなぜ私の友人をかどわかすような真似をするのです?」
「なに、ほんの座興よ。あちらこちらを歩いておると、呪の道を歩まんとする雛を、おぬしらを見つけたのでな、ついついからかいたくなってしもうたのじゃ」
「人が悪い。さらうだけならともかく、頭の中をいじるのは感心しませんね」
「いじってはおらぬ。少々なでた程度じゃ」
「――ッ!」
老人、果心居士に食ってかかろうとする京子だったが、秋芳に目で制される。
「座興はこれにておしまい。私たちは帰りますので」
「まぁ、待て。せっかくじゃ、もう少し遊びにつき合ってもらおう」
「いい加減にしてください」
「術くらべなど、どうじゃ? 先ほどのおぬしの持禁といい、嬢ちゃんの反応といい、そこの『秀頼様』とは大ちがい。雛だと思いきや、たいした成鳥よ。これは久々に楽しめそうじゃ」
秋芳は無言で京子と天馬をうながし、二人を先にしてその背をかばうように退出しようとする。
「行かせぬよ――」
目の前の戸が消え、壁になった。
「幻術!?」
「いや、これは本物の壁だな。部屋を、この空間を直にいじったんだ」
「なんでもありね、もうっ」
「ごめんね秋芳君、ごめんね京子ちゃん。僕が捕まっちゃったからこんな目に、僕のせいで、ごめんね……」
「天馬があやまることはないわ。悪いのは百パーセントあのジジイなんだから」
「そうだぞ天馬、おまえにはなんの落ち度もない」
「クツクツ、行かせぬよ。さような無礼、断じて許さぬ」
「……無礼はどっちだコラ。人様をかどわかし、くだらん座興につき合わせようとする。そっちこそ無礼千万だろうが」
無礼に無礼で返すのは、畜生の所業。という言葉があるが、礼を欠く者に礼は要らん。という言葉もある。かしこまった口調を改め、怒気もあらわに果心居士をねめつける秋芳。
「存外つまらぬことを言うの。儂らの世界において『礼』とはすなわち『技』を指す。『技』とはなにか? 古くは神と人、のちには人と人とのつながりによってずる力。それを良くもちいるための技、作法、式こそ『礼』じゃ。おぬしの言うところの道徳だの礼儀作法だのも、もとを正せばこれにあたるがの。あいにく儂らの世界では『礼』はより原始の姿でもちいられる。技のともなわぬ形だけの『礼』など、たんなる懇願。いっそ無礼じゃ。儂はここでそのような『礼』をつくす気はない」
「破落戸の屁理屈ね」
「ああ、まったくだ。今の屁理屈を孔子様にむかって言ったらどんな言葉が返ってくるだろうな」
「なんとでも言うがよい。そちらにその気がないのなら、その気にさせるまで――。秀頼様、いやさ百枝天馬よ!」
「ええッ!? ぼ、僕?」
「――すべての中心がおのれであれば、おのれを活かせば世界も生き、おのれを壊せば世界も滅びるが道理。ならばおのれの思うがままに生きれば、それこそが世界を支配することに他ならない。誰にも負けることはない。勝つ。負ける。それは心のありよう。欲しいものを手に入れ、不要なものを壊す。おのれが世界の中心なのだ。手に入らぬものはいらぬもの、壊せぬものは必要なもの――」
「天馬! こいつの言葉なんて聞いちゃダメ!」
「おのれの思うがままに生きる力。欲しくはないか? 欲しければくれてやろう。目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ。力よ、目覚めよ……」
果心居士の言葉。その一言一言が呪詛となって天馬の心を侵し、脳を蝕む。
ふたたび虚ろな表情を浮かべ、うなだれる。
「……ごめん、秋芳君。僕はやっぱり君がうらやましい。君の力がうらやましい。僕は君みたいな力が欲しいんだ。ごめん、ごめん、ごめん、ごめんごめんごめんごめんごめんごめん――――」
謝罪の言葉を連呼する天馬の身体に妖気が満ち、みるみる巨大化していく。身につけた朱金色の衣冠束帯にラグが走ったかと思うと、それは豪華な衣装から一転、武士の甲冑へと変わった。
やせていた少年の身体は三メートル近い巨躯へと変貌した。
「どうじゃ? 頭の中をいじるとは、このようなことを言う」
「うそ、でしょ……?」
「……人の心には誰しも陽と陰がある。風の流れや川のせせらぎなど、この世界を形造る森羅万象にも同じように陽と陰がある。その陰に見入られた者は外道に堕ちると言われている。人ならざる、異形の存在へ。その法は外法と呼ばれ、人の世に今もなお密やかに受け継げられている。果心居士はそれを使ったんだ」
「もとに、戻せるの?」
「戻すさ、絶対にな」
『凄い力だ……!』
なんともいびつで不自然なことに、巨漢と化した肩の上。そこには依然と変わらぬ天馬の童顔があった。その口から野太い声が響く。
『こんな凄い力があればなんだってできる気がする。……ねぇ、秋芳君。僕と、戦って』
「天馬!?」
「悪い京子、少し下がっていてくれ。天馬のことは俺にまかせろ」
「でも……」
「頼む」
「……わかったわ」
「さて、天馬……。つうかまたえらい格好になっちまったな。秀頼っていうか『戦国BASARA』の秀吉だぞ、そのガタイは」
『最初に会った時から僕はずっと秋芳君に憧れてたんだ。僕にはない力を持った秋芳君に。僕は今、凄い力がある。秋芳君と戦いたいんだ』
憧れの感情。
それは秋芳にとって縁のないものだった。今までその霊力のため恐れられたことはあっても、憧れの目で見られたことはない。
「俺と戦いたいって言ったが、ダメだ。術くらべもいい、組み手もいい。だがこんな形での戦いなんてまっぴらだ。そんなかりそめの力で戦っても嬉しくないだろ? つまらないだろ?」
『なんであれ力は力だよ、いやだと言っても僕はやめないからねっ!』
巌のようになった拳を握り、高く掲げて威嚇する。
「そんな手で殴られたらぶっ潰されちまうかもな。天馬、おまえはそんな無意味で理不尽な暴力を振るうようなやつじゃない」
『うるさい、うるさい、うるさい!』
言うやいなや天馬は拳をふるい、秋芳の胴に重たい一撃を喰らわせた。
壁際まで大きく吹き飛ばされ、床にころがる秋芳。
「え、うそ……、なんで、なんで避けないのさ?」
「……天馬なら殴らないからだ。おまえは、そんなことはしないって」
金臭い。口の中を切ったようだ。
「そんなこと、そんなことないよ。そんなこと……」
「俺は戦わないよ、天馬。こんなこと、もうよそう。俺はおまえに、俺を殺させたくない」
肉がひしゃげ、骨がきしむ。人を殴った嫌な感触の残るみずからの拳を見下ろす天馬。
そう、自分は友達を殴ってしまったのだ。
その事実を認識するとともに、酩酊していたような高揚感は消え去り、後悔の念が胸に満ちる。
全身から力が抜け落ち、妖気も霧消していく。甲冑にラグが走り消え失せ、部屋にいた時に着ていた服の姿になった。
糸の切れた操り人形のようにくずれ落ちそうになるのを駆け寄って抱きとめる秋芳。
「京子、ちょっと天馬を頼む。俺はこのじいさんと話をつける」
「口から血が出てるじゃない。あたしが代わりに…」
「いや、俺がやる。君はこんな妖怪じじいと因縁を生じさせる必要はない。それよりも気をつけろ。俺が相手をしている間にも、妙なちょっかいを出してきそうだ」
「……ん、わかった。天馬のことはあたしにまかせて」
「それと、とびきり頑丈な結界を張っておくんだ。大技を使う」
「そんなに手強い相手なの?」
「ああ、強い」
御座の間の中央。果心居士と対峙する秋芳。
「ようやっとその気になったようじゃの。良し良し! しかし実にあっけない。あの小僧め、おぬしと一戦するかと思いきや、儂の与えた力をろくに振るいもせずに退くとは……」
「天馬はあんたが思ってるほど馬鹿じゃないってこった」
「ふむ、ところで今さっき小僧に殴られたおり、おぬしはなにか術を使ったはずじゃ。そうでなければあの勢いで殴られて無事ではすむまい。いったいどのような術をもちいたのじゃ?」
硬功夫。あるいは鉄布衫功と呼ばれる気功術。体内の気を張り廻らせて肉体を鉄のように硬化させる術。長続きするものではないが、上手く呼吸を合わせれば小口径の銃弾くらいは防ぐことが可能だ。
思わずそのようなことを口にしようとして、とどまった。
なぜそんなことを今から戦う相手に教えなければならないのか?
「あー、なんもしてないね。あのシチュエーションでこっそり防御するとか、かっこ悪いだろ? そんなことしないって。黙って普通に素直に殴られたからね、俺は。……つうか今の甲種言霊か。つくづく人の頭をいじるのが好きなじじいだな」
「ふむ、さすがに効かぬか」
「あたり前だ」
秋芳はふと思う、能力バトルもの作品に登場するキャラクターの中には、戦いの最中にもかかわらず、自分の能力についてベラベラと説明する者がいるが、どうしてそんな種明かしをするのだろう?
勝ってもいない相手に手の内をさらすなど愚の骨頂ではないか。
視聴者や読者に能力について説明したければ、ナレーションを入れるか、心中のモノローグで言わせればいいのに、と。
「では、ゆくぞ。――近ごろはこう言うのだったな、急急如律令」
果心居士が手にした杖を無造作に放り出した。杖は中空で大きな音を立てて砕け散り。その木片が無数の杭となって襲いくる。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
臨む兵、闘う者、皆陣を列べて前を行く。秋芳は神仙系の早九字を高速で結印し、格子状をした呪力の防壁が出現。飛来する杭をすべて防いだ。
「まだじゃ」
食い止められた杭が蛇に変化し、呪壁を食い破ろうとうごめく。
「花淵善兵衛通りゃんせ!」
岩手県の民間伝承に伝わる蛇除けのまじない言葉。秋芳はそれに呪力をくわえることで本物の『呪』に仕立て上げた。以前にもちいた雷除けの『くわばら』同様、たんなる力づくの甲種言霊ではない精巧にして玄妙な言霊術。
蛇たちはいっせいに動きを止め、床に落ち、煙を上げて木片に戻った
「まだじゃまだじゃ」
果心居士が結印し念を凝らすと、木片が一つにかたまり一匹の竜と化して牙を剥く。だが秋芳はそれには目をくれず地面に向けて刀印を切る。
「PIGYAAAッ!」
いつの間にそこにいたのか、奇怪な声を上げて卒倒したのは双頭のねずみだった。
竜は目くらましの幻術。地を走るねずみの姿をした呪詛式こそ本身の攻撃と察し、それを祓ったのだ。
「珍しき蛇除けの呪。そして幻術に惑わされぬその眼力。良し良し! さぁ、次はおぬしからくるがよい」
「そうさせてもらおう。京子」
「なに?」
「俺の上着に入ってる五行符。全部打ち出せ」
もはや理由は訊かない。京子は言われた通りに自分の着ている、秋芳の上着に入っていた木火土金水の五行符をすべて打ち放った。
桜吹雪のごとく呪符が舞い散る。
「東方太歳星君、南方荧惑星君、西方太白星君、北方辰星君、中央鎮星君。陰陽五行の太極に位置する陽中の陰と陰中の陽の星々、つどいて散り、散りてつどえ。急急如律令!」
木気は火気を生み、火気は土気を生み、金気は水気を生み、水気は木気を生む――。
陰陽道の根柢を成す五行思想にもとづいた相生相克を利用した呪術。
相生を重ねるごとに威力を倍加させた呪力が純然たる破壊の力を生じて荒れ狂い、御座の間を吹き飛ばす。
「やりおるわ! オン・マリシ・エイ・ソワカ」
果心居士は摩利支天の真言を唱え、結界を展開。怒涛の勢いでせまりくる呪力の波を防ぐのではなくすり抜けた。陽炎を神格化した天尊である摩利支天は穏形を司る象徴だ。
たわめた人差し指を親指で弾く弾指を三度おこない、さらに摩利支天の真言を唱える。
「サラティ・サラティ・ソワカ――オン・マリシ・エイ・ソワカ」
調伏相手を打擲する摩利支天の神鞭法。呪力の鞭がうなりを上げて秋芳を打つ。
「苦哉大聖尊、入真加太速、諸天猶決定、天人追感得、痛哉天中天、入真如加滅。急急如律令」
あらゆる厄災から身を守る道教の呪文。呪力による堅固な盾が生じ神鞭を防ぐが、その衝撃までは消せなかった。衝撃が貫通し秋芳の全身の霊気を、霊体を打ち据える。痺れをともなう痛みが身体中に走る。
やはり、強い。
秋芳はあらためてそう思う。先ほどの五行方陣の術式に隙がったとは思えない。それを摩利支天の隠形法をもちいたとはいえ回避するのは、この果心居士と称する怪老がそれだけの実力をそなえているからに他ならない。
(だが摩利支天の穏形術。そうそう連発できるものでも持続できる術ではないはずだ。仮にできたとしても、貫く!)
あえて一枚ずつ残した五行符に気を凝らし、素早く結印する。
「東に少陽青龍、南に老陽朱雀、西に少陰白虎、北に老陰玄武、中央に太極黄龍。陰陽五行の印もって相応の地の理を示さん。急急如律令!」
さきほど使用した五行方陣に匹敵する威力を持つも術式の異なる呪術が炸裂。四神を象った呪力が生じて荒れ狂い、呪術の嵐がふたたび吹き荒れる。
秋芳と果心居士の戦い、術くらべは終わる気配を見せない。
「凄い……、これが、呪術。これが対人呪術戦……」
秋芳との訓練でそれなりに力と知識を得たと自負していた京子だが、それは思い上がりだったと痛感した。
不動金縛り、符術、セーマンドーマンの呪壁、甲種言霊、幻術、火界咒、兎歩、雷法、厭魅、蠱毒、持禁――。
千変万化の呪。古今に知られた数多ある練達の技。ありとあらゆる呪術の応酬。
その中には京子がいまだ見たこともない呪術もあった。霊気が渦巻き呪力が交差する。秋芳と果心居士、二種の力が激しく入り交じり、熱気とも冷気とも知れない霊風が吹きすさぶ。
まるで戦う二人を中心に、竜巻が荒れ狂っているかのように。
激しい、あまりにも激しい呪術戦の余波を受け、御座の間は天守閣のある御殿ごと崩壊した。それでもなお周囲にあるかがり火と月明かりの光の下で、なお両者は術をくり出し続ける。
京子があらかじめ堅固な結界を展開していなければ霊圧にさらされ、こちらの身もただではすまなかっただろう。それでもなお身体が、霊体が焙られているようだ。
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
秋芳が不動金縛りとともに苦無を象った簡易式を打つ。だがそのどちらも狙いは微妙にはずれ、果心居士にはとどかない。
「クツクツ、手元が狂ったかの? そろそろ疲れが――ッ!?」
困惑の表情を浮かべ身を固める。
「こ、これはどうしたものか? なにゆえ身体が動かぬ!? 今のぬしの金縛りは不発に終わったはず……、はっ!」
視線を落としてそれを見た瞬間、その表情は困惑から驚愕に変わった。
金色の月光に照らされて落とすおのれの影に苦無が刺さっている。
「こ、これは影縫い! ううむ、さしもの儂もこのような忍びの術は門外漢よ、返しかたは知らぬ」
「そうか、なら詰みだな。今の状態では印も結べず、ほとんどの術は使用できないだろ。負けを認めてもらおうか」
「なんのまだまだ、無粋を承知で力業にいかせてもらおう!」
「はぁ?」
「喝―ッ!」
叫びとともに怪老の矮躯から途方もない霊力が爆発的にあふれ出た。
完全に『かかった』術を力づくで解除する。圧倒的な霊力呪力があるからこそ可能な力業。影に刺さった苦無は地面から押し出されるように抜け落ち、そのまま影に飲み込まれた。
秋芳の影縫いは高い完成度で発動したが、果心居士の霊力呪力にくらべると、それでもまだ差があった。技術ではなく総量の差。圧倒的なパワーの差だ。
「おぬしの呪、倍にして返すぞ!」
影が大きく伸び、うねり、漆黒の竜と化す。その咢には秋芳の苦無が牙となってならんでいた。
影の竜が猛烈な勢いで秋芳を喰らわんと迫る。それはまるで黒い瀑布のよう。
「オン・ロホウニュタ・ソワカ」
一千もの光明を発することによって天下を照らし、その光により諸苦の根源たる無明の闇や悪鬼邪気を滅尽するという日光菩薩の真言。
眩い閃光が奔り、影の竜はあっけなく消滅した。秋芳の簡易式符のみがたゆたう。
「なんと、光か」
「そうだ、光だ」
秋芳は自分の簡易式符を回収しつつ、うんざりした顔で応える。
「なるほど、まんべんなく光をあてれば影は消える。その手があったか」
あと真っ暗闇にして影そのものを消すことでも影縫いから逃れられるけどな。そう胸中で思うもけっして口にはしない秋芳。
「愉快、愉快、ぬしとの術くらべ。まことに面白し。さぁ、続きじゃ」
「……いや、勝負あっただろ」
「なにを言う。儂はこのとおり健在ぞ」
「完全にかかった術を術理にもとづき解くのではなく、力づくでどうこうした時点で、この術くらべ。呪術勝負はあんたの反則負けだろ、じいさん」
「否。力業もまた技なり。呪術者が目的のためにもちいるのなら、それがなんであっても呪ぞ」
ビキリ。
これがコミックだったらこめかみに怒筋マークでも浮かんでいたことだろう。さんざん術くらべ術くらべとごねたから、しぶしぶ『術』限定で相手をしてやって、なおこのようなもの言いをする。
年寄りだろうと人ならざる存在だろうと、もはや加減はいらぬ。秋芳はそう決めた。
「……そうかい、なら俺のこれも呪だな」
すっ、と歩を進める。次の瞬間、果心居士は両腕をつかまれていた。
「ぬっ?」
「ふんっ」
投げた。
相手の両腕を肘が下になるよう逆に交差させて極め、そのまま背負い投げたのだ。受身を封じるどころか投げた瞬間に両肘の関節を破壊し、脳天から地面に叩き落す。実にえげつない殺し技だ。
いやな音を立てて地面に激突、その体にさらにストンピングのかかと落としを放つ。顔面が眼鏡ともども打ち砕かれ、血に染まる。
白髪をむんずとつかみ、持ち上げたあと、思いきり下に引き落としながら右膝を蹴り上げる。鼻の軟骨が内側に陥没する感触。さらに――。
蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る、殴る、蹴る、蹴る、殴る、殴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る、殴る、殴る、蹴る。
さらに、蹴る。
そして、殴る。
また、蹴る。
一方的に振るわれる暴力の前になすすべもなく、老人の矮躯はボロ雑巾のようにわやくちゃにされ、地面をころがる。
「うっ」
その光景に思わず目を背ける京子。こんな暴力を目のあたりにしたのは、始めてだ。
霊災が人を襲い、喰らう。酸鼻極まる場面は以前にいやというほど見たことがある。だがその種の暴力と今の暴力では質がちがう。
生身の人間が、生身の人間を容赦なく痛めつける。それも痛めつけているのは他ならない自分の恋人なのだ。
それが怖かった、悲しかった、自然に涙があふれてきた。
「もう、やめて、やめて。もうやめてあげて! 秋芳君、お願い。その人死んじゃうわ……」
ひっ、えぐっ、としゃくり上がる嗚咽をこらえて。そう懇願する京子の声を耳にして、ピタリと動きを止める秋芳。
「……安心しろ、京子。こいつは最初から生きてはいない」
「どういうこと……?」
「ひゅひゅひゅ、やはり気づいておったか。しかしこの仕打ちは惨い!」
首があらぬ方を向き破壊された喉からすき間風のような声が漏れ出す。
四肢は不自然にねじ曲がっている。顔はまるでザクロのように裂け、もはや容貌の判別ができないほどだ。
だがそれでも、それでも一滴の血も流れ出ていない。
そこにあったのは死体。老人の骸だ。ろくに流血がないということは、心臓が停止してからそれなりの時間が経っているはず。
骸がつつつ、と起き上がる。まるで頭頂部に糸のついた人形が上から引っぱられて立ち上がるような、不自然な起きかた。人の身体はそのような動きはしない。しないはずだ。
もとより異様な老人だったが、さらに異様だ。
京子は見鬼を凝らし、視た。
老人からにじみ出る霊気は、ほとんど減退していない。満身創痍の身体から――いや、身体があるあたりの空間から霊気がわき出ている。
身体が霊気をおびているのではない。
霊気が体に宿っている。
霊気が主であり、人の身が従。従たる人が死んでいるにもかかわらず、主たる霊気はいまだ健在なのだ。
「動的霊災……」
「ぬしらの基準で言うと、そうなるのかの」
「タイプ・スペクター……、いや、タイプ・オーガ。尸解仙か?」
尸解仙。
道教における仙人になる方法の一つ。晋の葛洪が記した抱朴子という方術書には現世の肉体のまま仙境に至り天へと昇るのを天仙。天へ昇ることなく地にいて名山に遊ぶのを地仙。いったん死んだ後で蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが尸解仙とし、尸解仙を下位としている。
だが、不老不死を達成するために本来の肉体をいったん死なせ、黄泉還るのは並の術者にできる芸当ではない。死を超越した呪術師。それが尸解仙なのだ。
「ふむ。まぁ、あたらずとも遠からず。といったとこか。外法の賜物という点では似たようなものよ。しかしよう傷めつけてくれたものよ。この身体、もはや使い物にならぬわ」
「自業自得だろ、自分から粉を吹っかけたんだ。悪く思うな」
「頭で納得できても心が許さぬこともある」
「難儀なじいさんだな~、まだやろうってのか?」
「然り。ただもう術からべなどとは言わぬ」
「ほう? じゃあなんだブチ切れたから全力でケンカでもしようってか?」
「さような散文的な言いようは好かぬ。存分に死合おうぞ!」
「死合うって、中二かよ!」
果心居士の両腕が、折れたはずの腕が流れるように空中に呪印を描く。幾重にも幾重にも――。
「積層型呪印とは大仰な…。京子!」
「は、はい!」
「動かなくていいから、ちょいと力を貸してくれ。その場から援護を頼む。やり方はおまかせだ」
「わかったわ、まかせてちょうだい!」
彼と一緒に戦える。彼の手伝いができる。彼の背中を守れる……。喜びが胸の奥から生じ、さきほどの怖さ、悲しさはいっぺんに吹き飛んだ。
積層型立体呪印。禍々しい紋様をしたそれが脈動し、そのたびに大きく膨らむ。そして、爆ぜた。
黒い奔流がほとばしる、それらはたがいに絡まり密集し、異形の姿を形作る。
一体、二体、三体……。たくさん。
「かの鵺殺しの源頼政とて、平氏の大軍の前には敗れた。さぁ、おぬしはこの数にどう対抗する?」
累々たる物の怪が、式神とも動的霊災ともわからぬ化け物どもが現れた。
ひとつ目の大入道、脚が一本しかない犬、ふたつ首の女、足のある蛇、手足の生えた琵琶、角ひとつあるもの、角ふたつあるもの、牛ほどもある蝦蟇、馬の首をしたもの、這うもの、踊るもの、顔のないもの。
口だけのもの、後ろに顔のあるもの、首だけで宙を飛ぶもの、ぬるぬるとしたもの、長きもの、短きもの、翼あるもの、足で歩く壺、絵より抜け出した薄き女、足なくして這う狼、腕四本あるもの。
目玉手に持ちながらゆくもの、身体中に乳房ぶらさげたる女、数知れぬ蟲、手足のある目玉、髪の毛だけのもの、腐りしもの、骨だけのもの、肉だけのもの、得体の知れぬものども……。
同じ形状のものは一体としていないが、全体としての印象は似通っている。それらは現代の霊災ではなく、はるか昔の平安の夜をうごめき、跳梁跋扈していた妖怪変化の群れ。百鬼夜行を彷彿とさせる。いや、百鬼夜行そのものだった。
まぼろしの城を照らす蒼い月光の下、百鬼夜行が牙を剥く――。
「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令!」
京子の打った五行符が光を放ち、呪符同士を結びつけ、光の呪印セーマンが煌めいた。その燦然たる破魔の霊気に照らされ、式神たちが絶叫しながら目を覆い、退散する。中にはそのまま消滅してしまうものさえいた。
汎式ではない、夜光の作り上げた帝国式陰陽術にある百鬼夜行を避けるとされる秘術。
「なんと! 非凡な霊力と思うていたが、これほどとは!」
望めば望むだけ霊力があふれてくる。これが京子の持つ如来眼の力だ。
大海から押しよせる海嘯のごとき霊力が式神らを駆逐し、果心居士の動きすら止める。
秋芳はその隙に金色をした最上級の紙幣。冥銭を取り出し剣指にはさむと、念を凝らし口訣を唱える。
「玉帝有勅、三昧真火神勅、形状精光、上列九星。急急如律令!」
冥銭が燃えて火球と化し。赤、青、白と熱が上がるごとにその色を変え、巨大化する。完全なる赤色をした純然たる火。三昧真火が完成すると、それを果心居士目がけて投げつける。
「三昧真火!? それは反則じゃ!」
水剋火。それを防がんとありったけの水行符を投げ打つ。吹雪さながらに宙を乱舞する呪符。そのどれもに並々ならぬ呪力が込められているも、そのことごとくを三昧真火は焼き払う。
「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」
龍索印を結印し、仏教の護法神である天部の諸尊。十二天のひとつ水天の真言を詠唱。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ!」
錐のような水滴が、銃弾のような雨が、大砲のような水流が火の勢いを消そうと渦巻き、霧の壁が、水の楯が、氷の砦が火を防ごうと展開するも、そのすべてが焼き払われる。高熱の水蒸気が吹き荒れ、まるで灼熱地獄がこの世に顕現したかのような有様。
いまだ勢いの衰えぬ三昧真火。あたってはたまらぬと、無数の式神とそれを吐き出し続ける呪印ごと楯にしてぶつける。強大な呪力と呪力とが正面衝突し、轟音がとどろき空間が震える。それでやっと三昧真火を相殺することができた。
「動きが止まってがら空きだ。京子、合体呪文で修祓するぞ、気を合わせろ」
「了解!」
「「――奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ、宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず、奇一奇一たちまち感通――天御中主神の威を以って、これなる邪気、瘴気を一掃せん」」
秋芳と京子の打った呪符が光り輝き、列をなして宙を舞う。
秋芳からは黒曜石のような、京子からは真珠のような色をした呪力の軌跡が伸び、果心居士を囲む美しい環を成す。
虹色の霊気が京子を彩り、その美しさをいっそう際立たせる。亜麻色の髪が宙にたゆたい、手にした呪符が一枚、また一枚と蝶のように羽ばたいて果心居士を囲む光の環にくわわる。そして最後の一枚がくわわり――。
「急急如律令!」
「疾く!」
刀印を結び、振り下ろす。
修祓呪術、太一真君の呪法が発動。白と黒、光と闇、剛と柔、男と女、陰陽双つの気に満ちた呪符の光環がたわめ、内側に向かい収斂。巨大なプリズムの万華鏡をのぞいたかのような光の洪水が奔り、清冽清浄な霊気があふれ、果心居士という名の動的霊災を祓い清めた。
妖しき怪老は、消滅した。
「終わった、のよね……」
「ああ、じじいの企んだくだらん茶番はおしまいさ」
激しい戦いのあおりを受けて、周りはメチャクチャだ。もはや聚楽第は瓦礫の山と化していた。
「これ、だいじょうぶなのかしら? 外に出たら模型が壊れてたりして……」
「んー、出てみなきゃわからん。あー、疲れた! 眠い! 眠る!」
「キャッ!?」
秋芳は京子に倒れ込むように抱きしめ、その豊かな胸に顔をうずめ、頬ずりをした。
「あ~、ふかふかだ。すべすべむちむちのマシュマロボディ。天使の褥ってのはこういうのを言うんだろう、な……?」
京子の身体が緊張してるかのように強張っている。ふと見上げれば、その顔に怯えの色が浮かんでいるではないか。
この子は俺に怯えている。秋芳は京子から離れようとするが、そのことに気づいた京子はハッとなって秋芳が離れぬよう抱きしめる。
「ごめんなさい、あたしそんなつもりじゃ……」
「さっきのことか」
「ええ、あなたのあんな姿、始めて見たから、その、怖くって……」
「いいんだよ、女の子はそれで。女性ってのはリアル暴力にはドン引きするもんさ。血を見て嬉々となるほうがおかしい」
「よくないわよ。あたし、少しは強くなった気でいたけど、全然だったわ。まだまだね、こんなんじゃ陰陽庁のトップになんかなれない。ああいうのにも慣れなくちゃ」
「いいよ、そんなのに慣れるな」
「だめよ」
「殴るのも殴られるのもまっぴらだ。手に残る感触、骨の折れる音、金臭い血の臭い、不快極まりない。……なぁ、京子。呪捜官は銃を使うし、祓魔官の中には刀を使う人もいるよな」
「ええ、神通剣の木暮さんとかがそうよね」
「あのじじいの言葉にも一理ある、陰陽師がもちいるものはなんであれ呪と言えなくもない。刀で斬られるのは殴られるよりも痛いし、銃で撃たれるのはもっと痛い。それは暴力だ。呪術は、暴力だ」
そうだ、暴力だ。あたしはいままでそうと知らずに呪術を使っていた。こくりと無言でうなずく京子。
「暴力によって生じる傷の痛みには、それを越える覚悟と気迫で耐えればいい。武の道、呪の道を歩む者ならそれがあたりまえだ。だけどそれに『慣れ』てしまうと、他の人にまでその痛みを当然と強いるようになってしまう。人々の上に立つ人間がこれじゃあだめだ。慣れるのではなく、耐えれるようになってくれ」
「……ねぇ」
秋芳君は人を殺したことがあるの?
口まで出かかったその言葉を寸前で飲み込む。あたしはなんてことを訊こうとするのだろう!?
「なんだ?」
「……ねぇ、秋芳君。あたしあなたのことが好き」
「俺もだ」
どちらともなくそっと唇を交わす。今日の口づけはいつもよりも少し情熱的だった。
天馬を自室のベッドに寝かそうと横にしたさい、その目がうっすらと開いた。
「お、目が覚めたか」
「秋芳君? 僕、寝ちゃってたの?」
「ああ、そうだ」
「……なんだろう、すごく変な夢を見ていたような気がするけど……、思い出せないや」
「夢を無理に思い出そうとするのは心に悪いぞ」
「……ちがう、あれは夢なんかじゃない。あれは――」
「先に言っておくぞ天馬。あやまるな落ち込むな気にしても気に病むな」
三人は落ち着いてひと息入れてから模型内で起きたことについて、あれやこれと話をする。煌びやかな造りに幻術を多用した罠。めったにできる経験ではない。過ぎてしまえば良い思い出だ。
誰ともなく座卓の上の聚楽第をまじまじと見る。もはや妖しい気配はしない。異界における果心居士との戦いで模型も破損しているかと思ったが、そのようなこともないようだ。
「あー、でも今日はほんとうに疲れたわね」
「そうだな。て、まだこれしか経ってないのか」
「え? うそ! あれだけいたのに一時間も経ってないの?」
ベッドの近くに置いてある目覚まし時計の針は、いまだ正午を指していた。
他の方法で時間を確かめようとTVをつける。すると――。
『あなたの、TVに、時価ネットたなか~。み・ん・な・の、欲の友♪ ハァ~イ、こちら時価ネット。時価ネットたなかでございます。生放送でお届けする噂のショッピング番組時価ネットたなか。良い物をつねに適正価格でお届け、う~ん、目が離せない。さぁ~て本日紹介する商品はこちら! マジカルビキニ、ドルフィンスイムウェア、レインボーパレオら【渚の女神】セットでございます。こちらにさらに鞍馬山にある千年の霊木を削って作った木刀までおまけにつけちゃいます。さらにさらに! 今回時価ネットからお申し込みいただいた方だけへのサプライズ。ご好評にお応えして〇〇社制オリジナル幻の城シリーズ・城之崎城の模型をプレゼントします! かの徳川家康が駿河を手に入れる為に築城したものの、先に武田信玄に駿河を取られてしまい、逆に攻められ易いので浜松城に居城を変えてしまって、遠江の主城になり損ねたどころか完成さえしなかった残念なお城です。こちらの模型、先着十名様まで限定でございます。さてこの商品、気になるお値段は――。ぜひお早めにご注文ください。ご注文はインターネットとお電話で、ごらんのアドレスと電話番号から時価ネットに連絡してください――』
「またこの番組……、もう秋なのに水着って、てゆうか木刀? 模型? ほんとありえない……」
「――あ、もしもし時価ネットさんですか? 【渚の女神】セット一つお願いします」
「もう、いい加減にしなさい!」
バシッ、と京子の呪符ハリセンが秋芳の顔面に炸裂。
「え、え~と。ここは『もう模型はこりごりだよ~』て締めなくちゃだめなのかな?」
「そんなお約束の締めかたしなくていい! ていうかいつの時代のアニメのオチよ、それ」
闇よりも暗い気配を漂わすマンションの一室。座椅子に深く腰掛けていた老人の身体がビクリと震えた。
羽毛のような白髪を後ろになでつけ、首から下は漆黒の着物。そして血のように赤いサングラスをした、異様な風体の老人。姿形に若干の差異があるものの。それはさきほど秋芳らが修祓した果心居士に似た特徴をそなえていた。
「やだ、ジャーキング? 幼女のは可愛いけど、じじいのはキモい」
床に座り、なにやら難しげば書を読んでいた小柄な少女がそれを見て辛辣な言葉をつぶやく。
「……儂の〝影〟が修祓された」
「あ、そう」
「応仁の頃より使いし影。いささか『くどい』ところがあれど、あそこまで強力な影は他になし。自由に泳がせておったそれが祓われたのよ」
作業に、読書に没頭する少女になんの反応もない。老人の言葉になぞ無関心。馬耳東風のようだ。
「たしか秋芳、と言うたな。あの鬼一法眼や司仙院興仙に勝るとも劣らぬ験力を、呪と武の力を兼ね備えし者。今の世に珍しき逸材。儂に術くらべで勝った褒美をくれてやらねばな……」
クツクツクツ、老人は心底嬉しそうに笑い、思案をめぐらせていた。
なにを与えればあの若者は喜ぶのだろう、と――。
巫女学科
前書き
『東京レイヴンズ RED AND WHITE』に登場するキャラクターを出してみました。
青い空、白い雲、燦々と輝く太陽に紺碧の水面。押しては引く波からただよう潮の香り。
海だ。
浜辺だ。
ビーチだ。
紺色のスクール水着、赤いホルターネックビキニ、白のワンピース、黒の競泳水着、バンドゥ、タンキニ……。多種多様、色とりどりのスイムウェアを着た乙女たちが若く美しい肢体をさらし、自由奔放に戯れている。
その様はさながらギリシャ神話に出てくる妖精のよう。
砂浜から彼女たちの姿をまぶしそうに見つめていた秋芳がぽつりとつぶやく。
「若いって、いいなぁ……」
「やめてよ秋芳、聞いてるこっちが年寄り臭くなりそう」
隣にいるのは秋芳の使役式である笑狸。さらしのようなチューブトップビキニにデニムのショートパ
ンツ姿で、どう見ても女の子にしか見えないが、その正体はオスの化け狸である。
「しかし水に浸かるだけでよくあんなテンションが高くなるもんだ。どうせなら温泉が良いな、温泉」
「温泉も良いけど本物の海に行きたい。こんなプールじゃなくてさ」
そう、ここは実際の海ではない。渋谷にある区営プールだ。空も海も砂浜も潮の香りも、笑狸の幻術によるまやかしにすぎない。
「そうだな、来年の夏にでも伊豆七島あたりの島にでも行ってみるか」
「お待たせ!」
快活な声に振り向くと、あざやかなブルーのビキニ。ビーチバレーの選手が着るようなスポーティーなタイプの水着を着た少女が立っていた。
倉橋京子だ。
「お、今日はいつもの髪型じゃなくてポニーテールか」
「ええ、この水着に合わせてみたの。どう? スポーツ少女って感じが出てるでしょ」
「ああ、すごく似合ってるよ。う~ん、綺麗だ! ビキニのトップスとボトムスの間にはペガサスのような清純と幻想が潜んでいるってのは、このことだな」
「ごめんなさい。後半の意味がさっぱりわからないわ」
「その水着ってこないだの時価ネットのやつか?」
「そうよ、ドルフィンスイムウェア。せっかくもらったんだし、良い機会だから着てみたの」
結局あの時渚の女神セットを購入した秋芳だった。
「これ、なかなか着心地が良いわよ。たしかにイルカさんにでもなった気分で速く泳げそう」
「そうなのか。でもこうして見ると胸とか、かなり窮屈そうに見えるんだが……」
「それがそうでもないのよ。この水着、伸縮性がすっごく良いの。て、どこ見てるのよ、エッチ。んもうっ。ほんっと好きなんだから」
「男はみんなおっぱいが好きなんだよ。まして好きな子のそれならなおさらさ」
「あたしのならいくら見ても良いけど、他の女の子のじろじろ見たりしちゃダメよ? あ、あそこのかわいい男の子が例の子?」
「ああ、そうだ。彼が梅桃桃矢。うらやまけしからんことに、巫女クラスにいる唯一の男子生徒だよ」
「あ~あ、女子たちにもみくちゃにされちゃって、まぁ。ハーレム状態じゃない」
話は、少し前にさかのぼる――。
大正時代のミルクホールを思わせる、上品で落ち着いた模様のレトロな部屋。かすかにただよう香りは白檀だろうか、部屋の様相とあいまって心がやすらぐ。
ここは陰陽塾の最上階にある塾長室。マホガニー製の机をはさんで着物姿をした年配の女性と烏羽色をした狩衣のような学生服を着た青年が話をしている。
陰陽塾塾長の倉橋美代と、賀茂秋芳だ。
「巫女クラスで講師をしろと?」
「ええ、そう。あなたのこの間の野外実習。あれがなかなか評判でね、賀茂秋芳になら講師役をまかせても問題ないと判断したの」
「生徒のみなさんには不評だったようですが……」
「大友先生の報告を聞いた講師のみなさんには理解してもらえたわよ、少々奇抜だけれども、実に理にかなった修練だ。て」
大友先生はいったいどんな具合に報告したのやら。そして講師たちはどんな思惑で理解したのやら。自分達の仕事量を減らして楽するために、そういう流れにもっていってるのではないだろうか? ついつい邪推してしまう。
「そこで今度は巫女クラスを担当してもらいたいのよ、なにも丸一日講師役をしろとは言わないわ。あなたもまだ一応は塾生なんだし。そうね、とりあえず明日からは大友先生の授業にだけは出席してもらって、それ以外の時間は巫女クラスを受け持ってちょうだい」
「なんで大友先生の授業だけは受けるんです? 担任だからですか」
「だってあなた大友先生以外の授業では、穏形して京子さんといちゃついているのでしょう?」
大友陣。
陰陽塾の講師で秋芳や京子たちの担任。右足が義足で杖をついている妙な西国言葉を話す男性で、飄々とした言動で周囲をかき回すこともしばしば。
だがその実力は一流。あなどれぬと見た秋芳は彼の講義の時には京子とおしゃべりせず、黙って授業を受けている。
秋芳は机の上に置かれた白磁のカップに手を伸ばし、その中身をゆっくりと嚥下してひと息つく。
「……このお茶、美味しいですね。馥郁たる香りに豊潤な味わい、まるで本場の龍井茶のようだ」
「京子さんといちゃいちゃしてるのでしょう?」
「茶の香気が薄くなる時期に沸き立った湯を入れたら茶の香気も吹き飛びますよね。香気のない茶は美味しくない。だから熱さの加減には気を使います」
「京子さんとイチャイチャしてるのでしょう? あら、イチャイチャてカタカナ表記だと、なんだか濡れてるみたいでいやらしい……」
「ちょっと下ネタとかやめてくれます? 年配の女性が口にする下ネタとか、ほんと反応にこまるんですけど!」
「あの子とイチャイチャパラダイスしてるんでしょ?」
「してるけどしてませんー、させてくれないんですー。普通に仲良くしてるだけです、淫行とかしてませんからね。穏形して痴漢的なプレイとかまったく、全然ナッシング。皆無です。普通にお話してるだけですよ、ていうかなんで知ってるんですか?」
「うふふ、この塾舎は私の〝城〟みたいなものですからね、知っていますとも。……呪術においておのれの心の持ちようというのは、とても重要なポインです。そのてん恋愛というものは人の心に抗いがたい影響をあたえるもの。呪術を学ぶ者ならば、きちんと知っておかないといけないわ。あなたと京子さんのちんちんかもかもな仲、応援しますよ」
ちんちんかもかも。
男女が仲睦まじくしているさま。
「だからこそ将来のことも考えなくちゃ、私は自由恋愛に賛成の立場なの。だから孫娘のお相手の家柄とか収入とかは特に気にしませんけど、やっぱりちゃんと定職に就いてるかたのほうが安心するわ。秋芳さんは加茂家のかたですし、家柄に関しては問題ないにしても、高等遊民はちょっと、ねぇ……」
「ええ、それはそうでしょうね。俺も『働かざる者、死ね』をモットーにしていますから」
「秋芳さんは家業を継ぐつもりですか? それとも陰陽庁に勤めるつもり? 特に決まっていないのなら、このままここに就職しちゃいなさいな」
「んー、まあぁ、それはいいのですが」
「いいのですが?」
「きっちりみっちり三年間は学生として通いたいですね」
遅れてやってきたモラトリアム。失われた青春を謳歌したい秋芳だ、飛び級などでその貴重な時間を消されたくはない。
「まぁ、たまには予行練習がてら講師の真似事をしてもかまいませんが」
「引き受けてくれるのね、ありがとう。じゃあこれ巫女クラスの名簿。目を通しておいてくださいね」
三年間は通学したいと言ったが、なにやらこのままなし崩しに講師にされてしまう。そのような予感に襲われつつ部屋を出る秋芳を満足げに見送った美代の手が無意識のうちに机に置かれた六壬式盤にのびた。
自由恋愛に賛成という美代の言葉に嘘はない。
呪術界きっての有力な一族、名門に生まれた京子だ。その立場上、将来的な政略結婚の話や、すでに許嫁がいてもおかしくはない。だがそのような類に縁がないのは祖母である美代。希代の星読みとして政財界にも名が通り、陰陽塾を開講当初から支えてきた呪術界の重鎮である彼女の意思によるところが大きい。
そんな孫娘が見初めた始めての恋人。その相性や仲をついつい占なってみたくなったのだが――。
「あら、いけない」
のばした手をあわてて引っ込める。
卜占には守るべきことがいくつかある。そのうち一つが『男子に生を語らず、女子に色を語らず』と言われるもので、寿命や異性関係などを読みとってもむやみに語ってはいけな
い。そもそも頼まれてもいないのに、自分の好奇心からそのような占いをしてはいけないというものだ。
恋する若者の姿を見ていると、こちらまで気が若くなる。年がいもなく、ついつい少女の心に戻って恋占いをしようとした自分の未熟さに恥じる美代だった。
渋谷区道玄坂――夕刻。
異能がもてはやされるのはつねにアンリアルな世界だけ、現実ではそうはいかない。人ならざる〈力〉が、能力が他人に知られたらどうなるか……。だから梅桃桃矢は自然と心を殺し、ふたをしていた。
そのふたをはずし、殺していた心に息を吹き返さしてくれたのは巫女クラスのみんな。ひいては陰陽塾と、そこに紹介してくれた講師の大友先生だ。
だがそれでも、いや、感情を取り戻したからこそ生じる悩みがあった。
ショーウィンドウに映った自分の姿が目に入ってしまい、思わずため息がもれる。
千早、襦袢、白衣が一つになったような上着と、緋袴のようなキュロットスカート。神道の巫女装束を模してデザインされた、陰陽塾巫女クラスの制服。それに身をつつんだ華奢で小柄な体躯。やわらかく艶のある黒髪に白い肌、濃いめの桜色をした唇、丸みをおびた優しげな顔立ち。
どこからどう見ても少女にしか見えない。それも美少女と言っていいレベルの。
だが梅桃桃矢はれっきとした男性だ。生まれついての体質か、いくら食べていくら運動しても太らないかわりに、筋肉もつかない身体だった。
この脆弱な体型がいやになり、一時期はボクシングを習ったこともあったが成果は上がらず、肉体にも目覚ましい変化はなく、それどころか新たな禍根を残すことになってしまった。
その禍根とは――。
「あれ~、桃子ちゃんじゃない」
B系やストリート系のファッションをした数人の少年に取り囲まれる。
「こんな場所でオレらに合うなんてラッキーだねぇ」
ニヤニヤ笑いながら髪を茶に染めた少年が近づき、軽めのボディブローを放つ。他の少年たちの体に隠れ、周囲には殴ったところを見られぬように計算して。
「うぐっ」
「これがボクサーの挨拶だよ挨拶、桃子ちゃんも経験者ならわかるよね?」
ボクシングにこんな挨拶あるものか……、痛みと悔しさで目に涙がにじむ。
彼らは桃矢が以前に通っていたボクシングジムの練習生たちだ。なにかというと桃矢の女の子のような容姿を嘲笑い『桃子』などと呼び、スパーリングと称していじめを繰り返してきた連中。
無意識のうちに周りに助けを求めるよう、逃げようと身じろぎした桃矢の肩を、金髪の少年が力いっぱいにつかみ、押さえた。
「逃げるなよ、桃子」
痛みに顔を歪ませ、おびえる小動物のように目を潤ませて金髪を見上げる。
獣だ。
そこには人の皮をかぶった獣がいた。自分たちより力が弱い、脆弱な者を狙い、集団で虐げる少年たちは、餓えた肉食獣の群れのようだ。
「マジで巫女クラスとやらに入ったんだな。なんだよその制服は、風俗かよ!」
「あー、なんかアキバ系っての? オタがよろこびそうだよな『モエー』とか言って」
「ほんと女にしか見えねぇ。それでおやじ引っかけられるぜ」
「なぁ……」
「ああ」
少年たちはたがいに目配せを交わし、桃矢を囲んだまま移動する。その輪から抜け出すこともできず路地裏に連れ込まれてしまった桃矢の目の前にカメラつきの携帯端末を突き出された。
「え?」
「ちょっと脱いでみてよ」
「……そんなこと、できるわけ――」
言いかけた桃矢の腹部に激痛が走った。
「うぐぅッ……!?」
先ほどのボディブローよりもはるかに力のくわえられたパンチにより、後方に吹き飛ばされ、背中を壁に叩きつけられ、倒れそうになるのを必死で耐えた。苦痛のうめきをあげながら顔を上げると、少年たちはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた。
「女の子のストリップと思いきや、ざんね~ん。男でした~、て画が撮りたいんだよ」
「そうそう、桃子ちゃんカワイイからみんなだまされちゃうよ、きっと」
「早く脱いでよ」
「D・V・D! D・V・D!」
もはや桃矢は込み上げてくる涙をおさえることができなかった。
(こんな時に僕の持っている力なんて全然役に立たない。あんなの邪魔なだけだ……)
「オラ、とっとと脱げよ。それとも脱がされてぇのか」
服を強引に脱がそうと、金髪の手が迫る。
「……こいつほんと女みてぇ。これならマジでやれるわ」
「やっちゃう?」
「やっちゃおうか?」
桃矢の衿に金髪の手が強引に侵入してきた、その時――。
「はいそれまでー。警察に通報されたくなかったら、狼藉者のみなさんはとっとと退散しちゃってくださーい」
救いの手がさしのべられた。
塾舎近くにある中華料理屋で小腹を満たした秋芳と笑狸が渋谷の街を歩いている。
「あー、美味しかった。でもちょっと物足りないかな」
「……ああ」
不機嫌を音にしたらこのような声になるのだろう。そんな声の調子だ。
「あれあれ? 秋芳ってばご機嫌斜め?」
「あたりまえだ。三パーセントの増税なのに一律五〇円も便乗値上げするとか、ふざけるにもほどがある。個人でやってる店ならともかく、チェーン店ならもう少し頑張れよと言いたい」
「ああ、それで怒ってるんだ。んー、でも一番ふざけてるのは、国民に増税を強いておいて、自分らはちゃっかり給料上げてる国会議員の連中だよね」
「ああ、そうだ。そうだとも! まったく日本人は明治維新と敗戦後の復興に民族的なエネルギーを費い果たして、権力者に対して暴力によって異議をとなえるエネルギーを枯渇しちまったのかね、水滸伝でも読んで少しは暴れて欲しいものだよ、まったく」
「そういえば水滸伝の美少女化ものってまだないよね」
「そうだな、日本の戦国武将や三国志の英傑が美少女キャラになったやつならやたらとあるが、水滸伝はまだないんじゃないか? いや、俺らが知らないだけで断言はできないが、すでにあったとしてもメジャーじゃないよな」
「なんでだろうね?」
「う~ん、やっぱ百八人も美少女キャラ化するのが大変だからじゃないか? ヴィジュアルとか考えたりするのが」
「李逵は色黒のバカロリキャラだよね」
「うん、わかる」
「呼延灼はボンデージファッションで鞭を手にした女王様」
「安直だが妥当な線だな」
「阮三兄弟あらため三姉妹はスク水着用」
「ああ、それは絶対そうだわ。少なくとも一人はスク水着てるな」
ふと、笑狸の足が止まる。
「どうした?」
「ねぇ、あれってうちの、巫女クラスの制服じゃない?」
笑狸が指さす方向。にぎやかな通りの中にあって人々が避けて通る一角がある。紅白の目立つ制服を着た一人を五人の若者が取り囲んでいた。
「なにやら良からぬ風体の連中にからまれているようだな」
剣呑な空気を察して遠目に観察していると、若者の一人が巫女の腹部に拳をめり込ませたではないか。それを秋芳の動体視力は見逃さなかった。
「義を見てせざるは勇無きなり。同じ学び舎に通う朋友の危機は見過ごせん」
秋芳は路地裏に駆け、笑狸もそれに続く。
「はいそれまでー。警察に通報されたくなかったら、狼藉者のみなさんはとっとと退散しちゃってくださーい」
秋芳はそう言って携帯電話を水戸黄門の印籠よろしく少年たちにつきつけた。ディスプレイには『110』の数字が出され、発信ボタンを押すようなそぶりを見せつける。
「暴行と強制わいせつの現行犯だ。悪いことは言わないから――」
いきなり茶髪が殴りかかる。
桃矢は助けに入った青年が殴られる様を想像して思わず目をつぶった。が、彼が危惧したことは現実には起きなかった。秋芳は茶髪の拳を受けも逃げもせず、首を動かしただけでそれを避けたからだ。
次の瞬間、秋芳の脛が茶髪のそけい部にめり込んでいた。
「~~~~ッ!?」
あわれ、急所を蹴りを潰された茶髪は声もあげずに口から泡を吹いて倒れ伏す。
「乱暴だな。しょっ引かれたいのか?」
そう口にする秋芳だったが、言葉とは裏腹に携帯電話をしまい込んだ。
もとより警察に通報する気はなかった。
通報というやつが実にめんどくさいからだ。現場でわかりやすい場所に立って待っていろと命令されるし、住所氏名を言わされる。匿名で用件だけ伝えて切っても、警察には強制的にこちらの電話番号がわかる。こちらから電話を切っても警察のほうで回線をつかんでいて回線は切れてない。技術的にそのようになっていて通報側には拒否権なし。第一通報者があやしいと後から家に来る場合もあり、任意ではあるが指紋まで採取されたりもする。痛くもない腹を探られるのは不愉快だ。あちらもあやしむのが仕事だろうが、警察や公安。呪捜部の連中とはお近づきにはなりたくない。
秋芳はつねづねそう思っている。
「っけんなコラ!」
金髪がいきりたって攻撃してきた。茶髪のものよりも鋭く速いパンチ。右ストレートが顔面を狙ってくり出される。
身体を横へ流しつつ右の掌でそれを受け、つかむ。と同時に左手がその肘を捕らえ、右掌に力を入れる。
パキン。
枯れ枝を折るような乾いた音が響いた。金髪の右手の手首が外側に折れ曲がっている。
手の甲が腕にぴったりと平行に重なっていた。人の手首はここまで曲がらない。腕と手のつなぎ目、手首の骨を折ったのだ。
金髪が目を丸くしてそれを見る。グロテスクで異様な光景。そして襲ってくる痛み。
「ひいぃぃぃ」
と、甲高い叫びをあげた。あげ続ける。肺の中の空気が無くなるまであげ続け、その場にへたりこんだ。
「女みたいな声を出すんだな」
低い位置に下がった金髪の顔面目がけて膝蹴りを放つ。鼻骨が砕けるいやな音と感触が伝わってくる。
「おい、友だちがケガをしたぞ。血が出てる。病院につれて行ってやったらどうだ?」
五人のうち二人をのした。これで戦意を喪失してくれただろうか?
しなかった。残った三人のうち二人が、左右にわかれてパンチを続けざまに打ってくる。
両腕を前にして防御の構え。ひたすらガードに徹しているように見えたがしかし、苦痛の声をあげ出したのは攻撃しているほうだった。秋芳は相手のパンチに対して拳や手刀で鋭い払い受けを繰り返し、的確に肘受けをしていた。肘の骨は拳の数倍硬い。そしてボクサーというのは空手家とちがって拳そのものを鍛えたりはしない。カウンター気味の肘受けは彼らの手を傷ませていた。
攻撃の手がゆるむ。そのすきを見逃したりはしない。左脚が一閃し片方のわき腹を、肝臓の部分をえぐる。空手でいう三日月蹴りだ。
命中。口からよだれを流し、悶絶する。そしてもう一人に対しては縦拳を放つ。ガードを試みるが痛みで動きが鈍くなっていたため、やすやすと甘いガードをかいくぐり、あごにヒット。大きくのけ反ったところで鳩尾、みぞおちに前蹴り。つま先からくるぶしまでが腹部にめり込んだ。激しい痛みと呼吸困難に血反吐を吐いてのたうち回る。こちらも戦闘不能だ。
「クソが! 死ねよオラァ!」
最後に残った一人が折り畳み式ナイフを取り出して突進してくる。
秋芳の脚が下から上へと跳ね上がり、膝から先がナイフを持った手と顔にほぼ同時に炸裂。同じ足での連続した蹴り、空手でいう二枚蹴りが決まった。蹴りを受けた手からはナイフが、顔からは白い石のような物があらぬ方向へ飛んでく。
白い石のような物、歯だ。あごの骨を砕かれ、数本の歯が吹き飛んだのだ。その衝撃に脳震盪を起こしてその場にくずれ落ちる。痛みを感じる前に意識を失ったのは幸運だったのかも知れない。
これでもう、まともに動ける狼藉者はいなくなった。
「ねぇ、君。だいじょうぶ? ケガはない?」
予想だにしない展開に呆然としている桃矢に笑狸がやさしく声をかけた。
「とりあえず逃げよう。普通にゆっくり素早く、ここから離れるんだ」
街でのケンカは五秒で終わらせ五秒で逃げ切るのが理想だ。そうしないと警察に見つかり、身にふりかかる火の粉をはらっただけなのに捕まりかねない。
警察とヤクザに関わるのはごめんである。秋芳たちはいそいでその場を後にした。
陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。
「いや~、災難だったな。あとできちんと通報しといたほうがいいぞ。ただし俺のことは内緒でな」
「……ありがとうございます」
桃矢は差し出されたお茶をひと口すする。甘い。だが砂糖やシロップの甘味ともちがう、不思議な味だった。
「それ、羅漢花茶だよ。日本じゃあまんまり見かけないよね、美味しいのに」
「うむ、中国南部に住むミャオ族の人たちはそれを不老長寿の健康茶として重宝しているんだ。よく味わって飲むように」
「は、はい。すごく美味しいです」
ほっと一息ついた、その時。
ポロリと涙が落ちた。
「え?」
とめどなく涙があふれてくる。止まらない。
「ひっく、な、なんで……。う、うぇぇっ、なんで? なんで泣いちゃうの?」
「緊張の糸が切れたんだろう」
「う、ぐすっ。こ、こんなの情けな、ひっく、僕、男なのにっ……」
「なぁに、男でも女でも泣きたい時は泣けばいいのさ。俺だって『男たちの挽歌』を観たり『Kanon』をプレイした時は、ぐっとなって泣いちゃうからな」
「うぐぅ、それジャンルちがいすぎですよ。ぐすっ、スンスン……」
しばらくの間、桃矢のおえつが部屋の中に響く。
ようやく落ち着きを取り戻した桃矢は部屋の中をぐるりと見わたす。けして広くない部屋中に遮光器土偶だのカレー鍋だのファラオの胸像だのが置かれている混沌とした様相。それでいてどこか整然としている。
この部屋の主は、自分を助けたこの人はいったいどのような人物なのだろう?
「あの、助けてくれてありがとうございます。僕は巫女クラスの梅桃桃矢といいます。……性別は、男です」
「ああ、男の帯びる陽の気をまとっているのが見える。俺の名は賀茂秋芳で、こっちは笑狸だ。さっきは偉かったぞ、あそこまで追いつめられても呪術を行使しないなんて。若い呪術師は一般人相手にもキレて、平気で殺傷するような術を使うのが多いからな」
ちがう。
自分は呪術を使わなかったのではない、使えなかったのだ。
恐怖にかられ、身がすくんで動けなかっただけだ。
「平気で殺傷するような技を使った呪術師なら、ここに一人いるけどね~」
「こっちは一人、むこうは五人。それも格闘技の、たぶんボクシング経験者みたいだったようだし、正当防衛以外のなんでもないさ」
「へぇ、街でボクサー五人に因縁つけられるだなんて、桃矢くんついてないね」
「……はい、彼らとはたしかに『因縁』があります……」
かつてボクシングを習っていたこと。彼らはそこにいた素行の悪い練習生だったことを桃矢は説明した。
「身体を鍛えるためにボクシングか。悪い選択じゃないが、そういう不良連中がいるようなジムなら、やめて正解だよ。それに巫女がボクシングって、ユニークすぎるだろ」
「あはは、たしかにそうですね」
桃矢の顔がほころぶ、可憐で清楚な花が咲いたかのようなひかえめな笑顔。そこには京子のように覇気と自信に満ちた輝かしい笑顔とはまた趣の異なる魅力があった。
熟練の陰陽師。見鬼の使い手は肉眼で見ると同時に霊的に『視る』。陽の気をまとう桃矢を男だと認識していてなお、惹かれるものがあった。
(もっともこいつが女だとしても俺には京子がいるから妙な気は起きないがな。それにしても笑狸といい木ノ下先輩といい、この桃矢といい。最近の日本は男の娘が増えているのか?)
「あの、どうかしましたか?」
「ああ、近いうちに巫女クラスにお邪魔するからよろしくな」
「え? ……あ! あなたが賀茂先生ですか?」
「なんだ、もう話がいってるのか」
「はい、この前、大友先生から聞きました。賀茂家の優秀な生徒が臨時で講師をするって」
「なら話は早い。いかにも俺がその賀茂だが、せっかくだ。巫女クラスについて色々と聞かせてくれ」
「僕にわかることなら……」
陰陽師とは異なるアプローチで呪術にかかわる、異端ともいえる巫女クラス。
彼女らは緋組と白組の2クラス制。各定員三十九名の七十八人で構成。その中で三人組の『隊』を作って行動する決まりがある。授業のみならず私生活にもおよび、一蓮托生の共同生活で協調性を養うのだ。
授業のほかに、巫女のタマゴが請け負う様々な案件が課題としてあり、神楽を舞ったり祈祷したり、お年寄りの湯飲み話につき合ったり、社の掃除をしたり、失せ物を探したり、恋の相談をしたり、その内容は多種多様だ。
また神敵と対峙すれば自らを刃へと変え対峙することすらある。これにはいわゆる霊災の修祓もふくまれている。
そして梅桃桃矢。彼は異例中の異例である四人目の隊員にして緋組の四十人目。七十九番目の巫女クラスの生徒だ。
「君が異例というわけだが――」
「はい、それは――」
同調性共鳴症。能力者を媒体におたがいの霊力を同調させて共有する、一種の特異体質。
桃矢の場合、おたがいの気持ちが昂ぶった状態で唇が触れると霊力が同調し、一人の体に二人分の霊力が共有され、場合よっては共鳴効果により増幅することもあるという。
「聞いたことのない力だな……」
「はい、大友先生もそうおっしゃってました」
その異能の力ゆえ誰にも相談できず、その筋の蔵書が多い図書館や書店を巡り、文献を調べているうちに大友陣に見出された。
不明な部分の多い能力。呪術を心得ない者たちに下手に保護されたら事故もありうる。桃矢個人の学校生活を保ちつつ、この能力と向き合うには陰陽塾巫女クラスが一番と判断され、直々の推薦を受けた。そういう話だ。
「クラスのみんなは僕の監視役兼護衛役、だそうです」
「そいつは凄いな。喜べ、超VIP待遇だ。なんせ見習いとはいえ陰陽じ――じゃなくて巫女さんが、呪術者が総出で護衛だなんて、そうそうないぞ」
「女の子に守ってもらうなんて、複雑です……」
「役得だと考えろ。ハーレムアニメの主人公状態じゃないか。だいたいどうしてわざわざ巫女クラスに男の君を……。そうか、神憑りか!」
「あ、大友先生もそんなこと言ってたような」
人の心。すなわち魂に働きかける術はきわめて危険だ。少しでもあつかいを誤れば術者のみならず対象の精神を壊しかねない。霊的な同調効果のある呪術が存在したのなら、まちがいなく帝式に組み込まれ、禁呪指定されてもおかしくはないだろう。
そのような能力を持った者をあえて巫女クラスに編入した理由。それは彼女たち巫女が神憑り。神霊の類をおのれの身に降ろす素養を持ち、普段からその訓練をしているため、魂に一種の耐性があるからでは。秋芳はそう読んだ。
「その力、ちょっとここで試してみないか?」
「ええっ!? ダメですよ、大友先生から能力の使用は禁止されてるんです」
「ほう、それは意外だな。あの人の事だから『持って生まれた力を忌避したらあかんで。力を抑えるのではなく制御する方向で修練をしたらええ』とか言いそうなのに」
「ああ、たしかにそんなこと言ってましたけど、まだ時期尚早とか……」
「判断を人に任せていいのか? そんな悠長なこと言ってたら、いつまで経っても問題が解決しないかも知れないぞ。古人曰く『奇跡を待つより捨て身の努力よ』だ」
「でも、もし他の人に知られたら……」
「この部屋の呪的防御が施されている。ちょっとやちょっとの術で、いや派手にドンパチやったとしても周りにはそうそう気づかれないさ」
「わ、わかりました。それじゃあどこにキ、キ、キ……」
「樹木希林?」
「ちがいますよ! なんでここで老け役があたり役だった女優さんの名前が出てくるんですか! どこにキスしたらいいか聞いてるんです」
「どこがいい、笑狸?」
「え? ボクが決めていいの?」
「いいよ、おまえがキスされるんだからな」
「なにそれ! ボクを実験台にするつもり?」
「実験台とは人聞きが悪い。なんかあった場合、俺なら対処できるがおまえにはそういうスキルないだろう。だからさ」
「んもー、しょうがないなぁ……。じゃあ、おでこにしてくれる?」
もとより好奇心旺盛な性質な笑狸はあっさりと承諾し、手で前髪を上げてひたいをつき出した。
「それじゃあ、い、いきますからね」
桃矢の桜色をした唇がかすかに笑狸の肌にかすかに触れる、小鳥がついばむような軽い口づけ。
(あー、富士野さんや木府さんが見たら喜ぶだろうなぁ)
男子寮の寮母、富士野真子と女子寮の寮母、木府亜子は男性同士の恋愛に心ときめく趣味の持ち主で、よく寮生たちで妄想して楽しんでいる。
と、その時。光が満ち、笑狸と桃矢。二人が一人になった。
光に包まれ、それが消え去った時、『笑狸』のまわりを三体の影が飛び交っていた。半透明の影たちは『桃矢』を中心として、渦巻くように高速で飛んでいる。まるで嵐の中だ。音も光もさえぎられ、部屋の様子もわからない。
桃矢はとまどっていた。いったいなにごとが起きたのか、こんなのは始めてだ。理解できない。
笑狸は飛び交う影になつかしさと心強さを感じた。
あれこそは、あの影こそは偉大なる隠神刑部。八百八狸を統率する大剛の大将。
あの影こそは義気義侠に満ちた団三郎狸。弱きを助け強きをくじく佐渡の豪傑。
あの影こそは屋島の太三郎狸。はるか昔、とある狸が矢傷で死にかけたところを平重盛に助けられ、その恩義から平家の守護を誓うもかなわなかった。だが、その代わりに後世においてその子孫が日の本の存亡を賭けた戦争で活躍した。その一族の長。
大いなる祖霊の力が流れ込んでくる――。
「……笑狸、か?」
秋芳の眼前に長髪の若者が姿を現した。その身にまとう気はたしかに笑狸のもの。だがその容貌は大きく異なる。
漆黒の長髪、金色に輝く瞳、白い牙、銀色の爪、赤い舌、とがった耳と太い尾……。
妖美なる化生がそこにいた。
「賀茂秋芳……。おまえを、食う」
そのあやかしは美しい声色で物騒なことを告げ、秋芳に襲いかかった。
後書き
これ書いてた頃にちょうど消費税が上がったんですよね。
巫之御子 1
「う~ん、あなたのために歌うことが、こんなにもつらいことだなんて……」
「わけのわからん寝言を言ってないで起きろ!」
「ああっ! だめだよ秋芳……。ボクたちは姉弟なんだから……、そんなことしちゃいけないんだ」
「いったいどんなシチュエーションの夢なんだよ!?」
「歯磨きプレイなら、いいよ。それが兄弟姉妹の超えてはならない最後の一線……」
「うるせぇよ!」
「……て、ボクどうしちゃったの? たしか桃矢君にキスされて同調ナントカして――わ! 肩、どうしたのさ?」
笑狸をゆさぶる秋芳の肩の部分。そこの布地は破れ、まわりに血がついていた。
「おまえが噛みついたんだよ。おぼえてないのか?」
「……うん」
「同調性共鳴症と言ったな。能力者を媒介にたがいの霊力を同調させる、て言うから、てっきり片方に二人分の意識と霊力が集中し、もう片方は意識を失うとでも思ったが、肉体が完全に融合するとは、予想外だったわ」
「す、すみません。まさかこんな結果になるだなんて、いつもはちがうんです」
かたわらで呆然としていた桃矢があわてて声をあげる。
「なぬ?」
「今、秋芳さんが言ったとおり、普段はシンクロするだけなんです。相手の身体に僕の意識と霊力が移って、僕のほうは抜け殻になる、みたいな」
「そうか……。うん、やっぱり積極的に使って制御する方向で修練したほうがいい。自分の中にわけのわからない力があるのはいやだろう?」
「……はい」
「よし、じゃあ明日からよろしくな」
「あ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
道玄坂の路地裏。
秋芳にのされた男たちがころがっている。
ぞぶりぞぶり、ごつんごつん、ぬちゃぬちゃ 、こつりこつり、ごぶりごぶり――。
そこに水気をはらんだ異様な音が響いていた。
男の一人が目をさます。一番最初に秋芳に殴りかかり、そけい部を強打されて気絶した茶髪男だ。
起き上がろうとするが、できない。なにかが、なにかが身体の上におおいかぶさっている。
よく飼い猫が寝ている人の上に乗ることがあるが、そのような感じでなにかが乗っているようだ。首から上だけを動かして、茶髪はそれを、自分に乗っているものを見た。
最初、それは裸の子どものように見えた。小さかったからだ。だが子どもではない、子どもはこんな姿をしてはいない。
骨と皮だけに痩せ細っているにもかかわらず、腹部だけが妊婦のようにふくらんでいた。猿のような顔をしている。
茶髪が餓鬼草子や地獄草子を見たことがあったなら、そこに描かれている『餓鬼』というものに似ていると思ったことだろう。
猿のような顔をしたそいつは、しきりになにかを口にしている。
赤黒い、肉のようなものを口にはこび、ぞぶりぞぶりと咀嚼していた。
やめろ。オレの体の上でなにをしている。なにを食べているんだ!?
大声でそう叫んだはずだったが、空気が漏れただけ。恐怖のため声が出なかった。
左右に首を動かして助けを求める。仲間は、他のみんなはどこにいる? 助けてくれ!
いた。
そこには自分と同様に横たわる金髪の姿があった。
食われている。
猿のような顔をした異形が群がり、金髪の全身をむさぼり食っていた。
のど笛を喰い裂かれ、そこからぞぶりぞぶりと血をすすられている。
頭に噛りつき、ごつんごつんと頭骨を噛み砕かれている。
膝を割り、こつりこつりと軟骨を咀嚼されている。
悪夢のような光景に目をそむけると、腹の上にいたそいつと目が合った。
細長い、腸のようなものをぬちゅぬちゅと頬張っている。
ちがう。
腸のようなものではない。あれは腸だ。腸そのものだ。オレはこいつに食われている。
手足をバタつかせ、全力で飛び起きようとしたが、できなかった。肩口から先の両腕が、ない。足の感覚も、ない。おそらく食われたのだ、こいつらに。
これは夢だ。
自分は悪い夢を見ているにちがいない。
早くさめてくれ。
茶髪はそう願いながら両目を閉じて眠ろうとした。夢の中で寝る。そうすることで夢からさめると信じて――。
腹を食われ、頭を食われ、髪も爪も歯も食われ、地面に流れた血の一滴残らず舐めとられ、男たちはこの世から姿を消した。
「ああ、食った食った」
「ああ、食った食った」
「たらふく食べた」
「たらふく食べた」
「だが、腹が減ったな」
「ああ、腹が減ったな」
「たりぬ」
「たりぬ」
「ひもじいのう」
「ひもじいのう」
「いかん。食うのに夢中で桃の童を見つけたこと、忘れていたわ」
「腹が減っていたのだ、しょうがない」
「桃の童を追って食うか?」
「桃の童を見つけたことを知らせるか?」
「どうする?」
「どうする?」
異形の群れはしばらく話し合った後、ふた手にわかれてその場から去った。
巫女クラス専用の宿舎は女子寮の敷地内にある。
男子寮からさほど遠く離れてはいないが、先ほどチンピラにからまれた件があったので秋芳はそこまで桃矢を送ることにした。
「まわりが全員女子だと肩身がせまくないか? つうか逆にモテモテか?」
「モテモテって感じはないです。最初はやっぱり警戒されてたというか、奇異の目で見られたというか……、でも今はもうおたがいに慣れてきたので、拘束されることもなくなりました」
「拘束?」
「ええ……、乙女の園に男がいるなんて危険! て、首輪につながれたり、女子の着替え中は目隠しされたり、女子が使った後のトイレは一時間入室禁止だったりで、さすがにきつかったです」
「どんなプレイだよ、それ。M男にはたまらんだろうな」
「でも最近はわりと自由にさせてくれるようになったんですよ。僕がふしだらなことをする男子じゃないってわかったみたいで」
「それはそれで、複雑な気もするが……」
秋芳はあらためて桃矢の顔をながめる。
夕暮れ時の薄明かりに照らされた桃矢の容貌はどこからどう見ても少女にしか見えなかった。見た目がこうなると、性別は男でも気にならないものなのかも知れない。
風が吹いた。
秋らしい、涼しげな風だ。
「あー、涼しい。気持ちの良い風ですね」
「……桃矢、おまえ見鬼は不得意みたいだな」
「え? それ、どういう意味です?」
見鬼。霊気の流れや霊的存在を視認したり、感じ取る力。いわゆる霊感能力のこと。
「この風。わずかだが血の臭いと、瘴気がふくまれている」
「な!? それって――」
「問題だ。一日のうち霊災がもっとも多く発生する時間帯は?」
「え、ええと……。夕方から深夜にかけてです」
「正解。逢魔が時から丑三つ時にかけてが多く、日の出とともに減少する。そして今は逢魔が時、霊災多発時間の始まりだ」
「こ、この近くで霊災が起きてるんですか?」
「そうだ。修祓するぞ」
「そんな、急に言われても――」
ぞわり。
身の毛がよだつとはこのような感覚なのか、桃矢の全身が震えだす。
こわい。
恐ろしく、怖い。恐怖。陰の気を、闇の気を、邪なる気を感じ、体の震えが止まらない。周囲に満ちる瘴気を、見鬼によって察知したのだ。
「こわいか?」
「こ、こ、こっ、こわいですッ!」
「こわくない。俺がついてる」
賀茂秋芳。この人は、強い。いざとなったら自分を守ってくれるだろう。そう頭で理解していても、こわいものはこわいのだ。
ガタガタと脚が震え、腰がすくみ、萎えかけた腕で秋芳の服の裾をひっしとつかむ。
「こわくない。俺が、ここにいる」
秋芳はその手をやさしく握り返し、ゆっくりと離した。
「わかりました。霊災を、修祓しましょう」
「よく言った」
桃矢が覚悟を決めるのを待っていたかのタイミングで周りに黒い影が生じ、ぐるりと取り囲まれた
「見ぃつけた」
「見ぃつけた」
影の中から声が響く。地獄の底から鳴り響くような、陰々滅々とした声が。
「桃の童じゃ」
「桃の童じゃ」
「憎き怨敵ぞ」
「憎き怨敵ぞ」
「陰陽師がおる」
「陰陽師がおるな」
「ひとりじゃ」
「陰陽師は一人じゃ」
「ともにとりて食らおう」
「おう、ともにとりて食らおう」
影がゆっくりと迫ると、その中に潜むあやかしの姿があらわになる。
土気色の肌をした小柄な体躯に枯れ枝のように痩せ細った四肢、ざんばら髪の下には猿のような顔がある。なにより異様なのはその腹だ。ガリガリに痩せているのに腹部だけは妊婦のように膨れている。
「が、餓鬼? フェーズ3の動的霊災が、こんなにたくさん!?」
桃矢が驚くのも無理はない。自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向、災害へと発展する直前の フェーズ1から始まり、これが進行し、強まった瘴気が周囲へ物理的な被害をあたえるフェーズ2と段階をへて、実体化した瘴気が鬼や鵺といった異形の存在となり周囲に瘴気をまき散らす移動型・動的な霊災。フェーズ3へとうつるのだ。
本来ならフェーズ3レベルの霊災など、そうそうあるものではない。
「……いや、ちがうな。見た目は動的霊災だが、実際の障気の強さや霊相から察するにフェーズ2。こいつらは〝群れ〟の一部だ」
「群れ?」
「妖怪。動的霊災の中には自分の分身のような存在を大量に召喚できる能力を持ったものもいる。鳥山石燕の画図百鬼夜行に火を吹く子蜘蛛たちをあやつる絡新婦の姿が描かれているが、その子蜘蛛らみたいのが〝群れ〟だ。平安時代の阿闍梨、頼豪が鉄鼠と化して大量のネズミを放って延暦寺の経典を食い破ったり、藤原実方の入内雀が農作物を食い荒らしたという話を聞いたことはないか? このネズミやスズメも群れだな。実際の動物とは異なる、妖力や呪術で作られ、召喚された魔の眷属だ」
説明しつつ無造作に刀印を切る。牙を剥いてにじり寄ってきた餓鬼の一体はそれだけで消滅してしまった。
「群れの一体一体はこのとおり、たいして強くはない。よし、せっかくだ。ここで少し講義をおこなおう。課外授業だ。――御幣立つるここも高天の原なれば、集まりたまえや助けたまえや四方の神々――」
祝詞を唱え柏手を打つと、あたりが神聖な気につつまれた。秋芳が珍しく神道系の呪術を使ったのは、桃矢が巫女クラスの生徒ということを意識してのことかもしれない。
「うぬ、消えたぞ?」
「どこへ隠れた?」
「さがせさがせ――」
すぐ目の前にいるにもかかわらず、こちらの姿を見失ったかのように餓鬼の群れがきょろきょろとあたりを見まわし始める。
しかも不思議なことに近づいてきた餓鬼は接触直前でなぜか向きを変えてあらぬ方向へと向かって探りを入れている。
「これは……、隠形ですか?」
「いいや、こいつら自身を結界で捕らえたんだ。動いてもしゃべってもいいが念のため俺から離れるなよ。さて、桃矢。穢れとはなんだ?」
「え? あ、あの、よ、汚れてることですよね?」
「うん、まぁそれもそうだが、神道。呪術における穢れとは時間や空間、物体、行為などの万象が理想ではない。通常ではない状態や性質になっていることを指す。また穢れは『気枯れ』すなわち気が枯れた状態のことでもある。これは生命力や霊力の枯渇した状態で、そのような時に人は過ちを犯しやすいといわれる。心の平静をたもてなくするような事象。すなわち『気枯れ』だ」
「あ、それって、つまり霊災ってことですか?」
「そうだ。自然界に満ちる霊気のバランスが崩れて瘴気へと転じ、これが自然界が持つ自浄作用の限界を超えることで発生する霊的災害。ここまでがテストに出てくる範囲だな。……だがなにが正常でなにが異常かなてのは、その時その時。個々人によって異なるもんだ。あんがいこいつら霊災からして見りゃ、俺たちのほうが『瘴気』や『霊災』なのかもな」
この理屈は桃矢にも理解できた。立場を変えて見れば良いことも悪いことに、悪いことが良いことにもなりうる。だが、だからといって襲ってくる霊災、この餓鬼たちに食べられてしまうのは絶対にいやだ。
「霊災修祓の手順は知ってるな?」
「はい。まず霊災を結界で隔離して周囲への被害を抑制。そのうえで霊気の偏向を分析して是正するか、強力な呪力をぶつけてかたよった霊気を強引に散らす……」
「正解。実に教科書とおりの模範解答だ、中途編入にしてはよく知ってるなぁ、春虎も見習って欲しいよ」
いまだに小テストで赤点を連発するクラスメイトの顔を脳裏に浮かべつつ話を続ける。
「こいつらはすでに結界に封じてある。少々の呪力をぶつけたところで破れはしないから、一体でもいい、修祓してみろ」
「ううう、わかりました……」
桃矢は意を決して餓鬼の姿を『視る』。五気が偏在しているが、強いていえば土気が強い。
それにしてもひどい瘴気だ。まるで見えないキャンプファイヤーが燃え盛っているかのようで、秋芳の結界が隔てているにもかかわらず体が焙られているかのような錯覚がした。霊災に慣れていない身にはこたえる。
それに醜い。見るからに不潔なざんばら髪を振り乱し、よだれを垂らしながら人とも獣ともつかない奇怪な動きで徘徊する、絵草子に描かれた餓鬼そのものの姿。ホラー映画などに出てくる作り物のクリーチャーすら苦手で、グロテスクなものに耐性がない桃矢は注視していた餓鬼からつい目をそむけてしまった。
「汚いもの、醜いものから目をそむけてはいけない。それらを祓い清め、鎮めるのが巫女だ。目を閉じていたら修祓はできないぞ」
「は、はい!」
桃矢はくじけそうになるのを懸命にこらえて、祝詞を唱える。
「神火清明、神水清明、神風清明。祓いたまえ浄めたまえ……」
神道式の九字を切り、刀印が走るたびに浄化の光が餓鬼を打つ。
「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「どうした?」
「わからぬ、どこからか礫でも投げられたようじゃ」
「気をつけよ」
「うむ」
「あなや!」
「おまえもか」
桃矢の霊力では一度に修祓はできない。だから同じ相手を狙って何度も九字を切っているのだが、いかんせん相手は多数でつねに動いている。移動する目標に命中させるほどの技量がないため、毎回ちがう餓鬼にあててしまう。
しだいに霊力も尽き――。
「はぁはぁはぁはぁ――」
ひたいに玉のような汗を浮かべ、息も荒くなる。
(さすがにもう限界だな。まぁ一般の塾生レベルならこんなものか)
京子のような秀才や夏目のような天才、霊力だけならえらくタフな春虎、筆記も実技もそつなくこなす冬児。眼鏡の天馬。
身近にそういう逸材がそろっていると、ついつい錯覚しがちになるが、霊災の修祓というのは見習いレベルでできるほど簡単なことではない。本職の祓魔官ですらフェーズ1の霊災に対し二、三人であたる。
「よし、それまで。よくやった、今の感覚を忘れるな」
「も、もうダメ。倒れそう……」
「すぐに終わらすから、倒れるなら寮にもどってからにしろ」
相手は土気が強いので木気の術で一掃しようか、一体一体禁じようかと考えたが、ふと過去の出来事が脳裏をよぎる。
(そういうえば以前ヒダル神に憑かれたことがあったが、あの時の飢えと渇きは地獄の苦しみだった。こいつらも同じ苦しみにさいなまれているとしたら実に哀れだ。楽にしてやろう)
弾指を打ちつつ呪文を唱える。
「ノウマクサラバ・タタギャタバロキテイ・オン・サンバラ・サンバラ・ウン――」
施餓鬼会でもちいられる無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼。
掌に指で『米』の字を書き、それを食べる真似をすると、秋芳の身体から暖かい光があふれ、餓鬼たちをつつみこんだ。
「おお、なんと心地よい」
「腹がくちる」
「満腹じゃ」
「満足じゃ」
その光りにふれた餓鬼たちはおだやかな笑みを浮かべて一体残らず霞のようにかき消えてしまった。
「今のはいったい……」
「捨身飼虎。お釈迦様は餓えた虎の親子に我が身をさし出したが、俺は餓鬼どもに自分の霊力を食べさせてやったんだ。満腹になって成仏したのさ」
「こういう修祓のしかたもあるんですね……」
「本来はきちんと供物を用意して儀式をとりおこなう。今みたいに自分の霊力を食わせるやり方は割に合わないからオススメはできないがな」
脅威は去ったがずいぶんと時間がかかってしまった。桃矢をうながし女子寮へといそぐことにした。
「おそいぞ桃矢! どこで道草してたんだっ! すぐ帰ってくると思ってみんなご飯を食べないで待っていたんだぞ!」
ぱっつん前髪の姫カット、長い黒髪を後ろで一つに結んでポニーテールにした気の強そうな女子が帰宅した桃矢に食ってかかる。
二之宮紅葉。桃矢の所属する緋組拾参番隊のまとめ役。リーダー的存在の女子だ。
「ええっと、それはその……」
不良にからまれたところを助けられ、その助けた人というのが明日から講師として来る予定の賀茂秋芳。男子寮にある彼の部屋でお茶を飲ませてもらい、ここまで送ってもらったのだが、途中で霊災に遭遇。修祓した――。ちょっと一言では説明できない。どのように言葉にするか逡巡する桃矢に助け舟が出された。
「あらあら紅葉さん。そんなふうに言わないで、もっとこう、幼なじみが照れ隠しに怒ってる感じで言わないと、桃矢さん萎縮しちゃいますよ」
三亥珊瑚。腰までのびるゆるやかに波うった長髪と眼鏡が印象的な、いかにも優しい感じのする女子が、そう紅葉をたしなめる。
「もみもみ~、お小言は後にして夕ご飯食べようよ~。もうお腹ぺっこぺこだよ~」
「もみもみ言うな! それと変なとこさわるな!」
アニメのようなアホ毛をのばした茶髪ショートの少女が背後から紅葉にすがりつき、鼻にかかった声で懇願する。この娘の名は一の瀬朱音。
この三人の少女たちが桃矢のルームメイト。緋組拾参番隊の構成員だ。
「くっ、しょうながないな。よし、とりあえず食事だ。道草の言いわけはその後で聞こう」
「わ~い、ごっはん~ごっはん~♪」
こうして桃矢たちは遅めの夕餉をとることにした。
「――ということがあったんです」
女子寮の食堂。
五穀米に味噌汁、焼き魚と旬野菜のサラダ、デザートは果物。主食と主菜、副菜。栄養バランスをきちんと考慮した寮母さんお手製の食事をすませ。ひと息ついた桃矢は今日のできごとを紅葉たちに話した。
「……そうか。まだ私たちと同じ学生が講師をするというから、少々不安だったが、その様子だと呪術者としての実力はたしかみたいだな。それに腕っぷしも強いというのも気に入った。そうでなければ武道の実技もある巫女クラスの講師は務まらないからな」
麦茶をすすり最後まで桃矢の話を聞いた紅葉はそのような感想をのべた。ちなみに食堂では朝昼は緑茶、夜は麦茶が置かれている。これはカフェインを摂ると夜寝つけなくなるからという配慮からだ。寮母さんはつねに学生の体を気づかっている。
「そうですわね。でも今のお話に出てくる賀茂秋芳さんて方、想像していたルックスとちょっとちがいますわ。賀茂氏の末裔というから、もっとこう貴公子って感じの方かと思っていたのですが、坊主頭だなんて……」
「いいじゃないか、お坊さんみたいで功徳がありそうだ」
「ふぁぁぁ……。ねぇ、ご飯食べたら眠くなってきちゃった。もう戻ろ」
「あ、そうですね。僕も今日は色々あって疲れちゃいました。早めに眠りたいです」
「なにを言ってるんだ、そろそろ刀会が近いんだぞ。惰眠をむさぼるいとまがあるなら鍛錬するんだ。
特に桃矢、おまえはチンピラ相手に怯むとはなにごとだ、修行がたりん! 今夜ちょっとつきあえ」
「ええ~、そんなぁ。僕、さっき霊災を修祓してクタクタなんですよ」
「最終的に修祓したのは賀茂先生だろ。問答無用、来い!」
「あらあら、うふふ。お二人とも無理せずほどほどにしてくださいね」
「がんばってねぇ、おやすみ~」
刀会とは竹刀やなぎなたをもちいて試合をおこなう、武道実技を兼ねたクラス対抗の紅白戦で、巫女クラスの中でも派手で盛り上がる人気講義の一つだ。
争いを好まない桃矢にとって苦手な講義になる。
「男子なんだろう、ぐずぐずするんじゃない。胸のエンジンに火をつけるんだ!」
「うう、今日はついてない。不幸だぁ……」
紅葉は竹製の薙刀を八双に構え、そこから袈裟と逆袈裟の二連撃を絶えずくり出す。受けにまわった桃矢は防戦一方で、反撃するいとまもない。
「せいっ」
パシーンッ!
乾いた音を立てて桃矢の手から薙刀が落ちる。と同時に紅葉は薙刀を反転させ、石突きの部分で桃矢の鳩尾を突く。
「あうっ」
もちろん手加減してあるとはいえ急所に攻撃を受けてはたまらない。思わずつっぷして、呼吸もままならない地獄の苦しみに耐える。いやな汗が流れ、地面に数滴の染みを作った。
「ハァ、ハァ、ハァハァハァハァハァ……、はぁ、はぁ、はっ!」
ようやく息がととのい、おもてを上げると、巫女装束に身をつつんだポニーテールの少女が月光の下で薙刀を構えている。その姿は凛としていて実に絵になっていた。桃矢は疲労や痛みも忘れてその姿に一瞬見とれてしまった。
「なんだ桃矢? はぁはぁして、いやらしいぞ」
「い、いきが、息が上がってるんです! も、もう少し手加減してください」
「手加減したら桃矢の訓練にならないだろう? でも……、今日の桃矢。よくがんばったぞ」
「え?」
「いつもならとっくに音を上げてるはずなのに、打ちかかってきた。えらいぞ、よくがんばった」
「そ、そうですか?」
「ああ、そうだ。……なんか気持ちの変化でもあったのか?」
「気持ちの変化……」
あった。
今日、男たちに襲われた時。まるで映画やドラマのように颯爽とあらわれ、自分を救い、介抱してくれた人がいた。それだけにとどまらず、霊災までもこともなげに修祓したその姿は桃矢の脳裏に焼きついていた。
かっこいい。自分もあんなふうになりたい、と――。
普段ならへこたれてしまうところを、憧れの心が支えている、のかもしれない。
「む、その顔は心あたりがあるな」
「え、ええ……」
「そうか、わかったぞ!」
「え?」
「さっきの話。桃矢は賀茂先生の式神とキ、キ、キ……」
「樹木希林?」
「ちがう! なんでここでジュリーのポスターに愛を叫ぶ婆さんの名前が出てくるんだ!」
「す、すみません。つい」
「賀茂先生の式神とキスしたと言ったな。ひょっとしてそれが原因じゃないのか?」
「う~ん、たしかに今までしたことのない変な同調をしましたけど、別にそれは関係ないと思います」
「私たち緋組拾参番隊のメンバーを差し置いて他の子とキスするとは、この浮気者っ!」
「浮気って……、相手は僕と同じ男の子ですよ」
「なに? そうなのか……。て、それでもキスはキス。浮気は浮気だ。けしからん!」
「そんなこと言われても……」
「桃矢、さっきの新しい同調というのを、私で試してみろ」
紅葉はそう言い、手の甲を上にして桃矢の眼前にさし出す。ここに口づけしろというのだ。
「さぁ、早く」
怒ったように急かす。こうなった紅葉に『いや』とは言えない。桃矢は覚悟を決めた。
「わかりました、でもどうなっても知りませんよ」
手の甲にそっと唇を落とす。触れるか触れないかの絶妙な間隔――。
脳内に光が奔り、桃矢の中に紅葉が流れ込んできた。勝ちたいという純粋な想い。けれども他のメンバーにそれを押しつけることの戸惑い、逡巡、焦り、葛藤、誇り、矜持、自身、不安……。
次の瞬間、二人は一人になっていた。
「な、なんだれは? 今までの同調とはちがうぞ」
身の内からあふれ出さんばかりの霊気が湧き出し、全身に力がみなぎる。背中からは緑色の光沢をした鳥のような翼まで生えていた。
身体が軽い。ひょっとしたら飛べるのでは?
紅葉がそう思うと翼が広がり、ふわりと宙に浮いた。実際の鳥類のような羽ばたきによって発生する揚力によるものではない、呪力による飛翔。
「す、すごい。すごいぞ桃矢! 霊力が上がるだけじゃなくて、空まで飛べるようになんるなんて……」
(なんだか、キスする人によってちがう能力が発現する……。そんな気がします)
「どのくらい飛べるのか、ちょっと試してみるか!」
(だ、ダメです! 危険です! いつ同調が、融合が解けるか、まだちょっとわからないんですよ)
「む、なんだそうなのか……。飛んでる時に解けでもしたらおしまいだな。でも桃矢、この力、すごく面白いぞ! もっと色々調べて、試してみよう!」
(ははは、そうですね……)
自分に重くのしかかっていた忌まわしい異能の力。それがこんなふうに変化し、受け入れられるだなんて……。
今日は本当に色々なことがあった――。
翌日。
「――島根県にある美保神社の氏子は修行中の間、鶏の肉と卵を食べてはいけないという決まりがある。これは美保神社に祭られている事代主という神様が大の鶏きらいだからだ。なんでそんなに鶏がきらいかというと、この神様は夜遊びが好きでな。それで夜な夜な出かけていたんだが、夜明け前には家に帰らなければいけないという決まりがあった。事代主に朝を告げる役目を一匹の雄鶏がになっていたが、ある朝、雄鶏は鳴くのを忘れてしまう。日が出てから大いそぎで家に帰る途中、事代主はあわてていたためケガをこしらえてしまったそうだ。それ以降というもの事代主はその雄鶏どころか鶏そのものがきらいになったとか」
「「「へー」」」
「「「へー」」」
「「「へー」」」
「なんか日本昔話にありそう」
「これは神話の時代のできごとが、精神が今の時代にもしっかりと伝わり、息づいているということの証左だな。土御門夜光が呪術というものを再編成してからは、とかく技術が重視されがちだが、みんなは巫女としてこのような精神を大事にしなければならない」
言い終えたその時、ちょうど授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
「はい、おしまい。午後の授業は武道実技だから、昼食を食べすぎないように注意すること。それじゃあまた後で」
秋芳は退室する前にあらためて教壇から教室内を見まわした。機能的な階段教室という造りは陰陽師クラスのそれと同じだが、広さは二倍以上ある。八〇人近い巫女たちに見下ろされて講義するというのも、なかなかできる経験ではない。
「賀茂先生」
「ああ、桃矢――。て、どうしたんだ、その全身の生傷は!? さてはきのうの連中に仕返しでもされたのか?」
「あ、いえ、ちがいます。これは刀会の練習をして作った傷で……」
「そうなのか。それにしてもまたずいぶん派手にこしらえたもんだな」
「あはは、相手の人が熱心でしたからね」
「賀茂先生」
その『相手の人』が秋芳に声をかけた。
「緋組拾参番隊の二之宮紅葉といいます。きのうはうちの桃矢がお世話になったようで、ありがとうございます」
「同じく一の瀬朱音です。えへへ、先生の授業すっごく面白かったですよ。賀茂先生てあだ名とかあるんですか? 出身地てやっぱり京都か奈良なんですか? 血液型は? 好きな食べ物は? 趣味は? 好みのタイプの女性は? あ、恋人っています?」
「あらあら、うふふ。朱音さんてば、そんな急に質問攻めしたら賀茂先生がこまっちゃいますよ。あ、私の名前は三亥珊瑚。緋組拾参番隊の者です。これからよろしくお願いしますね、賀茂先生」
おお……。
内心感動に震える秋芳。この反応、この質問攻め。まるで転校生に対するそれではないか。入塾初日はすっかり笑狸に持っていかれたが、自分はこういうのを期待していたのだ。
「はじめまして紅葉君」
この左手でエレキベースを弾いたり、テレアポセンターで働く勇者みたいな凛とした声の子が二之宮紅葉だな。
「俺にあだ名はないよ、生まれは奈良葛城、血液型は知らない、好きな食べ物は日本蕎麦、趣味は映画観賞、好みのタイプはクリスマスとハロウィンに『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を独りで見るような女の子、恋人はいる」
この十万三千冊の魔道書を記憶してたり、白ワイン一滴で酔っぱらう男装の執事みたいな鼻にかかった声の子が一の瀬朱音、と。
「こちらこそよろしく。『あらあら、うふふ』て、なんかサザエさんみたいだな」
このつねに専用の机と椅子を用意しているお嬢様みたいな声の子は三亥珊瑚。
よし、おぼえた。三人娘の顔と名前と声が秋芳の脳に刻み込まれる。
「桃矢、紅葉、朱音、珊瑚。緋組拾参番隊か……。今後ともよろしく」
「はい! よろしくお願いします、賀茂先生」
「こちらも自己紹介してもいいですか、賀茂先生?」
そこに別の声が割って入る。
「私は白組壱番隊の四王天琥珀。よろしくね、先生」
「白組壱番隊、七穂氏白亜」
「同じく白組壱番隊の十字眞白です。よろしくお願いします」
(ええと……、変身能力を持った、えっちぃのは嫌いな殺し屋の女の子のような声をしているのが四王天琥珀。つねにモデルガンを持ち歩きモフモフしたうさぎのいる喫茶店でバイトしてる女の子のような声をしているのが七穂氏白亜。水系統の魔法が得意で香水の二つ名を持ってる女の子のような声をしているのが十字眞白……)
次々と少女が出てきては自己紹介をして、これではまる萌えアニメの一話目や、ギャルゲーの序盤ではないか。
少女たちのかしましい喧騒につつまれる中、巫女クラスの講師を続けてみるのも悪くはないのでは――。
そのようなことを考え始める秋芳だった。
職員室。
早々に昼食をすませて巫女クラスに依頼された案件を確認しようとする秋芳の姿があった。
(しっかし他所のPCてのはなんでこんなに使いにくいんだ。レスポンスがちがうというかなんというか……)
映画などで潜入した先にあるPCを操作してミサイルの発射を止めたりなんとかするシーンがあるが、よくあんな芸当ができるものである。
もとより機械の操作は苦手な秋芳が不慣れな手つきで依頼の数々を見てまわる。
お祓いや呪いの解呪といった高度なものから、占い全般に個人的なお悩み相談。引越しの手伝い、コスプレ撮影会、農作業の手伝い、野球や囲碁の練習相手に失せ物探し、清掃やビラ配りなどなど――。
(本当にいろんな依頼があるんだな……。妹になってくださいとか、姉になってください。てなんなんだよ、ここはイメクラじゃないんだぞ)
たしかに宗教上の儀式としてセックスをする巫女は存在した。古代メソポタミアなど、神殿に寄進した者に神の力を与えるために性行をする神聖娼婦と呼ばれる巫女がいたし、日本にも歩き巫女や渡り巫女という、特定の神社に属さずに全国を巡って祈祷や託宣のほかに芸者や遊女の仕事もする者たちがいて、そのような者は特に巫娼とも呼ばれた。
小柴垣草紙という平安時代の末に描かれた絵巻物では、やんごとない巫女である斎王がアレやコレする話が描かれている。
巫女に萌えたり、エロいことさせてハァハァするのは日本人のDNAに刻み込まれた性癖なのかも知れない……。
(そういうのは駒王学園オカルト研究部のみなさんにお願いしなさいってんだ)
「あら、ちょっと意外。きちんと仕事してるのね」
「いつも言ってるだろ、俺は真面目なんだ」
背後から京子が声をかけ、身を乗り出して秋芳の頭越しにPCをのぞき込む。
「これが巫女クラスへの依頼? ……ふ~ん、いろいろあるのねぇ」
むにゅ。
あたたかく柔らかで、それでいて適度な弾力を持ったふくらみが双つ、背中にあたるではないか。
(おお、これは……)
たわわに実った果実、豊かな双丘、くずれることのないプリン、男を惑わす魔性の魅力と男を癒す神聖な気に満ちた神秘の至宝。
おっぱい。
京子のおっぱいが背中に押しつけられている。
(今の京子には悪戯をしているという、あえて胸を押しつけているという認識はない。つまり無自覚のエロス! これは良い……)
全神経を背中に集中。日だまりにまどろむ猫のような表情を浮かべて、京子の乳圧をしばし堪能する。
「……ねぇ、このプール清掃の案件なんだけど――」
「――うん、それは良いな。やってみよう」
京子の出した提案には心惹かれるものがあった。双乳の感触で夢見心地にな中、秋芳はふたつ返事でそれを承諾した。
巫之御子 2
陰陽塾地下呪練場。
読んで字のごとく呪術の訓練をする場所であり、中央のアリーナに降りるすべての門の両脇には榊の枝が飾られ、呪力が込められた注連縄が張られている。壁面のあちこちに呪文や紋様が書かれており、これらはアリーナ内でおこなわれた呪術の影響を外へ漏らさないための処置だ。
バスケットコート四面分はあろうアリーナで巫女クラスの生徒たちが二列にならんでむかい合っている。
いずれも顔面部が透明になった強化プラスチック製のヘッドギアをかぶり、手には竹薙刀を持っていた。
「はじめっ!」
女性講師のかけ声と共に薙刀同士があたる打突音や気合の声があたりに響き、格闘特有の熱気が満ちる。
「やめっ!」
おたがいに礼をして右に一人ずれる。一番右端の者は左の端に移動して列にくわわる。
「はじめっ!」
同じことの繰り返し。
乱取り、地稽古、自由組み手。そのような類の実技授業をしているのだ。
「これは、思った以上に激しいな……」
女性講師の隣で秋芳が思わずそう口にする。
「そうでしょう? 神主の補佐をして祓い清めるだけが巫女の務めではないわ。多くのものを救い、永く護り紡ぐため。神敵に対峙したさい、みずからを刃にかえて戦う。これがこんにちの巫女。陰陽塾が育成する現代巫女の姿なのよ」
女性講師――名を若宮という――が誇らしげに語った。
「面の他にも籠手や脛あてを着用させたほうがいいのでは? かなり激しい打ち合いですし、あれじゃあ全身打ち身だらけになりますよ」
「実際の試合だと呪術の使用もありなの。だから籠手はつけないわ」
たしかに籠手をつけていては呪符の取り出しに邪魔だし、印など結べなくなるだろう。
「どりゃぁぁぁっ!」
「どすこーいっ!」
「どっせい!」
「ちぇすとーっ!」
「チェリオ!」
「デュクシ!」
「ウラー!」
女子とは思えぬ迫力である。
(ううむ、さながら巴御前か坂額か。巫女クラスは女傑ぞろいだな。桃矢のやつ、だいじょうぶか?)
視線をめぐらせて頼りない少年の姿を探す。
いた。
案の定一方的に攻められている。めった打ちの袋叩きの、こてんこてんのこてんぱんにやられて、ボッコボッコのフルボッコ状態だった。
「もうおしまいなの? だらしないわね」
「梅桃ってば弱すぎ!」
「もうへばっちゃった? あんた早すぎ」
「男のくせにだらしがないわね」
「ちょっと、立ちなさいよ!」
「なによ、役立たず」
「もう少し我慢できないの?」
「七十人を超える女子に打たれて言葉責めされている……、だと……? M男なら即効昇天まちがいなしの天国だな……」
打ち合いの後は小休止をはさみ、型稽古に移ったのだが、こちらのほうはなかなか様になっており、他の巫女たちに劣らない。いやそれ以上の美しい演武を見せた。
容姿が容姿だけに、まるで歌舞伎の女形の演技を観ているかのような気になる。
「若宮先生。ちょっと梅桃桃矢に個人指導したいのですが、よろしいですか?」
「ええ、いいわ。どうせ残りの時間いっぱい自由練習だし、男同士気がねなく教えてあげて」
秋芳は桃矢を呪練場のすみに呼んで稽古をつけることにした。
「さっきの演武、綺麗だったぞ」
「あ、ありがとうございます。打ち合いは苦手なんですけど、型にはちょっと自信があるんですよ」
「その打ち合いなんだが、演武の時と同様にすり足もできてるし、軸もまっすぐで安定していて動きは悪くない。なにか武道でもやってたのか?」
「あ~、はい。その、刀道を少しだけ」
「ほう、剣道じゃなくて刀道か。本格的だな」
「でも、それもすぐ辞めちゃいました」
「やっぱボクシングの時みたいに不逞の輩がいたのか?」
「そういうわけではないんですが、指導員の方がちょっと……」
このようなことがあったと、桃矢は語った。
足しげく道場に通ってもいっこうに稽古らしい稽古をつけてくれない。
そのことを伝えると――。
「ウ~ン……、今まで当たり前のことだと思ってたから、説明が難しいなぁ……。例えばね、ウチの道場では入門して最低でも半年は技を教えないの。最初に足運びと素振りを教えるだけ。それも一回やって見せるだけで、後はひたすら素振りの繰り返しを見ているだけ。そして、まともに刀を振れるようになった人から技を教えていくの」
「……それじゃあ、いつまで経っても上達しないお弟子さんも出てくるのでは……?」
「いるね~、そういうの。そして、そういうヤツに限って自分の努力不足を棚に上げたがるんだな。まず、刀を振るって動作に身体が慣れないと、どんな技を教わっても身につくはずが無いんだけどね」
「…………」
「そしてそのためには自分が刀を振るしかないんだよ。やり方は見て覚える。周りに一杯お手本が居るんだから。教えてくれるのを待っているようじゃ論外。最初から教えてもらおうって考え方も甘え過ぎ。師範も師範代も現役の修行者なんだよ? あの人たちにも自分自身の修行があるの。教えられたことを吸収できないやつが教えてくれなんて寝言こくなっての」
というやり取りがあったそうな。
「……あきれたな、そいつに指導者の資格はない」
師範や師範代が何のためにいるか、わかっていない。後進の育成だって武道家の務め、先輩にもらったものは後輩に返していく。連綿と受け継がれていく技。それが道、それが武道というものだろうに。
まともに教えてもいないのに『教えられたことを吸収できないやつ』などと馬鹿にするとはどういう了見だ。
最初から教えてもらおうという考えが甘いだって? ではなんのための道場なのか、月謝を返せと言いたい。
たしかに見取り稽古という言葉はあるが、本当にただ見ただけのやり方を真似するなど危険極まりない。生兵法は大ケガのもとだ。
だいたい『見ておぼえろ』などと言う者に限って、人に教える能力が無いのではと思う。
嘉納治五郎の講道館柔道がそれまであった無数の柔術流派よりも普及したのは警察に採用されたというだけでなく、体重移動やくずし方と言った、他の道場ではやってくらっておぼえろという部分を論理立てて体系化し、教えるようにしたというところが大きいのだが、それの否定でもある。
「よくもまぁ、そんな殿様商売で道場が維持できるもんだな」
「けっこう有名で、今でも人気があるみたいですけどね」
「まぁ、いい。それよりも今は薙刀だ。さっきも言ったが動きは悪くないのにどうして打ち返さない? 女子が相手だから遠慮してるのか?」
「いえ、女子とか関係なく攻撃が苦手……。ううん、いやなんです。素手で殴られるのだって痛いのに、まして武器なんか使ったらもっと痛い。そう考えると、とてもじゃないですけど攻撃なんてできません」
これは極めてまともな考えだ。普通の人間は人間を攻撃することをためらう。長年格闘技をやっている者でも、ケンカで相手を本気で殴ることはむずかしい。無意識に力をセーブしがちだ。
秋芳は『ならなんでボクシングなんて習おうとしたんだ?』などというツッコはしなかった。桃矢は純粋に強くなりたかったのだろう。華奢ではかなげな外見、その容姿にコンプレックスをいだいていることは想像にかたくない。桃矢は単純に強くなりたかっただけだ。
暴力はいや。これは桃矢の持つ同調能力。精神を共有することで人の気持ちに触れてきた桃矢だからこそ持つ、優しさなのだ。
優しいことは悪いことではない。
(そういえば『強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない』なんて言葉もあったな。はて、だれの科白だったか?)
「あの……、賀茂先生?」
「おお、すまん。ちょっと考え事をしていた。よし、ならばせめて攻撃されない。守りの技を教えよう」
「薙刀の技を知っているんですか?」
「いや、教えるのは薙刀じゃない、反閇(へんばい)の禹歩だ」
「禹歩!? 霊脈をもぐって長距離を移動する帝国式陰陽術の超高等呪術じゃないですかっ!」
「いや、そんな説明口調で驚からなくても」
「いきなり禹歩とか、驚きますよ。ていうか無理です。僕に禹歩を使いこなす霊力はありません」
「霊力がないなら作ればいい。というか今から教える禹歩はその禹歩ではなく、本来の禹歩に近い禹歩だ」
「本来の禹歩?」
「そう。いきなり帝式の禹歩をおぼえろとは言わん。夏王朝の創始者である禹王がもちいたとされる歩行術としての禹歩を教える」
「歩行術、ですか……」
「反閇というのは魔除けや清めの効果の他、山中の移動や仙薬作り、兵を避け悪霊を退ける、鬼神の召喚、病の治療、長寿の祈願などなど、様々な局面で使用される、非常に汎用性の高い呪術なんだ。用途や併用する術によって様々な種類が存在する。その中でも兵馬刀槍を避ける禹歩をこれから教える」
そう言って数枚の簡易式を投げると、それらは地面に落ちて複数の足跡を描いた。足跡には左1、右2、左3……。というように漢字と番号が書かれている。
「まずは基本の足運びから。ゆっくりでもいいから確実にその順番通り、左右の足をまちがえないように踏んで進むんだ」
「わかりました」
桃矢はまず左足を踏み出し、次に右足を前に出し、左足を右足にそろえて立つ。右足を先に出し、左足を踏み出し、右足を左足にそろえる。そしてまた左足から先に踏み出していくという、同じ歩き方をくり返して進む。
進むにつれ単調な動きはやがて少しずつ変化のある動きに変わっていく。左右の足を交差させたり、横にずれる動きもあった。
歩き終わると足跡は自動に反転し、番号が変わる。端から端へ同じ行為の繰り返し。
「よく『日本に伝わった禹歩が反閇と名を変えた』なんて言われるが、禹歩は反閇を構成する呪術の一つで、反閇はそれ以外の呪術もふくんだ一連の儀式のことだからな。テストに出るかも知れないからおぼえておくように」
言いながら桃矢の動きを見る。素人が慣れない動きをすれば軸がぶれ、上半身が揺れて安定しないのだが、そのようなこともなく綺麗な姿勢で移動をしていた。
(うん、やはり基本はできている。ボクシングとか刀道とか習おうとするくらいだし、この子にはそっち方面の術を教えて、自信をつけさせよう)
武術はもっとも実践的な魔術の一つ。京子には自分の知る〝呪〟を教えた、桃矢には〝武〟を教えてみたい。いつしか秋芳はそのような気になっていた。
「桃矢、いつかは帝式の禹歩も使えるようになりたいだろう? それには高い霊力が必要だ。立禅という身心を鍛える修練法があるから――」
秋芳は時間いっぱいまで桃矢に指導し、今日の授業は終わりをむかえた。
夕刻。渋谷区某所にある区営プール。
水の抜かれたプール内は黒ずんだカビやコケ、藻のようなもので汚れ、ぬかるんでいる。
そんな汚れた床をデッキブラシでこすり洗いする巫女たちの姿があった。
「あーっ、なんで神に仕える神聖な巫女が区営プールの掃除をせにゃならんのだ! 巫女は便利屋さんじゃないんだぞ! もうっ!」
「あらあら、うふふ。紅葉さんてば、これも人々のために神に代わって尽くす、巫女のお務めですわ」
「……そういう珊瑚、あなたなんちゅう破廉恥な格好をしてるんだ!」
ブラとスカートに分かれたベリーダンスの衣装のようなツーピースの水着なのだが、スパンコールやビーズが多用されておりキラキラと輝いている。そのため露出自体は少ないのだが、妙にいかがわしい。
「うふふ、せっかくのプールですし気分だけでもと思いまして」
「あはははっ、もみもみだって水着持ってきてるくせに~」
「な!? そ、それはその……。掃除が終わった後にちょっとだけ水に入ろうかなぁと……」
「あらあら、みんな考えることは同じですわね」
「それじゃあさっさと終わらせようよ!」
「よし! では四人で清掃範囲をきっちり決めて効率よく進めよう。0コースから4コースまでを私が、5コースからは朱音が、珊瑚と桃矢はそのままプールサイドを分担して掃除して……、桃矢。聞いてるのか? 桃矢っ」
プールサイドで一心不乱にブラシ拭きをしている桃矢は先ほどの授業中、秋芳から言われた言葉を脳内で反芻していた。
曰く。
ミット打ちや組み手といった、だれでもできる訓練でも人によって大きな差が出る。なぜか? 技術が上がっていく人はどんな練習も漫然と流れ作業的におこなうのではなく、様々な試行錯誤をして考えながら練習しているからだ。
一日じゅう起きている間のほとんどが鍛錬も兼ねていると思え。食事の姿勢や椅子の座り方。服を着る、脱ぐ。などなど……。これらの動きの一つ一つを意識し、どうすればより効率的に身体を動かせるか。そういうことを考える人間と考えない人間には、小さいが決定的な差が生じるものだ。
たとえば窓拭きも手先の動きだけでやるとすぐに疲れてしまうが、腰や膝などの下半身も動かして上半身の動きと連動させると疲れにくく、全身の力が拭いている手に集中するからしっかりと拭くことができる。
これは全身を連動して力を一点に集中するという武術の技にも共通することだ。
前から何人も連れ立って歩いて来た時に隙間を見つけてギリギリのところですり抜けるのは体捌きに通じる。
某アニメーターは動体視力を鍛えると称して、オートバイでトラックやバスの隙間をすり抜けることをしていたそうだ。
暮らしの中に修行あり。
『ベスト・キッド』の修行はちゃんと意味があるんだよ! ワックスかける、ワックスとる。服を脱ぐ、服をかける、服を着る。あれも立派な修行なんだよ!
最後のほうはなんかちがう気がしたが、おおむね理解できた。
(暮らしの中に修行あり……、ポイントなのは体重。重心の移動と手足の動きを連動させることで末端の手足に重みをつけさせること……)
「桃矢―っ!」
「わっ!? な、なんですか?」
「『なんですか?』じゃない! なにをボーッとしてるんだ」
「すっ、すみません。お掃除に夢中で聞こえませんでした」
「あらあら、桃矢さん。一意専心もいいですけど、周りにもきちんと気をくばってくださいね。……この水着、そんなに気にならないですか?」
「え?」
「これでも、けっこう自信あるつもりなんですよ」
右手で胸を、左手でへその下をなぞるように押さえる。サンドロ・ボッティチェリの描いた『ヴィーナスの誕生』のポーズだ。
「私、男の子の前でこんな大胆な水着姿になるの、始めてなんですよ」
「え、ええっと……」
三亥珊瑚。ゆるいウェーブのかかった栗色の長髪に、ととのった顔立ち。どことなく緩んだ表情が愛嬌を感じさせる。
そして、ほのかな色気も。
普段はおっとりとした雰囲気の彼女だが、こうして水着姿になると、やはり年相応の、いやそれどころか同年代の少女の平均にくらべれば、それ以上の艶っぽさが出てくる。それでいて清楚さを失っていないというのも特筆すべきだろう。
こういうのは苦手だ。
いったいどう反応したらよいのだろう?
などと逡巡している間にも無意識のうちに視線が珊瑚の胸と脚のつけ根の間をなんども往復し、カラダのほうが反応してしまい……。
「あらあら、桃矢さん。どうしたんです? そんな急に前かがみになって」
「こ、これはその、なんと言うか……。熱膨張と言いますか……」
女子は残酷だ。
午後の授業のような肉体的な責めもきついが、こういう精神的な責めもつらい。
「こらぁ! 珊瑚、なにビッチってるんだ、桃矢が困惑してるだろうが。からかうんじゃない!」
「ひどい! ビッチじゃないですぅっ。だって私まだ生娘なんですよ」
「生娘ビッチめ!」
「紅葉さん、ひど~い!」
「……ねぇねぇ、思い出したんだけど」
「ん? なんだ朱音?」
「この案件て、二隊で掃除するって掲示板に書いてあったけど、もう一隊の人たち、汚いよね?」
「む、そう言えば来てないな」
「来てませんわね」
「来てるわよ」
!?
緋組拾参番隊一同が声のほうへ目をむける。
巫女クラスの制服を着た女子が三人。
ふたつ結びのおさげ髪を胸の前にたらした四王天琥珀、長い黒髪に狐面のアクセサリーが映える七穂氏白亜、大正時代の女学生のようなロングヘアーに大きなリボンの十時眞白。
そこにいたのは白組壱番隊だった。
「さっきから、ずーっといたんだけど気づかなかったみたいね。あんたたち、ちょっと鈍いんじゃない? もう少し見鬼を磨いたらどう」
「こそこそと穏形して様子をうかがうとは、心にやましいことがある証拠だな」
紅葉と琥珀。両者の視線が中空でぶつかり、見えない火花を散らす。
「あの、珊瑚さん。あの二人ってなんかあったんですか?」
「ええ、ちょっとした因縁が……。琥珀さんたちとは入学当初のある事件をきっかけに、いがみ合うようになってしまいまして……」
「でもそんないがみ合いも、もうおしまいだよ! だって拾参番隊は桃矢ちゃんが入って四人組にパワーアップしてるんだから! ガンガン成績上げてだれにも文句言わせないもん!」
彼の名が出たことで桃矢に視線をむける琥珀。
「その桃矢くんだけど、なにか隠してるでしょ? 私の目にはわかるわ。あなたの奥底に眠る不祥な霊圧になにか変化があったことが」
「……おい、琥珀。無駄話してないでさっさと片づけよう」
「白亜ちゃんの言うとおり、早々にすましてしまいましょう」
「ん、そうね」
「おやおや、ずいぶん簡単に言ってくれるじゃないか壱番隊のみなさん。プール掃除とはいえども案件は案件、これも神託のうちだ。社を守る巫女として掃除は基本中の基本。おざなりではこまるぞ」
「そう言う拾参番隊は『おざなり』どころか『なおざり』じゃない? ずいぶん汚れが残ってるけど」
「そ、それは今さっき始めたばかりだからだ。仕方ないだろ」
「せっかくだからどちらがより汚れを払えるか勝負しましょうか?」
「いいだろう、望むところだ!」
「ふふ、言ったわね」
琥珀は袖口から数枚の呪符――簡易式符――を取り出す。
「それじゃあ呪術はお掃除にも使えるというところを見せてあげるわ。――急急如律令」
あらかじめ術式を組み込んでいたのだろう、式符の一枚一枚が琥珀自身の姿を象り、プール内に顕現した。その手にはご丁寧にもデッキブラシが握られている。
「さぁ、式たちよ、主命である。陰なる穢れを祓えっ、散!」
0コースから10コースまでを一気に拭き上げ――ようとするも、その動きはまるでスローモーションのように緩慢で遅い。
「ぜぇぜぇはぁはぁ……。さ、さすがに十体同時に操るのは骨が折れるわね……」
「琥珀、そんなにいっぱい呼び出すからだ……」
「そうですよ、こういうのは精度も大事なんですから」
言うと白亜と眞白も自身の姿をした簡易式を呼び出し、清掃に入る。
「負けませんわ」
「そっちがそうくるならこっちだって!」
壱番隊に倣い、拾参番隊の面々も簡易式を打って清掃に入った。
「ええっと、僕は普通にお掃除しよう……」
呪術を交えたお掃除合戦を横目に、重心を意識してのモップ拭き作業に入る桃矢だった。
およそ三十分後。
「え~い、なぜ落ちない!」
「ほんとしつこい汚れ……」
総勢七人で呪術まで使い、競うように掃除しただけあり、清掃はあらかた終わった。だがプール内の一カ所。緑色の喪が生い茂り、そこだけ濁った水たまりのようになっている所があるのだが、この汚れが頑固でなかなか落ちないのだ。
「これ、いくらなんでもおかしいですわ……」
ふと、きのうの餓鬼のことを思い出した桃矢は見鬼を凝らしてその汚れを『視て』みた。
かすかだが霊気のバランスがくずれ、瘴気を発している。
「みなさん、よく見てください。この汚れ、霊災です!」
「なんですって!?」
女子たちも見鬼を意識して汚れを視る。
「たしかに、瘴気が出てる。うかつだったわ、巫女クラス一の呪術姫であるこの四王天琥珀が目の前の霊災に気づかないなんて……」
もっとも正確には自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向、災害へと発展する直前の段階であるフェーズ1であり、霊的災害ではなく、その前段階だ。
「普通に洗った程度じゃ落ちないわけだ。よし、修祓してやる!」
「そうだね! こっちは七人もいるんだし、八陣結界とかできるかも」
「……拾参番隊のお猿さんは計算もできないの? 七人でどうやって八陣を組むのよ」
八陣結界。対象を囲むように八人の術者を配置し、詠唱し術式を発動させることで術者同士を霊気が結び、内部のものを閉じ込め浄化する。遁甲術に属する修祓呪術。
「う~ん、一人くらい欠けても、みんなで力を合わせてなんとかならない?」
「「「ならない」」」
これには緋組と白組、双方の面々から否の言葉があがった。呪術とはそのようなものではないのだ。
「七人か……、そうだ! 北斗七星陣を試そう」
「ええと、紅葉さん。授業で習ってない術を生徒だけで試すのはちょっと危険ですわ……」
「乳眼鏡の言うとおり。ここは基本に忠実に霊災を隔離する結界を張ってから、霊気の偏向を正しましょう。じゃあ私たち壱番隊が結界を張るから、拾参番隊は修祓のほうをお願いね」
「こら琥珀、なんでおまえが仕切るんだ!」
「ち、乳眼鏡って……」
「霊災は霊気に慣れ親しむ者ほどより敏感に影響を受けるのよ。あなたたちに瘴気を受けつつ冷静沈着に結界を維持することができるかしら? 長丁場になるかも知れないのに」
「それは……」
自分と珊瑚はともかく、朱音と桃矢にはむずかしい。
「紅葉さん、ここは琥珀さんの言うとおりだと思います」
「く、わかった。その段取りでいいだろう」
「決まりね、それじゃあ……、修祓開始!」
「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や――」
「布留部、由良由良止、布留部――」
「神火清明、神水清明、神風清明。祓いたまえ浄めたまえ――」
巫女たちがそれぞれ得意の呪をもちいて霊災修祓に立ち向う。
「ううっ、気持ち悪いよぅ……、おえっぷ」
彼女たちの呪に反応して緑色をした水たまりが沸騰するかのように泡立ち、瘴気をともなう異臭を放っていた。粘性の高い気泡が弾けるたびに空気中に毒の胞子がまき散らされている。その毒々しい様を見ていると、いやでもそのような想像が浮かび上がってくる。
「朱音、無理するな。下がれ。深呼吸、はかえって吸い込んでしまうのか? とにかく息をととのえるんだ」
「これが霊災の修祓……、なかなかハードね」
「く、とっとと浄められなさいよ、もう」
座学でなんども習った霊災修祓だが、いざ実践となると勝手がちがう。
炎天下の激しい日差しが肌を刺すように、熱気にあぶられるように、周囲に満ちた瘴気が身心を蝕む。
「フェーズ1程度でもこんなに厳しいなんて……。桃矢、平気か?」
緋組拾参番隊のリーダーを自負する紅葉が朱音の次に桃矢の身を案じてそちらに目を向ける。
「天、地、元、妙、行、神、變、通、力――」
一心不乱に神呪を唱え、九字を切っていた。他の巫女たちが瘴気の影響を少なからず受けて苦しみ。グロテスクな姿を見せる霊災から目を背けるなかで、桃矢だけが霊災をまっすぐに見つめ、毅然としている。
(も、桃矢? あいつ、こんなに頼もしかったか? な、なんだかかっこいいぞ……)
霊災らしい霊災に遭遇したことはほとんどないという意味では桃矢も他の巫女と変わらない。だがつい昨夜、餓鬼に相対した桃矢には一日の長があった。
あの時の餓鬼の群れにくらべれば大したことはない。そう自分に言い聞かせている。
汚いもの、醜いものから目をそむけてはいけない。それらを祓い清め、鎮めるのが巫女だ。目を閉じていたら修祓はできない――。
昨夜の餓鬼修祓のさいに秋芳から言われた言葉。それを脳裏に浮かべてひたすら修祓に専念。
だが見ることは見られること。
桃矢は霊災の、瘴気の渦にひそむ存在と目があってしまった。
!?
次の瞬間、霊災からのびた真っ赤な触手が桃矢の腰に巻きつき、ものすごい怪力で緑色の水たまりへと引きずり込む。
「と、桃矢っ!?」
とっさに床の縁にしがみつこうとするが、それもかなわなかった。
紅葉たち他の巫女たちが見ている前で、桃矢は瘴気の渦へと飲み込まれてしまった。
巫之御子 3
ゴボゴボ、ゴボ、ごぼごぼごぼごぼ……。
水泡の生じる音が耳に鳴り響く。さっきまで水の引かれたプール内で霊災を修祓していた桃矢だが、今は生ぬるい水の中にいた。霊災からのびた触手にからめ捕られ、引きずり込まれてしまったのだ。
どちらが上か下かもわからない。混乱し、もがくのだが腰に巻きついた触手が容赦なく桃矢の身を締めつけ、ぐんぐんと引っ張る。
思わず目を開けると、周囲はうす暗く、以外にも水は澄んでいるのがわかった。少なくとも外から見たような、毒々しい緑色をした水ではない。
数メートル前方にぼんやりと光る楕円形が見えた泡はそちらにむかって上がっているので、そちらが『上』なのだろうか?
桃矢はふと、あの楕円形が先ほど修祓していた霊災であり、あの光はプールの天井照明ではと思った。
ほのかに光る楕円形は見る見る遠ざかり、深淵へと沈むにつれ、桃矢の意識も薄くなってゆく……。
ごと、ごと、ごと――。
しゃら、しゃら、しゃら――。
耳慣れない稼働音に水の弾ける音が重なる。
桃矢の目がゆっくりと開く。
雲ひとつない青い空が目の前に広がっていた。
「え?」
おどろいて身を起こし、あたりを見まわす。
青空の下には緑の海が、青々とした水田が地平線の彼方まで続いている。
ゆるやかな起伏のある場所には段々畑が作られ、耕された田畑にはカボチャや大根など多くの作物が実っていた。
金色の菜の花、白い蕎麦の花、赤く実った鬼灯――。
豊かな色彩が目を楽しませてくれる。
日本人が田園風景と聞いて思い浮かべる世界そのもの。そんな場所に桃矢はいた。
「……どこ?」
ごと、ごと、ごと――。
しゃら、しゃら、しゃら――。
桃矢の独りごちに応える者はいない。水車が回り、水受け板に汲まれた水が落ちる音のみが響く。
東京都は渋谷区にあるプールの清掃をしていたら霊気の偏向。瘴気を確認し、巫女クラスの仲間とともに修祓をこころみた。だがその霊災の中からのびてきた触手に捕われ、この美しくのどかな世界に放り込まれてしまった。
「これって夢じゃないよね、現実なんだよね……」
あまりの展開にしばらく呆然と立ち尽くす桃矢だったが、出口を求め歩き始める。
水車小屋の中に引きこもり、おとなしく救助を持つことも考えたのだが、どうにも心細い。もっと大きな建物はないか、もとの世界に帰れる道はないか、探してみることにした。
水田にそって続く道を進む。不思議なことに、なにかが鳴く声も、なにかが動く気配も、まったく感じられなかった。自然豊かな場所にもかかわらず、このあたりには虫や小動物すらいない。
物音と言えば川のせせらぎくらいだ。
静かだ。あまりにも静かすぎる。そして作り物のように不自然な、自然――。
けれどもどこか神聖な感じもする。なにもしていないにもかかわらず、桃矢は自分がひどく不作法なことをしている気がして軽い罪の意識にかられた。
神聖不可侵な領域に侵入し、静寂をかき乱しているかのような……。
「僕はだれかに無理やり連れてこられたんだ……、べつに好き好んでこんな場所に来たんじゃない……」
異様な静寂がもたらす緊張に耐えられず、そう口にした時、それは密やかに、水音ひとつ立てずに現れた。
桃矢の目の前にあった水門の上にぬうっと黒いものが浮上したかと思うと、ゆっくりと空中にせり上がっていった。
爪のある手と毛深い顔を持ち、黒雲に覆われた獣のような姿。身を覆う濡れた暗褐色の毛から水滴をぽたぽたと滴らせている。
大きい。
全体像は不明だが、ひと口で人など飲み込んでしまえるだろう。
それが首をめぐらせ、桃矢を真正面から見つめる。イヌ科の動物のような顔をしているが、その目には知性の光が宿っていた。
桃矢は身動きができなかった。不動金縛りの術なのか、驚きのあまり動けないのか、桃矢自身にもわからなかった。それほどまでにそれの姿が異様だったからだ。
昨夜のフェーズ3もどきの餓鬼たちとはちがう、正真正銘のフェーズ3。動的霊災。それもすでに霊的安定を得て久しい、年経たあやかし――。
「目ガ覚メタカ、花嫁ヨ」
あやかしの口が大きく開き、真っ赤な舌がうごめいて、たどたどしい人語を発した。
「ぼ……、僕は花嫁じゃないです」
桃矢はかろうじて言葉をしぼり出す。緊張のあまり、ひどくかすれている。
「オマエハ儂ガ見初メタ花嫁ダ。オマエノ儂ヲ見スエル眼。他ノ巫女タチノ誰ヨリモ真ッ直グデ、澄ンダ良イ目ヲシテイタ。気ニ入ッタゾ」
たしかにプールでの修祓のさい、桃矢は他のだれよりも瘴気を凝視していた。
「だいたい僕は男です! 花嫁になんかなれません!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しばしの沈思黙考。
「……コノサイ、男カ女カナド、些細ナコトダ。儂ノ妻ニナレ」
「些細なことじゃないっ!」
「衆道モ、マタ良シ」
「良くなーいっ! だいたいどうして霊災が花嫁なんて欲しがるんですか!?」
「サビシイカラダ」
「えっ?」
その意外な応えに桃矢は絶句した。霊災が、こんな怪物が『さびしい』などと言うだなんて、想像もしていなかったからだ。
「儂ハサビシイ、長イコト独リデイスギタ。遠イ昔、人々ガ大地ヲ育ミ太陽ヤ空気、水ノ流レト共ニ生キテイタ頃ハヨク人ト交エタモノダ。日照リニ苦シム人々ヲ助ケ、感謝サレタコトモアル。ダガ最近デハ儂ノ姿ヲ見ルナリ、恐ロシイ呪術ヤ火ヲ吹ク棒デ傷ツケヨウトシテクル」
「……」
「モウ孤独ニハ耐エラレヌ。嫁ガ欲シイ、ツネニソバニイテ数百年ノ孤独ヲ癒シテクレル、儂ヲ愛シ、理解シ、話シ相手ニナッテクレル優シイ嫁ニナレ」
桃矢の心に苦い思い出がよみがえる。
気持ちの高ぶっている状態で唇がふれると霊力が同調する同調性共鳴症はいっさいの恋愛を禁じる枷だ。
陰陽塾に来る前、つきあっていた恋人が何人かいたが、そのいずれも長くはもたなかった。『つき合ってもう半年なのに、なんでキスしてくれないの?』
そう訊いてくる彼女たちに能力について話せば、気味悪がって離れてゆく……。
自分はこれから恋人も友達もできずに、だれからも愛されずに孤独な人生を送らなければならないんだ……。
陰陽塾に来る前は、そんなことをずっと考えていた。
唐突に湧き上がってきた悲しみが頭の芯を痺れさす。不覚にも涙があふれてくる。
桃矢の持つ強い感受性が、目の前の怪物が抱く孤独の念を読みとったからだ。
「オマエニモワカルカ?」
「……はい」
「儂ノタメニ泣イテクレルノカ?」
「はい」
「オマエモ孤独ナノカ?」
「は――」
はい。思わずそう言いかけて口をとざす。ちがう。今の自分は独りなんかじゃない、この能力に理解をしめして陰陽塾への道を作ってくれた大友陣。忌避することなく普通に接してくれる塾生たち。危機を救い、教えをしめす賀茂秋芳。
自分の周りには多くの人がいるではないか。
一人ではない。そう言おうとする前に怪物が口を開く。
「オマエモ孤独ナノダナ。ヨシ、デハトモニ愛シ合オウ。ワシハオマエノ孤独ヲ癒ス、ダカラオマエモ儂ノ孤独ヲ癒シテクレ。サァ、ヒトツニナロウゾ……」
桃矢が不穏な気配と身の危険を感じた瞬間、その足もとをなにかが巻きついた。さっきの赤い触手だ。
「ひゃっ!?」
ものすごい力で引きずられ、転倒しそうになる桃矢の右腕と左腕を別の触手が巻きつく。両腕を左右に押し広げた、Yの字の格好で怪物の前に持ち上げられる。
水中に隠れて見えなかったが、この触手は怪物の身体から生えているようだ。
ぬちゃあぁあぁぁぁ――。
大きく開いた口から赤い舌がのび、桃矢の胸からお腹、脚にかけていやらしく這いまわる。肌の感触や温もりを確認するかのようにうごめく。
その動きのいやらしさ、なまめかしさに身の毛がよだった。
「あっ!」
赤い舌の先端が緋袴の奥。桃矢の股間をまさぐる。
「ヌゥ、コレハ……。タシカニオノコデアッタカ……」
「そ、そうだよ。だから言ったでしょ、僕は男の子なんだよ! だから離してっ!」
「ソレデモ、カマワヌ」
「え? ええっ!? ほんとに? わっ!?」
両腕に続いて両足も左右に開かれ、Y字型からX字型にされる。新たに二本の触手がのびてきて、桃矢のお尻と胸を愛撫しだした。
「あっ、ちょ、やめ……。くっ、くすぐったい! て、あ、あ、ああ、アアッ!?」
感じる。
「や、やめてっ! アアッ! い、いやっ! いやぁ~!」
桃矢は全力で身をよじるが、触手の動きは止まらず、全身をくまなく撫でまわされる。
桃矢の身体に本格的な快感が走る。
「はぁはぁはぁ……、だ、だめ……。そんなにしたら……。あ、あうっ!?」
乱暴ではあるが、痛くないよう傷つけぬように肌を這い回る触手の感触はひたすら優しく、情愛がこめられていた。
「ん、んんん……。ンッ、くっ、うふぅ……ん、んんっ、ら、らめぇぇぇ~!」
あまりの気持ち良さに口から男とは思えないほどの色っぽい喘ぎ声が漏れ始める。
それに反応してか、お尻を撫でていた触手の動きが激しさを増し、不穏な動きを見せ始めた。
その動きに消えかけていた桃矢の理性が悲鳴をあげた。
(こ、このままだと女の子にされちゃう!? そんなのはいやだっ!)
必死になって抵抗する。
「やだやだやだ! こんな始めて絶対にやだ! いやだーッ!」
桃矢のその思いが天に通じたのか、一条の光が奔り触手を切断した。
「グギャッ!?」
切断面から体液をまき散らす代わりに激しいラグが生じ、怪物は苦痛の叫びをあげてのたうちまわる。
触手を断ち斬った光の正体は鋭利な霊気につつまれた一羽の折り鶴だった。それは桃矢の肩に止まると「桃矢、禹歩」と、秋芳の声を発した。
「え?」
「禹歩、穏形、身固め。早く!」
「あわわわ、はい!」
千鳥足のようなおぼつかない足どりで、それでもしっかりと禹歩を踏み、呪を完成させる桃矢。
桃矢は兵馬刀槍といった物理的な攻撃を避ける禹歩の他に、あやかしから隠れる類の禹歩もついでに教えてもらっていた。
きのうの今日ならぬ、さっきの今だ。そのやり方はしっかりと記憶している。
「グヌヌ、ドコヘ消エタ?」
怪物の目から遁れることに成功したようだ。昨夜の餓鬼のように目の前にいるにもかかわらず、こちらの姿を見失い、触手を使いあたりを探し回るが、触れる直前になぜか向こうのほうから避けてしまう。
あの安倍晴明の幼い頃。師である賀茂忠行の供をしていた時、百鬼夜行に遭遇したことがある。晴明は急いで寝ていた忠行を起こして知らせて、忠行が素早く身を隠す術を使ったため百鬼夜行から無事に逃れることができた。というお話が『今昔物語』の中にある。
一説にはこの時に忠行がもちいた術こそ、隠形の反閇だと言われる。
桃矢はそれを使ったのだ。
「もとは方位神の眷属だけあって、この手の術が良く効く」
「……こ、こいつって神様なんですか?」
「神様っちゃあ神様だが……、そんなありがたい存在じゃない。陰陽道における八柱の方位神。八将神のうち太歳神に仕える赤舌神が妖怪に零落した姿。赤舌だ」
「あ、そんな妖怪いましたね」
「赤舌の赤は淦。船底にたまる水を意味し、舌は下心。心の内にひそむ邪な感情を意味する。ことわざの『舌は禍の根』にも通じることから、赤舌とは災いをあらわす、一種の凶神だといわれる」
「へぇー」
「この田園世界はこいつの作った隠れ里だな。場所が場所だし、汚れたプールはうつし世との『門』にしやすかったんだろう」
たまった水に下心。たしかにここはそのような要素のある場所といえる。
「ところで秋芳先生、ですよね? その姿は……」
「俺の簡易式だ。様子を見に来たらみんな霊災を囲んで途方に暮れてて、聞けばおまえがさらわれたって言うじゃないか。だからこうして探りに入ったんだ」
「あ、これも簡易式……」
桃矢の中で簡易式といえば、先ほどのお掃除合戦でみんなが使ったような人形のものしか思い浮かばなかったので、折り鶴の形は意外だった。
「正確には簡易人造式。汎式における式神使役術の基本中の基本だな。一般の人造式よりも安易かつ迅速に作成できて、カスタマイズしやすい自由度の高さがメリットな一方、術者の呪力のみで動くため長時間の活動にはむかないというデメリットがある。それでも使い手の発想や力量次第で様々な用途に使用できる便利な式だ」
「そういえば授業で習ったような気がします」
「まぁ、巫女クラスじゃ式神について陰陽師クラスほど専門的に教えてないようだからな。失念するのも無理はない。ところで――」
「はい、なんですか?」
「あの赤舌だ、人をさらって触手プレイするようなエロ妖怪を放置するわけにもいかないし、修祓するか」
「しょしょしょっ、触手プレイってそんな!? そ、そうみたいでしたけど……」
さっきの感触を思い出し、桃矢の白い顔が羞恥に朱く染まる。
「言っておくがおまえを見つけて、すぐに助けに入ったからな。アニメ『ドルアーガの塔』のファティナのあれのシーンみたく、しばらく放置しようとか思わなかったぞ」
「あ、あたりまえですよ! あんなふうに傍観するような人は最低です!」
「だけどおまえもちょっとゆるすぎだぞ。押し倒されてすぐに『あぁんらめぇぇぇ』てなるような安いやられキャラよりも『くっそテメェあとでぶっ殺す……っ!!』て、デレも蕩けもせず。ムードもなく、最後までずっと悪態ついてるようなやられキャラのほうが絶対受けるって」
「いったいなんの話ですか!? わけがわかりませんよ!」
「まぁ、とにかくこいつを祓おう。俺がやれば簡単だが、せっかくだし外に引きずり出して他の巫女たちみんなで修祓するか。そのほうが勉強になる」
「あの、そのことなんですけど……」
「うん?」
桃矢はこの怪物――赤舌――の境遇について説明した。
「――そういうわけで、一方的に修祓するのはちょっとかわいそうな気がするんです。なんとかなりませんか?」
「そうか『大アマゾンの半魚人』みたいなやつだったのか。それはかわいそうだなぁ。まぁ、見たところ霊的に安定しているし、瘴気ダダ漏れって感じでもないし、折伏できるのならそれにこしたことはないな。よし、ちょっと話してみよう」
「はい」
桃矢は禹歩を止め、赤舌にむかい合った。
「オオ、ソコニイタカ」
「赤舌さん。あなたがさびしいのはわかりました。でもこんなやりかたは良くないです」
「ナニガ良クナイ?」
「強引にさらって、相手の意思を無視して、その……、え、エッチなことをするのは良くないです、ダメです」
「エッチナコト。トハ、ナンノコトダ」
「それは、そのぅ、ええと……」
「婦女子をかどわかし、手籠めにするなと言っている」
「あの、僕は婦女子じゃないんですけど……」
「グヌヌ……」
冴え冴えとした霊気を放つ折り鶴からの言葉に赤舌が目に見えてたじろぐ。
「オマエハ陰陽師ノ式神カ……?」
「そうだ、陰陽師だ。未成年者略取と強制猥褻の現行犯で修祓する。と言いたいところだが、なにやら事情がありそうなので、ゆるしてやらなくもない。おとなしく式になれ」
「……ソノヨウナコトヲ言ッテ、式ニ降ロシタ後サンザンニ、コキ使ウ気デハナイダロウナ?」
「しないしない、ちゃんと労働法は守る。十日間飲まず食わずでこき使ったうえ駄賃を踏み倒したり、たぶらかして馬糞を食わせたり、風呂といつわり肥溜めに入れたり、肉をそぎ酒菜にしたりとか、そういうのはしない」
「なんでそんなに具体例がすらすら出てくるんですか!?」
「なに、昔そういう陰陽師がいたんだよ」
「イヤダ、働キタクナイ。儂ハココデ嫁と二人。静カニ暮ラシタイ」
「働きもせず引きこもってダラダラと暮らしてるだけで嫁がもらえると思うなよ。外に出ればそのぶん出会いがあるし、良い働きをして社会に認められれば、女のほうから嫁にしてくれと言ってくるぞ」
「ソウイウモノカ?」
「そういうものだ」
「ウウム……」
「さらに召喚されて働いている間は給料も出してやろう。人間界で過ごすにはなにかと入用だしな」
「人界ニモ金銭ニモアマリ興味ハナイノダガ……」
「今の世を直に見て周ったこともあるのか? こういう自然だってまだ残っているうえ、映画やゲームといった娯楽だってあふれている。楽しいぞ。そして人海で楽しむにはそれなりに先立つものが必要だ」
実際都内にはおよそ二百九十五ヘクタールの水田が存在し、七十五の農業用水路も流れている。世田谷の等々力渓谷など、都心にありながらまるで別世界のような自然にあふれ、今でも修験者が修行におとずれているという。
「……ワカッタ、デハオ主ノ式ニナロウ」
「かんちがいするな、使役するのはこいつだ」
「え? なに言ってるんです、僕に使役式を持てるだけの霊力なんてありませんよ」
「今は無理でも修行して身につければいい。今日のところは仮契約だ」
「そんなことしなくても、秋芳先生が式にすれば……」
「俺は笑狸以外の式神は持たない」
「そんな~」
「こいつを修祓せず助けたいと言ったのはおまえだろ、最後まで責任をもって面倒を見るんだ」
「コノサイ修祓サレヌノナラバドチラノ式デモカマワヌ」
「念のため確認するが、今までも婦女子を手籠めにしたことはあったか?」
「ナイ。ソノヨウナコトハ断ジテナイ」
「では今後もそのような狼藉を働くこと、これを禁ずる。破った場合はたちどころに落命すると思え」
秋芳の言葉には呪がこめられていた。呪術師相手に言葉で交わした約束を違えればどうなるか、説明するまでもない。
その他にも桃矢を交えてちょっとした儀式のようなことをして、式神契約(仮)は無事終了した。
「儂ハ赤舌。イツノ日カヨロシク……」
ちょぽんっ
軽快な水音をあげて桃矢の身体がうつし世に現れる。と同時に異臭をまき散らしていた瘴気の塊。霊災がかき消えた。
「あ、戻ってきたよ!」
「桃矢さん!」
「無事か!?」
「まったく世話かけて……」
緋組拾参番隊と白組壱番隊。紅白の巫女たちが桃矢の身を案じて駆け寄り、無事をたしかめた。
「みんな心配かけてごめん。秋芳先生に助けてもらったから、僕は平気だよ」
「そ、そうだ。賀茂先生すみませんでした。私たちだけで修祓しようとして、こんなことになってしまって……」
一同を代表するかのように紅葉が頭を下げる。
「……陰陽法第二十四条。霊災を発見した者は遅滞なくこれを陰陽庁祓魔局。または市町村長の指定した場所に通報しなければならない。またすべての人は前項の通報が最も迅速に到達するように協力しなければならない。通報義務に違反した場合、同法第四十四条にしたがって、三十万円以下の罰金。または拘留に処せられる……。と堅苦しい弁はさておき、みんなはまだ正式な巫女でも陰陽師でもないのだから、無茶、無理なことはしないように」
さんざんもぐりで霊災修祓してきた自分が他人に法を説くとはね――。秋芳は内心で苦笑しつつ、そう教え子たちに諭した。
「とにかくこれで霊災は消えた。清掃のほうも終わってるか?」
「はい、終了しました」
「なら案件も無事完了だな。みんな憑かれたろう、もう帰ってもいいぞ」
「あのう、そのことなんですけど……」
「却下」
「まだなにも言っていませんわ!?」
「三亥珊瑚くん、君の格好を見ればわかる。もののついでにここで水遊びしたいとか言うんだろう?」
「は、はい。せっかくですしちゃんと綺麗になってるか確かめないとですわ」
「このサイズのプールに水を張るとなると、相当な量になる。水道代もバカにはできないし、消毒用の塩素だって必要だ。そんな許可は取ってないから無理だ」
「ま、まぁそうですけど……」
「たしかに言われてみれば、水道代とか塩素のこととか、考えてなかったな」
「え~、そこをなんとかならに? お願い先生」
「見苦しいわね緋組拾参番隊。先生の手をわずらわせたあげく、そんなわがまま言ってみっともない」
「あら、そう言う琥珀ちゃんだって水着用意しててのに」
「な!? 余計なことを言うんじゃない眞白っ」
「夏場は泳げなかったから、少し期待してたんだが残念だ」
「こら、白亜まで!」
わーきゃーわーきゃー、実にかしましい。女っ気というものに縁のなかった秋芳にとって、この空気は新鮮で、わずらわしくもあり楽しげに感じた。
「まぁ、みんな最後まで聞け。実は俺もみんなと同じことを考えていた」
「「「え!?」」」
「実際の水を使うのは無理だから、呪術で出した水でプールを満たす。ついでに消毒も呪術でする。店側の出費はゼロ、関係者もいない。どうせ今日は営業してない俺らの貸し切り状態だし、黙っていればわからない」
「呪術の水って水行符を使うんですか?」
「でも私そんなに持ってない」
「巫女クラス一の呪術姫であるこの四王天琥珀を甘く見ないで。一枚で満たしてあげる」
「ふん、十体の簡易式もろくにあつかえないくせに大口を叩くな」
「なんですって!?」
「そもそも水行符……、呪術で出したお水は長くは持たないのでは?」
「ねぇねぇ、消毒用の呪術ってなに?」
「ええと、なんでしょう? 火行術でしょうか?」
わーきゃーわーきゃー。やっぱりかしましい。こういうのを女子高のノリとでも言うのだろうか? このような喧騒も悪くない。そんなことを思いつつ、秋芳は自分の考えを実行に移すため、みんなをプールサイドに上げさせた。
「こうするんだ。――オン・シュリマリ・ママリマリ・シュシュリ・ソワカ!」
この世の一切の汚れを焼き尽くし、有形なる物の不浄を浄化する烏枢沙摩明王の真言を詠唱。
清浄の力に満ちた聖なる炎が建物の中を洗い清め、プール内の目に見えない雑菌を滅却。さらに続いて――。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ!」
龍索印を結印し、十二天のひとつ水天の真言を詠唱すると、護法の呪力はH2Oの化学式で表される水素と酸素の化合物。すなわち水へと変わり、モン・サン=ミシェルの潮流のごとく激しくプールに流れこんでいっぱいに満たした。
無から有を生み出す、恐るべき呪術の御業。
正確には術者の精神力や呪力が代償になっているので無から有というわけではないのだが、それでもすさまじきものである。
「さっきだれかが指摘していたが、実体化した式神と同様に呪術によって生じた物質というものは現実的には曖昧な状態なんだ。五行術で呼び出した木や火や土、金属や水なんかみんなそうだな。水行術の場合は『呪力が一時的に現実の水と同じ形状・性質になっているだけ』で時間が経過すると消滅する。そうしなくするためには通常の術式に手をくわえ、より多くの呪力を消費することで限りなく現実の物質に近づけることができる。この水はそのようにして作られた水だから、泳いでるさいちゅうに消えたりはしない。どのくらい現実の水に近いかと言うと――」
「「「…………」」」
「――ま、こまかい話は授業でしよう。さぁ、これで準備はととのった。あとはみんな水着に着替えて自由に」
「「「は~い♪」」」
そして今回のお話の冒頭のシーンへとつながる。
笑狸の幻術によって生み出された青い空に白い雲。燦々と輝く太陽に紺碧の水面。押しては引く波の音に、ただよう潮の香り。
視覚のみならず聴覚、嗅覚にも幻術の効果はあらわれている。
大海原に広いビーチが広がっているように見えるが、実際は室内にあるプールだ。そのため壁などの障害物に衝突しないよう、念のため緩衝用の結界も張られている。
紺色のスクール水着を着た朱音が、赤いホルターネックビキニの紅葉が、白のワンピースの眞白が、黒の競泳水着の白亜が、バンドゥビキニの珊瑚が、、タンキニ水着の琥珀が――。多種多様、色とりどりのスイムウェアを着た乙女たちが若く美しい肢体をさらして自由奔放に戯れていた。
「ねぇ、秋芳君。どの娘が好みなの?」
「京子」
「そうじゃなくて、あの中じゃあだれが一番好きなの?」
「あの中でもどの中でも京子が一番好きだって」
「んも~、うふふっ。正直者なんだからぁ」
「……あのさー、二人とものろけてないで泳いできたら? せっかくのプールなんだし」
「賀茂先生たちも入りなよ、気持ち良いよー」
『ギップリャ』と叫びたくなるのを、ぐっとこらえた表情で笑狸がそう口にすると、それに合わせたかのようなタイミングで巫女たちもプールにいざなってきた。
「そうだな、水にはいるのも久しぶりだし泳いでみるか。京子、俺は脱いだらすごいんだぞ。もう首から下は『Free!』のキャラみたいだからな。松岡江がうっとりするくらいの筋肉だぞ。うなるような嵐の上腕筋、燃えるような炎の後背筋、しなやかな疾風の大腿筋、叫びをあげる雷の三角筋……」
「うん、見たことあるから知ってる。……て、なに言わすのよ、もう。変な意味にとられちゃうじゃない」
「あー、はいはい。お二人さん仲が良いのはわかったから、仲良く競泳でもしてきたらどう?」
「あら、いいわね。秋芳君、どっちが早いか競走…、じゃなくて競泳しましょう」
「いいぞ。だがその胸で速く泳げるかな?」
「胸は関係ないでしょ、胸は!」
京子は一つにまとめたポニーテールを前のほうにもっていき、後ろからおおうようにキャップをかぶった。準備完了。
「なぁ、俺が勝ったらおっぱい揉ませてくれ」
「……いいわよ。じゃあ、あたしが勝ったらあなたはなにをしてくれるの?」
「その時は敗者として、恥を忍んで君のお尻にキスをしよう」
「……お尻にキスするんじゃなくて、足の裏を舐めなさい!」
「いいよ」
「え?」
「俺が負けたら京子の足の裏を舐める。わかった、その条件飲んだ」
「ちょ、ちょっと待って! やっぱ今のはなし。なしよなし! こら、待ちなさいってばっ」
足の裏をくすぐるように舌で舐めたら、京子はどんな反応をするのだろうか?
これは実に試しがいがある。
秋芳は相好をくずしながら水面にむかって駆け出した。
薄暗い屋内。
鉄骨の突き出た、剥き出しのコンクリートの床と壁。だが天井からは紫水晶の豪奢なシャンデリアがぶら下がり、天鵞絨の壁掛けや絨毯。スウェーデン製の高名な家具工芸家の紋章が入ったテーブルにはコニャックやジョニー・ウォーカーといった洋酒の瓶がならべられ、淡い照明に銀色の反射を見せている。
豪勢なのかそうでないのか、ちぐはぐな。あまりにもちぐはぐな装いをした部屋だった。
女の体臭と香水の匂いが入り交じった、頽廃的な香気がただよっている。妙にけだるく、それでいて興奮を誘う妖しい香り……。
部屋の奥にある天蓋つきの寝台の上。上等な絹の褥にくるまれて、四人の女性が絡まりあっていた。
おたがいの肌を、唇を、髪を、全身を舐めるように愛撫し合っている。
喘ぎ声とも嬌声ともつかない、淫糜な声が吐息とともに漏れる。
「なぁ、美卯」
赤銅色の髪に褐色の肌。左目に革製の眼帯をした女が組み伏せた少女に問いかける。
「なんですの?」
「このサクランボはだれのものだい? 美卯のものかい? 彼氏のものかい? それともあたいのものかい?」
女はそう言うと、髪をツインテールにした少女、美卯の乳首を舌先で激しく舐め回した。
「こ、この乳首は温羅様のものですわっ! あ、ああっ!? アーッ!」
その様子を見た別の少女が温羅と呼ばれた女の背中に猫のように頬ずりし、懇願する。
「やだぁ、美卯ばっかりずる~い。ねぇ温羅さまぁ、ここにも温羅さまのサクランボがありますよぉ。舐めて舐めて~」
ショートヘアにしたくせっ毛が温羅の背中をくすぐる。
「かっかっか、いいぞ寅子。じゃあこっちのサクランボには、お辰のミルクをかけてから、いただこうかね……」
「あっは~ん、温羅様のお望みなら喜んで、この辰巳、お乳を搾っちゃいますぅ」
二十代半ばだろうか、四人の中では一番年かさで、上品な黒髪を肩まで伸ばした女性だが、その声は妙にハイトーンで幼女のようだった。
辰巳がその豊かな双丘に自分の手をよせ、揉みしだき始めた。まさか本当にお乳を出すのだろうか? と、その時だった。
「お館様!」
室内に男の声が響き、女たちの醸し出していた淫蕩な空気に水を差す。
「なんだいジョルジュ。でかい声出して邪魔するんじゃないよ、あたいが子猫ちゃんたちと楽しんでいるのが見えないのかい?」
ジョルジュと呼ばれた男が平伏するかのような低姿勢で部屋に入って来た。
土気色の肌に灰色のスーツが陰気臭い、痩せぎすの小男。だがその腹部だけは異様に膨らんでいる。
中年太りにしても大きい。大きすぎるほどに膨らんでいた。
まるで餓鬼のように。
「はっ、おそれながら申し上げます。わたくしの眷属たちが桃の童を発見いたしましたので、急ぎ報告に参りました」
「あ、そう」
「な、ちょ、『あ、そう』て、そんな……。温羅さまの祖先に仇なした仇敵。ひいては鬼族の宿敵を見つけたのですぞ!」
「だからなんだい、祖先は祖先。あたいはあたいだよ。……それよりもジョルジュ、あんた人を、人間を喰ったね」
「は!? い、いや、いやその食したのは人というか路上にころがる不浄の物でして……」
「不浄でも清浄でも、とにかく生きた人間を食べたんだろう? おまえの霊気から血肉の臭いがするよ」
「は、はい。ですがしかし直接口にしたのは我が眷属どもでして、わたくしが食べたというわけでは……」
「おなじことだよ。ジョルジュ、あたいたち鬼子党は金持ちや権力者しか相手にせず、庶民に非道な真似をしないのをモットーに掲げる義賊なんだ。盗みはいいけど殺しはご法度だよ」
「は、ごもっとも!」
「ジョルジュ。あんたはそれを、破った」
「…は、ごもっとも」
「あたいにはねぇ、どうにも我慢できないことが三つあるんだ。一つ! あたいになめた口を利くこと。二つ! あたいを甘く見ること。三つ! あたいを馬鹿にすること。そして……、あたいの決めたことを守らないことだよッ!」
「え? いや、そ、それは全部で四つあるのでは……」
「黙りな! 禁口則不能話、疾く!」
口を禁ずればすなわち話すことあたわず。
発言を封じられ、陸に引き上げられた魚のように口をパクパクとさせるジョルジュ。
「そして! あたいの揚げ足を取ることだよ!」
温羅は枕元に置いたあった銃器を手に取ってジョルジュに銃口を向け、引き金を引いた。
FMG-9。折り畳み式のサブマシンガンが火を吹いた。
激しい銃声が鳴り響き、ジョルジュの全身がラグにつつまれる。
連続して銃弾を撃ちこまれ衝撃に翻弄される様は、まるでダンスでも踊っているかのようだった。
(ひ、ひどい~)
あわれ全身に風穴を穿たれ蜂の巣状態になったジョルジュは、口を禁じられたため悲鳴をあげることすらできず、意識を失った。
「まったく、すっかり興が冷めちまったよ……」
落ち着いたところで先ほどの言葉を思い出す。祖先の『温羅』を退治した桃の童が現世に現れたという話……。
「……気が向いたらいっぺん会って見ようかねぇ、桃太郎」
左目の眼帯をさすりながら、温羅という名の女はそう口にした。
後書き
ラストに出てくる温羅。
桃矢メインのお話を続けるなら出そうと思った桃太郎伝説や干支にいなんだボスキャラですけど、今のところ再登場の予定はありません。
巫之御子 余談
秋芳たちが去ってしばらくしたのち。扉を開け、あたりをうかがうようにしてプールサイドに入って来た一人の少年がいた
「よし、もうだれもいないな……。いいぜ、夏目」
黄色と黒の虎柄をした海パン一丁の春虎が手招きすると、飾り気のない白いワンピース水着を着た夏目が姿をあらわした。
「お……」
春虎の視線が思わず一点に集中してしまった。
夏目が着ているのはたしかに飾り気のない、白ワンピだ。だが春虎が思っていたよりも三角ラインが鋭角。つまりハイレグ度が高かったのだ。
それにくわえて少々布地が薄く、心もとない。
端的に言ってしまえば極薄超ハイレグの競泳水着だったのだ。
「あ、へ、変かな、この水着……?」
春虎の視線に気づいた夏目が両手で身体を隠すようにして、恥じらう。
「へ、変じゃないって! なんて言うか、その、あ、アイドルみたい? 思ってたよりずっとかわいいって言うか似合ってるて言うか……」
「かわいい!? ほ、ほんとう?」
「おお! すっげぇ、かわいいよ! マジで!」
年齢制限のある雑誌に載っているグラビアアイドルみたいにエロい。などとは口が裂けても言えない。
「ふふ、良かった。これ、ちょっと地味かなぁと思ったんだけど、春虎が気に入ってくれたんなら正解だね」
そんな極薄超ハイレグ水着のどこが地味なんだ! デザインか? デザインが地味なのか? たしかにデザイン『だけ』なら地味かも知れないけどよ!
「こほん」
わざとらしい咳払いとともに二人の近くに紺色のスクール水着(旧型)を着た幼女が現れた。
尖った耳にケモノの尻尾。アイロンプリントには『コン』と書かれている。
春虎の護法式であるコンだ。コンだけに紺の旧スクを着用しているのは偶然か。
「春虎様、夏目殿とておなごでございますぞ。そのような劣情に満ちた不躾な視線で舐めまわすように視姦するのはどうかと……」
「し、ししし、視姦!? 春虎君、そんな目で私を――ッ」
「ちょ、おまっ、ななな、なに言ってんだよ! そんなんじゃないって!」
「そうでござりますか……?」
おのれの式神から飛んでくる、ジト目の視線が痛い。
「そうだよ、もういいから準備運動始めるぞ!」
土御門夏目。陰陽師の名門である土御門家に生を受け、呪術の才にあふれた天才少女。
その土御門家には様々なしきたりが存在した。
そのうち一つ『跡取りは対外的には男子として振る舞わなければならない』ことにより、中学入学以降は男装し、男子として過ごしている。
そのため公の場で水着になる、水に浸かることなどまったくなかった。水泳の授業も受けず、スイミングスクールに通うこともなかった。それゆえ、泳げない。
つまり、土御門夏目はカナヅチだった。
そのことを知った春虎は、それならばと自分が教えようという気になったのである。
その機会はすぐにやってきた。案件とやらでプール清掃をすることになった秋芳に頼んで、掃除が終わった後のプールを二人だけで貸し切りにしてもらったのだ。
もっとも秋芳には夏目のことは言ってはいない。
「実はコンのやつ、カナヅチなんだ。だから今度おれが泳ぎを教えてやろうと思ってたんだけど、なかなか場所が見つからなくて……。ほら、護法式とか、公共の場であんま見せて歩くのもあれだろ? それにコンも人目があるといやだって言うから……」
そのような苦しい言いわけをして、使わせてもらうことに成功した次第だった。
「コンめは水練もできまする。それを夏目殿のダシに使うとは不本意です」
そうぶうたれるコンをなだめすかすのには大変だった。そして今でもご機嫌斜めの様子だ。
「コンもほら、準備運動、準備運動!」
水に入る前にしっかりと身体をほぐし、温めるのは大事だ。
硬くなっている筋肉をほぐすことはケガの予防になるだけでなく、足がつるのも防ぐ効果がある。
しかし――。
極薄超ハイレグというきわどい水着に身をつつんで脚を開いたり曲げたり屈んだり反ったり跳んだりしている様は、なんというか、かなり危ない絵面だった。
夏目は華奢な体型で、同年代の女子とくらべると胸のあたりなどひかえめなほうなのだが、それでも身体のラインがはっきりと表れる競泳水着を着ていると、やはり男子とはちがう。丸みをおびた、柔らかそうな身体つきをしているのがハッキリとわかる。
アニメ『東京レイヴンズ』第九話を思い出して欲しい。
バイクの後ろに乗った春虎が前の夏目の胸をつかんだシーンで、はっきりくっきりと盛り上がるほどのサイズの乳があったではないか。
胸にある二つのふくらみが『ほらほら、どう? あたしたち女子は男子とは身体の作りがちがうんだから。興味ある? 来て見て触ってみる?』(CV:花澤香菜)などと自己主張している幻影が春虎の脳裏に浮かんだ。
これは男子ならばだれもが脳内に持つ妄想器官の働きによるものだ。
エマージェンシー! エマージェンシー! ただちに暴れん棒を冷却せよ!
「お、おっし! 準備体操はこれまでっ」
「えっ? もういいの?」
「おう! 早く水に浸かって身体を冷やそうぜ!」
言うやいなやどぼんと飛沫をあげてプールに飛び込む。
「きゃっ!? もう春虎君てば危ないっ」
「ハハッ、夏目もコンも早く来いよ。冷たくて気持ち良いぜ」
「もう、子どもなんだから……」
「では、お言葉に甘えてコンめも入水いたしまする」
豪快にダイブした春虎とちがい、足から水に浸けてゆっくりと入水する夏目とコン。これがプールの正しい入りかただ。
「ひゃっ、冷た」
「おおぅ……、これはこれは、なかなか心地よい」
チャプチャプと水音を立てて器用に背泳ぎをするコン。尻尾が舵の役を果たしているのか、かなり安定した泳ぎを見せている。
「じゃあ夏目はまず水に慣れるとこからだな。顔を水につけてみようか」
「もうっ、そのくらいはできます! もぐれます! 泳ぎを教えてください!」
「あはは、そうか。じゃあ――ッ!!」
ふたたび春虎の視線が夏目の身体の一部を凝視してしまった。
なぜなら――。
透けて見えていたからだ――。
「春虎君?」
怪訝そうな表情で小首をかしげ、のぞきこむように春虎をうかがう夏目。
小動物のようなかわいらしい仕草だが、春虎にはその愛おしい姿を見る余裕はなかった。
なぜなら――。
透けて見えていたからだ――。
どこが透けて見えていたか?
夏目は白い水着。それもどこで購入したのか、極めて薄い布地のものを着ているのだ。
つまり――。
「春虎君? ねぇ、どうしたのさ?」
春虎の中の『虎』が目覚めようとしていた……。
京子のお見合い
「お見合いぃ~ッ!?」
陰陽塾への通学途中の車内に京子のすっとんきょうな声が響いた。
「まぁ、なんですか京子さん。そんなはしたない声なんか出して」
「いきなりお見合いなんて言われたら、こんな声も出ます! いきなりなんなんですか、お見合いって!?」
「お見合い。結婚を希望する男性と女性が第三者の仲介によって対面すること。ですよ」
「そんな辞書に載っているような説明じゃなくてっ!」
ひと息入れて呼吸を落ちつかす。
「……お祖母様。あたしと秋芳君のこと、認めてくれてたんじゃなかったんですか?」
「ええ、認めていますとも」
「なら、どうして――」
「ただ先方がどうしても言ってきていましてね。たとえその場で断ってもいいから、せめて一度会うだけは会って欲しい。お見合いの席をもうけてくれって、しつこいのよ。だからするだけしちゃって、ちゃちゃっと断ってしまってけっこうよ」
「ええ、そうしますとも。ええ、もちろん!」
「――ていう話なのよ」
京子は秋芳に見合いの話を打ち明けた。
「そうか、名家のお嬢様となると色々と大変だな」
「なに人ごとみたいに……、あたしがお見合いするのに、あなた平気なの?」
「だって実際に結婚するつもりはないんだろう?」
「もちろんそうよ。……そうだけど、こういう時はもっと動揺して『お見合いぶち壊し作戦』とか、考えたりしないの?」
「あー、なんかそれ、昔の漫画とかにありそうだな……。なぁ、逆に俺に縁談の話があって、見合いをするだけするとして、京子。君は心配か?」
「ぜんぜん、だってあなたが心変わりするはずないもの。あなたの好きな人はあたしよ。未来永劫ね」
「ああ、俺だってそうだ。千年前から好きだったし、千年後も好きでいる。何度生まれ変わっても、この想いは変わらない。だからそれと一緒さ」
「……ん、そうね」
それでも少しくらい動揺してくれると嬉しいんだけどな。
これも乙女心の一種なのか、微妙な気持ちになる京子だった。
夜。
京子は自分の部屋でお見合い相手の身上書を読んでいた。
「龍鳳院宮寺光輝(りゅうほういんぐうじ ひかり)って……、なによ。この冗談みたいな名前、ふざけてるの?」
祖父の代で財を成し、父の代で呪術とも縁のある名家と結婚し、孫である光輝の代でそれら富と名声をさらに盤石のものにすべく、現在もっとも権勢を誇っている倉橋家との婚姻を望んでいる。
つまりは政略結婚。それ以外のなんでもないように京子には思えた。
「趣味はクレー射撃に乗馬にフェンシングって、なんだか昔の漫画に出てくるお金持ちキャラみたいね。齢は二十五歳……。ふ~ん、この人も一応呪術師みたいだけど、腕のほうはどうなのかしら」
写真に写る相手の容姿は凡庸で、いかにも名家のお坊ちゃんという感じしかしない。育ちの良さだけは伝わってくるのだが、秋芳の存在を差し引いても異性としての魅力を感じることはできなかった。
「これならまだうちの生徒のほうがカッコいいわ。夏目君とか」
秋芳に出逢う以前、京子は夏目に恋慕の情を抱いていた。
ずば抜けてととのった容姿、女性のような長い黒髪、統制され、裡に秘められていながらなお気高さと峻厳さをかもし出す霊気。
そんな夏目が好きだった。
好きになったきっかけは幼い頃にあったある出来事。だがそれはもう過去の話。今の京子の想い人は一人しかいない。
「秋芳君と夏目君、二人とも全然タイプがちがうわよね。我ながら極端から極端に走ったものだわ。……もし今夏目君から告白されたらどうしよう? 秋芳君がいるから恋人にはなれないけど『今よりもっと親密な』お友達になるくらいなら平気よね……。ふふっ、あんまし仲良くすると秋芳君が嫉妬しちゃうかも」
ガラにもなく漫画じみた恋愛妄想に耽る京子。やっかいなお見合いを前にしての、ささやかな現実逃避だった。
「あ~あ、ほんっとめんどくさいわねぇ、せっかくの休日がお見合いなんかで潰れちゃうだなんて……」
しばらく妄想に耽ったあと、身上書を投げ出してベッドにつっぷする。憂鬱な日曜が一秒ごとに迫っていた。
東京エターナルランド。
世界でもトップクラスのサービスと人気を誇るテーマパーク。
頭に『東京』とついてはいるが、東京都の地図を見ても載ってはいない。それもそのはず、この巨大なテーマパークは東京湾の東岸。千葉県の西端部に存在しているからだ。
なぜ千葉なのに東京なのかというと、このエターナルランド。親会社はアメリカにあるのだが、アメリカ本国に限らず世界各地のマーケット展開を想定してオープンしている。そのため日本で開園したさい、国際的に知名度の高い『東京』の名を冠したわけだ。
日本の次にフランスで造られた『エターナルランドパリ』も、パリと名がつくにもかかわらず、住所としてはパリには存在しない。
そんな東京エターナルランドの目と鼻の先にヴィクトリア朝様式の壮大かつ豪華な雰囲気のホテルが建っている。
その名も東京エターナルランドホテル。
客室からはエターナルランドの眺望を楽しむことができ『夢と魔法の王国』で楽しんだすてきな余韻にひたりながらくつろぎのひとときをお過ごしいただけます。
というのが宣伝文句のひとつになっている。
そのような夢と魔法のホテルの一室で京子はお見合い相手である龍鳳院宮寺光輝と対面した。
イタリア製のソファに腰を下ろし、英国製のスーツに身をかため、スイス製の腕時計を見につけた光輝は京子をひと目見るなり。
「tres bien!」
とフランス語で称賛の声をあげた。
「bellissima!」
続いてイタリア語でも称賛する。
(日本製なのはこの人の身体だけね)
もとより零度まで冷えていた自身の感情が、さらに氷点下まで冷めてゆくのを自覚する京子だった。
「brilliant! 京子。君をダイヤにたとえるなら価格のつけられない『ザ・グレート・スター・オブ・アフリカ』や『ザ・インコンパラブル』や『ザ・ゴールデン・ジュビリー』だね」
世界最大級のダイヤモンンドを三つも引き合いに出して京子の容貌を褒め称えたこの男性こそ龍鳳院宮寺光輝その人だった。
「な~にがトレビアンだ、ベリッシマだ。日本人なら日本語を使え、日本語を!」
「ど、うしたんですか!? いきなり……」
「気にするな、ただの独り言だ。今日は独り言が多い日になるだろうから、そのつもりで」
「は、はぁ…」
ここは陰陽塾男子寮の中庭。
刀会がせまっている。
そのため休日を利用し、秋芳が桃矢に禹歩や立禅にくわえて武術の稽古もつけているところだった。
武術はもっとも実践的な呪術魔術の一つ。
形意拳、八卦掌、太極拳。特に呪術と関連性の高い内家三拳のうちの一つ、形意拳を教えていた。
後ろ足にやや体重を乗せた構えを基本とし、前方へ踏み込んで技を発した際に後ろ足を前足のかかと側に引きつけて歩を進める、禹歩とはまた異なる独特の歩法。
桃矢は金行劈拳、水行鑚拳、木行崩拳、火行炮拳、土行横拳といった陰陽五行説にちなんだ初歩の套路(型)。その名も五行拳をくり返し練習していた。
「あの~、秋芳先生。刀会では薙刀で試合するのに、なんで素手の型を練習するんですか?」
「純粋に薙刀を使う技術なら俺よりも桃矢、おまえのほうが上だ。巻き落としの型とか上手だったしな、俺が薙刀を教えることはできない。だから俺の知る無手の技を教える。武器という物は素手の延長だ。徒手空拳の技に慣れることは薙刀術の上昇にもつながる」
「う~ん、そういうものでしょうか……」
「そういうものさ」
「実はね京子、今日はぼくの龍鳳院宮寺グループがシンデレラ・マジックを使ってエターナルランドを借り切ることになっているんだ」
通称シンデレラ・マジック。正式名称はマジカル・シンデレラ・パーティー。
閉園後の午後八時から十二時までの四時間、エターナルランド全体を貸し切りにできる特別なプログラム。名称の由来はもちろんシンデレラにかけられた魔法が深夜十二時に解けてしまうことからきている。
利用条件は七千名以上の団体であること、閉園時間が二十時以前の通常営業であること、午後二時以降に来園であること――。
本来は企業や団体などを対象としたプログラムで、記念行事や福利厚生の企画イベント等で開催するものなのだが、今日という日のために龍鳳院宮寺に属する人員を使ってエターナルランドを借り切りにしたというのだ。
たった四時間とはいえこの巨大な夢の国を独占するために必要な金額はどのくらいになるのか、京子には想像がつかなかった。
「それはすごいですね。基本料金のほかに追加料金とか入れたらどのくらいになるのかしら……」
「なに、一億でおつりがくるくらいさ。それまではアトラクションはなしでパーク内を散策でもして、庶民の気分を味わおうか? 映画館もあるし、そこでなにか観るのもいいね」
(ま、庶民ときましたか、このお坊ちゃん!)
ここまで用意周到にされて、来た、見た、帰る。というわけにもいかないだろう。さすがにそれは先方に失礼だ。倉橋の名に泥を塗ることになりかねない。
とりあえずはエスコートされることにした。
ふわふわとした綿のような衣装をまとった粉雪姫、顔の左右にヒレがつき全身の鱗をきらきらと光らせたボディタイツの魚人姫、長い髪のラプンツンデレに、食いしん坊でいつもお腹をぐーぐー鳴らしているくまのグーさん――。
エターナルランド自慢のキャラクターに扮した人々が多く、パーク内は華やかな色彩と歓声にあふれていた。それらに交ざってドラキュラや魔女といったお化けの装いをしている人の姿が目立つことに京子は気づく。
「あら? キャストだけじゃなくゲストでも仮装してる人が多いのね。それもエターナルランドに関係ない」
「今日はハロウィンだからね、特別に仮装姿で入園できるんだよ。そうだ! ぼくたちもキャラクターの衣装に着がえよう。うん、それが良い」
エターナルランドホテル内にはフェアリーチェストというビューティサロンがあり、そこで様々なキャラクターに変身できる衣装を提供してくれるという。
本来ならばエターナルキャラクター限定なのだが、今ならハロウィン専用の衣装が用意されている。
京子はそこで『眠れぬ森の美女』のアヴローラ姫や『美女と野獣』のベルといったお姫様系ヒロインの衣装を勧められたのだが、いまいち気が乗らず魔女の衣装を選んだ。
(ま、おんなじ呪術師だしね)
魔女の衣装といっても数種類ある。いくつかの組み合わせを試着室で試していた時、ふと妙な感覚をおぼえた。
見鬼を凝らして周囲の気配を探ってみる。
(……ふ~ん、そういうことね)
わずかな笑みが口角に浮かぶ。そういうことなら念入りにお洒落して魅せてあげる。
俄然やる気になって衣装を選び始めた。
そして――。
頭に黒いミニ三角帽子をかぶり、黒地のコート姿という典型的な魔女ルック。
だがかなり短めのミニスカートや、黒と白のストライプ模様のハイタイツ、ヒランヤつきチョーカーといった、魔女というより魔女っ娘。それもかなりGOTHい魔女っ娘の姿へと変身した。
「wonderfulッ! 京子。君はまるで生身の人間ではなくオーバーテクノロジーによって世の男性諸氏の願望が具現化した立体映像だと言われても信じられるほどに美しい! 生身の人間であることを忘れさせる神秘的な美貌は、世界レベルのアイドルやトップモデルクラスだ。ミス・インターナショナルだってかすんで見え、ミス・ワールドはシャッポを脱いで、ミス・ユニバースだって裸足で逃げ出すほどにbellezaだ!」
「ははは、そうですか……」
「試着中に他のお客さんたちが人垣を作って、店内がファッションショーと化していたよ!」
「いや、それはないでしょ」
「……神秘的な美貌とかのたまう割にアイドルだのトップモデルだのと、妙に俗なたとえをするやつだなぁ。そりゃたしかに京子は顔もスタイルも良いし、声もかわいくておっぱいでかいけど、アイドルやモデルとか各分野で求められる美しさはちがうんだから、いくらなんでもそれを全部内包しているわけないだろう。京子はタイプ・キマイラか! ……にしても褒める内容が外見ばかりだな。そもそも彼女は、京子は生きているからこそ美しいんだ。造形的な美しさなんて、彼女の魅力のごく一部のことでしかない。彼女の美しさは内面の強さ、生命の輝きがもたらしているものなんだ。そんなこともわからないとはね、これがお坊ちゃまの限界ってやつかな」
さっきからぶつくさと独りごちる秋芳をよそに黙々と型の反復をおこなう桃矢が恐る恐る口を開いた。
「あのぅ、秋芳先生」
「ん? なんだ?」
「今、僕が教えてもらってる技って、攻撃の技ですよね?」
「攻撃だけではなく防御もふくまれている。受けては突き避けては打つ、攻防一体の拳法だ。郭雲深という形意拳の達人は、わずか半歩進んで崩拳の一撃を出すだけでいかなる敵も沈んだとか。一見すると動きは地味で型も簡素だが、恐ろしい破壊力を秘めている。それがこの五行拳だ」
「……防御だけの技って、ないんですか?」
「……桃矢。おまえの気持ちはわかる。たとえ自分の身を守るためとはいえ、相手を傷つけたくはないんだろう?」
「……はい」
「目的は暴力、極意は殺生。武術のことをそんなふうに言う者もいるが、武術自体はたんなる技術にすぎない。人を傷つける暴力になるか、自分もふくめた人々を守る武力になるかは使う人間次第だ。桃矢。おまえが自分を失わなければいいだけだ」
「それはそうなんですけど、それでもやっぱり暴力に暴力で対抗するのはどうかと思うんです。殴られて殴り返したら、相手と同じレベルまで落ちちゃうっていうか……」
「なぁに、権力や暴力を駆使して卑劣なまねをする輩には同じレベルで報復してもいいのさ。でなきゃやられっぱなしだろ? 一方的に卑劣なことや残忍なことをやられても自己満足して耐えるだなんて、そんなのたんなる変態だ」
『ケンカは絶対にいけません』『話せばわかる』
このように戦後の厭戦教育は暴力を絶対悪と教えているが、幼い頃からそのように言い聞かされて育った人間は不条理で突発的な暴力に対抗できないだろう。暴力への耐性がないからだ。
向こうからケンカをしかけてくるやつ、話の通じないやつだって存在する。街中にも学校内にも家庭内にも、不条理で不快な暴力は世の中にあふれている。
暴力を全否定する。そのような暴力の排除が新たな暴力を生むのだ。牙を抜かれた獣は他の獣に狩られて死ぬだけなのである。
「力愛不二という言葉がある」
「りきあいふに?」
「そう。力の無い愛は無力であり、愛のない力は暴力である。愛と力は別個に存在するのではなく一つに調和し、これを行動の規範とすべきである。という意味の言葉だ。他にも高名な空手家が『正義なき力は無能なり。力なき正義も無能なり』という言葉を残している。正義のない力は暴力にすぎない、かといって正義を守り抜く力がなければ意味がない。そういう意味だ」
「正義なき力は無能……、力なき正義も無能……」
その言葉は新鮮な響きをもって桃矢の心に刻み込まれた。
「紀元前の中国に墨子という思想家がいる。この人は『自分を愛するように他人を愛せば争いは起きない』というキリストのような博愛主義を説いているんだが、『強い国が弱い国を侵略するのは悪で、弱い国がその侵略に抵抗するのは正義である』というような言葉も遺している。この国の部分を個人に置き換えてもじゅうぶん通用するだろう」
なにやら話がずれてきたがこれは秋芳の癖のようなものだ。授業でもよく脱線してわき道にそれる。つい先日も伯家神道の話をしていたのにいつの間にかギザの大ピラミッドの話題になっていたものだ。
「墨子は非攻兼愛を唱える一方で平和を達成するために軍事研究して実践するという人でな、攻める利得が完全になくなれば戦争はなくなるだろう。と、彼と彼の弟子たちは各地の弱小国の城を守ってまわる傭兵みたいな集団になったとんでもない連中なんだ。 墨守という言葉がこんにちまで残っているのは、彼ら墨家の防衛術が非常に堅固なものだったからで――」
それでも桃矢はあきれることなく黙って秋芳の言に耳をかたむけつつ、真面目に型をくり返し続けた。秋芳の語る内容に興味があったからだ。
秋の日はつるべ落とし。
夜というにはまだ早い時刻だが、日が落ちて暗くなった園内はハロウィン仕様のイルミネーションが煌めき、いっそう華やかさを増していた。
「でね、うちの会社ってば、こないだ上場しちゃったんだけど…、あっ、うちの会社ってのは龍鳳院宮寺グループじゃなくてぼく個人の会社のほうね。それで売り上げが絶好調だから株式公開したら株主がどんどん増えちゃってさ――」
光輝は訊ねもしないのに自分の会社の業務成績やら、どこと取り引きをしているとか、連携がどんな利益をもたらすかという展棒などをべらべらと自慢げに話し、ときおり思い出したかのように。
「君は稀有な美少女で、その場にいるだけで注目を集めずにはいられない天性のアイドル、というよりもスターだよ!」
などと京子の容姿を褒め称えた。
京子は「へぇ、そうですか」「それはすごいですね」「ありがとうございます」と適当に相槌を打っていたが、彼の言葉は頭にはまったく入ってこなかった。
龍鳳院宮寺光輝という人は自分が興味のある話題はかならず他人も興味があると思うタイプの人のようで、ついつい語りたがる。
そういう意味では秋芳も似たような種類なのだが、少なくとも秋芳には空気を読んで相手の好きそうな話題を選ぶ器量がある。呪術以外にも、文化や芸術方面などで京子と共通する趣味を持っていて話もはずんだし、新たな発見も多かった。
作中すべての科白がミュージカル調の『シェルブールの雨傘』やスラップスティックの名作『地下鉄のザジ』に精巧なマペット劇『ダーククリスタル』……。
リバイバル上映やレンタルで観た、秋芳お薦めの映画。いずれも古い作品ながら今観てもじゅうぶん面白く、楽しい時を過ごせた。
(もうっ、陰陽師ならせめて少しは呪術の話くらいしなさいよ!)
たまりかねて京子のほうから「エターナルランドって乙種呪術に満ちた空間ですよね。現実的な経済効果や人々の意識に与える影響。それも乙種呪術だって自覚した場合でもその効果が継続するとか、陰陽師としてとても興味深いと思いませんか?」などと呪術の話題をふっても「いやぁ、ぼくは呪術のほうはちょっと……」という返事が返ってきたのみだった。
どうも呪術に関しては食指が動かない様子だ。
見鬼の才があるのは本当のようだが、どうもこの龍鳳院宮寺光輝という人物。きちんと実力で陰陽二種の資格を取ったのかどうか疑わしい。
(よくもまぁこれであたしと、倉橋家の長女とお見合いしようって気になったものね。あ~あ、秋芳君と来たかったなぁ。彼ならどんなふうに答えるのかしら……)
アトラクションに触れずともエターナルランド内を歩くだけで楽しい気分になってくるのは確かだ。恋人である秋芳、あるいは天馬や夏目といった友人たちで遊びに来たのだったら、さぞかし楽しかっただろう。
東京エターナルランド。この広大なテーマパークはいくつかのエリアにわかれている。
おとぎ話や童話の世界をモチーフにしたメルヘンランド。アメリカ開拓時代の西部の町なみを再現したフロンティアランド。未来と科学技術が主題のサイエンンスファンタジーランド。怪奇と幻想をテーマにしたホラーランドといった具合だ。
ちょうどホラーランドにさしかかると、ホーンティングハウスの前は人影もまばらだった。
ホーンティングハウスというのは世界各国のエターナルランド内にあるライド型お化け屋敷のアトラクションで、混雑時には長蛇の列を作り二時間も待たされるという大人気のコーナーだ。
それが今はすかすかに空いているのだ。
借り切り時間にはまだ少し早いが、閉園時間が迫り一般のゲストが引けてきたのであろう。せっかくなので入ってみることにした。
徐々に年老いていく肖像画といった怪奇趣味全開のプレショーを見て雰囲気を出したあと、三人乗りの黒い椅子型ライドで暗闇の回廊を巡る。オーディオアニマトロニクスによって複雑に動きまわるお化けたちの姿に、ゲストの間から悲鳴や笑い声が響き渡る。
さすがに面白い。日本的なお化け屋敷とは異なる趣に一時的に退屈さを忘れ、人並みにそれらの仕掛けを楽しんでいた京子だが、すぐに異変を察知した。
自分たちの乗るライドだけがコースをはずれているのだ。
しばらく進み、うす暗い闇の中でかすかに揺れて急停止する。
「龍鳳院宮寺光輝だな。おとなしく降りるんだ」
粗にして野にして卑でもある、そんな下品で脅しつける響きのある男の声がした。
一、二、三……。半ダースほどの人影がうす闇の中にうごめいているのを、暗闇に慣れてきた京子の視力はしっかりと捉えた。
もっとも肉眼で見る以前に見鬼でも正確に視ているのだが。
「龍鳳院宮寺さん、どうやらあなたに用があるみたいですよ」
戸惑いの色もあらわに逡巡する光輝に京子が落ち着いてささやきかける。
「おい、さっさと降りろやボンボン! 女とのお楽しみの時間はおしまいなんだよ」
「無礼な! 下品な口の利きかたはやめたまえ!」
「ハッ! あいにくそちらとちがって育ちが悪うございましてね」
いまだ腰を上げない光輝を数人の男たちがライドから強引に引きずりおろした。
「ええい、汚い手で触るのはよしたまえ! ぼくはこう見えても柔道初段、かるた四段、珠算五段。合わせて十段のツワモノなんだよ」
「おっと、銃が狙ってるぜ。暴れるんじゃない」
「フン! 見え透いたこけおどしを口にするのはやめたまえたまえっ!」
(たまえたまえ?)
「銃砲刀剣類所持等取締法のある日本で銃なんか易々と手に入るものか。柔道初段、ビリヤード四段、パンシェルジュ五段。合せて十段のツワモノであるぼくが本気に――」
口上をさえぎって銃声が低くこだまし、光輝の足もとでコンクリートのかけらが跳ね散った、エアーコンプレッサーがついて頭でっかちになった改造エアガンの銃口が光輝にむけられる。
「さぁ、これでも動けるか? なんとか十段のツワモノお坊ちゃんよ」
「まああぁーあ!」
関根勤のような奇声をあげて、のけ反り倒れる龍鳳院宮寺光輝。
「え?」
「え?」×6
男たちと京子の口から奇しくも同じ疑問符が漏れた。
光輝はどうも銃をつきつけられた恐怖で失神してしまったらしい。
「……まぁ、いい。これだけの人数がいれば人を一人運ぶのくらいわけはないさ。さて、そこのお嬢さんには悪いがちょいとオレたちにつき合ってもらおうか。人を呼ばれたり騒がれでもしたらこまるんでね。安心しろ、べつに拉致監禁して輪姦そうってんじゃない」
男たちの間に下卑た笑いの空気が生まれる。
京子は落ち着いてライドから降りると同時に、素早く印を結び真言を唱えた。
「――オン・マリシ・エイ・ソワカ」
京子の全身が霞がかったかのようにぼやける。その場にいるにもかかわらず、いないかのように存在感が希薄になり、ともすれば見失いそうなほどだ。
実体のない陽炎が神格化した諸天。摩利支天の加護による穏形法。だが京子は隠れるためにこの術を使ったわけではない。
「この女、呪術師か!?」
「くそっ、ボディーガードだったのか!」
動転した男たちが四肢を狙って次々と発砲するも、弾丸は京子の身体をすり抜け、床にあたって弾け跳ぶばかりだった。
「わっ!? あぶない、よせ、やめろ。跳弾にあたるなんてチョーダンじゃないぞ!」
いくら呪術に長けていても生身で銃に撃たれてはひとたまりもない。
そのため京子は物理的な攻撃を無効化する呪術をまず最初にもちいたのだ。
「なら、これはどうだ。とり憑け、狂え。急急如律令!」
男の一人が銃をしまい、かわりに取り出した呪符をぐしゃりと手の中で潰す。すると、にぎった指の隙間から赤い靄が噴出し、一つに固まり異形の姿を現した。
血のような色の婆娑羅髪を振り乱す、眼孔の失われた巨大な頭部。ずらりとならぶ暗い歯を剥き出して、かん高い哄笑をあげる。
たんに見た目が恐ろしいだけでなく、その笑い声には人の精神を蝕む、凶悪で禍々しい邪気がふくまれていた。
呪詛式。
霊的な抵抗力の低い人間が目の当たりにすれば昏倒し、場合によっては深刻な霊障を負いかねない。
京子の全身に鳥肌が立ち、身震いした。だが、それだけだった。秋芳とともに危機をくぐり抜け、修練を重ねた今の京子の霊力、胆力は並の塾生を軽く凌駕していた。この程度、どうということもない。
「地より生まれし呪い、主の元に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ」
くるり、と頭を返した大首が男たちにむけて呪のこもった凶笑を放つ。
「ふわっ、おわぁ、うわ、うああー」
「ひぃっ、うへぁ、あああ、いぎゃああぁ」
「なっ、ぼあっ、ぶあちいぶがぼかばぁ、ぶがぁーっ」
耳を押さえて地面をころげ回る者、狂ったように身体をかきむしる者、壁に何度も何度も頭を打ちつける者――。
大首の凶笑にこめられた恐怖の妖気に精神を侵された男たちが奇行に走り、自滅するのに、三分もかからなかった。
龍鳳院宮寺光輝と、彼をかどわかそうとしたならず者A、B、C、D、E、F。あわせて七人の男が恐怖のため失神し、地面に横たわっている。
「さて、と。どうしたものかしらね、この連中……」
腰に手をあててあたりを見下ろす。かわいらしい魔女の装いをしている京子だったが、そうしている様には妙に貫禄があり、さながら魔女王の風格がただよっていた。
万聖節前夜祭 1
「対物理用の摩利支天呪法か。本来なら呪術にしか効果を発揮しない回避の術を、術式を組み替えて応用を利かすとは……。うん、実に見事な手腕だった。さすがは京子だ、俺のメインヒロインだ」
秋芳はあいかわらず独り言を漏らしつつ、簀子縁に寝そべった桃矢の全身に指を這わせていた。
桃矢は午前中から夕方までずっと稽古していたので、上は頭頂の神庭穴から下は足裏の湧泉穴まで、疲労回復に効果のある点穴を施してやっているのだ。
「!?」
恍惚の表情を浮かべて秋芳の指技を受ける桃矢だったが、急に身震いすると怯えたような面差しになった。
「……あのう、秋芳先生」
「なんだ」
「なんだか、ものすごい邪悪な視線を感じるんですけど……」
桃矢の言う視線の主とは誰あろう陰陽塾男子寮の寮母、富士野真子だろう。
今日、桃矢が来てからひんぱんに、こちらにむけ邪な眼差しを投射してきているのは秋芳も感知している。
「気にするな。あれは男子寮に巣くう鬼だ」
「お、鬼ですか!?」
「そう、腐った鬼だ。だが実害はないから、安心しろ」
「は、は、はい……」
「秋芳~、餅乾ができたよ~」
笑狸が盆の上に大量の焼き菓子を盛って来た。
「おう、では食べるか」
男子寮の庭はかなり空いている。なので秋芳は寮母である富士野眞子に了承を得たうえで薬草。ハーブの類を植えて育て、それらを入れた菓子や茶をこしらえ、たしなんでいた。
オリーブ、オレガノ、キャラウェイ、クミン、シナモン、バーベナ、バジル、ミント……。
それら薬草のふくまれた焼き菓子は滋味に富み、運動後の小腹を満たすにはちょうど良いあんばいだ。桃矢は出された甘味をじゅうぶんに堪能し、満ち足りた気分で帰路についた。
かなり長いこと、腐った視線を肌に感じながら……。
「はい、お水」
「あ、ありがとう京子」
「どういたしまして、龍鳳院宮寺さん」
「いやはや、さっきは恥ずかしいところを見せてしまったね」
東京エターナルランド内にあるいくつかの休憩所。通りに面したそこのベンチに光輝を休ませているところだ。
「足を滑らせて転倒さえしなければ、あのような破落戸の一人や二人。柔道初段、チェス四段、オセロ五段、合わせて十段のツワモノであるぼくの華麗な格闘術で黙らせてやったものを……」
「でも、相手は六人で銃も持っていましたよ」
「なに、銃弾なんてあたらなければどうということはないのさ。フェンシングでつちかったぼくの反射神経をもってすれば、射線上から避けるのは造作もない」
「そうですか」
「そうだとも。もし次に同じことがあったら――」
あんな暗闇で乱闘して、あたしにあたったらどうするのよ? そうは思ったが口には出さない京子だった。
その六人の破落戸だが、ことを表沙汰にするのはエターナルランドにとって良くないだろうと、龍鳳院宮寺のSPを通じて呪捜部に引き渡しされることにした。
そう、警察ではなく呪捜部だ。彼らの一人は呪術を行使した。それも禁呪指定されている呪詛を使った。重い罰が下されることだろう。
だれかに恨まれ、狙われる心あたりはありますか? などという野暮な質疑応答はしない。大企業の御曹司ともなれば、なにもしなくてもやっかまれるだろうし、身代金目あての誘拐だってある。
京子はなにげなく周囲を見まわした。
ハロウィンの仮装をしているゲストに混ざって、アヒルやネズミをモチーフにしたエターナルランドのキャラクターたちの着ぐるみ姿も目立つ。
(こうしてあらためて見ると、なんていうか、むこうの人のセンスって特殊よね)
動物の擬人化、あるいは逆に人間の擬動物化はエターナルランドに代表されるアメリカ文化の気持ちの悪い一面だ。動物に服を着せて後肢だけで立たせて喜ぶという心理は理解できない。キャラクターとしてデフォルメされてはいるが、それもセンスが良いとはいえない。人間と動物、双方の醜悪なカリカチュアのようだ。
(なんでかしら? コンちゃんみたいなのはかわいいのに)
それにくらべたら日本生まれの動物キャラクターたちのなんとkawaiiことだろう。目からビームを出す猫娘を見よ、黄色い電気ネズミを見よ、青い猫型ロボットを見よ。みんなみんなかわいい。萌えるではないか。
動物どころか器物にまで魂が宿り、人も自然の一部。ある意味ですべて平等の存在と考えるアニミズム文化の民族と、そうでない民族との想像力の差異がキャラクターデザインに現れているのかもしれない。
人間の繁栄のために動物や植物を利用することは神から与えられた正当な権利であり、動植物にとっては人間の役に立つことが神から与えられた役目。
などという考えのもと、生き物を殺して食べるさい、その生き物にではなく神様に感謝して食事をする人種の考えることはわからない。
戦勝国であるアメリカは日本の呪術を徹底的に研究し、その技術を我がものにしようとしたらしいが、結局彼らの中に〝日本の陰陽師のような〟甲種呪術をあつかえる者は出てこなかったそうだ。
呪術を使えるかどうかの才能には、魂の奥底に流れる思想や宗教観のちがいも関与していたりもするのだろうか……。
などということをボンヤリと考え、隣にいる龍鳳院宮寺の話も馬耳東風だった京子だったが、周囲の気配の変化に気づいて、ふとわれに返る。
首筋のあたりがちくちくする。悪意や害意といった負の想念が周りの群衆の中からこちらにむけて放たれている。
京子の霊感がそう告げていた。
「龍鳳院宮寺さん、また狙われてますよ」
「な、なんだって!?」
「SPの人たちを呼んで、今日はもうお開きにしたら……」
「シンデレラ・マジックは始まったばかりだというのに、それはないよ京子。今度こそぼくの華麗な技で悪漢どもを追い払ってみせるから、安心していたまえ」
「はぁ、そうですか」
片手がフックのような義手になったつけ髭の海賊や、ハロウィンらしく巨大なカボチャ頭をつけた者、ピエロの扮装をしたりスクリームマスクをかぶった連中が二人のいるベンチの周りを囲んで輪を作っている。
「来ましたよ、こいつらです」
「う、うむ。京子、君はさがっていてくれたまえ」
さがれと言われてもさがる場所はない。不穏な空気をただよわせた仮装集団は、いよいよその包囲の輪をちぢめてくる。
「龍鳳院宮寺光輝とそのボディガードだな。先ほどは仲間が世話になったようだ、ちょいと用があるからついて来てもらおうか」
「君たちの相手をしているヒマはない。とっとと帰りたまえ! さもないと柔道初段、ゴセロ四段、木工ボンド道五段。合せて十段のツワモノであるぼくの拳が振るわれることになるぞ!」
「そうかいそうかい。だが、ここには数えきれないほどの入園客がいるんだぜ。なんの罪もない老若男女を巻き込んだりしたら、おたくらの良心は痛まないのかい?」
「ぐぬぬ、卑怯な……」
「さぁ、とっととついて来い」
「と、とりあえず彼らについて行こうか、京子? 無関係の人たちを巻き込むのはよくないよね? ね? ね?」
「ははは、そう思うのが普通だろうよ。さぁ、とっとと一緒に――」
「あいにくとぜんぜん、これっぽっちも思わないわね」
「なに?」
「きょきょきょ、キョっ、京子っ!?」
「巻き込むのはあなたたちであってあたしたちじゃないわ。暴虐で卑劣で恥知らずなのはあなたたちであって、断じてあたしたちじゃない。何千何万人が巻き込まれようが、それはすべてあなたたちの責任であってあたしたちの知ったことじゃないわ。さ、龍鳳院宮寺さん、行きましょう。あたしチュロスが食べたくなっちゃった」
言い終えると輪の中央を突っ切って歩み始める京子。
もちろんこれは心優しい京子の本心などではない。ここで狼狽するそぶりを見せれば、それが効果的とわかり逆に無関係の人々が巻き込まれる可能性が高くなる。
だからこそバッサリと切り捨てるような、ブラフをかましたのだ。
「ま、待て!」
狼狽したふうのカボチャ頭の声が響く。
「ここにいる一万人近い人がどうなってもいいのか?」
「ご自分にお聞きなさいよ。あたしが答えてあげる筋合いはないわ」
言い放ってから京子は短剣に毒を塗る魔女のような笑みを浮かべた。
「もっともここで迷惑行為におよぼうとしたら、その前にあんたたちを再起不能にしてやるけどね。なにをしようと勝手だけど、責任だけはとってもらうわ」
言葉使いこそ普通だが、京子の声には『こわい』気が込められていた。
(いいか、京子。相手を脅すのに大声をあげたり物騒な言葉を使う必要なんてないんだ。無遠慮になるだけでいい。無遠慮ってのは相手に気を使わない話し方のことで、相手のことを本当に考えなくなると自然に殺し合い同然の威圧が声にこもる。それだけでじゅうぶん恫喝になるんだ)
乙種呪術のやり取りについて秋芳と話していた時にそのように言われたのを思い出し、それを実行してみたのだ。
効果はあった。カボチャ頭はたじろぎ、光輝は身震いして小声で『まあーああぁ』とうなる。
相手に責任転嫁しようとする破落戸の愚劣な詭弁は京子の剛毅さによってあっけなく粉砕されてしまった。他人の悪辣さや卑劣さを自分の罪として背負いこむ必要なぞないのだ。悪党の犯した罪は悪党自身がつぐなうべきである。
「くそっ、後悔するなよ。ケガ人が出た後で悔やんでも遅いぞ」
気圧されたカボチャ男のかわりにピエロが前に進み出た。手には黒い棒が握られている。サップ。あるいはブラックジャックと呼ばれる、革袋の中に砂を詰めた殴打用の凶器だ。
「なんだなんだ、新しいアトラクションかショーか?」
「それにしちゃ洗練されてないな」
「でもすごい迫力。本当に殴ってるみたい!」
群衆の間からそんな声が上がり、やがてそれは驚きの歓声へと変わった。
京子が二体の護法式を召喚したからだ。
白桜に投げ飛ばされてカボチャ頭が空を飛び、物見高い観衆たちの頭上を飛び越えて十メートルほど離れたゴミ箱に頭から突っ込む。
続いてピエロも黒楓に投げ飛ばされ、盛大な水しぶきをあげて噴水の中に落とされる。
「――オン・バヤベイ ・ソワカ!」
風天の力で巻き起こったつむじ風に巻かれた海賊は回転木馬の屋根まで飛ばさた。
「まあーああぁ、まあああーあぁ!?」
呪術混じりの乱闘を目のあたりにした光輝がショックで白目をむいて倒れる。
白桜の太刀にナイフを叩き落とされ、黒楓の薙刀に足を払われたスクリームマスクは派手に転倒した。
「おさわがせしました。今宵シンデレラの魔法が解けるまで、どうぞみなさん、お楽しみください」
京子は群衆にむかってスカートのすそをつまみ上げて、うやうやしくも優雅な一礼をすると、白桜と黒楓にスクリームマスクと光輝をかつがせ、その場を颯爽と後にした。
一日約七万人のゲストがおとずれ、一度に最大で十万人までは入場できるといわれるエターナルランドだが、現在のゲストは龍鳳院宮寺グループの関係者七千人しかいない。キャストを合わせても一万人程度だろう。
人影のない場所もそこかしこに出てくる。大通りを離れた雑木林じみた緑の中、スクリームマスクを地面に放り投げた。
まだ余力があったようで、受け身をとってはね起き、ふところから呪符を取り出したのだが、すかさず白桜の手刀が一閃。腕はいやな音をたてて外側に九十度の角度で折れ曲がった。
スクリームマスクはたまらずうめき声をあげて、うずくまる。黒楓の手がマスクにのびた。
マスクの下にあったのは貧相な中年男の顔だった。汗をうかべ、苦痛にあえいでいる。
「おとなしくしなさい。あんたたちは何者なの? 目的はなに?」
京子はごく普通に問いかけた。
「さぁ、なんだろうな?」
この期におよんでハードボイルドふうに決めようと、そんな科白を言おうとした中年男だったが、口から出たのはちがう言葉だった。
おのれの意志とは裏腹にペラペラと自分たちの氏素性と目的を自白し出す。
自分たちは普段から呪術を使って犯罪行為をおこなっており、普段は個々に活動しているのだが、今回は龍鳳院宮寺光輝という大企業の要人を身代金目的に誘拐するという大仕事だったので徒党を組んだこと。集まったメンバーの中には、民間の拝み屋もいれば陰陽塾をドロップアウトした類の連中もいること。などなど……。
中年男は驚愕に目を見開き、口を閉ざそうとするも、それもできない。見えない無数の糸に全身を絡み取られたように自由が利かなくっている。
甲種言霊。
帝式に分類される呪術で、相手の精神に呪を注入する、強制力のある言葉のことだ。
甲種言霊には『侵入』の意思が帯びた強烈な呪力が練り込まれており、このような呪の込められた音声を聞かされた側は瞬間的に本能で『防御』しようとする。
それと意識せずとも霊気が防壁を築こうと働くのだ。
こうした反応は日常的に呪術をあつかう陰陽師には特に顕著で、甲種言霊を成功させるには、この防壁を突破する必要があった。
甲種言霊をあつかえる術者はめったにいないが、逆にこれを防御することは呪術師ならばさしてむずかしくはない。
甲種言霊を実践するには相手の防御を強引にねじ伏せることのできる強力な呪力を瞬間的に発揮し、なるべく相手の意表を突く。心の隙を狙う必要があるのだ。
京子はいっさいのからめ手をもちいることなく、純然たる呪力で男の精神を屈服させた。
「……わかった。もういいわ、眠りなさい」
中年男の全身から力が抜け落ち、昏倒した。
どうやらもう仲間はいないようだ。これでようやく落ち着けるはずなのだが――。
二度にわたる誘拐未遂。および対人呪術戦を目のあたりにしたことは、生来より繊細な性質である龍鳳院宮寺光輝には耐えられなかったようで、SPに守られて帰宅することとなった。
「呪術ってのは、恐ろしいものだね……」
蒼白な顔をしてそうつぶやいた光輝もまた見鬼の才を持ち、陰陽二種の資格を持った陰陽師のはずなのだが、いよいよもって財力にものを言わせて獲得した感はいなめない。
昔の剣術道場には実力のある者を認めて段位を授ける以外にも、たとえ技量がなくても貴人や主筋など道場主より上の位の人に出す義理許し、裕福な商人が金銭で段位を買う金許しという習慣があったそうだが、こんにちの呪術界にそのような悪習があってはならないことだ。京子はこんど父や祖母にそのことを問い質そうと心に決めた。
遠くから人々の歓声が聞こえる。
メインストリートでは。電球や光ファイバーや発光ダイオーなどをもちいて装飾したフロートに乗ったゲストたちが踊りやパフォーマンスをおこないながら進む、Eパレードが催され、大いに盛り上がっていることだろう。
VIPである龍鳳院宮寺光輝は早々に引き揚げたが、だからといって借り切りをレンタルするわけにはいかない。残された龍鳳院宮寺グループの関係者たちは役得とばかりに夢の国のハロウィンパーティを楽しんでいた。
いま京子がいるのは北欧の森をテーマに造られた緑にあふれた庭園で、ライトアップされた樹々が幻想的な光景を作っていた。
「そこにいるんでしょ、秋芳君。出てきなさいよ」
きれいに剪定され、ブロッコリーのようになったイチイの木にむかって京子が声をかけた。
数拍の間があって、木の上の空間が陽炎のようにゆらいだかと思ったら、そこに一つの風船が浮かんでいた。アヒルをモチーフにしたエターナルランドのキャラの顔がイラストされている。ドレインダックだ。
名前の由来は大の酒好きで、いつも飲んでいるか吐いているからdrainだそうだ。およそ子どもむきではないキャラクターである。
「……いつから気づいてた?」
風船に描かれたドレインダックが口を開く。その声はたしかに秋芳のものだ。
「今朝からあるかなしかの妙な気配は感じてたけど、確信が持てたのはブティックで着替えた時ね。あの時にかすかな気配が完全に消えたの。ううん、『消えた』んじゃなくて外に『出て行った』わ。それで逆にだれかがいる。『視てた』
て確信したわけ」
「なるほど、鋭いなぁ。でもどうして俺だと?」
「あなたくらいしか思いつかなかったからよ。今日という日にこっそり後をつけてまわる、隠形の達人だなんてね。……でも感心したわ、あたしが着替える時にそのままのぞこうとしないで、ちゃんと外に出るだなんて。紳士的ね」
「あたりまえだ、恋人の着替えをこっそりのぞき見して喜ぶような趣味はない!」
「あたしのこと、やっぱり気になってたのよね? 気にしてないようなそぶりなんかして~、もう、素直じゃないんだからぁ~。ツンデレ?」
「いやツンデレとか、そういう属性ないから、いたって普通。ノーマルだからね、俺は」
「平然としているようで、やっぱりあたしのことが気になってたのよね?」
「…………」
「もしあたしがあいつに惹かれるようなそぶりを見せたら、お見合いをめちゃめちゃにしようとか考えてたんでしょ?」
「……まさか、分別ある大の大人が、この賀茂秋芳がそんな無体な真似をするわけがないだろう」
「もしあたしがあいつに惚れちゃったりしたら、怒る? 悲しい? 泣いちゃう? 呪っちゃう?」
魔女のコスプレをしていているせいだろうか、京子は意地の悪い質問を連発した。ふだんは秋芳に翻弄される側なので、これはこれで気持ち良い。
「……君がだれかを好きになったら、俺は鬼になるかもな」
「あなたならさぞかしすごい鬼になっちゃうでしょうね。十二神将がいっぺんにかかっても修祓できないほどに強力な鬼に」
「そういうことだ。世の中の平和は君の双乳……、じゃなくて双肩にかかっていると言ってもいい。世のため人のため。なにより俺のために俺を見捨てないでくれ」
「それならあなただって同じよ。もし浮気したり他の人を好きになったりしたら、あたしは蛇になってあなたに巻きついて焼き殺しちゃうんだからっ☆」
「清姫かよ……」
「おたがい鬼や大蛇にならないようにしましょ」
「そうだな、霊災を修祓する陰陽師が動的霊災になるなんて、冗談じゃない」
「ところでその姿…」
「うん?」
「簡易式……、じゃないわよね?」
「ああ、色々と手をくわえて穏形と変化能力を向上させた、隠密機能特化型のオリジナル人造式だ」
「秋芳君本人がこっちに来られない?」
「あー、それはちょっと無理かな。禹歩を使うにしても距離がありすぎる。霊脈を乗り継ぎするにしてもちょいと時間がかかりそうだ」
「そう、残念。じゃあせめて式神越しでもいいからデートしましょう」
「ああ、そうしようか」
「でも風船の形じゃ雰囲気が出ないわ。等身大の姿になれないの?」
「今のところなれない。隠密用に作ってあるから、ミニマムサイズがデフォなんだ。……だけどそうだな、魔女っ娘のコスに合わせて……」
言うと風船の姿はぼやけ、次の瞬間、耳の長い白いフェレットを思わせる小動物の姿に変化した。
「やぁ京子。僕と契約して魔法少女になっ…ムギュッ!?」
顔面をわしづかみされ、言わんとした科白が途中で途絶えた。
「ごめん、秋芳君。あたしその妖獣、大ッ嫌いなの」
「そ、そうか……。ならば――」
再度変化すると、今度はカラスの姿になった。
「どうだ? いかにも魔女の使い魔って感じだろ?」
「レイヴン、ね……。ま、陰陽師らしくもあるし、良いんじゃない。でも足は三本じゃないのね」
「それだと、ちょっとあからさまだしな」
大和葛城を本拠とする賀茂氏は建角身命。すなわち八咫烏を祖とする一族とされる。
そして八咫烏とは足が三本ある霊烏なのだ。
ふたりは木々がアーチ状になった緑の小路をゆっくりと散策する。
「すてきねぇ、森の中なのに、なんだか海の中を歩いているみたい……」
「ウクライナの愛のトンネルみたいだな」
京子の肩にとまったカラス――秋芳――がそう述べた。
「あ! そういえばそっくり。前に画像で見た愛のトンネルそのものだわ」
ウクライナの愛のトンネル。
ウクライナ西部のリウネ州、クレヴァン村にある鉄道の線路上にあり、緑の木々に囲まれたトンネル。その美しい景観からウクライナでも人気の観光スポットになっており、恋人と手をつないでこのトンネルを歩くと、おたがいの願いがかなうという、なんともロマンチックな言い伝えがある。
「知ってるか? ウクライナの結婚式では新婦の履いていた靴に酒杯を入れて、それを新郎が飲み干すという儀式があるらしい」
「へぇ、どんな意味があるの?」
「昔の兵隊たちの間で好きな女性の靴に酒を入れて飲むのが流行った時期があり、それがもとになっているとされる。ことさら宗教的、呪術的な意味はないが、強いて言うならフェティシズムが源にあるのかな。呪物崇拝と性的倒錯が同じ言葉で表されるというのはおもしろい」
「ふ~ん、でもそれって不衛生よねぇ」
「俺は京子の履いた靴に注がれた酒なら、喜んで美味しく飲み干すことができるぞ」
「変態みたいなこと言わないでよ」
「俺にはあの坊ちゃんみたく美辞麗句で飾りつけた巧言令色を吐き出すことはできないんでね、こういう言い方でしか愛を表現できないのさ」
「あっ、まぁ~だ彼のこと意識してるぅ」
「…………」
「そんなに心配しなくても、あなたのことはあたしがだれよりも一番好きよ」
京子はそう言って肩にいる秋芳の嘴の下を指の背中で優しくなでた。
「お……、これは、なんとも心地が良いな」
思わずゴロゴロゴロ……、と喉が鳴る。
「なぁに、その音? 今のあなたはカラスでしょ。猫さんじゃないんだから」
「猫にもなれるから、こういう機能もついてるんだよ。気持ちが良くてつい鳴っちまった」
「猫にも? なって、なって!」
「いいとも」
要望にお応えして黒猫の姿へと変わる。
「きゃー、本物みたい。とりあえず猫さんモフモフ、モフモフ……」
「うみゃみゃ、ナァーゴォ……」
それからウサギ、リス、カエル、狐、狸、川獺、タツノオトシゴ、ラッコ、ゴマフアザラシ、ファラベラなどなど……。京子からのリクエストに応じ、様々な変化をしたあと、最初のカラスの姿にもどった。
「――このように生物の姿だけでも大量のパターンが組み込まれている。穏形に関してはさっきの通りだ。たとえ素人が操作してもそれなりに穏形できるから、呪捜部にでも持って行ったら高値で売れるだろうな」
「つくづく便利よねぇ呪術って」
「ああ、便利だ。こんな便利な代物、霊災修祓だけに使えだなんてもったいないよな」
陰陽法によって様々な制約が敷かれており、例外は多々あるが、基本的に霊災の修祓でのみ呪術は使用してもよいとされている。もっともこれに不満をおぼえる陰陽師は多い。そのため現在の陰陽庁は陰陽法の改正。規制緩和を強く進めている。
その急先鋒が京子の父である倉橋源司その人だった。
「あなたも陰陽法の改革に賛成派なのよね」
「現行法の改正にはね、今の呪術を縛る法律はあまりにも窮屈だ。ただ改正にともなって陰陽庁の権威までもが拡大してしまうのは防ぎたい」
呪術師の中には自分の特殊な才に溺れ、選民思想に取り憑かれる者も少なくない。官に属する陰陽師には特にそういった気質の者が多いように思える。
秋芳は彼らの増長を懸念しているのだ。
「呪術の社会的な地位を向上させる方法は、やっぱりその便利さや面白さを人々にアピールする。てのが良いと思うんだよな。たとえば東京エターナルランドならぬ東京レイヴンズランドとか作って――」
祓魔官は漆黒の装束を身にまとうことから、闇鴉の異名でも呼ばれている。
「――呪術を使ったアトラクションとか、かわいい式神のマスコットキャラとか用意するんだ。ジェットコースターの代わりに竜に乗り、木馬ではなく雪風で空を駆ける。本物の百鬼夜行がいるお化け屋敷なんてスリル満点だろう。呪具をもちいれば一般人でも呪術の真似事ができるから、呪術の体験コーナーなんてのも面白そうだ」
雪風とは土御門家に代々仕える白馬の式神のことだ。その蹄は大地ではなく天を駆ける。陰陽師で知らない者はいない。
「たしかに楽しそうね。あ、そうだ!」
「うん?」
「あのね、お祖母様って昔からクリスマスが大好きで、毎年陰陽塾でクリスマス・パーティーするんだけど、けっこう気合の入ったクリスマス・カラーを演出するのよ。簡易式でサンタさんやトナカイを作って空を飛ばしたり、水行符で雪を降らせてホワイトクリスマスを演出したりとか」
「ほほう! それは楽しそうだ」
「今年は塾舎を開放して、外部の人たちも招いてみるよう提案してみる。呪術でこんな面白いことができますよ。てアピールになると思うわ」
「それは良い考えだ。それにしてもクリスマス・パーティーか……」
「あ、やっぱり賀茂家じゃそういうのなかった?」
「なかったな。今日のハロウィンなんかもそうだが、欧米伝来のイベントは総じてスルーだった。俺がクリスマスに触れたのは大人になってからだ。笑狸と二人でターキーやブッシュ・ド・ノエルを食べ、『素晴らしき哉、人生!』を観て、プレゼント交換したものだ……」
「それ、なんだか仲睦まじくて幸せなのか、さびしいのか微妙なところね……」
「だが今の案を聞いて今年のクリスマスが待ち遠しくなった。あと二ヶ月か……」
「二ヶ月くらいくらいあっという間よ。その前に今夜のハロウィンを楽しみましょう」
「そうするか。じゃあ俺たちもパレードでも――」
その時、激しい振動が起きた。
一瞬地震かと思った二人だが、すぐに揺れているのが大地ではないと察した。
地震ではない、大気が揺れている。
否、大気でもない。霊気が、霊脈が震えているのだ。
目の前の空間に亀裂が走る。地震で地面に亀裂が乗じるように、空気以外はなにもないであろう広がりに、ヒビができたのだ。
そこから異質な気が流れてくる。秋芳と京子は幾度となくこのような気に接してきた。瘴気だ。
「霊災!?」
揺れがおさまる。それと同時に、ヒビが割れた。
ぽっかりと空いた黒い穴。むこうにあるはずの路地は、そこからは見えない。穴のむこうに見えるのは夜よりも暗い、濃密な闇だ。
『Trick or Treat!』
ハロウィン定番の科白が闇の中から聞こえてくる。
『Trick or Treat!』
『Trick or Treat!』
『Trick or Treat!』
闇の穴から奇妙なものたちが踊り出る。
最初に現れたのはランタンを手にした光る衣装姿のカボチャ頭。続いて箒を手に持ち黒いローブをまとった老女、夜会服にマントを羽織った紳士、毛むくじゃらの獣人、首からボルトを突き出したツギハギだらけの大男、全身に包帯を巻いたミイラ、道化師、半魚人、腐った死体、牛ほどの大きさの黒い犬、チェーンソーを持ったホッケーマスクの巨漢、鉄の爪をはめた赤緑の横縞セーター男、黒装束のニンジャ、トマホークを持ったネイティブ・アメリカンの木像、案山子男、顔全体が口になっているバレリーナ、血まみれのウェディングドレスを着た新婦、燃え盛るフライパンや三つ又の槍を手にした悪魔、豚の顔をした小男、二メートル以上はある真っ赤なトマト――。
ハロウィンにありがちな衣装をしているもの、なにかの映画に出てきたようなもの、それ以外のなにかなもの、だがいずれも人ではない。
実体化した霊的存在であることが見鬼でわかった。
そのようなものたちが黒い穴から次から次へと現れ、列を組んで行進しだしたのだ。
『Trick or Treat!』
お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ!
異形の群れたちは手足を振り上げ、踊るような足どりで進みながら、口々にその言葉を発する。
「なんなのよ、こいつら……」
さしもの京子も異様な集団に圧倒され、たじろぐ。
「ううむ、これはなんというか……、百鬼夜行そのものだな」
秋芳の声にも驚愕の色は隠せない。
万聖節前夜。
ハロウィンの始まりだった。
万聖節前夜祭 2
十一月一日。万聖節、あるいは諸聖人の日。
カトリック教会の祝日の一つで、すべての聖人と殉教者を祝う日。
この日の前日はハロウ・イブと呼ばれる、キリスト教伝来以前からの神々や精霊たちを祭る、アイルランドやケルトの人々の祝祭日でもあった。
そして十月三十一日は古代のアイルランドやケルト人にとっての年末であり、この日は秋の収穫を祝い。先祖の霊が帰ってくる、日本のお盆のような日なのだが、それと共に人に害をなす悪霊や魔物もおとずれるため、そのような魔物に魂を奪われぬように人々は同じ魔物の格好をして彼らの目をあざむき、難を逃れたという。
こんにちのハロウィンの原型である。
これは一種の穏形であり、呪術的な行事といえた。
骨格標本のような骸骨人間が自分の頭蓋骨をはずして空高く放り投げる。
『Trick or Treat!』
空中でガチガチと歯を鳴らしてお決まりのフレーズを口にする。
「ああいうふうに子どもたちが家々を周って菓子をねだるのは、祭り用の食料をもらって歩いた農民の姿を真似たもので、中世の名残なんだってな」
黒い三角帽子とコート、ミニスカートからは黒と白のストライプ模様のハイタイツの脚がのび、ヒランヤつきチョーカーを身につけたGOTHい魔女っ娘の肩にとまったカラスがそんなうんちくを披露する。
「へぇ、そうなんだ。…て、そんなこと言ってる場合じゃない! あたしたち百鬼夜行に巻き込まれちゃったのよっ、これからどうするのよ!」
魔女っ娘が怒鳴る。
「さて、どうしたものか……」
魔女っ娘は京子、その肩にとまるカラスは秋芳の式神だ。
あの後――。
ウクライナの愛のトンネルを模した緑の小路内に出現し、異形の群れを吐き出した黒い穴はいつの間にかなくなり、かわりに反対側に新しい黒い穴が出現した。
新たに開いた黒い穴に異形の群れは吸い込まれるように殺到し、中へと入っていったのだが、場所が悪かった。いかんせん狭い一本道である。通勤ラッシュさながらの群等に押し合いへし合いされて、京子と秋芳も異形の群れと一緒に黒い穴に吸い込まれてしまったのだ。
動的霊災ならば幾度となく見てきた京子たちだったが、このような奇怪な現象は今まで見たことも聞いたこともない。
思わず圧倒され、なんらかの呪術を使って押しとどめることも避けることもできずに飲み込まれてしまったのだ。
あたりは不思議な闇につつまれていた。
闇といっても真っ暗ではない。いったいどこに光源があるのか、ほのかに明るい。この世ともあの世ともつかない異界。暑くもなく寒くもない、摩訶不思議な空間。
そのような場所で数十体の魔物に囲まれ、歩を進めているのだ。
「……なぁ、京子。たしか十月末日は夜行日だったよな?」
夜行日とは陰陽道の忌み日で、正月の他に。二月の子の日、三月四月の午の日、五月六月の巳の日、七月八月の戌の日、九月十月の未日、十一月十二月の辰の日。これらの日は百鬼夜行が出現する夜行日であり、昔は物忌みの日として人々が夜に出歩くことを戒めていた。
「ええ、たしかそうだったわね。でも霊災対策の鬼気祓えは陰陽庁がきちんとしてわよ」
「そうだが、万霊節。ハロウィンに対する鬼気祓えはしてないよな」
「そりゃそうよ。だってハロウィンは西洋の行事だし」
日本の年中行事には陰陽道の思想の影響が見られる。
元旦の屠蘇、正月七日の七草、二月節分の豆まき、桃の節句のひな祭り、端午の節句、夏越しの祓え、七夕、八月朔日、重陽の節句、大晦日の追儺。などなど……。
これらはただの伝統行事というだけでなく、土御門夜光の執り行った大儀式の失敗により、こんにちの日本で猛威をふるう霊災への備え。霊気の偏向を正す儀式でもあった。
そのため陰陽庁は季節の節句などで鬼気祓を実施している。
「ハロウィンという習慣が日本に定着したことにより、霊的呪的なパワーを得てフェーズ4の霊災と化したんじゃないかな?」
ハロウィンはもともと呪術的な意味のある祭事。それが東京という日本有数の霊災多発地帯の霊脈に感化され、霊災化する可能性は否定できない。
「……もしそうなら、来年からは夜行日と節句の鬼気祓えの他に万霊節の鬼気祓いをする必要があるわね」
「仕事が増える一方だな」
その時、変化がおとずれた。
周りの魔物たちの歩きが急に速くなった。それだけではなく、彼らの間にざわついた期待感のような空気が流れていた。これからちょっとしたイベントがあるぞ。そのようなわくわくした感じが伝わってくる。
流れる気の速度も早まる。前方に小さな光が見えたが、そこからこことは異なる気が感じられた。
「お、外の気だ。たぶんうつし世に出られるぞ」
「じゃあ一気に抜け出しちゃいましょ」
場所もさだかでない異空間で下手に動きまわるのは危険と判断し、まわりの魔物を刺激せず、百鬼夜行に交ざり歩いていたが、脱出の好機はすぐにおとずれたようだ。
かすかな光は見る見る大きくなり、近づいて来る。いや光が大きくなっているのではなく、こちらがあの光にむかって押し流されているような感覚だ。
強い風圧にも似た力が百鬼夜行全体にかかり、光へと押し出される。
もとの世界に出られる。京子たちはそう確信した。
原宿表参道は日本で始めてハロウィンパレードが実施されたことで有名だ。
そのためこの界隈でのハロウィンイベントは他とは一味ちがう。仮装した多くの人が原宿表参道を約一キロメートルに渡って行進し、周辺の店舗ではハロウィンメニューの提供や子どもたちへのお菓子のプレゼントをおこなっている。
そんな表参道に近いホテルのパーティー会場でも贅沢なハロウィンイベントが催されていた。
なにせ一人の男性に対して数十人の女性コンパニオンがはべっているのだ。これが贅沢でなくてなんであろう。
「ユミちゃんのお菓子はどこかな? ここかな?」
裏地が赤い黒マントに夜会服というドラキュラの姿に仮装した龍鳳院宮寺光輝がコンパニオンたちを目隠しをして追いかけまわしている。
特筆すべきは女性たちの装いだ。ビキニタイプの水着や下着姿のような露出の高い衣装なのだが、それらにキャンディーやチョコレート、スポンジやグミといった菓子類が飾られているのだ。
声優オタク諸氏はたかはし智秋が写真集やDVDで披露したキャンディー水着を思い出して欲しい。あれをさらにエロく、どぎつくした感じだ。
「お菓子をおくれ。でないといたずらしちゃうぞ~」
「いや~ん、光輝さんのエッチ~」
「ハッハッハ、おとなしくぼくに捕まりたまえ。今夜はチュパリコさ!」
エターナルランドの事件で意気消沈した彼は当初おとなしく帰宅しようとしたのだが、どうにも気分がくさくさしてしょうがない。
自 宅に帰るのをやめて憂さ晴らしに、このような遊びを思いついたのだ。
「や~ん、そんなに舐めたらエミコのキャンディが全部溶けて見えちゃう!」
「ハッハッハ、よいではないか、よいではないか!」
「あ~れ~」
「ハッハッハ、よいではないか、よいではないか!」
その時、会場の壁に黒い点が浮かんだ。
点はまたたく間に広がり、壁をおおうと、そこから異形の群れがあふれ出した。
『Trick or Treat!』
「ヒ、キャアアアァァァァァァ――ッッッ!!!!」
甲高い悲鳴が会場内に響きわたった。
「ハッハッハ、みんなも興がのってきたみたいだね。遠慮なく楽しみたまえ」
どこかのパーティー会場だろうか。かなり広い部屋で、いくつかのテーブルの上にクッキーやチョコレート、キャンディーやマシュマロといったお菓子や。モンブランやショートケーキやガトーショコラ、シュークリームやエクレアなどのケーキ。プティングやサンデー、パフェなどの甘味類。さらに瑞々しいフルーツが盛りだくさんに置かれ、アルコールの瓶もたくさん置いてある。
『Trick or Treat!』
そこへ魔物たちが乱入し、彼らの巻き起こす乱痴気騒ぎで広間はたちまち騒乱の巷と化した。
フルーツポンチに顔ごとつっこみ中身を吸い上げるもの。
マチャアキよろしくテーブルクロス引きに挑戦し、見事に失敗して卓上物をすべて床にぶちまけるもの。
チョコレートファウンテンの頂上に立ち、ふらちにも小便をするもの。その小便をチョコと思い飲んでいるうっかりもの。
もう、めちゃめちゃだ。
『Trick or Treat!』
「え、これ? お菓子が欲しいの? あげる、あげるわ。あげるからアッチ行って!」
身につけた菓子の一部を魔物に与えたコンパニオンはその場を逃げ出すことに成功したが、そうでない者はたちの悪いいたずらの洗練を受けることになった。
「ギャー、なにこの頭!? いつの間にアフロになってるの!」
「あんたなんてまだマシよ、あたしなんてモヒカンよ!」
「やだぁ、うんこみたいな髪型になってる…」
「臭ッ!? あんたそれ、ほんとうのうんこよっ! うんこがのせられてるわ!」
「巻きクソよ!」
「エンガチョ!」
「ぐぎゃーっ!!」
金持ちに媚びへつらい、寵愛を得ようと着飾った女たちは、いとあはれ。たちまち無惨な姿へと変貌を遂げた。
阿鼻叫喚である。
「ハッハッハ、みんな楽しんでるね。けっこうけっこう……、おっ! つかまえたよ。君はだれかな?」
みずから目隠しを取った光輝の目の前にいたのは、顔のすべてが吸盤状の口になったバレリーナ・デンタータだった。ヤツメウナギのような円口にびっしりと牙が生えている。
「まあぁああーまあぁーああーあ!」
関根勤のような奇声をあげてのけぞり、卒倒した。
二度あることは三度ある。あわれ光輝はこの日三度目の気絶をすることになった。
「うわぁ……。酷いありさまね、これ」
「なんかジョー・ダンテ監督の『グレムリン』のワンシーンみたいだな。……お! これモロゾフのチョコじゃないか。ゴディバもあるぞ」
「せっかくだからいただいちゃったら」
「そうしたいのは山々なんだが、あいにくとこの式神には賞味・消化機能はまだつけてないんだよ。しかし一口数百円のチョコをこんなに用意するだなんて、どこのブルジョワだよ、まったく」
京子の目が床にのびる光輝を発見し、続いて魔物たちにいたずらされて逃げまどうコンパニオンたちの姿を捉える。
「こいつ、なにやってんだか……」
「ん? なんだ、あの成金じゃないか」
「お見合いしたそのすぐ後で女遊びなんて普通する? 信じらんない!」
「いたずらしてやれ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
京子はおもむろに取り出したマジックペンで光輝のひたいに『肉』の一字を書いた。
「マジックなんて持ってたんだ」
「え?」
言われてみれば、と心底意外そうな顔で手にしたペンを見下ろす。
「そういえば、なんであたしこんな物を……」
「どっから出した?」
「……気がついたら手の中にあったわ」
「そいつの顔にペンで落書きしようとしたら、出てきたのか?」
「そうなの、かしら……」
周りを見まわすと逃げ遅れたコンパニオンの顔や身体に『メス豚』『bitch』『Fuck』などの落書きをしている魔物たちの姿があった。彼らの手にもどこから調達したのか、ペンが握られていた。
「なぁ、ほかにどんないたずらがしたい?」
「えっと、こういうパーティー会場だし、やっぱパイ投げとか?」
すぐ横のテーブルの上にホイップクリームがふんだんに盛られた円形のパイ皿が置いてあることに気づく。
「これ、さっきからあったか?」
「……さぁ」
「ほかになにかいたずらしたいことは?」
「え~っと、タライ落とし!」
バイ~ン! 天井から金タライが降ってきて、近くではしゃいでいた小鬼の頭を直撃した。
「…………」
「…………」
「やだ、なにこれ。なんか怖い」
「そうだな、ちょっとどこかに行こうか」
狂騒する魔物たちを祓うのも忘れ、この場を去ろうとした二人だったが――それができなかった。
目に見えないやわらかい壁が京子の前に立ちふさがったのだ。
「なによこれ!」
両手を広げてなにもない空間を押してみると、ゴムのような抵抗を感じた。
あわてて見鬼を凝らして視る。
部屋全体が不可視の天幕におおわれているように、結界が施されているように感じられた。
「まさか、祓魔官が!?」
「え? やだ! 修祓に巻き込まれるだなんて、まっぴらよ!」
百鬼夜行を修祓せんと、祓魔官が結界を敷いた。一瞬そのように思ったが、どうもそういうわけでもないようだった。
そうこうしているうちに出てきた穴とは別の穴が開く。そこにむかって魔物の群れが、百鬼夜行が押し込まれる。京子たちもまた強風に煽られるがごとく穴にむかって吸い寄せられた。
「な――!?」
異界から出る穴と戻る穴。その間に一本の道があり、そこから一歩も出られない。
いつでも下船が可能だった船から急に橋げたをはずされて降りられなくなったような気分。このままどこに運ばれるか皆目見当もつかない。そのような危惧を感じた。
ふたたび異界、闇の中。あの世ともこの世ともつかぬ、暑くもなく寒くもない空間で百体近い動的霊災がひしめいていた。
まわりは夜のように暗いのに、なぜか姿はよく見える。
吸い込まれた時とちがい、気の流れはゆるやかになってはいたが、完全には止まっておらず、そよ風のように流れている。
気の流れのせいなのか、足を動かさなくても自然に身体が押し出される。まるでムービングウォーク。歩く歩道に乗っているようだった。
「ねぇ、なんかこいつら増えてない?」
「ああ、増えてるな。さっきの倍くらいいる」
「増殖でもしたのかしら?」
さきほどのパーティー会場での騒乱はどこへやら、ハロウィン霊災たちはすっかり落ち着いて、そぞろ歩きの雰囲気をかもし出していた。
隣同士でぺちゃくちゃとおしゃべりをし、けたたましく笑ったり、急に踊り出すものたちもいた。まるでこの摩訶不思議な空間をみなで漂い流れること自体を楽しんでいるかのようだった。
「なぁ、京子」
「なぁに」
「なんだか俺たちも楽しくなってこないか?」
「……うん、そうかも」
「楽しいよな」
「楽しいわね」
「こいつらの、ハロウィンの毒気にでもあてられたのかなぁ」
「そうかも。次はどこに出るのかしら」
「金持ちや権力者の家が良いな。ウィキペディアや他人の文章を丸写しにした報告書を国に提出したり、都議会で品のないヤジを飛ばすような恥知らずの議員の家とか」
「いいわね、それ。いたずらのしがいがあるわ」
二人の要望に応えたかのようなタイミングで前方に光の穴が現れ、気の流れが早くなる。またうつし世に出るのだ。
ふたたび風圧に似た圧力がかかり、魔物たちの間にふたたび期待と興奮が広がる。たちまち百鬼夜行は異界からうつし世へと押し出される。
他民党の東京都議会議員である浩木一郎は妻と三人の子どもをニュージーランドへのスキー旅行へ送り出したあと、青山学院の女子大生を家にひっぱりこんで、寝室でせわしなく身体を動かしていた。
『Trick or Treat!』
そこへ突如として魔物の一群が乱入してきたからたまらない。女子大生は金切り声をあげて卒倒し、魔物たちは室内を荒らしまくる。惑乱した浩木は大声を張り上げた。
「おい、妖怪ども。わかっているのか! 私はおまえらバケモノとは身分がちがうんだぞ。東京を、ひいては日本を支配するパワー・エリート様だぞ。こんなことをして無事にすむと思うなよ!」
そのようにわめいて警備会社に直通するセキュリティ・システムのスイッチを入れようとしたが、顔面に生卵をぶつけられてキングサイズのベッドの上から転げ落ちた。
醜い中年男性の身体にどこからか毛布がかぶせられる。
「パンツくらいおはきなさい、この好色おやじ」
マスカレードでつけるようなマスクで顔の上半分を隠した魔女が侮蔑の色もあらわに吐き捨てた。
「見覚えのある顔だぞ。まさか本当にセクハラヤジ議員のお宅に出るとはね、これはちょっと偶然とは思えないな」
魔女の肩にとまったカラスが浩木の顔をのぞきこんでそう言った。
少し前、東京都議会で質問していた女性議員に対して『早く結婚しろ』『産めないのか』などのヤジを飛ばした者がいて、海外のニュースでも取り上げられた。
当初は否定していたものの、騒ぎが大きくなってから発言を認め、しぶしぶ謝罪したのがこの浩木一郎という男だ。
セクハラ、ヤジという単語に浩木が反応する。
「わ、私は愛国者だ。国を愛しているからこそ少子高齢化を憂い、産めよ増やせよとあのようなことを言ったのだ。国を思っての発言のなにが悪い!」
「顔が悪い」
「頭が悪い」
魔女とカラスの声が重なる。
「ぐ、ぐぬぬ……」
乱入者たちの非礼さに浩木は恐れも忘れて憤然としたが、すっ裸に毛布だけという格好では怒ったところで迫力もありはしない。
「産めよ増やせよ。ですって? 女は鶏舎で卵を産ませる養鶏なんかじゃないのよ」
「……しかし愛国者ってのはよほどもうかる商売らしいな」
寝室に飾られている絵画や陶磁器の類がどれもそこそこ値の張る代物であることを見抜いた。もっとも今やそのほとんどは魔物たちの手によって見るも無残な姿に変えられていたのだが……。
「たしか議員サマは報酬にくわえて期末手当やら政務活動費やら込みで年収二千万以上にもなるそうだったな」
「そ、そうだが、そこから税金が引かれるし秘書の人件費やら活動費がかさむやらで手元にはほとんど残らないだぞ」
「ぬかせ。さらに費用弁償と称して出勤のたびに一万円も小遣いをもらっているだろうが、この金食い虫め。……これは高いお菓子が期待できそうだな」
「お菓子!?」
「そうだ。俺たちはハロウィンのお化けだからな、お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」
「も、もうじゅぶんしているじゃないかっ!」
「まだまだこんなもんじゃないぞ。おい、そこのでかいの」
「ふがっ?」
「そう、おまえだ。いいか――」
カラスは首にボルトの刺さったツギハギだらけの大男の肩にとまると、なにか小声で命じた。
「ふがっ」
大男は寝室から出て行くと、すぐに荷物を抱えて戻ってきた。
浩木の目が驚愕に飛び出る。大男の持ってきたのは鋼鉄製の耐火金庫で、二トンはある。人力で動かせるような物ではない。
大男は金庫を無造作に床に置くと、金庫の扉を思いきり引っ張り、ロック・キーを弾き飛ばして強引に開けてしまった。
この異様な集団が人ならざる者だとあらためて痛感した浩木は腰を抜かし、反抗の気力を失った。意気消沈する浩木の前で金庫の中身が床に積み上げられてゆく。
百万円の札束が五十もある。日本やアメリカの国債、株券、預金通帳、不動産の権利書、宝石類や貴金属などなど……。
「『ダークナイト』て映画を観たことはあるか?」
「な、なんだそれは? 知らん」
「ふん、議員サマともなると映画などという庶民の娯楽はたしなみません、というわけか」
「たしかヒース・レジャーがジョーカーの役を演じていた映画よね?」
「そうだ、俺はこの映画の中でも特に好きなシーンが二つある。ジョーカーが鉛筆を消すマジックを披露するところと、同じくジョーカーが札束の山を燃やす場面だ。ここにこんなに火種がある、ちょっとばかし豪勢なたき火でもしてみようか?」
「なにをする気だ、やめろ!」
「やめて欲しいならお菓子をよこすんだな。きょ…、マイ・ソルシエール。なにかご所望の甘味はあるか?」
ソルシエールとはフランス語で魔女を意味する言葉だ。魔女――京子はそれが自分を指す言葉だとすぐに理解した。
「ラスクとエクレア。あとミルクティー」
「さぁ、出せ」
「急に言われても無理だ」
「なら買って来い」
「わ、わかったから服を着させてくれ」
「いいぞ、だが早くしたほうが良い。さもないと現金、国債、株券、預金通帳の順序で焼いてくからな」
「不動産の権利書もあるわよ」
「じゃあ現金の次にそれをほうりこもう」
「ひ、ひ~っ!?」
パンツ一枚で必死になって走り、一番近いコンビニから希望の品を入手して部屋に帰った浩木が目にしたのは、開いた扉口を上にして置かれた金庫の中で灰と化した全財産だった
「ひ、ひどい。あんまりだ……」
浩木の顔は真っ白に変色し、舌を出して狗のようにあえいで気絶した。
東京湾。
竹芝埠頭から東京湾を周遊する大型レストラン船の船上でくすんだ金髪の中年女性――駐日アメリカ合衆国大使――によるハロウィンパーティーを兼ねたレセプションが開かれていた。
「――ですのでクジラはホエールウォッチングの対象として見るものであり、いまや食べるものではありません。戦後の食料不足の時代ならともかく飽食の日本でわざわざクジラやイルカを虐殺して食べなくてもいいのです。世界中が反対しているにもかかわらず捕鯨を続けることは日本の立場を悪くすることでしょう。国際社会から後ろ指を指されるような行為に無垢な子どもたちが知らないうちに加担するようなことがあってはなりません。日本政府は世界の人々の環境保護への願いを真摯に受け止めるべきです。クジラの生態調査は殺さなくてもできます。彼らのように知能の高い生物を殺すことは残酷なおこないだと、どうか日本の人々に気づいて欲しいのです」
食料自給率が四〇パーセントで、食糧不足の危機はつねにある国を飽食と言ったり、捕鯨に反対しているのは食料供給のために水産資源に依存する必要性が低い欧米諸国が中心であることを失念していたり、どうもこの駐日大使は日本と世界についてよく知らないようだった。
わー、パチパチパチパチ。
それでも中年女性によるスピーチが終わると周りから拍手が起きた。
一人の男がひときわ感激して話しかける。
「素晴らしい演説でした。日本人が捕鯨・食鯨という野蛮人の風習を捨てられないどころか、それが日本の食文化だなどと言って開き直る人がいるだなんて、同じ日本人として恥ずかしい!」
「あなたのように過ちに気づく人を増やすのが私の役割です。日本人の精神はいまだに鎖国していると言えるでしょう、こうしてハロウィンという欧米の文化に接する機会をもっともっと作って、欧米の、人類普遍の真理に目覚めるように啓蒙していきましょう」
「ははーっ、よろこんで!」
男が平伏せんばかりに頭を下げた時、激しい揺れが船を襲った。
「な、なにごとですか!?」
ふたたび衝撃が船体をつらぬく。一度や二度ではない、短い間隔で断続的に衝撃が走り、船体がきしみをあげる。
「津波? 地震? 原発事故!? まったくこれだから極西の島国は……」
船上に設置してあるサーチライトが一方を照射すると、巨大な魚影が見えた。
飛沫をあげて船体に体当たりを繰り返す大きなクジラの姿が確認された
「なんですかアレは!? なんで東京湾にクジラがいるの!?」
「迷いクジラでしょうか?」
SPの一人が律儀に応える。
「射殺なさい! このままでは船が破壊されてしまいます」
「え? で、ですがこの船には銛も機銃もありません。それにクジラを傷つけるのは野蛮な行為かと」
「野蛮というのはアメリカ人に対してアメリカ人以外が暴力をふるう行為を指すのです。そしてあなたも私もアメリカ人です。このような蛮行はけっしてゆるされません。この現状を見なさい、あのクジラそのものが大量破壊兵器のような脅威をもって私たちを脅かしています。殺してもかまいません」
「いや、ですから殺傷する装備はこの船にはないのです」
「それでもアメリカ男子ですか、情けない!」
「素手で立ち向かえと?」
「素手とは言いません。消防手斧があるでしょう」
「手斧でクジラに立ち向かえと?」
「そうです、エイハブ船長を見習いなさい。そもそも私たちアメリカ人はやつらを狩る側の人間であり、刈られる側ではないのです」
開拓時代に産業らしい産業のなかったアメリカは東岸近海に大量にいたセミクジラやマッコウクジラなどを獲って、油を売ることが重要な産業の一つだった。
石油が発見され、その精製技術が向上するまではロウソクを作るのに植物油も利用されていたが、クジラの油を使ったロウソクは炎が美しいうえに本体が真っ白に仕上がったので非常に人気があったそうだ。
獲りすぎて近海にクジラがいなくなると、もっと遠くに行き。それでもいなくなると、さらに遠くの海まで行って、とうとう鎖国していた日本にまでたどり着いたというわけだ。
アメリカが日本との国交を欲したのは日本近海の海域にマッコウクジラの大群が発見されたため、日本本土に捕鯨船のための母港が必要だったからだ。
他国に迷惑かけず鎖国していた平和な日本を武力で脅し、強引に開国させたというわけである。
それだけ当時のアメリカにとってはクジラの油は重要な外貨獲得手段であり、その外貨は近代産業勃興の起爆剤となった。
アメリカの捕鯨最盛期には七百隻もの捕鯨船があったそうだ。
それだけ乱獲すればクジラも減るわけである。
アメリカは綿花栽培での黒人奴隷の酷使と、クジラの大量殺戮によって貯め込んだ資本を元手に世界一の工業大国になったといえる。
クジラを殺すだけ殺したアメリカ人だが、その肉を口にすることはほとんどしなかった。
基本的に欧米人は自然のことを人間が征服すべき対象としか考えていないので、クジラの体重の一割しかない油を採ったあとに肉を捨てても、命を粗末にする。などという考え方はしなかったようだ。
縄文時代からクジラを獲り、肉も油も皮も骨も髭も、なにもかも無駄にすることなく使わせてもらい、慰霊碑まで建てる日本とはおおちがいだ。
閑話休題。
我々に暴虎馮河の勇をふるえというのか!
SPがそういう意味の言葉を心中で叫んだ時、現実世界でも別の叫び声がした。
『Trick~or~Treat~!』
海面が丘のように盛り上がると同時に、えらくまのびした声がとどろいた。
クジラだ。
クジラが甲板に乗りだし、その大きな口からお菓子をおくれと言っているのだ。
「Oh my goodness……!」
それだけではない、口の中から異形のものたちが次々と踊り出て、唖然呆然とする人たちをさらにおどろかせた。
「こ、これは霊災じゃないか!?」
「陰陽庁に連絡を!」
「祓魔官を呼べ!」
船上を逃げまどう紳士淑女たち。パーティー会場をめちゃくちゃにした先ほどの騒ぎがここでも繰り広げられた。ある男など鹿の足と山羊のひづめを持った毛深い獣人ウリシュクに追われ海へと落ち、落ちた先でさらに魚の尾に藻のたてがみをはやした半馬半魚ケルピーに小突き回される始末だ。
「派手に騒ぐのはいいが死人が出たら寝覚めが悪い。あまりハメをはずさず、海に落ちたやつは助けてやろう」
「そうよね。ちょっとそこのギルマン! ご婦人へのちょっかいはそのくらいになさい。そこで泣いてるミノタウロスとオーク、ステーキやミートローフを見て泣いちゃう気持ちはわかるけど、暴れちゃダメよ?」
クラスのまとめ役であり、鬼神を使役する陰陽師でもあるからか、京子はごく自然にこの異形の群れを仕切るようになっていた。
ひと通り見て周り、魔物たちの手綱を締めたあと、まだ無事な姿をとどめているテーブルに近づいて料理を物色する。
「ターキーのクランベリーソースがけがあるわ。前に食べたことあるけど、しみじみと不味かったわね」
「唐揚げにレモン汁じゃあるまい、肉に果物の甘いソースなんて普通に合わないよな」
秋芳と京子。二人とも酢豚にパイナップルは不要派であった。
「トマトをゆでて食べたり、ポテトサラダにリンゴを入れたり、欧米人の味覚はよくわからん」
「料理はともかく夜景は素敵よ。ナイトクルーズだなんてお洒落よねぇ」
「海か……、船も良いかもな。鄭和みたく長い船旅を満喫するのも悪くない」
「テイワって?」
「明の永楽帝に仕えた宦官で、遠くまでアフリカ航海して貿易ルートを築いた人物だ。一説によるとその艦隊の一部はアメリカやオーストラリアまでたどり着いたとか」
鄭和の前後七回、三十年間にわたる南海遠征は有名だ。東南アジアからインド洋、アラビア半島、アフリカ東海岸にまでいたった。アフリカの東海岸にある港などの遺跡を発掘すると、当時の中国のお金や陶磁器などの遺物が出てくるという。
鄭和の率いた船団は百隻近い大船に兵士や官吏、さらに通訳、医者、学者など合わせて二万数千人の大所帯で、海賊退治や王位継承争いなどの現地の政治にも介入したが、ヨーロッパ諸国のように遠征した先で略奪だの奴隷狩りだの植民地化だのをおこない、現地の富を搾取するような真似はいっさいしなかった。
もっともこれは鄭和や永楽帝が平和主義だからというわけではなく、海の向こうに植民地を作ろうという発想自体が中国にはなかっただけで、かわりに朝貢を迫ったわけだが。
「それってヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスよりも前の話?」
「前の話」
「すごいわねぇ、中国史どころか世界史レベルの偉人じゃない」
「他にも中国には王玄策という国をまたにかけて活躍した人物が――」
「魔女め、滅びなさい!」
突如物陰から消防手斧による一撃が迫る。
「カァッ!」
秋芳カラスがそれを羽で防ぎ、手斧を叩き落とした。羽にわずかなラグが生じたが、凶刃が京子の身に害をおよぼすことはなかった。
手斧をふるった者はと見れば、仕立ての良いスーツを着た中年女性が恐怖と憎悪に歪んだ顔でにらみつけてくる。
「イエスの御名において悪魔よ去れ! 大天使聖ミカエルよ、戦いにおいて我らを守り、悪魔の凶悪なるはかりごとに勝利したまえ。天主の彼を治めたまわんことを伏して願いたてまつる。天軍の総帥、霊魂をそこなわんとて、この世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を天主の御力によりて地獄に閉じ込めたまえ。アーメン!」
「……あのう、それ宗旨がちがうんですけど」
京子があきれ顔でつぶやく。
「おや? この女の顔、見覚えがあるぞ……」
「あ! この人、父親が暗殺されたことで有名な駐日大使よ」
「ああ、あの夫が殺されたあとにマフィアのボスと再婚したことで有名な女性の娘か」
「そうよ、大使の新任式に平服のまま出た駐日大使よ」
「畏れ多くも天皇陛下を始め宮内庁のお歴々が礼装で迎えた式に、平服で現れた駐日大使か」
「日本を舐めてるわよね」
「土御門夜光はおらずとも、その意志を継ぐ陰陽師は数知れず。呪術大国日本を軽んじるとどうなるか、思い知らせてやろう」
「ヒッ!」
不穏な気配を漂わせて迫る魔女の姿に思わず後ずさる駐日大使。だがその時甲板上に黒い穴が開いて、京子たちをはじめ百鬼夜行を吸い込み始めた。
「あら、時間ね。これでかんべんしてあげるわ」
京子は油性ペンで駐日大使のひたいに手早く落書きする。
「じゃあね、駐日大使さん」
「地震と霊災が多い国に失望したらいつでも帰国してもいいんだぜ」
こうして霊災プラス一人の人間という嵐がすぎ去ったあと、ひたいに『米』と書かれた駐日大使はしばらくその場に立ちすくんでいた。
ふたたび異界。
暗灰色の世界を異形の群れとともにそぞろ歩く。
山も林も海も川も、建造物のない空間ではどのくらい歩いたのか、時間の感覚もおかしくなる。
「ここも景色にもっと変化があれば楽しめるんだけどなぁ」
「そうね。でもその代わり周りの連中が変化に富んでるじゃない」
「たしかに」
ハロウィンという特別な夜に生じた霊災だからか、鬼や天狗、鵺や野槌、牛鬼といった比較的目にしやすい和風の造形をした動的霊災ではなく、洋風の動的霊災が目立つ。
先頭で元気にはしゃいでいる小鬼たちはゴブリンだろうか、仲良く寄り添って歩いているランタンを持ったカボチャ頭と雪だるまはアイルランドやイングランドの伝承に伝わるジャックランタンとジャックフロストだろう。たまにランタンにぶつかって雪だるまが溶けている。鼻歌も美しい鳥乙女はセイレーンかも知れない。
映画に登場する怪物の姿をしたものもいた。あの赤い巨大な果実は有名なキラートマトだろう。
「……て、なじんでる場合じゃないわ。つい一緒になってはしゃいじゃったけど、あたしたち霊災に、百鬼夜行に取り込まれちゃったのよ!? どうするのよ!」
「ああ、そのことなんだが……。おそらくこの霊災は、そうこれは『ハロウィン』という名の霊災だ。ハロウィンという一つの巨大な霊災を中心にして無数の霊災が連鎖的に発生し、霊的存在が実体化して暴れ回る。まさに百鬼夜行なわけだが、こいつは明日の夜明けとともに自然消滅して、俺たちも解放されるんじゃないかと予想している」
「……あくまで万聖節の前夜限定の霊災ってわけ? その予想通りならいいんだけど」
「いざとなればうつし世に出た時に一気に修祓するか、強引に結界を破ればいい。今の君なら、如来眼の力を使えばどちらも可能だろう」
「たしかに、そんな感じがするわ。でもなるべくなら力ずくの解決は避けたいわね。作法があるのならその作法に則ったやりかたで修祓したいわ」
天神を祀り地祇を祠り、荒ぶる怨霊を慰撫し、鎮魂を司るのが日本の信仰・呪術の原点だ。京子はそのことを言っている。
「京子、君は星読み。一種の巫女だ。そしてハロウィンは祭祀。君がこの百鬼夜行に巻き込まれたのはたんなる偶然ではないような気がする。こいつらを導いて正しく祓うよう、天が求めている気がする」
「天の求めに応じたら、なにかご褒美でもあるのかしら?」
「寿命がのびる、来世で良いことがある」
「てきとう言ってない?」
「あとは、う~ん……。俺からなにかプレゼント」
「よし、のった!」
「現金だなぁ」
「現世利益は道教の特徴でしょ」
秋芳のもちいる呪禁の術は道教がもとになっている。
「じゃあ、こいつらが人界で暴走しないよう、さっきみたいに監督してくれ。あと霊脈を、気の流れを読んで行き先を決められたりできそうか?」
「やってみるわ」
京子は俄然やる気になって、異形たちの先頭に進み出た。
陰陽庁祓魔局情報課、第一オペレーション・ルーム。
巨大なディスプレイには東京二十三区を中心とした東京都の地図が映されていた。
その地図には今日これまでに発生した霊災がいくつかのデータとともに発生個所に表示されているのだが――。
「ど、どうなってるんだ、これは……」
祓魔局情報課課長、大春日敬は大勢の部下たちの前だというのに驚愕と狼狽と焦燥。それら三者の色が入りまじった表情を隠すことができなかった。
フェーズ3、フェーズ3、フェーズ3、フェーズ3、フェーズ3、フェーズ3……。
都内を描いたMAPは動的霊災の出現を示す真っ赤な色で塗りつぶされつつあった。
「これじゃあほとんどフェーズ4、百鬼夜行じゃないか。ありえない、こんな状況はありえない……」
そうつぶやいた瞬間にも霊災発生を告げるオペレーターたちのうわずった声が続く。
「霊災発生! 千葉県浦安市です」
「都外でだと!?」
「霊災発生! 横浜です」
「神奈川じゃないか、また都外でもか!?」
「同じく神奈川県の横須賀、綾瀬、大和にも霊災! 巡回霊視官からの報告です。どの隊を向かわせますか?」
「霊災発生! 東京湾です」
「なにぃ、海上でもだと!?」
「第十六小隊から報告! 修祓にあたっていた霊災の霊圧が上昇中。損害多し、応援を要請しています!」
「アメリカ大使館から修祓要請がきています」
「なんだと、大使館付きの祓魔官はどうした?」
「連絡がとれません」
息つぐ間もなくオペレーターたちが報告を上げてくる。
現在のところ霊災を自動的に探知する、レーダーのようなシステムは開発されていない。霊気は見鬼でなければ感知することができないからだ。そのため特に見鬼の才に秀でた陰陽師は霊視官と呼ばれる役職に就き、都内やその近郊で霊気を監視し、その情報をもとに現地にかけつけた係員が実際の状況を情報課に報告するという流れになっている。
メイン・ディスプレイに表示されているのは、それらの各段階の情報をまとめたものだ。
一般には知名度の低い霊視官だが、祓魔局にとっては欠かすことのできない人員といえた。
「ぐぬぬ……」
「そうテンパりなさんな、大春日」
あわただしい中、低めのバリトン・ボイスが響く。声の主はと大春日が振り返ると、そこには彫の深い顔立ちと口髭が舞台役者を彷彿とさせる中年男性が立っていた。
「宮地室長……」
宮地磐夫。祓魔局修祓司令室室長にして独立祓魔官。国家一級陰陽師。当代最強の陰陽師と謳われる、十二神将の一人だ。
「俺たちは俺たちの仕事をする。ただそれだけだ、どんな時でも変わらずにな」
「しかし、この状況は異常です。祓魔官の数が追いつけません」
「そのことだが、今夜の霊災は数が多いだけでなく、ちょいと妙な動きをしているみたいなんだ」
「と、言いますと?」
「現場にむかった祓魔官や霊視官からの報告によると、やつら街中で暴れるだけ暴れたらドロンしちまうそうだ。こんなことは今までちょっと例がない」
「たしかに、妙ですね」
「その暴れかたもなんというか特殊でな、子どもの悪戯。というにはちょいと性質が悪いが、死者がでるような類のものじゃない。今のところは」
「どういうことでしょう?」
「さてな、あいつらもハロウィンを祝いたいんじゃないか」
「ご冗談を……」
「実際やってることはハロウィンで悪ノリしてる若者レベルなんだよな。まぁ、それはおいといて、注目すべきは祓魔官が現場に到着したら消えちまう点だ。おそらく霊脈に潜み込んでいるんだろう」
「それでは、まるで禹歩ですね」
「そして次の場所に移動する」
「……はっ! ということは、同じ個体が複数の場所に出現していると?」
「そういうことになるかな、図面上は真っ赤だが出現している動的霊災の数はここまで多くはない。……はずだ」
それでも百鬼夜行と呼ぶにふさわしい数の霊災が都内を中心にあふれているのだが、あえて口にはしない宮地だった。
「霊脈を使っての移動はやっかいだが、それを逆に利用する手もある。流れを制御して一か所に集め、一気に修祓するプランを検討中だ。現場の祓魔官たちに一時待機を伝えてくれ」
「はい、ただちに!」
落ち着きを取り戻した大春日が指示を出し始めるのを確認した宮路はそっと部屋のすみにさがり、軽く腕組みして壁によりかかる。
今回の作戦。公式には霊災修祓となってはいるが、実際には数多の動的霊災の討伐、つまりは調伏だ。それも陰陽の均衡を重んじる修祓ではなく魔を降す一方的な調伏になるだろう。
可動護摩壇の投入にくわえ、かってない規模の調伏作戦になるはずだ。
十二神将たる自分も現場に出ることになるだろう。
「やれやれ、ひさしぶりに本気を出すことになりそうだな……」
宮地の顔にわずかに浮かんだ苦笑は、髭に隠されて見えなかった。
万聖節前夜祭 3
陰陽庁修祓局。
この局には霊災を修祓する霊災修祓室のほか、霊災の感知を担当する情報課など様々な専門部署が存在し、霊災修祓室に属する陰陽師は祓魔官と呼ばれ、おもに霊災の修祓任務にあたる。
十月三十一日の夜。都内を中心に同時多発した霊災を修祓するため、祓魔官のほとんどが出動していたが、それ以外の部署に属する者たちは比較的平和な時間を享受することができた。
「国営放送も民間放送も霊災関連のニュースばかりだな」
「あたりまえだろ。まだフェーズ4は確認されてないが、どこもかしこもフェーズ3だらけだ。範囲だけなら上巳の大祓以上だぜ」
「そういや今夜の霊災はなんて命名されるんだろうな」
「ハロウィンだし、欧風の命名がされたりしてな」
庁舎食堂内に複数設置してあるTVの前で人の山を作り、ニュース番組に見入っているのは開発研究部や呪捜部の中でも鑑識課といった『実戦向きではない』陰陽師たちだ。
「お、CM入ったぞ。別のチャンネルにまわせ」
『ウハウハで行くか?』
『ザブーンだな!』
「ん、なんだ? この局は、こんな時でも映画なんか流しているぞ」
「ああ、テレビ大江戸だろ。ここは昭和天皇が崩御された時も通常放送だったからな」
「ぶれない放送局もあったもんだ」
などというのん気なやり取りができたのも、その時までだった。
『庁内で作業中のみなさんにお知らせします。防瘴戎衣を着用し、庁舎前に整列してください。これは演習ではありません。繰り返します。防瘴戎衣を着用し、庁舎前に整列してください――』
非常招集を告げるアナウンスがスピーカーから流れ、たちまち騒然となる。
「おいおい非常招集って、マジかよ!?」
『マジです』
「わっ、アナウンスが応えた!」
『ここは陰陽庁です。壁に式神、障子に式神。あなたたちの声は筒抜けです。隠しごとなどできません』
「ううっ、これは素直に招集に応じなければあとが怖い……」
観念して庁舎前の広間に集まった職員たちの前に、大型の外輪のついた楼船が陸を走り、姿を現した。
否、楼船のような造形だが船ではない。船首部分と船尾部分に巨大な車輪がつけられ、マストの代わりに護摩壇がしつらえてある。
陰陽庁が誇る一両十億円の可動護摩壇ヴリティホーマ。
全長二十メートル、護摩をふくめた全高は十五メートル。呪術によって強化された装甲は木造の見た目よりもはるかに堅固な造りとなっている。五行砲を始め数種の呪具が装備された、対霊災用の『戦車』だ。
「おい、まさかあれに乗って修祓しに行けってんじゃないだろうな」
「霊災の修祓もヴリティホーマの運転…、じゃなくて操縦なんてできないぞ。おれはただの広報だ」
「おれだって人事部だぞ、現場組じゃない」
可動護摩壇の出現にいっそうざわめきが強くなる。
「諸君、静粛に」
おだやかで、それでいて力強い響きの込められた発せられたとたん、あたりの喧騒は水を打ったかのように静まりかえった。
一言、たった一言で場の空気を支配した主が職員たちの前に進み出る。
砲に袴、石帯の束帯姿。陰陽師の正装をしたその人物は、そこにいるだけで周囲の人間に緊張を強い、厳粛にさせる、威圧的な気に満ちていた。
陰陽庁長官兼祓魔局局長。十二神将の筆頭にして当代最高と謳われる国家一級陰陽師。倉橋源司その人だ。
倉橋の後ろには僧形の、袈裟を着た法衣姿の宮地磐夫がひかえている。
最高と最強の陰陽師が、そこにいた。
「これより大元帥法をとりおこなう」
!?ッ
声にならないざわめきが聴衆の間に広がる。
大元帥法。大元帥明王アタバクを本尊として、おもに朝敵や外寇の調伏。国家安泰を祈ってされる、極めて強大な修法。本邦の歴史上、最後にこれがとりおこなわれたのは太平洋戦争末期にまでさかのぼる。
それを今おこなおうというのだ。
「諸君ら一人一人の呪力をこの倉橋源司にあずけて欲しい。そうすることで大元帥法は完遂し、この未曽有の霊災を修祓することができる」
続けて作戦の説明をする。都内で暴れる百鬼夜行は霊脈を利用して神出鬼没の移動をくり返しているため、動きがつかめない。そこで大元帥法の力によって霊脈の動きを制御し、一か所に集め、宮地磐夫の火界咒によって一掃しようというのだ。
「なおこの場にいる呪捜官は全員ヴリティホーマに搭乗し、東京都庁舎で祓魔官たちと合流。彼らとともに火界咒をおこなう宮地室長の護衛につくように」
こんにちにおける陰陽師の第一の任務は霊災の修祓だ。呪術犯罪が専門の呪捜官ではあるが、陰陽二種の習得者ならば霊災に対する最低限の呪術を身につけている。
戦える者は前線に、そうでない者は呪力の提供というかたちの後方支援。この配置は妥当といえた。
「風水において塔とは木気の性質を持っている。火木生、都庁でおこなわれる宮地室長の火界咒は常よりいっそう強力なものになるだろう」
もとより不動明王の申し子、炎魔の異名で呼ばれる火炎術の達人の術が相生効果でさらに強まる。そのことに集まった人々は慄然とした。
「さらに東京都庁の上部、二つにわかれた塔をもちいることで強力な霊的音叉効果を生じさせることでも呪力が大幅に増幅されることだろう。もはや神すら焼却できよう」
おおー。
人々が良い意味での動揺に打ち震える中、宮路は髭の奥でこっそりと苦笑した。
(おいおい局長。仏さんの術で神を焼くとか、物騒なことは言わないでくれよ)
「おのおのが全力を出せば負ける要素など微塵もない作戦である。この倉橋源司の首をかけてもいい。われら日の本の呪術師、国家を護り民人を救う陰陽師の腕の見せ所だ。後世の人々の物笑いの種にならぬよう、各員奮起すべし!」
倉橋源司は決定したことを伝え、それを実行に移させた。それ異を唱える者も、さえぎる者も、この場には一人もいなかった。
異界。
京子は風の流れを読んで帆を立てるように、潮の流れに竿をさすように、霊脈を見て、その流れに合わせて百鬼夜行の群れを誘導する。
霊脈から霊脈へと、決して力づくではなく巧みに移り歩いていた。
「まずは原宿。それから三軒茶屋、六本木、下北沢、恵比寿、また原宿の順に廻ってくれ」
「……いいけど、その順番になにか意味でも……て、五芒星?」
渋谷を中心にした五つの街。それらを結んだ線が五芒の形を象る絵が京子の脳裏に浮かんだ。
「この怪異。夜明けとともに消滅するとは思うが、念のため修祓する準備はしておこうと思ってな」
以前、犬神筋の呪術師に使った北斗七星陣のように、陣図をもちいた呪術はおうおうにして強力だ。秋芳はセーマン陣を敷き、いざという時はそれで百鬼夜行を修祓しようというのだ
「ねぇ、その時はやっぱりあたしが祓うの?」
「そうしてくれ、さすがにこの式神越しじゃあいつもみたく術は使えないからな」
「これだけの数を修祓するとなると、大変よねぇ……」
ちらりと後ろを顧みれば、いるわいるわ異形の群れ。ハロウィン仕様の動的霊災が雲霞のごとくひしめいている。
「あれにしようかしら、それとも……」
先導する魔女が自分たちをどう修祓するか、どんな呪術を使うかを考えているとは露ほども思わず、小躍りし談笑しながらついてくる魔物たちを見ると秋芳は少し気の毒になった。
「苦しまず強力な呪で祓ってやれ。この前教えた尊勝陀羅尼の調伏法を使おう」
尊勝陀羅尼。帝国式陰陽術に数ある陀羅尼の中でも至高とされる尊勝仏頂陀羅尼。この真言を唱えることによって滅罪生善、無病息災、身心健全などなど。多くの利益が得られるとされるが、特に魑魅魍魎の類に対して非常に有効な真言で『今昔物語』に遭遇した男が尊勝陀羅尼の札を身につけていたおかげで難を逃れたという話が載っている。
「あれならバッチリよ。もっともあんまりこの子たちに使いたくはないんだけど……」
霊災を『この子』呼ばわりである。みずからも魔女の装いをし、ハロウィンの空気になじんでいるからそのような気持ちになるのだろうか。
「なに、俺の予感では夜明けとともに消え去る。ほぼまちがいない」
「秋芳君の予感って、あたるの?」
「この予感はあたる。そんな予感がする」
「またてきとうなこと言ってる~」
そんなやり取りをしているうちに気の流れが早くなった。
遠くに小さな光が、うつし世につながる穴が見える。
魔物たちの間から歓声が上がり、どんちゃん騒ぎへの期待がふくらむ。その興奮は京子たちにも伝わってきた。
「来た! 行くわよっ!」
「おう!」
百鬼夜行を従えて、うつし世へと踊り出た。
陰陽庁が燃えている。
いや、燃えているのではない。屋上の巨大な鳥居の奥にしつらえたかがり火が燃え盛っているのだ。
「アシャアシャ・ムニムニ・マカニムニ・オウニキウキウ・ムカナカキウキウ・トカナチコ・メカナチタナチ・アタアタ・ナタナタ・リウツ・リウツ・キウキウツル・キニキニキニ・イリマリマ・クマ・キリキリキリ・キリ・ニリ・ニリ・マカニソバカ――」
陰陽庁それ自体を巨大な護摩壇に見立て、火を焚いている。煙が空へと昇る中、数十人の誦経の声がものものしく響きわたる。
陰陽庁に残された一般職員の多くは真言を解さない。意味もわからず渡された経文の文字をそのまま読み上げているだけだ。だが、だからこそ雑念もなく一心不乱に唱えて、力も生まれる。
護摩壇の前、供養印を結び、職員たちと同じ真言を唱える倉橋源司のもとに呪力が集まる。
大元帥法。古くは平将門や藤原純友の起こした承平天慶の乱。元寇のさいにもちいられ、太平洋戦争末期に金剛峰寺でおこなわれたこの呪法の効果で時のアメリカ合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルトを呪殺したとも伝わる。
これは土御門夜光が呪術を現代に復活させる直前の話だ。もし夜光その人がこの呪法を執り行っていたら、日本は連合国に勝利した可能性もある。そのくらい強大無比な呪術なのである。
「アシャアシャ・ムニムニ――」
呪力が高まるにつれ倉橋源司が唱える真言が、いよいよ高まってくる。
ゆらりと、彼の身体から陽炎が立ちのぼった。大気のゆらめきではない、霊気のゆらめき。
やがてそれは大地へと流れ、地下深くへと浸透する。東京の霊脈を御すべく、その触手を伸ばし始めた――。
新宿都庁が燃えていた。
こちらは比喩ではく、本当に燃えている。ただし呪術の炎で。
燃え盛り、煌めく炎の壁。炎の塔、炎の城、炎の剣、炎の槍、炎の矢、炎の竜、炎の巨人、炎の獅子、炎の巨人――。
不動明王の眷属が次々と顕現し、その威光を世に知らしめているようだった。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタタラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギナン・ウンタラタ・カンマン――」
都庁のツインタワーにはさまれて宮地が唱えているのは金剛手最勝根本陀羅尼。密教の調伏呪術の火界咒だ。ただただ一心に火界咒を念じ、唱えている。
一才の魔軍を焼き尽くし三千世界を焦土と化すとされる不動明王の火界咒。
それを一人で唱え続ける。倉橋源司のように大勢の力を借りず、ただ一人で。
準備はととのった。あとは百鬼夜行が出て来るのを待つだけだった。
『Trick or Treat!』
「ひゃーっ、どうか命ばかりはお助けを!」
「きゃー! お菓子ならあげます」
「ひーぅ! 柿ピーはお菓子にはいりますか!?」
狼狽しつつもお菓子をさし出す人は意外と多いのはまさにハロウィンが日本に定着した証左なのだろうか、もらう物をもらえばいたずらはできない。最初とその次のパーティー会場ほどにはぶっ飛んだ乱痴気騒ぎにはならなかった。六本木に行くまでは。
直立した棺桶を思わせる外観の六本木にある高層オフィスビル。集合住宅、ホテル、テレビ局、映画館、美術館などの文化館。その他さまざまな商業店舗などで構成されている超大型複合施設。
芸能界の大物やトップミュージシャン、若くして成功した企業家といった人々が数多く居住する高所得者の象徴のような建物。
そんな場所のそこかしこで霊災が猛威を奮っていた。
陰陽庁からの再三にわたる避難勧告を無視して『自分だけは安全』という根拠のない自信のもと、建物内に居すわっていたセレブリティの方々が狂乱と狂騒の坩堝に巻き込まれる。
「なにをするだァーッ!」
「まあーああぁ、まあああーあぁ」
京子は魔物らに人を傷つけるような悪戯をきつく禁じたあと、以前からこの建物自体に興味があったということもあり、同ビル内にある美術館へ散歩がてらに足を運んだ。
だが今は聞いたことのない名前の現代美術家の個展がひらかれており、いささか残念な気になった。
「あたし現代美術の良さってさっぱりわからないわ。なんでこんな気味の悪い人形がアートなの?」
自分の母乳で縄跳びをしている等身大の美少女フィギュアを見て素直な感想を口にする。
「これはなんだろうな、多産や豊穣の象徴と見えなくもないが。……まぁ、現代美術ってやつは既存の概念にとらわれない表現を目指した結果、ただたんに奇をてらっただけなんじゃないか。てしろものが多いよな」
「もっと普通の美術展なら良かったのに。……あたし、クロード・モネと東山魁夷の絵が好きなの。なんて言うか、二人ともすごい優しい絵を描くのよ。構図もおだやかだし、見てると落ち着くわ」
「俺は歌川国芳が好きだな」
江戸時代末期の浮世絵師、歌川国良。数多くの作品を世に生み出した人物で、秋芳は江戸っ子らしい反骨精神が込められた『源頼光公館土蜘作妖怪図』が好きだった。
この作品、平安時代の武士、源頼光と配下の四天王による土蜘蛛退治をテーマにしたものと思いきや、幕府の弾圧を風刺したものになっている。
国芳はほかにも美人画や役者絵などが禁止されたさいに動物を擬人化したキャラクターを描き「これは人ではなく動物ですがなにか?」などとそらっとぼけたりもした。
今のエロ創作家たちの「これは幼女じゃなくてなん百年も生きている大人のエルフです」「これは人じゃないです、ケモノです」というような理屈をすでに実践していたのだ。
とうぜん幕府からは目をつけられ、なんども尋問されたり罰金を取られたりされたが、最後まで反骨をつらぬいた。
命がけのエンターテイナーである。現代の創作家たちも見習って欲しい。
ゴッホの『夜のカフェテラス』、フェルメールの『合奏』、井上直久の『イバラード』シリーズ――
たがいの好きな絵についての感想にはじまり、絵画と呪術の関連性などを語り合いながら広大なフロアを歩いていると、一軒のバーを発見した。
「バカラバー? ……グラスもシャンデリアも調度品も、みんなバカラクリスタル製かよ。ブルジョア臭ぷんぷんさせやがって!」
「べつにいいじゃないそのくらい、あなただってどっちかっていうとブルジョア側の人間でしょ? 名門賀茂家の人なんだから。もっと鷹揚にかまえなさいよ。それより、ねぇ。ここのお店、お洒落だしちょっと見てみましょう」
店内はうす暗く外の夜景が良く見えた。ゆったりと座れそうな大きめのカウンター席にソファ。実にオーセンティックなスタイルのバーだった。
「わー、すてき! すっごい良い雰囲気……」
「まぁ、内装と外観の趣味の良さだけは認めてやるか。さて肝心の酒の品ぞろえは、と……」
「どう、合格?」
「普通だな。可もなく不可もなく、だ」
「ふ~ん……。ねぇ、秋芳君。あたしのどが渇いちゃった。なにか美味しいの作ってくれない?」
「おいおい、この身体でカクテルなんか作れっていうのか?」
京子の肩にとまった秋芳カラスが羽を広げて自身の大きさをアピールする。
「作れないの?」
「いや、まぁ、作ろうと思えば作れるけど、シェイカーは振るえないから、そんなに本格的な味は期待しないでくれよ」
「それどもいいわ。作ってちょうだい」
「はい。うけたまわりましたよ、お姫様」
カラスの身から一時的に小人の影法師に変わった秋芳はジン、ラム、テキーラ、ウォッカ、ホワイトキュラソーにコーラとレモンジュースをくわえてステアしたあと、クラッシュド・アイスをたくさん詰めたバカラのコリンズ・グラスにそそいだ。
ロングアイランド・アイスティーのできあがりだ。あまりアルコールに強くない京子のために、コーラとレモンジュースは多めにしてある。
紅茶を一滴も使わずに紅茶の風味と色を再現した不思議なカクテルが京子ののどを潤す。
「んー、美味しい!」
「今はそれ一杯にしとけよ」
「ええ、近いうちに生身の秋芳君お手製のカクテルをいただくわ」
それからほろ酔い気分であちこちを見て周っていた京子だったが、空間の広さと蔵書数だけは無駄にあるライブラリーのすみで体中にあざを作った半裸の少女がむせび泣いているのを発見し、一気に酔いがさめた。
聞けばバイト先の店長からセレブの秘密パーティーをやるといって誘われ、多額の報酬を提示されたのだが、いざ行ってみたら乱交と薬物の服用を強要され、断ったらさんざん殴られたので必死になって逃げてきたというのだ。
ハロウィンのいたずらではすまされない。自分は陰陽師で呪術の心得があると言って、おびえる少女を安心させ、無法のおこなわれた部屋へ案内させる。
館内ホテルの上層にあるセミスイートの一室。
京子が部屋をノックしてドアスコープにむけて胸もとをちらりと見せると、すぐにドアが開いた。
部屋の中からよどんだ空気が流れてくる。甘く、それでいて不快な臭いがツンと鼻をつく。
「ブラン・エ・ノワール。サンクシオン!」
京子の護法式である白桜と黒楓が召喚される。もとより日本の鎧武者と西洋の甲冑騎士を足して割ったような姿形をしていた二体だが、今回はカポーテをひるがえしたマタドールの格好をしていた。
先ほどソルシエールという魔女を意味するフランス語の偽名をもちいたのに着想を得て、白桜と黒楓もハロウィン仕様の仮装をほどこしておいたのだ。
一瞬、とは言わないが、ほんの一・五瞬ほどで三人の若い男たちが床にキスすることになってしまった。一人は鼻血の噴き出る顔を押さえて床をころがり、一人は股間を押さえて口から泡をこばして悶絶し、一人は胃液を逆流させて全身をひくつかせていた。
「ちょっとやりすぎちゃったかしら……?」
「気にすることはない、数人がかりで女の子を痛めつけるようなクズには自業自得だ。それに意識があると見張っておく必要があるから気絶させとくのが妥当だろう」
「ひぃぃぃーッ!?」
部屋の奥にいた四人目の男が腰を抜かして後ずさる。
部屋には注射器やスポイトやパイプ、白い粉や香草の入った袋が散乱していた。秋芳はカラスの身にもかかわらず床に落ちていた携帯端末を器用に拾い上げ、中のデータを確認した。男たちが少女に暴力をふるうさまが撮られていて、男たちは楽しそうに笑っている。
「麻薬取締法違反、および婦女暴行の現行犯で逮捕だな」
「逮捕って、お、おまえたちは警察なのかよ!?」
「いいえ、ハロウィンの魔女よ。二度と女性に悪さをできないように、不能の呪いをかけてやろうかしら。それとも物理的にちょん切られたい?」
「ひぃっ」
京子が男をおどかしている間に秋芳は服をかきまわして身分証やクレジットカード類を調べた。
「ここに住んでいるのか。実に裕福そうだな、職業はなんだ?」
「マルチクリエイティブミュージシャンだ。音楽と映像と演劇と詩の完全なる融合を目指して創作活動をしているアーティストでクリエイターでタレントだ。現代の吟遊詩人だ」
「ゴールドカードを何枚も持っているアーティストねぇ。おおかた成金の道楽息子が、いい歳して臆面もなく親のすねにかじりついて穀を潰してるんだろう」
「お、おれのダディは政治家や官僚に顔が利くんだ。おまえらこんなことをしてあとで後悔するからなっ」
「あとで後悔ですって? 後悔ってのはもともと先にするものじゃないでしょ。まともな日本語も使えないくせして、なにが詩人よ」
「クリエイターといったが、女の子を痛めつけたりするのがおまえの中では創造的な行為なのか? だいたい日本で一流と呼ばれるクリエイターの中でクスリなんぞやってるやつがいるかってんだ。そんなのに頼らなければ創作ができないってことは、二流三流の証拠だろうが」
「ぐぬぬ……」
「なにが『ぐぬぬ』だ。きちんとした言葉を発してみろ、即興で詩の一つでも作れないのか?」
「…………」
「魏の曹植は七歩歩く間に詩を作ったし、唐代の李白は一斗の酒を飲む間に百篇の詩を作ったそうだぞ。おまえはどうなんだ?」
「技能装飾? 東大海苔吐く? なんだそれは?」
「おまえさん、少しはものを知ってから創作活動を始めるべきだな」
「ねぇ、秋芳君。さっきの娘を治してあげたいんだけど、撫で物してもいい? あたしまだ傷を移すのって、やったことないから」
撫で物。身体をなでた後に形代や人形をなでることで災いや穢れを移し、身代わりとして水に流す祈祷や禊ぎの儀式。厭魅に属する呪術でもある。
「そうだな、ちょうど良い機会だ。ためしにやってみようか」
自分を痛めつけた男たちが無残にころがっている様を見て、少しは溜飲が下がったのか、少女は安堵の表情で京子の前に進み出た。
「怖がらないでね、あなたの傷を癒す儀式だから」
「……はい」
「形代に依りて傷を癒す。等しく害を返したり。疾く、疾く、疾く……!」
「うっ! うぎゃあッ! い、痛い。痛いぃぃぃィィィッ!!」
少女の身体にできていた無残なあざが一つ、二つと消え。代わりにマルチなんとか男の身体に大小無数のあざが生まれた。
人を呪わば穴二つ。これはなにも呪術に限った言葉ではない。他人を傷つけ、苦しめるような悪事を働いた者には、かならずや報いがあるのだ。
念のため悪漢どもを縛り上げたあと、少女にお金とお菓子をわけあたえ、夜明けまでは建物の中から出ないよう、朝になったら警察に通報するよう言いふくめた京子は階下のホールで霊気が異常なうねりをしているのを感じとった。
異界へと通じる穴が開いたのかと、そちらに向かう。
だがそうではなかった。そこでは一人の祓魔官が霊災相手に大立ち回りを演じていた。
「急急如律令!」
「ピギャー!?」
祓魔官の行使した呪術を受けた骸骨や小鬼、シーツお化けなどの複数の魔物。ハロウィン霊災たちが激しいラグを起こして無へと還る。
強い。
ここの魔物たちは京子の命令で戦意がないということを差し引いても強い。この祓魔官はかなりの使い出だろう。
そんな祓魔官と、目が合った。
「式神作成っ、急急如律令!」
防瘴戎衣をきっちりと着込み、退魔刀を腰に下げた祓魔官の正装。そんな姿が実に絵になる壮年の男性祓魔官は京子の姿を見るなり攻撃をしかけてきたのだ。
祓魔官の打った簡易式は四羽のカラスの姿となり、襲いかかってきた。二羽のカラスは低空を疾走し、二羽のカラスが上空から急降下する。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク」
京子は刀印で五芒星を描き、セーマンの障壁を展開。四羽のカラスは呪力の壁に衝突するとラグを生じさせて呪符へと戻る。直後、左右の空間でもラグが走り四体の大きな人影が現れる。
うち二体は京子の護法式である白桜と黒楓で、先ほど同様にハロウィン仕様のマタドール姿をしていた。
別の二体。分厚い鎧を着込んだ重戦士。剛健で無骨な姿は陰陽庁制護法式『モデルG1・仁王』だった。三メートル近い重量級の式神で、祓魔官の間でもっとも多用されるスタンダードなもの。呪術犯罪捜査部部長にして神扇の異名をもつ十二神将・天海大善はこの仁王をカスタマイズした金士と銀次という特製の護法式を使役していることで有名だ。
カラスを象った簡易式による攻撃はおとり。本命は二体の仁王による挟撃だったのだが、京子は相手と周囲の霊気の動きを見て、隠形したままこちらにむかう仁王の気配を察知し、白桜と黒楓で迎撃したのだ。
「モデルG2・夜叉だと!? きさま、霊災ではないな!」
甘い仮装とはいえひと目で京子の護法式の種別を見抜いたのはさすが現役の祓魔官といったとこか。
「この騒ぎはきさまの仕業か、おとなしく縛につけ! 急急如律令!」
障壁に弾かれ地面に落ちていた呪符から植物のつたが生じて、京子を捕縛せんとのびる。
一枚と見せて複数の呪符を打つ、簡易式に別の呪符を忍ばせる。祓魔官というより呪捜官の戦いに近い。この祓魔官は霊災修祓のみならず対人呪術戦にも慣れているようだった。
「溶かせ! 急急如律令!」
さらに火行符による攻撃。これは京子が木行符による呪縛を金剋木で相剋することを予想しての行動であり、場合によっては木行符に相生させ、木生火による強力な炎による攻撃に切り替える狙いもあった。
「縛につけと言うが、やる気まんまんじゃないか」
「それだけあたしたちのことを強いって認めてるのよ、光栄じゃない」
肩の秋芳とのん気に会話しつつ、京子の手は迅速に動き、指先が遅滞なくひるがえって印を結ぶ。
祓魔官の表情が変わった。なにをするかがわかったからだ。
京子の全身から放射状に呪力が吹き荒れ、つたをのばす木行符と後から打った火行符。さらには二体の仁王まで巻き込んでいっせいになぎ払った。
まだ効果が持続していたセーマン障壁の術式を組み換え、強度をたもったまま空間から外して、たわめ。投網のように周囲に放射したのだ。
攻撃的結界。
さしもの祓魔官も結界をこのように使うとは予想外だったようで、驚きを隠せない。だがそれでもその行動に遅滞は見られなかった。
結界に捕われた仁王の操作はあきらめ、自身の呪術に集中する。呪符ケースから惜しげもなく呪符を投擲。水行符の生んだ水流を吸収し木行符が巨木となり、巨木を燃やした火行符は巨大な火柱に変化し――。
土行符を投入しようとしたところで祓魔官の身体が呪力による衝撃にのけぞった。五行の連環がとだえる。
「なん、だと!?」
ふたたびの衝撃に姿勢をくずし後退を余儀なくされる。不動金縛りの術が連続して襲いかかる。祓魔官はそれが魔女の肩にとまったカラスからの呪術だと思った。使役式が主の援護をしていると思ったのだが、ちがった。
魔女だ。魔女が呪文詠唱も手印もなしに、それどころか呪力を練る気配もなしに矢つぎ早に不動金縛りを放ってくる。そのぶん術の完成度は低かったが、ここまで連続してくると、もはや一つの巨大な呪だった。不動金縛りの弾幕陣だ。
「――オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
魔女が雑な不動金縛りを放ちながら、さらに本式の不動金縛りの術を行使したことは、さらに祓魔官を驚かせた。
どのような術理を組めばそのようなことができるのか? どれだけの霊力があればこのような術の使い方ができるのか? 無数の呪に打たれ目の前で転法輪印、次いで呪縛印を結ぶ魔女の動きを止めることができないことに怒りとともに恐怖が込み上げてくる。
眼前の魔女は人の姿をした霊災ではないのか!?
次の瞬間、痺れるような衝撃が祓魔官を打ちすえ、身体の自由を完全に奪った。
「なかなか強い相手だったな」
「でも祓魔官を相手に呪術戦だなんて、われながら不良じゃすまないわね」
「なぁに今夜は祭りだ。このくらいなら無礼講のうちさ」
戦いが終わるのを待っていたかのようなタイミングでホールの中央に穴が開いた。周りで呪術戦をおびえて見ていた魔物たちはわれ先にと飛び込んでいく。よほど怖かったのだろう。
「小隊長っ!」
異界へと消える魔物にかわって制服姿の祓魔官たちがホールになだれ込んできた。
「おっと、これ以上の模擬戦は不要だ。とっととずらかろう」
「ずらかるって……。んもー、ほんとに悪い人みたいじゃない」
京子たちも穴へと入る。
「くそっ、ほんとに今夜の霊災は逃げ足が速いな」
「ヒット・アンド・アウェイのつもりなんだろうが、倉橋長官の儀式が始まったから、もうおしまいさ」
「あ、おい。小隊長が倒れてるぞ!」
「なんだって?」
魔物が引き揚げ、駆け寄って来る部下たちの姿を見て安堵したことに対して、小隊長と呼ばれた祓魔官は恥じた。そして二度と無様な姿をさらさぬよう、いっそうの精進を重ねることを心に誓ったのだった。
穴を抜けて異界。霊脈にもぐったとたん異変に気づいた。気の流れが異常なほどに激しくなっている。さっきまでのそれが小川のせせらぎだとすると、今のこれは逆巻く大河。アマゾン川のポロロッカのようだ。
「ちょ、なんなのよ。これ!?」
京子たちは霊波に翻弄され、どこかへと押し流されてゆく――。
人造式に意識を集中していた秋芳の耳に遠くから歓声が聞こえた。
スタジアムで応援していたチームが得点したさいに、人々が発する喝采。そんなたぐいの歓声。
式のほうものっぴきならない状況なのだが、その歓声が妙に気になったので様子を見に部屋から出る。天岩戸神話の古来より、人の興味を引き付けるのは人のざわめきだ。
食堂のテレビ前に寮生たちが集まり、興奮気味に語り合っていた。
手近な一人に話しかける。
「いったいなんなんだ、この騒ぎは。街頭テレビで力道山とシャープ兄弟の試合を見ている人たちごっこでもしているのか?」
「そんなごっこ遊びねえよ! つうかいつの時代の話だよ! ……なんだよ、賀茂は知らないのか? 陰陽庁が霊脈をあやつって修祓するとか、すげぇことしてるの」
霊脈をあやつる。その言葉を聞いた秋芳はすぐに自室に戻ってテレビをつけた。
『ウハウハで行くか?』
『ザブーンだな!』
「ええい、この非常時にL字テロップも出さずになにを放送してるんだ!」
普段はL字テロップに文句を言う秋芳が自分勝手なことを言ってチャンネルを国営放送に切り替えて、なにが起きているかを確認する。
「――まさか、こんなにも広い範囲に出現していたのか……」
今夜出現した霊災について伝えるテロップが延々と流れている。
自分らが現れた場所以外にも似たような連中が現れ、似たようなことをしているようだ。
ハロウィン仕様の霊災は京子が率いている魔物たちだけかと思ったが、そうではないということを、秋芳はたった今知った。
「大元帥法に火界咒……。大盤振る舞いだな、おい」
霊脈の変動はこの修法によるものだったのか。
このままでは京子が火界咒に巻き込まれる。なんとかしなければ――。
万聖節前夜祭 4
東京都内を荒らしまわる百鬼夜行のほとんどが陰陽庁の、倉橋源司のあやつる霊脈に捕われ、火界咒の渦巻く新宿都庁へと強制移動させられたが、運が良いのか器用なのか、それから脱出を果たしたものたちも存在した。
少数ながらも強運、もしくは実力を持った霊災に対する備えもしなければならない。
祓魔局局長と修祓司令室室長。祓魔局のツートップが修法にかかりきりとなり、指揮をとることができなくなったため、呪術犯罪捜査部部長である天海大善が一時的な総司令となり指揮をとる。彼は絶対不可侵の領域である皇居に当代随一の結界師、十二神将のひとり。
独立祓魔官で結び姫の二つ名を持つ弓削麻里を護りにつかせ、それ以外の場所にも独立祓魔官を割り振り、要所の防衛。霊災の撃退を命じた。
各国の大使館が軒を連ねる東京の中心部。
眼光炯々とした青年祓魔官が日本刀を振るい、たった一人で群がる霊災を修祓している。ヴィンテージ物のフライトジャケットに膝の抜けかけたジーンズ、だけど足には雪駄というなんとも奇妙ないでたちだが、その強さは本物だった。
「むかむかドッカン! ごーとぅーへるしたる!」
カボチャ頭の霊災が手にしたランタンをかざすと、そこから大小無数の火球が祓魔官を目がけて弾け飛ぶ。
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ!」
祓魔官が広目天の真言を唱え、刀身を剣指でなぞると、そこに清冽な水気が宿った。
西方を守護するとされる四天王の一尊広目天は諸竜王。すなわち水神の首領とされる。
仏の加護による水気を付与された刀を一閃。火球はすべて消し飛ばされた。
「ヒィホォォォ……」
そのまま一気に距離をつめ、横薙ぎに振るった刀に両断されたカボチャ頭が悲痛な声をあげ、一瞬のラグの後に消滅する。
「オン・ビロダキャ・ヤキシャ・ジハタ・エイ・ソワカ!」
続いて増長天の真言を唱えると、水気に満ちていた刀身が一転、火気をまとう。紅蓮の刀で氷の息吹を吐こうとしていた雪だるまのような霊災も斬り伏せ、仔牛ほどの大きさをした漆黒の猛犬の牙を弾き、突き刺す。こちらの二体もラグとともに消え去った。
「オン・ジリタラ・ シュタラ・ララハラバ・タナウ・ソワカ!」
刀身から暴風が吹き、雷をほとばしらせる。時に火、時に水、時に木――。相手の性質に合わせてもっとも効果的な五気を刀に付与して振るう、陰陽師というよりはまるで魔法戦士といったおもむきの戦いかたをするこの青年祓魔官の名は木暮禅次郎。神通剣の異名を持つ十二神将の一人だ。
やがて地上で動くものはいなくなった。小暮は血振りの動作をして残心をしめす。
生身の生物を斬ったわけでもないのに血振りするのは無意味に思えるが、決められた動作というのは、それ自体が呪だ。
呪術師が軽んじるわけにはいかない。
「黒龍、獺祭、醴泉、鳳凰美田。離れすぎだ、集まれ!」
木暮が夜空にむかって叫ぶ。
「カァッ! わかってる。心配するなゼンジロー」
「カァカァ、あの鳥女。ただ速いだけで弱い!」
「楽勝、楽勝」
「もうすぐ終わるッ」
宙を舞っている身体の大きな四羽のカラスたちが応えたかのように見えた。だがカラスではない。くちばしのある黒い頭や羽ばたく羽根はカラスのものだが、頭の下には人間のような胴体をもち、そこから手足がはえていた。
しかも身につけているのは防障戎衣。サイズこそ小さいがそのデザインは祓魔官の制服そのもの。
彼らは木暮の式神である烏天狗たちだ。
烏天狗が四羽の鳥。いや、こちらもただの鳥ではない。顔から胸までが人間の女性で、両腕が翼、下半身が鳥という半人半鳥のハーピーと空中戦をくり広げていた。
「キィーッ! 小うるさいカラスどもめ、皮をはいで喰ってやる!」
「カァッ! おまえらこそ手羽先をもいで汁物に入れてやるカァッ」
「クルックー、肝臓を抜き取って塩もみして食べてやるックー」
「カァカァッ、おまえのササミでコブサラダを作ってやるカァッ」
「チュンチュンチュン、砂肝チュンチュン、コリコリチュンチュン、美味しくチュンいただいてやるんだチュン」
「カァッ、ももを唐揚げにしてやるカァッ」
「ピヨピヨピヨピヨ……、ピヨッ!」
縦横無尽に空を駆け。羽と羽、爪と爪をぶつけ合う空中戦の合間にも、たがいに舌を動かしてピーチクパーチク舌戦を交える。
カァカァカァッ、クルックー、キィーッ、カァーッ、チュンチュンチュン、チュチュンチュチュンがチュン、クルックー、カァーッ、カァーカァー、キィーッ、クルックー、ピヨピヨピヨ――。
ひじょうにやかましいことこのうえない。
空の高い、ひらけた場所にもかかわらず共鳴し合って乱反射しているようにたがいの鳴き声が響く。まるでハウリングだ。
それもそのはずで、この鳴き声には呪力が込められている。霊的な抵抗力の弱い人間ならば聞くだけで騒音にさいなまれ行動不能になるだろうし、呪術師であっても集中を乱され術の行使がむずかしくなる。そんな類の呪が込められている。
これもまた呪術戦だった。
「キィーッ! これじゃあらちがあかないよ。オキュペテー、ケライノー、ポダルゲー。一気に蹴散らすよ! ジェットリプラーアタック!」
「「「ラジャった!」」」
長女アエローの号令一下でハーピー四姉妹が縦一列にならび、鴉天狗の一羽に狙いをさだめ、突進。
先頭が一撃をくわえると同時に列から離れ、すぐさま後ろの二番手が攻撃。攻撃を終えた二番手も列から離れ、三番手、四番手……。と続くはずだった連続攻撃は結局不発に終わった。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」
地上にいた木暮が毘沙門天の真言を詠唱し、天にむけて刀をふるうと、莫大な呪力が切っ先から銀光とともに奔り、その軌道上にいたハーピー四姉妹に直撃。
重なった布陣がかえってあだになった。世界そのものを叩き斬るかのごとき豪快で壮絶な剣気による斬撃が四体を同時に両断した。
ハーピー四姉妹は断末魔の叫びすらあげることできずにラグとともに消滅する。
「やった! さすがゼンジロー」
「やっつけたゾ!」
「強い!」
「ゼンジロー、強い!」
烏天狗たちがやんやと称賛する。
「よし、おまえら。そのまま空から見張ってくれ。大使館内に侵入されでもしたら日本政府の――」
式神に命を下していた木暮が横っ飛びに跳躍した。その直後、彼の立っていた地面に無数の孔が穿たれる。
「よくもオイラの仲魔をひどい目に遭わせてくれたな。絶対にゆるさないホ!」
中世ヨーロッパの板金鎧を思わせる装甲で、バケツのようなフルフェイスをかぶった小人がこちらに銃をむけて立っていた。
「泣いたり笑ったりできなくしてやるホ! うちまくりだホ! てっけんせいさいだホ!」
やれやれ、今夜の動的霊災は実にユニークぞろいだ、面白い。木暮はいささか不謹慎な感想をいだきつつ、愛刀『二つ銘則宗』をかまえなおした。
東京都千代田区。皇居手前の大手門で弓削麻里は結界を展開し、無数の動的霊災と対峙していた。
バレッタで止めたミディアムヘアにすらりとした鼻梁と怜悧な双眸。毅然とした佇まいで眼前の妖精たちを見すえる。
そう、妖精。そんな表現がぴったりな動的霊災が弓削の目の前にひしめいているのだ。
尖った耳と薄い翅をはやした乙女たち、長靴をはいた猫、ふさふさの毛をした牛のように大きな犬、赤い三角帽子をかぶった小人、毛むくじゃらの巨人――。
絵本に出てくる妖精のような姿をしたものどもが弓削の前にいた。
(かわいい……)
いずれも霊気は安定し、周りに瘴気をまき散らすようなものはいない。それにおどろおどろしい、恐ろしげな姿形のものもほとんど見かけない。だから思わずそんな感想をいだいてしまった。
(あの大きな犬、毛がふさふさしてて『ネバーエンディング・ストーリー』に出てきたファルコンみたい、背中に乗ってモフモフしたいかも……)
やさしい犬のような顔をした竜に乗り、大空を翔る少年。子どもの頃にテレビで見たファンタジー映画のワンシーンが弓削の脳裏に浮かんだ。
「美しいお嬢さん、どうかその壁を消して私たちを通してくれませんか?」
背中から翅のはえた青年が一礼したのち、丁寧な口調で要望する。
「だめです。この先にはやんごとなき身分の方がお住まいです。あなたたちが許可なく入っていい場所ではありません。すみやかにお引き取りください」
弓削は内心のモフりたいという欲求を顔にはあらわさず、やたらとハサミを持ち出すベストセラー作家や戦う図書館員のような凛とした声で応えた。
「では許可をいただきたい」
「私にはその権限はありません」
「権限のある方を連れて来て欲しい」
「無理です」
「……どうあっても、私たちを通したくないと?」
「お引き取りください。でなければ不退去罪で――」
霊災相手に人界の法を説く滑稽ぶりに気づいて途中で口をつむぐ。
「――とにかく、ここからは一歩も先へ進ませません。回れ右して帰ってください」
「しかたありません、他の道を探しますか……」
王冠青年はしぶしぶときびすを返し、多くの妖精たちがその後に続いたが、それに従わない一団もいた。
胸と腰まわりだけをわずかな布地で隠し、黒いローブを羽織った女性が進み出る。
白い、新雪のように真っ白な肌と、新月の晩の夜空のような漆黒の髪をした女だった。
「問答無用、推して参る。――万物の根源にして万能なるマナよ、魔力を打ち消す力となれ。ユベオー!」
女の身体からほとばしった呪力が弓削の結界を無効化せんと侵食する。
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
弓削は動じることなく不動金縛りの術を唱えた。これは対呪術者のみならず対霊災用呪術として祓魔官、呪捜官。両者とも多く使用するスタンダードな術だ。
弓削の放った呪は散弾のごとく飛び散り、結界を無効化しようとしたローブの女の呪力のみならず、女性自身。さらには周囲にいた妖精たちまで巻き込んで拘束した――ように思えた。
「我が身に宿るマナよ、魔力の源よ。心の力を強め、変化をさまたげよ。ユベオー!」
そうはさせまいと抗魔の術を発動。術と術がぶつかり合い、呪力により力比べが生じた。
こと護りに関しては結界術のエキスパートである弓削に勝る呪術師はそうそういない。押しては引き、引いては押し、押すと見せかけて横にそらす――。
弓削の巧みな術さばきにローブの女はいら立ち、次の呪文を口にする。
「万物の根源たるマナよ、光の矢となりて疾れ。サギッタ・ステッラエ。サギッタ・ステッラールム。ユベオー!」
呪力の塊が銀色に光り輝く無数の矢となって殺到。
「なめるな!」
霊災のくせに呪術まがいの芸当をするなんて生意気な――。
弓削が一喝すると彼女の周囲の結界が光の矢を受け止めるような形で、折りたたむように変形した。さらにそれを囲むように複数の結界が一度に展開。
光の矢を受けて虹のようなきらめきを放った。
巧妙な術理で構成された複合型の結界。それは防御型の結界ではなく、獲物にむかって口を開いた獣のあぎとを連想させた。
光の矢はことごとく獣のあぎとへと吸収されてしまった。
さらに弓削は手印を結ぶと夜空にむかって突き上げる。頭上に放たれた呪力が一瞬で広がり、あたりを覆い尽くす。
「遊びはおしまいです。――オン・トナトナ・マタマタ・カタカタ・カヤキリバウン・ウンハッタソハカ!」
真言を唱えた弓削が黒いローブの女を中心とした妖精の群れに刀印を突きつけたとたん、妖精たちは動きを完全に封印された。
まるで時間が止まったかのように妖精たちは動かない、動けない。
結界とは外部からの攻撃を防ぐ盾であり鎧だが、それを裏返しにすれば外部への動きをすべてシャットアウトする拘束衣へと変わる。
シャットアウトするのは物理的な干渉のみではない、呪力や霊力もだ。
妖精たちを捕らえた術は二つの術式で構成されており、ひとつは対象を拘束する術式。だがその外側には不動金縛りと同じ不動法にある結界護身法を組み合わせていた。
本来、結界護身法は術者が自分に対して使用するもので、呪的霊的影響力を完全に遮断する術だ。
妖精たちは呪縛されたうえに、さらに結界を重ねられてしまったのだ。もはや微動だにしない。
このまま結界で押し潰すことも可能だが、どうしたものか……。
弓削が迷っていた、その瞬間。ひと筋の光がほとばしった。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
とっさに呪壁を展開し、襲いくる光を避ける。
動けない妖精たちの中、一本の槍をかまえた若者が弓削をにらみつけていた。
束縛を破ったものがいたのだ。
「わが師に対する無礼、ゆるさぬ!」
槍を持つ若者の手がかすんだ。刹那、五月雨のごとき刺突がくり出される。
呪術による結界。それはその硬化強度よりも強い呪的衝撃をあたえれば破壊は可能だ。可能ではあるが、その破壊速度を上まわる再生力が続くかぎり、攻撃を完全にはばんでしまう。
その再生力をさらに上まわる速度で攻撃を繰り出さないかぎり、力押しで結界は破れない。
青年の攻撃はことごとく弓削の結界にはばまれたのだが、それでもなおひるまず、あふれんばかりの闘気をみなぎらせていた。
「わが魔槍に貫けぬものはない。このクランの猛犬が相手だ!」
「私の結界はどのような攻撃も防ぎます。あなたの攻撃は私には絶対にとどきません」
弓削は新たな呪を紡ぐため、その白い繊手をひるがえした――。
東京都内某所。
片手に刀袋を持った、細身だが長身で、がっしりとした体格の青年に骸骨が群がる。
「――ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ――」
だが青年が火界咒を唱えると、骸骨たちはたちまち燃え上がり、ラグを走らせ灰になったかと思うと消滅した。
現在新宿で執り行われている宮地の火界咒ほどではないが、高い呪力を感じさせる。
「クックック……」
そのままなにごともなかったように夜の街を早足で駆けながら、凶暴な笑い声をもらす。
青年の齢は二十歳前後だろうか、銀色に染めた髪を短く刈りこんでいて、夜だというのにミラーコーティング・レンズのサングラスをかけていた。指には無数のリングがはめられ、耳には複数のピアスが、それ以外にもたくさんのシルバーアクセを身につけている。
ファーつきのジャケットにシルバー・バックルのスタッズベルト、ウォレット・チェーンのからまるデザイン・ジーンズに、光沢のあるエンジニアブーツをはいていた。
なにより禍々しいのはひたいにある×印のタトゥーだ。まるで刀傷のような剣呑な印象をはなっている。
鏡伶路。それがこの青年の名前だ。
彼もまた独立祓魔官であり、『鬼喰らい(オーガ・イーター)』の異名を持つ十二神将の一人だった。
「GAAAAッ!」
雷鳴のような雄叫びをあげて青銅の皮膚をした一つ目の牛が物陰から突進してくる。
しかし鏡は動じない。わずらわしげに、そして小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、片手を振り上げる。空中を爪で引き裂くように横薙ぎに、ついで人差し指から小指までの四本を縦に。呪力をおびた指先が描くのは、早九字の格子紋。ドーマンだ。
その巨体で押し潰さんと体ごとぶつかってきた魔牛だったが、呪力の障壁に衝突してラグをはしらせる。格子紋は空中で赤い光を放ち、魔牛の体にめり込んだ。
「GUGAAAッッッ!」
天突き器に押し出される寒天のように肉が押し潰され、ひしゃげ、いっそう激しいラグを生じて消滅した。
呪文の詠唱もなければ、印の一つも結ばない。略式だったが、その威力は絶大だった。
弓削にせよ木暮にせよ、この鏡にせよ、動的霊災をいともたやすく祓っているのでかんちがいしそうになるが、フェーズ3の霊災というのは並の祓魔官ならば一部隊でも勝てるかわからない大敵だ。
それだけ十二神将に列せられる者たちの力量がすごいのだ。
『将』の一字は伊達ではない。一人が一軍に匹敵する強さを持っている。だからこそ神将と呼ばれるのだ。
「ぬりぃ……」
ぬるい。と、鏡はそう口にした。
「どいつもこいつもぬりぃんだよ。姿形はユニークだが、中身は雑魚ばかりじゃねぇか」
都内各地を荒らしまわるハロウィン仕様の百鬼夜行。鬼や天狗、牛鬼や鵺や野槌といった比較的頻出する霊災とはことなる外観をした、前例のない異形の動的霊災の出現に心躍らせて現場に出張った鏡だったが、今のところ彼の戦闘欲を満足させてくれる獲物には遭遇していない。
ひさしぶりにクールなバトルを楽しめると思っていたが、とんだ拍子抜けだ。
すると、鏡の手にしていた刀袋が、その思いに応じるかのように震えた。
刀袋の中には一振りの日本刀が収められている。木暮の愛刀である二つ銘則宗は江戸時代以降に作られた打ち刀だが、ここにあるのはそれ以前の時代に作られた、太刀に分類される日本刀だった。
はるか昔に鬼の腕を斬り落としたと伝わる、伝説の名刀。そして鏡が使役する式神シェイバの形代でもある日本刀。
その名は髭切。
ちなみに太刀は刃を下にして腰帯にぶら下げるようにつけるもので、これを佩くといい、打ち刀は刃を上にして鞘に差し込むというつけかたをして、これを差すという。
「ああ? シェイバ、おもえもつまらねぇよなぁ、こんな雑魚ばっかりじゃよ。斬りてぇよな、刺してぇよな、薙いで、かち割って、屠りまくりてぇよな」
シェイバは鏡の式神ではあるが、通常任務に持ち出すことは禁止されていて、普段は陰陽庁が管理している。
それが今、手元にあるのは今夜の霊災が広い範囲で猛威をふるい、出現する動的霊災の数も多い。つまり特別な任務だからで、この一件が片づけば陰陽庁はふたたび鏡からシェイバを取り上げてしまうだろう。
シェイバは血を吸いたがっている。
鏡もまたシェイバの力をぞんぶんに振るい、味わいたい。そのためには弱い霊災など何体まとめてかかってきてもだめだ。もっともっと強いやつと戦わなければ意味がない。
戦闘をとおして、さらなる力を身につけるのだ。技を知り、戦いを学び、みずからの血肉にするのだ。霊災は鏡にとって敵ではない。刈るべき獲物だ。
おのれの糧となる獲物にすぎない。
霊災を糧にしてさらなる強さを求め、高みを目指す。それが鬼喰らい(オーガ・イーター)、鏡伶路という男だった。
それからも何体かの霊災を処理してまわる。
ハンス・ルドルフ・ギーガーのデザインした地球外生物のようなもの、機関銃を乱射する殺人ピエロ、清朝の官服を着てぴょんぴょん飛び跳ねる屍、赤と緑の横縞のセーターを着た焼けただれた顔の鉤爪男、地上を泳ぐ鮫、首のない騎士、首のないライダー、不定形のブロブ――。
ホッケーマスクに肉切り包丁やチェーンソーを手にした巨漢の霊災など、もう十体近くも祓った。
やたらと呪詛を連発してくる、長い黒髪を前にたらして顔を隠した女性型霊災を祓い終えた鏡は、今夜の仕事に勝手に終止符を打とうとした。
「あー、うぜぇ。めんどくせぇ。……もうバックレるか。こんなクソ虫どもの相手、するだけ時間の無――」
ぞわり、全身の毛が逆立つ感覚。強大な気を近くに感じた。
鬼気にも似た、鏡にとってなじみ深い性質の気。極上の獲物が近くにいる。
音も立てずに刀袋のひもを解き、シェイバを抜き放つ。抜けば玉散る氷の刃が夜気に触れて、よりいっそう冴え冴えとして見えた。
「殺る気まんまんって感じじゃないか、おっかいないねェ」
!?
声はすぐ近く、至近距離から聞こえた。
とっさに跳びすさりながらシェイバによる一閃。と同時にオリジナルの式符を乱打。その一つ一つが猛獣の骨を象り、牙や爪で声の主を強襲する。
手ごたえあり。だがしとめてはいない。
「ナマサマンダ・ボダナン・カロン・ビギラナハン・ソ・ウシュニシャ・ソワカ!」
数ある陀羅尼の中でも極めて強力な尊勝仏頂陀羅尼。鏡の編んだ強烈な密呪が怒涛の勢いで正体不明の相手に迫り、飲み込んだ。
呪力の波が去ったあと、そこには腕を交差させて首から上をガードしている男の姿があった。
ずいぶんと背の高い男だ。鏡も長身だがこの男はもっと背が高い。それでいて筋肉質でプロの格闘家といっても通用するような鍛えられた体躯をしている。
男がゆっくりとガードを下げる。あごの細いシャープな顔立ち。側頭部を完全に剃り、短く刈った髪に鋭角なレンズのサングラスをかけていた。
「……やるねェ」
低い、臓腑に響くような低音の声でつぶやく。今の攻撃を受けてなお平然としている。
やっとまともに戦える、喰うに値するやつが出た。鏡の顔に凶悪な笑みが浮かぶ。もしも肉食獣が笑うことができたら、こんな顔で笑うのだろう。そんな表情だ。
「シェイバ!」
鏡が手にしていた髭切を宙に放った。地に落ちる前、長身でほっそりとした青年がその柄をつかむ。実体化した鏡の使役式シェイバだった。
くせの強い長髪を首筋でたばねた、気の弱そうな優男。だがその目の色は普通ではない。虚ろで空疎。だけども飢餓感にも似た異様な光が宿っていた。
餓えているのだ、血に。
「斬れ」
「ヒャッハー!」
鏡の命に狂喜して髭切を振るうシェイバ。凶刃が男の首筋目がけて振り落とされる。
「ぬうん!」
男の二つの拳が刀身を左右からはさみ、斬撃を止めた。双拳白刃取り。
と、同時に左脚がひるがえり、シェイバの右わき腹をえぐるように蹴る。中段回し蹴りによる肝臓を狙った攻撃。普通の人間なら呼吸困難におちいり、死に体となるであろう急所攻撃も、霊的存在であるシェイバにはただの打撃にしかならない。ラグが走り外観がノイズで歪むが、その霊気に衰えはない。
そしてラグが走ったのはシェイバだけではなかった。斬撃を止めたはずの男の首筋からわき腹まで一直線にラグが生じていた。
刀を物理的にふせいだが、その刀身から放たれた霊気の刃が男を斬っていたのだ。
「ノウマク・サンマンダ・バサラ・ダン・カン!」
強力な呪力がほとばしり、鏡から炎が吹き上げた。炎は伸び上がり、炎の蛇と化す。かま首をもたげて男に襲いかかる。不動明王の小咒だ。
「ますます、やるねェ……」
炎につつまれ全身をラグで歪ませながらも、男はなお平然としている。
「あんたたちをやるには、五十パーセントってとこかな?」
男の身体が、筋肉が急激に盛り上がった。もともと筋骨隆々としていた身体だったが、さらに筋肉が増えた。霊気も爆発的に増長する。ここまでくるともはや人の身ではない、まるで鬼だ。異形の鬼がそこにいた。
その姿を見て鏡はますます愉快になった。
こりゃあ、死ぬかもな。
だが、それでいい。そうでなくては戦う意味がない。死線をくぐり抜けてこそ、強くなれる。弱い相手と何十何百何千回と戦っても無駄だ。意味がない。
最低でも自分と同じ、互角以上の相手と死合って始めて経験となる。
生きるか死ぬか、勝つか負けるか、二つに一つ。実戦に引き分けなんてぬるいものはない。だからこそ戦いはおもしろい。やめられない。
殺し、殺される。最高の娯楽じゃねぇか……。今夜の霊災はアタリだな。鏡はそう確信した――。
「ひまですわね、お姉様」
「ひまですわね、玄菊さん」
霊災が多発するハロウィンの渦中において、厳重な防御結界のほどこされたリムジン内で双子の姉妹が言葉を交わす。
若く見える、というより見た目では年齢のわからない女性逹だった。
まず着ている服がフリルを多用したかわいらしいブラウスとスカートで、カールさせた髪には花の髪飾りまでつけている。
特別霊視官の幸徳井(かでい) 白蘭(びゃくらん)と幸徳井玄菊だった。
日本を代表する陰陽道の二大氏族。安倍清明で有名な安倍氏と、清明の師匠である賀茂忠行や保憲などの賀茂氏。
安倍氏はのちに土御門を名乗り、賀茂氏は勘解由小路(かでのこうじ)を称して共に陰陽道を伝えてきた氏族だが、勘解由小路家は室町時代後期に没落、断絶してしまった。
江戸時代。断絶した勘解由小路家に代わり、賀茂氏宗家となったのが幸徳井家だ。
秋芳が養子になった、自称『賀茂』家とはちがう、正統な賀茂氏の末裔である。
「こんなにも霊災がドンドンバンバン出てきたら、わたしたちの出番なんてありませんわ」
「遠くから霊気を視るのと、直接肉眼で見るのでは迫力がちがいますわね。……あら?」
「あら?」
「「あらあらあらあら」」
祓魔官逹の猛威をくぐり抜けて、人の身体に鳥の頭をした一体の動的霊災がひょこひょこと双子の乗ったリムジンに近づいてくる。
「あらあらどうしましょう、お姉様」
「どうしましょうか、玄菊さん」
霊視官であるふたりに直接戦闘力は乏しい。
力の弱い霊災であっても、修祓するのは困難なのだ。
「う~ん、こまりましたわね玄菊さん」
「こまりましたわねお姉様」
近くの祓魔官に連絡しようと思った矢先、鳥頭人身の霊災が手を差し出した。
「あなたが菓子であるだろう、欲しくて。必ずいたずらして」
「……? お菓子が欲しいんですの?」
「ごまかしをしない。何かの望みと、口に書く。Trick or Treat」
「今夜はハロウィンですものね」
今夜はハロウィン。なのでリムジンの中には双子が持ち込んだ多種多様な菓子類があった。
双子の手からモンブランケーキが渡される。
「そして遠慮なく……。たぶん良くなる次第。私はそうだ、寛大」
そう言うと霊災はかき消えてしまった。
「「まぁ」」
不思議な展開に顔を見合わせる。まるで珍しい動きをした動物でも見かけた子どものような仕草だが、わざとではなく、これがこの姉妹の素の様子なのだ。
「……乱暴なことなんかしなくても、お菓子を捧げれば修祓できるのかしら?」
正解である。
だがそのことを知る陰陽師は、まだこの時にはいなかった。
後書き
殺伐とした修祓シーンが続いたので、双子によるお菓子修祓のくだりを書いてみました。
万聖節前夜祭 5
『ただ今たいへん混雑しています。のちほどおかけいただくか、このまましばらくお待ちください。ただ今たいへん混雑しています。のちほどおかけいただくか、このまましばらくお待ちください。ただ今――』
「どこのコールセンターだよ、まったく……」
陰陽庁に連絡し、賀茂秋芳という身分を明かしたうえで倉橋京子が百鬼夜行に取り込まれていること、夜明けとともに百鬼夜行は消滅するであろう可能性を説明し、なんなら自分で祓魔する。そう告げようとしたのだが、いっこうにつながらない。
陰陽庁にメッセージを添えた簡易式を直接打とうとも考えたが、それでは間に合わない。
京子の乗った霊脈は刻一刻と火界咒渦巻く東京都庁へ押し流されているのだ。
現場に行って直談判する。
意を決して禹歩による移動をこころみた秋芳だったが、都内を流れる霊脈は倉橋源司の大元帥法によって海嘯や乱気流さながらの様相をていしており、とてもではないがその流れには乗れない。
公共の移動手段はのきなみストップしており、道路は交通規制によってグリッドロック状態だった。
男子寮のある渋谷から都庁のある新宿までは徒歩という原始的な交通手段でもじゅうぶん移動可能だが、それでも一時間近くはかかる。秋芳の軽功をもってすれば二〇分で駆け抜けられるだろう。だが今はそれでも遅すぎる。
なのでもうひとつの原始的な交通手段である呪術をもちいることにした。秋芳は乗矯術を使って夜空を駆け、新宿へといそぐ。もちろん人目につかぬよう禁感功、穏形は怠らない。さらに人造式を介して京子とのやりとりを続け、むこうの状況の把握につとめる。
「おそいっ! はやく来てなんとかして!」
「おちつけ。君の力をもってすれば龍脈の、霊脈の流れを制することができる。たとえ大元帥法であっても抵抗できる」
「もうやってるわよ、それでもすごい速さで流されちゃうの!」
「だいじょうぶだ、かならず間に合う」
京子を落ち着かせるために絶え間なく話しかける。
「……真言。マントラというのは文字そのもの、発した言葉自体に力が宿ると言われる」
「はぁ!? なんなのよ急に」
「若い人は知らないかもしれないが『孔雀王』や『天空戦記シュラト』という作品があってだな。それで真言を知った小中学生なんかが、よく修学旅行先の寺院でテンション上がって『オン・アビラ・ウンケン・ソワカ~』とか唱えるんだ」
「…………」
「するとそれを聞きつけた坊さんがすっ飛んできて、『そういう言葉をみだりに口にしてはいけない』とか説教するわけだ」
「…………」
「だが『袈裟は、第三生に得道する先蹤あり』という言葉もある――」
袈裟は、第三生に得道する先蹤あり。その昔ある遊女がたわむれに袈裟を着てふざけたのだが、袈裟に触れた功徳で来々世に悟りをひらくことができたという。正法眼蔵という仏教書に記された説話だ。
「――この袈裟の部分を真言に置き換えてもいい、たとえ意味もわからずにいたずらに唱えても仏の加護は得られる。少なくとも罰があたるようなことはない。もっともこれは素人レベルの話で、俺たちのような呪術師ならばやはり意味を理解して唱えるべきだが」
「……その話と今の状況と、なにか関係あるわけ?」
「いや、特に関係はない」
「もっと急いで! すぐ来て! はやく来て! 一〇分で来てちょうだいっ、急急如律令!」
眼下の街灯が途絶え、かわりに広大な緑地が広がる。明治神宮に隣接する代々木公園だ。
「ようし、五分でそっちに行ってやる!」
地に降りるやその場で奇妙なステップを、呪術的な踏み切りをおこなう。帝式の禹歩だ。
ここまで近づけば都庁までそれこそ一瞬で移動できる。多少の危険をおかしてもショートカットするべく、荒れ狂う霊脈に身を投じた。
物体を透過し、霊脈に入る瞬間の独特の感触。水よりもっと濃いなにかの中に沈んでいくようなものだが、水なら自分の体に染みこんでくるような感覚はない。
そのような感覚のあと、すさまじい衝撃が走り身体が流された。
さながら竜巻に巻き込まれた木の葉か渦潮に翻弄される小船か。霊気の奔流に五体がバラバラになりそうになる。
「阿!」
気合いを入れ、素早く精神を統一。全身に気を廻らせ、身心を霊的に浄化、呪的干渉の影響を極力排除する。
密教にある阿字観という瞑想法の一種だ。
さらに進行方向へむかって垂直気味の姿勢をとると、身体にかかる抵抗がいくぶんやわらぎ楽になった。
空気抵抗や水圧があるわけでもないし、地上と同じ物理法則が支配しているわけではないが、ようは気の持ちようだ。
それにより流される速度が少しは低下した。
はるか前方に真っ赤な炎が煌めいているのが見える。うつし世への出口であり、その先で火界咒が渦巻いているのだ。あそこまで流されてはいけない。寸前で霊脈から離脱し、地上に出なければ。
速度の落ちた秋芳の真横を毛むくじゃらの大猿が泣き叫びながら流れ過ぎていく。
大元帥法に捕われて火界咒へと送られる動的霊災だろう。ドップラー効果で叫び声が妙な音に変わる。だが火界咒へと突っ込む前に、その大猿は突如出現した炎の塊に飲み込まれた。
「ケェェェ――――ッ」
耳をつんざく怪鳥音。炎の塊かと思われたそれは巨大な鶏だった。その身からは火気があふれ、はるか先で燃え盛る火界咒と同質の呪力をまとっていた。
「……たしか鶏は不動明王の神使だったな。火界咒によって生じた即席の使役式ってわけか」
神使とは神仏の御使いや眷属のことだ。毘沙門天が虎やムカデを、弁財天が蛇を神使にしているのはわりかし有名だが、他にも大国主命は鼠、摩利支天は猪、妙見菩薩は亀、金毘羅大権現は蟹などなど……。多種多様な神使が存在する。
そして不動明王の神使は鶏だ。青森県黒石市の中野神社など、不動明王を主に祀る寺社では鳥居の前に狛犬の代わりに狛鶏が置かれているという場所も多い。
「ケェェェ――――ッ」
秋芳のことを異物と判断したのか、炎の巨鶏は鶏冠を逆立てて襲いかかってきた。
「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」
龍策印を結印し水天の真言を唱えると、秋芳の周囲に無数の水の槍が出現し、炎鶏を打ち貫いて、消し祓った。
「なんだか『ミクロの決死圏』みたいだな」
秋芳は古いSF映画の題名を口にした。人間を極小化する技術が開発された世界が舞台の映画で、小さくなった人間が人体に直接入り、体内から治療をするという内容だ。
その映画の中で血管を移動中の主人公たちが白血球に襲われるシーンを思い出したのだ。
霊脈はある意味世界の血管といえなくはない。
もしこの場に笑狸がいたら『アマラ深界のワープゾーンみたい』というゲームっ子じみた感想が聞けただろう。
秋芳は火界咒に飲み込まれる寸前で地上への帰還をはたした。
新宿都庁ビルを中心とした一画は真紅に染まっていた。
火炎と黒煙がごうごうと音を立てて渦を巻き、気流は上昇し熱風が天を衝く。
もしこれが本物の炎であったなら、生身の人間ならば一〇分と持たないことだろう。熱気で肺を焼かれるか、燃焼による酸欠で窒息するかだ。
だが今現在都庁を朱に染めているのは現実の炎ではない。火界咒による、呪術によるかりそめの炎だ。
霊災のみを燃やし熱すよう、多少の加減はできる。
都庁のツインタワーにはさまれた空間にぽっかりと空いた穴から無数の動的霊災がわいてくる。それを宮地の生みだした浄化の炎が修祓していた。
あるときは炎の竜、あるときは八つ首の大蛇、あるときは雄々しい獅子、あるときは猛々しい虎、あるときは山のような巨人、あるときは鳳凰、あるときは無数の軍勢――。
この世の者とは思えない不動明王の眷属たちが現世に顕現し、魑魅魍魎を焼き払うかのようだった。並の陰陽師ならばその炎そのものに畏怖の念を抱いたであろう。
これこそが一切の魔軍を焼き尽くし、三千世界を焦土と化すという不動明王の火界咒なのだ。ありとあらゆる災厄や煩悩、魑魅魍魎をただ火でもって焼き払う、至純の呪。
それが火界咒だ。
そしてさらに――。
「寅の方向に霊災発見。土気の偏向あり」
「木行弾装填、撃てぇーっ!」
可動護摩壇ヴリティホーマからの砲撃をまともにくらった霊災はラグが生じる間もなく粉々に砕け散って消滅した。
「霊災修祓確認。やったぞ!」
「実弾てやつはこれほどの威力だったんだな……」
「年に一回の演習で動かすのとはくらべものにならないな!」
穴から落ちてくる大小無数の動的霊災の大半は真下で修法をおこなう宮地の火界咒で焼き祓われるのだが、そこからこぼれ落ちて逃れたものや、他所から侵入してくる霊災を相手に稼動護摩壇が大活躍していた。
観察者の見鬼能力を上昇させるヴィルーパークシャシステム搭載。隠形を見破り、対象の五気に応じて相剋効果のある五行砲が撃ち込まれる。さらに梵字の刻まれた破魔の弾丸が装填された機銃が弾幕を張り、霊災をよせつけない。
それでも弾幕をかいくぐり肉薄してくる霊災もまれにいたが――。
巨人のふるったドラム缶のような棍棒が可動護摩壇を打ちすえ、壇上の炎を震わす。内部にも衝撃が伝わったが、わずかに揺れたのみ。
インパクトの瞬間、可動護摩壇の装甲に梵字が浮かび上がり、打撃のほとんどを吸収・無効化してしまった。なにからも害されず、どのような難からもまぬがれるという摩利支天をあらわす種字梵字だ。
「さすがヴリティホーマだ、なんともないぜ!」
決死の覚悟で一矢報いた巨人であったが、至近距離からの機銃掃射で全身を穿たれ、ラグをまき散らしながら消滅した。
一発で四〇人分の給食費をまかなえる値段のする砲弾を惜しげもなく撃ちまくる車両がある一方、極力発砲せず、竜を模した衝角や巨大な外輪で動的霊災を踏みつぶしてまわる車両も存在した。
といっても国民の血税を浪費することをためらったわけではない。操縦者の嗜虐趣味のためだった。
「ひゃっはー! 霊災がゴミのようだ」
「逃げるやつは霊災だ、逃げないやつは訓練された霊災だ。相手が霊災なら人間じゃないんだ。やっちまえ!」
「圧倒的じゃないか、おれたち陰陽師は」
逃げ惑う霊災たちにパラボナアンテナ型の照射機から五芒星をかたどった光が放たれ、その動きを止めた。不動金縛り効果のあるペンタグラムメーサー光線だ。機銃掃射にさらされ、たちまちラグまみれになる。
この場に姿をあらわした霊災は一体残らず修祓されている。
五行砲で粉みじんになるもの、機銃により蜂の巣にされるもの、衝角に貫かれるもの、外輪に押し潰されるもの、護摩壇からの火炎放射に焼かれるもの――。
血肉が飛ぶわけでも臓物がまかれるわけでもない、死骸も残らない。ただラグが生じて次の瞬間消え去るのみ。
劫火の渦巻く中で掃討戦が繰り広げられる。その様はまるで戦場だった。血の臭いがまったくしない、異様な戦場。
太平洋戦争末期、土御門夜光は軍部の要請で呪術兵器と呼べる軍用式を何種類か開発したという。オイルと鋼鉄の血肉によって構成され、物理的な攻撃に強い耐性を持ち、口から吐く糸で対象の霊気を奪取する装甲鬼兵『土蜘蛛』などがその代表で、これらは敗戦後GHQの命令でほとんど破棄させられたが、八王子にある陰陽庁管轄の倉庫に研究資料という名目で何体か保管されている。
いわば呪術によって造られた戦車だが、この可動護摩壇も対霊災用に特化した〝戦車〟と呼ぶべき代物だった。
「ひどいな、こりゃ……」
目の前の惨劇を見て秋芳は独語した。
惨劇。そう、惨劇だ。
霊災の修祓にもかかわらず、ついつい惨劇などと言う言葉が浮かんでしまうのは感傷的すぎるだろうか? だがあまりにも一方的な力による蹂躙、それも生身の人間ではなく機械をとおしておこなわれるそれは残酷のひとことにつきた。
まして今夜は人造式を通して京子の率いるやけに人間的な霊災に接している。
彼らに対して同情の念を抱き、助けたいという思いすら湧いた。
もともと修祓というのは均衡をくずして瘴気となった霊気を本来の姿に戻す儀式であり、迅速かつ効果的だからと、このようなやり方はいかがなものか。
そもそも技も術も魂も宿らない鉄の塊での修祓など邪道――。実際は操縦するのに技術が必要だし、生身の人間が込めた呪力で動いているので魂が宿っていると言えなくはないのだが、思わずそのような考えが秋芳の頭に浮かんだ。
「……現場の連中にわけを話して通してもらおうと思っていたが、そういう雰囲気じゃないな。こりゃあ下手に姿を見せたら霊災とまちがえられて即座に攻撃されかねないぞ。しょうがない、宮地室長に直接かけあうか……」
しかし修法儀式に没頭している呪術師に声がとどくだろうか? 儀式中の呪術師というのはそれに没頭して外界とまったくコンタクトとれない状態になっていることが多い。
最悪力づくで火界咒を阻止することになるかもしれない。
穏形を駆使して都庁内に潜入した。
都民広場という名前がついた半円形階段状のスペースを通って第一本庁舎のホールにたどり着く。
都庁の中は外とはうって変わって静然としていた。
行き先は三十三階。ニュースによればツインタワーにはさまれた場所で宮地室長が火界咒をおこなっているはずだ。
階上へ行くエレベーターを探そうと一歩踏み出したとたん、呪的トラップが発動。ホール内を呪力がつつみ、秋芳の身を覆い隠した。暗灰色の濃霧が立ち込めたかのように視界が悪くなる。
遁甲術の八門法陣。
儀式にかかりきりになる術者の身を護るための結界だろう。秋芳は即座に術式を視た。表で猛威をふるう火界咒と同じ霊気を帯びていた。つまり宮地の術によるものだ。
「……かなり即席で用意したみたいだな、これなら力業でも突破できる。……宮地室長。あんがい火炎系統
以外の術は苦手だったりしてな」
『秋芳君っ、もう五分どころか一〇分は経ったわよ! 目の前にすっごい大きな火が燃えてるの、はやくどうにかして!』
「今、一階だ。すぐに上がる」
『はやくはやく、はやくして! 来るっ来るっ、もう来ちゃうっ』
かなり切羽詰まった声色だ。
「……今の科白、なんかエロいな」
『こんな時にふざけてると、あとでぶっとばすわよッ!!』
「京子、いざとなったらありったけの水行術をぶつけるんだ。如来眼の、自分の力を信じろ。霊脈は大地の力、地球そのものの力を借りることができる。当代最高と最強の陰陽師が相手でもおくれはとらない」
『んもう、他人事だからって気軽に言ってくれるわね~』
「どんな難局にあっても悲観しない。いつだったかそう決めただろ」
以前、たがいの家に家訓はあるのかという話をしたことがあった。賀茂にも倉橋にも特に決まった戒めや教えもなかったので、二人はたがいの家の新家訓をたわむれにいくつか作ってみたのだ。
お年寄りには優しくする。自分より弱い者をいじめない。出されたご飯は残さず食べる――。といったあたりさわりのないものから、礼を欠く者に礼はいらない。恩は二倍にして返せ、怨みは一〇倍にして返せ。人を褒めるときは大きな声で、悪口を言うときにはもっと大きな声で。初対面の人を呼び捨てにするやつは動物の仲間だから返事をする必要はない。反撃という語句はあっても逃走という語句はない――。
などという少々攻撃的で意地の悪いものなど考案したものだ。
それら新家訓の一つに、どんな難局にあっても悲観しない。というのがあった。
「京子、君は絶対に傷つかない。だいじょうぶだ」
『せめて〝君は絶対に俺が守る〟くらいのこと言って、次の瞬間に駆けつけて欲しいものね』
「守られるだけのお姫様がお望みかい?」
『まさか、あたしはそんな前時代的な女子じゃないわ。むしろあたしがみんなを守る!』
「その意気だ」
『あたしがみんなを守るから、あたしくらい秋芳君が守ってよ』
「とうぜんだ、君が死ぬときは俺が死ぬ時だからな」
禁陣則不能迷、疾く! 陣を禁ずればすなわち迷うことあたわず。秋芳は八門法陣を強引に禁じて突破した。
「今から合流するまでのあいだ、一分経過するたびに君のお願いを一つ聞く」
『え! ほんとう!?』
「ほんとうだ。だからもう少し持ってろ」
『そういうことならあと一時間は粘ってやるわ。まず秋芳君が知っていて、あたしがまだ知らない呪術を全部教えてちょうだい、出し惜しみはなしよ。あとサラド・ニソワーズが食べたい。それと今度遊園地に連れてって。それに高くなくてもいいからアクセサリーとか買ってくれたらうれしいな』
「おいおい、まだ一分も経ってないだろ」
あらためて一歩を踏み出した秋芳だったが、危険な気配を察して大きく飛びのいた。
秋芳がいた場所に紅蓮の火柱があがり、床のタイルを弾き飛ばし、天井を焼き焦がす。巻きおこった熱風が肌を突き刺す。火界咒による遠隔攻撃だ。
熱を察知してアラームが鳴ると同時にスプリンクラーが作動し、散水――。
はしなかった。ノズルから放たれたのは水ではなく火炎、炎の飛沫があちらこちらで撒かれ、フロアー内を紅く染めあげる。
「なんじゃあこりゃあ!? ――オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ!」
即座に印を結び火難除けの神である秋葉権現の真言を唱えて耐火につとめる。
「結界を力づくで破壊したことで新たな防御措置が作動したのか……」
『ちょっと秋芳君だいじょうぶ?』
「無問題」
秋芳は一瞬にして火炎地獄の様相となったフロアーを駆け抜けて、エレベーターを目指して駆けた。
「さぁ、そうと決まればがんばらないとね」
京子は決意を込めて操舵輪をにぎりしめ、前方に広がる霊穴を見すえる。赤々とした炎が燃えているのがわかった。
穴の先はうつし世。出てすぐのところで火界咒が展開されているのだ。
面舵いっぱい。船首が右をむき、霊脈の激流に逆らう。
船。そう、船だ。京子は船を操縦していた。
霊脈の中、いったいどこからこのような船を見つけたかというと、京子自身の意識からにほかならない。
霊脈に流され、翻弄された京子は大海で溺れかけたかのような錯覚をおぼえた。
この流れから逃れるにはどうしたら良いか? とっさに浮かんだのは船であった。流れに逆らい波濤にあらがう船をイメージし、霊力をふりしぼったところ、ほとばしる霊力が船の形をとったのだ。
この世ならざる陰態じみた場所ならではの摩訶不思議か、京子の如来眼のなせる業か、とにかく裸一貫で流されるよりかは船の上のほうが心強い。
京子が率いていた動的霊災たちも必死になって船にしがみつき、乗船した。百体を超えていた彼らも大半は流され、半数以下となっていた。
そのうちの一体、夜の十二時以降に食事をさせたり、水をかけてはいけないような外見の生物が京子になにかをさし出した。
ゼリービーンズのようだ。
「あら、くれるの?」
「もきゅー」
船を出して乗せてくれたお礼のつもりだろうか。いたずらをされないかわりにさしだされた戦利品を、お菓子をくれるそうだ。
「ふふ、ありがとう」
口にふくむと焦げたアスファルトのような風味が口内に満ちた。
「…………」
眉間にしわをよせ、顔を歪ませる。
肩に止まったカラスがなんの反応もしめさないのは秋芳本体のほうに意識を集中すべく自動操縦に切り替わっているからで、もし今の京子の表情を見たら、『君はしかめっ面もかわいいな。施夷光のようだ』などと軽口を叩いていただろう。施夷光というのは別名を西施という中国四大美人の一人で、彼女には胸が痛む持病があり、よく眉間にしわをよせて苦しんでいたそうだが、そのような姿すら艶めかしく美しいと評判だったそうだ。
倉橋京子は一度口にふくんで咀嚼した物を吐き出すような不調法者ではない。なんとか飲み込んだ。
すると別の霊災たちもわらわらと集まり、それぞれが手にしたゼリービーンズをさし出す。自分たちも感謝の念を伝えようというのだ。
「……ねぇ、あんたたちのそれ。なんのお菓子よ?」
ブードゥー教の秘術で動いてそうな人形が紅白縦縞のパッケージをかかげる。とても有名な魔法使いの物語に出てくる、百種類の味が楽しめるお菓子であった。
「みんなの気持ちだけありがたく受け取っておくわ。――全員配置につきなさいっ、揺れるわよ!」
炎渦巻く広大なフロアーを一気に駆け抜けて、エレベーターホールへとたどり着く。
「エレベーターに乗ってる時に今みたく火炎を喰らったらえらいことになるが、階段で三十三階まで上がるのもなぁ」
ふところに手を忍ばせ一枚の札をなでる。札には火迺要慎の文字が書かれていた。火伏せ・防火にきわめて高い霊験のある愛宕神社の火伏札だ。一般に売られている乙種護符ではない。正真正銘本物の呪力が宿った呪具、甲種護符だ。宮地が火界咒をおこなっていると聞いて、万が一にそなえて身につけてきたのだ。
札に込められた力を解き放てばどんな炎からも数分間は守られるはずだ。インフォメーションによると一階から四十五階にある展望室まで直通ならば五十五秒でつくという。三十三階までならもっと早い。
だが火災報知機が作動した影響か、どのエレベーターも停止していた。
すると一台のエレベーターが地下から上がって来るのを表示ランプが示した。いそいでボタンを押すと、ちょうど扉が開き中からふんぞり返った老人があらわれた。左右に部下らしき黒服の男を従え、制服姿の警備員の姿も見えた。
「どこのどいつだ、こんなところでエレベーターを止めるようなやつは」
老人は居丈高な口調で忌々しげにうなった。
扉の前にいる秋芳を見て警備員が舌打ちしてにらみつける。
「なんだね君は、これは要人専用のVIPエレベーターだよ。政治家様や議員先生とか、そういう偉い方たちだけが利用できるんだ。こちらにおわす方は天下の東京都知事、猪鹿蝶太郎様であらせられるぞ、頭が高い。ひかえおろう!」
この尊大な老人は外国人とカラスと漫画が大嫌いなことで有名な東京都知事だった。
なんでも国民に対して不透明な霊災修祓の現場がどうなっているのかを知るために、決死の覚悟で視察に来たというのだという。おおやけの地図には明記されていない地下駐車場にある職員用の通路から都庁ビルに入ったそうだ。
次の都知事選挙でも再選を果たすべく、存在感を誇示するための安っぽいパフォーマンスであろう。
今この建物内には呪的トラップが数多くしかけられています。危険ですので引き返してください。親切心からそんなことを言おうとした秋芳を先制して蝶太郎はこう言い放った。
「身分をわきまえろ。これは君みたいな青二才が利用していいエレベーターじゃない。どうしても乗りたければ私くらいの身分になってからにするのだな。もっとも何十年かかるかわからんが」
おごり高ぶって人を見下すことで有名な都知事で、問題発言の多い人だ。過去にも『漫画の好きな人は人生行き止まり』や『漫画はアホにでも読めるから規制してあたりまえ。悪い漫画を撲滅すれば良い漫画が残る』などの発言をして批判されたことがある。
冗談ではない。下世話で猥雑、不道徳。そういったエログロナンセンスの部分もふくめて、日本のコミック業界を支える力になっているのだ。
お上から『清く正しい漫画だけを描きなさい』などと言われたら、業界全体が萎縮してしまうことだろう。
この老いた都知事はすべての漫画家。いや、創作を愛する者全員にとって共通の敵と呼べる。
それにしても今の言葉は国民の税金によって養われている者の科白ではない。秋芳の瞋恚に火をつけるにはじゅうぶんな暴言であった。
「俺は東京都民で納税者だ、つまりあんたのご主人様だぞ。そんなこともわからんのか、この無礼者!
税金で養ってもらっているくせになに様のつもりだ、使用人は使用人らしく階段を使って上がり下りしてろ!」
秋芳の怒号は不可視の鞭と化して、権力を笠に着た狗どもを打ちすえた。
「き、きさま、無位無官の民間人のぶんざいで猪鹿閣下になんという口を!」
暴力団員か政治家の番犬以外の職にはつけそうにない黒服の一人が秋芳のえりをつかもうと手をのばす。だが逆に手首をつかまれ、次の瞬間宙を舞うことになった。顔面から地面に落ち、鼻っ柱と前歯をへし折られ、血の跡を残して悶絶する。これは小手投げ。あるいは小手返しと呼ばれる投げ技だ。
「このやろう!」
残った黒服が拳を振るうが、腕をそえるようにして軽く受け流された。一瞬交差状態になった腕と腕。黒服が反応するよりも早く秋芳の肘が跳ねあがり、あごを打ち上げると、黒服は口から血泡を吹き出し、白目をむいて卒倒した。骨法の掌握と呼ばれる技法に近い技だった。
「ひぃぃ……」
残った都知事と警備員が青ざめ、あとずさる。
「さっさと引き返せ。ただし階段を使ってな」
「は、はいっ、ただちに帰りますとも」
暴力、財力、権力……。この三つの中でどれが一番強いかをあえて選ぶとするなら、やはり暴力だろう。どんな金持ちも権力者も殴れば死ぬからだ。だから純粋な暴力がもっとも強い。札束や葵の御紋などでは格闘家の拳脚は防げない。ゆえに権力者は純然たる暴力をもっとも恐れる。都知事と警備員はすごすごと退散した。
「まったく、いらん時を使わせやがって……」
エレベーターに乗り込み、三十三階を目指す。
『ダイヤモンドは結婚指輪にとっておくとして、なにがいいかしら……』
「宝石をおねだりするつもりか? ……まぁ、いいか。お守りがわりに一つプレゼントしよう」
『やったぁ☆』
「縁起をかついで誕生石がいいかな」
『あたしの誕生日は八月一六日よ』
「ならペリドットだな」
ペリドット。オリーブのような明るい緑色をした宝石で、生命力や希望、発展などを象徴する。パワーストーンとしては闇を消し去り、邪悪なものを追い払う退魔の力と精神を安定させる効能があるとされる。
古代ローマ人はその石が夜になっても輝きが遜色しないことからイブニングエメラルドと呼んでいた。また中世のヨーロッパでは教会の装飾などによくもちいられた。
「カットされた宝石というのは神秘形である三角形のあつまりだ、だからそれだけで魔力があると西洋では考えられている」
三角というのは創造の基本、出発点とされ、あらゆる物事の誕生という意味合いから新しい展開や開運、発展などのパワーを持つといわれる。
いくつもの小さな面が幾何学的に組み合わされるようカッティングされた宝石は護符そのものだ。
『そう言われると、宝石って五芒星や六芒星がぎっしりつまってるように見えるわね』
そんなやりとりをしているうちに三十三階に到達した。表へ出たとたん、熱と光と火焔が豪雨のようにふりそそぎ、着ている服から焦げるような臭いが立ち込める。
身体が焼ける。秋芳は即座に火伏札の力を開放し、炎熱を防いだ。
劫火が吹き荒れ、爆風が渦巻く中、不動明王の姿がそこにあった。
不動明王。あるいは不動威怒明王、不動使者や無動尊とも。
降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王ら五大明王の筆頭であり、大日如来が人々の悪心を調伏するため憤怒の姿で顕現したと姿だという。迦樓羅炎と呼ばれる火焔の光背を背負っているが、これは不動明王が火焔の中に身を置いて自らを火焔そのものにすることにより、あらゆる煩悩を焼き尽くすということをしめしている。
右手に智剣、左手に羂索を持っており、右手の剣で貪・瞋・癡ら三毒の悪障を断ち、左手の索であらゆる衆生を引きよせて正道に導くという。
そのような凄まじきものがいた――。ように見えた。
そこにいたのは尊格ではなく一人の人間。袈裟を着た法衣姿の中年男が一心不乱に火界咒を唱えている。宮地磐夫だ。
宮地の身体から立ち昇る怒涛のごとき霊気が、不動明王の姿を観せたのだ。
秋芳は声をかけることも忘れ、思わずその姿に見入ってしまった。
その時、頭上に空いた霊脈に通じる穴から一体の動的霊災がこぼれ落ちる。白い剛毛におおわれた双頭の巨人だ。かなり強力な個体なのであろう、宮地の火界咒に焼かれて全身にラグをはしらせているが、まだ強い気をはなっていた。巨人は二つの口から憤怒の雄叫びをあげ、巨大な拳を宮地目がけて振り降ろした。
叩き潰される。秋芳の危惧はしかし杞憂に終わった。宮地はその身を炎と化して攻撃を無効化し、そのまま黄金色の爆炎となり巨人を蒸発させた。
火炎同化。このようなことができる呪術師がこの世に何人いるだろう、宮地が不動明王の申し子と呼ばれるのはたんに火炎術に秀でているからではない。彼は不動明王さながらに己を炎と化すことができるからなのだ。
これはもはや人の身で成せる業ではない……。
宮地の力の一端を垣間見た秋芳は猛火の中にいるにもかかわらず、全身に寒気が走り、冷や汗が浮かぶのを感じた。このような脅威を感じたのは久しぶりだ。
修行時代。夜の鞍馬山で魔王尊に出くわした時や、牛頭天王とうっかり遭遇した時以来かもしれない。
だが感じたのはあくまでも脅威であって恐怖ではない。秋芳は恐れることなく猛火の轟音に負けじと声を張り上げた。
「俺は陰陽塾塾生の賀茂秋芳だっ、百鬼夜行に倉橋長官のご息女が取り込まれている。このままでは火界咒に巻き込まれてしまうから、ただちに修法を止めてくれ。穴からあふれる霊災は俺が封印する」
「――ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタタラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギナン・ウンタラタ・カンマン――」
声は宮地の耳にはとどかなかった。聞こえてはいるはずだが、一意専心に火界咒を唱える宮地に外界からの声はとどかない。霊穴が閉じるまで、とりこんだ霊災をすべて吐き出して倉橋源司が大元帥法を終わらすまでは死ぬまで、いや、死んでも火界咒を唱え続ける。それほどの気迫が伝わってくる。
炎の大海から虎や獅子や鶏の姿を象った式神たちがあらわれ、秋芳に牙をむける。この場に侵入した異物は一切合切排除しようというのだ。
「タニヤタ・ウダカダイバナ・エンケイエンケイ・ソワカ!」
火伏札だけでは守りきれない。秋芳は水天法を駆使して群がる火炎式を打ち払おうとしたが、それも容易ではなかった。先ほど霊脈の中で遭遇した炎鶏よりもはるかに強い。
瑞々しい呪力が水の壁になり槍になり、火界咒に抵抗するのだが、熱気はいよいよ耐えがたいものになり、焦げる寸前の服から白い湯気が立つ。
宮地と秋芳。彼我の霊力自体は大差ない。むしろ秋芳のほうが高いくらいなのだが、宮地の霊力はひとたび火炎の姿になるや凄まじい威力と精度を発揮するのだ。
彼は炎に愛されていた。
(これが現実の火なら木行か金行の術で酸素をなくすなり、二酸化炭素を充満させて消火できるんだが、呪術の火じゃなぁ……)
風は木気か金気のいずれかに属する。それゆえ大気を変容させる術はたいてい木行か金行の術をもちいる。
霊穴から慣れ親しんだ霊気が近づいて来るのを感じた。京子だ。
もうすぐ近くにまで来ている。火界咒に焼かれぬよう、渾身の力で呪術を行使しようとしている気配が人造式を通してわかった。
先ほど述べたように、如来眼に目覚めた京子は高い霊力を持っている。十二神将相手でも立ち向かえると秋芳は本気で思っていた。だがいざ宮地の力を目の前にした今、秋芳はその考えを改めざるをえなかった。
京子を危険な目にさらすわけにはいかない。
なんとしても火界咒を止めなければ。
(公務執行妨害になっちまうがしかたない、ちょっと横槍を入れさせてもらうぜ、宮地さん。どうせ今晩だけで家宅侵入罪だの器物破損罪だの騒乱罪だのやらかしたんだ。毒を喰らわば皿までだ)
精神を統一し、おのれがあつかえる最大レベルの水行術を発動させる。
水剋火。宮地の呪力がどれだけ強くても五行相剋の理を完全に無視することはできない。やはり火には水だ。
「玉帝有勅、豪雨海嘯神勅、形状雲霧、上列九星、此水不是非凡水、北方黒帝黒竜王水、急急如律令!」
陰陽道について書かれた金烏玉兎集の中に中国の盤古神話や仏教の教義をもとに宇宙開闢の巨人神である盤牛王(盤古)から十干・十二支といった暦の構成要素が展開していくという創世神話が書かれている。この中に五行を司る神として五竜帝王という存在が書かれている。盤牛王は五人の妻にそれぞれ青帝青竜王、赤帝赤竜王、白帝白竜王、黒帝黒竜王、黄帝黄竜王を生ませ、その五竜帝王の各々が十干・十二支といった王子をもうけたと物語っている。
秋芳はその中でも水行を司る黒帝黒竜王の力を顕現させた。
火界咒につつまれ炎上する都庁ビルの足元で霊災狩りをしていた陰陽師たちは自分たちの上方に突如として出現した巨大な霊気の塊を察知し、狩りの手を休めて上空を見上げた。
「おい、あれを見ろ……」
そのような言葉が異口同音に広がる。真っ赤な炎の中で黒々と光り輝く長大な生物の姿を確認した。
「ありゃあ、なんだ!?」
「りゅ、竜だ!」
「そうだ、竜だ!」
「あれは倶利伽羅竜王じゃないか? さすが宮地室長だ。倶利伽羅竜王まで顕現させるだなんて!」
倶利伽羅竜王とは不動明王が右手に持つ智剣にからまる炎が神格化した姿であり、不動明王の化身のひとつともされた。
彼らは秋芳の召喚した黒帝黒竜王の姿を倶利伽羅竜王だと錯覚したのだ。
だが、あの竜。それにしても水気が強いんじゃないか?
だれかがそんな疑問を口にしようとした瞬間、漆黒の竜は巨躯をくねらせ、空中に大海を生じさせた。
急速に気化した水が水蒸気爆発を引き起こす。都庁のツインタワーは消し飛んだ。地上に炎と瓦礫が雨あられと降りそそぐ。
下界にいた人間たちはヴリティホーマに搭乗していればこそ無事ですんだ。さらにいかなる余波か、周囲数百メートルにも火や水の砲弾が飛び散り、高層ビル群の中央部をぶち抜き、ガラスとコンクリートが飛散する崩壊の嵐が吹き荒れる。
陰陽庁の迅速な避難勧告と霊災慣れした都民のフットワークがなければ、多くの人命が失われる大惨事となっていただろう。
この大規模な破壊をもって、のちに万魔の大祓えと称される今宵の狂乱劇は幕を閉じた。朝日が昇り、陽光に照らされたすべての霊災が自然に消え去る――。
うつし世とかくり世。二つの世界の狭間を流れる霊脈の一つを秋芳と京子が手をとり合ってゆるゆると流れていた。京子が乗っていた船もなければ、ついさっきまで周りでひしめいていた動的霊災たちはもういない。日の出とともにかき消えてしまったからだ。秋芳の予想はあたっていた。
大元帥法も終了したらしく、霊脈は正常な流れにもどっている。さらに霊災も存在しないからか、清冽な気が満ちていた。
当初のような闇一色でもなければ、火界咒の影響を受けていた時のような真紅にも染まっていない。ときおり幾筋もの白い光が逆方向に流れていき、それとすれ違う時にどこかの光景を垣間見ることがあった。
桜の花が満開の寺院であったり、ヒマワリが咲き誇る野原であったり、紅葉がちらつく山深い沢であったり、雪がしんしんと降る街中であったり、雨に濡れた雑踏であったりと、時期も場所もさまざまだった。
土地に刻まれた記憶か、人々の想いか、そのようなものが流れている。
ここはそのような場所だった。
「ずいぶんと深くまで飛ばされたなぁ、ここはもう禹歩で潜れるような領域じゃないぞ」
各地を巡った百鬼夜行は異界とうつし世の移動をくり返すたびに内部に霊的エネルギーをため込んでいた。その状態で陰陽師たちから霊的な攻撃をなんども受け、さらに大元帥法による影響と朝と夜が混じり合う非常に不安定なところに火界咒と黒帝黒竜王の衝突によって生じた甚大なエネルギーもくわわり、秋芳と京子は霊脈のかなり深部まで飛ばされた。いや、あの場から脱出するため、意図的に深くまで潜ったといえる。
仮に大元帥法が生きていたとしても、その力に捕われないくらい深い深い場所に。
「……あたしたち、なんであんなにはしゃいじゃってたのかしら」
昨夜のことをふりかえる、いささかやりすぎた。
「酔っていたんだろうな、ハロウィンの空気。いや、霊気に」
「楽しかったわ、あの子たち。急に消えちゃったけどどこに行ったのかしら?」
京子もまた今夜の、いや昨夜の動的霊災たちに感情移入しているようだ。彼女が都庁でおこなわれた可動護摩壇による強引な修祓を目にすることがなくて良かった。秋芳は心底そう思った。感受性豊かで自己犠牲をともなう優しさの持ち主である京子が、ハロウィン酔いの状態であの光景を見たら、どうなっていたか?
霊災たちを助けようと、陰陽師の一団に立ち向かっていたかもしれない。
(だがそれも、おもしろそうだな)
まだまだハロウィンっ気が抜けていないのか、京子と二人して暴れ回る様を想像して愉快な気分になった。
「あいつらは帰った。いや、還ったんだろう。もとの場所というかもとの状態に、ハロウィンという特別な夜が終わることで霊気のバランスが持ち直して瘴気じゃなくなったのさ」
「来年もまた来るのかしら?」
「おそらくな。その時はきちんと祭ってやろう」
昨夜のような狂乱にならぬよう、人と人ならざる存在の間に軋轢が生じないよう、儀式が必要だ。
また光の筋が走った。神輿をかついだ若い衆、どこかの祭りの様子だ。
「これ、おもしろいわね。頭に映像が直接流れてくるみたい」
「おもしろいけど、ここにあんまり長居すると浦島太郎になりかねない。早く地上にもどろう」
異界とうつし世では時間の流れが異なる場合が多々ある。こちらでの数時間がむこうでは数十年。なんてこともありうるのだ。
「そっか。おじいちゃんになった夏目君なんて見たくないし、そうしましょう」
京子が念じるとたゆたっていたような動きから一変、二人は一方方向にむかってぐんぐんと進みだした。
この場での主導権は霊脈の操作に長けた京子にあった。もし京子がいなければ秋芳は永遠に霊脈をさまようか、どこか別の時代の別の場所。あるいはまったくの異世界に飛ばされてしまったかもしれない。
その時、ひときわ大きな光の筋が流れ、二人の脳裏に別々の光景を見せた。
幼い女の子が始めておとずれた親戚の家。大きな屋敷の大きな庭で思うぞんぶん遊びまくった。
そして気がついた時にリボンをなくしていた。
ただのリボンではない。祖母からもらった大切な、お気に入りのリボンだ。
泣きべそをかきながら必死になってリボンを探す少女。
(あ、あれ。あたしだ――)
京子は何年も前の記憶を映像として視た。
リボンはどこにあるのか、探し回るうちに迷子になった。さきほどまで我が物顔で駆けまわっていた庭は、またたく間に見知らぬ異境と化す。
背の高い庭木が地面に影を落とし、少女の、倉橋京子の心にまで影を作る。
(あの時は心細かったわ……)
茂みの奥で泣きじゃくっていた時、一人の少年が声をかえてきた。
元気溌溂とした、いかにも腕白そうな少年が。
(え? あれ、夏目君――?)
京子の記憶にある少年の姿と、たった今流れてくる映像に映る少年の姿はまったく異なるものだった。
(あの子は、だれ?)
あの時は、たしか……。より深く深く記憶を探る。
より深く、深く、深く、思い出す――。
土御門の家に自分と同い年の少年がいる。そのことは親から聞かされて事前に知ってはいた。しかしその子に会いたいなどとは特には思わなかった。
土御門家はもはや過去の存在。ぼつらくした日陰者。親類たちがそのような陰口を叩きつつも、本当は自分たちが格下だということを意識していた。幼いながらも利発で勘の鋭い京子にはそのことがよくわかった。それゆえ京子も土御門という家に不穏な感情を抱くようになっていた。倉橋家にとって目の上のこぶ、いまいましい親戚、いやな家だという印象を。
そのような家の子がいたら、倉橋家のおひいさまとしてちやほやされる自分も格下にされてしまう。特別な存在ではなくなる。そのような気がしてならない。だから表むきは強がりつつも内心ではおだやかでいられなかった。
だからその日、始めて連れて行かれた土御門の古い屋敷で、その子が風邪をひいて臥せっていると聞かされた時はむしろ安堵した。
緊張の糸がゆるみ、もはや怖いものなしと意気揚々と庭に出て屋敷内の大きな庭をたった一人でぞんぶんに堪能した。鯉の泳ぐ池はドラゴンの棲む湖、松の木は魔女がいる塔、自分はそんな国のお姫様なのだ。
子どもならではの空想遊び。そして気がついた時には髪に結わいたリボンをなくしていた。
どこを探しても見つからず、泣きじゃくる京子の前に突然あらわれた自分と同い年くらいの少年。
泣いてるの?
京子の姿を見ておどろいたようにたずねたその声には素朴な優しさがあふれ、重く沈んでいた京子の心をふんわりと持ち上げてしまった。
涙をはらい、泣いてなんかいないと怒ったように返事をする京子に少年はびっくりしてでも、と言いよどんだが、京子は泣いてなんかいないとかたくなに主張する。その剣幕に少年は口を閉ざし、ほうけたように立ちつくす、
その様子を見て京子は完全に立ち直った。そして今こそ倉橋京子は土御門なんかに負けないぞ。とこ の子にしっかりとわからせようとした。
「あなた、ここの子ね?」
「え? ちがうよ?」
「うそ。土御門でしょ」
「ああ、うん。まあね。でも……」
なにか言いかける少年を制して京子は自分がなに者かを知らしめ、なにを望んでいるかを声高に主張した。あたしは倉橋、あたしはあなたの親戚、あたしはここにお呼ばれされて来た、つまりあたしは大事なお客様、その大事なお客様がこの庭でリボンを落としてしまった。大事なお客様に対してこの家の子であるあなたはどうしてくれるの?
「……おまえ、そんなにかわいいのに、中身は男みたいだな」
ハッとした、不意打ちだった、無防備だった。『かわいい』まわりから飽きるほど言われてきたなんの変哲もないその言葉が、そのたったひと言が京子の胸を怒りと恥ずかしさで満たした。
心中の混乱を必死に制し、動揺を隠す。
「それで、どうしてくれるのよっ」
「いいよ。じゃあ一緒にさがそう」
「え? ほんとに?」
「うん、ほんと」
「ほんとのほんとにさがしてくれるの?」
「ほんとのほんとのほんとだよ」
お日様に照らされたひまわりのような笑顔で少年は肯定した。最初に『泣いてるの?』とたずねた時と同じ、朴訥な優しさを浮かべて。
それから少女と少年はともにリボンをさがした。なくしたリボンをさがす間、少年は京子に色々と話しかけ、京子はそれに答えた。最初はつっけんどんだった京子だが、そのうち緊張もほぐれ、うちとけてきて、笑い声をあげるようになった。
ふと、土御門の子は風邪で臥せっていたのではと疑問がわいたが、目の前の元気な少年を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
京子はあくまでお姫様として振る舞い、少年はそれにいやな顔をせずつき合ってくれた。ときには京子のツンと澄ました態度をからかいもしたが、不思議なことにそれに対して腹が立つようなことはなかった。それどころか、わざと怒ったふりをするのが楽しかった。
「ほんとに男みたいだな」
「まぁ、なんて失礼な。ふけい罪で百叩きよ!」
「ほら、そこの石、あぶないよ」
「わかってるわ、あの石はこわい狐の化けたせっしょう石なの」
ごっこ遊びの続き。ふたりでするごっこ遊びはとても楽しかった。どんどん少年に惹きつけられ、時間がまたたく間にすぎていった。
日が落ちて庭が夕日に染まるころまで探しまわったが、結局リボンは見つからなかった。
どうしてくれるのかとつめよる京子に、少年はこまりつつも、ちゃんと探しておくと約束した。
「ほんとに? ほんとに探しておいてくれる?」
「うん、がんばってみる」
「わかったわ、だったらゆるしてあげる。でも――」
少年に近寄り上目づかいで人差し指を立てて念を押す。
「いい? 忘れないでよ? 約束なんだからね?」
「うん、うん!」
精一杯真剣な顔をして何度もうなづく少年を見ていると、京子は胸がいっぱいになった。次に会ったら、少年からリボンを受け取ったら、その場で髪を結いで見せてあげよう。もっともっとかわいいところを、いっぱいいっぱい見せてあげる。そうして『男みたい』だなんて、もう、絶対に言わせないんだから――。
京子はそう心に誓って、少年とわかれた。わかれたあとで少年の名前を聞いていなかったことに気づく。
帰ったらお祖母様に聞いてみなくちゃ。
そして、あとになって祖母から聞いた名前を京子は大切に胸に刻んだ。それからずっと忘れることなく。
それから何年もあとに会った時に、すぐ彼だとわかった。ひと目見た瞬間に鼓動が激しくなり、気の高ぶりを抑えることができなかった。
端麗な容姿、艶やかで女性のような黒髪、気高く峻厳な霊気――。
それが土御門夏目。
(うそ、ちがう……? あの時、土御門家で会った男の子は――)
朴訥で優しそうな顔立ちに明るい茶髪、柔らかい陽光をはなつ太陽のような男の子。
京子の知る夏目とはまるで印象が異なる。ではあの男の子はだれなのだろう? 土御門家に縁のある子であるのは確かだが……。
(春虎?)
土御門春虎。京子と同じく陰陽塾に通う彼もまた土御門につらなる家に生まれた者だ。
たった今脳裏を走った映像に出てきた、あらためて掘り起こした記憶にある少年の姿は、春虎に近かった。春虎を幼くしたら、あのような容姿の男の子になるのでは――。
(……ううん、そんなこと、もういい。もうどうでもいい)
あれはたしかに初恋だった。
あの男の子に恋をした。
あの男の子が好きだった。
だがそれはもう過去のこと。たった今、好きな人は一人しかいない。
そして未来永劫、その人のことを好きでいる。
京子は思い出にひたるのをやめ、霊脈の操作に専念した。まっすぐに前を見すえ、つないだ手をにぎりしめる。絶対に離さないように。どんなことがあっても絶対に離さないように、この人のそばにいるように――。
リノリウムの床にクレゾールの臭い、青白い蛍光灯が照らすうす暗い部屋。
棚には大きめのビーカーが陳列され、中身はというと頭が二つある胎児の死体や頭蓋骨が変形した人の頭部、スイカよりも大きな脳髄、蠢動する臓器のようなもの……。そのような物であふれている。
(……まるで実験奇形学の研究室だな)
実験奇形学とは、自然発生する率の極めて少ない奇形症例を実験動物に人為的に発現させてその病態を調べるというものだ。
気の弱い者が見たら卒倒してしまいそうな数々に囲まれた中で、白衣を着た初老の男に中年男がなにかを必死にうったえていた。
「――人工的――最高――受精――煉丹――複製――」
内容はよく聞き取れない。だがなんとなく不吉な、ひどく冒涜的なことを言っているような気がする。
理知的だが酷薄そうな顔に浮かんだ冷笑、薄いレンズの銀縁眼鏡。まるで昔の特撮番組に出てくるマッドサイエンティストみたいだな。秋芳は白衣の男にそんな感想をいだいた。
そして中年男のほうは小役人じみた卑屈さと、破落戸めいた粗野な感じが表情から滲み出ている。
知っている。
秋芳はこの男を知っていた。父だ。十年ほど前に他界した父親、連広只だ。
秋芳の知っている父の姿より若干若いが、まちがえようがない。たしかにこの男は自分の父親だった。
「――お貸しくだされば――賀茂と韓国連の秘術で――」
なにを言っているのか、ところどころしか聞き取れない。まるで夢を観ていると実感しているのに、夢の内容を変えられない時のようなもどかしさをおぼえる。
白衣の男がなにかを言って席を立ち、部屋の奥へと進む。広只がその後に続く。
別室はずいぶんと奥行きのある部屋だった。機械の生み出す振動音にまじって気泡のはじけるような水音や、動物の鳴き声のような、人のすすり泣く声のような、不気味な物音がひびく。だが暗いため全容は見えない。
「雰囲気を出すためさ」
白衣の男が笑いながら広只に言ったような気がした。
長細い水槽の前で足を止める。ずいぶんと大きな水槽だ。
操作盤をいじると水槽内を下から照らす明かりがつき、内部があきらかになる。液体の満たされた水槽内にひとりの少女が浮かんでいた。
「能力は――と遜色ないんだけど寿命がね、いや稼動時間といったほうがいいかな。肉体年齢とは関係ないんだ、だからもっと上に設定できるよ。容姿だって変えられる、――好みにね」
「……さすがはプロフェッサーです、このように見事な反魂鬼をお創りなられるとは」
「おいおい、反魂鬼だなんて、そんな古臭い呼び方はよしてくれ。せめてオーソドックスに人造人間とかホムンクルス。あるいはバイオロイドとか言ってくれよ。ぼくの作品は西行の創ったできそこないとはデキがちがうんだからね」
西行法師。出家前の姓名は佐藤義清。歌人として有名なこの僧侶には奇妙な伝説がある。
彼は山中での修行中に人恋しくなり、鬼が人の骨を集めて人間を創るという話を思い出し、自身もそれをこころみた。
人骨を集めて見事に人を復元することには成功したが、術が不完全であったためか、できた人は生気に欠け、意味不明のことを言うだけで、とても話し相手になどにはならなかった。
西行はその人を高野山の奥深くに捨て置いてしまったという。なんとも無責任な話だ。今でもその人は高野山の奥深くをさまよい歩いているのかもしれない。
先ほどにくらべ会話の内容はかなり聞きやすくなった。それにしてもこの白衣を着た初老の男、年齢のわりにはずいぶんと軽い口調で話す。
(この白衣の男、どこかで見たおぼえがあるぞ。……プロフェッサー? まさか、大連寺至道!?)
今から一年ほど前の三月、東京で上巳の大祓と呼ばれる霊災テロがあった。そのテロの首謀者はこともあろうに霊災を祓うべき陰陽師。それも十二神将の一人、導師の異名を持つ大連寺至道だったのだ。
彼はそのさい、みずからに高レベルの霊的存在を降ろそうとして失敗し、命を落としたとされる。
事件発生直後はニュース番組などでなんども至道の生前の姿を映した映像や画像を流していた。秋芳はそれらを見ていたので、大連寺至道の顔はおぼえていた。
(このビジョンは架空のものなんかじゃない、おそらく過去のできごとを映している。なんの悪だくみ
をしているのやら……)
「異授卵丹の術を工夫してできた子宮を使い、このような母体を苗床にすれば最高の逸品が創れます」
異授卵丹。その名には聞き覚えがあった。巫蠱の術の一種で、ある生き物を殺したあと、その死骸を特別な方法で精製して煮込み、丹薬を作る。これが異授卵丹だ。
この丹薬を飲まされた者は性別を問わず即座に卵を孕むこととなる。早ければ九日、遅くて九年にかけて母体内で成長して産まれ出る。メスならば通常の産道からだが、オスの場合は腹が裂かれることになる。
この卵からは丹の原料になった生き物と卵を孕んだ生き物、双方の特徴を持った生物が生まれるという。本来は卵生ではない生物も孕ませることが可能だ。たとえば人間でもかまわない。
外道外法の業である。
そのような邪な術をもちいて作られた子宮とはいかなるものか。
「当代最高の陰陽師の子種を神童の中で精製するのです。さぞかし優れたモノが創れましょう」
この二人がどのような算段をしているのか、なんとなくわかった。
人と人とを不自然に混ぜ合わせ、化外の存在を生ませようとしているのだ。
忌々しい、吐き気がする。
胸の奥から激しい怒りと憎しみが湧き起こった。いや、それだけではない。
恐怖だ。
秋芳はこの光景に恐怖を感じた。
なぜ自分はこのようなものを見るのか? このやりとりは自分に深く関係することなのか? だとしたらどのように関わるのか、もしや――。
鼓動が高まり、息も荒くなる。百鬼の群れにかこまれ、呪詛の刃にさらされようと呼吸一つ乱さない賀茂秋芳が、恐れ、慄いている。
するとつないだ手から暖かい気が流れ込んできた。
京子の気だ。
京子から清浄な気が流れ込んで来る。秋芳の心中を荒らしていたどす黒い感情はそれに洗い流され、消え去った。
「ねぇ、秋芳君。さっきのお願いの話なんだけど、あたしリボンが欲しい」
「……うん? あ、ああ。いいぞ。なんでも買ってやる、どんなのが、何色がいい?」
「秋芳君が決めて。秋芳君の選んだリボンが欲しいの」
「そうか、どんなのがいいかな……」
霊層が薄くなる。もう少しで地上へ出られるだろう――。
陰陽庁。
深夜。丸一日机にむかって事後処理業務をこなしていた倉橋源司が軽くシャワーを浴びて(これには斎戒沐浴という呪術的な意味があった)長官室に戻り、ふたたび仕事を再開する。
書類にペンを走らせる微弱な音がしばらく響く。巌のような源司の表情がかすかにゆるんだ瞬間、室内の空気にわずかな動きがあった。
「うれしそうだねぇ、倉橋」
応接用のソファのあるあたりから若い男の声がした。だが姿は見えない。いつぞやの姿なき者とは別の声。陰陽庁の長官室というのは透明人間の憩いの場ではないのだが。
「ま、実際うれしいよね。けがの功名、瓢箪から駒ってとこかな」
「……ずいぶん若々しい声をしているな」
「声だけじゃなく身体も若くなる予定だよ、姫君に合わせてね。今すぐお見せしたいところだけど、あいにくとまだ『成って』いないんだ」
「ならおとなしくしていたほうが良いんじゃないか」
「そうなんだけど私もうれしくてね、ついつい顔を見せに来ちゃったわけ」
姿なき者の科白ではない。
「見えない顔を見せに、わざわざ長官室の結界を突破して来たのか」
「あはは、言わない言わない。それよりもさ、今回みたいな霊災なら大歓迎だよね。来年あたりもう一回こないかな」
都内どころかその近郊にまで被害のおよんだ大規模な霊災。だが人的被害はほとんどなかった。大騒ぎする動的霊災から逃れるさいに転倒等で負傷した者や、たちの悪いいたずらの被害に遭った者は多数存在したが、死亡者数はゼロ。新宿など都庁を中心に多くのビルが倒壊したにも関わらず、避難が済んでいたおかげで人命が失われるようなことはなかった。
壊れた建物の再建により富を得る者も多数いよう。小規模の破壊を治す再生活動により経済が潤う例は多々ある。
なによりよろこばしいことは世間の陰陽師に対するイメージアップだった。
霊災による社会的混乱。それを一人の死者も出さずに鎮静化させたことにより(実際はほうっておいても夜明けとともに消滅したのだが)陰陽師の重要性・重大性を広く世間に認知させ、世論を陰陽法の改正に賛成するように誘導できる。
メディアでは都庁でおこなわれた可動護摩壇による修祓活動が繰り返し流され、陰陽師の雄姿が喧伝されていた。
彼らを肯定する声は若者を中心に大きく広がっていた。
「呪術ってかっこいい!」「やっぱり陰陽術って必要だよな」「呪術はもっと幅広い分野でも利用するべきだと思います」「悪い人たちに怖いことされたけど、魔女みたいな格好をした陰陽師の人に助けてもらいました」「陰陽予算削減? じょうだんじゃない、もっと増やすべきだ。可動護摩壇の数も増やすべき。あと彼ら陰陽師の給料もね」「陰陽法改正賛成! 反対するやつは●●人か非国民」などなど……。
もともと都内を中心に霊災が多発するようになったのは陰陽師である土御門夜光のおこないが原因で、それを処理するのは陰陽師に課せられた当然の責務であり、ことさら持ち上げるのはいかがなものか。というような意見に対しては「ならおまえが霊災に巻き込まれても陰陽師に助けを求めるなよな」
「いつまで過去のこと引きずってんだよ」などという言葉があびせられた。
陰陽庁が陰陽法を定めたのは今から半世紀以上も前になる。霊災の対応に追われていた当時の陰陽師たちは霊災修祓をより効率良くするため陰陽寮の大規模な改革をおこなった。そして一般社会とのつながりの希薄な呪術界そのものを公の社会機構に取り込むことにしたのだが、その第一歩が呪術および呪術者への法の適用、規制だった。
これはかつては軍属であり、そして日本の深い闇を引きずる呪術界に法の光をあて、明らかにすることを意味していた。そのようにして成立されたのが半世紀経った今もなお呪術界を規制し、統制している陰陽法だ。
この法律の基本理念は『霊災の修祓』に特化しており、その目的のために呪術というあいまいで繊細なものを強引に定義させ縛り上げたものがこんにちの陰陽法といえる。
そのため現在の陰陽師の活躍の場は社会全体のごく一部に限られてしまい、多くの呪術師たちはその境遇に不満をいだいていた。戦後、あらたな陰陽師像の確立には成功したものの、やはり呪術界そのものは他の業界からは隔絶されている。
このように閉鎖的な状況の打破は陰陽庁の願いであり、近年国会で通過が見込まれる
陰陽法改正案のおもな目的は陰陽師の職域の拡大、さらなる社会進出。陰陽庁の権限の強化、予算の増加で、さらには陰陽『省』への昇格もふくまれていた。
そのためには世論の、人々の支持が必要不可欠であり、今回のようなアクシデントは不謹慎だが大歓迎なのだ。
「それで思ったんだけど、例の計画。あれ、修正したらどうかな? 『人』ではなく『霊災』にしたほうが良いかもよ。今さらだけど、呪術師がなんかしでかしたら、絶対ほかの呪術師への風当たりが強くなるよね 」
「いや、彼らには決起してもらう。我々の創る新しい世でくすぶられたままでもこまるからな。それに――」
「それに?」
「呪術の〝恐怖〟と、呪術師の〝脅威〟を世に知らしめることも必要だ。あとあと妙な考えをする輩が生まれぬよう、呪術師を制するのは呪術師のみ。だということを大衆に刻み込ませる必要がある」
「飴と鞭ってわけかい? おっかないねぇ。……ところで」
「うん?」
「この部屋さ、最近妙な人が出入りしているみたいだけど、だれ?」
「今は知る必要はない」
「つれないねぇ、長いつき合いなのにさ」
「そちらにも私に知られたくない秘密の十や二十くらいあるだろう。おたがい様だ」
「へぇ、じゃあ『知られたくない』秘密なんだね」
「そうだ。知った者を生かしてはおけない、そんなたぐいのな」
「おお、怖い! 機密事項に抵触する前に退散することにしよう」
そうだ。たしかに自分は彼に、倉橋源司に秘密にしていることがある。
それを知られれば自分はただではすむまい。そのくらい大きな、そしてとびきりたちの悪い秘密が。
あれから自分の研究に没頭して失念していたが、あの子は今ごろどうしているだろう? もし計算通り高い霊力を持って生まれてきたのなら、次は鈴鹿と交配させてみようかな。
あはは、おもしろいや。どんどん強い仔が生まれるぞ――。
ある夜のふたり~月語り~
半径は地球の四分の一。重力は六分の一。表面温度は最高で一一〇度。最低で零下一七〇度。
時に寺山修司が『トラコーマにかかったかのような』と表現するほど赤く、時にレイ・ブラッドベリが『ミントを盛りつけたような』と表現するほど青い。
ジュール・ヴェルヌが砲弾で周回軌道を目指し、ハーバート・ジョージ・ウェルズは反重力物質で着陸を成功させた神秘の天体。魅惑の衛星。
月。
湖面に白い月が浮かんでいる。
天上の月を地上の水が鏡となり映しているのだ。
日本や中国には月を愛でる風習が昔からあり、日本では縄文の昔からあったという。
平安時代では貴族などの間で舟遊といって、月を直接見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を見て楽しむ宴がひらかれた。杯や池に月を映して楽しんだのだ。
なんとも雅なことである。
それを現代に再現して月見を楽しむ者がいた。
アマゾン川流域に生息している世界最大級の葉をもつ水生植物オオオニバス。人が乗れるほどの大きな葉をしたその植物よりもさらに巨大な蓮の葉が水に浮かんでいる。
自然界にはこのように巨大な蓮は存在しない。木行符によって、呪術によって生じた蓮の葉だ。
蓮の上には料理の盛られた膳と酒の入った瓶子と盃。ススキの入った花瓶。そして二人の男女が乗っていた。
賀茂秋芳と倉橋京子だ。
「――『竹取物語』には月をながめるかぐや姫を嫗が注意する場面があり、『源氏物語』にも同じようなくだりがある。月見を楽しむと同時に忌む習慣があったのではといわれる。……なぜだろうな」
酒に満ちた盃に映った月を愛でながら、ふと浮かんだ疑問が秋芳の口から出た。
「あんまり綺麗だから、逆に怖いと感じちゃったんじゃないの? それにほら、大きな満月って夜空に開いた穴みたいに見えない? なんだか別の世界へ通じる扉みたいで、ちょっと不気味。向こう側からなにかが出てきそう」
水面に映った真円の銀盤をながめている京子がそう答える。
「想像力が豊かだな。京子なら幻術も巧みそうだ」
いわゆる幻術には二種類ある。本来その場にないものを立体映像のように作り出すタイプのものと、対象の精神に働きかけて、その者にしか見たり聞こえたりできない幻を知覚させるタイプのもで、特に前者は術者の『どんな幻を創るか』という、想像する力。イマジネーションの強さが重要になってくる。
「そう言えばあなたからはまだ幻術を教えてもらってないわ」
「正直苦手なんだよな、こと幻術に関しては俺よりも笑狸のほうがずっと上手く使えるぞ」
「まぁ、あの子は本物の化け狸だものね」
ここは都内某所、かつて総理大臣を務めたこともある高名な政治家の別邸の敷地内にある日本庭園の中の池だ。
今夜は後の月見、十三夜。秋芳と京子は当初、近場の月見スポットで月見をする予定だったのだが、やはり二人きりで観月を楽しみたいとあって、この庭園にある大池を拝借することにした。とはいっても家主の許可は得ていない。
ここの住人が今宵今晩この時間に庭を使うかを確認し、使わないという答えを聞いたうえで、月見に利用するから貸して欲しいと頼んだのだが、ことわられた。
とうぜんだ。知り合いでもないのに庭先を貸してくれなどと言われ、軽々しく貸すような者はまれだろう。まして相手は家格も財産もある政治家である。どこの馬の骨とも知れぬ若者を敷地内に入れるなどありえない。
「清風朗月不用一銭買。江山風月、本無常主。それなのに今の世は美しい自然はほとんど金持ちや大企業によって買い占められ、小は高い塀に囲まれた私有地に、大は人工的に開発されたリゾート地になり、自由に立ち入ることができないばかりか観賞すらままならないようになっている。まったくなげかわしいことだ。それに自分たちが利用するというのならともかく、使いもしないのに絶好の月見場所を捨て置くのはおかしい、もったいない。――だいたいこの国の政治家や資産家と呼ばれる連中は土地や物を買いあさるばかりで社会に貢献しようとする者が実に少ない。自分で愛でるならともかく、転売や示威目的で作者の名前も価値もわからない美術品を購入し、倉庫で埃まみれにするなどもってのほかだ。博物館で国民みんなに公開すべきだろうに。ここの庭の持ち主なんかもバブルの時に青花釉裏紅大壺を手に入れたようだが、なんでも『明日には値の上がっている物を』などと言って買い求めたそうだ、まったく下品極まりないな。価値のわからないやつに価値のある物をあてがうなどもったいない。俺ならひとしきり愛でた後で博物館や美術館に寄贈するのに」
「わかったから、盗んだりしちゃダメよ」
そんなやり取りの後、人払いの結界を張って二人きりの月見を堪能しているのだ。
「少し趣を変えるか」
秋芳はそう言うと左手を池に入れ、右手を口もとに寄せて剣指を作り、なにか呪を唱えた。
ぽつり、ぽつり、ぽつり――。
しとしとと小雨が降り始めた。不思議なことに雨粒は二人の乗る蓮は避けて落ちている。
これもまた呪術のなせる業だ。
水面に映った月の形をくずさない程度の細雨が奏でる心地の良い水音があたりをつつむ。
青い光に照らされ、小雨のヴェールにつつまれた湖面に浮かんでいると、まるで水の底にでもいるかのような気持ちになる。
「俺は秋に降る雨が好きだ。夏場のそうぞうしいゲリラよりも情緒があり、春のじめっとした小ぬか雨よりもさわやかで、冬のかじかむような寒の雨より温かい。そんな秋の雨が大好きだ」
「あたしも好きよ。雨っていうか、雨の降る情景が好き。音のある静けさとでも言うのかしら、雨音ってまわりの雑音をさえぎってくれるでしょ。あと、サティのジムノペディが聴きたくなるの」
「あー、それ俺も」
耳を煩わす雑音は雨粒が地を打つ響きの中に溶かされ、さらに重く湿った大気がそれを真綿のようにくるみ、吸収してしまう。変化のない単調な雨音はいつしか意識されることもなくなり疑似的な静寂が耳をおおう。
雨雲にさえぎられた陽光は大地に明確な影を刻まず、すべての情景が灰色の薄幕が垂れたかのようにぼやける。彩りの減った視界はさながら追憶の情景のように現実味を失い、瞑想にも似た心持ちになってくる――。
「天の原~ふりさけ見れば春日なる~」
「三笠の山に出でし月かも」
「いま来むと~言ひしばかりに長月の~」
「有明の月を待ちいでつるかな」
「月見れば~ちぢにものこそ悲しけれ~」
「わが身一つの秋にはあらねど」
雨に煙る満月を見ていて月を題材にした歌が自然に出たのを皮切りに、二人きりの百人一首暗唱大会が始まった。
「朝ぼらけ~有明の月とみるまでに~」
「吉野の里にふれる白雪」
「夏の夜は~まだ宵ながら明けぬるを~」
「雲のいづこに月宿るらむ」
「めぐりあひて~見しやそれとも分かぬまに~」
「雲がくれにし夜半の月かな」
「やすらはで~寝なましものを小夜更けて~」
「かたぶくまでの月を見しかな」
「心にも~あらでうき世にながらへば~」
「恋しかるべき夜半の月かな」
「秋風に~たなびく雲の絶えまより」
「もれ出づる月の影のさやけさっ」
「ほととぎす~鳴きつる方をながむればっ」
「ただ有明の月ぞ残れるっ!」
「なげけとて~月やはものを思はするっ!」
「かこち顔なるわが涙かなっ!」
「ふふうーん? じゃ、これはっ? ――ひさかたの天つみ空に照る月のっ」
「ううん?」
それまで調子良く答えていた秋芳がつまった。
「百人一首じゃないな。聞きおぼえはあるんだが……、だれの歌だったかな……」
「失せなむ日こそ我が恋止まめ。――万葉集より、詠み人知らずよ」
「月がなくなる日があるとしたら、その時が私の恋心がなくなる時です、か……。月がなくなることなど
まずない、つまり私のあなたを想う気持ちは不変です。そんな意味合いなんだろうが、俺ならたとえ月がなくなろうが太陽が消えようが永遠にあなたを愛し続けます。という歌を作るな」
「じゃあ作って詠んでみせて」
「む……」
いざ即興で作るとなるとこれが存外むずかしい。伝えたい想いを現す言葉がなかなか出てこない。
これでは平安の昔などにひらかれた曲水の宴などに参加すれば恥をかくことになるだろう。
「どうしたの秋芳君、長考?」
いたずらな笑みを浮かべて、こちらの顔をのぞき込むように頭を下げた京子。その瞬間、秋芳が動いた。
「ひゃんっ!?」
マシュマロのように柔らかく、日だまりのように温かい京子の身体を緑の褥に組み伏せ、耳元でささやく。
「雅やかな美辞麗句をこしらえるのは、どうにもガラじゃあないな。言葉よりも行動で、百の無駄言よりも一つの至言でしめしたい。『永遠に君を愛する』と……」
「永遠に生きるつもりなの?」
「そうだ。いっしょに仙人になってずっとそばにいて欲しい」
「いいわよ、いっしょに仙人になってそばにいてあげる。でも、そのかわりあたしだけを見てちょうだい。浮気は絶対にゆるさないわ」
「もちろん、ずっと君だけを見続ける。ずっと愛し続ける」
「月がなくなっても?」
「月がなくなっても」
「太陽が消えても?」
「太陽が消えても」
「太陽の寿命はあと五十億年はあるわ。永遠には程遠いわよ」
「なら永遠を作るため力を貸してくれ」
「どういうこと?」
「太陽はその寿命が尽きる前に膨張し、地球を焼き尽くすだろう。それを阻止するために力を貸してくれ」
太陽は水素を核融合させてそのエネルギーで輝いている。それにより水素はヘリウムになる。
そしておよそ五十億年後に中心核にため込んだヘリウム自体が核融合を始め、それによって膨張し、太陽は赤色巨星に変化する。
赤色巨星の放射する強大無比なエネルギーの波にさらされた地球の大気は飛ばされ、海は蒸発し、すべてが干からびた不毛の惑星になると予測される。いや、それどころか飲み込まれて地球そのものが消滅するかもしれない。
地球に存在するあらゆる生命体がなくなる。
「さて、呪術の力でなにができるか……。太陽を鎮める? 壊す? 移す?」
「地球のほうを移動させるって方法もあるわ。それともいっそ他の星に移っちゃうとか」
「それなら人類好みの自然のある星が良いなぁ。峨眉山の霧、廬山の朝日、洞庭湖の夕日、銭塘江の海嘯……。地球にはいたるところに美しい風景がある」
「春は京都御所や乙訓寺で桃や牡丹の花を見て、夏は金引きの滝のそばで涼しくすごし、秋は東福寺で紅葉を見物し、冬は三千院の雪景色を愛でるなんて最高よね」
「初夏のイングランドの湖水地方でゆったり釣りに興じたり――」
「――秋のプリンスエドワード島をゆっくり散歩したいわ」
何百年もたてば歴史はうつりかわり王朝や国家は興亡をくり返す。それにかかわる人々の運命は大きく変転し、歴史をつむぐ。どの時代にもすぐれた芸術家や作家があらわれて書物を書き、詩を作り、絵を描き、彫刻や楼閣を造り、音楽を奏でる。それらを鑑賞するだけでも飽きないだろう。
中国の仙人は皇帝を始めとする時の権力者をからかったり、妖怪をやっつけたり、美味い酒を飲んだりして退屈などとは無縁に永遠の生を楽しんだ。
于吉や左慈は小覇王や乱世の奸雄を翻弄し、羅公遠は唐の玄宗皇帝を月へつれて行ったという。
ひとりでも楽しいそんな暮らしを最愛の人と過ごせたらどんなに幸せなことか――。
秋芳と京子は蓮の上で猫の兄妹のようにたわむれ、たわいもない会話をしているうちに、ふたたび月の話題にもどった。
「月にまつわる体験談とか、なにかある?」
「そうだな……。あれは山での修行を終えて京の町を中心に働いていた頃なんだが、こんなことがあった――」
京都。
土御門夜光が執り行った禁呪の儀式『泰山府君祭』が失敗して以降、霊災多発地帯となった東京だが、それ以外の地域にも霊災が起こる可能性はあった。まして京都といえば一二〇〇年の歴史を誇る古都であると同時に、昔から怨霊や鬼が跳梁する魔界都市でもある。東京に次ぐ霊災多発地帯だ。
なにせ帝のおわす内裏の中にも平気で鬼が出る。宴の松原という平安宮の大内裏の西側にあった松林で女房が鬼に喰われた話は有名だ。
作家の司馬遼太郎が宿泊したさい不思議な体験をした志明院。
安倍晴明が式神を隠し、渡辺綱が美女に化けた鬼に遭遇した一条戻り橋。
源頼政が鵺退治に使った矢尻を洗った鵺池。
源頼光が髭切とともに源氏に伝わる名刀膝丸で退治したとされる巨大な土蜘蛛を封じた蜘蛛塚。
小倉池、深泥ヶ池、千鳥ヶ淵、清滝トンネル、旧粟田口刑場近くにある歩行者トンネル、打合橋から尼子谷橋までの間の通称幽霊街道などなど――。
様々なタイプの怪奇現象の報告があり、妖しき場所の枚挙にいとまがない。
京都とは、そういうところだ。
そのような場所に、ひとりの男がいた。
まだ若い。少年のおもかげを残した青年、僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年。賀茂秋芳だ。
血の色をした矢が全身に突き刺さっている。
――いや、ちがう。矢ではない。
蛇だ。
まっすぐに伸びた蛇が秋芳の身に喰らいつき、肉に牙を突き立てているのだ。
ただの蛇ではない。呪力によって象られた魔性の妖蛇が一匹、二匹、三匹――。十匹も喰いついていた。
激しい痛みが全身をさいなむ。だがそれ以上に苦痛をもたらすものがあった。
呪詛だ。
呪詛毒とでも言おうか、呪いの力が毒に変じていた。
出血毒、神経毒、筋肉毒、発癌毒、腐食毒――。ありとあらゆる呪詛毒が蛇の牙から流れ出し、身体を蝕んでいる。
常人ならばとっくに絶命し、死体はぐずぐずの肉塊に成り果てている。それほど強力な呪詛毒だった。
全身に気をめぐらせ呪いに抵抗している。治療をするいとまもなく、ここまで遁走して来たのだ。
一の辻で天狗の群れを蹴散らし、二の辻で百体あまりの牛頭馬頭の鬼を相手に奮戦したところまではおぼえていた。だがそこからいかにして魑魅魍魎の腕をかいくぐり、どこをどう逃げのびたのか、ここがどこなのか……。
片目を眇めて見鬼を凝らす。あたりをうかがい、危険はないと判断した秋芳は解呪にとりかかった。
「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」
蛇避けの呪を唱えると全身に喰らいついていた蛇は一匹残らず地に落ち、煙とともに掻き消える。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
続いて解毒の呪を、孔雀明王の真言を唱える。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
これも解毒の効果のある呪、薬師如来の小咒だ。
「祈願辟邪天刑星、癘鬼縛撃、疫難禳除」
これもまた解毒の呪だ。
やっかいなことに毒の種類だけでなく込められた術式も一匹一匹が異なるものだったので、それぞれ にもっとも効果のある解毒術を使っているのだ。
「禁毒則不能害、疾く!」
最後に残った毒を消去したが、かすかな違和感がある。血がよどんでいるような、にごっているような、汚れているような、いやな感じ。
体内に毒の残滓がいまだに残っているようだ。
「さすが本邦一の疫神の呪詛、一筋縄にはいかないな……」
何本かの針を取り出すと、それらを治癒符とともに器用な手つきで腕や背中の経穴に刺していく。
やがて針の針の先から黒くよどんだ靄のようなものが吹き出る。体内に残った毒気を外に出しているのだ。
ようやく、すべての呪詛毒を祓い終えた。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」
さらにダメ押しとばかりに光明真言を唱え土砂加持をおこない、浄めた砂を全身にふりかけて、やっと人心地ついた。木の幹にもたれかかり、目を閉じて呼吸をととのえる。
並の陰陽医がたばになって施術しても解呪に数か月はかかる呪詛を小一時間。つまり約三十分ほどでやってのけた。これが秋芳の納めた呪禁の業だ。呪禁師とはほんらい典薬寮という薬を司る部署に所属する医療官。毒や病、ケガの対処には長けている。
(さすがに、やばかったな。……あいつらは無事に帰れただろうか?)
――少し前。
満月に照らされる洛外の通りを五人の若者達が歩いていた。
いずれもそろいの装束、陰陽塾の塾生や祓魔官が着ているようなデザインの服を着ている。
彼らはみな陰陽寮に身を置く者たちだ。
陰陽寮。
戦時中に軍部によって復活させられ、現在の陰陽庁の前身となった組織。あるいは律令制時代に存在した天文、暦道、卜占をつかさどる部署と同名のこの組織は関西の呪術師たちによる陰陽庁非公認のギルド。いわゆる闇寺のようなところであった。
土御門や倉橋に呪術界筆頭の座を奪われた賀茂氏が中心となり、西国の呪術師たちをたばねていた。
「東に陰陽庁あれば西に陰陽寮あり」
陰陽寮に属する者の多くはそう自負しており、まじない働きを生業としている。
「愉快、愉快。今夜の仕事は楽しかったなぁ」
先頭を行く長身の青年が機嫌良く笑うと、両隣を歩く青年らが追従する。
「ええ、まったく。お座敷でかんたんな呪術を披露するだけでがっぽりもらえる。これだから陰陽師はやめられない」
「しかも舞妓さんと芸妓さんの接待つきときたもんだ。いやぁ役得、役得」
上機嫌に談笑する三人とは対象的に、少し距離をおいて歩く後ろの二人はどこか不機嫌そうだった。
「……必要のない無意味な卜占やこけおどしめいた呪術を見せつける。こんな芸人のまねごとみたいなことなんかやらされて、よく喜べるものです。呪術師としての矜持はないのでしょうか」
中学に上がる前くらいの齢をした、少女と見間違えそうな白皙の貌に艶のある黒髪をした美少年が柳眉を逆立て不満を口にする。
「貴人に請われて術を見せる。べつにおかしいことでも卑しいことでもないだろ。賀茂忠行は醍醐天皇に射覆の業を披露し、安倍晴明は蘆屋道満と射覆の腕くらべをさせられた。平安の昔からある習いさ」
となりを歩く秋芳はそう答える。
だが口ではそう言う秋芳だったが、内心ではこの美少年と同じ意見だった。
特に『芸人のまねごと』という部分に大いに同意した。
(この気分はなんというか、あれだ。テレビのバラエティ番組で大御所と呼ばれるような声優が、あの声やってキャラやってと、若い芸人どもにオモチャや珍獣あつかいされているのを見る感覚だ。……しかしあれって見ているこっちが気恥ずかしくなるよな。自分がいじられているわけでもないのに、なんでだろう?)
「――東京の陰陽師……、祓魔官達は霊災相手に華々しい活躍をしているというのに私達は有閑者相手に占いや手品じみた呪術を見せて小遣い稼ぎ。おもしろくありませんっ」
秋芳が散文的なことを考えているあいだにも美少年の愚痴は続く。興奮のあまり変声期前のボーイソプラノがさらに高くなる。こうなるとほとんど女子だった。
この美少年の名は咲耶という。賀茂家の分家である勘解由小路家の者で、それだけに呪術師としての誇りが高いのであろう。
「……名門名家のお二人には今回の仕事はくだらなく感じたようですね」
咲耶の声が耳に入り、長身の青年が歩みを止めふり返る。
「けれどおれたちのような家格も血筋も平凡な凡人は名門様とちがって仕事の選り好みなんかしている余裕はないのでね、悪しからず」
「ご不満なら次からは無理につき合わなくてもいいんですよ、名門陰陽師様には東京あたりでそれにふさわしい仕事をしてもらってけっこうです」
「そうそう、東京でおれたち庶民には荷の重いお役目をこなしてください。名実ともに優秀な名門出の陰陽師なら簡単なことでしょう?」
青年達の言葉には三割の皮肉と七割の嫉妬に棘のコーティングがほどこされていた。ことさら東京と口にするのは、現在最も権勢を誇っている倉橋家が東京を拠点としているから。
かつては陰陽頭を務めた賀茂家も、いまでは見る影もない。そうあてつけているのだ。
彼らは普段このようなあからさまに悪意のある口ぶりはしない。むしろ秋芳らに対して遠慮というかよそよそしい態度を取ることが多い。
先の座敷では酒もふるまわれた。アルコールの勢いでついつい普段は心の奥にしまい込んでいる心情がもれ出てしまったのだろう。
皮肉と嫉妬にくわえて愚痴も追加された。
「――まったくよぉ、これくらい最初から決まってる業界なんて呪術界くらいだぜ。金もコネもある名門に生まれて、ガキの頃から呪術界入りして働いてりゃ、いやでも上手くなるっての」
「大人になって一から修行して業界入りするのにくらべ、最初からコネで業界に入れるんだもんな。一般呪術者にくらべて一歩も二歩もリードしてるわけだ。うらやましいねぇ」
「周りの敷いてくれたレールに乗っかるだけの楽な人生だよな、名門陰陽師ってのは」
さんざんな言いようである。
その名門に生まれてしまったがゆえに死ぬようなスパルタ教育を受けて育ってきたわけだが、おまえらにはそれがうらやましいのか? 成人男性でも気を抜けば命を落としかねない真冬の滝行を幼少の頃から幾度もおこない、入峰修行では野草を食べ雨水をすすり動物や昆虫を捕らえて胃袋に入れた。
不眠不動、土中入定、火渡り、捨身――。
これらのうち一つでも楽な修行だと、おまらは思うのか?
そう口にしてもよかったのだが、どうにも不毛な口論になりそうに思えたのでやめた。他人の言葉、周囲の目なんて気にし出したらきりがない、身が持たなくなる。
言いたいやつには言いたいことを言わせておこう、ここは自由の国だ。
青年達は言論の自由を享受している。
秋芳は馬の耳に念仏と決め込んだが咲耶はそうではなかった。あちらに言論の自由があればこちらにもあり。咲耶がなにかを言いかけようとした時、その表情に緊張が走った。青年らのはるか後方から近づくものに気づいたからだ。
夜の闇よりもなお暗い、地にうごめく雲のようなもの。
遠くからでも感じられるおびただしい量の瘴気――。
秋芳もまたそれを見鬼た。
「百鬼夜行だ」
「なにっ!?」
秋芳のつぶやきに驚愕した青年達は見鬼を凝らしてあたりを見回す。
だが――。
「なにも来ないぞ」
「おどかすなよ」
青年達には見えない。遠くからやってくる百鬼の群れが。
「おれたちをバカにしようとしているのか?」
長身の青年がずずいと秋芳にせまる。
「あのあやしい雲気が見えないのか?」
「ああ、見えない」
青年は秋芳の言を一笑にふして短身痩躯の相手を見下ろし、身長差からくる優越感にひとしきりひたった後になにかを言おうとした。
だがその矢先、その表情がこわばった。
「ば、バケモノ!?」
「ほんとうに百鬼夜行だ!」
ここにきてやっと数え切れない量の瘴気を放つものどもの気配をひしひしと感じとったからだ。
「に、逃げるぞ!」
「いそげ!」
(だから言っただろうに……)
あやしき雲気はすでに目前に迫っている。
「もう間に合わん、隠形しろ」
そう言う秋芳の姿はすでにかき消え、声もかすかにしか響かない。
禁感功。いっさいの気配を絶ち、存在を隠す呪禁の業。
「お、おいっ、おれたちはおまえほど穏形が上手くないんだぞ」
「なんとかしてくれ!?」
急速に近づいて来る異形の群れの気配に恐怖した青年達が泣きついてくる。咲耶もまた穏形をこころみるも、なんとも心もとない。不安げな表情で秋芳を見上げている。
実にいじましい。
(なんとかって、俺にどうしろってんだよ)
わずらわしく思いつつ、捨て置くこともできない。秋芳は百鬼夜行除けの結界を張り、やり過ごそうとこころみた。
「結界を張る。動いたり声をあげたりするなよ」
異形の群れが、眼前に迫る。
秋芳は一同を道のすみまでうながすと、舞うような仕草であたりを歩きだした。地を踏み、片膝をつき、地に指先をついて口中でなにかの呪を唱える。
反閇による結界が完成した。
秋芳達の姿が、気配が消えた。そこに異形の群れが殺到する。
一つ目の小人、三つ目の大入道、足のはえた畳、二つ首の犬、尾にも首のある蛇、人の胴をした釜、 角一つある鬼、角二つある鬼、牛ほどもある人の顔、首のない馬に乗る首のない武士、嘴のある蛙、根を足がわりに歩く樹、髪を足がわりに歩く女の逆さ首、火の粉を散らす大蜘蛛、氷の息を吐く女、百の目を持つ肉塊、血まみれの髑髏、宙を舞う刀、光る猫、猿の顔と狸の胴と虎の手足と蛇の尾をした獣――。
あらゆる種類の妖怪達がゆらゆらと踊りながら通り過ぎて行く。
「…………ッ!!」
秋芳以外は恐怖に身体を震わし、膝をがくがくと揺らし、今にも白目をむいて卒倒しそうだった。
(これが妖怪、陰陽庁の言う動的霊災……!)
咲耶もまた恐怖を感じ、震えていた。ここまで実体化した霊災を実際に見るのは始めてだ。しかも一体や二体ではない。百鬼夜行なのだ。
妖怪達の中に手になにかを持っている者もいた。
人の腕、人の指、人の足、人の頭、人の鼻、人の目、人の耳、人の唇、人の舌、人の歯、人の髪、人の心臓、人の肝臓、人の胃、人の腸、人の膀胱、人の睾丸――。
不運にも百鬼夜行に遭遇した犠牲者の身体だった。
妖怪達はばらばらになった人肉を口にはこび、旨そうに食べていた。
ちゅるちゅると眼球をすすり飴玉のように舐める。碗に満たされた人血を舌ですくい飲む。耳をこりこりとかじり、太ももにぞぶりと喰らいつき、ぶつりと喰いちぎる。
一体の鬼がかじりついた足首から口を離した。切断面から黄色と白の筋繊維が限界までのび、ぶつりと音を立て切れる。
それを目のあたりにした咲耶は両手を口に強く押しあて、唇から悲鳴がもれそうになるのを懸命にこらえて、飲み込んだ。
「ヒッ!」
それができなかった者がいた。三人の青年のうちのだれかが、かすかではあるが悲鳴をあげてしまったのだ。
「止まれ」
豪奢な装飾のほどこされた大きな輿の中から物々しい声が響くと妖怪達はいっせいに歩きを止めた。
巨大で、なおかつ豪華な輿だ。屋形の上に金銅の鳳凰が飾られている。まるで天皇のみが乗ることをゆるされた鳳輿のような造りだが、牽いているのは馬でも牛でも人でもない。巨大な手だ。紐につながれた牛馬よりも大きな人の手が五本の指を器用に動かして輿を牽いているのがなんとも不気味だった。
「いかがしました?」
一本角の鬼が中の人物にうかがいを立てる。
「なに、今このあたりから人の声が聞こえたような気がしたのでな」
「なんと、人ですと?」
鬼が言うと、その知らせが次々と妖怪達の間に広がっていった。
「人じゃ」「人だと」「人じゃと」「人がおる」「人がおるのか」「人がおるとな」「人がいるぞ」「人がいるそうな」「人がいるそうじゃ」「人じゃ」「人じゃ」「さがせ」「人をさがせ」「さがせさがせ」
「そういえばさっき遠くから人の姿が見えたような気がした」
「はやく言え」「おまえそれをはやく言え」「はやく言わぬか」「なぜはやく言わぬ」「さきに言え」「なぜ言わぬ」「どこじゃ」「どこで見た」「どこにおる」「このあたりか」「ここか」「ここか」
妖怪達が右往左往しあたりを探っていると、ふたたび輿の中から重い声が響く。
「犬神を呼べ。あやつならば鼻が利くゆえ、見えぬ者も臭いで見つけられよう」
烏帽子をかぶり直衣を着た二本足で立って歩く犬が列をかき分けあらわれた。鼻をくんくんとさせて秋芳らのほうに近づいて来る。
「このあたりで臭いまする」
他の妖怪達も同様に鼻をくんくんとさせて寄ってきた。
「おう、言われてみれば」「うむ、臭うぞ」「臭うな」「うん、臭う」「臭う」「臭う、臭う」「人の臭いじゃ」「人の臭いじゃ」「近いぞ」「さあて、人はどこかな」「どこにおる」
血腥い息を吐きながら、すぐ目の前をうろうろと徘徊する。咲耶と青年達はもう生きた心地もない。
とん、と咲耶の身体が秋芳にぶつかった。
血の気の失せた蒼白な貌に玉のような汗が浮かび上がっていた。恐怖のあまり失神する寸前のようだ。
見れば他の三人も同様の状態。次にだれかがわずかでも悲鳴をあげたり、崩れ落ちればその音で気付かれる。結界は破綻することだろう。
(これはもう限界だな、しかたない――)
秋芳は咲耶の肩を強く抱き、しっかりと立たせた後、その耳元で妖怪達の注意をそらし、いざとなれば自分が囮になるという一計を告げ、みずから結界の外に一歩足を踏み出した。
秋芳は禁感功を駆使している。それゆえ妖怪達には認識できない。目はそこに術者がいることを見ているのだが、心がそれを認識できない。まるでころがっている小石のように気にとめられることなく、他者は無意識のうちに目をそらし、避けて通る。すぐれた隠形とはそういうものだ。
それをいいことに手近な妖怪をどついた。
「あなや!?」
蹴倒した。
「痛や!」
密集している間隙を縫ってどついてまわる。
「なにをする?」「痛や!」「われを打ちたるはぬしか!」「おのれ」「こはいかに!?」「なれ!」「ゆるさじ!」「おのれ!」「あな憎し!」「いとうるさし!」「むくつけしやつかな」「くちおし!」「こなくそっ」「Ouch!」「けやけきやつめ」
たちまち同士討ちがおこり、水面に生じた波紋のように混乱が広がっていく。
そろそろ頃合いと見て結界にもどろうとした、その時。一振りの矛がうなりをあげて秋芳にせまった。
隠形を維持しつつ身体を動かすことはむずかしい。初心者はゆっくり歩くことすらままならないくらいだ。なにか激しい行動をしようとした瞬間に解ける。秋芳の隠形は極めて高いレベルにあったが、それでも完璧というわけではない。能動的なおこないをすれば隠形にほころびが生じ、勘の鋭い者には知覚される。
どうやら百鬼の群れの中に勘の鋭い者がいたようだ。
とっさに避ける。が、それにより禁感功は完全に解かれた。
「おのおのがた、かき乱るることなかれ。これなるくせ者のしわざぞ!」
矛を手にした埴輪が叫ぶ。
見つかった。
秋芳は即座に動いた。木行符、火行符、土行符、金行符、水行符。五行符をまき散らし、呪を唱える。
無数の細い木の枝が雨のように降りそそぎ、妖怪達に突き刺さると同時に火行符が起爆し枝から火炎が生まれた。
『刺す』と『焼く』とを同時に受けて、さしもの百鬼らも苦痛の声をあげる。燃えた尽きた枝の灰塵は土塊となるも、土行符の作用で爆散し、さらなる痛手を負わせた。
さらに爆ぜた土塊の中より無数の刀刃が踊り出て乱舞し、まわりの妖怪をめった斬りする。水行符が血脂を洗い流し、それだけにとどまらず激しい水しぶきをあげてまわりの妖怪を押し飛ばす。
水流の中に投じられた木行符は猛烈ないきおいで水気を吸収すると暴風と化した。風は木気と金気のいずれかに属す。今回は木気の風だ。風に乗った火行符が火を放ち、火炎が渦を巻く。炎の竜巻から灼熱の石弾が飛び散ったかと思うと――。
相生効果により威力を倍々化させた呪符の舞いが百鬼の群に甚大な被害をもたらした。
「洛中の陰陽師ここにあり! 狭蝿なすもののけども、捕まえられるものなら捕まえてみろ!」
身をひるがえし、路を駆ける。
「おのれなめげなまねを、ゆるさぬ!」
「とりて喰らわん!」
おびただしい数の妖怪達がその後を追いかけ消えていく。
やがて妖怪達の怒号や悲鳴は次第に遠ざかり、結界にひそんでいた四人はほっと胸を撫で下ろして生きた心地を取り戻した。
咲耶達が隠れている場所からじゅうぶんに離れたのを確認した秋芳は攻勢に転じた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
九字を切ると同時に四縦五横に足を運び反閇を踏む。刀印を結んだ指が空を切るたびに、足を一歩踏み出すごとに呪力が拡散し、邪気を祓う剣となり瘴気を防ぐ盾となり、群がる百鬼を打ちすえる。
たちまち数十体の妖怪がその身にラグを生じさせて消え失せた。さらに――。
「禁妖則不能在、疾く!」
あやかしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。弱ったところを強引に呪殺し、一体一体確実に修祓していく。
ここな陰陽師手ごわし。
血肉を喰らわんと殺到していた妖怪達だが、思わぬ反撃に包囲の輪がくずれる。
そのすきをついてさらなる術を展開。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
刀印で五芒星を描き、足もとにむけて放つ。秋芳を囲う形で光の呪印、五芒星が煌めく。
「こしゃくなまねを、うちてしやまん!」
力自慢の大入道や鬼が打ちかかるが、五芒星の結界はびくともしない。
「痛し!」
それどころか結界の霊気に弾かれ、逆にダメージを受けている。堅固な障壁で守りを固め、安全を確保したのち、呪文を唱える。
「あんたりをん、そくめつそく、びらりやびらり、そくめつめい、ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、をんぜそ、ざんざんびらり、あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、ざんだりはん!」
長い。あまりにも長い呪文詠唱。だが周りの妖怪達は結界にはばまれそれを阻止することができない。
術の締めくくりに柏手を打つ。
パンッ! と両の手の平を打ち合わせた瞬間、秋芳を中心に呪力が爆発した。周囲に衝撃波が走る。
神仙道系の遠当法。こんにちでは帝国式陰陽術――土御門夜光が軍事用に再編成した呪術体系――に属する、きわめて攻撃的で強力な呪術。
まわりにいた妖怪のほとんどが消し飛び、残ったものもほうほうの体で逃げ出していく。これでしまいかと思った時、音を立てて輿が割れた。
例の巨大な手に牽かれていた豪勢な輿だ。
動的霊災のくせして貴人が乗るような輿を使うとは。どんなやつが乗っているのかと見れば、しぶみのある緑色をした束帯姿で垂纓の冠をかぶり手に笏を持っている。なるほど、たしかになりは高貴な身分の人のものだった。
だがその姿は異様としかいいようのないものだ。三メートルほどの巨躯に牛のような顔と牛のような角、束帯から出た手足は獣毛におおわれている。
目は爛々と輝き、鼻からは蒸気のような白煙が吹き出し、全身から放出される気が時たま雷火のように爆ぜ光る。
(あの緑色の束帯はまるで帝のみが使用をゆるされた麴塵袍のようじゃないか。化け物のくせになんと不敬な……)
秋芳がそのような考えをいだいた瞬間、牛頭の異形が激しく吠えた。
「この無礼者が、頭が高いっ!」
咆哮に込められた霊気が秋芳の身を打つ。今まで相手にしていた妖怪達とはけた違いの気、異なる霊相。
鬼の打撃を防いだ五芒星の結界を軽々とすり抜け、身心を穿った。
「うぐっ!?」
視界がぐらつき目の前が暗くなる。ひどい貧血になった時のように全身から力が抜けていく。
(これは……、呪詛か! しかしなんと強力な。これほどまでに凄まじい呪は始めてだ!)
いそぎ解呪を施しつつ相手をしっかりと見鬼る。
強い。
とてつもなく、強い。
こいつはちがう。
先ほどまで相手をしていた有象無象の動的霊災とはちがう。
荒々しくも神々しい、尋常ならざる霊気に畏怖すらおぼえる。こいつは――。
「牛頭天王……!」
牛頭天王。八坂神社に祀られる、素戔嗚尊や薬師如来を始めとする多種多様な神仏が習合された謎多き神。
相手は神。それも多くの神格を有し、畏れ多くも皇祖神につらなる存在。
一瞬、わずか一瞬だが秋芳の心に恐怖が生じ、その脳裏に「逃走」の二文字が浮かんだ。圧倒的な実力差。逆立ちしても勝てない相手。だが後ろを見せれば、その瞬間殺される。打つ手なし。万事休す。
どうする?
逡巡する前に身体が動いた。闘争本能に従い、全力で戦う。相手に立ち向かう。
いつでも逃げれば生きられるというものではない、突き進んだほうが生きのびられる場合もある。
戦闘とはそういうものだ。秋芳は経験でそれを知っていた。それゆえ戦うことを選んだ。
「我咆哮金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」
我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
おのれ自身にかけた甲種言霊。自己催眠によって強化された純然たる霊気の波動が牛頭天王に放たれるも、微動だにしない。
「人の子風情が、図に乗るなッ!」
声とともに口から吐き出た猛気は周囲の霊気のバランスを急速に乱し、陰の気へと転じさせた。
いびつにかたよった霊気はある段階から瘴気へ変わり、濃厚な瘴気は血肉を宿して具現化した。
青黒い肌に獣の顔と鳥の羽と嘴を持った無数の異形が、天狗の群れが姿をあらわす。規模こそ小さいが、これは小型の霊的災害。霊災だ。
それも初期の霊災どころか、霊災が連鎖する百鬼夜行。フェーズ4に該当する。
たった一体から、ふたたび百鬼の群れが生まれ、踊り出る。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
秋芳は無我夢中でおのれの力を、呪力をふり絞り、全身全霊をかたむけて戦った――。
時間にすればわずか数分だが、木の幹を背にして眠ってしまったようだ。
秋の夜風にくすぐられ、目を覚ました。
ここはどこだろう? どこかの小山の頂にいるようだが……。
松や杉の木の生い茂る山中から下りようとした、その時。林の中から堂宇がこつ然とあらわれた。
ちょうど雲ひとつない夜空で、東の空のほうに大きな満月が皓々と光り、地上を照らしていた。その月光を浴びて堂宇全体が白銀に輝いていた。まるで月の光が銀箔と化して屋根の上から垂木の一本一本、窓や障子、壁から高欄、果ては庭の砂にいたるまで、すみずみに光がたゆたい銀のしずくが弾けているような錯覚をおぼえた。
「なんと美しい……!」
秋芳は圧倒的な美しさに総毛立ち、ふらふらと吸い寄せられるように堂宇に近づいた。
唐破風が前後についた造りの向唐門。これもまた銀色に輝いていたが、おどろいたことにその屋根には本物の銀箔が貼られているではないか。
門をくぐり中に入ると石庭が広がり、月の光を反射して真っ白い砂が銀色に輝いていた。花園には竜胆を始めとする秋の花々が咲き誇り、蓮の花が浮いた大きな池は満月をくっきりと水面に映し、こちらもまた金色に輝いているようだ。
そのような美しい庭園の奥に白銀の光を放ち、鎮座する堂宇が堂々とそびえ立っている。
「これは……、月の光が反射しているんじゃない。門と同じく瓦や壁に実際に銀箔が貼られてるじゃないか!」
しばらくのあいだ周囲を眺望し、その美しさを堪能すると、池のほとりにある大きな石に手をついて座る。すっかりこの場の〝美〟に呑まれてしまったようだ。
「……大運山龍安寺のような石庭に鹿苑寺の金閣を銀にしたかのようなお堂。これほどの古刹名勝が京都にあっただろうか?」
ひょっとしたら自分は隠れ里や桃源郷と呼ばれる異界にでも迷い込んでしまったのかもしれない。そう思い眼下の池を見れば、こちらもまた美しい。若竹色の水をなみなみとたたえた池の水面は大きな月が丸く映り、少しも揺れていない。
まるで磨き上げた鏡をそっと池に浮かべたような、いや、池そのものが大きな鏡のようだった。
こちらもまた、美しい。思わずため息がもれた。
ふふふ……
「!?」
どこからか忍び笑いが聞こえた。
すぐに見鬼を凝らして周囲にさぐりを入れるが、判然としない。
ふふふ……
笑い声は男のようでもあったし、女の声のようでもあった。死ぬ間際の老人のそれのようにも聞こえ、幼児の無邪気な笑い声にも聞こえた。
右から、左から、後ろから、前から、上から、下から――。
笑い声が延々と響く。
「皎如飛鏡臨丹闕皎として飛鏡の丹闕に臨むがごとし――。飛鏡とは皓々たる望月のまたの名でございます」
こんどは嫣然たる女の声が上のほうからした。
月だ。声は月から発せられている。
月が迫っていた。ありえないほどの大きさの月に老若男女の顔が浮かんでは消えている。それはまるで夜空にかかった銀幕。スクリーンの場面のように人々の顔が映し出されていた。
「時は昔、寛正五年は長月十三夜。高倉御所にてもよおされた月下の宴の夜も、ちょうどこのような飛鏡のごとき見事な満月の夜でございました……」
仰々しく芝居がかった口調でそのような前置きをした妖月は物語を話し始めた。
あやしき月の表に三人の男女の姿が浮かび上がる――。
寛正五年。
京を騒がした畠山一族の内紛が一段落したころ、高倉御所にて月見の宴がもよおされようとしていた。
宴といっても参加者は三名のみのごくごく内輪のもの。
中庭に特別にしつらえさせた二十畳ほどの御見台。月の光をぞんぶんに愛でるため、かがり火は禁じたうす暗き場所に二人の男女が座っていた。
「いささか遅すぎませぬか。ギジン殿はご自分を御所様よりも偉いとでもお思いか」
陪席に座っている女から焦れた声が発せられた。
竜胆の打掛に千鳥の小袖をまとった、いかにも高貴そうな二十歳前後の女性がけわしい表情を浮かべている。もともときつめの顔立ちが、いら立ちのためさらに峻烈なものになっていた。
「ほほほ、そう怒るなトミコ。あれは昔から約束の刻限というものを守ったことのない男。短気は損気ぞ」
上座にいる面長の男はおっとりと応えると朱塗りの大杯をぐい、と前につきだした。
すかさず腰元が近づき酒をそそぐ。
腰元は青磁の皿に盛られた茱萸の実を一つつまんで大杯に落とす。唐様の月見酒だ。
「遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。ほほほ、唐様よのう。余は満足じゃ」
小さな果実を酒とともに飲みこむと酒の甘さと果実の酸味が口中に広がっていく。いよいよ満悦の表情がにじむ。
するとそこに正座して上り込んで来る者があった。ギジンだ。
「せっかくの兄上、いや御所様のお招きに預かりましたが、遅参してしまいまことにもうしわけございません。このギジン汗顔のいたりでございます……」
「よいよいギジン、面を上げい。今宵は無礼講じゃ、立場を忘れただの兄弟にもどろうぞ。さぁ、近うよれ、ともに良き酒、良き月を愛でようぞ。……うん? なんじゃその箱は?」
御所様と呼ばれている面長の男はひれ伏して詫びを入れるギジンの横に一抱えほどの桐箱があることに気づく。かなり年季の入った物で、紫のひもで十文字にかたく結ばれていた。
「ははっ、今宵の宴の座興にと比叡の倉を探らせて持って参らせた品でござる。秦代より伝わるまじないの品だとか」
面を上げたギジンは見事に剃髪していた。面長の御所様とは対照的に端正で彫りの深い顔立ちをしていた。
「ほう! 秦の時代より伝わるまじわいの……。余のために比叡の倉を、とな」
唐様を好む御所様は感じ入ったようで、機嫌良く大杯を口にはこぶと腰元に命じて目の前に持ってこさせた。
ギジンはそっと陪席に瞳を流すと、そこにいるトミコと目が合った。ギジンの目の奥は炎のように赤くたぎり、トミコの目は月よりも青く凍っていた。
そして二人はかすかにうなずき合う。
そのようなやりとりも知らずに御所様は固く結ばれたひもをほどき、ふたに記された文字を月光にすかして見る。
「ふうむ、この箱は康暦……。今から九十年も前の物か。骨を、照らす?」
「それは照骨鏡と読みまする。ささ、まずはその品をご覧くだされませ。お気に召しませばこのギジン、欣快至極」
そう言うとあらためて両手をつき頭を下げる。
「どれ……」
箱の中に手を入れ、静かに中の物を取り出す。琥珀色とも飴色とも象牙色ともつかない微妙な色合いをした半球状の物体が姿をあらわす。
半球の裏側が一瞬、輝いた。鏡だ。
半球状のなにかに青銅の鏡がはめ込まれている。
「ほうぅ、これは精緻な……。ふむ……、おう、見事な作りじゃ……」
御所様は照骨鏡なる奇妙な鏡に顔を近づけ、とり憑かれたようにためすがめつ観賞を続ける。
その様子を見てギジンは得たり、とばかりの笑みを浮かべ、陪席の貴女も忍び笑いをこらえていた。
「む、ここになにやら刻まれておるのう……。なになに……、立川流……、見蓮……、人間の髑髏……、照骨鏡に念を入れる……、だと?」
ぎくり、ギジンとトミコの表情がこわばる。
「大治五年だと……、崇徳帝の御世か。ははは、秦の時代の鏡が三百年前に細工され九十年前の箱に納められる。いささか無理があるのではないか、ギジンよ。戯れもたいがいにいたせ」
「では御所様。ひとつお座興にその鏡に今宵の望月の光を映しこみ、ご自身の姿をごろうじてはいかがでしょう」
「うん?」
「その照骨鏡。その名の通り生身を透かし骨をも見通せるまじない鏡なのですが、望月の夜にはその魔力いよいよ高まり、映りし者の未来がありありと浮かんでくるとか」
「しかとさようか!」
子どものように目を輝かせ、珍しき鏡の妙なる力を試そうと鏡を満月にかざしかけ、ふと手を止める。
「じゃが立川流といえばたしか後醍醐帝が深く傾倒あそばれし淫祀邪教ではなかったか? その教えの祖は仁寛。後醍醐帝が帰依されしは小野文観上人。この見蓮なる人物もたしかその創設に関わる者ではなかったか」
「邪教などとは今は昔のことでございましょう。そも、立川流があがめし荼枳尼天は夫婦円満、子宝の霊験あらたかだとか。今の御所様にはかっこうの護り本尊かと」
「ふむ、たしかに……」
すっと、鏡をのぞきこむ。
満月の光が青銅の鏡に吸い込まれ、虹の色彩を持つ蛋白石の輝きを放ったかと思うと、秋の青き空の色を見せる。
「おおう、見事じゃ。いや、この色の変わりようを見るだけでも未来を見るより価値があろうぞ」
「なにか、色のほかには見えませぬか?」
ギジンのその問いにはあせりがにじんでいた。そんな彼に陪席のトミコがじっとねばりつくような視線を送る。
「いや、なにも……。特には……」
鏡の中をじっと見つめる。するとやがて、青い光を放つ鏡の中に彼自身の顔が浮かんだ。
だがその顔は実際の彼自身の顔よりも端正で、より美しく聡明で凛々しく、『かくあるべし』と常日頃からみずからが考える、理想の己の容貌であった。
(ヨシマサ、ヨシマサ聞こえるか)
ヨシマサ。それは先ほどから御所様と呼ばれる男の名だ。
「ぬぬ、この声は……。いったいだれの声じゃ?」
(だれでもない、余は汝である)
美しく尊大な表情で鏡のヨシマサが応えた。
「なんと面妖な……」
(聞け、ヨシマサ。この照骨鏡をギジンが汝に献じたのはなぜだと思う?)
美貌の鏡影がゆらいで消えた。かわって現れたのはどこかの茶室で密会するギジンとトミコだった。ふたりはかたく抱き合って唇を吸い合っている。
「もうがまんならん、あの数寄かぶれの兄めを始末してくれる」
「いつもそのような……、お言葉ばかりではありませぬか」
「言葉だけではない。それがしが起てばともに戦おうとしてくれる大名は十や二十はいる。それがしには大義がある」
「大義がございますれば帝をお味方につけるもたやすいこと。なにも乱を起こすまでもございますまい」
「…………」
「わが家に伝わるお話でございますが、比叡山の宝物殿にはかの邪教立川流の呪具が数多く封印されておりますとやら。その一つを御所様に触れさせたなら毒や刀でもってしいするよりも、いとも易きことかと」
「それがしに呪具で兄上を暗殺せよと、そうもうされるのか……。よし、覚悟を決めようぞ――」
ギジンの顔に殺意が広がっていった。
そこにふたたび鏡の声が響くと、鏡の光景は消え、かわりに能の恵比寿の面が映る。
(さぁさぁ、なんとするヨシマサ。この姦夫姦婦めらをどう裁く?)
青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとヨシマサの双眸に吸い込まれる。
じっと鏡をのぞき込んでいたヨシマサがなにごともなかったかのように照骨鏡を床にもどした。
「良き趣向であったぞギジン。近う寄れ」
かしこまって近づいたギジンに耳元でささやきかける。
「ふふふ、そのほうらの戯れを見てすっかり楽しんでしまい、余が肝心の所用を忘れるところであった」
「は? 御用と言いますと?」
ギジンはなにごともなく語りかけてくる兄の様子に拍子抜けして問うた。毒を盛られたかのように苦しむでもなく、剣で斬られたように倒れるでもない。古来恐怖の対象であった立川流の呪具といえど、しょせんは迷信だったのか。風流狂いの兄一人どうすることもできぬとは――。
「うむ。トミコとはもうすでにじゅぶんに話し尽くしたことなのだが――。余とトミコには子が授からぬ。そこで余は隠居し、弟であるその方を次代将軍に指名することにした。さよう心せよ」
「なっ!?」
「来たる師走には還俗し、名もギジンからヨシミと改め精進するがよい」
唖然とするギジンは陪席のトミコをねめつける。なぜこのことを教えてくれなかったのか? 将軍の位をゆずろうとする、この『心優しい兄上』を殺させようとは――。
「さぁ、次はおぬしの番ぞ。照骨鏡をのぞくがよい」
感情の見えぬ、おっとりとした表情で大杯を口にし、鏡をギジンにまわすよう腰元に命じる。
「それがしが九代将軍に……」
呆然としているギジンの目の前に照骨鏡がはこばれる。無防備にそれをのぞきこんだ瞬間、鏡面が紅色に輝いた。
燃え盛る炎。人馬より流れるおびただしい血。飛び交う火箭。血に濡れた刃。返り血をあびて夕陽に照らされる陣羽織――。
「うぬ、これはいったい……」
(ギジン。いや、ヨシミよ)
冷笑をふくんだ声が銅鏡から発せられる。
「む、何者だっ」
(さわぐでない、それがしは、汝だ。いま一人のおぬし、未来のおぬしだ)
「未来、とな……」
ゆらいだ鏡面に剃髪をしていない、武者姿のおのれが浮かび上がる。
「その姿は……」
(おどろくことではないぞ、今のそれがしは帝や管領殿の後ろ盾を得ておる)
「しかし、その姿は、戦装束とはなにごと……」
(あれなる女、トミコめが南朝の残党をあつめて東国で兵を挙げたのだ。それゆえの戦装束よ)
「なんと、しかし、しかし……、しかしトミコ殿は御所様を捨ててそれがしを選ぶと約束して……」
(まどわされるなヨシミ。殷の妲己、唐の楊貴妃。いつの世にも大乱の因は女にありじゃ。これより十年先を教えようぞ。――霜月に管領細川殿の軍は河内で川野通春の軍と矛をまじえよう。あけて葉月、京と河内の一帯は大風雨や水害に見舞われ、地獄と化そう。そしてヨシマサは死ぬ。おぬしが将軍になる。だがそれに不服をおぼえたトミコめがおぬしの首を狙い乱を起こす。その時、帝は応仁と改号される。それが合図じゃ。ようおぼえておくがよい)
ギジンは鏡の中に見た。北は陸奥の国から南は薩摩の国までもが朱に染まる戦乱の世を。
戦乱の鏡影が消えると、かわりに能の怪士の面があらわれる。
(さぁさぁどうする。傾国の毒婦トミコをなんとする?)
青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとギジンの双眸に吸い込まれた。
「照骨鏡を御台様にもご上覧あそばしめるがよい。それと酒を持て」
ギジンは怒ったように腰元に命じ、大杯に注がれた酒を飲み始めた。
今度はトミコの目の前に銅鏡がまわされる。鏡をのぞき込んだトミコもまたあやしき鏡影を見た。
楽しげに笑う赤ん坊の姿。楽しげな男女の笑い声にわらべ歌が見え、聞こえた。
「な……、こ、これは……」
(トミコよ、トミコよ)
鏡面に幻影が浮かぶ。現在の彼女より数歳齢を重ねた姿の、けれどもまぎれもなくトミコ自身と見分けのつく女性の姿が浮かび上がる。その女は産着につつまれた赤子を抱いていた。
「そちは何者……」
(わらわは汝じゃ。ただし九代将軍ヨシヒサの母となったトミコなるぞ)
「九代将軍……。わらわが将軍を、産む……」
(いかにもそのとおり。今はまだ徴はないが、汝の胎にはやや子が宿っておる)
「やや子が!?」
小さく叫ぶとそっと気づかれぬように男二人を見やった。
「して、父御はだれじゃ? 御所様か、ギジン殿か?」
(おなごにとってそのようなことにどれだけの意味があろうか、大切なのは汝が将軍の正室であること。そして次期将軍となる子を身ごもっていることよ)
「たしかに、たしかにそうじゃ、な……」
そこで鏡影は能の大飛出の面に変じた。
(じゃがたった今、あの八代様はこともあろうに弟君に将軍の座をゆずり九代将軍にしようとしておる。正室たる汝になんの相談もせずにこのような宴の場で勝手に決めておしまいになられた!)
「そんな、ではこの子は、次期将軍になるはずのやや子は、ヨシヒサはどうなってしまうのです?」
(ああ、ああ、いつもそうじゃ。御所様はなにごとも汝に一言も相談をせずに勝手に決められる。そうして何十万貫もの銭を使い捨て、民百姓の憎しみはすべて汝が一身に浴びることになる。生まれてくるヨシヒサもどうなることやら……)
「……なんとしてもヨシヒサを次期将軍に、九代将軍にしてみせます」
(どのようにして?)
「どのような手を使ってもです」
青銅の鏡から昏く冷たい光が放たれる。月の光にしては明るく、影の色にしては暗すぎるそれが、じっとりとトミコの双眸に吸い込まれた。
「腰元、酒をもて」
ヨシマサが上機嫌で命じる。
彼は自分を虚仮にした姦夫姦婦が近いうちにたがいを裏切り、憎しみ合うと鏡より教えられ、満悦至極で酒を味わい始めた。
「それがしにも、酒を」
ギジンも血走った目で酒を飲んだ。近い将来、応仁なる元号に変じたその時には、かならずやこの裏切り者の毒女の首を……。と鏡に誓って大杯を干していた。
「わたくしも久しぶりに少しいただきましょう」
トミコも小さな器を持ってこさせると、そっと飲み干した。
やや子さえ生まれてしまえばこちらのもの。管領や帝。細川様や山名様の後見を得て早く生まれた子を将軍職に就けてしまおう――。
三者三様が想いを浮かべていたその時、置かれていた照骨鏡がかん高い音をたてて真っ二つに割れた。
三人がはっと息を飲んで見ると鏡はその内側より青い光を立ち昇らせ空に吸い込まれた。そして三人が気づいた時には鏡は、秦代より伝わり邪教立川流の呪具もまた煙のように消えてしまっていた。
妖月に映し出されていた物語はそこで終わった。
「……ヨシマサ、トミコ、ギジン、ヨシミ――。足利義政とその弟の義尋に日野富子、応仁の乱の原因になった人たちだな。今のお話はその前日譚といったところか」
「ご名答でございます。さて翌年八代将軍義政公と富子様に玉のようなお世継ぎがお生まれになり、義尚と名づけられました。さらにその翌年。なんと足利義尋あらため義視様は義政様の手の者に襲われたのです。しかし予言の甲斐あって刺客の手を逃れ、先の管領、細川勝元の屋敷に逃れました――」
我が子である義尚を将軍職に就かせたいと熱望する富子は有力大名である山名宗全に接近し、義視が将軍になるのを阻止しようと暗殺までくわだてた。
やがて義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し、勝元派と宗全派。東軍と西軍にわかれて京の町で真正面から衝突。
これが京を荒野へと変じさせた十年の大乱の、世にいう応仁・文明の乱の始まりだ。
「うん、なかなか凝った見世物だった。さてお代を払いたいところだが、この美しい堂宇や庭園といい、拝観料は一万円でも安いくらいだから出したいところだが、あいにく仕事帰りでたいした持ち合わせがない。家まで取りに来るか?」
「一万円でも安いとは太っ腹だね、お兄さん。でもお金はいらないよ、お代は陰陽師。あんたの生き肝さ!」
先ほどまでの芝居がかった重々しい声から一転。少年とも少女ともつかぬ快活な声色が月から響く。
オオーン!
獣の鳴き声のような音を発し、異形の月がうごめいた。
金色に輝く月面の中央に血のような赤い点が浮かび上がる。そこから触手が枝分かれしながら伸びだして全体を覆い、血走った瞳のごとき姿に変容した。
触手は蛇の大群のごとくうねり、のたくり太くふくれながら、毒々しい粘液をしたたらせ、秋芳に襲いかかった。
血の色をした無数の肉鞭が殺到するがしかし、秋芳はそちらを一瞥すると池に視線を落とす。鏡のごとく澄み、波紋ひとつ生じていないそこには青白い満月が映っていた。
もはや怪物と化した妖月のほかには、中天に輝くものはないというのに。
「疾ッ!」
池を目がけて気合とともに刀印を振るう。
キィンッ、ぎゃんっ!
なにかが割れるような金属的な音と獣じみた鳴き声が重なり響く。
次の瞬間、秋芳を襲おうとした妖月は消え失せ、あたりの景色も一変した。
銀色の月光にあふれた神秘的な光景はなくなり、銀光に満ちた堂宇のあった場所には黒ずんだ壁に簡素なこけら葺きの屋根をした、詫びた風情の建物がうずくまっていた。
一階は書院造り、二階は禅堂。
秋芳はこの建物を知っていた。観光地として有名な寺院、東山慈照寺。俗にいう銀閣寺だった。
「あ、いたたた……」
白い砂の敷き詰められた枯山水の上に一匹の獣が煌めく破片にまみれ、ラグをまといながら痛みに悶えている。
大きめの犬くらいのサイズだが胴体のラインは犬よりもふっくらとして愛らしいといえなくもない、人によってはモフモフしたくなるだろう。
毛皮は明るい茶色をしていて、体長の半分近くを占めているのはしゃもじの形をしたひらたい尻尾だ。頭は大きくて丸く犬に少し似ているが鼻は短く耳も小さい。ガラス玉のような目の周りだけ毛が黒く、濃いアイラインを引いているように見えた。
狸だ。
ただし本物の狸ではなく、絵物語に出てくるようなデフォルメされた姿形をしている、化け狸だった。
「おっかしいなぁ、ボクの幻術は完璧で穏形も完全だったはずなのに、なんで見破られちゃったのかなぁ……」
「幻術や隠形に完璧だの完全だのってのはない。あるのは彼我の実力差のみだ。俺の見鬼がおまえの目くらましを上回っていた、ただそれだけのことだ。だいたいなにを指して完璧だと言ってるんだ?」
「幻術で作ったお化け月に襲わせると同時に幻術の池に隠れてたボクが攻撃する。上に注意がむけられてるから成功すると思ったのに……」
「なるほど、月面に映ったあの寸劇は月に意識をむけさせるためのものか」
言いながら散乱する破片を手に取ってしげしげと見遣る。
「この鏡は、呪具だな。……雲外鏡か?」
「そうだよ。伝説の照骨鏡じゃないけど、幻を強化するすぐれ物だったんだ」
「月光に照らされ銀色に輝く堂宇のイリュージョンは絶景だったな。銀沙灘と向月台のある銀閣寺で〝月〟と〝銀〟を前面に押し出すのはなかなか良い選択だ、悪くない」
そう言って本堂の前に広がる枯山水を指さす。白砂が波状に盛られている銀沙灘と円錐型の向月台があった。
この銀沙灘。月の光を浴びると銀色に反射し、たいそう美しいという話があるが、夜の拝観はないため真偽のほどはさだかではない。
では今夜、この時、幻ではない本物の月に照らされた銀沙灘はどうかというと、たしかに月光を浴びほのかに輝くさまは美しいが、さすがに先ほどの幻には派手さで劣る。
「あと月の怪物もリアルだった」
「そうでしょ。それなのにどうして……」
「本物の池なら上空や対岸の光景が水面に正反射して映るが、それがなかった。バケモノ月の姿がなく、普通の月が浮かんでいたからおかしいと思ったんだよ。見鬼でさぐる以前の問題だ。肉眼でもあやしいとわかる」
「そうだったんだ、次からは気をつけないと……」
ラグが走る身体をのっそりと動かしその場を逃れようとする化け狸の動きを秋芳が制す。
「俺は相互主義者だ。生き胆を喰らうなどと命を狙ってきた相手を見逃すほど甘くはないぞ、覚悟しろ」
秋芳の指先が縦横に交差し、虚空をなぞるとマス目上の軌跡が輝く。九字を切ったのだ。そこに込められた呪力は目の前の化け狸を修祓するのにじゅうぶんなものだった。
「わわわっ、命ばかりはお助けを!」
そう言うとドロンと煙につつまれ、一人の少女の姿になった。
肩口まである柔らかそうな明るい茶髪にアーモンド型の瞳、華奢だが丸みをおびたしなやかな肢体をタンクトップとデニムの短パンでつつんでいる。
「ねぇ、お願い。見逃して! もう二度とこんなことはしないから……」
ひざまずいてこちらを見上げ、両手を胸の前で合わせ涙を浮かべて懇願する可憐な少女の姿に心を動かされない者は少ないだろう。だが――。
「俺に美少女無罪は通用しない」
「ふぎゃっ!?」
放たれた呪力が命乞いをする少女を容赦なく打ちすえた。ラグが走って一瞬だけ野獣の姿にもどった化け狸がふたたび人の姿になる。
こんどは長い黒髪をした大人の女性だ。簡素な白いブラウスとスカートという姿だが、先ほどの少女よりもはるかに豊満な身体をしていて、飾り気のない装束が逆にその肢体の凹凸を際立たせ、メリハリの利いた身体の線がむっちりと浮き出ていた。
「お願い! 助けて! あなたは無抵抗な者を殺そうとするような残酷な人じゃないでしょ!?」
「くどい」
「ぐぎゃっ!?」
「見えすいた色仕掛けの命乞いが通用するわけないだろう。おとなしく修祓されろ」
二度も祓魔の術を喰らい、ボロ雑巾ならぬラグ雑巾状態になった狸の口からはなお延命を願う言葉が漏れる。
「あ、あのさ……。三日だけ、あと三日だけでいいから見逃してくれないかな」
「……なんで三日なんだ?」
「明日の深夜、ボクがすごい楽しみにしてるアニメの最終回なんだよね」
「…………」
「すっごい面白いアニメでさ、1話を見た時は、なんかちょっと面白そう。程度だったんだけど、3話のマミさんが首ちょんぱされるシーンで一気に引き込まれて、それからも見続けるうちにどんどん評価が上がってさ。特に10話は見てて圧倒されちゃった。これまで納得いかなかったほむらの言動の数々には、ちゃんと意味があったのかを知った時はもう愕然としたよ。このアニメは傑作じゃない、大傑作だ! て――」
「…………そのアニメ、俺も見てる」
物心ついた頃から修行修行の日々を送っていた秋芳だったが、山を下り京の町に住んで一人の時間を自由に使えるようになってからは道楽に目覚めた。
ありとあらゆる娯楽を犠牲にし、すべてを修行についやしていた反動からか、映画や読書に始まり、音楽、演劇、歌舞伎、能、落語、釣り、スポーツ、料理、ゲーム、華道、香道、茶道、インターネット……。
などといった各種の娯楽に触れ始めて楽しんでいたのだが、アニメ観賞もまたそれらにふくまれていた。
「俺はキャラとしては杏子が好きなんだよ。なんというか一番性格が合う気がする。でもさやかが不憫で不憫で……、だから選ぶとしたらさやかかな」
「時間を遡ってキュゥべえの星をぶっ壊しに行くってのは?」
「なるほど、そのためのほむらの能力か」
「9話のエンディングは泣けたな」
「歌詞が深いよね。読み解いていって何度も聴き入っちゃう」
「情感たっぷりに歌うから好きだ」
「あの人の歌は『アオキキヲク』が一番好きかな、それと『Before the Moment』は隠れた名曲だね」
「紋も良いな。俺は和系が好きなんだよ、陰陽座みたいの歌ってくれねーかな」
「陰陽座のコピーバンドで陽炎座ってのいそうだよね」
「あー、いそう。ありがちだな」
小一時間ほど雑談したあと、『あさってここで、まどマギの話をしよう』そう言ってわかれた。
「――以上、月にまつわる思い出話でした」
「ねぇ、ひょっとしてその化け狸って、笑狸ちゃん?」
「そう」
「ちょっと! 月っていうか二人のなれそめ話じゃない! なにさらっと語ってるのよ」
「おいおい、なれそめって恋人同士に使う言葉だぞ……」
「そんな出会いだったのね、二人は……」
「ああ、出会いはいつだって唐突だ。そして恋もな」
くしけずるように京子の髪をなでて、よせる。
「ひと目惚れだった」
「あたしは、ふた目惚れくらいだった、かな」
いつ好きになった。などとは聞かない。今、そしてこれからも好きでいてくれるならそれでじゅうぶんだからだ。
「なぁ、今度は君の話を聞かせてくれないか?」
「ん……、いいけど、秋芳君ほどドラマチックなお話はないわよ」
「なんでもいいさ、きのう見た夢の話でもなんでも」
「そうね、それじゃあ――」
秋の夜長、月明かりに照らされた二人の逢瀬はまだ続く――。
刀会 1
前書き
『東京レイヴンズ RED AND WHITE』のキャラクター、梅桃桃矢のお話がもう少し続きます。
陰陽塾地下呪練場。
「せいっ」
「やっ」
「たぁっ」
竹と竹の打ち合う乾いた音と乙女たちのかけ声がひびき渡る。いよいよ一週間後にせまった刀会。武道実技を兼ねたクラス対抗の紅白戦にむけ、巫女たちの稽古には常にない気合が込められていた。
女子とは思えぬ猛々しい荒稽古。巫女クラス唯一の男子である梅桃桃矢もそのような中にまざって竹薙刀をふるっている。
桃矢はくり出される打撃を受け流し、避け、突き返す。
「あ!?」
クラスメイトの首筋に打ち落とされようとした竹薙刀は寸前で止まった。
「すごい。梅桃君てば、いつの間にあんなに強くなったの?」
「拾参番隊のお荷物だと思ってたのに……」
「呪術のほうも凄いのかしら?」
あなどっていた桃矢の思わぬ実力に周りからおどろきの声がもれる。
だが一番おどろいているのは他でもない、桃矢自身だった。
(身体が勝手に動いてるみたい。こんなふうに戦えるだなんて、自分でも信じられないや)
桃矢は秋芳の指導のもと、五行拳の修行に励んでいた。もっぱら套路と呼ばれる型稽古に近いものだったが、それでも成果は出ていた。
型の動きというのは身体の運用理論であり、実戦に対応するための動きを作り上げるために必要なものだ。型にはちゃんと意味がある。
武道の型にはすり足をもちいた独特の重心移動や軸の固定など、日常的な動きから離れた身体運用を要求してくる部分が多い。
これらの動きを身につけるのはとても困難ではあるが、型の要求通りに正しく動くことができれば動きの質が変化する。肉体ではなく神経レベルで〝戦える身体〟になるのだ。
常人がその動きに反応するのはむずかしい。
もちろん表面の動きだけを似せるだけではだめだ。そのような形骸化した型稽古にはなんの意味もない。
型稽古というのは型の動きをおぼえるのではなく、型を通して戦いの動きをおぼえることに真の意味があるのだ。
桃矢はただ型をなぞるような練習はせず、その動きを自分のものにしていた。
稽古が終わると同じ拾参番隊のメンバーたちが桃矢に駆けよる。
「やるじゃないか桃矢、見直したぞ!」
長い黒髪を後頭部でたばねて腰まで垂らした少女が、息せきかけて声をかける。二之宮紅葉だ。
「今まで打たれっぱなしだったのがうそのようだ、やればできるじゃないかっ」
「薙刀とは関係ない中国拳法の修行をしていると聞いた時はどうかと思いましたが、杞憂だったみたいですね」
「桃矢くんがいれば百人力だよ、もう刀会は桃矢くんに全部おまかせしちゃう!」
続いて眼鏡をかけた長髪の三亥珊瑚と一の瀬朱音も喜色の色を浮かべている。
称賛の声は拾参番隊以外からもあがり、桃矢をよろこばせた。
チヤホヤされたからうれしいのではない、認められたからうれしいのだ。同調性共鳴症という特異な能力の持ち主ゆえに異例中の異例として巫女クラスに編入されたのはいいものの、八〇人近い女子の中で唯一の男子ということで、能力どころかその存在自体が白眼視されていた感はいなめない。
それが実力をしめしたことで少しは受け入れられたようなのだ。
うれしい。桃矢は心底そう思った。
「ふん、まるで自己紹介しただけで女学生たちが色めき立つ。どこぞの精霊使いのようなモテっぷりね、梅桃桃矢」
栗色の髪を二つ結いにした少女が腕を組んで桃矢を〝見上げ下して〟いた。小柄な桃矢よりもさらに背が小さいのだが、えらく尊大なオーラをかもし出している。
白組壱番隊の四王天琥珀だ。
「そういえばあの精霊使いも女装していたな。梅桃桃矢、きさまさては『本当は強いのに実力を隠している俺TUEEEEやれやれ系主人公』にでもキャラチェンジする気か?」
同じく白組壱番隊、艶やかな黒髪に凛とした風貌の七穂氏白亜がそう続ける。
「あら大変、そうしたら私たちみんな梅桃さんのハーレム要員にされちゃいますね」
同じく白組壱番隊、朱色のカチューシャつきリボンが妙に巫女装束と合っている十字眞白がさらに茶化す。
「……それはないですよ。だって僕、あのコミックの空気担当だって公式に書かれちゃってますから」
「そんなこと言って、性格改変・能力強化なんて二次創作ではよくあることだから油断ならないわね。……まぁ、いいわ。言っておくけど本番では呪術の使用もありなのよ。ちょっと腕っぷしが上がったからって、白組壱番隊最強、ううん、巫女クラス最強の呪術姫である私に勝てるとは思わないことね」
琥珀たちはそう言ってきびすを返すと、呪練場を後にした。
「なんなんだあれは! 気にするんじゃないぞ桃矢、ただの負け惜しみだ」
「そうですわ、気にしちゃだめです」
「ねぇねぇ桃矢くん、刀会の戦勝前祝いに美味しいもの食べに行こうよ!」
「こら朱音、いくらなんでも気がゆるみすぎだぞ。さっきの四王天の科白じゃないが、本番では呪術の使用も許可されているんだ。今は武と呪、両方の鍛練をおこたらずだな……」
「あらあら、今ダイエット中なのよ。桃矢さん、私のぶんまで美味しいもの食べてきて、あとで感想を聞かせてくださいね」
「こないだ見つけたお店のチョコバナナが絶品だったの。んでその路地裏にあるクレープ屋さんもね――」
「おいっ、人の話を聞けっ」
結局桃矢は朱音に押し切られるかたちで彼女に同行することとなった。
コーンフレークやイチゴ、オレンジ、キウイ、バナナ、ベリー、マンゴーといったフルーツ。ミニサイズのケーキ類にたっぷりの生クリームとチョコレート、ミントにおおわれたデカ盛りサイズのパフェに火のついた花火が何本も刺され、火の粉を散らす。
朱音の見つけたフルーツパーラー名物のビッグバンパフェだ。
「あははははっ、すごいね、すごいね!」
「う、うわぁ……。いいのかな、食べ物でこんなことして」
気おされつつもスプーンを手にして甘い塊を口にする。たしかに美味しい。
体調管理に余念のない紅葉と珊瑚をおいて、朱音と共に甘味を堪能する。二人で一つの器に盛られたパフェを食べる。これはまるでデートの一場面、恋人どうしじゃないか。そう思うと急に気恥ずかしい気持ちがわいてくる。
「でねでね、その子ってのがね――」
しゃべる、食べる、しゃべる、食べる、しゃべる、しゃべる、食べる、食べる、食べる、しゃべる――。
つねに口と手を動かし、せわしない朱音に合わせるのは大変だった。こちらはしゃべるか食べるか、どちらか一つに集中しないとできない。よくも器用におしゃべりと食事ができるものだなぁ。桃矢はあらためて女子の能力に感心した。男子には真似できない特殊技能だ。
(たしか男性と女性では右脳と左脳をつなぐ脳梁が女性のほうが太くて、そのため女性は男性にくらべ、複数のことを同時にこなすのが得意。だったっけ)
秋芳の吹聴したあやしい豆知識が脳裏をよぎる。
「ところで賀茂先生の授業っていつも脱線しちゃうよね」
偶然であろう、桃矢が秋芳のことを考えていたら朱音の口から秋芳のことが話題に出た。
「この前の乙種呪術のお話はおもしろかったね。なんだっけ? 呪術の神髄は……」
「嘘である?」
「そう、それそれ!」
呪術の神髄は嘘である。
土御門夜光が言ったとされる、有名な言葉だ。この前後に色々と言葉がつらなるのだが、そのことよりも秋芳の解説が耳に残った。
「戦国時代には様々な呪術的・宗教的なタブー、禁忌が存在した。たとえば血の穢れ、女性の月経のことだな。女には血の穢れがある、甲冑を身につけた後で女に触れてはいけない。もし触れたら血を流すことになる……。だがこれはいわれのない女性差別ではなく、乱取り防止のための方便。乙種呪術とも解釈できる」
「乱取り。合戦の後で兵士たちがおこなう略奪行為のことだが、当時の戦国大名は雑兵たちのおこなう虐殺や略奪、凌辱行為を認めていた。自軍の志気の上昇、敵国の弱体化にもつながるからで、義将と呼ばれた上杉謙信でさえ、このような蛮行を黙認していたんだ」
「頭ごなしな規律でそれを抑えるのはむずかしい。さぁ、そういう時の呪術だ。雑兵たちが暴徒化して女性を襲わないように、そういう呪をかけたのさ。無知蒙昧な輩なら本気にして恐れ、知恵者ならば真の意味を察する。そういう呪だ」
桃矢がおもしろいと感じた話は他にもあった。
「今でこそ霊災修祓が主な役割だが、昔は陰陽師といえば卜占。占いが主流だった。怨霊だの祟りだのを鎮める宗教関係は神祇官という神道系の人らがになっていたんだ、君たち巫女クラスのほうがそれに近い。で、卜占なんだが式盤だの筮竹だのいろいろと占う方法はあるがいずれも万能ではない。陰陽師だからといってすべてがわかるわけじゃない」
「大きな天変地異は天文、星の動きである程度の予測はつく。だが一人一人の身に降りかかる細かい事象までは普通は読み切れない。異変の卦が出てもそれがなにを示しているかは卦を読んだそれぞれの陰陽師の解釈によって大きく変わってくるんだ。凶事も見方を変えれば吉事となりえる。結局は起きてからじゃないとわからないのさ」
卜占そのもの、ひいては陰陽師への否定ととらえかねないような発言。
「しかし人という生き物はそれでは不安で不安でたまらない。自分や親しい人に災厄が降りかからないように悪いことよりも良いことが多くなりますようにと願わずにはいられない。陰陽師はその手助けができる、たとえば凶事を吉事に乙種呪術で変えるというもの。中国の明の時代、燕王という皇族に仕えた姚広孝という人物がいる。この人は政治家だが出家して仏教や陰陽術を学んだ宗教家でもあった。ある日のこと主である燕王はみずからが皇帝になろうと兵を挙げた。その時に突風が吹いて燕王の屋敷の瓦が落ちて割れてしまった。大事の前にこんなことが起こるだなんて不吉だ凶事だと言って一同がざわめくなか、姚広孝ただ一人が『これは吉兆である、このような古い瓦を壊して新たに黄色い瓦に替えよという天意である』と言ってその場の空気を変えてみせたんだ。あ、なんで黄色い瓦かというと、当時は黄色い瓦は皇帝のみが使用できたからだ」
「陰陽師の言葉一つで吉にも凶にもなる。だが機転を利かせるのに失敗した例もある。壇ノ浦の合戦のさい、平氏方には安倍晴信という陰陽博士が同行していた。海上で船を並べ源氏とにらみ合いをしていた時のこと、沖のほうからイルカの大群が進んで来るのが見えた。これは吉か凶かと平氏の大将が晴信に問うと『イルカが引き返せば吉で源氏が滅び、通り過ぎたら凶で平氏危うし』と答えたところ、イルカは平氏の船を間を泳いで通り過ぎて行き、志気がガタ落ちしてしまったという。――なんで晴信はイルカが引き返せば吉だと言ったかというと、当時の陰陽師は一種の博物学者で海洋生物の習性にも通じていた。イルカは本来ならば臆病な性格なので、それが大量の船団にむかって押し寄せることはない、方向を変えるだろうと判断したのではと俺は思っている」
「陰陽師は今でもお偉方に請われて吉凶を占う時があるし、君らも巫女として託宣を求められることがあるだろう。だがそのさいに出た卦や降りた言葉をバカ正直に伝えるだけではいけない時もある」
「時には機転を利かせることが必要であり、それに下手を打たないよう日頃から物事をよく学び、考える癖をつけておくんだ。いいか、脳というのは使うことで研ぎ澄まされる器官なんだ。思考を自分に課す者は、それだけ脳の機能が先鋭化している。そいつがどんなに馬鹿に見えても、思考を好む人間の脳は、どこかしら必ず発達している。使い方をまちがわなければ、それは大きな力になり得るんだ。だから考えるのを止めてはいけない。勉強でも人生でも思考停止は楽だが、それに安住すると脳の成長はそこでおしまい。論理、計算、想像、妄想……、なんでもいいから考えるんだ。思考をすれば必ず脳は応える。脳はそのための器官だからな」
あまりにあさっての方向に飛ばしすぎて生徒一同『?』となることもあったが、賀茂先生の脱線授業はおおむね好評だった。
アクセサリーショップやゲームセンターなど、桃矢と朱音はジャンボパフェをやっつけてフルーツパーラーを後にしてからも街中を散策し、呪術と縁のない日常というものを楽しんで、帰ろうかという時にそれは起こった。
女の子の二人連れ。そう思って声をかけてきた若い男たちがいたのだが、桃矢が男と知ると自分たちの見誤りを恥じての逆ギレか、急に乱暴な口調になり大声で恫喝しだした。
「オラァ、なめてんのかっ」「ゴラァ、死なすぞっ」「オラァ、ふざけんなっ」「ゴラァ、ちょずくな」
オラとゴラからなる、あまりにも語彙に乏しい男たちの言語のうったえるところは『金を出せ』だった。
(うわぁ、めんどくさいなぁ……)
かつての桃矢だったなら恐怖に立ちすくんでいたであろう。だが今の桃矢は秋芳の指導のもとに武の技を身につけていた。暴力の気配に緊張はしている、だが彼らに対する恐怖は感じない、怖くはなかった。
「っめんなよっ、ゴラァっ」
男の一人が桃矢めがけて拳をふるった。桃矢はとっさに五行拳の一手をくり出し、それを防ぐ。崩拳の一打が男を打ちすえた。かの見えたのだが、桃矢の拳は寸止めに終わった。
「っんだ、っこのっ、オカマ野郎っ、けんなっ」
男の腰の入っていない大ぶりのケンカフックにケンカキックはいずれも不発に終わる。
炮拳がうなり、劈拳が空を切る。だがいずれも寸止めに終わった。桃矢は相手に拳をあてる気にはなれなかった。殴られる痛さは身に染みて知っている。
だがそのことが男たちをさらにいきどおらせた。なめられていると思ったからだ。
数人がかりででたらめに殴りかかる。たまに武道の技は一対一の戦いを想定しているので実戦では使えない。という意見を聞くが、一対一の戦いを念頭においているのはむしろ近代スポーツ格闘技のほうであり、慈恩、太極、鉄騎、平安――。伝統空手に伝わる型の多くは一対多数を想定している。これは中国拳法も同じであり、蔡李佛拳という流派など、あのブルース・リーをして『大勢の敵と戦うのに最も効果的なスタイルである』と言わしめた。
あらゆる方向に身体を転身しつつもバランスをたもち、姿勢をくずさずに受け流し続ける桃矢。
男たちが飽きるか疲れるかして退くまでこうしていようかと考えた矢先、男の一人が奇声をあげて朱音にむかっていった。
「朱音ちゃん!?」
八つ当たりの攻撃か、それとも人質にでもしようと思ったのか。狼狽した桃矢の口からあせりの声がもれた。
「えいや~」
えらくのんきな響きのあるかけ声とともに朱音が腕をふるうと、打撲音とともに男が倒れる。朱音の手には竹薙刀が握られていた。
さっきまで素手だったのにどこからそのような物を取り出したのか? 桃矢は数拍の間をおいて、それが薙刀を象った簡易式苻だと気づいた。
「とりゃ~」
ふたたび緊張感のないかけ声。だがそれとは裏腹に痛烈な打撃が倒れた男の顔面にあびせられ、赤い花を咲かせた。
「っけんなっ、バッカっ、チネっ」
くみしやすいと思っていた女子にまで武器で反撃され、鼻血をまき散らしてほうほうのていで一人が逃げ出すと、他のメンツもそれに続いて遁走し出す。しょせんは群れなければなにもできない雑魚である。
「んも~、なんなのアレ。ほんと最悪! 激おこぷんぷん侍だよっ。いきなりナンパしてきて、いきなりキレるとか、わけわからない!」
「あ、朱音ちゃん。だいじょうぶだった?」
「うん。へーき、へーき。あ、痛っ」
「どこかケガしたの!?」
朱音の親指と人差し指の間に血がにじんでいた。あまりに力んで薙刀をふるったので生じたものだろう。
「ちょっとこすっただけ。それより桃矢くん、やっぱりすごいよ! あんなに動けるなんて、まるでジャッキー・チェンだね! ジェット・リーだね!」
我がことのように喜びはしゃぐ朱音とは対照的に桃矢の心中には自責の念が広がっていた。
自分が暴力から逃げた結果、かすり傷とはいえ彼女にケガを負わせ、そして人を傷つけさせてしまった。
戦うべき時に時に戦わなければ、自分どころか大切な人があぶない目に遭うし、その手を汚してしまうこともある。
そんなあたりまえのことに、たった今気づいた。いったい今までなんのために武道を習っていたのだろう。
技だけではだめだ。戦うには心が必要であり、自分にはそれがない。桃矢はそのことをたった今、痛感した。
「――それで人を痛めつけても平気な人間になりたいと思ったわけか」
種を取ったスモモを鍋に入れ、砂糖とくわえ、レモンをひと絞り。厨房に立って作業をしつつ、秋芳はあえて身も蓋も無い、意地の悪い言い方をしてみた。
ここは道玄坂にある、かつてバーだった場所。秋芳がもぐりの陰陽師として仕事をしていた頃、店内で起きた霊災を修祓した縁でオーナーから格安でゆずってもらった物件だ。
横浜港の倉庫小屋と同様、全国にいくつかある秋芳の『かくれ家』の一つだ。
木製のカウンターにテーブル席、古びた柱時計やギリシャ風の彫刻などが置かれ、壁に作られた大きな水槽の中では魚が泳いでいる。青い光にライトアップされた中、ゆうゆうと泳ぐネオンテトラ、プラティ、ブルーベタ――。もっともこれら熱帯魚は幻術で作られたまやかしだったが、なかなか趣のある店だった。
「……はい、そういうことになります」
「冗談だよ、おまえは人に暴力をふるってもなんとも思わないような人間じゃないし、そういう類の輩には絶対にならない」
しばらくして鍋の中の水分が上がってきたら強火にし、沸騰してきたら中火にして焦げつかないようにかき混ぜ、アクを取りながら煮ていく。やがて果肉は綺麗なルビー色に煮とろける。自家製のジャムを作っているのだ。
「普通に生活している一般人にとって身につけた武術ってのは鞘に納まった刀みたいなもんだ。本来ならば抜くべきではない、抜くにしても一生に一度あるかどうかってくらいのしろものだ。だが俺たちのような呪術者にとってそいつを抜く必要はひんぱんにある、霊災や呪術を悪用する者たちを相手にだ。そして抜いたからには確実に相手を斬らなければならない、絶対に斬られてはいけない」
できあがったジャムをタッパーに敷いて、その上に一口サイズに切った食パンを詰め込み、牛乳で煮溶かした市販のプリンの素を流し込み、冷蔵庫に入れた。冷えて固まればパンプティングの完成だ。
秋芳は今だに京子との料理勝負を続けており、これはそのための一品だった。
「変わりたいと思った時点で人はすでに変わっている。人がなにかを成すには意思が必要だ。どんな能力や才覚のある者でも現状に甘んじているままならなにも変わりはしないし、能力の低い者でも努力すれば努力した分だけ変われる。桃矢、おまえの望みはもう九割がたかなっているよ。すでに技は身につけたんだ、そして戦おうと決心した。戦うための心はすでにそなわっている。自分じゃ気がつかないだけさ」
「でもいざとなると身体が動かないんです、どうしても攻撃するのが怖くて……」
「まぁ、それが普通だよ。平気で人に暴力をふるえるとしたら、そのほうが異常だわ。よし、型稽古のほかに散打。組み手もくわえて殴り殴られることへの耐性でもつけるか」
ふと春虎のことが秋芳の脳裏をよぎった。春虎は実戦に即したかたちで経験をつみ、呪力の使い方や呪術戦そのものに慣れようとして、いつも放課後に呪練場でだれかしらつかまえて対人呪術戦の訓練をしている。
術者同士が向かい合ってよ~いドンで戦闘開始。などという状況はまれなので、その行為に有用性はあるのかと正直疑問に思っていたが、考えてみれば生きた人間を相手にするのは良い訓練になる。
あらかじめ入力された動きしかできない簡易式などと異なり生きた人間の反応は千差万別だし、なにより血肉の通った生身の人間と相対する経験を重ねるのは大事だろう。
今の桃矢にもっとも必要なことだった。
「百冊の本を読むより一人の人間に会え、か……」
「え? 今なんて言いました?」
「いや、気にするな。それより対人呪術戦の訓練ならちょうど良い相手がいる、陰陽師クラスの土御門春虎ってやつなんだが」
「え、あの土御門ですか!?」
「そう、あの土御門だ」
「陰陽師の大家じゃないですか、そんなすごい人の相手なんて無理ですよ」
「すごいのは主のほうの土御門だよ。いや、春虎は春虎で非凡なところがあるが」
秋芳は春虎と夏目。二人の土御門のことを簡単に説明した。
「模擬戦なんだからそんなに気張ることはない。それに行動する前から無理だと決めつけるものじゃないぞ、呪術者同士の戦いや霊災の修祓には『絶対』だの『百パーセント』なんてないんだ。相手の使う術。霊気や瘴気の種類や強さなんてわからないのが普通だ。ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になる。一見した霊力や瘴気の総量が多い少ないなんて気休めにもならない。生きるか死ぬか、勝ち負けなんてサドンデスがあたりまえ。それが呪術戦であり、戦闘そのものだ。だが、それでも絶対に勝つ気で挑むんだ。霊力や手数の多寡で勝敗が決まるのではなく『勝つ』という気概をより強く持った方が勝つんだ」
これは以前にも京子に言った言葉であり、秋芳の思想をあらわしていた。
「春虎には話をつけておくとして、今日は俺が組み手につきあおう。刀会の本場同様に呪術の使用もありだ」
「え、ええっ!? 今からここでですか?」
「なにをおどろく。いつ何時戦いになるのかわからないのが実戦というものだぞ、思い立ったが吉日だ」
「でもこんな狭い場所じゃあぶないです。椅子やテーブルにぶつかりますよ」
「まさにそれだ、なにもないのは道場だけ。まわりにあるすべてを武器にするんだ。『ザ・レイド』という映画を観てみろ、壁なんかの角に相手をぶつけまくってて、ケンカの参考になるぞ。とはいえ稽古でそんな危険な真似はできないからな、広くしよう」
広くするといっても椅子やテーブルを壁によせたとして、できるスペースはたかが知れる。桃矢がどうするのかと問おうとした矢先、秋芳が導引を結び口訣を唱えた。
「我知世理広地、疾く」
我、世の理を知り地を広げる。周囲にあった椅子やテーブルが十メートル以上も遠ざかった。桃矢は瞬間移動でもしたのかと思ったがそうではない。床が、のびたのだ。変化があったのは床だけではなく、部屋の奥ゆきも広がっていた。空間そのものだ拡大したのだ。
「道教系の呪術に縮地というものがある。地脈を縮めて長距離をわずかな時間で移動したりするやつだ。今のはその逆をしたのさ」
世界を循環している陰陽五行の気の流れ、濃淡がさまざまな地形を作りだし天候を左右する。陽の気が濃ければ生命の成長に良く、そこに住めば家は栄える。風水は地形などから地脈の流れを読み説く技術であり、それは空間の構造を変化させる呪術にもつながる。
「さぁ、広くしたぞ」
「……わかりました、お願いします」
瀟洒な雰囲気の薫る店内で、無骨な訓練が始まった。
「後ろに避けるのと後ろに退くのとはちがう。人間は後ろにさがるよりも前に突進するスピードのほうが速い。バックステップを続ければ追い込まれるぞ、相手の攻撃をさばいて側面にまわりこめ」
「はい!」
「攻撃と防御を別々に考えるな、動きにパターンが生じて読まれやすくなる。攻防一体を旨にするんだ、これは呪術も一緒。突いたり蹴ったりするように術を使え、切り替えるような間を生じさせるな、流れるように動け」
「はい!」
「正面に立って打ち合うことが正面を突くことじゃない。自分にとっての正面を作ればいいんだ、相手の正面に合わせる必要はない」
「はい!」
「打撃は相手と接触するためのきっかけにすぎない。自分から相手との接触点を作って手首をつかんだり、横や後ろにまわったり、投げたりと変化するんだ。打撃、さばき、つかみ、くずし、投げを一貫させろ」
「はい!」
「一の瀬朱音とジャンボパフェを食べたんだって? いいなぁ、ちなみにパフェの語源はフランス語のパルフェで、その意味は『完全』。六月二八日はパフェの日で、一九五〇年のその日に巨人軍の藤本英雄という投手が日本プロ野球初のパーフェクトゲームを達成したことにちなんでいる」
「ちょ、その豆知識は今の訓練となんの関係があるんですか!?」
「ツッコむひまがあるなら身体を動かし呪力を練ろ!」
「おまえがオーディオドラマの音響監督だったとして、脚本に『夜の街を音もなく走る』というト書きがあったら、どう録る?」
「え? ええっ!? ええ~と、どうしよう……」
「すきあり!」
「あ痛っ」
「今のが乙種呪術による精神攪乱だ」
「いや、ちがうでしょ!」
「いやいや、マジで。扇を閉じる音でも相手の集中を乱せば立派な乙種呪術だ。て、天海大善がテレビだか広報誌だかで述べてただろ。乙種ってのはそういうものだ」
「じゃあ秋芳先生がオーディオドラマの音響監督で、渡された脚本に『夜の街を音もなく走る』て書いてあったらどう録るんですかっ?」
「普通に無視して走る音のSEを入れる。もしくは登場人物に『俺は夜の街を音も立てずに走っていた』とモノローグで言わせる」
「なるほどなー」
桃矢にまともに呪術を行使する余裕はなかった、もっぱら素手による組み打ち中心の模擬戦。秋芳は顔面や股間といった急所には寸止めしたが、それ以外の場所には攻撃をくわえた。もちろんじゅうぶんに加減しての攻撃だ。
対して桃矢のほうもぞんぶんに拳脚をふるい、教えられた技を実践して見せる。
「まだまだこんなもんじゃないはずだ、相手を傷つけまいとインパクトの瞬間に無意識に力を抜いているな。俺は平気だから全力を出せ」
刀会は一試合五分ということで、それを想定して五分間スパーリング、インターバル一分のフリーバトルを五回ほどおこなった。
(ほう、体さばきや足のはこびといった技術面にくわえて筋力や敏捷性もなかなかじゃないか。こうして実際に拳を交わしてみると、それが良くわかる。非常に高い水準の身体能力が身にそなわっているな)
桃矢の全身に心地良い疲労感が広がる。秋芳に打たれた場所や秋芳を打った手足には痛みが残るが、けして不快なものではなかった。
悪意や敵意のともなわない、純粋な武技によって生じた痛み。それは――心地良いものに感じられた――。
「――よし、今日はこのくらいにしておくか。さて、運動の後の一杯といこう」
「ボク、フローズン・ダイキリ」
それまで一言も話さず、秋芳と桃矢の組み手にも我関せずにカウンターのすみで携帯ゲーム機をいじっていた笑狸が口を開いた。
「そうだよな、夏といえばフローズン・ダイキリだよな」
「……でも今は十一月ですよ?」
「いいんだよ、俺の中では気分は八月なんだ」
秋芳はなれた手つきで酒瓶をたぐり、メジャー・カップでラム酒、ライムジュース、ホワイトキュラソーを量り、クラッシュドアイスと一緒にブレンダーにかけた。
砂糖やシロップはくわえない、ワイルドダイキリスタイルだ。
「桃矢はなにか飲むか?」
「僕はお水でいいです」
「なにぃ? 俺たちが酒を飲んでいるのに、一人だけノンアルコールだと?」
「だって僕は未成年ですよ。いいんですか? 学校の先生が教え子にお酒なんかをすすめても」
「俺は塾の講師であって学校の教師じゃない。はい、とある高名な苻咒師は言いました『戦った後は酒で憎しみを追い出すのさ』と、それに酒は憂いを掃う玉箒というぞ。今日の憂いは今日の酒で流すんだ」
「僕はべつに憎しみの心とかありませんし、今の運動で汗をかいたらなんだかスッキリしたから憂いもないです。……でもそこまで言うなら軽くてサッパリしたのを一杯ください」
「いや、でもよく考えてみたら未成年に酒を飲ませるのって普通にダメだよな。水にしとけ」
「飲ませたいのか飲ませたくないのか、どっちなんですか!」
「大人の楽しみは大人になってから経験するのが一番だ。若くして知っちまうと、それだけ後の人生の楽しみが減ることになる」
などともっともなことを言いながら桃矢のぶんの飲み物を作り、カウンターに置いた。飲酒をすすめてはいない、勝手に飲むのはこちらのせいではない。という体裁である。
スパークリングワインに市販のピーチネクターとシロップを少々、ベリーニだ。
さらに自分用に一杯作る。ミントの葉と氷がたっぷり入ったロングタイプのグラスから柑橘系の爽やかな香がただよう。ラム酒をライムジュースとソーダ水で割り、シロップを入れたモヒートだ。
「フローズンダイキリにベリーニにモヒート……。ヘミングウェイの愛したカクテルだ。こいつらを飲んで、ヘミングウェイのような文才を身につけたいものだなぁ」
「え~、でもさぁ。『李白は酒飲みだが、酒飲みがみんな李白とはかぎらない』て、秋芳が前に言ってたよ。じゃあ無理じゃない?」
「なぁに、最初は見た目や形から入るのもありさ。似ているものは同じ性質を持つ。厭魅や厭勝の基本原理だ」
厭魅・厭勝。共感と類似という二つの基本原則に則った呪術だ。
かつて一つだったものはいつまでも目に見えないどこかでつながっており、たがいに影響をおよぼしあう。
似ているものはよく似た力をもっている。
丑の刻参りを例にあげる。人形は人間に似ている。そこにもとは人間に生えていた髪の毛を埋め込む。人形は人間に似ているので、傷つければ人間と同じように痛みを感じ苦しみをおぼえる。そこに髪の毛を入れることによって人間とのつながりが生まれる。
もともと人体の一部であった髪はまだもとの身体ともつながっており、髪を入れた人形を傷つければ髪の持ち主も傷つくというわけだ。
このような考えは類感呪術と呼ばれ、世界中に存在する。
「この呪術は見立てが重要だ、たとえば二つに割れた石や二枚貝の貝を触媒にして――」
秋芳はもののついでにと厭魅についての講釈をしだし、桃矢はそれを真剣に聞いた。巫女クラスは陰陽師クラスほどには呪術に重きを置いたカリキュラムをしてはいないが、それでも呪術の授業はある。真面目な桃矢にとって興味深いことだった。
「――安倍晴明が葉っぱで蛙を押し潰した逸話は知っているな? 晴明が若い公家たちに『陰陽術で人を
殺せるか?』と問われ、『殺せることは殺せるが、生き返らせることはむずかしいのでそんな術は使いたくない』と答えたら、『できないからそのようなことを言う』『できるのなら庭にいる蛙を呪殺してみよ』という流れになった。しかたなしに術を使ったのだが、その術というのが草の葉をつみ取って呪文を唱えてカエルにむかって投げるとカエルは葉っぱに押し潰されて死んでしまった。というのだ。霊力や呪力を込めることで物体を強化することはできる。だが――」
秋芳は紙にペンで字を書いて説明した。
「〝葉〟は〝破〟に通じる。言霊をもって厭魅の呪をもちいればより少ない呪力で同様のことができる。晴明ほどの術巧者だ。このときにこの厭魅の呪を使ったのでは、と俺は思う。――そうだ、桃矢。おまえの同調性共鳴症のことなんだがな、密教系の呪術に似たようなのがあった」
「ええっ、それはどんな術です?」
「歓喜天の呪法でな、陰陽和合。男の陽の気と女の陰の気。このふたつを合わせることによって生じる相互作用によって高い霊力を発揮するという術だ」
「歓喜天、ですか……。なんだかエッチそうですね」
象頭の男女が抱き合っている姿をした双身の神仏で、夫婦円満・子宝を授けてくれる利益のほかにも、七代の富を一気にもたらしたり、どんな悪人の願いもかなえるという。その反面、誤った祀りかたをすれば容赦のない罰を降すという変わり種の神仏だ。
「実際エロい。性的な力をエネルギーとするシャクティ崇拝やタントラ密教とも関連のある仏様だからな。だいたい仏教系はエロいんだよ、龍樹菩薩なんて陰形を駆使して後宮に侵入してやりたいほうだいしてたし、帝釈天は阿修羅の娘や人妻に手を出したりしてるしな。……と、今はそんな話はどうでもいい」
秋芳はロンググラスのモヒートを一気に飲み終えると、また別のカクテルを作り出した。
「おまえの同調の効果は歓喜天の和合術に似ているが、より深い場所でつながるというか、対象の深層心理にまで影響をおよぼしていると見た」
以前のこと、ためしに笑狸に同調をこころみたさい、桃矢はあまたの化け狸たちの霊を感じ、笑狸は妖怪の本性があらわになり理性を失ってしまったことがあった。
またそれ以外の例を聞くと、たとえば紅葉と同調したさいは鳥の翼が顕現したというではないか。
「さらには対象のルーツ、祖霊の力を引き出しているのかもしれない」
琥珀色の液体に満たされたグラスにカットしたライムをひとつまみ、フルーティーな香りがただよう。ジャック・ターのできあがりだ。
「桃矢、俺に同調をためしてみろ」
「いいんですか?」
「ああ、術の系統はわかった。だいたいの術理も想像がつく。だからのまれたりはしないさ、この前の笑狸みたく暴走したりはしないから安心してやれ」
「わかりました、それじゃあ――」
桃矢は秋芳に近づくと遠慮がちに顔をよせ、キスをした。硬質の唇は冷たいカクテルのせいで冷やされていて、秋芳には桃矢のベリーニ、桃矢には秋芳のモヒート。それぞれが口にした酒精の味をたがいに感じる。
――なにも、おこらなかった――。
霊力の波動も呪力の脈動もない。魂がゆさぶられるような同調能力発動の気配すらなかった。
「あれ? なんでだろう……」
「あー! ずるいっ、なに勝手に秋芳とキスしてるのさ。返してよ」
なにをどう返してもらうつもりか、笑狸が桃矢のほおを両手ではさみ自分にむけると強引にキスをした。
重なる唇と唇、魂と魂。たがいの気と気が混ざり合い、一つになる。光のヴェールにくるまれた次の瞬間、そこにいたのは笑狸でも桃矢でもない長髪の青年だった。
長い黒髪に金色に輝く瞳。白い牙に銀色の爪と赤い舌。とがった耳と太い尾……。
いつぞやの時と同じ姿だった。
「わっ、なにこれ変な感じ。桃矢の霊力が流れ込んできてる!」
(これが同調性共鳴症です。ボクという能力者を媒介にたがいの霊力を同調させ、共鳴効果によって強化させる)
「あっははは、なんだか合体技みたいだね。……今なら秋芳に勝てるかな?」
「この前もそんなことを言って襲いかかってきたよな、おまえ」
「あ、そうなんだ。で、けっきょく勝てなかったと……。んー、残念賞!」
「なにが残念賞だ。桃矢、とっとと同調を解け。今ならおまえ自身の意志でできるはずだ」
(はい!)
同調性共鳴症、解除。桃矢と笑狸は元通り二つにわかれた。
「……なんで秋芳先生とは同調しなかったんでしょうか?」
「そんなことよりもな、桃矢」
「はい」
「なにおまえサラっとナチュラルに俺とキスしちゃってるの? 俺の唇に唇を合わせちゃうの? おかしくない? おまえの同調性共鳴症てのは相手に自分の唇を接触させれば発動するんだよな、この前そう言ってたよな」
「え、ええ。そうです」
「そっちの唇が触れさえすればべつにどこでもいいのに……、なぜだ?」
「あ! そう言われれば……。ええっと~、ついなんとなく口にしちゃいました」
「なんとなくだぁ~、俺にキスするということは京子と間接キスするということだぞ、このヴォルール・レーヴルめ。ゆるさん!」
「ええ~!? ていうかなんでフランス語!」
秋芳の全身から呪力があふれ、陽炎のようにゆらめく。
「うわあぁぁぁぁッ! こ、殺される~ッ!!」
「殺しはしない。……さっき話に出た帝釈天の逸話だがな、聖仙ガウタマの妻であるアハリヤーに懸想した帝釈天がガウタマに化けてまんまとアハリヤーと床入りするも、それがすぐにばれてガウタマに呪いをかけられてしまう。その呪いというは全身に千の女性器をつけられたうえに男の性的能力を奪うという恐ろしいやつだった。京子と間接キスをした間男め! おまえにも同じように恥ずかしい呪いをかけてやる!」
「キャーッ!? やめてーっ!」
悲鳴をあげ、逃げようとする桃矢。だがそれよりも速く秋芳の手がのびて、桃矢の顔をなでた。
顔の中央に違和感が広がり、なにかが口にあたる。おそるおそる手でさわってみると、鼻がのびて垂れ下がっていた。
いや、なにかちがう。これは鼻ではない。妙にやわらかく、なじみのある感触。先端部分にふたつあるはずの穴はなく、皮につつまれている。皮は簡単にめくれて親指サイズの肉塊の先に鼻穴よりもっと小さな穴がひとつ。これは――。
ペニスだ。
鼻があるべき場所から男性の生殖器が生えていた。
「くぁwせ●×△○▲■□drftgy◎※☆★◆ふじこlp◇◇◇⊿ッッッ!!??」
桃矢はみずからの身に生じた異常な現象に驚愕し、声にならない悲鳴をあげて卒倒した。
「あははっ、すご~い。鼻がチンコになってる! 山田風太郎の『陰茎人』みたい」
「鼻の大きな男はいちもつも大きいと言う俗説がある。鼻ってのは男性器のメタファーなんだろうな」
似たものは性質を共用する。厭魅の呪詛で鼻をペニスに変えてしまったのだ。
「もっもももッ、ももももモモモもとっ、も、もと。もともともと――」
「モト冬樹?」
「もとにもどしてくださいッ!」
「せっかく変態したんだ、もう少し肉体の変化を楽しめ」
「こんな変態みたいな変態楽しめませんっ」
「ふんっ、昼みたく女子にかこまれて鼻の下をのばすようなやつにはお似合いの変態だ。俺は今までの人生で女子どもに持てはやされたことなどないというのに、チヤホヤされやがって……。鼻の下どころか鼻そのものをぞんぶんにのばすといい」
「嫉妬してる!? 器の小さな人だ!」
「小さな器おおいにけっこう。器の小さな者はそれだけ正確におのれの器量を計れるが、デカいやつはそれがわからず大ポカをしでかしておのれの寿命をちぢめるのだ。織田信長や岳飛のようにな」
カウンターの下からおもむろに麺打ち棒を取り出した秋芳はそこに『梅桃桃矢』と書き記す。
「な、なにをするつもりですかっ……」
いやな予感を感じて桃矢の胸中がざわつく。
「厭魅の効果をその身をもって体験し、この呪術のなんたるかを知るといい」
そう言うとなにかの呪を唱え、棒の先端部分をゆっくりとなでまわし始めた。
「あっ!?」
桃桃の〝鼻〟がピクリと反応する。触れてもないのに外部からの刺激を感じたのだ。
「あっあっアアッ! こ、これは……」
秋芳は棒の先をなでまわすのをやめて、こんどは上下にしごきだした。甘い刺激がいっそう強まり、その甘美な刺激に反応して鼻がむくむくと屹立し、反り返る。
「ほほう、桃矢は仮性か」
「み、見ないでっ、見ないでください! あっ、アアッ!?」
勃起しても皮のかぶったままの鼻を見られた。恥ずかしくて両手で顔を隠す桃矢を容赦なく悦楽の波が襲う。
「どうだ、自分でするよりも気持ち良いだろう? 厭魅において形代や媒体を矢で射抜く方法を仙法(そまほう)、槌などで叩くものは天神法、釘や針で突き刺すものは針法と呼ばれるが、これはまぁ撫で物の一種だろうな」
なでたりしごいたり、たまに手を休めたり。ときにやさしく、ときに激しく。緩急をつけての手技に思わず前かがみになり、股間を押さえようとしてハッとなる。
ちがう。いつもとはちがう。本来ならば腰の奥に感じる気持ち良さが脳の奥から生じるという未知の感覚に恐怖と戸惑いをおぼえた。
だがそんな感情はエクスタシーの嵐によってすぐに消し飛んだ。
(と、溶けちゃう! 気持ち良すぎて脳みそとろけちゃうッ!?)
血圧と心拍数が上がり、息も荒くなる。乱れた呼吸に桜色の唇が小刻みにふるえ、あえぎ声まじりの吐息が漏れる。
「うっわぁ~、桃矢ってばエロかわい~。えい☆」
笑狸が舌で俸の先をなめる。それがとどめになった。
「――――ッッッ!!」
ビクビクッ、ぶるぶるっ。
快感という名のハンマーが脳髄に直接叩き込まれ、意識がピンク色に染まった。全身をオーガズムが駆け巡り、身体をふるわせて絶頂をむかえた。
「ら、らめぇぇぇ! 出ちゃうっ! 出ちゃうッ! 脳みそザーメン鼻から全部出ちゃう! バカになりゅぅぅぅっ!」
びゅくるるるるっ! ぶびゅッびゅっびゅー! びゅっびゅ、びゅくっ、びゅく、びちゅるるる……。どぷっ……どぷっ……。
痙攣してのけ反りかえり、鼻から大量の白濁液を放出するも、それらは床に落ちる前にかき消えた。呪術によって一時的に生じた疑似的な器官から出る体液もまた現実のものではないからだ。
床に伏せ、息も絶え絶えな桃矢の〝鼻〟は急速に萎えしぼみ、もとの形にもどった。
「おい笑狸、勝手なことするなよ。このあと『イキたいのなら自分でしごくんだな』て言って棒をわたして様子を見るつもりだったのに」
「なにそれ鬼畜すぎ!」
「これからは鬼畜系ドS主人公の時代なんだよ。押しの弱い草食系主人公や、やれやれ系主人公の時代は終わりなのだ。いやマジで絶対そっちのほうが受けるって」
勝手なことを言いながらライムをかじりラム酒をすする秋芳を涙目で見つめる桃矢が口をひらいた。
「――ですか――」
「うん?」
「僕がまた秋芳先生にキスしたら、いつでも今みたいなお仕置きをしてくれるんですか?」
「「え?」」
上気して朱に染まった頬に潤んだ瞳、せつなげな息づかい。
「今の、すごく良かったです……、もうクセになっちゃいそう……」
そうつぶやく桃矢の表情は欲情もあらわで、とろけるようだった。
「ええと、桃矢くん。酔っぱらっちゃったのかな? かな?」
「なんか妙なスイツチが入っちゃったみたいだね。でも良かったじゃない、鬼畜系ドS主人公にふさわしい被虐系ドMヒロインの誕生だよ」
「いや、こいつ男だから。ヒロインじゃないし」
しなだれかかってくる桃矢をてきとうにあしらっていると、秋芳の脳裏にある疑問が浮かんだ。なぜ自分のときには同調性共鳴症が発動しなかったのか、と――。
翌日。
「ああ、いいぜ。……正直京子の式神は強すぎてこまってたんだ。同じ生身の塾生とガチで訓練できるなんて願ったりかなったりだぜ」
桃矢との模擬戦の話を秋芳から聞いた春虎は二つ返事で承諾した。
自己紹介をすませたのち、さっそく放課後に地下の呪練場で模擬戦がおこなわれた。
「せいっ」
桃矢の竹薙刀の切っ先が円を描く。春虎はかまえた錫杖の石突きを跳ね上げて鋭く受け流すと同時に輪先を反転させて打ち込んだ。
よける。桃矢は右に左に体をうつして、春虎の攻撃をたくみにかわす。けして正面から受けたりせずに受け流す。
春虎の手にある錫杖は担任講師である大友陣が呪力付与した特製の呪具で、大量の霊力を消費する代わりにその霊力を呪力の刃に、あるいは盾にと変幻自在に姿を変えて戦えることができる逸品だった。呪術は未熟でも霊力の強い春虎にとって理想的な武器であり防具といえた。
これでは桃矢のほうが不利に思えるが、霊力の差を技術で埋めていた。霊力では春虎が、技では桃矢が勝る。
そして呪術の腕では――。
「お、急急如律令!(オーダー)」
「うわっ、急急如律令!」
木行苻から生じた蔓を金行苻の刀が切り裂き、水行苻の水流を土行苻の石がせき止める。
(二人とも呪術となるとまだぎこちないな)
一応は五行相剋のセオリー通りだが、両者ともになんともたどたどしい。できれば五行相生を利用した攻めをして欲しいものだが、呪術は座学がメインの一年生にそこまで求めるのは酷だろう。
むしろよく動いているほうだ。
(あとは馴れだな、場数を踏めば自然に相生相剋。五行の連環ができるようになる。……うん? 桃矢のやつ、なにか仕込んだな。春虎は気づいてない、か……)
秋芳がそんなことを考えていると勝負がついた。たがいの呪苻が舞う中を裂いて春虎の錫杖が桃矢の胴に入った。のだが、苦痛の声をあげたのはしかし春虎のほうだった。背中に一枚の札が貼りついている。
札には漢字でも梵字でもない、模様のような奇怪な呪字が書きこまれていた。その文字が意味するものは等返害。等しく害を返したり。
ダメージを受けたさい、それを相手に返す呪だ。本来ならばそっくりそのまま損傷を送り返すのだが、今の桃矢の呪力では痛みのみを返すのがせいいっぱいだった。
「それまで。たがいに技あり。と言いたいところだが、春虎のほうが有効だな」
「よっしゃ!」
「おいおい春虎、あんまり調子にのるなよ。桃矢の呪力が高かったら今のはやばかったんだぞ」
「高かったら、の話だろ」
「まぁ、たしかにそうだな」
げんに春虎は五体満足で立っている。戦いに『たら』『れば』の話など不要だ。
秋芳はかつて剣道家が不良と私闘をする現場に居合わせたことがある。その不良は不意打ちで竹刀を投げつけ、スライディングで足を蹴るという方法で剣道家を倒した。
『せめて防具をつけているところを攻撃しろ。でないと試合にならない』
『そんなことしてたら負ける。おれは勝つために戦ったんだ』
『今のはおまえの負けだ。突っ込んできた時に先に面を入れた、剣道なら一本だ』
『相手が倒れてもいないのに一本もへったくれもあるか』
『今のが侍の決闘で持っていたのが真剣だったら、おまえ死んでたんだぞ』
『そんなの、もし、の話だ。おれは生きてるぜ』
そんなやり取りがあったのだが、はたから見ていた秋芳は不良の言葉に妙に納得してしまったものだ。いわゆるドキュンと呼ばれ忌み嫌われるチンピラの中にも、たまにこのような手合いもいるのであなどれない。
さて、春虎のような高い霊力を前面に押し出してくるパワーファイターは巫女クラスにはほとんどおらず、良い経験になる。
二勝二敗二引き分け。実力的にも伯仲しており、春虎と桃矢は良い勝負を繰り広げていた。
「二人とも白兵戦から呪術戦に移るさいどうしても切り替えの間ができるから、それをなくさないとな。その呪術も、いまいちぎこちない。息をするように霊力を呪力に変換し、それを練り続けてつねに術式を展開できるようなるのが今後の目標だな。術を選んでから呪力を練るのではなく、術を使う間に次の術を用意するんだ」
「おまえサラっと言うけど、それってプロに求められるレベルのスキルだぞ」
「このくらい京子はできるぞ。あとたぶん夏目も」
「あの二人とくらべるなよ……」
「春虎はプロの陰陽師になるんだろ? プロを目指す人間がプロの技術を身につけないでどうする」
「おれはまだ一年生だぜ、そんな高等技術まだ無理だって。早すぎ」
「……毛利元就は言いました」
「は?」
「毛利元就がまだ元服前、松寿丸の名で呼ばれていた頃、家臣たちと厳島神社に参拝に行ったことがある。そのおり元就が家臣たちに祈願の内容を訊くと、家臣らは『松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました』と答えた。それに対して元就は『なぜ天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は『実現不可能なことを祈願しても意味がないでしょう。今はせいぜい中国地方ですよ』と笑ったが、元就は『天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは安芸一国すら取れずに終わってしまう』と、おのれの理想の高さを示して家臣一同を感心させたという」
「ふ~ん、目標の高い人だったんだな。毛利元就ってオクラみたいな兜で部下たちを捨て駒にする冷酷な武将ってイメージだけど」
「それはゲームの話だろ。苦労人だったからか、身分の低い者にも気をくばれる君主だったそうだ」
毛利元就、尼子経久、宇喜多直家……。彼らはいずれも謀将と呼ばれる策略家で、冷酷な印象があるが、三人とも家臣はとても大事にしていた。直家など暗殺や謀殺のエピソードにこと欠かないが、暗殺を実行させた者を使い捨てたり口封じしたりせずに、その後も厚遇している。
「へぇ、じゃあひょっとして『米がなければ麦を食べるが良かろう』とか、マリー・アントワネットみたいなことは言わなかったの? 作り?」
「言ってない。そんなこと言ってたら一揆で国が滅ぶわ。あの時代の農民なめんなよ、半農半武のヒャッハーな人たちなんだからな。つうかマリー・アントワネットの『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』てのも作りだぞ。……晋の恵帝が『米がないなら肉を食え』て言ったのは史実だそうだが。そういえば江戸時代にも米がないなら犬を食えとか言って大ひんしゅくを買ったお奉行がいたな。……て、そんなこと今はどうでもいい」
なにやら話が脱線しそうになったのを自覚した秋芳は話をもとにもどす。
「早すぎるとか自分にはまだ無理だとか言っていたらいつまでたっても上達しないぞ、最初からあきらめたりするな。おまえの夢を妨害する最大の敵は自分自身と思え。自分さえくじけることがなければ、たとえどこのどいつが邪魔をしてきても、やりとげることができるんだ。逆に言えば自分がくじけちまえば世界中の人達すべてから応援されても夢を実現することはできない。さぁ、春虎よ。自分の夢をもう一度思い出せ。その夢をかなえることから遠ざかるような言い訳を自分自身でしちゃいないか? どんなに達成することが簡単な目標であっても『たら』『れば』を言っているようだと永遠に達成することはできないぞ。独立しようと思っていても自分に力がつい『たら』やろうと思っているようじゃ独立なんかできっこない。一定の条件下でないと望むことができないと思い込むのは自分に枷をはめる行為だ。演技の経験がないので芝居ができない人は芝居がほんとうにしてみたいのであれば、やってみればいい。それをせずに芝居をしろと言われ『たら』やります。なんて言っていたら、いつまでたっても舞台に上がれない。自分からやると言えば言いだけだ。やってみればいいんだ。そして失敗をたくさんして、そこから多くを学べば良い。『たら』『れば』を使って夢を後まわしにするな。あきらめるな。今の状況を作ってるのは自分自身だ。打開することができるのも自分自身だ。『たら』『れば』はただの言い訳だ。できない自分を正当化するだけの乙種言霊だ、呪いだ、呪詛だ。やりたいことがあるのなら『たら』『れば』を使わずに今すぐ実行あるのみ! 行動を起こすことこそが夢を実現させるための一番の近道なのだ!」
「お、おう」
「はい!」
春虎よりもむしろ桃矢のほうが秋芳渾身の長口上に感銘を受けた様子で力強くうなずいた。
「いや~、語ったわ~。上条さんばりに口舌をふるったわ~。と思ったけど、あの人は四ページにわたって長科白を言ってるから、俺なんてまだまだだな。――それじゃあもう一勝負、こんどは呪術のみでやってみよう」
「え~、呪術しばりとか無理だって!」
「言ったそばから『無理』とか自分に呪詛をかけない! 苦手な分野を克服する良い機会じゃないか。つうか夏目からいろいろと教えてもらってないのか?」
「授業について行くのもやっとなのに、そんな余裕ねえよ」
「だから授業で教わらないような実践的なやつをだよ」
「う~ん、九字切りとかなら……。他にもなんかあったけど、おぼえてない。術理とか術式とかサッパリなんだよ。……なぁ、頭の良くなる呪術とかないか?」
「あるぞ」
「マジで!?」
「求聞持聡明法といってな、無限の記憶力と知恵を手に入れることができると言われる術で、かの弘法大師空海が高知県の御厨人洞で修行し、身につけたという密教の秘法だ」
「すげぇ! 教えてくれ」
「まず外界から隔絶された場所にこもり、心を無にした状態で印を結び虚空蔵菩薩の真言を一日に一万回唱える。それを百日の間続ける」
「は?」
「首尾よく進めば阿頼耶識に通じることができる。このとき阿頼耶識に飲まれれば魂を持っていかれ自我が消滅するから気をつけろ。さらに阿頼耶識より生じた魔に魅入られることもある。この魔とは原始から未来に至るまでの人の記憶そのものであり、まともに受け入れればその情報量の多さに常人の脳は耐えきれず焼き切れてしまうだろう。そうなれば命が助かったとしても廃人だ。阿頼耶識に飲まれず魔にも捕われず、真の智慧までたどり着くことができれば成功だ」
「……秋芳はそれ、したことあるのか?」
「するわけないだろう、こんな危険な呪術」
「もっと安全でお手軽に頭の良くなる呪術はないのか!?」
「知恵と学問を司る八意思兼神の祝詞を唱えることで一時的に頭の回転を速める術なら……」
「それはどういう術なんだ?」
「これこれこういう術式で――かくかくしかじか――術理は――うんぬんかんぬん――祝詞は――」
「長い! わけわからん! おぼえられるか!」
「武の道にも呪の道にも近道なんてないんだよ、地道に勉強しよう。あの大陰陽師、安倍晴明だって陰陽寮入り。つまり陰陽師になったのは四十になってからで、活躍したのは五十、六十の頃。遅咲きの人だったみたいだが、それだってそれまできちんと勉強していたからこそ遅くにでも花開けたんだ、のんべんだらりと過ごしていたわけじゃない」
安倍晴明が陰陽師として歴史の表舞台に登場したのは齢四十を過ぎてから。それまでは大舎人寮という部署に属する下級官吏で、宮中の雑務をこなしていた。
西暦九六〇年。内裏で起きた火災により守護の霊剣が損失してしまった。この剣を元に戻すよう村上天皇に命じられた晴明は役目を見事に果たしたという逸話があるが、これなど年代的にみてまだ業績の浅い晴明に勅令が下るのはおかしい。師である賀茂保憲の功績ではないかといわれる。
「なぁに? ま~た春虎がごねてるの?」
美しい声とともに亜麻色の髪をアップにした少女が姿をあらわすと、まるで大輪の華が咲いたようにきらびやかな気が呪練場に満ちた。ぱっちりとした瞳に長いまつ毛。健康的な肌色にローズピンクの唇。可憐にして豪奢な美貌と均整のとれたスタイルの持ち主。倉橋京子だ。
「巫女クラスの生徒と模擬戦をおこなうと言ってたけど、迷惑はかけてないだろうね、春虎?」
黒絹のような髪に白磁のような肌をした怜悧な美少年、土御門夏目が続く。
「相手が巫女さんだからって鼻の下のばしてたら、足もとすくわれちまうぜ」
ひたいにヘアバンドを巻いた目つきの悪い少年、阿刀冬児。
「あれ? たしか巫女クラス唯一の男の子だって話だよ」
地味眼鏡、百枝天馬。
春虎の自己練習につき合うことの多い、いつものメンバーたちがやってきた。
「それ、マジかよ天馬?」
「うん、たしか梅桃桃矢くんだったよね」
「なんだって!?」
血相を変えた夏目が桃矢に近づくと、その顔をじっと見つめる。
「な、なな、なっ、なんでしょうか、僕がなにか?」
噂の『すごいほうの土御門』につめよられ、思わず後ずさりをしてしまう。
「……そうか、君も同じなのか」
「は?」
「みなまで言わなくていい。わかるよ、君の気持は。うんうん、木ノ下先輩だけじゃなかったんだね。世間は広いようで狭いんだな、感動だよ!」
「は、はぁぁ?」
どこかでだれかにしたのと同じようなかんちがいをした夏目が興奮して桃矢の手をとる。
「呪術戦の相手が必要ならばくも一肌脱ぐよ、遠慮しないでくれ」
「あら夏目君のほうからそんなこと言うなんて珍しいわね。でもあたしも巫女クラスの子の実力には興味あるわ、ひとつお相手願おうかしら」
「あ~、俺もいいか? いつも春虎の見てばっかだったからな、たまには運動したくなってきた」
「あ、あれ? 僕もしなくちゃダメな流れなのかな? かな?」
めずらしいことに夏目と京子に続いて冬児と天馬も手合せに立候補してきた。
刀会本番までの間、桃矢は模擬戦の相手には不自由しなくなった。
そして、一週間が経った――。
刀会 2
刀会。
武道実技をかねたクラス対抗の紅白戦は巫女クラスの中でも派手で盛り上がる人気講義の一つだが、今回のそれはいつもよりさらに盛り上がりを見せた。
例年ならば陰陽寮地下にある呪練場でおこなわれる行事なのだが、今回は陰陽庁に隣接する呪練場。通称『呪道館』で開催されることになったからだ。
伝統武道の普及と奨励、心身錬磨の大道場としての役割をになうことを趣旨として設立された東京都千代田区にある本家日本武道館がアイドルやアニメ声優といった芸能人らのコンサート会場と化したなかで、この呪練場だけはそのような大衆の娯楽施設になることなく本来の役割をまっとうしていた。
この場所でおこなわれるようになったには理由がある。一つにはこの時期に呪道館が空いていたこと、ひとつには巫女クラスの存在が陰陽庁内でここ最近なにかと話題になっており、はたしてその実力のほどはどのようなものか、機会があれば見てみたいという意見が多くあがり、今回のような流れとなったのだ。
アメリカ国防総省を思わせる五角形の外観は陰陽道の五芒星を模したもので、高純度の呪力の練り込まれた注連縄、高い霊気を宿す磐座、清らかな盛り塩、青々とした榊、様々な種類の護符――。陰陽庁や陰陽塾と同様、いやそれ以上に堅固な結界が外部にも内部にも大小無数にほどこされている。
場所が場合である。血気盛んな若き祓魔官や呪捜官が禁呪まがいの大技を繰り出すことも多々あり、呪力が外に漏れ出さないように造られていた。
甲種呪術の練習、競技場としては国内最大規模で、フェーズ4。百鬼夜行級の霊災に見舞われても耐えられるとさえ言われている。
まだ開会前だが観覧席は多くの人でうまっていた。いずれも陰陽庁の職員、呪術関係者だ。ぶざまな姿は見せられない、八〇人近い巫女クラスの生徒たちは緊張の色を隠せない。
「あら、石戸さん震えてらっしゃるの?」
「こ、これは武者震いよ。そう言う神代さんこそ何度もお手洗いに行って緊張しすぎなんじゃない?
生体尿管カテーテルでも用意したら?」
そんな中で比較的落ち着いているチームがあった。第一試合であたる緋組拾参番隊と白組壱番隊だ。だが白壱番隊のほうにいるはずの二人、七穂氏白亜と十字眞白の姿が見あたらない。
「琥珀さんだけ!?」
「ええ、そう。あの二人には案件を追ってもらってるから遅れるのよ。第一試合には間に合わないわね。その間は私が相手してあげるわ」
「……たいした自信だな。じゃあ琥珀に勝つってことは、壱番隊に勝つってことでいいのか?」
内に湧き起こる怒りを押し殺し、おさえた声音で問いかける紅葉。一人で三人、いや桃矢を入れて四人を相手にするなど、バカにしている。
「あなたこそ『たいした自信』ね、二之宮紅葉。私に勝てるつもりだなんて……。そうよ、たとえ一人でも私の負けは壱番隊の敗北、言うまでもないわ。もっともあなたみたいな甘ちゃんに負けることなんて絶対にありえないけど。良い機会だから実力の差ってのを教えてあげるわ、これはバトルじゃない、セミナーよ」
灼熱の闘志を宿した視線と氷結の意志をもった視線がぶつかり合う。
「あのう、珊瑚さん」
「なぁに、桃矢さん」
「たしか琥珀さんたち壱番隊の人とは入学当初にいざこざがあったって言ってましたよね? プール掃除の時に」
「ええ、そう……。彼女は、紅葉さんは元壱番隊だったのよ」
「え……」
「それがとある案件に関わった時に仲たがいしてしまったの――」
案件。巫女クラスの生徒たちに課せられる自由課題で清掃や失せ物探しから低レベルの霊災修祓まで、人々から寄せられたさまざまな依頼のことを指す。
これは半年近く前、才気あふれる二之宮紅葉が白組壱番隊として市民のお悩み相談にのった時の話――。
東京都郊外にある一軒家。プラモデルや美少女フィギュア、書籍やCDが一見乱雑なように、見る者が見ればテーマ別、作家別に整然と配列された、いかにもオタクな部屋の中で一組の男女が楽しげにたわむれていた。
「ねぇ、あなた。仕事のほうは順調?」
長い黒髪の女がそう言ってシャンプーする時のように両手で男の髪を優しくかき回す。
「ああ、新しい連載も始まって今月はいそがしいんだ」
「うふふ、すてき! 仕事のできる旦那様って好きよ。ましてクリエイティブな職に就いている人なんて最高! さすがあたしの旦那様ね」
「おいおいよせって、昼間から」
女は男を無理やり立たせてベッドの上に転がりこんだ。
「抱いて、周ちゃん……」
「うん、抱くよ。由衣」
周一の休みなく続ける愛撫に由衣がしだいに反応しだす。ゆるやかに上下する白い腹の動きがじょじょに大きく、激しくなってきた。
少々性急かつ強引に突入したため、由衣は『あン……』と甘い声をあげて周一の首筋にしがみつき、背後に脚をまわし、しっかりと自身の体を固定する。俗に言うだいしゅきホールドというやつだ。
「ああ! いいっ! いいわ……。あなたって最高! 大好きよ周ちゃんっ、ああッ……!?」
愛する由衣の中で果てた周一はしばらく事後の余韻にひたり、幸せをかみしめる。
幸せだ。
最高に幸せだ。
由衣と出会えた幸運を神に感謝している。この世にはフィギュアやBDをいくらたくさん集めても満たされないものがある。世界は一人で生きるより、二人で生きるほうがより素晴らしいことだと、彼女に逢って知ったのだ。
おなじようなオタク趣味で考えかたも一致する。ケンカや口論をしたことなど一度もない、理想の恋人だった。
「おれはなんて運が良いんだろう、君と出会えて最高に幸せだよ」
「あたしも周ちゃんに出会えて最高に幸せよ……」
独りで生きていたころは孤独なんてないしたことないと思っていた。本物の女なんていなくたって、アニメやエロゲーでじゅうぶんだった。
でも、今はちがう。もう独りにはもどりたくない。
「あたしもよ」
由衣がやさしく微笑む。
「あなたはあたしのすべてを受け入れてくれた最初の人よ。……ねぇ、まだ起てる?」
「もちろんさ!」
二人はふたたび愛し合い始める。押し殺した嬌声が部屋の中に響く、そのとき――。
「周一! 入るわよ、周一!」
返事もまたずに部屋の引き戸が開き、年老いた女が姿を見せた。
「な、なんだよ母さんっ、いきなり入ってくるなんて、『ゆかり』もいるんだぞ、少しは気を使ってくれよ」
ゆかり、と言った。周一は先ほど由衣と呼んだ女性のことをゆかりと呼んだ。
「あ、ああ……、周一……。周一……、ごめんよ、ごめん……」
悲しげな顔をしてなにかをうったえかけようとした老母をさえぎり、周一は声を荒げる。
「いいかげんにしてくれないか、母さん! おれは仕事もやっているし、奈々というかわいい嫁ももらった。いったいなにが不満だって言うんだよ!」
こんどは奈々だ。
由衣、ゆかりと呼んで、奈々と呼んだ。
「あ、ああ……。そうだね、そうだね。おまえは良い息子だよ、うん……。あ、あのねぇ、親戚の子が来てるんだよ、紅葉ちゃんて子なんだけど……」
「そんな子いたっけ? 記憶にないなぁ」
「ち、千葉のおじさんのとこの紅葉ちゃんよ。東京の学校に通うことになったからあいさつに来てさ」
「遠くの親戚なんて他人みたいなものだろ、めんどくさい。おれは合わないよ、母さんが相手しろよ。……さぁ、出てってくれ」
うむを言わさず老母を部屋から追い出した周一は舌打ちをして引き戸を閉めた。
「まったく、ほんといやになるよ、母親ってのは。ノックもなしにドアを開けるし頼みもしないのに部屋の掃除をするし」
「そんなに悪く言っちゃダメよ、お母様なのに……」
「遥はやさしいなぁ」
遥と呼ばれたモノはやさしく、ただただやさしく周一に微笑み返した――。
ホクホクとした黄金色のじゃがいも、あめ色の玉ねぎ、出汁が染み込んでやわらかくなったインゲンとにんじん、ボリュームのある薄切り肉。周一は妻の用意した肉じゃがを一口食べて称賛の声をあげた。
「美味い! 美味しいよ、美菜子の作る料理はいつも最高だな」
「うふふ、周ちゃんってば……」
しばらくの間舌鼓を打ち、料理をたいらげると先ほどの話になった。
「――どうも親戚ってのがきらいでね、なるべく顔を合わせたくないんだ。なんか昔いやなことを言われたような気もするし」
「だれかになにを言われても気にすることなんかないのに、あなたは立派にやってるわ」
「そうだよな、おれは立派にやってるよな。……しかし母さん、最近は情緒不安定だな。あんなんでちゃんと仕事できてるのかな?」
「一度お医者様に診てもらった良いんじゃない?」
「ああ、そうだな……」
その時ぎしぎしと床がきしむ音がした。誰かが部屋の外にいる。また母さんか。うんざりした周一が口を広くより前に戸が開いた。
「こんばんは、お邪魔します」
「邪魔するわ」
「お邪魔しますね」
老いた母親などではない、そこにいたのは三人の少女たちだった。千早、襦袢、白衣が一つになったような上着と緋袴のようなキュロットスカート。神道の巫女装束のようなデザインをした紅白の着物。陰陽塾巫女クラスの制服に身をつつんでいた。
「おひさしぶりです、周一さん。春から陰陽塾に通うことになった二之宮紅葉です。この二人はルームメイトの――」
左右の目の色がちがうツインテールの四王天琥珀。昔の女学生のようなポニーテールにリボンつきカチューシャをした十字眞白。
天下の陰陽塾塾生。それも恰好から察するに巫女クラスの生徒が三人も現れた。唖然とする周一をよそに自己紹介をすませた紅葉、琥珀、眞白は返事も聞かずに部屋の中に入り、あたりをうかがう。三人の視線がテーブルの上にむかう。
大皿に盛られた肉じゃがが湯気を上げていた。
ついさっき完食したはずの料理が、箸もつけられていない、できたての状態でそこにある。
「……とても美味しそうですね。せっかくだから私たちもご一緒させてもらっていいですか?」
妙に冷めた目でそれを一瞥した紅葉たちは部屋に入った時と同様に周一の返事も待たず、おのおの腰を下ろす。琥珀は引き戸の前、眞白は窓側、紅葉は周一と妻との間に正座する。これは部屋の中にいる者を外に出さないような配置に見えた。
(おいおい、ずいぶんとあつかましい子たちだな……)
これだから親戚はきらいだ。親族だから、血縁者だからとプライバシーも遠慮もなしにズケズケと人のテリトリーに入ってくる。
「周一さんがすごい美人のお嫁さんをもらったって聞いたんですけど、この人がそうですか?」
妻の話題になったとたん周一の不機嫌な表情が一転、喜色を浮かべて語り出す。
「ああ、そうだよ。さやかは良くできた嫁さ。おれの仕事が家で一日中パソコンにむかう仕事なんで、つきっきりで世話してくれるんだぜ。作る料理も美味いし……。おかげでこんなに太っちゃったけどな」
太っていると、そう言った周一はみずからの腹をなでた。枯れ木のように痩せ衰えた細腕が、たるんだ皮だけのへこみ腹をなぞる。
「――あなたがすてきだからついて行くのよ、周ちゃん」
「いやいや、みゆきは良い女だよ」
三人の女子に囲まれているというのにはばかりもせず、仲むつまじくたわむれ出した。
「周一さん、どんなお仕事をしているんです?」
「ん? ああ……。おもに雑誌のコラムや寸評を書いてるけど、たまにエッセイなんかもやるな。小説も書くよ、まぁ、ライターってやつだな。ほら、これなんか今月から始まったおれの連載だよ」
そう言って紅葉に一冊の本を手渡す。サブカル系の雑誌で、発行年を見ると今月どころか数年前に出版されたものだった。周一の名は――、あった。ただしコラムでもエッセイでも小説でもない、読者ハガキとして投稿コーナーに掲載されていた。内容もあたりさわりのない凡庸なものだった。
だが、周一の中ではそれが『小説』になっているらしい。
「どうだい? それは。いわゆる異能力バトルものってやつなんだけど、おれはオリジナリティあふれるまったく新しい特殊能力を考えてみたんだ。今までだれも考えついたことのないような、もの凄い無敵の超能力だよ! 訊きたいかい? それは――右手で触れることであらゆる魔法や超能力といった異能の力を無効化する能力さ! どんな能力を持つ敵とも戦える万能の力。この力を手にした高校生の少年が次々と現れる敵と激しいバトルを展開していく予定さ」
「すごいわ、あなた。こんなことだれも思いつけない、あなたはスーパーハイパーメディアクリエイターよ、売れっ子作家よ!」
「ふふ、これも理恵がいてくれるおかげだよ」
「ううん、あなたの才能よ」
たった今自慢げに語った内容の作品はとっくの昔に別人の手によって書かれ、世に出ている。だが周一の中では自分の書いた作品になっているようだった。自分の世界の中では――。
ふたたび二人だけの世界に没頭し出す周一とその妻を置いて紅葉達は部屋を出た。
「ひどい霊気の偏向でした……。あの部屋、穢れに満たされていますわ。これは除霊、ううん、修祓が必要ですわね」
ゲッソリとした顔で眞白が感想を言うと琥珀も考えを述べた。
「そうね、でも見鬼たところ瘴気の強さ自体はたいしたことないわ。それでも段階的にはフェーズ3寸前といったところだし、これは今すぐにでも修祓したほうが良い。手をこまねいていたら移動型・動的な霊災にまで発展しちゃう」
どこから取り出したのか、円盤状のロリポップキャンディを口にしつつ、修祓の段取りをテキパキと指示しだす。
四王天琥珀。彼女こそ白巫女壱番隊のリーダーなのだ。
「護符の種類と貼る場所は――、使用する術は――、必要な物は――」
「…………」
「どうしたの、もみもみ? なにか考えごと?」
「あ、ああ……。あの人の、周一さんの姿があまりにも異様だったから、少し、その……」
「ええ、ほんと気色悪かったですわ。ガリガリに痩せているのに目だけは爛々として、魔物のようでした」
「見た目もひどいがそれだけじゃない、現実から目をそむけて自分だけの世界に没頭していた。人とはああも簡単に壊れてしまうものなのだろうか……」
「元凶を絶てばもとに戻るわ。今は霊災修祓に集中、わかった?」
「あ、ああ――」
「――高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち加加む呑んでむ。 祓え給い清め給う――」
三人の巫女たちは口々に最上祓いの祝詞を唱え、かまえた弓の弦を引いて音を鳴らしている。
鳴弦。弓に矢をつがえずに弦を引き、音を鳴らすことにより邪気を祓う退魔の儀だ。
神聖な呪力の込められた音が響き、あたり一帯を霊的に浄化する修祓方法。
巫女たちの儀式の横では周一の母が数珠を手に一心不乱に祈っている。ただしこちらは儀式とは関係ない。彼女たちの術が完成して息子が救われ、もとの生活にもどれるよう、神仏にすがっているのだ。
効果はすぐにあらわれた。
部屋の中で愛し合っていた周一とその妻だったが、祝詞が聞こえてくると妻が突然苦しみだしたのだ。
「あなた、お願い。あ、あの呪文をやめさせて……。苦しい、体がこわれそう……」
よくはわからないが階下から聞こえる呪文が妻を苦しめているようだ。血相を変えて部屋から出て下に降りた周一は儀式を阻止しようと巫女たちに拳を振るう。
「いいかげんにしろーっ、いったいなんのつもりだ! 綾を苦しめるやつはゆるさない、綾はかならずおれが守るんだっ!」
「縛り、絡めよ。急急如律令」
琥珀の投じた木行符が青いつる草に変じ、周一の身を縛り上げた。
「くそっ、なにが目的でこんなことをするんだ!?」
床にころがった周一は瞋恚に満ちた目で巫女たちをにらみつけ、悪態をつく。そんな周一の視線を正面から受け止めて、紅葉はゆっくりと説明する。
「やっと部屋から出られましたね。私たちはあなたの親戚なんかじゃありません、あなたのお母さんに頼まれて霊災修祓に来た陰陽塾の者です。あなたはあの『女』に憑かれてずっと幻覚を見せられていたんです。あの部屋の中にいる限り、ずっと虜にされていたことでしょう」
「なにを言っているんだ、わけがわからない。おれたち夫婦の仲を邪魔しないでくれ、彼女は良くできた妻なんだ。彼女の献身のおかげでおれは順調に仕事ができて幸せに暮らして――」
「これを見て。あなたの書いたっていう作品なんて、どこにもないでしょ」
横から琥珀が数冊の雑誌を手渡す。ページをめくり確認する周一が動揺の表情を浮かべた。
「――どういうことだ、おれの書いたコラムがない。――こっちも、こっちも、これもおれの小説が、書評が、どこにも載ってない。消えている……」
「消えたのではなくて始めから載ってありませんの。先ほど紅葉さんが言ったでしょう、あなたは幻を、幻覚を見せられていたんです。……周一さん、あなたはライターでもなんでもありません。ただの無職です」
「ち、ちがうっ! ちがう! ちがう! ちがう! おれは、おれはッ……」
「食事だってそう。あなたは毎日美味しい手料理を食べていたつもりでしょうが、ほんとうはここひと月の間、ほとんど水しか口にしていません。このままでは、餓死します」
「!?」
「現実にもどって来てください、周一さん。すべては幻だったんです。売れっ子のライターで仕事をバリバリこなしているというのも、あの『女』と結婚しているというのも」
「うそだっ!」
「――そうよ、うそよ。周ちゃんに変なことを吹き込むのはやめて」
ずるり、どさり、ずるり。二階から降りて来るものがいる。
「周ちゃんはあたしの旦那様よ。この部屋でずっとずっとずっと、永遠に幸せに暮らすのよ」
ずるり、どさり、ずるり――、ずるり、どさり、ずるり――、ずるり、どさり、ずるり――。
うごめくものがあらわれた。精巧な作りをした等身大のシリコン製ドールが地を這い、人の言葉を発して近づいて来る。かつてはなめらかで美しかったであろう肌は薄汚れ、全身に亀裂が入っていた。場所によってはシリコン製の皮膚がめくれ、ワイヤー制の骨格が露出していて、ひどく不気味だ。
「ひぃっ、動いてる!?」
その異様な姿を目にした老母は恐怖に後ずさり、手にした数珠を強くにぎりしめた。
「タイプ・マテリアル……! 人形が核になったせいで思ったよりもずっと早く動的霊災化しちゃったみたい」
「あれをよく見るんだ周一さん。瘴気に穢された部屋の外でなら、あいつの正体がわかるでしょう?」
「ああ、由衣、由衣、ゆかり、ゆかり、奈々、奈々、遥、遥、美菜子、美菜子――。おれの妻だ、おれの妻たちだ――」
鼠蹊部から腐臭を放つ動く人形に頬ずりするようないきおいで近よった周一はそのまま『妻』の腕に抱かれ、歓喜の涙を流す。
「くっ、よほど強く暗示がかかっているみたいだな。部屋から出ても目が覚めないだなんて」
「もう部屋とか関係ないわ。瘴気をまき散らすあの人形が存在する限り彼は正気にもどれない。全力で祓うわよ」
巫女達は手にした弓に呪力を込めて臨戦態勢にうつる。
「ずっとずっと、一緒に、ずっとずっと、おれと一緒にいてくれぇぇぇ」
「もちろんよ、あたしはいつでも周ちゃんのそばにいる。周ちゃんの味方よ。……でも、ここにはあたし達の邪魔をする人がたくさんいるわ。だからだれにも邪魔されない、あたし達だけの場所に行きましょう」
「え?」
人形の手に光る物がにぎられていた。どこから持ってきたのか、鋭利な刃をした果物ナイフだった。
周一目がけて刃が走る。
「周一~っ!!」
木行符で縛るか、不動金縛りをこころみるか、鳴弦を放つか――。だが三人の巫女達が反応するよりも早く、老いた母が凶刃と息子の間に割って入り、盾になった。
「か、母さん……」
「周一……、いいかげんに目を覚ましておくれ……。母さんはおまえのことが心配で心配で……。おまえはねぇ、ニートだけど母さんのたった一人の息子なんだよ。いい歳して働きも結婚もしないことを責めたし、悲しんでもみせたけど、おまえは大切な息子なんだよ、遠くへ行かないでおくれ……」
意識を失い、くずれ落ちる老母の背中から流れ出る赤い血。鮮血の強烈な色彩が周一の混濁した意識を覚醒させた。
(……母さん……? そうだ、思い出した。おれは……、おれは無職の引きこもり、ニートだった!)
周一は毎日毎日、自分の部屋にこもって外出も仕事もせず、親戚からは『いい歳をして』とバカにされ続けていた。
現実がつらかった。いや、憎かった! 世の中には金とコネに恵まれた家に生まれたというだけでたいした努力もせず、芸能界に入って富と名声を得るやつらだっているのに、なんでおれはこんな普通の家に生まれてしまったのか。
金もないコネもない。ついでに才能もない三重苦を恨んで、恵まれた境遇のやつらを憎み、悪口雑言をネット上に書き込む日々がずっと続いていた。
それでも憂さは晴れない。それどころかいっそう酷くなるいっぽうだった。
インターネットで言いたい放題、書きたい放題というやつは趣味や道楽というような根本的な娯楽ではなく一時的な現実逃避にすぎない。酒や麻薬で気をまぎらわすのと一緒で、それのせいで新たに悩みや苦しみが生じることもある。
そして知るということは必ずしも人を幸せにはしない。
辺鄙な場所に生まれて、都会に出て行く器量も才覚も勇気もない。そこで一生終えるしかない。昔ならば鬱屈とした思いを抱きつつも、それが世界のすべてと思い、てきとうなところで妥協し、自分自身と折り合いをつけ、生まれ落ちた場所に相応の楽しみを見つけて、それなりに満足のいく人生をおくれただろう。
だが今はちがう。
インターネット等で外部の情報を簡単に知り得る。自分の境遇がいかに退屈か、そこから抜け出せない自分がいかに無能かを思い知る。
成功した者たちに対する恨み、つらみ、妬み、嫉み……。自暴自棄となり凶行に走る若者が少なからず存在するのもうなづける。
そんなある日、なにげなく購入したシリコン製リアルドールが思ったよりもすばらしく、それに耽溺するようになった。性欲を満たすたびにちがう女性の姿を想像して抱き。そうでない時は理想の『妻』のイメージを投影していた。
もともと引きこもりがちだった周一だが、部屋から一歩も出ないほどになり、現実のすべてから逃げるように人形を愛し続けた。いやな外界のことなど、なにもかも忘れようと――。
それが良いわけがない。心の歪み、気の悪化は場所にも悪影響をおよぼす。霊気のバランスがくずれて瘴気を生み、霊災へと発展しつつあった。
「――あなたの歪んだ思いは人形に乗り移り霊災化を速めました。もともと人形、人の形をしたものには魂が宿りやすいといいます。そこにいるのはあなたの妻でも人間でもない。付喪神、タイプ・マテリアルに分類される動的霊災です」
「周……チャン……、周……チャン……、ア…イ…シ…テ…ル……。周チャン……」
暗示の解けた周一の目に醜悪な肢体をしたドールの真の姿が見えた。
ゴキゴキと手足の関節を鳴らし、感情のこもらない虚ろな目をしたヒトガタが。
「それはあなたを喜ばせるために都合のいい幻を見せてきました。なぜならそれは、その霊災は現実から目を背けたいあなたの心が生んだ存在。あなたの心そのものみたいなものです。さぁ、どうしますか? またそれのもとにもどって幻想の中で死ぬことを選びますか? それで幸せですか?」
人は自分がいきづまった時に都合の良い幻想を見る。たんなる願望や妄想ではなく、身も心もその中に逃げ込むことができれば楽だろう。しかし人は現実の中でしか生きることができない。幻想に身を投じ、現実から目を背け続ければ、まっているのは破滅だ。
自分一人が破滅するのなら、それはそれでいい。だが老いた母を、身を挺して自分をかばった家族を置き去りにするのか?
周一の目に決意の光がやどる。
「ウワァァァァッ!!」
暗示が解けた周一がみずからの手で決着をつけようと動く。人形の手にしたナイフを強引に奪い、それを一気に振り下ろす。狙うのは人形の首。殺すべきは自身の歪んだ心。
そう、殺すべきは歪んだ心だ――。殺すべきは――。
ぴたり、人形の首に突き刺さる寸前にナイフが止まった。
「周一さん……?」
まさかまだ迷いがあるのか、ふたたび惑わされたのか、見守る巫女達の心に不安が生じる
「できない。おれにはこいつを殺せない」
「まさか、まだ未練がありますの!?」
老母の傷口に治癒符を貼り治療していた眞白が非難の声をあげる。
「そうじゃない、そうじゃないんだ。……ただ」
「ただ?」
「こいつはおれのせいでこんなになってしまったんだろう? それなのに今またおれの勝手で殺すことなんてできない。こいつを助けてやってくれ」
「あんたまだそいつに……」
「そうじゃない! そうじゃないんだっ、もうこいつに依存することはしないよ。なぁ、巫女さん達。どうにかできないのかい? 退治とかしないで、生かしてやることは?」
できなくはない。式神に、使役式にしてしまえばいいのだ。
霊災と式神は似たような存在だ。極端な話、陰陽庁の管轄下にあり、人間が制御できる状態にある動的霊災は式神。そうでないものは霊災。そのように分類されていると考えてもおかしくはない。
だがそれにはまず周囲に無差別に瘴気をまき散らさぬよう霊気を安定化する必要がある。
動的霊災に明確な自意識や知性が存在するのなら、説得や脅迫により本人の意志で静まることも可能だが、今回のような生まれたばかりの霊災は本能のまま行動したり強迫観念に縛られたりして、それに応じない可能性が高い。
これは暴れ回る獣を傷つけずに生け捕りにするようなもので、たんに修祓するよりもはるかにむずかしいことであり、三人の巫女の中でもっとも優秀な琥珀でも無理だった。
そして次は維持の問題だ。このような使役式は従えることがむずかしく、意のままに制御するには技術面や霊力面など、術師に高い能力が求められる。
これもまた今の巫女達にできることではない。
はっきり言って周一の要望には応えられない。応えたくても無理なお願いというものだ。
「それはできないわ」
「……できるかもしれない」
断言する琥珀と逡巡する紅葉。
「周一さん。あなたがそいつに情けをかけること、それ自体があなたに迷いがある証左よ。あなたはまだそいつに憑かれてる。さがってて」
「そんな……」
周一はその言葉を聞いて、人形をかばうように思わず琥珀の前に立ち塞がった。
「周チャン……」
「どいて、ケガをするわ。あなたさっきそいつに刺されそうになったのを忘れたの? お母さんはあなたをかばってケガをしたのよ!」
琥珀は生き人形をこの手で修祓せんと呪力を練る。
「まて、琥珀」
「なぁに? まさかあなたまでこの人形を助けようだなんて言うつもり?」
「そうだ。さっきの周一さんの言葉だが、そのとおりだと思う。人間のエゴから生み出したものを人間のエゴで殺すというのは、あまりにも勝手だ。勝手すぎる」
「殺すんじゃない、修祓するのよ」
「消してしまうのだろう、同じことだ。どうだろうか、依頼主の要望を聞いてこの一件は陰陽塾か陰陽庁に報告して、修祓ではなく調伏してくれるよう頼んでみては……」
「もみもみ、あなたバカ? 依頼主はこの人じゃなくてこの人のお母さん。そして依頼内容は『息子にとりついた悪霊を祓ってくれ』霊災の修祓が私達の任務なのよ、忘れたの?」
「それにそれですと案件放棄になってしまいます。はえある白巫女壱番隊の名に泥を塗ることになりますよ、紅葉さん」
「…………」
「歪んだ想いが性欲の処理のために作られた道具にやどって魔物と化した。穢れ以外のなんでもないわ。そいつは神道を汚す敵なの」
「悪しきものを慰撫し鎮魂するのも私達巫女の責務じゃないか。力づくで修祓するばかりがやり方じゃない!」
意見が割れた。
紅葉と琥珀。双方がともに正しいと思う主張をし、たがいに一歩もゆずらない。両者の板挟みとなり困惑する眞白。
「……おれからの案件だ」
「「「」は?」」」
「おれからの案件。『おれから除霊した悪霊を式神にしてくれ』だ。母さんは払ってくれと依頼したんだろう? 修祓じゃなくて落としただけでも案件達成でいいはずだ。修祓する、消し去る必要はない。そうだろ?」
詭弁だ。祓うイコール修祓ではないか。しかし一応は理屈に合わなくもない。
「まぁ、それはそうかもしれないけど……」
「落とした悪霊を修祓せずに式神として生かして欲しい。さっきの話じゃ、陰陽庁や陰陽塾ならそういうことも可能なんだろ? ちゃんと外に出て働いてきちんと報酬は払う。……もう引きこもりはおしまいだ。頼む!」
「周、チャン……? ドコカヘ、行ッチャウノ? アタシハイラナイノ?」
土下座する周一を見て不安げな声を出すドール。
彼女は殺すつもりで周一にナイフを振るったのではない。ただ一緒にいようと、『主』である周一の願いをかなえようとしただけだ。
そして元凶である周一が正気にもどったせいか、その身から発する瘴気が弱くなっていた。霊気が、安定しつつある。
「おれはどこにも行かないよ、サユリ。ただちょっと人並みに外出するだけさ。……あ、ああ、そう言えばまだ一度も本当の名前で読んでなかったな」
サユリ。
本当の名、と言っても製品名のことなのだが、それが彼女につけられた名前だった。
「……もう、わかったわ。その依頼、受理してあげる」
大の男に土下座され毒気を抜かれた琥珀は不承不承にだが周一の案件と紅葉の意見を受け入れることにした。
その後、陰陽庁に回収されたサユリは浄化処置を受け、庁内の案内係をしている。畳の付喪神が人に座って欲しいように、刀剣の付喪神が闘争を欲するように、愛玩用に作られたサユリには人の役に立ちたいという本能があるからだ。
周一は慣れない労働に四苦八苦しつつも、音を上げることなく仕事を続けている。
万事が上手くおさまったように思えたのだが、琥珀と紅葉の間に生まれた確執は深まり、紅葉は壱番隊を抜けることとなった――。
「そんなことがあったんですか……」
「でもね、琥珀さん本当は紅葉さんに帰ってきて欲しいと願ってると思うの。未練があると思わない? だって紅葉ちゃんの代わりに壱番隊に入った七穂氏白亜ちゃん、紅葉ちゃんとキャラかぶってるでしょ?」
「ま、まぁ二人とも黒髪ロングで凛々しい感じは似てますけど」
「そこっ。開会式が始まるぞ、私語はつつしむ!」
はじまりの言葉。道場訓が読み上げられ、ついに試合が始まった。
第一試合。緋組拾参番隊・二之宮紅葉 対 白組一番隊・四王天琥珀。
両者が刃を交える――。
刀会 3
刀会第一試合。
緋組拾参番隊・二之宮紅葉 対 白組壱番隊・四王天琥珀。
「みんなのためにも、私は負けない!」
戦いが始まった。
呪力の高さはむこうが上。そう判断した紅葉は呪術を行使するいとまをあたえないよう、開始直後に白兵戦にもちこんだ。
まるで教本から抜け出たかのような正確な姿勢と動き、打ち込みの速さもそれに込められた力も、もうしぶんなかった。
だが紅葉の攻撃は琥珀にはとどかない。
右にかわされ、左によけられ、さばかれ、いなされる。
反対に琥珀の攻撃はことごとく紅葉に命中した。
重い。
小柄な体躯からは想像できないほど重たい打撃が紅葉の体力をうばっていく。
足の踏み込み、腰のひねり、腕の返し。遠心力にくわえ全体重を一点に集中した攻撃は見た目以上の破壊力を生み出していた。
そしてなによりも、速い。
「紅葉さん、どうして避けませんの?」
「もみもみが一方的に攻められるなんてっ!? なんで反撃しないの?」
「……反撃しないんじゃありません。できないんです」
「「え!?」」
「紅葉さんは琥珀さんの攻撃が見えていません、だからまともに受けて反撃の機会がつかめないんです。相手の攻撃が見えなければ防御も返し技もできません」
「でもあたしには琥珀ちゃんの攻撃、見えてるよ」
「私もですわ」
「……ほんとうに見えてますか? 見えているのは攻撃があたった瞬間だけじゃないですか?」
「「あ…」」
「そのとおり。白組の子……、琥珀の動きの初動は我々にも見える速さで動いている。だから緋組の……、紅葉の身体に薙刀があたり、動きが止まった瞬間、全体の動きを見ているよう錯覚する。だが実際に見えているのは琥珀の動きの一部だけ、初動からあたるまでの動きが肉眼では追い切れない速さなんだ!」
「「「「な、なんだってー!?」」」」
いつの間にか近くにいた一人の観戦者の説明に、他の観戦者達が驚きの声をあげる。少しでも近くで観ようと試合舞台の間近まで来て観戦している野次馬根性――、もとい物見高い人達だ。
「みんなはハエを目で追ったことはあるか? 目で追っていたハエが急に消えて別の方向に飛んでいくことがあるだろう? あれはゆっくりと飛んでいたハエが急にものすごい速さで移動するから消えたように見えるんだ。琥珀という子はそれと同じことを武技でやっている! ――ちなみにハエは危険を察知すると一〇〇分の一秒という速さで回避運動をおこなう。これは人間のまばたきの五十倍の速さだ」
「「「「へー」」」」
ちなみに中国四川省に生息するセフェノミアというハエの仲間の昆虫の飛翔速度は音速を超えるといわれ、地元では抹羽という名で呼ばれている。この噂はシルクロードを通じて西洋にまで伝わり、音速を基本とする速さの単位を表すマッハの語源になったという。
民明書房刊『実用動物事典』より。
「俺達は距離をおいて見ているから琥珀の一連の動きを視えているようにとらえているが、間近で戦う紅葉には琥珀の攻撃はほとんど見えていないだろう」
「そんな……、じゃあそんなに速い、見えない攻撃をどうやってかわせばいいの?」
「見鬼のレベルが高ければ相手の霊気の流れを見て、身体の動きを先読みすることも可能だが……。今の紅葉にはそこまでの実力はないな」
「じゃあ紅葉さんは……?」
「十中八九勝てないだろう」
「えええ!?」
身体能力や霊的能力の差にくわえ、技量の差も歴然だった。
突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀。琥珀は竿状武器、ポールウェポンの特性をぞんぶんに活用し、つねに自分の間合いで戦っている。
変幻自在に姿を変える、まさに薙刀の結界。結界に捕われた紅葉は手も足もでない。
「強さとは経験の差、経験とは努力の積み重ね。あの琥珀という子の四王天家は著名な巫女を数多く輩出する名門中の名門。おそらく陰陽寮に入る以前から名門ゆえの英才教育を受けて育ってきたのだろう。それゆえ琥珀は強い。修行の量も質もまるでちがう」
「……紅葉さんだってあんなにがんばったのに」
「彼女ががんばったように、相手もがんばっているんだ。努力の積み重ねをひっくり返してしまうほどの天稟なんて存在しない。だがそれでも、あきらめたらそこで試合終了だ。絶対に勝つ気で挑めば万にひとつの勝機を得られることもある」
琥珀の薙刀が紅葉の薙刀を跳ね上げ、返す刀で袈裟懸けに斬り下す。
鈍い音が響き、膝からくずれ落ちた。
勝負あり。琥珀の勝ち、紅葉の負けだ。
「二之宮紅葉、わかったでしょう。絆だの友情だのが悪いとは言わないわ。でもあなた達のやっていることは四王天家を守る者にとってはごっこ遊びみたいなものよ。それだけではこの四王天琥珀、ひいては壱番隊に迫ることなどできないわ、精進することね」
紅葉は負けた悔しさと傷の痛みで涙があふれそうになるのを必死でこらえつつ、無言で舞台から降りた。
「さぁ、次はだれかしら」
「私がまいりますわ!」
「珊瑚さん!?」
「紅葉さんの無念、この三亥珊瑚が晴らします!」
紅葉と入れ替わりに珊瑚が舞台に上がり、薙刀をかまえる。二戦目の開始だ。
「眼鏡ははずしたほうがいいわよ、三亥珊瑚」
「あら、それは私を過少評価してるのかしら、それとも自分を過大評価しているの? 心配しなくてもあなたには一撃たりとも入れさせません」
「ふふん、今の戦いを見てよくそんな大口が叩けるわね。後で悔やんでも知らないわよ」
試合開始と同時に珊瑚の手がひるがえり、水行符を放った。水気がほとばしる。
「巫女クラス一の呪術姫である私に呪術戦をいどむだなんて、無謀ね。白兵戦のほうが少しでも勝てる見込みがあるんじゃない?」
土剋水。珊瑚の水を相剋しようと土行符に手をのばすが――。
「……ちょっと、なんのつもりよ」
珊瑚の水行符は水流となり琥珀を襲うわけでもなく、舞台の中央でひたすら水を吐き出している。
だが水は舞台の端から流れ落ちることはなかった。舞台上でおこなわれる呪術の影響を外部にもらさないための処置が、防御結界が作用しているからだ。
水かさはみるみる増して両者の膝上まで冠水した。
「そうか! 水を張ることで足の動きを封印じるつもりなんだ!」
運足、足運び、フットワーク、歩法……。武道において、いやそうでない日常生活においても足の動きというのは重要な位置を占める。戦闘で足の動きを制限されるのは致命的だ。
水の抵抗が足枷となり移動の範囲や動きをさまたげる障害物になっているのだ。
「で、でもあれじゃあ珊瑚ちゃんも水で動きが鈍っちゃうんじゃないの?」
「琥珀さんの俊敏な動きを封じることで白兵戦を五分の条件にまで持ちこめます。いや、身長と体格の差があるぶん若干ですが珊瑚さんのほうが有利です!」
「ふん、相剋すればおしまいなのに変わりはないわ」
舞台の上でなお水を流しつつある水行符に狙いをさだめ、土行符を放とうとする。
「その前に、あなたを倒しますわ」
珊瑚が駆けた。水の抵抗をものともしないスピードで琥珀に迫る。
「速い! でもどうして!?」
「彼女の足をよく見鬼るんだ。土行符が貼ってあるだろう、あれで水の抵抗を無力化しているんだ」
たしかに、いつの間にか珊瑚の両足には土行符が貼られ、呪力を放っている。
水という対象そのものを剋して消滅させるのではなく、対象からの影響のみを剋し、水の抵抗を無効化しているのだ。
「五行符にそんな使い方があるなんて……」
「呪術というのは奥深く幅も広い、術者の発想や機転一つでさまざまな応用が利く。Aに対してはBの方法で対処しなければならない。などということはない、CでもDでも、あるいは同じAでも使い方次第で対応できることもある。たとえば雨が降ってきた時は土行術で雨水を剋すこともできるが水行術でも防水できるし、それ以外の術でも応用が可能だ」
「なるほど……。ところで、ええっと……、あなたは祓魔官のかたですか? 失礼ですがお名前は?」
桃矢は先ほどから雄弁に語るとなりの男に恐る恐る声をかける。ペイントなのかタトゥーなのか、ひたいに『大往生』の文字が書かれており、どじょう髭で頭頂部を剃っているという異様ないでたちをしている。
あやしい。
はっきり言ってあやしい。
あやしさ大爆発だ。
「……俺のことは男塾先輩と呼んでくれ」
「お、男塾先輩ぃ~?」
「押忍! ごっつあんです、男塾先輩!!」
「い、いやあの、男塾て……」
そんなヘンテコな名前があるものか。そう思った桃矢だったが朱音は素直に受け入れて実に良い返事をする。
琥珀が土行符を発動する前に間合いをつめて倒す。それが珊瑚の狙いだった。だがしかし――。
「甘いわね」
上から下への唐竹、真下からの逆風、右肩を狙った逆袈裟切り、左胴を斬り上げようとした逆胴、そして石突きによる刺突。
珊瑚の続けざまの攻撃。琥珀はそのすべてを華麗に回避した。
「水中でも足の速さがまったく衰えない! 足が水に浸かっているのに、なんであんなに自由自在に動けるんだっ!?」
「琥珀ちゃんも足に土行符を貼っているの!?」
「ぬぅ、あれは」
「知っているんですか!? お……、男塾先輩?」
「あれは呪術の類ではない、体術だ」
「体術!?」
「ああ、あれだけ激しく動いても琥珀の周りの水面は乱れていない」
「あ、ほんとうだ」
「逆に土行符を使っている珊瑚さんのほうは足もとにかすかにラグが見えますね」
式神や霊災、呪術によって生じた物体などの霊的存在は物理的影響力を持つ立体映像のようなものであり、そこにあるように見えても実際にそこに物質があるわけではない。なので物理的・霊的に強い干渉を受けると構成が乱れてラグが出る。
「水の抵抗を受けないほどに琥珀の足の動きが速いんだ!」
「「「「な、なんだってー!?」」」」
これには周りの観戦者達もびっくり。
「武道の歩きの基本はすり足だが、あのようにひざ上まで水がきていると、すり足で移動しようとしたら水の抵抗をまともに受けて効率が悪い。必然的に足全体を持ち上げての歩き方になり、まずは膝を上げる動作が重要になるが、琥珀の膝を上げる速さは常人の目では追えないほどだ。その異常な速さが足が水面に出る時に起こる水しぶきを抑えている。琥珀のすごさはそのような基本領域がきわめて高いことだ。基礎に差があるかぎり、どんな奇策をもちいても勝つのはむずかしいだろうだろう」
「ふふっ、そういうことよ、考えが浅かったわね珊瑚。水を使って足の動きを封じるつもりだったんでしょうけど、そんな姑息なたくらみなんて私の武には通じないわ」
「くっ……」
呪術によって地の利を生じさせて戦おうとした珊瑚の策は失敗した。かのように思えたが――。
「まだ終わってはいませんわ。――急急如律令!」
水を流し続ける水行符の術をリライト。膝上まであった水が一瞬で蒸発し、濛々たる霧に姿を変えた。鉛色をした濃霧は一寸先も見えないほどで、視界をさまたげる。
普通の霧ならば目くらましにはならない。見鬼の持ち主なら肉眼ではなく霊感で相手を〝視る〟ことができるからだ。暗闇をナイトビジョンで見るように相手を知覚できる。
しかしこれは呪術による霧であり、霊的な視覚もさまたげる。並の見鬼持ちでは見通せない。
並の見鬼持ちならば。
「私は壱番隊最強の呪術姫よ? 効かないわ」
琥珀はくるりと向きを変え、背後から打ちこもうとする珊瑚に一撃。
ラグとともに一枚の式符になる珊瑚。
側面から本物の珊瑚が琥珀につかみかかり、背負い投げる。
琥珀は下手に抵抗せず、即座に薙刀を手放して自分から倒れるように受け身を取って距離をとった。合気道の前回り受け身にも似た俊敏な動きだ。
「有効!」
霧が晴れ、審判の判定が響く。
刀会は呪術の使用も許可された実戦的な試合だ。それゆえ骨身に染みるほど打ちこんで技あり、気絶させたら一本というくらいなので、これは珊瑚にとっては有利な流れだ。
「や、やったの!?」
「いったい霧の中でなにが?」
「水行符を使った霧からの奇襲はダミー。本命は霧に隠れて作った簡易式による攻撃のダブルダミーだ。霧が濃いあいだに簡易式を形成し、薙刀を持たせる。『突進しろ』『あいつを攻撃しろ』などの簡単な命令を与えただけなので今の珊瑚でも琥珀をだませるくらい精巧な式神を作れた。組み打ちに持ちこめば薙刀のリーチを活かせないし、両手を使うモーションからとっさに防御することもできないとふんだのだろう。だが琥珀はちゅうちょなく武器を手放し防御行動をおこなうことで被害を最小限におさえたんだ」
「うわぁ、二人ともすごいね!」
「ええ、まさか珊瑚さんがこんな戦いかたをするだなんて、思ってもみなかったです」
だが仕切り直しの後の戦いでは琥珀は終始攻めに徹して、珊瑚を圧倒。主導権を与えることなく勝利した。
「小手先の奇策ばかりで話にならないわね、もっと腕をみがいて出直してきなさい」
紅葉と同様に一方的に攻撃を受けて敗れた珊瑚は肩を落として席に戻った
「めんぼく次第もございませんわ……」
「そう肩を落とすことはない、最初の水行符といい簡易式をダミーに使った手といい、見事な策だったぞ」
「でも結局は負けてしまいましたわ、琥珀さんの言うとおりしょせんは小手先の奇策。純粋に実力のあるかたには通用しません」
「兵は欺道なり。という言葉があり、呪術の真髄は嘘だと言う。奇計奇策も立派な呪術であり、人の知恵のなせる技だ。今回はそれこそ純粋に相手が強かっただけで、戦いかた自体はまちがっていない。……
人の知恵と技術に限界はない、これからも精進するといい」
「押忍! ごっつぁんです男塾先輩!」
「え? いやだからおかしいですよね、その人の名前。男塾て……、なんで珊瑚さんまで自然に受け入れているんですか? だって男塾ですよ、男塾っ!」
「なにごちゃごちゃさわいでるの、次はだれが相手をするのかしら。一の瀬朱音? それとも梅桃桃矢? なんなら例の能力を使って二人同時に相手してあげてもいいわよ。そっちのほうが手っとり早くていいわ」
「うう、あんなこと言ってる。でも琥珀ちゃん強いよ~、私じゃ無理。桃矢くんお願い!」
「ええ、お願いしますわ桃矢さん」
「……桃矢、もう望みはおまえだけだ。頼む、勝ってくれ!」
朱音、珊瑚、紅葉。三人の仲間が自分に期待をかけてくれる。
桃矢の心に闘志がわいてきた。どのような状況であれ女の子から頼りにされるというのは男の子にとってこそばゆくも嬉しい。いやでも奮起せずにはいられなくなるものだからだ。
「はい、いってきます!」
薙刀を手に舞台に進む。その姿には以前の桃矢にはまったくといって言いほどなかった自信と闘気がみなぎっていた。
「男塾先輩、桃矢は勝てるのでしょうか?」
「へのつっぱりはいらんですよ」
「まぁ! 言葉の意味はわかりませんが、とにかくすごい自信ですわ!」
「梅桃桃矢。彼もまた基礎ができている、それにくわえてここ最近はさらに特訓を重ねていたんじゃないか?」
「はい、たしかに彼は賀茂先生……、講師の人につきっきりで訓練をしていました」
「だろうな、まとった気でわかる」
桃矢と琥珀は舞台の上で対峙した。
「あら、いいの? 例の同調性ナンチャラっての使わなくても? 朱音じゃ私を倒せない。あんたが負けたら詰みよ」
「それは、僕の実力を認めてくれてるんですね?」
「かんちがいしないでちょうだい。朱音よりかはあんたのほうが上、ただそれだけの話よ。賀茂先生になにか教えを受けていたみたいだけど、つけ焼き刃の生兵法なんて四王天の武にも呪にもおよばないわ」
緋組と白組、三戦目が始まった。
山手線外回りの電車内は学生や主婦、外回りのサラリーマンらの姿がちらほらと見受けられた。
座席に座った母親の膝で居眠りしていた幼児が突然目をさまし、最後尾のドアを指差す。
「ママ、あそこのワンワンこわいよ……」
母親は指差した場所を見るが、犬の姿などない。怪訝そうに首をかしげる。
「どこにワンワンがいるの?」
「こっちにらんでる! こわいよ! こわいよっ!」
母親にしがみついて火のついたように泣きだした。車内の乗客の視線はいっせいに親子に突き刺さる。
いたたまれなくなった母親は子どもを抱き上げて次の駅で降りた。
「うるさいガキだったな」
「アタシ、年よりとオヤジとオバンとガキって大っきらい」
「ほんとそう、ガキがかわいいと思えるのはガキの親だけだっつうの。自分のガキでもないのにかわいいとか思えるやつって信じらんない」
学生らが手前勝手なことを言い合っていると、低いうなり声が聞こえた。耳の底をかきむしるような、不快で気味の悪い、動物じみた声だ。
「なんだ?」
学生らが顔を見合わせた瞬間、そのうちの一人がなにかに引っ張られるように倒され、最後尾のドア付近まで引きずられていった。
悲鳴をあげて両腕を突き出し、なにかを避けるように必死に身をよじる。
あっけにとられた乗客の視線をあびる中、突き出した腕がじりじりと内側に曲がり、ぞぶり。と音をたてて切断された。動脈から噴き出た鮮血が車内を朱に染め、床いっぱいに広がる。
「ウワーッ!?」
周りの乗客らがいっせいに悲鳴を上げて跳び上がる。
その時、血溜まりの中でなにかがうごめいた。ぴちゃぴちゃと音をたてて血溜まりの上を波紋が駆け抜け、床の上に獣の足跡がついた。それが他の乗客にむかって一歩一歩近づいてゆく。
「キャー」「助けてッ!」「人殺しだ!」
叫びながら乗客たちは別の車両に駆け込んで行った。獣の足跡は彼らの後を追って前の車両に入り込む。
わけがわからずに足跡の前に立ちはだかった男は一瞬の間に首をかき切られていた。
新たな犠牲者の悲鳴が響き渡る。乗客たちは恐慌状態になって前に前にと、前の車両に逃げ込んで行くなか、その男がいた。
肩幅よりも大きく脚を開き、のけぞるようにして座席シートに座っている。齢は二十歳前後、細身であご先など鋭角的ですらあるのだが弱々しい印象はない。
銀色に染めた髪を短く刈り込んでおり、ミラーコーティング・レンズのサングラスをかけていた。耳には複数のピアスファーつきのジャケットに胸元を飾る光物のアクセサリー、シルバーバックルのスタッズベルトにウォレット・チェーンの絡まるデザイン・ジーンズ。足には光沢のあるエンジニアブーツを履いていた。
なにより異様なのは額にある×印型のタトゥーだ。見るからに剣呑で、見る者を不安にさせた。
そしてもうひとつ。男のかたわらに立てかけてある刀袋もまた禍々しい剣気を放っていた。
不遜な冷笑を浮かべ携帯音楽プレイヤーから流れる音楽をイヤホンを通して聴いていたが、悲鳴をあげて目の前を通り過ぎる乗客たちを軽く一瞥すると、彼らの逃げてきた方向を見やる。
「……仕事増やしやがって」
ゆっくりと立ち上がると必死になって前の車両に逃げようとする乗客たちを悠々と押しのけ、進んで来る獣の足跡の前に立ちふさがる。
キーン――。
刀袋の中の刀がなにかをうったえかけるかのように鳴いた。
「よく見えねぇな。……風狸か? いや、野衾だな」
風狸、野衾。いずれも伝承に登場する妖怪の名であり、陰陽庁が指定する動的霊災の一種だった。
キーン、キーン――。
刀が鳴く。まるで自分を使えと言っているかのように。
しかし男は刀の訴えを無視してわずらわしげに鼻を鳴らすと、見えない相手に向けて片手をふるった。
空中で爪を引き裂くように横薙ぎに、次いで人差し指から小指の四本を縦に。呪力を帯びた指先が描くのは早九字の格子紋。ドーマンだ。
「KISYAAAAァァァッッッ!?」
虚空にラグが浮かび、一匹の獣が姿を現した。前足のかわりにコウモリのような翼をはやした犬のような狐狸のような野獣、野衾。
男の放ったドーマンに捕われ、急速に霊力と体力を奪われている。
キーンッ!
「うるせぇぞ、シェイバ。おまえの出番はない、もうおわった」
事実、その言葉を言い終える前に野衾はいっそう激しくラグを走らせ、消滅した。
男の早九字は呪文の詠唱もなければまともに手印の一つも結ばない。おそろしく略式ながら、その威力は絶大だった。動的霊災は個体差が激しいので一概には言えないが、フェーズ3の霊災といえば祓魔官が部隊レベルで対応にあたるのが普通だ。それをこの男は一人で、それも簡単に修祓してみせた。
これが男の、独立祓魔官である鏡伶路の実力だった。
昼下がりの秋葉原。
予定外の仕事で不機嫌になった鏡がいら立ちもあらわに歩いている。けっして空いているとはいえない街中だが、その危険な気配を察してそばを通る通行人たちは可能な限り彼から距離を開けていた。
古代イスラエルの民を導いた男は神の威光で海を割って歩を進めたが、この男は恐怖で人の海を割って進んでいる。
そんな鏡の後ろに数歩ほど遅れて一人の青年が続いていた。長身の鏡よりさらに背が高いが、細身でなで肩。さらに猫背のように縮こまっているので前を行く鏡よりも存在感が薄い。先ほど鏡が座席に立てかけていた刀袋を大事そうに両手で抱きかかえていた。
「……ねぇ、伶路。なんか話がちがうんじゃないの? せっかく外出が続いてるのに、せっかく斬っても
いいのがいたのに。こんなんだったら、僕いらなくない? ねぇ?」
十月末日。東京を中心に関東全域で発生した百鬼夜行。万魔の大祓えが終わってからというもの、鏡ら独立祓魔官は都内の巡回を命じられていた。
安全レベルまで落ち着いたとはいえ、霊脈はいまだ安定せず、動的霊災が多発していた。それもハロウィンの夜と同様、前例のない姿形となって発生する率が高く、予断をゆるさない状況だったからだ。
だがそんな特別業務も本日をもって終了。霊脈が安定し、霊災の発生も平時レベルに落ち着いたからと上層部が判断したからだ。
報告書の作成および提出。そして普段は使用禁止されている特殊な式神の返却のために鏡は陰陽庁にむかっていた。
(さっきの件どうすっかな……、バカ正直に報告して『まだ危険だ』なんてダリィ勤務が伸びたりしたらマジうぜぇ。けどパンピーどもにばっちし目撃されちまってるしなぁ。あ~、こんなことだったらやつらの記憶いじっとくんだったぜ……)
「あ~あ、楽しみにしてたのにさぁ。あーあ、つまんない、つまんない。あー、がっかり、がっかり」
ぶつぶつグチグチと青年の愚痴がしつこく続く。
「だいたい伶路は伶路のくせに生意気っていうか――」
そのうち文句を言うこと自体が楽しくなってきたのか、やれ伶路は愛想がないだの、やれ伶路は口が悪いだのと、鏡批判に展開しだした。
「伶路はほんとチンピラって感じの声してるよね、チンピラ役オリンピックがあったら金メダルまちがいなしだよ。悪役商会にでも入って……」
「おい、シェイバ」
それは刀袋に納められた刀『髭切』と同じ意味を持つ名前、シェイバ。それが青年の名だ。唐突に名を呼ばれシェイバはあわてて足を止めた。その瞬間、鏡の振り向きざまの裏拳が顔面にめり込んだ。
「ぷぎゃぁっ」
ジャブ、フック、ストレート、アッパー……。ごついリングを指にいくつもはめている、メリケンサック装備状態にひとしいことを意識しての手技の乱打。
通行人たちは突如始まった『まよチキ!』ばりの理不尽暴力に唖然とするが、その中のだれ一人として拳があたった瞬間にシェイバの身体の輪郭がぶれ、ノイズが走ったことに気づく者はいなかった。
そう、この細身の青年は人ではない。その正体は抱えている刀袋の中身、髭切という名の日本刀を形代にした式神だった。
「うるさい、黙れ。殴るぞ」
「な、殴ってから言わないでよ」
内心に不満をかかえつつ、沈黙を強いられ陰陽庁の間近まで無言だったシェイバが声をあげた。
「ねぇ、伶路。今日ってここでなにかやってるの?」
瞳を輝かせて呪道館を指差し、問いかける様は子どもが目新しいオモチャを店頭で見つけた時のようだ。
呪道館の結界は完璧だ。外からの呪力を防ぎ、内からの呪力を外に漏らすことなどない。
だがべつに穏形の結界が張られているわけではないので、中にいる人々の気自体は外にまで感じられた。シェイバの見鬼は呪道館からあふれる人々の気を〝群気〟を視た。
今日の気は闘争の質を帯びていた。それも武と呪の両方の気が満ちており、刀という武器の式神であるシェイバが興味を持つのは当然と言えば当然だった。
「ねぇ、伶路。見に行っちゃダメかな? かな?」
「…………」
わざわざ保管室まで足を運ぶのもめんどうだ、手続きをすましたらそのまま帰路につきたい。
ここはもう陰陽庁の敷地内のようなもの。『シェイバなら呪道館にいる、勝手にしまえ』これですむ。
「ああ、いいぜ。俺は顔出ししてくるから、好きにしてな」
「わ~い☆」
弾むような足取りで呪道館に入って行くシェイバ。鏡がその姿を追ってふと入口を見れば『陰陽塾巫女科 第○○回刀会』の文字が目に入る
「ハッ、くだらねぇ」
心底侮蔑した表情を浮かべて鼻で笑う。おおかた竹刀でもってペチペチ叩き合うチャンバラごっこが繰り広げられているのだろう。防具の上から打突を入れてなにが一本だ、有効だ、技ありだ。
三本勝負? アホか、人の命は一人に一つ。ゆえに三本勝負などありえない。
女、子どもの武道ごっこにはヘドがでる。剣(拳)は凶器、剣術は殺人術。目的は暴力、極意は殺生。それが武だ。
矛を止めると書いて武だと? ちがうね、矛をもって堂々と前進する様こそ武だ。
道という漢字の由来は首を手にたずさえる形から生まれたという。
異邦の地を開拓するさい、祓い清めるために異民族を生贄にし、その首をもちいたことから道という字が作られたというのだ。本当か嘘かは知らないが、鏡はこの説が気に入っていた。
矛を持って道なき道を開拓し、進むのだ。まさにこれこそが武の道。武道じゃないか。
鏡は世界中をあざ笑うかのような冷笑を浮かべ、一人庁舎へとむかった。
十合、二十合、三十合……。桃矢と琥珀は丁々発止の打ち合いをくり広げていた。
「桃矢君すごいっ! あの琥珀ちゃんの攻撃をガードするどころか反撃までしてるよ!」
「桃矢さん、訓練でも強かったですけど、ここまですごいとは思いませんでしたわ」
「ああ、徒手空拳の中国武術の訓練をしているから薙刀でどこまで戦えるのか、少し心配だったが杞憂だったみたいだ」
「でもこのわずかなあいだに、よくここまで強くなれたものですわ……」
「戦士の成長は樹木が伸びるようなものではない、石を積んで塔を作るようなもの。石を持ち上げているあいだ、高さに変化はないように見える。けれど、積み上げられた瞬間にどんと高くなる。……ところであの動き、彼は形意拳を使うようだが」
「わかるんですか?」
「さすが男塾先輩!」
「ああ、形意拳は槍の技法から発達したという説がある。形意拳の創始者だと言われる岳飛が槍の名手ということと、形意拳の動きの多くが槍術と共通していることから生まれた説だが、実際に刑意拳の初歩である五行拳にふくまれる金行劈拳は槍を振り下ろす動作に、木行崩拳は突き刺す動作そのものだ。薙刀術」
「「「「へ~」」」」
男塾先輩が一席ぶっているあいだにも桃矢と琥珀の戦いは続いている。
蝶のように舞い、飛燕のように宙を切る琥珀の薙刀を素早く受け流しては、的確に反撃する。
(……梅桃桃矢、こいつ先読みでもできるの? 私の攻撃が全然あたらない!?)
琥珀は薙刀を風車のように回転させ、連撃を放つもそのことごとくがかわされる。
妙だ。こちらの動きよりも一瞬早く反応しているのではいか?
「桃矢のやつ、琥珀の技の始動よりも速く動いている。まるで琥珀の攻撃する位置を知っているようだ。目にも止まらない琥珀の連続攻撃をすべてよけるだなんて、どうしてそんなことが可能なんだっ!?」
「うむ、あれが彼の持つ同調性共鳴症のもう一つの力だ」
「なにか知っているんですか、男塾先輩!?」「あれがわかるんですか、男塾先輩!?」「なにか知ってるの? 男塾先輩?」
「霊力を同調することで対象と一体化する同調性共鳴症。その応用で相手の気を読みとり、自身の気と合わせることで筋肉の動きの細部まで体感する。そして筋肉の動きをさらに深く掘り下げ相手を感じとる。筋肉の緊張と弛緩、呼吸のリズム、感情の流れ。それらを見極めて思考と動きを予測する。一種の先読みだ」
「「「「な、なんだってー!?」」」」
この説明にまたもや周りの観戦者達もびっくり。
「この先読みの術、同調性共鳴症・意脈合気とでも名づけようか」
「ま、まさか。それが本当ならそれはもう武術なんてものじゃない、まるで――」
「呪術か? だが武術とはもっとも実践的な呪術・魔術であり、人の知恵と技術の結晶という意味で両者は同じものなんだ」
(そうです、お…、男塾先輩。だけどその予測をもっと速く、琥珀ちゃんが動くよりもさらに速く!)
「なるほどね、とんだ裏技もあったものだわ。でも相手の気の流れを読むのが第一条件なら穏形した相手には効かないわよね?」
「隠形したまま戦えますか?」
「……無理ね。少なくとも今の私の実力じゃあ」
隠形をかけながら激しい動作をする、あるいは他の呪術を行使することはむずかしい。プロの陰陽師でも簡単にはできないことだ。そもそもプロを目指すだけなら穏形したまま激しく動いたり他の呪術を同時におこなう技術を磨く必要はない。
そんな技術が必要とされるのは陰陽術を戦闘にもちいる者だけだ。
神道を汚す敵と戦う責務を持つ巫女には必要な技術だが、さしもの琥珀もそこまでの域にまでは達していない。それゆえによけいに焦燥する。
どうする?
どうする四王天琥珀?
琥珀の動きがぴたりと止まった。
「!?」
桃矢の動きも止まる。
両者のにらみ合いが続く。
桃矢の先読みは攻撃直後のリアクションまで正確に読めるわけではない、受けに徹する相手には効果が薄い。数十合におよぶ打ち合いでそのように実感した琥珀は、後の先狙いに戦闘スタイルを切り替えたのだ。
(純粋な技術勝負だって、僕は負けない!)
八双に構え、攻撃しようとした矢先、琥珀もまた桃矢と同じ構えをとった。
(え?)
攻撃にそなえ下段に構え直す。すると琥珀もまた下段の構えをとる。
脇構えからの素早い胴打ちに対し、脇構えからの素早い胴打ちが。中段からの打突に対しては中段からの打突が正確に返され、薙刀同士がぶつかる乾いた音が響く。
「なんだあの琥珀の動きは!?」
「まるで鏡にでも映っているように桃矢さんと寸分のちがいもない動きですわ!」
「ぬぅ、まさかあれは世に聞く千日颮鏡では……」
「知っているの、男塾先輩!?」
「ああ、あの技は――」
将棋の世界には禁じ手とされているが模写矢倉という戦法がある。これは相手と全く同じ駒の手順で指していき、最後には相手の王を詰めてしまうというものだ。
これを武術に応用したのが千日颮鏡であり、相手と同じ武器を使い攻撃を完璧に模倣することで焦燥感をつのらせ、その隙を狙うというものだ。
この技の要諦は集中力と反射神経を極限までとぎすまして相手の動作を寸分たがわず 一瞬にして模倣することにある。
弱点は相手と同じ武器を持たなければ成立しないこと。
なおこの修業方法は数多くあるが、代表的なものは雨の降る軒下で禅を組み、反射神経で無意識のうちに水滴をかわすことができるようになるまで禅を組むというものである。『人のふり見て我がふり直せ』という言葉はこの修業訓のなごりだとされる。
民明書房刊『中国の奇拳――その起源と発達――』より。
「し、信じられない。そんな技が存在するだなんて……」
「中国五千年の武の歴史には信じられない奇拳珍拳が存在する。酔拳なんてのは序の口で、両足の不自由な人を両腕の不自由な人が肩車して戦う二人一組の肩車拳法なんてのもある」
「う~ん、でも中国五千年てちょっと盛りすぎじゃない?」
「堯や舜といった三皇五帝の時代も勘定にふくめばそのくらいになるさ。日本だって神武天皇から数えて皇紀二千六百うん年とか言ってるし、気にしない気にしない」
歴史が長ければ偉大な文化文明というわけでもない。大切なのは今、そしてこれからだろうに、日本も中国も過去を水増しして、なんとも子どもっぽいことである。
(同じ武器じゃないと真似できないなら!)
薙刀を手放した桃矢が琥珀に突進。たしかにこれなら模倣はできない。しかし。
「素手で薙刀の間合いに対抗できるつもり!」
長柄の武器と素手では間合いに差がありすぎる、突きや蹴りがとどく前に琥珀の攻撃を受けることになるだろう。事実、琥珀の薙刀が桃矢の肩口を狙って振り下ろさせる。
パァァァンッ!
乾いた音が響き、桃矢の手にした薙刀がそれを打ち上げた。わずか一瞬だが琥珀の両手が浮いて胴ががら空きになる。そのすきを見逃す手はない。返す刀で無防備な胴に一撃をくわえた直後、桃矢の手にした薙刀が一枚の式符にもどる。
「ぐっ」
たおれるようにうずくまる琥珀。
「一本!」
桃矢の胴打ちは腋の下に入った。腋の下は人体急所の一つ、受けた衝撃が肺まで伝わり呼吸困難になった琥珀に戦闘続行は無理と見た審判はそのまま桃矢の勝利を宣言。
梅桃桃矢の、緋組拾参番隊の勝ちだ。
呪術をまじえた本格手な戦闘が第一試合から展開され、まわりからは歓声が上がる。
「だいじょうぶ、琥珀ちゃん?」
「……まさか簡易式で武器を、薙刀を作るだなんてね。その発想はなかったわ。これは完敗ね」
「僕もこういうふうに式符を使うって考えはなかったです。これは朱音ちゃんのアイデアですよ」
簡易式で武器を作る。つい先日街でガラの悪い連中にからまれたさいに朱音が使った術を思い出してこころみたのだ。
呪術で武器を作る。
この発想はなかなか盲点である。呪術が使えれば剣や銃といった道具をもちいる必要はない、腕に覚えのある術者ほど既存の物に頼らず呪術による直接解決をもとめる傾向にあるからだ。
呪術はあくまで問題解決するための手段の一つにすぎない。使えるなら銃でもパソコンでもなんでも柔軟に使うよ。と割り切って考える者でも、わざわざ呪術で道具をこしらえ、それを手に取って使う。という考えはなかなか出てこない。ある意味で無駄の多い行為だからだ。
だが今回はその無駄な行為が役に立った。式符をもって自在に動く式神を作るのではなく、ただの武器を作るという発想のなかった琥珀には抜群の効果をもつ奇襲になったのだ。
「この四王天琥珀に勝ったからには、他のやつに負けることはゆるさないわ。絶対にこの刀会で優勝すること。わかった?」
「……うん、優勝する。でも琥珀ちゃん、勝ったのは緋組拾参番隊みんなの力があったからこそ、僕一人の実力じゃないよ。最後の簡易式は朱音ちゃんのおかげだし、紅葉さんと珊瑚さんが武と呪の闘いかたを見せて、僕までつないでくれたから勝てたんだ。僕が最初から琥珀ちゃんと戦ってたら、今みたいに勝てなかったかもしれない」
「ふん、あんたも紅葉みたく絆とか友情とか言うつもり? ……まぁいいわ。勝者であるあんたがそう言うのならそれでね。……あ、それと優勝するだけじゃだめよ、今後は武道以外の授業でも優秀な成績をとること」
「え? なんで?」
「この四王天琥珀に勝った人間は文武両道の優等生じゃなくちゃ納得できないわ。早く成績をあげて緋拾参番隊から白組壱番隊に入れるようになりなさい」
「おいっ、勝手に桃矢を引き抜くな!」
「そうだよ、桃矢君を最初に見つけたのは私達なんだからっ」
「あら、そういうことなら八番隊に来ない? 今ならうんとサービスするわよ」
「八番隊なら同じ緋組のうちに来なさいよ」
「ねぇ、桃矢君――」
「桃矢く~ん――」
「ちょ、まってください。僕は――」
張りつめた空気から一変。舞台上は桃矢の身柄をめぐっての姦しい喚声につつまれた。
「おやおや、急に雰囲気が女子高みたいになったね」
「よく見ればあの子は男子じゃないか。ああ、彼が例の巫女クラスの紅一点ならぬ黒一点の子か。うらやましいねぇ、女の園に男が一人きりだなんて」
これには周りの観戦者達もあっ気にとられる。
「ぬぅ、これは……。まさにチョロイン。裸を見られて結婚を迫るとか、負けたから気になるとか、一人きりの男子が珍しいとか、そういうあれか、そういうのか、そういうのが発動したのか、そろいもそろってチョロイン化か!」
第一試合を大金星で飾った緋組拾参番隊はその後も順調に勝ち進み、やがて決勝戦をむかえた――。
「なんなの、あの戦い……」
会場のすみから暗い眼差しを試合舞台にむけるシェイバの姿があった。
細長い刀袋をかかえて置き物のように微動だにせず、ずっと試合の様子を見ていたシェイバは不満の塊だった。
ほとんどのあいだ陰陽庁の倉庫に封印され、たまに外に出るときといえば開発研究部でいじられるときだけ。封印されているあいだは自我もほとんどなく冬眠状態だったが、それでも退屈という感情が溶けた鉛のように心を侵し、精神をさいなまされていた。
だからこそ主である鏡伶路に召喚されたときは大いに期待したものだが、ハロウィンの夜以降まともに獲物を与えてくれない。活躍するべき場には連れて行ってもらっているのだが、抜いてくれない。
たまに霊災を祓うことはあってもあまりにも弱い、手ごたえのない霊災ばかり。
シェイバは餓えていた。
闘争を欲していた。
だからここに、闘気渦巻く刀会会場に引き寄せられたわけだが、あふれる闘気とはうらはらにシェイバにとってつまらない、退屈な戦闘ばかりを見せつけられうんざりしていた。
どうして敵を斬らない? どうして敵を殺さない? どうして敵の血を吸わない? どうして敵を喰らわない? どうして? どうして? どうして――。
武器を手にした人間がたくさんいて戦っているのに、どうしてそんなお遊戯みたいな真似をするのか、こっちは死合いをがまんしているというのに……。
蛇の生殺しじゃないか。
もったいない。
緋組ナントカ隊といっただろうか、そこのポニーテールの子は動きが良い。あれならもっと敵を痛めつけられるのになんで中途半端なところでやめてしまうのか。
眼鏡の子は呪術に秀でているようだ。もっと徹底的に呪詛できるのに手加減している、なんで敵にそんなことをするのか。
ちんちくりんな茶髪の子は逆に斬りがいがありそうだ。女の身体は男よりも脂肪が多いぶん斬った時の感触が楽しめる。
そういえば最後に人間の女を斬ったのはいつだったろう? ああ、斬りたい。斬りたい、斬りたい!
女といえば、あの女の子みたいな顔をした男子は実に良い動きをしている。
あれなら斬る以外にも、戦いでも楽しませてくれそうだ。
実際、他の連中を制してあの男子のいるチームが優勝したらしく、トロフィーを授与されているじゃないか。
あの子が一番強いんだ。
ああ、斬りたい。
あの子を、いや、他のだれでもいい。戦える者を斬りたい。
そのようなことを考えているうちに、シェイバの理性は霞のようにかき消えていった。
ぶつぶつとうわごとを口にし、ゆらりゆらりと酔ったような足どりで歓声をあげる巫女達の列に近づく。
連戦形式は消耗が激しい。全身に生傷を作り、痛みと強い疲労感にさいなまれるも、桃矢は満ち足りた気分になっていた。
まさか自分が、緋組拾参番隊が刀会で優勝するだなんて、数ヶ月前なら夢にも思わなかっただろう。
呪術とも異なるその異能の力ゆえに居場所をなくした自分に道を示した大友先生。その道をともに歩いてくれる拾参番隊のみんな。
そして強くなるよう稽古をつけてくれた特別講師の賀茂秋芳に感謝の気持ちでいっぱいだった。
そういえば秋芳先生はどうしたのだろう? 見に来ると言っていたが結局最後まで姿を見せなかった。
秋芳の姿がないものか、ふと周りを見回した桃矢の視界に抜き身の刃を振り上げるシェイバの姿が写った。
目が合った瞬間、シェイバがニイと笑い、消えた。
シェイバが消えた。いやちがう、跳んだのだ。
「――ッ!?」
袈裟斬りにされ、鮮血をまき散らして絶命する自分の姿が脳裏に走る。だがシェイバの刃は桃矢の身体にとどくことはなかった。
桃矢の前に割り込んだ者がいた。額に大往生と書かれたどじょう髭の男。
「お、男塾先輩!?」
斬撃を左右二つの拳ではさんで止める、双拳白刃取りで髭切の刃をふせいでいた。
「乱心者が!」
左足が上がりシェイバの右脇腹に吸い込まれるように叩きこまれた。肝臓を狙っての中段蹴り。常人ならば悶絶必至の急所攻撃だったが、シェイバの表情に変化はない。
かすかにラグを生じさせただけで、さしたる痛手にはなってなさそうだ。
「邪魔しないでよ! じゃ~ま~いいか、ジャマイカコーヒー!」
叫びとともに圧倒的な霊気が放たれる。
強烈な戦意、破壊衝動と殺人欲求が突風と化して周りにいた巫女達を打ち据え、吹き抜ける。
剣気だ。
いつぞやの骨喰藤四郎の放った剣気と同じかそれ以上の剣気がほとばしり、巫女達を、さらには遠巻きにしていた見物人達までも恐怖で縛りつけた。巫女のなかには失神してしまう者もいる。
桃矢もまた圧倒的な剣圧にさらされ、尻もちをついた。足に力が入らない、まるで腰が抜けたようだ。
「たらら~♪ 川原ワラワラ~♪」
さらに力まかせに刀を押し切り、白刃止めされた状態のまま刃は男塾先輩の左肩から胸にまで深々と斬り込んだ。
激しいノイズの混じった映像のように男塾先輩の身体がびりびりと乱れ、輪郭がゆがんでぶれ、身体の裏側が透き通るように明滅する。
ラグだ。
出血のかわりにラグが走り、弾けるように像を乱して消えた。今にも二つに切れそうな一枚の式符だけが残る。
(し、式神?)
突然の襲撃、死の恐怖、身を挺してかばった男塾先輩、その男塾先輩はだれかの式神だった――。
わずかなあいだにおこったできごとを理解し、処理するのに脳が追いつかない。茫然とする桃矢の前でシェイバが地に落ちた式符を髭切の先に突き刺して、桃矢の眼前にかざす。
「これって君の式神? よくできてたね。……ねぇねぇ、もっと強いのある? あるなら出してよ。なんて聞いちゃったりなんかして、このこの~、ちょんちょん」
白痴のような笑みを浮かべて切っ先に刺さった式符をひらひらと揺らしている。桃矢にはそれがひどく冒涜的でゆるしがたい光景に思えた。
「ふざけるなぁっ!」
怒りが、恐怖を駆逐した。
バネが弾けるようにはね起きると同時にシェイバの側面に入り身し、手首を両手ではさむようにつかみと同時に身体をひねり、腕ごとねじり倒した。
手首を極められ、シェイバの手から髭切が落ちる。桃矢はそのままとどめの当て身を入れようとしたが、そこにシェイバの姿はなかった。
「!?」
桃矢は知らないことだがシェイバは刀の式神、付喪神であり、その形代は刀そのもの。実体化を解いたのだ。
「あっはははは! 残念賞~。僕はここだよ知らぬが仏、知ってキリスト、斬り捨て御免! ラーメン、タンメン、僕イケメン!」
そして桃矢の背後であらためて実体化したシェイバが手にした髭切を振りかぶる。
(やられる!)
日本刀が描く斬撃の軌道が読めた。
だが身体の反応が間に合わない。肉薄する白刃、肌をなぶるシェイバの霊気。二度目の死を覚悟したとき、シェイバの横っ面と胴に薙刀による一撃と火の矢が命中し、その動きを止めた。
「図に乗るな!」
「桃矢さんから離れなさい!」
紅葉と珊瑚だ。
「「「緤べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの大誓願なり! オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」」」
琥珀を筆頭に白亜と眞白ら白組壱番隊の三人の詠唱が重なる。不動金縛りの術の呪力が一つにまとまり、強力な呪縛がシェイバを拘束する。
「桃矢君っ」
朱音が投げ渡した薙刀をつかみ取った桃矢はあわてて距離をとる。
「た~らら~♪」
小枝のように刀身を振るい、鋼の刃が銀光を閃かせると、全身を縛る呪力の縄がバラバラに切り裂かれ消滅した。
「か、刀で呪力を斬るだなんて!?」
物理的な方法で強引に返された呪の反動を受けて琥珀が悲鳴をあげる。
「うふふふ、やったな~。うふっ、うふふっ、おまえらみんなまとめて相手してやる!」
絶叫し、哄笑するシェイバの異様なさまはいよいよ狂人じみていた。
「おい、あれはシェイバじゃないか?」
「そうだ、鏡独立官の!」
「げぇっ、シェイバ!」
「なにやってやがる、暴走してるのか!? 早く生徒達を避難させろ、人死にが出るぞ!」
ここにきて周りの観客達が動いた。彼らの多くは陰陽庁勤めの現役祓魔官や呪捜官だ、いざとなると動きは速い。生徒や自分らに防御結界を展開し、呪符を手にして舞台に急ぐ。
「そいつに、シェイバに近づくな! 危険すぎる! 遠巻きにかこんで呪術で黙らせるんだ!」
「おいよせ、生徒達を巻き込むぞ!」
なかには観客席から呪術を行使する者までおり、会場は混乱のありさまを見せた。
「動くな」
騒然とする会場に静かな声が響いた。本来ならば人々のざわめきにかき消されてしまう程度のつぶやき声にもかかわらず、拡声器を使ったわけでもないのに、そのつぶやきはその場にいた全員の耳に入り、身体の芯にまでズン、と響き、染みわたった。
それはまるで静かな雷鳴、無音の怒号のようだった。その声を聞いた者はみな動きを止めた、シェイバとて例外ではない。みながみな、強制的に止められたのだ。声に強力かつ精緻に練られた呪力が込められている。
甲種言霊。声を通じて相手の精神に働きかける強制力をもった言葉。
「どいつもこいつも人の式神かこんでなにやってやがる。巫女どものお遊戯はもう終わったのかよ?」
すべてを見下し、揶揄するような独特の口ぶり。鏡伶路だ。
それまで混乱状態だった会場は鏡の登場により逆に凍りついたかのようになった。たんに甲種言霊で動きを止めたからではない。空気が、場の流れそのものを変えてしまったのだ。
鏡と面識のある者もそうでない者も、その霊気の強大さと禍々しさに絶句した。
「お、鬼喰らい(オーガ・イーター)……」
「げぇっ、鏡!」
会場のそこかしこからそんな声が漏れると、鏡は顔をしかめた。
「今、くだらねぇ呼び方したやつはだれだ? その名でオレを呼ぶんじゃねぇ。オレの名は鏡伶路だ。十二神将相手にチョーシくれてっと、耳かきでほじり殺すぞ」
重苦しい沈黙。それを破ったのは一人の祓魔官だった。
「か、鏡独立官。これはどういうことだ、あなたの支配下にあるはずの式神が突然乱入して狼藉におよんだんだぞ。説明してもらおう」
「よくあることだ」
「……は?」
「こいつがトチ狂うことはよくあることだから気にするな。以上、説明終わり」
「なっ……」
鏡のあまりの非礼さに唖然とし、続いて怒りをおぼえる群衆だったが、その圧倒的な霊気に威圧されて文句を言う者は一人もいなかった。大人たちの中には。
「帰るぞ、シェイバ。暗くて静かな保管庫がお待ちかねだ」
「う、うん……」
ついさっきまで酩酊状態のようだったシェイバもまた鏡の登場に気がそがれ、唯々諾々と従った。
「……人を一人斬っておいて、それで終わらせるつもりですか?」
「あ?」
「僕があなたの式神、シェイバっていいましたよね。彼に襲われた時にかばって、殺された人がいるんですよ」
桃矢の視線が床に落ちた式符にそそがれ、鏡もそれを見た。もともと千切れかけていた式符は騒ぎで完全に切れたのだろう、両断されていた。
「人だと? 式のまちがいだろ」
「同じことです」
「いや、同じじゃねぇだろ」
「人の姿をして人の言葉をしゃべる人がいたら、それはもう人と同じです」
「プハッ! おいおいおいおい、笑わせてくれるなよ。人と式が同じだと? ちげえよ! こいつらは〝物〟だ。人じゃねぇ。霊力じかけで動く、ただのロボットだ。だから〝殺された〟じゃなくて〝壊された〟が正解だ。ついでに壊されたことだってこいつが悪いんじゃねぇ。斬られるほうが悪いんだよ」
「…………」
あまりの暴論に周囲から怒りと不快の声なき声があがるが、鏡はまったく異に介さなかった。
「その式神はおまえの物か?」
「いいえ、ちがいます」
「ならおまえが気にすることじゃあないな。……お~い、この式符の持ち主はいるか~? いるなら出てこーい、文句があるなら聞いてやるぞーっ! …………だれも名乗りでねぇな。なら問題なしだ、文句のあるやつは一人もいない」
「ここにいますよ、あなたの無礼な態度に文句のある人間が!」
「ほぉ、文句があるのか?」
「あります」
「どうして欲しい?」
「あなたの式神がしたことについて、あやまってください」
「そいつはお門ちがいってやつだ、こいつのしたことはこいつのせいだからな。おれのせいじゃねぇよ。……だが、おいシェイバ」
「え? な、なに?」
「このガキがおまえに責任をとれってよ、だから今すぐ腹を切れ」
「な?」
「え、ええっと。ごめん、伶路がなにを言ってるのかわからないよ」
「腹を切れ」
「い、いやだから……」
「今すぐ腹ぁ切れっつってんだろうがぁッ! このダボがぁ!」
鏡の手がひるがえり、呪符が打たれる。ナイフを象る簡易式はシェイバの腹部に命中し、深々と突き刺さった。
「ぐふっ」
うずくまるシェイバに近づいた鏡はナイフの柄を無造作につかみ、ぐりぐりとねじり込み、横に引き裂いた。
「い、痛い! 痛いよ伶路~! やめてよっ! ひっ、ひぎぃぃぃッッッ!?」
腹部を激しいラグが明滅する。それはまるで残酷な映像にかかるモザイクのようで、実際に生身の人間を傷つけているかのような錯覚を見る者にいだかせた。
「どうだッ! おまえのお望みどおり責任をとらせてやったぜ、感謝しな!」
「やめろ!」
甲種言霊の呪縛を断ち切って鏡につかみかかろうとした桃矢だが、呪力の縛鎖が鉛の重さで全身を縛り、水の中を進むように遅々とした動きにしかならなかった。
「自分の式神になんてひどいことをするんだっ!」
「おまえが望んだことだろうが、それをやめろだぁ? おとなしく聞いてりゃつけ上がりやがって。十二神将相手にチョーシくれてっと錆びた刃物で研ぎ殺すぞ、ゴラァ!」
桃矢の胸元をつかみ力まかせに叩きつけようとした鏡の動きが止まった。
「んぁ? おまえ男だったのか?」
「そうだっ、僕は巫女クラス唯一の男子生徒。梅桃桃矢だ!」
「プハッ! 二度も笑わせてくれるじゃねぇか。男のくせに女装して巫女さんごっこだと? いつから
陰陽塾はオカマ野郎の面倒まで見るようになったんだ?」
身体が動かせないのならせめて口を動かそう。四方八方から巫女達が口撃する。
「ちょっとあんた、土管だか独立官だか知らないけど『古事記』や『日本書紀』を読んだことないの?
ヤマトタケルノミコトだって女装してるじゃないの」
「そうよ、皇室の御先祖様のしたことにあやをつける気!?」
「織田信長は女装趣味があったし、源義経は女装して弁慶と戦って勝ったのよ!」
「武士道なんかよりも女装のほうがよっぽど古い歴史と伝統を持っているだから」
「あんたみたいに日本の歴史と伝統と文化をないがしろにするやつを反日分子って言うのよ」
「食事だって洋食よりも和食のほうが健康にも美容にも良いんだからね!」
「でも和食は塩分が多いから高血圧の人は気をつけなくちゃいけないのよ」
「高血圧の人は日本蕎麦を食べるといいわ。お蕎麦にふくまれるルチンが血圧を下げてくれるのよ」
洪水のようないきおいで論旨がずれていってるが、いずれも桃矢を助けたい一心で舌を動かしていた。
「黙れ」
ふたたび鏡の甲種言霊が響く。身体の動きのみならず、言葉を発することすら強制的に止められてしまった。
「ぴーちくぱーちくうるせぇんだよ、メスジャリが。十二神将相手にチョーシくれてっと全身の毛ェ抜き殺すぞ」
女子供でも容赦はしない。小うるさいガキどもに大人の厳しさと世の中の不条理さってのを教えてやろう。
鏡の全身から発せられた霊圧を感じ、桃矢を始めとする巫女達に恐怖と緊張が走る。
「どれ、ちょいと炙ってやるか……」
鏡がなんらかの呪を唱えようとした、その時。
場の雰囲気にそぐわない、えらく緊張感に欠けた言葉がどこからか聞こえてきた。
「カンフー映画あるある~」
「あるある~」
「高いところから主人公が敵を蹴っ飛ばすと別アングルでリプレイされて、スローモーションで敵の『うおぉおぉぉおおぉ』てな感じの間延びした声が流れる」
「あるある~」
「手錠で繋がれた二人が別々の方向に逃げようとして柱にふさがれてガックンてなっちゃう」
「う~ん……、あるある~」
「あるある~」
「飯屋の場面では必ずといっていいほど乱闘シーンがある」
「あるある~」
「でもってその飯屋のおやじが『外でやってくれ店がこわれちまう』とかの科白を言う」
「あるある~」
「攻撃する時の効果音がボォフゥッボフッていう、タオルかなんかはたいてるような音」
「あるある~」
「エンディングがNGシーン集」
「え、いやそれジャッキーの映画だけじゃね?」
秋芳と笑狸だ。
緊迫した空気を無視して桃矢の前までくると歩みを止め、導引を結び口訣を唱えた。
「我祈願、南斗星君。百邪斬断、万精駆滅、星威震動便驚人――。活剄!」
魔を退け、身心を浄化し、霊気の偏向を正す治癒の術が効果を発揮した。甲種言霊の呪縛が解ける。
「カンフー映画あるある~。はい、桃矢」
「い、椅子みたいなやつを武器にして戦う!」
桃矢は満面に安堵と歓喜の表情を浮かべて、とっさにそう答えた。
刀会 4
「あああアアア嗚呼っ、どうすれバインダーっ!?」
頭をかかえてつっぷする桃矢にまわりの巫女達が気づかい気味に声をかける。
「おまえは最善を尽くしたんだ。どうするもこうするもない、きたるべきシェイバとの戦いにそなえて訓練あるのみだ」
「そうですわよ桃矢さん、これは絶対に負けられない戦いですわ」
「じゃないと賀茂先生に……」
「利子つけてウン千万円も払うはめになっちゃうものね」
「うわーっ、無理だー! 無理ゲーだぁっ!!」
桃矢はなにを騒いでいるのか、ことのしだいはこうだ。
「い、椅子みたいなやつを武器にして戦う!」
桃矢は満面に安堵と歓喜の表情を浮かべて、とっさにそう答えた。
「あー、あの細長くて足の短い椅子な。カンフー映画では椅子のほかにも鍋とかフライパンとか鮫の歯とかソーセージといった身近な物を武器にするシーンが出てくるが、実に参考になる。俺達のような呪術者もなにも呪術にこだわる必要はない。対人だろうが対霊災だろうが、周りにあるすべてのものが武器になるという見本だ」
「……おい」
「良い試合だった。じかに見られなくて残念だったが式神を通して桃矢達の戦いはちゃんと見てたぞ。まぁ、まだ全部見たわけじゃないが」
二枚に断たれた式符を手にして見せる。
「こいつが記憶したのを後でゆっくり見せてもらうことにしよう」
「ああ……、やっぱりあの人。男塾先輩は秋芳先生だったんですか」
「おい」
「最後の最後でちょっとしたトラブルがあったが、とりあえず優勝おめでとう」
「はい! ありがとうございますっ」
「おい」
「他のみんなもよくがんばった。店を予約してあるから今日はこれから打ち上げだ」
「「「わ~い!」」」
「おい! まてコラッ!」
すっかり無視されている鏡が怒鳴る。
「なにごともなったみてぇにスルーするんじゃねぇ! 十二神将相手にチョーシくれてっと缶詰に詰め殺すぞ!」
「……呪と武の神聖な祭典をあまり汚してくれるなよ。あんたにゃ式符の弁償をしてもらいたいくらいなんだからな」
刀会の締めくくりをつまらない私闘で濁したくはない。秋芳はこの狂犬じみた男をまともに相手しようとは思わなかった
「……てめぇ、こいつらの先公か」
鏡の目が細まり、秋芳をじっと視た。
(表の垂れ幕に陰陽塾とか書いてあったな。するとこいつは陰陽塾の講師か。まだ若いな、卒業しても社会に出ず、そのまま古巣に引っ込んでガキ相手の講師業に手堅くおさまったくちか……)
鏡の口が蔑みの形にゆがむ。
(霊力は中の上ってとこみたいだが、オレから見れば雑魚だな。……いや、だがそれだとオレの甲種言霊
を解いた今の術の説明がつかねぇ。あれはかなりの呪力だったぞ、力を隠してやがるのか? こそこそと出し惜しみするやつは好かねぇ――ッ!)
鏡の手がひるがえり無数の式符が乱れ飛び秋芳に殺到。鋭利なナイフや獣の牙を象った式符が突き刺さると同時にかたわらのシェイバが髭切を一閃。胴が真っ二つになる。
エア斬殺。
現実の光景ではない、鏡のイメージだ。
しかし本気の殺意を飛ばした。ある程度の使い出ならばなんらかのリアクションがあるはず。
だが殺気の颶風が吹きすさぶ中でも秋芳は微動だにせず、霊気にもぶれがなかった。
動かないのではなく、動けない。霊力呪力はともかく実戦となれば戦闘力はこちらの上。戦えばかならず勝てる。鏡はそう判断した。
「陰陽塾に巫女クラスがあるとは聞いてたが、チャンバラごっことはねぇ。いいのかよ、舞や祝詞の練習はしないで」
「彼女達の戦いを見てなかったようだな。呪術をまじえた実戦に近い試合、普段から舞や祝詞を真剣に学んでいるからこそできることだ」
「祝詞はともかく舞は戦闘の役にはたたねぇだろ、巫女さんは巫女さんらしく神前で神楽舞でも奉納していればいい。生兵法はケガのもとって言うぜ」
鏡の中には巫女クラスに対する嘲りの念があった。
巫女クラスだと? 神道科ならともかくなんで巫女だ。巫女限定なんだ? 答えは簡単、ただの客寄せだ。
かつて土御門夜光はいにしえより伝わる数多の呪術を一つに編纂し『陰陽術』を作った。
神道、修験道、密教、仙道――。多くの呪術からなる統合呪術がなぜ陰陽術という名称になったか?
それは土御門夜光が陰陽師だったからにほかならない。
もし彼が神官だったならば神道術、僧侶ならば法術とでもなっていただろう。
土御門夜光以降、呪術師イコール陰陽師となったのだ。
だが当時の日本は神道を国教としていたため、神道という存在を無碍にはできない。もともとあった神社本庁に甲種呪術をあつかえる神官が配置され、戦後しばらくは陰陽塾に神道科が存在した。
だがいつしかなくなり、代わって巫女クラスが設立された。
陰陽師とはことなるアプローチで呪術に関わる。という題目で、若い娘を使いなんでも屋みたいなことをしているそうだが、一種のアイドル商法みたいなものだと鏡は思っている。
メイド服を着て耳かきや給侍をする、ああいう商売に近い。
さすがに売春などはしてないだろうが、巫女とは聖と俗を併せ持つ存在。古代メソポタミアの神聖娼婦や、遊女のような真似もした歩き巫女という存在を連想してしまう。
本職の呪術師とは呼べない、ごっこ遊びの集団。それが陰陽塾巫女クラスに対する鏡の見解だった。
「竹刀箒でぴちぴちじゃれ合うのが呪術戦だって? 冗談だろ」
「なにを言う、彼女達の薙刀術は見事な兵法だぞ。それに舞は戦闘の役に立たないと言ったが、舞は武に通じる」
舞は武に通じる。これは琉球空手、それも王家に代々伝わる一子相伝、門外不出の武術である御殿手にある思想だ。
剛と柔の技を積み重ねて修業を積んでいくと武は舞に至る。相手に応じてどんな変化もできる柔かい動きの極まりが武の舞であり、舞の武なのだ。
琉球舞踊と琉球空手は密接な関係にある。
「プハッ! 竹刀なんぞぶん回してなにが兵法だ、笑わせるな」
「竹刀のどこが悪い、近代剣道を否定する気か?」
「ああ、否定するね」
断言する。
「防具をつけて竹刀で面だの胴だのやる剣道なんて、ただのチャンバラごっこだ。竹刀で人が斬れるか」
「たしかに斬れないが、殺せるぞ」
江戸時代の剣客に大石種次という人がいる。強烈な左片手突きの使い手で、試合のさい相手の鉄面を突き破り、眼球が面の外まで飛び出すほどの深手を負わせたという逸話がある。
こんな技を生身で受けてはたまらない、死ぬ。
昭和の剣聖と謳われた高野佐三郎も試合中に喉を突かれ、大ケガをしたことがある。
剣道の動きのひとつひとつはいずれも一撃で相手を殺すことができる必殺のものだ。
よく剣術を題材にした漫画などで竹刀で人は斬れないだの、かかとが浮き腰の入ってない竹刀稽古は重い真剣を振るうにふさわしくない。などと書かれ剣道はなにかと貶められるが、なぜ真剣にこだわるのか?
竹刀で人が殺せるのならそれでいいではないか。
剣道の原点である古流剣術は殺すため殺されぬための実戦術で、とにかく敵を叩き斬って自分が生き残ればいいというのが基本であり神髄だったはずだ。
現代の日本で真剣を持ち歩くのはむずかしい。だが竹刀やそれに等しい棒状の物ならいくらでも手に入る。それらを武器としてあつかう技術を磨くこと。すなわち剣道とは立派な実戦武術なのだ。
「――うちの生徒は、巫女クラスのみんなはいざとなればみずからを刃に変えて戦う術を習っている。彼女達の武術は無意味じゃない。たとえばそこの」
そう言ってシェイバを指差す。
「そこにいるのはあんたの式神だろ。速さと力に秀で、かなり強いようだが技のほうはどうかな?」
「え、ええっと……」
「半端な技なんぞこいつにゃ必要ねぇし通用しない。技を超える純粋な力。それがこいつの強さだ」
そしてオレもそうだ。鏡はそう心中でつけくわえた。
「半端な技ならそうかもしれないが、うちの生徒に半端なやつは一人もいない。さっきはずいぶんと暴れてくれたみたいだが、霊災として修祓されなかったことを感謝するんだな」
「プハッ! こいつらにシェイバが祓えられると思ってるのか!? おいおいセンセイ、見鬼が濁ってるぜ。霊力の差を考えろ、小手先の技でどうこうできるレベルじゃねぇぞ」
「ここにいる優勝者の少年、梅桃桃矢という名だが、彼はついひと月ほど前までまともに薙刀も振るえなかった。それを必死の努力でここまで強くなった。ひと月でこうだ。一年、いや半年もあればシェイバと互角以上に戦えるようになる」
「ねぇな、ありえねぇ。一年どころか百年かかっても女装坊主がこいつに勝てるわけがねぇ」
「勝てるさ」
「勝てねぇ」
「賭けてもいい」
「ほぅ、なにを賭ける?」
「俺の全財産」
「秋芳先生!?」
いったいこの人はなにを言い出すんだ?
「プハッ! 木っ端講師の安月給の全財産なんざたかが知れてるぜ、十万か? 二十万か? そんなはした金いるか」
「三千五百万円」
「なん…だと…」
これは予想外に大きな金額だった。陰陽師の給料はけして高いとは言えない。国家一級陰陽師である鏡でも、世間で言われているほどの高給はもらっていない。まして二十歳そこそこと思われる一講師の稼ぎでそれほどの貯金があるのは意外だった。
「てめぇ、ふかしこいてんじゃねぇだろうな?」
「うそじゃない。なんなら通帳でも見せようか」
「……ようし、その話、のった!」
鏡はべつに金にこまっているわけではない。
この男、鏡伶路は力の信奉者である。
霊力、呪力、知力、体力、権力……。ありとあらゆる力を認め、求めている。
財力もその一つだ。なにも金が欲しいわけではない、他者を屈服させ、その力を奪うのが好きなのだ。
鏡が喰らうのは、なにも鬼だけではない。すべての存在はおのれを高めるための糧でしかないと思っている。
「決まりだ。半年後にそのガキとシェイバで死合ってもらうぜ。――十二神将相手の約定、やぶったらどうなるか、言うまでもないな」
鏡は満足してシェイバをともないその場を去った。
「あ、あああっ、秋芳先生! なんつーことしてくれるんですか!?」
なりゆきを黙って見ていた桃矢が狼狽して、食ってかかる。
「俺にあいつらを叩きのめして欲しかったのか? 巻き添えくらって死者でも出たらどうする、せっかくの刀会がだいなしだ。ああしてあしらうのが一番だったのさ」
「で、でもどうして僕があんなバケモノみたいなのと戦うはめに……。ていうか十二神将!? さっきの鏡っての十二神将じゃないですか! ああ嗚呼アアッ、な、なんてのを相手にしちゃったんだぁ~」
「そのバケモノみたいな式神を投げ飛ばしたり、十二神将相手に突っかかった、さっきのいきおいはどうした?」
「あ、あの時は頭に血がのぼって自分でもわけのわからない状態だったんです」
「そんな状態できちんと技が出せたんだからたいしたものだ。おぼえた技をきちんと身につけている。この調子で、今までと同じ訓練を半年間ちゃんと続ければ勝てる見込みはある」
「ううう……、そんな人ごとだと思って」
「人ごとなんかじゃない、おまえが負けたら俺が三千五百石円も出すんだぞ」
「あっ! そうでした。……すみません僕なんかのためにそんな大金を」
「負けたら弁償しろよ」
「えええッ!?」
「なにをおどろく、当然だろう。俺だけに一方的にリスクを背負わせる気か?」
「そうですけど、そうですけど……、そんな大金払えません!」
「なら身体で払ってもらうまでだ」
「え、エロいことをさせるつもりですかっ」
両腕で肩を抱き後ずさる。鼻をナニに変えられたあげく、あんなことやこんなことをされた、先日の一件を思い出したのだ。
「ん? ちょっとまってください、僕が勝ったらあの鏡って十二神将からお金をもらって、僕が負けたら僕がお金を出すって、これじゃあ一方的にリスクをおっているのは僕じゃないですか!!」
「……あ~、なに言ってるんだ、カンチガイするな。俺がゼンガクもらうとは言ってないだろ。勝てばやつからぶんどった三千五百石円はほとんどすべて桃矢のモノサ」
「あ、なんか今『ち、こいつ気づきやがったな』て顔しませんでしたか? しましたね、しましたよね!」
「あー、もうごちゃごちゃうるさい、とにかく今は打ち上げだ。みんな飲みにいくぞー」
「「「いくぞー!」」」
危険な闖入者の狼藉に一時はどうなるかと思われた刀会だが、とりあえず無事に閉幕をむかえることになった。
「みんなお待たせ、予定より少し早く来たからまだ少し準備があったらしい。ん? どうした桃矢、そんなに頭をかかえて。『ヘルズ・ティーチャー/キマイラ』のドラマのできがあまりにも悪かったからショックを受けているのか」
「ちがいますよ!」
「ああ、たしかにヘルズ・ティーチャーのドラマは最悪だったな」
「俳優も合っていませんが脚本の段階でダメダメですわ」
「あと、あの安っぽいかつらと着ぐるみはないよね~」
「キマイラ先生は普段は頼りないけど、いざとなったら頼りになるのよ。でもこのドラマだといざという時もいっぱいいっぱいで、私が呪術で助けてあげたくなっちゃう」
「日本語の不自由なスノーメイデンが出てきた時点で見るのやめたわ」
「私も。種のビビアンは生暖かい目で見れたのに、なんでかしらね」
「だいたいなんなのあの衣装は、安っぽい湯女みたいじゃない」
わーきゃーわーきゃーと、一視聴者ならではの容赦のないダメだしが続く。
「昔の人は言っていた。『シナリオが一流なら監督が二流三流でも良い映画は作れる。だけどシナリオが三流なら一流の監督がいくら頑張ってもうまくいかない』と、やっぱり脚本は大事だよな。――さぁ行こう」
「あのう、賀茂先生。お店を予約してあるとおっしゃっていましたから、てっきりレストランかどこかだと思っていたのですが、ここってお寺ですよね?」
東京都内にあるとは思えない深い緑にかこまれた中、歴史を感じさせる山門や仏塔が目の前にそびえ、山門の額には『聖蓮寺』と書かれている。
「そうだ」
「しかも……、甲種呪術の気配を感じるのですが」
「おお、よくわかったな。さすが白巫女壱番隊一の良識派、十字眞白だ。そう、ここは一般に開放されてはいるが、いわゆる闇寺という場所だ」
「「「闇寺!?」」」
「正確には闇寺だった、場所な」
闇寺。
現在の陰陽法からはずれた呪術者が身をよせ合う、呪術界のアンダーグラウンド。わけあって陰陽庁を去った者や陰陽庁に属することがかなわなかった者、呪術への理解が薄い地域で術が使えるからと化物あつかいされた者などが行きつく場所。
生成りの子どもら引き取り優れた呪術者へと成長させる場でもある。
だが闇寺の者が普通に使用している甲種呪術等は国家資格がないと使用出来ないものであり、陰陽庁からみれば闇寺は犯罪者の巣窟そのものだ。
このような場所は日本各地に存在し、呪術に関するすべてを掌握しようとしている陰陽庁にとって頭痛の種になっていた。
陰陽法の改正のほか、このような非合法の呪術組織の解体もまた、現在の陰陽庁が意欲的に取り組んでいる課題の一つだった。
この聖蓮寺はそんな陰陽庁の〝軍門〟に降って久しい元・闇寺だと秋芳は生徒達に説明した。
「――とまぁ、破格の条件で従属させたんだ。もちろん陰陽庁への投降に不満を持つ者も少なからずいて、そういう人達は別の闇寺に移っていったそうだが、おもだった面々は残って合法的な活動をしている。たとえば宿坊なんかに宿泊して写経や座禅を体験して心を清め、夜には美味しい精進料理をいただく。みたいなレクリエーションの提供で、わざわざ非合法のあぶない橋を渡るよりかは、よっぽど良い商売になるらしい」
懐柔し、吸収する。血の流れない良いやり方だと秋芳は思う。呪術師だからと問題解決にやたらと呪術をもちいることは、軍隊がやたらと銃砲をチラつかせ、使用するのに等しい。相手を屈服させるのに呪術という〝武力〟をもちいず、最後まで話し合いで解決していって欲しいものだ。
(しかし陰陽庁に組するのをこばみ続けた者が残る、最後の闇寺を落とすのは骨が折れそうだよな。だがそれでも平和的に国内勢力の統一をしてもらいたいものだ。日本を良くしようとしているのに日本人同士で殺し合うなんて愚の骨頂だ。……いや、いやいやいやっ、この考えはいささか危険じゃないか? 陰陽庁が、多数派がつねに正しいとは限らないし、少数派の意見も尊重すべだ。数が少ないということは悪いことでもなんでもない、むしろ人間の多様性をしめすもので、少数だから悪いということもない。いかんいかん、いかんぞ賀茂秋芳。多数派の意見に安住して少数派の意見を疎外するのはいかん。他の少数派に対しても理解を持たなければ、そもそも俺達呪術者自体が少数派じゃないか。闇寺は闇寺で社会には必要かも――)
横道へとそれそうになる思考を無理やり戻し、話を続ける。
「百人は入る講堂が、今夜は俺達八十人の貸し切りだ。みんなぞんぶんにはしゃげ。無礼講だ」
「「「わーい!」」」
精進料理の献立をベースにしているが肉類も混じった料理の数々が巫女達を歓待した。
禅は中国から伝わってきたものだが、そのさいに中国料理のノウハウも共に伝達され、禅寺の精進料理というのは中国色が強い。
油条に玉子と野菜のお粥、フカヒレのスープ、白身魚と野菜の春雨炒め、豆腐サラダ、鴨肉の紹興酒浸け、アヒルの玉子をゆでて糸で切ったもの、栗、銀杏、松の実、枸杞の実を猪肉に散らしたもの、点心は小籠包、冷製ライチ、愛玉ゼリー、ベリーソースかけ杏仁豆腐、椰子牛奶酥や鳳梨酥、茉莉花茶を始めとする中国茶、などなど……。
もちろん一つの膳にこれだけの量の料理は乗らない。お粥とスープ、油条とサラダ以外の物は別の膳に載せられて運ばれていた。
「式神?」
甲羅の部分がお膳状になった亀の式神がたくさんの料理を乗せて回転寿司のレーンよろしく席沿いを回っているのだ。
さらに手足の生えた蒸篭が湯気をあげて、ひょこひょこと動きまわり、熱々の饅頭や小籠包を用意し、蝶の翅のついた急須がお茶を注いでまわる。
まさに元闇寺。呪術と縁の深い場所ならではの饗応にみんな大喜びだった。
「私フカヒレの姿煮なんて初めて!」
「油条って揚げパンみたいだけど全然脂っぽくなくて食べやすいわね」
「カニみそ入りの小籠包なんてあるのね」
「私のはウニ入りだったわ」
「むらさき芋やマンゴーの小籠包ですって」
「仙草ゼリーていかにも薬草って感じ」
「ねぇ、ライチの食感て……、アレに似てない?」
わーきゃーわーきゃーと、普段は寂寞としている講堂内は女子達の歓声にあふれていた。
(酒も入ってないのによくあんなにさわげるものだ)
少し離れた場所でビールをチェイサーに白酒をたしなんでいる秋芳がそんな生徒達の姿をまぶしげにながめる。かたわらに笑狸の姿はない。興がのって女子達の輪に入り一緒にさわいでいるのだ。
独り、あるいは愛しい人と二人きりで静かな時を過ごすことを好む秋芳だったが、たまにはこういうさわがしさも悪くはないと思えるようになっていた。陰陽塾に来て変わったことのひとつだ。
(ああ、美味い。茅台酒や五粮液も良いが、やはり白酒は洋河大曲にかぎる。にしてもなんで中国じゃビールのことを啤酒なんて書くのだろう。口に卑しいとは酒に失礼じゃないか。……うん?)
打ち上げ当初の最初のほうはさんざん女子達にもみくちゃにされていた桃矢の姿が見えない。
秋芳がそのことに気づくと、そっと席を立った。
薄雲を透かして地にそそがれる、朧月のほのかな光に照らされた枯山水の庭園が詫びた風情をかもし出している。
縁側に座った桃矢は遠くから聞こえる女子達の歓声をBGMに、ぼんやりとそれを見つめていた。
美味しい食事とお茶の力でしずんだ気持ちはだいぶ良くなっていたが、こうして一人になると来たるべきシェイバとの戦いのことが頭に浮かび、どうしても陰鬱な気分になってくる。
「あの時はなんで平気で向かっていけたんだろう……。むちゃくちゃ霊力に差があったのに。ああもう逃げちゃおうかな……」
しかしそうなると不戦敗で賭けに負けた秋芳先生がお金を出すことになる。失せ物や探し人を見つける卜占の術も陰陽師の得意とするところ。どこに逃げても見つかってしまいそうだ。もしそうなればどんなひどい目に遭うことやら、シェイバにぶった切られたほうがまだマシなのかもしれない。
「退くことも闘いには必要だが、それはあくまで勝つための一時的なものだ」
「秋芳先生!」
「武道の行きつく先は禅の境地だと言われる。精神を磨くことによって手を合わさずとも勝敗が決する。江戸時代屈指の剣豪で心法の剣と呼ばれた無住心剣術の真里谷円四郎も、武道の極意を悟った者同士が立ち会えばいっさいの術技を排した状態になり、瞬時に勝負がつくと言っている。武道や呪術の極意は精神にあると言っていい。精神を制御するんだ。今は倒せなくてもいずれ倒せる日が来る。半年もあればおまえはじゅうぶんに強くなる。もちろん慢心も怠慢もせずに毎日きちんと修行をしていればの話だがな」
「本当に、そう考えてるんですか?」
「あたりまえだ、勝つ見込みがないのにあんな話をだれがふるか。前にも言ったが桃矢は基礎ができている、乾いた砂が水を吸うようにおぼえが早い。これから武にくわえて呪術でも、俺のとっておきを教えてやるから安心して修行にはげめ」
「……はい、お願いします。……ところですごい豪勢な打ち上げですね。これって陰陽塾が用意してくれたんですか?」
「まさか、あの吝嗇な塾長がこんな大盤振る舞いするわけないだろ。俺の自腹だ」
「ええ!? ずいぶん太っ腹ですね、相当お金がかかったんじゃないですか? さっきの三千五百石円といい、ひょっとして秋芳先生ってお金持ちだったりします?」
「俺が呪術を使って商売しているのは昨日今日からじゃないからな、それなりの貯えはあるさ」
それに最近は良いバイトもあるしな。そう胸中でつけくわえた。
巫女達に依頼される案件の中には高額の謝礼が用意されているものもある。秋芳はそのような案件を自分でこっそりちゃっかり解決して報酬を得ていたのだ。
「あ、そういえば今日はどうして遅れちゃったんです? 開会式から顔を出せるって言ってましたのに」
「ああ、陰陽庁に用事があったんだが、そこで思わぬ一件があってな」
「思わぬ一件?」
「聞きたいか?」
「聞きたいです」
「なら話そう。実は――」
秋芳が語る思わぬ一件とはどのような内容か? 続きは次話で――。
後書き
これ書いてた頃はぬ~べ~のドラマが放送されてたんでしたっけ。
観念
室内に一枚の絵画が飾られていた。
小さな川が流れ込む沼のような水辺で、草や竹なども描かれている。高い山が背景にあり、あたりの景色は霧や靄にかすんでいて、よく見えない。
絵の中ほどに、もじゃもじゃの髭面をしたみすぼらしい姿の男が立って、その両手に大きな瓢箪をもっている。その瓢箪を差し出した先の水面には一匹の巨大な鯰が描かれている。
瓢鮎図。
室町時代の画僧、如拙の描いた作品で国宝に指定されている絵画だ。
もっともここに飾られてあるそれは本物ではなく精巧に写された模写で、僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年がその絵をじっと見つめてなにか考え込んでいる。
賀茂秋芳だ。
そんな秋芳の横顔を見つめている少女がいた。
亜麻色の髪をハーフアップにし、長身でスタイルが良く、自信に満ちた勝ち気そうな表情をしている。
倉橋京子だ。
恋人の寝顔はずっと見ていても飽きない。以前読んだ少女漫画にそう書いてあったが、真剣な面立ちで沈思黙考する恋人の横顔というのも同様に見ていて飽きないものだと思った。
「……どう思う?」
「え? あ、ええ~っと……。瓢箪を売ったお金で人を雇って捕まえてもらうってのはどうかしら?」
「おお、なるほど! その発想はなかったな。俺は瓢箪で捕まえることに固執していた」
ふたりはこの瓢鮎図に課せられたお題のことを話しているのだ。
小さな瓢箪で大きなナマズを捕まえてみせよ。という禅問答を題材に描かれており、今まで多くの禅僧たちがそれぞれの答えを出してきた。
いわく、瓢箪を二つに割ってはさみ獲る。瓢箪で水をすべてすくってかき出せばいい。瓢箪の中の酒を飲ませて酔ったところを捕まえる。などなど。
著名な禅僧の答えのなかには、瓢箪でおさえた鮎ナマズでもって吸い物を作ろう。ご飯がないなら砂でもすくって炊こうではないか。という、まともな回答を放棄したようなものまである。
禅の公案。すなわち禅問答には決まった答えはない。みながそれぞれ空想することを善しとしている。
答えではなく、想像や思考をめぐらすという、その過程が重要なのだ。
禅宗のなかでも臨済宗のお寺にはよく枯山水があるが、これも空想することの役に立つ。たんなる砂の模様を、あれは島、ここは海。などとイメージするのだ。
空想は右脳の領域だが、人は日常生活において右脳をほとんど使わない。この右脳を極限まで活発化させた状態を、俗にいう『悟りを開いた』状態だという。
いっぽう曹洞宗では逆に無になることで左脳の活動を止め、それにより右脳を活性化させる方法で覚りを得ようとする。
普段からあれこれ想像しているせいか、臨済宗出身の僧侶には一休、白隠、沢庵など。ユーモアに満ちた僧侶が多い。
このように空想や想像を働かせて観念の世界にひたることも呪術の修行の一つなのである。
「あと、男の人はもうすでにナマズを捕まえていて、瓢箪のように見えるのがナマズで、ナマズのように見えるのが瓢箪だったりして」
「おー、なるほどなるほど。京子は賢いなぁ」
ここは陰陽庁の中にある一室で、禅についての資料が展示されている。
二人はなぜ陰陽庁にいるのか?
今日は巫女クラスの刀会が陰陽庁に隣接する呪道館で開かれるので観戦に来たのだが、せっかくなので陰陽庁に足をはこび、先日のハロウィンの大霊災。万魔の大祓えについての意見を伝えにきたのだ。
陰陽師側が力任せの強引な方法で祓魔しようとしたことで霊災が強化、変容した可能性をうったえ、ハロウィンの作法にのっとりお菓子を捧げたり、みずからもお化けの仮装をするという〝儀式〟をおこなうことで被害もコストも最小限にできるはずだと、文章にしたためて提出した。
お菓子を出せば動的霊災はおとなしく従った。京子の名こそ出さないし、あの日のすべてを記したわけではないが、陰陽塾に籍を置く賀茂秋芳の経験談として書いて渡した。
陰陽庁は世間に対してオープンな組織であることをアピールすることに余念がなく、呪術師やそうでない者の意見も広く募集している。
そのための窓口はつねに開かれた状態だ。
じゅうぶんに余裕をもって出発したため、刀会開催にはまだ時間があった。なので時間まで普段はあまり見る機会のない陰陽庁の内部を見学してまわっているのだ。
あいかわらず笑狸は陰陽庁の空気が苦手らしく、庁舎の近くにある喫茶店で時間をつぶしている。
秋芳と京子がともに陰陽庁に来たのはこれで二回目。最初に来た時に見なかった場所を中心にまわっている。
この陰陽庁庁舎という建物は戦後間もない頃に造られた古い建造物で、幾度となく増改築を繰り返しているが、残された部分や引き継がれた個所も多い。
霊的、呪的な理由で手を入れることが困難な場所や機能があって、実際の施行に合わせて変更することができないからだ。
さらに増改築のさいに現場の陰陽師たちが特殊かつ細かい指示を出しているため、工事のたびに特異な構造が増える一方だった。
庁舎内で普通に働いているぶんには問題ないが、ちょっとでも奥まった場所には結界や封印があたりまえのように敷かれており、壁一枚へだてた隣の部屋は異空間につながっている場合さえもあるという魔宮だ。
そのような場所をふたりで散策しているうちに『観念と呪術』なるコーナーのしつらえられた場所にたどりつき、少しのぞいているのだ。
瓢鮎図のほかにも様々な展示物が置かれていて、禅庭園での瞑想を擬似体験できるという呪術装置を見つけた。四方を白い布におおわれ、中央にあるハマグリのような貝の形をした呪具に呪力をそそぐと布に幻が投影されるという物だ。
「蜃気楼というわけか」
蜃気楼は蜃という巨大なハマグリの吐いた気の作る幻。そのような伝説をモチーフにデザインされたことは想像にかたくない。
「どれどれ……」
ためしに動かしてみた。
周囲の景色が一変し、日本庭園が浮かび上がる。京の都は嵯峨の嵐山にある天龍寺の曹源池庭園のようだ。
いつぞや遭遇した果心居士を称する怪老の幻術にはおよばないが、なかなかのできだった。
小さな庭からでも無限の宇宙を感じとるのが観念の修行だ。まして天龍寺の庭園ともなればいくらでも想像できる。
池は大海、そこに浮かぶ岩は蓬莱島、上下に連なる巨石は滝、水面をたゆたう魚影は鯉ではなく竜……。
秋芳と京子はしばしのあいだ、変幻自在の象徴の世界に意識を飛ばして遊んだ。
「……あたし小さい頃はよく空想のごっこ遊びをしたわ。鯉の泳ぐ池はドラゴンの棲む湖で、松の木は魔女がいる塔。自分はそんな国のお姫様なんだって」
「それは良いことだ。空想好きが長じて作家になる人は多い、そして作家という無から有を生み出すことのできる人はある意味で呪術師以上の呪術師だよな。……そうだ、こんど創作の授業でももうけて、巫女クラスの連中に小説でも書かせるか」
ふたりは同床異夢ならぬ同立同夢の幻想にひとしきりひたったあと、装置を止めた。
すると聞きなれぬ声がかけられる。
「――観念の修行なんてして、まだ若いのにえらいねぇ」
ふりむけばそこに年配の男性が立っていた。よれよれにくたびれたスーツ姿だが不潔な感じはしない、身なりには無頓着だが清潔さには気を使うタイプのようだと直感した。
「最近の若い陰陽師はとかく実務的な技術ばかりおぼえようとしてイメージトレーニングをないがしろにする傾向にあるからね、なげかわしいことだよ。……おっと失礼、私はこういう者」
差し出された名刺には津守という名と陰陽庁広報課の文字があるが、それに続く文字は一読ではおぼえられそうない。
「長ったらしい肩書きだろう? ようするに閑職に追われた窓際族さ」
「窓際族だなんて、そんな……」
「すばらしい、現代の貴族ですね」
とっさの返答に窮する京子と素直な感想を口にする秋芳。
「ハハハ! 貴族か、ちがいない。仕事に忙殺されずにこうして好きなことをしていられるんだからね」
そう言ってあたりを手で指差す。この津守という人物は『観念と呪術』コーナーの責任者で、職務に必要と称してあれこれ融通してもらっているらしい。
「ははぁ、その手がありましたか。よし、俺もこんど……」
授業に必要な教材と称していろいろと工面してもらうか。
「ちょっと秋芳君、あたしが言うのもなんだけどお祖母様はケ…、倹約家だから、そう旨くいくかわからないわよ」
津守は自分の仕事の内容と展示品の数々を二人に説明する。禅をはじめとする精神修養や観念の大切さと呪術との関連性を人々に知らしめるのが彼の仕事だそうだ。
「茶道もまた精神修養の一つ。お茶を点てさせてくれないかい?」
津守氏はどうも話し相手に飢えているようだ。ことわる理由もないので、ありがたく馳走になることにした。
一服し、茶飲み話にひとしきりつき合ったあと、秋芳と京子は自分達が陰陽塾に在籍する臨時講師と生徒だと説明すると津守は妙に納得した表情を見せた。
「なるほど、倉橋長官の娘さんに、あの賀茂家の……。たしかにお二人とも非凡な霊力をお持ちだ」
菩薩眼の力に覚醒し、龍脈の気を自在にあやつれるようになったとはいえ普段は自前の気をまとう京子だが、もとより平均以上の霊力の持ち主だ。それにくわえて秋芳との修行でさらに自身の霊力に磨きをかけている。
秋芳もまた必要以上におのれの霊力を誇示するのをきらい、普段は押さえているが、それでも並の陰陽師にくらべれば高い部類に入る。
「……お二人さんは現代の呪術と土御門夜光以前の呪術の大きな相違点とはなんだと思うかい?」
「術式の簡易化や普遍化ですか?」
教科書にはそのように書かれている。京子は優等生然と答えた。
「それも大きな特徴だね。でももうひとつ、そのような特徴を生み出す要因になった『宗教色の排除』てのがある。呪術の前提条件から信仰心のたぐいを切り捨てたことにより本来曖昧模糊としていた呪術の因果性を明確化することができ、それ以降の呪術の技術的発展を助けた」
この人はいきなりなにを言い出すのか? 二人はだまって話の続きを聞く。
「けれどもそれにより、それまで呪術の主たる目的のひとつだった、ある系統の技術や方法論を呪術体系の中から除外する結果となってしまった。さぁ、これがなんのことだかわかるかい?」
「魂関連の項目ですか?」
「そう! それだよ。魂に対する方法論、霊魂の存在。さらには冥界や神界といった異なる世界へのアプローチだ」
「たしかに汎式にはそっち系の呪術はふくまれていませんね」
「そう、汎式には。しかし帝式、帝国式陰陽術には魂の概念がしっかりと残っている……」
「帝式の研究もなさっているのですか?」
「まぁ、独学でね」
「独学ですって!?」
「……それ、ちゃんと許可は得ているんですか?」
「ははは、まさか。こんな閑職の身にそんな大層な権限をくれるわけないでしょ。上にも横にも下にもだま~って研究してましてね、それでも多少は成果ってやつを出してるつもりだよ。もっともおおやけにはできないけれど」
「そうでしょうね。内容にもよりますが、発表したところで禁呪に手を出した罪で裁かれるのは確実でしょうし」
「それでね、つい最近ひとつの呪具をこしらえたんだ。魂に作用する効果のある物を」
そう言うと奥から一基の箱枕を持ってきて見せた。朱塗りの箱台の上にくくり枕がつけられている時代劇でおなじみの枕だが、台の高さは低く、これなら普通に使っても首が痛くなることはなさそうだ。
「まぁ、視てちょうだいよ」
呪具の鑑定には見鬼の能力が必須であり、より精確に機能を知るには高い見鬼の才を求められる。秋芳と京子は霊視に集中し、箱枕にそなわる力を調べてみた。
………… ………… ………… ………… ………… ………… ………… …………。
「……これは、望んだ夢を、いや予知夢を見せる効果か? いや、少しちがうな……」
「幽体離脱? なんか意識を飛ばす機能がない?」
あれこれ探るうちにたどりついた答えは『はっきりとした意識をたもったまま夢を観ることのできる機械』というものだった。いわば仮想現実、バーチャルリアリティを体験させる呪具だ。
ただしその夢というものが通常の夢のように自身の意識のみから生じる夢とはかぎらない。阿頼耶識や集合無意識にリンクし、夢を観るというのだ。
他者、それも特定の個人に限らず広大な精神世界に侵入して観る夢。その夢の内容をこちらで決めることはいっさいできない。
「まるで荘子の胡蝶の夢だな。我、夢に胡蝶となるか、胡蝶、夢に我となるか」
「仮想現実っていう点じゃあ、邯鄲の夢みたいよね」
「ああ、そうだな。……しかし漢民族というのは大したものだよなぁ、二千年以上も前に内宇宙、インナー・スペースと実存との関係を哲学にまで昇華させるだなんて」
「精神だけじゃなく物質的にも進んでいたのよね、世界三大発明も中国が発祥でしょ」
火薬・羅針盤・活版印刷術。これらはルネサンスの三大発明などと言われ、いかにもヨーロッパ人が発明したかのように言われるが、実際には中国で発祥したものだ。
この三大発明に紙をくわえて四大発明とも呼ばれるが、その製紙技術もまた後漢の蔡倫という人物の発明だとされる。
ちなみにこの蔡倫、宦官である。宦官というと秦の趙高や宋の童貫。『三国志演義』の十常侍など、とかくマイナス面ばかり強調されがちだが、鄭和や秦翰や張承業、張蚝ちょうしといった英傑たちも存在したことをわすれてはいけない。
「そう、夢だ! さすが呪術界の名門出のお二人さんだ、よくわかりましたね。その夢を観る呪具をようやくこしらえることができたんだが、いかんせん使用がむずかしくて実際のできぐあいがわからんのだよ」
「でしょうね。これ、かなりの霊力がないと危険ですよ。夢に、別の世界に魂をもっていかれる」
「そもそも一定以上の霊力の持ち主にしか反応しないようになっていますよね。あと作動術式もけっこう複雑で呪具のあつかいに慣れた人でないと動きそうにないわ」
鑑定してだいたいの効果はわかった。
「はい、おっしゃるとおり。誤って一般の人や未熟な陰陽師の手で作動しないよう、そういう仕様にしてある。ただ難易度を上げすぎたようで、私自身でも動かせないという次第でねぇ。……お二人にお願いだ。どうかこいつを実際に試してみて、効果のほどを教えてくれないだろうか?」
「会ったばかりの人間に、無許可で作った帝式の呪具の実験を頼みますか普通」
「非常識なのは百も承知だよ、そのうえでお願いするよ。もうずっと外来もなく、来年の定年退職までこいつを独りでながめるだけかと思っていたら、ここにきて人並みはずれた霊力のお客さんが二人も現れた。こいつはきっと天の配慮だとびびっと直感したね、きっと引き受けてくれると。頼むよ、このとおり!」
両手を合わせて拝み倒さんばかりのいきおいで懇願する津守。
秋芳と京子は顔を見合わせた。
どうしようか?
年配の人にここまでお願いされて無碍にはできない。なによりこの呪具はなかなか興味深い。純粋な好奇心から試してみたい気がする。
「ただとは言わない、もし引き受けてくれたら報酬としてここにおさめられている物をなんでもあげるよ」
ここには先の瓢鮎図のようなたんなる美術品の模造品のほかにも数多くの呪具があった。それらのひとつでもけっこうな額になるだろう。近年でこそ陰陽庁やウィッチクラフト社が人造式や呪符の販売をしているが、呪具の販売は基本的にやっていない。
なにせ呪具というやつは大量生産のできない、一般市場にはそうそう出回らない代物で、欲しがる人ならいくらでもお金を出す類の物なのだ。
「……さっきのお茶、黒楽茶碗でしたよね」
「ああ、さすがに利休や長次郎の作じゃないが、安土桃山時代に作られたちょっとした名物だよ」
「あのような本格的な器でお茶を飲んだのは始めてです。貴重な体験をしました、報酬はそれでけっこう」
「おお! では引き受けてくれるか!」
「あたしも。器についてはよくわからないけど、津守さんの点ててくれたお茶は美味しかったわ。それにお茶菓子もね」
話はまとまった。さっそく津守作成の夢枕をあずかる。
「誘眠効果があるから今すぐここで寝てどんな案配か教えてくれ。と言いたいとこだが、さすがにこんな場所で会ったばかりの者に見られて眠るのは気が乗らないだろうし、今晩はそいつを使って休んで、明日にでも結果を知らせてくれ。頼んだよ!」
「わかりました。ところで、この枕、なんて名前なんです?」
「デイドリーム枕くんだ」
「なんだかデビルーク星の王女様の発明品みたいな名前ですね」
デイドリーム枕くんを手にひとけのない陰陽庁の廊下を歩く。
「……ねぇ、今夜はそれを試すでしょ?」
あたしも一緒にしたいな。その一言がのどまで出かかり、ぐっと飲み込んだ。それは二人が同じ枕でともに眠ることを意味する。これは少し、いやかなり気恥ずかしく、ちょっとした覚悟が必要だった。
「ああ……、いや……、うん……」
「どうかしたの? あ、ひょっとして迷ってる? まぁ、たしかにそうよね。さっきはああ言ったけど、無許可で作った帝式の、魂に関連する呪術の実験につき合うのって普通に陰陽法違反だもの。……なんだかあたし、秋芳君に会ってからすごい勢いで不良娘になってる気がする」
外出してお酒を飲んだり不法侵入したりは序の口で、極めつきはハロウィンの日の大騒動で、あの夜だけで何件の犯罪行為を重ねたことか。
「気にすることはないさ。なにせ日本は収賄や粉飾決算の犯罪者が平然として政治改革や道徳教育を説く、ありがたいお国柄だからな。俺が迷っているのは……」
歩きを止め、あたりをうかがう。
「……陰陽庁の地下には『公には存在しない』とされるフロアがある。けっして表沙汰にはできない、陰陽庁舎の暗部、呪術界の闇。ごく一部の幹部にのみ代々伝えられてきたその場所は『ワケあり』の呪術犯罪者を拘束しておく呪的牢獄だ」
たしかに、そんな場所があっても不思議ではない。陰陽庁とはそういうところだ。京子はだまって秋芳の話の続きを聞いた。
「幾重もの結界によって厳重に封印されたけっして開けてはならぬ牢獄と恐ろしい拷問部屋がある。陰陽庁には拷問のコースがいくつかあるんだが、たとえば富士コース、浅間コース、箱根コース、蔵王コース、別府コースなどなど」
「はぁ!?」
「さて、この中でひとつだけ他とちがったコースがあります。それはどれでしょう?」
「え、ええと別府だけが九州で他は本州よね。あ、でも富士だけは温泉がないし……」
「正解は別府」
「やっぱり九州だから?」
「いや、あとの四つには俺は行ったことがあるから」
「なんなのよ、もう!」
「冗談はさておき、そこの壁の向こうは空き部屋だ」
「……そうみたいね」
京子は見鬼を凝らして内部を視た。いわゆる透視、クレアボヤンスの一種だが視覚でもって物理的に透視しているのではない。対象の気を見ることで姿形を感じる、射覆せきふと呼ばれる術だ。
見鬼に長けた者は生物・無生物をとわず、そのモノのまとう気を見ることができる。
「あら、でも変ね。扉がないわよ」
「陰陽庁名物、謎の増改築でできた空間だろう。ちょっと見てくるから、まっててくれ」
言うやいなや呪を唱えると壁の中に入っていった。
禁壁則不能遮。壁を禁ずれば、すなわち遮ることあたわず。
空を飛び、海を渡り、土に忍び、火にひそむ……。呪術師がその気になればたいがいの場所には入っていける。もちろんそれだけの術を会得するのは困難だが、呪術というのはつくづく便利なものであり、霊災修祓以外の一般分野での使用がおおやけに認められれば、社会の利便性は飛躍的に上昇するだろう。
父であり陰陽庁の長官である倉橋源司はそのようになるよう、陰陽法の改正を進めているらしい。
だがそれに頼ってばかりではいられない。なにせ陰陽庁という組織は霊災によって街ひとつが消滅した事実の隠蔽をこころみるくらい〝後進的な〟組織なのだ。
あれ以外にも表沙汰にできないような暗い所業があるかもしれない。ほうっておけばあらぬ方向に突き進む可能性がある。そうさせないためにもみずからが立って行動する必要があるのだ。
(呪術界全体の社会的地位の向上はけっこうですけど、そうでない人達の立場が相対的に貶められたりとか、絶対にあっちゃいけないわ)
異能の力を持った一部の人が絶対的な支配者として君臨するディストピア。そういった世界を描いたサイファイ作品は枚挙にいとまがないが、現実をそのようなフィクションと同じ社会にしてはいけない。
そんなことを考えていると秋芳が壁の中からもどってきた。
「案の定、中はほこりまみれだったがきれいにしてきた。空調ダクトが活きてたから窒息する心配もない。入ろう」
秋芳は京子の返事も待たずに手を引いて壁の中へと入る。
椅子や机が全撤去された学校の空き教室。そんな感じの部屋だった。天井あたりで明るい光を放っている火は呪術によるもので、たった今秋芳が点けたものだろう。
「烏枢沙摩明王の真言で清潔にしたから寝ころがっても平気だ」
そう言って簡易式でふとんを作り、デイドリーム枕くんを床に置くとなにやら操作しだす。
「こんな面白そうな物を手にして今夜までまてるものか。京子、俺はたった今こいつのできを試すぞ。五分ですませるから見ていてくれ」
津守の願いを聞き入れた時からすぐにでも使いたいと思ったが、無防備に横になれる場所がない。見知らぬ人に寝顔を見られるのもいやだ。
どうしたものかと迷っていると出入り口のない部屋を見つけたので、これ幸いと使わせてもらうことにしたのだ。
「刀会が終わって家に帰るまでまてないの?」
「まてない。とりあえずちょっと様子を見るだけだから、危険がなさそうなら京子にも貸すよ」
「そうじゃなくて……。それ、あたしも一緒に使いたいのよ。さっき鑑定したらふたり同時に使っても問題ないみたいだったし、秋芳君と同じ夢を見たいの」
「枕をともにする、か……。良いねぇ」
思わずにやけ顔になる秋芳。
「だ~か~らぁ、こんな場所じゃなくてもうちょっと雰囲気のあるところで横になりたかったんだけど、まぁいいわ。現代呪術の総本山である陰陽庁を枕に夢を見るってのも、あたし達にはお似合いなのかも」
京子はそっと腰を下ろし、秋芳に身体をよせる。
「もう準備はいいの?」
「ああ、いいとも。――いざいかん、夢の世界へ」
「いざ、おともつかまつらん。夢の世界へ」
デイドリーム枕くんに頭をのせてあおむけに横になる。ぴたりと身体をよせ、たがいの片手をつなぎ目をつぶったその姿は親密な恋人同士というより仲の良すぎる兄妹のようだった。
こうしてふたりは天下の陰陽庁の秘密の一室で褥をともにしたのだった。
邯鄲之夢 1
険峻な山を持ったふたつの島が門のようにそびえ立っていた。
波はおだやかで、規則正しい潮騒が聞こえる。
青天白日、白砂青松。夏の日にぴったりな景色なのだが、海を渡る風は冷たい。どうやら季節は現実世界と同じく晩秋か冬。あるいは、ずいぶんと寒い地域のようだった。
小島が点在する様は日本の瀬戸内海に似ていなくもないが、より起伏に富み、けわしい印象を受ける。
「夢、だよな……」
「夢、よね……」
「それにしちゃあずいぶんと寒い、こんなところまでリアルに再現しなくてもいいのにな」
ひと組の男女が奇岩の上に立ち、あたりを見渡している。
男のほうはわずかに青みがかった黒――烏羽色をした服を、女のほうは白い服を着ていた。デザインは同じで、平安時代の公家の運動着だった狩衣を、さらに機能的した作りになっていた。
デイドリーム枕くんで夢幻の世界へと降り立った賀茂秋芳と倉橋京子だ。
「体感時間にして一日ほどで帰れる――目が覚めるはずだから、それまでゆっくりとこの世界を堪能しよう」
「い、一日も!? ずいぶん長く設定したのね」
「俺達の鑑定と枕の機能に誤りがなければ、かなり長くいてもリアルじゃ数分しか経たないはずだし、そのくらいの時間じゃないとゆっくり楽しめないと思ってな。博物館や美術館だって丸一日ないと全部観て周れないだろ?」
「ここはなにが起こるかわからないエキシビションだけどね、悪夢展覧会になる可能性だってあるわ」
「夢だと認識していても覚めない悪夢とか、たしかにいやだよな」
「そういう体験て、ある?」
「ないな。怪物と戦う夢や自分自身が怪物になって暴れる夢ならたまに見るが、一方的に怖いと感じるような悪夢は見た記憶がない」
「あなたらしいといえば、あなたらしいわね」
「君は? 最近なにか怖い夢でも見たとか」
「う~ん、そうねぇ……。最近見た夢だと――目の前に道があって、どこかへ行こうとしてるの。しばらく進むと道が二つにわかれていて、さらに行くと開かれた場所があって、目の前には列車や飛行機やバイクといった乗り物がならんでたわ。で、そのどれに乗ろうか迷っている。でも結局は乗り物に乗らずに歩いていくことにして、長い道を進む途中で目が覚めちゃった」
「ほほぅ……、夢は心の奥にしまわれた意識の象徴。昔から夢は神のお告げ、魂の働きだといわれている」
「卜占全般。夢占いもあたし達陰陽師の分野よね」
「陰陽師として今の夢はどう見る?」
「ん、そうね……。どこかへでかけるというのは旅立ちや人生の漠然とした予告を、乗り物や歩くと言った行動はその人の人生の過ごし方や行動の仕方をあらわすわ。列車はレールに乗った無難な人生、バイクは機動性と自由と危険、飛行機は解放を、歩くということは自分の力で人生を切り開くという選択のこと。でも途中で目が覚めたってことは、どこかに迷いでもあるのかしら……」
「陰陽庁のトップを目指すといっても進む道はいろいろあるしな。祓魔局か呪捜部、どっちに入る気だ?」
「問題はそこよねぇ……」
「それで思い出した、陰陽塾のカリキュラムのことだ。一年は座学中心、二年は実技中心、三年はより実践的な授業内容。これはいいんだが、三年に進級するさい、修魔官や呪捜官、霊視官、そして陰陽医など、それ以外の分野。それぞれの希望就職先に合わせてクラス分けしたほうが良いと思うんだよな」
「そうね、呪具師や符術師みたいな技術職を希望してる人に霊災修祓や対人呪術戦の授業って、あんまり意味ないもの」
「陰陽師としての最低限必要な能力は二年までに身に着けてもらい、三年からは専門的な授業を受けられる。汎用性を高めるのも結構だが、より細分化して好きな分野を学べる自由があったほうが良い」
「でもそうすると二年までの授業がハードになるし、なにより講師の数が足りないわ。専門分野を教える講師の人を新たに雇わなくちゃ」
「そうなんだよなぁ、そうそう専門家なんて見つからないよなぁ」
呪術界はどこもかしこも人材不足だ。定年退職したあとも嘱託で同じ職場に残ることを強く求められる傾向がある。
「……秋芳君は、このまま陰陽塾で講師になるつもり?」
「さて、どうしたものか……」
「人財の育成も大切だし、それも良いと思うんだけど、特にこだわりがないようならあたしとおんなじ道を歩いて欲しいなぁ……」
そんなやりとりをしつつ、崖を下りてゆく。
断崖絶壁。一歩でも足を踏みちがえれば落下や滑落してしまう危険な場所だが、二人ともまるで危うい様子がない。
秋芳は山篭り時代に身につけたボルダリング技術――壁虎功を駆使して軽やかに下り、京子のほうは呪術を使って舞うように下りている。
土行の気をメインに周囲の霊気をたくみにあやつり、重力を制御する落下制御(フォーリング・コントロール)の呪術だ。
ふたりともここが夢の中、仮想現実の世界だと認識してはいるが、だからといって無謀な真似はしない。ここでの死は現実の死につながるからだ。
たとえ幻覚幻術であっても本人がケガをしたと思えば肉体は傷つくし、『死んだ』と思えば、死ぬ。
人の意識とはそういうものだ。
「風は冷たいが日差しのおかげで動いているとそんなに寒くはないな。なぁ、京子。遠慮なく呪術を使って遊んでみないか?」
「いいわね。たまには塾以外の場所で派手に使いたいわ」
今の時代、陰陽庁の定めた陰陽法により甲種呪術の使用は陰陽師の資格を持つ者に限られ、またその使用に関しても厳密には細かい規定がいくつも設けられており、公共の場で好き勝手に使用しても良いものではない。
陰陽庁が公式に認可している陰陽師育成機関である陰陽塾の塾生は陰陽Ⅲ種の資格者、いわゆる準陰陽師に近い権利が特別に与えられ、機関の最高責任者の責任下。たとえば授業内などでは特別に甲種呪術の使用が認められている。
もっとも秋芳も京子も普段からおかまいなしに呪術を使っているが、それでも人目をはばかり、塾の敷地外で使用する時は周囲に気をくばっている。
だが今はその必要はない、なにせここは現実の世界ではないのだ。
「以水行為不沈、疾く」
「以水行為不沈、急急如律令」
水行を以て不沈と為す、浮かべ。
目標を水に沈まぬようにし、濡れることすらさせない水行の術。
ふたりはフィギュアスケートの選手が銀盤を舞うように海上をすいすいと軽快に駆けて、術を飛ばし合った。竜や麒麟、鳳凰などの瑞獣を象った無数の水流水塊が乱舞し、時にみずからを乗矯術で浮かせて宙を飛ぶ。
これらは夢の中だからできる芸当というわけではない、秋芳はもちろん京子もすでに呪術をもちいてこのくらいの〝遊び〟ができる域にまで高まっているのだ。
「楽しいな。やはり呪術は実践してなんぼだ、一年でももう少し実技の授業を増やせばいい」
「そうよね、あたし天馬や春虎を見て思ったんだけど、甲種呪術に対して妙な苦手意識を持ってる子ってわりといる気がするのよ。そういうのをなくすためにも、こういうお遊びって必要だと思う」
「ああ、いつだったかの簡易式の紙相撲や射覆のあてっこみたいにな」
「隠形してかくれんぼしたりね」
「かくれんぼ……、いっそ鬼役は本物の鬼を使役してやるか」
「いや、さすがにそれは危険すぎるでしょ」
急に京子の表情がかたくなり、一瞬おくれて秋芳も眉根をよせる。
剣呑な気を感じる。それも生半可なものではない、流血をともなう破壊と暴力、死の気配を濃厚にただよわせる気配。
だが霊災や呪術の類ではない、これは――。
「軍気だ」
人が人を傷つけ、殺そうとする殺意の衝動。それがぶつかり合っているのを感じる。
すぐ近くで多くの人が戦っているのだ。
「いってみよう」
「ええ」
蜗牛水井。地面に穿たれたすり鉢状の斜面には井戸に降りて行くため螺旋型の歩道が作られており、その形状がカタツムリを思わせることからこう呼ばれている。
周りを海に囲まれたこの土地では地下水を汲み取るにも、このように深くまで井戸を掘る必要があるからだ。
その貴重な水源を守る守備隊は敵の奇襲にあい壊滅の危機にひんしていた。
突如として四方に喚声がわきおこり、間断なく矢の雨をあびせられたのだ。
反撃するいとまもなく一人、また一人と味方の兵士が倒れていく。
守備隊を率いる王平の掲げた盾には無数の矢が突き刺さり、重くなる一方だ。
ぐらり、と身体がかたむいた。矢傷を受けた右肩を中心にして全身から力が抜け落ち、盾が下がる。
(毒か!)
意識はあるが痺れが広がり身体が言うことを聞かない。
数十本の矢が自分目がけて飛んでくる様が妙にゆっくりと見てとれた。
「ここまでか……!」
次の瞬間。全身を矢で射貫かれ、ハリネズミのようになった自分の姿を想像し、戦慄した。
「以木行為風陣防、疾く!」
木行を以て風陣と為し防げ。
だれかの声が響いたその時、一陣の風が巻き起こり、王平ら守備隊をつつみ込んだ。飛来した矢はことごとく風に防がれ、地に落ちた。
(!?ッ)
これはいかなる僥倖か、だが幸運を天に感謝する間もなく剣光白刃をきらめかせて敵の軍勢が殺到してきた。
こちらの二倍や三倍どころの数ではない、十倍か二十倍か、あるいはそれ以上。王平は今度こそおのれの死を覚悟した。そのとき――。
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令」
また誰かの声がすると、迫りくる兵士達がばたばたと倒れ伏し、昏倒した。
だが倒れた兵士の後ろから次々と新手の兵が押し寄せてくる。
するとまばゆい光があたりを照らし、かぐわしい匂いが立ちこもる。見れば空に螺髪に白毫。青い蓮華のような瞳をした菩薩が左右に金と銀の竜をはべらして浮かんでいた。
「アヒンサ~、不殺生戒。人を害してはいけない」
澄んだ声が朗々と響く。
「哎呀~!?」「ヤーナ!」
まったく予期せぬ菩薩様の顕現に殺気立っていた兵士達は呆然自失。ある者はひざまずいて念仏を唱えだし、ある者は一目散に逃げ出した。いずれにせよ戦闘意欲は完全に失ってしまったようだ。
「武器を捨てて家に帰りなさい。槍や剣で人を害するかわりに鍬や鋤で畑を耕して平和に暮らしなさい。両親に孝行し、お年寄りをいたわって、人の子どもでも大事にしなさい。女性を貴んで炊事洗濯家事全般を手伝い、祖母と母親と姉と妹、伯母と叔母、従姉妹と嫁さんには週に二回は食事をおごりなさい。あと――」
仏の声を大音声がさえぎる。
「ええい、逃げるな! すでに滅びし宋の残滓を救いに御仏が参られるわけがない。これなるは幻。妖術によるまやかしぞ!」
騎兵が一騎、槍を手に進み出た。装備からして一般兵ではなく、一軍を率いる将官のようだ。
「哈ァァァッ!」
気合いとともに菩薩目掛けて槍を一閃。菩薩の身を守ろうと金竜がその身ごと割り込んで防御すると、全身をおおう鱗が霞のごとくぶれる。
ラグと呼ばれる現象だ。
「この罰あたり者めが~」
菩薩が身をひるがえし、槍を手にした将官の頭に掌打を打ち込み、馬上から放り投げたあと、ストンピング蹴りを何発も喰らわした。
「どうだ、仏罰を思い知ったか!」
「ひぃ~、なんという説得力のある仏罰。者ども逃げろ!」
攻めてきた軍勢は蜘蛛の子を散らすように退散した。
やがて菩薩と二竜の姿はかき消え、呆然とする王平の前に奇妙な格好をした二人の男女が姿を現す。
「木気は『震』だから雷や風などの揺れて伝わるものがあてはまる。ああいうふうに飛び道具を制する使いかたができる。さらに土気を剋すという意味で地震にもつながる」
「応用の幅が広いのね、水生木の五行相生は相殺するとき注意しなくちゃ」
「傷ついている人がいる、助けよう」
倒れた兵士らに近づいてなにやら呪文を唱えると、血の気を失った顔に活力が戻り、その身を害した傷が癒える。
(嗚呼……、あれはいかなる神仏の化身か神仙か。窮状を見かねた天が我らに救いの手をさしのべてくださったにちがいない!)
王平が平伏して進み出て感謝の意をあらわすと、二人は謙遜の言葉を口にしたのち、困惑気味にここはどこかとたずねたので王平は正直に答えた。
この地は崖山。自分達は侵略者たる元軍の魔の手から宋朝の皇子を護り奉る者だと――。
崖山。
中国大陸の広州湾にある島で、河口部はいくつもの分流があり、多くの三角州を形成している。
片方を海が広がり後方を水路に遮断された大きな岬のような地形をしている。
島の形や海流も気流も複雑で、低い丘陵が南端で急激に高く盛り上がり、海にむかって急角度で落ち込む。周囲にも無数の小島があり、陸と海とが入り乱れている。
首都であった杭州の臨安を落とされ、まだ幼き宋の皇帝・恭帝は元の軍門に降った。
首都陥落と皇帝が降伏を受け入れたことで宋朝はここに事実上の滅亡をむかえたわけだが、降伏を認めない残存勢力は恭帝の兄である趙昰を皇帝に擁立し、趙昰の死後は恭帝の弟である趙昺を皇帝として抵抗運動を続け、ここ崖山にまで追いつめられた。
たいして広くもない地に行宮を建て、官署や兵舎や簡易住宅を造り、宋国再建を誓い元への抵抗を続けている。
崖山の港口は崖門といい、水路の左右に山がせまり、巨大な鉄門を思わせる。港の背後にはけわしい 山々がつらなり、陸上からの攻撃はまず不可能で海上から攻撃するしかない。
宋軍は二千艘の船を鎖でつなぎ合わせて水上に要塞を築き鉄壁の防御陣を敷いた。
船同士を鎖でつなげる、連環の計というやつだ。
赤壁の戦いに倣ったのか、それを見た元軍は強風の日を待って火攻めを決行。藁や柴を満載した数百の小舟に油をかけ点火して宋軍の水上陣にぶつけたのだが、あらかじめ火攻めを予測していた宋軍は船体に冷たい泥を塗りつけてあったため火の手は上がらず、元の火計は不発に終わった。
それどころか長く太い棒で火船の群れをつぎつぎと突き離し、押しやり。変化した潮流に乗った火船は逆に元軍に殺到。自分達の放った火によって損害をこうむった。
初戦こそ勝利した宋軍ではあるが、海上は元の軍船に封鎖されて補給の道は閉ざされ、昼夜を問わず敢行される元軍の波状攻撃に消耗する一方だった。
「なるほど、お二人は賀茂秋芳(ファマオ・チュウファン)と倉橋京子(ツァンチィアォ・ジンズー)様という修行中の道士でしたか」
王平の話す言葉は日本語ではない。中国語に似ていたが奇妙なことに耳に入る音は異国の言語なのだが、頭には日本語として伝わってくる。
夢の中ならではの摩訶不思議な現象だった。
「ここは宋軍二十五万の喉を潤す唯一の水源なのです。もしこの場所を占領されれば我が軍はおしまいでした。秋芳様と京子様には感謝の言葉もございません」
「二十五万人もいるんですか!?」
「はい。元の支配を善しとしない気概ある文武百官や民百姓が皇上の下につどい戦っているのです」
「しかしそれだけの大所帯ですと糧食をまかなうのも大変でしょう」
「……そうです。正直なところ、ここから採れる水だけでは不足でして、我が軍は渇きに苦しんでおります」
「たしかに、見たところ井戸の水位はかなり下がっていて底が見えるくらいです。干上がるのも時間の問題でしょうね」
「それにただ飲む水がたりないだけでなく米を焚くこともできず、乾した米や肉を飲み下すのさえ苦労するありさま。耐えかねて海の水を飲む者もいますが余計に渇きが増して嘔吐して苦しむだけ。給水船の水槽もほとんど空になり、まだ幼い皇上すら欲しいだけ水を飲むこともできずにいるのです。ああ、おいたわしい……。せめて五日に一度でも雨が降ってくれればここまで渇きに苦しめられずにすむのですが」
「私達の学んだ方術が役に立つかもしれません」
「本当ですか!?」
「はい、たとえば……」
秋芳はそう言って井戸のほとりに下りた。
木でも火でも土でも金属でも水でも、呪術によって生じるモノは本来この世には存在しないかりそめの物体、ないしエネルギーであり、一時的に呪力が姿形をもったあやふやな現象にすぎない。
それを現実の物としてしっかりと形作るには、より複雑な術式を組んだり余分に呪力をくわえる必要がある。
かつて秋芳は水天の真言をもってプールいっぱいの水を創り出したことがあるが、その時がそうだった。
さて今回はどうするか――。
地面に落ちていた剣を拾うと導引を結び、口訣を唱える。
「此水不是非凡水、水不洗水、北方壬癸水――」
さらに呪文を唱えつつ、手にした剣の平を指でなぞる。
「一点在地中、雲雨須臾至、病者呑之、百病消除――」
そして指先で剣身をはじくと、水滴が生じた。
二度三度と剣身をはじくたびに水滴は大きく、その数を増し、剣身からはまるで水瓶を逆さにしたかのように水が流れ出てくる。
「金生水――、疾く!」
気合いとともに井戸の底に剣を投げ込むと、数拍の間ののち間欠泉のような勢いで水が湧きだし、井戸をいっぱいにするどころか縁からもあふれだし、すり鉢状の斜面は泉の様相となった
「おおっ、これは……!」
水が尽きかけているとはいえせっかく水気のある井戸だ。一から創るのではなく水脈に活を入れて水を増やすことに成功したのだ。
弘法大師空海には水にまつわるエピソードが多い。
日照りに苦しむ人々を救うため雨を降らせたり、水を湧かせたりといった逸話が日本各地に数多く存在する。
ひょっとしたらこのような呪術をもちいて湧き水を生じさせたのかもしれない。
「ありがたい、これでまだまだ戦えます。その神通力でどうか宋朝をお助けください」
「わかりました、微力ながらお手伝いしましょう」
義を見てせざるは勇無きなり。秋芳はふたつ返事で承諾した。
「ねぇ、ここは昔の中国なの?」
王平に案内されて海上要塞にむかう道すがら、京子が小声でたずねる。
小首をかしげて、のぞきこむようなかわいらしい仕種。耳元をくすぐるような愛らしい声とともに香水のかすかな香りが鼻孔に流れ、なんともいえない心地良さになる。
「そうみたいだな、崖山の戦い。だいたい七百年以上前のできごとで、この戦いで南宋は元に敗れ、滅亡してしまう」
「元てのはモンゴルのことよね、鎌倉時代に攻めてきた元寇の元。南宋は二十五万人もいたのに負けちゃったの?」
「二十五万といってもそのほとんどは文官やその家族、宮女に宦官、市井の人々で、実戦に参加できるような兵士の数は一万に満たなかったとか。それにサバを読んでる可能性もある。なにせ白髯三千丈という誇張表現をするお国柄だからな、長平の戦いの捕虜四十万人虐殺とか、官渡の戦いの袁紹軍七十万とか、あきらかに盛りすぎだろう」
「じゃあ元のほうは?」
「およそ二万。南宋側の非戦闘員を除外すると約二倍の兵力差になる」
「……二十五万は盛りすぎとか非戦闘員ていうけど、それでも相手の十倍くらいはいるんじゃない? みんなで力を合わせてやっつけられなかったのかしら。一人一殺どころか十人一殺じゃない」
「だれもがみんな戦う意思を持っているわけじゃないし、さっきの王平さんの言葉のように消耗が激しくて戦意を失い、そんな気概を持つどころじゃないんだろう。腹が減っては戦はできぬ、補給もなしに精神論だけで戦争に勝てるわけがない」
「たしかに、それはあたし達日本人がよ~く知ってるわ」
「それと南宋は皇帝が、祥興帝・趙昺が戦陣にいる。余剰兵力のない状態で下手に攻勢に出て負けてしまい皇帝の身に危険がおよぶことは万が一にもあってはいけない。鉄壁の守りこそ最上の戦法だと判断したんだろう」
「でも籠城戦て外からの援軍が来てくれることが前提でするものなんじゃないの? そうでないならジリ貧じゃない」
「中国大陸の各地で反元運動は盛んだったし、たしかベトナムやタイに援軍を要請していたから、救援のアテがまったくなかったわけでもないんだけどなぁ……」
鎖で繋がれた二千艘からなる船団はさながら木で造られた島のような偉容を誇っていた。
まさに要塞。これを武力で落とすのは非常に困難なのは想像にかたくない。
まわりの潮流はかなり激しいはずだが、船上はほとんど揺れておらず、陸にいるのと大差ない。これなら船酔いの心配もなさそうだ。
だが建物の堅牢さとは逆に配置につく兵士達は見るからに疲労の色が強い。
連日の攻撃に不眠不休で応戦し、水不足による体力の低下は深刻なもののようだった。
「こちらに陸宰相と張将軍がおられます」
陸宰相と張将軍。歴史に名高い南宋三傑。張世傑、文天祥、陸秀夫ら三人のうちの二人、陸秀夫と張世傑のことだ。
「有名な人物なの?」
「ああ、滅びゆく南宋に最期まで殉じた忠臣だよ。陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、張世傑は再起をはかろうとベトナムに逃れる途中、嵐に遭って水死した」
「壮絶な最期ね……」
船の上に築かれた幕舎の中から人々の話し声が外まで聞こえてくる。
「应该攻击!」「不! 应该坚固守护!」
こちらから打って出るべきだ。いいや、守りに徹するべきだ。
軍議のようだが意見はまっぷたつに割れて収拾する気配がない。
「なんだか小田原評定って感じ」
「どうもこの亡命政権は一枚岩とは言いがたいようだな」
武装をした男達と官服を着た男達がわかれて座り、喧々囂々と意見が飛び交っている。
彼らが元の支配を潔しとしない、南宋に使える文武百官だ。
王平に連れられて来たものの、どうも横槍を入れる雰囲気ではない。かといって軍議の内容を立ち聞きするのもなんなので、終わってから顔を出そうかと言いかけた時、文官の一人が秋芳と京子に気づき、声をあげた。
「おお、王隊長。そちらの二人が噂の道士様か?」
さわがしかった幕舎内がしんと静まり、無数の視線がふたりの男女にむけられる。
「俗世を離れて方術修行に明け暮れる身、正式なご挨拶の作法を知らぬ無礼をおゆるしください」
秋芳は軽く抱拳して自己紹介した。
ちなみに抱拳とは拱手ともいい、カンフー映画などで片方の掌にもう片方の拳をあてておじぎをするあれだ。
男性は左手で右手の拳を包み、女性は右手で左の拳を包むのが正しいとされ、お葬式などの凶事の場合は左右を逆にするのが礼儀だ。
ほかにも君主からの命令を拝命する時におこなう、両手を組んで頭を深くたれる拝礼。
普段の挨拶など、両手を組み軽く頭を下げるだけの揖礼。
君主への直訴や重い謝罪にもちいる、頭や額でもって地を叩く頓首などがある。
「秋芳どのといったな、道士といったがいずれの宗派に所属か? 太一教か真大道教か全真教か?」
太一教、真大道教、全真教。この時代にもっとも著名だった道教の宗派の名だ。
「そのいずれでもありません、瀛州にある陰陽塾という洞府に属する遊歴の道士です」
瀛州。すなわち日本のことだ。
瀛州、方丈、蓬莱は中国の東海にあるとされる仙境、神山だが、瀛州は日本をさすこともあるので秋芳はそう答えた。
「陰陽塾とは聞かぬ名だが、元の兵らを追い払った術はたいしたものだったとか。さらに尽きかけていた井戸の水をあふれるほど湧かせたとはありがたい」
「うむ、我ら宋の兵士がいかに強くとも、渇きには勝てぬ。よくやってくれた」
「そのことですが、一つの井戸だけで二十余万の人々をまかなうのは大変でしょう。私達の呪術で雨を降らせてみせます」
「おお! まことか!? それは重ねてありがたい!」
「みごと雨を降らせてくれたあかつきには好きなだけ褒美をあたえよう」
「……君子は怪力乱神を語らず」
静かだがよくとおる声が喜びはやる人々を黙らせた
「道教の教えを否定はしないし実際に元兵を退かせた道士の実力をうたがう気はないが、これは国家の一大事。みだりに雨乞いなどという神頼みにすがるのはいかがなものか。あわれ宋朝は妖術の助けをこうほど落ちぶれたかと、後世の笑い者になるかもしれませんよ」
「なにをおっしゃる陸宰相」
どうやらこの静かで落ち着いた声の持ち主が陸秀夫のようだ。
「名を取るより実を取れとも言うではありませんか。雨が降り水を得られるのなら、このさいどんな妖術奇術でもかまわないでしょう」
「……たしかに、実があるのならそれこそ妖術の類でもかまわないでしょう。しかし実がなければこまる。……市井には種も仕掛けもある手品を神通力や方術と称して商う者もいる。そのような目くらましや小手先の技を披露されてもこまるのです。このような話を聞いたことはありませんか――」
泥を金に変える術を持つと称する男がいた。黄金を欲する富豪が男を呼び出し、金を作るよう命じた。男は泥を壺に入れて呪文を唱えて手で混ぜると、はたして壺の中からわずかではあるが金が見つかった。
喜んだ富豪は男を召し抱え、金を作らせた。ある日のこと、より複雑な儀式と時間を要するが泥の代わりに黄金をもちいれば十倍に増やせる術もあると男が言う。男のことをすっかり信じ込んでいた富豪は全財産を金に換えて男に渡したところ、男はその金を持って消息を絶った。逃げられたのだ。
あとになってわかったことだが、その男が泥を金に変えられるなどというのは大嘘で、あらかじめ爪の間に砂金を入れて泥をこね混ぜ、あたかも泥から金が生じたように見せかけていたのだ。
「――かような細工の手品でぬか喜びしている場合ではありません。王平、あなたは井戸からあふれた水がすべて本物の真水か確認しましたか?」
「え? い、いえ。ですが井戸から大量の水が湧くのはこの目ではっきりと見ました。あの勢い、あの量。小手先の手品という域を超えています」
「人は信じたいものを信じる生き物。神仙の秘術で窮地を救われたと思ったことによる心理が、たんなる水芸をそう見せた可能性もあります」
「いや、しかし……」
(この人はあたし達の呪術は乙種だって言いたいみたいね)
甲種呪術と乙種呪術。甲種は陰陽庁によって確かな効果が認められた〝本物〟の呪術で、乙種はそれ以外の呪術を指し、おもに思い込みや暗示などによる精神的な束縛などがあてはまり、手品の類もこれにあたる。
(ああ、この時代の人にしては合理的な考えをする。さすが科挙に受かった進士はちがうな)
「では陸宰相はこの道士らに雨乞いをさせることに反対なので?」
「実は私も反対だ。さきほど宰相も言ったが君子は怪力乱神を語らずというではないか」
「いやいや、蜀漢の諸葛孔明も赤壁の戦いで風を呼び勝利にみちびいたではないか。なにもそうかたくなにならなくても」
「あれは祈祷で風を起こしたのではない、季節風が吹いて風向きが変わることをあらかじめ予測していたのだ」
「しかし普段から河川に親しんでいる呉の諸将がその時期に風向きが変わることを知らず、よそ者の孔明がそれを把握しているのは不自然ではないか?」
「呉の諸将も四六時中船の上にいるわけではない。孔明は毎日船に乗る地元の漁師に聞いたのだ」
「儒者はなにかと怪力乱神を語らずと言うが――」
話題が二転三転し、またもや喧々諤々の様子となる。
(ここの人達って議論が好きねぇ)
(言論を以って士大夫を殺さずという宋の国是が生きているな。この精神のおかげで宋朝は文化的に隆盛したんじゃないだろうか)
今の日本は宋の時代に似ているところがあると秋芳は思う。
風流天子こと徽宗皇帝の御世に中国の経済と文化は高く発達した。徽宗皇帝はすぐれた芸術家で書画に通じていて個人としても悪人ではなかったが、みずらの贅沢のため民衆に重税を課したり、国費を使って南方から造園用の巨石や巨木を運ばせるなど、政治家としては無為無能どころかそれ以下の人だった。
貪官汚吏がはびこり政治は腐敗し社会は荒廃し、やがて北方に起こった女真族の金王朝の前に宋の首都開封は陥落し、華北の地を奪われ、北宋は滅ぶ。以降は南方の臨安に都を移して南宋の時代になるわけだが、この南宋もまたモンゴル族の元によって滅亡することになる。
文化と経済はそれなりだが、お世辞にも政治は一流とは言えず、外交下手で軍事面に不安があり(なにせ半世紀以上も実戦を経験したことがない)しばしば外国に領海領空を侵犯され、夷狄におびやかされる日々――。
宋の時代の中国といろいろとかぶる。
「陸宰相にもうしあげます」
これでは埒が明かない。秋芳はみずから場の収束に乗り出した。
「先ほど怪力乱神とおっしゃいましたが、私達の使う呪術はそのようなものではありません。神はともかく怪、力、乱はあてはまりません」
怪力乱神の怪とは怪異を、力は怪力を、乱は道理にそむき世を乱すことを、神は鬼神のこと。理性では説明のつかない超常現象の類の総称だ。
「ほう、それはどういう意味ですかな?」
「荒唐無稽な神頼みではなく、かといって手品のような種や仕掛けがあるわけでもございません。天地自然にある陰陽五行の気の流れを見て読み、自在に組み替えたりすることで風を起こしたり火や水を作ったりと、様々な変化を生じさせることができますが、それらは荒唐無稽な怪異でも道理に反するものではなく、きちんとした術理術式に則った人の技です。もっとも呪術に縁のない人から見れば摩訶不思議な怪奇現象に映るかもしれませんが、それはみなさんにそなわった力も同じことです」
「我々にそなわった力、とは?」
「ここにいる文官のみなさんは難関である科挙に合格した進士。四書五経をそらんじるだけでなく、みずから考えた詩賦や策もお書きになられる」
ここでいう策とは時事問題などについて書く作文のことだ。
「たとえ文字の読み書きを学んでも、おいそれとできることではありません。才能のある者かさらに研鑽を重ねて到達できる領域。一般人からしてみれば超人的な能力だ。同様に武官の方々も武科挙に受かった武進士」
武科挙。あるいは武挙。その名のとおり科挙の武官版の登用試験だ。
「馬を駆っての騎射や数人張りの強弓を引く試験などがあったと思います」
「うむ、そのとおり」
馬上から矢を三射して的を射る騎射、五十歩離れた的を射る歩射、百斤の弓を引きしぼる開弓、百斤の青竜刀で演武する舞刀などの実技試験のほか、孫子や呉子といった兵法書を清書する筆記試験があったという。
ちなみに斤という重さの単位は時代によってかなりちがう。三国志の時代の一斤はおよそ222,4グラムで、関羽の振るった重さ八十二斤の青竜円月刀は約十八キログラムになる。
これが宋代になると596,8グラムになるので『水滸伝』に登場する魯智深の振るった重さ六十二斤の禅杖は約三十七キログラムという超重量になる。
「それらもまた才能のある者がさらに努力して身につけることができる技術。一般人から見たら達人の技です。まして傷害無傷で敵将を素手で生け捕った唐の尉遅敬徳、一日に五百里を走る隋の麦鉄杖や肉飛仙の沈光、鎧をつけたまま宙返りして飛ぶ鳥をつかまえた楊大眼、石を射貫いた前漢の李広など、入神の域に達しています」
「……我ら武にたずさわる者から見てもかの英傑たちの武は計り知れぬ。まして常人から見れば人の域を超えているだろうな」
「ですが彼らも私達も同じ人です。智恵と技術に雲泥の差があり、とぼしい者から見れば異類異形、蛟竜毒蛇、怪力乱神、人外魔境に見えますが、それはあくまで人の智恵と技術にすぎません」
「道士どの言いたいことはよくわかった」
静かでよくとおる声、たが陸秀夫ではない。陸秀夫よりも低く臓腑に響く重たさと、どこか〝こわい〟感じのする、武人の声だ。
「その正統なる技で困窮にあえぐ我が宋朝を救ってくれるなら、ありがたい。感謝しよう。だがいたずらに我らを惑わすなら、その首もらい受ける」
堂々たる体駆に見事な長髭。おそらくはこの男――。
「わかりました張将軍、みなさんが納得できる量の雨を降らせてみせましょう。できなければこの首をさしあげます」
秋芳は張世傑にそう約束した。
後書き
麦鉄杖も沈光も、コーエーの新武将作成でいつも作っています。
邯鄲之夢 2
「如来だか菩薩だかが現れて宋の味方をしただと? ふざけるな!」
総大将の張弘範を筆頭に、張弘正、張珪、劉深ら漢人とアリハイヤ、アタハイ、サト、李恒などのウイグル人やタングート人らの将校らが並んで座っている。そのうちの一人が大喝した。
秋芳らの呪術で撤退した元軍の攻撃隊長が本陣で叱責を受けているのだ。
「ほ、ほんとうです。五色の雲光とかぐわしい匂いが立ちこめ、あれはもうまことの神仏としか――」
「ほほう、それはこのような貌をしていたかな?」
「え? へ? い?」
くぐもった声が頭上から聞こえた。見るとちょろりとドジョウ髭の伸びた阿弥陀如来が雲間から顔をのぞかせ、ウィンクしたではないか。
「ひぇーっ!? 妖怪!」
さきほどの仏からは神々しい雰囲気がただよい、後光が発せられていたが、この妖仏からはそのような気配はなく、ただただ怪しかった。
仰天し、腰を抜かす隊長。そして呆然とする元の将校たち。
「おのれ妖怪!」
元に滅ぼされた西夏の皇族の出自ながら元の皇族のもとで育ち、元に忠誠を誓う李恒が妖仏めがけて槍を投げた。
槍は見事眉間に命中した。しかし妖仏はなんの痛痒も見せずに槍の柄をつかむと、ぐいぐいと自分から眉間に押し込む。すると口の中から穂先がにょきにょきと出てくるではないか。
いかなる肉体・空間構造になっているのか、さしもの猛将李恒も顔が青ざめる。
「ははは、そのへんにそのへんに。太上準天美麗貴永楽聖公どのもお人が悪い。将兵どもが驚いておりますぞ」
上等な服を着た一人の青年が鷹揚にあらわれた。
「これは、東安王殿下!」
元の皇帝クビライの十三番目の子。王太子である東安王メデフグイだった。
元はモンゴル人や漢人以外も多くの外国人を登用してもちいたが、このメデフグイは特に多くの外国人を配下にしたことで有名だ。
それも錬金術師や占星術師、祈祷師や預言者といったオカルト関係の者を多く側におき、魔術に傾倒したという。
「これなる摩訶不思議な現象はこの太上準天美麗貴永楽聖公、方臘の幻術。あわてることはない。聖公どの、そのへんでよろしい」
「はっ」
後にひかえる僧形の男が手を払うしぐさをすると妖仏は煙のようにかき消えた。
「なんと面妖な……」
「陰陽の気を操って本来その場にないものを知覚させる術です。簡単な術ですが道理を知らぬ素人が見ればおどろくことでしょう」
居並ぶ緒将を前にして尊大に呪術の説明をする方臘という男。若くもないが老いてもおらず、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしていて、どこか西域の人間らしい雰囲気を身にまとっていた。
「今の話を聞くに、宋側に味方をする呪術師がいるようだ。本物の呪術師を相手に剣槍弓馬で立ち向かうのは骨が折れよう。ちょうど良い、我が旗下の兵士十六万と、泉州の商人より買いつけた軍船数百。それにこの方臘を貸しあたえるゆえ、存分に使うといい」
「それはありがたい。あ、いや、だがしかしまだ敵に本物の呪術師がいると決まったわけではないので……」
言いよどむ張弘範。十六万の援軍と軍船はたしかに欲しい。だが怪しげな魔術に耽溺し、あまり良い噂を聞かない東安王から、これまた怪しい妖術使いを押しつけられるのはこまる。
「ふぅむ、どうやらまだ拙僧の力をうたがっておられる様子。よろしい、ではさらなる御業を披露してしんぜよう」
大仰かつ尊大に言うと、兵らに命じて張弘範の返事も聞かずに本陣の外に祭壇を作らせ始めた。
東安王の手前、やめろとも言えない。張弘範らはしかたなく傍観を決め込んだ。
「しかし準……、なんちゃら方臘とは不穏な名ですな。方臘といえばかつて宋朝に反乱を起こした喫菜事魔どもの首魁と同じ名ではありませんか」
喫菜事魔。紀元三世紀ごろのペルシャで生まれたマニ教信者のことだ。キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教などの様々な教義を取り入れた宗教で、中国においても道教や仏教などの一派として独自の発展をとげた。
この世界は闇、悪が支配しているという思想のもと、闇を倒す最終戦争がやって来ると説いている、根っからの反体制指向なため、時の政治権力者にとっては危険な邪教と見なされた。
そのためマニ教は魔教。その信者は喫菜事魔、つまり菜食主義の邪教徒と呼ばれて江南地方や四川地方ではしばしば禁止の令が出され、弾圧の中で呪術的要素が強くなっていった。
「彼がその方臘だ。それと準天美麗貴永楽聖公。我の与えた号だから忘れないように」
「ご冗談を、方臘は今から百六十年も昔の人物ですぞ」
徽宗皇帝の御世に江南地方で方蠟というマニ教徒が反乱を起こし、その鎮圧に乗り出した官軍は信徒数十万人を殺戮し、首謀者の方蠟は捕われ、凌遅刑に処された。この時に官軍は現地で略奪の限りを尽くしたため江南地方は地獄と化したという。
「張元帥は尸解仙というものをご存知かな? 不老不死を得るため、肉体を一度死に至らしめる方術で、永楽聖公どのはそれに成功したのだ」
怪力乱神を好む十三番目の王太子の言葉は張弘範の理解を超えていたため、話題を変えることにした。すると自然、合戦の話となる。
「――そこで密集している船を逆手にとって初戦で火攻めをこころみたのですが、恥ずかしながら失敗してしまいました」
「なに? いかんいかんっ、火攻めはいかん!」
「それはなにゆえ?」
「宋軍が持つ二千艘の船を無傷で手に入れれば今後の助けになる。火計をもちいては灰燼と化してしまうではないか」
「惜しむことはございませんぞ、殿下」
と、これは弘範の弟の張弘正。
「軍船の二千や三千などすぐに建造できます。四十年以上も元朝に逆らい続けた南人どもをこき使ってやればいいのです。永久に反乱など起こさせぬように」
「船だけを惜しむのではない、それを指揮し動かす人員も惜しんでいるのだ。物はともかく人はすぐには育たぬ。第二次日本遠征のためにも船と、船員が欲しい。あの黄金の国を手に入れる助けとなる」
黄金の国ジパング。莫大な金を産出し、宮殿や民家の屋根や壁は黄金でできている――。そのようなことをうそぶく西洋人の旅行家がメデフグイの食客にいるという。
およそ信じられる話ではない。たしかに日本は宋との貿易では金子で支払をして、わざわざ銅銭を金で買ったりまでしていたので、金が採掘されるのはたしかだろうが、黄金の国などと、それは誇張しすぎだ。
「それだけではない、秦の始皇帝の遣わした徐福が富士という霊山に不老不死の霊薬を隠したという話も聞く。それを見つけだしたい」
徐福などと、そんな千五百年も昔の伝説を本気で信じているのか。張弘範らは内心をあらわにし、あきれ顔を作らぬよう努力する必要にせまられた。
「そこで考えがある。宋は軍船を鎖でつなぎ合わせて一つの要塞のように仕上げたそうだが、これは水上に陸地を作ったようなものではないか。水上戦では一日の長がある宋が船の持つ機動力をみずから封じて我らモンゴルを始め河北の兵が得意とする陸上戦の舞台をととのえたのだ、敵の地の利は我らの地の利でもある」
「なるほど」
たしかに一理ある。この変人王太子、まともなことも言えるではないか。
「しかしそこにどう上陸するのが問題です。最初の戦いでわかりましたが、宋軍は蒙衝や先登などの小回りが利き足の早い小型船も数多く所持しており、我が軍が持つ船には数と種類に限りがあります。船戦にも長けている宋軍の攻撃をかいくぐって水上要塞に突入するとなるとかなりの犠牲を出しましょう」
「要塞には要塞をぶつける。いや、なにも宋のように船をつなぐ必要はない、大量の浮き物をつなぎ合わせて足場を築き、それに乗って進軍するのだ」
海の上に道を作れと言っているのだ。
「それは、なんとも気宇壮大な策ですな……」
だがまんざら荒唐無稽な作戦ではない。実際に元寇のさいには大陸と日本との間に大量の船を浮かべて橋にし、進軍するという計画があったという。
「お待たせしました、いつでも法力を披露できますぞ」
そうこうしているうちに方臘の準備がととのったようだ。
「まずは挨拶がてらに宋の残党どもをおどろかせてやりましょう――むんっ!」
真剣な顔立ちで呪文を唱え始めた。
「――清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――」
摩尼教に伝わる真言が陰々とつむがれる。
やがて日が陰り風が強まると遠くから雷鳴が聞こえた。
見れば宋軍が陣取る崖山の上空に黒雲が立ち昇り稲光が見える。
波は荒れ狂い、遠目にも強風豪雨にさらされているのが見てとれた。
「なんと!」「かように天が急変するとは」「この時期に嵐とはめずらしい」「まことの呪術か!?」
まわりの将兵らからおどろきの声があがる中、張弘範が落ち着いて問いかける。
「……準なんとかどの」
「準天美麗貴永楽聖公の方蠟でございます、張元帥」
「このままあの嵐で宋の軍陣を壊滅できるのですか?」
「ははは、さすがに拙僧でもそこまで強力な暴風雷雨は一朝一夕では呼べませぬ。今はまぁせいぜい大雨を降らして宋の陣を水浸しにする程度でございます」
「雨を、降らしておるのですか?」
「そうです」
「水を、もたらしておるのですね」
「そうです」
「…………」「…………」「…………」
「んん? みなさま、どうなされました?」
「このどアホっ、なにさらしてけつかんねんッ!」
思わず故郷の西夏なまりが口から出て李恒が方蠟をどつき倒した。
「ば痛っ!? なんばすっとですか?」
方蠟のほうもまた江南なまりが口に出る。
「補給を封じ、水と糧食を絶って干上がらせているのに雨を降らせるアホがどこにいるっ!」
「なんと、それは初耳。そうと知っていれば別の術を披露したものを……」
宋軍への兵糧攻めは周知の事実。べつに箝口令を敷いていたわけでもないのに、それを知らないとは……。
怒りをとおりこしてあきれ果てた諸将だが、張弘範がいち早く我に返り声をあげる。
「まぁ、天を動かし雨を降らせたのはたいしたもの。準天なんとか公に神通力があるのはわかった。わかったからとっとと雨をやめさせてくだされ。こうしている間にも宋軍の将兵はのどを潤し、せっかく弱らせたのに活力をあたえてしまう」
「わかりました。それと拙僧の号は準天美麗貴永楽聖公、名は方臘です。――清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――むんっ!」
ふたたび摩尼真言を唱え、みずからの呪術を解除しようとするのだが、いっこうに変化はおとずれない。
「どうした、早く止めよ!」
「――清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――。むむむ」
「なにがむむむだ!」
「なにものかが拙僧の術を返そうと術式に手をくわえております。おそらくは例の呪術師でしょう」
「なんだと? それはどういうことだ?」
「なになに、なにもご心配めさるな、そう簡単に後れはとりませぬ。ハァーッ! 清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――」
しきりに印を結び、声高に真言を唱える方臘の身体からは霊気があふれ、その姿は見鬼ではない将兵達の目にも光り輝いて見えた。
(この方臘と名乗る怪僧。風雨を呼んだ事実といい、たしかに実力は本物のようだ)
軍人とは現実主義者だ。言動はともかく呪術師としては一流だと認め、一同おとなしくその様子を見守る。
しばらくすると崖山の上空にあった黒雲はゆっくりと元が陣取る対岸に移動してくるではないか。沖に展開している元の船団が暴風と高波で木の葉のように翻弄される。
本陣にも豪雨と暴風が吹き荒れ、嵐のただ中と化した。
閃光が奔り、天と地を一本の帯が結ぶ。落雷が突き立った。
地震のような衝撃に世界が砕かれたかのような轟音。光と闇が反転し、五感が瞬時に塗りつぶされる。
元の陣営は稲妻によってズタズタに切り裂かれた。
話はその少し前にさかのぼる。
宋朝に仕える文武百官の前で雨乞いの約束をした秋芳の袖を京子がそっと引っぱった。
「ねぇ、その仕事。あたしにやらせて」
「興味あるのか?」
「とうぜんでしょ、だって雨乞いといえば呪術師の本領発揮、絶好の檜舞台だもの。こんな機会はめったにないわ」
日照りが続けばとうぜんの結果として凶作になる。そしてそれに続くのは飢饉であり、こうなれば経済的な打撃をこうむる。国家の根幹を揺るがす事態だ。
神道、仏教、陰陽道、修験道――。かつての日本ではおよそ効果が期待できればいかなる呪術流派も雨乞に参加し、名をはせた。山伏の祖とされる役小角、弘法大師空海、真言宗の仁海などなど――。
呪術師以外にも、たとえば小野小町などは雨を請う二首の歌を詠み、みごとに雨を降らせたことから雨請小町という異名がある。
「わかった。で、どの呪法を使う?」
雨乞いの呪法は数多く存在する。密教には大雲経や陀羅尼集経といった雨乞いに霊験があるとされる経典を読誦してさまざまな作法をおこない、雨神を呼び寄せて雨を降らす術があり、京都の教王護国寺には請雨経曼荼羅という曼荼羅が残されており、この曼荼羅に願をかけて雨乞いの修法をおこなったという。
さらに孔雀明王を本尊とした孔雀経法などは密教のみならず修験道でも執り行われた。
神道においては丹生神社や貴船神社に霊験があるとされ、そこの神官による大規模な雨乞いがおこなわれた。
民間にも雨乞いの呪法は存在し、もっとも有名なのは『おこもり』と呼ばれるものだ。村人たちが交代で氏神の社にこもり雨を祈願するもので、これでも効果がない場合はお百度参りなどがおこなわれた。
また百度垢離というものもおこなわれ、これは村人が川に入って水垢離するもので、水垢離のたびに川底の石をひろって氏神に供えるという。つまり百度垢離をしながらお百度参りをかねている。
また遠方にある水神竜神を祀った社などから水をもらってくるということもおこなわれる。この水には雨乞いの霊験があるとされ、村の社にお供えしたり境内などに撒くことで雨を模し、本物の雨を呼び寄せようとする類感呪術だ。
また水を運ぶ時は途中で休んだ場所に雨が降るともいわれ、人々は交代で昼夜をわかたず水を運んだ。
これと似た雨乞いの方法で水ではなく種火をもらってくるというものも存在し、もらってきた種火は水と同じく供えたり境内に撒かれた。
火を使った雨乞いには千駄焚きというのもあり、薪や藁などを丘や山の上に積み上げて大きなたき火をするのだ。これなどは巨大な火で空気の対流を起こすことで少なからず物理的な効果があるのではいだろうか。大規模な山火事のさいににわか雨が生じることは実際にある。
また雨乞い踊りというものもあり、氏神の社や山頂などでおこなわれた。祭り太鼓の音を雷鳴に模して雨を呼ぶというもので、これもまた類感呪術に属する。
閑話休題。
では陰陽道にある雨乞いというと――。
「五龍祭にするわ」
「なるほど、妥当かもな」
五龍祭。大陰陽師、安倍晴明の子である安倍吉平が神泉苑でこれを執り行い、みごと雨を降らせたとされる陰陽道に伝わる雨乞いの儀式だ。
「だが祝詞はどうする? ここには祭文を記した書物はないと思うぞ」
「なに言ってるの、全部ここに入ってるわよ」
人差し指でみずからの頭を指す。
「それはすごいな、あんな長いものをよくおぼえられたものだ」
「陰陽師ならそのくらい当然でしょ、あたしをだれだと思ってるの。倉橋京子よ」
自信と活力に満ち、溌剌としたバラ色の笑顔。
これが昔の少女漫画なら背後に花が咲き乱れる演出がなされたことだろう。そんな華やかな笑みに思わず見とれてしまう。
もうなんども見てきたが、そのたびに心奪われる。この極上の笑顔が自分にむけられている喜びと幸せをあらためて実感した。
「失敗したら俺の首が飛ぶんだ、頼んだぞ」
「まかせてちょうだい!」
こうして雨乞いの儀式を執り行うことになった。
「――元柱固真、八隅八気、五陰五龍、陽動二衝厳神、害気を攘払し、四柱央神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、慈雨を得んことを、慎みて五大龍神に願い奉る――」
切り立った崖の上に作られた祭壇を前にして五龍に祈り願う祝詞を唱える京子。少し離れた後ろには秋芳の姿が、さらにその後方には陸秀夫、張世傑をはじめとする文官武官。武装した兵士たちの姿があった。
雨が降らなかったり、おかしなまねをすればすぐにでも処断するつもりだ。
天候を操作して雨を降らせるような呪術は高難度の術であり、水行符などで噴水レベルの水を作るのとはわけがちがう。プロの陰陽師が数人がかりで連日祈祷しても不発に終わる場合もある。
(といっても最近はプロの、陰陽庁に勤めるような陰陽師が祈雨すること自体あまりないんだがな)
今さら言うまでもなく現代の陰陽師のおもな仕事は霊的災害の修祓であり、次いで呪術犯罪の取り締まりだ。
古代や中世とは異なり、貯水設備や技術が発達し、離島にまで水道を敷く。外国からも水を買える現代日本で致命的な水不足が生じる可能性は少ない。
それにもともと日本という国は三万五千本の河川にくわえ、定期的におとずれる台風や梅雨の影響で諸外国にくらべ水には恵まれている。
なのでこの種の儀式がおこなわれるケースはまれである。そんな稀有な儀式呪法を学んでいた京子の向上心や修学意欲には秋芳も感服した。
(……水で思い出したが、最近は水目的に山林を買いあさる外国企業が多いらしいな)
水の惑星などと呼ばれている地球だが、そのうちの約97%が海水で淡水は約3%しかない。さらにこの淡水のうち約70%は南極や北極、氷河などの氷として存在していて、地下水をふくめて河川や湖沼、雨水など人類が生活に利用できる淡水は地球上の水のわずか1%に満たないとされる。
その1%にしても蒸発して雲などになり循環されているだけで、その絶対量にはほとんど変化が生じない。にもかかわらず原発汚染水など、文明の発展とともに汚染されることが多々あり、さらに人間は増え続ける一方だ。
国連は二〇二五年には地球の人口は八十億になると推計している。
水は貴重なのである。
すでに国家的な水不足になって他国から水を輸入したり、あるいは盗むこともおこなわれている。
そしてどうもあちこちの国から水を『盗られ』ているのは日本のようなのだ。
外国企業が日本の山林を広大なエリアで買いまくっており、その目的は山林の樹木や土地利用などではなく地下から汲み上がる良質な水らしい。
日本という国は世界でも珍しく外国企業が土地を自由に買えることがゆるされているおおらかな国であるらしく、この美しい水と緑にあふれるまほろばの国の山河を得体のしれない輩が寄生虫のごとくえげつなくうごめき、すきあらば吸いつこうとしているのだ。
人様の国に手を出す外国企業もたいがいだが、母国の土地を外国に切り売りする秦檜の尻尾のような日本人がいることに衝撃と嫌悪感をおぼえる。
(遼に金、そして元。宋はつねに異民族におびやかされ、内には蔡京や童貫といった奸臣が幅を利かせていた。どうにも他人事には思えない、内憂外患なのは今の日本も同じだ)
そんなことを考えているうちに五龍祭も佳境に入る。
目の前で儀式を執り行う京子の身体からは霊力が満ちあふれ、美しい光沢を放っている。まるで虹色に輝く無数の絹糸が下からの風に吹かれてたなびき、天へと伸びてゆくようだ。
やがて儀式を見守る群衆からも驚嘆の声があがる。微細かつ強靭な霊気は見鬼ではない者の目にも映るほどに強く高まり、輝く陽炎をまとっているかのように見えはじめた。
その神秘的な姿はさながら神を降ろし、その声を聞く古代の姫巫女だろうか。
否、神そのもの。神聖不可侵な女神のごとき神々しさだった。
遠くで雷鳴がとどろいたかと思うと、急にあたりが暗くなった。晴天にぽつぽつと浮かんでいた薄い雲が集まり、増殖し、変色してゆく。
白から灰色に、灰色から鉛色、そして黒に。天に暗雲が垂れ込めた。
(おや?)
おかしい、いくらなんでも早すぎる。まだここまで変化するほど儀式は進んでないはずだ。
とうの京子からも困惑の気配が伝わってくる。
漆黒の空を切り裂くような白光が走り、ひときわ大きな雷鳴がとどろくと、風が強く吹き荒れ、大粒の雨が降り始めた。
地面を穿つ大量の水滴。南国のスコールさながらの暴風をともなった豪雨が。集まった人々を一瞬でぐしょ濡れにした。
「道姑どの、これはいささか強すぎませんか!? お手柔らかに!」
集まった文武百官のうちだれかがそう叫んだが声は雷鳴にかき消された。ちなみに道姑とは女性の道士をさす言葉で、ほかにも花冠という呼びかたがある。
「むこうにあたしより先に雨を降らせようとした呪術師がいるみたいっ!」
「ああ! しかし天候操作とはなかなかの実力者、なおかつこちらに対してあまり友好的とは言えない感じだなっ!」
暴風雨にかき消されまいと声を出すため、自然と大声での会話になる。
「このままじゃ嵐でみんな吹き飛んじゃうわっ、止めないと!」
「せっかく五龍祭で練った呪力があるんだ、そいつを使って相手の術を返せないか?」
「……やってみる!」
返事をするや、集中に入る。
相手は相当高い霊力の持ち主のようだが、あえて五龍祭で蓄積された呪力を使わずに自前の呪力で対抗することにした。
自前といっても京子個人の力ではない、如来眼の能力を発動させ、この地にあるエネルギーを貸してもらうつもりだ。
風水では起伏に富んだ山々を活龍や貴龍と呼んで貴ぶ。山の連なりは大地を流れる気そのもの、山脈すなわち龍脈(霊脈)なのだ。
この崖山の地形はまさにそれにあたる。京子は一時的に龍穴を開き、その身に膨大な量の気を取り込み、それを呪術に組み込んだ。
効果覿面。一進一退を繰り返していた呪術による攻防戦は龍脈の力を得た京子の圧勝に終わった。
「地より生まれし呪い、主の元に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ!」
呪を返したことで激しい嵐は宋ではく元の軍勢に反転して牙をむく。激しい風雨に沖に展開していた元の軍船が木の葉のように翻弄されるのが見てとれた。
それだけではない、こちらに手を出した相手に駄目押しの一撃をくわえた。
「都天雷公、飛雲震風、青雷赤気、上遊上穹、赤雷黄気、運雷帰中、黄雷白気、洞按九宮、白雷黒気、下遊元風、黒雷青気、運雷帰東、九天応元雷普化天尊!」
雷が迸り稲妻が乱舞し、電流の嵐が、熱と光の颶風が元の陣営をズタズタに切り裂いた。
「――東方請青龍、南方召赤龍、西方請白龍、北方召黒龍、中方請黄龍、用心降雨、奉請衆方五雷上吾身、奉請衆方五雨上吾身、奉請衆方五風上吾身、雨雨雨雨雨――」
さらにその後にあらためて五龍祭を続行。その呪力を行使して宋の陣営に恵みの慈雨を降らせた。
冷たく乾いた大気を温かい雨が湿らし大地を潤す。さらに局地的に大雨を降らし、給水船や貯水場の水槽をいっぱいに満たした。
「こ、これは!?」「なんと温かい、冬の雨とは思えぬ」「これで当分は渇きに苦しめられずにすむぞ!」「それに見ろ、元の陣が今の嵐でめちゃくちゃではないか」
居並ぶ人々から拍手と歓声があがる。
「おふたかた、みごとな方術でした。今回のこと、国難をお救いいただき、まことにかたじけなくぞんずる。恵みの雨どころか元の軍勢にも痛手をあたえてくれたこと、ひとえにおふたかたのおかげでござる」
張世傑が進み出て一礼すると、それに陸秀夫も続く。
「されば謝礼をお受け取りいただきたい。とりあえず些少ながら銀五百両を用意いたします。また今後も陣内にとどまり我らを助けてくださるとありがたい。もし官吏によって迷惑をこうむるようなことがあれば、張世傑、陸秀夫の名をお出しくだされ」
油紙につつまれた馬蹄型の銀子が運ばれてきた。
「おお、銀か。ここが夢の世界じゃなきゃありがたくちょうだいするんだがなぁ」
「じゃあおことわりする? かさばるし」
「いや、もらえるものはもらっておこう。成功報酬をことわるのは冒険者の礼に反する」
「だれが冒険者よ、だれが」
中国の好漢や武侠は報酬や謝礼などを受け取るのを悪びれない。余裕のある者が余分に報酬をくれる時は受け取るのが礼儀というものだ。ことわるほうが失礼なのである。いっぽう自分に余裕のある時はこまっている人を助けないと『あいつは吝嗇だ』と言われることになる。
ちなみに古来より中国では銀を基本通過にしていた。ものすごくおおざっぱだが銀五十グラムが一両で、一両が十銭、一銭が十文という計算になると思われる。十人くらいで宴会を開くのに必要な額は銀一両といったところか。
それが五百両もある。
「これ、リアルに持って帰りたいなぁ。気合入れて目覚めれば一両くらい持って帰れないかなぁ」
「そんなわけないでしょ、あきらめなさい」
ここはあくまで仮想現実、夢の世界。さらに夢の世界にいられる時間は一日のみ。そういう設定だ。
「どうせなら宋を助けて元をやっつけてみたかったが、そこまでする時間はなさそうだ。明日の今くらいまでのわずかな時を楽しもう」
「ええ、そうしましょう」
元の手先を蹴散らし、恵みの雨をもたらしたふたりの道士を歓待してささやかな宴会がひらかれた。
包囲され補給もままならない中なので、出される食事はおもに現地で取れたものを食材に作られた素朴なものであったが、魚介類とモヤシ入りのお粥など、むしろ日本人好みの純朴な味がして秋芳と京子の舌には合った。
空腹時などに飲食する夢をよく見る。だが、たいていの場合はなにを食べても飲んでも味のしない、無味乾燥としたものだ。
だがこの呪具によって生じた夢はそんなチンケなものではないらしい。なにせ普通の夢のように自身の意識や経験のみから生まれる夢ではないのだ。阿頼耶識や集合無意識に、古今東西の不特定多数の人々の広大な精神世界につながり、それをもとに構成されている。本人が経験したことのない、はじめての味だって知覚できる。
宋の陣に慈雨を降らし、元の陣をなぎ払った嵐はとっくの前に消え、満天の星々が漆黒の空を飾っている。そんな銀のしずくが降りしきるような星空の下、崖山の一角にある切り立った岸壁の上に寝台を作り秋芳と京子が横たわっていた。
「どうせなら平和で豊かだった宋の前半期に行きたかったなぁ。豪壮な宮殿、灯火の輝く酒楼、夜でも人々のあふれる街中、整備された下水路、千人以上が入れる劇場や高さ百メートルを超える開宝寺の舎利塔……。宋の国都である開封は世界でもっとも進んだ大都市だったんだ」
「なにかの本で読んだんだけど、宋の時代の中国って全世界の国民総生産の半分をしめていたんでしょう? すんごい経済大国だったのね」
「経済だけじゃなく文化レベルもたいしたものだった。同じ時代のヨーロッパの連中が上流階級でも手づかみで食事をし、排泄物はそこいらに垂れ流していたのとは大ちがいだ。……座る時と立つ時は左から、カトラリーは外側のものから使う、ナプキンは最初のオーダーの後、ドリンクが運ばれてくる前にふたつ折りで膝の上に置く、襟元にかけるのはダメ、中座するさいは椅子の上か背もたれに軽くたたんで置く――。まったく箸も使えないような『野蛮人』どもがテーブルマナーとか、笑わせてくれる」
「あら、それじゃあ母国の食事マナーは完璧? こんど和食のお店に連れてって正しい作法を見せてちょうだい」
「……気どらないお店にならどこだって連れて行くが、お高い場所はかんべんしてくれ。西洋料理に限らず、あの手のマナーはどうも苦手だ」
日本料理にもとうぜん作法というものが存在する。たとえばまず主賓が箸を取って食べてから自分も箸をつけ、周囲の人の食べるペースに合わせて食べる。
食事の順番は汁からご飯、なま物、煮物、小皿の順でひととおり味わってから、すべての料理をまんべんなく食べ進める。
苦手な料理は箸をつける前に下げてもらう。
お椀のふたは器を置いたままとって右側に置く。
刺身などのなま物は身にわさびをのせて醤油をつけて、皿を手に持って口に運ぶ。などなど――。
「まぁ、さすがに箸くらいはまともに使えるけど堅苦しいのはきらいだよ」
箸をつけたものを食べずに、次の料理に移る移り箸。
器から器へとうろうろ箸を回す迷い箸。
ご飯などに、仏様のお供えのように箸を刺す突き立て箸。
器の中の料理を箸で探る探り箸。
皿やお椀に箸を渡し置く渡し箸。
器を箸で寄せる寄せ箸。
箸をなめるねぶり箸。
料理に箸を刺して食べる刺し箸
同じお菜をいつまでも食べ続ける箸なまり。あるいは重ね箸。
箸を楊枝の代わりに使うせせり箸。
箸で人を指したり、振り上げたりする振り上げ箸。
これら箸の禁じ手の中には見映えが悪いというだけではなく縁起が悪いといわれるものもあるので、縁起をかつぐ陰陽師としては気にしたいところだ。
もっともその陰陽師が活躍した平安時代では宴の作法に『お客はまず箸を手にして飯に立てる』というのがあったようだし、貴族の間では不作法だった汁かけご飯が武士の間では正式な食事作法だったりと、時代や状況によって変わるので気にしていてはきりがないのだが――。
「店の食事じゃあないが刀会の打ち上げに一席用意してある。今夜は――。といってもこっちじゃなくてあっちの今夜だが、そこで気どらない食事をしよう」
「あらそう、じゃあ楽しみにしてるわ」
現代の日本ではよほど田舎にでも行かないとちょっと見られないような星空を天蓋に、いつしか二人は眠りについた。
そして翌日。眠っている間にでも現実世界へ帰還するかとも思ったがそうでもないらしい。いつでも夢から覚める心の準備をしつつ崖山の周囲を散策し――。
夕方となった。
すでに丸一日は経過している。
「……ねぇ秋芳君、もうとっくに目が覚めてる時間よね。なんかまだこっちの世界にいるんだけど」
「……ああ、なんでかな」
「なんでかな、じゃないわよ! もう、……ちゃんと二四時間で設定したんでしょ?」
「ああ、間違いない」
「こっちの時間で、二四時間よね?」
「お、おう」
「本当に? まちがえて『むこう』での二四時間にしちゃった可能性は?」
「……ま、まぁ、はじめて手を触れる呪具だし、慣れなくてそうした可能性もなくはないが」
「もしその場合はあそこで丸一日寝っころがったままになっちゃうのよ。ネズミに耳でもかじられたらどうしてくれるのよ」
「その時は一緒にダメな眼鏡男子を手助けする猫型式神になろう」
「冗談はいいから、むこうとこっちの時間差ってどのくらいになるの?」
「ええと、元祖『邯鄲の夢』だと夢の中で何十年も過ごしたのに現実では寝る前に火にかけたお粥がまだ煮揚がってさえいなかったそうだから……。一秒が一年くらいかなぁ」
このあたり、かなり大ざっぱな憶測だ。
一日は二四時間。一時間は六〇分、二四時間は六〇分×二四で千四四〇分。
これを秒に直すと――。
八六四〇〇秒。
つまり八万六千四百年。
「は、はちまんろくせんよんひゃく年……」
「うむ、数字だと86400年。……なんというか、ちょっとした人類が生まれて滅亡するくらいの期間だな」
「そのちょっとした人類発祥から滅亡までの時間をここで、この世界で過ごすまでは目が覚めないってこと?」
「いや、まだそうと決まったわけじゃないし、いざとなれば強引にこの世界の防壁を破ってもとの世界へ、目覚めることもできるが」
「でも危険なんでしょ?」
「まぁ、な。なにせ精神に働きかけるタイプの呪具だし、正しい使い方をしないとどんな副作用や障害が発生するかわからん。プログラムの強制終了は最後の手段だ」
「ふぅ……、まさか過去に飛ばされた先ではるかな未来まで時間をつぶすはめになるだなんて思っても――」
その時、京子の身に落雷に打たれたかのような衝撃が走った。視界がゆらいでかすみ、気が遠くなる。
まわりの景色がぼやけ、心が押し出され、どこか別の世界に放り出されたかのような感覚。かろうじてたもった意識が、なにかに触れた。
そこは宇宙だった。
身体から魂が離れて浮上し、宇宙へと舞い上がったのだ。唸るような風の音を聞きながら、重力を始めとしたあらゆる足場から逃れ、現実に重なる異空の世界にゆっくりと浮遊している。
月が見える、太陽が見える、数多の星々が見える、そして地球も見える。
(あ……、あたし、いま星を読んでるのね――)
深淵の彼方、時間や空間の概念すら異なるすべての要素が偏在化している宇宙。
その宇宙に京子の観念が反映され、遠くにある現実の影を目の前に顕現、あるいは現実世界のすべてを凝縮して縮図のように映し出す。
千里眼のような感覚で宇宙を見渡していくと大きな存在の声を聞いた。
大きくて強大で、そして異質な存在。
あまりにも大きすぎてそちらを見ることが恐ろしかった。直視してその存在を認識しようとすれば、矮小な人間の精神など耐えられず、脳細胞が認識能力の限界を超えて破裂し、魂が焼き切れてしまうような、圧倒的な存在。
それの声が響く。
『ステージ1。勝利条件・滅亡の危機に瀕する宋王朝を救い、迫りくる元の軍勢を退ける。敗北条件・宋の皇帝趙昺の死亡、秋芳の死亡、京子の死亡』
「な――」
「ん、どうした?」
「なんなのよこれはーっ!!」
つっぷした京子の口から怒鳴るような大声があがった。
邯鄲之夢 3
その日の朝、宋軍の物見櫓に立っていた兵士は仰天した。
わずか一日で壊滅した元の船団は、おなじくわずか一日で復活していたからだ。
斥候の話によるとクビライの十三番目の子である東安王メデフグイが十余万の兵と、泉州の豪商である蒲寿庚から買い取った軍船を用意して援軍に来たという話だ。
敵の海戦能力が落ちたすきを狙い、打って出るべきだ。いや追尾してくる船のないうちに崖山を離れ、安南や占城といった南の国々に逃れるべきだ。
などと意見が割れ、軍議を重ねているうちに敵はその兵力を前よりも増やしてしまったのだ。
安南とはベトナムの北に、占城とはベトナムの南にあった国で、昔から海路をへて中華との関係がある。
(こんなことなら手勢を率いて元の本陣を急襲するべきだった……)
張世傑が内心でほぞを噛む。自分は千載一遇の好機を逃してしまったのかも知れない。たとえ軍礼違反になっても打って出るべきだったのではないか……。
「早上好、張将軍」
「おお、これは! 秋芳先生に京子先生、おはようございます」
先生とは道士に対する失礼でない呼びかただ。最初は二人の実力を疑っていたが、風雨を招き自軍の渇きを潤し、敵軍に痛手をあたえたことで信用してくれたということが言葉使いからわかる。
「早々に出立なさるという話でしたが、まさかわざわざおわかれの挨拶をしに参られたので?」
「そのことですが……、実は玉皇大帝から宋朝を助けて元軍を退けろという啓示をさずかりまして。今しばらくこちらにお邪魔することをおゆるしください」
「それは助かります! ぜひお力をお貸しください」
「ではさっそくですがお手伝いさせてください。つきましては皇帝陛下にお目通りを願いたくぞんじます」
そのいつになくかしこまったもの言いに横にいた京子が思わず吹き出す。
「ねぇ、その言いかたどうにかならない? なんからしくないわ」
「そうは言うが相手はお偉いさんで、なおかつ歴史上の人物だぞ。口調もあらたまるというものだ」
「そのうち舌噛むわよ。それにこの感じだとよっぽど変な言葉使いでもしない限りだいじょうぶだと思うんだけど」
そう言って口と耳とを交互に指差す。
この世界の住人の言葉は中国語のような言語として耳に入るのだが、頭には日本語として伝わってくるのだ。なんとも不思議な二か国語放送である。
「う~ん、まぁ、そうだな。それに俺たちは俗世にうとい神仙様だし、少々の粗忽はゆるされるだろう。――だいたい言葉使いに厳しすぎる作品てのもつまらないよな」
「ううん?」
「中世ファンタジー風の異世界が舞台なのに『完璧』や『玉砕』といった中国発祥の故事成語が出てくるのはおかしい! てつっこむのは野暮だと思うんだよ」
「まぁ、そうよね。べつに歴史や国語のお勉強をしているわけじゃないんだし」
「ちなみに『一網打尽』て言葉は宋の時代に生まれたものだからそれ以前、たとえば三国志の時代を舞台にした作品で使われるのはおかしい」
「ふぅん、でもなんか普通に使ってそう」
ふたりはそんなやりとりを交わしつつ、崖山の広くもない平地に建てられた行宮へと案内された。
南宋の幼き皇帝への拝謁はあっさりとかなった。
というのもむしろむこうのほうが噂の神仙に会ってみたかったからだ。
「おお、おぬしが慈雨花冠か!」
花冠。あるいは女冠、道姑とも。いずれも女性の道士を指す呼びかただ。どうも雨乞いを成功させたことから京子は宋の人々からそのような呼ばれかたをするようになったらしい。
「朕は去年の五月に竜の姿を見た。思えばあれは神仙の助けがあるという瑞祥だったにちがいない」
前の年である景炎三年(一二七八年)に兄である端宗が崩御すると、趙昺が皇帝に擁立され年号を祥興と改め、元軍を避けて崖山へと逃れた。そのさいに行宮にほど近い海面に虹色に輝く竜が出現したという。そのことを言っているのだ。
「あ、あなたが趙昺ちゃん!?」
話には聞いてはいたが齢八歳の少年皇帝のあどけない姿に京子はおどろきをかくせなかった。
薄紫の長衣服に腰帯からは佩玉をつるし、頭には冕冠をかぶっている。
佩玉とは文字どおり玉制の装身具で、ドーナツ状の璧などが有名だ。冕冠は前後にすだれのようなものがぶら下がっている冠で、秦の始皇帝や蜀漢の劉備、日本だと後醍醐天皇の肖像画なのでかぶっているあれだ。
映画や漫画でおなじみの中華の皇帝の正装なのだが、なんともかわいらしい。この幼帝、どこか春虎の使役式である霊狐のコンに似た面影があった。
「こ、これ京子先生。いくらなんでも聖上を呼び捨てにするのは無礼ですぞ」
かたわらにひかえる陸秀夫があわててたしなめる。
「あら、ごめんなさい。歴史上の人物だからつい呼び捨てにしちゃうのよね」
「歴史上の人物?」
「もうしわけございません。私も彼女も長いこと異国の地で修行していたので中華の作法にはうとい田舎者でして」
「そういえば着ている服も変わっているな。たしか瀛州の陰陽塾とかで方術を学んだとか。まぁ、俗世より遠く離れていてはしかたあるまい。多少の無礼はゆるしてつかわす。それよりそのほうら二人にはいろいろと聞きたいことが山ほどある。さぁさぁ、もっとちこう」
幼い皇帝は好奇心を隠しきれず、まことの呪術師に興味津々だった。
君子は怪力乱神を語らずというが、秦の始皇帝を筆頭に時の権力者がこの手のマジカルな人たちを身近に置いて重用することは中国ではめずらしくない。
たとえば唐の玄宗皇帝。玄宗皇帝というと開元の治や楊貴妃との放蕩ぶりが有名だが、や邢和璞、師夜光、張果、羅公遠といった、当代随一の著名な道士や僧侶を集めて呪術に没頭していたという。
邢和璞。卜占に長け、人の姓名や吉凶、前世や寿命をあてるばかりか、寿命をのばしたり生き返らせることができたという道士。
師夜光。見鬼の才に秀でた仏僧。
張果。白いロバに乗って一日に数千里を移動し、休むときはロバを紙のように折りたたんで箱にしまい、乗るときには水を吹きかけて元のサイズにもどしたという。式神の一種であろうか。また幾度も死んだがそのたびに生き返ったとも伝わる。
羅公遠。その張果をはじめ多くの道士や僧侶と術くらべをして勝利し、月まで橋をかけて渡ったり、雨を降らせたり天狐を捕らえたりと、特に活躍の多い道士。
話はその羅公遠のことにおよんだ。
「羅公遠は隠形の使い手で玄宗皇帝は教え乞うたが、それは君主の学ぶものではないと断られたそうだ。おぬしも同じ考えか?」
「はい。皇帝たる者がこそこそと隠れる術を学んではいけません。むしろ万里の彼方からでも万民におのれの存在を知らしめる強大な気を放つ存在になるべきだと思います」
「ふぅむ……。では秋芳よ、教えるのがだめなら、せめてその術を見せてくれ。パッと消えるのであろう? パッと」
「わかりました」
秋芳の実力ならば特に詠唱も集中もせずに気配を断ったり姿を隠すことはできる。だが今回はあえて大仰に術を見せつけた。
両手の指を組み合わせて大金剛輪印を作り、静かに呪文を唱え、心臓から額、左肩、右肩、頭上を加持。
「――オン・マリシエイ・ソワカ――オン・アビテヤマリシ・ソワカ――」
霊気が練られ、呪力と化し。それを呪術へそそぎ込む。
手印を穏形印へと変え瞬間、秋芳の姿がゆらりと揺らぎ、陽炎のようにかき消えた。
「おお! 多麼驚奇。ほんとうに消えたっ」
「ほかにもこのような術があります」
射覆の物当てに始まり、簡易式をもちいて鳥獣や人を象り『白蛇伝』などを演じた。五行符を打ち、なにもない場所から樹木や火球、石燈籠や刀剣、清水などを出現させる。
秋芳と京子は様々な呪術を披露して幼帝をおどろかせ、楽しませた。
「ところで聖上、陸丞相。崖山を離れて南の国に亡命するという話を聞きました」
「うむ、そういう話じゃったな丞相」
「はい。崖山はあくまで仮の行宮、長居するつもりはありません」
「先方から色良い返事はもらえましたか?」
「いや……、目下交渉中です」
「そうですか。ではここに腰を落ち着かせてはどうでしょう。三方を山に囲まれ、一方が海に面した崖山は天然の要害で元と戦うにはもってこいの場所です。しかもこの地形は背山臨水といって風水的にも非常に良い。龍脈が集まり、良い気が流れ込んできます。皇帝陛下の住まいとして、そして人々が暮らす場所としてはけっして悪い場所ではありません」
「まぁ、風水ではそうなのかも知れないが、いかんせん土地が狭く水に乏しい。とてもではないが生活に適した場所ではない」
風水という思想は漢の時代(紀元前二〇二~二二〇)までには成立したとされ、そのあとの晋の時代に郭璞という人物が風水思想を集大成し『風水』という言葉もこの人が創始したとされる。宋代にはさらに普及し上は皇帝から下は庶民まで風水を信じていた。
余談だがあの厩戸皇子。旧一万円札の人としても有名な聖徳太子は自分の墓を築かせるにあたり。
「ここの気を切れ、あそこを断て。私は子孫を残したくないのだ」
などとわざと風水を悪くし、そのせいか太子の子らは蘇我氏に殺され、滅亡したという。
いったいどのような考えでそのような指示を出したのか? もうこれだけで一冊の本ができそうなので、だれかくわしい人にこれを題材にした漫画や小説を書いて欲しいものだ。
閑話休題。
「山を削って土地を開拓し、井戸を深く掘って水を得ればいいのです」
「あいにくとそんな大規模な土地開発をしている余裕はないのですよ。なにせ今は補給もままならず食糧のたくわえも底が見えはじめて……。まさかお二人のお力で可能だとか?」
「そのまさかですよ、陸丞相。土地の開発と、当面の食糧問題も私たちがなんとかします」
そう断言した秋芳はあらかじめ用意していたいくつかの物をもってこさせた。
中に土が入った大きな桶と、水の入った小さな桶。そしてひとつかみの種もみ。
中国の北方は寒冷な乾燥地帯で麦や高粱といった畑作物が中心だったが、温暖湿潤な南方では稲作中心の水田による農耕が盛んだった。
「春に種をまき、植えつけ、夏に花が咲き、秋に実る稲穂ですが、私たちの術を使えばすぐにでも収穫できます」
そう言って桶の中に種もみと水を入れ、祝詞を唱え始める。
「――それ神は唯一にして、御形なし、虚にして、霊有り、あめつちひらけて此のかた国常立尊を拝し奉ればあめにつくたま、つちにつくたま、人にやどるたま、豊受の神の流れを宇迦之御魂命と、なりいでたまう、永く 神納成就なさしめたまえば――」
穀物の神である宇迦之御魂命を称え、その加護を願う祝詞。
呪力に感化され、種もみはまたたく間に発芽し、苗となり、穂がのび、花が咲き、黄色くたわわに実ったもみが桶をいっぱいにする。
「こ、これは……」
先日は雨を呼び、今さっきも数多の呪術を見せられたが、これまた予想外のできごとに趙昺も陸秀夫も目を丸くして仰天する。
「こうして新たに実った種もみをさらに増やすことで、宋国二十余万の糧を作ることができます」
さすがにかなり疲れるけどな。
慣れない神道系の生産呪術を使った秋芳は心中で一人ごちる。
「土地の開拓もおまかせください。式神を使いすぐにでも山々を切り崩してみせます」
「……お願いします」
「たのんだぞ!」
「はい、この地に京師を造ってみせます」
天にむかってそびえ立つ断崖絶壁。その前には祭壇と太極八卦図の描かれた布が絨毯のように敷かれている。そして秋芳と京子、十数人の宋人の姿があった。
この宋人たちはみな土木作業の専門家たちだ。山を切り崩すといっても秋芳にも京子にも掘削の技術や知識はない。考えなしに破壊して危険な山崩れなど生じないよう、監督と指示を頼んだのだ。
彼らは好奇心と期待に満ちた顔で秋芳たちを見つめている。風雨を呼び、元の軍に痛手を負わせた神仙の噂はすでに宋の人々の間に広がっているのだ。
次は方術で山を平らげると聞いて、どんな神業を見せてくれるのかと待っている。
「この手の作業には頑丈な機甲式がふさわしいんだが、作る材料も時間もないし、即席の使役式に働いてもらう」
鋼鉄の形代を核として生み出された堅牢頑丈な機甲式。たとえば鋼のボディにオイルの血が流れる装甲鬼兵などなら岩を砕き木を倒し地面に穴を掘るなどの重労働も楽々とこなしてくれるだろう。
「うん、早くはじめてちょうだい」
期待しているのは宋人たちだけではなく京子もいっしょだった。なにせ使役式を作るというのは鬼や竜などの霊的存在を降して意のままにあやつるということだが、今ここにそのような存在はない。
ということは霊災を発生させ、フェーズ3まで進行させたものを式に降すことになるのだが、さすがの 京子もそのような現場を見るのは初めてなのだ。
「さて京子、霊災とはなにか。簡潔に説明しなさい」
「なによ急に講師モードになっちゃって。……霊災とは万物に満ちる霊気が極端に偏向し、五気と陰陽の
バランスを崩すことで発生する霊的な災害のこと。生じる霊災の性質は様々で、基本的にまったく同じ霊災というものはそれが人為的に引き起こされたものでない限りひとつも存在しない。でしょ」
さすがは陰陽塾で一、二を争う優等生。よどむことなくすらすらと答える。
「そのとおり。さて今回はまさにその人為的に霊災を引き起こすわけだが、ここで見た術をリアルで真似したりしてくれるなよ? 重大な陰陽法違反だ」
かつて京子は霊災修祓の体験をのぞみ、秋芳に霊災を起こすよう頼んだがことわられたことがある。
故意に霊災を起こすことは街中で大量のガソリンや火薬をまいて火をつける行為にひとしい。たとえ個人の敷地内だったとしてもゆるされることではない。
今からすることは現実ならざる世界だからこそできるおこないだ。
「――邪鬼来臨――冥府幽冥――入死門砦――毒鬼蠱招――消滅緒神――万変邪蠱――凶神帰来――鬼魂来々――」
秋芳は京子が見たこともない奇怪な手印を結び、いつになく禍々しい呪文を唱えはじめる。
やがて日が陰ったかのようにあたりが暗くなり、陰気な風が蕭々と吹きはじめた。
「お、おい。なにか出てきたぞ」
太極図の中央の空間が歪みだす。霊気が陰の気に極端に偏り、比重の重いガスのように沈殿している。
それはすでに霊気ではなく瘴気と化していた。フェーズ1~2レベル相当の霊災だ。
「人の顔が浮かんでないか?」
「おれには馬に見えるぞ」
「いや、あれは鳥だ」
「ちがう、豚だ」
「いやいや、ありゃあ――」
結界内で様々な形に変化する瘴気の塊を見て宋人たちが声をあがる。本来ならば霊的抵抗力のない一般人がこの距離にいれば霊災の発する気にあてられ霊障を負うところだが、結界によって内部の気は完全に遮断されていたので物理的にも霊的にも被害はなかった。
「…………」
京子は一瞬たりとも見逃さないよう、秋芳の術を注視している。
今の状態だけ見れば通常の霊災修祓の一場面といえる。霊災を結界で隔離し、周囲への被害を抑制。そのうえで霊気の偏向を分析して是正するよう働きかけるか、強大な呪力をぶつけて力づくで偏った霊気を丸ごと散らしてしまう。
さて、これからどうやって動的霊災が生じるのだろうか――。
(山を削る土木作業に従事させるのだから木剋土、木属性の動的霊災が妥当だろう。それ――)
千変万化をくり返す混沌とした瘴気に一定の流れを生じさせる。
「――東方来気――歳星宿光――五音角々――五情喜五志怒――」
木気の偏重、気の流れが一方にかたよる。
(だが目標はあくまで開拓、完全に破壊することではない。木気一辺倒ではなく土気も残して、いい塩梅にたもたねば)
五行には相生相剋のほかにも数種類の関係がある。
おなじ気が同じ量だけ重なると、その気が盛んになって結果が良い場合はますます良くなり悪い場合にはますます悪くなる比和。
剋される側の絶対値が強すぎて反剋する、たとえば木気が強すぎると金気の克制を受けつけずに逆に木が金を侮る相侮。
その逆に相剋が度を過ぎて過剰になる相乗など、様々な関係がある。
均衡が崩れた状態は長くはもたず、また良い結果を生み出さない。
だからこそ呪術師は、陰陽師は陰陽の調和を尊ぶ。
陰陽師の存在理由は、陰陽の調和をたもつこと。今そこにある人や自然との霊的調和をとりなすこと。けしてその逆ではない。
一個の陰陽の乱れは特定の場所や個人のみならず、やがては周囲に存在するすべての霊相や霊脈、精神や魂にも影響をおよぼす。
やがては世界のすべてまでにも。
「……京子、俺がいま行使している術はいわゆる禁呪に属する類のものだ。禁呪とは単に強力だったり倫理的に問題があるから禁止しているだけではない。では禁呪とはなにか? 以前読んだ雑誌、たしか月刊陰陽師だったかに載っていた小論に『禁呪とは世界の一部を担保にしておこなうゲーム。勝てばその見返りは大きいが負ければその負債は術者だけの負担にとどまらず、まるで無関係の人間まで巻き込む』と書いてあった。これはまぁ、正しいと思う」
「禁呪……」
京子もそういう呪術が存在するのは知っている。かつて秋芳とともに禁呪指定されている犬神を使役する呪術者を相手にしたこともある。だが、そんなふうに考えたことなどなかった。強いから、危険だから禁止されているから使わない。ただそんな感じで〝禁止〟されている。漠然とそう思っていた。
「その論文によると、たとえゲームに勝ったとしても禁呪は最終的に我が身を滅ぼすんだそうだ。いうなれば毒だ。たとえ目に見えなくても、すぐにはわからなくても禁呪はそれを使用する者の身心を蝕んでゆく。だがその強大さゆえに使うのを止められない……」
「まるでギャンブルみたい」
「まさにそうだ」
「でも、だからってまったく手を出さないのもよくないわ。危険だからこそよく調べてみなくちゃ、いざってときに対処のしようがないじゃない。ようは力に飲み込まれなければいいのよ。研究に研究を重ねて、危険なところだけを取り除いて安全にあつかうべきよ」
口で言うほど簡単なことではないのは京子も百も承知だ、だがそうやって人類は知識を積み重ね、技術をみがいて進歩してきたではないか。危険を恐れて行動しなければなにも変わらないどころか退歩してしまう。
土御門夜光の残した成果をもとに発展した現代陰陽術は奥深く多様性に富むもので、霊災修祓のみならず幅広い分野での転用が可能だ。
陰陽術の未来はほかのだれでもない、自分たちの手で切り開いてゆくのだ。
京子のそんな意思が伝わってきた。
(実に前向きで向上心にあふれた答えだ。京子はほんとうに良くできた子だなぁ)
ともに陰陽の道を歩む恋人の意気軒昂な言葉に、あやつる術におのずと身が入る。
「――それにあたしの如来眼だって禁呪みたいなものでしょ」
「まあな、危険度で言ったら特級クラスの禁呪に相当するだろうな。問答無用で封印されてもおかしくないレベルだ」
仏眼仏母の相、如来眼。
豎眼や菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、あやつる力があるとされる。
たとえ見鬼の才を持った陰陽師といえども龍脈の流れを見るというのは容易にできることではない。
見鬼というのは一種の霊感能力であり、かならずしも霊的存在を視覚で捉らえているわけではない。気を気で感じとっているのだ。
だが人間というのは視覚に頼るところが大きい生き物で、目で見ると同時に霊気を視るのが普通だし、そのようになるだけでもそれなりの訓練を必要とする。視覚の範囲外に存在するモノを知覚できるなど、特別霊視官クラスの見鬼能力でもないと無理だ。
龍脈の流れを読むにはそのくらいの見鬼能力を必要とする。しかも如来眼の持ち主には流れを見るだけにとどまらず、その流れを自在にあやつれるという力までそなわるのだ。
あやつれるといってもそう簡単にはいかない。膨大な量の霊気を御するには先天的な能力や才覚だけでなく後天的な技術や経験も必要だ。一歩まちがえれば龍脈に飲み込まれ、喰われるか、あるいは膨大な気に肉体も精神も押し潰され死に至る。
それだけではない。暴走した龍脈が周囲にあたえる影響は想像もつかず、下手をすれば土御門夜光が執り行い、失敗したとされる禁呪の儀式『泰山府君祭』と同じかそれ以上の被害をもたらす可能性もあるのだ。
京子はそれを制御している。
京子の倉橋家は土御門家の分家筋にあたる旧家、陰陽道の名門であり、幼いころから祖母をはじめ倉橋門下の人間――プロの陰陽師たちから日常的に呪術の手ほどきを受けて育ってきた。さらに本人の資質や努力もあって非常に高い霊力と技術を身につけている。
だからこそ先ほどのように自身の霊力に龍脈の気を乗せて呪術を行使するようなことができたのだ。
だがそれがいつも成功するとはかぎらない、どんなに研鑽を積んでも失敗する確率はある。そして一度の失敗ですべてが無に帰す。強大な、あまりにも強大で危険すぎる諸刃の剣。龍脈を個人であやつるということはそういうことだ。
このような力の持ち主を陰陽庁が知れば放置したままにはしないだろう。
「それになんか物騒な言い伝えもあるのよね~。如来眼が顕現すると世が乱れるって」
「その力を手に入れようとする時の権力者らに狙われることで、世を乱す火種になるって話だろ。まったくいい迷惑だよな」
京子が如来眼に目覚めてから二人は文献をあさり、その力について調べた。するとかならずそのような記述があるのだ。
「……もしあたしが悪い人たちの手に捕まったら秋芳君が助けに来るの。それでそいつらをやっつけてから、あたしをお姫様だっこして悠々とお城をあとにするのよ」
「お城ってなんだよ、お城って。どこから出てきたんだ? よくわからない妄想だな。しかし君に囚われのお姫様願望があるなんてちょっと意外だなぁ。それとお姫様だっこじゃなくて半魚人持ちな」
「お姫様だっこでいいでしょ。いやよ半魚人持ちだなんて、なんか生臭そうで。願望っていうか実際あたしお姫様なのよね、倉橋の箱入り娘だから、そこから助け出してくれる王子様をずーっと待ち望んでいたの」
秋芳の背中に微笑みかける。呪術作業中でなく、なおかつ宋人らの視線がなければ片腕にでも抱きついているところだ。
「生臭いかどうかわからないだろ、鮎みたいな清々しい匂いかもしれないじゃないか、半魚人。その待ち望んでいた王子様は、王子様は王子様でも育ちの悪いもらわれっ子の王子様だけどな」
「鮎ってほんとうに良い匂いがするの?」
「ああ、稚魚のころは虫を食べるけど、成長すると川底についた藻を食べるから、きれいな清流に棲んでるやつは生臭さくないんだ」
「あたしどっちかっていうとインドア派なんだけど、あなたとなら釣りに行ってもいいわ。こんど教えてちょうだい」
「ああ、呪術を使わずゆっくりと釣り糸を垂らす時間も悪くな――。しまった!」
「どうしたの?」
「魚の話をしていたらついつい水気に偏って予定していたのとはちがうのができちまった」
「んぎょ」
太極図の上に手足のはえた魚が水滴を滴らせたたずんでいた。
「おお、なんと大きな鯉だ!」「陸に魚を作るとはさすが神仙」「だが手と足があるぞ、妖怪じゃないか!?」
「よりによってタイプ・ギルマンとは、こいつじゃ陸上の作業はむいてない。やり直しだ」
秋芳の手が九字を切ろうと動く。修祓するつもりだ。
「んぎょ!?」
「……ねぇ、せっかく生まれたんだから、残しておいたら。まわりは海だしこの子はこの子で活躍できるんじゃないかしら」
「んぎょ!」
「そう言われればそうだな」
「んぎょぎょ!」
あらためて儀式を続行。
混沌とした瘴気がひときわ膨れ上がり、破裂した。
中から異様な影が姿をあらわす。
剛毛におおわれた筋骨隆々とした人の巨躯に犬のような頭部と長い尾。手に棍棒を持った獣人。
身体を震わし、尾を振るその動きは生々しく、檻から解放された野生動物の躍動感を感じさせる。
そして牙を剥いたそのあぎとからは「Oooonnn――!」と、甲高い遠吠えがあがった。
フェーズ3。実体化した瘴気である〝魔〟陰陽法が定める移動型霊的災害、動的霊災がそこに存在していた。
京子はじっと霊災の姿を視た。
「木気と土気が強いけど、それ以外の五気も偏在してるわね。……タイプ・オーガ?」
霊災のカテゴリー分けに使われるタイプ○○という名称には『外見の特徴をもとに命名する』『英語圏でも通用するような名をつける』というような不文律がある。
見た目の特徴を第一に名付けるのはわかりやすさと、命名に時間を割くのをふせぐため。英語圏でも通用というのはとうぜん緒外国への説明を意識してのことだ。欧米をはじめとした外国の人間に鵺だの陰摩羅鬼だのと言ってもぴんとこないのでオーガやキマイラといった英語で呼称する習わしだ。
手足が複数あったり目が一つだったりと、とりたてて特徴のあるもの以外の人型のものはだいたいタイプ・オーガに分類されることが多い。
「おお、こんどはまたえらく強そうな妖怪が出てきたぞ」「道姑は雨を降らせ道士は妖怪を呼び出すとは……」「秋芳先生のことは妖怪道士とお呼びしよう」
(京子は慈雨花冠で俺は妖怪道士? なんかずいぶん差があるような気がするが……)
「GAOoooッ!」
犬頭鬼が吠え猛り、手にした棍棒を振るってみずからを生み出した呪術者に襲いかかる。だが結界に弾かれ外へは一歩も踏み出せない。忌々しげに牙を剥き、威嚇のうなり声をあげる。
「さっきの魚人ちゃんとちがってこの子は荒っぽいわね」
「このくらいの元気がないと肉体労働は任せられないからな。さて、霊を式に降ろすには力で屈服させるのが一番手っ取り早い。――緤べて緤べよ、金剛童子――オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
「GYAUNN!?」
結界越しに放たれた呪術の鎖が犬頭鬼の身体を縛り上げ、責め苛むと、あっという間に音を上げて恭順の意思をしめした。
結界内に拘束されている犬頭鬼を完全に調伏したのを確認したのち、秋芳はさらに呪力を注入。犬頭鬼から噴出する鬼気が周囲の霊気のバランスを乱しはじめる。
黒いもやが点々と生まれ、それが犬頭鬼の姿へと変わる。最初に生まれた一体を格に、同種の動的霊災を増産しているのだ。
規模こそ小さいがこれは百鬼夜行。フェーズ4に該当する。
「すごい! 秋芳君てば、まだこんな術を隠し持っていたのね。なんで教えてくれないのよ」
「そりゃバリバリの禁呪だからな。危険なんだよ、この術は。簡単に使役式を得ようと霊災を起こしたはいいが、制御できずに暴走した霊災にとり殺されることだってある。あと呪術によって従えた使役式ってのはかなり霊力を食う存在なんだ。調子に乗って式を作りまくったあげく、常時ガス欠状態になり術者の力そのものが低下することもある。相手の式神をのっとる術も存在することを忘れて式に頼るとひどい目に遭うんだ」
安倍晴明を彩る伝説の中に、自分の式神を晴明に奪われた蘆屋道満がおのれの負けを認めた。というエピソードがある。
百体の犬頭鬼がずらりと整列した。
「さぁ、親方たちの言うことを聞くようにしてあるから、ぞんぶんに使って山を開拓してくれ」
「おお、おれたちの言うことを聞くだって!? こいつはおもしろい。妖怪に命令できるなんてめったにできることじゃないから、ありがたく使わせてもらおう!」
こうして崖山の開拓がはじまった。
棍棒のかわりに鎬頭や鐵鍬を手にした犬頭鬼たちが土行術で弱らせた岩土を親方たちの指示で削っていく。
見鬼の応用、あるいは水行術で水源を探りあて、深く掘って新たな井戸を設けるとともに海水を真水に変えて水を確保。
一粒の種子から無数の苗や実を作り、開墾された田畑に植える。
治癒符や霊水を大量に作って傷病者を治す。
衛生面と疲労回復のために大衆浴場も造った。大きな浴槽に満々と水を張り、そこに熱した銅像を入れると水はたちまち温湯と化して白い湯気がもうもうと立ちこめる。そこに川芎や当帰といった生薬を粉にして入れた特製の薬湯だ。
霊災修祓以外の場面での呪術の使用が制限された現実世界ではできない、呪術を使った様々なおこないは宋の人々を大いに助け、よろこばせた。
呪術はこんなにも便利で役に立ち、人々の生活を豊かにするのだ。
そのことを身をもって実感すると同時に、改正の動きがあるとはいえいまだに陰陽法に縛られて自由に呪術を使えない現実世界への不満を改めて感じた。
そのような不満があるからこそ、ことさらはりきって呪術を行使して人助けをしているのかもしれない。
さて、秋芳と京子が急にこのようなことをしだしたのはなぜか?
星読みの託宣という形で夢の世界からの脱出方法を聞いた二人は内容をよく吟味した。
『ステージ1。勝利条件・滅亡の危機に瀕する宋王朝を救い、迫りくる元の軍勢を退ける。敗北条件・宋の皇帝趙昺の死亡、秋芳の死亡、京子の死亡』
宋に代わって元を滅ぼせとも、フビライを殺せとも言ってはいない。皇帝を守り、宋を救え。かなり受動的な内容だ。
こちらから攻撃をしかけたりするのは避けたほうが良いのではないか?
それならばとりあえずは疲労と食糧難にあえぐ宋の人たちを積極的に助け、彼らが元に抵抗する体力をつけさせようとしたのだ。
皇帝趙昺の前で楽しげに呪術を披露して見せたのは自由な裁量をもらうためのデモンストレーション。さらに護衛に式神をつけさせるにあたって、忌避されないようお近づきのしるしをこめたのだ。
そう、秋芳と京子は趙昺の護衛を申し出たのだ。なにせ敗北条件とやらに趙昺の死亡というのがふくまれている。この世界から抜け出すには勝利条件をみたさなければならず、敗北条件というのに抵触した場合、どんなペナルティが課せられるのか想像がつかない以上、避けるべきだろう。
元の側にも呪術者がいる以上、呪殺をしかけてくる可能性がある。剣や槍ならともかく、呪術が相手となると腕の立つ者でも守りきるのは困難だと、趙昺と陸丞相に伝え、納得してもらった。
あちこちで人助けをしてまわった秋芳と京子は高台の上でひと息入れることにした。持参した茶を飲み、酥餅という焼き菓子をかじる。唐の時代までは皇帝や貴族階級しか口にできなかった お茶も、宋代までくると庶民でも気軽に飲めるくらい浸透していた。
物資の乏しい防衛戦のさなかに茶と菓子を得ることができたのは秋芳たちのおこないを人々が認めて、食料増産のめどが立ったからにほかならない。
親方たちの指示のもと、犬頭鬼たちがすさまじい早さで地形を変えていくのを遠目に見ながらつぶやく。
「ソロモン王は七二柱の魔神を使役して壮麗な宮殿を建てたという伝説があるが、彼も魔術呪術の使い手だったのかもなぁ」
「ええっと、ソロモン王てダビデ王の子で……、イエス・キリストより前の人よね?」
「そう。キリストよりずっと昔。モーゼがエジプトを脱出して荒野をさまよい、多くの苦難を味わってヨシュアに後継をたくしてさらに数代へたあとの人物で古代イスラエル王国を繁栄の絶頂に導いた偉人だ。だが国民に増税や苦役を強いる拡張政策で大衆は大いに不満をいだいたといわれる。このソロモン王の死後、後継者問題などで国内が乱れ、北と南の二つに分裂してしまい、やがて北はアッシリアに南は新バビロニアによって滅ぼされ、人々は奴隷にされてバビロニア地方へ奴隷として連れ去られる。これが世界史でいうバビロン捕囚のはじまりで――」
「…………」
「――おなじ時代だと中国は殷周革命のころで、ヨーロッパではトロイア戦争があったころかな、史実というよりも神話と伝説に彩られた歴史の黎明期のできごとだ――」
「…………」
「――ポルトガルのように一時は世界の多くを支配しながらも世界史の表舞台から退き、小国として存在し続けたりすることもあれば、カルタゴのように繁栄を築いたにもかかわらず一瞬で滅亡させられた例もある。……宋の時代の中国といまの日本も似ているが、日本はカルタゴとも共通する部分が多いんだよなぁ。日本もこれからどうなることやら……。て、俺の話は退屈だったか?」
「ううん、そんなことないわ。とってもおもしろいわよ、お話があっちこっちに飛び火するところとか、すんごいあなたらしくて」
「そ、そうか。なら良いんだが……」
「あ~、あのね。ちょっといい?」
「うん?」
「歴史を学校で教えるさいに現代から歴史を遡って教えるのが生徒に興味を持たせるために良い。て話をたまに聞くんだけど」
「ああ」
「あれ、逆にわかりづらくない? たとえば今の話だって、イスラエルて国家を考える場合は第二次世界大戦後だけを調べれば良いってわけじゃないでしょ。なんでその土地を追われたのか、ユダヤ人の迫害の歴史とか、過去の関連した出来事を知ってはじめて理解できるものじゃない」
「そのとおり」
「なのになんでそんな教えかたをするのかしら」
「う~ん、ほんとどうしてだろうな」
「どうしてかしらね」
「だいたい歴史に興味のないやつに外野がいくら働きかけたって興味なんか持つわけがないんだからほうっときゃいいんだ。どうしても興味を持たせたいんだったらその時代を舞台にしたおもしろい映画や小説や漫画でも見せればいい。教科書を読んで歴史が好きになるやつなんていやしないよ、だいたいみんな創作作品から入って好きになるもんさ。暗記教育なんて勉強嫌いを量産するだけだね。試験では辞書でも年表でもインターネットでも好きに使わせたらいい、それを使いこなすのもまた立派な能力だしな」
「あ――」
「うん?」
「ええっと、いつだったかお父様が『国語の力とは文法や漢字を暗記する能力ではない。辞書を引こうとする意欲と辞書を使いこなすのが国語の力というものだ』みたいなことを言っていたのを思い出したの」
「ほほう、倉橋長官はなかなかわかっているな」
「……ふふっ、なんだかあなたとお父様って似てる気がする」
「えー、なんか前にも言われた気がするけど、そんなに似てるか~?」
「ええ、性格とか容姿とかじゃなくて、雰囲気っていうの? ただよう気配がなんかそんな感じなのよね」
「なんだか年寄りじみてるって言われてるようでいやだなぁ。父親なんてじじむさいからいやだ」
「じゃあ『お兄様』て呼んであげましょうか」
「俺に妹属性はない。男がみんな百合好き、妹好きだと思ったら大まちがいだからな。それに最近じゃ『お兄様』てのは揶揄するときにも使われるし」
ふたりはひとしきりおしゃべりしたあと、ふたたび宋のため奔走せんと下界に降りた。
夜。
あれからもほうぼうを駆けずりまわり、宋人たちの厚生の上昇に努めたあと、切り拓いた山々の一画にささやかな道観を建ててそこに寝泊まりすることにした。
部屋の中は床位が二つに四角い卓と二つの椅子、箪笥と本棚や水甕などのほかにもいくつかの雑貨が置いてある。中国は唐の時代までは床に座る生活様式だったが、宋代になると椅子に座るようになっていた。これらの家具はいずれも人々を助け、手伝いをしたさいにお礼としてもらった物だ。
天上のあたりに呪術で灯された火が浮いて、快適な熱と光をはなっていた。
その光の下、秋芳が椅子に座り一冊の本を読んでいる。
「お風呂、あいたわよ。あなたも入ったら」
「……ああ」
「ずいぶん熱心に読んでるわねぇ」
秋芳の肩口に京子の顔がおかれた。風呂上りの湿った髪が頬にあたり、果実を思わせる芳香が鼻腔をくすぐる。
仏教の沐浴の影響で風呂に入る習慣自体はあり、寺院には温堂や浴堂という入浴施設が存在したが、この時代の中国には内風呂というのはあまりない。だがそこはお風呂大好きな日本人の二人、専用の浴室をしっかりと用意したのだ。
風呂上りの女子の良い匂いを嗅がされた男子がおとなしく読書など続けられるわけがない。
ましてや背中には温かくて柔らかい二つのふくらみが押しあてられている。
猫にまたたび、かつおぶし。馬にニンジン、河童にキュウリ、蛇に鶏卵、餓虎に野兎、秋芳に京子の髪、秋芳に京子の瞳、秋芳に京子の頬、秋芳に京子の唇、秋芳に京子の歯、秋芳に京子の舌、秋芳に京子ののど、秋芳に京子の肩、秋芳に京子の腕、秋芳に京子の手、秋芳に京子の指、秋芳に京子の胸、秋芳に京子のへそ、秋芳に京子の腹、秋芳に京子の尻、秋芳に京子のもも、秋芳に京子の脚、秋芳に京子のふくらはぎ、秋芳に京子の足、秋芳に京子の吐息、秋芳に京子の声、秋芳に京子、京子、京子――。
倉橋京子という大好物を前にした秋芳は読書を即座に中断。京子の身体に手をまわして寝台にやさしく押し倒そうとした矢先、不埒な気配を察した京子は素早く身をひるがえしてその魔手からのがれた。
「きゃっ、んもう夢の中だからってそういうことしないの」
「ちょっと押し倒して全身にキスするだけだよ」
「そんなことされたら皮膚妊娠しちゃう。ううん、いまのあなたなら視線でだってあたしをママにできそう。すんごいギラギラしてる!」
「それはためしてみる価値がありそうだ。俺はここから一歩も動かないから京子はそこで生まれたままの姿になってくれないか」
「ああもう変態! もっとムードを出そうとか思わないの? あんまりがっつくと女子は引いちゃうんだから、とりあえずあなたもお風呂に入って綺麗にしてきてちょうだい。昼間あっちこっち働きまわってほこりだらけでしょ」
「……ああ、そうだな。まずは京子の残り湯でも堪能するか、君のエキスがたっぷり入った京子湯に浸かって全身で君を感じてくるよ」
「この変態っ、ド変態っ、变态大人っ!」
「その科白、アイドル活動をしているヴァリエール公爵家のお嬢様みたいな感じでたのむ」
秋芳の軽口にわりと本気で怒った京子が部屋のすみに置かれていた桶を手に取って投げつけようとしたが、あたってケガでもしたらとためらい、そっとおろした。
その心情をくみ取った秋芳の心中に情欲とはべつの感情が込み上げてきた。
(おお、こちらの身を案じてアニメやラノベのヒロインがよくやる投げつけ攻撃をとどまるとは、なんて優しいんだ。愛おしいぞ、京子!)
桶の代わりにおもむろに取り出した呪符が京子の手中から飛び出し、秋芳の足もとに滑り込むと細く短い、それでいて強靭なつる草がのびて足首にからみつく。
「おおっと」
「急急如律令」
さらに素早く印を結ぶと水甕の中に沈んでいる水行符(使ったらそのぶん水を出すよう設定されてある)が反応し、一条の水流となって秋芳の足もとに着弾。つる草が水気を吸収して成長し、枝を広げる。そうするあいだにも京子を次なる術を展開、天井に灯っている火の術式をリライトした。
膨れ上がった火球から青白く輝く無数の火の矢が枝に突き刺さりいっきに燃え上がる。水気を吸収して力を増した木気がさらに火気に吸収されてまばゆい光を放つ。
「あんまりしつこいとぶつわよ!」
土行符と金行符をかまえた京子が柳眉を逆立てて一喝。
秋芳は『ぶつよりやばいことしてるだろ!』などというツッコミも入れず、呪力の炎に炙られつつ、ほうほうのていで風呂場へと直行して冷や汗を流すことにした。
「まったく、もう……、ほんとうにエッチなんだから……」
京子は気分を変えようと卓の上に置かれた本を手に取って見る。題名は『東京夢華録』。金に追われる前の北宋の首都である開封の繁栄ぶりを記録した回想録だ。街中の様子や文化や風習などがこまかく書かれていた。
「……千人以上も入れる劇場に百メートル以上もある仏塔。すごいわね、東寺の五重塔の約二倍じゃない」
異なる時代の異なる国の都市の様子が書きつられており、たしかに興味深い。思わず読み入ってしまう。
「――なぁ、京子」
「…………」
いつの間にか風呂から上がった秋芳が遠慮がちに声をかけてくるが京子は黙々と頁をめくり、それには答えない。
「なぁ、京子……怒ってる?」
「…………」
「京子っ、俺の言葉を聞いてくれ」
「…………」
「君が魅力的すぎるからついつい手と口がぶしつけなまねをしてしまうんだ。賢くて綺麗でかわいらしい女の子に密着されたら理性がすっとんで惑乱しちまう。さっきのが気に障ったんならあやまるよ。でも京子といると嬉しくて楽しくて自分でもわけのわからない状態になってしまうんだ、だから――」
「…………」
「――少女の純真さと大人の女性の色香が微妙に混じり合って、天上の人とも見まごうばかり。まさに女性美の化身。優雅で愛らしいエロティシズムを体現している。君がもつそんなエロティシズムに我を忘れて耽りたい」
「もう怒ってないわよ。それよりもちょっと来て」
「あ、ああ、なになに?」
「ここ、いろんな菜譜が羅列してあるけどどんな料理なの?」
「この蟹醸橙というのはカニの肉とみそを柚子の皮でくるんで蒸したもので、これは――」
「――ふぅん、それにしてもいろんな本があるわね。茶館のガイドブックまであるじゃない」
「なにせ最初に印刷技術が発明された国だしな」
「宋って文化レベルでいうなら江戸時代なみじゃないの?」
「長い平和で町人文化が栄えたところとか江戸時代と似ているかもな。そうそう落語に『まんじゅうこわい』てのがあるが、この話の元ネタってのが宋の時代に書かれた『避暑録話』という本の中の『畏饅頭』という話なんだ」
「へぇ~、どれどれ――」
肩を寄せ合って宋代の書物を読みふける。中国の古い文体で書かれており、常なら読むのは困難なはずなのだが、耳に入ってくる言葉と同様に文章も日本語に簡略化されるようで普通に読めた。
「――こんなに文化的な国が戦争で滅ぼされるなんて見てられない。ステージクリアとか関係なしに、絶対に助けてあげなくちゃ」
「ああ、そうだ。旧約聖書の神はエジプトに十の災いを起こしたが、俺たちは宋にたくさんの幸いをあたえよう」
「十の災いってたしかナイル川の水を血に変えたり雹を降らせたり疫病を流行らせたりしたのよね。神様のくせにえげつない呪詛よねぇ」
「洋の東西を問わず神様なんてそんなものだろう、日本の神様たちだって祟るのが基本だしな」
「それにしてもノアの大洪水とかソドムとゴモラを滅ぼしたりとかエジプトに災厄を起こしたりとかなにもしていないヨブさんにひどいことしたりとか、ちょっとやりすぎじゃない? ここまでくるともう霊災よ」
「まぁ、実際そうかもな。霊災が極まると神になる。て説は昔からある」
「ああ……、聞いたことがあるわ。フェーズ4にとどまらず、さらにその進行を深めて霊災の連鎖が極限にたっしたそのあとは霊災の根本である霊気の偏向が偏向でなくなる。局地的にその部分のみが世界に受け入れられてその存在が万物にみちる霊気のひとつの型として偏在化するってやつよね。つまり昔から神様とか仏様って呼ばれていた霊的存在は霊災の一種である。て考え」
「そうそう、フェーズ5。ファイナルフェーズとか言われてるやつだな」
かつて神仏とされた対象の多くを汎式陰陽術では霊的災害としてひとくくりにしているが、御霊など人の魂に関わる部分は研究そのものを禁忌としていた。現代の呪術界では有効性を重視するため信仰の対象である神々や、倫理的な見地から検証の困難な魂などに手をつけず放置しているのだ。
だが唯一この分野に踏み込んでいた例外的な部署も存在した。宮内庁御霊部というところだが、ここの最高責任者で十二神将の一人でもある大連寺至道が『上巳の大祓』と呼ばれる霊災テロを起こして死亡。御霊部もまた解体され、いまだ同様の研究部署は作られていない。
「本物の神様とか超強そうだよな、イナゴとかハエとか召喚して雹の嵐や大洪水を呼び起こして天から硫黄と火を降らし厄病を蔓延させる。とんでもない規模の霊災だぞ、これは。……チェーンソーでバラバラにできないよなぁ」
「チェーンソー?」
現世利益を追求し、信心は二の次の道教が基盤にある呪禁と、信仰の部分をばっさり削除したことで成立しているこんにちの陰陽術を学ぶ二人は敬虔な一神教信者が聞けば激怒ものの会話をしてから床に就いた。
乳白色をした濃霧のむこうから喚声や銅鑼を打ち鳴らす音がかすかに聞こえてくる。
元軍が宋軍に攻撃をしかけているのだ。
元の本陣では張弘範、張弘正、張珪、劉深、李恒、アリハイヤ、アタハイ、サト――ら諸将が顔をならべていたが、東安王メデフグイとその客分であるマニ教司祭、太上準天美麗貴永楽聖公方臘の姿はなかった。
「……張世傑に魚釣城の宋兵らのように三六年もねばられてはたまらぬ」
魚釣城というのは四川地方の重慶府魚釣山に築かれた城で、王堅や張珏といった南宋の名将が立て籠もり、一二四三年から一二七九年にかけての三六年間ものあいだ元軍の侵略に対して頑強に抵抗した。特に一二五九年の戦いは凄まじく、元軍の鉄騎兵部隊に対して城内の南宋軍は一歩も退かずに応戦し、元軍を率いていた第四第皇帝モンケ・ハンはこの攻城戦の陣中で急死した。
四川地方での戦いには嘘かまことか面白い伝説がある。
蜀漢の首都であった成都の近くには子竜塘という場所がある。あの趙雲(字は子竜)が愛馬である白龍駒の身体を洗ったということでその名がついたという池のほとりだ。
このあたりに元軍が押しよせ、宋の軍を敗走させた夜のこと、深い夜霧の中から一騎の武将が姿をあらわした。甲冑も服も馬も雪のように白い。
おどろく宋の人々に「我につづけ」と叫んだ純白の武将は元軍のただ中に突っ込み、槍をふるって敵をなぎ倒した。「あの白づくめの武将は趙雲にちがいない、きっと大昔の名将が神霊と化して助けに来てくれたのだ」と喜んだ人々は武器をとって趙雲につづき、激戦の末に元軍を退けたという。
人々は趙雲の廟を作り、香を焚いて感謝したそうな。だがこれは摩訶不思議な霊験などではなく、当時の宋の将軍だった余玠という人物が趙雲の扮装をして軍の士気を高めた鼓舞の計だったとか。
これもまた一種の乙種呪術といえよう。
「兵站の維持も簡単ではありませんしな。杭州以南ではいまだ反元の気配がただよっております。どこぞで兵を挙げられて補給線を断たれては、こちらが飢えに苦しむことになる」
「包囲している側の兵糧が先に尽きるなど、とんだお笑い草だ」
元軍は宋軍の立て篭もる崖山を包囲して消耗戦を強いている。メデフグイが率いてきた十六万の援軍のうち十万を海上陸路建設のための土木作業にあたらせ、残る六万の兵で昼夜を問わず間断なく攻め立てて宋兵を疲弊させ、もともといた二万の兵たちには休息をとらせていた。
「しかし先の暴風雨を機に宋軍は勢いを取り戻した。あれをふたたび弱めるのには時間がかかるのではないか?」
「なに、糧道を断っているのは変わりない。雨で多少の渇きを癒したところでふたたび弱まるのは時間の問題だ。兵站の維持に気をくばりつつ、あせらずに腰を落として攻め続けばいい」
「……そのことだが」
「うん?」
「最近宋兵の中に異形のものが交じっているというのだ」
「それなら聞いた。手足の生えた巨大な魚や犬の頭をした兵士が宋兵に味方をしているとか」
「それがしは牛や馬の頭をした者がいるときいた」
「虎の身体に猿の頭と蛇の尾が生えた怪物を見た者もいる」
「いずれも例の妖術使いが呼び出した妖怪であろう」
「古来より妖術で国が滅ぶことがあっても妖術で国が助かるためしなし。追い詰められて左道の徒にすがるなど、宋の命運もいよいよおしまいだな」
「……しかし、この霧はいつになったら晴れるのか。もう三日もこの調子だぞ」
「冬でさえこの湿気だ。夏だと思うとぞっとしないな」
モンゴルら北方生まれの兵士は寒さには強いが湿気には弱い。服を濡らし寝具を湿らせ、負傷者の傷口は乾かず不快な疼痛にさいなまれることになる。
「あの太上準天美麗貴永楽聖公とやらに霧を晴らすよう言ってみるか?」
「よせよせ! この前のような目はごめんだ。次は雷雨ではなく津波が押しよせてくるかもしれんぞ」
元の将校たちの願いが天に通じたわけではないが、視界をさまたげていた濃い霧は午後になって風に流され、ふたたび元の陣営から崖山の様子が一望できるようになった。
「な、なんだあれは……」
一同は地形の変化に愕然とした。
顔だ。
高くそびえ立っていた山が人の顔になっていた。
正確には崖山一帯の広大な山腹全体が顔の形のように彫られていたのだ。
「ま、まるで雲崗や敦煌の石窟ではないか……!」
「いや、それらとは比較にならん規模の巨大さだ。あんなものをわずか三日で造ったというのかっ!?」
口にあたる部分は港になっているらしく、埠頭が舌のようにのびている。両目や両鼻孔には猥雑とした街並みが見え、頭頂部には楼閣が建ち並び、それを囲う城壁はまるで冠のようだ。頭の側面や頬の部分からは地上の海沿いまで棚田が広がり、水田の輝きが水晶の煌めきを見せていた。
奇観だ。
この世のものとは思えない異様な光景がそこにあった。
「な、南無阿弥陀仏……」
「こらっ、なぜ手を合わせて拝む!」
「はっ、すみません。仏様のお顔に見えたもので、つい」
「むぅ、そう言われればたしかに仏尊顔に見えなくもない……」
「おお、仏様じゃ!」「御仏が降臨なされた!」「宋には仏の加護があるのか……」「先の嵐は仏罰だったのかもしれない……」「神仙も味方していると聞くぞ」「如来様が西方より参られたぞ」
兵たちの間に動揺が生じた。
べつに秋芳や宋の開拓者たちは意図してこのような造形にしたわけではない、まったくの偶然だった。だが人というのはみっつの点があるだけでそれを顔と認識する生き物だ。シミュラクラ現象と呼ばれる錯覚で、このときの元の将兵らは崖山に仏の顔を見た。
不覚にも総大将である張弘範自身が突如として出現した仏顔都市に畏敬の念をいだいてしまっていた。それはほかの緒将も似たようなもので、みなの表情にも畏れの色が浮かんでいる。
「すごい! すごいぞ! なんておもしろい街だ。ぜがひでも手に入れたい」
そうでない者もいた、東安王メデフグイだ。
「こ、これは東安王殿下。しかしあの仏顔……、あ、いや妖しき鬼面都市。見た目も異様ですが要塞としての体をなしており、落とすのは容易ではありませんぞ。例の妖術使いの仕業でしょうが、あのようなものを数日で造るとは、あなどれません」
「それならばご安心を」
メデフグイにつき従う方臘が横から口をはさむ。
「……これは太上準天美麗貴永楽聖公どの、ケガはよろしいので?」
よろしいわけがない、方臘は落雷に打たれて全身黒焦げだった。
「なんのこれしき、ただのかすり傷です。……この方臘、摩尼教の法力には通じていますが道士のもちいるような方術はいささか不得手。そこでその道に通じた助っ人を頼みました」
「おぬしよりも呪術に長けているのか?」
「はい、摩尼教の法力はもちろんこの方臘が上ですが、こと方術に関してはこの方臘が師と仰ぐほどの人物です」
「なるほど、それは頼りになる」
性格や知性はともかく、呪術の腕はそれなりに評価している。その方臘より上となればたしかに力強い。
「さらに天竺より呪術巧者も呼びました」
「ほう、二人も呪術師を呼んだのか!」
妖術で雷雨を呼び数日で山を削り街を造る相手に兵をまともにぶつけるのは得策ではい。呪術には呪術をぶつけよう。
張弘範はいまいちどこの方臘という呪術者の言葉を信じることにした。
邯鄲乃夢 4
街の喧騒が風に流れて聞こえてくる。芸姑の奏でる音楽や人々の笑い声、まこと平和で豊かなにぎわいで、ここが戦場だということを忘れてしまいそうになる。
そう、ここは戦場。崖山に追い詰めた南宋の残党を殲滅せんと元の大軍がまわりを包囲しているさいちゅうだ。
南宋軍はその数二十五万といわれるが、そのほとんどは市井の民や文官といった非戦闘員で、戦える兵士の数は一万に満たない。
補給を断たれ糧食を得られなくなった南宋軍は衰弱し、元軍は楽に勝てるはずだった。
謎の神仙が加勢に現れるまでは。
元軍の奇襲を退け、風雨を呼んで大衆の渇きを癒し、わずか数日で崖山の険しい山を削って仏顔のような造形の要塞都市を築いた。
ただ人のなせる業ではない。
「くそっ、あいつら真っ昼間から楽しそうにしやがって。こんないくさ、やってられるか」
元軍の前線に立つ若い兵士がいまいましそうに吐き捨てた。周りの兵士たちの中にその態度を注意する者はいない。彼らもまた同じ気持ちだったからだ。
「――天若不愛酒――酒星不在天――地若不愛酒――地應無酒泉――」
せまい店内は歌舞音曲が絶えず流れ、人がごった返していた。
秋芳と京子は店の主人に銀子をはずみ二階をまるごと貸し切り昼食をとることにした。この三日間、宋のために尽くし街を完成させたのだ、このくらいの贅沢はゆるされるだろう。仏顔都市と化した崖山の登頂部には皇帝が、両目部分には文武百官とその家族たちが、鼻と港もある口の部分には庶民たちが居をかまえ、生活していた。
いま秋芳たちがいるのは左鼻孔側の雑居街に作られた酒楼だ。
給仕が注文をとりにくる。
「本日は酒飯博士がそろっておりますので、良い料理が出せますが、お飲み物はなににいたしましょう」
「銀瓶花彫酒をもらおうか」
「おお、お客さんはなかなか通でいらっしゃる。とっておきのがありますよ。料理のほうはいかがいたしましょう」
ここは三方を海にかこまれた崖山。海の幸が美味しかろう。
「じゃあ豆瓣魚と蟹醸橙(シェニァンチェン)を、あと酒の肴に羊肚絲があればたのむ」
豆瓣魚とはニンニクやネギ、豆板醤たっぷりのスープの中で白身魚を煮込んだもので、蟹醸橙はカニの肉をユズの皮でつつんで蒸したもの、羊肚絲は羊の胃袋を細切れにして炒めたものだ。
「はい、ご用意できます」
さらに白飯と清湯、食後の甘点心をたのんだ。
酒も料理もすぐにはこばれてくる。卓上には大皿小皿、鉢や茶碗がところせましとならべられ、湯気をあげる。
秋芳は酒杯を、京子は箸を手に取って舌鼓を鳴らす。
「見た目はザ・中華料理! て感じだけど、あっさりとした味つけで和食みたい」
この時代の中国料理はあまり油っぽくなく蒸したり炙ったりといった調理法が多かった。
「中華料理が油っこくなるのは元の時代になってモンゴル料理の影響を受けてからだといわれる。味つけはあっさりめだが現代の中華料理に使われる食材はすでに宋の時代に出尽くされたというから、つくづく宋代ってのは文化の隆盛した時代だったんだなぁ」
「平和で豊かじゃなくちゃ料理に凝る余裕なんて出てこないものね」
「ああ、天下人の豊臣秀吉なんかより江戸時代の庶民のほうがよっぽどバリエーションに富んだ食生活をおくってるもんな」
食事を終えて秋芳は竹葉青(薬酒の一種)を、京子はのちに廬山雲霧茶と呼ばれる緑茶を飲んで雑談に興じる。
「ねぇ、いま気づいたんだけど、お皿も茶碗も陶器じゃないわよね。これって……」
「銀でできている」
「銀食器だなんて贅沢ね、庶民のお店なのに」
「たんに贅を凝らすだけじゃないんだ」
宋の時代の一流の料理屋では銀の食器を使うことが多かった。銀製の食器ならば落としても割れないし、錆びたり腐ったりもしない。また銀は毒や腐敗物に反応して変色する性質をもっているので、銀の食器を使っていることは『うちの料理は安全ですよ』というアピールにもなる。
火事などに遭っても銀の食器は溶けたり変形したりするが、そうなってもふたたびまとめて熔かして作り直せばすむ。
戦争が起きて避難するときはつぶしてたいらにしたものを重ねてはこび、安全な場所で作り直せばいい。もともと銀だからそのまま貨幣のかわりにもなり財産としての価値もある。
割れたらそれでおしまいの陶器などより実用的なのだ。
食後に出された甘点心は千層糕。小麦粉を練って発酵させた生地を何層にも重ねてパイのような層を作り、あいだに果物や餡をはさんだ蒸し菓子だった。
繊細な甘味を堪能しつつ窓の外を見ると雑多な町並みが見えた。ここからは元軍の様子は見えないが、この活気ぶりを見てぜひとも戦意をくじいてもらいたい。
「豊臣秀吉は小田原攻めのさい武力で押し潰す強行策をしなかった。それよりも北条方の士気を低下させ内部崩壊させていく策をした。そのために小田原城外に遊郭まで作って城の中と外に天国と地獄を演出した」
「こんかいは籠城するがわが天国になるわけね。――宿霊元」
手にした銀器をもてあそんでいた京子がおもむろに印を結んで呪を唱えると、銀の器から細長い手足が生えてジタバタとうごめく。
「なんだいきなり、いまさら宇治拾遺物語の実践か?」
式神とは本来二種類、密教でいう護法童子や安倍晴明の十二神将のように鬼神や精霊を使役するものと紙や木などを呪力によって生き物のようにあやつるものとがある。このあたりは土御門夜光以後の汎式・帝式における使役式と人造式と大差ない。
おもに今昔物語に登場するのが前者で宇治拾遺物語に記されているのが後者だ。
――家の中に人なき折は、この式神をつかひけるにや、人もなき蔀を上げ下げし、門をさしなどしけり――。
稀代の陰陽師安倍晴明が自在に式神を使役し、京都の一条堀川戻り橋に十二神将という式神を隠していたのは有名な話だ。
その符以って咒唱えれば式神と成る。
原理は簡単だが実践するのは容易ではなかった術だが、夜光は簡易式符という、あらかじめ式神作成・操作の術式が組み込まれているベーシックスタイルの呪符を作成することでそのハードルを大きく下げた。
たったいま京子がもちいたのは簡易式符にたよらない、古い術だ。
「天国の演出とはべつに地獄のほうも式神で演出してみようと思うの」
京子は花の貌に美しくも危険な笑みを艶麗とよぎらせた。
「兵士たちに疲労と望郷の思いがつのりはじめている。海上陸路を敷いて一斉攻撃に出る前に、いちど決定的な勝利を収め、士気を上げる必要がある」
そう判断した張弘範は弟の張弘正に命じて崖山の近くにある宋の水源地をふたたび強襲する作戦を立てた。
あわよくばそこを足掛かりにして陸からも攻撃したいところだったが、戦う前から頓挫してしまった。
道を進むことができないのだ。
禁道則不能進。
道を禁ずれば、すなわち進むことあたわず。
秋芳のほどこした持禁の術で進路を妨害していたのである。
障害物などひとつもないというのに、どうがんばっても前に進めない。一定の地点からは足が動かなくなる。
「方臘どのの法力でどうにかならぬか」
「かなり強力な呪が込められているので拙僧ひとりでは……」
「例の強力な助っ人とやらはまだ来ないのか?」
「一〇日以内には到着するかと」
「ええい、ならば近隣から方士、僧侶、行者、なんでもいいから呪術者を呼んで解呪にあたらせろ。人選と指揮は方臘どのにまかせる」
「ははっ」
こうして多少なりとも霊力のある呪術者たちが五〇人ほどあつまり、秋芳のかけた呪の解除にとりかかったのだが、遅々として進まない。
その間にも秋芳と京子は式神を打ち、元軍の士気をくじくよう、様々ないやがらせをしかけていた。
ある日のこと陣中に熟麺舗(うどん屋)があらわれた。近隣の住民が大量の兵士たちを相手に商売っ気を出したのだろうが、なんと時間内に十杯食べると無料。それどころか銀一両の賞金を出すという。健啖家の兵士たちがこぞって挑戦するがなかなか完食できた者はいない。
まもなく腹痛や下痢に悩まされる兵士たちが急増したので方臘をはじめ医術に心得のある者が診てみれば広節裂頭条虫、いわゆるサナダ虫に寄生されているではないか!
どうやらうどんに虫を仕込んでいたらしい。えげつのないことである。
夜中に警備中の兵士が不審な灯を発見したので近づいてみるが、むこうも動いているのかなかなか距離がせばまらない。いよいよあやしいと早足で近づき、灯の目前にせまったとたんに灯が消えた。おかしなこともあるものだと落ち着いてあたりを見回すと、なんと自分は崖の一歩手前に立っているではないか! あやうく落ちる寸前だったと冷や汗をかいたその耳元に「落ちちゃえばよかったのに……」と、女の恨めしげな声が聞こえ、いっそう肝を冷やした。
またべつの兵士は若い女がしゃがみこんで泣いているのを見かけた。陣中に若い女人とは面妖なと声をかけると、振り向いた女の顔にはなんと目も鼻も口もついていないのっぺらぼう。驚いた兵士は無我夢中で逃げ出して。すると同僚は「こんな顔かい」と兵士のほうへ振り向くと同僚ものっぺらぼうで驚いた兵士は気を失った。
ある晩に見知らぬ士官があらわれてみんなに酒食を振る舞い宴会になった。一晩中騒いで眠りこけて朝起きてみれば酒だと思って飲んでいたのは馬の小便、食べものは馬糞だった。
などなどなど……。
一兵卒だけでなく将官たちも奇怪な目に遭った。
ある日の晩、軍議を終えた李恒が自分の幕舎にもどり夕餉を食べようとしたときのことだ。酒のそそがれた爵(鼎型の酒器)を口にはこんだとき、くちびるに痛みが走った。
「啊疼(あ痛)ッ!」
見れば手にした爵の縁にびっしりと歯が生えている。李垣の眼前で縁はぐにゃりと歪んだ。笑ったのだ。
「哇哦!?」
おどろいて思わずかみついた爵をほうり投げる。すると卓上の食器がいっせいに震え、哄笑をあげた。
ギャハハハハハハ、ガチャガチャ、ワハハハハハ、ガチャガチャ。
「おのれ、妖怪か!」
騒ぎ立てる酒壷を両断しようと剣を振るうと、卓に鋼の刃が深く食い込む。
「わしに剣を刺すこの不作法者は何者だ」
卓から声がもれる。
「李垣という裏切り者だ」
耳のすぐ近くから声がした。なんと李垣が着ていた袍までもがしゃべりだしたのだ。
「攻め込んだ先々で人を殺すものだから、ほうら、こんなに真っ赤になってしまった」
白い袍がみるみる血に濡れたように赤く染まる。
李垣はタングート人で西夏の王族の出身であり、西夏は元によって滅亡させられた。それでも李垣はフビライによる世界帝国建設の大義をひたすら信じ、各地を転戦していた。
そのことを揶揄していると理解すると、一気に激昂した。
「激氣(クソったれ)!」
赤くなった袍を脱ぎ捨てて卓を蹴り飛ばすと、あたりに食器と中身がぶちまかれた。
「おお、もったいない。食べ物を粗末にするのはよくないな」
鶏の姿煮が首をもたげてみずからの肉をついばみ、「好吃(美味い)! 好吃!」と鳴く。
「ぐぬぬ、面妖な……」
「李垣、矢に気をつけろ。おまえは矢傷を負って命を失う。そのような死相が出ている」
史実で李垣は崖山の戦いで宋朝を滅ぼしたあと、安南に出征することになる。安南とはベトナム北部を支配する陳王朝のことだ。
そこでの戦いで李垣は膝に毒矢を受けて戦死する。
毒がまわった李垣の足は樽のようにふくれ上がり、苦悶の末に死んだという。
「ざれごとを!」
食器も料理も卓も袍も、すべて焼却された。
李垣は恐いもの知らずの豪胆な将だったのでそれっきりだったが、ほかの将軍たちのなかには我が身に降りかかった怪異に肝を冷やす者も少なからずいた。
またこのような怪異は前線から離れた場所でも起きていた。
輸送隊が兵糧をはじめとする物資を駐屯地にとどけに来たのだが、どうも様子がおかしい。しかも物資のほとんどを失っていた。駐屯地をあずかるモンゴル人将軍のネルグイが青い顔をした輸送兵たちを問いただすと、怪異に遭遇したとのこと。
「夕暮れになり野営していると、まわりから『おいてけ~、おいてけ~』という恐ろしい声がするのです。声は一晩中響き、兵の中には恐怖に駆られて逃走したり、気がおかしくなる者も出る始末。朝になって恐る恐る荷車を点検すると中は空っぽで……」
そんな馬鹿な話があるものか、兵らが物資を横領して逃亡するのをふせげなかった言いわけにちがいない。
気の毒な輸送隊長は処断されそうになったのだが、おなじような例が何件も続き、これは偶然ではない。と、ことが解明するまでは保留となった。
だがその駐屯地でも同様のことが起きた。
日が落ちると周囲から「おいてけ~、おいてけ~」と、おどろおどろしい声が響く。
「これはたしかに恐ろしい、だがこのわしがあずかる以上、やすやすと糧食に手出しはさせんぞ!」
ネルグイはまわりに兵を散らし声の主をつきつめようとするとともに、食糧庫の守りを固め、みずから番に立った。
多くの兵とともに寝ずの番をしていると、厳重に封鎖された食糧庫から物音がする。まるで鼠がものをかじるような咀嚼音だったので、もしやと思いあわてて中を確認すると、異常に腹のつき出た猿のような生き物――餓鬼たちが糧食を喰い散らかしていた。
床に積み上げられた干し肉や乾餅、小麦粉や米の入った袋に顔を突っ込んでは猛烈ないきおいでむさぼり食っているではないか。
「おのれ、この妖怪どものしわざか!」
ネルグイはむき出しの乱杭歯で干し肉をほおばる妖怪に槍を突き入れる。
狙い誤ることなく穂先は腹に突き刺さり、その部分が残像のようにぶれる。引き抜くとそこから腹におさめた生米がざらざらとこぼれ落ちた。
「かゆ、うま……」
自身の身体におきた損害も気にせずひたすらに貪る餓鬼たち。
それらを掃討せんと槍を突き、剣を振るう元兵。
餓鬼らはろくに抵抗もせずに斬り伏せられ、消滅した。
「なんだ、存外あっけないのう」
ネルグイがひとりごちた、そのとき。
「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、焼いた魚が泳ぎだし、絵に描くダルマにゃ手足出て、電信柱に花が咲く~」
内容はわからないが、あきらかに自分たちをバカにした歌が聞こえてくる。
「なに者だ!」
「やぁ、諸君。黄海の波高くして、定遠はまだ沈まぬかね」
ネルグイをはじめとする元兵には理解不能な日清戦争時代のギャグを口にして青い牛に乗った青年があらわれる。道服を着た短身痩躯の若者で、道士のような身なりをしているくせに僧侶のように頭を剃りあげているのが特徴的だった。
賀茂秋芳だ。
そして秋芳の乗っている牛、これまた奇怪な牛だ。一本の角に真っ青な体色をしているではないか。
「なに者だと問うておる!」
ネルグイは言うやいなや猛烈ないきおいで牛にむかい槍を突く。しかし餓鬼を串刺しにした刺突は青牛の皮膚にはじかれた。この牛、かなり硬い。
「こらこら、罰あたりな真似はよせ。これは青牛怪といって、かの太上老君、老子さまが乗物としたと言われる聖獣だぞ」
実際はそれを模倣した動的霊災なわけだが、と秋芳は心中でつけくわえる。
「青牛怪といえば『西遊記』に出てきた獨角兕大王の別名ではないか。それと西域の大秦国の王に成りすまして好き放題したりしたと伝わる魔獣だぞ」
「お、よく知っているな。おまえさん、なかなか学があるね」
「あたりまえだ、漢の歴史を知らずしてどうして漢の国を支配できよう」
「ご立派。いまの言葉を第二次大戦中の日本人に聞かせてやりたいよ。敵性語禁止とか愚の骨頂だね、相手の国の言語を知らないで勝てると思うだなんて、戦争というものをなめているとしか思えないぜ」
「ええい、なにをわけのわからぬことを。ここにいた妖怪どもはおまえの手下だな。きさまは宋に味方するうわさの妖怪道士か」
「そうだ。宋だけに」
「ならば死ね!」
配下に殺と号令しつつ、ふたたび必殺の一撃をくり出さんとかまえる。
剣刃が殺到するもあわてずにふところから一枚の呪符を取り出し宙に投げ打つ。
「命金行呼鉱、来。疾く」
金行に命じて鉱を呼ぶ、来い。
口訣を唱えると呪符――金行符は強烈な磁力を発し、兵士たちの手にした剣や槍を吸いつけてしまった。手にした武器はもちろんのこと、鞘におさめられた刀剣までもが持っていかれ、丸腰にされる。
「けんかはよせ、腹が減るぞ」
「人の糧食を喰い散らかして腹の減るようなことをしておいてぬけぬけと!」
果敢にも素手で打ちかかってくるネルグイを青牛怪でてきとうにあしらいつつ新たな呪を唱える。
「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ!」
不空羂索観音咒。
羂索とは古代インドで狩猟や戦闘に使われた捕縛用の縄のことで手に持っている縄で善人を救済し、悪人を縛り上げる。六観音の真言だ。
拡散型の不動金縛り法。秋芳を包囲していた元兵たちはひとりのこらず呪縛された。
「――だが先にケンカをしかけたのはモンゴル軍、そっちからだろう。西夏や大理国、金を滅ぼし、平和に営んでいた宋まで滅ぼさんと牙をむく。おまえたちはどこまで侵略すれば気がすむんだ」
「天涯海角!」
天地の果てまで征服すると言う。
「……軍隊というものは世界の果てまでも攻めていく必要はない。それは『瀆武』であり武の本質を汚すものだ。国境を守り抜く、自国を守る力があればじゅうぶんだろ」
「妖怪道士風情が武人であるわしに偉そうに武を説くか!」
「兵者凶器也、争者逆徳也(兵は凶器なり、争いは逆徳なり)。韃靼人は草原に帰って馬を駆り羊を追い、宋人は故郷で田畑を耕すなり、街で商売するなりして平和に暮らせ。さもないと玉帝陛下のお怒りが降るぞ」
「ざれごとを!」
不動金縛りにかかっているにもかかわらずネルグイが一歩踏み出した。金縛りを精神力だけで強引に解こうとしているのだ。
(気合いだけで俺の呪にほころびを生じさせるとは、さすがは戦乱の世の武将。さっきの刺突も恐ろしい気迫がみなぎっていたし、本物はさすがにちがうな)
青牛怪をうながし、距離をとる。
「おのれ妖仙、逃げる気か!」
「むりやり兵にとられた者もいるだろうし、刃傷沙汰におよぶつもりはない。だが、おまえたちがこの地にとどまり崖山の宋朝をおびやかすつもりなら、寒くひもじい思いをすることになる」
青牛怪からおりた秋芳はしゃがみこむと地面に両手のひらを突きつけ、呪文を唱える。
秋芳の全身から瘴気の渦が舞い上がった。
陰なる呪力が大地にそそぎ込まれ、五気の調和を破壊する。煮立ったコールタールのように地面が泡立ち、はじけ、次々と瘴気を飛散させる。
「き、きさまなにをっ!? なにをするつもりだっ!」
言いようのない悪寒がネルグイの総身を震わせ、思わず叫びをあげ、その叫びが終わる前に初期の霊災が発生した。
霊災は一足飛びにフェーズ2へ、そして第二第三の霊災が発生し融合する。あっという間にフェーズ3となり実体化する。
牛とも羊ともつかない獣毛におおわれた胴体に四肢と尾。曲がった角、鋭い牙と爪、人のような顔をした、いびつな獣。ラグとともに姿がたえず変容し続け、やがて完全に姿を定着化した。
あらかじめ式に降ろしてストックしておいた動的霊災を召喚したのだ。
体高が四メートル近くある妖獣はネルグイたちをにらみ、雄叫びをあげた。
「アッオーンッ! オレサマ、オマエ、マ~ルカジリ」
間近にいたひとりの兵士を頭から丸呑みし、くちゅくちゅと咀嚼する。
「啊啊啊啊啊ッ!」
生きたまま喰われる恐怖に悲鳴があがる。金縛りにあい、同僚を助けることのできないどころか次は自分が食われる番かと脂汗をにじませる兵らの前で、丸呑みされた男がちゅぽんと吐き出された。
生きている。
傷ひとつ負ってはいないが、一糸まとわぬ全裸のすがたとなっていた。
「そいつは饕餮といって、悪食でなんでも食べてしまう妖怪だ」
そう言う秋芳の周囲では濃密な瘴気が凝固し、フェーズ2からフェーズ3へと移行し続ける。
また次の動的霊災――二体目の饕餮が生まれようとしていた。
「動植物はもちろん木でも石でも鉄でもなんでも食べる。とうぜん人肉も嗜むが、いまは俺が制御しているから喰われはしないから安心しろ。ただし身につけている物は根こそぎ喰われて素寒貧になってもらおう」
二体目、三体目、四体目――。数体の饕餮を生成。まるで簡易式でも作成するように動的霊災を兵らにけしかける。
「ひぇ~」「あはん」「いやん」
丸呑みされてはすっ裸で吐き出され、丸呑みされてはすっ裸で吐き出され、丸呑みされてはすっ裸で吐き出され――。
たちまち駐屯地は屈強な男たちの裸地獄と化した。唾液にテカつく裸体が艶めかしいのやら艶めかしくないのやら……。
「ううむ、なんというありがたみのない衣装破壊(ドレス・ブレイク)。近年の萌えアニメやラノベによくあるサービスシーンだが、男でやられても少しもうれしくないな。もっともたとえ美少女でやられてもとってつけたようなあざといエロいシーンには食傷しているが……。ああいう作り手の『ほらほら、おまえらこういうのが好きなんだろ。とりあえず乳出しときゃ円盤売れるんだろ?』的な姿勢は気に食わん。そんなデカい釣り餌で釣られるのは養殖ものの萌え豚だけで、俺のようなちがいのわかる数寄者には通用しないのだ」
手前勝手なことを言いながら兵士たちの武装を強制解除していく一方、ふたたび餓鬼の群れを召喚して残った食料品もたいらげていく。
補給なしで戦争に勝つことは不可能だ。
戦争の本道は敵より多数の兵力を準備することと、それを維持できる兵站を整えることがもっとも重要で、あちらからこちらへ、そこからここへと、計画通りに物資を流通させること、それこそが軍事力というものだ。
秋芳は元軍の士気をくじくとともに物資を根こそぎ奪い無力化するつもりだ。
「食料や武器を運ぶのはわかるが、やけに木材が多いな。船でも造るつもりか……。あ、おい。酒は少し残しておけよ、あとで味見するから――むっ!?」
「――不忍一時之気、生出百日之情、作哭作病作冤仇、禍害臨時莫救、好個当場一忍、計人一歩存楽、舌柔比歯久存留、能忍之人有後、要知前世因、今生受者是、要知後世因、今者作者是、有心無相、相逐心生――」
どこからか呪文の詠唱が流れてきた。音楽的な旋律をもつそれには豊富な呪力が内包されており、饕餮たちはうなり声をあげ、全身にラグを生じさせる。餓鬼たちにいたってはその強大な呪力に耐えられず一瞬で粉砕するように修祓された。
「――夫入道者多、要而言之、不出二仲一理入、二行入、天往往、地往往、理入者、謂藉教悟宗、深信舎生、鳳凰止於庭、歴草生於階、神龍見於沼、上界有三十三天、何以只有九重、清虚超妙天、是正途直上、欲界十天――」
やがて青牛怪と饕餮たちも耐えきれずに修祓されてしまい、秋芳は騎乗の人から徒歩になる。その秋芳とて無事ではない、とっさに張った結界がびりびりと振動し、呪文のもつ威力のほどをうかがわせた。
「……これは、邪神悪鬼の調伏にすこぶる効果のある破魔の呪文、玉傘聖呪か! 全文で三千二百二十四字あるが、たいていの魔物はすべての文字を読み終える前に耐えられず修祓されてしまうとか」
それは秋芳の時代には伝わらず消滅した、いにしえの呪法であった。
「いかにも、そのとおりですわ」
紫がかった黒髪をふたつ結いにし、道服と胡服の中間のような白衣白冠の装いをした少女が輿に乗って姿をあらわす。
玉傘聖呪を唱えていたのはこの少女であろう、全身から豊潤な霊気をただよわせていた。
さらに輿を牽いているのは粗末な服を着た、これまた年端のいかない少女で、しかもたったひとり、両手でかついで牽いている。輿とは轅という二本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物で、複数の人間が轅を肩にかつぐ、あるいは手を下げて腰の位置で持って移動するもので、とてもではないが少女がひとりで持ち運べるしろものではない。
つまりこの少女もまた常人ではないということだ。
(これほどまで強い霊気を持ちながら、ついさっきまで気配を感じさせなかった。これはたいした使い手だ)
「貧道は金華山霊応洞の包道乙ともうします」
少女――包道乙は両手を上げて礼をした。長い袖にかくれて見えないが手を組んで拱手しているようだ。
「包道乙~!?」
包道乙。その名には聞きおぼえがあった。
『水滸伝』に登場する妖術使いで、方臘とともに謀叛をおこし、戦闘ではあたりを暗闇にして天地を揺るがし、敵の周囲に巨漢を出現させて取り押さえるなどの妖術を使って相手を倒した。また百歩はなれた相手を斬ることができる魔剣を所持している。
「年代がちがうぞ、時代考証はどうなっているんだ。そもそも包道乙は男性だ、女性じゃない。……あ~、やだやだ。いやだねぇ、なんでもかんでも美少女化すれば良いって風潮。邪神や悪魔や死神や妖怪や魔王にはじまり、剣とか刀とか城とか、タロットが女の子とか、文房具が女の子とか、空き缶が女の子とか、ゴキブリやサナダムシが女の子とか……。そのうち道路標識も美少女化でもするつもりか? 『うちのメイドは一方通行』だの『俺の妹が右折禁止なわけがない』だの作る気か? 俺はそういうのきらいなんだよ、性別のない物を擬人化するならまだしも、あきらかに男性である神話や歴史上の人物の美少女化とか、とくにな」
「なにを言っているのかサッパリわかりませんが、肉体なぞ歴史の中では時代を写す衣装でしかないともうしあげておきますわ」
「どこぞの灰色の魔女のようなことを言う……」
「盛者必衰は人の世の理。滅びゆく宋朝に与していたずらに戦乱を長引かせる鬼道の徒を折伏しに参りました」
この場合の鬼道の徒とは秋芳を指し、たんにあやしげな術を使うやつ。という程度の意味だ。
「鬼に横道はない。いたずらに戦火を広げ、天の定めた王朝の命数を削るモンゴル軍こそ
無法を重ねる叛徒」
「なにを言う! 重税に苦しむ民衆があいついで蜂起し、金に追われた宋の天命などすでに絶えている。代わりに元朝が天下に立って治めるべし!」
と、これはネルグイの主張。
「禅譲もされずに剣で天下に立とうとする者を簒奪者というのだ」
「妖怪変化を使って狼藉をはたらく者がなにを言おうと詭弁にしかなりませんわ。おとなしく折伏されなさい。……見れば数多の妖物を従える霊力といい、方術の冴といい、なかなかの実力者。目鼻立ちもととのっておりますし、あなた、あたくしの弟子になるつもりはなくて? 弟子になるのなら手荒な真似はいたしませんことよ。毎日きれいな服を着させて美味しいお料理を食べさせてあげますわ」
「おまえが弟子になればオイラは姉弟子になるッス。オイラのことを師姉と呼ぶッスよ」
「俺は乳のない女には従わない、よっておまえの弟子にはならない」
「……あなた、いまあたくしの逆鱗に触れましたわよ。悪口を垂れ流す舌と手足を斬り落として甕の中で飼ってさしあげますわ」
「まるで呂雉だな」
「おほほ、人豚のほうがお望みならそれでもよろしくてよ」
唐の武則天、清の西太后とともに中国三大悪女として名が挙げられる漢の高祖劉邦の正室である呂雉にはおそろしい逸話がある。
夫の死後に妾と妾の産んだ子を殺害するのだが、その妾の殺しかたが実にむごい。両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、毒薬で耳を聞こえなくし喉を焼いて声も出せなくしたうえで便所に置き、この処置を『人豚』と呼ばせたのだ。
「お師匠さま、ここはオイラにまかせて欲しいッス」
「ん? おい、ちょっとまてよ。包道乙を師と呼ぶとは、おまえひょっとして鄭彪か?」
「おお、オイラのことを知ってるッスか!? いかにも鄭彪ッス」
鄭彪。やはり『水滸伝』の登場人物で包道乙の弟子という設定の妖術使いで、戦いでは身に霊気をまとったことから鄭魔君と呼ばれた。頭上に黒煙とともに金甲の神人を出現させて相手を惑わす妖術を使い、武芸にも秀でる。
「いやもう、そういう『オイラ』とか『ッス』とか現実にありえない口調で無理やりキャラを立たせようとするのもいから、書き手の表現不足の現れだから、キャラの書き分けが大変で科白とかだれがしゃべってるかわかりにくいからって、安易にありえない口調のキャラばかり出すの禁止!」
「意味不明なこと言ってないで勝負ッス! 手合せッス! 組み手ッス!」
鄭彪はゆっくりと輿を降ろすと、猛烈ないきおいで打ちかかってきた。
中国武術を説明するのに南拳北腿と言う言葉がある。長江より南では手技が多く、北では足技が多いということだ。鄭彪は江南の出自ということで、やはり拳をもちいた攻撃が主だった。
鷹爪釣手、穿心掌、上步摘星拳、虎爪絶命手、龍爪擒拿手、嘴鶴手などの多彩な手技を繰り出してくるのを右に避け左にさばき、後ろに跳んで防御する。
「なかなかやるッスね、――第一封呪、解除っ」
鄭彪の霊気がぐんと上昇した。それだけではない。あふれ出る霊気は身につけた物にも影響をおよぼし、粗末な服装が一変する。白銀の兜、甲冑、手甲、脚絆といった戦装束に変わった。
「なんだそりゃおい、界王拳的ななにかか!?」
「かいおうけんとかじゃないッス。鄭魔拳ッス。嘿! 呀! 哈!」
上昇したのは霊力だけではない。身体能力も向上し、膂力も敏捷力も大幅に上がっている。ガードしても威力を殺しきれず、受けた拳脚に痛みが残る。
いまの鄭彪の攻撃はボクシングのジャブにストレートの威力が込められているにひとしい。
(呪術者を相手するにあたって呪文の詠唱や集中をさせないよう問答無用の肉弾戦をしかける。まぁ、基本だな。俺もよくやる手だ。だが、いかんせん粗い)
科学にせよ医療にせよ、人の世の技術というものは日進月歩だ。武術という技術体系もまたしかり。
かの大山倍達が健在の頃の極真空手の訓練動画を見ると、正拳突きのさいに肩が左右に揺れている。これでは重心が安定せず、強烈な一撃はくり出せない。だが当時はそれが常識だった。『重心の安定』や『全身の運動エネルギーを一点に集める』という概念はあったかも知れないが、それを実践する動作がだれもが使える技術として確立していなかったのだ。
実戦を謳った空手でさえこれだ。
武術とはより効率よく人体を動かす科学技術であり知識である。
八〇〇年前の武術は秋芳の生きていた時代よりも洗練されておらず、無駄が多い。現代武術ではルール違反とされる急所への攻撃さえ注意すれば、存外恐れるようなものではなかった。
秋芳の体術をもってすれば鄭彪の猛烈な攻撃は、さばききれないものではない。
(問題はこいつではなく包道乙だ)
包道乙は拱手の姿勢のままじっとこちらを見つめている。
その両手は袖に隠れて見えない。つまりどのような手印を結んでいるのか、わからないということだ。
ひしひしと殺気が伝わってくる。
そしてあふれる霊力の強さは並の呪術者の比ではない。
(前にもみ手をして下手に出てくるふりをしつつ、印を素早く結ぼうとしたせこい術者とやり合ったことがあったが、こいつはどのような印すら見せていない。やっかいだな)
こちらがすきを見せれば未知の呪が飛んでくる可能性が高い。たとえすきを見せなくても弟子である鄭彪が劣勢になれば手を出してくるかも知れない。
肉弾戦に長けた前衛と強力な呪術を使う後衛ふたりを同時に相手にするのは勝ち目が薄い。
(ここは退散するか)
三十六計逃げるにしかず。
西暦五世紀の中国、南北朝の時代。宋という国があった。この宋はいま秋芳たちが救おうとしている宋とはまた別の国だ。
その宋に檀道済という名将がいた。彼は北方の国境を守備し、強大な北魏軍と戦い続けた。彼のたいそうな戦上手で、その戦術は巧妙をきわめ、北魏軍を幾度も撃退した。ときには敵の前から逃げ回って、相手の戦力を削ぐという作戦をもちいた。そのためどうしても檀道済に勝てない北魏軍は「逃げ上手の檀道済。三十六策中、逃げるのが上策なり」などと負け惜しみを言ったという。
しかし時の宋の皇帝は檀道済の能力と名声を恐れ、妬み。無実の罪を着せて死刑にしてしまった。彼の死を知った北魏軍は狂喜して総攻撃をしかけ、あっという間に都に迫り。城外を埋め尽くす敵軍を見た皇帝は「檀道済はどこにおる」と惑乱したとも「檀道済が生きていればこんなことにはならなかったのに」と悔やんだとも伝わる。
逃げることは恥ではない。時には撤退することも大事なのだ。
最近の日本には先の負け戦の反省もせずにネット上で気炎を吐く輩が多く、そういう連中は「日中戦争のときの中国軍は逃げてばかりの腰抜けだった」というような発言をする。たしかに日中戦争における戦闘ではたいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走したが、相手を自国領深くに誘い込み、補給線がのびきったところで散発的なゲリラ戦をしかけて叩くというのは立派な戦術だ。
あとからいくらでも取り返しがつくのに、目先の名誉や安っぽい矜持のために自決や玉砕を強いるのは愚の骨頂であり、後退すべきときに後退を決断できる能力も名将の資格なのだ。
(ふたり同時に叩き、その隙を突いて離脱する!)
襲いくる鄭彪の乱打をさばきつつ、呪を唱える。ことさら複雑な術式や呪力を込める必要はない、先ほど打った金行符の術式に少し手をくわえてリライトすると、磁力に吸い寄せられていた無数の武器が飛散し、包道乙と鄭彪を目がけて襲いかかる。
なんらかの防御行動をとるはずだ、その隙に逃げ出す。そのような算段だったのだが。
「縛!」
包道乙が呪言を発すると強力な呪力が迸り、雨霰と飛来する武器の動きを中空でピタリと停止させた。
裾がひるがえると手は転法輪印を結んでいた。不動金縛りの術だ。
肉体や精神の動きどころか、投擲された物体の運動エネルギーをも金縛りにして停止させてしまったのだ。
これほどまで強烈な呪力をあやつれるとは、完全に予想外であった。微塵の隙も生じていない、それどころか。
「縛! 縛! 縛!」
流れるような指使いで内縛印、外縛印へと再結印。金縛りの呪縛は秋芳の身にも影響をおよぼし、動きを阻害した。全身に圧力がかかり、まるで水の中にいるかのように動きが鈍化する。
鄭彪はその好機を見逃さなかった。
「隙ありッス、喰らうッス、伏虎十八掌ッス!」
霊力の込められた強烈な掌打が秋芳の頭蓋を打ち砕いた。
邯鄲之夢 5
物資は陸路だけではなく海路も使ってモンゴル軍の陣営に送られてくる。
戦地より遠く離れた泉州の地から木材や食糧を満載した船団はしかし、目的地である崖山にたどり着くことができなかった。
泉州。中国大陸の東南海岸に位置し、この時代は国際貿易として栄えていた。日本や東南アジア諸国をはじめ、インド、ペルシア、アラブなどの商船があつまり、何十万人もの外国人が居住し、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教などの寺院が建ちならんでいる。
『アラビアン・ナイト』の名でも知られる『千夜一夜物語』の中で語られる多くの物語の中のひとつ『アラジンと魔法のランプ』の冒頭、アラジンが母親とともに住んでいた街はこの泉州ではないかという説がある。なにせアラブ系の住人だけでも何万人もいたのだからその説もうなづける。
アラビアン・ナイト――千夜一夜物語――。
妃の浮気を知ったことで女性不信におちいった王は不貞の妃を処刑し、毎晩清らかな乙女を寝所に呼んでは翌朝に首を刎ねるという常軌を逸した行為をくりかえすことになる。
大臣がこまり果てていると、彼の娘である美しくて賢いシェヘラザード姫がその役目を買って出る。 シェヘラザードは夜な夜なおもしろいお話を語り、王を魅力的な物語の虜にしてしまおうと考えたのだ。
聡明なシェヘラザードの唇から紡がれる数多の物語世界に引き込まれていく王。だが朝になればシェヘラザードは口を閉ざしてしまう。続きを知りたい王は彼女を殺せず、生かしておかずにはいられなくなる。
そのようなやりとりが千と一夜にわたってくりかえされる。それゆえ千夜一夜物語――。
最終的には改心した王が蛮行をあらため、シェヘラザードも死なずにすむという結末なのだが、これは原典には書かれていない、後世につけたされたものだ。
『千夜一夜物語』には、はっきりとした底本というものが存在しないという。千一夜という言葉は大江戸八百八や八百万の神々と同様、単純にその数を指すのではなく、数えきれないほどたくさんあることや、終わりのないことを意味している説がある。
最初から結末が存在しない、終わりのない物語。無限の可能性を感じさせる、なんとも魅惑的な設定だ。
閑話休題。
「出航した船がことごとく戻ってくるとはなにごとだ。しかも中には積み荷をなくしたものまであるというではないか!?」
宋朝を見限り、モンゴル帝国に協力して身の保身に走った泉州の政商、蒲寿庚は地団太を踏み、紫檀の机に拳を叩きつけた。一〇〇年間に三センチしか成長しない紫檀はその美しさや珍しさから金と同じように高額で取り引きされていた。この蒲寿庚という人物の財力のほどが知れる。
このままでは保護を求めていた宋の皇族を殺害してまでして手に入れた信頼をうしないかねない。
「乗船していた者が言うには、崖山の近くまで来るとどこからともなく美しい歌声が聞こえてきて、それに聞き惚れているうちに気づけば帰路についているとか……」
そばにひかえていた側近のひとりがそう答える。
「歌で人を惑わすとは、まるではるか西国に伝わる羅蕾萊の塞壬ではないか……」
蒲寿庚という漢名を名乗ってはいるが、彼はアラブ系の色目人であり、遠くヨーロッパの伝説にも通じていた。
「そうだ、歌が耳に入らぬように綿でも詰めて栓をしてしまえ」
「はい、すでにこころみました。そうすると十隻中に一、二隻は妖しき歌の影響を受けずに進めるのですが、そのような船はやがて大量の鳥や虫に襲われ、船員はついばまれるわ刺されるわ、積み荷のうち食糧はむさぼり喰われるわでさんざんな目に遭うそうです」
「ふ~ん、それは嘯だね」
「むむ、なにやつ!」
いつのまにか執務室の中に見知らぬ青年の姿があった。褐色の肌に漆黒の髪。上等な絹の服を着て、ルビーやサファイヤ、エメラルド、ダイヤモンドといった貴石をあしらった金銀の装飾品を身につけた、インドの藩王もかくやという豪勢な身なりである。
容姿もまた彫が深く端麗なのだが、少々鼻のサイズが大きいのが玉に瑕だった。
「嘯、あるいは長嘯。歌声や旋律、楽曲に呪力を込めた呪歌ともいえる呪術でね。鬼神や風雨や鳥獣を召喚して意のままにあやつるほかにも人の精神に働きかける効果のある呪さ」
妙に甘ったるい、鼻にかかるような声でそう説明すると、ゆったりとした所作で手にした杯をかたむけ唇を濡らす。この青年、こともあろうに主のことわりもなく秘蔵の酒に手を出している。
「なにものだと問うておる!」
蒲寿庚の手が腰に帯びた新月刀へとのびる。この男は商人であると同時に海賊であり武人でもあった。かつて張世傑ら宋の武将らが泉州で再起を図ろうとした際に、泉州にかくまわれていた宋の皇族を殺害し、その報復に挙兵した張世傑の軍を計略をもちいて防ぎ、元の援軍到着まで約三ヶ月も持ち堪えたいくさ人である。
弁舌だけの商人とは異なる迫力が、本物の殺気を漂わせていた。
「淡旨! この黄酒、なかなかの美味じゃない」
「とうぜんだ、なにせ紹興は鑑湖の名水で醸した銘酒だからな」
「ほっほ~う、これがうわさの紹興の酒かぁ。うんうん、甘露、甘露。銘酒出處、必有良水。……銘酒あるところにかならず良水ありとはこのことだねぇ~」
まるで水でも飲むようにすいすいと喉に流し込み、いっぱいに満ちていた酒壷の中身はすぐに半分ほどになってしまった。
「でも酒は命を削る鉋という言葉もあるし、ほどほどにしておこう」
「酒で縮む命の心配よりも……」
「うん?」
「たったいま命の危機に直面しておるわ、たわけー!」
新月刀が鞘走り白刃が褐色の首を断たんとうなりをあげる。
「हूं(ウーン)」
褐色の肌の青年の口から出た金剛夜叉明王の種字真言が鋼の刀身に変化をおよぼした、刃が蛇身となり蒲寿庚の喉へと喰らいつかんとする。
蒲寿庚はとっさに片手で蛇の首をにぎり、毒牙を制す。
「金生水。金気の塊である刃には水が生じやすい。蛇は水気の生き物ゆえ変化もたやすいってね」
「お、おまえは呪術者か!?」
「いかにも、たこにも」
「…………」
「…………いまのは『いかにも』の『いか』と『たこ』をかけた地口だよ」
「そんなことはどうでもいい! 呪術者がどうしてここにいるっ」
「ぼくの名は智羅永寿。天竺では少しは名の知れた存在さ。東安王メデフグイ殿下の客将、方臘どのの要請でモングル軍の加勢にまかりこした次第だよ」
「ああ、そういえば大量の呪術者をつのっていたな……」
「そう。それで現地でひと働きする前にこちらで一服していたんだよ」
「英気を養いたいのなら街にでもくり出せばよかろうに、なぜよりにもよってこの場所で酒を盗み飲むか」
「泉州でもっとも上等な美酒と美姫を求めるなら、蒲寿庚の邸だと思ったからだよ。いや、泉州どころか中華中の美酒と美姫がこの街にあるんじゃないかな」
泉州の繁栄ぶりはあのマルコ・ポーロやイブン・バットゥータが『東方見聞録』や『大旅行記』に記している。「海のシルクロードの起点」とまで称した海上貿易の拠点たる港湾都市だ。
「美姫だと、おぬしまさか……」
「あら~ん、智羅さまったらこんな場所にいたのね」
「んもう、だまっていなくなるなんて、いけず~」
蒲寿庚の誰何は嬌声に掻き消された。かこっている妾たちが目の色を変えて闖入者にしなだれかかっているではないか!
「こ、こらおまえたち。そんな得体の知れぬ妖術使いに色目を使うとはなにごとだ。おまえらの主人は私だぞ!」
「あは~ん」「うふ~ん」「ジュテーム」「アモーレ」
主人である蒲寿庚の言葉などどこ吹く風、褐色の肌をした青年――智羅永寿に艶めかしくしなだれかかる。
あきらかに様子がおかしい、妖しげな術に囚われているようだ。
「漢人、喫丹人、勃海人、女真人に高麗人。波斯人や羅馬人の女もいるよね。やっぱりぼくの読みはあたっていた。泉州には美姫がそろっている。極楽、極楽」
その言葉のとおりペルシア、インド、アラブ、中央アジア。さらには遠くヨーロッパの生まれと思われる美女たちにかこまれて、猫のように目を細める。
「きさま、わが妾どもになにをした!」
「なぁに、龍猛の真似をしてちょっとした悪戯をね」
「龍猛……、龍樹菩薩のことか」
龍樹菩薩。あるいは龍樹大士、龍猛とも。二世紀頃のインド仏教のバラモン(司祭)で、幼いころから天才的な学識をもっており、それを鼻にかけるところがあった。龍樹は自分と同様に才能にあふれた三人の友を持っていたが、ある日のこと「学問の道は究めた。これからは快楽に尽くそう」と思い立ち。隠形の術をもちいて王宮に入り浸っては王の寵姫らに淫らなおこないをし、子を宿す者さえ出た。
これに驚き怒った王は龍樹らを捕らえようとするが穏形術の前に手出しができない。そこで一計を案じ、砂を門に撒いてその上にできた足跡を衛兵にたどらせて三人の友人を処断した。しかし王の影に身を潜めていた龍樹だけは発見されずに一命をとりとめた。
おのれの浅慮愚行に反省した龍樹はこれを機に仏教に帰依することになったという。
つまり――。
つまりこの智羅永寿という呪術者はこともあろうか泉州一の実力者から女を寝取ったというのだ。
それもいちどに何人も。
「この痴れ者めがっ!」
使い物にならなくなった新月刀を投げ捨てた蒲寿庚の手が壁にかけてある火矛槍(マスケット銃)へとのびる。
火薬は唐の時代に発明され、宋代の前半には黒色火薬の製造も公表されていた。宋と金が戦った采石機の戦いでは霹靂砲という火薬兵器が使用されており、この時代にこのような物があっても不思議ではない。
雷が落ちたかのような轟音が鳴り響き、銃口から火箭が放たれた。至近距離からの発砲。智羅永寿の身体に風穴が開いたかと思われたのだが、銃弾は智羅永寿の身体ではなくうしろの壁に穿たれた。
「なに!?」
「おおっと、火薬の力で鉛玉を弾き飛ばすとは、なかなか考えるね。けれでもムーラダーラ・チャクラを修めたぼくにはあたらないよ」
「よ、避けたというのか……」
「ジー・ハーン(そのとおり)」
「その言葉、いまの業。天竺から来たと言ったが、瑜伽の使い手か」
「ジー・ハーン」
ふたたびおなじ言葉を使い肯定した。
「伊達や酔狂で美姫を誘惑したわけではないよ、煩悩即菩提、菩提即煩悩。ぼくにとっては彼女たちと遊ぶことは修行のひとつさ。ぼくに美女を提供することはすなわちモンゴル軍への援助につながる。アッチャー・バーバー(おわかり)?」
「……では、その修行で得た験力でもって早々に亡宋の余灰を吹き飛ばしてこい!」
「ついでだからこの娘たちをもらってゆくよ」
「勝手にしろっ、妖術使いの手垢のついた女などいらんわ!」
「そのお言葉に甘えさせてもらうよ。――अघासुर」
アガースラ。蒲寿庚の耳にはそう聞こえた。
その不思議な韻律をもった異邦の言葉をつぶやいた、そのとき。足元の影が膨張し、智羅永寿と籠絡されし妾たちを飲み込んだ。
蒲寿庚がおどろきの声をあげる前に影は陽炎のようにかき消える。
あとに残されたのは妖術に翻弄された商人と、その側近のふたりのみ。
「天竺渡りの好色淫乱な妖術使いが、好き放題しおって……。だがやつの力はあなどれぬ」
壁に打ち込まれた鉛玉を見て蒲寿庚はそう独言した。
崖山沖。のちに香港と呼ばれるようになるあたりを大量の船団が走る。
内陸広い中華の地に住む多くの人々にとって、海というのはある種の異界だ。
海に馴れ親しんだ島国にすら「板子一枚下は地獄」という言葉がある。
まして河北や中原、遠く西域や北方から連れて来られた兵士たちにはかすかな潮騒すら不安を掻き立てる不吉な騒音に聞こえた。
生まれてから一度も海を見たことのない者も少なくはない。
兵士たちは不安と恐怖にさいなまれていた。
「……こんどのいくさ」
「あ?」
立哨の番に立っているふたりの兵士のうちひとりが慣れない波音と心細さに耐えられず沈黙をやぶった。このふたりもまた海から遠く離れた荊州南部は長沙の出身で、泳ぎもろくにできない。
「こんどのいくさは妖術使いや妖怪が相手だって言うじゃないか」
「ああ、そのために道士や僧侶を多くつのったんだろう。この船にもたくさん乗ってるぜ」
「あてになるのかねぇ、なにせ相手はひと晩で山に城を築いたほどの神通力の持ち主だぞ」
「ひと晩ってのは谎言だろ。三日はかかったそうだぞ」
「なに言ってやがる、それでもじゅうぶんすごいだろ。人間業じゃねぇ」
「まあ、な」
「そんな人妖がいる戦地に飛ばされるなんてついてねぇぜ、まったく」
ふたたび沈黙のとばりが落ちた、そのとき。
「破無明闇、日月光明。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
なにものかの音声がとどろくや、漆黒の夜景が一変し、あたりが明るく照らし出された。甲板上に大きな光の球が浮いており、それが小さな太陽のように煌々と輝き、光を放っているではないか。
「なな、なんだ!?」
「ひえぇぇっ、妖怪だ、妖術だ、敵襲だ!?」
周章狼狽するふたりの前に光球を背にしてひとりの男が姿を見せる。浅黒く精悍な顔つきで背中に長剣を負い、頭には冠巾をかぶり、足には雲履という下履き。いかにも道士といった装いだが全身にこれでもかというほど呪符霊符を貼りつけており、首から奇妙な文字や獣の顔が刻まれた盾を下げて胸当てのようにしていて、なんとも異様だ。
「くっくっく、、おまえらが夜闇に怯えているようだったので、明るくしてやったのよ」
「そ、その光の球はおまえの方術によるものなのか?」
「しかり。――破無明闇、日月光明。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ」
異装の道士がまたもおなじ呪を唱えて身につけた呪符のひとつを打つと、となりを走る船にも光球が浮かび上がり、煌々と行く手を照らす。
さらに一隻、二隻、三隻……。
もはや夜とは思えぬ、真昼の明るさにおどろいた乗船者たちが甲板に姿を見せ、喧騒につつまれた。
「聞けい、元の兵士たち。わが名は高唐州にその名も高き高廉。わが方術をもってすれば太陽を生み出し、闇を切り裂くこともたやすい。敵の妖術使いなぞ恐れるにたりない」
高廉。これまた『水滸伝』に登場する人物で、雷雨を起こし妖獣を召喚する術に長けた妖術使いなのだが、包道乙や鄭彪と同様この時代の人ではない。
どうもこの世界、時代考証がむちゃくちゃだ。
その高廉の思いがけない表演にやんや、やんやと拍手喝采。
兵士らは手をたたきながら、大声でほめたたえる。
「おおう、これほど達者な道士さまが味方とは心強い。こんどのいくさは勝てそうだ」
「これは大いに期待できますなぁ」
つい先ほどまで不安にさいなまれていた兵士たちのあいだに安堵が広がる。
するとどこからともかく美しい女性の歌声が聞こえてきた。
比爱深的感情 海中産生
全部结束时也 我不输
在小星上 照射道
遥远的旅途 不迷道
比爱强的感情 调动我
空的话海的青 成为一个
请返回故乡 回来了 回来了 回来了……
聞いていると胸が熱く、せつなくなってくる。
帰りたい。
一刻も早く故郷に帰り、家族の顔や生まれ育った山河の姿を目にしたい。
「うぬ!? これは長嘯術か。いかん、おのおのがた、耳をふさげ」
言葉のひとことひとことに呪力の込められた呪歌は聞く者の胸に望郷の念を起こさせ、
故郷に帰りたいという衝動によってその場を立ち去らせようとした。
崖山の近くまで来るとどこからともなく美しい歌声が聞こえてきて、それに聞き惚れているうちに気づけば帰路についている――。
うわさはほんとうだった。
兵士たちはあらかじめ指示されて持たされていた綿を耳に詰め呪歌に備える。
それでも呪歌の影響を受けた者たちがいて、船の針路が大いに乱れた。このままでは目的地である崖山にたどりつけないどころか浅瀬や岩礁に乗り上げて座礁しかねない。
「こしゃくなやつめ、どこにおる!? 霊光透視、骨照魂現。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
高廉は霊符に法力を込めて目にあてた。すると両の眼から一道の金光が生じて、あたりを透かし見た。
隠形している存在の正体を見抜く霊光天眼通の術だ。
「そこか!」
手にした呪符を打つと光り輝く無数の火箭と化して舳先へと飛んだ。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
だが標的にあたる寸前、結界にはばまれ雲散霧消する。
「あらら、ばれちゃった。やっぱあたし隠形って得意じゃないかも。でもプロを目指している以上、そんなことも言ってられないわよね」
独語とともに額から一本の角が生えた白馬に乗ったひとりの少女が姿をあらわす。
なんと大胆不敵にも乗騎したまま船に乗り込んで歌を歌っていたのだ。
亜麻色の髪を絹の布でつつみ、動きやすい胡服を着た長身ですらりとした肢体の少女で、全身から自身と生気があふれて溌剌としている。
剣こそ帯びていないがまるで中国の武侠小説『児女英雄伝』の美しく勇敢な巾掴英雄十三妹を思わせた。
十三妹は架空のキャラクターだが、中国の歴史上、武装して戦場を駆けめぐったり武芸の達人として知られる巾掴英雄の数は創作や史実もふくめて実に多い。
まず中国最古の女将軍として知られる殷の婦好。殷王である夫とともに異民族を討伐した。
西晋の荀灌。この人は『三国志演義』に登場する荀彧の六代めの子孫で十三歳のとき敵中を突破して味方の援軍を呼びに行き、父親が籠城する城を守った。
隋の花木蘭。女であることを隠して従軍し、各地で戦功をあげた。ディズニー映画の主人公にもなっている。
唐の平陽昭公主。女性だけで結成された戦闘部隊を率いて奮戦し、父や弟の天下統一に貢献した。
宋の穆桂英や梁紅玉、明の秦良玉、太平天国の洪宣嬌……。
わざわざ男性を美少女キャラ化しなくても、魅力的な女性キャラが中国の歴史にはひしめいているのだ。
やたらと女性を主役にしたがる某国の放送局はいっそのこと『楊家将演義』でも放送したらいい。
それら歴史上のヒロインたちに勝るとも劣らない、あでやかな勇姿のこの乙女こそ、倉橋京子その人だった。
「この、魔女めが!」
望郷の呪歌の影響を受けていない数人の兵士たちが奮起して刀槍を突き立てようと群がる。
「ヒュ~イ~ッ!」
しかし角の生えた白馬――独角兽がいななき、後ろ足で甲板を音も立てずに蹴って跳躍し、船上をところせましと逃げ回り、攻撃はかすりもしない。
天空朗月 不想同看
暗天吐闇 游蝠踏宙
夜魔招来 夜子来々
天鼠偏福 飛鼠偏福……
襲いくる兵士らを翻弄しつつ、ふたたび京子の朱唇から玉を転がすような美声がつむぎ出される。
たちまち北西の水平線上に巨大な黒雲がわきおこり、一瞬ごとに拡大していく。
「蝙蝠だ……!」
兵士のひとりがうめいた。数百数千匹の蝙蝠の群れが黒雲となって押しよせてきたのだ。
竜巻のような音をあげて黒々とした蚊柱ならぬ蝙蝠柱が船体をおおう。
コテングコウモリ、ユビナガコウモリ、ヒナコウモリ、ヤマコウモリ、アブラコウモリ、ノレンコウモリ、カグヤコウモリ、ヒメホオヒゲコウモリ、クビワオオコウモリ――。
大小無数の蝙蝠の群体。一匹一匹はたいした大きさでも脅威でもないが、集団で飛んでこられてはたまらない。
顔や手足をかじられ、むしられるだけにとどまらず、羽ばたきによって生じられた風圧に吹き飛ばされて海上に落ちそうになった兵士たちは船内へとわれ先に逃げ出した。
「あたしもいつかは魔女になるかもだけど、まだそんな齢じゃないわ。どうせなら魔法少女って呼んでくれないかしら。あ、陰陽少女でもいいわよ」
「くだらん軽口が叩けるのもいまのうちだ」
ただひとり残った高廉は蝙蝠の嵐の中でも悠然としている。身にまとう守護の霊符が効果を発揮し、鳥獣の害をふせいでいるのだ。
「長嘯で船員を惑わし鳥獣を呼び積み荷を奪っていたのはおまえの仕業だな。――黒精玄武、壬、癸の気を以って調伏せん。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
先手をとったのは高廉。
かけ声と同時に呪符を打った。尾が蛇になった足の長い亀、玄武の姿が描かれている。水行符だ。それもかなりの威力。呪術の水流が瀑布となって京子にせまる。
「土剋水、急々如律令」
数多の対人呪術戦を経験してきた京子は動じずに高廉の水行術を相剋。しかしそのときすでに高廉は次の呪符を打っていた。金行符、火行符、木行符。しかし相生させるというわけではなく、それぞれ個別に微妙にタイミングをずらしながら放っていく。
呪符の乱れ打ちというのは霊力が豊富な証拠で、たんに技量に優れているだけではできない芸当だ。京子と秋芳以外の塾生で、このようなことができるとしたら土御門家の次代当主といわれる夏目か、その式神の春虎くらいなものだろう。
だが京子はそれらすべてを的確に相剋して高廉の呪術をことごとく処理していった。
船上を桜吹雪のごとく呪符が舞い散る。
「天兵および地兵を発起す、陰兵および陽兵を発起す、木兵および火兵を発起す、土兵および金兵を発起す、水兵を発起す。天の五行、地の五行を結びて霊脈を断つ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
高廉はひときわ複雑な手印を結んで呪符を甲板上に貼りつける。するとどうだろう、乱打した符術に隠されていた術式が発動し、船と船のあいだ、海上に光の五芒星が浮かび上がった。
結界だ。
「ヒヒーン!」
独角兽の身体にラグが走り、蝙蝠が散り散りになって逃げだす。
通常の結界とはちがう。
京子は眉をひそめて独角兽の実体化を解いた。騎乗から徒歩の人になる。
「まわりの霊脈を断つ……、護法封じってわけね」
相手の護法式および使役式を封じる。
式符によって瞬間的に召喚する式神とは異なり、つねに召喚状態にある護法式や使役式。呪術によって操作され、一時的に式神状態にある蝙蝠の大群。これらのあいだには術者との密接な霊的つながり、霊脈がつながっている。高廉はそれを遮断したのだ。
「射人先射馬(人を射んとすれば先ず馬を射よ)。ちょこまかと小うるさい蝙蝠と馬の足を折らせてもらった。――天地至万物。気を以って生ぜざる者皆無也。天地万物の理を持ちて禁ず。三戒五縄七縛、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
汎式にも帝式にもない、いにしえの呪法が放たれる。だが、これは京子にとっては意外であると同時に御しやすい術式でもあった。
不動金縛りに似ているが、気そのものを禁じて束縛する術。これは秋芳がもちいる呪禁の、持禁の術に近い。
この世界のあらゆるものは全て気を有しており、それは物も人も例外ではく呪禁とはそうした気を禁じることで刀剣ならば斬ることを、鳥ならば飛ぶことを、そして極めれば人や動的霊災であってもその存在を禁じることができる呪だ。
強大すぎるがゆえに使用者を選び、一般に広がることができなかった呪術体系――呪禁。
土御門夜光が再編成した呪術全盛の日本においても滅多に見られないレアな術だったが、あいにくと京子は秋芳と行動をともにすることで、なんども目にしている。
それゆえにあわてずに対処できた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
臨む兵、闘う者、皆、陣を列べて前を行く。
九字を切ると同時に四縦五横に足を運び反閇を踏む。秋芳ゆずりの強力な神仙系の早九字が高廉の呪縛を透かした。
「なんだと!?」
これには高廉もおどろいた。呪力に呪力をぶつけて粉砕する。盾としてふせぐのならともかく、こうも容易く回避されるのは予想外だったのだ。
早九字。真言密教などでは『臨める兵、闘う者、皆、陣烈れて前に在り』という敵を打ち破る攻撃的な呪だが、九字の呪法とはもともと神山に入る前に唱える護身の呪である。
神山、すなわち異境。幾重もの異層を超えて、ここではないどこかへと向かうための呪。
つまり早九字というのは悪鬼悪霊を祓うだけでなく、異層異界へ通じる扉を開く呪でもあるのだ。
京子は巧妙に術式を組み換え、一瞬ではあるが肉体と精神を『ここではないどこか』へと移し、みずからに害をおよぼす呪を完全に無効化してしまったのだ。
塾生レベルの業ではない。
高廉の全身から呪力がほとばしり、霊風がうなる。帆柱がきしみをあげてしなり、それに張られた帆がはち切れんばかりになびく。そんな高レベルの呪術戦による余波が消えきらないうちに高廉が次の手に出た。
「千の将兵、師に随いて行け! 万の将兵、師に従いて起れ! 千将万兵、来たりて列陣せよ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
背中の剣を抜き放ち、それをかかげて呪文を唱えると、身体中に貼りつけてあった呪符が乱舞し、式神と化した。虎、豹、狼、熊、猿、大蛇、牛、象、鷹――。数多の妖獣と化して牙をむく。
「式神作成、急々如律令!」
数には数を。京子も負けじと式符を放ち、こちらも獣を象った簡易式を召喚。それも一体や二体ではない。三〇を超える式神が妖獣の群れを迎え撃つ。
さらにそのあいだにも。
「海嘯の如く迫り万丈の蔓となり禽えよ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
「土精を宿し金剛の如く硬く断て、急々如律令!」
水行符が生み出した水流を木行符が生んだ木梢がすかさず吸収。五行を相生させて威力の増した長くしなやかな木鞭が打擲せんとうなりをあげるも、対する京子の放った土行符が金行符と相生して生み出された鋼刃によりこれを両断。
余勢を駆って高廉を斬ろうとした鋼刃だが、高廉は火行符でこれを相剋。それによって生じた火炎を土行符で相生しようとしたところを京子が水行符を割り込ませ相剋。
まるで生きた教科書のような模範的な五行相生相剋を駆使した呪術戦が続く。
展開した式神群をすべて同時に統制しつつ、術者本人も戦いにくわわる。
プロの呪捜官や祓魔官とてこれほどあざやかな手並みを発揮できる者はまれだろう。たとえ十二神将でもここまでの手練れは限られている。
現在もっとも集団式神使役の技量にすぐれた陰陽師は滋岳俊輔(しげおか しゅんすけ)という十二神将のひとりで、彼は複数の式神を一つの部隊のように的確に指揮し、迅速に修祓を行う様から〝大佐〟というふたつ名をもっている。
その大佐とくらべても遜色のない戦いぶりといえた。
「ええい、これではらちがあかぬ!」
「そう、じゃあそろそろおしまいにしましょう」
「なんだと!?」
一進一退、互角の勝負をしていた式神たちの動きに変化が生じた。とつぜん京子がわの式神が優勢になったのだ。
高廉の妖虎を京子の白鷺がついばみ、妖蛇は黒猪に喰われ、妖猿は赤馬のひづめに蹴りつぶされ、妖狼は青兎に首をはねられた。
「これはいったい……、ハッ! もしや!?」
高廉は京子の式神に秘められた術式に気づいた。京子は式符に五行の符術を合わせて相生したのだ。虎も蛇も猿も十二支にある獣であり虎(寅)は木行、蛇(巳)は火行、申(猿)は金行にそれぞれあてはまる。そして鷺(酉)は金行、猪(亥)は水行、馬(午)は火行。
簡易式に練り込む呪力に五気をふくませる。十二支の五行に見立て、相生させることで式神の基本性能を高めるとともに相剋関係にある相手にぶつけ、戦いを有利にみちびいたのだ。
気づいたときにはもう遅い。あっという間に使役獣を全滅させられた高廉は京子の式神群にかこまれてしまった。
これはかなわない。
そう判断した高廉は即座に遁走することにした。
「――乗虚御空、飛霊八方、廻転舞天。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
首から下げていた盾をはずすと宙に放り投げ、呪文を唱えてそれに飛び乗る。
空を飛ぶ乗矯術を使い、この場から逃れるつもりだ。
かつて秋芳も同種の術を使い、渋谷から新宿まで飛翔したことがある。そのさいは身ひとつで空を翔けたが、高廉は盾を触媒に使い、この術をもちいた。
一種の飛鉢術だ。
飛鉢術。
厳しい修業を積んだ僧や行者が神通力で鉢を飛ばす術で『宇治捨遺物語』の寂昭や『信貴山縁起絵巻』の命蓮という僧が使ったとして有名だ。
盾は黒雲につつまれ、空を飛ぶ。それに乗って逃げようとしたのだが、それを見逃す京子ではない。
「オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ!」
真言とともに練られた呪波が高廉に迫る。
それから必死に逃げる高廉。
飛翔する神盾はぐんぐんと速度を増してゆき、太陽のような光に照らされた船が影も形も見えなくなった。
空を翔けることのできる術者はそうはいない。京子の追撃がないことを確認した高廉は近くの浜辺に着陸する。
「ここまでくれば安心だろう、しかしあそこまで手強い術者が宋に味方をしているとは、これは用心せねば」
岩に腰を落としてひと息入れたあと、立ち上がろうとしたのだが、なぜか腰が上がらない。まるで無数の見えない手で上から押さえつけられているようだ。
「な、なんと!?」
ぽかり。
「あ痛っ」
うろたえた高廉の頭に、まるでだれかに殴られたかのような痛みが走る。
ぽかり。
まただ。
ぽかぽかぽかぽかぽかっ――。
「あ痛たたたっ! これはいったいどうしたことか!?」
ふところから取り出した茘枝の葉でまぶたをなでた。茘枝は邪気を浄化する力をもった霊果で、この葉で目を清めると見えない者が見えるといわれる。見鬼のない者に見鬼を、見鬼のある者の場合はよりいっそう力を高める働きをもつ。
するとどうだろう、手が見えた。
手だ。
数えきれない無数の腕が虚空からわき出し、高廉の身を押さえつけて殴打している。
高廉は逃走する間際に京子が唱えた真言を思い出した。
オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ。
千手千眼観自在菩薩。観音の中でも特に功徳が大きく、観音の中の王という意味で蓮華王とも呼ばれることもある千手観音の真言だった。
千本の手がありその手の掌には目がついており、千の手と目はどんな人達でも漏らさず救済しようとする広大無限の功徳をもった仏の真言。この世のどこにいても救いの手をさしのべてくるその力は、同時に地の果てまでも追ってくる追捕の腕でもある。
逃げ切ったと思っていた高廉だったが、すでに京子の放った呪に捕らわれていたのだ。
『知らなかったの? 陰陽師からは逃げられないのよ』
遠く離れた場所にいるはずの京子の声が耳元に響く。
ぽかぽかぽかぽか、ぼかぼかぼかぼか、ボカボカッ、ゲシゲシッ――。
「ひぇえええっ、まいった、降参する、わしの負けじゃ。もう二度とおまえたちには手出しはしない!」
さんざんにどつかれ、シバキたおされた高廉は白旗をあげたのだった。
「居収五帝神将、 電灼光華、納則一身、保命上則、縛鬼伏邪、一切死活滅道――」
「詠唱長すぎ! 九天応元雷声普化天尊、急々如律令!」
「龍虎奔行 必神火帝、万魔拱服、天魔降伏、急ぎ急ぎて律りょ――」
「遅い! 急々如律令!」
「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマカロシャダヤ――」
「हां(カーン)!」
高廉が遁走したあとにも乗船していた道士や僧侶といった呪術者が応戦し、京子に立ち向かったのだが、鎧袖一触。またたく間に打ち倒された。
武術と同様に八〇〇年前の呪術は現代のそれにくらべて洗練されておらず、無駄が多い。土御門夜光が改良編纂した帝式陰陽術を幼い頃から学び、秋芳から伝授されたいにしえの秘呪を習い覚えている京子の敵ではなかった。
呪術者達は当然のこと、並の兵士らも太刀打ちできない。剣も矢も見えない盾に弾かれ、そらされ、その身になにひとつ危害をくわえることもできず、武装を解除され無力化された。
「司馬法に曰く『国、大なりといえども、戦いを好むは必ず滅ぶ』。帰ってあなた達に命令を下している人に伝えなさい、これ以上しつこく軍隊を動員して他国を侵略したり、貴重な珊瑚を強奪するつもりなら、頭をどやかして胴体にめり込ませておヘソの穴から世間をのぞかせてやるわよ!」
司馬法というのは春秋時代に斉の司馬穰苴という人物が記したとされる兵法書で、斉は兵法の開祖で方術にも通じていた太公望こと呂尚が作った国だ。春秋戦国時代では兵法や学問が盛んで、孫子の名で有名な孫武や孫臏も斉の人である。
そんな秋芳仕込みの恫喝。珊瑚うんぬんはよくわからなかったが、実力の差を見せつけられた元の軍兵たちはすごすごと退散せざるをえなかった。
元兵らをひとつの船にまとめて乗せて泉州に送り返したあと、物資の満載した船団を根こそぎちょうだいすることにした。
とはいえ船を動かせる船夫はいない。呪術で風を呼ぶか潮流をあやつるか――。いずれにせよ高廉のほどこした霊脈封じの結界が邪魔になる。
「――地より生まれし呪い、地に戻りて、絶えゆけ、枯れゆけ、消えゆけ――」
解呪にとりかかる。
「これはおどろいた。闇夜に灯、地獄に菩薩、はきだめに鶴、棚から酥餅、泥沼に蓮華……。かくも強く
美しき花冠が宋に味方しているとは意外、意外」
高廉の張った結界を解除した直後、どこからか妙に甘ったるく芝居がかった男の声がした。
気配は感じられない。ただ声のみ聞こえた。
たとえ呪術で遠くから音声を飛ばしたとしても、呪力の波動は感じられるはずだ。それすら感じられない。つまりこの声の持ち主はかなりの隠形上手ということになる。
「……声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような」
これは落語や講談でよく使われる言葉だ。祖母につきあって寄席で演芸を観賞することのある京子は若者の知らないような慣用句を知っていた。
もともとは『声はすれども姿は見えぬ、君は深山のきりぎりす』という、男のおとずれを待つ女心のやるせなさを表現した、江戸時代の初期に作られた名歌なのだが、見ず知らずの男相手にそのような意味を持つ原典を口ずさむ道理はない。
「これはこれは! おもしろいことを言うお嬢さんだね、実に機知に富んだ言葉だ。でもおならってのはヒドイなぁ。うら若き乙女が屁なんて言葉を口にするのはよくないよ」
「あたしは自由な国の沈黙しない女よ、言いたいことはなんだって言うし、書きたいことはなんだって書くわ」
「ふむ……、宋人か」
宋の太祖趙匡胤は〝言論をもって士大夫を殺さず〟の原則を作り、宋朝はこれを国是としていた。
声の主は自由闊達に意見する京子を宋人だと思ったようだ。
「貴女はなにもの?」
「あたしはあたし」
「そう、貴女は貴女だね」
「そう言うあんただれよ?」
「ぼくはぼくさ」
「そりゃあんたはあんただけど、そのあんたはだれよ?」
「これはまた哲学的な問いだね、ぼくの名は智羅永寿。天竺では少しは名の知れた存在さ。じゃあ、あたしはあたしという貴女はだれだい?」
「あたしはあたしという貴女はだれだというあんたはだれよ?」
「あたしはあたしという貴女はだれだというあんたはだれよという貴女は――」
質問に対して質問で返す奇妙な〝なんだとはなんだ〟状態がしばらく続く。
会話になってない。
それもそのはず、両者は呪術戦を、甲種呪術を直接ぶつけ合う前段階の駆け引き。乙種の心理戦をくり広げていたのだ。
なにしろ相手は姿を見せていないのである。相手の位置も正体もつかめない、逆に相手からははっきりと居場所を知られている。これは呪術者にとって、いや呪術者ならずとも首に刃物をあてられているような状態だ。
京子はざれ言をくり返しつつ、徹底的に防御を固め、索敵に尽力した。無数の呪術的偽装と穏形が展開されている。
平凡な呪術者ならば隠形していることさえ知覚できないであろう緻密な隠密。
だが京子は星詠みの中の星詠み、如来眼の持ち主だ。大は龍脈から小は個人の気の流れまで、如来眼の力は森羅万象を見通せる。
今の京子の見鬼能力は一流の霊視官と同等か、それ以上の精度を誇っていた。
――何者かが動いた。
ごくごくわずかな身じろぎする気配。
と同時に、よこしまな妖気が微風の如く肌をなでる。
京子はとっさに身をかがめて振り向きざまに呪符を投げつけた。ぴたりと重なっていた二枚の呪符が途中から一枚ずつにわかれ、空を飛ぶ。
隠形していた人影は身体をひねって一枚目をかわした。そこへ二枚目の呪符が迫る。
並の者なら防げなかっただろう。が、その者は不自然な姿勢から地に手をつき、大きく一回転して二枚目もかわした。音もなく着地して体勢をととのえ、京子に向き直る。
全身に金銀の装飾具や宝石類を身につけた、褐色の肌をした若い男。蒲寿庚をからかった智羅永寿だ。
「乱暴だなぁ、ぼくの美姫たちが怯えちゃうじゃないか」
「美姫ですって?」
隠形されていたのは智羅永寿の身ひとつだけではなかった。潮が引くように一部の景色が一変し、隠されていたものが現れる。
玉輦。あるいは玉輅と呼ばれる皇帝専用の御車さながらに豪奢な玉の輿。
金銀や宝石類で飾り立てられた天蓋の下には紫水晶で作られた吊灯籠。内部の壁をおおう真紅の天鵞絨の壁かけ。緋色の絨毯。中央には寝台が置かれ、絹布団が敷かれ、そこには肌もあらわな女性がひしめいていた。いずれも蒲寿庚のもとからかどわかしてきた妾たちだ。
中華の女性だけでなく、褐色の肌に引き締まった体躯と長い手足をした胡人や白い肌に金髪碧眼、豊満な胸をした西欧人など、様々な人種の女性が身体をくねらせ、艶っぽい嬌声をあげていた。
「どうだい、どれも美しいだろう?」
「……この人たち、普通じゃないわ。あんた、呪術で彼女たちの心を縛っているわね!」
彼女たちは一様に蕩けきった表情をしており、とろんとした瞳に意志の力を感じられない。まるで阿片でも嗅がされたかのように夢見心地の状態だった。
「恋慕の情は呪そのものといえるね、貴女もぼくに恋をする!」
智羅永寿が満面の笑みを浮かべた。
空から花びらとともに舞い降りた天人もかくやの美麗さ、褐色の肌は黒耀石の艶めきを放ち、唇の赤さは官能的、琥珀色の瞳は見つめるだけで吸い込まれそうになる。
いささか鼻の大きさが気になるが、まさに絶世の美男子。
「ああ、愛しい人よ。ぼくにはわかる、ここでぼくと貴女が恋に落ちることこそ神話の頃より定められた運命。空虚な心を熱くさせるのは……、貴女という運命の女性(ファム・ファタール)との激しい(ハード)逢瀬しかなさそうだ。でもわかるよ、貴女だってそうなんだろう? ぼくと貴女はおなじ、この腐った世界を独り寂しく駆け抜けるロンリー・ウルフ。さぁ、はじめよう、ぼくと貴女。愛という名のシンフォニー、ふたりだけのセカイを! 闇に抱かれ、甘美なる地獄に堕ちるのさ! それが天からぼくたちに贈られる神罰という名の鎮魂歌」
いったいおまえは何人だと思わんばかりに異国の言語まじりの科白。
だがその繰り出す言の葉、そのひとことひとことに濃密な呪力が練り込まれた甲種言霊だった。
相手の精神を強引に歪め、感情を操作し、己が虜にしようとする魅力の呪言。
「さぁ、褥の準備はできている。お姫様だっこをしてはこんであげるよ、愛しい人」
「……お姫様だっこですって? あいにくとあたしの好みの男性は、お姫様だっこのことをかたくなに『半魚人持ち』て言いはる人なの」
首にまわされた褐色の手を京子は冷ややかに払いのけた。
「それにね……、あたしって面食いなの。だからあなたみたいな風変わりなお鼻をしている人の誘いを受けるのは、あたしにとっては耐えられないことなのよ」
普段の京子ならことさら相手の容姿をあげつらうようなことはしない。だが美貌を鼻にかける相手に対してあえて痛烈な拒絶の返答をした。
「ぼくの魅了が効かない、だと……。いかなる苦行僧をも魅了し、堕落させた。スジャータの粥にひとしい、このぼくの魅了が!」
スジャータとは飲まず食わずの苦行をしていて倒れたお釈迦様を介抱した女性の名だ。
そのさいに出された乳粥を食べたお釈迦様は元気を取り戻し、苦行では悟りを得ることはできない。という〝悟り〟を得るきっかけになった女性だ。
京子の容貌。きれいにととのった鼻すじに健康的な色合いの唇、すっとのびた眉には意志の強さと聡明さがうかがえる。内面からあふれ出る自信と生命の輝きに満ちたその身からは籠絡された者特有の病的な雰囲気は微塵もない。五節の舞姫さながらに麗しく、それでいて脆弱さの類をまったく感じさせないのだ。
たとえ妾たちが操られていなかったとしても、その快活で健康的な魅力の前ではいかなる美姫も見劣りして見えたことだろう。
そんな京子とは対照的に智羅永寿の相貌は醜くゆがみ、両眼には熱湯わきたっていた。やがて肉感的な唇から押し出された声は平静さを装おうとして失敗し、ひび割れていた。
「このぼくを否定するんだね」
「ご理解できて嬉しいわ。お鼻の大きなお兄さん」
「ぼくにはどうしても許せないことがこの世にある。それはぼくを拒絶する女性さ――अघासुर」
アガースラ。異邦の言葉が智羅永寿の唇からもれた瞬間、御車の下からのびた巨影が京子の上半身をおおい、ぞぶり、と噛んだ。
蛇だ。
「そいつはアガースラといって極めて穏形に長けた大蛇でね、かの英雄神クリシュナでさえすぐには見破れず、あやうく食べられそうになったほどさ。――ああ、それともうひとつ。ぼくはぼくよりも強く賢そうな女の存在はどうにも癪でね、死んでもらうよ」
齢千年を経た大樹のように太い胴体をした漆黒の大蛇が京子の上半身に噛みつき、喰いちぎった。
「む」「ん」
仏顔都市崖山の劇場で『白蛇伝』の芝居を観ていた秋芳と京子は同時に顔をしかめて身じろぎをした。
北宋の首都開封には一〇〇〇人以上も入場できる象座という劇場があったという。さすがにそこまでの規模はないが、それでも五〇〇人は入れる、ちょっとしたシネコン並の規模の劇場だ。
「痛ぇな、どうも俺の放った式がやられたみたいだ」
「奇遇ね、あたしの式もマミられちゃった」
秋芳は頭を、京子は胸のあたりを痛そうにさする。
離れた場所から遠隔操作で本人の人格が乗り移ったかのように振る舞う簡易式。それが討たれたのだ。
簡易式とは式神の一種であり、式符と呼ばれる呪符を形代にして任意の姿形を生成し、それを術者が自在に操る術だ。汎式陰陽術の中でも初歩的ながら奥の深い技術で、一般の人造式よりも安易に作成でき、かつカスタマイズしやすいという自由度の高さが大きな特徴になる。
術者の呪力のみで動くためあまりに長時間の活動にはむかず、初心者はワンアクションで使用する使い捨てのツール感覚で使うことが多いが、逆に言えば豊富な呪力さえあればいくらでも動けるので、使用者の発想や実力次第で多様な用途にもちいることができる。
今回討たれてしまった式は、よりオリジナルに近い〝性能〟を持たせるため、長距離からの遠隔操作をはじめ、予備呪力の蓄積による不測の事態への対応する疑似人格などなど、かなり手の込んだ式だった。
手間ひまかけて作った模型を壊されたかのような怒りがわいてくる。
「包道乙と鄭彪、少しは使える術者が出てきたな」
「あたしのとこにも智羅永寿とかいう鼻の大きなやつが来たわよ」
舞台上では苦難の末に結ばれた白蛇の化身である娘と人間の青年が楽しく歌い踊り、逢瀬を楽しんでいた。
「いやねぇ、蛇が出てくるお話の途中に蛇に食べられちゃうだなんて」
『白蛇伝』。唐の時代の民間伝説が元とされ、以来多くの戯曲や小説の題材になっている伝奇作品で、人と妖怪との恋愛物語だ。深山に住む白蛇の精・白娘子が侍女の青蛇の精とともに人間に変身して西湖に観光に行く。そこで白娘子は許仙という青年に出会い、彼と相思相愛の仲になるのだが、金山寺の和尚・法海は白娘子の正体が人間ではないことを見抜き、彼女を退治しようとする――。
このお話を元に上田秋成は『雨月物語』の中で『蛇性の淫』を書き、日本初のカラー長編アニメ映画の『白蛇伝』は、まさにこれを題材としている。
元の話では白娘子は退治されておしまいなのだが、作り手によって自由に脚色され、ハッピーエンドで終焉をむかえる作品も多々ある。
今回秋芳たちが観劇したのはハッピーエンドのほうだ。
「京子のほうは置き土産を残していかなかったのか?」
「ないわ。……て、アレ。ほんとうに設定してたの!? 悪趣味ね~」
「殺したやつに祟るのは当然のことさ、命を奪わないだけマシと感謝して欲しいね」
頭蓋骨を粉砕された秋芳は壊れた人形のように手足を投げ出して地に落ちた。
「やったッス!」
鄭彪が勝利の雄叫びをあげる。
「いや……、様子がおかしくてよ」
いぶかしむ包道乙。すると大地に伏して四肢をふるわせる秋芳の姿がびりびりと乱れた。輪郭がゆがんでぶれ、身体の裏側が透き通って見える。
頭頂部から鼻にかけて大きくえぐられた、見るも無残な傷。だが血が一滴も流れていない。
そこにあるのはただの呪符。そう、無数の呪符がしきつめられていた。
その呪符より呪詛が解き放たれる。
おのれの命を贄とした復讐の呪詛。いざという時に備えてそのような呪を備えるのは古参の呪術者にとって当然の処置だ。そのような配慮が呪術者自身の生命をぎりぎりのところで保証する担保となる。
京子のような若い世代には理解できない細工に思えるが、彼女の父親である倉橋源司や秋芳が師事した世代の呪術者にとって、それはごく自然のことだった。
みずからの死を引き金とした呪。
それが発動したのだ。
四方八方に金気が飛散し、秋芳と鄭彪の戦いを見守っていた兵士らを飲み込む。
すると――。
ごろごろごろごろ……。
遠雷にも似た音が周囲から響いてきた。
「ぬうっ、これは……」
「きゅ、急に腹が……」
兵士たちの全身に脂汗が浮かび、顔色が赤に、赤から青に染まる。
急に便意をもよおしたのだ。
五臓(肝、心、脾、肺、腎)五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)のうち大腸は金の性質を持つ。金行術により体内の五気の均衡を乱し、即効性の下剤を服用したかのような効果をあらわしたのだ。
「これはたまらん!」
うんこぶりぶりブリブリぶりぶりブリブリぶりぶりブリィッッッッッ!!! プッッー!!! ブチャァァァッ!! ブフォッ! ブフォッ! ゾンギン!! ゾフッ!! キュゴガッ!! ゾザザザガギギギ!! ……ビチッビチチチチチチッ、ブチュルルル……ブチャ……プスゥ……、ブビッブピッ、ブリッ…………。……ぢゅっぢゅぅぅ、チュミチューン、ブリブリッ、ブッ、ブス~、……ブッ、ププッ、ブビッ、ブリブリッ、ブビィーッ、ブリブリブリブリ…………。
大量の兵士たちの尻穴から大量のうんこが放出された。
それはもうこれでもかというくらいたくさんの量のうんこがぶりぶりとひり出され、モンゴル軍の駐屯地は糞便地獄と化したのだった――。
邯鄲之夢 6
方臘が呼んだ助っ人、包道乙と智羅永寿。元側に実力のある呪術者が加勢したことで戦況に変化が生じた。
それまでは一方的に秋芳らの放った使役式に翻弄され、武器を壊されたり兵糧を奪われたりいやがらせで士気をくじかれていたのだが、彼らが守りにつくことでそれらが阻止され、敵陣に近づくのも困難になり、そればかりか逆に元軍側から呪術や使役式による攻撃を受けるようになった。
双方の陣地に式神が飛び交い、呪が交わされる、甲種呪術による攻防戦が展開された。
「玉帝有勅、風伯雨師雷公霊々、雲雨湧須、雷風雷電神勅、軽磨霹靂電光転、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
「玉帝有勅、炎帝火徳妭姑霊々、形状精光、上列九星、軽磨火電灼熱光華、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
方臘が風を呼び、包道乙が火を起こして木生火。相生効果で威力を高めた炎で火計をくわだてるも。
「不変にして不動なる大地よ、絶対不破の楯となれ、急々如律令!」
「金光五兵、太白銀陣、剣槍刀矢斧は万物必壊なり、疾く!」
仰々しくも力強く、だがそれゆえにムラも多い方臘と包道乙の呪術にくらべて無駄のない〝現代〟の汎式呪術が応じる。
「「一白辰星、玄き魂にて我らを護り我が敵を滅せよ。凍土よ氷河よ荒れ狂い咲き誇り、氷塵と化せ。急々如律令!」」
土生金からの金生水、そして水剋火。秋芳らもまた五行相生・相剋の理をもって勢いを増した水の呪で阻止した。
熊のような体躯に驢馬のような頭部をのせたヤクシャ、赤髪黒肌の食人鬼ラクシャーサ、目が横ではなく縦についている三面六臂のダーサ、疫病をまき散らす病魔ヤカー、半人半蛇のナーガ、血肉を喰らう食屍鬼ピシャーチャ、鋼の鉤爪をもった魔鳥ジャターユ、象頭の悪鬼ギリメカラ、漆黒の獣人キャク――。
智羅永寿が召喚した天竺生まれの動的霊災が崖山に害をもたらそうとするも。
「東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う――」
「東に少陽青龍、南に老陽朱雀、西に少陰白虎、北に老陰玄武、中央に太極黄龍。陰陽五行の印もって相応の地の理を示さん――」
百鬼夜行、数多の霊災を退ける呪術が効果を存分に発揮し、人々の住む居住区には一歩もよせつけない。たとえ退魔の霊陣をくぐり抜けてきた者がいても、たちどころに修祓してみせた。
もともと崖山は背山臨水。山を背後にして前方に水を臨む吉相の地であり、たんに縁起が良いだけでなく呪術に対する防衛能力が高い。
物理的にも霊的にも、こと守りという点においては大都市と化した崖山に篭もる宋の側が圧倒的に有利であった。
「しかしこれじゃあ埒があかないな」
玉製の杯にそそがれた葡萄酒を美味そうに飲み干した秋芳が酒精混じりのため息を吐く。
「いまの崖山はほぼ一〇〇パーセント自給自足できるから飢えや渇きに苦しむ心配はないが、こうもひっきりなしに攻撃されてちゃ辛抱たまらん。『信長の野望』や『三国志』で内政がしたいのに隔月で攻め込まれて合戦ゲーになってる状態だ」
「いっそこっちから攻めていきましょうよ、守ってばかりで飽きちゃった。儀式呪術でドカーン! て一発大きいのをぶち込みたいわ」
紅い雫に濡れた京子の唇から過激な言葉が出た。京子もまた秋芳とおなじ葡萄酒を飲んでいるが、こちらは果汁入りで中には茘枝の実が沈められていた。後世でいうところのサングリアだ。
葡萄酒。ワインが一般に飲まれることになったのは日本では明治以降だが、中国はワインの歴史も古く、司馬遷の『史記』には中国の北西部で葡萄が栽培されて果実酒が醸造されているという記述がある。
中国ではじめて葡萄が植えられたのは前漢(紀元前二〇六~紀元後八年)のころで、後漢に入ると葡萄酒まで醸されるようになった。三国時代の魏の文帝曹丕は『詔群臣』のなかで、葡萄について「残暑の厳しいころの二日酔いの朝に露のしたたるような葡萄を食べると、渇きを癒してくれる。醸せば美酒となる葡萄は最高だ」というようなことを述べ、高く評価している。曹丕は葡萄酒をこよなく愛し、よだれを流し唾をのみこむほど美味だとも書き残しているほどであるから、この時代の葡萄酒はかなり良質だったと思える。
ワインの保存と運搬を容易にしたガラス瓶とコルク栓が普及したのは一八世紀からで、織田信長の時代にポルトガルから船に積み込まれて来たワインは、その多くが木樽に入れられていただろう。するとワインはかなり酸化していたにちがいない。信長の口にしたワインはそうとう不味かったのではないか。
しかし曹丕の時代の葡萄酒は醸造量が少なく、宮廷でも珍品とされていて、醸造が最盛期を迎えたのは、唐代に入ってからで詩聖、酒仙といわれる李白も「遥かに見る漢水の鴨頭緑、恰も葡萄のはじめて醗醅するに似る」などと歌っている。
閑話休題――。
「そうだな……、世界で一番平和を愛する日本人として専守防衛を努めてきたが、いくさが長引けばかえって双方の被害ばかりが大きくなるだけだ。ここはひとつ敵陣に大穴を開けて壊滅まで追い込んでやるか」
「いままでが地味すぎたのよ。とびっきり派手な術を使っておどろかせてやりましょう」
「それこそ天地が引っくり返るような術を用意しよう。もっともかなり時間と手間がかかるが」
「そうしましょ、そうしましょ!」
陰陽塾に通う学生の身では使用するどころか学ぶことすら禁忌にあたいする攻性儀式呪術を実践できるとあって京子の瞳が期待に輝く。
それを愛おしいと思うと同時に妙な不安が秋芳の心中に生じた。
(ここは夢の中、仮想世界であって現実じゃない。破壊の術をいくら行使したところで実際に命を落とす人は皆無だ。だが……、ここでの体験はすなわち経験。いまさらだが、まだ若い京子にあまり刺激的なことはさせないほうがいいかもしれない。いっそ俺が単身出むいて張弘範と李恒を討ち取って元軍を敗走させてやるか。だが包道乙たちが邪魔だなぁ)
これまでの呪術戦で元軍側についた呪術者の実力はだいたいわかった。注意すべきは包道乙とその弟子鄭彪、京子の式神を破った治羅永寿、最初に大雨を降らした方臘。これら四人だ。さすがに十二神将級とは言えないが、いずれも現役の祓魔官や呪捜官と同等以上の実力をそなえている。
(京子といっしょならどうにかなるが、式ならともかく生身の京子を戦陣に連れていくのはさすがにまずい)
夢の中、仮想現実の世界だとはいえ、ここでの死は現実の死につながる。京子に危険な行為はさせられない。
(骨が折れるがやはり俺がまずこいつらをかたづけて……、張弘範を討つか)
昏い興奮が背筋を駆け抜けてくる。身体の芯を熱く、それでいて冷たく火照らせる。剣呑な感情がこみ上がってくるのを自覚した。
山を下りた直後の、まだ駆け出しの頃。陰陽庁に属さないもぐりの呪術者として行動していた時。他者を呪殺するさいの昂ぶり。
(……ここは現実じゃあない。『グランド・セフト・オート』や『スカイリム』でちょいとおいたをするのといっしょだ。ひさしぶりに、暴れてやるか……)
餅の焼ける良い匂いが、つづいて肉を焼いたり野菜を炒めたりする匂いも流れてきて思考を中断させた。
餅とは小麦の粉を練って焼いたもので、パンの一種だ。葡萄酒によく合うことだろう。
「このひらべったいのはなに?」
手にした箸で前菜に出てきた薄いせんべいのようなものをつまむ。
「炸駝峰といって、ラクダのこぶを薄く切って油で揚げたものだよ」
「へぇ! はじめて食べるわ」
ラクダのこぶは栄養価が高く保存も効く。
京子がひとくちかじってみると、豚肉のから揚げによく似た。それでいてさっぱりとした肉の旨味がひろがった。
秋芳と京子が食事をしている場所は北方や西域の料理が楽しめる菜館だ。
ここの酒飯博士は長いあいだ元軍の虜囚になっていたという料理人で、その間に北方や西域の料理を学んだという。
北方料理の中にはとうぜん敵であるモンゴル人たちの料理もふくまれるが、だからといって「敵国の料理が食えるか!」「せめて名称を変えろ!」などという卑小な考えの者は宋の国にはいない。
この時代の中国にはおだやかで智勇仁義にあふれた士大夫たちがまだ多くいたのだ。
二〇〇三年。フランスがイラク戦争への加担を拒否したことに腹を立てた一部のアメリカ人はフランス製品の不買運動などの反仏活動をおこない、その一環としてフレンチフライドポテトやフレンチトーストをフリーダムポテト。自由のフライや自由のトーストと言い換えたことがあった。
第一次世界大戦の時にも反ドイツ運動として言い換えが行われ、ザワークラウトが自由を意味するリバティを用いて「liberty cabbage」、ダックスフントが「liberty pups」、ハンバーガーが「liberty steaks」などと呼称された。
実に愚かしい行為だが、他所の国を笑うことはできない。日本も戦時中は敵性語禁止などとしてコントラバスを「妖怪的四弦」、〒ポストを「上方差し込み下方取り出し郵便箱」、カレーライスを「辛味入り汁かけ飯」などと、噴飯ものの言い換えをおこなっている。
こんな精神的に余裕のない国は戦争に負けてとうぜんだろう。
ほかにも雪山駝掌(ラクダの足肉の卵白かけ)や炸鹿蹄筋(シカのアキレス腱)、胡芦鶏(鶏の丸ごと蒸し揚げ)、手扒肉(羊肉の塩茹で)、奶酪意粉といった料理の数々を賞味する。食べ物の好ききらいのない京子も、さすがに蛇は抵抗があるのか一龍蛇珠(蛇とホタテの蒸し物)だけは秋芳の胃袋におさまった。
「まさに龍肝豹胎。珍味とはこのことだな」
「中国料理って芸術品よねぇ。こんな美味しい物が食べられるんだったら、あと三年くらい目が覚めなくてもいいかも」
食後のデザートに氷糖胡芦、サンザシやイチゴなどの果物を砂糖で包んだお菓子を口にふくんだ京子が相好をくずす。
「そうか? 俺はそろそろ日本食が恋しくなったぞ。鰹だしの効いたそばつゆにたっぷりの海苔を入れた花巻そばや、油揚げと大根の味噌汁に壬生菜や柴漬けで白米が食べたいな。あと日本の家屋や庭園もな」
「枯山水の砂庭に池泉回遊式庭園。秋芳君てほんとああいうの好きよねぇ、まぁ、あたしも日本人だし、きらいじゃないけど」
「日本庭園の様式は中国に源流があるが、朱金で塗りたくった中華式の装飾は派手派手しくてどうもおちつかないからな。……日本は資源がないなんて言われるが、ダイヤモンドだの金だの石油なんかより山紫水明のほうが遥かにありがたいよ。金も石油もなければ他所から買ってくることができるが、山河や水源はそうはいかない。豊富で清潔な水流と自然を必要以上に破壊しない伝統的な林業があったからこそ、いまの日本の文化がある」
「畳の匂いも気持ち良いものね」
「そこで思ったんだが、京都に研修旅行に行けないか塾長に提案しようかと考えているんだよ」
「あら、良いわね。京都だなんてまるで普通の修学旅行みたい」
「だろ? 一応陰陽塾にも合宿があるみたいだが、二年からだし。一年にもそういうのがあってもいいと思うんだ」
陰陽塾では一年の間は座学が中心となり、甲種呪術などの実技の広義ではごく基本的なことしかおこなわれない。しかし二年からは逆に甲種呪術の習得が重点的におこなわれるようになり、なかには二年と三年の共同講義もある。実技合宿というのがそれにあたり、通常の講義のない週末にクラスごとにおこなわれ、合宿先はたいてい関東近郊のパワースポット。霊山などになっている。
「京都といえば神社仏閣が立ち並び、江戸東京と同様に幾重にも結界の張り巡らされた日本屈指のパワースポット。かつては陰陽師の活躍の表舞台だったんだ。俺たちが学びに行くにふさわしい場所だろ」
「たんに自分が観光を楽しみたいだけなんでしょう。あ、でもあなたにとって観光旅行って言うよりかは里帰りに近いのかしら」
「まあ、そうなるのかな。……本音を言えば国宝級の寺院で京子とまったりと逢瀬を楽しみたいんだ」
秋芳は一般の見物が禁じられている寺社仏閣に穏形して忍び込み、自由に観覧するのに凝った時期がある。まだ京都にいた時、夜の東山慈照寺。俗にいう銀閣寺で笑狸と邂逅し、たびたび会うようになっていたのがきっかけだ。
人けのない夜の寺社のもつ、なんともいえない美しさに心惹かれた。
星々に照らされた玉砂利のきらめき、障子ごしに光さすほのかな月明かり、苔むした緑色の池からただよってくる冷たい風、幽玄な趣の能舞台――。
長い年月を経た文化財、歴史ある建造物というものは妖艶な美女のように人を惹きつけ、豊潤な美酒のごとく人を酔わせるものだ。
「西本願寺に飛雲閣という建物があってな、一説によると秀吉が建てた聚楽第の一部を移設したのではないかといわれている」
「それ、聞いたことがあるわ。金閣銀閣とならぶ京の三名閣のひとつよね」
「そう、それだ。池に面した造りで、橋がかけられる前は舟で出入りしていたそうだ。なんとも情緒があるだろう」
「敷地内に舟で出入りできる別邸を建てるだなんて、贅沢ねぇ」
そう言う京子の倉橋家とて目白に別邸として洋館を持っている。贅沢ぶりでは負けてはいないのだが、それとこれでは話が別のようだ。
「そういう場所でひとり思い澄ましていると寂しさもわいて出てきてな、いつか気立てが良くて愛らしい少女と出逢い、恋心を育みたいとずっと夢想していた。そしていま、まさにそんな少女と出逢った。そういうところでひと晩いっしょに語り合わないか?」
「いいわよ。……ふふっ、あなたに会ってから不法侵入ばっかりね」
旧陰陽塾の塾舎やら政治家の私邸やら、なにかとお邪魔しているふたりである。
「江山風月、本無常主、閑者便是主人。良い場所は良い人に愛でられるために在る。えんりょすることなんてないさ」
「じゃあはりきって元軍をやっつけて、もとの世界にもどらないとね」
「だな」
「特大級の儀式呪術、ぶっ放しちゃいましょ!」
「ああ」
紅葉映える錦秋の京都への研修旅行。
その旅路の途中で秋芳は自身の出生について、京子は想い人が人ならざる存在だと知ることとなるのだが、それについて語るのはもう少しあとのお話――。
秋芳たちの準備がととのえるよりも前にそれは起きた。
最初にそれに気付いたのは海中から辺りを探る秋芳の使役するタイプ・ギルマン、続いて哨戒用の走舸に乗った宋軍の斥候兵たちだった。
水平線を埋め尽くす船、船、船――。
船上に井楼と呼ばれる櫓の造られた楼船が海上を埋め尽くす様はあたかも海上に山々が隆起して出現したかのようだ。
楼船。
船の縁に板を立て並べて矢や投石を防ぐように作られた大型の軍船で、多層の船体で構成された、まさに水上の楼閣だ。
長さは二〇メートル前後で艪の数は左右の舷を合わせて四〇。その起源は周の後代、戦国時代にまでさかのぼり、秦や漢の時代になると次第に大型化し、三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。呉の孫権が東南アジアに使者を使わせたときの楼船は大きな七枚の帆を張り、五〇〇人以上の人を乗せていたという。
元軍の圧倒的な物量をあらためて実感した人々は戦慄を禁じえなかった。
元軍の一斉攻撃がはじまる。楼船に積まれた横流砲と呼ばれる投石器から大小無数の石礫が投射された。大は牛ほどの、小はこぶし大の石が雨あられと降りそそぐ。一〇〇束の雷が同時に落ちたかのような轟音が響き、空をおおう石の群れに太陽は陰り、夕闇のような暗さが広がる。
しかし――。
「韃靼人のやつら、距離も読めないのか。ちっともとどかないぞ!」
目測を見誤ったのか、元軍の投石は崖山の港のはるか前方に落ちるばかりで、高い位置にある居住区にとどくどころか港に泊めてある船にすらかすりもしない。
物見に立つ宋の兵士たちは嘲笑したが、それが一刻、二刻、三刻……。日が落ちたあとにも変わらず降りそそぐ岩の暴風雨を前にしてさすがに困惑してきた。
「韃靼どもめ、いったいなにを考えているんだ……」
「海を埋め尽くすつもりか」
「まさか……」
そのまさかであった。
やがて数多の岩々が大海原を埋め尽くし、人工の岩礁地帯ができあがる。
さらに――。
「「「――以土行克水行――以土行克水行――以土行克水行――」」」
道士、僧侶、行者、巫覡、その他多くの異教の司祭たち――。
元軍の陣営奥深くから呪術者たちの詠唱がとどろきわたり、呪力の波が押しよせてくると、海面にせり出した岩が泡立つようにうごめき、変容する。
岩のひとつひとつが接着し、融け合い、隆起し、広大な大地と化した。
土が水を濁す、水を吸ったり堰き止めたりするはたらきや状態を土剋水。
水がさらに弱められ、土剋水の状態が極まれば水虚土乗と化す。
呪術の力で海を大地に変えてしまったのだ。
三方を海にかこまれた天然の要害である崖山であったが、周辺部にわずかな水場が川のように広がり、残るのみ。
さえぎる物がほとんどない低平な土地に無防備に晒された状態になってしまった。
「……儀式呪術による地形変化! そんなものが存在したのか……」
天地自然を自在に操るいにしえの呪術の絶技に秋芳も驚嘆をかくせない。
ここに元軍一八万による総攻撃がはじまろうとしていた。
朝日が昇るにつれ呪術によって隆起した大地は燦然たる輝きに満ちていった。
一〇余万の元軍兵士たちの身につけた鎧や槍の穂先に陽光が反射しているのだ。
大軍である。
地上の半分を埋めるかと思われるほどだ。軍旗を風になびかせて歩兵がゆく、鉄騎兵が進む。虎や豹や獅子、人のようで人ではない異形の兵らが列をつくる。鐘を鳴らしてそれらを先導しているのは元軍側の呪術者たちだ。
「もはや小手先の兵法も呪術も不要、正面から力で押し潰すのみ!」
猛る李恒を張弘範が抑える。
「いま、やつらは太陽を背にしている。午後になり日が傾いてから全面攻撃するのが良かろう」
「たしかに」
元軍側が悠々と軍備をととのえ布陣するいっぽう、宋の側は混乱の極みにあった。
滅亡の淵より逃れ、往時を思わせる繁栄を楽しんでいたのもつかの間、ふたたび戦火にさらされようとしているのだ。
いっときの安堵があったぶん、より恐慌の度合いが増している。
評定の間。
さすがに朝廷に仕える文武百官たちは恐怖と混乱に駆られる民衆たちとはちがい泰然としているように見えた。
彼らはすでに徹底抗戦の、城を枕に討ち死にする覚悟を決めていたのだ。
問題はどう戦うか。それについての話し合いをしている。
自分たちが剣の下に死ぬのはいい。だが、祥興帝趙昺。皇帝陛下の玉体だけは護らねばならぬ――。
「おお、慈雨花冠さまに妖怪道士さま」
「短い間でしたが良き夢を観させていただきました」
評定の間に姿を見せた秋芳らに諸将が声をかけてくる。
「元軍側に呪術者が加勢したという話は聞いていましたが、まさか海を陸にしてしまうほどとは……」
「雨を降らし山を削るおふたりの神通力にもおどろかされましたが、まさか敵にもかような術者が存在しているとは思いもよりませんでした」
「あの大軍勢が相手では、もはや呪術でどうにかできる水准ではないでしょう」
「大宋が誇る海軍力を封じられ、地の利も失った。もはやこうなってはいかなる小細工も通用せぬ。あとは戦って戦って戦って散るのみ。大丈夫たる者、瓦のように全うするのではなく、玉と砕け散ろう!」
「しかしおふたりは宋の民ではございません、われらと運命を共にすることなどない。そこで皇帝陛下を安南へおつれするさいの護衛になってもらいたいのだが……」
驚天動地の天変地異と、それに続く大軍勢を目の当りにした諸将らは、あきらめから自暴自棄になっているようだ。
「……水臭いことを、ここまで来たからには最後までお供させてもらいますよ。それに呪術で開いた穴は呪術で埋め合わせればよいのです」
「なんと、ではあの大地と化した海をもとにもどせるので?」
「もどせます」
おお、と歓声があがる。
「……だがそれよりももっとすごい、未曾有の大呪術を披露して見せましょう。元軍が海に大地に変えたというのなら、私たちは空を落としてみせます。さらに宋の軍兵に天将の加護をさずけましょう」
おおう、とふたたび歓声が評定の間をつつむ。
「しかしそれには準備がかかりますので、儀式が完遂する前に元軍が攻めてくるでしょう。この賀茂秋芳(ファマオ・チュウファン)が前線に立ち、微力ながら宋のみなさんのお力添えをします」
おおおう、評定の間は大歓声につつまれた。
崖山の頂上付近、行宮にほど近い阳台。
そこは儀式呪術のための天壇へと変わろうとしていた。
呪詛のための護摩壇、五鈷鈴、三鈷などの法具をならべたり磨いたり供物をそろえたりとしたこまごまとした作業をしている秋芳と京子の姿があった。
「いやぁ、良かったよ」
「なにが?」
「宋の人たちが俺たちを頼りきって泣きついてきたらどうしたものかと思ったが杞憂だったみたいだ。俺はああいうのが苦手なんだよな~。ほら、ファンタジーだのによくある勇者の伝説ってやつ。――国王の悪政や盗賊に苦しむ国や村があって、人々は古くからの予言や伝説に希望を託している、いつか旅の勇者が矢ってきて悪王や盗賊をやっつけてくれるとか、なにも知らない旅人がやってくると人々は勝手に彼を勇者と決めつけ、おだてあげ、泣きつき、悪者と戦わす。てパターンがあるけど、つまり自分たちは悪政を打倒するためにはなにもしない。どこからかつごうよく正義の勇者があらわれて悪をやっつけて、またつごうよく去っていく。最初から最後まで他人に責任を押しつけて自分たちはなにもしない。そういう連中のためにひと肌脱ごうって気になれないんだよな」
「もしそうだったら、見捨ててたの?」
「いや……、見捨てはしないが、やれやれ系主人公みたく愚痴ったりなんかして、ぐだぐだ、うだうだとのたまって行動に移ったんたんだろうなぁ」
「あら、良いじゃない! やれやれ系主人公。正義や愛を口に唱えながら人を殺すより、屁理屈言ったり退屈しのぎといいながら人助けをするほうがはるかにましでしょ。あたし好きよ」
「なるほど、そういう見方もあるのか」
おしゃべりしつつ、作業を進めている。小さな厨子の中から一体一体仏像を取り出して祭壇に置く。
水牛に乗った六面六臂六足の大威徳明王。
足もとに大自在天を踏みつけた降三世明王。
手首足首に蛇を巻きつけた軍荼利明王。
三面の中央の顔に五つの目がついた金剛夜叉明王。
右手に倶利伽羅の宝剣、左手に羂索を持った不動明王。
中央に不動明王を配し、東方に降三世明王。南方に軍荼利明王。西方に大威徳明王。北方に金剛夜叉明王――。
それらはまた木火土金水の五行にあてはまる。
ここに森羅万象をあらわす小宇宙が完成しつつあった。
「さがせばあるものだな、愛染明王の仏像もあったぞ」
赤く染められた身に六本の腕をそなえた坐像。それぞれの手には弓と矢、蓮華や法具がにぎられ、獅子の顔をかたどった冠を逆立つ怒髪の上に乗せ、見るもおそろしい憤怒の形相を見せている。
愛欲を司る明王、愛染明王の木像。身を彩る真紅は煩悩の激しさを象徴しているかのようだった。
「……使わせてもらうか」
なにかをふと思いつきた秋芳は愛染明王の仏像をそっとふところにしのばせた。
「あ、今なにをしたの、秋芳君」
「なぁに、ちょいと小田切寧々的な力を行使してみようかとね」
「はぁ? ……よくわからないけど、変な悪戯しちゃダメよ」
「わかってるって」
残りの作業を京子にまかせ、秋芳はその場を離れた。彼にもやるべきことがあるからだ。
軍装した兵士たちが集まる広間で出陣の儀式が執り行われた。
「兵を発起す!」
祭壇の前で長剣を抜き放った秋芳が声高に叫ぶ。
「兵を発起す! 天兵および地兵を発起す。陰兵および陽兵を発起す。木兵および火兵を発起す。土兵および金兵を発起す。水兵を発起す。陸海空の諸兵を発起す。四方四営の兵を発起す。中岳嵩山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」
長剣を頭上にかざし、朗々と宣告するとそれをするどく振り下ろすと黄色い閃光が奔る。
「千々の将兵、師に随いて行け! 万々の将兵、師に随いて起れ! 千将万兵、来たりて列陣せよ。火急に律令の如くせよ!」
南に向きを変えてふたたび宣告する。
「兵を発起す、兵を発起す! 南方百蛮の兵を発起す! 紅旗紅車、師に随いて来たれ。紅馬紅兵、師に随いて起れ。南岳衡山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」
振り下ろされた長剣が赤い閃光を奔らせる。
「兵を発起す、兵を発起す! 西方百戎の兵を発起す! 白旗白車、師に随いて来たれ。白馬白兵、師に随いて来たれ。西方崋山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」
西を向いて振り下ろされた長剣が白い閃光を奔らせる。
「兵を発起す、兵を発起す! 北方百狄の兵を発起す! 黒旗黒車、師に随いて来たれ。黒馬黒兵、師に随いて起れ。北岳恒山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」
北を向いて振り下ろされた長剣が黒い閃光を奔らせる。
「兵を発起す、兵を発起す! 東方百夷の兵を発起す! 青旗青車、師に随いて来たれ。青馬青兵、師に随いて起れ。東岳泰山大帝これを命ず。火急に王命の如くせよ!」
青い閃光が奔る。
居並ぶ兵士たちの身に変化が起きた。
心の奥底から闘志が、熱い闘志が込み上げてくる。もとより戦意の高い宋兵たちだったが、さらに士気が高まり恐怖心が完全に消滅した。
全身に力がみなぎり身体が軽く感じられる。
いかなる敵にも負ける気がしない。それがたとえ自軍の数千数万倍の軍勢が相手でも、悪鬼羅刹のたぐいだとしても――。
熱く静かな高揚感が場を支配した。
四方を司る神々に必勝を祈願し、戦意高揚を目的とした儀式呪術。
この呪術の影響下にある者は身体能力が向上し、恐怖心をなくす。
さらに精神にはたらきかける呪術の影響を受けにくくなり、痛みへの耐性が増す。
霊災修祓を主とした現代の呪術界ではほとんど使用されることのない、帝国式陰陽術だ。
「身体が燃えるようだ!」
あまり感情をあらわすことのない張世傑だったが、この時ばかりは興奮した面持ちで秋芳に話しかけてきた。
「これほどまでにみなの士気が高まればこたびの作戦、成功まちがいない」
「張将軍の考えた作戦、かならずや実行させてみせます」
起死回生の大呪術の発動まで時間がかかる。それまで元軍を食い止め、崖山に一歩も入らせてはいけない。そのための作戦をこれから開始するのだ。
「全軍前進!」
日が傾くと同時に元軍が動いた、崖山に迫る。
「なんだ、あやつらの布陣は?」
周囲をかこんでいた海が大地と化した崖山は手足をもがれたカニにひとしい。崖山の奥深くに立てこもって籠城すると踏んでいた元軍の将兵たちだったが、なんと宋軍は崖山の外に出て陣を組んでいた。
それもわずかに残った川のように広がる水場の外側に。
全体から見ればわずかな水場だが、それでもそれなりの深さと広さがある。城を守る堀に見えないこともない。最後の最後に残った唯一の地の利だ。それなのにせっかくの天然の堀を背にして布陣しているのだ。
「あやつら、まだ崖山の中におれば高処の地の利を得られようものを、あのような低地に群れてなんとする。高処にいるわれらが騎兵で突撃すれば踏みつぶされるだけだぞ」
「しかも水を背にして布陣するとは、韓信を気どるつもりか」
秦末漢初、漢と趙との戦いで漢の軍は寄せ集めの兵ぞろいだった。そこで漢の将軍韓信はわざと川を背にして陣を敷き、兵士たちが逃げれば溺れ死ぬほかはない捨て身の態勢にした。兵学の常識を知らんやつと油断した趙の軍は決死の漢軍の猛攻の前に敗走し、漢は勝利をおさめた。
この故事から失敗の許されない状況で全力をあげてことにあたることを背水の陣を敷く、背水の陣で臨む。というようになったのはあまりにも有名な話だ。
「井陘の戦いとはまったく状況が異なる。川を背に高処の敵に対するなどと自殺行為だ。宋のやつら、よほど死にたいらしい。高処からいっせいに攻撃し、押し潰し、海に追い落としてやろう。やつらの死骸で海を埋め立てようぞ」
「大地を造ってしまいこのあたりの魚どもには悪いことをしたが、大量の餌ができて鮫どもはよろこぶだろう」
元軍の先鋒を任された羅延将軍とその旗下の隊長たちが嘲笑した。
高処といってもたいした高処ではないが、それでも低地に位置する宋軍の様子は丸見えだ。兵数は一万に満たず、どこかに伏兵がいる恐れもない。例の妖怪道士や魔女が妖しげな術や人妖を放ってくるかもしれないが、そのために方臘、包道乙、智羅永寿をはじめとした数多の呪術者を軍に編入してある。おいそれと遅れはとらない。
大あわてで柵を作ったようだが完成しているのは中央と左翼だけで右翼の前面はがら空きのようだ。しかも中央と左翼は騎兵中心だが右翼はほとんど歩兵らしく思える。
「やつら、どこまで愚かなのだ。せっかく柵を作るなら歩兵の陣前だろう。騎兵の前に柵を作れば自分たちが突出できぬようになるだけだぞ」
「よし、まずは敵の右翼を叩き潰す。そののち右回りに敵の中央と左翼を突き崩す」
「殺!」
元軍の喚声が天に響く。一六万対一万。互角の条件で戦ってもまず負けはしない。いわんや地の利はこちらにある。万が一の敗北もありえない条件に見えた。
「お待ちを、羅将軍」
「……なんですかな、太上準天美麗貴永楽聖公どの」
返しの風による落雷に撃たれて黒焦げになった僧、方臘が突撃の号令を発しようとした羅将軍に声をかけた。
「拙僧の千里眼の術によりますと、わが軍左翼の前方に何十本か棒杭が立たれ、縄がはりめぐらされております。騎兵で突撃するのは不利なのでは?」
物見の兵に確認させると、たしかに言ったとおりに棒杭が立ち並び、たがいの間に縄が張られている。思わず失笑してしまうような急ごしらえのお粗末な罠だが、むやみに馬を突進させれば足をからめてしまうだろう。
元軍の左翼は宋軍の右翼と相対し、まず元軍左翼が突出して宋軍右翼を正面から叩き潰し、そこから右へと転じて中央部隊の右側面を突くつもりだったが、少し修正する必要が出た。
「ならば中央から堂々と押し出し、低地へ出てから左前方へ突進して敵の右翼を攻撃する。――見るがいい。敵の右翼には柵もなく、兵数も少なく、しかも半分ほどは座り込んでいる傷病兵ではないか!」
たがいの軍の様子が視認できるほどの距離まで来たが、宋軍にはなんの動きもない。
一万に満たない兵のうち中央に騎兵五千、左翼にはおなじく騎兵三千、右翼には歩兵が千人ばかり配置されている。
全軍が川のように広がる海を背にして騎兵は全員下馬して柵の前にかたまっている。
羅延が侮るのも無理はない、じつに歪な陣形だ。
「やつらは恐怖に震えながら、ただ殺されるのをまつだけだ。愚かにも大元国に逆らったおのれの愚かさを恨むがいい」
羅延は戦う前から勝ったつもりでいた。
銅鑼が鳴り響き、元軍の騎兵部隊が大きく横に広がりながら突出する。
地を駆け、猛然と肉薄した元軍だが、直前になってはじめて正面の柵が二重になっていることに気づいた。
二重の柵を突破するよりも緩斜面の下に無防備な姿をさらしている右翼の歩兵を蹴散らすのがたやすい。そう判断した先頭集団が馬首を左へそらすと後続の全体がそれにならう。
柵にそって元軍は怒涛のいきおいで馬を走らせる。宋軍の眼前を左から右へ。
つまり元軍は密集したまま右側面を敵軍にさらけ出しているのだ。
馬上の兵は左手で手綱をとり、槍や刀剣を高々とかざす。右のわき腹ががら空きだ。
張世傑の狙いはそこにあった。なぜ弱々しい歩兵だけの部隊を右翼に配したか。彼らはおとりだったのだ。
元軍の動きを見た張世傑が号令を発すると下馬していた騎兵たちがいっせいに弓をかまえて柵の間から矢を放つ。
数千の矢が真横にむかって一斉掃射されるさまは銀色の奔流のようで、その風切り音は猛禽が群がり飛び立ったかのようだ。
至近距離であり、はずれようがない。
悲鳴をあげて元軍の馬がたおされ、振り落とされた兵士の身体が宙を舞う。たおれた人馬につまずいて後続の馬も横転し、土煙をあげる。混乱のさなかにさらに矢が射られ人馬が殺傷されていく。
「なにをしている、そのまま進め!」
羅延が浮足立つ兵士たちを叱咤する。
「進んで歩兵を蹴散らせ! そうすれば敵軍はくずれるぞ。その場にいては的になるだけだ」
直進して歩兵隊を破り、中央を突破したあとに右へと回り込んで中央の軍に突入すれば
自分たちが設けた柵にはばまれて行動できず元軍の騎兵に蹂躙されることだろう。
猛射の前に甚大な犠牲を払いつつ、さらに前進を続け先頭集団がようやく歩兵隊の列に突入しようとした、その時。
座り込んでいた兵たちがおどろくほどの俊敏さで左右へと走り出した。
元軍の目の前は一瞬にして無人の野となり、兵たちは狼狽する。いきなり左右に散開されてはどちらへと馬首を向ければよいかわからない。先頭集団が速度を落としたため後続の兵は進めず、なかば停止してしまう。その後背はまったくの無防備状態だ。
まさにその時、宋軍の前に設けられていた柵がほとんど一瞬で消え失せた。宋軍の兵士が刀をふるって柵をささえていた綱を切断すると、柵はたちまち倒れて宋軍の前はがら空きにある。堅牢な馬防柵と見せかけて、その実は縄一本でささえられた、ただの棒や板の集まりだったのだ。
「乗馬!」
張世傑の命令一下、宋兵たちは喚声をあげて馬に乗り、敵勢に向かった。
張世傑もまたみずからの愛馬に乗り先陣を切る。
「突撃! 皆殺しにしろ!」
宋兵は一丸となって動きを封じられた元軍の背後から襲いかかる。
密集していた元軍はひとたまりもない。投げ槍を背に受け、斬撃を首筋に受け、刺突をわき腹にくらい、おどろくほどのもろさでくずれ落ちる。
「なにをしている、走れ! 走れっ!」
その惨状を見て羅延があわてて歩兵部隊を投入するも、かなりの距離を走破しなくてはならない。ごくゆるやかな緩急といえども甲冑を着たまま走るのだ。それも身を隠すこともできない傾斜面を。一歩ごとに矢をあびて、一呼吸に十人単位で地に倒れていく。
息も絶え絶えに主戦場にたどりついた時には歩兵隊は千人以上の人員を失っていた。
そこにまったく疲弊していない宋兵たちが待ち構えている。
「遅いぞ、鈍足の韃靼人め!」
愛刀一閃。張世傑の長剣が一度に二人の元兵を斬り伏せる。
張世傑以下、秋芳の儀式呪術によって士気高揚した宋兵たちが全身に返り血をあびながら突進し、殺戮の限りを尽くす。
槍を敵の身体に深々と突き刺し、抜くのが困難と判断すると、その槍を捨て腰に帯びた刀剣を抜き放って切り込んでいく。
白刃が激突して火花を飛散させ、血が沸騰し、甲冑は割れ、鮮血の砂塵の中に黒い人馬の影が乱舞する。
元の兵士らは善戦したが、死傷者の数は増えるばかりだ。神がかったかのような宋兵の猛襲の前に一歩退き、十歩退き、ついにはくずれ落ち、潰走をはじめた。
「逃がすか!」
張世傑をはじめ宋の兵たちは撃剣を振るい、血煙をあげ続ける。
もう何人斬り伏せたことか、血糊と脂とで切れ味が鈍っていたところ、甲冑にまともにあたり刀身が折れ飛んだ。
張世傑は舌打ちすると折れた剣を元の兵に投げつけ、落ちていた敵の剣を拾ってさらに突進を続ける。
宋軍は鬼神の群れであった。
戦場にあった元軍の過半は屍と化し、生き残った者たちも追いつめられていた。
「逃げろ、逃げろ!」
「退路があるぞ、こっちだ!」
だれかが叫ぶ。
追いつめられた元軍の兵たちの血走った目がひとつの方向を見る。
宋兵たちの槍の列、人馬の群れが、そこだけは途切れているように見えたのだ。
一万に満たない宋軍が先鋒隊だけで三万以上の元軍を完全包囲えきるわけはない。
包囲の輪にほころび、薄い箇所があるのは当然だ。元の兵たちが生き残るため、折れた槍や刃のこぼれた剣を振りまわし、死に物狂いで突進すると、宋兵たちは左右にわかれて道をあけた。
元軍の兵らの死力に怯んだのか。
歓喜の雄叫びをあげて包囲を突破した元の兵たちだったが、それこそ張世傑のしかけた無慈悲な罠だった。
元兵たちは歩兵も騎兵も肩をぶつけあい、押し合いへし合い揉み合いながら敗走した。この戦いで元軍はつねに密集隊形で移動し、そのために甚大な被害をこうむったのだが、敗走する時でも密集していた。
最大の悲劇が元兵らを襲った。
彼らが包囲を突破したと信じて安堵した時。それは巨大な罠の口にみずから飛びこんでしまった時だった。
「なんだこれは!?」
絶叫がわき起こる。
「止まれ、止まれ!」
「押すな、押すんじゃない!」
数百の人馬がいっせいに宙に浮き、落下してゆく。
そこには地面がない。崖山周辺の海。残った水場に飲み込まれていった。
数百の飛沫が水面にはじけた時、すでにその上方には、さらに数百の人馬が手足をばたつかせて落下していく。泳ぎのできる者がようやく水面に顔を出した時には、ほぼ同じ数の人馬が落下してくるのだ。
人と人、馬と馬との身体が激突し、水しぶきに赤い煙が混ざる。
それが十回、二十回と繰り返され、崖山の天然堀は人馬の群れに埋め尽くされた。
「このあたりの鮫どもも、とうぶんは人の肉に飽きるだろうな」
張世傑がつぶやいた時、初戦は完全に宋の勝利に終わった。
彼の考えた背水の陣は先例のないもので、自分たちの背後の水場を自軍の退路を断つ障壁としてではなく、敵軍を飲み込む罠として使うという見事なものだった。
「ええい、ありったけの回回砲を撃ち込め! いまなら密集している。大打撃をあたえられよう!」
敵のいいように包囲殲滅される自軍の様に憤激した羅延が投石器の使用を命じた。
「しかしそれでは取り残された味方にも被害が出ますぞ。そもそも野戦で投石器はあまり効果が――」
「かまわん! 撃て! ……そもそも千里眼と言いながらなぜやつらの罠が見抜けぬのだ、このインチキ売僧!」
とんだ言いがかりである。
「千里眼と言いましても拙僧のそれは遠くを見渡せるだけで相手のくわだてや罠の有無はわかりませぬ」
「ならば得意の法力だか呪術でこの流れを変えてみせろ!」
「いいでしょう。もとよりそのつもりで拙僧は戦場にいるのです」
方臘と彼に味方する呪術者たちが動きだした。
戦場に魔物を、動的霊災を放つ。
怒声と悲鳴、土煙が野をおおい、血と鉄の臭いが充満する。
「突撃! 突撃! 突―撃!」
馬蹄の轟きと絶叫に秋芳がふり返ると、馬に乗った元兵が刀を振りまわしながら突進してくる。
「禁足則不能歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち歩くことあたわず。
疾駆する馬の四肢は金縛りにあったかのように動かなくなった。
全力で駆けてきていきなり足の動きを封じられたのだ。人を乗せたまま馬がたおれ、地響きをあげた。
転がり落ちた元兵の首はありえない方向にまがっている。
元王朝。モンゴル帝国の強さは戦術面ではなく戦略面にある。チンギス・ハーンの時代から純モンゴル系の遊牧民はほとんど実戦に参加しなくなり、前線に駆り出されたのは征服された諸国の民族たちからだ。
たったいま命を落としたこの兵士も、元軍に征服され無理矢理徴兵されてきた人なのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたら濃い土煙に吹かれ、鼻を殴られたかのような、つんとした痛みを感じた。
音もなく熱いなにかが体外へ流れ出した。鼻の下、口のまわりが血に染まっている。
空気中にふくまれる粗い土砂に鼻の粘膜がやぶれ、鼻血が噴き出したのだ。
「ああ、これが、これが戦場なのか……」
痛みと鼻血の金臭さのおかげでぼうっとしていた頭が冴えてきた。
自分はいま無意識のうち呪を唱え、襲いかかってきた敵兵の命を奪ったのだ。
これまでにもなんどか命のやり取りをしてきたことがある。霊災を相手にしたことのほうが多いが、それでも人間。生身の人間相手に呪術戦となり、相手を死に至らしめたこともあった。
だがそれはあくまで個人的な戦い。戦闘であって戦争ではない。
秋芳はいま、生まれてはじめて戦場に立ったという自覚を感じた。
「土御門夜光は、こんな場所に立っていたのか。俺は夜光が目にしたような光景を見ているのか……」
怒号と絶叫、雄叫び、悲鳴。そして噴煙とおびただしい流血。それでいて妙に透き通って見える景色。残酷で醜く、それでいて澄んだような世界に。
きーん、というような高い音がずっと聞こえ、その音が絶えた時に死ぬような気がした。
夜光自身が戦地におもむいたという公式記録は存在しない。だが、彼が前線に立ち三発目の原子爆弾の投下を阻止したとか、占守島の戦いで侵略してきたソ連軍を撃退したという類の伝説は枚挙にいとまがない。
閃光と轟音。
爆風にあおられて転倒しそうになった秋芳の全身に鉄片と小石の雨が叩きこまれる。
見れば前方に大穴が穿たれていた。
「いてて、ひょっとして今のが『てつはう』ってやつか? 今さらながらリアル元寇だな」
この手の〝流れ弾〟に対するそなえはきちんとしてある。結界護身法による防御力の強化、禁矢刃の掌決、それ以外にも守りの呪は万全だ。命中しても一度や二度くらいなら耐えられる。そうでなくては甲冑も身につけない呪術者が戦場に立つことなどない。
だが絶対に切れない命綱を巻いていたからといって高所に立つ恐怖がなくならないよう、守りを固めたからと戦場に立って平気でいられるわけではない。
肩が重い。
首をひねって見ると手が置かれていた。
手だけだ。
手首から下はなかった。
砲弾で吹き飛ばされただれかの手が、宙を飛んで偶然にも秋芳の肩に乗ったのだ。
「……ッ!」
気色の悪さにはらい落とそうとして思いとどまる。
敵か味方か、だれの手かわからないが、そっと地面に置いてやった。
「南無阿弥陀仏……。俺はとうぶん人が死ぬような創作物は見ないし読まないぞ、こんなのはまっぴらだ」
それがたとえフィクションであっても、その世界の登場人物にとってはそこが現実、そこでの死は死だ。そもそもフィクションと現実の境は曖昧であり、最初から創作とわかって映画を観たり小説を読んだりしても涙するのは、それがある種の現実だからだ。
ゲームだから漫画だからと、人の死は笑っていいものではない。軽々しくあつかっていいものではない。
「秋芳先生、ご無事でしたか!」
宋の伝令兵が駆けてきた。
「作戦は成功。元軍の先鋒を蹴散らしました! これも秋芳先生のおかげです!」
宋軍の右翼に展開していたおとり役の歩兵のほとんどは秋芳が生み出した簡易式であった。
幻術で弱々しい傷病兵を創り出せればよかったのだが、あいにくと秋芳は幻術が苦手である。
ひとりやふたりの兵士ならともかく、大勢の兵士の幻を作っても粗が目立ち、呪術者どころか一般人からも見破られかねない。
秋芳の使役式の笑狸でもいれば得意の幻術で化かしてもらったところだが、いないのであれば手持ちの札で勝負するよりほかはない。
敵が来たら逃げる。という単純きわまりない命令だったが、さすがに千に近い簡易式を一度に放つのは消耗した。
「……よろこぶのはまだ早いようです」
「なんですと?」
秋芳の見鬼が戦塵のむこうから近づきつつある霊的存在の気配を察知した。
「元軍は戦場に動的霊災、妖怪変化の類の投入してきたようです。そしてそれを使役する数多の呪術者を。生身の兵を相手にするのとは、いささか勝手がちがいますよ」
京子の儀式呪術が発動するまで、あと少しのあいだ気張る必要がある。
秋芳は全身に霊気をめぐらせ、迫りくる魔軍の群れに立ち向かった。
この世界での死は現実世界での死。
絶対に負けるわけにはいかない。
邯鄲之夢 7
旗を風になびかせて歩兵がゆく。
戦車が風を切って進む。
ただし歩兵は人ではない。顔がふたつあるもの、みっつあるもの。腕が四本あるもの、六本あるもの、人の胴に獣の顔をしたもの、翼をはやしたもの、腰から下が蛇のもの、腰から上が蛇のもの、牙をもつもの、角をもつもの、長い鉤爪をもつものらがゆく。
戦車を牽くのは馬ではない。馬のようなもの、虎のようなもの、豹のようなもの、獅子のようなもの、熊のようなものが牽いている。
笛や太鼓を鳴らしてそれらを先導するものらは人に見えた。
方臘と、彼に与する呪術者たちが率いる異形の軍勢だ。
「宋兵を蹴散らせ!」
大地を轟かせて宋の軍に攻めかかるが、それを迎え撃つ宋の軍勢にも人ならざるものどもが参陣していた。秋芳の作りだした簡易式の兵士や、使役式たちだ。
異形の兵と異形の兵同士が衝突した。
絶叫と怒号と雄叫びとがぶつかりあって渦を巻く。地軸を揺るがす馬蹄の轟き、車輪の響き、剣と剣とが打ち合わされ、槍と槍が交差し、戟と戟とが絡み合い、そのつどに火花が散らされる。牛頭鬼の振るう戦斧がヤクシャの鎧を叩き割り、ラクシャーサの駆る戦車が式神兵士を轢き、天狗の投げた礫にあたった怪鳥鳧徯が悲痛な鳴き声をあげて地に落ちる。
霊災には霊災を。
生身の兵たちの被害をおさえるため人外のものどもを前面にくり出しているが、元軍側の動的霊災のほうが数が多く、一体、二体と秋芳側の式が倒され、どうしても人対霊災の構図ができてしまう。
「妖怪相手に無理に立ち向かうな、強敵にはかならず三人以上であたれ!」
恐れをなくした宋兵たちは異形の妖物相手にも果敢に立ち向かう。士気高揚の儀式呪術の影響で霊災の放つ瘴気の影響は受けないが、人と動的霊災では地力がちがう。一体を相手に数人でかからなければ勝負にならない。
楯と斧とを持って暴れまわる一丈(約三メートル)を軽く超える頭のない巨人。乳首の部分に目が、へその部分に口のある怪物刑天に宋兵が群がり、打ちかかる。
薙ぎ払われる戦斧をかいくぐり、膝やすねを狙って斬るが、刑天の皮膚は硬く、呪術によって膂力も上昇した宋兵たちでも致命傷をあたえることはできない。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」
秋芳が真言を唱えると宋兵たちの手にした武器に光り輝く梵字が浮かび上がった。
軍神毘沙門天の加護による呪力付与。刀剣であれば切れ味が、槍であれば貫通力が、鈍器であれば打撃力が大幅に増幅し、通常の武器では傷つけることのできない存在にも物理的なダメージをあたえる。
宋兵たちは軍神の刃を振るい、殺到する霊災を追い払った
「張将軍、兵たちはもう半日以上も戦場で戦っています。見ればモンゴル勢に生身の兵はなく、妖怪た
ちを前面に押し出してきています。妖怪退治は道士の役目。ここはこの秋芳にまかせていったん退いて休息してください。妖怪どもを祓ったら私もすぐに退きます」
「……あいわかった。秋芳先生、どうかご無事で」
名将は引き際を心得る。これ以上の深追いは危険と判断した張世傑は宋兵を後退させた。
「――東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は禺強。四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急々如律令!」
あとに残った秋芳は霊災修祓にすこぶる効果のある百鬼夜行避けの呪を唱え、妖物たちを根こそぎ蹴散らした。
だがまだそれらを使役していた呪術者たちがいる。
彼らを無力化すべく見鬼を凝らして戦場を見渡すが、いままでの呪術戦でさんざんその実力を見せつけられ、いままた数多の妖物を修祓した秋芳に恐れをなし退散したようだ。
三人をのぞいて。
「――清浄光明、大力智慧、無上至真、摩尼光仏――」
摩尼教に伝わる真言が陰々と唱えられると、どろりとした呪力の風刃が秋芳の身に襲いかかった。
「以金行為鉄壁、防げ。疾く!」
漆黒の魔風の前に金気を帯びた呪壁が立ちふさがる。
風は木気か金気。そのいずれかに属するが、秋芳は漆黒の風刃が木気を帯びていると瞬時に見抜き、金剋木。五行相剋の理にもとづき金気でもって打ち消した。
相反するふたつの気に天地が揺れる。
「縛!」
強烈な不動金縛りの呪が秋芳の身にせまる。
「禁!」
まともに対処していては間に合わない。術を禁じる呪を放って相手の呪力を相殺しつつ、飛びすさり不動金縛りの効果範囲を抜ける。
「嘿呀ー! 伏虎十八掌ッス!」
着地した瞬間にくり出された乱撃を右にさばき左にそらし防御する。
方臘、包道乙、鄭彪。三人の呪術者がそこにいた。
「宋に加担せし不逞の左道使いだな、いまここで拙僧らが引導をわたしてくれよう」
「先日はよくも下品きわまりない呪をかけてくれましたわね」
「身代わりの術なんて卑怯ッスよ」
元軍側でも屈指の呪術者たちが秋芳の前に立ちふさがった。
火焔が渦を巻き、雹が舞い、風が疾り、雷が迅る。
土塊が乱れ飛び、霊刃が飛び交い、水流が吹き荒れる。
突く、蹴る、打つ、つかむ、投げる、固める、極める。
呪術による攻防が繰り広げられるいっぽうで、拳と脚が目まぐるしく交わされる肉弾戦も展開された。
三体一の戦い。
これはさすがに秋芳のほうがあきらかに不利で、防戦一方だった。
しかし――。
「……こっちのほうがいいな」
「なに?」「なんですって?」「なんッスか?」
「集団でのドンパチチャンバラは俺の性に合わん。やはり戦い(ケンカ)は自分自身の手足を使ってやるほうがいい」
「ふっふふ、着眼大局のなき匹夫めが。剣一人敵、不足学という言葉を知らんのか。個人の力には限界があるものぞ」
「あらあら、ずいぶんと余裕ですこと。自分が置かれた状況が理解できなくて?」
方臘の摩尼真言はますます呪力を増し、包道乙が紫の双髪を揺らして手にした宝剣を振るえば呪力の刃が飛んでくる。金色の魔甲に身をつつんだ鄭彪の打撃はすさまじく、さすがに秋芳も無傷とはいえない。
「もうひとりいる女人の術者に助けを求めたらどうだ。高廉を軽くあしらい智羅永寿を手玉にとったほどの実力。この太上準天美麗貴永楽聖公方臘の相手にとって不足はない」
「すでにたのんである」
「ほう? なにをだ」
「俺ひとりでは手にあまる、いや。俺ではあつかえないような大呪術を使ってくれるようにな。――禁呪則不能使術、疾く!」
呪を禁ずれば、すなわち術を使うことあたわず。
不動金縛りとおなじ不動法にある結界護身法と同種の術で、呪的霊的影響力を完全に遮断する術で、本来は相手の呪術の使用を禁ずる。封印するための呪禁の術だが、秋芳は術式に手をくわえて変更し、自分自身に対して使用した。
「それは……!? だがしかし諸刃の剣ぞ!」
絶対呪法防御(アンチ・マジック・シェル)。
この呪術が発動しているあいだは他者の呪術だけでなく自身の呪術も無効化されてしまうのだ。
「それに見たところ、その術が効果を発揮するのは〝術〟に対してだけではありませんこと? たとえばっ」
包道乙が手にした宝剣を無造作に振るった。
中国の四大奇書『水滸伝』に登場する包道乙。
金華山に住み幼少の頃に出家して呪術を学び、のちに方臘にしたがって謀叛をおこし、戦場に立てば妖術を使い相手を倒した。玄天混元剣という宝剣を持ち、これを振るえば百歩はなれた相手を討つことができる。
という設定だ。
その玄天混元剣の切っ先から白銀の閃光が奔り秋芳を襲う。
寸前でかわした足もとの地面を切り裂いた。
「これこのように、呪具による攻撃は無効化できないご様子。方臘どのの呪術を制することはできてもあたくしの呪具と鄭彪の打撃はそのまま通用しますわ。防御を固めたつもりらしいですけど、かえって逆効果ではなくて?」
「呪術がまったく使えないぶん、おまえのほうがあきらかに不利ッスよ!」
「なぁに、これでいいのさ。おまえたちこそ呪に対する守りを固めたほうがいいぞ。巻き添えを喰らって死ぬのはいやだろう」
「いったいなにを言って――、ハッ!?」
「こ、この気は!」
「な、なななっ、なんッスか!?」
京子の儀式呪術が発動し、天地に満ちる霊気に異変が生じた。
木火土金水。五気のすべてが異常なまでの昂ぶりを見せている。
地震と台風と津波と火山の噴火が同時に起きてもおかしくないほどの、異常な昂ぶりを――。
「――オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ――」
京子の口から音吐朗々と呪がつむがれ、手に結ぶ印が目まぐるしく変化する。
中央に不動明王。東方に降三世明王。南方に軍荼利明王。西方に大威徳明王。北方に金剛夜叉明王を配した祭壇を前にして、一心不乱に真言を唱えている。
「――オン・アミリテイ・ウン・ハッタ――」
それぞれの仏像から対応した五気が生じている。降三世明王の像から木気がただよい、木生火。軍荼利明王の火気を強め、火気は不動明王の土気を昂ぶらせ、土気は大威徳明王の金気を増大させる。
「――ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン――」
木、火、土、金、水、木、火、土、金、水、木、火、土、金、水――。
五行相生を幾度も繰り返し、途方もなく強大な霊気が呪力へと変換され、祭壇の間は高密度の霊気呪力にあふれ返っていた。
それでもなお放出される呪力は止まらない。
祭壇の間をおおう結界にわずかな瑕疵でもあれば、その一穴から漏れ出た呪力により周囲は大霊災に見まわれてしまうだろう。
結界の維持、呪力の強化および制御。並の陰陽師が数十人がかりでおこなう修法をたったひとりでこなしている。
儀式に一意専心するいっぽうで、心の中にいるもうひとりの自分が興奮していることを自覚していた。
震える。
そしてゾクゾクする。
たったいまおこなっていることはまごうことなき一流の、高レベルの呪術だ。先日の五龍祭もじゅうぶん高等な儀式呪術だったが、ここまでの高揚は感じなかった。
異様なまでの昂ぶり。身体の芯が震え、血が沸き立ち感覚。
それはこの呪術が陰陽塾で学んでいる汎式陰陽術ではなく、帝国式陰陽術そのものだからだ。
土御門夜光が軍部からの要請で作り上げた禁断の呪術体系。陰陽道のみならず神道や密教、修験道や道教、その他様々な民間信仰といった日本に存在するありとあらゆる呪術を統括し、再編成した帝式陰陽術。
それらはいずれも実戦的で強力な力を持ち、こんにちの陰陽法では禁呪指定されているものが多々ある。
そう、実戦的なのだ。
戦争のために、破壊と殺戮のために創られた近代呪術。
いまの日本では決して使われることのない、使ってはいけないもの。
こわい、おそろしい。
だがそれ以上に惹かれる魅力がある。
この世界でならそれに少しでも触れることができる。はるかな高みを、はてしない頂上を仰ぎ見ることができる。
京子の昂ぶりは最高潮に達した。
死と破壊をまき散らす、禁断の儀式呪術が発動する。
秋芳らが呪術戦をくり広げている最前線より少し離れた元軍の陣。
その南端に一体の巨人が現れた。
手首と足首に蛇を巻きつけ、灼熱の炎に身をつつんでいた。
「軍荼利明王……」
密教の知識のあるだれかだろう、かすれたような声がどこからかつぶやかれた。
顕現したのは軍荼利明王だけではない。
東方に三面八臂の降三世明王。
西方に水牛に乗った六面六臂六足の大威徳明王。
北方に三面五眼の金剛夜叉明王。
そして中央、本陣の真上には倶利伽羅の剣と羂索を手にした不動明王。
五大明王が集結した。
将軍から兵卒まで、突如出現した明王の姿を呆然と仰ぎ見ている。あまりの異様な光景は恐怖ではなく放心をもたらした。
そのとき、であった。
巨大な地鳴りの音がして地面が激しく揺れはじめた。
地震だ。
立つことすらできない大きな揺れにはじめて恐怖心がわき起こる。
悲鳴を上げて地面に伏せる兵たち。
「落ちつけっ、ここには倒れるような建物はない。情けない声を出すな!」
そう叫ぶ羅延将軍もまともに立ってはおれず、地面に腰を下ろして揺れに耐えている。
バリバリバリッ!
雷鳴が轟いた。
否、地割れだ。
大地に開いた巨大な咢に数十人の兵士が飲み込まれていく。
長く続いていた揺れがようやくおさまった。地震が起きていた時間は三分ほどであったが、感覚的には一夜にひとしかった。
だが元の兵たちに安堵はおとずれない。揺れがようやく終わったと思った瞬間、こんどは横殴りの暴風が吹いて地面に叩きつけ、宙に吹き上げた。
服がはためき、髪の毛がすべて持っていかれるほどの突風。人も物も、地にあるものが暴風に翻弄され木の葉のように吹き飛ばされる。
雷電を帯びた大小無数の竜巻が発生し、陣営をずたずたに引き裂いていく。
竜巻はゆらめきながら砂も石も飲み込んだものはすべて上空へと運び上げ、移動する。
そのとおり道にある天幕や投石器は残らず破壊された。丸太を砕き、それさえも上空へ運んでいく。
人も例外ではない。地面に伏せていた兵士たちの何十人かはひときわ勢いの強い竜巻に飲み込まれて空へと姿を消した。
彼らは巨大な石臼の中に叩き込まれたも同然だった。幾百、幾千、幾万の肉片に引きちぎられ、血肉の雨を降らすことだろう。
天幕も櫓もすべて飲み込み、倒壊させ、竜巻は突然、消えた。巻き上げられた物が地面に落ちてくるかと思ったが、そんなことはなかった。
どこか遠くの空へ、一瞬にして運ばれたのだ。
そこでは土や石、丸太の破片、そして人馬の血肉が雨となって振ることだろう。
「…………」
風が止まっても元兵たちは立ち上がることはおろか、声を出す気力すらなかった。
「あ、あ、あ、ああ……ッ!」
兵のひとりが震える手で指差す北側から万里の長城のように水がそそり立っていた。嵐のさなかの海辺のような怒涛が、大津波が押しよせてくる。
「流されるな! みんなたがいの身体をつかめっ!」
大量の水が壊れた柵や丸太を運んで迫ってくる。そして飲み込まれた。
激流に落ちたようなものだ。息を止めて水を飲まないように両手で顔をおおう兵たち。水流の底をころがり、地面に削られて命を落とす者。流れてきた材木に巻き込まれ、身体を裂かれる者――。
地震と竜巻から生き残った兵たちはひたすら耐えた。
やがて流れは弱まり、水の高さは腰の位置から膝、膝から下へと低くなり、あふれていた水が嘘のように引いていった。
流れてきた岩の直撃を受けて頭を砕かれた者や、身体が背中のほうに折れ曲ってしまった兵たちの姿が散乱している。
生きて動いている者の姿もあるが、負傷と疲労とで老人のように動きが遅い。地獄と化した戦場から逃れようと必死になって這いずる彼らの頭上で軍荼利明王が数十、数百の火球を無慈悲にとき放った。
後方で数百の赤い輝きが乱舞するのが見えた。
次の瞬間、炎が噴き上がり、もうもうたる煙が空へと立ち昇る。
「い、いったいなにが、なにが起きているというのだっ!?」
五大明王の生み出した破壊呪術の余波は遠くはなれた場所にも影響し、無数の土礫や渦巻く颶風や瀑布となって荒ぶった。方臘も包道乙もとっさに展開した結界で身を守ってはいるが、その威力はすさまじくすべては防ぎきれない。
秋芳も荒れ狂う五気の渦中にあったが、こちらは事前に使用していた禁呪則不能使術のおかげで呪術による猛威を完全に遮断している。
「ぎゃあっ」
飛来した火球の直撃を受けた方臘の身体がたいまつのように燃え上がり、むっとする熱気と煙、人の焦げるいやな臭いが鼻を刺す。
全身を炎につつまれ、狂ったように走り回る方臘。炎熱と煙による気道熱傷でのどを潰され、消火の呪を唱えることもできない。
包道乙が水術で火を消したが、半死半生のありさまだった。
「なんて恐ろしい……」
離れた場所でさえこの威力。目視したわけではないが強大な呪力の氾濫に元軍の先鋒が壊滅状態になったのはあきらかだった。
包道乙は結界を強化し、この五気の狂奔にひたすら耐えた。
そしてようやく破壊の嵐がおさまる。
「……このようなむごたらしい呪術は見たことも聞いたことも――。あ、あなた、なにをなさっていますの!?」
いつの間にか禁呪則不能使術を解いた秋芳がどこからか取り出した仏像を前に祈祷しているではないか。
手に五股印を結び真言を口にする。
「オン・マカラ・ギャ・バサロ・シュニシャ・バサラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」
チョロイ~ン☆
怨敵さえも敬服し、信愛をしめすといわれる愛染明王の敬愛法が効果を発揮した。
魅了の呪。
美男美女が異性をたぶらかすかのように人の心をぼやけさせ、判断力をうばう。
たとえ相手が憎むべき敵であろうとも呪の力が心から信頼できる友人や恋人に変えてしまうのだ。
特に意識したわけではないが、女性である包道乙と鄭彪に、それは強く作用した。
卑猥な唇。
淫猥な舌。
淫靡な瞳。
性的な声。
淫乱な腰つき。
艶麗な頭形。
妖艶な吐息。
淫らな手つき。
筋肉質な腕。
官能的な脚。
刺激的な胸筋。
艶やかな爪。
悩ましげな指先。
欲情をそそる匂い。
性欲をそそられる扇情的な服装――。
フェロモン全開の細マッチョな悩殺ボディはメスをムラムラさせる、実にいやらしい……。
と、魅了の呪がかかった包道乙らには秋芳の姿がそのように見えた。
「あら、いい男」
「惚れたッス!」
目にハートマークを浮かべて左右からしなだれかかる。
「呪術の腕前は超一流。優美にして剽悍。趙子竜や蘭陵王の再来かと思いましたわ」
趙子竜。『三国志演義』の趙雲については説明の必要はないだろう。蘭陵王とは中国の南北朝時代、北斉の高長恭という驍将のことで、女性と見まがう美貌ゆえまわりの将兵が見とれてしまうので戦場に立つときはおそろしい仮面をかぶっていたという伝説がある。蘭陵王入陣曲という雅楽のもとになった人だ。
「あなたの子どもを産みたくなりましたわ。あたくしのお婿さんになってくださいまし」
「あ、それならオイラをお妾さんにして欲しいッス。どっちが先に孕むか競走ッスよ師匠」
包道乙も鄭彪も凄腕の術者であり、本来ならばこのように簡単に魅了されはしないだろう。だが未曽有の大呪術を目のあたりにしたことに動揺し、心の間隙を突かれていとも簡単に籠絡されてしまった。
単純に呪術への抵抗力があっても、心そのものにすきが生じたり、くじけてしまっては意味がない。ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になってしまうのだ。
秋芳は京子の大呪術を種に自分の呪術を成功させた。いわば呪術版の連環計といえる。
「ふたりとも、そこで伸びている方臘をつれてここを離れろ。……そうだな、河南省の開封市に永福観という名の道観があるから、そこで俺が行くまでおとなしく待っていろ。十日ほどしたら顔を出すから、そこで今後のことを話し合おうじゃないか」
自分が精神操作している相手にほめそやされ、モテてもむなしいだけだ。ありもしない道観をでっちあげ、そこへ去らすことにした。
術の手ごたえからして効果は三日ほどで切れるだろうが、その前にこの戦争は決着するだろう。そうなればステージクリアだ。
「お待ちしておりますわ、愛しいあなた」
「おとなしく待ってるから早く来てくださいッス」
こうして手強い敵を三人、戦場からいっきに消した秋芳だったが、その表情がゆるむことはなかった。
「……隠れているやつ、出てこい。針対性で狙い撃ちするのは無理でも火界咒でこのあたり一帯を無差別に焼き尽くす程度はできるぞ」
独鈷印を結び呪力を練る。
「おっと、ばれていたのかい」
返事があった。
だが姿は見えない。
右か、左か、前か、後ろか、はたまた上か下か。
どこからともかく声がしたが、妙にくぐもり、反響しているそれからは声の主の居場所を特定できない。
「声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような」
「……そう言われたのは二度目だよ。流行っているのかい? その成句」
「हां(カーン)!」
「व(バ)!」
秋芳が不動明王の種字真言を口にすると、独鈷印より火焔が渦を巻いて周囲をなぎ払う。
それに対して見えざる者は水天の種字真言を唱え、水剋火。水で火を制しようとしたのだが――。
「以土行為石嵐、砕。疾く!」
土行を以て石の嵐と為す、砕け。
秋芳は種字真言を口にすると同時に土行符も打っていた。
最初に火界咒云々と言ったのはひっかけだ。
こちらが火術をもちいると思い込ませ、本命の土術を展開した。
火生土。
火気はあくまで土気を強化するための触媒。火気からなる呪術は土気によって相生され、威力を増加。無数の石弾が地面から放たれ、周囲を飛び交った。
土剋水。
水の術は土の術に対して完全に不利であり、打ち消された。これは急所に不意打ちを受けたにひとしい。秋芳の術が見えざる者を打ちのめした。
「……やるねぇ、宋人」
なにもない空間からにじみ出るようにして人が現れた。穏形が解けてしまったのだ。
褐色の肌に漆黒の髪をし、薄絹の服を着て、金銀宝石の装飾品を身につけた藩王のような身なりの青年。
智羅永寿だ。
「いまのはかなり痛かったよ」
そう口にする智羅永寿の全身には打撲傷があり、その言葉にうそはなさそうだ。
「タフなやつだ。挽き肉になってもおかしくないくらいの威力を込めたんだがな」
「おっかないねぇ、きみは加減てものを知らないのかい?」
「あんたは動揺してないみたいだな」
「うん?」
「いまさっきモンゴル軍を蹴散らした呪術さ」
精確な位置を把握することはできずとも、治羅永寿が穏形していたことは察していた。愛染明王の敬愛法を発動したさい、その効果範囲にいたはずだが、その影響はまったく感じさせない。心に生じたおどろきやおびえで呪にかかる隙を作ってしまった包道乙たちとはちがい、大惨事を前にしてもいっさいの動揺もないことで、秋芳の呪に万全の状態で抵抗したのだ。
「まぁ、なるほど。たいした威力だけれども天竺四千年の歴史の中にもあのくらいの呪術は存在するよ。『マハーバーラタ』にあるインドラの雷とか、もっとすごいんだから! 街ひとつが消し飛ぶくらいにさ」
「俺が言っているのはそういうことじゃない。人の死だ。破壊と殺人の感覚、耳障りな断末魔、血の臭い、すべてが神経に障る、実に不快だ。それに眉ひとつ動かさないなんて、人の死になれてるんだな」
「おやまあ! その不快な虐殺を生んだのはそっちじゃないか、それなのになに善人ぶってるのさ」
「善人ぶっているんじゃない、俺は善人だ」
はっきりと言い放った。
「武力をもって侵略してくる連中がいたならば、俺たちはおなじレベルで報復してもいい。せざるをえない。そうしなきゃ一方的に侵略されるだけだからな、俺たちはマゾヒストじゃない。やられたら、やりかえすさ。人様に手を出すのが悪い。手を出しておいて、こちらが抵抗するのはけしからん。と言うようなやつらにこちらが遠慮することはない」
そう言う秋芳だが争えば無関係の人々を巻き込むこともある、非がむこうにあると確信していても後味の悪さはどうしようもない。
「……一城を皆殺しにすれば他の城は戦わずにして落ちる。そうしたまでだ」
一罰百戒。先にこちらの強烈な意志をしめすことで、のちの小競り合いを禁じようとしたのだ。
一八六八年、江戸城は新政府軍に無血開城された。
無血というといかにも平和然とした言葉だが、この言葉の裏には強烈な闘志が隠されている。勝海舟は無抵抗で新政府軍に接したのではない。勝が提示したいくつかの条件のうち、ひとつでも新政府側が拒否・反故すれば城を枕に討ち死にせんという必死の覚悟があったからこそ、江戸の街は戦火に見まわれることから逃れたのだ。
命欲しさ、いくさ嫌さに弱腰で外交していたならば、新政府軍につけ込まれ、江戸の街はいいように蹂躙されていたかもしれない。
戦争は外交の失敗の産物というが、そもそも外交には他国を抑制する軍事力が少なからず必要であり、武力なくして平和は守れない。
一方的に侵略してくる相手に、話し合いなぞ通用しないのだ。
ならば、戦うしかない。
「強大国が弱小国に侵略するのは悪で、それに抵抗するのは善であり正義だ」
「墨子の考えだね、ならばその墨守の思想であらがって見せなよ! ――オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ!」
三鈷印を結び、天竺にルーツがあるとされる異貌の仏神の真言を唱えた智羅永寿の身体から瘴気の渦が舞い上がり、空気を泡立たせた。
陰なる呪力が大気に浸透し、五気の調和を破壊する。
そこから無数の動的霊災が生まれた。
「GAAAAAッッッ!」
全身に炎をまとった獅子とも虎ともつかない魔獣ドゥンが咆哮をあげ、灼熱の牙を突き立てる。
「我祈願、顕聖二郎真君。求借三尖刀!」
水神である二郎真君の力を借りた三つ又の水刃がそれを迎撃、撃破。
だが次々と霊災は踊り出る。押しよせる霊災の群れは人獣木石の姿をした瘴気の津波だ。この智羅永寿。フェーズ3どころかフェーズ4を使役しているにひとしい。
対する秋芳は一人。すでに動かせる式神は手元にはなく、ひとりで応戦せざるをえない。
「――東海の神、名は阿明――」
百鬼夜行避けの呪が効果をあらわし、多数の霊災を修祓、駆逐するも、それに抵抗する強力な個体も何体か存在した。
瘴毒をまき散らす毛むくじゃらの病魔カワンチャが毒気の息吹を吹き、剛腕の闘鬼ターラカが暴れまわり、鳥人スパルナが高速で鉤爪を振り下ろし、妖猿オンコットが剣刃を振るう。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ! 斬妖除魔、降魔霊剣。疾く! オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!」
薬師如来の小咒で毒を防ぎ祓い、霊剣を顕現して鬼の肉を裂き、韋駄天真言でもって神速の加護を身につけ高速の敵に対処し、肉薄してくる相手にはもちまえの武術で応戦する。
「व(バ)!」
「पृ(ヒリ)!」
さらにそのうえで智羅永寿自身の呪も飛んでくるが、これも迎撃。
式神を増やせばそれだけ操作がむずかしくなり、霊力の消耗も激しくなる。多数の式を放ったうえでなお自身も呪術を使用できるのはかなりの高等技術だ。
終わりが見えない一進一退の呪術戦が延々とくり広げられた。
「……なかなかどうしてたいした手練れじゃないか、天竺でもここまでの使い手はいなかったよ。でも疲れてきたし、そろそろおしまいにしようか」
「そうかい、おとなしく退散してくれるとありがたいな」
「ああ、おとなしく退散したまえ、君がね。――अघासुर」
アガースラ。そのような異邦の言葉を口にした瞬間、巨大なあぎとが秋芳の上半身を飲み込み、かみ砕いた。
隠形に特化した大蛇アガースラだ。京子のときとはちがい相手は生身だと確信していた智羅永寿はこれに勝利を疑わなかった。
しかし――。
半身をもがれた秋芳の身体はどろん、と煙と化して雲散霧消。かわりに五体満足の秋芳がすぐとなりに生じ、大蛇アガースラの身に剣指を突き立てる。
「禁妖則不能在、疾く!」
妖かしを禁ずれば、すなわち在ることあたわず。
全身の気をめぐらせ、高めた呪力がほとばしる。渾身の呪波がアガースラの身体を貫き、侵食し、消滅させた。
「これは、なんと……」
仕留めたと思っていた相手の思わぬ反撃に、さしもの智羅永寿もこれには絶句。
秋芳は自身の身代わりとなる式神を降ろしていたのだ。
憑依型式神・煙々羅。
一定以上のダメージに反応し発動。宿主を致命傷から守り、攻撃を〝煙に巻く〟式神。
呪術というものは格闘技などの体術とは異なり、基本術者がはっきりと意識していなければ発動できない。だからこそどれほど腕の立つ呪術者だろうと不意を突かれれば為す術がない。護法式というものは不意打ち対策のために生まれた式神といっていい。
気配を消し、いざというときに術者の身を守る。
この煙々羅は身代わりに特化した護法式だ。
「おのれ、よくも自慢のアガースラを……!」
「隠形に長けた式を持ち歩いているのはおまえだけじゃないってことだ」
もはやたがいに手持ちの式はなく、純然たる呪術戦になろうとした、そのとき。
「む」
「ん」
たがいの動きが止まった。
おびただしい量の気の動きを感じたからだ。
軍気。
兵士たちの発する闘争の気が元軍と宋軍、それぞれの陣営から流れてくる。
「進め、進め! 次なる妖術を使わせるな。いまなら一気に突き崩せるぞ!」
「秋芳先生のおかげで妖怪どもは退治されたぞ。人相手はわれらの仕事、韃靼人どもを蹴散らせ!」
両軍が押しよせてくる。
宋軍は士気高々といえども元軍とは数がちがいすぎる。まともにぶつかれば勝ち目はない。
「元軍め、あれだけ大きな被害を受けてなお攻めてくるのか!」
「あれだけの規模の儀式呪術、そうそう連発はできないゆえ攻め入るならいまとでも、生き残った呪術者が進言したんじゃないかな。まぁ、実際そうだよね」
「ああ、そうだな。兵法において巧遅は拙速に勝るという。だが今回はそうじゃない」
「なんだって?」
「こっちは最初から〝次〟を用意しているんだよ」
轟音とともに天空を切り裂いて灼熱の炎につつまれた無数の巨石が落下してきた。
五体の明王に祈祷していたのとは別の場所、別の祭壇の前で京子が祝詞を唱えている。
「――天勝国勝奇魂千憑彦命と称へ奉る、曾富戸の神、またの御名は天津甕星の神、是の斎庭に仕へ奉れる、正しき信人等に、御霊幸へまして、おのもおのもの御魂に、勝れたる神御魂懸らせたまひて、今日が日まで知らず知らずに犯せる、罪穢過ちを見直し、聞き直し、怠りあるを許させたまはむことを、国の大御祖の大前に詔らせたまへ――」
天津甕星。
またの名を天香香背男( あめのかがせお)、あるいは星香香背男(ほしのかがせお)。
日本神話に登場する天空と星々を司る神であり、武甕槌命や経津主神ら天津神の天孫降臨に最後まで抵抗した、まつろわぬ悪神ともされる存在。
大いなる天空の神への怨敵調伏祈願だ。
密教系の術をもちいたその直後に神道系の術をもちいる。まさに土御門夜光が編み出した帝国式陰陽術ならではのバーリトゥード(なんでもあり)ぶりだ。
「星神よ、宙空の住者よ、星々の子らよ。はるかな世界へと至る回廊を開け。天空に輝ける星々の子らよ、わが召喚に応じ、疾く集い来たりて中空を裂く剣となれ、大地を打ち砕く礫となれ、わが敵を撃つ雷火となれ――。急々如律令!」
京子の身体からふたたび膨大な呪が放たれた。
元の軍勢が目前にせまったとき、それが起きた。
空を切り裂いて無数の灼熱の火球が落下し、軍勢のそこかしこに突き刺さったのだ。
この世のものとは思えないすさまじい轟音と閃光をあげて爆発し、周囲に火礫を飛散させた。
評定の間で「空を落としてみせます」と豪語したとおり、まるで天がくずれ落ちてきたかのような隕石群(メテオ・スォーム)の雨。
一瞬のうちに元軍の戦力は半分以下となった。実際に倒れた者は四分の一程度ではあったが、突然の災厄に動転し戦うどころではなくなってしまった。
全滅。
この言葉を辞書で引くと『すべて滅びること、滅ぼすこと。また、すべて失敗に終わること』などとある。だからアニメや漫画などで『全滅した』というと一兵残らず戦死したと思いがちだが実際の戦争である程度の部隊がひとり残らず死ぬ、などということはない。最前線に派遣された小隊や分隊の場合は別だが、作戦参加者がすべて死ぬようなことはほとんど起らない。
実際の戦争での全滅とは作戦実施部隊、あるいは守備隊がその兵力の四〇~五〇パーセント損耗することである。そこまでやられた部隊にはもう組織的抵抗力がないと判定されるのだ。この〝損耗〟というのには戦傷者もふくまれる。戦えなくなった者は生死を問わず損耗なのだ。
この場合、司令部は部隊を撤退させるか援軍を送るかの決断を迫られることになるが、こうなってはたいてい援軍など間に合わない。
勝っている側にすれば敵の組織的抵抗力さえ奪えばそれで勝利なので、なにも一兵残らず殺す必要ははい。それどころか全滅を図れば必死になった敵の猛反撃を受けて余計な被害を出しかねない。
もちろん歴史上の戦いの中には相手の全滅を企画したものがなかったわけではない。一〇九九年、第一回十字軍はエルサレムを陥落させ、そこにいた異教徒たちを非戦闘員もふくめて虐殺した。軍事的必然性からではなく十字軍が持っていた宗教的陶酔の結果だ。
しかし全滅するまで戦えという命令が出されたことはある。
第二次大戦中の一九四二年、北アフリカのエル・アライメンでエルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ・リビア方面軍九万六〇〇〇は二〇万のイギリス軍に攻撃された。武器弾薬がとぼしいなかドイツ側は善戦したが数の差はどうしようもなく戦況は不利になった。そこでロンメルはヒトラー総統に撤退の許可を求めたが、返事は「勝利か、然らずんば死を、ドイツ国民は期待する」「最後の一兵まで勇戦すべし」という内容のものだった。全滅を賭して戦えという非情なものだ。
しかしロンメルはヒトラーの命令を無視して後退。このとき彼はヒトラーの電文を「最後の一発まで」と書きかえて発表した。ロンメルは現場の総指揮官として部下の生命を祖尊重したのだ。兵士は駒ではない、家族のいる生身の人間なのだから。
ドイツでは全滅を要求する命令はこうして無視されたのだが日本はちがった。
一九四三年、アメリカ軍は日本軍が前年に占領したアリューシャン列島のアッツ島に攻撃。制海権をうばって日本側の補給を断ち、アッツ島守備隊二五〇〇人は完全に孤立した。
とうぜん増援が必要になったが、輸送船を送ってもアメリカ軍に三分の二は沈められると予想された。だとすれば防備に必要な四〇〇〇人を島に送るためには一万二〇〇〇人のうち八〇〇〇人は失う覚悟で送らなければならない。しかも一万二〇〇〇人分の武器弾薬、食糧もふくめてだ。
大本営は焦燥した結果、アッツ島を二五〇〇人ともども見捨てる決断をした。
本来ならこういう場合、現地の指揮官にあとはすべてまかせてしまうものだ。つまりある程度は戦い、その後は降伏してもよいという裁量をあたえるものだが、大本営はそうはしなかった。彼らは守備隊に対して玉砕して皇国の精神の昇華を見せろと命令した。日本軍が玉砕という言葉をもちいたのはこれが最初だ。
見捨てておいて、しかも死ねなどという無情な命令を、守備隊指揮官の山崎保代大佐は受け入れた。守備隊は陣地を出て二万のアメリカ軍に突撃するも、疲労と空腹で朦朧とした身でアメリカ軍にむかっていたったのだ。その哀れな姿を見かねたアメリカ側が降伏してくれと頼み込む始末だったという。
それでも日本軍は攻撃をやめない。しかたなくアメリカ側は応戦し、守備隊は玉砕した。二五〇〇人のうち、生存者は三七人のみ。これは負傷して意識不明だったところをアメリカ軍に捕らわれたためだ。
このあと日本軍はサイパンなどの太平洋上の島々で玉砕していくことになる。日本兵は先陣訓などで生きて虜囚の辱めを受けず。などと教育され、自分が捕虜になることは家族や故郷に至るまでの恥と考えていたため、玉砕を受け入れたのだ。
また大本営の幹部たちは自分たちの作戦指導のまずさを隠蔽するため玉砕命令を濫発していった。
一九〇四年から五年までの日露戦争で日本軍は「規律正しく、国際法を守るりっぱな軍隊だ」と諸外国から賞賛されたものだが、それからわずか半世紀も経たないうちに日本軍、特に首脳部は味方を平気で見捨てるまでに落ちぶれてしまった。
閑話休題――。
「……こんな短期間に続けて大規模な攻性儀式呪術を使うだなんて、いったい宋には達人が何人加勢しているんだい!?」
「さぁて、ふたりかな。それとも七人かな」
実際は京子ひとりの手腕であり、むしろそのほうが凄いのだが、秋芳は自分と同等の複数の使い手がいるかのようにとぼけてみせた。
「方臘どのも帰参したようだし、もうこれ以上ぼくがモンゴルに肩入れする義理も義務もないね。……アガースラを失うし、まったく中華じゃらくなことがないよ。倭国にでも行って田舎術者ども相手に憂さ晴らしでもしようっと」
最後まで言い終える前に秋芳の前から消え失せる。こうして智羅永寿は日本にわたることにしたのだが、そこで彼は高僧の火界咒に焼かれたり、護法童子に打ちのめされることになるとは夢にも思っていない。
しかしそれはまたべつのお話――。
智羅永寿が退散し、宋の軍が元軍を散り散りに掃討しはじめたとき、離れた場所にいた秋芳と京子の身体が同時に光につつまれた。
急速に視界がぼやける。身体から魂が離れて浮上し、宇宙へと舞い上がるかのような感覚――。
「秋芳くん!」
月と太陽、数多の星々が浮かぶ異空に秋芳と京子。ふたりの姿があった。
「これは、ここは……、いったい……」
深淵の奥底にして果てしない虚空の彼方。時間や空間の概念すら異なるすべての要素が偏在化している宇宙にたゆたっている。
「例の声が聞こえた場所よ」
「なるほど、ここがそうか。……しかし星読みってのはこんなすごい光景を見てたのか」
落ちるような、それでいて飛翔するかのような感覚。けれども無重力とも異なる妙な体感に困惑しつつ周囲を見れば異なる色をした七つの月や十の太陽。数えきれない星々が瞬いており、一種異様な、異界の美を感じさせた。
「いつもおんなじ風景ってわけじゃないんだけどね。それよりもいきなり呼ばれるだなんて、失敗しちゃったのかしら」
京子の貌が不安に翳る。
『ステージ1。勝利条件・滅亡の危機に瀕する宋王朝を救い、迫りくる元の軍勢を退ける。敗北条件・宋の皇帝趙昺の死亡、秋芳の死亡、京子の死亡』
謎の声はそう条件を出してきた。自分たちは無事にミッションクリアできたのだろうか。
「いや、俺たちはちゃんと宋を助け、モンゴルを撃退した。皇帝陛下だって無事だったろ」
秋芳たちは趙昺が暗殺されるのを恐れて式神を護衛につけていたが、なんの異常もなかった。
「あの時点で宋は滅亡をまぬがれたんだ。そう判断したゲームマスター、この声の主をそう呼ぶことにするが、そのゲームマスターが俺たちをあの世界から引き上げたんだ」
「余韻もなにもないわね。みんなでがんばって勝ったんだから、戦勝パーティでも開きたかったわ」
「それよりも俺は『ステージ1』てのが気になるぞ。『1』てことは『2』や『3』あるいはそれ以上あるかもしれないってことだろ。いったいいくつのステージをクリアすれば目覚めることやら……」
その言葉が聞こえたのかどうか、例の声、ゲームマスターからの声が朗々と響いた。
『ステージ1。ミッションコンプリート!』
「お、やっぱり無事クリアしたみたいだぞ」
『張世傑、陸秀夫ら重臣を死亡させない。方臘、包道乙、鄭彪、治羅永寿らの撃破。ボーナス達成』
「そんなのまであったのかよ」
『クリアタイム●●』
「そんなのまでカウントするのか。まぁ、時間制限はなかったみたいだし、いくらかかっても平気なんだろうが」
「あ~、あたしそういうのきらい。時間制限とかあるとゆっくり自分のペースでゲームを楽しめないじゃない」
「なんでもかんでも履歴に残せばいいってもんじゃないよな。撤退回数とか死亡回数とか気になるんだよ。そういうゲームに限ってソフトリセットがないからやり直しに時間がかかる」
「いらいらするわよね、あれ」
「ロード時間の長いゲームをプレイする時って、ロード待ちしている時間が惜しいから別のゲームもいっしょに遊ぶよな」
「さすがにそれはないわ」
「ブルース・リーなんてTV見ながら筋トレしつつ読書してたっていうぞ。限りある時間は有効に使わないとな」
『リトライしますか?』
「しねぇよ」「しないわ」
『ではセーブして次へ進んでください』
「あ~、やっぱりまだ次があるのか……」
『ステージ2。開始します――。舞台は――』
邯鄲之夢 8
見わたすかぎり石と砂だけで水も緑もない荒野のただ中を年端もいかない少年少女たちが進む。
みな一様に疲れ果てた表情をしており、歩を進めるのもつらそうだ。
そのうちのひとりがくずれ落ちた。
「ハンス!」
「ヨセフ、ぼくはもうだめだ。ここへおいていってくれ……」
「なにを言っている! ジェノヴァはもうすぐだ。がんばれ! ハンス、しっかりするんだ!」
ヨセフが必死に声をかけるもハンスの意識はもどらない。
「ヨセフ、無理だよ。ろくに食料も薬もないのに、ここまで来れたことがおかしいんだ。もうこれ以上は……」
「そうだよ、もう無理だ」
「ううっ」
嗚咽まじりの泣き声が周囲から漏れ聞こえる。
「神よ……。あなたはわれわれを見捨てるおつもりなのですか!? あなたのためにこんなにも苦労してきたのに……!」
この年若き者たちは少年十字軍と呼ばれる集団のひとつだ。
一三世紀初頭。聖地エルサレムを取り返すためにフランスやドイツといった西ヨーロッパ各地から一万人とも三万人とも伝わる人数の少年少女がジェノヴァやマルセイユの港を目指して旅だったのだが、疲労や病気のために無事ジェノヴァへたどりつけたのは数千人にすぎず、しかも生き延びた数千人も奴隷商人にだまされてアフリカに売られてしまったという。
「神よ、なぜです……。なぜわれわれにこんな試練をお与えになるのですか。神よ! 答えてください! 神よ、神よ、神よ! おお、神よ! 神よ、神よ、神よっ!」
「やかましいわ!」
どげしっ。
「あ痛っ!?」
「カミカミ、カミカミうるさいわっ、おまえはトイレのあとに深刻な現実を突きつけられた人かっ。それとも『ノラガミ ARAGOTO』の放送が待ち遠しいのか! というかもう放送はじまっているな。いそがしくてアリアも牙狼もチェックできん!」※執筆当時の話です。
「な、なななっ、なんだ君は? なにをわけのわからないことをッ!?」
おのれの頭をどついて意味不明なことをわめく見知らぬ青年。頭髪を剃りあげている。一瞬トンスラ
(鉢巻をしたような形に頭髪を残してそれ以外の毛を剃るカトリックの剃髪)かと思ったが、そうではない。古代エジプトの神官のように頭全体をつるつるに剃りあげているのだ。
それに見たことのない格好もしている。異教の徒であろうか。
「神仏にすがる前に自分でどうにかしようとは思わんのかっ、嘆いてばかりいないで傷病者や疲労困憊している者たちを中央に集めて休ませろ。野盗や獣におそわれるぞ」
「……いま進むのを止めたらもう立ち上がれない。こんな荒野で歩みを止めたら野垂れ死にするだけだ」
「歩けるような状態じゃないだろ、そのハンスという少年はどうするんだ、見捨てるのか」
「それでも先に進むしかないんだ……。水も食料もないこんな状況で休息すれば、眠るように死にいざなわれることだろう」
「水も食料も、それから薬も。ほんとうに、これっぽっちもないのか? ひとつまみ、ひとしずく程度もか?」
指先で小さなものをつかむ仕草をする。
「そのくらいなら……」
「ならここにもってきてくれ」
突然現われて貴重な食料を持ってこいとは、なにを考えているのか――。
見ず知らずの者からの、そのような無茶な要求に応じる義務などヨセフにはない。
しかしこの求めを拒否してはいけない。そんな予感におそわれたヨセフは仲間たちに頼んで残り少ない水と食料をかき集めてさし出した。
カラス麦やライ麦、栗や稗、蕎麦といった雑穀まじりの石のように硬い黒パンに、これまた石のように硬いチーズと干し肉。革袋の中には水で薄められたワインやエールが入っている。
「さぁ、これですべてだ」
「保存食とはいえ貧しいものだなぁ、そういえばこの時代のヨーロッパにはまだジャガイモもトウモロコシもなかったんだよな」
トマトやジャガイモ、トウモロコシといった南米原産の野菜がヨーロッパに持ち込まれるのは一五世紀の終わりあたりからだ。
ジャガイモもトモトは当初は有毒とされ、ヨーロッパの人々には嫌悪されて、悪魔の食べ物とまで呼ばれていた。ジャガイモなど「植物は種子から成長するが、ジャガイモは根から成長する。これは神が定めた雌雄による生殖ではないので性的に不純で卑猥である」という理由で宗教裁判にかけられて火あぶりにされた例がある。
だがプロイセン王フリードリヒ二世は寒冷で荒れた土地でも育つジャガイモに目をつけ、栽培を奨励し、みずから率先して口にした。さらにジャガイモ畑をわざわざ兵士に警備させることで民衆に〝貴重な食べ物〟という認識をあたえ、それまでの下賤な物というイメージの払拭にも努めた。
雑多な食料品のなかから小さな袋を取り上げて中身を見る。
「麦種子か」
「そうだ、貴重な小麦の種もみだ」
ヨーロッパ大陸は土地がやせているので小麦を増産したくとも栽培が可能な地域は限られており、この時代の小麦は貴重だ。小麦だけで作られた白いパンは王侯貴族や豪商などの限られた人の食べ物で、庶民はカラス麦などの雑穀をミルクで煮込んだオートミールなどを口にするのがやっとだった。
日本も近代に入るまで白米は貴重な食べ物で、一般庶民の間では純粋にお米だけを食べられる人は少なく、麦や粟、稗などの雑穀類を米に混ぜて食べていたが、感覚としてはそれに近い。
余談だが日本にむかしからある芋は里芋と山芋で、薩摩芋とジャガイモは江戸時代のはじめ頃に伝わったとされる。ジャガイモは江戸時代の初期では薩摩芋ほど食用にはされず、洋食の普及にともない明治時代から栽培が一般化する。当初はもっぱら観葉植物として少数が栽培されていたが宝永年間(一七〇四~一七一〇)から救荒作物として地方では食用として栽培されるようになり『お助け芋』『シロイモ』などと呼ばれた。
「たしか聖書にこんな言葉があったな『ひと粒の麦、地に落ちて死なずば、ただひとつにてあらん。もし死なば多くの実をむすぶべし』と」
「ああ……、それは『ヨハネによる福音書』の一二章にある言葉だ」
ひと粒の麦とは、人間ひとりひとりの意思や努力、生命や行動を指し。おのれの精神力や生命力を惜しまず出し切って、悔いのない、やり遂げた最期を迎えたそのとき。そこには多くの人たちの心に感動や教訓、英知が引き継がれていく――。
だいたいそのように解釈されることの多い言葉なのだが、この剃髪の青年――言うまでもなく賀茂秋芳だ――はおよそ神聖な宗教の精神性とはかけ離れた、散文的かつ即物的なおこないをはじめた。
「ちょっとまってろ、俺がこの麦をみんなの腹におさまるくらい増やしてやる。しかしここいらの土は質が悪いなぁ、土壌を改善する必要がある――」
呪を口にしつつ手にした穀物を地に蒔いてゆく秋芳。
デイドリーム枕くんで最初におもむいた仮想現実世界。モンゴルの侵略に苦しむ南宋の民人を飢えから救ったときに使用したのと同様の穀物生産系の呪術。
草ひとつ生えていなかった荒野から次々と稲穂が芽吹いてゆく。金色に輝く麦は荒野を飲み込み、不毛の大地は黄金の大海と化した。
「これは、ぼくたちは夢でも見ているのか……」
「奇跡だ!」
「……おお、神よ!」
「ああ……、『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはひと粒のからし種に似ている。ある人がそれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る』……」
驚愕の光景を前にして口々に驚きの声をあげ、十字を切る少年少女たち。
「どうだ、まさにひと粒の麦が多くの実をむすんだだろ。これでたらふくパンが焼けるぞ。……だが人はパンだけで生きるものではない――」
このあとさらに「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と続く。のだが、秋芳の口から出た言葉はちがった――。
「ビールだ! 神は人にビールをあたえたまわった。さぁ、おまえたち収穫だ!」
北イタリア、ジェノヴァ共和国。
地中海、リグリア海域に面した港湾都市。海洋国家として富み栄え、金融業や商業の中心地であり、ジェノヴァの港はイタリア最大の貿易港として世界に開かれていた。
東西南北の人と物、富と欲望のつどう地。奴隷貿易で巨万の利を得た豪商ロッティの前に予期せぬ訪問者がおとずれた。
「少年たちを自由にせよ、ですと」
「ええ、そうよ。あなたたちがだまして売りとばした子たちを解放なさい」
「だましたとは人聞きの悪い! 連中は自分の意志で契約書にサインしたのです」
「読み書きも満足にできない子たちを言葉巧みにだまして、乗船名簿だとか言って名前だけ書かせたんでしょ」
事実、そのとおりだった。
万を超す少年少女が聖地へと目指し、神の奇跡の前に海は裂け、道が開けるだろう。そう信じて最寄りの港まで行進を続けたものの当然奇跡など起こらず海は割れたりしなかった。この段階で多くの少年少女たちは失望し、故郷に帰っていく者も大勢いたのだが、それでも数百人の子らはあきらめきれずに奇跡が起こるのをその場で待っていた。
そこに数人の船乗りが現れて彼らにこう言った。
「君たちを聖地まで送ってあげよう。なぁに、心配はいらないよ。船賃はいらないさ。ただこの名簿にサインだけはしてこくれ。規則なんでね、船に乗る者はみんな自分の名前を記帳しなくちゃならんのさ。字が書けないって? なら代筆してあげよう」
願ってもないこのもうし出を子どもたちはよろこんで受け入れた。しかし船が着いたのは聖地エルサレムではなく、ジェノヴァ。この地でより大きな奴隷船に乗せられて、北アフリカで異教徒の奴隷として働かされそうになったのだ。
後世の黒人奴隷船――男女別に分けられてふたりずつに手枷と足枷をかけられ、船倉に詰め込まれ、奴隷ひとりに許された空間は寝返りすら打てないほどひどいものであり、衰弱した者は容赦なく海に棄てられ、サメの餌となる。棺桶の中のほうがまだ快適な空間であった――にくらべれば多少はマシだが、それに近いような奴隷船に移されて売り飛ばされる寸前で少年たちは異常に気づいて異を唱えたのだが、時すでに遅し。
明日にも異境の地にむけて奴隷船が出港するタイミングで、その女が現れた。
ロッティが今まで目にしたことのない、奇妙ないでたちをした女だ。女といってもまだ若く、少女と呼んでよい年齢に見えた。
亜麻色の髪に紫水晶のような瞳。奇妙ではあるが清潔感のある服装。片刃のグレートソードとグレイブを手にしたふたりの護衛をつき従えているところを見ると卑賎の身とは思えない。どこか外国からの貴顕の類ではとロッティは考えた。
ジェノヴァは貿易都市だ。遠く海外からの異邦人もよく訪れる。
世間知らずのお嬢様が奴隷にされた者たちの存在をいずこかで耳にして、哀れに思い、お慈悲をかけようなどと思いついたにちがいない。
そのお嬢様、こともあろうにせっかく手に入れた若い奴隷たちを解放せよなどと言ってくる。冗談ではない。見映えの良い者は娼婦として富裕層に高く売れるし、そうでない者も労働力として価値がある。たとえひとりでも無料で解放するつもりなぞない。
「このロッティ、そのような詐欺などしません。それに万が一そのようなことをしていたとしても、契約は契約。奴隷たちを解放する義理も義務もありませんな」
「もしもあなたが彼らみたいなあつかいを受けたらどう思うの? 人としての権利も自由も奪われて、他人に服従して労働を強制されたり、家畜や物みたく売買の対象にされるなんていやでしょ。アガペーでしたっけ。『汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ』てイエス様もおっしゃっているじゃない。キリスト教徒なのに博愛の精神や慈悲の心はないの?」
「ふんっ、あのような連中と私をいっしょにしないでもらいたい。奴隷や貧農、家畜に生まれたのは神の思し召し。すなわちやつらはその程度の存在として神が定めたもうたのだ。おのれの生まれを呪い、神の与えし運命を受け入れるべきですな」
これが当時の支配階級の人間の一般的な考えだった。
聖書のどこにも『他者を奴隷としてあつかってはいけない』とは書かれていない。それどころか奴隷制を肯定する記述がある。たとえば『エフェソ人への手紙』第六章や『テモテへの第一の手紙』の第六章では奴隷は主人を尊敬して喜んで仕えなくてはならないと説かれている。
ちなみにあの『アメイジング・グレイス』という世界的に有名な讃美歌を作詞したジョン・ニュートンという〝牧師〟もまた奴隷船の船長であった。
「そんなに連中を解放したいというのなら、お嬢さん。貴女がやつらを買い取って、そのあと自由にしてやればいい」
「人身売買なんて気が引けるけど、それが一番平和な解決手段みたいね」
「ひとり頭ジェノヴァ銀貨で一〇〇枚といったところですが、見映えの良い者や健康で力強い者はそれ以上、最高で銀貨五〇〇枚ほどいただきます。奴隷の数は六七七人ほどいますが、何人買い取りますか?」
この頃のヨーロッパでは金貨は一般には流通していない。これよりもう少し先、国際貿易がさらに発展して貿易量が多くなると銀貨だけでは不便ということになり、一二五二年にフィレンツェでフロリン金貨、ジェノヴァでジェノヴァ金貨、一二八四年にヴェネツィアがゼッキーノ金貨を――。
というように各国で通貨としての金貨を鋳造するようになる。金は銀の一〇倍の価値があり、金貨はおもに国際貿易の場で使用されたため、重さや品位は以後数百年間ほとんど変化はしなかったが、一方の銀貨は発行者の意のままに重さや品位がたえず変化した。
ものすごく大ざっぱに現在の価値にすると、この頃の労賃などから考えて、3・5グラムの金貨一枚が一二万円、一グラムの銀貨が三〇〇〇円くらいになる。
「……わかったわ、それじゃあきちんとお代を払って彼ら全員を自由にしましょう」
「全員ですと!?」
「ええ、六七七人全員よ。でも、あいにくとここで使えるおカネの持ち合わせがないの。金でもいいかしら、インゴット……、ううん、ナゲットで」
「金塊ですか? それでしたらおよそ○○リブラほどいただきます」
リブラというのはのちのイタリアリラの語源であり、ラテン語のlibra(天秤)からきていて、ここでは重さの単位を意味している。
「少し待っていてちょうだい、用意してくるから」
少女はそう言うと、ろくに返事も聞かずにロッティの部屋から退出した。
「……大ぼら吹きの小娘め、いくらなんでもそんな大金を用意できるわけがないだろう」
たしかに高貴な身分のようだが、ロッティの提示した金額は莫大な額になる。ジェノヴァでも五本の指に入るような豪商でもおいそれと用意できる額ではない。
どのような国のどのような身分か知らないが、無理に決まっている。
素直に払えませんと認めるのも癪なのであのようなことを言い、帰って行ったのだろう。
「本気で哀れに思うなら、せめて一〇人か二〇人ばかり買って自由にしてやればいいものを」
従者を呼びつけ葡萄酒を注がせる。銀のゴブレットに注がれたそれはブルゴーニュ産の上等な銘柄だ。
「あの娘はなに者だったのでしょう。見たところ良家の子女のようでしたが、ジプシーかなにかの強請り騙りの類だったのでは?」
「さてどうだろうな。しかしあの護衛ふたり、そうとうな手練れであったぞ」
片刃のグレートソードとグレイブを手にした護衛ふたり。妙に没個性でまるで仮面でもつけているかのようにずっと無表情だったが、その挙動にはいっさいの無駄も隙も感じさせなかった。そこいらの破落戸や傭兵などよりもずっと腕が立つ。商人として物だけでなく人を見る目も合わせ持つロッティはそう直感した。
「娘のほうも薄汚い漂泊民とは思えぬ本物の気品がただよっていた」
従者の言うようにジプシーの訪問詐欺であったなら拘束して奴隷を三人増やしていたところだが、とてもそのようには見えなかったし、腕の立つ護衛に暴れられては身が危ない。
だから穏便にことを進めたつもりだ。
さきほど退出した少女が代金を手にして来訪したとの報告を受けたのは、ゴブレットの葡萄酒が三回ほど満ち引きをくり返した、ちょうどそのときだった。
山ほどの黄金を運んできたて庭先に積み上げているという。
「なんだと!?」
半信半疑で庭に出てみれば、そこにはたしかに燦然と輝く黄金の山があった。
「どう、これだけあればたりるでしょ」
「も、もちろんだとも」
「ならさっさとあの子たちの身柄を譲渡なさい」
「ああ、ああ、そうしよう!」
手に取って見ても偽金の類ではない。ずしりと重い重量と質感。商人としての目利きがこれは正真正銘の黄金。それも純金だと判断した。
これだけの黄金はジェノヴァどころかヴェネツィアやピサ。いや、ヨーロッパ中からかき集めてもないだろう。それがいま目の前にあるのだ。
黄金の輝きにのぼせ上ったロッティは金塊を運んできている少女の人足が全員おなじ顔におなじ身長体格をした、まるで精巧な自動人形のようであることに気づかない。
「しかしこれだけの黄金をいったいどうやって手に入れたのですか、お嬢さん。いやお嬢様!」
「あたしの国じゃ金なんて珍しくないの。あちこちからたくさん金が出て、家の柱も屋根もみんな黄金でできているわ」
「そ、それはどこにあるなんという国です!?」
「東の果てにある黄金の国、ジパングよ。――あ、ねぇその葡萄酒もいっしょに買うわ。あたしは飲まないけど、あたしのつれが飲み助なのよね」
ロッティのもとから奴隷にされた六七七人の少年少女を買い取り、解放した京子は――そう、いうまでもなくこの少女の正体は倉橋京子で、護衛のふたりは白桜と黒楓だ――それから港の一画にあるロッティの所持していた館を丸ごと買収し、仮宿とした。
そこで元奴隷の少年少女らを国元へと送還する手続きに奔走し、三日目が経った。
その日の午後。
「アイン・プロージット、アイン・プロージット、デア、ゲミュートリッヒカイっ♪」
樽を抱えた影法師のような式をともない、秋芳が現れた。
樽の中からは馥郁たる香が立ち込めている。中に入っているのはビール。冬児が言うところの麦系の炭酸飲料というやつだ。
「おそかったわね、でもちょうど良いタイミングかも。こっちもいましがた仕事が終わったところだったから」
「ああ、全員を説得するのに時間がかかってな。特にヨセフって子が頑固で頑固で……、で、そっちは平和的に解決できたのか? 相手は人身売買をしているような手合いだろ」
「ええ、きわめて穏便に解決できたわ」
京子は秋芳に奴隷にされた少年少女たちを救い出した顛末を聞かせた。
「ちょっとまて、その金塊てのはどうやって手に入れたんだ。まさか他所から盗ってきたとか。それとも鉱石変化の術でも使ったとか――」
「鉱石変化よりももっとお手軽な術よ。愚者の黄金てやつ」
言うなり京子は部屋にあった植木鉢の中から小石を取り出して卓の上に置くと、呪を唱えだす。
詩でも吟じているかのような響きが桜色の唇からもれ、それが終えたとき卓上に置かれた小石は黄金色の輝きを放ちはじめていた。
「……幻術か」
「そう。卑金属を貴金属に変えるよりもずっと簡単でしょ。もっとも重度や密度までは変化しないけど」
物体に対して幻術を使用し、見た目はまったく別の物体に見せかける幻覚かぶせ。見鬼の才を持たないただの人間には見破られることはない。勘の良い、あるいは疑り深い呪術師が手に取って調べでもしないかぎり、京子の創りだした幻覚の黄金はこの世界で永遠に流通し続けるはずだ。見破られぬかぎり、偽物と本物とのちがいはなにひとつないのだから。
「さて、少年十字軍のほうはかたづいた。残るほうをやっつけよう」
「悪魔を崇拝する邪教徒たちを殲滅せよ、ね」
『ジェノヴァを目指し悲劇に見舞われた少年十字軍を救出し、さらにジェノヴァの平和をおびやかす悪魔崇拝の邪教徒らを殲滅せよ』
それが今回あたえられた課題だ。
「こっちはついさっき天使にいちゃもんつけられたばかりだってのに、こんどは悪魔かぁ」
「天使ですって!? タイプ・エンジェルだなんて超レアな霊災じゃない、どうしたの」
「どうもこうも聖地奪還に固執する少年らに遠征なんてしんどいからやめとけ。戦争は腹が減るだけだからと説いていたら突然現れて『神の与えた試練を邪魔するな』だの『人を誘惑し堕落させるサタンの使い』だのと難癖をつけてきたあげくに攻撃してきたから祓ってやった」
「天使なんてよく修祓できたわね~」
「タイプ・エンジェルの特性、伝え聞くとおり破邪退魔の術には耐性があったが呪詛系の術には弱かったな。まぁ、今回はたまたま弱い個体が出現しただけで、良かったよ。呪術が通用しないような大天使とか出てきたらさすがに逃げるわ」
「でも天使様を修祓なんかして、十字軍の子たちに反目されなかった?」
「そこはそれ、大人たちがおこなった十字軍の蛮行を教えて『いくら神を信じていようとも、寺院を壊したり街を焼いたりして大勢の人の命を奪うことは本当の信仰ではない。相手が異教徒だからとそのようなことをする人たちは本当の神を見失っているんだ。お偉い司祭様や領主様の命令や聖書の言葉に従うのではなく、自分自身の魂に訊いてみろ。財産を奪い、犯し、殺し、死体を食べるような行為が誤っているとわかるはずだ。聖職者の言葉は疑ってかかれ。指輪をつけた司祭の言葉よりもおのれの良心を信じろ』。とかなんとか、どっかのラノベの主人公みたいに説教して諭してやった」
若者のモラルの荒廃を憂い、『いまこそ学校で宗教教育を』などという声があるが、一部の宗教の中には突き詰めてゆくと人間の自由意志の否定にたどりつくものがある。幼児を誘拐して虐殺したりするおぞましい犯罪や、地震や洪水といった災害でさえ、神の定めた運命。つまりは神の意思ということになる。
とんでもない話である。
犯罪や災害の被害者に神の意志だの試練だのとでも言うつもりか、そもそもそれは思考を放棄して神に責任を押しつけているだけだ。
「なら良かったわね。これからどうしましょうか、今夜はここで休んで邪教徒探しは明日からにする?」
「そうだなぁ、ここ数日はビールとパンばかりだったから、ちがうものを食べたい。港町だし魚介類がいいな」
「じゃあさっそく食べに行きましょう」
「よし、行こう」
インターネットで世界の裏側の情報もすぐにわかるようになった現代。だがネットや書物だけでは絶対にわからないものがある、それは匂いだ。
作家の椎名誠は「インドに行くとカレーの香りがするかと思ったら、そうじゃなくてね、濃厚な甘い花の匂いがするんです。モンゴルは乳とチーズ。アフリカなら動物のフンや枯れ葉。韓国はニンニクですね。そこで自分の五感というものの価値を知る。体の感覚が研ぎ澄まされる。行かなければ鈍磨していく」
と述べている。
デイドリーム枕くんの再現力は匂いも緻密に表現し、港町ジェノヴァは海からの潮風の匂いのほかにも、異国からもたらされた様々な香辛料の匂いが充満していた。
ニンニク、胡椒、生姜、ナツメグ、サフラン、シナモン――。これらの香辛料は経済力や身分のある者しかじゅうぶんに使用できず。「胡椒ひと粒は黄金ひと粒」という言葉はあまりにも有名だ。
また当時の甘味料としては蜂蜜と砂糖があったが、森に囲まれたヨーロッパでは蜂蜜のほうがはるかに一般的だった。砂糖はキプロスやシチリアなどの温暖な地中海地域で栽培される高級品で、砂糖が大衆化されるのはヨーロッパがカリブ海に進出するのを待たなければならなかった。
パンとワインのローマ人に対し、ゲルマン人は肉とビールの民といってもいいかもしれない。
現代の感覚だと肉は穀物より高級で、パンにも困るような貧しい人々が肉を食べていたというのはしっくりこないかもしれないが、これは中世では豚が森に放牧されていたからだ。
現代の家畜は栽培された穀物を飼料としているのでコストが高くつく。しかし中世の豚は自然の森林が提供してくれるドングリなどを食べて勝手に肥えていったので、越冬でもしない限りコストはほとんどかからなかった。
鶏は卵のため、羊は羊毛のため、山羊や牛馬は乳や労働力のためにも必要とされましたが、豚は純粋に食肉用に利用され、穀物栽培は豚の畜産とは競合しなかったのだ。
「上条さんとイッセーと松岡とお兄様が一堂に会して悪いやつと戦う、ラノベ版『アベンジャーズ』とかどうだろう」
「お兄様ってだれよ。いや、わかるけど。あとなんで松岡は松岡なのよ」
眼下に港を見下ろせる絶好の席。酒場の二階を貸し切り、おしゃべりと料理に舌鼓を打つ。
バジルとオリーブをベースに多くのハーブと香辛料をふんだんにもちいて味つけしたアンコウ鍋、身のたっぷりつまったカニやエビ、取れたての生ガキやムール貝、真鯛のグリル、温野菜のチーズかけ、仔牛肉や羊肉の煮込み――。
ローマ人好みのパンもワインも、ゲルマン人の好きな肉もビールも、それ以外の食べ物も、一万人以上の人口を擁する貿易大都市ジェノヴァにはたくさんある。ふたりだけで食べ切れる量ではない。酒も料理も店にいた全員に振る舞った。
店への支払いは幻術の偽金ではなく本物のジェノヴァ銀貨で勘定した。人非人の奴隷商人ではない一般の商売人相手に偽金をわたすのは気が引けたからだ。「あたし金塊ならいっぱい持ってきたけどここの通貨の持ち合わせはないの。少し交換してくれないかしら」などと言ってロッティから大量の銀貨をちょうだいしたのだ。
大盤振る舞いするのには理由がある。
人の集まるところは情報が集まる。都市において一番大きい人の流れを持つのが酒場や市場だ。近場の席の人々の会話を聞くとも無しに聞いていても、それがなにかしらの情報になる。振る舞い酒で口がすべりやすくなればなおさらだ。
「まず邪教集団というのがどういう集団なのかわからん。キリスト教的にはヤハウェ以外の神を信仰する集団は仏教だろうが神道だろうが道教だろうがすべて邪教ってことになる。だが『ジェノヴァの平和をおびやかす悪魔崇拝の邪教徒ら』と明言しているからには実際にたちの悪い悪魔を崇める、ろくでもないやつらなんだろうな」
「悪魔崇拝ねぇ……、KKKみたいな連中が夜の墓場でサバトや黒ミサでもしているのかしら」
「日本人としては淫祠邪教といえば真言立川流が思い浮かぶな」
よく混同されがちだがサバトと黒ミサは異なる行事だ。サバトは魔女と呼ばれる人たちがいにしえの神を崇める夜宴で、黒ミサはキリストや神を冒涜することを目的とした儀式である。
立川流とはインドのタントラという経典を元にした密教の一派だ。仏教は禁欲の宗教といわれているが、平安時代にインドから伝わったタントラでは男女の性行が悟りに至る最高の修行とされる特異な宗派で、仁寛という僧侶が一般に広げた。彼は政争に巻き込まれて関東の地に流刑されてしまうが、そこでタントラの教えを説いていたところ武蔵国立川の陰陽師、見蓮と出会い、彼にタントラの奥義を伝授した。
仁寛の死後、見蓮は陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立したという。
立川流はその後、文寛という僧侶を輩出し、ときの天皇まで魅了し朝廷を動かすほど発展するのだが、結局は弾圧を受け滅んでしまう。
「邪教……、カルトといえば暗殺教団。なんてのもあったわよね、アサシン」
「ああ、十字軍の要人を狙って暗殺していったイスラムの暗殺教団か。時代的に合うな」
「それと、なんだったかしら。インドの……」
「タギーだな」
タギー。あるいはサギー、サッグとも。
破壊と殺戮を好むヒンドゥー教の女神カーリーを信仰し、人を殺すことを教義としていた暗殺教団。血はカーリーへの貴重な供物という考えから流血はタブーとし、もっぱら黄色いスカーフでの絞殺を旨としたという。この暗殺教団の教団員はひとりあたり平均三二〇人もの人を殺してカーリーに捧げていた。なかには五〇年の間に九三一人も殺害したという猛者もいたという。
「むちゃくちゃよね、インドはお釈迦様の国なのに」
「そういう血生臭い国だからこそ平和主義者の釈迦牟尼尊者が輝いたんだろうな。だが結局仏教はインドには定着せず衰退した。あの国はある意味で中国よりも生命が軽いからなぁ」
「慈愛と非戦の精神に満ちた宗教が生まれる必要があったにもかかわらず、いざ生まれてもそれが定着することはかった。いかに荒れていたかがわかるわね」
アサシン、タギー、宋代の殺人祭鬼、ユダヤの短剣党――。
剣呑で血生臭い話題をしつつも酒食は進む。そのあいだにも階下から何人かの客がお礼に酒を注ぎに来たので最近なにかおかしなことでも起きてないかを訊いてみると、酒の勢いもありよくしゃべることしゃべること。さまざまなことが聞けたが、特に気になったのが押し込み強盗と幼子のかどわかしが頻繁に起きていることだ。
事件はいずれも深夜に起きているというそうで、押し込み強盗はおもに商家が狙われ、家族も奉公人も皆殺しの畜生働きという残忍な手口。さすがに最近では門戸を固くしたり護衛をつけたりと警戒されているせいか事件は減少。幼子の誘拐のほうは貧民層を中心に被害が出ているが、強盗におそわれた家からも年端もいかない子どもが遺体も見つからず行方不明になることがあいつぎ、同一犯のしわざではと噂されている。
「――ところでジェノヴァで一番の金持ちで、なおかつ一番の悪党はだれですかね」
「これは妙なことをお聞きになる。……そうさなぁ、一番かどうかはさておき、財務府の××や△△、海軍局の○○、それと●●伯や■■侯――。この人たちは斯々然々ホニャララ ホニャララという具合でして――。おっと、このことはここだけの話にしてくださいよ」
「はい、もちろんですとも」
「……ちょっとちょっと秋芳君、なに不穏なこと訊いてるのよ」
「なぁに、ここでの遊ぶ金がなくなったらどこから調達しようかと思ったんだ。毎回偽金を売るのも芸がないだろ。しかしあれだな、やっぱり政府高官てやつには悪党が多いみたいだな。……ディーン・レイ・クーンツという作家を知ってるか?」
「知ってる。アメリカの国民的作家でしょ。『ウィスパーズ』や『ウォッチャーズ』とか有名よね、原作は読んだことないけど映画化された作品なら何作か観たことあるわ」
「その人が作品のなかで、こんなことを述べている。『政治家とは、他人を支配する権力を求めて悪党がよく選ぶ職業だ』とね」
「日本もアメリカも似たようなものね」
「金持ちや権力者に悪党が多いのは場所も時代も変われど一緒だな。俺に言わせれば年収五〇〇万以上のやつはブルジョアだ、ブルジョアは財産を没収してコルホーズ送りにしちまえばいい」
「……犯罪の多くがお金目当てだって聞くわ、貧困が原因てわけよね。そりゃあお金持ちのなかにも脱税とか贈収賄とか悪いことする人はいるでしょうけど、統計的には低いほうでしょ。貧困層の金銭目的の犯罪のほうがだんぜん多いわよ。……年収五〇〇万以上だとか、それだとあたしのお父様もあてはまるじゃない。あなた、陰陽庁長官を集団農場で土仕事させるつもり? それにあなた自身も〝アルバイト〟の収入を入れればそのくらい稼いでるじゃない。自分も農場送りになるわよ」
大いに飲み、食べて、その日は帰路についた。
翌日も、翌々日も、翌々々日も場所を変えては大盤振る舞いをくり返した。
なにも目的を忘れて遊興に耽っているわけではない。昼は市場で聞き込みをし、夜は酒場で邪教集団に関する情報収集をしている。またわざわざ奢侈に振る舞うのは押し込み強盗をおびきよせるのが狙いだ。
そんなある夜。
丑三つ時、現実世界の日本なら霊災がもっとも多く発生する魔の時刻。午前二時ごろのこと。不夜城と呼ばれるようなジェノヴァの歓楽街もさすがに寝静まる。
街灯はことごとく消え、夜回りする衛兵らが通り過ぎた後は墨を落としたような暗闇と深海のような静けさが広がる。
漆黒の中を兇族の一団が駆ける。
一〇人以上の集団が街路の中を走っている。
着ている服も、顔を隠す覆面も濃い藍色や茶色だ。この色のほうが黒一色よりも夜闇に溶け込みやすいのである。
兇族の一団が狙うのはひと組の男女。近ごろジェノヴァの街に現れた東方からの貴人、秋芳と京子だ。
なんでも彼らの故郷では大量の黄金が産出するとかでえらく羽振りが良く、七〇〇人近い奴隷たちを買い取って無償で解放し、毎晩のように酒場をハシゴしては、そのたびに他の客らに奢りまくっているという。
遥か東方からの旅行者は、わずか数日でジェノヴァの有名人となっていた。
「ふん、ちゃちな錠前だな」
兇族たちはあざやかに館への侵入をはたした。
狙いはもちろん金。そして男女の異邦人の命。
そう、命だ。彼らの信奉する神は生贄を欲する。
聖書の神もまた生贄を求める。旧約聖書の『創世記』第二二章には神がアブラハムに自分の子を生贄にささげよと命じるくだりがある。現在の聖書ではアブラハムが我が子イサクを殺そうとした瞬間に神がアブラハムを止め、アブラハムは近くにいた雄羊をイサクの代わりにささげた。ということになっている。
しかし聖書学者の研究によると二二章の一一節から一六節はあきらかに後世の加筆であり、『創世記』の原型となった文章ではアブラハムは実際にイサクを殺してしまったらしい。その証拠にこの章のあとの部分ではイサクはまったく出てこなくなる。
いずれにせよ神はアブラハムの行為を褒め称える。すなわち「神の命令があれば我が子でも殺すべし。神の命令は絶対であり人間の倫理や親子の情愛よりも優先する」というのだ。
なんともおそろしい神ではあるが、この兇族たちの信奉する神はそれ以上に禍々しく邪悪な存在だった。
遠方からの旅人はもってこいの獲物だ、スウィーニー・トッドやソニー・ビーンの例を持ち出すまでもなく、旅人殺しは足がつきにくい。
まず使用人たちの眠っているであろう部屋をおそった。少し前まで館に勤めていたロッティの家人から館の見取り図を入手しており、迷いはしない。
「さわぐな、声を出せば殺すぞ!」
ひとりひとり縛りあげたり殺害したりはしない。そのようなことに時間を割かず、足の腱を切り逃亡をふせぐという効果的で非情な手口。それがいつものやりかただった。
「……なんだ!?」
恫喝の声と凶刃とを高々とあげた男は困惑した。人の気配がまったくしないのだ。
「逃げたか?」
「そんなバカな」
「おまえとおまえは入り口を見張れ」
「どこかに人が隠れていやがるぞ、探し出せ」
「それ以外の者は金目の物を探せ!」
頭目と思われる男の指示に賊たちは左右に散った。寝台の下、引き出しの中、中庭、ベランダ……。
兇族のひとりが裏庭にある離れ小屋から光が漏れているのを見つけ、頭目に報告する。
「よし、周りを囲め。中のやつをひとりも逃がすなよ」
包囲をせばめ、中の様子をのぞき見た頭目が驚愕に目を見開く。
床、壁、天井、すべてが黄金に輝いている。
「こ、これは……」
黄金に魅入られ、中へと入る。
室内には無数の燭台が照り輝き、真昼のように燦々としていた。そのうちのひとつを手に取って見ればダイヤモンドが装飾にほどこされていた。
黄金製の燭台ひとつでもかなりの値打ちだが、さらにダイヤモンドまで装飾されているとなれば、その価値は莫大なものになる。
テーブルの上に置かれた金の水差しや壺といった調度品にもルビー、サファイア、エメラルド、オパール、トパーズなどの宝石が惜しげもなく使われていた。
ジェノヴァのいかなる王侯貴族や豪商司祭も、ここまでの富は持ち合わせていないだろう。
「Fantatico!」
「Viva!」
兇族たちは狂喜の声をあげて手当たり次第に宝物をかき集める。それなりにとれていた統制など雲散霧消し、獲物に群がる盗賊そのものと化した。
「お気に召して? 好きな物を好きなだけ持って行ってもいいわよ」
いつの間にか館の住人である京子と秋芳の姿がそこにあった。財宝に心をうばわれていた兇族たちはふた呼吸ほど反応が遅れてしまう。
白刃を抜いて切り掛かろうとする気勢を制して声をかける。
「ここにあるのはあたしたちの持っている財産のほんの一部。ジェノヴァでの遊ぶお金にすぎないわ。ゴールドやジュエリー以外にもこういうのもあるわよ」
京子が手にした銀製のグレイビーボートを卓上にある皿にかたむけると、そこから黒褐色の粒が流れ落ちた。
胡椒だ。
「甘いのもあるぞ」
秋芳も手にした袋を逆さにする。そこからは真っ白い砂のようなものがさらさらと流れ落ちる。
「砂糖だ。葡萄酒や茶にでも入れて飲んでみるか?」
声にならないどよめきが兇族たちの間に漏れる。砂糖も胡椒とおなじくらい貴重な品で、薬としても珍重されていた時代だ。
「さぁ、剣呑な物はしまってくれ。……これだけあれば危険な盗人稼業なんかともおさらばできる、俺たちと仲良くして損はないと思うがな」
「う、うむ」
頭目が剣を収めると、他の者たちもそれにならった。
「話のわかる人たちで良かったわ。さぁ、お近づきのしるしにお酒でもどうぞ」
どこからともかく使用人たちがあらわれ、酒と料理を運んでくる。ついさきほど念入りに探したときには人っ子ひとりいなかったにもかかわらず、いったいこの者たちはどこからわいて出たのか。なぜ似たような顔をしているのか。
だがそんな当然の疑問も男たちの頭には浮かばなかった。黄金の魔力に魅せられ、心が蕩けてしまい、正常な思考ができなくなっているのだ。
「Buono! これはなんという料理だ!?」
「それは豚肉と野菜を細切りにして炒めて卵焼きを帽子みたいにかぶせてあるの。こっちのパンにくるんで食べてみて」
「こっちのなんだかふわふわした泡みたいのはなんだ?」
「富貴金絲盞。卵の白身にチョウザメと牛肉の細切りを入れて型に入れて蒸してある。新鮮な野菜と一緒に食べるんだ」
「Buono! Buono! この綺麗なやつはなんだ?」
「それは白身魚を丸揚げにして果物のソースをかけてあるのよ。果物は一〇種類ぐらいで、熱帯のものが中心ね」
「Meraviglioso……、Fantastico……!」
見たこともない金銀財宝と香辛料をふんだんにもちいた美味菜肴の山。物欲と食欲を満たされすっかり籠絡されてしまった。
「……これらはちょっとしたみかじめ料だと思ってください。夜の街は治安が悪いですからあなたたちのような人と交際ができれば安心です」
「う、うむ」
「特別に便宜を図って欲しいのですが」
「それは我らの一存では、な……」
兇族たちはおたがいの顔を見合って口ごもる。言うべきか言うまいか、この貴顕の男女の命を奪うかどうか、決めかねている。
「あなたたちに命を下している人がおいでですか? それはどのような方です」
「それは――」
頭目がみなを代表して言いかけたとき、その表情が苦悶に歪み、吠えるような叫びをあげた。その開いた口からなにか赤黒いかたまりが飛び出して、宙に孤を描いて壁に叩きつけられる。黄金の壁を赤黒く染めたそれは頭目の心臓であった。いや、心臓だけではない。胃や肺といった臓腑が頭目の口から吐き出され、あたりはたちまち生臭い臭気に満ちた。
満ちたのは血と内臓の臭いだけではない、瘴気もだ。
霊災である。
「VURUGALALALALAッッッ!」
臓物が宙に浮き、髑髏のような姿になり、けたたましい哭き声を発すると瘴気の風が巻き起こり、颶風が屋内を駆ける。秋芳と京子はとっさに結界を張って防いだが、兇族たちは無防備に巻き込まれた。呪力に対する備えのない哀れな兇族たちはみな頭目とおなじように口から内臓を吐き出し、ことごとく悶死した。
「भ्रूं(ボロン)!」
大日如来の肉髻を神格化した熾盛光仏頂の種子真言が秋芳の口から放たれる。悪しき存在は瞬時に盲目と化すとされる仏の光明。
悪鬼邪霊にすこぶる効果のある破魔の光がほとばしり、おぞましい霊災を瞬時に修祓した。
「いったいなんなの、これ……」
京子はのどもとをおさえ、兇族たちの骸から目をそむける。いつの間にか部屋の中の様子も一変していた。黄金も金銀財宝の調度品も料理もない。ろくに家具も置いていない質素な部屋。
ただ部屋のすみに置かれた香炉からただようかすかな匂いが、血臭をかすかにおさえていた。
香を使う呪術がある。
男たちの残暴兇猛な気は隠しようもない。ひとりだけならまだしも、一〇以上の兇族の集団がいれば悪い気が黒煙のように立ち上っているような様子が勘の良い見鬼ならばいやでも気づく。
この兇族たちが邪教集団へつながる糸の一端になるかもと考えた秋芳は幻覚作用のある香を用意し、隠形して待ち構えていたのだ。
思い通りに籠絡され、情報を聞きだそうとしたのだが、永遠に口を閉ざしてしまった。
「……こりゃあ呪詛式だ」
「呪詛?」
「ああ、無理やり動的霊災に分類するならタイプ・スペクター、ラルヴァといったところか」
ラルヴァ。あるいはラルウァイ、ラルバー、ラールウァとも。
古代ローマに伝わる亡霊の一種。生前のおこないや正しい葬儀ができなかったことにより冥界に行くことができず、地上をさまよっている悪しき霊。生者を呪い殺すという。
一種の精霊としても見られていたが、キリスト教以降は悪魔の一種だとされるようになった。意志の弱い者や煩悩を抱く者に憑りつくとされる。その姿は人間の胎児や動物、死体や血液といったおぞましいもので、また一瞬たりとも同じ姿にとどまることもないとも。
また、処刑された罪人からただれ落ちた血液や精液、女性の経血、夢精によって放出された精液といったキリスト教的に汚らわしいものから発生するともいわれる。
「こいつら、呪にかけられていたな」
呪術のなかには限られた条件が満たされた場合にしか発動しないものがある。相手に対してなにかを呼びかけ、相手がそれに返事をしたときにのみ発動する。といったもので、そうした条件のひとつが〝約束を破る〟だ。
術者となんらかの約束。見たことをしゃべるな、などの約束を交わし、それが破られたとき術者はそれを感知でき、あらかじめかけていた呪が発動する。
「他人に自分のことを知られたくないから『私のことをしゃべるな』とかの呪をかけていたんだろう」
「うっかり口に出そうになったから呪が発動したってわけね」
「ああ、しかしわざわざ命まで奪うような強力な呪をかけるとは、えげつない。今回の敵は人の命をなんとも思っていないようだ」
「そのうえ実力のある呪術者みたいね。……これからどうするの? いまのであたしたちが普通の旅人じゃないってむこうにも知られたと思うけど、またなにかしかけてくるかしら」
「警戒して二度と手を出してこない可能性もある。やはりこいつらを手がかりにするしかないな」
「死体から情報を聞きだす呪術とか、あるわけ?」
「まぁ、そんなところだ。いささか邪法に近いがな」
月明かりに照らされて、地に座した秋芳が呪を唱えている。
館の中庭には祭壇が設けられ、その上にふたつに割れた石。双葉のように二枚に開いた貝。人という字が書かれたうえで二枚に切り離された紙。などなどが置かれていた。
それらの乗った祭壇の向こう側に人の死体が横たわられている。
臓腑をない、兇族の頭目の死体だ。
その体にはおびただしい量の文字が書かれていた。
漢字でも梵字でもない、奇妙な紋様のような字。
秋芳の低い声が潮の匂いのまざった夜気に乗って風にはこばれていく。
臓腑を失ったことによって腹部が異様にへこんだ全裸の体の表面にびっしりと奇怪な紋様が書かれているのは、ひどく禍々しい光景であった。
「祈願明鬼、祈願使鬼、祈願探心――」
秋芳は呪を唱えながら舞うように腕を動かし、祭壇の上にある二枚の貝を合わせた。
「祈願至生至死、祈願返鬼、祈願常傍――」
また、しばらく呪を唱えてから、こんどはふたつに割れた石の割れた部分を合わせ、ひとつの石にした。
びくり、と兇族の死体が動いた。
「きゃ」
離れた場所から秋芳のやっている奇怪な儀式をながめていた京子の口から思わず小さな悲鳴が漏れる。
「邪法に近いっていうか、邪法そのものじゃない……」
びくり。
びくり、びくり。
びくり、びくり、びくり――。
痙攣したかのように兇族の死体が動く。
「祈願鬼気招来、祈願使鬼創造――」
さらに秋芳は二枚に切り分けられていた紙を合わせる。切り離されていた字がひとつになり、〝人〟という字がそこに形をなした。
兇族の死体の動きが大きくなり、ついに上体を起こした。
「うぅぅ……ぁぁぁ……、ウアァァァ~」
うめき声をあげて右手をつき、膝を立て、立ち上がろうともがく。
「……っ!」
京子はあまりのことに声もない。
そして、ようやく兇族の死体は月光の中に立った。
「厭魅をもちいた死霊術の一種、泰山府君祭の下位版だ」
「それ、生き返ったわけじゃないのよね……」
「ああ、あくまで死にぞこない(アンデッド)だ。スカイリムでいうところの死の侍従的な存在だな」
「あたしスカイリム知らないし」
ゆらり、ゆらりと身をゆすり、兇族が歩き出した。
「行くぞ、京子。こいつの体が邪教徒のもとへ案内してくれる」
「え、ええ。でもそのままじゃ目立つから、幻術でもかぶせたら」
「たしかに、歩く死体そのものだしな。幻術は苦手だから京子、たのむ」
こうして秋芳と京子は兇族の死体に案内させ、彼らに命令を下した人物を突きとめようと行動をはじめた。
つきつめた先で邪神バフォメットを崇拝するテンプル騎士団の闇司祭との戦いが待ち受けているのだが、それはまたべつのお話し――。
秋芳と京子はいくつもの世界を舞台に様々なミッションをクリアしていった。
リンカーン暗殺を阻止し、タイタニック号の航海を無事に終わらせ、飛行船ツェッペリン号を墜落から救った。スペインの魔手からインカ帝国を守り、サラディンを助けてリチャード一世率いる十字軍を追い払った。百年戦争の時代、サン・トゥーアン大修道院の地下牢から火刑に処される寸前のジャンヌ・ダルクを救出し、純潔の魔女を助け、人界に不要な干渉をしてくる天使の姿をした霊災を修祓した。
記憶を失いかぐや姫になった京子の記憶を取り戻すために秋芳が大伴のみゆきや石上まろたりに続く六番目の貴公子としてはるばる天竺まで秘宝をもとめ、最終的には月にまでおもむいた。
ときに難解な謎かけが、ときに強敵との戦いがあったが、ふたりで力を合わせて乗り越えてきた。
最終ステージまで、あともう少し――。
ときおり鯉や亀が悠々と泳ぐ姿を見せて水面に波紋を生じさせる以外は玉盤に漿水を湛えたかのような静穏な湖面。
湖のほとりには無数の柳が枝を垂らし、奇岩怪石、石仏や石塔、半円を描く太鼓橋が建ち並んでいる。
まるで『金瓶梅』や『紅楼夢』かなにかの挿し絵に見える、中華情緒あふれる眺めだ。
湖のほとりに唐風の屋根をした四阿があり、中にはふた組の男女が並んで寝そべっていた。
秋芳と京子だ。
横になったまま丸窓から外を眺めている秋芳のとなり、規則正しい寝息をたてていた京子が急に身じろぎし、強く抱きついてきた。
「どうした」
「ん……、変な夢を観ちゃって……」
「夢の中で夢を観るとは、なかなか乙な真似をする」
ここはまだデイドリーム枕くんによる夢の中。数あるステージの中には休息のために設けられたかのような、とくにクリア条件がなく自分の意志ですぐに先へと進めるステージがあった。
そのようなステージはたいてい美しい景色や美味い料理が楽しめる設定となっており、秋芳と京子はボーナスステージと呼んだ。
いまいるこの場所もそれらのうちのひとつで、漢文化に傾倒した風流人の造ったような数寄を凝らした池泉庭園で、ぞんぶんに観賞してひと休みしていたところだ。
「こわい夢だったのか?」
幼児のように抱きついてくる京子の身体をそっと抱き返して頭をなでる。ほんのりと甘さを感じさせる花のような香りが鼻腔をくすぐる。現実世界でも京子が身に焚き染めていたお香の匂いだ。
このお香。秋芳がみずから調合したものである。
良き香りは邪を祓い魔を退ける。
そう主張して陰陽塾での授業に調香を取り入れ、塾生たちに香を作らせた。そして秋芳と京子はおたがいに作った香を相手にプレゼントしたのだ。
「夢そのものは全然こわくはなかったんだけど、変な夢。宇宙人とか出てきたし。それに、さびしかった」
「宇宙人が出てくるさびしい夢ってなんだよ」
「夏目君も天馬も春虎もいたのに、あなただけはいなかったの。それがさびしくて、こわかった」
「夢の途中からいなくなったんじゃなくて、最初からいなかったのか?」
「……うん」
一緒にいた人がいなくなってしまい、探しても見つからずに戻ってもこない。
これは、いなくなった人物との関係が切れてしまうことを示している。 特に道を進んでいたような状況は要注意だ。道は人生を表しているので、人生において、いなくなった人との関係が切れてしまうことの暗示だ。
秋芳も京子も陰陽師として卜占の、夢占ないの知識がある。即座にそのような解釈をした。
星読みとしての能力を持つ京子が観た夢なら、そうむげにはできない。
「くわしく思い出せるか」
「ええ、そうね……。あ、あのね、鈴鹿ちゃんがいた」
「すずか?」
「そう。十二神将の大連寺鈴鹿ちゃん」
「なんでまたそんな娘が夢に、大連寺鈴鹿とは知り合いなのか?」
京子の父は陰陽庁長官にして祓魔局局長でもある十二神将の筆頭『天将』倉橋源司だ。その関係で面識があってもおかしくはない。
「残念ながらまだご縁がないのよね」
史上最年少で陰陽Ⅰ種を取得して十二神将に名を連ねることとなった、『神童』の異名を持つ少女。 その経歴と魅力的な容姿から陰陽庁の広告塔としてアイドルのような活動もしている。陰陽師を目指す同年代の若者で彼女を知らない者などいないだろう。
京子もまた彼女のファンであり、彼女が特集された月刊陰陽師は大事に保管してある。
「で、夢の中でその鈴鹿と宇宙人はどうからんでくるんだ」
「それは――」
京子の観た夢とはどのような内容か、夢の中での夢語りがはじまった。
後書き
京子の観た夢の詳細はこちら。
https://www.akatsuki-novels.com/stories/view/200354/novel_id~20702
邯鄲之夢 9
「――というような夢を観たの」
「宇宙人かぁ、いったいどんな意味があるんだろうな」
「グレイタイプの宇宙人やエイリアンなんて『神霊感応夢判断秘蔵書』にも載っていないし」
『神霊感応夢判断秘蔵書』とは安倍晴明が書いた夢占いの本だ。
雷に打たれる夢は出世や収入を得る吉夢、梨は夫婦不和の兆し。などなどと吉凶を判じているが、さすがに宇宙人は出てこない。
なお悪い夢を観たさいは「夢はみづ難波の事もいはでよし、ちがひやり戸のうちに寝たれば」と唱えると凶夢を吉夢に変ずるという夢違えの法がある。
悪夢にうなされるかたは試してみてはどうか。
「まぁ宇宙人といっても外見だけで、結局はただの動的霊災だったわけだし、星や山を登ったという内容のほうが重要だろう。山の夢……。山は困難や努力の象徴。山の頂上へ到達する夢は大きな目標を達成し成功を収めることを、夜空に輝く美しい星を見る夢は願望成就を暗示する。吉夢といえば吉夢だが、同時に空高く輝く星は、手の届きそうにない目標や到達点や高嶺の花の象徴でもあるから……」
「もうっ、そんなことよりもあなたがいないってことの方が重要でしょ」
「死別の暗示かな」
「ちょっと、サラっとこわいこと言わないでよ」
「だが実際に存在の忘却や消失は死を暗示するとみていいだろう。なぁ京子、もし俺が死んだらよみがえらせてくれよ。無に帰すのはいやだからな」
「反魂法? あたしに泰山府君祭でも執り行わせるつもり?」
「泰山府君祭でも六道冥官祭でも金剛寿命陀羅尼でも北斗七星延命経でもなんでもいいけどな。五体満足、意識鮮明で復活できるなら」
「わかったわ、あなたが死んだら絶対に生き返らしてあげる。そのかわりあたしが死んだ時はあなたが生き返らしてちょうだい」
「もちろんだ」
「約束よ」
「約束だ」
池をへだてた竹藪から涼風が渡って来た。風にかすかに良い匂いが混ざっている。
すると足音がして稚児髷を編んだ童女が絵皿を掲げて四阿に入ってきた。秋芳と京子のもとに寄ると美しい二重の目を輝かせて捧げるように絵皿をさし出す。
絵皿には寿包。桃の形をした饅頭がいくつも乗せられ、湯気を上げていた。
しばし飲茶を楽しむ。
「……ああ、でも自分の命を代償にするようなバカな真似はしないこと」
「当然よね、せっかく息を吹き返してもあなたがいないんじゃ意味がないわ」
「そうだ。愛しい人がいるからこそ生きる意味がある。そうでない世界なんてなんの価値もない。……だから、京子、こいつはあくまでも仮定の話だが。自分以外のすべての人間を犠牲にしてよみがえらせたとしても、怒ってくれるなよ」
「あたしはまず死なないし、あなたも死なせないから安心なさい」
残るステージもあとわずか、ふたりは次なる世界へと旅立った。
5……4……3……2……。
ついに最終ステージへとたどりついた。
煤けた天井と色あせたカーテン、安物の芳香剤の匂い。
狭くて薄暗い一室にあるベッドの上で秋芳と京子は目覚めた。
「どこかしら、ここ」
「この部屋は……、レンタルルームみたいだな。それも渋谷の」
室内を一瞥し、窓の外を確認。雑居ビルが乱立する街並、遠くにある見覚えのある建物。それを見た秋芳はそう判断した。
「レンタルルーム?」
「まぁ、ひとことで言うとラブホテルのショボイ版かな。浴槽がなくて狭いシャワー室しかない」
「へぇ~、だれかと来たことあるの?」
「そんなことよりも! ここは最終ステージだろ。ミッションクリア条件は聞こえないのか?」
各ステージのクリア条件は京子が天の声を受信する。託宣というかたちで知らされてきた。
「……妙ね、なにも聞こえない」
「たしかに妙だ。いままではすぐ勝利条件だの敗北条件だのが知らされたのに」
「それで秋芳君はこういう場所にだれかと来たことはあるの?」
「妙といえばはじめて現代が、それも俺たちに馴染み深い場所が舞台になったな。今まではせいぜい近代までだったのに」
「ねぇ、だれかと来たの?」
「ここでこうしていてもしかたがない。ふたりはとりあえず外へ出ることにした」
「なに勝手にナレーションして先に進めようとするのよ! 質問に答えてちょうだいっ!」
「いやいやほら、あったんじゃんラブホ回。『エスケープfrom道玄坂』だっけ。あれでラブホ街に来てたでしょ」
「メタな発言して話を逸らさないで!」
わーきゃーともめつつも屋外へと出る。
「思ったとおりここは渋谷。円山町だ」
渋谷区円山町。
渋谷駅周辺。センター街や道玄坂が街の表だとしたら、道玄坂から一歩裏手に入った百軒店は裏の顔といったところか。大正一二年の関東大震災の復興に際して、若者が集うための喫茶店や映画館。BARなどの飲食店が集り、軒数は一〇〇軒を超えたことから渋谷百軒店と呼ばれる、戦前の面影を残したディープなエリア。
そして裏も裏、影の顔を持つ場所が円山町だ。百軒店に連なる飲食街だった一画が、いつの間にやらラブホテル街へと変貌した。
人間が生来持つ欲望の渦巻く場所。真っ昼間だというのに人前で堂々とホテルへ出入りするカップルたちの多いこと多いこと……。性の解放区だ。
「ここ、現実世界じゃないわよね。あたしたち、全ステージクリアしたんだけど、最終ステージのことを忘れちゃってるだけとか」
「む……、たしかに。目覚めた後のことをあまり考えていなかったが、体感時間にして何年という年月を夢の中で過ごしたんだ。精神になんらかの影響があってもおかしくはない、目覚めの直後に意識が朦朧としてほっつき歩いたり寸前の記憶をなくしている可能性はある」
「やだぁ、あたしたち知らないあいだに……し、し、しちゃってたり?」
「おたがい衣服の乱れはなかったし、それはないだろ」
「ならいいんだけど……」
「やっぱりはじめてはムードのある場所がいいよな」
「当然よ」
「月明かりの下、瑞々しい緑の広がる苔庭を一望できる草庵で契りを結びたいな」
「それがあなたのはじめてだったの?」
「んも~、そうやって話を蒸し返す~」
狭く入り組んだ路地裏の区画から表通りに抜けた瞬間、秋芳と京子に人々の視線が集中する。
おどろき、おそれ、怒り、憎しみ、うたがい――。
気を読む力に長けた如来眼の持ち主である京子は視線に込められた感情をつぶさに察知した。
「この世界の俺たちは有名人、それもあまり善良ではない部類に属する類の。という設定なのかな」
「ちがうと思う。みんなあたしたちじゃなくて、あたしたちの着ている服にまっさきに注目しているもの」
「鋭いな」
この世界でふたりの着ている服は陰陽塾の制服だった。平安時代の装束である狩衣を元にデザインされた、男子は黒、女子は白の制服。べつだん奇異な服装ではない。ましてここは陰陽塾のある渋谷だ。繁華街を歩けばひとりやふたりくらい制服姿の生徒を目にすることもあるだろう。
さらにひとりとして目を合わそうとしない。こちらが顔を向けるとみな一様に顔を背けて歩みを早める。まるでチンピラや狂人を忌避するようなそぶり。
「少し離れているが陰陽塾に行ってみるか」
「ええ、知っている場所のほうが落ち着くし、とりあえずそこで情報収集しましょう」
曇り空もあいまってか、日中にもかかわらず街全体が暗く陰鬱な雰囲気につつまれているように感じられた。
軒を連ねる飲食店のほとんどがシャッターを閉ざしている。中には夜から営業する居酒屋などもあるだろうが、それを考慮しても開いている店が極端に少ない。ここは渋谷一の飲食店街だというのに。
道を行き交う人々はみな精彩を欠き、怒ったような、くたびれたような表情をしていて笑顔の者などひとりもいない。
「まるで地方都市のさびれた商店街だな」
「それどころかスラムだわ」
ひとめで路上生活者とわかるような身なりの者も多い。
「やっぱりここは元の世界じゃない。……ここはこんな死んだ街じゃない」
「ええ、あたしもそう思う。渋谷はこんなにさびれてなんかないもの。でもやっぱり声は聞こえないわ」
「まさか、最終ステージはそういう情報なしでクリアしろとかじゃないだろうな」
どこからか食欲を刺激する匂いがただよってきた。トルコ風の建物のある広場から美味しい匂いがする。
「東京ラーハ。ここはさすがに閉鎖されていないようだな」
東京ラーハ。渋谷にある回教寺院で、オスマン様式が特徴のモスクだ。
そこの敷地内でボランティアと思われる人たちが炊き出しをおこなっていた。
炊き出しというと豚汁がつきものだが、イスラム教では豚食は禁じられている。禁忌を避けて鶏肉と野菜たっぷりのスープ。それにパンを用意しているようだ。
イスラム教には持てる者が持たざる者に食べ物や財産を分け与えよという、ザカートやサダカと呼ばれる喜捨の教えがある。モスクのムスリムたちが貧しい人々に施しを与えるのは当然の行為だ。
現代の地球では『イスラムなんちゃら』と称する愚劣で野蛮な兇族集団が貴重な遺跡を破壊してまわり、世界中から非難されている。兇族たちは破壊の理由を「イスラム教では偶像崇拝を禁じているからだ」などと言って自分たちの蛮行を正当化しようとしているが、この理屈は一方的な極論だ。
中東の古代遺跡がなぜこんにちまで残っていたのか、ウマイヤ、アッバース、セルジューク、オスマン――。
歴代のイスラム王朝は異教の遺跡をいたずらに破壊するようなことはしなかったからだ。他の宗教を信仰する者にまで偶像崇拝の禁止を押しつけたりはしない。イスラムは言われているよりも他宗教に対して寛容で融通の利く宗教である。
かつてイスラム教国ではシズヤと呼ばれる人頭税を異教徒に課していたこともあったが、一六世紀の後半、アクバル帝の時代に廃止された。異端審問や魔女裁判の嵐が吹き荒れた同時代のヨーロッパにくらべればはるかに平和的だ。
場所が場所だけに列に並ぶ人々の中にはひと目で外国人とわかる人たちも大勢いて、みなおとなしく自分の番を待っていた。
そこへ招かれざる連中が乱入してきた。
「乞食に餌をやるとはなにごとだ! 癖になってますます怠惰になるだけだぞ」
「乞食と外人には施しを受ける資格などない。お国のためにならんやつらにはなにもあたえるな」
そのようなことを怒鳴りちらしながら参列者たちに殴る蹴るの暴行をくわえ、止めに入ったボランティアを突き飛ばしている。
それだけでは飽き足らず、スープの入った大鍋やパンが乗せられたトレイをひっくり返そうとするではないか。
「食べ物を粗末にするやつは万死に値する」
割って入ろうとする京子を制して様子を見ていた秋芳だったが、さすがに惨状を見かねて飛び出す。
暴れる者たちを呪術で眠らせることも考えたが、ここは一応現代日本(と思われる)。衆目の場で呪術を行使するのも憚られるので身体を張って暴徒を鎮圧することにした。
「なんだおまえは!?」
非礼に対する礼なし。初対面の相手を呼び捨てにしたり『おまえ』呼ばわりする無礼な輩は狗や猿の仲間だから返事をする必要はない。
狼藉を働く男の腕をひねって地面に叩きつけてやると白目を剥いて気絶した。
スプーンの先で脾臓をえぐり、フォークで足を刺す、突いてきたナイフをトレイで防いでそのままぶっ叩く、パンを揚げるために熱していた油をぶっかける――。
なにもないのは道場だけ、まこと厨房や食卓は武器庫のようである。割り箸で眼球を突き刺すなどの致命傷をあたえたり障害が残るような真似は慎みつつ、手近にあるものを武器に狼藉者たちを鎮圧していく。
この連中は無抵抗な者に一方的に暴力を振るうことには慣れていても、その逆の経験は乏しいようで、炊き出しを荒らしていた男たちは次々と土の褥に横にされる。
午後のロードショーのセガールよろしく男たちを片づけていると、ひとりが大声で怒鳴った。
「な、なんでそんな恰好をしているんだっ!」
「……この服がそんなにおかしいか?」
先ほどから制服に向けられる複雑な感情の込められた視線。そのことに疑問を抱いていたので問い質す。
「陰陽塾の制服を着たうえにこんな真似をして、ただですむと思うなよ! ……それともおまえまさか、闇鴉の仲間か!」
「…………」
いまいち要領を得ない。闇鴉とはなにか、この世界の陰陽塾はどのような存在なのかを聞き出そうとした。
「おい、陰陽塾ってのは――」
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
見えざる呪縛の腕、不動金縛りの術が背後から迫る。
秋芳は振り向きざまに刀印を切って、絡みつこうとする呪縛を断ち切った。
「ほう、頭のおかしな騙りの類かと思ったが呪術の心得があるとは、本物か」
呪を放ったのはもちろん京子ではない。まだ若い、見知らぬ男だった。長身でぜい肉のいっさいない、がっしりとした体躯。頭髪を短く角刈りにし、鋭い双眸はいかにも堅気ではない。タトゥーだろうか、額に梵字のような印が描かれている。だがそれよりも気になったのは彼のいでたちだ。
黒い防瘴戎衣。祓魔官が着用するユニフォーム、それとおなじものを身につけていた。
「神龍呪印を持たないにもかかわらず呪をたしなむ。闇鴉の一派に相違ないな」
(相違ないな、ときたもんだ。またずいぶんと時代がかったやつが現れたぞ)
「地州さん!」
あわてふためいて男が駆け寄る。
「この野郎、穀潰しどもの味方をしてオレたちの邪魔を……」
「見ればわかる」
狼藉者たちは地面にころがり、つっぷし、苦痛の声をあげている。
「闇鴉の中には肉弾戦に長けた阿刀冬児という者がいると聞いたが、おまえがそうか?」
意外なところで意外な名が出てきた。いろいろと事情を知りたいところだが、目の前の相手とはとてもじゃないが友好的な関係を築けそうにない。
それでも一応訊いてみる。
「いいや、俺は阿刀冬児てやつじゃない。悪いが田舎から出てきたばかりでね、都会の事情にうといんだ。闇鴉だの陰陽塾だの、くわしく教えてもらえないかな」
地州と呼ばれた男の目が細まり、あからさまに不機嫌な表情を浮かべた。どうやらからかわれていると思ったようだ。
「どんな辺鄙なところから来たのか知らんが、神龍武士団の名を知らんとは言わせんぞ」
「しんりゅうぶしだん~?」
脳内で漢字変換する。神龍武士団とはまた大層猛々しい名称である。
「そうだ。この神龍呪印を見よ。畏れ多くも新皇陛下より与え賜わった選別の証である、頭が高い」
額の梵字を誇らしげに見せびらかす。これが神龍武士団という組織に属する印のようだ。
「明治維新から一世紀半も経とうってのに、武士とはまたレトロな趣味だな」
「なにを言う、まことの日本人にはみな武士の、侍の血が流れているのだ。武士道こそ日本人の目指す道である」
「武士のどこがえらいんだか、たんなる世襲制の公務員てだけだろ。特に江戸時代のあいつらときたら、なにひとつ生産せずに、ふんぞり返ってただけだじゃいか。いまどき武士道なんぞを賞賛するやつは他人に働かせて自分だけ年貢でのうのうと生活することを夢見るニート予備軍だね。それに日本人が武士の末裔だって? アホか。日本人の大半は農民の子孫だよ」
「ぐぬぬ、愚弄するか!」
「愚弄もなにも事実だ。士農工商の『士』。武士階級が人口に占める割合は、足軽や郷士といった馬に乗る権利のない下級武士もふくめて多めに見ても、全体の一割未満。『工商』に属する町人もそんなに多くはなく、日本人の八割は『農』に属するお百姓さんの子孫だよ」
「田舎者のする歴史の講義などどうでもいい!」
「おっと待った、俺を無礼討ちする前にやることがあるんじゃないかな」
「なんのことだ」
周囲でのびている連中を指差す。
「こいつらは神聖な寺院内で乱暴を働いたんだ。しかも炊き出しを必要としている人たちに対してな。武士ならば看過できない振る舞いじゃないか、とっととしょっぴいたらどうだ」
「おまえが倒した者たちは神龍武士団の協力者、準団員たちだ。公務執行妨害というやつだな」
「炊き出しの列にならんでいた人たちは犯罪者には見えなかったが」
言いつつ地州の口から出た『公務』という言葉が気になった。神龍武士団とやらはKKKやネオナチや憂国騎士団といった反社会的で非合法な犯罪組織ではなく、警察や自衛隊、陰陽師とおなじ国家公務員ということか。
「犯罪者だとも、物乞いという名のな。働きもせずに他者にたかってばかりいる乞食など生きる価値もない。自力で生きられない者は、淘汰されるのが自然の摂理。それを偽善者どもの手前勝手でくだらない自己満足のために無理やり生かそうとするから国家財政は破綻するし、税は重くなる。われらはそれを正しているのだ」
「……それは、国の方針なのか?」
「いかにも、すべては新皇陛下の意向である」
新皇とはなにか、そう問おうとしたとき、あたりが急に暗くなった。
「なんじゃ、ありゃ……」
思わず間の抜けた顔から間の抜けた声が漏れてしまう。
それはそれほど異様な光景だったからだ。
日が陰ったのではない、日をさえぎったものがある。
大空を浮かぶ、巨大な岩盤。
「おお、あいかわらず見事なものだ」
「……ありゃあ、いったいなんだ?」
「田舎者だからと知らぬとは言わせぬぞ、あれこそ新皇陛下のおわす天を征く御所。相馬の天空内裏である」
邯鄲之夢 10
空を浮遊する巨大な岩盤により陽光が遮られ、あたりは群青色の帳に包まれた。
「ら……、ラピュタだ」
「ちがう」
「ラピュタはほんとうにあったんだ」
「ちがう!」
「父さんはうそつきじゃなかったんだ!」
「くどいわっ! ちがうと言っているだろう! あれこそは天翔ける相馬の天空内裏。新皇陛下のおわします御所だ」
「内裏だ、御所だって……。まさかあの大岩の上には平安京でも丸ごと乗っているのか」
「そうだ。さすがにいにしえの平安京ほどの広さはないが、東西に1・2キロメートル、南北に1・4キロメートルの広さを持つ大いなる空中都市よ」
「マジかよ! いまの京都御苑より広いじゃないか」
「おまえはどこの田舎者だ、そんなことも知らんのか」
「ああ、知らない。日照権の侵害になりゃしないのかな、あの大岩」
「畏れ多くも新皇陛下の前に下々の権利など知ったことか」
「……あの大岩の下に連なる環状列石、あれは呪法陣になっているな。あれによって重力を打ち消し、都市全体を空に浮かべている。それだけじゃあない、周囲に無数の防御陣や式神が潜んでいる……」
複数に張り巡らされた結界や隠形している式神の気配がする。霊的な存在はもちろん物理的なものに対しても備えはできているようだ。
「見鬼もそれなりに使えるようだな」
「あの浮いている小島に生えている木。ありゃあ梅の木か? ずいぶんデカいな。しかしなんで梅の木があんな場所に……、まぁ風流といえば風流だが」
「畏れ多くも御所であるぞ、それ以上みだりに視てはならん!」
「ちょっと木気が強すぎないか、ただの梅の木じゃないようだが」
「だからいらんことを口にするなと言っている!」
秋芳と地州がそのようなやりとりをしている間に京子は神龍武士団らに暴行を受けた人々の介抱にまわる。
「大丈夫ですか? あ、血が」
中身がこぼれぬよう必死になって鍋を守っていたため手ひどく痛めつけられた長身の男性を手当てしようと近づくと、目深にかぶったフードから赤いものが見えた。
すぐに治癒符を出して手当てしようとしたが、やんわりとことわられた。
「……俺は平気だ。それよりもはやくここを離れたほうがいいんじゃないか? すぐにでもやつらの仲間が駆けつけてくるぞ」
「けが人がいるのに、そういうわけにもいかないわ。あら? あなた……」
妙に押し殺している感じがしたが、まだ若いと思われる男の声には聞き覚えがあった。この声はもしや――。
すると地州とおなじように額に呪印があり、防戎瘴衣を身につけた男たちがあつまってきた。
長身の男が言ったように地州の仲間、神龍武士団の連中だろう。彼らは問答を続ける秋芳のまわりをかこむ。
「こやつは闇鴉の一派だ。水樹、金山、蒲地、火野坂、佐々木、土部、天野、海原の八人は厳重に捕縛しろ。仲間が潜んでいる可能性がある、あとの者はモスク内の連中をひっ捕らえよ」
地州がそう命じると水樹と呼ばれた者をはじめ八人の神龍武士団員たちが口々に呪を唱える。
淡い光の線が浮かび上がり、それぞれをつなぎ、秋芳を包囲した。
「八陣結界か、しかしなんとまぁずさんな」
対霊災用遁甲術の八陣結界。おもにフェーズ3以上の霊災を封じ込めるために祓魔官がもちいるもので、人間相手に使用されることは基本的にありえない。それだけ強力な術であり、これに結ばれると基本的に内側から破ることができない。
だが神龍武士団たちの身に帯びた霊力は凡庸で、術の練度もお粗末なものであった。
「禁術則不能現、疾く!」
術を禁ずれば、すなわち現れることあたわず。
包囲している神龍武士の中でも特に霊力の低い相手、金山と呼ばれた男に狙いをつけて呪禁にある持禁の術をもちいて強引に封じようとした。八陣結界は八人の呪術者がそろわなければ展開できない封印結界だ、ひとりでも欠ければとたんにほころびが生じる。
秋芳と相手の霊力差は雲泥の開きがあり、いとも簡単に無力化されるはずであった。
しかし――。
「ぐむむっ!? ハアァーッ!」
秋芳の呪に抵抗しようと金山が気合いを入れる。すると額の呪印が輝きを放ち膨大な呪力があふれ出して呪禁を弾き返してしまった。
「おおっと!?」
予想外の抵抗力に弾かれ、返しの風となって我が身を害しそうになった呪をあわてて抑える。持禁の術は現実を歪める力技。呪力の消費も多く、術を失敗したり相手に抵抗された場合の反動が大きい。
(なんだこいつの霊力は!?)
片目をすがめて相手を視る。
凡庸だった先ほどの霊力とは比較にならないほど高い霊力を帯びている。いや、帯びているのではない。
出ている。
額に印された梵字のような呪印から滔々とあふれ出る霊力が呪力に変換され、金山のものとなっていた。
それはまるで龍脈の流れを読み、見極め、みずからのものへと変える京子の如来眼を彷彿とさせた。
(こいつの霊力は他所から供給されている!)
自前のものではない強力な霊力が額の呪印を通じて送られてきている。他者に霊力を付与し、一時的に能力を上昇させる術は存在するが、どうもその類でもないらしい。
秋芳の知識にはない未知の呪術だ。
(さすが〝現代〟が舞台だな。今まで巡ってきた古代や中世の世界とは異なり、俺の知らない新技術でも存在しているのか)
結界の力がいよいよ強まり、秋芳の自由を奪いかける。
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令」
異変が生じた。
モスク内の人々を強引に取り押さえようとしていた神龍武士団の半数以上がばたばたと倒れだす。
京子の放った眠りの呪によるものだ。
さらに八陣結界を構成する武士団員たちも昏倒し、結界が解除されかけたそのとき八枚の呪符が放たれた。
呪符は空中にとどまり、武士団たちが直前まで結んでいた結界の呪力をそのまま掠め取るかたちで八陣結界を再構成。八枚の呪符から伸びた青白い霊光は秋芳のみならず地州までその内部に封じ込んだ。
「……京子?」
呪符を放ち結界を展開したのは京子だ。
本来は八人のそろわなければ完成しない封印結界を呪符で代用しているので結界の結びは弱くなるものだが、その術の完成度の高さは先ほどの比ではない。
「おのれ、仲間がいたのか!」
呪力まかせだった神龍武士団たちのそれとは異なり、京子の結界は精緻かつ剛健、巧妙にして堅固。高い技術と呪力によって構成されていた。
あわてた地州がいそいで結界を解除しようとするも、間に合わない。
「俺ごと封印するだなんて、いったいなんのつもりだ」
「さっきの質問、はぐらかしたままでしょ、答えて」
「しつもん~?」
「そう。いったいだれとラブホなんかに行ったのよ、恋人? それともそういう人?」
「いや、まぁ、それはその……」
「秋芳くん、前に女の子とつき合ったのはあたしがはじめてって言ってたわよね」
「そうだぞ」
「じゃあやっぱりそういう系の仕事の人だったの?」
「ちょ、なぜにこのタイミングでそんなことを……」
「はやく答えて」
「いや、それはなんと言うか、まぁ……あれだ。俺も男だからな、キャバクラはもちろん遊郭のような場所に行ったりして、湯女や飯盛女の類と遊んだことも多少はある」
湯女に飯盛女。いずれも江戸時代の娼婦で、前者は銭湯で垢すりや髪すきのサービスを、後者は旅籠で客に食事の給仕をするほか春も売っていた人のことで、こんにちでいうソープ嬢やピンクコンパニオンのようなものだと思っていい。
「だがそれは君に合う前のことだからな! 君とつき合うようになってからはそういう店にも嬢とも無縁だ。信じてくれ」
「ええ、信じるわ。いままで服にちがう香りがついていたこととかなかったし、変な会員証や名刺がお財布の中に入ってたこともなかったし」
「お、おう……」
世の中には浮気などしていないか、おたがいのケイタイをチェックするという恋人たちがいるが、秋芳と京子の間にそのような習慣はない。
一般の女性でも恋人から二種類以上の香水や消臭剤の香りが漂っていればピンとくる。さらに男の胸にやましいところがあるときの目の動きや、口調。かもし出す空気のちがいに気づく勘の良さを持っている。
ましてや京子は星詠み。それも森羅万象を見通す仏眼仏母の相、如来眼の持ち主である。そんな彼女に隠し事をするのは不可能だ。
「好きな人の過去に興味はあるけど、むかしの女関係に嫉妬するようなことはしないわよ、あたし。あとそういうお店の人とそういうことしても、べつに浮気じゃないし怒らないわ」
「そうとも、ああいうのは浮気なんかじゃない」
「本気にならないならいいわよ」
「本気になんかならないさ、たんなる遊びだ」
「悋気は女の謹むところ、殿方の女遊びにいちいち目くじらを立てるものではない。て、お祖母様が言っていたわ」
「さすが倉橋塾長は話がわかるな」
「あたしもおおむね同意」
「そうか。だが繰り返すが俺はもうその手と遊びとは無縁だからな、ほんとうだぞ!」
「べつにいいのよ、いまでも行っても」
「なぬ!? いいのか?」
「ええ、いいわよ。あたしをふくめて、他の人にもまったく、全然、ばれるようなことがなければね」
「いやぁ、なかなかどうして本妻にふさわしい度量じゃないか」
「…………」
男性の女遊び・風俗通いに対する女性の許容は人それぞれだ。
ある人は行ってもかまわないけど、わからないようにして。と言うし、別の人は行くことすらゆるされない。行って当然、素人の女を相手にするよりはよっぽどマシ。という女性まで、さまざまだ。
どうも倉橋家の女性は男の女遊びに対して理解をしめしているように思えたのだが――。
「ただしばれた場合はお仕置きよ、こんなふうに――。焼けつく風よ、血肉を蝕み錆と化せ。急急如律令」
京子が中空に文字を書くように指をなぞらせ詠唱をおこなうと結界内の空気が変質し、わずかだが鼻をつくような異臭が混ざる。
「京子、おまえなにを……」
「あたしからの個人的ミッション。結界内の空気がすべて毒になる前にそいつをたおす」
そう言うとふたたびけが人の介抱にまわる京子。
「お、おいっ。やっぱり怒ってない? 俺が過去にした女遊びのこと気にしてない?」
気分を害したのは過去の女性遍歴ではなく、いまでもそれ系の店に未練があることをしめした態度なのだが気がつかない。
「おいこらきさまぁっ! くだらん痴話喧嘩に巻き込むなっ」
「うるさい、とっとと眠れ!」
秋芳は一気に距離をつめて地州の喉に貫手を打ち込んだ。呪文の詠唱や集中するいとまをあたえず、肉弾戦に持ちこんで倒す。
対呪術者戦における秋芳の常套手段だ。
だが放った貫手は寸前でガードされた。
間髪を入れずに突きや蹴りの連激をくり出すも、これらも手足で受け止められ、まともに当たらない。
地州という男、呪術だけでなく格闘の心得もあるようで、そのまま素手で反撃をしてきた。
打つ、突く、蹴る、投げる、崩す、極める、締める、固める、組み伏せる、挫く、受ける、避ける、捌く――。
拳と拳、脚と脚、身体と身体がぶつかり合う目まぐるしい素手の応酬。
「ええい、呪術者なら呪術を使わんか呪術を。この脳筋術師!」
「先に素手で挑んできたおまえがそれを言うか、バラガキが!」
打撃は相手と接触するためのきっかけにすぎない。格闘戦はどうしても密着するものである。こちらから相手との接触点を作り、そこから手首をつかんだり、側面や背後にまわったり投げたりと、バーリトゥード(なんでもあり)だ。
地州につかまれ、あやうく投げ飛ばされそうになるところを、相手の身体にしがみついてやりすごす。柔道式の受け身なぞとらない。下が畳などではないのが実戦だ。音の出るような柔道式の受け身をアスファルトや砂利の上でしたらけがをするだけで受け身をとる意味がない。
そのまま羽交い締めにしようとするが、うしろにまわした手に顔面を掻き回されそうになったので上体を反らした瞬間、背中から地面にダイブされる。息がつまり手がゆるんだ隙を見逃さす身を起こした地州はそのまま起き上がりざまに秋芳の顔にむかって膝蹴り。
両手でガードしつつ打撃の勢いを殺すために後ろに跳びすさる。
素手の間合いから離れ、あらためて対峙するふたり。
(こいつ、ケンカ慣れしてるな)
おたがいに相手の武は道場拳法などではなく実戦で練られたものだと痛感した。
「……武術はもっとも実践的な呪術のひとつと言うが、なかなかどうして。先ほどうちの連中を退けた腕といい今の技量といい、闇鴉には〝鬼喰らう鬼〟阿刀冬児をはじめ、武辺者がよくいるらしい」
「鬼を喰う鬼とはまたおそろしい。アベル・ナイトロードみたいだな、この世界の冬児は」
「アベルとかいうやつは知らん」
無駄口を叩いている間にも結界内の空気が変質しつつある。鼻をつく臭気は強まり、目に染みるような痛みを感じはじめた。
「おまえのツレは空気を酸性の毒気にする呪を唱えたようだな。まったくえげつない」
「うん、でもまぁ恋人の悋気で一〇〇tハンマーや電撃を喰らうのって、男の夢でもあるしね」
「きさまの趣味嗜好など知るか! ――オロロ・シンバラ・アラハバキ・カムイ・ニギヤ・ハヤニ・ナガスネ!」
アラハバキの神呪を唱え終えたとたん、地州の身体が秋芳の視界から消えた。
否。
消えたのではない、高速で移動したのだ。またたく間に地州の身体は数メートルを移動したのだ。
アラハバキ。
荒覇吐、荒吐、荒脛巾などと表記される、おもに関東や東北で信仰されている神。
その起源には諸説あり、道祖神や塞ノ神、製鉄神や蛇神としての神格を持つ、謎多き異貌の存在。
そのアラハバキ神には健脚の神としての側面も持っている、地州は自身の素早さを劇的に上昇させる術をもちいたのだ。
地州の世界から音が消えた。
結界の外では神龍武士団たちが逃げる人々を追いかけたり、京子に立ち向かっていたが、それらはすべて静止画像のように動かなくなっていた。
いや、ちがう。
ひとりがぶちまけた鍋の中身が顕微鏡で見るアメーバのようにゆっくりと形を変えている。
加速状態にある地州の目には周囲の景色がスローモーションに見えているのだ。
足を一歩踏み出す。
重い。
まるで水中での動作のように抵抗がある。それでも一歩一歩と距離をつめる。無音だった地州の耳にごうごうという音が聞こえる。
風を切る音だ。
地州の主観では秒速二〇センチでしか動かしていなくても、実際には秒速八〇メートル。時速にして三〇〇キロに近い速度で移動しているのだ、手足を振るたびに風切り音がするのは当然だ。
また水中にいるかのような感覚がするのは空気抵抗のせいだ。
相手がいかに武芸百般を心得ていようが、単純なスピード勝負に持ちこめば意味がない。神経伝達速度のちがいは決定的であり、反応速度がちがう、思考速度がちがう。
超高速の攻撃を受け止めなどできない。
ゆっくりと(あくまで地州の主観で)秋芳に近づき、拳を振るう。
大ぶりのフックだが避けられる心配はない。この一撃で決まる。相手は攻撃されたことすら気づかず斃されることだろう。
地州はおのれの勝利を確信した。
しかし――。
するり、と拳が躱される。
「んなぁッ!?」
避けた。
超高速による攻撃を回避した。
空振りに終わり動作が崩れる。すぐには体制を立て直せない。なにせ猛スピードで動いているのだ。秒速一〇〇メートルでも約一〇センチの減速区画が必要となる。いったん開始した動作を急停止することはむずかしいのだ。
「アラハバキ神呪とは恐れ入った。そんなレアな呪の使い手ははじめてだよ」
足をそろえて両腕を少し広げた状態で宙に浮いている秋芳の声がはっきりと地州の耳にとどいた。
それはつまり相手もまた自分とおなじ加速状態であることをしめしている。
「きさまぁ……」
「地州といったな、お世辞抜きで凄いよ、あんた。こうまで肉体操作系の術を制御できるなんてな」
祓魔官や呪捜官のなかには呪術によって自身の能力を上昇させて戦いにのぞむ者もいる。俗にいう魔法戦士タイプというやつだ。
膂力を上げる仁王真言や素早さを上げる韋駄天真言などがよく使われる。
地州が使用したのも韋駄天系に分類される敏捷性 と俊敏性を上昇させるものだが、通常の韋駄天真言による加護をはるかに上まわるものであった。
並の術者がもちいる韋駄天真言では、せいぜい身を軽くしたり足を速くする。反射神経を良くするのが精一杯だろう。
時速三〇〇キロの動きにまで高める呪力。そしてその高速移動に対応するための動体視力の強化。空気抵抗をやわらげたり、衣類や皮膚を守るための最低限の結界を同時に展開する必要も生じる。
速くできるからと考えもなしに速度だけ上げれば滑稽かつ悲惨な目に遭うことだろう。
猛烈な空気抵抗で服は破れ、髪の毛は引きちぎられる。速さについていけず転倒したり壁にでも衝突すればそれでおしまいだ。
それらを地州はやってのけたのだ。
「……ぬかせバラガキ。この地州をダシにして自分を褒めているだろう」
そう。秋芳もまたそんな地州の動きについてきているということは、地州のそれと同等レベルの術を使えるということだ。
地州の練り上げた術式を視て加速・倍速系の術だと判断した秋芳もまた自身に高速移動を可能にする道術、神行法をもちいたのだ。
秋芳がゆっくりと着地した。四〇〇倍に加速された時間のなかでは重力は一六万分の一G、ほとんど無重力になる。
「さて、おたがい8マン状態になったことで毒が満ちるまでかなりの余裕ができたな」
「きさまいくつだ、そんな古臭いキャラ今の若いやつらは知らんぞ」
「じゃあ『NEEDLESS』のセツナ。好きだったなぁ、後藤沙緒里のお姉さんキャラ。あと楼閣寺離瑠のおっぱい」
「そんな萌えキャラ知るか!」
「萌えキャラってわかるってことは知ってるってことじゃないか……」
いまのふたりは常とは異なる時間の流れのなかにいる。だれかがその会話を聞いていたら、その口から出た言葉は短いパルス音にしか聞こえないだろう。
「じゃあ、あらためて〝速さ〟勝負というこうじゃないか」
両者が動く。
ゆっくりと、風よりも速く――。
邯鄲之夢 11
力押しの勝負はおたがいに絶妙な角度ではじかれる。
受け流された直後にくる反撃を躱すのは容易ではない。
それにはスピードしかない。予測がつかないほどのスピード――。
「オロロ・シンバラ・アラハバキ・カムイ・ニギヤ・ハヤニ・ナガスネ!」
地州の額の呪印が光りを発する。通常なら一度きりが限度である素早さを上昇させる呪を、あり余る呪力でもって強引に重ねがけしてさらに加速。
加速、加速、加速――。
一気呵成に攻めたてる。
地州の攻撃の勢いは激しく勇猛で素早く、秋芳は防戦一方。まさに攻撃を以て防御となす、だ。
しかし突如として終わりはおとずれた。
呪術による強引な強化に身体の方がついてこられなくなり、膝に限界がきたのだ。
「ぬぐぅっ!?」
秋芳が防御に徹していたのはこの瞬間を待っていたからだ。
相手の速さにあえて乗らず、一挙手一投足から次の動きを予測し、最小限の動きで制する。
全身の円運動を螺旋状に一点に収束。体勢を崩したところに合わせて体幹へのカウンター。そのタイミングは時間と空間にまたがる特異点。
その点を確実にとらえ、穿つ。
「ぐはぁッ!?」
人は動物のような牙も爪も毛皮もない。
人は動物のような筋力も敏捷性もない。
だが人には知恵と技がある。
人間にはそんなことが可能なのだ。
「ば、バカな……、選ばれし選良であるこの地州がこんなバラガキごときに……」
「選ばれし選良って、言葉が重なっているぞ、重複表現だ。歴史だけじゃなく国語の勉強も必要だな」
白目を剥いて気絶すると額にある呪印から光が失せる。地州の敗因のひとつはこの呪印からあふれ出る膨大な量の呪力に頼り、自身の限界を見誤ったことだろう。
「お~い、勝負はついたぞ。結界を解いてくれ」
「ちょっと待って、この人たちを眠らせてるから」
結界の外では神龍武士団の連中が京子の呪によって昏倒され、騒ぎはおさまりつつあった。動く者がいなくなるのを確認し、結界と毒の呪を解除する。
「あとはけがをしている人たちを診てあげないと……」
「どこかに安全な場所はないかな、またぞろこいつらの仲間が増援に来そうだ。警察とヤクザはすぐに仲間を呼ぶから厄介なんだよなぁ」
「警察官やヤクザとトラブルを起こしたことがあったの?」
「ヤクザはともかく上級国民サマの飼い犬のポリ公とは昔さんざんやり合ったな」
「飼い犬って……、テリー・ギリアムなみに警察官がきらいなのね」
テリー・ギリアム。映画監督にして俳優。イギリスのコメディグループ、モンティパイソンの一員。
彼が若かりし頃、アメリカでベトナムの反戦デモに居合わせたことがあった。
きわめて平和的なデモだったにもかかわらず、乱入してきた警察官が車椅子の老人にまで暴力をくわえ、その場にいただけのテリー・ギリアム自身も警官に殴られたという。
それ以来彼はすっかり警察きらい、アメリカきらいになったそうだ。
「秋葉原で路上パフォーマンスに対する横暴な取り締まりや横柄な職質を見かけたことがあるが、明治時代のおいこら警官そのものだったぞ。……なぁ、悪逆非道な犯罪が未解決のまま歳月がたつと警察は『いっしょうけんめい捜査していますよ~』て宣伝するためのパフォーマンスをするだろ。事件現場で捜査幹部が『かならずや真犯人を逮捕してみせる!』て宣言したり、事件から一〇年もたって〝新しい証拠〟として真犯人のはいていたズボンの色やらを公表する。そしてこのパフォーマンスにメディアも加担するわけだ。広報係がテレビの前に立って『我々はかならず君を逮捕する!』なんて呼びかけるんだが、アホか。〝逮捕する〟なんかじゃなくて〝逮捕した〟と国民に報告するべきだろうが」
『警察密着24時』などと称したテレビ番組が民放各局で年に一回ずつは放送される。
警察はテレビ局に便宜をはかり、無料で宣伝してもらう。
そこであつかわれるのは振り込み詐欺や、ぼったくりバー、不法入国した外国人女性パブ、常習的な違法駐車などなど、民間人のおこす事件ばかりだ。
未解決事件の証拠品を紛失したり個人情報の不正閲覧や漏洩などといった警察の失態や政治家や官僚の不正などは、まったく、全然、これっぽっちも出てこない。
この手の番組は官憲とメディアとの癒着ではないか。
「庶民相手に点数稼ぎしているヒマがあるんだったらプチエンジェル事件でも――」
「はいはい、官憲批判はとりあえず置いておいて、ともかく今はここの人達を安全な場所に移さないと」
「そこらへんのことは俺たちにまかせてくれ」
先ほど京子が身を案じた長身の男が声をかけてきた。
「とりあえず礼を言うぜ、みんなを助けてくれたことと、もののふ気取りの似非サムライどもを退治してくれたことにな」
フードを脱ぐと、そこにはバンダナで押さえた赤く染めた髪があった。けがは見当たらない。どうやら赤い髪を血と見間違えたようだ。
そしてその赤毛の人物は秋芳と京子の見知った顔をしていた。
「冬児……!」
そう、阿刀冬児だ。
だが秋芳たちの知っている冬児よりもいくつか年かさに見えた。この世界は現実のそれよりも数年後が舞台となっているのだろうか。
「俺のことは、知っているみたいだな。……だがあいにくと俺はおたくらふたりのことは知らないんだ」
「知らないって……、マジかよ」
「ああ、マジだ。ついてきてくれ、そのあたりの説明をする。それにみんなを助けてくれたお礼をきちんとしたい」
なにやら奇妙な事情がありそうではあるが、異境で出会った友人の誘いを断る理由もない。秋芳たちは冬児と共に行くことにした。
騒動のあったモスク、東京ラーハのすぐ近くにある飲食店へと案内される。
看板には『渋谷清真飯店』と書かれていた。清真とはイスラム教のことで、この店は日本で暮らすムスリムのために豚肉や酒類で下ごしらえをしないなど、ハラールを守った食事が食べられる店のようだ。
店内に入った冬児が店主らしき人物に目くばせをすると、奥へと通された。外観から想像していたよりも中は広く、清潔だ。店内は西域風の落ち着いた内装で、そこかしこに美しい幾何学柄のタペストリーやカーペットが敷かれていた。
「まぁ、綺麗!」
「イスラム模様ってやつだな」
壁面を煌びやかに彩る異国情緒たっぷりの意匠に目を瞠る。イスラム教圏では偶像崇拝が禁止されているので、人物や動物を描くことはタブーとされている。そこでイスラム模様と呼ばれる独特のデザインが生み出され、発展してきた。
様々な形が複雑に組み合わさり、計算された美を生み出している。それは神が創造した完璧で永遠に広がる宇宙・世界を表すものであり、仏教の曼荼羅に近い要素を感じさせた。
「あら? ねぇ、これって……」
京子が目を細めて壁面の一部を指差す。言われた秋芳も注意深くその部分を視る。
複雑な模様にまぎれて見知った紋様を見つけた。
六道迷符印。人を遠ざける効果のある呪印だ。
「ほう、よく見つけたな。呪力の波動を感知できないよう穏形してあるんだが」
「それにくわえて視覚的にも完璧なカモフラージュされている、というわけだ」
こんな所に印されていては、イスラム模様にまぎれて言われなければ発見できないことだろう。それを感知できたのは万物の気の流れを見通す如来眼を持つ京子だからこその芸当だ。
「イフタフ・ヤー・シムシム」
コマンド・ワードに反応して壁が横にずれると、そこにはエレベーターがあった。
「まるで『キングスマン』に出てきた仕立て屋だな」
「ああ、その映画なら知ってるぜ。だが俺たちは王に仕える円卓の騎士ではなくシャーウッドの森に集う義賊だ」
エレベーターは音も立てずに降下し、地下へと出る。
陰陽塾の塾舎ビルの地下には実技の講義で使用される広いスペース、呪練場が存在する。ここはそれとおなじような造りをしており、なおかつそれ以上に広大だった。
アリーナの中央に立っていた黒衣の青年が声をかけてきた。
「はじめまして、土御門春虎だ」
土御門春虎。そう、たしかに春虎だ。ただし冬児と同様、その外見は秋芳と京子の知っている春虎よりも何歳か上に見えた。
「異なる宇宙より見知らぬ友人が稀人として来訪する……。君たちふたりが来ることは星を読んで知っていた」
「春虎、あなた星読みができるようになったの!?」
「んん? そっちの世界のおれは星読みができないのか。できるぜ、星読み。自慢じゃないが日本で十指に入る星の読み手だと評価されている。卜占のたぐいは父親からみっちり仕込まれたからな」
「なんと!」
「すごいのね、こっちの春虎って優等生じゃない」
「ああ、あの占事略決も周易も読めなかった春虎が……」
「式盤の見かたもわからなかった春虎がねぇ……」
「おいおい、そっちの世界のおれはひょっとして劣等生てやつなのか?」
「劣等生……。さすおに的な意味で?」
「いや、普通の意味で」
「う~ん、いや、そういうわけでもないけど……。霊力だけはバカ高いし」
「ええっと、実戦向きの努力の人って感じかしら。座学はからっきしだけど放課後によく対人呪術戦の訓練をしているわ」
「そうそう、俺たちもよく訓練につき合うが、そっちの筋は悪くないと思うぞ」
「なんかパッとしなさそうだなぁ……」
「それはそうと卜占を教授した父親というのは陰陽医の鷹寛さんか?」
「いや、おれの父は泰純という」
泰純。土御門家現宗主である土御門泰純のことだろう、彼は夏目の父でもある。そして名うての星詠みだ。
「え? じゃあ夏目君は春虎の――」
「……夏目は、夏目はおれの双子の妹だ」
「ええっ!?」
「そして、夜光の生まれ変わりだった」
「…………」
「さっきも言ったが、この世界とよく似たべつの世界から男女の稀人が来る。彼らはむこうの世界ではおれたちの親しい友人で、力になってくれると、星が教えてくれたんだ」
「稀人、か。とうとう神様になっちまったなぁ」
まれびと。稀人や客人とも書く。
民俗学者である折口信夫が確立したとされる概念で、ここではないどこか。異界よりおとずれる霊的存在。ただしく歓待すれば富や恵みをもたらすが、あつかいを誤れば災いをもたらすとされる。
「先ほどモスクで起きた神龍武士団と称する連中の狼藉はいまの日本の縮図といっていい。呪術あるものが呪術なきものを虐げ、支配する。ディストピアだ。まずはおれたちの国がどうしてこうなってしまったのか、そこから説明したい。かなり長くなるし、横道にそれたりすると思うから、茶でも飲みながら話すぜ。なんなら食事も出せるが、どうする?」
「ありがたくちょうだいしよう」
「ええ、なにしろあたしたち稀人だものね。きちんとおもてなしされるのがすじってものだわ」
デイドリーム枕くんによる夢世界の中では食べても食べても太るということがない。さらに排泄することもない。美味しいものをいくらでも口にすることができるという、まこと都合よく設定されていた。
「急々如律令」
春虎が命じると、どこからともかく椅子や机。続いて皿に盛られた料理の数々が中空を飛んで運ばれてきた。
いや、ちがう。
運んでいるのはのっぺりとした影法師――簡易式なのだが、実に精妙な穏形がほどこされており、よく視なければ手にした物が宙を飛んでいるとしか見えない。
秋芳や京子といった見鬼を有する者ですらそうなのだ、なんの霊感もない一般人が目の当たりにすればポルターガイストかテレキネシスかと仰天することだろう。
「おう、これはみごとなお手前で」
かの大陰陽師、安倍晴明は式神を家事に使っていて、土御門大路にある彼の屋敷では人がいないのに勝手に門が開閉したり御簾が上下したりして、呪術に縁のない一般人はたいそう気味悪がっていたというが、それに通じるものがある。
式神の使い方が巧いのだ。
流れるような無駄のない動きで茶を点てる茶人のごとき流水の妙技。
この春虎にはそれがあり、なるほど、たしかにこの春虎は優等生だと秋芳と京子は実感した。
機敏に動く式神達の手により、たちまちアリーナの中央は宴席場に早変わりし、食欲をかき立てる匂いに満たされる。
「これは、羊か」
「ああ。料理は表の、清真料理のコックが作っている」
「本場イスラムではなく中国風イスラム料理か、西安料理に近いな。なかなか本格的なんじゃないか」
大きめの小龍包のような灌湯包子、香草や香辛料と羊肉で味つけしたスープに硬いパンを入れて食べる羊肉泡莫香草で香りをつけた羊のセンマイ炒めである芫爆散丹。羊の頭の部分で作った冷菜は水晶羊肉、牛のアキレス腱の煮込み紅焼蹄筋――。
龍肝豹胎と称するにふさわしい山海の珍味佳肴の中にゆで卵を薄く切ったような料理を見つけた。
「おう、これは独羊眼じゃないか?」
「なにそれ?」
「羊の目玉を柔らかく煮込んだものだ。聞くところによれば白目の部分はゼリーのような食感で黒目の部分はイカの塩辛のような濃厚な味だとか」
「うっ……、あたしパス。いらない」
「こんなのめったに食べられないぞ、せっかくの機会だしためしに食べてみたらどうだ」
「いらない、絶対にいらない。そんなの口にするくらいだったら鵺の肉でも食べたほうがマシ」
「…………」
その言葉に春虎の口もとがかすかにほころんだ。まるでとっておきのいたずらを仕掛けた子どものように。
「ところで清真料理ということはアルコールの類はNGなのか?」
ハラールを忠実に厳守しているイスラム料理店では酒類をいっさい置かない。だが信仰よりも商業主義に重きを置く店なら普通に酒を提供してくれる。
「へぇ、おまえさんいける口なのか。坊さんみたいな見た目なのに意外だな。よう、春虎。せっかくの客人のご要望だし、俺もご相伴にあずからせてもらってもいいだろ」
「……いいけど、ほどほどにしておけよ。いつぞやみたいにウォッカを丸々一本空けて正体をなくす真似だけはしないでくれ」
「客人を迎える大事な席だ、そんな強いのじゃなくて麦系の炭酸飲料を、もしくはチューではじまってハイで終わる的な炭酸飲料でいいぜ」
「じゃあ俺は芋系か麦系のアクア・ヴィテで」
アクア・ヴィテ。
ウイスキーの語源で、ラテン語で『命の水』という意味をもつ。
芋か麦の蒸留酒、ようは焼酎はないかと訊いているのだ。
「あたしはお茶でいいわ。あ、でもコーヒーじゃなくて紅茶か緑茶にして。アジアや中東風の甘いのじゃなくてサッパリ系でお願いね」
酒食のもてなしを受けつつ、異世界の春虎の話に耳を傾ける。
いまの日本がなぜこうなってしまったのか。
それはあの日、土御門夜光を筆頭とした陰陽師たちの起こしたクーデターからはじまった――。
邯鄲之夢 12
二〇一X年。某月某日、総理大臣官邸。
定例の閣議を終えた首相がひと息ついていると声をかけられた。
「いやいや福富首相、お疲れさまです」
福富幸寿。それが首相の名だ。
まことにめでたい字面なのだが、青黒い不健康そうな顔に貧相な禿げ頭と、まるで火星の貧乏神のような容貌をしていて名前と似つかわしくない。
実際、彼が首相になってからはあいつぐ増税や海外へのばらまき政策が目立ち、多くの善良な日本人にとっては貧乏神のような存在だった。
「あー、なんだね国交相くん」
声をかけてきたダイエット中のジャバ・ザ・ハットのような人物は首相の派閥の子分である国土交通大臣だった。彼は私立大学の不正入学を斡旋して一件につき一〇〇〇万円の謝礼を受け取ったと報道されている。さらに彼の弟が経営する不動産会社は安値で買った原野を五〇倍の価格で新幹線用地として売りつけたことまで判明している。つまり大臣である兄から会社経営者である弟に事前に計画が漏らされていた疑いがあるのだ。
その近くで電子タバコをくわえている総務大臣はゴルフ場の会員権を乱売して詐欺罪で告訴された会社から五億円の献金を受け取っていた。大臣の事務所もその会社から無料で借りているうえ、秘書の給料まで支払わせている。
(しかし我ながらたいした顔ぶれだよねぇ)
首相以下、内閣を構成する閣僚のほとんどが大小さまざまな汚職事件に関与し、国民から批判されている。
批判される理由は汚職事件だけではない。
「米国は黒人が大統領になっている。黒人の血を引くってことは奴隷の子孫だよ」「親に行けと言われて進学しても、女の子はキャバクラに行く」「巫女さんのくせに生意気な」などなど……。今年に入ってから発せられた党員からの暴言失言の数々である。
資料の歯舞群島を読めず「はぼ…えー、なんだっけ?」と記者会見で言った北方領土担当大臣もいる。
この福富内閣。ことさら汚職議員や舌禍議員を選んで大臣にしているわけではないのだが、結果としてそのような人事になってしまったのだ。「清廉な人を大臣に」などといっていたら、この国の内閣そのものが成立しなくなってしまう。
平然と賄賂を受け取り、平然と嘘をつき、平然と秘書や運転手に罪をなすりつけ自殺させる……。
そのような人間でなければ、この腐臭に満ちた権力の世界で生き残れないのだ。と、腐臭を放つ権力者たちは信じきっている。
「消費税一〇パーセントへの引き上げ、思いのほかスムーズに通りましたなぁ」
「まあねぇ、消費税は社会福祉に使う。したがって消費税の増税に反対する者は福祉の敵だ。という論調にもっていったら、たちまち反対の声が低くなってしまったからねぇ」
「そんなお粗末な論法が通用するとは、正直思いませんでした」
「なにせ消費税が福祉に使われているという証拠を見せろ。という者すらめったにいないからね、福祉という言葉を聞いただけで思考停止してしまうんだよ、この国の人たちは」
「……いやね、わたくしがひそかに危惧していたのは、福祉予算は一般財源から優先的に出すようにして、消費税は軍事予算にまわしたらどうだ。という皮肉な意見が出ることでした」
「そこを突かれると痛いわなぁ、増税分が軍事予算にまわるとなると、さすがに一般の人らは反対するよ」
「しかしだれひとりとしてそんな意見を述べる者はいませんでしたな」
「利口者がいなくなったのかねぇ」
すると首相の腰巾着である一億総クールニッポン大躍進担当大臣が口をはさんだ。
「ふゅひゅひゅ、けっこうなことじゃないですか、我々の陣営以外に利口者がいなくて。野党は無能なうえに内部抗争ばかり、マスコミは公権力に対する批判能力を失い、国民はなんどだまされても懲りない愚民ばかり。だからこそ我々がこうして甘い汁を――あ、いや実力に応じた正当な利益を得ることができるんじゃないですか」
「まったくだわなぁ、愚民万歳!」
ニュース番組などの街角レポートで「だれに投票してもいっしょ、選挙も政治も興味ない」と答える老若男女を見るたびに、首相は小躍りしたくなる。
日本に議会制度が導入されてから一世紀以上経つにもかかわらず、そんな考えをしている人々こそが首相の権力をささえてくれるのだ。
政治が自分たちの生活に直結していることも理解できず、芸能人の不倫騒動だの課金ゲームだのに一喜一憂している。これでは首相のような人物から愚民呼ばわりされてもしかたがない。
「おいそがしいところを失礼します」
雑談の終わったタイミングを見はからい、背広姿の男が声をかけてきた。
大手新聞社の論説委員をつとめ、記者クラブにも籍を置く大物記者だ。政府にべったり密着した人物で、首相個人ともつき合いが長く、世間からは御用記者などと揶揄されている。
どこからか陰陽法改正についての話を聞きこんできて、改正に賛成する意見が多数を占めつつある。ということを記事にしていいか訊いてきたのだ。
「陰陽法改正だなんて、日本人としては絶対に阻止しなきゃならんことだよ、君。そんなことをしたら諸外国からどれだけ非難されることか」
神道、密教、修験道、道教、陰陽道――。
先の大戦時、日本に存在するありとあらゆる呪術は軍事目的に統括・編纂された。外国人や一部の日本人の感覚では呪術=軍事力にむすびつくのだ。
霊災の修祓以外での呪術の使用を認めるということは、戦争や武力による威嚇、武力の行使を放棄すると決めた日本国憲法の破棄につながってくる。
保守的な首相には到底受け入れられることではない。
「そんなことが話題になること自体あってはならないんだよ」
「しかしけっして軍事利用はせずに平和目的に使用するのが前提の法改正ですが」
「事実はどうあれ呪術の台頭、それ自体がいかんのだよ。近隣諸国を刺激しちゃあいかん。国家同士は相互に依存し合っているんだからさ、穏便に穏便に」
「それはそうですが呪術が他分野に転用されることで見込まれる技術力や生産力の増加はけっして無視できない国益でして――」
「ま、ま、とにかくとにかく」
意味不明のことを言いながら首相は大物記者の手をとると私設秘書を呼んで目くばせした。心得た秘書は別室に消え、すぐに分厚い封筒をもってあらわれた。首相はそれをつかむと大物記者の手ににぎらせる。
「この前うちの派閥の研修会をしてくれただろう、そのお礼さ。税金はこちらで処理するこら丸ごと受け取ってくれたまえ」
「……これはこれは、お心づかい痛み入ります」
「うちでは君をもっとも信頼できるジャーナリストだと思ってたよりにしてるんだ。陰陽法改正だとか悪い潮流や悪質なデマに流されることなく、これからもよろしくたのむよ」
「もちろんです首相、わたしたちは同志じゃないですか」
「うんうん、同じ志をもつ者同士仲良くしようじゃないか。次の選挙のときも公平で良心的な報道をたのむよ。政府や隣国の悪口を書けばいい、なんて低次元の記事は他社にまかせてだね」
「おまかせください、我が社はつねに政府の味方ですから。そんなことを書き立てる輩はネトウヨやレイシストだのヘイトスピーチの烙印を押して黙らせてやります」
懐を重くした大物記者がほくほく顔で帰ると、腰巾着の一億ナントカ大臣が興味津々のていでたずねた。
「失礼ですがいくら包んだのですか」
「二〇〇万円だがね」
「ははぁ、プロの作家だってそこまで高い講演料はとらんでしょうに」
「なあに、新聞社を丸ごと買収すると思えば安いものさ。たかが二〇〇万程度のはしたカネでジャーナリストの節操を売り渡してくれるんだからさ」
「首相、ちょっとよろしいですか」
ジャバ・ザ・ハットのような国土交通大臣がひとりの男を紹介した。先ほどの大物記者の後輩にあたる人物で、国交省を担当しているのだが、近く結婚する。相手は都議会議員の娘で、首相に媒酌人になって欲しいというのだ。
「ふんふん、まぁスケジュールさえ合えばかまわないよ。でもいいのかい、新聞記者が政治家に媒酌なんぞしてもらって。政治報道の公正という点から見て、ちょいと問題じゃないのかい」
「おもしろい冗談ですなぁ」
「ふひひ、いささかわざとらしかったかな」
その場にいた全員が大声で笑いあった。田舎議員や新聞記者にぺこぺこ頭を下げさせるのは権力者の愉しみのひとつだ。口ではいくら偉そうなことを言っても、裏ではこんなものだ。と彼らは思いたいのだ。富や権力になびかない、自分たちとは異なる価値観の持ち主がいると、彼らは気味が悪くてしかたがないのだ。
おたがいに政治を商売にしている者がいれば「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」と親しく気安く挨拶できるというものだ。
だが陰陽師、呪術者相手は勝手がちがう。
天体観測や暦の作成、卜占などに従事していたいにしえの陰陽師たちは国家権力の一部であり、たんなる公務員にすぎなかった。
しかし現代の陰陽師たちは〝甲種〟という、まごうことなき呪術を駆使する異能者であり、彼らの存在なくしては霊災に対処できない。
彼らには彼らの価値観があり、世俗から一線を画す。
俗世界に生きる権力者たちにとって、なんとも薄気味の悪い目の上の瘤なのだ。
「陰陽法改正の件だが、どうにもこまったものだよねぇ。なんとかならないものかな」
「なんとかと言われましても、世論の動きは政治力でどうにかなるものでもないですからねぇ……。そうだ、とりあえず名目上の権威だけあたえて権限はそのまま。というふうに取り繕うのはどうでしょう」
「どういうことだね?」
「陰陽法改正にともない、陰陽庁から陰陽省へと格上げします。この時点で体裁はととのえられます」
「ふむふむ」
「しかも省になると民選の議員が大臣になるので、現在のように倉橋長官をトップにした陰陽庁よりも隠しごとがしにくい組織になることでしょう。我々としてあつかいやすくなるのでは」
陰陽庁、ひいては呪術界の隠蔽体質はつとに有名である。
極端な話、陰陽庁が白を黒と言えば最終的にそれを通すことができるのだ。もちろん多少の工作が必要となるが、ほかの省庁では不可能なことですら陰陽庁なら、呪術界では可能だ。
なぜなら呪術のことは呪術者にしかわからないから。
そしてわからないものにこそ陰陽庁のみがもつ独自の〝威厳〟が絶対的に作用する。それは世俗のいかなる権威、権力をも凌駕する畏さだ。
「しかし選ばれたからといってあんな魔窟の責任者になりたがる人なんているのかねぇ」
自分たちが富と権力の伏魔殿にうごめく亡者であることは棚に上げて首相は首をかしげた。
「のこのこ出向いてごらんなさいよ、洗脳されて魂を奪われてしまうよ、くわばらくわばら」
首相とて甲種言霊の存在は知っている。呪術者がその気になれば一般人など簡単にあやつることができるのだ。
そのため陰陽師が諸外国との外交の場に出ることは禁じられている。交渉相手に術をかけ、日本にとって有利な方向にみちびくのを防ぐためだ。
また陰陽師の海外旅行も原則として禁止である。呪術犯罪捜査部が存在する日本国内ですら呪術をもちいた犯罪が後を絶たない。まして呪術に対する備えのない(できない)外国に呪術者を軽々しく出国できるわけがない。
甲種言霊で人をあやつり、幻術で宝石や偽札を作り放題。隠形をもちいてどのような場所にも侵入し、目視できない式神を打ち、遠くはなれた場所にいる人すら呪殺できる――。
空手の有段者やプロの資格をもったボクサーなどが傷害事件などを起こすと通常の加害者よりも思い刑罰が科せられる。剣道有段者が棒状の物で人を傷つけた場合も通常より刑罰は重い。これはその人の身体、技術自体が凶器とみなされるからだ。
こと陰陽師、呪術者に対する警戒はその比ではない。
現代の陰陽師はろくに海外旅行すら楽しめないのだ。様々な制約に縛られている陰陽師だが、これも彼らの抱く大きな不満の種のひとつであろう。
「それこそ律令制の時代みたく適当な官位官職でもあてがって満足してくれたら楽なのにねぇ。安倍晴明てのもそんなに身分は高くはなかったんだろう?」
「さて一応は昇殿できる身分だったようですが……」
安倍晴明の官位を思い出そうと記憶を探っているとき、それがきた。
GOGADGOOOGAAAAAッッッ!!!!
落雷の轟音を聴いた。と、大臣たちの幾人かは錯覚した。なんといっても日本は平和な国であり、二・二六事件を除けば西南戦争を最後に内乱とは無縁だ。よもやクーデターの砲声だとは思わなかったのだ。
轟音がおさまりかけたとき、床が波打ち壁が震え窓ガラスがうなった。天井でシャンデリアが踊り回り、花瓶が床へと落ちる。
「ひえーっ!」
数えきれない汚職、疑獄、背任、横領、詐欺商法、選挙違反、政治資金規正法にかかわり合う一八人の大臣は奇声をあげてテーブルの下にもぐりこみ、椅子にしがみつき、床にはいつくばって頭をかかえた。
「びえーっ、神様仏様なんでも白状しますからお許しを~」
だれのものともわからぬ悲鳴、ガラスの割れる音、額縁ごと書画が落ちる音、秘書官や警護官の叫び声――。
大鳴動はしかし一分ほどで終わった。揺れがおさまり、静けさがもどると大臣たちは恐怖にひきつった顔を見合わせた。
「か、かなりの揺れでしたな」
「いやぁ、ちょっとばかりおどろいたけど、このくらいですんでよかったわなぁ」
大臣たちは呼吸をととのえ、ネクタイを締めなおし、乱れた白髪をなでつける。恐怖は安堵に変わりつつあった。
もとより地震大国日本に住んでいるのだ、この国の住人は貴賤を問わず多少の揺れではおどろかなくなっている。
「震度五くらいあったかな?」
首相官邸の内政審議室長は警察官僚の出身で、治安問題や災害の第一報は彼に伝えられることになっている。この人物が服装の乱れをととのえつつ、怪訝な表情を浮かべて首相のもとにやってきた。怪訝な表情は首相たちにも伝染する。
「観測不能ってそんなに大きかったのかね? ……へ? なんだって、揺れてない?」
気象庁の震度計は震度一の微震すら感知していないというのだ。
首相たちや気象庁には知覚しえないことだったが、たったいま起きた振動は地震ではない。東京の霊相が変化したことによって生じた大規模な騒霊現象だ。
視える者が外を見れば東京の霊相が一変したことに気づき、驚愕したことだろう。
いや、外を見るまでもない。
荘厳、峻厳、圧倒的で神々しい気が天より降りそそぎ地よりあふれている。
三度目の大祓、天曺地府祭によって神が降りたのだ。
祟り神にして東京の守護神たる存在が、地上に降臨したのだ。
「どうなっとるんだい、局地的地震てやつかい?」
「さぁ、なんとも言えませんが、さすがに総理官邸だけが揺れるような地震はありえないかと」
「それじゃあこまるよ、可及的速やかに被害状況と原因をしらべてもらわないと」
この首相にしては精力的に行動したほうだろう。警察や消防関係に連絡し、各地の被害の有無をしらべさせる。
「もしや某国の地震兵器では?」
「地震兵器って……、それを言うならまだ核実験のほうが信ぴょう性があるんじゃないかね」
「某国のヤクザはハリケーンを発生させる気象兵器をもっているとか――」
臨時の非常災害対策本部にしては緊張感に欠ける会話が飛び交う。
「腐っているな」
だれかの発したそのひとことに政治家たちの雑談は一瞬で静まりかえった。
いつの間にそこにいたのか、黒い巫女装束に身をつつんだ赤毛の少女が冷ややかな目で大臣たちを見回している。声の主は彼女だ。
「…………ッ!?」
君は誰だ、と誰何の声をあげようとした警護官の口が水揚げされた魚のように半開きのまま固まる。赤毛の少女の輪郭が光で縁取られているように見えたからだ。
霊気が光を放ち、その周りをただよっている。霊気の光を浴びた赤毛は燃え盛る炎のようで、周囲を睥睨する瞳は神代の宝玉を思わせた。
炎の姫巫女。
古典や文語的表現に縁のない警護官であったが、少女のまとう神気に打たれ、がらにもなくそのような言葉が脳裏に浮かんだ。
そう、神気だ。
見鬼の才をもたない凡人にすら視えるほどの強力な霊気。神威のごとき気をまとっている。
「だ、だれだね君っ! ここをどこだと思っているんだ」
たとえ性根が腐っていようと脆弱というわけではない、海千山千の政治家だ。肝の据わった経済産業大臣が少女に指をさしてつめよる。
「無礼者め、はなれろ」
少女の声ではない。いつの間にかその場に姿を現した二十歳前後の青年――モッズコートにジーンズ姿。跳ね回る髪を後ろで束ね、精悍な面構えと克己的な雰囲気の持ち主――の口から漏れたそのひと言に大臣が動きを止め、数歩後ずさる。
「こちらにおわすは畏れ多くも新皇陛下、相馬多軌子様であらせられるぞ。帝の御前で頭が高い、一同ひかえよ」
さらにもうひとり、べつの青年が姿を現し宣言した。
シャツとベストにアスコットタイを締め、片眼鏡という時代錯誤ないでたちをしており、先に姿を見せた青年とは対照的に放蕩貴族然とした雰囲気をまとっている。
膝と両手をついて床に頭が触れるほど下げてひれ伏す閣僚たち。
相手の威光に打たれてそのような振る舞いをしているのではない、おのれの意思とは関係なく服従させられているのだ。
なにか見えない力で強引に平伏させられているのともちがう。
外からではなく、内より動かされているのだ。
甲種言霊。
閣僚たちはここにきてはじめて目の前の相手が常ならざる存在だと認識した。
「じゅ、じゅじゅっチュジュ、チェジウ、ちゅっ……呪術犯罪者だ! 呪捜部に連絡しろ! ジュジュツー!」
ジュジュツーとは陰陽庁の電話番号、一〇一〇二番を指す。警察には一一〇番、消防には一一九番、海上保安庁へは一一八番という緊急通報用電話番号があるが、陰陽庁には一〇一〇二番でつながる。その名のとおり「じゅじゅつ」の語呂合わせでおぼえやすい。
「犯罪者はおまえたちだろう」
赤毛の少女、新皇・相馬多軌子が経産省大臣を見据える。
「ひっ」
ヤクザまがいの風貌をした経産省大臣が年端もいかない少女の眼光に怖じ気づく。その視線に心の奥底まで覗かれるような感覚をおぼえ、恐怖を感じたからだ。そしてその感覚は正しかった。
「おまえはふたりの秘書と運転手を口封じのために練炭自殺に見せかけて家族ともども殺害した。○○組の××に実行を命じ、実際に手を下したのは――」
「……ッ!?」
「おまえは厚生省の薬務局長を務めていたころ、輸入された非加熱製剤が危険だと知りながらも国内の薬品メーカーの利益を守るため使用を黙認した。そのため二〇〇〇人もの血友病患者がHIVに感染させられ命を落とした」
「ひゃっ……!?」
「おまえは不良債権や不正な公金投入が明らかになったさい、財務省の銀行局長○○に罪をすべて押しつけて自殺に追い込んだ。さらにそのあと御用マスコミたちに『気の毒な銀行局長を自殺に追い込んだのは財政のむずかしさや官僚の苦労を想像できない人たちだ』と書かせて糾弾の声をそらした」
「う……」
「おまえは非合法の売春クラブで未成年の少女を買いあさり、ことが露見しそうになると経営者の男を自殺に見せかけて殺し、警察やマスコミに圧力をかけて捜査を打ち切らせ報道も止めさせた。……あきれたな、お前以外にもそこを利用していた輩がこの場に五人もいるぞ」
「「「「「しぇぇぇっ!?」」」」」
閣僚たちひとりひとりの心を覗き、その罪を暴露していく。
「おまえたちはそのようなことをするために政をする要職に就いたのか?」
「…………」
「正直に〝答えよ〟!」
「お、おれたちは子どものころ、他人が遊びまわるのを横目に必死で勉強してきた。好きなことも我慢して恋人も友人もつくらず、くだらん小説や漫画も読まずにひたすら勉強してきた、それもこれも税金を好き勝手に使える身分になるためだ」
「そうだそうだ」
「すべておれの才能と努力の結果だ。それを平民どもが嫉妬しやがって、うらやましいならおまえらも政治家になってみやがれってんだ」
「そうだそうだ!」
「それができないのは平民どもがおれたちとちがって劣っているからだ、おれたちは愚鈍な平民どもとは種類がちがうんだ、選ばれた特別な人間なんだ。平民どもは黙っておれたちの決めたことに従っていればいい。税金を納めろと言ったら納めろ。使途についてあれこれ文句を言うな、そうすればお情けで生かしておいてやる」
「そうだそうだ!!」
「日本を支配し、平民どもの生殺与奪の全権をにぎるのはおれたち国家権力者だ。消費税一〇パーセントでゆるしてやっているだけありがたく思え、なんなら三〇パーセントにしてやるぞ!」
「それはいい、日本中の貧乏人が餓死してしまうかもしれないがな」
「納税の義務も果たせない貧乏人なんぞいっそ死んでしまえばいい」
「ウェーハッハッハッ!」
閣僚たちは口々に自国民を貶め、蔑視する発言をする。だが威勢のいい口舌とは裏腹に彼らの表情は青ざめ、脂汗を滝のように滴らせていた。
自分の意思で口に出しているのではない。心中に秘し、墓場どころか地獄の閻魔にもだんまりを決め込む本音を甲種言霊の力によって強引に吐露させられているのだ。
「……都では藤氏の長者が、地方では国司たちが専横をふるっていた頃となんら変わらないな、この国は。かつて『ぼく』は国府を襲い無益な殺生を犯した。あのような暴挙は二度とするまいと誓ったが、おまえらを見て気持ちが揺らいできたよ」
「政治の腐敗がいかに人民をして辛酸をなめさせるか……。この者らの処遇、新皇陛下の御意のままに」
「判決、死刑」
多軌子がそう口にした瞬間、悪徳政治業者たちの身に残酷で無慈悲な死罰が下された。
ある者は見えない刃に首を刎ねられ、ある者は見えない力で押し潰される。四肢をねじり切られた者、灼熱の炎に焼かれた者、全身の血液を凝固させられた者、骨が粉々になった者――。
富と権力をほしいままにし、この世の春を謳歌していた一〇数人の大臣たちは一瞬で血肉の塊と成り果てた。
なんの力も脈動も感じさせない、ただ言葉のみ、ひとことのみで滅したのだ。
それは霊力を呪力に変換する、術式の構成、呪力の操作などの行程。あるべき課程が一切はぶかれた『結果のみが顕現した力』であり、常人のもちいる呪術とは一線を画す力であった。
これが神の力だ。
詠唱も集中も不要、所作や発言のひとつひとつが強大な霊力を秘めた呪術と言う形で体現される。
「やってしまった……。前帝より禅譲を受けたゆえ、平和的に大政を奉還をするよう、おだやかにたのむはずだったのに……」
「やむを得ないご処置でしょう、この者らの悪行はまさに官匪」
中国には匪賊という言葉がある。集団で略奪や暴行をおこなう人非人であり、官匪とは汚職をしたり無実の人に冤罪を着せたりする役人のことだ。また法律を悪用する者は法匪であり、略奪や虐殺をおこなう軍隊は兵匪だ。
「苛政は虎よりも猛なり。しかしこの官匪どもらの台頭は民にも責任があります」
「というと?」
「これはとある娯楽小説の中で描かれたやり取りですが――『どうしてあなたがた政治家は私たち国民を馬鹿にするんですか?』『君らが私に投票したからさ』――という皮肉なやり取りがあります」
「…………」
「愚者の一票も賢人の一票も同等にあつかわれるこんにちの民主主義の愚かさを突いた言葉でありましょう。民主主義などという衆愚政治など排して公明正大な独裁政治を敷く必要があるのです。とかく悪玉にされがちな独裁政治ですが、こと決断と政策の速さにおいては民主制の比ではなく、英邁な君主の聖断ひとつで社会に蔓延する悪を即座に改善できるのです。そもそも人類の歴史をひも解いていけば――」
「夜叉丸」
「はっ」
「政は倉橋や佐竹に任せる。ぼくに帝王学は不要だ」
「これはですぎた真似を……、饒舌は我が悪癖のひとつ。おゆるしを」
なにかが弾けるような音が響いた。
凡百な物書きならば「乾いた銃声」とでも表現しそうな音は、事実銃声であった。呪縛の解けた警護官が多軌子たちにむかって発砲したのだ。
グロック19から発射されたパラベラム弾はしかし巻き起こった漆黒のつむじ風によって中空に止められた。
いや、風ではない。黒い外套がひるがえり、銃弾を受け止めたのだ。黒い外套の名は鴉羽織。その着用者の名は土御門夏目。夜光の意志と能力を受け継いだ、長い黒髪に白皙の貌をした華奢な少女だ。
「夏目! ありがとう、助かったよ。ぼくはどうも飛び道具の類が苦手だからね」
多軌子が苦笑いを浮かべてこめかみのあたりを指でさする。
彼女に降りた神がまだ人だった頃、こめかみに一矢を受けて命を落とした。いちど霊的に刻まれた相性というものはなかなか払拭できない。
特定の方法や道具で退治されたものは、復活したあともそれらが弱点として残る場合が多い。
発砲した警護官を無言で処断しようとした蜘蛛丸を手で制す夜光。
「誅するのは貪官汚吏だけでいいだろう」
薄い桜色をした硬質の唇からはそれにふさわしい玲瓏とした声が流れる。
「上からの命令とあればどんな相手でも命がけで守るのがきみたちSPの仕事だが、いまやその対象は存在しない。おとなしくぼくたちの傘下に下るんだ」
「自分たちで殺害しておいていけしゃあしゃあと……。我々日本人はテロリストには屈しない!」
「私たちも日本人だ、そしてテロリストではない」
「暴力で無法な権力奪取しようとする連中のことをテロリストと呼ぶんだ」
「立場を利用して私腹を肥やし、権力を得るために巧言令色をならべ立てて選挙民を惑わし、資本家と結託し、挙句の果てに反日国の連中と誼を通じる国賊を断罪する行為はテロルではない。義挙だ」
「彼らは国民によって選ばれた大臣だ。国賊などと勝手なことを言うな!」
「〝聞け〟」
「…………」
「よく考えるんだ、きみだって本気で彼らが選良だとは思ってはいないだろう。汚職政治業者の見本みたいな連中だ。現在の政治がどれほど腐敗し、行き詰まっているか。衆愚政治が横行し、自浄能力は欠片もない。武力で訴える他にどんな方法で粛正し、改革することができるのか。わかるだろう」
「わからん。たしかに今の大臣たちはお世辞にも清廉潔白とはいえない人たちだ、だからといって暴力で粛正してもいい理由にはならない。それに非人道的な暴力を振るってトップに立とうとする貴様らが今後腐敗しないとはとうてい思えない」
銃把を握る警護官の手に軽く力が入った。呪文を唱えるいとまをあたえず、至近距離から射撃するつもりだ。
「禁人則不能考、疾く!」
人を禁ずれば、すなわち考えることあたわず。
いっさいの思考を禁じられた警護官の手から銃が抜け落ちて床にころがる。
強い意志の込められていた目からは光が失せ、ぼんやりとした表情で虚空をながめている。
「SPなんぞ、しょせんはお上の走狗でしかないな。クズでもゲスでも高い餌をくれるご主人様には服従しますってか」
警護官の思考を呪術で奪い無力化したのは僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年だった。
「彼は損得ではなくもっと高潔な思想のもと、あえて大臣に仕え、こちらの誘いを断ったかのように見えたよ。これからの、ぼくたちの創る世の中には必要な人材だ」
「それよりも法源、なにをしに来た」
夏目が誰何の声をあげる。
「君にはことが済むまで前帝のお相手をする務めがあっただろう」
「大連寺さんの薫陶を受けた御霊部の方々は優秀だ、なので彼らに任せてきましたよ。部外者の俺なんぞがいつまでも出張っている必要はないでしょう」
「まったく勝手な真似を……。今回の任を志願したのは君のほうからだぞ」
「いやなに、天皇陛下というくらいだからさぞかし威厳のあるお方かと思ったらそうでもなかったのでね、正直拍子抜けしてすぐに飽きてしまいました。ほかの皇族の方々も凡庸で、とても神の末裔とは思えぬありさま。日本の皇室はヨーロッパの王室にくらべて質素だと言いますが、あんなのに年間七〇億円近い皇室費用が血税から出されていたと思うと腹が立ちますな」
「宮内庁費も合わせるとさらに一〇〇億ほどかかっているよ。もっともそれでも国民ひとりあたりの負担は一三五円程度だし、質素も質素。大清貧だよ」
これは片眼鏡の放蕩者――夜叉丸の言だ。彼がまだ大連寺至道という人であった頃、宮内庁の御霊部で部長をしていたこともあり、そのあたりの事情にくわしい。
「それに御一新以降じつに一世紀半ぶりの大政奉還という歴史的な場面をこの目で拝見したくてね、そこで駆けつけた次第ですよ。――それはそうと、まぁ凄惨なことになっておりますなぁ」
法源と呼ばれた青年は大臣たちの酸鼻を極める骸を目にして軽く眉をしかめる。
これには多軌子も後悔に表情をゆがめる。
「いささか軽はずみだったと悔やんでいるよ。旧体制の支配者たちには前帝といっしょに民衆の前で新時代のはじまりを認めさせ、宣旨を読ませるつもりだったのに」
「過ぎてしまったことをいまさら悔やんでもいたしかたありません。どうせこのような醜悪な輩、いずれは処断することになっていたでしょう。……私の術で少しのあいだ生きているふりをさせることが可能ですので、宣旨を読み上げるさいはおまかせを。それとこのような頑固者には――オン・デイバ・ヤキシャ・バンダ ・バンダ・カカカカ・ソワカ――法源君、呪を解いてくれ」
「あいよ」
夜叉火輪印を結び真言を唱えた夜叉丸の指が亡羊と立ちすくむ警護官の額を軽くなでた。
目に意志の光がもどる。
「君の主はだれだい?」
「多軌子新皇陛下。ならびにその麾下の陰陽師の方々であります! みなさまのためなら犬馬の労をいといません!」
「よろしい」
ただしそれは先ほどまで持っていた自分自身の意志ではない。夜叉丸によって上書きされた偽りの意志だ。
「脳に三尸を憑かせました。これで彼は頑迷と妄執から解き放たれ、新皇陛下の忠実なる僕へと生まれ変わりました」
三尸というのは道教に由来する人の体内に棲む三匹の妖虫で、六〇日に一度の庚申の夜に人の眠っているときに体内から抜け出て、その人の罪を天帝に告げるという。
この伝承をもとに夜叉丸の創造した三尸蟲は寄生した相手を操作することができるのだ。
武力による政権奪取で人々が従うとは限らない。政治の中枢にいる官僚や役人がボイコットする可能性も見越して、このような式神を用意してあるのだ。
フランス。パリ。AM7:00。
「Oh! Mon Dieu!!」
エッフェル塔のとなりに出現した巨大な少女の幻影に人々は驚嘆の声をあげた。
緋色の髪をした少女は多軌子と名乗り、人々に日本の新生を宣言する。
イギリス。ロンドン。AM6:00。
「Jesus……」
タワーブリッジを見下ろし、多軌子の勅令が下される。
中国。万里の長城。
「我的天啊!?」
老龍頭から慕田峪長城、玉門関に至るすべての場所に多軌子が現れ、声が響く。
「くり返し、ここに宣言する。西暦二〇一X年、〇月〇日。ぼく相馬多軌子は先の帝より禅譲を受け、日本国の皇となった」
アメリカ。ニューヨーク。AM1:01。
「Oh! My God!」
マンハッタンの南、バッテリーパークの沖に建つニューヨークの象徴たる女神像を凌駕する本物の生きた女神の声が音吐朗朗と流れる。
「ぼくの麾下にある陰陽師たちは首都東京を実効支配した。日本国憲法は停止され、ぼくの意志。および陰陽師たちの決定と指示がすべての法に優先する。また今後は新民党による一党制とするため、それ以外の政党はいますぐ解散する」
日本。富士吉田。PM3:01。
「アイゴーッ!!」
日本一の霊峰に放送席の様子が映し出され、新制陰陽法が発表された。霊災修祓と呪術犯罪捜査のみに限定されていた陰陽術の使用を全面解禁し、呪術をあらゆる分野に応用しようというのだ。
また呪術関連以外にも様々な改正がなされ、それらは次のようなものだった。
一、陰陽道の発展という崇高な目的にむかっての挙国一致体制の確立。
二、陰陽師への司法警察権付与。
三、陰陽師・呪術全般に対して否定思想を持つ者の公職追放。
四、国益に反する政治活動、および言論の秩序ある統制。
五、宗教法人に課税する。
六、特殊法人はすべて廃止する。
七、政治家、および公務員の汚職には厳罰をもってのぞみ、悪質な者には死刑を適用。また官僚の天下りは禁止。
八、外国からの移民や難民に門戸を開放する。ただし対象となるのは新皇へ忠誠を誓い、日本人と日本の文化を尊重し、節度と忠節を守れる者に限る。それが順守できない者は強制国外退去。
九、夫婦別姓の容認。
一〇、有害な娯楽の追放。風俗や遊興に質実剛健さを求める。
一一、度を越した弱者救済と外国への援助を廃し、社会の弱体化を防ぐ。
一二、電力会社の全面国営化。
一三、性犯罪者の強制断種処置。
一四、少年法の廃止。また心神喪失状態による減刑処置もなくす。いかなる年齢、性別、精神状態であろうと犯した罪にはそれに見合った贖いをさせる。
などなど――。
多軌子を新皇に掲げた陰陽師たちによるクーデターは成功した。多くの人々は不安と困惑をおぼえたものの、この本邦初の易姓革命を受け入れた。
日本とはそういう国だ。
かつて日本は近代において二度の大改革を経験した。一八六八年の明治維新と一九四五年の敗戦による改革だ。
二度の大改革はどちらも市民が自発的におこなったものではない。明治維新は薩摩や長州出身の有力者たちの手によって一方的に断行され、第二次大戦後の改革は日本を占領したアメリカ軍の手で強引に実行された。ふたつとも上から力ずくでおこなわれ、しかもそれを日本人はほとんど無抵抗で受け入れたのだ。
「もうチョンマゲやサムライの時代じゃない。ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」
「これからは民主主義の時代だ。野蛮な軍国主義なんてナンセンス。過去のことは忘れて新しい日本を創ろう」
日本人にとって改革とは上から力ずくで押しつけられるものであり、それにすぐ「慣れ」てしまう。改革に抵抗するのが悪なのではなく、空気が読めない、流れに逆らうのが悪なのだ。ためらう者や疑問を感じる者は置き去りにされてしまう。
その結果として改革にともなう破壊と流血が最低限に抑えられたのも事実だ。明治維新のときにも多くの血が流れたがフランス革命やロシア革命にくらべれば犠牲者は少ない。それどころか江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜は明治時代になってから公爵の位を授けられている。慶喜だけではない、諸藩の大名や公家たちも華族に列せられている。
旧体制の最高権力者が革命後に新体制の貴族になっているのだ。
旧体制の支配者を新体制が貴族として迎える。というのは旧体制の不満をやわらげ反抗の意欲を削ぐ、なかなか上手いやり方だ。
多軌子もそれに倣い、禅譲をした先の天皇には平成王の位を与え、その一族を丁重にあつかったのだが、旧体制の政財界に対しては苛烈かつ冷酷であった。
「いいですか、姫。所得の不平等が経済の衰退を引き起こすのです。貧しい者は消費に余裕が無く、豊かな者は所得の一部のみを消費に当てるだけの状態になり市場は供給過剰に陥る。その結果、商品需要の不足が発生するため豊かな者は貯蓄に励み生産に再投資しない。この貯蓄の増加が経済的均衡を崩す結果を生み、生産縮小のサイクルが――」
「よきにはからえ」
いくつもの省庁が再編され、不必要と判断された部局や機関が廃止された。
利益を社会に還元せずに暴利をむさぼっている企業に対して『反社会的である』と断罪し、経営者陣を逮捕。財産を没収し、会社からは多額の罰金を徴収した。
特に電力会社を全面国営化にするにあたって、親陰陽師派以外の幹部・役員たちの多くは失脚させられ、総入れ替えがなされた。
この陰陽師たちによるクーデターとそれに続く大改革、時代に逆行する専制君主の誕生は世界各国に大きな緊張をもたらし、非人道的な政策の数々は全世界の非難をあびた。
特に陰陽術の軍事利用に対しては先の戦争で直接交戦したアメリカと、日本に侵略されたアジア諸国からの猛反発があった。
「唐は唐、日本は日本。唐の紙屑ばかり拾いて日本の刀を忘ることなかれ。道中に立つ市人を切り捨て、股は潜らぬ大和魂」
江戸時代に詠まれた狂歌ではないが、多軌子は諸外国の反発を意に介さず、それどころか日本国内に外国の軍隊が駐留することに強く嫌悪し、日米安保条約を一方的に破棄。在日米軍を三年以内に撤退させることを要求した。
この正気の沙汰とは思えない、あまりにも誠意に欠けた態度が引き金となりアメリカ政府が日本に対して経済制裁を発表すると、中国、韓国、ロシア、オーストラリア、イギリス、フランス、ドイツ――多くの国々もそれに追従した。
輸入が激減し、生活が苦しくなると思われた矢先、陰陽省は以前より計画していたエネルギー改革を発表、実施した。
大地を流れる龍脈。その膨大な量の霊気を電力に変える、霊力発電だ。
それは新宿に建設された。
新宿は水と縁が深い土地である。江戸時代、人口増加により飲料水が乏しくなったため幕府は多摩川から水を引くための配水施設を建造し、明治時代には淀橋浄水場が造られた。
現代の新宿中央公園には東京に住む人々の生命を司る力に満ちているのだ。
また塔という建造物は風水学上の分類では木行の性質を持っている。
水生木。木は土中の水分を吸い上げて成長するのが理であり、大地を流れる水。そこに込められた霊気を吸い上げて成長・発展する風水の塔。
風水塔をふたつ建造し、もちいることで強力な霊的音叉効果を生じさせ、吸収した霊気をより増幅させてマイクロブラックホールのような超高密度物質をふたつ、人工的に作り出す。
そのふたつを高速旋回させて、その相互作用で特異点からエネルギーを生み出す半永久機関――。
簡単に説明すれば、そのようなものだ。
無限の電力を生み出すだけでも奇跡的な発明なのだが、それにくわえて大量の霊力までもが生み出せる。
この膨大な量のエネルギーを背景に陰陽省は諸外国からの輸入にたよらずとも日本一国で自給自足できる生産計画を実行。各都市の地中に巨大な球状空間を造り、火行を封じて太陽を模し、壁面には土行を配して重力を作り、木行金行水行を以って風や水などの環境を整えた。
地中農園クエビコ。それはただの巨大な地下プラントではない。通常ならば実るのに数週間から数か月かかるような農作物を宇迦之御魂や保食神といった農耕神を力の源とする生産系呪術を駆使し、短期間で大量の農作物を生産した。
さらに食用式。霊的に安定して物質界に完全に定着することで瘴気を発することのなくなった霊的存在を食用にすることにも成功。巨大な体躯から実に一〇〇〇〇人分もの牛っぽい味のステーキが取れる牛鬼をはじめ、豚っぽい味の片耳豚や鶏っぽい味の大鵬、魚っぽい味の悪樓などなど――。
これらは当初タイプ・キマイラの一種としてあつかわれていたが、タイプ・フードという正式名称がつけられ普及した。最初のうちこそ気味悪がれ、積極的に口にしようとする者は少なかったが、ほかに食べる物がなければしかたがない。それに日本人はもともと成長ホルモンを投与された牛肉を食べ、残留農薬たっぷりの冷凍野菜を食べ、抗生物質入りの餌を投与された養殖魚を平気で食べていたような連中だ。すぐに新たな食料を受け入れた。
このような発明によって最低限のライフラインは確保できるようになり、生活が安定したら次は娯楽だ。
呪術の偉大さと利便性。呪術大国日本の技術を誇示するため、呪術によって幾多の特殊な娯楽施設や建造物が造られた。
地中農園の建設によって生じた大量の岩石を利用し、空中都市タカマガハラを建造。環状列石の呪力によって重力を打ち消し、街全体が浮遊している。
海原を自由に行き来するふたつの海上都市、アズミとイソラ。
海底資源の採掘用に造られた深海都市ワダツミ。
富士の樹海に造られた樹上都市ククノチ。
幻覚都市マホロバ。東京湾にある孤島に時間と空間を歪めて作り出した人工の『理想郷』。衣服、食料などすべてが幻術で作られ、飢えも病気もなく働く必要もなく、そこに暮らすものは歳をとることさえなかった。――ただしこの島に足を踏み入れたものは二度と外へは出られず、後期高齢者と心身に障害のある者しか島へ渡ることはできない。
このように呪術を礎とする華々しい業績のいっぽう、諸外国からの経済制裁によって日本国民は苦しめられていた。アメリカをはじめとする国々が日本に債務不履行を宣言したのだ。
債務不履行とは簡単に言ってしまえば借金を返さないということで、海外に投資した資金はすべて水の泡になってしまった。
ドルと呼ばれる紙くずの山をかかえて飢え死にする――。株の大暴落によって投資家たちは恐慌におちいった。億単位の負債をかかえた証券会社や不動産会社、金融会社の倒産があいつぎ、株の暴落で破産し、自殺する人も多く、一家心中が続出した。証券会社の重役が破産した人に殺害される事件が連続して起きた。
「欲ボケした愚民どもには良い薬だな。だいたい学生だの主婦だのが株を買って儲けようとするのが異常なんだ」
「子どもたちにまっとうに働くことの大切さや物作りの喜びを教えるのではなく、株や投資といった人様の上前をはねるマネーゲームを教えるような国は滅んでとうぜんだ。おれたちの創る国にはそんな堕落者はいらん」
「他所の国の資産だの資源だのはあてにならん。外国の顔色をうかがうことで生活を維持するのではなく、日本は日本一国で栄える力を手にするのだ」
「小国寡民、大いにけっこう。夷狄の落とすあぶく銭にたよらず、自給自足で暮らしていこう。呪術があればそれが可能だ」
新時代の主役である陰陽師たちは日夜研鑽を積んでおのれを高めているという自負がある。そのような考えの者にとって株によって財を築いたブルジョワたちの破滅は小気味良いものであり、いっときの経済的な困窮をよそに、呪術の革新に奔走した。
なにせいまは夢にまで見た未来。陰陽術が花開く理想の世界そのものなのだ。彼らはそう信じて疑わない。そして気づかない。
支配する手段が富や権力から呪術に変わっただけで、自分たちが傲慢で醜悪な支配者になりつつあることに――。
先進国の所得が多い上位一割の富裕層と下位一割の貧困層との所得格差は一〇倍近くあるという。それの呪術版、富のあるなしではなく呪術あるものと呪術なきものの格差が広がりつつあったその日、新たな改革がなされた。
国民総陰陽師化計画。
霊気の流れや霊的存在を感じ取る能力、陰陽師にとっては必須となる見鬼を付与し、呪術を使えるようにしてしまおうというものだ。見鬼の才は基本的に先天性のものだが、特殊な呪印を額に刻むことでアージュニャー・チャクラを開花させて後天的に付与することに成功した。
たんに呪術を使えるようになるだけではない。陰陽師たちは呪印を通じて新宿に建てられた風水塔からの呪力を引きだすことが可能になったのだ。そのため生粋の陰陽師であるにもかかわらずみずから望んでこの施術を受ける者も続出し、それまで個人の資質に左右されるという束縛を受けていた呪術は、ここにきてさらなる進歩を遂げることになる。
もっともこの処置には問題もあった。風水塔と霊的につながることによって自身の呪力霊力が逆に向こう側に吸収される可能性があり、そうなってしまった場合いっさいの呪術が使用できなくなる。またなんらかの理由で塔が制御不能になりキャパシティを超える呪力が流れ込んできたさい、その負荷に耐え切れず精神が焼き切れ良くて廃人、悪ければショック死してしまう危険があるのだ。
そのため思慮のある陰陽師の中には、あえてこの魅力的な能力増加を拒否する者もいた。
経済制裁をものともせず(実際は痛手になっているのだが)発展を見せる日本の姿にもっとも焦燥したのは中国だった。帝と称する者を頂点に『戦犯』土御門夜光が陰陽術という血塗られた軍刀、侵略の象徴をもちいて繁栄する姿はかつての大日本帝国を彷彿させ、日本人の想像する以上に彼らの神経を逆なでしたのだ。
〈核さぁ、撃ってみたくね?〉
〈同感、我が国のもっとも優れた武器は核ミサイルだ。東京に核ミサイルを落としたら妖術師たちは全滅するだろう〉
〈せっかく持ってるのに撃たないってもったいないよねー〉
〈一発撃ちこみゃ小日本人どもも頭を冷やすだろう〉
〈あの思いあがったゴキブリ民族どもに思い知らせるには、それしかない〉
〈オレのじいさんは、9歳にして日本人に殺された。南京で虐殺された三〇万人の敵を討つべし!〉
〈虾兵蟹将! 屌你老母! 死日本仔!〉
〈我が国が保有する核兵器の威力は二四~七二時間以内に日本に対して最大五発の核ミサイル攻撃が可能である。我が国の最初の核攻撃でジャップランドは東京などの主要都市が壊滅状態になる。さらに呉、横須賀、沖縄、佐世保といった軍港を攻撃目標にすれば海上自衛隊へのダメージは計り知れない〉
〈なんだかんだいってもあいつら核もってないしな〉
〈撃ち返せないよな〉
〈いいじゃん、撃っちゃえ〉
〈撃っちゃえ、撃っちゃえ〉
〈撃っちゃえ、撃っちゃえ、ミサイル撃っちゃえ〉
このような意見が中国のネット上を席巻していった。リアルでも制裁のために核ミサイルを発射すべき。という意見があがり、多くの国民が支持をしていた。
だからといって気軽に発射できるものではない。
中国共産党の幹部たちは決断をしぶり、ミサイル発射以外の方法で抗日人民たちのガス抜きをする必要にせまられた。
中国共産党は民衆の反乱を恐れる。
秦を滅ぼした史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱をはじめに、赤眉の乱、黄巾の乱、黄巣の乱、紅巾の乱、李自成の反乱、白蓮教徒の蜂起に太平天国の乱――。
中国の権力者たちはつねに民衆の反乱による革命の脅威にさらされている。ゆえに中共政府は制御の枠をはずれた民衆の蜂起を恐れた。
だが彼ら共産党が長年にわたって敷いてきた反日教育の根は奥深く、日本人に対する憎悪はもはや制御できない域に達していた。下手に流れを変えようとすればその不満は共産党政府にむけられてしまう。それだけは絶対に避けたかった。
しかしその危惧は民衆ではなく身内、軍部の一部が暴走するというかたちで実現した。
北朝鮮との国境近く、吉林省通化に人民解放軍第二砲兵部隊のミサイル基地が存在する。東京からの距離は一二〇〇キロメートル。対日攻撃のために造られた基地から三〇発の弾道ミサイルが日本にむかって放たれたのだ。
防衛省。防空監視システム室の中で防衛大臣の玉上がレーダースクリーンをにらんでせわしなく歩き回っていた。日本地図を描いたスクリーンには近況離から発射されたミサイルを表示する赤い点がいくつも表示されていた。
「ついに撃ってきたか、やつら日本を完全に葬り去るつもりらしい。現在の自衛隊の迎撃システムでどれだけ防げる?」
玉上は歩き回りながら自衛隊本部につながるマイクに質問した。
「弾道ミサイルの半数は迎撃できます」
「たった半数だと!? ミカボシを使ってもか?」
「はい」
「一発でも国内に落ちたら……。ちっ、スクリーンには現れていないがICBM(大陸間弾道ミサイル)と巡航ミサイルはどうだ?」
「現在のところICBMの発射は確認されておりません。ただ巡航ミサイルのほうは……」
マイク越しの自衛官の声が自信なさそうにしぼんだ。巡航ミサイルはあらかじめ地形をインプットされて低高度を飛ぶうえに赤外線レーダーにはほとんどひっかからないためキャッチするのが非常にむずかしい。
「ええい、そんなことで国が守れるか!」
玉上が見当ちがいの怒りを爆発させたとき、無機質な室内に似つかわしくない、玲瓏な声が響いた。
「ぼくが行こう」
「陛下……」
背後から現れた多軌子と夜光の前に平伏する玉上。この男は呪術の才こそないが夜光の思想に傾倒している親陰陽師派で、先のクーデターのさいは夜光のたのみで自衛隊の一部を指揮して在日米軍の動向を注視していた。
「いずれ、このようなことが起こると思っていた。むこうから手を出してきたのはむしろ好都合だ。日の本に弓を引いたこと、後悔させてやる」
自信に満ちた笑みを残して多軌子と夜光は姿を消した。
空を突き抜け、光の箭となって成層圏を突き抜けた多軌子たちは漆黒の闇につつまれた宇宙空間へと飛び出していった。高度一〇〇キロで上昇を止める。ICBMが発射された場合、大気圏外で迎撃する必要があるが、弾道ミサイルと巡航ミサイルはそれ以下の高度で撃ち落とす必要がある。これは両者を迎撃するぎりぎりの高さなのだ。
空に白い軌跡を刻みつけて飛来するミサイルが遠目に見えた。小型の弾道ミサイルが散り散りに飛んでくる。そのうちの一発に天から放たれた白い光が貫き、赤い炎をあげて爆散した。
衝撃波が空を駆け抜け、多軌子と夜光の身を守る呪力の盾が空気摩擦で淡く光る。
「ミカボシか、上出来じゃないか」
いまの光は重工業メーカー富士川重工と陰陽省開発研究部の共同制作によって造られ、自衛隊に配備された人工衛星型機甲式ミカボシによるものだ。
マグネシウム濃縮ガスに霊力炉のエネルギーをぶつけて無数の電子を生み出しそれを直径三〇センチの束にして目標に撃ち込む。地上500キロの低高度衛星軌道から放たれるエネルギーの箭がミサイルを撃ち落としたのだった。
威力と命中精度はもうしぶんない。だがいかんせん一機しか完成していないため、すべてのミサイルを無力化することは不可能だ。
「光よ……」
多軌子が両腕を掲げて念じると、周囲の空域にプラズマが生じ、それが凝縮して無数の巨大な矛になった。矛は稲妻となって空を突き進む。いくつもの閃光、次いで轟音を生じさせてミサイルが爆発していく。
「――高天原天つ祝詞の太祝詞を持ち加加む呑んでむ。祓え給い清め給う――祓え給い清め給え――」
ミサイル迎撃を多軌子に任せた夜光は最上祓いの祝詞を唱え、放射性廃棄物の浄化に専念する。
本来ならば霊的な障りを鎮静化する術でこのようなことができるのは夜光の持つ強大な呪力と精妙な術式を組み立てる卓越した技量のなせる業だ。
ミカボシの撃ちもらしたミサイル群をことごとく迎撃したふたりは、しばらくのあいだ高度一万メートルにとどまって日本近海をうかがっていた。
「潜水艦が二隻に巡洋艦が一隻か……」
多軌子の神眼が日本を標的にする軍艦を見定め、プラズマの矛を力の限り投げ下ろす。それは一撃で原子力潜水艦の甲板を突き破り、海底に突き抜けた。ひび割れた原子炉に海水が逆流した潜水艦は膨大な水蒸気を噴き上げ、轟音とともに爆発し周囲の海水を蒸発させつつ海中に沈んでいった。
「賊徒め、ひとつ残らず沈めてやる」
冷ややかにつぶやきながら、新たな矛をにぎりしめ、後方に見える巡洋艦に狙いをつけた。
邯鄲之夢 13
前書き
秋芳と京子の長い長い夢の旅路も、これでおしまいです。
中国のミサイル攻撃をしりぞけた日本はそれを機にアメリカや中国など、経済制裁を実行する国々に対して報復をおこなった。といっても直接武力を行使したのではない。
各国に存在する何万というサーバーがダウンした。
電話もメールもできなくなり、インターネットにもつながらなくなった。それだけではなく各地の発電所のコンピュータに異常が発生し、動きを止めたことで大規模な停電がいくつも同時に発生した。
それは電子式。高度な人工知能を有し、ネットの中で増殖しながら拡散し、特定の言語をもちいるサーバーだけを標的にする特殊な式神による攻撃だった。
電車は動かず、交通信号が消えたため道路はあちこちで渋滞。輸送網は壊滅し、各地で食糧不足が起き、略奪が多発した。
大統領や首相、閣僚といった一部の者らはどうにか自家発電のある建物を利用できたが、それ以外の人々は電力文明の恩恵を受けられなくなった。
電気のない、暗黒の時代に逆戻りしてしまったのだ。
人類という種そのものが伝染性の集団ヒステリーにでもなってしまったかのように混乱は飛び火し、ますますエスカレートしていった。
ドイツをはじめとした欧州各国では極右集団が徒党を組み、移民の家々を襲撃して略奪をし、南米では政府と麻薬組織が武力衝突し完全な内戦状態におちいった。メキシコにいたってはマフィアが政府を追い出して国内を完全に掌握。武装した集団がアメリカ国内に大挙して押し寄せ、アメリカは軍隊を動員して追い散らす。
中国では西北部のイスラム教徒の反乱が起こり、チベットや雲南でも少数民族が暴動を起こし、拡大の一途をたどった。ロシアでは餓死者や凍死者の数が一〇万を超えた。
日本という極東の小さな島国で起きた革命をきっかけに世界各国の政治、経済、社会は破局にむかって急斜面を転落しつつあった――。
「…………」
「――以上だ、ざっくりとだがいまの世界はそんな状態にある」
羊肉を中心とした清真料理をたいらげ、食後のモロッコティーを口にしていた秋芳と京子はこの世界の春虎の語る内容に言葉も出なかった。
「なんとまぁ、壮絶だな」
「ええ、いままでもいろんな世界でいろんなことがあったけど、こんな悲惨な状況ってはじめて」
「日本はかろうじて自給自足できているようだが、世界がそんな状態じゃあ輸出や輸入はおろか生産もままならないで、さぞかし大変だろう。外国産の物がまったくないってのも味気ないよなぁ。俺は特に舶来信仰が強いわけじゃあないがイタリア産のワイン、ドイツのビール、中国の白酒、メキシコのテキーラを口にすることができないのはさびしい」
「そうよね。イタリアのパンドーロやドイツのシュトレン、中国の鳳梨酥にフランスのシードルでスイーツパーティができなくなるのはかなしいわ」
ニューヨークでふたつのビルがくずれただけで世界経済に大きな影響が出る。
ニューオリンズがハリケーンの被害に遭ったときには原油価格が高騰した。そのあおりでインド洋にマグロ漁に出かける漁船の燃料代もはね上がり操業中止に追いこまれ、日本の食卓にも影響が出た。
バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるという言葉があるが、この世界で起きることはすべて密接なつながりがあり、世界規模の大事件が起きれば日本にも影響がおよんで個人の生活に大なり小なりなんらかの変化が起きる。
ましてや一国が紛争状態になるなど、何万人もの人間が死ぬような大災害が起きれば経済活動はめちゃくちゃになり平穏な日常なんて崩壊してしまう。
戦争になっても、小惑星が落ちてきても、まだコンビニに物があふれているようなフィクションがたまに存在するが、そのような作品はあまりにも非現実といえるだろう。
「んん? ちょっとまて。さっき食用式とか言っていたが、じゃあいま食べた料理の食材は……」
「察しのとおり天然物はほとんど入っていない。クエビコなどの呪術農園で生産されたものばかりで、羊は食用式の肉だ」
「この羊もどきは饕餮か獬豸(かいち)か?」
「太歳という食用式の肉だ」
「太歳て……」
太歳。道教における架空の惑星や陰陽道の方位神とは別に中国の伝承にある生物で、これを食すと不老不死になれるという。別名を視肉、肉芝ともいい『山海経』や『本草綱目』に記される。
食用式として作られたそれは無限に再生する桃色の肉塊で、周囲の気を吸収して欠損部を回復する、食べても減らない理想の食肉だった。
「あたしたち、タイプ・キマイラを食べたっていうわけ!?」
思わず口元と胃のあたりをおさえて顔をゆがめる京子。さすがに吐き出すような粗相はしないが胃の腑から酸っぱいものがこみ上げてくるのはいなめない。
「さっき『鵺の肉でも食べたほうがマシ』て言ってたが、ほんとうに食べちゃったなぁ」
「鵺じゃなくて太歳。あとタイプ・キマイラじゃなくてタイプ・フードな」
「どっちも霊災じゃない! おなじよっ」
「霊災か、もはや死語だな。多軌子に将門の御霊が降りて東京、ひいては日本国中の霊相が変化してから霊的災害は起こらなくなったんだ。この手の生き物はいちように式神、式と呼んでいる」
「害がなくて安くて美味ければ無問題だ、ほかの食用式もためしに食べてみたいな」
「悪食ぃ……」
「いまはもう太歳しか出回ってないんだ。品種改良が進んでね、鶏肉太歳や魚肉太歳みたいに、これ一種ですべての食肉の味と栄養を再現することが可能になった」
「そりゃあ便利だな」
「まだ食用式が試作の段階だった初期の頃は、それこそ鵺も食べていたんだぜ。……なつかしいな、鵺バーガー。鵺肉で作った重厚感のある肉厚パティをふっくらとしたバンズに挟み込むんだ。パティにする鵺肉はミキサーを使わず、食感が残るようにあえて粗めに仕上げるんだ。そうすることで鵺肉の性質上、部位によって味や食感が大きく異なるという特徴を最大限に利用できて、食べるたびに新しい味に出会えるギャンブルバーガーとして一部の客層から好評だったんだ」
「百味ビーンズかよ。……なぁ、ひょっとしてデミ・ナンディのステーキや豆狸の稲荷寿司とかもあったりした? グリフォンやカラドリウスやチュパカブラの肉で唐揚げ作ったり、マヤウェルの茎から採取した汁を黒蜜やきな粉の代用品にして葛餅にかけて食べたりしてた?」
「はぁ? なんだそりゃ、そんな食材は見たことも聞いたこともないぞ」
「いまはゲテモノ料理の話よりもほかに話すことがあるでしょ。夏目君が夜光の生まれ変わりだってうわさ、この世界では真実なのね。しかも夏目君が女の子で春虎の双子の妹だなんて、たちの悪い冗談。変な夢みたいだわ」
「それに将門公の魂を宿した相馬多軌子に八瀬童子の夜叉丸、蜘蛛丸か……、どれも知らない名だな。将門公がらみで相馬というからには上総氏や千葉氏といった平忠常系の系譜かな。しかしよりにもよって将門公とはねぇ」
平忠常。将門の次女の生んだ子であり、将門同様関東で乱を起こし、鎮圧され京都に護送中に病死したとされる。その子らはゆるされ上総氏や千葉氏、相馬氏などにわかれた。
余談ではあるが将門の嫡子である将国が幼いころ常陸の国、信田に落ち延びたことでいつの頃から同郷の出身である安倍晴明に関連づけられ、安倍晴明と平将国。このふたりは同一人物であるという説が生まれた。
将門の乱のときすでに晴明は成人しており年代的には合わない。源義経=チンギス・カンとおなじようなトンデモ説ではあるが、土御門夜光という安倍晴明に比肩する陰陽師の筆頭が将門の魂を宿した少女と行動をともにすることに、秋芳は時代を超越した奇妙な因縁を感じた。
「相馬って、前の戦争のときに土御門夜光を陰陽頭として帝国陸軍に招き入れた呪術の大家よ。倉橋とならんで夜光の双翼と称されたんだけど、敗戦を境に市井にまぎれて呪術界からは姿を消したって、まえにお祖母様から聞いたことがあるわ」
「ほう、そうなのか。それともうひとり知らない名があったな。法源てのはなに者だ。持禁の術を使えるようだが」
「倉橋法源。『妖仙』の異名をもつ十二神将のひとりだ」
「倉橋ですって!?」
「知っている名前か?」
「いいえ、初耳よ。そんな人親戚にいないわ」
「親戚? あんた倉橋の人なのかい?」
「ええ、あたしの名前は――」
あらためて自己紹介をすると、春虎と冬児がおどろきの声をあげる。
「京子だって!? 倉橋の……」
「ええ、それがどうかしたの?」
「そうか、そっちの世界の倉橋京子か……。だが、おれたちの知っている京子とは似ていない、別人みたいだな」
「ふぅん、こっちの世界にも『倉橋京子』が、あたしがいるのね。やっぱり春虎たちとおなじ闇鴉の一員なの?」
「いいや、京子はいない。風水塔の人柱にされてしまったんだ」
「なんですって!?」
「人柱だと!?」
「風水塔を稼働するには龍脈の流れを読み、あやつる者が必要だ。京子には龍脈の流れを見極め、制御できる如来眼の力があった。それゆえ生きながらにして式にされた」
一日二四時間、一年三六五日、何年も何十年も何百年も、未来永劫に――。
食事も排泄もせず、休むことも眠ることもなく、ひたすら気の流れを見て調整する。生身の人間には不可能なことだ。そのため人としての肉体と魂を封印されて風水塔を動かすだけの道具に、式にされているというのだ。
「年中無休で働かせるなんて、どんだけブラックなのよっ、法定労働時間はどうなってるわけ!」
「まったくだ、八時間労働ですら奴隷の生活だとニーチェ先生もおっしゃられているってのに全人生労働だなんてクソくらえだぜ」
「いや、そういうレベルの話じゃないからね」
「わかってるわよ! あまりにも酷い話だったから軽く現実逃避しただけ」
「だがクソくらえってのは本当だ。ひとりの少女を生贄にした永久機関なんてあってはならないことだ」
「生贄になっているのは京子だけじゃない。陰陽省は魂に関連する呪術の研究開発を進め、そのために多くの人々を実験材料にしている」
「ショッカーかよ、この国は……」
「悪の秘密結社そのものだよ」
「そう、そして俺たち闇鴉はそれに反旗を翻すレジスタンスってわけだ」
いつの間にか席をはずしていた冬児が大きめのノートパソコンを持って現れた。
「さっき多軌子や八瀬童子を知らないって言ってよな。百聞は一見に如かず。言葉だけだとわかりづらいところもあるだろうし、こいつを使って説明するぜ。世界情勢についての補足もある――」
『相馬多軌子。先の大戦時、土御門夜光の呪術的才能に目を留め、彼を軍部へと招いた一族「相馬」の末裔。周囲からは「姫」と敬称され――』
『大連寺至道\夜叉丸)元宮内庁御霊部部長で十二神将。二つ名は「導師。相馬の秘術により八瀬童子という式神に転生し、夜叉丸と称す――』
PCのモニターに画像や動画つきの人物データが次々と表示される。
「ストップ! ねえ、秋芳君。これって……」
「…………」
『倉橋法源。十二神将の筆頭である倉橋源司の子。幼い頃に賀茂家の養子となり帝国式陰陽術に組み込まれなかったいにしえの呪術を学ぶ。韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の子孫より呪禁の術を伝授され現代に復活させた功績は大きい。その呪術の技量と享楽的な性格から「妖仙」の異名を持ち――』
倉橋法源の項目に載ってある画像は秋芳その人だった。
「他人のそら似、と思いたいが経歴までかぶってやがる。これがこの世界の俺か?」
「こっちの秋芳君、あたしのお兄様なんだ……」
「妹か……、歯磨きプレイがしたいな……」
「え? 歯磨きがなんですって」
「いや、気にするな」
モニターに表示されている秋芳と瓜二つの法源の姿を食い入るように見つめ、語るふたりに春虎と冬児が怪訝そうな表情を浮かべ、口をはさむ。
「おまえも法源のように呪禁が使えるのか。でも外見は似てないだろ」
「似通っているのは髪型くらいに見えるぜ」
冗談を言っているのではない、本当に春虎たちには別の人物に見えるらしい。
「まさか、じゃあ京子は――」
倉橋京子のデータを閲覧。金に近いあざやかな亜麻色の髪をハーフアップにし、長いまつ毛に紫がかった瞳と薄バラ色の唇が快活な美貌を彩っている。腰高で手足の長いすらりとした肢体はファッションモデルのよう。
画像はまさしく倉橋京子その人なのだが、やはり春虎たちには目の前にいる京子は別人に見えているらしい。
「どうもこの世界の住人の目には俺たちは異なる外見に映るらしいな」
「んー、そのほうが混乱がなくていいんじゃない」
「お、これが夏目か」
「夏目君、じゃなくて夏目ちゃん……」
それは京子の知る美少年ではない、妙齢の美しい女性だった。漆黒の外套を身に着け、長く垂れた髪を後ろでひとつにたばねている。黒絹のように艶やかな髪とは対照的に肌は新雪のように白く、ほのかな照明のもとで雪花石膏のようになめらかに輝いていた。
「綺麗……、夏目君――、じゃなくて夏目ちゃんて女の子になるとこんなに美人なのね」
黒い髪と白い肌。対照的なふたつの色が生み出す美貌に、秋芳は陰陽を表す太極図を思い浮かべた。
「でも、中身は夏目ちゃんじゃないのよね。夜光の生まれ変わりとして覚醒したって」
「夏目の人格はもうないのか? なんとかして夜光の魂を封印すれば――」
「……そういうんじゃないんだ。夏目はあくまで『夜光の記憶のある夏目』なんだ」
「なんと」
「だから人格が不安定になるとか分離するとか、そういうことはいっさいない」
それはつまり土御門夏目の意思で多軌子に、いまのディストピア国家に仕えているということだ。
「でもなんで? あたしの知っている夏目君はそんな人じゃないわ」
「夏目に関しては説得の余地がある。おまえたちにはちょっと別のことをしてもらいたい」
「なにをさせるつもりだ? 饗応を受けたからにはご期待に応えるつもりだが、さすがにミサイルや軍艦を沈めるような怪物相手に立ち向かえるほど俺たちは強くはないぞ」
「その怪物をどうにかする手段もあるからこちらで対処する。おまえたちには風水塔の制圧する手助けをして欲しい」
風水塔の制圧、すなわちこの世界の京子の救出である。ことわる理由はない。
「わかった。だが似ているとはいえ右も左もわからない並行世界でいきなりドンパチに加わるのも不安だ。時間に余裕があるならちょいとぶらついてこっちの世界を見聞きしたいんだが」
「そうだな……、いいだろう。三日やるからその間にこの世界になじんでくれ。それまではここにある施設は好きに使ってくれていい。専用の部屋も用意する」
「ちょっとまって。あたしたちがレジスタンスに参加するのはいいわ、けれどもそれ以降の明確なビジョンはあるわけ? 首尾よく風水塔を制圧できても管理運用できなくちゃ意味ないでしょ。ていうかあたしが……、『京子』がいないと制御できないんだったら彼女を救出したら電力の供給もなくなっちゃうんでしょ、それって問題なんじゃない?」
「風水塔以前に稼働していた各地の発電所は破棄されたわけじゃない。もとのライフラインにもどすための手立てはすでに手配済みだ」
「たいした組織力と技術力だ、いちレジスタンス組織にしてはずいぶんと手際が良すぎやしないか?」
「あいにくと闇鴉は『いちレジスタンス』程度の存在じゃないんだ。いま明確なビジョンと言っていたが、おれたちが多軌子を無力化し、新民党の独裁を打破したあとのプランはすでにある。もっともそっちのほうは政治的なあれこれが中心で、おれたちの分野じゃないがな」
闇鴉の後援者には今の日本を良しとしない政財界の大物や、呪術関係者が多くいるという。驚いたのは冬児の父親が直田公蔵という、かつて自主党の幹事長を務めていた大物政治家だったということで、そのような反体制勢力の指導者的地位にいるらしい。
闇鴉による革命が成功したあかつきには直田らが治世にたずさわり、各国との関係も修復する予定だ。
「謝罪と賠償をするにあたり燃料電池を大量にばらまくそうだ」
日本は無尽蔵の電力を駆使して海水から二酸化炭素と水素を抽出し、それをもとに燃料電池を大量に生産している。頃合いを見て電力不足に悩む諸外国に高値で売りつけるつもりだという。
自分たちで電力を断っておきながら有料で電力を売りつけるなど、ヤクザまがいの商法である。
直田は謝罪と賠償の意味を込めて、押収したそれら燃料電池を諸外国に無償で提供する考えだ。
「念のためうちのメンバーから案内役をひとりつけるから、なにかわからないことや欲しい物があったら遠慮なく言ってくれ」
案内役は中原星哉と名乗った。ボサボサのくせっ毛にハーフリム眼鏡をかけた〝おしゃれなアキバ系〟という感じの青年に見えた。
「いや~、春虎さんの星読みを信用してないわけじゃなかったけど、まさか本当に異世界から稀人が来るなんて、正直なところ半信半疑だったんすよ。聞けばおふたりは神龍武士団の連中をフルボッコしたとか、お強いんですね! ――あ、ここがおふたりに用意されたお部屋です。もうお休みになられますか?」
「いや、時間が惜しい。外の様子を見たい」
「わかりました、じゃあこちらから外に出られます」
星哉の先導でアジト内をぐるりと見回ったあと、入ってきたエレベーターとは別の出入り口から外へと出るや、騒動に出くわした。
ゴミが路上に散乱する、お世辞にも清潔とは言えないセンター街の一角に人だかりができていた。なにやらもめごとが起きているようで、数人の男の怒鳴り声がする。
「目障りなんだよ、おまえらは。とっとと自分の国に帰って死ぬまで礼拝し続けてろ」
「いもしない神にむかって一日五回も礼拝してんじゃねぇよ蛮族」
「それともイスラムお得意のテロでも起こすか、ああ!?」
「日本から出てけ!」
人だかりの合間をくぐり抜けた秋芳らの見たものは、四人の若い男たちがひとりの浅黒い肌をしたムスリムふうの外国人を取り囲み、口々に罵声を浴びせながら蹴り回している姿だった。額に例の呪印がないところを見ると神龍武士団の正規団員ではないらしい。
まわりにいる数十人の通行人はだれも制止しようとせず、警察に連絡するような人もいない。小声でささやきを交わしながら遠目に見ているのはまだいいほうで、軽く眉をしかめただけで通り過ぎる者のほうが多かった。
この街の住人にとって、このような暴行は日常の出来事だということをうかがわせた。
「またナンチャラ武士団のシンパかしら、止めないと……」
「さっきのモスクの一件といい、日本人はイスラム教徒に対して恨みでもあるのか?」
「……世界を相手に戦争しているから、外国人全般に対して八つ当たり的な怒りを感じている者が多いのは事実です。あとイスラム教徒を自称する集団がなんどもテロ未遂事件を起こしてるってのもあるんで、それ系の人たちに対する風当たりが強くて」
呪術の台頭を嫌悪するのは第一に中国。その次に一神教を熱心に奉じる国々だった。イスラム教でもキリスト教でも魔法や呪術のたぐいは否定されており、多神教信仰とならんで大罪とされ、原則非難されるもの。神に背く行為とされた。
一部の暴力的なイスラム教原理主義者たちが日本を標的になんどもテロを画策したが、いずれも未然に防がれている。星読みなどの卜占系呪術による未来予知のたまものだ。
また新皇多軌子は在日外国人の存在を好ましく思っていなかったが、ことさら排斥するような指示は出していない。来る者は拒まず去る者は追わず、という姿勢だ。
そのため電力を失い、科学の恩恵を受けられなくなった国の人々は不当なあつかいを受けるのを承知でいまだ日本に多くおとずれるという。
だが配下の者たちはそんな多軌子の意を必要以上に汲み取り大衆に流布している。さらに対外戦争中ということもあり日本国内に攘夷思想が蔓延してヘイトクライムが多発しているという。
一部の善良な市民もいるにはいたが、彼らの善意はあまりにも無力だった。陰陽師の専横や新民党の圧政によって生じた不満は、より弱い立場の人々にむけられた。
「自分たちに害を成そうとする相手を攻撃するというなら筋は通るが、一般人相手に八つ当たりで殴る蹴るは感心しないな」
若い男の蹴りが腹に命中した。外国人は腹を押さえてうずくまる。
「ああいう乱暴を止めるのも、僕たち闇鴉の仕事です。ここはまかせて」
星哉がスマートフォンを取り出し操作すると写真のフラッシュにも似た強い光が放たれた。だがカメラではない。星哉のスマホから黄色い電撃がほとばしり、白熱の軌跡を描く。
「ギャッ!?」
スタンガンを押しつけられたような激しい痛みと衝撃に筋肉をこわばらせ、神経を麻痺させられて転倒する若い男たち。
「雷法か? 詠唱も呪符もなしに……」
「ううん、ちがうわ。式神よ! 護法……とはちょっとちがうわね」
一泊の間をおいて答えが出た。
「「電子式!?」」
「正解。僕の実力じゃあ護法も雷法もあつかえないですからね」
電子式はなにもインターネット上のみに存在するわけではない。
人間が神仏や精霊といった霊的存在と交信する儀式や祭祀、必要な触媒や供物などといった面倒な手順をすべて省略し、データ上だけのやり取りで済ませ、一定の霊力を代償にさえすればだれにでも簡単に霊的存在を召喚・使役できる画期的なアプリケーション。
ある種の高等人造護法式ともいえるそれは実体化することなく設定されているいくつかの呪術を主の指示に従って行使することのできる、特殊なタイプの式神だ。
スマホの画面には頭に二本の角を生やした虎縞ビキニの美少女が雷をまとい、微笑んでいた。これが星哉の式神らしい。
「すげー、悪魔召喚プログラムみたいだな。ひょっとしてこれを作ったのは中島って人? それとも車椅子のおっさん?」
「中島って人でも車椅子のおっさんでもないし、船みたいなホテルのオーナーでもありません。天馬博士です」
「天馬だって!?」
「天馬ですって!?」
「はい。伴侶である大連寺鈴鹿夫人と共に様々な呪具や人造式の開発に貢献し、いまも闇鴉のために敏腕を振るう現代の発明王です」
この世界の天馬は技術者として大成しているうえ、大連寺鈴鹿と結婚しているというのだ。まったくもって驚きの連続だった。
「天馬博士は『個人の力量に左右されることなく性能を発揮できる』というウィッチクラフト社製人造式のコンセプトをとことん追求し、現在の式神使役アプリを発明したんです。もちろん高レベルの式神を使役するにはそれなりの霊力や技術が必要ですが、見鬼の才がない一般の人でも低レベルの式ならあつかえるんですよ!」
「それ、かわいい! あたしも欲しいわ。どうやって手に入れるの?」
「手順そのものは霊災を祓って式に降すのといっしょで――」
京子は未知の技術の産物に興味があるらしく目を輝かせて説明を受けるが、秋芳の食指は動かなかった。
「技術の進歩ってのはたいしたものだなぁ。サーバー内に位置情報が読み込まれて、携帯端末にキャラの動画が表示されるだけの単純なゲームに大騒ぎする世界とは大違いだ。……こんなのがあったら、俺らの使う陰陽術なんざ廃れちまうんじゃねぇのか……?」
秋芳の思惟をよそに次々と電子式を入手していく京子。呪術者としてのレベルが高いため簡単に手に入るようだ。
「あ、ほらほら見て見て秋芳君っ、ピクシーちゃんが仲魔になったわよ。これであたしも星哉君みたくスマホで雷が撃てるわ」
「ほう、そうかい」
「あ、こんどはブラウニーよ」
「メイド服着た犬耳少女? あの妖精ってそんなルックスだったか?」
「キジムナー、コロポックル、鎌鼬、あやかし――」
赤い髪に褐色の肌をした女ターザン、アイヌの民族衣装をまとったロリ少女、手から刃が生えたクールビューティーな女性、全身ローションまみれの長身美女――。
「なんでどれもこれも美少女化してるんだよっ、安っぽいソシャゲかっ!」
「擬人化は日本の文化みたいなものじゃない、八百万の神のおわします神道的世界観が根底にあるの。アニミズムの一種よ。それにほら美少年もいるわよ」
「そうですよ。おどろおどろしい姿形より美少女キャラのほうがいいじゃないですか」
「視覚化できない高次元の概念や存在に名前と形をあたえることで神や悪魔を創造した呪術的な擬人化と、萌え豚の下半身狙いの萌えエロ擬人化は断じてちがう!」
そんなやり取りをしつつ歩いていると、街のそこかしこに隠形された文字が書かれていることに気づいた。
『陰陽師に従え』『呪術は偉大だ』『多軌子新皇に忠誠を誓え』『権威を疑うな』『自分の考えを持つな』『順応しろ』――。
建物の壁や道路。新聞や雑誌にそのような内容の文章が呪力で刻まれている。
「なんなんだ、この悪趣味なメッセージは。まるでカーペンターの『ゼイリブ』に出てきた洗脳文字じゃないか」
ジョン・カーペンターのSF映画『ゼイリブ』には貧困層を労働に明け暮れさせ、富裕層には贅沢な高級品を買わせるよう物欲を煽る、特殊なメッセージが出てくる。
「まさにそれですよ、サブリミナル効果を利用して無意識下に刷り込んで洗脳しようとしているんです」
「でもサブリミナル効果って偽科学のたぐいでしょ、効果なんてあるの?」
サブリミナル効果とは人間が知覚できない潜在意識に音や映像などで刺激をあたえ思考や行動に影響をおよぼす効果のことだ。一九五七年、アメリカのニュージャージー州にある映画館でコーラとポップコーンを勧めるメッセージをフィルムに差し込んでくり返し放映した結果、コーラとポップコーンの売り上げが急増したという逸話が有名だが、これは真っ赤なウソであり、その後なんどもおなじような実験、たとえばカナダではテレビ番組の中で三五二回もメッセージを差し込んだ再現実験をしたが、効果はなかった。
まったく科学的根拠のないガセネタであるというのがこんにちの通説だ。
「それについてはいまでも不確かで、実行者である陰陽師でも効果を疑問視する声があがっています。でも無理やりこんなメッセージを見せられるのはムカつきますよ、マジ不快です」
「たんなる文字ならともかく、呪力をもちいた隠し文字ってのがこわいな。甲種言霊ならぬ甲種文霊で人の意識に作用する可能性は完全に否定できない。……しかし、そうか。そんな手があったか。そのうち甲種言霊による洗脳ソングとか放送しそうだな」
「それはすでに一部の強制収容所で実行されています」
「ますますディストピアだな」
「食料を増産したり、都市を空に浮かべたりとか、そういうところはユートピアなのに」
なんとはなしに空を見上げる京子。視線の遠い先には宙をただよう巨大な岩盤。相馬の天空内裏が見えた。岩山を丸ごと持ち上げて頂部を平たく削ったような造りをしている。
「どういう景をしているんだろうな、あそこは」
「天空内裏ですか? なにせ多軌子と夜光以外は十二神将など一部の上級陰陽師にしか昇殿をゆるされていない別天地で、一般の陰陽師でも立ち入り禁止なんです。画像とかもないですよ」
「昇殿ときたか、まさに内裏だな、貴人にしか拝めない殿上。ぜひこの目で見たいものだ」
余談ではあるが平安時代の貴族は官位が六位より上の人を指す。
太政大臣が一位。
内大臣、右大臣、左大臣が二位。
大納言、中納言が三位。
これらが貴と呼ばれる超のつくエリートで二〇人ほどしかいない。
次の四位五位は通貴といって帝のゆるしがあれば昇殿できた。ここまでが貴族だ。
六位以下の官人との間には大きなへだたりがあった。
安倍晴明は最終的には従四位下で昇殿が認められる貴族にまで出世している。
「ずっと飛んでいるわけじゃないんだろ、食糧や物資の運搬で地上に降りたりしないのか?」
「物資の運搬はしていますが内裏の底部からトラクタービームを射出して物資を回収しているので降りません。あんな巨大な建造物を着陸させるとなると大ごとですよ」
「人は? ヘリコプターとかで出入りするのか?」
「ヘリポートや空港のたぐいがあるという話は聞かないですね。おもに式神や自身の術を使って出入りしているそうですが、許可なく近づこうものなら撃ち落とされます。周囲を浮遊する飛び島を階段状に配置して大勢が移動できる機能がついているとか……そんなに行きたいんですか、あそこに」
「ああ、行きたい。俺たちのいた世界にはあんなのなかったからな、ぜひとも見物したい」
「あまり危険なまねはさせるなと春虎さんから言われているので自重してください」
「そうは言うが星哉、おまえも行ってみたくはないか?」
「そりゃまぁ少しは……、いや、正直かなり興味はありますが」
「だれにも気取られず侵入するにはどうしたらいいか、京子。なにか良い策はないか?」
「そうねぇ……。じゃあ、こういうのはどう?」
渋面を浮かべる星哉を尻目に、秋芳と京子は内裏に忍び込む算段をしはじめた――。
聖蓮寺の境内。
話しはじめてからどれほどの時が経ったのか。
詫びた風情の枯山水を望む縁側に座った桃矢は秋芳の夢語りをずっと聞いていたが、遠くから聞こえていた女子たちの歓声も、さすがに途切れ途切れになってきた。
「――で、それからいろいろあって俺たちは春虎たちに協力して革命を成し遂げた」
「……え? ええエッ! ちょ、ここまできてはしょりすぎでしょ! 相馬の天空内裏に忍び込む話はどうなったんですっ。なかに入れたんですか!?」
「もう一四話分も話してきて、いい加減飽きたし疲れたわ。これ読んでる人だっておなじだと思うよ。それどころか『もうこれ東京レイヴンズじゃねえじゃん!』とか思ってるんじゃない」
「またそういうメタな発言を……」
「というのは冗談で、実はそのあたりから記憶が曖昧模糊なんだよ。それこそほんとうの夢のようにな」
「そうなんですか?」
「ああ――、相馬の天空内裏には入れた。なにか京子の力で侵入できたのはたしかだ」
まさにまことの夢のように記憶がぼんやりとし、内容を鮮明に思い出すことができない。
「なんとか策を講じて内裏に潜入したんだが、どのような手で入ったかの細部を思い出せない。さらに内部の景。樹々や花々が生い茂り、青々とした芝生や池が広がり、鹿や兎。小鳥やリスが放し飼いにされた、それはもう良き景観だったのだが……。くそっ、やっぱり思い出せん」
「はぁ……、ほんとうに夢みたいですね」
「そうだ。まことの夢のようにおぼろげで、一秒ごとに脳から失われつつある。夢日記にしたためようにも、俺にはあの情景を文章にできるだけの文才はない」
陰陽師のユートピア、一般人のディストピア世界を最後に夢から覚めた。
体感時間で何年という旅をしてきただけに京子は気疲れしたので刀会の打ち上げに顔を出せないというのも、これまた残念だった。
「――さて、そろそろ終いにするか。明日からはシェイバにそなえて猛特訓だぞ、なにせ俺の三五〇〇〇万円がかかっているんだ」
「ああ~っ、思い出してしまったぁぁぁ」
「だが勝てば奴の三五〇〇〇万円を山分けだ」
「え? さっきはほとんど僕にくれるって言ってませんでした?」
「ええい、二年近く前に投降した作品の科白まで覚えておってからに」
「それもふくめて本日の刀会打ち上げの費用とか、ありがとうございます。お金、だいじょうぶなんですか」
「まぁ、京子に元・闇寺の宴会を見せてやりたかったとか、俺自身が飲み食いしたかったてのもあるしな。いつ死ぬかわからんのが人生だ、過ぎた蓄財なんぞしないで散財したほうが世は潤う、経世救民。世のため人のためだ」
「いいのかな~、下流老人になっちゃいそう」
「いいんだよ、だいたい金に価値がある世の中が永遠に続くとも限らないしな。金銭の価値なんてものは幻だ」
秋芳はふところから一万円紙幣を取り出してヒラヒラともてあそんだ。
「これは紙に模様を印刷しただけのものだ。特殊な印刷をしてはいるが、原価はまぁ一枚二〇円かそこらだろ」
「そうなんですか!?」
「そうだ。国が『これには一万円の価値がありますよ』と勝手に言っているにすぎない。だがみんながその幻を信じているから、この紙切れ一枚で一万円の買い物ができる。映画館で映画が五回は観られる。安い文庫本なら一五冊は買える。ゲームソフトを一本新品で買ってお釣りがくる。高めのワインをボトルで飲める。ビキニの女の子が五〇分間手コキしてくれる」
「最後のはいいですよ!」
「だがその幻が破れたらただの紙にもどる。ただの紙が原価の何百倍もする物と交換できるなんて本来ならありえないことなんだ。鰯の頭も信心から。人はあまりに長くその幻を信じ続けてきたから、それに疑いを持たなくなっている。呪にかけられちまったのさ」
「呪、ですか」
「そうだ、呪だ。金銭以外にも株や土地、貴金属や宝石類――。芸術作品なんてまさにそうだ。有名な画家の絵が競売に出されて一億円で落札されたとしても本当に一億円の価値があるわけじゃあない、だれかが一億円で買った。ただそれだけのことにすぎない」
「呪術の真髄は嘘……」
「まさにその言葉に尽きるな」
ふたりのいる縁側からは枯山水の庭園をまたいで遠くの山野も見えた。
薄が風になびいて秋にふさわしい風情をかもし出している。
この趣のある風景を京子とともに見たい。
そんな欲求に駆られた秋芳は来週にでも誘ってみることにした。
金も土地も、地位も名誉もあの世には持っていけない。
もしも魂やあの世というものが存在し、そこに持っていけるとしたら記憶。人の想いだけだろう。
愛しい人との逢瀬。思い出は金では買えない。
ケイタイで撮った画像を添えて誘いのメールを送る。ような真似はしなかった。
この場でそれはふさわしくない。
風景を映した式を飛ばすことにした。
夜烏が空を往く――。
後書き
ギャラリーにも投稿しましたが、先日あんこう鍋を食べました。
汁はそばつゆベースの薄味なんですが、煮立つにつれあん肝が溶けて汁に混ざり。
味噌のようで味噌でない、独特の風味が生まれて美味しかったです。
まさに冬の滋味。
邪願 1
夜風になびく薄の穂が、月の光を浴びて光り輝いている。涼しく澄んだ秋の夜風に吹かれ、薄の穂がこすれ合う音がさらさらと響きわたり、なんともいえない趣を出していた。
秋の薄野腹はあたかも銀色のさざ波を浮かべた大海原のようだ。
銀薄の海を一艘の舟がたゆたう。
水の上に浮かんでいるのではない、呪力によって浮遊しているのだ。
乗っているのは僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年と、金に近い亜麻色の髪をハーフアップにした少女。秋芳と京子だ。
ふたりはしばらくのあいだ無言で景色を堪能した。秋の美を凝縮したかのような絶景に声も出なかったのだ。
「音がきれい……」
ややあって京子が口を開く。
「お月様に照らされて銀色に輝く薄もきれいだけど、風の音がとっても心地良いわ」
ここは元・闇寺、聖蓮寺。
宿坊に宿泊して写経や座禅、水垢離などの修行体験をして心身を清め、茶の湯や精進料理を提供するほか、敷地内で呪術をもちいたアクティビティもおこなっている。この浮遊舟もそのひとつで、少しでも呪術に対するアレルギーを緩和しようと、陰陽庁のお墨付きでこのような呪具の貸し出しもしている。
けっこうなことだ、と秋芳は思う。
国を治めるために必要なのは武力や金だけでなく、文化という見えざる力も大いにある。娯楽とは、すなわち文化だ。呪術を使ったレクリエーションが一般に浸透し、理解してもらえれば、おそろしいもの、こわいものといった印象が払拭されることだろう。
そして実用性のみならず、おもしろいもの、楽しいもの、遊び、娯楽として受け入れてもらえるのが理想だ。
秋芳は先日刀会の打ち上げでこの聖蓮寺を使ったのだが、折り悪く京子は来ることができなかった。そこで今日はふたりだけで楽しみに来たのだ。
「薄の海や月の光のうつろえば波の花にも秋は見えけり」
「名に高き二夜のほかも秋はただいつも磨ける月の色かな」
詩心を刺激され、ついついそのような言葉が口から漏れる。
「これで紅葉もあればさらに良いんだがな、あいにくとカエデもイチョウもこのあたりにはほとんど生えてないそうだ。……林間に酒を煖めて紅葉を焼く、石上に詩を題して緑苔を掃う」
林でかき集めた紅葉を焚いて燗をつけ、緑の苔をはらって石の上に詩を書きつける――漢詩に詠われる風雅な光景が心に浮かぶ。薄のむこうに燃えるような紅葉の幻を見た。
じゅうぶんに景観を堪能したのち、どちらかもともなく持参した重箱を取り出す。
「おう、これはみごとな蒔絵箱じゃないか」
「でしょう、秋芳君の好きそうなのを選んだのよ」
「かすかに螺鈿も入れているな。うん、たしかに俺好みだ。俺はこういう小さくてキラキラしてるやつが好きだ」
手に取ってしげしげと鑑賞する。
うつろう四季や風景、動植物などの自然を題材にしていて、木の枝や花びら。細部まで緻密にほどこされた細工が作り手の高い技量をうかがわせた。
「俺のはただの黒漆塗りで、いささか芸がないな」
「うちにいっぱいあるから、倉橋家に婿入りすれば全部秋芳君のものよ」
「なかなか魅力的な提案だが、倉橋の家に入るとなると相応の勤めにつかなきゃならんだろう、それがめんどくさいなぁ」
「楽な役目をまわすよう、お父様にお願いしてみるわ」
「そのときはぜひそうしてくれ。楽な閑職に就いて日がな一日読書や茶の湯に興じるのが俺の夢のひとつだからな」
「陰陽Ⅰ種を取って一二神将になるつもりは……ないのよね」
「とうぜん。あんなのになってみろ、休むいとまもなくなるわ。人は生きるために仕事をするのであって、仕事をするために生きているのではない。どんなに収入があっても、自分の時間がないんじゃ生きている意味がない」
この世は楽で満ちている。
美味い酒や料理、美しい絵画や彫刻、面白い映画や小説、玲瓏たる音楽や演劇、友や恋人との語らい――。
自分は生きるのが楽しいのだろうと、秋芳は思う。
「しかし実務以外にもお勤めはあるしなぁ、儀式とか式典とか。ああいうのはかったるくてきらいだわ」
「そういう『式』を司ることこそ、陰陽師の本来の仕事でしょ」
「いや、俺は呪禁師だし」
「じゃあお医者さんにならないと」
「陰陽医は資格を取るのがおっくうだ、それに俺は人の命をあつかうような責任ある仕事はむいていない」
呪禁師。禁じられた呪いの術。などという不気味な字面をしているが、実際は医術であり、律令制時代に典薬寮という薬をつかさどる部署に属して薬草を栽培したり呪文を唱えて体に障りをもたらす悪しき気を祓う任を負っていた。
道術には禁呪法という呪符をもちいるまじないがあり、これが元になっているとされる。奈良・平安時代のものと見られる木簡に書かれた呪符が日本全国で発掘されており、これを書いたのが呪禁師だ。
疫鬼退散、病気快癒を祈祷するものだが、たんなる迷信と簡単に切り捨てるものでもない。プラシーボ効果的な意味があった。抗生物質もないような医療の未発達な時代、薬の効果もたかが知れている。ならば呪符のほうが効き目がある。そう信じることで実際に症状が改善することもある。
これも一種の乙種呪術であろう。
ちなみにこの呪禁。日本に根づくことはなかった。
陰陽道の安倍晴明や真言密教の空海のようなカリスマ、スターが現れなかったこと。また典薬寮に呪禁師を置いたのは唐の制度を模倣しただけで、当時の貴族たちが凶事に遭ったさい頼りにしていたのは僧による祈祷や神社への供物奉納であった。
飛鳥、奈良、平安――。
時代が経つにつれ呪禁師の零落はいよいよ顕著になり、平安時代に陰陽師や密教が台頭することで呪禁師は完全に存在感を失ってしまう。貴族たちは密教の加持祈祷を薬以上に効果があるものと信じていたのだ。
陰陽道と呪禁道はともに中国古来の民間信仰から生まれた呪術で親和性が高く、呪禁道は陰陽道に吸収され、呪禁師という役職は陰陽寮に職を奪われ典薬寮から消えることになった。
陰陽道のように技術や知識の体系化が成される前に消滅し〝道〟にまで昇華することができなかったのだ。
閑話休題。
「あら、これってお豆腐?」
「ああ、豆腐をごま油でさっと炒り、たまり醤油で煮込んでミョウガを散らしてみた。――この利休焼き、よくできているな。魚の身にゴマがよくからんでいるし、皮もよく焼けていて、なおかつやわらかい」
「自信作よ」
秋芳と京子はいまだに『仲の良いクラスメイトと弁当の中身で料理勝負』をしている。今夜もおたがいに手料理を振る舞い、味を楽しんだ。
「この裏巻き寿司はアボガトと鮭の皮ね」
「そうだ。カリカリに焼いた鮭の皮とアボガドを芯にしている」
「アボガドがマグロの感触に似ていて、鮭の皮も香ばしくてご飯に交ざったゴマの風味ともマッチしていて美味しいわ」
「んん、この卵はなんだ?」
「それはお祖母様に教えてもらったの。卵の上に穴をあけて中の白身と黄身を先に吸って、その中に研いだお米と水、お醤油を少し入れて炭火で炊いたやつ」
「この醤油ご飯の味、なんとも淡旨……!」
重箱の中身をたいらげ、食後のお茶を喫む。
杯に茶をそそぎ、そこにグミの実をひとつつまんで落とし、茶とともに噛むと茶の苦さと果実の酸味が口中に広がり、なんともいえない味わいがする。
「甘露、甘露。ああ、神仙にでもなった気分だ」
ふたりはやがてどちらともなく肌を寄せあった。秋の夜風でかすかに冷えた体が、おたがいのぬくもりであたたまり、なんともいえない心地好さに浸る。
秋芳の手が京子の髪をなでると甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「んもー、犬じゃないんだからクンカクンカしないの」
「金に近い亜麻色の髪は月明かりに照らされて輝いて見える。その髪から漂う芳しい香りが、秋芳には麻薬のように感じられた」
「変な実況もしない」
「雄の本能を刺激する蠱惑的な甘い匂いに誘われて秋芳の男根がむくむくと起き上がり鎌首をもたげる」
「あーもう、セクハラ!」
「種づけ欲求に支配された秋芳の手が京子の柔肌を蹂躙する。首筋や太もも、胸や尻をなで回し、愛されマシュマロボディを堪能する……」
その言葉のとおりに秋芳の手が京子の全身をくまなく愛撫していくと、京子の口から湿り気をおびた甘い吐息が漏れはじめる。
「あン……、もうっ、ダメ。ダメよバカぁ……」
スカートの中に手を入れ、下着をずり下ろそうとするふしだらな手のひらをなんどもはたくが執拗に侵入を繰り返す。下に気を取られているうちに上着のボタンがはずされていく。
「ちょっ、あ、もうっ。ダメって言ってるでしょ、バカぁ……」
「は~い、汽車がとーりまーす。山越え谷越えシュポポポポ★」
「ひゃんっ」
「おっと、山の上に美味しそうなサクランボを発見。このサクランボはだれのものだい? 京子のもの? それとも俺のもの?」
「こ、このサクランボはあたしのものよっ、で、でも秋芳君がどうしてもって言うなら食べさせてあげる。――アッ、あ、ああっん……あ、ちょ、ちょっとまって秋芳君。そ、そこはダメっ」
「谷底に綺麗な泉を見つけたぞ。喉を潤わさせてくれ、水を汲むよ……」
「ああッ!? そ、そこはダメ! だめだめダメダメ! だめったら、もうっ。ちょっとストップ! まってちょうだい、お願い、やめて。ねぇ、まって。まってったらっ、まって……まちなさい!」
「ぬおっ」
「瘴気を感じるわ、それもそんなに遠くないところから」
「なぬ~!?」
蜜のように甘美なひと時に水をさされ、渋面を浮かべて見鬼を凝らす秋芳。なるほど、たしかに少し離れた場所からただならぬ気配を感じる。
「聖蓮寺の敷地外か……」
「この瘴気の強さ、動的霊災かも。隠形行ってみる?」
「住職に連絡して祓魔局にでもまわせばいいだろう、俺たちが出張る必要なんてないし、こちらに向かってきてもやり過ごせばいい」
キャーッ!
瘴気の方向から若い女性のものらしき悲鳴が聞こえた。
どうやら人がいるらしい、さすがに放置するのははばかられる。
「早く行かないと!」
「まったく、人の逢瀬を邪魔しやがって……」
衣類の乱れを正したふたりは悲鳴のもとへと駆けた。
少しさかのぼって、悲鳴を上げた人物の話になる。
その日、一八歳の誕生日をむかえようとしていた花園彩菜ははずむような足取りで帰路についていた。
誕生日が嬉しいのではない、ボイスレッスンのあと事務所のマネージャーである松岡からオーディションの話があったのだ。合格すれば来期アニメのヒロイン役を得がもらえ、さらにエンディングソングまで歌わせてもらえる。人気アニメの続編でかなりのヒットが期待されていた。
本格デビューのチャンスなのだ。
ずっと児童劇団にいて、高校に入学すると地下アイドルとしてライブ活動もしはじめた。そのさいに松岡に声をかけられて今の声優事務所に所属するようになった。アフレコ現場になんども立ってガヤや生徒Aなどの声をあてたことはあるが、きちんとした名前のあるキャラははじめてだ。
もっと大きな仕事をしてみたい。具体的にファンの数や売り上げといった数字で評価してもらえる仕事を――。
つねづねそう思っていた彩菜に千載一遇の好機がおとずれたのだ。
アイドルになってちやほやされたいわけではない。自分が人に評価される、認められる姿を見て欲しい人がいるのだ。多くの人に認められれば、その人だって認めてくれる。それが彩菜の望みだ。
彩菜の家は都心から私鉄で三〇分。駅からさらに自転車で一〇分ほど。途中には街灯も少なく、週に三回のレッスンを終えて帰る頃にはあたりは真っ暗だった。
はっきり言って、こわい。
いつもなら録音したラジオ番組や音楽を聴いて恐怖をまぎらわせるところだが、あいにくと電池切れだ。なので自分で歌う。もしかしたらエンディングを歌うかもしれないアニメの前シリーズで使われたキャラクターソングで、歌っているのは彩菜とおなじ事務所の先輩だ。その女性はいまの彩菜には雲の上の人のように思える。
『でも、いつかは、あたしも――』
ふと見上げれば夜空に星。
自分もあのような高みへと昇れる。あんなふうに輝ける。
人けのない暗闇の道も今夜は星明りだけでじゅうぶんに思える。出るという噂の痴漢もいつ起こるかわからない霊災も、簡単に撃退できそうだった。先日ガヤで参加した陰陽師ものアニメでヒロインが霊災を修祓した場面を、彩菜は思い出した。
暗い道を抜け、明るい通りに出るところで歌が終わりかけた。サビのフレーズを口ずさむと体がふわりと浮き上がるような高揚感につつまれる。そのとき――。
ひっひっひ……。
笑い声が、はっきりと耳にとどいた。
「え? なに? ええ? えっ?」
あわてて自転車を止めた。ブレーキの音がなに者かの笑い声をかき消す。
厭な笑い声だった。
嗤い。嘲笑。嘲りの感情がこめられた、自分に対する明白な悪意を感じたのだ。おまえになんか、できやしない。そんなふうに言われた気がした。
「……」
あたりを見回してもなにもいない。どこにも動く影などない。
(空耳、きっとそうよ)
さっきまでの幸せな気分は氷解していた。早くこの場から離れたい。自転車に乗って数十秒もペダルをこげば、通いなれたコンビニが煌々と光を放っていることだろう。
自転車を動かそうとした、そのとき、視野の片隅でなにかが動き、かさこそという虫のうごめくような音が聞こえた。
猫だろうか、犬だろうか、ちょうどそのくらいの大きさに思えた。
だがそうだったならばかさこそという音を立てるだろうか。
たしかに聞こえた。先ほどの厭な笑い声よりもはっきりと。
(まるで大きなゴキブリみたい)
思わずそんな連想をしてしまったとたん、ぞくりと全身が粟立った。
自転車に乗り直して全力でペダルをこぐ彩菜の耳の奥で、なんどもなんども厭な嗤いが木霊していた。
その日はそれ以上おかしなこともなく、翌日になって登校する頃には厭な笑いのことなどすっかり忘れていた。
学校の帰りに事務所によって歌のテープと楽譜、歌詞を受け取った。近日中にデモテープを録るから練習しておけと言われたが、その日はレッスンはなかった。
家で大きな声は出せないので家路につく前、カラオケ店でしっかりと歌の練習をした。
さらに翌日。いつもの基本手なボイスレッスンのあと、前日にもらった曲を試しに歌ってみた。講師は厳しい表情でなにも言わなかった。
マネージャーの松岡も顔を出していて、彼のほうは褒めてくれた。彩菜の声をいつも評価する彼だが、歌に気持ちがこもっているとか、今日は特に褒めてくれた。
なので叱られなかったのは上手く歌えたからだと良いほうに解釈して帰路についたのだが、またあの暗闇にさしかかったとたん、不安がかま首をもたげてきた。
(なにも言ってもらえないのは見捨てられたからかも……。言うだけの価値なんかないって思われたのかも)
松岡の上機嫌な顔を思い出す。あれも、あの高評価も嘘なのかもしれない。営業もこなす松岡は機嫌が良くても悪くてもいつも笑っているではないか。
ペダルをこぐ力が失せて、彩菜は暗闇の中で止まってしまった。
そのとき。
ひっひっひ……。
あの笑いが聞こえた。
それだけではない。
「~~~~」
かすかに声も聞こえた。日本語とは思えない、なにか、不思議な音の羅列のような言語。
彩菜の聞いたことのない言葉だ。だがなぜか理解することができた。
「あたしがだれかのものって、どういうこと? 一八歳になったらだれの花嫁になるっていうの?」
なにを口にしているのか、つぶやきが漏れてから彩菜は自分の言葉になんの根拠もないことに思い当たった。そもそもさっき聞こえた意味不明な音がどうして言葉だと思えたのか、しかも意味まで。
「~~~~」
また奇妙な音が、それも彩菜のすぐ耳元でささやかれたような気がした。ぞわり、と全身がふるえ、あわててペダルを踏みこんだとたん、なにかが自転車の前に投げ込まれた。いや、あるいは飛び込んできたのか。止まるには遅すぎたし避けられるほど彩菜の運動神経は優れていなかった。
「ミギャーッ!」
骨の折れるいやな音とともに耳をつんざく叫び。
「いやぁぁぁっ、嘘でしょう!?」
猫を、轢いてしまった。
無害な生き物を傷つけたことへの生理的な嫌悪感と罪悪感に駆られ、なかばパニックにおちいって明るい道へ突き進む。車道に飛び出しそうになるのをなんとか曲がり、自転車を地面にたおすように置いて、そのかたわらに座り込む。
「~~~~」
その奇妙な音は彩菜の耳にはこう聞こえた、『おまえはわしらのものだ』『花嫁になる約束を破ったらこうなるぞ』と。
「なんなのっ!? あたしはだれのものでもないっ、花嫁になんかならないっ、あっちにいって!」
がさがさがさがさ……。
暗がりのむこうになにかがいる、なにかが蠢いている。
人の頭をした巨大なゴキブリが迫ってくる――。
そんな連想をしてしまい、ひときわ大きく身震いして逃げようとするが、足に力が入らず転倒しそうになる。
「変質者にでも出くわしたのかい、マドモアゼル」
ベストにネクタイという、いかにもバーテンダーという恰好をした瀟洒な中年男性が声をかけてきた。
「あ、あの、えっと猫が、猫を……。あとなんか変なのが変な声で……」
「急に猫が? 轢いてしまったのかい?」
その男性は周章狼狽する彩菜を落ち着かせ、前後する説明を理解してくれた。
(あのアイパッチと義手? なにかのコスプレ? それにしても渋くて良い声……。衝撃波で空を飛んだりテレパシーで娘とつながっている貴族の末裔のおじさまみたいな声をしてる)
このバーテンダー。なにかの仮装なのか、右目に海賊のようなアイパッチ。左腕には鋏のような義手を装着しているのだが、妙に様になっていた。
「――それと妙な声が聞こえると、ふむ……」
「ほ、ほんとうなんです」
いきなりこんなことを言って、頭のおかしな子だとおもわれたかも。落ち着きを取り戻した彩菜はそんな危惧を抱いたが、バーテンダーは真剣な表情で彩菜が駆け込んできた暗がりを見つめていた。
視線の先の闇の中で、いまだに得体の知れない奇妙な存在がうごめいているような気がする。
バーテンダーが地面にころがる石ころを鋏でつまむと片方の手で印を切り、暗がりにむかって投げつけた。
すると不思議なことに闇の中にただよっていたあやしい気配は潮が引いたようにかき消えていった。
「え? いま、なにを……」
「なぁに、ちょっとしたおまじないさ。悪い虫が退散するようにってね」
「ひょっとして、おじ……お兄さんは陰陽師ですか」
のどまで出かかった「おじさん」という単語を飲み込んで彩菜がたずねる。
「陰陽師! Brilliant!」
「ぶり……」
「そう思ってくれたら光栄だが、あいにくと陰陽師ではない。だが呪術を愛する気持ちは彼ら以上だと自負しているよ。ほら、あそこ」
呪術BAR『メイガス・レスト』指さした先にある看板にはそう書かれていた。
「じゅ、呪術BAR!?」
「Oui 中で少し休んでいくといい。私はちょっと様子を見てくる。猫の死体をそのままにしておけないからね」
彩菜を席に座らせたバーテンダーは妖しい気配の去った暗い路地に消えていった。彩菜はだれもいない店のなか、どうしていいのかわからずかたまったまま、店主が返ってくるのを待った。
(うわぁ……、なにこれ。あやしさ大爆発)
血で書かれたかのように真っ赤な字の経文や、やたらと顔と腕の多い仏像。錫杖や独鈷杵、魚板といった法具。見慣れない漢字や梵字で書かれたお札。勾玉、ヒランヤ、ナザール・ボンジュウ――。
店内を埋め尽くすあやしい品の数々。本棚には月刊陰陽師が創刊号から最新号までそろっている。たしかに呪術好き御用達の店であることはまちがいないらしい。
五分ほど過ぎただろうか、ほかの客が来たらどうしようかと心配していたが、幸いなことにだれも来なかった。彩菜が落ち着きを取り戻したころにバーテンダーがもどってきた。
「かわいそうに、たしかに死んでいたよ。清掃局には私から連絡したからすぐに片づけてくれる」
そう告げた言葉の内に、かすかな憂いと怒気が込められているのを彩菜は感じた。
「あ、あたし、その……そんなつもりじゃ、なかったんです。急に目の前に……。ほうっておくつもりもなくて、ただ変な声とか、とびかくびっくりしちゃって……」
「わかっているさ、マドモアゼル。きみのせいなんかじゃない。あれは自転車で轢かれたような傷じゃあなかった」
「え?」
「全身に細かい傷がたくさんあった。それも刃物ではなく動物の牙や爪でつけられたような。猫同士のケンカとは思えないがね」
まだぬくもりの残る死骸からは一滴の血も流れていなかった。まるで全身の血を吸い取られたかのように
「なに者かがあの猫をいたぶり殺し、きみの自転車の前に放り投げたんだろう」
「そんな、ひどい……」
轢いた瞬間、猫は悲痛な叫びをあげた。あの時点では生きていたのだが、あまりのことにそのことはすっかり失念していたしバーテンダーも血の件もふくめ、あえて触れなかった。
「あたし、わからないです。あたしにそんなことするのがいるなんて」
そんなことをする人。とは言わなかった。
悪質なストーカーかなにかの仕業かと思いたかったが、彩菜は無意識のうちに猫ではなく自分が人ではない存在に狙われていると感じていた。
「しばらくのあいだあの道は避けたほうがいい。それとよくないものに狙われているのなら陰陽師に相談してはどうかね」
「はい。でも呪捜部とかは、ちょっと……」
彩菜くらい若い世代は陰陽師に対して偏見も忌避感も持っていない。
凶悪な霊災を修祓する祓魔官の勇姿など、純粋にかっこいいと思う。だが呪捜官となると話は別だ。厭魅や蠱毒といったおどろおどろしい呪詛。人の暗い情念をあつかう呪捜部はどうしても好きになれなかったし、なにより自分がだれかに呪われているなどと、認めたくはなかった。
「それに、祟られたり呪われたりする心当たりなんてないです」
「きみのような活動をしているのなら身におぼえがなくてもつけ狙われることはありえるだろう」
「え? なんのことですか?」
「おもに声の仕事をしている役者さんだろ。いや、正確にはその卵といったところかな」
「な、なんでわかったんですか? まさか、預言とか読心術とか呪術ですか!? 星読みとか」
「……普段は眼帯で隠してあるこの目。実は青紫水晶を磨いてできた翠竜晶を埋め込んで生来の目の代用としている。この呪王霊眼(オーディン・アイ)は優れものでな、浄眼とも呼ばれて、あらゆる穏形を見破ることができ、霊的存在の姿をも見ることが可能で、さらに一種の暗示をかけることもできる。そしてこの義手には気硬銃という霊気の弾丸を発射する銃が仕込まれている」
「やっぱり呪術師だったんですね! あ、でも陰陽師じゃないってことは、もぐりの人ですか?」
強力な動的霊災との激しい戦闘で霊障を負い、一線を退いた祓魔官。今は呪具の売買をしている特殊なBARのマスターで、店にあつまる情報や呪具を目あてに多くの陰陽師がよく訪れてくる――。
彩菜の脳裏にそんな筋書きが浮かんだ。
「……という設定だったらいいなぁと思っている」
「へ?」
「表向きはBARのマスター。だがその正体は凄腕陰陽師。そんなキャラになりたいなぁ、と」
「呪術者じゃ、ないんですか?」
「Oui」
「普通の人なんですか?」
「そう」
「ええと、元祓魔官かなんかで、実は裏で呪具の売買をしている特殊なBARだったりは……それにさっきの石を投げたのって、なにかの呪術なんじゃ……」
「言ったろう、あれはただのおまじない。乙種乙種。でも半分正解。この店ではきちんと許可を得て陰陽庁謹製の護符などをあつかっている。たとえばこんな」
彩菜は梵字がびっしりと書かれた一枚の札を手渡された。
尊勝仏頂陀羅尼。
平安時代に藤原常行という貴族が神泉苑のあたりで百鬼夜行に遭遇したさい、この陀羅尼の書かれた護符を身につけていたため難を逃れたという逸話が『今昔物語』に記されている。また『大鏡』では藤原師輔がこの陀羅尼を唱えることで同様に百鬼夜行をやりすごしたという話がある。
妖怪変化のたぐいに効果抜群のお守りなのだ。
「お近づきのしるしにどうぞ」
「え、でもこれ、高価なものじゃないんですか? あたしそんなにお金ありません」
「お代は出世払いでいいさ。きみがお酒の飲める年齢になって、女優として活躍するようになったらこの店を贔屓してくれ」
「女優だなんてそんな……。あ、そういえばさっきなんであたしが声優の卵だってわかったんですか?」
「なぁに純粋な推理だよワトソンくん。まずきみの動作。ほんの少しだが大げさな、芝居がかった感じがする。それに声。発声練習を受けたことのある滑舌の良さと力強さがある。それと荷物。べつに盗み見るつもりはなかったが、派手に自転車を乗りつけただろう。かごに入れたカバンの中身が飛び出していたが、そこにアニメの台本があった。たまさか私の知っている作品だったのでわかったが、あれはもう何年も前に終わった作品だ。リアルタイムで放送はしていない。つまり養成所なんかで練習用に使われる台本だろう。ちがうかね?」
「いえ、合ってます。あたし、声優の専門学校に通って勉強してる声優の卵です。アテレコや発声練習のほかにも、歌のレッスンも……。あの、ええと、あたし花園彩菜っていいます。マスターもひょっとして歌やお芝居の経験があるんじゃないですか? すごい渋くて良い声してますよ。素手でモビルスーツを壊したり布でビームを弾いたりできそうな声です!」
「ハハハ、そう言ってもらえると光栄だよ、マドモアゼル。そういうきみこそ、すべての人間を愛する妖刀を身に宿した巨乳の眼鏡っ娘みたいな魅力的な声をしているよ」
「あはは! なんですかそれ」
気づかい、慰めてくれる人の存在がありがたかった。
尊勝陀羅尼の札よりも、人のぬくもりに救われた彩菜は安堵の表情を浮かべて店を後にし、無事に家に帰ることができた。
「…………」
彩菜が店を出るとあとに残されたマスターは片目のアイパッチを軽くたくし上げると、そこには磨かれた翡翠のように緑色に輝く瞳があった。
「ふむ……、強力な陰陽師の助けを得る、か……。どうやら私が動く必要はなさそうだ」
霊眼が彩菜の行く末を視たが、大事には至らない。
そう確信したマスターは義手の鋏を振るい、器用に丸氷を作りはじめた。
邪願 2
代々木マルチクリエイティブカレッジ。
通称『代マル』。あるいは『代々マル』。
数年前に大宮校と横浜校を東京校に統合して代々木から水道橋に移転したため、名称に代々木とあるのに水道橋。移転先のビルに教会も入っていたため校舎に十字架が掲げてあることがよくネタにされるアニメ系専門学校。
高校卒業資格得られる高等部も存在し、中学卒業後に入学する生徒は全国でおおよそ二〇〇人ほどいる。
声優科各種、アニメ科各種、マンガ科、イラスト科、フィギュア科、などなど――。なかには2・5次元演劇科など、多彩な学科が存在する。
代マルの授業は午前九時三〇分から午後一時過ぎまで、この間に専門科目を学び、二時からは高校の授業を受ける。
花園彩菜は夜の部。週三回クラスに通って、演技、ボーカル、ダンスのレッスンを週にそれぞれ三時間ずつ、合計九時間学んでいる。
たまに課外授業としてアフレコ現場の見学などがあり、今日もその機会に恵まれた。
「――ッ! きゃぁぁぁぁッ! なんなのよあんたは!?」
「やれやれまたか。俺はもううんざりなんだよ、こんな展開はね。しかしながら自らの意思に、欲望に反することはしない。それが自らのアイデンティティでありプライドでありポリシーだからだ。この目の前の現実を受け入れ、遠慮なく見させてもらうぜ」
「ガン見してんじゃないわよ、この変態! ケダモノ! 乙女の柔肌を許可なく盗み見た罪は重いわよ。その獣欲に満ち満ちたいやらしい両目、焼きつぶしてあげるわ!」
主人公の青年に偶然にも着替えるところを見られたヒロインのお姫様(火属性)が、それを理由に決闘を申し込むシーンのアフレコ現場を見学している。
(……う~ん、ラノベだなぁ)
ライトノベルが原作のアニメで、ジャンルとしてはいわゆる異世界ファンタジーものにあてはまる。突然の事故で死んでしまった現代日本の冴えない中年フリーターが神様の力で魔法や超能力が普通に存在する異世界に転生。
そんな中でも特に異能に優れた者を集めた学園が舞台で、主人公は一見無能だけれども切り札を持ってる青年。ヒロインは王家の血をひくエリート美少女。ほかにも物語を彩る女性キャラクターが多数登場し、兄貴べったりのブラコン妹を筆頭に――。
ヒロインに友達以上の感情を抱き、主人公になにかと突っかかる高貴な育ちのツンデレ百合要員お嬢様。
幼女姿だが実年齢は不明な担任教師。
お色気ムンムン胸の谷間が開けっ広げの白衣の保険女医。
顔よし器量よしの良妻賢母になりそうな幼馴染。
おもにラッキースケベ要員の長身巨乳な美人の先輩。
主人公の力の解説要員を務める二次元BLサイコー三次死ねな腐れ縁の眼鏡っ娘同級生腐女子――。
見事なまでのハーレム構成だった。
(う~ん、ラノベだなぁ)
思わず反復。あまりにもラノベラノベしているのだ。
「ラノベだねぇ、これ」
しかしそう思っているのは彩菜だけではないようで、ほかの見学者の口からも似たような感想が漏れた。
「またこのパターンか」「ま、ラノベってやつだな、うん」「なんだかみなさん声を出す機械に徹しているって感じですね」「最近のオタクはこんなんが面白いの?」
揶揄しているのは見学者だけではない。音響スタッフの口からも侮蔑まじりの言葉が出ている。コントロールルーム内はたちまち生暖かい笑いの空気につつまれた。
この業界に限ったことではないが、世間のライトノベルに対する風当たりは強い。いや、むしろおなじオタク業界からのほうから辛辣な評価がくだされている。
真偽は不明だが某アニメ監督など「絵も描けない曲も作れない演技だってできない。それでもこの業界にしがみつきたいのがラノベ作家だ」などと言ったとか言わないとか――、そういう話は彩菜もよく耳にする。
もっともさすがにそれはデマのたぐいだろう。
それを言ったら「演技もできない曲も作れない話も書けない。それでもこの業界にしがみつきたいのがイラストレーター」とも「 絵も書けない曲も作れない話も書けない。それでもこの業界にしがみつきたいのが声優」とも言い換えることができる。
アニメひとつ作るのに様々な役割の多くの人たちが必要とわかっている監督の口からそのような言葉が出るわけがない。
「…………」
まわりが嘲笑するなか、彩菜は先ほどまでは自分もおなじようなことを思っていたことを恥じた。
(みんなバカにしてるけど、あんまり人のこと言えないよね。顔だけ声優とか、量産型作り萌え声とか、声色を変えれば演じ分けているとかんちがいしているとか、あたしたち声優だって、けっこう世間の風当たり強いし。だいたい作家先生の書いてくれた本があるからあたしたちの仕事があるわけだよ? それをあざ笑うだなんてとんでもない!)
世間の人はラノベラノベと貶めるが、少し考えれば四〇〇字詰め原稿用紙にして三〇〇枚や四〇〇枚もの文章を、きちんとした日本語で起承転結のあるお話を作ることがいかに困難かわかる。
競争率何百倍という新人賞を勝ち抜いてデビューするというのは大学入試よりもはるかに狭き門だ。
自分では一字も小説を書かないくせに「ラノベなんてだれでも書ける」とあざ笑う者の数は実に多いが、そのような手合いは考えを改めるべきだろう。
(反省、追求、努力! 人の振り見て我が振り直せ!)
生ぬるい空気の中で彩菜だけは先輩たちのアフレコ現場を食い入るように見つめ、なにかをつかもうと必死なった。
「花園彩菜君でしょ? 他の子達とちがってずいぶん熱心に見てたよね」
帰り際にひとりの中年男性から声をかけられ、名刺を渡された。
川平浩瀬。
彩菜もその名は知っていた。有名なアニメ制作会社に籍を置くプロデューサーで、ラジオのパーソナリティーや構成作家もこなす、マルチメディアクリエイターだ。
「え? あ、はい!? はい! ●●事務所、所属。花園彩菜です!」
「だいたいこういう見学の場に来る子達って、ミーハー気分が隠せなくて浮わついた感じになっちゃうんだけど、君はちがったよ。真摯に学ぼうとする気持ちが伝わって来たから。ちょっとお茶でも飲みながら、お話できるかな?」
「よろこんで!」
彩菜のような駆け出し。いや、駆け出しの域にすら達していない声優の卵にとってアニメ制作会社のプロデューサーとつながりを得られるのは、まさに僥倖。ことわる理由はない。
「それで君はどうして声優になりたいなんて思ったの?」
「あたしの考えや感動を、作品にしてたくさんの人に伝えるため――」
「どんな声優になりたいの?」
「水晶みたいな声優になりたいです」
「水晶?」
「はい。――あたしが養成所ではじめて学んだときに、講師のかたから『役者は水晶のようでいなさい』て教えられたんです。どういう意味なんだろうと考えて、音響監督やプロデューサーさん。みなさんの意見を水晶のように取り込んで声として反射させるという意味だろうと思ったんです。いろんな光を吸収して。漏らさずにキレイなまま声に反映できる、そんな声優になりたいって――」
「ふんふん――」
翌日、彩菜に好機がおとずれた。
ひと目見て彩菜の演技を気に入った。演技に対する情熱に感じ入った川平が一席設けたのだが、そこでトントン拍子に話が進み、役をやらせてもらうことになったのだ。
さらに後日、その川平から個人的に食事に誘われることがたびたびあった。
正直最初のうちは、いわゆる枕営業を求められるのかと恐々としていた。
というのも川平は会社の慰安旅行にお気に入りの若手女性声優を帯同させたり、人気アイドル声優に「パパ」と呼ばれていたりと、そういう方面の噂のある人物なのだ。
彼との仲を邪推されたある女性声優は自身のツイッターに猥褻な画像を連投され、活動停止を余儀なくされたことがある。
だが実際はそのようなそぶりは皆無。アルコール類の強要もなく、実に紳士的な態度だった。
そのことに安心しきったその時、川平は男の本性をあらわにした。
「この業界で成功するにはどうすればいいな、わかるよね? 一歩先に行きたいなら――」
東京近郊にある小さな山。眼下に広がるみごとな薄野は、ここが都内とは思えない風情を出していた。そのような知る人ぞ知る隠れた観光スポットに川平の車で連れられてきた彩菜は、身体を求められたのだ。
それまでの紳士的な態度はどこへやら。川平は肩を抱きよせてきて馴れ馴れしく手をにぎって好色なふくみ笑いを浮かべている。
「あの、あたしそういうのはしませんっ」
「だれか操を立てる相手でもいるのかな。でも黙っていればばれたりしないし、彼氏だってこういうことがあるって承知してアイドル志望の子とつき合ってるんじゃない?」
「そういう問題じゃありませんっ」
芸能界でアイドルや女優につきものなのが枕営業という、黒い噂である。
枕営業はデメリットのほうが大きく、滅多にないとされる。せまい業界なので噂はすぐに広まるうえ、それによって一時的に仕事を得ることができても次の仕事でも求められ、際限がなくなる。さらに、その人との関係がこじれたりすると、その人が関連する仕事が受けられなくなる。苦労してせまき門を突破して声優になったのに、そんなことで業界を去るのはもったいないというわけだ。
「ていうか彩菜ちゃん、恋人いないよね」
「……はい、いません。けどそれがなにか――」
「今フリーってわけじゃなくて、彼氏がいたこともない。バージンなんでしょ」
「……はい」
「それがいけないんだよ!」
「な、なんですか。どういう意味ですか?」
「恋をしたことのない人間に恋をしている演技ができるかい? これは演技指導だよ、ぼくのことを恋人だと思って身をまかせてみなさい。きっとなにかがつかめるから」
そんなむちゃな、だったら殺人犯の役は実際に人を殺さないと完璧ではないとでも言うのだろうか。
「こわがらずにぼくに身を任せてごらん、色事は芸の肥やしになるんだから。それにバージンだと病気だと思われちゃうよ」
『それはわしらの花嫁だ、横取りするんじゃないよ』
音とも鳴き声ともつかない奇妙な旋律は彩菜の耳にはそう聞こえた。
「え?」
川平の肩越しに老人の顔が見えた。白濁した眼に骨と皮だけの貧相な顔にいやらしい笑みを――川平の浮かべている好色な笑みよりもさらにいやらしい、そしておぞましく邪悪に歪んだ笑みが貼りついていた。
「豆泥棒にはお仕置きだよぉ」
こんどははっきりたした日本語で、そう聞こえた。まちがいない、目の前に姿を現したこの老人がしゃべっている。あの暗い道で聞こえた厭な笑い声の主はこいつだ。
「な、なんだおまえはっ!? ひえぇぇぇッ!」
振り向いた眼前にいたのは異形。
上半身こそ人間に似ていたが、下半身は虫そのものだった。
黒光りする黒い殻に羽虫のような翅。細くてぎざぎざした六本の脚が伸びている。
昆虫人間。
虫と人の身体がつぎはぎされた奇怪な生き物が口もとから飛び出した黒い牙を川平の身体に突き立て、しわくちゃの手から伸びた黄色い鉤爪で引き裂く。
「うわぁぁぁッッッ!?」
川平は必死になって追い払おうとするが、振り回す腕は空を切るばかり。突然飛びかかってきた羽虫に仰天して手を振るうも空振りに終わる様に似ていたが、相手はただの羽虫ではなく鋭い鉤爪と牙をもった怪物だ。
人が怪物に襲われる現実味のない光景。だが肉を裂く音と鼻をつく血臭が、目の前の惨事が現実のものだと、彩菜に否応なく認めさせる。
(お、おふだ。お札が……!)
不思議な陰陽師BARでもらった尊勝仏頂陀羅尼の護符はあれからずっと身につけて持ち歩いている。
「お、急々如律令!」
陰陽庁謹製。市販されている呪具の術式を発動させるコマンドワードはOrderで統一されている。
彩菜の言葉に反応し、呪符に込められた退魔の力が効果を発揮した。
「ギヒャーッ!?」
まばゆい光が発せられ、妖虫老人の身体を破魔の焔が焼きつくす。
「あ、や……、や、やったの? やっつけたの? 川平さん!」
妖虫老人の姿はない。血まみれの川平がたおれているのみだ。
「川平さんっ、川平さんっ、川平さん! ……どうしよう、人を呼ばないと……」
耳元に口を近づけて声をかけるが反応がない。
さすがに身体をゆすって安否を確認するような真似はしなかった。日本の安っぽい刑事ドラマなどでは負傷して意識を失った人の身体を強くゆすって声をかけるシーンがあるが、 そんなことをすれば出血がひどくなったりするだけだ。脳にダメージを負っていた場合は致命的な追い討ちになりかねない。
素人がけが人をむやみに動かしたりしてはいけないのだ。
ケイタイを取り出して助けを呼ぼうとしたら、地面に落とした。手の震えが止まらない。
「ああ、もうっ」
混乱と緊張で身体が動かない。なにかに追われて逃げようとするも、思うように身体が動かせない悪夢のなかにいるようだ。
「なにかありましたか?」
若い女の声に振り向くと、二十歳前後と見られる男女のカップル――秋芳と京子がいた。
「すごい悲鳴が聞こえたもので、それに霊災の気配も。あたしたち陰陽塾のものです」
「怪物に、霊災に襲われたんです! なんとか追い払ったんですけど、川平さんがひどいけがで――」
日頃の鍛練のたまものか、身体のほうは動かなくても舌はとどこおりなく動いた。彩菜は事情を説明し、助けを求める。
「たしかにもう妖気は感じられないな。そっちのけが人は――全身に切創と刺創。負傷か所と出血は多いが、内蔵や骨にまで達するような傷はない。これなら手持ちの治癒符で応急手当して、あとで念のため陰陽医に残存瘴気の確認・除去をしてもらえば大事なさそうだが……」
治癒符には回復力を大幅に上昇させるほかにも止血や殺菌効果もあり、わずかな瘴気なら浄化できる。
霊的災害は瘴気の塊であり、呪術に備えのない一般人がそれに接すれば直接傷つかなくても心身に障害を残すことがある。ましてや動的霊災から攻撃を受けて瘴気にあてられることは致命的だ。
野生動物の牙や爪には雑菌がうようよしていて、毒をもたない生物であっても傷つけられれば破傷風や敗血症になるが、それと似たようなものとも言えるだろう。
秋芳は手早く治療するとともに抜け目なく川平の持ち物も物色した。有名ブランドのクロコダイル長財布が目に留まる。秋芳の経験上、富豪というよりは成り上がりの小金持ちが好んで身に着けるしろものだ。
こいつ、カモになるかも。
無資格のはぐれ呪禁師時代だった頃の悪い考えがかま首をもたげる。
「この場で完治できる霊薬の持ち合わせがないこともない。かなり値が張るしろもので……、ところでこの人は知り合いかい?」
若年の彩菜と中年の川平の組み合わせは恋人同士には見えなかった。親子というほど歳は離れていないが兄妹ほど歳が近いようには見えない。着ている服もブランド品でいかにも高価な川平に対して彩菜のそれは地味な装いで釣り合いが取れない。なによりも恋人同士に特有な親密な気を感じられない。
ゲスなかんぐりをすれば愛人関係に見えた。若い女をかこえるほど余裕のある相手からなら、少々ファンドしてもらっても罰はあたらない。
「あ、はい。そのぉ、仕事関係の偉い人というかなんというか……」
彩菜は自分たちの身の上と、ここで起きた出来事をかいつまんで説明する。もちろん枕営業うんぬんの話は出さなかったが。
「まぁ、声優さん!」
「いえ、正確にはその見習いというか卵というか……」
「でも事務所に所属していてガヤの仕事もしてるって言ったわよね、あなたくらいの歳でそれってすごくないの?」
「ぜんぜんすごくないです、あたしよりも年下でも歌も演技も上手でヒロイン役をいっぱいやっている方とかいますし」
「まてよ、プロデューサーの川平って、あの川平浩瀬か?」
「ええ、エターナル・ジェネレート・パイオニア・ジャパンの川平浩瀬です」
「それは『毒殺天使LOLちゃん』や『チワワ★デラックス』のPやってた川平浩瀬だな」
「そ、そうです。その川平浩瀬です」
よくそんな作品を知っているものだ。この人オタクの人かしらと思う彩菜。
「○○や××にパパとか言われてご満悦になっている枕Pだろ」
「いや、それだけで枕って決めつけるのは……」
いきなり枕呼ばわりもないものだが、現に先ほど身体を要求されたわけであり、否定はできない彩菜であった。
「こいつに関しての黒い噂ならいくつも聞いているぞ。だいたい俺はPという手合いがきらいなんだ。なにひとつ創らずなにひとつ生み出さず他人に働かせ、苦労と労力と努力をさせて自分は安楽椅子に腰かけたまま巨大な利益を得る。プロデューサーだの投資家だのと呼ばれる連中はまさしく資本主義社会のダニだね」
(うわぁ、ひがみっぽい。この人こじらせてるオタの人かも)
オタクはやたらとねたみ、ひがむ。
気に入らなければ見なければいいアニメを最後まで見てはアンチスレに常駐し悪口を言う、きらいならば無視すればいい声優の一挙手一投足を注視しては陰口をたたく。自分の利益にならない商品の売り上げに一喜一憂する――。
まさに煩悩の塊。貪瞋癡。仏教でいう三毒に汚されている。
「ならどうするつもり、見捨てちゃうの?」
「まさか、ここで放置したら治癒符がむだになっちまう。ずいぶんと羽振りが良さそうだし、正当な手当てをして正当な治療費をもらうさ」
「そうよね、あたしも彼女とお話したいし。ここじゃあなんだからお寺に移りましょう。あたしたち、そこの聖蓮寺に泊まっているの」
「ああ、そういえば陰陽塾の方だって言っていましたね」
聖蓮寺がどういう場所なのかは彩菜も知っていた。
敷地内での呪術の使用が陰陽庁に公認されている神社仏閣。写経や座禅、茶の湯などの精神修養にはあまり興味はないが、呪術をもちいたアクティビティの類いには惹かれるものがある。利用しようにも彩菜の懐事情では縁の薄い場所だったので、呪術関係者直々のご案内は正直うれしい。
なによりも川平を介抱しなければならない。陰陽塾の生徒だという少女の提案にふたつ返事で承知した。
邪願 3
「だいじょうぶ? 平気?」
「…………」
「だいじょうぶ? 平気?」
「…………」
「だいじょうぶ? 平気?」
「すっご~い! 科白はおなじなのに全然ちがうわ!」
彩菜は京子の前で『親を亡くした恋人を心配したとき』『携帯を家に忘れてしまった友達を心配したとき』『ころんだ子どもを見たとき』の三種のシチュエーションに合わせて異なる感情を込めて、おなじセリフで表現した。
代マルの声優タレント科では感情解放という授業があり、演技のためにみずからの感情を取り出す訓練を徹底的におこなう。声のみで演技する声優にとってどんな小さな感情も演技の重要な要素となる。
「じゃあ次は幼馴染が照れ隠しで怒ってるようなツンデレ科白を言って」
「はい、では――バカバカバカバカ! スカポンタン! アホ犬! 鈍感! あっ、あたしがあんたのことを、ど、どんなに気にかけてたと思ってんのよ! せ、責任取りなさいよね!」
「萌えるーっ!」
(なにをやっているんだか……)
別室で作業している秋芳は彩菜と京子のやり取りに妙な気恥ずかしさを感じていた。
バラエティ番組で大御所声優が木っ端芸人におもちゃ・珍獣あつかいされているのを見ると、関係ないこちらが恥ずかしくなる。傍ら痛い、あの感じだ。
秋芳はいま聖蓮寺内にある施薬室で川平に処方する霊薬を作るため、薬棚を探っていた。
俗塵にまみれた呪術寺とあなどれない、なかなか本格的な品ぞろえだ。壁面を埋め尽くす書棚のように大きく、引き出しのたくさんある紫檀製の漢方薬棚には薬草類のほかにも熊の胆やイモリの黒焼きなどの動物性薬物。琥珀や雲母といった鉱物性の薬の名前がいくつも見受けられた。
霊薬作り、錬丹術は陰陽医の領分で陰陽塾のカリキュラムには三年からの選択科目にあるが、秋芳はもともと疾病退散を主とする呪禁師なので錬丹の術はすでに習得済みだ。
(感情を込めて、ねぇ。どうも最近のアニメ声優のアニメアニメした作り萌え声は好かん。好かんといえば最近の邦画はなんだあれ、やたらと泣き叫んだり感情も情景もすべて言葉で説明したりして幼稚極まりない――)
演劇の世界には『感情は後払い』という言葉がる。下手な役者は興奮した芝居ばかりやってしまいがちだが、感情というのはいつも後ろになくてはいけない。怒りたくても実際には怒らずに我慢する。泣きたいところをぐっとこらえる。言葉を選びながら、感情を抑える。必ず裏に感情があり、口にする言葉がただしいとは限らない。
「それじゃあねぇ……次は吸血鬼もどきのお兄ちゃんに『歯を磨かれて五分間耐えることができたら勝ち』勝負を挑まれた妹やって」
「はい、では――ンハァッ!? ハンっ! んっ、んんっ、んはぁっん……、はぁはぁはぁ、あっ、あぁんっ、んんっ――て、なにエロいこと言わすんですか倉橋さん!」
「あははははっ、彩菜ちゃんてノリツッコミもできるのね」
(……うん、まぁアニメ声アニメ演技も良いかな)
ちなみに秋芳がいる施薬室と京子たちがいる客室はそれなりに離れており、声が聞こえる距離ではない。
にもかかわらずふたりのやり取りが秋芳に聞こえるのは簡単な呪をつかっているからだ。
呪術をもちいてべつの場所の会話を聞くにはいくつか方法がある。もっともポピュラーなのは感覚を共有した簡易式を置いておくことだろう。
札のまま置いてもいいし、蜘蛛や蝶。草花などのありふれた物に擬態させることで盗聴器のように使える。
自身の耳に指向性聴覚を持たせて遠くの声を聞くというのもある。
秋芳は席を離れるさい、客室と自分の耳との間に音の道を作り、そこからふたりの会話を聞いている。
術の隠形などしていないため盗み聞き、という感覚は秋芳にも京子にもない。ある程度の腕をもつ呪術者にとってこのような感覚の拡大は日常の所作なのだ。
陰陽師の館を訪ねた人が待っているあいだに供の者と話をしていたところ、あとから現れた陰陽師はその場に居なかったにも関わらず会話の内容をあてて来訪者をおどろかせた。などという話もある。
呪術者に知れずに陰口をたたくことは容易ではないのである。
「蟲下しには栴檀や海人草だが、瘴気を祓う毒消しには犀角を単独でもちいるか」
『神農本草経』に曰く。
犀角味苦く寒し、百毒蠱注邪気瘴気を治す。鉤吻、鴆羽、蛇毒を殺し邪を除き、迷惑魘寐せず久しく服せば身を軽くす。(犀角の味は苦く体を冷やして余分な熱を取る。様々な毒、寄生虫、病を治す。草鳥蛇の毒を殺し、邪を除き悪夢に悩まされない。長く服用すれば体が軽くなる)
犀の角は漢方では牛の胆石である牛黄や、カモシカの角である羚羊角と並んで万能薬とされている。
「お、顛茄か、いいものがあるじゃないか。こいつを使うと舌の回転が良くなるんだよな」
顛茄。またの名をベラドンナという。
ベラドンナから抽出した成分には中枢神経を抑制する作用があり自白剤として使える。
粉砕・混合・練合・浸出――。
乳鉢と乳棒、薬研ですり潰し粉にしたものを混ぜ合わせて丸薬を作る。呪術師が呪力霊力を込めて調合した薬には常ならざる力が宿る霊薬となる。効能はおなじでも効果がけた違いなのだ。
それだけではない。民間療法として伝わっていても医学的には実証されないような効果もあらわれる。ムカデは脚が多いので服用すれば足の血行が良くなるといわれるが、ムカデを触媒に薬を調合すれば、実際にその効果のある霊薬ができあがるのだ。
体の何千もの部品が何千もの異なる機能を持っていてそのすべてが連携して作用することで人は生きている。もしこの不完全な機械のたったひとつでもだめになったら命もだめになる。生命を与えてくれる機能が同時に死をもたらす。
帝式陰陽術ほど派手ではないが、錬丹術は奥の深い技術なのだ。
「瘴気を祓う薬ができました、無味無臭になるよう作っていますのでそのままどうぞ」
「いや、これはありがとうございます」
「ところで動的霊災に襲われる心当たりなどは?」
「まさか、そんなものはありません!」
「なんでも彼女――花園彩菜さんがたまたま持っていた尊勝陀羅尼の札で退けたそうですが、ひょっとしたら憑かれている可能性もありますよ」
「…………」
「あるいは何者かの恨みを買い、呪詛されているとか」
「ひぇぇぇぇ!」
この男、人に恨まれ呪われる心当たりはあるらしい。
「どんなに些細なことでもいいので、あの場でなにをしたか。最近なにかあったか教えてくれれば、力になれるかもしれません。まぁ、呪捜部や祓魔局に相談するのもいいですが、むこうは完全にお役所なんで色々とめんどうなことがあるのでは? そのてん俺はただの呪術講師。個人的な相談ということで、気軽だとは思いませんか?」
丸薬にふくまれているベラドンナが効果を発揮し、川平の口を軽くする。
「いやその恥ずかしながら……、声優にしてあげるからと恩着せがましくサービスを要求しました」
「具体的にどんなことを?」
「身体を求めました! でもいきなりあの化け物が現れて……」
「なるほど、花園さん以外にもそういうことを?」
「はい。オーディションを受けた女の子に合格をちらつかせて猥褻な行為におよんだことはもう何回もあります」
「それで、その見返りにそれなりの便宜をはかってあげたんでしょうね。その子たちには」
「いいえ、まったく! やらずぶったくりでポイ捨てしました」
(この野郎、どうしようもないクズだな。少々の薬代をふんだくるだけじゃ気がすまん)
秋芳の耳に別室での会話が流れてくる。
「役者の表現ていうのは過去にある様式を踏襲しながらも、それを否定して自分なりの新しいものを創り出すものなんです! だれかの物真似じゃなくて、花園彩菜の演技を――」
「ええ、わかるわ。だって彩菜ちゃんの演技って他の子たちとはちがうもの。なんていうか、魂がこめられている感じ。あたしにはわかるの」
こんどは演技論を熱く語っている。熱のこもった口調からは夢や情熱が伝わり、よどむことのない言葉はたしかに声優らしい滑舌の良さを感じさせた。
(ふぅん、たしかに最近の若い声優特有のコンパチ作り萌え声アニメ演技、というわけじゃないな。芸能人も芸能人を目指すやつもあまり好きじゃないが、少し力になるか……)
「いいですか、川平さん。あなたそんなことばかりしていたら呪詛のひとつやふたつ受けますよ。いちいち祓っていたらきりがない、というかいつ呪殺されてもおかしくない。これを機会に身を慎むようにするんです。それが最善の方法です」
「はい、陰陽師の先生のおっしゃるようにします」
「これからは罪滅ぼしのために職務に忠実になるのです。あなたの目から見て花園彩菜さんは声優としての素養はありそうですか? 下心なしに」
「ええ、もともと子役やインディーズアイドルとしての経験があるのでタレントとしての下地はできあがっています。歌や演技のスキルも研修生としては上手なほうなので、経験を積んでいけばプロになれる素養はじゅうぶんありますよ」
「なら彼女を全力でプロデュースしてください。良き行いをすればそれが贖罪となり、悪いものからの障りがなくなることでしょう。繰り返しますが下心なしに、ですよ。あくまで仕事上のつきあいで、有望な若手声優を育てて業界に貢献することで功徳を積むのです。そうすれば悪業が去り、呪詛や霊災から遠ざかることができます」
「はいっ、もちろんです。あんな化け物に襲われるくらいだったらなんだってします!」
「では治療費のことですが――」
「剣を握らなければ、君を守れない。剣を握ったままでは、君を抱きしめられない」
「きゃー! かっこいい!」
「どうしてかな? あの人のためなら、命もいらないって思った瞬間から、いま、自分が生きてるって感じるようになったのは……」
「きゃー! ぐっときちゃう!」
「っとに、あんたって救いようのないバカね。しょうがない、あたしが地獄までつきあってあげるわ。見くびらないでちょうだい、あたしにだってあんたの背中を守る事くらいは出来るんだから、この期におよんでいやとは言わせないわよ!」
「きゃー! 燃え萌え!」
演劇論についての熱い語りは終了し、彩菜はふたたびなにかのキャラクターの科白を言わされ、京子はそれを聞いて狂喜乱舞している。
「さっきからなにをしているんだ。声優も声優志望者も、ボタンを押せば珍ボイスが発声するおもしろマシーンなんかじゃないぞ」
「だって彩菜ちゃんてすごいのよ、いろんなキャラのいろんな科白を暗記していてしゃべれちゃうの。これってなかなかできることじゃないわよ」
「いや、でも俺らだって長い真言や祝詞とかちゃんとおぼえてるし、いっしょだし」
「ねぇ、さっきの一番長いあれ。彼にも聞かせてあげて」
「は、はい――」
彩菜は軽く深呼吸をして息を整えると、一気呵成に長科白を口にした。
「ずっと待ち焦がれてたんだろ、こんな展開を! 英雄がやってくるまでの場つなぎじゃねえ! 主人公が登場するまでの時間稼ぎじゃねえ! ほかの何者でもなく! ほかの何物でもなく! テメエのその手で、たったひとりの女の子を助けてみせるって誓ったんじゃねえのかよ! ずっとずっと主人公になりたかったんだろ! 絵本みてえに映画みてえに、命を賭けてたったひとりの女の子を守る、魔術師になりたかったんだろ! だったらそれは全然終わってねえ!! はじまってすらいねえ!! ちっとぐらい長いプロローグで絶望してんじゃねえよ!! ――手を伸ばせば届くんだ。いい加減にはじめようぜ、魔術師!」
「なげぇよ! 長すぎるよ、それっ! なにが『いい加減にはじめようぜ、魔術師』だよ、おまえが口閉じて早くはじめろよ! どんな作品のどんな場面だか知らないが、そんな長い科白言ってるあいだ絶対間が持たないだろ。俺がその魔術師とやらだったら、絶対途中でスマホいじりはじめるね。もし敵対状態だったら黙って先制攻撃するね。キメのシーンなのかも知れないけどさ。――いやこれ、どっかの小説投稿サイトだったら『原作の大幅なコピー』とか文字数稼ぎとかに抵触しちゃうんじゃないの?」
「この程度まだまだですよ。いまもっと長い科白の暗記に挑戦してるんです。えっと……俺だって悔しいよ。悔しいに決まってる。そんなの悔しいに決まって――」
「それもういいから! そんなことより霊災だよ、霊災。川平に問い詰めたんだが、老人の顔をした虫みたいな動的霊災に襲われたんだって? しかもやつらは君のことを花嫁と呼んで横取りするなとか言っていたとか」
「……はい、たしかにそう聞こえました」
「妖怪に見染められるようなおぼえは?」
「そんなのまったくありません! でも、あの化け物には前にも遭っていて……」
彩菜は帰宅途中の夜道で起きた出来事を説明した。
「そんな呪術BARなんて聞いたことないなぁ」
「彩菜ちゃん、さっきのお札見せてくれる」
「はい、これ。そこのマスターがただでくれたんです」
見なれた陰陽庁謹製の呪符。白い紙に墨痕鮮やかに記された梵字は尊勝陀羅尼にまちがいない。
京子の目が呪符を視て、そこに込められた術式を鑑定する。
「……かなり高い威力が込められているわね。ただし効果は一度きり、でも呪力を補充すれば何回でも使えるタイプよ。周囲の霊気を吸収して自然補充する機能もあるわ」
「けっこう値の張る呪符だぞ、これ。こんなものをほいと差し出すとは、そのマスターかなりの太っ腹だな」
「はい、感謝しています。これがなかったら今頃……」
「今のところ霊災の気配は感じられないから直接憑かれているとは考えにくい。川平のほうも同様にだ。運悪く野生化した野良霊災に遭遇しただけかもしれないが、だれかが呪詛式を打った可能性もあるから念のため呪捜部に相談したほうがいいな」
「呪捜部、ですか……。でもあたしちょっと苦手で」
厭魅蠱毒、呪詛怨念。人の、呪術が持つ闇の面に接することを生業とする呪捜部と呪捜官は本職の陰陽師でも忌避する人は多い。まして一般人ならなおさらだろう。
「ちょっと秋芳君、呪捜部なんかに丸投げするつもり? あたしたちで力になりましょうよ。さっき電話番号とチャットのID交換したの、秋芳君のも教えてあげて」
「え~、俺はいいよ」
「声優さんとお近づきになれるチャンスなのよ!」
「どうでもいいよ、芸能人なんて。俺は物書きと役者はあまり好きじゃないんだ」
京子にはミーハー気質な面がある。陰陽庁の広告塔としてアイドル活動もしている大連寺鈴鹿のファンで、彼女が特集された月刊陰陽師を大事に保管してあるほどだ。
そんな彼女にとって駆け出しとはいえ芸能人の知り合いができるのはとても喜ばしいことだった。
いっぽうの秋芳は秋芳で俗嗜好で偏執愛的な性質持ちではあるが、芸能関係にはあまり興味がなかった。というより冷淡なところがある。
これは『なんで俺たち陰陽師が霊災修祓とか世の中に必要な仕事をしているのにたいして評価されない、給料が低いのに、歌だの芝居だの道楽を商売にしている連中のほうがちやほやされて稼ぎもいいんだよ!』というやっかみ精神からきている。
初見で秋芳をひがみっぽいと評価した彩菜の人を見る目は間違っていなかった。
「いいこと、秋芳君。そもそも陰陽道の元祖である中国には天文を観測し星の異変を査照する天文局というものがありました」(主張)
「うむ」
「そして天文局の職掌には楽士や伶人といった音楽を司る人たちがいました。つまり広義においては芸能人も陰陽師なのです!」(大主張)
「むむ!」
天文局に音楽や芸能を仕事にする人たちがいたのは事実だ。阿倍野や岸和田に住み着いた渡来人の多くは怜人の集団で、彼らは陰陽師でもあった。
陰陽道では音楽(雅楽)の音律と星の運行は一致していると考えられ、それぞれの音には方位や季節、色などがあてはめられている。
仏教音楽の声明や道教の長嘯術、琉球の逆歌や数多の呪歌――。
音楽というものは魔術や呪術でもあるのだ。
陰陽道と古典音楽・芸能には深い結びつきがあるのでる。
ちなみに海外からの音楽書をはじめて本邦に持ち込んだのは吉備真備で、彼は陰陽道と音楽とを一緒に持ってきている。音律と陰陽道は切り離せない関係にあるのだ。
「袖振り合うも多生の縁、義を見てせざるは勇無きなり、窮鳥入懐、仁人所憫!」(大喝)
「むむむ!」
京子は秋芳の説得に成功した。舌戦勝利回数三七。
「あははははは!」
ふたりのやり取りが妙におかしくて、お腹をかかえて笑い出す彩菜。
「……さすが声の仕事を目指しているだけあって、声量は豊かだな。アフレコ中にマイクを二本もぶっ壊したM川T之ほどじゃないが」
「きらいなわりに詳しいですね。て、すいません。お寺で大声出しちゃまずいですよね」
「いいのよ、お寺っていっても宗教施設じゃないんだし、宴会とかで大騒ぎするときもあるし。彩菜ちゃん、声もそうだけど物腰も快活で嫌味がなくていいわよね。それも作ってる感じがしない、自然に〝できてる〟感じ。でもそれが素なのよね?」
「はい。普段から素の自分をさらけ出すようにしているんです」
「どうして?」
「オーディションなどで初めて顔を合わせる人たちに自分をさらすのはとても不安で緊張します。でもかっこつけて本来の自分とかけ離れた姿を見せると、不器用なあたしはあとでどんどん苦しくなってしまうんです。選んでくれた人も、がっかりさせてしまいます。だから初対面の人の前であればあるほど、ありのままの自分でいようと努力してます。お仕事をいただけるように人に選ばれるときは、どこまで自然体でいられるかが大事だと思うんです」
「…………」
「…………」
「あ、あれ? あたしなにか変なこと言っちゃいましたか?」
「ううん、とても素敵な考えだなって」
「素で性格の悪い奴にはできない芸当だな。性格といえば●●って新人に挨拶されても無視するくせに格上の共演者には媚び売りまくりってほんとう?」
「あ、そういうのにはお答えできません。ノーコメントです」
「××はファンと握手するのが恒例のイベントでオタからの握手をかたくなに拒否したっていうのは――」
「だから答えられないんですってば」
好きの反対は無関心という言葉はほんとうなのかも、そう思う彩菜であった。
深夜。
もう日づけが変わろうという時刻に彩菜は家にたどりついた。
一戸建ての小さな家でかなり年季の入った古い木造家屋だが、まだ基礎はしっかりとしている。彩菜が幼い頃に他界した母方の祖父が残してくれたものだ。バブル景気が泡と消えた後も辣腕の実業家として活躍していた人らしい。
だがある時期を境に急にやることなすことうまくいかなくなり、最後の最後に残ったのはこの小さな土地と小さな家だけだった。
彩菜の父は母が受け継いだこの家で祖母が亡くなるまで同居していたが、いまがいそがしいビジネスマンとしてあちこちに単身赴任していてめったに帰ってこない。
『父さんはこの家を新しくして彩菜にあげるために働いているんだよ』
休日出勤をする父はよくそう言ってだだをこねる幼い頃の彩菜をなだめていた。
「ただいま」
返事はない。
ドアに鍵はかかっておらず、オレンジ色の常夜灯がかすかな明かりを灯している。
「お母さん、ただいま」
母の部屋に向かって声をかける。人の動くわずかな気配があったが、それだけだ。
帰りが遅くなったにもかかわらず、電話もメールもなかった。「おかえり」のひとこともない。妖虫老人に襲われたさいに汚した服の言い訳をしないですむのはありがたいけれど。
いつからなのか忘れてしまったが、彩菜が中学に入った頃には母は彩菜を見なくなっていた。彼女がいないものであるかのようにふるまうことも多い。
幼い頃はあれこれと過剰なくらい世話を焼いてくれた。児童劇団に入りたいと言った彩菜に反対もせず喜んでつきそってくれた。
認知症ではないかとうたぐったときもあったが、彩菜以外の人と接するときはごく普通で、事務職のパートもそつなくこなしているようだった。
母は、彩菜だけを見ない。ふりむいてくれない。
「あたしがなかなかデビューできないからだ」
自分が母を失望させてしまったのだと、彩菜は考えている。
わがままを言って児童劇団に入り、子役としてドラマやバラエティ番組に出演したのはいいものの、それっきりだ。運動は得意ではない、勉強はもっと苦手。けれども彩菜の容姿、そして声をほめてくれる人が何人かいた。彩菜はたったひとつ、自分にもできるかもしれないことを、自分にしかできないことに挑戦しようとした。
母自身を感動させることはできなくとも、歌ったり演技をしたり、そういうことで人々に認められれば、客観的な評価を得ることができれば、母はふたたび振り向いてくれる。自分のことを認めてくれるはずだ。
そう考え、がんばってきた。
いつの間にか流れていた、頬を伝わる冷たいものに我に返る。
「もう、お風呂入って早く寝ちゃおう!」
熱いシャワーを浴びて浴槽に浸かる。聖蓮寺で介抱され、陰陽塾の人に介抱されたさいに軽い食事を取ったので腹は空いていない。
「賀茂秋芳さんと倉橋京子ちゃん……。鰻のかば焼きもどき、美味しかったぁ」
恋人同士だというふたりはおたがいに料理を作ってはシェアしているという。仲が良くて微笑ましい。彩菜は秋芳が作った精進料理の味を思い出した。
「すり下ろした蓮根と山芋にお豆腐、こんどあたしもやってみよう」
悪いことはすべて忘れ、明日に備えて布団に入る。京子に霊気を補充してもらった尊勝陀羅尼の札を身に着けて。
このお札は一生のお守りになることだろう――。
翌日。
最初に妖虫老人に遭った道を避けて学校に通うことにした。あそこだけはもう二度と通らないつもりだ。ただ落ち着いたら呪術BAR『メイガス・レスト』にだけは顔を出してお礼をしなければと決めていた。
だが忌まわしいものは彼女が避けようとしても忍び寄ってくる、視野の片隅をかすめる不気味な影に悩まさられるようになったのだ。
学校で授業を受けている時に、それは机の下にひそんでいるように思えた。あるいはカーテンの裏側やロッカーの中に。
お昼に購買で買ったパンを食べていたら、床に落ちていたパン屑が消えていた。
学校の帰り、妙な気配に振り向くと電柱の影や側溝に、なにか小さな生き物が見え隠れしているのが見えた。がさごそと蠢く大きな虫のようなものが。だがはっきりとは見えない、視界の片隅をよぎる程度だ。
ひっひっひ……。
あの厭な笑い声も聞こえるような気がする。嘲りをふくんだ哄笑が耳の奥にこびりついて離れない。
妄想や幻などではない、自分は二度もあのいやらしい怪物にまだ狙われているのだ。
(なによ、くるならきなさい。こっちにはこれがあるんだから!)
怪物の気配が濃くなるたびに護符に手をのばす。そうすると妖しい気配は遠のいていく。やはりこの札には効果があるのだ。
その日はラジオの録音があった。ほんのひとこと程度の出演だが、彩菜には大きな仕事だ。
学校帰りに制服のまま現場へ向かう。彩菜のランクでは出迎えなどない。
雑居ビルの一角にある制作プロダクション事務所。そのさらに片隅にある小さなスタジオでの録音だ。
あるSNSゲームのラジオドラマを放送している番組で、何人かのおなじランクの子たちといっしょにそのゲームにちょっとした役で出た。
お世辞にも綺麗とは言えないビルに入ると、あまり人の気配はなかった。人の気配もないが怪物の気配もない。
だれもいないエレベーターに乗るのも階段を使うのも怖くない。新しくできた陰陽師の友達の存在が彩菜を強気にさせていた。
「おはようございますっ」
「やあ、早かったね。ほかの子たちはまだだよ」
現場にはすでにマネージャーの松岡が来ていた。今日、ここにあつまる声優は彩菜をふくめて五人。みんな女性で、彼女たちは主人公と敵対する悪の美少女部隊の声を担当している。
予定の時間まで少しある。事務所内は外とはうって変わってにぎやかで、人がせわしなく動いていて活気に満ちていた。
ものを創る気概にあふれる、この空気が彩菜は好きだ。だが、乱雑に物が積み上げられたこの場所は、あまりにもなにかが隠れ潜む場所が多すぎる。
(集中、集中! あたしにはこのお札があるんだから)
四畳もない狭いスタジオにまとめて五人が詰め込まれた。この人数では椅子に座っての収録は無理なので、上から吊り下げられたマイクを取り囲んで本番に入る。
パーソナリティの女性声優にうながされてひとりずつ名前を言い、作中で使われる科白をそろって叫ぶ。それだけだ。
金魚鉢の向こうからミキサーが開始の合図、キューを送る。
「レッド・トゥインクル・ルビー! の、深沢茜です」
「ブルー・トゥインクル・サファイヤ! の、板山香です」
次が彩菜の番だ。パーソナリティの先輩声優が目で合図してくれる。小さく息を吸って声を出そうとした瞬間。
向かい側に立っている女性声優の肩越しに、おかしなものを見た。
赤いとんがり帽子をかぶった貧相な老人の顔だった。ふしくれだった枯れ枝のような手を女性声優の肩に置いている。
川平が襲われた時、暗がりの中ではよく見えなかったその姿が、明るみのもとではっきりと見えた。
とんがり帽子の年老いた妖精。もしも場所と状況がちがえばかわいいと感じたかもしれない。皺にうもれた顔に浮かんだ、悪意と嘲りに満ちた笑いがなければ。
そいつはすぐに背中に引っ込んで消えた。
「あ……あ……」
録音なのだから少しくらい間が開いても編集してもらえる。硬直した喉を強引に奮い立たせ、科白を吐く。
「イエロー・トゥインクル・シトリン! の、花園彩菜です」
言えた。
混乱と動揺の色を見せずに、はっきりと科白を口にすることができた。
「ねぇ、いまちょっと噛まなかった?」
ピンク役を割り振られている宇佐美咲綾がすかさず茶々を入れると、ほかのメンバーもそれに追従してイジリにかかる。
「間があったよね~」
「放送事故になっちゃうじゃない」
「なぁに、わざととちって目立とうとしてない?」
ちょっとしたアクシデントは場を盛り上げるスパイスになり、自己紹介だけで終わるところが延長されてにぎやかなトークができた。
(やった……!)
妖虫老人の姿は見えない、気配もしない。けれども彩菜には相手がなんとなく悔しがっているように思えた。
「いい感じだったね、これなら明日のオーディションも上手くいきそうだ」
収録後、上機嫌で話しかけてきたマネージャーの松岡の顔を思わず見上げる彩菜。しまった、という表情になる。オーディションが明日にあるということを秘密にしておくつもりが、つい口をすべらせてしまったようだ。
下手に知っていると緊張するから、ぶっつけ本番がいい。
日頃から口にしている松岡の考えだ。
「おっと失言失言、緊張しているのはこっちのほうみたいだね。今日の練習はそこそこにして、明日に備えてゆっくり休みなさい科白の他にも、アカペラで歌もあるからね」
素直に帰路につく。
雑踏のなか、人ごみの足元を縫って小さな影がついてくる。視野の片隅になにかが見える。
あの赤いとんがり帽子をかぶった妖虫老人だ。
「~♪♪♪」
もう今までほどの恐怖は感じない。彩菜は小さな声で明日のオーディションで披露することになる来期アニメのエンディングを口ずさむ。
とっくに日が落ちて夜の闇がよどんでいるが、歌に集中しているとちっとも気にならなかった。妖虫老人の気配も消えた気がする。
「ただいま」
返事はない、いつものことだ。
居間で母がTVを見ていた。関東近郊の名所をまわる、なんてことのない紀行番組だ。
「お母さん」
呼びかけても母はふりむこうともしない。
「明日、オーディションがあるの。合格すればエンディングの歌も歌えて、CDを出させてもらえるかもしれないから、期待しててね!」
内心の悲しみを隠し、精一杯明るい声でそう言った。
母の反応を待って、彩菜はしばらく立っていた。三分もしないうちにTVがCMに入ると母はちらりと彩菜を見て、かすかにうなずいた。
それでも、彩菜には嬉しかった。いきおいよく首を縦に振って母に応える。母は、もう彼女のことを見ていなかったけれども。
後書き
ここまでがハーメルンにも投稿したぶん。
次からのお話は一から書きますし、ロクでなしのほうも執筆中なので、更新はだいぶ先になると思います。