トシサダ戦国浪漫奇譚


 

第一話 聚楽第

 今、俺は聚楽第にいる。この城は言わずと知れた豊臣秀吉の政庁兼邸宅だ。今から三年前、天正十五年九月に完成した。
 ここ聚楽第に叔父・秀吉は俺を呼び出した。軒下の板張りの廊下を歩いていると、視界に庭園が入り視線を奪われた。俺の前方を進む案内役の小姓を余所に、俺は立ち止まり庭園を観賞することにした。地面には白い玉砂利が敷き詰められ、手入れされた青々とした木や岩が良い塩梅に配置されている。庭園への造形の深くない俺でも風情を感じてしまう。
 この城も後五年で秀吉の命で破壊し尽くされると考えると惜しい。聚楽第は秀吉の命により徹底的に破壊された。お陰で後世に城の縄張の実態が謎の城と言われている。神社・仏閣・城郭巡りが好きな俺としては実物を目の当たりにできて眼福だ。網膜に焼き付けておこう。
 しかし、本当に惜しい。これが破壊尽くされるのか。

「小出殿?」

 俺を呼ぶ声がする。声が聞こえた先に視線を向けると小姓が俺のことを見ていた。

「すいません。風情のある美しい庭園に見惚れておりました」
「小出殿は年若にも関わらず風流人ですね」

 小姓は俺の物言いに視線を庭園に向け得心した様子だった。彼は俺より四・五歳位年上だろう。身長は五尺二寸(160cm位)はありそうだ。線の細い人の良さそうな眉目秀麗な男だ。俺は平凡な容姿なだけに世の中の格差を感じてしまう。

「買いかぶり過ぎです。普段見たことの無い立派な庭園を見て感動しただけです」

 この時代にきて俺の趣味を風流と評する者は二人目だな。社交辞令だろうが気分は悪くない。

「謙遜なさらずとも良いです。立ち止まって庭園を魅入る方は限られた方々だけです。名乗りが遅れました。私の名は大野治胤(おおのはるたね)と申します。お見知りおきください」

 小姓は丁寧に頭を下げ、俺に名前を名乗った。俺は大野という苗字に表情を強張らせた。彼は大野治長の縁者ではないだろうな。

「大野修理様のご縁者ですか?」
「大野治長は私の兄です」

 俺は言葉に詰まった。関わってはいけない。俺は只でさえ面倒臭い立ち位置にいる。地雷になる者達とは極力関わるべきでない。俺の幸せのためだ。

「これは驚きました。大野修理様のご兄弟と知らず失礼いたしました」
「いいえ。私は無位無官の身です。明日からお互い同僚になる身ですからお気になさらずに。しかし」

 治胤は俺のことを興味深そうに凝視した。

「失礼しました。お歳は十二と聞いておりましたが、小出殿は随分と大人びておいでです。私より年長のように錯覚してしまいます」
「よく言われます」

 俺は愛想笑いをしながら軽く流した。

「大野殿、少々長く話してしまいた。殿下をお待たせしては不味いかと」

 俺はやんわりと話を切った。すると治胤は思い出したように頷いた。

「小出殿、急ぎましょう」

 俺は治胤に急かされながら奥の方へ案内された。五年前に秀吉が弟を養子にするまで必死に自分を殺していた。それ以後は学問に励み、徐々に武芸にも励んだ。お陰で弓の腕はそこそこ自信がある。十歳になると野山を駆け巡り川で水泳をし身体を作るために勤しんでいた。
 しかし、年月は早いものだ。俺には秘密がある。
 俺は一度死んだ。そして、気づいた時には赤子だった。見知らぬ場所で身動きできない不自由な生活に最初は戸惑い、鬱屈した日々が送っていたのが昨日のことのようだ。俺の秘密とは未来で死に過去に生まれ変わったということだ。
 俺の記憶を辿ると、俺が会社員として働いた日々のことを思い出す。俺の名は火鏃源一郎。働き盛りの三十歳で悪性の癌を煩い治療の甲斐もなく鬼籍に入った。歴史オタクの俺がやり残したことと言えば結婚だろう。俺を看取った両親の顔を思い出す。俺が早く結婚して子供がいれば、両親の哀しみを幾ばくか和らげることができたかもしれない。今更、詮無いことと分かっているが心残りだった。だが、最近ようやく気持ちの整理できた。
 俺が物心つく頃になると、俺の実父が木下家定であると理解した。あまりにマイナー過ぎて知らない人の方が多いに違いない。父はあまりに平凡過ぎて大名という雰囲気の男ではない。秀吉と出会わなければ小豪族で人生を終えたはずだ。父より、弟の方が有名だろう。弟の名は小早川秀秋だ。現在は羽柴秀俊と名乗っている。弟は四歳で秀吉の養子となり、豊臣家の後継者候補の一人となった。それに対し俺は秀吉の仲介により、彼の従弟・小出吉政の養子に入った。養子に入った当初は可愛がられていたが、俺より八歳年下の小出吉英が生まれると俺は微妙な立場になった。この手の話は歴史上お約束と言っていい。だが、俺の養子入りは秀吉の仲介で行われたこともあり、秀吉健在の状況で露骨な嫌がらせを受けることは無かった。
 この先の未来を知る俺は自分の人生を変えたいと考えている。ただし、豊臣家の滅亡を阻止したいなどとご大層な考えは持っていない。このままだと俺は関ヶ原の戦い後に没落し秀秋の食客となり、秀秋が死亡する前後に変死することになる。その運命に抗うにはある程度出世し没落しないように足掻く必要がある。
 今年、ようやく元服した。俺は十二歳になった。幼名・卯之助を改め小出俊定(こいでとしさだ)と名乗ることになった。自分の生まれ年が呪わしく思う。この歳では手柄を上げる機会は限られてくる。
 だが、元服して清々しい気分だ。ようやく小出家から離れられる。これからも小出家の影響はあるだろうが、俺は自由に生きさせてもらう。
 必ず生き残ってやる。大名として生き残れば上々。最悪、旗本でもいいと考えている。何としても豊臣から徳川の時代への変わり目を無事に渡りきってみせる。そのためには出世して徳川家と懇意にしなくてはいけない。

「小出殿、こちらで殿下が参られるまでしばしお待ちください」

 治胤は立ち止まり俺を部屋に案内した。それはだだっ広い畳敷きの部屋だった。俺の部屋は十二畳あるが、その十倍以上はある。あまりに広すぎて落ち着かない。
 俺はそわそわしながら部屋に足を踏み入れた。部屋の一番奥に視線を向けると一段高くなった区画があり、一見するだけで高そうな掛け軸と成金趣味な脇息と座布団が配置されていた。あそこに秀吉が座るのだろう。
 俺は部屋の入り口から数歩奥方向に歩いた場所に腰を下ろし平伏した。義父・小出吉政から一ヶ月ほどみっちりしごかれたから所作は問題ない。色々あるが義父はいい奴だ。ちゃんと指導しないと、義父が恥をかくことになるからだろうが、それでも感謝はしている。

「小出殿、殿下のおなりです」

 俺は緊張した心持ちになるが平伏した体勢を保った。しばらくすると衣擦れの音が聞こえたが、俺はそのままの体勢で待った。

「面を上げよ」

 男の厳粛な声を耳にした。その声は聞き慣れていた。俺は腹に力を入れ返事をし体勢を起こした。俺の視界には小柄で不細工な中年が座っていた。この成金趣味な着物に身を包む中年は豊臣秀吉である。叔母・寧々に会いに行った時、何度か会ったことがある。でも、小出家に養子に入ってからは秀吉と寧々とは会っていない。

「卯之助、元気そうだな。今年でいくつになる」

 秀吉は笑顔で俺に気さくな態度で声をかけてきた。だが、彼の目は笑っていない。人を観察する。いや、人を値踏みするような目つきだった。

「ご健勝の様子を拝し祝着至極にございます。殿下、今年で十二歳です。元服し小出俊定と名乗らせていただいています」

 俺は滑舌の良い口調で秀吉に挨拶した。秀吉は俺の返答に動きを止め困惑しているようだった。

「たまげた。卯之助、立派になったな。『男子三日会わざれば刮目して見よ』というが(まこと)であるな」

 秀吉は感心した様子で俺のことを褒めた。しかし、秀吉の目は相変わらず笑っていない。

「お前のことを治胤から聞いた時は半信半疑であった。身内に賢き者が居ることは嬉しい限りじゃ」

 秀吉は上機嫌に笑った。

「殿下、お褒めいただき光栄の至りでございます。しかし、所詮は十二の小僧でございます。浅学非才の身にございますれば、ご先輩方にご指導いただき多くのことを学びたいと思っております」

 俺は殊勝な口調で秀吉に対して平伏した。

「殊勝な心がけじゃ。今日から小姓として儂に仕えよ。従甥とて特別扱いはせん。精進して奉公するのだぞ」

 秀吉は厳粛な声で俺に言った。俺が聚楽第に来た理由は秀吉に奉公するためだ。秀吉は俺が元服したことを機会に小姓として召しだせと義父に申しつけた。俺の扱いに困っていた義父は渡りに船だったことだろう。

「この小出俊定。浅学非才の身でございますが、関白殿下の御ため謹んでお仕えさせていただきます」

 俺は平伏したまま滑舌の良く所信を述べた。万事滞りなく挨拶ができたことに俺は内心安堵していた。だが、秀吉からの返事はなかった。待てども秀吉からの返事がない。俺は自分が気づかない失態を犯したしてまったのかと焦り、秀吉と対面してからの俺の行動を脳内で反復した。だが、何度も考えても失態の形跡はなかった。

「摂津国豊島郡に千石の知行をやろう。屋敷を宛がうゆえ、明日より出仕致せ。治胤、案内してやれ」

 俺が平伏したまま頭の中で考えを巡らせていると秀吉が声をかけてきた。秀吉の声はおだやかな雰囲気だった。俺は顔を上げ秀吉のことを見る。

「殿下、過分のご厚情心より感謝申し上げます。粉骨砕身励ませていただきます」

 俺は礼を述べ平伏した。そして、俺は頭の中で秀吉の言葉を反芻していた。
 秀吉から貰った俺の知行が予想外だった。俺の予想だと知行は五百石と見積もっていた。その理由は俺と同じく秀吉に出仕している実兄・木下延俊が最初に与えられたのが五百石だったからだ。それをはるかに超えている。信長流の実力主義で家臣を評価する秀吉が親類だからと過度に手心を加える訳がない。
 しかし、千石の知行はかなり好待遇だ。俺みたいな何も実績もない者に初めから千石を出すなんて何かあるので無いかと勘ぐってしまう。くれるというなら貰っておこう。

「卯之助、お前は佐吉の下で働け」

 俺は秀吉の言葉に頭が固まった。佐吉の下で働けだと。
 一番関わっては不味そうな人物の名に戸惑ってしまう。

「殿下、佐吉様と言いますと」
「佐吉じゃ。お前も知っているじゃろう。石田治部少輔だ。あやつは武は不得手だが賢く有能な男だ。お前も多くを学ぶことができよう」

 最先から最悪だ。これは史実にあったことなのか。小出俊定は影薄くて俺もあまり詳しくない。丹波一万石の小身大名で、関ヶ原の戦い後に没落し小早川秀秋の家臣になり秀秋が死ぬ時期に変死したということしか知らない。関ヶ原の戦い後に没落したということは西軍側に立ったのだろう。小出家自体が西軍だったが、義父の弟・小出秀家が東軍に属したことで没落は回避できた。小出俊定は改易され没落したがな。その後も小出家で面倒を見て貰えなかった辺り、小出家と小出俊定の関係を象徴していると思う。

「石田治部少輔様は九州征伐で大軍の兵站を維持された方と聞いております。そのような有能な方の下で働くことができるとは嬉しく思います」

 秀吉の命令である以上、あからさまに嫌がる訳にもいかず俺は心と裏腹に笑顔で秀吉に礼を述べた。秀吉は俺の返事を満足に聞いていた。先程までと違い人を値踏みするような目はしていなかった。

「虎之助と市松にお前の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいじゃ。戦における兵站の重要性を疎かにする奴が多すぎる。佐吉もあの性格じゃからな」

 秀吉は俺の話を感慨深そうに聞き愚痴りはじめた。

「卯之助、お前なら佐吉と気が合うじゃろう。頑張るのじゃぞ」

 秀吉は笑顔で俺を見た。石田三成と気が合うとか死亡フラグ満載だろう。俺は徳川家康と争う気持ちはさらさらない。面従腹背の腹黒狸、徳川家康と相対するなんて危険すぎる。

「殿下、お心配りを無碍にしないために頑張らせていただきます」

 俺は努めて笑顔で秀吉に礼を述べた。すると秀吉も満足そうだった。
 小姓で初知行が千石とはな。他の小姓にやっかみを受けないか心配だ。

「卯之助、お前は運がいい。あと二月もしないうちに天下の大戦(おおいくさ)があるぞ」

 秀吉は砕けた態度で俺に話かけてきた。しかし、その瞳は眼光が鋭い。

「大戦でございますか?」

 俺はおずおずと聞いた。すると秀吉は口元に笑みを浮かべ頷いた。彼は俺との話を楽しんでいるようだった。

「大戦じゃ。敵は誰か分かるか?」

 今年は天正十八年。この時期の大きい戦となると、北条を滅ぼす小田原征伐しかない。奥州は関東を征圧しないといけない。それに北条が敗色濃厚になれば、奥州の大名も大方は豊臣に降るはずだ。歴史がそう証明している。
 秀吉は俺の答えを待っていた。彼の瞳は俺の答えに期待しているようだった。

「殿下のご威光により天下の静謐は目前です。残る敵は関東の北条。北条を下せば、奥州は自ずと降ることでしょう」

 秀吉は俺の答えを聞くと機嫌良く笑った。

「卯之助、たまげたぞ。本当に知恵が回りよる」

 秀吉は俺に失礼な物言いをしてきた。北条を攻めるなど豊臣配下の武将なら大抵知っていることだろう。義父も普段からよく口にしていた。

「父、小出吉政が日頃から北条攻めを口にしておりました。そのお陰で殿下の問いに答えることができただけです」

 大げさに感心する秀吉の俺への評価を訂正した。

「言いよるわ。北条と戦をすることまでなら答えられるであろう。だが、お前の歳で官兵衛の狙いを言い当てる奴はいない」

 秀吉は鋭い目で俺を見ていた。失言してしまった。調子に乗って余計なことまで喋ってしまった。

「お前が考えたことか?」

 秀吉は俺を冷たい目で見ている。その目は「嘘をつくことは許さん」と語っていた。俺は生唾を飲み込んだ。

「はい」

 俺は秀吉のいい知れない圧力に素直に答えた。この場で嘘をつくことは得策ではない。俺の言った言葉を思いつく人物は俺の近親者にはいない。義父は馬廻といえ、秀吉から小田原征伐を発端とした戦略の詳細は聞かされていないだろう。嘘をつけば、その嘘は間違いなくばれる。
 俺が答えると秀吉の俺への圧力が収まった。秀吉は小刻みに笑った。

「孫兵衛の息子に俊才が生まれるとはな」

 秀吉は愉快そうに笑った。孫兵衛は俺の実父、木下家定のことだ。

「卯之助、千石の話は無しだ」

 秀吉は真剣な顔で俺に言った。俺の頭の中に疑問符が浮かんだ。知行無しなのか。秀吉の口振りから気分を害した気配は感じられない。それとも知行を五百石に変更するのだろうか。

「新たに摂津国豊島郡に五千石をやる。卯之助、お前にも北条攻めに参加してもらうぞ」

 秀吉から驚愕なことを伝えられた。俺のような若造に五千石なんて有り得ない。義祖父は三万石だが、義父の知行が三千石だぞ。秀吉は頭がおかしいんじゃないか。

「私は初陣もまだです。それに家臣もいません」

 俺が引きつった顔で秀吉に返した。流石に五千石は過分すぎるし、知行分の軍役を全うする自身がない。

「急に年甲斐になりおって。与力をつけてやる」

 秀吉は俺のことを面白そうに見ながら言った。

「与力ですか」

 与力と言うと、秀吉の家臣を補佐につけるということか。でも、俺の家臣ということではないから、凄く使いづらそうだ。俺みたいな餓鬼に使われるなんて、幾ら秀吉の命令でも納得できないだろう。命令だから従うだろうけど、俺に不満を抱く人間を使うなんて凄く大変そうだ。俺は考えるだけで憂鬱になってきた。

「そうじゃ。与力の人選は任せておけ。それと与力によく言っておく。分からないことは与力に聞け」

 秀吉は考えを改める様子は無いようだ。誰を俺の与力にする気だ。

「家臣については木下家、小出家から人を紹介して貰えば良いだろう。足軽や人足は知行地から徴収すればいい。あとは金か。良い機会じゃ佐吉に相談してみよ。儂から伝えおく」

 有り得ない。秀吉はどういう考えで俺に五千石を与えるつもりなんだ。それより家臣の侍は木下家も小出家もできることなら避けたい。木下家も小出家も西軍側に属している者が多い。とはいえ背に腹は代えられないか。人材の件は後で考えよう。

「殿下、石田治部少輔様でなく加藤主計頭様にご相談できないでしょうか?」

 俺は加藤清正の名を出した。清正は脳筋みたいな描かれたするけど、実際は文武両道な人物だから大丈夫なはずだと思う。それに一応は親戚だし力になってくれるかもしれない。問題は清正が京に現在いるかだけど、小田原征伐に清正も参加したはずだから時期的に京じゃなくても大阪にいるかもしれない。

「虎之助じゃと。儂の指図に不服か?」

 秀吉は自分の考えに異を唱えた俺に怒りを覚えているのか、眉間に皺を寄せていた。俺が本当の子供だったら、この顔を見たら怖くなって泣くに違いない。

「殿下の指図に不服などあろうはずがありません」

 俺は咄嗟に答えた。

「では、儂の言う通りにせよ。よいな」

 秀吉は穏やかな口調だったが有無を言わさない目をしていた。俺は引き下がる以外に無かった。秀吉にどういう思惑があるか分からない。だが、ここで秀吉の心象を害すことは得策じゃない。秀吉は命令に逆らった者を執拗に弾圧したり殺したりする場合がある。ここは自重するしかない。

「殿下、生意気な物言い申し訳ございませんでした」

 俺は声を大にし秀吉に対して平伏した。

「よいよい。分かればよいのじゃ。卯之助、期待しておるぞ」

 俺が殊勝な態度で謝罪すると、秀吉は態度をころりと変えた。先程までの険悪な空気が嘘のようだ。

「殿下のご期待に応えられるよう粉骨砕身頑張らせていただきます」

 俺は平伏したまま秀吉に言った。

「卯之助、通称を与えてやろう。藤四郎。小出藤四郎俊定と名乗るがいい」
「殿下、お礼申し上げます」

 俺が顔を上げると秀吉と視線が合った。

「儂も若い時分は人材で随分と苦労した。お前の歳では大変だろうが、儂はそれだけ買っているということじゃ。それに、もうすぐこの国では戦は無くなる。そうなれば手柄を立てられる機会も減る。儂の身内に有能な者が少ない。虎之助、市松だけでは足下が心許ない。儂の言いたいことは分かるな」

 秀吉は神妙な表情で俺の目を見ていた。俺は口を開こうとした。

「答えずともいい」

 秀吉は俺が喋るのを遮った。

「卯之助、今日は有意義であった」

 秀吉は表情を和らげると、好々爺な態度で俺に声をかけてきた。今の彼を見て三年後には凶悪な粛正を行うとは夢にも思えない。だが、必ず起きるはずだ。 

 

第二話 新生活

 俺は秀吉との対面を無事に終えた。秀吉は俺に朱印状を渡すと、俺が与えられる屋敷の件について語り出した。

「卯之助、お前の屋敷は変更する」

 俺は黙って秀吉の話の続きを待った。屋敷を変更するとはどういうことだ。俺は戸惑った。この屋敷の話は秀吉が事前に義父へ伝え、義父から俺へと伝えられていた。だから、俺が秀吉と対面している頃には小出家の者達が引越作業をはじめているはずだった。

「五千石の知行に相応しい屋敷ということでしょうか」

 俺は秀吉の指図の理由を思いつく限り考えた。考えるうちに一点思い浮かんだ。俺の知行が大幅に増えたことが理由だろう。秀吉は俺に知行五百石を与えることを想定して、義父に屋敷の話をしていたはずだ。
 秀吉は俺の指摘に口元に笑みを浮かべた。俺の考えは正解のようだ。

「お前の言う通りじゃ。五千石取りのお前を小身の屋敷に住まわせては儂の沽券に関わる」

 秀吉は厳粛な雰囲気で俺に言った。俺が秀吉の命に逆らえる訳でもなく、屋敷の変更を唯々諾々と従うしかなかった。

「治胤、開いている屋敷を見つけ、その屋敷に藤四郎を案内してやれ。急なことだ。できる限り藤四郎の頼みを聞いてやるのだ」

 秀吉が治胤に話を振ると、治胤は「かしこまりました」と平伏し急いで立ち去った。その様子を秀吉は一瞥し俺に視線を戻す。

「卯之助、小田原征伐まであまり日がない。準備を怠るでないぞ。失態を犯せば知行を召し上げになると覚悟しておけ。よいな」

 秀吉は厳しい顔で俺のことを凝視した。その顔は恐ろしく、その眼光は鋭い。これが多くの修羅場を潜り抜けてきた武将の迫力か。俺が失敗したら秀吉は本気で五千石を召し上げそうだな。

「殿下、心しておきます。ご期待に応えられるように頑張ります」

 俺は姿勢を正し平伏した。

「卯之助、お前の馬具一式と戦装束は儂が用立ててやる。寧々によく礼を申しておくのだぞ。小出家に養子に入ってから寧々に一度も顔を出していないだろ。気を遣っているのかもしれんが余計な気遣いだぞ」
「殿下、何から何までありがとうございます。折りを見て北政所様には御礼に上がらせていただきます」

 俺が顔を上げると、秀吉は笑顔で俺のことを見ていた。秀吉がどういう人間かわからなくなる。恐ろしい人間なのか。それとも情深い人間なのか。
 多分、どちらも正しいのだろう。
 俺は知識として秀吉が家族想いだとは知っていたが本当のようだ。それだけに晩年の彼の行動は異常に映る。我が子への強い愛情からと言えなくもないが常軌を逸しているからな。
 しかし、俺の懸念事項の一つは解消した。馬具一式と戦装束は秀吉がくれるから用立てる算段をする必要がない。鎧兜が一番金がかかるからな。

「殿下、小出殿の屋敷が見つかりました」
「どこだ?」
「聚楽第の北側になります。去年、改易になった者の屋敷です」

 俺は治胤の話を聞き安堵した。本来、秀吉から貰う屋敷というのは屋敷地のみだ。それを拝領屋敷という。その土地に屋敷が建設済みなら、それをそのまま流用できるから金銭的負担が楽になる。それでも屋敷の代金は相手に支払う必要がある。でも改易された者の屋敷なら払う必要がない。

「縁起が悪いな。治胤、他に無いのか?」

 秀吉は強い口調で難色を示し治胤のことを厳しい目で見た。

「殿下、聚楽第の近い場所にめぼしい屋敷が他になく」

 治胤は秀吉の口振りに恐れながら尻すぼみで答えた。俺は小姓だから、聚楽第から離れた場所だと色々と支障がある。その条件を加味して屋敷を探すとどうしても限定されてくる。秀吉としては改易された者の屋敷を従甥に下賜することは心情的に気持ちいいものでないことは分かる。
 更地の拝領屋敷を俺渡せばいいが、それだと屋敷が建つまで俺の実家から通うしかない。秀吉の様子からして、その選択はないだろう。これは義祖父と話をつけていると見ていい。そう思うと小出家への想いが一気に冷めた。
 秀吉や小出家の思惑がどうであれ、俺は余計な出費が浮くから全然気にしてない。

「殿下、改易された者の屋敷ということは、考え方を考えればこれ以上落ちないということです。後は上がるだけ。良い屋敷をお選びいただきありがとうございます」
「卯之助が良いなら何も言うまい。そこを卯之助の屋敷とする。卯之助、しばしの仮住まいじゃ。お前が北条攻めで手柄を上げれば良い屋敷を選んでやろう。その時のために金はとっておけ」

 秀吉は俺にそう言うと席を立って退出した。

「小出殿、では屋敷へご案内いたします」

 この後、俺は大野治胤(おおのはるたね)の案内でその屋敷に徒歩で向かうことになった。
 だが、ここで問題が一つあった。

「大野殿、事前に殿下から聞かされていた屋敷で小出家の者達が引越をしていると思います」

 俺は事情を包み隠さず治胤に説明した。隠しても意味がない。
 急いで引越をしていなければ、こんなに慌てる必要もなかっただろう。義父は馬廻衆だから聚楽第の近場に屋敷がある。だから引越を急ぐ必要性はない。だが、俺の義母が俺を早く追い出したいのか引越は今日になった。

「そうでしたか。殿下からは急なことなので便宜を計らうようにと言付かっております。直ぐに早馬を出しましょう」
「お手数をおかけして申し訳ありません」

 治胤は俺を置いて小走りで姿を消した。

 

 俺が手持ち無沙汰に時間を潰していると、治胤が息を荒げて戻ってきた。

「手配が整いましたから、直ぐにお家の方々へ連絡が届くと思います。私達は先に屋敷の方へ向かいましょう」
「よろしくお願いいたします」

 考えれば考えるほど迷惑な話だ。俺は初めの屋敷で構わなかった。だからといって秀吉に直接要求する度胸はない。今日の対面でも感じたことだが、秀吉は自分の命令に対して意見する者を許せない性格なのだろう。「天下人だからしょうがない」と言えばそれまでなんだがな。
 お陰で秀清は俺にぼやきそうだ。
 秀清とは俺の義叔父・小出秀清のことだ。彼は俺の引越の責任者だ。義父の命令で俺の引越を手伝うことになるが快く引き受けてくれた。その時、俺に「引越祝いに酒でも奢ってくれ」と注文を出してきた。ついつい「引越祝いは義叔父上が私に渡すものでしょう」と突っ込んだら「上手い酒を飲ませてくれ!」と笑いながら俺の指摘は無視していた。二日前の出来事だが今でも鮮明に覚えている。
 秀清は小出家の中では俺が胸襟を開いて話せる数少ない人物だ。それは秀清が義祖父の妾の子で、庶子という身の上であることも関係しているのかもしれない。その秀清は義父の家臣として義父の補佐をしている。傍目から見て義父より秀清が優れていると俺は内心思っている。その証拠に義父の家臣は秀清の方を頼りにしている。



 聚楽第を出てから四半刻(三十分)位歩いた頃、俺は秀吉から受け取った知行安堵状を取り出し目を通した。何度見ても俺の名と知行五千石を安堵すると書かれ朱印が押してある。五千石か。今後の苦労は気が重いが嬉しい。つい顔がにやけてしまう。

「小出殿が羨ましいです」

 俺は平静を装いながら、知行安堵状を折りたたみ油紙に包むと懐に仕舞う。早速、胡麻すりきたかと内心思った。

「五千石くだされるとは。いやぁ殿下は太っ腹ですね!」

 俺は嫌味が無いようにテンション高めに話した。

「そういう意味で申したのではありません。小出殿の聡明さが羨ましいと申しました。私は殿下と小出殿の会話についていけませんでした」

 治胤は俺を見ながら苦笑した。滑ってしまった。超恥ずかしいじゃないか。

「大野殿、買い被り過ぎです。たまたま黒田様の考えと私の考えたことが同じだっただけです。まぐれ当たりですよ」

 俺は大袈裟に慌てた素振りで治胤の俺への評価否定した。秀吉が想像以上に俺を高く評価したことで治胤も俺に一目置いたようだ。それか、今後の有望株と仲良くしておこうという考えかもしれない。
 後者だろう。
 治胤の素振りからして前者の可能性も捨てきれないが、治胤の人物像を完全に掴めない内は用心しておいたほうがいい。こいつは大野治長の弟だからな。大野治長も案外不幸と言えなくもない。大野治長は自分の母親が秀吉の側室・茶々の乳母であり、後に生まれる豊臣秀頼の乳母でもあったがために自滅したと言えなくもない。だが、彼の母のお陰で異例の出世を遂げたことは揺るがない事実である。

「そういうことにしておきましょう」

 治胤は爽やかな笑顔で愛想よく俺に返事した。俺は努めて平静を装い治胤の言葉を聞き流した。



 俺と治胤がたわいもない世間話をし歩いていると、治胤が大きな屋敷を指さした。

「小出殿の屋敷が見えてきました。あれがそうです」

 遠眼からもその大きさが分かる。治胤が指さす屋敷は義父の屋敷より間違いなく大きい。
 屋敷の門前に俺と治胤が到着すると俺は屋敷を見回した。屋敷は真新しい。聚楽第が完成して三年くらいだから当然といえた。俺が住んでいた義父の屋敷も規模と作りはかなり違うが真新しい屋敷だった。
 俺一人で住むには随分でかくて立派な屋敷だな。俺は屋敷の塀やら門を見回し人気を感じないことを確認すると門を潜った。俺の思った通り人気はない。

「私達の方が早かったようですね」

 俺の後を追うように治胤が門を潜ってきた。治胤は屋敷の玄関に進み周囲を見回す。屋敷の外からでも人気を感じなかったから予想通りだった。秀清達は今頃開いた荷物を荷車に積み直し、この屋敷に向かってきているのだろう。

「大野殿、わざわざありがとうございました。後のことは大丈夫です。もう少しすれば家の者達もくることでしょう」

 俺はやんわりと治胤に「もう帰っていいぞ」と言った。治胤も仕事中だろうから、さっさと帰りたいだろう。俺は治胤とあまり仲良くするつもりはない。だが、情報は引き出したい。主に茶々と石田三成の人物像を詳しく知りたい。歴史で知る二人とどれ程違うか確かめて置く必要はあるからだ。でも、今日は疲れたから、秀清が来るまでのんびりしたい。

「私のことはお構いなく。小出殿の引越が滞りなく終わるように差配することが本日の私の仕事です。ここで待たせていただきます」

 俺の思いとは裏腹に治胤は爽やかな笑顔で返事した。俺は治胤に少し苛立つ。こういう空気を読めない奴は好きになれない。でも、治胤の言い分は一理あるから俺は引き下がることにした。

「わざわざ気を遣わせてしまい済みませんね」

 俺は心と裏腹に愛想よく治胤に礼を言った。

「いえいえ気を遣わないでください。これも仕事の内です」

 俺と治胤は笑顔を交わしながら庭の方に移動した。立ったままでは疲れるから、俺は母屋の軒下の廊下に腰をかけることにした。丁度いい整形された長方形の石が軒下の廊下に沿って配置されていたので、それを足場にして軒下に座った。
 俺の横に治胤が腰をかけた。

「いやはや、今日は疲れました」

 俺は手を上げ腰を伸ばし身体を解した。ここまで来るのに半刻(一時間)位はかかったと思う。遠眼に聚楽第の天守が見える。良い眺めだな。

「明日はもっと疲れると思います」

 治胤は俺を見て苦笑していた。彼が言いたいことは俺が石田三成の下で働くことを指して言っているのだろうと何となく分かった。

「そう言えば。私の上司になる石田様はどのような方なのでしょう」

 俺の質問に対して治胤は腕を組み思案していた。そして、彼は石田三成の人物像について考えがまとまったのか口を開いた。

「小出殿、私が言ったことは黙っていてください」

 治胤は話をする前に俺に口止めをしてきた。俺は他人に喋るつもりなどないから治胤に肯定の意味で頷いた。

「石田様は気難しい方です。ですが、仕事はできる方だと思います」

 治胤の話は俺の知っていることと、それほど乖離していなかった。歴史の記録は時として時の為政者によって捏造されることもあるから歴史を鵜呑みにせず、得られる情報と俺の知る歴史を擦り合わせて間違いを修正していった方が今後の俺のためになる。

「でも槍働きは噂通り得意じゃ無いんですよね?」

 俺が何気なく呟いた言葉に治胤は表情を固くした。
 俺は何かまずいことを言ったのだろうか。
 治胤は咄嗟に周囲を見回した。ここに俺と治胤以外の者はいない。それでも条件反射で周囲を気にするとは、それだけ治胤にとって石田三成は苦手または恐ろしい存在なのだろう。朝鮮征伐で軍監として赴き賄賂を要求したり報告を捏造し同僚を不当に貶める人間だから恐ろしい人物ではあると思う。

「小出殿、その話題は石田様の前では禁句です。ご当人は気にしていないと仰りますが凄く気にしています。石田様の下で働くなら、このことは注意しておいた方がいいです」

 石田三成に会う前に聞いておいて良かった。治胤から聞いた話と治胤の様子から察して、石田三成はかなり面倒そうな人物であることは確かのようだ。歴史でも石田三成は豊臣系大名から蛇蝎の如く嫌われ殺意を抱かれていた。その上、人望は最悪で忠臣でもない。彼の忠臣という印象は徳川家康が豊臣家を滅ぼしたことからくる結果論でしかない。彼は権力争いの果てに失脚し、復権を狙い武力よる政変を引き起こし破滅しただけだ。そんな時勢を読めない者は仕事ができようと愚か者だ。

「大野殿、わざわざ教えていただきありがとうございます。心しておきます」

 俺は治胤に礼を言った。その後、この際だから俺は治胤から情報を引き出しておくことにした。こんな二人だけで会話する機会は今後あまり無いからな。

「大野殿の母上は浅井の姫様の乳母とお聞きしております。大野修理様は乳兄弟ということですね。浅井の姫様はどのような方なのでしょうか?」

 俺は治胤の母のことを大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)とは呼ばなかった。現在の茶々は秀吉の側室で、彼女の側近である治胤の母が大蔵卿局と呼ばれているか分からなかったからだ。俺のような宮仕えしたばかり小僧があまり詳しすぎると変だから、敢えて茶々のことを浅井の姫様と呼ぶことにした。
 俺の振った話を聞いた治胤の表情は優れなかった。この話は禁句だったか。俺と治胤の間に沈黙が広がった。
 凄く気まずい。急に重苦しい空気になってしまった。

「大野殿、あの。すみません」

 俺は気まずさから治胤に謝罪した。ここまで治胤が母や兄のことを引け目に感じているとは思わなかった。

「小出殿が謝る必要はありません。小出殿に他意ないとことは重々承知しています」

 治胤は無理して笑顔を保っていた。あまり触れて欲しくないことは確かなようだ。この時代は縁故で仕官・出世することは普通のことように思っていた。だが、茶々の妹、初の夫である京極高次は「蛍大名」と嘲笑されていたことを考えると、縁故の種類によっては嫉妬を買いやすく中傷を受けたりすることがあるのかもしれない。
 大野治長の出世は十割は彼の母の存在のお陰であることは疑うべくもない事実といえる。彼はお世辞にも官位や大名に見合った手柄は立ててない。

「私も大野殿の兄上とは変わりません。虚名も無き、手柄も上げていない私が五千石なのです。私こそ縁故の極みというものです。大野殿も気にしないでください」

 俺は豪快に笑い声を上げた。治胤の表情が少し和らいだ。

「小出殿は良い方ですね」

 治胤は俺から視線を逸らし前方を見た。その先の遠くには聚楽第があった。

「茶々様には何度かお会いしたことがあります。あの方はお美しく凜とした女性です。ですが、人知れないご苦労をお抱えになっておいででした」

 治胤は回想に耽るような目で遠くを見つめていた。大野治長兄弟も色々とあるようだな。

「茶々様の立場を考えれば苦労ばかりでしょうね。何と取り繕おうと、彼女のご実家は既になく孤児と同じです。殿下の庇護が無ければ生きていけない。だからだと思います。彼女は殿下の側室になった。そうすることで妹達に帰る場所を作ってあげたかったのでしょう。私は彼女を芯の強い情に深い優しい方だと思います」

 治胤の話を聞き、俺は自分が抱く茶々の人物像を語った。茶々は浅井長政と織田市との間に生まれた姫だ。それを叔父、織田信長により父と家を奪われた。本来ならここでのたれ死んでもおかしくない。彼女は幸いなことに織田信長から庇護された。その叔父も謀反により本能寺で死ぬ。その後は柴田勝家、次は豊臣秀吉と庇護者が転々と変わった。そして、茶々は二人の妹以外を全て失った。その彼女が血を分けた妹を守るためにできることなど限られている。そう考えると茶々のことが不憫に感じられた。俺は感傷的な気持ちになり多くを語ってしまった。

「茶々様のことをその様に思って下さる方がおられるとは思いませんでした。茶々様が小出殿の言われたことを聞けば怒ると思いますが」

 治胤は俺に嬉しそうに笑顔を返した。治胤の一族、大野家は浅井家臣の家柄である。だから、主君筋の浅井の姫である茶々には思い入れがあるのだろう。



「卯之助、こんなとこに居たのか」

 俺と治胤が会話をしていると秀清が現れた。秀清は額の汗を手拭いで拭くと、それを首にかけながら俺に声をかけてきた。

「小出殿、では私はこれで失礼させていただきます。それとこれをお受け取りください。殿下から引越の祝儀にございます」

 治胤は懐から紫の絹地に包まれた小さな包みを俺に差し出した。俺はそれを考えなしに受け取るとずしりとした重量だった。俺は視線を包みに落とす。この重みは間違いなく金、小判だな。秀吉からということは屋敷の件をやはり気にしていたのだろう。これで引越に来てくれた皆にごちそうが振る舞えそうだ。俺は自然と笑顔になる。

「殿下には有り難く頂戴いたしますとお伝えください」

 治胤は頷き俺に頭を下げ、通り縋りに秀清に会釈をして通り過ぎた。すると秀清も治胤に会釈した。

「あの男は誰だ?」

 秀清は俺の側に来ると開口一番に治胤のことを聞いてきた。

「義叔父上、大野修理様の弟、大野治胤殿です」
「大野修理様の弟か。ちゃんと挨拶をしておくべきだったな」

 秀清はしくじったという顔で治胤が去った先を見ていた。その方向から荷車を引く人足達がぞろぞろと入ってきた。その後ろから侍女達も着いてきていた。荷車には俺の荷物が積まれている。俺の荷物の大半は書籍が占める。その書籍の大半は兄・木下勝俊から貰ったものだ。俺を風流人と言った人でもある。

「大野殿はそんこと気にしないと思います」

 俺の言葉を聞き秀清は笑顔になる。

「断言するのだな。大野治胤様と仲良くできそうか」

 秀清は笑顔で秀清の問いに頷いた。

「卯之助、先輩達とは仲良くしていた方がいい。しかし、聚楽第から殿下の早馬が来た時には驚いたぞ」

 秀清は意味深な笑みを浮かべた。

「知行は幾ら貰ったのだ」

 秀清の質問は直球だった。

「五千石です」
「ご。五千石。卯之助、それは真なのか?」

 秀清の声は震えていた。
 俺も最初は驚いた。義父より知行が多い。義母は影で癇癪を起こしそうだな。

「義叔父上、これが朱印状です」

 俺は懐から知行安堵状を取り出し秀清に見せた。秀清は食い入るように知行安堵状を何度も繰り返し読んでいた。

「道理で屋敷がでかいと思った。卯之助、やったじゃないか」

 秀清は納得した様子で数度頷くと俺の方を見て笑った。彼は心底喜んでいる様子だった。

「卯之助様、秀清様」

 人足達が俺と秀清に声をかけてきた。引越の指示を待っているのだろう。秀清は引越の荷解きを終えていないことに気づく。彼は慌てて人足達と侍女達の所に向かい手際よく指示を出していった。俺はその様子を眺めて見ていた。
 秀清の指示が終わると人足達は荷物を家屋内に運びだし、侍女達は母屋にある勝手口から家屋内に入り掃除をはじめた。
 指示を出し終えた秀清は俺に近寄ってくる。彼と距離をとって後ろから二人の男女が付いてきていた。身なりから下人というところか。

「卯之助、詳しい話は引越した後だ。今日からお前の屋敷で働く者達を紹介しておく。九蔵とリクこっちに来い!」

 秀清は二人の男女を声を張り上げ呼んだ。彼に呼ばれ急いで二人は前に進み出た。男は三十代前半の冴えない白髪頭の小男、女は十第後半で二十手前の勝ち気な女だった。

「殿様、九蔵と申します。今日からお世話になります。何なりとお申し付けください」

 九蔵と名乗った男はおずおずと俺に頭を下げた。俺は九蔵に「よろしく頼む」と言った。九蔵は白髪頭で痩せているが衣服から見える手足は筋肉質だった。頭髪のせいで一見して老人に見えるが顔を見ると中年と分かる。

「殿様、リクと申します。よろしく願いいたします。何なりとお申し付けください」

 リクは勝ち気な顔と裏腹に殊勝な態度で俺に頭を下げた。奉公に来る人間が主人に失礼な態度はする理由がないか。俺は九蔵と同様にリクに「よろしく頼む」と言った。リクは髪を肩にかかるかかからないくらいで切り揃えていた。

「二人はお前の下人だ。お前の好きに使うといい」

 秀清は二人の下人を紹介し引越作業に戻って行った。 

 

第三話 秀清との密約

 秀清が荷車に積まれた荷物の運び出しを人足達に手際良く指示を出していく。
 俺は忙しく働く秀清から庭に目を向けた。庭木や砂利を見ると日の光で淡い橙色に染まっていた。八つ半(午後十五時)位か。
 俺が庭を眺めていると視線を感じた。俺は視線を感じる方向に顔を向ける。そこには下人、九蔵とリクの二人がいた。二人は俺と視線が合うと気まずそうに視線を落とす。
 二人とも俺の指示を待っているのだろう。俺が二人の主人だからな。俺の指示無しで勝手に引越しの手伝いをして、それを俺に咎められるとでも思っているのだろうか。

「二人は何処の生まれだ?」

 気まずい空気を和やかにしようと、俺は二人に話題を振ってみた。

「尾張中村の生まれです」
「京の生まれです」

 九蔵は秀吉と同じ出身か。リクは京生まれ。二人とも格好からして裕福そうには見えない。九蔵は貧農の出身、リクは貧しい市井の出身だろうな。九蔵の年齢なら所帯を持っていてもおかしくない。それなのに俺のところに奉公に来ていることを考えれば何となく事情は察することはできる。リクも嫁に出ていてもおかしくない歳に見えるんだがな。

「九蔵は中村の生まれか。私は近江の生まれだが、父は尾張の生まれだ。同郷の(よしみ)だ。九蔵、これからよろしく頼むぞ」
「殿様、よろしくお願いします」

 九蔵は俺に恐縮しながら頭を下げた。

「リクは兄弟姉妹はいるのか?」
「兄一人と弟二人と妹一人です」

 リクは両手を使って数えながら俺に答えた。

「妹がいるのか。私の兄弟は八人いるが全員男ばかりでな」

 俺は笑顔で答え九蔵の方を向いた。

「九蔵は兄弟姉妹はいるのか?」
「兄が二人と弟が一人います。後は姉が一人います」

 俺は九蔵とリクから兄弟姉妹の話を聞きながら、俺の兄弟の多さを実感していた。でも、織田信長の子供は俺の兄弟の倍以上いたらしい。上には上がいるということだ。
 俺が九蔵とリクに兄弟姉妹の話を聞いていた理由は下人補充のあてを探せないかとふと思ったからだ。五千石の大身である俺の屋敷で働く下人が二人じゃ少ない。もっと人数を増やす必要があるから、この二人の働きぶりを見て俺の屋敷に奉公できそうな年齢の者を紹介してもらおうと考えていた。
 九蔵とリクは下人の補充の皮算用をする俺を不安そうに見ていた。俺は慌てて平静を装い笑顔で彼らを見た。

「九蔵とリク。私について来てくれ」

 俺は二人に命じ、先程まで秀清が居た荷車が止められた場所に向かった。のんびりと歩く俺を余所に人足達は慌ただしく荷物を降ろしていた。その俺の後を九蔵とリクが付いてくる。
 俺は人足達の邪魔をしないように距離を取って荷物を吟味していった。時折、俺に黙礼して通り過ぎる若い武士が数人いた。彼らは人足達に「もう少し荷物を丁寧に運べ」と小言を言っているのが聞こえてきた。俺は振り返らず、目的の物を探した。
 ある筈なんだがな。俺は米と味噌を探していた。
 この時代は食糧事情はすこぶる悪い。お店に買いに行けば直ぐに食料が手に入るものじゃない。特に味噌は普段の食料だけでなく、戦時は保存食として米と一緒に兵糧として扱われていた。そのため、武士は味噌を自給自足していた。中でも織田・豊臣の発祥の地である尾張国は織田信長や豊臣秀吉の政策の影響もあり味噌の醸造に力を入れていた。
 義父も当面の生活必需品である米と味噌を持たせてくれると思ったが、俺の思惑は外れてしまったかな。少し不安になる。俺は懐の中に手を入れた。今日の所は秀吉の祝儀を使うしかない。

「殿様、何を探しておいでなのでしょうか?」

 リクが俺に声をかけてきた。

「リク、米と味噌が無いかなと思ったんだ」
「それでしたら一番後ろの荷車だと思います」

 振り向きながらリクに聞くと、彼女は奥の方向を指さした。俺は彼女の指さす方向に向かった。五六歩進むと米俵と樽が視界に入ってきた。俺の鼻腔を味噌の香りが刺激した。やっぱり持たせてくれたか。持たせてくれなかったら、義父と義母を呪うところだった。

「リク、God Job!」

 俺は嬉しくてついつい英語で言ってしまった。いつも気をつけていたのだが、一人暮らしができると思い気持ちが舞い上がっている気がする。俺は不味いと咄嗟に口に手を当てる。
 俺は恐る恐るリクのことを見た。リクは俺の発した言葉の意味が分からず反応に困っているようだった。

「南蛮の言葉で『良い仕事をしたな』という意味だ。リク、良い仕事をしたな」

 俺は自らの行動をかき消すように必要以上に元気良くリクに言った。

「そんな。大したことじゃありません。殿様は南蛮の言葉も分かるんですね!」

 リクは照れた様子で俺に頭を下げた。気の強い感じがしたリクの可愛い反応に俺はついつい萌えてしまった。リクが良い子そうで良かった。
 それにリクは年下の俺に尊敬の目を向けている。

「殿様、米と味噌を運ぶのでしょうか?」

 俺とリクの会話に九蔵が割り込んできた。彼の表情は不安そうだった。九蔵とリクで荷車二台分の米と味噌を運ばされると思ったのかもしれない。俺も二人に運ばせるつもりはない。それに前の荷車の荷物を先に家屋に運び込まないと米と味噌を運び出すことは不可能だろう。ここから見えないが米倉と味噌倉は庭の奥にあるだろうから人足達に任せた方がいい。

「私達だけでこれを全部運ぶ込むのは流石に無理だろう」

 俺は米の味噌が積まれた荷車を指差しながら笑顔で九蔵に答えた。九蔵は安堵した表情になった。

「引越を手伝ってくれた者達に握り飯と味噌汁を振る舞ってやりたいと思っただけだ。勿論、お前達も腹一杯食べてくれよ」

 俺は九蔵とリクに微笑んだ。俺の言葉に二人とも俺の申出に喜んでいる様子だった。この頃の時代は米を腹一杯食べれること自体がごちそうだからな。たまにはこういうのも良いと思う。

「殿様、私達だけで米俵と味噌樽を勝手口に運ぶんですか?」

 リクが俺に親しみを持って声をかけてきた。最初の頃より、緊張が解けてきたようだ。俺に親近感を持ってくれることは良いことだ。怯えながら俺に仕えられたら、俺は息が詰まってしまう。

「全部荷物が運び込まれてから、手の空いた人足達に手伝ってもらえばいい。私が料理するから九蔵とリク手伝って欲しい」
「殿様が料理をなさるんですか?」

 九蔵とリクは戸惑っている様子だった。

「こう見えても大和国の興福寺に一年半だが遊学していた。だから、料理くらいできるぞ」

 俺は自信満々で九蔵とリクに言った。
 俺は興福寺へ三年間遊学する予定だった。だが、ある時義父から京に連れ戻され、俺の遊学の期間は一年半に繰り上げられた。義父の心変わりの原因に心辺りはないが、興福寺側の俺への評価が関係しているのではと思っている。
 俺が興福寺で勉強をはじめ一年が経過した頃、学僧の間で俺は神童と呼ばれるようになっていた。俺は歴史好きの延長で、学生の頃から古文が得意科目だった。勉強の下地があった俺は学僧の指導のお陰で漢籍を読めるようになっていた。それで学僧の間で俺の評価は一気に急上昇した。そして、義父が俺を連れ戻した時期は俺が神童と呼ばれ出した半年後であった。俺が宝蔵院の院主、胤舜(いんしゅん)から槍術を学ぼうと弟子入りを頼んで断られた頃だから良く記憶している。
 義父の邪魔で俺の楽しい学問三昧の生活は突然終わりをつげた。
 あの頃の思い出が懐かしい。寒空の下、炊事のために水を汲みに従事させられるつらい日々は今では良い思い出た。あれをもう一度やれと言われたら全力でお断りさせてもらう。
 俺が興福寺に遊学していた頃、俺は学問三昧だけでなく炊事洗濯も学問の一環として従事していた。だから、握り飯と味噌汁位なら問題なく作れる。
 久し振りに俺の料理の腕を誰かに披露したい。俺は袖をまくった。

「滅相もないです。殿様に料理などさせれません!」

 九蔵とリクが大慌てで俺を止めてきた。俺は二人の雰囲気に押されて料理をすることを諦めた。やはり駄目か。俺は残念な気分になりながら佇まいを正した。息苦しいが俺も立場があるからな。ここはおとしなく引き下がるとしよう。
 俺は荷車に積まれた米俵と味噌樽を今一度眺めた。
 これだけあれば当分は食べるに困らない。
 小出家からの餞別に対して純粋に感謝した。俺は感謝しつつ小出家に顔を出す理由ができたことに内心ほくそ笑んだ。
 明日から城に出仕だが、合間を見て小出家に出かけるとしよう。木下家と寧々叔母さんにも会いに行かないといけない。明日から忙しくなる。

「肝心の酒がないな」

 俺は秀清との約束を思い出した。よくよく考えれば小出家から酒を持たせてくれる訳がない。しかし、酒を手に入れないと秀清が不満を口にしそうだ。

「殿様、酒でございますか?」

 俺の話に食いついてきたのは九蔵だった。俺の話の流れでご相伴にあずかれると思っているのだろう。秀清だけに酒を出すのも何だ。引越を手伝ってくれた皆は屋敷の変更で大変だったに違いない。その詫びも兼ねて夕飯に酒もつけよう。
 酒の買い付けは九蔵に任せよう。
 俺は懐に手を入れ紫布に包まれた秀吉からの祝儀を取り出した。そして、俺は九蔵とリクに背を向け紫布の包みを開け中身を見て目を見開いた。
 竹流金が二本ある。一本四十四匁(約百六十五グラム)位はある。これ一本で五十石(約四百万円)の価値はある。これで酒を買うのは無理があるな。
 俺は米俵に視線を向けた。これで決済するか。木下家からも祝儀に米とか貰えるだろうし問題ないだろう。

「九蔵、私の名前を出して酒を屋敷に届けるように注文してきれくれ!」
「殿様、分かりました」
「私の名前が通らないなら、私の義父である馬廻衆・小出吉政の名前を出せばいい」

 九蔵は俺に頭を下げて足早に去った。俺はリクを連れて勝手口に向かい、台所で掃除をしている侍女に振る舞う食事の献立を伝えた。侍女達は俺からの持てなしを聞き喜んでいた。ここまで喜んでくれるなら俺も嬉しい。リクは侍女達に加わり台所の掃除を手伝っていた。



 一刻(二時間)が過ぎ、引越の作業は終わった。今、人足達は各々休んでいた。彼らの中には煙管で煙草に火をつけふかしている者達もいた。俺は煙草が嫌いだから、煙草を吸う者達に気を遣わせないように勝手口から台所に移動した。
 俺が台所に来ると侍女達とリクは忙しそうに炊事をはじめていた。掃除の次は炊事とは皆働き者だな。侍女達とリクには今度差し入れをしよう。お菓子がいいだろうか。
 ご飯が炊けると侍女達とリクは手慣れた手つきで握り飯を作り、鍋で味噌汁を作っていた。味噌汁は味噌を湯で溶いた簡素なものだったが食欲をそそる香りだった。
 夕飯の準備が整うと九蔵がようやく戻ってきた。彼と一緒に酒屋の手代と丁稚を連れだっていた。その後ろから五人の人足が引きずる酒樽三つが積まれた荷車が運び込まれてきた。
 俺は九蔵の連れてきた手代と二三言葉を交わした後、米俵で酒の決済をし品物を受け取った。手代はまず酒樽三つを勝手口に運び込み、開いた荷車に代金の米俵を積んでいった。手代は笑顔で「今後ともご贔屓に」と頭を丁寧に下げ帰って行った。後で知ったことだが、この頃の米価は小田原征伐を控えていたため倍以上に値上がりしていたそうだ。

 料理の準備が整い酒が届き夕餉の準備が整うと侍女達は配膳を始めだした。準備が整った膳を次から次へと庭の軒下で休息を取っている人足達に持っていった。彼らは一斉に膳に群がりだした。それを眺めていた俺は「蟻のようだ」と思ったことは秘密だ。
 軒下が騒がしくなると秀清が彼らに「皆の分はあるから慌てなくいい!」と制していた。人足達は秀清の制止でおとしなくなった。彼らは順番に膳を受け取り料理を思うままに貪っていた。彼らの行儀の悪さに俺は少し引いていた。だが、頑張ってくれた彼らを労いたいと思い、俺を気を取り直して彼らに声をかけていった。
 台所に俺が戻ると侍女達とリクが美味しそうに握り飯を食べ味噌汁をすすっていた。女性の方が行儀がいいなと感想を抱きつつ、俺は侍女達に労いの言葉をかけていった。
 その後、俺は小出家の武士達を労い会話をしつつ、家臣団を作るために人材を募集していることをそれとなく彼らに匂わしてた。あまりに露骨にやると義父の機嫌を損ねてしまうからな。彼らは俺の話に満更でもなさそうだった。
 俺は引越を手伝ってくれた人達への労いを終えると奥座敷に向かった。そこでは秀清が塩を肴に酒を飲んでいた。
 俺は酒を飲む秀清を素通りして上座の席に座った。俺の席にも膳が用意されていた。膳は二つ用意され、目の前の膳には握り飯三つと味噌汁が入った椀があり、その横に置かれた別の膳に酒杯と徳利が置いてあった。俺の分の酒もあるようだ。
 酒を上手そうに飲んでいた秀清は俺を見て一旦酒杯を置いた。

「卯之助、皆はどうだった?」
「義叔父上、みんな楽しく飲んで食べていました」
「だろうな。お前は人たらしだよ。俺に付いてきていた者の中にお前に仕えたいと言っていた者がいたぞ」

 秀清は俺を見ながら小さく笑った。

「私は引越を手伝ってくれた人達を労いたかっただけですよ」

 俺は他意が無いことを秀清に主張した。秀清はおかしそうに笑いながら、酒杯を手に取り徳利を掴むと酒杯に酒を注ぎ飲んだ。

「義叔父上、酒は気に入っていただけましたか?」
「久し振りに楽しい酒を飲ませてもらっている」

 秀清は機嫌良さそうに酒を飲み出した。しばらく彼と何気ない会話を交わしていた。俺は秀清が上手そうに飲む酒を時々見ていた。酒杯に注がれた酒は白く濁っていた。澄んだ酒じゃない。この時代の酒は濁酒だがアルコール度数は清酒と変わらない。
 突然、秀清は俺に酒の入った酒杯を差し出した。俺は酒が欲しくて見ていた訳じゃないんだが。

「義叔父上、その酒は義叔父上のために手に入れた酒です。私は結構ですから、義叔父上が全て飲んでください」

 俺はやんわりと「酒は飲まない」と断った。

「卯之助が元服した目出度い日だ。ささ。一献」

 俺は未だ十二歳だぞ。この時代に飲酒は二十歳からという決まりはない。ここで年齢を理由に断ることもできない。
 俺は秀清から酒杯を受け取り一気に飲んだ。少し握り飯を食べておけば良かった。空きっ腹に酒はきついな。まじで五臓六腑に染み渡るような感覚だ。でも、酒の味はほんのり甘く思ったより飲みやすかった。ついつい飲み過ぎてしまいそうだ。

「良い飲みっぷりだな。ささ。もう一献」

 秀清は笑顔で俺に酒を注いできた。俺は秀清に促されるままで酒をあおり、酒杯に口をつけた部分を指で拭いて秀清に返した。

「卯之助、初めての酒の味はどうだ」

 秀清は興味津々とした顔で俺に聞いてきた。

「美味いです。でも腹に染みました」

 俺は苦笑いで秀清に返した。秀清は豪快に大笑いした。

「ささ。義叔父上、今度は私が注ぎましょう」

 俺は自分の膳に置いている徳利を取り、秀清に差し出した。秀清は嬉しそうに酒杯を差し出す。俺が酒杯に酒を注ぐと秀清は一気に飲んだ。

「卯之助、もう一杯貰えるか」
「どうぞ。どうぞ」

 俺は秀清の酒杯に酒を注いだ。秀清は感慨深そうに酒杯に注がれた酒を眺めて、ちびちびと飲んだ。俺はその様子をしばし眺めていたが腹の虫が鳴り、俺は握り飯を掴み取るとかぶりついた。握り飯は塩味がなく少し物足りない。塩味が欲しくなり味噌汁を啜った。味噌汁は温い。だが、握り飯と塩っぽい味噌汁はよくあった。

「卯之助、酒は追々と慣れればいい。これからは付き合いもあるだろうからな」

 秀清は酒杯を口にしながら俺に言った。

「義叔父上には本当に感謝しています。気兼ねなく会話できるのは義叔父上だけでした」

 今後は会う機会も減るだろうから秀清に今までの礼を込めて言った。

「卯之助、水臭いこと言うな」

 秀清は照れくさそうに頭を搔きながら言うと、彼は神妙な顔で俯いた。
 どうしたのだろうか。秀清の様子が変だ。何か思い詰めているような感じがした。

「義叔父上、どうしました?」

 俺は秀清に声をかけた。秀清はしばし沈黙を保っていたが口を開いた。

「卯之助、俺をお前の家臣にしてくれ」

 俺は秀清の突然の頼みに沈黙してしまう。信頼のおける家臣は喉から出る程欲しい。秀清の申出は嬉しい限りだが「はいそうですか」と話は進まない。

「義叔父上、義父上はご存知なのでしょうか?」
「お前に直接頼んでいるんだ」

 秀清は神妙な雰囲気を崩さず俺に言った。彼は本気のようだ。義祖父や義父に黙って俺に仕官の話を持ってきて、それが露見した時のことを秀清は考えていないのか。間違いなくややこしいことになる。
 いや違うな。俺が義父に漏らさないと理解しているからだろう。この話を俺は義父に漏らすつもりはない。
 秀清は前々から義父、小出吉政に一物抱いていた。そして、俺が高禄を得たことと酒の力もあり、思うところがあった秀清は俺に仕官したいと頼むに至ったというところか。
 秀清が俺の家臣になることは願ってもない。求人が難しい馬上格の侍(戦場で騎乗を許された侍)と信頼できる家臣を一度に得ることができ一挙両得だ。だが、義祖父と義父に話を通さずに横紙破りな真似はできない。間違いなく小出家との間に波風が立つだろう。

「義叔父上、俺はその提案願ってもないです。でも、義祖父上は頭を縦に振るとは思いません」

 俺は口角を上げた。俺が乗り気なことを理解すると秀清は口元に笑みを浮かべた。秀清を引き抜くための算段は無いことは無い。義父を上手く踊らせればいい。
 義父に秀清を俺の家臣にすることを納得させるのは難しくない。
 義父は秀清と同じく秀清のことをよく思っていない。そして、秀清の存在でどれだけ自分が助かっているか自覚がない。
 問題は義祖父だ。義祖父は義父の足りない部分を補うために秀清を義父の下につけた。秀清が庶子で彼の母の出自が低かったことも、義父の家臣に据える理由として調度良かったに違いない。義祖父、小出秀政の出自を考えれば、彼が秀清の母の出自が低いと断ずることに笑いがこみ上げてくる。成り上りの権力主義者ほど傍から見ていると痛々しい。でも、義祖父の考えは小身とはいえ大名となった者の考えとしては間違っていない。

「お前の力でどうにかできるのでないか?」

 秀清は腹案無しで俺に仕官したいと言い出したのか。俺は呆れてしまう。
 秀清の立場からすると、義祖父に逆らえる立場でもない。だから、義父に不満があろうと黙って義父の元で働き続けていた。ここは俺が案を出すしかない。

「流石に私だけの力だけでは義祖父上を黙らせることは難しいです。義祖父上は小出家の当主です。当主の言葉は絶対です」

 俺は言葉と裏腹に自信に満ちた表情だった。秀清は俺の手腕を買っているから、腹案無しで俺に仕官の話を持ちかけた。秀清の力じゃどうにもならないことだからな。俺は人材が欲しい。秀清は俺の家臣になりたい。そして、義祖父を納得させる勝算があるなら何も迷うことはない。

「義叔父上、俺に仕官するなら、この話をまとめるために力を貸してもらいます。そう難しい話じゃありません」

 俺は悪巧みを思いついた悪党の顔で秀清に条件を掲示した。義祖父は義父が秀清を手放すことを絶対に許さない。それなら消極的な賛成を受け入れさせればいい。それが黙認だろうと構わない。
 秀清は徳利を取り開いた碗に酒を並々と注ぎ一気に煽った。

「悪い顔だな。卯之助、お前の策に一枚噛ませてもらおう。俺は何をすればいい」

 秀清は豪快に大笑いし俺の条件を快諾した。

「十四日後、俺は義父に義叔父上を家臣に欲しいと願いでます」
「何故、十四日後なのだ。随分とゆっくりだな。直ぐでは駄目なのか?」

 間を空けずに義父に秀清引き抜きの話を持ちかけたら、俺と秀清が企んだと考え意固地になるに違いない。そうなると義祖父を黙らせる以前の話になり計画が暗礁に乗り上げてしまう。まずは引越手伝いの礼を伝えるために義父を訪ねる。そこでは人材が欲しいとは義父に言わない。義父から何か言ってくる可能性はあるかもしれない。多分、秀吉から義父に話がいっているだろうからな。

「俺が人集めに奔走して困っていると思わせないと不味いからです。義父上と義母上は外聞を気にする人です」
「兄上は世間体を気にするからな。お前が困っているのに手助けもしない冷たい奴と周囲に囁かれることは一番嫌がるだろうな。名門意識の強い義姉上は尚更だ」

 秀清は納得した様子で頷いた。

「それに引越の日から間を空けないと、義父上は俺と義叔父上が示し合わせていると勘繰りを入れると思います」
「俺が関わっていると感じたら俺の邪魔をせずにはいられないだろうな」

 秀清は苦笑しながら言った。彼は義父の反応が手に取るように分かるようだった。

「義叔父上は俺が義父上に話を通してから協力してもらいます。義父上は義叔父上に俺の元に行けと命じるはずです。それを拒否し続けてください。理由は『父上の命には逆らえません』と返事してください」

 秀清は俺の計画の全容が理解できたのか悪い笑みを浮かべた。

「兄上が頭にくるまで固辞し続ければいいのだな?」
「命が危なくなったら俺の元に逃げてくればいいです。後のことは義父上がどうにかしてくれるでしょう」
「分かった!」
「ところで。義叔父上、今貰っている知行は幾らです」
「五十石だ」

 五十石。三千石の旗本の家老なのに石高が相場より少ない。相場は八十石位だろう。秀清を馬車馬の様に扱き使っておいて、相場より低い知行しか出さない辺り、義父と秀清の確執が垣間見える。
 一人しかいない家老をあからさまに冷遇する義父は(うつわ)が小さい。秀清が辞めたらどうする気なんだ。

「義叔父上、俺は百五十石出します。俺の筆頭家老として力を貸してください」

 俺は迷わず秀清に告げた。家老は能力だけじゃなく、信頼できる人物じゃないといけない。五千石の旗本である俺は残り四人の家老が必要になる。秀清を筆頭家老とし、次席家老に百五十石、家老三人に百石ずつでいいだろう。
 俺は家臣団を作るための第一歩を踏み出した。 

 

第四話 初出勤

 緊張する。今日は俺の初出勤日だ。
 今、俺は聚楽第の中にいる。聚楽第の政庁区画は人が多い。秀吉の生活区画は人を見かけるのは疎らだったがここは違う。忙しそうに人が行き交っている。
 俺は石田三成の執務部屋を知らないため、行き交う人を呼び止めてはそこへの行き方を教えてもらった。それでも政庁区画が広大すぎて迷うことがあった。だが、石田三成の執務部屋に近づいているという実感はあった。
 寧々叔母さんに会いに行く時とは勝手が違いすぎる。少しでも気を抜くと道に迷いそうだ。初日から迷子になるのは洒落にならない。昨日の治胤(はるたね)の話では石田三成は気難しそうな性格らしいから初印象が大事だと思う。



「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」

 俺は石田三成の部屋の前に到着すると腰を落とし正座する。そして、襖越しに部屋の奥に向かって声を発した。返事が返ってこない。
 部屋の中の気配を探ると人がいる気配を感じた。人がいないわけでない。俺の声が聞こえなかったのかもしれない。

「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」

 俺は一段声を大きくして、もう一度部屋の奥に向かって声を発した。だが、返事が返ってこない。
 人が声をかけているのに無視ですか。石田三成はやっぱり嫌な奴みたいだな。俺は心の中で石田三成に毒突いた。

「小出藤四朗と申します。本日より石田治部少輔様の配下で働かせていただくことになっております」

 無視されようと石田三成に会わないと何もはじまらないため、気を取り直して部屋の奥に向かって声を発した。

「中に入ってくれ」

 中から男の声が聞こえた。いるんじゃないか。
 俺は声に促されるまま座ったまま襖の引手に両手をあて、襖をゆっくりと右側にずらした。そして一度平伏して部屋の中に入っていく。

「私は石田治部少輔だ。小出藤四朗、お前のことは殿下より話を聞いている。そんなとこに座らずこっちにこい」

 俺が部屋に入り着座すると、部屋の一番奥に座っている男が名乗った。俺は石田三成に促されるままに部屋の中を進んで行く。この部屋の中には十人位の武士がいた。武士達の年齢はばらばらだったが下は十代前半から上は二十代後半だろうか。彼らは石田三成の部下だろう。
 部屋には文机が一番奥の石田三成と対面する形で配置され、石田三成の部下達は各々の文机に向かい、書類に目を通し忙しそうに筆を走らせていた。
 俺は石田三成と文机を間に挟む形で対面した。俺の石田三成に対する第一印象は仏頂面な反っ(そっぱ)だ。喋ると前歯が凄く目立つが不細工な顔じゃない。石田三成は座っているため身長はわからないが、俺より一回り大きいくらいだろう。そして、彼の体つきは武芸と縁遠そうな優男だ。彼が賤ヶ岳の戦いで一番槍の手柄を立てたことに驚くと同時に俺にも戦功の機会の可能性はあると自らを奮い立たせた。
 俺はふと石田三成の身体的特徴を思い出し、彼の頭の上に視線を向けた。石田三成の頭の形は木槌型と後世に記録されている。実際はどうなのだろうか。

「どうしたのだ?」

 俺の視線を感じとった石田三成は俺に怪訝な表情を向けた。初対面の相手に頭の上を凝視されれば変に感じることは当然と言えた。本当のことを言うのもどうかと思うのでお茶に濁すことにした。

「石田治部少輔様の茶筅髷が見事でしたので目を奪われてしまいました」

 俺は石田三成の髷から顔に視線を戻し、心にもないことを言った。だが、石田三成の髷が居様に均一に整っていたことは事実だ。本当の茶筅のように均一なバランスを保っていた。どうすればこんな髷になるのか少し興味が湧いた。

「お前には分かるか」

 石田三成は仏頂面から笑顔に変わり口元に笑みを浮かべた。俺の咄嗟に繕った言葉は彼の琴線に触れたようだ。その証拠に彼は意味深な笑みを浮かべた。

「石田治部少輔様のような茶筅髷を結う秘訣はご教授いただきたいです。やはり鬢付け油が違うのでしょうか?」

 俺はいつも自分で茶筅髷を整えているが、石田三成のような茶筅髷にはならない。石田三成は大名だから自分の小姓に手先の器用な者がいて、その者に髷を結わせているのかもしれない。

「何も特別なことはしていない。早起きは三文の得という。私は日の出とともに起き自分で髷を整えることが日課だ。人任せにせず些細なことも手を抜かない心積もりで生活していれば難なくできることだ」

 石田三成は俺に真顔で淡々と当然のことのように言った。俺は石田三成が何故人から嫌われるのか何となく理解できた。

「石田治部少輔様の言葉に心から感銘いたしました。私も元服を機会に弛んだ気持ちを一新し精進しようと思います」
「美辞麗句は無用だ。そう思うなら行動に移すがいい」

 石田三成は俺の返答に人を突き放すような物言いをしてきた。彼からは人間関係を円滑する気持ちが一切感じられない。

「精進いたします」

 俺は大人しく短く返事した。すると石田三成は満足そうな表情に変わった。根が歪んでいるわけじゃなさそうだが、人格に問題がありそうだ。それと若くして秀吉の吏僚として権勢を得たことで傲慢な部分があるのだろう。
 でも、今の石田三成は未だ秀吉の弟、秀長が健在だから絶対的な権勢を持っているとはいえない。

「殿下のために精進いたせ」

 石田三成は一度言葉を切った。

「殿下からお前を与力として使えと仰せつかっている。お前達仕事の手を休めろ。紹介したい者がいる」

 石田三成は俺から視線を彼の部下達に声をかけた。彼らは石田三成の命令に従い筆を置き仕事を中断した。そして俺と石田三成を見た。
 彼らは石田三成を前にして緊張していた。それが傍目からでも分かる。俺に対して緊張している様子はなく、石田三成に対して緊張しているように見えた。
 先程までの俺と石田三成の会話の遣り取りで、石田三成が神経質な性格であることは理解できた。部下である彼らは石田三成に対して気苦労が堪えないに違いない。

「この者の名は小出藤四朗俊定という。今日から私の与力として働くことになった。それと藤四朗は北政所様の甥である。私は北政所様から藤四朗をよしなにと頼まれている。お前達は藤四朗が分からないことがあれば何でも教えてやれ」

 石田三成は真顔で彼らにに命令した。それを側で見ていた俺は言葉を失った。
 こいつ何を言っているの。皆さん凍りついた顔で俺のことを見ているぞ。俺の背後に天下人の正妻と上司の顔が見えたら怖くて堪らないだろう。俺の職場環境は居心地の悪いものになりそうだ。

「みんな仕事に戻れ。藤四朗、お前は何が出来るのだ?」

 石田三成は彼らに仕事に戻るように言うと、俺の方を向いて聞いてきた。

「算術と読み書きは問題無いと思います」
「思いますだと」

 石田三成は憮然とした顔で俺を睨みつけると、石田三成は自分の文机の上にある書類を一枚二枚と取り俺に手渡した。

「それを読んで見ろ」
「分かりました」

 石田三成が俺に渡した紙には日付と文字と漢数字が書いている。あれ複式簿記じゃないか。こんな時代にどうして複式簿記が使われているんだ。俺は戸惑った顔で石田三成のことを見た。俺は大学生の頃、資格に興味を持ち簿記二級を合格している。仕事は経理をしていたから何が書いているかは分かる。

「なんで複式簿記が使われているんですか?」

 俺は衝撃のあまり狼狽し石田三成に尋ねた。彼は俺の言葉に目を見開き驚いている様子だった。

「藤四郎、それの意味が理解できるのか?」
「天正十八年一月十七日、近江屋に米を売却した記録が書いています」

 現代の複式簿記のように横書きでアラビア数字も使っていないが、渡された二枚に分けて書かれている情報は間違いなく複式簿記だ。

「何故、理解できるんだ?」

 石田三成は俺を困惑した顔で見ていた。俺は驚きのあまり余計なことを口走ってしまったようだ。石田三成になんと答えようか。
 うろ覚えだが、複式簿記は十六世紀頃には西洋の商人の間で一般的な知識だったはずだ。だから、ポルトガル人やスペイン人を経由して複式簿記の知識が日本に入っていてもおかしくはない。ただ、その知識が日本で有用であると気づくかは別物だが、先見性のある日本の商人なら有用であると気づくはず。
 俺は石田三成に嘘をつくことを止めた。ここで嘘をつくと更に墓穴を掘りそうな気がした。

「石田治部少輔様、お許し下さい。私に複式簿記の知識を得た出所は話せません」
「私に教えられないというのか」

 石田三成は眉間に皺を寄せ憤り俺のことを睨んだ。

「誰に教わったか明かさないことを条件に複式簿記を教えてもらったのです」

 俺は苦しい言い訳だがこれを通すしかない。この時代、複式簿記の知識が入る可能性がある組織は堺の会合衆くらいだろう。彼らが複式簿記の有用性に気づけば、自分達の利益のために複式簿記の知識を秘匿して独占した方が好都合なはずだ。三成が堺商人と繋がりがあったなんて知らなかった。

「分かった。これ以上は詮索しない」

 俺が沈黙を守っていると石田三成はどういう訳かすんなりと引いてきた。さっきまでの剣幕とは真逆の反応であるため俺は拍子抜けする。だが同時に石田三成の反応に警戒感を抱いた。

「お前には私の仕事を手伝ってもらう。仕訳していない伝票がある。それを仕訳するのを手伝ってくれ。仕訳したものは私が内容を確認する。付いてこい」

 石田三成は立ち上がり、右側の襖を開け隣の部屋に入っていった。彼の後を追って部屋に入ると整然と配置された棚に書類が納められていた。部屋の入り口近くに紙の束が整理されて床に山積みされていた。これを処理するのか。ちょっと伝票の数多すぎないか。

「お前の力を確認したい。これを頼む」

 石田三成は紙の束一つを掴みとり俺に差し出してきた。千枚以上はあるんじゃ無いか。

「これは?」
「伝票だ。さっさと受け取れ」

 俺は石田三成に促されるままに伝票の束を受け取った。石田三成は先に部屋を出て行く、俺も彼に付いていきながら元の部屋に戻った。

「藤四郎、お前の机はそこだ。必要なものは全部用意しているからそれを使え。最初の数枚の仕訳が済んだら私のところに持ってこい」

 俺は部屋に戻るなり石田三成は俺の席を指し示した。そこは石田三成の席から一番近い正面右に位置する。書類部屋の直ぐ側である。
 新人の俺の席位置おかしくないだろうか。俺は心の中で独白しながら席についた。俺の隣に座る同僚は二十代後半の冴えない男だった。だが、この中では最年長に見える。

「よろしくお願いします」

 俺はとりあえず隣の男に挨拶した。

「小出様、よろしくお願いいたします。私は中島(なかしま)彦右衛門と申します」

 中島は俺に対して丁寧に挨拶してきた。俺は机に座り初仕事を始めた。俺は伝票を確認すると勘定科目を何にすればいいか思い悩んだ。この時代と俺の前世の勘定科目が一致するか疑わしい。俺は仕事に没頭する中島に勘定科目のことを確認した。中島は俺の質問に丁寧に答えてくれた。お陰であっという間に石田三成から言われた二枚の伝票を仕訳できた。俺は意気揚々と石田三成の元に向かった。

「石田治部少輔様、二枚の伝票を仕訳しました。確認をお願いいたします」

 石田三成は仕事を中断し、俺から伝票と仕訳した紙を受け取り、それに目を通していく。石田三成は納得した様子で何度か頷いていた。

「藤四郎、お前は簿記が完全に理解しているようだな。勘定科目については独自の知識を持っているようだな。ここで使う勘定科目については、お前なら過去の帳簿を見れば分かるだろう」

 石田三成は俺の書いた伝票と仕訳を見ながら俺に言った。彼は俺と中島の遣り取りに聞き耳を立てていたようだ。部下達の行動は終始監視しているようだ。

「お前に渡した伝票は責任持って自分の力でやれ。書類棚に置いている仕訳を綴じた帳簿は自由に読んでいい。お前の力だけでどうにかしろ」

 石田三成は顔を上げ平然と俺に言った。彼は暗に「中島に聞くな」と言っていた。憶測だが中島の仕事が滞ると困ると考えているに違いない。三成の考えは理解できたが、それを納得できるほど俺は人ができていない。
 新人の俺に初日から要求する仕事と思えない。俺は態度で怒りを表すことはせず、心の中で「パワハラ上司!」と罵り机に戻っていく。俺は石田三成の命令により、机で伝票を確認して書類棚の帳簿を読み漁ることを繰り返し行った。その行動を何度したかすら覚えていない。ただ言えることは凄く非効率だということだ。
 石田三成の部下達は日が暮れるとさっさと帰り支度をはじめ帰って行く。彼らは俺の元に来て挨拶をし帰って行った。俺は彼らに笑顔で応対した。本当は恨めしい目で見てしまいそうだったが、彼らが俺を気の毒そうな目で見ていたため理性が働き大人の行動を取ることができた。俺が本当に十二歳の子供なら石田三成の横暴に堪えることは出来なかったことだろう。
 日が完全に沈む少し前、小姓らしき者達が数人現れ部屋の灯りに火を点けて行く。俺はその様子を見る間も惜しみ筆を走らせていた。



「藤四郎、どの位終わった」

 完全に日が落ちた頃、石田三成は俺に声をかけてきた。

「三分の一位は捌けました」

 俺は石田三成を睨みつけそうな気持ちを必死に堪え彼のことを見た。

「中々やるな。初日にそれだけ捌けるとは。殿下がお前を買っていた理由も納得できる」

 石田三成は感心した様子で俺の顔を見ていた。

「藤四郎、お前の歳は十二であったな」
「はい、石田治部少輔様」
「その歳でその器量とはな」

 この流れは「今日はこれ位で帰っていいぞ」の展開に違いない。しかし、石田三成は何も言わず彼の席に戻り仕事を再開していた。俺は肩透かしにあい呆然と石田三成を凝視しながら落胆した。俺は徐に自分の周囲を見た。俺と石田三成以外に誰もいない。灯りがあるといっても薄暗い。俺の扱いは理不尽過ぎる。

「もう遅いですし帰ってもいいでしょうか?」

 俺は思い切って石田三成に言った。

「駄目だ。それが終わるまで帰ることは許さない」

 石田三成はきっぱりと俺に言った。彼も俺が仕事を終えない限り帰るつもりはなさそうだ。俺は石田三成に恨みを抱きながら仕事を再開した。



「終わった」

 俺は最後の一枚を積まれた仕訳の紙束の上に置くと文机の上に突っ伏した。

「仕訳が済んだら、こちらに持ってこい。確認する」

 石田三成は疲労感を感じさせない声音で突っ伏す俺に声をかけてきた。俺は睡魔と戦いつつ必死に身体を起こししばし三成のことを見ていた。背を伸ばし正座し黙々と筆を走らせていた。

「何をしている。さっさと持ってこい」

 こいつは何なんだ。俺は石田三成の仕事ぶりに戦慄を覚えてしまった。石田三成の語調に少し苛立ちが籠もっていたため、俺は渋々と立ち上がると仕訳と伝票の束を抱え彼の元に歩いていった。そして、石田三成の横に抱えていた物を降ろす。
 石田三成は俺の置いた伝票と仕訳の束を手早く確認していった。時々、俺の書いた仕訳に修正を入れていく。全ての確認を終えると、俺に訂正した仕訳の紙の束を俺に差し出した。

「間違いがあった。訂正したから書き直してくれ」
「紙が勿体なくありませんか?」

 俺にそれを書き直せというのか。数十枚はあるじゃないか。俺が書いた仕訳の総枚数からすれば大したものじゃない。でももう書き直す気分になれない。

「その無駄になった紙の代金をお前が払うか?」

 石田三成は真顔で俺に言った。彼は本気そうだ。間違う度に代金を払わされたら堪ったものじゃない。今回の紙の枚数は大したことも無くても、今後もずっと代金を払うことになればそれなりの金額になるに違いない。

「冗談だ。紙の代金を払わされたくなければ書き直せ」

 石田三成は真顔で俺にもう一度差し出した。彼の命令に従うしかない。

「わかりました」

 俺は石田三成から訂正を受けた仕訳の紙を受け取り自分の机に戻ると書き直しはじめた。
 石田三成は俺が机に戻ると彼の仕事を再開した。彼は陰日向無く怠けず仕事に没頭する。彼は秀吉が好みそうな人物だな。秀吉の弟・秀長が亡くなると、彼が秀吉の元で権勢を欲しいままになる理由も頷ける。
 俺は石田三成に心の中で呪いの言葉を呟きながら仕訳を書き直した。

「石田治部少輔様、書き直しました」

 俺は石田三成に書き直した仕訳を確認してもらった。

「藤四郎、全て問題ない。帰っていいぞ。出仕は今日より半刻(一時間)前に来るようにしろ」

 石田三成の無慈悲な言葉に俺は完全に切れそうになった。

「どうした? 帰ってもいいぞ」

 怒りで静止した俺に石田三成は顔を上げると平静な表情で声をかけてきた。彼からは悪意は全く感じられない。これが素の石田三成なのだろう。

「石田治部少輔様、お疲れ様でした」

 俺は石田三成に頭を下げ部屋を退出した。全ての伝票を捌ききり俺はようやく石田三成から解放された。俺が聚楽第の軒下をとぼとぼと歩いていると東の空が白みはじめていた。俺は石田三成の下で働くことにくじけそうだ。 

 

第五話 御用商人

 俺は屋敷に帰宅すると半九郎とリクが起きて待っていた。二人とも俺のことを心配していた。殿様と言っても俺は十二歳の子供だからな。その俺が早朝に帰ってくれば心配もするよな。
 俺はリクに昨日より半刻(一時間)早く起こしてくれと頼み、そのまま寝所に向かった。すると既に布団が敷かれていた。俺は寝間着に着替える気力が湧かず、そのまま布団に突っ伏すように倒れ込んだ。そこで俺の意識は途絶えた。

「とのさま」

 俺を呼ぶ女の声が聞こえた。女の声には聞き覚えがある。下女のリクだ。でもリクに返事する気がしない。
 眠くて堪らない。もう少し眠りたい。さっき布団に入ったばかりじゃないか。

「殿様、起きてください」

 リクの声がまた聞こえた。静かに眠らせてくれよ。俺は叫びたくなったが、そんな気力は湧かず聞き流していた。

「殿様、もう時間です。起きてください」

 もう時間なのか? 今日は昨日より半刻(一時間)早く出仕しないといけない。上司の命令だから俺に拒否権はない。
 だが、眠たい。もう少しだけ眠りたい。

「殿様、起きてください。時間です」

 リクの声に焦りが感じられきた。

「殿様。殿様、時間です。殿様、時間ですよ。起きてください」

 リクは間髪入れずに俺に声をかけてきた。俺は五月蠅いリクの声に促され、寝ぼけた顔でゆっくり起き上がった。閉じられた障子戸が俺の視界に入った。その戸越しに人影が見えた。

「もう少し眠らせてくれ。疲れているんだ」

 俺は情けない弱々しい声で障子戸の向こうにいる人物に言った。

「殿様、申し訳ございません。でも、この時間に起こしてくれと殿様に命じられました」

 障子戸の向こうにいる人物はリクだと声で分かった。彼女は俺に謝りつつも俺に用件を伝えてきた。リクの話に俺は目を見開き慌てて跳ね起きた。

「リク、今は何時だ?」
「殿様、朝五つ(午前八時)です」

 五つ半(午前九時)までに出仕しないとまずい。石田三成が俺に何をしてくるか分かったものじゃない。俺の脳裏に石田三成の顔が思い浮かんだ。異常な要求を平然としてくる俺の上司だ。遅刻したら俺に何をしてくるか分かったものじゃない。
 俺はリクを残し寝所から飛び出すと走って井戸に向かった。俺は井戸に辿り着くと急いで水を汲んだ。そして、俺は威勢良く水が入った桶を持ち上げ一気に水を頭から被った。

「うぅう。う。う」

 俺は水の冷たさに身体を縮こませ寒さに震える身体を叱咤して母屋に向かった。

「殿様! 大丈夫ですか!?」

 リクが走って俺の元にやってきた。俺が慌てて出て行ったので心配になって追いかけてきたのだろう。

「リク。リク、着物を着る物をくれ」
「殿様、どうしてそんなことをしたんです」
「目を覚ますためだ。リク、身体を拭く物と換えの着物を用意してくれ。早く出仕しないといけない」

 俺は身体を震わせたどたどしい足取りで母屋に向かう。リクは俺のことを心配そうに見ながらも、俺の命令に従い母屋の方に足早に向かっていった。
 俺が母屋に辿り着くと半九郎が囲炉裏に火をつけていた。俺は火に吸い寄せられるように囲炉裏に近づいた。

「殿様、顔色が悪いですが大丈夫ですか?」
「半九郎、大丈夫だ」

 俺は言葉少なく囲炉裏に両手をかざし暖を取った。凍える俺の身体に火が放つ熱が染み渡ってくる。ああ生き返る。俺は表情を和らげ、人心地しているとリクが手拭いと着物を持ってきてくれた。それを俺はリクから受け取ると身体を拭き、その場でいそいそと着替えた。

「リク、半九郎。行ってくる」
「朝飯はどうされますか?」
「暇が無い」
「これを持っていってください。握り飯と水です」

 リクは俺に竹皮の包みと竹筒を差し出してきた。彼女の心遣いには感謝するが、悠長にそれを食べている暇はないだろう。だが、俺はリクに悪いと思いそれを受け取った。

「いってらっしゃいませ」

 リクと半九郎から送り出され、俺は屋敷を慌ただしく出て行った。聚楽第に付くまで俺は何も考えられなかった。ただ、一心不乱に走り続けた。こんな時に日頃の鍛錬の成果を披露することになるとは思わなかった。
 俺が聚楽第に到着すると案の定人気は少ない。少ないというより、ほぼ人影はない。時折、警邏の役人達が通り過ぎる位だ。俺は石田三成が俺に告げた出仕時間は正規の時間なのかと勘ぐってしまった。出仕の時間は昼四つ(午前十時)だったはずだ。義父がそう言っていた。しかし、昨日、俺が出仕した時、石田三成の部下達は既に仕事をしていた。違和感を感じていたが、石田三成は勤務時間前労働を強要しているのかもしれない。俺は石田三成への恨みを募らせながら歩く。その道すがら俺を行儀が悪いと思いつつ、歩きながらリクが作ってくれた握り飯をぺろりと平らげ、竹筒の水で喉の渇きを潤した。俺は右手で口を拭うと周囲を見回し急ぎ足で石田三成の執務部屋に向かった。



「藤四朗、早いな」

 俺が石田三成の執務部屋に到着すると、この部屋の主が俺に声をかけてきた。石田三成は俺の顔を一瞥すると自分の文机に視線を落とし筆を走らせていた。俺は呆けた目で石田三成のことを凝視した。この男はこの部屋で生活をしているんじゃないかと思った。

「小出様、おはようございます」

 俺は挨拶され条件反射で「おはようございます」と相手にいった。挨拶をしてきた相手を見ると中島だった。俺が部屋の中を見回すと俺を含めて三人しかない。

「小出様には感心させられました。明日は休みですから十分鋭気を養ってください」

 中島は俺を心底労るように声をかけてきた。

「彦右衛門、藤四朗。何をのんびりしている。さっさと仕事をはじめろ」
「申し訳ございませんでした」

 中島が石田三成に頭を下げ謝罪した。

「済みませんでした。今日は何をすればいいのでしょうか?」

 俺の問いに石田三成は書類部屋を指さした。今日も伝票整理をするのか。俺は気が重くなった。

「仕訳をすればいいのでしょうか?」
「当たり前のことを聞くな」

 石田三成は顔を上げ俺に冷たく言い放つと仕事を再開した。俺はとぼとぼと書類部屋に入り部屋の隅に積まれた伝票の束を掴み自分の机に移動した。仕訳作業は昨日より作業効率が上がっていた。その原因は書類部屋に行く頻度が減ったからだろう。
 昨日は俺の仕訳が正しいか確認するため、頻繁に書類部屋を運んで過去の帳簿に目を通すしていた。お陰で明朝まで仕事をする羽目になった。それも全て石田三成の所為である。
 俺が仕事をはじめて四半刻(三十分)立った頃、三成の部下達が出仕してきた。彼らは俺がいることに驚いた顔をしていたが、慌てて自分の机に着座し仕事をはじめだした。彼らが急に慌てた理由は石田三成が彼らを凝視していたからだ。何も言わず能面のような顔で彼らを見ていた。
 俺は石田三成の顔が怖くなり、彼に気づかれる前に仕事を再開した。

 俺が伝票の半分を仕訳し終えた頃、俺の腹がなった。だが、誰も反応しない。握り飯を食べたはずだが、あれだけでは足りなかったようだ。この時代は一日二食である。夕食まで我慢するしかない。

「藤四朗、どの位終わった?」

 腹を空かせる俺に石田三成が声をかけてきた。

「半分です」
「そうか。昨日より早いな。俺に付いてこい」

 石田三成は俺に声をかけると部屋の入り口に向かった。俺は彼に付いていった。
 俺は石田三成が昼飯を奢ってくれるのかと期待した。だが、彼が俺に昼飯を奢る人間とは思えず、俺は淡い期待をかき消した。

 石田三成に付いて行くと人気の無い部屋に案内された。俺と彼は対面する形で火鉢を間に挟み座った。勿論、彼が上座に座っている。

「お前の知行地について説明しておくことがある」

 石田三成は俺が座るなり間を置かず喋りだした。
 こいつは本当にせっかちだな。石田三成は俺の知行地について説明をはじめた。俺の知行地は表高五千石だが実高一万石あるということだ。そして、豊臣家の年貢は七公三民のため、俺の領地の年貢も据え置かれているらしい。
 俺は豊臣家の重税に驚いてしまった。

「年貢が七公三民は高くありませんか?」
「何を言っている。何処の大名も似たり寄ったりだ。徳川も毛利も同じだ。島津は八公二民だ」

 石田三成は俺を馬鹿にしたような目で見た。彼の発言に俺は驚愕した。歴史好きだったが年貢までは詳しくなかった。年貢は五公五民が基準で小田原北条氏の四公六民が特殊な事例と考えていた。しかし、実際の戦国時代は重税全盛時代であることを自覚させられた。

「お前は北条征伐に従軍しなければならない。そのためには人・物・金を集めるため元手が必要になる。この時期、年貢は既に領主に納められている」
「確か。先任の領主は年貢の半分を新領主に残すものですよね」

 石田三成は俺の指摘に頷いた。

「だが、その領主が滅ぼされた領主なら年貢はないだろうな」

 石田三成が真顔で俺に言うので心配になった。最近、摂津国で反乱を起こした大名がいたとは聞かない。でも、俺が知らないだけかもしれない。

「問題のある領地を殿下がお前に宛がう訳がないだろう。お前の知行地は豊臣家の直轄領だった土地だ」

 石田三成は憮然とした顔で俺を見た。

「私は何も考えていませんよ」

 俺は平静を装い誤魔化した。

「豊臣家に年貢が納められている。だから、豊臣家の倉から新領主であるお前に年貢を渡す」

 石田三成は俺を見て「理解したか」という目で見ている。

「石田治部少輔様、理解しました」
「年貢は七千石。その半分は三千五百石。これがお前の取り分になる。しかし、殿下が格別の計らいをしてくださった。お前に昨年の年貢を全て渡す」
「いいんですか」

 俺は喜色の声を上げた。

「殿下の命である。私がとやかくいうことではない。殿下に感謝し北条攻めに励むことだ。北条攻めではお前は私の与力と動くことになる。よろしく頼む」

 石田三成から聞き捨てならないことを聞いてしまった。俺は北条攻めでも石田三成と一緒に行動することになるのか。彼が俺の上官ということは忍城攻めに加わることになる。別名「浮き城」と呼ばれる忍城は関東七名城と呼ばれる堅城だ。戦国時代の名だたる武将達が攻め落とせなかった名城だ。上杉謙信も忍城を落とせなかった。俺は凄く頭が痛くなった。

「石田治部少輔様、初陣も経験していない若輩者ですがよろしくお願いします」

 俺は出来るだけ笑顔で石田三成に頭を下げた。彼は大仰に頷いた。この先のことが本当に心配になってきた。

「言い忘れるところであった。お前に渡すものがある」

 石田三成は綴じられた薄めの書類を懐から取り出し俺に差し出した。俺は書類を受け取り表紙を見ると軍役帳と書かれていた。俺は視線を上げ石田三成の顔を見た。

「それに(そなえ)の模範的な編成を書いておいた。それを見て軍役に必要なものを集めるといい。近々、お前の知行地の名主達が挨拶に来るはずだ。その時に人を出すように指示しておけ」

 (そなえ)とは一万石以上の大名が編成できる部隊の単位で、一万石の大名なら一つの備を編成できると言われている。俺は五千石だから何人か与力を付けて貰って、備を編成することになるのだろう。または石田三成の備に組み入れられるかだろう。後者の可能性が高い気がする。
 俺は軍役帳を開きページをめくる。数ページ読んだ俺は言葉を失ってしまった。俺の軍役は戦闘員と後方支援の非戦闘員を会わせ三百八十人もいる。表高五千石なのに何でこんなに多いんだ。

「石田治部少輔様、これは私の与力の者達の人数を加味した人数なのでしょうか?」

 俺はやんわりと石田三成に軍役のおかしな点について指摘した。

「その軍役はお前単独の割り当てだ」

 石田三成は表情を変えずに淡々と言った。

「私の石高なら半分の百五十位が適正かと思います」

 石田三成は俺を見て口元に笑みを浮かべた。

「お前の言う通りだ。だが、お前の知行地はその軍役に堪えうる領地だ。年貢を使いきる位の気持ちで軍役に臨め。これは殿下の命である」
「それは本当なのでしょうか?」

 俺は疑念の目を石田三成に向けた。すると石田三成は真顔で俺を直視し口を開いた。彼の瞳は絶対零度の冷たさだった。俺は内心で「何でそんな目で見られないといけない」と思いつつ口を噤み我慢した。

「藤四朗、殿下が何のためにお前に態々旨味のある知行を与えたと思う。お前を遊ばせるために与えた訳ではない。お前を見込んで北条攻めで手柄を立てさせるためだ。失態を犯せば減知(知行を減らす)になると覚悟しておくことだ」

 石田三成は感情の籠もらない顔で俺を見た。その顔は「拒否する権利はお前にない」と言っていた。

「殿下のご期待に添えるように頑張ります」
「その言葉は殿下に伝えておく。ところで軍役の準備をするために商人の伝手が必要になるが、お前はお抱えの御用商人が既に居るか?」
「いません」
「殿下からその辺りの世話もするように仰せつかっている。お前に豊臣家と縁のある御用商人を紹介しよう」
「どなたでしょうか?」
「津田宗及殿だ」
「堺の商人の方ですね」
「その通りだ。藤四朗、堺商人をあまり信じてはいけない。彼奴等とは一歩引いて付き合う方がお前のためだ。深く関わりすぎると身を滅ぼすことになる。いいな」

 石田三成は神妙な表情で俺の顔を凝視した。俺が頷くと「それでいい」と目で語り頷いた。

「津田宗及殿にはお前の年貢米の一部を売却するつもりでいる。その金で彼から必要なものを買えばいい。その軍役帳を見ながら自分なりに考え必要な物を揃えてみろ。分からないことがあれば私に聞け」
「石田治部少輔様、年貢はどの位売るつもりなのでしょうか?」
「年貢米の二割でいいだろう。今は米の値段が急騰している。良い値段で売れるはずだ」

 石田三成が経済に強い理由がよく分かった。普段から時事に気を配っているのだろう。俺も近江商人を一人位家臣に加えたい。近江国生まれの石田三成に口を聞いて貰うのが一番だろうが、これ以上関係を深くしたくないので止めておこう。

「よし、今から津田宗及殿に会いに行く。藤四朗、お前もついてこい」

 俺が石田三成のことを感心していると彼は俺に同行を促し部屋から出て行こうとした。

「津田宗及殿に会いに行く? 石田治部少輔様、堺に行くんでしょうか?」

 俺は未だ仕事が終わっていない。仕事を途中で放り出すことを許さない石田三成が堺に行くと言ったことに違和感を覚えた。石田三成は憮然とした表情で俺のことを見た。

「堺に行くわけがないだろう。聚楽第に呼びつけている」

 石田三成は「馬鹿め」と一瞥して部屋を出て行った。俺は彼の後ろ姿を睨みつけるが、俺は思い直して彼を追いかけた。何をしようと今の俺では損をするのは俺だからな。俺は胃が痛くなってきた。早く石田三成から解放されたい。



 石田三成に連れられ俺はある部屋に入った。そこには二人の男が座っていた。一人は老人。もう一人は中年。二人に共通することは品の良さそうな雰囲気を漂わせていることだ。彼らは俺と石田三成の姿を確認すると両手を畳みにつけ体勢を前に倒し深々とお辞儀をした。

「津田殿、お待たせした」

 石田三成は部屋に入るなり中で待つ人物に声をかけた。どちらが津田宗及なのだろうか。千利休と同じ茶人というのは知っているが年齢は知らない。俺は文化人にはあまり興味がないから詳しくない。

「石田様のお呼びとあれば何処へでも参らせていただきます」

 石田三成に声をかけられ老人が体勢を起こし微笑みながら喋りだした。それに会わせて隣の中年も体勢を起こした。
 俺が会話する二人を見ていると、津田宗及は石田三成の隣にいる俺に視線を向けてきた。

「津田宗及と申します。後ろに控えるは私の息子、津田宗凡です。堺で天王寺屋を営ませていただいております。以後、お見知りおきください」

 津田宗及は俺に頭を下げた。それに会わせ津田宗凡も頭を下げた。

「ご紹介いただけますか?」

 津田宗及は石田三成の顔を見た。すると石田三成は部屋の上座に進み腰を下ろした。俺は石田三成の左前に腰をかけた。

「津田殿、この者は小出藤四郎俊定という。私の与力だ」
「小出藤四郎俊定と申します。つい先日元服を終え関白殿下にお仕えすることになりました」

 石田三成が俺の紹介を終えると俺は津田宗及に名乗った。

「小出様は小出播磨守様のご縁者でございますか?」
「はい。私は小出播磨守の一子、小出小才次の養子です。元は木下の家の者で、実父は木下孫兵衛です」

 津田宗及は俺を見ながら眉を動かし驚きの様子だったが、直ぐに俺を興味深そうな顔で見た。

「噂は耳にしております」

 津田宗及は意味深な笑みを浮かべた。噂とは何の噂なのだ。俺は彼の言葉が気になり問いただそうと思った。

「噂とは?」
「津田殿。用件を済ませたい」

 俺が津田宗及の言葉が気になり聞き返すと、石田三成が会話に割り込んできた。彼の態度に俺は心の中で嘆息した。彼は俺の嘆息を気にする様子もなく話しを進めた。

「石田様、今日お呼びいただいた理由をお聞かせ願えますか?」
「津田殿、小出藤四郎の御用商人をお願いしたい」
「喜んでお引き受けさせていただきます。小出様、御用があれば私もしくは天王寺屋にお声掛けください」

 津田宗及は俺に笑顔で答えた。

「津田殿、よろしくお願いします」

 俺が津田宗及に頭を下げると石田が間髪入れず口を開いた。

「津田殿。早速で悪いが、明日にでも津田殿の使いの者を小出藤四郎の屋敷に寄越して欲しい。小出は戦の準備で買い付けたいものがあるのだ」
「かしこまりました。石田様、小出様の屋敷には息子を向かわせていただきます。小出様、息子にご入り用の物をご指示ください」
「それと小出の年貢米の売却をお願いしたい」
「売却される米はいかほどでございますか?」
「これに仔細を認めている」

 石田三成は懐から二枚に折り畳んだ紙を取り出し俺に差し出した。それを俺は受け取ると津田宗及に近づき差し出した。津田宗及は紙を受け取ると読み始めた。

「千四百石になる。米の受け渡しは今回は豊臣家の倉から出す」
「三千五百俵ですか。米は幾らでも売れますので喜んでお引き受けさせていただきます。手数料は百俵につき金二分になりますが、今回は無料にさせていただきます」

 津田宗及は笑顔で石田三成と俺を順に見て答えた。手数料をまけてくれることは正直な気持ち嬉しい。でも、損することは商人がするとも思えない。つい裏があるのでないかと勘ぐってしまう。

「米の値段が暴騰していると聞いた。津田殿、一俵幾らで引き取ってくれるのだ?」

 石田三成は意味深な笑みを浮かべ津田宗及に言った。

「石田様には勝てません。そうですね」

 津田宗及は姿勢を正し思案気な顔で考えだした。しばらくすると彼は考えがまとまったのか口を開いた。

「一俵辺り一両二分でいかがでしょう」
「それでは話にならんな」

 津田宗及は石田三成の言葉に苦笑しながら「負けました」と呟いた。

「一俵辺り一両三分でいかがでしょう」
「小出藤四郎は北条攻め後に大名になるだろう。大名にな」

 俺は石田三成の言葉に戸惑う。石田三成は二度「大名」と言った。今でも俺はある意味大名だ。ただ、石田三成の口振りは別の意味を持っているように感じた。その証拠に津田宗及は目を細めた。
 仮に秀吉が俺を正真正銘の大名にする気持ちがあっても、俺が北条征伐で失態を犯せば話は立ち消えになるに違いない。そうなった時、津田宗及が俺に対してどういう行動に出てくるか凄く心配だ。
 だいたい、予定の話を断定で語る石田三成に驚いてしまう。この男は何を考えているのだろう。

「石田様、その話は信用しても大丈夫でしょうか?」
「関白殿下のお言葉だ。これに勝る信用はあるまい」

 俺は石田三成と津田宗及を交互に見た。俺の知らない所で話が進んでいた。

「分かりました。一俵辺り二両で取引させていただきます」

 津田宗及は強く頷き、俺と石田三成の顔を交互に見て答えた。

「商談成立だ」

 石田三成は満足そうに頷いた。本当にこれで大丈夫なのか。津田宗及に空手形を切って後のことが怖くなってきた。俺は胃が痛くなってきた。 

 

第六話 忙しい休日

 今日は休みだ。昨日は日付が変わる前に帰ることができた。だが、屋敷に帰宅した時には既に日付が変わっていた。

「同僚と同じ時間に帰りたい」

 俺は誰もいない書斎で机に向かいながら呟いた。昨日も俺だけ石田三成と二人で残業だった。まだ、石田三成の部下になって二日目だが、これがこれからも続くと考えると憂鬱になる。
 石田三成は息抜きということを知らない。そして、それを他人にも押しつけてくるところがある。生真面目もあそこまで行くと悪癖と言える。

 今朝方に俺の知行地の名主が俺に挨拶しにやってきた。俺は名主達に北条征伐による軍役の話を彼らに伝え、足軽と武家奉公人を徴発する命令書を彼らに渡した。武家奉公人とは後方支援を行う者達のことだ。戦場では戦闘を行う者達だけなく、兵糧等の物資を運ぶ者達も必要になるらしい。これは石田三成から貰った軍役の資料に書かれていた。
 名主達は俺の申しつけに不服は口にしなかったが、彼らの表情は冴えなかった。彼らにしてみれば戦場に男手を取られることは歓迎することじゃないだろう。俺も戦場に行くなんて気が進まない。でも、行くしかない。
 やる気の無い名主達に飴を出すことにした。俺は軍役に積極的に協力した村の税率は六公四民に下げ、それに加え足軽・武家奉公人に乱暴取り(略奪行為)を禁止する代わりに戦後に一時金を支払うと条件を出した。給金の額は足軽には米二俵半、武家奉公人は米一俵と定めた。これは相場の年俸の半分に相当する。
 俺の提案に一部の名主達は表情を輝かせ乗り気になってきた。この話の半分は俺の北条征伐の成果次第によっては空手形になるかもしれない。その時には何か別のことで報いようと思う。
 名主達が屋敷を去ると俺はある人物に手紙を書いていた。昼から津田宗凡が来るという話なので早く書き上げる必要がある。手紙の宛先は興福寺宝蔵院の院主、胤舜(いんしゅん)だ。胤舜に人材を紹介してもらうためだ。

「人がいない。伝手がない」

 元服したての俺に人材を集める伝手は限られている。小出家と木下家をあたるくらいしかない。だが、それでは大した人材は手に入らないだろう。小出家と木下家はお世辞にも実力で大名になった訳じゃないと思う。秀吉の縁戚ということで引き立てられたと考えている。その証拠に大名にしては小身だからな。それに後世に伝えられるような武勇に優れた武士は家臣にいない。
 俺は北条征伐で秀吉の期待に応える必要がある。そうしないと俺は元服早々に失脚する可能性がある。そして、永遠に石田三成の部下になる可能性が高い。

「治部の部下。想像するだけで身震いする」

 俺は自分が斬首され三条河原に晒される未来を想像し身震いした。絶対に回避する。まずは石田三成から距離を取るために手柄を上げる必要がある。
 俺は考えことをしながら手紙を書いていたため文字を書き損じた。俺は書きかけの手紙を恨めしそうにしばらく凝視していた。

「書き直すか」

 俺は諦めて手紙を書き直すことにした。胤舜への手紙には俺が大名になったこと。それで人手が足りない窮状を切々と訴えた。胤舜とは半年の知り合いであるため、この手紙に答えてくれるか半信半疑である。でも、しないよりましだと思った。
 当初の予定より人材集めが難航しそうだ。あと二月もない。一ヶ月中には人材を集める必要がある。足軽と武家奉公人は知行地で徴発すればどうにでもなる。問題は侍だ。単純に計算して四十人近い侍を仕官させる必要がある。俺は叔父・秀清に国家老として俺の領地を管理して貰おうと思っていた。だから、それ以外で四十人かき集める必要がある。だが、単に侍を集めればいいというものじゃない。
 備の編成で騎馬隊に侍二十人が一番難しい。馬に乗れるだけで優れた技能と言える。かく言う俺は馬に乗れる。
 次に鉄砲組の配属させる鉄砲足軽と、それを指揮する鉄砲大将をどう揃えるか。最悪、弓組にしてしまえばと思うが弓の技能もありふれたものじゃない。しっかり足軽に弓の訓練をさせずに戦場投入など常識的にしないだろう。時間があれば何とかなったと思うが時間は残り少ない。それに比べ鉄砲なら熟練度の差はあるが、短い期間で見た目だけでも鉄砲組の体裁は整えることができるはずだ。
 旗組、長柄組、太鼓・貝、小荷駄は何とかなるだろう。軍監・目付は難しいところだが今は考えないでおこう。
 俺はぶつぶつと独り言を言いながら手紙を書いていた。最後に俺はある有名な言葉を書き記した。「唯才是挙」と書いた。これは三国志の英雄、曹操が人材を求める時に書いた言葉だ。漢籍を読める胤舜なら、俺の気持ちを理解できるはずだ。はっきりいって、今の俺は才能があればどんな出自の者でも雇う。

「殿様、天王寺屋の津田様が参っておられます」

 俺が手紙を書き終えた頃、リクが俺に襖越しに声をかけてきた。津田宗凡がやってきたのか。

「リク、奥座敷に通しておいてくれ。それと半九郎を呼んでくれ」

 リクは俺に頭を下げると去って行った。俺は胤舜宛の手紙を紙で包み封し、秀清宛の手紙を書いていると半九郎がやってきた。

「殿様、御用でしょうか?」
「半九郎、もう少し待っていてくれ」

 俺は手紙を書き終えるとそれを折り畳んだ。

「秀清叔父上のことは承知しているな」
「承知しております」
「この手紙を秀清叔父上に渡して目を通して貰ってくれ。それと、その時にこの文を一緒に渡して欲しい」
「かしこまりました」

 半九郎は俺から文を受け取ると立ち去った。その姿を俺を見届けると奥座敷に移動した。津田宗凡を待たせるはずだから、俺は急ぎ足で向かった。

「津田殿、お待たせして申し訳ありませんでした」

 俺が来ると津田宗凡が白湯を飲んでいた。彼の直ぐ後ろには数人の手代が控えていた。

「小出様、お気になさらずに。この時期はどこの武家も忙しいです」

 津田宗凡は愛想よく俺に挨拶した。

「小出様は御武家様らしくありませんね。商人相手にも謙虚な物言いを為されます。無礼な物言いをしてしまい申し訳ありませんでした」

 津田宗凡は慌てて俺に謝罪してきた。俺は何も気にしていないのだが。

「全然気にしていないです。人の目がある訳ではありませんから、津田殿のように気さくに話をしてもらえると嬉しいです。私はあまり肩苦しい空気は好きではありません」
「かしこまりました。では、ご注文をお聞かせ願えますか」

 俺は津田宗凡に戦に必要な物資の注文を出した。百五十人分の足軽用の貸具足・陣笠。軍馬。物資を運ぶ荷車と駄馬。旗。馬印。全ての品物に俺の考えた家紋を入れさせることにした。小出家の家紋は「丸に園部額紋」。小出本家の養子である俺は本来ならこの家紋を使うことが筋だろうなと思った。だが、俺はこの家紋が好きじゃない。だから、木下家の「沢瀉(おもだか)紋」を変形した「抱き沢瀉(おもだか)菱紋」を俺の定紋にしようと考えたのだ。
 俺は細かい注文に関する指示を出していく。津田宗凡の手代は俺の指示内容を紙に書いていた。その様子を津田宗凡は沈黙し聞いていたが徐に口を開いた。彼は俺に意見することを躊躇っている様子だったが、俺に意見しておかないといけないと強く思っているようだった。

「小出様、ご使用になる家紋は御家の家紋にされた方がいいかと」

 津田宗凡は俺に言いづらそうに言った。「抱き沢瀉菱紋」を俺の定紋としようと思ったがまずいのか。

「小出様の御家の家紋は『丸に園部額紋』と記憶しております」
「それは分かっています。津田殿、この家紋の方が格好いいと思ったのです」

 津田宗凡は俺の話を聞き、しばし沈黙し思案した後に口を開いた。俺は何か不味いことを言っただろうか。小出家の家紋はださい。折角だから格好良い家紋にしたい。俺の初陣を華々しく飾りたいのだ。

「理由なく御家の家紋を使用しない。これは武家において特別の意味があります」

 津田宗凡は俺に初耳なことを言ってきた。勝手に家紋を換えるとまずいのか。小出家なんて成り上がりの家だから、あまり小うるさいことは言わないと思ったのだがな。

「特別な意味ですか?」
「はい。小出様は他の武家に氏族から追放されたと思われてしまいます」
「え!?」

 家紋を好きに換えることがそんな大変な意味があるとは知らなかった。俺は言葉を失った。

「御家の定紋を換えたいのであれば、定紋に少し手を加えられては如何でしょうか?」

 俺が家紋をどうするか思案していると津田宗凡が助言してくれた。小出家の定紋を使うしかないと悩んでいた俺は彼の意見に耳を傾けた。

「手を加えるとは具体的にどうするのでしょうか?」
「小出様の御家の家紋は額を丸で囲んでいますから、その丸を変えては如何でしょうか? 鉄砲菱や隅切り鉄砲角などがあります」

 津田宗凡の提案に俺は返答に詰まった。彼の提案は額紋と調和しない。思いついたものを俺に言っているだけだろう。だが、どんな風に換えればいいかは理解できた。
 うーーん。
 悩む。
 うーーん。
 八角井筒にしよう。

「八角井筒にしようと思います」
「八角井筒ですか」

 津田宗凡は俺の考えを額紋に合わせて想像しているようだった。

「小出様、問題はないと思います」

 津田宗凡は笑顔で俺に答えた。

「津田殿、私は未だ未だ未熟者です。今後も足らない部分がありましたら助言してくださるとありがたいです」
「私でどれ程のお役に立てるか分かりませんが、できる限りのことをさせていただきます」

 俺が殊勝な態度で津田宗凡に頼むと、彼は少し驚いた表情に変わるが直ぐに笑顔で答えてきた。

「では、御貸具足等に入れる家紋は『八角井筒に園部額紋』でよろしいでしょうか?」
「それで問題ありません。津田殿、よろしくお願いいたします」
「急ぎ注文いたします。代金は米の売却代金から差し引きさせていただこうと思います。それでよろしかったでしょうか?」
「それで問題ありません」
「では、差額は一週間後位にお届けに上がります。商品につきましては一月後に届けさせていただきます」
「お願いします」

 軍役に必要な物を天王寺屋に注文し終えると、津田宗凡が俺の屋敷の奉公人の話をしてきた。俺は苦笑いした。俺の屋敷の奉公人は半九郎とリクの二人だ。二人とも下人であるため身なりはよろしくない。大身旗本である俺の屋敷の奉公人が下人二人ということは外聞が悪いに違いない。まだ、引越二日目であるから追々人を増やそうと思っていた。でも、性格の悪そうな奉公人は雇いたくない。半九郎とリクが気持ちよく働けるようにしてやりたい。

「小出様、これも何かの縁です。よろしければ若党と中間、それと侍女をご紹介させていただけますか? 身元は天王寺屋が保証させていただきます」

 俺は津田宗凡の提案に表情を綻ばせる。

「津田殿、よろしいのですか?」
「はい。今後とも小出様とは末永くお付き合いしたいと考えております。この程度のことでよろしければお手伝いさせていただきたく思います」

 津田宗凡は友好的な様子で俺に微かに微笑んだ。折角の申し出だから俺は受けることにした。

「津田殿、奉公人を増やしたいと思っていたので本当に助かります。不躾な頼みをしてもよろしいでしょうか?」
「乗りかかった船です。私で出来ることならお力になりましょう」
「実は北条征伐にあたり侍を募集しています。それで当家に仕官してもいいという人物をご紹介いただけませんか?」
「どのような人物を求めておいでなのですか?」
「出自は問いません。私は才能重視です。だから、戦働きを期待できる者をご紹介いただきたいと思っています」
「随分と門戸が広いのですね」

 津田宗凡は愉快そうに微笑んだ。

「私は身分と人の能力は比例しないと考えています。例え織田や豊臣と対立した家の者や家臣の者であっても、私の元で働きたいというなら才能重視で雇います」
「因縁のある者達を雇うと裏切る可能性があるかもしれません」
「裏切られたのなら私の器量がそこまでだったということです」

 俺の返答に津田宗凡は感心した様子で頷いていた。

「かしこまりました。この時節であれば、大阪や京に陣借りをしようと諸国から浪人が集まっていると思います。見込みのありそうな人物を見つけ小出様にご紹介させていただきます」
「よろしくお願いいたします」

 俺の頼みを快諾してくれた津田宗凡に俺は頭を下げた。その後、津田宗凡は早々と帰っていた。俺は奥座敷から軒下の廊下に移動して外の景色を見た。まだ、日は高い。

「義父の所に挨拶をしておくとするか。引越では色々と世話になったしな」

 俺は引越の手伝いの礼を義父に伝えるために義父の屋敷に向かうことにした。
 義父の屋敷に向かう道すがら半九郎と出会った。その時、半九郎から秀清に手紙を渡すことができたと報告を受けた。俺が義父の屋敷に到着すると、侍女に案内され奥座敷に通されしばらく待たされた。その間、俺に白湯の一つも出しに来ない。本当に俺は歓迎されていないようだな。
 半刻(一時間)経過した頃、義父が姿を現した。
 嫌がらせのように待たせ、わざとらしい。
 俺は義父に呆れながらも平静を装い平伏した。俺の方が義父より大身だが、こんな男でも義父だからな。それに引越の礼を言い来たのだからわざわざ波風を立てる必要もない。

「俊定、よく参った」

 義父は愛想のない声音で俺に声をかけてきた。俺は顔を上げ姿勢を正し義父に向き直った。義父は俺に対して不愉快そうな顔をしていた。俺の知行の件は既に知っているのだろう。この屋敷から俺が出る日、俺に対して久方振りに愛想良く接していたのが嘘のようだ。
 義父の反応は攻めるつもりはない。そんなものだろうと思っている。でも、義父も実子、吉英が生まれるまでは俺のことを可愛がってくれていた。あの頃が嘘のようだ。俺の義弟である吉英は元服後の名前で、今の彼は万作と名乗っている。

「父上、祝着そうで何よりでございます。引越の手配とご高配を賜り、厚くお礼申し上げます」

 俺は引越の手配と米や味噌など生活必需品を持たせてくれたことへの感謝の言葉を述べた。

「俊定、親として当然のことをしただけのことだ。それで今日この屋敷に参った用向きは何だ?」

 義父は単刀直入に俺に尋ねてきた。一応、この屋敷は俺の実家になるんだがな。義父の棘のある物言いを俺は聞き流し笑顔で義父を見た。

「私はただ父上に御礼を申し上げに参っただけです」
「そうか」

 義父は俺の発言に拍子抜けした様子だった。俺に人を融通してくれないかと頼まれると考えていたのかもしれない。この様子だと快く人を融通してくれそうにないな。一応、粉だけ振っておくとするか。話の流れ次第では人材紹介を頼むとしよう。

「関白殿下から北条攻めへ参加するように厳命を受けました。一度はお断りしたのですが、初陣に良い機会と言われまして、有り難くお話を受けることにしました」
「ほう。お前も北条攻めに参加するのか」

 義父は気のない返事をしてきた。この様子からして、既に秀吉から義父に伝えられているに違いない。義父は感情の起伏を感じさせず、全く驚いた素振りがない。

「関白殿下は木下家と小出家から人材を募れと命ぜられました」

 俺の発言に義父は表情を途端に憮然とした。義父は腹芸が出来ないようだな。お陰で分かりやすい。俺は心の中で苦笑してしまった。

「関白殿下はそう仰ったのか?」

 義父は不満気な口調で俺に言った。

「はい。元服したての私に伝手は限られるとお考えになって仰った言葉だと思います」

 俺は淡々と義父に告げた。義父としては秀吉から告げられた以上、無視はできない。多分、俺に告げられるまで無視を通すつもりだったのだろう。浅はかな考えだ。生憎と俺は嫌われている相手でも必要なら頭も下げる。子供じゃないんだから。義父に呆れながらもそれを態度に出さない。

「父上、急な頼み迷惑なことと思いますが、人を融通してもらえますか?」

 俺は義父に予防線を引いておいた。これで俺の頼みを拒否したら俺に対して「迷惑だ」と言っていることと同義になる。そして、このことは当然に秀吉の耳にも入ってしまう。浅慮な義父でも理解できるだろう。その証拠に表情を顰め俺のことを見ていた。

「俊定。何人欲しいのだ」
「そうですね」

 俺は義父の態度に心怯むことなく思案した表情になった。秀清を入れて五人位でいいだろう。あまり多いと将来的には俺の家臣団の不安要素になるかもしれない。最悪のことを考えて粛正しやすい人数がいい。

「十五人お願いできませんか?」

 俺は期待する人数の三倍を要求した。義父は俺の要求に眉間に皺を寄せた。

「十五人だと。そんな人数を出せん」

 義父は憮然と言い放った。小出家の暇をしている五男・六男を集めれば、その位の人数なら融通できるはずだ。でも、俺に十五人も人を渡したくないのだろう。俺に人を渡しすぎて、俺が北条征伐功績を挙げられては堪らないと考えているのかもしれない。
 いや違うな。
 俺への嫌がらせの意味合いが強そうだ。流石の義父も初陣の俺に脅威を抱くとは思えない。自分より多い知行を元服するなり与えられた俺のことが気にくわないのだろう。

「では十二人でお願いできませんか?」
「無理だな」

 義父は即答した。本当に狭量な男だな。

「では十人でお願いできませんか?」
「その位なら出してやろう」

 義父は大仰に俺に言った。一々偉そうに言う義父に怒りを覚えたが、人を出してもらうためと怒りを押し殺し平静を保った。義父から融通してもらう家臣の大半は戦場での働きなんて期待していないが、軍役の人数を満たすための数合わせには必要だ。
 我慢だ。
 我慢だ。
 俺は自分に言い聞かせた。

「父上、感謝いたします」
「人の希望はあるか?」

 俺が底心低頭で義父に応対していると、義父は気分良さそうにしていた。

「人を融通していただけるだけで感謝いたします」
「俊定、遠慮無く言え」

 義父の様子を見て、俺は後日にまた秀清を家臣に欲しいと頼むつもりだったが考えを改めた。この空気なら頼めるかもしれない。

「では、秀清叔父上をお願いできませんでしょうか?」
「秀清だと!? あれで良いのか?」

 義父は拍子抜けした様子だった。だが、義父は直ぐに思案気な表情に変わった。

「秀清をやるとなれば十人も人はやれんな」

 義父はわざとらしく思案気な顔をした後に陰険な表情を浮かべた。義父は俺によほど人をやりたくないようだ。態度から滲み出ている。養子とはいえ我が子に見せる顔じゃないな。俺は冷めた心で義父を見た。

「そうですか」

 俺は一旦引き下がった。その様子を見る義父は愉快そうだった。義父の様子を見た俺はわざと困った表情で思案しているように演技した。

「秀清叔父上を含めた場合、どの程度の人数を融通していただけますか?」

 俺は出来るだけ悩む素振りをした後に義父に声をかけた。

「そうだな。秀清を含め五人か」

 義父は勿体ぶった態度で俺の要求の半分の人数を掲示してきた。俺は義父の答えを聞き悩んだ素振りで沈黙した。義父は俺の返答を待っていた。あんまり渋っても俺が秀清に執着していると思われても困るしな。

「父上、それで構いません。秀清叔父上を含め五人でお願いします」
「分かった。秀清には申し伝えておく。残りの四人は私が決めておく」

 義父は大仰に俺に言った。その表情は満足している様子だった。本当に俺に人をやりたくないようだ。この様子なら俺の元に間者を紛れ込ませるような真似はしないだろう。
 こうして俺の慌ただしい一日が終わった。 

 

第七話 叙任

 俺が秀吉に仕官し、石田三成の下で働くようになって一ヶ月が経過した。この間に大谷吉継と会う機会があった。大谷吉継は俺と同じく石田三成の下で働いている。当然ながら俺より大谷吉継の方が知行も立場も高い。大谷吉継の人柄は裏表はなさそうな人物だ。裏表がないから石田三成に好まれているかもしれない。だが性格は石田三成と天と地ほどの差がある。一言で言うと大谷吉継は人が出来ている。
 その大谷吉継は俺の目の前にいる。奥の方には秀吉と石田三成もいる。ここは俺が聚楽第に出仕初日に秀吉と謁見した場所だ。北条攻めまでもう一月もない。その上、石田三成に毎日馬車馬のように扱き使われ、俺にとって貴重な休日は秀吉に呼び出され潰れてしまった。
 この面子は何なんだ。俺はいつの間にか吏僚派に組み入れられている気がしてならない。この一ヶ月は事務仕事が多い。将来の五奉行の面子と顔を会わせることが多いしな。

「卯之助、よく来た」

 秀吉は俺に対して気さくに声をかけてきた。その表情は穏やかで俺への友好的な感情が溢れていた。

「殿下のお召しとあれば何時いかなる時でもまかり越す所存でございます」
「卯之助、そう堅苦しくするでない」

 秀吉は口振りとは余所に表情は満足そうだった。

「殿下のお言葉有り難く存じます。ですが、叔父と甥とはいえ、君臣の序は守らねばならないと考えております」

 俺は秀吉の言葉を真に受けず、彼に謝るように頭を軽く下げた。

「佐吉。紀之介。私の甥は生真面目でいかんな。辰之助と大違いだ」

 秀吉は愉快そうに笑顔を浮かべ、石田三成と大谷吉継に声をかけた。秀吉が「辰之助」と呼ぶ人物は俺の実弟、小早川秀秋、のことだ。この頃は豊臣秀俊と名乗っているはずだ。豊臣家の家臣である俺と違い、豊臣秀俊は豊臣連枝の立場にある。豊臣連枝の立場を羨ましいとは思わない。秀吉の子、(ひろい)こと秀頼、が生まれれば盤面はひっくり返るからな。それに下手したら命が危うい。

「殿下、藤四朗殿は歳は若くとも優秀です。必ず豊臣家を支える人物に成長することでしょう」

 大谷吉継は秀吉に意見すると穏やかな顔で俺の方を向いた。その言葉に秀吉は嬉しそうに頷いた。秀吉の俺に対する評価は悪くないようだ。

「殿下、藤四朗に下賜されるものがございましたはず」

 石田三成は澄ました表情で秀吉に声をかけた。その様子を大谷吉継は困った表情で眺めていたが何も言わない。石田三成に声をかけられた秀吉は思い出したように頷いた。秀吉は目で石田三成に合図をした。そして、石田三成から大谷吉継に同じく合図を出す。それを受け大谷吉継は部屋を出ていった。
 俺は秀吉に何も言わず大谷吉継が戻るのを待った。秀吉は俺に何をくれるのだろうか。そう言えば具足をくれる話だったが、まだ秀吉から貰っていない。仕事と軍役の準備に追われてついつい忘れていた。
 しばらくすると大谷吉継が小姓達を連れだって具足を運び込んできた。小姓達は運び終えるとそそくさと部屋を退出していった。具足は古風な当世具足で黄糸と黒漆塗で塗装した鉄で製作されているようだった。兜は星形兜に三鍬形の兜飾りがついている。鎧の大袖・籠手・手甲には金塗の、木下家の紋、沢瀉(おもだか)紋が付いている。
 俺は小出家の養子だから園部額紋じゃないのか。ふんだんに沢瀉紋が使用されているんだが、でも秀吉からの下賜品だから気兼ねすることはないな。屋敷に帰ったら秀清にでも聞くことにしよう。

「卯之介、それはお前の具足だ。北条攻めでこれを身につけよ。紀之介、卯之介に陣羽織を着せてやれ」

 秀吉に言われた大谷吉継は真新しい陣羽織を持って俺に近づくと、その陣羽織の背を俺に見せた。それは朱の生地に白糸で五七桐が刺繍されていた。
 俺は目を向いてしばし凝視してしまった。五七桐は豊臣家が後陽成天皇から下賜された紋である。俺の陣羽織にこの紋を使用させる意図が理解できない。分かることは俺がこの陣羽織を身につけて戦場に出れば、秀吉縁者であると示すことになる。

「卯之介、儂はお前に期待しておる」

 秀吉は神妙な顔で俺に言った。俺は大谷吉継に促され陣羽織に袖を通した。俺は陣羽織の着心地を吟味することなく、秀吉に対して平伏した。

「殿下、過分の計らい御礼申し上げます」

 俺が体を起こすと秀吉は陣羽織を身につけた俺のことを凝視した。

「少し大きいかもしれんな。卯之介、その陣羽織と具足はお前の身体に合うように後で調整するがよい。紀之介、後のことは頼むぞ」

 秀吉は大谷吉継に声をかけた。大谷吉継は秀吉足して頭を下げる。それを一瞥した秀吉は俺に視線を戻した。

「卯之介、もう一つお前に与える物がある。佐吉」

 秀吉は石田三成に視線をやり目配せした。すると石田三成は秀吉に頭を下げた後、立ち上がり俺と少し距離を置いて座った。俺は石田三成に対して平伏した。

「関白太政大臣豊臣朝臣秀吉の名において命じる。小出藤四朗俊定。右の者に豊臣姓を下賜し、従五位下相模守に叙任するものとする。謹んで受けよ」

 俺は官職を聞き頭が困惑してしまった。
 秀吉は何を言っているんだ。相模守は「相州太守」を自称する北条家に喧嘩を売っているよな。これから戦争する相手だから気にすることはないと言えばそれまでだが。戦場で俺の官途が北条側に漏れて命を狙われないかと心配になってきた。

「殿下、御礼申し上げます」

 俺は平伏し顔を上げると秀吉は俺に大仰に頷いた。

「殿下、官位をいただき感謝の極みでございます。ですが、『相模守』の官職は私には少々荷が重いかと」

 俺はやんわりと秀吉に官職の辞退を申し出た。位階が重要だからこれだけ貰っておけば問題ない。この時期に相模守は絶対にまずい。戦場に的になりに行くようなものだ。

「相模守が不服か? では左京大夫にするか?」
「不服など滅相もございません。この時勢に相模守は荷が重いと思っただけです」

 俺は勢いよく平伏し秀吉に弁明した。左京大夫に叙任する話は冗談だろう。左京大夫は従四位下相当の官職。俺がもらった従五位下の四階級上の官位だ。仮に俺が左京大夫になれば石田三成を官位の上では超えることになる。
 部下が上司より官位が上なんてありえないだろう。だから、これは冗談に違いない。秀吉は俺に相模守に叙任することで北条側を刺激するつもりなのかもしれない。初陣を迎える豊臣縁者の若武者に相模守を叙任する。だが、俺が簡単に殺されるようなら逆効果になる。それが分からない秀吉じゃないはずだ。
 秀吉の凄さはその政治力と外交力だ。徳川家康すら秀吉の政治力には屈服せざるを得なかった。だが、その秀吉にすら抹殺できなかった徳川家康は恐ろしい存在といえる。話が逸れたが秀吉はある程度俺にお膳立てしてくれるだろう。だが、俺の知行だと俺につけれる与力はどうしても小粒になってしまうだろうな。

「卯之介は北条を恐れるか」
「殿下、百年に渡り関八州に覇を唱えた北条を一目置かない者などいましょうか?」

 俺は敢えて言葉に出さず言葉を濁した。俺の言葉尻に秀吉は口角を上げ狡猾な笑みを浮かべた。

「それならばこそ。北条を潰せば豊臣の威勢は天下に轟くであろう。お前は黙って儂の言う通りにしていればいい」

 秀吉の表情と口振りに違和感を感じた。秀吉は北条家を滅ぼしたく堪らない様子に見えた。それも秀吉自身の命令に逆らったから北条を潰すではなく、北条を潰すことが目的のように見えてきた。北条家は当初は秀吉に恭順姿勢を示していた。だからこそ真田と係争中の沼田郡の問題を秀吉の手に委ねたはずだ。だが、秀吉の様子を見ると名胡桃城を北条側が奪ったというのには裏がある気がしてきた。

「卯之介、何を考えている」

 秀吉は鋭い目で俺のことを見ていた。

「いいえ。何も考えておりません。相模守の重責に心震えておりました」

 秀吉は俺の返答を聞くと鼻で笑った。

「佐吉、卯之介に北条攻めに至った仔細を話してやれ。包み隠さずにな」

 秀吉の言葉に一瞬石田三成は驚くも直ぐに平静を装った。

「殿下、よろしいのですか?」
「構わん。お前達も卯之介のことを評価している」

 石田三成は秀吉に対して「かしこまりました」と頭を下げると、石田三成は語り出した。秀吉は真田と北条の沼田領の帰属問題に裁定を下さした。この時、秀吉は北条に沼田城と名胡桃城を譲渡したのだ。そして、真田は引き渡した沼田領で卑劣な工作を行った。百姓を一人残らず移住させたり、名胡桃城に兵を入れ領地を北条側に渡さないようにした。
 俺は石田三成の話を聞いて引いてしまった。北条に名胡桃城を与えておきながら、後になって北条が名胡桃城を強奪したと因縁をつけたことが真相のようだ。北条は秀吉に嵌められたのだ。俺が感じた違和感はこれだったのか。

「卯之介、何故に儂が北条を潰したいか分かるか?」
「徳川と婚姻関係を築き同盟関係にある北条の存在は容認出来ないです。北条と徳川が組めば豊臣家の脅威となります。そして、北条を潰し徳川の力を削ぎ、その徳川に北条の領地を治めさせるつもりでしょうか」

 秀吉は満足そうに口元に笑みを浮かべた。石田三成と大谷吉継は驚いた顔で俺のことを見ていた。

「卯之介、何故そう思う」
「小牧・長久手の戦いで殿下を野戦で破った徳川家康は天下にその武名を轟かせたはずです。だからこそ殿下は徳川家康に妹と母を渡してまで臣下に付けざる終えない状況に追い込まれてしまいました。徳川家康は豊臣政権にとって脅威になります。だから、豊臣家の本拠である畿内から遠ざけないといけません。ですが百三十万石の大封を領する徳川を転封させるほどの広い領地はありません。ないなら作るしかありません」

 俺は歴史を知っている。だから、秀吉と石田三成の話を聞いて、秀吉の考えが見えてきた。だが、俺は内心で秀吉の卑劣なやり方に晩年の家康が豊臣に対して行った行為に相通じるものを感じた。天下人とは汚い手も辞さない者でなければ立つことができない高みなのかと思った。俺は心にその言葉をしまい感情を表に出さず冷静な表情で秀吉を見た。

「卯之介、北条攻めが終われば、お前に伊豆一国をやろう。手柄次第では更に加増してやる」

 秀吉は俺に北条滅亡後の話をはじめた。彼は北条を滅ぼせると確信しているのだろう。確かに北条が頼みとする徳川家康と伊達政宗が北条を裏切る以上、北条に勝ち目はない。北条が何をしようと、秀吉は北条を滅ぼす方針を変更する気がない。だが、徳川家康に北条の領地を与えることは危険すぎる。徳川家康は関東を治めきるからだ。俺が伊豆国を領することになれば、徳川の領地と接することになる。立ち回りを一つでも間違えると徳川家康にすり潰されることになる。

「殿下、ありがとうございます!」

 俺は不安を打ち消すように大きな声で秀吉に礼を述べた。秀吉は俺をどう扱うつもりなのかが気になった。もし、徳川家康と対立する立場に据えられると俺は破滅する。今でも俺は吏僚派の立ち位置にいる感じがする。この時期に豊臣系大名が武断派と吏僚派と明確に分かれている訳じゃない。だが石田三成と大谷吉継に近い俺はこのまま時間が推移すると間違いなく吏僚派だろう。
 やばすぎる。胃が痛くなってきた。俺は秀吉の面前であるから胃の痛みを我慢した。

「卯之介、分かっているだろうが、先程まで話した内容は他言無用であるぞ。他言すれば死ぬことになると心得よ。よいな」

 秀吉は威圧的に俺に念を押した。話せる内容じゃない。でも、この謀には他にも関係者がいそうな気がする。時期的に上杉も関係しているかもしれない。これが戦国大名というものなのかもしれないな。

「心得ております。誓って誰にも漏らしません」

 俺は表情を引き締め秀吉に答えた。その様子を見て秀吉は俺に対して頷いた。

「藤四朗、難しい話はこれで終わりだ。お前の与力が決まった。紀之介、連れてこい」

 秀吉が俺につけた与力は三人だった。彼らは俺に順に挨拶した。
 彼ら三人は、郡宗保(知行三千石)、石川頼明(知行千石)、野々村吉保(知行五百石)、順に名乗った。
 俺は三人に名乗りを受けても誰か分からなかった。郡宗保(こおりむねやす)と石川頼明の歳は四十半ば、野々村吉保は二十代後半に見えた。郡宗保は馬廻衆で騎馬隊の運用は慣れているそうだ。そして、野々村吉保は若いが腕が立つらしい。石川頼明は小姓と聞いた。石川頼明は小姓の割に知行千石とおかしな点がある。
 折角、秀吉に与力をつけてもらったが微妙な面子だな。
 これなら俺が家臣した面子の方が余程役に立ちそうな気がすると心中で独白した。

「卯之介、そう言えば面白い奴らを家臣にしたそうだな」

 俺は素っ頓狂な顔で秀吉のことを見た。

「面白い家臣ですか?」
「そうだ。藤林長門守。それと岩室坊の者達のことだ」

 俺は表情を強張らせた。藤林長門守、彼は藤林正保という。彼は伊賀上忍三家が一つ藤林家当主だ。秀吉の指摘した「岩室坊の者達」とは根来衆の生き残り岩室坊勢祐とその一党のことだ。秀吉が藤林正保と岩室坊勢祐を俺が家臣にしたことを知っているのか分からなかった。彼らが俺に仕官した切欠は興福寺宝蔵院の院主、胤舜(いんしゅん)の紹介だ。仕官までに色々とあったが何とか家臣にできた。
 秀吉と根来衆の因縁は知っている。根来衆は秀吉に逆らい滅ぼされた。それでも岩室坊勢祐達は俺に仕官してくれた。だから、岩室坊勢祐と俺に仕えてくれた岩室坊の者達を手放すつもりはない。
 俺は「唯才是挙」と胤舜に明言した。この言葉を曲げては人を紹介してくれた胤舜の顔を潰すことになってしまう。秀吉のことは恐ろしいがここで引くことはできない。ここで引くと胤舜からもう人を紹介してもらえなくなるだろう。それに秀吉が難色を示すとは限らない。

「殿下、両名ともに私に快く仕官してくれました」
「藤林はよかろう。だが」

 秀吉は言葉を切り俺を睨み付けた。俺を射殺すような目つきだ。

「儂に逆らった根来の者達を雇うとは何事だ! それも岩室坊と言えば、最後まで儂に逆らった奴らではないか!」

 秀吉は声を荒げ俺に対して怒鳴りつけた。石田三成も大谷吉継も秀吉の様子に驚き身体を強張らせた。俺も心臓を握り潰されたように呼吸が苦しい。だが、俺は気を張って秀吉から視線を逸らさず真正面から秀吉の顔を見た。

「殿下、根来衆は小牧・長久手の戦いで殿下に反逆しました。ですが、それは過去ではございませんか? 武家の者は親子で敵味方に分かれ殺し合うこともあれば、不倶戴天の仲であろうと過去の恩讐を捨てともに轡を並べ闘うこともあります。力ある者なら家臣にすべきです」
「根来の者達がお前の父、家定を殺しても同じことを言えるか?」

 秀吉は睨めつけるような目で俺のことを見ていた。だが、その目は俺を探るような目つきだった。
 俺は自問した。俺の家族が根来衆に殺されたら。答えは許せないだろう。豊臣家の家臣には根来衆に殺された者達もいるだろう。だが、この時代においてそれは日常茶飯事だ。秀吉だって明智光秀の旧臣を召し抱えている。一々私情で皆殺しにしていたら、何時までたっても俺の勢力は大きくならない。そうなれば俺は史実通りに死ぬだろう。俺は生憎と死ぬつもりはない。

「恨みは抱きません。その者を召し抱えます」

 池田輝政は自分の父を殺した相手を憎むどころか、その主君である徳川家康に加増するように嘆願した。池田輝政の行動が正しいか分からないがこの状況では良い先例だと言える。この史実はもっと先の未来の出来事だから先例と言うのは言葉の誤りだな。

「戦場で死ぬは武士の本懐です。父が武士として死んだのなら、私は遺恨を抱かず父の死を悼むことが父の死への手向けとなりましょう」

 俺は神妙な表情で秀吉のことを見た。その状況に陥った時、こんなことが言えるか分からない。だが、俺が武士と出世するにはそうしなければならないだろうと思う。徳川家康だって一度は殺されかけた甲斐武田旧臣の多くを家臣として迎えている。俺の考えは間違えていないだろう。

「卯之介、良い顔をしおる」

 秀吉の顔からは嘘のように怒りは成りを潜めていた。秀吉は俺を試したのだろうか。あまり気持ちがいいものでない。

「岩室坊の者達の件は好きにするがいい」
「殿下、ありがとうございます!」

 俺は秀吉から許可を得て感謝の言葉を口にした。秀吉は慇懃に頷き口髭を弄っていた。

「佐吉、卯之介はやりおると思わないか。伝手も禄になく家臣を集めている。儂は実家と小出家頼みと思っておったから余計に驚いておる。それにお前に扱き使われてるおるからな」

 秀吉は苦笑しながら石田三成を見た。彼の表情は上機嫌そうだった。石田三成は澄ました表情で「仰る通りにございます」と答えた。その淡泊な反応に秀吉は溜息をつき俺に視線を向けてきた。

「卯之介、できるだけ家臣を多く雇っておけ。何かあった時に兵が足らないなど目も当てられんからな」
「肝に銘じておきます」

 秀吉は大仰に俺に対して頷いた。今、俺に仕官した者達は小出秀清、藤林正保、岩室坊勢祐を含めて六人いる。この六人が仕えてくれたおかげで陪臣を含めて軍役の条件を満たすことができている。だが、北条攻め後に伊豆一国をくれるならもっと家臣を増やしておいた方がいいだろう。 

 

第八話 武田旧臣の仕官

 俺は秀吉から相模守の官職に任じられて以来、陰鬱な毎日を過ごしていた。
 俺は武将だから前線で激しい斬りあいをする必要はない。だが、自分の身は自分である程度守れないとまずいと駿河前左大将思っている。北条側には相州乱破の流れを汲む風魔衆を従えている。
 風魔衆は諜報活動に長じているというより、敵陣の攪乱を得意とする。そのため荒事に長けている。
 十二歳の俺の体躯で剣の稽古を頑張っても、大人の侍相手に五分の戦いをすることは無理だ。もし、俺が戦場で孤立した状況で敵に襲撃された場合、それを撃退することは難しい。
 後半月位で俺のどう足掻こうと剣術の技量が激変するとは思っていない。だが、今後のことを考えれば、しっかり鍛錬をしておく必要がある。調度良く俺のところにおあつらえつきの人間が仕官してくれた。
 胤舜様様だな。
 今の俺の伝手は大和国興福寺くらいしかない。それも細い糸だ。これを機会にもっと深く交流した方がいいかもしれない。
 胤舜は柳生宗章と柳生宗矩を紹介してくれた。二人は大和国の柳生庄の生まれだ。大和国といえば俺の叔父、豊臣秀長、の領地になる。柳生家は豊臣秀長が陣頭指揮を執る検地で不正確な石高の申告したために柳生庄を没収され没落した。生活に困窮する柳生家を見かねた胤舜が柳生家に仕官の話を持って行ったらしい。
 柳生宗矩から聞いた話だが、胤舜は柳生家当主である柳生宗厳と武芸を通じて親しい関係にあるらしい。柳生宗厳は柳生石舟斎の名乗りのほうが有名で名の知れた剣豪である。そして、柳生宗章と柳生宗矩の父でもある。その二人は元々北条征伐で陣借りをするつもりだったらしく、俺の話は渡りに船だったようだ。
 ただ、柳生宗章は性格が気難しく「陣借りするつもりだったが、修行中の身なので仕官はしない」と言い出した。歴史でも徳川家康からの仕官の話を蹴った位だし剛毅な性格なのだと思う。そんな彼が何で俺の弟である小早川秀秋に仕官したのかが理解できない。でも、俺の元に食客として身を寄せているため歴史通りになるか分からない。
 俺は二人とも手放すつもりはない。気難しい柳生宗章には俺の護衛役を頼むことで話をつけているから、しばらくは俺の元にいると思う。その間に仕官してもらえるように頑張ろう。

「殿、鍛錬中に物思いにふけるとは何事です!」

 柳生宗矩が厳しい表情で俺に叱咤してきた。そう言えば今は柳生宗矩に剣の稽古をつけてもらっていたのだった。最近、悩み事が多くて考え込むことが多い。
 こんなところを刺客に襲われたら確実に死にことになるな。俺は自分の頬を両手で叩き気分を切り替えた。

「又右衛門、すまない。仕事が忙しくて考え込んでしまった」
「その隙が命取りになります。戦場で相手は殿の都合に合わせてはくれません」

 柳生宗矩は俺の弁明を払いのけて厳しい口調で注意してきた。彼の言うことは最もだな。
 稽古中だから問題ないが戦場で考え込んでいるところを襲われたら間違いなく死ぬ。

「肝に銘じておく」

 俺は神妙な気持ちで柳生宗矩に頷き返事した。柳生宗矩が俺の家臣になる時に「お前と私は君臣の関係だが問題があると思う部分は気兼ねせず注意してくれ」と頼んでいた。お陰で自分では気づかない点を知ることができ彼には感謝している。
 対して柳生宗章は護衛役として俺の稽古を離れて見ている。相変わらず仏頂面で何を考えているか分からない。ただ、俺の護衛役という役目は理解しているのか、つかず離れず俺の側近くにいる。

「五郎右衛門、たまには剣の稽古をしてくれないか?」

 俺は徐に柳生宗章に声をかけた。柳生宗章は動ずることなく「拙者は修行中の身。人に剣を指南する器量はござらん」と短く答えた。予想した通りの返事だった。何度か折りを見て頼んでみているがこんな感じで相手にされない。俺みたいな剣習いたての小僧は相手にできないんだろう。
 しかし、柳生宗章は何を考えているのかわからない。熊のようなでかい図体で他者を威圧するような雰囲気をまとい、その上に口数が少ないため話をかけずらく他人を寄せ付けない。俺の知る人間の中で「孤高」という言葉がこれほど合う人間はいない。
 ただ、俺の知る柳生宗章についての歴史は少ない。だが、その情報を総合すると、彼は受けた恩義には命を懸けてでも報いる義侠心篤い人物だと思う。だから、彼は護衛役としては適役だと思っている。

「兄上、何度も殿が頼んでいるのです。一度くらい相手をされてはいかがです」

 柳生宗矩が兄、柳生宗章、をたしなめる様子を見ながら、この兄弟は対照的だなと思った。柳生宗矩は柳生宗章と違い社交的な性格だ。それに目上の者には忠実で空気も読めて気をつかえる。組織で出世するのは柳生宗矩だと思う。
 柳生宗矩の言葉の通り柳生宗章は俺に剣の稽古はつけてくれない。いつも柳生宗章ははぐらかすような返事をするばかりで俺は喉に魚の骨が刺さったような気分だった。

「又右衛門、気にしなくてもいい。五郎右衛門にも考えがあってのことだろう」

 俺は柳生宗矩を制止するが、彼は柳生宗章の態度に業腹のようだ。彼の立場としては俺の言葉を歯牙にもかけない態度をとり続ける柳生宗章の態度が気に食わないだろう。
 柳生宗矩は二百五十石で召抱えたが、その知行から困窮している実家に仕送りをしているようだ。俺の元で食客をして剣術三昧の兄に頭がくるのも頷ける。俺が柳生宗矩の立場なら毎日苛々した日々を送っていることだろう。

「しかし! 殿は何度も兄に」

 俺は柳生宗矩の言葉を遮った。

「気にしなくていい。五郎右衛門が私に指南しないのは私が若輩で剣が技量が未熟だからだろう」
「殿、兄は決してそのような」
「その通りござるが少し違います」

 柳生宗矩は喋り終わるのを他所に柳生宗章が会話に割り込んできた。久方ぶりに口を開いたので俺は彼が何を話すか興味を持った。

「拙者は真剣勝負しかいたしません。拙者は相模守様と死合をするわけにはまいりません。故にご容赦いただきたい」

 剣を抜き向き合う以上は殺しあう。柳生宗章は俺にそう言った。俺に剣の稽古をつける気はないと言い切られてしまった。柳生宗章にとっては剣は遊びでは無いと言いたいのだろう。こうまで言われては剣の稽古を頼む訳にはいかない。
 普通の主君ならここで柳生宗章を手打ちにしようと思うだろう。
 でも、俺は大笑いした。

「殿!?」

 突然大笑いした俺に柳生宗矩は動揺する。柳生宗章は静観した様子で俺のことを見ていた。

「はっきりと言ってくれてすっきりしたよ」

 俺は笑顔で柳生宗章を見た。

「五郎右衛門、お前は私の護衛役に徹してくれ。又右衛門、お前には私の剣の稽古をこれからも頼む」
「承知」
「かしこまりました」

 俺は強引に話をまとめた。俺に剣の稽古をしたくないという人間にしつこく頼み過ぎても時間の無駄だ。それに柳生宗章には俺に仕官してもらいたいから、俺の器の大きいところを見せておく必要がある。



「藤林長門守様が殿に目通りしたいと参っております」

 俺が柳生兄弟と話をしていると、小姓の一人がやってきた。この小姓を含め、俺に仕える小姓達は俺の本当の実家である木下家からきた者達だ。小出家から来た者達は秀清の下につけている。小姓達は俺と年齢があまり変わらない。俺と歳が近いから気を使う必要ないため気が楽でいい。

「又右衛門、また剣の稽古を頼む」

 俺は柳生宗矩に声をかけ柳生宗章を伴って奥座敷に移動した。俺が室内に入ると藤林正保と見知らぬ三人が平伏したまま待っていた。
 俺が上座に着座すると藤林正保が口を開いた。

「殿、ご紹介いたします。左から、曽根内匠助殿、乾加兵衛殿、孕石小右衛門殿でございます」
曽根昌世(まさただ)と申します」
「乾正信と申します」
「孕石元成と申します」

「面をあげられよ」

 三人は藤林正保に紹介された順番で名乗った。俺は「曽根昌世」と名乗った四十歳位の中年の男を見て固まってしまった。「曽根内匠助」には聞き覚えがないが、「曽根昌世」の名には知っていた。甲陽軍鑑には曽根昌世が武田信玄から「昌世と昌幸は我が両眼」と称されたと書かれている。ただ、この一節は出展が甲陽軍鑑だけにどれほど信用できるか分からない。
 曽根昌世は武田家滅亡する前に徳川家康に内通していた。そして、彼は武田旧臣を諜略し徳川家康に投降するように動いた。その手腕は徳川家康から高く評価されたことは武田滅亡後に城主に任じられたところからみても間違いない。
 その曽根昌世が俺の元に来ている。それは彼が徳川家康の元を出奔したことを意味する。
 曽根昌世が出奔した理由はなんとなくわかる。彼は早い時期に武田家を裏切った。それを徳川家康が嫌ったのかもしれない。武田家の同盟者といえる穴山梅雪と違い、曽根昌世は武田信玄に引き立てられた武田家の家臣だ。徳川家康が裏切らせたにも関わらず勝手な話だと思うが、徳川家康の中では含むところがあったのかもしれない。
 北条征伐後、関東に移封された徳川家康は禄に抵抗しなかった北条家の家臣達を強制的に帰農させた。そこに徳川家康の価値観が見て取れる。
 だが、曽根昌世が有能な人材であることは間違いない。だから俺は彼が仕官するというなら雇う。裏切るかもしれない人材だから使わないのは勿体ない。問題のある人材なら使いどころを誤らなければいいのだ。

「私は小出相模守藤四朗俊定といいます」

 俺が名乗ると三人は俺に対して深く頭を下げた。

「長門守、彼らは当家に仕官を希望されているのか?」
「殿、その通りでございます」

 俺が藤林正保に話を振ると頷いた。三人も探してきてくれたのか。それも一人は大物じゃないか。彼の満足する知行を出せる自信がない。千石が限界だな。北条征伐で領地が増えればもっと出せるんだがな。

「殿、この方々は武田旧臣でございます。乾殿は戦場の経験がございません」

 俺の悩みを余所に藤林正保は話を続けた。その話を聞いて驚くと同時に乾正信のことを訝しんだ。乾正信はどう見ても中年である。この年で戦場の経験がない武田旧臣がいるのだろうか。もしかして内政方面の家臣なのだろうか。それならそれで構わない。

「そのお歳でですか?」

 俺は奇妙に思い乾正信に聞いた。乾正信は風体は困窮していそうだったが、元々の育ちの良さが顔に表れている。

「恥ずかしながら。私の父は徳栄軒様に誅殺され、私は幼少であったため甲斐にて蟄居しておりました」
「乾殿のお父上は武田家重臣、板垣信憲殿にございます」

 乾正信は言いづらそうに自分の身の上を語りだした。その後を継ぐように藤林正保が彼の素性を俺に説明しだした。
 甲斐武田家の板垣氏。俺はピンときた。乾正信は武田家の庶流である板垣氏の出身ということになる。板垣氏の出身だったなら蟄居といってもそれなりの地位の共がいたはず。
 彼を仕官させても支障はない。今後のことを考えれば家臣つきの人材の方がありがたい。

「乾殿、失礼を承知でお聞きします。武芸の嗜みはありますか?」

 俺は聞きづらい質問をさせてもらった。いい年した武家出身の大人に聞くことじゃないが、北条征伐に同行してもらうなら聞いておく必要がある。

「勿論です!」

 乾正信は姿勢を正し自信に満ちた表情で俺に答えた。この様子なら多分大丈夫だろう。

「それなら問題ありません」

 俺は笑顔で乾正信に答えた。俺は次に孕石元成の顔を見た。

「孕石殿は元々は駿河今川家に仕えておりました。その後、今川家滅亡後に甲斐武田家に仕え現在にいたります」
「馬術は得意ですか?」
「得意であるか分かりませんが馬の扱いは慣れています」

 この人は騎馬隊に組み入れよう。それに年齢も高いから騎馬隊の取りまとめ役になれるだろう。

「孕石殿、ありがとうございました。それでは曽根殿」

 俺は真打の曽根昌世の方を向いた。どういう経歴の人間であるかは大体知っている。でも、人物像ははっきりしない。歴史の情報だけだとこれが限界だな。

「曽根殿は武田家で足軽大将を勤められておりました。また、武田家滅亡後は徳川家に士え興国寺城の城主を任されておりました。その後、徳川家を去り今に至ります」

 歴史通り城主格か。その地位は武田家を裏切り他の武田旧臣を寝返らせたことに対する恩賞だろう。でも、徳川家康は無能な者を城持ちにするほど甘い人物じゃない。城主に必要な力量は十分にあったのだろう。

「曽根殿、話したくなければ話さなくとも構いません。徳川家を去った理由を教えてもらえますか?」

 教えてもらえなくても問題ない。だが教えてくれるなら聞いておきたい。

「言いたくはありません」

 曽根昌世は視線を落とし考えていたが短く返事した。城主にまでなった人物だから「徳川家康は武田家を裏切った自分を嫌い、徳川家に居づらくなった」と情けない抗弁はしたくないのだろう。

「そうですか。それなら構いません。曽根内匠助殿、家老格として千石で仕官してくださいますか?」
「小出様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 曽根昌世は俺の掲示した条件を聞き終わると俺に質問してきた。

「何でしょうか?」
「失礼ながら小出様の知行は五千石と聞いております」

 曽根昌世はそこで言葉を切った。その先は言いづらそうだった。
 俺は曽根昌世の聞きたいことが何か直ぐに理解した。彼は俺が千石も知行を払えるのかと聞きたいのだろう。確かに面高は五千石だからな。心配するのも当然だな。

「私の知行は表向き五千石ですが、関白殿下の心遣いを受けまして、実際の領地の収入は一万石あります。このことは内密にお願いします」
「失礼なことを申しました。心して仕官の話をお受けいたします」

 曽根昌世は俺に平伏した。

「曽根内匠助、よろしく頼む」

 乾正信は百五十石、孕石元成は二百五十石で俺に仕官した。





 俺は聚楽第にある徳川屋敷に向かった。曽根昌世を俺が雇うから徳川家康に話だけは通しておこうと思ったからだ。徳川家康は昔のことを根に持つ性格だから念のためだ。
 それに、徳川家康に堂々と気兼ねせずに接触できる良い機会だ。
 徳川家康から見れば俺は小身だから家臣に対応させるかもしれない。それならそれでもいいと思う。徳川家に対して話を通した事実が重要だ。

「殿、駿河前左大将様はご在宅ではないということです」

 先に徳川屋敷に向かっていた秀清が馬を走らせて戻ってきた。
 徳川家康は不在か。
 事前の連絡なしの訪問だから仕方ないな。

「叔父上、駿河前左大将様への要件は伝えてくれましたか?」
「それは滞りなく伝えました。本多佐渡守様が話を聞いてくださるそうです」

 俺は本多正信の名前を聞いて沈黙した。
 徳川家康の懐刀、本多正信が対応するなんて憂鬱な気分だ。

「本多佐渡守殿は話を聞くと仰られたのですか?」

 俺は秀清に気になる点を質問した。

「はい、そのように言いました。何か問題でも」

 本多正信は徳川家康以上の食えない狸爺だと思う。「話を聞く」とは俺の要件を了承したという意味じゃない。言葉通り話だけ聞くということだ。この分だともう一度徳川屋敷に出向く羽目になるな。二度手間になることが面倒だ。秀清は俺が何を気にしているのか理解していないようだ。

「叔父上、問題はありません。徳川屋敷に向かいましょう」

 本多正信は俺に会うというなら会おう。ここまで来て帰るのも後々面倒なことになりそうだからな。俺は気持ちを切り替えて徳川屋敷に向かうことにした。





 俺が徳川屋敷に到着すると、すんなりと屋敷の中に通され一室に通された。調度品は一切無く殺風景な六畳間の部屋だ。

「お待たせいたしました」

 俺と秀清が部屋で待っていると本多正信が障子戸を開け部屋に入ってきた。彼の初印象は物腰穏やかな痩せた中年だった。本多正信は槍働きというより徳川家康の参謀として功績を上げた人物だ。それに熱心な一向宗門徒であり、徳川家康を裏切り対立したこともある。
 徳川家内では本多正信のことを面白くないと思っている者達もいるに違いない。それでも徳川家康は本多正信を重用している。
 裏切っても徳川家康に重用されるということは、それだけ優れた人物だということだ。一時期本多正信が仕えていた松永久秀は「非常の器」と評している位だからな。
 徳川家康の損得抜きで使える者は使い尽くす性格は俺も模範にしないといけないと思う。

「本多佐渡守正信と申します。小出相模守様、殿は使者殿にお伝えした通り不在にて。私が替わりにご用件を承りましょう」

 本多正信は俺に挨拶をしつつ、秀清の方を一瞥した。

「本多佐渡守殿には一度お会いしたいと思っておりました。駿河前左大将様に目通り適わないことは残念ですが、本多佐渡守殿に会え怪我の功名というものです」
「そんなに褒めても何も出せませんぞ」

 本多正信は機嫌良く俺に返答してきた。

「今日、駿河前左大将様の元に参った理由は他でもありません。当家に曽根昌世が仕官を希望しております。私は曽根昌世を召抱えるつもりでいますが、聞けば曽根昌世は過去に駿河前左大将様にお仕えし理由があって出奔したと聞きました。それで駿河前左大将様には当家に曽根昌世を召抱えることはお許し願いたいと思いました」

 俺は澱むことなく自分の用件を全て本多正信に伝えた。この屋敷に秀清を向かわせた時、秀清には「曽根昌世のことで話が有る」と伝えていたから本多正信も俺の今言った話は想定の範囲内だろう。その証拠に彼は落ち着き払った様子だった。

「わざわざご丁寧に小出相模守様自ら足を運んでいただきありがとうございました」

 俺もここまで丁寧に挨拶する必要はないと思っている。まだ、奉公構が一般的になっている時期じゃない。でも、話を通しておいて相手も嫌な気分はしないだろう。
 その証拠に本多正信は俺に友好的な雰囲気だった。

「確かに曽根昌世は当家を出奔しております。いずこに居るかと思っておりましたが小出相模守様の元に居りましたか」

 本多正信はしみじみとした様子で喋りだし、一瞬視線を俺から逸らし遠くを見る目をしていた。彼は甲斐武田旧臣を徳川家に組み込んだ功績があったはず。曽根昌世とも面識があるのかもしれない。

「曽根内匠助は元気にしておりますか?」

 本多正信は徐に俺に聞いてきた。

「元気にしています」
「そうですか」

 本多正信は安堵した表情を浮かべた。

「確かに小出相模守様の話は承りました。殿にはしかとお伝えいたしますのでご安心ください。後日、殿にご裁可を仰ぎ返答させていただきます」

 予想通り俺が曽根昌世を家臣することに了承するとの返答は無かった。本多正信がわざわざ対応するあたり、本当に徳川家康は不在なのだろうかと勘繰ってしまう。案外隣の部屋で聞き耳を立てているのかもしれない。

「この場でご返答はいだけないのでしょうか?」

 本多正信は笑みを浮かべ口を開いた。

「私は代理で話をお聞きしただけこと。この話の判断は殿がご裁可なされます」

 本多正信の言い分は最もなことだ。だが、ここまで話を引き伸ばす必要があるのかな。
 俺の知る歴史では天正十九年に曽根昌世が蒲生氏郷に仕えている。この時期の蒲生氏郷は伊勢十二万石の大名だから俺に比べ大身だから、俺の場合とは比べることがおかしいのかもしれない。
 それに蒲生氏郷の場合、一々徳川家康に話を通していないのかもしれない。徳川家としても話を通されたら正式な手順を執らざる得ないのだろう。

「勇み足でした。本多佐渡守殿、ご無礼をお許しください」

 俺は本多正信に頭を下げ謝罪した。俺は彼に食い下がることなくあっさりと引いた。駄目もとで聞いただけから別に問題ない。

「いえいえ、全く気にしておりません」

 本多正信は気にした様子はなかった。

「駿河前左大将様が色よい返事をくださることをお待ちしております」
「ところで。小出相模守様は曽根内匠助の出奔の理由をどこで知ったのですか? 曽根内匠助から聞いたのですか?」

 俺が会話を切り上げようとすると、本多正信は俺に質問してきた。今頃になって聞いてくる話じゃないと思うんだがな。

「曽根昌世は一言も語っておりません。当家の者に事情を知っている者がいたのでたまたま知ったのです」
「小出相模守様は曽根内匠助の出奔の理由を知ってどう思われましたか?」

 本多正信は済ました顔だが彼の目は俺を探るような雰囲気だった。こういう視線は気分が悪い。

「何も思うところはありません」

 俺は即答した。変に飾った言葉を言う必要はないと思う。そんことすれば俺が何か思うところがあると言っているようなものだ。

「本当に何もないのですか?」

 本多正信は再度質問してきた。この様子だと俺が何か言うまで聞いてきそうな雰囲気がした。

「そうですね。敢えて言うなら。曽根内匠助は駿河前左大将様とは反りが合わなかったということでしょう」

 俺は思案する素振りをした後、言葉を何気なく思いついたように装いながら答えた。
 本多正信は俺の返答に口元を緩めていた。

「では、小出相模守様と曽根内匠助は反りが合いましょうか?」
「わかりません」

 俺は言葉を一旦切る。本多正信は俺が喋り出すのを待った。

「私は若輩の身ですから周囲の声に耳を傾け試行錯誤しながら家臣達とともに歩むつもりです。それが若さの特権ではないでしょうか。曽根内匠助は縁あって当家に来たのですから末永く君臣の関係を築きたいと思っています」

 俺は落ち着いた表情で本多正信に答えると、本多正信は「一本取られましたな」と答えた。
 下手に「反りが合う」と答えることができる訳がない。そんな言い方をすれば「徳川家康に器量がなく、俺は徳川家康より器量がある」と言っているように相手に受け取られかねない。
 徳川家康は秀吉亡き後の豊臣家に対し、そういった些細なことに因縁をつけていた気がするから余計なことは言わない方がいい。





 その後、俺は徳川屋敷を後にした。
 翌日、徳川家康から俺に手紙が届けられた。その内容は俺が曽根昌世を家臣にすることに何も咎めるつもりはないことと、不在で会うことがきなかったことへの侘びの言葉と詫びの証に三日後に徳川屋敷に招待したいと書かれていた。
 俺は手紙を凝視し何度も読み上げた。徳川家康が俺を屋敷に招待したいと言っている。これ幸いだ。今の俺の身分では徳川家康に会う機会なんてそうそうない。この機会を逃す訳にはいかない。徳川家康にはできるだけ早めに顔を覚えてもらった方がいい。

「殿、駿河前左大将様はなんと言ってきているのです」

 手紙を俺に持ってきた秀清が俺に聞いてきた。手紙の内容が気になっている様子だった。

「駿河前左大将様は曽根昌世の仕官について何も咎めるつもりはないと言っている。それと俺を屋敷に招きたいそうだ」

 俺は手紙を秀清に手渡した。俺の返事にほっとした秀清だったが、俺の最後の話に驚きながら受け取った手紙を読み出した。

「駿河前左大将様がお前を何でわざわざ屋敷に呼ぶんだ!?」

 秀清は驚きのあまり地を出し俺に話しかけだした。徳川家康が俺を屋敷に招待する理由は分からない。だが、俺に興味を持ったことは事実だろう。
 幾ら俺が秀吉の親類とはいえ、俺は元服したての小僧で小出家の嫡子からは外れている。俺の実家は寧々叔母さんの兄の家だからそれで気を使ったとも取れなくもない。でも、そうだとしても俺みたいな五千石程度の旗本に気を使うものだろうか。
 これが俺の弟、秀俊(後の小早川秀秋)なら分かる。弟は秀吉の養子、れっきとした豊臣家の連枝、だからな。

「向こうが招待している以上は俺には断れないだろ」

 俺は笑みを浮かべ秀清に話しかけた。

「駿河前左大将様は曽根内匠助の件でお前に不満があるのではないか? それでわざわざ招待とかこつけて自分の屋敷に呼んだのかもしれない」
「向こうは東海道を制する百三十万石の大名ですよ。関白殿下は駿河前左大将様に上洛中の賄い領として十万石を出しています。これだけで関白殿下は駿河前左大将様に凄く気を使っています。俺が小出家・木下家に縁があると言っても、俺みたいな小身の若造に気を使う理由なんてないでしょう」

 秀清の心配を払拭するため俺は自論を述べた。俺の話に秀清は少し落ち着いた様子だった。

「では、理由は何なのだ?」

 それを俺がわかる訳がない。

「叔父上、行けばわかると思います。下々の俺達が雲上人の考えなんて思いつくわけがないでしょう。ですが、俺に脅迫の類をする気はないはずです。もしやるなら手紙なんて送ってこずに使者を送って直接伝えるはずです」

 秀清は俺の説明を聞きようやく納得した様子だった。もう少し秀清には肝が据わって欲しいものだ。

「共には誰をつけるつもりだ」

 秀清は気分を切り替え、三日後の準備に話し出した。誰を連れて行くか。

「駿河前左大将様も特に人選を指定していませんから叔父上と柳生五郎右衛門だけいいです」
「柳生五郎右衛門を連れて行っても良いのか?」
「どういう意味です」

 俺は秀清の言葉の意味が分からず聞き返した。

「駿河前左大将様が五郎右衛門が食客と知ったら仕官しないかと誘うかもしれないと思ってな。お前は五郎右衛門のことを気にいっているのだろう」
「五郎右衛門のことは心配しなくても大丈夫です。不義理をするような人間じゃありませんから。少なくとも北条攻めが終わるまでは俺の元に居てくれますよ」
「その後はどうなのだ」
「五郎右衛門は駿河前左大将様に軽返事はしないです」

 俺の落ち着き払った様子に秀清は「お前がそう言うならもう何も言わない」と言った。何時もの秀清なら泰然自若としているんだが、今回は相手が徳川家康だからだろう。
 相手は「東海道の弓取り」と言われた大物だからな。だが、その徳川家康と俺は今後上手く立ち回わらないといけない。秀清にはもう少し堂々と構えてもらわないと困るんだが、俺の懐刀になる人物を探すしかないかもしれない。
 人物なら柳生宗章だが、柳生宗章は武辺者過ぎて参謀役は無理だろう。彼の弟、柳生宗矩は年を重ねれば頼りになる参謀役になるだろうが如何せん時間が限られている。
 時間がないことが呪わしい。せめて二十年前に生まれていればまだ巻き返しが可能だった。
 考えるだけ無駄なことだな。今はどう生き抜くか考えなければならない。一番は徳川家康に気に入られることだが、俺は秀吉の寧々に凄く近い親戚であることが不安要素なんだ。この点はどうしようもないし、俺の一番の利点でもある。
 俺は徳川屋敷に行く日のことを考え気持ちが高ぶっていた。 

 

第九話 招待

 
前書き
 次話は北条攻めで関東入りします。次は劉ヨウ伝を更新しようと思います。 

 
 徳川家康から招待された俺は徳川屋敷にやってきた。既に夕暮れ時である。俺は縁側を歩きながら篝火の灯された庭を眺めつつ案内役の小姓の後を付いていく。俺の後ろには秀清と柳生宗章が順番に付いてきている。前回訪ねた時と違い、屋敷の奥の方に案内されている気がした。俺の視線に桜の木が目に入った。枝を見ると未だ蕾みはついてない。桜の花が見れる頃には俺は関東にいるのか駿河前左大将としみじみと感じた。

「小出相模守様、こちらにございます」

 小姓が歩くのを止め膝を着き俺に部屋に入るように案内した。俺は促されるままに部屋に入っていく。俺と連れ二人が入ると障子戸を閉めた。部屋には別の小姓がいて俺達を席に案内してくれた。

「お席にお座りになってお待ちください。殿を呼んでまいります」

 俺達を席に案内し終わると小姓は立ち去っていった。俺は部屋の中を見回した。前回に比べて調度品が増えている感じがした。徳川家康が座るであろう上座の背後には墨で描いた荒々しい龍が描かれている掛け軸が掛けられていた。その横に大きめの壺があった。俺は工芸品について造形が無いため高価な物なのか分からない。
 俺の左横方向に秀清、柳生宗章と順に座っている。俺の右斜めにある上座は徳川家康が座るとして、俺達三人の正面に席が対面するようにあり三人分用意してある。徳川家康の家臣が座ることは分かる。しかし、誰がここに座るか気になった。
 前回、俺の対応を行った人物は本多正信だ。だから、俺の正面に座るのは本多正信だろう。俺から見て左横の二席には誰が座るか。思い浮かばなかった。だって、俺みたいな小身を饗応する席に重臣はこないと思う。



「小出相模守様、お待たせいたしました。殿が参られます」

 徳川家康が来たようだ。俺は平伏して待った。しばらくすると足音が聞こえ、その後に衣擦れの音とが聞こえ音が止まった。

「小出相模守、よく来てくれた」

 老けた男の野太い声が俺に声をかけてきた。

「駿河前左大将様、小出相模守藤四朗秀定にございます。本日はお招きいただきありがとうございました。左に控えるは小出半三郎助秀清、柳生五右衛門宗章にございます」
「苦しゅうない。面を上げよ」

 徳川家康の許しが出たので俺は身体を起こした。上等な着物を身につけた中肉中背の中年の男が目の前にいた。その後ろに本多正信、厳つい中年の大男、壮年の優男の三人がいた。本多正信以外誰なのか分からない。
 徳川家臣の大男は俺を睨んでいないか? 多分違うな。そう言う表情なのかもしれない。
 徳川家康は俺の顔を見ると上席に座った。すると本多正信、大男、優男も各々の席に腰掛けた。俺の正面に座ると思っていた本多正信は座らず、その席には優男が座った。大男は一番左端に座った。

「小出相模守、自己紹介がまだであったな。本多佐渡守のことは知っているな。その右が井伊侍従直政、左が本多中務大輔忠勝だ」
「小出相模守、私は井伊侍従直政だ。よろしく頼む」

 俺と共達二人は頭を下げる。この男が井伊の赤鬼か。偉そうなのは俺より官位が高いからだろう。この時期の井伊直政の官位は従四位下侍従で徳川家中で唯一の従四位下の官位を与えられたはず。期待の新鋭の若手といったところか。偉そうになるのも頷ける。

「『井伊の赤鬼』と勇名を轟かす井伊侍従様にお会いできるとは嬉しく思います」

 俺の誉め言葉を当然という態度で受け入れていた。井伊直政の勇名は勇猛で知られる武田旧臣を徳川家康の計らいで優先的に家臣団に組み込むことが出来たからだと思っている。まあ、井伊直政自信も阿呆では無いと思う。阿呆では没落したとはいえ武田旧臣も大人しく仕える訳がない。

「小出相模守殿、私は本多中務大輔忠勝にござる。以後お見知りおきを」

 本多忠勝は見た目と異なり井伊直正に比べ礼儀正しかった。厳つい風体なだけで常識人に見える。

「関白殿下より『東国一の勇士なり』と称された本多中務大輔殿に会えること嬉しく思います」
「大したことではござらん」

 仏頂面の本多忠勝は謙遜しながら俺の言葉を否定した。あまり誉められることは好きじゃなさそうだ。この人は三河武士らしい人だな。本多忠勝の口振りに井伊直政は憮然とした様子だった。



「互いに自己紹介も終わったな。小出相模守、ささやかながら料理を用意させてもらった。存分に楽しんでくれ」

 徳川家康が笑顔で俺に声をかけてきた。百三十万石の大大名の饗応だ。どんな料理なのか凄く楽しみだ。毎日食べる玄米飯山盛りと味噌汁も美味しい。でも、たまには美味い物が食べたい。できれば猪肉か鳥肉が食べたい。最近、仕事が忙しくて山に狩りににいけない。お陰で肉も魚もご無沙汰なんだ。
 小姓達が現れ膳を配膳してくれた。膳は三つ。一つの膳には素焼きの徳利が乗っかっていた。酒だろう。俺は無視して料理に視線を落とす。見た瞬間は沈黙してしまった。
 これは。俺は言葉を失ってしまった。
 料理の豪華さに驚いたんじゃない。その粗末さに驚いてしまった。
 料理の品目は、

 ・麦飯
 ・めざしの天日干し二匹
 ・根菜たっぷりの赤味噌の味噌汁
 ・きな粉をまぶした団子

 だった。
 俺は徳川家康になんと言えば迷ってしまった。だが、このまま黙っているのもまずいような気がする。
 俺は気まずく思い目だけ動かし隣の様子を窺った。俺の直ぐ隣りの秀清は分かりやすく落胆の表情を浮かべていた。分かりやい奴だな。五郎右衛門は変わらぬ仏頂面でめざしを無造作に掴みかぶりついていた。この状況で徳川家康が飯に毒を盛る利はないから問題ないと思う。五郎右衛門もそう思ったから食事をはじめたのだろう。それでいいと思う。今の俺を殺しても徳川家に利は全くない。

「駿河前左大将様、これは美味しそうなめざしですね」

 俺は顔を上げ笑顔で徳川家康に言った。普段食べれないからこれでも嬉しいといえば嬉しい。

「儂はこれが一番好物でな」

 徳川家康はそう言うとめざしを手掴みしかぶりついた。彼は美味そうに咀嚼すると、麦飯を持った椀を取り飯をかきこんでいた。
 徳川家康は粗食で有名だったはず。その上、自分で薬を調合して飲むほどの健康愛好家だったな。でも、こんな物を客に出すとは思わなかった。
 普段食べている料理よりは豪華だからまあいいか。俺は気分を取り直してめざしを手掴みして頬張った。程良い塩加減で美味い。ご飯が欲しい。俺は食欲に促されるまま麦飯を口に掻き込んだ。

「良い食いっぷりだ。若い者はそうでないといかん」

 俺の食べっぷりを見ていた徳川家康が俺に声をかけた。

「めざしが美味しいので飯が進みました」
「気に入ってくれたか。これは三河の海で獲れたものなのだ。相模守にもわけてやるから、帰りに持っていくといい」

 徳川家康はそう言うと小姓を呼びつけ「めざしを包んでやれ」と指図していた。

「駿河前左大将様、お気遣いいただきありがとうございます」

 俺は頭を下げ感謝の言葉を伝えた。「大したことではない」と俺に言う徳川家康は俺の抱く狸親父とは随分乖離していた。気の良いおっさんにしか見えない。これが演技なら恐ろしい男だと思う。

「相模守、そちは何か嗜むことはあるか?」
「本を読むことが好きです」

 徳川家康は興味を持った様子で俺のことを見た。

「どのような本を読んでいるのだ?」
「私は長兄、木下侍従勝俊、と仲が良く。兄から本を借りて読んでいました。万葉集、枕草子、源氏物語。でも、兄の貸してくれる本は私の趣味には合いません。しかし、喰わず嫌いはいけないと思い一通り読んでいます」

 俺は苦笑しながら徳川家康に言った。長兄、木下勝俊、の趣味は風流人の好みそうなものばかりだ。だから、本をそれ系統のものになる。長兄は兄弟の仲で唯一学問好きの俺に自分の好きな本を俺に貸してくれる。だが、必ず感想を求めてくるから面倒臭い。お陰で借りた本は一読する羽目になっている。最近は仕事が忙しいから長兄の家臣が持ってくる本に嫌気が出てきている。それでも時々論語などの漢籍を貸してくれるので縁を切れずにいる。

「では、相模守がどんな本が好きなのだ?」

 徳川家康は話に突っ込んできた。徳川家康も十分本好きなはずだ。鎌倉幕府の執権として隆盛を極めた北条氏によって編纂された鎌倉時代の記録、吾妻鏡、を愛読書にしているくらいだからな。吾妻鏡は北条氏を礼賛するための記録だから真実ばかりとは限らないと思っている。それでも当時の状況を知ることができる一級品の資料であることは間違いない。俺も吾妻鏡は武家の心構えを学べる貴重な資料と思っている。

「孫子、貞観政要、吾妻鏡の方が好みです」

 前世で読んだことがあるから問題ない。これ以外にも愛読書はあるけど、この時代は本は中々手に入らないから徳川家康に変に思われるかもしれない。

「貞観政要で思い出しました」
「相模守、どうしたのだ?」
「唐の太宗は質素倹約を率先して実施したとあります。駿河前左大将様は貞観政要に書かれていることを手本とされているのでしょうか?」

 それとなく俺の学問好きだと自分を売り込んでみる。徳川家康は自嘲するように笑った。

「そう大した理由からではない。健康のためだ。儂は健康のために色々している。食事以外では鷹狩りが好きでな。相模守は鷹狩りは嗜まれるかな?」

 徳川家康は愉快そうに笑いながら話を鷹狩りに逸らした。彼は幼少の頃に雪斎から当時最高の教育を受けているはずだ。だから、貞観政要も読んでいると思う。徳川家康は儒学者を当用して儒教を統治に利用している。儒教は権力者にとって都合の良い学問だからな。
 秀吉と徳川家康の決定的な違いは学問を嗜んでいるかだと思う。先例に学ぶことは愚かなことじゃない。過去の積み重ねが現在であるから、今でも通用する先例はあるはずだ。その証拠に徳川家康は吾妻鏡を人生の手本にしているような気がする。その一例として後世に悪行として罵られようと豊臣家を徹底的に叩き潰した。
 だが、秀吉には先例を学び実行することはできない。彼は経験で身につけた知恵はあるだろうが学問の素地がない。学問は一朝一夕で身につくものじゃない。
 でも、秀吉は学問を身につけた者達を側に置けば解決できるだろう。しかし、その者達を上手く使いこなせる保証はない。今の秀吉は独裁者だ。有用な意見でも自分が納得できなければ受け入れることはしないだろう。秀吉の器量なら彼が死ぬまでは歴史が示す通り大丈夫だろうがな。

「鷹狩りはしたことがありません。鷹って格好いいです。一度、自分の手に乗せてみたいなと思っていました」
「そうか。鷹狩りは良いぞ。運動にもなり領民の生活ぶりを目にすることができる」

 徳川家康は鷹狩りを俺に勧めてくれた。勧めてくれても鷹匠を雇う必要があるし、今の俺には経済的に余裕がない。そんな金があればより多くの侍と武器を買った方がいい。
 そんな俺の気持ちを余所に徳川家康は何か思いついた仕草をした。

「そうだな。次に機会があれば鷹狩りに誘ってやろう」

 俺が鷹狩りに興味を持ったことに気を良くした徳川家康は俺を鷹狩りに誘ってきた。

「それは本当でございますか? 是非お誘いください」
「わかった。機会があれば必ず誘おう。ところで。相模守は吾妻鏡を読んだことがあると聞いた」
「はい。あります」
「儂も吾妻鏡は読んでいる。それも何度もな。あの本は飽きない。相模守は吾妻鏡を読んでどう思った」
「武家の者としては大変失礼な意見と思いますが、頼朝公のことは人として好きになれません」

 俺は素直に意見を述べた。ここで源頼朝を絶賛しても、俺は嫌いな歴史上の人物だから会話を続けるとぼろが出るから止めておいた方がいいと思った。徳川家康は俺の意見を聞き何度か頷いていた。

「相模守は予州公贔屓か?」
「はい。私は義経公が好きです」

 徳川家康は愉快そうに小さく笑った。源義経を「予州」と呼ぶ辺りが俺が本当に吾妻鏡を読んだことがあるか引っ掛けたような感じがしなくない。源義経は伊予守に任官された。それで吾妻鏡で源義経のことを「予州」と呼称する場合がある。

「若い者には予州公の戦人(いくさにん)振りは心躍るであろうな。私も若き頃はそうであった」

 徳川家康が源義経のことが好きだったとは知らなかった。でも口振りからして過去形のようだが。でも、優れているのは源頼朝だろうな。源頼朝は己を心を押し殺し、先の先を読み行動することができる人物だ。俺の兄が源頼朝なら俺は武士の身分を捨て名を変えて農民になっていることだろう。源頼朝は利用価値が無くなれば血縁は理由をつけ粛正するに違いない。源頼朝は本当に恐ろしい男だ。

「頼朝公は恐ろしい御方です。ですが、頼朝公ほど傑物した為政者はいないと思っています」

 俺と徳川家康の会話に誰もついて来れない様子だった。本多正信、井伊直政、本多忠勝は話の内容が要領を得ない様子で押し黙っていた。その中で井伊直政は面白くなさそうな表情をしていた。

「『恐ろしい』か。相模守、遠慮することはない。そう思う理由を申してみよ」

 徳川家康は俺の言葉に噛みしめるように反芻すると俺のことを見た。先程までの和やか空気と違い。徳川家康は真剣な表情で俺に話しかけてきた。

「頼朝公は日の本全土に惣追捕使を配置させるために後白河院に要求されました。その名目は弟、義経公、を追討するためとしました。しかし、頼朝公は義経公をなかなか捕まえませんでした。惣追捕使は最初は畿内、そして徐々に範囲を広げていきました。そして、義経公は最終的に奥州藤原氏を頼られました」
「それがどうしたというのだ」

 徳川家康は表情は平静であったが鋭い人を見定めるような目で俺をのことを見ていた。

「都合が良すぎるのです。義経公がご謀反をお越し一番利したのは頼朝公でしょう。大義名分を持って日の本を制する名分を得たのですから。そして、奥州藤原氏の討伐は前九年の役の再現にしか思えません。頼朝公の政治的な動きが早すぎる。私には頼朝公がはじめから絵図を描いていたようにしか思えないのです」
「お主が頼朝公を恐ろしいと思う理由というわけか」

 徳川家康は俺の講釈を聞き終わると腕を組み深く頷いていた。

「相模守、良い話を聞かせてもらった。聡い若武者と聞いていたがここまで故実に通じているとは思わなかった。関白殿下も其の方こと鼻が高かろう」

 徳川家康は平静な表情で俺のことを凝視していた。

「相模守、歳は幾つだ?」
「十二になります」

 徳川家康は驚いた表情に変わる。俺も十二歳で吾妻鏡を読んで自分なりの解釈を持つ子供にあったら驚くと思う。驚くというより気味が悪いというのが正確なところだな。

「北条征伐には出陣するのか?」
「出陣いたします。今回が初陣ですので恥をかかないように心引き締めて望むつもりです」
「相模守は誰の麾下に入る予定なのだ?」

 徳川家康は俺が誰の下で働くか気になる様子だった。

「内々の話ですが石田治部少輔様にございます」
「石田治部少輔の麾下か」

 徳川家康は特に反応を示すことは無かった。徳川家康と石田三成の仲は険悪なのかと思っていたから以外な反応だった。秀吉が決めたことだから徳川家康が難色を示せる訳がないということもあるだろう。でも、朝鮮征伐撤兵時には徳川家康と石田三成は協力して戦後処理にあたったところをみると、現時点では険悪というほどではないのだろう。

「相模守は初陣ということであれば。無難な配置であるな。相模守、精進するのだぞ」

 徳川家康は自分の中で納得している様子だった。口振りから見て俺が後方支援に回されると思っているのかもしれない。
 俺にはそうと思えないんだよな。秀吉は俺に出来るだけ多くの家臣を雇っておけと言っていた。それに石田三成から渡された軍役帳は一万石並の軍役を課していた。軍役に必要な人数は集まっている。だが、不安なのでもう少し増やしたい。致命的な失態をしなければ伊豆国七万石の領地が入るから金と知行の心配はしなくていいと思っている。北条征伐は長期の戦争にはならないことはない。だから、ある程度無理はきくと思っている。
 心配なのは俺の家臣団は火力に隔たっているところだ。津田宗恩は人材紹介してくれる予定だったのに返事が未だない。藤林正保にも引き続き人を探させているが、津田宗恩が人を連れてきてくれることを期待している。

「関白殿下の力になれるように心して精進いたします」

 徳川家康は満足そうに頷いた。この頃の徳川家康は未だ天下を狙っているような気がしない。問題は石田三成にあるのかもしれない。石田三成が反乱を起こしたせいで、徳川家康の目の前に天下が転がってきたのだろう。天下を拾えるなら、ひとかどの武将なら掴まずにはいられない。掴まなければ他の誰かが掴むのだから。
 しかし、徳川家康は用心深い人物であるから今俺に見せている印象が真実とは思えない。それを言えば秀吉もだろうが。その人間の本性は抑える人物が居なくなって初めて現れると思う。その点で言えば徳川家康も秀吉死亡後に律儀者の皮を脱ぎ捨てている。

「相模守、一献とらそう」

 徳川家康は笑みを浮かべ俺に酒杯を差し出してきた。「俺は未成年なんです」とつい口にしそうだったが言葉を飲み込んだ。この時代は酒を飲むのに年齢制限なんてない。断る言葉としては無理だな。それに徳川家康直々だから、ここで断れば興が冷めることになる。

「かたじけなく存じます」

 俺は徳川家康が差し出した酒杯を手に取ると両手で支えるようにした。徳川家康は瓶子(へいし)を傾け酒を注いでくれた。俺は注がれた酒を一気に(あお)った。酒が染みる。十二歳の俺の身体には酒は健康的に良くない感じがしてきた。

「よい飲みっぷりだ。ささ、もう一献」

 徳川家康は俺の気持ちは余所に酒を勧めてきた。

「いただきます」

 俺は徳川家康の申し出を断ることができず、再び注がれた酒を一気に呷った。酒が喉と臓腑を焼きそうな感覚だ。子供に酒を勧めるなよ。俺が徳川家康の顔を見ると上機嫌そうだ。

「相模守、返杯をもらえるか」

 徳川家康から返杯を求められたため、俺は杯に口をつけた部分を指で拭き徳川家康に差し出した。すると徳川家康は杯を手に取った。俺は徳川家康が俺にしてくれた様に瓶子を取り、酒杯に酒を注いだ。徳川家康も酒を一気に呷った。その表情は酒の旨さを味わっている様子だった。普段は酒を飲んでいないのかなとふと思ってしまった。

「もう一献もらえるか」本多

 俺は徳川家康に請われるままに瓶子を傾け酒を注いだ。徳川家康は酒杯に注がれた酒を一瞬眺めそれを一気に呷った。その間が俺は凄く気になった。単に気のせいかもしれない。

「皆も酒を楽しんでくれ」

 酒を楽しむ秀清と本多忠勝を無視して、徳川家康は酒に口をつけない三名に声をかけた。本多正信と井伊直政は主君の命を受けると酒を飲み始めた。柳生宗章は酒を一杯だけ飲んだ後はそれ以上酒を飲まなかった。護衛役として流石に酒は不味いと考えたのだろう。
 俺も瓶子をとり酒を飲み始めた。この流れでは飲まない訳にはいかないよね。つらい。入社したばかりで飲み会に誘われた新人社員の心境だ。この時は石田三成の部下でよかったと感じた。石田三成は無駄なことが嫌いなのだろう。飲みに誘うといったことは一切しないし、食事に誘うこともしない。だが、石田三成の部下からさっさと脱却して独立したい。北条征伐後は伊豆国主になるなら俺は中央との関わる頻度は低くなるに違いない。



 その日、俺は酒を徳川家康から勧められ、断ることもできず酔いつぶれてしまい、客人として徳川屋敷に泊まるはめになった。酒好きの秀清はここぞとばかり酒をたらふく飲んで完全に潰れ、俺と秀清のお守りを柳生宗章がしてくれたそうだ。
 酒に飲まれて意識を失うとは失態だな。酒は気をつけないといけない。障子戸から差し込む日差しの光で目覚めた俺は二日酔いで痛む頭を抑え心に戒めるのだった。 

 

第十話 軍議

 三月二十七日、俺は秀吉率いる本隊に従軍して駿河国三枚橋城に到着した。
 三枚橋城は駿河国と伊豆国の国境に近くを流れる狩野川の右岸にある。川を越え伊豆国に入れば北条領である。秀吉は徳川家康がいる長久保城に移動し、今後の方針を話し合うために軍議を開いた。この軍議に俺も呼ばれている。
 本来ならば俺みたいな初陣の旗本が参加できる場所でない。だが、秀吉の命令である以上、俺に拒否権はない。秀吉が俺に万石級の軍役を課し与力をつけた理由が見えてきた。秀吉は俺に(そなえ)を組織させることで独立した部隊として動かすつもりなのだろう。この時代の軍隊は備が軍事行動を起こす最小の単位になる。備は槍兵・銃兵・弓兵・騎兵といった部隊で形成されている。この備単位で組織行動を取る。備は侍大将を頂点とした軍隊だ。
 俺は単独で備を組織できる兵と武器を有している。しかし、俺は表向き五千石の旗本だ。本来なら俺は誰かの下に付き備の一部隊になるはずだった。しかし、それでは秀吉は都合が悪いのだろう。だから、俺に与力を付け備を率いることができるようにした。その上、俺には単独で備の準備を石田三成を通して命じる念の入れようだ。
 秀吉がここまで俺にお膳立てをする理由。秀吉は俺に北条攻めで名を上げて欲しいのだろう。だが、あまりに露骨にお膳立てはできない。あくまで俺が自らの才覚で備を組織し、秀吉がその才覚を認め支援したという呈を取りたい。何故、秀吉はそんな回りくどい真似をしたのか。あまり考えたくないな。
 俺は頭を巡る思考を振り払った。秀吉の思惑などどうでもいい。俺は没落しないように出世してやる。





 俺が軍議の席上に足を踏み入れると大勢の武将達が集まっていた。秀吉の近い場所には織田信雄、徳川家康、豊臣秀次が座っていた。
 俺は上座に居る豊臣秀次に視線を向けた。豊臣秀次は関白から下賜された朱に染め抜いた陣羽織を身につける俺のことを面白くない様子で凝視していた。俺は彼と視線が合うと、相手の態度など意に介さず豊臣秀次に対して頭を下げ挨拶した。
 豊臣秀次からは俺の陣羽織の背中に五七の桐紋が刺繍されていることは見えないはずだが、この陣羽織のことは彼の耳にも入っているのだろうか。俺は自らが羽織る陣羽織に視線を落とした。知っていてもおかしくないな。ここまで道中は陣羽織を着て移動してきた。彼の家臣の誰かに見られたのかもしれない。しかし、格下の俺に嫉妬するとは豊臣秀次も案外器が小さいな。向こうは従二位権中納言、豊臣家の公達。俺は受領の従五位下相模守というのに。
 俺はうんざりして視線を動かし徳川家康に止まると彼は笑顔を返してきた。対照的だ。徳川家康と俺の存在に余裕を見せることができない豊臣秀次との差に、豊臣秀次の器の小ささをまざまざと感じた。
 俺は豊臣秀次と関わるつもりはない。この先起こるであろう秀次事件に連座したくない。
 不安要素は俺の弟、豊臣秀俊(小早川秀秋)、だ。弟は秀次と中が良かったみたいで、その所為で弟は秀次事件で連座し改易され丹波亀山十万石を没収される。
 俺は軍議の末席に用意された自分の床几に腰をかけた。俺が床几に座ると視線を感じた。理由はこの陣羽織だろう。俺は自らがまとう陣羽織にもう一度目をやる。凄く派手で目立つ。俺はもう少し大人しめの色が好きだ。
 ここは黙って大人しくしておこう。ここで目立つより、戦場でそつなく手柄を上げた方がいい。だが、俺の期待は裏切れるに違いない。軍議の場で俺を調度品のように座らせたままにするつもりなら、秀吉がここに呼ぶわけがない。
 俺が居心地の悪くしていると、軍議の進行役、石田三成、が偉そうな態度で軍議の場に集まる諸侯達に向けて話をしていた。豊臣系大名と思われる人物達の表情は固い。石田三成に一物抱いているのだろうが秀吉の手前露骨な態度は出せないのだろう。

「小出相模守、お前は如何に攻めるべきと考える」

 俺が諸侯達の様子を窺っていると、秀吉が俺に声をかけてきた。軍議の場にいる武将達の視線が俺に一気に集まる。秀吉、徳川家康、石田三成以外の者達は俺に意見を求める理由が分からないという雰囲気だった。
 そうだよな。俺もそう思う。

「関白殿下、若輩の身の私めが歴戦の諸将の皆様方の前で考えを披露することは僭越かと存じます」

 俺はやんわりと断った。
 俺の口振りに豊臣秀次は当然そうに肩を張り横柄な態度を取った。その様子を加藤清正、福島正則は馬鹿にした表情で見ていた。この二人と豊臣秀次は仲が悪いようだ。
 小牧・長久手の戦いにおける豊臣秀次の戦績を考えると愚将に分類される。しかし、俺は豊臣秀次の戦歴についてそれしか知らない。公家や武家と上手く交流をしていたところを見ると政治面ではそれほど無能で無いように思う。だが、秀吉とはくぐり抜けた場数では太刀打ちできる訳がない。俺も豊臣秀次も秀吉の着せ替え人形のようなものだ。だから、その負わされた役目を演じざるをえない。精々用済みにならないように気をつける必要がある。くれぐれも豊臣秀次のように粛正される末路だけは御免被る。できれば北条征伐後は嵐が過ぎ去るまで関東に引き籠もっていたい心境だ。

「小出相模守、そう謙遜するこもあるまい。お前の考えを聞かせてくれ」

 秀吉が再度意見するように命じてきた。秀吉に二度も請われれば断る訳にもいかない。
 俺もこの辺りの情勢について何も知らない訳じゃない。事前に藤林正保に命じて伊賀の忍びを駿河国、伊豆国、相模国に送り込んでだいたいの情報は掴んでいる。流石というべきは徳川家康だ。徳川家康は伊豆国の有力国人を調略し引き込んでいる。だから、伊豆国はもう一枚岩じゃない。この情報は軍議の場では伏せておこう。俺の手の内を全て明かす必要もない。
 史実通り北条氏は箱根を最終防衛線と見ているようだ。豊臣軍を阻む天然の要害である箱根山系の要所である足柄城、山中城、そして韮山城に兵を集めている。韮山城に北条氏規が残る理由は伊豆国人の離反を食い止めるためだろう。守ってくれない旗頭に国人領主が従う訳がないからな。その意味で北条氏規は損な役回りだな。今回、韮山城は完全に孤立するはずだし戦は兵の数だ。大軍で攻めれば韮山城は一気に陥落するはず。だが、史実では四ヶ月間も抗戦し徳川家康の仲介で降服した。多分、韮山城の総大将である織田信雄が北条氏規が恭順派であったため城攻めに本腰を入れなかったのだろう。

「若輩者の浅知恵にございますが披露させていただきます」

 俺は言葉を切った。

「そのような端で話しては聞こえない。もっと、前に出て話せ」

 俺が話を始めようとすると秀吉が俺を制止して折り畳んだ扇子を振り俺を呼びつけた。俺はしばし沈黙した。これ以上前に出ると秀吉から貰った陣羽織が凄く目立ってしまう。今でも俺の陣羽織を見る武将達の視線を感じる。前に出ると武将達に俺の陣羽織に刺繍された五七の桐紋がまざまざと見える。

「何をしている。前へ来い」

 秀吉が躊躇する俺に少し強い口調で呼んだ。拒否権は無いようだ。

「失礼いたします」

 俺は渋々秀吉がいる前へ進み出た。

「もっと前へ来い」

 秀吉が扇子を振り俺を呼びつける。明らかに俺の陣羽織を武将に見せつける意図がありそうな気がした。背中に視線が集中しているのを感じる。
 俺は武将達の視線が集まる重圧の中、俺の北条攻めの考えを語り出した。

「北条は箱根山という天然の要害を利用して我らの侵攻を押しとどめようと考えているはずです。その証拠に東海道と関東を繋ぐ街道の要衝にある城に兵を集めております。その城は山中城、足柄城にございます。これとは別に韮山城にも兵を集めております」

 俺は言葉を切る。

「続けよ」

 秀吉は顎髭をいじりながら機嫌良さそうに俺のことを見ていた。その場にいる武将達は異様な存在を見るような目で俺のことを凝視していた。

「韮山城は北条氏にとって重要な城です。北条家初代当主である早雲公の城、北条氏の栄華の象徴といえる城です。この城の城主は北条氏規です。ですが、この城は落とさずとも我らの進軍を阻むことに支障はないと思います」
「ほう。何故、落とさずともいいと言い切れる」

 豊臣秀次が俺の話に割ってきた。秀吉は面白そうに豊臣秀次と俺の顔を交互に見た。

「北条氏規は関白殿下のお力を十分に理解しているはずです」
「何故そう言い切れると言っているのだ」

 豊臣秀次は威圧的な口調で俺に聞いた。このおっさんは何で俺に突っかかってくるんだ。

「北条氏規は関白殿下が九州征伐に注力されている頃より、北条家中において関白殿下に恭順すべきと一貫して主張し豊臣家と交渉しておりました。その頃、関白殿下は西国を未だ制覇しておりませんでした。その関白殿下に恭順するべきと考えた北条氏規の洞察力は真のものと存じます。近江中納言様は違うと思っておられるのでしょうか?」

 豊臣秀次は押し黙った。この場で違うとは言えないよな。

「相模守、話を先に進めよ」

 秀吉は豊臣秀次を無視して俺の話を進めるように促した。

「北条氏規は北条氏の象徴といえる韮山城を守り抜くことに主眼を置いているはずです。我らの大軍ならば一度に複数の城を攻めることができます。そうなれば韮山城は孤立します。聡明な北条氏規が城から出て戦うような愚かな選択をするとは思えません」

 俺は暗に北条氏規が韮山城から出て豊臣軍に攻撃を仕掛ければ自滅すると言った。補給のない籠城など滅びを待つだけだ。北条氏規も分かっているはずだ。この籠城策は精々豊臣軍が小田原に向かうのを遅らせるしかできない。西国を抑えた秀吉に後顧の憂いはない。小田原城が落ちるまで秀吉は攻める手を休めることはない。

「北条の狙いは我らの兵糧が無くなり兵を引くことを狙っているのでしょう。故に大軍を迎え討つために箱根山を選んだのです。足柄城、山中城ともに急峻な地にあり攻めにくい城です」
「我らの大軍を相手にするならば守り易い急峻な地を選ぶのは当然だろう」

 豊臣秀次が俺に指摘してきた。

「近江中納言様、ご指摘の通りです。しかし、北条家はこの戦い方を得意としております。足柄城、山中城を突破されようと北条は動じないでしょう。なぜなら北条は初めから小田原城に籠城するつもりだからです。北条の目的は急峻で狭い街道にある山城で出来るだけ我らをその場所に止めて兵糧を減らさせることです。そして、小田原城にて豊臣軍の兵糧が尽きるのを只待つのです。北条の本城、小田原城、はただの城ではありません。都市を丸ごと囲んだ巨大な城です。当に北条家の象徴といえる堅城にございます。この戦い方で精強で知られた武田と上杉を撃退してきたのです」
「相模守、では我らは敗れると申すか」

 豊臣秀次は鬼の首を取ったような顔をしている。

「敗れるはずがありません。我らは北条の予想を超えた戦いが可能です。我らは大軍を養う兵糧を絶えず補給することができます。今までの戦国の常識を覆す一戦となり、豊臣家の威光を天下に示すことになりましょう」

 俺が話を終えると後ろから武将達の威勢の良い声が聞こえてきた。武将達はやる気十分のようだ。豊臣秀次は俺の物言いに完全に沈黙していた。秀吉は機嫌良さそうに俺のことを見ていた。秀吉の側近くにいる徳川家康は俺に感心した様子だった。

「相模守。ではまず攻めるべき城は何処だ?」

 秀吉が俺に聞いてきた。

「山中城にございます。山中城を落とせば関東の道を開けます。足柄城はその後で良いかと思います」
「その理由を聞かせてくれ」

 徳川家康が質問してきた。

「足柄城と山中城。共に関東への入り口を抑えるための城です。しかし、足柄城は山中城より急峻な地にあり攻めるのは容易ではありません。それに山中城は強硬派と恭順派の武将が守っており一枚岩ではありません。今ならば足並みの揃わない山中城を大軍にて一気呵成に攻め落とすことができます」

 これは歴史の史実の受け売りだ。豊臣秀次率いる七万の大軍で攻めて一日で落ちている。上が足並み揃わないなら城に籠もる兵達だって足並みが揃うわけがない。

「韮山城はいかがする?」

 今度は秀吉が俺に聞いてきた。

「攻め落とさなくとも無力化できます。大軍で囲めば補給の期待できない韮山城は城外での戦闘を避けるはずです。それに北条氏規は北条家中においては恭順派の筆頭と言えます。その人物を韮山城に配置した理由は彼が北条一門というだけなく、信頼できる人物だからでしょう。韮山城を失えば伊豆の国人に動揺が走るでしょう。その意味で北条氏規は適役と言えましょう。関白殿下のご威光を理解する北条氏規は血気にはやり軽はずみな行動はしないはず。彼は韮山城の死守を至上命題と考えていると思います」
「だから、城を包囲する最小限の兵だけで良いと言うか? 甘いな」

 秀吉は鋭い目で俺のことを見た。

「相模守、韮山城を攻め落とす必要はないと申すことに他意があるであろう」

 秀吉は見透かすような目で俺のことを見ていた。

「いいえ。いえ、ありました」

 俺は徳川家康に恩を売ろうと思っていた。北条氏規は幼少時代に駿河今川家の人質になり、同じく今川家に人質になっていた徳川家康と知り合いで関係も良好なようだ。だが、これをそのまま言うと秀吉の心象を害すに違いない。

「北条氏規について調べ優秀な人物と思いました。北条氏規は関白殿下のお役に立つはずです。北条が関白殿下に恭順するべく動いた人物です。韮山城に籠もるのは北条一門としての責務からでしょう。大軍を前にしても怖じ気づき裏切ることをよしとしない。その武士振り。殺すには惜しい人物と思いました。また、北条氏規を生け捕りにすれば、小田原城に籠城するであろう北条氏政、北条氏直の交渉に利用できるかと思います。出過ぎた浅知恵を弄しまして申し訳ございませんでした」

 俺は秀吉に対して底心抵当頭を下げ謝罪した。

「相模守、お前の言い分は最もである。儂も北条氏規を殺すには惜しいと考えていた。そこまで申した以上、お前は韮山城攻めに加わるのだ」

 俺は秀吉の命令に戸惑い顔を上げた。秀吉は先程までの厳しい表情ではない。
 あれ?
 秀吉は怒っていないようだ。
 北条氏規の件は俺に任せると秀吉からお墨付きを貰ったに等しい。

「関白殿下、謹んでお引き受けいたします」

 韮山城は北条氏規によって堀が増強されている。その上、韮山城に困る兵達は北条氏規の元志気は旺盛のはず。崩し処は伊豆国の有力国人である江川氏の一部が徳川家康に内通していることだろう。俺が北条氏規に接触しても信用されないはずだ。徳川家康に人を貸して貰う必要がある。もしかしたら徳川家康から接触してくる可能性も十分にあり得る。

「では、相模守の進言通り山中城を先に攻める。山中城は秀次お前に任せる。韮山城は内大臣にお任せできるか?」

 秀吉は俺から視線を動かし織田信雄に言った。織田信雄は「かしこまった」と即答した。

「相模守、お前は先程申した通り内大臣に従い韮山城攻めに加わるのだ。内大臣、韮山城を必ず落としていただきたい。ただし、この相模守に北条氏規の身は一任して欲しい」

 俺は心中でげんなりする。石田三成と別れられるが別の難題を押しつけられた気分だ。秀吉は織田信雄に「韮山城は必ず落とせ」と命令してきた。城郭巡りが趣味な俺が見た韮山城の平山城だが本丸は大軍で攻めれば簡単に落ちそうな構造だった。韮山城を見下ろす場所にある天ケ岳砦に籠もられる面倒だが織田信雄を大将とする四万の軍勢を三千で阻むことは無理だと思う。だから、織田信雄が意図的に積極的な城攻めを行わなかったのではないかと思った。
 秀吉は俺を出汁にしたんじゃないかと勘ぐってしまう。北条氏規は反豊臣で強硬派じゃなく恭順派の主要人物だ。その上、徳川家康とは仲が良い。北条氏規は態々秀吉に謁見するために京まで足を運んでいる。当然、ここにいる武将達も徳川家康と北条氏規の仲について噂位聞いている人物がいると思う。その北条氏規を攻め殺すのは徳川家康の手前、気後れする武将がいてもおかしくない。だから、韮山城攻めに従軍する武将達は積極的に城を攻めないかもしれないと秀吉は読んでいた可能性はある。その一人である俺が言うのだから十分にあり得る。豊臣秀次辺りは気にせず北条氏規を殺しそうだが。
 秀吉も北条氏規を殺す気がないから、織田信雄を敢えて韮山城攻めの総大将にしたのだろう。このままだと最終的には徳川家康が降服の使者を送り話をまとめる可能性が高い。それでは秀吉は納得できないのだろう。北条氏規に恩を売るのは秀吉自身じゃないといけない。そこで俺なのだろう。北条氏規に好意的な俺なら交渉役にはうってつけ。問題は北条氏規に交渉役として信頼されるかだろうが、俺の陣羽織は北条氏規に十分に効果があるに違いない。
 城攻めは必ず味方にも損害が必ず出る面倒な戦いだ。だから、誰も城攻めを積極的にやりたい武将はいないと思う。それも相手が降服する可能性が高いなら尚更だ。
 だが、秀吉は織田信雄に「韮山城を必ず落とせ」と命令した。秀吉が明言した以上、城攻めは史実より激しくなる可能性が高い。間違いなくそうなる。なぜなら俺が北条氏規について一任された以上、北条氏規が死んだら俺のせいということになるからだ。
 頭が痛くなってきた。

「かしこまりました。内大臣様、若輩の身ではありますがよろしくお願いいたします」

 胃がキリキリと痛んできた。最悪過ぎる状況だ。

「相模守、よろしく頼む」

 織田信雄は落ち着き払った態度で俺に声をかけた。彼は俺の心境など余所に北条氏規のことなどどうでもいいと考えている様子だった。徳川家康は俺のことを真剣な目で凝視していた。これは不味い。北条氏規を死なせたら俺は徳川家康に恨まれるに違いない。 

 

第十一話 策謀

 俺は軍議が終わると長久保城を離れ郊外にある設営された自分の陣屋に戻った。陣屋は急拵えで揃えたものであまり立て付けが良くはない。明日には引き払うからしっかり作る必要もないから、これで十分だろう。
 俺が陣屋に到着すると小姓達が出迎えた。俺は彼らに家老を呼んでくるように指図し、俺は玄関の式台に腰をかけ座る。残った小姓の一人が水桶を持ってくる間、もう一人の小姓は俺の草履と足袋を脱がしてくれた。その後、俺は小姓に足を洗ってもらうと陣屋の奥へ進んでいった。
 現在、俺に仕える家老は四人いる。小出吉清、藤林正保、岩室坊勢祐、曽根昌世。俺の叔父、小出吉清、はこの場所にはいない。彼は筆頭家老として俺の所領、摂津国豊島郡、に下向させた。これは彼に内政を任せることにしたからだ。彼は戦場より事務仕事が得意でこの人事に凄く喜んでいた。その彼の知行は千二百石だ。俺は彼を百五十石で家臣にした。しかし、他の家老との兼ね合いもあり千二百石に加増した。他の三人は千石で揃えている。お陰で俺の台所事情は凄く悪い。
 秀清には京を去る時、金欠になったら秀清の家に居候するから頼むと伝えている。秀清は俺の話を聞き「おう! 任せておけ」と言っていた。持つべき者は親類である。他の家老達にはこうも気軽に言えない。知行が一万石でも家臣を雇うたびに自由になる知行が減っていく。当たり前のことだが世知辛い。より多くの家臣を雇うために贅沢をするのは当分できそうにない。百万石とはいはないが十万石位領地があれば大分楽になるんじゃないかと思う。これで伊豆一国を貰えないと凄く困ることになる。
 俺は軒下を歩きながら外を陣屋を警備する足軽達に目をやった。彼らは俺の姿を確認すると膝を着き頭を下げた。北条攻めに連れてきた兵数は五百だ。
 ああ頭が痛い。
 兵数五百といえば二万石級の動員だ。非戦闘員も合わせると八百人弱いる。兵糧がいる。金がいる。泣きたくなってくる。仏心に絆されて家臣を抱えすぎてしまった。津田宗恩が連れてきた者達は訳ありの武士ばかりだった。武勇は優れているが敵が多すぎる。
 俺は軒下から覗く空を眺めた。俺の暗雲が立ちこめる心境をあざ笑うかのように晴天だ。俺は恨めしそうに空を眺めると溜息をついた。
 津田宗恩も良かれと思って紹介しれくれたに違いない。
 そういえば。津田宗恩から選別をもらった。銀四十貫と鉄砲を二百丁。この陣屋に置いてある。銀は全部で重さ百五十キロあり、現代価値にして二千四百万円位の価値がある。津田宗恩に「どうして俺に高価な品をくれるのか」と聞いたら「小出様が出世されれば何倍にもなって返ってきます。これくらい安いものです」と笑いながら俺に答えていた。
 俺は足軽達に警備に戻るように命令し、再び陣屋の奥に進んでいった。奥には座敷があった。俺はその座敷に入っていき、一段高い場所に腰をかけた。しばらくすると家老三人が集まってきた。俺は家老達に軍議の内容を説明することにした。

「関白殿下から韮山城攻めに加わるように命令を受けた。それと韮山城主、北条氏規、を降伏させ身柄を拘束しろと直々に指示を受けている」

 俺の話に家老達は驚いた表情になり沈黙した。これから攻める城の城主の身柄を拘束しろとは無理難題もいいところだ。北条氏規を降服させることが俺にできるのか不安しかない。面識のない俺の言葉に北条氏規が耳を貸すと思えない。

「無傷ででしょうか?」

 藤林正保は沈黙を破り俺に質問を投げかける。

「北条氏規を無傷で拘束しろとは命令されていない。まあ無傷にこしたことはないだろうな。死ぬような傷を負ってなければいい」

 家老達は安堵の表情に変わる。北条氏規を殺したり廃人同然にしたら徳川家康の俺に対する心象は悪くなるに違いない。それだけは可能な限り避けたい。
 最悪の事態に陥り北条氏規を殺すしか道がない場合、俺以外の武将が止めを刺すように仕向ける必要がある。誰に殺させるか。血の気の多そうな福島正則にするか。福島正則は確か秀吉に仕官する前に人を殺している狂暴な男だ。

 「韮山城攻めに参加する方々の名前をお聞かせくださいますか?」

 曽根昌世が韮山城攻めの軍の陣容を聞いてきたから俺は包み隠さず説明した。

 韮山城攻めの総大将は織田信雄。
 参加する武将は織田信包、蒲生氏郷、稲葉貞通、筒井定次、生駒一正、蜂須賀家正、福島正則、戸田勝重、岡本良勝、山崎片家、中川秀正、森忠政、細川忠興、俺。

 軍の陣容を話し終えると、曽根昌世だけでなく藤林正保も懸念があるのか渋い表情になった。岩室坊勢祐は彼らの反応とは異なり気に留めている様子はなかった。

「生駒親正が参加するのですか?」
「参加する。惣次大夫と伊賀守には俺から伝える」

 藤林正保の問いに俺は即答した。この惣次大夫と伊賀守の名はそれぞれ十河存英、十河保長という。彼らは津田宗恩の紹介で俺の家臣になった。十河存英は俺の一歳年上、十河保長は俺の二歳年下だ。二人とも元服をしていなかったため俺が烏帽子親となり急遽元服させ、十河存英に七百石を十河保長に五百石をそれぞれ与えた。三万石の大名だった讃岐十河家一門には心苦しいが今の俺にはこれ以上出せそうにない。この二人には戦働きを期待していない。期待しているのは彼らに追従してきた十河旧臣達だ。彼らは十河家嫡子、十河千松丸、の件で生駒親正を八つ裂きにしたいくらい憎んでいる。
 十河存英と十河保長、それに十河旧臣達によると、十河千松丸は生駒親正によって毒殺されたと訴えている。ただし証拠はない。だが、十河存英達の話を聞くと状況証拠から生駒親正は限りなく黒だ。十河千松丸は生駒親正の元で養育されたが、生駒親正からは疎まれていた。その証拠には生駒親正は十河千松丸に鼻紙代と称して三千石を与えていた。鼻紙代という部分に嫌味を感じる。
 その後、十河千松丸は秀吉に謁見する機会を得る。この時に秀吉は生駒親正に十河千松丸への処遇を叱責したらしい。そして、十河千松丸が讃岐国に帰国直後に彼は急死した。誰の目にも生駒親正が殺したように思える。俺もそう思ったが立場上、軽率な言葉は口にしなかった。
 生駒親正は十河存英達に十河千松丸の遺体との対面すら許さなかったそうだ。この辺りにも生駒親正に後ろめたさがあったのではと勘繰ってしまう。
 十河存英達を召抱える時、生駒親正の屋敷に俺が直接出向き会ったことがあるが善人面した欲深い悪人に見えた。生駒親正は十河存英達を召抱えることに不服を言うことなく逆に手放しに喜んでいた。十河存英達のことが余程邪魔だったのだろう。
 十河旧臣達を召し抱えるにあたり問題が起こった。彼らは七百五十人いる。これを全員雇うことは難しい。そこで小身の者は俺の直臣として五十人ほど雇用した。残りは客分として俺の領地でしばらく生活してもらうことになった。彼らには北条征伐後に秀吉から七万石を与えられるお墨付きを得ていることを伝え、全員雇うから今は我慢してくれと頼みこんでいる。行く当てが無く困っているようだった彼らは俺の申し出をとりあえず受け入れてくれた。
 秀吉から加増されれば間違いなく人手が無くて困ることになる。十河旧臣達は絶対に手放すつもりはない。

「殿、十河の者達だけなく、悪右衛門達も気をつけた方が良いと思います。悪右衛門に他意がなくとも細川忠興は悪右衛門達のことを殺したがっています」

 曽根昌世は赤井直義の名を出した。赤井直義は丹波赤井氏の出身で最近まで京で隠棲していたが津田宗恩が俺に紹介した人物だ。彼の父親は「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正だ。
 丹波赤井氏は当時織田軍であった明智光秀に滅ぼされた。その後、明智光秀が滅び丹波国に領地を持ったのは細川忠興の父、細川藤孝、だ。丹波の領主になった細川家は赤井直義をどういうわけか付け狙っている。
 細川藤孝と赤井直義の件は話をつけた。だが細川忠興は赤井直義を見逃す気がなく不満を抱いているようだった。父親の前では露骨に不満を口にしなかったが、俺のことを睨んでいた。あの目は赤井直義を殺す気満々だ。戦場のどさくさに紛れて赤井直義を暗殺しに来る可能性がある。韮山城攻めに細川忠興が参加する。
 ああ。頭痛がしてきた。

「生駒親正と細川忠興の陣から離れた場所に陣を張るつもりだ。俺は軍監みたいな存在だから内大臣の側に居ればいいと思っている」
「それがよろしいでしょう」

 曽根昌世は俺の提案に同意した。藤林正保も俺の意見に同意見なのか頷いていた。
 ここで話に出ていないが津田宗恩が紹介してくれた人物がまだいる。彼らも凄く曰くがある。おかげで黒田長政から睨まれることになった。
 彼らは黒田家に虐殺された豊前|城井(きい)氏の残党だ。この一族は関東の名門、下野宇都宮氏、と同族になる。北条攻めで何かの役に立つと思い考えなしに召抱えたが薮蛇だった。当主・城井鎮房、その嫡子・城井朝房は黒田家に惨い殺され方をした。俺の元に身を寄せているのは城井鎮房の四男・城井経房とその城井家家臣三十人だ。城井経房は俺に仕官する時に城井朝房の遺児による御家再興を願い出てきた。俺の陪臣でいいならと受け入れた。俺も一度雇った以上は責任を持って彼らを守るつもりでいる。だが陰険な黒田長政に睨まれることで胃が痛くなる。黒田長政は後藤基次を執拗に追い込み死に追いやった危険な男だ。父親の黒田孝高は物分かりがいいのに黒田長政は血の気が多く陰険だ。俺のところに定期的に手紙を送ってくる。手紙は開封せず読まないことにしている。
 領地の大半を俺の家臣達にばら撒き金欠状態で頭が痛いのに、その他のことで頭が痛いことが増えている。俺は頭を押さえながら深い溜息をついた。家老達は俺に声をかけない。もう、俺の日課だから敢えて声をかけなくなっている。俺もそうしてくれる方がありがたい。

「殿は韮山城でどう動かれるつもりなんです?」

 ずっと黙っていた岩室坊勢祐が開いた。

「北条氏規の家臣、江川英吉を味方につけるつもりでいる。俺が北条氏規を直接交渉しても彼が心変わりするとは思わない。徳川には江川英吉の子供、江川英長が臣従し、徳川の旗本として北条征伐に従軍している。徳川に口利きをして貰えればことが順調に運ぶと思うんだが」
「親子で敵味方に分かれる。大勢力に囲まれた国人の悲哀を感じますな」

 曽根昌世はしみじみとした様子で呟く、俺のことを厳しい表情で見た。

「殿、江川氏を調略すること容易なことではありませんぞ。それと、徳川に軽はずみ頭を下げるのは止めるべきです」

 曽根昌世が俺に釘を刺してきた。元徳川家臣だから徳川家康とあまり積極的に関わりたくないのだろうか。彼の表情は徳川家康のことが好き嫌いで言っているような様子は無かった。

「徳川から話を持ちかけてくれる可能性はないか? 北条氏規は徳川家康と友人だろう」

 俺は身内だけの合議の場であるから徳川家康のことを呼び捨てにした。家老達も気にした素振りはない。

「徳川家康は情にほだされるような御仁ではありません。必要とあれば最愛の嫁も息子も迷わず殺します。そう割り切れる人間です。冷酷非情な人間とは言いませんが己の身を守るためなら誰でも躊躇なく殺します。もし殿に話を持ちかけるなら向こうに利があると見るべきです」

 曽根昌世は俺の考えを斬って捨てた。徳川家康に一時期とはいえ仕えた者の話だけに含蓄のある答えだ。
 確かに戦国大名が良い人で務まるわけがないよな。だが、徳川家康は戦国大名の割には残虐な真似はあまりしていない。昔の恨みを忘れない根暗な面もあるが、戦国大名の中では甘い部類だと思っている。三河一向一揆の時も裏切った家臣を許しているし、寺も破却することで許している。あまり苛烈な真似は好まない人物じゃないだろうか。徳川家康にも残虐な話はあるが戦国大名なら一つや二つ位はあるだろう。

「内匠助殿、韮山城を落とすためには江川英吉を調略するしかない。有象無象の国人を調略しても北条氏規の心を動かせなければ意味がないでしょう。韮山城に江川の名を冠した砦があるということは北条家から重用されている証と言えます。」

 徳川家康を頼ること否定的な曽根昌世に藤林正保は意見した。俺も江川英吉を味方につける計画を変更するつもりはない。これしか無いだろう。

「長門守殿、それはわかっています」

 曽根昌世は藤林正保の意見に反対することなく同意した。徳川家康の力を借りることに否定的なだけで、曽根昌世も江川氏を調略することには賛成のようだ。
 韮山城を攻めるも北条氏規に降伏されるにも、韮山城の内部に協力者を作る必要がある。その人物として適役なのが江川英吉だ。江川家は韮山城のある地域を古くから領有して土豪の一族だ。土地勘もあり韮山城のことも良く知っているはずだ。だから徳川家康は江川英吉を内応させたのだろう。それに伊豆国と徳川領の位置関係から韮山城攻めは徳川家康が命じられる可能性は十分にあった。事前に伊豆国を調略を進めていたのはそれが理由だろう。

「殿、思い違いされておられるようですな。江川氏は既に立場を決めております」

 曽根昌世は厳しい表情で俺に言った。

「北条氏規の元に江川英吉、徳川家康の元に江川英長。お分かりになりませんか」

 俺は曽根昌世が指摘した内容に既視感を感じた。関ヶ原の戦いの前に真田昌幸と真田信之は西軍と東軍に分かれて戦う道を選んだ。

「江川英吉は北条氏規は絶対に裏切らないということか?」

 俺は表情を固くして曽根昌世に聞いた。曽根昌世は深く頷いた。

「内匠助殿、そうとも言えないだろう。豊臣家が絶対に勝利すると思えば国人は豊臣家に靡くはずだ」

 藤林正保は曽根昌世の考えに難色を示した。

「ただの伊豆国の国人であればそうでしょう。ですが、早雲公以来仕える江川氏なら意地も誇りもあるでしょう。死ぬ急ぐような真似はしないでしょう。息子を徳川家康に遣わした理由はどちらに転んでもあわよくば互いの助命を得ようという国人らしい強かなずる賢いやり口です」

 曽根昌世は国人領主のことを軽蔑したような口振りだった。だが、俺は国人領主のそういう面は逞しさだと感じた。誰も死にたくないに決まっている。だから、必死に生き残れるように布石を打つのだと思う。

「それは買い被り過ぎでは無いですか? 国人領主は口で忠義を言っていても情勢次第で簡単に裏切ります。殿の話では北条は堅牢な城に長期間籠城し敵の兵糧が切れるのを待つ戦い方を得意とするという。ならば、北条の本拠である小田原城が落ちねば降伏はせんでしょう」

 藤林正保は曽根昌世の考えに否定的なようだ。

「殿、風魔衆を召し抱えるつもりはございませんか?」
「長門守、風魔衆が俺に従う可能性はあるのか?」
「風魔衆から接触がありました。彼らもここにきて風向きが悪くなったことを感じているようです。奴らは前線で活動するため鼻が良くききます。今までとは違うと感じるのでしょう。それに風魔衆は北条の扶持を食んでいるといっても捨て扶持で雇われる身分です。正式な武士とはいえない。徳川家康は風魔衆を拒絶しています。だが、風魔衆にはそう伝手はない。それで接触をしていた私を頼ってきたのでしょう」

 俺は思案した。風魔衆は忍者というより賊徒の雰囲気がある。

「風魔衆は私に降る条件に何を掲示している?」
「殿の家老として仕えさせて欲しいとのことです」
「俺の家老!?」

 俺は驚いてついつい地が出てしまった。どういう了見でそんな要求をしている。

「関白殿下に伝手を頼みたいでなく、俺みたいな小身の家老になりたいのか?」
「知行もなく捨て扶持で雇われる風魔衆が知行安堵状を欲する訳がないです。彼らはしっかりとした地盤が欲しいのだと思います」
「それを私が与えてくれると考えているのか?」
「少なくとも殿なら話は聞いてくれると思ったのでしょう。召し抱えた家臣達を探れば分かることです」

 俺は沈黙し考えた。曽根昌世は話に参加してこなかった。俺に一任するということだろう。これは俺が決めることだからな仕方ない。

「風魔小太郎はただ家老にしてくれとは言っておりません。殿に頭領、風魔小太郎、の娘を差し出すと申しております」
「長門守、嫡子ではなく娘か?」

 俺は苦笑いしながら藤林正保に尋ねた。藤林正保は頷いた。人質なら嫡子を差し出すのが筋だろう。それは出来ないか。そんな真似をすれば北条氏に感づかれる。

「風魔小太郎には娘しかいないのか?」
「風魔小太郎には男子が数人おります」
「それで娘か」

 俺は興味を失ったように呟いた。

「風魔小太郎は俺を舐めているのか?」

 俺は怒りを隠さず藤林正保に言った。

「風魔小太郎は殿のことは舐めてなどおりません」
「人質は男子を差し出すが道理だろう。嫡子ならば北条家に気取られるためと言い逃れも出来ようが他にも男子がいるのなら到底承服できない」
「風魔小太郎は言葉通り娘を差し出すと言っております。殿に娘を献上すると言っているのです」
「長門守、俺が十二歳だと伝えてたのか?」

 俺は鋭い目で藤林正保を見た。

「申しました。それでも娘を差し出すと言っておりました」
「娘の歳はいくつだ?」
「十六歳です」

 俺は眉間に皺を寄せ考え込んだ。風魔小太郎は何を考えているのだ。俺を殺す気か。その可能性はあり得る話だ。だいたい乱歩の頭領の娘に人質の価値があるか甚だ疑問がある。

「長門守、素破の頭領の娘を差し出されて人質の価値があると思うか?」
「殿はそう思われるのですか?」

 藤林正保は真剣な表情で聞き返してきた。乱歩とはいえ赤い血の流れる人の子だ。自分の娘は可愛いだろう。こんな敵地に送り込むことは気が引けることと思う。

「思わない」

 俺は考えた末に自分なりの考えを出した。

「だが、その娘が風魔小太郎の娘である証拠があるのか? この私を殺すために送り込まれた素破の可能性もある。風魔小太郎に娘と別に手土産を用意しろと申しつけよ」
「手見上げとは具体的に何を望まれるのでしょうか?」
「私は韮山城に籠もる江川英吉と徳川家康の旗本となった江川英長は裏で通じていると見ている。どうしても違和感を感じるのだ。友人同士である北条氏規と徳川家康に江川の者がいる。だから、二人の間で連絡ができなくなるようにしろ」

 俺は冷たい目で藤林正保を見た。藤林正保は唾をごくりと飲み込んだ。

「江川英吉と江川英長が通じているなら必ず連絡を取り合うはずだ。風魔衆なら土地勘があるだろう。連絡役を全て殺せ。江川英吉と江川英長が不安を煽るためにな。風魔衆がこの役目を全うできれば北条征伐後に家老として召し抱えると伝えよ」
「仰せしかと承りました。では殿の直筆の書状をいただけませんでしょうか?」

 藤林正保は俺に平伏し書状をくれと言ってきた。俺は後で書くというが早く書いて欲しいと急かされ、小姓に机と硯と紙を用意させた。俺は筆を走らせながら議論をする羽目になった。

「もし、殿の見立て通りならば江川英吉を私達に降伏させることができます。ですが、もう一押し足りません。徳川の素破を南豆州に近づけないように掃除が必要です。徳川家康は必ず焦るはずです」

 曽根昌世は口角を上げ俺のことを見た。俺も口角を上げ笑みを浮かべた。

「長門守、やれるか? これが私達の将来を決める戦となる」

 俺は藤林正保を真剣な顔で見た。藤林正保は深く頷いた。

「問題ありません。必ずやりとげてみせます」
「金が必要なら、津田宗恩から貰った餞別がある。自由に使ってくれ」
「殿、ありがとうございます」
「別にいいさ。金は使うべき時に使わなければ意味がない」

 俺は藤林正保と曽根昌世の顔を見た。これで後方の攪乱は心配ない。風魔衆が本当に俺に味方したか分かるはずだ。もし、動きが無ければ裏切ったと見做し娘は衆人環視の元で磔にさせてもらう。

「殿、韮山城は如何に攻められますか?」
「江川英吉が篭る江川砦を攻め落として味方につくように説得する」
「もし、江川親子が通じて何か画策していれば動揺からこちらに靡く可能性はありますな。長門守殿、江川砦に篭る兵の数はどのくらいですか?」

 曽根昌世は俺の提案に乗ってくると藤林正保に話を振った。

「江川砦に篭る兵の数は百人位だ。それ以外に江川一族や家臣の家族達も篭城しているので二百人位はいる。それにかなりの数の鉄砲を運び込んでいる」
「鉄砲が幾らあろうとそれを使いこなせなければ敵ではない。長門守殿、江川兵は鉄砲の練度はどの程度です?」

 岩室坊勢祐が腕組みしながら藤林正保に聞いた。

「江川兵だけでなく韮山城に篭る兵は鉄砲の扱いには慣れているようだった。ただ、急造の鉄砲組もあるため練度にはばらつきがある」
「勝算は十分にあります。根来の者なら鉛玉と玉薬がある限り間髪居れず弾幕を張れます。その隙に砦に突入してくれれば何とかなります」

 岩室坊勢祐は胸を叩いて俺に言い切った。

「殿、江川砦の鉄砲組を封じ込めた暁には五千石をお願いいたします」

 岩室坊勢祐は口角を上げ笑みを浮かべ俺に論功の要求をしてきた。俺は秀吉から伊豆国を貰ったら家老達に一万石ずつ与えるつもりだった。それに彼らには発憤してもらう必要があるからな。

「勢祐、五千石といわず伊豆国を手に入れれば一万やる。だから、この北条征伐で精一杯死力を尽くしてくれ。長門守も内匠助もだ」

 俺は岩室坊勢祐、藤林正保、曽根昌世を順に見た。家老達は俺の申し出に目を見開くが直ぐにやる気に満ちた表情に変わった。岩室坊勢祐、藤林正保には子飼いの家臣がいるが知行が千石だから全員を呼び寄せることができずにいる。一部は俺の直臣にして彼らに与力として付けているが領地には限度があるからこれ以上は無理だ。だから、俺の加増の話は彼らを発憤させるはずだ。一万石もあれば彼らの郎党を全員呼び寄せることができるはずだ。

「私は伊豆国だけで満足しない。関白殿下は手柄次第では更なる加増を約束してくれた。俺も死ぬ気で頑張る。だからお前達も俺に着いて来てくれ」
「殿、剛毅な物言い気に入りました。岩室坊勢祐が殿のために手柄を取って見せます!」
「殿、この長門守も勢祐殿には負けませんぞ!」
「殿、必ずや江川砦を落としてみせます!」

 場の空気は盛り上がった。俺は今後の方針を反芻した。江川砦を落としても江川英吉がすんなりと俺に協力するだろうか。彼の後ろに徳川家康が控えていることを考えると俺に協力的にならない可能性もある。
 俺は風魔小太郎への書状を認め終わると自分の名前と花押を書き紙を乾かしながら何か妙案がないか考えはじめた。
 江川英吉を更に揺さぶるために手札が欲しい。江川英吉が俺に大人しく力を貸してくれる材料になるものはないだろうか。今の俺は何も持っていない。でも、国人なら領地を保証することだろうな。
 江川英吉が徳川家康に通じた理由は徳川家康が、東海道の大大名であり伊豆国と徳川領が接していることから、伊豆国に侵攻して来ると考えたからだろう。
 その後徳川家康がその土地をそのまま領有する可能性は大きい。そう考えれば徳川家康を頼るのは自然な成り行きだ。江川英吉には秀吉との面識がない。そうなると頼るべきは隣国で一番の大勢力となる。
 江川英吉を調略するには俺を信用できると思わせる必要がある。
 俺の肩書きでは江川英吉が降伏しても俺に積極的に協力するかは微妙だ。俺一人で無理なら徳川家康を動かす必要があるが、その選択肢はさっき捨てた。残る手立ては秀吉に頼るしかない。
 秀吉に伊豆国の知行安堵状を貰いに行こう。秀吉から怒鳴られる可能性があるが駄目もとで行くしかない。
 俺は乾いた書状を折り畳み紙で包み封をした。

「長門守、これが風魔小太郎への書状だ」

 俺が藤林正保に声をかけると、舞い上がっていた藤林正保は慌てて姿勢を正し恭しく書状を受け取った。

「江川英吉を味方に引き入れるために関白殿下に相談してくる」

 俺は藤林正保にそう言い、まだ盛り上がっている二人の家老をほっといて立ち上がった。すると家老三人の視線が俺に集中する。藤林正保は俺が脈絡もなく話したので要領を得ない様子だった。

「関白殿下にございますか?」
「何をなされに行かれるのです?」

 藤林正保と曽根昌世が訝しむように俺に聞いてきた。

「関白殿下から伊豆国の知行安堵状を貰うのだ」

 俺はあっけらかんと答えた。駄目なら駄目で違う方策を考えるだけだ。

「江川英吉の知行安堵状ですか?」

 二人とも勘違いしているようだ。だが、それでもいいな。秀吉から断られたら、江川英吉の知行安堵状を貰えるように頼んでみよう。

「違う。俺に伊豆国を与えると書いた知行安堵状だ」

 俺がきっぱりと言うと二人は仰天した顔で俺のことを見ていた。岩室坊勢祐は俺のことを愉快そうに見ていた。

「殿、流石にそれは無理ではありませんか?」

 藤林正保は狼狽した。

「分かっている。駄目もとで関白殿下に頼んでくる。無理なら江川英吉の知行安堵状を代わりにもらってくる」
「あまりにわがままな要求をされると関白殿下の怒りに触れるやもしれませんぞ」

 藤林正保と曽根昌世を諌めた。豊臣秀次の弟、豊臣秀勝、のことを言っているのだろう。豊臣秀勝は領地が少ないと秀吉に不服を申し立てて丹波亀山十万石を改易された。俺は豊臣秀勝のように馬鹿じゃない。徳川家康が伊豆国を調略済であることを報告して、彼の地が徳川家康の影響を強く受けることなると訴えるつもりだ。 
 その流れで伊豆国の国人達を徳川家康から引き剥がすために調略をするから、俺に知行安堵状を与えて欲しいと頼めば、秀吉も激怒して俺を罰することはないだろう。 

 

第十二話 覚悟

「安心しろ。俺は豊臣秀勝のような欲得で要求する訳じゃない。この話は豊臣家にとっても利となることだ。関白殿下も豊臣秀勝の時のように俺を罰することはない」

 俺の言葉を藤林正保と曽根昌世は信用できない様子だ。甥の豊臣秀勝が領地について不平を口にして改易されたことと、俺が伊豆国の知行安堵状を秀吉に要求することは状況が似ていると言えなくもない。だが、豊臣秀勝は個人の欲得で不満を口にしたのであって俺とは異なると思う。

「仮に利することとはいえ。関白殿下に勘ぐられる可能性があります」
「長門守殿の仰る通りです。殿は知恵が回ります。だから、小細工を弄して、自分の待遇を良くしようとしていると関白殿下に取られる可能性があります」

 藤林正保の話に同調して曽根昌世は自分の考えを話し出した。

「その可能性はあるな。言葉に気をつけ関白殿下に話を持ちかけてみる」

 藤林正保と曽根昌世の助言に納得した俺はどう秀吉に話を持ちかけようかと考える。

「それをお止めください。殿が色々と知恵を回らせ要求を通そうとすればするほど、関白殿下に余計な疑念を抱かせるかもしれません。事情をお話になり正面から要求され無理なら引き下がるべきです」

 藤林正保は俺を諫めた。

「そう言うものかな。話すにしても言い方一つで相手の印象は違うと思うのだが」
「今回の内容は関白殿下に真摯な態度で頼まれるべきです」

 次に曽根昌世が俺を諫めた。この二人は俺より人生経験豊富そうだから素直に意見を受け入れた方が良さそうだ。

「分かった。二人の意見は肝に銘じる」
「殿の身は殿だけのものではありません。多くの家臣の生活がかかっていることをお忘れ無きようにお願いします」

 藤林正保と曽根昌世は俺につめより念押ししてきた。二人とも真剣だ。確かに二人の言う通りだ。でも、俺と家臣全員の生活を考えれば伊豆国だけじゃ足りないと考えている。伊豆国には土豪もいる。全員領地を没収して俺の家臣達に分け与えることは無理だと思う。今後、統治を進めていく上で地元の土豪を全て潰すやり方は得策じゃない。そんなことをすればたちまち土豪達が一揆を起こしかねない。それを俺の家臣達だけ鎮圧することは無理だろうからな。潰すにせよ段階的に無力化して潰していかないと危険すぎる。

「重々分かっている。私は自分の欲得だけで無理をしているんじゃない。家臣達に満足な知行を与えてやりたいだけだ。この戦が終われば当分戦は無くなるだろう。今しか立身する機会はないのだ」

 俺は自分の気持ちを二人に正直に伝えた。この言葉に嘘偽りはない。
 俺は戦国の世を生き残るために頑張っていることは事実だ。だから、家臣も大勢必要なる。だが自分が生き残るためだけのために頑張っているわけじゃない。俺のために働いてくれる家臣のために少しでも報いてやりたい。だから頑張っているんだ。そして、そのためには領地がいるし金がいる。

「長門守殿。内匠助殿。殿もしっかりとお考えの上で行動されていると思います」

 岩室坊勢祐が俺を擁護してきた。藤林正保と曽根昌世の気持ちも俺はよく分かっている。だが、ここが頑張りどころなのだ。

「私達は殿を信じていないなど言っていない。関白殿下は感情的になられることがあるから殿の身を案じているだけだ!」

 藤林正保と曽根昌世は岩室坊勢祐の口振りが癇に障ったのか急に怒りだした。

「殿は関白殿下の甥子で、関白殿下は殿を気に入れられているようですし、俺達よりよっぽど関白殿下をよく知っているはずです。殿にお任せしておけば万事上手くいきますよ」

 岩室坊勢祐は落ち着き払って笑みを浮かべた。藤林正保と曽根昌世も岩室坊勢祐の話を聞き終わると思案し「そうだな」と口を揃えてつぶやいた。

「殿、ご無理をなされないようにお願いします。私達は微力ながら殿をお支えする覚悟でございます。関白殿下への相談の件はよろしくお願いいたします」

 家老達は揃って俺に頭を下げた。家老達の言葉に俺は心を熱くした。俺は良い家臣に恵まれた。伊豆国の知行安堵状を手に入れて見せるぞ。俺は心に強く誓うのだった。

「任せてくれ。行ってくる」

 俺は家老達に見送られ秀吉がいるだろう陣屋に向かった。秀吉の陣屋は俺と違い長久保城だ。俺は長久保城に到着すると小姓に秀吉に取次を頼んだ。だが、俺は待たされることなく秀吉のいる部屋に直ぐに通された。
 部屋には秀吉と薄着の女が三人いた。俺は目のやり場に困り視線を泳がしていると秀吉が大笑いした。

「切れ者の卯之助もやはり未だ子供であるな」

 軍議が終わって直ぐに女遊びをするお前には呆れるよ。俺は心の中でぼやきながらその場に平伏した。

「恐れ入ります。関白殿下、込み入った話があります。お人払いをお願いできませんでしょうか?」
「お前達しばらく場を外せ」

 俺が秀吉に話を切り出すと先ほどまで緩い空気だったが急に張り詰めた空気に変わった。女達が立ち去る足音が消えると俺は体勢を起し話を再開した。
 俺は秀吉に徳川家康が伊豆国を調略し国人を味方につけていることと、このままだと北条征伐後に伊豆国が親徳川になり豊臣家にとって懸念材料となると報告した。勿論、徳川家康と北条氏規の元に江川氏の嫡子と当主がそれぞれ仕えていることも説明した。
 秀吉は俺の報告を黙って聞いていた。途中から秀吉は扇子を開いたり閉じたりする動作を途切れなく続けだした。

「驚くほどのことではないな。家康ならそれくらいのことを事前にやっているであろう。だから、儂は秀次の下に家康をつけたのだ」

 秀吉は驚く様子はなく淡々と答えた。

「近江中納言様の下に駿河前左大将様をつけることで手柄を近江中納言様のものとしようということでしょうか?」

 秀吉は俺に視線を合わせ口角を上げる。

「その通りだ。今回の戦は秀次の箔を付ける良い機会だ」

 秀吉は一旦言葉を切ると俺のことを凝視し口を開いた。

「お前はよう知恵が回る。卯之助、この場はワシとお前だけじゃ。家康を敬称で呼ぶ必要などない。いいな?」

 秀吉が俺を睨むと俺は直ぐに「わかりました」と肯定の返事をした。

「卯之助、儂が織田信雄を韮山城攻めの総大将に選んだ理由が分かるか?」

 俺にその理由が分かるわけがないだろ。だが、そう答えることができる空気じゃない。秀吉は俺の答えに期待している様子だった。理由を考えるしかない。俺は織田信雄の経歴を思い出し頭の中で整理した。

「織田信雄が失態をさらすことをお望みでしょうか?」

 秀吉は子気味よく笑いだした。正解のようだ。

「幾ら織田信雄が戦下手とはいえ四万の大軍で四千弱の兵が篭る城を落とせないなどあるでしょうか? 十倍の兵があるなら包囲し敵の退路を一つだけ空け、敵に圧力をかければ敵に綻びが出る可能性が高いと思います」

 俺は孫子の兵法を引き合いに出して秀吉に意見した。秀吉は俺の意見に笑みを浮かべていた。

「お前は織田信雄とそう付き合いはない。分からんでも仕方ない。あいつのことだ。楽に城を落とせると息巻いて北条氏規に手ひどくやられるだろう」

 秀吉は織田信雄の実力を過小評価しすぎではないか。でも、伊賀攻めでも大軍率いてぼろ負けして無能さを露呈している。韮山城攻めでも織田信雄は緒戦で被害を受け、その後は包囲作戦に切り替えている。北条氏規がいずれ降伏すると考えたのか、徳川家康に色々と囁かれたのか分からない。その後、織田信雄は総大将を罷免された。

「織田信雄は相手が寡兵だと相手を侮る性格ということでしょうか?」
「少し違うな。織田信雄は何事も決め付ける性格なのだ。相手が寡兵なら楽に潰せるとな。人の意見など聞かない奴だ。思惑が当たれば良いが外れると悪い方へ悪い方へ転がり落ちる。韮山城攻めで織田信雄は失態をさらしそうだと思っている」
「北条氏規は北条家中では冷静な目を持っているように思います。幼少の頃は今川家の人質と生活し、人質にも関わらず今川義元の養嗣子にまで遇された人物です。一廉の人物と見て間違いないと思います。織田信雄が関白殿下の想像通りの人物ならば失態を晒すことになると思います」
「よく調べているようだな。織田信雄は北条氏規のことをそう評価していないだろう。どうせ田舎大名の一門程度としか思っておらんだろう。以前、北条氏規は北条家の使者として儂の元を訪ねてきた。当時、北条氏規は無位無官であった。儂は北条氏規を公卿達が居並ぶ中で侍烏帽子を被らせ木っ端侍の様に扱った。あやつはどうしたと思う」

 俺は秀吉に話を振られた。そこまで虚仮にされたら普通は頭に来るだろう。だが、頭に来てもそれを表に出すことは流石に無いだろう。

「感情的になって関白殿下に対して粗相をしでかすことは無かったと思います」

 秀吉は俺の言葉に深く頷いた。秀吉の心証を害しても北条にとっては一門の得もない。

「あやつは激情に流されることなく役目を全うしおった。さぞ屈辱的だったじゃろうがそれをおくびに出さなかった。北条家中の中で一番警戒すべきは北条氏規だ。卯之助、ゆめゆめ油断するでないぞ」

 秀吉は厳しい表情で俺のことを見た。北条氏規は俺の想像している以上に精神的に強い人物のようだ。追い込まれても冷静さは失いそうにないな。だが、その性格なら敗色が濃厚になろうと安易に死を選ぶことはしないだろう。ぎりぎりまで生き残るために知恵を振り絞るはずだし、状況次第では降伏交渉もできるはずだ。俺に降伏することが北条家のためと思わせればいいはずだ。

「関白殿下にお頼みしたいことがあります」
「韮山城攻めのことか。ワシは韮山城をお前と同じく無理して落とす必要はないと考えている。織田信雄が失態をさらせば、やつを総大将から解任するつもりだ」

 秀吉は淡々と話した。秀吉は織田信雄を失脚させることができれば御の字のようだ。織田信雄を徳川領に飛ばす口実作りの材料にするために韮山城を攻めようとしているのか。
 確かに韮山城は戦略上確実に攻め落とさなければいけないほど重要な城じゃない。だが、攻め落とす意義は十分にある。時間をかけてまで落とす必要がある城じゃないということだろう。
 俺は拍子抜けするが、秀吉は先ほどと同じく期待するような目で俺を見ていた。攻め落とす必要ないと先程言いましたよね。
 これは韮山城を落とせということなのだろうか。俺は自問した。

「関白殿下、私に韮山城を攻め落とす妙案がございます。そのため軍配をお預けいただけませんでしょうか?」

 俺は秀吉の期待の視線から目を逸らすことができず、秀吉に自ら韮山城を攻める総大将役を任せて欲しいと頼んだ。俺のような小身が総大将役を任される訳がない。秀吉だって阿呆じゃない。それなのに俺への真意が読み取れない。

「お前に従う武将がいるかな」

 秀吉は短く答えた。なら、どうして俺に期待した視線を送るんだ。俺は毒突きながら秀吉の真意が何なのか考えた。しかし、何も思いつかなかった。

「だが。儂は織田信雄を総大将から解任し、韮山城を包囲する付城を作るように武将達に命じるつもりでいる。織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興は小田原に呼びつける。その後はお前が勝手をする分には何も問わん。他の武将を味方に引き入れるもよし、単独でもよし好きにするがいい。ただし、期限は一月だ。一月で韮山城を落とせなければ大人しく付け城を作るのだ。分かったな」

 秀吉の真意がようやく分かった。織田信雄を筆頭に有力大名が居なくなったら期限付きだが城攻めを許すということだ。そうなると俺は一ヶ月が動かず来るべき日の準備を進めたほうがいい。しかし、秀吉の話の中に懸念材料があった。

「その三人を小田原に向かわせると韮山城に残る兵力は三分の一になってしまいます」
「三人がお前の指図を聞くと思っているのか? 三人が残ればお前の指図を聞くどころかお前の邪魔をしかねんぞ」

 俺の言葉に秀吉は俺を諭してきた。秀吉に指摘された内容は納得のいくものだった。だが、大軍が城を囲むから敵に圧迫感を与えることができる。それが無くなれば敵が城の外に出てくる可能性がある。付城を作られれば敵は本当に身動きができなくなるからだ。でも、北条氏規がそうそう出てくるとも思えない。韮山城に籠もるからこそ味方の被害を最小限に抑えることが出来ていると思うからだ。

「もう一つお願いがございます」

 俺は秀吉に方針に不満は言わず本題を口にした。これが今日秀吉の元を訪ねた理由と言っていい。

「以前、関白殿下が約束いただいた伊豆国の知行安堵状をいただけないでしょうか?」

 秀吉は突然鋭い目つきで俺を見た。これは怒っている。完全に怒っていないけど間違いなく怒っている。
 戦働き前に褒美をくれと言っているんだから、あつかましい頼みだと分かっている。

「関白殿下、厚かましい頼みとは重々承知しております。伊豆国の国人を調略するのに利用したいと思っています」
「調略だと!?」

 秀吉は驚いた顔で俺に聞き直してきた。

「伊豆国の国人達は徳川に靡いております。今後のことを考えれば伊豆国に豊臣家に友好的な在地勢力を取り込んでおいた方が良いと考えました」
「そのために伊豆国の知行安堵状が欲しいと申すか?」
「私の見た目では伊豆国の国人は信用できないと思います」

 秀吉は俺のことをまざまざと見ると何度か頷き「そうだろうな」とつぶやいた。そして、秀吉は脇息(きょうそく)を前に置き両肘を着くと思案していた。その時間が長かった。四半刻は過ぎたろうか。秀吉は俺の顔を見た。

「条件付きで朱印状を与えてやろう」

 秀吉は真剣な顔で俺に語りかけてきた。秀吉の表情が今までみたことがないほどに真剣だ。かなり難題を押し付けられる予感がする。

「韮山城を一月で必ず落とし北条氏規を拘束せよ。降伏させるもよし攻め落とすもよし手段は問わない。もし」

 これが条件かと俺が安堵していると秀吉が条件の続きを話し出した。こんなに楽に伊豆国の知行安堵状が貰えるとは思わなかった。

「韮山城を落とすことと北条氏規を拘束することのいずれか一方でも失敗すれば腹を切れ」

 秀吉の目は真剣だった。俺は表情を凍りつかせ身体を膠着させた。俺の聞き間違いだろうか。秀吉は「腹を切れ」と言ったような気がする。

「関白殿下、今何と仰られたのでしょうか?」

 俺はもう一度聞き直した。俺の声は無自覚に震えていた。

「韮山城を落とすことと北条氏規を拘束することのいずれか一方でも失敗すれば腹を切れ」

 秀吉は俺を凝視したまま一言一句同じ内容を言った。俺は戸惑ってしまった。「失敗したら腹を切れ」とても甥にかける言葉じゃない。俺は泣きそうになるのを堪え心の中で葛藤した。ここは江川氏の知行安堵状を欲しいと提案を切り替えるべきだろうか。

「伊豆国の知行安堵状を前借するほど韮山城を落とすことに自信があるのだろう。ならば城を落とし北条氏規を生け捕りにし応えてみせよ。お前は一国を与えることを軽く考えているのではあるまいな」

 俺が思案していると、秀吉は峻厳な態度で俺のことを睨んでいた。

「この話なかったことにできるのでしょうか?」
「いいだろう。一度限りじゃぞ」
「変わりと言っては何ですが。伊豆国の土豪、江川英吉、の知行を安堵するとお約束願えませんでしょうか?」
「その者はお前が調略しようという相手か?」

 秀吉は俺に詰問した。

「その通りです。北条氏規の重臣にございます」
「駄目だ。既に家康の手がついている。知行安堵状を出しても、江川は儂に感謝せず家康に感謝するに違いない」

 秀吉の目は据わっていた。俺の頼みは聞き届けるつもりはないようだ。どちらの知行安堵状も貰えないとなると俺の目論見は完全に水泡に帰することになる。江川砦を落とし江川英吉を下しても俺に協力するか分からない。もし、協力を得られないなら江川英吉を殺す以外に道が無くなる。生かして置いても将来に禍根を残すことになる。

「卯之助、如何する?」

 秀吉は俺を凝視したまま冷たい表情で俺に声をかけた。
 秀吉は完全に切れている?
 ここは引き下がるしかない。流石にやばい。やばすぎる。命と知行安堵状を比べることはできない。
 死んだらお終いだ。秀吉の雰囲気は俺が失敗したら本気で殺す気でいる。顔は本気だ。本当に殺される。
 切腹なんて無理だ。そんな荒行は俺にはできない。

「卯之助、どうする? ワシの出した条件を飲むか?」

 秀吉は視線を落とし悩む俺に声をかけてきた。その声は冷たい。
 江川英吉を調略できれば韮山城が落ちるはず。江川家は北条氏規の重臣だ。徳川家康が粘り強く北条氏規に降伏交渉を行なったというが、その仲立ちを行なったのは江川英吉と江川英長だと思っている。二人は北条家臣と徳川家臣に分かれることで絶妙の立ち位置を得ることが出来た。徳川家の普通の家臣が城に籠もる北条氏規と交渉しても上手くいく訳がない。江川英吉の息子である江川英長だからこそ上手くいったのだ。この二人の連携を完全に遮断すれば、江川英吉は焦りを感じるに違いない。俺の着眼点は間違っていないはずだ。
 俺の作戦に自信はある。だが、自分の命がかかると実感すると二の足を踏んでしまう自分がいる。

「卯之助、黙っていてはわからんぞ。はっきり答えよ」

 秀吉は返事を催促してきた。これ以上だんまりし続けるのは無理だ。俺から申し出た以上ちゃんと返事をしないといけない。
 俺は死にたくない。
 死にたくない。
 ふと俺の頭の中に家臣達のことが思い浮かんだ。俺の家臣達も死にたく無いはずだ。だが、みんなそれぞれの事情で戦場に出る。俺も戦場に出れば死ぬかもしれない。
 俺は途端に恐ろしくなり呼吸が苦しくなった。

「卯之助、さっさと答えよ!」

 秀吉が俺を怒鳴りつけた。それで俺は現実に引き戻された。
 俺は引き下がれない。
 伊豆国だけじゃ家臣達を養えない。藤林正保と曽根昌世は俺に無理をするなと言ってくれた。だが、ここが俺にとって一世一代の勝負どころだ。家臣達はやる気十分だ。そして、俺は韮山城を落とす自信がある。俺は自らの胸を強く叩きむせびながら呼吸を整えた。
 俺が単独で率いる兵数は五百だ。与力の兵力をあわせれば五百二十くらいか。津田宗恩が連れてきた者達もお家再興のために俺の元にいる。彼らも後がない。俺も家臣達もこの戦にかけている。

「関白殿下、その条件を飲ませていただきます」

 秀吉はしばらく俺の顔を凝視していた。

「本当に良いのだな?」

 秀吉は峻厳な態度で聞き返してきた。

「はい!」

 俺は躊躇なくはっきりと答えた。

「後で寧々に泣きついても儂は許さんぞ。これは主従の間の取り決めと心得えろ。失敗すれば潔く腹を切れ。腹を切らねば儂が手打ちにしてくれる」

 秀吉の雰囲気は今までとは違った。情け容赦ない武士の顔がそこにあった。俺は韮山城攻めで秀吉の出した条件を一つでも失敗すれば死ぬことになると直感した。
 俺は震えそうになる手を片手で押さえつけ気を張る。そして、秀吉に対して手を畳に付け頭を下げた。俺が立身する機会は北条征伐以外にない。それに俺は一人じゃない。頼りになる家臣がいる。俺は家臣達と力を合わせて立身してやる。

「承知いたしました。小出相模守俊定、心を引き締め韮山城攻めにあたります」

 俺は顔を上げ秀吉の顔を見た。

「生意気なことを申しおって。だが、良い顔をしおる」

 秀吉は俺を見据えて口角を上げ俺を見ていた。彼の瞳は言葉と裏腹に愉快そうだった。

「朱印状を書いてやろう。そこに待っておれ」

 秀吉は席を立ち部屋を出て行った。すると背後に気配を感じた。俺は視線を後ろに向けると石田三成が立っていた。

「お前は本当の阿呆だな」
「石田治部少輔様!?」

 どうして石田三成がここに居るんだ。人払いをしたはずだろ。石田三成は何時も通り上から目線で俺のことを見ていたが俺から視線を逸らした。俺も自分が阿呆だと思っている。ここで死ぬ気で頑張る以外に俺に道はない。このままでは俺は間違いなく破産する。引くも地獄、進む地獄。どちらも地獄なら進む以外に俺に活路を開く手段はない。

「三成でよい」

 俺は石田三成の言葉に耳を疑った。石田三成は何を言っているんだ。お前を何で俺が三成と呼ばないといけない。

「今何と言われたのです?」

 俺は石田三成の言っている意味が理解できず聞き返した。

「三成と呼べと言ったのだ」

 石田三成はぶっきらぼうに俺に声をかけた。

「三成様はいつから聞いていたのですか?」

 俺は戸惑いながらも石田三成のことを三成と呼んだ。流石に上司だから呼び捨てにはしなかった。

「最初からだ」
「お前の身代で五百の兵を抱えるの大変だったはずだ。その様子ではお前の自由にできる金などないだろう。どうしてそんな真似をした。私が渡した軍役帳通りに準備を整えておけばいいものを」

 石田三成は呆れた様子で俺に言った。

「知行は関白殿下からいただいたものです。受けた御恩に報いる時は今だと思いました。使い時を逸しては意味がありません」

 俺は本心を隠し忠勤を励もうという若武者を演じた。本当のことを言うと小言を言われる気がしたからだ。
 北条征伐で手柄を上げないと領地を加増してもらえる機会は今後ないと思っている。それに俺の所領で仕官を待っている者達をあまり待たせることは出来ない。俺は背伸びをするのは嫌いだ。だが、今が頑張りどきだと思っている。

「藤四朗、見直したぞ!」

 石田三成はいきなり大きな声を上げた。俺は驚き石田三成の行動に戸惑った。俺の言葉は石田三成の琴線に触れたようだ。石田三成は勢いよく近づいてくると俺の目の前に座り俺の肩をつかんで真剣な顔で俺のことを見ていた。
 いつになく感情的な石田三成だった。

「私はお前がそう言う男だと思っていたぞ! 私にできることがあれば言ってくれ!」

 石田三成はいつも冷徹な雰囲気と違い熱く俺に語ってきた。何なんだ。別人のような石田三成に俺は終始戸惑った。



 俺は秀吉から受け取った、俺に伊豆国を与えると書かれた、知行安堵状を胸にしまい陣屋に戻った。俺が陣屋に到着した頃は既に辺りは暗くなっていた。その俺の帰りを入り口の辺りで待っている者達がいた。藤林正保、岩室坊勢祐、曽根昌世の三人だった。三人は俺の姿を確認すると俺に駆け寄ってきた。
 これからどう説明しようかと思案した。 

 

第十三話 人質

 俺は石田三成から支援を受けることにした。大量の硝石・炭・硫黄・鉄砲を荷駄隊が運び出していた。

「藤四朗、こんなに鉄砲と玉薬の材料をどうするのだ。お前も随分と大量に持っているだろ」

 石田三成は俺に不思議そうに聞いていた。石田三成の言う通りだ。俺の軍は火力に偏った編成だ。だが、韮山城を落とすために火薬が必要になる。
 俺は荷駄隊を見ながら口角を上げた。

「三成様、私は韮山城を落とします。そのために必要なものです」

 石田三成は笑みを浮かべた。彼の俺に対する態度が秀吉との密談以来から柔らかく感じられるようなった。

「思わせぶりだな。吉報を小田原で待っているぞ」

 石田三成は腕組みをして目を瞑り小さく笑った。この空気は何なんだ。石田三成と大谷吉継との言葉の掛け合いのようだ。俺と石田三成との親友フラグが立ってしまったのだろうか。俺の背筋に寒気が走った。俺は咄嗟に首筋に指を当て確認するようになぞる。三条河原に晒される俺の生首を想像してしまった。
 ないない。
 俺は頭を振り縁起もない考えを振り払った。

「三成様は関白殿下とご一緒に向かわれるのですか?」

 石田三成は深く頷いた。
 伊豆国の北条勢が豊臣本軍と正面から戦う訳がない。伊豆国の要衝にある城に兵を送るだけで後顧の憂い無く兵を北条の本拠地である小田原城に兵を進めることが可能なはずだ。

「私は関白殿下に側にいることが仕事だからな」

 石田三成は真面目な雰囲気で俺に答えた。本当に彼は秀吉の忠臣だと思う。権力に固執しているのかも知れないが秀吉への忠誠心は本当だと思う。秀吉が生え抜きの家臣達の中で石田三成を内政で重用した理由はここにあるのかもしれない。少々性格に問題があるが打ち解けた相手にはこんなに友好的になるんだな。京で接した石田三成とは別人のようだ。でも、どちらも石田三成なのだろう。京に帰ればまた石田三成に馬車馬のように扱き使われるに違いない。

「三成様、吉報をお待ちください。関白殿下のご期待に必ず応えてみせます」
「待っているぞ」

 石田三成は期待するような目で俺を見た。彼は俺のことを疑っていない様子だ。

「三成様は私が韮山城を落とせると信じているのですか?」
「私は戦は苦手だが、お前が大口を語るような者でないかくらいは分かるつもりだ。お前が韮山城を落とせるというなら落とせるのだろう」

 石田三成は笑顔で答えた。ここまで俺の言葉を信じているとは思わなかった。俺の容姿から偏見で俺の能力を疑う豊臣軍の武将達もいると思う。
 俺は石田三成の反応に感動してしまった。

「三成様、小田原で再会しましょう」

 俺はついつい手を差し出した。石田三成は不思議そうな表情で差し出した俺の手を見た。そこで俺は「しまった」と心の中で後悔するがここで引き下がることも変だと考えた。

「南蛮では再会を願う時に右手で相手の右手を握るのです」

 石田三成は得心した様子で頷き、腰を落とし俺の差し出した右手を握った。俺も石田三成の手を握り返した。

「なかなか良いものだな。藤四郎、小田原で待っているぞ」
「はい」

 石田三成は握手を気に入った様子で温和な表情で俺を見た。
 俺は石田三成との親友フラグを立ててしまった気がする。





 俺は石田三成と再会を約束すると韮山城に向けて出陣した。
 織田信雄を総大将とする豊臣軍は下田街道を南下していた。目的地は北条氏規が守る韮山城だ。この軍に俺も一武将として同行している。俺の与力である郡宗保、石川頼明、野々村吉保も一緒だ。
 長久保城から韮山城には一日半位で着くことができそうだ。
 豊臣軍は韮山目前まで進軍する頃には日が暮れた。俺達は行軍を止め野営を取ることになった。織田信雄の命令によるものだ。

 兵達に設営させた陣屋の中で俺は家老達と食事をしていた。
 手に持つ飾りっ気のない素朴な椀には飯が山盛り盛られていた。床に置かれた膳の上には固形状の味噌が小皿の上に無雑作に配膳されていた。
 俺は箸で味噌を摘まみ飯の上に乗せると飯をかきこんだ。
 戦場飯とはわびしいものだな。せめて味噌汁が食いたい。
 家老達に視線を向けると彼らは黙々と食べていた。

 わびしい。
 毎日毎日、山盛り飯に味噌、それか干し飯に味噌。
 京を立ち伊豆まで来る間の飯の献立はこの二種類だ。
 俺は態度に出すこと無く飯をもりもりと食べる。
 これでも毎日食えるだけましなのだろう。
 この時代は飯を食べれるだけ幸福だと思う。
 ここまでの道中でよくがりがりに痩せた農民達の姿を見た。豊臣に臣従した大名達の領地はおしなべて同じだった。徳川領も同様だった。物が不足していることもあるが、領主層が民に重税を課しているせいで下々の貧しさに拍車をかけているような気がする。
 この時代に人権意識などあることを期待するだけ無駄だろう。民を慈しむ精神を世に広めたのは徳川綱吉まで待つ必要がある。犬公方と揶揄されるが徳川綱吉は意外なほどに人道家といえると思う。
 大名には善人はいないとつくづく思う。かく言う俺も善人とは言えない。
 俺の軍役に使われる米や金は元々領民から徴収した年貢だ。今回は豊臣家から年貢分を受け取ったが、今年からは領民から年貢を徴収することになる。石田三成の話では七公三民らしい。この税率で領民達は生活できるのか疑問が残る。多分だが領民の中には隠田を持っている者達も居るはずだ。それで食いつないでいるのかもしれない。秀吉はそういう農民の事情を知ってか、金に困ると検地を行っていたと本で読んだことがある。
 俺は飯の盛られた椀に視線を落とし凝視した。

「殿、どうされたのです。飯に何か入っておりましたか?」

 藤林正保が俺に声をかけてきた。

「領民達のことを考えていたのだ」
「領民ですか?」

 藤林正保は俺の考えが要領を得ないのか首を傾げていた。他の二人の家老達は箸を止め俺に視線を向けた。

「私は毎日飯を食べられるが領民達はどうしているだろうなと思ったのだ。ここに来るまでも農民達の姿を見てな」

 俺は尻すぼみ気味に答えた。

「皆腹を空かせていますからな。領主は領民の腹を膨らせることが役目です」
「そのために重い年貢を課すのか?」

 曽根昌世は苦笑いを俺に返した。

「戦をするには金がいります。安い年貢では戦えません。戦えなければ他国に攻められ領民は食い物と家族を奪われます。徳栄軒様も他国を攻め物を奪い、領民を飢えさせないように必死でした」

 曽根昌世は遠い記憶を辿るような表情で俺に答えた。徳栄軒とは武田信玄のことだ。
 食うために奪う。食えなければ死ぬ。
 切実な欲望であり、弱肉強食の論理だ。
 曽根昌世の言葉に俺はこの時代がいかに過酷か実感した。

「甲斐国は山国で貧しいとはいえ金山があり豊かじゃなかったのか?」

 俺はふと頭に浮かんだ疑問を曽根昌世にぶつけた。甲斐国は山国だ。だから、攻めに難き守りに易き土地柄だ。そして、金山もある。この金山から取れる金が武田家の軍事力を支えたと言われている。その一部を領民達に流れるようにすれば餓えを解消できるのではないか。

「金山から取れる(きん)は限りがあります。限りある(きん)を全て民達の生活に使って、その先に何が待ってますでしょうか? 甲斐国は一枚岩ではありません。不安定な甲斐国の勢力の力関係を徳栄軒様の才気でまとめていたにすぎません」

 曽根昌世は何も言わなかった。俺なら理解できると思ったのだろう。
 金山から得られる収入を民政に向けもいずれ金鉱も枯れるだろう。枯れれば元の貧しい山国に戻るだけだ。それに金鉱から算出される金の量も一定では無かったと思う。不安定な財に頼りすぎた国家運営は危険過ぎると思う。でも、江戸時代まで甲斐国の金鉱は採掘されていたことを見るとそこそこの埋蔵量はあると思う。

「周囲を敵国に囲まれている以上、外に出て脅威を排除する必要がある。そして、国をまとめるなら内に籠もるより共通の敵をつくり外に出るべきだ。それを下支えするのが甲斐国から採れる金というわけか」

 俺は思ったことを口にした。

「武田家は国中を治める武田家、河内を治める穴山家、郡内を治める小山田家の寄り合い所帯でした。それを徳栄軒様が苦心して統制していたのです。この三者がいがみ合っていては他国に攻め滅ぼされます。これを統制するためには飴が必要になるのです。(きん)は戦で功績を挙げた者達への褒美として活用されました。勿論武器や兵糧を手に入れるためにも使われました。領民達に回す金などありません」

 俺はそれ以上に何も言わなかった。武田信玄が凄く苦労したことだけは分かった。家臣達に領地を大判振る舞いし過ぎると俺も武田信玄のような状況に陥る兼ねない。そう言えば徳川家康も関東移封後の直轄領は百万石を超えたという。この移封で徳川家康は在地領主を先祖伝来の土地から引きはがし、徳川家康を頂点とする統制のとれた徳川家臣団に繋がったのだろう。ここは俺も見習う必要がある。

「上に立つ者は大変なのだな」
「殿は未だ若いです。これからもっとご苦労をなされることでしょう。我らは殿を一丸となってお支えいたします」

 藤林正保は笑いながら言った。俺は伊豆国を手に入れた後のことを考えた。伊豆国には土着の勢力がいる。その者達の扱いをどうするかが鍵になる。器量の無い山内一豊のように土佐国の既存勢力を徹底的に虐殺して弾圧するような真似だけはするまい。だが、全ての者達を取り込んでは家臣に分ける土地が無くなる。ある程度の国人には泣いて貰うことになるだろう。大人しく従わないなら根切りすることも覚悟する必要がある。

 俺は脳内に巡る悩みを打ち消すように飯をかきこんだ。家老達も俺が悩みが解消したと察したのか思い思いに食事を再会した。俺はさっさと食事を済ませ、城攻めの策を考えようと思った。
 韮山城の攻城計画の骨格は大方出来上がっている。韮山城跡には実際に足を運んだことがあるから大体の地形は理解している。その知識を元に一ヶ月かけて策を調整していけばいい。



「殿、面会を求める若い女が参りました」

 俺が飯を食べていると、柳生宗矩が現れ座敷の入り口で腰を下ろし俺に頭を下げた。

「こんな時間に誰だ?」
風間(かざま)と名乗るっております。藤林長門守様には話を通していると申しておりました」

 座敷内にいる者達の目が藤林正保に集まる。
 風間だと?
 聞いたことがない名前だな。
 待てよ。風間? ふうま。ふうま? ふうま!?
 俺は驚き目を見開く。

「殿、風魔小太郎の娘が参ったのでしょう」

 藤林正保は空の椀を膳に置き俺に声をかけた。

「人質だと。こんな行軍中にやってくるとはどういうことだ。目立つだろうが!」
「行軍中だから良いのでしょう。御陣女郎が陣屋に紛れ込むことはよくあることです」

 俺が藤林正保の話に怒ると曽根昌世が俺に説明してきた。御陣女郎。本で読んだことがある。戦場で兵士達を相手にする売春婦のことだ。

「武将も御陣女郎を買うのか?」
「買う者は幾らでもおりましょう」
「そうなのか」

 俺は曽根昌世の説明を聞きながら頷いた。

「俺のような十二歳でも女郎を買うもなのか?」
「それは人それぞれでございしょう。人によっては早熟な御仁もいますからな」

 曽根昌世は歯切れの悪い言い方で答えた。他人から奇妙なことと思われないなら問題ない。
 風魔も目につくことは避けたいだろう。
 よく考えれば風魔も忍びを生業にする者達だ。その辺に抜かりは無いだろう。

「又右衛門、女は一人か?」
「いいえ。他に男女二人います」
「俺の部屋に通しておけ。直ぐに俺と長門守が向かう」

 俺が柳生宗矩に指示を出すと、柳生宗矩は立ち去ろうとする。

「又右衛門、待ってくれ」

 俺は柳生宗矩を呼び止めた。

「又右衛門、飯を風魔の者達に振る舞ってやれ」
「かしこまりました」

 柳生宗矩は俺に頭を下げ立ち去った。

「長門守、先に行っていてくれ。これを片付けてしまう」

 俺は藤林正保に声をかけ飯を急いで食べ始めた。藤林正保は俺に頷き部屋を出て行った。俺は横目でそれを確認しながら飯をいそいそと食べる。
 俺は食事を終えると風魔が待つ部屋に向かった。



 俺が警護役の柳生宗章を連れて風魔が待つ部屋に入ると、藤林正保と風魔三人が座って俺を待っていた。風魔三人は俺が用意させた食事を既に食べて終わっていた。忍びの者は早食いなのだろうかと思った。俺が飯を食うのが遅いのかもしれない。
 風魔三人は俺が部屋に入るなり床に両手をつき平伏した。

「面を上げよ」

 俺が上座に座ると左側に藤林正保、右側に柳生宗章が据わった。柳生宗章は手の届く場所に刀を置いていた。

「小出相模守様。風魔小太郎が三女、(なつ)と申します。後ろに控えるは(ゆき)玄馬(げんま)

 藤林正保が風魔三人に声をかけると一番前の若い女が面を下げて俺に挨拶してきた。夏と名乗った女は目鼻立ちはくっきりとしていて、肌はよく日焼けして健康的な小麦美人だ。彼女の後ろにいる二人からは危険な空気が漂っていた。柳生宗章は触れるか触れない程度に刀に手を添えていた。何かあれば柳生宗章は二人を斬り殺すつもりだろう。
 俺のような戦場の素人に危険視されるようでは風魔の実力を不安に感じてしまった。

「雪。玄馬」

 夏は後ろを振り向かず雪と玄馬に固い声で呼びかけた。その声で二人から危険な雰囲気を感じなくなった。この遣り取りから夏と二人の間には主従関係があると理解できた。この遣り取りは何を意味するのだろうな。夏に何かあれば二人が俺を殺すと言うことを俺に理解させたいのだろうか。もしそうなら俺に対して無礼過ぎるだろう。俺は風魔への心証を悪くした。

「小出相模守様、共が失礼いたしました」

 俺の気持ちを察したか分からないが夏が俺に平伏して謝罪してきた。

「謝れば済むものでは無いだろう。これでは風魔が私に敵対していると見ても仕方ない」

 俺は不快感を隠さず夏に厳しい口調で声をかけた。徳川家康が風魔衆を取り込まなかった理由は山賊崩れの輩と思ったからかもしれない。徳川時代になると風魔衆は夜盗になり下がったからな。

「返す言葉もございません」

 夏は俺に抗弁もせず平伏したまま謝罪した。雪と玄馬も夏に倣って平伏して謝罪した。この二人は豊臣に恭順することを快く思っていないのかもしれないな。そんな者を人選する風魔小太郎の器量を疑ってしまう。これで家老待遇にして欲しいとは過分な要求に思えてきた。

「風魔小太郎は私に家老待遇を求めてきた。夏、それに相違ないな」

 俺は気分を直して夏に風魔衆の要求を確認を兼ねて聞き返した。

「その通りでございます」
「私の家臣になろうという者の陪臣がこれでは懸念を抱いてしまう。家老の地位を望むなら尚更だ」

 俺は厳しい表情で平伏する夏に言った。藤林正保も俺を諫めることはない。俺の言い分は当たり前のことだ。

「どうすればお気持ちを収めてくださいますでしょうか?」

 夏は顔を上げて俺に言った。その表情は真剣だった。彼女はこのままおめおめと帰る訳にはいかないように見えた。それなら何故俺に会う前に二人を説き伏せて無かったと心の中で突っ込んでしまった。
 風魔衆の協力を得ること前提で作戦を組んでいたが、この様子では風魔衆を頼りにすることは危険に感じた。俺の雰囲気から夏は俺が風魔衆から興味が失せたと感じとったように見えた。これで俺の家臣になるとか無理だろう。不安定要素が多い勢力を組み入れて使うことは危険だ。いつ俺を裏切るか分からないからな。

「小出相模守様、何なりと申しつけてください。何でもいたします」

 夏は必死な表情で俺に訴えてきた。俺の要求は一つだ。不安要素は速やかに排除する。

「その二人に自害を申しつけよ」

 俺はあっさりと夏に命令した。雪と玄馬は俺の軍に置くことは危険だ。本能的に感じた。もし夏が俺の要求を拒否すれば風魔衆は切る。作戦の練り直しが必要になる。

「分かりました」

 夏は俺の顔を見て頷いた。瞳に動揺が感じられたが本気のようだ。
 雪と玄馬が俺の要求に素直に従うか。

「小出相模守様の陣屋から死人を出してはご迷惑をおかけいたします。この者達の処罰は私に一任くださいませんでしょうか?」

 俺は冷めた目で夏を見た。咄嗟の機転の良さは評価するが、この状況で二人を庇うようでは信頼を置くことはできない。

「気にするな。その者達は賊として死体を処理する。ここは北条の勢力圏だ。賊の襲撃があったとしても別段おかしくはない」
「小出相模守様、直答をお許しくださいませんでしょうか?」

 俺の言葉に固まる夏を余所に雪が俺に声をかけた。俺は視線を雪に向けた。雪は平伏したままだった。
 俺にどういう言い訳をするか興味が湧いた。

「下賤の身で私に直答するとは不届き至極だが特別に許してやろう」

 俺は敢えて相手を徴発するような物言いをした。雪は顔を上げると口を開いた。彼女は俺の物言いに感情に流されることは無かった。流石忍者ということか。ここで感情に流されれば柳生宗章に斬り殺されるだけだ。

「小出相模守様、発言をお許しいただき感謝いたします」

 雪は俺に丁寧に感謝の言葉を口にした。

「小出相模守様、御家中の陣容を拝見させていただきました。兵の数も多く、多くの家臣をお召し抱えられており志気旺盛でございました」

 雪は歯に詰まったような物言いをした。この場合は皮肉では無いだろう。公式は五千石の旗本。実質は一万石の大名。一万石の大名の動員兵力と考えても俺の五百の兵数は過剰だ。二万石の動員兵力になる。傍目からは異常な兵数に見えるだろう。これに与力を加算すると五百五十人位になる。実際、豊臣軍の他の武将達が俺の軍を奇異の視線で見ていることは知っている。誰も口にしない理由は俺が初陣ということもあり張り切っていると勝手に解釈していると俺は結論を出していた。もしくは秀吉の親戚なので軽率なことは言えないと思っているのかもしれない。

「確かに五百は多いな。雪と言ったか?」
「はい」
「私は腹の探りあいは嫌いだ。さっさと聞きたいことを話せ」

 俺は雪に命じた。だが、雪は逡巡している様子だった。
 俺に直接言えないということは俺の身代についてだろう。

「私が風魔衆を騙し利用して使い捨てにすると思っているのか?」
「滅相もございません」

 俺は不愉快そうな表情で雪を睨んだ。そう思われても仕方ない。しかし、そう思ってもそれを表に出し相手の心証を悪くするような相手とは交渉できない。そう考えるならば、相手との交渉の中で真贋を確かめればいい。風魔は交渉毎には使えないと感じた。伊賀上忍である藤林正保とは大違いだ。この交渉能力では家老にするのは心許ないと感じた。

「私は北条征伐後に伊豆国を領有することが約束されている」

 雪は俺の言葉に動ずる様子は無かった。言葉では足りないか。
 俺は懐から朱印状を取り出し、風魔三人に見えるようにそれを開いて見せた。三人は驚いた表情で朱印状を食い入るように見ていた。秀吉の朱の印判が押され、朱印状には俺に伊豆国七万石を知行すると書かれていた。俺を伊豆国の国主に約束する文書である。俺は三人が文字が読めるということに驚いた。この三人はそこそこの教養はあるということだ。現代の日本では文字の読み書きは当たり前の能力だが、この時代は当たり前じゃない。戦国武将で有名な藤堂高虎は読み書きができなかったくらいだ。だから、俺の驚きは当然だ。

「小出相模守様、ご無礼の数々お許しください」

 三人とも震えていた。俺の立場がようやく理解できたのだろう。敵国の領地を知行地として安堵するということは通常はない。俺が秀吉縁者と知る彼らならば、本来は敵国の領地でなく治めやすい領地を宛がうはずだ。それを無視して敵国の領地を与えるということは秀吉が俺を高く買っているということになる。秀吉の身内である俺が伊豆国の統治に失敗すれば、秀吉の面目は潰れるからだ。

「雪。玄馬。この場で自害しろ。小出相模守様、ご見聞をお願いいたします」

 夏は平伏して固い声で雪と玄馬に命令した。雪と玄馬も覚悟したのか懐から短刀を抜き出した。

「待て!」

 俺は首に短刀を突き立てようとした雪と玄馬を制止するように甲高い声で叫んだ。二人は寸でのところで短刀を止めた。夏は叫ぶ俺に驚いた顔をした。

「死ぬには及ばない。自害させるなら二人を私にくれ」

 文字の読み書きができ、腕が立つなら殺すのは勿体ない。俺の家臣に組み入れて使う。雪は女だから直臣にできないから侍女にすればいい。玄馬は俺の家臣するとしよう。
 夏は俺の申し出に意味が分からない様子だった。俺が二人に死ねと要求したのだから夏は意味が分からなくて当然だ。雪と玄馬も短刀を持ったまま制止していた。

「お前達が私にした無礼は忘れる。自害したなら風魔衆では無いだろう。だから、お前達は私に仕えるのだ」

 風魔三人は俺の言い分が理解できない様子だった。

「小出相模守様、雪と玄馬は風魔の者です。小出相模守様の家臣にすることだけはお許しください」

 夏は自分で判断できない事案と思ったのか。俺の要求に断ってきた。

「何を言う。先程、お前は二人に言ったではないか。二人に『自害せよ』と。自害すれば死人だ。死人ならば風魔衆ではないだろう。私に二人をくれ」
「二人をどうされるのです」

 藤林正保が困り果てた風魔三人に変わって助け船を出した。

「二人を私の家臣にするのだ。雪、お前は女子(おなご)だから侍女として雇ってやろう。玄馬、お前は私の直臣にしてやろう。死ぬつもりだったのだ。不服はないだろ」

 俺は真剣な表情で二人に言った。藤林正保と風魔三人は俺の考えの変化に追いついてこれずにいた。先程まで自害しろと言った相手に自分の家臣になれと言う俺の考えが理解できないのだろう。

「どうして急に考え変えられたのです?」

 藤林正保は俺の考えを理解しようと俺に質問してきた。

「雪。玄馬。お前達は文字の読み書きができるだろう?」

 俺の指摘に二人は静止した。動揺を露骨に表に出さない二人を見て、俺は二人を更に高く評価した。初対面は減点だが使えそうな人材だ。柳生宗章が警戒するくらいならそれなりに手練れなのだろう。

「図星のようだな。お前達三人は朱印状の中身を読んでいただろう。三人とも動きが揃っていた。示し合わせて私に頭を下げる暇は無かった。あまりの驚きで動揺してしまったか」

 俺の指摘に風魔三人は俺の洞察力に驚きを隠さなかった。

「どうだ。私の家臣にならないか? 二人にそれぞれ二十五貫(二十五石)やろう。士分だ申し分はないな。知行分の俸給を今直ぐにくれというなら米俵で払ってやろう。北条征伐で手柄を上げれば更に加増してやる」

 俺が話を進めると二人は俺を沈黙して見ていた。彼らは捨扶持で北条に買われている者達だ。この二人には俺の申し出は魅力的なはずだ。二人は視線を夏に向けた。

「夏、もう一度言う。この二人を私にくれるなら風魔衆の無礼を忘れてやる。断るなら風魔衆とは手切りだ」
「小出相模守様、かしこまりました。風魔小太郎に伝え改めて返答させていただきます」
「何を悠長なことを言っている。お前の返答如何で風魔衆を手切れにすると言ったはずだ」

 俺は淡々と相手に言った。

「私の家老になろうと言うのだ。風魔の者が私の直臣になることは喜ばしいことだろう」

 俺は笑みを浮かべ言った。俺の言葉に夏は言葉に窮した。彼女は俺に対して軽率なことを言えないと思っているのだろう。ここで俺に「風魔衆の協力を必要とされているはず」と返すこともできるはずだ。だが、この選択肢を取ることができないということは風魔衆が俺との交渉を決裂させることができないということに他ならない。ある程度の無理は通せるはずだ。無理を通した分は待遇で埋め合わせすればいいだろう。

「北条征伐後に風魔小太郎には五千石の知行を与えよう。悪い話ではないだろう。望み通り家老に遇しよう。ただし、私が掲示した条件を果たさなければならない。夏、この条件を蹴るかここで選べ」

 俺は淡々と条件を突きつけた。夏の表情が変わった。

「わかりました。風魔小太郎には私から報告させていだきます」
「お前が風魔小太郎に報告するのか?」
「人質の役目は忘れておりません。風魔小太郎に報告後に戻って参ります」
「いいだろう。三日やろう。三日以内に私の元にお前が戻らなければ風魔衆は私を裏切ったと見做す。北条征伐後は覚悟しておけ」

 俺は脅すように夏に言った。夏は生唾を飲み込み俺に深く頷き平伏した。これで夏も真剣に風魔小太郎に報告するだろう。北条征伐は史実にあるように完遂される。北条が倒れれば風魔衆は路頭に迷うしかなくなる。風魔小太郎が俺を騙す気が無く、俺に近づいたことが保身のためなら俺の要求を飲むに違いない。仮に俺が夏に与えた情報が漏れたとしても俺の作戦の遂行に支障はない。その場合、藤林正保には頑張って貰うことになる。
 雪と玄馬は惜しいが用心のため死んでもらうしかない。 

 

第十四話 初陣

 俺は韮山城の城下にいる。韮山城攻め総大将、織田信雄、は韮山城に到着するまでの間に軍議の時間を取ることは無かった。この判断に他の武将達は異論は無い様子だった。全員が韮山城攻めは楽勝と考えている証拠だろう。
 織田信雄の考えを現すように彼は韮山城の大手門正面から延びる一色口(いっしきぐち)に着陣した。彼の率いる軍は一万五千だ。韮山城攻めの総軍勢四万の三分の一を超える兵数だ。百万石を超える大大名の軍だけのことはある。他の武将達も各々韮山城を囲むように軍を配置している。全員やる気十分だ。これが史実通りなのか。俺が秀吉の前で韮山城攻めの重要性を説いたことによる影響かは分からない。
 俺は織田信雄軍の側に着陣している。彼の軍と俺の軍では熊と蟻ほどの差があるなとまざまざと実感する。
 戦意旺盛な武将達に俺は一抹の不安を覚えた。韮山城に籠もる兵数は三千強。勝てる戦だ。武将達の様子も頷ける。
 俺は織田信雄が短期間で韮山城を攻め落とすことを危惧している。それは秀吉の思惑が外れるということだ。秀吉は織田信雄に城攻めを失敗させ総大将の地位を更迭させる腹づもりでいるからだ。もしそうなったら俺は困る。
 俺は韮山城を攻め北条氏規を生け捕りにする必要があるからだ。
 だが、この緒戦に参加する訳にはいかない。俺の軍は急造でできた軍だ。家臣達の連携が上手く取れないと見ている。韮山城には大量の鉄砲と火薬が運び込まれていると報告を受けている。良い的にされそうだ。
 俺の予定では一ヶ月間で俺の軍を連携が取れるように城攻めの仕込みをしつつ調練するつもりでいる。
 俺は渋面で織田信雄軍に視線を送る。

「殿、どうなされましたか?」

 風魔党から俺に仕官した雪が声をかけてきた。側には玄馬もいる。二人とも俺の仕官する話を二つ返事で了承した。二人は具足を持っていなかった。俺の軍は急造だから具足を持っていない者もいたため貸し具足を用意している。それを二人に貸した。

「味方があまりに戦意旺盛なことが気になっただけだ」
「敵の兵数を考えればそうなるでしょうね」

 雪は韮山城を眺めながら俺に答えた。

「北条氏規はどのような人物か知っているか?」

 俺は雪と玄馬に聞いた。二人とも北条氏規とは直接の面識は無いようだ。

「伊豆衆をよくまとめ武田軍を蹴散らした実績があります。良将であることは間違いありません」

 玄馬が北条氏規について知っていることを教えてくれた。俺の知る情報と相違はない。
 韮山城を攻め落とす最善の策は砦を一つずつ落とし天ヶ岳砦を落とすことだ。この砦が落ちれば韮山城は裸城になったに等しい。だが、織田信雄を始めまどろっこしい策を選ぶつもりはない気がする。砦を一つずつ落とす腹づもりなら、武将達は担当割りをしようと考えるはずだ。その様子が一切ない。この城へ最短で向かう経路は大手門を破ることだ。城を囲む水堀は池と見紛うばかりの規模で作られている。この水堀を超えて城に向かうことは無理がある。だが、最短経路だから短い時間で城に向かうことができるということにはならない。
 北条氏規が良将なら大手門の守りを強化するはずだ。

「伝令!」

 俺が叫ぶと母衣をつけた使番が素早くやってきた。

「我が軍の者達に前へ出過ぎるなと伝えておけ。決して大手門に近づき過ぎるなとな。緒戦は傍観に徹するのだ。岩室坊には大手門を守備する(そなえ)を観察するように指示せよ」

 使番は俺の命令を聞き終わると急いで馬に乗馬して去って行った。
 狭い大手門を守るのに鉄砲はうってつけだ。だが、織田信雄も想定の範囲内だろう。

「手柄を見す見す逃されるのですか?」

 雪は俺の命令に失望している様子だった。俺が怖じ気づいて二の足を踏んでいると思っているのだろう。俺は雪の反応におかしそうに笑った。

「雪、手柄を急ぐ必要はない。最後に笑うのは私だ」

 俺は真剣な表情で雪を見た。ここで兵を無駄に減らすことは馬鹿げている。誰に誹りを受けようと俺は気にしない。最後に勝利したものが正しいのだ。
 俺の確信した言葉に雪は俺に考えがあってのことだと察したようだ。だが、納得できない様子だ。

「雪、そんな顔をするな。雪、玄馬。役目を与える。大手門の様子を見てこい。もし、大手門が落ちそうな状況なら私に直ぐに報告しろ」

 俺が二人に命令すると雪は喜色の顔を浮かべ俺に頭を下げ去って行った。

「よろしいのですか?」

 俺が二人の後ろ姿を見送っていると柳生宗矩が俺に声をかけてきた。新参の胡散臭い二人組に不信感を抱いている様子だった。俺に内通しているとはいえ、風魔党の者を信用し過ぎるのは危険と考えているのだろう。

「主の器の大きさを示すには調度良いだろう。二人が信用できるかを確認する意味でもな」
「だから岩室坊様を前に進められたということですか」

 柳生宗矩は俺の言葉に得心した様子だった。柳生宗章は寡黙に大手門の方向を見ていた。

「殿、雪という女はお心をお許しになりすぎることはお止めください」

 柳生宗矩は真剣な表情で俺に意見してきた。彼の考えでは女忍者は危険だと考えているのだろう。時には色香や身体で男を誑かし籠絡する手段も厭わないのが女忍者だからな。俺が十二歳の小僧でも心配にもなるのも頷ける。

「分かっている。雪は初対面の私への態度と今の態度に違いがあり過ぎるからな。幾ら私の家臣になることを納得したとはいえ気持ちの切り替えが早すぎる。玄馬の反応の方が自然だ」

 俺が淡々と話すと柳生宗矩も安心した様子だった。

「賢明な判断でございます」
「又右衛門、風魔党の人質の反応を見るに彼らは危機感を抱いているように思う。私の無理を飲まざる終えないほどにな」
「風魔党の地盤は箱根権現、大雄山と伝え聞いております。近江中納言様が山中城を落とせば箱根は目と鼻の先にございます」

 俺は笑みを浮かべ柳生宗矩に言った。

「風魔党は山中城が早々に落ちると見ているのだろう。だから俺との交渉を早く進めたがっている」

 俺は口角を上げた。

「風魔党の見立て通り山中城は直ぐに落ちる」
「殿は確信した物言いにございますね。戦は状況次第でどう転ぶか分かりません」
「必ず直ぐに落ちる。又右衛門、籠城側が一枚岩でなく争っていては長くは持たない。山中城は韮山城と違い豊臣軍の攻撃に備えた城の増強工事が途中だった。防備は万全でない。守将は恭順派と抗戦派で割れている。この状況で八万の大軍で攻められればひとたまりもない。近江中納言様は犠牲など考えず力攻めを行うはずだ」

 山中城攻めでは豊臣秀次の家老が戦死している。豊臣秀次は自軍を全面に出して山中城を攻めたに違いない。豊臣秀次の主力は養子入りしていた三好家の家臣団。それに秀吉から付けられた与力達だ。中でも中村一氏は叩き上げの戦上手で山中城陥落に一番貢献したと言われている。秀吉の後継候補というだけあり名だたる武将をつけられている。俺とは雲泥の違いだ。
 羨んでも仕方ない。俺はできる範囲で有能な家臣を集めるしかない。

「殿は千里眼でもお持ちのようですね」

 柳生宗矩は俺の指摘した内容に感銘している様子だった。俺も十二歳の小僧がこんなことを言っていたら驚くと思う。

「得た情報を元に考えれば自ずと行き着く答えだ。情報が如何に重要かということだ」
「だから殿は長門守様を重用されるのですね」
「そうだ。だが俺は又右衛門のことも買っている」
「柳生家は忍びを抱えておりますが大和の土豪にございます。長門守様のように多くの人材を抱えておりません」
「いないなら。育てればいいだろう。私は又右衛門には組織を作る器量があると思っている。情報を集める集団は一つより二つ。二つより三つと思っている。一つの集団の情報に依存し過ぎると偏った情報になるかもしれないからな。情報が多ければ多いほどいいのだ。普段気に止めない大した情報の中にも有益な情報であることがあるからな」

 俺は情報収集の重要性を熱く語った。

「又右衛門、北条征伐が終われば三千石に加増するつもりでいる。情報を集める組織を作ってみよ」

 俺の申し出に柳生宗矩は驚きの表情を浮かべた。三千石は大和国柳生庄の知行と同じ石高だ。俺の粋な計らいに柳生宗矩は感動している様子だった。これで彼は困窮している柳生家の者達を呼び寄せることも可能だ。彼は今でも実家に仕送りしているようだからな。

「殿、感謝いたします。御恩に報いるように頑張らせていただきます」

 俺は柳生宗矩に「頼むぞ」と声をかけ柳生宗章に声をかけることにした。

「五郎右衛門、そろそろ私の家臣になる気になってくれたか?」
「考えておきます」

 柳生宗章は俺の方を向くと短く答えた。俺は笑みを浮かべた。彼は俺からの仕官の話にはいつも「修行中の身であるためお断りさせていただきます」と言って断っていた。それが「考えておきます」に変化した。少しは俺の家臣になる気持ちになってくれたということだろう。

「兄上! いつも。いつも。何故そんなに憮然と答えられるのです」

 柳生宗矩は兄、柳生宗章、の態度が気に入らない様子だ。

「又右衛門、気にしなくていい。五郎右衛門は『考えおきます』と言ってくれた。俺を少しは認めてくれたということだろう」

 俺は愉快そうに笑った。俺の様子に柳生宗矩は柳生宗章への怒りが萎えたようだった。

「北条氏規のお手並みを拝見させてもらおうとしようじゃないか」

 俺は話題を変えて大手門の方を見た。





 俺の懸念通り豊臣軍は韮山城に手をこまねいた。北条氏規は俺の想像以上に善戦していた。どういうわけか武将達は細川忠興を除いて大手門に攻めかかっていた。お陰で良い的になっていた。これは北条氏規の用兵が上手く、城兵の気持ちを一つにまとめよく統制が取れているということに他ならない。織田信雄を筆頭に豊臣軍の武将達は力攻めで大手門を破ろうとしたが、豊臣軍の韮山城攻めの緒戦は死傷者を出しただけで終わった。
 猛将で知られる福島正則も手酷く被害を受けて怒り心頭で荒れ狂っていた。豊臣軍内は雪辱に怒り震えている。この分だと明日も手酷くやられるだろう。敵を寡兵と侮り冷静さを失うと敵の思う壷だと思う。
 今の所俺の計画に狂いは出ていない。
 俺は織田信雄に呼びつけられている。もう日が沈んでいる。織田信雄の陣屋に来ると俺は中に通されてた。俺が部屋に入ると織田信雄が既にいた。一目で機嫌が悪そうだ。酒をあおっている。彼の側には小姓が一人いて酌をしていた。

「相模守! そこに座れ!」

 織田信雄は俺の姿を確認すると怒鳴り俺に目で座る場所を指示してきた。俺は言われるままに腰を下ろした。織田信雄はご機嫌斜めなようだ。

「右大臣様、お呼びと聞きまかり越しました」

 俺は織田信雄に対して頭を下げた。

「貴様、城攻めに参加してなかったそうではないか? 皆が必死に攻めている時に後ろで高みの見物とはいい身分であるな」

 織田信雄は酒臭い息を吐きながら俺に本題を切り出していた。俺は城攻めに積極的に参加させず戦況を遠目から観察していた。そのお陰で大手門の守りを知ることができた。大手門に籠もる兵力は百程度と見ていい。百程度でも鉄砲を上手く運用すれば十分に凌ぎきれる。
 だが、この守りを北条氏規がどの位の期間維持できるかだ。史実では四ヶ月。その一ヶ月前には北条氏規も落城を意識し腹を括っていたはずだ。

「この戦が初陣と言い訳はいたしません。私の不作法をお許しください」

 俺は言い訳をせずに平伏した。織田信雄は業腹そうだったが空の杯を小姓に差し出した。小姓は素早く酒をついだ。杯に酒が注がれると織田信雄は乱暴に杯を口元に運び酒をあおった。

「明日は城攻めに必ず参加するのだぞ」

 織田信雄は俺を睨みながら言った。初陣の俺を責めても空しいだけだからな。

「謹んで承りました。右大臣様、一つお許しいただきたいことがございます」
「何だ?」

 織田信雄は訝しげな表情で俺を見た。

「今晩より韮山城を攻めることをお許しください」
「今晩?」

 織田信雄は目を細め俺のことを見ていた。俺の話に要領得ないようだ。

「深夜に韮山城の大手門に鉄砲を撃ち込もうと思います。夜でも大手門に警備の兵が詰めていると思います。そこに鉄砲を撃ち込めば敵は警戒しましょう。毎晩続ければ敵の指揮も落ちるかもしれません」
「大手門に鉄砲を撃ち込むだけか?」
「はい。その通りでございます」

 織田信雄は俺の考えを聞き終わると馬鹿にしたような目で俺を見ていた。

「勝手にしろ。夜襲をしようと明日の城攻めには必ず参加にするだぞ」

 織田信雄は座った目で俺を見ると俺を凝視した。俺の思惑に織田信雄は理解していないようだ。織田信雄に見抜かれるような計画では北条氏規に見破られるだろうな。

「分かっております。お許しいただきありがとうございました」

 俺は丁寧に織田信雄に平伏し頭を下げた。

「玉薬も鉛もただではあるまい。相模守、お前は物好きだな」

 織田信雄は呆れた声で言うと、顔を上げた俺に手振りをして「さっさと帰れ」と仕草で返事した。俺は気にせずもう一度頭を下げ去った。帰り際に俺とすれ違った織田信雄の家老らしき中年の大男が「相模守様、ご苦労をかけましたな」と声をかけてきた。

「気にしておりません。悪いのは私です。態々気にかけてくださりありがとうございました」

 俺は頭を下げた。しばし中男の男を見ていた。面識のない男だ。俺は彼に名を聞くことにした。

「お名前をお聞かせくださいますか?」
「名乗っておりませんでしたな。織田信雄が家臣。小坂雄吉と申します」
「小坂殿、私は小出相模守俊定と申します。以後お見知りおきください」

 小坂雄吉。聞いたことがない名前だ。織田信雄の家臣なら元は織田信長の家臣だろうと思う。ご同輩であった秀吉が今や天下人に登り詰め、主家筋である織田信雄に命令する状況をどう思っているのだろうか。
 俺が気にすることではないな。下らない考えを振り払った。

「小坂殿、それでは失礼いたします」

 俺は小坂雄吉と別れ自分の陣屋に戻る。




 陣屋に戻ると岩室坊勢祐が既に鉄砲組の準備を整えていた。編成された鉄砲組は二十人を一組とした六組、総勢百二十人、で構成されている。俺の軍の兵数の五分の一が鉄砲足軽ということになる。火力重視の編成になってしまっている。今夜の夜襲には俺の旗本衆と与力達も参加している。彼らは俺に文句言わず参加している。
 藤林正保は俺が大手門に夜襲をかける間に別行動をする手筈になっている。俺は小姓に手伝わせて具足を身につけると夜襲する兵達が集まっている場所に足を運んだ。

「殿、戻られたのですか。準備はできています」

 岩室坊勢祐は俺の姿を確認すると駆け寄ってきた。

「この作戦に参加してくれる者達は集まったか?」
「城井弥五郎とその家臣、五十名、が名乗りを上げました」

 岩室坊勢祐は城井堂房(きいたかふさ)の名を上げた。豊前城井氏嫡流が黒田家に粛正され俺の元に身を寄せている。豊前城井氏は元々宇都宮を名乗っていたが豊前国城井谷に土着し城井(きい)と名乗るようになった。彼の一族は黒田家によって惨たらしく粛正された。黒田家への憎しみは人一倍強い。彼の話によると甥、城井朝末、が秋月氏に保護されているとのことだ。城井朝末は城井家前当主、城井朝房の息子だ。
 城井堂房は俺に城井朝末を召し抱えて欲しいと頼んできた。

「私の真の計画を聞かされていないのに、この計画に乗るか」

 俺は笑みを浮かべた。城井堂房は見込みがある。城井朝末の件は聞き届けやる。北条征伐が終われば城井堂房は家老として扱う。

「城井弥五郎はお家再興に必死なのでしょう」
「十河存英も立場は同じだろう。この夜襲が無意味な物で手柄にならないと考えているのだろう」

 俺は口元に指をやり漆黒に包まれた空を眺めた。十河氏の家臣団は解体して私の直参として召し抱えるべきだな。力を持たせすぎることは危険だ。この戦で十河氏は戦力になるだろう。だから十河存英は上級武士として扱う。

「赤井直義も参加したいと申していましたが昼間の役目も大事ですのでそちらに回しました」

 そうか赤井直義も合格だな。

「赤井直義は内匠助と同じく計画を決行時に参加させてやってくれ。この計画に参画した者達が私の家臣団の中核をなすことになる」
「分かりました」

 岩室坊勢祐は俺の考えに深く頷いた。

「それでは行くとするか!」

 先方する足軽が松明を掲げて大手門に向かいだした。その後を鉄砲組、俺と旗本衆が付いていく。俺の心は緊張し打ち震えていた。





 俺は大手門前近くまでやってきた。大手門には篝火があがり応戦準備が整っているようだ。わざと目立つように松明を掲げて近づいたから北条方は容易に索敵できただろう。
 北条方の兵達は大手門の外に出ていない。

「鉄砲の準備をしろ!」

 俺は立ち止まり使番を前方に向かわせた。使番は迅速に反応し伝令のために去っていった。鉄砲組が準備をはじまる。足軽達は鉄砲足軽達のために松明を掲げ灯りを作っていた。

「殿、準備が整いました」

 岩室坊勢祐が俺に駆け寄ってきた。俺は彼に頷く。

「鉄砲を放て。持ってきた玉薬を全て使い果たして構わない。ある分だけ大手門に向けて打ち込むのだ」

 俺は歩きながら鉄砲組の足軽達に声をかけていった。岩室坊勢祐は俺の話が終わると鉄砲組の組頭に指示を出していく。根来衆は雑賀衆と同じく組み撃ち鉄砲で連続打ちを実現している。組み撃ち鉄砲とは五人一組で打ち手・弾込め等で役目を分業し早撃ちを実現する方法だ。この方法で四秒間隔で鉄砲を発射できる。
 鉄砲組は組頭の指示で組み撃ちで鉄砲を一斉発射していく。大手門前には鉄砲の火薬の炸裂音が反響しけたたましい音がする。

(長門守、俺が注意を引きつけている間に上手くやってくれよ。一ヶ月あるから急ぐ必要はない)

 俺は不適な笑みを浮かべ大手門の様子を窺った。大手門に鉄砲の弾丸が届いているようだが、北条方の兵達は出てくる気配はない。これだけ弾幕を張られては出てくる訳がない。

「無駄弾は撃ってこないか」

 鉄砲組が鉄砲を撃ち込み続ける中で俺は大手門を上や固く閉ざされた入り口を見ながら言った。籠城側は物資に限りがある。本気で攻める気のない相手に鉄砲や弓矢を使うわけがない。対抗して打ち込んでくるかもと思っていたが何もする様子はない。

「殿、兵達を進ませないのですか?」
「兵達は大手門から兵が出てきたら鉄砲組が撤退する時間を稼ぐために働いてもらう」

 柳生宗矩が俺に声をかけてきたから俺は積極的に攻めるつもりはないことを打ち明けた。

「これは何のためにやっておられるのですか?」
「注意を引きつけるためだ」

 俺は口角を上げ意味深な笑みを浮かべた。

「何を引きつけるつもりなのですか?」
「それを教えては意味無いだろう」
「味方にもですか?」
「そうだ。計画を聞いたらお前も危険な役目を担ってもらうことになるぞ」

 俺の言葉に柳生宗矩は唾を飲み込んだ。

「それは殿の役に立てるということでしょうか?」
「役に立つ。又右衛門の所にも忍びがいたな。この戦には同行させているか?」
「同行させております」

 柳生宗矩は鉄砲の発砲音が五月蠅い中で俺の耳元で囁くように言った。俺の話が本能的に危険な話だと感じたのだろう。柳生宗矩は周囲を忙しなく気にしている様子だった。

「又右衛門も一枚噛むか。この役目をやり遂げることが出来たら目出度くお前も大身の身分になるぞ」

 俺は笑みを浮かべ柳生宗矩を見た。

「殿の役に立てるなら、その役目を謹んでお受けいたします」
「そうか。では雪と玄馬どちらかを手引きとして使う必要があるが大丈夫か」
「あの二人をですか」
「どちらでもいい。あの二人は韮山に土地勘があるはずだ。多分、韮山城にも足を運んだことがあるはずだ」
「では玄馬でお願いいたします」

 柳生宗矩は即答した。雪を信用していないようだ。俺は雪も玄馬も信用していない。だが、俺の計画の成功率を上げるには多少危険があろうとも二人を使う必要があると考えている。二人の主人である夏が俺の元に戻るまでの猶予は三日だ。既に日を跨いだ頃だろう。明日中に夏が戻らなければ二人を始末する必要がある。柳生宗矩への指示は明後日でいいな。

「又右衛門、分かっていると思うが」

 俺は腕組みし鉄砲組達の方に視線をやると、澄ました顔で柳生宗矩を横目で見ながら途中で言葉を切った。その先の言葉を柳生宗矩は理解したのか「承知しております」と囁くように返事した。玄馬が裏切れば始末しろと柳生宗矩に念押しした。 

 

第十五話 使者

 韮山城攻めがはじまり二日が過ぎた。城に籠もる北条軍は豊臣軍の攻撃を防ぎきっている。豊臣軍は北条軍の鉄砲の餌食になり被害が広がっている。
 織田信雄の命令で城の大手門に豊臣軍を集中させている所為だろう。大手門に詰め寄せる豊臣軍の兵士達で蟻の通る隙間もない状態だった。大手門の狭間(はざま)から鉄砲で的を狙う北条軍にとっては格好の的に違いない。狙わなくても撃てば敵に弾が当たる。
 この分では城が落ちるまで被害が出続ける。
 馬鹿の力攻めに付き合いきれない。頭が痛い。
 織田信雄が総大将を罷免されるまで城攻めを放棄したいところだが無理な話だ。
 今度、日和見を決めると織田信雄は俺を軍規違反で処罰する恐れがある。処罰が無くても、最前線に送られすり潰されるかもしれない。
 小身は辛いな。俺は溜め息をついた。
 今日は城攻めに加わり神経が磨り減っているというのに頭が痛いことばかりだ。その上、夜間に大手門に鉄砲を撃ち込まなければならない。俺は一日置きに同時刻に鉄砲を撃ち始め二刻(四時間)ばかりで撤退する。これを一月(ひとつき)続けるつもりでいる。

「殿、内大臣様の使者が参られました。内大臣様が陣所まで来るようにとのことでございます」

 悩む俺に柳生宗矩が織田信雄からの言伝を報告した。

「内大臣様? どういう要件か聞いたか?」

 俺は明日からの日中の城攻めでいかに被害を抑えるかを考えようとしていたため苛立ち気味に言った。

「申し訳ありません。何やら急いでいるようで聞けませんでした」

 柳生宗矩は申し訳なさそうに俺に答えた。柳生宗矩に何も罪はない。悪いのは織田信雄だ。
 こんな夜に呼びつけやがって。ついつい俺は親指の爪を噛んでしまった。

「又右衛門、私が悪かった。少し疲れが貯まって気が立っていた」

 俺は柳生宗矩に謝った。彼は俺が頭を下げると「滅相もございません。お顔をお上げください」と慌てた様子で言った。

「行ってくる。護衛は五郎右衛門だけいい」

 俺は柳生宗章を護衛として伴い織田信雄の陣所に出向いた。





 織田信雄の陣所に到着すると俺は言葉を失った。城攻めに加わっている武将達が勢揃いしていたからだ。

「これはどういうことだ!?」

 俺は驚きのあまり心境を吐露してしまった。何か大変な問題が起こったのか。
 俺は織田信雄から愚痴を言われると思っていたため驚きながら周囲を見回した。

「相模守、山中城が落ちたようだぞ」

 俺が武将達の面子を遠目で確認していると、福島正則が俺に声をかけてきた。その隣には蜂須賀家政がいる。二人とも慌てた様子で俺に前振りなく話しかけてきた。
 この二人とは軍議に同席したくらいで言葉を直に交わしたことはない。でも、二人とも秀吉とは関係が深いため、北政所の甥である俺に対して身内意識を抱いているのかもしれない。その割には今の今まで声をかけてこなかったのは何故だろう。

「山中城が落ちたのですか?」

 俺は動揺することなく福島正則に返事した。韮山城攻めから二日が経過している。時期的に山中城が既に落ちていてもおかしくない。史実で山中城は一日で落ちたと言われている。実際は城攻めから数時間で落ちたらしいから北条方の体勢が一気に崩壊したことは間違い。
 豊臣秀次率いる七万からなる豊臣本隊は、山中城に一日で到着し、翌日には城攻めを開始し、その日の内に城を落としたと見ていい。
 山中城攻めの陣容は史実通りだと思う。だから、史実通りに豊臣秀次の家老、一柳直末、は城攻めで討ち死にしたはずだ。家老が死ぬくらいだ。豊臣秀次は自軍を前面に押し出し城を力攻めで落としたに違いない。山中城は万を超える大軍で籠城できる大規模な城だ。それを半分以下の兵で守れば必ず何処かに綻びができたはずだ。七万の大軍相手にその綻びは致命傷になっただろう。その上、城将が一枚岩じゃ無い。
 山中城は落ちるべくして落ちた。
 しかし、秀吉の古参の武将、一柳直末、を失うとはな。
 惜しい。
 秀次も惜しい人物を失ったと思っているのだろうか。
 だが、これで小田原城への道は確保されたに等しい。大軍を阻むには箱根一体の地形を利用した防衛しか無い。北条の本拠地である相模国への道を守る山中城が落ちたことで、伊豆国にある防衛の要となる城は寸断され連携できずに孤立した状態になったに等しい。

「やけに落ち着いているのだな」

 福島正則は俺の様子を見て訝しんでいた。俺は史実を知っているから当然の事実と受け止めていたが、彼らにしてみれば驚くべきことなのだろう。
 あまりに澄ました態度だったために変な目で見られている。

「山中城攻めの備えは万全でなく、内輪揉めをして籠城戦をできる状態ではありませんでした。早々に山中城は落ちると思っていましたから驚いていません」

 俺は作り笑いをしながら取り繕った。

「相模守、手柄を上げる場所を一つ失ったのだぞ。悔しくないのか!」

 福島正則は憮然とし俺に怒り出した。彼は残念な子を見るような目で俺を見ている。

「韮山城をさっさと落として山中城攻めに加わろうと思っていたのに口惜しい」

 福島正則と蜂須賀家政は心底悔しそうにしていた。俺達が会話をしていると視線を感じた。俺は視線を感じる方向を何気なく見ると織田信雄と目が合った。彼は陣所の最上段に腰掛け不機嫌そうな表情で俺達を凝視していた。俺は咄嗟に視線を逸らす。

「福島様、蜂須賀様。内大臣様がこちらを見ております」

 俺は織田信雄から見えないように右手で口元を隠し小さい声で二人に声をかけた。俺が彼らに声をかけると、彼らは織田信雄の方を向き直ぐに視線を逸らし自分の席にそそくさと移動しはじめた。俺も彼らの後に続き自分の席に座る。俺の席は一番末席だ。この席は織田信雄から一番遠いはずだが、織田信雄の視線を未だに感じる。俺は嫌な予感しかしなかった。





「皆々、よく集まってくれた」

 織田信雄は招集をかけた武将達に声をかける。武将達の表情は優れない。山中城が一日で落ちたことが衝撃だったのだろう。
 俺達は二日経っても韮山城を落とせていない。だから彼らは余計に落ち込んでいるんだろう。明日からの城攻めが心配になってきた。焦って勇み足になる武将が出てこないか心配だ。馬鹿な武将が死のうが一向に構わないが巻き込まれることは迷惑だ。

「我らも悠長に城攻めしている時ではない。明日から今まで以上に発奮し城攻めを行ってくれ!」

 織田信雄は声を大にして武将達に叱咤した。冷静にならないといけない総大将が冷静さを失ってどうする。
 しかし、織田信雄の方針を非難する訳にもいかない。総大将の方針を公然と非難することは戦場において禁止らしい。もし、非難すれば最悪軍規を犯した者として死罪になることもあり得る。
 武将達の一部は織田信雄の方針に反対なような表情を浮かべるが異を唱える素振りは見せない。

「内大臣様」

 俺が諫言するしかない。この場では俺しか織田信雄に意見できそうにないだろう。俺は秀吉から北条氏規を拘束するように動けと直々に命令を受けている。そして、織田信雄は秀吉から俺が北条氏規の件で動くことを容認するように頼まれている。直球で織田信雄を非難できないが北条氏規に絡めれば織田信雄に意見できる。
 俺が発言すると織田信雄は不機嫌そうに俺のことを見た。

「相模守、何だ?」
「この二日の北条方の抵抗は激しかったです。闇雲に」
「だから何だ! 関白殿下に媚びへつらっておった田舎武者如き叩き潰してくれる」

 織田信雄は腹を立て俺が喋り続けることを制止した。彼は人の話を聞くつもりなどない。自分が見下していた相手が想像以上に手こずる相手だったことが許せないのだろう。彼は頭に血が上って冷静さを失っている。この分ではどれ程の被害を出そうと彼は力攻めに固執する予感がしてきた。

「今以上の力攻めとなれば敵味方の被害が一層激しくなります。そうなれば乱戦となりましょう。私は北条氏規を拘束するように関白殿下から命令を受けています。乱戦となれば北条氏規を拘束することが難しくなります」
「では、お前が使者として出向き北条氏規を降伏するように説得せよ」

 織田信雄はこめかみをひくつかせながら俺に命令した。今、誰が使者として城に出向いても降伏させることはできないだろう。そんなことも分からないのか。

「城攻めから二日。我らが優勢であることは変わりませんが、細川様が一部で戦果を上げるだけで全体の戦闘では敗れております。この状況で北条氏規が降伏するとは思えません」
「黙れ!」

 織田信雄は俺に扇子を投げつけてきた。俺は扇子を避けずに頭で受け止めた。俺の額から鈍い痛みを感じる。だが、俺は織田信雄から視線を逸らさない。織田信雄は俺の態度が気に入らないのか睨み付けていた。

「小僧、私の采配が無能と申すか!」

 織田信雄は声を荒げ俺に激昂した。武将達は視線を落とし沈黙していた。お前が無能だから被害が出ているんだろうが。そう言いたい気持ちを押さえた。

「そのようなことは言っていません。乱戦となれば」
「黙れ! 黙れ! 黙れ!」

 織田信雄は足音を踏みならしながら俺の目の前まで来ると俺を見下ろしながら睨みつけた。

「初陣したてのお前に戦の何が分かる!」

 俺は両手を床につけ頭を少し下げた。

「私の言葉が内大臣様をご不快にさせたのならばお詫び申し上げます。ですが、関白殿下のご意向を無視することも問題にございます。そう考え無礼と承知で意見させていただきました」
「お前に言われずとも忘れてはいない!」

 織田信雄は声を荒げ俺を怒鳴った。完全に切れているようだ。

「北条氏規に最後の機会を与えてやる。お前が使者として城に出向き、『降伏を拒否すれば城を総攻めにして城に籠もる奴らを血祭りにしてやる。女子供だろうと容赦せん』とお前が北条氏規に伝えるのだ。関白殿下も降伏を拒否した者をどうしようと文句は言うまい。総攻めで北条氏規を拘束したいならお前の好きにすればいい。誰も止めはしない。ただし、お前が拘束する前に他の者が北条氏規を槍で串刺しにしているかもしれんがな」

 織田信雄は北条氏規を殺すつもりでいる。
 いずれにしても使者として出向く以外にない。これを拒否したら俺は織田信雄に軍規違反で手打ちにされる可能性がある。織田信雄は俺が北条氏規を降伏させられるとは考えていない。
 織田信雄は北条氏規を殺す大義名分が欲しいんだ。北条氏規へ俺を使者として送り、北条氏規が降伏を拒否すれば直ぐに城攻めに移るはずだ。北条氏規を殺さざるえなかった原因を俺に全部押しつけるつもりでいる。
 だが、感情に流され冷静さを欠く織田信雄では城を落とせないだろう。韮山城には十分な弾薬を調剤する材料と大量の鉄砲が運び込まれている。大手門に兵を集中させる戦術では寄せ手が鉄砲の餌食になり兵が損耗するだけだ。それを理解せず大手門からの集中突破に固執するのは愚策といえる。大手門を落として進軍することには賛成だが、俺の策を織田信雄に献策するつもりはない。
 精々盛大に失態を犯してくれ。俺は心の中で織田信雄を侮蔑した。

「内大臣様、お待ちください」

 静まりかえった陣所で織田信雄に声をかける者がいた。俺が声が聞こえた方向に視線を向けると福島正則が顔を上げてこちらを見ていた。

「左衛門尉、お前も私の意見に不服か?」

 織田信雄は不機嫌そうに福島正則を見た。福島正則は織田信雄の剣幕に怖じ気づく様子はなかった。彼は沈黙しながらも織田信雄を威圧するような目で見ていた。織田信雄は一瞬怯むが睨み返した。

「内大臣様、不服はございません。韮山城へ相模守を使者として出向かせるというならば、私も付き添いとして同行させてください」
「ならん」

 織田信雄は福島正則の頼みを一蹴した。織田信雄は俺に嫌がらせをしたいのだろう。孤立した敵陣で一人で敵と交渉する。並の大人でも不安な役目だ。交渉できずに敵に見せしめとして殺される可能性もある。
 北条氏規が使者を害する過激な行動に出るとは思えないが、城中の侍が暴走して俺を殺すことはあり得る。俺は、それを十分に理解していた上で、この役目を引き受けるつもりでいる。俺の策で城を落とす前に、俺の策の勝率を上げるため、北条氏規に会っておく必要がある。これを逃せば北条氏規に会う機会は城を落とす時になる。それでは遅い。

「左衛門尉様、お心遣いありがとうございます。ですが、心配はご無用にございます。私は役目をしっかりと果たします」
「相模守、お前は使者の役目がどんなものか分かっているのか?」

 福島正則は厳しい表情で俺を見据えていた。その様子から俺のことを本当に心配しているように見えた。

「分かっています。使者として単身出向くことも、戦場にて槍を振るうも命掛けです。戦場に家臣達を送り出す私が使者の役目を拒否することなどできましょうか。関白殿下から役目を申しつけられた時に覚悟はできています」

 俺は落ちついた面持ちで福島正則に答えると、福島正則は黙り俺のことをただ見た。
 俺は秀吉と命の駆け引きをした時に死にかもしれないことを覚悟した。だから、織田信雄の命令を拒否するつもりはない。ここで役目を放棄して何もせずに全てを放棄をするつもりはない。秀吉が何で俺に失敗したら腹を切れと言ったか今なら分かる。命をかけるべき場所でかけることができない者は立身など夢のまた夢だからだ。秀吉が俺のことを想ってやったことか分からない。でも、そう受け取っておこうと思う。今、俺は自分の死を恐れること無く使者の役目を受けることができているのだから。

「覚悟はできているのだな」

 福島正則は目で「頑張って役目を果たせ」と言っているような気がした。

「相模守、その心意気大義である。使者の役目を申しつける。期日は明日一日のみとする。よいな」

 織田信雄は勝ち誇ったように意地の悪い笑みを浮かべると俺を睥睨した。

「かしこまりました」

 俺は平伏し織田信雄の命令を受けた。





 翌日の朝、俺は豊臣軍が周囲を囲む中を掻き分け、一人大手門前まで進み出た。俺は武器を一切持っていない。俺が大手門の側近くまで進み出ると北条方から鉄砲が撃ち込まれた。鉄砲の弾が地面を抉り砂埃が舞う。俺は驚き身体を硬直させるが自分を発奮すると、俺は勢いよく息を吸い込み、口を大きく開いた。

「豊臣家家臣、小出相模守俊定と申す! 城主と話がしたくまかり越した次第。城主にお取り次ぎ願いたい!」

 俺は大手門前で必死に大きな声を出し自分が使者であると北条方に伝えた。大手門の扉は何も反応がなかった。俺は再び先程言った口上を繰り返した。喉が枯れるほど叫んだ頃、大手門の扉が開き一人の具足に身を包んだ侍が現れた。その侍は右手に抜き身の刀を持っていた。

「私は、北条家家臣、清水新五郎吉久と申す者。城主がお会いになられると申しております。武器を持たずにゆっくりとこちらに参られよ」

 清水吉久と名乗る男は年の頃は五十過ぎに見えた。俺は両手を挙げ武器を持っていないことを相手に伝えた。

「武器は持っておりません」

 俺が清水吉久に言うと俺はゆっくりとした足取りで歩き出した。彼の側近くまで来ると彼は俺の具足を検めだし俺が暗器などを隠し持っていないことを確認していた。

「武器は持っていないようですな。失礼した」

 清水吉久は俺に謝罪した。

「お気になさらないでください。私が同じ立場なら同じことをしたでしょう」
「かたじけない」

 清水吉久はそう言うと具足の脇から布を取り出した。

「しばし不自由をおかけしますが、これで目隠しをさせていただきます」

 目隠しをされた俺は清水吉久に手を繋がれ足下が覚束ない状態で何処か分からない場所を進んで行く。清水吉久は俺に時折「足下に段差があります。お気を付けください」と声かけして俺の歩調に合わせてくれた。おかげで足下を踏み外して転けるようなことは無かった。
 随分と歩いたと思った頃、清水吉久の動きが止まる。俺も清水吉久に倣い歩くのを止める。 

 

第十六話 決裂

「使者殿、着きました」

 清水吉久の声が聞こえると俺の視覚を奪っていた目隠しの布が外された。俺の視覚に入ったのは具足を身を包む、十三人の侍、北条家臣達がいた。俺の左右に六人。そして、俺の視線の先、一段高い場所、上座に一人が座っていた。上座に座る侍の歳は四十代に見えた。彼は俺を黙って凝視していた。この場所に居る北条家臣達の中で彼が一番身分が高いに違いない。
 韮山城主、北条氏規か?

「お座りください」

 立ち尽くす俺に清水吉久が声をかけ座るように促してきた。俺は彼に勧められるまま、その場に腰をかけつつ周囲を見回した。俺の視界に入った光景は殺風景な板敷の広間だった。小さい格子窓から外界の光が入ってきていたが外の景色ははっきり見えない。
 俺が座ると北条家臣達の視線を感じた。彼らは殺気だった視線を俺に送ってくる。二日間、互いに殺し合いをした間柄だ。敵の使者である俺に憎しみを抱くことは当然だ。
 孤立無援の状態とは今の俺の状態だな。
 俺が秀吉と命の駆け引きをする前だったなら、殺伐とした重々しい場の空気に飲まれ心を動揺させまともな精神状態ではいられなかっただろう。
 今回の交渉次第では俺は死ぬかもしれない。だが、今の俺は不思議と落ち着いていた。
 俺だって死にことは恐ろしい。だが、前線で戦う俺の家臣達はもっと恐ろしいはずだ。家臣達が俺についてきてくれる。その想いに報いようと思うと勇気が湧いてくる。
 俺は上座に座る男に向き直ると佇まいを正し床を手に置き頭を下げた。

「私は、豊臣家家臣、小出従五位下相模守俊定、と申します。城主、北条美濃守、殿にお会いしたくまかり越しました。あなたが美濃守殿にございますか?」

 俺は敢えて自らの位と官職を名乗った。俺が「相模守」を正式に受領していることを相手に伝えるためだ。秀吉から与えられた「相模守」は北条家臣達にすれば徴発にしか思えないだろう。だから、俺は「相模守」は自称で名乗っている訳でないことを伝えたかった。冷静な人間なら俺の言葉で察することができるだろう。
 俺の気持ちとは裏腹に広間にいる北条家臣達の表情が変わった。彼らは一斉に表情を真っ赤にし血走った眼で俺を睨んでいた。

「控えよ!」

 上座の男は凜とした物言いで北条家臣達を手で制止した。男の顔は他の北条家臣達と違い冷静だった。涼しい表情で俺のことを見ていた。
 俺は上座にする男が北条氏規と直観した。

「相模守殿、お初にお目にかかります。いかにも、私が北条美濃守氏規です」

 北条家臣達を制止した上座に座る男は落ち着いた様子で俺に名乗った。

「美濃守殿、お会いできてうれしく思います」
「こちらこそ。相模守殿、貴殿は私に会い話がしたいと聞きました。それに相違はありませんな」

 北条氏規は俺に確認するように訊いた。彼は俺を子供と侮っている様子は微塵も感じられなかった。相手を見た目で判断しない性分なのだろう。俺を露骨に侮る人物なら織田信雄も韮山城攻めで手をこまねくことはなかっただろう。
 秀吉が北条氏規を高く評価した理由がなんとなく理解できる。同時に俺は北条氏規が豊臣軍に対して徹底抗戦を行い玉砕する覚悟はないように感じた。血の気が多い感じがしない。彼は冷静に損得を考え行動ができると思う。だが、北条一門として誇りはあるはずだ。北条征伐後に北条氏直に付き従い高野山で共に謹慎していた行動から見ても、節操なく降伏はしないだろう。

「その通りです」

 俺が答えると、北条氏規はしばし間を置き口を開いた。

「敵同士の間柄である私に話とは何でしょうか?」

 俺のことを値踏みするような視線を送ってきた。

「美濃守殿、城を明け渡してくださいませんか? 降伏してくだされば御身と城兵、その家族の身の安全は保障させていただきます」

 俺は婉曲な物言いはせずに単刀直入に自分の気持ちを伝えた。当然のことながら、この場所に居る北条家臣達は烈火の如く怒り俺を罵倒してきた。俺を罵倒する大声のせいで耳が痛い。

「勝っているのは我らだ! 何故、お前達に降らなければならない!」

 若い血気盛んそうな侍が俺に喧嘩腰に叫んできた。若いと言っても俺より八つ位は年上、二十歳位だろう。

「静かにしろ」

 北条氏規が俺に息巻く若い侍を低い声で注意し黙らせた。彼に注意され侍は渋々黙ったが俺を睨みつけていた。この遣り取りで他の北条家臣達も俺を罵倒するのは止めた。先程の喧騒が嘘のように部屋が静まりかえった。この部屋の周囲に人がいないように感じた。俺を何時でも始末できるようにに足軽達を部屋の外に配置している可能性はあり得る。

「山中城は一昨日落ちました」

 俺の突きつけた事実に北条家臣達は俺を嘘つき呼ばわりして罵りだした。山中城が一日で落城したことが余程信じられない様子だった。だが、これは事実だ。

「私が嘘をつく理由がございません」
「信じることはできませんな」

 北条氏規は俺に冷静に答えた。

「山中城は防備を強化する準備が整っていませんでした。だが、それでも山中城の防備ならば豊臣本隊七万の軍勢にも耐えることができたでしょう。籠城する兵が十分な数であったならばですが」

 俺は余裕に満ちた表情で北条氏規を見据えた。彼の表情が厳しい顔に変わった。彼は俺が何を言わんしているか直感しているようだ。

「山中城は北条家本拠地、相模国、から大軍の侵入を阻むために作られた堅城。その目的のために城につめる城兵の数は一万以上を想定しています。その城を四千足らずの兵で守れば、いかに堅城とはいえ城の周りを取り囲む七万の軍を阻めるわけがありません。勝負ははじまる前から決まっていました」

 俺の話に北条氏規の頬を冷や汗が一滴したたり落ちる。北条家臣達も俺の的確な指摘に言葉を詰まらせ沈黙していた。

「城主、松田康長は死亡。北条左衛門大夫殿は玉縄城に逃亡いたしました。美濃守殿、お心を決められるならば早い方がよろしいと思います」

 俺はそこで言葉を切り手で相づちを打った。

「そうそう。山中城攻めに加わられた徳川様は足柄城を落とすために進軍している頃でしょう。徳川様のご活躍を関白殿下もお喜びのことと思います」

 場の空気が静まり返っていた。俺は知っている史実を元に話し出した。この情報は未だ織田信雄の元まで来ていない。韮山城攻めに参加している武将達で知っているのは俺くらいだろう。
 俺は落ち着いた態度で北条氏規を見据えた。北条家臣達の表情は優れない。
 北条家と同盟を結んでいた徳川家康が豊臣家のために率先して北条の城を落とすことに協力している。心を乱さずには入られないだろう。徳川家康が北条家の味方でないことは北条家臣達は理解しているはずだ。だが、それを現実として突きつけられることは心を乱さずには入られないはずだ。なぜなら、現在の北条家当主、北条氏直、の正室は徳川家康の娘、督姫、だからだ。心の隅では淡い期待を徳川家康に抱いていたかもしれない。その期待を俺を打ち砕く情報を突きつける。
 さりげなく毒を蒔くことが重要なことだ。相手の心を揺さぶることで徳川家康への信頼を少しずつ突き崩していく。そして、北条氏規が徳川家康を信じれなくなった時、頼ることができる相手は俺だけだと印象づける必要がある。

「貴殿に約束ができるのですか?」

 北条氏規は徐に口を開いた。彼の表情は山中城が落ちたことを告げた時の動揺は消え落ち着いていた。
 立ち直りが早い。思った以上に精神力が強いな。

「私は関白殿下より韮山城攻めにおける城将との交渉一切の権限を与えられています。私の判断は関白殿下の判断と思ってくださって問題ありません」

 俺は落ち着いた物腰で北条氏規に返事した。彼は沈黙した。その目は俺を信じていない様子だった。
 それが普通の反応だろうな。幾ら弁舌が上手くても十二歳の子供の発言を疑いもせず信用することは難しいだろう。それでも北条氏規が俺の話に食いついてきたあたり、彼は条件が整えば降伏する意思があると感じた。

「私は関白殿下の甥にございます」

 俺を見る北条氏規の目の色が変わるのが分かった。俺は彼の気持ちを押すべく、自らが身に纏う朱地の陣羽織を示した。これには御門より秀吉に下賜された五七の桐紋が白糸で刺繍されている。

「この陣羽織は関白殿下から直々に下賜された物です」

 北条氏規は陣羽織の袴の部分に刺繍された五七の桐紋を凝視していた。彼は食いいるように俺の五七の桐紋を観察していたが俺の顔に視線を戻した。北条家臣達も俺の陣羽織を凝視していた。

「相模守殿は関白殿下からご信頼を得ていらっしゃるようだ」

 北条氏規は俺に感心している様子だったが、直ぐに「失礼した」と謝罪してきた。彼の先程の言葉の最初には「そのお歳で」が省略されていたのだろう。そう思うのが当然だ。自分達を馬鹿にしていると感じない北条氏規の器量に驚く。そんな者なら韮山城を任せないだろうな。感情に任せて動くようじゃ韮山城を守りきれない。韮山城が落ちれば北条方の心を砕くのに十分な効果がある。韮山城は北条家勃興の象徴といえる城なのだからな。

「気にしておりません」

 俺は笑顔で返す。

「相模守殿、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」

 北条氏規は俺に頼み事をしたいと言ってきた。俺は予想外のことに頼み事があると言って来た。俺は驚くも彼の話を聞くことにした。

「私も豊臣家の家臣。豊臣家に迷惑をかけること無く、私の一存で決めることができることであれば承りましょう」

 俺の言葉に北条氏規は口元を引き締めるが口を開いた。彼は俺に面倒なことを頼むつもりだったのだろう。予防線をしいておいて正解だった。

「北条家は関白殿下へ叛意はございません。私は今でも互いの考えによる行き違いでこのような不幸な結果になったと考えています。戦端を交え互いに引けぬ立場であること重々承知しております。その上でお頼みしたい」

 北条氏規は言葉を切り、上座から俺に頭を下げた。北条家臣達は驚くが全員黙ったまま様子を窺った。

「相模守殿、関白殿下にお取次ぎを願えませんでしょうか?」

 北条氏規は俺の顔を真摯な目で見ていた。
 俺の答えは決まっている。この頼みに応えることはできない。既に北条家を滅ぼすことは規定路線となっている。今更、俺の一存で状況が変わることはない。北条氏規もそのことは理解しているはずだ。それでも俺に頼む理由は戦を長引かせる時間稼ぎだろう。俺が秀吉に連絡を取れば少なくとも数日は休戦状態になる。

「美濃守殿、私は貴方が豊臣家と北条家の融和のため並々ならない尽力されたことを関白殿下より伝え聞いています。できることなら力をお貸ししたい。ですが互いに干戈を交えた以上、当家と北条家は戦にて答えを出す以外にありません。美濃守殿が降伏されるならば、関白殿下は美濃守殿を特別に一諸侯として待遇してくださることでしょう」

 俺は北条氏規に秀吉が彼を気に入っていることをそれとなく伝えた。そして、彼を北条家臣としてでは無く、一大名として遇する用意があることも伝えた。
 俺の物言いが気に入らなかったのか北条家臣達が俺を言葉でなじりだした。だが、俺は彼らに抗弁すること無く、ただ黙って北条氏規のことを見ていた。俺の掲示したことは秀吉なら叶えてくれると思う。史実では北条氏規が激しく抵抗したにも関わらず結局潰すことは無く、万石級の知行でないが畿内に知行を与えた。この秀吉の処置は北条氏規を厚く遇した方だと思う。北条氏照の居城である八王子城攻めとは雲泥の差だ。八王子城に籠もる者は女子供関係なしに根絶やしにされた。北条氏規を降伏させた徳川家康が北条氏規を擁護したことも大きいのかもしれないが、秀吉自身も北条氏規のことを嫌っていなかっただろうと思う。

「頼みをお聞き届けいただけず残念です。相模守殿、私は降伏する意思はない」

 北条氏規は俺にきっぱり降伏しないと宣言した。
 想定通りの返答だな。
 気が引けるが織田信雄からの言葉を伝える必要がある。

「韮山城攻めの総大将、織田内大臣、からの伝言がございます。その伝言を聞かれた上で今一度よく考えた上で返答いただけますか?」

 俺は真剣な表情で北条氏規に言った。北条氏規が降伏を拒否した後に総大将からの伝言を伝える。聞かずとも良くない内容であることは誰にでも分かる。

「どのような内容でしょうか?」
「『降伏を拒否すれば城を総攻めにして城に籠もる奴らを血祭りにしてやる。女子供だろうと容赦せん』と総大将は申しております」

 北条氏規は恫喝と取れる降伏勧告を聞き終わると眉間に皺を寄せていた。北条家臣達にいたっては憤怒の形相で身体を小刻みに震わせていた。
 俺は生きて帰ることができないかもしれない。織田信雄は馬鹿だ。こんなことを伝えれば相手の気持ちを硬化させるに決まっている。

「相模守殿、何故そのことを今話されたのですか?」

 これを最初に言えば俺は間違いなく血祭りにされ大手門に打ち捨てられていたかもしれない。それほど刺激的な内容だ。だが、こんな下品極まりない降伏勧告を敵とはいえ伝える気分になれなかった。
 俺は素直に自分の気持ちを北条氏規に伝えることにした。

「戦で勝敗を決するならいざしらず。敵とはいえ恫喝し、相手の矜持を踏みにじるような品性下劣な言葉を伝えることはできませんでした。ですが、美濃守殿が降伏を拒否されたのなら、総大将の言葉をお伝えする他ございません」

 俺は人の悪意の籠もった視線を一身に集める中で動じることなく北条氏規に自分の気持ちを伝えた。北条氏規は俺の話す姿を黙って見ていた。

「青いですな」

 北条氏規は穏やかな目で俺を見ていた。

「青かろうと、これは私の矜持です。矜持を曲げては私ではありません」
「武家に生まれた以上、時に自分の矜持を曲げねばならない時がきっとくるでしょう。ですが、その矜持を忘れず大切になされよ」

 北条氏規は俺を諭すように言った。北条家臣達は北条氏規が話を終えると、俺に「さっさと帰ろ!」と怒鳴りだした。それを北条氏規は制止することはなかった。
 俺は北条家臣達に怒鳴られようと表情を変えず落ち着いた様子で北条氏規を見た。

「お言葉心に留め置きます」

 俺は素直に北条氏規の言葉を受け入れた。北条氏規は俺に対して頷き返事した。

「使者殿がお帰りだ。大手門まで丁重にご案内しろ。必ず丁重にご案内するのだぞ」

 北条氏規は俺をこの部屋まで案内した清水吉久に念押しして命令した。彼は殺気立つ北条家臣達のことを懸念しているのだろう。彼らの一人が暴走して俺を殺せば降伏の選択肢は無くなり徹底抗戦による玉砕しか道が無くなる。それは北条氏規の望むところではないのだろう。北条氏規は降伏の選択肢を残しておきたいと考えていることは確かなようだ。
 清水吉久は北条氏規の命令を受け俺に目隠しをしようとする。それを俺は制止し北条氏規を見た。

「相模守殿、まだ何かあるのですか?」
「美濃守殿、大した話ではありません。美濃守殿とお会いできる機会はそう多くはないでしょう。いくつか世間話させていただけないでしょうか? お時間は取らせません」
「世間話?」

 北条氏規は俺の突然の話に怪訝な表情を浮かべた。敵地で敵将と世間話をしようと言う俺が奇妙に映っているに違いない。北条家臣達も俺をそんな目で見ている。

「美濃守殿は徳川様とお知り合いとお聞きしました」
「幼少の頃、徳川様にお世話になりました。その後も徳川様には機会あるごとに縁を持たせていただいております」

 北条氏規は警戒しながらも俺が振った話題に嫌な顔をせず答えた。

「私も徳川様とはじっこんにさせていただいています。先月、徳川様が夕餉(ゆうげ)にお誘いいただきました。私が鷹狩りの経験がないと言うと機会があれば鷹狩りに誘おうとも言ってくださいました。徳川様は私のような若輩者にも目をかけてくださりありがたいです」

 俺の話に意外そうな表情に変わる。先程までと違い表情に穏やかさが現れていた。

「徳川様はご健勝であられるか?」
「お元気でございます。韮山城攻めに向かう前もお会いしております。美濃守殿のことを心配しているご様子でした」

 俺の言葉に北条氏規の表情が曇る。俺は嘘は言っていない。軍議の時に顔を合わせている。結局、軍議の後に徳川家康は俺に接触してくることは無かった。立場上、秀吉の甥である俺に北条氏規のことを頼むとは言えないからだろう。

「めざしが美味かったです」

 俺は徳川家康が振る舞った夕食を食べた時の記憶を思い出しながら感想を言った。普段が貧相な食事だから「めざし」でも十分にご馳走に感じた。最近は食事の度にそれを痛感する。
 北条氏規は俺の突飛な発言に要領を得ない様子だった。

「徳川様に夕餉に誘ってくださった時にめざしをご馳走になりました。塩加減が程良く飯が進みました。聞けば三河産のめざしと聞きました」

 俺の話に北条氏規はくすりと笑った。北条家臣達は俺の呑気な世間話に呆気にとられている様子だった。先程までの殺伐した空気がいつの間にかかき消えていた。

「その上、徳川様は土産にめざしを包んでくださいました」

 俺が笑顔で話している様子を北条氏規は穏やかな様子で聞いていた。彼の北条家臣達も城主、北条氏規、の様子の変化を感じ取っている様子だった。

「相模守殿、いい話をお聞かせいただいた。もっと相模守殿と語らいたいところだが、これ以上の語らいは互いの心を鈍らせてしまう」

 北条氏規は穏やかな表情から真剣な表情に変わり俺のことを真っ直ぐ見据えた。彼は婉曲に俺に「帰ってくれ」と言っていた。これ以上世間話を続けても彼に利は無い。それに俺が徳川家康と縁があると打ち明けたことで、北条家臣達の気持ちに迷いが生まれる可能性もあり得る。

「ついつい話が弾んでしまい時間を忘れておりました。今日はこれくらいで失礼させていただきます」

 俺は丁寧に頭を下げた。だが、俺はこのまま素直に帰るつもりはない。

「忘れておりました。美濃守殿。この地に旧知のご友人が参られることは二度とないでしょう」

 俺は顔を上げると真剣な表情で北条氏規に伝えた。
 北条氏規に対して俺は毒を更に蒔く。毒は毒でも遅効性の毒だ。もし、北条氏規が徳川家康に通じているならば、この毒はこの後に北条氏規の心を蝕むことだろう。そのために北条氏規と徳川家康の連絡の術を完全に断つ。
 不安が疑心を招き疑心が更なる不安を招く。

「どなたのことを仰ているのですか?」

 北条氏規は俺の言葉の真意を読み取ろうとばし考える様子だったが、俺に言葉の意味を聞き返してきた。意味が分からなかったのか。それとも分からない素振りをしているのか。それは俺に分からない。
 俺は表情を緩め北条氏規を見た。

「私の勘違いだったようです。美濃守殿、先ほどの言葉はお忘れください」

 俺は笑顔で北条氏規に答えた。北条氏規は落ち着いた様子で「そうですか」と短く答え、それ以上俺の話に触れなかった。そして、彼は清水吉久に目配せした。

「失礼したします」

 清水吉久は俺に断りを入れ俺に目隠しをした。俺は来た時と同様に目隠しされた状態で彼の案内で大手門の外まで戻ることができた。既に日の光に橙に染まりかかっていた。俺が清水吉久に案内された頃が昼前だったから、思った以上に時間が経過している感じがした。
 北条氏規と会い俺は確信した。織田信雄が城攻めを指揮続ける限り韮山城は落ちない。
 俺は織田信雄に交渉の結果を報告するために本陣に向かった。 

 

第十七話 雌伏

 織田信雄の本陣に到着すると、織田信雄と彼の近臣達が俺を待ち構えていた。
 織田信雄は眠そうに扇子で口元を隠し欠伸をしていた。
 俺が北条氏規と命を賭けて対面していたのに呑気なものだ。俺は織田信雄に呆れるが、それを面に出すことはなかった。
 俺は早く報告を終わらせたかった。織田信雄には北条氏規との会見の全てを報告するつもりはない。俺にとって都合の悪い部分は省略した。特に織田信雄も知らない、史実の情報と徳川家康が絡む内容は話せるわけがない。織田信雄は馬鹿だが、その近臣には優秀な人材が多い。余計な情報を与え俺の情報の出所を勘ぐられると面倒になる。

「偉そうなことを言っておった割には不首尾か」

 織田信雄は俺の報告を聞いている間、ずっと不遜な態度をとっていた。俺より身分が上の男であることは分かる。だが、この男には不快感しか湧かない。

「言い訳はいたしません。力至らず申し訳ありませんでした」

 俺は口答えせず素直に謝罪した。
 織田信雄は鼻を鳴らし目を細め俺のことを凝視した。

「北条氏規には私がお前に言ったことを全て伝えたのであろうな」

 織田信雄は不愉快そうに言った。北条氏規が降伏しなかったことで気に入らなかったようだ。豊臣軍は韮山城を二日間攻めて味方に大きな被害を出しただけだ。北条氏規が降伏するわけがない。これで北条氏規が降伏したら北条一門として面子がない。北条氏規を馬鹿にしている織田信雄では一生理解できないだろう。

「全て伝えました」
「何と言っていた?」
「『降伏する意思はない』と言っていました」

 織田信雄は北条氏規の返答を聞き終わると、扇子を握る彼の右手に力が籠もるのが分かった。

「お前はそれを聞いておめおめ帰ってきたというのか!」

 織田信雄は俺を睨み怒鳴りつけた。
 おめおめも何も相手を怒らせて交渉が上手くいく訳がない。織田信雄と話していると疲れてくる。

「北条氏規には山中城が一日で落ちたことを伝えた上で降伏を促しましたが、これ以上話すことはないと追い返されました」

 織田信雄からの伝言を伝えなければ、韮山城に籠もる北条家臣達の気持ちを逆なですることも無かったろう。

「お前は本当にそう伝えたのか? 怖じ気づいて何も伝えなかったのではないか?」

 織田信雄は俺が北条氏規に何も言えずに帰ってきたと思っているようだ。
 ここまで馬鹿とはな。俺が年相応に北条氏規と会見して何も言え無かったら、北条方は豊臣軍が彼らを馬鹿にしている受け取り最悪殺されていたかもしれない。
 俺は冷めた目で織田信雄のことを見た。

「その目つきは何だ!」

 織田信雄が不快感を表し俺を怒鳴りつけた。

「申し訳ございませんでした。私の話が嘘と断じられるのであれば、再度使者を送られれてはいかがでしょうか。北条氏規は同じ返事しかしないでしょう」

 俺は織田信雄を見据えて意見した。俺の動じない態度に織田信雄は舌打ちする。

「黙れ。北条氏規を降伏させることができなかった癖に、私に偉そうに意見をしおって!」

 織田信雄は声を荒げた。俺が意見することが気に入らないのだろう。

「相模守、お前のような小僧は私の命令に従っておればいいのだ。分かったか?」

 織田信雄は自分のことを棚に上げ、俺が北条氏規を降伏させることができなかったことを理由に俺を黙らせた。彼の鬼の首を取ったような態度に俺の気持ちは不愉快になる。
 こんな馬鹿の命令に大人しく従うのは癪だが、ここはおとしなく黙るしかない。精々、この馬鹿には秀吉が更迭するまで道化を演じてもらおう。どうせ城は落とせやしない。

「分かったかと聞いているのだ!」

 織田信雄は沈黙する俺を眉間に皺を寄せ睨みつけると声を荒げた。

「生意気を申しまして申し訳ございませんでした。内大臣様のお指図に黙って従わせていただきます」

 俺は頭を下げ殊勝な態度で織田信雄に言った。俺が顔を上げると織田信雄は鼻を鳴らし、俺を手の仕草で「失せろ」と伝えてきた。俺はもう一度頭を下げると織田信雄の元から去った。
 織田信雄への報告から半刻(一時間)が経過した頃、俺の元に織田信雄からの使者が伝言を伝えてきた。
 伝言の内容は俺に後方支援を担当しろとのことだ。俺が最前線から遠ざけられたことを意味する。とはいえ韮山城下に駐屯することは許されている。
 織田信雄の本音が見え見えだ。
 織田信雄は俺に手柄を与えるつもりがない。彼の本音は俺をもっと遠くに飛ばしたいと思っているだろうが、それは秀吉が俺に与えた命令もあり無理と考えたんだろう。しかし、織田信雄のせこい嫌がらせに彼の器の小ささを感じた。だが、織田信雄の嫌がらせのお陰で俺の兵達が損耗することを避けることができる。これは怪我の功名だな。





 俺は後方支援の役目について四日目の朝を迎えた。俺は体を起こし寝ぼけた意識の中で前方の木製の壁を眺めていた。木製の壁は板を幾つも貼り合わせたものであるため継ぎ目に隙間があり、そこから陽光が差し込んでいた。
 今日も良い天気のようだな。
 一昨日の夜も大手門に鉄砲を打ち込んだ。
 今夜も大手門に鉄砲を撃ち込む。
 同じ間隔で同じ刻限で同じ時間だけ鉄砲を撃ち込むことに意味がある。俺の戦術は正攻法じゃない。相手が油断してくれないと困る。

「殿、(なつ)様が戻ってきました」

 俺の部屋の扉から聞き慣れた女の声が聞こえた。先頃、俺の家臣になった元風魔衆の(ゆき)だ。俺はゆっくりと扉に視線を向けた。

(なつ)? 風魔小太郎の娘だったな」

 俺は雪の話にしばらくの間ついていけなかった。韮山城を落とす準備に奔走していて、風魔小太郎の娘の名を忘れていた。そう言えば風魔小太郎の返事の期限だった。期限以内に返事が来たということは悪い返事じゃないだろう。

「殿にお目通りを願い出ています」
「そうか。奥の部屋に待たせておけ。私も準備が整ったら直ぐに行く」
「かしこまりました」

 俺が返事すると雪が立ち去る足音が聞こえた。俺はそそくさと準備を整え扉から出ると柳生宗章がその場に座っていた。俺の警護役である彼は何時も俺の側にいる。だから、俺の寝所の入り口で柱を背もたれにして眠っていた。柳生宗章は本当に律儀者だ。彼にはどうしても家臣になって欲しい。

「風魔小太郎の娘に会う。ついてきて貰えるか?」
「御意のままに」

 柳生宗章は短く返事すると立ち上がった。俺は彼を連れ夏の待つ部屋に向かった。





 俺が夏の待つ部屋に入ると夏が平伏したまま待っていた。部屋には雪と玄馬もいた。二人は俺の姿を確認すると俺に平伏した。
 かつての主人に義理立てか、それとも俺に仕えても心は風魔衆ということか。別に構わない。俺にとって役に立つなら使う。

「よく戻ったな」

 俺は夏に声をかけると上座に座った。柳生宗章は俺の左前に座り何時でも夏を斬れる位置に座った。ここまできて夏が俺を害すことはないだろうが、念のためということだろう。

「小出相模守様、お待たせして申し訳ございませんでした」
「夏、面を上げよ。早く風魔小太郎の返事を聞かせて貰えるか?」

 俺は単刀直入に夏に聞いた。彼女は顔をあげると俺のことを見た。そして、彼女は自分の懐から書状を取り出した。彼女は座ったまま俺の近くまで移動すると体勢を倒し書状を俺に差し出した。
 俺は柳生宗章に目配せする。彼は夏から書状を受け取り俺に差し出した。俺は柳生宗章から書状を受け取ると、それを開き中身を見た。風魔小太郎からの返事は俺の条件を全て飲むと書かれていた。山中城が落ちたことで風魔小太郎も悠長にことを構えている余裕が無くなったのだろう。

「夏、風魔衆は既に動いているのか?」
「既に仰せの通りに伊豆国内に風魔衆の者達を放っております。徳川と江川の間者は全て始末してご覧にいれます」

 夏は顔を上げ俺に風魔衆の動きを説明しはじめた。彼女の報告では既に徳川の間者を七人始末しているそうだ。だが、言うだけなら幾らでも嘘をつける。俺は伊豆国に地の理がない。だから、風魔衆が俺を騙すことは容易いだろう。疑りはじめたら際限にないな。

「私の期待通りに働いてくれているようだな」

 俺は淡々と夏に返事した。風魔衆が俺の指図通り動くことを確約し成果を上げているというなら、俺はそれを賞さなければならない。しかし、風魔衆が俺のために働いている証が欲しいところだ。だが、この場に始末した七人の首を持参しろというのも難しい。間者を始末したというなら、死体はそこらに打ち棄てているにだろうしな。

「勿体ないお言葉でございます」

 夏は俺に返事し平伏した。彼女の声音から彼女が安堵しているように感じた。その様子を俺は静かに眺めていた。
 最近、藤林正保が江川氏の間者を三人始末したと報告があった。真偽はともかく風魔衆は間者を七人始末したと報告している。そう考えると地の利がない藤林正保の配下の成果はまずまずなのものかもしれない。
 藤林正保の報告によると、江川氏の間者は韮山から沼津方面に向かっていたそうだ。伊豆国の交通の要衝、沼津、を経由して向かう先はどこか。豊臣軍が抑えている街道沿いを通って移動を試みるとは大胆不敵な行動だ。
 想像だが徳川の旗本として仕える江川英長の家臣と名乗り街道を自由に移動しているんだろう。少なくとも韮山城に籠もる江川英吉と徳川家康は間違いなく通じている。徳川家康が一枚噛んでないとこんな行動はできない。そうなると徳川家康と北条氏規が通じている可能性は事実と見てしまって大丈夫だろう。
 俺が思案気な表情で考える素振りをしていた。

「小出相模守様、一つ献上したきものが御座います。お役立ていただければ幸いでございます」

 夏は徐に俺に声をかけてきた。彼女は懐から分厚い折り畳んだ紙を差し出してきた。

「それは何だ?」
「拝見いただければ分かると思います。風魔小太郎が小出相模守様に対し二心無きことの証になるかと存じます」

 夏は勿体つけたように俺に言った。俺は柳生宗章に目配せして、夏が差し出した紙を俺を渡すように指示した。俺は柳生宗章から紙を受け取ると開いていく。紙は巻き四つ折りにされ、更に二つ折りにされていた。紙を開くと、その大きさは四尺(約百二十一センチ)あり、建物の見取り図が書かれていた。見取り図に書かれている建物の名前と配置場所を見続けると、俺の脳裏を何かがかすめた。

「韮山城の見取り図か」

 俺は夏に対し質問するので無く確信めいた口振りで問いただした。夏は俺の質問に対し頷いて返事した。俺は口角を上げた。
 この見取り図には堀切などの城の備えについての詳細についても書かれていた。これは最高の軍事機密と言っていい。藤林正保の仕事が楽になる。

「これは信用できるのだろうな?」
「問題ございません。北条美濃守様が韮山城の堀の拡張工事をされていた頃に風魔が作成していたものでございます」
「その頃には風魔衆は北条を見限っていたということか?」

 図面を作って隠し持っているとは油断も隙も無いな。これではおちおち風魔衆を信用できなくなる。だが、役目の上で必要だったのかもしれない。風魔衆には用心しておいた方が良さそうだ。

「いいえ。役目上必要になるため作成していただけです。これを小出相模守様に献上することで、風魔衆は忠誠の証としたいと考えております。どうぞお受け取りください」

 夏は平伏して俺に風魔衆の総意を伝えてきた。風魔衆が北条家が韮山城の図面を豊臣方に渡したことが分かれば、風魔衆は族滅必死だ。風魔衆の意思は固まったと見て大丈夫だろう。

「風魔衆の覚悟はよく分かった」
「ありがとうございます」

 夏は平伏したまま礼を言うと頭を上げる。

「この図面を俺に献上したということは玄馬(げんま)から私が韮山城を調べさている情報を伝え聞いたか?」

 俺は射貫くような鋭い目で夏を見据えた。

「申し訳ございません」
「構わない。だが、今後はこんな真似はしないことだ。私から余計な疑いを買いたくはないだろう。私は風魔衆とは末永く良好な関係を築きたいと考えている」

 俺は夏に婉曲に脅しをかけた。夏は表情を固め俺に平伏した。この位でいいだろう。あまり脅し過ぎても両者の関係に溝を作ってしまう。

「ところで。夏、風魔衆には火の扱いに慣れた者はいるか?」
「火の扱いでございますか? 残念ですが鉄砲の扱いに慣れた者は風魔衆にはいません」

 俺は頭を左右に振った。

「勘違いしているようだな。俺が欲しいのは火付けに慣れた者だ。風魔衆は抱えているだろ?」
「はい、抱えております」
「風魔衆が人を出すなら、風魔小太郎を家老待遇ではなく、正真正銘の家老にしよう。そして、お前を側室として迎える。どうだ?」

 夏は俺の申し出に固まった。俺の話は突拍子もないから驚いているのだろう。だが、悪い話じゃないはずだ。側室とはいえ、主君と縁続きになれば新参の風魔衆も立場が盤石になる。問題は俺が若年過ぎることだろうか。
 俺に韮山城の見取り図を差し出す辺り、風魔小太郎は俺の申し出を喜んで受けるだろう。夏に関しては彼女が婚姻に対してどういう価値観を持っているか分からない。だが、家のためなら受けるに違いない。俺もそう言うものだと割り切るつもりでいる。この時代は婚姻による家同士の絆を強化する手段は有効だからな。御家騒動の原因にもなるが主君がしっかりと舵取りをすれば問題ないと考えている。

「小出相模守様、その申し出は真でしょうか?」

 夏は前のめりになりながら真剣な顔で俺に質問してきた。彼女は凄く乗り気な様子だ。俺から持ちかけた話だが、俺は彼女の反応に戸惑ってしまった。

「二言はない」
「その話を謹んでお受けいたします」
「風魔小太郎には確認しなくても大丈夫か?」

 俺は念のためここで即決してしまって大丈夫か確認した。

「問題ございません。小出相模守様の申し出は風魔衆としても光栄なことでございます」

 俺は狼狽え気味に「そうか」と返事した。

「夏、お前が私の側室になる日取りは改めて決める。それで問題ないか?」
「問題ございません」

 こうして俺は夏を側室することになった。しかし、火付け専門の風魔衆の忍びを韮山城攻めに投入できる。韮山城には煙硝蔵がある。幾ら大量の鉄砲があろうと火薬が無くなれば只のがらくただ。俺は口元に笑みを浮かべた。





 俺は風魔小太郎の娘、夏、との面会を終えると食事を早々と済ませ後方支援の仕事についた。後方支援に回って四日が経過したが、毎日俺の一日は平和だ。今日も大きく変わることはないだろう。韮山城に籠もる北条兵は積極的に城外に兵を繰り出していることはないからだ。数に勝る敵相手に城外戦を行うことは無謀なことだ。北条氏規は俺が伝えた情報で韮山城が完全に孤立した状態に陥いると考え、自軍の消耗を極力避けるように動くはずだ。その証拠に豊臣軍が攻めない限り動かないらしい。

「殿、内大臣様の殿への扱いはあまりに無体です」

 俺の隣で曽根昌世が嘆くように喋りだした。
 俺は馬上から遠く先まで続く荷駄隊の列を眺めていた。俺の近くには柳生宗章と柳生宗矩も控えている。曽根昌世ももう少しこの長閑な雰囲気を堪能した方がいい。一ヶ月後には嫌でも戦場に身を置き神経磨り減らすことになる。

「内匠助、そう悪いことばかりじゃない」

 俺は意味深な笑みを浮かべ嘆く曽根昌世を見た。曽根昌世は俺の態度に溜め息をついた。彼は俺の企みの全て知らされているから、俺が兵力を無傷で温存できる現状を喜んでいることも理解している。しかし、彼の表情は俺の気持ちとは異なるようだ。

「殿はもう少し家臣達のこともお考えください。今度の配置で家臣達の士気が下がっております。先陣に出て戦っていた者達の中には殿に仕官したことを嘆いている者達もおります」

 俺の脳裏に思い浮かんだ者達は十河家の旧臣達だった。彼らは十河存英、十河保長を名目上の頭にして二部隊を編成して行動している。この二部隊は俺が指揮する夜襲とは名ばかりの演習に加わらず、織田信雄の指揮する豊臣軍の先陣に加わっていた。だが初日は俺が日和見していたため、彼らがが先陣に加わったのは昨日一日だけだなる。折角得た手柄を立てる機会を奪われたことで落ち込んでいるんだろう。
 嘆くなら俺の指揮する夜襲に加わればいい。だが、嘆くだけでふて寝とはどうしようもない奴らだな。
 二十六日後には織田信雄は解任され、俺は城攻めに取りかかれる。そうなれば彼らに手柄をあげる機会を与えることができる。俺は彼らにそのことは伝えていないため、俺の余裕綽々な態度に心乱されるんだろう。だが、べらべらと誰彼構わず話せる訳もない。

「嘆いているのは十河家の旧臣達か?」

 曽根昌世は何も答え無い。それを俺は肯定の返事と理解した。十河家の旧臣達の扱いはどうするべきかな。俺の指示で行わせている夜襲に興味を示さない。その重要性を知らせていないため仕方ない部分がある。だが、俺に対して協力的でないことも事実だ。他の家臣達は俺に協力的に行動していることもあり、十河家の旧臣達の行動が目立つ。

「どうしたものか」

 俺は腕組みして視線を落とすと嘆息した。

「十河家の旧臣達で口の固い者達から人を選び殿のお考えを説明してはいかがでしょうか?」

 曽根昌世の提案を俺は妙案だと思った。

「心辺りはあるのか?」
「何人かには心辺りがあります」
「その者達で十河家の旧臣達を説得できるのか? できないなら話す意味がない」
「彼らを全て納得させることは難しいでしょうな。その者達は十河家の旧臣達の中では中堅の立場にいる者達です。家老達は戸次川の戦いで死亡しましたからな」
「一部は抑えることができるということだな?」

 曽根昌世は頷いた。それで良しとするか。

「内匠助から、その者達に説明してくれるか?」
「殿からご説明された方がよいと思います」
「私がか?」
「殿が直々にご説明されれば、その者達も殿が座興で話されているとは思わないでしょう」

 曽根昌世の提案に俺は思案した。態々主君が陪臣達に作戦の詳細を説明する理由はない。だが、俺は志気がこのまま下がることを望まない。肝心な時に使えないことになると俺が困る。俺が奇襲を成功し江川砦を落とした後、天ヶ岳砦を襲撃する時に十河家の旧臣達を使うつもりでいた。だから、やる気を無くして俺の軍から逃亡されても困る。
 曽根昌世が選んだ者達には、俺が城攻めを行う準備を整えていることだけ、説明することにしよう。全てを話す必要はない。

「内匠助、今夜にでもその者達を集めておけ。私が直々に説明しておく」

 曽根昌世は「かしこまりました」と頭を下げた。
 家臣を束ねるのも一筋縄じゃない。俺の家臣団は粗製乱造の寄せ集めだ。それでも家臣団をまとめなくちゃいけない。今後、領地が増えれば家臣が増える。そうなる前に俺なりの組織作りの方針を考えた方がいいな。 

 

第十八話 到来

 豊臣軍による韮山城攻めから一ヶ月が経過したある日。韮山の地に秀吉の使者がやってきた。使者の訪問で韮山城攻めに参加している武将達全員に召集がかけられた。召集場所は織田信雄の本陣である。
 織田信雄が更迭される日が訪れたか。俺は使者が誰か想像しながら織田信雄の本陣に向かった。
 俺が織田信雄の本陣に足を踏み入れ、使者の姿を確認すると、身体が固まってしまった。

「い……石田治部少輔様」

 石田三成は上座に一人で立っていた。彼の正面には武将達集まり座っている。その最前列には織田信雄と蒲生氏郷が座り、その後ろに残りの武将達が座っていた。俺は一番後ろに座ることにした。一瞬、石田三成と視線が合うが俺は素知らぬ顔をした。石田三成は俺の挙動を気にする様子はなかった。

「関白殿下からのお言葉を伝える」

 俺が腰をかけると石田三成が口を開いた。彼は事務的な口調で、懐から書状を取り出すと、書状の表を俺達に見せた。そこには「上」の達筆な文字が書かれていた。
 石田三成は、恭しい仕草で、両手で書状を持ち直すと書状に一礼した。その後、彼は書状を開いていく。
 織田信雄を筆頭に武将達が平伏する。俺も彼らと同じように平伏した。

「豊臣関白太政大臣秀吉より織田内大臣信雄に命じる。織田内大臣信雄を韮山城攻め総大将の任より解任する」

 秀吉の使者、石田三成、は織田信雄に総大将の解任を伝えた。俺の想像通りだった。
 織田信雄はどんな気持ちで聞いているだろう。平伏したままでは織田信雄の様子は分からない。だが、彼は心穏やかでないだろう。
 織田信雄は考え無しに力任せの城攻めを続けて、城を落とせず、損害だけ出せば総大将を更迭されて当然だ。誰も織田信雄の解任に異議を唱える者達はいない。武将達はようやく織田信雄が総大将から解任されたと安堵しているんじゃないだろうか。

「織田内大臣信雄、蒲生左近衛少将氏郷、細川侍従忠興。右の三名は韮山から陣払いをし、速やかに小田原城攻めに参陣せよ。残りの武将達は韮山城に付け城を建設することを命じる。付け城を建設後は最小の守兵のみを付け城に残し、速やかに小田原城に参陣せよ」

 石田三成は話が終わった。俺が顔を上げると、彼は俺達に書状の中身が見えるように両手で開いていた。確かに秀吉の花押らしきものが見える。

「上使殿、総大将解任の理由をお聞かせいただきたい!」

 織田信雄は石田三成に自分が総大将から解任された理由を問いただした。彼は自分が総大将から解任される理由が分からないようだ。俺は呆れながら織田信雄の後頭部を見た。

「一ヶ月を経過しても未だ韮山城を落城できていない。総大将の解任する理由としては十分だ」

 石田三成は感情の籠もらない顔で織田信雄を見下ろしていた。

「後もう少し。後もう少しだけ猶与をお与えください。必ず韮山城を落として見せます」

 石田三成の淡々とした事務的な態度を気にする余裕は織田信雄には無いようだ。織田信雄は必死に石田三成に頼み込んでいた。だが、石田三成は織田信雄の頼みを意に介す様子は一切ない。石田三成にすれば秀吉の言葉を伝えに来ただけだから、織田信雄が幾ら弁明しようと話を聞くつもりはないのだろう。

「関白殿下は内大臣にお怒りです。兵を悪戯に消耗し一月(ひとつき)経過しても韮山城を落とことができていない。これでは豊臣軍の威光が地に落ちるとお嘆きになられていました」
「だから、もう少し待って欲しいと言っている。必ず韮山城を落としてみせる」

 織田信雄は尚もしつこく石田三成に総大将の解任を保留にして欲しいと食い下がっていた。だが、石田三成は能面のような表情で織田信雄を見下ろしていた。

「では何日あれば韮山城を落とせるのです?」
「一ヶ月。いや十五日あればきっと落とせる」

 織田信雄は慌てながら韮山城を落とす期限を思案し石田三成に告げた。彼の口振りかして口から出任せに違いない。確実に落とせるというならころころと期限が変わる訳がない。石田三成も、織田信雄が虚言を言っていることを理解し、能面のような表情を崩さず織田信雄のことを見下ろしていた。

「約束を守れなければ腹を切ることができますか?」

 石田三成は織田信雄の虚言を聞き終わると間を置かずに恐ろしい条件を織田信雄に告げた。織田信雄は呆けた表情で石田三成の顔を見ていた。彼は石田三成が言った内容を理解できないようだった。彼は内大臣である自分に失敗したら切腹しろと言うなんて思いもしなかったのだろう。俺も流石に石田三成が織田信雄にこんなことを告げるとは思わなかった。多分、秀吉が石田三成に指示したんだろう。石田三成の性格なら織田信雄の頼むを無視して帰りそうだからな。

「十五日で韮山城を落とせなければ、失敗の責任を取って切腹できるかと聞いているのです。内大臣が覚悟を決めておいでならば、関白殿下もお許しになることでしょう。それとも先程言われた言葉は、その場限りの嘘ですか?」

 石田三成は淡々と織田信雄に確認した。織田信雄はようやく石田三成の言っていることを頭で理解したのか顔を紅潮させた。

「治部少輔、先程まで大人しく聞いておればつけあがりおって! 何故私が腹を切らねばならない」

 織田信雄は興奮気味に石田三成を非難した。総大将を解任されたにも関わらず、しつこく地位にしがみつこうとするお前が悪い。俺以外の武将達も織田信雄のことを痛い人を見るような目で見ていた。

「私は関白殿下の上使です。内大臣、私への無礼は関白殿下への無礼。今日の件は関白殿下にご報告させていただきます」

 織田信雄ははっとした顔に変わり石田三成に対して平伏した。

「気が動転してしまい無礼なことを言ってしまいました。無礼をお許しください。何卒お許しください」
「できない相談です。今日の件は必ず関白殿下にお伝えいたします」

 石田三成は織田信雄の頼みをきっぱりと断った。織田信雄は顔を上げると狼狽えた様子で動きを止めていた。
 織田信雄がようやく大人しくなった。全ての武将達が居る中で石田三成から許可を貰っておこう。俺が韮山城攻めを継続する許可の言質を取っておかないと、俺のような小身は後で他の武将達に因縁をつけられかねない。

「上使殿、お頼みしたいことがあります!」

 俺は座ったまま手を上げ大きな声で石田三成に声をかけた。
 石田三成は織田信雄から視線をはずし俺のことを見た。彼は相変わらず俺を無表情のまま見た。

「相模守、何のようだ? 私は忙しい。要件があるならさっさと言え」

 石田三成は数日前に会った時の気さくな様子は全く感じられず、聚楽第で一緒に仕事をしていた頃と同じ様子だった。俺は一瞬同一人物なのかと戸惑ったが気を取り直して石田三成に韮山城攻め継続の許可を貰うことにする。

「上使殿、私に城攻めの機会をお与えください。私ならば一月(ひとつき)で韮山城を落としてごらんにいれて見せましょう」
「関白殿下から伺っている。猶予は一月(ひとつき)。韮山城を落とせなければ切腹してもらう。それで問題ないな」

 石田三成は相変わらず事務的に淡々と俺に韮山城攻めの許可を出した。俺は「問題ありません」と即答した。

「何故だ!? 相模守に許可を出して、何故私には許可を出さない」

 織田信雄が声を荒げ俺を指刺しながら石田三成を非難した。

「許可を出さないとは言っていない。内大臣、韮山城攻めに失敗した場合に責任を取って切腹するというなら許可を出す。だが、あなたは切腹するつもり意思がない。これでは許可を出せる訳がない」

 石田三成はそこで言葉を切り、織田信雄のことを凝視した。その表情は織田信雄と話すことを面倒に感じているように見えた。

「あなたは忘れていないか? あなたには小田原城への参陣命令が出ている。参陣命令を無視し韮山城攻めを続け、それに失敗すれば切腹以外に責任を取る方法はない。相模守は韮山城攻めに失敗すれば潔く切腹すると言っている。あなたはどうなのだ?」

 石田三成は織田信雄の我が儘な要求を理路整然に論破した。織田信雄は言葉につまり沈黙してしまった。

「内大臣、どうされるのだ。韮山城攻めに失敗した場合、あなたは切腹をするのか?」

 石田三成は冷徹な表情で織田信雄を見下ろした。織田信雄は石田三成へ向けた視線を怖ず怖ずと逸らした。

「関白殿下のご命令通りに小田原城に参陣いたします」

 織田信雄は消え入りそうな声で石田三成に答えた。石田三成は視線を武将達に戻す。

「命令は以上である。各自各々の役目を全うせよ。私は直ぐに小田原に戻らせてもらう」

 石田三成は気力を無くした織田信雄を無視して立ち去ろうとした。

「上使殿、待っていただきたい!」

 去ろうする石田三成を止める者がいた。その人物は福島正則だった。今回は蜂須賀家政も加わっていた。どうしたんだ二人とも。二人とも横顔しか見えないが石田三成のことを睨み付けている。

「相模守の韮山城攻めの許可は取り下げていただきたい」
「断る。これは関白殿下と相模守の間で取り交わされたことだ」

 石田三成は福島正則の要求をきっぱりと拒否した。

「相模守は未だ十二で今回の戦が初陣です。正気で言っているのですか?」

 福島正則は厳しい表情を石田三成に向けながらも言葉を選び石田三成を非難した。石田三成は福島正則の非難を気にしている気配はない。それが福島正則の気持ちを逆なでしたのか、福島正則の表情は一層険しくなった。

「相模守が韮山城攻めを継続するにあたり、それに失敗した場合は切腹して責任を取ると言っている。関白殿下も相模守の覚悟に心を動かされ許可を出された。何が問題だ?」

 石田三成は事務的な態度で福島正則に抗弁した。彼の口振りに福島正則の表情に怒りの感情が表れた。彼は拳を強く握りしめる。その所為で彼の拳の肌から血の気が失われ白く変わっていった。

「お前はそれを黙って聞き入れここに来たということか?」

 福島正則の声は怒りで震えていた。彼は上使に対する敬語を使うことを忘れていた。

「佐吉! お前は短い間とはいえ相模守の面倒をみていたのだろう。何故、関白殿下を諌めなかった。相模守は十二だぞ!? お前は正気か!」

 福島正則は劣化の如く怒り声を荒げた。

「市松の言う通りだ。お前には血が流れているのか!」

 蜂須賀家政が福島正則に同調して石田三成を非難した。二人の様子に石田三成は無表情で俺のことを見た。

「相模守、お前は韮山城攻めを単独で攻め落とせと関白殿下から命令されたのか?」
「いいえ、私が願い出ました。ただし関白殿下は大手門を破り砦を一つ落とせば韮山城はもう落ちたようなもの。その後に城攻めに参加したい武将が名乗りでれば、お前の裁量で協力させるか判断すればいいと言われました」

 俺は秀吉との遣り取りを思い出しながら石田三成に答えた。

「福島左衛門尉、相模守の話を聞いただろう。私は相模守と関白殿下の会話を側で全部聞いていた。今の話は全て事前に取り決められた内容だ。内大臣がつつがなく総大将の務めを成し遂げ、韮山城を落としていれば相模守の出番は無かった。関白殿下も内大臣が真逆一月(ひとつき)かけても韮山城を落とせないとは思っていなかったのだろう」

 石田三成は織田信雄を横目で冷徹な視線を送りながら言った。彼の態度と会話の内容を聞いていた織田信雄は身体を怒りで震わせていた。

「その言い方ならば関白殿下は相模守一人に城攻めを命じることは本意でなかったということだな?」

 福島正則は真剣な表情で石田三成に聞き返した。石田三成は感情の籠もらない表情で福島正則のことを見ていたが口を開く。

「関白殿下のご本意ではない。だが、関白殿下は相模守に許可を出された。一度出された許可を取り下げることはない。福島左衛門尉、お前でも理解できるだろう」
「相模守が城攻めをする考えを撤回し、関白殿下にお詫びすれば問題ないことだ。この私も一緒にお詫びする」
「私もだ」

 福島正則と蜂須賀家政が共に俺のために秀吉に謝罪すると言い出した。

「駄目だ。相模守は関白殿下に願い出て関白殿下は許可を出された。私達が口出しすることではない」

 石田三成は福島正則の提案を聞くつもりがないようだ。

「き、貴様が相模守の無謀な計画を黙って見過ごしたことが全ての元凶だろうが!」

 福島正則は石田三成に掴みかかる勢いで前へ進み出るが、周囲にいた武将三人が慌てて福島正則を抑えつけた。だが、福島正則は大人しくなる気配は無く、自分を押さえつける武将達に「放せ!」と怒鳴りつけ暴れ回った。彼を抑える武将達は彼に殴られようと必死に抑えつけていた。

「福島左衛門尉、私が何時失態を犯したというのだ? 私は関白殿下と相模守の話を聞いていただけだ」

 石田三成の事務的な発言に福島正則の表情は一層険しくなり紅潮した。福島正則の表情は鬼の形相だった。
 
「放せ!」

 福島正則は抑える者達を力尽くで払い飛ばし、足を踏みならしながら俺が座る場所までやってきた。俺は福島正則の剣幕にたじろいでしまった。

「相模守、発言を撤回しろ」

 福島正則は、俺の前に乱暴に座り込むと低い声で俺を睨み付けた、俺に城攻めの計画を撤回しろと命令してきた。その表情は肯定の返事しか許さないと顔に書いてた。俺は彼の迫力に心臓を鷲掴みにされるような感覚に陥るが理性でそれを払い除けた。

「撤回しません」

 俺は福島正則のいい知れない圧迫感に抗い自分の意思を伝えることができた。
 ここまできて韮山城攻めを撤回するつもりはない。撤回すれば今まで行った準備が全て無駄になってしまう。俺の家臣達にも顔向けできない。
 福島正則は右手を動かした。その直後に俺は何が起こったか分からなかった。
 俺の左頬に鈍痛が走ったかと思うと、俺は床を転げ回った。気づいた時には後頭部を押さえつけられ床に顔を押しつけれた格好になっていた。
 苦しい。
 息がしづらい。

「相模守、発言を撤回しろ。意地を張るな。私が一緒に関白殿下に詫びてやる。蜂須賀も一緒に詫びてくれると言っている」

 頭の上から福島正則の声が聞こえた。

「嫌です」

 俺は唇を圧迫する床に抗い必死に口を開いた。俺はくぐもった声で福島正則に拒否の言葉を伝えた。その直後、俺の頭を抑える力が更に強まった。

「い痛でいでで」

 あまりの痛みに俺は苦痛の言葉が口から出てしまった。頭だけでなく右肩の辺りから強い痛みを感じる。

「お前は分かっていない! 城を落とせなければ、お前は腹を切らなければならないのだぞ! 死ぬんだぞ! 分かっているのか!」
「必ず城を落とせしてみせます」

 俺が痛みを堪え福島正則に抗弁する。すると頭と右肩の痛みが取れ、また俺の身体が宙に浮く感じがした。俺は首元を掴まれた状態で険しい表情の福島正則の顔と対面することになった。彼は怒っている様子はない。俺を心底心配しているように見えた。俺と福島正則の間には齟齬があるような気がする。だが、福島正則の反応は暴力的であることをおいといて、いたって正しいと思う。真逆、俺が入念に城攻めの準備を整えているとは思いもよらないはずだ。

「お前が勇気と知恵があることは認める。だが、お前は分かっていない。戦場はお前の思うように思う通りにはならない。四万の大軍で韮山城を攻めても落ちなかったんだぞ。それを初陣のお前が落とせる訳がないだろう。今回は諦めろ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。生きていればきっと手柄を上げる機会はやってくる」

 福島正則は俺を頭ごなしに叱りつけることは止め、俺を諭すように説得してきた。俺は福島正則の気持ちがよく理解できた。ここまで心配してくれていることに感謝の気持ちで一杯だ。豊臣秀次とは大違いだ。だが、俺は何も考え無しで秀吉と取引した訳じゃない。韮山城を落とす算段は既に整っている。後は実行に移すだけだ。

「三日の内に大手門を落とし江川砦を落としてみせましょう。出来なければ福島様のご忠告に従います」

 俺は福島正則の厳つい顔を真正面から見据えて言った。

「三日だと!?」

 俺の言葉に福島正則は目を見開いた。だが、俺の真剣な表情からいい知れない自信を感じ取ったのか、福島正則の目の雰囲気が変わり首元を掴む手を緩めた。俺は床に向かって激しく尻餅をついた。
 尻を激しく打ち付けたせいで尻が痛い。俺は痛みのあまり尻をさすった。

「三日だと!」

 もう少し優しく降ろしてくれ。俺が心の中でぼやいていると、先程まで大人しくしていた織田信雄が声を荒げ立ち上がった。

「小僧ほざきおったな。私が四万を率いても落とせなかった大手門をお前はたった三日で落とすだと」

 織田信雄は振り返りこめかみをひくつかせながら俺を睨みつけていた。
 俺が三日で韮山城を落とすと言ったことが勘に障ったようだ。俺の物言いは織田信雄に対する皮肉に聞こえたのかもしれない。

「落とせるものなら落としてみろ!」

 織田信雄は興奮しやけっぱちになり俺に怒鳴った。

「小田原でお前が土下座して関白殿下に許しを請う姿を楽しみにしているぞ。蒲生、細川さっさと小田原に向かう準備をはじめるぞ!」

 織田信雄は石田三成に挨拶すること無く、肩をいからせ足を踏みならし本陣を去っていた。彼の後を蒲生氏郷と細川忠興がついていく。
 蒲生氏郷は本陣の入り口付近で足を止めた。細川忠興は蒲生氏郷に遠慮して足を止める。すると蒲生氏郷は振り返り俺の方を見た。

「こそこそと動き回っていると思っていたが上手くやりおったな。相模守、お前は底意地の悪い小僧だ。次は一枚噛ませるんだぞ」

 蒲生氏郷は意味深な笑みを浮かべ口角を上げた。彼はそれだけ言うと足を止めることなく去っていた。細川忠興は蒲生氏郷の言葉の意味が理解できない様子だったが、蒲生氏郷の後を追うように去っていた。

「相模守、仔細は全て話してもらうぞ」

 福島正則は俺に声をかけてきた。彼の隣には蜂須賀家政もいた。二人とも俺が考え無しに韮山城を攻めようとしているんじゃないことは理解したんだろう。その上で俺がどう韮山城を攻めるつもりか確認するつもりなんだろう。この分だと二人は全てを話さないと引き下がらないだろう。
 俺の作戦の全てを話したくないが、二人とも俺が韮山城を落とせると確信できないと、秀吉に詫びを入れさせるために俺を引きずってでも小田原に連行しそうだ。
 それは不味い。
 江川砦を落とした後は福島正則と蜂須賀家政に協力してもらった方が城攻めを進めやすいに違いない。ここは二人に譲歩するしかない。 

 

第十九話 同士

 秀吉の下知が石田三成から通達され緊急招集された軍議は散会となった。
 好奇と蔑み、それに嫉妬の視線が俺に集中する。
 こうなるよな。
 俺のような小僧には荷が重いと考えているのだろう。
 この場にいる武将達は俺の軍だけで韮山城の大手門を突破出来るわけがないと決めつけている。俺の軍は六百未満の寡兵だ。彼らは一月(ひとつき)に渡り四万の大軍で韮山城を攻め大手門すら突破できなかった。その事実が彼らの判断を鈍らせている。自分達ができないから、それより劣る者ができるわけがない。
 一見理に適っているように思えるが、それは見誤っている。
 幾ら堅牢な城であろうと城を守るのは人だ。その人が正しく機能しなければ堅牢な城といえど綻びが生まれる。山中城が落ちた理由がまさにそれだ。城は守る人が正しく機能してこそ本領を発揮する。
 城を落とす綻びが無いなら作ればいい。
 織田信雄はそれを怠ったから城を落とせなかった。彼の指揮は大軍を頼みに力攻めを行っただけだ。それでも時間と犠牲を強いれば城は落とせただろう。だが、秀吉はそんな長い時間を織田信雄に与えるつもりは無かった。
 福島正則と蜂須賀家政も俺の力量を信じていないだろう。二人は俺の自信に満ちた態度に言葉や暴力での説得は無理と理解し、俺の計画を聞いた上で俺に城攻めを断念させようと考えているんだろう。

「帰るか」

 俺は独白すると自分の陣所に戻るため織田信雄の陣所を去ることにした。
 俺の後を追うように柳生宗章、福島正則と蜂須賀家政が順に着いてきている。福島正則と蜂須賀家政の家臣達らしき人物達が六人付いてきていた。
 織田信雄・蒲生氏郷・細川忠興が陣払いをすれば、俺は城攻めをはじめる。彼らは数日位で韮山を去るだろう。奇襲を仕掛けるならば、その時を逃して他にない。
 大軍の半分が引けば韮山城に籠もる北条兵の心の緊張が解ける。城主、北条氏規、が油断するか分からない。だが、北条氏規とて人だ。城を包囲していた大軍の半分が一挙に去れば幾ばくかは心に隙ができるはず。
 北条氏規は再び間者を放つだろうか。
 この一月(ひとつき)で北条方の間者は風魔衆と藤林正保の配下の者達の手で始末している。最近は城から間者が出てくることは無くなった。無意味と理解したのだろう。だが、この機会を北条氏規も逃がさない。包囲が厚くて間者が戻ってこれないと考えているなら間者を放ってくるに違いない。
 城から間者が放たれれば間者を泳がす。ただし、韮山城下に限る。それを超えて間者が動けば始末させる。どうせ遠くに間者を送るなら一日二日では戻ることはないと思うからな。その間に俺はことを終わらせる。俺の瞳が鋭くなる。
 北条氏規は俺が城攻めを続けることを知ったらどう思うか。俺が用意周到な策を弄していると考えるだろうか。
 どちらでもいい。
 韮山城内に詰める北条兵は俺を警戒していないようだしな。この三十日間、俺はただ家臣に命じて、二日置きで夜間に大手門に向け鉄砲を打ち込ませていただけだ。
 大手門を攻める訳でも無くただ鉄砲を撃ち込ませるだけ。
 城内を探る藤林正保と柳生宗矩の報告によると北条兵の俺への評判はすこぶる悪い。俺は、夜間に鉄砲を撃ち込むだけで何もしないことから、「五月蠅い奴」と呼ばれているらしい。城を攻めはじめて七日目以降、俺が夜間に鉄砲を撃ち込んでいると北条兵が、大手門を出て、俺の軍に反撃してくるようになった。俺は交戦するつもりが無いから直ぐ撤退した。それで北条兵の俺の評価は「五月蠅い奴」に加え「口先ばかりの臆病者」が追加された。
 北条兵は俺が奇襲する機会を窺っていると夢にも思っていないに違いない。最近は北条兵も俺の軍に反撃してくることは無くなった。反撃しても直ぐ逃げることが理由だろう。
 俺の計画としてはまずまずだろう。
 だが気になっていることがあった。俺はつい溜め息を吐いた。
 北条兵が俺を嘲ることは全く気にしていない。
 だが、北条兵の俺への評価は味方である豊臣軍にも蔓延しているということだ。福島正則達が俺のことを心配している理由にこのこともあると思う。そして、俺の家臣達の中に鬱屈した不満を抱えている者達がいることを肌に感じている。俺の計画を内々に説明している者達が不満を抱いている者達をよく抑えてくれていて助かっている。
 もうすぐ苦労をかけた者達の苦労も報われるはずだ。
 曽根昌世の助言を聞き入れておいて正解だった。助言を無視していたら、今頃は俺の軍が崩壊していたかもしれない。

 それよりさっきから息が苦しい感じがする。どうしたんだろう。
 俺は深呼吸した。だが、深呼吸しても改善しない。やはり息苦しい。
 俺は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動が速い。
 頭では大丈夫と思っても身体は正直だな。不安は隠せない。
 殺し合いの真っ只中に向かうことになるんだから仕方ない。
 今直ぐでも、この場から逃げたい気持ちはある。
 だが、俺に逃げる場所なんてない。
 ここで踏ん張り手柄を上げなければ、この先の俺の未来はない。力が正義の時代において力が無いということは不幸だ。俺の前世の世界なら命を賭けなくてもそこそこ頑張れば命の危険に晒されることは無かった。この世界は違う。命の価値が紙切れと一緒だ。時の為政者の胸先三寸で簡単に死ぬことになる。
 だから、俺は力を手に入れるしかない。北条征伐後は関東に所領を与えられ大名としてひっそり籠もり、徳川家康と良好な関係を築いて安穏な殿様生活を満喫したい。家臣達にも十分の俸禄を与えてやりたい。石田三成には悪いが関ヶ原の戦いで東軍側に立ち勝ち組として生き残りたい。だから、俺はそこそこ出世できれば問題ない。
 俺はふと歩くことを止め空を眺めた。
 暗闇の中に星が美しく映える。この時代の空は綺麗だな。この光景を見ていると俺が今立つ場所は戦場じゃないように思えてくる。
 何時か戦争とか血生臭い話抜きでのんびりと夜空を眺める時が訪れるのだろうか?

「殿」

 俺は呆然と夜空を眺めていると柳生宗章が声をかけてきた。

「星が綺麗だなと思ってな」
「呑気なものだな」
「良いでは無いか。確かに星が綺麗だな。最近はこうして夜空を見る機会も無かったからな」

 俺が夜空を見た感想を口にしていると福島正則が呆れ気味に言った。蜂須賀家政は俺を擁護すると空を眺め感慨に耽っていた。

「急ぎましょうか」

 俺は福島正則と蜂須賀家政に声をかけ、俺の陣所へ向けて再び歩きはじめた。
 秀吉も粋な計らいをしてくれた。韮山城攻めの豊臣軍への使者に石田三成を立てたことだ。お陰で単独での城攻めを行う許可の言質を武将達の見せることができた。同時に俺を追い込むことにもなったが。
 でも、石田三成は自分から俺に韮山城攻めのことを振ってこなかった。あれは秀吉の最終確認だったのだろうか。あの場で俺が黙っていれば秀吉は約束のことを有耶無耶にしようとしたかもしれない。今になっては真実は分からない。これが終わったら石田三成に聞いてみてもいいかもしれない。
 俺は歩きながら自らの掌を見つめた。
 秀吉から朱印状を受けたんだ。失敗は許されない。
 小国とはいえ一国の知行を安堵する朱印状を秀吉は発給した。いくら身内とはいえ、朱印状を安易に発給できるはずがない。だが、秀吉は俺の願いに応え朱印状を発給した。
 秀吉は俺が韮山城攻めに失敗すれば約束通り切腹を命令するだろう。寧々叔母さんが俺の命乞いをしても許すさないはず。それだけ朱印状という存在は重いと考えている。
 あの時の秀吉の表情は恐ろしかった。本当に失敗したら殺されると思った。
 秀吉も立場があるだろうしな。
 失敗した俺を許せば秀吉は武家の棟梁として体面を失う。だが、秀吉のやり口は要求した俺が言うのもなんだが厳しすぎると思う。
 秀吉が厳しかろうと約束を守ればいい。俺が韮山城を落とせば切腹する必要は無くなる。再び俺は自らの右掌を見た。掌を見ると指が小刻みに震えていた。
 俺は雑念を払うように顔を左右に振り、自らの頬を両手で叩いた。俺の手を見ると震えが収まっていた。

「俺が不安になってどうする」

 俺は自分に言い聞かせるように自分だけに聞こえるに小さな声で呟いた。大将が不安になれば家臣達にも不安が伝染する。俺は自信に満ちた態度で家臣達を引っ張らなければならない。俺は前方を睨み付け拳を強く握りしめた。



「殿、ご苦労様で御座いました」

 柳生宗矩が俺を出迎えた。彼は俺の後ろにいる客の姿を視界に捉えると驚くが直ぐに姿勢を正し頭を下げた。

「福島様。蜂須賀様。ご苦労様で御座います」
「私は二人と奥で込み入った話をする。家老達にも声をかけておいてくれ」
「かしこまりました」

 柳生宗矩は俺に要件を聞き終えると、福島正則と蜂須賀家政に頭を下げ、足早に立ち去った。


 俺は福島正則と蜂須賀家政を陣所の奥に通した。二人の家臣達は陣所の入り口付近で待たせている。俺達に遅れて藤林正保、岩室坊勢祐、曽根昌世の家老達が遅れてやってきた。家老達は二人の客に順に挨拶していた。
 これで全員集まったな。
 この二人、福島正則と蜂須賀家政、にどこまで話すべきか。
 俺は福島正則と蜂須賀家政に視線を向ける。二人と視線が合った。二人とも俺が話出すことを待っているようだった。

「どこからお話すればいいでしょうか?」

 俺は笑顔で二人の顔を順に見た。

「全てだ」

 福島正則は俺の目を捉えて放さず即答した。

「城攻めに失敗した時の罰が切腹とは苛烈過ぎる。単独で城攻めを行う許可を得るにしてもな。お前は俺に黙っていることがあるだろう。関白殿下は厳しい御方だが命を奪うにしても段階がある」

 言葉を切った福島正則は会話を再開した。彼は厳つい目で俺を凝視していた。彼の指摘は鋭い。虚言を口にすれば殴られそうな雰囲気だ。
 この二人に嘘を突き通せる自信はない。
 秀吉から朱印状を出してもらったことを話すしかない。
 俺は懐に手を入れた。秀吉からもらった朱印状は何時も肌身離さず懐に入れ身につけている。もちろん寝る時もだ。着替える時も可能な限り手放さないように注意している。
 福島正則と蜂須賀家政は俺の胸元に視線を落とした。俺は徐に油紙に包んでいる朱印状を取り出し彼らの前に差し出した。彼らの視線が朱印状に向かう。

「これは何だ?」

 訝しむ福島正則は朱印状を一瞥すると俺に聞いてきた。

「関白殿下から抱いた朱印状です。伊豆国を知行すると安堵状をいただきました」

 福島正則と蜂須賀家政は驚き朱印状を視線を落とした。

「知行安堵状だと!?」

 蜂須賀家政は動揺している様子だった。伊豆国は豊臣軍に侵攻されているとはいえ、未だ北条家の領地だ。それを秀吉は俺の領地として知行安堵状を発給している。

「切腹の条件がついた理由はこれが原因か?」

 驚く蜂須賀家政を余所に冷静さを取り戻した福島正則は俺に詰問した。その表情は厳しかった。俺は深く頷いた。

「何故そんな真似をした。これでは関白殿下にお詫びしてもお許しいただくことは難しい」

 福島正則は眉間に皺を止せ視線を落とした。

「韮山城を落とすために朱印状が必要だったからです。私は伊豆に入る二月(ふたつき)前から国衆の調略を行っていました。ですが、伊豆は既に徳川家康の調略が入り私になびく国衆がおりませんでした」
「朱印状があればそれをひっくり返すことができると考えたか? 甘いな。その程度でひっくり返すことができるものか。国衆が動かなかった理由はお前を信用できなかったからだ。東海道を抑える徳川家康とお前の言葉では比べるまでもない」

 福島正則は言葉を選ばず直球で俺を説教してきた。ここで俺に気を遣っても意味がないからな。俺を説得しようとするなら現実を理解させるしかない。

「そんなことは分かっています」
「分かっているだと?」

 福島正則は俺の物言いが気に入らなかったのか眉を釣り上げた。彼は俺が意固地になって口答えしていると思っているようだ。

「はい。私は朱印状を使い国衆を抱き込むつもりはあります。ですが、それは結果論です。相手が私を軽輩と侮るなら、私を頼らざる得ない状況に国衆を追い込めばいいのです。人は追い込まれれば藁をも掴むと申します」

 俺は意味深で冷酷な笑みを浮かべた。俺の雰囲気の変化に薄気味悪さを感じたのか福島正則と蜂須賀家政は押し黙った。

「追い込むと出たか。何をした」

 福島正則は俺を凝視していたが徐に口を開いた。俺は二人に全てを話すことにした。徳川家と北条家の放った間者達を韮山に近づけないように皆殺しにしていることを語った当たりから表情は強張っていた。

「福島様、韮山には徳川家と北条家の間者は近づけません。韮山城主、北条氏規、と徳川家康は江川氏を介して通じています。互いの情報が断絶した彼らは今どのような心境でしょうか? 北条氏規には対面した時に心に毒は蒔いております。主の不安は兵達で伝染するものです。ここで大手門を落とせば朱印状を持つ私に江川はどう動くでしょうか? 徳川家康を信じて主に殉じるでしょうか?」

 俺を見る蜂須賀家政の目に恐怖の感情が交ざっていることに気づいた。俺のやり口は恐ろしいのだろうか。それとも俺が考えた計画が子供らしからぬ内容であることに恐れを抱いてるのだろうか。

「大手門を落とせる確証はあるまい」

 俺は藤林正保に視線を向け合図した。藤林正保は俺に頷くと二人の前に進み出て韮山城の縄張り図が描かれた紙を開いた。福島正則と蜂須賀家政は縄張り図に視線を落とし凝視するがしばらくすると食い入るように見ていた。

「これを何処で手に入れた?」
「調略を行っていた風魔衆が手見上げに人質と一緒に持ってきました」
「風魔衆だと!? 北条家お抱えの忍びではないか! そんな輩が持ってきたものを信用できるというのか?」

 蜂須賀家政は不信感に満ちた目で縄張り図に視線を落とした。

「偽物の縄張り図を私に持ってきても意味がないでしょう。福島様が仰られたではございませんか? 私では信用されないと。風魔衆が私を頼るとすれば庇護を求めるくらいしかありませんよ。よしんば風魔衆が私を騙すために行ったことだったとしても、彼らが徳川家と北条家の間者を始末するような真似を自ら進んでやる利益は何でしょうか?」
「忍びの言葉など信じられるわけがあるまい!」

 福島正則は声を荒げて俺を非難した。

「私も信じてはいません。そのために藤林長門守と柳生又右衛門をつけているのです」

 俺は藤林正保と柳生宗矩の名を上げた。

「殿の仰る通りです。ですが、風魔衆の頭領、風魔小太郎、は殿への恭順の証として人質を出しております。それに韮山へ怪しい者の出入りはこの一月(ひとつき)確認しておりません。韮山城から城外に出ようとする間者の姿も確認しておりません。間者を出しても意味が無いと理解したのでしょう。風魔衆は少なくとも殿の期待に応えております。忍びとはいえ矜持はございます。一度受けた役目を反故にすることはありません」

 藤林正保はそれとなく忍びと蔑んだことを非難した。福島正則は黙った。彼も口が過ぎたと思ったようだ。蜂須賀家政は藤林正保の説明を聞き終わると納得している様子だった。

「分かった。相模守、好きにするがいい」
「私も福島と同意見だ。相模守がここまで準備をしていたとは。心配して損した。だが、気をつけろ。戦場は思うようにいかない」
「蜂須賀の言う通りだ。気をつけるのだぞ。相模守、臆病になれ。ただ勇猛な者はいずれ矢弾に当たり死ぬ。いいか相模守。最後まで生きていた者が勝者なのだ。勇猛な者は勝者ではない」

 福島正則は真剣な表情で俺に諭した。彼は語り終えると深い溜め息をつき、
視線を落とし拳で床を殴った。突然の行動に皆驚いた。

「蒲生様の言葉がようやく合点がいった。俺達が三介殿の采配に苦しんでいる時、お前は高みの見物をきめておったということか」

 福島正則は無味乾燥な物言いで淡々と言った。彼は顔を上げるといきなりを手を上げ俺の頭に拳骨を落とした。俺は一瞬何が起こったか分からなった。頭にじわじわと広がる痛みに俺は手で押さえながら言葉が出なかった。
俺が涙目で福島正則の顔を見ると、福島正則は口角を上げ俺のことを見ていた。

「これで俺達に隠しておいたことは無しにしてやる。お前が大手門を突破したら俺も韮山城攻めに加わる。文句はないな。相模守、必ず大手門を突破するんだぞ!」

 福島正則は口を開き歯を見せ笑った。

「城攻めに協力してくださるならありがたいことです」
「蜂須賀も加わるだろう?」

福島正則は俺の返事に満足げに頷くと蜂須賀家政の方を向いた。

「当然だ。手柄を相模守に総取りされては俺の立つ瀬がない」

蜂須賀家政も乗り気なようだった。俺は彼らに頭を下げ礼を言った。 

 

第二十話 宴会1

 俺が韮山城を単独で攻略を進めることを福島正則と蜂須賀家政は納得し各々の陣所へ帰った。説得できるか内心ひやひやしたが事無きを得た。
 韮山城の本丸を囲む兵に目処が立った。
 俺が城の大手門を突破に成功すれば、福島正則と蜂須賀家政は城攻めに合流する手筈となった。彼らには俺が要請するまで動かないで欲しいと念を押しておいた。万に一つ俺の軍だけで江川砦を落とすことが困難になった場合、迷わず彼らに合力を頼むつもりだ。面子に拘り家臣達を犬死にさせるわけにはいかない。
 俺は家老達と一緒に居る。先程まで俺が福島正則と蜂須賀家政と会談を行った部屋にいる。
 視線が痛い。藤林正保と曽根昌世が俺を厳しい目を向けている。
 俺は深く溜め息をついた。
 福島正則のせいだ。余計なことを口走ってくれた。
 福島正則は俺の城攻めを行うことに納得する途端に饒舌に語りだした。その中で彼は俺が織田信雄に「三日で大手門を落とし江川砦を落としてみせる」と啖呵を切った場面を身振り手振りを交えて熱く家老達に語り出した。
 曽根昌世と藤林正保は「軽率が過ぎます」と俺にせまり怒り心頭だった。対照的に岩室坊勢祐は腹を抱えて笑い「殿、かぶきましたな。それでこそ我らの御大将にございます」と親指を立て俺を誉めた。

「殿、福島様と蜂須賀様をお見送りいたしました」

 重苦しい空気の中、割り込むように部屋の外から柳生宗矩の声が聞こえた。柳生宗矩が来ると曽根昌世と藤林正保は俺を厳しい目を向けることを止めた。とりあえず二人とも怒りを抑えてくれたようだ。この分だと後で二人に説教を受けることは間違いなさそうだ。
 仕方ない。今考えれば俺も少々後先を考えない大胆な行動を取ってしまった。
 でも、あの場で福島正則を黙らせるにはあれ位の啖呵を切る必要があったと思う。福島正則は俺を縄で縛っても秀吉の元に引き連れて行こうという勢いだった。

「二人とも自分の陣所に戻ったことを確認できたか?」
「確認いたしました」

 柳生宗矩は俺に即答した。味方である二人を監視することは気が進まない。だが、念のために監視をつけさせた。

「又右衛門、お前も入ってくれ」

 俺は柳生宗矩に部屋に入るように促した。城攻めの行動計画の最終の打ち合わせを今日の内に行っておきたい。明日からは忙しくて打ち合わせをする時間が取れないかもしれない。
 俺は柳生宗矩が部屋に入り着座することを確認すると家老三人へ視線を向けた。

「福島様と蜂須賀様は俺が城攻めを行うことを納得してくれた。これより城攻めにおける作戦の意識合わせをしておきたいと思っている」

 俺は韮山城の縄張り図を開いて床にしいた。家老達と柳生宗矩は縄張り図を囲むように着座した。

「風魔の者は同席させずともよいのですか?」

 柳生宗矩の問いに俺は思案した。
 答えは直ぐに出た。今回は必要ないだろう。
 韮山城攻めに加わる風魔衆は柳生宗矩の傘下で動かしている。そのことは風魔衆も了解している。彼らも露骨に表立って俺の軍議の席に顔は出したくないようだった。北条家が倒れるまで、この状況は続くに違いない。豊臣軍が小田原城を完全包囲し北条家に勝ち目が全くない状況になれば風魔衆も堂々と顔を出す可能はある。

「必要ない。風魔衆が現時点ではそれを望んでいる。又右衛門、今回の城攻めに加わる風魔の忍びはお前に預けることにする。彼らに伝える必要がある情報があれば、お前から伝えて欲しい」

 柳生宗矩は俺の指示に納得し「分かりました」と頷いた。
 それでは本題に入るとするか。

「内匠助、福島様と蜂須賀様はどの段階で城攻めに加わると思う。私達の動きを監視しつつ、大手門を突破したらすぐさま兵を動かすと思うか?」

 正直な話、福島正則と蜂須賀家政には俺の指示を受けず勝手に動かれれては困ると考えている。大手門を突破し、江川砦を落とすまでの筋書きは俺の兵だけで攻め落とすことを想定している。そして、天ヶ岳砦を落とすまでの筋書きもな。三日後の奇襲で天ヶ岳砦まで兵を進めることは厳しいと考えている。だが、そこまで兵を進めれば韮山城は一週間の内に開城させることが可能だと思っている。それだけ韮山城の防衛上で天ヶ岳砦は戦術的に重要な拠点ということだ。
 俺の兵だけで城攻めに王手をかけたい理由もある。
 それは韮山城攻めから一ヶ月で下がりきった俺の評価を一気に上げておきたいという気持ちがあるからだ。大手門突破だけでも十分だが、韮山に在陣する武将達の目に俺の勇姿を焼き付けるには福島隊と蜂須賀隊が加わるのは後の方がいい。福島隊と蜂須賀隊が加わったから韮山城が落ちたとか陰口を叩かれたく無い。だが、最悪の状況に陥った場合、福島隊と蜂須賀隊に協力を仰ぐことになるだろうと思う。意地を張っても仕方ないからな。
 でも、俺の兵だけで城の攻略をできるだけ進めたい理由は俺の面子の問題だけじゃない。俺の悪い評判のせいで、俺の家臣達が味わった屈辱を晴らす目的もある。俺の家臣達は没落した者達ばかりだから余計に辛い想いをしてきたに違いない。幾らは敵を欺くためとはいえ家臣達には本当に悪いことをしたと思っている。
 だから、俺は一角の武将であると天下に知らしめる必要がある。
 今のままだと口先だけの豊臣一門と言われそうだ。
 もしそうなったら俺の将来が心配になってくる。
 誰も相手にしない武将。将来、領地を改易されて無一文になりそうだ。
 そうならないためにも小粒大名じゃなく、正真正銘の大名になりたい。そのためには領地を十万石以上は欲しい。

「ご安心ください。お二方には殿が念を押されたではございませんか? 殿が援軍を要請なさるまで動かないでしょう。殿が関白殿下の約束を守ったことになりませんから。お二方とも十分に理解されておられるはずです。それと」

 曽根昌世は淡々と喋り言葉を切った。俺に言いづらそうな様子だ。

「内匠助、遠慮しないで言ってくれ。俺は年若い。色々と至らない部分があると思うから、気兼ねなく話して欲しい」
「殿は織田内大臣様に啖呵を切られて件もあります。後のことを考えれば、お二方は殿が奇襲に成功して即座に動くより、夜が明けてから殿の正式な依頼を待って動いた方が殿にとって都合がいいと考えることでしょう。他の武将達が証人となります。仮に一部の武将が殿に悪意を抱き情報を捏造しようと直ぐにばれます」

 俺が曽根昌世に意見を話すように促すと彼は喋りだした。彼は俺と織田信雄のいざこざを気にしている様子だ。俺が単独で落としたことを証明するには証人は多いに越したことはない。

「長門守と勢祐。これまでの曽根昌世の意見と同意見か?」
「はい。二人とも関白殿下の決定に逆らう真似はしないでしょう」
「戦に身を置く者ならば軍令無視は命取りであることは心得ているでしょう。内匠助殿の懸念は最もだと思います。殿、この世に屑は掃いて捨てるほどいます。その屑ども相手に生き残ることも戦場に立つ者に必要な才覚の一つです」

 俺の問いかけに、藤林正保・岩室坊勢祐は曽根昌世の意見と概ね同じようだった。俺は三人に対し頷き、右手人差し指の腹を顎に当て思案した。福島正則と蜂須賀家政が俺の計画を邪魔することはないだろう。だが心配の必要はないだろう。

「殿、今後の段取りは如何なさいますか?」

 藤林正保が俺の存念を尋ねてきた。残りの二人も同じことを考えているようだ。

「長門守、江川砦の調べは進んでいるか?」
「つつがなく。城では外との連絡が取れず不安を抱く者達が少なからずいるようです」

 俺は藤林正保から城内の様子の報告を受けると藤林正保のことを見た。

「その者達を調略できそうか? できることなら江川英吉を調略したい」
「ここで調略は危のうございます。折角、殿が綿密に組み立てられた計画に支障をきたす恐れがございます」

 藤林正保は調略に否定的なようだな。確かに一日や二日で江川英吉を調略できるとは思えない。城内に不安が蔓延しているならば、それにわざわざ干渉する必要もない。織田信雄にあんな啖呵を切らなければ良かったな。余計なことを言って行動を制約してしまった。今後は気をつけよう。本当に口は災いの元だ。

「藤林正保の言葉を聞きいれ調略はしないことにする。江川砦から天ヶ岳砦への移動経路の確保はできそうか?」
「縄張図通り江川砦から天ヶ岳砦の間には二つの堀切がございます。足場が悪いため城を奇襲する時に天ヶ岳砦まで兵を進めるのは危険かと思います。日が上がるまで待った上で砦に兵を進めたべきと思います」

 俺は思案した。俺は可能であれば天ヶ岳砦まで兵を進めたい。
 だが、やはり俺も危惧していたが藤林正保も奇襲時に天ヶ岳砦まで兵を進めることは危険と感じているようだ。夜間行軍で堀切がある場所を通過することは自軍への被害が大きくなりそうな予感がする。
 城を奇襲した時に天ヶ岳砦へ兵を進めることは諦めるしかなさそうだ。
 その作戦行動には与力の兵を加えるかどうか?
 俺はかぶりを振った。
 与力の兵は外すべきだ。
 奇襲に投入する兵は俺の兵だけにする。今回は俺の夜間演習に加わっている兵だけじゃなく、昼間の城攻めに参加している兵も全て使う。

「奇襲で天ヶ岳砦まで兵を進めることは諦める。夜に城を奇襲をし、天ヶ岳砦に朝駆けをしかけることは可能か?」
「朝駆けでございますか。強行軍になりますな」

 曽根昌世は顎に右手をあて考えだした。彼は連戦を行うことに懸念を抱いているようだ。夜間に戦闘を行い、少しの休憩後に戦闘では兵達を酷使することになる。だが、それは敵も同じだ。俺達が城攻めをしている最中、敵が高いびきをかいて寝るなんてできるわけがない。
 俺の兵が強行軍で疲労することを緩和することは無理だ。
 緩和できないなら敵の兵の動揺させ精神的な揺さぶりをかければいいんじゃないか?
 何かないか。
 敵の心を揺さぶり動揺させる手段は無いか?
 俺は頭の中の整理をはじめた。

「可能ですが、兵達が勝利に高揚し足下を掬われる恐れがございます」

 そうだ!
 手はある。敵の兵を更に動揺させる方法が一つあった。

「内匠助、その可能性はある。しかし、北条氏規は天ヶ岳砦を落とされることは落城を意味すると理解しているはずだ。江川砦が落ちれば天ヶ岳砦へ向かう道が開ける。敵は動揺すると考えるべきだろう」

 俺は柳生宗矩の方を見た。

「又右衛門、お前の出番だ。当初、奇襲し大手門を突破すると同時に城の火薬庫を爆破する手筈だったが爆破の時間をずらす。爆破する時は兵が朝駆けをはじめる日の出直前だ」

 俺は口角を上げ悪党の笑みを浮かべた。俺の考えに四人は目を向き驚いていた。これなら天ヶ岳砦に後詰めに向かう敵の兵が減るはずだ。減らなくても敵は間違いなく浮き足立つ。まあ、長い時間動揺させることは無理だろう。だが、俺の兵が天ヶ岳砦へ向かう時間稼きにはなるはずだ。

「私達は江川砦を落とし、天ヶ岳砦に対し朝駆けを行う。又右衛門、私達は火薬庫の爆破とともに天ヶ岳砦へ兵を進めることにする。薄暗い早朝に火薬庫を爆破すれば直ぐに分かる。だから、又右衛門は連絡役を私達に送る必要はない。又右衛門は役目を終えたら城から撤退するんだ」
「ですが、それでは江川砦を攻める時の敵の動きを鈍らせることができません」

 曽根昌世は厳しい表情で俺に意見した。それに俺は悪人の笑みを返す。

「勢祐が居るだろう。大手門突破まで江川砦は私達の動きに気づけないはずだ。だから、江川砦内に兵を送り込むこと自体は難しくない。砦に兵を送ってしまえば後は兵の数がものをいう。違うか。内匠助。江川砦に籠もる者は百名弱。だが、全てが兵ではあるまい。その中には近隣住民や兵の家族も含まれるはずだ。精々相手する兵は五十と見ていい。三百の兵を送り込めば一気に片がつく」
「分かりました」

 曽根昌世は俺の作戦を納得し頷いた。他の三人達も同調するように頷いていた。

「江川砦での戦闘は闇夜の戦いになる。乱戦となれば鉄砲は使うことができない。使い処が無くなった鉄砲を江川砦の異常を察知した敵の後詰めに対して使う。敵兵は真っ直ぐこちらに攻めてくるしかない。勢祐、待ち構えて鉄砲を撃ち込めば良い的になるとは思わないか。こちらには石田様から鉄砲・弾薬一式を借り弾薬が尽きる心配はない。根来の連続打ちを披露する絶好の機会だぞ」
「殿は恐ろしい御方でございますな」

 岩室坊勢祐は口角を上げ俺の計画に乗り気な様子だった。 

「鉄砲と弾薬の心配はしなくていい。全て使いきるつもりで使え」

 俺は拳を握りしめ振り上げた。それに岩室坊勢祐は調子を合わせ、「お任せあれ! 我ら根来の底力を板東の者達に見せてやります」と拳を振り上げた。

「そういうことだ! 内匠助、俺の計画でいけそうか?」
「殿、成功の確率は六分といったところでしょうか」
「上々だ。勝ちすぎては痛い目に合うからな。私達が目指すは天ヶ岳砦だ」

 俺は藤林正保・曽根昌世・岩室坊勢祐・柳生宗矩の顔を順に見た。四人は俺に頷き返した。


「内匠助。明日は昼から盛大に酒盛りを行いたいと思う。兵達に酒と飯を大いに振る舞って欲しい」
「それは景気がいいですな。酒が飲めると聞けば家臣達も喜ぶでしょう!」

 岩室坊勢祐は酒がたらふく飲めると聞き嬉しそうにはしゃいでいた。

「藤林正保、お前に管理を任せていた銀はまだ残っているか?」
「調略用として使う予定でしたので未だ十分に余っています」
「それを全て兵達に配れ」

 俺の命令に藤林正保は目を見開き驚いていた。

「全てでしょうか!?」
「全てだ。金は城攻めに成功すれば幾らでも融通できる。城を落とせば関白殿下から与えられた朱印状を使い津田宗恩から金策する。伊豆国の下田湊を自由に使える権利を与えると持ちかければ上納金を払うはずだ」
「かしこまりました」

 藤林正保は納得し頭を下げた。これで兵達の志気は上がる。

「殿、酒盛りは敵味方を欺くための芝居とでしょうか?」

 曽根昌世の質問に対し俺は深く頷いた。明日に酒盛りを行えば奇襲の時期から逆算して調度いい時期なのだ。深酒で奇襲の当日に兵が使い物にならないでは洒落にならない。だが、兵達に息抜きを与える必要がある。明日、酔いつぶれても一日の余裕がある。
 家臣達が酒盛りで憂さ晴らしてくれるなら何も言うことはない。

「総大将、織田右大臣、は罷免された。右大臣は二三日の打ちに韮山城を去る。それを余所に俺は酒盛りをはじめる。人はどう思うであろう。俺を愚か者と思うであろう」
「そう思う者達もいるでしょう。ですが、そう思わない者達の方が多いように思います」
「どういう意味だ?」

 俺は藤林正保の口振りが気になり彼の真意が気になった。

「殿は城攻めに参加している武将達が観ている前で『三日で大手門と江川砦を落とす』と豪語されたではありませんか? その上、殿は城を三十日で落とせなければ腹を切るとまで明言されました。普通の者なら気が触れてしまいます。楽しげに酒を楽しんでいる殿を見れば剛毅な人物と思い、何か思惑があると勘ぐる者も出てくるかもしれません」
「だが、俺が城攻めの失敗を恐れ、酒に逃げ気を紛らわしていると思う者もいるはずだ。長門守の考えは俺の考えを十分に理解しているからだと思うぞ」

 俺はあっけらかんと藤林正保に言った。

「そうでしょうな。殿はご立派にございます。家臣達の前で弱音は吐かれることはない。しかし、弱音を吐くことは必要です。私達に吐けないならば、吐ける者を側に置かれることです」

 曽根昌世は俺の物言いに合いの手を入れ笑顔で答えた。彼には俺の心の内を見抜かれていたようだ。まだまだ精進が足りないな。曽根昌世の言い分も一理ある。秀吉にとって何でも話せる相手は彼の弟、秀長、だろう。その秀長も北条征伐が終わってしばらくすれば死んでしまう。
 弱音を吐ける相手がいない。それは孤高の存在である天下人にとっては辛いことだろう。

「殿、そう心配されずとも大丈夫です。殿の隙はございません。私はただ殿の御年で有れば弱音を吐いて当たり前と思っただけのこと。私もこの年になっても弱音を吐くことはありますぞ」

 曽根昌世は俺に諭すよう言った。

「内匠助、肝に銘じておく。酒盛りの件は頼んだぞ。兵達全員に伝えておいて欲しい」
「与力の方々はどうされますか?」
「一応、声をかけておいてくれ。声をかけておかないと後で根に持たれても困る」

 内匠助は「かしこまりました」と返事し、その後部屋から去っていった。

「いよいよですな」
「本当にそうですね。殿の猫かぶりに付き合うのも疲れました」

 藤林正保と岩室坊勢祐は生き生きとした表情だった。

「ようやくだ。勝利の前祝いだ。明日は存分に飲んでくれ。私も兵士達と距離を縮めるよい機会だと考えている」
「確かによい機会でしょう。殿へ一物抱いている者もおりますからな」
「それは楽しみだ」

 俺は腕組みをしながら笑顔を二人に返した。俺に文句が有るということは俺へ期待していることだ。俺を見限っているなら何も言わずに俺の元を去るはずだからな。その期待に応えられるか分からないが、その者の話に耳を傾けることにしよう。 

 

第二十一話 宴会2

 翌日、他の武将達は付け城の建設の準備をはじめていた。
 忙しなく働く他家の兵士達を横目に俺の軍では酒盛りがはじまった。既に日は中天に昇っている。遠目には織田木瓜の旗が忙しなく動いているのが見える。織田信雄・蒲生氏郷・細川忠興の三人も陣払いの準備に精を出しているようだ。
 この場には昨日の内に誘った与力達、郡宗保・石川頼明・野々村吉保、がいる。彼らは二つ返事で参加を申し出てきた。郡宗保・野々村吉保の二人は俺の右隣の方に並んで座っている。石川頼明は酒盛りの場に馴染んで俺の家臣達と酒と会話を楽しんでいるようだった。
 俺は陣所の縁側に腰をかけていた。
 日差しが熱い。
 俺の左背後には柳生宗章、左側に側室の夏、右側に侍女の雪がいる。今の俺は両手に花の状態だ。雪には俺の演技に付き合ってもらっている。彼女はそれ以来妙になれなれしい。彼女の体温が届く位の直ぐ横にいる。良い臭いと着物越しだが柔らかい感触が俺の肌に伝わってくる。俺が雪を見ると、優しく微笑んでくる。俺は愛想笑いを返し夏に視線を向けると空いた杯へ酒を注いでくれた。
 夏は緊張しているのか動きが硬い。だが、彼女を見ていると安心する。雪の対応は語るまでもなく玄人だ。まるっきり正反対だなと思いつつ、柳生宗章に視線を向ける。彼は俺の斜め背後に座して微動だにしない。彼を見ていると「ザ・サムライ」という単語が頭に思い浮かんだが言葉にすることしなかった。口は災いの元だからだ。
 しかし、女性が陣所に居てくれてよかったと思う。
 野郎に酒を注いでもらうより女性にお酌してもらった方が嬉しい。
 酒が格段と美味くなる。
 俺は自分の手に持つ酒杯に注がれている酒に視線を落とすと、そのまま酒を一気にあおった。
 胃に酒が染みわたる。子供の身体に酒はやはり毒だなと思った。でも、今日は家臣達と酒盛りを楽しまないといけない。俺だけ白湯じゃ不粋だ。
 俺は立ち上がり家臣達に向けて声をかえた。

「皆の者、今日は大いに飲んでくれ! 二日後には城攻めを行う。その前祝いだ。盛大に飲んで楽しんで欲しい」

 俺が大きなで家臣達に声をかけると、家臣達の陽気な返事があった。家臣達は思い思いに酒を飲み既に出来上がっていた。周囲には酒樽が不規則に配置され、椀や手酌で酒を飲む者、陣笠に注いで飲んでいる強者までいた。みんな楽しんでいるようだった。
 家老達も家臣達に混ざり酒を飲んでいた。

「五郎右衛門、酒を飲まないのか」
「役目の最中に酒は飲みません」
「普段から飲んでいないと思うが」
「酒を飲まずとも困りません」

 柳生宗章は無味乾燥な受け答えをしてきた。何時ものことだから気にしなかった。

「殿! お聞きしたいことがございます!」

 俺が声の主に視線をやると、十河存英が立っていた。一目で酔っぱらていることが分かる。

「存英、無礼講だ。許す」

 俺が許可を出すと十河存英は地べたに腰を下ろした。どんな話をはじめるか俺は興味があった。だいたい予想はついている。城攻めのことだろう。

「本当に。本当に二日後に城攻めを行うのですね?」

 十河存英はろれつが少し回らない口調で俺に聞いてきた。普段の不満が酒の力で噴き出したのだろう。総大将の織田信雄が罷免され、付け城作りを命じられている以上、勝手に城攻めを続行することはできない。城攻めに参加したいならば俺に采配に従う以外にない。

「本当だ。二日後に城攻めをはじめる」
「何故今なのです! もっと早く城攻めに掛かれば既に落ちていたかもしれないではありませんか!」
「俺の兵はたった五百足らずだ。その兵の数で影響があるとは思わない」
「では、二日後に城攻めをしても結果は同じではありませんか!」

 十河存英は怒鳴った。この主張は的を得ている。だが、全軍を指揮していたのは織田信雄だ。だから、十河存英の言い分は正しいとは限らない。有能と行かなくても凡将であれば大軍を有効活用することはできたはずだ。そうしていれば今頃韮山城は既に落ちていたはずだ。

「普通にやっては城は落とせない。だが、織田内大臣様が居ないだけで城攻めをやりやすくなる。そうは思わないか?」

 俺は口元に笑みを浮かべ十河存英へ聞き返した。

「それは。そうでございますね」

 十河存英は納得したように頷いた。俺の陪臣にまで侮られる織田信雄の采配は問題ありすぎだろ。十河存英は積極的な城攻め派だった。だから、織田信雄の無謀な力攻めを目の当たりにしていたのだろう。俺の指摘にすんなり納得するあたり、織田信雄の指揮は相当酷かったに違いない。

「後は神風を待つだけだ」

 俺はおどけた態度で十河存英に答えた。

「神風でございますか?」

 十河存英は最初の剣幕は収まりきょとんとした目で俺のことを見ていた。

「そう。神風だ」
「それは運頼みということか? 相模守」

 俺と十河存英が会話をしていると誰かが俺に声をかけてきた。その声の主の姿を見て俺はげんなりした。蒲生氏郷だ。事前の連絡無しで俺の陣所にやってくるのは失礼だろう。俺の方が小身だから無礼を働かれても文句を言えない。

「これはこれは蒲生様。このような汚い場所に何用でしょうか?」

 俺は直ぐに表情を整え営業スマイルを蒲生氏郷に送った。

「相模守、そう邪険にするな。お前と小田原に向かう前に一度話しておきたいと思っただけだ」

 蒲生氏郷は俺の露骨に嫌な表情をした瞬間を見逃さず、意味深な笑みを俺に返した。

「ところで本当に神風を待っているのか?」

 蒲生氏郷はもう一度俺に聞き直してきた。

「蒲生様、もちろん私は神風を待っています。神風というのは起こる時期というのがあります。鎌倉に幕府があった頃に大陸の勢力が日の本に二度攻めてきたことがありました。ですが二度とも神風が都合よく吹き敵を打ち払ってくれたではありませんか」
「都合よく神風が吹くものか?」

 蒲生氏郷はおかしそうに笑っていた。俺の言うことを鵜呑みにしていないようだ。だが、蒲生氏郷の表情は笑っているが目が笑っていない。

「吹きます。私が吹かしてみせます。夏、悪いが蒲生様に場所を譲ってくれないか?」

 俺は夏に声かけして左側の場所を空けてくれるように頼んだ。

「気を遣わなくていい。長居をするつもりはない」

 蒲生氏郷はそう言い夏が座る場所の向こう側に腰を掛けた。近くで彼を見ると彼の身長の高さを実感した。俺は見上げるように蒲生氏郷のことを見た。彼の顔をまざまざと見て最初に思った一言は「若い頃は美男子だったんだろうな」だった。何か自分と比べると劣等感を感じてしまう。俺の容姿は凡人なだけに。私の父は木下家定だからな。美男子として生まれることは諦める以外にない。
 俺が視線を十河存英に向けると、彼は大物登場で小さくなっていた。蒲生家は名門とまで言わなくても、近江の豪族で六角氏の重臣の家柄だからな。それに今は伊勢に十二万石の領地を与えれている。十万石を超えれば名実ともに大名だ。それなのに何で俺のところに態々足を運んできたんだろうか。織田信雄の意を汲んで俺を探りに来たのだろうか。それは無さそうだな。織田信雄がそんな回りくどいことするような気がしない。

「相模守、一杯もらえるか?」

 俺が考えていると蒲生氏郷が俺に声をかけてきた。

「かしこまりました」

 夏が後ろの方に下がる。俺は自分の酒杯の口を指で拭き、蒲生氏郷に渡した。俺は夏から酒の入った瓶子を受け取ると蒲生氏郷が手に持つ酒杯に酒を注いだ。蒲生氏郷は酒杯を一気にあおった。

「美味い!」

 蒲生氏郷は叫び声を上げると、俺の家臣達の様子を見ていた。俺の家臣達の中には腹芸をしたり、歌い出す者まで現れていた。本当に楽しんでいるようだ。今は十分に鋭気を養ってくれ。二日後には激しい戦いになる。俺は一瞬だけ真剣な表情で家臣達のことを観た。

「皆楽しんでいるようだな」

 蒲生氏郷は感慨深そうに俺の家臣達のことを見ていた。

「そうですね。皆、不満を抱えていたでしょうから。良い気分転換になるでしょう」

 俺は笑顔で蒲生氏郷に言った。蒲生氏郷は「そうだな」と呟くと俺の方を向いた。

「相模守、返杯しよう」

 蒲生氏郷は酒杯の口を指で拭き俺に手渡した。俺は彼に勧められるまま酒杯を受け取り、彼に酒を注いでもらった。
 蒲生氏郷はどうして俺の陣所まで足を運んできたんだ。ただ酒を飲みに来た訳じゃないだろう。理由が全く分からない。

「頂戴します」

 俺は蒲生氏郷に頭を少し下げ、酒杯の酒を一気にあおった。蒲生氏郷は「よい飲みっぷりだ」と笑い俺の肩を力強く叩いてきた。蒲生氏郷のなれなれしさに違和感を覚えた。こう言う風に酒を酌み交わす仲では無いと思うんだが。

「相模守、歳は幾つだ?」

 蒲生氏郷は唐突に俺の歳を聞いてきた。俺は素直に答えることにした。ここで妙に意地を張っても意味がないしな。

「十二です」
「十二か」

 蒲生氏郷は俺の返答を噛みしめるように反芻した。

「相模守、問うまでもないが年上の女は気にならないか?」

 蒲生氏郷は雪に視線を一瞬向けた。彼の脈絡のない問いかけに俺は要領を得ず言葉につまった。

「他意はない。気になるかどうか聞いているだけだ」

 蒲生氏郷は俺が彼のことを不信に思っていると思ったようだ。言葉を額面通りに取ることはできない。だが、俺には考えがつかない。

「女子の歳は気にしていません。私が好んだ女子なら歳など気にする必要はないです」

 俺の返答に蒲生氏郷は「そうか」と口元に笑みを浮かべると騒ぐ俺の家臣達に視線を向けた。そして、蒲生氏郷は愉快そうに俺の家臣達の姿を見ていた。

「相模守、お前には許嫁はいるのか?」
「許嫁ですか?」

 俺は蒲生氏郷の更なる質問に質問で聞き返した。ここにきて蒲生氏郷の意図が見えたきがした。
 蒲生氏郷は俺に縁談話を持ちかけようしているような気がする。

「どうなのだ?」

 蒲生氏郷は俺に視線を戻すと返事を求めてきた。

「許嫁はいません」
「そうか。そうか」

 俺は蒲生氏郷の反応に確信を得てしまった。俺は家臣達と酒を飲み出来上がっている家老達に視線で助け船を求めた。だが、彼らは俺の視線に気づくと「楽しんでおりますぞ!」と大笑いしながら俺の期待とは裏腹な対応を返してきた。

「相模守、今日はこれで失礼させてもらう。酒を馳走になった。次は私が酒に誘わせてもらおう」

 蒲生氏郷は俺に一方的に言うと会話を打ち切り去ろうとした。彼が俺の陣所に訪ねた理由は俺に縁談をもちかけることができるか確認しにきたからに違いない。縁談を勝手に進められたら凄く困る。その縁談相手が誰かも分からない。だが、彼の口振りでは縁談相手の女性は俺より年上に違いない。

「蒲生様、もっとごゆるりとされてはいかがですか? 折角の機会ですし」

 俺は蒲生氏郷に考えを改めさせるため、彼を長居させようとした。

「折角の誘いだが、小田原へ向かう準備が未だできていない。明日には出立するつもりなのだ。悪いな。この埋め合わせはきっとする」

 蒲生氏郷はきっぱりと俺の誘いと断った。無理矢理に余所の酒盛りに乱入してきた人物と思えなかった。
 いや、縁談話を俺に持ちかけるかの判断をするために俺の陣所にやってくるのが訪問理由だったに違いない。そこで俺は昨夜に藤林正保の言葉を思い出した。面倒そうな人物に見込まれたようだ。大名が他家の者に縁談話を持ちかけるということは自家と他家の結びつきを強めることが目的なはずだ。それに蒲生氏郷とまるっきり縁のない女性を俺の縁談相手にしようとするわけがない。間違いなく蒲生氏郷の縁者になる。
 俺はまだ十二歳だぞ。勝手に縁談相手を決められては困る。このまま蒲生氏郷に秀吉へ俺の縁談の話を相談されても困る。だが、俺の不安を余所に蒲生氏郷が風を切るように颯爽と立ち去って行った。俺は彼の後ろ姿をなす術もなく見送るしかなかった。
 俺は途端に脱力してしまった。

「終わった。全てが終わった」
「殿、どうされたのです?」

 脱力する俺に夏が声をかけてきた。俺は夏の声を無視した。
 どうすればいい。蒲生氏郷の動きを止めることは俺にできない。
 だが、見過ごすしかできない。

「殿、大丈夫ですか?」

 夏が俺を心配そうように声をかけてきた。

「夏、大丈夫だ。酒を飲み過ぎたようだ」
「では、奥で身体を休まれますか?」
「それには及ばない。水を持ってきてくれないか?」

 俺が夏に頼むと彼女は俺の小姓に水を持ってくるように指示してくれた。俺は視線を家臣達に向けつつ、この状況をいかに脱するか考えていた。
 蒲生氏郷の縁者を俺の正室に迎えることができれば俺の政治的影響力は比較的に上がってくる。悪い話じゃないんだろう。だが、面倒事も抱えてしまう気がしてならない。良家の娘をもらっても変に気を遣わなけばいけない相手はお断りだ。結婚後も蒲生氏郷の顔色を窺わなくちゃいけなくなるかもしれない。気が休まらない日々が待っていそうだ。
 気分が鬱になる。酔いが一気に醒めてしまった。

「殿、水をお持ちしました」

 夏が俺に水を持ってきてくれた。木の椀に水が注がれていた。俺は椀を受け取ると水を口に含んだ。
 生ぬるい水だ。今の俺の気持ちそのものだ。
 まずは城攻めに集中することにする。城攻めに失敗すれば俺は破滅だ。
 縁談話を潰すのはその後だ。
 手はある。
 蒲生氏郷の先手を打つため、俺の正室候補を探し出すしかない。それも蒲生氏郷も引き下がるえない人物になってくる。そんな人物は早々いるとは思えない。秀吉が納得する人物でれば、蒲生氏郷が縁談の相手を連れてきても潰せる。秀吉は良い意味でも悪い意味でも独裁者だ。秀吉が俺と蒲生家の縁談を望めば俺の思惑は水泡に帰すことになる。 

 

第二十二話 夜襲

 俺は五百の手勢を率い今韮山城正面大手門前に立っていた。日が落ち数刻が過ぎた。辺りの風景は漆黒の闇という表現が的を得ていた。その闇を照らすように、上弦の月が雲間から姿を現している。
 虫の鳴き声が聞こえる。
 その鳴き声をかき消すように鉄砲足軽達が得物の準備をはじめていた。  
 俺は拳を握りしめ瞑目した。
 胸の動悸が止まらない。
 これから俺は戦うんだ。
 今までと違う。
 敵陣の奥深くに切り込むことになる。
 生きて帰ることができないかもしれない。
 だが、俺は死ぬことはできない。
 生きて帰る必要がある。俺の背中には家臣達、その家族の生活がかかっている。俺が戦死すれば皆が路頭に迷う。
 俺はかぶりを振った。何度も何度も同じことが頭を過ぎった。死にことは恐ろしい。それ以上に俺の死がもたらす結果がさらに大きい。
 俺は深呼吸をする。俺達の進軍を阻む大手門の扉は硬く閉まっていた。あれを俺達がやぶり奥へと進軍する。
 俺はしばし大手門の様子を窺う。大手門から敵の反応はない。俺の軍が城に攻めかかるとは思ってもいないのだろう。もし、俺が城に攻め入るのを待ち構えているなら答えは直ぐにでる。
 俺は兜の紐をしめなおした。俺は秀吉から下賜された兜と具足を身に着け、五七の桐紋を白糸で刺繍した真紅の陣羽織をまとっている。そして、腰には刀をさしている。俺の刀は俺の体躯に合わせ刀身を短くしている。それでも刀の重量はかなり重い。
 俺は刀の柄に手を置く、これで人を殺すんだな。俺が生前に生きた時代は殺人は罪だった。この世界でもそれは罪だ。ただ、俺は戦争に身近な場所に立っているというだけだ。
 人を殺す。
 俺は平和の有り難みを痛感した。だが、関東で栄華を極めた北条家の滅びを体験するにつれ実感したことがある。
 力が無ければ平和を保てない。
 分かりやすく単純な言葉だ。どんなにきれい事を並べようと、侵略の意思を持つ者を言葉で制止できるわけがない。言葉で互いに妥協を探ることができるのは力を相手に示し、相手に力での侵略は無理と理解させる以外にない。
 北条家は豊臣家に力を示すことはできなかった。

「殿、準備が整いました」

 俺が視線を自らの刀に視線を向けていると、鉄砲頭・岩室坊勢佑が俺の元までかけてきた。彼は俺に膝を折り城攻めの準備が整ったことを報告をした。
 とうとうか。
 北条氏規。お前の目論見通りにことを進めさせる訳にはいかない。俺の立身のために、お前には悪いが勝ちを譲ってもらう。
 俺の鋭い視線が大手門の扉を捉えて放さなかった。

「勢佑、いつもどおり鉄砲を大手門に打ち込め!」

 俺は声を大にして叫ぶ。
 岩室坊勢佑は「かしこまりました」と頭を下げ立ち去ると鉄砲組の組頭に指図をはじめた。そして、岩室坊勢佑の「放て――!」という掛け声とともに、辺りには鉄砲の放つ炸裂音が鳴り響いた。岩室坊勢佑は短い間隔をおいて二弾目を放つように組頭に指示する。その瞬間、二弾目が一斉掃射される。
 三弾目、四弾目と短い間隔で次々に鉄砲が一斉に掃射される。
 その様は鉄砲が連続して発砲しているように見えた。実際は三人一組の足軽がそれぞれ役割分担して鉄砲の次弾発射までの時間を限界まで短くしている。「言うは易く行うは難し」というが、この鉄砲運用術を実現している組織は限られている。岩室坊勢佑の出自である根来衆と近しい関係である雑賀衆もおなじくこの運用術を実現している。その雑賀衆の頭目・鈴木重秀は、秀吉に一万石で仕え、北条征伐で鉄砲頭として百五十の兵を率いて従軍している。彼に機会があれば会ってみたい。

 俺は鉄砲隊から少し下がった場所で大手門の方角を目をこらし凝視していた。
 鉄砲を大手門に向けて発砲して四半刻(三十分)が経過した頃、視線の先に変化が見られた。固く閉ざされたはずの大手門がゆっくりと開かれていったのだ。

「乾加兵衛はいるか!」

 俺は声を上げ乾正信を呼ぶと、俺の元に背中に俺の軍の旗を背中に指した一人の武者が駆け寄った。彼は片膝をつき「お呼びでしょうか」と俺に頭を下げる。

「鉄砲頭・岩室坊勢佑に伝えよ。銃口の向きを少し上に上げ味方に当たらないように気をつけろとな」

 乾正信は俺に「かしこまりました」と一礼し、岩室坊勢佑の元に走り出した。
 敵か味方か。
 直ぐに分かることだ。敵ならば藤林正保が失敗したことになる。直ぐに応戦する必要がある。後ろに控える曽根昌世を呼び寄せる必要がある。
 俺が思案している内に大手門の扉が大きく開け放たれた。その門の奥から黒装束の一団が出てきた。彼らは右手に松明を握り、それをこちらに向け掲げ、俺達に合図するように、松明を旗のように振っていた。その様子に俺は思わず口元に笑みを浮かべる。
 藤林正保でかした。
 藤林正保は大手門の警備の兵を無力化することに成功したようだ。一か月かけて縄張り図を元にして丹念に城の周りを調べさせた結果が実ったようだ。

「孕石小右衛門はいるか!」

 俺は声を上げ孕石元成の名を呼んだ。孕石元成は俺の元に駆け寄り膝をつき俺の顔を仰いだ。

「お呼びでしょうか?」

 さっきの乾正信と、今俺の目の前にいる孕石元成は俺の馬廻で、この戦闘では伝令役として使うことにしている。

「後方に控える曽根内匠助に準備が整ったと伝えよ。手筈通りに大手門を通り江川砦を急襲しろと伝えよ。あまり有余はないぞ。敵に気づかれる前に江川砦を落とせ」

 伝令役を命じられた孕石元成は「かしこまりました」と一礼し返事すると一目散に後方で走り出した。
 俺は腕組みして大手門を睨む。

「これからは時間との勝負だ」

 俺は低い声でつぶやいた。俺が大手門の様子を観察していると、俺の後方から金属音が擦れる音と兵馬の足音が聞こえてきた。曽根昌世率いる足軽主体の三百の兵だ。俺の軍の大半の兵を曽根昌世に任せることにした。
 曽根昌世はすれ違いざまに俺に黙礼をして大手門へ向かっていった。
 ここまでは筋書き通りだ。敵が俺の思惑通りに動いてくれればいいが、北条氏規が江川砦の状況に気づけば後詰めを出すだろう。
 そうはさせない。その前に江川砦を落としてやる。
 城攻めから半刻(はんとき)が経過した。
 曽根昌世が江川砦の攻略についたころだな。俺は顎に指を置き思案した。
 そろそろ頃合いだな。

「誰かいるか?」

 俺の呼びかけに具足を身につけた小姓が俺に駆け寄ってきた。俺は大手門を凝視したまま、小姓に命令した。

「鉄砲頭に伝えよ。鉄砲組を一組ずつ大手門を通り手筈通り北条軍の後詰めに備えよ」

 小姓は一目散に岩室坊勢佑の元へ向かっていた。その後、俺は鉄砲組の最後尾を追うように、旗本を引き連れ大手門を抜けた。大手門の中では藤林正保が俺を待っていった。

「殿、ご苦労様にございます。曽根殿は既に江川砦を攻め落としました」

 藤林正保の報告を聞き終わる頃、城中から鉄砲の鳴り響く声が聞こえてきた。もう、北条軍が動いたか。動くだろうな。江川砦が落ちたなら、砦から火の手が上がっているに違いない。

「藤林長門守、お前に旗本全てを預ける。岩室坊勢佑の援護に迎え」
「かしこまりました。殿、曽根殿より伝言がございます。砦内の屋敷に籠もる者達がおり、殿の判断を仰ぎたいとのことです。直ぐに江川砦にお向かいください。この者達に案内をさせます」

 藤林正保は視線を後ろに控える黒装束に身を包んだ忍びを紹介した。
 屋敷に籠もる者達か。俺の裁可をわざわざ仰ぐということは雑兵というわけではあるまい。曽根昌世の目から見て利用価値があるに違いない。

「案内を頼む」

 忍びは俺の言葉に頭を深く下げると、俺を江川砦へと案内してくれた。俺の同行者は柳生宗章だ。





 目的の屋敷は直ぐに分かった。俺の兵達が群をなし集まっていったからだ。多分、あそこだろう。ここまで来るまでにおびただしい死体が転がっていった。中には正視できない損傷した死体もあった。月光の鈍い灯りが幸いした。これが昼間なら俺は死体を正視する自信が無い。この血臭は好きになれそうにない。こんな惨状に身を起き続けたら精神に異常をきたす者はでないのだろうか。俺はふと疑問を抱きながら兵達が集まる場所に急ぎ足で歩いた。

「殿、よくぞお越しいただきました」

 曽根昌世は俺の姿を確認すると膝を折り俺に挨拶した。俺が到着すると兵士達は左右に退き屋敷への道を作る。更に歩くと視界に屋敷が目に入った。屋敷は頑丈そうな造りだ。俺を周囲を一通り見回すと屋敷に視線を戻した。この屋敷は砦内の一番奥にある。砦の守将のための陣所といったところか。

「江川一族の者が籠もっていると思われます」
「江川一族。江川家当主、江川英吉か?」

 俺は屋敷を見ながら曽根昌世に声をかけた。屋敷からは何も反応はない。物音一つしない。息を殺し屋敷に籠もっているのだろう。自害されては困る。さっさと降伏を促すとするか。

「それは分かりかねます。ですが、女と子供を見たという足軽の報告がございます」
「砦に女子供か。江川の者ならば、徳川に仕官した江川英長の元に疎開させたと思ったのだがな」

 俺は疑問を曽根昌世に投げかけた。徳川に宜を通じたならば、戦が始まる前に徳川を頼り一族の者を保護してもらえばいいだけだ。それをしなかった理由はなんだ。
 できなかった。いや、それはない。徳川領に逃げる有余はあったはずだ。豊臣家と北条家が交渉決裂し、秀吉が北条征伐の軍を率い大阪を立つまでに三十日以上あった。これだけあれば徳川領へ疎開できるはずだ。

「内匠助。お前が彼奴等を江川一族と思う根拠はなんだ?」

 武田信玄から「我が両目」と言われた曽根昌世が不確実な内容を俺に報告するはずがないと思った。

「江川英吉の首はまだ手に入っておりません」

 曽根昌世は視線を屋敷に向けた。俺も曽根昌世の視線の先を向いた。

「江川英吉はあそこか?」
「分かりません。ですが、あの屋敷に逃げた者の中に老将がいたと報告がございます」
「老将か」

 俺は満足せず目を細め屋敷を見ていた。

「それと。老将は数名の侍に抱えられていたそうです。江川砦を攻める際、周囲を取り囲み蟻の逃げる隙間も造らずに一気に攻めました。江川砦に籠もる敵兵に逃げる暇は無かったはずです」

 曽根昌世は俺に続けて有益な情報をもたらした。彼がそこまで逃げる暇がなかったということは事実なのだろう。

「そうか。内匠助、屋敷に逃げ込んだ者達に降伏を促したのか?」
「いいえ、まだでございます。殿の裁可をいただきたいとご足労をお願いいたしました」
「降伏を促せ。降伏すれば全ての命と身の安全を私が保証するとな」
「拒否した場合は?」

 曽根昌世は顔を上げ俺の様子を窺っていた。

「降伏を拒否するなら皆殺しだ。武家の生まれならば覚悟はできているだろう」

 俺は一瞬言葉に詰まるが、言うべき命令を曽根昌世に伝えた。彼は深く頷き屋敷の方へ向かっていった。曽根昌世は屋敷に逃げ込んだ者達に降伏を促すべく声を大にして俺の要求を伝えた。だが、屋敷から反応は無かった。
 曽根昌世はしばらく待ったが屋敷から反応はない。彼は視線を一度地面に落とすと兵達の方を向いた。だが、俺はそれを制止し、屋敷に向かって近づいていき曽根昌世の隣に立ち足を止めた。曽根昌世はすぐさま膝を折り頭を下げた。

「私は関白殿下の甥、小出相模守俊定、である!」

 俺は大きな声で叫んだ。屋敷からは何も反応がない。

「降伏し投降すれば私の客人としてもてなそう。しかし、降伏を拒否するならば容赦はしない。女は雑兵どもの慰み者とし、子供は人買いに売り飛ばしてやる!」

 俺は敢えて怒気の籠もった声で屋敷に向け声を放った。

「内匠助、鉄砲を屋敷に撃ち込め。鉄砲を持っている者はいるか? いないなら勢佑を呼べ!」
「おります。殿のご命令だ。屋敷に鉄砲を撃ち込め」

 曽根昌世は俺の剣幕に動ずることなく、侍に声をかけ鉄砲を用意させた。屋敷に向けて斉射するために足軽達が屋敷に対して横方向一列に並ぶ。

「殿、準備が整いました」

 俺は曽根昌世から声をかけられると、刀を抜き刃を屋敷に向けた。

「放て――!」

 俺の叫びとともに屋敷に銃弾がめり込む板壁を貫通していった。すると女子供の泣き叫ぶ悲鳴が屋敷から聞こえていた。

「江川英吉、これが最後だ。貴殿には二つの道がある。一族を守る道。残りは一族を滅ぼす道だ。徳川殿とは連絡がついていないのだろう? 徳川殿はお前達を救ってはくれんぞ」

 俺は冷酷な口調で屋敷に向かって叫んだ。
 悪人になった気分だ。
 罪悪感しかない。

「江川が生き残る道は関白殿下の慈悲に縋る以外にない。徳川殿では江川を救うことはできない。韮山城攻めがはじまる頃から、徳川殿は貴殿に連絡を寄越したか?」

 俺は屋敷に籠もる者達に毒を吐いた。屋敷に籠もる者達が江川一族なら、徳川への不信は深まっているに違いない。
 屋敷に反応は無かった。これまでか。
 これで最後だ。

「五つ数える間に屋敷より出てこい。出てこなければ望みの末路を与えてやる」

 俺は自分で話ながら極悪人ぶりに罪悪感を感じていた。だが、脅し騙してでも流れる血を少なくできるならそれに超したことはない。北条氏規に活路はない。この江川砦は大手門から侵入している敵を排除するため存在だ。この砦が潰れたら大手門からの敵の侵入を阻むことはできない。
 俺はゆっくり五つ数えることにした。そして、五つ数え終わった。
 屋敷の反応はなかった。俺は刀の刃を屋敷に向けた。既に鉄砲の準備は整っていた。俺は発砲とともに兵に命令を下すことにした。
 心臓が苦しい。

「お待ちくだされ!」

 屋敷から老いた男の大声が聞こえてきた。屋敷の銃弾でぼろぼろになった横開きの扉がゆっくりと開き、中から具足に身を包んだ老将がゆっくりとした足取りで出てきた。彼は俺の元まで近づくと地面に腰を下ろし、俺に平伏した。

「伊豆国人衆、江川英吉にございます。小出相模守様に降伏いたします」

 江川英吉は地面に額を擦りつけ俺に降伏の意思を伝えた。
 俺は心の中で安堵の溜め息をつくと同時に一気に身体の力が抜ける感覚があった。 

 

第二十三話 降伏

 曽根昌世の見立て通り江川英吉は砦を脱出していなかった。予想外の獲物だ。北条氏規に近しい江川英吉を生け捕りにし降伏させたことは大きな戦果といえる。

「江川殿、お顔を上げください」

 俺の表情は温和なものに変わった。
 俺は江川英吉に対し親しみを持って駆け寄った。江川英吉は俺の変わりように困惑している様子だった。
 先程まで自分の命を奪おうと高圧的な態度を取っていた相手が掌を返した態度をとれば誰でもそうなる。

「よくぞ英断を下された。今より貴殿は私の客人だ」
「屋敷の中に居る者達も同じく遇していただけるのでしょうか?」

 江川英吉は表情を固くし俺を凝視していた。彼は俺から視線を一瞬でも逸らそうとしない。俺の言葉を一言一句気にするところから彼の老練さを実感した。古今東西の歴史において勝者が敗者に対し約束したことを反故にする事例は幾らでもある。だからこその確認だろう。屋敷の者達の身柄の安全を保証できなかれば俺に降伏した意味がない。彼にとって一番重要なことに違いない。

「当然だ。貴殿一人が客人であるわけがない。屋敷の中に居る者達全てが私の客人だ。私の客人に不埒な真似をする者がいれば、この私が軌って捨てることを天地神明にかけて誓わせてもらう」

 俺は江川英吉に強く頷き表情を少し緩めた。この際だ。このまま一気に本題に入ろうと思う。

「江川殿、貴殿達は私の客人だ。身柄の安全は私が保証する」

 俺は言葉を切り一瞬思案する態度をとった。

「申し訳ないが江川殿の本領を安堵出来るかまでは保証できない」
「覚悟しております」
「私に貴殿の処遇を任せてもらえれば、貴殿の韮山の領地は全て安堵してさしあげましょう。ただ、それには関白殿下に口添えする材料が必要になる」

 俺は意味深な笑顔で江川英吉を見た。俺は彼に知行安堵の代わりに、その対価を要求する。江川英吉も俺の意図に気づいた様子だった。

「私にどうしろと?」

 江川英吉は間髪を入れずに答えた。ここまで来れば毒を食らわば皿までということだろう。いい反応だ。国人領主らしいといえる。この時代の武士に主君へ忠義を貫くという考えは定着していない。その考えは今からもっと後の時代、江戸時代、に徳川幕府が朱子学を武士の思想教育に取り入れたからだ。

「さして難しいことでない。私は明日の早朝には天ヶ岳砦を落とす。その意味はお分かりだな?」

 俺は目を細め江川英吉を視線で捉えると凝視する。江川英吉は俺が言いたいことを理解したようだった。天ヶ岳砦が落ちれば韮山城は裸城同然であろう。韮山城の防衛の要は天ヶ岳砦だ。この天ヶ岳砦は韮山城周辺を見渡せる場所に建設され、本丸と一本道で繋がっている。細工なしに本丸と繋ぐと言うことは天ヶ岳砦がそれだけ重要な場所ということだ。ここが落ちるということは城が落ちると同義と見ていい。敵の進軍を阻むことが出来なくなるんだからな。

「私に美濃守様への降伏の使者となれということでしょうか?」

 俺は江川英吉に頷いた。江川英吉の表情が強張った。さっきまで主君であった北条氏規へ使者として出向けば裏切り者として殺される可能性がある。だが、その心配はないだろう。俺が使者として北条氏規に対面した時、彼は常に冷静な態度を取っていた。一時の感情に流されて使者、江川英吉、を斬ることはない。

「北条美濃守殿が貴殿を斬るとは思わない。私の使者である貴殿を斬る意味が理解できないほど、北条美濃守殿は愚かではない。それに貴殿の嫡男は徳川殿の元に仕官している。徳川殿の感情の硬化を誘うような愚行は犯さないだろう」

 俺は目を細め江川英吉に言った。江川英吉の俺を見る目に恐怖を感じている様子だった。

「江川殿、何を恐れる」

 俺は江川英吉の左肩に手をあてると、江川英吉はびくりと身体を反応させた。俺が彼の息子が徳川家康の元に居ることに気づいていることが、それ程驚くべきことなのだろうか。

「貴殿の嫡男、江川英長、は徳川家康の旗本として仕えている。少し調べれば分かることだろう。そう構えることはない。私は責めているのではない。江川殿は戦国の倣いに沿っただけ。私は貴殿に協力して欲しいだけだ」

 そこで俺は言葉を切る。

「武士にとって土地は命。『一所懸命』とも言う。貴殿も先祖伝来の土地を失うことは死に勝る苦しみであろう。北条美濃守殿が降伏すれば、それを功として関白殿下に貴殿の本領を安堵出来るように頼むことを約束しよう。私なら必ず約束を守ることができる」
「そのご自信の根拠をお聞かせくださいますか?」

 江川英吉は俺の言葉が信じれない様子だ。そうだろうな。俺のような子供に「知行を安堵してやる」と言われても信じることができるわけがない。

「私は関白殿下より直々に伊豆を領地として与えると朱印状をいただいている」
「不躾な頼みでございますが、拝見させていただくことは可能でしょうか?」
「問題無い。貴殿とゆっくりと話がしたい。その屋敷の中で話ができないか? 客人の顔を覚えておきたい」
「屋敷にございますか?」

 江川英吉は困惑気味に彼が出てきた屋敷に視線を向けた。銃弾でぼろぼろになった屋敷に灯りはない。屋敷の中に誰がいるか分からない。

「灯りならば松明がある。これを使えばいい。こんな所で朱印状を見せる訳にはいかない。貴殿も屋敷の方がこのような場所より落ち着くのではないか?」

 俺は江川英吉に足軽達が持つ松明を一瞥し言った。

「お気遣いいただき感謝いたします。汚い場所ですが、どうぞお入りください」

 俺は柳生宗章と松明を持った足軽五名を連れ屋敷の中に入った。屋敷内は本当に酷い状態になっていた。
 屋敷内に足を踏み入れると人の気配がした。ただ視線を感じた。一人や二人じゃない。そこそこの人数が隠れている気がした。屋敷内を見回すが暗くて何も見えない。

「小出相模守様、こちらにございます」

 江川英吉の案内で奥の部屋に案内された。俺は足軽に目配せして部屋の中に先に入らせることにした。部屋に入ると十畳くらい広さだった。松明の明かりだけでは部屋の中が薄暗い。だが、これで我慢するしかない。

「小出相模守様、どうぞ奥へ」

 俺は江川英吉に進められるまま上座に腰をかけた。俺の右前に柳生宗章が腰をかけた。そして、俺と対面するように江川英吉が座る。足軽達は部屋の隅に立ち灯りの役目をしていた。
 俺は徐に具足の隙間から朱印状を取り出した。戦場にも朱印状を持ってきている。内容が内容だから陣所に置いてくる訳にもいかなかった。盗まれると大変なことになるからな。

「関白殿下より私にいただいた朱印状である。謹んで検分するがいい」

 俺は厳かな口調で江川英吉に朱印状を差し出した。江川英吉はすり足で俺に近づくと平伏したまま朱印状を受け取り中身を検分した。しばし彼は朱印状を凝視し沈黙していた。

「中に疑わしき点があるか?」
「関白殿下が発給された朱印状であるかの真贋は確かめる術を私は持っておりません。しかし、あなた様が関白殿下から伊豆を与えられことはわかりました。信用させていただきます」

 江川英吉は俺に平伏した後、俺に朱印状を返した。それを俺は受け取ると懐にしまい込んだ。

「真贋を確かめずとも信用できるというのか?」
「あなた様が朱印状を偽造する利益がありません」

 江川英吉は即答した。彼が言わんとしていることは分かった。朱印状は為政者にとって権威の象徴ともいえる。それを偽造した者の末路は極刑以外にない。俺が危険を犯してまで偽造する理由がない。

「私は徳川様が新たな伊豆の主と考えておりました。徳川様も同じであったでしょう。ですが、関白殿下は、あなた様をご指名になられた」
「そう考えることが普通だろう」

 俺は言葉を切り江川英吉を見据えた。

「江川殿、返事を聞かせて欲しい」
「北条美濃守様との降伏の交渉をお引き受けいたします」

 江川英吉は俺に平伏し降伏交渉の役目を応諾した。俺は肩の荷が下りた気分になった。彼は北条氏規との降伏交渉の役目にうってつけの人物だ。北条氏規への信頼もあるだろうからな。それに俺が北条氏規に降伏をせまるより、彼の方が降伏を受け入れ易いはずだ。城に籠城する将兵の中には、俺に裏切った江川英吉のことに殺意を抱く者もいるだろうが、北条氏規はそんな愚行を決して犯さないだろう。それを見逃せば韮山城に籠城する者達の末路は皆殺ししかない。

「小出相模守様、どうして私に降伏交渉を任せようとお考えになったのでしょうか? あなた様は初めから私に任せるつもりであったかのように思いました」
「選択肢の一つと考えていただけだ。降伏した者が使えそうなら使うだけのこと。それに江川殿が私に降伏するとは限らない。違うかな?」

 俺は笑みを浮かべ江川英吉に質問を投げかけた。

「今思えば、あなた様は私に降伏させることにこだわられたように思います」
「拘ってなどいない。あの交渉では人の生死が関わっているのだ。無駄な犠牲を出さずに済む道があるなら選ぶように努力するべきと思っているからだ。それに戦場で苦しむのは女子供と相場が決まっている」

 俺は自嘲するように江川英吉に小さく笑った。俺の言葉に江川英吉は感慨深そうに俺のことを見ていた。

「だから、あの時に私達を脅迫されたのですか?」
「さて、どうかな。買い被りすぎだ。江川殿の協力を得たかっただけかもしれんぞ」

 俺は視線を逸らした。

「江川英吉、小出相模守様にご尽力いたします。郎党の者達のことをよろしくお頼み申し上げます。それと天ヶ岳砦への道案内をさせていただきたい」

 江川英吉は俺に平伏し屋敷の者達のことを頼むと言った。言われずとも約束する。しかし、天ヶ岳砦への道案内も了承してくれるとは予想外だった。

「貴殿が仮に死んだとしても客人は客人のままだ。折りを見て私に仕官を望む者は召し抱える」

 江川英吉は安堵の表情を浮かべ「感謝いたします」と返事した。




 江川英吉の協力を取り付けた俺は北条氏規への降伏を促す書状を書いた。
 武装解除を行い城を開城することを条件に、
 一つ、城主及び、城兵、その他の者の身柄の安全を保証する。
 一つ、速やかに投降すれば韮山城内における乱取りをさせない。
 一つ、北条家の家名を残せるように尽力する。
 この三点を約束すると記した。そして、俺はもう一通の書状を記した。宛先は秀吉である。大手門と砦を突破し明朝には天ヶ岳砦を奪うと記した上で北条氏規を投降させるために韮山城内への乱取りを禁止する許可が欲しいと願い出た。秀吉への書状は藤林正保に預け、彼の配下が直ぐさま秀吉が居る小田原に発った。
 俺は雑務を終えると江川砦内に設営された仮設の陣所で仮眠を取ることにした。疲労と緊張のせいで強い眠気に誘われ記憶が途切れた。その眠りも俺を呼ぶ誰かの声で意識を呼び戻された。

「殿、もう直ぐ朝駆けの時刻にございます」

 俺は仰向けのまま眠気眼で天井を虚ろな目で眺めた。

「殿、もう直ぐ朝駆けの時刻にございます。起きてください」

 俺は横向きになり声が聞こえる方に顔を向けると視線上に誰かの姿が見えた。だが、薄暗くよく見えない。その顔を俺は凝視した。

「お前は誰だ?」

 俺は目を細め寝ぼけながら相手に質問した。

「殿、何を寝ぼけておられるのです。長門守にございます」
「長門守?」

 俺は目の前の顔を目を凝らして見た。藤林正保がそこにいた。

「もう時間か?」
「はい、直ぐにでもお支度をお整えください。兵達の準備は内匠助殿が指示を出しております。そのようなしまりの無い顔では兵達に示しがつきませんぞ」

 藤林正保は厳しい表情で俺に言った。
 まだ眠い。
 だが、このままでは機会を逃すことになるから起きるとしよう。
 身体が重い。城攻めが終わったら爆睡してやる。
 俺は、大あくびをすると、重い体をゆっくりと起こしゆっくりとした足取りで具足が置いている場所に近づいた。

「殿の出立のご準備をせよ」

 藤林正保の声とともに引き戸の扉が開き、小姓達が俺の寝所に入ってきた。彼らはたったままの俺に具足をつけていってくれる。次に陣羽織、その次は兜と慣れた手つきで俺の軍装を整えていってくれた。そして、最後に俺に刀が渡される。俺はそれを受け取り腰に差すと自分の姿を下から首元へ向け視線を動かし軍装の確認を行った。
 問題ないな。
 俺は藤林正保の方を向いた。

「殿、ご立派にございます。兵達は殿の出馬を今か今かと待っております」
「大げさだな」

 俺は苦笑しながら藤林正保を見た。

「何を言っておられるのです。四万の大軍で突破できなかった大手門をあっという間に突破し砦を一つ落としたのです。その上、砦の守将を降伏させたのです。兵達は殿の知謀振りに感服しております」

 藤林正保の褒め千切られた俺はこそばゆくなり頬をかいた。

「わかった。わかった。長門守、さっさと天ヶ岳砦を落とそうではないか」

 既に緒戦での目標は達した。後は天ヶ岳砦を落とし、本丸に籠る北条氏規に降伏を迫ればいい。江川英吉の話では北条氏規は城を枕に討ち死にする気はないと思っている。
 北条氏規の狙いはどんな形でも北条家を残すことができればいいと考えているようだ。そのために籠城にて戦い抜き北条家の意地を秀吉に示したい。要するにささやかな抵抗ということだ。
 だが、それが不可能ならば、北条氏規はいかがして御家を守るという目的を達するかということだ。
 俺は江川英吉を通し北条氏規に北条家の家名を残せるように尽力することを約束することにした。
 北条氏規は俺の助け舟に乗ることだろう。そのために北条氏規には俺の武勇を天下に示すために力を貸してもらうことにする。
 その方が北条氏規にとってもいいはずだ。世間が北条氏規は名将に敗れたと認知すれば、北条氏規の敗北は仕方なかったことになり彼の面子も立つからだ。
 北条氏規が書状の内容を飲むならば彼は本丸開城し俺に降伏するだろう。
 その光景を見た韮山城を包囲する豊臣軍の武将達は俺の力を認めざる負えなくなる。
 後から加わった武将の功績など水泡に帰す。なぜなら北条氏規は俺の天ヶ岳砦を落としたことで抗い難しと考えての降伏と印象づけられるからだ。
 城攻めの手柄は俺の総通りになる。福島正則・蜂須賀正勝には悪いと思うが何かで埋め合わせさせてもらう。
 ここまで上手くいくとは思っていなかった。
 だが油断は禁物だ。
 俺は自分の兜の紐を締めなおした。
 さて、行くとするか。





 俺が陣所の外にでると家臣達が群をなし俺の元に駆け寄ってきた。全員、俺を尊敬の目で見ている。
 すごく恥ずかしい。

「皆の者、準備は整っているか?」

 俺が言うと「万事整っております!」と主だった家臣達が凛々しい表情で俺のことを見ていた。全員が俺の快挙を喜び歓喜しているようだった。
 数日前と兵達に漂う空気が全く違う。兵達の気持ちが一つになった印象がある。
 これならいける。
 俺は唇を真一文字に閉めた。

「皆の者、目指すは天ヶ岳砦。小出軍は一兵も失わずして朝日を拝むぞ!」

 俺は息を吸い込むと声を大にして叫んだ。その声に応えるかのように兵達はありったけの力を振り絞るように雄叫びを上げた。彼らの声の大きさに俺の体を揺さぶるような感覚を覚えた。
 俺の口元が綻びた。自然と俺は笑い声を上げていた。

「小出軍は寄せ集めの軍にあらず。名将・小出相模守俊定の精鋭ぞ! お前達は俺の自慢の家臣達だ。この俺についてきてくれるか?」

 俺はついつい地の口調で兵達に声をかけた。兵達は俺に応えるように更に雄叫びを上げた。

「いざ、出陣!」

 俺の檄とともに曽根昌世が兵達に激を飛ばした。兵達は彼の命令に従い規則正しい動きで江川砦を出立する。





 俺達は江川砦を抜けると江川英吉の案内で天ヶ岳砦に続く麓に着陣した。ここで柳生宗矩が煙硝蔵を爆破するのを待つことにした。程なくして本丸から爆音が鳴り響き、それに遅れて黒い煙が立ち上っていた。それに合わせ俺達は天ヶ岳砦へ侵攻した。天ヶ岳砦は抵抗らしい抵抗が出来ずに半刻(一時間)で陥落した。こんなに脆いものなのかと感じてしまった。
 俺は天ヶ岳砦に立っている。
 眩しい陽光を身体一杯に浴びている。今日ほど朝の光景が美しいと感じたことはない。生きていることを実感した。

「良い眺めだ」

 俺は天ヶ岳砦から望む韮山城下の光景を一望した。韮山に布陣する豊臣軍の動きが手に取るように分かる。これでは大手門を正面突破できるわけがない。韮山城は城内に侵入した大軍を狭路に誘い込む構造をしている。面倒な構造だ。だが、被害を度外視して城攻めを行えば城を落とすことは可能だろう。

「殿、北条の旗を下げ代わりに我らの旗を上げました」

 藤林正保が俺に声をかけてきた。俺が視線を天ヶ岳砦内を見回すと小出の家紋が入った旗が彼方此方に掲げられていた。

「ご苦労」

 これで北条氏規は天ヶ岳砦が落ちたと理解するだろう。北条氏規に考える暇を与えるつもりはない。

「江川英吉はいるか」
「下で待っております」

 俺は櫓を下りることにした。櫓を下りると江川英吉が片膝を折り待っていた。

「江川英吉、北条美濃守殿に降伏の書状を届けて欲しい」

 俺は具足の脇から一通の油紙に包まれた書状を取り出し、江川英吉に差し出した。彼はすり足で進み出ると書状を受け取り懐にしまい込んだ。

「小出相模守様、必ずや吉報をお届けいたします」
「頼んだぞ」





 俺が江川英吉を見送って半刻(一時間)、そろそろ豊臣軍にも韮山城の様子の変化に気づいているころだろう。北条氏規は未だ降伏しないのか。俺の軍単独で城を落とすからこそ乱取りを防ぐことが出来るんだ。それを読み取れない北条氏規じゃない。
 俺は焦り深く深呼吸した。

「殿、如何なさいました」
「眠たいだけだ」

 俺は笑みを浮かべた。

「無理をなされますな」

 曽根昌世は俺を見透かすような目で見ながら言った。

「気をつける。城に動きはあったか?」
「いいえ、ありません」
「北条氏規はどう動くだろうか?」
「この状況で選べる手はないでしょう。殿の助け船を蹴れば、韮山に布陣する豊臣軍に嬲り殺しにされるだけ。意地を見せ戦う道を選ぶというならば叩き潰すだけのこと」

 曽根昌世は真剣な表情で俺のことを見た。
 そうだな。北条氏規が徹底抗戦を選ぶならば力攻めをする以外にない。
 だが、北条氏規を拘束する必要が俺にはある。
 福島正則と蜂須賀家政を呼ぶか。俺の手勢だけで本丸を落とすことは難しい。

「殿!」

 俺が援軍を福島正則と蜂須賀家政に要請するか思案していると、物見の家臣が俺のところに慌てて走ってきた。

「何か城に変化があったのか?」
「敵将・北条美濃守が降伏いたしました」

 俺はつい立ち上がってしまった。

「北条美濃守は江川英吉に伴われ、この砦に向かっております」

 北条氏規が自ら城を出てくるとは思わなかった。俺は脱力し床几に腰掛けた。

「藤林長門守、北条美濃守殿を丁重にお招きしろ。失礼のないようにな」

 俺が藤林正保に頼むと彼は「かしこまりました」と返事、北条氏規を迎えに行った。彼の後ろ姿を見送っていると曽根昌世が俺に声をかける。

「殿、これで腹を切らずに済みましたな」

 曽根昌世は笑いながら軽口を叩いた。

「そうだな。これも家臣達が頑張ってくれたおかげだ」
「家臣達が良い働きをしたと思われるならば、それは殿の器に御座います。三十日前までは面識もないただの寄せ集めを束ねられたのは間違いなく殿にございます」

 曽根昌世は佇まいを正し真剣な表情で俺に言った。彼が俺へ敬意を抱いていることを強く感じることができた。

「俺は家臣達の働きに報いことができたか?」
「十分過ぎるほど報いておられると思います。家臣達の顔を見れば分かるはずですぞ」

 俺は曽根昌世に言われるままに動き回る家臣達の様子を見た。彼らが生き生きとしている様子が手に取るように分かった。

「そうか」

 俺は小さくつぶやくと右手で目を覆った。身体から緊張が一気に抜けた。人は嬉しくても泣けるんだな。こんな気持ちは初めてだ。
 曽根昌世は俺に何も声をかけなかった。 

 

第二十四話 幼き名将

 俺は言葉を失った。

「この美濃守は相模守様に謹んで降伏させていただきます」

 俺の前に現れた北条氏規は地べたに座り平伏した。彼は髷を切り死装束を身にまとい刃物は一切身につけていない。
 俺に降伏するか。
 俺は口元に引き締めた。北条氏規の降伏の言葉の重みを感じた。彼は秀吉に屈したわけでもなく、韮山に在陣する豊臣軍に屈したわけでもない。彼は俺に屈し、俺だから降伏したといいたいのだろう。
 一角の武将にここまで言わせたのだ。俺は北条氏規の想いに応えよう。
 しかし、ここまでするとはな。
 北条氏規は俺に完敗したと言っているようなものだ。
 北条氏規の佇まいに床几に腰掛ける主立った家臣達も沈黙していた。

「相模守様、美濃守様は書状の件は全て飲むと仰っております」

 俺が沈黙していると、北条氏規の右斜め前で片膝を着き俺に頭を垂れていた江川英吉が口を開いた。
 俺は頷いた。北条氏規の行動を見れば態々確認するまでもない。

「美濃守殿、お顔をお上げください」

 北条氏規は顔を上げた。その表情は疲労を感じさせていた。昨夜、彼は一睡もできなかったのだろう。眠れるわけがない。俺が矢次早に策を実行したことで城内は右往左往していたに違いない。

「英断を下されたこと感謝いたします」

 俺は北条氏規に軽く頭を下げた。彼の決断のお陰で陰惨な光景を見ることにならずによかった。俺は歴史として知らないが惨たらしい戦場になったに違いない。

「いいえ。相模守様には感謝しています。江川英吉から貴方様の人柄を聞いたことで決断することが出来ました」

 北条氏規は江川英吉に視線を向けると俺に視線を戻した。江川英吉は俺のことをどう評していたかが気になる。だが、さっさと話を進めよう。

「美濃守殿、豊臣軍が城へ侵入し乱取りすることは私の軍で阻んでみせます」
「相模守様一人でできるのですか?」
「そう難しいことではありません。私の配下には元根来の鉄砲衆がおります。その者達に大手門を守らせます。美濃守殿がやったことを真似ればよいだけです」

 俺は口元に笑みを浮かべ北条氏規に言った。北条氏規は納得したように表情を緩めた。

「私は関白殿下に、韮山城への乱取りを禁ずる許しを得るため、昨夜のうちに書状を出しています。日が上がる頃には関白殿下の書状が届くはずです」

 秀吉は必ず許可を出すはずだ。何故なら、俺の書状を読めば北条氏規を俺が単独で降すことは目前であると気づくはずだからだ。寡兵で五倍の兵が籠もる城、北条家の象徴たる城、を俺が単独で落とすのだ。これ程の軍功を上げた人物のやることに文句を言う者はいないはず。だから、秀吉は迷うこと無く許しを出す。
 北条氏規は目を見開き俺を見た。彼は俺の根回しに早さに驚いている様子だった。

「私が降伏すると見込んでいたということですか?」
「いいえ。どんな状況にでも対処できるように根回しを行っていただけです」
「私が降伏しなければどうされたのですか?」
「美濃守殿、それを聞く必要はないでしょう。あなたは私に降伏されたのですから。私は最善を尽くしただけ。全てはあなたが選択したことだ」

 俺は真剣な表情で北条氏規を見据えた。俺の様子の変化を見て彼は悟ったようだ。もし、北条氏規が降伏しなければ、俺は韮山に在陣する豊臣軍を巻き込み総攻めを行い城内を蹂躙していた。苛烈な決断に迷いがないと言えば嘘になる。だが、降伏しない者の末路を敵に示すことは無用な犠牲を減らすことに繋がる。感傷で敵を殺すことを躊躇い。更に多くの敵の命を奪う位なら、畜生と言われようと俺の手を血で染め抜く必要がある。

「『男子三日会わざれば刮目して見よ』と言いますが、よい表情をされるようになりましたな」

 北条氏規は俺を凝視しながら感慨深そうに呟いた。

「誉めても何もでませんよ」

 俺が笑顔で北条氏規に言った。北条氏規も笑顔を返した。

「世辞を申したつもりはありません」
「美濃守殿、約束は守らせていただきます。美濃守殿のお力をお借りすることもあると思います。その時はよろしくお願いいたします」

 俺は床几より立つと北条氏規の前に座り、彼の手を取った。

「微力ではございますが、お役立てください」

 北条氏規は強く頷いた。俺と北条氏規で北条家の家名を守ることを誓った。歴史でも北条家は一旦滅びるが後に小大名ながら復活する。何もしなくても北条家は残る。でも、北条氏規はそれを知らない。
 だが、一度約束したことだ。歴史より良い形で北条家を残せるように頑張るつもりだ。





 北条氏規の降伏を受け入れ、俺は柳生宗章を伴い大手門に移動した。大手門には小出の家紋入りの旗がたなびいていた。大手門の外に出ると韮山城の異常に気づいた豊臣軍の武将達が軍を引き連れ集まっていた。
 俺の許しなく勝手に城攻めには参加できないから、取りあえず集まったということだろう。でも、彼らの出番はない。
 俺が豊臣軍を見回していると、軍勢の中から見知った人物が表れこちらに近づいてきた。福島正則と蜂須賀家政だ。二人とも愉快そうな様子だった。

「相模守、やったようだな!」

 福島正則は俺の背中を右手で叩いてきた。その威力に俺は思わず咳き込んでしまった。もう少し手加減してくれ。

「悪い。悪い。それで守備はどうなのだ?」
「北条氏規は降伏しました」

 俺の言葉に福島正則と蜂須賀家政の表情が固まった。

「昨夜の内に大手門を突破し江川砦を落としました。その後、朝駆けで天ヶ岳砦を落とし、北条氏規はこれ以上の抗戦は無理と考え私に降伏してきました」
「なんだと!? 本当に城は落ちているのか?」

 福島正則と蜂須賀家政は狼狽しながら俺に聞いてきた。城攻めの協力を頼んでおいて出番を失えば落胆するよな。でも、城が落ちたから仕方ない。

「城は落ちました。それと城内への乱取りは止めてください。日が昇る頃には関白殿下から乱取り禁止の命令が届くことになっています。どうしてもというなら、大手門を接収している私の軍が相手させていただきます。弾薬と鉄砲は十分にありますから、日が昇る頃まで相手することはできます」

 俺の頭に衝撃が走った。俺は頭を両手で押さえうずくまった。

「お前一人で城を落とすとは何事だ!」

 いつも良心的な蜂須賀家政が怒鳴った。俺の頭を殴ったのは蜂須賀家政のようだ。いきなり殴ることないだろ。
 俺は涙目で顔を上げると、蜂須賀家政が俺のことを睨んでいた。福島正則は蜂須賀家政を「まあまあ。落ち着け」となだめている。いつもと逆の配役に俺は違和感を覚えてしまった。

「思いの外に楽に砦を落とせたので勢いで攻めてしまいました」

 俺は苦笑いを浮かべ蜂須賀家政に返事した。

「それは俺達への皮肉か?」
「いいえ。そういう訳じゃないです」

 俺に食ってかかる蜂須賀家政をなだめる。蜂須賀家政はどうしても城攻めに参加したかったようだ。

「蜂須賀、落ち着け。相模守は関白殿下との約束を守ったのだ。これでよしとしよう。相模守、今回の貸しは俺達へ酒を奢ることでちゃらにしてやる」

 福島正則は蜂須賀家政をなだめながら笑顔で言った。彼は城攻めに固執した訳じゃなく、俺のことを心配して助勢を名乗り出たのだろう。福島正則は良い人だなと思う。この人が養子を餓死させて実子を後継者に据えるなんて想像もつかない。

「そんなんでいいんですか?」
「旨い酒を頼むぞ!」

 福島正則は豪快に大笑いしながら言った。その陽気な様子に蜂須賀家政も気分が削がれたのか怒りが収まっている様子だった。

「まあなんだ。私も酒でいいぞ。上物で頼む」

 蜂須賀家政も口元に手を当てながら酒を要求してきた。
 そんなに酒が好きなのか?

「城も落ちたし、俺達も急ぎ小田原に向かうことになるはずだ。小田原に着いたら三人で飲み明かそうではないか!」

 福島正則は愉快そうに笑うと俺を抱き起こし自分の背中に乗せ、蜂須賀家政の肩を抱きしめながら威勢良く言った。
 俺は嫌な予感がした。福島正則は凄い飲兵衛だったように記憶している。記憶が飛ぶほど飲まされる予感がする。

「小田原に着いたら悠長に酒を飲む暇は無いのではありませんか?」

 俺が婉曲に酒を一緒に飲むことを断ろうとすると、福島正則は蜂須賀家政の肩から手を離し、頬を指でかいていた。

「その心配はないと思うぞ。北条の本城、小田原城、で激戦になると思いきや、小競り合いくらいしか起こって無いらしい。朝から宴会を開いているとも聞いている」

 福島正則の話を聞き終わると、その話に合点がいった。そう言えば北条征伐を行う豊臣軍は敵の反撃があまり無かったため昼間から宴会する場合もあったと記録されている。
 これは飲み確定だな。俺は気落ちしながら空に視線をやった。空を一羽の鳶が旋回しながら飛んでいた。なんて呑気なんだろうな。ちょっと前まで敵と殺し合いをしていたことが嘘のようだ。




 日が昇りきった頃、秀吉は俺の読み通り乱取り禁止の命令書を俺に送ってきた。それに加え韮山城の仕置きは全て俺に一任すると書かれていた。この命令書のお陰で韮山に在陣する武将達を抑えることができた。その後、俺は韮山城で戦後処理を終え、一路小田原に向かった。
 俺が小田原に到着するなり秀吉は呼び出した。今、俺は秀吉の本陣に到着し廊下を歩いている。俺のお共は警護役の柳生宗章だ。
 着替える時間が欲しかった。俺は具足の臭いを嗅ぐ。凄く汗臭い。服を着替えたい。

「人使いが荒いよな。眠り暇もない」

 秀吉の人使いの荒さを愚痴ってしまう。

「虫の居所が悪そうだな」

 俺は突然声をかけられ身体を硬直させた。
 聞かれてしまったか?
 秀吉への悪口を聞かれてしまったか?
 心臓の鼓動が速くなる。俺は怖ず怖ずと背後を振り向いた。
 背後にいる人物の顔を見て俺は絶句してしまった。蒲生氏郷だ。

「大手柄だったそうではないか。真逆、私達が去った二日後に城を落とすとはな。末恐ろしい小僧だな」

 蒲生氏郷は呆れ気味に俺に言った。彼は俺に近づいてくると俺の背中を軽く叩いた。

「さっさと行くぞ。関白殿下がお待ちだ」

 蒲生氏郷は穏やかな表情だった。彼の友好的な態度に違和感を覚える。ここまで変わるものなのだろうか。俺と彼の接点はここ一週間位だ。これは俺が未来の親類になることを見据えてのことだろうか。

「蒲生様、韮山で私の陣所を訪ねられた本当の理由は何でしょうか?」

 ここは直球で聞く方がいいだろう。もし、縁談話なら駄目元で破談させたい。

「私が言わずとも関白殿下がお前に伝える。関白殿下に直接聞いてくれ」

 蒲生氏郷は俺の問いかけに振り向かず淡々と答えた。俺は絶句した。もう引き返せないところまで話が進んでいる。俺の縁談相手は三ノ丸と思っていたが違うのか。秀吉は三ノ丸を側室にした。だから、女好きの秀吉なら三ノ丸を自分の側室にすると思っていた。俺の縁談相手は三ノ丸とは別の女性なのか。
 分からない。
 頭の中がぐじゃぐじゃだ。

「そう心配しなくてもいい。私の義妹は妻に似て美人だぞ。お前もきっと気に入るはずだ。もう年頃だったが信長公の娘ということで中々嫁ぎ先を見つけられなくてな」

 蒲生氏郷は笑いながら言った。俺の縁談相手は三ノ丸で確定だ。
 有り得ない。歴史が狂いはじめている。
 俺も腹を括るしかない。どれほど歴史がずれるか注意しておく必要がある。
 三ノ丸はどんな感じの女性なのだろう。彼女についての記録が少ない。二十代後半で死んだことは分かっている。早死にしたのは肩身の狭い生活をしていたからじゃないかと思ってしまう。実家は滅んでしまったからな。そう考えると同情してしまう。

「関白殿下は反対されなかったのですか?」
「反対? 関白殿下は大喜びだったぞ」

 蒲生氏郷はあっけらかんと俺に答えた。俺は秀吉の反応を聞き絶句した。俺の秀吉の印象が変わってしまった。秀吉は無類の女好きの印象しか無かった。だから、手当たり次第に美人の女性を側室していると思っていた。

「相模守、不満そうだな」
「関白殿下は女好きと思っていたので」

 蒲生氏郷は急に腹を抱えて大笑いしだした。

「関白殿下も男だ。女子(おなご)は人並みに好きであろう。だが、節操ないわけじゃない。秀次様は節操がないがな」

 蒲生氏郷は苦笑しながら言った。秀次が女好きなことを想像つく。秀次事件で処刑された側室は三十人。幾ら関白とはいえ、二十八歳で三十人の側室は多すぎると思う。彼は無類の女好きとしか思えない。

「そうなのですか」
「私が言ったことは内密にな。特に秀次様のことはな」

 俺は頷いた。俺と蒲生氏郷は会話を終え、秀吉の待つ座敷に向かった。




「俊定、よう戻った!」

 俺が座敷に足を踏み入れると秀吉が俺を呼んだ。秀吉は上座で上機嫌に俺を見ていた。早く入ってこいと手招きしている。俺はいそいそと秀吉の前まで進み出た。
 俺の周囲には床几に腰掛けた武将達がいた。彼らの中には徳川家康もいた。彼は俺に対して無表情だった。
 徳川家康は怒っている?
 不味いな。
 韮山に近づく徳川の間者を尽く排除したのが俺だと気づいているのかもしれない。徳川家康の表情が読めない。
 俺が徳川家康を見ていると強い視線を感じた。視線の先を追うと見知った二人が俺を睨んでいた。織田信雄と豊臣秀次だ。
 最悪だ。
 こいつら何で俺を睨んでいるんだ。目に殺気が籠もっている。俺はどん引きしながら視線を秀吉に戻した。

「韮山城をたった五百の兵のみで四日で落としたそうではないか。大したものだ」

 武将達も驚いた表情で俺を見ている。視線が俺に集中している。凄く居心地が悪い。

「関白殿下、四日と言いましても相模守は二日は家臣達と酒盛りをし遊興に耽っておりました。二日で城を落としたというのが正確なところでしょう」

 蒲生氏郷が余計なことを秀吉に言った。秀吉は意味深な笑みを浮かべた。嫌な笑顔。この二人は明らかに示し合わせている。

「秀次、俊定は剛毅よな。城攻めの前に宴会とはな」

 秀吉は笑いながら秀次に話を振った。俺を睨む秀次は突然秀吉に話を振られ慌てていた。秀吉は秀次を冷たい目で凝視している。

「いや。凄いです。本当に凄いです」

 秀次は不自然な口調で俺を誉めた。気が動転しているんだろう。秀吉は秀次の賛辞の言葉に納得したのか視線を織田信雄に向ける。

「内大臣、儂の甥は歳が十二とはとても思えない。そう思わないか?」

 秀吉は冷酷な目で織田信雄を見ていた。織田信雄は表情を固めた。

「まことに凄い。約束通り三日で大手門と砦一つを落とすとは凄い」

 織田信雄は感情を必死に抑えつけているのか棒読みで俺を誉めた。
 秀次と織田信雄の態度が不自然すぎる。

「お前は韮山城を落とした。韮山城は北条家の象徴といえる城だ。それを寡兵で攻め落とし城主を降伏させた。俊定、お前に褒美を与えたいと思う」

 秀吉は俺に話し終えると立ち上がった。

「皆々、ここで儂は宣言する」
「関白殿下、お待ちください!」

 秀次が慌てて秀吉を制止しようとした。

「控えよ! 秀次、これは豊臣家当主である儂の決定だ。お前が異論を挟むことは許さん」

 秀吉は凄味の籠もった厳しい表情で秀次を黙らせた。どういうことなんだ。秀次が凄く動揺している。俺が蒲生氏郷と縁続きになることが、そんなに困ることなのか。背筋に寒気を感じた。秀吉は何を考えている。俺に関係して秀次が困ることはなんだ。
 分からない。
 何なんだ?

「小出吉政と小出俊定の養子関係を解消する。木下俊定は儂の弟・秀長の養子とする。秀長の後継者は今まで通り秀保で変わりない。正式な儀礼は京に戻ってから執り行う」

 俺は秀吉の衝撃の宣言に言葉を失い呆然としていた。
 やばすぎる。秀長の養子だと。お先真っ暗だ。頭の中が真っ白になる。

「俊定、韮山城攻めの功績により儂の『秀』の一字を与える。今から『秀定』と名乗るのだ」
「関白殿下、御礼を申し上げます」

 俺は動揺していたが必死で理性を保ち秀吉に礼を言った。俺はどうすればいい。もし、関ヶ原の戦いが起これば、俺が東軍につくことを徳川家康は許さないだろう。俺は徳川家康が潰すべき豊臣一門となりえる。それどころか秀次事件で粛正される可能性も十分にあり得る。

「秀定、お前に官位を与える。秀長の子が諸大夫では格好がつかん」

 秀吉は顎髭をいじりながら思案していた。

「従四位下、侍従、左近衛権少将」
「お待ちください。相模守は秀保の弟になる身、兄より高い官位を与えては示しがつきません」
「命を張り手柄を上げた秀定と、京で遊興にふける秀保を同列に扱えというのか?」

 秀次を見る秀吉の目は冷たかった。秀次は何も言えずに沈黙し秀吉から視線を逸らした。秀次の言い分は最もであるが、その価値観は儒学に根ざしている。秀次の考えに沿った方が波風を立てずに済むことは確かだ。俺も無用な恨みを買いたくない。秀次に恩を売ってやることにする。

「関白殿下、中納言様の仰ることも一理ございます。『侍従』の官職を褒美にいただけませんでしょうか?」

 秀保が秀長の後継者になっていないなら、彼の官職は「侍従」だ。秀吉と秀次の両方の顔を立てる意味で「侍従」の官職を受けることにする。これで俺も公家の仲間入りということだ。

「謙虚なやつだ。良かろう。侍従に任じる」

 秀吉は俺の意見に感心した様子だった。

「秀定、何か欲しいものはあるか? 言ってみるがいい」

 欲しいものか。今後のことを考えれば人材だろう。
 そう言えば。

「一つございます」
「申してみよ」
「藤堂宮内少輔を私の家臣にいただけませんでしょうか?」

 俺は藤堂高吉の名前を出した。藤堂高吉は豊臣秀長が養子にするほど惚れ込んだ人材だ。そして、その武勇は折り紙つきだ。今、彼は藤堂高虎の養子になっているはずだ。大和大納言家の養子になった俺が藤堂高吉を家臣として迎えることは可能だと思う。

「藤堂宮内少輔だと?」

 秀吉は俺の言葉を訝しんだ。

「藤堂佐渡守の養子でございます」

 秀吉は顎髭をいじり思案していた。

「いいだろう。佐渡守には儂が話をつけてやる」
「関白殿下、ありがとうございます」
「人材一人で満足なのか? 遠慮せずともいいのだぞ」
「有能な人材は万石の領地を得るに勝ります」
「いいよるわ」

 秀吉は愉快そうに俺を見た。彼は俺を見ながら思い出したように扇子で膝を叩いた。

「もう一つ目出度い話がある。秀定、お前の許嫁が決まった。相手は信長公の六女・咲姫(さきひめ)だ。蒲生侍従が咲姫を養女として、お前の正室として嫁がせたいと言っている。これ程の良縁はあるまい」

 秀吉は俺を凝視する。彼は縁談話を受けろと言っているんだろう。

「謹んでお受けします」

 ここで拒否しても無意味だ。秀吉は公言している以上、俺に拒否権はない。それに俺は正真正銘の豊臣一門に組み居られてしまった。豊臣家当主・秀吉の命令には従うしかない。 

 

第二十五話 牛鍋

 俺は自分の陣所の縁側に腰をかけのんびりと時間を浪費していた。
 季節は春。心地よい風が陣所の中を通り過ぎていく。時間がゆっくりと過ぎているようだ。
 韮山城での戦いが嘘のようだ。
 秀吉と命をかけ交渉し、韮山城攻めに望んだ。
 一歩間違えれば腹を切っていた。あの時の秀吉の顔は本気だった。俺はふと視線を自分の腹に落とし、右手でさすった。
 俺は生きている。
 俺は賭けに勝利した。
 俺は息を深く吸いこみ目を瞑った。韮山城の城攻めで精も魂も尽きた。このくらいの休息は許されるだろう。
 今の俺は具足を身に着けず、普段着の着物姿だ。俺の与力だった者達は秀吉の指示で俺の家臣として組み入れられることになった。

「嘘のようだ。数日前まで命をかけ戦ったのにな」

 長閑だ。
 俺が今居る場所が北条家の本拠地である、小田原、と思えない。散発的な小競り合いの報告は上がってくるが豊臣軍による一方的な戦いだ。北条軍も豊臣軍の圧倒的な物量を理解し、最近は亀の様に小田原城に籠もっている。その結果、豊臣軍は暇を持て余している状況だ。
 でも、北条征伐後のことを考えると気が滅入ってくる。大和大納言家の連枝。この立場は危うい。俺の見立ててでは大和大納言家は改易されると見ている。畿内に大封を持つ身内が居ることは味方として心強いが敵に回ると厄介な存在になる。史実で秀吉が大和大納言家を改易した理由は秀吉が秀次の力が強まることを恐れたからだろう。

「殿」

 俺は視線を向けると、俺の警護役、柳生宗章がこちらを向いていた。
 珍しいこともあるものだ。
 柳生宗章から俺に声をかけてくるとはな。彼の様子は何時になく神妙なただずまいだ。

「又右衛門、どうした?」

 俺は柳生宗章に声をかけた。柳生宗章は俺に対し手をついて姿勢を低くした。

「殿に士官をさせていだけませんでしょうか?」
「私が大和大納言家に連なる者になったからか?」
「違います。殿の采配と心意気を側で拝見させていただき、私が仕えるのは、あなた様以外にないと思いました」
「私は豊臣一門とはいえ貧乏だぞ。伊豆の知行を安堵されたといっても空手形の状態だからな。それでもいいのか?」
「些事です」

 柳生宗章は穏やかな表情で言った。ここまで言われては士官しない訳にはいかないな。俺も穏やかな笑みを浮かべた。

「二百五十石だ。仕えてくれるか?」

 俺は真剣な表情で柳生宗章の顔を見据えた。柳生宗章は俺に平伏した。

「殿、十分にございます。よろしくお願いいたします」
「よろしく頼む。こういう時は酒を出したいところだが金がなくてな」

 俺は苦笑いを浮かべた。

「必要ありません。殿の警護役が酒を飲んでは務めを果たせません」

 柳生宗章は俺に笑顔で返事した。いつも仏頂面だった柳生宗章とは思えない反応だった。

「そうだな」

 俺は笑顔で柳生宗章に答えた。





「殿、蒲生様が参られました」

 小姓が小走りで俺の元にやってきて蒲生氏郷の訪問を伝えてきた。蒲生氏郷が何のようだ。縁談話の件はもう済んだはずだ。
 しばらく放っておいて欲しい。
 俺も気持ちの整理をしたいんだ。
 会わない訳にもいかない。蒲生氏郷は俺の義父となる人物だからな。
 俺は小姓に蒲生氏郷を奥座敷に通すように言った。俺は柳生宗章を伴い蒲生氏郷と会うことにした。蒲生氏郷も具足を身に着けず着物姿だった。この情勢下で物々しい格好をする必要もないからな。
 蒲生氏郷はいつ見ても美男だな。
 俺も美男に生まれたかったとつくづく思う。咲姫と上手くやっていけるか不安になってくる。咲姫は絶対に美女だ。劣等感に苛まれ息の詰まる生活が待っているかもしれない。

「婿殿、忙しいところ済まなかった」

 蒲生氏郷は俺の気持ちなど解すること無く笑顔で挨拶してくる。

「いいえ。調度のんびりしていたところです」

 俺は佇まいを正し座したまま蒲生氏郷に向き直る。

「暇をしていたか」

 蒲生氏郷の反応はわざとらしい。彼は目的があって俺のところにやってきたのだろう。

「関白殿下が小田原に在陣する諸将に家族を呼び寄せるように命令があった」

 俺は史実を知っているため驚かなかった。

「その様子ではもう知っていたか? 相変わらず耳の早い奴だ」
「知りませんでした。でも、小田原の様子を見れば戦場と思えない。派手好きの関白殿下なら、そういう趣向をお考えになっても不思議でないと思っただけです」

 俺は興味がない様子で淡々と答え、縁側に視線を戻す。長閑な天気だな。蒲生氏郷は早く帰らないだろうか。

「張り合いのない小僧だ。それでは女子(おなご)には好かれないぞ」
「別に女子(おなご)好かれなくてもいいです。好きな女子(おなご)だけに好かれればいいと思っています」

 俺の話を聞いた蒲生氏郷は沈黙し感慨深そうな表情で俺を見た。

「婿殿の言う通りだ。確かに誰彼構わず愛想を振りまく必要はない」

 蒲生氏郷は深く頷きながら言った。彼は生涯側室を持たず正室一筋だったからな。俺の言葉に共感したんだろう。

「一途な婿殿に朗報だ。先ほど家族を呼び寄せることになったと言っただろう。義妹の咲も呼び寄せることになった。十五日もあれば小田原に来るだろう」

 蒲生氏郷は一々と気に障ることを言う。俺は彼の真剣な表情と裏腹に咲姫と会うことに不安を覚えた。一度も会ったことのない相手、許嫁、のことを想像する。性格が悪い女性だったらどうしよう。気の強い女性だったらどうしよう。考えても仕方ないことは分かっている。咲姫との縁談は豊臣宗家、秀吉、の意向だ。これが撤回されることは絶対にありえない。関東に領国が確定している俺と奥州に移封される蒲生氏郷が閨閥で繋がることの効果は大きい。
 政略と分かっているが、咲姫に会ってみたい気持ちはある。
 でも、俺はお世辞にもかっこよくない。
 俺は凡人・木下家定の子供だ。秀吉や同僚、家臣達は俺を名将ともてはやすけど、俺の見た目は平々凡々だ。
 俺は大和大納言家の連枝となった。だから、俺と咲姫は似合いの相手なことは間違いない。
 咲姫は間違いなく美女だろうと思う。でも、俺はいつも彼女に劣等感を抱きながら生活をしていくかと思うと途端に憂鬱になる。
 側室の夏は美人だが、家臣筋ということもあり拒絶されることがない安心感があるんだと思う。
 夏に対して失礼だし、卑怯な考え方だとは思っている。でも、仕方ないじゃないか。美女とお近づきになる人生とは無縁だったんだ。
 自己嫌悪になってくる。
 それに夏に申し訳ないと思ってしまう。仕方ないことと分かってる。最近、夏と心の距離が近くなった気がする。その関係が壊れるんじゃないかと心配だ。夏は俺のことを何とも思っていないかもしれない。でも、俺に少しでも情を持ってくれているなら、夏を傷つけるかもしれないと不安になってくる。許嫁が決まって以来、夏に会っていない。
 夏と顔を合わせづらかった。
 一度彼女に会っておいた方がいいな。夏には咲姫との話をちゃんとしておく必要がある。

「婿殿、何を考えている?」

 蒲生氏郷は物思いに耽る俺を凝視していた。

「いいえ。何も」
「思うところがあるなら話して欲しい」

 蒲生氏郷は俺への言葉づかいを変えた。俺を対等な相手として喋っていることが分かった。

「私はお前を見込んで、お前に義妹を嫁に出すことを決めた。そのお前が、その態度では義妹に申し訳ない。私と妻は義妹には幸せになってほしいと思っているんだ」

 蒲生氏郷は俺に胸襟を開いて語りだした。蒲生氏郷の義妹に対する家族の情を感じた。その言葉に嘘偽りはないだろう。
 俺は何と答えるべきだろうか。

「私には側室がいます」

 俺は言葉を切った。

「彼女は政略で私の側室になりました。はじめは人質として扱う気持ちでした。でも、会話をする内に彼女と打ち解け情が湧いてきました。今回の縁談で彼女を傷つけることになるのではと思いました」
「その女子(おなご)が好きなのか?」

 蒲生氏郷は沈黙し、間を置いて俺に質問してきた。

「分かりません。でも、私を短い間ですが私の心を支えてくれたことは確かです」

 俺は蒲生氏郷の目を真正面から見据えた。蒲生氏郷も俺の目を見据えた。

「そうか。私の見込みに間違いはなかった」

 蒲生氏郷は一度言葉を切ると俺のことを真剣な表情で見た。

「その側室を遠ざけろとは言わない。義妹に一度会って欲しい。それでも義妹を好きになれないというなら、私から関白殿下に縁談の解消を願い出る」
「今更、縁談話を解消できるわけがないと思います」

 許嫁を解消できる訳がない。幾ら蒲生氏郷でもできないはずだ。秀吉は公式に俺と咲姫の縁談を宣言している。

「良いのだ」

 蒲生氏郷の声音は強い意志を感じさせた。彼が本気であることが分かる。
 何なんだ。
 俺が悪者みたいじゃないか。
 蒲生氏郷が勝手に縁談を進めておいて、こんな言い方をするのか。
 卑怯過ぎるだろう。

「話題を変えよう。豊臣侍従殿、一緒に美味い食べ物を食いにいかないか?」

 蒲生氏郷は他人行儀に俺に食事の誘いをしてきた。
 何で俺がお前と飯を食いにいかなくちゃいけない。お前のおかげで良い気分だったのが台無しだ。

「無理にとは言わない」

 一々かんに障る言い方をする。

「調度腹が減りましたからご一緒します。私は貧乏だから金を持っていませんよ」

 蒲生氏郷は笑った。貧乏なのは事実だからな。韮山城の城攻めで散在してしまった。

「金の心配はいらない。私も誘われたのだ」
「誰のことろに行くのですか?」
「高山彦五郎のところだ。前田家の客将をしている。珍しい食い物を食べさせてくれるというので今から行くところなのだ」

 高山彦五郎って誰だ。高山というと、高山右近くらいしか知らない。

「その方はどんな人物なのです?」

 俺は高山彦五郎という人物に興味が湧き、彼のことを聞いた。

「高山彦五郎は元は播磨明石六万石の大名でキリシタンだ」

 俺は言葉を失った。キリシタンには関わり合いたくない。
 高山彦五郎は高山右近のことじゃないのか。彼は熱心なキリシタンだったように思う。
 そういえば、蒲生氏郷もキリシタンだった。

「高山彦五郎は築城の縄張りだけでなく、内政・軍事にも通じている。会っておいて損はない」

 蒲生氏郷は俺を是が非でも高山右近に合わせるつもりのようだ。俺は蒲生氏郷についていくことにした。






「どこに行くのですか?」

 俺の前を蒲生氏郷は悠々と歩いている。俺は彼から目的地を告げられず、蒲生氏郷の背中を見ながら付いていっている。

「前田様の陣所に向かっている」
「前田様ですか!?」

 高山右近に会いに行くのに、どうして前田利家のところに向かうんだ。

「お前でも驚くことがあるんだな」

 蒲生氏郷は表情を崩した。高山右近は秀吉に追放されたまでは知っていた。
 その後、前田家に厄介になっていたのか。
 前田利家なら秀吉が追放した相手でも保護できる立場にある。でも、彼がよく保護したものだ。余程気に入ったのだろうか。

「蒲生殿、高山彦五郎は前田様に厄介になっているのですか?」
「そうだ」
「よく前田様は高山彦五郎を保護されましたね」

 俺は疑問を蒲生氏郷に投げかけた。蒲生氏郷はくすりと笑うと口を開いた。

「『吝嗇で知られる前田様が何で?』と言いたげな顔だな」

 俺は素直に頷いた。

「高山彦五郎の人柄と、その多才さに惚れたのだろう。私も内心は客将として迎えたいくらいだ。お前も気に入る」

 高山右近に会ってみたいと思うが、秀吉に追放された人物であることが気になる。蒲生氏郷は美味い料理が食えると俺を誘った。高山右近が蒲生氏郷を饗応するということだろう。客将の立場の人物の饗応で美味しい料理が食べられるのだろうか。

「高山彦五郎の饗応なんですよね?」

 俺は暗に食事を期待していいのか聞いてみた。

「本当に美味いから安心しろ。高山彦五郎は客将とはいえ一万石の食禄を前田様から与えられている。あまり相手を侮っては失礼になるぞ」

 蒲生氏郷は表情を引き締め俺に注意してきた。
 一万石の食禄!?
 俺より実高と同じじゃないか。けちな前田利家が一万石も出す。それだけで出すだけの価値がある人物なのだろう。築城の知識も豊富だし、戦歴も優秀だからな。ただ、秀吉の手前客分にするのが精一杯だったのだろう。前田利家の本音は直臣にしたかったのかもしれない。でも、前田利家の性格ではそんな度胸はないだろう。

「大盤振る舞いですね」
「そうだな」

 蒲生氏郷は口元に指をあて笑った。

「実はな。高山彦五郎がお前に会いたいと言ったのだ。それで食事に誘ったのだ」
「高山彦五郎が私に会いたいと言ったのですか? 私は高山彦五郎とは面識がありません」
「今やお前は有名だからな。四万の軍勢で落とせなかった城をたった五百の兵で攻め落とした。どんな人物か興味を抱くことは当然のことだろう。そして、私はお前の(しゅうと)になる予定だ」

 高山右近は親交のある蒲生氏郷が俺と縁戚になることを知り、蒲生氏郷に仲介を頼んだということか。

「関白殿下への口添えはできません」
「期待していない」

 蒲生氏郷は言葉を切ると歩くのを止め厳しい表情で俺のことを見た。少し怒っているように見える。

「高山彦五郎はそんなせこい真似はしない」

 俺が高山右近をうがった見方をしたことが許せないのだろう。ここまで怒るということは俺の懸念は杞憂だったようだ。

「口が過ぎました。申し訳ありませんでした」
「分かってくれればいい」

 蒲生氏郷はそう言うとまた歩きだした。彼は真っ直ぐ芯の通った人物と感じた。俺もこんな男になりたいと思ってしまう。
 でも、こういう人物は戦場で卑怯な駆け引きを積極的に使わないと思う。屑で、屁たれで、卑怯で、畜生のハイエナみたいな伊達政宗とは相性が悪いだろうな。
 そうこうしていると前田家の陣所についたようだ。前田家の家紋である梅鉢紋の軍旗が彼方此方にはためいている。
 前田家の陣所に近づくと足軽に止められるが、蒲生氏郷のお陰ですンなりと陣所に入ることができた。彼は日頃からよく前田家の陣所に来ているのだろう。

「着いたぞ」

 蒲生氏郷は足を止めた。高山右近の陣所は客将ながら、前田家の陣所の中心に近い場所に陣所を設けていた。軍旗の家紋は七曜だ。高山右近のことは知っていたが家紋は知らなかった。一つ賢くなったことに内心喜びを感じた。
 俺は蒲生氏郷の後を付いて陣所の建物の中に入っていく。途中、小姓達が俺達の応対をしてくれた。小姓達の所作は教育が行き届いている感じがした。俺のように半端な感じがしない。
 一番奥の部屋に通され、部屋に入ると俺は言葉を失った。部屋の中には先客がいた。彼は囲炉裏のある場所に腰をかけている。

「細川殿」

 俺は平静を装いながら細川忠興に声をかけた。細川忠興も俺を見て急に無表情になる。俺と細川忠興は赤井氏縁者を士官する際に一悶着を起こして因縁がある。
 彼の父、細川幽斎、は俺が誠心誠意頭を下げて頼んだら納得してくれた。彼も父の顔を立てて表向きは納得してくれた。でも、この様子ではまだ俺に一物を持っているような気がする。

「忠興殿、そんな顔をしなくてもいいだろう。折角、彦五郎が宴席を用意してくれたのだ。楽しくやろうでないか?」

 蒲生氏郷は機嫌良さそうに細川忠興に声をかけた。細川忠興は無表情だったが、どうするか悩んでいる様子だった。

「婿殿、そこで何を立っている。こっちに座らないか」

 蒲生氏郷は体を移動して細川忠興の真横の席に座るように案内してきた。細川忠興は蒲生氏郷の言葉に困惑気味だったが何も言わない。
 なおも蒲生氏郷は俺に座るように促してきたため、渋々細川忠興の横に座った。

「細川殿、横を失礼させてもらいます」
「豊臣侍従様、お気遣いご無用にございます」

 俺と細川忠興は固い会話を交わした。その様子を見終えると蒲生氏郷は俺の横に座った。

「細川殿が舅殿のご昵近とは知りませんでした」
「蒲生殿とは懇意にしていただいています。この度の縁談お喜び申し上げます」

 俺と細川忠興が社交辞令のような会話をしていると部屋に入ってきた。身なりからして、この陣所の主、高山右近、だろう。
 彼は態勢を低くして俺に近づいてくると、俺の目の前に腰をかけた。

「私は高山彦五郎と申し上げます。豊臣侍従様、態々お越しいただきありがとうございました」
「高山殿、美味な料理を馳走していただけると聞き、足を運ばせていただきました。今日は楽しみにしています」
「そう言ってくださるともてなしがいがございます」

 高山右近は俺が俗物な口ぶりをすると機嫌良さそうに笑った。横目で細川忠興に視線を向けると彼は居心地悪そうに視線を動かしていた。

「細川殿、今日も楽しんで行ってください」
「楽しませていただきます。あれを食べるのが楽しみで足繁く通わせていただいています」

 細川忠興は急に饒舌に語りだした。料理は期待していいようだ。不味い料理なら細川忠興はこんな世辞は言わないと思う。

「直ぐに用意させます」

 高山右近は蒲生氏郷の横に腰をかけ小姓に指示を出し、囲炉裏に底が平たい鉄鍋を配置させた。囲炉裏には薪がくべられ鉄鍋が熱せられる。
その間に鍋に入れる具材が運び込まれた。その具材に目を疑うものがあった。

「豊臣侍従様、気になられますか?」
「それは牛の肉ですよね?」

 高山右近は俺の指摘に驚いている様子だった。

「牛の肉とよく分かりましたね」

 高山右近は好奇心に満ちた目で俺を見ていた。口を滑らしてしまったか。この時代、牛の肉を食う文化は日本にない。西洋人と関わりを持つ高山右近のことだ。西洋人から情報を得たのだろう。
 牛肉を見ると霜降りでなく赤みだ。老齢の牛を絞めた肉だと硬そうだ。

「この肉は若い牛を絞めたものですから気に入ると思います」

 高山右近に俺の腹の中を読まれたようだ。

「そうですか。楽しみにします。牛の肉を以前見たことがあったので気づきました」
「それはどちらででしょうか?」

 高山右近は俺を追求してくる。

「堺です。私は天王寺屋と懇意にしています」
「天王寺屋ですか」

 高山右近は納得したように頷いていた。

「話が長くなりましたね。早く準備をしましょう。豊臣侍従様、今日の料理は牛鍋です」

 高山右近は話を切ると、熱した鉄鍋に牛の脂身を入れ油を張り肉を焼く。肉の上に砂糖を載せ、肉が焼ける頃合いを見て醤油をかけ肉を浸した。食欲を刺激する美味そうな臭いが鼻腔を刺激する。

「豊臣侍従様、お召し上がりください」

 高山右近は甘辛い汁が染みた肉を木製の椀につぐと俺に手渡した。

「かたじけない。先にいただかせていただきます」

 俺は蒲生氏郷と細川忠興に目礼をすると肉を口にした。久方振りの過去の記憶に残る味だ。

「美味い」

 俺は感嘆し、思わず言葉が口から漏れた。

「それは良かったです。肉は沢山あります。存分にお召し上がりください」

 高山右近は笑顔で俺に言った。この時代に砂糖は簡単に手に入らない。これだけふんだんに砂糖を使うとは金と太い人脈があるということだ。前田利家が手放さないわけだ。

「鶏の卵が欲しいですね」

 俺は高山右近に言った。

「鶏卵ですか?」

 高山右近は要領が得ないという顔をした。蒲生氏郷と細川忠興も同じだった。この時代は牛鍋は一般的でない。すき焼きを卵で食べるという文化もないだろう。

「牛鍋の肉の味は強い。生の鶏卵に肉をつけて食べれば、卵のお陰でまろやかな味わいになります」
「そうなのですか?」
「はい、一度試されてください」

 高山右近は俺の話に真剣に聞いていた。

「豊臣侍従様はやはり面白い御方のようだ。常識に囚われない御方と思っておりましたが、美食家でもあられるとは」
「美食家と言うほど大層なものでありません。たまたま知っていただけです」
「そういうことにしておきましょう」

 高山右近は俺にそれ以上は突っ込んだ質問はしてこなかった。
 その後、俺は蒲生氏郷、細川忠興、高山右近と一緒に牛鍋を囲み肉の味を堪能した。はじめは会話が少なかったが、食事が進むと会話が弾んできた。硬い態度を取っていた細川忠興も後半は俺と普通に会話をしていた。
 もしかして蒲生氏郷は俺と細川忠興の因縁を聞きつけてお節介をしたのだろうか。